『ドストエーフスキイ全集 第12巻 カラマーゾフの兄弟』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P334-P357

か、人間の同胞的団結とかいう思想が、だんだん世の中に湮滅していって、今ではほとんど冷笑をもって迎えられるようにさえなった。実際、みずから案出した無数の欲望を満足させることにのみ馴れた囚われたる人間が、どうして自分の習慣から離れることができよう、そうして、どこへ行くことができよう? 孤独の中に閉じ籠った人間にとって、一体としての人類などということに何の用があり得ようぞ。かくして、ついに物質を蓄えると同時に喜悦を失う、という結果に到達したのである。
 僧侶の歩む道は、これとまったく異っている。人々は服従や精進や、進んでは祈祷さえ冷笑するが、しかしこれらのものの中にのみ、真の自由に到る道が蔵されているのである。われらは、無用の欲望を切りはなし、自尊心の強い倨傲な意志を服従によって鞭うち柔らげ、神の助けを借りて精神の自由と、それにつれて、内心の愉悦を獲得するのである! 両者のうち、はたしていずれが偉大なる理想を高揚し、毅然としてこれに仕える資質を、多分に有しているであろう、――孤独の中に籠居する富者か、または、この物質と習慣の暴力より遁れた人[#「遁れた人」に傍点]であろうか? 僧侶はしばしば孤独のために非難せられる。『貴様は自分一人を救うために、僧院の壁の中に蟄居して、人類に対する同胞的奉仕を忘れたではないか。』とはいえ、はたして誰が同胞相愛により多く努力しているか、それは少したったらわかることである。なぜなれば、孤独の中に籠居するのはわれらでなくして、かえって彼ら自身であるのに気がつかぬからである。
 われら僧侶の中からは昔より、人民のために活動した人が多く出ている。今とても、そういう人がないはずはない。同じように謙虚、温順なる禁欲と沈黙の行者が、奮然と起って偉大なる事業に赴くであろう。ロシヤの救いは民衆にある。しかるに、ロシヤの僧院は昔から民衆の道づれであった。もし民衆が孤独の中に籠れば、われらもまた孤独の中に籠るであろう。民衆はわれわれと同じように信じているが、ロシヤにおける信仰なき事業家は、たとえ熱情ある心と、天才のごとき智能を有するとも、何らなすことなくして終るのである。これは記憶すべきことである。やがて、民衆が無神論者を迎えてこれを征服し、一体として結合せる正教のロシヤが出現する時が来るであろう。われらはすべからく民衆を守り、民衆の心を秘蔵せねばならぬ。静寂の中に守り立てねばならぬ。これが諸師の志すべき僧侶としての功業である。なぜならば、彼らは神を孕める民衆だからである。

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(F) 主従について 主従は精神上相互に兄弟たり得るか[#「(F) 主従について 主従は精神上相互に兄弟たり得るか」は太字]
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 しかし、悲しいことには、世間の言うとおり、民衆にも罪がある。腐敗の焔は目に見えて刻々勢いを増してゆく、これはすべて上層から移って来たのである。民衆の中にも孤独のふうが始まった。富農《クラーク》や百姓泣かせの連中がぽつぽつ頭を持ちあげだした。今は商人すらだんだん尊敬を求めるようになって、少しも教育のないくせに、教養ある紳士を気どろうとする。そうして、いまわしくも、これがために、古くからの風習をないがしろにし、祖先の信仰すら恥じるようになった。彼らは公爵家などへ出入りするけれども、要するに、そこなわれたる百姓にすぎぬのである。民衆は、飲酒のために糜爛していながら、しかもそれを捨てることができない。そして、家族の者に対し、――妻や子供に対して、残酷な所行が多くなってゆく。それもこれも、すべて酒のためである。
 余は工場で十くらいの子供をよく見受けた。みんな痩せひょろけてよわよわしく、背中を曲げている。しかも、すでに放逸の味を知っているではないか。息苦しい建物、かしましく響く機械、終日の労働、猥雑な言葉、そうして酒また酒、――ああ、このようなものが幼い子供の魂に入り用であろうか? いな、彼らに必要なのは太陽である、無邪気な遊戯である。何でもよい、輝かしい手本は到るところに見いだされる。とにかく。たとい一滴たりとも、彼らに愛情を寄せるものがなくてはならぬ。敬愛すべき諸師よ、こういうことのないように、こうした小児に対する残虐の跡を絶つように、一刻も早く奮起して道を説かねばならぬ。しかし、神はロシヤを救って下さるであろう。なぜなれば、いかに民衆が堕落して、悪臭芬々たる罪業を脱することができぬとしても、彼らは神が自分の罪業を呪っておられる、自分はよからぬ行いをしている、ということも承知しているからである。わが国の民衆はまだまだ一生懸命に真理を信じている。神を認めて感激の涙を流している。
 ところが、上流社会の人は全然それと趣きを異にしている。彼らは科学に追従して、おのれの知恵のみをもって正しい社会組織を実現せんとしている。もはや以前のごとくキリストの力を借ろうとせず、もはや犯罪もない罪業もないと高言している。もっとも、彼らの考え方をもってすれば、それはまったくそのとおりである。なぜなれば、神がない以上、もう犯罪などのあろう道理がない! 西欧の民衆は暴力をもって資本階級に反抗している。そして、その領袖は到るところ彼らを血へ導きながら、『お前たちの憤慨はもっともだ』と教えている。しかし、彼らの憤慨は残酷なるがゆえに、呪うべきものである。これに反して、ロシヤはこれまでしばしば経験したように、神の救いを受けるに相違ない。救いは民衆からも出て来る、民衆の信仰と謙譲からも出て来る。諸師よ、民衆の信仰を守護するのが肝要である。これは決して空想ではない。余は一生の間、わが偉大なる民衆の蔵している真実にして光輝ある稟性に、感嘆の情を禁じ得なかった。余は自分で見たから、これを証明することができる。真実、見て驚嘆したのである。わが民衆の悪臭芬々たる罪業や、乞食にひとしい境遇にもかかわらず、余の確かに認めたところである。
 彼らは決して卑屈でない、しかも、これが二百年の隷属時代をへた後である。また彼らは外形においても応対においても自由である。しかも、その中には何らの侮辱感もふくまれていない。その上、復讐や羨望の念がいささかもない。『お前さんはえらいお方だ、お前さんには金がある、知恵がある、才能がある、――いや、結構なことだ、神様が祝福して下さるであろう。わたしはお前さんを尊敬する。が、わたしは自分も人間だということを承知している。それゆえ、わたしは羨むことなくお前さんを尊敬して、それによって、自分の人間としての品格をお前さんに見せているのだ。』よし本当にこう言わないとしても(実際、彼らはまだこう言う力がない)、こういうふうに自分で行動[#「行動」に傍点]している。余は親しくこれを実見した、余は親しく経験した。諸師は信じられるかどうかわからぬが、わがロシヤの民は貧賤の度がはなはだしければはなはだしいだけ、それだけこの偉大なる真理をよけいに蔵しているのである。なぜなれば、彼らのうちでも金のある富農《クラーク》や百姓泣かせの連中は、すでに大多数堕落しているからである。これは主として、われわれの不注意、不行届きから起ったことである!
 しかし、神は自分の赤子《せきし》を救って下さるに相違ない、なぜならば、ロシヤの偉大はその謙抑に存するからである。余は空想の中にわが国の未来を見る。いや、もう現に明らかに見えるような思いがする。すなわち、最も堕落せる富者さえも、ついにはおのれの富を恥ずるようになる。すると、貧者はこのへりくだった態度を見て、その心持を理解して彼に譲歩し、悦びと愛をもってその美しき羞恥に答えるであろう。まさしくかような結果を見るに相違ない。大勢はこの方向をさして動いている。平等というものは、ただ人間の精神的資質の中に存在するのみであって、これを理解するのはわがロシヤばかりである。はじめ兄弟があれば、そのうちにやがて四海同胞も実現される。四海同胞の実現されるまでは、人々はとうてい円満にすべてのものを頒ち合うことができない。キリストの姿を保存しておけば、やがて貴いダイヤモンドのように全世界に輝き渡るであろう……アーメン、アーメン!
