『アンナ・カレーニナ』1-21~1-34(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]二一[#「二一」は中見出し]

 大人たちのお茶の時間になると、ドリイは自分の部屋から出てきた。オブロンスキイは姿を現わさなかった。きっと妻の居間を裏口からぬけだしたに相違ない。
「わたしね、二階じゃあんた寒くないかと思って」ドリイはアンナに話しかけた。「あんたを階下《した》へ移してあげようと思うのよ。そしたらおたがいに近くなるでしょう」
「ああ、もうお願いですから、わたしのこと心配しないでちょうだい」ドリイの顔をじっと見つめて、仲直りができたかどうか見きわめようとつとめながら、アンナはそう答えた。
「でも、ここのほうが明るいでしょう」と嫂はいった。
「わたしそういったでしょう、わたしはいつでもどこにいても、野ねずみ[#「野ねずみ」に傍点]みたいによく眠るって」
「それはなんの話だね?」書斎から出てきたオブロンスキイは、妻にこう話しかけた。
 その声の調子によって、キチイもアンナも仲直りができたのだなと察した。
「わたしアンナの部屋を階下《した》に変えようと思うんですけど、窓掛をとりかえなくちゃなりませんの。だれもちゃんとできるものがないから、けっきょく、自分でしなくちゃなりませんわ」とドリイは良人にむいてそういった。
『おや、ほんとうの仲直りができたのかしら?』彼女の冷やかなおちついた調子を聞きつけて、アンナは肚の中でこう思った。
「ああ、およしよ、ドリイ、いつも面倒なことを自分でするなんて」と良人はいった。「ねえ、なんならおれがすっかりなおしてやるよ……」
『ああ、きっと仲直りしたんだわ』とアンナは思った。
「あなたのなんでもしてやるは、わかってますわ」とドリイは答えた。「いつもマトヴェイにできもしないことをいいつけて、ご自分はさっさと出ておしまいになるもんですから、マトヴェイはなにもかもごっちゃごちゃにするんですわ」ドリイがそういったとき、癖になったさげすむような薄笑いが唇の両すみをゆがめた。
『完全な仲直り、それこそほんとうに完全な』とアンナは考えた。『ありがたいことだ!』自分がそのきっかけになったことをうれしく思いながら、彼女はドリイに近づいて接吻した。
「とんでもない。どうしておまえはおれとマトヴェイをそう軽蔑するんだね?」とオブロンスキイはあるかなきかの微笑を浮べて、妻の方へふりむきながらいった。
 その晩は、いつものごとく、ドリイは良人にたいして、ずっと軽い冷笑の態度をとっていたが、オブロンスキイは満足のていで浮きうきしていた。しかし、赦されたために自分の罪を忘れた、というそぶりを見せぬ程度にしていた。
 九時半ごろ、オブロンスキイ家の茶のテーブルを囲んで行われていた、特に喜ばしく楽しい夜の家庭|団欒《だんらん》は、一見したところきわめて平凡な出来事で破られた。しかし、この平凡な出来事が一同にはなぜか奇妙に思われたのである。みんなに共通のペテルブルグの知人の噂をしている途中、アンナはそそくさと立ちあがった。
「あのかたの写真、わたしのアルバムの中にありますわ」と彼女はいった。「それから、ついでにうちのセリョージャもお目にかけますから」と彼女は誇らかな母親らしい微笑とともにつけたした。
 いつも十時ごろになると、彼女はわが子と夜のお別れをする習わしであったし、舞踏会などへ出かけるときには、その前に自分でちゃんと寝かしつけたものである。いま彼女はこんなにも遠くわが子から離れているのが物悲しくなり、なんの話をしていても、ややともすれば思いは捲毛《まきげ》のふさふさしたセリョージャのほうへ飛んでいくのであった。彼女はわが子の写真を見、その話がしたくなったのである。ちょっとした話のいとぐちを口実に、彼女は席から立ちあがり、いつもの軽いしっかりした足どりで、アルバムをとりにいった。彼女の部屋へ通ずる階段は、玄関の大階段の踊り場から分れていた。
 彼女が客間から出たとき、控室でベルの音が聞えた。
「いったいだれでしょうね?」とドリイがいった。
「あたしのお迎いにしちゃ早すぎるし、だれかの訪問にしては遅すぎるわね」とキチイが口を入れた。
「きっと役所から書類を持って来たんだろう」とオブロンスキイはいった。アンナが階段のそばを通りかかった時、従僕が来客の取次をしに上へ駆け昇り、当の来客はランプのわきに立っていた。下を見おろしたアンナは、すぐヴロンスキイだと気がついた。と、奇妙な満足の念と、同時に何かに対する恐怖の情が、突如、彼女の心中にうごめいた。彼は外套をぬがないで立ったまま、ポケットから何やらとり出していた。彼女が階段の中途まで行った時、ヴロンスキイは眼を上げて彼女を見た。すると、その顔は何か恥じしめられたような、おびえたような表情になった。彼女は軽く頭をかがめて通りすぎた。そのあとから、まあ入れというオブロンスキイの大きな声と、それを断るヴロンスキイの低い、柔らかみのある、おちついた声が聞えた。
 アンナがアルバムを持ってひっ返した時、彼はもういなかった。オブロンスキイの話によると、彼は今度やってきた名士のために催される明日の晩餐会のことで、ちょっと寄ったとのことである。
「どうしても入ろうとしない。なんだか妙だったよ」とオブロンスキイはつけ加えた。
 キチイは顔を赤らめた。彼がなんのために来て、なぜ入らなかったかというわけを、彼女は自分一人だけ察したように思ったのである。
『あの人は家へいらして』と彼女は考えた。『あたしが留守だったものだから、ここに来ているものと思って、わざわざまわってらしたんだけれど、遅くはあるし、アンナさんが見えてるからと思って、それでお入りにならなかったんだわ』
 一同は何もいわずに目を見合わせ、アンナのアルバムを眺めはじめた。
 計画中の宴会について詳しいことをきくために、夜の九時半に友人を訪ねて来て、中へ入らなかったというのは、何もなみはずれたふしぎなことではなかったが、それでもみんなは変に感じた。だれより一番それを妙なよくないことと感じたのは、アンナであった。

[#5字下げ]二二[#「二二」は中見出し]

 キチイが母夫人といっしょに、頭に髪粉をつけて真紅の上衣を着た侍僕の群や、かずかずの花に美々しく飾られ、ともし火の光みち溢れた階段へ昇っていったとき、舞踏会はまだ始ったばかりのところだった。広間の方からは、まるで蜜蜂の巣のように、その中に立ちこめているざわめきの音が、規則正しく聞えていた。ふたりが途中の踊り場で、植木のかげに隠れながら、姿見に向って髪や着つけをなおしているまに、とある広間から、最初のワルツを奏し始めたオーケストラのヴァイオリンの、用心ぶかい、はっきりした響きが流れてきた。香水の匂いをぷんぷんさせながら、別な鏡の前で白髪の頭をなおしていた小柄な老文官は、階段の上でふたりにぱったり出会うと、別に面識もないキチイに見とれながら、体をかわして道を譲った。シチェルバーツキイ老公が、おっちょこちょいと命名しているタイプの社交青年で、恐ろしく胸のあいたチョッキを着た無髯《むぜん》の青年が、足を止めずに白いネクタイをなおしながら、ふたりに会釈してそばを走りすぎたが、またひっ返してきて、キチイにカドリールを申しこんだ。第一回のカドリールはもうヴロンスキイに約束してあったので、彼女はこの青年に二度めの約束をしなければならなかった。一人の軍人は手袋のボタンをはめながら、戸口のところで道をゆずった。そして、鼻髭をひねりながら、バラ色に上気したキチイに見とれていた。
 化粧から髪の結い方、その他さまざまな舞踏会のしたくは、キチイにとって非常な努力と苦心の結晶だったにもかかわらず、いま彼女がバラ色の羅《うすもの》を被《き》せた細い網目のチュール織の衣装《いしょう》をつけて、自由な気取りけのない態度で舞踏場へ入って行くのを見ると、こうしたバラの花飾りや、レースや、さまざまな身じまいのデテールにいたるまで、すべてが当人はじめ家の人たちにとって、まるっきり苦心を要するほどのこともなく、彼女は初めからこの高い束髪を結い、葉の二枚ついたバラをさして、このチュール織とレースを着て生れたもののように思われた。
 広間へ入る前に、老公爵夫人が、帯のリボンの折れているのをなおしてやろうとしたときにも、キチイは軽く身をかわしてそれを避けた――なにもかもあるがままでいいので、そのほうがかえって優雅なはずだ、何一つなおす必要はないのだ、と彼女は感じたのである。
 キチイは、ちょうど運のいい日にあたっていた。衣装《いしょう》はどこも窮屈なところがないし、レースの襟もきちんとしてさがったところがなく、造花のバラももみくちゃになったり、ちぎれたりしていなかった。踵《かかと》の高い、弓なりにそったバラ色の靴は、足をしめつけないで、かえっていい気持にしてくれた。白っぽいふさふさとした髱《かもじ》は、まるで地毛のように、小さな頭の上にしっくりのっかっている。少しも形を変えないで、彼女の手をつつんでいる長い手袋のボタンは、三つともちぎれないで、具合よくかかっている。ロケットの黒いビロードは、ことにしなやかに頸をとり巻いていた。このビロードはすてきだった。キチイは家で、鏡の中で自分の頸を映して見ながら、このビロードが口をきいているような気がしたほどである。ほかのものはどれにも、何かまだ疑問の余地があったけれど、このビロードだけはすてきだった。キチイはこの舞踏会へ来てからも、それを鏡に映して見て、にっこり笑った。あらわな肩と腕に、キチイは大理石のような冷たさを感じた――それは彼女の特に好きな感じだった。彼女の両眼はきらきらと輝いていた。真紅な唇は、自分の美を意識する気持に、ほほえまないではいられなかった。彼女は広間へ入って、チュールや、リボンや、レースや、花で飾り立て、舞踏の申しこみを待っている婦人たちのグループ(キチイは一度もその中にたたないですんだ)まで行き着くか着かないうちに、早くもワルツの申しこみを受けた。しかも、その申しこみをしたのは、第一流の紳士で、舞踏会階級からいうと立役者といった格の踊り手で、有名な舞踏会の指導者で、れっきとした妻のある、美貌で、押し出しの堂々とした式部官エゴールシカ・コルスンスキイなのであった。ワルツの第一奏をいっしょに踊ったボーニナ伯爵夫人を見すてるが早いか、彼は自分の役目として、踊りはじめたいくつかの組を見まわしていたが、おりから入ってきたキチイの姿を見つけると、舞踏の指導者に特有の一風変った、らいらくな軽い足どりで、彼女のそばへ駆けよった。そして、一つ会釈をすると、彼女の意向などはききもせずに、いきなり手をまわして、彼女の細腰を抱こうとした。彼女はだれに扇を渡したものかと、あたりを見まわした。と、この家の夫人がにっこり笑いながら、それを受け取った。
「あなたがちゃんと時間に来て下すって、たいへんけっこうでした」彼女の腰を抱きながら、彼はいった。「遅刻ということは、いい習慣じゃありませんからね」
 彼女は左手を少し曲げて、彼の肩に置いた。やがて、バラ色の夜会靴をはいた小さな足は、音楽の拍子《ひょうし》にあわせてすばしこく軽快に、滑っこい嵌木床《バルケット》の上を規則ただしく動きはじめた。
「あなたとワルツを踊っていると体が休まりますよ」ワルツの最初の緩やかなステップを踏み出しながら、彼はこういった。「すばらしいですね、なんという軽さでしょう、そして 〔pre'cision〕(正確)です」彼はほとんどすべての親しい知人にいうことを、彼女にもいった。
 キチイはこの賛辞ににっこりして、相手の肩越しに広間を見まわしつづけた。彼女は舞踏会へ出ると、すべての人の顔が一つの魔術めいた印象に溶けあってしまうように感じる、それはどの駆け出しでもなく、またどの顔も知りぬいていて、あきあきするというほど、舞踏会ずれのした娘でもなかった。彼女はちょうどこの二つの種類の中間にあたっていた――彼女は興奮もしていたが、それと同時に、周囲を観察しうるだけの余裕を持っていた。彼女は広間の左のすみに、社交界の花形があつまっているのを見た。そこには、思い切って肩をむきだしにした美女のリジイ・コルスンスカヤ夫人もいれば、この家の主人公もいるし、社交界の花形の寄る場所には必ず顔を見せるクリーヴィンも、その禿頭を光らせていた。青年たちは近く寄るのを遠慮して、そのほうを眺めていた。彼女はそこにスチーヴァを見つけたし、それからまた黒いビロードの衣装《いしょう》をつけたアンナの、美しい姿と頭を見つけた。そして、あの人もやはりそこに居合わせた。キチイは、レーヴィンの申しこみを拒絶した晩以来、彼を見なかったのである。キチイは遠目のきく眼で、すぐに彼を見分けた。そして、彼も自分の方を眺めているのに気がついた。
「いかがです、もうひとまわり? お疲れじゃないでしょう?」軽く息をはずませながら、コルスンスキイはいった。
「いいえ、もうけっこうでございますわ、ありがとうございました!」
「では、どちらへおつれしましょう?」
「カレーニンの奥さまがあそこにいらっしゃるようですわ……どうかあのかたのところへおつれ下さいまし」
「どちらへでもお望みのところへ」
 で、コルスンスキイは歩みを加減して、“Pardon, mesdames, pardon, pardon, mesdames.”(ごめんなさい、皆さん、ごめんなさい、ごめんなさい、皆さん)といいながら、広間の左すみにいるグループをさして、まっすぐにワルツを踊っていった。そして、レースや、チュールや、リボンの海の間を縫いながら、羽根一本さわらないで、くるりと急に彼女の体をひとまわり廻したので、透しの長靴下をはいた彼女の華奢《きゃしゃ》な足が現われて、長い尾《トレーン》が扇のようにひろがりながら、クリーヴィンの膝におおいかかったほどである。コルスンスキイは一つ会釈して、開いた胸をぐっと反らしながら、彼女をアンナのところへ連れていくために、片手をさしのべた。キチイは真赤になって、クリーヴィンの膝から尾《トレーン》をとりのけ、いくらかめまいがするのを感じながら、アンナを見つけようとあたりを見まわした。アンナは、キチイがぜひにと望んだ藤色の衣装でなく、胸あきを大きくした黒いビロードの衣装をつけ、古い象牙のように磨き上げられた肉付き豊かな肩や、胸や、手首のほっそりと、華奢な、丸みをおびた腕をあらわに見せていた。この衣装は全体にヴェニス・レースで縁《ふち》飾りがしてあった。彼女の頭には、少しの入れ毛もない黒々とした髪に、三色菫《パンジー》の小さな花かんざしがさしてあり、それと同じ花かんざしが、黒リボンの帯の上にも留めてあって、白いレースの間からちらちらしていた。髪も目にたたぬように結んであった。ただ目にたつものといえば、いつも後頭部やこめかみにこぼれて、彼女に風情を添えている、いかにも気ままらしい小さな巻き毛の輪くらいなものであった。磨きあげたようなしっかりした頸には、真珠のネック・レースがかかっていた。
 キチイは毎日アンナに会って、すっかり彼女にほれこんでいたので、ぜひとも藤色の衣装を着せてみたいと想像していた。けれど、いま黒い衣装をつけた彼女を見たとき、彼女は自分がアンナの美を完全に了解していなかったのを感じた。今こそ彼女は全然あたらしい思いがけない存在として、アンナを見いだしたのである。今という今、アンナは瑠璃《るり》色の衣装をつけるわけにいかなかったのだ、彼女の美の真諦《しんてい》は、彼女がいつもその化粧や着つけの中からぬけだしていて、化粧や着つけが決して目に見えない点にあるのだ、それを彼女は理解したのである。で、この見事なレースのついた黒い衣装も、彼女が着ていると、ほとんどきわだって見えないで、単なる額縁《がくぶち》にすぎなかった。目にたつのはただ、単純で、自然で、華美で、同時に快活で、生きいきとした彼女自身ばかりであった。
 彼女はいつものように、ぐっと高く身を反らしながら立っていたが、キチイがこのひと群に近よったとき、この家の主人を相手にして、ややその方に首を向けながら話していた。
「いいえ、わたし石など投げはいたしません」とアンナは主人に向って、何かの返事をした。「もっとも、わたしわかりませんけど」と肩をすくめながら言葉をつづけたが、すぐさま保護者らしくやさしいほほえみを浮べて、キチイの方をふりむいた。女らしいしかたでキチイの化粧を一瞥《いちべつ》して、彼女はようやくそれと知られるほどながら、キチイに意味のわかるように、軽く首を動かした。それはキチイのいでたちと、その美貌を賞賛するものであった。「あなた、ホールにも踊りながら入ってらっしゃるのね」と彼女はつけ加えた。
「このひとは私の忠実無比な助手の一人でしてね」まだ一度も会ったことのないアンナにおじぎしながら、コルスンスキイはいった。「公爵令嬢は舞踏会を楽しく、美しくするのを助けて下さるので。アンナ・アルカージエヴナ、どうぞワルツをひとまわり」彼は身をかがめながらいった。
「あなたがたはお近づきなんですか?」と主人がたずねた。
「私は近づきでない人なんかありませんからね。私たち夫婦は白狼と同じで、だれにだって知られていますよ」とコルスンスキイは答えた。「どうぞワルツをひとまわり、アンナ・アルカージエヴナ」
「わたし、踊らなくてもいいときには踊りませんの」とアンナはいった。
「今晩はそういうわけにはいきませんよ」とコルスンスキイは答えた。
 そのときヴロンスキイがそばへよった。
「まあ、今晩おどらなくちゃなりませんのなら、しかたがありません、いたしましょう」と彼女はヴロンスキイの会釈に気づかず、さっとコルスンスキイの肩に手をのせた。
『あのひとはヴロンスキイさんに、なんの不満があるのかしら?』アンナがわざとヴロンスキイの会釈に気のつかないふりをしたのを見て、キチイはそう考えた。
 ヴロンスキイはキチイに近づいて、最初のカドリールのことをいいだし、その間にキチイが見られなくて残念だといった。キチイはワルツを踊るアンナに見とれながら、彼の言葉を聞いていた。彼女はヴロンスキイがワルツに誘うのを待っていたが、ヴロンスキイは誘おうとしなかった。キチイはびっくりして彼を見た。ヴロンスキイは赤い顔をし、急いでワルツを申しこんだが、彼がキチイの細腰を抱いて、最初のステップを踏み出すと同時に、奏楽がやんだ。キチイはかくも近い距離にある男の顔をじっと眺めた。自分が愛にみちたまなざしで眺めたのに、男がそれにこたえなかったという事実は、その後も永年の間、悩ましい羞恥となって、彼女の心を斬《き》りさいなんだのである。
「Pardon, pardon! ワルツ、ワルツ!」と叫ぶコルスンスキイの声が、ホールの向こう側で聞えたと思うと、彼は行きあたりばったりの令嬢をかかえて、自分で踊り出した。

