『カラマーゾフの兄弟』第九篇第六章 袋の鼠

[#3字下げ]第六 袋の鼠[#「第六 袋の鼠」は中見出し]

 ミーチャにとってはまったく予想外な、驚くべきことがはじまった。以前、いな、つい一分間まえまでも、彼は誰にもせよ自分に対して、ミーチャ・カラマーゾフに対して、こんな振舞いをなし得ようとは、夢にも想像できないことであった! それは何よりも屈辱であった。検事らの分際として、『傲慢な、人を馬鹿にした』やり方であった。フロックを脱ぐくらいならまだしもだが、彼らは下着まで脱いでくれと頼んだ。しかも、その実、願うのではなく命令するのであった。彼はこれを十分に悟った。彼は矜恃と軽蔑の情のために、無言のまま一から十まで彼らの命令にしたがった。カーテンの陰には、ニコライのほか検事も入った。幾人かの百姓も列席した。『むろん、腕力の必要に備えたのだ』とミーチャは考えた。『それから、まだ何かほかにわけがあるのだろう。』
「どうです、シャツも脱ぐんですか?」と彼は言葉するどく訊ねた。しかし、ニコライはミーチャに答えなかった。彼は検事と二人でフロックや、ズボンや、チョッキや、帽子などの取り調べに熱中していたのである。二人ともこの取り調べに非常な興味をいだいているらしかった。『まるで遠慮も何もありゃしない』という考えがミーチャの頭にひらめいた。『そのうえ、通り一ペんの礼儀さえ無視していやがる。』
「もう一度お訊ねしますが、シャツを脱がなければならんのですか、どうでしょう?」彼はいよいよ言葉するどく、いよいよいらだたしそうに言った。
「心配ご無用です。こっちの方からそう言いますから」と、ニコライは妙に役人くさい調子で答えた。少くとも、ミーチャにはそう思われた。
 そのうちに予審判事と検事とは、小声で忙しそうに相談を始めた。上衣に、ことに左側のうしろの裾に、大きな血痕がついていたのである。もうすっかり乾いて、こつこつになっていたが、まだあまり揉まれてはいなかった。ズボンもやはりそうであった。ニコライはなお手ずから立会人のいる前で、上衣の襟や、袖口や、ズボンの縫い目などを、丹念に指で撫でまわした。それは明らかに何か捜すためらしかった(むろん金である)。何より癪にさわるのは、ミーチャが服の中に金を縫い込んでいるかもしれない、それくらいのことはしかねないやつだという疑いを、隠そうともしないことである。『これではまるで泥棒あつかいだ、将校に対する態度じゃない』とミーチャはひとりでぶつぶつ言った。検事たちは不思議なほど大っぴらに、彼に関する意見をたがいに述べ合っていた。例えば、やはりカーテンの陰に入って来て、ちょこまかと世話をやいていた書記は、もう調べのすんだ軍帽に、ニコライの注意を向けさせた。
「書記のグリジェンコを憶えていらっしゃいますか」と書記は言った。「いつぞや夏、役所ぜんたいの俸給を代理で受け取りにまいりましたが、帰って来ると、酔っ払って金を落したと申し立てましたね。ところが、あの金はどこから出て来たとお思いになります? ちょうどこんな帽子の縁に、百ルーブリ紙幣がくるくる巻いて入れてあったじゃありませんか、縁に縫いつけてあったのです。」グリジェンコの事件は予審判事も検事もよく記憶していた。で、彼らはミーチャの帽子を脇へのけて、あとからもっと厳重に見直さなければならないと決めた。服もみなそうすることにした。
「これは一たい、」ミーチャのワイシャツの内側へ折り込んだ右の袖口に、血が一面についているのを見つけて、ニコライはやにわにこう叫んだ。「これは一たい何です、血ですか?」
「血です」とミーチャはぶっきら棒に答えた。
「といって、つまり、何の血です、――そして、なぜ袖口が内側へ折り込んであるのです?」
 ミーチャは、グリゴーリイの世話をして袖口をよごしたから、ペルホーチンのところで手を洗うときに、袖口を内側に折り込んだと話した。
「あなたのワイシャツも、やはり押収しなくちゃなりません、非常に大切なものです……証拠物件としてね。」
 ミーチャは顔を真っ赤にして憤激した。
「じゃ、何ですか、私は裸でいるんですか!」と彼は叫んだ。
「心配はご無用です……何とか始末をつけますから、とにかく、今はその靴下も脱いでいただきたいものです。」
「あなたは冗談を言ってるんでしょう? 本当にぜひそうしなけりゃならんのですか?」と言って、ミーチャは目を輝かせた。
「冗談どころの話じゃありません!」とニコライは厳然としてたしなめた。
「仕方がありません、必要だとあれば……私は……」とミーチャは呟き、寝台に腰かけて靴下を脱ぎ始めた。彼はたまらなく恥しかった。みんな着物を着ているのに、自分は裸でいる、そして、不思議にも、着物を脱いだとき、彼はいかにも自分がこの人たちに対して、悪いことでもしているような気がした。ことに奇妙なことには、まったく急に、自分が彼らの誰よりも下等な者になって、彼らも自分を軽蔑する権利を十分もっているということに、みずから同意するような気持になった。『もしみんなが着物を脱いでいるのなら、何も恥しくはない。ところが、自分一人裸になって、それをみんなに見られるなんて、――実に恥さらしだ!』こういう考えが二度も三度も、彼の頭にひらめいた!『まるで夢のようだ、おれは夢でときどきこんな恥辱にあうことがある。』しかし、靴下を脱ぐことは、彼にとってむしろ苦痛であった。靴下は非常に汚れているし、肌着もやはりそうであった、それを今みんなに見られるのだ。しかし、それよりも、彼は自分ながら自分の足を好かなかった。いつも自分の大きな足の指を見ると、どういうわけか片輪のような気がした。ことに、妙に下へ曲った、平ったい不恰好な右足の爪が一つ、どうにもいやでたまらなかった。それを今みんなに見られるのだ。彼はたえがたい羞恥のために、急にわざと前よりよけい乱暴になった。彼は自分から引っぺがすようにしてワイシャツを脱いだ。
「まだどこかに捜したいところはありませんか? ただし、気恥しくなかったら……」
「いや、まだしばらく必要はありません。」
「一たいわたしはこうして裸でいるんですか?」と彼は勢い猛
《もう》につけ加えた。
「そうです、しばらくのあいだ仕方がありませんなあ……恐れ入りますが、ちょっとここへ腰かけて、寝台から毛布でも取って、引っかけていて下さいませんか。私は……私はこれをすっかり始末しますから。」
 彼らは一切の品物を立会人たちに見せて、調査記録を作った。とうとうニコライは出て行った。つづいて、衣服も持って行かれた。イッポリートも出て行った。ミーチャのそばにはただ百姓たちだけが残って、ミーチャから目を放さないようにしながら、黙って突っ立っていた。ミーチャは毛布にくるまった。寒くなったのである。あらわな足が外に突き出ていたけれど、彼はどうしても、うまく毛布をかぶせてその足を隠すことができなかった。ニコライはなぜか長い間、『じれったいほど長いあいだ』帰って来なかった。『人を犬の子かなんぞのように思ってやがる』とミーチャは歯ぎしりした。『あのやくざ者の検事まで出て行きやがった。たぶんおれを軽蔑してるんだろう、裸の人間を見てるのが気持わるくなったのだろう。』しかし、ミーチャはそれにしても、着物はどこかあちらで検査をすましたら、また持って帰ることと想像していた。ところへ、ニコライがまるで別な着物を百姓に持たせて、とつぜん部屋へ帰って来たとき、ミーチャは何ともいえぬ憤懣を感じた。
「さあ、着物を持って来ました」とニコライは気軽にこう言った。彼は見たところ、いかにも自分の奔走が成功したのに満足らしい様子であった。「これはカルガーノフ君が、この興味ある事件のために寄付されたのです。きれいなワイシャツもあなたに進呈するそうです。ちょうど幸い、こんなものがすっかり、あの人の鞄の中にあったものですからね。肌着と靴下とは、ご自分のをそのままお使いになってよろしいです。」
 ミーチャは恐ろしく激昂した。
「人の服なんかいやだ」と彼はもの凄い声で叫んだ。「私のを持って来て下さい。」
「それはできません。」
「私のを持って来て下さい。カルガーノフなんか吹っ飛ばしてしまえ。あいつの着物も、あいつ自身も真っ平ごめんだ!」
 人々は長い間ミーチャをなだめて、ようやくどうにかこうにか落ちつかせた。そして、あの服は血でよごれているから、『証拠物件の中に入れ』なければならぬとか、今では当局者も彼にその服を着せておく『権利さえもっていないのです……事件がどんなふうに終結するかわからないですからね』などと言って聞かせた。ミーチャはようやく合点した。彼は陰欝な顔をして黙っていたが、それでもとうとう服を着はじめた。彼は服を着ながら、このほうが自分の古い服より品がいいから、これを『利用する』のはいやだけれど、などと言った。『なさけないほど窮屈だ。一たい私はこんなものを着て、案山子の真似でもしなくちゃならんのですか……みなさんのお慰みにね?』
 一同はふたたび彼に向って、それもあまり誇張しすぎている、実際カルガーノフ氏は少々背が高いが、それもほんの少しばかりで、ズボンがほんの心もち長いだけだ、と言って聞かせた、けれども、上衣の肩は実際せまかった。
「ええ、畜生、ボタンもうまくかかりゃしない」とミーチャは唸るように言った。「どうか今すぐ私の名で、カルガーノフ君にそう言って下さい。私が頼んであの人の服を借りたんじゃない、かえってみんなが寄ってたかって、わたしを道化者に変装させたんだってね。」
「あの人はそれをよく知っていて、非常に残念がっています……もっとも、自分の着物を惜しがっているのじゃありませんよ、つまり、今度の出来事ぜんたいを遺憾としているのです」とニコライは口の中でもぐもぐ言った。
「あんなやつの同情なんか、くそを食らえだ! さあ、これからどこへ行くんです? それとも、まだやはりここに腰かけてるんですか?」
 人々はまた『あの部屋』へ行ってもらいたい、とミーチャに頼んだ。彼は憎悪のために渋い顔をしかめながら、努めて誰をも見ないようにして出て行った。彼は人の服を着ているので、百姓たちに対しても、トリーフォンに対しても、顔出しのできない人間のような気がした。トリーフォンはなぜかだしぬけに、ちらりと戸口から顔を覗けて、すぐにまた引っ込んだのである。『余興の仮装を見に来やがったんだな』とミーチャは思った。彼は前と同じ椅子に腰かけた。悪夢のような馬鹿げたことが頭に浮んで、彼は自分が正気を失っているように思われた。
「さ、今度はどうするんです。私を鞭で引っぱたこうとでも言うんですか。もうそれ以外何もすることがありませんからね」と彼は歯ぎしりしながら、検事に向って言った。
 彼はもうニコライとは、話をする値うちもないとでも言ったように、そのほうへは振り向こうともしなかった。『ひとの靴下をむやみに厳重に調べたものだ。その上、あの馬鹿野郎、わざと裏がえしにしてまで見やがったんだ。あれは、おれの肌につけてるものがどんなに汚いかってことを、みんなに見せるためにわざとしたんだ。』
「では、これから証人の審問に移りましょう。」ドミートリイの問いに答えでもするように、ニコライはこう言った。
「そうですなあ。」やはり何か思いめぐらしている様子で、検事は考えぶかそうに言った。
「ドミートリイ・フョードロヴィッチ、われわれはあなたの利益のためにできるだけのことをしました」とニコライは言葉をつづけた。「しかし、あなたはご所持の金の出どころについて、ああいうふうにだんぜん説明を拒絶してしまわれたのですから、われわれは……」
「ときに、あなたのその指環は何です?」ミーチャは何か瞑想状態からさめでもしたように、ニコライの右手に飾ってある三つの大きな指環の一つを指さしながら、にわかにこう遮った。
「指環?」とニコライはびっくりして問い返した。
「そうです、その指環です……その中指に嵌った、細い筋のたくさんあるのは、一たい何という石ですか?」とミーチャはまるで強情な子供のように、いらいらした調子でしつこく訊いた。
「これは霞トパーズですよ。」ニコライはにたりと笑った。「お望みなら、抜いてお目にかけましょう。」
「いや、いや、抜いていただかなくってもいいです!」ミーチャは急にわれに返って、自分で自身に腹を立てながら、兇猛な勢いでこう叫んだ。「抜かないで下さい、そんな必要はありません……ばかばかしい……みなさん、あなた方は私の魂を穢してしまいました! よしんば、本当に私が親父を殺したにもせよ、あなた方に隠しだてをしたり、ごまかしたり、嘘を言ったり、逃げ隠れたりするでしょうか? 一たい、あなた方はそんなことを考えておられるんですか! いや、ドミートリイ・カラマーゾフはそんな男じゃありません。そんなことが平気でできる男じゃありません。もし私が罪を犯したのなら、あなた方の到着や、最初予定していた日の出など、べんべんと待ちゃしません。夜の明けるのを待たずに自殺してしまいます! わたしはことに今これを痛感します。私が生れて以来、二十年間に学んだことも、この呪うべき夜に悟ったことには、はるか及ばないくらいです。それに、もし私が本当に親父を殺したのなら、どうして今夜、いま、この瞬間、あなた方と対坐しながら、こんな態度がとられましょう、どうしてこういう話しぶりができましょう、どうしてあなた方や、世間に対して、こんな見方ができましょう……私はグリゴーリイを誤って殺してさえ、夜どおし不安でたまらなかったのです、――しかし、それは恐怖のためじゃありません、なんの、あなた方の刑罰が恐ろしいからじゃありません! ただ恥辱を思うからです! それだのに、あなた方は私の新しい卑劣な穢らわしい行為を、まだこの上、打ち明けろと言われるのです。しかし、たとえそれで疑いがはれようとも、あなた方のような何一つ見ることもできない、もぐらもちにもひとしい皮肉やに話すのは厭です、いっそ懲役へやって下さい! 親父に戸をあけさせて、その戸口から入った者が親父を殺したのです、親父の金を盗んだのです。しかし、その者が誰かというだんになると、――私は途方にくれてしまいます。いらいらしてきます。が、それはドミートリイ・カラマーゾフじゃありません。その点をご承知ください。私があなた方に言い得るのは、これだけです。もうたくさん、たくさんです、しつこく訊かないで下さい……勝手に流刑にするなり、罰するなりして下さい。だが、もういらいらさせるのだけはごめん蒙ります。これで私は口をきかないから、勝手に証人をお呼びなさい!」
 ミーチャはもう断じて口をきくまいと、前もって決心していたかのように、この唐突なモノローグを結んだ。検事は絶えず彼を注視していたが、彼が口をつぐむやいなや、きわめてひややかな、きわめて落ちついた態度で、まるで恐ろしく平凡なことでも話すように、突然こう言いだした。
「あなたはいま戸を開けた者と言われましたが、そのついでにちょっとお話ししておきたいことがあります。それはきわめて興味のあることで、あなたにとっても、われわれにとっても、きわめて重大なことです。というのは、あなたのために傷つけられたグリゴーリイ老人の申し立てです。老人は玄関に出ると、庭のほうにあたって妙に騒々しい物音を聞きつけたので、開け放しの木戸を通って、庭へ入って行こうと決心したのです。ちょうどそのとき、庭へ入ろうとすると、さっきあなたがお話しなすったとおり、ご親父の覗いていられる開け放しの窓を離れて、闇の中を逃げて行くあなたの姿を見つけたのです。ところが、その前にグリゴーリイは左のほうを眺めた途端、実際その窓が開いているのに気がついたそうです。しかし、それと同時に、窓よりずっと手前にある出口の戸が、一ぱいに開け放してあるのを見定めたと、老人は正気に返ったとき、われわれの質問に対して明瞭に断言しました。あなたは自分が庭の中にいる間じゅう、戸はちゃんと閉まっていたと申されましたね。しかし、私は隠さずに言いますが、グリゴーリイ自身が確言確証したところによると、あなたはその戸口から逃げ出したはずです。むろん、老人はあなたが逃げ出すところを、自分の目で見たわけじゃありませんよ。初めてあなたを見つけたのは、あなたがだいぶ離れた庭の中を、塀のほうへ走って行くところでしたからね……」
 ミーチャは話なかばで椅子から飛びあがった。
「嘘です!」彼はとつぜん前後を忘れて、こう叫んだ。「生意気なでたらめです! あの男が戸の開いたところを見るはずがありません。あのとき戸は閉まっていたんです……あいつが嘘を言ったのです。」
「私は義務として、もう一度くり返して申しますが、老人の陳述は確固たるものでした。老人はあやふやなことを言いません。どこまでも自分の陳述を主張しています。しかも、われわれは幾度も問い返したのです。」
「それなんですよ、私もたびたび問い返しました!」とニコライは熱くなって相槌を打った。
「違います。違います! それは私に対する讒誣か、あるいは気ちがいの錯覚です」とミーチャは叫びつづけた。「それはただ気絶したり、血を出したり、傷をしたりしたために、正気づいた時そう思われたのです……そうです、あいつは譫言を言ったのです。」
「そうですなあ、しかし、老人が戸の開いているのを見つけたのは、正気づいた時じゃなくって、まだそのまえ、離れを出て庭へ入った時なのです。」
「いいや、違うと言ったら違うんです、そんなはずはありません! それは、あいつが私を憎んでの讒訴です……あいつが見るはずはありません……私は戸口から逃げ出しゃしないです。」ミーチャは息をはずませながら、こう言った。
 検事はニコライのほうへ振り向いて、言いふくめるような調子で、
「出してごらんなさい。」
「あなたはこの品をご承知ですか?」ふいにニコライは厚い紙で作った、事務用の大きな封筒を取り出して、テーブルの上へのせた。それにはまだ三《み》ところに封印が残っていた。
 封筒の中身は空っぽで、一方の端がやぶかれていた。ミーチャは目を丸くしながら、
「それは……それはきっと親父の封筒ですよ」と彼は呟いた。「その中にあの三千ルーブリの金が入っていたのです……もし例の宛名があったら……ちょっと拝見。『雛鳥へ』……やっぱりそうです、三千ルーブリです。」彼は叫んだ。「三千ルーブリ、おわかりでしょう?」
「むろん、わかりますとも。しかし、金はもう中に入っていませんでした。封筒は空っぽになって、床の上に転がっていました。衝立ての陰にある寝台のそばに落ちていました。」
 ややしばらくミーチャは呆気にとられたように、突っ立っていた。
「みなさん、それはスメルジャコフです!」とつぜん彼は、力一ぱいに叫んだ。「あいつが殺したのです、あいつが強奪したのです! 親父の封筒がどこにしまってあるか、それを知ってるのはあいつ一人です……あいつです、今こそ明瞭です!」
「しかし、あなただって封筒のこともご存じなら、その封筒が枕の下にあることも、ちゃんと知っておられたじゃありませんか。」
「そんなことは知りません。私は今まで一度もその封筒を見たことがありません。今はじめて見るので、前にスメルジャコフから聞いただけです……親父がどこへ隠していたか知ってるのは、ただあいつ一人です、私は知らなかったのです……」ミーチャはもうすっかり息を切らしてしまった。
「でも、封筒は亡くなった親父の枕の下に入っていたと、ついさきほど、あなたがわれわれにおっしゃったじゃありませんか。あなたが枕の下にあったと言われるところをみれば、つまり、どこにあるかを知っていられたのじゃありませんか。」
「現にそう書きつけてありますよ」とニコライは相槌をうった。
「嘘です、馬鹿げた話です! 私は枕の下にあることなんか、てんで知らなかったのです。それに、あるいは枕の下ではないかもしれません……私は口から出まかせに、枕の下と言ったのです……スメルジャコフは何と言っていますか? あいつに封筒のありかを訊いたでしょう? スメルジャコフは何と言っています? それは重大なことです……私はわざと嘘を言ったのです……私はよくも考えずに、でたらめに枕の下と言ったのです。ところが、あなた方はいま……まったくつい舌がすべって、でたらめを言うことはよくあるでしょう。ええ、スメルジャコフ一人、ただ、スメルジャコフー人きりです。ほかに誰も知っていた者はありません!………あいつは私にも、どこにあるかを打ち明けなかったのです。あいつです、あいつです、疑いもなくあいつが殺したのです。もう今では、火を見るように明らかです」とミーチャは熱したり激昂したりしながら、ますます夢中になって、連絡もないことを繰り返し叫んだ。「わかりましたか? さあ、はやく、一刻もはやくあいつを捕縛して下さい……私が逃げてしまったあとで、グリゴーリイが正気を失って倒れてるあいだに、あいつが殺したに相違ありません。それはもう明瞭です……あいつが合図をして、親父に戸を開けさせたのです……なぜって、ただあの男がひとり、合図を知ってるだけだからです。合図がなければ、親父は誰が来たって、決して戸を開けやしないはずです……」
「しかし、あなたはまだ一つ忘れておられます。」依然として控え目ではあるが、しかしもはや勝ち誇ったような調子で検事は注意した。「もしあなたのまだいられるときに、まだあなたが庭にいられるときに、もう戸がちゃんと開いていたとすれば、合図をする必要はないじゃありませんか……」
「戸、戸!」ミーチャはこう呟きながら、無言のまま検事を見つめた。彼は力抜けして、また椅子に腰をおろした。
 一同は黙っていた。
「ああ、戸!………それは幽霊だ! 神様も、僕を見棄てたんだ!」彼はもう何の考えもなく、じっと目の前を眺めながら、こう叫んだ。
「そこですよ、ドミートリイ・フョードロヴィッチ」と検事はもったいらしく言った。「まあ、考えてごらんなさい。一方には、戸が確かに開いていて、あなたはその中から逃げ出したのだという、あなたをもわれわれをも圧倒するような申し立てがあるでしょう。また一方には、突然あなたの手に入った金の出所について、あなたは不思議なほど頑固に、ほとんど気ちがいじみた態度で沈黙を守っていられる。ところが、あなた自身の申し立てによると、その金を手に入れる三時間まえには、たった十ルーブリの金を調達するために、ピストルを質に入れたではありませんか。こうした事情を頭において、一つご自分で考えてごらんなさい、一たい、われわれは何を信じたらいいのです、何を基礎としたらいいのです? あなたの心の高潔な叫びを信ずることのできない『冷酷なシニックで皮肉やだ』などと言って、われわれを責めないで下さい……それどころか、われわれの立場も察していただきたいものです……」
 ミーチャは名状しがたい興奮におそわれていた。彼の顔は蒼白になった。
「よろしい!」と彼はだしぬけに叫んだ。「では、秘密を打ち明けましょう、どこから金を手に入れたか打ち明けましょう!……あとであなた方をも自分をも責めることがないように、自分の恥辱を打ち明けましょう。」
「いや、実際のところ、ドミートリイ・フョードロヴィッチ」とニコライは何となく感激したような、嬉しそうな声で口を入れた。「今のような場合に誠意ある完全な告白をなされば、後にあなたの運命を軽減するために、非常な助けになるかもしれませんよ、のみならず……」
 このとき検事はテーブルの下から軽く彼を突っついた。で、彼は危いところで言葉をきることができた。もっとも、ミーチャはそんな言葉に耳をかしていなかったのである。

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第九篇第五章 受難―三

[#3字下げ]第五 受難―三[#「第五 受難―三」は中見出し]