 諸師よ、余はかつて感動すべき事件に遭遇した。諸国を遍歴している頃、あるとき県庁所在地のK町で、もとの従卒アファナーシイに出会ったのである。その時は一別以来すでに八年たっていた。彼は市場でふと余を見つけて走り寄り、夢中になって悦んで余に飛びかかった。『これはまあ、旦那さまではありませんか? 本当に旦那にお目にかかれたのでありましょうか?』と言って、余を自分の家へ引っ張って行った。彼はもう予備役で、結婚して、幼い子供を二人まで儲けていた。要とふたり市場でささやかな露店商をし、口すぎしているのであった。部屋の中は貧しいけれど、さっぱりして、悦びに充ちていた。彼は余を席に着かしてサモワールを出したり、妻を呼びにやったりして、まるで余が姿を現わしたために、何か祭りでも始まったような工合であった。彼は子供らを余のそばへ連れて来て、
『旦那さま、どうぞ祝福してやって下さいまし。』
『わしに祝福などできるものか?』と余は答えた。『わしはつまらぬ一介の僧だから、その子供たちのことを、神様にお祈りしてあげよう。ところで、アファナーシイ、わしはあの日から毎日お前のことを神様に祈っておる。なぜと言って、一切の起りはお前なのだから。』余はできるだけよくわかるように、あの事件を説明して聞かせた。ところが、どうだろう、彼はじっと余の顔を見つめていた。もと彼のために主人であり、将校であった人が、今このような姿をして、このような着物をきているわけが、どうしても合点ゆかなかったのである。彼はついに泣きだした。
『お前はどうして泣くのだ。ああ、お前はわしにとって忘れがたい人だ。さあ、どうかわしのために悦んでくれ、わしの行手は悦ばしい光に充ちておるのだから』と余は言った。彼はあまり口数をきかなかったが、絶えず感嘆の声を放ちながら、さも有難そうに頷いて見せるのであった。
『一たいあなたさまの財産は、どこへおやりになったのでございます?』と彼は訊いた。
『お寺へ納めてしまった。われわれは共同生活をしているのだからな』
 茶を飲み終って、余は一同に別れを告げた。そのとき彼はお寺へ寄進するのだと言って、急に五十コペイカの金を余にさし出し、またその上に、もう一つの五十コペイカ銀貨を余の手に握らした。そして、慌てたような調子で、
『これはあなたさまに、諸国遍歴の旅人としてさしあげます。また何かのお役に立たぬともかぎりません。』余はその銀貨を受け取ると、夫婦のものに一礼して、悦ばしい気持で外へ出た。そして、道々こんなことを考えた。
『きっと今頃は二人とも(あれは自分の家に坐っているし、わたしはまた道を歩きながら)、神様の不思議なお引き合せを考えて、楽しい心持で首を振りながら、にこにこ笑ったり、溜息をついたりしていることだろう。』
 それから、余は一度もこの男に会ったことがない。余はこの男のために主であり、この男は余にとって従であるけれど、二人が胸に感激をいだきながら愛情をこめて接吻した時、二人の間には偉大な人間同士の結合が実現されたのである。余はこのことをいろいろと思いめぐらしたが、今では次のような考えをいだいている。『この偉大にして醇朴なる結合が、やがて到るところ、わがロシヤ人の間に実現せられるという想像は、はたして人間の知恵のおよばないことであろうか? いやいや、余は実現されることを信じている。しかもその時は近づいている。』
 ここで余は下僕《しもべ》について、こうつけ加えようと思う。余はかつて少年のころ召使に対して、しばしば腹を立てたものである。それは、女中が熱いものを食べさしたとか、従卒が服にブラシをかけなかったとか、いうような理由である。しかし、幼いころ小耳に挟んだ愛兄の思想が、そのとき突然、余の心を照らした。『一たいおれは他人を自分に奉仕させたり、貧しくて教育がないからといって、他人をこき使ったりする値うちがあるのかしらん?』そのとき余はこれほど簡単明瞭な考えが、脳裡へ浮び出ることのあまりに遅かったのに、自分ながら驚いたほどである。俗世においては下僕なしで過すことはできないが、しかし自分の家の召使に、彼らが召使でなかった時より以上に自由の精神を持たせるようにするがよい。召使のために召使となって、召使自身にもこのことを心づかせ、主人側よりは何らの不遜もなく、召使側よりは何らの不信もないようにすることが、どうして不可能なのであろう? 召使を親類同様に考えて、悦んで家族の中へ入れるのが、どうして不可能なのであろう? これは今でも実行し得べきことであって、なおその上に、未来の壮麗なる結合の基ともなるものである。その時は人間も今日のように自分の下僕《しもべ》を捜したり、自分と同じ人間を下僕にしようと望んだりせず、かえって福音書の教えにしたがって、一生懸命に自分からすべての人の下僕になろうと努力するであろう。そうして、最後に、人間は今日のごとく残酷な快楽、――貪婪と、淫欲と、傲慢と、自尊と、羨望に充ちた競争などでなく、光明と慈善の功業の中にのみ悦びを見いだすようになる。これははたして空想であろうか? いな、余は確かに空想でない、時はすでに近きにありと信ずる。人は『いつその時が来るのですか、そして、ほんとうに来るらしい様子がありますか?』と笑いながら訊ねる。しかし、余らはキリストとともにこの偉業を成就するものと考えている。実際、この地上には、人類の歴史の中には、僅か十年ばかり前までとうてい不可能とされていた理想が、神秘なる時機の到来とともに、突如かしらを持ちあげて、全地球上を席巻したためしは無数にあるではないか。
 わが国においてもそれと同様に、民衆が全世界に向ってその輝きを示し、世界の人をして『建築師の不用となしたる石も、今や重要なる一隅の礎石となれり』と嘆ぜしめるに相違ない。余は嘲笑者に向って逆にこう質問したい。『もしわれわれの考えが空想であるとすれば、あなた方がキリストの力を借らずに、自分の知力一つで建てようとしておいでになる建築は、一たいいつ落成するのでしょうか? いつ公平な社会を組織なさるのでしょうか?』もし彼らが、それはまるで違っている、自分たちこそ、かえって人類の結合を目ざして進んでいるのだ、などと断言するならば、これを心底から信ずるのは、仲間の中でも最も頭の単純な人たちばかりであろう。余はただその単純さに一驚を喫するのみである。実際、空想的分子はわれらよりも彼らのほうに多いのである! 彼らは公平な社会を組織するつもりでいるが、キリストを否定したために、全世界へ血を流すような結果を見るに相違ない。なぜなれば、血は血を呼ぶからである、剣を抜いたものは剣で斃れるからである。
 こういうわけで、もしキリストの誓いがなかったら、人間は互いに仲間同士滅ぼしあって、地上に最後の二人しか残らなくなるであろう。この二人さえも傲慢な性情のために互いに助けあうことができず、最後の一人が相手のものを滅ぼして、ついには自分自身をも滅ぼさなければやまないであろう。もし『このことは謙虚、温順なるもののために容易となるべし』というキリストの誓いがなかったら、事実そのとおりになったかもしれない。余は例の決闘後まだ軍服を着けていた時分に、社交界でこの下僕《しもべ》のことを説き始めた。すると、今でも覚えているが、みな余の言葉にびっくりして、『じゃ、何ですか、わたしたちは下男を長椅子に坐らして、自分でお茶を持って行ってやらなくちゃならないんですか?』と言った。その時、余はこれに答えて、『そうしたっていいじゃありませんか、ほんのときどきでもね。』しかし、当時みなは一笑に付してしまった。彼らの問いも軽薄なものであったし、余の答えもすこぶる曖昧ではあったが、その中にも、そこばくの真理があると思う。

[#4字下げ](G) 祈祷 愛 他界との接触[#「(G) 祈祷 愛 他界との接触」は太字]

 若者よ、決して祈祷を忘れてはならぬ。お前の祈りのたびごとに(もしその祈りが真心より出たものならば)、新しい感情がひらめくであろう。その感情の中に、これまで知らなかった新しい思想が生れてきて、なんじに力を賦与するであろう。こうしてお前は、祈祷が教育であることを悟るに相違ない。もう一つ覚えておかねばならぬことがある。ほかでもない、毎日、暇のあるたびに、『神よ、今日みくらの前に召されたる人々を憫みたまえ』と心の中で念ずるのだ。なぜというに、毎時毎時、いや、一刻一刻、数千の人が地上の生活を捨てて、その霊魂が神の大前へ召されて行く、――彼らの中の多数は、悲哀と憂悶の中に淋しく人知れずこの土と別れて行くのである。しかも、誰ひとりとしてそれを憫れむものもなく、そのような人が生きていたかどうか、それすら知っているものもない。その時、こういう人の後生を弔うお前の祈りが、地球のまるで反対の側《がわ》から神のみくらをさして昇って行く。お前とその人が互いに知りあっておらぬとしても、何の障りもないことである。恐怖をいだいて神の大前に立った人の霊魂は、自分のようなもののためにも祈ってくれる大がある、自分のようなものをも愛してくれる人が地上のどこかに残っていると思っただけで、その瞬間に感激の情を覚えるであろう。それに神様もお前たち二人をなお一そう、慈悲ぶかい目をもって眺めて下さるに相違ない。実際、お前でさえそれほど憫れみを持っているのだから、お前よりも無限に慈悲ぶかくお優しい神様が、なおさら憫れんで下さるのは当然ではないか。神様はお前のためにその人をも赦して下さるに相違ない。
