『ドストエーフスキイ全集8 白痴 下 賭博者』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP005-048

第四編

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 本編の二主人公が、緑色のベンチであいびきしてこのかた、一週間ばかりたった。ある朗らかな朝の十時半ごろ、知り合いのだれ彼を訪問に出たヴァルヴァーラ・プチーツィナは、ひどくうち沈んだもの思わしげな様子で、家へ帰ってきた。
 世間には一言《いちごん》もって全貌をおおうようなことのいいにくい人がある。それは通常『世間なみ』の人とか、『多数』とかいう言葉をもって呼ばれる人たちで、これが事実上あらゆる社会の最大多数を形づくっている。文学者はその小説や物語に、おおむね社会の典型を取って来て、それを成型的に芸術的に表現しようと努める、――その典型は、そっくりそのままでは現実に発見しにくいが、とにかく、現実そのものよりはるかに現実的なものである。ポドコリョーシン(ゴーゴリ「結婚」の主人公)はその典型的な点において、あるいは誇張といえるかもしれないが、けっして架空の人物ではない。賢明なる人士の多くはゴーゴリの筆によって、ポドコリョーシンのことを知って以来、自分のりっぱな知人や親友の何十人、何百人が、おそろしくポドコリョーシンに似ているのに気づくようになったのではないか。彼らは、自分の友達がポドコリョーシンのような人間であることは、ゴーゴリの喜劇が出る前から承知していたが、しかしこういう名前を持っているということはまだ知らなかった。じっさいには、花婿が結婚式の前に窓から飛び出すなどという場合は、はなはだまれである。なぜなら、余事はさて置き、だいいち、具合の悪いことだからである。が、それにしても多くの花婿は、たとえりっぱな聡明な人々であるにしても、結婚のまぎわに心の奥で、みずからポドコリョーシンであることを認めるにちゅうちょしないであろう。また同様に、すべての夫が一挙手一投足に、"Tu l'asvoulu, Georges Dandin"(つまり自業自得なんだよ、ジョルジュ・ダンダン――モリエール)と叫ぶことはなかろう。ああ、しかし悲しいかな、この衷心からの叫び声は、全世界の夫の口から蜜月の終わったあとで、幾百万べん、幾千万べんくりかえされたかしれない。いや、蜜月のあとどころか、ことによったら、結婚の翌日かもしれないのだ。
 で、あまりまじめな議論にわたるのを避けて、われわれはただこういって置く。現実においては、人物の典型的特質が水で薄められたような具合で、まったくこうしたジョルジュ・ダンダンも、ポドコリョーシンも存在しているし、毎日われわれの目のまえを歩きまわったり走りまわったりしているけれど、なんだかすこし水っぽくなったようである。この事実を完全に読者に伝えるためにいまひとこと、――モリエールが創造したと寸分たがわぬそのままのジョルジュ・ダンダンも、まれにではあるが、やはり現実界に見受けられるということをことわっておいて、雑誌の評論めいてきたこの議論をおしまいとしよう。が、それにしても、われわれの前に一つの疑問が残る。ほかでもない、われわれ小説家はこの「平凡」な、どこまでも普通な人たちを、どんなに取り扱ったらいいのであろう。この連中をすこしでも興味のあるように読者の膳へすすめるには、いったいどうしたらいいのか? 小説を書くときに、彼らのそばをぜんぜん素通りするわけに行かない。なぜなら、平凡な人間はいたるところにあって、多くの場合、浮世のできごとと関連して、必要な連鎖となっている。彼らを抛棄して顧みないのは、つまり真実らしさをそこなうことになる。典型的な性格や、または単に興味のためのみに、風変わりな、ありそうもない人物で小説を満たすのは、不自然でもあり、またおそらくおもしろくもなかろう。われわれの考えでは、文学者たるものはすべからく、平凡人の中にすらも、興味ある教訓的な片影を捕うべきである。たとえば、ある種の平凡人の特質が、恒久の平凡に含まれているとか、またはさらに進んで、この種の人たちが是が非でも平凡としきたりの軌道を脱しようと、けんめいな努力を注いでいるにもかかわらず、いぜんたる呉下の旧阿蒙で終わるというような場合、この種の人々も独自の特質を得ることになる。つまり、平凡人がどうしても生来の自己に満足しないで、その資質もないくせに、がむしゃらに独立した非凡人になろうとするのである。
 こういう『通常の』もしくは『平凡な』人たちの仲間に入るような人物が、本編の中にも二、三人いる。じつのところ、まだ読者にはっきりと説明してないが、名ざしていえばヴァルヴァーラ、その夫プチーツィン、その兄のガヴリーラ・イヴォルギンである。
 実際のところ、金があって、家柄も相当で、容貌も十人なみ、教育もあり、利口でもあり、おまけに人も好くていながら、これという才もなく、どこという変わったところ――よしや偏屈という種類のものであろうと、それすらもなく、自分の思想もなく、純然たる「世間なみ」の人間であるほどくやしいことはない。財産もある、がしかしロスチャイルドの富はない。家柄もれっきとしているけれど、べつに有名なというほどのものではない。顔も十人なみ以上ではあるが、表情はいたって少ない。教育もしっかり受けていながら、使い道がわからない。分別もあるが、自分自身の思想[#「自分自身の思想」に傍点]を持っていない。情もあるけれど、寛大とまでは到らない、などなど。どこまで行ってもこんなふうである。こういう人たちは、世の中にうようよしている、われわれの想像しているよりもずっと多い。彼らはすべての人々と同じく、二種類に分類される。一つは浅薄で、も一つはそれより『ずっと賢い』。第一のほうは比較的幸福である。浅薄な『平凡人』は、自分こそ非凡な独創的人間であると、容易に苦もなく信じて、なんらの動揺もなくその境遇を楽しむ。ロシヤの令嬢たちのなかには髪を短く切って、青い眼鏡をかけ、ニヒリストと名乗りを挙げさえすれば、もうそれですぐ自分自身の『信念』を獲たものと信じてしまうものがいる。また別の連中は、心中に何かしら人類共通の善良な心持ちを、ほんの爪のあかほどでも感じたら、われこそ人類発達の先頭に立っているという信念を自分ほど強く感じているものはほかにあるまい、といったような気持ちになる。また何々思想とかいうやつをそのままうのみにするか、それともなにかの本の一ページをはじめもおわりもなく、ちょっとのぞいて見るかすれば、もうこれは『自分自身の思想』だ、これはおれの頭の中で生まれたのだと、わけもなく信じてしまう。無邪気の傲慢(もしこんなことがいえるとすれば)は、こんな場合、驚くほどの度合に達する。そんなことはとうていありそうもないけれど、絶えず目に入る事実である。この無邪気な傲慢、この愚かな人間の自己の力量に対する信念は、ゴーゴリの描いた驚嘆すべき典型、ピロゴフ中尉(「ネーフスキイ通り」の主人公)によってみごとに代表されている。ピロゴフは自分が天才である、いな、あらゆる天才の上に立っているということに、一度も疑いをさし挟んだことがない。そんなことは問題にならないほど信じきっている。もっとも、問題などというものは、彼にとっていっさい存在していないのだ。大文豪ゴーゴリは読者の侮辱された道徳心を満足させるため、ついにこの男をひどい目に合わさなければならぬはめになったが、この偉人がただぶるっと身震いしたばかりで、拷問に疲れたからだに元気をつけるため軽やきピローグをペロリと食べたのを見て、あきれて両手を広げたまま、読者をおきざりにしてしまったのである。われわれはつねにこの偉大なるピロゴフが、こんな低い官等にいる時分、ゴーゴリに生けどられたのを残念に思っている。なぜなら、ピロゴフはどこまでもうぬぼれの強い男だから、自分は年とともに肩章の筋がふえ、ついには偉い元帥になるのだ、などと空想をたくましゅうするのは朝飯まえだからである。いや、空想するだけじゃない、そうと信じきって疑わないのだ。将官に昇進する以上、元帥にだって任命されないはずがないじゃないか? こういう連中の多くが、後年、戦場でとんでもない失敗をするのだ。そして、こうしたピロゴフが、ロシヤの文学者、学者、宣伝者のあいだにいく人いたかしれない。わたしは『いた』といいはしたもののしかしもちろん、今だっているのだ……
 本編中の人物ガヴリーラ・イヴォルギンは、第二の種類に属する。全身、頭から足の爪先まで、独創の希望に燃えてはいるけれど、やはり『だいぶ、小利口』な平凡人の種類に入る人である。しかし、この種類は前にも述べたごとく、第一のほうよりずっと不幸である。というのは、利口な[#「利口な」に傍点]『平凡人』は、よしんばちょっとの間(あるいは一生涯でもいい)自分を独創的な天才と想像することがあっても、やはり心の底に懐疑の虫が潜んでいて、それが時とすると、利口な平凡人を絶望のどん底まで突き落とすことがあるのだ。たとえ、あきらめがついたとしても、どこか奥のほうへ押しこめられた虚栄心に毒されてしまっている。もっとも、われわれはあまり極端な例を取りすぎたきらいがある。この利口な[#「利口な」に傍点]人たちの大部分は、けっしてそんな悲劇に達しないですむ。まあ、年とってから、多少肝臓を悪くするくらいのものである。しかし、それにしても、あきらめておとなしくなるまでに、この連中はどうかすると非常に長いあいだ、若い時からいいかげんな年になるまで、恐ろしい放埒をつづけることもある。しかも、それがただ独創的になりたいばっかりなのである。それどころか、まだ奇怪な場合があって、中には独創を欲するために、潔白な人が下劣な行為をあえてする向きもある。しかも、こうした不幸な人の中には、単に潔白なぽかりでなく善良でさえあって、自分の家庭で神のように崇められ、自分の努力によって家族ばかりか、他人の世話までしているのだが、それでどうだろう、一生安心というものを知らないのである! 当人にとっては、自分がりっぱに人間としての義務を果たしているという考えが、いっこう安心にもならないばかりか、かえって心をいらいらさせる。『ああ、なんというつまらないことにおれは大事の一生を棒に振ったんだろう! こんなことが足手まといになって、おれの火薬発見を妨げたんだ! これがなかったら、おれもあるいは、いや、きっと発見したに違いない――火薬かアメリカか、しかとさしてはいえないけれど、たしかに発見したに違いない!』
 こういう連中のなにより最もきわだった特色は、いったい何を発見しなくちゃならないのか、また何を発見しようとしているのか、火薬かアメリカか、そのへんの確かなことが一生涯どうしてもわからないという点にある。しかし、発見の苦痛と思慕の情は、コロンブスガリレオのそれにも劣らぬくらいである。
