『アンナ・カレーニナ』4-11~4-20(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]一一[#「一一」は中見出し]

 一座のものはだれもみな、この会話に仲間入りしていたが、キチイとレーヴィンだけは別であった。はじめ、一つの国民の他国民に対する影響力という問題が出たとき、レーヴィンはこの問題について、いうべき意見をもっていたので、それがわれともなしに頭へ浮んできた。しかし、前にはひどく重大なものに思われたこの思想も、今はただ夢のように頭をかすめただけで、いささかの興味も呼び起さなかった。それどころか、いったいみんな、なんのためにああやっきとなって、だれにも用のないことをしゃべっているのか、ふしぎに思われるほどであった。キチイとても同様に、みんなが論じている婦人の権利や教育の話には、興味をもたなければならぬはずであった。彼女は外国で友だちになったヴァーレンカのことや、その友だちが苦しい隷属の状態にいることを、いくら考えてみたかしれないし、自分が結婚しなかったらどうなるか、ということも、いくど心の中で考えてみたか、またこのことで姉といくら論争したかしれない! ところが、今はそれが少しも興味をひかないのであった。彼女はレーヴィンと二人で、自分自身の会話をかわしていたのである。いや、それは会話ではなくて、何かしら神秘的な魂の交流であった。それは刻一刻と彼ら二人をちかぢかと結びあわせ、かれらがいま入っていこうとする未知の世界にたいする喜ばしい恐怖の情を、二人の胸に呼び起すのであった。
 まずはじめレーヴィンは、どうして去年、自分が馬車で乗って行くところを見たのか、というキチイの問いにたいして、草刈りの帰りに街道を歩いているとき、偶然出あった次第を物語った。
「それはまだやっと夜の明けるころでした。あなたはきっと、目をおさましになったばかりだったでしょう。お母さまは馬車のすみで、眠っていらっしゃいましたよ。それはすばらしい朝でした。僕は歩きながら、あの四頭立てでやってくるのは、いったいだれだろう? と考えました。りっぱな四頭立ての馬が、鈴を鳴らして走ってくると、一瞬あなたの姿が目の前にひらめいたのです。窓越しに見ると、あなたはこんなふうに坐って、両手に室内帽のリボンを持ったまま、何かひどく考えこんでいらっしゃいましたっけ」と彼は微笑しながらいった。「あのとき、あなたが何を考えていられたか、それが知りたくてたまらないんですがねえ。何か重大なことだったんですか?」
『あたし、とり乱したかっこうをしてなかったかしら?』と彼女は考えたが、こうしたこまかい追憶が、男の心に呼びさます歓喜の微笑を見て、それどころか、自分の与えた印象はすばらしくよかったのだ、と彼女は直感した。彼女は顔を赤らめ、うれしそうに笑いだした。
「覚えておりませんわ、全く」
「トゥロフツィンのよく笑うこと!」トゥロフツィンのうるみをおびた目と、揺れ動く体に見とれながら、レーヴィンはそういった。
「前からあの人をごぞんじですの?」とキチイはたずねた。
「あの男を知らないものはありませんよ!」
「お見うけしたところ、あなたはあのかたのことを、悪い人のように思ってらっしゃるんでしょう?」
「悪い人じゃありませんが、つまらない男なんですよ」
「まあ、違いますわ! 早くそんなお考えを変えて下さいましな!」とキチイはいった。「あたしもあの人のことについて、たいへん失礼な考え方をしていましたけれど、本当はじつに優しい、びっくりするほど親切なかたですのよ。あの人の心ったら、まるで玉のようですわ」
「どうしてあの男の心をお識りになりました?」
「わたしたち、あのかたとは大の仲良しなんですの。わたし、あのかたをよく存じております。去年の冬、あれからまもなく……あなたが宅へいらしたあとで」何かすまないような、同時に信頼しきったような微笑を浮べて、彼女はこういった。「ドリイの子供たちが猩紅熱にかかりましたの。ところが、あのかたが偶然たずねていらっしゃいましてね、まあどうでしょう」と彼女はひそひそ声でいった。「あのかたは、姉がかわいそうでたまらなくって、子供たちの看病の手伝いを始めなさいましたの、ええ、そうですのよ、そうしてまる三週間、姉の家に寝泊りなすって、まるで保姆《ばあや》のように、子供たちの看病をして下さいましたわ」
「あたし、コンスタンチン・ドミートリッチに、トゥロフツィンさんが猩紅熱のときにして下すったことを、お話しているところなの」と彼女は姉の方へ身をかがめていった。
「そうよ、感心してしまったわね、本当にいいかた!」自分のことをいってるなと感づいたトゥロフツィンをながめ、つつましやかにほほえみかけながら、ドリイはこういった。
 で、レーヴィンはもう一度トゥロフツィンを見やった。と、どうして自分は以前、この男のよさを理解しなかったのかと、驚き怪しむ思いであった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、もうこれからは決して、人のことを悪く思いません!」と彼は愉快そうにいったが、それは彼がいま心に感じたことを、率直に告白したまでなのである。

[#5字下げ]一二[#「一二」は中見出し]

 婦人の権利という問題についてはじめられた会話には、結婚生活における男女の権利の不平等という、女性の前ではいささか尻くすぐったい問題が含まれていた。ペスツォフは食事のあいだに、幾度となくこの問題に飛びつこうとしたが、コズヌイシェフとオブロンスキイが、用心ぶかくその話をわきへそらすようにした。
 一同が食卓から立って、婦人たちも出ていったとき、ペスツォフはそのあとへついて行かず、カレーニンに向いて、不平等の主なる原因を説明しはじめた。夫婦の不平等は、彼の意見によると、妻の不貞と夫の不貞の罰しられ方が、法律からいっても、社会の世論からいっても、不平等であるからであった。
 オブロンスキイはせかせかと、カレーニンのそばへいって、タバコをすすめた。
「いや、私はタバコはやらない」とカレーニンはいって、自分はこんな話など恐れはしないということを、ことさら誇示しようとするかのように、冷やかな微笑を浮べて、ペスツォフの方へ向いた。
「私の考えでは、そうした見方の根本は、ものの本質それ自体に含まれていると思いますな」といって、彼は客間へ行こうとした。が、その時トゥロフツィンが出しぬけに、カレーニンにむかって、思いがけないことをいいだした。
「あなたは、プリヤーチニコフのことをお聞きになりましたか?」シャンパン酒のいっぱいきげんで元気づいた上に、自分ながら苦になる沈黙を破る機会を、前から待ち設けていたトゥロフツィンは、こういった。「ヴァーシャ・プリヤーチニコフです」おもに正客のカレーニンに話しかけるようにしながら、うるみをおびた赤い唇に、人の好さそうな微笑を浮べて、彼はいうのであった。「私はきょう[#「きょう」は底本では「きよう」]聞いたのですか、トヴェーリでクヴィーツキイと決闘して、相手を殺してしまったそうですよ」
 いつでも何かぶっつけるときは、必ず痛いとこを狙うような気のするものであるが、今もオブロンスキイは、今夜は一つ一つの話が、カレーニンの痛いところをねらっているような気がした。彼はまた、義弟をほかへひっぱっていこうとしたが、当のカレーニンが興味ありげにたずねた。
「プリャーチニコフはなんだって決闘したのです?」
「細君のことからですがね。男らしくやりましたよ! 決闘を申しこんで、やっつけたんですから!」
「ははあ!」とカレーニンは気のない調子でいって、眉を吊り上げながら、客間へ出ていった。
「まあ、本当によくいらして下さいましたこと」通り路になっている客間で、ぱったりカレーニンに出会ったドリイは、おびえたような微笑を浮べてこういった。「わたし、あなたにお話がございますの。ちょっとここへ腰をかけましょう」
 カレーニンは、吊り上がった眉からくる例の無関心な表情で、ドリイのそばに腰をおろし、わざとらしくにやりと笑った。
「それはなおさらです」と彼はいった。「私も失礼して、お暇しようと思ってたところですから。明日は発《た》たなくちゃならないのでね」
 ドリイはアンナの無実を固く信じきっていたので、かくも平然として罪もない親友を破滅させようとしている、この冷酷な、心というものをもたぬ男にたいする憤怒の情に、自分の顔が蒼ざめていき、唇がふるえるのを感じた。
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ」やけ半分の決意をもって、相手の目をみつめながら、彼女はこうきりだした。
「わたし、あなたにアンナのことをおたずねしましたのに、あなたは返事をして下さいませんでしたね。あのひとはどうなんですの?」
「あれはどうやら達者らしいですよ、ダーリヤ・アレクサンドロヴナ」とカレーニンは、彼女の顔を見ないで答えた。
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ。どうぞごめんくださいまし、わたしにこんな権利はないのでございますけれど……でも、わたしはアンナを親身の妹のように思って、愛してもいれば、尊敬もしているものですから。お願いですから、聞かして下さいませんか、いったいあなたがたのあいだには、何があったのでございます? どういうことであなたは、アンナを責めていらっしゃいますの?」
 カレーニンは眉をひそめ、ほとんど目を閉じて、頭《こうべ》をたれた。
「私がなぜ、アンナ・アルカージエヴナにたいする態度を変えなければならぬと認めたか、そのわけはご主人からお聞きになったことと思いますが」相手の目を見ないようにして、おりから客間を通りぬけようとしたシチェルバーツキイを、不満げにじろじろと見まわしながら、彼はそういった。
「わたし信じませんわ、信じませんわ。そんなこと本当にできませんわ!」骨ばった両手をぎゅっと握りしめながら、力のこもった身ぶりをして、ドリイはいった。彼女はつと立ちあがって、片手をカレーニンの袖の上へのせた。「ここではじゃまが入りますから、どうぞあちらへいらして下さいまし」
 ドリイの興奮は、カレーニンにも作用してきた。彼は席を立って、彼女のあとから子供の勉強部屋へいった。二人は、ナイフで一面に傷をつけられた模造革張りのテーブルにむかって、腰をおろした。
「わたし信じません、そんなことは信じませんわ!」自分を避けている相手の視線を捕えようとつとめながら、ドリイはこう口をきった。
「事実を信じないわけにはいきませんよ、ダーリヤ・アレクサンドロヴナ」と彼は事実[#「事実」に傍点]という言葉に力を入れて、いった。
「でも、あのひとは何をしたんでしょう?」とドリイはいった。「いったい何をしたんでしょう?」
「あれは自分の義務をないがしろにして、良人にそむいたのです。これがあれのしたことなんですよ」と彼は答えた。
「いいえ、いいえ、そんなことのあろうはずがございません! いいえ、どうぞそんなことおっしゃらないで。それはあなたのお思い違いでございます」とドリイは両手でちょっとこめかみにさわり、目を閉じながらいった。
 カレーニンは唇ばかりで冷やかに笑った。それで相手にも自分自身にも、自分の確信の鞏固《きょうこ》さを示そうと思ったのである。しかし、この熱烈な弁護は、彼の気持を動揺こそさせなかったものの、彼の傷口を掻きたてたことは事実であった。彼は前より真剣になっていいだした。
「あれが現在の良人にむかって、自分でそのことを声明しているのに、思い違いをするというのは、はなはだ困難なことですよ。なにしろ、八年間の夫婦生活も、息子も、みんな誤謬《ごびゅう》だった、自分は新しく生活しなおしたい、とそういうのですからね」と彼は鼻を鳴らしながら、腹だたしげにいった。
「アンナと不行跡《ふしだら》――わたしどうしても、それを繋《つな》ぎあわして考えることができませんわ、そんなこと本当になりませんわ」
「ダーリヤ・アレクサンドロヴナ!」今はまともに、ドリイの興奮した善良らしい顔を見つめながら、彼はこういいだした。いつのまにか、舌のこわばりが解けていく思いであった。「もし疑惑をいだく余地があったら、私もどんなにうれしいかしれないのです。私が疑念をもっていたあいだは、苦しくはありましたが、まだしも今よりは楽でした。疑念をもっているあいだは、それでも、よもやという希望がありました。が、今は希望もありません。そのくせ、なにもかも疑うようになりました。私は、なにもかも疑わずにいられなくなったものだから、わが子さえ憎むようになりました。どうかすると、本当に自分の子だってことさえ信じられなくなるんですからね。私はじつに不幸です」
 彼としては、こんなことをいう必要などなかったのである。彼がドリイの顔を見た瞬間、彼女はそれを察したのである。彼女はこの人が気の毒になってきて、親友の無垢《むく》を信ずる気持が動揺しはじめた。
「ああ、恐ろしい、恐ろしいことですわ! でも、あなたが離婚を決心なすったというのは、いったいほんとでございますの?」
「私は最後の手段を決しました。私としてはほかにしようがないのです」
「しようがないんですって、しようがないんですって……」と彼女は目に涙を浮べながら、くりかえした。「いいえ、しようがなくはありません!」と彼女はいった。
「そこなんですよ、この種類の悲しみというものは、喪失《そうしつ》とか死とかいうほかの場合のように、ただ十字架を負ってればいい、というわけにいかなくって、行動しなくてはならない、それが恐ろしいのです」相手の心の中を察したかのように、彼はこういった。「自分のおかれている屈辱的な境地から、出ていかなければならないのです。三人いっしょに生活していくことはできません」
「わかります、わたしよくわかりますわ」といって、ドリイは首をたれた。彼女は自分のこと、自分の家庭のことを考えながら、しばらく黙っていたが、ふいにきっとなって顔を上げ、祈るようなふうに両手を合わせた。「でも、待って下さいまし! あなたはキリスト教徒なんですもの。あのひとのことを考えて上げて下さいまし! もしあなたに棄てられたら、あのひとはまあ、どうなるでしょう?」
「私も考えたんですよ、ダーリヤ・アレクサンドロヴナ[#「アレクサンドロヴナ」は底本では「アレクサンドヴロナ」]、ずいぶん考えたんですよ」とカレーニンはいった。その顔は赤いしみにおおわれ、どんよりした目は、まともに彼女を見すえた。ドリイはもう真底から彼がかわいそうになった。「私はあれの口から、自分の恥を告げられたあとで、あなたのいわれたとおりのことをしたんですよ。つまり、なにもかももとどおりということにしたのです。あれに改悛の機会を与えたのです、あれを救おうと努力したのです。ところが、どうでしょう? あれは体面を守るといういちばん楽な要求さえ、実行しなかったんですからね」と彼は熱くなっていった。「自分で破滅したくないと思ってる人間なら、救うこともできますが、すっかり性根が腐ってしまって、破滅そのものを救いのように思っている堕落しきった人間を、いったいどうしたらいいのです?」
「どんなことでもよござんすが、ただ離婚だけは思いとまって下さいまし!」とドリイは答えた。
「しかし、どんなことでもって、いったいどうするんです?」
「いいえ、それは恐ろしいことですわ。あのひとはもうだれの妻でもなくなって、破滅の道をたどることになります!」
「私にどうすることができるとおっしゃるんです?」とカレーニンは眉と肩を上げて、問い返した。妻が最後に仕向けたことを思い出すと、彼はまた気持がいらいらしてきて、話の初めころと同じように、冷然となってしまった。「ご同情はありがたく思いますが、もうそろそろお暇しなくちゃなりません」と彼は立ちあがりながらいった。
「いいえ、まあ、待って下さいまし! あなた、あのひとを破滅さすようなことをなすっちゃいけません。まあ、お待ち下さい、わたし自分のことを申しあげますから。わたしはこちらへ片づいてまいりましたが、良人はわたしに不実なことをしましたので、わたしは腹がたつのと嫉妬のために、なにもかもうっちゃって、出て行こうと思いました、自分自身さえ……でも、はっと気がついて、正気に返りました。それはだれのおかげだとお思いになりまして? アンナがわたしを救ってくれたのでございます。で、わたしはこのとおり生きております。子供たちも大きくなってまいりますし、たくも家庭のふところへ帰ってきました。そして、自分が悪かったと思って、前に比べれば、潔白ないい人になってくれましたので、わたしも生きていられるわけでございます……こうして、わたしも赦したのですから、あなたもお赦しにならなくてはなりません!」
 カレーニンは耳を傾けていたが、ドリイの言葉はもはや彼の心に、なんの作用もしなかった。その胸中には、あの離婚を決心した日と同じ、毒々しい気持が湧き起った。彼は何かふるい落すような身ぶりをして、高いきいきい声でいいだした。
「赦すことはできません。また赦そうとも思いません。そんなことは正義にはずれます。私はあの女のために、いっさいのことをしたのですが、あの女はそれをすっかり、泥の中に踏みにじったのです。泥水があれの性にあっておるのですよ。私は意地の悪い男じゃないから、今までかつて他人を憎んだことはありませんが、あの女だけは真底から憎みます。赦すことさえできません。なぜといって、あれがあまりひどいことを仕向けたのだから、憎しみの心が強すぎるのです!」声に憤怒の涙さえ響かせながら、彼はこういいきった。
「汝を憎むものを愛せよ、ですわ……」とドリイははにかみ口調でいった。
 カレーニンはばかにしたように、にたりと笑った。そんなことは、前からわかりきっていたのだけれども、彼の場合にはあてはまらないのであった。
「自分を憎んでいるものを愛することはできますが、自分の憎んでいるものを愛することは、不可能です。ご心配をかけてすみません。めいめい自分の不幸だけでもたくさんなくらいですからな!」とカレーニンは気をとりなおして、悠然と別れを告げて、立ち去った。