 ミーチャは気むずかしげに話し始めたが、しかし、自分の伝えようとしている事件を、ただの一カ所でも忘れたり言い落したりすまいと、前より一そう骨折っているらしかった。彼は塀を乗り越えて父の家の庭園へ入り込んだことや、窓のそばまで近よったことや、それから最後に、窓の下で演ぜられた出来事などを詳しく物語った。彼はグルーシェンカが父のところに来ているかどうか、一生懸命に知ろう知ろうとあせりながら、庭園の中でさまざまな感情に胸を波立たせたことを、明瞭に、確実に、さながら浮彫のように話して聞かせた。けれど、不思議にも、こんどは検事も予審判事も、何か妙に遠慮がちに耳を貸しながら、そっけなく彼を眺めていた。質問の度数さえずっと減ってしまった。ミーチャは彼らの顔色を見たばかりでは、何ともその心持を判ずることができなかった。『侮辱を感じて怒ってるんだろう』と彼は思った。
『ちぇっ、勝手にしやがれ!』とうとうグルーシェンカが来たという合図をして、父親に窓を開けさせようと決心したくだりを物語った時、検事と予審判事は『合図』という言葉に少しも注意を払わなかった。この言葉がこの場合どんな意味をもっているかが、全然わからないもののようであった。ミーチャさえもこれに気がついたほどである。最後に窓から顔を突き出した父親を見て、かっと憤怒の情が沸きたって、かくしから杵を取り出したその瞬間まで話を進めると、彼は急にわざとのように言葉を切った。彼はじっと坐ったまま壁のほうを見た。人々の目が食い入るように自分を見つめているのを彼は知っていた。
「で」と予審判事は言った。「あなたは兇器を取ったのですね……そ、それからどういうことになりましたね?」
「それからですか? それからぶち殺しましたよ……やつの額をがんとやって、頭蓋骨をぶち割った……とこうあなた方はお考えなのでしょう、そうでしょう!」彼の目は突然ぎらぎらと輝きだした。それまで消えていた憤怒の火は、急に異常な力をもって彼の胸に燃えあがった。
「私たちの考えはそうです。」ニコライは鸚鵡返しにこう言った。「で、あなたのお考えは?」
 ミーチャは目を伏せて、長いこと黙っていた。
「私はね、みなさん、私はこうしましたよ。」彼は静かに言い始めた。「誰かの涙の力でしょうか、死んだ母が神様に祈ったのでしょうか、あるいは天使がその瞬間、私に接吻したのでしょうか、――どういうわけだか知りませんが、とにかく悪魔が征服されたのです。私は窓のそばから飛びのいて、塀のほうへ駆け出しました……親父はびっくりしました。そして、その時はじめて私の顔を見分けて、あっと叫びながら窓のそばを飛びのきました……私はそれをよく憶えています。私は庭を横切って、塀のほうへ行きました……ところが、もう塀の上に昇ってしまった時、グリゴーリイが私に追いついたのです……」
 このとき彼はとうとう目を上げて聴き手を見た。聴き手は妙に冷静な注意をもって、彼を眺めているようであった。一種憤懣の痙攣がミーチャの心をさっと流れた。
「みなさん、あなた方はいま私を笑ってるんですね!」と彼は急に言葉を切った。
「どうしてそうお考えになるのです?」とニコライは言った。
「それはあなた方が、私の言葉を一ことも信用して下さらんからです、ええ、そうです! そりゃもう私にだってわかりますよ。私は一番だいじなところまで話してきたのです。老人は頭を割られて、今あそこに倒れています。ところが、私はどうでしょう――いよいよ殺そうという気で、杵を手にした悲劇的な光景を描きながら、急に窓のそばから逃げ出したなんて……叙事詩です! 詩になりそうなことです! 若造の言うことがそのまま信じられるものですか! はっ、はっ! みなさん、あなた方は皮肉やですねえ!」
 こう言って、彼は椅子に坐ったまま、くるりと体をねじって、そっぽを向いた。椅子がめきめきと音をたてた。
「だが、あなたは気がつかなかったですか?[#「気がつかなかったですか?」はママ]」検事はミーチャの興奮にまるで注意しないらしく、突然こう口を切った。「あなたは窓のそばから逃げだす時、離れの向う側にある庭に向いた戸が開いていたかどうか、気がつきませんでしたか?」
「いいえ、開いてはいなかったです。」
「開いていなかった?」
「むろんしまっていました。それに、誰が開けるもんですか? そうだ、戸はと[#「戸はと」はママ]、ちょっと待って下さい!」彼は急にわれに返ったようなふうで、ぶるぶると微かに身顫いした。「では、あなた方がごらんになった時、戸は開いてたんですね?」
「開いてました。」
「もしあなた方自身でないとすれば、一たい誰が開けたんだろう?」ミーチャは急に恐ろしく仰天した。
「戸は開いていました。あなたのご親父を殺したものは、疑いもなくこの戸から入ったのです。そして、兇行を演じてしまうと、またこの戸口から出て行ったに相違ありません。」検事はえぐるような調子で、そろそろと一語一語くぎりながら言った。「これはわれわれには明白です。兇行が演ぜられたのは確かに室内で、窓ごし[#「窓ごし」に傍点]ではありません。これは臨検の結果から見ても、また死体の位置やその他の事柄から見ても、十分明々白白です。この点には毫も疑いの余地がありません。」
 ミーチャは恐ろしく動顛してしまった。
「でも、みなさん、そんなはずはありませんよ!」と彼はすっかり度を失って叫んだ。「私は……私は入りません……私は確かに、私は正確に断言します。私が庭の中におった時も、庭から逃げ出した時も、戸は初めからしまいまで閉っていました。私はただ窓の下に立っていて、窓ごしに親父を見ただけです、ただそれだけです……私は最後の一瞬間まで憶えています。また、よしんば憶えていないまでも、ちゃんと、わかっています。なぜと言って、あの合図[#「合図」に傍点]を知っているものは、私とスメルジャコフと、そして亡くなった親父だけなのです。合図がなけりゃ、親父は世界じゅうのどんな人間が来たって、金輪際、戸を開けるこっちゃありません!」
「合図? その合図というのは何です?」検事は貪るような、ほとんどヒステリイに近い好奇心を現わしながら、こう言った。彼は慎重ないかめしい態度を一時になくしてしまった。彼はおずおずと匐い寄るように問いかけた。彼はまだ自分の知らない、重大な事実のあることを感じた。そして、またすぐ、ミーチャがその事実をすっかり打ち明けないかもしれぬ、という非常な恐怖をも感じたのである。
「じゃ、あなた方は知らなかったのですね!」とミーチャは嘲るような、にくにくしげな薄笑いを浮べながら、検事に向って目をぱちりとさせた。「もし私が言わなかったらどうします? 一たい誰から聞き出すことができるでしょう? 合図のことを知っているのは、亡くなった親父と、私と、それからスメルジャコフと、それっきりなんですよ。ああ、それからまだ天道さまも知っています。だが、天道さまはあなた方に教えてくれませんよ。なかなか面白い事実でしてね、これを基にしたら、どんな楼閣でも築き上げることができますよ。はっ、はっ! しかし、みなさんご安心なさい、打ち明けますよ。あなた方も馬鹿なことを考えて心配していますね。一たい私をどんな人間だと思っているんです! あなた方の相手にしていられる被告は、みずから自分のことを白状して、わが身を不利に落すような人間なんです! そうです。なぜと言って、私は名誉を護るナイトだからで。ところが、あなた方はそうじゃありません!」
 検事はさまざまな当てこすりを黙って聞いていた。彼はただ新しい事実が知りたさに、いらだたしげに身慄いしていた。ミーチャは、父がスメルジャコフのために案出した合図を、一つ残らず正確に詳しく話して聞かせた。彼は、窓をとんとんと叩く一つ一つの音が、どんな意味をもっているかを物語った。彼はこの合図をテーブルで叩き分けてまでみせた。また、彼ミーチャが老人の窓を叩いた時、『グルーシェンカが来た』という意味の合図をしたのか、と訊ねたニコライの問いに対して、彼は確かに『グルーシェンカが来た』という合図をしたのだと答えた。
「さあ、これであなた方は楼閣をお築きなさい!」と言ってミーチャは言葉を切り、また軽蔑するように一同から顔をそむけた。
「では、この合図を知っているものは、亡くなられたご親父と、あなたと、下男のスメルジャコフだけだったのですね? もうそれ以外にはありませんか?」も一度ニコライは念を押した。
「そうです、下男のスメルジャコフと、それから天道さまです。天道さまのことも書きつけて下さい。これを書きつけておくのも無駄ではないでしょう。それに、神様はあなた方ご自身にとっても必要なことがありますよ。」
 もちろん、さっそく書きつけにかかった。が、書記が書きつけている間に、検事は思いがけなく新しいことを思いついたように、突然こう言いだした。
「もしその合図をスメルジャコフが知っていたとして、そしてあなたがご親父の死に関する嫌疑を頭っから否定される場合には、約束の合図をしてご親父に戸を開けさせ、それから……兇行を演じたのは、そのスメルジャコフではありませんか?」
 ミーチャはふかい嘲笑のまなざしで、しかし同時に、恐ろしい憎悪の色をうかべながら検事を見た。彼は無言のまま長いこと見つめていたので、検事も目をしぱしぱさせはじめた[#「しぱしぱさせはじめた」はママ]。
「また狐を捕まえましたね!」ミーチャはとうとう口を切った。「また悪者の尻尾をひっ掴みましたね。へっ、へっ! 検事さん、あなたの肚の中はちゃんと見えすいていますよ! あなたは私がすぐに飛びあがって、いきなりあなたの助言にしがみつき、『ああ、それはスメルジャコフです、あれが犯人です!』と喉一ぱいの声で呶鳴るだろう、とこうお考えになったんでしょう。白状なさい、そう考えたんでしょう。白状なさい、でなけりゃ、先を話しませんよ。」
 けれど、検事は白状しなかった。彼は黙って待っていた。
「あなたのお考えは間違っています。私はスメルジャコフだなんて喚きませんよ!」とミーチャは言った。
「では、あの男を少しも疑わないのですか?」
「あなた方は疑っておいでですか?」
「あの男も疑いました。」
 ミーチャはじっと目を床の上に落した。
「冗談はさておいて」と彼は陰欝な調子で言いだした。「ねえ、みなさん、私は最初から、さっきあのカーテンの陰からあなた方のところへ駈け出した時から、もう『スメルジャコフだ!』という考えが私の頭にひらめいたんです。ここでテーブルのそばに腰をかけて、あの血を流したのは自分じゃないと叫びながらも、私は、『スメルジャコフだ』と考えていました。スメルジャコフは、私の心から離れなかったのです、今もまた突然『スメルジャコフだ』と考えました。が、それはほんの瞬間で、すぐそれと同時に、『いや、スメルジャコフではない!』と考えました。みなさん、あれはやつの仕事じゃありませんよ!」
「そうすると、ほかに誰かあなたの疑わしいと思う人物はありませんか?」とニコライは用心ぶかい調子で問いかけた。
「一たい誰なのか、どういう人物なのか、天の手か、それとも悪魔の手か、私には一切、わかりません。しかし……スメルジャコフではありません!」とミーチャはきっぱり断ち切るように言った。
「しかし、なぜあなたはそう頑固に、そして執拗に、あの男でないと断言されるのです?」
「信念です、印象です。なぜかと言えば、スメルジャコフはごく下司な人間で、そのうえ臆病者だからです。いや、臆病者ではありません、二本脚で歩く世界じゅうの臆病の塊です。あの男は牝鶏から生れたんです。私と話をする時でも、こっちが手を振り上げもしないのに、殺されはしないかと思って、いつもぶるぶる慄えています。あいつは私の脚もとで、四つん這いになって涙を流しながら、文字どおりに私のこの靴を接吻して、『嚇かさないで下さい』と言って哀願するのです。『嚇かさないで下さい』とはどうです、――何という言葉でしょう? ですが、私はあの男に金を恵んでやったくらいです。あいつは癲癇やみの薄馬鹿の、ひ弱い牡鶏です。八つの小僧っ子でもぶちのめすことができますよ。これがそもそも一人前の人間でしょうか? スメルジャコフじゃありませんよ、みなさん。それに、あいつは金をほしがらないんですからね。私が金をやっても取ったことはありません……第一、あいつが何のために親父を殺すんです? だって、あいつは親父の息子らしいんです、隠し子らしいんですよ。あなた方もご存じでしょう?」
「われわれもその昔話は聞きました。しかし、あなたもご親父の息子さんじゃありませんか。それにあなた自身みんなの前で、親父を殺してやると言われたじゃありませんか。」
「一つ探りを入れましたね! しかも、質の悪い下劣な探りです! 私はびくともしませんよ! ねえ、みなさん、私の目の前でそんなことを言うのは、あまり陋劣すぎるかもしれませんよ! なぜ陋劣かと言えば、私が自分からあなた方にそう言ったからです。私は殺そうと思ったばかりか、殺したかもしれないのです。おまけに、すんでのことで殺すところだったと、潔く自白しているじゃありませんか。しかし、私は親父を殺さなかった、私の守り神が私を救ったのです!………あなた方はこのことを考慮に入れなかったですね……だから、あなた方を陋劣だと言うんですよ。なぜって、私は殺さなかったからです、殺さなかったからです! わかりましたか、検事さん、殺さなかったんですよ!」
 彼はもう喘ぎ喘ぎ言っていた。彼がこんなに興奮したことは、長い審問中まだ一度もなかったのである。
「ところで、みなさん、あのスメルジャコフは、あなた方にどんなことを言いました?」彼はしばらく無言ののち、にわかにこう言って言葉を結んだ。「それを聞かせてもらえませんか?」
「どんなことでもお訊きになってかまわないですよ」と検事はひややかな、いかめしい態度で答えた。「事件の事実的方面に関したことならば、どんなことでもお訊き下さい。繰り返して申しますが、われわれはあなたからどんな問いを出されても、それに対して十分満足な答えをすべき義務があるのです。お訊ねの下男スメルジャコフを見つけた時、当人は立てつづけに十度も繰り返して襲ったかと思われる非常に烈しい癲癇の発作にかかって、意識を失ったまま病床に横たわっていました。一緒に臨検した医師は患者を診察すると、とても朝までもつまいとさえ言ったほどです。」
「ふむ、それじゃ親父を殺したのは悪魔だ!」と、ミーチャは思わず口走った。彼はその瞬間まで『スメルジャコフだろうか、それとも違うかしらん?』としきりに自問していたらしい。
「またあとで、もう一度この事実に戻ることとして」とニコライは決めた。「今はさきほどの陳述をつづけていただけないでしょうか。」
 ミーチャは休息を乞うた。検事側は慇懃にそれを許可した、一息いれると、彼はつづきを話しだしたが、よほど苦しそうであった。彼は精神上の苦痛と、屈辱と、動乱とを感じたのである。それに、検事も今はわざとのように、『瑣末な事柄』に拘泥して、絶えずミーチャをいらだたせはじめた。ミーチャが塀の上に馬乗りになって、自分の左脚に縋りついたグリゴーリイの頭を杵で撲りつけると、そのまますぐ倒れた老僕のほうへ飛びおりた、という話をするやいなや、検事は急にミーチャを押し止めて、塀の上に馬乗りになっていた時の様子を、もっと詳しく話してもらいたいと言った。ミーチャはびっくりして、
「なに、それはこういうふうに腰かけたんです、馬乗りに跨ったんです、一方の脚をあっちに、いま一方をこっちに……」
「で、杵は?」
「杵は手に持っていました。」
「かくしの中じゃなかったですか? あなたはそれを詳しく記憶していますか? どうです、あなたは強く手を振りましたか?」
「それはきっと強かったでしょうね、そんなことを何にするんです?」
「あなたがそのとき塀の上に腰かけたと同じように、一つその椅子に腰をかけて、どっちへどう手をお振りになったか、よくわかるように、手真似をして見せていただけませんか。」
「あなた方は、また私をからかっていられるんですね。」ミーチャは傲然と訊問者を見つめながら、こう訊いた。が、相手は瞬き一つしなかった。
 ミーチャは痙攣的にくるりと向きを変えて、椅子の上に馬乗りになって片手を振った。
「こういうふうに撲ったのです! こういうふうに殺したのです! それから、何が入り用です?」
「有難う。では、ご苦労でしょうが、も一つ説明していただけませんか、一たい何のために下へ飛びおりたんです、どういう目的があったのです、つまり、どういうつもりだったのです。」
「ちょっ、うるさい……倒れた者のそばへ飛びおりたのは……何のためだったかわかりません!」
「あれほど興奮していながらですか? 逃げ出していながらですか?」
「そうです、興奮していながらです、逃げ出しながらです。」
「では、あの男を助けようとでも思ったのですか?」
「助けるなんて……そうです、あるいは助けるためだったかもしれないが、よく記憶していません。」
「あなたは夢中だったのですか? つまり、一種の無意識状態だったのですか?」
「おお、どういたしまして、決して無意識状態におちいったのじゃありません。私はすっかり記憶しています。一糸乱れず、こまかいことまですっかり記憶しています。傷を見るために飛びおりたんです。そして、ハンカチであれの血を拭いてやりました。」
「われわれもあなたのハンカチを見ました。では、あなたは倒れた者を蘇生させてやりたいと思ったのですね。」
「そんなことを思ったかどうか知りません。ただ生きているかどうかを確かめたかったのです。」
「ははあ、確かめたかったのですか? で、どうでした?」
「私は医者ではないから、どっちかわからなかったです。で、殺したんだと思って逃げ出しました。ところが、あれは蘇生したんです。」
「結構です」と検事は訊問を結んだ。「有難う。ただそれだけが聞きたかったのです。さあ、ご苦労ですが、その先をつづけて下さい。」
 哀れにも、ミーチャは憐愍の心から飛びおりて、死せる老僕のそばに立ちながら、『運の悪いところへ爺さんが来あわしたもんだ。しかし、どうも仕方がない。そのままそこに臥てるがいい』というような、哀れな言葉さえ発したのを記憶していながら、それを話そうなどという考えは、てんで浮ばなかった。ところが、検事はただ次の結論を引き出したばかりである。この男が『あんな瞬間にあんなに興奮していながら』、わざわざ飛びおりたのは、自分の犯罪の唯一[#「唯一」に傍点]の証人が生きているかどうか、正確に突きとめるためにすぎなかった。あんな場合でさえこうであるから、この男の力と決断と冷静と思考力とは量るべからざるものがある……云々、云々。彼は『病的な人間を「些細な事柄」でいらだたせ、知らず識らず口をすべらせた』ことに得意を感じていた。
 ミーチャは苦痛をいだきながら語りつづけた。が、すぐに今後は[#「すぐに今後は」はママ]ニコライがまた彼を押し止めた。
「あなたはあんなに手を血みどろにしたうえ、またあとで話を聞けば、顔にまで血をつけて、よく下女のフェーニャのところへ駈け込まれたものですね?」
「でも、その時は、自分が血みどろになってることに気がつかなかったんです!」とミーチャは答えた。
「それはまったくそうだろう。そういうことはよくあるものです」と言い、検事はニコライと目くばせした。
「まったく気がつかなかったのです。検事さん、あなたはうまく言いましたね」と、ミーチャも急に同意した。やがて進んで『自分が道を譲って』『幸福な二人を見のがそう』と咄嗟の間に決心したことを物語った。しかし、もう彼はどうしてもさっきのように、ふたたび自分の心中をさらけ出して『心の女王』のことを話すことができなかった。彼は『南京虫のように自分に食い込んでいる』この冷酷な人たちの前で、そんなことを話すのがたまらなくいやだった。で、繰り返し訊かれる問いに対しても、ごく手短かにぶっきら棒な調子で答えた。
「それで、自殺をしようと決心しました。何のために生き残る必要があるのだ? という問いが、ひとりでに頭に浮びました。女のもとの恋人、争う余地のないもとの恋人が来たのです、女をだました男ではあるけれど、五年たった今日、正式の結婚で罪ほろぼしをしようとして、愛を捧げにやって来たのです、私は自分にとって万事おわったことを知りました……しかも、うしろには汚辱が控えています。例の血なんです、グリゴーリイの血なんです……どうして生きていられましょう? で、抵当に入れておいたピストルを、受け出しに行ったのです。それに弾丸《たま》を填めて、夜の引き明け頃に自分の頭を撃ちぬくつもりで……」
「しかし、その夜は飲めや騒げの大酒もりですか?」
「その夜は大酒もりです。ええ、くそっ、みなさん、いい加減に切り上げて下さい。確かに自殺しようと思ったんです。すぐその近くでね。朝の五時には、自分で自分の始末をつけるつもりだったので、かくしには書置きまで用意しておきました。ペルホーチンのところで、弾丸を填めた時に書いたんです。その書置きはこれです。読んでみて下さい。しかし、あなた方のために話しているんじゃありませんよ?」
 彼はさげすむように突然こうつけたした。彼は自分のチョッキのかくしから遺書を取り出し、テーブルの上へ投げだした。審問官たちは好奇の念をいだきながら読みくだし、例のごとく一件書類の中へさし加えた。
「では、ペルホーチン君のところへ行った時にも、やはり手を洗おうと思わなかったのですか? つまり、嫌疑を恐れなかったのですね。」
「嫌疑とは何です? 疑われようが疑われまいが、どっちにしたって同じことです。私がここへ駈けつけて、五時にどんとやってしまえば、誰も何ともしようがないじゃありませんか。もし親父の事件がなかったら、あなた方は何もご存じあるまいし、したがって、ここへもおいでにならなかったはずですからね。ああ、これは悪魔のしわざです、悪魔が親父を殺したんです。あなたの方も悪魔のおかげで、こんなにはやく知ったんです! よくもこんなにはやく来られたものですね? 不思議だ、夢のようだ!」
「ペルホーチン君の伝えたところによると、あなたはあの人のところへはいって行ったとき、手に……血みどろになった手に……あなたの金を……大枚の金を……百ルーブリ札の束を持っておられたそうですね。これはあの人のところに使われている小僧も見たそうです。」
「そうです、みなさん、そうだったようです。」
「すると、そこに一つの不審が起ってくるのです。聞かせていただけましょうかね」とニコライはきわめてもの柔かに言い始めた。「一たいあなたはどこからそれほどの金を、とつぜん手にお入れになったのです? 事実からみても、時間の勘定からみても、あなたは家へも寄らなかったじゃありませんか。」
 検事はこの露骨な質問にちょっと顔をしかめたが、べつにニコライの言葉を遮ろうともしなかった。
「そうです、うちへは寄りません」とミーチャは落ちつきはらったような調子で答えたが、目は下のほうを向いていた。
「そういうわけでしたら、どうかもう一ど質問を繰り返させて下さい」とニコライは、おずおず匐い寄りでもするように問いをつづけた。「一たいどこからあれほどの大金を一時に手に入れたのです? だって、あなた自身の自白によると、同じ日の五時頃には……」
「十ルーブリの金に困って、ピストルをペルホーチンのところへ質入れするし、それからまた、ホフラコーヴァ夫人のところへ三千ルーブリの金を借りに行って、まんまと断わられたとか、何とかかとか、くだらないことを並べるんでしょう。」ミーチャは烈しく相手の言葉を遮った。「みなさん、こういう工合で、困ったのは事実です。その時ひょっこり、何千ルーブリという金ができたんです。どうですね? しかし、こうなると、みなさん、あなた方はお二人とも、もしその金の出どころを言わなかったらと思って、びくびくしておいでですね。いや、そのとおりです、言やしません。みなさん、図星ですよ、決して言やしません。」ミーチャはなみなみならぬ決心を示しながら、いきなり断ち切るようにこう言った。
 審問官たちはしばらく黙っていた。
「しかし、カラマーゾフさん、われわれはぜひとも、それを知らなければならないんですがね」とニコライは静かに、つつましやかに言った。
「それはわかっています。が、言いません。」
 すると、検事も口を出して、ふたたび注意した、――審問を受ける者は、そのほうが自分にとって有利だと思ったら、むろん審問に答えないでもよろしい、しかし、そういう場合、被疑者はその沈黙のために、とんでもない損失を受けないものでもない。ことに、これほど重要な審問の場合にはなおさらである、しかもその重要の程度たるや……
「かくかくにしてかくかくなりでしょう。もうたくさんです、そんな説法は前にも聞きましたよ!」とミーチャはふたたび遮った。「それがどんなに重大事だかってことは、私も承知しています、それが最も根本的な要点だ、ということも承知しています、が、やはり言いません。」
「それはわれわれには何の痛痒もありません。これはわれわれのことではなくって、あなたのことなんですよ。あなたが自分で自分を傷つけるばかりですよ」とニコライは神経的に注意した。
「みなさん、冗談はさておいてですね、」ミーチャは目を上げて、きっと二人を見つめた。「私はもう初めっから、われわれがこの点で鉢合せすることを感じていたのです。しかし、最初陳述をはじめた時には、まだ遠い霧の中にあったので、すべてがぼうとしていました。で、私は単純に『われわれ相互の信用』を提議してかかったような次第です。ところが、今になって、そういう信用のあるべきはずがないことを悟りました。なぜって、われわれはどうせ一度、このいまいましい塀にぶっ突からなけりゃならないからです! そして、とうとうぶっ突かったのです! 駄目です、万事休すです! しかし、私はあなた方を責めません。あなた方も口先だけで私を信ずるわけにはいかないでしょう。それはよくわかっています。」
 彼は暗然として口をつぐんだ。
「では、重大な点を語るまいというあなたの決心と抵触しないで、しかもそれと同時にですね、これほど危険な陳述に際しても、なおあなたに沈黙を守らせる、この強い動機が何であるかということを、ちょっとでも仄めかしていただくわけにはゆかないものでしょうか?」
 ミーチャは沈んだ、妙に考えぶかそうな微笑をうかべた。
「みなさん、私はあなた方が考えておられるより、ずっと人がいいんですよ。だから、沈黙のわけを話しましょう。ちょっと仄めかしてあげましょう。もっとも、あなた方にそんな価値はないんですがね。みなさん、私が沈黙するのは、私にとって汚辱だからです。どこからあの金を持って来たかという訊問に対する答えの中には、よしんば私が親父を殺して彼のものを強奪したとしても、その殺人や強盗などさえ比較にならんほど、重大な問題がふくまれているのです。だから、言えないのです。汚辱のために言えないのです。みなさん、これも書きつけますか。」
「書きつけますよ」とニコライはへどもどしたように呟いた。
「でも、あれは、『汚辱』のことは、書きつけないのが至当でしょう。私がこれを白状したのは、ただ人のいいためです、白状しないでもよかったのです。つまり、あなた方に進呈したのです。それに、あなた方はすぐさま一々書きつけなさる。いや、まあ、お書きなさい、どうとも存分にお書きなさい。」彼は軽蔑するように気むずかしげな調子で言葉を結んだ。「私はあなた方を恐れやしません……あなた方に対して誇りを感じています。」
「では、その汚辱というのは、どんな種類のものか、一つ話していただけませんか?」ニコライはまごつき気味で、こう言った。
 検事は恐ろしく顔をしかめた。
「駄目です、駄目です、C'est fini([#割り注]もうそれきりです[#割り注終わり])を折るだけ損ですよ。それに、穢らわしい思いをする価値はありません。もういい加減あなた方を相手にして、穢らわしい思いをしたんですから。あなた方は聞く資格がないんです、あなた方にかぎらず誰ひとり……みなさん、もうたくさんです、もう、打ち切ります。」
 その語調は思いきって断乎としていた。ニコライはしいて訊くことをやめた。しかし、イッポリートの目つきで、彼がまだ望みを失わずにいることを、すぐに見てとった。
「では、せめてこれだけでも聞かして下さい。あなたがペルホーチン氏のところへ行った時、あなたの手にどのくらいの金額があったのです、つまり、幾ルーブリあったのです?」
「それをお話しすることはできません。」
「あなたはペルホーチン君に、ホフラコーヴァ夫人から三千ルーブリ借りて来た、とかおっしゃったそうじゃありませんか?」
「たぶんそう言ったでしょう。だが、みなさん、もうたくさんですよ、もう決して言いませんよ。」
「そういうことなら、ご面倒でしょうが、あなたがここへいらっしゃる時の様子と、ここへ来てからなすったことを、残らず話して下さいませんか?」
「ああ、そのことならここの人たちに訊いて下さい。しかし、私が話してもいいです。」
 彼は物語った。けれど、筆者《わたし》はもうその物語をここで繰り返すまい。彼はそっけない調子でざっと話した。が、自分の恋の歓喜については、一ことも話さなかった。しかし、自殺しようという決心が、『ある新しい事実のために』消え失せたことだけは話した。彼は動機の説明やデテールを避けながら物語ったのである。しかし、予審判事も今度はあまり彼を苦しめなかった。この場合、彼らにとって重大な問題は、こんなところに存するのではないことは明らかであった。
「それはすっかりよく調べてみましょう。どうせ、証人喚問の時に、もう一度その問題に戻らなけりゃならないんですから。証人の喚問はむろん、あなたの面前で執行することにします」と言い、ニコライは審問を終えた。「ところで、もう一つあなたにお願いがあるのです。どうかこのテーブルの上へ、あなたの身についている品物、ことにいま持っていられる金を、残らず出して下さいませんか。」
「金ですって? さあさあ、私もよくわかっていますよ、それは必要なことでしょう。もっと早く言いだされなかったのが不思議なくらいですよ。もっとも、私はどこへも行かずに、ちゃんとお目の前に控えていましたがね、さあ、これが金です、わたしの金です。さあ、数えて下さい。手に取ってごらんなさい、これでみんなだと思います。」
 彼は方々のかくしから、はした金まですっかり出してしまった。チョッキの脇についているかくしからも、二十コペイカの銀貨を二枚出した。数えてみると、八百三十六ルーブリ四十コペイカあった。
「これでみんなですか?」と予審判事は訊いた。
「みんなです。」
「あなたはたったいま陳述のとき、プロートニコフの店に三百ルーブリおいて来た、と言われたじゃありませんか。ペルホーチンに十ルーブリかえし、馭者に二十ルーブリやり、カルタで二百ルーブリまけて、それから……」
 ニコライは何から何まで数え上げた。ミーチャは自分から進んで手つだった。いろいろ考えて、一コペイカも落さないように計算の中に加えた。ニコライはざっと締めをしてみた。
「してみると、この八百ルーブリを加えて、都合千五百ルーブリばかり初めに持っていられたのですね?」
「そうなるわけですな」とミーチャは断ち切るように言った。
「しかし、誰も彼もが、ずっと多かったと言ってるのは、どういうわけでしょう。」
「勝手に言わせておけばいいじゃありませんか。」
「しかし、あなた自分でも、そう言われたじゃありませんか。」
「私自身もそう言いました。」
「それでは、まだ訊問しないほかの人たちの証明によって、もう一ど取り調べることにしましょう。あなたの金のことについては心配ご無用です。あの金は保管すべきところに保管しておきます。そして、もしあなたがあの金に対して確たる権利をもっておられることがわかれば、と言うよりも、その、証明されれば、一切の……事件が終ったあとで、あなたのご自由にまかせます。そこでと、今度は……」
 ニコライはふいに立ちあがった、そして、『あなたの衣類とその他一切の品物』に対して、精密な検査を行う『必要があるのです、義務ですから仕方がありません』ときっぱり宣言した。
「どうか検査して下さい。みなさん、お望みとあれば、かくしを残らずびっくり返しましょう。」
 実際、彼はかくしを裹がえしにかかった。
「着物を脱いでもらわねばなりません。」
「何です? 着物を脱げ? ちぇっ、ばかばかしい! このまま捜して下さい。それじゃいけないんですか?」
「ドミートリイ・フョードロヴィッチ、どうしてもそういうわけにゆきません。着物を脱いで下さい。」
「じゃあ、ご勝手に、」ミーチャは暗然としてしたがった。「しかし、ここでなく、カーテンの陰にして下さい。どなたがお調べになるのですか?」
「むろん、カーテンの陰です」と、ニコライは同意のしるしに頷いた。彼の顔は特殊なものものしさをあらわしていた。

