『カラマーゾフの兄弟』第八篇第一章 商人サムソノフ

[#1字下げ]第八篇 ミーチャ[#「第八篇 ミーチャ」は大見出し]



[#3字下げ]第一 商人サムソノフ[#「第一 商人サムソノフ」は中見出し]

 グルーシェンカが新生活を目ざして飛んで行く時、自分の最後の挨拶を伝えるように『命令し』、かつ自分の愛の一ときを生涯記憶するように言いつけた当の相手のドミートリイ・フョードロヴィッチは、そのとき恋人の身の上に起ったことを夢にも知らないで、やはり同様に恐ろしい惑乱と焦躁の渦中にあった。この二日間、彼は想像もできないような心の状態にあって、実際、後に自身でも言っていたように、脳膜炎でも起しはしないかと思われるほどであった。昨日の朝、アリョーシャも彼を捜し出すことができなかったし、イヴァンも同じ日に、旗亭における兄との会見をはたし得なかった。彼の下宿している家の人たちが、当人から口どめされて行先を隠していたのである。彼自身の言葉を借りて言うと、彼はこの二日間、『運命と闘っておのれを救わんがため』字義どおりに八方へ飛び廻っていたのである。そればかりか、たとえ一分間でも、グルーシェンカから監視の目をはなして、よそへ行くのは恐ろしいことであったが、ある火急な用事のため幾時間かのあいだ、町の外までも出かけたのである。これらのことは、その後きわめて詳細確実に記録の形をとって闡明せられたが、今は彼の運命の上に突如として爆発した、恐ろしいカタストロフにさきだつ二日間、彼の生涯において最も恐ろしい二日間の物語ちゅう、必要欠くべからざる部分のみを、事実ありのまま述べることにしよう。
 グルーシェンカは本当に心から、ほんの僅か一ときではあるが彼を愛した、それは事実である。しかし、同時に彼を苦しめもした。時とすると、真実残酷で、無慈悲な苦しめ方をした。彼にとって何より苦しいのは、女の意向を少しも推察できないことであった。機嫌をとったり、力ずくで靡かせようというのも、やはりできない相談であった。彼女が何ものにも屈服しないどころか、かえって立腹のあまり背を向けてしまうということは、彼も当時はっきり了解していた。その頃、彼は至極もっともな疑いをいだいていた。ほかでもない、彼女自身も何か心内の苦闘を経験しているのではあるまいか、何か非常な迷いにおちているのではあるまいか、何か断行しようと思いながら、依然として決心がつかぬのではあるまいか、という疑いであった。それゆえ、ドミートリイが、彼女は時とすると、情欲に燃え立つ男を憎んでいるに相違ない、とこんなことを想像してぞっとしたのも、あながち根拠のないことではなかった。
 実際そういうことがあったかもしれない。しかし、グルーシェンカが何を思い悩んでいるか、どうしても彼には了解できなかった。彼を苦しめる問題は、『自分ミーチャか、それとも父フョードルか?』という、この二つに縮めてしまうことができるのであった。ここでついでに、一つの確固たる事実を示しておく必要がある。彼は、父フョードルがぜひグルーシェンカに正当の結婚を(もし、まだ申し込んでいなかったら)申し込むにちがいないと、かたく信じて疑わなかった。あの『助平しじい』がただの三千ルーブリでおしまいにする気でいるなどとは、片時も信じたことがない。ミーチャがこういう結論を下したのは、グルーシェンカとその性質をよく承知していたからである。こういうわけであるから、グルーシェンカの苦しみも迷いも、ただただ親子のうちどっちを選んだらいいか、どっちが自分にとってためになるかを、自分でも決めかねるために起るのだ、とこんなふうにミーチャがときどき考えたのも、決して無理からぬ次第であった。
 例の将校、すなわちグルーシェンカの生涯に一転期を画した男、グルーシェンカがああした興奮と恐怖をもって、到着を待ちかねていた男のことは、奇妙な話であるが、その二三日のあいだ心に浮べたこともない。もっとも、グルーシェンカがこのころ彼に向って、この男のことをおくびにも出さなかったのは事実であるが、彼女が一月前に昔の誘惑者から手紙を受け取ったことは、彼も十分承知していたし、手紙の内容も大部分は知っていたのである。当時グルーシェンカはふと毒念の発作に駆られて、彼にこの手紙を見せたが、不思議にも、彼はこの手紙に何の価値をも認めなかった。理由を説明するのはむずかしいことであるが、あるいは、単にこの女を対象とする肉親の父親との醜悪な、恐ろしい争闘に心をひしがれていたため、少くともこれと同時に、より恐ろしい、より危険なことが出来《しゅったい》しようなどとは、しょせん想像することができなかったからかもしれない。五年も姿をくらましていた後に、突然どこからか飛び出したという男の存在など、てんから信じようとしなかった。まして、その男が近いうちにやって来るなどとは、いよいよ本当にならなかった。
