『アンナ・カレーニナ』3-01~3-10(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#2字下げ]第三編[#「第三編」は大見出し]


[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]

 セルゲイ・イヴァーノヴィッチ・コズヌイシェフは、知的労働に疲れた頭を休めたいと思って、いつものように外国へ行くのをやめ、五月の終りに義弟の持ち村へやって来た。彼の確信によると、人生最上の生活は田園生活であった。彼は今この生活を楽しむために、弟のところへ来たのである。コンスタンチン・レーヴィンは、歓《よろこ》んでそれを迎えた。ましてこの夏、もうニコライ兄が来そうもないと見通しをつけていたので、その歓びはなおさらであった。しかし、レーヴィンはコズヌイシェフを愛し、かつ尊敬していたにもかかわらず、この兄との田園生活は、彼にとってばつの悪いものであった。つまり、この兄の農村に対する態度を見るのが、ばつが悪いというより以上に、不愉快だったのである。レーヴィンにしてみれば、農村は生活の場であった。いいかえれば、喜びと、悲しみと、労働の場であった。ところが、コズヌイシェフにとっては、農村生活は一方からいうと、労働のあとの休憩であると同時に、いま一方からいうと、腐敗を防ぐのに有効な解毒剤であって、彼自身もその効能を認め、喜んでそれを服用しているのであった。レーヴィンにとって田舎が好ましいのは、それが疑いもなく、有益な労働の道場だったからであるが、コズヌイシェフにとって田舎が特に好ましかったのは、そこでは何もしないでいられるから、否、何一つしてはならないからであった。のみならず、コズヌイシェフの農民にたいする態度にも、レーヴィンはいささか、こころ安からざるものを感じた。コズヌイシェフは常づね、自分は農民を愛しかつ理解していると称して、よく百姓相手に話をした。その話しぶりもなかなか上手で、わざとらしいところや、ぶったところがなく、しかもそうした話のたびごとに、何かしら一般農民の判定に有利な事実や、自分はその農民を知っているぞ、という証拠をひき出すのであった。農民に対するこうした態度は、レーヴィンの気に入らなかった。レーヴィンにとっては、農民は共同の仕事に参加する重要なパートナーでしかなかった。だから、百姓に対しては強い尊敬をいだいており、また自分でもいっているとおり、おそらく乳母《うば》の乳といっしょに吸いこんだものと思われる一種肉親的な愛情を感じているので、自分も共同の仕事のパートナーとして、農民の有する力、謙抑《けんよく》、正義に、ときとして感心させられることもあったが、それにもかかわらず、この共同の仕事でもっと別な資質が必要とされる場合、農民ののんきさかげん、だらしなさ、のんだくれ、嘘つきなどの悪癖に対して、憤激を感じさせられることもしばしばであった。もしおまえは農民を愛しているかときかれたら、レーヴィンはそれに対してなんと答えたらいいか、さっぱりわからなかったに相違ない。彼は一般にすべての人に対する場合と同様、農民をも愛すると同時に嫌悪していた。もちろん、彼は根が善良な人間であるから、人を嫌うよりも愛するほうが多かった。したがって、農民の場合でも同様であった。しかし、農民を何か特別なあるものとして、愛したり嫌ったりすることは、彼としてできなかった。なぜなら、彼は農民と共に生活し、いっさいの利害を農民に結びつけられていたばかりでなく、自分自身をすら農民の一部と考え、自分自身と農民の中に何一つ特別な美点も欠点も見出さず、したがって、自己を農民と対立させることができなかったからである。のみならず、彼は主人として、仲介者として、また特に相談相手として(百姓たちは彼を信頼して、四十露里も先から、彼のところへ意見を求めに来た)長いあいだ農民ときわめて親密な関係で生活してはきたものの、農民についてはっきりした考えをもっていなかった。で、おまえは農民を知っているかという問いに対しては、農民を愛しているかときかれた場合と同じように、答えに窮したに相違ない。もし農民を知っているといったら、それは彼にとって、人間を知っているというのに等しかった。彼はつねに観察の目をむけて、あらゆる種類の人間を一歩一歩認識していった。その中には農民も含まれていたのである。彼は農民を善良な、興味のある人間と考えていたので、その中にたえず新しい特質を発見し、彼らに対する以前の考えを変更しては、新しい意見をつくりあげていった。ところが、コズヌイシェフはそれと正反対であった。彼は自分の好まぬ生活との対照において、田園生活を愛しかつ賞揚していたが、それはちょうど、自分の好まぬ人間の階級との対照において、農民を愛したのと全く同一轍であり、一般人間と対蹠的《たいせきてき》な何ものかとして、農民を理解していたのと同断であった。彼の方法論的な頭脳には、農民生活というものの形式が、画然とつくりあげられていたが、それは一部分、農民生活そのものからひき出されたものであったが、しかし主として、対照から生じたものであった。彼は農民に関する意見も、農民に対する同情的態度も、ついぞ一度として変更したことがないのであった。
 で、農民を論じて、兄弟の間に見解の相違が生じる場合には、いつもコズヌイシェフが勝利者となるのであった。それはほかでもない、コズヌイシェフはいつも農民に関して、その性格、資質、趣味に関して、一定不変の観念をもっていたからである。ところが、レーヴィンには、そうした一定不変の観念というものが少しもないので、論争となると、いつも自己|撞着《どうちゃく》を指摘されるのであった。
 コズヌイシェフの目から見ると、弟はよく方向づけられた[#「よく方向づけられた」に傍点](彼はフランス風にこんないいかたをした)心情というものを備えた、愛すべき好漢ではあったけれども、頭脳の点にいたっては、敏活に働くとはいうものの、その時どきの印象に捕われやすく、したがって、矛盾撞着に充満しているのであった。彼はいかにも兄らしい寛大な気持から、ときとして、弟に事物の意義を説明して聞かせたが、議論を闘わすことには興味がなかった。相手を破るのが、あまりに容易だったからである。
 レーヴィンは、兄を卓越した知性と教養を備えた人物、言葉のもっとも高き意味における清廉な人物、万人の福祉《ふくし》のために活動する能力を授けられた人物と見なしていた。が、心の深い底のほうでは、次第に長じて、兄というものを知れば知るほど、いよいよ頻繁にこういう考えが頭に浮んでくるのであった、――自分に全く欠けていると思われるこの万人の福祉のために活動する能力なるものは、決してすぐれた資質ではなくて、むしろ何かの欠点ではあるまいか。それはなにも善良で、正直で、潔白な願望や、趣味の欠落というのではなく、生命力の欠如、心情と呼ばれるものの欠如、人をして無数に提示される人生行路のうちただ一つを選ばしめ、ただそれのみを追求せしめる衝動の欠如なのである。彼は兄の人となりを知るにしたがって、ますます次のような確信を深めていった、――コズヌイシェフにしても、また万人の福祉のために活動するその他の多くの人々にしても、心情によってこの万人のための福祉にひかれていったのではなく、この仕事に従事するのはいいことであると理知で判断したあげく、ただそのためにこの仕事にたずさわっているにすぎない。なおそのほか、兄が万人の福祉とか、霊魂の不死とかいう問題を、将棋《しょうぎ》のさしかたや新しい機械の変った構造の問題以上には、身近かなものに感じていないという観察も、いよいよレーヴィンにこの想像を確かめさせるのであった。
 そのほか、レーヴィンが田舎で兄と暮らすのを気まずく感じた理由が、もう一つあった。ほかでもない、田舎にいると、ことに夏田舎にいると、レーヴィンはたえず農事に忙殺されて、必要ないっさいを仕上げるのに、夏の長い日も足りないほどであるのに、コズヌイシェフは安閑《あんかん》と休息している。もっとも、彼はいま休息こそしていたが、つまり著述の筆こそとっていなかったが、知的労働になじみきっているので、頭に浮んでくる思想を美しい、圧縮された形式で表現するのが好きであり、かつそれをだれかに聞いてもらうのを好んだ。ところが、彼にとって最も自然な聞き手は、たいていの場合、弟であった。こういうわけで、二人の関係はざっくばらんな、親しいものであったけれども、レーヴィンは兄を一人ぼっちにしておくのが、ばつが悪かった。コズヌイシェフは、日のあたる草の上にねそべって、横になったまま、陽にかんかん照りつけられながら、のんきにおしゃべりするのが大好きであった。
「おまえにはとても想像できないだろうが」と彼は弟にいうのであった。「この小ロシヤ風のぼんやりした気分は、僕にとってはこのうえもない享楽なんだよ。頭の中にはなんの考えもなくなって、玉ころがしをしてもいいくらいひろびろとしているのさ」
 しかし、レーヴィンはそこに坐って、聞いているのが退屈だった。特に、自分のいない間に、区画わりもしてない畑へ肥料を運んでおり、しかも、監督していなければどんなやりかたをするかしれず、それに犁《すき》の歯をよくねじで留めないでおきながら、あとでこんな犁なんか愚にもつかぬ発明だ、アンドレエヴナ式の鋤《すき》とは比べものにならない、などというのを承知しているので、なおさらじっとしていられなかったのである。
「おまえ、こんな炎天を歩きまわるのは、もうたくさんじゃないか」とコズヌイシェフはいった。
「いや、僕はただちょっと、事務所へ行ってみるだけなんです」とレーヴィンは答え、畑のほうへ駆け出した。

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

 六月の初め、婆やであり家政婦であるアガーフィヤ・ミハイロヴナが、自分で漬けたばかりの茸《きのこ》の壺を、穴蔵へ持っていったところ、足を滑らして倒れたひょうしに、手首の関節を脱臼させた。つい近ごろ卒業して、郡自治会の嘱託《しょくたく》になったばかりの、若い、おしゃべりの医者がやってきた。アガーフィヤの手を見て、これは脱臼ではないといい、湿布をした。それから、食事に残ったが、有名なコズヌイシェフと言葉を交える機会を享楽し、自分の文化的な見解を示すために、田舎らしい陰口をしゃべり散らし、この郡の状況が悪いといって、壁訴訟するのであった。コズヌイシェフはそれを注意深く聞きながら、何かと根掘り葉掘りしたあと、新しい聞き手ができたのに興奮して、自分からすっかり話しこんでしまった。いくつか肯綮《こうけい》を穿《うが》った重みのある説を吐いたところ、若い医師がうやうやしい態度で感嘆したために、彼はレーヴィンのよく知りぬいている活気づいた心持になってしまった。彼はいつも生きいきした、光彩陸離たる談話のあとでは、そうした心持になるのが常であった。医師が立ち去ったのち、彼は川へ釣りに行くといいだした。コズヌイシェフは魚釣りが好きだった。それはまるで、こんなばかげたことに興味をもちうるのを、自慢にでもしているようであった。
 レーヴィンは耕地や草場へ、見まわりにいかなければならなかったので、兄を馬車に乗せて、川までつれて行こうと申し出た。
 それは夏の変り目で、今年の収穫はすでに決定し、来年の播《ま》きつけのことを考え始める時であり、草刈りの近づいてくる時であった。裸麦はすっかり穂を出しはしたが、まだ十分実が入らず、灰色がかった緑いろをして、風に揺られている時であった。青々とした燕麦は、ところどころに黄色い草の株をまじえながら、遅播きの畑に、不揃いにひろがっている時であった。早蒔きの蕎麦《そば》がもう花を開いて、地面をかくしている時であった。家畜のために石のように踏み固められた休田も、鋤の歯の立たぬ道だけ残して、半分がた鋤き返されている時であった。畑へ運び出された肥料が日に乾いて、蜜のような草の香りとともに、落日に匂いをひろげ、窪地では大事にとって置いた草場が、今にも鎌がやってくるのを待ちながら、はてしのない海のようにつづき、ところどころに抜かれたすかんぼの茎が黒く見えている。
 それは農村の労働でも、年々くりかえされ、年年全村民の力を要求する収穫《とりいれ》まえの、短い休息の訪れる時であった。収穫は上々で、晴れわたった暑い夏らしい日と、露っぽい短夜がつづいていた。
 草場へ行くには、兄弟は森越しに馬車をすすめなければならなかった。コズヌイシェフは、鬱蒼《うっそう》と茂った森の美しさにたえず見とれて、陰のほうを黒く見せて黄色い托葉《たくよう》の点々としている、近く花を開きそうになった菩提樹の古木や、エメラルドのように輝く今年のひこばえなどを、弟に指さして見せるのであった。が、レーヴィンは自然の美をみずから語るのも、人から聞かされるのも、好きでなかった。彼にいわせると、言葉は自分の見たものから美しさをはぎ取るばかりであった。彼は兄に相槌《あいづち》を打ちながらも、いつとはなくほかのことを考えていた。森を通りぬけた時、彼の注意は、丘の上の休田の光景に呑みつくされた。あるところは草におおわれて黄色く、あるところは踏み固められたまま格子形に区切られ、あるところは肥料がほうぼうに山と積まれ、あるところはすでに耕されている。野づらには荷車が列をなして動いていた。レーヴィンは車の数をかぞえて、必要なだけの肥料が運ばれているのに満足した。草場を見渡した時、彼の頭は草刈りの問題に移っていった。彼はいつも牧草の収穫のときには、何か特別なこころひかれるものを感じるのであった。草場へくると、レーヴィンは馬をとめた。
 まだ朝露は、下のほうの厚く茂った草に残っていたので、コズヌイシェフは足を濡らさないために、河鱸《かわすずき》のとれる楊《やなぎ》の繁みのとこまで、草場づたいに乗せて行ってくれと頼んだ。レーヴィンは牧草を踏み荒すのが、惜しくてたまらなかったけれども、草場の中へ馬車を入れた。丈の高い牧草は、車輪や馬の脚にからみついて、濡れた輻《や》や轂《こしき》に種子をくっつけるのであった。
 兄は釣道具を出して、楊《やなぎ》の繁みの陰に腰をおろした。レーヴィンは馬を離して、立木につなぎ、風のないままに、そよとも動かぬ草場の、灰色がかった緑の大海へ分け入った。種子の熟しはじめた絹糸のような牧草は、大事にとっておいたところでは、ほとんど腰を没するばかりであった。
 レーヴィンが草場を横切って街道へ出ると、蜜蜂籠を持った、片目の脹《は》れた老人に出くわした。
「どうだね? つかまったかい、フォミッチ?」
「なんの捕まりましょうぞい、旦那さま! 自分のを逃がさねえようにするのが、精いっぺえなんで。もうこれで二度め逃げられましただが、ありがてえことに、若え衆らが追っかけてくれましただよ。お邸《やしき》の畑さ起してたもんで、馬ア車から離して、追っかけてくれたわけで……」
「ときに、フォミッチ、おまえどう思う、――草刈りをしたものか、それとも待ってみるか?」
「そうでごぜえますなあ! わしの考えじゃ、ペテロ祭([#割り注]七月十二日[#割り注終わり])まで待ったほうがよろしゅうがすよ。旦那さまはいつも早目にお刈りなせえますがの。なに、神さまのおかげでええ草が取れますだよ。牛や馬はたっぷり食べられますべ」
「だが、天気都合はどんなだと思う?」
「そりゃ神さまのおぼしめし次第でござりますが、きっとええお天気でござりますべ」
 レーヴィンは兄のそばへ寄ってみた。
 魚は一尾も釣れなかったが、コズヌイシェフは退屈するどころか、このうえもない上きげんらしかった。医師との会話に刺激されて、まだしゃべりたそうなのを、レーヴィンは見てとった。ところが、レーヴィンはその反対に、早く家へ帰って、あす草刈り人夫を集める指図をし、気になってたまらない乾草刈りの問題をきめたかったのである。
「どうです、帰りませんか?」と彼はいった。
「何もそんなに急ぐことはないじゃないか。もうしばらく坐っていようよ。だが、おまえはひどく濡れちまったもんだね! 魚は釣れないが、いい気持だ。猟というやつは、なんでも自然が相手だから、そこがいいんだね。おい、どうだい、あの鋼鉄色をした水の美しさは!」と彼はいった、「あの草場の岸は」と言葉をつづける。「いつもある謎《なぞ》を思い出させるよ、――何かわかるかい? 草は水にむかって、われわれは揺れている、揺れている、ってそういうのだ」
「僕にはそんな謎わかりませんね」とレーヴィンはわびしげな声で答えた。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