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第九篇第四章 受難―二

[#3字下げ]第四 受難―二[#「第四 受難―二」は中見出し]

「ドミートリイ・フョードロヴィッチ、あなたご自分ではおわかりになりますまいが、あなたがそうして、気さくに返事して下さるので、私たちも本当に元気が出て来るというものですよ……」とニコライは活気づいて言い始めた。たったいま眼鏡をはずしたばかりの、強度の近視のためにかなり飛び出した薄い灰色の大きな目には、いかにも満足らしい色が輝いていた。「あなたは今われわれ相互の信用と言われましたが、あれはまったくそのとおりです。その相互の信用がなくては、こういう重大な事件の審理をすることは不可能なくらいです。つまり、被疑者が実際に自己弁明を希望し、またそれをなし得るような場合を意味するのです。で、私たちとしては、自分にできるだけの手段を採りましょう。われわれがこの事件をどういう工合に処理しているかは、あなたが今もごらんになったとおりです……そうではありませんか、イッポリート・キリーロヴィッチ?」とつぜん検事に向ってこう言った。
「ええ、そうですとも」と検事は同意した。しかし、その言葉はニコライの興奮にくらべると、いくらかそっけなかった。
 で、も一ど最後に言っておくが、この町へ新たに赴任したニコライは、ここで活動を開始したそもそもから、検事イッポリートに対してなみなみならぬ敬意をいだき、ほとんど肝胆相照らしていたのである。『勤務上逆境に立っている』わがイッポリートの、図抜けた心理学的才能と、弁才とを、頭から信じきっているものは、ほとんど彼一人であった。彼はイッポリートが逆境に立っているということも、すっかり信じていた。彼はこの検事のことを、まだペテルブルグにいる頃から噂に聞いていた、そのかわり、『逆境に立っている』検事が心から愛する人も、世界じゅうでこの若いニコライただ一人であった。ちょうどここへ来る途中、彼ら二人は目前に控えた事件に関して、何かの打ち合せをし、約束をしておいたので、いまテーブルに向っていながらも、ニコライの雋敏な頭脳は、年長の同僚の顔に現われた動きや合図などを、なかば言いさした言葉や、目まぜや、瞬きなどによって、一つ残らず理解したのである。
「みなさん、私一人に話さして下さい。いろんなつまらないことで口を出しちゃいけませんよ。私はすぐにすっかり言ってしまいますから」とミーチャは熱した調子で言った。
「それは結構です。感謝します。しかし、あなたの陳述をうかがう前に、われわれにとって非常に興味のある、いま一つの事実を確かめさせていただきたいのですが。ほかじゃありません、昨日の五時ごろ、友人ピョートル・イリッチ・ペルホーチンから、ピストルを抵当にしてお借りになった十ルーブリのことです。」
「抵当に入れました、みなさん、十ルーブリの抵当に入れましたよ。それがどうしたんです! それだけのことです、旅行から町へ引っ返すと、すぐ抵当に入れたのです。」
「え、旅行から引っ返したんですって? あなたは町の外へ出ましたか?」
「出ましたとも、みなさん、四十露里あるところへ出かけたんです。あなた方はご存じなかったですか?」
 検事とニコライはちらりと目くばせした。
「が、それはとにかく、昨日の朝からのことを筋みち立てて、残らず話していただきたいものですね。例えば、なぜあなたが町を離れたか、そしていつ出かけて、いつ帰ったかというような……そういう事実をみんな……」
「それならそれと、最初から訊いて下さればいいのに」と言ってミーチャは大声に笑った。「が、お望みとあれば、昨日のことからではなく、一昨日の朝のことから始めなければなりません。そうすれば、どこへ、どういうふうに、どういうわけで出かけたか、おわかりになりましょう。みなさん、私は一昨日の朝、当地の商人サムソノフのとこへ行きました。それは、確実な抵当を入れて、三千ルーブリの金を借りるつもりだったのです、――急に、せっぱつまった必要ができましてね、みなさん、急にせっぱつまった必要が……」
「ちょっとお話ちゅうでございますが」と検事は慇懃に遮った。「どうして急にそれほどの大金が、つまり三千ルーブリという金が、そんなに必要になったのです?」
「ええ、あなた方は、本当に下らないことを訊かないで下さい。どういうふうに、いつ、どういうわけで、ちょうどそれだけの金がいるようになったかなんて、しち面倒くさい……それは三冊の書物にも書ききれやしません、まだその上にエピローグがいりますよ!」
 ミーチャは真実を残らず言ってしまおうと望み、善良無比な心持に満たされている人に特有の、真っ正直な、しかし怺え性《しょう》のない、なれなれしい調子でこう言った。
「みなさん」と彼はとつぜん思いついたように言った。「どうか、私のがさつを責めないで下さい、重ねてお願いします。それから、私が十分に責任を感じて、事件の真相を理解していることを、もう一ど信じて下さい。酔っ払ってるなどと思って下すっては困ります。今ではもう正気なんです。もっとも、酔っ払っていたって、ちっとも邪魔にはなりませんが。私はね、

[#ここから2字下げ]
醉いがさめれば知恵めは出るが、――しかし私はうつけ者
たらふく飲めばうつけになるが、――しかし私は利口者
[#ここで字下げ終わり]

こうなんですよ、はっ、はっ! ですがねえ、みなさん、私は今、――つまり身の明かしを立てないうちに、あなた方の前で洒落なんか言うのは、無礼にあたることを知っています、どうか自分の品格を守らして下さい。もちろん、私は今の差別を知っています。何といっても、私はあなた方の前に犯人として引き据えられているのです、したがって、あなた方とは雲泥の相違です。あなた方は私を取り調べる任務をおびていらっしゃるから、グリゴーリイ事件のために、私の頭を撫でて下さるわけにはゆきますまい。実際、老人の頭を割っておいて、刑を受けずにはすみませんからね。あなた方は、爺さんに代って私を裁判し、たとえ権利を剥奪されないまでも、半年なり一年なり、懲治監か何かよくは知りませんが、そんなところへぶち込むんでしょう、ねえ、そうでしょう、検事さん。こういうわけですから、みなさん、私だってこの差異はわかりますよ……けれど、考えてもごらんなさい、あなた方のようにどこを歩いたの、どういうふうに歩いたの、いつ歩いたの、どこへ入ったの、というような問いを持って行ったら、神様さえも面くらっておしまいになりますよ。もしそうとすれば、私だって面くらってしまおうじゃありませんか。しかも、あなた方はすぐにつまらないことを一々書きつけなさる。そんなことをしてどうなるんです? 何の役にも立ちゃしませんよ! だが、私はどうせでたらめを喋りだしたんだから、ついでにしまいまで言っちまいましょう。だから、みなさんも高等教育を受けた高潔な人として、私の過言を赦して下さい。最後に一つお願いしておきますが、それは審問の常套手段を忘れていただきたいということです。つまり、まず最初にどういうふうに起きたか、何を食ったか、どういうふうに唾を吐いたか、どこに唾を吐いたか、などというようなごくつまらない、取るにもたらんことから審問を始めて、『犯人の注意をくらませといて、』それから急に『誰を殺したか、誰のものを盗んだか』というような、恐ろしい問いをあびせかけるんです、はっ、はっ! これがあなた方の常套手段です、これがあなた方の原則です、これがあなた方の狡猾手段の基礎になるんです! だが、あなた方はこんな狡猾手段で、百姓どもの目をくらますことはできましょうが、私はどっこい駄目ですよ。私はその間の消息を知っています。自分でも、お役人をしたことがあるんですからね、はっ、はっ、はっ! みなさん、ご立腹なすっちゃ困りますよ、私の無礼を赦して下さるでしょうね?」彼は不思議なほど率直な態度で、彼らを見ながらこう叫んだ。「今のはミーチカ・カラマーゾフが言ったんですから、赦すことができますよ。賢い人が言ったのなら赦すことはできないが、ミーチカが言ったんだから赦せますよ! はっ、はっ!」
 ニコライは、この言葉を聞きながら、同じように笑っていた。検事は笑いこそしないが、目を放さずにじろじろとミーチャを見つめていた。それは、ミーチャのちょっとした言葉じりでも、ほんのわずかな身動きでも、顔面筋肉の微かな痙攣でも、決して見のがすまいとするもののようであった。
「しかし、私たちは初めからそうしてるじゃありませんか」とニコライはやはり笑いつづけながら答えた。「朝どういうふうに起きたか、何を食ったか、というような審問をして、あなたを困らせるどころじゃない、むしろ非常に重大な問題から審問を始めたのです。」
「それはわかっていますよ、とっくに承知して感服しているのですよ。しかし、今の私に対する比類のないご好意、高潔なお心にふさわしいご好意には、さらに感謝しています。ここに集っているわれわれ三人は、お互いに高潔な人間なのです。でわれわれは、品位と名誉とを具備した教育ある紳士に特有な相互の信任を基礎として、万事を律してゆかなければなりません。とにかく、私の生活におけるこの瞬間に、私の名誉が蹂躙されたこの瞬間にも、あなた方を善良なる親友と思わせて下さい。こう言っても、べつに失礼にはあたりますまいね、みなさん、失礼にはあたりますまいね?」
「とんでもない、あなたのお言葉は実に立派ですよ、ドミートリイ・フョードロヴィッチ」とニコライはもったいらしく同意した。
「だが、つまらないことは、みなさん、あんなうるさい、つまらないことは、すっかり抜きにしましょう」とミーチャは昂然として叫んだ。「でないと、しまいにはどんな結果になるやらわかりませんよ、ねえ、そうじゃありませんか?」
「全然あなたの賢明な勧告にしたがいましょう」と検事はミーチャのほうへ向って、とつぜん口を入れた。「しかし、自分の審問を撤回することはできません。つまり、何のためにあなたはあんな大金が、三千という大金が必要になったか、ぜひとも知らなければならないのです。」
「何のために入り用だったかとおっしゃるんですか? それはこうです、こういうわけです……つまり、借金を払うためです。」
「誰にですか?」
「みなさん、それを言うことは絶対にお断わりします! そのわけはですね、これがつまらない馬鹿げきった話だから、そのために言えないのでもなければ、また気がひけるのでもなく、また万一を恐れるからでもありません。私が言わないのは、主義のためです。これは私の私生活ですから、私生活に干渉してもらいたくないのです。これが私の主義なんです! あなた方の審問は事件に無関係なことです。ところが、事件に無関係なことは、みなわたしの私生活です! 私は負債を払おうとしたのです。名誉の負債を払おうとしたのです。しかし、相手は誰か、――それは言えません。」
「失礼ですが、それをちょっと書きつけさせていただきますよ」と検事に言った。
「さあさあ、ご随意に。どうぞお書き下さい、言いません、決して言いませんから、そのことをお書き下さい。みなさん、そんなことを言うのは破廉恥だとさえ思っている、とこう書いて下さい。本当に、あなた方はよっぽどお暇だと見えますね、何でもかでも書きつけて!」
「失礼ですが、念のためにもう一度お話ししておきたいことがあります。もしあなたがご存じないとすれば……」と検事は特別いかめしい、さとすような調子で言った。「ほかでもありませんが、あなたは今わたしたちの提出した質問に対して、答えない権利を十分おもちなのです。が、われわれはその反対に、もしあなたが何らかの原因によって答えを回避なさる場合は、あなたに答弁を強要する権利を少しも持っていません。答えようと答えまいと、それはあなた一個人の考えに属することなんです。しかし、今のような場合、われわれのとるべき務めは、あなたがある種の陳述をこばむことによって、いかなる損害を自分で自分に加えておられるか、それをご得心のゆくように、説明してお聞かせするということです。さあ、そのさきを話して下さい。」
「みなさん、私は怒ってるんじゃありませんよ……私は……」ミーチャはこの警告にいくらかどぎまぎして呟いた。「そこでですね、みなさん、そのサムソノフですが、私はあの時サムソノフのところへ行ったんです……」
 むろん、筆者《わたし》は彼の物語を、詳しく再述するのはやめておこう。それはもはや読者の承知していることなのである。ミーチャは細かい点まで残らず話しつくして、しがをそれと同時に、少しも早く片をつけてしまいたいとあせっている模様であった。しかし、検事側では彼の陳述をそのまま書きつけ始めたので、したがって、ときどきその話を中止させなければならなかった。ドミートリイはそれを非難したが、結局、やはり服従した。彼は腹を立てていたけれど、今のところまだ率直であった。もっとも、時には『みなさん、これでは神様だって腹を立てておしまいになりますよ』とか、あるいは『みなさん、本当にそれはただ私の癇をたかぶらすだけですよ』などと叫ぶこともあったが、しかし、こんなことを叫びながらも、やはりなれなれしい饒舌の気分を変えなかった。こうして彼は、おとといサムソノフが自分に『一杯くわした』ことを物語った(そのとき自分がだまされたのだということは、彼も今はすっかり悟っていた)。彼が旅費を作るために時計を六ルーブリで売り払ったことは、予審判事と検事とにまだぜんぜん知れていなかったので、たちまち非常な注意を惹起した。彼らは、ミーチャが前の日にびた一文もっていなかったという事実の第二の証拠として、くわしくこの件を書きとめる必要があると思った。ミーチャは極度に憤慨してしまった。で、彼はだんだん気むずかしそうになってきた。次に彼は猟犬《レガーヴィ》のところへ行ったことや、炭酸ガスに満ちた森番の小屋で一夜を送ったことや、それから、とうとう町へ帰って来た時のことまで物語った。このとき彼はとくに頼まれもしないのに、グルーシェンカに対する嫉妬の苦しみをくわしく話しはじめた。検事側では黙ったまま注意して聞いていたが、ミーチャがもうずっと前から、マリヤの家の『裏庭』に、フョードルとグルーシェンカの見張所を設けていることと、スメルジャコフが彼にさまざまな報告をもたらしたという事実には、特別の注意を払ったのである。彼らはこの事実を非常に重大視して、さっそく記録に書きとめた。ミーチャは自分の嫉妬のことを熱心にくわしく話した。自分の秘密な感情を『世間のもの笑い』にするために、すっかりさらけ出してしまったことを、内心ふかく恥じながら、それでもなお偽り者になりたくないために、その恥しさを押しこらえているらしかった。彼が物語っている間に、じっとそのほうへ向けられていた予審判事、ことに検事の目にうかんでいる冷静ないかめしい表情は、とうとう彼の心をかなり烈しくかき乱した。『つい四五日前まで、おれと一緒にばかばかしい女の話などをしていた、この小僧っ子のニコライや病気もちの検事などに、こんな話を聞かせる値うちがあるものか、恥さらしだ!』という考えさえ、悩ましく彼の頭にひらめいた。で、彼は『ひかえ忍びて黙《もだ》せよ心』という詩の一句で、われとわがもの思いを結んだが、やはりふたたび元気をふるい起して、先をつづけようという気になった。彼はホフラコーヴァの話に移ると、またしてもむらむらとなって、事件に縁遠い話ではあるが、つい先ごろ起ったばかりの、この夫人に関する特別な逸話を持ち出そうとまで考えた。しかし、予審判事は彼を押し止めて慇懃に、『もっと根本的な問題に』移ってもらいたいと言った。最後に、彼が自分の絶望を物語り、ホフラコーヴァの家を出た時、『誰かを殺してなりと[#「殺してなりと」はママ]三千の金を手に入れたい』と思ったその瞬間のことを物語ると、検事側はまたもや彼を押し止めて、『殺そうと思った』次第を書きつけた。ミーチャは黙って書かせた。最後に物語が進んで、グルーシェンカが、自分には夜なか頃までサムソノフのところにいると言っておきながら、自分が送りとどけるとすぐ、老人のところから逃げ出した、『つまり、自分はだまされた』ということを、突然かぎつけたところまで話した時、『みなさん、私があの時あのフェーニャを殺さなかったのは、ただただそんな暇がなかったからです』と、思わず彼は口走ってしまった。これもまた念入りに書きとめられた。ミーチャは陰欝な顔つきをして待っていた。やがて、父親の家の庭園へ駈けつけたことを話そうとすると、予審判事はだしぬけに彼を押し止めて、そばの長椅子においてあった大きな折鞄を開き、その中から小さい銅の杵を取り出した。
「あなたはこの品をご存じですか?」彼はそれをミーチャに示した。
「ああ、そうそう!」彼は沈んだ顔つきで、にやりとした。「もちろん、知っていますとも! ちょっと見せて下さい……ちぇっ、もういいです!」
「あなたはこの品のことを言い忘れましたね」と予審判事は言った。
「くそっ、いまいましい! いや、あなた方に隠しだてなぞしませんよ。一たいそれを言わなくちゃすまないんですか、どうお思いになります? 私はただ、ど忘れしていただけなんですよ。」
「恐れ入りますが、あなたがこんな物を用意なすったわけを、聞かして下さいませんか。」
「ええ、ええ、聞かしてあげますとも。」
 ミーチャは銅の杵をとって駈け出した時の、一部始終を物語った。
「ですが、あなたがこんな道具を用意なすったについては、一たいどういう目的があったのです?」
「どういう目的? 何の目的もありゃしませんよ! ただ持って駈け出しただけです。」
「もし目的がないとすれば、どんなわけなんでしょう?」
 ミーチャはむかむかしてたまらなかった。彼はじっと『小僧っ子』を見つめながら、沈んだ目つきで、にくにくしげににたりと笑った。彼は今あれほど誠実に真情を披瀝して、自分の嫉妬の歴史を『こんな人間』に物語ったということが、いよいよ恥しくてたまらなくなったのである。
「銅の杵なんかくそ食らえですよ!」と彼はとつぜん口走った。
「でも。」
「なに、犬を防ぐためだったのですよ……それに、その暗いものですから……それにまさかの時の用心にね。」
「そんなに暗闇が怖いのでしたら、あなたは以前も夜分うちを出る時に、何か武器《えもの》を持ってお出になりましたかね?」
「ちぇ、ばかばかしい! みなさん、あなた方とはまったく文字どおりに話ができませんよ!」極度の憤激にミーチャはこう叫んで、書記のほうへ振り向くと、憤怒のために顏じゅう真っ赤にし、声に一種の気ちがいじみた調子を響かせながら、せき込んで言葉をつづけた。「すぐ書いてくれたまえ……すぐ……『自分の親父のフョードルのところへ駈けて行って……頭を一つ殴りつけて殺すために杵を持って行った』とこう書いてくれたまえ。さあ、みなさん、それで腹の虫が落ちつきましたかね? 気がせいせいしましたかね?」と彼はいどむような目つきで、予審判事を見つめながら言った。
「いや、私たちにはよくわかりますよ、あなたが今そんな陳述をなすったのは、私たちに対して憤慨なすったからでしょう。私たちの訊問がいまいましいからでしょう。あなたはわれわれの訊問をつまらないものと思っておいでですが、そのじつ非常に根本的なものなんですよ」と検事はそっけない調子で、ミーチャに言った。
「いや、とんでもない! むろん、杵は持ちました……だが、あんな場合、人が何か手に取るのは、一たい何のためでしょう? 私は何のためか知りません、とにかく持って駈け出したんです。ただそれだけです。恥ずべきことですよ、みなさん、Passons([#割り注]もうやめて下さい[#割り注終わり]) 恥ずべきことですよ。いい加減になさらんと、まったくのところ、もうだんぜん話をやめますよ!」
 彼はテーブルに肱を突き、片手で頭をささえた。彼は一同に顔をそむけて腰かけたまま、腹の中の不快な感情をおし殺しながら、じっと壁を見つめていた。実際、彼はつと立ちあがって、『たとえ死刑台に引っぱられて行こうとも、もう一ことも口をきかない』と言いたくってたまらなかったのである。
「ねえ、みなさん。」やっとの思いでわれを制しながら、彼はにわかにこう言いだした。「実はあなた方のお話を聞いてるうちに、何だかこんな気がするんです……私はね、その、どうかすると、ある一つの夢を見ることがあるんです……こう変な夢なんですが、私はよくそいつを見るんです。繰り返し繰り返し見るんですよ。ほかでもありませんが、誰か私を追っかけて来るんです。何でも私がひどく恐れている人でね、その人が夜まっ暗闇の中に追っかけて来て、私をさがすんです。私はその男に見つからないように、どこか戸の陰か戸棚の陰などへ隠れる、意気地なく隠れるんです。が、不思議なことには、私がどこへ隠れたかってことが、ちゃんとやつにわかってるじゃありませんか。ところが、やつはわざと私のいるところを知らないようなふりをして、少しでも長く私を苦しめて、私が怖がるのを楽しもうとする………あなた方は今ちょうどこれと同じことをしていられるんです! よく似てるじゃありませんか!」
「あなたはそんな夢をごらんになるのですか?」と検事は訊いた。
「そうです、こんな夢を見るんです……ですが、あなた方はもう書きつけたくなったのじゃありませんか?」ミーチャは口を歪めてにたりと笑った。
「いいえ、書きませんよ。しかし、あなたの夢は面白いですね。」
「ところが、今ではもう夢じゃありません! レアリズムです、みなさん、実際生活のレアリズムです! 私は狼で、あなた方は猟人です。さあ、狼をお追いなさい。」
「あなたはつまらない比較をしたものですね……」とニコライは非常に優しく言いかけた。
「つまらない比較じゃありませんよ、みなさん、つまらない比較じゃありません!」とミーチャはまた熱くなった。けれど、思いがけなく癇癪のはけ口ができて、気が落ちついたとみえ、彼はまた一口ごとに率直になってきた。「あなた方は犯罪者、すなわち、あなた方の訊問に苦しめられている被告の言葉を、信じないでもいいでしょう。しかし、みなさん、高潔な人間の言葉は、魂の高潔な叫びは(私は大胆にこう叫びます)断じて信じないわけにゆきません。ええ、それを信じないわけにはゆきません……あなた方にはそんな権利さえありません……しかし――