 それに、ミーチャが見せてもらった『将校』の最初の手紙には、この新しい競争者の来訪も、きわめて漠然と書いてあるにすぎなかった。しかも、手紙ぜんたいは恐ろしく曖昧で、高調された文句と詠嘆的な調子に充ちていた。ついでにちょっと注意しておくが、その時グルーシェンカは、来訪の日時をやや具体的に語ってある手紙の最後の数行を、ミーチャに隠して見せなかった。それに、シベリヤから送ったこの手紙に対して、傲慢な軽蔑の色が、その瞬間、ひとりでにグルーシェンカの顔に浮んだのを、ミーチャはさとくも見てとった。彼はこんなことを思い出したのである。その後グルーシェンカは、この新しい競争者と自分との関係が、どんなふうに進んだかを、金輪際ミーチャに知らせなかった。というわけで、彼はだんだんとこの将校のことを忘れて行った。
 彼はただこう考えた。たとえ何事が起ろうとも、どんなふうに局面が一変しようとも、父フョードルとの最後の衝突は、もはや近々と目前に押し寄せているから、何よりもまっさきに解決を見るに相違ない。彼は胸のしびれるような思いをしながら、グルーシェンカの決心を今か今かと待っていた。そして、その決心は何かの感激によって、咄嗟の間に生じるものと固く信じていた。もし彼女が突然、『わたしを連れてってちょうだい、わたしは永久にあんたのものよ』と言ったら、――それで万事は終結するのだ。彼はすぐさま女の手をとって、世界の果てへつれて行く。おお、むろんすぐにできるだけ遠くへ連れて行く。たとえ世界の果てでないまでも、どこかロシヤの果てへなりと連れて行く。そうして、ここで彼女と結婚して、ここのものも向うのものも、誰ひとりとして自分たちのことを知るものがないように、秘密に二人で暮して行く。その時は、おお、その時こそはさっそく新しい生活が始まるだろう! こんなふうにぜんぜん別様な、更新された、しかも有徳《うとく》な生活を(ぜひとも、ぜひとも有徳な生活でなくてはならない)、彼は感激の情をいだきながら、絶えず空想した。彼はこの復活と更新を渇望しているのであった。もともと自分のすきで落ち込んだいまわしい泥沼が、すでにたえ得られぬほど苦しくなったので、彼はこんな立場におかれた多数の人と同じように、何よりも土地の転換に望みを嘱したのである。ただもうこんな人間がいなかったら、こんな事情がなかったら、こんないまわしい土地を飛び出しさえしたら、――すべてはたちまち更生して、新しい進行を始めることができるのだ! これが彼の望んでやまぬところであった。これが彼の憧憬するところであった。
 しかし、これはただ問題が幸福[#「幸福」に傍点]な解決を告げた、第一の場合にすぎなかった。まだもう一つの解決がある。もう一つ恐ろしい結果を予想することができる。もし彼女が突然、『さあ、出てお行き、わたしは今フョードルさんと相談して、あの人と結婚することに決めたから、お前さんには用がないんだよ』と言ったら、――その時は……その時は……しかし、ミーチャは、その時どうするか、自分でも知らなかった。最後の瞬間まで知らなかった。その点は彼のために弁護しなければならない。彼はしかとした計画を持っていなかった。犯罪行為を企らんではいなかった。彼は、あとをつけ廻して、間諜《いぬ》のような真似をして苦しんでいたが、それでもやはり、第一の幸福な解決を予想して、そのほうの準備ばかりしていた。それのみか、ほかの想念を一切おい払おうとしていたほどである。しかし、ここにまったく種類を異にした苦痛が生じた。全然あらたな第二義的な、とはいえやはり致命的な、解決のできない事情がもちあがったのである。
