『ドストエーフスキイ全集 第12巻 カラマーゾフの兄弟上』(1959年、米川正夫訳、河出書房新社)P336-P383

けこの偉大なる真理をよけいに蔵しているのである。なぜなれば、彼らのうちでも金のある富農《クラーク》や百姓泣かせの連中は、すでに大多数堕落しているからである。これは主として、われわれの不注意、不行届きから起ったことである!
 しかし、神は自分の赤子《せきし》を救って下さるに相違ない、なぜならば、ロシヤの偉大はその謙抑に存するからである。余は空想の中にわが国の未来を見る。いや、もう現に明らかに見えるような思いがする。すなわち、最も堕落せる富者さえも、ついにはおのれの富を恥ずるようになる。すると、貧者はこのへりくだった態度を見て、その心持を理解して彼に譲歩し、悦びと愛をもってその美しき羞恥に答えるであろう。まさしくかような結果を見るに相違ない。大勢はこの方向をさして動いている。平等というものは、ただ人間の精神的資質の中に存在するのみであって、これを理解するのはわがロシヤばかりである。はじめ兄弟があれば、そのうちにやがて四海同胞も実現される。四海同胞の実現されるまでは、人々はとうてい円満にすべてのものを頒ち合うことができない。キリストの姿を保存しておけば、やがて貴いダイヤモンドのように全世界に輝き渡るであろう……アーメン、アーメン!
 諸師よ、余はかつて感動すべき事件に遭遇した。諸国を遍歴している頃、あるとき県庁所在地のK町で、もとの従卒アファナーシイに出会ったのである。その時は一別以来すでに八年たっていた。彼は市場でふと余を見つけて走り寄り、夢中になって悦んで余に飛びかかった。『これはまあ、旦那さまではありませんか? 本当に旦那にお目にかかれたのでありましょうか?』と言って、余を自分の家へ引っ張って行った。彼はもう予備役で、結婚して、幼い子供を二人まで儲けていた。要とふたり市場でささやかな露店商をし、口すぎしているのであった。部屋の中は貧しいけれど、さっぱりして、悦びに充ちていた。彼は余を席に着かしてサモワールを出したり、妻を呼びにやったりして、まるで余が姿を現わしたために、何か祭りでも始まったような工合であった。彼は子供らを余のそばへ連れて来て、
『旦那さま、どうぞ祝福してやって下さいまし。』
『わしに祝福などできるものか?』と余は答えた。『わしはつまらぬ一介の僧だから、その子供たちのことを、神様にお祈りしてあげよう。ところで、アファナーシイ、わしはあの日から毎日お前のことを神様に祈っておる。なぜと言って、一切の起りはお前なのだから。』余はできるだけよくわかるように、あの事件を説明して聞かせた。ところが、どうだろう、彼はじっと余の顔を見つめていた。もと彼のために主人であり、将校であった人が、今このような姿をして、このような着物をきているわけが、どうしても合点ゆかなかったのである。彼はついに泣きだした。
『お前はどうして泣くのだ。ああ、お前はわしにとって忘れがたい人だ。さあ、どうかわしのために悦んでくれ、わしの行手は悦ばしい光に充ちておるのだから』と余は言った。彼はあまり口数をきかなかったが、絶えず感嘆の声を放ちながら、さも有難そうに頷いて見せるのであった。
『一たいあなたさまの財産は、どこへおやりになったのでございます?』と彼は訊いた。
『お寺へ納めてしまった。われわれは共同生活をしているのだからな』
 茶を飲み終って、余は一同に別れを告げた。そのとき彼はお寺へ寄進するのだと言って、急に五十コペイカの金を余にさし出し、またその上に、もう一つの五十コペイカ銀貨を余の手に握らした。そして、慌てたような調子で、
『これはあなたさまに、諸国遍歴の旅人としてさしあげます。また何かのお役に立たぬともかぎりません。』余はその銀貨を受け取ると、夫婦のものに一礼して、悦ばしい気持で外へ出た。そして、道々こんなことを考えた。
『きっと今頃は二人とも(あれは自分の家に坐っているし、わたしはまた道を歩きながら)、神様の不思議なお引き合せを考えて、楽しい心持で首を振りながら、にこにこ笑ったり、溜息をついたりしていることだろう。』
 それから、余は一度もこの男に会ったことがない。余はこの男のために主であり、この男は余にとって従であるけれど、二人が胸に感激をいだきながら愛情をこめて接吻した時、二人の間には偉大な人間同士の結合が実現されたのである。余はこのことをいろいろと思いめぐらしたが、今では次のような考えをいだいている。『この偉大にして醇朴なる結合が、やがて到るところ、わがロシヤ人の間に実現せられるという想像は、はたして人間の知恵のおよばないことであろうか? いやいや、余は実現されることを信じている。しかもその時は近づいている。』
 ここで余は下僕《しもべ》について、こうつけ加えようと思う。余はかつて少年のころ召使に対して、しばしば腹を立てたものである。それは、女中が熱いものを食べさしたとか、従卒が服にブラシをかけなかったとか、いうような理由である。しかし、幼いころ小耳に挟んだ愛兄の思想が、そのとき突然、余の心を照らした。『一たいおれは他人を自分に奉仕させたり、貧しくて教育がないからといって、他人をこき使ったりする値うちがあるのかしらん?』そのとき余はこれほど簡単明瞭な考えが、脳裡へ浮び出ることのあまりに遅かったのに、自分ながら驚いたほどである。俗世においては下僕なしで過すことはできないが、しかし自分の家の召使に、彼らが召使でなかった時より以上に自由の精神を持たせるようにするがよい。召使のために召使となって、召使自身にもこのことを心づかせ、主人側よりは何らの不遜もなく、召使側よりは何らの不信もないようにすることが、どうして不可能なのであろう? 召使を親類同様に考えて、悦んで家族の中へ入れるのが、どうして不可能なのであろう? これは今でも実行し得べきことであって、なおその上に、未来の壮麗なる結合の基ともなるものである。その時は人間も今日のように自分の下僕《しもべ》を捜したり、自分と同じ人間を下僕にしようと望んだりせず、かえって福音書の教えにしたがって、一生懸命に自分からすべての人の下僕になろうと努力するであろう。そうして、最後に、人間は今日のごとく残酷な快楽、――貪婪と、淫欲と、傲慢と、自尊と、羨望に充ちた競争などでなく、光明と慈善の功業の中にのみ悦びを見いだすようになる。これははたして空想であろうか? いな、余は確かに空想でない、時はすでに近きにありと信ずる。人は『いつその時が来るのですか、そして、ほんとうに来るらしい様子がありますか?』と笑いながら訊ねる。しかし、余らはキリストとともにこの偉業を成就するものと考えている。実際、この地上には、人類の歴史の中には、僅か十年ばかり前までとうてい不可能とされていた理想が、神秘なる時機の到来とともに、突如かしらを持ちあげて、全地球上を席巻したためしは無数にあるではないか。
 わが国においてもそれと同様に、民衆が全世界に向ってその輝きを示し、世界の人をして『建築師の不用となしたる石も、今や重要なる一隅の礎石となれり』と嘆ぜしめるに相違ない。余は嘲笑者に向って逆にこう質問したい。『もしわれわれの考えが空想であるとすれば、あなた方がキリストの力を借らずに、自分の知力一つで建てようとしておいでになる建築は、一たいいつ落成するのでしょうか? いつ公平な社会を組織なさるのでしょうか?』もし彼らが、それはまるで違っている、自分たちこそ、かえって人類の結合を目ざして進んでいるのだ、などと断言するならば、これを心底から信ずるのは、仲間の中でも最も頭の単純な人たちばかりであろう。余はただその単純さに一驚を喫するのみである。実際、空想的分子はわれらよりも彼らのほうに多いのである! 彼らは公平な社会を組織するつもりでいるが、キリストを否定したために、全世界へ血を流すような結果を見るに相違ない。なぜなれば、血は血を呼ぶからである、剣を抜いたものは剣で斃れるからである。
 こういうわけで、もしキリストの誓いがなかったら、人間は互いに仲間同士滅ぼしあって、地上に最後の二人しか残らなくなるであろう。この二人さえも傲慢な性情のために互いに助けあうことができず、最後の一人が相手のものを滅ぼして、ついには自分自身をも滅ぼさなければやまないであろう。もし『このことは謙虚、温順なるもののために容易となるべし』というキリストの誓いがなかったら、事実そのとおりになったかもしれない。余は例の決闘後まだ軍服を着けていた時分に、社交界でこの下僕《しもべ》のことを説き始めた。すると、今でも覚えているが、みな余の言葉にびっくりして、『じゃ、何ですか、わたしたちは下男を長椅子に坐らして、自分でお茶を持って行ってやらなくちゃならないんですか?』と言った。その時、余はこれに答えて、『そうしたっていいじゃありませんか、ほんのときどきでもね。』しかし、当時みなは一笑に付してしまった。彼らの問いも軽薄なものであったし、余の答えもすこぶる曖昧ではあったが、その中にも、そこばくの真理があると思う。

[#4字下げ](G) 祈祷 愛 他界との接触[#「(G) 祈祷 愛 他界との接触」は太字]

 若者よ、決して祈祷を忘れてはならぬ。お前の祈りのたびごとに(もしその祈りが真心より出たものならば)、新しい感情がひらめくであろう。その感情の中に、これまで知らなかった新しい思想が生れてきて、なんじに力を賦与するであろう。こうしてお前は、祈祷が教育であることを悟るに相違ない。もう一つ覚えておかねばならぬことがある。ほかでもない、毎日、暇のあるたびに、『神よ、今日みくらの前に召されたる人々を憫みたまえ』と心の中で念ずるのだ。なぜというに、毎時毎時、いや、一刻一刻、数千の人が地上の生活を捨てて、その霊魂が神の大前へ召されて行く、――彼らの中の多数は、悲哀と憂悶の中に淋しく人知れずこの土と別れて行くのである。しかも、誰ひとりとしてそれを憫れむものもなく、そのような人が生きていたかどうか、それすら知っているものもない。その時、こういう人の後生を弔うお前の祈りが、地球のまるで反対の側《がわ》から神のみくらをさして昇って行く。お前とその人が互いに知りあっておらぬとしても、何の障りもないことである。恐怖をいだいて神の大前に立った人の霊魂は、自分のようなもののためにも祈ってくれる人がある、自分のようなものをも愛してくれる人が地上のどこかに残っていると思っただけで、その瞬間に感激の情を覚えるであろう。それに神様もお前たち二人をなお一そう、慈悲ぶかい目をもって眺めて下さるに相違ない。実際、お前でさえそれほど憫れみを持っているのだから、お前よりも無限に慈悲ぶかくお優しい神様が、なおさら憫れんで下さるのは当然ではないか。神様はお前のためにその人をも赦して下さるに相違ない。
 諸師よ、人間の罪を恐れてはならぬ。罪あるままの人間を愛すべきである。なぜなれば、これはすでに神の愛に近いもので、地上における愛の頂上だからである。あらゆる神の創造物を、全体としても部分としても、一様に愛さればならぬ。一枚の木の葉、一条の日光をも愛さねばならぬ。動物を愛し、植物を愛し、あらゆる事物を愛すべきである。あらゆる事物を愛すれば、やがてそれらの事物の中に神の秘密を発見するであろう。一たびこれを発見すれば、もはやその後は毎日毎日、次第次第に、いよいよ深く味わってゆくのみである。こうして、ついには円満無碍の宇宙的な愛をもって、全世界を愛し得るようになる。人はまた動物を愛さねばならぬ。彼らは神より思想の源と、平穏なる喜悦とを授かっているからである。彼らを苦しめ悩まし、彼らより喜悦を奪いなどして、神のみ心に逆ってはならぬ。人間は動物の上に立って君臨すべきものでない。なぜなれば、彼らが無垢の身であるに反して、人間は偉大なる資質を行していながら、おのれの出現によってこの土を腐敗させ、その腐爛した足跡を残してゆくからである、――しかも、悲しいかな、われわれは千人が千人ことごとくそうなのである! 子供はとくに愛さればならぬ。それは、彼らが天使のごとく無邪気で、われらの心の歓びと浄めのために生き、なおその上に、われらに対する指標ともなるからである。子供を辱しめるものは禍いである。元来、余はアンフイーム師に子供を愛することを教えられた、師は無口な優しい人であるが、余と同行《どうぎょう》遍歴の際も、恵まれた銅貨で薑餅《しょうがもち》や氷砂糖を買って、よく子供らに分けてやったものである。師は子供らの傍らを通り過ぎる時、心の顫えを感じずにいられない人である。
 われらはある種の思念に対してしばしば疑惑を感ずる。他人の罪を見た時はことにそうである。『この人は力をもって捕えるべきか、それとも謙抑な愛をもって虜にすべきであろうか?』と自問する。しかし、いつでも、『謙抑な愛をもって虜にしよう』と決めなければならぬ。一たんこう決心して、生涯変ることがなければ、全世界をも征服することができる。愛を伴なう謙抑は恐ろしい力である。あらゆる力の中でも最も強いもので、他にその比がないくらいである。毎日、毎時、毎刻、自分の周囲をめぐって、自分の心の姿が常に美しくあるように気をつけねばならぬ。例えば、幼い子供の傍らを通り過ぎる時、憎々しそうな様子をして、口汚い言葉を放ち、腹立たしい心をいだいていたら、たとえ自分のほうでは子供に気がつかぬとしても、子供はちゃんと見てとるに相違ない。そうして、その醜い穢れた姿が頼りない子供の胸に、いつまでも彫りつけられるかもしれない。つまり、自分のほうでは気もつかぬ間に、子供の心に悪い種を投げたことになる。そうして、その種が次第に大きくなってゆくのである。それというのも、子供の前で慎しみを忘れたからである。用心ぶかい実行的な愛を自己の中につちかわなかったからである。
 諸師よ、愛は教師である。しかし、これを獲得する方法を講じなければならぬ。なぜなれば、愛の獲得はきわめて困難であって、高い価を払い、長い間の努力をもって、ようやく購われるものだからである。実際、愛は瞬間的のものでなく、長いあいだ持続するものでなければならぬ。偶然的な愛し方は誰にでもできる。悪人にでもできる。余の若い兄は小鳥に赦しを乞うた。これはぜんぜん無意味なようであるが、しかし実際は正しいことなのである。なぜというに、一切は大海のようなものであって、ことごとく相合流し相接触しているがゆえに、一端に触れれば他の一端に、世界の果てまでも反響するからである。よしや小鳥に赦しを乞うのが気ちがいじみているとしても、もし人が現在のままよりほんの少しばかりでも美しくなったら、小鳥や子供やその他すべての動物は、それだけ心持が軽くなるに相違ない。繰り返して言うが、一切は大海のようなものである。もしこれを悟ったなら、人は宇宙的な愛の悩みを感じながら、――何ともいえぬ歓喜の情をいだきながら、小鳥に向って祈祷するようになるであろう。小鳥に向って自分の罪を赦してくれと、祈るようになるであろう。たとえほかの人の目にはいかに無意味に見えようとも、この歓喜の情を尊重しなければならぬ。
 諸師よ、神に愉悦を乞わるるがよい。小児のごとく、また空飛ぶ鳥のごとく、心を楽しく持たるるがよい。自分の仕事におよぼす他人の悪にも、決して苦しめられてはならぬ。他人が自分の仕事を穢して、その完成を妨げようとも、決して恐れることはない。『悪が強い、不正が強い、穢れたる周囲が強い。それだのに、われわれは力弱く頼りないから、穢れたる周囲に侵されて、自分の事業を完成することができない』などと言ってはならぬ。こうした心弱さを避けなくてはならぬ! この場合、ただ一つの救いは、自分の体を捧げて、人間のあらゆる罪悪の責任者とすることである。それは真実そのとおりである。なぜと言うに、真心からおのれをあらゆる罪悪の責任者と感ずるやいなや、それはまったくそのとおりであるということを、ただちに会得するからである。自分は万人に対して罪があるということを悟るからである。しかるに、自己の怠惰と無気力を他人の罪に帰する人は、ついにサタンの倨傲に同化し、神に対して怨嗟をもらすようになる。余はサタンの倨傲ということを、次のように考えている。すなわち、この倨傲は地上において理解しがたいものであるから、油断するとたちまち迷誤におちいって、これと同化するような結果になりやすい。しかも、その中に一種偉大にして美的なものがふくまれている、とまで考えるものが多いのである。こういうふうに、人間本性の強烈な感情や運動の中にも、地上で理解のできないものが数多くあるから、この事実が何か自分の過失の言いわけになるなどと、迷った考えを起してはならぬ。永久の審判者たる神様は、人間が理解し得たことを審問せられるので、理解し得なかったことを裁かれるのではないのである。これは自分でもなるほどと会得するであろう。その時はすべてを正しく眺めるようになって、もはや言い争おうとしないに相違ない。地上におけるわれわれは、事実、迷妄におちいっているかのように思われる。それゆえ、もし貴きキリストの姿がわれわれの目前になかったら、ちょうど大洪水前の人類のように、われわれは取り返しのつかぬ迷いに踏み込んで、ついには滅亡してしまったかもしれぬ。
 この地上においては、多くのものが人間から隠されているが、その代りわれわれは他の世界、――より高い世界と生ける連結関係を有しているという、神秘な貴い感覚を与えられている。それに、われわれの思想、感情の根元はこの地になくして、他の世界に存するのである。哲学者が事物の本質をこの世で理解することは不可能だというのは、これがためである。神は種を他界より取ってこの地上に播き、おのれの園を作り上げられたのである。こうして、成長すべきものは成長し、成長したものは現に生活している。しかし、それは神秘なる他界との接触感のみによって生活しているのである。もし人間の内部にあるこの感情が衰えるか、それともまったく滅びるかしたならば、その人の内部に成長したものも死滅する。その時は人生に対して冷淡な心持になり、はては人生を憎むようにさえなる。余はこのように考えている。

