『ドストエーフスキイ全集 第13巻 カラマーゾフの兄弟下』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P240-P287

ころから帰って来た時には、部屋の中には誰もいなかったのである)、何者か腰をかけていた。それは一個の紳士であった、いや、一そう的確に言えば、ある特殊なロシヤのゼントルマンで、もうあまり若くない、フランス人の、いわゆる”pui frisait la cinquantaine“([#割り注]五十歳に近い人物[#割り注終わり])である。かなり長くてまだ相当に濃い黒い髪や、楔がたに刈り込んだ顎鬚には、あまり大して白髪も見えなかった。彼は褐色の背広風のものを着込んでいた。それも上手な仕立屋の手でできたものらしいが、もうだいぶくたびれた代物で、流行がすたってから、かれこれ三年くらいになるので、社交界のれっきとした人たちは、もはや二年も前から着なくなってしまっている。シャツも、ショールのような形をした長いネクタイも、みんな一流の紳士がつけるようなものではあったが、シャツは近くでよく見ると、だいぶ薄汚れているし、幅広のネクタイもよほど耗れていた。格子縞のズボンもきちんと落ちついていたが、これも今の流行にしては、やはり色合いが明かるすぎて、型が細すぎるから、今ではもうとっくに人がはかなくなっていた。白い毛のソフトも同様に、季節はずれなものだった。要するに、あまり懐ろのゆたかでない人が、みなりをきちんと整えている、といった恰好である。つまり、紳士は農奴制時代に栄えていた昔の白手《ホワイトハンド》、落魄した地主階級に属する人らしい様子であった。疑いもなく、かつては立派な上流社会にあって、れっきとした友達を持ち、今でも昔のままに、その関係を保っているかもしれないが、若い時の楽しい生活が終って、そのうち農奴制の撤廃にあって落魄するにしたがい、次第次第に善良な旧友の間を転々として歩く、一種のお上品な居候となりはてたのである。旧友がそうした人を自分の家へ入れるのは、当人のどこへでも落ちつきやすい、要領のよい性質を知っているからでもあり、またそういうきちんとした人は、むろん、下座ではあるが、どんな人の前にでも坐らせておけるからであった。そういう居候、すなわち要領のよい紳士は、面白い話をすることと、カルタの相手をすることが上手だけれど、もし人から用事など頼まれても、そんなことをするのは大嫌いなのである。彼らはふつう孤独な人間で、独身者かやもめである。時とすると、子供を持っているようなこともあるが、その子供はいつもどこか遠方の叔母さんか、誰かの家で養育されているにきまっている。紳士は、そういう叔母があることを、立派な社会ではおくびにも出さない。彼らはそういう親戚を持っているのを、いくぶん恥じてでもいるようである。そして、自分の子供から命名日や降誕祭などに、ときどき賀状をもらったり、またどうかすると、その返事を出したりしているうちに、いつとなくその子供を忘れてしまうのである。この思いがけない客の顔つきは、善良とは言えないまでも、やはり要領のいい顔で、あらゆる点から見て、いつでも、どんな愛嬌のある表情でもできそうな様子であった。時計は持っていなかったが、黒いリボンをつけた鼈甲縁の柄つき眼鏡をたずさえていた。右手の中指には、安物のオパールを入れた、大形の金指環がはめられていた。イヴァンは腹立たしげにおし黙って、話しかけようともしなかった。客は話しかけられるのを待っていた。ちょうど食客が上の居間から茶の席へ降りて来て、主人のお話相手をしようと思ったところ、主人が用事ありげなふうで、顔をしかめながら何やら考えているので、おとなしく黙っている、といったようなふうつきであった。が、もし主人のほうから口をききさえすれば、いつでもすぐに愛嬌のある話を始められそうであった。突然、彼の顔に何やら心配らしい色が浮んだ。
「ねえ、君」と彼はイヴァンに話しかけた。「こんなことを言ってははなはだ失礼だが、君はカチェリーナのことを聞くつもりで、スメルジャコフのところへ出かけて行ったくせに、あのひとのことは何も聞かずに帰って来たね。たぶん忘れたんだろう……」
「ああ、そうだった!」イヴァンは突然こう口走った。彼の顔は心配そうにさっと曇った。「そうだ、僕は忘れたんだ……だが、今ではもうどうでもいい、何もかも明日だ」と彼はひとりごとのように呟いた。「だが君」と彼はいらいらした語調で、客のほうに向って、「それは僕がいま思い出すべきはずだったんだ。なぜって、僕は今そのことで頭を悩まされてたんだからね。どうして君はおせっかいをするんだ? それじゃまるで、君が知らせてくれたので、僕が自分で思い出したんじゃない、というように、僕自身信じてしまいそうじゃないか!」
「じゃ、信じないがいいさ。」紳士は愛想よく笑った。「信仰を強要することはできないからね。それに、信仰の問題では証拠、ことに物的証拠なんか役にたちゃしないよ。トマスが信じたのは、よみがえったキリストを見たからじゃなくって、すでにその前から信じたいと思っていたからさ。早い話が、降神術者だがね……おれはあの先生方が大好きさ……考えてみたまえ、あの先生方は、悪魔があの世から自分たちに角を見せてくれるので、降神術は信仰のために有益なものだと思っている。『これは、あの世が実在しているという、いわゆる物的証拠じゃないか』と先生たちは言っている。あの世と物的証拠、何たる取り合せだろう! それはまあ、いいとしてさ、悪魔の実在が証明されたからって、神の実在が証明されるかね? 僕は理想主義者の仲間へ入れてもらいたい。そうすれば、その中で反対論を唱えてやるよ。『僕は現実主義者だが、唯物論者じゃないんだよ、へっ、へっ!』」
「おい、君」とイヴァンはふいにテーブルから立ちあがった。「僕は今まるでうなされてるような気がする……むろん、うなされてるんだ……まあ、かまわず勝手なことを喋るがいい! 君はこの前の時のように、僕を夢中に怒らすことはできまいよ。だが、何だか恥しいような気がする……僕は部屋の中を歩きたい……僕はこの前の時のように、おりおり君の顔が見えず、君の声が聞えなくなるけれど、君の喋ってることはみんなわかる。なぜって、それは僕だもの、喋っているのは僕自身で、君じゃないんだもの[#「それは僕だもの、喋っているのは僕自身で、君じゃないんだもの」に傍点]! ただわからないのは、このまえ君に会った時、僕は眠っていたか、それとも、さめながら君を見たかということなんだ。一つ冷たい水でタオルを濡らして頭へのせよう、そうしたら、おそらく君は消えてしまうだろう。」
 イヴァンは部屋の隅へ行って、タオルを持って来ると、言ったとおりに、濡れタオルをのせて、部屋の中をあちこち歩きだした。
「僕は、君が率直に『君、僕』で話してくれるのを嬉しく思うね」と客は話しだした。
「馬鹿。」イヴァンは笑いだした。「僕が君に『あなた』などと言ってたまるものか。僕はいま愉快だが、ただこめかみが痛い……額も痛い……だから、どうかこの前の時みたいに、哲学じみたことを喋らないでくれたまえ。もし引っ込んでいられなきゃ、何か面白いことを喋りたまえ、居候なら居候らしく、世間話でもしたほうがいいよ。本当に困った先生に取っつかれたものさ! だが、僕は君を恐れちゃいないぜ、いまに君を征服してみせる。瘋癲病院なんかへ連れて行かれる心配はないぞ!」
「居候は c'est charmant([#割り注]おもしろいもの[#割り注終わり])だよ。さよう、僕はありのままの姿をしている。この地上で僕が居候でなくて何だろう? それにしても、僕は君の言葉を聞いて少々驚いたね。まったくだよ、君はだんだん僕を実在のものと解釈して、このまえのように、君の空想と思わなくなったからね……」
「僕は一分間だって、お前を実在のものと思やしないよ。」イヴァンはほとんど猛然たる勢いで叫んだ。「お前は虚偽だ、お前は僕の病気だ、お前は幻だ。ただ僕には、どうしたらお前を滅ぼせるかわからない。どうもしばらくのあいだ苦しまなければなるまい。お前は僕の幻覚なんだ。お前は僕自身の化身だ、しかし、ただ僕の一面の化身……一番けがれた愚かしい僕の思想と感情の化身なんだ。だから、この点から言っても、もし僕にお前を相手にする暇さえあれば、お前は確かに僕にとって興味のあるものに相違ない……」
「失敬だがね、失敬だが、一つ君の矛盾を指摘さしてくれたまえ。君はさっき街灯のそばで、『お前はあいつから聞いたんだろう! あいつ[#「あいつ」に傍点]が僕のところへ来ることを、お前はどうして知ったんだ?』と言って、アリョーシャを呶鳴りつけたね。あれは僕のことを言ったんだろう。してみると、君はほんの一瞬間でも信じたんだ。僕の実在を信じたんじゃないか。」紳士は軽く笑った。
「ああ、あれは人間天性の弱点だよ……僕はお前を信ずることができなかった。僕はこのまえ眠っていたか覚めていたか、それさえ憶えていない。ことによったら、あの時お前を夢に見たので、うつつじゃないかもしれん……」
「だが、君はどうしてさっき、あんなにあの人を、アリョーシャをやっつけたんだね? あれは可愛い子だよ。僕は長老ゾシマのことで、アリョーシャに罪をつくったよ。」
「アリョーシャのことを言ってくれるな……下司のくせに何を生意気な!」イヴァンはまた笑いだした。
「君は呶鳴りながら笑ってるね、――これはいい徴候だ。今日はこの前よりだいぶご機嫌がいい。僕にはなぜだかわかっている、偉大なる決心をしたからだよ……」
「決心のことなんか言わないでくれ!」とイヴァンは猛然と呶鳴った。
「わかってる、わかってる、c'est noble, c'est charmant.([#割り注]それは立派なことだよ。それはいいことだよ[#割り注終わり])君はあす兄貴の弁護に出かけて行って自分を犠牲にするんだろう…… c'est chevaleresque ……([#割り注]それは義侠だよ[#割り注終わり])」
「黙れ、蹴飛ばすぞ!」
「それはいくぶん有難い、なぜって、蹴られれば僕の目的が達せられるからさ。蹴飛ばすというのは、つまり、君が僕の実在を信じている証拠だ。幻を蹴るものはないからね。冗談はさておき、僕はどんなに罵倒されても何とも思わないが、それにしても、いくら僕だからって、も少しは鄭重な言葉を使ってもよさそうなものだね。馬鹿だの、下司だのって、ちとひどすぎるね!」
「お前を罵るのは、自分を罵るんだ!」イヴァンはまた笑った。「お前は僕だ、ただ顔つきの違う僕自身だ。お前は僕の考えていることを言ってるんだ……少しも新しいことを僕に聞かすことができないんだ!」
「もし僕の思想が、君の思想と一致しているとすれば、それはただただ僕の名誉になるばかりだ」と紳士は慇懃な、しかも威をおびた調子で言った。
「お前はただ僕の穢らわしい思想、ことに馬鹿な思想ばかりとってるんだ。お前は馬鹿で、野卑だ。恐ろしい馬鹿だ。いや、僕は、たまらなくお前が厭だ! ああ、どうしたらいいんだ、どうしたらいいんだ!」とイヴァンは歯ぎしりした。
「ねえ、君、僕はやはりゼントルマンとして身を処し、ゼントルマンとして待遇されたいんだがね。」客は一種いかにも食客らしい、はじめから譲歩してかかっているような、人のいい野心を見せながら、言いはじめた。「僕は貧乏だが、しかし、非常に高潔だとは言うまい。が……世間では一般に僕のことを堕落した天使だというのを、原則のように見なしている。実際、僕は自分がいつ、どうして天使だったか思い出せない。よしまたそういう時があったとしても、もう忘れたって罪にならぬくらい昔のことなんだろう。で、今じゃ僕はただ身分ある紳士とりつ評判だけを尊重し、何でも成行きにまかせて、できるだけ愉快な人間になろうと努めているんだ。僕は心底から人間が好きだ、――ああ、僕はいろんな点で無実の罪をきせられているよ! 僕がときどきこの地上へ降りて来ると、僕の生活は何かしら一種の現実となって流れて行く。これが僕には何よりも嬉しいんだ。僕自身も君と同じく、やはり幻想的なものに苦しめられているので、それだけこの地上の現実を愛している。この地上では、すべてが輪郭を持っており、すべてに法式があり、すべてが幾何学的だ。ところが、僕らのほうでは、一種漠然とした方程式のほか何もないんだ。で、僕はこの地上を歩きながら、空想している。僕は空想するのが好きなんだ。それに、この地上では迷信ぶかくなる、――どうか笑わないでくれたまえ。僕はつまり、この迷信ぶかくなるのが好きなんだ。僕はここで、君らのあらゆる習慣にしたがっている。僕は町のお湯屋に行くことが好きになってね、君は本当にしないだろうが、商人や坊さんなどと一緒に、湯気に蒸されるんだよ。僕の夢想してるのは、七フードもあるでぶでぶ肥った商家の内儀に化けることだ、――しかも、すっかり二度ともとへ戻らないようになりきって、そういう女が信じるものを残らず信じたいんだ。僕の理想は会堂へ入って、純真な心持でお蝋燭を供えることだ、まったくだよ。その時こそ、僕の苦痛は終りを告げるのだ。それから、やはり君らと一緒に、医者にかかることも好きだね。この春、天然痘が流行った時、養育院へ出かけて行って、種痘をうえてもらった。その日、僕はどんなに満足だったかしれない。お仲間のスラヴ民族たちの運動に、十ルーブリ寄付したくらいだよ……だが、君は聞いていないんだね。え、君、君は今日どうもぼんやりしてるよ。」紳士はしばらく口をつぐんだ。「僕はね、きのう君があの医者のところへ行ったことを知ってるよ……どうだね、君の健康は? 医者は君に何と言ったね?」
「馬鹿!」とイヴァンは一刀両断にこう言った。
「だが、その代り、君はお利口なことだよ。君はまた呶鳴るんだね? 僕はべつに同情を表したわけじゃないんだから、答えなけりゃ答えなくたっていい。この頃はまたレウマチスが起ってね……」
「馬鹿!」とイヴァンはふたたび繰り返した。
「君はしじゅう同じことばかり言ってるが、僕は去年ひどいレウマチスにかかってね、いまだに思い出すよ。」
「悪魔でもレウマチスになるかな?」
「僕はときどき人間の姿になるんだもの。レウマチスぐらいにはかかるさ。人間の肉を着る以上、その結果も頂戴するのは仕方があるまいて。Satan sum et nihil humanum a me alienum puto.([#割り注]わたしは悪魔だから一切人間的なものはわたしにとって縁があるのだ―ラテン語[#割り注終わり])」
「なに、なに? Satan sum et nihil humanum だって……これは悪魔の言葉としちゃ気がきいてるな?」
「やっと御意に召して嬉しいよ。」
「だが、お前その言葉は僕から取ったものじゃないな。」イヴァンはびっくりしたように、急に開き直った。「僕はそんなことを一度も考えたことはないんだが。不思議だなあ……」
「C'est du nouveau, n'est-ce pas?([#割り注]これは新しいものさ。そうじゃないか?[#割り注終わり])」こうなりゃいっそのこと、いさぎよく綺麗に君に打ち明けてしまおう。一たいねえ、君、胃の不消化や何やらで夢を見ている時や、ことにうなされている時など、人間はどうかすると非常に芸術的な夢や、非常に複雑な現実や、事件や、あるいは筋の通った一貫した物語などを、最も高尚な現象からチョッキのボタンの果てにいたるまで、びっくりするほどこまごまと見ることがあるものだ。まったくのところ、レフ・トルストイでも、これほど細かくは書けまいと思うくらいにね。しかも、どうかすると、文士じゃなくって、きわめて平凡な人、――役人や、雑報記者や、坊さんなどが、そういう夢を見ることがあるもんだよ……これについては、大きな問題があるんだ。ある大臣が僕に自白したことだがね、何でも彼の立派な思想は、ことごとく眠っている時に思いつくんだってさ。現に今だって、やはりそうだよ。僕は君の幻覚なんだけれど、ちょうどうなされている時みたいに、僕の言うことはなかなか独創的だろう。こんなのは、今まで考えたこともあるまい。だから、僕は決して、君の思想を反復してるんじゃないよ。しかも、僕はやはり君の悪夢にすぎないんだ。」
「嘘をつけ。お前の目的は、お前が独立の存在で、決して僕の悪夢じゃないってことを、僕に信じさせるにあるんだ。だから、今お前は僕の夢だなどと言ってるんだ。」
「ねえ、君、きょう僕は特別の研究方法を持って来たんだ。あとで君に説明してあげよう。待ちたまえ、僕はどこまで話したかしら? そうだ、僕はそのとき風邪を引いたんだよ。ただし、君らのところじゃない、あそこで……」
「あそこって、どこだ? え、おい、お前は僕のところに長くいるつもりかね? 帰るわけにゆかないのかね?」とイヴァンはほとんど絶望したように叫んだ。
 彼は歩きやめて、長椅子に腰をおろし、ふたたびテーブルに肱をついて、両手でしっかりと頭を抑えた。彼は頭から濡れタオルを取って、いまいましそうに抛り出した。タオルは何の役にも立たなかったものと見える。
「君の神経は破壊されてるんだ」と紳士はうちとけた口調で、無造作に言った。が、その様子はいかにも親しそうであった。「君は、僕でも風邪を引くことがあるといって怒っているが、しかしそれはきわめて自然な出来事なんだからね。何でも、大急ぎである外交官の夜会へ出かけたと思いたまえ。それは、つねづね大臣夫人になりたがっているペテルブルグの上流の貴婦人が催した夜会だがね、そこで、僕は燕尾服に白いネクタイと手袋をつけたが、その時はまだとんでもないところにいたんだからね。君らのこの地上へおりて来るには、まだ広い空間を飛ばなけりゃならなかったのさ……むろん、それもほんの一瞬間に飛べるんだが、なにしろ太陽の光線でさえ八分間かかるのに、考えてみたまえ、僕は燕尾服と胸の開いたチョッキを着てるんだろう。霊体というものは凍えないけれど、人間の肉を着た以上はどうも……つまり、僕は軽はずみに出かけたんだ。ところが、この空間のエーテル、つまり、この天地の間を充たしている水の中は、途方もなく寒かったんだ……その寒さと言ったら、――もう寒いなどという言葉では現わせないねえ。考えてもみたまえ、氷点下百五十度だぜ! ねえ、田舎の娘どもはよくこんないたずらをするだろう、零下三十度の寒さの時、馴れないやつに斧を甜めさせるんだ。すると、たちまち舌が凍りつくので、馬鹿め、舌の皮を剥がして血みどろになってしまう。しかも、これは僅か三十度の話さ。ところが、百五十度となってみたまえ、斧に指がくっつくが早いか、さっそく、ちぎれてしまうだろうと思うよ、ただし……そこに斧があればだがね……」
「でも、そんなところに斧があるだろうか?」イヴァンはぼんやりと、しかも忌わしそうな調子で、突然、こう口をはさんだ。
 彼は全力を挙げて、自分の悪夢を信じないように、気ちがいにならないように抵抗していた。
「斧が?」と客はびっくりして問い返した。
「そうさ、一たいそんなところで斧がどうなるんだろう?」イヴァンはいきなり、狂猛な調子で、執念く、むきになって叫んだ、
「空間では斧がどうなるかって? 〔Quelle ide' e! 〕([#割り注]何という考えだろう![#割り注終わり])もしずっと遠くのほうへ行けば、衛星のように何のためとも知らず、地球のまわりを廻転しはじめるだろうと思うね。天文学者たちは、斧の出没を計算するだろうし、ガッツークはそれを暦の中へ書き込むだろうよ。それだけだよ。」
「お前は馬鹿だ、恐ろしい馬鹿だ!」とイヴァンは反抗的に言った。「嘘をつくなら、もっとうまくやれ。でないと、もう僕は聞かんぞ。お前は僕を実在論で説破して、お前の実在を僕に信じさせるつもりなんだろう。だが、僕はお前の存在を信じたくない! 僕は信じやしない!」
「いや、僕は嘘を言ってやしない。みんな本当なんだ。遺憾ながら、真実はほとんどすべての場合、平凡なものだからね。君ほどうも僕から何か偉大なもの、もしくは美しいものを期待しているらしい。どうもお気の毒さま。だって、僕は、自分の力のおよぶだけのものしか、君にさしあげられないから……」