 ほかでもない、もし彼女が、『わたしはあんたのものよ、わたしを連れて逃げてちょうだい』と言った時、どうして連れて行ったらいいだろう? 自分はそれに対する方法、金をどこに持っているのだ? それまで何年かの間フョードルからもらっていた金が、ちょうどその時すっかり失くなってしまったのである。もちろん、グルーシェンカには金があるけれども、この点に関しては突然、ミーチャの心に、恐ろしいプライドが生じた。彼は自分で女を連れて逃げ、女の金でなく自分の金で、新しい生活が営みたかったのである。女から金を取るなどということは、想像もできなかった。そんなことは考えただけでも、苦しいほどの嫌悪を感じるのであった。とはいえ、今ここでこの事実を敷衍したり、分析したりするのはやめにして、ただそのころ彼の心の持ち方がそんなふうになっていたと、これだけのことを言っておこう。彼が泥棒のようなやり方で着服したカチェリーナの金に関する秘密な心の苦しみから、間接に無意識にこういう心持が生じるのは、きわめてあり得べきことであった。『一方の女に対しても陋劣漢となっているのに、またもやそんなことをしたら、いま一方の女に対しても、さっそく陋劣漢となってしまう。』当時こんなふうに考えていたと、彼は後になって告白した。『それに、グルーシェンカだって、もしこのことを聞いたら、そんな心の汚い人はいやだと言うに相違ない。』で、要するに、この金をどこで調達したらいいか、どこでこの運命的な金を手に入れることができるか、これが問題なのである。もしこれができなければ一切が瓦解してしまう、一切が成り立たなくなる。『しかも、それがただただ金のたりないためなのだ、おお、なんて浅ましいこった!』
 さき廻りをして言っておくが、彼はこの金をどこで調達したらいいか、ちゃんと承知していたかもしれぬ。それどころか、その金がどこにあるかということまで、承知していたかもしれぬ。しかし、これについてくわしいことは何も言うまい。それはあとですっかり明瞭になるからである。けれども、彼のおもなる不幸はこの点にふくまれているのだから、おぼろげながらちょっと言っておかねばならぬ。このあるところに秘められた金を使うためには、この金を使う権利を得る[#「権利を得る」に傍点]ためには、あらかじめカチェリーナに三千ルーブリ返却しなければならぬ。それができなければ、『おれはこそこそ泥棒になる、陋劣漢になる。おれは新しい生活を陋劣漢として始めたくない』とミーチャは肚を决めた。それゆえ、もし必要があったら、全世界をくつがえしてもかまわない、どんなことがあっても、あの三千ルーブリはぜひともまず一番に[#「まず一番に」に傍点]、カチェリーナヘ返さなければならぬ。
 この決心がいよいよという揺ぎのない形をとったのは、いわば彼の生涯における最後の数時間、すなわち二日前の夕方、街道でアリョーシャと最後の会見をしたときのことである。それは、グルーシェンカがカチェリーナを侮辱したすぐあとの出来事で、ミーチャはその話をアリョーシャから聞いたとき、自分は悪党であることを自認して、『もしそれであの女の腹が癒えるなら、悦んで悪党の名前を頂戴する』とカチェリーナヘ伝言するように言いつけた。その時、その晩、弟と別れてから、彼は憤激に駆られて、こういう感じを起した。『たとえ誰かを殺して追剥ぎをしてもいい、とにかくカーチャの負債は返さねばならん。』『よしんば殺して金を剥いだ人に対して、また世間のすべての人に対して、殺人者となり盗人となって、シベリヤへ送られてもかまわない、ただカーチャの口から、あの男はわたしに背いておきながら、わたしの金を盗み取って、その金で有徳の生活を始めるんだとかいって、グルーシェンカと一緒に駆落ちした、などと言われるのはたまらない! それは我慢できない!』とミーチャは歯ぎしりしながら、こうひとりごちた。どうかすると、本当に脳膜炎でも起しそうに思われることがあった。が、今のところ、まだ彼は奮闘をつづけていた……
 ここに不思議なことがある。全体なら、このような決心をとった以上、彼の心に残るものは絶望のほか何もあるまい、と思われるのが至当である。なぜなら、彼のような裸一貫の男が、三千という大金を急にととのえる当てがないではないか。しかし、それでいながら、彼はこの三千ルーブリが手に入る、ひとりでにやって来る、天からでも降って来ると、最後まで望みを失わないでいた。まったくドミートリイのように、生涯相続によって得た金を湯水のようにつかう一方で、金がどんなにして儲かるかについて、何の観念も持っていない人間には、こういう考えも確かに起りうるものである。一昨日アリョーシャに別れたすぐあとで、途方もない妄想の嵐が彼の頭に吹き起って、すべての思想をめちゃめちゃに掻き乱した。こういう工合で、彼はこの上ない無鉄砲な仕事に着手することになった。しかし、こんな人間がこんな境遇におちいると、とうてい不可能な夢のような仕事が、苦もなくやすやすと成功するように思われるものである。
