『ドストエーフスキイ全集 第12巻 カラマーゾフの兄弟』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P110-P125

間てやつは自分の痛いことばかり話したがるものだよ。いいかい、今度こそ本当に用談に取りかかるぜ。」

[#3字下げ]第四 熱烈なる心の懺悔―思い出[#「第四 熱烈なる心の懺悔―思い出」は中見出し]

「おれはあっちにいる頃、ずいぶん放埒をつくしたものだ。さっき親父がおれのことを、良家の令嬢を誘惑するために、一時に何千という金をつかったと言ったが、あれは豚の空想で、決してそんなことはありゃしない。よしあったとしても、『あのこと』のために金がいったわけじゃないよ。金はおれにとってただの付属品だ、心の熱だ、装飾品だ、それで、きょう立派な婦人がおれの恋人になってるかと思うと、明日はもう辻君がその代りになっているというふうだ。ところで、おれは両方とも面白く浮き立たしてやる。金は一握りずつ抛げてやって、楽隊を呼んだりジプシイ女を集めたりして、馬鹿さわぎをやらかすのだ、必要があれば、そんな連中にも金をやる。すると、取るわ取るわ、気ちがいのようになって取る、これはおれも認めなくちゃならない。しかも、みな満足してお礼を言うよ。身分のある奥さんたちもおれを好いてくれた。もっとも、誰でもというわけじゃないが、そんなこともあった、しょっちゅうあった。しかし、おれはいつも露地の奥が好きだった。広場の裏にある、暗い、陰気な曲りくねった裏通りが好きだった、――そこには冒険がある、そこには意外な出来事がある、そこには泥の中に隠れた荒金《あらがね》がある、アリョーシャ、おれが言うのは譬喩だよ、あの町には本当の露地はなかった、ただ精神的なのがあったばかりだ。しかし、お前がおれのような人間だったら、この露地の意味がわかるんだがなあ。とにかく、おれは放埒を愛した、そして放埒の恥辱をも愛した、それから残忍なことも愛した、――これでもおれは南京虫でないだろうか、意地わるい虫けらでないだろうか? すでに定評あり、――カラマーゾフだもの! あるとき町じゅう総出のピクニックがあって、七台の三頭立橇《トロイカ》で押し出した。冬のことだった、橇のくら闇の中で、おれは隣席の娘の手を握り始めて、とうとうこの娘を接吻というところまでおびき出してしまった。それは優しい、しおらしい、無口なおとなしい官吏の娘だったが、とうとうおれに許したのだ。闇の中とていろんなことを許してくれたのだ。可哀そうに、この娘は明日にもおれが出かけて行って、結婚を申し込むものと思ったのさ(実際、おれはおもに花婿として値うちがあったんだからね)。ところが、おれはその後、娘に一口もものを言わなかった。五カ月のあいだ半口もものを言わなかった。よく舞踏会などの時(あの町ではやたらに舞踏ばかりしてるのさ)、その娘の目が広間の隅からじいっとおれのあとを追いながら、しおらしい憤懣の火に燃え立っているのを、よく見受けたものだ。こうした遊戯は、おれが自分の体内で養っている虫けらの卑しい欲情を慰めたのだ。五カ月たって、その娘はある官吏の嫁になって町を去った……おれに対して腹を立てながら、それでもやはり愛情をいだいたままでね……今この夫婦は幸福に暮している。ここで注意してもらいたいのは、おれがこのことを誰にも言わないで、娘の顔に泥を塗るようなことをしなかった、という点だ。おれは汚い欲望をいだいて、卑劣な行為を愛するけれど、決して卑怯な真似はしない。お前赧くなったね、目がぎらぎら光りだしたぞ。お前を相手にこんな汚い話はもうたくさんだ。しかし、いま話したのはあれだけのことだ、ポール・ド・コック式のお愛嬌だ。もっとも、この時分から、例の残忍な虫けらはもう頭を持ちあげて、魂の中へ拡がり始めてはいたがね……いや、実際あの当時の追憶で、一冊のアルバムができるくらいだよ。ああ、神様、あの可愛い娘たちに健康を授けてやって下さいまし。ところで、おれは別れる時に喧嘩をするのが嫌いだった。そして、一度も明るみへ出したこともなければ、相手の顔に泥を塗ったこともない。しかし、もうたくさんだ。だが、お前はおれがこんな馬鹿な話をするために、わざわざお前をここへ呼んだと思うのかい? どうしてどうして、もっと興味のある話をして聞かせるよ。しかし、おれがお前に対して恥しそうなふうもなく、かえって得意な顔をしてると思って、あきれないでおくれよ。」
「兄さんは僕が赧い顔をしたから、そんなことを言うのでしょう。」急にアリョーシャが口をいれた。「僕が赧い顔をしたのは、兄さんの話のためでもなければ、兄さんのしたことのためでもありません。つまり、僕も兄さんと同じような人間だからです。」
「お前が? それは少し薬が強すぎるぞ。」
「いいえ、強すぎやしません」とアリョーシャは熱くなって言いだした。見受けたところ、この思想はもうだいぶ前から、彼の心中に巣食っていたらしい。「誰だって同じ階段に立っているのです。ただ僕が一等下の段にいるとすれば、兄さんはどこか上のほう、三十段目くらいの辺に立ってるのです。僕はこういうふうにこの問題を眺めています。しかし、それは五十歩百歩で、つまるところ、同性質のものなんです。一ばん下の段へ踏み込んだものは、いずれ必ず一ばん上まで登って行きますよ。」
「じゃ、初めから、踏み込まないのだね?」
「できるなら、初めから踏み込まないがいいのです。」
「お前はできるかい?」
「駄目なようです。」
「言うな、アリョーシャ、言うな。おれはお前の手が接吻したくなった。つまり、感激のあまりにさ。あのグルーシェンカの悪党は人間学の大家だよ。あの女はいつか必ずお前を擒にして見せるって、おれにそう言ったことがある! いや、言うまい、言うまい、いよいよこれから汚い話をやめて、蠅の糞で汚れた部屋から、おれの悲劇へ移ることにしよう。とはいうものの、これもやはり蠅の糞で汚れた部屋だ、つまり、ありったけの卑劣に充された話なのだ。実のところ、さっき親父が無垢の乙女を誘惑する、とか何とかでたらめを言ったけれど、本当におれの悲劇の中には、そいつがあるんだ。もっとも、実際において成立はしなかったがな、親父にいたってはでたらめにおれを攻撃したので、この秘密は知らないんだ。おれは今まで誰にも話したことがない。今お前に言い初めなのだ。しかし、もちろんイヴァンは別だよ。イヴァンはすっかり知ってる。お前よりかずっと以前に知ってるのだ。が、イヴァンは、――墓だね([#割り注]無口の人[#割り注終わり])。」
「イヴァンが墓ですって?」
「ああ。」
 アリョーシャは異常な注意をもって耳を傾けた。