 諸師よ、人間の罪を恐れてはならぬ。罪あるままの人間を愛すべきである。なぜなれば、これはすでに神の愛に近いもので、地上における愛の頂上だからである。あらゆる神の創造物を、全体としても部分としても、一様に愛さればならぬ。一枚の木の葉、一条の日光をも愛さねばならぬ。動物を愛し、植物を愛し、あらゆる事物を愛すべきである。あらゆる事物を愛すれば、やがてそれらの事物の中に神の秘密を発見するであろう。一たびこれを発見すれば、もはやその後は毎日毎日、次第次第に、いよいよ深く味わってゆくのみである。こうして、ついには円満無碍の宇宙的な愛をもって、全世界を愛し得るようになる。人はまた動物を愛さねばならぬ。彼らは神より思想の源と、平穏なる喜悦とを授かっているからである。彼らを苦しめ悩まし、彼らより喜悦を奪いなどして、神のみ心に逆ってはならぬ。人間は動物の上に立って君臨すべきものでない。なぜなれば、彼らが無垢の身であるに反して、人間は偉大なる資質を行していながら、おのれの出現によってこの土を腐敗させ、その腐爛した足跡を残してゆくからである、――しかも、悲しいかな、われわれは千人が千人ことごとくそうなのである! 子供はとくに愛さればならぬ。それは、彼らが天使のごとく無邪気で、われらの心の歓びと浄めのために生き、なおその上に、われらに対する指標ともなるからである。子供を辱しめるものは禍いである。元来、余はアンフイーム師に子供を愛することを教えられた、師は無口な優しい人であるが、余と同行《どうぎょう》遍歴の際も、恵まれた銅貨で薑餅《しょうがもち》や氷砂糖を買って、よく子供らに分けてやったものである。師は子供らの傍らを通り過ぎる時、心の顫えを感じずにいられない人である。
 われらはある種の思念に対してしばしば疑惑を感ずる。他人の罪を見た時はことにそうである。『この人は力をもって捕えるべきか、それとも謙抑な愛をもって虜にすべきであろうか?』と自問する。しかし、いつでも、『謙抑な愛をもって虜にしよう』と決めなければならぬ。一たんこう決心して、生涯変ることがなければ、全世界をも征服することができる。愛を伴なう謙抑は恐ろしい力である。あらゆる力の中でも最も強いもので、他にその比がないくらいである。毎日、毎時、毎刻、自分の周囲をめぐって、自分の心の姿が常に美しくあるように気をつけねばならぬ。例えば、幼い子供の傍らを通り過ぎる時、憎々しそうな様子をして、口汚い言葉を放ち、腹立たしい心をいだいていたら、たとえ自分のほうでは子供に気がつかぬとしても、子供はちゃんと見てとるに相違ない。そうして、その醜い穢れた姿が頼りない子供の胸に、いつまでも彫りつけられるかもしれない。つまり、自分のほうでは気もつかぬ間に、子供の心に悪い種を投げたことになる。そうして、その種が次第に大きくなってゆくのである。それというのも、子供の前で慎しみを忘れたからである。用心ぶかい実行的な愛を自己の中につちかわなかったからである。
 諸師よ、愛は教師である。しかし、これを獲得する方法を講じなければならぬ。なぜなれば、愛の獲得はきわめて困難であって、高い価を払い、長い間の努力をもって、ようやく購われるものだからである。実際、愛は瞬間的のものでなく、長いあいだ持続するものでなければならぬ。偶然的な愛し方は誰にでもできる。悪人にでもできる。余の若い兄は小鳥に赦しを乞うた。これはぜんぜん無意味なようであるが、しかし実際は正しいことなのである。なぜというに、一切は大海のようなものであって、ことごとく相合流し相接触しているがゆえに、一端に触れれば他の一端に、世界の果てまでも反響するからである。よしや小鳥に赦しを乞うのが気ちがいじみているとしても、もし人が現在のままよりほんの少しばかりでも美しくなったら、小鳥や子供やその他すべての動物は、それだけ心持が軽くなるに相違ない。繰り返して言うが、一切は大海のようなものである。もしこれを悟ったなら、人は宇宙的な愛の悩みを感じながら、――何ともいえぬ歓喜の情をいだきながら、小鳥に向って祈祷するようになるであろう。小鳥に向って自分の罪を赦してくれと、祈るようになるであろう。たとえほかの人の目にはいかに無意味に見えようとも、この歓喜の情を尊重しなければならぬ。
 諸師よ、神に愉悦を乞わるるがよい。小児のごとく、また空飛ぶ鳥のごとく、心を楽しく持たるるがよい。自分の仕事におよぼす他人の悪にも、決して苦しめられてはならぬ。他人が自分の仕事を穢して、その完成を妨げようとも、決して恐れることはない。『悪が強い、不正が強い、穢れたる周囲が強い。それだのに、われわれは力弱く頼りないから、穢れたる周囲に侵されて、自分の事業を完成することができない』などと言ってはならぬ。こうした心弱さを避けなくてはならぬ! この場合、ただ一つの救いは、自分の体を捧げて、人間のあらゆる罪悪の責任者とすることである。それは真実そのとおりである。なぜと言うに、真心からおのれをあらゆる罪悪の責任者と感ずるやいなや、それはまったくそのとおりであるということを、ただちに会得するからである。自分は万人に対して罪があるということを悟るからである。しかるに、自己の怠惰と無気力を他人の罪に帰する人は、ついにサタンの倨傲に同化し、神に対して怨嗟をもらすようになる。余はサタンの倨傲ということを、次のように考えている。すなわち、この倨傲は地上において理解しがたいものであるから、油断するとたちまち迷誤におちいって、これと同化するような結果になりやすい。しかも、その中に一種偉大にして美的なものがふくまれている、とまで考えるものが多いのである。こういうふうに、人間本性の強烈な感情や運動の中にも、地上で理解のできないものが数多くあるから、この事実が何か自分の過失の言いわけになるなどと、迷った考えを起してはならぬ。永久の審判者たる神様は、人間が理解し得たことを審問せられるので、理解し得なかったことを裁かれるのではないのである。これは自分でもなるほどと会得するであろう。その時はすべてを正しく眺めるようになって、もはや言い争おうとしない忙相違ない。地上におけるわれわれは、事実、迷妄におちいっているかのように思われる。それゆえ、もし貴きキリストの姿がわれわれの目前になかったら、ちょうど大洪水前の人類のように、われわれは取り返しのつかぬ迷いに踏み込んで、ついには滅亡してしまったかもしれぬ。
 この地上においては、多くのものが人間から隠されているが、その代りわれわれは他の世界、――より高い世界と生ける連結関係を有しているという、神秘な貴い感覚を与えられている。それに、われわれの思想、感情の根元はこの地になくして、他の世界に存するのである。哲学者が事物の本質をこの世で理解することは不可能だというのは、これがためである。神は種を他界より取ってこの地上に播き、おのれの園を作り上げられたのである。こうして、成長すべきものは成長し、成長したものは現に生活している。しかし、それは神秘なる他界との接触感のみによって生活しているのである。もし人間の内部にあるこの感情が衰えるか、それともまったく滅びるかしたならば、その人の内部に成長したものも死滅する。その時は人生に対して冷淡な心持になり、はては人生を憎むようにさえなる。余はこのように考えている。

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(H) 人は同胞の審判者たり得るか? 最後までの信仰[#「の信仰[#「(H) 人は同胞の審判者たり得るか? 最後までの信仰」は太字]
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 人間は何人の審判者となることもできない。これはとくに記憶すべきことである。なぜなれば、審判者が、『自分も目の前に立っている人間と同じような犯人である。いな、むしろこの人間の犯罪に対して、自分こそ最も重い責任があるのだ』と認めないかぎり、この地上に犯人の審判者というものは存在し得ないのである。この理を悟った時、初めて審判者となることができる。これは一見したところ、いかにも気ちがいじみた言葉ではあるが、動かすべからざる真理なのである。実際、自分が正直であったなら、いま自分の前に立っている犯人は生じなかったかもしれない。もし人が彼の前に立って、彼の心のままに審判さるる犯人の罪を、みずから負うことができるならば、猶予なくそれを実行して、みずから犯人のために苦しみ、犯人は何らの譴責もなく赦してやるがよい。よし国法によって審判を命じられたのであろうとも、なお事情の許すかぎり、この精神をもって行動するがよい。こうすれば、犯人は法廷を去った後、他人の審判よりさらに苛烈に、自分で自身を裁くであろう。もし犯人が審判官の接吻に対して何らの感動をも覚えず、かえってこれを嘲笑しながら立ち去ろうとも、決して迷いを起してはならぬ。これはつまるところ、まだ彼の時が来ないのであって、来べき時には必ず来るにちがいない。また来ないとしても同じことである。もし彼が悟らなければ、その代りにほかの者が悟って苦しむであろう。そうして、自分で自分を責めるに相違ない。すると、真理は充されることになるのである。人はこれを信じなければならぬ、必ず信じなければならぬ。この中に古聖の希望も信仰も、ことごとく蔵せられているからである。
 たゆみなく働くがよい。よる眠りについた時、『自分はなすべきことをはたさなかった』と思いいたったなら、すぐさま起き出してそれをはたさねばならぬ。また自分の周囲の人たちがことごとく意地わるい冷酷な人間であって、自分の言葉に耳を傾けてくれなかったら、彼らの前に倒れで赦しを乞うがよい。なぜなれば、自分の言葉に耳を傾けさせ得なかったのは、事実、自分に罪があるからである。もし相手が憤激したために説き諭すことができぬならば、無言のまま恥を忍んで彼らに奉仕するがよい。しかし、決して望みを失ってはならぬ。もしすべての人が自分を見捨てた上、無理無体に自分を追い払ったならば、その時はただ一人になって大地に倒れ、土のおもてに接吻して、涙で土をうるおすがよい。さすれば、土はその涙からみのりを与えてくれるであろう。よしやその淋しい自分の姿を、誰ひとり見聞きしなくとも、結果は同じである。最後まで信ぜよ。たとえ地上におけるすべての人が堕落して、信あるものは自分一人になってしまおうとも、残れる唯一人たる自分が贄を捧げて、神を讃美すればよいのである。もし、そのような人が二人めぐりあったなら、それでもはや全き世界が、――生ける愛の世界が出現したのであるから、感激の情をもって相抱擁し、神を讃美せねばならぬ。なぜなれば、僅か二人きりであるけれど、神の真理が実現されたからである。
 またかりに自分で罪を犯したとする、もしそれが数かさなるさまざまな罪にもせよ、心ならず犯したただ一つの罪にもせよ、死ぬまでもそのことを悔い悲しむような場合には、自分よりほかの人のことを思うて悦ぶがよい、ほかの正しい人のことを思うて悦ぶがよい、よし自分は罪を犯したにもせよ、その代り、ほかに正直な、罪を犯さぬ人がある、とこう思って悦ぶがよい。