[#5字下げ]一三[#「一三」は中見出し]

 一同が食卓を離れたとき、レーヴィンはキチイについて客間へいこうと思った。しかし、あまり露骨にあとを追いまわすように見えて、キチイが不快に感じはせぬかと危ぶまれた。彼は男たちの一座に残って、みんなの話へ仲間入りしたが、キチイの方を見ないでも、その動作、視線、客間の中で彼女の占めている場所が、直感的にわかるのであった。
 いま彼はいささかの努力もしないで、彼女とかわした約束を実行することができた。つまり、すべての人をよく思い、常にすべての人を愛することである。会話は農村の共同体《オーブシチナ》ということにふれた。ペスツォフはそこに、ある特殊な根源を認めて、これを合唱的要素となづけた。レーヴィンはペスツォフにも、また兄にも賛成しなかった。兄はロシヤの共同体の意義を認めているような、いないような態度であった。レーヴィンはこの二人と話しながら、ただ彼らを調停して、その反駁を柔らげるようにのみ努力した。彼は自分自身のいうことにも、また二人のいうことにも、なんの興味もいだかなかった。ただこの二人をはじめ、みんなのものが和気あいあいとして、気持がいいようにと、ただそれのみを念じていたのである。今の彼はただ一つ重大なものを知っていた。そのただ一つのものは、はじめむこうの客間にいたが、やがてだんだん近づいてきて、戸口のところに立ちどまった。彼はその方へ顔を向けはしなかったけれども、自分の方ヘそそがれている視線と微笑を感じて、ついふりむかずにいられなかった。彼女はシチェルバーツキイといっしょに、戸口にたたずんで、彼の方をながめていた。
「ピアノの方へいらっしゃるのかと思いましたよ」と彼はそばへよりながら、話しかけた。「田舎の生活で欠けているものは、それなんですよ――音楽なんです」
「いいえ、あたしたちは、ただあなたを呼びにまいりましたの」と彼女は贈り物で感謝の意を表するように、微笑で相手をねぎらうのであった。「ありがとうございます、よくいらして下さいました。本当に議論するなんて、いい物好きですのね。どうせお互に、相手を言い負かすことなんかできやしませんわ」
「そう、全くです」とレーヴィンはいった。「まあ、たいていの場合は、相手がいったい何を論証しようとしているか、わからないものだから、そのために、むきになって議論することが多いんですよ」
 レーヴィンはよく、こういうことに気がついた――きわめて聡明な人が議論するときでも、さんざん大わらわになって骨を折り、精巧な論理やおびただしい言葉を浪費したあと、論者はやっとのことで、自分たちがお互に証明しようと長いあいだもがいたことは、とくの昔に、論争のはじめから知れきっているのだが、双方とも好むところが違っているために、相手に弱点をつかまれまいとして、おのれの好むところを口にしないのだ、とこういうことを自覚するものである。どうかすると論争の半ばに、相手の好むところを悟って、ふいに自分でもそれと同じものが好きになり、いきなり論敵に同意してしまう。すると、いっさいの論証は不用となって、影をひそめてしまう。彼自身もよくこれを経験した。が、またときによると、その反対の体験もある。やっとのことで自分の好むところ、うまい論証を考え出そうとあせっていた思想が言葉に出る。しかも、偶然うまい誠実みのある表現ができると、急に論敵がそれに賛成して、議論をやめてしまう。つまり、そのことを彼はいいたかったのである。
 彼女は額に皺をよせて、彼のいうことを理解しようと努めた。けれど、彼が説明しかけるやいなや、彼女はもう悟ってしまった。
「わかりますわ!――まず相手がなんのために論争しているか、何を愛しているか、それを知らなくちゃならないんですわね。そうするとはじめて……」
 彼女は、レーヴィンが拙《まず》いいいかたをした思想を、完全に察して、はっきりと表現したのである。レーヴィンは喜ばしげに微笑した。ペスツォフと兄を相手の混乱した、言葉ばかり多い論争のあとで、一足飛びに、ほとんど言葉を用いずして、この上もなく複雑な思想を表現しうる、いとも簡潔に明瞭な心と心の交流に移ったために、何かほっとするような思いであった。
 シチェルバーツキイは、二人のそばを離れていった。で、キチイはそこに出ているカルタ机の方へいって、そのわきに腰をおろし、チョークを手にとって、新しい緑色のラシャの上に、円い形をだんだん大きく描きはじめた。
 二人は食事のときの話、つまり婦人の自由と職業という問題を蒸し返した。レーヴィンは、女の子というものは結婚しなくても、家庭の中で、女にふさわしい仕事を発見することができるという、ドリイの意見に賛成した。彼はこの意見を裏書きするのに、いかなる家庭も、助手となるべき女なしにはやっていけない。貧乏な家でも、金持の家でも、雇い人なり、身内なりの婆やがいるという事実をもちだした。
「ちがいますわ」とキチイは顔を赤らめながらも、そのためにかえって勇敢に、真実みの溢れた目つきで、彼を見ながらいった。「女ってものは、身を卑《いや》しくしなければ、家庭の中へ入って行けない、そういうふうにできているのかもしれませんわ。そして自身も……」
 レーヴィンはただ暗示だけで、彼女の意のあるところを悟った。
「ああ、そうです!」と彼はいった。「そうです、そうです、あなたのおっしゃるとおりです、あなたのおっしゃるとおりです!」
 で、彼はペスツォフが食事のとき、婦人の自由について論証せんとしたことを、のこらず理解してしまった。それはただキチイの胸に、処女の恐怖と卑下心《ひげしん》を見てとったからである。レーヴィンは彼女を愛するが故に、この恐怖と卑下心を直感し、一挙にして自分の論拠を撤回したのである。
 沈黙が訪れた。彼女は依然として、テーブルの上にチョークで線を引いていた。その目は静かな光に輝いていた。彼もその気分に同化しながら、自己の全存在にたえず生長していく幸福の緊張を感じた。
「あら、わたしテーブルにすっかりいたずら書きしてしまいましたわ!」と彼女はいい、チョークをおいて、立ちあがりそうな気配を見せた。
『このひとなしに一人とり残されて、おれはどうしてやっていくのだ!』と彼はぞっとしながら考えた。彼はチョークをとった。
「待って下さい」テーブルにむかって腰をおろしながら、彼はこういった。「僕は前から、あなたにひとつおたずねしたいことがあったのです」
 彼は相手のおびえたような、とはいえ優しい目を、ひたとみつめた。
「どうぞおたずね遊ばして」
「こうなんです」といって、彼は次の頭文字を書いた。い、あ、ぼ、そ、で、な、お、そ、え、そ、あ、? これらの文字は、こういう意味であった。『い[#「い」に丸傍点]つぞやあ[#「あ」に丸傍点]なたはぼ[#「ぼ」に丸傍点]くに、そ[#「そ」に丸傍点]んなことはで[#「で」に丸傍点]きないとお[#「お」に丸傍点]っしゃいましたが、そ[#「そ」に丸傍点]れは永[#「永」に丸傍点]久にですか、そ[#「そ」に丸傍点]れともあ[#「あ」に丸傍点]の時だけですか?』彼女がこの複雑な句を解きえようとは、思いもよらぬことであったが、彼はこれらの言葉を、キチイが解いてくれるかどうかに、自分の全生命がかかっているような顔つきで、じっと彼女をみつめていた。
 彼女はまじめな様子で彼をながめたが、やがてしかめた額を片手に支えながら、読みはじめた。ときおり、『あたしの考えてること、あたっていますかしら?』とでもささやくように、彼の顔を見上げるのであった。
「わかりましたわ」と彼女は赤い顔をしていった。
「これはなんという言葉です?」永久に[#「永久に」に傍点]を意味する『え』の字を指しながら、彼はこうたずねた。
「これは永久に[#「永久に」に傍点]って言葉ですわ」と彼女はいった。「でも、それは違います!」
 彼は手早く自分の書いた字を消して、彼女にチョークを渡し、立ちあがった。彼女は、あ、わ、そ、へ、で、な、と書いた。
 ドリイはこの二人の姿を見たとき、カレーニンとの話にひき起された悲しみを、すっかり忘れてしまった。キチイはチョークを手に持って、臆病な、しかし幸福そうな微笑を浮べながら、下からレーヴィンを見上げているし、レーヴィンは美しい姿勢をして、テーブルの上にかがみながら、燃えるような目をテーブルと彼女の方へ、かわるがわるそそいでいる。と、ふいにその顔がさっと晴れわたった。彼は判じた。それは『あ[#「あ」に丸傍点]のときわ[#「わ」に丸傍点]たしは、そ[#「そ」に丸傍点]れよりほかの返[#「返」に丸傍点]事がで[#「で」に丸傍点]きな[#「な」に丸傍点]かったのです』という意味であった。
 彼は物問いたげな、臆病な目つきで、彼女を見やった。
「ただあのときだけですか?」
「ええ」と彼女の微笑が答えた。
「じゃ、い……いまは?」と彼はたずねた。
「それでは、これを読んでちょうだい。あたし自分の願っていることを、心から願っていることを申しますから!」彼女はまた頭文字を書いた。『も、あ、あ、わ、ゆ、く、で』――それはこういう意味であった。『も[#「も」に丸傍点]しあ[#「あ」に丸傍点]なたがあ[#「あ」に丸傍点]のときのことを忘[#「忘」に丸傍点]れて、赦[#「赦」に丸傍点]して下[#「下」に丸傍点]さることがで[#「で」に丸傍点]きたら』
 彼は緊張のあまりふるえる指でチョークをとり、それをぽきりと折って、つぎの意味を頭文字で書いた。『僕は何も忘れることも、赦すこともありません、僕はたえず、あなたを愛しつづけていたのです』
 彼女は頬に微笑を凍《こお》らして、彼をながめた。
「わかりましたわ」とささやくようにいった。
 レーヴィンは腰をおろして、長い文句を書いた。彼女はなにもかも悟った。そして、こうでしょうかともきかないで、チョークをとりあげ、返事を書いた。
 レーヴィンは、長いあいだ、彼女の書いたことが解《げ》せなかったので、しばしば相手の目に見入った。それは、幸福のために頭がぼうっとしたのである。彼はどうしても、彼女の書いた文字に言葉をあてはめることができなかった。けれども、その美しい、幸福に輝く目の中に、自分の悟るべきことをことごとく読みとったのである。彼は三つの文字を書いた。しかし、彼がまだ書き終らないうちに、キチイは早くもその手の陰から読みとって、自分でその締めくくりをつけた。『諾』と書いたのである。
「書記ごっこをしておるのかね?」と老公爵がそばへよっていった。「それにしても、もし芝居にまにあいたかったら、そろそろ出かけようじゃないか」
 レーヴィンは立って、戸口までキチイを見送った。
 この会話で、なにもかも残らずいいつくされた。彼女が彼を愛していることも、明日の朝、彼が改めて訪問することを、両親に伝えておこうということも、ことごとく語りつくされたのである。