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(H) 人は同胞の審判者たり得るか? 最後までの信仰[#「の信仰[#「(H) 人は同胞の審判者たり得るか? 最後までの信仰」は太字]
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 人間は何人の審判者となることもできない。これはとくに記憶すべきことである。なぜなれば、審判者が、『自分も目の前に立っている人間と同じような犯人である。いな、むしろこの人間の犯罪に対して、自分こそ最も重い責任があるのだ』と認めないかぎり、この地上に犯人の審判者というものは存在し得ないのである。この理を悟った時、初めて審判者となることができる。これは一見したところ、いかにも気ちがいじみた言葉ではあるが、動かすべからざる真理なのである。実際、自分が正直であったなら、いま自分の前に立っている犯人は生じなかったかもしれない。もし人が彼の前に立って、彼の心のままに審判さるる犯人の罪を、みずから負うことができるならば、猶予なくそれを実行して、みずから犯人のために苦しみ、犯人は何らの譴責もなく赦してやるがよい。よし国法によって審判を命じられたのであろうとも、なお事情の許すかぎり、この精神をもって行動するがよい。こうすれば、犯人は法廷を去った後、他人の審判よりさらに苛烈に、自分で自身を裁くであろう。もし犯人が審判官の接吻に対して何らの感動をも覚えず、かえってこれを嘲笑しながら立ち去ろうとも、決して迷いを起してはならぬ。これはつまるところ、まだ彼の時が来ないのであって、来べき時には必ず来るにちがいない。また来ないとしても同じことである。もし彼が悟らなければ、その代りにほかの者が悟って苦しむであろう。そうして、自分で自分を責めるに相違ない。すると、真理は充されることになるのである。人はこれを信じなければならぬ、必ず信じなければならぬ。この中に古聖の希望も信仰も、ことごとく蔵せられているからである。
 たゆみなく働くがよい。よる眠りについた時、『自分はなすべきことをはたさなかった』と思いいたったなら、すぐさま起き出してそれをはたさねばならぬ。また自分の周囲の人たちがことごとく意地わるい冷酷な人間であって、自分の言葉に耳を傾けてくれなかったら、彼らの前に倒れで赦しを乞うがよい。なぜなれば、自分の言葉に耳を傾けさせ得なかったのは、事実、自分に罪があるからである。もし相手が憤激したために説き諭すことができぬならば、無言のまま恥を忍んで彼らに奉仕するがよい。しかし、決して望みを失ってはならぬ。もしすべての人が自分を見捨てた上、無理無体に自分を追い払ったならば、その時はただ一人になって大地に倒れ、土のおもてに接吻して、涙で土をうるおすがよい。さすれば、土はその涙からみのりを与えてくれるであろう。よしやその淋しい自分の姿を、誰ひとり見聞きしなくとも、結果は同じである。最後まで信ぜよ。たとえ地上におけるすべての人が堕落して、信あるものは自分一人になってしまおうとも、残れる唯一人たる自分が贄を捧げて、神を讃美すればよいのである。もし、そのような人が二人めぐりあったなら、それでもはや全き世界が、――生ける愛の世界が出現したのであるから、感激の情をもって相抱擁し、神を讃美せねばならぬ。なぜなれば、僅か二人きりであるけれど、神の真理が実現されたからである。
 またかりに自分で罪を犯したとする、もしそれが数かさなるさまざまな罪にもせよ、心ならず犯したただ一つの罪にもせよ、死ぬまでもそのことを悔い悲しむような場合には、自分よりほかの人のことを思うて悦ぶがよい、ほかの正しい人のことを思うて悦ぶがよい、よし自分は罪を犯したにもせよ、その代り、ほかに正直な、罪を犯さぬ人がある、とこう思って悦ぶがよい。
 もし他人の悪行が、復讐の希望に達するほどのたえがたい憤りと、悲しみを感じさせるならば、こうした心持は何よりも恐れ避けねばならぬ。つまり、他人の悪行について自分自身を罪あるものと感じ、ただちに赴いてみずから苦痛を探し求むべきである。苦痛をわが肩に負うて、これを最後までたえ忍んだなら、その時は心の怒りもやわらいで、真実、自分に罪のあることを悟るであろう。なぜと言うに、穢れなき唯一人として、悪しきものの道を照らしてやることもできたのに、それを怠ったからである。もし、おのれの光をもって他人をも照らしてやったなら、悪行を犯したものもそれを犯さずにすんだかもしれぬ。また、自分は光を放っているのに、他人がその光によってなお救われないとしても、あくまで心を毅く持って、天の光の力を疑ってはならぬ。たとえいま救われないでも、またいつか救われる時が来ると信じなければならぬ。いつまでたっても救われなかったら、その者の子らが救われるであろう。なぜなれば、人は死んでも、その真理は滅びぬからである。正しき者はこの世を去っても、光は後まで残るからである。
 人が救われるのはいつも救い主の死後である。人間のやからは予言者をしりぞけ虐げようとするが、しかしまた人間はおのれの苦しめた殉教者を敬愛する。それゆえ、全体のために働けばよいのである。未来のために仕えればよいのである。しかし、決して報いを求めてはならぬ。しいて求めずとも、すでにこの世において、偉大なる報いが与えられている、――すなわち、正しき者のみが所有し得る心の悦びである。富者、権者をも恐れてはならぬ。ただ単に賢く美しくあればよい。何事につけても、度《ど》と時を知らねばならぬ、これを究めることが肝要である。孤独の中にとどまって神を祈り、大地にひれ伏して土に接吻することを好むがよい。大地を接吻して、絶えず貪るように愛するがよい。悦びの涙で大地をうるおして、その涙を愛するがよい。この感奮を恥じないで、これを尊重せねばならぬ。何となれば、これは偉大なる神の賜物で、きわめて少数の選ばれたる人にのみ与えられるものだからである。

[#4字下げ](I) 地獄 地獄の火 神秘的考察[#「(I) 地獄 地獄の火 神秘的考察」は太字]

 諸師よ、『地獄とは何ぞや』と考察する時、余は次のごとく解釈する、『すなわち、もはや愛しあたわざる苦悶である。』時間をもっても、空間をもっても、測ることのできない無限の世界において、ある一つの精神的存在物は、地上の出現によって『われあり、ゆえに、われ愛す』という能力を授けられた。彼は実行的な生きた[#「生きた」に傍点]愛の瞬間を、一度、たった一度だけ与えられた。これがすなわち地上生活なのである。それと同時に、時間と期限が与えられた。ところが、いかなる結果が生じたか? この幸福な生物は限りなく貴い賜物をこばんで、尊重することも愛好することも知らず、嘲笑の目をもって眺めながら、最後まで無感覚のままで押し通した。こういう人が地上を去った時、富める者およびラザロに関する寓話に示されているように、アブラハムのふところをも見るであろうし、アブラハムと物語をもするであろうし、天国を見、かつ神のもとへ赴くこともできよう。しかし、愛することのできなかったものが神のもとへ赴き、他人の愛を蔑視したものが愛をいだける人々と接触する、ということに苦痛が存するのである。なぜなれば、この時はじめて目がさめて、心の中でこう思うからである。
『今こそようやくわかった。たとえいま愛することを望んだところで、自分の愛には効果もなければ犠牲もない。地上の生活はもはや終ったからである。いま自分の胸には、地上で蔑視した精神的愛の渇望が焔のように燃え立っているけれども、それをいやすための生ける水(すなわち、以前の実行的な地上生活の賜物)を、ただの一滴でも持って来てくれるアブラハムはいないのだ。いま他人のために自分の命を悦んで捧げる覚悟はあっても、それはもはや不可能なのだ。愛の犠牲として捧げることのできる生活は、もはや過ぎ去った。今はあの生活とこの生活との間に、無限の深淵が横たわっている。』
 よく地獄の火は物質的のものだと説く人がある。余はこういう神秘を究めようとは思わない。そのようなことをするのは恐ろしい。しかし、かりにそれが物質的の火であるとすれば、そこに落ちた人々はかえって心からそれを悦んだに相違ない。なぜなれば、余の考えでは、物質的な苦痛にまぎれて、よしや一ときであろうとも、さらに恐ろしい心の悩みを忘れることができるからである。しかし、この悩みは外部のものでなく内部のものであるから、ぜんぜん取り去ってしまうことはできない。もし取り去ることができたとしても、人々はこれがため、さらに不幸におちいることと思われる。天国にある正しき人々が、その苦痛を見て彼らを赦し、無限の愛をもって自分の傍らへ呼び寄せるにしても、かえってそれがために、ひとしお苦痛を増すことになる。つまり、彼らの心の中に、今はとうてい不可能な答礼と感謝の意をふくんだ実行的の愛を呼びさますからである。とはいえ、余は臆病な心の底でこんなことを考えている。ほかではない、こうした不可能の自覚そのものが、最後には、苦痛の軽減を助けるのではあるまいか。そのわけは、正しき人々の愛を応酬の望みもなく受けた時、この従順と謙虚の行為の中に、地上において蔑視した実行的愛の片影と言おうか、これと似よりの作用と言おうか、とにかく、そうしたものを感得することができるからである……諸師よ、余はこれを明瞭に言い現わし得ないのを哀しむ。しかし、地上において、われとわが身を亡ぼしたものは気の毒である。まことに、自殺者は気の毒である! これより不幸な者はほかにないと余は思う。彼らのために神を祈るのは罪悪である、と人は言う。そうして、教会も表面的には彼らを破門するような工合である。けれども、余は心の奥で、彼らのためにも祈ることができると考えている。キリストも決して愛をとがめて、怒られるわけがないではないか。余は自白するが、こういう人々のために一生涯、心の中で祈っていた、今でも日ごと祈っている。
 しかし、地獄の中にも傲慢、獰悪を押し通したものもいる。否定することのできぬ真理を確知し、かつ認識したにもかかわらず、サタンとその倨傲な精神に結合しきった恐ろしい人間もいる。こういう人たちの地獄は彼ら自身の意志で作られたものであるが、しかし彼らに飽満を与えない。彼らは好きでなった受難者である。なぜなれば、彼らは神と生を呪ったからである。譬えば、砂漠で飢え渇いたものが、自分で自分の体から血を吸い始めるのと同じように、自分の毒に充ちた倨傲を糧としている。しかし、永劫に飽満を知らぬ彼らは、赦免をこばみ、自分を招いてくれる神を呪うのである。彼らは生ける神を憎悪の念なしに考えることができぬ。そうして、生の神のなからんことを願い、神が自分と自分の創造物を滅ぼすことを要求している。こうして、永久に瞋恚のほむらの中に燃えながら、死と虚無を願うことであろう。しかし、その死はとうてい得られないのである……

 アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフの手記はここで終っている。この手記は不完全な、しかも断片的なものである。例えば、伝記なども、長老の青春時代の初期に関するものばかりである。彼の教訓や意見の中には、以前さまざまな機会に、さまざまな動機によって述べたものが、一つのまとまったもののような体裁で合併されたのもある。長老が臨終前、幾時間かに亘って説いた言葉は、正確に区分されていない。しかし、アレクセイが以前の教訓の中からここに合併したものを対照してみるならば、その時の談話の気分も性質も理解することができよう。
 長老の逝去は実際とつぜんであった。その夜、長老のもとに集った人々は、彼の死の近いことを十分悟ってはいたが、それでもやはり、こうまで唐突におそって来ようとは、とうてい予期することができなかった。それどころか、前にもちょっと述べておいたように、同宿の人々はその晩、長老が非常に元気でもあり、口数も多くなったのを見て、たとえ長くはつづかないにもせよ、長老の健康が目に見えてよくなったことと信じていた。後で人々が不思議そうに言い伝えたところによると、逝去の五分前まで、何一つ予想できなかったとのことである。突然、長老は烈しい胸の痛みを感じたかのさまで、蒼い顔をしながら強く両手で心臓をおさえた。一同はそのとき席を立って、彼のほうへ飛んで行った。しかし、彼は苦しみながらも、やはり微笑を浮べて一同を見上げつつ、静かに肘椅子から床へすべり落ちて、跪いた。うつ伏しに顔を土にすりつけて、両手をひろげ、歓喜の溢れるようなさまで、たったいま人々に教えたとおり、大地を接吻して祈祷を上げながら、静かに悦ばしげに魂を神へ捧げたのである。
 長老逝去の報は、ただちに庵室ぜんたいに伝わって、僧院まで達した。故人に近しい人々と局にあたる人々とは、古式にのっとって遺骸の納棺にかかった。そうして、同宿一同は本堂へと集った。あとで噂を総合してみると、長老死去の報は、夜明け前に町へ伝わったらしい。夜の明ける頃には、ほとんど町じゅうの人が、この出来事を語り合っていた。町民の多くは、流れるように僧院さして押し寄せた。が、このことは次篇に物語るとして、今はただ一日もたたないうちに、ある意想外な事柄が生じた、とばかり言っておこう。それは、僧院や町の人たちに与えた印象から見て、きわめて奇怪な、不安の気に充ちた、しかも人心を迷わすような出来事であったために、多数の人を騒がしたこの一日の記憶が、多くの歳月を隔てた今日でも、いきいきと保存されているほどである。
[#改段]

[#1字下げ]第七篇 アリョーシャ[#「第七篇 アリョーシャ」は大見出し]



[#3字下げ]第一 腐屍の香[#「第一 腐屍の香」は中見出し]