「馬鹿、哲学じみたことを喋らないでくれ!」
「どうして、哲学どころじゃないんだよ。僕は体の右側がすっかりきかなくなっちまって、うんうん唸りだすという騒ぎだ。医者という医者にすっかりかかってみたがね、立派に診察して、まるで掌《たなごころ》を指すがごとくに、症状を残らず話して聞かせるが、どうも癒すことができないんだ。ちょうどそこに、一人の若い感激家の学生がいて、『たとえあなたはお死にになっても、自分がどんな病気で死んだか、すっかりおわかりになるわけですからね!』と言ったもんだ。それに、例の彼らの癖として、すぐ専門家へ患者を送ってしまうのだ。曰く、われわれは診察だけしてあげるから、しかじかの専門家のところへ行くがいい、その人が病気を癒してくれるから、とこう言うじゃないか。なにしろ、今ではどんな病気でも癒すような、そんな旧式な医者はなくなってしまって、ただ専門家だけがいつも新聞に広告してるんだ。もし鼻の病気にかかるとすると、パリヘ行けと言われる。そこへ行けば、ヨーロッパの鼻科専門の医者が癒してくれるというので、パリヘ出かけて行くと、その専門医は鼻を診察して、私はあなたの右の鼻孔だけしか癒せない、左の鼻孔は私の専門外だから、ウィーンへおいでなさい。そこには左の鼻孔を癒してくれる特別な専門医がありますよ、とこうくる。どうも仕方がないから、一つ家伝療治でもやってみることにしたよ、あるドイツ人の医者が、お湯屋の棚へ上って、塩をまぜた蜂蜜で体を拭けばいいと勧めたので、一ど余分に風呂へ入ったつもりで、お湯屋へ行って体じゅうを塗りたくってみたが、何の役にも立たなかったよ。がっかりして、ミランのマッティ伯爵に手紙を出してみると、伯爵は一冊の書物と水薬を送ってよこしたがね、やはり駄目さ。ところが、どうだろう、ホップの麦芽精でなおっちまったじゃないか! 偶然に買い込んだやつを一瓶半も飲むと、立派に癒ってしまったんだ。ぜひ『有難う』を新聞にのせようと決めた。感謝の念が勵いてやまないんだ。ところが、どうだろう、またぞろ厄介なことが起きてきた。どこの編集局でも受けつけてくれないじゃないか。『どうもあまり保守的じゃありませんか。だれが本当にするものですか、le diable n'existe point.([#割り注]悪魔がいるなんて[#割り注終わり])』と言って、『匿名でお出しになったほうがいいでしょう』と勧めるのさ。だが、匿名じゃ『有難う』も何もあるものかね。僕は事務員たちにそう言って、笑ってやった。『いまどき神様を信ずるのは保守的だろうが、僕は悪魔だから、僕なら信じられるはずじゃないか。』『まったくそうですね』と彼らは言うのだ。『誰だって悪魔を信じないものはありません。だが、それでもやはりいけません。根本主張を害しますからな。冗談という体裁ならいいですが。』だが、考えてみると、冗談としちゃ、あまり気がきいた話じゃない。こういうわけで、とうとう掲載してくれなかったよ。君は本当にしないかもしれんが、今でも僕はそのことが胸につかえているのだ! 僕の最も立派な感情、――例えば、感謝の念さえも、単に僕の社会的境遇によって、表面的に拒絶されるんだからね。」
「また哲学を始めたな?」とイヴァンはにくにくしげに歯ぎしりした。
「とんでもないことを。しかし、時によると、ちっとは不平を言わずにゃいられないよ。僕は無実の罪をきせられた人間だからね。第一、君でさえ、しょっちゅう僕をばかばかと言ってるじゃないか。まったく君がまだお若いってことがすぐわかるよ。君、ものごとは知恵ばかりじゃゆかない! 僕は生れつき親切で、快活な心の持ち主なんだ。『私もやはりいろんな喜劇を作ります([#割り注]ゴーゴリの喜劇『検察官』の主人公フレスタコーフの台詞[#割り注終わり])。』君は僕をまるで老いぼれたフレスタコーフだと思っているらしいね。だが、僕の運命はずっと真剣なんだ。僕はとうてい自分でもわからない一種の宿命によって『否定』するように命ぜられてる。ところが、僕は本来好人物で、否定はしごく不得手なんだ。『いや、否定しろ、否定がなければ批評もなくなるだろう。〈批評欄〉がなければ雑誌も存在できない。批判がなければ〈ホザナ〉ばかりになってしまう。ところが、〈ホザナ〉ばかりじゃ人生は十分でない。この〈ホザナ〉が懐疑の鎔炉を通らなけりゃならない』といったようなわけなんだよ。けれど、僕はそんなことにおせっかいはしない。僕が作ったんじゃなし、僕に責任はないんだ。贖罪山羊《みがわりやぎ》を持って来て、それに批評欄を書かせると、それで人生ができるのだ。われわれはこの喜劇がよくわかっている。例えば、僕は率直に自分の滅亡を要求してるんだが、世間のやつらは、いや、生きておれ、君がいなくなれば、すべてがなくなる。もしこの世のすべてが円満完全だったら、何一つ起りゃしまい、君がいなけりゃ出来事は少しもあるまい、しかも出来事がなくちゃ困る、とこう言うんだ。で、僕はいやいや歯を食いしばりながら、出来事をつくるため、注文によって不合理なことをやってるんだ。ところで、人間は、そのすぐれた知力にもかかわらず、この喜劇を何か真面目なことのように思い込んでる。これが人間の悲劇なのさ。そりゃむろん、苦しんでいる。けれども……その代り、彼らは生きている、空想的でなしに、現実的に生活している。なぜなら、苦痛こそ生活だからね。苦痛がなければ、人生に何の快楽があるものか、すべてが一種無限の祈祷に化してしまう。すべては神聖だが、少し退屈だ。ところが、僕はどうだ? 僕は苦しんでいるが、しかし生活しちゃいない。僕は不定方程式におけるエッキスだ。僕は一切の初めもなく、終りをも失った人生の幻影の一種だ。自分の名前さえ忘れてしまってるんだよ。君は笑ってるね……いや、笑ってるんじゃなくって、また怒ってるんだろう、君はいつでも怒ってるからな。君はしじゅう賢くなろうと骨折ってるが、僕は繰り返して言う、星の上の生活や、すべての位階や、すべての名誉を捨ててしまって、七プードもある商家のかみさんの体に宿って、神様にお蝋燭を捧げてみたいと思うね。」
「だって、お前は神を信じないのじゃないか?」とイヴァンはにくにくしげに、にやりと笑った。
「何と言ったらいいかなあ、君がもし真面目なら……」
「神はあるのかないのか?」とイヴァンはまた執念く勢い猛に叫んだ。
「じゃ、君は真面目なんだね? だがねえ、君、まったく僕は知らないんだよ、これは真っ正直な話だ!」
「知らなくっても、神を見だろう? いや、お前は実在のものじゃなかった。お前は僕自身なんだ。お前は僕だ、それだけのものだ! お前はやくざ者だ、お前は僕の空想なんだ!」
「もしお望みなら、僕も君と同じ哲学を奉じてもいいさ。それが一ばん公平だろう。Je pense, done je suis.([#割り注]われ考う、ゆえにわれ在り[#割り注終わり])これは僕も確かに知っている。が、僕の周囲にあるその他のすべては、つまり、この世界全体も、神も、サタンさえも、――こういうものが、みんなはたして実在しているか、それとも単に僕自身の発散物で、無限の過去からただひとり存在している『自我』の漸次発展したものかということは、僕に証明されていない……だが、僕は急いで切り上げるよ。なぜって、君はすぐに飛びあがって、掴みかかりそうだからね。」
「お前、何か滑稽な逸話でも話したらいいだろう!」とイヴァンは病的な調子で言った。
「逸話なら、ちょうどわれわれの問題にあてはまるやつがあるよ。いや、逸話というより伝説だね。君は『見ているくせに信じない』と言って、僕の不信を責めるがね、君、それは僕一人じゃないよ。僕らの仲間は今みんな苦しんでいる。それというのも、みんな君らの科学のためなんだ。まだ、アトムや、五感や、四大などの時代には、どうかこうか纒っていた。古代にもアトムはあったのだからね。ところが、君らが『化学的分子』だとか、『原形質《プロトプラズム》』だとか、その他さまざまなものを発見したことがわかると、僕らはすっかり尻尾を巻いてしまった。ただもうめちゃくちゃが始まったんだ。何よりいけないのは、迷信だ、愚にもつかん風説なんだ。そんな噂話は、君らの間でもわれわれの間でも同じだ、いや、少し多いくらいだよ。密告も同じことで、僕らのところには、ある種の『報告』を受けつける役所さえあるくらいだ。そこで、この不合理な物語というのは、わが中世紀のもので、――君らのじゃなくって、われわれの中世紀だよ、――七プードもある商家のかみさんのほか、誰一人として信じる者がないくらいだ。ただし、これもやはり人間界のかみさんじゃなくって、われわれのかみさんだがね。ところで、君らの世界にあるものは、みんなわれわれの世界にもあるんだよ。これは禁じられているんだけれど、君一人にだけ、友達のよしみで秘密を打ち明けるんだ。その物語というのは天国に関することで、何でもこの地上に、一人の深遠な思想を持った哲学者がいたそうだ。彼は『法律も、良心も、信仰も一切否定した』が、とりわけ未来の生活を否定したのさ。ところが、やがて死んだ。彼はすぐ、闇黒と死へ赴くものと思っていたのに、どっこい、目の前に突如として、未来の生活が現われた。彼はびっくりもし憤慨もした。『これは、おれの信念に矛盾している』と言ったものだ。これがために彼は裁判されて……ねえ、君、咎めないでくれ、僕はただ自分で聞いたことを話してるだけなんだから。つまり、伝説にすぎないのさ……ところで、裁判の結果、暗闇の中を千兆キロメートル(僕らの世界でも、今じゃキロメートルを使っているからね)歩いて行くように宣告された。この千兆キロメートルの暗闇を通り抜けてしまうと、天国の門が開かれて、すべての罪が赦されるというわけなんだ……」
「だが、その君らの世界では、千兆キロメートルの闇のほかに、どんな拷問があるんだね?」イヴァンは異様に活気づきながら遮った。
「どんな拷問だって? ああ、それを訊かないでくれたまえ。以前はまあ、何やかやあったが、今じゃだんだん道徳的なやつ、いわゆる『良心の呵責』といったような、馬鹿げたことがはやりだした。これもやはり君らの世界から、『君らの人心の軟化』から来たことなんだ。だから、とくをしたのは、ただ良心のないものだけだ。なぜって、良心が全然ないんだもの、良心の呵責ぐらい何でもないじゃないか。その代り、まだ良心と名誉の観念をもっている、れっきとしたものは苦しんだね……実際、まだ準備されていない地盤に、よその制度からまる写しにした改革なんか加えるのは、ただ害毒を流すほか何の益もあるもんじゃない! 昔の火あぶりのほうが、かえっていいくらいだ。まあ、そこで千兆キロメートルの暗闇を宣告された例の先生は、突っ立ったまま、しばらくあたりを見まわしていたが、やがて路の真ん中にごろりと横になって、『おれは歩きたくない。主義として行かない!』と言ったものだ。かりにロシヤの教養ある無神論者の魂と、鯨の腹の中で三日三晩すねていた予言者ヨナの魂を混ぜ合せると、――ちょうど、この路ばたへ横になった思想家の性格ができあがる。」
「一たい、何の上へ横になったんだろう?」
「たぶん何かのっかるものがあったんだろう。君は冷やかしてるんじゃないかね?」
「えらいやつだ!」イヴァンは依然として、異様に興奮しながら叫んだ。彼は今ある思いがけない好奇心を感じながら聞いていた。「じゃ、何かい、今でも横になってるのかね?」
「ところが、そうでないんだ。ほとんど千年ばかり横になっていたが、その後、起きあがって歩きだした。」
「何という馬鹿だ!」イヴァンは神経的にからからと笑って、こう叫んだが、何か一心に考えているようなふうであった。「永久に横になっているのも、千兆キロメートル歩くのも同じことじゃないか? だって、それは百万年も歩かなくちゃならないだろう?」
「もっとずっと永くかかるよ。あいにく鉛筆もないけれど、勘定してみればわかるよ。だが、その男はもうとっくに着いたんだ。そこで話が始まるのさ。」
「なに、着いたって? どこから百万年なんて年を取って来たんだ?」
「君はやはりこの地球のことを考えてるんだね! だが、この地球は、百万度も繰り返されたものかもしれないじゃないか。地球の年限が切れると、凍って、ひびが入って、粉微塵に砕けて、こまかい構成要素に分解して、それからまた水が黒暗淵《やみわだ》を蔽い、次にまた彗星が生じ、太陽が生じ、太陽から地球が生ずるのだ、――この順序は、もう無限に繰り返されているかもしれない。そして、すべてが以前と一点一画も違わないんだ。とても不都合な我慢のならん退屈な話さ……」
「よしよし、行き着いてから、どうなったんだね?」
天国の門が開かれて、彼がその中へ踏み込むやいなや、まだ二秒とたたないうちに、――これは時計で言うんだよ、時計で(もっとも、彼の時計は、僕の考えるところでは、旅行中にかくしの中で、もとの要素に分解しているはずだが)、――彼はこの僅か二秒の間に、千兆キロメートルどころか、千兆キロメートルを千兆倍にして、さらにもう千兆倍ぐらいも進めたほど歩けると叫んだ。一口に言えば、彼は『ホザナ』を歌ったんだ。しかも、その薬がききすぎたんだ。それで、そこにいる比較的高尚な思想をもった人たちは、最初のうち、彼と握手をすることさえいさぎよしとしなかったくらいだ。あんまり性急に保守主義に飛び込んでしまった、というわけでね。いかにもロシヤ人らしいじゃないか。繰り返して言うが、これは伝説なんだよ。僕はただ元値で卸すだけのこった。僕らのほうじゃ、今でもまだこうした事柄について、こういう考え方を持っているんだよ。」
「やっとお前の正体を掴まえたぞ!」何やらはっきり思い出すことができたらしく、いかにも子供らしい喜びの声で、イヴァンはこう叫んだ。「この千兆年の逸話は、それは僕が自分で作ったんだ! 僕はその時分、十七で中学に通っていた……僕はその時分、この逸話を作って、コローフキンという一人の友達に話した。これはモスクワであったことだ……この逸話は、非常に僕自身の特徴を出しているもので、どこからも種を取って来ることができないくらいだ。僕はすっかり忘れてしまっていたが……いま無意識に頭へ浮んできた、――まったく僕自身が思い出したので、お前が話したんじゃない! 人間はどうかすると、無数の事件を無意識に思い出すことがある。刑場へ引かれて行く時でさえそうだ……夢で思い出すこともある。お前はつまり、この夢だ! お前は夢だ、実在してなんかいやしない!」
「君がむきになって、僕を否定するところから考えると、」紳士は笑った。「君はまだ確かに僕を信じてるに相違ないな。」
「ちっとも信じちゃいない! 百分の一も信じちゃいない!」
「でも、千分の一くらいは信じてるんだ。薬も少量ですむやつが、一ばん強いものだからね。白状したまえ、君は信じてるだろう、たとえ万分の一でも……」
「一分間も信じやしない。」イヴァンは猛然としてこう叫んだ。「だが、信じたいとは思っている!」と彼はとつぜん異様につけたした。
「へっ! でも、とうとう白状したね! だが、僕は好人物だからね、今度もまた君を助けてあげるよ。ねえ、君、これは僕が君の正体を掴まえた証拠で、君が僕を掴まえたんじゃない! 僕はわざと君の作った逸話を、――君がもう忘れていた逸話を君に話したんだ。君がすっかり僕を信じなくなるようにね。」
「嘘をつけ! お前が現われた目的は、お前の実在を僕に信じさせるためなのだ。」
「確かにそうだ! だが、動揺、不安、信と不信の戦い、――これらは良心のある人間にとって、例えば、君のような人間にとって、どうかすると、首を縊ったほうがましだと思われるほど、苦痛を与えることがあるものだ。僕はね、君がいくらか僕を信じていることを知ったので、この逸話を話して、君に不信をつぎ込んだんだよ。君を信と不信の間に彷徨させる、そこに僕の目的があるんだ。新しい方法《メソード》だよ。君は僕をすっかり信じたくなったかと思うと、すぐまた、僕が夢でなくって実在だということを信じはじめるのだ。ちゃんとわかっているよ。そこで僕は目的を達するんだ。だが、僕の目的は高潔なものだ。僕は君の心にきわめて小さい信仰の種を投げ込む。と、その種から一本の樫の木が芽生えるが、その樫といったら大変なもので、君はその上に坐っていると、『曠野に行いすましている神父や清浄な尼たち』の仲間入りをしたくなるほどの大きさなんだ。なにしろ、君は内心大いに、曠野に隠遁して、蝗を食いたがっているからね!」
「悪党め、じゃ、お前は僕の魂を救おうと思って骨折ってるのか?」
「時にはいいこともしなければならんじゃないか。君は怒っているね。どうやら君は怒っているようだね!」
「道化者! だが、お前はいつかその蝗を食ったり、十七年も、苔の生えるまで、曠野で祈ったりした聖者を、誘惑したことがあるだろう?」
「君、そればかり仕事にしていたんだよ。宇宙万物も忘れて、そんな聖者ひとりに拘泥していたくらいだよ。なぜなら、聖者というものは、非常に高価なダイヤモンドだからね。こういう一人の人間は、時によると、一つの星座ほどの値うちがあるよ、――われわれの世界には特殊な数学があってね、――そんな勝利は高価なものだよ! だが、彼らの中のあるものはね、君は信じないかもしれないが、まったく発達の程度が君にも劣らないくらいだ。彼らは信と不信の深淵を同時に見ることができる。時によると、俳優のゴルブノーフのいわゆる、『真っ逆さま』に飛び込むというような心境と、まったく髪の毛一筋で隔てられるようなことがあるからね。」
「で、お前どうだね、鼻をぶら下げて帰ったかね?([#割り注]失敗してしょげることを言う[#割り注終わり])」
「君」と客はものものしい調子で言った。「そりゃ何といっても、まるで鼻を持たずに帰るより、やはり鼻をぶら下げて引きさがったほうがいいこともあるよ。ある病気にかかっている(これもいずれ、きっと専門家が治療するに相違ない)侯爵が、つい近頃、ゼスイット派の神父に懺悔する時に言ったとおりさ。僕もそこに居合せたが、実に面白かったよ。『どうか私の鼻を返して下さい!』と言って、侯爵が自分の胸を打つ。すると、『わが子よ、何事も神様の測るべからざる摂理によって行われるので、時には大なる不幸も、目にこそ見えないけれど、非常に大きな益をもたらすことがあるものじゃ。たとえ苛酷な運命があなたの鼻を奪ったとしても、もう一生涯、ひとりとしてあなたのことを、鼻をぶら下げて引きさがった、などと言うことはできない、その点にあなたの利があるわけですじゃ』と神父はうまく逃げてしまう、『長老、それは慰めになりません!』と侯爵は絶望して叫ぶ。『私は、自分の鼻があるべきところにありさえすれば、一生涯のあいだ、毎日鼻をぶら下げて引きさがっても、喜んでいますよ。』『わが子よ、あらゆる幸福を一時に求めることはできません。それはつまり、こんな場合にすら、あなたのことを忘れたまわぬ神様を怨むことにあたりますでな。なぜかと言えば、もしあなたが、今おっしゃったように、鼻さえあれば、一生涯鼻をぶら下げて引きさがっても、喜んで暮すおつもりならば、あなたの希望は、現在もう間接に満たされておるわけですじゃ。というわけは、あなたは鼻をなくしたために、一生鼻をぶら下げて引きさがるような形になりますでな』と言って、神父はため息をつくじゃないか。」
「ふっ! 何というばかばかしい話だ!」とイヴァンは叫んだ。