[#ここから2字下げ]
黙《もだ》せよ心
ひかえ忍びて黙せよ心!
[#ここで字下げ終わり]

さあ、どうです。つづけましょうかね?」と彼は陰欝な顔つきをして言葉を切った。
「むろん、ぜひお願いします」と、ニコライは答えた。

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第九篇第三章 受難―一

[#3字下げ]第三 霊魂の彷徨 受難―一[#「第三 霊魂の彷徨 受難―一」は中見出し]

 で、ミーチャは腰かけたまま、野獣のような目つきで、一座の人たちを眺めていた。彼は、人が何を言っているのやら少しもわからなかった。と、ふいに立ちあがって、両手をさし上げながら、大声に叫んだ。
「罪はありません! この血に対しては、私に罪はありません! 私の親父の血に対して罪はありません……殺そうとは思いましたが、しかし罪はありません! 私ではありません!」
 けれど、ミーチャがこう叫び終るか終らないかに、カーテンの陰からグルーシェンカが駈け出して、いきなり署長の足もとにがばと身を投げた。
「それはわたしです。わたしです。この罰あたりです。わたしが悪いんです!」彼女は満面に涙をうかべて、みんなのほうへ両手をさし伸べながら、人の心をかきむしるような声で、こう叫んだ。「あの人が人殺しをしたのも、もとはわたしです! わたしがあの人を苦しめたから、こういうことになったのです。わたしはあの死んだ爺さんまで、可哀そうに面当てで苦しめたので、こういうことになってしまいました! わたしが悪いのです、わたしがもとです。わたしが張本人です。罪はわたしです!」
「そうだ、お前が悪いのだ! お前がおもなる犯人だ! お前は向う見ずの自堕落ものだ。お前が一ばんに悪いのだ」と署長は片手で嚇すような恰好をしながら叫んだ。
 けれども、そのとき人々ははやくも署長を厳しく制した。検事のごときは両手で彼に抱きついた。
「それはあまり無秩序になりますよ、ミハイル・マカーロヴィッチ」と彼は叫んだ。「あなたはまるで、審理の邪魔をしていらっしゃるのです……事をぶちこわしていらっしゃるのです……」彼はほとんど息をはずませていた。
「断然たる、断然たる、断然たる処置をとるんです!」とニコライもひどく熱して言った。「でなけりゃ、とても駄目です……」
「わたしも一緒に裁判して下さいまし!」とグルーシェンカはやはり跪いたまま、夢中になって叫びつづけた。「一緒にわたしも罰して下さい。もう今はあの人と一緒なら、死刑でも悦んで受けます!」
「グルーシェンカ、お前はおれの命だ、おれの血だ、おれの神様だ!」いきなりミーチャも彼女のそばに跪いて、強く彼女を抱きしめた。「みなさん、これの言うことを信じないで下さい」と彼は叫んだ。「これには何の罪もないのです。どんな血にも関係はないのです。何も罪はないのです!」。
 彼は、自分が幾たりかの人に、無理やり彼女のそばから引き離されたことや、彼女も急に連れて行かれたことなどを、あとなって思い出した。彼がわれに返った時には、もうテーブルに向って腰かけていた。彼のうしろにも両側にも、組頭の徽章をつけた村の人たちが立っていた。真向いには予審判事ニコライが、テーブルを隔てて長椅子に座を占めていたが、テーブルの上にのっているコップの水を少し飲むようにと、しきりに彼に勧めるのであった。「それを飲むと気分がよくなりますよ。気が落ちつきますよ。恐ろしいことはありません。ご心配なさることはありません。」彼はひどく丁寧にこうつけたした。ところが、ミーチャはとつぜん、判事の大きな指環に興味を惹かれた。一つはアメチスト、いま一つは鮮かな黄色をした透明な石で、何とも言えぬ美しい光沢をおびていた。彼はこの指環に、こういう恐ろしい審問の時でさえ、否応のない力をもって目を惹かれていたことを、後々までも驚異の念をもって思いうかべるのであった。彼は自分の境遇に全然ふさわしくないその指環から、どういうわけか寸時も目を放すことも、忘れることもできなかった。
 ゆうベマクシーモフが腰かけていたミーチャの左脇には、いま検事が坐っている。そして、あのグルーシェンカが陣取っていた右手の席には、ひどく着古した猟服のような背広を着た、赭ら顔の若い男が控えていた。その男の前には、インキ壺と紙とがおいてあった。それは判事が連れて来た書記であると知れた。署長はいま部屋の片隅にある窓に近く、カルガーノフのそばに立っていた。カルガーノフは、やはりその窓に近い椅子に腰かけているのであった。
「水をお飲みなさいよ!」と判事は優しく十度目に繰り返した。
「飲みましたよ、みなさん、飲みましたよ……しかし……どうです、みなさん、一息におし潰して下さい、処罰して下さい、運命を決して下さい!」恐ろしく据わって動かない、飛び出した目を判事のほうへ向けながら、ミーチャはこう叫んだ。
「じゃ、あなたは、ご親父フョードル・パーヴロヴィッチの死に対して罪はないと、どこまでも断言なさるのですか?」と判事は、優しいながらも押し強い調子で訊ねた。
「ありません! ほかの血に対して、ほかの老人の血に対しては罪がありますが、親父の血に対しては罪はありません。それどころか、私は悲しんでいるくらいです! 殺しました。老人を殺しました。打ち倒して、殺しました……しかし、この血のために、ほかの血の、――自分に罪のない恐ろしい血の責任を持つのはいやです……恐ろしい言いがかりです、みなさん、まるで眉間《みけん》をがんとやられたような気がします! しかし、親父を殺したのは誰でしょう、誰が殺したんでしょう? もし私でなければ、一たい誰が殺したんでしょう? 不思議です、ばかばかしいことです、あり得べからざることです!………」
「そう、殺し得る可能性を持っているのは、つまり……」と判事は言いかけた。が、検事のイッポリートは(実際は副検事であるけれども、筆者は簡単に検事と呼ぶことにする)判事と目まぜをして、ミーチャに向って言いだした。
「あなた、あの老人、下男のグリゴーリイのことなら、そんなに心配なさることはありません。今こそお知らせしますが、あれは生きていますよ。正気づいたのです。あなたが加えた(これはあれの申し立てと、今のあなたのお言葉を基にして言うのです)傷は重かったが、しかし少くとも、医師の報告によると、確かに生命に別条はないそうです。」
「生きている? じゃ、あの男は生きてるんですね!」とミーチャは手を拍ってだしぬけに叫んだ。彼の顔は、一時に輝き渡った。「神様、よくも私のような罪ふかい悪党の祈りを聞き入れて、偉大な奇蹟を現わして下さいました。有難うございます! そうです、そうです、それは私の祈りを聞いて下すったのです。私は一晩じゅう祈っていました!………」
 こう言って、彼は三たび十字を切った。彼は息をはずませていた。
「ところが、そのグリゴーリイから、われわれはあなたのことについて、非常に重大な申し立てを聞いたのです。それは……」と検事はつづけようとした。
 けれど、ミーチャはにわかに椅子から立ちあがった。
「ちょっと待って下さい、みなさん、お願いですから、たった一分間だけ待って下さい。私はあれのところへ一走り行って来ます……」[#「来ます……」」は底本では「来ます……」]
「とんでもないことを! 今はどうしてもそんなことはできません!」とニコライはほとんど叫ばないばかりに言い、同じく席から飛びあがった。胸に組頭の徽章をつけた人たちは、四方からミーチャをつかまえた。しかし、彼も自分から椅子に腰をかけた……
「みなさん、実に残念です! 私はほんの一分間あれのところへ行きたかったのです……夜どおし私の心臓をすすっていたあの血が、すっかり洗い落されて、私はもう人殺しでなくなったということを、あれに知らせてやりたかったのです! みなさん、あれは今、わたしの許嫁なのです!」一同を見まわして、歓喜と敬虔の色を現わしながら、彼は突然こう言った。「ああ、みなさん、あなた方に感謝します! ああ、あなた方は、私を生きかえらして下さいました。一瞬の間に、蘇生さして下さいました!………あの老人は、――あの男は私を抱いて傅《もり》してくれたんです。みなさん、私を盥の中で洗ってくれたんです。僅か三つの赤児であった私が、みんなに見捨てられてしまった時、あれは親身の父親になってくれたのです!………」
「そこで、あなたは……」と判事は言いかけた。
「どうぞ、みなさん、どうぞ、一分間待って下さい」とミーチャはテーブルの上に両肱を突き、掌で顔を蔽いながら遮った。「ちょっと考えさせて下さい、みなさん、ちょっと息をつがせて下さい。あの報知が恐ろしく動顛させたのです、恐ろしく……人間というものは太鼓の皮じゃありませんからね、みなさん!」
「あなたはまた水でも……」ニコライはへどもどしながら、こう言った。
 ミーチャは顔から手をのけて、からからと笑った。その目つきは活気をおびていた。彼はまるで一瞬間のうちに、すっかり人が変ったようであった。同時に言葉の調子まで変ってしまった。彼はふたたび一座のすべての人たちと、以前の知人たちと、同等な人間として対座しているようであった。もし昨日まだ何事も起らないうちに、彼ら一同が交際場裡のどこかで落ち合ったとしても、今の様子といささかも変りがなかったであろう。ついでに言っておくが、ミーチャもこの町へ来た当座は、署長の家でも歓迎されたものだが、その後、ことに最近一月ばかり、ほとんど彼のところへ寄りつかなくなったし、署長のほうでもどこか往来などでミーチャに行き合うと、ひどく顔をしかめて、ただ一片の儀礼のために会釈するくらいのものであった。これにはミーチャも十分気がついていた。検事との交際はさらに疎遠であった。神経質で空想的なその細君のところへはよく遊びに行ったが、しかし正式な訪問の格式はくずさなかった。おまけに、何のために遊びに行くのか、自分でもまるっきりわからないのであった。それでも、細君はいつも愛嬌よく彼を迎えた。彼女はなぜかつい近頃まで、彼に興味をもっていたのである。判事とはまだ知合いになる暇がなかったが、一二ど会って話をしたことはある。それも、二度ながら、女の話であった。
「ねえ、ニコライ・パルフェヌイチ、あなたは私の見るところでは、実に敏腕な判事さんですが」と急にミーチャは愉快そうに笑いだした。「しかし、私が今あなたの手つだいをしてあげましょう。ああ、みなさん、私は本当に蘇生しました……私があなた方に対してこんなにざっくばらんな、不遠慮な態度をとるのを、咎めないで下さい。おまけに正直に打ち明けると、私は少し酔っ払っているんです。ニコライ・パルフェヌイチ、私はたしか……私の親戚にあたるミウーソフの家で、あなたとお目にかかる光栄と満足を有したと思いますが……みなさん、みなさん、何も私は平等を要求するわけじゃありません。私はいま自分があなた方の前に、どういう人間として引き据えられているかってことを、よく承知しています。私には……もしグリゴーリイが私に言いがかりをしたとすれば……私には――ああ、むろんわたしには恐ろしい嫌疑がかかっているのです! 恐ろしことだ[#「恐ろしことだ」はママ]、恐ろしいことだ、――私はそれを知っています! しかしみなさん、私はこの事件に対してちゃんと覚悟がありますから、こんなことはすぐに片づいてしまいます。なぜって、みなさん、まあ聞いて下さい、聞いて下さい。もし私が、自分の無罪であることを知っているとすれば、もちろんわたしたちはすぐに片づけ得るはずです! そうでしょう? そうでしょう?」
 相手を自分の親しい友人とでも思い込んでいるもののように、ミーチャは早口に、多弁を弄しながら、神経的な調子で立てつづけにまくしたてた。
「では、とにかくそう書きとめましょう、あなたが自分にかけられた嫌疑を絶対に否定なさるということをね」とニコライは相手の胸に滲み込むような調子で言い、書記のほうに振り返って、書きとむべきことを小声に口授するのであった。
「書きとめる? あなた方は、そんなことを書きとめたいのですか? 仕方がありません、書きとめて下さい。立派に同意の旨を明言しますよ、同意しましょう……ただどうも……待って下さい、待って下さい、こう書きとめて下さい。『彼は暴行の罪を犯せり、彼は哀れなる老人に重傷を負せたる罪人なり』とね。それから、もう一つは内心に、自分の心の奥底に、自分の罪を感じております、――しかし、これはもう書きとめる必要がありません(彼はにわかに書記のほうへ振り向いた)。これは私の私生活だから、みなさん、これはあなた方に無関係なことです。つまり、この心の奥底一件ですよ……しかし、老父の殺害に対しては、何の責任もありません! それは、奇怪千万な考えです! それはまったく奇怪千万な考えです!………私がいま証拠を挙げて、すぐあなた方を説き伏せてお目にかけます。そうしたら、あなた方はお笑いになるでしょう、みなさん、自分で自分の嫌疑をお笑いになるでしょう!………」
「まあ、落ちついておいでなさい、ドミートリイ・フョードロヴィッチ。」判事はその沈着な態度で、夢中になっているミーチャを抑えようとでもするように、こう注意した。「私は審問をつづけるにさきだって、もしあなたが承諾さえして下されば、次の事実を承認なさるかどうか、それを一つ伺いたいのです。ほかでもありませんが、あなたは亡くなったフョードル・パーヴロヴィッチを愛していられなかったようですね。しじゅう喧嘩ばかりしておいでになった様子じゃありませんか……少くとも、ここで十五分間ばかりまえに、あいつを殺すつもりだった、とまでおっしゃったように記憶しています。『殺しはしなかったが、殺すつもりだった』と大きな声でおっしゃいましたね。
「私がそんなことを言いましたか? ああ、みなさん、あるいはそうだったかもしれません! そうです、不幸にも私は、親父を殺そうと思いました。幾度となく、殺そうと思いました……不幸なことでした、不幸なことでした!」
「そう思ったんですね。では、一たいどういう理由で、あなたは自分の親に対して、そんな憎悪を感じたのです、それを説明していただけますまいか?」
「みなさん、何を説明するんです!」とミーチャは伏目になったまま、気むずかしげにぐいと肩をそびやかした。「私は自分の感情を隠したことがありませんから、このことは町じゅうの人がみんな知っています、――酒場のものもみんな知っています。つい近頃も修道院で、ゾシマ長老の庵室で言いました……その日の晩には親父を殴りつけて、半死半生の目にあわせたうえ、またそのうちに来て殺してやると、人の聞いている前で誓ったものです……ええ、そういう証人ならいくらでもいます! まる一カ月わめき通したのですから、誰も彼もみんな証人です!………事実は目の前にごろごろしています、事実が承知しません、事実が口をききます。けれども、感情はね、みなさん、感情はまったく別なものです。ですから、みなさん(ミーチャは顔をしかめた)、感情にまで立ち入って、訊問なさる権利は、あなた方にもあるまいと思います。また、たとえあなた方が、その権利をもっていられても、これは私のことなんです。私の内心の秘密です。しかし……私は以前も自分の感情を隠さなかったから……例えば、酒場などでも、誰であろうと、相手かまわず喋ったくらいですから、今も……今もそれを秘密にしやしません……ねえ、みなさん、この場合、私に対して恐ろしい証拠があがっているということは、自分でもよくわかっています。私はあいつを殺すとみんなに言いましたからね。ところが、突然あいつは殺されました。こういうわけであってみれば、私に嫌疑がかかるのは当然ですよ! はっ、はっ! 私はあなた方を責めません。みなさん、決して責めません。私自身でさえ、心底から仰天しているくらいです。なぜかって、もし私が殺したのでなければ、この場合、一たい誰が殺したんでしょう? そうじゃありませんか? もし私でなければ、一たい誰でしょう? 誰なんでしょう? みなさん」と彼はとつぜん叫んだ。「私は知りたいことがあります。いや、私はあなた方に説明を要求します。みなさん、一たい親父はどこで殺されていたのです? 親父は何でどういう工合に殺されていたんですか? それを私に聞かせて下さい。」彼は検事と判事とを見まわしながら、早口にこう訊いた。
「われわれが行ってみた時には、ご親父はご自分の書斎の中で頭を打ち割られて、仰向けに倒れておられました」と検事は言った。
「それは恐ろしいことです、みなさん!」とミーチャは急にぴくりと身を慄わせ、テーブルに肱を突いて、右手で顔を蔽うた。
「では、前に返って訊きますが」とニコライは遮った。「その時あなたにそんな憎悪の念を起させたのは、一たいどんな原因だったのです? あなたは嫉妬の念だと、公然いい触らしておいでになったようですが。」
「ええ、まあ、嫉妬ですが、しかし嫉妬だけじゃありません。」
「金銭上の争いですか?」
「ええ、そうです、金銭上のことからも。」
「その争いは三千ルーブリの遺産を、あなたに引き渡さなかったというのがもとでしたね。」
「三千ルーブリどころじゃありません! もっとです、もっとですよ」とミーチャは跳りあがった。「六千ルーブリ以上です、あるいは一万ルーブリ以上かもしれません。私はみんなに言いました、みんなにわめきました。しかし、私は三千ルーブリで折り合おうと決心したんです。私にはその三千ルーブリが、せっぱつまって入用だったのです。ですから、グルーシェンカにやるために、ちゃんと用意して枕の下においてあった(ええ、そうです、私は知っています)三千ルーブリ入りの包みは、親父が、私の手から盗み取ったも同様だと、確信していました。まったく、私はその金を自分のものと思っていました。実際、自分のものも同じことなんですからね……」
 検事は意味ありげに判事と目くばせをして、気づかれないように一つ瞬きをした。
「その問題にはまたもう一ど戻ることとして」と判事は早速こう言った。「今わたしたちは次の事実に同意して、それを書きとめさせていただきましょう。つまり、あなたがその封筒に入っている金を、自分のもの同様に思っていられた、という事実です。」
「お書きとめ下さい。みなさん、私はそれも自分にとって不利な証跡になる、ということを知っています。が、私は証跡を恐れません。私は自分で自分に不利なことを申します。いいですか、自分でですよ! ねえ、みなさん、あなた方は私を、実際の私とはまるで違った人間に解釈していられるようですね」と彼は急に沈んだ悲しそうな語調でつけたした。「今あなた方と話をしているのは高潔な人間です、高潔この上ない人間です。何より肝腎なのは、――この点を見落さないで下さい、――数限りなく陋劣なことをしつくしたけれど、いつも高潔この上ない心持を失わない人間です。内心には、心の奥底には、つまり、その、一言で言えば、いや、私にはうまく言えません……私は高潔を慕い求めて、今まで苦しんできたのです。私はいわゆる高潔の殉難者で、提灯を持った、――ディオゲネスの提灯を持った高潔の探求者でした。そのくせ、私はすべての人間と同じように、今までただ卑劣なことばかりしてきました……いや、私一人きりです、みなさん、すべての人間じゃありません、私一人きりです。あれは、言い違いでした。私一人きりです、一人きりです!………みなさん、私は頭が痛いのです」と彼は悩ましそうに顔をしかめた。「実はね、みなさん、私はあいつの顔が気に入らなかったんです。何だか破廉恥と高慢と、すべての神聖なものを足蹴にしたような表情と、皮肉と不信を一緒にしたような表情なんです。醜悪です。実に醜悪です! しかし、今あいつが死んでみると、だいぶ考えが変ってきました。」
「変ったとはどういうふうに?」
「いや、変ったというわけではありませんが、あんなに親父を憎んだのを、気の毒に思っています。」
「後悔しているのですか?」
「いいえ、後悔とも違います。そんなことは書きとめないで下さい。私自身からして立派な人間じゃありませんものね、みなさん。まったく私自身あまり好男子じゃありませんものね。ですから、親父のことを醜悪だなぞと言う権利はないのですよ、まったく! これはまあ、お書きになってもいいでしょう。」
 こう言い終ると、ミーチャは急にひどく沈んだ顔つきになった。もう前から彼は、判事の審問に答えるにしたがって、だんだん陰欝になっていたのである。ところが、ちょうどこの瞬間、ふたたび思いがけない場面が突発した。それはこうである。グルーシェンカはさっき向うへ連れて行かれたが、大して遠くではなかった。いま審問の行われている空色の部屋から、僅か三つ目の部屋であった。これは、ゆうべ舞踏をやったり、世界も崩れそうな騒ぎをした大広間のすぐうしろにある、一つしか窓のない、小さい部屋であった。ここに彼女は腰かけていた。しかし、いま彼女のそばにいるのは、マクシーモフ一人きりであった。彼はすっかり面くらってしまって、むやみにびくびくしながら、彼女の身辺にのみ救いをもとめるもののように、ぴたりとそばに寄り添っていた。部屋の扉口には、胸に組頭の徽章をつけた一人の百姓が立っている。グルーシェンカは泣いていた。と、ふいに悲哀が烈しく胸先に込み上げてきた、彼女は、つと立ちあがりさま両手を拍って、かん走った高い声で、『なんて悲しいこったろう、なんて悲しいこったろう!』と叫んだかと思うと、いきなり部屋を飛び出して、彼のほうへ、ミーチャのほうへ走って行った。それがあまりに突然なので、誰も彼女を止める暇がなかった。ミーチャは彼女の悲鳴を聞きつけると、身慄いをして飛びあがり、叫び声をたてながら、前後を忘れたかのように、まっしぐらに彼女のほうへ駈け出した。けれど、二人は早くも互いに顔を見合わせたにもかかわらず、今度も相いだくことを許されなかった。ミーチャはしっかりと両手を掴まれた。彼があまり烈しくもがき狂うので、彼を押えるのに、三人も四人もかからねばならなかった。彼女も同様つかまった。彼女が引いて行かれながら、叫び声とともに自分のほうへ手を延ばすのを、ミーチャはちゃんと見て取った。この騒ぎが終った時、彼はまたもや以前の席に坐っている自分に気がついた。彼は判事と向き合ってテーブルについていた。
「一たいあれに何の用があるのです? あなた方はなぜあれをおいじめになるのです? あれに罪はありません。あれに罪はありません!………」と彼は一同にむかって叫びつづけた。
 検事と判事とは彼を宥めすかした。こうして、十分ばかりたった。やがて、ちょっとこの場を離れたミハイルが、急ぎ足に部屋へはいって来るなり、興奮のていで大声で検事に向って、
「あの女は少し離れたところへ連れて行きました。いま下にいるのです。ところで、みなさん、たった一ことだけ、あの不仕合せな男に口をきかせて下さらんか? あなた方の前でよろしい、みなさん、あなた方の前で!」
「さあ、どうぞ、ミハイル・マカーロヴィッチ」と判事は答えた。「この場合、私たちも決してお止めしません。」
「おい、ドミートリイ君、よいか、聞いとるんだぞ」と、ミハイル・マカーロヴィッチは、ミーチャのほうへ振り向きながら言い始めた。彼の興奮した顔つきは、不幸な者に対する熱烈な、ほとんど親のような同情を現わしていた。「わしはアグラフェーナさんを下へ連れて行って、この家の娘さんたちに渡して来た。今あのひとのそばにはマクシーモフ老人が、少しも離れないようにしてついているよ。わしはあのひとによく言い聞かせておいた。いいかな? 言い聞かせたり、宥めたり、さとしたりしたんだ。あの男は弁解しなけりゃならない人だから、邪魔をしたり、気をめいらせたりしちゃならん。でないと、あの男の頭が混乱して、間違った申し立てをする恐れがあるからってね、そうだろう? つまり、一言で言えば、言い聞かせてやったのさ。そしたら、あのひとも合点がいったんだ。君、あのひとは利口者だよ。いい人だよ。あのひとはわしのような老人の手に接吻して、君のことを頼んだよ。それから、わしをここへよこして、君があのひとのことを心配しないように、とこう伝言を頼むのだ。そこで、わしはこれからあのひとのところへ行って、君が落ちついていることや、あのひとの身の上についてはすっかり安心している、というようなことを言わなけりゃならん。だから、君、落ちつくがいいよ、わかったかね。わしはあのひとに対してすまんことをした。あのひとはキリスト教信者の心をもっている。いや、みなさん、実際あれは温柔な女ですよ。少しも罪なんかありません。さて、カラマーゾフ君、あのひとに何と言ったもんだろう、落ちついて腰かけていられそうかね?」
 人のいいミハイルは、言いすぎるほどいろいろなことを言った。が、グルーシェンカの悲哀は、人間の悲哀は、彼の善良な心に徹して、その目には涙さえうかんでいた。ミーチャは跳りあがって、ミハイルにひしと抱きついた。
「失礼ですが、みなさん、どうぞ、ああ、どうぞ許して下さい!」と彼は叫んだ。「あなたは天使のような、まったく天使のような心をもっていらっしゃる。ミハイル・マカーロヴィッチ、あれにかわってお礼を申します! ええ、落ちつきます、落ちつきます、快活になりますよ。あなたの無限に優しいお心に甘えて、お願いします。どうか、私が快活だってことを、本当に快活だってことを、あれに伝えて下さい。それから、あなたのような守り神様があれのそばにつき添って下さるということを知ったので、今にも笑いたいほどの気持になったと言って下さい。今すぐに一切の片をつけて自由の身になったら、さっそく、あれのそばへ行きます。もうすぐ会えるんですから、ちょっとのあいだ待たして下さい! みなさん、」彼は急に検事と判事のほうへ向いてこう言った。「今あなた方に私の心中をすっかり打ち明けます。ことごとく披瀝します。こんなことはすぐ片づいてしまいます。愉快に片づいてしまいます、――そして、結局みんな笑うようになるんですよ、そうじゃありませんか? しかし、みなさん、あの女は私の女王です! ああ、どうぞ私にこう言わせて下さい。私はもう腹蔵なしに打ち明けます……なにしろ、高潔な方々と座をともにしているんですからね。あの女は光です、私の宝です、ああ、これが、あなた方にわかっていただけるといいんだがなあ!『あなたと一緒なら仕置きも受けましょう!』とあれが叫んだのを、あなた方はお聞きになったでしょう。ところが、私はあれに何を与えたでしょう。私は乞食です、裸一貫の男です。どうして私にあんな愛を捧げてくれるのでしょう。無骨な、穢らわしい、しかも馬鹿面を下げた私が、そんな愛に価するでしょうか。あれに懲役までも一緒に来てもらえるような値うちがあるでしょうか? さっきなどは、あの負けん気の強い、そして何の罪もない女が、私のために、あなた方の足もとに身を投げだしたじゃありませんか! どうしてあれを尊敬せずにいられましょう? どうして叫ばずにいられましょう? どうして今のようにあれのところへ駈け出さずにいられましょう? ああ、みなさん、お赦し下さい! しかし、今はもう安心を得ました!」
 こう言って、彼は椅子の上に倒れかかり、両の掌で顔を蔽うて慟哭したが、これはもはや幸福な涙であった。彼はたちまちわれに返った。老署長は非常に満足していた。司法官たちも同様に満足らしかった。彼らは、審問が今にもすぐ新しい段階に入るだろうと感じたのである。署長を送り出したあとで、ミーチャは本当にうきうきしてきた。
「では、みなさん、もう私はすっかりあなた方のものです。そして……もしあんなつまらないことさえ抜きにしてしまったら、今すぐにも話は片がつくんですがね。私はまたつまらないことを言いました。もちろん、私はすっかりあなた方のものですが、しかし、みなさん、まったくのところ、必要なのは相互の信用です、――あなた方は私を、また私はあなた方を信用するんです、――でないと、いつまでたってもらちはあきませんよ。これはあなた方のために言うのです。さあ、用件にかかりましょう、みなさん、用件にかかりましょう。しかし、とくにお願いしておきますが、あまり私の心を掘り返さないで下さい。私の心をつまらないことで掻きむしらないで下さい。ただ用件と事実だけお訊ね下さい。そうすれば、早速あなた方に満足のゆくようにお答えします。つまらないことはもう真っ平です!」
 ミーチャはこう叫んだ。審問はさらに始まった。

