『ドストエーフスキイ全集 第12巻 カラマーゾフの兄弟』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P358-P384

ごとくこの理想一つを目ざして突進しないわけにゆかなかった。それゆえ、ときどきその他の一切を忘れてしまうことさえあった(後に自分で気がついたことであるが、彼は前日あれほどまで心配した兄ドミートリイのことを、この苦しい一日の間すっかり忘れていた。それから、もう一つ、昨日あれほど熱心に意気込んでいた、イリューシャの父に二百ルーブリ届けるという計画も、同様に少しも思い出さなかった)。しかし、彼に必要なのは、繰り返して言うが、奇蹟ではなく『最高の正義』であった。ところが、この正義は無慚にも破られた、と彼は思いこんだ。これがために、彼の心はふいにむごたらしく傷つけられたのである。この『正義』が、アリョーシャの期待のうちで、事件の進展とともに奇蹟の形をとり、それが敬愛する指導者の死とともに、猶予なく出現するものと翹望していたのも、決して無理はないのである。現に僧院中でも、アリョーシャが知恵の高い人としていた僧侶たち、たとえばパイーシイ主教のごとき人ですら、同じように考察し、同じように期待していた。で、アリョーシャはぜんぜん疑惑をもって自分を苦しめるようなことなしに、すべての人と同じような形式を自分の空想に被せていた。それに、もうずっと以前から、まる一年の僧院生活の間じゅう、この空想は彼の心中にちゃんと組み立てられてしまって、こういうふうに期待するのが習慣のようになっていた。しかし、彼が渇望していたのは正義であって、単なる奇蹟ではない!
 しかるに、世界じゅうの誰よりも、一ばん高い位置に昇さるべきものと思っていた人が、当然受けねばならぬ光栄を与えられないで、かえって思いがけなく、地べたへ引き摺りおろされ、顔へ泥を塗られたではないか! 何のためであろう? 誰の裁きであろう? 誰があのような裁きをすることができたのか? これが彼の世馴れぬ、処女のような心を悩ました疑問なのである。彼が心から憤懣と侮辱を感ぜずにいられなかったのは、あの正しきが中にもとりわけ正しい長老が、自分よりずっと低いところに立っている軽薄な群衆の毒々しい嘲笑にゆだねられたことである。よしや奇蹟なぞ全然なくてもかまわない、奇蹟的なものが少しも現われないで、即刻期待が満足せられなくてもかまわない、――けれど、あの悪名は何のために被せられたのだ、あの汚辱は何のために与えられたのだ? 意地わるい僧たちのいわゆる『自然を超越した』急な腐敗は何のためだ? そして、今あの連中が、フェラポントと一緒になって、ぎょうさんらしく担ぎ出した、あの『啓示』とやらは何のためだ、一たい彼らはどういうわけで、われこそかく言う権利を得たり、と信じているのだろう? ああ、神はどこにある、神のみ手はどこにある、何のために神は『最も必要な瞬間に』(とアリョーシャは考えた)、そのみ手を隠してしまって、盲目で唖のような、無慈悲な自然律に屈従する気になられたのである。
 こういうわけで、アリョーシャの心は血潮に湧き立ったのである。そうして、もちろん、前にも言ったとおり、彼の目前には世界じゅうで誰より最も愛している人の顔、しかも『汚辱を受け悪名を被せられた』人の顔が浮んでいるのであった。もしわが主人公のこうした訴えが、軽薄で無分別だと言うなら、それでもよい。しかし、筆者は三たび繰り返して言うが(これもやはり軽薄だという非難に対しては、はじめから同意を表しておく)、わが青年がこういう時にあまり分別くさくないのを、筆者はかえって悦んでいる。なぜなら、分別は馬鹿な人間でないかぎり、いつでも浮んでくるものだが、しかし愛にいたっては、こういう大事な時に青年の心に湧かなかったら、決して湧き出す時がないからである。けれど、筆者はこの際、ある一つの事実を黙過したくない。それはアリョーシャにとって運命的な、しかも混沌たるこの瞬間にあたって、ほんのつかの間ではあるが、彼の心に浮んできたある奇怪な現象である。彼の心にあらたにちらと浮んだある現象というのは、ほかでもない。きのう兄イヴァンの言ったことが、今しきりにアリョーシャの記憶に甦って、妙に悩ましい印象を与えるのであった。それがちょうど、今という時なのである。とはいえ、根本的な、先天的な信仰が、心の底で動揺しはじめたわけではむろんない。彼は自分の神を愛している。今とつぜん不平を訴えはしたものの、確固たる信仰を有している。が、それでも、昨日の兄の話を思い出すにつけて、何だか妙に漠然としてはいるけれど、しかし悩ましく毒々しい感触が、今また急に彼の胸にうごめきだして、次第に強く外へ頭を持ちあげようとする。
 ようやく黄昏の色が濃くなり始めたころ、庵室から松林を抜けて僧院のほうへ進んでいたラキーチンが、とつぜん木の陰にアリョーシャの姿を見つけた。彼は顔を地べたに押しつけて、眠ってでもいるように、じっと倒れていた。こちらはそばへ寄って声をかけた。
「君ここにいたのか、アレクセイ? 一たい君は……」と彼はびっくりしたように言ったが、そのまま句を切って、口をつぐんだ。『一たい君はそれほどまでになってしまったのかね[#「それほどまでになってしまったのかね」に傍点]?』彼はこう言おうと思ったのである。アリョーシャは、そのほうを振り向こうともしなかった。しかし、ラキーチンはその身振りによって、彼が自分の言葉を聞きつけ、かつ了解しているということを、すぐに見抜いてしまった。
「一たい君はどうしたんだね?」彼は依然たる驚きの調子でこう訊いた。
 しかし、その顔面に現われた驚きはもう微笑に変って行き、微笑はだんだん嘲りの表情になっていった。
「ねえ、君、僕はもう二時間以上も君を捜してるんだぜ。だって、急にあそこからどろんをきめこんでしまったじゃないか。一たい君はここで何をしてるんだね? 何だってそんな馬鹿な真似をしてるんだね? まあ、ちょっと僕のほうを見たっていいじゃないか……」
 アリョーシャは頭《こうべ》を上げて起きなおり、木立に体を寄せかけた。彼は泣いてこそいなかったが、その顔は苦痛の表情を示し、そのまなざしにはいらだたしげな色が浮んでいた。もっとも、彼はラキーチンを見ないで、どこかわきのほうを眺めていた。
「君にはわかるまいが、顔つきがまるきり違ってしまったぜ。以前あれほど喧しかった謙抑は、これっからさきもありゃしない。君だれかに腹でも立てたのかね? 誰か失敬なことでも言ったのかね?」
「あっちい行ってくれ!」ふいに、アリョーシャがこう言った、依然として相手のほうを見ないで、大儀そうに片手を振りながら。
「ほう、これはまたどうしたことだ! まるで世間なみの罪深い人間と同じように、大きな声をして呶鳴りだしたね。しかも、それが天使の仲間なんだからなあ! アリョーシカ、君は本当に人をびっくりさせるぜ。いや、まったく、僕は真面目に言ってるんだ。僕はここへ来てから、もうずいぶん長くものに驚いたことがないんだがね。何てっても、僕は君を教養ある紳士として遇してたんだぜ……」
 アリョーシャはとうとう彼のほうを向いた。しかし、やはり妙にぼんやりした様子で、相手の言うことがよくわからないふうであった。
「一たい君はあのお爺さんが臭い匂いを立てだしたので、そんなに……しかし、まさか君はあのお爺さんが、本当に奇蹟の一幕を演じるだろうと、真面目に信じてやしなかったろう?」ふたたびこの上ない真摯な驚きに移りながら、ラキーチンはこう叫んだ。
「信じてたよ、そして今でも信じてる、むしろ信じたいのだ。これからさきも信じるよ。さあ、それから何か訊きたいの?」とアリョーシャはいらだたしげに叫んだ。
「いや、もう決して何も。しかし、ちぇっ、ばかばかしい、今じゃ十くらいの小学生だって、そんなこと本当にしやしないよ。が、まあ、どうだっていいや……じゃ、何だね、いま君は自分の神様に向って腹を立てたんだね、謀叛を起したんだね。つまり、位も上げてくれなかった、祭日に勲章を授けてもくれなかったってね! ええ、君はまあなんて男だ!」
 アリョーシャは目を細めるような工合にしながら、長い間じっとラキーチンを見つめていた。その目の中には突然なにやらひらめいた……が、ラキーチンに対する憤懣の情ではない。
「僕は神に対して謀叛を起したのじゃない、ただ『神の世界を認めない』のだ」と急にアリョーシャは歪んだような微笑をもらした。
「神の世界を認めないとは、どういうことだね?」ちょっと相手の答えに首をひねったのち、ラキーチンはこう訊いた。「何のご託宣だい?」
 アリョーシャは答えなかった。
「そんなくだらないことはもうたくさんだ、これから実際問題に移ろう。君、きょう食事をしたかい?」
「覚えてない……食べたろう、たぶん。」
「君はどうも顔色で判ずるところ、少し元気をつけなくちゃならないようだぜ。実際、君の顔を見てると、気の毒になってくるよ。だって、昨夜も寝なかったんだろう。僕聞いたよ、庵室で集りがあったってじゃないか。それから、例のすったもんだの騒ぎさ。だから、きっとお供えのパンを一きれ食べたくらいのもんだろう。僕は今このかくしの中に腸詰を持ってるんだ。さっき町からここへ来る途中、万一の場合をおもんぱかって買っておいたのさ。しかし、君はとても腸詰なんか……」
「腸詰結構。」
「へえ! それじゃ君は何かね! してみると、もう純然たる謀叛だね、戦闘準備だね! いや、実際、君、こういうことは何もそう卑しむにはあたらないよ。僕んとこへ行こうじゃないか……僕自身も、今ウォートカの一杯もひっかけたいんだよ、おっそろしく疲れちゃった。まさか君もウォートカは思いきってやれまい……それとも、やっつけるかね?」
「ウォートカも結構。」
「へえ、おいでなすったね! 素敵だぜ、君!」とラキーチンはけうとい目つきをした。「まあ、どっちにしたって、ウォートカにしろ、腸詰にしろ、それはなかなか威勢のいい結構なことだ。もうどうしても逃すわけにゆかん。さあ、出かけよう!」
 アリョーシャは無言のまま大地から身を起し、ラキーチンの後につづいた。
「もしこれを兄貴のヴァンカが見たら、さぞかしびっくりするだろうなあ! ああ、思い出した、君の兄さんのイヴァン君は、けさモスクワへ向けて発ったってね、君知ってるかい?」
「知ってる」とアリョーシャは気のない調子で答えた。
 と、ふいに、兄ドミートリイの姿が彼の頭をかすめたが、それは本当にただかすめたというだけである。もっとも、そのとき何かあることを、――一刻も猶予のできない急用といおうか、一種の恐ろしい義務といおうか、とにかく、そういうふうなものを思い出したが、その追憶も、彼の心まで達することなしに、何の印象をも残さずその瞬間に記憶から飛び去って、それきり忘れられてしまった。しかし、アリョーシャは長い間これを覚えていた。