 もし他人の悪行が、復讐の希望に達するほどのたえがたい憤りと、悲しみを感じさせるならば、こうした心持は何よりも恐れ避けねばならぬ。つまり、他人の悪行について自分自身を罪あるものと感じ、ただちに赴いてみずから苦痛を探し求むべきである。苦痛をわが肩に負うて、これを最後までたえ忍んだなら、その時は心の怒りもやわらいで、真実、自分に罪のあることを悟るであろう。なぜと言うに、穢れなき唯一人として、悪しきものの道を照らしてやることもできたのに、それを怠ったからである。もし、おのれの光をもって他人をも照らしてやったなら、悪行を犯したものもそれを犯さずにすんだかもしれぬ。また、自分は光を放っているのに、他人がその光によってなお救われないとしても、あくまで心を毅く持って、天の光の力を疑ってはならぬ。たとえいま救われないでも、またいつか救われる時が来ると信じなければならぬ。いつまでたっても救われなかったら、その者の子らが救われるであろう。なぜなれば、人は死んでも、その真理は滅びぬからである。正しき者はこの世を去っても、光は後まで残るからである。
 人が救われるのはいつも救い主の死後である。人間のやからは予言者をしりぞけ虐げようとするが、しかしまた人間はおのれの苦しめた殉教者を敬愛する。それゆえ、全体のために働けばよいのである。未来のために仕えればよいのである。しかし、決して報いを求めてはならぬ。しいて求めずとも、すでにこの世において、偉大なる報いが与えられている、――すなわち、正しき者のみが所有し得る心の悦びである。富者、権者をも恐れてはならぬ。ただ単に賢く美しくあればよい。何事につけても、度《ど》と時を知らねばならぬ、これを究めることが肝要である。孤独の中にとどまって神を祈り、大地にひれ伏して土に接吻することを好むがよい。大地を接吻して、絶えず貪るように愛するがよい。悦びの涙で大地をうるおして、その涙を愛するがよい。この感奮を恥じないで、これを尊重せねばならぬ。何となれば、これは偉大なる神の賜物で、きわめて少数の選ばれたる人にのみ与えられるものだからである。

[#4字下げ](I) 地獄 地獄の火 神秘的考察[#「(I) 地獄 地獄の火 神秘的考察」は太字]

 諸師よ、『地獄とは何ぞや』と考察する時、余は次のごとく解釈する、『すなわち、もはや愛しあたわざる苦悶である。』時間をもっても、空間をもっても、測ることのできない無限の世界において、ある一つの精神的存在物は、地上の出現によって『われあり、ゆえに、われ愛す』という能力を授けられた。彼は実行的な生きた[#「生きた」に傍点]愛の瞬間を、一度、たった一度だけ与えられた。これがすなわち地上生活なのである。それと同時に、時間と期限が与えられた。ところが、いかなる結果が生じたか? この幸福な生物は限りなく貴い賜物をこばんで、尊重することも愛好することも知らず、嘲笑の目をもって眺めながら、最後まで無感覚のままで押し通した。こういう人が地上を去った時、富める者およびラザロに関する寓話に示されているように、アブラハムのふところをも見るであろうし、アブラハムと物語をもするであろうし、天国を見、かつ神のもとへ赴くこともできよう。しかし、愛することのできなかったものが神のもとへ赴き、他人の愛を蔑視したものが愛をいだける人々と接触する、ということに苦痛が存するのである。なぜなれば、この時はじめて目がさめて、心の中でこう思うからである。
『今こそようやくわかった。たとえいま愛することを望んだところで、自分の愛には効果もなければ犠牲もない。地上の生活はもはや終ったからである。いま自分の胸には、地上で蔑視した精神的愛の渇望が焔のように燃え立っているけれども、それをいやすための生ける水(すなわち、以前の実行的な地上生活の賜物)を、ただの一滴でも持って来てくれるアブラハムはいないのだ。いま他人のために自分の命を悦んで捧げる覚悟はあっても、それはもはや不可能なのだ。愛の犠牲として捧げることのできる生活は、もはや過ぎ去った。今はあの生活とこの生活との間に、無限の深淵が横たわっている。』
 よく地獄の火は物質的のものだと説く人がある。余はこういう神秘を究めようとは思わない。そのようなことをするのは恐ろしい。しかし、かりにそれが物質的の火であるとすれば、そこに落ちた人々はかえって心からそれを悦んだに相違ない。なぜなれば、余の考えでは、物質的な苦痛にまぎれて、よしや一ときであろうとも、さらに恐ろしい心の悩みを忘れることができるからである。しかし、この悩みは外部のものでなく内部のものであるから、ぜんぜん取り去ってしまうことはできない。もし取り去ることができたとしても、人々はこれがため、さらに不幸におちいることと思われる。天国にある正しき人々が、その苦痛を見て彼らを赦し、無限の愛をもって自分の傍らへ呼び寄せるにしても、かえってそれがために、ひとしお苦痛を増すことになる。つまり、彼らの心の中に、今はとうてい不可能な答礼と感謝の意をふくんだ実行的の愛を呼びさますからである。とはいえ、余は臆病な心の底でこんなことを考えている。ほかではない、こうした不可能の自覚そのものが、最後には、苦痛の軽減を助けるのではあるまいか。そのわけは、正しき人々の愛を応酬の望みもなく受けた時、この従順と謙虚の行為の中に、地上において蔑視した実行的愛の片影と言おうか、これと似よりの作用と言おうか、とにかく、そうしたものを感得することができるからである……諸師よ、余はこれを明瞭に言い現わし得ないのを哀しむ。しかし、地上において、われとわが身を亡ぼしたものは気の毒である。まことに、自殺者は気の毒である! これより不幸な者はほかにないと余は思う。彼らのために神を祈るのは罪悪である、と人は言う。そうして、教会も表面的には彼らを破門するような工合である。けれども、余は心の奥で、彼らのためにも祈ることができると考えている。キリストも決して愛をとがめて、怒られるわけがないではないか。余は自白するが、こういう人々のために一生涯、心の中で祈っていた、今でも日ごと祈っている。
 しかし、地獄の中にも傲慢、獰悪を押し通したものもいる。否定することのできぬ真理を確知し、かつ認識したにもかかわらず、サタンとその倨傲な精神に結合しきった恐ろしい人間もいる。こういう人たちの地獄は彼ら自身の意志で作られたものであるが、しかし彼らに飽満を与えない。彼らは好きでなった受難者である。なぜなれば、彼らは神と生を呪ったからである。譬えば、砂漠で飢え渇いたものが、自分で自分の体から血を吸い始めるのと同じように、自分の毒に充ちた倨傲を糧としている。しかし、永劫に飽満を知らぬ彼らは、赦免をこばみ、自分を招いてくれる神を呪うのである。彼らは生ける神を憎悪の念なしに考えることができぬ。そうして、生の神のなからんことを願い、神が自分と自分の創造物を滅ぼすことを要求している。こうして、永久に瞋恚のほむらの中に燃えながら、死と虚無を願うことであろう。しかし、その死はとうてい得られないのである……

 アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフの手記はここで終っている。この手記は不完全な、しかも断片的なものである。例えば、伝記なども、長老の青春時代の初期に関するものばかりである。彼の教訓や意見の中には、以前さまざまな機会に、さまざまな動機によって述べたものが、一つのまとまったもののような体裁で合併されたのもある。長老が臨終前、幾時間かに亘って説いた言葉は、正確に区分されていない。しかし、アレクセイが以前の教訓の中からここに合併したものを対照してみるならば、その時の談話の気分も性質も理解することができよう。
 長老の逝去は実際とつぜんであった。その夜、長老のもとに集った人々は、彼の死の近いことを十分悟ってはいたが、それでもやはり、こうまで唐突におそって来ようとは、とうてい予期することができなかった。それどころか、前にもちょっと述べておいたように、同宿の人々はその晩、長老が非常に元気でもあり、口数も多くなったのを見て、たとえ長くはつづかないにもせよ、長老の健康が目に見えてよくなったことと信じていた。後で人々が不思議そうに言い伝えたところによると、逝去の五分前まで、何一つ予想できなかったとのことである。突然、長老は烈しい胸の痛みを感じたかのさまで、蒼い顔をしながら強く両手で心臓をおさえた。一同はそのとき席を立って、彼のほうへ飛んで行った。しかし、彼は苦しみながらも、やはり微笑を浮べて一同を見上げつつ、静かに肘椅子から床へすべり落ちて、跪いた。うつ伏しに顔を土にすりつけて、両手をひろげ、歓喜の溢れるようなさまで、たったいま人々に教えたとおり、大地を接吻して祈祷を上げながら、静かに悦ばしげに魂を神へ捧げたのである。
 長老逝去の報は、ただちに庵室ぜんたいに伝わって、僧院まで達した。故人に近しい人々と局にあたる人々とは、古式にのっとって遺骸の納棺にかかった。そうして、同宿一同は本堂へと集った。あとで噂を総合してみると、長老死去の報は、夜明け前に町へ伝わったらしい。夜の明ける頃には、ほとんど町じゅうの人が、この出来事を語り合っていた。町民の多くは、流れるように僧院さして押し寄せた。が、このことは次篇に物語るとして、今はただ一日もたたないうちに、ある意想外な事柄が生じた、とばかり言っておこう。それは、僧院や町の人たちに与えた印象から見て、きわめて奇怪な、不安の気に充ちた、しかも人心を迷わすような出来事であったために、多数の人を騒がしたこの一日の記憶が、多くの歳月を隔てた今日でも、いきいきと保存されているほどである。
[#改段]

[#1字下げ]第七篇 アリョーシャ[#「第七篇 アリョーシャ」は大見出し]



[#3字下げ]第一 腐屍の香[#「第一 腐屍の香」は中見出し]