[#5字下げ]一四[#「一四」は中見出し]

 キチイが行ってしまって、一人とり残されたとき、レーヴィンは彼女と離れた不安をはげしく感じた。そして、ふたたび彼女に会い、彼女と結びつくことのできる明日の朝まで、少しも早く、一刻も早く、時をすごしたいという、矢もたてもたまらない焦燥を覚えた。で、彼女なしにすごさねばならぬこの二十時間が、まるで死か何かのように恐ろしくなった。ひとりぼっちにならないために、時を欺くために、だれかといっしょにいて話すことが必要であった。オブロンスキイはそのために、うってつけの話し相手であったが、彼は夜会に招かれているといって、行ってしまった。が、そのじつ、バレーへ急いだのである。レーヴィンは彼にむかって、僕は幸福だ、僕は君を愛している、君が僕のためにしてくれたことは、永久に、永久に忘れはしない、とただそれだけのことをいう暇しかなかった。オブロンスキイの目と微笑は、彼がその気持をまちがいなく理解しているということを、レーヴィンは悟った。
「どうだね、まだ死ぬ時じゃないだろう?」感動をこめてレーヴィンの手を握りしめながら、オブロンスキイはこういった。
「とーんでもない!」とレーヴィンは答えた。
 ドリイも彼に別れを告げながら、何かお祝いでも述べるように、こんなことをいった。
「あなたがまたキチイとめぐりあいなすって、本当にうれしゅうございますわ。古い友だちって、大切にしなくちゃなりませんわね」
 レーヴィンは、ドリイのこの言葉が不快であった。これは彼にとってじつに高遠な事柄であって、彼女の理解などの及ぶべきことでないのだから、彼女は不遜にもそれを口にしてはならないのだ――そういう彼の気持が、ドリイにはわからなかったのである。
 レーヴィンは一同と別れを告げたが、ひとりぼっちになりたくなかったので、兄にすがりついた。
「これからどこへ行くんです?」
「会議へさ」
「じゃ、僕もついて行こう。いいでしょう?」
「そりゃいいさ。いっしょに行こう」とコズヌイシェフは、にやにやしながらいった。「おまえ、今夜どうしたんだい?」
「僕ですか? 僕は幸福なんです!」二人の乗りこんだ馬車の窓をおろしながら、レーヴィンは答えた。「かまいませんか? どうも息苦しくって、僕は幸福なんですよ。どうして兄さんは今まで結婚しなかったんです?」
 コズヌイシェフはにっと笑った。
「なに、僕も大いにうれしいよ、あれはどうやらいいむす……」とコズヌイシェフはいいかけた。
「いわないで、いわないで、いわないで下さい!」両手で兄の外套の両襟をつかみ、それをばたばたさせながら、レーヴィンは叫んだ。『あれはいい娘さんだ』などというのは、あまりにも彼の気持にふさわしくない、平凡で低級な言葉だったのである。
 コズヌイシェフは彼として珍しいことに、からからと愉快そうに笑いだした。
「だが、それにしても、大いにうれしいくらいは、いったってかまわないだろう」
「いや、それも明日のことです、明日のことです、もうそれ以上なんにもいわないで! なんにも、なんにも、ただ沈黙」とレーヴィンはいい、もういちど毛皮外套の襟をぱたりとあわせて、つけ加えた。「僕はあなたが大好きです! しかし、会議に行ってもさしつかえありませんか?」
「むろん、いいさ」
「今日はどういう問題なのです?」とレーヴィンは、たえず微笑しながらたずねた。
 やがて会議の場所へ着いた。レーヴィンは、秘書がどもりどもり記録を読み上げるのを聞いていた。どうやら、読むご当人も何のことやらわからないらしかった。しかし、レーヴィンはその秘書の顔つきからして、彼がじつに愛すべき、善良な、すばらしい若者であることを見てとった。それは、彼が記録を読みながらまごついて、もじもじしているのでも明瞭であった。そのあとで演説がはじまった。人々はある金額の支出と、何かの鉄管の敷設《ふせつ》のことで論争していたが、コズヌイシェフは二人の会員にちくりと針を刺して、勝ち誇ったように長々としゃべった。すると、もう一人の会員は、何か紙きれに書きつけた後、はじめ怯《お》じけついたけれどもやがてひどく毒を含んだ答弁を、慇懃《いんぎん》な調子で述べた。そのあとでスヴィヤージュスキイが(彼もそこにいたのである)、やはり何かしら、じつに美しい上品な言葉で述べた。レーヴィンはそれらに耳を傾けていたが、彼にははっきりわかっていた。そうした金額の支出も、鉄管の敷設も、いっさいなにもない、ありはしない、そしてみんなも決して腹などたてはせず、だれもかれも善良な愛すべき人々で、なにもかもが彼らのあいだで円満に、和気あいあいと進行したのだ。彼らはだれのじゃまもせず、すべての人が愉快な気分でいる。レーヴィンにとってすばらしかったのは、今夜これらの人々が、だれもかれも腹の底まで見えすいていたことである。前には目にもつかなかった些細な徴候によって、彼は一人一人の魂を認識し、彼らがみな善良な人々であることを、はっきりと見定めたのである。とりわけ彼レーヴィンを、人々は今夜なみはずれて愛しているのだ。それは、彼らが優しく彼に話しかけ、未知の人たちまでが、みんな愛想のいい、愛情のこもった目つきでながめるので、それと知られるのであった。
「どうだね、おもしろかったかね?」とコズヌイシェフは彼に問いかけた。
「非常に。僕はこんなにおもしろかろうとは、夢にも思いませんでした。すばらしくおもしろいです!」
 スヴィヤージュスキイがレーヴィンのそばへやってきて、お茶に招待した。レーヴィンはなんだってスヴィヤージュスキイに不満を感じていたのか、何を彼から求めていたのか、いっこうに理解もできなければ、思い出すこともできなかった、彼は聡明で、驚くばかり善良な男であった。
「そりゃ願ってもないことです」とレーヴィンはいって、細君やその妹のことをたずねた。奇妙な連想作用で、というのは、彼の頭の中ではスヴィヤージェスキイの義妹を思う心は、結婚というものに結びついていたために、自分の幸福を語る相手として、スヴィヤージュスキイの妻と義妹より以上の人はない、というような気がしたので、彼は喜んでその家へ出かけた。
 スヴィヤージュスキイは、彼に領地の仕事のことをたずねたが、それはいつものように、ヨーロッパで発見されなかったものを、ロシヤで発見できるはずがない、というような調子であった。が、今はそれもレーヴィンにとって、少しも不愉快でなかった。それどころか、彼の心の中で、スヴィヤージュスキイのいうことは本当だ、そんなことはみんなつまらぬ話だ、といったような気がした。彼はまた、スヴィヤージュスキイが驚くべきデリカシイと優しみをもって、自分の正しさを誇示《こじ》することを避けようとしているのを認めた。スヴィヤージュスキイの妻とその妹は、かくべつ愛すべき人たちであった。二人はもうなにもかも知って、同感しているくせに、ただデリカシイのために口に出さないだけだ、というような気持がした。彼はこの家に二三時間すわりこんで、種々雑多な話をしていたが、自分ではただ一つ、心に溢れることをほのめかしているつもりであった。こうして、みんな[#「みんな」は底本では「みん」]がすっかりあきあきしてしまって、もうとっくに寝る時間がきているのに気がつかなかった。スヴィヤージュスキイは、あくびをしながら戸口まで見送ったが、友の落ち入っている奇妙な心の状態に、内心おどろいていた。
 もう一時すぎていた。レーヴィンは宿へ帰った。そして、まだ残っている十時間を、今からたった一人きりで、焦燥の念をいだきながら、すごさなければならぬのだと考えて、愕然《がくぜん》たる気持になった。寝ずの番にあたっているボーイが、蝋燭をつけておいて、出ていこうとした。レーヴィンはそれを呼びとめた。エゴールと呼ぶそのボーイは、前にはレーヴィンの目にとまらなかったのだが、今みると、非常に気のきいた、善良な、それに第一、親切な男であった。
「どうだね、エゴール、寝ずにいるのは骨だろう?」
「どうもいたしかたございません。これがわたくしどもの勤めなんでございますから、そりゃお邸がただと、ずっと楽でございますが、そのかわり、こちらのほうが稼ぎがたんまりございましてな」
 聞いてみると、エゴールは家族もちで、三人の男の子と、仕立て物をしている娘が一人あって、彼はその娘を馬具屋の番頭の嫁にしたい、と思っているのであった。
 レーヴィンはそれをきっかけにして、エゴールに自分の考えを話して聞かせた。結婚でいちばん大切なのは愛情で、愛さえあれば、いつでも幸福でいられる。なぜといって、幸福はただ自分自身の中にあるものだから。
 エゴールは熱心に聴いていた。そして、見うけたところ、レーヴィンの説がとっくり腑《ふ》に落ちたらしかったけれども、彼はその説の正しさを裏書きするために、レーヴィンが面くらうほど、思いがけない意見を述べるのであった。彼は以前、りっぱなお邸で奉公していた時分には、自分のご主人たちに満足していたものだが、今の主人はフランス人ではあるけれども、やはり心から満足しているとのことであった。
『驚くほど善良な男だ!』とレーヴィンは考えた。
「ところで、エゴール、おまえは女房をもらったとき、女房を好いていたかい!」
「どうして好かないでいられましょう?」とエゴールは答えた。
 そのときレーヴィンは、エゴールも同じように感激に近い心の状態にあって、胸の深い奥底に秘めた気持を、すっかり吐き出してしまおうと思っているのを見てとった。
「わたくしの身の上も、どうしてなかなかたいへんなものでございます。わたくしはまだ小さな餓鬼《がき》の時分から……」ちょうどあくびが人に伝染するように、見るからレーヴィンの歓喜に感染した様子で、彼はこうしゃべりだした。
 けれど、そのときベルの音が聞えて、エゴールはいってしまった。レーヴィンはひとりとり残された。彼は晩餐のとき、ほとんど何も食べなかったし、スヴィヤージュスキイのところでも、お茶も夜食も辞退したが、それでも夜食のことなど考えられなかった。彼は前の晩ねむられなかったにもかかわらず、眠るということはもってのほかであった。部屋の中は涼しかったのに、彼は暑さに息がつまりそうな気がした。彼は通風口を二つとも開けて、そのまん前のテーブルの上へ腰をかけた。雪におおわれた屋根のかげから、模様のある十字架と鎖が見えて、その上には、黄ばんだ明るい光を放つカペラ星を擁《よう》した三角形の馭者座がしだいに高くなっていく。彼はその十字架と星を、かわるがわるながめながら、規則ただしく室内へ流れこむ、すがすがしい凍った空気を吸いこんでいた。そして、夢みごこちで、想像の中へ湧きあがってくる映像や思い出を跡づけていた。三時すぎに、廊下に足音が聞えたので、彼は戸口からのぞいて見た。それは知り合いのカルタ師ミャースキンが、クラブから帰ってきたのである。彼は陰気くさい様子で、顔をしかめ、咳ばらいをしながら歩いていた。『かわいそうに、ふしあわせな男だ!』とレーヴィンは思った。すると、この男にたいする愛と憐憫のために、目がしらに涙が浮んできた。レーヴィンは彼と話をして、慰めてやりたくなった。けれども、自分が肌着一枚なのに気がついたので、思いなおして、通風口の前へいって腰をおろし、ふたたび凍った空気に沐浴《もくよく》をしながら、あのじっとおし黙ってはいるが、彼にとっては深い意味にみちた、微妙な形をしている十字架や、しだいに高く昇って黄色いあざやかな光を放っている星をながめはじめた。六時すぎになると、床掃除人たちがざわざわと音をたて、何かの勤行《ごんぎょう》を知らせる鐘が鳴りはじめた。レーヴィンは体が凍えてきたのに気がついた。通風口を閉じて、顔を洗い、着替えをすますと、通りへ出ていった。

[#5字下げ]一五[#「一五」は中見出し]