「君の兄貴のヴァンカが、一ど僕のことを『ぼんくらな自由主義の袋』だと批評したし、また君もたった一度だが、つい我慢できないで、僕が『破廉恥』だってことを匂わせたね……まあ、そうしとくさ!」『僕はこれから君たちの非凡ぶりと廉潔ぶりを拝見するさ』(と、これはもう口の中で小声に言い終った)、「畜生、ときに、君!」と彼はまた大きな声で言いだした。「僧院のそばを通り抜けて、小径づたいに、まっすぐに町へ出ようじゃないか……ああ、そうが! 僕はちょっとホフラコーヴァ夫人のとこへ寄りたいんだがなあ。ところで、どうだい、僕きょうの出来事をすっかり夫人に手紙で知らせてやったらね、夫人はさっそく鉛筆の走り書きで、短い手紙をよこしたのさ(あの夫人は恐ろしく手紙を書くことが好きだね)。『わたくしはゾシマ大主教のような立派な長老から、ああした行為[#「ああした行為」に傍点]を予想することができませんでした!』いや、本当に『行為』と書いてあったんだよ! 夫人もやはり憤慨したんだね。君がたはみんなそうなんだ! いや、待てよ!」彼はまた突然こう叫んで立ちどまり、アリョーシャの肩を押えて引きとめた。
「おい、アリョーシカ」とつぜん心を照らした思いがけない新しい想念に全身を支配されながら、ラキーチンは試すようにじっと相手の目を見つめた。彼はうわべで笑って見せていたが、察するところ、この思いがけない新しい想念を口に出すのを恐れているらしかった。それほどまでに今のアリョーシャの気分は、彼の目から見て不思議千万な、思いももうけぬ現象なので、彼はいまだに、信ずることができなかったのである。「ねえ、アリョーシカ、今どこへ行ったが一番いいと思う?」やっと彼は、機嫌をとるような、臆病らしい調子で言いだした。
「どこだっていいさ……君の好きなところへ。」
「グルーシェンカのとこへ行かないかね、え? 行く?」臆病な期待に全身を顫わせながら、とうとうラキーチンはこう言った。
「グルーシェンカのとこへ行こう。」落ちついた調子で、さっそくアリョーシャは答えた。
 ここにいたって、あまりの意外さに、ラキーチンはほとんどうしろへ飛びすさらないばかりであった。つまり、この落ちつきはらったさっそくな承諾に驚いたのである。
「え、え!………じゃあ!」彼は驚きのあまり叫ぼうとしたが、急にアリョーシャの手を固く握って、径づたいにぐんぐんしょ引いて行った。こうした決心がこのまま立ち消えになりはせぬかと、やはりまだ恐ろしく気をもみながら。二人は無言で歩いた。ラキーチンは口をきくのさえ恐れていた。
「あの女がどんなに悦ぶだろう、どんなに……」と彼は言いかけたが、また口をつぐんでしまった。
 しかし、彼がアリョーシャをしょ引いて行くのは、決してグルーシェンカを悦ばすためではなかった。彼は地みちな男であったから、自分にとって有利な目的がなければ、何事もしでかすはずがなかった。いま彼は、二重の目的をいだいていた。第一の目的は復讐的なものであった。すなわち、『正しき者の汚辱』を見るためである。実際、もうずっと前から望んでいたように、アリョーシャが『聖者の列から罪人の仲間へ堕ちる』のを、見ることができるかもしれないのだ。第二には、非常に有利な物質的な目的がある、しかしこのことは後や話そう。
『つまり、こうした瞬間が授かったのだ』と彼は腹の中で愉快げに、かつ憎々しげに考えた。『だから、こっちはそいつの、その瞬間の襟髪を引っ掴んでやらなくちゃならない。実際、ごくお誂え向きの時なんだからな。』

[#3字下げ]第三 一本の葱[#「第三 一本の葱」は中見出し]

 グルーシェンカは中央教会のある広場に近い、町でも一ばん賑やかな場所に住んでいた。彼女はモローゾヴァという商人の後家さんの邸うちにある、あまり大きからぬ木造の離れを借りでいるのであった。モローソヴァの家は大きな石造の二階建てで、見かけはあまり立派でなかった。その内には、もう年とった女主人自身が、これもだいぶの年になる老嬢の姪を二人つれて、淋しく暮している。彼女はべつに離れを貸家に出す必要を感じなかったが、グルーシェンカを借家人として自分の家へ入れたのは(それはもう四年前のことである)、グルーシェンカの公然の保護者であり、自分の親類にあたる商人サムソノフのご機嫌をとるためであった。これは誰でも知っていた。人の噂によると、嫉妬深いサムソノフは初め自分の『思いもの』をモローソヴァの家へおく時、この老婆の鋭い目を当てにして、新しい借家人の品行を監視してもらおうと思ったとのことである。しかし、間もなくこの鋭い目も不必要であることがわかってきた。そして、結局、モローソヴァはグルーシェンカとろくろく顔も合さなくなり、もう決して監視めいた振舞いをして、うるさがられることもなかった。
 当時、臆病で遠慮ぶかい、いつも沈んでもの思わしげな十九歳の痩せた娘を、老人が懸庁所在の町からこの家へ連れて来たのは、実際もう四五年前のことである。それから多くの水が流れ去った。この娘の生い立ちに関する町の人の知識はごく僅かなもので、それさえあやふやしていた。このころ、多くのものが、この『素敵な美人』に(アグラフェーナ・アレクサンドロヴナは、四年間にこういう変化を遂げたのである)興味を持つようになっても、やはりあまり立ち入ったことを知るものはなかった。ただ彼女がまだ十八の小娘の時、ある将校に誘惑せられ、その後まもなく棄てられた。将校は土地を去って、どこかで結婚し、グルーシェンカは汚辱と貧苦の申にとり残された、というような噂があったくらいのものである。もっとも、グルーシェンカは事実、貧苦の中から老人に救い出されたには相違ないけれど、何かある僧侶の、潔白な家庭に生れたという話もある。つまり、無所属の助祭か、何かそんなふうな人の娘だというのである。
 ところが、四年の間に、この感傷的な辱しめられたる哀れな孤児が、血色のいい肥りじしのロシヤ式美人となった。大胆なはきはきした気性で、傲慢不遜で、金のことに抜け目のない、儲け上手な、吝嗇《しわ》い、用心ぶかい女で、人の噂によると、手段の是非はわからないが、もう相当の財産を造り上げているとのことであった。ただ一つ、グルーシェンカに近づくのは、非常にむずかしい、この四五年間に彼女の寵愛を誇りうる男は、老人をほかにして一人もない、ということだけは誰でも固く信じていた。これは確かな事実である。まったく、彼女の寵愛をうるために、もの好きな連中がたくさんとび出したが(最近二年ばかりことにそれが多かった)、しかし、すべての試みもことごとく水泡に帰して、中にはこの勝気な若い婦人の断乎たる冷笑的な拒絶にあって、喜劇のような見苦しい大団円とともに、すごすご引きさがるべく余儀なくされた向きもだいぶあったのである。
 また、こんなことも、よく人に知られていた。ほかではない、この若い婦人が近頃、ことに最近一年ばかりの間に、世間で「|取引き《ゲシェフト》」と言われているものに手を出しはじめた。しかも、この方面において非常な才能を示したので、しまいには多くのものが、一口に猶太女《ジドーフカ》とこなしてしまうくらいになった。しかし、べつに高利を貸すの何のというわけではないが、世間で知られているところによると、本当に彼女はしばらく、フョードル・カラマーゾフと組んで、一ルーブリにつき十コペイカなどという捨て値で手形を買い占めていた。そうして、この手形の中には、十コペイカにつき一ルーブリくらいの儲けになるのもあった。
 サムソノフはこの一年ばかり両足が腫れたため、歩くことができないで、病床に横たわっていた。何十万という大金持であったが、非常にけちな一国者の男やもめで、もう一人前になった息子たちに対して、暴君のように振舞っていた。けれど、自分の被保護人《プロテジェ》にはかなり自由にされていた。もっとも、はじめこの女をうんと厳しく扱って、『精進バタ』で養うつもりでいたのだと、当時口の悪い連中が、かげ口をきいていたが、しかしグルーシェンカは自分の貞操に対して、底の知れない信頼の念を老人の胸に植えつけておいて、巧みに自分の『解放』を成就したのである。この一大手腕家たる老人も(今はもうとっくに亡き人であるが)、やはり非常に人並みはずれた性質で、まず何よりも恐ろしくけちで、石のように頑固な男であった。それゆえ、グルーシェンカにすっかり打ち込んでしまって、この女でなければ、夜も日も明けなかったけれど(最近二年間はまったくそうであった)、それでもまとまった大きな金はわけてやらなかった。たとえ彼女に棄ててしまうと嚇かされても、やはり折れて出なかったに相違ない。で、老人はほんの僅かな金をわけてやったばかりであるが、それでもこのことが世間へ知れ渡ったとき、みんな目を丸くして驚いたのである。
『お前も馬鹿な女でないから、』八千ルーブリばかり分けてやるとき、彼はグルーシェンカにそう言った、『お前自身でやりくりするがいい。しかしな、今までどおりの年々の手当でよりほかには、死ぬまでわしから、一文も取れないものと思ってくれ。それから、遺言の時だって、何一つお前に分けてやりゃしないから。』そして、本当にこの宣言を実行した。死ぬる時に自分の全財産を、生涯そばにおいて召使なみにこき使っていた息子たちや、その妻子たちにすっかり譲ってしまって、グルーシェンカのことは一言も遺言状に書いておかなかった。そういうことが、あとですっかりわかったのである。しかし『自分の財産』のやりくりに関する忠言では、グルーシェンカも彼に少からぬ助力を受け、『仕事』の筋道を教えてもらった。
 フョードル・カラマーゾフは、初めちょっとした|取引き《ゲシェフト》の関係で、グルーシェンカとかかり合いになったが、とうとう自分でも思いがけなく前後を忘れて、ほとんど気がちがいそうなほどこの女に惚れ込んでしまった。この時すでに虫の息になっていたサムソノフは、これを聞いて恐ろしく笑い興じた。ここに注意すべきことがある。グルーシェンカはこの老人に、いささかもかくし立てなく、誠意をもって仕えているようにすら見えた。こんなにしてもらえるのは世界じゅうで、おそらくこの老人ひとりであろう。最近にいたって、突然ドミートリイが現われて、自分の恋を告白したとき、老人はもう笑うのをやめてしまった。そして、あるとき真面目ないかつい調子で、グルーシェンカに忠告をした。『もし親子のうち、どっちかを決めるとしたら、爺さんのほうにするがいいぜ。しかし、爺さんが間違いなくお前と結婚して、前もっていくらかの財産をお前の名義にしておく、という条件つきでなくちゃならん。あの大尉さんとねんごろにするのはよしな、一生うかぶ瀬はありゃしないから。』これが当時、すでに死期の近いことを自覚していた老好色漢が、グルーシェンカに与えた忠告そのままの言葉である。そして、本当に彼はこの忠告をした後、五カ月たって死んでしまった。