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第九篇第二章 警報

[#3字下げ]第二 警報[#「第二 警報」は中見出し]

 この町の警察署長ミハイル・マカーロヴィッチ・マカーロフは、文官七等に転じた休職中佐で、やもめ暮しの好人物であった。彼は僅々三年前にこの町へ赴任して来たのであるが、もう今では世間一般の人から、好意をもって迎えられるようになった。そのおもな理由は、『社交界を引き締めてゆく技倆をもっている』からであった。彼の家には来客が絶えなかった。また彼も、客というものなしには生きて行かれないらしかった。毎日、誰かしら必ずやって来て食事をした。たとえ一人でも二人でも、とにかく客がいなかったら、彼はてんで食卓に向おうとしなかった。さまざまな口実、時によると突拍子もない口実をもうけて、正式に客を食事に招待することもたびたびあった。出されるご馳走は、山海の珍味ではないまでも、確かに豊富であった。魚肉饅頭もなかなか上等なものだし、酒も、質をもって誇ることはできなかったが、その代り量のほうでは、ひけをとらなかった。応接室には球撞台があって、ぜんたいの調度も非常に念入りなものであった。つまり、独身ものの球撞室に必要欠くべからざる装飾となっている英国産の駿馬を描いた黒縁の額が、四方の壁にかけつらねてあるのであった。よし人数は少くても、毎夜カルタの勝負が行われた。けれど、またこの町の上流の人たちが、母夫人や令嬢たちをつれて舞踏会に集ることもたびたびであった。
 ミハイルはやもめになっていたけれども、やはり家庭生活をしていた。彼のところには、もうとっくに後家になった娘が来ていた。彼女もやはり、ミハイルにとっては孫娘にあたる二人の令嬢の母親であった。令嬢はもう年頃で、学業も終っていた。器量も十人並みだし、活発な気だてでもあるので、持参金など一文もないことは周知であったにもかかわらず、この町の社交界の青年たちは令嬢の家に引きつけられていた。ミハイル・マカーロヴィッチは、事務にかけてはあまり腕ききとも言えないが、自分の責任をはたすことにおいては、決して人後に落ちなかった。手っとり早く言えば、彼はほとんど無教育といってもいいくらいな男で、自分の行政上の権限をもはっきり理解していないほど無頓着な人間であった。彼は現代の改革についても、十分に意味を掴むことができなかったのみならず、どうかすると、目立って間違った解釈をすることもあった。これは何か特別な無能のためではなく、単に無頓着な性格に由来するのであった。彼は物事を落ちついて考えている暇がなかったのである。『みなさん、わしの性質はどっちかというと軍隊向きで、文官には向かんのですよ。』こう彼は、自分で自分の批評をすることもあった。彼は農奴制度改革の確実な根底に関してさえ、まだこれという堅固な観念を掴んでいなかったらしく、一年一年知らず識らずのうちに、実地のほうから知識を殖やして行きながら、やっと改革の根底を悟ったような始末である。そのくせ彼は地主なのであった。
 ペルホーチンは、今夜もきっとミハイル・マカーロヴィッチのところで誰か来客に出会うに相違ないと思った。けれども、誰かということはわからなかった。しかし、この時ミハイル・マカーロヴィッチのところへは、まるで誂えたように検事が来ていて、地方庁医のヴァルヴィンスキイとカルタを闘わしていた。この医者はつい近頃、ペテルブルグからこの町へ来たばかりの若紳士であった。彼は抜群の成績でペテルブルグの医科大学を卒業した秀才の一人である。検事といっても、本当は副検事のイッポリート・キリーロヴィッチは(しかし、町ではみんな彼を検事と呼んでいた)、この町でも風変りな人間であった。まだ三十五という男盛りだが、非常に肺が弱かった。そのくせ、恐ろしく肥った石女《うまずめ》の細君を持っていた。彼は手前勝手な怒りっぽい性分であったが、いたって分別のしっかりした、心のすなおな男であった。彼の性格の欠点は、真価以上に自分を値踏みするところから生じるらしい。いつも落ちつきがないように思われるのは、つまりそれがためなのである。それに、彼は一種高尚な、芸術的ともいうべき野心を持っていた。例えば、心理的観察眼とか、人間の心に関する特別な知識とか、犯人とその犯罪を見抜く特別な才能とか、そんなものについて、自負するところが多かった。この意味において、彼は自分を職務上いくぶん不遇な地位にある除け者と自認していた。で、彼はいつも上官たちが自分の価値を認めてくれない、自分には敵がある、とこう思い込んでいた。あまり気のくさくさする時など、もういっそ刑事訴訟専門の弁護士にでもなってしまう、と脅かすのであった。思いがけなくカラマーゾフの親殺し事件が突発した時、彼はこれこそ『ロシヤ全国に知れ渡るような大事件だ』と考えて、全身の血を躍らせた。しかし、筆者《わたし》はまた先廻りしているようだ。
 隣室では町の若い予審判事が、令嬢と一緒に話していた。この男は、ニコライ・パルフェノヴィッチ・ネリュードフといって、つい二カ月前にペテルブルグからここへ赴任して来たのである。あとで町の人たちは、ちょうど『犯罪』の行われた夜に、こういう人たちがわざと申し合せたように、行政官の家に集っていたことを語り合って、奇異の感さえいだいた。が、これはきわめて単純な、きわめて自然な出来事であった。イッポリートは、前の日から細君が歯を病んでいたので、その呻き声の聞えないところへ逃げ出さなければならなかった。医者は晩になると、カルタをしないではいられない性分であった。ニコライはもう三日も前から、この晩だしぬけにミハイル・マカーロヴィッチのところへ行こうと思っていた。それは、ミハイル・マカーロヴィッチの長女オリガに不意打ちを食わしてやろうという、ずるい企らみなのである。彼はオリガの秘密を知っていた。というのは、この日は彼女の誕生日にあたるのだが、町じゅうのものを舞踏会に招待しなくてはならないので、これがいやさに、わざと町の社交界に知らすまいと思っていたのである。そのほか、あの人のことでまだうんと笑って、皮肉を言ってやろう、あの人は自分の年を知られるのを恐れているが、いま自分はあの人の秘密の支配者だから、明日になったらみんなに話して聞かせる、などと言って脅かしてやろう、――まだ若々しくって愛らしい彼は、こういうことにかけると人並みすぐれた悪戯者であった。この町の貴婦人たちは、彼のことを悪戯者と呼んでいたが、それがまたひどく当人の気に入っているらしかった。しかし、彼は非常に立派な階級と立派な家柄に属する人で、そのうえ立派な教育も受けており、また立派な感情をも持っていた。もっとも、彼はかなりの放蕩者であったが、それもごく罪のない、社交上の法則にかなった放蕩者であった。見かけから言うと、背が低くて、弱々しく優しい体質をもっていた。彼のほっそりとした青白い指には、いつも図抜けて大きな指環が幾つか光っていた。彼が職務を遂行するときには、自分の使命と義務を神聖視してでもいるように、いつもに似ずものものしい様子になるのであった。ことに平民出の殺人犯人や、その他の悪漢どもを審問する際に、難問をあびせて度胆を抜く手腕をもっていた。また実際、彼らの心中に敬意でないまでも、とにかく一種の驚異の念を呼び起すのであった。
 ペルホーチンは署長の家へはいると、たちまち度胆を抜かれてしまった。そこに居合す人々が、意外にも、もはや何もかも承知している。[#「している。」はママ]ということがわかったのである。いかにも、一同はカルタを抛り出して、総立ちになって評議していた。ニコライまでも令嬢たちのところから飛んで来て、戦争のような緊張した様子をしていた。まずペルホーチンがそこで耳にしたことは、本当にフョードルが今晩自宅で殺されて、そのうえ金まで取られたという恐ろしい報告であった。これはつい今しがた。[#「今しがた。」はママ]次のような事情で知れたのである。
 塀のそばで打ち倒されたグリゴーリイの妻マルファは、自分の蒲団の中でぐっすり寝込んでいたので、朝まで一息に眠ってしまうはずなのに、なぜか急に目がさめた。彼女の目をさましたのは、人事不省のまま隣室に横たわっているスメルジャコフの、癲癇もち特有の恐ろしい叫び声であった。いつもその叫び声と同時に、癇癪の発作が始まるので、その度ごとにマルファは、この声におびやかされて、病的な刺戟を受けるのであった。彼女はどうしても、その呻き声に慣れることができなかった。マルファは夢心地で飛び起きると、ほとんど無我夢中で、スメルジャコフの小部屋へ駈け込んだ。けれど、そこは真っ暗で、ただ病人が恐ろしく呻きながら、もがき始めた物音が聞えるのみであった。で、マルファも同様に叫び声を立てて、亭主を呼び始めたが、ふと自分が起きて来る時、グリゴーリイは寝台の上にいないようだった、と心づいた。彼女は寝台のそばに駈け戻り、改めてその上を探ってみると、案の定、寝台は空になっていた。してみると、どこかへ行ったのであろうが、一たいどこだろう? 彼女は入口の階段へ駈け出して、そこからおずおずと亭主を呼んでみた。もちろん返事はなかったが、その代り夜の静寂の中に、どこからともなく、遠く庭園のほうからでもあろうか、何か呻くような声がするのを聞きつけた。彼女は耳をすました。呻き声はまたしても繰り返された。その声がまさしく庭のほうから響いて来るのは、もう間違いなかった。『ああ、まるであのリザヴェータ・スメルジャーシチャヤの時みたいだ!』という考えが、彼女のかき乱された頭をかすめた。おずおずと階段を降りて、闇をすかして見ると、庭へ通ずる木戸が開いたままになっている。『きっとうちの人があそこにいるんだ。』彼女はそう考えて、木戸口のほうへ近よった。と、ふいにグリゴーリイが弱々しい、しかも恐ろしい呻き声で、『マルファ、マルファ!』と呼んでいるのを明瞭に聞き分けた。『神様、何か変ったことのありませんように!』とマルファは呟いて、声のするほうへ走って行った。こうして、彼女はついにグリゴーリイを見つけ出したのである。けれども、見つけた場所は、彼が打ち倒された塀のそばではなく、塀から二十歩も離れたところであった。これは後でわかったことだが、グリゴーリイは正気づいて、這い出したのである。おそらく幾度となく意識を失ったり、人事不省におちいったりしながら、長いこと這っていたものと思われる。彼女はすぐに、グリゴーリイが全身血みどろになっているのに気がついて、いきなりきゃっと叫んだ。
『殺した……親父を殺したんだ……何わめいてるか、馬鹿め……ひと走り行って呼んでこう……』とグリゴーリイは小さな声で、しどろもどろに囁いた。しかし、マルファは聞き分けようともせず、叫びつづけたが、ふと見ると、主人の居間の窓が開け放しになって、そこからあかりがさしているので、急にそのほうへ駈け寄って、フョードルを呼び始めた。しかし、窓から中を覗いた時、恐ろしい光景が目を射たのである。主人は床の上に仰向けになったまま、身じろぎもせず倒れていた。薄色の部屋着と真っ白いシャツは、胸のところが血に染まっていた。テーブルの上の蝋燭は、フョードルのじっとした死顔と、血潮の色を鮮かに照らしていた。この時、もう極度の恐怖におそわれたマルファは、窓のそばから飛びのいて、庭の外へ駈け出した。そして、門の閂をはずすや、一目散に裏口から、隣家のマリヤのところへ駈け込んだ。隣りの家では母親も娘も、その時もう眠っていたが、けたたましく窓の鎧扉をたたく物音と、マルファの叫び声に目をさまして、窓のそばへ駈け寄った。マルファは金切り声を出して、しどろもどろに叫びながら、それでも要点だけかいつまんで話したうえ、どうか加勢に来てくれと頼んだ。ちょうどその夜は二人のとこに、宿なしのフォマーが泊り合せていた。二人はすぐに彼を叩き起し、都合三人で、犯罪の現場へと駈け出した。その途中マリヤは、さっき九時ごろ、近所合壁へ響き渡るような、恐ろしい、たまぎるばかりの叫び声が、隣家の庭で聞えたことをようやく思い出した。むろん、それはグリゴーリイが、もう壁の上に馬乗りになっているドミートリイの足にしがみついて、『親殺しっ!』と叫んだ時の声であった。『誰か一声きゃっと言いましたが、それっきりやんでしまいましたわ』と、マリヤは走りながら言った。グリゴーリイが倒れているところへ駈け着くと[#「駈け着くと」はママ]、二人の女はフォマーの援けを借りて、老人を離れへ運んだ。あかりをつけて見ると、スメルジャコフはまだ鎮まらないで、自分の部屋の中でもがいている。目は一方へ引っ吊って、口からは泡が流れていた。一同は酢をまぜた水で、グリゴーリイの頭を洗った。彼はこの水のおかげで、すっかり正気づいて、すぐに『旦那は殺されたかどうだね?』と訊いた。二人の女とフォマーは、そのとき主人の部屋へ出かけたが、庭へ入ってみると、今度は窓ばかりでなく、室内から庭へ通ずる戸までが開け放されていた。ところが、主人はもう一週間この方というもの、毎晩夕方から自分の手で堅く戸を閉めて、グリゴーリイさえ、どんな用事があっても、戸をたたくことを許されなかったのである。その戸がいま開けられているのを見ると、彼ら一同、――二人の女とフォマーとは、急に主人のほうへ行くのを恐れ始めた。それは、『あとで何か面倒がもちあがったら大変だ』と思ったからである。しかし、彼らがあと返りして来た時、グリゴーリイは、すぐ警察署長のもとへ走って行くように言いつけた。そこで、マリヤはさっそく駈け出して行って、署長の家に集っている人たちを総立ちにさせたのである。それはペルホーチンの来訪に先立つこと、僅か五分であった。しかし、ペルホーチンはただ自分一個の想像や、推察をもって出頭したばかりでなく、ある事実の目撃者として、犯人が何者であるかという一同の推察を、事実の物語で立派に裏書きしたのである(とはいえ、彼はこの最後の瞬間まで、やはり心の奥底では、そうした推察を信ずることを拒んでいた)。
 一同は、全力をつくして活動するように決議した。そして、副署長にさっそく四個の証拠物件を集めるように委任し、一定の手続きを踏みながら(筆者《わたし》はここでその規則を一々絮説するのはやめにしよう)、フョードルの家へ入り込んで、現場の検査を始めた。まだ経験が浅くて熱しやすい地方庁医は、みずから乞うて、署長や検事や予審判事に同行することとした。筆者《わたし》はもう簡単に話すことにする。フョードルは頭を打ち割られて、こと切れていた。が、兇器は何であろう? たぶんそれは、あとでグリゴーリイを傷つけたと同じものに相違ない。彼らは、応急手当を加えられたグリゴーリイから、弱いたえだえな声ではあるが、前述の遭難事件に関する、かなり連絡のある話を聞き取ったので、さっそくその兇器を捜し出した。提灯を持って塀のあたりを捜しにかかると、庭の径のよく人目につく場所に、銅の杵が抛り出されているのが、見つかったのである。フョードルが倒れている部屋の中には、べつにこれという乱れたところもなかったが、衝立ての陰にある寝台に近い床の上に、厚ぼったい紙でできた、役所で使うような大形の封筒が落ちていた。それには『三千ルーブリ、わが天使グルーシェンカヘの贈物、もしわれに来るならば』、その少し下には『しかして雛鳥へ』と書いてあった。おそらく、あとからフョードルが自分で書き添えたのであろう。封筒には赤い封蝋で、三つの大きな封印が捺してあった。が、封はすでに切られて、中は空になっていた。金は持ち去られたのである。床の上には、封筒を縛ってあったばら色の細いリボンが落ちていた。
 ペルホーチンの申し立てた事柄のうち、ある一つの事実がなかんずく、検事と予審判事とに格別つよい印象を与えた。それはドミートリイが夜明け頃には、きっと自殺するに相違ないという推察であった。彼はみずからそれを決心して、そのことをペルホーチンに言ったり、相手の目の前でピストルを装填したり、遺書を書いて、かくしへしまったりした。ペルホーチンはそれでもやはり、彼の言葉を信じなかったので、これから出かけて行って、誰かにこのことを話したうえ、自殺を妨害すると言って嚇かしたとき、ミーチャはにたりと笑いながら、『もう間に合わないよ』と答えた。してみると、さっそく現場へ、モークロエヘ急行して、犯人が真実自殺を決するおそれのないうちに、捕縛してしまわなければならない。『それは明瞭です、それは明瞭です!』と検事は度はずれに興奮して、繰り返した。『こういう兇漢は、よくそんなことをするものです。明日は自殺するんだから、死ぬ前にひとつ騒いでやれ、といった気持なんですよ。』彼が商店で酒や食料を買って行ったという話は、ますます検事を興奮させるばかりであった。
『ねえ、みなさん、商人オルスーフィエフを殺した、あの若者を覚えておいででしょう。あいつは千五百ルーブリを強奪すると、すぐ床屋へ行って頭をわけた後、ろくに金を隠そうともしないで、やはり素手に掴まないばかりのありさまで、女郎屋へ繰り出したじゃありませんか。』けれども、フョードルの家の家宅捜索や、その他の手続きが一同をてまどらせた。これにだいぶ時間がかかったので、まず田舎に駐在している巡査のマヴリーキイ・シメルツォフを、一同より二時間ばかり前にモークロエヘやることにした。彼はちょうどいいあんばいにその前の朝、俸給を受け取りに町へ来たのである。一同はマヴリーキイに訓示を与えた。それはモークロエヘ着いたら、少しも騒ぎを起さないで、当路者の到着まで、怠りなく『犯人』を監視するとともに、証人や村の組頭などを呼び集めておけ、云々というのであった。マヴリーキイはその命を守った。彼は、自分の旧い知人であるトリーフォン一人に、機密の一部をもらしただけで、万事秘密に行動した。ミーチャが自分を尋ねている宿の亭主に暗い廊下で行き合って、その顔つきにも言葉つきにも、一種の変化が生じたのに感づいたのは、ちょうどこの時刻に相当していた。こうして、ミーチャもまたほかの人も、誰ひとりとして、自分たちが監視されていることを知らなかった。ピストルの入ったミーチャの箱は、もうとっくにトリーフォンのために盜まれて、安全な場所へ隠されていた。
 やがて、ようやく朝の四時すぎになって、夜が白んだころ、当路者たる署長と検事と予審判事とが、二台の箱馬車と二台のトロイカに分乗してやって来た。医師はフョードルの家に残っていた。それは、翌朝被害者の死体を解剖に付するためであった。が、しかしおもなる理由は、病気にかかっている下男スメルジャコフの容体に、興味をいだいたからである。『二昼夜もつづけざまに反復されるような、こんな猛烈な長い癲癇の発作は、めったにないことですよ。これは研究の価値があります。』彼は、いま出発しようとしている仲間の人たちに、興奮のていでそう言った。相手は笑いながらその発見を祝した。このとき医師は断乎たる語調で、スメルジャコフは朝までもたないとつけ加えたことを、検事と予審判事とはよく記憶していた。
 いま筆者《わたし》は長々しい、とはいえ必要な(と自分には思われる)説明を終ったので、これから前篇で止めていた物語のつづきに帰ることとしよう。

