ドストエフスキー全作品を電子化する

フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)の全作品の電子化をめざしている人のブログです

『カラマーゾフの兄弟』第八篇第四章 闇の中

   第四 闇の中

 彼はどこへ駆け出したのか? それは知れきったことである。『おやじの家でなくって、ほかにあれのいるところがない。サムソノフの家からまっすぐに親父のところへ走ったのだ。今となっては、もう疑う余地がない。あいつらの企らみも偽りも、すっかり見えすいている……』こういう想念が、嵐のように彼の頭を飛び過ぎた。マリヤの家の庭へはもう立ち寄らなかった。『あそこへ寄る必要はない。決してそんな必要はない……一さい他人を騒がせないようにしなくちゃ……それに、すぐ裏切りをして内通するからなあ……マリヤはあいつらの仲間に相違ない……スメルジャコフだってそうだ、みんな買収されてるんだ!』
 彼の頭にはまた別な考えが湧き起った。彼は横町を抜けて、フョードルの邸を大きく一周し、ドミートロフスカヤ街へ出て小橋を渡り、まっすぐに淋しい裏通りへ現われた。それはがらんとした、人気のない横町で、片側には隣家の菜園の編垣がつづき、片側にはフョードルの庭を囲む高い丈夫な塀が聳えている。ここで彼は一つの場所を選び出した。それはかつて|悪臭ある女《スメルジャーシチャヤ》リザヴェータが乗り越したのと同じ場所らしい。この話は彼も言い伝えによって知っていた。『あんな女でも越せたんだから、』どういうわけか、こんな想念が彼の頭をかすめた。『おれに越されないはずがない!』はたせるかな、彼は一躍して、巧みに塀の上部へ手をかけた。そして元気よく身を持ちあげて、ひらりと足をかけ、馬乗りに塀の上に跨った。庭の中には、ほど遠からぬ辺に湯殿があったが、あかりのついた母屋《おもや》の窓が塀の上からよく見えた。『やはりそうだ、親父の寝室にあかりがついてる、あれはここに来てるんだ!』彼は塀から庭へ飛びおりた。グリゴーリイもスメルジャコフも病気しているから(スメルジャコフの病気もあるいは本当かもしれぬ)、誰も聞きつけるものはないと承知していたけれど、彼は本能的に身をひそめて、一ところにじっと立ちつくしながら、耳をすまし始めた。しかし、死んだような沈黙があたりを領している上に、まるでわざとのように、そよとの風もない、闃《げき》として静かな夜であった。
『静寂の囁きのみぞ聞ゆなり。』なぜかこんな詩の一節が彼の頭をかすめた。『ただ誰かおれの塀を越すところを見たものがなければいいが。おそらくないように思うけれど……』一分間ほどじっと立ちつくしたのち、彼はそっと庭草を踏んで歩きだした。彼は自分で自分の足音に一歩一歩耳を傾けながら、足音を盗むようにして、木立や灌木を迂回しつつ、長いこと歩みつづけた。五分ばかりで、彼はあかりのついた窓の近くまでたどりついた。窓のすぐ下に背の高い、みっちりと茂った接骨木《にわとこ》や木苺の大きな藪が、幾つか立っているのを覚えていた。家の正面の左側についている、内部から庭へ通ずる出口の戸は、ぴったり閉っていた。彼はそばを通り過ぎるとき、ことさら気をつけて、このことに注意した。やっと、藪のところまでたどりついたので、彼はその陰に身をひそめて、じっと息をこらしていた。『今ちょっと待たなくちゃならん』と彼は考えた。『もしおれの足音を聞きつけて、いま聞き耳を立てているとしたら、あれは空耳であったと思わせるために……どうかして咳や嚔をしないように気をつけなくちゃ……」
 彼は二分間ばかり待ってみたが、胸の動悸が激しくて、ときどき息もとまりそうなほどであった。『駄目だ、動悸はやみゃしない』と彼は考えた。彼は藪の陰に立っていた。藪の前面は、窓からさすあかりにぱっと照らし出されている。『木苺よ、ほんに綺麗な苺の実!』何のためとも知らず、彼はこんなことを口ずさんだ。やがて一歩一歩、くぎるような静かな足どりで、そろっと窓に近よって、爪立ちをした。フョードルの寝室の様子は、まるで掌をさすように、まざまざと彼の眼前に展開せられた。それは、赤い衝立てで縦に端から端まで仕切られた、小さな部屋であった。フョードルはこの衝立てを『シナ出来』と呼んでいた。『シナ出来』という言葉がミーチャの頭をかすめた。『あの衝立ての向うにグルーシェンカがいるのだ。』彼はフョードルの姿を仔細に眺めはじめた。老人はまだミーチャの一度も見たことのない、新しい縞絹の部屋着を着て、房のついた同じ絹の紐を腰に巻いていた。部屋着の襟の陰からは清潔《きれい》な洒落たワイシャツ、オランダ製の細地のワイシャツが覗いて、金のカフスボタンが光っている。頭には、かつてアリョーシャが見たと同じ、赤い繃帯が依然として巻いてある。『洒落のめしてやがる』とミーチャは思った。