 ガヴリーラもまさしくこんなふうの苦しみをなめはじめた。しかし、ほんのはじめたばかりである。まだまだこれから、うんともがかなくてはならない。おのれの無才をたえず深刻に自覚すると同時に、自分はりっぱに独立性を有する人間だと信じようとするおさえがたい要求は、ほとんどもう少年時代から絶えず彼の心を傷つけていた。彼は羨望の念の強い、間歇的な欲望を持った、生まれながらに神経のいらいらしている青年であった。欲望の間歇的なのを、彼は強烈なのだと考えた。頭角を現わしたいという欲望の激しいままに、彼はどうかすると、思いきって無分別な飛躍をあえてしようと企むことがあった。しかし、いざとなると、わが主人公はそれを断行するべくあまりに利口すぎた。それが彼を悩ますのであった。ことによったら、彼も万一の場合り夢をものにするためとあれば、何か一つでも極端に卑劣なことをあえてしかねなかったかもしれないが、土壇場まで押しつめられると、彼は極端に卑劣なことをしでかすには、あまりに潔白だということが判明するのであった(そのくせ、ちょいちょいした卑劣なことなら、いつでも二つ返事なのだ)。彼は家庭の貧窮と零落を、嫌悪と憎しみをもってながめていた。で、母の世評と性格とが、今のところ彼の栄達のおもな支柱となっているのを、自分でもよく承知していたにもかかわらず、母に対してすらも、上から見おろすような侮蔑の態度をとっていた。
 エパンチン家へ入るときも、彼はさっそくこうひとりごちた。『卑劣なことをするなら、最後まで押し通すんだ、ただ自分のとくにさえなればいいんだ』けれども――かつて一度も最後まで押し通したことがない。またどういうわけで、ぜひ卑劣なことをせねばならぬと考えたのか、そのへんはあやふやなのである。アグラーヤの一件では頭から度胆を抜かれたが、それでもきれいさっぱりあきらめるというでもなく、もしやを頼みに、彼女との交渉を絶たないようにしていた。そのくせアグラーヤが身を落として、自分のようなものを相手にしてくれようとは、一度だってまじめに考えたことはない。その後ナスターシヤとの話が持ちあがったとき、彼は忽然として、いっさい[#「いっさい」に傍点]を獲得するものは金力のみであると悟った。
『卑劣なことをするくらいなら徹底的にやれ』と彼は得意でもあるが、いくぶんこわくもあるような心持ちで、そのころ毎日こころの中でくりかえしていた。『もう卑劣なことをする以上、どんづまりまでやっつけろ。月なみな連中はこんなとき尻ごみするが、おれなんぞはけっして尻ごみせん!』と絶えずみずから鞭うつのであった。
 アグラーヤを失い、ナスターシヤのほうもああした事情で、いやというほどやっつけられて、彼はすっかりしょげ返った。そしてほんとうに金を、――あの気の狂った男が持って来て、同様に気の狂った女が自分の横面へたたきつけた金を、公爵の手もとまで返してしまった。この金を返したことを、彼は無性に後悔したが、それでもまたこのことが彼にとって非常な誇りであった。公爵が三日間ペテルブルグへ残っているあいだ、彼はほんとうに泣き通したけれど、そのくせこの三日のあいだに、もう公爵をしんから憎むようになってしまった。というのは、あれだけの金を返すということは、『とうていだれでも思いきってできる芸当でない』と信じているのに、公爵があまり彼を同情の目をもってながめすぎたからである。しかし、自分の心の悩みも要するに、絶えずじゅうりんされている虚栄心にすぎない、という正直な反省が、おそろしく彼を苦しめた。それから長いことたって、よくよく落ちついて観察したあげく、アグラーヤのような罪のない風変わりな娘を相手にしたら、まじめにさえ持ちかければうまく丸めることができたのにと、やっとはじめて悟ったのである。後悔の念は彼の心を腐蝕して行った。で、職もなげうって、憂愁と煩悶に深く沈んでしまった。
 彼は両親とともにプチーツィンの厄介になっていたが、おおっぴらで妹婿をばかにしていた。そのくせ、プチーツィ冫の忠告をよく用いて、ほとんどつねにみずからその忠言を求めるほど、利口に立ちまわっていた。彼は、プチーツィンがロスチャイルドのようになろうとも思ってもいないし、それを一生の目的として努力するふうもないのを憤慨した。『高利貸をする以上、最後まで押し通さなくちゃうそだよ。うんと世間の餓鬼どもを絞って、その血で金を鋳造したまえ。なんでも心を鬼にして、ジュウの王さまになるんだね!』しかし、プチーツィンはおとなしい無口なたちなので、ただにやにや笑うばかりであった。が、あるときとうとう、ガーニャにはこの問題をまじめに説明して聞かす必要があると感じて、一種の威厳さえ示しながらそれを実行したことがある。彼はガーニャに向かって、自分はけっして不正なことをしないのだから、ガーニャが自分のことをジュウだなどというのは間違っている、また金が今のような価値を生じたのも、自分のせいではない、自分の行動は公正で潔白である、自分は要するに、『こういう』仕事の代理人にすぎないのだと論証して、最後に自分が事務に正確なため、ごくりっぱな立場から見て第一流の人々の知遇をかたじけなくし、自分の事業もますます拡張しつつあるとつけ足した。『ロスチャイルドなんかにはならないよ、なったって仕方がないものね』と彼は笑いながらいった。『まあ、リテイナヤ街に家を一軒、ことによったら二軒も買って、それでぼくは手を引いちまうよ』『しかし、ひょっとしたら、三軒買えないとも限らないからな!』と彼は心の中で思ったが、けっしてこの空想を口走るようなことはなく、胸の奥深く秘めていた。自然はこんな人物を愛し、いつくしむものである。したがって、プチーツィンもたしかに三軒でなく、四軒の家をもってむくわれるに相違ない。なぜなら、彼は子供の時分から、けっしてロスチャイルドにならぬということを、ちゃんと承知していたからである。しかし、四軒よりうえは自然が許してくれない。で、プチーツィンの件はそれでおしまいなのである。
 ところで、ガヴリーラの妹ヴァルヴァーラは、まるで性質の違った女である。彼女も同様に強い欲望を持っているが、それは間歇的というよりも、むしろ執拗なものであった。彼女はつねにどんづまりまで行ったときには、非常に豊富な理性を示したが、その理性はどんづまりまで行き着くまでのあいだにも、彼女を見捨てるようなことはなかった。実際のところ、彼女も独創を夢みる通常人の数にもれなかったが、そのかわり、彼女は自分に特殊な独創力がみじんもないのを早くから悟ったので、あまりたいしてこのことを苦に病まなかった、――しかし、これも一種のプライドから出たことでない、とは請け合われない。プチーツィンと結婚するについても、彼女はなみなみならぬ決断をもって、実際的の第一歩を踏み出したのである。しかし、結婚をするまぎわに、『卑劣なことをするなら、最後まで押し通してやれ。ただ自分の目的さえ達したらいいのだ』などとは夢にも考えなかった。兄のガーニャだったら、こんな場合、けっしてこの文句をいい落とすはずはない(まったく彼は兄として彼女の決心に同意を表したとき、あやうくこの文句を持ち出そうとしたくらいである)。それどころか、まるっきりあべこべで、ヴァルヴァーラは未来の夫がつつしみぶかくて気持ちのよい、ほとんど教育があるといってもいいくらいの人で、思いきった卑劣なふるまいはけっしてしないということを、根本的に確かめたのち、はじめて結婚したのである。ちょいちょいした卑劣な行為は、ヴァルヴァーラも些細なこととしてあまりやかましく追求しなかった。またそういう『些細なこと』のない人がどこにあろう? 理想どおりの人などとうてい見つかるものではない! そのうえに嫁入りすれば、それでもって父母兄弟にわび住まいを与えることになるのを彼女は知っていた。以前家内におこったごたごたは忘れ、彼女は兄の不幸を見かねて、助力しようと思い立ったのである。
 プチーツィンはときどき、もちろん、うち解けた調子で、ガーユヤを勤めに追い立てることがあった。『きみはそう一概に将軍なんてものを軽蔑するが』と彼はどうかすると冗談半分にいった。『気をつけたまえ、世間の人たちはみんなそのうちに時節到来して、将軍になっちまうぜ。待ってたまえ、そんなところを見せつけられるときがくるから』『いったいおれが将軍や将軍職を軽蔑しているなんて、何から割り出したんだろう?』とガーニャは皮肉な調子でひとりごちた。ヴァルヴァーラは兄を助けるため、自分の活動圏を広めることに決心して、エパンチン家へ出入りしはじめた。これには幼いころの記憶が大いにあずかって力あった。彼女もその兄も子供の時分、エパンチン家の令嬢たちと遊んだことがあったのだ。ここでことわっておくが、もし彼女がエパンチン家訪問に当たって、なにかすばらしい空想を追っているのだったら、好んで加入した平凡人の仲間からいちはやく脱出したものといわねばならぬ。しかし、彼女の追求したのは空想でない。いや、むしろ彼女にいわせれば、かなり根底の深い目算がある。つまり、彼女はこの家族の性質に基礎を置いたのである。アグラーヤの性格にいたっては、つねにおこたりなく研究している。ふたりのもの、――兄とアグラーヤの仲を、もともとどおりに丸めるのが、彼女の目的であった。
 もしかしたら、彼女はほんとうにいくぶんたりとも目的を達したのかもしれないが、またことによったら、あまりに多く兄から期待しすぎて、兄がどうもがいても提供することのできないものを要求するような誤謬におちいっていたかもしれない。それはとにかく、彼女はエパンチン家ではなかなか上手に立ちまわった。幾週間も幾週間も兄のことをおくびにも出さず、きわめて正直らしい誠実なふうをよそおい、率直ではあるが品格をも失わないぐらいにふるまうのであった。その良心の奥のほうはどうかというと、彼女はみずから省みてやましいところを感じなかったので、けっしてみずからとがめるようなことはなかった。これが彼女に力を添えるゆえんでもあった。ただ一つ自分で気のつく欠点は、非常に自尊心、というよりも、むしろ圧迫された虚栄心というようなものが強くて、よく腹を立てるのであった。特に彼女がエパンチン家を立ち去るときは、ほとんどいつでもこんな気持ちになることに自分でも気がつくのであった。
 さて、彼女はいま同家から帰って来たところで、前にも述べたとおり、いたくうち沈んだもの思わしげなふうであった。このうち沈んだ表情のかげから、なにかしら苦々しい冷笑的なものも、のぞいていた。プチーツィンはパーヴロフスクで、ほこりのひどい通りに面した、無細工ではあるけれど、広い木造の家に住んでいた。この家はやがてまもなく彼の手に入るはずになっていたので、彼はもう手まわしよく、だれかほかへ売り払う算段にかかっていた。入口階段を昇りながら、ヴァルヴァーラは二階でただごとならぬ騒々しい物音がするのにきづき、兄と父がわめいている声まで聞きわけた。客間へ入ってみると、兄のガーニャが憤怒のあまりまっさおな顔をして、われとわが髪の毛を引きむしらんばかりの勢いで、部屋の中をあちこちかけまわっている。彼女はちょっと