「いや、君、これはただ君を笑わせたいばかりに話したことさ。が、これはまったくゼスイットの詭弁だよ。しかも、まったく一句たがわず、いま君に話したとおりなんだ。つい近頃の出来事で、ずいぶん僕に面倒をかけたものだ。この不仕合せな青年は家へ帰ると、その夜のうちに自殺してしまった。僕は最後の瞬間まで、そのそばを離れなかったよ……このゼスイットの懺悔堂は、まったく僕の気のふさいでいる時なんか、何より面白い憂さばらしなんだ。そこでもう一つの事件を君に話そう。これこそ、つい二三日前の話なんだ。二十歳になるブロンドのノルマン女、――器量なら、体つきなら、気だてなら、――実に涎が流れるほどの女だがね、それが年とった神父のところへ行ったんだ。女は体をかがめて、隙間ごしに神父に自分の罪を囁くのだ。『わが子よ、どうしたのだ。一たい、また罪を犯したのか?………』と神父は叫んだ。『ああ、聖母《サンタマリヤ》さま、とんでもない! 今度はあの人ではございません。』『だが、いつまでそんなことがつづくのだろう、そしてお前さんはよくまあ、恥しくないことだのう!』『〔Ah, mon pe're〕([#割り注]ああ神父さま[#割り注終わり])』罪ふかい女は懺悔の涙を流しながら答える。『〔C,a lui fait tant ee plaisir et a` moi si peu de peine!〕([#割り注]あの人は大そう楽しみましたし、わたしも苦しくはなかったのですもの![#割り注終わり])』まあ、一つこういう答えを想像してみたまえ! そこで、僕も唖然として引きさがった。これは天性そのものの叫びだからね。これは、君、清浄無垢よりもまさっているくらいだよ。僕はその場ですぐ彼女の罪を赦し、踵を転じて立ち去ろうとしたが、すぐにまたあと戻りをせずにいられなかった。聞くとね、神父は格子ごしに、女に今晩の密会を約束しているじゃないか、――実際、燧石のように堅い老人なんだが、こうして、見るまに堕落してしまったんだね。天性が、天性の真理が勝利を占めたんだ! どうしたんだ、君はまた鼻を横っちょへ向けて、怒ってるじゃないか? 一たいどうすれば君の気に入るのか、もうまるでわけがわからない……」
「僕にかまわないでくれ。お前は僕の頭の中を、執念ぶかい悪夢のように敲き通すのだ」と、イヴァンは病的に呻いた。彼は自分の幻影に対して、ぜんぜん無力なのであった。「僕は、お前と一緒にいるのが退屈だ。たまらなく苦しい! 僕は、お前を追っ払うことができさえすれば、どんなことでもいとわないんだがなあ!」
「繰り返して言うが、君は自分の要求を加減しなけりゃいけないよ。僕から何か『偉大なるもの、美しきもの』を要求しては困る。なに、見たまえ、僕と君とは、お互いに親密に暮してゆけるからね」と紳士はさとすように言った。「まったく、君は僕が焔の翼をつけ、『雷のごとくはためき、太陽のごとく真紅に光り輝きながら』君の前に現われないで、こんなつつましやかな様子で出て来たのに、腹を立てているんだろう。第一に、君の審美感が侮辱され、第二に、君の誇りが傷つけられたんだ。自分のようなこんな偉大な人間のところへ、どうしてこんな卑しい悪魔がやって来たんだろう、というわけでね。実際、君の中には、すでにベリンスキイに嘲笑された、あのロマンチックな気分が流れているんだ。現に僕は、さっき君のところへ来る時に、冗談半分、コーカサスで勤めている四等官のふうをして、燕尾服をつけ、獅子と太陽の勲章([#割り注]ペルシャの勲章[#割り注終わり])をつけて現われようかとも思ったが、せめて北極星章か、あるいはシリウス章くらいならまだしも、獅子と太陽なんか燕尾服につけて来たというので、君が殴りはしないかと危ぶんだのだ。君はしきりに僕を馬鹿だと言うね。だが、僕は知力の点においては、君と同一視されたいなどと、そんなとんでもない大それた野心は持っていないよ。メフィストフェレスファウストの前に現われて、自分は悪を望んでいながら、その実いいことばかりしていると、自己証明をしたね。ところが、あいつは何と言おうと勝手だが、僕はまったく反対だよ。僕はこの世界において真理を愛し、心から善を望んでいる唯一人かもしれない。僕は、十字架の上で死んだ神の言《ことば》なる人が、右側に磔けられた盗賊の霊を自分の胸に抱いて天へ昇った時、『ホザナ』を歌う小天使の嬉しそうな叫び声と、天地を震わせる雷霆のごとき大天使の歓喜の叫喚を聞いた。そのとき僕は、ありとあらゆる神聖なものにかけて誓うがね、実際、自分もこの讃美者の仲間に入って、みなと一緒に『ホザナ』を歌いたかったよ! すんでのことに、讃美の歌が僕の胸から飛び出そうとした……僕は、君も知ってのとおり、非常に多感で、芸術的に敏感だからね。ところが、常識が、――ああ、僕の性格の中で最も不幸な特質たる常識が、――僕を義務の限界の中に閉じ籠めてしまった。こうして僕は、機会を逸したわけだ! なぜなら、僕はその時、『おれがホザナを歌ったら、どんなことになるだろう? すべてのものはたちまち消滅してしまって、何一つ出来事が起らなくなるだろう』とこう考えたからだ。で、僕はただただおのれの本分と、社会的境遇のために、自分の心に生じたこの好機を圧伏して、不潔な仕事をつづけるべく余儀なくされたのだ。誰かが善の名誉を残らず独占して、僕の分けまえにはただ不潔な仕事だけ残されてるのさ。けれど、僕は詐欺的生活の名誉を嫉むものじゃない。僕は虚栄を好かないからね。宇宙におけるあらゆる存在物の中で、なぜ、僕ばかりが身分のあるすべての紳士から呪われたり、靴で蹴られたりするような運命を背負ってるんだろう? だって、人間の体にはいった以上、時にはこういう結果にも出くわさなければならないからね。僕はむろん、そこにある秘密の存することを知っている。けれど、人はどうしてもその秘密を僕に明かそうとしない。なぜかと言えば、僕が秘密の真相を悟って、いきなり『ホザナ』を歌いだしてみたまえ、それこそたちまち大切なマイナスが消えてしまって、全宇宙に叡知が生ずる、それと同時に、一切は終りを告げて、新聞や雑誌さえ廃刊になるだろう。だって、そうなりゃ、誰が新聞や雑誌を購読するものかね、だが、僕は結局あきらめて、自分の千兆キロメートルを歩いて、その秘密を知るよりほか仕方がないだろうよ。しかし、それまでは僕も白眼で世を睨むつもりだ、歯を食いしばって、自分の使命をはたすつもりだ、一人を救うために数千人を亡ぼすつもりだ。むかし一人の義人ヨブを得るために、どれだけの人を殺し、どれだけ立派な人の評判を台なしにしなけりゃならなかったろう! おかげで、僕はずいぶんさんざんな目にあったよ。そうだ、秘密が明かされないうちは、僕にとって二つの真実があるんだ。一つはまだ少しもわかっていないが、あの世の人々の真実で、それからもう一つは僕自身の真実だ。しかし、どっちがよけい純なものか、そいつはまだわからない……君は眠ったのかね?」
「あたりまえよ」とイヴァンは腹だたしそうに唸った。「僕の天性の中にある一切の馬鹿げたものや、もうとっくに生命を失ったものや、僕の知恵で咀嚼しつくされたものや、腐れ肉のように投げ捨てられたものを、お前はまるで何か珍しいもののように、今さららしくすすめてるんだ!」
「またしくじったね! 僕は文学的な文句で君を惑わそうと思ったんだがね。この天上の『ホザナ』は、実際のところ、まんざらでもなかったろう? それから、今のハイネ風な諷刺的な調子もね、そうじゃないか?」
「いいや、僕は一度も、そんな卑劣な下司になったことはない! どうして僕の魂が貴様のようなそんな下司を生むものか!」
「君、僕はある一人の実に可愛い、実に立派なロシヤの貴族の息子を知っているがね、若い思想家で、文学美術の人の愛好家で、『大審問官』と題する立派な詩の作者だ……僕はただこの男一人のことを頭においてたんだ!」
「『大審問官』のことなんか口にすることはならん。」イヴァンは恥しさに顔を真っ赤にして叫んだ。
「じゃ、『地質学上の変動』にしようかな? 君おぼえているかね? これなんか、もう実に愛すべき詩だよ!」
「黙れ、黙らないと殺すぞ!」
「僕を殺すと言うのかね? まあ、そう言わないで、すっかり言わせてくれたまえ。僕が来たのも、つまりこの満足を味わうためなんだからね。ああ、僕は、生活に対する渇望にふるえているこうした若い、熱烈な友人の空想が大好きなんだ! 君はこの春ここへ来ようと思いついた時、こう断定したじゃないか。『世には新人がある、彼らはすべてを破壊して食人肉主義《カンニパリズム》から出直そうと思っている。馬鹿なやつらだ! おれに訊きもしないで! おれの考えでは、何も破壊する必要はない、ただ人類の中にある神の観念さえ破壊すればいいのだ。まずこれから仕事にかからなけりゃならない! まずこれから、これから始めなけりゃならないのだ、――ああ、何にもわからないめくらめ! 一たん人類がひとり残らず神を否定してしまえば(この時代が、地質学上の時代と並行してやってくることを、おれは信じている)、その時は、以前の世界観、ことに以前の道徳が、食人肉主義をまたなくとも自然に滅びて、新しいものが起ってくる。人間は、生活の提供し得るすべてのものを取るために集まるだろう。しかし、それはただ現在この世における幸福と歓びのためなんだ。人間は神聖な巨人的倨傲の精神によって偉大化され、そこに人神が出現する、人間は意志と科学とによって、際限もなく刻一刻と自然を征服しながら、それによって、以前のような天の快楽に代り得るほどの、高遠なる快楽を不断に感じるようになる。すべての人間は自分が完全に死すべきもので、復活しないことを知っているが、しかも神のように傲然として悠々死につく。彼はその自尊心のために、人生が瞬間にすぎないことを怨むべきでないと悟って、何の酬いをも期せずに自分の同胞を愛する。愛は生の瞬間に満足を与えるのみだが、愛が瞬間的であるという意識は、かえって愛の焔をますますさかんならしめる。それはちょうど、前に死後の永遠なる愛を望んだ時に、愛の火が漫然とひろがったのと同じ程度である云々……』とこんなことだったよ。実にうまいことを言ったものだね!」
 イヴァンは両手で自分の耳をおさえ、じっと下を見ながら腰かけていたが、急に体じゅうがびりびり慄えだした。紳士の声はつづいた。
「で、この場合、問題は次の点にある、――とわが若き思想家は考えた、――ほかでもない、はたしてそんな時代がいつか来るものかどうか? もし来るとすれば、それですべては解決され、人類も永久にその基礎を得るわけだ。しかし、人類の無知が深く根をおろしているから、ことによったら、千年かかってもうまくゆかないかもしれない。だから、今この真理を認めたものは、誰でもその新しい主義の上へ、勝手に自分の基礎を建てることができる。この意味において、人間は『何をしてもかまわない』わけだ。それに、もしこの時代がいつまでも来なくたって、どうせ神も霊魂の不死もないんだから、新しい人はこの世にたった一人きりであろうとも、人神となることができる。そして、人神という新しい位についた以上、必要な場合には、以前の奴隷人の道徳的限界を平気で飛び越えてもさしつかえないはずだ。神のためには法律はない! 神の立つところは、すなわち神の場所だ! おれの立つところは、ただちに第一の場所となる……『何をしてもかまわない、それっきりだ!』これははなはだ結構なことだよ。だが、もし詐欺をしようと思うくらいなら、なぜそのために、真理の裁可を要するのだろう? しかし、これがわがロシヤの現代人なんだ。ロシヤの現代人は、真理の裁可なしに詐欺一つする勇気もない。それほど彼らは真理を愛しているんだ……」
 客は自分の雄弁で調子に乗ったらしく、ますます声を高め、あざむがごとく主人を眺めながら、滔々と弁じたてた。しかし、彼がまだ論じ終らないうちに、イヴァンはいきなりテーブルの上からコップを取って、弁士に投げつけた。
「〔Ah, mais c'est be'te enfin!〕([#割り注]ああ、だがそれは要するに馬鹿げてる![#割り注終わり])」客に長椅子から飛びあがって、茶のとばっちりを指で払いおとしながら、こう叫んだ。「ルーテルのインキ壺を思い出したんだね! 自分で僕を夢だと思いながら、その夢にコップを投げつける! まるで女のような仕打ちだ! 君が耳をふさいでいるのは、ただ聞かないようなふりをしているばかりだろうと思ったが、はたしてそうだった……」
 途端に、外からどんどんと激しく、執拗に窓をたたく音がした。イヴァンは長椅子から跳りあがった。
「ほら、窓をたたいてるよ。開けてやりたまえ」と客は叫んだ。「あれは君の弟のアリョーシャが、きわめて意外な面白い報告を持って来たんだ。僕が受け合っておく!」
「黙れ、詐欺師、アリョーシャが来たってことは、僕のほうがお前よりさきに知っている。前からそんな気がしていたのだ。弟が来たとすりゃ、むろん空手じゃない、むろん『報告』を持って来たにきまってる!」とイヴァンは夢中になって叫んだ。
「開けてやりたまえ、開けてやりたまえ。外は吹雪だ。君の弟が来てるんじゃないか。〔Mr, sait-il le temps qu'il fait? C'est a` ne pas mettre un chien dehors〕 ……([#割り注]君、こんなお天気じゃないか。犬だって外に出しちゃおけないのに……[#割り注終わり])
 窓をたたく音はつづいた。イヴァンは窓のそばへ駈け寄ろうとしたが、急に何かで手足を縛られたように思われた。彼は力一ぱいその桎梏を断ち切ろうと懸命になったが、どうすることもできなかった。窓をたたく音はますます強く、ますます激しくなった。ついに桎梏は断ち切れた。イヴァンは長椅子の上に飛びあがった。彼はけうとい目つきであたりを見まわした。二本の蝋燭はほとんど燃え尽きそうになっているし、たったいま客に投げつけたはずのコップは、前のテーブルの上にちゃんとのっていて、向うの長椅子の上には誰もいなかった。窓をたたく音は依然やまなかったが、いま夢の中で聞えたほど激しくはなく、むしろきわめて控え目であった。
「今のは夢じゃない! そうだ、誓って今のは夢じゃない。あれはいま実際あったのだ!」とイヴァンは叫んで、窓ぎわに駈け寄り、通風口を開けた。
「アリョーシャ、僕は決して来ちゃならんと言ったじゃないか!」と彼は狂暴な調子で弟を呶鳴りつけた。「さ、何用だ、一口で言え、一口で、いいか?」
「一時間まえにスメルジャコフが首を縊ったんです」とアリョーシャは外から答えた。
「玄関のほうへ廻ってくれ、今すぐ開けるから。」イヴァンはこう言って、アリョーシャのために戸を開けに行った。

[#3字下げ]第十 『それはあいつが言ったんだ!』[#「第十 『それはあいつが言ったんだ!』」は中見出し]

 アリョーシャは入って来るといきなり、一時間ほど前に、マリヤが自分の住まいへ駈け込んで、スメルジャコフの自殺を告げたと、イヴァンに話した。『わたしがね、サモワールをかたづけにあの人の部屋へ入ると、あの人は壁の釘にぶら下ってるじゃありませんか』とマリヤは言った。『警察へ知らせましたか?』というアリョーシャの問いに対して、彼女は、まだ誰にも知らせない、『いきなりまっさきに、あなたのとこへ駈けつけたんですわ、途中駈け通しでね』と答えた。彼女はまるで気ちがいのようになり、木の葉のようにふるえていたということである。アリョーシャが、マリヤと一緒に彼らの小屋へ駈けつけてみると、スメルジャコフはまだやっぱり、ぶら下ったままであった。テーブルの上には遺書がのっていた。それには、『余は何人にも罪を帰せぬため、自分自身の意志によって、甘んじて自己の生命を断つ』と書いてあった。アリョーシャはこの遺書をテーブルの上にのせておいたまま、すぐさま警察署長のもとへ行って、一切の始末を報告した。『そして、そこからすぐ兄さんのとこへ来たんです。』イヴァンの顔をじっと眺めながら、アリョーシャは言葉を結んだ。彼はイヴァンの顔色にひどく驚かされたように、話の間じゅう一度もイヴァンから目を離さなかった。
「兄さん、」とつぜん彼は叫んだ。「あなたは大へん加減が悪いんでしょう! あなたは私を見てるだけで、私の言うことがわからないようですね。」
「よく来てくれた。」アリョーシャの叫び声が少しも耳に入らないらしく、イヴァンはもの思わしげにこう言った。「だが、僕はあいつが首を縊ったのを知っていたよ。」
「誰から聞いたんです?」
「誰からかしらないが、しかし知っていた。待てよ、僕は知っていたんだろうか? そうだ、あいつが僕に言ったんだ。あいつがつい今しがた僕に言ったんだ……」
 イヴァンは部屋の真ん中に突っ立って、依然もの思わしげにうつ向きながら、こう言った。
「あいつって誰です?」アリョーシャはわれ知らず、あたりを見まわしながら訊ねた。
「あいつはすべり抜けてしまった。」
 イヴァンは頭を持ちあげて、静かに微笑を浮べた。
「あいつはお前を、――鳩のように無垢なお前を恐れたんだ。お前は『清い小天使』だ。ドミートリイはお前を小天使と呼んでいる。小天使……大天使の歓喜の叫び! 一たい大天使とはなんだ? 一つの星座かな。だが、星座ってものは、何かの化学的分子にすぎないんだろう……獅子と太陽の星座ってものがある。お前は知らないかね?」
「兄さん、腰をかけて下さい!」とアリョーシャはびっくりして言った。「どうか後生だから、長椅子に腰をかけて下さい。あなたは譫言を言ってるんです。さ、枕をして横におなんなさい。タオルを濡らして頭にのせてあげましょうか? いくらかよくなるかもしれませんよ。」
「タオルを取ってくれ。そこの長椅子の上にある。さっきそこへ抛っておいたんだ。」
「ありませんよ。まあ、落ちついてらっしゃい。タオルのあるところは知っていますから、そら、そこだ。」部屋の片隅にある化粧台のそばから、まだ畳んだままで一度も使わない、きれいなタオルを捜し出して、アリョーシャはこう言った。
 イヴァンは不思議そうな顔つきをしてタオルを見た。記憶はたちまち彼の心によみがえったように見えた。
「ちょっと待ってくれ。」彼は長椅子の上に起きあがった。「僕はさっき一時間まえに、このタオルをあすこから持って来て、水で濡らして頭にのせて、またあすこへ抛っておいたんだがな……どうして乾いているんだろう? ほかにはもうなかったのに。」
「兄さんこのタオルを頭にのせたんですって?」とアリョーシャは訊いた。
「そうだ。そして、部屋の中を歩いたんだ、一時間まえにさ……それに、どうしてこんなに蝋燭が燃えたんだろう? 何時だね?」
「まもなく十二時になります。」
「いや、いや、いや!」とイヴァンは急に叫びだした。「あれは夢じゃない! あいつは来ていたんだ。そこに腰かけてたんだ、その長椅子の上に。お前が窓をたたいた時、僕はあいつにコップを投げつけたんだ……このコップを……いや、待てよ、僕はその前にも眠っていたのかな。だが、この夢は夢じゃない。前にもこんなことがあった。アリョーシャ、僕は近頃よく夢を見るよ……だが、それは夢じゃない、うつつだ。僕は歩いたり、喋ったり、見たりしている……が、それでいて眠ってるんだ。だが、あいつはそこに腰かけてたんだ、ここにいたんだ、この長椅子の上にさ……あいつは恐ろしい馬鹿だよ。アリョーシャ、あいつは恐ろしい馬鹿だよ。」イヴァンは突然からからと笑って、部屋の中を歩きはじめた。
「誰が馬鹿ですって? 兄さん、あなたは誰のことを言ってるんです?」とアリョーシャはまた心配らしく訊いた。
「悪魔だよ! あいつはよく僕のところへ来るようになってね、もう二度も来た、いや、三度も来た、いや、三度だったかな。あいつはこんなことを言って、僕をからかうんだ。『あなたは、私がただの悪魔で、焔の翼を持って雷のように轟き、太陽のように輝く大魔王でないので、腹を立てていらっしゃるのでしょう』なんてね。だが、あいつは大魔王じゃないよ。あいつは嘘つきだ。あいつは自称大魔王だ。あいつはただの悪魔だ。やくざな小悪魔だ。あいつは湯屋にも行くんだからな。あいつの着物をひんむいたら、きっと長い尻尾が出るに相違ない、ちょうどデンマーク犬みたいに、一アルシンくらいも長さのある、滑っこい茶色の尻尾が……アリョーシャ、お前は寒いだろう、雪の中を歩いて来たんだからね。お茶を飲みたくないかね? なに? 冷たいって? なんなら、サモワールを出させようか? 〔C'est a` ne pas mettre un chien dehors〕 ……([#割り注]犬だって外に出しちゃおけないのに……[#割り注終わり])」
 アリョーシャは急いで洗面台のそばへ駈け寄って、タオルを濡らし、無理にイヴァンを坐らせ、その頭にのせた。こうして、自分もそのそばに腰かけた。