 フョードルは何やら考え込んでいるらしい様子で、窓のそば近く立っていたが、急にぶるっと首を振り上げて、心もち耳を傾けた。しかし、何一つ耳に入らないので、テーブルに近よって、ガラスの瓶から杯半分くらいコニヤクを注ぎ、ぐいと一息に飲み乾した。それから胸一ぱいの息をして、またしばらくじっと突っ立っていたが、やがて窓と窓の間にかけてある鏡のほうへふらふらと近づいて、例の赤い繃帯を右手でちょっと額から持ちあげ、まだ癒りきらない打身や痂を、と見こう見していた。『親父ひとりきりだ』とミーチャは考えた。『どうもひとりきりに相違ないようだ。』フョードルは鏡から離れると、急に窓のほうへ振り向いて、じっと見すかしはじめた。ミーチャはすばやく物陰へ飛びのいた。
『ことによったら、あれは衝立ての陰でもう寝てるのかもしれない。』彼はちくりと胸を刺されるような気がした。フョードルは窓を離れた。『親父が窓を覗いているのは、あれを見つけ出そうとしてるのだ。してみると、あれは来てないのだ。親父が暗闇の中を覗いてみるわけがないからな……つまり、焦躁に心を掻きむしられてるんだ……』ミーチャはさっそく窓のそばへ駆けよって、ふたたび室内を眺めはじめた。老人は屈託そうな様子をして、もうテーブルの前に坐っていた。そして、しまいには肘杖ついて、右の掌を頬にあてがった。ミーチャは貪るように見入るのであった。
『ひとりだ、ひとりだ!』と彼はまた断言した。『もしあれがここにいるのなら、親父はもっと違った顔つきをしてるはずだ。』奇妙なことではあるが、彼女がここにいないと思うと、とつぜん何かしら意味もない、奇怪な憤懣の情が彼の心に湧きだってきた。『いや、これはあれがいないからじゃない。』ミーチャは即座に自分で解釈して、自分に答えた。『つまり、あれが来てるか来てないか、どうしても確かにつきとめることができないからだ。』ミーチャの理性はこの瞬間なみはずれて明晰になり、一切のものをきわめて微細な点まで考量し、一点一画をも見おとすことなく取り入れた。しかし、焦躁が、未知と不定の焦躁が、計り知ることのできない速度をもって、彼の心に刻刻つのってゆくのであった。『一たいあれは本当にここにいるのかいないのか?』という疑いは、毒々しく彼の胸に煮え返るのであった。彼はとつぜん肚を決めて手をさし伸べ、ほとほとと窓の枠を叩いた。スメルジャコフと老人との間に決められた、合図のノックをしたのである。初めの二つを静かに、しまいの三つを少し早目に、とんとんとんと叩いた、――つまり、グルーシェンカが来たという知らせの合図である。老人はぎっくりして、ぶるっと首を振り上げると、すばやく飛びあがって窓のほうへ走りよった。ミーチャは物陰へ飛びのいた。フョードルは窓をあけて、頭をすっかり外へ突き出した。
「グルーシェンカ、お前か、お前なのか一たい?[#「お前なのか一たい?」はママ]」と彼は妙に顫える声で、なかば囁くように言った。「どこにいるのだ、グルーシェンカ、これ、どこにいるのだ?」
 彼はむやみに興奮して、息を切らせていた。
『一人きりだ!』とミーチャは考えた。
「一たいどこにいるのだ?」と老人はふたたび叫んで、一そう首を外へ突き出した。彼は肩まで窓の外へ覗かせながら、きょろきょろと左右を見廻すのであった。「ここへおいで。わしはいい贈物を拵えて待っておったよ。おいで、見せてやるから!……」
『あれは、例の三千ルーブリの包みのことを言っているんだ。』こんな考えがちらとミーチャの頭にひらめいた。
「これ、どこにいるのだ?……戸のそばにでもいるのかな? すぐ開けてやるよ!」