 通りはまだ、がらんとしていた。レーヴィンは、シチェルバーツキイ家へ出かけて行った。表玄関の扉はしまっていて、なにもかもしんと寝静まっていた。彼はまたひっ返して、ふたたび宿の部屋へ入り、コーヒーを命じた。もうエゴールとちがう当番のボーイが、注文のものを持ってきた。レーヴィンは、この男と話をしようと思ったが、ボーイはベルに呼ばれて、行ってしまった。レーヴィンは、またコーヒーを飲もうとして、丸パンを口へ入れたが、口はそのパンをどうしていいか、まるで知らないのであった。レーヴィンは丸パンを吐き出すと、外套を着こんで、ふたたび外へぶらつきに出かけた。彼が二度目に、シチェルバーツキイ家の入口階段のところへ来たのは、九時すぎたころであった。家の中では、たったいま起き出したばかりで、料理人が食料品を買い出しに出かけるところであった。まだ少なくとも、二時間はがまんしなければならなかった。
 レーヴィンはその夜からずっと朝にかけて、全く無意識に暮してしまったので、自分という人間がすっかり、物質生活の諸条件から解放されたような気がした。彼は一日なんにも食べず、ふた晩まんじりともせず、肌着一枚で幾時間も厳寒の外気の中ですごした。しかし、彼は今までかつて知らぬほど、生きいきとした、健康な気持がしたばかりでなく、ぜんぜん肉体から超越してしまったように感じた。彼は筋肉の力を借らずに動き、どんなことでもできるような気がした。もし必要さえあれば、空中高く飛ぶこともできるし、家の片すみくらい動かすこともできる、と確信してみたり、四方を見まわしたりしながら、街々を歩きまわった。
 そして、そのとき彼が見たものは、その後もう二度と見られなかった。中でも、小学校へ行く子供たち、屋根から人道へ飛びおりた銀鼠色の鳩、見えない手が店の飾窓に並べている粉のふいたコッペパンなどが、彼に深い感動を与えた。このコッペパンや、鳩や、二人の男の子は、みな地上のものと思えないような存在であった。しかも、それがみんな同時なのであった。一人の男の子が鳩の方へ走って行き、にこにこしながらレーヴィンを見やると、鳩はばたばたと羽ばたきして、空中にふるえている粉雪の間を、日光に羽を輝かせながら、ぱっと飛び立った。すると家の中からは、焼きたてのパンの匂いが流れてきて、コッペパンが並べられた。これらのことがいっしょになって、すばらしくよかったので、レーヴィンは思わず笑いだすと同時に、うれしさのあまり泣きだしたくらいである。新聞横町から、キスローフカと大きくまわり路をして、彼はまた宿へ帰った。そして、前に時計を置いて、十二時を待ちかねながら、じっと坐っていた。隣の部屋では、機械がどうしたとか、何やらが嘘だとか、いうような話をしながら、朝らしい咳《しわぶき》をしていた。この連中は、時計の針がもう十二時に近づいているのを知らないのだ。針はいよいよ十二時をさした。レーヴィンは玄関へ出た。馭者たちは察するところ、なにもかも承知しているらしかった。彼らは幸福そうな顔つきで、先を争って自分の馬車をすすめながら、レーヴィンをとりかこんだ。レーヴィンは、ほかの馭者たちを怒らせないように、つぎに頼むからと約束しながら、その中の一人を選んで、シチェルバーツキイ家へやってくれと命じた。その馭者は、血の気のみちみちた、真赤な頑丈らしい頸に、ぴったり巻きついている白いルバーシカの襟を、長外套《カフタン》の下からのぞかせている様子が、なんともいえないほどすてきだった。この馭者の橇は腰が高くて、具合がよく、その後レーヴィンが二度と乗ったことのないようなものだった。馬もいい馬で、一生懸命に走ろうとしているくせに、一歩も先へ動かないのである。馭者はシチェルバーツキイ家を知っていた。そして、乗っている客に敬意を表するために、特にうやうやしく両腕を円くして、「どうどう」といいながら、車寄せのそばで橇をとめた。シチェルバーツキイ家の玄関番は、きっとなにもかも知っているに違いなかった。それは目もとの微笑にも、口にした言葉にも見え透いていた。
「これは、コンスタンチン・ドミートリッチ、お久しぶりでございますな!」
 彼はなにもかも知っているばかりでなく、明らかにほくほくもので喜んでいながら、その喜びを隠そうとつとめているらしかった。その年寄りらしい愛嬌のある目を見ると、レーヴィンは自分の幸福に、また何か新しいものを発見したようにさえ思うのであった。
「みなさんもうお起きになったかね?」
「どうぞお入り下さいまし! それはここへ置いていらっしゃいまし」レーヴィンが帽子をとりにひっ返そうとしたとき、彼はにこにこしながら、そういった。これは何かわけがあるのだ。
「どなたにお取次ぎいたしましょう?」と従僕がきいた。
 従僕はまだ若い新参の洒落者であったが、ごく善良な感じのいい男で、やはりなにもかも心得ていた。
「奥様に……公爵に……お嬢さんに……」とレーヴィンはいった。
 彼が最初に会ったのは、マドモアゼル・リノンであった。彼女は広間を通りぬけていたが、その髪も顔も晴ればれと輝いていた。彼がひと言話しかけるかかけないかに、とつぜん戸のむこうで衣《きぬ》ずれの音が聞えた。すると、マドモアゼル・リノンは、忽然とレーヴィンの目から消えて、幸福の近づいてきた喜ばしい恐怖が彼の全身に伝わった。マドモアゼル・リノンはあたふたして、彼をうっちゃらかしたまま[#「うっちゃらかしたまま」は底本では「うっちゃらかしてまま」]、次の戸口をさして歩き出した。彼女が出ていくやいなや、せかせかと早く嵌木床《バルケット》を踏む軽い足音が響きはじめた。彼の幸福、彼の生命、彼自身、否、彼自身よりも優れたもの、あれほど長い間さがし求めていたものが、急速に近づいてくる。彼女は歩いているのでなく、何か目に見えぬ力によって、彼の方へ翔《かけ》ってくるのであった。
 レーヴィンは、ただ澄みわたった、真実みのこもった、彼女の目を見たばかりである。それは、男の心をも満たしている愛の喜びに、おびえたような表情をしていた。その二つの目は、愛の光で彼に目つぶしを食わせながら、次第に近く近く輝いてくる。彼女はすぐそばへ、さわりそうなほどちかぢかと立ち止った。その両手があがったと思うと、彼の肩の上におろされた。
 彼女は、自分にできることはすっかりしてしまった。男のそばへ駆けよって、臆しながら、歓喜に燃えながら、身も心も男にゆだねたのである。彼は抱きしめて、おのれの接吻を求めている口に唇をおしあてた。
 彼女も同じく夜っぴて眠らないで、午前中彼を待っていたのである。両親は一も二もなく同意して、彼女の幸福を幸福とした。で、彼女は彼を待ち受けていた。彼女はだれよりも一番に、自分たち二人の幸福を、男に告げたかったのである。彼女はただ一人で、男を迎える心がまえをしたが、その思いつきがうれしくもあれば、気おくれして恥ずかしくもあった。そのために、彼女は自分でも、どんなことをするやらわからなかった。男の足音と声を聞きつけると、彼女は戸の外に立って、マドモアゼル・リノンが行ってしまうのを、待っていたのである。マドモアゼル・リノンは出ていった。彼女は、何をどんなふうに、などということを考えもしなければ、自分の心にたずねてもみずに、いきなり男のそばへ近づいて、今したとおりのことをしたのである。
「ママのとこへまいりましょう!」と彼女は男の手をとって、いった。彼は長いあいだ、なんにもいうことができなかった。それは、自分の感情の崇高さを、言葉で傷つけるのを恐れたからというよりは、何かいおうとするたびに、言葉のかわりに、幸福の涙がほとばしり出そうな気がしたからである。彼は女の手をとって接吻した。
「いったいこれが本当だろうか?」やっとのことで、彼はくぐもり声でいいだした。「おまえが僕を愛してくれるなんて、とても本当にできない!」
 キチイはこの『おまえ』という言葉と、自分をながめた男の臆病な目つきに、思わずにっこりとほほえんだ。
「ええ!」と彼女は意味ありげに、ゆっくりと答えた。「あたしとても幸福ですわ!」
 彼女は男の手をはなさないで、客間の中へ入った。公爵夫人はその二人を見るなり、息づかいがだんだん早くなったと思うと、いきなりわっと泣き出したが、すぐにまた笑いに移って、レーヴィンには思いもよらぬ力強い足どりで、二人の方へ走ってきた。そして、レーヴィンの頭を両手に抱いて、彼に接吻した。彼の頬は、涙でしとどに濡らされてしまった。
「ああ、これでなにもかもすみました! わたしはうれしい。どうかかわいがってやってちょうだい。本当にうれしい……キチイ!」
「手早いとこをやりなおったな![#「やりなおったな!」はママ]」と老公爵は、強《し》いて平気を装いながら、こういったが、レーヴィンは老公が自分の方へ向いたとき、その目がうるんでいるのに気がついた。「わしは前から、いつもこうなるのを望んでおったんだよ」レーヴィンの手をとって、自分の方へひきよせながら、老公はそういった。「わしはもうあのときから、そら、このおはねさんが、とんでもない考えを起して……」
「パパ!」とキチイは叫んで、父の口に両手で蓋《ふた》をした。
「いや、もういわんよ!」と彼はいった。「いや、わしもじつに、じつに……うれ……ああ、わしはなんという馬鹿爺だ……」
 彼はキチイを抱きしめて、その顔に接吻し、それから手、さらにまた顔に接吻した後、十字を切ってやった。
 キチイが、そのぶよぶよした手を長いこと、優しい愛情をこめて接吻するのを見たとき、レーヴィンは、今まで赤の他人であったこの老人にたいする、新しい愛の感情につつまれるのを覚えた。

[#5字下げ]一六[#「一六」は中見出し]

 公爵夫人は無言のまま微笑しながら、肘椅子に腰をかけていた。老公はそのそばへ腰をおろした。キチイはいつまでも父の手を放さないで、その椅子のかたわらに立っていた。みんな黙っていた。
 やがて公爵夫人が第一番に、すべてのものを言葉で呼び、すべての思想や感情を生活の問題に翻訳した。最初の瞬間には、それが一同にとって奇怪なばかりでなく、心に痛いほどにさえ思われた。
「いつにしましょうね? 祝福の式や、婚約披露もしなくちゃなりませんからね。そして、結婚式はいったいいつにしましょう? あなたどうお思いになって、アレクサンドル?」
「それはこの男だ」レーヴィンをさしながら、老公はいった。「この問題では? この男が主人公だからな」
「いつにしましょう?」とレーヴィンは赤くなっていった。「明日では? 僕の意見をおききになるのでしたら、僕の考えでは、きょう祝福をして、あす式を挙げるんですね」
「まあ、mon cher たくさんですよ、ばかなことは」
「じゃ、一週間後」
「この人はまるで気ちがいね」
「いや、なぜです?」
「まあ、とんでもない!」この性急さに、喜びの微笑をもって答えながら、母親はこういった。「では、したくはどうするんですの」
『いったいしたくだとか、なんとか、ああいったものが必要なのかしらん?』とレーヴィンは、ぞっとしながら答えた。『いや、まあ、したくだとか、祝福とか、そういったようないろいろのことが、おれの幸福を傷つけるわけでもあるまい? これを傷つけうるものは、何一つありはしない!』彼はちらとキチイを見やった。と、したくなどという考えも、もうとう、彼女の誇りを傷つけていないのを見てとった。『してみると、やっぱりそれも必要なんだな』と彼は考えた。
「いや、何しろ、僕はなんにもわからないんです、ただ自分の希望をいってみただけなんですから」と彼はわびるようにいった。
「じゃ、みんなでよく相談しましょう。もっとも、祝福や婚約披露は、今すぐでもできますがね。それはそのとおりですよ」
 公爵夫人は良人に近よって、接吻すると、そのまま出ていこうとした。が、老公はそれをひきとめて、抱きかかえると、まるで恋する若いもののように、微笑を浮べながら、幾度も接吻した。老夫婦はどうやら、ちょっとの間、頭が混乱して、自分らが二度目の恋をしているのか、それとも娘だけが恋しているのか、よくわからないようなふうであった。老公と夫人が出ていったとき、レーヴィンは自分の許婚《いいなづけ》のそばへよって、その手をとった。彼も今は正気に返ったので、話をすることができた。しかも、いうべきことがたくさんあったのである。けれど、彼はいわねばならぬことと、ぜんぜんちがったことを口に出した。
「これがこうなるってことは、僕もうちゃんとわかっていましたよ! 僕は一度も希望をいだいたことはないけれど、心の底ではいつも確信があった」と彼はいった。「これは、前世から予定されていたことだと信じます」
「ところが、あたしはどうでしょう?」とキチイはいった。「あのときでさえ……」ここでちょっと言葉を切ったが、例の真実みのこもった目で、決然と男を見つめながら、また語りつづけた。「あたしが自分の幸福をつき放したときでさえ、あたしはいつも、あなた一人だけを愛していました。でも、あのときは魔がさしたんですわ。あたしいってしまわなくちゃなりません……あなた、あれをお忘れになることができまして?」
「いや、あれがかえってよかったのかもしれません。あなたこそ、僕にたくさんのことを赦さなくちゃならないんです。僕どうしてもあなたにいわなけりゃ……」
 それは、彼がキチイにいおうと決心したことの一つであった。彼は最初の日から、二つのことをいおうと決心していた。一つは、自分が彼女ほど純潔でないということであり、いま一つは、自分が不信者だということであった。それはつらいことであったが、両方ともいわなければならぬ、と考えていた。
「いや、今でなくあとにしよう!」と彼はいった。
「いいわ、あとで。でも、きっといってちょうだいね。あたし、なんにも恐れはしないから。あたし、なんでもみんな知っておかなくちゃなりませんもの。今はこれで、何もかも決ったんですわ」
 彼はしまいまでいってしまった。
「僕がどんな人間であろうとも、僕を受け入れてくれる……ってことも、決ったわけですね、急に僕がいやになった、なんておっしゃらないでしょう? ね?」
「ええ、ええ」
 二人の会話は、マドモアゼル・リノンに中断された。彼女は、つくり笑いではあったが、優しい微笑を浮べながら、愛する教え子に、祝いの言葉を述べにきたのである。まだ彼女が出ていかないうちに、もう召使たちが、お祝いをいいにやってきた。やがて、親戚の人たちも乗りつけて、有頂天なてんやわんやがはじまった。レーヴィンは結婚の翌日まで、その中から脱け出すことができなかった。レーヴィンはいつもばつが悪く、退屈ばかりしていたが、しかし幸福の緊張は、たえず増大していった。彼は始終、自分の知らないことを、やたらに要求されるような気がした。で、なんでも人にいわれることをしていたが、それすら彼に幸福感を与えるのであった。彼は心の中で、自分の結婚はほかの人々の結婚と、なんら共通点がないのだから、ありふれた世間なみの条件は、自分の特殊な幸福をそこなうことになる。と考えていたが、けっきょく、彼もほかの人と同じことをすることになった。けれども、彼の幸福は、それがためにただ増大するばかりで、いよいよほかに類のない、かつて例のなかったような、特殊なものになっていくのであった。
「さあ、これから、みんなでお菓子をいただきましょう」とマドモアゼル・リノンはいった。で、レーヴィンは菓子を買いに行った。
「いや、じつにうれしい」とスヴィヤージュスキイはいった。「ところで、私はおすすめするが、フォミンの店から花束を買ってくるんだね」
「それが必要かしらん?」そこで彼は、フォミンの店へ出かけて行く。
 兄は金を借りておかなければならない、これから贈り物やら何やらで、莫大な出費があるから、といった。
「ああ、贈り物が要《い》るの?」そこで彼は、さっそくフルデのところへ駆けつける。
 菓子屋でも、フォミンの店でも、フルデのとこでも、みんな彼がくるのを待ち受けて、彼の来訪を喜び、彼の幸福に得々としている、それを彼はまざまざと見てとった。これは、その数日間かれが交渉をもったすべての人に、共通の現象であった。何よりも不思議なことには、すべての人が彼を愛したばかりでなく、今まで気に食わなかった人、冷淡だった人、無関心だった人たちまでが、彼に随喜の涙を流して、あらゆることで彼の意に服し、優しくこまやかな態度で、彼の感情をいたわり、自分の許婚は完成の極致であるから、したがって、自分は世界一の幸福者であるという、彼の信念をわかってくれるのであった。キチイもそれと同じことを感じた。ノルドストン伯爵夫人が僭越にも、あなたは何かもっとすぐれたものを望んでいらしったのに、とほのめかしたとき、キチイは急に無くなって、レーヴィンほど優れた人はこの世にあるはずがないと、否応いわさぬ力で論証したので、ノルドストン伯爵夫人も、それを認めないわけにいかなくなった。で、キチイのいるところでレーヴィンに会ったときには、必ず感嘆の微笑を浮べるようになった。
 彼の約束した告白は、その当時における一つの苦しい出来事であった。彼は老公と相談して、その許可を受けた後、彼を苦しめた事がらを書きこんである自分の日記を、キチイに渡した。また彼は、その当時この日記を、未来の妻を念頭におきながら書いたのである。彼を悩ましていたのは、自分の童貞でないことと、信仰をもたぬということであった。無信仰の告白は、たいして気にもとめられずにすんだ。キチイは宗教心が深く、かつて宗教の真理を疑ったことはなかったけれども、彼が外面的に無信仰であるということは、いささかも彼女の心にふれなかった。彼女は愛の力によって、男の心を残るくまなく知りつくしていたので、彼女はそこに自分の欲するものを見てとった。ところで、そういった心境は、無信仰と名づくべきものでなく、彼女にとって、そんなことはどうでもよかった。しかし、もう一つのほうの告白は、彼女に苦い涙を流させた。
 レーヴィンは多少、内部の闘争を感じながら、彼女に自分の日記を渡したのである。自分と彼女の間には、なんの秘密もありえないし、またあるべきでないと承知していたので、そうしなければと決めたわけである。しかし、それが彼女にどんな作用を及ぼすかということは、考えてみなかった。彼女の身になって考えることを、しなかったのである。その晩、芝居のはじまる前に、彼がシチェルバーツキイ家を訪れ、キチイの部屋へ入って行って、その泣き脹《は》らした顔を見たとき――彼の与えた取返しのつかぬ悲しみのために、さもふしあわせらしい表情をした、痛々しい、しかもかれんな顔を見たとき、彼は自分のけがらわしい過去と、彼女の鳩のごとき清浄さを隔てている深淵を悟って、おのれのなした行為に慄然《りつぜん》としておののいた。
「持ってって下さい、こんな恐ろしい本、持ってって下さい!」自分の前のテーブルの上にのっている手帳をおしやりながら、彼女はこういった。「なんだって、あたしにこんなものをお見せになりましたの!………でも、やっぱり読んだほうがよかったんですわ」男の絶望したような顔つきに、そぞろ哀れを催して、彼女はこうつけ加えた。「でも、恐ろしいことだわ、恐ろしいことだわ!」
 彼は頭をたれて、黙っていた。なんにもいうことができなかったのである。
「あなたは僕を赦してはくれませんか」と彼はささやいた。
「いいえ、わたしもう赦しましたわ。でも、これは恐ろしい!」
 とはいえ、彼の幸福はあまりにも大きかったので、この告白もそれを打ち砕くどころか、ただ新しい陰影を与えたばかりである。彼女は男を赦した。しかし、それ以来、彼はなおいっそう、おのれを妻に値しないものと感じ、道徳的にますます彼女の前に頭を屈し、自分の不相応な幸福を、いよいよ高く評価するようになったのである。