「お前はさっき、リーザのことを何とか僕に言ったね?」イヴァンはまた始めた(彼は非常に饒舌になった)。「僕はリーザが好きだ。僕はあれのことで、何かお前に失敬なことを言ったが、あれは嘘だよ。僕はあれが好きなんだ……僕は明日のカーチャが心配だ。何よりも一ばん心配だ。将来のことが心配だ。あの女はあす僕を投げ飛ばして、足で踏みにじるだろう。あの女はね、僕が嫉妬のためにミーチャをおとしいれると、そう思ってる。そうだ、確かにそう思っているんだ! ところが、そうじゃない! 明日は十字架だ、絞首台じゃない。なに、僕が首なんか縊るものか。アリョーシャ、僕がどうしても自白できないってことを、お前は知ってるかい! 一たいそれは卑屈のためだろうか? 僕は臆病者じゃない、つまり、貪婪な生活愛からだ! スメルジャコフが首を縊ったことを、どうして僕は知ったんだろう? そうだ、あれはあいつ[#「あいつ」に傍点]が言ったんだ……」
「では、誰かそこにいたものと、信じきってるんですね?」とアリョーシャは訊いた。
「その隅の長椅子に腰かけていたよ。お前あいつを追っ払ってくれればいいんだがなあ。そうだ、実際お前が追っ払ったんだ。あいつはお前が来ると、すぐに消えてしまった。アリョーシャ、おれはお前の顔が好きなんだ。ねえ、僕はお前の顔が好きなんだよ。だが、あいつはね、僕なんだよ、アリョーシャ。僕自身なのさ。みんな僕の下等な、下劣な、軽蔑すべきものの現われなんだ! そうだ! 僕は『浪漫派』だ。あいつもそれに気がついたんだよ……もっとも、これは根もない讒誣だがね。あいつは呆れた馬鹿だよ。だが、それがつまり、あいつの強みなのさ。あいつは狡猾だ、動物的に狡猾だ。あいつは僕の癇癪玉を破裂させるすべを知っていた。あいつときたら、僕があいつを信じてるなどとからかって、それで僕に傾聴させた。あいつは僕を小僧っ子同然に翻弄した。しかし、あいつが僕について言った言葉の中には、本当のことがたくさんあった。僕は自分自身に向って、とてもあんなことは言えない。ねえ、アリョーシャ、アリョーシャ。」
 イヴァンはひどく真面目になって、いかにも、腹蔵なく打ち明ける、と言ったような語調でつけ加えた。
「僕はね、あいつ[#「あいつ」に傍点]が実際あいつで、僕自身でなかったら、本当に有難いんだがなあ!」
「あいつはずいぶん兄さんを苦しめたんですね。」アリョーシャは同情にたえぬもののように、兄を見やりながらこう言った。
「僕をからかったんだよ! しかも、それがね、なかなかうまいんだ。『良心! 良心って何だ? そんなものは、僕が自分でつくりだしてるんじゃないか。なぜ僕は苦しむんだろう? 要するに、習慣のためだ、七千年以来の全人類的習慣のためだ。そんなものを棄ててしまって、われわれは神になろうじゃないか』――それはあいつが言ったんだ。それはあいつが言ったんだ!」
「じゃ、あなたじゃないんですね、あなたじゃないんですね?」澄み渡った目で兄を見つめながら、アリョーシャはこらえきれなくなって、思わずこう叫んだ。「なあに、勝手なことを言わせておいたらいいでしょう。あんなやつはうっちゃっておしまいなさい、忘れておしまいなさい! あなたがいま呪っているものを、残らずあいつに持って行かせておやんなさい、もう決して二度と帰って来ないように!」
「そうだ。だが、あいつは意地が悪いよ。あいつは僕を冷笑したんだ。アリョーシャ、あいつは失敬なやつだよ」とイヴァンは口惜しさに声を慄わせながら言った。「僕に言いがかりをした、いろいろと言いがかりをしたんだ。面と向って僕を誹謗したんだ。『ああ、君は善の苦行をしようと思っているんだろう。親父を殺したのは私です、下男が私の差金で殺したのです、とこう言いに行くんだろう……』なんてね……」
「兄さん」とアリョーシャは遮った。「お控えなさい。あなたが殺したんじゃありません。それは嘘です!」
「あいつはこう言うんだ、あいつがさ。あいつはよく知っているからね。『君は善の苦行をしようと思ってるんだろう。ところが、君は善行を信じていない、――だから君は怒ったり、苦しんだりしているんだ、だから君はそんなに復讐的な気持になるんだ』とこう、あいつは僕に面と向って言うんだ。あいつは自分で自分の言うことを、よく承知しているよ……」
「それは、兄さんの言ってることで、あいつじゃありませんよ!」とアリョーシャは悲しそうにそう叫んだ。「あなたは病気のせいで譫言を言って、自分で自分を苦しめてるんですよ!」
「いいや、あいつは自分で自分の言うことをよく知っているんだ。あいつが言うのには、君が自白に行くのは自尊心のためだ、君は立ちあがって、『殺したのは私です。どうしてあなた方は、恐ろしそうに縮みあがるんです? あなた方は嘘を言っています! 私はあなた方の意見を軽蔑します! あなた方の恐怖を軽蔑します!』と言うつもりだろう、なんて、――あいつは僕のことをこんなふうに言うんだよ。それから、まただしぬけに、『だがね、君、君はみなから褒めてもらいたいのさ。あれは犯人だ、下手人だ、けれど何というえらい人だろう。兄を救おうと思って、自白したんだというわけでね。』こんなことも言ったよ。だが、アリョーシャ、これこそもうむろん嘘だよ!」とイヴァンは急に目をぎらぎらと光らせながら叫んだ。「僕はくだらないやつらに褒められたくない! それはあいつが嘘をついたんだ、アリョーシャ、それは誓って嘘だよ。だから、僕あいつにコップを投げつけてやったところ、コップがあいつのしゃっ面で粉微塵に砕けたよ。」
「兄さん、落ちついて下さい、もうよして下さい!」とアリョーシャは祈るように言った。
「いや、あいつは人を苦しめることがうまいよ。あいつは残酷だからな。」イヴァンはアリョーシャの言葉には耳をかさずに言いつづけた。「おれはいつでも、あいつが何用で来るか直覚していたよ。『君が自尊心のために自白に行くのはいいとしても、やはりその実こころの中で、スメルジャコフ一人だけが罪に落されて、懲役にやられ、ミーチャは無罪になる。そして、自分はただ精神的に裁判されるだけで(いいかい、アリョーシャ、あいつはこう言いながら笑ったんだよ)、世間の人から褒められるかもしれないと、こういう望みをいだいていたんだろう、だがもうスメルジャコフは死んだ、首を縊ってしまった、そうしてみると、あす法廷で君ひとりの言うことなんか、誰が本当にするものか! しかし、君は行こうとしている、ね、行こうとしているだろう、君はやはり行くに相違ない、行こうと決心している、もうこうなってしまったのに、一たい君は何しに行くんだね?』と、こうあいつは言うじゃないか。恐ろしいことを言うやつだ。アリョーシャ、僕はこんな問いを辛抱して聞いていられない。こんなことを僕に訊くなんて、何という失敬千万なやつだ!」
「兄さん」とアリョーシャは遮った。彼は恐ろしさに胸を痺らせながらも、やはりまだ、イヴァンを正気に返すことができると思っているらしかった。「誰もまだ、スメルジャコフの死んだことを知らないのに、また誰ひとり知る暇もないのに、よくあいつは私の来る前に、そんなことを言ったものですね!」
「あいつは言ったよ」とイヴァンはきっぱり言い切った。そこには一点の疑いを挿むことすら許さなかった。「実際なんだよ、あいつは、そればかり言ってたくらいだよ。『もし君が善行を信じていて、誰も自分を信じなくなってもかまわない、主義のために行くのだ、というならしごく結構だが、しかし君はフョードル同様の豚の仔じゃないか。善行なんか君にとって何だ? もし君の犠牲が何の役にも立たないとすれば、一たい何のために法廷へ出かけるんだ? ほかでもない、何のために行くのか、君自身でも知らないからさ! それに、君は一たい決心したのかね? まだ決心していないじゃないか? 君は夜どおし腰かけたまま、行こうか行くまいかと思案するだろうよ。だが、結局、行くだろう、君は自分の行くことを知っている。君はどちらへ決めるにしろ、その決定が自分から出たのでないってことを知ってるのだ。君は行くだろう。行かずにいる勇気がないからね。なぜ勇気がないか、――それは君自身で察しなきゃならんね。これは君にとって謎としておこう!』こう言ったかと思うと、あいつはぷいと立ちあがって、出て行った。あいつお前が来たので、出て行ったんだ。アリョーシャ、あいつは僕を臆病者と言ったよ! Le mot de l'enigme ([#割り注]あの謎[#割り注終わり])は、つまり僕が臆病者だっていうことさ!『そんな鷲に大空は飛べないよ!』あいつはこう言いたしたよ、あいつが! スメルジャコフもやはりそう言ったっけ。あいつは殺してやらなけりゃならん! カーチャは僕を軽蔑している、それは一カ月も前からわかってる。それにリーザまで軽蔑しだした!『ほめられたさに行く』なんて、それは残酷な言いがかりだ! アリョーシャ、お前も僕を軽蔑してるだろう。僕はいま、またお前を憎みそうになってきた! 僕はあの極道者も憎んでいる、あの極道者も憎いのだ! あんな極道者なんか助けてやりたくない、勝手に監獄の中で腐ってしまうがいい! あいつめ、頌歌《ヒムン》を歌いだしやがった! ああ、僕はあす行って、やつらの前に立って、みんなの顔に唾を吐きかけてやる!」
 彼は激昂のあまり前後を忘れたように跳りあがり、頭のタオルを投げ棄てて、また部屋の中を歩きはじめた。アリョーシャはさっきの、『僕はうつつで眠っている……歩いたり、喋ったり、見たりしているが、そのくせやっぱり眠っているんだ』というイヴァンの言葉を思い出した。今の様子がまさしくそれであった。アリョーシャはイヴァンのそばを離れなかった。一走り走って行って、医者を連れて来ようかという考えが、ちらと彼の頭にひらめいたが、兄を一人残して行くのは不安心であった。さればとて、兄のそばについていてもらえる人もなかった。やがて、イヴァンは次第に正気を失って行った。彼は依然として喋りつづけていた、――ひっきりなく喋りつづけていたが、その言うことはしどろもどろで、舌さえ思うように廻らなかった。突然、彼はよろよろと激しくよろめいた。アリョーシャはすばやく彼をささえ、べつに手向いもしないのをさいわい寝床へ連れて行き、どうにかこうにか服を脱がし、蒲団の中へ寝かした。アリョーシャはその後二時間も、イヴァンのそばに腰かけていた。病人は静かにじっとして、穏やかに呼吸しながら熟睡した。アリョーシャは枕を持って来、着物を脱がないで、長椅子の上に横になった。彼は眠りに落ちる前、ミーチャのため、イヴァンのため、神に祈った。彼にはイヴァンの病気がわかってきた。『傲慢な決心の苦しみだ、深い良心の呵責だ!」兄が信じなかった神とその真実が、依然として服従をこばむ心に打ち勝ったのだ。『そうだ、』もう枕の上におかれているアリョーシャの頭に、こういう想念がひらめいた。『そうだ、スメルジャコフが死んでしまったとすれば、もう誰もイヴァンの申し立てを信じやしまいけれど、イヴァンは行って申し立てをするだろう!』アリョーシャは静かにほお笑んだ。『神様が勝利を得なさるに相違ない!』と彼は思った。『イヴァンは真理の光の中に立ちあがるか、それとも……自分の信じないものに奉仕したがために、自分を初めすべての人に復讐しながら、憎悪の中に滅びるかだ』とアリョーシャは悲痛な心持でこうつけ加えて、またもやイヴァンのために祈りをあげた。
[#改段]

[#1字下げ]第十二篇 誤れる裁判[#「第十二篇 誤れる裁判」は大見出し]



[#3字下げ]第一 運命の日[#「第一 運命の日」は中見出し]

 筆者《わたし》の書いた事件の翌日午前十時、当町の地方裁判所が開廷され、ドミートリイ・カラマーゾフの公判が始まった。
 前もってしっかり念をおしておく。法廷で起った出来事を、残らず諸君に物語ることは、とうてい不可能である。十分くわしく物語ることはおろか、適当の順序をおうて伝えることさえできない。もし何もかも洩れなく思い起して、それ相当の説明を加えたら、一冊の書物、――しかも非常に大部な書物ができあがりそうなほどであるから。だから、筆者が自分で興味をもった点と、特別に思い出したところだけ諸君に物語るからといって、筆者を怨んでもらっては困る。筆者は、第二義的なことを肝腎な事件と思い込んだり、また非常に目立って大切な点を、すっかり抜かしたりしないものでもない……しかし、もうこんな言いわけはしないほうがよさそうである。筆者はできるだけのことをしよう。また読者諸君も、筆者ができるだけのことしかしなかったのを、諒とされることと思う。
 で、法廷へ入るにさきだって、まず第一に、当日とくに筆者《わたし》を驚かしたことを語ろう。もっとも、驚いたのは筆者一人ではない。後で聞いてみると、誰も彼もみんなびっくりしたそうである。ほかでもない、この事件が多くの人の興味を惹き起したことも、みんなが裁判の開始を熱心に待ち焦れていたことも、この事件が当地で最近二カ月いろいろと噂されたり、予想されたり、絶叫されたり、空想されたりしたことも、一同に知れ渡っていた。また、この事件が、ロシヤじゅうの評判になったことも、みんなに知れ渡っていたが、しかしこれがただに当地のみならず到るところで、老若男女の別なく、人々をあれほどまでに熱狂させ、興奮させ、戦慄させようとは、当日になるまで思いがけなかった。この日は当地をさして、県庁所在の町からばかりでなく、ロシヤの他の町々からも、またモスクワやペテルブルグからさえも、ぞくぞくと傍聴人が押し寄せて来た。法律家も来れば、貴婦人も来るし、幾たりか知名の士さえもやって来た。傍聴券は一枚のこらず出てしまった。男子連の中で特別地位のある知名の人々は、法官席のすぐうしろに特別の席を設備された。そこには安楽椅子がずらりと並んで、さまざまな名士に占領された。そんなことは当地でこれまでかつてなかったところである。ことに多かったのは婦人、――当地はじめ他県の婦人で、傍聴者ぜんたいの半数を越していたように思う。各地から来た法律家だけでも非常な多数にのぼり、もはやどこへも入れる場所がなくなったくらいである。なにしろ、傍聴券は人人の請求哀願によって、もうとっくに残らず出きってしまったからである。筆者は法廷の高壇のうしろの片隅に、急場の間に合せに特別な仕切りができて、そこへ他県から来た法律家連が押し込まれたのを見たが、椅子という椅子は場所を広くするために、残らずその仕切り内から片づけられたので、彼らはじっと立っていなければならなかったが、それでもみんな幸福に感じていた。で、そこにぎっしり押し込まれた聴衆は、肩と肩とを擦りあわせながら、『事件』が終るまで立ち通していた。
 婦人たち、とくによそから来た婦人たちの中には、ひどくめかしこんで、法廷の廻廊に陣取っているものもあったが、大半はめかすことさえ忘れていた。彼らの顔には、ヒステリイじみた、貪るような、ほとんど病的な好奇心が読まれた。この法廷に集った群衆の特質について、ぜひ一言しておかなければならぬことは、ほとんど全部の婦人、少くとも大多数の婦人がミーチャの味方で、彼の無罪を主張していたことである(これはその後、多くの人の観察によって実証された)。そのおもな理由は、ミーチャが女性の心の征服者であるように思われていたためであろう。実際、二人の女の競争者が出廷することは、よく知られていた。そのなかの一人、すなわちカチェリーナは、ことに一同の興味を惹いた。彼女については、ずいぶん突拍子もない噂がいろいろと言いふらされていた。ミーチャが罪を犯したにもかかわらず、彼女が男に対して情熱を捧げているということに関して、驚くべき逸話が伝えられていた。ことに彼女の傲慢なことや(彼女は当地に住みながら、ほとんど誰をも訪問したことがなかった)、『貴族社会に縁辺』をもっていることなどが語り伝えられた。世間では彼女が政府に願って、徒刑の場所までミーチャについて行き、どこか地下の坑内で結婚の許可を得ようと思っている、などと噂していた。カチェリーナの競争者たるグルーシェンカが法廷に現われるのも、人々はそれに劣らぬ興奮を感じながら待ちかまえた。二人の恋がたき、――誇りの高い貴族の令嬢と、『遊びめ』とが法廷で出遇うのを、みんな悩ましいばかりの好奇心をいだいて待っていた。もっとも、グルーシェンカはカチェリーナよりも、当地の婦人たちの間によけい知られていた。彼らは、『フョードルとその不運な息子を破滅させた』グルーシェンカを、前から見知っていたので、みんなほとんど異口同音に、『よくもこんな思いきって平凡な、少しも美しくないロシヤ式の平民の女に』、親子そろって、あれほどうつつを抜かすことができたものだ、と驚いていた。要するに、噂はまちまちであった。ことに当地ではミーチャのために、容易ならぬ争いを起した家庭もあることを、筆者《わたし》はよく知っている。多くの婦人たちは、この恐ろしい事件に対する見解の相違から、自分の夫と激しく言い争った。だから、自然の数として、これらの婦人たちの夫は、いずれも被告に対して同情をもたないのみか、かえって憎悪の念すらいだいて、法廷へ出たのである。要するに、男子側が婦人側と反対に、みな被告に反感をいだいていたのは確実で、いかつい渋面や、毒をふくんだ顔さえ多数に見受けられた。もっとも、ミーチャが当地にいる間、彼らの多くを個人的に侮辱したことも事実である。むろん、傍聴者の中には、ほとんど愉快そうな顔つきをして、ミーチャの運命に一こう無頓着なものもあったが、これとても、眼前の事件に冷淡なのではなかった。誰も彼もこの事件の結末に興味をもっていて、男子の大部分は断々乎として、ミーチャが天罰を受けることを望んでいた。しかし、法律家だけは別で、彼らの興味は事件の道徳的方面よりも、いわゆる現代的、法律方面に向けられていた。
 ことに世間を騒がしたのは、有名なフェチュコーヴィッチの乗り込みであった。彼の才能は到るところに知られていた。彼が地方に現われて、刑事上の大事件を弁護したのは、これが初めてではなかった。彼が弁護をした事件は、いつもロシヤ全土に喧伝され、永く記憶されるのであった。当地の検事や裁判長についても、さまざまな逸話が伝えられていた。検事のイッポリート・キリーロヴィッチが、フェチュコーヴィッチに会うのを恐れてびくびくしているとか、彼ら二人は法律家生活の第一歩からの旧い敵同士であるとか、自信の強いイッポリートは、自分の才能を本当に認められないために、またペテルブルグ時代から、いつも誰かに侮辱されてでもいるように感じていたので、あのカラマーゾフ家の事件にやっきとなり、これによって頽勢を挽回しようと空想していたが、ただフェチュコーヴィッチだけを恐れているのだとか、そういうような噂がしきりに行われた。けれども、この推断はいささか正鵠を失していた。わが検事は、危険を見て意気沮喪するような男ではない。むしろ反対に、危険の増大とともに自負心もますますさかんになって、勢いを増すというふうの男であった。とにかく、当地の検事が非常な熱情家で、病的に感受性が強かったことは、認めなければならない。彼はある事件に自分の全心を打ち込むと、その事件の解決いかんによって、自分の全運命と自分の全価値が、きまりでもするかのように行動した。法曹界では、いくらかこれを嘲笑するものもあった。彼はこうした性質によって、たとえ到るところに名声を馳せるというわけにゆかないまでも、こうした田舎裁判所におけるつましい地位の割には、かなり広く知られていたからである。ことに世間では、彼の心理研究癖を笑っていた。が、筆者《わたし》の考えでは、これらはみんな間違っていると思う。わが検事は、多くの人々が考えているより、よほど深く真面目な性格をもっていたようである。ただ、彼は一たいに病身なために、その経歴の第一歩から生涯を通じて、ついに自分の地位を築き得なかったのである。