 永眠せる大主教ゾシマ長老の遺骸は、官位に相当する一定の儀式をふんで葬らなければならなかった。人々はその準備に着手した。これは誰しも知るところであるが、僧侶や隠遁者の死体は湯灌しないことになっている。『僧位にあるもの、神のみもとへ去りたる時は(と『大供養書』にも書いてある)、指命を受けたる僧侶、これが遺骸を温湯もて拭い、その額、胸、手、足、膝に、海綿もて十字を描くものとす。その他なにごともなすべからず。』これらのことをことごとく、パイーシイ主教は故長老の遺骸に行った。湯で拭いたのち、法衣を着せ外袍をまとわせたが、その際、規則に従って外袍を十字状に巻くために、少しばかり鋏で切り開いた。そして、頭には八脚十字架のついた頭巾を被せた。頭巾はボタンをかけずにおいて、長老の顔を黒い紗のきれで蔽い、手には救世主の聖像を握らせた。こういう姿に仕立ててから、夜明けごろ遺骸を棺の中へ納めた(これはずっと前から用意してあったので)。棺は庵室のとっつきの広間に、一日据えて置くことにした(それは、故長老が同宿や参詣者と接見した部屋である)。
 故長老は大主教の僧位を持っていたから、主教や助祭たちは詩篇でなく、福音書を読話しなければならなかった。ヨシフ主教は、鎮魂祭がすむと、すぐ読誦を始めた。パイーシイ主教は、一日一晩読み通すつもりであったけれど、今のところ庵室取締りとともどもに、だいぶ忙しそうな様子であった。それは、僧院の同宿の間にも、僧院付属の宿泊所や町うちから押し寄せた人々の間にも、何かしらとうてい『あり得べからざる』、類のない異常な動揺と、いらだたしい期待の色が現われて、一刻一刻と目立ってきたからである。庵室取締りとパイーシイ主教は、かくまで騒がしく波だってくる群衆を鎮撫するのに、ありたけの力をそそいでいた。やがて、かなり日が高くなってきたとき、町から病人、ことに子供を連れて来るものが、ぞくぞくと現われ始めた。彼らは今こそ猶予なく治療の秘力が発顕するものと信じて、前からこの瞬間を待ちもうけていたものらしい。この地方の人々が、故長老を疑いもなく偉大なる聖者として、まだ在世の頃から、どれくらいまで尊敬し馴れていたか、この時はじめて明らかになったのである。群衆の中には、決して平民ということのできないような人たちもあった。
 こうして、あまりにも性急に、あまりにもあらわに表現された信者たちの異常な期待の情、というより、むしろいらだたしい要求は、パイーシイ主教の目に疑いもなく迷いと観じられた。彼はずっと前からこれを予感していたけれども、事実は彼の期待を超えたのである。興奮した僧たちに出会うたびごとに、彼は一々言い聞かせるのであった。『そのように、あまり性急に偉大な事柄を待ちもうけるのは』と彼は言った。『俗世の人にのみあり得べき軽率な挙動で、われわれとしてあるまじきことです。』とはいえ、彼の言葉に耳を傾けるものはほとんどなかった。パイーシイ主教は、不安の念をいだきながら、これに注目していた。しかし、彼自身も(正直にありのままをしるすならば)、あまりにもいらだたしい期待の情をにがにがしく感じて、その中に軽挙妄動を発見したにもかかわらず、心の奥のほうでは、これらの興奮した人たちと、ほとんど同じようなものを待ち望んでいるのであった。これは自分でも認めないわけにゆかなかった。それにしても、彼はある種の人に行きあった時、とくに不快の念を覚えた。一種の直覚作用が、深い疑惑を呼び起したからである。
 長老の庵室内に群っている人ごみの中に、まだ僧院に逗留しているオブドールスクの客僧や、ラキーチンなどの姿を見つけた時、パイーシイは嫌悪の情を禁じ得なかった(もっとも、彼はその時すぐに、こうした心持になる自分を自分で責めた)。彼はこの二人をどういうわけか、怪しい人物と睨んでいた。しかし、こういう意味の注意人物は、彼ら二人にかぎったわけではなかったのだ。オブドールスクの僧は、興奮した人々の中でも、とりわけ慌しい人物として目に立った。彼の姿は到るところ、あらゆる場所で見受けられた。彼は到るところでいろいろなことを訊き出し、到るところで耳を傾け、到るところで一風ちがった様子ありげな顔つきをして、ひそひそと囁きあっていた。顔の表情は極度にいらだたしそうで、期待があまり長く実現されないために、業をにやしているようにすら見受けられた。
 ラキーチンのほうはどうかというと、彼がこんなに早くから庵室へ姿を現わしたのは、ホフラコーヴァ夫人の特別な依頼のためだということがあとでわかった。人はいいけれど肚のない夫人は、自分で庵室へ入れてもらうわけにゆかないために、朝目をさまして、長老の話を聞くやいなや、いきなり性急な好奇心に全心を領されて、さっそくラキーチンを代理として庵室へ送り、そこで起ったことをすっかり詳しく[#「そこで起ったことをすっかり詳しく」に傍点]観察して、約三十分ごとに、手紙をもって報告させることにしたのである。夫人はラキーチンを潔白な、信仰の厚い青年と思い込んでいた、――それほど彼は巧みにすべての人に取り入って、少しでも自分のためになることと見てとったら、相手の希望どおりな人間になってみせるのが上手であった。
 それは晴れやかな輝かしい日であった。参詣の巡礼者は多く墓のまわりに群っていた。墓はおもに本堂の周囲にかたまっていたが、また庵庭の諸所に散在しているのもあった。庵室を巡っているうちに、パイーシイ主教はふとアリョーシャのことを思い出した。もうかなり前から、ほとんど夜の明けぬうちから、この青年の姿を見受けなかったのである。このことを考えつくと同時に、彼は庵庭の片隅なる塀のかたわらに、青年の姿を発見した。アリョーシャはだいぶ昔にこの世を去った、いろいろな苦行によって名を知られている、ひとりの僧侶の墓石の上に腰かけていた。彼は庵室を背にして、塀のほうへ顔を向けながら、墓標に姿を隠すようにして坐っていた。そのそばへ近近と歩み寄ったパイーシイ主教は、彼が両手で顔を蔽いながら、声こそ立てね、全身を顫わせつつ、苦い涙に咽んでいるのに気がついた。主教はしばらくそのそばにじっと立っていた。
「もうたくさんだ、アリョーシャ、たくさんだよ、倅。」やがて彼はしんみりした声で口をきった。「お前、一たいどうしたのだ? 嘆くどころか、かえって悦ぶべき時ではないか。それともお前は今日があのお方[#「あのお方」に傍点]にとって最も偉大な日、だということを知らないのか? あの方[#「あの方」に傍点]が今、この瞬間どこにいらっしゃるか、そのことを考えてみただけでたくさんではないか!」
 アリョーシャは、子供のように泣きはらした顔から手をのけて、主教のほうをちらと振り返って見たが、すぐにまた一ことも口をきかないで、向きを変えると、そのまま両手に顔を埋めてしまった。
「いや、あるいはそのほうがよいかもしれぬ」とパイーシイ主教はもの案じ顔に言った。「あるいは泣いたほうがよいかもしれぬて、キリストさまがその涙をお前に送って下さったのであろう。」
『お前の悲痛な涙はただ魂の休息にすぎないのだ。やがてお前の可憐な心の浮き立つよすがとなるであろう。』彼はここを離れて、道々やさしい心持でアリョーシャのことを思いつづけながら、心の中でこうつけたした。もっとも、彼は急ぎ足で、ここを立ち去った。この青年の様子を見つづけていたら、自分まで一緒に泣きだしそうに感じられたからである。その間に時は移っていった。故長老に対する僧院の儀式や祭典は、順序をふんで行われるのであった。パイーシイ主教は、ヨシフ主教の姿を棺のかたわらに認めたので、ふたたび代って福音書の読誦を引き受けた。
 しかし、午後もまだ三時を過ぎぬうちに、もう前篇の終りにちょっと述べておいた事件がもちあがった。誰一人として思いもうけなかったこの出来事は、極度に人々の希望を裏切ったので、繰り返して言うが、これに関する詳細をきわめた浅薄な物語が、町うちはおろか近在一般に亘って、いまだに言い伝えられているほどである。ここで筆者はいま一息、自分の意見を述べておこう。筆者はこの愚かしい、人を迷わすような出来事を思いだすたびに、嫌悪の念を感じないでいられない。しかも、この出来事は実際のところ、意味もないきわめて自然なことであるから、もしこれが物語の本主人公たる(もっとも、未来の[#「未来の」に傍点]本主人公ではあるけれど)アリョーシャの霊魂と心情に、ある強烈な影響を与えなかったら、筆者はもちろん、こんな事件については一ことも話さないで、物語を進めたはずなのである。実際、この事件は彼の魂に一転期を画し、その理性を震撼すると同時に、ある目的に向けて生涯ゆるぎなく固定さしたのである。
 さて、いよいよ物語に移ろう。まだ夜の明けぬうちに、埋葬の準備を整えた長老の遺骸を、棺に納めて、とっつきの部屋、すなわちもと応接の間になっていた部屋へ運び出したとき、棺のそばにいた人々の間に、窓を開けなくてよかろうかという疑問が生じた。しかし、誰かが何げなしにちょっと口をすべらしたこの疑問には、誰ひとり返事をするものもなく、ほとんど気にもとめないで過ぎてしまった。もし誰か気にとめたものがあるとすれば、それは次のような意味にすぎなかった。つまり、こういう聖者の死体から腐敗や悪臭を期待するのは、あまりにも馬鹿げきった話であって、こういう質問を発した人の信仰の薄いことや、考えの浅はかなことは、たとえ冷笑でないまでも憐憫に価するくらいである。つまり、人々はぜんぜん正反対なことを期待していたのである。
 ところが、正午を過ぎて間もないころ、何かしら妙なことが始まった。部屋を出たり入ったりする人たちは、自分の心中に頭を持ちあげだした疑念を、はじめのうちは無言で胸に秘めて、誰にもせよ他人に伝えるのを恐れるようなふうであった。しかし、三時近くになると、はじめ少し気を催していたものが、もはや否定することのできないほど明瞭になったので、この報知は飛ぶように庵室ぜんたいへ拡がって、参詣の巡礼者の間に行きわたり、たちまちにして僧院の内部へ侵入し、同宿の人々を驚倒させた後、ごく僅かな間に町まで伝わって、信者不信者の別なく、一同を動顛さしたのである。不信者は跳りあがって悦んだ。信者のほうはどうかというに、彼らの中にも不信者以上に欣喜雀躍したものがあった。なぜなれば、故長老が自分の教訓の中で説いたとおり、『人は正しき者の堕落と汚辱を悦ぶ』からである。