 彼は突然、グルーシェンカの保護者たる商人サムソノフを訪問して、ある一つの『計画』を提供し、この『計画』を担保として、必要な金を一時に引き出そうと決心した。商業的方面から見たこの計画の価値を、彼は少しも疑わなかった。ただ向うが単に商業的方面のみから見ないとすれば、サムソノフが自分のとっぴな行動をどんなふうに観察するか、という点に疑いが存するばかりであった。ミーチャはこの商人の顔を知っていたけれども、別段ちかづきというわけでもなければ、かつて口をきいたこともなかった。しかし、どういうわけかずっと前から、彼の内部にこういう信念が築かれていた。ほかではない、もしグルーシェンカが潔白な生活を営みたい、将来有望な男と結婚したいと言いだしたら、いま虫の息でいるこの老好色漢も、決して反対しないであろう。いや、反対しないどころか、かえってそれを希望しているかもしれぬ。そして機会さえ到ったならば、進んで助力するかもしれない。何かの噂を信じたものか、それともグルーシェンカの言葉を基としたものか、とにかく老人は、グルーシェンカのために、父フョードルより自分のほうを選ぶつもりでいるらしいという結論さえ、彼は引き出したのである。
 この物語の読者の多数は、こうした助力をあてにしたり、自分の花嫁を以前の保護者の手から奪おうなどともくろんだりするミーチャの行動が、あまり粗暴で不注意なように思われるかもしれぬ。筆者はただこれだけ言うことができる。グルーシェンカの過去はミーチャの目から見て、もはやとくに完結したもののように思われた。彼はこの事件を同情をもって眺めていた。で、もしグルーシェンカが、『わたしはあなたを愛しています、わたしはあなたと結婚します』と言ったら、たちまちそれと同時に、ぜんぜん新しいグルーシェンカが始まる。それにつれて、彼はぜんぜん新しいドミートリイとなって、悪行など毫もなく、善行ばかり積むようになる。そして、二人は互いに赦しあって、全然あらたに自分たちの生活を始めるのだ、と彼は焔のような熱情を燃やしながら、一人ぎめに決めていた。商人クジマー・サムソノフにいたっては、彼はこの老人を目して、以前の堕落せるグルーシェンカの生活における宿命的な人間だと思っていた。しかし、彼女はこの男を愛していなかった上に、この男も同様過去の人となって活動を終えているから、もう今はまったく存在しないも同じことである、とこう考えたのである。それに、彼は今この男を人間として扱うことができなかった。なぜと言うに、町の人が誰でもみんな知っているとおり、この男はただ一個の病める廃墟であって、グルーシェンカに対しても、ただ父親としての関係を持続しているだけで、決して以前のような基礎の上に立っていない。しかも、これはだいぶ前からのことであって、もうかれこれ一年ばかりになる。が、何といっても、こうしたミーチャの行動には、多分の稚気がふくまれている。実際、彼はいろんな背徳を重ねているけれど、非常に稚気のある男なのである。この稚気のために彼は真面目でこんな断定さえ下した、――老サムソノフは今あの世へ去るにのぞんで、自分とグルーシェンカの過去を心から後悔している。それゆえ、グルーシェンカも、今は決して害のないこの老人より以上に、親切な保護者たり親友たる人を、誰一人も持っていない。
 アリョーシャと原の中で談話を交換した後、ミーチャはほとんど夜っぴて、まんじりともしなかったが、翌朝十時ごろ、彼はサムソノフの家を訪れて取次ぎを命じた。この家は古い、陰気くさい、恐ろしくだだっ広い二階建てで、それに付属したさまざまな建物や、離れなどが邸内にあった。下のほうには、もう女房子のある息子が二人、思いきって年とったサムソノフの妹、それからまだ嫁入りせぬ娘、これだけの大人数で暮していた。また離れのほうには、番頭が二人、住まいを構えていたが、そのうち一人は、やはり大人数の家族をかかえている。こうして、子供らも番頭も、手狭な中で押し合うようにしているのに、二階は老人一人で占領して、自分の看病をしてくれる娘さえ、そこで寝起きすることを許さなかった。娘は一定の時刻にはもちろん、時を定めぬ呼び出しにあうたびに、久しく持病の喘息に悩んでいるにもかかわらず、いちいち下から駆けあがらねばならなかった。