「おれはその大隊で見習士官として勤務してはいたものの、まるで何か流刑囚みたいに、監視を受けてると同じありさまだった。しかし、町の人は恐ろしく優遇してくれた。おれの金づかいが荒かったもんだから、みんなおれを財産家だと思ってたし、おれ自身もそれを信じていた。しかしそれ以外にも、何か町の人の気に入るようなところがあったに違いない。みんな妙に首をひねって見ていたが、可愛がってくれたのも事実だ。ところが、大隊長――中佐のおやじは馬鹿におれを嫌って、よく突っかかりそうにしたけれど、おれにも手があるし、町の人がみんなおれの味方なので、あまり強く突っかかるわけにゆかなかったのさ。もっとも、おれのほうでも悪かった、わざと相当の尊敬をはらわなかったんだからなあ。つまり、鼻っ柱が強かったのさ。この中佐は頑固ではあったが、まったくのところ、あまり悪い人間でないどころか、この上もなく人のいい客ずきな爺さんだった。この人は二度結婚したが、二度とも死なれてしまった。先妻のほうは何か平民の生れだったそうだが、その忘れがたみもやはり素朴だった、おれがその町にいた頃は、もう二十四五の薹の立った娘で、父親と亡くなった母方の伯母と三人で暮していた。この伯母さんは無口で素朴なたちだったが、姪のほうは、中佐の姉娘の方は、はきはきして素朴な人だった。元来おれは過去を追想する時、人のことを悪く言うのが嫌いなたちだが、この娘ほど美しい性質の女をほかに見たことがないよ。その娘はアガーフィヤというんだ。いいかい、アガーフィヤ・イヴァーノヴナというんだ。それに顔もロシヤ趣味で悪いほうじゃなかった、――背の高い、よく肥った、目つきのいい女で、顔こそ少し下品だったかもしらんが、なかなかいい目をしていたよ。二度ほど縁談があっだけれど、断わってしまって、嫁入りしようともしないんだ。そのくせ、いつも快活な気分を失わないでいたよ。
 おれはこの娘と仲よしになっちゃった、――と言っても、『ああしたふうの』仲よしじゃない。どうしてどうして、純潔なもので、いわば親友のような工合だった。実際、おれはよくいろんな婦人と完全に無垢な、親友みたいな交際をしたものだよ。で、その娘を相手に恐ろしい露骨な、それこそあきれ返るようなことを喋り散らしたけれど、娘はただ笑っているじゃないか。それに、大抵の女は露骨な話を好くものだよ、覚えとくがいい。ところが、このアガーフィヤは生娘なので、よけいおれは面白かったわけなのさ。それからまだこういう特色がある。その娘はどうしたってお嬢さんと呼ぶわけにはいかないのだ。なぜって、いつも好きこのんで自分をおとすようにしながら、父親や伯母と一緒に暮して、交際社会でほかの人と肩を並べようとしたことがない。それに仕立のほうで立派な腕を持っていたから、皆からちやほやされて重宝がられていた。実際、腕ききであったが、ただ優しい気立てからしてやることなので、仕事賃など請求したことはない。しかし、やろうと言われれば辞退はしないんだ。中佐のほうにいたっては、なかなかそんなことはない! 中佐はその小さな町では第一流の名士の一人なんだ。ずいぶん手広く交際していたから、町じゅうのものを招待して、晩餐会や舞踏会を催していた。ちょうどおれがこの町へ着いて大隊へ入った時、近いうちに中佐の二番娘がやって来るというので、町じゅうその話で持ちきっていた。それは美人の中での美人で、こんど都のさる貴族的な専門学校を卒業したんだそうだ。これがあのカチェリーナ・イヴァーノヴナ、つまり中佐の後妻にできた娘なのだ。もう故人になっていたこの後妻は、ある名門の将軍家を出た人だけれど、おれの確かに聞いたところでは、少しも持参金を持って来なかったそうだ。とにかく、いい親類を持っているのだから、さきになって何か希望はあるだろうが、現金というものは少しもなかったのだ。しかし、その令嬢が帰って来たとき(ただし永久にというわけでなく、ほんの当分逗留して行くつもりだったのだ)、町じゅうはまるで面目を一新したような工合だった。第一流の貴婦人たち、――将軍夫人が二人に大佐夫人が一人、それに猫も杓子もその後について奔走しだした。どうかして令嬢を娯しませようというので、四方から引っ張り凧だ。令嬢はたちまち舞踏会やピクニックの女王となってしまった。何か家庭女教師の扶助だとかいって、活人画の催しまであった。おれは黙って遊んでいた。ちょうどおれはその時分、町じゅうが湧き立つほど乱暴なことをやっつけたんだ。何でも一度その令嬢がおれをじろっと見たことがある。それはある中隊長のところだったっけ。しかし、おれはそばへ寄らなかった。お前さんなどと近づきにならなくたっていいよ、という腹なんだね。おれが令嬢のそばへ寄ったのは、それからだいぶ後のある夜会の席だった。ちょっと話しかけてみたんだけれど、ろくろく目もくれないで、人を小馬鹿にしたように口を結んでるじゃないか。よし待ってろ、仇を討ってやるぞ! とおれは腹の中で思ったよ。おれはそのころ大抵の場合おそろしい無作法者だった。それは自分でも感じていた。しかし、そんなことよりも、『カーチェンカ([#割り注]カチェリーナの侮蔑的称呼[#割り注終わり])』は決して無邪気な女学生というタイプでなく、しっかりした気性の、ほこりの強い心底から徳の高い、知恵も、教育もある淑女だが、おれにはそいつが両方ともない、とこんなことをしみじみ感じたのさ。
 お前は、おれが結婚でも申し込んだと思うかい? 決して、そんなことはない。ただ、仇が討ちたかったのだ。おれはこんな好漢《いいおとこ》なのに、あいつはそれ認めてくれない、という腹なのさ。しかし、当分の間は遊興と馬鹿さわぎで持ちきっていた。で、とうとう中佐はおれに三日間、謹慎を命じたくらいだ。ちょうどこの時分、親父が六千ルーブリの金を送ってくれた。それはおれが正式の絶縁状を送って、もう今後びた一文請求しないから、綺麗さっぱりと勘定をすましてくれ、と言ってやった結果なんだ。当時、おれは何にも知らなかったのだ。おれはここへ来るまで、いや、つい五六日前まで、というよりむしろ今日の日まで、親父との金銭関係がどんなになってるか、少しも知らなかったんだよ。しかし、こんなことはどうだってかまやしない、あと廻しだ。ところが、六千ルーブリを受け取ってから間もなく、おれは突然ある友達からもらった手紙で、自分にとってこの上もない興味のある事実を知った。ほかでもない、おれたちの長官たる中佐が公務怠慢の疑いで、不興を蒙ったということだ。つまり、反対派のやつらが陥穽を設けたんだよ。で、直接師団長がやって来て、こっぴどく油を搾ったそうだ。それからしばらくたって、退役願いを出せという命令が出た。まあ、こんなことをくだくだしく話すのはやめようが、実際この人には敵があったのだ。とにかく、当の中佐とその一門に対する町の人気が、急に冷めちまって、まるで潮が退いたような工合なのさ。この時だ、おれのいたずらが始まったのは。折ふしアガーフィヤ、――いつも親交をつづけている姉娘に出会ったので、こう言ってやった。