 そのわけはほかでもない。棺の中からきわめて緩慢ではあるけれど、刻一刻と烈しく腐屍の匂いが発し始めて、三時頃には、もはや明らかにそれと感じられるようになったのである。この出来事についで、ただちに人々の間に(僧侶たちの間にさえ)生じた無作法で不謹慎なにがにがしい擾乱は、この僧院の過去の歴史ぜんたいを繰ってみても、絶えて久しくなかった事件、いな、むしろ想起することのできない事件であった。もしこれが別な場合だったなら、実にあり得べからざる事件なのである。その後、幾年もたった時に、寺内でも分別のある僧たちは、この一日のことを詳しく追懐して、どういうわけであのにがにがしい騒擾が、あのような度合いにまで達したのだろう、と思って、驚愕と畏怖を感じたくらいである。以前にも、一点非のうちどころのない正しい生活を送り、しかもその正しさをすべての人に認められていた僧侶や、敬神の念の深い長老などが死んだ時、その尊い棺の中から譬屍の匂いが発したこともままあった。それは、すべての死人にとってきわめて自然な現象であるが、とにかく、その時には見苦しい擾乱は言うまでもなく、僅かな動揺すら惹き起さないですんだ。もちろん、この僧院でも、ずっと昔この世を去った僧侶の中に、遺骸から臭気を発しなかった、という伝説を持った人もある。こういう人に関する記憶は、今もなお僧院内に生き生きと残っているが、上記の事実は、同宿の人たちに感激に充ちた神秘的な影響を与え、一種神々しい奇蹟的なものとして、一同の記憶に蔵せられた。つまり、神のみ心によって時が到ったならば、まだまだ偉大な光栄がその墓所から現われるに違いないという、約束かなんぞのように思われたのである。
 そういう人々の中で、とくに明らかな記憶を残しているのは、百五歳まで寿命を保ったヨフ長老である。この人はもはやずっと前、現世紀の十年代あたりにこの世を去ったが、僧院の人々は初めて参詣したすべての巡礼者を、非常な尊敬を払ってこの墓へ案内した。そうして、この墓に、ある偉大な希望がつながれている旨を、語って聞かせるのであった(それは、今朝アリョーシャが腰かけているところを、パイーシイ主教に見つけられた墓である)。ずっと昔に世を去ったこの長老のほか、比較的あたらしく逝去した大主教ヴァルソノーフィ長老に関しても、これと同じような記憶がまだなまなましく残っている。ゾシマが長老職を受け継いだのも、この人からである。在世中この人は参詣の巡礼たちから、純然たる宗教的畸人《ユロージヴァイ》と思われていた。この二人についてはこんな伝説が残っている。彼らは、棺に納められている間じゅう、さながら生きた人のようで、埋葬の時なども、少しの崩れも見えなかった。棺の中に臥ている顔は、輝き渡るようであった。中には、彼らの体からまざまざと芳香が感じられた、などという追憶を主張する人もあった。
 こうした有難い追憶がいろいろあるにもせよ、それでもゾシマ長老の棺の周囲に、ああまで軽率な、しかも愚かしく毒々しい現象の生じた原因は、容易に説明することができない。筆者一個の考えを述べるなら、この事件には他の分子もたくさんまじっていたので、さまざまな原因が同時に落ちあって影響をおよぼしたものに相違ない。たとえば、そういう原因の中には、長老制度を目して有害な新制度とする、根ざしの深い憎悪の念があった。これは、僧院における多くの僧侶の心に奥深くひそんでいた。それから、もう一つ重要なのは、聖者としての故人の地位に対する羨望であった。この地位は長老の在世から、確固たるものとなってしまって、異を立てることさえ禁じられている有様であった。実際、故長老は奇蹟というよりむしろ愛をもって、多くの人を自分のほうへ牽き寄せ、愛慕者の群をもって一つの世界ともいうべきものを自分の周囲に樹立していたが、それにもかかわらず、というより、むしろこれがために、多数の羨望者と激烈な反対者を生み出したのである。彼らの中には公然と言明するものもあれば、陰に廻ってこそこそ細工をする連中もあった。しかも、これらの分子は単に僧院内ばかりでなく、一般世間にまで拡まっていた。長老は、何一つ人に害を加えたことがないけれども、ここに一つ問題がある、『なぜあの人はああ聖人あつかいされるのだろう?』この問い一つだけが絶えず繰り返されているうちに、ついに飽くことなき憎悪の深淵を形づくったのである。これがために、多数のものは彼の遺骸から腐屍の匂いを、しかもこんなにまで早く(長老が死んでまだ一日もたたないのである)嗅ぎつけた時、限りなき悦びを感じたのだと筆者は考える。また今まで長老に敬服していた人たちのうちにさえ、この出来事のために自分が侮辱を受けたように感じた人が、すぐさま幾たりか現われた。事件は次のような順序をふんで展開していった。
 腐敗が発見されるやいなや、故長老の庵室へ入って来る僧たちの顔を見たばかりで、何のためにやって来たのか察することができた。彼らは入って来てもあまり長くは立っていず、群をなして外で待っているほかの連中に、少しも早く噂の裏書をしようと思って、そわそわと出て行くのであった。外で待っている連中のうちには、愁わしげに首を振るものもあったけれど、その他の者は、毒々しい目の中に、ありありと輝きだした悦びの色を隠そうともしなかった。もはや誰ひとりこれを咎めるものもなかった。誰ひとり善の声を発するものがなかった。それは実に不思議なほどであった。何といっても、長老に信服している人は、僧院内で多数を占めていたはずなのである。しかし、察するところ、このたびは神が少数のものに一時の勝利を与えられたのであろう。
 間もなく僧侶以外の人も、密使として庵室の中へ入って来るようになった。それはおもに、教育のある人が多かった。平民階級の人たちは、庵庭の門ぎわに、大勢群集していたけれど、庵室の中へはあまり入って来なかった。三時から後は町の人の潮来が目に見えて多くなった。それは疑いもなく、例の人の心をそそるような噂のためであった。今日決してここへ来るはずのない人たち、――そんなつもりの少しもなかった人たちまで、今はわざわざ駆けつけて来た。その中には位の高い名士も幾たりか交っていた。とはいえ、表面の儀礼はまだ破られなかった。パイーシイ主教は厳めしい顔をして、しっかりした調子で、一語一語くぎるようにしながら、引きつづいて福音書を声高に読誦していた。彼はとっくから何か異常なことが起ったのに気づいていたが、それでも何も知らないようなそぶりをしていた。ところが、しまいには、人々の話し声が彼の耳にまで入るようになった。その声は初めごくごく低かったが、次第に大胆なしっかりした調子になってきた。
『つまり、神様のお裁きなのだ、人間わざじゃない!』
 突然、こういう声をパイーシイ主教は聞きつけた。それをまっさきに口に出したのは、かなり年とった町の官吏で、信仰家として通っている人であった。しかし、これは、すでにだいぶ前から僧たちがお互い同士で囁きあっていたことを、公然と繰り返したにすぎないのである。僧たちはもうとっくから、この非道な言葉を口にしていたが、何よりも悪いことには、この言葉が発せられる時、一種勝ち誇ったような気分が頭を持ちあげて、それが刻一刻と募ってゆくのであった。やがて、間もなく式場の作法さえ崩れだした。しかも、人々は、それを蹂躪する権利があるような気持でいるらしかった。
『どうしてこんなこと[#「こんなこと」に傍点]ができたのだろう。』僧たちの中には、何となく憐れむような調子で、こう言いだすものがあった。『あの人の体は非常に小柄で、乾ききって、まるで骨と皮とくっついていたのに、どこからこんな匂いが出て来るんだろう?』
『つまり、神様がことさらわれわれの目を開けて下すったのだ』と別な僧たちが急いでこうつけたした。そうして、彼らの意見はすぐさま、何らの異議なしに受け入れられた。たとえ腐屍の匂いが自然なものであるにもせよ、どんな罪深い人の死骸でも匂いを発するのはもっと後のことで、少くとも一昼夜をへた後でなければならない。これは誰の目にもあまり早すぎる、『自然を超越している』、してみると、神がその尊いみ手をもって、人間の誤りをさし示されたものと解釈するより仕方がない、こういうのが彼らの意見であった。この意見はいなみがたい力をもって人々の心を打った。
 故長老の寵を受けていた図書係りの僧ヨシフ主教は、平生おとなしい人であったが、今は毒舌家の誰かれに向って、『しかし、いつもそうばかりはゆかない』と言って弁駁を試み始めた。つまり、聖者の遺骸は腐敗すべきものにあらずというのは、決して正教の教義でなく、ただの意見にすぎない。最も正教の盛んな国、たとえばアトスなどでも、腐屍の匂いのためにこう騒ぐようなことはない。のみならず、隠遁者の光栄の兆とされているものは、肉体が腐敗しないということではなくて、骨の色なのである。死体が幾年も幾年も地中に埋まって、やがて壊滅しはじめたとき、『もし骨が蝋のように黄いろくなったなら、これこそ神が故人を正しき者として祝福された最も重大な兆であるが、もし黄でなく黒い色に変ったなら、神がその人に光栄を授けたまわなかったことになる。これが、昔から光明と清浄の中に儼として正教を保存している偉大なる聖地アトスにおける定めなのだ』とヨシフ主教は結論を下した。
 しかし、温良な主教の言葉は、何の効果もなく消えてしまって、むしろ嘲笑的な反抗を呼び起した。『あれはみな新奇を悦ぶ衒学者の言葉だ、耳を傾ける必要がない。』僧たちは自分たちの判でこう決めてしまった。『われわれは昔どおりにすればいいのだ。この頃は新しいことがやたらに出て来るから、一々まねをしていられるものか?』と他の連中はつけたした。『ロシヤにだって、アトスに負けないくらい、たくさんの聖僧が出ている、あそこはトルコ人の治下におかれているために、何もかもすっかり忘れてしまっているのだ。あそこの正教はもうとうから濁っている。現にあそこには鐘もないじゃないか。』一ばん口の悪い連中は、こう言って調子をあわした。
 ヨシフ主教は愁わしげにそこを立ち去った、それに、彼自身の駁論の調子もあまり確固たるものでなく、何となく半信半疑というようなふうであった。彼は、困惑の情を胸にいだきつつ、何か非常に見苦しいことが始まりかけたのを見てとった。事実、もう公然たる反抗が頭を持ちあげたのである。ヨシフ主教の弁駁の後は、次第に是非を論ずる声がしずまっていった。生前ゾシマ長老を愛したのみならず、感激をもって従順に長老制を認めていたすべての人が、どうしたわけか、急にひどく何かにおびえあがって、途中出会っても、ただ臆病げに互いの顔を見くらべるばかりであった。奇怪な新制度として長老制に反対する人たちは、傲然として首をそらしていた。