 二階には、商人社会の古い風習にしたがって飾られた、大きな堂々たる部屋がたくさんあった。その中には、マホガニーの不恰好な肘椅子やただの椅子が、壁ぎわに沿って長い単調な列をなしているし、ガラスのシャンデリヤには蔽い布が被さっているし、幾つかの鏡は窓と窓の間に、愛想げもなくかかっている。これらの部屋は、まるでがらんとして人の気配もしない。それは病主人が小さな一室、隅のほうに片寄った自分の寝室に、閉じ籠っているからであった。病室には、髪を頭巾にくるんだ老婆がつき添っているほか、ひとり『若いの』が控え室の腰掛けにしじゅう坐っていた。老人は足が脹れあがったため、もうほとんど歩くことができなかった。ときおり革の肘椅子から身を起すのと、老婆の両手に支えられて、日に一度か二度、部屋を一まわりするくらいなものであった。彼はこの老婆に対しても、厳重で口数が少かった。『大尉さん』の来訪が報じられた時も、彼はすぐ追い返せと命じた。けれど、ミーチャはたって面会を乞い、いま一ど取次ぎを頼んだ。サムソノフは『どうだ、見かけはどんな様子だ、酔っ払ってはおらんか、乱暴はしないか?』などと、仔細に『若いの』に根掘り葉掘りした。そして『しらふですけれど、どうしても帰ろうとはしません』という答を得たが、老人はふたたび拒絶を命じた。ミーチャはこういう場合を予想して、そのためにわざわざ紙と鉛筆を用意して来たので、さっそく紙の切端しにきびきびした筆蹟でたった一行、『アグラフェーナ・アレクサンドロヴナに緊切な関係を有する、最も重大なる事件につき用談あり』と書いて、老人のところへ持たしてやった。老人はちょっと思案してから、お客さまを広間へ通せと、『若いの』に言いつけた後、下にいる乙《おと》息子のところへ老婆をやって、すぐ二階へ顔を出すようにという命令を伝えた。この乙息子というのは六尺豊かな大男で、方図の知れないほどの力を持っていたが、顔は綺麗に剃り上げて、ドイツ風のなりをしていた(父のサムソノフは、純ロシヤ式の上衣をつけ、頤にも鬚を蓄えていた)。彼は猶予なく無言のままあがって来た。二人の兄弟は父の前へ出ると、もうびくびくものであった。父親がこの元気者を呼び寄せたのは、ミーチャに対する恐怖のためではなかった。彼は決してそんな臆病者ではない。ただ万一の場合をおもんぱかって、証人としてそばに据えておく、というくらいの意味であった。
 息子と『若いの』とに支えられて、とうとう彼はふらふらと広間へ歩み出た。もちろん、彼自身も、かなり強い好奇心を感じたものと考えなければならぬ。ミーチャの待っているこの広間は、憂愁の気で人の心を腐蝕するような、愛想のない大きな部屋である。二方から明りが射し込むようになっていて、大理石模様に塗った壁には、中二階風になった渡り廊下があって、蔽い布を被せたガラス張りの大きな吊り燭台が三つもしつらえてあった。ミーチャは入口の戸のそばにある小形の椅子に坐って、神経的な焦躁をこらえながら、運命の解決を待っていた。ミーチャの椅子から十間ばかり離れた反対の戸口に老人が現われた時、彼はいきなり席を立ちあがって、例のどっしりした軍隊式の歩調で、大股に老人のほうへ進んで行った。彼は礼儀ただしい服装をしていた。きちんとボタンをかけたフロック、手に持った山高帽子、黒い手袋、すべて三日まえ長老の庵室で催された、父兄弟など家族の人たちとの会見に出席した時の扮装《いでたち》と、そっくりそのままであった。
 老人はものものしく厳めしい様子をして、じっと立ったまま、相手を待ち受けていた。で、ミーチャは自分がそのそばへ寄って行く間に、この老人は自分という人間をすっかり見つくしてしまった、と咄嗟の間に直覚した。が、それと同時に、彼はサムソノフの顔が、このごろ急に恐ろしく腫れあがったのに、一驚を喫した。それでなくてさえ厚い下唇が、今はまるで牛乳菓子のぶら下ったような恰好になっている。彼はものものしく厳めしい様子で客に会釈した後、長椅子の傍らなる肘椅子へ腰をかけるように指さし、自分は息子の手にもたれかかったまま、病的に喉をぐるぐる鳴らしながら、ミーチャの真向いに置いた長椅子に座を構え始めた。その病的な努力を見ているうちに、ミーチャは早くも後悔の念を感じた。そして、この男のものものしい不安げな顔に対すると、今の自分がつまらないものに思われて、微かな羞恥の情も湧き出したほどである。