『あなたのお父さんは、官金を四千五百ルーブリなくしましたね?』
『それは何のこと? 何だってそんなことをおっしゃるの? せんだって将軍閣下がお見えになったとき、そっくりちゃんとあったわ。』
『その時はあっても今ないんですよ。』
『後生だから脅かさないでちょうだい、一たい誰から聞いて?』と恐ろしくびっくりしている。
『心配することはありません、僕だれにも言わないから。ご承知のとおりこんなことにかけたら、僕は墓石も同然ですよ。しかし、これについて「万一の用心」という意味で、一つお話があるんです。ほかではありませんがね、お父さんが四千五百ルーブリの金を請求された時、その金がなかったら、さっそく軍法会議ですよ。すると、あの年をして一兵卒の勤めをしなければならない。どうです、いっそあなたの家の女学生さんを内証でおよこしなさい。僕ちょうど金を送ってもらったから、あのひとに四千ルーブリの金をさしあげます。そして、誓って秘密を守ります。』
『まあ、あなたはなんて穢わしい人なのでしょう!(実際こう言ったのだ)――なんて穢わしい悪党なんでしょう! どうしてそんな失礼なことが言えるんでしょう!』と恐ろしく憤慨して行ってしまった。おれはそのうしろからもう一度、秘密は誓って神聖に守るからと呶鳴った。この二人の女、つまりアガーフィヤと伯母さんとは、あとで聞いてみると、この事件に関して純潔な天使のように振舞ったそうだ。高慢ちきな妹のカーチャをしんから崇め奉り、そのために自分を卑下して小間使のように働いたんだ。ただし、アガーフィヤはその一件を、つまりおれの話を、すぐ当人に知らしちゃった。なれはあとで掌をさすように聞き出したが、この娘は隠しだてしなかったのだ。ところで、そこがこっちの思う壼なのさ。
 そのうちに突然、新来の少佐が大隊を引き継ぎにやって来て、さっそく引き渡しの手続きが始まった。すると老中佐は、急に発病して動くことができないとかで、二昼夜というものは自宅へ籠ったきり、隊の金をさし出そうとしない。軍医のクラフチェンコも、実際病気に相違ないと証明した。この事件の内幕はおれがとうから秘密に、確かなことを嗅ぎ出していたんだ。この金はもう四年も前から長官の検閲がすみ次第、暫時のあいだ姿を消すことにきまっていた。つまり、中佐が確実この上ないという男に融通したからだ。それは、トリーフォノフという町の商人で、金縁の眼鏡をかけた、髯むくじゃらな、年とった男やもめなのだ。この男は市《いち》へ出かけて、何か必要な取引きをすますと、すぐにその金を耳を揃えて中佐に返したうえ、市から土産物など持って来る。土産に利子が添わってるのはもちろんだ。ところが、今度にかぎって(おれはそのとき偶然にトリーフォノフの息子で相続人の、涎くり小僧から聞いたのだ。これは、世界じゅうまたと類があるまいという極道者なんだ)、ところが、今度にかぎってトリーフォノフは、市から帰って来ても何一つ返さないんだそうだ。中佐がその男のところへ飛んで行くと、『私は、決してあなたから何一つ受け取った覚えはありません、第一、そんなはずがないじゃありませんか』という挨拶だ。こういうわけで、中佐は家へ引き籠ってしまった。タオルで頭を縛って、三人の女たちが氷で額を冷やすという騒ぎさ。そこへ当番の兵隊が帳簿と命令を持って来た。『即刻、二時間内に官金を提出すべし』というのだ。で、中佐は署名をした(おれは後でこの帳簿に書いてある署名を見たよ)。それから起きあがって、軍服を着に行くのだと言って、自分の寝室へ走り込み、遊猟に使っていた二連発銃を取って装填した。兵隊用の弾丸《たま》をこめると右足の靴を脱いで、銃口を胸へ当て、足で引き金を探りにかかった。ところが、アガーフィヤはおれの言葉を覚えていたので、もしやと思って忍び足について来たから、手遅れにならぬうちに見つけたんだ。転ぶように駆け込んで父に飛びかかり、うしろから抱きしめたので、銃は天井へ向けて発火して、幸い誰ひとり怪我をしなかった。やがて、ほかの人たちも駆けつけて、中佐を抑えて、銃を取り上げ、両手をじっと掴まえていた……このことは、後ですっかり、一分一厘たがえずに聞いたのだ。その時、おれは家にいた。ちょうど暮れがたであったが、外出するつもりで服も着替え、頭も撫でつけ、ハンカチに香水もつけて、帽子まで手に取ったところへ、とつぜん戸が開いて、――おれの目の前へ、しかもおれの部屋へ、カチェリーナ・イヴァーノヴナが現われたのだ。
 世間にはよく不思議なことがあるものさな。そのとき令嬢がおれのところへ入ったのを、往来で見てるものが一人もなかったので、町でもこのことは、うんともすんとも噂が出なかった。それに、おれはある二人の官吏の後家さんの部屋を借りていたが、もう大昔の婆さんで、万事おれの世話をしてくれた。なかなか丁寧な年寄りで、何でもおれの言うがままになってたから、このときもおれの言いつけで、まるで鉄の棒かなんぞのように黙っていてくれた。もちろん、おれはすぐ一切のことを見抜いてしまった。令嬢は入って来るなり、ぴったりおれの方を見つめるじゃないか。その暗色《あんしょく》をした目は決然として、むしろ大胆なくらいに光っていた。しかし、唇の上にもまわりにも、何となく思いきりのわるい色が窺われた。
『姉から伺いますと、もしわたくしが……自分であなたのところへまいりましたならば、四千五百ルーブリのお金を下さるそうでございますね、……わたくしまいりました……さあ、お金を下さいまし!………』と言ったが、とうとうこらえきれないで息を切らし、慴えたように声をとぎらした、唇の両はじとそのまわりの筋肉がぴりりと慄えた。おい、アリョーシャ、聞いているのか、眠ってるのか?」
「ミーチャ、僕はあなたがすっかり本当のことを話しなさるだろうと信じています。」アリョーシャは興奮して答えた。