「実はね、私はおまえのことを考えていたんだよ」とコズヌイシェフはいった。「あの医者の話を聞いてみると、おまえの郡でやっていることは、まるでお話になりゃしないじゃないか。あの医者はなかなか頭のいい男だよ。これは前からいっていたことだし、今でも相変らずいうけれど、おまえが郡会へ出ないのは、また一般に郡の仕事から手をひいてしまったのは、よくないことだよ。しっかりした人物が手をひいたら、なにもかもめっちゃめちゃになるのは、あたりまえだからな。税を払っても、それはただ俸給になるばかりで、学校もなけりゃ、医者もない、産婆もなけりゃ、薬屋もない、――なんにもないというありさまじゃないか」
「僕もやってはみたんですよ」とレーヴィンは小さな声で、いやいや答えた。「でも、だめなんです! どうもしかたがないじゃありませんか!」
「いったい何がだめなんだね? 正直なところ、私は合点がいかないよ。無関心とか、無能とかいうことは、認めるわけにいかない。そうすれば、ただのものぐさかね?」
「それもこれもみな違います。僕は一応やってみて、何一つ手のくだしようがないのを見きわめたんです」とレーヴィンはいった。
 彼は兄のいうことを、たいして身を入れて聞いていなかった。川向こうの耕地をじっと見やっていると、何かしら黒いものが目に入ったがそれが馬か、ないしは馬に乗った番頭か、よくわからなかったのである。
「どうしておまえ、なんにもできないんだね? おまえは一度やってみて、うまくいかなかったと一人ぎめに決めてしまって、そのまま兜《かぶと》をぬいだわけだろう。どうして自尊心をもつことができないんだろう?」
「自尊心ですって?」兄の言葉に痛いところを突かれて、レーヴィンはこういった。「わかりませんね。まあ、かりに大学で、ほかのものは積分計算ができるのに、僕だけわからないとしたら、そりゃ自尊心も傷つけられるでしょう。ところが、この場合は、何よりも先に、そういう仕事に対する一定の能力が必要であり、またその仕事がすべて非常に重大であるという、確信をもっていなくちゃなりませんからね」
「じゃ、何かい! これが重大でない、とでもいうのかい?」とコズヌイシェフは、いささかむっとしていった。それは、自分の関心をもっていることを、弟が重大でないとしているからでもあったが、ことにその上、弟がほとんど自分のいうことを聞いていないらしいからでもあった。
「僕には重大と思われないんです、どうも本気になれないんですもの、しかたがないじゃありませんか」自分のみとめたものが番頭であることを見分けて、レーヴィンはこう答えた。番頭は、耕地から百姓たちを帰すところらしく、みんな鋤を上向きにひっくり返していた。『いったいもう耕作はすんでしまったのだろうか』と彼は考えた。
「いや、それにしてもだ」と兄は美しい聡明らしい顔をひそめて、語をついだ。「ものにはなんでも限度というものがあるよ。変りものであり、真摯《しんし》な人間であって、虚偽を憎むということは、そりゃ大いにけっこうな話だ、――それは私も重々わかっているが、しかしおまえのいうことは、もし無意味でなければ、きわめてよからぬ意味をもっている。いったいどうしておまえは重大でないなんて、澄ましていられるんだろう、おまえが自分で力説しているところによると、心から愛している民衆が……」
『おれは一度も力説したことなんかありゃしない』とレーヴィンは肚《はら》の中で考えた。
「頼りない境遇で死んで行くのをさ。無知な取りあげ婆さんは子供を殺しているし、百姓どもは暗愚の中にいじけて、役場の書記風情に首根っこをおさえられている。ところで、おまえはそれを救助する手段を掌中に授けられていながら、助けてやろうとしない。それがなぜかというと、おまえにいわせれば、重大でないからなんだ」
 そういって、コズヌイシェフは弟のジレンマを指摘した、――おまえという人間は、精神的発達が遅れているために、おのれのなしうることを悟らないのか、それとも、どういうわけかわからないが、自分の安寧《あんねい》と虚栄心を犠牲にするのが惜しさに、あえてそれをしようとしないのだ。
 レーヴィンはもういよいよ兜をぬいで、公共事業に対する愛の不足を自認するよりほかはないと感じた。それは彼にとって屈辱でもあれば、情けないことでもあった。
「そのどちらも」と彼はきっぱりいい放った。「僕の見るところでは、ありうることと思えませんが……」
「え? 金の使途をうまく割り当てて、農民に医薬の救助を与えることができないのかい?」
「できませんね、僕の見たところでは、……雪解けの水がたまったり、雪嵐が吹き荒れたりする、四千方露里もあるこの郡で、おまけに農繁期というやつもあるのに、いたるところくまなく医薬の救助を与えるなんて、そんなことができようとは思われません。それに、僕は概して、医薬の力を信じないのでね」
「いや、失敬だが、それはまちがっている……私はその反例を、何千でもあげることができるよ……ところで、学校のほうは?」
「学校なんか何になるんです?」
「おまえはなんてことをいうのだ! 教育の益について、疑いをはさむ余地があると思うのかい? 教育がおまえのためになるとすれば、ほかのだれだって同じことじゃないか」
 レーヴィンは、精神的に壁へ押しつめられたような感じがして、そのためにかっと熱くなり、覚えずわれともなしに、公共事業に対して無関心でいるおもな原因を、白状してしまった。
「それはすべて、けっこうなことかもしれませんが、しかしなぜ僕が医療所や、学校のことを心配しなくちゃならないんでしょう、僕は医療所なんか利用することはないし、子供を学校へやるわけでもないんですからね。それに、百姓だって、子供を学校へやりたがらないじゃありませんか。だいいち、僕は子供らを学校へ通わせる必要があるかどうか、まだ十分に確信がないんですからね」と彼はいった。
 コズヌイシェフはこの意想外なものの見方に、ちょっといっとき度胆《どぎも》を抜かれた。が、すぐさま新しい攻撃の計画を立てた。
 彼は口をつぐんで、一本の釣竿を上げ、鉤《かぎ》を入れなおしたのち、にこにこ笑いながら、弟に話しかけた。
「さあ、いいかね……だいいち、現に医療所の必要が生じたじゃないか。さっきもアガーフィヤのために、郡役所づきの医者を呼びにやったろう」
「なあに、僕の考えじゃ、あの手はゆがんだままで、なおりゃしませんよ」
「そりゃまだ疑問だよ……それから、読み書きのできる百姓のほうが、労働者として、おまえにとっても貴重で、必要だろうじゃないか」
「いや、だれにでもきいてごらんなさい」とレーヴィンは断乎たる調子で答えた。「読み書きのできる百姓は、労働者としてはるかに劣りますよ。それに、道路の修繕もできなければ、橋なんか架《か》けても、すぐ盗んでしまうんですからね」
「もっとも」とコズヌイシェフは眉をひそめていった。彼は抗言されるのを好まなかった。ことに、その抗言がのべつあれからこれへと飛び移って、なんの連絡もなく、新しい論証をひき出していき、何に答えていいかわからないような場合には、なおさらであった。「もっとも、それが問題なんじゃない。いいかね、おまえは教育が民衆にとって、幸福だということを認めるかね?」
「そりゃ認めます」とレーヴィンはうっかり口をすべらして、これは心にもないことをいってしまったぞ、と考えた。もしそれを承認するとすれば、自分のいったことは、なんの意味もないナンセンスであることを証明される、と彼は感じた。どんなふうに証明されるかわからないが、必ず論理的に証明されるに相違ないと覚悟して、その証明を待っていた。論証はレーヴィンの期待したより、ずっと単純なものであった。
「もしそれを幸福と認めるなら」とコズヌイシェフはいった。「おまえは潔白な人間として、それを愛さないわけにいかないし、そういう仕事に同感しないわけにもいかず、したがって、そのために努力しようと、願わずにいられないはずだよ」
「しかし、僕はまだその仕事を善と認めてるわけじゃありませんよ」とレーヴィンは顔を赤らめていった。
「え? だっておまえは今そういったじゃないか……」
「つまり、僕はそれをいいこととも、またできうることとも認めないのです」
「何一つ努力もしない先から、そんなことがわかるものかね」
「まあ、かりに」とレーヴィンはいったが、その実、そんなことを仮定する気はなかったのである。「かりにそうとしておきましょう。しかし、それにしても、なんのために僕がそんなことを心配しなくちゃならないか、その理由がわからないんです」
「といって、どうなんだね?」
「いや、もう話がここまできた以上は、一つの哲学的な面から説明して下さい」とレーヴィンはいった。
「この問題にどうして哲学が必要なのか、わけがわからないね」とコズヌイシェフはいったが、その調子は、弟が哲学などを論じる権利を認めない、とでもいうようにレーヴィンの耳に響いた。レーヴィンはそれにいらいらさせられた。
「それはこうなんです!」と彼は熱くなっていいだした。「僕の考えでは、すべてわれわれの行為の動力となるものは、なんといっても個人的幸福です。ところが、僕は一個の貴族として、今の地方自治体に、僕の幸福を助長してくれるようなものを、何一つ見いだすことができないのです。道路はよくならないし、またよくなるはずがありません。が、僕の馬は悪路をもちゃんと曵いて行きます。医者も医療所も僕には必要がありません、治安判事も同様です、――僕はそんなところへ相談にいったこともないし、また決していきもしませんからね。学校も僕に不必要であるばかりか、かえって有害なくらいです、これは前にもいいましたがね。郡会なんてものは僕にとって、ただ一町歩について十八コペイカ奉納したり、町へ出かけて行って、南京虫だらけの宿屋に泊ったり、ありとあらゆるばかげたことや、けがらわしいことを聞かされたりする義務を意味するにとどまって、個人的利害など一つも呼びさましはしません」
「ちょっと待ってくれ」とコズヌイシェフは、微笑を含みながらさえぎった。「われわれは別に個人的利害に刺激されて、農民の解放をやったわけじゃないが、それでも努力したからね」
「違います!」いよいよ熱くなりながら、レーヴィンはさえぎった。「農民の解放は話がちがいます。そこには個人的利害が存したのです。あれはすべて、われわれ善良な人間を圧迫していた軛《くびき》を、自分からふり落したかったのです。ところが、郡会の議員になって、自分の住んでもいない町に、便所掃除が何人いるかだの、鉄管の敷設をどんなふうにするか、なんてことを評議したり、陪審員になって、ハムを盗んだ百姓の裁判に列席し、弁護人や検事のこねまわす譫言《たわごと》を、六時間も聞かされるのはねえ。裁判長が、僕の村の馬鹿のアリョーシカという爺《じい》さんをつかまえて、『被告殿、貴殿はハムを盗んだ事実を認めますか?』ときくと、こっちは『ひゃあ?』という始末ですからね」
 レーヴィンはもう横道へそれてしまって、裁判長や馬鹿のアリョーシカの声色《こわいろ》を使い出したが、それが問題に関係があるように思われるのであった。
 コズヌイシェフはひょいと肩をすくめた。
「おいおい、それでおまえは何をいおうとしているんだね?」
「僕はただこういうことがいいたいのです、僕は自分に……自分の利害に関係のある権利なら、常に全力をつくして擁護します。僕が大学にいた時分、われわれは憲兵に捜索を受けて、手紙まで読まれたことがありますが、そういう権利、教養と自由の権利は、全力を尽して擁護する覚悟です。また、僕の子供や兄弟、それから僕自身に関係のある兵役の義務、これもわかります。僕は自分に関係のあることなら評議を辞しません。しかし、四万ルーブリという郡会の金をどう割り当てるかだの、馬鹿のアリョーシカの裁判とかは、僕にはわからない、理解できないのです」
 レーヴィンは、まるで言葉の堤でも切れたように、まくしたてた。コズヌイシェフはにやりと笑った。
「しかし、明日にもおまえが裁判にかかるとしたら、旧式の刑事裁判所で審理されたほうが、愉快だとでもいうのかね、え?」
「僕は裁判なんか受けやしません。僕はだれも殺したりなどしないから、そんな必要はありませんよ。いや、どうもはや!」またもや、問題になんの関係もない議論に飛躍しながら、彼は言葉をつづけた。「ロシヤの地方自治体ってやつは、三位一体の祭日に、森に似せようとして地面に挿す白樺《しらかば》みたいなもので、この森はヨーロッパでは、自然に生えたものだからいいが、僕はそんな白樺を本当にして、水なんかかけてやる気にはなりませんね」
 コズヌイシェフはただひょいと肩をすくめた。そのしぐさでもって、こんな白樺などがいったいどこから、二人の論争の中へ飛び出したのか、という驚きを表現したわけであるが、しかし弟がそれで何をいおうとしたかは、すぐさま察してしまったのである。
「ちょっと待って、そんなふうじゃ議論ができないじゃないか」と彼は注意した。けれど、レーヴィンは自分でも意識している欠点、――一般の福祉に対する無関心を弁明したかったので、さらに言葉をつづけた。
「僕はこう思います」とレーヴィンはいった。「たとえどんな行動でも、個人的利害を基礎にしていなければ、鞏固《きょうこ》なものとはなりえません。それは一般的な、哲学的な真理です」
 断乎たる調子で、哲学的[#「哲学的」に傍点]という言葉をくりかえしながら、彼はこういった。それはさながら、自分でもすべての人と同じように、哲学を語る権利をもっているぞ、ということを示そうとするかの如くであった。
 コズヌイシェフはもう一度にやりと笑った。『こいつもご同様、自分の性癖にご用を勤めさせる一流の哲学があるんだな』と彼は考えた。
「いや、哲学のことはおまえよしたがいいよ」と彼はいった。「いかなる時代でも、哲学のおもな使命は、個人の利益と一般の利益の間に存在する、不可欠の関連を発見することなんだからな。しかし、それは今の問題に関係がない、今の問題に関係があるのは、おまえの比較を訂正するということだ。白樺は地面に挿したのじゃなくて、あるものは植えたのだし、あるものは播《ま》いたのだ。だから、その取り扱いを慎重にしなくちゃならないよ。未来を有する国民、歴史的国民と呼ばれる資格があるのは、おのれの施設の中で、重要かつ有意義なものに対して鋭敏な感覚を有し、これを尊重する国民だけなんだよ」
 それからコズヌイシェフは、レーヴィンにとって及びもつかぬ哲学的、歴史的領域へ問題を移し、弟の見解の誤りを完膚《かんぷ》なきまで指摘した。
「ところでだね、これがおまえの気に入らないということは、失礼ながら、それはわがロシヤ人のものぐさであり、地主|気質《かたぎ》であって、私の確信するところでは、それは一時的|迷妄《めいもう》にすぎないから、今にわかるだろうよ」
 レーヴィンは口をつぐんだ。彼は自分が四方八方からやっつけられたのを感じたが、それと同時に、自分のいわんと欲したことが、兄に理解されなかったのを感じた。ただどうして理解されなかったのか、その原因がわからなかった。自分のほうが、いいたいと思うことを、明瞭に表白できなかったからだろうか、それとも兄が理解しようとしなかった、いな、理解することができなかったからだろうか? しかし、彼はこの問題に深入りせず、兄に抗弁もしないで、まるっきり別な自分自身のことを考えはじめた。
 コズヌイシェフは最後の釣竿を巻いて、馬を木から解いた。こうして二人は家路にむかった。