 老人はもうほとんど窓から乗り出さないばかりの勢いで、庭に通ずる戸口のある右手を眺めながら、暗闇の中を見すかそうと骨折っていた。もう一瞬の後には、彼はグルーシェンカの返事も待たずに、必ず駆け出して戸を開けるに相違ない。ミーチャは脇のほうから身動きもしないで見つめていた。彼があれほど忌み嫌っていた老人の横顔、――だらりと下った喉団子、鉤なりの鼻、甘い期待の微笑を浮べた唇、これらすべてのものが、左のほうからさす室内のランプの斜めな光線に、くっきりと照らし出されたのである。恐ろしい兇暴な憎悪の念が、突然ミーチャの心に湧きたった。『あいつだ、あれがおれの競争者だ、あれがおれの迫害者だ、おれの生活の迫害者だ!』これは彼がかつてアリョーシャに向って、一種の予覚でも感じたかのように断言した憎悪、――突発的な復讐の念に充ちた、狂暴な憎悪の襲来であった。彼は四日まえ、四阿でアリョーシャと対談した時に『お父さんを殺すなんて、どうして、そんなことが言えるのです?』という弟の問いに対して、
『いや、おれにもわからない、自分でもわからない』と答えた。『もしかしたら、殺さないかもしれんし、またもしかしたら、殺すかもしれん。ただな、いざという瞬間に[#「いざという瞬間に」に傍点]、親父の顔が[#「親父の顔が」に傍点]急に憎らしくてたまらなくなりはしないか、とこう思って心配してるんだ。おれはあの喉団子や、あの鼻や、あの目や、あの厚かましい皮肉が憎らしくてたまらない、あの男の人物がいやらしいのだ。おればこれを怖れている。こればかりは抑えきれないからなあ。』
 こうした嫌悪の念がたえがたいまでにつのってきた。ミーチャはもはやわれを忘れて、ふいにかくしから銅の杵を取り出した。…………………………………………………………………………………………………………………………………………
『神様があのとき僕を守って下すったんだろう。』後になってミーチャは自分でこう言った。ちょうどそのとき、病めるグリゴーリイが、自分の病床で目をさましたのである。その日の夕方、彼はスメルジャコフがイヴァンに話した例の治療法を行った。つまり、何か強い秘薬を混じたウォートカを、妻の力を借りて全身にすり込んだ後、その残りを妻の念ずる祈禱とともに飲み干して、それから眠りについたのである。マルファもやはりその薬を飲んだが、元来いけぬ口とて、そのまま夫のかたわらで、死んだように寝込んでしまった。ところが、とつぜん思いがけなく、グリゴーリイは夜中に目をさました。一分間ばかり思案した後、恐ろしい痛みを腰の辺に感じたにもかかわらず、寝床の上に身を起した。それから、また何やら思いめぐらした末、立ちあがって手早く着替えをした。ことによったら、『こうした険呑な時』誰ひとり家の番をするものもないのに、自分は安閑として寝込んでいるといったような、良心の呵責に胸を刺されたのかもしれない。
 癲癇のために総身を打ちひしがれたスメルジャコフは、隣りの小部屋で身動きもせずに臥っている。マルファもぴくりともしなかった。『婆さん弱りこんどるな。』グリゴーリイは妻を見やってそう思った。そして、喉をくっくっと鳴らしながら、入口の階段へ出た。もちろん、彼はちょっと階段から様子を見るだけのつもりだった。というのは、腰ぜんたいと右足の痛みがたえがたくて、いっかな歩くことができなかったからである。しかし、ちょうどその時、彼は庭へ通ずる小門に、晩から鍵をかけないでいるのに気がついた。彼はこの上なく厳重で正確な男で、一定の規則と多年の習慣に凝り固っていたから、痛みのために跛を引いたり体を縮めたりしながら、階段を下りて庭のほうへ行った。はたして、小門はまるで開っ放しであった。彼は機械的に庭の中へ足を踏み入れた。それは、目に何か映じたのか、耳に物音が入ったのか、原因はよくわからないけれど、とにかく、ふと左手のほうを眺めると、主人の居間の窓が開いている。窓はがらんとして、もう誰もその中から覗いてはいなかった。
『どうして開いてるんだろう、もう夏でもないのに!』とグリゴーリイは考えた。
 と、ちょうどその瞬間、何やら異様なものが、彼の真向いにあたる庭の中を、突然ちらちら動きはじめた。彼のところから四十歩ばかり隔てた暗闇の中を、何か人間らしいものが駆け抜けていた。何かの影が非常な速さですっすっと動く。
「大変だ!」と言ってグリゴーリイは、腰の痛いのも忘れながら、曲者の行手を遮るつもりで、前後の考えもなく駆け出した。