 永眠せる大主教ゾシマ長老の遺骸は、官位に相当する一定の儀式をふんで葬らなければならなかった。人々はその準備に着手した。これは誰しも知るところであるが、僧侶や隠遁者の死体は湯灌しないことになっている。『僧位にあるもの、神のみもとへ去りたる時は(と『大供養書』にも書いてある)、指命を受けたる僧侶、これが遺骸を温湯もて拭い、その額、胸、手、足、膝に、海綿もて十字を描くものとす。その他なにごともなすべからず。』これらのことをことごとく、パイーシイ主教は故長老の遺骸に行った。湯で拭いたのち、法衣を着せ外袍をまとわせたが、その際、規則に従って外袍を十字状に巻くために、少しばかり鋏で切り開いた。そして、頭には八脚十字架のついた頭巾を被せた。頭巾はボタンをかけずにおいて、長老の顔を黒い紗のきれで蔽い、手には救世主の聖像を握らせた。こういう姿に仕立ててから、夜明けごろ遺骸を棺の中へ納めた(これはずっと前から用意してあったので)。棺は庵室のとっつきの広間に、一日据えて置くことにした(それは、故長老が同宿や参詣者と接見した部屋である)。
 故長老は大主教の僧位を持っていたから、主教や助祭たちは詩篇でなく、福音書を読話しなければならなかった。ヨシフ主教は、鎮魂祭がすむと、すぐ読誦を始めた。パイーシイ主教は、一日一晩読み通すつもりであったけれど、今のところ庵室取締りとともどもに、だいぶ忙しそうな様子であった。それは、僧院の同宿の間にも、僧院付属の宿泊所や町うちから押し寄せた人々の間にも、何かしらとうてい『あり得べからざる』、類のない異常な動揺と、いらだたしい期待の色が現われて、一刻一刻と目立ってきたからである。庵室取締りとパイーシイ主教は、かくまで騒がしく波だってくる群衆を鎮撫するのに、ありたけの力をそそいでいた。やがて、かなり日が高くなってきたとき、町から病人、ことに子供を連れて来るものが、ぞくぞくと現われ始めた。彼らは今こそ猶予なく治療の秘力が発顕するものと信じて、前からこの瞬間を待ちもうけていたものらしい。この地方の人々が、故長老を疑いもなく偉大なる聖者として、まだ在世の頃から、どれくらいまで尊敬し馴れていたか、この時はじめて明らかになったのである。群衆の中には、決して平民ということのできないような人たちもあった。
 こうして、あまりにも性急に、あまりにもあらわに表現された信者たちの異常な期待の情、というより、むしろいらだたしい要求は、パイーシイ主教の目に疑いもなく迷いと観じられた。彼はずっと前からこれを予感していたけれども、事実は彼の期待を超えたのである。興奮した僧たちに出会うたびごとに、彼は一々言い聞かせるのであった。『そのように、あまり性急に偉大な事柄を待ちもうけるのは』と彼は言った。『俗世の人にのみあり得べき軽率な挙動で、われわれとしてあるまじきことです。』とはいえ、彼の言葉に耳を傾けるものはほとんどなかった。パイーシイ主教は、不安の念をいだきながら、これに注目していた。しかし、彼自身も(正直にありのままをしるすならば)、あまりにもいらだたしい期待の情をにがにがしく感じて、その中に軽挙妄動を発見したにもかかわらず、心の奥のほうでは、これらの興奮した人たちと、ほとんど同じようなものを待ち望んでいるのであった。これは自分でも認めないわけにゆかなかった。それにしても、彼はある種の人に行きあった時、とくに不快の念を覚えた。一種の直覚作用が、深い疑惑を呼び起したからである。
 長老の庵室内に群っている人ごみの中に、まだ僧院に逗留しているオブドールスクの客僧や、ラキーチンなどの姿を見つけた時、パイーシイは嫌悪の情を禁じ得なかった(もっとも、彼はその時すぐに、こうした心持になる自分を自分で責めた)。彼はこの二人をどういうわけか、怪しい人物と睨んでいた。しかし、こういう意味の注意人物は、彼ら二人にかぎったわけではなかったのだ。オブドールスクの僧は、興奮した人々の中でも、とりわけ慌しい人物として目に立った。彼の姿は到るところ、あらゆる場所で見受けられた。彼は到るところでいろいろなことを訊き出し、到るところで耳を傾け、到るところで一風ちがった様子ありげな顔つきをして、ひそひそと囁きあっていた。顔の表情は極度にいらだたしそうで、期待があまり長く実現されないために、業をにやしているようにすら見受けられた。
 ラキーチンのほうはどうかというと、彼がこんなに早くから庵室へ姿を現わしたのは、ホフラコーヴァ夫人の特別な依頼のためだということがあとでわかった。人はいいけれど肚のない夫人は、自分で庵室へ入れてもらうわけにゆかないために、朝目をさまして、長老の話を聞くやいなや、いきなり性急な好奇心に全心を領されて、さっそくラキーチンを代理として庵室へ送り、そこで起ったことをすっかり詳しく[#「そこで起ったことをすっかり詳しく」に傍点]観察して、約三十分ごとに、手紙をもって報告させることにしたのである。夫人はラキーチンを潔白な、信仰の厚い青年と思い込んでいた、――それほど彼は巧みにすべての人に取り入って、少しでも自分のためになることと見てとったら、相手の希望どおりな人間になってみせるのが上手であった。
 それは晴れやかな輝かしい日であった。参詣の巡礼者は多く墓のまわりに群っていた。墓はおもに本堂の周囲にかたまっていたが、また庵庭の諸所に散在しているのもあった。庵室を巡っているうちに、パイーシイ主教はふとアリョーシャのことを思い出した。もうかなり前から、ほとんど夜の明けぬうちから、この青年の姿を見受けなかったのである。このことを考えつくと同時に、彼は庵庭の片隅なる塀のかたわらに、青年の姿を発見した。アリョーシャはだいぶ昔にこの世を去った、いろいろな苦行によって名を知られている、ひとりの僧侶の墓石の上に腰かけていた。彼は庵室を背にして、塀のほうへ顔を向けながら、墓標に姿を隠すようにして坐っていた。そのそばへ近近と歩み寄ったパイーシイ主教は、彼が両手で顔を蔽いながら、声こそ立てね、全身を顫わせつつ、苦い涙に咽んでいるのに気がついた。主教はしばらくそのそばにじっと立っていた。
「もうたくさんだ、アリョーシャ、たくさんだよ、倅。」やがて彼はしんみりした声で口をきった。「お前、一たいどうしたのだ? 嘆くどころか、かえって悦ぶべき時ではないか。それともお前は今日があのお方[#「あのお方」に傍点]にとって最も偉大な日、だということを知らないのか? あの方[#「あの方」に傍点]が今、この瞬間どこにいらっしゃるか、そのことを考えてみただけでたくさんではないか!」
 アリョーシャは、子供のように泣きはらした顔から手をのけて、主教のほうをちらと振り返って見たが、すぐにまた一ことも口をきかないで、向きを変えると、そのまま両手に顔を埋めてしまった。
「いや、あるいはそのほうがよいかもしれぬ」とパイーシイ主教はもの案じ顔に言った。「あるいは泣いたほうがよいかもしれぬて、キリストさまがその涙をお前に送って下さったのであろう。」
『お前の悲痛な涙はただ魂の休息にすぎないのだ。やがてお前の可憐な心の浮き立つよすがとなるであろう。』彼はここを離れて、道々やさしい心持でアリョーシャのことを思いつづけながら、心の中でこうつけたした。もっとも、彼は急ぎ足で、ここを立ち去った。この青年の様子を見つづけていたら、自分まで一緒に泣きだしそうに感じられたからである。その間に時は移っていった。故長老に対する僧院の儀式や祭典は、順序をふんで行われるのであった。パイーシイ主教は、ヨシフ主教の姿を棺のかたわらに認めたので、ふたたび代って福音書の読誦を引き受けた。
 しかし、午後もまだ三時を過ぎぬうちに、もう前篇の終りにちょっと述べておいた事件がもちあがった。誰一人として思いもうけなかったこの出来事は、極度に人々の希望を裏切ったので、繰り返して言うが、これに関する詳細をきわめた浅薄な物語が、町うちはおろか近在一般に亘って、いまだに言い伝えられているほどである。ここで筆者はいま一息、自分の意見を述べておこう。筆者はこの愚かしい、人を迷わすような出来事を思いだすたびに、嫌悪の念を感じないでいられない。しかも、この出来事は実際のところ、意味もないきわめて自然なことであるから、もしこれが物語の本主人公たる(もっとも、未来の[#「未来の」に傍点]本主人公ではあるけれど)アリョーシャの霊魂と心情に、ある強烈な影響を与えなかったら、筆者はもちろん、こんな事件については一ことも話さないで、物語を進めたはずなのである。実際、この事件は彼の魂に一転期を画し、その理性を震撼すると同時に、ある目的に向けて生涯ゆるぎなく固定さしたのである。
 さて、いよいよ物語に移ろう。まだ夜の明けぬうちに、埋葬の準備を整えた長老の遺骸を、棺に納めて、とっつきの部屋、すなわちもと応接の間になっていた部屋へ運び出したとき、棺のそばにいた人々の間に、窓を開けなくてよかろうかという疑問が生じた。しかし、誰かが何げなしにちょっと口をすべらしたこの疑問には、誰ひとり返事をするものもなく、ほとんど気にもとめないで過ぎてしまった。もし誰か気にとめたものがあるとすれば、それは次のような意味にすぎなかった。つまり、こういう聖者の死体から腐敗や悪臭を期待するのは、あまりにも馬鹿げきった話であって、こういう質問を発した人の信仰の薄いことや、考えの浅はかなことは、たとえ冷笑でないまでも憐憫に価するくらいである。つまり、人々はぜんぜん正反対なことを期待していたのである。
 ところが、正午を過ぎて間もないころ、何かしら妙なことが始まった。部屋を出たり入ったりする人たちは、自分の心中に頭を持ちあげだした疑念を、はじめのうちは無言で胸に秘めて、誰にもせよ他人に伝えるのを恐れるようなふうであった。しかし、三時近くになると、はじめ少し気を催していたものが、もはや否定することのできないほど明瞭になったので、この報知は飛ぶように庵室ぜんたいへ拡がって、参詣の巡礼者の間に行きわたり、たちまちにして僧院の内部へ侵入し、同宿の人々を驚倒させた後、ごく僅かな間に町まで伝わって、信者不信者の別なく、一同を動顛さしたのである。不信者は跳りあがって悦んだ。信者のほうはどうかというに、彼らの中にも不信者以上に欣喜雀躍したものがあった。なぜなれば、故長老が自分の教訓の中で説いたとおり、『人は正しき者の堕落と汚辱を悦ぶ』からである。
 そのわけはほかでもない。棺の中からきわめて緩慢ではあるけれど、刻一刻と烈しく腐屍の匂いが発し始めて、三時頃には、もはや明らかにそれと感じられるようになったのである。この出来事についで、ただちに人々の間に(僧侶たちの間にさえ)生じた無作法で不謹慎なにがにがしい擾乱は、この僧院の過去の歴史ぜんたいを繰ってみても、絶えて久しくなかった事件、いな、むしろ想起することのできない事件であった。もしこれが別な場合だったなら、実にあり得べからざる事件なのである。その後、幾年もたった時に、寺内でも分別のある僧たちは、この一日のことを詳しく追懐して、どういうわけであのにがにがしい騒擾が、あのような度合いにまで達したのだろう、と思って、驚愕と畏怖を感じたくらいである。以前にも、一点非のうちどころのない正しい生活を送り、しかもその正しさをすべての人に認められていた僧侶や、敬神の念の深い長老などが死んだ時、その尊い棺の中から腐屍の匂いが発したこともままあった。それは、すべての死人にとってきわめて自然な現象であるが、とにかく、その時には見苦しい擾乱は言うまでもなく、僅かな動揺すら惹き起さないですんだ。もちろん、この僧院でも、ずっと昔この世を去った僧侶の中に、遺骸から臭気を発しなかった、という伝説を持った人もある。こういう人に関する記憶は、今もなお僧院内に生き生きと残っているが、上記の事実は、同宿の人たちに感激に充ちた神秘的な影響を与え、一種神々しい奇蹟的なものとして、一同の記憶に蔵せられた。つまり、神のみ心によって時が到ったならば、まだまだ偉大な光栄がその墓所から現われるに違いないという、約束かなんぞのように思われたのである。
 そういう人々の中で、とくに明らかな記憶を残しているのは、百五歳まで寿命を保ったヨフ長老である。この人はもはやずっと前、現世紀の十年代あたりにこの世を去ったが、僧院の人々は初めて参詣したすべての巡礼者を、非常な尊敬を払ってこの墓へ案内した。そうして、この墓に、ある偉大な希望がつながれている旨を、語って聞かせるのであった(それは、今朝アリョーシャが腰かけているところを、パイーシイ主教に見つけられた墓である)。ずっと昔に世を去ったこの長老のほか、比較的あたらしく逝去した大主教ヴァルソノーフィ長老に関しても、これと同じような記憶がまだなまなましく残っている。ゾシマが長老職を受け継いだのも、この人からである。在世中この人は参詣の巡礼たちから、純然たる宗教的畸人《ユロージヴァイ》と思われていた。この二人についてはこんな伝説が残っている。彼らは、棺に納められている間じゅう、さながら生きた人のようで、埋葬の時なども、少しの崩れも見えなかった。棺の中に臥ている顔は、輝き渡るようであった。中には、彼らの体からまざまざと芳香が感じられた、などという追憶を主張する人もあった。
 こうした有難い追憶がいろいろあるにもせよ、それでもゾシマ長老の棺の周囲に、ああまで軽率な、しかも愚かしく毒々しい現象の生じた原因は、容易に説明することができない。筆者一個の考えを述べるなら、この事件には他の分子もたくさんまじっていたので、さまざまな原因が同時に落ちあって影響をおよぼしたものに相違ない。たとえば、そういう原因の中には、長老制度を目して有害な新制度とする、根ざしの深い憎悪の念があった。これは、僧院における多くの僧侶の心に奥深くひそんでいた。それから、もう一つ重要なのは、聖者としての故人の地位に対する羨望であった。この地位は長老の在世から、確固たるものとなってしまって、異を立てることさえ禁じられている有様であった。実際、故長老は奇蹟というよりむしろ愛をもって、多くの人を自分のほうへ牽き寄せ、愛慕者の群をもって一つの世界ともいうべきものを自分の周囲に樹立していたが、それにもかかわらず、というより、むしろこれがために、多数の羨望者と激烈な反対者を生み出したのである。彼らの中には公然と言明するものもあれば、陰に廻ってこそこそ細工をする連中もあった。しかも、これらの分子は単に僧院内ばかりでなく、一般世間にまで拡まっていた。長老は、何一つ人に害を加えたことがないけれども、ここに一つ問題がある、『なぜあの人はああ聖人あつかいされるのだろう?』この問い一つだけが絶えず繰り返されているうちに、ついに飽くことなき憎悪の深淵を形づくったのである。これがために、多数のものは彼の遺骸から腐屍の匂いを、しかもこんなにまで早く(長老が死んでまだ一日もたたないのである)嗅ぎつけた時、限りなき悦びを感じたのだと筆者は考える。また今まで長老に敬服していた人たちのうちにさえ、この出来事のために自分が侮辱を受けたように感じた人が、すぐさま幾たりか現われた。事件は次のような順序をふんで展開していった。
 腐敗が発見されるやいなや、故長老の庵室へ入って来る僧たちの顔を見たばかりで、何のためにやって来たのか察することができた。彼らは入って来てもあまり長くは立っていず、群をなして外で待っているほかの連中に、少しも早く噂の裏書をしようと思って、そわそわと出て行くのであった。外で待っている連中のうちには、愁わしげに首を振るものもあったけれど、その他の者は、毒々しい目の中に、ありありと輝きだした悦びの色を隠そうともしなかった。もはや誰ひとりこれを咎めるものもなかった。誰ひとり善の声を発するものがなかった。それは実に不思議なほどであった。何といっても、長老に信服している人は、僧院内で多数を占めていたはずなのである。しかし、察するところ、このたびは神が少数のものに一時の勝利を与えられたのであろう。
 間もなく僧侶以外の人も、密使として庵室の中へ入って来るようになった。それはおもに、教育のある人が多かった。平民階級の人たちは、庵庭の門ぎわに、大勢群集していたけれど、庵室の中へはあまり入って来なかった。三時から後は町の人の潮来が目に見えて多くなった。それは疑いもなく、例の人の心をそそるような噂のためであった。今日決してここへ来るはずのない人たち、――そんなつもりの少しもなかった人たちまで、今はわざわざ駆けつけて来た。その中には位の高い名士も幾たりか交っていた。とはいえ、表面の儀礼はまだ破られなかった。パイーシイ主教は厳めしい顔をして、しっかりした調子で、一語一語くぎるようにしながら、引きつづいて福音書を声高に読誦していた。彼はとっくから何か異常なことが起ったのに気づいていたが、それでも何も知らないようなそぶりをしていた。ところが、しまいには、人々の話し声が彼の耳にまで入るようになった。その声は初めごくごく低かったが、次第に大胆なしっかりした調子になってきた。
『つまり、神様のお裁きなのだ、人間わざじゃない!』
 突然、こういう声をパイーシイ主教は聞きつけた。それをまっさきに口に出したのは、かなり年とった町の官吏で、信仰家として通っている人であった。しかし、これは、すでにだいぶ前から僧たちがお互い同士で囁きあっていたことを、公然と繰り返したにすぎないのである。僧たちはもうとっくから、この非道な言葉を口にしていたが、何よりも悪いことには、この言葉が発せられる時、一種勝ち誇ったような気分が頭を持ちあげて、それが刻一刻と募ってゆくのであった。やがて、間もなく式場の作法さえ崩れだした。しかも、人々は、それを蹂躪する権利があるような気持でいるらしかった。
『どうしてこんなこと[#「こんなこと」に傍点]ができたのだろう。』僧たちの中には、何となく憐れむような調子で、こう言いだすものがあった。『あの人の体は非常に小柄で、乾ききって、まるで骨と皮とくっついていたのに、どこからこんな匂いが出て来るんだろう?』
『つまり、神様がことさらわれわれの目を開けて下すったのだ』と別な僧たちが急いでこうつけたした。そうして、彼らの意見はすぐさま、何らの異議なしに受け入れられた。たとえ腐屍の匂いが自然なものであるにもせよ、どんな罪深い人の死骸でも匂いを発するのはもっと後のことで、少くとも一昼夜をへた後でなければならない。これは誰の目にもあまり早すぎる、『自然を超越している』、してみると、神がその尊いみ手をもって、人間の誤りをさし示されたものと解釈するより仕方がない、こういうのが彼らの意見であった。この意見はいなみがたい力をもって人々の心を打った。
 故長老の寵を受けていた図書係りの僧ヨシフ主教は、平生おとなしい人であったが、今は毒舌家の誰かれに向って、『しかし、いつもそうばかりはゆかない』と言って弁駁を試み始めた。つまり、聖者の遺骸は腐敗すべきものにあらずというのは、決して正教の教義でなく、ただの意見にすぎない。最も正教の盛んな国、たとえばアトスなどでも、腐屍の匂いのためにこう騒ぐようなことはない。のみならず、隠遁者の光栄の兆とされているものは、肉体が腐敗しないということではなくて、骨の色なのである。死体が幾年も幾年も地中に埋まって、やがて壊滅しはじめたとき、『もし骨が蝋のように黄いろくなったなら、これこそ神が故人を正しき者として祝福された最も重大な兆であるが、もし黄でなく黒い色に変ったなら、神がその人に光栄を授けたまわなかったことになる。これが、昔から光明と清浄の中に儼として正教を保存している偉大なる聖地アトスにおける定めなのだ』とヨシフ主教は結論を下した。
 しかし、温良な主教の言葉は、何の効果もなく消えてしまって、むしろ嘲笑的な反抗を呼び起した。『あれはみな新奇を悦ぶ衒学者の言葉だ、耳を傾ける必要がない。』僧たちは自分たちの判でこう決めてしまった。『われわれは昔どおりにすればいいのだ。この頃は新しいことがやたらに出て来るから、一々まねをしていられるものか?』と他の連中はつけたした。『ロシヤにだって、アトスに負けないくらい、たくさんの聖僧が出ている、あそこはトルコ人の治下におかれているために、何もかもすっかり忘れてしまっているのだ。あそこの正教はもうとうから濁っている。現にあそこには鐘もないじゃないか。』一ばん口の悪い連中は、こう言って調子をあわした。
 ヨシフ主教は愁わしげにそこを立ち去った、それに、彼自身の駁論の調子もあまり確固たるものでなく、何となく半信半疑というようなふうであった。彼は、困惑の情を胸にいだきつつ、何か非常に見苦しいことが始まりかけたのを見てとった。事実、もう公然たる反抗が頭を持ちあげたのである。ヨシフ主教の弁駁の後は、次第に是非を論ずる声がしずまっていった。生前ゾシマ長老を愛したのみならず、感激をもって従順に長老制を認めていたすべての人が、どうしたわけか、急にひどく何かにおびえあがって、途中出会っても、ただ臆病げに互いの顔を見くらべるばかりであった。奇怪な新制度として長老制に反対する人たちは、傲然として首をそらしていた。
『ヴァルソノーフィ長老がおかくれになった時は、悪い匂いが立たなかったばかりでなく、芳香が馥郁としていた』と彼らは意地わるい悦びの色を浮べながら、こんなことを引き合いに出した。『あのお方は長老という位のためでなく、ご自分で正しい道を履まれたために、あれだけの酬いをお受けになったのだからな。』
 これにつづいて、今度は故長老に対する非難や、譴責の声すら聞えはじめたのである。『あの人の教えは間違っていた。あの人の教えによると、人生は涙に充ちた忍従でなくて、偉大なる喜悦なんだそうだ。』一番わけのわからない連中が、こんなことを言った。『あの人の信仰はこの頃はやりのもので、物質的な地獄の火を認めていなかった。』なお一そうわけのわからない連中が、こう調子をあわした。『精進に対してもあまり厳格でなかった、甘いものを平気で口に入れ、お茶と一緒に桜のジャムを食べていた。非常な好物だったので、しじゅう奥さんたちから届けてもらっていた。隠遁者がお茶を飲むなんて法があるものか?』こういう声が羨望者の仲間から聞えた。『恐ろしく威張りかえって坐ってたじゃないか?』最も意地わるい悦びを感じている人たちが、残酷な調子で言いだした。『自分で聖人を気どって、人が自分の前へ平伏しても、あたりまえのようにあしらっていたじゃないか。』
『懺悔の秘密を濫用したのだ。』最も獰猛な長老制の反対者が、毒々しい調子でこう囁いた。これらは、僧侶仲間でも一番の年長者で、敬神の点についてはきわめて峻厳な、真の意味における禁欲と沈黙の行者であった。彼らは故人の存命中かたく沈黙を守っていたが、今とつぜん口を開いたのである。これが何よりも恐ろしかった。というのは、彼らの言葉は、まだ定見をもっていない若い僧たちに、強烈な印象を与えたからである。
 オブドールスクの聖シリヴェストル僧院から来た客僧は、これらすべてのことを、一心に耳をすましながら聞いていた。彼は深い溜息をつき、小首を傾けながら、『いや、どうもフェラポント主教が昨日おっしゃったことは本当らしい』と心の中で考えた。ちょうどその時、僧フェラポントが姿を現わした。それは、一同の動揺の度を強めようと思って、わざと出て来たかのようであった。
 前にも述べておいたとおり、彼が養蜂場にある自分の木造の庵室から出ることは、きわめてまれであった。会堂へすら長いあいだ顔を出さないのが常であった。僧院のほうでも彼を宗教的畸人《ユロージヴァイ》と見て、一般に対する規則をもって律しないで、何事も大目に見てやっていた。が、本当のところを言えば、これも一種の必要に迫られて許していたのである。そのわけは、こうして朝から晩まで祈っている(実際、寝るのも膝をついたままなのである)、偉大な禁欲と沈黙の行者をば、自分から服従を望んでもいないのに無理に一般の規則へ当て嵌めるのは、非礼と言っていいくらいだからである。もし、そんなことをしたら、僧たちはこう言うにちがいない。『あの方はわれわれの誰より最も神聖な人で、規則に従うよりも、もっと困難な義務をはたしておいでになるのだ。あの方が会堂へ出られないのは、つまり自分で自分の行くべき道をちゃんと承知していらっしゃるからだ。あのお方には自分の規則があるのだ。』こういう不平や騒擾の起り得べきことを想像して、フェラポントを放任しているのであった。彼がゾシマ長老を非常に嫌っているのは、一同に知れ渡った事実である。ところが、今とつぜん彼の庵室へ、『あれは神の裁きだ、人間わざではない。自然律さえも超越している』という報知が伝わった。第一番に彼のもとへ駆けつけた人の中には、きのう彼を訪れて、恐怖をいだきながら辞し去った、オブドールスクの客僧も交っていたものと考えなければならぬ。
 これも前に言ったことであるが、パイーシイ主教は確固不抜の姿勢で、棺のそばに立って読経していた。彼は庵室の外で起ったことを、見聞するわけにゆかなかったが、それでも、おもなる経過はことごとく心の中で誤りなく推察していた。彼は周囲の人々の腹の中をたなごころを指すように見抜いていたのである。しかし彼は困惑など感じないで、何の恐れげもなく、起り得べき一切のことを待ちもうけていた。そして、今は自分の心眼に映ずる擾乱の経過を、刺し透すような目つきで見まもるのであった。
 そのとき入口のほうにあたって、もはや疑う余地のないほど明瞭に、式場の作法を破るなみなみならぬ物音が、彼の聴覚を刺激した。と、戸がさっと開け放たれて、フェラポントの姿が閾の上に現われた。それにつづいて大勢の僧侶が(その中には俗世の人々もまじっていた)、入口の階段の下に群がる気配がした。これは庵室の中からもはっきりと見えた。取り巻きの連中は中へも入らなければ、入口の階段へもあがらないで、これからフェラポントが、どんなことを言ったりしたりするかと、じっと佇みながら、待ちかまえていた。彼らは、自分たちがずいぶん無作法な言行をあえてしているにもかかわらず、フェラポントがここへやって来たのは何か思わくあってに相違ないと想像して、一種の恐怖さえ感じたのである。
 フェラポントが閾に立って、両手を上へさし伸べた時、オブドールスクの客僧の好奇に輝く鋭い目が、その右手の陰からちらりと覗いた。彼は、自分の烈しい好奇心を我慢することができないで、フェラポントの後から階段を駆け昇ったただ一人であった。ほかの者は、戸ががたんと開け放されるやいなや、思いがけない恐怖におそわれて、かえって互いに押しあいながら、なお後ずさりしたものである。両手を高くさし上げると、フェラポントはふいに叫びだした。
「われあくまでもしりぞけん!」彼はかわるがわる四方八方に向き直りながら、庵室の壁と四隅に十字をきり始めた。取り巻きの連中はたちまちこの動作の意味を了解した。彼はどこへ入る時でも、必ずこれをやって悪霊を追い払わないうちは、決して腰もおろさなければものも言わない。それをみんな知っていたのである。
「怨敵退散、怨敵退散!」彼は十字を切るたびに一々こう繰り返した。「われあくまでもしりぞけん!」とまたしても叫んだ。彼は例の粗末な袈裟を着て、繩の帯をしめていた。麻のシャツの下からは、胡麻塩毛の一面に生えた、あらわな胸が覗いていた。足はまるっきり跣であった。彼が手を振り始めるやいなや、袈裟の下にかけてある錘《おもり》が震えて、もの凄い音を立てるのであった。パイーシイ主教は読誦をやめて進み寄り、待ちもうけるように彼の前にじっと立っていた。
「何のために来たのです? 何のために式をみだすのです? 何のために、温順なる衆生を惑わすのです?」と厳しい目つきで相手を見つめながら、ついに彼はこう言いだした。
「何のために来たとな? 一たい何が望みなのじゃ? 一たいどんな信仰を持っておるのじゃ?」とフェラポントは一種異様な言葉づかいで叫んだ。「ここにいるお前たちの客人を、穢らわしい悪霊を、追い払おうと思うて、やって来たのじゃ。どれ、わしのおらぬ間に大勢あつまったか、一つ見てやろう。わしはやつらを白樺の箒で掃き出してくれるわ。」
「悪霊を追い払うなどと言いながら、ご自分こそ悪霊に仕えておられるかもしれませぬぞ。」とパイーシイ主教は恐るるさまもなく言葉をつづけた。「それに『われこそは聖人である』と言い得る人がどこにありましょう? お前さまには言えますかな?」
「わしは穢れた人間じゃ、聖人ではない。それじゃによって、わしは肘椅子などに坐りはせぬ。偶像《でく》のように拝んでもらいとうもないわ!」とフェラポントは呶鳴りつけた。「今の人間は、神聖なる信仰を滅ぼしておる。お前がたの亡くなった上人さまはな、」群衆に向って棺を指さしながら、彼はこう言った。「サタンを否定して、魔よけの薬なぞ飲ませたではないか。つまりそのために、部屋の隅に蜘蛛の子のように、サタンどもが殖えてきたのじゃ。そうして、今日はとうとう、自分から臭い匂いを立ておった。なんと、この中に神様の偉大な啓示が窺われるではないか。」
 これは実際、ゾシマ長老の在世中に、あったことなのである。ある時、ひとりの僧侶が毎晩夢に悪魔を見ていたが、ついにはうつつにもありありと見えるようになった。彼が烈しい恐怖におそわれて、このことを長老に打ち明けた時、長老は絶えず祈祷をして、一心に精進を励むようにと勧めた。しかし、これでも験《しるし》がなかったので、長老は祈祷も精進もつづけながら、そのかたわら、ある薬を用いるように勧めた、当時、多数のものはこれがために迷いを起して、首をひねりながら仲間同士噂をしていた、――その音頭とりはフェラポントであった。それは、幾たりかの毒舌家が、その時すぐさま、この僧のもとへ駆けつけて、こういう特別な場合に対する『類のない』長老の処置を報告したからである。
「お出なさい!」とパイーシイ主教は、命令するように言った。「裁きをするのは神様です、人間ではありません。今ここに見る啓示は、お前さまもわたくしも、了解することのできないようなものかもしれませぬ。さあ、お出なさい、そして、衆生を惑わさぬようにして下さい!」とパイーシイ主教は強硬に繰り返した。
「わが僧位に相当する斎戒を守らなんだために、こういう啓示が現われたのじゃ。それはわかりきった話で、かくし立てするだけ罪なことじゃ。」もう理性を失って夢中になった狂信者は、なかなか静まろうとしなかった。「菓子の甘味にそそのかされて、奥さんがたにかくしへ入れて持って来さしたり、お茶に舌鼓を打ったりしていた。こういうふうに、腹は甘い物で、頭は傲慢な考えで台なしにしてしもうた……それがためにこんな恥を受けたのじゃ……」
「それは軽薄な言葉というものですぞ!」パイーシイ主教も声を高めた。「あなたの精進苦行には驚嘆しておりますけれど、その言葉の軽薄なことは、定見のない軽薄な俗世の若者が言うようではありませぬか。さあ、お出なさい、わたくしが命令しておるのですぞ。」パイーシイ主教も、しまいのほうはもう呶鳴るように言った。
「わしは出て行くとも!」幾分ひるんだような形であったが、それでもやはり毒念を捨てないで、フェラポントはこう言った。「お前さまがたはみな学者でござるよ。えらい知恵があるというて、つまらんわしを高みから眺めておったのじゃ。わしは無学をも恥じずにここへ来た。そうして、来てみると、前に知っておったことさえ忘れてしもうたが、神様がこのつまらんわしをば、お前がたの大智から守って下さったわ……」
 パイーシイ主教はそのそばに立って、毅然たる態度でじっと待っていた。フェラポントはしばらく無言でいたが、急に悲しそうな様子で右手で頬杖をつき、故長老の棺をじっと見やりつつ、歌でも歌うように言いだした。
「この男はあす『助力者保護者』を歌うてもらえる、――実にこの上ない有難いお歌なのじゃ。ところが、わしが息を引き取った時は、つまらん歌い手の口から、ようよう『生の悦び』を歌うてもらえるだけじゃ」と彼は涙っぽい悲しげな声で言った。「威張りかえって、高うとまりおったな。ええ、もうこんなところなど空になってしまえ!」突然、彼は気ちがいのようになって、こう叫ぶと、手をひと振りして、くるりと踵を転じ、飛ぶように階段を降りて行った。下で待っていた群衆は、急にざわめきだした。ある者はすぐあとからついて行ったが、またある者はしばらくためらっていた。それは、庵室の戸がやはり開け放されたままであるし、その上、パイーシイ主教が、フェラポントにつづいて、上り口まで出て来て、じっと立ったまま様子を見ていたからである。しかし、羽目をはずしてしまった老僧は、まだすっかり自分の仕事をしおおせたのではなかった。二十歩ばかり庵室を離れたとき、彼はとつぜん入日に向って立ちどまり、両手を頭上高くさし上げた、――と、まるで誰かに両足を薙がれたように、恐ろしい叫び声とともにばたりと地上へ倒れた。
「わが主は勝ちたまえり! キリストは落日にうち勝ちたまえり!」両手を入日に向けてさし上げながら、狂猛な声を立ててこう叫ぶと、地面にぴたりと顔を押しつけて、小さな子供のように声を立てて慟哭しはじめた。彼は両手を左右にひろげて、地上へ投げ出したま大涙に咽せて全身を顫わせるのであった。
 もうこの時こそ、一同は猶予なく彼のほうへ飛びかかった。歓喜の叫びと相呼応するような慟哭の声が響き渡った……一種の興奮が一同をおそったのである。
「これこそ本当に神聖な人だ! これこそ本当に正しい人だ!」という歓呼の声が、もう惧れげなしに発せられた。「これこそ長老の席に坐るべき人だ。」ある者はもう憎々しげな調子でつけたした。
「この方はそんな席に坐りはなさらない……自分でお断わりなさるよ……怪しげな新制度に奉仕されるはずがない……馬鹿げた人真似なぞなさるものか」と別な人の声がまたこう抑えた。
 このまま進んだら、どこまでゆくか想像もできないくらいであったが、ちょうどそのとき晩の祈祷式を知らせる鐘の声が、ふいに響き渡った。一同は急に十字を切り始めた。フェラポントも起きあがって、十字の印で身を固めながら、あとを振り向こうともせず、わが庵室をさして歩きだした。依然として何やら叫びつづけていたが、それはもうまるで辻褄の合わないことであった。そのあとから、ごく少数のものが幾たりかついて行ったが、多くはちりぢりになって、祈祷式へ急ぎだした。パイーシイ主教は読経をヨシフ主教に依頼して、階段をおりて行った。狂信者の興奮した叫びなどで信念をゆるがされる彼ではなかったが、心が急に沈んできて、何か別なことを思い悩むようになった。彼自身にもそれが感じられたのである。彼は立ちどまって、急に自問してみた。『どうして自分は意気銷沈といっていいくらい、こんな憂愁を感じるのだろう?』その瞬間この思いがけない憂愁の念が、きわめて些細な特殊の原因から来ているらしいのを悟って、彼は奇異の思いをいだいた。
 ほかでもない、庵室の入口のすぐそばまで詰め寄せた群衆の中に、アリョーシャの姿が、興奮した人々の間に見受けられた。彼はこの青年の姿を認めたとき、心の底に一種の痛みともいうべきものを感じたのを、今思い出したからである。『一たいこの若者がおれの心にとって、これほど大きな意味をもっているのだろうか?』突然、彼は驚きの念をもってこう自問した。ちょうどこのとき、アリョーシャがそばを通り過ぎた。どこかへ急いでいる様子であったが、僧院の方角ではなかった。と、ふたりの目が出あった。アリョーシャは視線を転じて伏目になった。パイーシイ主教はそのそぶりを見ただけで今この青年の心に烈しい転換が生じているのを察したのである。
「一たいお前まで迷わされたのか?」とふいにパイーシイ主教は叫んだ。「一たいお前まで信仰の薄い人たちと同じ仲間なのか?」と彼は愁わしげにつけたした。
 アリョーシャは歩みをとめて、漠然とした表情でパイーシイ主教を見上げたが、またもや急に視線を転じて伏目になった。彼は斜かいに立って、問者に顔を向けなかった。パイーシイ主教は注意ぶかく観察していた。
「どこへそんなに急ぐのだ? 勤行《ごんぎょう》の知らせが鳴っているではないか」と彼はまた訊ねた。
 しかし、アリョーシャはやはり返事をしなかった。
「それとも庵室を出て行くのか? どういうわけだ、許しも乞わなければ祝福も受けずに?」
 アリョーシャはふいに口を曲げてにたりと笑い、奇妙な、恐ろしく奇妙な目つきで問者を見上げた。それはかつて自分の情知の指導者であり、自分の情知の支配者であった敬愛すべき長老から、将来の指導を委任せられた当の人である。ふいに、彼は依然として返事もせず、敬意を表しようなどとは考えもしない様子で、手を一つ振ると、庵庭から外へ通ずる出口の門をさして、急ぎ足に歩きだした。
「また帰って来るだろう!」愁わしげな驚異の色を浮べて、そのうしろを見送りながら、パイーシイ主教はこう呟いた。