 ちょっとついでに言っておくが、当時、町うちでも多くの人は、グルーシェンカを対象としたカラマーゾフ親子の愚かな見苦しい競争を知っていたが、親子のものに対する彼女の態度の本当の意味は、当時ほとんど知るものがなかった。彼女の使っている二人の女中さえ、大事件の爆発した後(このことは後で述べる)法廷へ召喚されたとき、グルーシェンカはドミートリイに殺すと言って嚇されたため、ただ恐ろしさのあまり彼を迎えていたのだ、と申し立てたくらいである。彼女の使っている女中は二人きりであった。一人は彼女の生家からついて来た、もうずいぶん年のよった台所女で、病身な上にほとんど耳が聞えない。いま一人はその孫にあたり、グルーシェンカの小間使を勤めている、二十歳《はたち》ばかりの若い元気のいい娘であった。グルーシェンカは恐ろしくけちくさい暮しをして、部屋の飾りつけなども見すぼらしかった。彼女の借りている離れは三間になっていたが、それには家つきの古めかしい、二十年代に流行した型のマホガニーで作った椅子、テーブルが飾ってあった。
 ラキーチンとアリョーシャが入った時は、もう真っ暗であったが、室内にはまだあかりがついていなかった。当のグルーシェンカは客間の大きな長椅子の上に臥ていた。それはマホガニーまがいの台に、もうずいぶんすれて穴だらけな皮を張った、バックつきのごつごつした不恰好なものであった。彼女の頭の下には、寝床から持ってきた羽入りの白い枕が二つ置かれてある。彼女は両手を頭にかって、身動きもせず仰向けに長くなっていた。まるで誰か待ってでもいるように、黒い絹の着物を着て、頭に軽いレースの布をつけていたが、それが大へん彼女に似合うのであった。肩には同じくレースで作った三角形の襟当てが、大きな黄金《きん》のブローチで留められてあった。事実、彼女はある人を待っていたので、待ち遠いような悩ましいような心持で、いくぶん蒼ざめた顔をして、目と唇に燃えるような熱を見せ、じれったそうに右足の爪先で、長椅子の腕木をことこと鳴らしながら横になっていた。
 ラキーチンとアリョーシャが現われた時、ちょっと騒ぎがもちあがった。グルーシェンカがとっかわに長椅子から飛びあがって、いきなり慴えたような声で、『だあれ?』と叫ぶのが、控え室のほうまで聞えた。しかし、出迎えに出た小間使はすぐ女主人に向って、
「いいえ、あの人じゃございません、別な方です、何でもない方です」と叫んだ。
「一たいどうしたんだろう?」アリョーシャの手を取って客間へ導き入れながら、ラキーチンはこう呟いた。
 グルーシェンカはいまだに驚きが静まらない様子で、長椅子のそばへつっ立っていた。ふさふさとした暗色の髪が急にレースの帽子をこぼれて、ぱらりと右肩に落ちかかったが、客の顔をしげしげと見入って、やっと見分けがつくまでは、少しも気のつかないふうで、直そうともしなかった。
「ああ、あんたなの、ラキートカなの? まあ、びっくりさせたじゃないの。おつれは誰? 一緒にいる人はどなた? おや、まあ、誰かと思ったら!」やっとアリョーシャの顔を見分けて、彼女はこう叫んだ。
「まあ、蝋燭でも持ってくるように言ったらどう?」おれは家の中の指図までする権利を持っているほど昵懇な間柄なんだよ、とでもいうような、うちくつろいだ調子で、ラキーチンは口をきった。
「蝋燭……なるほど、蝋燭をね……フェーニャ、この人に蝋燭を持って来てお上げ……だけど、よくもこんな時をよって連れて来たもんだわ!」彼女はアリョーシャのほうを顎でしゃくって、またこう叫んだ。それから鏡に向って、手早く髪の毛を帽子の中へ両手で押し込み始めた。
 彼女は何だか不満げな様子であった。
「それとも、お気に召さなかったのですかね?」とラキーチンはさっそく向っ腹を立てながら訊いた。
「だって、ラキートカ、あんたわたしをびっくりさせるんだもの」とグルーシェンカは微笑を浮べながら、アリョーシャのほうへ振り向いて、「アリョーシャ、いい子だからわたしを怖がらないでちょうだい。わたしあんたが来てくれたので、とても嬉しいのよ、まったく思いがけないお客さんだものねえ。ところで、ラキートカ、あんたはわたしをびっくりさせたわ。だって、わたしミーチャが暴れ込んだかと思ったんだもの。実はねえ、わたしさっきあの人に嘘をついたのよ。あの人にはわたしの言うことを信じたって誓いを立てさせながら、自分では嘘をついたの。わたしは今夜クジマー・クジミッチ、――わたしの商人《あきんど》のとこへ行って、一晩じゅうあの人と一緒にお金の勘定をするって言ったの。まったくね、わたし毎週あの人んとこへ行って、一晩じゅうお金の勘定をするのよ。戸に鍵をかけちゃって、あの人が算盤をぱちぱちやると、わたしは坐って、――帳簿へ記入するの。わたし一人だけしか信用してないんだからね。ミーチャは、わたしがあちらへ行ってると思い込んでるでしょう。ところが、わたしはここに閉じ籠って、いい知らせを待ってるのよ。だけど、どうしてフェーニャがあんたたちを通したのかしら! フェーニャ! フェーニャ! 門のとこへ走って行ってね、戸を開けて、大尉さんがいるかいないか、あたりの様子を見てごらん。もしかしたら、隠れて様子を窺ってるかもしれないからね、わたし本当に怖くてたまらない!」
「誰もいませんよ、アグラフェーナさま、たったいま覗いてみました。それにわたし、しょっちゅう隙間から覗いておりますの、自分でも怖くてびくびくしているのですから。」
「鎧戸は閉ってるかねえ、フェーニャ、そして、窓掛けもおろしたほうがいいわ、――こういうふうにね!」と、彼女は自分で重い窓掛けをおろした。「でないと、あかりを見て飛んで来るからねえ。アリョーシャ、今日はね、わたしミーチャが、あんたの兄さんが恐ろしいの。」
 グルーシェンカは大きな声でものを言った。彼女は心配そうではあったが、同時にほとんど歓喜といっていいくらいな心の状態になっていた。
「なぜ今日にかぎって、そんなにミーチェンカが怖いの?」とラキーチンが訊ねた。「いつもあの男にそうびくびくしてはいなかったじゃないの。それどころか、かえってあの男のほうが君の言いなり次第になっていたくらいだぜ。」
「そう言ったじゃなくって、知らせを待ってるって、――ある嬉しい知らせを待ってるのよ。だから、ミーチェンカなんかてんでいらないくらいだわ。だけどあの人は、わたしがサムソノフのとこへ行ったってことを、本当にしなかったらしいわ、どうもそんな気がする。きっと今ごろ自分の家の、親父さんの家の裏庭に坐って、わたしを見張ってるに相違ない。もしそうだとすれば、ここへやって来ないから、結句そのほうがいいわ!だけど、わたし本当にサムソノフのとこへ走って行ったのよ。ミーチャが送ってくれたから、わたしそう言っといたわ、――十二時頃まであそこにいるから、十二時になったらぜひやって来て、わたしを家へ送り返してちょうだいってね。すると、あの人は帰って行ったの。わたし十分間ばかりお爺さんのとこにいて、それからまたここへ帰ったけど、その恐ろしかったこと、――あの人に出会ったら大変だと思って、駆け出したわ。」
「ところで、そのおめかしはどこへ行くため? まあ、なんて面白い帽子を被ってるんだろう?」
「あんたこそなんて面白い人なんだろう、ラキートカ! いい知らせを待ってるんだって、言ってるじゃないの。知らせが来次第に、起きあがって、飛んで行くわ。宵にちらりと見たばかり、すぐいなくなってしまうのよ。つまり、いつでも間に合うようにおめかしをしたのよ。」
「一たいどこへ飛んで行くの?」
「あんまりいろんなことを知ると早く年をとってよ。」
「こいつあ驚いた。あの嬉しそうなふうはどうだ……僕は今まで一度も君のそうした様子を見たことがないよ。まるで舞踏会へでも行くように、めかしこんだものさ」とラキーチンは彼女を見廻した。
「あんたは舞踏会のことをよくご存じだからね。」
「じゃ、君は?」
「わたしは舞踏会を見たことがあってよ。おととしサムソノフが息子さんにお嫁をとった時、わたしコーラスのところから見ていたわ。だけど、ラキートカ、ここにこういう立派な貴公子がいらっしゃるのに、あんたなぞ相手にしていることはないようだわね。これこそ本当のお客さまだわ! アリョーシャ、わたしこうしてあんたを見ていても、何だか本当にならないのよ。ああ、どうしてあんた、わたしのところへ来てくれたの! 実のところ、わたし思いもかけなかったわ。以前だってあんたが来ようなんて、これんばかりも当てにしたことはないのよ。今はまったくおりが悪いけど、わたし本当に嬉しくてたまらないわ! 長椅子の上に坐ってちょうだい、ほら、ここんとこへ、ええ、そうよ、ああ、本当にあんたはわたしの三日月さまだわ。わたし何だかまだよく合点がいかないようだ……ねえ、ラキートカ、もしあんたがこの人を昨日か一昨日つれて来たらねえ! まあ、とにかく、わたし嬉しいわ。もしかしたら、一昨日でなくて、今こういう時につれて来てくれたのが、かえってよかったかもしれないわ……」
 彼女は蓮葉に長椅子へ腰をおろし、アリョーシャと並んで座を占めた。そして、まったく嬉しさに夢中になった様子で、彼の顔を見つめた。実際、彼女は嬉しいので、そう言ったのも嘘ではなかった。その目は輝き、唇は笑っていた。しかし、それは人のいい楽しげな笑い方である。アリョーシャはこういう善良な表情を、彼女の顔に発見しようとは思いがけなかった。彼は今日が日まで、あまりグルーシェンカと会ったことがないので、何だか薄気味の悪いような概念を拵え上げていた。ところが、昨日カチェリーナに対する彼女の毒々しい狡猾な仕打ちを見て、恐ろしい震撼を受け、非常な驚愕を感じたので、いま突然グルーシェンカの中に、まるで別な思いがけない人を見つけたような思いがした。いま彼はすっかり自分の悲しみのために押しひしがれてはいたけれども、目はひとりでに注意ぶかく彼女をうち守るのであった。彼女の身のこなしもやはり、昨日から見るとまるっきり変って、しかも非常によくなっていた。昨日の甘ったるいような口のきき方も、しゃならしゃならした様子ぶった身振りも、ほとんど跡形なく消えてしまって、……すべてが簡単でさらりとしていた。動作も活溌で、直線的で、人を信頼するような趣きがあった。がしかし、彼女はひどく興奮していた。
「ああ、今日は何だってこういろんなことが重なり合うんでしょうね、本当に」と彼女はまた言いだした。「そしてね、アリョーシャ、どうしてあんたの来たのがこれほど嬉しいか、わたし自分ながらわけがわからないのよ。まあ、訊いてごらんなさい、わたしゃ知りゃしないから。」
「へえ、何が嬉しいか、自分でわからないんだって?」とラキーチンはにやりと笑った。「以前は、なぜだか知らないが、自分からうるさく僕につきまとって、つれて来てくれ、早くあの人をつれて来てくれって、何か当てがあるようなふうだったじゃないの?」
「もとは別な当てがあったけれど、今はもうそんなことすんじゃったの。それどころじゃないのよ。わたしこれからあんたたちにご馳走するわ、よくって? わたし今はちっとばかりいい人間になったんだからね、ラキートカ。まあ、お坐んなさいよラキートカ、何だってそんなとこに突っ立ってるの? みら、もう坐ったの? まったく、ラキートカが自分のことを忘れるはずなんかないわね。ほら、ごらんなさい、アリョーシャ、あの人はわたしたちの前に坐って、ぷんとしてるでしょう。それはね、わたしがあんたよりさきに、お坐んなさいって言わなかったからよ。やれやれ、うちのラキートカの怒りっぽいこと!」とグルーシェンカは笑いだした。「まあ、怒らないでちょうだい。今日わたしはいい人間になったんだから、一たいあんたはどうしてそんなにふさぎこんでるの、アリョーシャ、わたしがおっかないの?」愉快げな嘲笑を浮べつつ、彼女は相手の顔を見つめた。