 彼は近道をとった。見たところ、庭の案内は彼のほうが曲者よりもくわしいようであった。曲者は湯殿を目ざして走っていたが、やがて湯殿の向うへ駆け抜けて、塀に飛びかかった……グリゴーリイはその姿を見失わぬように跡をつけながら、われを忘れて走って行った。ちょうど曲者が塀を乗り越した瞬間に、彼は塀の下まで駆けつけたのである。グリゴーリイは夢中になって飛びかかり、両手で曲者の足にしかと絡みついた。
 案の定、予覚は彼を欺かなかった。曲者の見分けがついた。それはあの『ならず者の親殺し』であった。
「親殺し!」と老僕は近所合壁へ鳴り響くほど喚き立てた。
 しかし、彼が声を立て得たのはこれだけであった。突然、彼は雷にでも打たれたもののように、どうと倒れた。ミーチャはふたたび庭へ飛び下りて、被害者の上に屈み込んだ。ミーチャの手には銅の杵があったが、彼はそれを機械的に草の中へ投げ出した。杵はグリゴーリイから二歩ばかり離れたところへ落ちたが、それは草の中ではなく径の上の、最も目立ちやすい場所であった。幾秒かの間、彼は自分の前に倒れている老僕を仔細に点検した。老僕の頭はすっかり血みどろであった。ミーチャは手を伸ばして触ってみた。彼はそのとき、老人の頭蓋骨を割ってしまったのか、それともただちょっと杵で額を傷つけたばかりか、『十分に確め』たかったのである。これは、彼自身あとになってはっきり思い起した。けれど、血はだくだくと止め度なく噴き出して、その熱い流れはたちまちミーチャの慄える指を染めてしまった。彼はホフラコーヴァ夫人訪問の際に用意した、白い新しいハンカチをかくしから取り出して、老人の頭へ押しあてながら、額や顔から血を拭きとろうと無意味な努力をした(これもあとから思い出したことである)。しかし、ハンカチも見る見るずぶずぶに濡れてしまった。
『ああ、何のためにこんなことをしてるんだ?』ミーチャはふいとわれに返った。『もし割ってしまったとしても、今それを確めるわけにゆきゃしない……それに、もうこうなったら同じことじゃないか?』とつぜん絶望に充ちた心もちで、彼はこうつけたした。『殺したものは殺したのさ……運の悪いところへ爺さんが来あわしたのだ、じっとそこに臥てるがいい!』と大きな声で言って、彼はいきなり塀に跳りかかり、横町へひらりと飛びおりると、そのまままっしぐらに駆け出した。
 彼は血でずぶずぶになったハンカチを丸めて、右手に握っていたが、走りながらフロックのうしろかくしへ押し込んだ。彼は飛ぶように走った。その夜まっ暗な往来で、まれに彼に行きあった幾人かの通行人は、猛烈な勢いで走り過ぎた男があったことを、後になって思い出した。彼はふたたびモローゾヴァの家をさして飛んで行ったのである。さきほどフェーニャは、彼の立ち去ったすぐあとで、門番頭のナザールのところへ飛んで行き、『後生一生のお願いだから、あの大尉さんを今日も明日も、決して通さないでちょうだい』と哀願した。ナザールは様子を聞いて、さっそく承知したけれど、運わるく二階の奥さんに呼ばれて、ちょっとそのほうへ出かけた。その途中で、つい近ごろ田舎から出たばかりの甥、二十ばかりの若者に出会ったので、代りに門の番をするように言いつけたが、大尉さんのことはすっかり忘れてしまった。門のそばまで駆けつけたミーチャは、どんどん戸を叩き始めた。若者はすぐに彼の顔を見分けた。ミーチャが一度ならずこの若者に茶代を与えたからである。若者は、早速くぐりを開けて中へ通し、陽気な微笑を浮べながら、『アグラフェーナさまはいまお留守ですよ』と警戒するような調子で急いでこう知らせた。
「どこへ行ったんだい、プローホル?」とミーチャはとつぜん足をとめた。
「さっき二時間ほど前に、チモフェイの馬車でモークロエヘおいでになりました。」
「何しに?」とミーチャは叫んだ。
「そりゃわかりませんなあ。何でも、将校とやらのところですよ。誰だか奥さまに来いと言って、そこから馬車をよこしましたんで……」
 ミーチャは若者をうち捨てて、気ちがいのように、フェーニャのもとをさして駆け出した。

(底本:『ドストエーフスキイ全集12 カラマーゾフの兄弟上』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社