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眉をひそめながら、大儀そうな恰好で、帽子も取らずに長いすへ腰をおろした。もし自分がいま一分間だまっていて、なぜそんなに走りまわっているの、とかなんとかきかなかったら、兄はきっとぷりぷり怒りだすに相違ない、ということをよくのみこんでいるので、ヴァルヴァーラはとうとう質問というような体裁できりだした。
「やっぱりもとのとおり?」
「何がもとのとおりなんだい?」とガーニャは叫んだ。「もとのとおりだって! どうしてどうして、今どんなことが持ちあがっているか知らないのかい、もとのとおりどころじゃありゃしない! じいさんはきちがいのようになってくるし……おふくろはわめくし。いや、まったくだよ、ヴァーリャ、おまえはなんと思うか知らないが、おれはあのじいさんを追ん出すよ、でなけりゃ……、でなけりや、おれがここを出て行く」他人の家からだれを追ん出すこともできないのに気がついたらしく、彼はこういい足した。
「すこし大目に見てあげなくちゃだめよ」とヴァーリャがつぶやいた。
「何を大目に見るんだ? だれを?」とガーニャは猛り立った。「あのおやじの卑劣なやり口をかい? だめだ、おまえはどうとも勝手におし、おれはそんなことはできない! だめだ、だめだ、だめだ! ほんとになんというざまだ、自分が悪いくせによけいいばり返っているじゃないか。『門を通るのがいやだから垣をこわせ!』といわんばかりだ……おまえなんだってそんな様子をしてるんだい? 顔色ったらありゃしないぜ!」
「顔色は顔色だわ」ヴァーリャはぶすっとした調子でいった。
 ガーニャはなおいっそう目を見はって、妹を見つめた。「あすこへ行ったのかい?」とつぜん彼はこうきいた。
「ええ」
「ちょっと、またなんだかどなってる! なんて恥っさらしだ。おまけに、こんな時をねらってさ!」
「こんな時ってどんな時! なにもそんな特別の時なんかありゃしないわ」
 ガーニャは、なおなお目を大きくして、妹を見すえるのであった。
「なにかかぎつけたかい?」と彼はたずねた。
「ええ、だけど、べつに思いがけないことでもないわ。あれはみんなほんとうだった、と思ったばかりよ。うちの人のほうがわたしたちふたりよりも目が高かったわ。あの人がはじめっからいったようになってしまったのよ。あの人どこにいるかしら?」
「留守だよ。どうなったんだい?」
「公爵が正式に花婿さんなの、すっかり決まったんですとさ。わたし、ねえさんたちから聞いたの、アグラーヤさんも承知ですって。もう今じゃ隠そうともしなくなったわ(だって、今まであの家には、いつもなんだか秘密らしいものが絶えなかったんですもの)。アデライーダさんの結婚はまた延びるんですって。それはね、ふたりの結婚式を一度に、同じ日に挙げるためなのよ。ほんとうに詩的だわ、なにかの詩にありそうだわね! そんなに役にも立たないことに部屋をかけまわるよか、結婚祝いの詩でも作ったほうが気が利いててよ。今晩あすこヘベロコンスカヤ夫人が見えるんですって。ちょうど、おりよく来合わせたのよ。ほかにもお客さんがあるんですとさ。公爵とは前から知り合いなんだそうだけど、とにかく夫人にあの人を引き合わせて、正式に披露するらしいのよ。ただね、公爵が部屋へ入るとき、客に気おくれして、なにか物を落としてこわすか、それとも自分でぶっ倒れるか、そんなことがなければいいかって、心配しているのよ。公爵ならありそうなことですもの」
 ガーニャはいっしょうけんめいに注意して聞き終わった。しかし、彼にとって驚くべきこの報知が、いささかも恐ろしい印象を与えなかったらしい様子を見て、妹は内心びっくりした。
「仕方がないさ、それははじめから明瞭なことだったんだものね」と彼はやや考えてからいった。「つまり、いよいよ干秋楽なんだね?」だいぶしずかになったけれど、やはりまだ部屋の中をあちこち歩きまわりながら、妹の顔をずるい目つきでのぞきこんで、なにやら妙な嘲笑を浮かべて、彼はこういい足した。
「でも、にいさんが哲学者みたいな態度で、この知らせを聞いてくださるから結構だわ。わたし安心してよ」とヴァーリャはいった。
「まあ、重荷をほうり出したわけさ。すくなくともおまえの肩からはね」
「わたしは理窟もいわず、うるさい目もかけず、にいさんのために心からつくしたと思っててよ。にいさんがどんな幸福をアグラーヤさんから求めてるか、わたしそんなこときいたことはありませんからね」
「だが、いったいおれが……アグラーヤさんから幸福を求めたかしらん?」
「まあ、お願いだから……哲学めいたことはよしてちょうだい! とにかく、これで万事おしまいよ。ええ、すっかり片がついたのよ。わたしたちのことはもうこれでたくさん、いいばかを見たに相違ないんだから。白状すると、わたしは今まで一度もこのことを、まじめに見ることができなかったのよ。ただ『万一の場合』を思って、あのひとの突拍子もない性質を当てにして、仕事に取りかかっただけよ。それになによりも、にいさんを慰めてあげたかったもんだから……どうせ九分九厘まではだめだと思ってたわ。だいいち、にいさんが何を得ようとあせってたのか、わたしいまだによくわからないのよ」
「さあ、これからはおまえたち夫婦がかりで、おれを勤めに追っ立てはじめるんだね。意志の力と堅忍力行、それから、小さなことでもおろそかにするなって講釈をはじめるんだろう。ちゃんとそらで覚えてるよ」ガーニャはからからと笑った。
『この人はなにかまた変わったことを考えてるんだよ』とヴァーリヤは思った。
「どうだね、あすこでは――よろこんでるかい、つまり、両親がさ?」ふいにガーニャはこうたずねた。
「いいえ、そうでないらしいわ。もっとも、にいさんご自分で想像がつくでしょう。将軍は満足してるけれども、おかあさんは危がってるわ。婿としてはいやでたまらないってことは、ずっと前からわかりきってたんですもの」
「おれのきくのはそのことじゃない。婿としては考えることもできない、お話にならないものだってことは、知れきった話さ。おれは今の事情をきいてるのさ。今あすこの様子はどうだね? 正式の承諾を与えたのかい?」
「つまり、あの女が今まで『いや』といわなかったというだけなのよ、――それっきりよ。だけど、あのひととしては、それよりほかにしようがないじゃないの。あのひとが今まで没常識なほど、内気な恥ずかしがりだったのは、にいさんだって知ってるでしょう。子供の時分お客さんのとこへ出たくなさに、戸棚の中へもぐりこんで、二時間ぐらいその中でじっとしてたこともあるんですよ。ところが、それがそのまま大きくなって、今でも同じことなのよ。ねえ、わたしはなぜたかあの家で、なにかしら重大なことがあると思われるわ。それがしかも、あのひとから出たらしいのよ。あのひとは心の中を悟られまいと思って、いっしょうけんめい、朝から晩まで公爵のことを笑ってるそうだけど、きっと毎日かげでそっとあの人になにかいうに決まってるわ。だって、公爵がまるで天にでも昇ったようにほくほくものなんですもの。その様子がとてもこっけいなんですとさ。わたしあの家の人から聞いたのよ。ところが、わたしはなんだかあの人たちが、つまりねえさんたちが面と向かって、わたしをばかにしてるような気がしてならなかったわ」
 ガーニャはとうとう顔をしかめだした。ヴァーリャがこの問題であんなに深入りしたのは、わざと兄の本心を見抜くためにしたことかもしれない。しかし、ふたたび二階で叫び声がおこった。
「おれはあのおやじを追ん出してやる!」いまいましさを吐き出す機会が来たのを喜ぶように、ガーニャはいきなりわめきだした。
「そしたら、またきのうのように、行くさきざきでわたしたちの顔に泥を塗ってよ」
「なに、――きのうのようにって? どうしたんだい、何がきのうのようなんだい? いったい……」と急にガーニャはおそろしくあわて出した。
「あら、まあ、にいさんは知らなかったの?」ヴァーリャはふと気がついてこう言った。
「なにかい……おとうさんがあすこへ行ったてえのは、ほんとうなのかい?」と、憤怒と羞恥の念にまっかになって、ガーニャはこう叫んだ。「ああ、ほんとにおまえはあすこから帰って来たんだものなあ! なにか聞いて来たかい? じいさん、あすこへのこのこ出かけたのかい? 行ったのか行かないのか?」
 ガーニャは戸口のほうへ向かって飛び出した。ヴァーリャは飛びかかってその両手をおさえた。
「にいさんどうしたの? まあ、どこへ行くの?」と彼女はいった。「おとうさんをいま放したら、方々へ出かけて行って、よけいいやなことをしでかしてよ!………」
「いったい何をあそこでしでかしたんだ? 何をいったんだ?」
「あそこの人も自分で話ができなかったのよ、よくわけがわからなかったらしいの。ただもう皆びっくりしてしまったんでしょう。将軍とこへ行ってみると、留守だったもんだから、リザヴェータ夫人を呼び出したんですって。はじめのうちは口をさがしてくれ、勤めにつきたいといったそうですが、しまいにわたしたちのことを、――うちの人のことだの、わたしのことだの、とくべつ兄さんのことを愁訴したんですって……なんだかかだか、いろんなことをいったんでしょうよ」
「おまえ、どんなことだか聞くわけに行かなかったのかい?」ガーニャはヒステリイでもおこしたように、ぶるぶるとからだをふるわした。「どうしてそんなことが! おとうさんも自分で自分が何をしたか、ろくろくわからないんですもの。それに、あすこでもすっかりは教えてくれなかったかもしれないわ」
 ガーニャは両手で頭をつかんで、窓の方へかけだした。ヴァーリャはいま一方の窓ぎわに腰をおろした。
「アグラーヤさんて妙な人」とつぜん彼女はこういいだした。「急にわたしを引きとめてね、『ご両親にあたしから特別によろしくおっしゃってください。あたし近日ちゅうにあなたのお父さまにぜひお目にかかりたいとぞんじています』って、そういうじゃありませんか。その口ぶりがいやにまじめでね、そりゃおかしいのよ……」
「ひやかしてるんじゃないか? ひやかしてるんじゃないか?」
「ところが、そうでないんだから、なおおかしいじゃありませんか」
「あのひとはおやじのことを知ってるのか、知っていないのか、おまえどう思う?」