[#3字下げ]第二 こうした瞬間[#「第二 こうした瞬間」は中見出し]

 パイーシイ主教が自分の『可愛い少年』の帰来を予言したのは、確かに間違いでなかった。それどころか、かえってアリョーシャの心理状態の、真の意味を洞察したのかもしれない(その洞察は十分なものではないけれど、しかし何といっても、眼力の鋭いところがあった)。とにかく、露骨に打ち明けたところを言うと、筆者自身でさえ、自分の心から愛している年若い主人公の生涯における、この不思議な、漠然とした一瞬間の意義を正確に伝えることは、今のところ非常にむずかしい仕事なのである。アリョーシャに向けて発せられた『一たいお前まで信仰の薄い人たちと同じ仲間なのか?』というパイーシイ主教の悲しい問いに対して、筆者はもちろん、アリョーシャに代って断乎たる調子で、『いや、彼は信仰の薄い人たちと同じ仲間ではない』と答えることができる。そればかりか、この中にはぜんぜん反対なものがふくまれているくらいである。つまり、彼の惑乱はすべて、あまりに多く信仰したがために生じたのである。しかし、とにかく惑乱が生じた。しかも、それはだいぶしばらくたった後までも、アリョーシャがこの日を目して、自分の一生における最も苦しい、宿命的な日の一つと数えたほど、悩ましい惑乱なのであった。
 が、もし向きつけに、『彼の心にああした憂悶や不安が生じたのは、長老の遺骸が即座に治療の秘力を発しないで、反対に、早くも腐敗しはじめたからだろうか?』と訊く人があれば、筆者はこれに対してためらうことなく、『そうだ、実際そうなのだ』と答えるであろう。ただ筆者は、あまり性急にわが少年の純潔な心を冷笑しないよう、読者に乞わなければならぬ。筆者自身にいたっては、彼のために謝罪しようという気もなければ、彼の単純な信仰を年の若いためとか、または以前修得した科学的知識の浅いためとか、そんなことを言って弁解しようという気もさらにない。それどころか、かえって彼の心情に心底から尊敬を払っている。これはきっぱり明言しておこう。実際、世間には非常に注意ぶかく心的印象を取り入れて、人を愛する態度も熱烈でなく生ぬるいし、その知性も正確ではあるけれど年に合せてあまり分別くさい(したがって安価なものである)、といったような青年もずいぶんある。こういう青年は、繰り返して言うが、わが主人公の心に起ったようなことを避けたに相違ない。しかし、時と場合によっては、たとえ無分別であろうとも、広大な愛から生じた熱情に没頭したほうが、ぜんぜん避けてしまうよりも尊敬に価することがある。若い時にはなおさらそうである。いつもいつもあまり分別くさい青年は、前途の見込みがなく、したがって人物も安っぽい……これが筆者の意見である!
『しかし』と、また分別のある人々は叫ぶであろう。『すべての青年が、そのような偏見を信じるわけにゆかぬではないか。それに、お前の好きな青年は万人の模範ではないからな。』これに対して、筆者はまたこう答える。『さよう、私の青年は信じていました。神聖犯すべからざる信仰をいだいていました。しかし私は何といっても、彼のために謝罪なんかしません。』ところで、筆者は今わが主人公のために、説明や、謝罪や、言い訳などしないと言明したが、これはあまり性急に過ぎたかもしれない。今になってみると、やはり向後の物語の理解のために、何か少し説明しておく必要があった。そこで筆者はこう言う、問題は決して奇蹟にあるのではない、と。つまり、あまり性急なるがゆえに軽率な、奇蹟の期待が問題ではない。そのときアリョーシャが奇蹟を必要としたのは、何かの信念の勝利のためではない(そんなことは大丈夫ない[#「大丈夫ない」はママ])。また何か以前先入主となっていた観念が、いち早く他のものを圧倒することを歇したためでもない、――おお、決して、決してそのようなことはない。この問題において、彼の心中第一の場所を占めているのは一つの顔である。ただ顔だけである、――彼の愛してやまぬ長老の顔である、彼が崇拝の極度に達するまで尊敬していたかの正しき人の顔、これなのである! 彼の若く清き心にひそんでいる『ありとあらゆるものに対する』愛は、前の年からその当時へかけて、始終ただ一個の人物に向って集注せられていた。その愛し方はアブノーマルなものであったかもしれない、少くとも、激発的なものであったかもしれないが、――とまれ、今は世になき長老ひとりに集注されていたのである。実際、この人物は疑う余地のない正しい理想として、長いあいだ彼の眼前に立ち塞がっていたので、彼の若々しい精力と努力は、ことごとくこの理想一つを目ざして突進しないわけにゆかなかった。それゆえ、ときどきその他の一切を忘れてしまうことさえあった(後に自分で気がついたことであるが、彼は前日あれほどまで心配した兄ドミートリイのことを、この苦しい一日の間すっかり忘れていた。それから、もう一つ、昨日あれほど熱心に意気込んでいた、イリューシャの父に二百ルーブリ届けるという計画も、同様に少しも思い出さなかった)。しかし、彼に必要なのは、繰り返して言うが、奇蹟ではなく『最高の正義』であった。ところが、この正義は無慚にも破られた、と彼は思いこんだ。これがために、彼の心はふいにむごたらしく傷つけられたのである。この『正義』が、アリョーシャの期待のうちで、事件の進展とともに奇蹟の形をとり、それが敬愛する指導者の死とともに、猶予なく出現するものと翹望していたのも、決して無理はないのである。現に僧院中でも、アリョーシャが知恵の高い人としていた僧侶たち、たとえばパイーシイ主教のごとき人ですら、同じように考察し、同じように期待していた。で、アリョーシャはぜんぜん疑惑をもって自分を苦しめるようなことなしに、すべての人と同じような形式を自分の空想に被せていた。それに、もうずっと以前から、まる一年の僧院生活の間じゅう、この空想は彼の心中にちゃんと組み立てられてしまって、こういうふうに期待するのが習慣のようになっていた。しかし、彼が渇望していたのは正義であって、単なる奇蹟ではない!
 しかるに、世界じゅうの誰よりも、一ばん高い位置に昇さるべきものと思っていた人が、当然受けねばならぬ光栄を与えられないで、かえって思いがけなく、地べたへ引き摺りおろされ、顔へ泥を塗られたではないか! 何のためであろう? 誰の裁きであろう? 誰があのような裁きをすることができたのか? これが彼の世馴れぬ、処女のような心を悩ました疑問なのである。彼が心から憤懣と侮辱を感ぜずにいられなかったのは、あの正しきが中にもとりわけ正しい長老が、自分よりずっと低いところに立っている軽薄な群衆の毒々しい嘲笑にゆだねられたことである。よしや奇蹟なぞ全然なくてもかまわない、奇蹟的なものが少しも現われないで、即刻期待が満足せられなくてもかまわない、――けれど、あの悪名は何のために被せられたのだ、あの汚辱は何のために与えられたのだ? 意地わるい僧たちのいわゆる『自然を超越した』急な腐敗は何のためだ? そして、今あの連中が、フェラポントと一緒になって、ぎょうさんらしく担ぎ出した、あの『啓示』とやらは何のためだ、一たい彼らはどういうわけで、われこそかく言う権利を得たり、と信じているのだろう? ああ、神はどこにある、神のみ手はどこにある、何のために神は『最も必要な瞬間に』(とアリョーシャは考えた)、そのみ手を隠してしまって、盲目で唖のような、無慈悲な自然律に屈従する気になられたのである。
 こういうわけで、アリョーシャの心は血潮に湧き立ったのである。そうして、もちろん、前にも言ったとおり、彼の目前には世界じゅうで誰より最も愛している人の顔、しかも『汚辱を受け悪名を被せられた』人の顔が浮んでいるのであった。もしわが主人公のこうした訴えが、軽薄で無分別だと言うなら、それでもよい。しかし、筆者は三たび繰り返して言うが(これもやはり軽薄だという非難に対しては、はじめから同意を表しておく)、わが青年がこういう時にあまり分別くさくないのを、筆者はかえって悦んでいる。なぜなら、分別は馬鹿な人間でないかぎり、いつでも浮んでくるものだが、しかし愛にいたっては、こういう大事な時に青年の心に湧かなかったら、決して湧き出す時がないからである。けれど、筆者はこの際、ある一つの事実を黙過したくない。それはアリョーシャにとって運命的な、しかも混沌たるこの瞬間にあたって、ほんのつかの間ではあるが、彼の心に浮んできたある奇怪な現象である。彼の心にあらたにちらと浮んだある現象というのは、ほかでもない。きのう兄イヴァンの言ったことが、今しきりにアリョーシャの記憶に甦って、妙に悩ましい印象を与えるのであった。それがちょうど、今という時なのである。とはいえ、根本的な、先天的な信仰が、心の底で動揺しはじめたわけではむろんない。彼は自分の神を愛している。今とつぜん不平を訴えはしたものの、確固たる信仰を有している。が、それでも、昨日の兄の話を思い出すにつけて、何だか妙に漠然としてはいるけれど、しかし悩ましく毒々しい感触が、今また急に彼の胸にうごめきだして、次第に強く外へ頭を持ちあげようとする。
 ようやく黄昏の色が濃くなり始めたころ、庵室から松林を抜けて僧院のほうへ進んでいたラキーチンが、とつぜん木の陰にアリョーシャの姿を見つけた。彼は顔を地べたに押しつけて、眠ってでもいるように、じっと倒れていた。こちらはそばへ寄って声をかけた。
「君ここにいたのか、アレクセイ? 一たい君は……」と彼はびっくりしたように言ったが、そのまま句を切って、口をつぐんだ。『一たい君はそれほどまでになってしまったのかね[#「それほどまでになってしまったのかね」に傍点]?』彼はこう言おうと思ったのである。アリョーシャは、そのほうを振り向こうともしなかった。しかし、ラキーチンはその身振りによって、彼が自分の言葉を聞きつけ、かつ了解しているということを、すぐに見抜いてしまった。
「一たい君はどうしたんだね?」彼は依然たる驚きの調子でこう訊いた。
 しかし、その顔面に現われた驚きはもう微笑に変って行き、微笑はだんだん嘲りの表情になっていった。
「ねえ、君、僕はもう二時間以上も君を捜してるんだぜ。だって、急にあそこからどろんをきめこんでしまったじゃないか。一たい君はここで何をしてるんだね? 何だってそんな馬鹿な真似をしてるんだね? まあ、ちょっと僕のほうを見たっていいじゃないか……」
 アリョーシャは頭《こうべ》を上げて起きなおり、木立に体を寄せかけた。彼は泣いてこそいなかったが、その顔は苦痛の表情を示し、そのまなざしにはいらだたしげな色が浮んでいた。もっとも、彼はラキーチンを見ないで、どこかわきのほうを眺めていた。
「君にはわかるまいが、顔つきがまるきり違ってしまったぜ。以前あれほど喧しかった謙抑は、これっからさきもありゃしない。君だれかに腹でも立てたのかね? 誰か失敬なことでも言ったのかね?」
「あっちい行ってくれ!」ふいに、アリョーシャがこう言った、依然として相手のほうを見ないで、大儀そうに片手を振りながら。
「ほう、これはまたどうしたことだ! まるで世間なみの罪深い人間と同じように、大きな声をして呶鳴りだしたね。しかも、それが天使の仲間なんだからなあ! アリョーシカ、君は本当に人をびっくりさせるぜ。いや、まったく、僕は真面目に言ってるんだ。僕はここへ来てから、もうずいぶん長くものに驚いたことがないんだがね。何てっても、僕は君を教養ある紳士として遇してたんだぜ……」
 アリョーシャはとうとう彼のほうを向いた。しかし、やはり妙にぼんやりした様子で、相手の言うことがよくわからないふうであった。
「一たい君はあのお爺さんが臭い匂いを立てだしたので、そんなに……しかし、まさか君はあのお爺さんが、本当に奇蹟の一幕を演じるだろうと、真面目に信じてやしなかったろう?」ふたたびこの上ない真摯な驚きに移りながら、ラキーチンはこう叫んだ。
「信じてたよ、そして今でも信じてる、むしろ信じたいのだ。これからさきも信じるよ。さあ、それから何か訊きたいの?」とアリョーシャはいらだたしげに叫んだ。
「いや、もう決して何も。しかし、ちぇっ、ばかばかしい、今じゃ十くらいの小学生だって、そんなこと本当にしやしないよ。が、まあ、どうだっていいや……じゃ、何だね、いま君は自分の神様に向って腹を立てたんだね、謀叛を起したんだね。つまり、位も上げてくれなかった、祭日に勲章を授けてもくれなかったってね! ええ、君はまあなんて男だ!」
 アリョーシャは目を細めるような工合にしながら、長い間じっとラキーチンを見つめていた。その目の中には突然なにやらひらめいた……が、ラキーチンに対する憤懣の情ではない。
「僕は神に対して謀叛を起したのじゃない、ただ『神の世界を認めない』のだ」と急にアリョーシャは歪んだような微笑をもらした。
「神の世界を認めないとは、どういうことだね?」ちょっと相手の答えに首をひねったのち、ラキーチンはこう訊いた。「何のご託宣だい?」
 アリョーシャは答えなかった。
「そんなくだらないことはもうたくさんだ、これから実際問題に移ろう。君、きょう食事をしたかい?」
「覚えてない……食べたろう、たぶん。」
「君はどうも顔色で判ずるところ、少し元気をつけなくちゃならないようだぜ。実際、君の顔を見てると、気の毒になってくるよ。だって、昨夜も寝なかったんだろう。僕聞いたよ、庵室で集りがあったってじゃないか。それから、例のすったもんだの騒ぎさ。だから、きっとお供えのパンを一きれ食べたくらいのもんだろう。僕は今このかくしの中に腸詰を持ってるんだ。さっき町からここへ来る途中、万一の場合をおもんぱかって買っておいたのさ。しかし、君はとても腸詰なんか……」
「腸詰結構。」
「へえ! それじゃ君は何かね! してみると、もう純然たる謀叛だね、戦闘準備だね! いや、実際、君、こういうことは何もそう卑しむにはあたらないよ。僕んとこへ行こうじゃないか……僕自身も、今ウォートカの一杯もひっかけたいんだよ、おっそろしく疲れちゃった。まさか君もウォートカは思いきってやれまい……それとも、やっつけるかね?」
「ウォートカも結構。」
「へえ、おいでなすったね! 素敵だぜ、君!」とラキーチンはけうとい目つきをした。「まあ、どっちにしたって、ウォートカにしろ、腸詰にしろ、それはなかなか威勢のいい結構なことだ。もうどうしても逃すわけにゆかん。さあ、出かけよう!」
 アリョーシャは無言のまま大地から身を起し、ラキーチンの後につづいた。
「もしこれを兄貴のヴァンカが見たら、さぞかしびっくりするだろうなあ! ああ、思い出した、君の兄さんのイヴァン君は、けさモスクワへ向けて発ったってね、君知ってるかい?」
「知ってる」とアリョーシャは気のない調子で答えた。
 と、ふいに、兄ドミートリイの姿が彼の頭をかすめたが、それは本当にただかすめたというだけである。もっとも、そのとき何かあることを、――一刻も猶予のできない急用といおうか、一種の恐ろしい義務といおうか、とにかく、そういうふうなものを思い出したが、その追憶も、彼の心まで達することなしに、何の印象をも残さずその瞬間に記憶から飛び去って、それきり忘れられてしまった。しかし、アリョーシャは長い間これを覚えていた。
「君の兄貴のヴァンカが、一ど僕のことを『ぼんくらな自由主義の袋』だと批評したし、また君もたった一度だが、つい我慢できないで、僕が『破廉恥』だってことを匂わせたね……まあ、そうしとくさ!」『僕はこれから君たちの非凡ぶりと廉潔ぶりを拝見するさ』(と、これはもう口の中で小声に言い終った)、「畜生、ときに、君!」と彼はまた大きな声で言いだした。「僧院のそばを通り抜けて、小径づたいに、まっすぐに町へ出ようじゃないか……ああ、そうが! 僕はちょっとホフラコーヴァ夫人のとこへ寄りたいんだがなあ。ところで、どうだい、僕きょうの出来事をすっかり夫人に手紙で知らせてやったらね、夫人はさっそく鉛筆の走り書きで、短い手紙をよこしたのさ(あの夫人は恐ろしく手紙を書くことが好きだね)。『わたくしはゾシマ大主教のような立派な長老から、ああした行為[#「ああした行為」に傍点]を予想することができませんでした!』いや、本当に『行為』と書いてあったんだよ! 夫人もやはり憤慨したんだね。君がたはみんなそうなんだ! いや、待てよ!」彼はまた突然こう叫んで立ちどまり、アリョーシャの肩を押えて引きとめた。
「おい、アリョーシカ」とつぜん心を照らした思いがけない新しい想念に全身を支配されながら、ラキーチンは試すようにじっと相手の目を見つめた。彼はうわべで笑って見せていたが、察するところ、この思いがけない新しい想念を口に出すのを恐れているらしかった。それほどまでに今のアリョーシャの気分は、彼の目から見て不思議千万な、思いももうけぬ現象なので、彼はいまだに、信ずることができなかったのである。「ねえ、アリョーシカ、今どこへ行ったが一番いいと思う?」やっと彼は、機嫌をとるような、臆病らしい調子で言いだした。
「どこだっていいさ……君の好きなところへ。」
「グルーシェンカのとこへ行かないかね、え? 行く?」臆病な期待に全身を顫わせながら、とうとうラキーチンはこう言った。
「グルーシェンカのとこへ行こう。」落ちついた調子で、さっそくアリョーシャは答えた。
 ここにいたって、あまりの意外さに、ラキーチンはほとんどうしろへ飛びすさらないばかりであった。つまり、この落ちつきはらったさっそくな承諾に驚いたのである。
「え、え!………じゃあ!」彼は驚きのあまり叫ぼうとしたが、急にアリョーシャの手を固く握って、径づたいにぐんぐんしょ引いて行った。こうした決心がこのまま立ち消えになりはせぬかと、やはりまだ恐ろしく気をもみながら。二人[#「ながら。二人」はママ]は無言で歩いた。ラキーチンは口をきくのさえ恐れていた。
「あの女がどんなに悦ぶだろう、どんなに……」と彼は言いかけたが、また口をつぐんでしまった。
 しかし、彼がアリョーシャをしょ引いて行くのは、決してグルーシェンカを悦ばすためではなかった。彼は地みちな男であったから、自分にとって有利な目的がなければ、何事もしでかすはずがなかった。いま彼は、二重の目的をいだいていた。第一の目的は復讐的なものであった。すなわち、『正しき者の汚辱』を見るためである。実際、もうずっと前から望んでいたように、アリョーシャが『聖者の列から罪人の仲間へ堕ちる』のを、見ることができるかもしれないのだ。第二には、非常に有利な物質的な目的がある、しかしこのことは後や話そう。
『つまり、こうした瞬間が授かったのだ』と彼は腹の中で愉快げに、かつ憎々しげに考えた。『だから、こっちはそいつの、その瞬間の襟髪を引っ掴んでやらなくちゃならない。実際、ごくお誂え向きの時なんだからな。』