[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]

 兄と話している間、レーヴィンの気にかかっていた自分自身のことというのは、つぎの次第であった、去年、あるとき牧草刈りの場へ行った時、番頭に腹をたてたレーヴィンは、虫をおさめる独特の方法を用いた、――ある百姓の大鎌を取って、草刈りをはじめたのである。
 この仕事はひどく気に入ったので、彼は幾度か牧草刈りをはじめ、邸の前の草場をぜんぶ刈ってしまった。で、今年は春のはじめから、百姓たちといっしょに、毎日朝から晩まで牧草刈りをしようと、自分でプランを立てた。兄の到着以来、彼は草刈りをしたものかどうかと、思案していた。兄を毎日朝から晩まで、一人うっちゃらかしておくのも気が咎めたし、兄がそんなことをする自分を笑いはしないか、という心配もあった。しかし、草場をひとわたり歩いてみて、あの草刈りの印象を思い起すと、彼はもう『草刈りをするんだ』と、ほとんど決めてしまった。兄を相手のいらだたしい会話をしたあとで、彼はまた自分の考えていたことを思い出した。
『肉体労働が必要なんだ、さもないと、おれの性格は断然スポイルされてしまう』と彼は考え、たとえ兄や百姓たちの手前どんなにばつが悪かろうと、ぜひ牧草刈りをすることに決めてしまった。
 夕方、レーヴィンは事務所へ行って、仕事の手配をし、明日はいちばん大きくていちばんいいカリーノヴイ草場を刈るからといって、村々へ草刈り人夫を呼びにやった。
「[#「「」は底本では「『」]それから、ご苦労だが、僕の草刈り鎌を、チートのとこへ打ち直しにやって、明日もってくるようにいってくれ。もしかしたら、僕も自分で草刈りをするかもしれないから」どぎまぎしないように努めながら、彼はそういった。
 番頭はにやりと笑って、
「かしこまりました」と答えた。
 その晩、茶のときに、レーヴィンは兄にもいった。
「どうやら天気もきまったらしいから、明日は牧草刈りをはじめますよ」
「私もあの仕事は大好きだ」とコズヌイシェフはいった。
「僕はとても好きなんですよ。だから時どき、自分でも百姓たちといっしょに、草刈りをやるんです。明日もいちんち草刈りをするつもりです」
 コズヌイシェフは頭を上げ、好奇の表情で弟を眺めた。
「といって、どうするんだね? 百姓と同列で、まるいちんち?」
「そうです、とても気持のいいもんですよ」とレーヴィンは答えた。
「そりゃ肉体運動としてすてきだが、それがおまえにもちこたえられるかな」とコズヌイシェフは、いささかも嘲笑の色なしにたずねた。
「僕やってみたんです。はじめは苦しいけど、その後だんだん引きこまれていきます。僕はひけをとらないつもりですがね……」
「へえ! しかし、ひとつ聞くがね、百姓はそれをどう思うだろう? きっと、旦那が物好きをなさるといって、笑うだろうよ」
「いや、僕はそう思いませんね。それは実に楽しい、と同時に骨の折れる仕事だから、そんなことを考えてる暇はありませんよ」
「でも、どうしておまえは百姓たちといっしょに食事をするんだい? そんなとこへ上等の赤葡萄酒だの、焼いた七面鳥など届けさせるのは、どうもばつが悪いだろうじゃないか」
「いや、僕はみんなの休み時間に、家へ帰って食事しますから」
 翌朝、レーヴィンはいつもより早目に起きたが、農場の指図で手間どったために、彼が草刈り場へ行った時には、人夫たちはもう二筋目を刈っていた。
 もう丘の上から、陰になった、もう刈り取られた草場の一部が、彼の前に開けた。灰色に見える筋、草刈りをはじめた場所に、人夫たちの脱ぎ棄てた長上衣《カフタン》の黒い塊《かたま》り。
 近づくにしたがって、互に間隔をあけて、一人一人続いて行きながら、いろいろさまざまに大鎌をふるっている百姓たちが見えてきた。長上衣《カフタン》を着ているものもあれば、ルバーシカ一枚のものもあった。数えてみると四十二人いた。
 彼らは古い堰《せき》のある、でこぼこした草場の裾のほうを、ゆっくりと動いていた。その中のいくたりかは、自分の村の百姓だと、レーヴィンも気がついた。そこには、背をかがめて鎌をふるっている、恐ろしく長い白のルバーシカを着たエルミール爺さんもいれば、もとレーヴィンの馭者をしていた若者のヴァシカもいて、一筋一筋、力任せに刈り取っていた。そこにはまた、草刈りのほうでレーヴィンのお守り役にあたる、やせて小柄な百姓のチートもいた。これは背中を曲げないで、まるで鎌を玩具《おもちゃ》のようにあつかいながら、先頭に立って大幅に刈っていた。
 レーヴィンは馬から下りて、道ばたにつなぎ、チートといっしょになった。こちらは薮の中から、もう一|梃《ちょう》の鎌を取り出して、彼に渡した。
「出来ましたよ、旦那。まるで剃刀《かみそり》みてえなもんで、ひとりでに刈ってくれますだ」にこにこしながら帽子をとり、鎌を渡して、チートはこういった。
 レーヴィンは鎌を受け取って、具合を見にかかった。自分の筋を刈り終えて、汗だらけになった人夫たちは、にぎやかにあとからあとからと道へ出てきて、げらげら笑いながら旦那にあいさつした。みんなレーヴィンを見つめていたが、だれもなんにもいわなかった。そのうちにとうとう、羊皮の短い上衣を着た、皺だらけの顔に鬚《ひげ》のない、背の高い老人が道へ出てきて、旦那に話しかけた。
「ようがすか、旦那、いちど仕事にかかった以上、途中やめはなりましねえだよ」と彼はいった。と、人夫たちの間で控え目な笑い声が起ったのを、レーヴィンは耳にした。
「ひけを取らんように骨を折るよ」チートのうしろに立って、草刈りのはじまるのを待ちながら、レーヴィンはそう答えた。
「ええだかね」と老人はくりかえした。
 チートが場所をあけてくれたので、レーヴィンはそのあとから刈りはじめた。そこは道端なので、草は丈が低かった。レーヴィンは長く草刈りをしなかったし、おおぜいの目を一身に注かれて照れていたために、はじめしばらくの間は、力を入れて鎌を振るのに、草はうまく刈れなかった。うしろのほうからさまざまな声が聞えた。
「柄のつけ方がよくねえだよ、柄が長すぎるだ、ほら、旦那はあんげにかがまなきゃなんねえだよ」と一人がいう。
「もっと踵《かかと》に力を入れなせえ」といま一人。
「なあに、大事ねえだ、今に慣れさっしゃるで」と老人はつづけた。「そうら、うまく行き出した……あんまり幅ひろくすると、くたびれるだよ……なんしろご主人さまだで、無理アねえ、ご自分のために骨折らっしゃるだよ! あっ、ほれ、虎刈りだあ! おらたちがあんげなことしたら、よく背中アどやされたもんだよ」
 草がだんだんやわらかくなってきたので、レーヴィンはチートのいうことを聞きながらも、返事をしないで、できるだけ上手に刈ろうとつとめながら、そのあとに従った。こうして百歩ばかり進んだ。チートは立ちどまろうともせず、いささかの疲れも見せず、ぐんぐん刈り進んだ。が、レーヴィンはとてももちこたえられそうもない気がして、恐ろしくなった。それほど彼は疲れたのである。
 もう最後の力をふり絞って、鎌をふるっているように感じて、チートにちょっと休んでくれと頼むことに肚《はら》を決めた。しかし、ちょうどその時、チートは自分のほうから歩みをとめ、かがみこんで草を一握りつかむと、鎌を拭いて研《と》ぎにかかった。レーヴィンは足腰をのばし、ほっと吐息をついてあたりを見まわした。彼のうしろからついてきた百姓は、これも同様に疲れたとみえて、レーヴィンのそばまでこないうちに、さっそく立ちどまって、鎌を研ぎはじめた。チートは自分のと、レーヴィンの鎌を研ぎあげた。で、二人は先へ進んで行った。
 二回目も同様であった。チートは一振り一振り進んで行って、立ちどまりもしなければ、疲れた様子も見せなかった。レーヴィンは遅れぬように努めながら、そのあとに従ったが、次第次第に苦しくなってきた。いっとき、もうこのうえ力が出そうもないと感じたが、ちょうどその時チートは歩みを止めて、研ぎにかかった。
 こうして、彼らは最初の一筋を終った。レーヴィンはこの長い行程が、ことさら骨が折れたように思われた。が、そのかわり、この一筋を刈り終えて、チートが大鎌を肩に担《かつ》ぎ、ゆっくりゆっくり歩きながら、自分の踵の痕を踏んであと返りし、レーヴィンも自分の刈跡づたいに引き返した時には、玉の汗が顔を伝ってたらたら流れ、鼻の先から雫《しずく》になってしたたり、背中は水に浸ったようにぐっしょりになっているにもかかわらず、――実にいい気持であった。わけても、もうおれはもちこたえられるという自信のついたことが、うれしくてたまらなかった。
 ただ一つ、自分の刈跡の不手際なことだけが、彼の満足感をそこなった。『手にはあまり力を入れないようにして、おもに体ぜんたいで刈ることにしよう』網を引いて刈ったようなチートの筋と、不規則に乱れ散っている自分の刈跡を比べてみながら、彼はこう考えた。
 レーヴィンの気づいたところによると、チートは最初の一筋を、おそらく主人を試そうと思ったらしく、ことさら早く刈り進んだもので、距離も長かった。その次からは、もうだんだん楽になっていったが、それでもレーヴィンは、百姓たちに遅れないようにするためには、全身の力を緊張させなければならなかった。
 百姓たちに遅れないで、できるだけ上手に仕事をしようというよりほか、彼はいま何一つ考えず、何一つ望まなかった。彼の耳に入るのは、たださっさっと鳴る鎌の刃音ばかり、彼の目に入るのは、一歩一歩前進するチートのしゃんと背をのばした姿と、半月形に反った刈跡と、自分の鎌の刃につれてゆっくり波がたに傾いていく草と、その先についた小さな花、それから向こうのほうに見えている刈筋の終り目、そこまで行けばひと休みできるのだ。
 仕事なかばにふと、何がどこからくるのかわからなかったが、彼は焼けるように暑い汗ばんだ肩に、冷たいものの快い感触を覚えた。鎌を研いでもらっている間に、空をふり仰いだ。重重しい雨雲が低くかぶさってきて、大粒の雨が落ちているのであった。百姓たちは、長上衣《カフタン》の方へ走って行って、それをひっかけるものもあれば、レーヴィンと同じように、快い冷気のもとに、両肩を喜ばしげにすくめているものもあった。
 それから、また幾筋も幾筋も刈って行った。長い筋もあれば、悪いところもあった。レーヴィンは、時間の観念をすっかりなくしてしまって、早いのか遅いのか、てんで見当がつかなかった。今や彼の労働に転機が生じて、無限の喜びが湧いてきた。仕事なかばにふっと時どき、自分が何をしているのか忘れてしまって、気分が楽になってきた。そういうときには、彼の刈跡も、ほとんどチートのと同じくらい、よく揃ってきれいにいった。けれども、彼が自分のしていることを思い起して、うまくやろうと苦心しはじめるや、たちまち労働の苦痛をひしひしと身に感じて、刈跡が不揃いになるのであった。
 またもう一筋すまして、彼が新しい筋にかかろうとした時、チートは歩みとめて、一人の老人のそばへ行き、何やら小声でいった。二人は同じように太陽を見あげた。『あいつらはいったいなにを話してるんだろう、どうして新しい筋をはじめないんだろう?』とレーヴィンは考えた。百姓らはもう四時間から、休みなしに刈りつづけたのだから、もう弁当にする時分だということは、想像にも浮ばなかったのである。
「弁当でごぜえますよ、旦那」と老人はいった。
「えっ、もうそんな時かい? じゃ、弁当にしよう」
 レーヴィンはチートに鎌を渡し、パンのしまってある長上衣《カフタン》をさしていく百姓たちとともに、軽い雨のしぶきを浴びた刈草が、幾筋も幾筋も連なっている広い原を横切って、馬のつないである方へ行った。その時はじめて、天候の見通しを誤って、乾草を雨に濡らしてしまったのに心づいた。
「草がだめになっちまうな」と彼はいった。
「なあん、旦那さま、雨降りに刈って、日和《ひより》に掻きよせろって申しますだよ!」と老人は答えた。
 レーヴィンは馬を解いて、コーヒーを飲みに邸へ帰った。
 コズヌイシェフは、たったいま起きたばかりであった。レーヴィンはコーヒーをすますと、まだコズヌイシェフが着替えをして食堂へ出てこないうちに、またもや草刈りに出かけてしまった。