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第九篇第一章 官吏ペルホーチンの出世の緒

[#1字下げ]第九篇 予審[#「第九篇 予審」は大見出し]



[#3字下げ]第一 官吏ペルホーチンの出世の緒[#「第一 官吏ペルホーチンの出世の緒」は中見出し]

 ピョートル・イリッチ・ペルホーチンが、モローソヴァの家の固く鎖された門を力ーぱいたたいているところで、われわれは一たん話の糸を切っておいたが、彼はもちろん、最後に自分の目的を達した。猛烈に門の戸をたたく音を聞いた時、二時間まえにすっかり度胆を抜かれてしまって、いまだに興奮と『もの思い』のために、床につく気になれないでいたフェーニャは、またしてもヒステリイになりそうなほど驚かされた。彼女は、ドミートリイが馬車に乗って出かけるところを自分の目で見たくせに、これはまたあの男が門をたたいているのだと思った。なぜと言って、あの男のほかに、ああ『ずうずうしい』たたき方をする人がないからである。彼女は、門番のところへ飛んで行き、――門番はもう目をさまして、音のするほうへ出かけようとしていた、――どうか入れないでくれと頼んだ。しかし、門番は戸をたたいている人に声をかけて、それが何者であるかを知り、きわめて重大な事件についてフェドーシヤ・マルコヴナに会いたいという希望を聞き取って、とうとう門をあけることに決心した。彼はまた例の台所へ通された。フェドーシヤ・マルコヴナ――フェーニャは『何だか油断がならない』と思ったので、門番も一緒に入れるように、ペルホーチン許し[#「ペルホーチン許し」はママ]を乞うた。ペルホーチンは早速いろいろと根掘り葉掘りしはじめたが、話はすぐ、一番の要点へ落ちて行った。つまり、ミーチャがグルーシェンカを捜しに馳け出した時、臼から杵を掴んで行ったが、今度帰った時にはすでに杵はなく、血みどろな手をしていたということである。
『ええ、まだ血がぽたぽた落ちてました、両手からぽたぽた落ちてました、本当にぽたぽた落ちてました!』とフェーニャは叫んだ。察するところ、彼女は自分の混乱した想像の中で、この恐ろしい事実を作り上げたものらしい。しかし、ペルホーチンもぽたぽた落ちるのこそ見なかったものの、血みどろな手は自分の目で見たばかりか、自分から手伝って洗わしたくらいである。それに、問題は血みどろの手が急に乾いたということではない、彼が杵を持って駈け出したのは、確かにフョードルのところへ行ったのだろうか? 確かにそうだという結論をどうして下すことができるか、それが問題なのである。ペルホーチンもこの点を精密に追及した。そして、結局、何の得るところもなかったけれど、しかしミーチャが駈け出して行くのは、父の家よりほかになさそうだ。してみると、そこで『何か事が』起ったに相違ないという、ほとんど確信に近いものを獲得したのである。
『そして、あの人が帰ったとき』とフェーニャはわくわくしながら言い添えた。『わたし、あの人にすっかり白状してしまいましたの。そしてね、どうして旦那さま、あなたのお手はそんな血だらけなんです、と訊きますとね、あの人の返事がこうですの。これは人間の血だ、おれはたったいま人を殺して来たのだって、すっかり白状してしまいました。後悔して、白状してしまいましたの、そして、いきなり気ちがいのように駈け出してしまいました。わたしは落ちついてじっと考えてみましたの。何だってあの人は今あんなに、気ちがいみたいに駈け出したんだろう? すると、急に考えつきましたのは、モークロエヘ行って奥さんを殺すつもりなんだということでした。そこで、わたしは奥さんを殺さないでくれと頼もうと思って、いきなり家を飛び出して、あの人の下宿をさして走って行きますとね、ふとプロートニコフの店先で、あの人がいよいよこれから出かけるってところじゃありませんか。見ると、手にはもう血がついていませんの(フェーニャはこのことに気がついて、後々までも覚えていた)。』フェーニャの祖母にあたる老女中も、できるだけ孫娘の申し立てを確かめた。それからまだ、何かのことをたずねた後、ペルホーチンは、入って来た時より一そう惑乱した、不安な心持をいだきながら家を出た。
 これからすぐフョードルのところへ行って、何か変ったことはないか、もしあればどういうことなのかと訊ねて、いよいよ確固たる信念を得た後に、はじめて警察署長のところへ行くのが、一ばん手っとり早い、自然な順序のように思われた。ペルホーチンも、そうすることに決心していたのである。しかし、夜は暗く、フョードルの家の門は堅かった。またどんどん叩かなければならない。それに、彼とフョードルはごく遠い知合いであったから、もし根気よく叩いて叩き起し、戸を開けてもらったとき、案外、何のこともなかったらどうだろう。あの皮肉家のフョードルは、明日にもさっそく方々へ行って、さほど懇意でもない官吏のペルホーチンが、お前は誰かに殺されはしなかったかと、よる夜なか押しかけて訊きに来た失策談を、町じゅうへ触れ廻すにちがいない。それこそ不体裁きわまる話だ! ペルホーチンはこの世で何よりも、不体裁ということを恐れていた。しかし、彼をぐんぐん引きずって行く感情の力は、意外に強かった。彼は地団太を踏んで自分で自分を罵りながら、猶予なく別な方角をさして駈け出した。目ざすところはフョードルの家でなく、ホフラコーヴァ夫人の家であった。
 彼は考えた。もし夫人が『これこれの時刻にドミートリイに三千ルーブリの金をやったか』という自分の問いに対して、否定の答えをした場合には、もはやフョードルのところへは寄らないで、すぐ署長の家へ出かけよう。もし反対の答えを得たならば、万事あすまで猶予してまっすぐに家へ帰ろう。もっとも、彼のような若い男がよる夜なか、ほとんど十一時という時刻に、てんで知合いでも何でもない上流の婦人を叩き起し(もう夫人は床についているかもしれない)、前後の状況から見て、奇怪きわまる質問を提出しようと決心したのは、フョードルのところへ行くよりも、さらに不体裁な結果を惹き起すおそれがある。しかし、今のような場合には、正確冷静この上ない人でも、どうかするとこういう決心をとることがある。それに、この瞬間ペルホーチンは、決して冷静な人ではなかった! 次第に強く彼の心を領してゆくうち克ちがたい不安は、ついに苦しいほどに募ってゆき、彼の意志に逆らって深みへ引きずってゆくのであった。彼は生涯このことを覚えていた。もちろん、彼はこの夫人のところへ足を運ぶ自分を、道々たえまなく罵っていたが、『どうしても、どうしてもしまいまでやり通してみせる!』と、彼は歯がみをしながら、十度ぐらい繰り返した。そして、自分の決心を遂行した、――見事やり通したのである。
 彼がホフラコーヴァ夫人の家へ入ったのは、かっきり十一時であった。庭まではかなり早く通してもらえたが、奥さんはもうお休みかどうかという問いに対しては、番人もふだん大ていこれくらいの時刻にお休みになります、とよりほかに正確な返事ができなかった。
「まあ、上へあがって取次ぎを頼んでごらんなさいまし、お会いになる気があれば、お会いになりましょうし、その気がなければ、お会いになりますまいよ。」
 ペルホーチンは家へはいった。が、ここでちょっと面倒が起った。従僕がなかなか取次ごうとしないで、とどのつまり小間使を呼び出した。ペルホーチンは慇懃な、とはいえ執拗な調子で、土地の官吏ペルホーチンが特別な事故によってお訪ねした、まったく特別重大な用向きでもなかったら、決して伺うはずではなかったと、こう取次いでくれるように小間使に頼んだ。『どうかぜひこのとおりの言葉で取次いで下さい』と彼は小間使に念を押した。小間使は立ち去った。彼は控え室に残って待っていた。当のホフラコーヴァ夫人は、まだ休んでこそいなかったが、もう寝室に籠っていた。彼女はさきほどのミーチャの来訪以来、すっかり気分が悪くなって、こういう場合、彼女につきものの頭痛は、今夜ものがれっこあるまいと観念していた。小間使の取次ぎを聞いて、夫人は一驚を喫したが、それでも、いらいらした調子で、断わってしまうように言いつけた。そのくせ、自分にとって面識のない『土地の官吏』が、こういう時刻に訪問したということは、彼女の女らしい好奇心を極度に刺戟したのである。しかし、ペルホーチンも今度は騾馬のように頑強だった。拒絶の言葉を聞き終った彼は、なみなみならぬ執拗な調子で、いま一ど取次ぎを頼んだ。『私は非常に重大な用向きでお訪ねしたのですから、もしお会いにならなかったら、あとで後悔なさるかもしれません』とのべ、『これをそっくりこのままの言葉で』伝えるように頼んだ。『僕はあの時まるで山から駈け下りるような心持になっていた』と彼は後日、自分の口から言い言いしたものである。小間使はびっくりしたように、彼をじろじろ見まわした後、いま一ど取次ぎをしに奧へ入った。
 ホフラコーヴァ夫人は驚いて考え込んだ。そして、その人の見かけはどんな様子であったか、と訊ねたところ、『身なりの大変きちんとした、丁寧な若い人』だということがわかった。ここでついでにちょっと断わっておくが、ペルホーチンはなかなか秀麗な青年で、自分でもこのことを承知していた。ホフラコーヴァ夫人は接見することに肚を決めた。夫人はもう部屋着をきて、スリッパをはいていたが、その上に肩から黒いショールを羽織った。『官吏』は、さきほどミーチャの通されたと同じ客間へ招ぜられた。夫人はいかついもの問いたげな顔をして客に近より、坐れとも言わずいきなり問いを発した。
「何ご用でございます?」
「私があなたにご迷惑をかけようと決心しましたのは、おたがいに共通な知人、ドミートリイ・カラマーゾフのことでございます」とペルホーチンは言いかけた。が、この名を口に出すか出さないかに、とつぜん夫人の顔には烈しい焦躁が現われた。
 彼女はほとんど叫び声を立てないばかりの勢いで、猛然と相手の言葉を遮った。
「いつまで、いつまであの恐ろしい男のことで、わたしはこんな苦しみを受けなければならないのでしょう!」と夫人は激昂して叫んだ。「何の縁故もない婦人の家へ、しかもこんな時刻に出かけて、迷惑をかけるなんて、あんまり失礼じゃございませんか……おまけに、そのお話は何かと思えば、つい三時間まえにこの同じ客間へわたしを殺しにやって来て、地団太を踏みながら出て行った人のことじゃありませんか。身分ある人の家で、あんな歩き方をする人はほかにありゃしません。よろしゅうございますか、あなた、わたしはあなたを訴えますよ、決して容赦はしませんから。さあ、今すぐ出て行って下さい……わたしは母親として、わたしはすぐに……わたしは……わたしは……」
「殺しにですって? じゃ、あの男はあなたまで殺そうとしたのですか?」
「え、あの男はもう誰か殺したのですか?」とホフラコーヴァ夫人は勢い込んで訊ねた。
「奥さん、お願いですから、たった三十秒だけ、私の言うことを聞いて下さいまし。簡単に一切の事情を説明いたしますから」とペルホーチンはきっぱりと答えた。「今日の午後五時頃、カラマーゾフ君が私のところへ、懇意ずくで十ルーブリの金を借りに来たのです。私はあの人が少しも金を持っていなかったのを、確かに承知しています。ところが、同じく今夜の九時ごろに、あの人は百ルーブリ札の束を麗々しく手に掴んだまま、私の家へやって来たのです。かれこれ二千ルーブリか三千ルーブリくらいあったようです。おまけに、両手も顔も一面に血だらけじゃありませんか。まるで気でも違ったようなふうつきでした。どこからそんな金を手に入れたのか、と訊きますと、あの人の答えるには、たった今あなたのところからもらって来たのだ、あなたが三千ルーブリの金を、金鉱へ行くという条件つきで貸してくれたのだ、とこういう話でした……」
 ホフラコーヴァ夫人の顔には、突然なみなみならぬ病的な興奮の色が現われた。
「ああ、大変! あの男は自分の親を殺したのです!」彼女は両手を拍ちながらこう叫んだ。「わたしは決してあの男に金なんか出しゃしません、決して出しゃしません! さあ、走ってらっしゃい、走ってらっしゃい!………もう何も言わないで下さい! あの老人を助けておやりなさい、あの親父さんのところへ走ってらっしゃい、早く走ってらっしゃい!」
「失礼ですが、奥さん、何でございますね、あなたはあの男に金をおやりにならなかったのですね? あなたしっかり覚えていらっしゃいますね、少しも金をおやりにならなかったのですね?」
「やりません、やりません! わたしきっぱり断わってしまいました。だって、あの男にはお金の有難味がわからないのですもの。すると、あの男は気ちがいのようになって、地団太を踏みながら出て行ったのでございます。おまけに、ひとに飛びかかろうとしましたので、わたしはびっくりして、飛びのきましたの……わたしはもう今さらあなたに、何一つ隠しだてしようという気はありません。あなたを信頼すべき方としてお話ししますが、あの男はわたしに唾まで吐きかけましたの。本当に想像もつかないようなお話じゃありませんか! だけど、何だってわたしは、こうぼんやり立ってるんでしょうね? まあ、おかけ下さい……本当にごめん下さいましね、わたしは……いえ、それよりやはり走ってらしたほうがようござんす、走ってらっしゃい。あなたは今すぐ駈け出して、あの老人の恐ろしい死を救わなくちゃなりません!」
「しかし、もう殺してしまったあとでしたら?」
「あら、まあ、どうしましょう、本当にねえ! では、これからどうしたらいいのでしょう? 一たいあなた何とお思いになります、これからどうしたらよろしいのでしょう?」
 こんなことを言ってる間に、彼女はペルホーチンに腰をかけさして、自分でもその真向いに座を占めた。ペルホーチンは簡単ではあるが、かなり明瞭に事件の経過、少くとも、きょう自分で目撃しただけのことを夫人に物語り、さきほどフェーニャの住居を訪れたことも、杵のことも話して聞かせた。こうした詳細な物語は、それでなくても興奮した夫人を、極度にまでいらだたせたのである。夫人は絶えず叫び声をたてたり、両手で目を隠したりした……
「ねえ、わたしはこういうことを、すっかり見抜いていたのでございます! わたしには、そうした天賦の才能がありますの。わたしの想像することは、何でも事実となって現われるんですからね。わたしはあの恐ろしい男を見るたびに、これこそしまいにはわたしを殺す人間だ、とこう心の中で何べん考えたかわかりませんわ。ところが、はたしてこのとおりの始末じゃありませんか……あの男がわたしを殺さないで、自分の父親を殺したのは、もう確かに目に見えて、神様のお手がわたしを守って下すったに相違ありません。それに、あの男も自分でそんなことをするのを、きっと恥しいと思ったのでしょう。なぜって、わたしは偉大なる殉教者ヴァルヴァーラの遺された聖像をここで、この客間であの男の頸に自分でかけてやったんですもの……本当にわたしはあの時、死というもののすぐそばまで寄ってたんですわ。だって、わたしはあの男のそばへぴったりと寄り添って、あの男はわたしのほうヘ一ぱいに頸を突き出したんですからね! ねえ、ピョートル・イリッチ(失礼ですが、あなたは確かピョートル・イリッチとおっしゃいましたね?)実はわたし奇蹟というものを信じていません。けれど、あの聖像とあの疑う余地のない奇蹟は、わたしの心を底から動顛さしてしまいました。わたしはまた何でも信じそうな心持がしてきました。あなたはゾシマ長老のことをお聞きになりまして?……もっとも、わたしは自分でも何を言ってるかわかりません……だけど、まあ、どうでしょう、あの男は聖像を頸にかけたまま唾を吐きかけましたの……もちろん、唾を吐きかけただけで、殺しはしませんでしたけど……本当にとんでもないところへ駈け出して行ったものですわねえ! けれど、わたしたちはどこへ行ったものでしょう? わたしたちは一たいこれからどこへ行きましょう? あなたはどうお考えになります?」
 ペルホーチンは立ちあがり、自分はこれから警察署長のところへ行って、様子をすっかり話してしまう、それからさきはどうしようと向うの勝手だと言った。
「ああ、あの人は立派な、実に立派な人物です。わたしミハイル・マカーロヴィッチとはごく懇意にしていますの。本当にぜひとも、あの人のところへいらっしゃらなければなりません。本当に、あなたは何という機転のきくお方なんでしょうねえ、ピョートル・イリッチ。そして、よくまあ、そんなにいろんなことをお考えつきになりましたのねえ。まったくわたしがあなたのような位置に立ったら、まるで途方にくれてしまいますわ!」
「それに、私自身も署長とは昵懇な間柄ですから。」ペルホーチンはやはり立ったままでこう言った。見受けたところ、彼はどうかして少しも早く、この一本向きな婦人のそばを逃げ出したいようなふうであったが、夫人はいっかな暇を告げて立ち去らせようとしなかった。
「あのね、あのね」と彼女はしどろもどろな調子でこう言った。「あなたこれからご自分で見たり聞いたりなすったことを、わたしに知らせに来て下さいません?……どんな事実が発見されるか、どんなふうに裁判せられて、どんな宣告を受けるか……ねえ、あなた、ロシヤには死刑ってものはないのでしょうか? ですけど、必ずいらしって下さいな。夜中の三時でも、四時でも、四時半でもかまいませんわ……もしわたしが目をさまさなかったら、揺ぶり起すように言いつけて下さいましよ……ああ、大変なことになったものだ。それに、わたし寝られそうもありませんわ。ねえ、いっそわたしもご一緒に出かけるわけにまいりますまいかしら?」
「ど、どういたしまして。時にですね、万一の用心に、あなたがドミートリイ君に一文もお金をお貸しにならなかったということを、今すぐあなたのお手で、一筆かいて下さいましたら、たぶん、むだにはなるまい思いますが[#「むだにはなるまい思いますが」はママ]……万一の用心にね……」
「ぜひ書きますわ!」ホフラコーヴァ夫人は歓喜の情に駆られて、事務テーブルのほうへ飛んで行った。「ねえ、あなた、わたしはあなたがこういう事件について、よく機転がおききになるので、すっかり感心してしまいましたわ。腹の底から揺ぶられたような気持がいたしますわ……あなたはここで勤めていらっしゃるのでございますって? それはまあ、何より嬉しいことでございますわ……」
 こう言いながら、夫人はもう半切の書簡箋に、大きな字で次の文句をさらさらと手早くしたためた。
『わたくしはいまだかつてかの不幸なるドミートリイ・カラマーゾフ氏に(何というとも彼はいま不幸なる身の上なれば)、三千ルーブリの金を与えたることなきのみならず、一度たりとも金銭の貸与をしたることなし! 世界にありとあらゆる聖きものをもってこの言葉の真なるを誓う。
[#地付き]ホフラコーヴァ』
「さあ、書けました!」と夫人はくるりとペルホーチンのほうへ振り向いて、「さあ、行って助けておあげなさい。それはあなたにとって偉大なる功業ですわ。」
 と夫人は彼に三ど十字を切ってやった。彼女は駈け出して、控え室まで見送った。
「わたし本当にあなたに感謝いたしますわ! あなたがわたしのところへ第一番に寄って下すったということを、わたしがどれくらい感謝しているか、あなたにはとても想像がおつきにならないでしょう。どうして今までお目にかからなかったのでしょうねえ? これからも宅へお遊びにいらして下さいましたら、わたしどんなにか嬉しゅうございましょう。それに、あなたがこの町で勤めていらっしゃると伺って、ほんとうに愉快でございますわ……まあ、あなたは、なんて正確な、なんて機転のきいたお方なんでしょう……ほかの人もあなたを尊敬するに相違ありません、あなたを理解するに相違ありません。わたしも自分でできるだけのことは、あなたのために、ねえまったく……ええ、わたしはお若い方が大好きなのでございます! わたし今の若い人たちに惚れ込んでいるのでございます。若い人たちは今の苦しめるロシヤの礎《いしずえ》でございます、希望でございます……さあ、いらっしゃい、いらっしゃい……」
 しかし、ペルホーチンはもう駈け出してしまった。でなかったら、夫人はなかなか、こんなに早く放しはしなかったろう。もっとも、ホフラコーヴァ夫人は彼にかなり気持のいい印象を与えた。そればかりか夫人の印象は、こんな穢らわしい事件に巻き込まれたという彼の不安を、幾分やわらげてくれたほどである。わかりきった話であるが、人間の趣味はずいぶんさまざまなものである。『それに、あの人は、決してそんなに婆さんじみちゃいない』と彼はいい気持になってこう考えた。『それどころか、僕はあのひとをあそこの娘さんかと思ったくらいだ。』
 当のホフラコーヴァ夫人にいたっては、もうすっかりこの若紳士に魅了されていた。『何という如才のない、几帳面な人だろう! 今どきの若い人に似合わないことだ、しかも起居振舞いが見事で、男まえもなかなかいい。今どきの若い者は何一つできないって、よく人が言うけれど、一つあの方を見せてやりたいものだ、云々、云々。』かような次第で、彼女はこの『恐ろしい出来事』をほとんど忘れてしまっていたが、ようやく床につくだんになって、自分がほとんど『死のすぐそばに』立っていたことをふと思い起し、『ああ、恐ろしいことだ、恐ろしいことだ!』と言ったが、たちまちぐっすり甘い眠りに落ちてしまった。もっとも、筆者《わたし》はこんな些末な挿話を、ああまで詳しく物語るはずでなかったのだが、若い官吏とまだ大して年をとっていない未亡人とのこのとっぴな対面は、後にいたって正確で几帳面な青年の出世の緒となったのである。このことは今でも町の人が、驚異の念をいだきながら語り合っている。筆者《わたし》もカラマーゾフの兄弟に関する長い物語を終った後で、別にこのことを話すかもしれない。