「この人には悲しいわけがあるのさ、位を授けてもらえなかったのでね。」
「位ってなあに?」
「この人の長老が匂いだしたのさ。」
「匂いだしたとは? またこの人は何かくだらないことを言ってるのよ、何かいやらしいことを言おうと思ってるのよ。お黙りよ、馬鹿。ねえ、アリョーシャ、あんたわたしを膝の上に坐らしてくれて、こういうふうに?」ふいに彼女はひらりと身を跳らして、まるで甘ったれ小猫のように、きゃっきゃっ笑いながら、アリョーシャの膝の上へ飛びあがった。そして、しなやかに右腕を廻して、彼の頸を抱きしめるのであった。「うちの信心ぶかいお坊っちゃん、わたし一つあんたを浮き立たせて上げるわ! だけど、冗談はぬきにして、あんた本当にわたしを膝の上に坐らしてくれて? 怒らない? あんたの言いつけ次第で、わたしすぐ飛びおりるわ。」
 アリョーシャは黙っていた。彼は身じろぎするのも恐ろしいように、じっと坐っていた。『あんたの言いつけ次第で、わたしすぐ飛びおりるわ』という言葉も聞き分けたけれど、まるで痺れたようになって、返事もしなかった。いま彼の心に生じたことは、自分の席から貪るように見まもっているラキーチンなどの期待し得ることとは、まるで別なものであった。偉大な霊魂の悲しみは、いま彼の心中に生じ得べき一切の感触を呑みつくしたので、もし彼が自分で自分の心を十分に闡明する余裕があったら、自分は今あらゆる誘惑に対して堅固無比な鎧を着ているようなものだ、ということを悟ったにちがいない。しかし、漠然として不明瞭な心の状態と、食い入るような悲しみにもかかわらず、彼は新しく自分の心中に生じたある一つの奇妙な感触に、驚きを感じないわけにはゆかなかった。ほかでもない、この女は――この『恐ろしい』女は、以前女というものに関する想念が胸にひらめくたびに、必ずきまって経験した恐怖の情を、いま彼の心に呼び起さなかったばかりか、かえって今まで何よりも恐れていたこの女が、――いま自分の膝の上に坐って自分を抱きしめているこの女が、まるで趣きの違った、思いがけない、特殊な感情を呼びさましたのである。それはこの女に対する異常に強烈な、しかも純潔な好奇の感情であった。そうして、これには何らの危惧もなく、毫末の恐怖も交っていなかった、――これがいま彼を驚かしたおもな理由なのである。
「そんなくだらないお喋りはたくさんだ」とラキーチンは叫んだ。「それよりかシャンパンをお出しよ、君の義務じゃないの、自分でも承知してるくせに!」
「まったく義務だわね。実はね、アリョーシャ、この人があんたをつれて来たら、いろんなもののほかに、シャンパンも出すって約束したのよ。シャンパンを抜きましょう。わたしも飲むわ! フェーニャ、フェーニャ、シャンパンを持って来ておくれ。ほら、ミーチャがおいてった壜さ。早く駆け出しておいで。わたしはけちんぼだけど、一本おごってよ。しかし、あんたのためじゃないの、ラキートカ。あんたは蕈《きのこ》だけど、この人は貴公子だものね! もっとも、今わたしの胸は別なことで一ぱいになってるけれどかまやしない。わたしはあんたたちと一緒に飲むわ、一騒ぎしたくなったの!」
「一たい君は今どうしたっていうの? 一たいどんな知らせが来るの? 一つ伺いたいものだが、それとも秘密かしらん?」ラキーチンは、たえまなく自分のほうへ飛んで来る皮肉な言葉を一生懸命気にとめないようなふりをしながら、ふたたび好奇に充ちた調子で口を入れた。
「なんの、秘密どころじゃないわ、あんた自分で知ってるじゃないの。」急に、グルーシェンカはアリョーシャからちょっと体を離して、ラキーチンのほうへ首を向けながら、そわそわした調子でこう言った。が、それでもやはりアリョーシャの膝の上に坐って、片手をその頸に巻いたままであった。「将校が来るのよ、ラキーチン、わたしの将校が来るのよ!」
「来るって話は僕も聞いたが、もうそんな近いところにいるの?」
「今モークロエ村にいるわ。そこからこちらへ使いをよこすって、自分でちゃんとそう書いてるの。わたしさっき手紙を受け取ったので、こうして使いを待ってるのよ。」
「へえ! なぜまたモークロエ村に?」
「それは長い話なの、それにあんたもうたくさんだわ。」
「じゃ、ミーチャは今、――やれやれ! 一たいあの男は知ってるの、知らないの?」
「何を知るもんですか! まるで知りゃしないわ! もし知ったら、殺すにきまってるじゃないの。だけど、今わたしはそんなことちっとも怖くない、あの人の刃物なんか怖くないのよ。お黙り、ラキートカ。あの人のことなんか思い出させないでちょうだい。あの人はわたしの心をめちゃめちゃにしてしまったんだもの。ええ、わたしは今という時に、そんなこと一さい考えたくないの。ところが、アリョーシャのことなら考えられるわ。わたしアリョーシャの顔がじっと見ていたいの……わたしの顔を見て笑ってちょうだい、ね、いい子だから、浮かれてちょうだい、わたしのばかばかしい悦びようを笑ってちょうだい……あら、笑ったのね、笑ったのね! まあ、なんて優しい目つきでしょう。あのね、アリョーシャ、わたしはあんたが、一昨日のことで、あのお嬢さまの味方になって、わたしに腹を立ててるんじゃないかと、そればっかり考えていたのよ。わたし犬だったわ、本当に。だけど、やっぱりああなったほうがいいんだわ、悪いことだったけれど、ああなったほうがいいんだわ。」グルーシェンカはもの思わしげに薄笑いを浮べたが、その中には何かしら残忍らしい影がふいにちらりとひらめいた。「ミーチャの話だと、あのひとは『鞭でひっぱたいてやらなくちゃならない!』って喚いたそうね、わたしあの時、本当にひどい恥をかかせたわねえ。だって、あのひとはチョコレートを餌にして、わたしを負かしてやろうという目算で、わざわざ呼び出しをかけたんだもの……いいえ、ああなったほうがよかったのよ」と彼女はまた薄笑いを浮べた。「でも、やはりあんたが腹を立てたろうと思って、心配でたまらないわ。」
「おや、本当だ、」突然、ラキーチンが心《しん》から驚いた様子で、こう口を入れた。「ねえ、アリョーシャ、本当にこの人は君を恐れてるぜ、君のような雛っ子を。」
「それはね、ラキートカ、あんたの目にはこの人が雛っ子に見えるでしょうよ、はい……そのわけはあんたに良心がないからですよ、はい! わたしはね、わたしはこの人を心底から愛していますよ、はい! アリョーシャ、わたしがあなたを心底から愛してるってことを、あんた本当にして?」
「ええ、なんて厚かましい女だろう! このひとはね、アリョーシャ、君に愛の打ち明けをしてるんだよ。」
「それがどうしたの、愛しているわ。」
「じゃ、その将校は? モークロエからのいい知らせは?」
「あれとこれとは別だわ。」
「なるほど、女らしい考え方だあね!」
「わたしに腹をたてさせないでちょうだい、ラキートカ」と、グルーシェンカは熱くなって抑えた。「あれとこれとは別だわ。アリョーシャは別な愛し方で愛してるのよ。もっともね、アリョーシャ、以前はあんこに浅はかな考えを持ってたわ。わたしはね、アリョーシャ、根性の汚い意地のわるい女だけれど、どうかすると、あんたを自分の良心のように眺めることがあるの。『いまごろあの人はわたしを穢れた女だと思って、軽蔑してるに相違ない』とそんなことばかり考えるのよ。一昨日も、あのお嬢さんの家から駆け出して帰る時、やっぱり心の中でそう思ったわ。わたし先《せん》からあんたをそんなふうに見てるのよ。ミーチャもそのことを知ってるわ、わたしが話したから。現にミーチャも同じようなことを考えてるのよ。あんた本当にするかどうか知らないけれど、わたしはあんたを見てると恥しくなるの、自分という人間が恥しくてたまらなくなるの……どうして、いつ頃からあんたのことをこんなふうに考えるようになったか、わたし自分でわからない、覚えていないわ……」
 フェーニャが入って来て、盆をテーブルの上へ置いた。その上には口を抜いた壜が一本と、なみなみついだ杯が三つのせてあった。
シャンパンが来た!」とラキーチンは叫んだ。「アグラフェーナさん、君は恐ろしく興奮して、夢中になってるようだが、こいつを一杯飲んだら、踊りでもやりだしたくなるよ。おやおや、これくらいのこともできないのかなあ。」彼はシャンパンを見すかしながら、こう言いたした。「あの婆さん、勝手ですっかり注いじまって、壜に栓もしないで持って来やがった、おまけに生ぬるいときてる。が、まあ、これでもいいとしとくさ。」
 彼はテーブルに近寄って、杯を取り上げ、一息にぐっと飲み干して、また自分でもう一杯ついだ。
シャンパンとなると、なかなか容易にありつけないやつさ」と彼は舌なめずりしながら、「どうだ、アリョーシャ、杯を取って元気のいいところを見せないか。ところで、何を祝って飲むとするかな? 天国の扉のためとでもするか? グルーシェンカ、君も一つとりたまえな。君も天国の扉のために飲まない?」
「天国の扉のためって、何のこと?」
 彼女は杯をとった。アリョーシャも、自分の杯を取り上げて、一口ぐっと飲んだが、そのまま杯をもとの場所へ戻してしまった。
「いや、やはり飲まないほうがいい!」と彼は静かにほお笑んだ。
「さっきのから元気はどうしたい!」とラキーチンが叫んだ。
「そういうことなら、わたしもおやめだ」とグルーシェンカが受けた。「それに、ほしくもないわ。ラキートカ、あんた一人ですっかり平らげておしまいなさい。もしアリョーシャが飲めば、その時はわたしも飲むけれど。」
「どうも甘ったるいところを見せつけられるぞ!」とラキーチンが茶々を入れた。「しかも、ご自分は男の膝の上に乗っかってさ! まあ、この人のほうは不幸があるから飲まないとしたところで、君のほうに一たい何があるというんだね! この人は自分の神様に謀叛を起して、腸詰を食べようとしているんだがなあ……」
「それはどういうわけ?」
「この人の長老が今日死んだのさ、神聖なるゾシマ長老さまがさ。」
「じゃ、ゾシマ長老がおなくなんなすったの?」とグルーシェンカは叫んだ。「まあ、どうしよう、わたしはそれさえ知らなかった!」彼女はうやうやしく十字を切った。「ああ、わたしはどうしたっていうんだろう。この人の膝の上に乗っかったりして!」と彼女は叫んで、びっくりしたように膝から飛びおり、長椅子の上に坐りなおした。
 アリョーシャは驚いて、じいっと彼女を見つめた。その顔が何だか明るくなったような工合であった。