『ヴァルソノーフィ長老がおかくれになった時は、悪い匂いが立たなかったばかりでなく、芳香が馥郁としていた』と彼らは意地わるい悦びの色を浮べながら、こんなことを引き合いに出した。『あのお方は長老という位のためでなく、ご自分で正しい道を履まれたために、あれだけの酬いをお受けになったのだからな。』
 これにつづいて、今度は故長老に対する非難や、譴責の声すら聞えはじめたのである。『あの人の教えは間違っていた。あの人の教えによると、人生は涙に充ちた忍従でなくて、偉大なる喜悦なんだそうだ。』一番わけのわからない連中が、こんなことを言った。『あの人の信仰はこの頃はやりのもので、物質的な地獄の火を認めていなかった。』なお一そうわけのわからない連中が、こう調子をあわした。『精進に対してもあまり厳格でなかった、甘いものを平気で口に入れ、お茶と一緒に桜のジャムを食べていた。非常な好物だったので、しじゅう奥さんだちから届けてもらっていた。隠遁者がお茶を飲むなんて法があるものか?』こういう声が羨望者の仲間から聞えた。『恐ろしく威張りかえって坐ってたじゃないか?』最も意地わるい悦びを感じている人たちが、残酷な調子で言いだした。『自分で聖人を気どって、人が自分の前へ平伏しても、あたりまえのようにあしらっていたじゃないか。』
『懺悔の秘密を濫用したのだ。』最も獰猛な長老制の反対者が、毒々しい調子でこう囁いた。これらは、僧侶仲間でも一番の年長者で、敬神の点についてはきわめて峻厳な、真の意味における禁欲と沈黙の行者であった。彼らは故人の存命中かたく沈黙を守っていたが、今とつぜん口を開いたのである。これが何よりも恐ろしかった。というのは、彼らの言葉は、まだ定見をもっていない若い僧たちに、強烈な印象を与えたからである。
 オブドールスクの聖シリヴェストル僧院から来た客僧は、これらすべてのことを、一心に耳をすましながら聞いていた。彼は深い溜息をつき、小首を傾けながら、『いや、どうもフェラポント主教が昨日おっしゃったことは本当らしい』と心の中で考えた。ちょうどその時、僧フェラポントが姿を現わした。それは、一同の動揺の度を強めようと思って、わざと出て来たかのようであった。
 前にも述べておいたとおり、彼が養蜂場にある自分の木造の庵室から出ることは、きわめてまれであった。会堂へすら長いあいだ顔を出さないのが常であった。僧院のほうでも彼を宗教的畸人《ユロージヴァイ》と見て、一般に対する規則をもって律しないで、何事も大目に見てやっていた。が、本当のところを言えば、これも一種の必要に迫られて許していたのである。そのわけは、こうして朝から晩まで祈っている(実際、寝るのも膝をついたままなのである)、偉大な禁欲と沈黙の行者をば、自分から服従を望んでもいないのに無理に一般の規則へ当て嵌めるのは、非礼と言っていいくらいだからである。もし、そんなことをしたら、僧たちはこう言うにちがいない。『あの方はわれわれの誰より最も神聖な人で、規則に従うよりも、もっと困難な義務をはたしておいでになるのだ。あの方が会堂へ出られないのは、つまり自分で自分の行くべき道をちゃんと承知していらっしゃるからだ。あのお方には自分の規則があるのだ。』こういう不平や騒擾の起り得べきことを想像して、フェラポントを放任しているのであった。彼がゾシマ長老を非常に嫌っているのは、一同に知れ渡った事実である。ところが、今とつぜん彼の庵室へ、『あれは神の裁きだ、人間わざではない。自然律さえも超越している』という報知が伝わった。第一番に彼のもとへ駆けつけた人の中には、きのう彼を訪れて、恐怖をいだきながら辞し去った、オブドールスクの客僧も交っていたものと考えなければならぬ。
 これも前に言ったことであるが、パイーシイ主教は確固不抜の姿勢で、棺のそばに立って読経していた。彼は庵室の外で起ったことを、見聞するわけにゆかなかったが、それでも、おもなる経過はことごとく心の中で誤りなく推察していた。彼は周囲の人々の腹の中をたなごころを指すように見抜いていたのである。しかし彼は困惑など感じないで、何の恐れげもなく、起り得べき一切のことを待ちもうけていた。そして、今は自分の心眼に映ずる擾乱の経過を、刺し透すような目つきで見まもるのであった。
 そのとき入口のほうにあたって、もはや疑う余地のないほど明瞭に、式場の作法を破るなみなみならぬ物音が、彼の聴覚を刺激した。と、戸がさっと開け放たれて、フェラポントの姿が閾の上に現われた。それにつづいて大勢の僧侶が(その中には俗世の人々もまじっていた)、入口の階段の下に群がる気配がした。これは庵室の中からもはっきりと見えた。取り巻きの連中は中へも入らなければ、入口の階段へもあがらないで、これからフェラポントが、どんなことを言ったりしたりするかと、じっと佇みながら、待ちかまえていた。彼らは、自分たちがずいぶん無作法な言行をあえてしているにもかかわらず、フェラポントがここへやって来たのは何か思わくあってに相違ないと想像して、一種の恐怖さえ感じたのである。
 フェラポントが閾に立って、両手を上へさし伸べた時、オブドールスクの客僧の好奇に輝く鋭い目が、その右手の陰からちらりと覗いた。彼は、自分の烈しい好奇心を我慢することができないで、フェラポントの後から階段を駆け昇ったただ一人であった。ほかの者は、戸ががたんと開け放されるやいなや、思いがけない恐怖におそわれて、かえって互いに押しあいながら、なお後ずさりしたものである。両手を高くさし上げると、フェラポントはふいに叫びだした。
「われあくまでもしりぞけん!」彼はかわるがわる四方八方に向き直りながら、庵室の壁と四隅に十字をきり始めた。取り巻きの連中はたちまちこの動作の意味を了解した。彼はどこへ入る時でも、必ずこれをやって悪霊を追い払わないうちは、決して腰もおろさなければものも言わない。それをみんな知っていたのである。
「怨敵退散、怨敵退散!」彼は十字を切るたびに一々こう繰り返した。「われあくまでもしりぞけん!」とまたしても叫んだ。彼は例の粗末な袈裟を着て、繩の帯をしめていた。麻のシャツの下からは、胡麻塩毛の一面に生えた、あらわな胸が覗いていた。足はまるっきり跣であった。彼が手を振り始めるやいなや、袈裟の下にかけてある錘《おもり》が震えて、もの凄い音を立てるのであった。パイーシイ主教は読誦をやめて進み寄り、待ちもうけるように彼の前にじっと立っていた。
「何のために来たのです? 何のために式をみだすのです? 何のために、温順なる衆生を惑わすのです?」と厳しい目つきで相手を見つめながら、ついに彼はこう言いだした。
「何のために来たとな? 一たい何か望みなのじゃ? 一たいどんな信仰を持っておるのじゃ?」とフェラポントは一種異様な言葉づかいで叫んだ。「ここにいるお前たちの客人を、穢らわしい悪霊を、追い払おうと思うて、やって来たのじゃ。どれ、わしのおらぬ間に大勢あつまったか、一つ見てやろう。わしはやつらを白樺の箒で掃き出してくれるわ。」
「悪霊を追い払うなどと言いながら、ご自分こそ悪霊に仕えておられるかもしれませぬぞ。」とパイーシイ主教は恐るるさまもなく言葉をつづけた。「それに『われこそは聖人である』と言い得る人がどこにありましょう? お前さまには言えますかな?」
「わしは穢れた人間じゃ、聖人ではない。それじゃによって、わしは肘椅子などに坐りはせぬ。偶像《でく》のように拝んでもらいとうもないわ!」とフェラポントは呶鳴りつけた。「今の人間は、神聖なる信仰を滅ぼしておる。お前がたの亡くなった上人さまはな、」群衆に向って棺を指さしながら、彼はこう言った。「サタンを否定して、魔よけの薬なぞ飲ませたではないか。つまりそのために、部屋の隅に蜘蛛の子のように、サタンどもが殖えてきたのじゃ。そうして、今日はとうとう、自分から臭い匂いを立ておった。なんと、この中に神様の偉大な啓示が窺われるではないか。」
 これは実際、ゾシマ長老の在世中に、あったことなのである。ある時、ひとりの僧侶が毎晩夢に悪魔を見ていたが、ついにはうつつにもありありと見えるようになった。彼が烈しい恐怖におそわれて、このことを長老に打ち明けた時、長老は絶えず祈祷をして、一心に精進を励むようにと勧めた。しかし、これでも験《しるし》がなかったので、長老は祈祷も精進もつづけながら、そのかたわら、ある薬を用いるように勧めた、当時、多数のものはこれがために迷いを起して、首をひねりながら仲間同士噂をしていた、――その音頭とりはフェラポントであった。それは、幾たりかの毒舌家が、その時すぐさま、この僧のもとへ駆けつけて、こういう特別な場合に対する『類のない』長老の処置を報告したからである。
「お出なさい!」とパイーシイ主教は、命令するように言った。「裁きをするのは神様です、人間ではありません。今ここに見る啓示は、お前さまもわたくしも、了解することのできないようなものかもしれませぬ。さあ、お出なさい、そして、衆生を惑わさぬようにして下さい!」とパイーシイ主教は強硬に繰り返した。
「わが僧位に相当する斎戒を守らなんだために、こういう啓示が現われたのじゃ。それはわかりきった話で、かくし立てするだけ罪なことじゃ。」もう理性を失って夢中になった狂信者は、なかなか静まろうとしなかった。「菓子の甘味にそそのかされて、奥さんがたにかくしへ入れて持って来さしたり、お茶に舌鼓を打ったりしていた。こういうふうに、腹は甘い物で、頭は傲慢な考えで台なしにしてしもうた……それがためにこんな恥を受けたのじゃ……」
「それは軽薄な言葉というものですぞ!」パイーシイ主教も声を高めた。「あなたの精進苦行には驚嘆しておりますけれど、その言葉の軽薄なことは、定見のない軽薄な俗世の若者が言うようではありませぬか。さあ、お出なさい、わたくしが命令しておるのですぞ。」パイーシイ主教も、しまいのほうはもう呶鳴るように言った。