「そうだ、その本当のことを話すんだ。もしすっかり本当のことを言うとすれば、まあ、こういうふうないきさつだ。なあに、自分のことなんか容赦はしやしないよ。まず第一に浮んだ考えはカラマーゾフ式なものだった。おれは一度むかでに咬まれて、二週間ばかり熱に浮かされながら寝ていたことがある。ところが、このむかでが、意地のわるい毒虫が、ちくりとおれの心臓をさしたんだ。おれはじろりと令嬢の姿を見廻した。お前はあのひとを見たかい? 美人だろう。しかし、その時の美しさは、あんなふうでないのだ。その時あのひとが美しかったのは、あのひとが高潔この上もないのに引き換えて、おれが一個の陋劣漢だったからなんだ。あの人が父の犠牲として、偉大というものの絶頂に立っているに引き換えて、おれはまるで南京虫にもひとしいからなんだ。ところが、その陋劣漢で南京虫のおれのために、あの人は精神も肉体も一切を挙げて、生殺与奪の権利を握られてるのだ。おれは腹蔵なく打ち明けるが、この想念は――毒虫の想念は、もうしっかりとおれの心を掴んでしまって、悩ましい焦躁のために心臓が溶けて流れないばかりだった。ちょっと考えてみると、この間に何の躊躇も争闘もなさそうだろう? つまり、南京虫か毒蜘蛛のように、少しの容赦もなしに断行したらいいのだ……おれは息がつまるほどだった。ところが、またこういう方法もある。翌日、中佐のところへ行って結婚を申し込み、一切のことを公明正大にやって、この秘密を誰も知らないように、また知るわけにもいかないようにすることができる。なぜって、おれは卑しい欲望に動かされはするが、しかし潔白な人間だからな。けれど、突然その瞬間、誰やらおれの耳もとで囁くやつがあった。
『だが、あす結婚を申し込みに行っても、あの女がお前のところへ出ても来ないで、馭者に言いつけてお前を邸から抛り出さしたらどうする? 勝手に町じゅうへ触れ廻すがいい、お前さんなぞ恐れやしないからと言ったら、どうするつもりだ?』
 おれは、ちらと令嬢を見た。すると、おれの心の声は嘘を言わなかった。もちろん、そうあるべきはずなんだもの。あす出かけて行ったら、おれの襟首を掴んで抛り出すってことは、もうその顔を見たばかりでちゃんと読めた。と、急におれの心中に毒々しい想念が湧き立ってきて、陋劣この上ない、豚か素町人のような芝居が打ちたくなった。つまり、馬鹿にしたような目つきで令嬢を見ながら、相手が自分の前にじっと立ってる間に、素町人でなければとても言えないような口調で、いきなり令嬢を取っちめてやりたくなったんだ。
『へえ、四千ルーブリですって! おりゃちょっと冗談半分に言ったのに、あなたは一たい、どうしたんです? そりゃお嬢さん、あんまり勘定がお手軽すぎますぜ。百や二百の金ならば、わっしも悦んでさしあげましょうが、四千ルーブリといえば、こんな浮いたことに拠げ出せる金じゃありませんからね。そりゃ無駄なご足労というもんですぜ。」
 とまあ、こんな調子さ。しかし、こんなことを言ったら。もちろんおれは何もかも失くしてしまわなきゃならん。令嬢は逃げ出してしまうに違いない。しかしその代り、思いきって悪《あく》がきいて腹いせができて、一切を償うてあまりがある。生涯、後悔のために呻吟するかもしれないが、しかしとにかく、今はこの手品がやってみたくてたまらない! お前ほんとうにはなるまいが、おれがこういう場合、相手の女を憎悪の念をもって、睨むなんて、そんなことは、どんな女に対してもありゃしなかった、――ところがその時ばかりは、あのひとを三秒ほどの間、恐ろしい憎悪をいだきながら見つめていた。まったくだ、誓ってもいいよ。しかし、その憎悪は恋、気ちがいじみた恋と、僅か間一髪を隔てたようなものだった!
 おれは窓に近寄って、凍ったガラスに額を押し当てた。氷が、まるで火かなんぞのように額を焼いたのを覚えている。心配するな、長いこと待たせはしなかった。おれはくるりと振り返ってテーブルに近寄り、抽斗を開けて、五分利つき五千ルーブリの無記名手形を取り出した。(それはフランス語の辞書の中に挟んであったのだ)。それから無言のまま令嬢に見せた後、畳んで手渡した。そして、自分で玄関へ出る戸を開けて、一足さがり、深く腰をかがめて、相手の心に浸み渡るようなうやうやしい会釈をした。信じてくれ。本当なんだ! 令嬢はぎくりとして、一秒ばかりじっとおれを見つめながら、まるでテーブル・クロースのように蒼白い顔をしていたが、とつぜん一口もものを言わないで、静かに深く全身を屈めて、ちょうどおれの足もとへ額が地につくほど辞儀をした、――それが突発的でなくもの柔らかな挙動なんだ。女学生式でなく純ロシヤ式なんだ! やがて急に跳りあがって飛び出しちゃった。令嬢が飛び出した時、おれはちょうど軍刀を着けていたので、それをすらりと引き抜いて、即座に自殺しようとした。何のためやら自分でもわからない、むろん、恐ろしい馬鹿げたことではあるけれども、きっと歓喜のあまりに相違ない。お前にわかるかどうかしらんが、ある種の歓喜のためには、自殺もしかねないことがあるよ。しかし、おれは自殺しなかった。ただ、軍刀を接吻しただけで、またもとの鞘へ納めた、が、こんなことはお前に話さなくてもよかったんだなあ。それに、今ああいう暗闘の話をしているうちに、自分をいい子にしようと思って、どうやら少少ごまかしたところもあるようだ。しかし、かまわん、それならそれでいい、本当に人間の心の間諜を、みんなどこかへ吹っ飛ばしちゃうといいんだ! さあ、これがおれとカチェリーナとの間に起った『事件』の全部なんだ。今これを知ってるのはイヴァンと、――それにお前っきりだ。」
 ドミートリイは立ちあがって、興奮したように一歩二歩踏み出しながら、ハンカチを取り出して額の汗をぬぐった。やがてふたたび腰をおろしたが、それは前に坐っていた場所でなく、反対の壁についている床几であった。で、アリョーシャはその力へ向くために、すっかり坐り直さなければならなかった。

[#3字下げ]第五 熱烈なる心の懺悔――『真逆さま』[#「第五 熱烈なる心の懺悔――『真逆さま』」は中見出し]

「さあ、これで」とアリョーシャが言った。「僕もこの話の前半を知ったわけなんですね。」
「前半はそれでわかったんだ。これは戯曲で、舞台はあっちだ。後半は悲劇で、これからこっちで演じられようとしてるのさ。」
「その後半の事情が、僕にはまだちっともわからないのです」とアリョーシャは言った。
「じゃ、おれはどうなんだ? 一たい、おれにわかってるというのかい?」
「兄さん、ちょっと待って下さい、ここに大切な言葉が一つあるんですよ。一たい兄さんは、許婚《いいなずけ》の夫なんですか、今でもそうなんですか。」