[#5字下げ]一七[#「一七」は中見出し]

 食事中から、そのあとへかけてかわした談話の印象を、われともなく心の中で思い返しながら、カレーニンは淋しいホテルの一室へ帰ってきた。赦してやれというドリイの言葉は、ただいまいましさを感じさせたばかりである。キリスト教の掟《おきて》を、自分の場合に適用するかしないかは、軽々に口にすべく、あまりに困難な問題であった。しかも、この問題はもうとっくの昔に、否定のほうへ解決されていたのである、今夜みなの口から出た言葉の中で、最も深く彼の心をついたのは、あの愚かな好人物トゥロフツィンの、男らしくやりましたよ[#「男らしくやりましたよ」に傍点]、決闘を申しこんでやっつけたんですからね[#「決闘を申しこんでやっつけたんですからね」に傍点]、といった言葉である、みんなも礼儀上、口にこそ出していわなかったけれども、明らかにそれに同感らしかった。
『もっとも、これは解決のついた問題だから、今さら考えることは、ありゃしない』とカレーニンはひとりごちた。で、目前に控えている出発と、調査のことばかり考えながら、彼は自分の部屋へ入って、いっしょについてきた玄関番に、従僕はどこにいるか、とたずねた。たったいま出て行ったばかりです、と玄関番は答えた。カレーニンは、茶を持ってくるように命じ、テーブルにむかって腰をおろし、フルームの案内記をとり出して、旅の行程を考えはじめた。
「電報が二通まいっております」帰ってきた従僕が、部屋へ入りながらいった。「閣下、わたくしはたった今、ちょっと外出いたしましただけで」
 カレーニンは電報を受け取って、開封した。一通の電報は、かねがねカレーニンの望んでいた位置に、ストレーモフが任命されたという知らせであった。カレーニンは電報を叩きつけて、顔を真赤にしながら、立ちあがり、部屋の中をあちこち歩きはじめた。Quos vult perdere dementat(神は亡ぼさんと欲するものをまず狂せしむ)といった。その quos という言葉は、この任命に助力した連中を意味するものであった、彼は、その位置を自分がものにしなかったということ、つまり、明瞭に除けものにされたということが、いまいましくてたまらなかったわけではない。ただ、あのおしゃべりでほら吹きのストレーモフが、この位置には最も不適任であるにもかかわらず、どうしてそれが当局の連中の目に入らないのかと、それだけがとんと合点《がてん》がいかなかったのである。あんな任命のしかたをしたら、それこそ自分たちの威信を地におとすことになるのに、どうして彼らにはそれがわからないのだろう?
『やっぱりまた似たりよったりのことだろう』と彼はもう一つの電報を開きながら、癇《かん》の立った気持でこうひとりごちた。それは妻からの電報であった。青い鉛筆で書かれた『アンナ』という署名が、まず第一に彼の目に映った。『死にかかっています、後生です、帰って下さい、お願いします、お赦しをえれば楽に死ねます』と彼は読んだ。にたりとばかにしたように笑って、彼は電報をほうり出した。これが偽りの手段であり、奸計《かんけい》であることは、なんの疑いもありえない、と最初の瞬間は、そんなふうに思われた。
『あれはどんな虚偽でも、躊躇なしに平然とやってのける女だ。あれは産を控えておるのだから、もしかしたら、産からきた病気かもしれない。それにしても、いったい何が目的なんだろう? 赤ん坊をちゃんと籍に入れたいからか、おれの顔に泥を塗って、離婚を妨害しようという肚《はら》か』と彼は考えた。『だが、なんとか書いてあったぞ――死にかかっています……』彼はもういちど電報を読みなおした。と、その中に書かれている言葉の直接の意味が、さっと彼の肺腑を貫いた。『もしこれが本当だったら?』と彼はひとりごちた。『もしあれが瀕死の苦痛の中で、本当に心から悔悟しているとすれば? それをおれが嘘に決めてしまって、帰ってやらなかったら? それは残忍な行為であって、みんなから非難を受けるばかりでなく、おれのほうからいっても、愚かなさただ』
「ピョートル、馬車を返さんでくれ。おれは、ペテルブルグへ帰るから」と彼は従僕にいった。
 カレーニンはペテルブルグヘひっ返して、妻に会おうと決心した。もし仮病《けびょう》だったら、なんにもいわずに発《た》ってしまおう。もし彼女が本当に瀕死の病人であり、生前に自分に会いたいと願っているのであったら、息のあるうちにあえば赦してやろうし、万一、手遅れになったら、最後の義務を尽してやろう。
 道中ずっと、自分はどうするかということを、それ以上考えなかった。
 汽車の中で、一夜をすごしたために、疲労と不潔な感じをいだきながら、カレーニンは早朝のペテルブルグの霧の中を、がらんとしたネーフスキイ通りづたいに馬車を進めながら、自分を待ち受けていることなど考えもせずに、じっと前の方をながめていた。彼はそのことを考えられなかったのである。というのは、これから起ることを心の中で考えるたびに、妻の死は自分の困難な状態を、一挙に解決してくれるという想像を、追いのけることができなかったからである。パン売り、閉《しま》った店、夜稼ぎの辻待ち馭者、歩道を掃いている庭番などが、彼の目の前をちらちらした。そういったものをいちいち観察しながら、自分を待ちもうけていること、自分として望んではならぬことながら、やはり望まずにいられないこと――そういうことを考えないように、そういう考えをもみ消すように、努力するのであった。やがてわが家の車寄せに近づいた。車寄せのそばには、一台の辻待ち馬車と、馭者の居眠りしている箱馬車がとまっていた。玄関へ入りながら、カレーニンはまるで脳の遠いすみっこから、自分の決心をひっぱり出すようにして、もう一度それをあらためてみた。それは、『もし嘘だったら、平然たる軽蔑の態度をとって立ち去ること、もし本当なら、紳士としての作法を守ること』というのであった。
 カレーニンがまだベルを鳴らさないうちに、玄関番は戸を開けた。ペトロフ、一名カピトーヌイチと呼ばれている玄関番は、古いフロックを着て、ネクタイもしめず、スリッパばきという奇妙なかっこうをしていた。
「奥さんはどうだね?」
「きのう無事にご安産でございました」
 カレーニンは歩みをとめ、さっと蒼くなった。自分がどんなにはげしく妻の死を望んでいたかを、今こそはっきりと思い知ったのである。
「ところで、体のぐあいは?」
 前垂れがけの朝起き姿で、コルネイが階段を駆けおりた。
「たいそうおわるいのでございます。昨日お医者さま方の立会い診察がございまして、ただ今もう一人いらっしゃいます」
「荷物を持ってこい」とカレーニンはいい、まだとにかく、死ぬる望みがあるという知らせを聞いて、いくらか胸の軽くなったのを覚えながら、控室へ入っていった。
 帽子掛けに、軍人の外套がかかっていた。カレーニンはそれに気がついて、たずねた。
「どなたが見えておるのだ?」
「お医者さまと、産婆と、ヴロンスキイ伯爵でございます」
 カレーニンは奥へ入った。
 客間にはだれもいなかった。アンナの居間から、彼の足音を聞きつけて、藤色のリボンつきの室内帽をかぶった産婆が出てきた。
 カレーニンのそばへよると、死の迫っている場合の慣れなれしさで、いきなり彼の手をとって、寝室へひっぱっていった。
「まあ、お着きになってよろしゅうございましたこと! ただもうあなたさまのことばかり、本当にあなたさまのことばかり」と産婆はいった。
「早く氷をくれたまえ!」という医者の命令的な声が、寝室の中から聞えた。
 カレーニンは妻の居間へ入った。テーブルのそばには、低い椅子の背に脇を向けて、ヴロンスキイが腰をかけていた。両手で顔をおおって、泣いている。医者の声に驚いて跳ね起き、両手を顔からはなしたひょうしに、カレーニンの姿が目に入った。良人を見ると、彼はすっかりまごついてしまい、まるでどこかへ消えてしまいたそうに、両肩の間へ首をひっこめた。が、強《し》いて自ら励ましながら、立ちあがってこういった。
「あのひとは死にかかっています。医者も望みはないといいました。僕は自分をあなたの全権にゆだねますが、しかしここにいることだけは許して下さい……もっとも、万事あなたのお心まかせで、僕は……」
 カレーニンはヴロンスキイの涙を見ると、いつも他人の苦しみを見たときに感じる心の弱りが、発作的に湧き起るのを覚えた。彼は顔をそむけ、相手の言葉をしまいまで聞かずに、せかせかと戸口の方へ歩き出した。寝室の中からは、アンナの何かいう声が聞えた。その声は楽しげに、生きいきとしていて、抑揚が恐ろしくはっきりしていた。カレーニンは寝室へ入って、ベッドに近づいた。アンナは、彼の方へ顔をむけて寝ていた。双の頬はくれないに燃え、眼はぎらぎらと光って、小さな白い手は、上衣の袖口からぬけ出して、毛布の端をひねりながら、おもちゃにしていた。ちょっと見には、元気で溌剌としているばかりでなく、この上もないきげんでいるようにさえ思われた。彼女は響きのいい声で、早口に、度はずれに正しい、感情のこもった調子で、しゃべっているのであった。
「だって、アレクセイは――わたしアレクセイ・アレクサンドロヴィッチのことをいってるんですの(二人ともアレクセイだなんて、まあ、なんというふしぎな恐ろしい宿命でしょう、そうじゃなくって?)アレクセイはわたしの頼みを拒絶なんかしませんわ。わたしも忘れてしまうし、あの人も赦してくれるに相違ないわ……でも、どうしてあの人は帰ってこないんでしょう? あの人はいい人だわ、どんなにいい人かってことを、自分でも知らないのよ。ああ、たまらない、なんて苦しみだろう! 早く水をちょうだい! あら、そんなことしたら、あの子に、わたしの赤ちゃんに毒だわ! でも、まあ、いいわ、乳母《うば》をおつけなさい。いえ、わたし賛成よ、かえってそのほうがいいくらいだわ。あの人が帰ってきたら、あの子を見るのが、さぞつらいでしょうね。あの子をちょうだい」
「奥さま、旦那さまがお帰りになりました。そら、ここにいらっしゃいます」と産婆は、彼女の注意をカレーニンに向けようとつとめながら、こういった。
「まあ、なんてつまらないことを!」とアンナは、良人が目に入らないままに、つづけるのであった。「さあ、その子をちょうだい、赤ちゃんをわたしにもちょうだいったら! あの人はまだ帰ってこない。あなたは、あの人が赦しはしないというけれども、それはあの人を知らないからよ。だれひとり知るものがなかったんだわ。知ってるものはわたしだけ、それでよけい苦しくなったの。あの人の目を知らなくちゃわからないわ。セリョージャが、ちょうどあれと同じ目をしていてね、そのために、わたしあの目が見ていられないのよ。セリョージャにご飯を食べさせてやったかしら? だって、みんなが忘れるってこと、わたし知ってるんですもの。あの人だったら、忘れやしない。セリョージャを角の部屋へ移して、マリエットにいっしょに寝てもらわなくちゃ」
 とつぜん、アンナはひと縮みになって、鳴りをひそめた。そして、何か打撃を待ちかまえるように、その打撃からわが身をかばうように、両手を顔の方へ上げた。良人の姿が目に入ったのである。
「いいえ、いいえ!」と彼女はまたいいだした。「わたし、あの人を恐れたりなんかしません、わたし死ぬのが恐ろしいの、アレクセイ、もっとこっちへよって。わたしがこんなに急ぐのは、ぐずぐずしている暇がないからなの。もういくらも生きていられないからなの。今にまた熱が出てきたら、もうなんにもわからなくなるんですもの。今ならわかるわ、なにもかもわかるわ、なにもかも見えるわ」
 カレーニンのしなびた顔は、受難者めいた表情をおびてきた。彼は妻の手をとって、何かいおうとしたが、どうしても物がいえなかった。下唇がわなわなふるえていた。が、それでもやはり、自分の興奮と闘いながら、ときおり妻の方を見やるばかりであった。しかも、そちらへ目をやるたびに、なんともいえぬ優しい感激と歓喜の色を浮べて、自分の方をながめている妻の目が見えた。それは、かつて見たこともない表情であった。
「待ってちょうだい、あなたは知らないのよ……待ってちょうだい。待ってちょうだい……」彼女は考えをまとめようとするかのごとく、ちょっと言葉を休めた。「そう、そう、そう。わたし、こういうことがいいたかったんだわ。どうかあきれないでね。わたしは前と同じ女なの……でも、わたしの中には、もう一人の女がいてね、それがわたし恐ろしいの。その女があの人を好きになったの。わたし、あんたを憎みたかったんだけど、前の自分のことが忘れられなかったのよ。それはわたしじゃありません。今のわたしこそ本当のわたし、どこからどこまでも本当のわたしよ。今わたしは死にかかっています、必ず死ぬことがわかっています。まあ、あの人にきいてごらんなさい。わたし今でも、ほら、あれが、大きな錘《おも》りが手の上にも、足の上にも、指の上にものってるような気持がする。指なんて――ほら、こんなに大きいんですもの! でも、まもなく、こんなことはなにもかもすんでしまうわ……ただ一つわたしに必要なのは、あんたの赦しなの、きれいさっぱり赦してちょうだい! わたしは恐ろしい女だけれど、いつか婆やがいったとおり、神聖な受難者なの――あれはなんて名前だったっけ? あのひとのほうが、わたしよかもっと悪い女だったんだわ。わたしローマへ行くわ、あすこには沙漠があるから、そこへ行ったら、わたしだれのじゃまもしやしない。ただセリョージャだけは連れて行くわ、そして赤ちゃんも……いえ、あんたは赦すことができないのね! わかってるわ、こんなことを赦すわけにいかないんですもの! いや、いや、行ってちょうだい、あんたはあまりいいかたすぎますわ!」彼女は熱っぽい片手で彼の手をおさえ、片手で追いやろうとするのであった。
 カレーニンの心の弱りは、いよいよ増してきて、今はもうそれと闘う気力もないほどになった。彼は忽然《こつぜん》と悟った――今まで心の弱りと思っていたのは、その反対に法悦的な心境であって、それが突如として新しい、かつて覚えのない新しい幸福をもたらしたのである。彼の生涯奉じてきたキリストの掟が、おれの敵を赦し、かつ愛せよと命じている――そんなことを彼は感じたのではなかったが、敵にたいする赦しと愛の喜ばしい感情が、彼の心を満たしてきたのである。彼は膝をついて、妻の腕の曲り目に頭をのせた、その腕は上衣ごしに、彼の顔を火のように焼いた。彼は子供のように泣き出した。アンナはその禿げた頭を抱くようにして、身を近づけ、いどむような誇らしい表情で、目を空へ向けた。
「ああ、帰ってきた、わたしちゃんとわかっていた! では、みなさん、さようなら、さようなら………ああ、またやってきた、なぜ行ってしまわないのかしら? ああ、こんなたくさんの毛皮外套をのっけて、はやくどけてちょうだい!」
 医者は彼女の両手をはずして、そっと枕の上にのせ、肩まで毛布をかけた。彼女はおとなしく仰向《あおむ》きにねて、目の前を輝かしいまなざしで見つめるのであった。
「たった一つだけ覚えててちょうだい、わたしに必要なのはただ赦しだけで、それよりほかには、なんにもほしくないんだから……どうしてあの人はこないんだろう?」と戸の外のヴロンスキイの方へ向いて、彼女はこういった。「こっちイいらっしゃい、こっちイいらっしゃい! この人に手をさしのべてちょうだい」
 ヴロンスキイは寝台の端に近よったが、アンナを見ると、また両手で顔を隠をした。
「顔から手をどけて、この人をごらんなさい。この人は聖人なんだから」と彼女はいった。「さあ、顔から手をおどけなさいったら、手を!」と腹だたしげにいうのであった。「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、この人の顔から手をどけてちょうだい。わたし見たいんですから」
 カレーニンはヴロンスキイの手をとって、その顔からはなした。それは苦痛と羞恥の表情をとどめて、恐ろしいほどであった。
「この人に手をのばして、赦してあげてちょうだい」
 カレーニンは、双の眼《まなこ》から溢れ落ちる涙をせきかねて、ヴロンスキイに手をさし出した。
「ありがたいこと、ありがたいこと」とアンナはいいだした。「これでなにもかもすんだわ。ただちょっと足をのばさしてちょうだい。そう、そんなふうに、これですてき。まあ、この花のつくりかたの無趣味なこと、まるで菫《すみれ》らしくないわ」と彼女は壁紙をさしながらいった。「ああ、ああ! いったいこれはいつ片がつくのだろう? モルヒネをちょうだい。先生! モルヒネをちょうだい。ああ、なんてことだろう、なんてことだろう!」
 そういって、彼女は寝台の上で身もだえしはじめた。