 当地の裁判長については、ただこの人が実際的に職務をわきまえた、きわめて進歩的見解を有している、教養を身につけた、人道的な人物であることを言い得るのみである。この人も相当に自負心が強かったが、自己の栄達についてはあまりあせらなかった。彼の生活のおもなる目的は、時代の先覚者となることであった。それに、彼はいい縁故と財産とをもっていた。これもあとでわかったことだが、彼もカラマーゾフ事件に対しては、かなり熱のある見方をしていた。が、それもごく一般的な意味あいであった。彼の興味をそそったのは、この社会現象と、その分類と、わが国の社会組織の産物として、およびロシヤ的特性の説明としてこの現象を取り扱うこと、などであった。事件の個人的性質や、その悲劇的意義や、被告を初めすべての関係者などに対しては、かなり無関心な抽象的な態度をとっていた。もっとも、これはそうあるべきことかもしれぬ。
 法廷は裁判官の出席まえから、傍聴人でぎっしりになっていた。当地の裁判所は、町でも最も立派な、広くて高い、声のよく通る建物であった。一段たかいところに居ならんだ裁判官たちの右側には、陪審員のために一脚のテーブルと、二列の安楽椅子が設けられていた。左側には被告と弁護士の席があった。法廷の中央、裁判官の席に近いところには、『証拠物件』をのせたテーブルがおかれた。その上には、フョードルの血まみれになった白い絹の部屋着と、兇行に用いたものと推察される運命的な銅の杵と、袖に血の滲んだミーチャのシャツと、あのとき血のついたハンカチを入れたために、うしろかくしのまわりに血痕の付着したフロックと、血のためにこちこちになって、今ではすっかり黄いろくなっているハンカチと、ミーチャがペルホーチンの家で、自殺するつもりで弾を填めておいたが、モークロエでトリーフォンのためにこっそり盗まれたピストルと、グルーシェンカのために三千ルーブリの金を入れておいた名宛てのある封筒と、その封筒を縛ってあったばら色の細いリボンと、そのほか、とうてい思い出せないほどさまざまな品物がのっていた。少し離れて法廷の奥まったところに、一般の傍聴者の席があったが、なお手摺りの前にも幾つかの安楽椅子があった。それは申し立てをした後に、法廷に残らなければならない証人用のものであった。十時が打つと、三人の裁判官、――すなわち裁判長と、陪席判事と、名誉治安判事が現われた。むろん、すぐに検事も出廷した。裁判長は小柄な、肉づきのいい、中背よりも少し低いかと思われるくらいな、痔疾らしい顔つきの五十歳ばかりの老人で、短く刈られた黒い髪には、いくぶん白髪がまじっていた。彼は赤い綬をつけていたが、どんな勲章であったか、記憶しない。筆者《わたし》の見たところでは、いや、筆者だけではない、みなの目に映じたところでは、検事はひどく真っ蒼な、ほとんど緑色といってもいいくらいな顔いろをしていた。なぜか一晩のうちに急に痩せ細ったものらしい。筆者が三日ばかりまえ彼に会った時は、ふだんと少しも変りがなかったからである。
 裁判官はまず第一に廷丁に向って、『陪審員はみんな列席されたか?………』と訊いた。しかし、筆者は、こんな工合につづけて行くことは、しょせんできないと思う。はっきり聞えなかったところもあるし、意味の取れなかった言葉もあるし、また忘れてしまった点もあるからである。が、何よりおもな理由は、さきにも言ったとおり、もし一つ一つの言葉や出来事を残らず書き連ねたら、まったく文字どおりに時間と紙とがたりなくなるからである。ただ筆者の知っているのは、双方、すなわち弁護士側と検事側の陪審員が、あまり大勢いなかったということだけである。しかし、十二人の陪審員の顔ぶれは憶えている。つまり、四人の当地の役人と、二人の商人と、土地の六人の百姓と町人とであった。筆者は当地の人々、ことに婦人たちが、裁判の始まる前に、いくらか驚き加減で、『こういう微妙な複雑な心理的事件が、あんな役人や、おまけにあんな百姓たちの決定にまかされるのでしょうか? あんな役人や、ましてあんな百姓たちに、この事件がわかるのでしょうか?』と訊いたのを憶えている。実際、陪審員の数に入ったこの四人の役人は、下級な老朽官吏で、――そのなかの一人はいくらか若かったが、――町の社交界でもほとんど知られていない、少額の俸給に甘んじている連中であった。彼らは、どこへも連れだすことのできないような年とった細君と、おそらく跣で飛び廻っていかねまじい大勢の子供をかかえて、暇な時にどこかでカルタでもして楽しむのが関の山、書物など一冊も読んだことがないに相違ない。二人の商人は、いかにも堂々たる様子をしていたけれど、なぜか妙に黙り込んで、堅くなっていた。そのうち一人は顎鬚を剃り落して、ドイツ人のような身なりをしていたが、もう一人のほうは白髪まじりの顎鬚を生やし、頸には赤い綬のついた何かのメダルをかけていた。町人と百姓については、いまさら何も言うがものはない。このスコトプリゴーニエフスクの町人は百姓も同然で、実際、畑の土を掘っているのであった。なかの二人は、やはりドイツ風の服を着ていたので、そのせいか、かえってほかの四人よりも、よけいにむさくるしく汚らしく見えた。だから実際、筆者《わたし》も彼らを見たときに、『こんな人間どもが、こういう事件について、はたして何を理解することができるだろう?』と考えたが、まったく誰でもそう思わずにいられなかったろう。しかし、それでも彼らはいかつい渋面をしていて、一種異様な、圧迫するような、ほとんど威嚇するような印象を与えた。
 とうとう裁判長は、休職九等官フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフ殺害事件について、審理を開始する旨を宣言した。そのとき彼がどういう言葉を用いたか、筆者も正確には憶えていない。廷丁は被告を連れて来るように命じられた。やがてミーチャが現われた。法廷内は水を打ったようにしんとして、蠅の飛ぶ羽音さえ聞えそうであった。ほかの人たちはどうだったか知らないが、筆者《わたし》はミーチャの様子を見て、非常にいやな気持がした。第一、彼は仕立ておろしの真新しいフロックを着て、恐ろしく洒落た恰好をしていた。何でも後日聞いたところによると、彼はわざとこの日のために、自分の寸法書をもっているモスクワの以前の仕立屋に、そのフロックを注文したのだそうである。彼は新しい黒い仔羊皮の手袋をはめ、洒落たシャツを着こんでいた。じっと自分のまんまえを見つめながら、例の大股でつかつかと歩みを運び、悠然と落ちつきはらった様子で自席に腰をおろした。同時に、有名な弁護士のフェチュコーヴィッチも姿を現わした。と、法廷の中には一種おしつけたようなどよめきが起った。彼は背の高い痩せぎすの男で、細長い脚と、ことのほか細長くて蒼白い指と、綺麗に剃刀をあてた顔と、つつましやかに梳られたごく短い髪と、ときどき嘲笑か微笑かわからないような笑みにゆがむ薄い唇をもっていた。年は四十前後でもあろうか。もし一種特別な目さえなかったら、彼の顔は気持のいいほうであった。目それ自身は小さくて無表情であったが、その距離がいちじるしく接近していて、細い鼻梁骨が、わずかにその間を隔てているのみであった。一口に言えば、彼の顔つきは誰が見ても、びっくりするほど鳥に髣髴たる表情をおびていた。彼は燕尾服を着て、白いネクタイをしめていた。裁判長はまず第一にミーチャに向って、姓名や身分を訊いたと記憶している。ミーチャはきっぱり返答したが、なぜか途方もない大声だったので、裁判長は頭を振って、びっくりしたようにミーチャを見た。次に、審問のために呼び出された人々、つまり証人および鑑定人の名簿が読み上げられた。その名簿は長いものであった。証人のうち四人は出廷しなかった。すなわち、以前予審の時は申し立てをしたが、今はパリにいるミウーソフと、病気のために欠席したホフラコーヴァ夫人、および地主のマクシーモフと、それからふいに死んだスメルジャコフである。スメルジャコフの自殺については、警察のほうから証明がさし出されたが、この報告は法廷ぜんたいに激しい動揺と、囁きとを喚び起した。むろん、傍聴者の多くは、スメルジャコフ自殺という突発的挿話を知らなかったけれど、何よりもミーチャのとっぴな振舞いに驚かされた。ミーチャはスメルジャコフの変死を聞くと、いきなり自席から、法廷全部に響き渡るような大声で叫んだ。
「犬には犬のような死にざまが相当してる!」
 筆者《わたし》は、弁護士が飛んで行って彼を抑えたことや、裁判長が彼に向って、今度こういう気ままなことをすると、厳重な手段に訴えるぞと、嚇したことなどを憶えている。ミーチャはしきりに頷きながら、しかも一こう後悔する様子もなく、幾度もちぎれちぎれな小さい声で、弁護士に繰り返した。
「もうしません、もうしません! つい口から出たんで! もうしません!」
 むろん、この短い一挿話は、陪審員や傍聴者に、被告にとって不利な印象を与えた。彼はその性格を暴露して、自分で自分を紹介してしまったのである。彼がこういう印象を与えたあとで、書記の口から告発書が読み上げられた。
 それはごく簡潔なものであったが、同時に周匝《しゅうそう》なものであった。何の某はなぜ拘引せられ、なぜ裁判に付せられなければならなかったか云々、というおもな理由を述べてあるだけにすぎなかったが、それにもかかわらず、告発書は筆者に強い印象を与えた。書記は明晰な響きのいい声で、わかりよく読み上げた。今やこの悲劇全体が宿命的な、容赦のない光に照らされて、新しく一同の前に浮彫のごとく集約されて現われたのである。筆者《わたし》はこの告発書が読み上げられたすぐあとで、裁判長が高い、胸に徹するような声で、ミーチャに訊いたのを記憶している。
「被告は自分の罪を認めるか?」
 ミーチャはいきなり席を立った。
「私は、自分の乱酒、淫蕩については、みずから罪を認めます。」彼はまた突拍子もない、ほとんどわれを忘れたような声でこう叫んだ。「怠惰と放縦については、自分に罪があることを認めます。運命に打ち倒された私はその瞬間、永久に潔白な人間になることを望んだのです! しかし、爺さんの、――私の敵である親父の死については、――断じて罪はありません! また親父の金を盗んだことについても、決して、決して罪はありません。そうです、罪なんかあるはずがないんです。ドミートリイ・カラマーゾフは卑劣漢です、しかし盗賊じゃありません!」
 彼はこう叫んで、自分の席へ腰をおろした。明らかに、彼は全身をがたがた慄わしていた。裁判長はさらに被告に向って、ただ質問だけに答えたらいいので、余事を語ったり、夢中で叫んだりしないようにと、ごく手短かにさとすような語調で言い聞かせた。次に裁判長は審問に着手を命じた。証人一同は宣誓のために出廷を命ぜられた。筆者はこのとき証人全部を見た。被告の兄弟だけは、宣誓せずに証言することを許された。僧侶と裁判長の訓誨がすむと、証人たちは引きさがって、できるだけ離れ離れに腰をかけさせられた。やがて証人ひとりひとりの取り調べが始まった。

[#3字下げ]第二 危険なる証人[#「第二 危険なる証人」は中見出し]

 筆者《わたし》は検事側の証人と弁護士側の証人が、裁判長によって区別されていたかどうか、またどういう順序で彼らが呼び出されたか、そういうことは少しも知らない。いずれ区別されてもいだろうし、順底もあったことだろう。ただ筆者の知っているのは、検事側の証人がさきに呼び出されたことだけである。繰り返して言うが、筆者はこれらの審問を、残らず順序を追うて書くつもりはない。それに、筆者の記述は一面、よけいなものになるかもしれない。なぜなら、検事の論告と弁護士の弁論が始まった時、その討論においてすべての申し立ての径路と意味とが、ある一点に帰結され、しかも明瞭に性質づけられて現われたからである。この二つの有名な弁論を、筆者は少くともところどころだけは詳しく書き取っておいたので、その時機がきたら読者に伝えることとしよう。またその弁論に入る前に、とつぜん法廷内で勃発して、疑いもなく裁判の結末に恐ろしい運命的な影響を与えた、思いがけない異常な挿話をも記そうと思っている。で、ここにはただ公判の初めから、この『事件』のある特質が、すべての人々によって、明確に認められたことだけを述べるにとどめよう。それはほかでもない、被告を有罪とする力のほうが、弁護士側のもっている材料よりもはるかに優勢であった。この恐ろしい法廷にさまざまな事実が集中しはじめ、一切の恐怖と血潮とが次第に暴露しだした瞬間に、誰もがいちはやくこれを悟ったのである。一同はすでに最初の第一歩から、この事件が全然あらそう余地のない、疑惑の介在を許さないもので、実質上、弁論などはぜんぜん不必要であるが、ただ形式として行うにすぎない、犯人は有罪である、明らかに有罪である、ということがわかっているらしかった。筆者《わたし》の考えるところでは、興味ある被告の無罪をあれほど熱心に希望していた婦人たちさえ、同時に一人残らず彼の有罪を信じきっていたらしい。のみならず、もし彼の犯罪が完全に認められなかったら、婦人連はかえって失望したに相違ないと思う。というのは、それでは被告が無罪を宣告された時、大団円の効果が十分でなくなるからである。まったく不思議にも、婦人たちはすべて、ほとんど最後の瞬間まで、被告の無罪放免を信じきっていた。『彼は確かに罪を犯した。けれども、当節流行の人道主義と、新しい思想と新しい感情とによって、無罪を宣告されるだろう』と彼らは思っていた。みながあんなにやきもきしながらここへ馳せ集ったのは、つまりそれがためなのである。
 男連はむしろ検事と、有名なフェチュコーヴィッチとの論争に興味を惹かれていた。たとえフェチュコーヴィッチのような天才でも、こうした絶望的な手のつけようもない事件は、どうすることもできないだろうに、と驚異の念をいだきながら、彼の奮闘ぶりに一歩一歩緊張した注意を向けていた。けれど、フェチュコーヴィッチはみなにとって最後まで、すなわち彼が弁論にかかるまで、一個の謎であった。玄人筋の人々は、彼には独得のシステムがあるから、もう心の中で何かあるものを組立ててい、確乎たる目的をもっていることと予想していた。けれど、その目的が何であるかは、誰しもほとんど推察することができなかった。が、とにかく、彼の信念と自信だけは一目して明瞭であった。それに、彼がこの土地へ来てから、まだ間もないのに、――やっと三日かそこいらにしかならないのに、十分事件の真相をつきとめ、『微細にそれを研究した』らしいのを見て、人々は非常な満足を感じた。例えば、あとでみんな愉快そうに話し合ったことであるが、彼は機敏にも、検事側の証人にうまく『かまをかけ』、できるだけ彼らをまごつかしたばかりか、ことに彼らの素行に関する世評に泥を塗った。したがって、彼らの申し立てにもけちをつけたわけである。けれど、人人の目には、彼がこんなことをするのは遊戯のためである、いわば法曹界の名誉のためである、つまり、単に弁護士の常習手段を忘れないためである、と思われた。なぜなら、こんな『泥塗り』などでは、何ら決定的な利益をももたらし得ないということを、みなよく知っていたからである。それに、察するところ、彼自身もまた別にある計画を用意していて、すなわち別な弁護の武器を隠していて、時機を計って突然それを持ち出すつもりらしかったから、その辺の消息をよく承知していたに違いない。が、さしむき今のところ、彼は自分の実力を意識しながら、戯れたり、ふざけたりしているような形であった。
 例えば、以前フョードルの従僕を勤めていて、『庭の戸が開いていた』という、きわめて重要な申し立てをしたグリゴーリイ訊問の時など、弁護士は自分の質問の番になると、ぐっとグリゴーリイの懐ろ深く食い込んで放さなかった。ここで言っておかなければならぬことは、グリゴーリイが法廷の荘厳にも、大勢の傍聴者の列にも、いっかな悪びれる色もなく、いくぶんものものしく思われるほど落ちつきはらった態度を持して、法廷へ入って来たことである。彼は、妻のマルファと二人きりで話でもしているように、綽々として余裕のある態度で申し立てをした。ただ、いつもよりいくらか丁寧なだけであった。彼をまごつかすことはとうていできなかった。まず検事は彼に向って、カラマーゾフの家庭の事情を、詳細に亘って長々と訊問した。そこに家庭内の光景が鮮やかに描き出された。その話しぶりから言っても、態度から言っても、なるほどこの証人は素直で公平らしかった。彼は深い敬意をもって故主のことを申し述べたが、それでも、ミーチャに対するフョードルの態度はよくなかった、大旦那の『子供たちに対する養育の仕方は間違っていた』と言った。『あの人は、あの子は、もしわしというものがいなかったら、虱に食いころされてしまったこってしょうよ。』ミーチャの幼年時代を物語りながら、彼はこうつけ加えた。『また父親の身でありながら、現在息子のものになっている母方の財産を横領したのも、よいことじゃありません。』フョードルが息子の財産を横領したというには、一たいどんな根拠があるのか、こういう検事の訊問に対して、グリゴーリイは不思議にも一こう根底のある返答をしなかったが、それでもやはり、息子の財産相続に関する計算が『不正』であった、フョードルはどうしても息子に『まだ幾千ルーブリかを払わなけりゃならなかった』のだと主張した。ついでに言っておくが、その後、検事はこの訊問を、――フョードル・パーヴロヴィッチが実際ミーチャに対して払うべきものを払わなかったかという質問を、とくにしつこく繰り返して、訊けるだけの証人に、ひとり残らず訊いた。アリョーシャやイヴァンさえも除外しなかった。けれど、誰からも的確な返答を得ることができなかった。誰も彼も単にその事実を肯定するだけで、いくぶんでもはっきりした証拠を提供するものは誰一人なかった。それからグリゴーリイは、ドミートリイが食堂へ躍り込んで、父親を殴打したあげく、もう一ど出直して殺してやるぞと、嚇して帰った時の光景を物語った時、一種陰惨な空気が法廷に充ち渡った。それはこの老僕の落ちついて無駄のない、一風変った言葉で物語ったのが、かえって非常な雄弁となったからである。ミーチャがそのとき自分を突き倒したり、顔を殴ったりして侮辱したことについては、今はもうべつだん怒っていない、とっくに赦していると言った。死んだスメルジャコフのことを訊かれた時、彼は十字を切りながら、あれはなかなか器用な若い者だったが、馬鹿で病気に打ちのめされて、そのうえ不信心者であった。この不信心を教えたのはフョードルと、その長男だと申し立てた。ところで、スメルジャコフの正直なことは熱心に主張して、スメルジャコフがあるとき主人の紛失した金を見つけ出したが、それを隠そうともしないで、すぐ主人に渡したので、主人はその褒美に『金貨を与えて』、このとき以来、何事によらず彼を信用するようになった、と言った。庭から入る戸口が開いていたことは、彼はあくまで、頑固に主張した。が、彼に対する訊問はあまり多かったので、筆者は今すっかり思い出すことができない。
 最後に弁護士が訊問する番になった。彼はまず、フョードルが『ある婦人』のために三千ルーブルの金を隠したとかいう、例の封筒のことを調べにかかった。『君は自分でその封筒を見ましたか、――君はあれほど長い間、ご主人のそばについていたじゃありませんか』と問うた。グリゴーリイは、そんなものを見もしなければ、また『今度みんなが騒ぎだすまで』誰からも聞きもしなかったと答えた。フェチュコーヴィッチはまたこの封筒のことを、訊き得るだけの証人に残らず訊いた。そのしつこさは、ちょうど検事が財産分配のことを訊いたのと同じくらいであった。けれど、やはり誰からも、その封筒の話はよく聞きはしたが見たことはない、という返答しか得られなかった。弁護士がとくにこの訊問に執拗なことは、最初からすべての人が気づいていた。
「ところで、恐縮ですが、も一つ訊かしてもらえませんか」とフェチュコーヴィッチはだしぬけに訊いた。「予審での申し立てによると、君はあの晩寝る前に、腰の痛みを癒そうと思って、バルサム、すなわち煎薬をお用いになったそうですが、その薬は何を調合したものですか?」