[#3字下げ]第三 一本の葱[#「第三 一本の葱」は中見出し]

 グルーシェンカは中央教会のある広場に近い、町でも一ばん賑やかな場所に住んでいた。彼女はモローゾヴァという商人の後家さんの邸うちにある、あまり大きからぬ木造の離れを借りでいるのであった。モローソヴァの家は大きな石造の二階建てで、見かけはあまり立派でなかった。その内には、もう年とった女主人自身が、これもだいぶの年になる老嬢の姪を二人つれて、淋しく暮している。彼女はべつに離れを貸家に出す必要を感じなかったが、グルーシェンカを借家人として自分の家へ入れたのは(それはもう四年前のことである)、グルーシェンカの公然の保護者であり、自分の親類にあたる商人サムソノフのご機嫌をとるためであった。これは誰でも知っていた。人の噂によると、嫉妬深いサムソノフは初め自分の『思いもの』をモローソヴァの家へおく時、この老婆の鋭い目を当てにして、新しい借家人の品行を監視してもらおうと思ったとのことである。しかし、間もなくこの鋭い目も不必要であることがわかってきた。そして、結局、モローソヴァはグルーシェンカとろくろく顔も合さなくなり、もう決して監視めいた振舞いをして、うるさがられることもなかった。
 当時、臆病で遠慮ぶかい、いつも沈んでもの思わしげな十九歳の痩せた娘を、老人が懸庁[#「懸庁」はママ]所在の町からこの家へ連れて来たのは、実際もう四五年前のことである。それから多くの水が流れ去った。この娘の生い立ちに関する町の人の知識はごく僅かなもので、それさえあやふやしていた。このころ、多くのものが、この『素敵な美人』に(アグラフェーナ・アレクサンドロヴナは、四年間にこういう変化を遂げたのである)興味を持つようになっても、やはりあまり立ち入ったことを知るものはなかった。ただ彼女がまだ十八の小娘の時、ある将校に誘惑せられ、その後まもなく棄てられた。将校は土地を去って、どこかで結婚し、グルーシェンカは汚辱と貧苦の申にとり残された、というような噂があったくらいのものである。もっとも、グルーシェンカは事実、貧苦の中から老人に救い出されたには相違ないけれど、何かある僧侶の、潔白な家庭に生れたという話もある。つまり、無所属の助祭か、何かそんなふうな人の娘だというのである。
 ところが、四年の間に、この感傷的な辱しめられたる哀れな孤児が、血色のいい肥りじしのロシヤ式美人となった。大胆なはきはきした気性で、傲慢不遜で、金のことに抜け目のない、儲け上手な、吝嗇《しわ》い、用心ぶかい女で、人の噂によると、手段の是非はわからないが、もう相当の財産を造り上げているとのことであった。ただ一つ、グルーシェンカに近づくのは、非常にむずかしい、この四五年間に彼女の寵愛を誇りうる男は、老人をほかにして一人もない、ということだけは誰でも固く信じていた。これは確かな事実である。まったく、彼女の寵愛をうるために、もの好きな連中がたくさんとび出したが(最近二年ばかりことにそれが多かった)、しかし、すべての試みもことごとく水泡に帰して、中にはこの勝気な若い婦人の断乎たる冷笑的な拒絶にあって、喜劇のような見苦しい大団円とともに、すごすご引きさがるべく余儀なくされた向きもだいぶあったのである。
 また、こんなことも、よく人に知られていた。ほかではない、この若い婦人が近頃、ことに最近一年ばかりの間に、世間で「|取引き《ゲシェフト》」と言われているものに手を出しはじめた。しかも、この方面において非常な才能を示したので、しまいには多くのものが、一口に猶太女《ジドーフカ》とこなしてしまうくらいになった。しかし、べつに高利を貸すの何のというわけではないが、世間で知られているところによると、本当に彼女はしばらく、フョードル・カラマーゾフと組んで、一ルーブリにつき十コペイカなどという捨て値で手形を買い占めていた。そうして、この手形の中には、十コペイカにつき一ルーブリくらいの儲けになるのもあった。
 サムソノフはこの一年ばかり両足が腫れたため、歩くことができないで、病床に横たわっていた。何十万という大金持であったが、非常にけちな一国者の男やもめで、もう一人前になった息子たちに対して、暴君のように振舞っていた。けれど、自分の被保護人《プロテジェ》にはかなり自由にされていた。もっとも、はじめこの女をうんと厳しく扱って、『精進バタ』で養うつもりでいたのだと、当時口の悪い連中が、かげ口をきいていたが、しかしグルーシェンカは自分の貞操に対して、底の知れない信頼の念を老人の胸に植えつけておいて、巧みに自分の『解放』を成就したのである。この一大手腕家たる老人も(今はもうとっくに亡き人であるが)、やはり非常に人並みはずれた性質で、まず何よりも恐ろしくけちで、石のように頑固な男であった。それゆえ、グルーシェンカにすっかり打ち込んでしまって、この女でなければ、夜も日も明けなかったけれど(最近二年間はまったくそうであった)、それでもまとまった大きな金はわけてやらなかった。たとえ彼女に棄ててしまうと嚇かされても、やはり折れて出なかったに相違ない。で、老人はほんの僅かな金をわけてやったばかりであるが、それでもこのことが世間へ知れ渡ったとき、みんな目を丸くして驚いたのである。
『お前も馬鹿な女でないから、』八千ルーブリばかり分けてやるとき、彼はグルーシェンカにそう言った、『お前自身でやりくりするがいい。しかしな、今までどおりの年々の手当でよりほかには、死ぬまでわしから、一文も取れないものと思ってくれ。それから、遺言の時だって、何一つお前に分けてやりゃしないから。』そして、本当にこの宣言を実行した。死ぬる時に自分の全財産を、生涯そばにおいて召使なみにこき使っていた息子たちや、その妻子たちにすっかり譲ってしまって、グルーシェンカのことは一言も遺言状に書いておかなかった。そういうことが、あとですっかりわかったのである。しかし『自分の財産』のやりくりに関する忠言では、グルーシェンカも彼に少からぬ助力を受け、『仕事』の筋道を教えてもらった。
 フョードル・カラマーゾフは、初めちょっとした|取引き《ゲシェフト》の関係で、グルーシェンカとかかり合いになったが、とうとう自分でも思いがけなく前後を忘れて、ほとんど気がちがいそうなほどこの女に惚れ込んでしまった。この時すでに虫の息になっていたサムソノフは、これを聞いて恐ろしく笑い興じた。ここに注意すべきことがある。グルーシェンカはこの老人に、いささかもかくし立てなく、誠意をもって仕えているようにすら見えた。こんなにしてもらえるのは世界じゅうで、おそらくこの老人ひとりであろう。最近にいたって、突然ドミートリイが現われて、自分の恋を告白したとき、老人はもう笑うのをやめてしまった。そして、あるとき真面目ないかつい調子で、グルーシェンカに忠告をした。『もし親子のうち、どっちかを決めるとしたら、爺さんのほうにするがいいぜ。しかし、爺さんが間違いなくお前と結婚して、前もっていくらかの財産をお前の名義にしておく、という条件つきでなくちゃならん。あの大尉さんとねんごろにするのはよしな、一生うかぶ瀬はありゃしないから。』これが当時、すでに死期の近いことを自覚していた老好色漢が、グルーシェンカに与えた忠告そのままの言葉である。そして、本当に彼はこの忠告をした後、五カ月たって死んでしまった。
 ちょっとついでに言っておくが、当時、町うちでも多くの人は、グルーシェンカを対象としたカラマーゾフ親子の愚かな見苦しい競争を知っていたが、親子のものに対する彼女の態度の本当の意味は、当時ほとんど知るものがなかった。彼女の使っている二人の女中さえ、大事件の爆発した後(このことは後で述べる)法廷へ召喚されたとき、グルーシェンカはドミートリイに殺すと言って嚇されたため、ただ恐ろしさのあまり彼を迎えていたのだ、と申し立てたくらいである。彼女の使っている女中は二人きりであった。一人は彼女の生家からついて来た、もうずいぶん年のよった台所女で、病身な上にほとんど耳が聞えない。いま一人はその孫にあたり、グルーシェンカの小間使を勤めている、二十歳《はたち》ばかりの若い元気のいい娘であった。グルーシェンカは恐ろしくけちくさい暮しをして、部屋の飾りつけなども見すぼらしかった。彼女の借りている離れは三間になっていたが、それには家つきの古めかしい、二十年代に流行した型のマホガニーで作った椅子、テーブルが飾ってあった。
 ラキーチンとアリョーシャが入った時は、もう真っ暗であったが、室内にはまだあかりがついていなかった。当のグルーシェンカは客間の大きな長椅子の上に臥ていた。それはマホガニーまがいの台に、もうずいぶんすれて穴だらけな皮を張った、バックつきのごつごつした不恰好なものであった。彼女の頭の下には、寝床から持ってきた羽入りの白い枕が二つ置かれてある。彼女は両手を頭にかって、身動きもせず仰向けに長くなっていた。まるで誰か待ってでもいるように、黒い絹の着物を着て、頭に軽いレースの布をつけていたが、それが大へん彼女に似合うのであった。肩には同じくレースで作った三角形の襟当てが、大きな黄金《きん》のブローチで留められてあった。事実、彼女はある人を待っていたので、待ち遠いような悩ましいような心持で、いくぶん蒼ざめた顔をして、目と唇に燃えるような熱を見せ、じれったそうに右足の爪先で、長椅子の腕木をことこと鳴らしながら横になっていた。
 ラキーチンとアリョーシャが現われた時、ちょっと騒ぎがもちあがった。グルーシェンカがとっかわに長椅子から飛びあがって、いきなり慴えたような声で、『だあれ?』と叫ぶのが、控え室のほうまで聞えた。しかし、出迎えに出た小間使はすぐ女主人に向って、
「いいえ、あの人じゃございません、別な方です、何でもない方です」と叫んだ。
「一たいどうしたんだろう?」アリョーシャの手を取って客間へ導き入れながら、ラキーチンはこう呟いた。
 グルーシェンカはいまだに驚きが静まらない様子で、長椅子のそばへつっ立っていた。ふさふさとした暗色の髪が急にレースの帽子をこぼれて、ぱらりと右肩に落ちかかったが、客の顔をしげしげと見入って、やっと見分けがつくまでは、少しも気のつかないふうで、直そうともしなかった。
「ああ、あんたなの、ラキートカなの? まあ、びっくりさせたじゃないの。おつれは誰? 一緒にいる人はどなた? おや、まあ、誰かと思ったら!」やっとアリョーシャの顔を見分けて、彼女はこう叫んだ。
「まあ、蝋燭でも持ってくるように言ったらどう?」おれは家の中の指図までする権利を持っているほど昵懇な間柄なんだよ、とでもいうような、うちくつろいだ調子で、ラキーチンは口をきった。
「蝋燭……なるほど、蝋燭をね……フェーニャ、この人に蝋燭を持って来てお上げ……だけど、よくもこんな時をよって連れて来たもんだわ!」彼女はアリョーシャのほうを顎でしゃくって、またこう叫んだ。それから鏡に向って、手早く髪の毛を帽子の中へ両手で押し込み始めた。
 彼女は何だか不満げな様子であった。
「それとも、お気に召さなかったのですかね?」とラキーチンはさっそく向っ腹を立てながら訊いた。
「だって、ラキートカ、あんたわたしをびっくりさせるんだもの」とグルーシェンカは微笑を浮べながら、アリョーシャのほうへ振り向いて、「アリョーシャ、いい子だからわたしを怖がらないでちょうだい。わたしあんたが来てくれたので、とても嬉しいのよ、まったく思いがけないお客さんだものねえ。ところで、ラキートカ、あんたはわたしをびっくりさせたわ。だって、わたしミーチャが暴れ込んだかと思ったんだもの。実はねえ、わたしさっきあの人に嘘をついたのよ。あの人にはわたしの言うことを信じたって誓いを立てさせながら、自分では嘘をついたの。わたしは今夜クジマー・クジミッチ、――わたしの商人《あきんど》のとこへ行って、一晩じゅうあの人と一緒にお金の勘定をするって言ったの。まったくね、わたし毎週あの人んとこへ行って、一晩じゅうお金の勘定をするのよ。戸に鍵をかけちゃって、あの人が算盤をぱちぱちやると、わたしは坐って、――帳簿へ記入するの。わたし一人だけしか信用してないんだからね。ミーチャは、わたしがあちらへ行ってると思い込んでるでしょう。ところが、わたしはここに閉じ籠って、いい知らせを待ってるのよ。だけど、どうしてフェーニャがあんたたちを通したのかしら! フェーニャ! フェーニャ! 門のとこへ走って行ってね、戸を開けて、大尉さんがいるかいないか、あたりの様子を見てごらん。もしかしたら、隠れて様子を窺ってるかもしれないからね、わたし本当に怖くてたまらない!」
「誰もいませんよ、アグラフェーナさま、たったいま覗いてみました。それにわたし、しょっちゅう隙間から覗いておりますの、自分でも怖くてびくびくしているのですから。」
「鎧戸は閉ってるかねえ、フェーニャ、そして、窓掛けもおろしたほうがいいわ、――こういうふうにね!」と、彼女は自分で重い窓掛けをおろした。「でないと、あかりを見て飛んで来るからねえ。アリョーシャ、今日はね、わたしミーチャが、あんたの兄さんが恐ろしいの。」
 グルーシェンカは大きな声でものを言った。彼女は心配そうではあったが、同時にほとんど歓喜といっていいくらいな心の状態になっていた。
「なぜ今日にかぎって、そんなにミーチェンカが怖いの?」とラキーチンが訊ねた。「いつもあの男にそうびくびくしてはいなかったじゃないの。それどころか、かえってあの男のほうが君の言いなり次第になっていたくらいだぜ。」
「そう言ったじゃなくって、知らせを待ってるって、――ある嬉しい知らせを待ってるのよ。だから、ミーチェンカなんかてんでいらないくらいだわ。だけどあの人は、わたしがサムソノフのとこへ行ったってことを、本当にしなかったらしいわ、どうもそんな気がする。きっと今ごろ自分の家の、親父さんの家の裏庭に坐って、わたしを見張ってるに相違ない。もしそうだとすれば、ここへやって来ないから、結句そのほうがいいわ! だけど、わたし本当にサムソノフのとこへ走って行ったのよ。ミーチャが送ってくれたから、わたしそう言っといたわ、――十二時頃まであそこにいるから、十二時になったらぜひやって来て、わたしを家へ送り返してちょうだいってね。すると、あの人は帰って行ったの。わたし十分間ばかりお爺さんのとこにいて、それからまたここへ帰ったけど、その恐ろしかったこと、――あの人に出会ったら大変だと思って、駆け出したわ。」
「ところで、そのおめかしはどこへ行くため? まあ、なんて面白い帽子を被ってるんだろう?」
「あんたこそなんて面白い人なんだろう、ラキートカ! いい知らせを待ってるんだって、言ってるじゃないの。知らせが来次第に、起きあがって、飛んで行くわ。宵にちらりと見たばかり、すぐいなくなってしまうのよ。つまり、いつでも間に合うようにおめかしをしたのよ。」
「一たいどこへ飛んで行くの?」
「あんまりいろんなことを知ると早く年をとってよ。」
「こいつあ驚いた。あの嬉しそうなふうはどうだ……僕は今まで一度も君のそうした様子を見たことがないよ。まるで舞踏会へでも行くように、めかしこんだものさ」とラキーチンは彼女を見廻した。
「あんたは舞踏会のことをよくご存じだからね。」
「じゃ、君は?」
「わたしは舞踏会を見たことがあってよ。おととしサムソノフが息子さんにお嫁をとった時、わたしコーラスのところから見ていたわ。だけど、ラキートカ、ここにこういう立派な貴公子がいらっしゃるのに、あんたなぞ相手にしていることはないようだわね。これこそ本当のお客さまだわ! アリョーシャ、わたしこうしてあんたを見ていても、何だか本当にならないのよ。ああ、どうしてあんた、わたしのところへ来てくれたの! 実のところ、わたし思いもかけなかったわ。以前だってあんたが来ようなんて、これんばかりも当てにしたことはないのよ。今はまったくおりが悪いけど、わたし本当に嬉しくてたまらないわ! 長椅子の上に坐ってちょうだい、ほら、ここんとこへ、ええ、そうよ、ああ、本当にあんたはわたしの三日月さまだわ。わたし何だかまだよく合点がいかないようだ……ねえ、ラキートカ、もしあんたがこの人を昨日か一昨日つれて来たらねえ! まあ、とにかく、わたし嬉しいわ。もしかしたら、一昨日でなくて、今こういう時につれて来てくれたのが、かえってよかったかもしれないわ……」
 彼女は蓮葉に長椅子へ腰をおろし、アリョーシャと並んで座を占めた。そして、まったく嬉しさに夢中になった様子で、彼の顔を見つめた。実際、彼女は嬉しいので、そう言ったのも嘘ではなかった。その目は輝き、唇は笑っていた。しかし、それは人のいい楽しげな笑い方である。アリョーシャはこういう善良な表情を、彼女の顔に発見しようとは思いがけなかった。彼は今日が日まで、あまりグルーシェンカと会ったことがないので、何だか薄気味の悪いような概念を拵え上げていた。ところが、昨日カチェリーナに対する彼女の毒々しい狡猾な仕打ちを見て、恐ろしい震撼を受け、非常な驚愕を感じたので、いま突然グルーシェンカの中に、まるで別な思いがけない人を見つけたような思いがした。いま彼はすっかり自分の悲しみのために押しひしがれてはいたけれども、目はひとりでに注意ぶかく彼女をうち守るのであった。彼女の身のこなしもやはり、昨日から見るとまるっきり変って、しかも非常によくなっていた。昨日の甘ったるいような口のきき方も、しゃならしゃならした様子ぶった身振りも、ほとんど跡形なく消えてしまって、……すべてが簡単でさらりとしていた。動作も活溌で、直線的で、人を信頼するような趣きがあった。がしかし、彼女はひどく興奮していた。
「ああ、今日は何だってこういろんなことが重なり合うんでしょうね、本当に」と彼女はまた言いだした。「そしてね、アリョーシャ、どうしてあんたの来たのがこれほど嬉しいか、わたし自分ながらわけがわからないのよ。まあ、訊いてごらんなさい、わたしゃ知りゃしないから。」
「へえ、何が嬉しいか、自分でわからないんだって?」とラキーチンはにやりと笑った。「以前は、なぜだか知らないが、自分からうるさく僕につきまとって、つれて来てくれ、早くあの人をつれて来てくれって、何か当てがあるようなふうだったじゃないの?」
「もとは別な当てがあったけれど、今はもうそんなことすんじゃったの。それどころじゃないのよ。わたしこれからあんたたちにご馳走するわ、よくって? わたし今はちっとばかりいい人間になったんだからね、ラキートカ。まあ、お坐んなさいよラキートカ、何だってそんなとこに突っ立ってるの? みら、もう坐ったの? まったく、ラキートカが自分のことを忘れるはずなんかないわね。ほら、ごらんなさい、アリョーシャ、あの人はわたしたちの前に坐って、ぷんとしてるでしょう。それはね、わたしがあんたよりさきに、お坐んなさいって言わなかったからよ。やれやれ、うちのラキートカの怒りっぽいこと!」とグルーシェンカは笑いだした。「まあ、怒らないでちょうだい。今日わたしはいい人間になったんだから、一たいあんたはどうしてそんなにふさぎこんでるの、アリョーシャ、わたしがおっかないの?」愉快げな嘲笑を浮べつつ、彼女は相手の顔を見つめた。
「この人には悲しいわけがあるのさ、位を授けてもらえなかったのでね。」
「位ってなあに?」
「この人の長老が匂いだしたのさ。」
「匂いだしたとは? またこの人は何かくだらないことを言ってるのよ、何かいやらしいことを言おうと思ってるのよ。お黙りよ、馬鹿。ねえ、アリョーシャ、あんたわたしを膝の上に坐らしてくれて、こういうふうに?」ふいに彼女はひらりと身を跳らして、まるで甘ったれ小猫のように、きゃっきゃっ笑いながら、アリョーシャの膝の上へ飛びあがった。そして、しなやかに右腕を廻して、彼の頸を抱きしめるのであった。「うちの信心ぶかいお坊っちゃん、わたし一つあんたを浮き立たせて上げるわ! だけど、冗談はぬきにして、あんた本当にわたしを膝の上に坐らしてくれて? 怒らない? あんたの言いつけ次第で、わたしすぐ飛びおりるわ。」