 主治医もその他の医師たちも、これは産褥熱《さんじょくねつ》であって、百のうち九十九までは助からない、といっていた。その日は終日、熱と、譫言《うわごと》と、前後不覚の状態がつづいた。夜半に近いころは、病人はなんの感覚もなく横たわり、脈さえほとんど感じられなくなった。
 人々は刻一刻、終焉《しゅうえん》を待つばかりであった。
 ヴロンスキイは、いったんわが家へ帰ったが、翌朝また様子をききにやってきた。カレーニンは控室で彼を迎え、「まあ、残っていらっしゃい、もしかしたら、会いたいというかもしれないから」といい、自分で妻の居間へ案内した。朝になると、またもや興奮がはじまり、思想と言葉が生きいきとして、敏活になり、最後はまた人事不省で終った。翌々日もそれと同様であったが、医師たちは望みがあるといった。その日カレーニンは、ヴロンスキイのいる居間へ入ってくると、扉に鍵をかけて、彼の真向かいに坐った。
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ」とヴロンスキイは、話合いの時が近づいてくるのを感じて、こうきりだした。「僕はものをいうことも、理解することもできません。どうかゆるして下さい! あなたもさぞかし、おつらいでしょうが、僕の立場のほうがもっと恐ろしいのです、それを信じて下さい」
 彼は立ちあがろうとした。が、カレーニンはその手をとって、いった。
「おねがいですから、私のいうことをひととおり聞いてください、それはぜひとも必要なことです。あなたが私のことで考え違いをなさらんように、これまで私を指導してきた、また将来も指導する感情を、あなたに説明しなくちゃなりません。ごぞんじのとおり、私は離婚を決心して、訴訟事件さえはじめかけたほどです。あえて隠しだてしませんが、事件をはじめるにあたって、私は決断がつきかねました、煩悶しました。白状しますが、あなたと妻に復讐したいという願望が、私を離れなかったのです。電報を受けとったとき、私は依然として同じ感情をいだきながら、ここへ帰って来ました。いや、もう一歩すすんでいえば、妻の死をさえ願ったのです。が……」自分の感情を打ち明けようか、打ち明けまいかと、思いまどう態《てい》で言葉を休めた。「が、私は妻を見て、いっさいを赦してしまいました。すると、赦すことの幸福感が、私の義務を啓示してくれました。私は完全に赦したのです。私はもう一方の頬をさし出したいのです。上衣を剥ごうとするものに、下着まで渡したいのです。私はただ神に向って、赦すことの幸福を奪わないように、とただそれのみを祈っております!」
 涙が彼の目にたまっていた。その明るいおちついたまなざしに、ヴロンスキイははっと思った。
「これが私の立場です。あなたは私を泥の中に踏みにじることも、世間の笑いぐさにすることもできます。が、私は妻を見棄てませんし、またあなたにも、一言として非難の言葉をいいますまい」とカレーニンは語をつづけた。「私のなすべき義務は、私にとって明瞭にしるされています。私はあれといっしょに暮さなければならないので、必ずいっしょに暮します。もしあれがあなたに会いたいといえば、お知らせしますが、しかし今は、遠ざかっておられたほうがよかろうと思います」
 彼は立ちあがった。慟哭《どうこく》の声がその言葉を中断した。ヴロンスキイも同じく席を立ち、前かがみになった体をなおそうともせず、額ごしにカレーニンを見上げていた。彼はカレーニンの気持が理解できなかったけれども、これは何かしら高遠な人生観で、自分などの及ばない境地のように感じた。

[#5字下げ]一八[#「一八」は中見出し]