[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]

 弁当のあとでは、レーヴィンももう前の場所でなく、自分の仲間に呼んでくれたひょうきんな爺さんと、去年の秋、女房をもらったばかりで、草刈りはこの夏がはじめての若い百姓の間に立った。
 老人は背中をまっすぐにして、がに股の足を大きく、規則ただしく運びながら先頭に立ち、歩く時に手をふるより以上には骨の折れないらしい一様に正確な動作で、さながら遊び半分のように、高い草をきちんきちんと揃えながら倒して行く、それは彼自身の仕事でなく、ただ鋭い鎌がひとりでに、みずみずした草をさっさっと切っていくかのようであった。
 レーヴィンのうしろからは、若いミーシュカがついてきた。新しい草を捩《よ》じって髪をしばった、愛嬌のある若々しい顔は、たえず努力の色を見せていた。しかし、人々から顔を見られるたびに、彼はにっこり笑った。察するところ、苦しいなどと本音《ほんね》を吐くよりも、むしろ死んだがましなくらいに思っているらしい。
 レーヴィンはこの二人の間に立って進んだ。一番暑い盛りになると、草刈りはかえってさほど苦しくないように思われた。全身に流れる汗は涼味を与え、背中、頭、肘《ひじ》までたくし上げた腕を焼きつける太陽は、仕事に力と根気を与えた。そして、自分のしていることを考えずにいられる、かの無意識状態の瞬間が、いよいよ頻繁に訪れるようになった。鎌はひとりでに草を刈った。それは幸福な瞬間であった。が、それよりもっとうれしいのは、草場のはてになっている川のふちまで来た時である。老人は、雨に濡れた厚く茂った草で鎌を拭き、すがすがしい川水でその刃をそそぎ、ブリキ罐《かん》に水を汲んで、レーヴィンにふるまうのであった。
「さあ、わしのクワスを一|杯《ぺえ》やってごらんなせえ! え、上等だべ?」と彼は目をぱちぱち[#「目をぱちぱち」は底本では「目はぱちぱち」]させながらいった。
 実際そのとおりで、草の葉の浮いた、ブリキ罐の錆《さび》の味のする、この生ぬるい水ほどうまい飲料を、レーヴィンは今まで一度も飲んだことがないような気がした。それにつづいて、すぐにまた例の幸福な三昧《さんまい》境、鎌を手にしたそぞろ歩きがはじまる。その間には、流れる汗を拭うこともできれば、胸いっぱいに呼吸して、長々とつづく草刈りたちの列や、あたりの森や野の情景を眺《なが》めることもできるのだ。
 レーヴィンは草刈りを続ければ続けるほど、この忘我の瞬間を感じることが多くなった。そういう時には、もはや手が鎌をふるのでなく、むしろ鎌のほうが、いっさいを意識する生命にみちた肉体をひっぱっていく。そして、さながら魔法か何かのように、仕事のことなど考えもしないのに、仕事はひとりでに規則ただしく、きちんきちんとできていく。これこそ全く至福のせつなであった。
 ただつらいのは、この無意識になった運動を中止して、考えねばならない時であり、地面が瘤《こぶ》のように盛りあがっているところを刈ったり、すかんぼを除けていったりする時であった。老人はそれを造作《ぞうさ》なくやってのけた。瘤のところへくると、彼は動作を変え、時には踵で、時には踵の先で両側から軽い打撃を加えて、その瘤をくずした。しかも、それをしながら、彼は眼前に現われてくるものを、仔細《しさい》に眺めて観察していた。時には野苺《のいちご》をむしって食べたり、それをレーヴィンにもご馳走したりするかと思えば、時には鎌の先で小枝をほうりのけ、時には鎌のすぐ下から牝の飛び立ったあとの鶉《うずら》の巣をと見こう見し、時には行く手に現われた小さな毒蛇を鎌でつかまえて、まるでフォークでも扱うように、高々と差しあげてレーヴィンに見せたのち、ぽんとわきへ棄てるのであった。
 レーヴィンにしても、あとからつづく若者にしても、こういうふうに動作を変えることはむずかしかった。二人とも、同じ力いっぱいの動作をわがものにして、仕事に一生懸命だったため、動作を変えると同時に、眼前のものを観察する余裕がなかったのである。
 レーヴィンは時の移るのも覚えなかった。もし何時間刈ったかときかれたら、おそらく三十分と答えたろう、――が、もうすぐ食事の時間であった。老人は一筋すますと、ほうぼうから草刈りの方へ集ってくる女の子や男の手に、レーヴィンの注意を向けた。丈の高い草を分けてくるので、やっと見分けのつくのもあれば、道路づたいに来るのもあったが、みなパンの入った包みや、ぼろきれで栓《せん》をしたクワス入りの水差しを、重そうに手に提げていた。
「そうら、ちびめらがはってくるわ」と老人は子供らを指さしていい、小手をかざして太陽を見あげた。
 それからさらに二筋刈り終ると、老人は足をとめた。
「さあ、旦那、めしにしますべ!」と彼はきっぱりいった。
 川のふちまで行きつくと、草刈りたちは刈草を踏み越え、長上衣《カフタン》の方へ行った。そこには、食事を持ってきた子供らが、待ちかねて坐っていた。百姓たちは一ところに集った――遠方のは荷車の下に、近いのは刈草のいっぱいかかっている楊《やなぎ》の木陰に。
 レーヴィンは彼らのそばに腰をおろした。家へ帰りたくなかったのである。
 旦那に対する遠慮などは、もうとっくになくなっていた。百姓らは食事のしたくにかかった。まず体を洗いはじめた。若い連中は川で水浴びするし、その他は休息の場所をならしたり、パンの入った袋をといたり、クワス入りの水差しの栓を抜いたりした。例の老人は、茶碗の中にパンを粉にして入れ、それを匙《さじ》の柄で掻き混ぜ、ブリキ罐の水をついで、さらにパンを刻みこみ、塩をさっとまいたあと、東の方へ向いてお祈りをはじめた。
「さあ、旦那、おらのパン汁を一つ」茶碗の前に膝をつきながら、彼はそういった。
 パン汁があまりうまかったので、レーヴィンは邸へ食事に帰ろうと思ったのを、やめてしまった。彼は老人といっしょに食事をすませ、二人ですっかり話しこんでしまった。彼は老人の家庭事情を聞いて、親身に相談相手になったり、老人に興味のありそうな自分の仕事や、邸の事情などを話して聞かせた。彼は兄よりもむしろこの老人のほうを、身に親しく感じ、この男に対する自分の愛情に、われともなく微笑を浮べるのであった。老人はふたたび立ちあがって、お祈りを捧げ、すぐそこの楊の茂みへ横になって、枕の代りに草を頭の下に敷いた。で、レーヴィンもそれと同じようにして、蠅どもが日盛りをいいことに、うるさくまつわりつき、甲虫《かぶとむし》類が汗ばんだ顔や体をさぐるのも平気で、たちまち眠りに落ちてしまった。やっと目がさめた時には、太陽はもう楊の茂みの反対側にまわって、彼の体に光線をさしのべていた。老人はとうの昔に起きて、若いの者どもの鎌の刃をなおしていた。
 レーヴィンがあたりを見まわした時、われとわが目を疑う思いであった。それほどなにもかもが一変したのである。見渡す限りの草場はすっかり刈りとられて、斜めな夕日の光線のもとに、早くも香りを立てはじめた刈草のために、特殊な新しい輝きをおびているのであった。まわりの草を刈り取られた川ぶちの楊の木も、前は見えなかったのに今は鋼《はがね》の色にえんえんと輝いている川そのものも、動きまわったり起きあがったりしている百姓たちも、まだ刈られていない草場の境目に壁のように立ち連なっている草も、裸にされた草場の上を舞っている隼《はやぶさ》も、――なにもかもが全然あたらしい感じであった。すっかりわれに返ったレーヴィンは、もうどれだけ刈ったか、これからまだどれだけの仕事ができるかと、思案しはじめた。
 四十二人の草刈り人夫にしては、驚くほどはかが行っていた。義務仕事([#割り注]地主のための奉仕労働[#割り注終わり])の時分には、三十|梃《ちょう》の鎌で二日かかっていた大きな草場を、もうすっかり刈り終っていた。残っているのは、わずかなすみずみだけであった。しかしレーヴィンは、今日じゅうにできるだけたくさん刈りたかったので、あまりにも早く傾きそめた太陽がいまいましかった。彼はいささかも疲労を感じなかった。ただ少しも早くできるだけたくさん、仕事がしたいばかりであった。
「どうだね、マーシキン・ヴェルフも刈ってしまおうじゃないか、おまえどう思う?」と彼は老人に話しかけた。
「さあ、どんなもんだかね、お日さまはもう高くねえで。まあ、みんなに酒手《さかて》でもやったら……」
 またおやつ[#「おやつ」に傍点]で、みんな坐りこんで、タバコなどふかしはじめた時、老人は一同にむかって、「マーシキン・ヴェルフを刈ったら、酒手が出るとよう」と披露した。
「なあん、刈らねえで! はじめれや、チート! ちゃっと片づけちまうべ! わしゃ夜だってか構やしねえ。はじめれや!」という声が起り、パンを食べ終ると、草刈りどもは仕事にかかった。
「さあ、皆の衆、しっかりやれや!」とチートはいって、ほとんど駆足で先頭をきった。
「行ったり、行ったり!」と老人はそのあとにつづいて、苦もなく追いつきながらいった。「足イ切るぞ! 気イつけれや!」
 こうして、若い者も年寄りも、競争のように刈っていった。が、いくら急いでも、彼らは草を台なしになどしなかった。刈られた草は、前と同じに規則ただしく、きれいに並んだ。片すみに残っていた一画は五分間に、片づけられた。しんがりの草刈りが自分の筋を刈り終らないのに、先頭の者どもは、長上衣《カフタン》を肩にひっかけて街道を横切り、マーシキン・ヴェルフヘ向った。
 一同がブリキ罐をがらがら鳴らしながら、マーシキン・ヴェルフの森の窪地へ入った時には、太陽は早くも木々の梢に傾いていた。窪地のまんなかあたりでは、草は腰ほどもあって、しなやかに柔らかく、ふさふさと茂って、森の中ではところどころ、継子菜《ままこな》がまじって、彩《いろどり》を添えていた。
 縦に刈ったものか横に刈ったものかと、ちょっと簡単な相談をしたのち、プローホル・エルミーリンが、先頭に立って刈りはじめた。これも名うての刈り手で、図体《ずうたい》の大きな、浅黒い顔をした百姓である。彼は一筋だけ先頭に立ったのち、ひっ返して脇へよけた、――で、一同はそれにつづいて、まず窪地を下って行き、それから森のふちまで登った。太陽は森の陰にかくれた。早くも露がおりそめて、草刈りが日光の中にあるのは丘の上だけで、水蒸気の立ち昇っている下の方や反対の側などでは、冷《ひん》やりと露っぽい陰の中を刈り進むのであった。仕事はすっかり脂《あぶら》が乗ってきた。
 みずみずしい音を立てて薙《な》ぎ払われながら、香ばしい匂いを放つ牧草は、高い畦《あぜ》をなして横たわった。短い距離の草場をひしめき合う草刈りたちは、ブリキ罐をがらがらいわせたり、鎌をかち合わせたり、しゅっしゅっという砥石《といし》の音を立てたり、楽しげな叫び声を上げたりしながら、あっちでもこっちでも、お互どうし競争していた。
 レーヴィンはやはり例の若い衆と、老人の間に立っていた。短い羊皮の上衣を着た老人は、相変らず浮きうきとして、冗談口ばかりたたき、相変らずすべての動作が自由であった。森の中では、みずみずしい草におおわれてふとった白樺茸《しらかばたけ》が、のべつ鎌にかかって切られるのであった。しかし、老人は茸《きのこ》に出くわすと、そのつどかがみこんで取りあげては、ふところにした。「また婆さまに土産《みやげ》ができた」これが彼の決まり文句であった。
 湿った柔らかい草を刈るのは、きわめて容易ではあったけれども、谷の嶮《けわ》しい斜面を登ったり降りたりするのは、なかなか骨の折れるわざであった。が、老人はそれにもへこまなかった。相変らず例の調子で鎌をふるいながら、大きな木の皮靴をはいた足を、しっかりと小股に運びながら、ゆっくりと急な坂を登って行った。全身をふるわせ、シャツより下にずりさがったももひきをふらふらさせてはいたけれど、途中、一筋の草も一本の茸ものがすことなく、同じような調子で、百姓どもやレーヴィンに冗談をいっていた。レーヴィンはそのあとにつづきながらも、こんな嶮しい坂は鎌なしでも登るに骨が折れるのに、まして鎌など持っていたら、必ず落ちるに相違ない、としょっちゅう心に思ったが、それにもかかわらず、彼はその坂を登って、すべきことをちゃんとしおおせた。外部の力が自分を動かしているように感じた。