[#5字下げ]二三[#「二三」は中見出し]

 ヴロンスキイはキチイといっしょに、ワルツを幾度か踊った。ワルツのあとで、キチイは母のそばへ行き、ノルドストン夫人と二言三言かわすかかわさないうちに、もうヴロンスキイが第一番のカドリールをといって迎えにきた。カドリールの間には、別にたいした話はなく、ただコルスンスキイ夫婦のことや(ヴロンスキイはこの夫婦を、愛すべき四十代の子供として、おもしろおかしく描写して聞かせた)将来の公衆劇場のことなどで、切れぎれの話がつづいたばかりである。ただ一度だけ、会話はキチイの痛いところにさわった。それはヴロンスキイがレーヴィンのことをいいだし、あの人はここに来ているかとたずね、私はあの人がとても気に入った、といったときである。しかし、キチイはカドリールからそれ以上を期待しなかった。彼女は胸のしびれる思いでマズルカを待っていた。マズルカの間に、いっさいが決定するに相違ない。そう彼女には思われたのである。カドリールの間に、ヴロンスキイがマズルカの申しこみをしなかったことは、さして彼女を不安にしなかった。彼女は以前の舞踏会と同じように、マズルカはヴロンスキイと踊るものと思いこんでいたので、もう約束がありますからといって、五人まで申しこみを断った。この舞踏会は最後のカドリールまで、キチイにとっては、喜ばしい色と、響きと、動きの融合したおとぎ話のような夢幻境であった。彼女が踊らなかったのは、ただあまり疲れたような気がして、休息したくなったときばかりであった。けれど、断りきれない退屈な青年と、最後のカドリールを踊っているとき、彼女は偶然ヴロンスキイとアンナの対舞者《ヴィ・ザ・ヴィ》となった。彼女はここへ来てから、一度もアンナと踊りのあいだに行き会ったことがなかったが、ここでまたもや思いがけなく、全く新しい意想外なアンナを見いだしたのである。キチイは彼女の中に、自分でも覚えのある成功からきた興奮の影を見てとった。アンナが自分の呼び起す賛嘆の酒に酔いしれているのが、ありありと見えていた。彼女はこの気持を知り、その兆候《きざし》を知っているので、それをアンナに認めたのである――眼の中にふるえ燃えあがる光、われともなしに唇をくねらせる幸福と興奮のほほえみ、動作に現われるくっきりとした優美さ、正確さ、軽さ。
『だれかしら?』とキチイは自問した。『みんなかしら、一人かしら?』と彼女は考えて、踊りながら苦労している相手の青年の話にろくろく相槌《あいづち》もうたないので、青年は話のいとぐちをとり落して、そのまま拾い上げることができなかった。みんなを大円舞《グラン・ロン》にしたり、鎖《シエール》にしたりするコルスンスキイの命令に、うわべばかりさも楽しげに従いながらも、キチイはじっと観察していたが、その胸はいよいよ縮まるばかりであった。『いや、あのひとを陶酔させているのは、群衆が自分を見とれているからじゃなくて、一人の男から賛美されているからだ。その一人の男というのは、――いったいあの人かしら?』ヴロンスキイがアンナに話しかけるたびに、彼女の眼には喜ばしげな輝きが燃え立ち、幸福の微笑がその紅い唇をくねらせるのであった。彼女はそういう表情で喜びの兆《きざし》を見せまいと、自分で努力しているらしいようすであったが、喜びはおのずと顔に現われた。『でも、あの人はどうかしら?』キチイはヴロンスキイの方を見て、ぎょっとした。アンナの顔の鏡にまざまざと見たものを、キチイは彼の顔にも見たのである。あのいつものおちついてしっかりしたものごしや、のんきなほど悠然とした顔の表情は、そもそもどこへいったのだろう? いや、それどころか、今や彼は、アンナの方へ向くたびに、さながらその前にひれ伏そうとでもするように、心もち首をかがめた。その眼の中に見られるのは、服従と恐怖の色のみであった。『私は自分を辱《はずか》しめたいのじゃありません』とそのつど彼のまなざしがいっていた。『ただ自分で自分を救いたいのですが、どうしたらいいかわからないのです』彼の顔には、キチイが今までかつて見たことのない表情が浮んでいた。
 二人は自分たちに共通な知人の噂などして、ごくつまらない会話をつづけているにすぎなかったけれども、キチイの口には、二人の口に出す一語一語が、彼ら自身と彼女の運命を決していくように思われた。しかも、ふしぎなことには、二人はまさしく、イヴァン・イヴァーノヴィッチのフランス語がおかしいとか、エレーツカヤはもっといい配偶を見つけることができただろうに、といったような話をしているまでのことであったが、それにもかかわらず、これらの言葉が彼らのために何かの意義をもっており、彼ら自身もキチイと同じようにそれを感じたのである。舞踏会ぜんたいも、それどころか世界中が、キチイの心の中では霧におおわれてしまった。ただ彼女の受けてきた厳格な教育が彼女を支え強制して、人から要求されることをさせるのであった。つまり、踊らせ、問いに答えさせ、話をさせ、すすんでは微笑さえさせるのであった。しかし、いよいよマズルカというときになって、もう椅子の置き替えがはじまり、幾組かの人々は小さな部屋部屋から大広間へ移っていったとき、キチイにとって絶望と恐怖の瞬間がやってきた。彼女は五人からの申し出を断ったために、今ではマズルカが踊れなくなったのである。もはやだれから申しこみを受けようという望みさえなかった。というのは、社交界における彼女の成功があまりにもはなばなしかったので、今まで申しこみを受けずにいたなどという考えが、だれの頭にも浮ばなかったからである。こうなったら、母に体のぐあいが悪いといって、家へ帰るよりほかなかったけれども、その気力さえ尽きはてていた。彼女はうちひしがれたもののように感じた。
 彼女は小さな客間の奥まったところへ入って、ぐったりと肘《ひじ》椅子に身を投げ出した。ふわりとした紗《しゃ》のスカートが、雲のようにもちあがって、彼女のほっそりした体を包んだ。あらわな、娘らしくやせた力なくたれた華奢《きゃしゃ》な片手は、バラ色のチュニックの襞《ひだ》の中に沈み、扇を持った片手は、こきざみにせかせかと熱した顔を煽《あお》いでいた。けれども、たったいま草花にとまりはしたものの、今にも虹《にじ》のような羽をひろげて飛び立とうとしている胡蝶のような風情《ふぜい》には似もやらず、彼女の胸は恐ろしい絶望に締めつけられていた。
『でも、ひょっとしたら、あたしの思いちがいかもしれない、ひょっとしたら、そんなことはなかったのかもしれない?』彼女は自分の見たことを、もう一度おもいかえしてみた。
「キチイ、これはいったいどういうことなの?」カーペットの上を音もなく歩いて、彼女のそばへ近よりながら、ノルドストン伯爵夫人がこういった。「あれなんのことだかわからないわ」
 キチイの下唇がぴくりとふるえた。彼女は身早く立ちあがった。
「キチイ、あんたマズルカを踊らないの?」
「ええ、ええ」とキチイは涙にふるえる声で答えた。
「あの人はわたしの前で、あのひとにマズルカを申しこんだのよ」あの人とあのひととはだれのことか、キチイにはちゃんとわかるだろうと承知して、ノルドストン夫人はそういった。「すると、あのひとはね、いったいあなたはシチェルバーツカヤ公爵令嬢とお踊りにならないんですの? ってそういったわ」
「ああ、あたしどうだっていいのよ!」とキチイは答えた。
 彼女の立場は、彼女自身よりほかだれにもわからなかった。おそらく愛していたかもしれぬ男をつい昨夕拒絶した。しかもいま一人の男を信じていたが故に拒絶した、その間《かん》の消息を知るものは、だれ一人なかったのである。
 ノルドストン伯爵夫人は、先ほどいっしょにマズルカを踊ったコルスンスキイを見つけて、キチイに申しこみをするようにいった。
 キチイは第一の組の中で踊ったが、幸いにも、何一ついわないですんでいた。なぜなら、コルスンスキイは世話役として、いろいろ指図しながら駆けずりまわっていたからである。ヴロンスキイとアンナは、彼女の真正面に坐っていた。彼女は持ち前の遠目のきく眼で、二人をよく観察したし、またやがて二人が踊りの組に混ってそばへ来たので、ちかぢかと見もしたが、つくづくと見れば見るほど、彼女は自分の不幸が取り返しのつかぬものであることを、いよいよ確信するばかりであった。二人はこの人でいっぱいの大広間にいながら、自分たち二人きりのような気持になっている、それを彼女は見てとった。しかも、いつもおちついて独立|不羈《ふき》の態度をとっているヴロンスキイの顔に、例の彼女をぎょっとさせた表情、何か悪いことをした利口な犬に似た、とほうにくれたような従順な表情が認められた。
 アンナが微笑すると、その微笑は彼にも伝わり、アンナが考えこむと、彼もまじめになった。一種超自然な力が、キチイの目をアンナの顔へひきよせるのであった。単純な黒衣を身にまとった彼女の美しさ、腕輪をはめたむっちりした腕の美しさ、真珠のネック・レースをした、しっかりとすわった頸の美しさ、やや乱れた髪の波うっているさまの美しさ、小さな手足のみやびな軽々とした動きの美しさ、今や生気をおびてきたそのあでやかな顔のすばらしさ。けれども、その美の中には、何かしら残酷な恐ろしいものがあった。
 キチイは前よりもさらに彼女に見とれていたが、その苦しみはいよいよ増すばかりであった。キチイは完全に粉砕された思いであった。また彼女の顔もそれを表白していた。マズルカの間にふと行き会ったヴロンスキイは、彼女を見たが、とみにはだれか気がつかないほどであった。それほど彼女は面《おも》変りがしていたのである。
「りっぱな舞踏会ですね!」ただ何かいうために、彼はキチイにこう話しかけた。
「そうですね」と彼女は答えた。
 マズルカのちょうどなかばごろ、あらたにコルスンスキイの考案したこみいった手を繰り返しながら、アンナは輪のまんなかへ出て、二人の紳士を選み出し、一人の婦人とキチイを、そばへ呼んだ。キチイはそばへ寄りながら、おびえたように彼女を眺めた。アンナは眼を細めて相手を見やりながら、握手して、にっこり笑った。けれども、自分の微笑にこたえるキチイの顔が、ただ絶望と驚愕《きょうがく》のみを表わしているのに気がついて、彼女はつと顔をそむけ、もう一人の婦人と楽しげに話しはじめた。
『このひとには何かあたしたちとはかけ離れた、悪魔的な、しかも美しいものがあるわ』とキチイは肚《はら》の中で考えた。
 アンナは夜食に残らないといったが、主人はしきりに引き止めにかかった。
「いいじゃないですか、アンナ・アルカージエヴナ」とコルスンスキイは彼女のあらわな手を、自分の燕尾服の袖の下へひき入れながら、こういった。「私はすばらしいコティリヨンの趣向を考えついたんですよ! Un bijou!(宝玉にもたとうべき傑作ですよ)」
 そういって、彼はアンナを踊りにひきこんでしまおうとつとめながら、じりじりと歩きだした。主人はわが意を得たりというように微笑していた。
「いいえ、わたし残りませんわ」とアンナはほほえみながら答えた。が、その微笑にもかかわらず、答えた時の断乎たる調子から推して、彼女が残らないということは、コルスンスキイにも主人にもわかっていた。「だめですわ、もうそれでなくっても、ペテルブルグで冬じゅう踊ったよりも、モスクワで踊ったほうが多いくらいですもの、しかも、お宅の舞踏会だけでね」そばに立っているヴロンスキイをふり返りながら、アンナはこういった。「旅行の前に休んでおかなくちゃなりませんわ」
「あなたはどうしても明日おたちになるのですか?」とヴロンスキイがきいた。
「ええ、そう思っていますの」とアンナは相手の問いの大胆さにあきれたようすで答えたが、彼女がそういったとき、その眼と微笑に現われたおさえてもおさえきれぬふるえるような輝きが、男の心を燃え立たせたのである。
 アンナは夜食に残らず、辞し去った。

[#5字下げ]二四[#「二四」は中見出し]