「あすこの家でだれも知らないってことは、間違いっこないと思うわ。だけど、にいさんが今わたしにヒントを与えてくれたのよ。もしかしたら、アグラーヤさんだけ知ってるかもわからなくってよ。あのひとがひとり知っているというのはね、あのひとが大まじめで、おとうさんによろしくといったとき、ねえさんたちもやはりびっくりしていましたもの。何のためにおとうさんひとりによろしくなんていうんでしょう、わけがわからないわ。もしあのひとが知っているとすれば、それは公爵が教えたのよ」
「だれが教えたなんて、そんなこと詮索してなにがおもしろい! どろぼう! これだけはまさかと思ってた。うちじゃ、家の中にどろぼうがいるんだ、しかもそれが『一家のあるじ』なんだからなあ!』
「まあ、ばかなことおっしゃい!」とヴァーリャはすっかり腹を立てて叫んだ。「酔ったまぎれの出来心じゃないの、それだけのことだわ! それに、こんなことを考え出したのはだれだと思って? レーベジェフや公爵じゃなくって……あの人たち自身こそどうなんだろう、たいした知恵者ですからね。あんなことなんか、なんとも思っちゃいないわ、わたし」
「おやじはどろぼうで酔っぱらいだし」とガーニャは心外そうにいった。「おれは乞食で、妹婿は高利貸-これだけありゃ、アグラーヤもさぞかし食指を動かすだろうよ! いや、もうりっぱなことでございますよ!」
「その妹婿の高利貸がにいさんを……」
「食わせてるとでもいうのかね? どうかご遠慮なくしまいまで」
「にいさんはいったい、なにをそんなにぷりぷりしてるの?」ヴァーリャはふと気がついて、こういった。「あなたはなんにもわからないのね、まるで小学生だわ。いったいこんなことのために、アグラーヤさんの目から見て、にいさんの箔が落ちるとでも思ってるの? あんたはあのひとの性質を知らないのよ。あのひとは三国一の花婿には目もくれないで、かえってどこかの大学生といっしょに屋根裏でかつえ死にするために、喜んで家を飛び出す人なのよ、――これがあのひとの空想なのよ! だから、にいさんも堅固な意思と誇りを失わないで、今の境遇をりっぱに耐え忍んでいったら、そのほうがあのひとの目から見て、かえって興味があるのよ、それをどうしても悟ることができなかったのね。公爵があのひとをつったのは、だいいち、公爵がつろうなどとしなかったせいもあるけれど、まったくは公爵が皆からばか扱い
にされてるからだわ。とにかく、あのひとは公爵のために、家じゅうのものを苦しめるだけでもおもしろいんだわ。ほんとうにあんたはなんにもわからないのね!」
「まあ、わかるかわからないか、今に知れらあな」とガーニャは謎でもかけるようにつぶやいた。「だが、それにしてもおれは、おやじのことをアグラーヤさんに知られたくなかったよ。公爵は言葉を控えて、だれにもしゃべらないことと思ったがなあ。レーベジェフにさえ口どめしたくらいだもの。 おれがぜひといって迫ったときでも、すっかりいいきれなか ったのに……」
「してみると、公爵は別としても、やはりみんなに知れちゃったんだわ。ところで、にいさん、これからどうするつもり? 何を当てにして? まだなにか当てがあるとすれば、それはにいさんが受難者のような面影を帯びて、アグラーヤさんの目に映るということぐらいなものよ」
「しかし、あんな浪漫趣味に満ちみちた女でも、外聞の悪いことをしでかすのは恐れてるだろう。すべて一定の範囲内だ、だれしも一定の限界までしか進めないよ。おまえたちはだれでもそんなものだからね」
「アグラーヤさんが恐れるんですって?」軽蔑したように兄をながめながら、ツァーリャはあかくなっていった。「だけど、ほんとうにあんたは見さげはてた根性だわね! あんたはなんの値うちもない人だわ。たとえあのひとがこっけいな恋人にせよ、そのかわり、わたしたちが総がかりになってもかなわないほど高潔な人だわ」
「まあ、いいよ、いいよ、そう怒るなよ」と得意らしい調子でまたガーニャがいった。
「わたしはただおかあさんがかわいそうだわ」とヴァーリャは言葉をついだ。「あのおとうさんの一件が、おかあさんの耳に入らなきゃいいがと、そればかり心配しているのよ、ほんとうに心配だわ!」
「が、もうきっと耳に入ってるよ」とガーニャはいった。
 ヴァーリャは、二階にいる母のところへ行くつもりで立とうとしたが、また立ちどまって、じっと兄の顔を見た。
「だれがそんなことをいうの?」
「きっとイッポリートだよ。ここへ引っ越して来るとすぐ、おかあさんにこのことを言いつけるのを、何より愉快なことだくらいに思ってさ」
「どうしてあの人が知ってるんでしょう、お願いだから教えてちょうだい。公爵とレーベジェフがだれにもいわないことに決めたので、コーリャさえ知らないじゃないの」
「イッポリートかい? なに自分でかぎ出したのさ。あの男がどれくらいずるいやつだか、とても想像がつかないよ。あれは恐ろしい告げ口屋で、悪いことやみっともないことなら、なんでもかぎだす恐ろしい鼻を持ってるんだからなあ。おまえはほんとうにするかどうか知らないが、あいつはアグラーヤさんまで、まんまと手の中に丸めこんでるぜ! もし丸めこんでないとしても、今にかならず丸めこむよ。ラゴージンもやはりあいつに渡りをつけたそうだ。公爵はどうしてそれに気がつかないんだろう? 今のところ、あいつはおれ
を探偵したくてたまらないんだ! あいつがおれを目のかたきにしてるってことは、もうちゃんと前から承知してるさ。しかし、いったい何のためだろう、もう今にも死にそうなからだで、何をしようというんだろう、――とんと合点がいかないよ! だが、おれはあいつに一杯くわしてやる。見てろ、あいつがおれを探偵するんでなくって、あべこべにこちらから探偵してやるから」
「そんなに憎らしいなら、なぜあの人を家へ呼んだの? それに、あんな人を探偵したりなんかする値うちがあって?」
「おまえが自分で呼べ呼べってすすめたくせに」
「なにかの役に立つと思ったんですもの。それはそうと、今じゃあの人がね、アグラーヤさんにほれこんじまって、手紙を出したんですよ。わたしにいろんなことを根掘り葉掘りきいてね……夫人にでも手紙を出しかねない勢いだったわ」
「その意味なら危険な男じゃないよ!」毒々しく笑いながらガーニャはいった。「しかし、きっとなにかとんちんかんなことがあるんだぜ。あいつがほれこんだってのは、ありそうなことだ。なんせ、生意気なふ僧だからなあ! だが……ばあさんに無名の手紙を送るなんて、そんなことはしないだろう。あいつはじつに意地の悪い、ひとりよがりのぼんくらだもの! おれは信じている、いや、おれは確かに知ってる、あいつはまず手はじめとして、あのひとにおれのことを、腹に一物ある男だと触れまわしたんだ。おれはじつのところ、はじめのうちばかになって、あいつにいろんなことをうち明けてしまった。というわけは、あいつが公爵に復讐するため
にだけでも、おれの利害にあずかると思ったからなんだ。ところが、なかなか煮ても焼いても食えんやつだ! 今こそすっかりあいつの根性を見抜いてしまった。こんどの窃盗事件も自分の母親から、大尉夫人から聞いたのさ。おやじがあんなことを思いきってやったのも、つまり大尉夫人のためなんだ。あいつ何のきっかけもなく、出しぬけにいいだすじゃないか、『将軍がぼくの母に四百ルーブリくれるって約束しましたよ』なんて、まったく出しぬけにぶっきらぽうにいうんだよ。そこで、おれはいっさいのいきさつを悟っちまったんだ。そのとき、あいつはなんだか愉快そうに、じいっとおれの顔を見つめるじゃないか。おかあさんに告げ口をしたのも、きっと、ただ、おかあさんの心をかきむしるのがおもしろくてのことなんだ。いったいどうしてあいつ死なないんだ? ひとつ教えてくれないか。だって、三週間たったら、ぜひとも死ぬはずだったんじゃないか。それだのに、こちらへ来てからよけい肥ってきたぜ! せきもしなくなったしね。ゆうべ自分でもそういってたよ。あの翌日からさっそく喀血しなくなったとさ」
「追い出しておしまいなさいよ」
「おれはあいつを憎みやしない、ただ軽蔑してるんだ」と誇らしげにガーニャはいった。「いや、まあ、いい、まあ、いい、憎んでいるとしてもかまわないさ、まあ、いいさ!」ふいに恐ろしく猛烈な勢いで、彼は叫んだ。「おれはあいつに面と向かってそういってやる、あいつが臨終《いまわ》の床についてるときだってかまわないよ! もしおまえがあの『告白』を読んでたらなあ、――傲慢かち出た無知とでもいおうか、いや、どうもじつにお話にならん!。あれはピロゴフ中尉だ、卜悲劇のノズドリョフ(ゴーゴリ「死せる魂」のえせ快男児)だ、いや、なんかといおうより――生意気な小僧っ子だ! おお、あのときおれがあいつの度胆を抜くために、あいつをうんとぶちのめしてやったら、どんなに気が清々したこったろう。あのときうまく行かなかったために、あいつはいまみなに仕返しをしてるんだ……しかし、あれはいったいなんだ? また二階で騒々しい物音がするぜ! ほんとうにまあ、いったいどうしたってんだろう? じっさい、おれはもう辛抱しきれない。プチーツィン君!」と彼は部屋へ入って来るプチーツィンに向かって叫んだ。「いったいあれはどうしたんだ、家の中はしまいにどうなるんだろう? ほんとうに……ほんとうに……」
 しかし(物音は急激に近づいて来た。とつぜん戸がさっと開いて、イヴォルギン将軍が憤怒のあまり顔を紫色にして、からだじゅうわなわなふるわせながら、われを忘れて同じくプチーツィンに飛びかかった。
 そのあとから、ニーナ夫人とコーリャ、いちばん尻のほうにイッポリートがつづいて入って来た。

      2

 イッポリートがプチーツィンの家へ越して来てから、もう五日になる。このことはまったくしぜんに運んだので、彼と公爵とのあいだには、ほとんど格別の言い合いも軋轢もなくですんだ。ふたりは争論しなかったばかりでなく、見受けたところ、仲のいい親友というふうで別れたのであるJあの晩イッポリートに対して、あれほど敵意を示したガーニャが、自分のほうから彼を見舞いに来た。もっとも、あの事件から三日もたったあとではあったけれど、おそらくなにか急に考えついたためらしい。なぜかラゴージンまでが、同様に病人を見舞いに来るようになった。はじめのうちは公爵も、ここを出て行ったほうがこの『哀れな少年』にとって、ためがよかろうと思ったのである。しかし、引っ越しのときすでにイッポリートは、『あのプチーツィンさんがご親切に、宿を貸してやるといわれますから、あの人のところへ越して行きます』といった。そして、ガーニャが主となって、彼を自分の家へ引き取ると主張したにかかわらず、わざと思惑があってのように、ガーニャのところへ越して行くとはいわなかった。ガーニャはそのときすぐこれに気がついてむっとなり、胸の中へ畳みこんだのである。