[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]

 マーシキン・ヴェルフは刈り終えられた。人人は最後の幾筋かを仕上げたのち、長上衣《カフタン》を着こみ、にぎやかに家路へ向った。レーヴィンは馬に乗って、名残り惜しく百姓たちに別れを告げ、邸の方へ馬を進めた。丘の上でふり返って見たが、低地から立ち昇る霧のために、百姓たちの姿は見えなかった。ただ楽しげな荒《あら》っぽい話し声と、無遠慮な笑いと、鎌のぶつかりあう響きが聞こえるばかり。
 コズヌイシェフはとっくに食事をすまして、自分の部屋でレモン入りの氷水を飲みながら、たったいま郵便局から届いたばかりの新聞や、雑誌に目を通していた。そこヘレーヴィンが、乱れた髪を汗で額に粘《ねば》りつかせ、背中も胸も黒く濡れた仕事着のまま、楽しそうな声で話しかけながら、兄の部屋へ闖入《ちんにゅう》したのである。
「僕らは草場を一つ、すっかり刈りあげてしまいましたよ! ああ、実にいい、すてきだ! ところで、兄さんはどんなふうに日を暮しました?」昨日の不愉快な会話のことなどけろりと忘れて、レーヴィンはこういった。
「やっ、たいへんだ! おまえはまあ、なんてかっこうだい!」とコズヌイシェフは、最初の瞬間、なにか不満げに弟をじろじろ見ながらきいた。「それに、戸を、戸を閉めてくれよ!」と彼は叫んだ。「きっと十匹くらい入れたに相違ない」
 コズヌイシェフは蠅が大嫌いなので、自分の部屋の窓は夜でなければ開けず、戸はいちいち丹念に閉めるのであった。
「大丈夫、一匹も入りゃしませんでしたよ。もし入ってたら、僕がとります。兄さんは本当にできないでしょうね、あれがどんなにいい気持なものか! 兄さんは今日の一日をどうすごしました?」
「私もよかったよ。だが、本当におまえはいちんち草刈りをしたのかい? さぞ狼のように腹をへらしていることだろうな。クジマーがおまえのために、すっかりしたくをしてるよ」
「いや、僕は食べたくないんです。むこうで食事をしてきたから。それより、ちょっといって、体を洗ってきますよ」
「ああ、いってきなさい、いってきなさい。私もすぐおまえの部屋へいくから」小首をふりふり弟を見まわしながら、コズヌイシェフはこういった。「いきなさいったら、早くいきなさい」と彼はにこにこしながらつけ足して、本を一つに集めると、もう出ていくしたくをした。彼は自分まで急に愉快になって、弟と離れたくなくなったのである。「ときに、雨のあいだどこにいたね?」
「あれがなんで雨なもんですか! ちょっとぱらぱらっとしただけじゃありませんか。じゃ、僕すぐきますから。では、兄さんは気持よく一日をすごしたんですね? いや、けっこうです」とレーヴィンは着替えをして出ていった。
 五分ほどして、兄弟は食堂でいっしょになった。レーヴィンは、食事などしたくないような気がしたが、クジマーの気を悪くさせないためにテーブルにむかった。しかし、食べはじめてみると、食事がめちゃめちゃにうまいように思われた。コズヌイシェフはにこにこしながら、その様子を眺めていた。
「あっ、そうだ。おまえのとこへ手紙が来てるよ」と彼はいった。「クジマー、ご苦労だが、下から持って来てくれんか。だが、いいかい、戸をちゃんと閉めとくんだぞ」
 手紙はオブロンスキイから来たものであった。レーヴィンは声を立てて読んだ。オブロンスキイは、ペテルブルグからよこしたのである。
『僕はドリイから手紙を受け取った。あれはエルグショーヴォにいるのだが、なにもかもうまくいかないで困っている。お願いだから、出かけて行って、あれの相談相手になってくれないか、君はなんでもよく知っているのだから。あれも君に会えたら、どんなに喜ぶかしれやしない。かわいそうにたった一人ぼっちなんだよ。義母《はは》は家族づれで、まだ外国にいるのだ』
「こいつはいい、ぜひ行ってこよう」とレーヴィンはいった。「なんならいっしょに行きませんか。とてもいいひとですよ。そう思いませんか?」
「それはここから近いのかね?」
「三十露里、いや、あるいは四十露里もあるかな。でも、道がいいから、愉快な旅ができますよ」
「大いにけっこう」とコズヌイシェフは相変らず、にこにこしながらいった。
 弟の様子が何か直接に働きかけて、彼を楽しい気分にさせるのであった。
「それにしても、たいした食欲だなあ!」弟が皿の上に傾けている赤銅色に焼けた顔や、頸筋を見ながら、彼はこういった。
「すばらしいもんですよ! 兄さんは本当になさらないでしょうが、すべてくだらん考えを頭から追い出すのには、これこそ実に有効な療法ですよ。僕は一つ新しい術語を提供して、医学を豊富にしようと思いますよ、Arbeitscur(労働療法)」
「いやあ、おまえにはそんなもの必要がなさそうじゃないか」
「そう、しかしいろんな神経病患者にはね」
「そう、それは実験してみなくちゃならんよ。じつはね、私は草刈場へ行って、おまえの様子を見ようと思ったんだが、とてもやりきれない暑さなので、森から先へは行かずにしまったよ。で、しばらく腰かけていて、それから森づたいに村へ行ったところ、おまえの乳母に会ったので、百姓どもがおまえをどう見ているか、ちょっとさぐりを入れてみたんだよ。ところで、私の見たところでは、みんなああいうことには不感服らしいね。乳母は、『旦那がたのなさる仕事じゃありません』といったよ。概して、民衆の観念の中では、彼らのいわゆる『旦那がたの』仕事に関して、一定の要求がはっきり存在しているらしい。そこで、自分たちの観念で規定されている枠を、旦那がたが踏み出すのを、彼らは許そうとしないんだね」
「かもしれません。でも、あれはじつに愉快な仕事で、今まで一度も経験したことがないほどです。それに、なにも悪いことはないでしょう、ね、そうじゃありませんか?」とレーヴィンは答えた。「よしんば、彼らの気に入らないとしても、そりゃしかたがありませんよ。もっとも、僕はなんでもないと思いますがね。え?」
「まあ、概して」とコズヌイシェフはつづけた。
「私の見たところでは、おまえは今日の一日に、満足してるらしいな」
「大いに満足してますとも。僕らは草場を一つのこらず、刈りあげたんですからね。それに、一人のすばらしい老人と仲よしになったんです! どんなに愛すべき人間か、兄さんにゃ想像もつかないでしょう」
「じゃ、今日の一日に満足なんだね。私もご同様なんだよ。だいいち、私は将棋の問題を二つ解いたが、その一つはことにおもしろいやつでね、――まず歩《ふ》から始めるんだ。あとでやってみせよう。それから、われわれの昨日の話を考えてみたんだ」
「なんですって? 昨日の話?」さも幸福そうに目を細めて、食後のふとい息をつきながら、レーヴィンはこういったが、その昨日の話というのはどんなことだったか、とんと思い出せなかった。
「私も今では、おまえの考えが部分的には正しいと思うよ。われわれの意見の相違は、次の点にあるのだ。おまえはいっさいの動因を個人の利害とするのに、私は教養のある段階に立っている人間なら、だれしも一般的福祉の観念を有すべきだと考える、そこなんだよ。しかし、あるいはおまえの説も一理あって、物質上の利害から出た活動のほうが、いっそうのぞましいかもしれない。概しておまえの稟性《ひんせい》は、フランスのいわゆる〔primesautie`re〕(思い切りよさ)の度が過ぎるね。おまえが望むのは、はげしい精力的な活動か、しからずんば無なのだ」
 レーヴィンは兄の言葉を聞いていたが、まるっきり何一つわからなかったし、またわかろうとも思わなかった。ただ彼は兄に何か問いかけられて、自分が何も聞いていなかったことを暴露しはしないかと、それだけを恐れていた。
「そうなんだよ、コスチャ」とコズヌイシェフは、弟の肩にさわりながらいった。
「そうですとも、むろん。それに、なんですよ、僕はあえて自説を固持しやしませんよ」
 子供っぽい、さもすまないらしい微笑を浮べて、レーヴィンは答えた。『ええと、おれはいったいなんの議論をしたのだったっけ!』と彼は考えた。『もちろん、おれも正しければ、兄も正しい、そしてなにもかもけっこうなんだ。ただ事務所へ行って、ひととおり指図してこなくちゃ』
 彼は伸びをして、にこにこしながら立ちあがった。
 コズヌイシェフは同じように微笑した。
「おまえが行くのなら、私もいっしょに行こう」と彼はいった。見るからに新鮮の気と、溌剌《はつらつ》たる力を発散させている弟に、別れたくなかったのである。「行こう。そして、事務所へも寄ろう、もしおまえに必要だというなら」
「やっ[#「やっ」は底本では「やつ」]、たいへんだ!」ふいにレーヴィンは、コズヌイシェフがぎょっとするほど、大きな声で叫んだ。
「何、なんだね、おまえ?」
「アガーフィヤの手はどうなのかしら?」
 われとわが頭をたたきながら、レーヴィンはそういった。「僕あれのことをすっかり忘れていたっけ」
「ずっとよくなったよ」
「それにしても、ちょっとひと走り行ってこよう。兄さんが帽子をかぶる暇もないうちに、すぐ帰ってきますよ」
 そういうなり、彼は玩具《おもちゃ》のがらがらのように靴の踵を鳴らして、階段を駆け下りた。

[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]