「ラキーチン」彼は突然、断乎とした調子で声高に言いだした。「からかうのはよしてくれたまえ、僕が神様に謀叛を起したなんて……僕は君に対して悪感を持ちたくないから、君もも少し善良な気持になってくれたまえな。僕はね、君が今までかつて持ったことがないような宝を失ったのだから、君はいま僕のことを云々する資格はないんだよ。それよりか、まあ、このひとを見たまえ、このひとが僕を憫れんでくれたのは、君にもわかったろう? 僕はここへ来る時、意地のわるい魂を発見する覚悟でいた、――第一、自分からそういうところへ行きたくなったのだ、なぜって、僕が卑劣でやくざだったからさ。ところが、意外にも、誠実な姉を発見した、愛する心を発見した、宝ものを発見したのだ……このひとは僕を憫れんでくれた……アグラフェーナさん、僕はあなたのことを言ってるんですよ。今あなたは僕の心を鼓舞してくれました。」
 彼の唇は顫え、息はつまってきた。彼は言葉を休めた。
「まるで、このひとが君の命を助けでもしたようだね。」ラキーチンは毒々しく笑いだした。「ところが、この女は君をとって食うつもりでいたんだよ、君はそれを知ってるかい?」
「お黙り、ラキートカ!」とグルーシェンカはいきなり飛びあがった。「二人ともお黙んなさい。今こそわたし何もかも言っちまうわ。アリョーシャ、あんたにお黙んなさいと言ったのはね、今あんたの言葉を聞いてると、恥しくてたまらなくなるからよ。だって、わたしはいい人間どころか、本当に意地わるなんですもの! わたしこんな人間なのよ。ところで、ラキートカ、あんたにお黙りと言ったのはね、あんたが嘘ばかりをつくからよ。まったく一時この人をとって食おうというような、いやしい考えがあったに相違ないけれど、今じゃあんたの言うことは嘘よ、今はもうまるっきり違うんだもの……それに、わたしもうあんたの声を聞くのもいやだわ、ラキートカ!」
 グルーシェンカはなみなみならぬ興奮の体で言い放った。
「どうだ、二人ともすっかりのぼせてしまってらあ!」とラキーチンは面くらって、二人を見くらべながら、口を尖らしてこう言った。「まるで気ちがいだ、瘋癲病院にでも行ったようだ。両方ともめそめそしちゃって、今にも泣きだしそうじゃないか!」
「本当に泣きだすわ! 本当に泣きだすわ!」とグルーシェンカは言った。「この人はわたしを姉と言ってくれたのよ。わたし決してこれを忘れやしないわ! だけど、ラキートカ、わたしは意地のわるい女だけど、それでも葱をやったことがあるのよ。」
「葱ってなに? ちぇっ、ばかばかしい、本当に気がちがったんだな!」
 ラキーチンは二人の歓喜のさまを見て、呆気にとられながら、侮辱されたような腹立たしさを感じた。もし静かに思いめぐらしたなら、この、人生にあまりたびたびない偶然によって、一切のものが、二人の魂を震撼させるようにうまく符合したのだ、ということを悟りえたはずであるが、しかし、すべて自分に関係したことにはきわめて微妙な直感力を持つラキーチンも、他人の情緒、感覚の理解にいたっては、非常に大ざっぱであった、――それはいくぶん年若で経験の少いためでもあるが、またいくぶんは過度なエゴイズムのせいでもあった。
「ねえ、アリョーシャ」グルーシェンカは彼のほうへ振り向いて、とつぜん神経的に笑いだした。「今わたしが葱をやったことがあるって言ったのは、ラキートカに向って自慢しただけで、決してあんたにしたんじゃないわ。あんこには別な当てがあって話すのよ。それはただの譬え話だけど、なかなかよくできてるわ。わたしまだ子供の時分にマトリョーナ、――今うちでお台所をしているばあやから聞いた話なの。よくって、こういうのよ。『昔々あるところに、意地のわるいお婆さんがいたんですとさ。それが死んだとき、跡に何一ついい行いが残らなかったので、サタンはお婆さんを捕まえて火の湖《うみ》へ投げ込んじゃったの。ところが、お婆さんの守り神の天使は、何か神様に申し上げるようないい行いがあのお婆さんにないかしらんと、じっと立って考えているうちに、やっとあることを思い出したので、神様に向いて、あのお婆さんは畑から葱を抜いて来て、乞食女にやったことがあります、と言ったのよ。すると神様は、ではお前一つその葱を取って来て、湖の中にいるお婆さんのほうへさし伸ばして、それに掴まらしてたぐるがいい。もし首尾よく湖の外へ引き出せたら、お婆さんを天国へやってもよい。またもし葱がちぎれたら、お婆さんは今の場所へ、そのままおかれるのだぞ、とこういうご返事なんですとさ。天使はお婆さんのところへ走って行って、葱をさし伸べながら、そら、お婆さん、これに掴まっておたぐりと言って、そろっと気をつけて引き始めたのよ。そうして、もう大方ひき上げようとしたところへ、湖の中にいるほかの餓鬼どもが、お婆さんが引き上げられているのを見て、自分らも一緒に出してもらおうというので、みんなでその葱に掴まりだしたの。すると、そのお婆さんは意地のわるいわるい女だから、みんなを足で蹴散らしながら、引いてもらってるのはわたしだよ。お前さんたちじゃありゃしない、わたしの葱だよ、お前さんたちのじゃありゃしない、とそう言うが早いか、葱はぶつりと切れちゃったのよ。そして、お婆さんはまた湖へ落ちて、今までずっと燃え通しているんだって。天使は泣く泣く帰ってしまいましたとさ。』これがその譬え話なのよ、アリョーシャ、わたしもうそらで覚えてるわ。だって、わたしがその意地わる婆さんなんですもの。ラキートカには葱をやったと自慢したけれど、あんたには別な言い方をするわ。つまり、一生涯の間たった一度[#「たった一度」に傍点]、ちょいと葱を恵んでやったことがあるきりなの。やっとそれくらいの善根があるきりなの。だから、あんたね、アリョーシャ、これからわたしを褒めないでちょうだい。いい人間だなぞと思わないでもようだい。わたしは意地のわるいわるい女なんですもの、あんたに褒められると恥かしくなっちまうわ。ええ、まったくよ、本当に後悔しているのよ。実はね、アリョーシャ、わたしはあんたを家へおびき寄せたくてたまらなかったのでね、一生懸命ラキートカに頼んで、もしここへあんたを連れて来たら、二十五ルーブリやろうって約束したのよ。ちょっと、ラキートカ、お待ちよ!」彼女は急ぎ足にテーブルへ近寄り、抽斗《ひきだし》を開けて金入れを取り出し、その中から二十五ルーブリ札を引き抜いた。
「何を馬鹿な、そんな馬鹿な!」とラキーチンは度胆を抜かれて叫んだ。
「お取りよ、ラキートカ、約束じゃないの。あんだだって辞退しやしないでしょう、自分のほうから頼んだんだもの」と彼に紙幣《さつ》を抛りつけた。
「むろん、辞退するわけがないさ。」ラキーチンは恐ろしく当惑したが、磊落をよそおって羞恥の情を隠しながら、太い低い声でこう言った。「これがちょうどお互いに相応した役廻りなんだ。馬鹿なやつらがいてくれるおかげで、利口な人間がうるおうのさ。」
「もうそれでお黙り、ラキートカ、これからわたしの言うことは、あんたに聞かせるためじゃないんだからね。その隅っこへ入って黙っておいで。あんたはわたしたちを愛していないんだから、黙ってたらいいのよ。」
「そうさ、君たちを愛する因縁がないじゃないか!」もう憤懣の念を隠そうともしないで、ラキーチンはくってかかった。彼は二十五ルーブリ札をかくしへ押し込んだが、アリョーシャに対して、きまりがわるくてたまらなかった。実のところ、アリョーシャに知られないように、あとでもらうつもりでいたのだが、今はきまりわるさに自分から腹を立てたのである。これまでは、いくらグルーシェンカに皮肉を言われても、あまり口返事をしないのが利口だと考えていた。なぜなら、彼女が自分に対して、一種の権力を持っているように思われたからである。けれど、今はすっかり腹を立ててしまった。
「人を愛するには、何か因縁がなくちゃならない。ところで、君たちは僕に何をしてくれたい!」
「因縁がなくたって、愛さなきゃ駄目だわ、ちょうどこのアリョーシャみたいにね。」
「一たいどうしてアリョーシャが君を愛してることになるんだろう? 一たいこの人がどんなそぶりを見せたので、君がそんなに大騒ぎをするんだろう?」
 グルーシェンカは部屋の真ん中に立って、熱をおびた調子で話しだした。その声の中にはヒステリックな響きがあった。
「お黙り、ラキートカ、あんたにゃわたしたちの心持はちっともわからないんだから! それに、これからわたしのことを、君呼ばわりなんかしないでちょうだい。あんたにそんなことを許すのはいや。一たいどこからそんな悪度胸をとって来たんだろう、本当に! うちの下男のように、隅っこへ引っ込んで、黙っておいで! さあ、アリョーシャ、今こそわたし、ありのままを包まず隠さず、あんた一人に話して聞かせるわ。わたしがどんな畜生だか、あんたに知ってもらいたいの! ラキートカじゃない、あんたに話すのよ。わたしあんたの身を破滅させたかったの、アリョーシャ、それは嘘も隠しもない本当のこと、もうすっかり肚をきめちゃったの。あんたを連れて来てもらうために、ラキートカを金で買ったくらい望みが強くなったの。何のためにわたしがそんな気になったかわかって? あんたはね、アリョーシャ、何も知らないから、わたしに顔をそむけて、伏目になって通り過ぎたもんだわね、――ところが、わたしは今まで百ぺんくらいあんたを見たし、あんたのことをみんなに訊ねて廻ったわ。あんたの顔が胸にこびりついて離れないの。『あの男はしと[#「しと」に傍点]を馬鹿にしてる。しと[#「しと」に傍点]の顔を見ようともしない』と思ってね、しまいには自分でも、『何だってあんな小僧っ子がおっかないんだろう?』と、呆れるほど、たまらない気持になってしまったの。今にみろ、一口にとって食って笑ってやるから、とやっきになって口惜しがったものだわ。あんたは本当にするかどうかしれないけれど、アグラフェーナ・アレクサンドロヴナのとこへ、例のいやらしいことを当てにして出かけよう、などと生意気なことを言ったり考えたりするものは、この町に一人もいなくなったのよ。もっとも、あのお爺さんだけはわたしのそばについてるわ。あの人には悪魔の取りもちで結びつけられて、売物にされてしまったけれど、その代り、ほかには一人もありゃしない。ところが、あんたを見た時、あいつを一口に食ってやろうと肚をきめたの。一口に食っちまって、笑ってやろうと思ったの。ねえ、わたしはなんて意地わるの犬でしょう。それを、あんたは姉だなんて言ってくれたのねえ! ところが、今度あの悪性男が帰って来たので、わたしは今こうして知らせを待っているの。一たいあの悪性男がわたしにとって、どういう意味をもってたか、あんたにそれがわかって? 五年前サムソノフがわたしをここへ連れて来た時、わたしは人に姿も見られまい、声も聞かれまいと思って、よく家にばかり引き籠っていたものだわ。馬鹿だったわねえ。しょんぼりと坐ったまま、幾晩も幾晩も寝ないで泣き通したの。そして、『あの男はどこにいるんだろう? あの悪性男は? きっとほかの女と一緒に、わたしを笑ってるに相違ない。今にみろ、いつか見つけ次第うらみをはらしてやるから、きっとうらみをはらしてやるから!』