「許婚の夫になったのは今じゃない、あの事件があってから三カ月たった後の話だ。よくあることだが、すぐその翌日、おれは自分で自分にこう誓った、――この事件はもうこれで大団円になったので、決して後日譚なんかない。したがって結婚の申し込みにのこのこ出かけるのは、卑劣なことだと感じられた。あの人はまたあの人で、その後、町に六週間も住んでいたくせに、一言半句も便りをしてくれなかった。もっとも、一度例外があったよ。あの訪問の翌日、おれのとこへ中佐の家の小間使が、こそこそとすべり込んで、何も言わずに一つの包みを渡したのだ。包みの上には誰々様と宛名が書いてある。あけて見ると五千ルーブリの手形の釣り銭なんだ。実際、必要だったのは四千五百ルーブリだけれど、手形を売るとき二百ルーブリ以上の損失が生じたので、おれの手もとへ返したのは、みんなで二百六十ルーブリくらいのものだったらしい。よくは覚えていない。しかし、ほんの金だけで、手紙もなければ一言の説明もない。おれは包みの中に、何かちょっと鉛筆でしるしでもしてないか、と思って捜してみたが、――なあんにもない! 仕方がないから、おれは残った金で、当分耽溺してばかりいたので、とうとう新任の少佐も、余儀なくおれに譴責をくわしたくらいだ。まあ、こうして、中佐は無事に官金を引き渡したので、みんなびっくりしてしまったのさ。だって、その金が纒って中佐の手もとにあろうとは、誰ひとり想像しなかったからなあ。しかし、引き渡すと同時に病みついて、三週間ばかり床についていたが、とつぜん、脳血栓を起して、五日のうちに亡くなってしまった。まだ予備の辞令を受ける暇がなかったので、軍葬ということになった。カチェリーナは姉や伯母とともに、父の葬いをすますやいなや、十日ばかりたつと、モスクワへ向けて出発した。ところが、その出立の前(といっても、それと同じ日なんだ。おれはその後会いもしなければ、見送りにも行かなかった)、おれは小さな封筒を受け取った。青いすかし入りの紙に、鉛筆でたった一行、『そのうちに手紙をさしあげます、お待ち下さい。K』と、これだけ書いてあった。
 もうこれからは簡単に説明するよ。一切の事情が、モスクワで稲妻のような速度と、アラビヤ夜話のような意外さをもって、がらりと一変してしまったのだ。あのひとのおもな親戚にあたる将軍夫人が、突然一ばん近い相続者を一時に二人まで亡くしてしまった。その二人は将軍夫人の姪なんだが、両方とも同じ週に天然痘で死んだのだ。取り乱して前後を失った夫人は、親身の娘かなんぞのように、カーチャの上京を喜んで、まるで救いの星でも見つけたように、飛びかかったのさ。そして、さっそくあのひとのために遺言状を書き換えちゃった。が、それは先になってからの話で、当分の手当として八万ルーブリだけ手渡して、さあ、これがお前の持参金だから、どうとも好きなようにおしと言ったそうだ。実際、ヒステリイ質の婦人だよ、おれはその後モスクワへ行って、自分で観察したがね。で、おれはだしぬけに四千五百ルーブリの金を為替で受け取った。もちろん、不思議でたまらないから、びっくりして唖のようになっていたよ。三日たってから約束の手紙も着いた。その手紙は今でもおれのところにある。いつもおれの肌身についてるのだ、死ぬる時も一緒だ、――お望みなら見せてもいいよ。いや、ぜひ読んでくれ。結婚を申し込んだんだ、自分で自分の体を提供したんだ。
『わたしは気ちがいのように恋しています。あなたがわたしを愛して下さらなくてもかまいません。どうぞわたしの夫になって下さい。しかし、お恐れになることはありません。わたしはどんなことがあっても、あなたを束縛はいたしません。わたしはあなたの道具です、あなたの足に踏まれる絨毯でございます……わたしは永久にあなたを愛しとうございます、あなたをあなたご自身から救って上げたいのでございます……』
 アリョーシャ、おれはこの手紙を、自分の陋劣な言葉や、陋劣な調子で伝える資格がない。おれのもちまえの陋劣な調子はどうしても直すことができないのだ! この手紙は今日にいたるまでおれの胸を刺すのだ。一たいお前は、今おれが気楽だと思うかい、今日おれが気楽でいると思うかい? その時おれはすぐ返事を書いた(どうしても自分でモスクワへ出向くわけにいかなかったのだ)。おれは涙ながらにその返事を書いた。ただ一つ、いつまでも恥しいと思うことがある。ほかでもない、その手紙に、あなたはいま金持で持参金つきの花嫁さんなのに、私は一介の貧乏士官だと書いたのだ、金のことなんか言ったのだ。そんなことは胸一つにおさめておくべきだったのに、つい筆がすべっちゃったんだ。それと同時にモスクワにいるイヴァンヘ手紙を送って、できるだけ詳しく一切の事情を説明してやった。何でも書簡箋六枚からあったよ。こうしてイヴァンをあのひとのところへやったのだ。お前、何だってそんな目をして見てるんだい? そりゃイヴァンは本当にあのひとに惚れ込んじまったさ。そして今でもまだ惚れてるよ。なるほど世間の目から見て、おれのしたことが馬鹿げているのは、自分でも承知している。しかし、今となってはこの馬鹿げたこと一つだけが、われわれ一同を救ってくれるのかもしれないよ! あああ! 一たいお前はあのひとがどんなにイヴァンを崇拝し、尊敬しているかわからないのか? それに、あのひとがわれわれ二人をくらべてみて、おれのような人間を愛することができるものかね。おまけに、ここであんなことがあった挙句にさ。」
「あのひとは兄さんのような人を愛します、決してイヴァンのような人じゃありません、それは僕、かたく信じていますよ。」
「あのひとは自分の善行を愛してるので、おれを愛してるんじゃない。」突然ドミートリイはわれともなく、ほとんど毒々しい調子でこう口をすべらした。彼は声高に笑いだしたが、一瞬の後その目がぎらぎらと輝きだした。彼は真っ赤になり、拳を固めて力まかせにテーブルを打った。
「おれは誓って言うぞ、アリョーシャ」と彼は自分自身に対するもの凄い、真剣な憤怒を現わしながら叫んだ。「お前が本当にしようとしまいと勝手だが、神聖なる神にかけて、主キリストにかけて誓う、おれは今、あのひとの高潔な感情を冷笑したが、おれの魂があのひとのにくらべて百万倍もやくざだってことは、自分でもちゃんと承知してる。あのひとのそうした立派な感情は、天使の心と同じように真実なものだ! おれはそれをちゃんと知っている。そして、この中に悲劇がふくまれてるのだ。しかし、人間が少しばかり朗読めいた口のきき方をしたって、一たいどこが悪いのだ? 実際おれは朗読しただろう? しかし、おれは真剣なのだ、まったく真剣なのだ。ところで、イヴァンのことになると、あれが今、自然に対してあんな呪いをいだくのも無理はないと思う。それに、あれだけの頭があるんだからなおさらだ! 実際、選まれたのは誰だと思う、何ものだと思う? 