『そうだ、おれには何かいやな、人に嫌われるようなところがある』シチェルバーツキイ家を出て、兄のもとへおもむきながら、レーヴィンはこう考えた。『それに、おれは他人のためになんの役にも立たぬ人間だ。高慢だ、とみんなはいうが、違う、おれには誇りさえもないのだ。もし誇りがあったら、おれは自分をこんな立場に追いこみはしなかったろうよ』と、彼はヴロンスキイを思い出した。幸福で、善良で怜悧で、おちつきがあって、たしかにいま彼がおかれているような恐ろしい立場に、決してわれとわが身を追いこむことはないにきまっている。『そうだ、彼女が彼を選んだのは当然だ。そうでなくちゃならない。だから、おれはだれに向っても、何一つ不平をいうことなんかないのだ。おれ自身が悪いんだもの。いったいおれはどんな権利があって、彼女が自分の生涯をおれと結びつけたいと思うだろうなんて、そんなことを考えたのだろう? いったいおれはだれだ? 何ものだ? だれにも用のないつまらない人間じゃないか』
 と、彼は兄ニコライのことを思い起し、喜びをいだきながら、この回想に思いをひそめた。
『世の中のことは、なにもかも悪だ、けがらわしいという、あの兄の言葉がほんとうなのじゃあるまいか? われわれがニコライ兄のことを裁いているのは、裁いていたのは、どうも公平じゃなさそうだ。もちろん、兄が破れた毛皮外套を着て酔っぱらったところを見たプロコーフィの見地からすれば、兄は軽蔑すべき人間に相違ない。しかし、おれは別のニコライ兄を知っている、おれはあの兄の心を知っている。自分があの兄と似ていることを知っている。ところが、おれは兄を探しに行こうともしないで、食事に行ったり、こんなとこへ来たりしている』
 レーヴィンは街燈のそばへ行って紙入れにしまっておいた兄の所書きを読み、辻待ち馭者を呼んだ。兄の住居《すまい》まで行く長い道中、彼は兄ニコライの生涯中、自分の知っているさまざまな出来事を、まざまざと思い起した。兄は大学在籍中も、卒業後の一年間も、友だちに笑われるのを意に介しないで、修道僧のような生活を送り、勤行《ごんぎょう》も精進も、すべて宗教上のしきたりを厳重に守り、いっさいの享楽、ことに女色を避けていたものである、それを彼は思い出した。ところがその後、彼は急に鎖が切れたかのように、この上もないいまわしい連中に接近し、思い切ってでたらめな遊蕩生活へ飛びこんだ。それからさらに、ある少年に関する事件をも想起した。彼はその少年を教育の目的で田舎から連れてきたが、憤怒の発作にかられてめちゃめちゃに打擲《ちょうちゃく》し、少年を不具にしたかどで裁判沙汰にまでなったのである。それから、あるいかさま賭博師《とばくし》との事件を思い出した。兄はその男にカルタで負けて手形を渡したが、その後かえって自分のほうから訴訟をおこして、その男は自分をだましたのだと証明しようとした(それがコズヌイシェフの払った金なのである)。また、彼が暴行のかどで留置場で一夜をすごしたことも思い出された。さらに、ニコライ兄がコズヌイシェフを相手どって起した恥さらしな訴訟事件、それはコズヌイシェフが、母の遺産の分け前をすっかり払わなかったというのである。最後の事件は、彼が西部地方へ就職にいったとき、上役のものを殴打したため、起訴されたことである……それらはすべて実にいまわしいことであったが、しかしレーヴィンの目からは、ニコライを知らず、その過去を知らず、その心を知らない人たちの目に映りそうなほど、さしていまわしいこととも思わなかった。
 レーヴィンは覚えている、まだニコライが敬虔《けいけん》な修道僧で、精進、教会の勤行に没頭していた時分、彼が宗教の中に、おのれの情熱的な天性にたいする助けと制御を求めていた時分には、だれ一人として彼を支持しなかったのみか、だれもかもが、レーヴィン自身までが、彼を笑っていたくらいである。みんなは彼をからかい、ノアと呼び、坊さんと呼んでいた。ところが、彼が鎖を切って放した時には、だれ一人助けようとするものがなく、一同、恐怖と嫌悪の念をいだきながら、面《おもて》をそむけてしまったのである。
 レーヴィンは直覚した――兄ニコライは、その醜悪きわまる生活ぶりにもかかわらず、心の中では、心の最も奥ふかいところでは、彼を侮蔑している人々よりも、まちがってはいないのだ。彼が制御しきれない性格と、何かに圧迫された知性をもって生れたということは、何も彼自身の罪ではない。彼は常によき人たらんと欲していたのである。『なにもかもいってしまおう、また兄にもすっかりいわせよう。そしておれが兄を愛していること、したがって、理解していることを見せてやろう』十時すぎに、所書きに示してある宿屋へ乗りつけながら、レーヴィンは自分で自分にこう決心した。
「二階の十二号と十三号の部屋です」と玄関番はレーヴィンの問いに答えていった。
「いるかね?」
「きっといらっしゃるでしょう」
 十二号の戸は半開きになっていて、そこからさしているひと筋の光の中に、弱い安タバコのけむりがもうもうと流れ出し、レーヴィンの聞き慣れぬ人声が聞えた。しかし、レーヴィンはすぐ兄がそこにいることを知った。兄の軽い咳《せき》ばらいが聞えたのである。
 彼が戸の中へ入ったとき、聞き慣れぬ声はこういっていた。
「いっさいは、いかに合理的かつ意識的に事を処理するか、という点にかかっているのだ」
 コンスタンチン・レーヴィンは戸の中をのぞいて見た。と、話をしているのは、髪を大きな帽子のようにいただいて、袖無し外套を着た青年であった。長椅子の上には、袖も襟もない毛織の服を着た、薄あばたの女が腰かけていた。兄の姿は見えなかった。なんという縁もゆかりもない他人の中に兄は住んでいるのだろうと思うと、レーヴィンは心臓の縮むような思いであった。だれも彼の入ってきたのに気がつくものがなかったので、レーヴィンはオーヴァシュウズを脱ぎながら、袖無し外套の男のいうことに耳を傾けていた。彼が話しているのは、何かの事業のことであった。
「ふん、そんなやつら糞くらえだ、特権階級の連中なんか」と、咳をしながらいったのは、兄の声であった。「マーシャ、夜食に何かこしらえておくれ、そして酒も残っていたら頼むよ。もしなかったら買いにやれ」
 女は立ちあがって、仕切板の外へ出ると、レーヴィンを見つけた。
「どこかの旦那ですよ、ニコライ・ドミートリッチ」と彼女はいった。
「だれに用なんだい?」とニコライ・レーヴィンの腹だたしげな声がいった。
「僕ですよ」とコンスタンチン・レーヴィンは、明るいところへ出て行きながらいった。
「僕ってだれたい?」と前よりもっと腹だたしげなニコライの声が、こういった。彼が何かにつっかかりながら、急に立ちあがる物音が聞えたと思うと、レーヴィンは目の前の戸口のところに、なじみの深い、やや猫背の、大きな姿を認めた。けれども、そのすさんだ病的な感じは彼を驚かした。大きな眼はおびえたような表情をしている。
 レーヴィンが最後にこの兄に会ったのは、三年前のことであったが、彼はそのときよりもさらにやせていた。つんつるてんのフロックを着けていたので、両手や頑丈な骨格が、なお大きく見えるのであった。髪はいっそううすくなっていたが、依然としてごわごわした鼻髭が上唇をおおい、依然として変りのない眼が、入ってくる訪問者を無邪気なほどけげんそうに見つめていた。
「ああ、コスチャか!」やっと弟を見分けて、彼はいきなりこういったが、その眼は喜びに輝いた。けれども、その瞬間、青年の方をふり返った。と、レーヴィンの昔から知りぬいている身ぶりで、頭と頸を痙攣《けいれん》的に動かした。それはまるでネクタイが窮屈だ、とでもいうようであった。そのやつれた顔には、まるっきり別の――奇怪な、受難者めいた、残忍な表情が浮んだ。
「僕は君にも、セルゲイ・イヴァーノヴィッチにも手紙を出して、自分は君がたを知らない、また知ろうとも思わないって、そういってやったはずだが。いったいおまえは、君はなんの用があるんです?」
 彼はレーヴィンの想像していたのとは、まるっきり違っていた。レーヴィンは兄のことを考えたとき、彼の性格の中で最も重苦しく感じられるよからぬ点、他人との交際を困難にする障碍物のことを、すっかり忘れていたのである。ところが、いま兄の顔を見、とりわけ痙攣《けいれん》的に頸をふる動作を見たとき、彼はそうしたいっさいのことを思い起したのである。
「僕が訪ねてきたのは、なんのためでもありません」と彼は臆病そうに答えた。「ただ会いたくて来たんです」
 弟の臆病そうなようすは、明らかにニコライの心を和らげたらしい。彼は唇をもぐもぐさせた。
「ははあ、なんということなしにか?」と彼はいった。
「まあ、入って掛けるがいい。夜食はどうだね? マーシャ、三人前もってこい。あっ、待ってくれ。おまえ、これはだれか知ってる?」袖無し外套の男を指さしながら、彼は弟に向ってこういった。「これはクリーツキイ君といって、もうキーエフ時分からの親友だ、じつにえらい人物なんだよ。もちろん、警察の注意人物になっている、というのは、この男が卑劣漢《ひれつかん》でないからさ」
 彼はいつもの癖で、部屋の中に居合わす一同を見まわした。戸口に立っていた女が出て行こうとするのを見て、彼は「待てといったじゃないか」とどなりつけて、レーヴィンにはわかり過ぎるほどわかっている、例のけげんそうな表情で一同を見まわし、つじつまのあわぬ話しぶりで、クリーツキイの身の上話をはじめた。貧窮学生の援助会や日曜学校をつくったために大学を追われた顛末《てんまつ》から、その後、国民学校の教師に就職したこと、そこをもさらに追い出されたいきさつ、それから何かで起訴された一件などである。
「あなたはキーエフ大学におられたんですか?」とレーヴィンは、しばらくつづいたばつの悪い沈黙を破るために、クリーツキイに問いかけた。
「そうです、キーエフにいました」とクリーツキイは眉をひそめて、腹だたしげに答えた。
「ところで、この女は」とニコライはマーシャを指さしてさえぎった。「僕の生涯の伴侶《はんりょ》で、マリヤ・ニコラエヴナというんだ。ある……家からひきとったんだが」といいながら、彼は頸を一つしゃくった。「僕はあれを愛しかつ尊敬している。だから、僕とつきあおうと思う人はだれでも」と彼は声を高め、眉をひそめながらつけたした。「彼女をも愛しかつ尊敬してもらいたいんだ。あれは僕の妻も同然なんだから、全く同然なんだから。さあ、これでおまえも相手がどんな人間かってことがわかったろう、もしそれを屈辱だと思うのなら、その閾《しきい》をまたいで出ていってもらおう」
 すると、またしても彼の眼は物問いたげに、すばやく一同を見まわした。
「どうして僕にとってそれが屈辱なんです、合点がいかない」
「それじゃ、マーシャ、夜食をもってくるようにいいつけてくれ。三人前だぞ、それからウォートカと葡萄酒……いや、待ってくれ……いや、いらん……行っていいよ」

[#5字下げ]二五[#「二五」は中見出し]

「そこでだね」と、ニコライは何かの努力をするように額を皺《しわ》め、体をひくひくひっつらせながら、言葉をつづけた。
 見たところ、彼は何を話したらいいか、何をしたらいいか、考え出すのに骨が折れるようすであった。
「そこでだね……」と彼は、部屋のすみにある縄で縛った何か鉄棒みたいなものを指さした。「あれを見てくれ。あれが僕らの着手しようとしている事業の端緒なんだ。その事業というのは、生産労働組合でね……」
 レーヴィンはほとんど聞いていなかった。彼は兄の結核らしい、病的な顔にじっと見入っていたが、見れば見るほどかわいそうになって、どんなにつとめてみても、労働組合のことを説明する兄の言葉が耳に入らなかった。この労働組合なるものは、自己軽蔑から救ってくれる錨《いかり》にすぎない、それを彼は見てとったのである。ニコライは語りつづけた。
「資本が労働者を圧迫してるのは、おまえも知ってるだろうね。わが国の労働者は、つまり百姓は、労働の重みを一身に背負って、いくら働いても、家畜同然の境遇を抜け出せないような羽目に追いこまれている。彼らは労銀によっておのれの境遇を改善し、余暇をつくり、その結果として、教養を身につけうるはずなんだが、その賃銀の余剰利得《よじょうりとく》はみんな資本家に吸われてしまうんだ。社会ってものは、彼らが働けば働くほど、商人や地主が肥《ふと》って、彼らは永久に家畜で終るようにできているんだよ。こういう制度を変革しなくちゃならないのさ」いい終って、彼は物問いたげに弟を眺めた。
「そう、もちろん」兄の飛び出した顴骨《かんこつ》の下に滲み出した紅味をじっと見ながら、レーヴィンはこういった。
「そこで僕らは錺職《かざりしょく》の組合をつくるんだ。そこでは生産も、利潤《りじゅん》も、生産の主要な機械も、みんな共有になるのさ」
「その組合はどこにできるんです?」とレーヴィンはたずねた。
「カザン県のヴォズドレモ村だ」
「どうして村なんかにおくんです? 田舎じゃそれでなくっても、仕事が多くって困ってるように思われるけれど。なんだって田舎に錺職の組合なんかつくるんでしょう?」
「ほかでもない、百姓たちが今もって、以前と同じ奴隷状態におかれているからさ。おまえやコズヌイシェフなんかは、彼らがこの奴隷状態からひき出されようとしてるので、それが気に食わないんだよ」反駁に出会っていらいらしながら、ニコライはこういい放った。
 その間に、薄暗く汚い部屋の中を見まわしていたレーヴィンは、ほっとため息をついた。このため息がよけいにニコライをいらいらさせたらしい。
「おまえやコズヌイシェフの貴族的な物の見方は、よくわかってるよ。あの男は現存せる悪を弁護するために、ありたけの知力を用いているのだ、わかっているさ」
「ちがいます、それになんだってコズヌイシェフのことなんかいいだすのです?」とレーヴィンは微笑しながら注意した。
「コズヌイシェフだって? それはこうさ!」コズヌイシェフの名を耳にすると同時に、ニコライはいきなりこう叫んだ。「ほかでもない……いや、何もいうことはありゃしない! ただ一つ……おまえはいったいなんのために僕のとこへやってきたんだ? おまえは軽蔑している、それで結構さ。だから、きれいに出て行ってもらおう、出て行ってくれ!」と彼は椅子から立ちあがりながらわめいた。「出て行け、出て行け!」
「僕は少しも軽蔑してやしません」とレーヴィンはおずおずといった。「それどころか議論さえしてはいないんですよ」
 この時マーシャが帰って来た。ニコライは腹だたしげにふり返った。彼女はつかつかとそばへよって、何やらささやいた。
「僕は健康がすぐれないものだから、いらいらしやすくなっていかん」だんだんおちついてきて、重々しい息づかいをしながら、ニコライはこういった。「おまけに、おまえがコズヌイシェフや、あの男の論文のことなどいいだすもんだから。あんなものはでたらめだ、駄法螺《だぼら》だ、自己欺瞞だ。正義を知らない人間が、正義について何が書けると思う? 君、あの男の論文を読みませんでしたか?」またテーブルに向って腰をかけながら、クリーツキイに話しかけ、テーブルの上に散乱しているタバコを半分がた片づけて、空《あ》いた場所をこしらえた。
「僕は読まなかった」明らかに話に口出ししたくないらしい様子で、クリーツキイは陰気くさい声で答えた。
「どうして?」とニコライはいらいらした調子で、今度はクリーツキイの方へ膝を向けた。
「どうしてって、そんなことに時間をつぶす必要を認めなかったからさ」
「といって、失礼ながら、なぜ君はそれが時間つぶしだってことがわかるんです? そりゃ、あの論文は多くの人にとって難解です、つまり、彼らの能力以上なんです」
「しかし、僕は別だよ、僕は彼の思想を見透しているので、なぜあれの迫力が弱いか、ちゃんとわかっているんだ」
 一同は口をつぐんだ。クリーツキイはゆっくりと立ちあがって、帽子に手をかけた。
「君は夜食をして行かないの? じゃ、失敬。明日は錺職《かざりしょく》をつれてきてくれたまえ」
 クリーツキイが出て行くが早いか、ニコライはにっこり笑って、ちょっと瞬《またた》きして見せた。
「やっぱり悪いんだよ」と彼は口をきった。「なに、僕にはちゃんとわかっているんだ……」が、その時クリーツキイが戸口で彼を呼んだ。
「いったいなんの用事があるんだろう?」彼はいって、廊下へ出て行った。マリヤとさしむかいになると、レーヴィンは彼女に話しかけた。
「あなたはずっと前から兄といっしょにおられるんですか?」と彼はたずねた。
「ええ、もう足かけ二年になりますの。とても体のぐあいが悪くおなりになりましてね。なにしろ、ずいぶんおあがりになるんですもの」と彼女はいった。
「といって、どんなふうに飲むんです?」
「ウォートカを召しあがるんですけど、あのかたの体にはそれがさわりますんで」
「そんなにたくさんやるんですか?」とレーヴィンはつぶやくようにいった。
「ええ」といいながら、彼女はおずおずと戸口をふりかえった。そこにニコライが姿を現わしたのである。
「おまえたちはいったいなんの話をしていたんだい?」眉をひそめて、おびえたような眼で二人をかわりばんこに見比べながら、彼はこういった「なんの[#「こういった「なんの」はママ]話をしたの?」
「なにも別に」とレーヴィンはどぎまぎしながらいった。
「いいたくないのなら、どうともごかってに。しかし、おまえ、なにもあれと話なんかすることはないよ。あれは巷《まち》の女だし、おまえは紳士なんだからな」と彼は頸をひくひくひっつらせながらいった。「おれはちゃんと見てとったが、おまえはなにもかも承知して、万事評価ずみのうえ、おれの迷いに対して憐愍の態度をとっているんだろう」と彼は声を高めながらまたこういいだした。
「ニコライ・ドミートリッチ、ニコライ・ドミートリッチ」とマリヤは彼のそばへよりながら、またもやこうささやいた。
「いや、よろしい、よろしい!……さて、ところで夜食はどうなったい? ああ、ちょうどやってきた」盆を運んできたボーイを見て、彼はいった。「こっちだ、ここへおいてくれ」と彼は腹だたしげにいって、すぐさまウォートカをとりあげ、コップに一杯つぐと、むさぼるように飲み干した。「やれよ、飲むだろう?」さっそく浮きうきしながら、彼は弟に話しかけた。「もうコズヌイシェフの話はたくさんだ。おれはなんといっても、おまえに会えたのが愉快だよ。とやかくいいはするものの、やっぱり赤の他人と違うからな。さあ、一杯やれ。そして、どんなことをやってるか聞かしてくれよ」がつがつとパンを噛み、二杯目を注ぎながら、彼は言葉をつづけた。「どんなふうに暮してるね?」
「前と同じで、一人で田舎に暮していますよ、領地の経営をやってね」兄ががつがつと飲んだり食ったりするようすを、ぞっとする思いで眺めながらも、それに気がついていることを気どられまいとして、レーヴィンはこう答えた。
「どうして結婚しないんだい?」
「まだ時期がこなかったからで」とレーヴィンは赤くなって答えた。
「なぜ? おれなんかもうおしまいだけれど。おれは一生を棒にふっちまった人間だからな。これは前にもいったことだし、これからもまたいうが、もしおれに必要な時に財産の分け前をよこしてたら、おれの生涯はすっかり別になってたんだがなあ」
 レーヴィンは急いで話頭を転じた。
「兄さん知っていますか、あなたの使っていたヴァニューシカが、今ポクローフスコエで僕の番頭をしているんですよ」と彼はいった。
 ニコライはぴくっと頸をひっつらせて、考えこんだ。
「そうだ、一つポクローフスコエ村の近況を話してもらおうじゃないか。どうだね、邸はやはり潰《つぶ》れもしないでいるかね、そして白樺の木は、おれたちの習った教室は? 庭師のフィリップもやっぱり健在かね? あの四阿《あずまや》だの、長椅子だのは、今でもまざまざと覚えているよ!………ねえ、いいかい、家の中のようすをなんにも変えちゃいけないよ。とにかく早く結婚するんだな、そして、また昔とおんなじようにやってくれ。そうしたら、おれはおまえんとこへいくよ、おまえの細君がやさしい女だったらな」
「いや、今すぐ僕んとこへ来ませんか」とレーヴィンはいった。「二人で気持よく暮せますぜ!」
「コズヌイシェフに出くわさないとわかってたら、行ってもいいんだがなあ」
「出くわしゃしませんよ。僕はあの人から何一つ干渉を受けないで暮してるんだから」
「そう、しかしなんといっても、おまえはあの男かおれか、二人に一人を選ばなくちゃならないよ」と彼は臆病そうに弟の眼をのぞきこみながらいった。
 この臆病そうな表情がレーヴィンを感動さした。
「もしこの点に関して忌憚《きたん》のない告白を聞きたいというのなら、僕ははっきりこういいましょう、あなたとコズヌイシェフの喧嘩では、僕はそのいずれにもくみしませんね。あなたは外面的に正しくないし、コズヌイシェフは内面的にまちがっています」
「ああ、ああ! おまえはそれがわかってるんだな、それがわかってるんだな!」とニコライはさもうれしそうに叫んだ。
「しかし、お望みならいいますがね、僕は、あなたとの友情をより多く尊重します、なぜって……」
「なぜ、なぜ?」
 レーヴィンがこの兄との友情を尊重するのは、ニコライが不幸であって、友情を必要とするからであったが、それをいうわけにはいかなかった。しかしニコライは、弟がいおうと思ったのがほかならぬこのことであるのを、早くもさとってしまった。で、眉をひそめながら、ウォートカのビンに手をかけた。
「もう過ぎますよ、ニコライ・ドミートリッチ」
 ふっくらしたむきだしの手をフラスコの方へ伸ばしながら、マリヤはこういった。
「放せ! うるさくいうな! ぶんなぐるぞ!」と彼は叫んだ。
 マリヤはにっこりと、やさしいつつましやかな微笑を浮べた。その微笑はニコライにも伝染したのである。彼女はウォートカをとりあげた。
「そうだ、おまえはこんな女に何もわかるものかと思ってるだろう?」とニコライはいいだした。「ところが、だれよりも一番よくわかるんだよ、こういうことがなにもかも。そうだろう、こいつには何かしらいいところがあるだろう、かわいいとこが?」
「あなたは以前、一度もモスクワにいたことがないんですか?」とレーヴィンは何かいうために、マリヤに向ってこうきいてみた。
「おい、こいつにあなた言葉[#「あなた言葉」に傍点]を使わなくってもいいよ。こいつはかえって恐縮するからな。こいつには今までだれ一人、あなた言葉[#「あなた言葉」に傍点]を使ったものなんかありゃしない。ただし、治安判事だけは例外だがね。こいつが女郎屋から足を抜こうとしたとき、裁判沙汰になっちまったのさ。しかし、世の中のことって、なにもかも無意味なことばかりだなあ、やれやれだ!」と彼は出しぬけに叫んだ。「治安判事だとか、地方自治体とかいう新しい制度、――じつになんという醜態だ!」
 そういって、彼はその新しい制度にぶっつかったいろいろの場合を話しはじめた。
 コンスタンチン・レーヴィンはその話を聞いていたが、いっさいの社会的施設が無意味であるという説は彼も同感であって、自分でもよくそれを口外したものであるが、いま兄の口から聞かされると、不快に感じられるのであった。
「あの世へ行ったら、それがすっかりわかりますよ」と彼は冗談半分にいった。
「あの世へ? おお、おれはどうもあの世が嫌いだよ! 大嫌いだ」おびえたような気《け》うとい眼を弟に据えながら、彼はそういった。「全くのところ、自分の生活にしろ人のことにしろ、いっさいのけがらわしいごたごたからぬけ出したら、さぞ好かろうと思うんだけれども、死ぬのは怖《こわ》いよ、死ぬってことは、おぞ毛が立つほど怖いんだ」彼はぶるっと身ぶるいした。「まあ、何か飲まないかね。シャンパンがいいかい? それとも、どこかへ乗り出すか? ジプシイのとこへでも出かけようか? 実はね、おれはジプシイと、やつらの歌うロシヤの民謡が、おそろしく好きになったんだよ」
 彼はそろそろ呂律《ろれつ》がまわらなくなり、話がひょいひょいとあれからこれへ移りだした。レーヴィンはマリヤの助けをかりて、どこへも行かないように兄をすかし、正体なく酔いつぶれたところを寝かせつけた。
 マリヤはレーヴィンに、困ることがあったら手紙を出す、そしてニコライにも弟のところへ越して行くように勧める、と約束した。