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第八篇第八章 夢幻境

[#3字下げ]第八 夢幻境[#「第八 夢幻境」は中見出し]

 やがてほとんど乱痴気騒ぎとでもいうようなものがはじまった。それは世界じゅうひっくり返るような大酒もりであった。グルーシェンカは第一番に、酒を飲ましてくれと叫びだした。
「わたし飲みたいのよ、この前の時と同じように、へべれけになるほど酔っ払ってみたいの。ねえ、ミーチャ、あの時わたしたちがここで、はじめて知合いになった時のことを、覚えてて?」
 当のミーチャはまるで有頂天であった。彼は『自分の幸福』を予覚したのである。しかし、グルーシェンカは、絶えず彼を自分のそばから追いのけていた。
「あんた行ってお騒ぎなさい。みんな踊って騒ぐように言ってらっしゃい。あの時みたいに『小屋も暖炉も踊りだす』ほど騒ぐのよ。あの時のようにね!」と彼女は絶えず喋りつづけた。彼女は恐ろしく興奮していた。で、ミーチャも指図のために飛び出すのであった。
 コーラスは次の部屋に集っていた。今までみんなの坐っていた部屋は、それでなくても狭かった。更紗のカーテンで真っ二つに仕切られて、その向うにはまたしても大きな寝台が据えてあった。それにはふっくらした羽蒲団と、同じような更紗の枕が幾つも小山みたいに積み上げてあった。この宿屋の四つの『綺麗な』部屋には、みんな寝台の置いてないところがなかった。グルーシェンカは、戸口のすぐそばに席をかまえていた。ミーチャがここへ肘椅子を運んでやったのである。『あの時』はじめてここで豪遊をした時にも、彼女はちょうど同じようなふうに座を占めて、ここから合唱隊や踊りを眺めていた。
 集って来た娘たちも『あの時』とすっかり同じであった。ユダヤ人の群も同様、ヴァイオリンやチトラを持ってやって来た。待ちかねていた酒や食料を積んだ三頭立の馬車も、とうとう着いた。ミーチャは忙しそうにあちこちしていた。何の縁故もない百姓や女房連まで、見物のために部屋の中へ入って来た。彼らはもう一たん眠りについたけれど、また一カ月前と同じような類のない饗応を嗅ぎつけ、目をさまして起き出したのである。ミーチャは、知合いの誰かれと挨拶して抱き合った。だんだんと見覚えのある顔を思い出してきた。彼は壜の口を抜いて、誰でも彼でも行き当り次第に振舞うのであった。ジャンパンを無上にほしがるのは娘らばかりで、百姓連にはラム酒やコニヤクや、とくにポンスが気に入った。ミーチャは、娘らぜんたいに行き渡るようにチョコレートを沸かして、来るものごとに、茶やポンスを飲ませるために、一晩じゅう三つのサモワールをたえまもなく煮え立たせるように命令した。つまり、望みのものは誰でも、ご馳走にありつけるわけであった。手短かに言えば、何か一種乱脈な、ばかばかしいことが始まったのである。しかし、ミーチャは自分の本領にでも入ったようなふうつきで、あたりの様子がばかばかしくなればなるほど、ますます元気づいてくるのであった。もしその辺の百姓が金をくれと頼んだら、彼はすぐに例の紙幣束を引き出して、勘定もしないで右左へ分けてやったに相違ない。
 おそらくこういう理由で、ミーチャを監督するためだろう、亭主のトリーフォンはほとんどそばを離れないようにして、彼のまわりをあちこちしていた。亭主は、もう今夜寝ることなどは思いきって、酒をろくろく飲まず(彼はポンスをたった一杯飲んだばかりである)、目を皿のようにしながら、自己一流の見地からミーチャの利害を監視していた。必要な場合には愛想よく、お世辞たらたらミーチャを引き止めて、『あの時』のように『葉巻やライン・ワイン』や金などを、(これなぞは実にとんでもないことだ)、百姓どもに撒き散らすのを妨げた。そして、あまっ子どもがリキュールを飲み、菓子を食べるといって、ぷりぷり憤慨した。『あんなやつらは、ほんの虱の宿でございますよ、旦那さま』と彼は言った。『わたくしは、あいつらの中のどれなりと足蹴にして、それを有難いと言わしてお目にかけます、――あいつらはそれくらいのものでございますよ!』ミーチャはまた一度アンドレイのことを思い出して、この男にポンスを持って行ってやるように命じた。『おれはさっきあいつを侮辱したんだ』と彼は有頂天になって、衰えたような調子で繰り返した。
 カルガーノフは酒を口にしようとしなかった。それに、娘らのコーラスにも、初めは大不賛成であった。しかし、シャンパンをたった二杯しか飲まないうちに、むやみにはしゃぎだして、部屋を歩きはじめた。そして、きゃっきゃっ笑いながら、歌も囃子も、何もかも無上に賞めちぎるのであった。マクシーモフは少々きこしめして、大恐悦の体で、ちょっとも彼のそばを離れなかった。同様に酔いのまわってきたグルーシェンカは、ミーチャにカルガーノフを指さしながら、『なんて可愛い人だろう、なんていい子だろうねえ!』と言った。すると、ミーチャは有頂天になって駈け出し、カルガーノフとマクシーモフに接吻した。おお、彼は多くのことを予察した。彼女はまだそんなふうのことを少しも言わなかったし、言いたいのをわざと押しこらえているらしくさえ見えたが、それでもときおり彼のほうを見る目つきは優しく、しかも燃えるようであった。とうとう、彼女はとつぜん男の手をしっかり掴まえて、無理やりに自分のほうへ引き寄せた。彼女自身は戸口の肘椅子に坐っていた。
「あの時あんたは、なんて入り方をしたの? え、なんて入り方をしたの!………わたし本当に驚いちゃったわ、どうしてあんたは、わたしをあの男に譲ろうって気になったの? 本当にそんな気になったの?」
「おれはお前の幸福を台なしにしたくなかったんだ!」ミーチャは嬉しそうに、しどろもどろな調子でこう言った。しかし、グルーシェンカには、彼の返答など必要ではなかった。
「さあ、あっちいいらっしゃい……おもしろく騒いでらっしゃい」と彼女はふたたび追いのけるように言った。「それに、泣くことはないわ、また呼んで上げるから。」
 で、彼は向うのほうへ駈け出した。彼女は男がどこにいても、じっと目でその跡を追いながら、歌を聞き、踊りを見るのであった。しかし、十五分もたつと、また彼を呼び寄せる。すると、彼もふたたびそばへ走って来る。
「さあ、今度はそばへお坐んなさい。そして、昨日どうしてわたしのことを知ったの? わたしがここへ来たってことを、どうして知ったの? 一番に聞かした人は誰?」
 そこで、ミーチャはすっかり話しにかかった。前後の順序もなくしどろもどろに、熱したとはいえ妙に不思議な調子で話をした。そして、しょっちゅうだしぬけに眉をしかめては、言葉を途切らすのであった。
「何だってあんた、そんなに眉を寄せるの?」と彼女は訊いた。
「何でもない……あっちへひとり病人をおいて来たんだ。もしそれがよくなったら、よくなるということがわかったら、おれは今すぐ自分の十年の命を投げ出すよ!」
「だって、病人なんかどうだっていいわ! じゃ、あんたは本当にあす死ぬつもりだったの? まあ、なんて馬鹿な人でしょう、おまけに、つまらないことのためにさあ! わたしはあんたのように無分別な人が好きだわ。」やや重くなった舌をやっと廻しながら、彼女はこう言った。「じゃ、あんたはわたしのためなら、どんなことでもいとわない? え? 本当にあんたはあすピストルで死ぬつもりだったの、馬鹿だわねえ! まあ、しばらく待ってらっしゃい、明日になったら、わたしいいことを言って聞かせるかもしれないわ……今日は言わない、明日よ、あんたは今日聞きたいんでしょう? いや、わたし今日は言わない……さあ、もういらっしゃい、いらっしゃい、おもしろく騒いでらっしゃい。」
 しかし、一ど彼女は何だか合点のゆかない様子で、心配そうにミーチャを呼び寄せた。
「何だってあんたはそう沈んでるの? わたしわかってよ、あんたはほんとに沈んでるわ……いいえ、もうちゃんとわかってよ。」鋭く男の目を見入りながら、彼女はこうつけたした。「あんたはあっちで百姓たちと接吻して、大きな声を出しているけれど、わたしにゃちゃんとわかってるわ。駄目よ、はしゃがなくちゃ。わたしもはしゃいでるんだから、あんたもはしゃいでちょうだい……わたし、この中でひとり愛してる人があるのよ、誰だかあててごらんなさい……あらごらん、うちの坊っちゃんが寝ちゃったわ。可哀そうに酔っぱらったんだわ。」
 彼女はカルガーノフのことを言ったのである。彼は本当に酔っぱらって、長椅子に腰をおろすと、そのまま眠りに落ちてしまった。彼が寝たのは、ただ酔いのためばかりではなかった。彼は急にどうしたわけか気が欝してきたのである。彼の言葉を借りると、『退屈』になったのである。酒もりとともに、だんだん淫猥放縦になってゆく娘らの歌が、しまいには恐ろしく彼の元気を奪ったのである。それに踊りもやはり同じことであった。二人の娘が熊に扮装すると、スチェパニーダという元気のいい娘が手に棒を持って、獣使いという趣向で、熊をみんなに『見せ』始めた。
「マリヤ、もっとはしゃいで」と彼女は叫んだ。「でないと、棒が飛んでくよ!」
 とうとう熊は、もう本当に妙なみだらな恰好をして床に転がった。すると、ひしひしと押し寄せた女房や百姓どもの群衆は、どっと高く笑いくずれた。『いや、勝手にさしておくんだ、勝手にさしておくんだ。』グルーシェンカは幸福げな色を顔にたたえながら、もったいらしい調子でこう言った。『こんなに浮かれるおりといったら容易にありゃしないんだから。誰にだっておもしろい目をさせないって法はないわ。』カルガーノフは何かに体を汚されたような顔つきで眺めていた。『こんなことは、こんな国民風俗なんてみんな穢らわしいものだ!』と彼は、そのそばを退きながら、言った。『これは夏の夜じゅう太陽《てんとう》さまの番をするとかいう、民間の春の遊びなんだ。』しかし、とりわけ彼の気に入らなかったのは、活発な踊りめいた節のついた、ある『新しい』小唄であった。それは通りがかりの旦那が娘たちを試したという歌である。

[#ここから2字下げ]
娘がおれに惚れてるか
どうかと旦那は聞かしゃった
[#ここで字下げ終わり]

 しかし、娘たちは旦那に惚れることはできないような気がした。

[#ここから2字下げ]
旦那はひどくぶたっしゃろう
わたしゃ旦那に惚れはせぬ
[#ここで字下げ終わり]

 その後からジプシイが一人通りかかったが、これも同様に、

[#ここから2字下げ]
娘がおれに惚れてるか
どうかとジプシイは聞いてみた
[#ここで字下げ終わり]

 しかし、ジプシイにも惚れるわけにゆかぬ。

[#ここから2字下げ]
ジプシイもとより盗み好き
するとわたしは嘆きみる
[#ここで字下げ終わり]

 それから大勢の人が、――兵隊までやって来て、娘たちを試してみた。

[#ここから2字下げ] 娘がおれに惚れてるか
どうかと兵士は聞いてみた
[#ここで字下げ終わり]

 しかし、兵隊は冷笑をもってしりぞけられた。

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兵士は背嚢しょうであろ
ところがわたしはうしろから……
[#ここで字下げ終わり]

 その次の一連は恐ろしい猥雑きわまるものであった。しかも、それが公々然と唄われて、聴衆の間にどっというどよめきを惹き起した。とうとう話は商人でけりがついた。

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娘がおれに惚れてるか
どうかと商人《あきゅうど》は聞いてみた
[#ここで字下げ終わり]

 すると、ぞっこん惚れてることがわかった。そのわけは、

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商人《あきゅうど》は儲けが上手ゆえ
わたしゃ栄耀をし放題
[#ここで字下げ終わり]

 カルガーノフはもう怒ってしまった。
「これはまるで昨日のと同じ歌だ」と彼は口に出してこう言った。「まあ、一たい誰がこの連中に作ってやるのだろう! 鉄道員ユダヤ人がやって来て、娘を試さないのが不思議なくらいだ。この連中ならみんな口説き落しただろうに。」
 彼はほとんど侮辱を感じた。退屈だと言いだしたのはこの時である。彼は長椅子に腰をおろすと、そのままうとうととまどろみ始めた。可愛らしい顔は幾ぶん蒼ざめ、長椅子の枕の上にぐったりとなっていた。
「ごらんなさい、なんて可愛いんでしょう。」ミーチャをそばへ引っ張って行きながら、グルーシェンカはこう言った。「わたしね、さっきこの人の頭を梳《す》いて上げたの。まるで亜麻のような房々した毛……」と、さも懐かしそうに屈み込んで、彼女は青年の額を接吻した。カルガーノフは、すぐにぱちりと目を見ひらいて、相手の顔を眺め、半ぶん腰を上げながら、心配そうな様子で訊ねた。
「マクシーモフはどこにいます?」
「まあ、あんな人のことが気になるのよ」とグルーシェンカは笑いだした。「まあ、ちょっとわたしのそばに坐ってらっしゃい。ミーチャ、ひと走りして、この人のマクシーモフを捜して上げてちょうだい。」
 聞けば、マクシーモフはただときどき駈け出して、リキュールを一杯ひっかけて来るほか、もういっかな娘たちのそばを離れようとしなかった(もっとも、チョコレートを茶碗二杯も飲みほした)。小さな顔は真っ赤になって、鼻などは紫色に染まり、目はうるみをおびて、おめでたそうに見えた。彼はちょこちょことそばへ駈け寄って、今すぐ『ちょいとした囃子に合せて』、木靴舞踏《サポチエール》を踊るからと披露した。
「わたくしは、育ちのいい上流の方々がなさるような踊りを、小さい時分にすっかり習ったのでございます……」
「さあ、いらっしゃい、この人と一緒にいらっしゃい、ミーチャ、わたしはこの人がどんなことを踊るか、ここから見物してるからね。」
「じゃ、僕も、僕も見に行こう。」自分のそばに坐っててくれというグルーシェンカの乞いを、思いきって子供らしい態度でしりぞけながら、カルガーノフはこう叫んだ。で、一同は見物に出かけた。マクシーモフは本当に自己流の踊りを踊って見せた。しかし、ミーチャのほかにはほとんど誰ひとり、かくべつ感心してくれるものがなかった。その踊りというのは、ただひょいひょい妙に飛びあがったり、裏を上に向けて足を横のほうへ伸ばしたり、飛びあがるたびに掌で靴の裏を叩くだけのことであった。カルガーノフにはさっぱり気に入らなかったが、ミーチャは踊り手に接吻までしてやった。
「いや、有難う、さぞ疲れたろう。何だってこっちのほうばかり見てるんだ? 菓子でもほしいのか、え? 葉巻でもほしいのか?
「紙巻を一本。」
「一杯どうだね?」
「わたくしはあそこでリキュールを……あなた、チョコレートのお菓子はございませんか?」
「そら、あのテーブルに山ほどあらあな。勝手に好きなものを取るがいい、本当にお前の心は鳩のようだなあ?」
「いいえ、わたくしが申しますのは、そのヴァニラ入りので……年よりにはあれにかぎります……ひひ!」
「ないよ、お前、そんな特別なのはないよ。」
「ちょっとお耳を!」とつぜん老人はミーチャの耳のそばへかがみ込んだ。「それ、あの娘でございますな、マリュシカでございますな、ひひ! いかがでございましょう、できることならどうかして、あの子とねんごろにいたしたいもので、一つあなたのご親切なお取り計らいで……」
「おやおや、とんだ大望を起したな、おい、でたらめを言うもんじゃないぜ。」
「でも、わたくしは誰にも悪いことはいたしません。」マクシーモフはしおしおとこう呟いた。
「いや、よしよし。ここではお前ただ飲んだり踊ったりしてるだけなんだから……いや、まあ、どうだっていいや! ちょっと待ってくれ……まあ、今しばらく腹へ詰め込んでいるがいい。飲んだり食ったりして騒いでるがいい。金はいらないか?」
「あとでまた、その……」とマクシーモフはにたりと笑った。
「よしよし……」
 ミーチャは頭が燃えるようであった。彼は玄関のほうにある木造の高い廊下へ出た。それは、庭に面した建物の一部分を、内部からぐるりと取り巻いていた。新鮮な空気は彼を甦らせた。彼はただひとり片隅の暗闇に佇んでいたが、ふいに両手でわれとわが頭を掴んだ。ばらばらになっていた思想が、急に結び合わされて、さまざまな感触も一つに溶けあった。そして、一切のものが光を点じてくれたのである。ああ、何という恐ろしい光!
『そうだ。もし自殺するなら、今でなくていつだろう?』という想念が彼の頭をかすめた。『あのピストルを取りに行って、ここへ持って来る。そして、この汚い暗い廊下の隅でかたづけてしまうのだ。』ほとんど一分間、彼は決しかねたように佇んでいた。さっきここへ飛んで来ているあいだは、彼のうしろに汚辱が立ち塞がっていた。彼の遂行した竊盗の罪が立ち塞がっていた。それに、何よりもあの血だ、血だ!………しかし、あの時のほうが楽だった、ずっと楽だった! あの時にはもはや万事了していたのだ。彼は女を失った、他人に譲った、グルーシェンカは彼にとってないものであった、消えたものであった、――ああ、自己刑罰の宣告もあの時は楽だった。少くとも、必要避くべからざるものであった。なぜなれば、彼にとってはこの世に生きのこる目的がないからである。
 ところが、今はどうだろう! はたして今とあの時と同じだろうか? 今は少くとも、一つの恐ろしい妖怪は片づいてしまった。あの争う余地なき以前の恋人は、あの運命的な男は、跡形もなく消えてしまった。恐ろしい妖怪は急に何かしらちっぽけな、滑稽なものと変ってしまった。軽々と手で提げられて、寝室の中へ押し込められてしまった。もう決して帰って来ることはない。グルーシェンカは恥かしがっている。そして、いま彼女が誰を愛しているか、彼にははっきりわかっている。ああ、今こそ初めて生きてゆく価値がある、ところが、生きてゆくことはできない、どうしてもできない、おお、何という呪いだ!
『ああ、神様、どうか垣根のそばに倒れている男を生き返らせて下さいまし! この恐ろしい杯を持って、わたくしのそばを通り抜けて下さいまし! あなたはわたくしと同じような罪びとのために、いろいろな奇蹟を現じられたではありませんか! ああ、どうだろう? もし爺さんが生きていたらどうだろう? おお、その時こそわたくしはそのほかの汚辱をそそぎます。盗んだものを返します、ぜひとも返してお目にかけます、土を掘っても手に入れます……そうすれば、汚辱の跡はわたくしの心のほかには、永久に残らないですむのでございます! しかし、駄目だ、駄目だ、しょせん、できない相談だ、了簡の狭い空想だ! おお、何という呪いだ!』
 とはいえ、やはり何となく明るい希望の光線が、彼の暗い心に閃くのであった。彼は急にその場を離れて、部屋の中をさして駈け出した、――彼女のもとへ、永久に自分の女王たる彼女のもとへ! 『よしんば汚辱の苦痛に沈んでいる時であろうとも、彼女の愛の一時間、――いや、一分間は、残りの全生涯と同じの価値を持っていないだろうか?』この奇怪な疑問がとつぜん彼の心を掴んだ。『あれのところへ行こう、あれのところへ行きさえすればいいのだ。あれの顔を見て、あれの声を聞きさえすればいいのだ。ただ今夜一晩だけでいい、一時間でもいい、一瞬の間でもいい、もう何一つ考えないで、一切のことを忘れてしまうのだ!』
 廊下から玄関へ入ろうというところで、彼は亭主のトリフォーンに行き合った。亭主は何だか、浮かない心配らしい顔をしていた。彼は捜しに歩き廻っているらしい。
「どうしたんだ、トリフォーン、おれを捜してるんじゃないか?」
「いいえ、あなたじゃございません」と亭主は急にまごついた様子で、「わたくしが旦那を捜すなんて、そんなわけがないじゃありませんか? ところで、旦那……旦那はどこにいらっしゃいました?」
「何だってお前、そんな浮かない顔をしてるんだ? 怒ってるんじゃないか? ちょっと待てよ、もうすぐ寝さしてやるから……何時だい?」
「へい、もうかれこれ三時でございましょう。いや、ことによったら、三時すぎかもしれません。」
「もうやめるよ、やめるよ。」
「とんでもないことを、かまいはいたしません。どうぞご存分に……」
『あの男どうしたんだろう?』ちらとミーチャはこう考えて、娘らの踊っている部屋へ駈け込んだ。しかし、彼女はそこにいなかった。空色の部屋にもやはりいない。カルガーノフが長椅子の上でまどろんでいるだけであった。ミーチャがカーテンの向うを覗いてみると、――彼女はここにいた。彼女は片隅にある箱の上に腰かけて、両手と頭をかたわらなる寝台に投げ出したまま、人に聞かれまいと一生懸命に押しこらえて、声を盗みながら、にがい涙にむせんでいるのであった。ミーチャを見ると、自分のそばへ招き寄せて、固くその手を握りしめた。
「ミーチャ、ミーチャ、わたしあの男を愛してたのよ!」と彼女は小声に囁き始めた。「ええ、あの男を愛してたのよ、五年の間ずっと愛してたのよ。一たいわたしが愛してたのはあの男だろうか、それとも、ただ口惜しいという心持だけだろうか? いいえ、あの男を愛してたんだわ! まったくあの男を愛してたんだわ! わたしが愛してたのは口惜しいって心持だけで、あの人という人間じゃないと言ったのは、ありゃ嘘なのよ! ミーチャ、わたしはあの時たった十七だったけど、あの男はそりゃわたしに優しくしてくれたのよ。そして、陽気な人でね。よくわたしに歌をうたって聞かせたわ……それとも、あの時分わたしが馬鹿な小娘だったから、ただそう思われただけなのかしら……それだのに、今はまあどうだろう! あれはあの人じゃない、まるっきり人が違うわ。それに顔もあの人とは違ってる。わたし顔を見たとき思い出せなかったわ。わたしはチモフェイと一緒にここへ来る途中、一生懸命に考えたわ、ここへ来てまで考えたわ。『どんなふうにしてあの人と顔をあわしたもんだろう? 何てったらいいだろう? 二人はどんなふうにして互いの顔を眺め合うことだろう?………』ってね、胸の痺れるような思いをしながら考えたの。ところが、来て見ると、あの男はまるで頭から汚い水を、桶一杯あびせかけるようなことをするじゃないの。まるで、どこかの先生みたいな口のきき方をするの。しかつめらしい学者ぶったことばかり言って、はじめて顔をあわした時の様子だって、もったいぶってるものだから、わたしすっかりまごついちゃったわ。口をだすこともできやしないわ。わたし初めのうち、この人はあのひょろ長い仲間のポーランド人に遠慮してるんだ、とそう思ったの。わたしはじっと坐ってて、二人の様子を眺めながら、自分は今どういうわけで、この人に口がきけないのかしらと考えたのよ。あれはねえ、家内があの男を悪くしちゃったんだわ。あの男がわたしを棄てて結婚した家内ね、それがあの男を別人にしてしまったんだわ。ミーチャ、なんて恥しいことだろう! ああ、わたしは、恥しい、ミーチャ、本当に恥しい、一生涯の恥だわ! あの五年は呪われたものだ、呪われたものなんだ!」彼女は、ふたたびさめざめと泣きだした。けれど、一生懸命ミーチャの手に縋りついて、放そうともしなかった。
「ミーチャ、いい子だからちょっと待ってちょうだい、行かないでちょうだい、わたしあんたに一こと言いたいことがあるのよ」と囁いて、とつぜん彼女は男のほうへ顔を振り上げた。「あのねえ、今わたしが誰を愛してるか言ってちょうだい。わたしの愛してる人がここにたった一人あるのよ。その人はだあれ? 言ってごらんなさいな。」泣きはらした彼女の顔には微笑がうかんで、目は薄闇の中に輝いた。「さっき一羽の鷹が入って来たとき、わたしは急にぐったりと気がゆるんでしまったの。『馬鹿だねお前は、お前の愛してるのはこの人じゃないか』と、すぐに心がこう囁いたのよ。あんたが入って来たので、何もかも明るくなったんだわ。だけど、あの人は何を恐れてるんだろう? とこうわたし考えたの。ええ、本当にあんたは恐れてたわ、まるでびくびくしちゃって、口もろくにきけなかったわ。あれはこの連中を恐れてるんじゃない、とこうわたし考えたの。だって、あんたが人を恐れるなんてはずがないんですもの。あれはわたしを恐れてるのだ、わたし一人を恐れてるのだと合点したの。わたしが窓からアリョーシャに向って、たった一ときミーシェンカを愛したことがあるけれど、今は……ほかの者に愛を捧げるために出かけるのだって喚いたことを、フェーニャがあんたに、――このお馬鹿さんに話したでしょう。ああ、ミーチャ、ミーチャ、どうしてわたしはあんたに会ったあとで、ほかの者を愛してるなんて考えることができたんでしょう! 堪忍してくれて、ミーチャ? わたしを赦してくれて、いや? 愛してくれて? 愛してくれて?」
 彼女は飛びあがって、両手で男の肩を押えた。ミーチャは歓喜のあまり、唖のように彼女の目を、顔を、微笑を、見つめていたが、突然しっかり抱きしめて、夢中になって接吻しはじめた。
「え、今までいじめたのを赦してくれて? まったくわたし、面当てにあんた方をいじめてたのよ。あの爺さんだって、わざと気ちがいのようにしてやったのよ……覚えてて、いつかあんたが家でお酒を飲んで、杯をこわしたことがあるわね? わたし今日あれを思い出してねえ、同じように杯をこわしたわ。『穢れたわたしの心のために』飲んだのよ。ミーチャ、どうしてわたしを接吻しないの? 一ど接吻したきり、すぐ離れてしまって、じっと見つめながら、耳をすましてるじゃないの……わたしの言うことなんか、聞いてることはないわ! 接吻してちょうだい、もっと強く接吻して、ええ、そうそう。愛するといったら、どこまでも愛してよ! これからは、あんたの奴隷になるの、一生奴隷になるの! 奴隷になるのも嬉しいもんだわ! 接吻してちょうだい! わたしをぶってちょうだい、いじめてちょうだい、どうでも思う存分にしてちょうだい……ああ、まったくわたしはいじめてもらわなきゃ駄目なのよ……ちょっと待って! またあとでね、何だか厭になったわ……」とつぜん彼女は男を突きのけた。「ミーチカ、あっちいいらっしゃい、わたしもこれからお酒を飲みに行くわ。わたし酔っ払いたいの、今すぐ酔っ払って踊りに行くわ、踊ってよ、踊ってよ!」
 彼女は突然ミーチャのそばを飛びのいて、カーテンの陰から駈け出した。ミーチャはそのあとから、酔いどれのようなふうで出て行った。『かまやしない、どうなったってかまうもんか、――この一瞬間のためには世界じゅうでもくれてやる』という考えが彼の頭にひらめいた。グルーシェンカは、本当にシャンパンを一息に飲みほして、急に恐ろしく酔ってしまった。彼女は幸福げな微笑を浮べながら、以前の肘椅子に座を占めた。頬はくれないを潮し、唇は燃え、光り輝く目はどんよりしてきた。情熱に充ちた目は、招くがようであった。カルガーノフさえも、何か心をちくりと刺されたような気がして、彼女のそばへ近よった。
「さっきあんたが寝てたときに、わたしあんたを接吻したのよ、気がついて?」と彼女はしどろもどろな調子でこう言った。「ああ、わたし酔っ払っちゃった、本当に……あんた酔っ払ってないの? ミーチャはどうして飲まないのかしら? どうしてあんた飲まないの、ミーチャ? わたしはああして飲んだのに、あんたはちっとも飲んでくれないのね……」
「酔っぱらってるよ! このままでも酔っぱらってるんだ……お前という人に酔っぱらってるんだよ。さあ、今度は酒で酔っぱらうのだ。」
 彼はまた一杯ひっかけた。と、――これは彼自身にも不思議に思われたことであるが、――この最後の一杯を飲んだばかりで、急に酔いが廻ってきた。それまで気が確かであったのは、自分でもよく覚えている。この時から一切のものが、まるで夢幻境へ入ったように、ぐるぐると彼の周囲を旋回しはじめた。彼は笑ったり、みなに話しかけたりしながら歩き廻っていたが、それはみんな無意識のようなふうであった。ただ一つじっと据って動かない、燬きつくような感触が、たえまなく心の中に感じられた。『まるで熱い炭火が心の中におかれてるようだった』と、後になって彼はこう追懐した。彼は幾度も彼女のそばへ寄って腰をおろし、彼女の顔を眺め、彼女の声を聞いた……ところが、彼女はむしょうに口が軽くなって、誰でも彼でも自分のそばへ呼び寄せた。たとえば、コーラスの中の娘を誰かひとり招き寄せて、自分のそばへ坐らせると、その娘を接吻して放してやるか、それでなければ、片手で十字を切ってやったりする。もう一分もたったら、彼女は泣きだすかもしれないほどであった。彼女を浮き立たせたのはマクシーモフ、彼女のいわゆる『お爺さん』であった。彼はひっきりなしにグルーシェンカの手や、『一本一本の指』を接吻するために走って来たが、しまいには、自分である古い歌を唄いながら、それに合せてまた別な踊りをおどりだした。