選まれたのはこのやくざ者なんだ、もう許婚の夫ときまっていながら、ここでみんなの見ている前で、もちまえの淫蕩を抑制することのできないやくざ者なんだ、――しかも、それを許嫁の目の前でやるんだからなあ! こういうやくざ者が選まれて、イヴァンが斥けられたんだ。ところで、それは一たい何のためだと思う? ほかでもない、立派な令嬢が感謝のあまりに、自分で自分の一生を手籠めにしようと思ってろからなんだ! 実に愚かな話だ! おれはこんな意味のことを一度もイヴァンに話したことがないし、イヴァンのほうだってもちろんおれに向って、一言半句も、そんなことを匂わしたことはない。しかし、そのうちに運命の摂理で、価値あるものは相当の席に直って、価値なきものは永久に人生の露地へ隠れるのだ、――自分の気に入った、自分に相当した汚い露地の中へ隠れて、泥濘と悪臭の中で、満足と悦びを感じながら亡びてゆくのだ。おれは何だかわけのわからないことを、考えもなしに喋ってしまった。おれの言葉はどれもこれも、みんな使い古されてしまってる。しかし、いま断言したことは必ず実現されるよ。おれは露地へ隠れてしまって、あのひとはイヴァンと結婚するんだ。」
「兄さん、ちょっと待って下さい」とアリョーシャは一方ならぬ不安の面もちで遮った。「兄さんが今まではっきり説明してくれなかったことが一つありますよ。ほかじゃありませんが、兄さんは婚約の夫でしょう、何と言ってもそれに違いないのでしょう? もしそうだとすると、相手の婦人が望んでもいないのに、縁を切ってしまうなんてことがどうしてできますか?」
「そうだ、おれは立派に祝福を受けた正式の許婚だ。これはおれがモスクワへ行ったとき、正式に堂々と聖像の前で行われたのだ。将軍夫人が祝福してくれたのさ、――そしてどうだろう、カーチャにお祝いまで言ったよ、お前はよい婿を選んだ、わたしにはこの人の腹の底まで見すかせるってね。そして、奇妙な話だが、イヴァンは夫人の気に入らないで、お祝いも言ってもらえなかったのだよ。おれはモスクワでいろいろカーチャと話し合って、公明正大に、自分の全人格を偽ることなく正確に説明してやった。あのひとはじっと聞いていたが、

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その顔に優しき惑い
その口に愛しき言葉……
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いや、言葉は厳かなものだったよ。あのひとは、その時おれに、ぜひ身持ちを改めるという大誓言を立てさせた。で、おれは誓ったのだ。ところが……」
「どうしました?」
「ところが、おれは今日お前を呼んで、ここへ引っ張り込んだ(今日という日を覚えていてくれ!)しかも、それは今日、やはり今日だぞ、お前をカーチャのところへやって、そして……」
「どうするんです?」
「あのひとにそう言ってもらうためなんだ、おれはもう決して行かないから、どうかよろしくって。」
「えっ、一たいそんなことがあっていいものですか?」
「あってよくないからこそ、お前を代りにやるのだ。どうしておれ自身あの人にそんなことが言えるものかね?」
「そして、兄さんはどこへ行くんです?」
「露地へさ。」
「それはグルーシェンカのことですか?」アリョーシャは手を拍ちながら、悲しげに叫んだ。「じゃ、ラキーチンの言ったことは本当なのかしら? 僕、兄さんはちょっと行ってみただけで、もうおしまいになったんだろう、と思っていました。」
「許嫁のある男が、あんな女のところへ行っていいものかい? そんなことができるかい、しかも、許嫁のいるところで? みんなの見ているところで? おれにだって廉恥心はあるからなあ。つまり、グルーシェンカのところへ行き始めるとすぐ、おればもう許嫁の夫でもなければ、潔白な人間でもなくなっちまったんだ。それは自分でもわかってるよ。何だってお前そんな目をするんだい? 全体おれは最初ただあの女をぶん殴りに行ったのだ。なぜって、親父の代理人をしているあの二等大尉のやつが、おれの名義になっている手形をグルーシェンカに渡して、おれが閉口して手を引くように告訴してくれと頼んだと、こういう噂がおれの耳に入ったからなんだ。これが確かな話だってことは、今でもわかってるのだ。みなでおれを脅かそうと思ったのさ。で、おれはグルーシェンカをぶん殴りに出かけた。その前におれはちらりとあの女を見たことがある。けれど、べつに心にもとまらなかった。例の老ぼれ商人のことも知っていた。こいつはいま病気のため弱り込んで寝ているが、とにかく大分の金をあの女に残してるそうだ。それからまた、あの女が金儲けが好きで、すごい利息で金を貸しては、どんどんふやしていることも、慈悲も情けもない悪党の詐欺師だって話も聞いていた。で、おれはぶん殴りに出かけたが、そのまま女の家にみ輿をおろしてしまった。つまり、雷に打たれたんだ。ペストにかかったんだ、そのとき一度感染したきり、もう落ちっこはありゃしない。で、おれも悟っちまった、このさき決してどうにも変りようはない、時の循環が成就したのだ。まあ、こういった事情さ。ところがちょうどその時、おれのような乞食のかくしに、誂えたように三千ルーブリの金があった。おれは女と一緒に、ここから二十五露里([#割り注]わが七里[#割り注終わり])離れたモークロエ村に押し出して、ジプシイの連中を集めるやらシャンパンを取り寄せるやらして、村の百姓にも女房にも娘にも、みんなにシャンパンを振舞って、何千という金を撒いたのだ。三日たつと、もう丸裸になったが、しかし気分は鷹のようだったよ。ところで、お前はその鷹が、何か目的を達したと思うがい? どうしてどうして、遠方から拝ましてももらえないのだ。ただ曲線美とでも言うかな。グルーシェンカの悪党には、一つ何とも言えない肉体の曲線美があるんだ。それが足にも、左足の小指の先にも現われている。そいつが目について接吻した。それっきりだ、――本当の話だよ! あの女が言うには、『お望みならお嫁にも行きましょうが、だって、あんたは乞食同様の身分じゃなくって。もしあんたが決してわたしをぶちもしなければ、またわたしのしたいことを何でもさせてくれたら、そのときはお嫁に行くかも知れないわ』と言って笑ってるのさ。そして、今でもやはり笑ってるんだ!」
 ドミートリイは猛然として座を立った。彼は、とつぜん酔っ払いみたいになって、両眼は急に血走ってきた。
「兄さんは本当にそのひとと結婚する気なんですか?」