 アレクセイ・アレクサンドロヴィッチと話したあと、ヴロンスキイはカレーニン家の玄関口へ出たが、いったい自分はどこにいるのか、どこへ行こうとしているのか、歩いて行くのか、車に乗って行くのか、一生懸命おもい出そうとつとめながら、ちょっと足をとめた。自分が恥じしめられ、卑下《ひげ》せられた、罪深い人間であって、その屈辱をそそぐ可能さえ奪われたもののように感じられた。今まであれほど誇りやかに、軽々と歩んでいた軌道から、たたき出されたような思いであった。あれほど鞏固なものに思われていた生活の習慣も、規則も、突如として虚偽のものに感じられ、適用できないもののように思われてきた。今まで自分の幸福を妨げる、いささかこっけいな、偶然性をおびた、みじめな存在物と思っていた寝取られ男が、とつぜん彼女自身によって呼び出され、敬虔《けいけん》の念を感じさせるほどの高みにもち上げられた。しかも、その高みに昇った良人が、腹黒い人間でもなければ、いかさまでもなく、こっけいにも見えないばかりか、善良で、単純で、神々しいくらいなのである。それはヴロンスキイも、感じないではいられなかった。役割が急に変ってしまったのである。ヴロンスキイは相手の高潔さと自分の屈辱、相手の正しさと自分の不正を痛感した。良人は不幸な境遇にありながら寛大なのに比して、自分は虚偽の中にあって卑劣であり、浅薄である。彼はそれを痛感した。しかし、自分が不当にも軽蔑していた男に較べて、かえって卑小であるというこの意識も、彼の悲哀のわずか一小部分にすぎなかった。彼がいま自分を言葉につくせぬほど不幸に感じたのは、ほかでもない、最近さめてきたように思われていたアンナヘの恋が、今や永久に彼女を失ったと自覚したとなると、かつてないほどはげしく燃え立ったからである。彼は病中ずっとアンナを見てきて、彼女の魂をはっきり認識すると、これまで自分は彼女を愛していたのではない、というような気がした。しかも、彼女を認識して、本当の愛で愛しはじめた今というときに、彼は彼女の前で屈辱を受け、永久に彼女を失ってしまい、ただ恥ずべき記憶を彼女の心に残すにすぎないのだ。何よりも恐ろしいのは、カレーニンが、彼の恥じしめられた顔から両手を引きはなした、あのこっけいな恥さらしな場面である。
 彼はカレーニン家の入口階段に、途方にくれたように立ったまま、どうしていいかわからずにいた。
「辻馬車をお呼びいたしましょうか?」と玄関番がたずねた。
「ああ、辻馬車を」
 三晩つづけて不眠の夜をすごした後、わが家へ帰ったヴロンスキイは、着物もぬがず、長椅子の上へうつ伏しになり、両手を組んで、その上に頭をのせた。彼は頭が重かった。怪奇をきわめた想像、追憶、思想が、異常な早さと鮮明さで、あとからあとから入れかわって浮んできた。自分が病人のために薬をうつそうとして、思わず匙《さじ》からこぼしているかと思うと、産婆の白い手に変ったり、寝台のそばの床に膝をついているカレーニンの、奇妙なかっこうが浮んだりした。
『眠ることだ! 忘れることだ!』疲れて眠くなったら、すぐに寝入ることができると確信している、健康な人間のおちつきをもって、彼はこうひとりごちた。はたせるかな、その瞬間に頭がこんぐらかってきて、彼は忘却の深淵の中へ転落していった。無意識な生命の波が、早くも彼の頭をすっぽり包んでしまったと思うまもなく、彼の内部にこもっていたはげしい電力が、急に放散されたかのようであった。全身が長椅子のバネで躍るほど、びくっと身ぶるいして、おびえたように両手をつっぱり、膝をついて跳ね起きた。その目は、まるで一睡もしなかったように、大きく見開かれていた、一分前まで感じられていた頭の重さも、手足のだるさも、たちまち消えてしまった。
『あなたは、私を泥の中へ踏みにじることもできるのです』というカレーニンの声が聞え、その姿が目の前に見えた。と、熱病やみらしい紅《くれない》を潮《さ》し、目をぎらぎら輝かして、優しい愛情をこめて、自分のほうでなくカレーニンをながめているアンナの顔が見えた。またカレーニンが手をとりのけたときの、さぞ愚かしくこっけいだったろうと想像される、自分の姿をまざまざと見た。彼はふたたび両足をのばし、前と同じかっこうで長椅子の上に身を横たえ、目をふさいだ。
『寝るんだ! 寝るんだ!』と彼は心にくりかえした。が、目をふさいでいても、アンナの顔がなおいっそうはっきりと見えた。それはかの記憶すべき競馬のあとの晩と同じようであった。
『これがもうなくなったんだ、将来もないんだ、あれはこのことを、記憶から拭い去ろうとしているのだ。ところが、おれはこれなしには生きていけない。どうしたら仲直りができるだろう、ああ、どうしたら仲直りができるだろう!』と彼は声に出してそういうと、無意識にこの言葉をくりかえしはじめた。こういう同じ言葉の反覆は、新しい影像や追憶の湧き出るのを、おさえつける力があった。彼はそういったものが、頭の中でひしめいているような気がした。しかし、同じ言葉の反覆が空想をおさえつけていたのは、ほんのちょっとの間であった。またもや彼女とともに幸福であった瞬間と、同時に今しがたの屈辱が、目まぐるしいほどの早さで、かわるがわる頭に浮んできた。『手をどけて』というアンナの声が聞える。彼は手をどける、と自分の恥じしめられた愚かしい顔が、まざまざと感じられる。
 彼はじっと横になったまま、いささかの望みもないのを感じながらも、眠りに落ちようと努力した。そして、何かの連想から偶然出てきた言葉を、小さな声でたえずくりかえしていた。それで新しい影像が浮んでくるのを、防ぎ止めようと望んだのである。ふと彼は耳を澄ました――すると、奇妙な、気ちがいじみたささやきでくりかえしている自分の言葉が、耳朶《じだ》を打った。『値うちがわからなかったんだ、利用するすべを知らなかったんだ、値うちがわからなかったんだ、利用する術《すべ》を知らなかったんだ』
『これはどうしたというのだ? それとも、おれは気が狂ってるんだろうか?』と彼はひとりごちた。『そうかもしれない。人が発狂するのはどういうわけだと思う? ピストル自殺するのはどういうわけだと思う?』と自分で自分に答えて、目を開けると、兄嫁のヴァーリャの刺繍したクッションが、自分の頭のそばにあるのを見て、はっと思った。彼はクッションの房《ふさ》にちょっとさわって、ヴァーリャのことや、最後に兄嫁と会ったときのことなどを、想い起そうと努めた。けれど、何にもせよ、ほかのことを考えるのは苦しかった。『いや、寝なくちゃならない!』彼はクッションを引き寄せて、頭をぐっとおしつけた。が、じっと目をつぶっているためには、ことさら努力をしなければならないのであった。彼は跳ね起きて、坐りこんだ。『あのことはおれにとって、もうお終いになったのだ』と彼はひとりごちた。『どうしたらいいのか、よく考えなくちゃならない。そのほかに何が残っているだろう?』アンナに対する恋愛を除いた自分の生活を、心の中で手早く一巡かんがえてみた。『名誉心? セルプホフスコイ? 社交界? 宮廷?』何一つ心をひかれるものがなかった。それらはすべて、以前なにかの意味をもっていたけれども、今となっては、最早なにひとつなくなってしまった。彼は長椅子から立ちあがって、上衣をぬぎ、バンドをはずして、楽に息をするために、毛むくじゃらの胸をひろげて、部屋の中を歩きまわりはじめた。『人はこんなふうにして、気ちがいになるんだ』と彼はくりかえした。『こんなふうにして、ピストル自殺をやるんだ……恥ずかしい思いがしたくなさに』とゆっくりつけ足した。
 彼は戸口に近よって、ドアを閉めた。それから、目をすえ、歯を食いしばって、テーブルのそばへ行き、ピストルをとり上げ、ちょっとひとわたり見ると、装填《そうてん》してある銃身を引金の方へまわして、もの思いに沈んだ。二分間ばかり、緊張した思考の努力をおもてに現わしながら、頭をたれて、手にピストルを持ったまま、じっとたたずみ、考えつづけるのであった。『もちろんさ』さながら、論理的に明瞭な長い思索の道程が、疑いもなき結果へ導いたかのごとく、彼はついにこういったが、本当のところは、彼にとってこの上もない説伏力をもっているこの『もちろんさ』も、この一時間ばかりの間に、もう二十回も、三十回もくりかえした追憶や想像の堂々めぐりを、さらにもう一度くりかえした結果にすぎないのである。それは依然として、失われたる幸福の追憶であり、将来のいっさいが無意味だという想像であり、やはり同じおのれの屈辱を意識するこころであった。こうした想念や感情の順序も、同じであった。
『もちろんさ』自分の考えが、例の追憶と想像の魔法の環を、三度目にたどりはじめたとき、彼はまたもやこうくりかえした。そして、左の胸にピストルをあて、一挙にして拳の中へ握りしめようとでもするように、ぐっとはげしく手に力を入れて、引金をひいた。彼は発射の音を耳にしなかったけれども、胸に受けた強い衝撃のために、足を薙《な》ぎ払われたかのようであった。彼はテーブルの端につかまろうとしたが、ピストルをとり落して、よろよろとしたと思うと、床にぺったり尻餅《しりもち》をついて、驚いたようにあたりを見まわすのであった。彼は下の方からテーブルの曲った脚や、紙屑籠や、虎の皮の敷物などを見たので、自分で自分の部屋を見ちがえる思いであった。せかせかと客間を歩いてくる従僕のきしむ靴音が、彼をわれに返らした。彼は思考力を緊張さして、自分が床の上に坐っていることを合点し、虎の皮や自分の手についている血を見て、自分がピストル自殺をはかったことを悟った……
『ばかげてる! やりそこなった』手でピストルを探りながら、彼はこう口走った。ピストルはすぐそばにあったのに、彼は先きの方をさがしているのであった。ひきつづきさがしながら、反対の方角へ身をのばそうとすると、重心を保つ力がなくて、出血に弱りながら、ぱったり倒れた。
 自分の神経の弱さを、いつも知り合いのものに訴えている、頬髯など生やしたおしゃれの従僕は、床の上に倒れている主人の姿を見ると、すっかり肝をつぶしてしまい、出血をそのままにしておいて、助けを求めに飛び出してしまった。一時間もたったころ、兄嫁のヴァーリャが駆けつけた。彼女が八方へ使を出したので、一時に三人も駆けつけた医師の助けをかりて、病人を寝台にねかし、そのまま看護に居残った。

[#5字下げ]一九[#「一九」は中見出し]