 スチェパン・アルカージッチ・オブロンスキイが、およそ勤務しているものならだれでも承知しているきわめて自然な、そのくせ勤めていないものには不可解千万な義務、これをしなくては勤務が不可能なというほど必須《ひっしゅ》な義務、つまり、自分のことを忘れられないために本省へ顔出しするという義務を果すために、ペテルブルグへ出かけて行って、その義務遂行のために、有り金をほとんど全部家から持ち出し、競馬や別荘でおもしろおかしく日を暮している間に、ドリイはできるだけ経費を節約するために、子供らをつれて田舎へひっこんだ。彼女が引き移って行った先は、自分の持参金の一部であるエルグショーヴォ村であった。それはこの春、森を売ったところで、レーヴィンのペトローフスコエ村からは、五十露里離れていた。
 エルグショーヴォの古い大きな地主邸は、とくの昔に取りこわされて、ただ一軒の離れが、老公爵の手で修繕され、とりひろげられてあった。この離れは、すべての離れの常として、正面並木道に横を向けていて、南も外《そ》れてはいたけれども、まだ二十年もまえ、ドリイが子供だった時分から、ゆったりして住み心地がよかった。しかし、今ではこの離れも老朽状態であった。この春、オブロンスキイが森を売りに行った時、ドリイはよく家を見て、必要な修繕をさせるように頼んだ。オブロンスキイは、すべて悪いことをした良人の例に洩れず、妻のごきげんとりに一生懸命だったので、自分で家を点検したのち、必要と認めたことを残りなく処理してきた。彼の考えによる必要なことというのは、家具を全部|更紗《クレトン》で張り替え、窓にカーテンをかけ、庭を掃除し、池に小さな橋を架《か》け、花を植えることであった。が、彼はそのほかたくさん、なくてはかなわぬことを忘れていたので、そうした不備が、あとでドリイを悩ますこととなったのである。
 オブロンスキイは、よく気のつく父親となり良人となりたいと、自分ではずいぶんつとめていたのであるが、どうしてもおれは妻子のある人間だということを、頭に刻みこむことができなかった。彼には独身者の趣味があって、何ごともそれを標準にして行動した。モスクワへ帰ると、彼はさも得意げに妻にむかって、なにもかも準備はできた、まるで玩具のようにかわいい家だから、ぜひ行ってごらんと報告した。オブロンスキイにとっては、妻の田舎行きはあらゆる点で、大いに好都合なのだった。子供たちの体にもいいし、経費も節約できるし、自分もずっと自由がきく。ドリイのほうでも、夏の田舎行きは子供のために、ことに猩紅熱《しょうこうねつ》のあとがなかなかはっきりしない女の子のために、必要であるのみならず、彼女にとって苦痛の種である薪屋、魚屋、靴屋などのこまごました借金や、それにともなうつまらない屈辱感からのがれるためにも、必要なことであると考えていた。なおその上に、この田舎行きが彼女にうれしく思われたのは、妹のキチイを村の方へひっぱりよせようと、空想していたからである。キチイは夏の半ばに外国から帰ってくるはずであったが、医者から水浴を命じられていた。彼女は温泉場から手紙をよこして、わたしたち二人にとって、幼いころの思い出にみちているエルグショーヴォで、姉さんといっしょにひと夏くらすほどうれしいことはない、と書いているのであった。
 はじめしばらくの間は、田園生活もドリイにとって、ひどくつらいものであった。彼女は子供の時分、この村に暮したことがあるので、田舎はありとあらゆる都会生活の不快をのがれる避難所である、田舎の生活は優美でこそないけれども(この点ではドリイもすぐ妥協した)、そのかわり安直で便利である、物はなんでもあって、なにもかも安くて、なんでも手に入れることができ、子供たちの体にもいい、といったような印象が残っていた。ところが、いま主婦として田舎へ来てみると、いっさいがまるで予想と違っているのを発見した。
 着いた翌日、抜けるような雨が降って、夜中には廊下と子供部屋に雨漏りがしはじめたので寝台を客間へ移さなければならなかった。下の台所で働く女中がいないし、牝牛は九頭もありながら、家畜番の女の説明によると、あるものは孕《はら》んでいるし、あるものはまだ子牛同様だし、あるものは年をとり過ぎているし、またあるものは乳の出が悪くって、バタもなければ、子供たちに飲ます牛乳さえ足りない始末であった。卵もなかった。鶏も手に入らなかった。焼くのも煮るのも、紫がかった色をした、筋だらけの、年とった牡鶏なのであった。床を洗うのに女を雇おうと思っても、みんな馬鈴薯掘りに行ってまにあわない。馬車で散歩に出ることもできなかった。一頭きりの馬がじゃじゃばって、轅《ながえ》につけると暴れるのであった。水浴びをする場所もない、――川の岸はすっかり家畜に踏み荒らされて、街道からまる見えなのである。それどころか、ちょっと散歩に出ることもできなかった。垣根のこわれたところから家畜が庭へ入りこんで、その中には恐ろしい牡牛が一匹まじっていた。ものすごく唸るところからみると、きっと角で突くやつに相違ない。衣装をしまう戸棚もなかった。あるにはあっても、戸がよくしまらない。そばを通ると、ひとりでに開くという始末。釜も壺もなかった。洗濯用の罐《かん》もなければ、女中部屋にはアイロン台さえなかった。
 安静と休息のかわりに、彼女の目から見ると、こんな恐ろしい災難にぶっつかったので、ドリイははじめ絶望に陥ってしまった。一生懸命にやきもきしてみたが、その状態がどうにもならないことを痛感して、のべつ目に滲み出す涙をおさえるのであった。美しい上品な顔をしているので、オブロンスキイのお気に入り、玄関番から支配人に抜擢《ばってき》された軍曹あがりの男は、ドリイがいくら困っていてもいっこう同情を示そうとせず、ただうやうやしい調子で、「なんともいたしかたがございません、みんなしようのない手合いでございますからな」というだけで、何一つ力をかそうとしなかった。
 この状態は、救いのないもののように思われた。しかし、オブロンスキイ家には、すべて大家族の邸の例にもれず、目には立たないけれど重大な役割をつとめる、有益な人物が一人いた。それはマトリョーナ・フィリモーノヴナであった。彼女は奥さまを慰めて、今になにもかも丸くおさまりますよ[#「丸くおさまりますよ」に傍点]、と口癖のようにいい(これは彼女のおはこで、マトヴェイも彼女からそれを借用したのである)、自分はあわてず騒がず、仕事をつづけるのであった。
 彼女はすぐ支配人の細君と懇意になり、着いた当日、この女と亭主の支配人といっしょに、アカシヤの下でお茶を飲みながら、あらゆる問題を評議した。まもなく、このアカシヤの下に、マトリョーナのクラブができあがってしまった。支配人の細君と、組頭と、帳場の男を会員とするこのクラブを通して、やっかいな生活上の問題が、ぽつりぽつりと解決されていき、一週間もしたころには、本当になにもかも丸くおさまった[#「丸くおさまった」に傍点]のである。屋根は修理され、台所女中も見つかり(これは組頭の懇意にしている女であった)、鶏も買い入れ、牝牛も乳を出すようになり、庭には丸太囲いをし、料理台も大工につくらせ、戸棚には鍵をとりつけたので、もうかってに開かなくなった。兵隊ラシャをかぶせたアイロンの台は、肘椅子の腕木から箪笥《たんす》へかけ渡されて、女中部屋ではアイロンの匂いがするようになった。
「そら、ごらんなさいまし! いつも、だめだ、だめだ、といってらっしゃいましたけど」とマトリョーナは、アイロン台を指さしながらいった。
 麦わらで壁をつくった水浴小屋まで建てられた。ドリイは水浴をはじめた。こうして、ドリイにとって、おちつきこそないけれど、便利な田園生活にかけられた期待が、部分的ながらも実現された。六人の子供をつれたドリイには、おちつきなどということは望まれなかった。一人が病気にかかれば、また一人が病気しそうになってくる、一人に何か足りないことがあると、もう一人はよからぬ性質のきざしを示してくる。云々《うんぬん》といったふうで、おちついた気分になる時はほんの時たま、しかも間が短かった。しかし、こうした不安や心づかいが、ドリイにとっては、唯一の可能な幸福なのであった。もしこれがなかったら、彼女は自分を愛してくれぬ良人のことを、ひとりくよくよ考えていなければならなかったに相違ない。のみならず、子供が病気の場合を想像する恐怖、病気そのもの、よからぬ性質のきざしを発見した時の悲しみは、母親にとってたえ難いものではあるけれども、しかし今ではもはや、子供そのものがささやかな喜びをもって、彼女の悲しみを償ってくれるのであった。それらの喜びは、さながら砂の中の金のように、目立たぬほど小さなものであった。いやな時には、彼女はただ悲しみばかり、ただ砂ばかり見たが、調子のいい時には、ただ喜びばかり、ただ金だけを見るのであった。
 こんど田舎にひっこんでから、彼女はこの喜びを意識する度数が、しだいに多くなってきた。よく子供らを見ながら、彼女はありたけの努力をして、自分は子の愛に迷っている母親の欲目で、わが子を買いかぶっているのだ、といくら自分にいって聞かそうとしても、やっぱり自分の子は六人が六人ながらすばらしい、みんなそれぞれ趣きは違うけれど、類のないほどいい子供ばかりだ、とひとりごちずにはいられなかった。そして、自分を幸福に感じ、子供らを誇りとするのであった。

[#5字下げ]八[#「八」は中見出し]