[#5字下げ]二六[#「二六」は中見出し]

 翌朝、コンスタンチン・レーヴィンはモスクワを発《た》って、夕刻、自分の村へ帰り着いた。道々、汽車の中で、隣席の人々と、政治のことだの、新しい鉄道のことだのを話しあったが、またしてもモスクワにいた時と同じように、観念の混乱と、自分自身にたいする不満と、何ものかにたいする羞恥に悩まされた。けれども、目的地の駅へおりて、外套の襟を立てた目っかちの馭者イグナートの姿を見た時――停車場の窓ごしに射してくるどんよりした光の中に、絨毯《じゅうたん》を張った自分の橇と、輪や房を飾った馬具をつけて、尻尾を縛られた自分の馬を見た時――彼が橇に乗り込もうとしていると、馭者のイグナートが村の新しい出来事を知らせ、請負師が来たことや、牝牛のパーヴァが子を生んだことなど話した時――彼はしだいに混沌が晴れていき、羞恥心も自己不満も薄らいでいくのを感じた。それは馭者と馬を見た瞬間から感じたことなのである。しかし、持ってきてくれた裘《かわごろも》をまとい、膝掛にくるまって橇におちついて、これから村でなすべき処置を考え、もと乗用だったのが、脚を痛めたため輓馬《ひきうま》になったものの、今でもなかなかの逸物であるドン産の脇馬を眺めながら乗り出した時、彼は自分の身に起ったことを、ぜんぜん別様に解釈しはじめた。彼は自分を自分として感じ、それ以外のものになりたい気がしなかった。ただ彼は今、前よりもっといい人間になりたかった。第一に、今からのち、結婚によって得られる飛び離れた幸福など、断じて期待すまい、したがって、自分の現在をおろそかにすまい、と決心した。第二に、今後は二度とあのけがらわしい情欲に溺れるようなことはしない(彼は結婚を申しこもうと考えた時、その追憶にひどく苦しめられたものである)。それから、兄ニコライのことを思い起しながら、もう決してあの兄のことを忘れなどしない、いつもその動静に気をつけて、兄が困った時いつでも救助の手がさしのべられるよう、行方《ゆくえ》を見失わぬようにしようと、われとわが心に誓った。またその時はまもなくやってくる、それを彼は感じた。それから、兄のいった共産主義の話、彼はあの時きわめて軽くあしらっていたが、今はそれが彼を考えこますのであった。彼は経済条件の改革などばかげたことのように思っていた。にもかかわらず、彼はいつも民衆の貧困に比べて、自分のありあまった生活を不正と感じていたので、今や彼は心ひそかに、完全に自分の正しさを確信するため、これまでもずいぶんよく働き、ぜいたくを慎んではいたけれど、今後はもっと働き、もっとぜいたくを慎もうと決心した。そんなことはみな易々《いい》たるわざのように思われて、彼は道々この上もなく快い空想のうちにすごした。よりよき新生活を期待する勇ましい気持で、彼は夜の八時すぎ、わが家へ帰りついた。
 彼の家で家政婦の役目を勤めている年とった保姆《ばあや》のアガーフィヤ・ミハイロヴナの部屋の窓から洩《も》れる光が、邸の前にあるちょっとした広場の雪に落ちていた。彼女はまだ寝ないでいたのである。アガーフィヤに起されたクジマーは、寝ぼけ眼で跣足《はだし》のまま、入口階段へ駆け出した。牝の猟犬のラスカは、危くクジマーの足を払わんばかりの勢いで、同じように飛び出して、彼の膝に身をすりよせ、あと脚で立っては、主人の胸に前脚をかけようとして、かけかねていた。
「ずいぶんお早いお帰りでございましたね、旦那さま」とアガーフィヤはいった。
「里心がついたんだよ、アガーフィヤ。お客さまに行ってるのも悪くはないが、やっぱりわが家のほうがいいからね」と答えて、彼は自分の居間へ通った。
 さっそく持ってこられた蝋燭で、居間は徐々に照らし出され、なじみの深いこまごましたものが、闇の中から浮き出してきた。鹿の角《つの》、書棚、鏡、暖炉(この暖炉の空気穴はもう前から修繕しなければならなかったのだ)父譲り[#「のだ)父譲り」はママ]の長椅子、大きなテーブル、そのテーブルの上に開いたままの本、こわれた灰皿、彼の手で書きこんである帳面、こういう品々を見たとき、道々空想した新生活がはたして可能かどうかという疑念が、瞬間かれの心に忍びこんだ。こうした過去の痕跡《こんせき》が、あたかも一時に彼をとり囲んで、こういうように思われた。『だめだよ、のがすものか、おまえは別人のようになれっこない、やっぱり前と同じだろうよ、懐疑も、永久の自己不満も、自己|匡正《きょうせい》の空しい試みも、堕落も、かつて与えられたことのない、また与えられるはずのない幸福にたいする永遠の期待も』
 しかし、それをいったのは品物であって、内心の声はこうささやいた――過去に屈服してはいけない、自己はどんなふうにでもすることができる、と。この声に従いながら、彼は一対《いっつい》の四貫目|唖鈴《あれい》の置いてある片すみへ行って、気持を引き立てようとつとめながら、体操をはじめた。戸の外でぎしぎしという靴音が聞えた。彼は急いで唖鈴を置いた。
 支配人が入ってきて、おかげで万事つつがなくすんだけれども、新しい乾燥機で蕎麦《そば》が焦げたむねを報告した。この報知はレーヴィンをいらいらさせた。新しい乾燥機はある程度、レーヴィンの考案で組み立てられたものであった。支配人はつねづねこの乾燥機に反対だったので、今や内心得々としながら、蕎麦が焦げたと報告したわけである。ところがレーヴィンは、蕎麦が焦げたとしたら、それは口の酸っぱくなるほどいいつけておいた方法をとらなかったからだ、ただそれだけだ、と固く信じきっていた。彼はいまいましくなって、支配人に小言をいった。しかし一つ重大な喜ばしい出来事があった。共進会で買った高い優秀な牡牛のパーヴァが子を生んだことである。
「クジマー、裘《かわごろも》を出してくれ。そして、君は提灯《ランタン》を持ってくるようにいいつけてくれたまえ。ひとつ行ってみるから」と彼は支配人にいった。
 大事な牛を入れてある家畜場は、邸のすぐうしろにあった。ライラックの根もとにうず高く掃きよせた雪のそばを通って、彼は内庭を横切り、家畜場へ近づいた。凍りついた戸が開いた時、牛糞の臭いのする暖かい蒸気が鼻をうった。そして、慣れない提灯《ランタン》の灯《あか》りにびっくりした牛どもは、新しい敷わらの上でもぞもぞ身動きした。黒ぶちのオランダ牛のすべすべした広い背中が、ちらりと目にうつった。鼻に環《かん》を通した牡牛のベルクートは、じっと横になっていたが、人がそばを通ったとき、起きあがろうとしたけれど、また考えなおして、ただ二度ばかり鼻を鳴らしただけで済ました。河馬《かば》のように大きい赤毛の美女パーヴァは、尻をくるりと向け変えて、入ってきた人々からわが子をかばうようにし、ふんふん嗅ぎまわすのであった。
 レーヴィンは柵《さく》の中へ入って、パーヴァを眺めまわし、赤ぶちの子牛を起して、ひょろひょろした長い脚で立たせた。パーヴァは興奮して唸《うな》りかけたが、レーヴィンが子牛をおしやると安心して、一つ重々しく吐息をつくと、ざらざらした舌でわが子を舐《な》めはじめた。子牛は乳房をさがしながら、鼻っ面で母親の股根《ももね》を突きあげ、尻尾を振っていた。
「ひとつこっちへ灯りを見せてくれ、フョードル、提灯をこっちへ」とレーヴィンは子牛を見まわしながらいった。「母親そっくりだ! ただ毛色だけは父親似だが。なかなかいい。脚も長いし、股もしっかりしてる。ね、ヴァシーリイ・フョードロヴィッチ、いいだろう?」子牛の生れた喜びにまぎれて、蕎麦《そば》の一件はすっかり妥協しながら、彼は支配人に話しかけた。
「どちらに似たって、悪かろうはずがございません。ときに、請負師のセミョーンが、おたちになったあくる日やってまいりまして。ひとつあれと相談をきめなけりゃなりません、コンスタンチン・ドミートリッチ」と支配人はいった。「先ほど機械のことをご報告いたしましたが」
 このたった一つの問題が、大規模で複雑な領地経営のこまごました世界へ、レーヴィンをひきずりこんでしまった。彼は牛小屋からまっすぐに事務所へおもむき、支配人と請負師のセミョーンとしばらく話をしたあと、邸へひっ返して、いきなり二階の応接間へいった。

[#5字下げ]二七[#「二七」は中見出し]