「わしは出て行くとも!」幾分ひるんだような形であったが、それでもやはり毒念を捨てないで、フェラポントはこう言った。「お前さまがたはみな学者でござるよ。えらい知恵があるというて、つまらんわしを高みから眺めておったのじゃ。わしは無学をも恥じずにここへ来た。そうして、来てみると、前に知っておったことさえ忘れてしもうたが、神様がこのつまらんわしをば、お前がたの大智から守って下さったわ……」
 パイーシイ主教はそのそばに立って、毅然たる態度でじっと待っていた。フェラポントはしばらく無言でいたが、急に悲しそうな様子で右手で頬杖をつき、故長老の棺をじっと見やりつつ、歌でも歌うように言いだした。
「この男はあす『助力者保護者』を歌うてもらえる、――実にこの上ない有難いお歌なのじゃ。ところが、わしが息を引き取った時は、つまらん歌い手の口から、ようよう『生の悦び』を歌うてもらえるだけじゃ」と彼は涙っぽい悲しげな声で言った。「威張りかえって、高うとまりおったな。ええ、もうこんなところなど空になってしまえ!」突然、彼は気ちがいのようになって、こう叫ぶと、手をひと振りして、くるりと踵を転じ、飛ぶように階段を降りて行った。下で待っていた群衆は、急にざわめきだした。ある者はすぐあとからついて行ったが、またある者はしばらくためらっていた。それは、庵室の戸がやはり開け放されたままであるし、その上、パイーシイ主教が、フェラポントにつづいて、上り口まで出て来て、じっと立ったまま様子を見ていたからである。しかし、羽目をはずしてしまった老僧は、まだすっかり自分の仕事をしおおせたのではなかった。二十歩ばかり庵室を離れたとき、彼はとつぜん入日に向って立ちどまり、両手を頭上高くさし上げた、――と、まるで誰かに両足を薙がれたように、恐ろしい叫び声とともにばたりと地上へ倒れた。
「わが主は勝ちたまえり! キリストは落日にうち勝ちたまえり!」両手を入日に向けてさし上げながら、狂猛な声を立ててこう叫ぶと、地面にぴたりと顔を押しつけて、小さな子供のように声を立てて慟哭しはじめた。彼は両手を左右にひろげて、地上へ投げ出したま大涙に咽せて全身を顫わせるのであった。
 もうこの時こそ、一同は猶予なく彼のほうへ飛びかかった。歓喜の叫びと相呼応するような慟哭の声が響き渡った……一種の興奮が一同をおそったのである。
「これこそ本当に神聖な人だ! これこそ本当に正しい人だ!」という歓呼の声が、もう惧れげなしに発せられた。「これこそ長老の席に坐るべき人だ。」ある者はもう憎々しげな調子でつけたした。
「この方はそんな席に坐りはなさらない……自分でお断わりなさるよ……怪しげな新制度に奉仕されるはずがない……馬鹿げた人真似なぞなさるものか」と別な人の声がまたこう抑えた。
 このまま進んだら、どこまでゆくか想像もできないくらいであったが、ちょうどそのとき晩の祈祷式を知らせる鐘の声が、ふいに響き渡った。一同は急に十字を切り始めた。フェラポントも起きあがって、十字の印で身を固めながら、あとを振り向こうともせず、わが庵室をさして歩きだした。依然として何やら叫びつづけていたが、それはもうまるで辻褄の合わないことであった。そのあとから、ごく少数のものが幾たりかついて行ったが、多くはちりぢりになって、祈祷式へ急ぎだした。パイーシイ主教は読経をヨシフ主教に依頼して、階段をおりて行った。狂信者の興奮した叫びなどで信念をゆるがされる彼ではなかったが、心が急に沈んできて、何か別なことを思い悩むようになった。彼自身にもそれが感じられたのである。彼は立ちどまって、急に自問してみた。『どうして自分は意気銷沈といっていいくらい、こんな憂愁を感じるのだろう?』その瞬間この思いがけない憂愁の念が、きわめて些細な特殊の原因から来ているらしいのを悟って、彼は奇異の思いをいだいた。
 ほかでもない、庵室の入口のすぐそばまで詰め寄せた群衆の中に、アリョーシャの姿が、興奮した人々の間に見受けられた。彼はこの青年の姿を認めたとき、心の底に一種の痛みともいうべきものを感じたのを、今思い出したからである。『一たいこの若者がおれの心にとって、これほど大きな意味をもっているのだろうか?』突然、彼は驚きの念をもってこう自問した。ちょうどこのとき、アリョーシャがそばを通り過ぎた。どこかへ急いでいる様子であったが、僧院の方角ではなかった。と、ふたりの目が出あった。アリョーシャは視線を転じて伏目になった。パイーシイ主教はそのそぶりを見ただけで今この青年の心に烈しい転換が生じているのを察したのである。
「一たいお前まで迷わされたのか?」とふいにパイーシイ主教は叫んだ。「一たいお前まで信仰の薄い人たちと同じ仲間なのか?」と彼は愁わしげにつけたした。
 アリョーシャは歩みをとめて、漠然とした表情でパイーシイ主教を見上げたが、またもや急に視線を転じて伏目になった。彼は斜かいに立って、問者に顔を向けなかった。パイーシイ主教は注意ぶかく観察していた。
「どこへそんなに急ぐのだ? 勤行《ごんぎょう》の知らせが鳴っているではないか」と彼はまた訊ねた。
 しかし、アリョーシャはやはり返事をしなかった。
「それとも庵室を出て行くのか? どういうわけだ、許しも乞わなければ祝福も受けずに?」
 アリョーシャはふいに口を曲げてにたりと笑い、奇妙な、恐ろしく奇妙な目つきで問者を見上げた。それはかつて自分の情知の指導者であり、自分の情知の支配者であった敬愛すべき長老から、将来の指導を委任せられた当の人である。ふいに、彼は依然として返事もせず、敬意を表しようなどとは考えもしない様子で、手を一つ振ると、庵庭から外へ通ずる出口の門をさして、急ぎ足に歩きだした。
「また帰って来るだろう!」愁わしげな驚異の色を浮べて、そのうしろを見送りながら、パイーシイ主教はこう呟いた。

[#3字下げ]第二 こうした瞬間[#「第二 こうした瞬間」は中見出し]

 パイーシイ主教が自分の『可愛い少年』の帰来を予言したのは、確かに間違いでなかった。それどころか、かえってアリョーシャの心理状態の、真の意味を洞察したのかもしれない(その洞察は十分なものではないけれど、しかし何といっても、眼力の鋭いところがあった)。とにかく、露骨に打ち明けたところを言うと、筆者自身でさえ、自分の心から愛している年若い主人公の生涯における、この不思議な、漠然とした一瞬間の意義を正確に伝えることは、今のところ非常にむずかしい仕事なのである。アリョーシャに向けて発せられた『一たいお前まで信仰の薄い人たちと同じ仲間なのか?』というパイーシイ主教の悲しい問いに対して、筆者はもちろん、アリョーシャに代って断乎たる調子で、『いや、彼は信仰の薄い人たちと同じ仲間ではない』と答えることができる。そればかりか、この中にはぜんぜん反対なものがふくまれているくらいである。つまり、彼の惑乱はすべて、あまりに多く信仰したがために生じたのである。しかし、とにかく惑乱が生じた。しかも、それはだいぶしばらくたった後までも、アリョーシャがこの日を目して、自分の一生における最も苦しい、宿命的な日の一つと数えたほど、悩ましい惑乱なのであった。
 が、もし向きつけに、『彼の心にああした憂悶や不安が生じたのは、長老の遺骸が即座に治療の秘力を発しないで、反対に、早くも腐敗しはじめたからだろうか?』と訊く人があれば、筆者はこれに対してためらうことなく、『そうだ、実際そうなのだ』と答えるであろう。ただ筆者は、あまり性急にわが少年の純潔な心を冷笑しないよう、読者に乞わなければならぬ。筆者自身にいたっては、彼のために謝罪しようという気もなければ、彼の単純な信仰を年の若いためとか、または以前修得した科学的知識の浅いためとか、そんなことを言って弁解しようという気もさらにない。それどころか、かえって彼の心情に心底から尊敬を払っている。これはきっぱり明言しておこう。実際、世間には非常に注意ぶかく心的印象を取り入れて、人を愛する態度も熱烈でなく生ぬるいし、その知性も正確ではあるけれど年に合せてあまり分別くさい(したがって安価なものである)、といったような青年もずいぶんある。こういう青年は、繰り返して言うが、わが主人公の心に起ったようなことを避けたに相違ない。しかし、時と場合によっては、たとえ無分別であろうとも、広大な愛から生じた熱情に没頭したほうが、ぜんぜん避けてしまうよりも尊敬に価することがある。若い時にはなおさらそうである。いつもいつもあまり分別くさい青年は、前途の見込みがなく、したがって人物も安っぽい……これが筆者の意見である!
『しかし』と、また分別のある人々は叫ぶであろう。『すべての青年が、そのような偏見を信じるわけにゆかぬではないか。それに、お前の好きな青年は万人の模範ではないからな。』これに対して、筆者はまたこう答える。『さよう、私の青年は信じていました。神聖犯すべからざる信仰をいだいていました。しかし私は何といっても、彼のために謝罪なんかしません。』ところで、筆者は今わが主人公のために、説明や、謝罪や、言い訳などしないと言明したが、これはあまり性急に過ぎたかもしれない。今になってみると、やはり向後の物語の理解のために、何か少し説明しておく必要があった。そこで筆者はこう言う、問題は決して奇蹟にあるのではない、と。つまり、あまり性急なるがゆえに軽率な、奇蹟の期待が問題ではない。そのときアリョーシャが奇蹟を必要としたのは、何かの信念の勝利のためではない(そんなことは大丈夫ない[#「大丈夫ない」はママ])。また何か以前先入主となっていた観念が、いち早く他のものを圧倒することを歇したためでもない、――おお、決して、決してそのようなことはない。この問題において、彼の心中第一の場所を占めているのは一つの顔である。ただ顔だけである、――彼の愛してやまぬ長老の顔である、彼が崇拝の極度に達するまで尊敬していたかの正しき人の顔、これなのである! 彼の若く清き心にひそんでいる『ありとあらゆるものに対する』愛は、前の年からその当時へかけて、始終ただ一個の人物に向って集注せられていた。その愛し方はアブノーマルなものであったかもしれない、少くとも、激発的なものであったかもしれないが、――とまれ、今は世になき長老ひとりに集注されていたのである。実際、この人物は疑う余地のない正しい理想として、長いあいだ彼の眼前に立ち塞がっていたので、彼の若々しい精力と努力は、こと