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豚のやっこはぶーぶーぶー
犢のやつめはめーめーめー
家鴨のやつはかーかーかー
鵞鳥のやつはがーがーがー
鶏《とり》は玄関を歩きつつ
くっくっくっと言いました、
あいあい、さように言いました!
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という歌の時はとくに熱心に踊り抜いた。
「あの人に何かやってちょうだい、ミーチャ」とグルーシェンカが言った。「何か恵んでやってちょうだい、だって、あの人は可哀そうな身の上なんですもの。ああ、可哀そうな恥を受けた人たちの多いこと! ねえ、ミーチャ、わたしお寺へ入るわ。いいえ、本当にいつか入るわ。今日アリョーシャがね、一生涯忘れられないようなことを言ってくれたの……本当よ……だけど、今日は勝手に踊らしといたらいいわ。あすはお寺へ入るけど、今日はみんなで踊ろうじゃありませんか。わたしふざけて遊びたいの、みんなかまうことはないわ、神様も赦して下さるから。もしわたしが神様だったら、人間をみんな赦してやるわ。『優しい罪びとよ、今日からそちたちを赦してつかわす』ってね。そして、自分は赦しを乞いに出かけるわ。『みなさん、この馬鹿な女を赦して下さいまし。わたしは獣でございます』って言うのよ。わたしお祈りがしたいの、わたしも葱を一本恵んだことがあるからね。わたしみたいな毒婦でも、お祈りがしたくなるのよ。ミーチャ、勝手に踊らしたらいいわ、邪魔しないでおおきなさいよ。この世にいる人はみんないい人なのよ。ひとり残さずいい人なのよ。この世の中ってほんとにいいものね。わたしたちは悪い人間だけど、この世の中っていいものだわ。わたしたちは悪い人間だけれど、いい人間なのよ。悪くもあればよくもあるのよ……さあ、返事してちょうだい、わたし聞きたいことがあるんだから。みんなそばへ寄ってちょうだい、わたし聞きたいことがあるんだから。さあ、返事してちょうだい。ほかじゃありませんがね、どうしてわたしはこんないい人間なんでしょう? だって、わたしはいい人間でしょう、素敵にいい人間でしょう……ねえ、だからさ、どういうわけで、わたしはこんなこんないい人間なんでしょうってば?」
 グルーシェンカはだんだん烈しく酔いくずれながら、しどろもどろな調子でこう言った。そして、挙句の果てには、これからすぐ自分で踊るのだと言いだした。彼女は肘椅子から起きあがって、よろよろとよろめいた。
「ミーチャ、もう酒をつがないでちょうだい、後生だから……つがないでちょうだい、お酒を飲むと心が落ちつかなくなってねえ。何もかもくるくる廻るようだ。ペーチカも、何もかも、くるくる廻るようだ。わたしも踊りたくなった。さあ、みんなわたしの踊るところを見てちょうだい……わたし、立派にうまく踊って見せるから……」
 その言葉は冗談でなかった。彼女はかくしから白い精麻《バチスト》のハンカチを取り出し、踊りの中でそれを振ろうというつもりで、右手の指先でその端を軽くつまんだ。ミーチャはあわてて騒ぎ始めた。娘らは最初の合図と同時に、一せいに踊り歌をうたいだそうと、鳴りを静めて待ち構えていた。マクシーモフは、グルーシェンカが自分で踊るつもりだと聞いて、歓喜のあまりに甲高い声を立てて叫びながら、

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足は細うてお腹はぽんぽん
尻尾はくるりと鉤なりで
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 という歌とともに、彼女の前をぴょんぴょん飛び廻り始めた。しかし、グルーシェンカはハンカチを振って、彼を追いのけた。
「しっ! ねえ、ミーチャ、どうしてみんなやって来ないの?みんな来て……見物したらいいのに。それから、あの部屋へ閉め込んだ連中も、呼んでちょうだい……何だってあんたは、あの連中を閉め出しちゃったの? あの二人に、わたしが踊るからって言ってちょうだい。わたしの踊るところを見物さしてやるんだ……」
 ミーチャは酔った勢いにまかせて元気よく、鍵をかけた戸口に近より、二人の紳士《パン》に向って、どんどん拳固でドアを叩き始めた。
「おい君……ポトヴイソーツキイ! 出て来ないか、あのひとが踊りを踊るから、君たちを呼べって言ってるよ。」
「Laidak([#割り注]畜生[#割り注終わり])!」と返事の代りにどっちかの紳士《パン》がこう呶鳴った。
「そんなら貴様は、podlaidak([#割り注]小形の畜生[#割り注終わり])だ! 貴様は、ちっぽけな意気地のない悪党だ、それっきりよ。」
ポーランドの悪口はやめたほうがいいでしょう。」同様に、自分で自分をもてあますほど酔っ払ったカルガーノフは、しかつめらしい調子で注意した。
「黙っておいで、坊っちゃん! 僕があいつを悪党よばわりしたからって、ポーランドぜんたいを悪党よばわりしたことになりゃしないよ。あの laidak 一人で、ポーランドぜんたいを背負ってるわけじゃあるまい。黙っておいで、可愛い坊っちゃん。お菓子でも食べてりゃいいんだ。」
「ああ、なんて人たちだろう! まるであの二人が人間でないかなんぞのように。どうして仲直りしようとしないんだろうねえ?」と言いながら、グルーシェンカは前へ出て踊り始めた。
 コーラスの声が一時に轟き始めた。『ああ玄関《セーニイ》よ、わが玄関《セーニイ》よ。』グルーシェンカは首をそらして唇をなかば開き、微笑をふくみながらハンカチを振ろうとしたが、突然その場でよろよろと烈しくよろめいたので、思案に迷ったように部屋の真ん中に突っ立っていた。
「力が抜けちゃった……」と彼女は妙に疲れたような声で言った。「堪忍してちょうだい、力が抜けちゃって、とても駄目……どうも失礼……」
 と彼女はコーラスに向って会釈をした後、かわるがわる四方へ向いて会釈をしはじめた。
「どうも失礼……堪忍《かに》してちょうだい……」
「お酒がすぎたのね、奥さま、お酒がすぎたのね、可愛い奥さま」という声が起った。
「奥さまはうんと召しあがったのだよ。」ひひひひと笑いながら、マクシーモフは娘どもに向ってこう説明した。
「ミーチャ、わたしを連れてってちょうだい……わたしの手を取ってちょうだい、ミーチャ」と力抜けのした様子で、グルーシェンカはこう言った。
 ミーチャは飛んで行って両手をとり、この大切な獲物を捧げて、カーテンの陰へ駈け込んだ。
『さあ、もう僕は帰ろう』とカルガーノフは考えて、空色の部屋を出て行きしなに、観音開きの扉を両方とも閉めてしまった。しかし広間のほうの躁宴は、依然としてつづいているばかりか、一そう鳴りを高めたのである。ミーチャはグルーシェンカを寝台の上に坐らして、その唇へ離れじと接吻した。
「わたしに触らないでちょうだい……こと彼女は祈るような声で囁いた。「わたしに触っちゃいや、今のところ、まだわたしはあんたのものじゃないんだから……さっきあんたのものだって言ったけれど、まだ触っちゃいや……堪忍してちょうだい……あの男のいるところじゃいや、あ男[#「あ男」はママ]のそばじゃいや。あの男がすぐそこにいるんだもの、ここじゃ穢らわしいわ……」
「お前の言うことは何でも聞く……もう考えもしない……おれはお前を神様のように崇めてるんだ!………」とミーチャは囁いた。「まったくここじゃ穢らわしい、いやらしい。」
 と言い、彼は抱擁の手を放さないで、寝台のかたわらなる床に跪いた。
「わたしにはちゃんとわかってるわ、あんたは獣みたいなことをするけれど、心の中は綺麗な人よ」とグルーシェンカは重い舌を廻しながら言った。「何でもこのことは、うしろ暗いことのないように運ばなくちゃならないわ……これからさきは万事うしろ暗いことのないようにしましょうね……そして、わたしたちは正直な人間になりましょうよ。獣でなくて、いい人間になりましょうよ、いい人間にね……わたしを連れてってちょうだい、遠いところへ連れてってちょうだい、よくって……わたし、ここはいや、どこか遠い遠いところへね……」
「そうともそうとも、ぜひそうするよ!」ミーチャは彼女を抱きしめた。「連れてくよ、一緒に飛んで行こう……ああ、あの血のことさえわかったら、たった一年のために生涯を投げ出して見せるんだがなあ!」
「血ってなあに?」けげんな調子でグルーシェンカは、鸚鵡がえしにこう言った。
「何でもないよ!」とミーチャは歯ぎしりした。「グルーシェンカ、お前は正直にしたいと言うが、おれは泥棒なんだよ。おれはカーチカの金を盗んだんだ……なんて恥さらしだ、なんて恥さらしだ!」
「カーチカ? それはあのお嬢さんのこと? いいえ、あんた盗みなんかしないわ。返しちゃったらいいじゃないの、わたしんとこから持ってらっしゃい……何も大きな声をして騒ぐことないわ! もうわたしのものはすっかりあんたのものよ。一たいわたしたちにとってお金なんか何でしょう? そうでなくても、わたしたちはめちゃめちゃに使い失くしちゃうのよ……わたしたちみたいなものは、使わずにいられないんだもの。それよかいっそ、どこかへ行って畠でも起そうじゃないの。わたしこの手で土に十字を切りたいの。働かなくちゃならないわ、わかって! アリョーシャもそうしろと言ったもの。わたしはあんたの色女にはなりたくない。わたしはあんたの貞淑なおかみさんになるの。あんたの奴隷になるの。あんたのために働こうと思うわ。わたしたちは二人でお嬢さんのところへ行って、赦して下さいってお辞儀を一つして、それから発とうじゃないの。赦してくれなかったら、それでもいいからやっぱり発ちましょう。あんたはあのひとんとこへお金を持ってらっしゃい。そして、わたしを可愛がってちょうだい……あのひとを可愛がっちゃいやよ。もうあのひとを可愛がっちゃいやよ。もし可愛がったら、あのひとを締め殺しちゃうわ……あのひとの目を針で突き潰しちゃうわ……」
「お前を、お前ひとりだけを可愛がるよ、シベリヤへ行っても可愛がるよ……」
「何だってシベリヤへ? いや、かまわないわ、あんたの望みならどこでも同じこったわ……働くわ………シベリヤには雪があるのね……わたし雪の上を橇で走るのが好きよ……それには鈴がついてなくちゃならない……おや、鈴が鳴ってる……どこであんな鈴が鳴ってるんだろう? 誰か来てるのかしら……ほら、もう音がやんだ。」
 彼女は力が抜けて目を閉じた。と、ちょっと一時とろとろと眠りに落ちた。鈴は本当にどこか遠くのほうで鳴っていたが、急にやんでしまった。ミーチャは、女の胸に頭をもたせていた。彼は鈴の音がやんだのにも気づかなかったが、またとつぜん歌の声がはたと途絶えて、歌や酒宴の騒ぎのかわりに、死んだような静寂が忽然として、家じゅうを占めたのにも気がつかなかった。グルーシェンカは目を見ひらいた。
「おや、わたし寝てたのかしら? そう……鈴の音がしたんだっけ。わたしうとうとして、夢を見たわ。何だかわたし雪の上を橇で走っているらしいの……鈴がりんりんと鳴って、わたしはうとうとしてるの。何だか好きな人と、――あんたと一緒に乗ってるようだったわ。どこか遠い遠いところへね。わたしあんたを抱いたり、接吻したりして、あんたにしっかりとすり寄ってたわ。何んだか寒いような気持だったの。そして、雪がきらきら光ってるのよ……ねえ、よる雪が光ってる以上、月が出てたんだわね。何だかまるでこの世にいるような気がしなかったわ……目がさめてみると、可愛い人がそばにいるじゃないの。本当にいいわねえ……」
「そばにいるよ。」彼女の着物、胸、両手などを接吻しながら、ミーチャはこう呟いた。
 が、ふと彼は妙な気がした。ほかでもない、グルーシェンカは一生懸命に前のほうを見つめている、が、それはミーチャの顔ではなく、彼の頭を越して向うのほうを眺めている。しかも、怪しいほど身動きもしないでいる、――ように感じられたのである。彼女の顔にはとつぜん驚愕、というよりほとんど恐怖の色が浮んでいた。
「ミーチャ、あそこからこちらを覗いてるのは誰でしょう?」ふいに彼女はこう囁いた。
 ミーチャは振り返った。見ると、本当に誰やらカーテンを押し分けて、自分たちの様子を窺っているふうであった。しかも、一人だけではないらしい。彼は飛びあがって、足ばやにそのほうへ歩いて行った。
「こっちへ、こっちへおいで下さい」と、あまり高くはないが、しっかりした、執拗な調子で、誰かの声が言った。
 ミーチャはカーテンの陰から出た。と、そのままじっと立ちすくんでしまった。部屋じゅう人間で一ぱいになっていたが、それはさきほどとはまるで違った新しい人たちである。一瞬の間に、悪寒が彼の背筋を流れた。彼はぶるっと身慄いした。これらの人々を、一瞬の間に見分けてしまったのである。あの外套を着て、徽章つきの帽子をかぶった、背の高い、肥えた男は、警察署長ミハイル・マカールイチである。それから、あの『肺病やみらしい』、『いつもあんなてらてら光る靴をはいた』、身なりの小ざっぱりした伊達男は副検事である。『あの男は四百ルーブリもする専門家用時計《クロノメータア》を持ってる。おれも見せてもらったことがある。』あの若い、小柄な、眼鏡をかけた男……ミーチャは苗字こそ忘れてしまったけれども、人間はよく見て知っている。あれは、ついこのごろ法律学校を卒業して来た予審判事である。またあの男は警部のマヴリーキイ・マヴリーキッチで、これはもうよく承知していて、心やすい仲なのである。それからあの徽章をつけた人たち、あれは何しに来たのだろう?そのほかにまだ百姓ふうの男が二人いる。それから、また戸口のところには、カルガーノフと亭主のトリーフォンが立っている…
「みなさん……一たいあなた方はどうして……」とミーチャは言いかけたが、急にわれを忘れて口をすべらしたかのように、喉一ぱいの声をはり上げて叫んだ。
「わーかーった!」
 眼鏡の若紳士はとつぜん前へ進み出て、ミーチャのそばまで近よると、威をおびてはいるが、幾分せき込んだような調子で口を切った。
「わたしどもはあなたに……つまり、その、こちらへおいでを願いたいのです、ここの長椅子へおいでを願いたいのです、ぜひあなたにお話ししなくちゃならんことがあるのです。」
「老人ですね!」とミーチャは夢中になって叫んだ。「老人とその血ですね!………わーかーりました!」
 さながら足でも薙がれたかのごとく、そばにあり合う椅子へ倒れるように腰をおろした。
「わかったか? 合点がいったか? 親殺しの極道者、年とった貴様の父親の血が貴様のうしろで叫んでおるわ!」老警察署長はミーチャのほうへ踏み出しながら、突然こう喚きだした。
 彼はわれを忘れて顔を紫色にしながら、全身をぶるぶる慄わしていた。
「それはどうもいけませんなあ!」と小柄な若い人が叫んだ。「ミハイル・マカールイチ、ミハイル・マカールイチ! それは見当ちがいです、それは見当ちがいです!………お願いですから、わたし一人に話さして下さい。あなたがそんなとっぴな言行をなさろうとは、思いもよらなかった……」
「しかし、これはもうめちゃめちゃです、みなさん、まったくもうめちゃめちゃです!」と署長は叫んだ、「まあ、あの男をごらんなさい。よる夜なか酔っ払って、みだらな女と一緒に……しかも、父親の血にまみれたままで……めちゃめちゃだ、めちゃめちゃだ!」
「ミハイル・マカールイチ、折り入ってのお願いですから、今日だけあなたの感情を抑制して下さいませんか」と副検事は老人に向って早口に囁いた。「でないと、わたしは余儀なく相当の手段を……」
 しかし、小柄な予審判事はしまいまで言わせなかった。彼はしっかりした大きな声で、ミーチャに向ってものものしく口を切った。
「予備中尉カラマーゾフ殿、わたくしは次の事実を告げなければなりません、あなたは今夜起ったご親父フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフの殺害事件の、下手人と認められているのであります……」
 彼はまだこのほか何やら言った。そして副検事も何か口を挿んだようである。しかし、ミーチャはそれを聞くには聞いたけれど、もう何のことやらわからなかった。彼は野獣のような目つきで一同を見廻していた。

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社