 カレーニンの犯した誤謬《ごびゅう》はほかでもない。妻との会見に心がまえしたとき、彼女の悔悟が誠実なものであって、自分はその罪を赦し、彼女も死なずにすむ、という偶然の場合を予想しなかったことである。この誤謬は、彼がモスクワから帰ってから二月もたったころ、完全に露呈されてしまったのである。しかし、彼の犯した誤謬は、この偶然を予想しなかったがためばかりでなく、なおそのほか、瀕死の妻と会うときまで、彼が自分の心を知らなかった、ということにも起因していたのである。彼は瀕死の妻の病床で、生れてはじめて、静かな感動に満ちた同情に身をまかせてしまった。これはいつも、他人の苦痛を見るたびに、呼びさまされる感情であって、以前は有害な弱点として心に恥じていたものであるが、妻にたいする哀憐と、自分が彼女の死をねがったという慚愧《ざんき》の念と、それに何よりも、赦すということそれ自体の喜びのために、彼は突如として、おのれの苦痛の癒《いや》されるのを覚えたばかりでなく、今までかつて感じたことのない精神の和《やわ》らぎすら、経験したのである。彼は思いがけなく、自分の苦痛のもとであったものが、精神的な喜びの源になったのを感じた。非難したり、責めたり、憎んだりしていたときには、解決することができないように思われたものが、赦し愛しはじめるやいなや、忽然として単純明瞭となったのである。
 彼は妻を赦した。そして、その苦しみと悔悟のために、彼女を憐んだ。彼はヴロンスキイを赦し、かつ憐んだ。ことに、彼が絶望的な行為をしたという噂が耳に入ってからあとは、なおさらであった。彼はまたわが子をも、以前にまして憐んだ。そして、あまり子供をかまいつけなかったのを、今では自ら責めるありさまであった。が、今度うまれた女の子にたいしては、ただ憐憫というばかりでなく、何か愛情のまじった、特別な感情をいだきはじめた。はじめ彼は単なる同情の念から、自分の娘でもないのに、生れたての弱々しい女の子のせわをやきにかかった。赤ん坊は、母親の病気のあいだうっちゃらかしにされて、もし彼が心を配らなかったら、死んでしまったかもしれないのであった。彼はこの子を愛しはじめたのに、自分では気がつかなかった。彼は一日のうちに幾度も、子供部屋へ入って、いつまでもそこに坐りこんでいたので、はじめ旦那さまの前でせんせんきょうきょうとした乳母や婆やまでが、慣れっこになったくらいである。どうかすると、彼はものの三十分くらいも、すやすやと眠っている赤ん坊の、生毛におおわれた、皺だらけなサフラン色がかった赤い顔を、まじまじと見つめて、妙にしかめられる額の動きや、指を握りしめている、ふっくらした小さな手の甲で、目や鼻すじをこすっているありさまを、じっと観察することもあった。そういうとき、カレーニンは特に自分の心が完全におちついて、自分自身にぴったり一致した気持になっているのを覚え、自分の境遇に何一つ異常なことはない、何も変更しなければならないところはない、といったような気がするのであった。
 しかし、時がたつにしたがって、彼はしだいにはっきりとわかってきた。いま自分にとって、この境遇がどんなに自然であろうとも、人々は長く自分をそこにとどめてはおかないだろう。自分の魂を指向している和《なご》んだ精神的な力のほかに、なお別の粗野な力がある。同じくらいに、いな、それより以上に権威のある力が存在していて、自分の生活を指向している。この力は、自分の望んでいる謙抑なおちつきを授けてはくれまい――と彼は感じたのであった。みんなけげんそうな、あきれた顔つきで彼をながめ、彼の気持を理解しないで、何ものかを彼から待ちもうけている、それを彼は感じた。わけても彼は、妻にたいする自分の関係のもろさ、不自然さを、痛切に感じた。
 死の接近によって、彼女の内部に生じた心の和らぎが去ってしまうと、カレーニンはアンナが自分を恐れ、自分の同席を荷厄介にして、自分の顔をまともに見つめられないのに気がついた。彼女は何か良人にいおうとして、いいだしかねているらしかった。そして同じく、二人の関係がこのままつづくことができないのを予感して、何やら彼から期待しているかのようであった。
 二月の末ごろ、同様にアンナと命名されたアンナの赤ん坊が、たまたま病気になった。カレーニンは朝のうち子供部屋へ入って、医者を呼びに行くように指図をし、役所へ出かけた。自分の仕事をすまして、彼は三時すぎに家へ帰ってきた。控室へ入ると、金モールに熊の皮の飾り襟をつけた好男子の従僕が、アメリカ犬の毛皮で仕立てた白い長袖外套《ロトング》を腕にかけているのが、目に映った。
「だれが来ておられるのだ?」とカレーニンはたずねた。
「エリザヴェータ・フョードロヴナ・トヴェルスカヤ公爵夫人でございます」と従僕は答えたが、カレーニンの目には、にこりと笑ったような気がした。
 この苦しい数ヵ月のあいだ、社交界の知人、ことに婦人たちは、彼ら夫婦のことに特殊な関心を示すようになった。それにカレーニンは気がついた。これらすべての知人は、何かうれしいことがあるのを、やっとの思いでこらえているように思われた。それはかつて弁護士の目に見、いまこの従僕の目に認めた喜びの色なのである。まるでみんな揃って、だれかを嫁にでもやるように、有頂天になっているかと思われた。彼に出会うと、みんなやっとのことでうれしさを隠しながら、奥さんのご健康はと尋ねるのであった。
 トヴェルスカヤ公爵夫人の来訪は、この夫人と結びあわされた記憶のせいもあり、また概して、この夫人が嫌いだったせいもあって、カレーニンには不愉快だったので、彼はまっすぐに子供部屋へ通った。第一の子供部屋ではセリョージャが、テーブルにもたれかかり、両足を椅子にのせて、何かおもしろそうにひとりごとをいいながら、画を描いていた。アンナの病中に、フランス女と入れ代ったイギリス婦人は、坊ちゃんのそばに坐って、飾り紐を編んでいたが、あわてて立ちあがって、小腰をかがめ、セリョージャをひっぱった。
 カレーニンは少年の髪の毛を撫でて、家庭教師の、奥さまのお加減はいかがでございますという問いに答え、ベビイのことを医者はなんといったかときいた。
「はい、旦那さま、お医者さまは何も危ないことはない、とおっしゃいまして、お湯をつかわせるように、とのことでございました」
「しかし、始終くるしがってるじゃないか」と隣の部屋から聞える幼児の泣き声に耳を澄ましながら、カレーニンはそういった。
「わたくしの思いますには、乳母がいけないのでございます、旦那さま」とイギリス婦人はきっぱりいった。
「どうしてそう思うんだね?」と彼は歩みをとめながらきいた。
「ポール伯爵夫人のところでも、そうだったのでございます、旦那さま。赤ちゃんの病気をいろいろに手当してみたのでございますが、けっきょく、お腹がすいていただけなのでした。乳母のおっぱいが足りませんでしたので、はい」
 カレーニンは考えこんで、ちょっとたたずんでいたが、次の戸口から隣室へ入った。赤ん坊は乳母の手の中で仰向けになり、頭を反らして身をもがきながら、さしだされるふっくらした乳房を含もうともしなければ、かがみこんでいる婆やと乳母か二人がかりで、しきりに口を鳴らしているにもかかわらず、泣きやもうとしなかった。
「やっぱり快《よ》くないかね?」とカレーニンはたずねた。
「たいへんおむずかりでございます」と婆やはひそひそ声で答えた。
「ミス・エドワードは、もしかしたら乳母のおっぱいが出ないのじゃないか、といってるんだが」と彼はいった。
「わたくしもそう思いますので、旦那さま」
「それじゃ、なぜそういわないんだ?」
「だれに申しあげるのでございます? 奥さまは相変らず、おすぐれになりませんし」と婆やは不満らしくいった。
 婆やはこの家に古くからいる召使であったが、この単純な言葉のうちにさえカレーニンは、自分の境遇にたいするあてこすりが響いているような気がした。
 嬰児《えいじ》は体を揺りたて、声をからしながら、さらにはげしく泣きだした、婆やは片手をふって、そのそばへより、乳母の手から抱きとって、歩きながら揺すぶりはじめた。
「これはいちど、医者に乳母を診てもらわなくちゃならんな」とカレーニンはいった。
 見たところ丈夫そうな、おめかしをした乳母は、暇を出されはしないかとびっくりして、何やら口の中でぶつぶついい、乳をかくしながらわたしの乳の出を疑うなんてというように、にっとばかにしたような笑い方をした。カレーニンはこの薄笑いのうちにも、自分の境遇にたいする嘲笑を読みとったのである。
「おかわいそうな赤ちゃん!」泣きやませようとして口を鳴らしながら、婆やはこういって、また歩きつづけていた。
 カレーニンは椅子に腰をおろし、さも苦しそうなしょげた顔つきで、あちこち歩きまわる婆やをながめていた。
 やっと泣きやんだ赤ん坊を、縁の高い小形ベッドに寝かしつけ、小さな枕をなおして、婆やがそばを離れたとき、カレーニンは腰をもちあげ、爪先立ちで赤ん坊の方へいって見た。ややしばらく黙ったまま、例のしょげた顔つきで赤ん坊をながめていた。とふいに、微笑が髪の毛や額の皮膚を動かしながら、彼の顔に浮んできた。彼はやはり静かな足どりで子供部屋を出た。
 食堂で彼はベルをならし、入ってきた従僕に、もういちど医者を迎えに行くように命じた。あのすばらしい赤ん坊のことを心配しなかった妻が、彼はいまいましい気がした。このいまいましい気持で、妻のところへいきたくなかったし、それに公爵夫人ベッチイにも会いたくなかった。しかしアンナは、どうして彼がいつものしきたりと違って、自分の部屋へ入ってこないのかと、いぶかるおそれがあったので、強いてみずから励ましながら、寝室へ足を向けた。柔らかいカーペットを踏んで戸口に近よったとき、彼は思わず、聞きたくもない話を聞いてしまった。
「もしあの人が行ってしまうのでなかったら、わたしだってあなたが拒絶なさるのも、あの人が遠慮するのも、その気持がわかるんですけれどね。でも、こちらのご主人は、そんなこと超越してらっしゃるはずじゃありませんか」とベッチイはいった。
「わたし主人のためじゃなくって、自分のためにいやなんですの。もうその話はしないで下さいな!」と答えるアンナの興奮した声が聞えた。
「そう、でも、あなたにしてみたって、あなたのために自殺しようとした人と、おわかれがいいたくないはずがないでしょうに……」
「だから、わたしいやなんですの」
 カレーニンはびっくりした、すまなさそうな表情をして歩みをとめ、そっとあとへひっ返そうとした。しかし、それはおとなげないと考えなおして、また廻れ右をし、一つ咳ばらいをして、寝室にむかって進んだ。話し声はぴたりとやんだ。で、彼は中へ入った。
 アンナは鼠色の部屋着を身にまとい、短くきった黒い髪を厚いブラシのように、丸い頭の上にのせて、寝椅子に腰かけていた。いつも良人を見たときの常として、その顔からは急に活気が消えた。――彼女は頭をたれて、不安げにベッチイをふり返った。ベッチイは、極端なほど流行を追ったいでたちで、帽子はまるでランプの笠のように、どこか頭の上の高いところにちょいとのっかり、鳩羽《はとば》色の服はくっきりした斜めの縞《しま》になっていたが、それは一方の側は胴についているし、いま一方の側はスカートについているのであった。肉の薄い長い上身をまっすぐに立てて、アンナと並んで坐っていたが、首を横にかしげ、あざけるような微笑をうかべて、カレーニンを迎えた。
「あら!」と彼女は、驚いたような顔をしていった。「あなたがお家にいらして、本当にうれしゅうございますこと。あなたはどこへも顔をお出しになりませんから、わたしアンナさんのご病気以来、まるでお目にかかりませんでしたわ。でも、すっかりお聞きしました――あなたのお心づかいを、ええ、あなたは驚くべき旦那さまでいらっしゃいますわ!」まるで妻にたいする態度に、寛大の勲章でも授けるように、彼女は意味ありげな、優しい顔つきをしていった。
 カレーニンは冷やかに頭を下げた。それから、妻の手に接吻して、気分はどうかとたずねた。
「少しよろしいようでございます」良人の視線を避けながら、彼女は答えた。
「しかし、あんたはなにか、熱病やみのような顔色をしているが」熱病やみという言葉に力を入れながら、彼はこういった。
「わたしたちあまりおしゃべりをしすぎたんですわ」とベッチイは口を入れた。「これはわたしとして、利己主義みたいな気がしますわ。もうお暇しましょう」
 彼女は立ちあがった。が、アンナは急に顔を赤らめて、つとその手を握った。
「いえ、もう少しいて下さいな、お願いですから。わたしあなたにお話があるんですから……いいえ、あなたにですの」と彼女はカレーニンの方へふりむいたが、くれないがその頸筋から額まで、さっと散った。「わたし何一つ、あなたに隠しごとをしたくありませんし、それに、できもしませんから」彼女はいいきった。
 カレーニンは指をぽきぽき鳴らして、頭をたれた。
「いまベッチイから聞いたんですけど、ブロンスキイ伯爵が今度、タシケントへお立ちになる前に、お別れがいいたいから、宅へこさしてくれとおっしゃるんですの」彼女は良人の方を見なかった。そして、ずいぶん骨の折れることではあるが、早くいってしまおうと、急いでいることは明瞭であった。「で、わたしはお会いできませんていいましたの」
「だって、あなた、それはアレクセイ・アレクサンドロヴィッチのお心次第だ、とおっしゃったじゃありませんか」とベッチイが訂正した。
「いいえ、違います、わたしあの人にお会いできません、また、なんにもならないことですもの……」彼女はふいに言葉を切って、たずねるような目つきで、良人をちらっと見やった(彼は妻の方を見ていなかった)。「一口にいうと、わたしいやなんですの……」
 カレーニンは身をよせて、妻の手をとろうとした。
 彼女は反射的に、自分の手を求めている、太い血管のふくれあがった、湿っぽい良人の手から、つと自分の手をひっこめたが、どうやら強いて努力した様子で、良人の手を握った。
「それほど私を信頼してくれるとはありがたい、しかし……」と彼はいいながらも、当惑といまいましさを覚えた。自分ひとりなら、簡単明瞭に解決できることが、トヴェルスカヤ公爵夫人のいるところでは、よく判断ができないのを、自分でも感じたからである。夫人は、社交界の見る目で彼の生活を指向して、彼が愛と赦しの感情に身をゆだねることを妨げている、かの粗暴な力の権化《ごんげ》のように思われた。彼はトヴェルスカヤ公爵夫人の方をちらと見て、言葉を休めた。
「では、さよなら、わたしの大好きなアンナさん」といって、ベッチイは席を立った。彼女はアンナに接吻して出ていった。カレーニンはそれを見送った。
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、わたしはあなたを本当にお心の広いかたと存じあげておりますの」小さい客間に立ちどまって、もう一度、特別かたくカレーニンの手を握りしめながら、ベッチイはこういった。「わたしはただの他人ですけれど、奥さんが大好きで、それにあなたも尊敬しておりますので、さしでがましゅうございますが、一つ忠告さしていただきとうございますの。あの人をこさせてあげて下さいまし。あの人は潔白の権化といっていいくらいのかたで、今度タシケントへ行っておしまいになりますの」
「公爵夫人、いろいろお心にかけて下さって、ご忠告ありがとうございます。しかし、あれがだれかに会うか会わないかの問題は、あれが自分で決めるでしょう」
 彼はいつものくせで眉を吊り上げ、威厳を示しながらこういったが、しかしすぐさま、どんなに言葉をつくろっても、自分の境遇では威厳などありえない、ということを悟った。また、ベッチイがこの言葉の終ったあと、ちらと彼を見た控えめな、毒のある、嘲《あざけ》るような微笑によっても、カレーニンはそれを悟ったのである。

[#5字下げ]二〇[#「二〇」は中見出し]

 カレーニンは広間でベッチイに会釈して、妻の方へひっ返した。アンナは横になっていたが、彼の足音を聞きつけると、あわてて前の位置に身を起し、おびえたように良人をながめた。彼は妻が泣いているのに気がついた。
「おまえが私を信用してくれるので、じつにありがたい」ベッチイのいる前ではフランス語でいったこの一句を、つつましやかにロシヤ語でくりかえして、彼は妻のそばに腰をおろした。彼がロシヤ語で話しだし、妻に『おまえ』言葉をつかったとき、この『おまえ』が、たまらないほどアンナをいらいらさした。「そして、おまえの決心にも感謝する。私もおまえと同様に、ヴロンスキイ伯爵は旅に出てしまうのだから、ここへやってくる必要は全然ないと思う。が……」
「ええ、わたしもう申しあげてしまったんですから、何もお浚《さら》えすることはないじゃありませんの?」とアンナはいきなりさえぎった。いらだたしさをおさえることが、できなかったのである。
『必要は全然ないんだって』と彼女は考えた。『自分の愛している女へ、暇乞いにくる必要は全然ないんだって。そのために自殺までしようとしたのに、その女のために一生を破滅させたのに、また女のほうでも、その人なしには生きていかれないのに。必要は全然ないんだって!』アンナはきっと唇を食いしばって、血管の浮き出た良人の手に、ぎらぎら光る目を落した。その手はゆっくりと互にこすりあっている。
「もうこの話は二度としないようにしましょう」と彼女はややおちついて、つけ足した。
「私はこの問題の解決をお前にまかせたんだから。ところで、私は非常にうれしいよ、おまえの……」とカレーニンはいいかけた。
「わたしの望みが、あなたのお望みといっしょだってことが、でしょう」と彼女は早口に結びをつけた。良人のいうことはなにもかも、ちゃんとわかっているのに、のろのろと口をきくのが癇ざわりだったのである。
「さあ」と彼は相槌《あいづち》を打った。「それにトヴェルスカヤ公爵夫人も、この上もなくやっかいな家庭内の問題に口を出すとは、全くよけいなことだね。ことにあのひとは……」
「あのひとのことを世間がなんといおうと、わたしこれっから先も本当にしませんわ」とアンナは早口にいった。「あのひとが心からわたしを愛して下さることは、よくわかっているのですもの」
 カレーニンは歎息して、口をつぐんだ。アンナは良人に対する肉体的な嫌悪感に悩みながら、じっとその顔を見上げて、おちつきなく部屋着の房をいじっていた。彼女は、こんな感じをいだく自分を責めながらも、それをおさえることができなかったのである。いま彼女がねがっているのはただ一つ――あきあきした良人に早くいってもらうことであった。
「私はいま医者を呼びにやったよ」とカレーニンはいいだした。
「わたしもう丈夫ですのに、お医者なんて、なんのためですの?」
「いや、赤ん坊のためなんだよ。乳母におっぱいが足りないって話だから」
「じゃ、どうしてわたしが乳をやるのを、許して下さいませんでしたの、あんなにお願いしたのに。まあ、どうでもいいわ。(カレーニンは、この『どうでもいいわ』が、何を意味するかを悟った)。あれはほんの赤ん坊だから、どうせ干ぼしにされるんですわ」彼女はベルを鳴らして、赤ん坊をつれてくるようにいいつけた。「わたしが自分の乳で育てるとお願いしたのに、それを許して下さらないで、今さらわたしをお責めになるんですもの」
「私は何も責めは……」
「いいえ、責めてらっしゃるんですわ! ああ、どうしてわたしは死んでしまわなかったんだろう!」といって、彼女はしゃくりあげて泣きだした。「堪忍してちょうだい、わたし気がいらいらしてるもんですから、無理なことばかりいって」と彼女はわれに返っていった。「でも、行ってちょうだい……」
『いや、これはこのままに棄てておかれない』妻の部屋を出ると、カレーニンは断乎としてこうひとりごちた。
 世間の目から見た自分の立場のやりきれなさ、自分にたいする妻の憎悪、それに概して、彼の気持とは正反対に彼をひきまわして、おのれの意志の実行と妻にたいする関係の変更を要求する、あの粗野な力の偉大さが、今日ほど明瞭に彼の目に映ったことはない。彼は世間ぜんたいと妻とが、自分から何か要求しているのを、はっきりと悟ったけれども、それがいったいなんであるかは、合点がいかなかった[#「いかなかった」は底本では「いなかった」]。そのために、彼の心には毒念が湧き起って、おちつきも寛大の功業も破壊しつくすのを感じた。彼はアンナにとって最上の策は、ヴロンスキイとの関係を絶つことであると思ったが、もし世間のだれもがそれを不可能と見なすなら、自分はもう一度この関係を許すことさえあえて辞せない。ただ子供らに赤恥をかかせたり、自分が子供らを失ったり、現在の状態を変えたりさえしなければ、かまわない。それがどんなによくないことにもせよ、なんといっても離婚よりはましである。そんなことをすれば、妻は抜きさしならぬ恥さらしな境遇に身をおくことになり、彼自身は愛していたいっさいを失わなければならぬ。しかし、彼はおのれの無力を感じた。彼は前からちゃんと知っていた。みんな彼の敵となって、いま彼の目にきわめて自然で、良いと思われていることを実行させず、じつは良からぬことでありながら、みんなの目には当然と思われることを、強制するに相違ないのだ。