なんて考えたのよ。夜、暗闇の中で枕に突っ伏して泣きながら、そのことばかり繰り返し巻き返し考えてね、わざわざ自分の心を掻きむしっては、意地わるい心持で渇きをいやしていたの。『今にみろ、今にうらみをはらしてやるから!』ってね。時には暗闇の中で呶鳴ることもあったわ。その時ふと、自分はあの男をどうする力もない、かえってあの男のほうでこそ、今わたしのことを笑ってるのだ、いや、もしかしたら、まるで覚えもないほど忘れてるかもしれない、こう思いつくと、いきなり寝台から床へ身を投げて、意気地のない涙を流しながら、夜の呪けるまで身もだえしでいたの。朝、起きる時には、犬よかもっと意地わるになって、世界じゅうを丸呑みにしてやりたいような気持になったものだわ。それから、どうなったと思って! わたしはお金を溜めにかかったの。人情というものはなくなる、ぶくぶく肥ってはくる、――それで少しは利口になったと思って、え? ところが、そうでないの。世界じゅうで誰ひとり見るものも、知るものもないけれど、ときどき夜の闇が落ちて来ると、五年前の小娘の時と同じように、寝ながら歯をぎりぎり食いしばって、夜っぴて泣き明かすことがあるわ。そして、『今にみろ、今にみていろ!』と考えるの。あんたすっかり聞いてくれて? じゃ、今のわたしをどんなふうに考えて? 一月ばかり前に、突然この手紙がわたしの手に届いたじゃないの。その中には、おれは女房に死なれたので、近いうちにそっちへ行く、お前に会ってみたくなったのだ、と書いてある、――わたしは息がつまるような気がしてね、ああ、どうしようと考えるうちに、ふいと思いがけなく、『もしあの男がやって来て、口笛をひゅうと吹いて呼んだら、わたしはぶたれた犬のようにしおしおと、あの男のそばへ這って行くのじゃないかしら!』と思うと、自分で自分が信用できないの。『わたしは卑屈な女か、そうでないか、あの男のそばへ駆け出して行くか、行かないか?』こう考えるもんだから、この一月の間というもの、自分で自分に腹が立って、五年前よりもっとひどいありさまになってしまったのよ。ねえ、アリョーシャ、わたしがどんな恐ろしい捨てばちな女かってことが、今こそあんたにもわかったでしょう。わたし嘘も隠しもない本当のことを言ったのよ! ミーチャをなぐさんだのも、ただあの男のとこへ走って行かない用心のためだったの。お黙り、ラキートカ、お前さんなぞにわたしの裁きができてたまるものかね。お前さんに言ったんじゃないよ。わたしはあんたたちの来るまで、ここにじっと臥て待ちながら考えたの、わたしの運命にきまりをつけてたの。わたしの心にどんなことがあったか、あんたたちにゃ決してわかりゃしないわ、ねえ、アリョーシャ、あのお嬢さんにそう言ってちょうだい、あの一昨日のことを怒らないようにってね! ああ、今わたしの思いがどんなだか、世界じゅうに誰ひとり知るものはありゃしない、また知れるはずがないんだもの……わたしは今日あそこヘナイフを持って行くかもしれないのよ。だけど、それさえまだ決心がつかなかったんですもの……」
 この『憫れな言葉』を発すると同時に、グルーシェンカはふいに意地も張りもなくなって、しまいまで言い終らないうちに、両手で顔をおおい、長椅子の上の枕に顔を埋めて、小さな子供のように、しゃくり上げて泣きだした。アリョーシャは席を立って、ラキーチンに近づいた。
「ミーシャ」と彼は言った、「腹を立てないでくれたまえ。君はこのひとに侮辱されたけれども、腹を立てないでくれたまえ。君も今このひとの話を聞いたろう? 人間の心からそうたくさんのことを要求できるものじゃない。寛大な態度をとらなくちゃ駄目だよ。」
 アリョーシャは抑えがたい情緒の激発に駆られて、これだけのことを言ったのである。彼は自分の感じたことを言わずにいられなかったので、その対象としてラキーチンを選んだのである。もしラキーチンがいなかったら、一人きりで叫びだしたかもしれない。しかし、ラキーチンが冷笑的な視線をじろりと向けたので、アリョーシャは言葉を途切らした。
「それはさっき君が長老という弾丸《たま》を装填されたので、今度は僕に向けてそいつを発射したんだね、ようよう、神の使いアリョーシャ君。」ラキーチンは、にくにくしげな微笑をふくみながらこう言った。
「笑うのはよしたまえ、ラキーチン、冷やかすのはよしたまえ。故人のことは言わないでくれたまえ。あの方は地上の誰よりもえらい人だったのだ!」と、声に泣くような調子を響かせながら、アリョーシャは叫んだ。「僕は審判者として君にこんなことを言いだしたのじゃない。僕自身、審判されるものの中でも、一ばん劣等な人間なんだよ。一たい僕はこの人に対してどういう人間にあたるんだろう。僕がここへ来たのは、自分の身を破滅さして、『なに、かまうもんか!』というためだった。これっていうのも、僕の了見が狭いから起ったのだ。ところが、このひとは五年のあいだ、苦しみ通したにもかかわらず、誰かが初めてやって来て、まことの言葉を一こと言うが早いか、――もう一切のことを赦し、一切のことを忘れて、泣いているではないか! 自分を辱しめた男が帰って来て呼んだだけで、このひとは悦んでその男のとこへ急いでるじゃないか。決してナイフなんぞ持って行きゃしない、持って行くものか! ところが、僕にそんなことができるだろうか? ミーシャ、君はできるかどうか、僕にはわからないが、僕はどうしてもできない。僕は今日、たった今この教訓を会得した。このひとは愛の点では、僕らより数等上だよ……君は今の話を、以前このひとから聞いたことがあるかい? ないだろう、聞かないだろう。もし聞いたことがあれば、とくに理解してるはずだものね……それから、おととい侮辱を受けたもうひとりのひと、あのひとにもグルーシェンカを赦してもらいたいもんだねえ! いや、まったく赦してくれるだろう。もし事情を知ったら……その事情も必ず知れるに相違ない……このひとの霊魂はまだ本当の平和を得ていないのだから、いたわって上げなくちゃならん。この霊魂の中には確かに宝があるのだ……」
 アリョーシャは口をつぐんだ、息が切れたからである。ラキーチンは毒々しい気分に浸っていたにもかかわらず、あっけにとられて、じっと見つめていた。彼はもの静かなアリョーシャから、こうした雄弁を期待しなかったのである。
「大へんな弁護士ができちゃった! しかし、君はこのひとに惚れたんじゃないのか、え? アグラフェーナさん、わが苦行者は本当に君に惚れ込んじゃったよ。とうとう兜を脱いだのさ!」彼は高慢な笑いを浮べながら叫んだ。
 グルーシェンカは枕から頭を持ちあげて、アリョーシャのほうを見た。今の涙で急に腫れぼったくなった顔には、感激の微笑が輝いた。
「アリョーシャ、わたしの天使、あの人なんかうっちゃっときなさい。本当になんて男だろうねえ。人もあろうに、あんたに向ってあんなことを言うなんて。わたしはね、ミハイル・オシポヴィッチ」と彼女はラキーチンのほうへ向いた。「さっき、あんたをさんざん悪く言ったのを、謝ろうかと思ったけど、今また厭になったの。アリョーシャ、こっちい来てわたしのそばへお坐んなさい。」悦ばしげなほお笑みを浮べつつ、彼女は小手招きした。「そうよ、そこへお坐りなさい。わたしあんたに訊きたいことがあるの(彼女はアリョーシャの手を取って、ほお笑みながらその顔を覗き込んだ)――ほかじゃないけれど、わたしはあの男を愛しているかいないか、一たいどうなんでしょう? あの悪性男を愛しているかいないか? わたしはね、あんたたちの入って来るまで、ここの暗やみに寝ころんだまま、あの男を愛してるかどうか、自分の胸に訊いていたの。アリョーシャ、わたしの心を決めてちょうだい。もうそういう時が来たのだから、あんたの決めたとおりにするわ。あの男を赦したものかどうでしょう?」
「もう赦してるじゃありませんか」とアリョーシャは微笑しながら言った。
「そう、本当に赦してるわねえ」とグルーシェンカはもの思わしげに言った。「ええ、なんて汚い心だろう! わたしの汚い心のために!」と言うなり、彼女はテーブルから杯を取って、一息にぐっと飲み干すと、それを上へさし上げて、力まかせに床へ叩きつけた。杯はがらがらと音を立てて砕けた。一種残忍な影がその微笑の中にひらめいた。
「だけど、まだ赦してないかもしれないわ。」ちょうどひとりごとでも言うように、じっと下のほうを見つめながら、何となく凄い調子で彼女は言いだした。「もしかしたら、これから赦そうと思ってるだけかもしれないわ。わたしはまだ自分の心と戦ってみるわ。ねえ、アリョーシャ、わたしは五年間の自分の涙が、たまらないほど好きだったの……もしかしたら、わたしは自分の受けた侮辱を愛していただけで、あの男はまるで愛してなかったかもしれないわ!」
「おやおや、こいつはあやかりたくないものだね!」とラキーチンが頓狂な声を出した。
「あやかりゃしないよ、ラキートカ、決してあやかりっこなしよ。あんたはわたしの靴でも縫えばいいんだわ。わたしがあんたを使ってあげるとすれば、まあ、それくらいの仕事だあね。あんたなんか、わたしのような女を拝むこともできないのよ……それに、あの男だって拝めないかもしれない……」
「あの男も? じゃ、その衣裳は何のためだね?」とラキーチンが意地わるくからかった。
「衣裳なんかで、わたしを咎めだてしないでちょうだい、ラキートカ、あんこはまだわたしの心をすっかり知らないのだから! なに、その気にさえなったら、衣裳なんか引き裂いてしまうわ、今だって、今すぐだって引き裂いて見せるわ」と彼女は響きの高い声で叫んだ。「あんたはこの衣裳が何のためか知らないでしょう、ラキートカ。ことによったら、あの男のとこへ出かけて行って、『お前さん、わたしがこんなになったところを、見たことがあるかい?』と言ってやるためかもしれない。だって、あの人に捨てられた時、わたしはやっと十八で、肺病やみの痩せっぽちの泣き虫だったからねえ。わたしは、あの男のそばに坐って、夢中になるほどそそのかしておいて、『わたしが今どんなになったかわかったでしょう。だけど、お生憎さま、うまい汁は髯を流れるだけで、口の中へは入りませんよ!』と言ってやるかもしれない。ねえ、ラキートカ、わたしの衣裳は、こういう目算があってのことかもしれないのよ」とグルーシェンカは意地わるい小刻みな笑いで句を結んだ。
「ねえ、アリョーシャ、わたしはこういった向う見ずな乱暴ものなのよ。自分の衣裳を引き裂いて、自分で自分を片輪にして、自分の器量をめちゃめちゃにするかもしれないわ、――自分の顔を火で焼くか刀で斬るかして、袖乞いに出かけて行くかもしれないわ。もしその気にさえなったら、今だってどこへも、誰のところへも行きゃしない。明日にでも、サムソノフからもらったお金《あし》も何も、すっかりあの人に返しちまって、自分は一生その日稼ぎの日傭取りに出かけて見せるわ!………わたしにそれができないと思って、ラキートカ? それだけの元気がないと思って? できなくってさ、できなくってさ、今すぐにもして見せるわ。ただわたしの気をいらいらさせないでちょうだい……なに、あの男なぞ追っ払ってやる、あの男になぞ赤んべをしてやる、あの男なんかにわたしの心が見えてたまるものか!」