「あなた、わたしに何ご用ですな?」ようやく席に落ちついた老人は、厳めしいけれど慇懃な調子で、一こと一こと区切るようにゆっくりと言いだした。
 ミーチャはぎっくりして、思わず座を飛びあがったが、すぐまた腰をおろした。それからさっそく早口な神経的な調子で身振り、手真似を入れながら、興奮しきった様子で声高に話しだした。どんづまりまで行きづまって、滅亡の淵に瀕しながら、最後の逃げ路を求めているが、もしそれに失敗したら、今すぐにも身投げをしかねない男だ、ということは、よそ目にも明らかであった。サムソノフ老人も一瞬の間に、これを見てとったらしい。もっとも、その顔は彫刻のように、依然として冷やかであった……
「クジマー・クジミッチ、あなたはおそらく私と父フョードルとの衝突を、一度ならず耳にされたことと存じます。父は私の生母の死後、遺産を横領してしまったのです……いま町じゅうこの話で大騒ぎをしています……なぜと言って、ここの人はみんな必要もないことに大騒ぎをするのですから……のみならず、グルーシェンカのためにも……いや、失礼、アグラフェーナさん……僕の心から尊敬するアグラフェーナさん。」ミーチャは口をきると、もう早速まごついてしまった。しかし、筆者は彼の話を一語一語再録するのをやめて、ただ要点だけかい摘んで述べよう。ほかでもない、三カ月前ミーチャはことさら(彼は本当に『わざわざ』という言葉を避けて『ことさら』などと言ったのである)、県庁所在地の町に住む弁護士と相談した。『それは、あなた、有名な弁護士でコルネブロードフという人です、たぶんお聞きおよびでしょう? 該博な知識をもった人で、ほとんど国家的人物といっていいくらいですが……あなたのことも承知していて……よく言っておりました』とミーチャはまたもや言葉につまってしまった。しかし、言葉につまっても、話を途切らすようなことはなく、彼はすぐそんなところを飛び越して、ひたすら先へ先へと駆け出すのであった。
 このコルネブロードフは、ミーチャがいつでも提供し得るという証書のことをくわしく訊ねて、いろいろと研究した挙句(証書に関するミーチャの証明はきわめて不明瞭で、ここのところは彼も駆け足で通り抜けた)、チェルマーシニャ村は母の遺産としてミーチャに属すべきものであるから、実際これに対して訴訟を提起し、淫乱じじいをへこますことができる、と断定した。『なぜって、すべての戸口が閉ってるわけじゃありません。法律はどういう方面へくぐり抜けたらいいか、ちゃんと心得ていますからね。』手短かに言えば、フョードルから六千、いや、七千ルーブリの追加支払いを望むことができるのである。なぜなれば、チェルマーシニャ村は、何といっても二万五千ルーブリ……いな、確実に二万八千ルーブリ……『いや、あなた、三万ルーブリです。三万ルーブリの価値があります。ところが、どうでしょう、私はあの人非人から、一万七千ルーブリも受け取っていないのですからね!………』
「その時、私は法律事件の処理などできそうにないから、その話もそれなりにしておいたのですが、ここへ来てみると、かえって先方からの訴訟に出あって、呆れかえってものが言えなかったです(ここでミーチャはまたまごついて、やたらに先のほうへ話を飛ばしてしまった)。ところで、あなた、あの悪党に対する私の権利を、一切ひき受けて下さる気はありませんか。私にはただ三千ルーブリだけ下さればいいのです……あなたはどんなことがあっても、敗訴などになる気づかいはありません。それは私が名誉にかけて誓います。それどころか、三千ルーブリの代りに六千ルーブリか七千ルーブリの儲けを得ることができます……しかし、何より肝要な点は、今日すぐにでもこの話を決めていただきたいということです。私は、その、公証人か何かのところへ行って……その……つまり、私はどんなことでもします。要求なさるだけの証書も引き渡しましょうし、どんな署名でもいたします……ですから、今すぐにも書類を作成してはどうでしょう。