 それは大きな古い邸であった。レーヴィンは一人ぐらしではあったけれども、暖房をして家じゅう占領していた。それがばかばかしいことは、彼も承知していたし、またそれがよくないやりかたで、今度の新しい計画に反することも心得ていたが、この家はレーヴィンにとって全世界にひとしかった。それは、父母の生活し死んで行った世界であった。彼らの生きていた世界は、あらゆる完成の理想であって、彼はそれを自分の妻、自分の家族とともに復活させようと空想していたのである。
 レーヴィンはほとんど母親を覚えていなかった。母に関する観念は、彼にとって神聖な追憶であり、彼の空想に描いている未来の妻は、美しい神聖な女性の理想のくりかえしでなければならなかった。それは彼の母であった。
 女性に対する愛というものを、彼は結婚以外に想像することができなかったのみならず、まず最初に家族を想像したのち、それから家族を与えてくれるかを思い描くのであった。彼の結婚観は、それ故、知人の大多数のそれとは似ても似つかなかった。彼らにとっては、結婚は数多い社会生活上の一事件にすぎなかったが、レーヴィンにとっては、彼の全幸福を左右する重要な生活の事柄であった。ところが、今はそれを断念しなければならないのであった。
 彼がいつも茶を飲む小さい客間へ入って、本を手に自分の肘《ひじ》椅子に腰を据え、アガーフィヤが茶を持ってきて、例の「わたくしも坐らしていただきますよ、旦那さま」といいながら、窓ぎわの椅子に腰をおろした時、彼はこんなことを感じた。これがいかにふしぎであろうとも、自分は例の空想と袂《たもと》をわかったわけではない、この空想がなくては生きて行かれない、彼女といっしょになるか、またはほかの女と結婚するか、いずれにしてもこの空想は実現する。彼は本を読み、読んだことを考え、アガーフィヤの話を聞くために、時おり読みやめた。老婆はのべつまくなしにしゃべりつづけたが、それと同時に、領地の経営や未来の家庭生活のさまざまな光景が、なんの連絡もなく彼の想像に浮んでくるのであった。彼は、心の中で何かが固定し、調節し、片づいていくのを感じた。
 彼は、プローホルが神さまを忘れて、馬を買えといってレーヴィンからもらった金で、夜昼なしに飲みくらい、女房を死ぬほどなぐったという、アガーフィヤの話を聞いていた。聞きながら本を読んでいるうちに、読書に呼びさまされた思想の流れを、残りなく思い起した。それはチンダルの熱力論であった。彼は、チンダルが自分の実験の巧みさに自己満足しているのと、哲学的見解が不十分なのを、非難していたことを思い出した。と、ふいに喜ばしい想念が浮んできた。
『もう二年たったら、おれの牛小屋にはオランダ産の牝牛が二匹になる。当のパーヴァもまだ生きてるだろうし、ベルクートのうました若い十二匹の牝牛がいるから、あの三匹を見てくれのいいとこへまぜたら――すてきだ』彼はまた本を読み出した。『まあ、よかった、電気も熱も同じことなんだから。しかし、問題の解決のために、一つの量を別のものに置き代えることが、はたして可能だろうか? そりゃだめだ。だが、それがどうしたっていうのだ? 自然界のあらゆる力の関連は、それでなくっても、本能で感じられるんだもの……わけても、パーヴァの娘がもう赤ぶちの牝牛になって、全体の中にあの三匹をまぜるのだと思うと、実に愉快だ!………すばらしい! そこで、家内や客人たちといっしょに、牛の群を出迎えに行く……そこで家内は、「わたしコスチャ([#割り注]コンスタンチン[#割り注終わり])と二人でこの牝牛を、まるで赤ちゃんみたいに世話しましたのよ」という。「それがどうしてあなたには、そんなに興味がおありなのでしょう?」と客がたずねる。「たく[#「たく」に傍点]の興味をもつことは、なんでもわたしおもしろいんですもの」しかし、その家内はいったいだれだろう?』と、彼はモスクワの出来事を思い出した……『いや、どうもしかたがない……何もおれが悪いんじゃない。しかし、今度はなにもかも新規まきなおしだ。生活が許さない、過去が許さないなんていうのは、ばかげた話だ。もっとよく、ずっとよく生きるために、努力しなくちゃならないて……』
 彼はちょっと頭をもちあげて、考えこんだ。主人の帰宅をまだよく消化《こな》しきれないで、も少しほえるために内庭を駆けまわっていた老犬ラスカは、尻尾をふりふり、冷たい空気の匂いを身につけて帰ってくると、彼のそばへよって、手の下へ首をつっこみ、哀れっぽくかぼそい声を立てながら、愛撫を要求するのであった。
「ほんとに、ものをいわないばかりでございますよ」とアガーフィヤがいった。「犬とはいい条……ご主人が、お帰りになって、くよくよしていらっしゃることが、ちゃんとわかるんですからねえ」
「何をくよくよしてるんだい?」
「だって、旦那さま、わたくしにそれが見えないとお思いでございますか? もうそろそろ旦那さまがたのお気持がわかってよいころでございますよ。小さい時分から、旦那さまがたの中で大きくなったんでございますもの。大丈夫でございますよ。旦那さま。ただお達者で、お心にやましいことさえなければ」
 老婆が自分の腹を見ぬいたのに驚きながら、レーヴィンはじっと彼女を見つめた。
「いかがでございます、お茶をもう一杯もってまいりましょうか?」といい、茶碗を持って、アガーフィヤは出て行った。
 ラスカは相変らず、彼の手の下へ鼻面をつっこんでいる。レーヴィンがちょっと撫《な》でると、ラスカは突き出たあと脚の上に頭をのせて、すぐ彼の足もとにくるりと円くなった。そして、今はなにもかもけっこうでつつがなしというしるしに、こころもち口を開け、唇をちゅっと鳴らし、古い歯の上にねばっこい唇をいっそうぐあいよくのせ、極楽極楽というように安心して、静まりかえった。レーヴィンはこの最後の動作を注意ぶかく見まもっていた。
『おれもあのとおりだ!』と彼はひとりごちた。『おれもあのとおりだ! なあに、大丈夫、なにもかもけっこうだ』

[#5字下げ]二八[#「二八」は中見出し]

 舞踏会のあとで、アンナ・アルカージエヴナは早朝、良人に電報を打って、当日モスクワを出発するといってやった。
「だめよ、わたしたたなくちゃならないの、どうしても」まるで数え切れないほどの用事を思い出したというような語調で、彼女は予定の変更を嫂《あによめ》に説明した。「いいえ、もう今日のほうがいいの!」
 オブロンスキイは自宅で食事はしなかったが、七時には妹の見送りに帰ってくると約束した。
 キチイも、頭痛がするからという手紙をよこして、やはりやってこなかった。ドリイとアンナは、子供たちとイギリス婦人を相手に、淋しく食事をした。子供たちは気まぐれなせいか、それとも敏感なためか、この日のアンナ叔母さんは、あれほど好きになった到着の日と打って変って、もう子供などにかまっていられないと直覚したのか、いずれにもせよ、彼らは急に叔母さんといっしょに遊ぶのも、叔母さんを愛するのもやめてしまい、叔母さんが帰って行くということも、彼らにとってなんの興味もなくなった。この朝、アンナは出発の準備に忙殺されていた。モスクワの知人に手紙を書いたり、勘定をつけたり、荷ごしらえをしたりしていたのである。概してドリイの目には、アンナがおちついた気持になれず、自分でもよく知っているあくせくした気分でいるように思われた。それは何か理由がなくては襲ってこないもので、多くの場合、自分自身にたいする不満を隠すためであった。食後、アンナは着替えに自分の居間へ行った。ドリイもそのあとから入っていった。
「あんたは今日なんて妙なんでしょう!」とドリイはいった。
「わたし? あんたそう思って? わたし妙なのじゃなくって、いけない女なのよ。これはよくあることなの。わたし泣きたくってしようがないわ。こんなことほんとうにばかげてるけど、今にすんでしまうわ」とアンナは早口にいって、ナイト・キャップや精麻《バチスト》のハンカチをつめていた玩具のような袋に、赤くなった顔をかがめた。その眼はぎらぎら光って、たえず涙が浮んでくるのであった。「わたしペテルブルグをたつときも気が進まなかったけど、今もここからたって行きたくないわ」
「あんたはここへ来て、いいことをして下すったんだわ」とドリイは注意ぶかく彼女をながめながら、そういった。
 アンナは涙に濡れた眼で、嫂を見やった。
「それはいわないでちょうだい、ドリイ。わたしなんにもしやしなかったし、それにできもしなかったんですもの。わたしね、どうして人はわたしを悪くしようと申しあわせてるのかと思って、よくふしぎに思うのよ。いったい、わたし何をしたのでしょう、また何をすることができるでしょう? あんたはその胸の中に愛情の持ち合わせがあったから、赦すことができたのに……」
「もしあんたって人がなかったら、それこそどんなことになったか知れなくってよ! アンナ、あんたはなんてしあわせな人なんでしょう」とドリイはいった。「あんたの胸の中は、何から何まで晴ればれとしてけっこうずくめなんですもの」
「人はだれでもそれぞれの心の中に、イギリス人のいう skeltons《スケルトン》(骨組み)を持ってるものよ」
「あんたにどんな skeltons があるの? あんたはどこからどこまで、とても明るいじゃないの」
「ところが、あるのよ!」ふいにアンナはこういった。と、涙のあとでは思いがけないずるそうな、笑い上戸《じょうご》らしい微笑が唇を歪《ゆが》めた。
「おやおや、してみると、あんたの skeltons は陰気なものじゃなくて、こっけいなものと見えるわね」とドリイはほほえみながらいった。
「いいえ、陰気なものよ。なぜわたしが明日でなしに今日たつか、あんたそれがわかって? これはわたしの胸につかえていた告白なのよ、わたしあんたにそれをしたいの」思い切ったようすで肘椅子の背に身を投げかけ、ひたとドリイの顔を見つめながら、アンナはこういった。
 ドリイは、アンナが耳の付け根から、黒い編髪のうねっている頸筋まで、まっ赤になっているのを見て、びっくりしてしまった。
「そうなの」とアンナはつづけた。「あんたはなぜキチイが食事に来なかったか、そのわけをごぞんじ? あのひとはわたしに嫉妬してるのよ。わたしぶちこわしをしたの……あの舞踏会があのひとのために喜びでなくって、苦しみになったのは、わたしがもとなんですもの。でも、全く、全くのところ、わたしが悪いんじゃないのよ。それとも、ほんのぽっちり悪いだけなのよ」ぽっちりという言葉をひっぱりながら、彼女はかぼそい声でそういった。
「まあ、あんたのいいかたったら、スチーヴァそっくりよ」とドリイは笑い笑いいった。
 アンナはむっとして、
「あら、違いますわ、違いますわよ! わたしはスチーヴァじゃありませんよ」と眉をひそめながらいった。「わたしがこういうのはね、わたし一刻だって、自分で自分を疑うようなことがしたくないからですわ」とアンナはいった。
 けれども、そういった刹那《せつな》、彼女はそれが真実でないことを感じた。彼女は自分で自分を疑っていたばかりでなく、ヴロンスキイのことを考えると、心の動揺を感じずにはいられなかった。現に予定よりも早くたとうとしているのは、もはや彼と顔をあわさないためなのであった。
「ああ、スチーヴァが話していたわ、あんたがあの人とマズルカを踊って、あの人が……」
「それがどんなにおかしなことになったか、あんたとても想像がつかないくらいよ。わたしはね、ただ縁談のお取持ちをしようとしただけなの、思いがけなくまるっきり別なふうになってしまって。もしかしたら、わたし自分の心にもなく……」
 彼女は顔を赤らめて、言葉を止めた。
「ああ、あの人たちもすぐそれに感づいたのよ!」とドリイはいった。
「でも、もしあの人に何か真剣なものがあるとしたら、わたし、どうしたらいいかわからないわ」とアンナはさえぎった。「こんなことはなにもかも忘れられてしまって、キチイもわたしを憎んだりしないようになりますわ、わたしもそう信じていますわ」
「もっともね、アンナ、ほんとうのことをいうと、わたしキチイのために、この縁談はたいして望ましくないと思うのよ。もしあの人が、ヴロンスキイが、たった一日であんたに恋してしまうようだったら、こんな話なんかこわれたほうがいいわ」
「ああ、ほんとうにまあ、こんなばかげたことってありませんわ!」とアンナはいったが、自分の心を占めていた想念が言葉で語られたのを聞くと、またもや濃い満足の紅《くれない》がその顔を染めるのであった。「こうしてわたしは、あれほど好きだったキチイを自分の敵にして、このままたって行ってしまうんだわ。ああ、ほんとうにかわいいひとなのにねえ、ドリイ、あんたなんとかしてうまくとりつくろって下さるわね? よくって?」
 ドリイはやっとのことで、笑いをおしこらえていた。彼女はアンナを愛してはいたけれども、この義妹にも弱点があるのだと思うと、ドリイはなんとなく快かったのである。
「敵ですって? そんなことありっこないわ」
「わたしだって、自分があなたがたを愛しているのと同じように、あなたがたみんなから愛してもらいたいわ。しかも、今度は前よりもっとあなたがたが好きになったんですもの」とアンナは眼に涙を浮べながらいった。「ああ、今日はわたしなんておばかさんになったんでしょう」
 彼女はハンカチで顔をおしぬぐい、着替えにかかった。
 もういよいよ出かけるというまぎわに、遅くなったオブロンスキイが、楽しそうな赤い顔をして、酒と葉巻の匂いをぷんぷんさせながら帰ってきた。
 アンナの感傷はドリイにも感染した。で、お別れに義妹を抱きしめたとき、彼女はこうささやいた。
「ねえ、アンナ、あんたがわたしのためにしてくれたことを、いつまでも覚えててね。わたしも一生わすれないから。そして、わたしがあんたを一番の親友として、前にも愛していたし、これからも永久に愛しつづけるってことを、しっかり覚えていてちょうだいね!」
「どうしてそんなに愛して下さるのか、わたしわかりませんわ」嫂を接吻して涙をかくしながら、アンナはそういった。
「あんたはわたしの気持をわかって下すったんですもの、今だってわかってらっしゃるのよ。さよなら、大事なアンナ!」

[#5字下げ]二九[#「二九」は中見出し]