 グリゴーリイは鈍い目つきで訊問者を見つめていたが、ややしばらく沈黙の後こう言った。
「サルヒヤを入れました。」
「サルヒヤだけでしたか? まだほかに何か思い出せませんか?」
「おおばこもありました。」
「胡椒も入ってたでしょう?」とフェチュコーヴィッチは、ちょっと好奇心を起してみた。
「胡椒も入っとりました。」
「まあ、そういったふうなものなんでしょう。で、それがみんなウォートカに漬けてあったのでしょう?」
「アルコールです。」
 傍聴席でくすくすという笑い声が微かに聞えた。
「それごらんなさい、ウォートカどころじゃない、アルコールさえ使ってるじゃありませんか。君はそれを背中に塗って、それから、おつれあいだけしか知らない、ある有難い呪文と一緒に、残りを飲んでしまったのでしょう、そうでしょう?」
「飲みました。」
「およそどのくらい飲んだのです? およそのところ? 盃に一杯ですか、二杯ですか?」
「コップ一杯くらいもありましたろう。」
「コップ一杯! 一杯半もあったかもしれませんね?」
 グリゴーリイは返事をしなかった。彼は何やら合点したらしかった。
「コップ一杯半のアルコールと言えば、――なかなか悪くありませんね。あなたはどう思います? 庭から入る戸口どころじゃない、『天国の戸が開いている』のさえ見えるでしょうよ?」
 グリゴーリイはやはり黙っていた。法廷にはまたくすくす笑う声が起った。裁判長はちょっと身動きした。
「ねえ、どうでしょう」とフェチュコーヴィッチはさらに深く食い込んだ。「君は庭から入る戸が開いているのを見た時、自分が眠っていたかどうか、はっきり憶えておられんでしょうな?」
「ちゃんと立っていましたよ。」
「それだけでは、眠っていなかった証拠にはなりませんよ(傍聴席にはふたたび盗み笑いが起った)。その時、もし誰かが君に何か訊いたとしたら、例えば、今年は何年かと訊いたとしたら、君はそれに答えることができたと思いますか?」
「それはわかりません?」
「では、今年は紀元何年ですか、キリスト降誕後何年ですか? ご存じですか?」
 グリゴーリイは、自分を苦しめる相手をじっと見つめながら、戸迷いしたような顔をして立っていた。彼は実際、今年が何年であるか知らないらしかった。それはちっと奇妙に感じられた。
「だが、君の手に指が幾本あるか、それは知っているでしょうね?」
「どうせわしは人に使われてる身分ですからね、」グリゴーリイは突然、大きな声で、一句一句切りながらこう言った。「もしお上がわしをからかおうとなさるのなら、わしはじっとこらえとるより仕方がござりません。」
 フェチュコーヴィッチはいくぶんたじろいだ様子であったが、そのとき裁判長が口を挟んで、もっとこの場合に適当した訊問をしてもらいたい、と弁護士に注意した。フェチュコーヴイッチはこれを聞くと、威厳を失わないように頭を下げて、自分の訊問は終ったと告げた。むろん、傍聴者や陪審員の間には、薬の加減で『天国の戸を見た』のかもしれないおそれがある上に、今年がキリスト降誕後何年であるか、それさえ知らないような人間の申し立てに対して、一脈の疑念が忍び込んだ。つまり、弁護士はともあれ自分の目的を達したわけである。が、グリゴーリイの退廷前に、もう一つの挿話が生じた。ほかでもない、裁判長が被告に向って、以上の申し立てについて、何か言い分はないかと訊いたとき、
「戸のことのほかは、みなあれの言ったとおりです」とミーチャは大声に叫んだ。「私の虱を取ってくれたことは、お礼を言います。殴ったのを赦してくれたこともお礼を言います。あの爺さんは一生涯正直でした。親父に対してはむく犬七百匹ほど忠実でした。」
「被告、言葉をつつしまなくてはなりませんぞ」と裁判長は厳めしく注意した。
「わしはむく犬じゃありませんよ」とグリゴーリイも言った。
「では、私がそのむく犬です、私です!」とミーチャは叫んだ。「もしそれが失敬なら、むく犬の名は自分で引き受けます。そして、あれには謝っておきます。私は獣だったから、あれにも残酷なことをしました! イソップにも残酷なことをしました。」
「イソップとは?」また裁判長は厳めしく訊いた。
「あのピエロです……親父です、フョードル・パーヴロヴィッチです。」
 裁判長はまたまた厳めしい語調で、言葉づかいに注意しなければいけないと、ミーチャにさとした。
「そんなことを言うと、君自身のためになりませんぞ。」
 弁護士は証人ラキーチンの訊問においても、同様の手腕を示した。ちょっと断わっておくが、ラキーチンは有力な証人の一人で、検事も彼に重きをおいていたことは疑いを容れない。彼はすべてのことを知っていた。驚くほどさまざまなことを知っていた。彼は誰の家にでも出入りして、何もかも見ていた、誰とでも話をしていた。フョードル・パーヴロヴィッチをはじめ、カラマーゾフ一家の経歴をも詳しく知っていた。もっとも、三千ルーブリ入りの包みのことは、ミーチャから聞いて知っているだけであったが、その代り、『都』という酒場におけるミーチャのとっぴな行動、すなわち彼を不利におとしいれるような言葉や動作を、詳しく述べたてたうえ、二等大尉スネギリョフの『糸瓜』事件をも物語った。しかし、財産配当について、フョードルがミーチャにいくらか借金していたか、どうかという特別な点については、ラキーチンもやはり何一つ申し立てることができず、ただ軽蔑するような語調で、『あの手合いのいい悪いを、誰が決めることができるものですか。あんなカラマーゾフ一流の混沌の中では、誰だって自分の位置を悟ることも、決めることもできやしませんよ。したがって、誰が誰に借りがあるかなんて、そんなことはとても計算できやしません』と、概論めいたことでごまかしたにすぎなかった。彼はまたこの悲劇の全体を農奴制度、および適当な制度の欠乏に苦しんで無秩序に沈湎《ちんめん》しているロシヤのさまざまな旧習の所産であると論じた。こうして、彼は滔々数千言を連ねた。この時はじめて、ラキーチン氏は自己を世に紹介して、多くの人に認められるようになったのである。検事は、証人ラキーチンがこの犯罪に関する一論文を、雑誌に発表しようとしていることを知っていたので、論告の際に(それはあとで書く)この論文中の一節を引用したほどである。つまり、前からこの論文を読んでいたわけである。ラキーチンが描き出した運命的に陰惨な光景は、十分つよく『有罪』を証明していた。全体としてラキーチンの叙述は、その思想が独創的、かつきわめて潔白高邁なために、すっかり傍聴者を魅了したのである。彼が農奴制度や、無秩序に苦しんでいるロシヤのことなど述べた時は、思わず二三の拍手さえ起った。けれど、なにしろまだ年が若いので、ラキーチンはちょっと失言をしてしまった。フェチュコーヴィッチは、すかさずそこにつけ込んだのである。ほかでもない、グルーシェンカについてある訊問に答える際、自分の答弁の成功と(彼はむろんそれを自覚していた)、高翔した気分につり込まれたラキーチンは、いくぶん彼女を軽蔑して、つい『商人サムソノフの囲い者』と言ってしまった。彼はその後、自分の失言を取り消すために、どれほど高価な代償をも惜しまなかったに相違ない。いかにフェチュコーヴィッチでも、こんな短時日の間にこうまで詳細に事件の裏面を探りつくしていようとは、ラキーチンといえども思いがけないことだったからである。
「ちょっとお訊ねしますが」と弁護士は訊問の番が廻って来ると、非常に愛想のいい、しかも慇懃な微笑を浮べながら言った。「むろんあなたは、地方教会本部で発行した『逝けるゾシマ長老の生涯』という小冊子の著者ラキーチン君でしょうね。私はあの深遠な宗教的思想に充ち渡って、高僧に対する気高い敬虔の念の溢れたご高著を、最近、非常な満足をもって読了しました。」
「あの書物は出版するつもりで書いたのじゃないんですが……とうとう印刷されてしまったので。」突然、何だか毒気を抜かれたような、ほとんど恥しそうな様子をしながら、ラキーチンはこう言った。
「いや、あれは立派な書物です! あなたのような思想家は、きわめて広い社会の、あらゆる現象を取り扱うことができますし、また取り扱わなければならないのです。長老猊下のご庇護によって、あの有益な著述は広く読まれて、また相当の利益をもたらしたことと思います……が、それよりも、一つあなたにお訊ねしてみたいと思うことがあるのです。あなたはたった今、スヴェートロヴァさんと大そう親密な間柄のようにおっしゃいましたね?」(Nota bene. グルーシェンカの姓は『スヴェートロヴァ』であることがわかった。筆者《わたし》はそれをこの日はじめて審理の進行中に知ったのである。)
「僕は自分の知人のすべてに責任を負うわけにゆきません……僕はまだ若いんですから……誰だって自分の会った人のことで、一々責任を負えるものじゃありませんからね。」ラキーチンは、いきなりかっとなった。
「わかっています、よくわかっています!」フェチュコーヴィッチは、何だか自分のほうでばつがわるくなって、大急ぎで謝罪しようとするように、こう叫んだ。「あの婦人は、当地の青年の粋ともいうべき人たちに、平素好んで接していたのですから、あなたもほかの人たちと同じように、ああいう若い美しい婦人と近づきになることに、興味をお持ちになったって、あえて不思議はないはずです。けれど……たった一つ確かめたいことがあるのです。われわれの聞くところによると、スヴェートロヴァは、二カ月まえに、カラマーゾフの末弟アレクセイ・フョードロヴィッチと知合いになることを熱望して、当時まだ修道院の服を着ていた彼を、そのまま自分の家へ案内してくれとあなたに依頼して、連れて来次第、すぐ二十五ルーブリの礼金を贈るという約束をしたそうですね。聞くところによると、その約束が取り結ばれたのは、ちょうどこの事件の基礎になっている悲劇の突発した夜だったそうですが、あなたは実際アレクセイ・カラマーゾフをスヴェートロヴァさんの家へ案内して、――そして、そのとき約束の案内料を、スヴェートロヴァから受け取られたそうですね? 私が訊きたいのは、つまりこれなんです。」
「そりゃ冗談ですよ……なぜあなたがこんなことに興味をおもちになるのか、僕にはその理由がわかりません。僕は冗談半分に受け取ったんです……あとで返すつもりで……」
「じゃ、受け取ったんですね。ですが、まだ今日までその金を返さないじゃありませんか……それとも、お返しになりましたか?」
「それはつまらないことですよ……」とラキーチンは呟いた。「僕はそういうお訊ねに答えるわけにゆきません……僕はむろん返します……」
 裁判長は口を挟んだが、このとき弁護士は、ラキーチン氏に対する訊問は終了したと告げた。ラキーチン君はいくらか名誉を穢されて、舞台をしりぞいた。彼の高邁な演説の印象は、少からず傷つけられたのである。フェチュコーヴィッチは、彼を目送しながら、聴衆に向って、『諸君の高潔なる弾劾者は、まあ、こんなものですよ』とでも言うようなふうつきであった。筆者の記憶するところでは、このときミーチャは、またもや一場の挿話なしではすまされなかった。グルーシェンカに対するラキーチンの口吻に激昂させられたミーチャは、とつぜん自分の席から『ベルナール』と叫んだ。ラキーチンの審問がすんで、裁判長が被告に向って、何か言うことはないかと訊いた時、ミーチャは声高に叫んだ。
「あいつめ、もうちゃんとおれから、被告のおれから金を借りて行きやがった! 軽蔑すべきベルナールめ! 策士め、あいつ神様を信じてないんだ。あいつは長老をだましやがったんだ!」
 むろんミーチャはまた乱暴な言葉づかいを注意された。しかし、ラキーチン氏はすっかり面目玉を潰してしまった。二等大尉スネギリョフの証明も不運に終った。が、それはぜんぜん別な理由のためであった。彼はぼろぼろの汚い服をまとい、泥まみれの靴をはいて、法廷へ現われた。そして、前からいろいろ注意され、『検査』されていたにもかかわらず、意外にもすっかり酔っ払っていたのである。ミーチャに加えられた侮辱を訊問された時、彼はとつぜん返答をこばんだ。
「あんな人たちなんかどうでもよろしゅうがすよ。わたくしは、イリューシェチカから止められていますので。神様があの世で償いをして下さるでしょう。」
「誰があなたに口止めしたのです? あなたは誰のことを言っているのです?」
「イリューシェチカです、わたくしの息子です。『お父さん、あいつは、お父さんをひどい目にあわしたのね!』と石のそばで言いましたよ。あの子はいま死にかかっています……」
 二等大尉は急に声を上げて泣きだしたかと思うと、裁判長の足もとにがばと身を投げた。彼は傍聴人の笑いに送られながら、すぐさま廷外に連れ出された。で、検事が傍聴人に与えようと企てた感銘は、まったくものにならなかった。
 しかし、弁護士は相変らずさまざまの方法を用いながら、事件を細かい点まで知悉していることによって、ますます傍聴人を驚かした。例えば、トリーフォン・ボリーソヴィッチの申し立てなどは、強い印象を与えて、もちろんミーチャにはなはだしい不利益をもたらした。彼はほとんど指折り数えるばかりにして、ミーチャが兇行の一カ月ばかりまえ、はじめてモークロエヘ行ったときにつかった金は、三千ルーブリを下るはずがないと述べたてた。よし三千ルーブリ欠けたところで、それは『ほんの僅かですよ。ジプシイの女たちにだけでも、どのくらい撒き散らしたかわかりゃしませんや! 虱のたかった村の百姓どもにさえ、「五十コペイカ玉を往来へ投げつける」どころじゃない、内輪に見つもっても、二十五ルーブリずつもくれてやったんですからね。それより少かありませんでしたよ。それに、あのとき土地の者が、どのくらいあの人の金を盗んだやら! 一ど盗んで味をしめたものは、決してやめるこっちゃありません。あの人が自分で振り撒くんですもの、盗人《ぬすっと》のつかまりっこはありませんや! まったく、村のやつらは盗人です、人間らしい心なんかもってやしませんよ。それに、娘たち、土地の娘たちに、どれだけの金が渡ったことやら! あのとき以来、土地のやつらは金持になりましたよ、以前は素寒貧でしたがね。』こういうふうに、彼はミーチャの出費を一々列挙して、算盤ではじいて見せぬばかりに述べたてたので、ミーチャの消費した金額が千五百ルーブリで、残金は守り袋の中へ入れておいたという仮定は、どうしても成り立たなくなった。『わっしはこの目で見たんでございます。あの人が三千ルーブリの金を握ってるところを、この目でちゃんと見ましたんで、わっしどもに金の勘定ができなくて、何としましょう!』と、トリーフォンは極力『お上』の気に入ろうと努めながら、こう叫んだ。
 ところが、弁護士の審問に移った時、彼はほとんどトリーフォンの申し立てを弁駁しようともせず、とつぜん主題を変えて、馭者のチモフェイと百姓のアキームが、ミーチャの最初の遊蕩の時、すなわち捕縛の一カ月まえにモークロエで、ミーチャが酔っ払って落した百ルーブリの札を玄関の床から拾い上げ、それをトリーフォンに渡したところが、トリーフォンは二人に一ルーブリずつくれたという事実に転じた。そして、『ところで、どうです、あなたはその時、その百ルーブリをカラマーゾフ君に返しましたか、どうです?』と訊ねた。トリーフォンははじめ言葉を左右にして、事実を否認していたが、チモフェイとアキームとが訊問されるにおよんで、ついに百ルーブリひろったことを白状した。ただし、金はそのときドミートリイに返した、『潔白にあの人に手渡ししたのだが、あの人はそのとき酔っ払っていたので、ことによったら、思い出せないかもしれません』とつけ加えた。しかし、彼は二人の百姓が召喚されるまで、百ルーブリの発見を否定していたのだから、酔っ払ったミーチャに金を返したというその申し立ては、自然はなはだ疑わしいものとなった。こうして、検事側から出した最も危険な証人の一人は、やはりきわめてうさんな人間と見なされ、面目を失って退廷したのである。
 二人のポーランド人もやはり同様であった。彼らは傲然と堂堂たる態度で出廷した。そして、まず第一に自分たちが『君主に仕えていた』こと、『パン・ミーチャ』が二人の名誉を買うために、三千ルーブリの金を提供したこと、ミーチャが巨額の金を握っていたのを、自分の目でちゃんと見たこと、――などを大きな声で証明した。パン・ムッシャローヴィッチは、話の中にたびたびポーランド語を挟んだが、それが幸い裁判長や検事の目に、自分をえらい者のように映じさせているらしいのを見てとると、しまいにはすっかり勇気を振い起して、全部ポーランド語で喋りだした。しかし、フェチュコーヴィッチは彼らをも自分の網に入れてしまった。ふたたび喚問されたトリーフォンは、いろいろ言葉を濁そうとしたが、結局パン・ヴルブレーフスキイが、彼の出したカルタを自分の札とすり換えたことや、パン・ムッシャローヴィッチが胴元をしながら、札を一枚ぬき取ったことなどを、白状しないわけにゆかなかった。これは、カルガーノフも自分の申し立ての際に確証したので、二人の紳士《パン》は人々の嘲笑を浴びながら、すごすごと引き退った。
 その後もすべての危険な証人たちは、ほとんどみなこういう憂き目にあった。フェチュコーヴィッチは、彼ら一人一人の面皮を剥いで、すごすごと引き退らせることに成功した。裁判通や法律家連は感心して見とれながらも、ほとんど確定したとさえ言えるような、こうした大きな罪状に対して、それしきのことが何の役にたつかと不思議がった。なぜなら、また繰り返し念をおしておくが、人々はみんな一様に、ますます絶望的に証明されてゆく犯罪の絶対性を、否応なしに感じたからである。しかし、彼らはこの『偉大な魔術師』の自信ありげな態度によって、彼がある期待をいだきながら、落ちつきはらっているのを見てとった。『こうした人物』がわざわざペテルブルグから来る以上、手を空しゅうして帰るはずがないからである。

[#3字下げ]第三 医学鑑定 一フントの胡桃[#「第三 医学鑑定 一フントの胡桃」は中見出し]