できることなら、もしできることなら、きょう午前ちゅうにでも……その三千ルーブリをいただきたいのですが……あなたに楯つくことのできる資本家は、この町に一人もないのですから、もうそうしていただければ、私は救われることになるのです。つまり、あなたは私という哀れな人間を、潔白な仕事のために(高尚な仕事と言ってもいいくらいです)、救って下さることになるのです……なぜって、あなたが単にご存じなばかりでなく、親身の父親のように世話をしていらっしゃるあの婦人に対して、潔白この上ない感情をいだいているからであります。もしそうでなかったら、つまり、あなたのお世話が父親のようなものでなかったら、私がこちらへあがるはずはなかったのです。実際、何と言ったらいいか、三人のものが額と額をつき合したのです。運命というやつは実に恐るべきものですなあ、クジマー・クジミッチ! 現実なるかな、現実なるかなですよ! しかし、あなたはもうとうから除外しなくちゃならなかったのだから、つまり、二人のものが額をつき合したのです。いや、あるいはまずい言い方だったかもしれませんが、しかし私は文学者じゃありませんからね。二つの額と言ったのは、一人は私でいま一人はあの悪党です。こういうわけですから、私かあの悪党か、どっちか一人を選んで下さい。いま一切があなたの掌中にあるんです、――三つの運命に二つの籤です……ごめん下さい。私は脇路へ入ってしまいましたが、あなた了解して下さるでしょう……私はあなたの落ちついた目つきによって、了解して下すったことがわかります……もし了解して下さらなかったら、今日にもすぐ身投げしなくちゃなりません、まったく!」
 ミーチャは自分の愚かな話を、この『まったく』でぷつりと切った。そして、とつぜん椅子から飛びあがって、自分の愚かな申し込みに対する返答を待っていた。最後の一句を発した時、ふいに彼は一切が瓦解したのを感じ、何ともいえぬ絶望におそわれた。何よりも悪いのは、自分が恐ろしい馬鹿げたことを並べたてた、という自覚である。『奇妙なことがあればあるものだ、ここへ来る途中は何もかも立派に思われたものが、今はこのとおり、馬鹿げたことになってしまった!』という考えが、絶望に充ちた彼の頭をふいにちらとかすめた。彼の話している間じゅう、老人は身動きもしないで坐ったまま、目の中に氷のような表情をたたえて、相手を注視していた。一分ばかり、いらだたしい期待の中にミーチャを打ち棄てておいたのち、とうとうサムソノフは少しの望みもいだかせないような、きっぱりした調子でこう言った。
「ごめん蒙ります、わたしどもはそんな仕事をいたしません。」
 ミーチャは突然、足に力の抜けたのが感じられた。
「じゃ、私は今どうしたらいいのです」と彼は蒼ざめた微笑を浮べながら呟いた。「私はもう駄目になったのでしょうか、どうお考えになります?」
「ごめん蒙ります……」
 ミーチャは依然として棒立ちになったまま、身動きもせず、穴のあくほど相手の顔を見つめていた。と、老人の顔面で何かぴくりと動いたのに気がついて、彼はぎくっとした。
「おわかりですかな、そういうことはまったくわたしどもの手に合わんのですよ。」老人はゆっくりと言いだした。「訴訟を起したり、弁護士を頼んだり、いや、もう桑原桑原! しかし、お望みなら、ちょうど適当の男が一人あるから、それに話してごらんなさったら……」
「えっ、一たいそれは誰です?……あなたは私を蘇生さして下さいました。」彼はいきなり舌もつれさせながらこう言った。
「ここの人じゃないんですよ、その男は。それに今ここにいるわけじゃありません。百姓の生れで、森の売買いをしている、猟犬《レガーヴィ》という綽名の男ですよ。フョードルさんとはもう一年も前から、そのチェルマーシニャにある森を買おう売ろうという話が始まってるんですが、値段のほうで折り合いがつかんのです。あなたもたぶんご承知でしょうな。ちょうどこの男がまたやって来て、今イリンスキイ長老のところに泊っております。それはヴォローヴィヤ駅から十二露里もありましょうかな、イリンスコエ村に住まっております。私のところへも手紙をよこして、この事件、――つまり、その森のことについて、意見を求めておりますよ。フョードルさんも自分で出向くつもりだとかいう話です。もしフョードルさんに前もって断わった上で、今わたしに言われたことを、その男に話してごらんなすったら、案外乗ってくれるかもしれませんて……」