『ああ、これでなにもかもお終いだ、ありがたいことに!』第三ベルが鳴るまで車の中の通路に立って、みんなの邪魔をしていた兄と最後の別れをつげた時、まずアンナ・アルカージエヴナの頭に浮んだ想念はこれであった。彼女はアンヌシカと並んで自分の席に腰をおろし、寝台車の薄明りの中を見まわした。『ありがたいことに、明日はセリョージャとアレクセイ・アレクサンドロヴィッチに会える。そして、昔ながらの慣れたいい生活が始まるんだわ』
 この日いちんちつづいていた気持、万事に気配りしないではいられないような気持のまま、アンナは一種の満足感をいだきながら、几帳面に道中の用意をした。例の小さなはしっこい手で、赤いハンド・バッグを開けてまた閉めたあと、クッションをとりだして膝にのせ、ていねいに両脚をくるんで、ゆったりと腰をおちつけた。病身らしい一人の婦人は、もう寝支度をしていた。ほかの二人づれの婦人はアンナに話しかけた。太っちょの老婦人は脚をくるみながら、暖房のことを何かいった。アンナはこれらの婦人たちに、二言三言返事をしたが、たいしておもしろい話もなさそうだと見切りをつけ、アンヌシカに灯《あか》りを出すように命じ、それを肘椅子の腕木に縛りつけて、ハンド・バッグの中から紙切りナイフと英語の小説をとりだした。はじめのうちは読んでも頭に入らなかった。まず最初はあたりの混雑と、人の足音が邪魔になったし、それから汽車が動き出してからは、その響きに耳をかさないわけにいかなかった。その後は、左側の窓を打ってはガラスにこびりつく雪や、外套にくるまってそばを通りすぎていく車掌の、一方から雪に吹きつけられた姿や、いま外はものすごい吹雪だといったような、あたりの人々の話し声に気を散らされた。それから先はずっと同じことばかりで、依然たる震動と車のごとんごとんという音、依然として窓に吹きつける雪、熱くなったり冷たくなったりする依然として変りのないスチームの急激な転換、薄明りの中にちらつく依然変りのない人々の顔、依然たる話し声――で、アンナは読書にかかり、読んだものが頭に入りだした。アンヌシカは手袋をはめた(もっとも、片方は破れていたが)幅の広い手で膝の上に赤いハンド・バッグをかかえたまま、もうこっくりこっくり居眠りをしていた。アンナは読みかつ理解はしたけれども、読むのが不快であった。つまり、他人の生活の反映を跡づけていくのが、おもしろくなかったのである。彼女は、自分で生活したい思いがいっぱいなのであった。小説の女主人が病人の看護をしているところを読むと、彼女も足音を忍んで病室を歩きまわりたくなるし、国会の議員が演説をすると、彼女もその演説がしたくなった。メリイ夫人が騎馬で鳥を射ちに行きながら、弟の嫁をからかって、その大胆なふるまいで一同を驚かすくだりを読むと、彼女もそれと同じことがしたくなるのであった。しかし、何もすることがなかったので、小さな手で滑っこい紙切りナイフをまさぐりながら、つとめて読書に没頭しようとした。
 小説の主人公はすでに男爵の位と領地という、英国人として理想的の幸福を獲得せんとし、アンナも彼とともにその領地へ乗りこみたくなったそのせつな、小説の主人公はきっとそれが恥ずかしいに相違ないだろうと感じ、彼女自身も同様にそれが恥ずかしいような気がした。しかし、小説の主人公はそもそもなにが恥ずかしいのだろう?
『わたしはいったいなにが恥ずかしいのかしら?』侮辱されたような驚愕の念を抱きながら、彼女はこう自問して本をはなし、紙切りナイフを固く両手に握りしめたまま、椅子の背に身を投げた。恥ずかしいことなど何もなかった。彼女はモスクワの記憶を一々点検してみたが、なにもかも快い記憶で、悪いことは何もなかった。舞踏会を思い起し、ヴロンスキイとその惚れぼれとしたような従順な顔つきを思い起し、この男との交渉を残らず思い起したが、恥ずかしいことは少しもなかった。けれども、それと同時に、追想がちょうどここまでくると、羞恥の念はさらに募ってくるのであった。それはさながら、彼女がヴロンスキイのことを思い起したとか、何かしら内部の声が、『温かいわ、とても温かいわ、燃えるようにあついわ』といっているようであった。
『まあ、それがいったいどうしたんだろう!』と彼女は椅子の上に坐りなおして、きっぱりと自分で自分にこういった。『これはそもそもどういう意味なのかしら? いったいわたしはこれをまともに見るのが怖いのかしら? まあ、どうしたってことだろう? あの若造の将校とわたしの間に、普通の知人同士と違った何かほかの関係があるのかしら、いえ、ありうるのかしら?』
 彼女はさげすむように、にやりと笑って、また本をとりあげた。が、もう何を読んでいるのか、まるっきりわからなかった。彼女は紙切りナイフで窓ガラスをこすり、それから冷たいつるつるした刃を頬におしあてた。と、ふいになんの原因もなくこみあげてくる喜びに、思わず声を立てて笑いそうになった。彼女は自分の神経が捻《ねじ》に巻かれる楽器の絃《いと》のようにしだいに強く張っていくのを感じた。眼はいよいよ大きく見開かれ、手足の指は神経的に動き、胸の中では何ものかが息をせばめ、揺れ動く薄闇の中にありながら、すべての形象や響きがなみなみならぬあざやかさで、はっとするような印象を呼びさます、それを彼女は感じた。彼女はふっと瞬間的に、汽車が前へ走ってるのか、うしろへ行ってるのか、それともまるで動かないのか、のべつ思い惑うのであった。そばにいるのはアンヌシカだろうか、それとも見ず知らずの女なのか? 『あれはなんだろう、あの腕木にかかっているのは? 毛皮外套かしら、それとも獣かしら? それに、ここにいるのはわたしかしら、わたし自身か、それともほかの人か?』彼女はこうした自己忘却に身をゆだねるのが恐ろしかったけれども、何ものかが彼女をその中へひきずりこむのであった。それに身をゆだねるのも、おのれを抑制するのも、彼女の心のままであった。彼女はわれに返るために立ちあがり、膝掛を棄てて、暖かい服の肩襟をはずした。束《つか》の間《ま》、彼女はわれに返った。おりから入ってきた、ボタンの一つ足りない南京木綿の外套を着た、やせた百姓風の男が暖炉たきであって、寒暖計を見にやってきたのだということもわかれば、そのうしろの戸口から風と雪がどっと吹きこんだのにも気がついた。けれど、すぐまたなにもかもがいっしょくたになってしまった……胴の長いその百姓男は、壁の中で何かがりがりがり齧《かじ》りはじめるし、老婦人は車の長さいっぱいに脚をのばして、車の中じゅう黒い雲にみたしてしまった。それから、まるでだれかが八つ裂きにでもなったように、恐ろしい軋《きし》み声が起り、なにやらごとごと音がしはじめた。やがてそのうちに、まっ赤な火が目つぶしを食わせたと思うと、なにもかも一面の壁に隠れてしまった。アンナは、自分の体がどこかへ堕《お》ちていくような気がした。しかし、それらはすべて恐ろしいどころか、かえって楽しいのであった。雪だらけの外套にくるまった男の声が、彼女の耳のすぐそばで何かどなった。彼女は立ちあがって、われに返った。そして、汽車が停車場に近づいたこと、どなった男が車掌だったことを悟った。彼女はアンヌシカに命じて、はずした肩襟と頭にかぶる布《きれ》を出させ、それを身につけると、戸口のほうへおもむいた。
「外へお出になりますか?」とアンヌシカはきいた。
「ああ、ちょっと風にあたりたくって、中はひどく暑いんだもの」
 そういって、彼女は戸を開けた。吹雪と風がどっとまともに吹きつけて、彼女と扉の奪いあいをはじめたが、それさえ彼女には愉快に思われた。彼女は戸を開けて、外へ出た。風はただただ彼女が出るのを待っていたかのように、さもうれしげに口笛を吹きながら、彼女をひっつかんで連れていこうとした。けれども、彼女は冷たい鉄の柱につかまって、頭の布をおさえたままプラットフォームヘ降り、車の陰に入った。風はステップの上でこそ強かったが、列車の陰になったプラットフォームは静かだった。彼女はさも快よさそうに、雪に凍《い》てた空気を胸いっぱいに吸いこんで、車のそばに立ちながら、プラットフォームや灯《あか》りのついた停車場などを見まわしていた。

[#5字下げ]三〇[#「三〇」は中見出し]

 すさまじい雪嵐は停車場のすみずみから起って、列車の車輪の間や、柱のまわりを荒れくるい、ひゅうひゅうとほえ猛《たけ》った。汽車の車輪、柱、人間、すべて見える限りのものは、一方の側から雪を被《かぶ》って、その雪はしだいしだいに厚くなっていく。風は時どき、ほんの瞬間だけ静まったが、すぐにまた恐ろしい勢いでどっと襲ってくるので、とても面と向って立っていられそうもないほどであったが、その間にも、人はだれやら愉快そうに話しあったり、プラットフォームの板をぎしぎし踏み糺《きし》らせたり、たえず大きな戸を開けたり閉めたりしながら、ちょこちょこ駆けまわっていた。前かがみになった人間の影が、彼女の足もとをすべり通ったと思うと、鉄を打つ金鎚《かなづち》の音が聞えた。「電報をよこせ!」という腹だたしげな声が、向こう側の荒れ狂う闘の中から響き渡った。「こちらへどうぞ! 二十八号車です!」というまちまちな叫び声がした。雪を吹きつけられてまっ白になった頬かむりの人が、幾人か駆けぬけた。火のついたタバコをくわえたどこかの紳士が二人、彼女のそばを通りすぎた。彼女は十分空気を吸いこむために、もう一度ほっと大きな吐息をついた。そして、車の鉄柱につかまって車内に入ろうと、もうマッフの中から手を出した。と、その瞬間に、軍人風の外套を着た男が、彼女のすぐそばに現われて、揺らぎ動く角燈の光をさえぎった。彼女はなにげなくふり返ると同時に、ヴロンスキイの顔に見分けがついた。彼は帽子の庇《ひさし》へ手をあてて、彼女に会釈し、何か用はないか、何か役に立つことはないか、とたずねた。彼女はかなり長い間、なんとも返事をしないで、じっと男の顔に見入っていた。そして、彼が暗い影に立っていたにもかかわらず、その顔と眼の表情を見てとった。いや、見てとったように思われたのである。それはまたしても、昨日ああまで強い刺激を彼女に与えた、あのうやうやしげな歓喜の表情である。彼女はこの二三日、一度や二度でなく、現についたった今も、ヴロンスキイは自分などにとって、いたるところざらにごろごろしている永久に同じような青年の一人にすぎない、あんな男のことなど考えるのも不見識だと、心の中でひとりごちていたのであるが、いま会ってみると、いきなり最初の瞬間から、たちまち彼女は喜ばしい誇りの念に、全存在を包まれてしまった。彼がどうしてこんなところへ来ているのか、彼女はもうそんなことをたずねる必要がなかった。まるでヴロンスキイが彼女に向って、自分がここにいるのは、ただ彼女のいるところにいたいからだと、口に出していったのと同じくらい正確に、彼女はそれを知っていたのである。
「あなたが乗ってらっしゃるの、わたし少しもぞんじませんでしたわ。どうしてお帰りになるんですの?」鉄柱につかまろうとした手をさげて、彼女はこういった。おさえきれない喜びと生きいきとした色が、彼女の顔に輝いていた。
「どうして僕が帰るかですって?」彼はひたと女の眼を見つめながら、鸚鵡《おうむ》返しにこういった。「あなただってご承知でしょう、僕はあなたのいらっしゃるところにいたいから、ここまできたんです」と彼はいった。「僕はもうほかにどうもしかたがないのです」
 ちょうどこのとき、風は障碍物でも征服したかのように、列車の屋根屋根からさっと雪を吹きはらって、どこやらで剥《はが》れかかったブリキ板をばたばたいわせはじめた。すると前の方では、厚みのある機関車の汽笛が、泣くような陰気くさい調子で吼《ほ》えはじめた。こうした吹雪のものすごい光景が、今や彼女の眼にはなにもかも、ひとしお悲壮の美をおびてくるのであった。彼女が心で願いながら、理性で恐れていたのと同じことを、彼は口に出していったのである。彼女はひと言も答えなかった。彼はその顔に内部の戦いを見てとった。
「もし僕のいったことがお気に障《さわ》ったら、どうかお赦し下さい」と彼はすなおにいった。
 彼の語調はいんぎんでうやうやしくはあったけれども、しっかりと力づよく執拗に響いたので、彼女は長いあいだなんにも答えることができなかった。
「あなたのおっしゃることは、それはよくないことですわ。お願いですから、もしあなたがいいかたでしたら、どうか今おっしゃったことを、お忘れになって下さいまし、わたしも忘れてしまいますから」ついに彼女はこういった。
「僕はあなたのおっしゃったひと言ひと言、あなたの動作の一つ一つを、永久に決して忘れやしません。また忘れることもできません」
「たくさんです、たくさんです!」男が貪《むさぼる》るように見入っている自分の顔に、いかつい表情を浮べようと空しい努力をしながら、彼女はこう叫び、冷たい鉄柱に手をかけると、ステップにひらりとあがって、すばやく車の昇降口へ入っていった。けれど、その狭い昇降口のところで、彼女は今のことを心の中で考えなおしながら、ちょっと足を止めた。別に自分の言葉も、相手の言葉も思い返したわけではなかったけれど、彼女はこの束《つか》の間の会話が二人を恐ろしく接近させたのを、直覚によって悟った。で、彼女は思わずぎょっとしたが、またそれを幸福にも感じた。彼女は幾秒かの間そこにたたずんでいたが、やがて車の中へ入って、自分の座席へ腰をおろした。すると、はじめ彼女を悩ましていたあの緊張した心の状態が、ふたたびよみがえってきたばかりでなく、さらにその度を増していって、ついには胸の中で張りつめていた何かが、ぷつりと切れてしまいはせぬかと、そら恐ろしく感じられるほどになった。彼女は夜っぴてまんじりともしなかった。けれど、そうした緊張感や、心を満たしていたとりとめのない幻想のなかには、不快なところや陰鬱なところは露ほどもなかった。それどころか、なんとなく心を浮きうきさせるような、焼けつくような刺激性のものがあった。明けがた近くなって、アンナは肘椅子に腰掛けたまま、うとうとまどろみはじめた。そして、目をさました時には、もう明るくなっていて、汽車はペテルブルグに近づいていた。と、すぐに家のことや、良人のことや、子供のことや、今日から始めてここ数日間にしなければならぬことどもを思う心づかいが、彼女をとりまいてしまった。
 ペテルブルグで汽車が停って、プラットフォームに降りた時、いきなり彼女の注意をひいた最初の顔は、良人の顔であった。『ああ、どうしよう! なんだってあの人の耳はあんなになったんだろう?』良人の冷やかな堂堂たる風采を見、わけてもいま彼女に驚異の目を見はらした耳――丸い帽子の鍔《つば》をつっぱっている耳の軟骨部を見ながら、彼女は心の中でこう思った。妻を見つけると、彼はいつも癖になった嘲るような微笑に唇を歪めて、その大きな疲れたような眼で、まともに妻を見つめながら、彼女の方へ歩いて来た。その執拗な疲れたようなまなざしを迎えた時、なにかしら不愉快な感情が、彼女の心をちくりと刺した。まるで彼女が予期していたのは、もっと違った人かなんぞのように。ことに彼女をぎょっとさせたのは、夫を見た瞬間に感じた、自分自身にたいする不満の情であった。この感情は、彼女が夫にたいしていつも経験していた家庭的感情であって、自己|欺瞞《ぎまん》ともいうべきものであった。けれど、以前は自分でこの感情に気がつかなかったのに、今ははっきりと痛いほどに意識されたのである。
「え、ごらんのとおり、優しい良人じゃないか。結婚二年目といいたいほど優しい良人じゃないか。早くおまえに会いたい一念に燃えていたんだからね」と彼は持ち前のゆっくりした細い声でいった。それは、彼がほとんど常に彼女にたいして用いる調子で、もし本気でこんなことをいうやつがあったらさぞこっけいだろう、といったようなふうである。
「セリョージャは丈夫ですの?」と彼女はきいた。
「おや、それが私の熱情にたいする報酬のすべてかね?」と彼はいった。「丈夫だよ、丈夫だよ……」

[#5字下げ]三一[#「三一」は中見出し]