 五月の終りごろ、もういっさいがどうにかこうにか整理がついた時、彼女は田舎の邸の不備を訴えてやった手紙に対して、良人から返事を受け取った。彼はその手紙で、万事に注意が行き届かなかった詫びをいい、都合のつきしだい、そちらへ行くと約束した。こんな都合などは、ちょっとつきそうになかったので、ドリイは六月の初旬まで、たった一人で田舎暮しをした。
 ペテロ祭週の日曜日に、ドリイは子供たち一同に、聖餐を受けさせるため、祈祷式に出かけた。ドリイは妹や母親や友だちなどと、しんみりした哲学的な話をするような時、宗教に関する自由主義的な考え方で、よく相手を驚かすことがあった。彼女は一種独特の、奇妙な輪廻《りんね》観をいだいていて、教会のドグマなどにはほとんどお構いなく、固くそれを信じていた。けれど、家庭の中では、単にみずから範を示すためばかりでなく、心底から真正直に、教会の要求を残らず厳重に実行した。で、子供らが一年近くも、聖餐を受けずにいるということが、気になってたまらないのであった。今度マトリョーナの賛成と同情を得て、夏ではあるが今それを済まそう、と決心したのである。
 ドリイは四五日前から、子供たちにどんな着物をきせようかと、思案をめぐらしていた。幾枚かの着物が新しく縫われたり、仕立てなおされたり、洗濯されたりした。縫いこみや襞《ひだ》が出され、ボタンがつけられ、リボンが工夫された。ただ、家庭教師のイギリス婦人が仕立を引き受けたターニャの着物だけが、ひどくドリイをやきもきさせた。イギリス婦人は、仕立てなおしをする時に、合わせ縫いを注文どおりの場所にせず、あんまり袖を出し過ぎたので、危くその着物を台なしにしてしまうところであった。ターニャは肩のところが窮屈で、見ても痛々しいほどであった。しかし、マトリョーナが機転をきかして、まちを入れたり、飾り襟をつけたりしたので、やっと取り返しがつきはしたものの、イギリス婦人とは、ほとんど喧嘩にならないばかりであった。しかし、当日の朝は、なにもかもうまくおさまって、九時ごろには、――それまで神父に、祈祷式を待ってもらうように頼んでおいたのである、――今日を晴れと着飾った子供たちが、喜びに照り輝きながら、母親が出てくるのを待って、入口階段の馬車の前に立っていた。
 馬車には、暴れ癖のあるヴォロンの代りに、マトリョーナの肝煎《きもいり》りで、支配人の栗毛がつけられた。自分の身じまいで手間どったドリイは、白い紗《しゃ》の着物をきて、馬車のところへ出てきた。
 ドリイはいろいろと心をつかって、わくわくしながら、髪を結《ゆ》ったり、着物をつけたりした。もと彼女は、美しくなり、人の気に入られようと思って、自分自身のために化粧したものである。その後、年をとるにしたがって、だんだん身じまいをするのがいやになってきた。自分ながら器量の落ちたことがわかったのである。しかし、今ではまた、身じまいをするのに満足を感じ、わくわくするようになった。今の彼女の身じまいは自分のため、自分を美しくするためではなく、ただかわいい子供たちの母親として、全体の印象を傷つけないためであった。で、最後にもういちど姿見をながめた時、彼女は自分の様子に満足した。彼女は美しかった。しかしその美しさは、かつて彼女が舞踏会などで美しくありたいと望んだような、そういう種類のものではなかったけれども、いま彼女がいだいている目的にかなった美しさであった。
 教会には、百姓や、宿屋の亭主や、その女房連よりほか、だれもいなかった。けれどもドリイは、子供たちや自分が彼らに呼び起した感嘆の色を見てとった、少なくとも、見てとったような気がした。子供たちは、はなやかな着物をまとった姿が美しかったばかりでなく、行儀のいいところが愛らしかった。もっとも、アリョーシャの態度は、申し分なしとはいえなかった。のべつぐるぐる身をくねらせて、自分の上衣の背中を見ようとするのであった。しかしそれでも、この子は並はずれてかわいかった。ターニャはおとなびた様子で、小さい弟や妹を見てやっていた。ところで、末娘のリリイは、何を見ても無邪気な驚きを示すところが、なんともいえぬほど愛らしくて、聖餐を受けてから、“please some more”(どうかもう少し)といった時などは、思わずほほえまずにはいられないくらいであった。
 子供たちは家へ帰る道々、何か荘重なことが行われたのを感じたらしく、ひどくおとなしかった。
 家へ帰ってからも、万事ぐあいよくいった。ただ朝の食事の時、グリーシャが口笛を吹きだした。しかし、何より悪いことには、イギリス婦人のいうことを聞かないで、とうとうお菓子がもらえないことになってしまった。もしドリイがその場にいあわせたら、こういう日に罰を与えたりなどさせなかったに相違ない。しかしイギリス婦人の処置を支持しないわけにはいかないので、その決定に裏書をし、グリーシャにはお菓子をやらないことにした。これがいささか一同の歓びをそこなった。
 グリーシャは泣きなき、ニコーレンカだって口笛を吹いたのに、あのとおり罰を受けないですんでいるじゃないか、僕はお菓子がもらえないから泣くんじゃない、――そんなことはどうだってかまやしない。ただ片手落ちたことをされるのがくやしいのだ、といった。それはあまり情ないことだったので、ドリイはイギリス婦人と談合したうえ、グリーシャをゆるしてやろうと肚《はら》をきめ、彼女の部屋へ足を向けた。ところがその時、広間を通り抜けようとして、ふと目にとまった光景は、思わず目頭に涙がにじむほどの喜びで、彼女の胸をいっぱいにしたので、彼女はもう自分の独断で、幼い罪人をゆるしてしまった。
 罰せられた少年は、広間のすみの窓じきりに腰かけてい、そのそばには、ターニャが皿を持って立っていた。お人形にご馳走してやるというのを口実にして、彼女は自分の菓子を子供部屋へ持って行くように、イギリス婦人から許可をもらい、そうするかわりに、弟のとこへ持っていったのである。自分に加えられた罰の不公平なことをいって泣きつづけながら、グリーシャは持ってきてもらった菓子を食べていた。そして、泣きじゃくりの間々に、「姉さんもお食べよ、いっしょに食べようよ、……いっしょに」というのであった。
 はじめターニャは、グリーシャをかわいそうと思う気持だけであったが、やがて自分の善行を意識する心が動き出したので、自分まで目に涙をためてしまった。けれど、弟の申し出をこばまないで、自分も菓子を食べるのであった。
 母の姿を見ると、二人はぎょっとしたが、その顔の表情を見分けて、自分たちはいいことをしているのだと合点すると、きゃっきゃっと笑いだし、口にお菓子をいっぱいほおばったまま、微笑にほころびる唇を両手でこすりはじめたので、二人の喜びに輝く顔は、涙とジャムでめちゃめちゃになってしまった。
「あれまあ※[#感嘆符二つ、1-8-75] 新しい白い着物が! ターニャ! グリーシャ!」子供の着物を汚すまいとつとめながらも、涙のにじんだ目にさも幸福そうな歓喜を浮べて、母親はこういった。
 新しい着物は脱がせられて、女の子にはブラウス、男の子には古い上衣が着せられた。そして、馬車のしたくが命ぜられた――またもや栗毛がつけられて、支配人をがっかりさせた。それは茸《きのこ》とりに行き、水浴びをするためであった。子供部屋には、どっとばかり歓喜の叫びが起って、その騒ぎは、水浴びに出発する時までやまなかった。
 茸は籠にいっぱいとれた。リリイまでが白樺|茸《たけ》を見つけたほどである。もとはたいていミス・グルーが見つけて、それをリリイに見せたものであるが、今度はリリイが自分で、大きな白樺茸を見つけたのである。で、一同は声を揃えて、「リリイが茸を見つけた!」と歓呼の声を上げた。
 それから川の方へ行って、馬車を白樺の木陰にとめ、水浴び小屋の方へ行った。馭者のチェレンチイは、尻尾で虻《あぶ》を追う馬を立ち木につないだあと、草を踏み柔らげて、白樺の木陰に大の字になり、安タバコをふかしはじめた。水浴び小屋からは、子供らの楽しげな金切り声が、たえず彼の耳まで流れてきた。
 おおぜいの子供を監督してそのいたずらを止めるのはやっかいなことだったし、大きさのまちまちなたくさんの靴下や、ズボンや、靴などを、いちいち覚えていて混同しないようにし、紐やボタンをといたり、はずしたり、また結んだり、はめたりするのは、なかなか容易なことではないけれども、ドリイは常づね自分でも水浴びが好きで、子供たちのためにもなると考えていたので、子供たちといっしょに水浴びするほど、楽しいことはなかった。あのふっくらした小さな足をいじって、それに靴下をはかせたり、丸裸の体を両手に抱いて水に浸けたり、ときにはうれしそうな、ときにはおびえたような叫び声を耳にしたり、半ば怖《こわ》そうな、半ば楽しげな目を大きく開けて、息を切らしている顔を見つめたり、水をばちゃばちゃはねかえしている天使のような姿を眺めたりするのは、彼女にとって何より大きな喜びであった。
 もう子供たちが半分がた着物をきせられたころ、薬草取りに行ってきた晴着姿の百姓女が幾人か、水浴び小屋のそばに近よって、臆病そうに足をとめた。マトリョーナは、水に落した大タオルとシャツを乾《ほ》させようと思って、その中の一人に声をかけた。そこでドリイは、女房たちを相手に話をはじめた。女房たちははじめのうち、何をきかれているのかわからないで、手で口に蓋《ふた》をしながら笑っていたが、やがてまもなく度胸がついて、心おきなく話すようになったが、心の底から子供たちに見とれている様子が、ありありと見えたので、ドリイはたちまちこの女たちが気に入ってしまった。
「あれ、まあ、なんて別嬪《べっぴん》さんだか、色の白いこと、まるで砂糖でこせえたようだ」と一人がターネチカに見とれて、首をふりふりそういった。「でも、やせてるねえ……」
「ああ、病気したもんだから」
「あれ、まあ、この子も水に入れなさっただか?」ともう一人が乳呑児をさしていった。
「いいえ、これはまだ生れて三月にしかならないんだもの」とドリイは誇らしげに答えた。
「あれ、まあ!」
「おまえにも子供があるの?」
「四人でござえましたが、二人になっちめえましたよ、男と女と。下のほうはこの前の謝肉祭《カーニバル》に乳離れしましただ」
「いくつになるの?」
「へえ、数え年の二つでごぜえます」
「どうしてそんなに長く乳を飲ませるの?」
「わしらのしきたりで、お精進三度ちゅうことになっておりますが……」
 こうして話は、ドリイにとって何よりの興味のある問題に移っていった、――どんなふうにお産をしたか? 子供の病気は何か? 亭主はどこにいるか? しょっちゅう帰ってくるか?
 ドリイは、この女房たちと別れて帰りたくなかった。その話は彼女にとって実におもしろく、その興味は全く同じなのであった。ドリイの身にして何より気持よかったのは、これらの女房たちが揃いも揃って、彼女がたくさんの子持で、しかもみんな器量よしなのに感心しているのが、まざまざと見えていたからである。女房たちはドリイを笑わせたが、同時にイギリス夫人を怒らせた。というのはミス・グールが、自分にとって不可解な笑いの原因となったからである。一人の若い女房が、いちばんあとで着物をきているイギリス婦人を、まじまじとながめていたが、ミス・グールが三枚目のスカートをはいた時、とうとうがまんしきれないで、「あれまあ、巻きつけること、巻きつけること、いくらでも際限がねえだ!」といったので、一同はどっとばかり笑いくずれたのである。

[#5字下げ]九[#「九」は中見出し]

 水浴びでまだ頭の濡れている子供たちにとり囲まれながら、頭を布でくるんだドリイが、もう家の近くまで来た時、馭者がいいだした。「どこかの旦那が歩いてみえる。どうやらポクローフスコエの旦那らしい」
 ドリイは前の方を見すかしたが、鼠色の帽子に鼠色の外套を着た見覚えのあるレーヴィンが、むこうからやってくる姿を見かけて、うれしくなってしまった。彼女はいつもレーヴィンが好きだったが、今はこういう光栄に包まれた場面を見てもらえるのだと思うと、ことにうれしかったのである。レーヴィン以上に、彼女の偉大さを理解してくれるものはほかになかった。
 彼女を見た時、レーヴィンはかねて想像に描いていた、未来の家庭風景の一つに直面する思いであった。
「あなたはまるで雛《ひな》をつれた牝鶏みたいですね、ダーリヤ・アレクサンドロヴナ」
「ああ、なんてうれしい!」と彼女は手をさしのべながらいった。
「うれしいなんていいながら、知らせて下さらないんですからね。僕のところには、いま兄が逗留《とうりゅう》していますよ。実はスチーヴァから手紙をもらって、あなたがここにいらっしゃることを知ったのです」
「スチーヴァから?」とドリイは驚いたように問い返した。
「ええ、あなたがここへ引き移られたことを、知らせてよこしたのです。そして、僕が何かあなたのお役に立つかもしれない、と考えているらしいのです」とレーヴィンはいったが、そういってしまってから、急にどぎまぎして、ぷつりと言葉を切り、菩提樹《ぼだいじゅ》の若いひこばえをむしっては食い切りながら、無言のまま、馬車のそばについて歩きつづけた。彼がどぎまぎしたわけは、良人のすべき仕事に他人の助力を受けるのは、ドリイにとって不快だろうと想像したからである。事実、ドリイは家庭内の用事を他人におしつけるという、このスチーヴァのやり口が気に食わなかった。そして彼女はすぐさま、レーヴィンにはそれがわかっているのだと悟った。この思いやりの細かなところ、神経のデリケートなところ、それがドリイのレーヴィンを愛するゆえんであった。
「僕はもちろん」とレーヴィンはいった。「それはただ、あなたが僕に会いたがっていらっしゃる、という意味にすぎないと察しましたよ。そして、大いに愉快なのです。いうまでもなく、都会の婦人であるあなたからみると、ここはさぞ殺風景に思われるでしょうが、もし何か用があれば、喜んでお役に立たしてもらいます」
「いいえ、どういたしまして!」とドリイはいった。「はじめのうちは不自由でしたけれど、うちのばあやのおかげで、今じゃなにもかもりっぱに整いましたわ」と彼女は、マトリョーナをさしながらいった。こちらは自分のことを話しているのを察して、にこにことさも親しげにレーヴィンに笑顔を向けた。彼女はレーヴィンを知っていたばかりでなく、彼が小さいお嬢さまに似合いの花婿であることも知っており、その話がまとまることを望んでいたのである。
「どうぞお乗りあそばせ、わたくしどもはこっちのほうへ詰めますから」と彼女はレーヴィンにいった。
「いや、僕は歩いて行くよ。さあ、子供たち、だれか僕といっしょに、馬と競走するものはないかい!」
 子供たちはあまりよくレーヴィンを知らなかったし、いつ会ったかも覚えていなかったが、しかし大人がわざとらしいお愛想をいうときに、よく子供たちが心にいだく妙なはにかみと、嫌悪の色を示さなかった。そういうわざとらしさは、しばしば子供たちから、手痛い罰を食わされるものである。何ごとによらず空《そら》をつかう人間は、きわめて聡明な洞察力に富んだ相手を、まんまとだましおおせることもあるが、子供はどんなに知恵の足りないものでも、この上なく巧妙に偽装された仮面をもすぐに見分けて、そっぽを向いてしまうものである。ところがレーヴィンは、たとえどんな欠点があるにしても、仮面《めん》かぶりの性質ばかりは影すらもなかったので、彼らは母の顔にみとめたのと同じ親愛感を、レーヴィンに対して示したのである。彼の招きに応じて、上の二人はすぐさま馬車を飛びおりて、彼のそばへいき、まるで相手が保姆《もり》か、ミス・グールか、それとも母親ででもあるように、平気で彼といっしょに駆け出した。リリイもそちらへいくとせがみだしたので、母親は彼に娘を手渡しした。彼はリリイを肩車に乗せて、そのまま駆け出した。
「心配なさらないで、心配なさらないで、ダーリヤ・アレクサンドロヴナ!」と彼は母親に楽しげな笑顔を見せながら、そういった。「ぶっつけたり、落したりする気づかいはありませんから」全く、彼の器用そうな、力強い、注意の行き届いた、一生懸命に緊張した動作を見ると、母親もすっかり安心して、彼の方を眺めながら、けっこう、けっこうというように、晴れやかにほほえむのであった。
 この村へ来て、子供らにとりまかれ、感じのいいドリイと話しているうちに、レーヴィンはよくあることながら、子供らしく快活な気分になってきた。ドリイもまた、彼のこういうところが特に好きなのであった。子供らといっしょに走りながら、彼はみんなに体操を教えたり、まずい英語でミス・グールを笑わしたり、自分が田舎でやっていることを、ドリイに話して聞かせたりした。
 食後、ドリイは彼とさしむかいでバルコンに腰をかけ、キチイのことをもちだした。
「あなたごそんじ? キチイがやがてここへ来て、ひと夏中わたしといっしょに暮すことになっていますのよ」
「本当ですか?」思わずかっとなって、彼はこういったが、すぐに話題を変えるために、「じゃ、牝牛を二頭こちらへ届けましょうか? もし勘定をきちんとしたいとおっしゃるなら、月五ルーブリずつ払っていただきましょう。あなたのほうで気恥ずかしくなかったらですよ」
「いいえ、ありがとうございますが、わたしのほうも万事ととのいましたから」
「ははあ、それじゃお宅の牝牛を拝見しましょう。もしご異存がなければ、飼い方も僕が指図しましょうよ。これはもう餌のやりかた[#「やりかた」は底本では「やりたか」]ひとつですからね」
 レーヴィンは話をほかへもっていくために、乳牛飼養の理論をドリイに述べたてた。それはほかでもない、牝牛は要するに、飼葉《かいば》を牛乳に変化させる機械にすぎない、云々《うんぬん》というのであった。
 彼はそんな話をしながらも、キチイの詳しい消息が聞きたくてたまらなかったが、同時にそれが怖いような気もした。あれほど苦労して獲得した安穏をくずされるのが、怖かったのである。
「ええ、ですけど、それにはいちいち気をつけて監督する人がいるでしょう、いったいだれがそれをするんですの?」ドリイは気のない調子で答えた。
 彼女は今マトリョーナの働きで、自分の家政を整えたので、もう何一つ変更したくなかったのである。それに彼女は、レーヴィンの農事上の知識を信用していなかった。牝牛は牛乳製造の機械だという彼の説も、うさんくさく思われた。そういう種類の説は、ただ農場の仕事を妨げる恐れがあるにすぎない、というふうに思われるのであった。彼女の目から見ると、それはすべてはるかに単純なものであって、マトリョーナが説明したように、ペストルーハやベロバーハに、飼秣《かいば》やふすまの溶《と》き水をやることであり、料理人が台所の汚れた洗い水を、洗濯女の牝牛に飲ませないようにすることである。それはわかりきったことであった。粉類の餌がどうとか、草の飼秣《かいば》がどうとかいう理屈は、はっきりしなくってうさんくさい。それにだいいち、彼女はキチイのことが話したかったのである。