「向うでその気になれば、すぐにもするし、いやだと言えばそのまま居残っててやる。あの女の家の門番にでもなるさ。お前……お前……アリョーシャ」と、彼はとつぜん弟の前に立ちどまって、その肩に両手をかけ、力を籠めてゆすぶり始めた。「お前のような無垢の少年には、わからないかもしれんが、これは悪夢だ、意味のない悪夢だ。そして、この中に悲劇があるのだ。なあ、アリョーシャ、おれは卑しい人間かもしれないが、しかし、ドミートリイ・カラマーゾフは、決して泥棒や、掏摸や、掻っ払いになり下るはずがないだろう。ところが、今こそぶちまけてしまうけれど、おれは泥棒なんだ、掏摸なんだ、掻っ払いなんだ! ちょうどグルーシャをぶん殴りに出かける前、その日の朝カチェリーナがおれを呼んで、当分だれにも知らさないように秘密にしてくれ、と言って(何のためかしらないが、そうする必要があったんだろうよ)、これから県庁所在地の町へ行って、モスクワにいる姉さんのアガーフィヤヘ、為替で三千ルーブリ送ってくれとの頼みだった。県庁所在地まで行ってくれというのは、ここの人に知られたくないからだ。この三千ルーブリを懐中して、おれはその時グルーシェンカのところへ出かけた。そして、この金でモークロエヘ押し出したのだ。その後おれはさっそく市へ飛んで行ったようなふりをしたけれど、為替の受取りを出しもしないで、金は送ったから受取りもすぐ持って来ると言いながら、いまだに持って行かないでいる。忘れましたってわけでね。そこでお前、何と思う、これからお前があのひとのところへ出かけて、『よろしくと申しました』と言ったら、あの人は『で、お金は?』と訊くだろう。そうしたら、お前はこんなに言ってもかまわないよ、『兄は陋劣な好色漢です、欲情を抑えることのできない卑しい動物です。兄はあのとき金を送らないで、下等動物の常として、衝動にひかれて、すっかり使ってしまったのです。』が、それにしても、こう言い添えてもさしつかえないよ。『その代り兄は泥棒じゃありませんから、そらこのとおり三千ルーブリ耳を揃えてお返しします。どうぞご自分でアガーフィヤさんにお送り下さい。それから当人の兄はよろしくと申しておりました。』するとあのひとは、『どこにお金があるんです?』と訊くだろうな。」
「ミーチャ、あなたは不仕合せな人ですね、本当に! しかしそれでも、兄さんが自分で考えてるほどではありませんよ、――あまり絶望して自分を苦しめないがいいです!」
「一たいお前は、三千ルーブリの金が手に入らなかったら、おれがピストル自殺でもすると思うのかい? そこなんだよ、おれは決して自殺なんかしない、今はとてもできない。そのうちにあるいはやるかもしれんが……しかし今はグルーシェンカのところへ行くんだ……おれの一生はどうなろうとかまわない!」
「あのひとのところへ行ってどうするんです?」
「あの女の亭主になるんだ、つれあいにしていただくんだ、もし色男が来たら次の間へはずしてやる。そして、女の知り人の上靴も磨いてやろうし、サモワールの火も吹こうし、使い走りもいとやしない……」
「カチェリーナさんは何もかも察してくれますよ。」ふいにアリョーシャは勝ち誇ったように言いだした。「この悲しい事件の深刻な点をすっかり察して、折れて出るに相違ありません。あのひとには優れた叡知があります。だって、兄さんより以上に不幸な人があり得ないってことは、あのひとにだってわかりますもの。」
「あのひとは決して折れてなんか出ないよ」とミーチャは作り笑いをした。「この事件のなかには、どんな女でも折れることのできないような、あるものがあるのだ。お前はどうしたら一番いいか知ってるかい?」
「何です?」
「あのひとに三千ルーブリ返しちゃうのだ。」
「でも、どこでその金を拵えるんです? ああ、そうだ、僕んとこに二千ルーブリあるでしょう、それからイヴァン兄さんもやはり千ルーブリくらい出してくれるから、それで三千ルーブリになるでしょう、それを持って行ってお返しなさい。」
「しかし、それがいつ手に入るだろう、お前の三千ルーブリがさ。おまけに、お前はまだ丁年になってないじゃないか。いや、どうしてもぜひ今日、あのひとのところへ行って、よろしくと言ってもらわなけりゃならん。金を持ってか、それとも持たずにか、とにかく、もうこのうえ延ばすことはできない、とまあ、こういうところまでさし追ってしまったのだ。明日ではもう遅い、実際遅いよ、おれはお前に親父のところへ行ってもらいたいんだ。」
「お父さんのところへ?」
「うむ、あのひとのところより先に親父のところへ行って、その三千ルーブリもらってくれないか。」
「でも兄さん、お父さんはくれやしませんよ。」
「むろん、くれるはずはない、くれないのは承知だよ、しかし、アリョーシャ、絶望ってどんなものかわかるかい?」
「わかります。」
「いいかい、親父は法律から言ったら、ちっともおれに負債はない。おれがすっかり引き出してしまったんだからな。これはおれも自分で知ってる。しかし、精神的に見て、親父はおれに義務がある、なあ、そうじゃないか。親父は母の二万八千ルーブリをもとでにして、十万の財産を拵えたんだものなあ。もし親父がその二万八千ルーブリのうち、僅か三千ルーブリをおれによこしたら、おれの魂を地獄から引き出して、親父自身もたくさんな罪障の償いをするというものだ。おれはお前に誓っておくが、その三千ルーブリで綺麗さっぱりと片をつけて、今後おれの噂を親父の耳に入れるようなことは決してしない。つまりこれを最後に、もう一度父となるべき機会を、あの親父に提供するのだ。どうか親父にそう言ってくれ、この機会は神様ご自身が授けて下さるのだって。」
「ミーチャ、お父さんはどんなことがあっても出しゃしませんよ。」
「知ってる、決して出しゃせん、それはようく知ってるよ。しかも、今はなおさらなんだ。さっき話したほかに、おれはまだこんなことを知ってるのだ。この頃、やっと二三日前、いや、ことによったら、つい昨日のことかも知れない、親父はグルーシェンカが本当に冗談を抜きにして、おれと結婚するかも知れないってことを、初めて正確に(『正確に[#「正確に」に傍点]』というのに気をつけてくれ)嗅ぎつけたのさ。親父もあの牝猫の性質を承知してるからな。こういうわけだから、自分でもあの女にうつつを抜かしている親父が、この危機を助けるために、わざわざおれに金をくれるわけはないのだ。しかし、こればかりじゃない、まだ大変なことを聞かしてやることができるよ。ほかでもない、五日ばかり前に、親父は三千ルーブリの金を抜き出して百ルーブリ札《さつ》にくずし、大きな封筒に包んで封印を五つも捺した上に、赤い紐で十字にからげたものだ。おい、実に詳しく知ってるだろう! 包みの上にはこういう文句が書いてある。『わが天使グルーシェンカヘ――もしわれに来らば。』これは夜中しんとした時、内証で自分で書いたのだ。こんな金が隠してあるってことは、下男のスメルジャコフのほか誰ひとり知ってるものはありゃしない。親父はこの男の正直なことを、自分自身と同じくらい、信じきっているからな。ところで、親父は今日でもう三日か四日ばかり、グルーシェンカが包みをもらいに来るのを頼みにして、待ち焦れているんだ。包みのことを知らせてやったら、あの女のほうからも、『もしかしたら行くかも知れない』と返事したそうだ。もしあの女が親父のところへやって来たら、おれはあの女と一緒になることはできやしない。どういうわけでおれがこんなところへ内証で坐ってるか、そして何を見張ってるか、これでお前にも合点がいったろう?」