 ヴロンスキイはその夜、夜っぴて眠ろうともしなかった。彼は自分の席に腰かけたまま、時にはじっと前方に眼をそそいだり、出入りする人を見まわしたりしていた。前から彼は、泰然|自若《じじゃく》とおちつきすましたようすで、未知の人々に強い印象を与え、ある動揺を感じさせたものだが、今はそれよりもさらに傲然《ごうぜん》として、自分で自分に満足しきった人のように見えた。彼は他人を品物かなんぞのように眺めていた。真向かいに坐っていた神経質な青年は、地方裁判所に勤めていたが、そうしたようすのために彼に憎悪を感じたほどである。この青年は、自分が品物でなく人間であることを思い知らせるために、彼にタバコの火を貸してもらったり、話しかけたり、一歩すすんで突っつきまでしたけれど、ヴロンスキイは相変らず、灯りでも見るように彼を眺めていた。自分を人間と認めてくれぬこの男にけおされて、しだいに自制心を失っていくのを感じながら、青年は渋い顔をしていた。
 ヴロンスキイの目には、なにひとつ、だれひとり入らなかった。彼は自分を、王者のごとく感じた。が、それは自分がアンナに感銘を与えたと信じていたからではなく――彼はまだそううぬぼれていなかった――彼女から受けた感銘が幸福と、誇りの念をもたらしたからである。
 これらすべてがどういう結果になるか、そんなことは彼にはわかりもしなかったし、また考えようともしなかった。ただ、今まででたらめに散逸《さんいつ》していた自分の力が、残らず一つに集中され、すさまじいエネルギイで一つの幸福な目的に向ってほとばしりはじめた、それを感じたばかりである。そのために彼は幸福であった。彼は彼女に向って、私はあなたのいるところへ行く、いま私は人生におけるいっさいの幸福も、生活の唯一の意義も、ただあなたを見、あなたの声を聞くことにしか認めない、といったが、その言葉が真実であるということが、彼にわかっているばかりであった。ソーダ水を飲もうと思って、ヴォロゴヴォ駅で車から降り、アンナの姿を見かけた時、最初口をついて出た言葉は、まさしく彼の思うところをアンナに告げたのである。で、その言葉を彼女に語り、彼女も今はそれを知り、それを考えていると思うと、彼はうれしかった。彼は夜っぴて眠らなかった。自分の車へ帰ると、彼はアンナを見た時のいっさいの状況と、彼女のいったすべての言葉を、たえず記憶の中から探り出していた。そして、ありうべき未来のさまざまな光景が、空想の中を去来しては、彼の心臓《むね》をしびれさすのであった。
 ペテルブルグで汽車から降りた時、彼は不眠の一夜をすごしたにもかかわらず、まるで冷水浴でもしたあとのように、生きいきとしてすがすがしい気持であった。彼はアンナの出てくるのを待ち受けながら、自分の車のそばにたたずんだ。『もういちど見てやろう』われともなしにほくそえみながら、彼はこうひとりごちた。『あの歩きぶり、あの顔を見てやろう。何かいうかもしれんぞ』しかし、彼はアンナよりも先に、群衆を分けて駅長にうやうやしく案内されてくるその良人を見つけた。『ああ、そうだ! ご亭主だ』その時ヴロンスキイはやっとはじめて、良人が彼女に結びつけられた人間であることを悟った。彼女に良人のあることは彼も知っていたが、その存在を信じなかった。が、頭、肩、黒いズボンに包まれた脚、こういうものを備えた姿を見た時、わけても、この良人がわがものだといわんばかりに、悠々として彼女の手をとった時、彼もいやおうなくその存在を信じさせられたのである。
 ペテルブルグ人らしいさっぱりした顔をした、円い帽子をかぶり、やや猫背気味ながら、いかめしく自信ありげな姿をしたカレーニンを見ると、彼はその存在をはっきりと信じて、いやな気持がした。それは、渇きに悩まされた人が、ようやく泉にたどりついてみると、そこには犬か、羊か、豚かがいて、清水を飲みつくし、どろどろに濁している、といったような感じであった。腰ぜんたいと鈍い雨脚をひねるようなカレーニンの足どりは、ことにヴロンスキイに侮辱感を与えた。彼は彼女を愛しうるまぎれもない権利を、ただ自分一人だけに認めたのである。けれども、彼女は依然として変りなく、その顔や姿は依然として彼に働きかけて、肉体的に活気づかせ、興奮させ、その心を幸福にみたすのであった。彼は、二等車から駆け出してきたドイツ人の従僕に、荷物を持って先へ行くように命じて、アンナの方へ近づいて行った。彼は夫妻の最初の出会いを目撃したが、彼女が良人に話しかける語調に、やや窮屈そうな萌《きざ》しがあるのを、恋する男の直覚で早くも見てとった。『いや、あのひとはご亭主を愛してはいない、また愛することなんかできやしない』と彼はかってにきめてしまった。
 まだ彼がうしろのほうからアンナのほうへ向っている時、彼女は男の接近を感じて、そのほうへふりむこうとしたが、また良人のほうへ向きなおったのに気がついて、彼はうれしくてたまらなかった。
「昨晩はよくおやすみになりましたか?」夫婦にむかっていっしょに会釈しながら、彼はこういった。それは、カレーニンがこの会釈を自分に向けられたものと取ろうが、また自分に気がつこうがつくまいが、どうともご随意に、というようであった。
「ありがとうございます、とてもよくやすみました」と彼女は答えた。
 その顔は疲れたというようであった。時には微笑に、時には眼もとに溢れ出たがる、あの生きいきした表情の戯《たわむ》れは見られなかった。けれども、彼を一目みたその束《つか》の間《ま》、彼女の眼には何やらちらりとひらめいた。その焔《ほのお》はたちまち消えてしまったけれども、彼はこの束の間で幸福を感じさせられた。彼女はちらと良人を見やった。ヴロンスキイを知っているかどうか、確かめるためであった。カレーニンは、これはだれだったと、ぼんやり思い出そうとしながら、不満げにヴロンスキイを一瞥《いちべつ》した。ヴロンスキイのおちつきぶりと自信満々たる態度が、さながら鎌《かま》の刃にあたった石のように、カレーニンの冷たい自信にぶっつかった。
「ヴロンスキイ伯爵でございますの」とアンナはいった。
「ああ! もうお近づきでしたっけな」とカレーニンは手をさしだしながら、気のない声でいった。「行きにはお母さんとごいっしょだったが、帰りにはご子息さんとご同道だったわけだね」まるでひと言ごとに一ルーブリずつ恵みでもするように、彼は歯切れのいい調子でこういった。「あなたはきっと賜暇のお帰りでしょうな?」といって、返事も待たずに妻に向かい、例のふざけたような調子で、「どうだね、モスクワではお別れのとき、さぞかし涙が流れたことだろうね?」
 妻に向けていわれたこの言葉で、水入らずになりたいという気持を、ヴロンスキイに思い知らせたわけである。それからヴロンスキイの方へふりむいて、帽子にちょっと手をかけた。けれども、ヴロンスキイはアンナに向いて、「お宅へ訪問の栄を許していただけるものと存じますが」といった。
 カレーニンは疲れたような眼で、ヴロンスキイを見やった。
「どうぞ、どうぞ」と彼は冷たい調子でいった。「たくでは月曜が面会日になっておりますから」それから、ヴロンスキイに別れを告げて、彼は妻に話しかけた。「ちょうど三十分だけ時間があいておって、じつにいい都合だったよ。おまえを迎えに来て、おまえに優しい心を見せることができたからね」と彼は相変らずふざけた調子でいった。
「あなたはご自分の優しい心を、あんまりおおぎょうに吹聴なさり過ぎますわ。わたしにうんとありがたがらせようとお思いになって」自分たちのあとからついてくるヴロンスキイの足音に、われともなく耳を傾けながら、アンナも同じようなふざけた調子で答えた。『だけど、何もわたしの構ったことじゃありゃしないわ』と彼女は考えて、自分の留守にセリョージャがどんなふうに暮したかを、良人にたずねはじめた。
「いや、申し分なし! マリエットの話では、非常におとなしくって、それに……それに、おまえをがっかりさせなくちゃならんが、おまえの良人ほどにはおまえを恋しがらなかったそうだよ。しかし、もう一度|ありがとう《メルシー》、一日早く帰って来てくれて。わが愛すべき|湯沸し《サモアール》夫人がさぞ有頂天になって喜ぶことだろうよ。(湯沸し夫人というのは有名な伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナのことで年じゅう何事につけても気をもんだり、熱くなったりするので、カレーニンがそう綽名《あだな》をつけたのである)。おまえのことをしきりにたずねていたよ。ねえ、私はあえて勧めるが、おまえきょうにもあのひとを訪ねたほうがいいよ。なにしろ、ありとあらゆることに心を痛めてる女《ひと》なんだからね。目下のところ、いろんな心配ごとのほかに、オブロンスキイ夫婦を仲直りさせようと、一生懸命になっているよ」
 伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナは、アンナの良人の親友で、ペテルブルグの社交界の中心の一つであり、アンナは良人とのつながりで、このサークルに最も親しい関係をもっていた。
「でも、わたしあのかたにお手紙を出しておきましたわ」
「ところが、あのひとはなんでも詳しいことを聞かなければ、承知しないんだからね。おまえ、もし疲れていなかったら、ちょっと行っておいで。さて、おまえの馬車は、コンドラーチイがすぐまわしてくれるよ。ところで、私は委員会へ顔出ししなけりゃならんから。ああ、今日からまた一人で食事をしなくてすむなあ」とカレーニンは言葉をつづけたが、もう、ふざけた調子ではなかった。「私がどんなにおまえというものに慣れてしまったか、おまえほんとうにできないくらいだよ……」
 こういって、彼は長いこと妻の手を握りしめたのち、一種特別な微笑を浮べながら、彼女を馬車へ乗せた。

[#5字下げ]三二[#「三二」は中見出し]

 わが家で、はじめてアンナを出迎えたものは、息子であった。彼は家庭教師の叫び声には耳をもかさず、階段づたいに彼女の方へ駆けおりると、有頂天な喜びにかられて「ママ、ママ!」と叫んだ。母のそばまで駆けつけると、その頸っ玉にぶらさがった。
「僕そういったでしょう、ママだって!」と彼は女の家庭教師に向って叫んだ。「僕にはちゃんとわかってたんだ!」
 息子も良人と同じように、何か幻滅に似た感じをアンナの心に呼び起した。彼女はわが子を、実際よりもっといいように想像していたのである。わが子をあるがままに享楽するためには、彼女は現実の世界までおりていかなければならなかった。しかし、あるがままの息子も、白っぽい髪をふさふさと渦巻かせ、空色の眼をして、きっちりあった長靴下をはいた足はすらりとして、むっちり肥って、すばらしくかわいかった。アンナはわが子を身近に見、その愛撫を身に感じるとともに、ほとんど肉体的の享楽を覚えた。そして、単純な、信じやすい、愛情にみちたわが子のまなざしを見、その無邪気な質問を聞くと、精神的なおちつきを感じるのであった。アンナはドリイの子供たちのことづけた贈り物をとり出して、モスクワにターニャという女の子があって、そのターニャはもう本が読め、ほかの子供たちに教えることさえできる、というような話をして聞かせた。
「じゃ、どうなの、僕よかターニャのほうがいいの?」とセリョージャはきいた。
「わたしにとってはね、世界中で一番いい子は坊やなの」
「そうだろうと思ってた」とセリョージャは、にこにこしながらいった。
 アンナがまだコーヒーも飲み終らないうちに、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナの来訪が報じられた。伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナは、背の高い、肥りじしの女で、不健康そうな黄色い顔をしていたが、物思わしげな黒い眼は美しかった。アンナはこのひとが好きであったが、今日はなんだかはじめて、欠点という欠点を残らずさらけ出しているところを見るような気がした。
「え、どうでした、あなた、無事に橄欖《かんらん》の枝を持っていらしった?」と伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナは、部屋へ入るが早いかこうきいた。
「ええ、あのことはもうすっかり片づきましたわ。でも、あれは、わたしたちが考えていたほどの大事件ではありませんでしたのよ」とアンナは答えた。「いったいにわたしの 〔belle-soe&ur〕(嫂《あによめ》)は、あんまり気が早すぎましてね」
 けれども、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナは、自分に関係のないことに、なんでも興味をもちながら、自分に興味のあることを決して聞こうとしない癖があった。で、彼女はアンナの言葉をさえぎった。
「ああ、この世には悲しいこと、不正なことが、なんて多いのでしょう。わたし今日は、ほんとうにへとへとになってしまいましたわ」
「どうなすったんですの?」とアンナは、微笑をおさえようとつとめながら、たずねた。
「わたし、真理のためのむなしい闘《たたか》いに、そろそろ疲れてきました。どうかすると、すっかり意気|汎喪《そそう》してしまうほどですの。姉妹協会(それは博愛的、かつ愛国的な宗教団体であった)なんか、出発はすばらしかったんですけど、あんな人たちといっしょでは、何をすることもできやしません」嘲笑をおびた諦《あきら》めの声で、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナはつけ加えた。「あの人たちは会の趣旨に飛びかかって、ひっぱりあって、すっかり片輪にしてしまったんですものね。しかも、その議論の浅薄で馬鹿げていること。あの仕事の意味をすっかり理解しているのは、ほんの二、三人で(こちらのご主人もその一人ですが)、あとの人たちはただ掻《か》きまわすだけですわ。昨日もプラヴジンさんからの手紙に……」
 プラヴジンは、外国にいる有名な汎《はん》スラブ主義者である。伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナは、その手紙の内容を話した。
 伯爵夫人は、なおさまざまなおもしろくない出来事や、教会連合の事業にたいして企《たくら》まれている奸計《かんけい》などの話をした後、今日はまだある団体との会合と、スラブ協会の委員会に出席しなければならぬからといって、そうそうに帰って行った。
『だって、あれは前だってあのとおりだったんだわ。それなのに、どうして前にはあれに気がつかなかったんだろう?』とアンナはひとりごちた。『それとも、今日はあのひと、特別いらいらしていたのかしら? だって、ほんとうにこっけいだわ。あのひとの目的は善行で、あのひとはクリスチャンなのに、のべつ腹をたててばかりいるんだもの。あのひとにとってはだれもかれも敵ばかり、しかもそれがキリスト教と善行関係の敵なんだからねえ』
 伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナが帰ったあとへ、親友の局長夫人がやってきて、市中のニュースをありったけ話して聞かせた。三時になると、晩餐にくると約束して、この夫人も帰って行った。カレーニンは役所であった。一人きりになると、アンナは晩餐までの時間をつぶすために、子供の食事するそばについていてやったり(セリョージャは別に食事をすることになっていたのである)自分の品物を整理したり、テーブルの上にたまっている手紙を読んだり、その返事を書いたりした。
 道々経験した故《ゆえ》もない羞恥《しゅうち》の情と、心の動乱はすっかり消えてしまった。慣れた生活条件の中へ入ると、彼女はふたたび自分が非の打ちどころのない、堅固な女であるように感じた。
 彼女は昨日の心の状態を思い出して、驚きあきれる思いであった。『いったいどうしたというのだろう? なんにもありゃしない。ヴロンスキイがばかなことをいっただけで、あんなことは造作なくけりをつけてしまえる。それに、わたしだって、必要なだけの返事をしたまでじゃないの。あんなことは良人《おっと》に話す必要もないし、また話すわけにもいかないわ。そんな話をするのは、つまり意味もないことに重大な意味をつけることになるんだもの』
 彼女はふと思い出した。いつかペテルブルグで良人の部下にあたる青年が、彼女にむかってほとんど恋の打ち明けをしたことがある。その話を妻の口から聞いたカレーニンは、どんな婦人でも世間に生きている以上、そういう場合に遭遇することはありがちのことだが、自分は妻の良識を絶対に信頼しているから、嫉妬など起して妻をも自分をも貶《おと》しめるようなことはしない、と答えたものである。
『だから、何も話す必要なんかありゃしないんだ。それに、しあわせと、何も話すようなことはありゃしないし』と彼女はひとりごちた。

[#5字下げ]三三[#「三三」は中見出し]