[#5字下げ]一〇[#「一〇」は中見出し]

「キチイが手紙をよこしましてね、世間を離れて静かに暮したい、それよりほかに望みはない、と申しているんですのよ」ややしばらく沈黙ののち、ドリイはこういいだした。
「どうです、あのひとの健康は、いいほうなんですか?」とレーヴィンは、胸をわくわくさせながらたずねた。
「おかげさまで、すっかり快《よ》くなりましたの。あの子が胸の病だなんて、そんなことはわたし一度だって、本当にしたことがありませんわ」
「ああ、僕は本当にうれしいです!」とレーヴィンはいった。彼がそういって、言葉もなくドリイをながめた時、彼女は何か涙ぐましいほどたよりない表情が、その顔に浮んだように思われた。
「ねえ、コンスタンチン・ドミートリッチ」持ち前の善良な、いくらか嘲りの影をおびた微笑を浮べながら、ドリイはこういった。「あなたはなんのために、キチイに腹をたてていらっしゃいますの?」
「僕ですか、僕は腹なぞたてちゃおりませんよ」とレーヴィンは答えた。
「いいえ、腹をたてていらっしゃいますわ。じゃ、この前モスクワヘいらした時、なぜわたしどもへも、キチイのとこへも、寄って下さいませんでしたの?」
「ダーリヤ・アレクサンドロヴナ」髪の根もとまで赤くなりながら彼はいった。「僕は意外なくらいですよ、どうしてあなたのような優しい心をもったかたが、それをお感じにならないか。どうして僕を単純に、かわいそうだと思って下さらないんでしょう。だって、あなたはごぞんじなんでしょう……」
「わたしが何を知ってるんでしょう?」
「僕が申しこみをして、拒絶されたことをごぞんじのはずです」とレーヴィンはいい放ったが、つい一分前までキチイに対して抱いていた優しい感情が、たちまち彼の心中で、侮辱に対する憤りの念に変ってしまった。
「わたしが知ってるって、どうしてそうお思いになりまして?」
「それは、みんなが知っているからです」
「いいえ、それはあなたのお考え違いよ。わたしそんなことは知りませんでしたわ、もっとも、察してはいましたけれど」
「ああ、そうですか? じゃ、これでご承知になったわけです」
「わたしはただね、何かあったために、あの子がひどく苦しい思いをしたということと、あの子がその話は二度といいだしてくれるなとわたしに頼んだこと、ただそれだけしか知りませんでしたわ。あの子は、わたしにさえ話さなかったくらいですから、ほかの人にも話さなかったにきまっています。でも、あなたがたの間に、いったいどんなことがあったんでしょう? 聞かせていただけませんかしら」
「それはもうお話しました」
「いつですの?」
「僕がいちばん最後にお宅へ伺った時です」
「ねえ、わたし申しあげますけど」とドリイはいった。「わたしあの子がかわいそうなんですの、かわいそうで、かわいそうで、たまりません。あなたは、ただ自尊心で苦しんでらっしゃるだけですけど」
「かもしれません」とレーヴィンは答えた。「しかし……」
 彼女はそれをさえぎった。
「でも、わたしあの子がかわいそうなんですの、今となってみると、なにもかもすっかりわかるんですもの」
「ダーリヤ・アレクサンドロヴナ、失礼ですが」と彼は席を立ちながらいった。「お暇します、さようなら、ダーリヤ・アレクサンドロヴナ」
「いけません、待って下さいな」と彼女は相手の袖を捉えながらいった。「ちょっとお待ちになって、まあ、お掛けなさいまし」
「どうぞお願いです、この話はしないことにしましょう」と彼は腰をおろしながらいったが、同時に、いったん葬られた希望が、また胸の中で頭をもちあげて、そろっと動き出すような気がした。
「もしわたしがあなたってかたを好きでなかったら」とドリイはいったが、その目には涙が浮んだ。「もしわたしがこのとおり、あなたをよく存じあげていなかったら……」
 もう死んだものと思っていた感情が、次第しだいによみがえってきて盛りあがり、レーヴィンの胸いっぱいになりそうであった。
「ええ、今こそわたし、なにもかもわかりました」とドリイはつづけた。「あなたにはこんなこと、とてもおわかりにならないでしょうね。あなたがたは、自由な立場にいて、ご自分で選択なさる殿方は、自分がだれを愛してるかってことを、いつだってはっきりご承知でいらっしゃいます。けれども、年ごろの娘ってものは、待ち受ける立場にいて、おまけに処女の羞恥心というものもありますし、男の人を遠くのほうから見ているばかりで、なんでも言葉どおりに信じてしまいますからねえ、――そういう娘にしてみると、自分でもなんといっていいかわからないような感情をいだくこともよくありますわ」
「そう、しかし心が響きを立てなければ……」
「ええ、そりゃ心は響きを立てます。でも、まあ、考えてごらんなさいまし。あなたがた殿方は、ある娘に目をおつけになると、その家へ出入りをして、当人と接近したうえ、ご自分の好きなものが発見されるかどうか、十分見きわめをおつけになったあとで、いよいよ自分は愛していると確信ができたら、申しこみをなさるでしょう……」
「さあ、そうとばかりもいえませんが」
「そんなこと、どっちだって同じですわ。こうして、ご自分の愛が熟するか、二つの対象の間で天秤が一方へさがるかした場合、あなたがたは申しこみをなさるのです。娘のほうの気持なんか、たずねてみもしません。娘も自分で選ぶべきだと申しますけれど、娘は選ぶことなんかできません、ただ『ええ』とか、『いいえ』とか答えるばかりですわ」
『そうだ、おれとヴロンスキイとの両|天秤《てんびん》だったんだ』とレーヴィンは考えた。と、彼の心中によみがえりかけていた亡霊はふたたび死んでしまって、ただ悩ましいほど胸をおしつけるのであった。
「ダーリヤ・アレクサンドロヴナ」と彼はいった。「それは着物とかなんとか、そういう買物を選ぶのと同じことで、愛の選択じゃありません。とにかく選択はすんでしまったのです。それで結構です……もう取り返しはつきません」
「ああ、誇りなんだわ、誇りなんだわ!」とドリイはいったが、それは女のみが知っている別種の感情と比べて、相手の持っているこの感情の卑しさを、さげすむような調子であった。
「ちょうどあなたがキチイに申しこみをなすった時、あの子はご返事ができないような状態にいたんですわ。あの子の心には動揺が起っていたのです。あなたか、ヴロンスキイか、という動揺がね。あの子は、ヴロンスキイには毎日会っていましたけれど、あなたには長いことお目にかからなかったでしょう。もしかりに、あの子がもっと年をとっていたら……たとえば、わたしがあの子の立場に立っていたとすれば、そこに動揺なんかありえなかったんですけど、わたしあの男はいつも虫が好かなかったのですが、やっぱりああいうことになってしまいました」
 レーヴィンはキチイの答えを思い出した。彼女は、いいえ、それはできないことですわ[#「いいえ、それはできないことですわ」に傍点]、といったのである。
「ダーリヤ・アレクサンドロヴナ」と彼はそっけない調子でいった。「僕はあなたのご信頼をありがたいとは思いますが、でも僕の考えでは、あなたは考え違いをしていらっしゃいます。僕の態度が正しいにしろ、まちがっているにしろ、あなたがそうして軽蔑していらっしゃるその誇りが、カチェリーナ・アレクサンドロヴナに関するいっさいの考えを、僕にとって不可能なものにするのです……おわかりですか、絶対に不可能なのです」
「わたしはただこれだけのことを申しましょう。おわかりでもありましょうが、わたしはわが子同様に愛している妹の話をしているのでございます。わたしはね、あの子があなたを愛していたとは申しませんが、あの時あれがお断りしたのは、別段なんの証明にもならないってこと、ただそれだけ申しあげたかったんですの」
「僕にはわかりません!」とレーヴィンはおどりあがりながらいった。「あなたは僕にどんな苦しみを与えていらっしゃるか、それがご自分にはおわかりにならないのですか※[#疑問符感嘆符、1-8-77] これはたとえていえば、あなたの赤ちゃんが死んだのに、あの子はこうだった、ああだった、いま生きていたら、あなたはそれを見てさぞお喜びになるでしょう、などと人からいわれるのと同じことですよ。ところが、赤ちゃんは死んでしまったのです、死んでしまったのです……」
「あなたはなんておかしなかたでしょう」沈んだ薄笑いを浮べてレーヴィンの興奮を見ながら、ドリイはこういった。「ああ、わたしもこれでだんだんとよくわかってきましたわ」と彼女は考え深そうにつづけた。「じゃ、キチイが来ても、うちへいらしては下さいませんね?」
「ええ、まいりません。もちろん、僕はカチェリーナ・アレクサンドロヴナを避けたりなんかしませんが、しかしできる限りは、僕なんかが同席して、あのひとに不快な目をさせることのないようにつとめますよ」
「あなたは本当に、本当におかしなかたね」とドリイは優しい目つきで、相手の顔に見入りながら、くり返した。「じゃ、よろしゅうございます、この話はなかったことにいたしましょう。ターニャ、何しにきたの?」そこへ入ってきた女の子に、ドリイはフランス語でこういった。
「あたしのシャベルどこにあるの、ママ?」
「ママはフランス語でお話してるでしょう、だからあんたもそうしなくちゃだめよ」
 女の子はいおうとしたけれども、フランス語でシャベルをなんというのか忘れてしまった。母親はそばから教えてやったあと、どこでそのシャベルを探したらいいか、同様にフランス語でいった。レーヴィンにはそれが不快に思われた。
 今は、ドリイの家にしても、その子供たちにしても、もう前ほど魅力がなくなったような感じであった。『それに、なんだって子供相手に、フランス語なんか使うんだろう?』と彼は考えた。『じつに不自然で、真実味がない! 子供たちだって、それを感じている。フランス語を教えることは、真実性を殺すことだ』と彼は肚《はら》の中で考えたが、その実、ドリイもこの問題を、ものの二十ぺんも思案したあげく、真実性を犠牲にしても、この方法で子供たちを教育することを、必要と認めたのを、彼は知らなかったのである。
「まあ、どこへいらっしゃるんですの。もう少しお待ちになって」
 レーヴィンはお茶の時まで残ることにしたが、楽しい気分はなごりなく消えてしまって、彼は妙にばつが悪かった。

 茶をすましてから、レーヴィンは馬車のしたくをいいつけるために、控室まで出ていったがひっ返してみると、ドリイは何か興奮して、顔色も普通でなく、目には涙さえたたえているのであった。レーヴィンが部屋を出た時、ドリイにとって突如きょう一日の幸福と、子供たちについていだいている誇りを、一挙にして崩壊さすような出来事が起ったのである。グリーシャとターニャが毬《まり》のことで喧嘩をして、子供部屋の叫び声を聞きつけたドリイが部屋から駆け出していってみると、二人は恐ろしい形相《ぎょうそう》をしていた。ターニャはグリーシャの髪の毛をひっ掴んでいるし、グリーシャは憤怒のあまり顔をひん曲げて、ところ嫌わず拳固で撲りつけていた。これを見た時、ドリイの胸の中で、何かがちぎれたような気がした。それは、彼女の人生に、闇がおおいかぶさってきたような感じであった。自分があれほど誇りにしていた子供らも、ごくありふれた子供どころか、粗暴な野獣的傾向をもった、教育を誤った、よくない意地悪の子供であることを、彼女は忽然《こつぜん》として悟ったのである。
 彼女はほかのことなど、何一つ話すことも考えることもできず、レーヴィンに自分の不幸を物語られずにいられなかった。
 レーヴィンは、彼女が不幸なありさまでいるのを見て、それは何も悪い性質を証明しているのではなく、子供はだれでも喧嘩するものだといって、彼女を慰めようとした。が、そういいながらも、レーヴィンは心の中でこう考えた。
『いや、おれは変な気どりをやめて、子供たちとフランス語をしゃべったりなんかしまい。しかし、おれの子供はあんなふうのと違うんだ。ただ子供をスポイルしないように、不具にしないようにするんだ、そうすればすばらしい子供ができる。そうとも、おれの子供はあんなふうじゃない』
 彼は別れを告げて立ち去った。彼女もそれを止めようとしなかった。