 彼が妹に向かって、病人がよくなったといったのはほんとうである。じっさい、彼は以前よりだいぶよくなった。それはひと目みたばかりでわかった。彼は人をばかにしたような、たちのわるい微笑を浮かべながら、人々のあとからゆっくりと部屋へ入って来た。ニーナ夫人は、すっかりおびえてしまったふうであった(彼女はこの半年のあいだにだいぶやせて、非常に面変わりがした。娘を嫁にやってそのほうへ引き移ってから、表面的にはほとんど子供たちのことに干渉しなくなった)。コーリャは心配そうな顔をしてとほうにくれ
ていた。新しく家内に起こったこのごたごたの原因を、もちろん知るはずはないので、彼のいわゆる『将軍の狂気』についても、多くのことがわからなかった。しかし、父が絶え間なしにいたるところで、わけのわがらぬことをしでかして、まるで以前の父と思われないほど人が変わってしまったことだけは明瞭だった。また老人がこの三日ばかり、ぴったり酒をのまなくなったのも、心配の種であった。彼は父がレーベジェフや公爵と仲たがいして、喧嘩までしたことも承知していた。コーリャは自分の金でウォートカの小燈を買って、たったいま帰って来たばかりなのである。
「ほんとうですよ、おかあさん」彼はさきほど二階で、ニーナ夫人を説いてこういった。「まったぐ飲ましてあげたほうがいいんですよ。もう三日ばかり、杯に手を出さないじゃありませんか、きっと心配ごとがあるんですよ。ほんとうに飲ましたほうがいいんです。ぼく、債務監獄にいる時分にも、よく持ってってあげましたよ」
 将軍は戸をいっぱいあけ放して、憤怒のあまりに身をふるわしつつ、しきいの上に立ちはだかった。
「ねえ、プチーツイン[#「プチーツイン」はママ]君!」と彼は雷のような声でわめいた。「もしあんたがこの青二才のアテイストのために、皇帝の恩寵をかたじけのうした名誉ある老人を、自分の父親を、いや、なに、すくなくとも自分の妻の父親を、犠牲にしようと決心されたのなら、わしは即刻あんたの家に足踏みせん。さあ、どちらかひとり選びなさい、早く選びなさい、わしを取るかそれともこの……ねじ釘か! そうだ、ねじ釘だ! わしはなんの気もなしにいったのだが、まさにこれはねじ釘だ! なぜというて見なさい、こいつはわしの胸をねじ釘でえぐるのだ、おまけにすこしの遠慮会釈もなく……ねじ釘のように……」
「コルク抜きじゃありませんか?」とイッポリートが口を出した。
「いや、コルク抜きじゃない。なぜといって、わしはきさまに対して将軍でこそあれ、酒場じゃないのだから! わしは勲章を持ってるぞ、勲章を……ところが、きさまの持っているのは、こぶぐらいのものだ。さあ、こいつかわしか! 早く決めなさい、プチーツィン君、すぐ、今すぐ!」と彼はのぼせあがって、プチーツィンに向かって叫んだ。
 そのときコーリャがいすをすすめたので、彼は力抜けしたようにぐたぐたと腰をおろした。 「いや、まったくあなたは……お休みなすったほうがよろしいですよ」とプチーツィンは度胆を抜かれてつぶやいた。
「おやじめ、まだいばりかえってるんだ!」とガーニャは小声で妹にささやいた。
「休めって!」と将軍は叫んだ。「わしは酔うてはおりませんぞ、あんたはわしを侮辱しなさるのかね。ああ、わかった」とふたたび立ちあがりながら、言葉をつづけた。「ああ、わかった、ここではみんながわしに敵対しておるのだ、だれも彼もみんなそうだ。もうたくさんだ! わしは出て行く……しかし、いいかな、プチーツィン君、いいかな……」
 人々は彼にしまいまで口をきかせず、無理やりに腰をかけ
さした。そして、気を落ちつけるようにと頼むのであった。ガーニャはぷりぷりしながら、片隅へ引っこんでしまった。ニーナ夫人はふるえながら泣いていた。
「いったいぼくが何をしたってんだろう? なんだってこの人はぼくにくってかかるんだろう?」とイッポリートは歯をむきだして叫んだ。
「じゃ、なにもなさらなかったんですか?」と不意にニーナ夫人がいいだした。「あんな老人をいじめるなんて……ほんとうに不人情な恥ずかしいことです……」とにあなたのような立場にあったらなおのこと……」
「だいいち、ぼくの立場ってどんな立場ですか、奥さん? ぼくは個人として、非常にあなたを尊敬しています、しかし……」
「こいつはねじ釘だ!」と将軍は叫んだ。「こいつはわしの胸や魂を、ねじ釘のようにえぐるのだ! こいつはわしを無神論の信者にしたくてたまらんのだ! やい、青二才! きさまなんぞまだ生まれてもおらんさきから、わしはもう名誉に包まれていたんだぞ。きさまは二つにぶった切られた羨望やのうじ虫だ……ごほんごほんせきばかりしながら……不信心と毒念に死にかかってるんだ……いったい何のためにガーニャはきさまのようなやつを連れて来たんだ? ほんとうにみんなそろって――他人をはじめ現在のわが子にいたるまで、みんなわしにさからおうとばかりするのだ!」
「もうたくさんですよ、とうとう悲劇をおっぱじめちゃった!」とガーニャが叫んだ。「ただわたしたちの顔をつぶすようなことを、町じゅう触れまわしてさえくださらなけりゃ、よかったんですがね!」
「なんだって、わしがきさまの顔をつぶす! 青二才めが!わしはきさまに名誉をかけこそすれ、顔をつぶすなんてことができるものか」
 彼は叫び出した。人々ももう彼をおさえることができなかった。が、ガーニャも見受けたところ、がまんしきれなくなったらしい。
「こんなになってから、名誉を口にするなんて!」と彼は毒毒しく叫んだ。
「何をいった?」将軍はまっさおになって、一歩ふみ出しながらこうわめいた。
「いえね、ぼくがちょっと口をあけさえすれば……」とつぜんガーニャは甲走った声で叫んだが、さすがしまいまではいいきらなかった。
 ふたりは面《めん》と面と相対して突っ立った。両方とも度はずれに逆上しているが、ガーニャのほうはことにひどかった。
「ガーニャ、まあ、どうしたの!」と、ニーナ夫人は飛びかかって、息子をおさえながら叫んだ。
「どちらを向いても、ばかばかしいことばかりだわ!」とヴァーリャは歯がゆそうに、断ち切るようにいった。「たくさんだわ、おかあさん」ヴァーリャは母をおさえた。
「ただおかあさんに免じて許しておきます」とガーユヤは悲劇的な声でいった。
「いってみろ!」と将軍はすっかりのぼせあがって、ほえ猛った。「いってみろ、父ののろいを覚悟して……いってみろ!」
「へ、ぼくがあなたののろいに驚くと思ってるんですか! あなたがもうこれで八日間というもの、まるできちがい同然になってるからって、だれの知ったことですか? ええ、もう八日になります、ぼくはちゃんと日にちまで知っています。…… 気をつけなさい、ぼくをぎりぎりの線までやらないようにね、そうなったら、すっかりいってしまうから……おとうさんは何のためにきのうエパンチン家へ、のこのこ出かけて行ったんです? いい年をして、髪も白くなり、おまけに一家のあるじといわれる身でありながら! いや、じつに結構なことでさあ!」
「およしよ、ガンガ!」とコーリャがわめいた。「およしよ、ばか!」
「いったいぼくが、ぼくがいったいこの人をどう侮辱したというんです?」とイッポリートはいいつのったが、しかも、相も変わらず、例の人をばかにしたような調子であった。「なんだってこの人はぼくをねじ釘だなんていうんでしょう、ね、みなさんお聞きになったでしょう? 自分からぼくにつきまとって来たくせに。こうなんですよ。いまぼくのところへやって来て、大尉《カピタン》エロベーゴフとかいう人の話を持ち出したんです。ぼくはね、将軍、けっしてあなたのお仲間に入りたくないんですから、以前もなるべく避けるようにしてたのは、あなたも自分でご承知でしょう? だって、大尉《カピタン》エロペーゴフなんか、ぼくに何の用があります、察してもください。ぼくは大尉《カピタン》エロペーゴフのためにここへ来たのじゃありませんからね。ぼくはただこの人に向かって、大尉《カピタン》エロペーゴフなんて人は、てんでいたこともないじゃありませんかって、直截に意見を吐いただけなんですよ。ところが、将軍はいきなり今の大乱痴気をはじめたわけなんです」
「まったくそのとおり、いたこともないです!」とたたき切るようにガーニャがいった。
 しかし、将軍は度胆を抜かれてつっ立ちながら、無意味にあたりを見まわすのみであった。わが子の言葉の思いきって無遠慮な訓子に、すっかり気をのまれてしまったのである。最初の一瞬間、彼はなんというべき言葉も知らなかった。とうとうイッポリートがガーニャの答を聞いて、からからと笑いながら、『そら、ごらんなさい、現在あなたの息子さんまで、やはり大尉《カピタン》エロペーゴフなんて人は、まるでいないというじゃあひませんか』と叫んだとき、老人はすっかりまごついて、こうつぶやいた。
「カピトン・エロペーゴフだ、大尉《カピタン》じゃない……カピトンだ、退役中佐のエロペーゴフだ……カピトンだ」
「カピトンもやはりいないです!」ガーニャはもうすっかりむきになって、いった。
「だが……なぜいないんだ?」と将軍はつぶやくようにいった。と、くれないがさっとその顔に散った。
「もうたくさんですよ!」プチーツィンとヴァーリャがなだめようとした。
「お黙りよ、ガンガ!」とまたコーリャが叫んだ。
 しかし、この同情がさすがの将軍をわれに返らしたらしい。
「どうしていないんだ? なぜいないんだ?」とものすごい形相で、彼はわが子に飛びかかった。
「いないからいないんです。ただそれだけですよ。またそんな者のいるはずはありません! さあ、これでいいでしょう! もういいかげんに切りあげなさいよ」
「ああ、これが息子か……これが親身の息子か、わしがあれほど……ああ、神さま! エロペーゴフが、エロシカ・エロペーゴフがいなかったって!」
「ほら、あのとおりだ、エロシカといってみたり、カピトンといってみたり!」とイッポリートが口を挟んだ。
「カピトンだよ、きみ、カピトンだよ、エロシカじゃないよ! カピトンだ、カピトン・アレクセーエヴィチだ、ええと、そうだ、カピトンだ……退役の……中佐でな……マリヤ……マリヤ………ペトローヴナ・ス……ス……ストゥゴーヴァと結婚した……わしとは士官学校の学生時代からの親友だったのだ! わしはあの男のために血を……わしはあの男を保護してやったんだ……とうとう戦死したがな。そのカピトン・エロペーゴフがいなかったなんて! いなかったなんて!」
 将軍はやっきとなってこう叫んだ。しかし、なんだか事件の本体は別のところにあるのに、この叫び声はそれにはいっこうおかまいなく、とんでもないところを勝手に暴れまわっているような気味あいだった。もしこれがほかのときだったら、彼はもちろんカピトン・エロペーゴフの存在の否定以上に無礼なことすら、虫を殺してがまんしたかもしれない。夢中になってどなり散らして、ひと騒動もちあげるにしても、結局、二階の書斎へひと寝入りと引きあげたかもしれない。しかし、今は不思議な感情の働きのために、エロペーゴフの否定のごときささたる侮辱が、杯の水をあふれさせるような結果を生じたのである。老人は顔を紫色にして、両手を振り上げながら、