 カレーニンは四時に役所から帰って来た。しかし、よくあることだが、すぐ妻のとこへ行くわけにいかなかった。彼はまず書斎へ入って、待ちかまえている請願人に面会したり、事務主任の持ってきたいくつかの書類に署名しなければならなかった。晩餐に集ってきたのは(カレーニン家ではいつでも三、四人の人が食事にくるのであった)、主人の従妹《いとこ》にあたる老嬢と、局長夫婦と、カレーニンの役所へ推薦されてきた青年であった。アンナはその人たちのお相手をするために、客間へ入っていった。かっきり五時に、ピョートル一世と呼ばれている青銅の時計が、まだ五つ目を打ち終らない間に、カレーニンが入って来た。白ネクタイをして、燕尾服には勲章を二つ吊《つ》るしていた。食後、すぐ出かけなければならなかったからである。カレーニンの生活は、一分一分ちゃんと割り当てられ、予定されているのであった。毎日、すべきことを落ちなくやっていくために、彼は厳格このうえない規律を守っていた。『急がず、休まず』というのが、彼のモットーであった。彼は広間へ入ると、一同に会釈《えしゃく》して、妻にほほえみかけながら、せかせかと腰をおろした。
「ああ、いよいよ私の独身生活もおしまいになった。おまえほんとにしないだろうが、一人で食事をするのは、じつにぐあいの悪いもんだよ(彼はぐあいの悪いという言葉に、ことさら力を入れた)」
 食事の間に、彼は妻を相手にモスクワのことを話したり、あざけるような薄笑いを浮べてオブロンスキイのことをたずねたりしたが、会話は主として一同に共通の話題、ペテルブルグの役所に関係したことや、一般社会上の出来事に終始した。食後、彼は三十分ばかりを客といっしょにすごした後、ふたたび微笑とともに妻の手を握って部屋を出ると、会議に列するために出かけた。その晩アンナは、自分の帰京を知って招待してくれたベッチイ・トヴェルスカヤ公爵夫人を訪問もしなければ、ボックスのとってある芝居へも行かなかった。彼女が外出しなかったおもな理由は、あてにしていた着物ができていなかったからである。概して彼女は、客が帰ったあとで身じまいにかかった時、ひどくふきげんだったのである。もともと、あまり金をかけないで衣装道楽をすることの上手なアンナは、モスクワへ発《た》つ前に、三枚の着物を仕立てなおしに、女裁縫師に渡しておいた。それは、見ちがえるほど新奇に仕立てなおされて、三日も前にちゃんと届いているはずであった。ところが、二枚はまるっきりできていず、一枚は仕立てなおされはしていたものの、アンナの思っていたようなものとはちがっていた。女裁縫師はいいわけに来て、このほうがずっとよろしゅうございますと主張したので、アンナはかっとしてしまい、あとで思い出しても気がさすほど怒りつけた。すっかり気分をおちつけるために、彼女は子供部屋へ行って、その晩ずっとわが子とともにすごし、自分で寝かしつけて、十字を切ってやり、ちゃんと蒲団にくるんでやった。彼女はどこへも出かけないで、気持よく一晩すごしたのを喜んだ。彼女はなんともいえないほど心が軽くおちついて、汽車の中ではあれほど重大に思われたことが、ありふれたつまらない社交界の一|些事《さじ》にすぎず、他人に対しても、自分自身に対しても、何一つ恥じるところはないということを、はっきりと見ぬいたのである。アンナは英語の小説を手に、壁炉《カミン》のそばへ腰をおろし、良人の帰りを待っていた。かっきり九時半に、良人の鳴らすベルの音が聞え、当人が部屋へ入って来た。
「ああ、やっとのことで!」と彼女は手をさしのべながらいった。
 彼はその手を接吻して、妻と並んで腰をおろした。
「見たところ、おまえの旅行はだいたい、成功だったらしいね」と彼はいった。
「ええ、とても」と答えて、彼女は良人にいっさいの顛末《てんまつ》を初めから話しだした。ヴロンスカヤ夫人との汽車旅、到着、停車場での偶発事件、それから最初兄に対して、その後ドリイに対して感じた憐憫《れんびん》の情、などを物語った。
「私はどうも、ああいう男を赦《ゆる》していいとは考えられんね、もっともおまえの兄さんではあるが」とカレーニンはきびしい調子でいった。
 アンナはにっこり笑った。彼女にはちゃんとわかっていた。良人がこういったのは、縁戚《えんせき》とかなんとかいう考え方も、自分の真率な意見の表白を阻止することはできない。という気持ちを承知して、それを愛していた。
「まあ、なにもかも無事にすんで、おまえが帰ってきたので、私はうれしいよ」と彼は続けた。「ときに、私が議会で通過させた新しい制度のことを、むこうではどんなにいってるかね」
 アンナはこの制度のことを、なんにも聞いていなかった。で、良人にとってこれほど重大なことを、やすやすと忘れてしまった自分が申し訳ないように思われた。
「ところが、こっちじゃなかなかたいへんな騒ぎを巻き起こしてね」ひとりで満足そうな微笑を浮かべながら、彼はいった。
 カレーニンがこの問題について、なにか自分として気持のいい話をしたがっているのを見てとったので、彼女はいろいろと問いかけながら、話をそのほうへもっていった。彼は依然として満足げな微笑を浮べ、この決議が通過したとき彼のために催された祝賀会の話をはじめた。
「私は大いに喜んでおるよ。それはつまり、いよいよわが国でもこの問題に対して理知的な、確乎たる見解が形成されるようになったのを、証明しているわけ、だからね」
 二杯目のお茶をクリームつきのパンといっしょに飲み終ると、カレーニンは立ちあがって、自分の書斎へおもむいた。
「おまえどこへも行かなかったのかね? きっと退屈したろうね?」と彼はいった。
「いいえ、どういたしまして!」つづいて席を立ち、広間を横切って書斎まで良人を見送りながら、アンナはそう答えた。「今あなた何を読んでらっしゃるの?」と彼女はきいた。
「私はね、今ド・リーム公爵の 〔Poe'sie des enfers〕(地獄の詩)を読んでおるよ」と彼は答えた。「なかなかすばらしい本だよ」
 アンナは、よく人が愛するものの弱点に対して示すような笑い方で、にっこりと笑った。そして、良人と腕を組んで、書斎の戸口まで送っていった。良人にとって、今では必要と化した晩の読書の習慣を、彼女はちゃんと心得ていたのである。彼女はまた、こういうことも知っていた。勤務上の仕事で、ほとんど全部の時間をとられているにもかかわらず、彼は知識的領域に出現する目ぼしいいっさいのものに注意を怠らぬことを、自分の義務と心得ていた。彼は実際、政治、哲学、神学の本に興味をもっていたが、芸術は彼の性格からいって全く無縁のものであった。が、それにもかかわらず、いな、むしろその結果であろう、カレーニンはこの方面で世評を喚起した書物は、一つとして見のがさず、なんでもかでも読破するのを、おのれの義務と心得ているのであった。それも彼女は同様に承知していた。カレーニンは政治、哲学、神学の領域においては、疑惑をいだいたり、摸索したりすることがあったけれども、芸術や詩、ことに音楽の問題となると、全然そのほうの理解力を欠いているくせに、このうえなくきっぱりした確乎不抜《かっこふばつ》の意見を有しているのであった。彼女はそれも知りぬいていた。彼は好んでシェークスピア、ラファエル、ベートーヴェン、詩や音楽の新しい流派の意義などを口にしたが、それらは彼の頭の中で明晰《めいせき》無比の論理によって、きちんと分類されているのであった。
「じゃ、ごきげんよう」書斎の戸口で、彼女はこういった。部屋の中には、もう彼のために笠をかぶせた蝋燭《ろうそく》と、水の入ったフラスコが、肘椅子のそばに用意してあった。「わたしモスクワへ手紙を書きますから」
 彼は妻の手を握りしめて、またそれに接吻した。
『なんといっても、あの人はいい人だわ、正直で、親切だし、自分の専門のほうではたいした紳士だし』とアンナは自分の部屋へ引っ返しながらひとりごちたが、それはまるでだれかが良人を非難して、あんな男を愛するわけにいかぬ、といったのに対して、弁護でもしているようなぐあいであった。『でも、あの人の耳はどうしてあんなに突っ立ってるんだろう! それとも、散髪したてのせいかしら?………』
 正十二時、アンナがドリイあての手紙を書き終ろうとして、まだテーブルにむかっているとき、規則ただしい上靴の足音がして、顔を洗い、髪を梳《と》きつけたカレーニンが、本を小腋《こわき》にはさんで近よって来た。
「さあ、時間だよ、時間だよ」と一種特別な笑いを浮べながらいって、寝室の方へ通りぬけた。
『いったいどんな権利があってあの男は、あんなふうにあの人を見たんだろう?』カレーニンをながめたヴロンスキイの目つきを思い起しながら、アンナはこんなことを考えた。
 着替えをして寝室へ入った。けれども、彼女の顔には、モスクワにいるあいだその眼からも微笑からもほとばしり出ていた生気が、あとかたもなくなくなっていたばかりでなく、今ではかえって、生命の火が消えてしまったか、それとも、どこか遠いところに隠されたような感じであった。

[#5字下げ]三四[#「三四」は中見出し]

 ペテルブルグを発《た》つとき、ヴロンスキイはモルスカヤ街にある自分の大きな住居を、親友でもあり、同僚でもあるペトリーツキイに預けていった。
 ペトリーツキイは若い中尉で、たいした門閥《もんばつ》でもなければ、金持でもないどころか、借金で首が廻らぬような態《てい》たらくであった。夜になると、いつも酔っぱらって帰るし、おまけに、さまざまなこっけいかつ不潔な事件のために、よく営倉へ入れられるという男であったが、同僚にも上官にもかわいがられていた。十一時すぎ、停車場から自分の住居へ乗りつけたヴロンスキイは、車寄せのところに、見覚えある辻馬車が待っているのが目に入った。ベルを鳴らすと、戸の中から男連中の高笑いと、女の甘ったるい声と、『もしだれか悪党野郎だったら、通すことはならんぞ!』とどなるペトリーツキイの声が聞えた。ヴロンスキイは取りつぎをさせないで、そっととっつきの部屋へ入った。ペトリーツキイの女友だちのシルトン男爵夫人が、藤色|繻子《しゅす》の着物と、眉の白っぽいバラ色の顔を輝かせ、パリー式のフランス語を、カナリヤのように部屋いっぱいに響かせながら、円テーブルの前に坐って、コーヒーを沸かしていた。外套を着たままのペトリーツキイと、おそらく勤務からの帰り道であろう、正装のままのカメロフスキイ大尉が、そのそばに腰かけていた。
「よう! ヴロンスキイ!」椅子をがたがたいわせて跳《おど》りあがりながら、ペトリーツキイは叫んだ。「ご主人公のご帰館だ! 男爵夫人、一つこの人に、新しいコーヒー沸しでコーヒーをこしらえてやって下さい。どうも意外だったね! だが、君の書斎のこの新しい装飾には、満足してもらえると思うがね」と彼は男爵夫人を指さしながらいった。「君たちはたしか知り合いだったね?」
「知れたことさ!」愉快そうに微笑して、男爵夫人の小さな手を握りしめながら、ヴロンスキイはこう答えた。
「どうして、古いなじみだよ!」
「あなた旅先からお帰りになったんですの」と男爵夫人はいった。「じゃ、あたし逃げ出しますわ。ええ、さっそくもうお暇しますわ、もしおじゃまのようでしたら」
「あなたはどこでも、いらっしゃるところがご自分のお宅ですよ、男爵夫人」とヴロンスキイはいった。「しばらく、カメロフスキイと彼はつけ加えて、そっけなくカメロフスキイに握手した。
「ほらごらんなさい、あなたには金輪際《こんりんざい》、あんな気のきいたことがいえないんですわ」と男爵夫人は、ペトリーツキイの方を向いていった。
「いや、どうして? 食事のあとだったら、僕だってあれに負けないくらい、うまいことをいいますよ」
「あら、食事のあとじゃ手柄になりませんよ! さてと、それでは、あたしコーヒーをさしあげますから、そのあいだに行って、顔を洗ったり、荷物を片づけたりなさいまし」と男爵夫人はいって、また椅子に腰をおろし、しさいらしく新しいコーヒー沸しのねじをまわしはじめた。「ピエール、コーヒーをちょうだい」と彼女はペトリーツキイに声をかけた。それは、ペトリーツキイという姓からもじったものであるが、彼女はピエールと呼ぶことによって、二人の関係を隠そうともしなかったわけである。「も少し足《た》すわ」
「だめにしちまいますよ!」
「大丈夫、だめになんかしやしないから! ときに、あなたの奥さんは?」ふいにヴロンスキイとペトリーツキイの会話をさえぎりながら、男爵夫人はこんなことをいいだした。「あたしたちここで、あなたを結婚させてあげたんですのよ。奥さんを連れていらっしゃいまして?」
「いや、男爵夫人、僕はジプシイとして生れたんですから、ジプシイとして死にますよ」
「それならけっこう、なほさら[#「なほさら」はママ]けっこうですわ。さあ、お手を下さいな」
 そういって男爵夫人は、ヴロンスキイを放そうともせず、冗談《じょうだん》をふりまき、自分の最近の生活プランを話したり、彼の忠言を求めなどしはじめた。
「彼氏はいまだに、あたしを離縁してくれないんですの! ねえ、いったいあたしどうしたらいいんでしょう? (彼氏というのは彼女の良人であった)。あたし今度こそ、訴訟を起そうと思うんですけど、あなた、どうしたらいいとお思いになりまして? カメロフスキイさん、コーヒーを見て下さいよ――噴《ふ》きこぼれてよ。ごらんのとおり、あたし用事で忙しいんだから! あたしね、訴訟を起そうと思ってますのよ、だって、自分の財産が要るんですもの。あたしが彼氏にたいして不貞を働いたんですって、そんなばからしいこと、あなたにおわかりになって?」と彼女は軽蔑の語調でいった。「それを口実にして、彼氏はあたしの財産を、わがものにしようとかかってるんですのよ」
 ヴロンスキイは、この美人の快活なおしゃべりを、いい気持で聞きながら、いいかげんな相槌《あいづち》を打ったり、冗談半分の忠言を呈しなどした。要するに、この種の女性を相手にする時の慣れきった調子を、彼はたちまちのうちにとり戻したのである。ペテルブルグに於ける彼の世界は、全く相反する二つの部類に分割されていた。一つは下等な部類であって、これには俗悪、愚劣、ことにこっけいな連中が属していた。彼らは、良人たるものはいったん結婚したら、妻一人のみ守らねばならぬとか、処女は純潔でなければならぬとか、女はしとやかであり、男は男らしく節操を持《じ》して堅固でなければならぬとか、子女を養育し、おのれの労働によってパンを獲《え》、負債を弁償しなければならぬとか、そういったようなばかげたことを信じきっている。それは旧式でこっけいな人種に属するのである。ところが、いま一つの部類はほんとうの人間であって、彼ら自身すべてこれに属している。この部類の人々は、主として優美であることを必要とし、寛濶《かんかつ》で、大胆で、快活でなければならず、顔も赤らめずあらゆる情欲に身をゆだね、その他のいっさいを笑いぐさにすることが肝要である。
 ヴロンスキイはただ最初の一瞬だけ、モスクワから全然ちがった世界の印象をもって帰ったあとだけに、度胆《どぎも》をぬかれる思いをしたが、すぐさま古い上靴に足をつっこんだように、以前の愉快な気持のいい世界へ入っていった。
 コーヒーははたしてうまくできなかった。みんなにとばっちりをかけてこぼれてしまって、まさしく期待されていた効果を奏した。つまり、高価なカーペットと男爵夫人の着物を汚して、一同の騒ぎと笑いにきっかけを与えたのである。
「じゃ、いよいよさよならですわ。さもないと、あなたはいつまでたっても、顔をお洗いにならないでしょう。そうなると、あたしの良心には、れっきとした人にとって一番おもい罪、不潔という罪をひきうけることになりますからね。では、いよいよ、喉《のど》へ刀をつきつけろとおっしゃるんですね?」
「ぜひとも。しかも、あなたの手が、なるべく彼氏の唇に近いようにね。すると彼氏はあなたの手に接吻して、なにもかも円満無事におさまりますよ」とヴロンスキイは答えた。
「では、今夜、フランス劇場でね!」こういって、彼女は衣《きぬ》ずれの音を立てながら、姿を消した。
 カメロフスキイも同様におみこしを上げた。ヴロンスキイは、この男の出て行くのを待ちかねて、別れに手をさしのべた後、化粧室へひっこんだ。彼が顔を洗っているあいだにペトリーツキイは手短かに、自分の状況を描写して、ヴロンスキイの出発後、どれだけ状況が変ったかを話して聞かせた。金は一文もない。父親は金なんかやらないし、借金も払わないといった。仕立屋は彼を監獄へぶちこもうとしているし、もう一軒のほうは、必ずぶちこんでみせると脅迫している。連隊長は、もしこういう醜聞がやまなければ、隊を出てもらわんければ[#「出てもらわんければ」はママ]ならん、と彼に申しわたした。男爵夫人は、やりきれないほど鼻についてしまった、わけても、やたらに金をやろうやろうというのがたまらない。ところで、一人いい女があるから、ヴロンスキイ、ひとつ君に見せてやろう、それこそすてきだ、正に奇蹟だ、東洋的な厳粛なスタイルで、『奴隷レベッカの型《ジャンル》なんだ、わかるかい』それから、ベルコショーフとも喧嘩をして、やつは決闘の介添人をよこすといったが、もちろん、なんのこともなしにすむにきまっている。概していえば、なにもかも上首尾で、いたって愉快にいっているのであった。それから、ペトリーツキイは、相手に自分の状況を細かく話す余裕を与えず、ありったけのおもしろいニュースを話しはじめた。もう三年も住んでいる自分の住居の、どこからどこまでもなじみの深い道具だての中で、これは何から何までなじみの深いペトリーツキイの話を聞いているうちに、ヴロンスキイは、慣れたのんきなペテルブルグ生活に帰ってきたという快い感じを、しみじみと味わったのである。
「そんなことがあってたまるものか!」洗面台のペダルを踏んで、健康そうな赤い色をした頸筋に水を浴びせながら、彼はこう叫んだ。「そんなことがあってたまるものか!」ローラがミレーエフとくっついて、フェルチンホフを棄てたという報に接して、彼はこう叫んだ。「で、やつは相変らずのまぬけで、のほほんとしているのかい? ところで、ブズルーコフはどうだい?」
「ああ、ブズルーコフにもひと騒動もちあがったんだ――すてきな話なんだよ!」とペトリーツキイは叫んだ。「ほら、先生ダンスが飯より好きだろう、だから宮中の舞踏会といったら、一度だって抜かしたことはありゃしない。さて、先生、新型の軍帽を手に持って、晴の舞踏会へ出かけたと思いたまえ。君、新しい軍帽を見たかい? とても、軽くって。ところが、先生が立っていると……おい、だめだよ、聞けよ」
「ちゃんと聞いてるじゃないか」とヴロンスキイは、タオルで体を拭《ふ》きながら答えた。
「そこへ大公妃が、どこかの大使といっしょに通りかかったのだが、先生にとって運わるくも、談たまたま新しい軍帽のことに及んだわけさ。大公妃は、大使に新しい軍帽を見せようと思って……ふと見ると、やっこさんそこに立ってるじゃないか(ペトリーツキイは、彼が軍帽をかぶって立っているようすを仕方で見せた)。大公妃は、ちょっと軍帽を貸してくれとおっしゃったが――先生わたそうとしない。いったいどうしたんだろうというので、みんな目くばせしたり、腮《あご》をしゃくったり、顔をしかめて見せたりしたが、さし出そうとしない。棒のように固くなっちまってるんだ。まあその恰好《かっこう》を想像してみてくれ!………とうとう、あの男……なんといったっけな……が、やっこさんの軍帽をとろうとしたけれども……渡さない!……むりやりにひったくって、大公妃にさし出したわけさ。これが新しい軍帽でございますといって、大公妃がそいつをくるりと向け変えると、まあ、どうだい――その中から梨《なし》だの菓子だのが、ばらばらこぼれて出たじゃないか、二|斤《きん》からの菓子なんだよ! テーブルからかっぱらってきたわけさ、やっこさんがよ!」
 ヴロンスキイは腹をかかえて笑った。それからあとも長いあいだ、もうほかの話に移ったときでも、その軍帽のことを思い出すたびに、彼はびっしり並んだ丈夫そうな歯を見せながら、持ち前の健康そうな笑い方で、からからと笑うのであった。
 ありたけのニュースを聞いてしまうと、ヴロンスキイは従僕に手伝わせて軍服に着替え、連隊へ出頭のために馬車を乗り出した。出頭をすましたあとで、彼は兄のとこやべッチイの家へ寄り、そのほか二、三の訪問を試みようと思っていた。それは、カレーニナに出会う可能性のある社交界入りをする魂胆なのであった。ペテルブルグでは、いつものことながら、彼はいったんうちから出ると、もう夜おそくまで帰らないことを自分でも知っていた。
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