 最後の言葉は、もうヒステリックな調子で叫んだが、またしても我慢しきれないで、両手で顔をおおうたまま、枕の上に倒れ伏し、ふたたびすすり泣きに身を顫わすのであった。ラキーチンは立ちあがった。
「もう時刻だ」と彼は言った。「だいぶ遅くなった、ぐずぐずしていると、寺へ入れてもらえないかもしれないよ。」
 グルーシェンカはいきなり跳りあがって、
「アリョーシャ、あんたはもう行ってしまうつもりなの!」と悲痛な驚きの色を浮べながら、こう叫んだ。「一たいあんたは今わたしをどうしようっていうの? わたしをあんなに興奮さして苦しめておきながら、またこの一晩をひとりで明かせっていうの!」
「しかし、この男が君のとこで泊るわけにはゆかないじゃないか。だが、お望みならご勝手に! 僕は一人で帰るさ!」ラキーチンは毒々しく冷やかした。
「お黙り、意地わる!」とグルーシェンカは勢い猛《もう》に叫んだ。「この人が今日わたしに言ってくれたようなことを、お前さん一度だって言ったことがあるかえ。」
「この男が君にどんなことを言ったい!」とラキーチンはいらいらした調子で呟いた。
「この人が何を言ったか、わたしにゃわからない、ちっともわからない、まるっきりわからない。ただ自分の心にそう感じられたんだわ。この人はわたしの心を底からひっくり返してしまったのよ……この人は、わたしを憐れんでくれた初めての人なの、たった一人しかない人なの! アリョーシャ、天使、なぜあんたはもっと前に来てくれなかったの?」彼女は前後を忘れたように男の前に跪いた。「わたしは今まであんたのような人を待ち受けていたのよ。誰か来て『赦してやる』と言ってくれそうな気がしてならなかったの。わたしみたいな穢れた女でも、いやらしい当てなしに愛してくれる人が、誰かあるに相違ないと信じていたわ!………」
「一たい僕が君に何をしたというんです、」アリョーシャは彼女のほうへこごみかかって、優しく両手をとりながら、感激の微笑を浮べつつ答えた。「僕は君に葱をあげただけです。ほんの小さな葱を一本あげただけです。それっきりです!」
 こう言い終ると、彼は自分から泣きだした。そのとき玄関のほうで、とつぜん騒々しい物音が響いて、誰やら控え室へ入って来た。グルーシェンカは恐ろしい驚愕におそわれた様子で、椅子から飛びあがった。と、フェーニャが騒々しい物音と叫び声を立てながら、部屋の中へ駆け込んだ。
「奥さま、ちょっと、奥さま、使いの者が馬車を飛ばせてまいりました!」彼女は息を切らせながら、はしゃいだ調子で叫んだ。「モークロエから迎えの馬車が三頭立てでまいりました。馭者のチモフェイが、ただいま新しい馬をつけかえると申しております……手紙を、手紙を、奧さま、この手紙をごらんなさいまし!」
 手紙は彼女の手にあった。彼女はこんなことを喚きちらしている間じゅう、その手紙を空に振り廻していたのである。グルーシェンカはそれをフェーニャの手からもぎとって、蝋燭のそばへ持って行った。それは、ただ二三行の短い書きつけだった。彼女はまたたくひまに読み終った。
「さあ、お声がかかった!」病的な微笑に顔をゆがめながら、真っ蒼な顔をして彼女は叫んだ。「口笛が鳴った! さあ、犬ころ、四ん這いになってお行き!」
 彼女は決しかねたように立ちすくんでいたが、それはただ一瞬にすぎなかった。急に血がどっと彼女の頭へ流れ込んで、双の頬を火のように赤くした。
「行こう!」ふいに彼女は叫んだ。「ああ、あの五年間の涙ともこれでお別れだ! さよなら、アリョーシャ、わたしの運命はもうきまったのよ……さあ、帰ってちょうだい、帰ってちょうだい、もうみんなわたしのそばから離れてちょうだい、もうこれからはわたしの目に入らないようにね! グルーシェンカは新しい生活を目ざして飛んで行くのだから……ラキートカ、あんたもわたしのことを悪く言わないでもようだい、もしかしたら、死にに行くのかもしれないんだから! ああ! まるで酔っ払いのようだわねえ!」
 彼女はだしぬけに二人をうっちゃって、自分の寝室へ駆け込んだ。
「今あの女はわれわれどころの騒ぎじゃないんだ!」とラキーチンはぶつぶつ言いだした。「もう出かけようじゃないか、ぐずぐずしてると、またあのヒステリイじみた喚き声を聞かされるぜ。あの涙っぽい喚き声には、もうあきあきしちゃった……」
 アリョーシャは引かれるままに機械的に外へ出た。庭には一台の馬車が立って、いま馬を離そうとしているところであった。人々は提灯をさげて、忙しそうにあちこちしていた。開け放した門の中へ、新しい三頭の馬が引き込まれようとしている。ラキーチンとアリョーシャが正面の階段をおりる途端に、グルーシェンカの寝室の窓がさっと開いて、彼女は響きの高い声でアリョーシャのうしろから叫んだ。
「アリョーシャ、兄さんのミーチェンカによろしく言ってちょうだい、それから、わたしみたいな毒婦でも、悪く言わないようにってね。まだその上に、『グルーシェンカはあんたのような正直な人の手には入らないで、卑怯者の自由になりました!』ってね、このとおりな言い方で伝えてちょうだい。それから、まだあるのよ、――グルーシェンカは一とき、たった一ときあの人を愛したことがあるの、だからこの――ときを今後一生わすれないように、とこう言い添えてちょうだい。一生涯と言って、グルーシェンカが念を押したってね!………」
 彼女は、涙に充ちた声で、言葉を結んだ。窓はぱたりと閉った。
「ふむ! ふむ!」とラキーチンは笑いながら呟いた。「とうとうミーチャにとどめを刺しちゃった。おまけに一生涯おぼえていろなんて、本当になんてえ残酷なやり口だろう!」
 アリョーシャはその言葉が耳に入らないように、何も答えなかった、彼は恐ろしい急ぎの用事でもあるようなふうで、ラキーチンと並んで足ばやに歩いた。その歩きぶりは、自己忘却におちいった人のように機械的であった。突然、ラキーチンは何かにちくりと刺されたような気がした。それはまだなまなましい傷を、指で触られた時の心持であった。なぜなら、さいぜん彼がアリョーシャをグルーシェンカの家へ連れて行く時、ぜんぜん別なことを期待していたからである。しかるに、実際は予期に反した、しかも、彼にとってすこぶる望ましからぬ結果であった。
「あいつは、――あの将校ってのはポーランド人なんだよ。」彼は自分を抑えたような調子で、またこう口をきった。「おまけに今は将校でも何でもないのさ。シベリヤもどこかシナの国境あたりで、税関の役人をしていたというから、いずれひょろひょろした吹けば飛ぶようなやつだろう。話によると、こんど職を失ったため、グルーシェンカが小金を貯めたという噂を聞きつけて、舞い戻って来たんだそうだ、――それが奇蹟の正体なのさ。」
 アリョーシャは今度もまるで聞いていないらしかった。ラキーチンは我慢しきれなくなって、
「一たい君は、堕落した女を真人間に戻した気でいるのかい?」と彼はアリョーシャに向って、毒々しい笑いをあびせた。「堕落した女を真理の道へ向けたつもりで、自惚れているのかい? 七つの悪魔を追い出した気でいるのかい、え? けさわれわれの期待した奇蹟が、ここで実現されたと思っているのかい!」
「ラキーチン、もうよしてくれたまえ。」胸に苦しみをいだきながら、アリョーシャは答えた。
「それは君さっきの二十五ルーブリのために、僕を『軽蔑』しているんだね? こいつ親友を売ったという肚なんだね。しかし、君がキリストでもなければ、僕がユダでもないからね。」
「とんでもない、ラキーチン、僕はまったくそんなこと覚えてもいなかったよ」とアリョーシャは叫んだ。「かえって、いま君のほうから思い出さしたんじゃないか……」
 しかし、ラキーチンはもうすっかり、業をにやしてしまった。
「ええ、君たちのような人はもうみんな勝手にするがいい!」と彼は、だしぬけに声を振り絞って叫んだ。「ばかばかしい、何だって僕は君なんかとかかり合ったんだろう! 今後もう君の顔を見るのもいやだ。さあ、一人で行くがいい、そっちが君の行く道だ!」
 暗闇の中にただ一人アリョーシャを置き去りにしたまま、彼はくるりと向きを変えて、別な通りへ曲って行った。アリョーシャは町を出はずれると、野中の道をたどって僧院へ赴いた。

[#3字下げ]第四 ガリラヤのカナ[#「第四 ガリラヤのカナ」は中見出し]

 アリョーシャが庵室の入口までたどりついたのは、僧院の慣わしから言えば、もはや非常に遅かった。門番は特別な通路から彼を入れてくれた。もう九時が打った、――それは、すべての人にとって煩い多かりし一日の後に訪れた、一般の休息と安静の時である。アリョーシャは、おずおずと戸を開けて、長老の庵室へ足を入れた。ここにいま棺が据えられてある。部屋の中には、棺に向って淋しく福音書を読んでいるパイーシイ主教と、若い聴法者のポルフィーリイのほか、誰もいなかった。ポルフィーリイは昨夜の談話と今日の混雑に疲れはてて、床《ゆか》の上で若々しい深い眠りを貪っていた。パイーシイ主教は、アリョーシャの入った物音を聞いたけれども、そのほうを振り向こうともしなかった。アリョーシャは戸口から右手の隅のほうへ曲って行き、跪いて祈祷を始めた。
 彼の胸は一ぱいになっていたが、妙に茫として、これというまとまった感じは、一つとして浮んで来なかった。それどころか、さまざまな感じが緩やかに平調な廻転をしながら、互いに消し合おうとしていた。しかし、心は不思議な甘い感じに浸っていた。アリョーシャはこの事実に驚いた。彼はふたたび目の前にある棺を見た、――四方からことごとく蔽いつくされた、いとも貴い亡骸《なきがら》を見た。しかし、今朝ほどの泣きたいような、疼くような悩ましい哀憐の情は、もはや彼の心になかった。彼は神聖なものに対するように、入口のすぐそばにある棺の前へ身を投げ出した。けれど、歓喜の情、――歓喜の情が、彼の理性と感情をぱっと照らしだした。庵室の窓が一つ開け放たれて、爽やかなすがすがしい空気はしんと静まりかえっていた。『とうとう窓を開けたところを見ると、匂いがいよいよひどくなったんだな』とアリョーシャは考えた。しかし、ついさきごろまで不名誉と思われた腐屍の匂いに関する想念も、今はあの時のような憂悶も憤懣も呼び起さなかった。
 彼は静かに祈り始めたが、間もなくその祈りが機械的なものにすぎない、ということを自分でも感じた。思想の断片は彼の心をかすめて、小さな星のように閃いたが、すぐほかのものと代って消えて行くのであった。けれど、その代り、何か心の渇きをいやすような、完全な、しっかりしたあるものが彼の魂を領していた。彼は自分でもそれを自覚した。ときおり彼は熱誠をこめて祈り始めた。何か妙に感謝したいような、愛したいような欲望がこみ上げてくる……けれど、祈りを始めても、すぐふいとほかのことに心が移ったり、妙に考え込んだりして、祈りも、祈りの妨げをするものも、ことごとく忘れてしまうのであった。パイーシイ主教の読誦の声に耳を傾け始めたが、疲労しきった体は、次第次第にまどろみに落ちて行く……「三日めにガリラヤのカナにて婚筵ありしが」とパイーシイ主教は読んだ。「イエスの母もここにおれり。イエスとその弟子も婚筵にまねかる。」