「あのひとを見張ってるんでしょう?」
「そうだ。ところで、この家のお引き摺りのちっぽけな部屋を、フォマーという男が借りてるんだ。このフォマーは土地の人間で、もとおれの隊へ兵隊で入ってたのさ。こいつがここで夜番に使われてるけれど、昼間は山鳥など撃って口すぎをしている。おれはこの男のところへ入り込んでるんだが、この男もうちの母娘《おやこ》も、おれの秘密は知らないでいる。つまり、何を見張ってるか知りゃしないのさ。」
「スメルジャコフが一人知ってるだけなんですね?」
「あいつ一人きりだ。女が親父のところへ来たら、その時あいつが知らせることになってるんだ。」
「包みのことを兄さんに教えたのもあれですか?」
「あれなのだ。しかし、これは大秘密だよ。イヴァンでさえ金のことも何にも知らないんだから。ところで、親父はイヴァンを二三日の間、チェルマーシニャヘやりたがってるのさ。それは森の買い手がついたからなんだ、八千ルーブリで木を伐り出させるんだよ。で、親父は『助けると思って、二三日の予定で出かけてくれんか』と言って、イヴァンを口説いてるところだ。つまり、イヴァンの留守にグルーシェンカを来させたいからよ。」
「では、今日お父さんはあの人の来るのを待ってるわけですね?」
「いや、今日は来ないよ。ちゃんと徴候があるんだ。きっと来やしない!」突然ミーチャは叫んだ。「スメルジャコフもそう思ってるよ。親父は今イヴァンと一緒にテーブルに向いて酒を飲みくらってるから、これから出かけてあの三千ルーブリを頼んでくれんか……」
「ミーチャ、兄さん一たいどうしたのです!」アリョーシャは床几から飛びあがって、激昂したミーチャの顔を見つめながら、こう叫んだ。ちょっとの間、彼は兄の気が狂ったのではないかと思った。
「お前こそどうしたんだい? おれは気なんか狂ってやしないぞ。」妙に勝ち誇ったような色さえ浮べながら、弟の顔をじっと眺めつつ、ミーチャはこう言った。「なるほど、おれはお前を親父のところへ使いにやろうとしているが、自分の言ってることはちゃんとわかっている。おれは奇蹟を信じるのだ。」
「奇蹟を?」
「ああ、神の摂理の奇蹟を信じる。神様にはおれの心がおわかりだ。神様は絶望をすっかり見ていて下さる。この絵巻物をみんな見とおしていらっしゃるのだ。一たい神様が何か恐ろしい事件の爆発を、みすみすうっちゃっておおきになるだろうか? アリョーシャ、おれは奇蹟を信じる、さあ、行って来い!」
「では、行って来ます。それで、兄さんはここで待ってくれますか?」
「待つとも、そう早く運ばないのは承知してるよ。実際、入るといきなり切り出すなんてわけにいかないからなあ! それに、いま酔っ払ってもいるしさ。待つよ、三時間でも、四時間でも、五時間でも、六時間でも、七時間でも。ただし今日じゅうに。たとえ真夜中になろうとも、金を持ってか[#「金を持ってか」に傍点]、さもなくば金なしで[#「さもなくば金なしで」に傍点]、カチェリーナさんのところへ行って、『兄がよろしく申しました』と言ってくれ、いいか。おれはぜひこの『よろしく申しました』って句を言ってほしいのだ。」
「ミーチャ! もし突然グルーシェンカが今日やって来たら……今日でなければ、明日か明後日か?」
「グルーシェンカが? 見つけしだい、踏み込んで邪魔をしてやる……」
「でも、ひょっと……」
「ひょっとなんてことがあったら、殺しちゃうさ。おめおめ見ていられるものか。」
「誰を殺すんです?」
「親父さ。あの女は殺さない。」
「兄さん、まあ何を言うのです!」
「いや、おれにもわからない、自分でもわからない……もしかしたら殺さないかもしれんし、またもしかしたら、殺すかもしれん。ただな、いざという瞬間に親父の顔が、急に憎らしくてたまらなくなりはしないか、と思って心配してるんだ。おれはあの喉団子や、あの鼻や、あの目や、あの厚かましい皮肉が憎らしくてたまらない。あの人物に対して、嫌悪の念を感じるのだ。おれはこいつを恐れている、こればかりは抑えることができないからなあ……」
「じゃ、僕、行って来ますよ。僕は神様がそんな恐ろしいことのないように、うまく納めて下さると信じています。」
「おれはここに坐って、奇蹟を待つとしよう。もし奇蹟が出現しなかったら、その時は……」
 アリョーシャはもの思いに沈みながら、父のもとへ赴いた。
 
[#3字下げ]第六 スメルジャコフ[#「第六 スメルジャコフ」は中見出し]

 彼が入った時、父は本当に食卓に向っていた。食卓はいつものしきたりで、広間に据えられてあった。そのくせ、家の中には本当の食堂があったのである。これは家じゅうで一番大きな部屋で、見せかけだけ古代ものの家具が飾ってあった。椅子類は思いきって古びたもので、白い骨に古くなった赤い半絹が張ってある。窓と窓の間の壁には鏡が嵌め込んであったが、その縁は同様に白い木に金をちりばめ、古めかしい彫刻を施したけばけばしいものである。もうところどころ壁紙の裂けた白い壁の上には、二つの大きな額がところえ顔にかかっている、――一つは、三十年ばかり前この地方の総督をしていたさる公爵で、いま一つは、同じくだいぶ前にこの世を去った僧正であった。部屋の手前の隅には幾つかの聖像が安置されて、夜になるとその前に燈明がつくことになっていたが、それは信心のためというよりも、夜、部屋の中を明るくするためであった。
 フョードルは毎晩非常に遅く、夜明けの三時か四時に就寝して、それまで部屋の中を歩き廻ったり、肘椅子に腰をかけて考えごとをする。これがもう癖になってしまったのである。彼はよく召使を離れへさげてしまって、まったくの一人きりで母家へ寝ることがあったけれども、大抵は下男のスメルジャコフが夜々彼のそばに居残って、控え室の台の上で寝るのであった。
 アリョーシャが入った時、食事はすでに終って、ジャムとコーヒーが出ているところであった。フョードルは食事のあと