 医学鑑定も被告にとってあまり有利なものではなかった。それにまた(これはあとでわかったことだが)、フェチュコーヴィッチ自身も、あまりこの医学鑑定を当てにしていないようであった。もともとこの鑑定は、カチェリーナの希望によって、モスクワからわざわざ名医を呼び寄せたために、初めて成立したのであった。むろん、この鑑定のために、弁護が不利になるようなことは少しもなかった。いや、どうかすると、いくらか有利な点もあったのである。けれど、一方には医師の意見の齟齬から、多少滑稽なことがもちあがったりなどした。鑑定者は、モスクワから来たその名医と、土地の医師ヘルツェンシュトゥベと、若い医師のヴァルヴィンスキイであった。あとの二人は単に証人として、検事に召喚されて出廷した。最初に鑑定者として訊問されたのは、ヘルツェンシュトゥベであった。この医師は、禿げた胡麻塩頭に、中背で岩乗な骨格をした七十がらみの老人であった。彼はこの町で大へん人気があり、みなから尊敬されていた。心がけの立派な、性質の美しい、信心ぶかい人で、『ボヘミヤの兄弟』だか、『モラヴィヤの兄弟』([#割り注]清教徒に類する分離派の一つ[#割り注終わり])だかであった、――しかし、筆者も確かなことはわからない。彼はもう長くこの町に住んでいて、常に威厳をもっておのれを持していた。彼は善良で同情ぶかい性質だったので、貧乏な患者や百姓たちをただで治療してやったり、わざわざ貧しいあばら屋へ見舞いに出かけて、薬代さえ恵んでやったりした。けれど、彼は騾馬のように、ばかばかしく強情であった。何か一たん、こうと考えつくと、てこでも動かすことはできなかった。ついでに言っておくが、モスクワから来た医師が、この町へ着いてから二三日たつかたたぬうちに、医師ヘルツェンシュトゥベの技倆について、非常に侮辱的な批評をあえてしたということは、ほとんど町ぜんたいに知れ渡っていた。それはこうである。モスクワの医師は、二十五ルーブリ以上の往診料を取ったにもかかわらず、町内のある人々は非常に彼の来着を喜んで、金を惜しまずに、争ってその診察を乞うた。これらの患者は、彼が来るまで、みなヘルツェンシュトゥベの診療を受けていたので、モスクワの医師は到るところで、彼の診療ぶりに無遠慮な批評を加えたのである。しまいには、患者のところへ行くとすぐいきなり、露骨に『誰があなたをこんな台なしにしたのです、ヘルツェンシュトゥベですか? へっ、へっ!』などと訊くようになった。むろん、ヘルツェンシュトゥベはこのことをすっかり知っていた。こういう状態で、三人の医師が審問を受けるために、かわるがわる出廷した。ヘルツェンシュトゥベは、『被告の心的能力が変態であることは自明の理です』と申し立てた。次に、彼は自分の意見を述べて(ここではそれをはぶく)、この変態性は、第一、過去における被告のさまざまな行為によって証明されるばかりでなく、今この瞬間にも歴然たるものがあると言いたした。今この瞬間とはどういうことか、その理由を説明するように要求せられた時、老医師は持ちまえの単純な性格から率直にこう述べた、――被告は先刻、法廷に入って来る際、『状況にふさわしくない、妙な様子をしていました。彼は兵隊のような歩き方をしながら、目をじっとまともに据えていました。ところが、本来、婦人たちの腰かけている左のほうを見なければならんはずなのです。なぜかと言えば、彼は非常な女性の憧憬家ですから、いま婦人たちがどんなふうに自分を見ているだろうと。必ず考えなけりゃならんはずですからな』と、老人は独得な語調でこう結論した。この際、ちょっとつけ加えておかなければならないことがある。彼は好んでロシヤ語を用いたが、しかしどういうわけか、その一句一句がドイツ流になってしまうのであった。が、決してそのために臆するようなことはなかった。彼は常に自分のロシヤ語を模範的なもの、すなわち『ロシヤ人の中でも最も優れた言葉』と考える弱点をもっていたからである。彼はロシヤの諺を引用するのが大好きで、しかもそのつど、ロシヤの諺は世界じゅうの諺の中で一ばん立派な、一ばん表情的なものだとつけ加えるのであった。もう一つ言っておくが、彼は話の中についうっかりして、ごく普通の言葉さえ忘れることがたびたびあった。よく知っている言葉でも、突然どわすれして出て来ないのであった。もっとも、ドイツ語で話をする時でも、やはりそういうことがしょっちゅうあった。そういう時、彼はまるで忘れた言葉を捉まえようとでもするように、いつも自分の顔の前で手を振った。そうなると、もうどんな人でも、そのど忘れした言葉を捜し出すまでは、彼に話をつづけさせることができなかった。被告が入廷する際、婦人たちのほうを見るべきはずであったという彼の申し立ては、傍聴席にふざけたような囁きを呼び起した。この土地の婦人たちはみなこの老医師を非常に愛して、彼が敬虔で潔白な独身者であり、女性を一だん高尚な理想的存在と見ていることを知っていたので、思いもよらぬこの申し立てをはなはだ奇異なものに感じたのである。
 自分の番が廻って審問された時、モスクワの医師は被告の精神状態を、『極度に』アブノーマルなものと見なす旨を、強くきっぱり断言した。彼は『感情発作《アフェクト》』と『偏執狂《マニヤ》』について、種々もっともらしい言葉を述べた後、蒐集した多くの材料によって、被告は捕縛の数日前から、すでに疑いなき病的 affect におちいっていたので、彼がもし実際兇行を演じたとすれば、たとえそれを意識していたにせよ、ほとんど不可抗的に行ったのである。すなわち、彼は自分を支配している病的な精神衝動と戦う力をぜんぜん欠如していたのである、と論断した、が、彼は affect 以外に、mania をも認めた。彼の言葉にしたがうと、その mania は純然たる狂気におちいることを、前もって予言していたのである。(Nota bene. 筆者《わたし》は自己流の言葉で語っているが、実際、医師は非常に学術的な専門的な言葉で説明したのである。)『彼のすべての行動は常識と論理に反しています』と彼はつづけた。『私は自分の実見しないこと、すなわち犯罪そのもの、兇行そのものについては述べませんが、現に三日前、私と話をしている時でさえ、被告の目はじっと据っていて、そこに一種説明しがたいものが現われていました。彼は、ぜんぜん不必要な場合に笑ったり、絶えず不可解な興奮状態におちいったり、「ベルナール」とか、「倫理《エチカ》」とか、その他ぜんぜん必要のない、奇妙なことを口走ったりしました。』しかし、医師は被告の mania を認めるおもな理由として、つぎの点を挙げた。ほかでもない、彼が欺き取られたものと思い込んでいる三千ルーブリを口にするたびに、一種異常な興奮を示さないことがない、しかるに、その他の失敗や恥辱について語る時はいたって平静である。また最後に、彼は三千ルーブリのことにふれるたびに、必ず夢中になるほど激昂するが、しかし人々は彼の無欲淡泊を証明している、と述べた。『学識ある同輩の意見によれば、』終りに臨んでモスクワの医師は皮肉らしくこうつけ加えた。『被告が法廷へ入る際、婦人席のほうを見るべきであるにもかかわらず、そうせずに、正面を見ていたということでありますが、私はこれについて、ただこれだけ言っておきましょう、――そういう断案は滑稽であるばかりか、根本的に間違っています。なぜと言って、被告が自分の運命の決せられる法廷へ入る場合、あんなふうにじっと自分の正面を見るはずはない、それは実際この瞬間、彼が精神の常態を失っていた徴候であるという説には、私もまったく賛成しますが、それと同時に、むしろ被告が左側の婦人席のほうでなしに、かえって右側の弁護士のほうを物色すべきはずであったと断定します。なぜならば、彼はいま何よりも弁護士の援助に希望を繋いでいるからであります。この場合、彼の運命は、全然この人に左右されているのではありませんか。』
 医師は自分の意見を大胆かつ熱心に述べた。けれど、最後に訊問された医師ヴァルヴィンスキイの思いもよらぬ結論は、二人の博学な鑑定者の意見乖離に、独得な滑稽味を添えた。ヴァルヴィンスキイの意見によると、被告は今も以前も同じように、まったく通常の精神状態にあるとのことであった。もっとも、捕縛される前には実際、非常な神経的興奮状態におちいっているべきはずであったが、それはきわめて明瞭な多くの原因、すなわち嫉妬、憤怒、不断の泥酔状態などから生じたものと言うことができる。しかし、この神経的興奮状態は、いま論ぜられたような特別の affect を毫も含んでいるはずがない。また被告が入廷の際、左を見なければならないとか、右を見なければならないとかいう問題については、彼の『貧弱な意見にしたがうと、』被告はその場合、実際の状況が示したように、必ず正面を見るのが当然である。なぜかと言うに、この際、彼の全運命を左右する裁判長や他の裁判官たちが、正面に腰かけていたからである。『ですから、彼が正面を見ながら入廷したということは、すなわちその瞬間、彼の精神状態がまったく普通であったことを証明するわけであります』と若い医師はいくぶん熱をおびた調子で、こう自分の『貧弱』な証明を結んだ。
「ドクトル、大出来!」とミーチャは自席から叫んだ。「まったくそのとおり!」
 むろんミーチャは制止された。けれど、若い医師の意見は、裁判官にも傍聴人にも最も決定的な影響を与えた。それはあとでわかったことだが、みんな彼の意見に同意だったからである。が、今度はすでに証人として訊問せられたヘルツェンシュトゥベが、まったく思いがけなく、ミーチャに有利な証言を与えた。この町の古い住人として、昔からカラマーゾフの家庭を知っていた彼は、有罪説を主張する側にとって、非常に興味のある幾つかの申し立てをした後、こう言いたした。
「けれど、この憫れな若者は、もっと比較にならぬほど立派な運命をうけてもよいはずだったのであります。なぜなら、この人は子供の時分にも、成人の後にも、立派な心をもっていたからであります。私はそれを知っています。だが、ロシヤの諺に、『知恵者が一人あるのはよい、けれど知恵者がもう一人客に来るとなおよい。なぜなら、その時は知恵が一つでなくて二つになるから』とこう言ってあります……」
「知恵は結構、しかし二人の知恵はなお結構でしょう」と、検事はもどかしそうに口を挾んだ。のろのろと長たらしい口調で話をして、聴き手の退屈には一こうおかまいなく、かえって馬鈴薯のような鈍いひとりよがりのドイツ式警句を過度に尊重する老人の習慣を、彼はもうずっと前から知っていたのである。老人は警句を吐くのが好きであった。
「ああ、さよう、さよう。私の言うのもそれと同じであります」と彼は頑固に引き取った。「一人の知恵は結構だが、しかし二人ならはるかに結構であります。けれど、この人のところへはほかの知恵が行かなかったので、この人は自分の知恵をそのまま使ってしまったのです……ところで、一たいあの人は自分の知恵をどこへ使ったのでしょう? ええと、どこだったか……私はちょっと、その言葉をどわすれしました。」自分の目の前で片手を振り廻しながら、彼はこう語りつづけた。「ああ、そうそう Spazieren.」
「遊蕩でしょう?」
「ええ、そうです、遊蕩です。だから、私もそう言っとるのであります。あの人の知恵は遊蕩に使われました。そして、とうとう深いところへはまり込んで、路を迷ってしまったのです。ですが、この人は恩義を感ずる情の深い青年でしたよ。ああ、私はこの人がまだこんな子供だった時分を、よく憶えておりますが、父親からまるで面倒を見てもらえないで、靴もはかずに、ボタンの一つしかつかないズボンをはいて、地べたを駈けずり廻っておりました……」
 この潔白な老人の声には、とつぜん感情的なしみじみした語調が響いた。フェチュコーヴィッチは何か予感したように、ぶるっと身ぶるいすると、すぐその話に吸い寄せられた。
「ああ、そうです、私もその時分はまだ若かったものです……私は……ええ、そうです、私はその時分四十五歳で、ちょうどこの町へ来たばかりでした。私はその時この子が可哀そうになりましてな、この子に一|斤《フント》買ってやってならんというわけがあろうかと、こう考えました……ええと、何を一フントだったかな。何といったか忘れてしまった……それは子供の大好きなものです、何だったかな……ええと、何だったかな……」と医師はまた手を振った。「それは木に生るもので、それを集めて子供らにやるものであります……」
「林檎ですか?」
「い、い、いーや! フント、フント。林檎は十、二十と数えるでしょう、フントとは言いません……いいや、何でもたくさんあるものですよ。みんな小さいもので、口の中に入れて、かりかりっと咬み割るものです!………」
「胡桃ですか?」
「ええ、そう、その胡桃です、だから私もそう言ってるのです。」医師は、すこしも言葉など忘れてはいなかったというように、落ちつきはらってこう言った。「私は一フントの胡桃をその子に持って行ってやりました。なぜなら、その子は一度も誰からも一フントの胡桃をもらったことがないのですからな。私が指を一本立てて、子供よ! Gott der Vater([#割り注]父なる神[#割り注終わり])と言いますと、向うも笑いながら Gott der Vater と言いました。私が Gott der Sohn([#割り注]子なる神[#割り注終わり])と言いますと、子供は笑って Gott der Sohn と廻らぬ舌で言いました。私が Gott der heilige Geist([#割り注]聖霊なる神[#割り注終わり])と言うと、その子はやっぱり笑って、やっとどうにか Gott der heilige Geist を繰り返しました。それで私は帰りました。三日目に私がそばを通りかかりますと、その子は大きな声で、『小父さん、Gott der Vater, Gott der Sohn』と言いましたが Gott der heilige Geist を忘れていましたので、教えてやりました。私はまたその子が可哀そうでたまりませんでした。が、その後、子供はよそへ連れて行かれて、それからついぞ見かけませんでした。そのうちに二十三年の月日がたちました。ある朝、もう白髪頭になってしまった私が、自分の書斎に坐っておりますと、突然ひとりの血気さかんな若者が入ってまいりました。私はそれが誰なのか、どうしてもわからなかったのですが、その界は指を上げて笑いながら Gott der Vater, Gott der Sohn und Gott der heilige Geist. 僕は今この町へ帰るとすぐ、一フントの胡桃のお礼にまいりました。あの時分たれ一人[#「たれ一人」はママ]僕に一フントの胡桃をくれるものもなかったのに、あなただけは、一フントの胡桃を下すったのです』とこう言いました。そのとき私は、自分の幸福な若い時代と、靴もはかずに外を駈けずり廻っていた不幸な子供を思いだしました。すると、私の心臓はどきっとしました。私はこう言いました、――お前さんは恩義を忘れぬ青年だ、お前さんは子供の時分にわしが持って行ってやった、一フントの胡桃を憶えていたのか、こう言って私は、この人を抱いて祝福しました。私は泣きだしました。この人も泣きながら笑いました……ロシヤ人は泣かなければならぬ場合に、よく笑うものであります。とにかくこの人は泣きました。それは私が見ました。ところが、今は、ああ!………」
「今だって泣いています、ドイツ人さん、今だって泣いていますよ。あなたは神様のような人です!」と急にミーチャは自分の席から叫んだ。
 何といってもこの小さな逸話は、傍聴人にある快い印象を与えた。しかし、ミーチャにとって最も有別な効果を生み出したのは、カチェリーナである。が、このことはあとで述べよう。それに、全体として 〔a` de'charge〕([#割り注]被告に有利な[#割り注終わり])証人、すなわち弁護士の申請した証人が、取り調べられるようになってから、運命は急に冗談でなくミーチャに微笑を見せた。それはまったく、弁護士にとってすら思いもうけぬことであった。けれど、カチェリーナの前に、まだアリョーシャの訊問が行われた。しかも、アリョーシャは突然ある一つの事実を思い起して、ミーチャの有罪を認めしむる重大な一要点に、きわめて有力な反証をあげたのである。

[#3字下げ]第四 幸運の微笑[#「第四 幸運の微笑」は中見出し]

 それはアリョーシャ自身にとってさえ、まったく思いもうけぬことであった。彼は宣誓なしに呼び出された。筆者《わたし》の記憶しているかぎりでは、検事側も弁護士側も、最初から優しい同情をもって彼に対した。前から彼の評判がよかったことはすぐ想像された。彼は謙遜に控え目に申し立てたが、その申し立ての中には、不幸な兄に対する熱い同情が波打っていた。彼はある質問に答えながら、兄の性格を述べ、ミーチャは乱暴で、情熱に駆られやすい人間かもしれないが、しかし同時に高潔で、自尊心が強く、寛大で、人から求められれば、自己を犠牲にすることさえ辞せないていの人であると言った。もっとも、兄が近来グルーシェンカに対する情熱と、父親との鞘当てのために、言語道断の状態におちいっていたことは、彼もこれを認めた。兄が金を奪う目的で父親を殺したという仮定は、憤然として否定したが、しかし、この三千ルーブリがミーチャの心の中で、ほとんど一種の mania になっていたことや、兄がこの金を父親に詐取された遺産の一部と思っていたことや、淡泊な兄でさえ、この三千ルーブリのことを口にするたびに、憤激と狂憤を禁じ得なかったことなどは、アリョーシャも認めないわけにゆかなかった。検事のいわゆる二人の『婦人』、すなわちグルーシェンカとカーチャの競争については、なるべく答えを避けるようにした。そして、一二の訊問に対しては、全然こたえることを欲しなかった。
「少くともあなたの兄さんは、お父さんを殺そうと思っていると、あなたに言ったことがありますか?」と、検事は訊いた。「もし答える必要がないとお思いになったら、答えなくってもいいのです」と彼はつけ加えた。
「あからさまに言ったことはありません」とアリョーシャは答えた。
「じゃ、どういうふうにですか? 間接にですか?」
「兄は一度、私に向って、自分は親父に個人的な憎しみをいだいている、と言ったことがあります。兄は悪くすると……嫌悪の念が極度に達した場合……父を殺さないものでもないと言って、自分でもそれを恐れていました。」
「あなたそれを聞いて信じましたか?」
「信じたとは申しかねます。けれど、私はいつもそういう危険に瀕した時、ある高遠な感情が兄を救うだろうと信じていました。また実際そのとおりだったのです。なぜって、私の父を殺したのは兄じゃない[#「兄じゃない」に傍点]のですから。」アリョーシャは法廷ぜんたいに響き渡るような声でこう断言した。
 検事はラッパの音を聞きつけた軍馬のように、ぶるぶると身ぶるいをした。
「私はあなたの信念が、まったくあなたの衷心から出たものであることを信じます。私はあなたの信念に条件をつけることもしないし、またそれを不幸な兄弟に対する愛と混同することもしません。それはあなたもぜひ認めておいていただきたいのです。あなたの家庭に勃発した悲劇に対するあなた独得の見解は、すでに予審の時から承知しております。露骨に言いますと、あなたの見解は非常に特殊なもので、検事局の集めた他の一切の陳述とぜんぜん矛盾しています。で、くどいようですが、いかなる根拠によって、そういう考え方をされるようになったのみか、進んで下手人は別な人間、つまり、あなたが法廷で公然と指定された人であって、あなたの兄さんは無罪であるいう[#「無罪であるいう」はママ]、断乎たる信念に到達されたのか、それをお訊ねする必要があるのです。」
「予審ではただ訊問にお答えしただけで」とアリョーシャは落ちついた小さな声で言った。「自分からスメルジャコフを告訴したわけじゃありません。」
「が、それにしても彼を犯人として指名されたでしょう?」
「私は兄ドミートリイの言葉として彼を挙げたのです。私は訊問を受ける前に、兄の捕縛された時の様子や、そのとき兄自身がスメルジャコフを名ざしたことなど聞いていたものですから。私は兄に罪がないことをまったく信じます。したがって、もし下手人が兄でないとすれば……」
「その時はスメルジャコフですか?……なぜほかの人でなくて、スメルジャコフなんです! それに、なぜあなたはどこまでも兄さんの無罪を信じるのですか?」
「私は兄を信じないわけにゆきません。兄が私に嘘など言わないことを、私はようく知っています。私は兄の顔つきで、兄の言うことが嘘でないと知ったのです。」
「ただ顔つきだけで? それがあなたの証拠の全部なんですか?」
「それよりほかに証拠をもちません。」
「では、スメルジャコフが犯人だということについても、兄さんの言葉と顔つき以外に少しも証拠はないのですか?」
「そうです、ほかに証拠はありません。」
 これで検事は訊問を中止した。アリョーシャの答えは、傍聴者の心にきわめて幻滅的な印象を与えた。すでに裁判が始まる前から、スメルジャコフについては町でさまざまな風評があった。誰それが何を聞いたとか、誰それがしかじかの証拠を挙げたとか、そういうような取り沙汰が行われていたのである。アリョーシャに関しても、彼が兄のために有利となり、下男の罪を明らかにする有力な証拠を集めたという噂があった。ところが、意外にも、被告の実弟として当然な精神的信念のほか、何一つ証拠をもっていないとは。
 しかし、やがてフェチュコーヴィッチも訊問を始めた。いつ被告がアリョーシャに向って父に憎悪を感じるとか、親父を殺すかもしれないなどと言ったか? また彼がそれを聞いたのは、椿事勃発まえの最後の面会の時であったか? こういう弁護士の問いに対して、アリョーシャはとつぜん何か思い出して考えついたように、ぶるぶるっと身ぶるいした。
「私は今一つあることを思い出しました。自分でもすっかり忘れていましたが、あの時はっきりわからなかったものですから。ところが、今……」