『婚筵? 何だろう……婚筵なんて……』という考えが、旋風のようにアリョーシャの頭脳を疾駆した。『あの女もやはり幸福を得て……饗宴に出かけて行った……なんの、あの女はナイフなぞ持って行きゃしない、決して持って行くものか……あれはただ『哀れな』泣き言にすぎないのだ……そうとも……哀れな泣き言は、ぜひ赦してやらなけりゃならない。哀れな泣き言は心を慰めてくれる……これがなかったら、悲哀は人間にとって、ずいぶん苦しいものとなったに相違ない。ラキーチンは露地へ入ってしまった。ラキーチンが自分の侮辱を考えている間は、いつでも露地へ入って行くだろう……ところが、本当の道はどうだ……本当の道は広々として、まっすぐで、明るくて、水晶のように澄み渡って、向うの果てには太陽が輝いている……おや?……何を読んでいるのかしら?』
「葡萄酒つきければ母イエスに言いけるは、彼らに葡萄酒なし」という声がアリョーシャに聞えた。
『ああ、そうだ、僕はここを聞き落した。聞き落したくなかったんだがなあ。僕はここのところが大好きだ。これはガリラヤのカナだ、はじめての奇蹟だ……ああ、この奇蹟、本当に何という優しい奇蹟だろう。キリストは初めて奇蹟を行う時にあたって、人間の悲しみでなく悦びを訪れた、人間の悦びを助けた……「人間を愛するものは、彼らの悦びをも愛す……」これは亡くなった長老がたえまなく言われたことで、あのお方のおもな思想の一つであった……悦びなしに生きて行くことはできない、とミーチャは言った……そうだ、ミーチャ……すべて、真実で美しいものは、一切を赦すという気持に充ちている、――これもやはりあのお方の言われたことだ……』
「……イエス彼に言いけるは、婦《おんな》よ、なんじとわれと何のかかわりあらんや、わが時はいまだいたらず。その母|僕《しもべ》どもに向いて、彼がなんじらに命ずるところのことをせよ[#「せよ」に傍点]と言いおけり……」
「せよ……そうだ、悦びを作らなきゃならない。誰か知らんが、貧しい、非常に貧しい人の悦びを作らなきゃならない……そりゃもう婚礼に葡萄酒がたりないといえば、むろん貧しい人にきまっている……歴史家の説によると、ゲネサレ湖の周囲とその付近一帯にわたって、想像もおよばないような貧しい部落があったそうだ……ところで、そこにいたいま一つの偉大な存在、つまりイエスの母の偉大な魂は、そのとき彼が降って来たのも、あながち恐ろしい大功業のためばかりでない、ということを見抜いたのだ。自分の貧しい婚筵に愛想よく彼を招いた無知な、とはいえ正直な人々の淳朴な罪のない楽しみも、彼の胸に感動を与え得るということを、イエスの母は見抜いたのだ。「わが時はいまだいたらず」と彼は静かなほお笑みを浮べながら言った(きっとつつましいほお笑みを母に示したに相違ない)……実際、彼は貧しき人々の婚筵の席で、葡萄酒をふやすために地上へ降ったのではあるまい。しかし、彼は悦んで母の乞いを容れたではないか……ああ、また読んでいらっしゃる。』
「イエス僕《しもべ》どもに水を甕に満せよと言いければ、彼ら口まで満たせり。
 またこれを今くみ取りて持ちゆき筵《ふるまい》を司る者に与えよと言いければ、彼らわたせり。
 筵を司るもの酒に変りし水を嘗めて、そのいずこより来りしを知らず。されど、水をくみし僕は知れり。筵を司るもの新郎《はなむこ》を呼びて、
 彼に言いけるは、およそ人はまずよき酒をいだし、酒たけなわなるにおよびて魯《あ》しき酒をいだすに、なんじはよき酒を今まで留めおけり。」
『おや、これはどうしたことだ、これはどうしたことだ? なぜ部屋がひろがり出したのだろう……ああ、そうだ……これは婚筵だ、結婚式なのだ……むろんそうだとも。ほら、あそこに客人たちがいる、ほら、そこに新郎新婦が坐っている。そうして、群衆は楽しそうな様子をしている、しかし……筵を司る賢者はどこにいるのだろう? ところで、あれは誰だ? 誰だろう? また部屋がひろがって来たぞ……あの大テーブルの陰から立ちあがったのは誰だろう? え……一たいあのお方がここにいらっしゃるのかしらん? あのお方は棺の中に臥ていらしたではないか……しかし、やはりここにいらっしゃるのだ……立ちあがってから、僕を見つけて、こちらへ歩いておいでになる……ああ!』
 そうだ、彼のほうへ、彼のほうをさしてその人は進んで来る。顔には小皺の一ぱいある、痩せた小柄な老人が、静かに悦ばしげに笑っている。棺はもはやそこにはなかった。彼はゆうべ客人たちを集めて、談話を交換した時と同じ着物をきている。顔ぜんたいが開け放したような表情をおび、目はきらきらと輝いている。これはどういうわけであろう。きっとこの人も筵に呼ばれたに相違ない、ガリラヤのカナの婚筵に招かれたに相違ない……
「やはり、そうじゃ、倅、やはり呼ばれたのじゃ、招かれたのじゃ」という静かな声が彼の頭上で響いた。「お前どうしてこのようなところに隠れて姿を見せぬのじゃな……さあ、お前も一緒にみなのほうへ行こう。」
 あの人の声だ。ゾシマ長老の声だ……こうして自分を呼ぶ以上、大違いなぞというはずがない。長老はアリョーシャの手を取って引き起した。で、こちらはついていた膝を伸ばして立ちあがった。
「おもしろく遊ぼうではないか」と痩せた小柄な老人は語をついだ。「新しい酒を飲もう、偉大な、新しい歓びの酒を酌もう。見ろ、何という大勢の客であろう! そこにいるのが新郎《はなむこ》に新婦《はなよめ》じゃ。あれは筵《ふるまい》を司る賢者が、酒を試みておるのじゃ。どうしてお前はそう驚いた顔をして、わしを見るのじゃな? わしは葱を与えたためにここにいるのじゃ。ここにいる人は大てい葱を与えた人ばかりじゃ、僅か一本の葱を与えた人ばかりじゃ……ときに、わしらの仕事はどうじゃ? お前も、わしの静かなおとなしい少年も、今日ひとりの渇した女に、一本の葱を与えたのう。はじめるがよい、倅、自分の仕事をはじめるがよい……ところで、お前にはわれわれの『太陽』が見えるか、お前には『あのお方』が見えるか?」
「恐ろしゅうございます……見上げる勇気がございません……」とアリョーシャは囁いた。
「恐れることは少しもない。われわれにはあの偉大さ、あの高さが恐ろしゅうも見える。しかし、限りなくお慈悲ぶかいのはあのお方じゃ。今も深い愛のお心からわれわれと一緒になって、われわれと遊び戯れておいでになる。そうして、客の歓びがつきぬために、水を酒に変えて、新しい客を待ち受けておいでになる。永久に絶ゆることなく、新しい客を招いておいでになる。そら、新しい水を運んで行く。ごらん、器を運んで行くではないか……」
 何ものかがアリョーシャの胸に燃え立って、とつぜん痛いほど一ぱいに張りつめてきた。そして、歓喜の涙がこころの底からほとばしり出た……彼は両手をさし伸べて、一声叫んだと思うと、目がさめた……
 ふたたび棺、開け放した窓、静かな、ものものしい、区切りのはっきりした読経の声が甦った。不思議にも彼は膝をついたまま眠りに落ちたのに、今はちゃんと両足を伸ばして立っている。と、急に飛びあがるような恰好をして、速い、しっかりした歩調で三足ふみ出し、棺のそばにぴたりと寄り添うた。その時、パイーシイ主教に肩をぶっつけたが、それには気もつかなかった。主教はちょっと書物から目をはなして、彼のほうへ転じたが、青年の心に何か不思議なことが生じたのを悟り、すぐまたその目をそらしてしまった。アリョーシャは三十秒ばかり棺の中を見つめた。なき人は胸に聖像をのせ、頭に八脚十字架のついた頭巾をかぶり、全身をことごとく蔽われたまま、じっと横たわっている。たった今この人の声を聞いたばかりで、その声はまだ耳に響いている。彼はまたじっと耳をすましながら、なおも声の響きを待ちもうけた……が、とつぜん身をひるがえして、庵室の外へ出た。
 彼は正面の階段の上にも立ちどまらず、足ばやに庭へおりて行った。感激に充ちた彼の心が、自由と空間と広濶を求めたのである。静かに輝く星くずに充ちた穹窿が、一目に見つくすことのできぬほど広々と頭上に蔽いかぶさっている。まだはっきりしない銀河が、天心から地平へかけて二すじに分れている。不動といってもいいほど静かな爽やかな夜は、地上を蔽いつくして、僧院の白い塔や黄金《きん》色をした円頂閣は、琥珀のごとき空に輝いている。おごれる秋の花は、家のまわりの花壇の上で、朝まで眠りをつづけようとしている。地上の静寂は天上の静寂と合し、地上の神秘は星の神秘と相触れているように思われた……アリョーシャは佇みながら眺めていたが……ふいに足でも薙がれたように、地上へがばと身を投じた。
 彼は何のために大地を抱擁したか、自分でも知らない。またどういうわけで、大地を残る隈なく接吻したいという、抑えがたい欲望を感じたか、自分でもその理由を説明することができなかった。しかし、彼は泣きながら接吻した、大地を涙でうるおした。そして、自分は大地を愛する、永久に愛すると、夢中になって誓うのであった。『おのが喜悦の涙をもってうるおし、かつその涙を愛すべし……』という声が彼の魂の中で響き渡った。一たい彼は何を泣いているのだろう? おお、彼は無限の中より輝くこれらの星を見てさえ、感激のあまりに泣きたくなった。そうして『自分の興奮を恥じようともしなかった。』ちょうどこれら無数の神の世界から投げられた糸が、一せいに彼の魂へ集った思いであり、その魂は『他界との接触に』顫えているのであった。彼は一切に対してすべての人を赦し、それと同時に、自分のほうからも赦しを乞いたくなった。おお! それは決して自分のためでなく、一切に対し、すべての人のために赦しを乞うのである。『自分の代りには、またほかの人が赦しを乞うてくれるであろう』という声が、ふたたび彼の心に響いた。しかし、ちょうどあの穹窿のように毅然としてゆるぎのないあるものが、彼の魂の中に忍び入るのが、一刻一刻と明らかにまざまざと感じられるようになった。何かある観念が、彼の知性を領せんとしているような心持がする、――しかもそれは一生涯、いな、永久に失われることのないものであった。彼が大地に身を投げた時は、かよわい青年にすぎなかったが、立ちあがった時は生涯ゆらぐことのない、堅固な力を持った一個の戦士であった。彼は忽然としてこれを自覚した。自分の歓喜の瞬間にこれを直感した。アリョーシャはその後一生の間この瞬間を、どうしても忘れることができなかった。『あのとき誰か僕の魂を訪れたような気がする』と彼は後になって言った。自分の言葉に対して固い信念をいだきながら……
 三日の後、彼は僧院を出た。それは『世の中に出よ』と命じた、故長老の言葉にかなわしめんがためであった。