 アリョーシャは黙っていた。彼は身じろぎするのも恐ろしいように、じっと坐っていた。『あんたの言いつけ次第で、わたしすぐ飛びおりるわ』という言葉も聞き分けたけれど、まるで痺れたようになって、返事もしなかった。いま彼の心に生じたことは、自分の席から貪るように見まもっているラキーチンなどの期待し得ることとは、まるで別なものであった。偉大な霊魂の悲しみは、いま彼の心中に生じ得べき一切の感触を呑みつくしたので、もし彼が自分で自分の心を十分に闡明する余裕があったら、自分は今あらゆる誘惑に対して堅固無比な鎧を着ているようなものだ、ということを悟ったにちがいない。しかし、漠然として不明瞭な心の状態と、食い入るような悲しみにもかかわらず、彼は新しく自分の心中に生じたある一つの奇妙な感触に、驚きを感じないわけにはゆかなかった。ほかでもない、この女は――この『恐ろしい』女は、以前女というものに関する想念が胸にひらめくたびに、必ずきまって経験した恐怖の情を、いま彼の心に呼び起さなかったばかりか、かえって今まで何よりも恐れていたこの女が、――いま自分の膝の上に坐って自分を抱きしめているこの女が、まるで趣きの違った、思いがけない、特殊な感情を呼びさましたのである。それはこの女に対する異常に強烈な、しかも純潔な好奇の感情であった。そうして、これには何らの危惧もなく、毫末の恐怖も交っていなかった、――これがいま彼を驚かしたおもな理由なのである。
「そんなくだらないお喋りはたくさんだ」とラキーチンは叫んだ。「それよりかシャンパンをお出しよ、君の義務じゃないの、自分でも承知してるくせに!」
「まったく義務だわね。実はね、アリョーシャ、この人があんたをつれて来たら、いろんなもののほかに、シャンパンも出すって約束したのよ。シャンパンを抜きましょう。わたしも飲むわ! フェーニャ、フェーニャ、シャンパンを持って来ておくれ。ほら、ミーチャがおいてった壜さ。早く駆け出しておいで。わたしはけちんぼだけど、一本おごってよ。しかし、あんたのためじゃないの、ラキートカ。あんたは蕈《きのこ》だけど、この人は貴公子だものね! もっとも、今わたしの胸は別なことで一ぱいになってるけれどかまやしない。わたしはあんたたちと一緒に飲むわ、一騒ぎしたくなったの!」
「一たい君は今どうしたっていうの? 一たいどんな知らせが来るの? 一つ伺いたいものだが、それとも秘密かしらん?」ラキーチンは、たえまなく自分のほうへ飛んで来る皮肉な言葉を一生懸命気にとめないようなふりをしながら、ふたたび好奇に充ちた調子で口を入れた。
「なんの、秘密どころじゃないわ、あんた自分で知ってるじゃないの。」急に、グルーシェンカはアリョーシャからちょっと体を離して、ラキーチンのほうへ首を向けながら、そわそわした調子でこう言った。が、それでもやはりアリョーシャの膝の上に坐って、片手をその頸に巻いたままであった。「将校が来るのよ、ラキーチン、わたしの将校が来るのよ!」
「来るって話は僕も聞いたが、もうそんな近いところにいるの?」
「今モークロエ村にいるわ。そこからこちらへ使いをよこすって、自分でちゃんとそう書いてるの。わたしさっき手紙を受け取ったので、こうして使いを待ってるのよ。」
「へえ! なぜまたモークロエ村に?」
「それは長い話なの、それにあんたもうたくさんだわ。」
「じゃ、ミーチャは今、――やれやれ! 一たいあの男は知ってるの、知らないの?」
「何を知るもんですか! まるで知りゃしないわ! もし知ったら、殺すにきまってるじゃないの。だけど、今わたしはそんなことちっとも怖くない、あの人の刃物なんか怖くないのよ。お黙り、ラキートカ。あの人のことなんか思い出させないでちょうだい。あの人はわたしの心をめちゃめちゃにしてしまったんだもの。ええ、わたしは今という時に、そんなこと一さい考えたくないの。ところが、アリョーシャのことなら考えられるわ。わたしアリョーシャの顔がじっと見ていたいの……わたしの顔を見て笑ってちょうだい、ね、いい子だから、浮かれてちょうだい、わたしのばかばかしい悦びようを笑ってちょうだい……あら、笑ったのね、笑ったのね! まあ、なんて優しい目つきでしょう。あのね、アリョーシャ、わたしはあんたが、一昨日のことで、あのお嬢さまの味方になって、わたしに腹を立ててるんじゃないかと、そればっかり考えていたのよ。わたし犬だったわ、本当に。だけど、やっぱりああなったほうがいいんだわ、悪いことだったけれど、ああなったほうがいいんだわ。」グルーシェンカはもの思わしげに薄笑いを浮べたが、その中には何かしら残忍らしい影がふいにちらりとひらめいた。「ミーチャの話だと、あのひとは『鞭でひっぱたいてやらなくちゃならない!』って喚いたそうね、わたしあの時、本当にひどい恥をかかせたわねえ。だって、あのひとはチョコレートを餌にして、わたしを負かしてやろうという目算で、わざわざ呼び出しをかけたんだもの……いいえ、ああなったほうがよかったのよ」と彼女はまた薄笑いを浮べた。「でも、やはりあんたが腹を立てたろうと思って、心配でたまらないわ。」
「おや、本当だ、」突然、ラキーチンが心《しん》から驚いた様子で、こう口を入れた。「ねえ、アリョーシャ、本当にこの人は君を恐れてるぜ、君のような雛っ子を。」
「それはね、ラキートカ、あんたの目にはこの人が雛っ子に見えるでしょうよ、はい……そのわけはあんたに良心がないからですよ、はい! わたしはね、わたしはこの人を心底から愛していますよ、はい! アリョーシャ、わたしがあなたを心底から愛してるってことを、あんた本当にして?」
「ええ、なんて厚かましい女だろう! このひとはね、アリョーシャ、君に愛の打ち明けをしてるんだよ。」
「それがどうしたの、愛しているわ。」
「じゃ、その将校は? モークロエからのいい知らせは?」
「あれとこれとは別だわ。」
「なるほど、女らしい考え方だあね!」
「わたしに腹をたてさせないでちょうだい、ラキートカ」と、グルーシェンカは熱くなって抑えた。「あれとこれとは別だわ。アリョーシャは別な愛し方で愛してるのよ。もっともね、アリョーシャ、以前はあんこに浅はかな考えを持ってたわ。わたしはね、アリョーシャ、根性の汚い意地のわるい女だけれど、どうかすると、あんたを自分の良心のように眺めることがあるの。『いまごろあの人はわたしを穢れた女だと思って、軽蔑してるに相違ない』とそんなことばかり考えるのよ。一昨日も、あのお嬢さんの家から駆け出して帰る時、やっぱり心の中でそう思ったわ。わたし先《せん》からあんたをそんなふうに見てるのよ。ミーチャもそのことを知ってるわ、わたしが話したから。現にミーチャも同じようなことを考えてるのよ。あんた本当にするかどうか知らないけれど、わたしはあんたを見てると恥しくなるの、自分という人間が恥しくてたまらなくなるの……どうして、いつ頃からあんたのことをこんなふうに考えるようになったか、わたし自分でわからない、覚えていないわ……」
 フェーニャが入って来て、盆をテーブルの上へ置いた。その上には口を抜いた壜が一本と、なみなみついだ杯が三つのせてあった。
シャンパンが来た!」とラキーチンは叫んだ。「アグラフェーナさん、君は恐ろしく興奮して、夢中になってるようだが、こいつを一杯飲んだら、踊りでもやりだしたくなるよ。おやおや、これくらいのこともできないのかなあ。」彼はシャンパンを見すかしながら、こう言いたした。「あの婆さん、勝手ですっかり注いじまって、壜に栓もしないで持って来やがった、おまけに生ぬるいときてる。が、まあ、これでもいいとしとくさ。」
 彼はテーブルに近寄って、杯を取り上げ、一息にぐっと飲み干して、また自分でもう一杯ついだ。
シャンパンとなると、なかなか容易にありつけないやつさ」と彼は舌なめずりしながら、「どうだ、アリョーシャ、杯を取って元気のいいところを見せないか。ところで、何を祝って飲むとするかな? 天国の扉のためとでもするか? グルーシェンカ、君も一つとりたまえな。君も天国の扉のために飲まない?」
「天国の扉のためって、何のこと?」
 彼女は杯をとった。アリョーシャも、自分の杯を取り上げて、一口ぐっと飲んだが、そのまま杯をもとの場所へ戻してしまった。
「いや、やはり飲まないほうがいい!」と彼は静かにほお笑んだ。
「さっきのから元気はどうしたい!」とラキーチンが叫んだ。
「そういうことなら、わたしもおやめだ」とグルーシェンカが受けた。「それに、ほしくもないわ。ラキートカ、あんた一人ですっかり平らげておしまいなさい。もしアリョーシャが飲めば、その時はわたしも飲むけれど。」
「どうも甘ったるいところを見せつけられるぞ!」とラキーチンが茶々を入れた。「しかも、ご自分は男の膝の上に乗っかってさ! まあ、この人のほうは不幸があるから飲まないとしたところで、君のほうに一たい何があるというんだね! この人は自分の神様に謀叛を起して、腸詰を食べようとしているんだがなあ……」
「それはどういうわけ?」
「この人の長老が今日死んだのさ、神聖なるゾシマ長老さまがさ。」
「じゃ、ゾシマ長老がおなくなんなすったの?」とグルーシェンカは叫んだ。「まあ、どうしよう、わたしはそれさえ知らなかった!」彼女はうやうやしく十字を切った。「ああ、わたしはどうしたっていうんだろう。この人の膝の上に乗っかったりして!」と彼女は叫んで、びっくりしたように膝から飛びおり、長椅子の上に坐りなおした。
 アリョーシャは驚いて、じいっと彼女を見つめた。その顔が何だか明るくなったような工合であった。
「ラキーチン」彼は突然、断乎とした調子で声高に言いだした。「からかうのはよしてくれたまえ、僕が神様に謀叛を起したなんて……僕は君に対して悪感を持ちたくないから、君もも少し善良な気持になってくれたまえな。僕はね、君が今までかつて持ったことがないような宝を失ったのだから、君はいま僕のことを云々する資格はないんだよ。それよりか、まあ、このひとを見たまえ、このひとが僕を憫れんでくれたのは、君にもわかったろう? 僕はここへ来る時、意地のわるい魂を発見する覚悟でいた、――第一、自分からそういうところへ行きたくなったのだ、なぜって、僕が卑劣でやくざだったからさ。ところが、意外にも、誠実な姉を発見した、愛する心を発見した、宝ものを発見したのだ……このひとは僕を憫れんでくれた……アグラフェーナさん、僕はあなたのことを言ってるんですよ。今あなたは僕の心を鼓舞してくれました。」
 彼の唇は顫え、息はつまってきた。彼は言葉を休めた。
「まるで、このひとが君の命を助けでもしたようだね。」ラキーチンは毒々しく笑いだした。「ところが、この女は君をとって食うつもりでいたんだよ、君はそれを知ってるかい?」
「お黙り、ラキートカ!」とグルーシェンカはいきなり飛びあがった。「二人ともお黙んなさい。今こそわたし何もかも言っちまうわ。アリョーシャ、あんたにお黙んなさいと言ったのはね、今あんたの言葉を聞いてると、恥しくてたまらなくなるからよ。だって、わたしはいい人間どころか、本当に意地わるなんですもの! わたしこんな人間なのよ。ところで、ラキートカ、あんたにお黙りと言ったのはね、あんたが嘘ばかりをつくからよ。まったく一時この人をとって食おうというような、いやしい考えがあったに相違ないけれど、今じゃあんたの言うことは嘘よ、今はもうまるっきり違うんだもの……それに、わたしもうあんたの声を聞くのもいやだわ、ラキートカ!」
 グルーシェンカはなみなみならぬ興奮の体で言い放った。
「どうだ、二人ともすっかりのぼせてしまってらあ!」とラキーチンは面くらって、二人を見くらべながら、口を尖らしてこう言った。「まるで気ちがいだ、瘋癲病院にでも行ったようだ。両方ともめそめそしちゃって、今にも泣きだしそうじゃないか!」
「本当に泣きだすわ! 本当に泣きだすわ!」とグルーシェンカは言った。「この人はわたしを姉と言ってくれたのよ。わたし決してこれを忘れやしないわ! だけど、ラキートカ、わたしは意地のわるい女だけど、それでも葱をやったことがあるのよ。」
「葱ってなに? ちぇっ、ばかばかしい、本当に気がちがったんだな!」
 ラキーチンは二人の歓喜のさまを見て、呆気にとられながら、侮辱されたような腹立たしさを感じた。もし静かに思いめぐらしたなら、この、人生にあまりたびたびない偶然によって、一切のものが、二人の魂を震撼させるようにうまく符合したのだ、ということを悟りえたはずであるが、しかし、すべて自分に関係したことにはきわめて微妙な直感力を持つラキーチンも、他人の情緒、感覚の理解にいたっては、非常に大ざっぱであった、――それはいくぶん年若で経験の少いためでもあるが、またいくぶんは過度なエゴイズムのせいでもあった。
「ねえ、アリョーシャ」グルーシェンカは彼のほうへ振り向いて、とつぜん神経的に笑いだした。「今わたしが葱をやったことがあるって言ったのは、ラキートカに向って自慢しただけで、決してあんたにしたんじゃないわ。あんこには別な当てがあって話すのよ。それはただの譬え話だけど、なかなかよくできてるわ。わたしまだ子供の時分にマトリョーナ、――今うちでお台所をしているばあやから聞いた話なの。よくって、こういうのよ。『昔々あるところに、意地のわるいお婆さんがいたんですとさ。それが死んだとき、跡に何一ついい行いが残らなかったので、サタンはお婆さんを捕まえて火の湖《うみ》へ投げ込んじゃったの。ところが、お婆さんの守り神の天使は、何か神様に申し上げるようないい行いがあのお婆さんにないかしらんと、じっと立って考えているうちに、やっとあることを思い出したので、神様に向いて、あのお婆さんは畑から葱を抜いて来て、乞食女にやったことがあります、と言ったのよ。すると神様は、ではお前一つその葱を取って来て、湖の中にいるお婆さんのほうへさし伸ばして、それに掴まらしてたぐるがいい。もし首尾よく湖の外へ引き出せたら、お婆さんを天国へやってもよい。またもし葱がちぎれたら、お婆さんは今の場所へ、そのままおかれるのだぞ、とこういうご返事なんですとさ。天使はお婆さんのところへ走って行って、葱をさし伸べながら、そら、お婆さん、これに掴まっておたぐりと言って、そろっと気をつけて引き始めたのよ。そうして、もう大方ひき上げようとしたところへ、湖の中にいるほかの餓鬼どもが、お婆さんが引き上げられているのを見て、自分らも一緒に出してもらおうというので、みんなでその葱に掴まりだしたの。すると、そのお婆さんは意地のわるいわるい女だから、みんなを足で蹴散らしながら、引いてもらってるのはわたしだよ。お前さんたちじゃありゃしない、わたしの葱だよ、お前さんたちのじゃありゃしない、とそう言うが早いか、葱はぶつりと切れちゃったのよ。そして、お婆さんはまた湖へ落ちて、今までずっと燃え通しているんだって。天使は泣く泣く帰ってしまいましたとさ。』これがその譬え話なのよ、アリョーシャ、わたしもうそらで覚えてるわ。だって、わたしがその意地わる婆さんなんですもの。ラキートカには葱をやったと自慢したけれど、あんたには別な言い方をするわ。つまり、一生涯の間たった一度[#「たった一度」に傍点]、ちょいと葱を恵んでやったことがあるきりなの。やっとそれくらいの善根があるきりなの。だから、あんたね、アリョーシャ、これからわたしを褒めないでちょうだい。いい人間だなぞと思わないでもちょうだい。わたしは意地のわるいわるい女なんですもの、あんたに褒められると恥かしくなっちまうわ。ええ、まったくよ、本当に後悔しているのよ。実はね、アリョーシャ、わたしはあんたを家へおびき寄せたくてたまらなかったのでね、一生懸命ラキートカに頼んで、もしここへあんたを連れて来たら、二十五ルーブリやろうって約束したのよ。ちょっと、ラキートカ、お待ちよ!」彼女は急ぎ足にテーブルへ近寄り、抽斗《ひきだし》を開けて金入れを取り出し、その中から二十五ルーブリ札を引き抜いた。
「何を馬鹿な、そんな馬鹿な!」とラキーチンは度胆を抜かれて叫んだ。
「お取りよ、ラキートカ、約束じゃないの。あんだだって辞退しやしないでしょう、自分のほうから頼んだんだもの」と彼に紙幣《さつ》を抛りつけた。
「むろん、辞退するわけがないさ。」ラキーチンは恐ろしく当惑したが、磊落をよそおって羞恥の情を隠しながら、太い低い声でこう言った。「これがちょうどお互いに相応した役廻りなんだ。馬鹿なやつらがいてくれるおかげで、利口な人間がうるおうのさ。」
「もうそれでお黙り、ラキートカ、これからわたしの言うことは、あんたに聞かせるためじゃないんだからね。その隅っこへ入って黙っておいで。あんたはわたしたちを愛していないんだから、黙ってたらいいのよ。」
「そうさ、君たちを愛する因縁がないじゃないか!」もう憤懣の念を隠そうともしないで、ラキーチンはくってかかった。彼は二十五ルーブリ札をかくしへ押し込んだが、アリョーシャに対して、きまりがわるくてたまらなかった。実のところ、アリョーシャに知られないように、あとでもらうつもりでいたのだが、今はきまりわるさに自分から腹を立てたのである。これまでは、いくらグルーシェンカに皮肉を言われても、あまり口返事をしないのが利口だと考えていた。なぜなら、彼女が自分に対して、一種の権力を持っているように思われたからである。けれど、今はすっかり腹を立ててしまった。
「人を愛するには、何か因縁がなくちゃならない。ところで、君たちは僕に何をしてくれたい!」
「因縁がなくたって、愛さなきゃ駄目だわ、ちょうどこのアリョーシャみたいにね。」
「一たいどうしてアリョーシャが君を愛してることになるんだろう? 一たいこの人がどんなそぶりを見せたので、君がそんなに大騒ぎをするんだろう?」
 グルーシェンカは部屋の真ん中に立って、熱をおびた調子で話しだした。その声の中にはヒステリックな響きがあった。