 こう言って、アリョーシャはいま突然ある観念に打たれたらしく、一夜、修道院へ帰る途中、路端の樹のそばで、ミーチャに出くわしたときのことを熱心に物語った。その時ミーチャは自分の胸を、『胸の上のほう』を叩きながら、おれには自分の名誉を回復する方法がある、その方法はここに、この自分の胸にあると、繰り返し繰し返しアリョーシャに言った……『そのとき私は、兄が自分の胸を打ったのは、自分の心臓のことを言ってるのだと思いました』とアリョーシャはつづけた。『兄の目前に迫っている、私にさえ言うことのできない、ある恐ろしい悪名からのがれる力を、自分の心の中に見いだし得る、――こういうのだろうと私は思いました。私は正直なところ、そのとき兄が言っているのは、父のことだと思ったのです。父に暴行を加えようとする念が起るのを、恐るべき恥辱として戦慄しているのだと思いました。ところが、兄はその時、自分の胸にある何ものかを指そうとするようなふうつきをしました。で、今になって思い出しますが、私はその時、心臓はそんなところにありゃしない、もっと下だという考えが、ちらりと心にひらめきました。けれど、兄はもっと上のここいら辺を、頸のすぐ下を叩いて、しきりにそこのところをさして見せました。私はそのとき馬鹿なことを考えましたが、ことによったら、兄はその時、例の千五百ルーブリを縫い込んだ、あの守り袋をさしていたのかもしれません!」
「そうだ!」突然ミーチャは自席から叫んだ。「まったくそうだよ、アリョーシャ、そうだよ、あのとき僕は拳でその守り袋をたたいたんだ。」
 フェチュコーヴィッチは慌てて彼のそばへ駈け寄って、静かにするように頼むと同時に、貪るような調子でアリョーシャに根掘り葉掘りした。アリョーシャは一生懸命に当時のことを思い浮べつつ、熱心に自分の想像するところを述べた。兄がそのとき悪名と考えたのは、きっとカチェリーナに対する負債の半額千五百ルーブリを、彼女に返さないで、ほかのこと、つまりグルーシェンカが承知したら、彼女を連れ出す費用にあてようと決心した、そのことをさしたものに違いない。
「そうです、きっとそうに違いありません。」アリョーシャは興奮して、だしぬけにこう叫んだ。「兄はそのとき私に向って、恥辱の半分を、半分を(兄は幾度も、『半分!』と言いました)、今すぐにでも取り除けることができるんだが、意志の弱い悲しさにそれができない……自分にはできない、それを実行する力のないことが、前もってわかっているんだ、とこう叫びました!」
「では、あなたは兄さんが自分の胸のここんところを打ったことを、しかと憶えていらっしゃるのですか?」とフェチュコーヴィッチは貪るように訊いた。
「しかと憶えております。なぜって、そのとき私は、心臓はもっと下にあるのに、なぜ兄はあんな上を打つのだろうと、不思議に思ったからです。そして、その時、自分で自分の考えの馬鹿げていることを感じたからです……私は自分の考えが馬鹿げていると感じたのを、今に記憶しております……そうです、そういう考えがちらりと頭にひらめきました。だからこそ、私はいま思い出したのです。どうして今までそれを忘れていたのでしょう! 実際、兄があの守り袋をたたいたのは、ちゃんと恥辱をそそぐ方法があるのに、しかもこの千五百ルーブリを返さない、というつもりだったのです! それに、兄はモークロエで捕まった時、――私は知っています、人から聞いたんです、――負債の半分を(そうです、半分です!)カチェリーナさんに返して、あのひとに対して泥棒にならないですむ方法をもっていながら、やはりそれを返そうともせず、金を手ばなすくらいなら、いっそあのひとから泥棒あつかいされたほうがましだと思ったのは、自分の生涯で最も恥ずべきことだったと叫んだそうです。ですが、兄はどんなに苦しんだでしょう! この負債のためにどんなに苦しんだことでしょう!」こう叫んで、アリョーシャは言葉を結んだ。
 けれど、むろん、検事が口を挟んだ。彼はアリョーシャに向って、その時のことをもう一ど言ってくれと頼んだ。そして、彼告が本当に何か指すような工合に自分の胸を打ったのか、あるいは単に拳で自分の胸を打ったまでのことではなかったか、と、繰り返し繰り返しうるさく訊いた。
「いいえ、拳ではありません!」とアリョーシャは叫んだ。「指でさしたのです。恐ろしく高いところ、ここんところをさしたのです……まあ、どうして私は今までこれを忘れていたのでしょう!」
 裁判長はミーチャに向って、今の申し立てについて、何か言うことはないかと訊ねた。彼はそれに対して、まったくそのとおりであった、自分は頸のすぐ下の胸に隠しておいた千五百ルーブリの金を指さしたのだ、むろんこれは恥辱であったと言った。『その恥辱は否定しません、あれは私の生涯の中で、最も恥ずべき行為でした!』とミーチャは叫んだ。『返すことができたのに返さなかったのです。泥棒になってもいい、金を返すまいと、その時わたしは思ったのですが、何よりも最も恥ずべきことは、おそらく返さないだろうと、自分で前もって知っていたことです! 実際、アリョーシャの言ったとおりです! アリョーシャ、有難う!』
 これでアリョーシャの訊問は終った。が、たった一つでもこうした事実が発見されたのは、重大な特筆すべきことであった。とにかく、小さいながらも一つの証拠が発見されたわけである。それはただ証拠の暗示にすぎないが、それでもやはり実際あの守り袋があって、その中に千五ルーブリ[#「千五ルーブリ」はママ]入っていたということも、被告が予審の際モークロエで、その千五百ルーブリは『私のものです』と言い張ったのも、嘘ではなかったという証拠として、ほんのいくらかでも役に立った。アリョーシャは喜んだ、彼は顔を真っ赤にして、指定された席へ退いた。彼は長いこと口の中で、『どうして忘れていたんだろう! どうしてあれを忘れていたんだろう! どうしてやっと今はじめて思い出したんだろう!』と繰り返していた。
 カチェリーナの訊問が始まった。彼女が姿を現わすと同時に、法廷の中には、異様などよめきが起った。婦人たちは柄つき眼鏡や双眼鏡を取り出した。男たちももぞもぞ身動きしはじめた。中にはよく見ようとして立ちあがるものもあった。人々はあとになって、彼女が現われるやいなや、突然ミーチャが『ハンカチ』のように真っ蒼になった、と言い合った。彼女はすっかり黒衣に身を包んで、つつましやかに、ほとんどおずおずと、指定の席へ近づいた。彼女が興奮していることは、その顔色でこそ察しられなかったが、決心の色は黒みがかった目の中にひらめいていた。ここに特記すべきことは、この瞬間、彼女が非常に美しく見えたことである。これはあとで人々が異口同音に断言したところである。彼女は小声ではあるが、しかし法廷ぜんたいへ聞えるように、はっきりと陳述を始めた。彼女は落ちついて口をきいた。少くとも、落ちつこうと努めていた。裁判長は慎重な態度をもって、『ある種の琴線に』触れるのを恐れでもするように、そして、この大不幸に十分の敬意を払いつつ、鄭重に訊問を始めた。けれど、カチェリーナは提出された質問の一つに対して、多言を待つまでもなく、自分は被告と婚約の間柄であった、と答えた。『あの人が自分からわたしを見棄てるまで』と彼女は小声に言い添えた。彼女が親戚のものに郵送してくれと、ミーチャに託した三千ルーブリのことについては、『わたしぜひとも必ず郵送してもらおうと思って、あの人にお金を渡したのではございません。わたしはその時……その瞬間に……あの人が大へんお金に困っているということを感じておりましたので、もしなんなら、一カ月間くらい融通してあげてもいいと考えて、あの三千ルーブリを渡したのですから、あとであの借金のために、あんなに心配なさる必要はなかったのでございます。」ときっぱり言い切った。
 筆者《わたし》はすべての問題を一々詳しく物語るまい。ただ、彼女の申し立ての根本の意味だけを述べるにとどめよう。
「わたしは、あの人がお父さんからお金を受け取りさえすれば、すぐにお送り下さることと固く信じておりました」と彼女はつづけた。「わたしはどんな場合にも、あの人の無欲と潔白とを信じておりました……金銭上のことでは、まったくこの上ない潔白な方でございますから。あの人はお父さんから三千ルーブリ受け取ることができると固く信じて、たびたびわたしにもその話をしました。あの人がお父さんと不和だということも、わたしはよく知っておりました。そして、あの人がお父さんにだまされているのだといつもそう信じていました。あの人がお父さんを嚇すようなことを言ったかどうか、少しも憶えていません。少くとも、わたしの前では、嚇しめいたことを一度もおっしゃいませんでした。もしあの時わたしのところへいらっしゃれば、三千ルーブリのための苦労なんか、安心させてあげるのでしたが、あの人はその後、わたしのところへいらっしゃらなかったのでございます……ところが、わたしは……わたしは自分のほうから呼ぶことができないような立場におかれたものですから……それに、わたしはあの人から返金を要求する権利を、少しも持っていなかったのでございます。」彼女は突然こうつけ加えた。その声には決然たる響きがこもっていた。「わたしはある時あの人から、三千ルーブリ以上のお金を借りたことがございます。それも、返すことができそうな目あてもないのに、貸していただいたのでございます……」
 彼女の音調には、一種挑戦的な響きが感ぜられた。この時フェチュコーヴィッチが、代って訊ねる番になった。
「それは近頃のことではなくって、あなた方が知合いになられた最初の頃でしょう?」フェチュコーヴィッチはたちまち、何かある吉左右[#「吉左右」はママ]を予感して、用心ぶかく、そろそろと探り寄るように、こう口を挟んだ。(括弧をして言っておくが、彼はほとんどカチェリーナの手でペテルブルグから招聘されたのだが、ミーチャがかつて向うの町で、彼女に五千ルーブリ与えたことや、あの『額を地につけての会釈』などは、少しも知らなかったのである。彼女はこの話を彼に隠していた。これは驚くべきことである。彼女は最後の瞬間まで、法廷でこの話をしたものかどうかと決しかねて、何かある霊感を待っていたのだ、とこう想像するのが確かである。)
「そうです、わたしは一生、あの瞬間を忘れることができません!」と彼女は語り始めた、彼女は何もかも[#「何もかも」に傍点]物語った。かつてミーチャがアリョーシャに話した例の挿話も、『額を地につけての会釈』も、その原因も、自分の父親のことも、自分がミーチャのもとへ行ったことも、残らず語ってしまった。しかし、ミーチャがカチェリーナの姉を通して、『カチェリーナ自身で金を取りに来るように』と申し込んだことは、一ことも言わなかった。彼女は寛大にも、このことを隠したのである。
 そのとき彼女は自分のほうから発作的に、何ごとか予期しながら……金を借りるために若い将校のところへ駈けつけた、とこういうふうに、いささかも恥じる色なく語った。これは実に、魂を震撼するような出来事であった。筆者《わたし》にひやひやして、身ぶるいしながら聞いていた。人々は一言も聞きもらすまいと鳴りをしずめ、法廷は水を打ったように静まり返った。一たいこれは例のないことであった。彼女のような我意の強い、軽蔑にちかいほど傲慢な女が、こういう正直な告白をしたり、こんな犠牲を払ったりしようとは、ほとんど思いもよらなかったのである。しかも、これは何のためであろう? 誰のためであろう? それは、自分に心変りした侮辱者を救うためであった。たとえ僅かでも、彼のためになるようないい感銘を人々に与えて、彼を救おうとするためであった。実際、なけなしの五千ルーブリ、――自分のために残った金を全部、惜しげもなく与えて、無垢な処女の前にうやうやしく跪拝した将校の姿は、確かに同情すべきものであり、魅力に富んでいたが……筆者の心臓は痛いほど縮みあがった! 筆者はあとで蔭口が始まりそうな気がしたのである!(あとで始まった、まさに始まった!)その後、町じゅうの人々は、毒々しい笑いをもらしながら、将校が『うやうやしく平身低頭しただけで』娘を帰したというところは、どうも当てにならぬようだ、と言い合った。人々はそこに『何かが省略されている』ことを仄めかした。『たとえ省略されていないにしても、よしんばあのとおりであったにせよ』と、当地で最も尊敬されている貴婦人たちは、こう言った。『よしんば父親を救うためにしたところで、処女としてそんな真似をするのは、あまり立派なこととも言えませんねえ。』あんなに聡明で、病的なくらい敏感なカチェリーナが、こんな噂をされることに、前もって気がつかなかったのだろうか? きっと気がついていたに相違ない。が、それにもかかわらず、すっかり[#「すっかり」に傍点]言ってしまう決心をしたのである! むろん、カチェリーナの物語の真相に関する、こうした穢らわしい疑念はあとで起ったことで、初めて聞いた時には、みなただ異常な震撼を与えられたのである。裁判官側のほうについて言うと、彼らは敬虔の色を浮べ、彼女のために羞恥さえ感じながら、黙って聞いていた。検事はこの問題について、一言もあえて訊こうとしなかった。フェチュコーヴィッチはうやうやしく彼女に一礼した。ああ、もう彼はほとんど勝ち誇ったようであった。彼は多くのものを獲得した。高潔な発作に駆られて、なけなしの五千ルーブリを与えた人が、あとで三千ルーブリを奪う目的で父親を殺したとは、どうしてもそこに辻褄の合わない点があった。フェチュコーヴィッチは、少くともこの場合、金を奪ったという事実を否定することができた。『事件』は急にある新しい光に照らされた。ミーチャに対する一種の同情ともいうべきものが閃めいた。彼は……彼はカチェリーナの申し立ての間に、二三ど席をたったが、またベンチに腰をおろして、両手で顔を蔽うた、と人々は後に物語った。しかし、彼女が申し立てを終った時、彼は突然そのほうへ両手をさし伸べながら、歔欷に充ちた声で叫んだ。
「カーチャ、なぜ僕を破滅さすんだ!」
 彼はこう言って、法廷ぜんたいに聞えるほど声高に慟哭したが、たちまち自己を制して叫んだ。
「もう僕は宣言された!」
 彼は歯を食いしばり、両手を胸に組み合せ、化石したように腰かけていた。カチェリーナはなお法廷に居残って、指定の椅子に腰をおろした。彼女は真っ蒼な顔をして、さしうつむいていた。そばにいたものの語るところによると、彼女は熱病にでもかかったように、長い間ぶるぶる慄えていたそうである。次にグルーシェンカが呼び出された。
 筆者《わたし》の物語は、次第にかの大椿事に近づいて来た。それはとつぜん破裂して、実際ミーチャを破滅さしたかのように思われた。なぜと言うに、筆者の信ずるところでは、いや、法律家もみんなあとでそう言っていたが、もしあの挿話さえなかったら、被告は少くとも、いくぶんか寛大な処置を受けたかもしれないからであるが、このことは後まわしにして、まずグルーシェンカのことを一口いおう。
 彼女もやはり黒い服を着け、例の見事な黒いショールを肩にかけて、法廷へ現われた。彼女は、よく肥った女がするように、軽く体を左右へ揺りながら、右も左も一切向かないで、じっと裁判長を見つめながら、ふらふら宙に浮んででもいるように、足音も立てず、手摺りのほうへ近づいた。筆者の目には、その瞬間、彼女が非常に美しく見えた。あとで婦人たちが言ったように、決して蒼い顔などしていなかった。婦人たちは、彼女が思いつめたような、毒々しい顔つきをしていたと言うが、筆者に言わせれば、彼女はただ醜い騒ぎに餓えた傍聴者の、ものずきな軽蔑したような視線を、重苦しく体に感じて、そのためにいらいらしていたのだと思う。彼女は傲慢な軽蔑にたえきれない性質であった。誰かに軽蔑されていないかと疑うだけで、もうかっとして反抗心に燃え立つ、そういうたちの女であった。けれど、同時に、むろん臆病でもあり、そして内々この臆病を恥じる心持もあった。それゆえ、彼女の申し立てにむらがあるのは当然だった。ある時は怒気をおびていたり、ある時は軽蔑したような調子で、度はずれに粗暴になるかと思うと、急に心の底から自分の罪を責めなじるような響きが聞えたりするのであった。時によると、『どうなったってかまやしない、言うだけのことを言ってしまう』といったような棄て鉢の口のきき方をすることもあった。フョードルと知合いになったことについては、『そりゃくだらないこってすわ、あの人のほうからつきまとったんですもの、わたしの知ったことじゃありません』ときっぱり言うかと思えば、すぐそのあとから、『みんなわたしが悪いのです。わたしは両方とも、――お爺さんもこの人も、――からかって馬鹿にしていたんです、そして、二人をこんな目にあわせたんですの。何もかもわたしから起ったことですわ』とつけ加えるのであった。何かの拍子で、問題がサムソノフにふれたとき、『そんなことが何になります』と彼女はすぐにずうずうしい、挑戦的な口調で歯を剥いた。『あの人はわたしの恩人ですよ。あの人は、わたしが両親に家から追い出された時、跣のままでわたしを引き取ってくれたんですよ。』けれども、裁判長は非常に慇懃な言葉で、余事に走らず直接問いに答えるようにと彼女をさとした。グルーシェンカは顔を赤くして、目を輝かした。
 金の入った封筒は彼女も見なかった。ただ、フョードルが三千ルーブリを入れた何かの封筒を持っている、ということを、あの『悪党』から聞いただけである。『だけど[#「『だけど」はママ]、そんなことはみんなばかばかしい話ですわ。わたしはただ笑ってやりました。あんなところへどんなことがあったって行くものですか。」[#「ですか。」」はママ]
「今あなたが『悪党』と言ったのは誰のことです?」と検事は訊いた。
「下男のことです。自分の主人を殺しておいて、きのう首を縊ったスメルジャコフのことです。」
 むろん、すぐにそれに対して、何を根拠にそうきっぱり断定するか、と訊かれたが、やはりべつに何の根拠もなかった。
「ドミートリイさんがそう言ったんです。あなた方もあの人の言うことを本当になさいまし。あの邪魔女があの人を破滅させたんですわ。何もかも、あの女がもとなんです、あの女が。」憎悪のあまり身ぶるいでもするように、グルーシェンカはこうつけ加えた。彼女の声には毒々しい響きが聞えた。
 彼女はまたしても、それは誰のことかと訊かれた。
「あのお嬢さんです、そのカチェリーナさんです。あのひとはあの時、わたしを呼びよせて、チョコレートをご馳走して、そそのかそうとしたんです。あのひとは本当の恥ってものを知らないんですわ。まったく……」
 こんどは裁判長も厳めしく彼女を制して、言葉を慎しむようにと言ったけれど、彼女の心はもう嫉妬に燃え立っていた。彼女はほとんど棄て鉢になっていた……
「モークロエ村で被告が捕縛された時に」と検事は思い出しながら訊いた。「あなたが別室から駈け出して来て、『みんなわたしが悪いのです、一緒に懲役へ行きましょう!』と叫んだのを、みんな見もし聞きもしましたが、してみると、あなたはそのとき被告を親殺しだと信じていたんですな?」
「わたしはあの時の心持をよく憶えていません」とグルーシェンカは答えた。「あの時みんながかりで、あの人がお父さんを殺したって騒ぐもんですから、わたしは、これというのも、みんな自分が悪いのだ、自分のためにあの人がお父さんを殺したのだ、という気がしましたの。けれど、あの人から、自分に罪はないと聞いて、すぐそれを信じてしまいました。今でも信じています、いつまでも信じます。あの人は嘘を言うような人じゃありません。」
 フェチュコーヴィッチが訊問する番になった。筆者《わたし》は彼がラキーチンのことや、二十五ルーブリのことなど訊いたのを記憶している。「あなたは、アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフを連れて来たお礼として、ラキーチンに二十五ルーブリおやりになったそうですね?」と彼は訊いた。