「たくさんだ! わしののろいを受けるんだぞ……もうこの家を飛び出してしまう! コーリャ、わしの旅嚢《サック》を持って来い、もうひと思いに……出て行ってしまう!」と叫ぶのであった。
 彼は非常な憤激のていで、せかせかと出て行った。そのあとから、ニーナ夫人、コーリャ、プチーツィンが飛んで行った。
「まあ、にいさん、なんということをしでかしたの?」とヴァーリヤはいった。「おとうさんはまたあすこへのこのこ出かけていらっしゃるわ。なんて面よごしだろう、なんて面よ ごしだろう!」
「じゃ、どろぼうなんかしないがいい!」とガーニャは憤怒のあまり、のどをつまらせんばかりに叫んだが、ふとその目がイッポリートと出あうと、ガーニャはぶるぶると身をふるわした。
「ところで、イッポリート君、きみはなんといったところで、他人の家にいて……厄介になっているということを覚えていて、明らかに気のちがった老人に、さからわないようにするのが当然だったんですよ……」
 イッポリートも同様むっとしたらしかったが、しかし一瞬にしてわれを制した。
「ぼくはあなたにぜんぜん不同意ですな、あなたのおとうさんはけっして気が狂ってはいませんよ」と彼は落ちつきすまして答えた。「ぼくの目には、かえって最近あの人が大いに知恵を増されたように思われます。ええ、まったくです。あなたはほんとうにしませんか? あの人は用心ぶかく疑りぶかくなって、なんでもかでも探り出そうとします。そして、ひと口ものをいうにも、かならず考えこまれますよ……あのエロペーゴフのことだって、あてがあっていったんです。まあ、どうです、あの人はぼくをつり出して……」
「ええ、おやじがきみをつり出そうとしようがしまいが、ぼくの知ったことじゃないです! お願いだから、ぼくを相手に小細工をろうしないでくれたまえ」とガーニャはかん走った声でどなった。「もしおやじがあんな状態におちいった真の原因を承知しているなら(ところで、きみはこの五日間、ぼくをスパイしてるんです、それはきみもたしかにご承知でしょう)、それならあんな……不幸な人間をいらいらさしたり、事件を誇大して母を苦しめたりしてはならなかったはずです、じっさい、これはつまらないことです、ただの酔っぱらい騒ぎです、それだけのこってす、おまけに、なんの証拠もないじゃありませんか。ぼくはあんなことをどれほどにも考えてやしませんよ……ところが、きみは毒舌をふるったり、スパイしたりしないじゃいられないんです、なぜって、きみは……きみは……」
「ねじ釘ですか」とイッポリートは薄笑いした。「なぜって、きみはやくざものだからです。弾丸もこめてないピストルを射って驚かすために、三十分も人を悩ましたあげく、あんな恥ずかしい卑怯な真似をするなんて。死にそこない、まるで二本足で歩くかんしゃく玉だ。ぼくが厄介を見てあげたおかげで、きみはこのごろすこし肥って来て、せきもしなくなった。それだのに、きみは返礼として……」
「たったひと言いわしてください。ぼくはヴァルヴァーラさんの家にいるので、あなたの家じゃありません、あなたはすこしもぼくの厄介を見てくだすったことはありません、かえってご自分が、プチーツィン氏の厄介になっていられるように思いますが。四日まえにぼくは母に頼んで、ぼくのためにパーヴロフスクに家をさがして、自分でもこっちへ越してくるように、書いてやりましたよ。じっさい、ぼくはここへ来て、すこし気分がよくなったようですから。もっとも、けっして肥りもしなければ、せきもやみませんがね。ところで、母はゆうべ家がめっかったといって知らしてよこしましたから、ぼくはあなたのおかあさんと妹さんにお礼を申し上げて、きょうすぐ引き移るつもりです。このことをまず取りあえずお知らせしておきます。このことはもう昨夕から決めてあるのです。いや、お話中に口を入れて、まことにすみません。あなたはまだまだたくさんいいたいことがあったのでしょう」
「おお、もしそうなら……」ガーニャの声はふるえた。
「もしそうなら、ぼくは失礼して腰かけさせていただきます」将軍のすわっていたいすにゆうゆうと座をしめながら、イッポリートはつけくわえた。「なにぶんまだ病人ですからね。さあ、これであなたのおっしゃることを、ゆっくりうかがいましょう。ましてこれがふたりの最後の会話、いや、あるいは最後の会見かもしれないんですからね」
 ガーニャは急にきまりが悪くなった。
「じつのところ、ぼくはきみと利害の決算をするまでに、身を落としたくないんですよ。で、もしきみが……」
「あなたそんなにお高くとまったってだめですよ」とイッポリートがさえぎった。「ぼくのほうだって、ここへ来たはじめの日から、ふたりが別れるときに何もかも、すっかりむき出しにぶちまけてしまおうと、ちゃんと覚悟して楽しんでたんですよ。ぼくは今それを実行しようと思います。しかし、もちろん、あなたのお話がすんだあとでね」
「ぼくはきみにこの部屋を出て行ってもらいたいんですよ」
「だけど、いってしまったらいいでしょう、どうしてあのときいわなかったろうと、あとで悔みますよ」
「およしなさい、イッポリートさん。そんなことほんとうに恥ずかしいじゃありませんか、後生だから、やめてください」とヴァーリャがいった。
「ご婦人に免じて容赦しましょう」とイッポリートは席を立ちながら笑った。「失礼ですが、ヴァルヴァーラさん、あなたのためにすこし切りつめますが、しかしただ切りつめるだけですよ。だって、今となっては、あなたのにいさんとぼくとのあいだの話合いは、どうしても避くべからざるものとなりましたからね。ぼくは誤解を残したままでは、なんとあってもここを去る決心がつきません」
「なんのことはない金棒引きだ」とガーニャが叫んだ。「だから、金棒を引かないで行く気になれないんだ」
「そら、ごらんなさい」とイッポリートが冷やかに笑った。「とうとうがまんができなかったでしょう。まったくいってしまわないと後悔しますよ。さあ、もう一度あなたに発言権を譲りましょう。ぼく、待っていますよ」
 ガーニャは無言のまま、さげすむように相手をながめていた。
「おいやですか? どこまでも初志を貫こうとおっしゃるんですか、――それはあなたのご勝手です。が、ぼくのほうもつとめて手短に申しましょう。ぼくはきょう二度も三度も、厄介者といって責められましたが、しかしそれは不公平です。あなたこそぼくをここへおびき出すについて、ぼくをわなにかけようとされたんです。つまり、ぼくが公爵に復讐したがっているように推量されたんです。そのうえに、あなたは、アグラーヤさんがぼくに同情を表わして、あの告白を閲読したという話を聞きこんだものだから、どういうわけか知らないが、ぼくが渾身の努力を傾倒してあなたの利害に参与し、あなたの片腕になるものと、ご自分で勝手に決めてしまわれたのです。もうこれ以上詳しいことは申しますまい! ぼくはあなたから自白も肯定も要求しません。ただあなたを
良心に対面さしたまま見すてて行くということと、それからいまぼくらふたりおたがいによく理解し合っているということだけで、十分なのです」
「だけど、あなたはなんでもない普通のことから、とんでもないことを捏造なさるのねえ!」とヴァーリャが叫んだ。
「だから、ぼくがそういったじゃないか、『金棒引きの生意気小僧』だって」とガーニャはいった。
「失礼ですが、ヴァルヴァーラさん、ぼくはつづけて申しますよ。もちろん公爵という人は、愛することも尊敬することもできません。しかし、あの人はじつにいい人です。もっとも……ずいぶんこっけいなところもありますがね。だけど、あの人を憎むわけはさらさらありません。ところが、あなたのにいさんがぼくをそそのかして、公爵に謀叛をおこさせようとされたときも、ぼくはそんな様子は鴛にも見せなかった。つまり、ぼくは大団円になってうんと笑ってあげようと、もくろんでたのです。にいさんがきっとぼくに口をすべらして、とんでもないしくじりをなさるってことは、ちゃんと承知してましたよ。ところが、案の定そのとおりです。ぼくはいまこころよく、にいさんを大目に見てあげますが、それはただあなたに対する尊敬のためです。ヴァルヴァーラさん。しかしぼくがそんな生ぬるい手でわなにかかる男でない、ということを明らかにしましたから、なぜぼくがにいさんにまぬけな役目を演じさせたくなったか、そのわけもお話ししましょう。いいですか、ぼくがそんなことをしたのは、じつのところ憎悪のためです、率直にいいますがね。こうして死にかかっていますから(だって、ぼくはなんといっても死ぬんですよ、いくらあなたがたが肥った肥ったとおっしゃってもね)、ぼくはこんなことを感じたのです、あの一生ぼくを迫害した一種族の代表者を、せめてひとりでも槍玉にあげて、まぬけな目に合わしてやったら、ぼくもずっと安心して、天国へ行けるんだがなあ、とね。この種族の人間こそ、ぼくの憎んでやまないものです。が、浮彫りのようにたくみにできたその手合いの肖像が、すなわちあなたのおにいさんなんです。ぼくがあなたを憎むわけはね、ガヴリーラさん、――こういったら、あなたはびっくりされるかもしれませんが、――つまり、あなたが最も傲慢な、最も卑劣な、最も唾棄すべき凡庸の典型であり、権化であり、象徴であるからにすぎません[#「からにすぎません」に傍点]。あなたは高慢な凡庸です。すこしも自己を疑うことのない、泰然自若たる凡庸です! あなたは月なみ中の月なみです。自分自身の思想なんてものはこれっからさきも、あなたの頭脳にも感情にも、けっして宿ることのできない運命を背負ってるのです。けれど、あなたは方図の知れないほどのやっかみ屋です。あなたは自分こそ最も偉大な天才だと信じていながら、やはり心の暗くなったおりには、疑念があなたを訪れて、腹を立てたりうらやんだりするのです。おお、あなたの地平線にはまだ黒い不吉な点があります。もっとも、あなたがすっかりばかになりきったら、その点も消えようし、またそれも遠いさきのことじゃありません。しかし、それでもあなたの行く手には、長い変化の多い道が横たわっています。しかも、たいして愉快なものとはいいかねますね。ぼくはそれが痛快ですよ。まあだいいち、あなたは例のお嬢さんを手に入れることなんかできませんよ、ぼく予言しておきます……」
「ええ、もう聞いていられない!」とヴァーリャが叫んだ。「もうあなたそれでおしまい、意地悪さん?」