「お黙り、ラキートカ、あんたにゃわたしたちの心持はちっともわからないんだから! それに、これからわたしのことを、君呼ばわりなんかしないでちょうだい。あんたにそんなことを許すのはいや。一たいどこからそんな悪度胸をとって来たんだろう、本当に! うちの下男のように、隅っこへ引っ込んで、黙っておいで! さあ、アリョーシャ、今こそわたし、ありのままを包まず隠さず、あんた一人に話して聞かせるわ。わたしがどんな畜生だか、あんたに知ってもらいたいの! ラキートカじゃない、あんたに話すのよ。わたしあんたの身を破滅させたかったの、アリョーシャ、それは嘘も隠しもない本当のこと、もうすっかり肚をきめちゃったの。あんたを連れて来てもらうために、ラキートカを金で買ったくらい望みが強くなったの。何のためにわたしがそんな気になったかわかって? あんたはね、アリョーシャ、何も知らないから、わたしに顔をそむけて、伏目になって通り過ぎたもんだわね、――ところが、わたしは今まで百ぺんくらいあんたを見たし、あんたのことをみんなに訊ねて廻ったわ。あんたの顔が胸にこびりついて離れないの。『あの男はしと[#「しと」に傍点]を馬鹿にしてる。しと[#「しと」に傍点]の顔を見ようともしない』と思ってね、しまいには自分でも、『何だってあんな小僧っ子がおっかないんだろう?』と、呆れるほど、たまらない気持になってしまったの。今にみろ、一口にとって食って笑ってやるから、とやっきになって口惜しがったものだわ。あんたは本当にするかどうかしれないけれど、アグラフェーナ・アレクサンドロヴナのとこへ、例のいやらしいことを当てにして出かけよう、などと生意気なことを言ったり考えたりするものは、この町に一人もいなくなったのよ。もっとも、あのお爺さんだけはわたしのそばについてるわ。あの人には悪魔の取りもちで結びつけられて、売物にされてしまったけれど、その代り、ほかには一人もありゃしない。ところが、あんたを見た時、あいつを一口に食ってやろうと肚をきめたの。一口に食っちまって、笑ってやろうと思ったの。ねえ、わたしはなんて意地わるの犬でしょう。それを、あんたは姉だなんて言ってくれたのねえ! ところが、今度あの悪性男が帰って来たので、わたしは今こうして知らせを待っているの。一たいあの悪性男がわたしにとって、どういう意味をもってたか、あんたにそれがわかって? 五年前サムソノフがわたしをここへ連れて来た時、わたしは人に姿も見られまい、声も聞かれまいと思って、よく家にばかり引き籠っていたものだわ。馬鹿だったわねえ。しょんぼりと坐ったまま、幾晩も幾晩も寝ないで泣き通したの。そして、『あの男はどこにいるんだろう? あの悪性男は? きっとほかの女と一緒に、わたしを笑ってるに相違ない。今にみろ、いつか見つけ次第うらみをはらしてやるから、きっとうらみをはらしてやるから!』なんて考えたのよ。夜、暗闇の中で枕に突っ伏して泣きながら、そのことばかり繰り返し巻き返し考えてね、わざわざ自分の心を掻きむしっては、意地わるい心持で渇きをいやしていたの。『今にみろ、今にうらみをはらしてやるから!』ってね。時には暗闇の中で呶鳴ることもあったわ。その時ふと、自分はあの男をどうする力もない、かえってあの男のほうでこそ、今わたしのことを笑ってるのだ、いや、もしかしたら、まるで覚えもないほど忘れてるかもしれない、こう思いつくと、いきなり寝台から床へ身を投げて、意気地のない涙を流しながら、夜の呪けるまで身もだえしでいたの。朝、起きる時には、犬よかもっと意地わるになって、世界じゅうを丸呑みにしてやりたいような気持になったものだわ。それから、どうなったと思って! わたしはお金を溜めにかかったの。人情というものはなくなる、ぶくぶく肥ってはくる、――それで少しは利口になったと思って、え? ところが、そうでないの。世界じゅうで誰ひとり見るものも、知るものもないけれど、ときどき夜の闇が落ちて来ると、五年前の小娘の時と同じように、寝ながら歯をぎりぎり食いしばって、夜っぴて泣き明かすことがあるわ。そして、『今にみろ、今にみていろ!』と考えるの。あんたすっかり聞いてくれて? じゃ、今のわたしをどんなふうに考えて? 一月ばかり前に、突然この手紙がわたしの手に届いたじゃないの。その中には、おれは女房に死なれたので、近いうちにそっちへ行く、お前に会ってみたくなったのだ、と書いてある、――わたしは息がつまるような気がしてね、ああ、どうしようと考えるうちに、ふいと思いがけなく、『もしあの男がやって来て、口笛をひゅうと吹いて呼んだら、わたしはぶたれた犬のようにしおしおと、あの男のそばへ這って行くのじゃないかしら!』と思うと、自分で自分が信用できないの。『わたしは卑屈な女か、そうでないか、あの男のそばへ駆け出して行くか、行かないか?』こう考えるもんだから、この一月の間というもの、自分で自分に腹が立って、五年前よりもっとひどいありさまになってしまったのよ。ねえ、アリョーシャ、わたしがどんな恐ろしい捨てばちな女かってことが、今こそあんたにもわかったでしょう。わたし嘘も隠しもない本当のことを言ったのよ! ミーチャをなぐさんだのも、ただあの男のとこへ走って行かない用心のためだったの。お黙り、ラキートカ、お前さんなぞにわたしの裁きができてたまるものかね。お前さんに言ったんじゃないよ。わたしはあんたたちの来るまで、ここにじっと臥て待ちながら考えたの、わたしの運命にきまりをつけてたの。わたしの心にどんなことがあったか、あんたたちにゃ決してわかりゃしないわ、ねえ、アリョーシャ、あのお嬢さんにそう言ってちょうだい、あの一昨日のことを怒らないようにってね! ああ、今わたしの思いがどんなだか、世界じゅうに誰ひとり知るものはありゃしない、また知れるはずがないんだもの……わたしは今日あそこヘナイフを持って行くかもしれないのよ。だけど、それさえまだ決心がつかなかったんですもの……」
 この『憫れな言葉』を発すると同時に、グルーシェンカはふいに意地も張りもなくなって、しまいまで言い終らないうちに、両手で顔をおおい、長椅子の上の枕に顔を埋めて、小さな子供のように、しゃくり上げて泣きだした。アリョーシャは席を立って、ラキーチンに近づいた。
「ミーシャ」と彼は言った、「腹を立てないでくれたまえ。君はこのひとに侮辱されたけれども、腹を立てないでくれたまえ。君も今このひとの話を聞いたろう? 人間の心からそうたくさんのことを要求できるものじゃない。寛大な態度をとらなくちゃ駄目だよ。」
 アリョーシャは抑えがたい情緒の激発に駆られて、これだけのことを言ったのである。彼は自分の感じたことを言わずにいられなかったので、その対象としてラキーチンを選んだのである。もしラキーチンがいなかったら、一人きりで叫びだしたかもしれない。しかし、ラキーチンが冷笑的な視線をじろりと向けたので、アリョーシャは言葉を途切らした。
「それはさっき君が長老という弾丸《たま》を装填されたので、今度は僕に向けてそいつを発射したんだね、ようよう、神の使いアリョーシャ君。」ラキーチンは、にくにくしげな微笑をふくみながらこう言った。
「笑うのはよしたまえ、ラキーチン、冷やかすのはよしたまえ。故人のことは言わないでくれたまえ。あの方は地上の誰よりもえらい人だったのだ!」と、声に泣くような調子を響かせながら、アリョーシャは叫んだ。「僕は審判者として君にこんなことを言いだしたのじゃない。僕自身、審判されるものの中でも、一ばん劣等な人間なんだよ。一たい僕はこの人に対してどういう人間にあたるんだろう。僕がここへ来たのは、自分の身を破滅さして、『なに、かまうもんか!』というためだった。これっていうのも、僕の了見が狭いから起ったのだ。ところが、このひとは五年のあいだ、苦しみ通したにもかかわらず、誰かが初めてやって来て、まことの言葉を一こと言うが早いか、――もう一切のことを赦し、一切のことを忘れて、泣いているではないか! 自分を辱しめた男が帰って来て呼んだだけで、このひとは悦んでその男のとこへ急いでるじゃないか。決してナイフなんぞ持って行きゃしない、持って行くものか! ところが、僕にそんなことができるだろうか? ミーシャ、君はできるかどうか、僕にはわからないが、僕はどうしてもできない。僕は今日、たった今この教訓を会得した。このひとは愛の点では、僕らより数等上だよ……君は今の話を、以前このひとから聞いたことがあるかい? ないだろう、聞かないだろう。もし聞いたことがあれば、とくに理解してるはずだものね……それから、おととい侮辱を受けたもうひとりのひと、あのひとにもグルーシェンカを赦してもらいたいもんだねえ! いや、まったく赦してくれるだろう。もし事情を知ったら……その事情も必ず知れるに相違ない……このひとの霊魂はまだ本当の平和を得ていないのだから、いたわって上げなくちゃならん。この霊魂の中には確かに宝があるのだ……」
 アリョーシャは口をつぐんだ、息が切れたからである。ラキーチンは毒々しい気分に浸っていたにもかかわらず、あっけにとられて、じっと見つめていた。彼はもの静かなアリョーシャから、こうした雄弁を期待しなかったのである。
「大へんな弁護士ができちゃった! しかし、君はこのひとに惚れたんじゃないのか、え? アグラフェーナさん、わが苦行者は本当に君に惚れ込んじゃったよ。とうとう兜を脱いだのさ!」彼は高慢な笑いを浮べながら叫んだ。
 グルーシェンカは枕から頭を持ちあげて、アリョーシャのほうを見た。今の涙で急に腫れぼったくなった顔には、感激の微笑が輝いた。
「アリョーシャ、わたしの天使、あの人なんかうっちゃっときなさい。本当になんて男だろうねえ。人もあろうに、あんたに向ってあんなことを言うなんて。わたしはね、ミハイル・オシポヴィッチ」と彼女はラキーチンのほうへ向いた。「さっき、あんたをさんざん悪く言ったのを、謝ろうかと思ったけど、今また厭になったの。アリョーシャ、こっちい来てわたしのそばへお坐んなさい。」悦ばしげなほお笑みを浮べつつ、彼女は小手招きした。「そうよ、そこへお坐りなさい。わたしあんたに訊きたいことがあるの(彼女はアリョーシャの手を取って、ほお笑みながらその顔を覗き込んだ)――ほかじゃないけれど、わたしはあの男を愛しているかいないか、一たいどうなんでしょう? あの悪性男を愛しているかいないか? わたしはね、あんたたちの入って来るまで、ここの暗やみに寝ころんだまま、あの男を愛してるかどうか、自分の胸に訊いていたの。アリョーシャ、わたしの心を決めてちょうだい。もうそういう時が来たのだから、あんたの決めたとおりにするわ。あの男を赦したものかどうでしょう?」
「もう赦してるじゃありませんか」とアリョーシャは微笑しながら言った。
「そう、本当に赦してるわねえ」とグルーシェンカはもの思わしげに言った。「ええ、なんて汚い心だろう! わたしの汚い心のために!」と言うなり、彼女はテーブルから杯を取って、一息にぐっと飲み干すと、それを上へさし上げて、力まかせに床へ叩きつけた。杯はがらがらと音を立てて砕けた。一種残忍な影がその微笑の中にひらめいた。
「だけど、まだ赦してないかもしれないわ。」ちょうどひとりごとでも言うように、じっと下のほうを見つめながら、何となく凄い調子で彼女は言いだした。「もしかしたら、これから赦そうと思ってるだけかもしれないわ。わたしはまだ自分の心と戦ってみるわ。ねえ、アリョーシャ、わたしは五年間の自分の涙が、たまらないほど好きだったの……もしかしたら、わたしは自分の受けた侮辱を愛していただけで、あの男はまるで愛してなかったかもしれないわ!」
「おやおや、こいつはあやかりたくないものだね!」とラキーチンが頓狂な声を出した。
「あやかりゃしないよ、ラキートカ、決してあやかりっこなしよ。あんたはわたしの靴でも縫えばいいんだわ。わたしがあんたを使ってあげるとすれば、まあ、それくらいの仕事だあね。あんたなんか、わたしのような女を拝むこともできないのよ……それに、あの男だって拝めないかもしれない……」
「あの男も? じゃ、その衣裳は何のためだね?」とラキーチンが意地わるくからかった。
「衣裳なんかで、わたしを咎めだてしないでちょうだい、ラキートカ、あんこはまだわたしの心をすっかり知らないのだから! なに、その気にさえなったら、衣裳なんか引き裂いてしまうわ、今だって、今すぐだって引き裂いて見せるわ」と彼女は響きの高い声で叫んだ。「あんたはこの衣裳が何のためか知らないでしょう、ラキートカ。ことによったら、あの男のとこへ出かけて行って、『お前さん、わたしがこんなになったところを、見たことがあるかい?』と言ってやるためかもしれない。だって、あの人に捨てられた時、わたしはやっと十八で、肺病やみの痩せっぽちの泣き虫だったからねえ。わたしは、あの男のそばに坐って、夢中になるほどそそのかしておいて、『わたしが今どんなになったかわかったでしょう。だけど、お生憎さま、うまい汁は髯を流れるだけで、口の中へは入りませんよ!』と言ってやるかもしれない。ねえ、ラキートカ、わたしの衣裳は、こういう目算があってのことかもしれないのよ」とグルーシェンカは意地わるい小刻みな笑いで句を結んだ。
「ねえ、アリョーシャ、わたしはこういった向う見ずな乱暴ものなのよ。自分の衣裳を引き裂いて、自分で自分を片輪にして、自分の器量をめちゃめちゃにするかもしれないわ、――自分の顔を火で焼くか刀で斬るかして、袖乞いに出かけて行くかもしれないわ。もしその気にさえなったら、今だってどこへも、誰のところへも行きゃしない。明日にでも、サムソノフからもらったお金《あし》も何も、すっかりあの人に返しちまって、自分は一生その日稼ぎの日傭取りに出かけて見せるわ!………わたしにそれができないと思って、ラキートカ? それだけの元気がないと思って? できなくってさ、できなくってさ、今すぐにもして見せるわ。ただわたしの気をいらいらさせないでちょうだい……なに、あの男なぞ追っ払ってやる、あの男になぞ赤んべをしてやる、あの男なんかにわたしの心が見えてたまるものか!」
 最後の言葉は、もうヒステリックな調子で叫んだが、またしても我慢しきれないで、両手で顔をおおうたまま、枕の上に倒れ伏し、ふたたびすすり泣きに身を顫わすのであった。ラキーチンは立ちあがった。
「もう時刻だ」と彼は言った。「だいぶ遅くなった、ぐずぐずしていると、寺へ入れてもらえないかもしれないよ。」
 グルーシェンカはいきなり跳りあがって、
「アリョーシャ、あんたはもう行ってしまうつもりなの!」と悲痛な驚きの色を浮べながら、こう叫んだ。「一たいあんたは今わたしをどうしようっていうの? わたしをあんなに興奮さして苦しめておきながら、またこの一晩をひとりで明かせっていうの!」
「しかし、この男が君のとこで泊るわけにはゆかないじゃないか。だが、お望みならご勝手に! 僕は一人で帰るさ!」ラキーチンは毒々しく冷やかした。
「お黙り、意地わる!」とグルーシェンカは勢い猛《もう》に叫んだ。「この人が今日わたしに言ってくれたようなことを、お前さん一度だって言ったことがあるかえ。」
「この男が君にどんなことを言ったい!」とラキーチンはいらいらした調子で呟いた。
「この人が何を言ったか、わたしにゃわからない、ちっともわからない、まるっきりわからない。ただ自分の心にそう感じられたんだわ。この人はわたしの心を底からひっくり返してしまったのよ……この人は、わたしを憐れんでくれた初めての人なの、たった一人しかない人なの! アリョーシャ、天使、なぜあんたはもっと前に来てくれなかったの?」彼女は前後を忘れたように男の前に跪いた。「わたしは今まであんたのような人を待ち受けていたのよ。誰か来て『赦してやる』と言ってくれそうな気がしてならなかったの。わたしみたいな穢れた女でも、いやらしい当てなしに愛してくれる人が、誰かあるに相違ないと信じていたわ!………」
「一たい僕が君に何をしたというんです、」アリョーシャは彼女のほうへこごみかかって、優しく両手をとりながら、感激の微笑を浮べつつ答えた。「僕は君に葱をあげただけです。ほんの小さな葱を一本あげただけです。それっきりです!」
 こう言い終ると、彼は自分から泣きだした。そのとき玄関のほうで、とつぜん騒々しい物音が響いて、誰やら控え室へ入って来た。グルーシェンカは恐ろしい驚愕におそわれた様子で、椅子から飛びあがった。と、フェーニャが騒々しい物音と叫び声を立てながら、部屋の中へ駆け込んだ。
「奥さま、ちょっと、奥さま、使いの者が馬車を飛ばせてまいりました!」彼女は息を切らせながら、はしゃいだ調子で叫んだ。「モークロエから迎えの馬車が三頭立てでまいりました。馭者のチモフェイが、ただいま新しい馬をつけかえると申しております……手紙を、手紙を、奧さま、この手紙をごらんなさいまし!」
 手紙は彼女の手にあった。彼女はこんなことを喚きちらしている間じゅう、その手紙を空に振り廻していたのである。グルーシェンカはそれをフェーニャの手からもぎとって、蝋燭のそばへ持って行った。それは、ただ二三行の短い書きつけだった。彼女はまたたくひまに読み終った。
「さあ、お声がかかった!」病的な微笑に顔をゆがめながら、真っ蒼な顔をして彼女は叫んだ。「口笛が鳴った! さあ、犬ころ、四ん這いになってお行き!」
 彼女は決しかねたように立ちすくんでいたが、それはただ一瞬にすぎなかった。急に血がどっと彼女の頭へ流れ込んで、双の頬を火のように赤くした。
「行こう!」ふいに彼女は叫んだ。「ああ、あの五年間の涙ともこれでお別れだ! さよなら、アリョーシャ、わたしの運命はもうきまったのよ……さあ、帰ってちょうだい、帰ってちょうだい、もうみんなわたしのそばから離れてちょうだい、もうこれからはわたしの目に入らないようにね! グルーシェンカは新しい生活を目ざして飛んで行くのだから……ラキートカ、あんたもわたしのことを悪く言わないでもようだい、もしかしたら、死にに行くのかもしれないんだから! ああ! まるで酔っ払いのようだわねえ!」
 彼女はだしぬけに二人をうっちゃって、自分の寝室へ駆け込んだ。
「今あの女はわれわれどころの騒ぎじゃないんだ!」とラキーチンはぶつぶつ言いだした。「もう出かけようじゃないか、ぐずぐずしてると、またあのヒステリイじみた喚き声を聞かされるぜ。あの涙っぽい喚き声には、もうあきあきしちゃった……」
 アリョーシャは引かれるままに機械的に外へ出た。庭には一台の馬車が立って、いま馬を離そうとしているところであった。人々は提灯をさげて、忙しそうにあちこちしていた。開け放した門の中へ、新しい三頭の馬が引き込まれようとしている。ラキーチンとアリョーシャが正面の階段をおりる途端に、グルーシェンカの寝室の窓がさっと開いて、彼女は響きの高い声でアリョーシャのうしろから叫んだ。
「アリョーシャ、兄さんのミーチェンカによろしく言ってちょうだい、それから、わたしみたいな毒婦でも、悪く言わないようにってね。まだその上に、『グルーシェンカはあんたのような正直な人の手には入らないで、卑怯者の自由になりました!』ってね、このとおりな言い方で伝えてちょうだい。それから、まだあるのよ、――グルーシェンカは一とき、たった一ときあの人を愛したことがあるの、だからこの――ときを今後一生わすれないように、とこう言い添えてちょうだい。一生涯と言って、グルーシェンカが念を押したってね!………」
 彼女は、涙に充ちた声で、言葉を結んだ。窓はぱたりと閉った。
「ふむ! ふむ!」とラキーチンは笑いながら呟いた。「とうとうミーチャにとどめを刺しちゃった。おまけに一生涯おぼえていろなんて、本当になんてえ残酷なやり口だろう!」
 アリョーシャはその言葉が耳に入らないように、何も答えなかった、彼は恐ろしい急ぎの用事でもあるようなふうで、ラキーチンと並んで足ばやに歩いた。その歩きぶりは、自己忘却におちいった人のように機械的であった。突然、ラキーチンは何かにちくりと刺されたような気がした。それはまだなまなましい傷を、指で触られた時の心持であった。なぜなら、さいぜん彼がアリョーシャをグルーシェンカの家へ連れて行く時、ぜんぜん別なことを期待していたからである。しかるに、実際は予期に反した、しかも、彼にとってすこぶる望ましからぬ結果であった。
「あいつは、――あの将校ってのはポーランド人なんだよ。」彼は自分を抑えたような調子で、またこう口をきった。「おまけに今は将校でも何でもないのさ。シベリヤもどこかシナの国境あたりで、税関の役人をしていたというから、いずれひょろひょろした吹けば飛ぶようなやつだろう。話によると、こんど職を失ったため、グルーシェンカが小金を貯めたという噂を聞きつけて、舞い戻って来たんだそうだ、――それが奇蹟の正体なのさ。」
 アリョーシャは今度もまるで聞いていないらしかった。ラキーチンは我慢しきれなくなって、
「一たい君は、堕落した女を真人間に戻した気でいるのかい?」と彼はアリョーシャに向って、毒々しい笑いをあびせた。「堕落した女を真理の道へ向けたつもりで、自惚れているのかい? 七つの悪魔を追い出した気でいるのかい、え? けさわれわれの期待した奇蹟が、ここで実現されたと思っているのかい!」
「ラキーチン、もうよしてくれたまえ。」胸に苦しみをいだきながら、アリョーシャは答えた。
「それは君さっきの二十五ルーブリのために、僕を『軽蔑』しているんだね? こいつ親友を売ったという肚なんだね。しかし、君がキリストでもなければ、僕がユダでもないからね。」
「とんでもない、ラキーチン、僕はまったくそんなこと覚えてもいなかったよ」とアリョーシャは叫んだ。「かえって、いま君のほうから思い出さしたんじゃないか……」
 しかし、ラキーチンはもうすっかり、業をにやしてしまった。
「ええ、君たちのような人はもうみんな勝手にするがいい!」と彼は、だしぬけに声を振り絞って叫んだ。「ばかばかしい、何だって僕は君なんかとかかり合ったんだろう! 今後もう君の顔を見るのもいやだ。さあ、一人で行くがいい、そっちが君の行く道だ!」
 暗闇の中にただ一人アリョーシャを置き去りにしたまま、彼はくるりと向きを変えて、別な通りへ曲って行った。アリョーシャは町を出はずれると、野中の道をたどって僧院へ赴いた。