「名案です!」とミーチャは勝ち誇ったように遮った。「まったくその男にかぎります、その男に恰好の仕事です! 買いたいけれど値が高い、そこへいきなり所有権利書を見せてやるんですからなあ、ははは!」とミーチャは持ちまえの短い、ぶっきらぼうな調子でからからと笑いだしたが、それがあまりだしぬけだったので、サムソノフでさえぶるっと首を顫わしたほどである。
「クジマー・クジミッチ、何とあなたにお礼を言ったらいいでしょう」とミーチャは、熱くなって叫んだ。
「どういたしまして」と、こちらは頭を下げた。
「あなたはご承知ないでしょうが、あなたは私を助けて下すったのです。ああ、私がこちらへ伺ったのも虫が知らせたのです……じゃ、その坊さんのところへ行きましょう!」
「お礼にはおよびません。」
「大急ぎで飛んで行きましょう。あなたの健康を濫用して申しわけありません。このことは永久に忘れません。これはロシヤ人が言ってるんですよ、クジマー・クジミッチ、ロシヤ人が!」
「な、なある。」
 ミーチャは握手のために老人の手をとろうとしたが、その途端、何か意地わるそうな影が、老人の目の中にひらめいた。ミーチャは伸ばした手を引っ込めたが、すぐまた、疑り深い自分の心を叱したのである。『あれはくたびれたからだ……』という考えが彼の頭をかすめた。
「あの人のためです! あのひとみためです、クジマー・グジミッチ! あなたも了解して下さるでしょう、これはあのひとのためです!」突然、彼は部屋一ぱい響き渡れとばかりこう叫んで、一つ会釈をすると、そのまま急に踵を転じて、もう振り返ろうともせず、例の長いコムパスで足ばやに戸口を指して歩み去った。彼は歓喜のあまりに身を顫わしたほどである。
『危く身の破滅になるところだったが、やっと守護の天使に助けていただいた』という想念が彼の頭をひらめき過ぎた。『それにあの老人のような事務家が(実に品のいいお爺さんだ、何という威厳のある態度だろう!)この方法を教えてくれたんだから、もちろん、勝利はこっちのものにきまっている。すぐこれから飛んで行って、夜までには帰って来る、夜中にでも帰って来る。が、事件は成功疑いなしだ。あの老人がおれをからかうなんてことが、あってよいものか!』ミーチャは自分の住まいをさして歩きながら、心の中でこう叫んだ、ほかの考えなぞ頭に浮んできようがなかった。つまりこの事情にもくわしく、相手の猟犬《レガーヴィ》(奇妙な苗字だ!)の性質にも通じた事務家から、実際的な忠言を得たわけである。が、それとも、――それとも単に老人が彼をからかったのだろうか! 悲しいかな、あとのほうが唯一の正確な解釈なのであった。
 大分たってから、大事件の爆発してしまったあとで、サムソノフ老人が、あの時は『大尉さん』をからかってやったのだ、と自分で笑いながら白状した。彼は毒心の強い、冷酷で嘲笑的な、そのうえ病的に好悪の烈しい男であった。当時、老人がああいう行為に出たのは、『大尉さん』の興奮した顔つきのためか、または彼の計画と称するばかばかしい話にサムソノフが乗ってくるかもしれぬという、この『どら男』の愚かな確信のためか、それとも、この『乞食男』の無心の口実に使われたグルーシェンカに対する嫉妬めいた感情のためか、――しかとした原因は筆者にもわからない。しかし、ミーチャが彼の前に立ちながら、足に力抜けのしたような感じを覚えて、もうおれは駄目になったと叫んだ瞬間、――その瞬間、老人は底知れぬ憎悪をいだきながら、彼を眺めた。そうして、一つこの男をからかってやろう、という気を起したのである。ミーチャが出て行った時、老人は憎悪のために顔を真っ蒼にしながら、息子のほうを振り向いて命令を下した。『もうあの乞食男の匂いもしないようにするんだぞ。庭へでも入れたら承知せんぞ。そうでないと……』
 彼は威嚇の言葉をしまいまで言いきらなかったが、たびたび父の憤怒を見慣れている息子でさえも、恐ろしさに顫えあがった。まる一時間たった頃、老人は憤怒のあまり全身をわなわなと顫わせ始めたが、夕方になると本当に発病して、医者を呼びにやった。

(底本:『ドストエーフスキイ全集12 カラマーゾフの兄弟上』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社