 ガーニャは青い顔をして、ふるえながら黙っていた。イッポリートは言葉をとめて、気持ちよさそうにじっと彼を見つめていたが、やがて視線をヴァーリャに転じると、にっと笑って会釈し、そのままひと言もつけ足さないで出て行った。
 もしガーニャが運命を嘆じ、失敗を訴えるとすれば、それは無理のないことである。ヴァーリャはしばらくのあいだ、兄に話しかける勇気がなかった。彼が大股に自分のそばを通り過ぎたときも、そちらを振り返って見ることさえできなかった。ついに彼は窓のほうへ去って、妹に背を向けた。ヴァーリャは『両天秤』というロシヤのことわざを思い出していた。二階ではまたしても騒がしい物音がおこった。
「行くのかい?」妹が席を立つのを聞きつけて、ガーニャはそのほうをふり向いた。「お待ち、これをごらん」
 彼は近寄って、ちょっとした手紙という体裁に畳んである小さな紙きれを、テーブルの上へほうり出した。「あら、まあ!」と叫んで、ヴァーリャは手を打った。
 手紙はちょうど七行あった。『ガヴリーラ・イヴォルギンさま! あなたがわたしに好意を持ってくださることと信じていますから、わたしは自分にとって重大なある件について、あなたの忠言をお願いすることに決心しました。わたしは明朝正七時、緑色のベンチでお目にかかりとうございます。これはわたしどもの別荘から近いところにございます。ヴァルヴァーラさまにもぜひごいっしょにおいでを願わなければなりません。あのかたはよく場所をご承知でいらっしゃいます。A・E』
「いらっしゃい、こうなった以上、あのひととよく話をつけたがいいわ!」とヴァーリャは両手を広げた。
 ガーニャはこのとき大すましにすましていたかったのだが、どうしても得意の色を出さずにいられなかった。おまけに、イッポリートがああいう失敬な予言をしたあとだから、なおさらである。得意の微笑がその顔に無遠慮に輝いた。ヴァーリャまでが、嬉しさに顔の相好を崩した。「おまけに、あの家で婚約の披露をするという当日なんですものね! いらっしゃい、そういうことなら、よくあのひとと話をおつけなさいよ!」
「おまえどう思う、あのひとはあす、なにをいうつもりなんだろう?」とガーニャがきいた。
「そんなことどうだっていいのよ。とにかく、六か月ぶりにはじめて会いたくなったんだわ。よくって、にいさん、あそこの家で何かおこったにしろ、また事情がどう変わってきたにしろ、とにかくこれは重大なことよ! 重大すぎるくらいだわ! また気取ってやりそこねないようにしてちょうだい、それに、気おくれしちゃだめよ、よくって? わたしがあすこへ半年のあいだ通ったのが何のためか、あのひとにのみこめないはずがないわ。それに、ヽどうでしょう、きょうあのひとはわたしにこのことをおくびにも出さないのよ、そぶりにも見せないじゃありませんか。わたしはあの家へ内証でいったから、わたしがいったことをおばあさんは知らなかったの。さもなければ、きっとわたしを追んだしたにきまってるわ。まったくにいさんのために、ぜひ探り出さなくちゃならないと思って、危険を冒して通ったんだわ……」
 ふたたび叫び声と物音が二階で聞こえた。いくたりかの人が階段からおりて来た。
「もうなんといったって、こんなこと許して置かなくって、よ!」とヴァーリャがおびえたように、あわてた調子で叫んだ。「こんな外聞の悪いことは、もう影もないようにしなくちや! さあ、行っておわびをなさいよ」
 しかし、一家のあるじはすでに通りへ出ていた。コーリャがあとから旅嚢《サック》をさげてゆく。ニーナ夫人は正面の階段に立って泣いていた。彼女は夫のあとを追ってかけだそうとしたが、プチトツィンに引きとめられたのである。
「そんなことをなすったら、いっそう将軍に油をかけるようなものです」と彼は夫人にいった。「どこへも行くところなんかないんですから、三十分もたったら、また引っ張って来ます。わたしがコーリャと相談しておいたんですから。しばらく勝手にばかな真似をさしとくんですよ」
「何を力んでるんです、どこへ行くんですよ!」とガーニャが窓から叫んだ。「行くところもないくせに!」
「帰ってらっしゃいよ、おとうさん!」とヴァーリャも叫んだ。「近所へ聞こえるじゃありませんか」
 将軍は立ちどまって振り返り、片手をさし伸べながら叫んだ。「この家はわしののろいを受けるんだぞ!」
「なんでもせりふじみなくちゃ承知しないんだ!」がたんと窓の戸をしめながら、ガーニャはつぶやいた。
 近所の人はほんとうにこの騒ぎを聞きつけた。ヴァーリャは部屋をかけだした。
 妹が出たとき、ガーニャはテーブルから手紙を取り上げて、ちょっと接吻して舌を鳴らし、とんと跳躍《アントラシヤー》をするのであった。

      3

 将軍の乱痴気さわぎも平生ならば、別段なんのこともなしにけりがついたかもしれない。以前とても、この種のばか騒ぎがとつぜんもちあがることもあったが、そんなことはきわめてまれであった。なぜなら、総じて彼はおとなしい、ほとんど善良といっていいくらいの気質だったからである。彼は晩年にいたって、自分を征服しはじめた不規律と、いくど戦ったかしれぬほどである。とつぜん自分が『一家のあるじ』であるということを思い出し、妻と仲直りして心から涙を流すこともあった。彼はニーナがつねに無言で自分を許してくれるのみか、自分が零落して道化者のようになっても、なお変わりなく愛してくれるので、ほとんど崇拝ともいうべき敬意を表していた。しかし、このりっぱな『不規律』との戦
は、あまり長くつづかなかった。将軍も種類こそ違え、やはりあまりにも『間歇的』すぎる人間であった。彼は通常、家庭内の悔いに満ちた無為の生活に堪えきれなくなり、ついには謀叛に走ってしまうのであった。狂憤に襲われると同時に、自分でも悪いこととは知りながら、やはり押しこらえることができなかった。口論をはじめる、大ぎょうな調子でとうとうと弁じ立てる、無理なぐらい無限の尊敬を要求する。そして、とどのつまりは、家からどろんを決めこむのだ。ときによると、長いあいだ帰って来ないこともあった。最近二年間、彼は家庭内のことがらについては、ごく概括的に聞きかじるくらいのもので、けっして詳しく立ち入って聞こうとしなかった。そんなことは自分の任でないのを、よく承知していたので。 しかし、今度ばかりは『将軍の乱痴気騒ぎ』の中に、なにかしらひと通りでないところがあった。みんな何かあるものを承知していながら、それを口にするのを恐れているような具合であった。将軍はつい三日まえ『正式に』自分の家庭へ、つまりニーナ夫人のもとへ出頭したばかりである。しかし、いつもの『出頭』のときのように、あきらめて後悔した色は見えないで、おそろしくいらいらしていた。彼はやたらにそわそわして、口数が多く、行き会う人ごとに、熱した噛みつくような調子で話しかけたが、しかしその話題がまちまちで、しかもとっぴなので、いったいどうしてそんな気になるのか、合点がいかないくらいであった。ときどき急にはしゃぎだすが、どちらかというと、考えこんでいるほうが多かった。そのくせ何を考えてるのか、自分でもよくわからない。とつぜんエパンチン家のことや、公爵のことや、レーベジェフのことなどを口走るが、すぐにぴたりと話をやめて、しまいにはまるで口をつぐんでしまう。はたのものが詳しくつっこんでたずねると、ただにたにたとにぶい微笑を浮かべるばかりであった。もっとも、何をきかれてるか、それさえろくにわからないようなふうであった。
 昨夜はよっぴて溜息をついたりうなったりして、ニーナ夫人を苦しめた。夫人は何にするのか、ひと晩じゅう湿布を温めていた。夜明け近くなって、とつぜんとろとろと寝入ったが、四時間ばかり眠ったのち、はげしい乱脈な気鬱症の発作に目をさました。それが例のイッポリートとの喧嘩と、『この家をのろってやる』のせりふで終わったのである。またこの三日間、彼が極度の自尊におちいって、その結果、なみはずれて怒りっぽくなったのにも、人々は心づいていた。コーリャは母に向かって、こんなことはみんな酒が恋しいためか、さもなくば、このごろばかに仲よくなったレーベジェフに会いたくて、気が鬱してるのだと主張した。しかし、三日前に彼はこのレーベジェフとも急に喧嘩して、恐ろしい剣幕であばれ散らして別れたのみならず、公爵まで相手にひと幕演じたのである。コーリャは公爵に説明を求めたが、とうとう公爵がなにが隠そうとしているのに気づいた。ガーニャがああまで正確な推測をもって結論したごとく、母夫人とイッポリートとのあいだになにか特殊な会話があったとすれば、ガーニャのいわゆる金棒引きが、なぜ同じような方法で、同じことをコーリャにも吹きこむことを遠慮したのだろう?あるいはこの少年は、ガーニャが妹との会話の中に断定したような、そうした意地わるな『生意気小僧』ではなく、それとは別種な趣きの違った意地悪なのではあるまいか? ニーナ夫人に向かって、ただただその『胸をかきむしる』快さを味わうためのみに、自分の観察を伝えたなどと言うのも、きわめて怪しい話である。ついでにいっておくが、人間の行動の原因というものは、普通われわれがのちになって説明するよりもはるかに複雑多様なもので、はっきりとした輪郭を帯びている場合はまれである。で、ときとしては、単なる事件の記述にとどめておくのが、説明者にとっても有利な場合がある。で、われわれは将軍事件に関するこのさきの説明に際しても、こんな態度を取ることにしようと思う。なぜなら、物語の中でようやく第二義的の位置を占めているこの人物に対しても、われわれがこれまで予想していたより以上の注意を、どうしても払わねばならぬはめになったからである。
 これらの事件はあとからあとからと、次のような順序でもちあがったのである。
 レーベジェフはフェルディシチェンコ捜索のため、ペテルブルグへ出かけてから、その日すぐ将軍と同道で帰って来た。しかしそのおり、格別これというほどのことを公爵に伝えなかった。もし公爵が自分自身の重大な印象にまぎれて、あれほど夢中になっていなかったら、次の二日間レーベジェフがすこしもうち明けた話をしないのみか、かえってなぜか公爵と顔を合わすのを避けようとさえするのに、すぐ気がついたはずである。やっとこの事実に気づいた公爵は、レーベジェフがこの二日間、ときたま顔を合わすたびに、いたって上機嫌で、ほとんどいつも将軍といっしょなのを思い出して、一驚を喫した。ふたりの親友は、もはや一刻も離れようとしなかった。どうかすると、早口で声高な談話や、哄笑をまじえた楽しげな論争の声が、二階から公爵の部屋まで聞こえた。一度なぞは、夜おそく軍隊式の酒盛りの歌が、急に思いがけなく響いてきた。彼はすぐ将軍のしわがれたパスに気づいた。しかし、歌はしまいまで行かないうちにやんでしまった。それからおよそ一時間ばかりも、激しい興奮した話し声がつづいたが、それはあらゆる兆候から推して、酔っぱらったあげくと察しられた。やがて、いいかげんはしゃいだ二階の『親友』が抱き合って、ついにどちらかが泣きだしたということは、察するにかたくなかった。それから激しい争論の声が聞こえたが、それもやはりすぐやんでしまった。このあいだじゅう、コーリャはなにかしらとくべつ不安な心持ちに襲われていた。公爵はおおむね留守がちで、どうかすると、よる非常におそく帰って来ることもあった。すると彼はいつも、コーリャがいちんち公爵をさがしまわっていたという知らせを聞くのであった。けれど、会って見ると、コーリャはべつに変わったことをいうわけでない。ただ将軍に対し。て非常に『不満』だ、将軍の今の行状が心外でたまらない、というくらいなものである。『うろうろ歩きまわって、つい近くの酒場で飲んだくれて、往来で抱き合ったり、口論したり、両方からおたがいに油をかけ合ったりして、どうしても