[#3字下げ]第四 ガリラヤのカナ[#「第四 ガリラヤのカナ」は中見出し]

 アリョーシャが庵室の入口までたどりついたのは、僧院の慣わしから言えば、もはや非常に遅かった。門番は特別な通路から彼を入れてくれた。もう九時が打った、――それは、すべての人にとって煩い多かりし一日の後に訪れた、一般の休息と安静の時である。アリョーシャは、おずおずと戸を開けて、長老の庵室へ足を入れた。ここにいま棺が据えられてある。部屋の中には、棺に向って淋しく福音書を読んでいるパイーシイ主教と、若い聴法者のポルフィーリイのほか、誰もいなかった。ポルフィーリイは昨夜の談話と今日の混雑に疲れはてて、床《ゆか》の上で若々しい深い眠りを貪っていた。パイーシイ主教は、アリョーシャの入った物音を聞いたけれども、そのほうを振り向こうともしなかった。アリョーシャは戸口から右手の隅のほうへ曲って行き、跪いて祈祷を始めた。
 彼の胸は一ぱいになっていたが、妙に茫として、これというまとまった感じは、一つとして浮んで来なかった。それどころか、さまざまな感じが緩やかに平調な廻転をしながら、互いに消し合おうとしていた。しかし、心は不思議な甘い感じに浸っていた。アリョーシャはこの事実に驚いた。彼はふたたび目の前にある棺を見た、――四方からことごとく蔽いつくされた、いとも貴い亡骸《なきがら》を見た。しかし、今朝ほどの泣きたいような、疼くような悩ましい哀憐の情は、もはや彼の心になかった。彼は神聖なものに対するように、入口のすぐそばにある棺の前へ身を投げ出した。けれど、歓喜の情、――歓喜の情が、彼の理性と感情をぱっと照らしだした。庵室の窓が一つ開け放たれて、爽やかなすがすがしい空気はしんと静まりかえっていた。『とうとう窓を開けたところを見ると、匂いがいよいよひどくなったんだな』とアリョーシャは考えた。しかし、ついさきごろまで不名誉と思われた腐屍の匂いに関する想念も、今はあの時のような憂悶も憤懣も呼び起さなかった。
 彼は静かに祈り始めたが、間もなくその祈りが機械的なものにすぎない、ということを自分でも感じた。思想の断片は彼の心をかすめて、小さな星のように閃いたが、すぐほかのものと代って消えて行くのであった。けれど、その代り、何か心の渇きをいやすような、完全な、しっかりしたあるものが彼の魂を領していた。彼は自分でもそれを自覚した。ときおり彼は熱誠をこめて祈り始めた。何か妙に感謝したいような、愛したいような欲望がこみ上げてくる……けれど、祈りを始めても、すぐふいとほかのことに心が移ったり、妙に考え込んだりして、祈りも、祈りの妨げをするものも、ことごとく忘れてしまうのであった。パイーシイ主教の読誦の声に耳を傾け始めたが、疲労しきった体は、次第次第にまどろみに落ちて行く……「三日めにガリラヤのカナにて婚筵ありしが」とパイーシイ主教は読んだ。「イエスの母もここにおれり。イエスとその弟子も婚筵にまねかる。」
『婚筵? 何だろう……婚筵なんて……』という考えが、旋風のようにアリョーシャの頭脳を疾駆した。『あの女もやはり幸福を得て……饗宴に出かけて行った……なんの、あの女はナイフなぞ持って行きゃしない、決して持って行くものか……あれはただ『哀れな』泣き言にすぎないのだ……そうとも……哀れな泣き言は、ぜひ赦してやらなけりゃならない。哀れな泣き言は心を慰めてくれる……これがなかったら、悲哀は人間にとって、ずいぶん苦しいものとなったに相違ない。ラキーチンは露地へ入ってしまった。ラキーチンが自分の侮辱を考えている間は、いつでも露地へ入って行くだろう……ところが、本当の道はどうだ……本当の道は広々として、まっすぐで、明るくて、水晶のように澄み渡って、向うの果てには太陽が輝いている……おや?……何を読んでいるのかしら?』
「葡萄酒つきければ母イエスに言いけるは、彼らに葡萄酒なし」という声がアリョーシャに聞えた。
『ああ、そうだ、僕はここを聞き落した。聞き落したくなかったんだがなあ。僕はここのところが大好きだ。これはガリラヤのカナだ、はじめての奇蹟だ……ああ、この奇蹟、本当に何という優しい奇蹟だろう。キリストは初めて奇蹟を行う時にあたって、人間の悲しみでなく悦びを訪れた、人間の悦びを助けた……「人間を愛するものは、彼らの悦びをも愛す……」これは亡くなった長老がたえまなく言われたことで、あのお方のおもな思想の一つであった……悦びなしに生きて行くことはできない、とミーチャは言った……そうだ、ミーチャ……すべて、真実で美しいものは、一切を赦すという気持に充ちている、――これもやはりあのお方の言われたことだ……』
「……イエス彼に言いけるは、婦《おんな》よ、なんじとわれと何のかかわりあらんや、わが時はいまだいたらず。その母|僕《しもべ》どもに向いて、彼がなんじらに命ずるところのことをせよ[#「せよ」に傍点]と言いおけり……」
「せよ……そうだ、悦びを作らなきゃならない。誰か知らんが、貧しい、非常に貧しい人の悦びを作らなきゃならない……そりゃもう婚礼に葡萄酒がたりないといえば、むろん貧しい人にきまっている……歴史家の説によると、ゲネサレ湖の周囲とその付近一帯にわたって、想像もおよばないような貧しい部落があったそうだ……ところで、そこにいたいま一つの偉大な存在、つまりイエスの母の偉大な魂は、そのとき彼が降って来たのも、あながち恐ろしい大功業のためばかりでない、ということを見抜いたのだ。自分の貧しい婚筵に愛想よく彼を招いた無知な、とはいえ正直な人々の淳朴な罪のない楽しみも、彼の胸に感動を与え得るということを、イエスの母は見抜いたのだ。「わが時はいまだいたらず」と彼は静かなほお笑みを浮べながら言った(きっとつつましいほお笑みを母に示したに相違ない)……実際、彼は貧しき人々の婚筵の席で、葡萄酒をふやすために地上へ降ったのではあるまい。しかし、彼は悦んで母の乞いを容れたではないか……ああ、また読んでいらっしゃる。』
「イエス僕《しもべ》どもに水を甕に満せよと言いければ、彼ら口まで満たせり。
 またこれを今くみ取りて持ちゆき筵《ふるまい》を司る者に与えよと言いければ、彼らわたせり。
 筵を司るもの酒に変りし水を嘗めて、そのいずこより来りしを知らず。されど、水をくみし僕は知れり。筵を司るもの新郎《はなむこ》を呼びて、
 彼に言いけるは、およそ人はまずよき酒をいだし、酒たけなわなるにおよびて魯《あ》しき酒をいだすに、なんじはよき酒を今まで留めおけり。」
『おや、これはどうしたことだ、これはどうしたことだ? なぜ部屋がひろがり出したのだろう……ああ、そうだ……これは婚筵だ、結婚式なのだ……むろんそうだとも。ほら、あそこに客人たちがいる、ほら、そこに新郎新婦が坐っている。そうして、群衆は楽しそうな様子をしている、しかし……筵を司る賢者はどこにいるのだろう? ところで、あれは誰だ? 誰だろう? また部屋がひろがって来たぞ……あの大テーブルの陰から立ちあがったのは誰だろう? え……一たいあのお方がここにいらっしゃるのかしらん? あのお方は棺の中に臥ていらしたではないか……しかし、やはりここにいらっしゃるのだ……立ちあがってから、僕を見つけて、こちらへ歩いておいでになる……ああ!』
 そうだ、彼のほうへ、彼のほうをさしてその人は進んで来る。顔には小皺の一ぱいある、痩せた小柄な老人が、静かに悦ばしげに笑っている。棺はもはやそこにはなかった。彼はゆうべ客人たちを集めて、談話を交換した時と同じ着物をきている。顔ぜんたいが開け放したような表情をおび、目はきらきらと輝いている。これはどういうわけであろう。きっとこの人も筵に呼ばれたに相違ない、ガリラヤのカナの婚筵に招かれたに相違ない……
「やはり、そうじゃ、倅、やはり呼ばれたのじゃ、招かれたのじゃ」という静かな声が彼の頭上で響いた。「お前どうしてこのようなところに隠れて姿を見せぬのじゃな……さあ、お前も一緒にみなのほうへ行こう。」
 あの人の声だ。ゾシマ長老の声だ……こうして自分を呼ぶ以上、大違いなぞというはずがない。長老はアリョーシャの手を取って引き起した。で、こちらはついていた膝を伸ばして立ちあがった。
「おもしろく遊ぼうではないか」と痩せた小柄な老人は語をついだ。「新しい酒を飲もう、偉大な、新しい歓びの酒を酌もう。見ろ、何という大勢の客であろう! そこにいるのが新郎《はなむこ》に新婦《はなよめ》じゃ。あれは筵《ふるまい》を司る賢者が、酒を試みておるのじゃ。どうしてお前はそう驚いた顔をして、わしを見るのじゃな? わしは葱を与えたためにここにいるのじゃ。ここにいる人は大てい葱を与えた人ばかりじゃ、僅か一本の葱を与えた人ばかりじゃ……ときに、わしらの仕事はどうじゃ? お前も、わしの静かなおとなしい少年も、今日ひとりの渇した女に、一本の葱を与えたのう。はじめるがよい、倅、自分の仕事をはじめるがよい……ところで、お前にはわれわれの『太陽』が見えるか、お前には『あのお方』が見えるか?」
「恐ろしゅうございます……見上げる勇気がございません……」とアリョーシャは囁いた。
「恐れることは少しもない。われわれにはあの偉大さ、あの高さが恐ろしゅうも見える。しかし、限りなくお慈悲ぶかいのはあのお方じゃ。今も深い愛のお心からわれわれと一緒になって、われわれと遊び戯れておいでになる。そうして、客の歓びがつきぬために、水を酒に変えて、新しい客を待ち受けておいでになる。永久に絶ゆることなく、新しい客を招いておいでになる。そら、新しい水を運んで行く。ごらん、器を運んで行くではないか……」
 何ものかがアリョーシャの胸に燃え立って、とつぜん痛いほど一ぱいに張りつめてきた。そして、歓喜の涙がこころの底からほとばしり出た……彼は両手をさし伸べて、一声叫んだと思うと、目がさめた……
 ふたたび棺、開け放した窓、静かな、ものものしい、区切りのはっきりした読経の声が甦った。不思議にも彼は膝をついたまま眠りに落ちたのに、今はちゃんと両足を伸ばして立っている。と、急に飛びあがるような恰好をして、速い、しっかりした歩調で三足ふみ出し、棺のそばにぴたりと寄り添うた。その時、パイーシイ主教に肩をぶっつけたが、それには気もつかなかった。主教はちょっと書物から目をはなして、彼のほうへ転じたが、青年の心に何か不思議なことが生じたのを悟り、すぐまたその目をそらしてしまった。アリョーシャは三十秒ばかり