離れることができないってふうなんです』それと同じようなことは以前だって、ほとんど毎日のようにあったじゃないか、と公爵が突っこんだとき、コーリャはそれに対してなんと答えていいか、そして今の自分の不安がどこにあるか、それをどう説明していいかわからなかったのである。
 酒盛の歌と口論の翌朝十一時ごろ、公爵が家を出ようとしていると、とつぜん彼の前に将軍が現われた。なにやらおそろしく興奮している。というよりも、ほとんど動顛しているといったほうがいいくらいだった。
ムイシュキン公爵、わしはずっとずっと前から、あなたにお目にかかる光栄と機会を求めていました」痛いほどかたく公爵の手を握りしめながらこうつぶやいた。「もう、もうずっと以前からです」
 公爵は着席をこうた。
「いや、すわりますまい、それにお出かけのじゃまをしておるようですからな。またこの次に……このさいわしは………心願の成就について、あなたにお祝いをいってよろしいようですな」
「どんな心願です?」
 公爵はどぎまぎしてしまった。彼はこうした立場にある多くの人々と同じく、けっしてだれも見はすまい、察しはすまい、悟りはすまいと信じていたので。
「ご安心なさい、ご安心なさい! あなたの微妙な感情を騒がすようなことはしますまい。自分でも経験して知っておりますよ。他人が……その、なんですな……世俗にもいうとおり、頼みもしないことにくちばしを入れるというのは……いや、わしも毎朝これを経験していますて。わしはほかの用事で来たのです、すこぶる重大な用事でしてな、公爵」
 公爵はもう一度着席をこい、自分でも腰をおろした。
「じゃ、たった一秒間……じつはあなたのご意見を聞きに来たのですよ。わしはもちろん実際的な目的というものなしに暮らしておりますが、しかし、自分自身を尊敬し、かつは……ロシヤ人ぜんたいに欠けている事務的性質を尊敬しておりますので、一般にいえば……自分自身をはじめ、妻や子供らを世間なみの地位に立たしたいと思いましてな……つまり、てっとり早くいえば、助言を求めておるのです」
 公爵は熱心にその心がけを激賞した。
「いや、そんなことはくだらん話です」と将軍は早口にさえぎった。「わしはこんなことのためでなく、もっと重大なお話があって来たんですよ。つまり、態度の真摯と感情の高潔を信じうる人として、あなたにうち明けようと決心するところがあって……あなたわしの言葉にびっくりされましたか、公爵?」
 公爵は特に驚くというほどではないが、異常な注意と好奇心をもって、客の言行を観察していた。老人はいくぶん青い顔をして、くちびるはかすかにふるえ、手は落ちつくところを知らぬようであった。彼は二、三分すわっているうちに、なんのためか、もう二度までもふいにいすから飛びあがり、また急に腰をおろした。しかも、自分の挙動にすこしも注意を払わないようである。テーブルの上に本がいく冊か載って
いたが、彼は話しながらその中の一冊を取って、ぱらりとめくると、出て来たページをちょいとのぞいてすぐまた閉じ、テーブルの上へ置いた。そして別の本を取り上げたが、今度はあけないで、しまいまで右の手に持ったまま、絶えず空中に振りまわしていた。
「たくさんです!」と彼は急に叫んだ。「見うけたところ、わしはだいぶあなたのおじゃまをしたようですな」
「いいえ、どういたしまして、とんでもない、どうぞお話しください。それどころじゃありません、ぼくはいっしんに耳を傾けて、お言葉の意味を取ろうとしてるんです……」
「公爵! わしは自分自身を、尊敬されるような地位に置きたいと思ってるんです……わしは自分自身とそして……自分の権利を尊重したいと思ってるんです」
「そういう希望を持った人は、その希望一つだけに対しても、尊敬を受ける価値があります」
 公爵がこの習字の手本にありそうな一句をいったのは、これがりっぱに相手の心に作用するというかたい信念から出たことである。彼はなにかこんなふうに調子のいい、そのくせ内容の空虚な、気持ちのいい句をしかるべきときにいったら、こうした人間、ことに将軍のような位置にある人間の心を静め、やわらげることができると、本能的に洞察したのである。とにかく、こんな客は心をやわらげて帰してやる必要があった。これが第一である。 はたしてこの句は将軍の心にこびた。彼はすっかりこの句が気に入って、感動してしまった。それから、急に涙っぽくなって、調子を湿らしながら、感激に満ちた長いうち明け話にかかった。しかし、どんなに注意力を緊張させ、耳を澄ましても、公爵は文宇どおりになにひとつのみこむことができなかった。将軍は、ひしひしと押し寄せて来る思想を吐露する暇がないというように、熱した早口な調子で、ものの十分ばかりもしゃべり立てた。しまいには、涙さえ目の中に光りはじめた。が要するに、それは頭もなければ尻もない、ただの空語で、とつぜん妙なところでとぎれたり、互いにひょいひょい飛び移って行くような、突拍子もない言葉と思想にすぎなかった。
「たくさんです! あなたはわしを了解してくださった、それでわしは安心しました」ふいに立ちあがりながら、彼はこう結んだ。「あなたのような心の人が、苦しんでいるものを了解しないというはずはない。公爵、あなたは理想そのもののように高潔でいらっしゃる! あなたにくらべたら、ほかの連中は何するものぞやです! しかし、あなたはお年が若いから、わしが祝福してあげます。で、結局のところ、わしがおじゃまにあがったのは、ひとつ重大なるお話のために、会見の時間を指定していただくためです。これがわしの最も大きな希望なんです。わしはただ友誼と情愛を求めておるのですよ、公爵。わしは今まで一度も、この衷心からの要求を満足さしたことがありませんでな」
「ですが、なぜ今おっしゃらないのです? ぼくはよろこんで承りますが……」
「いかんです、公爵、いかんです!」と将軍は熱してさえぎった。「今はいかんです! 今というのはただの空想です!これはあまり、あまり重大な事件です、あまり重大な事柄です! この面談の時は、最後の運命の決せられる時です。これはわしの[#「わしの」に傍点]時になるのです。だによって、こういう神聖な瞬間にあたって、偶然ここへ来合わしたものが、偶然来合わした無礼者が、ふたりの話を妨げるというようなことは、非常に望ましくないのです。こういう無礼者も少なくないですからな」と彼は出がけに公爵のほうへかがみこんで、さも一大事をもらすような、ほとんどおびえたような奇妙な声でささやいた。「公爵、そりゃまるで、あなたの……靴のかかとほどの価値もないような無礼者がありますよ! いいですか、今わしが自分の足のことを口に出さなかったのを、特にご注意ください! わしはあまりに自分を尊敬しているから、そんなことを臆面なしに口にすることができんですよ。しかし、こういう場合、自分のかかとを不問に付することによって、あるいは非常な人格の誇りを示してるのかもしれませんよ。これを理解できる人は、ただあなたひとりきりです。あなたのほかにだれひとりわかるやつはおりません。ことにあいつ[#「あいつ」に傍点]がその中の親玉です。あいつ[#「あいつ」に傍点]はなんにもわからんのですよ、公爵。まるで、まるで理解の能力がないのですよ。理解するためには心を持たんけりゃならんですからなあ!」
 しまいには公爵はもう面くらってしまって、面談の時を明日の今ごろということに決めた。将軍は慰められて、すっかり安心して、元気よく出て行った。夕方六時すぎ、公爵はちょっとレーベジェフに来てほしいと使いをやった。
 レーベジェフはばかにせかせかしながらやって来た。そして、入って来るやいなや、すぐ『まこどに光栄の儀に存じます』といった。三日のあいだ逃げ隠れて、公爵と顔を合わすのを避けたのは、影もないことのように口をぬぐってすましている。彼はいすの端にちょこんとすわって、顔をしかめたり、にたにた笑ったり、くすぐったいようなうかがうような目つきをしたり、もみ手をしたりして、もうみんながとうから察して期待している大事件の通知といったようなものを、罪のない心持ちで待ちかまえているらしい様子であった。公爵はまたちょっとてれた。だれもがとつぜん自分から何ものかを期待しはじめ、まるでお祝いでもいいたそうに謎をかけたり、笑ったり、目をぱちぱちさせたりしながら、自分をのぞきこむようになったのを、彼は明らかに見て取ったのである。ケルレルはもう三度まで、彼のところへちょっとかけこんで来たが、これも同様お祝いをいいたそうな様子が、ありありと見えていた。しかし、そのたびに、なにやらものものしい調子で、わけのわからぬことをいいだすばかりで、いつもしまいまでいい終わらぬうちに姿をかき消してしまう(彼はこの二、三日、どこかでめちゃめちゃに飲みくらって、さる玉突屋で大声でわめき散らしたという話だ)。コーリヤまでが、心配のある身の上にもかかわらず、二度ばかりなにやらわけのわからぬことを、公爵にいったことがある。
 公爵はいきなり、いらいらした調子でレーベジェフに、将軍の目下の状態についてなんと思うか、なぜ将軍はあんなにそわそわしているのかとたずねた。彼は手短にさきほどのできごとを話した。
「だれでもそれぞれ不安を持っておりますよ、公爵。それに……今のように奇態な、落ちつきのない時代においては、ことにそうです、はい」とレーベジェフはいくぶんそっけない調子で答えて、腹立たしげに口をつぐんだ。その様子は、ひどく期待を裹切られた人のようであった。
「なんという哲学でしょう!」と公爵は苦笑した。
「哲学は必要なものです。ことに今の時世では、その実際的応用が必要なんですが、みんななおざりにしております、まったくです。ところで、ご前さま、わたくしはあなたもご承知のある点について、あなたのご信任をいただいておりますが、それもただ一定の限度までの話ですよ。つまり、この一つの点に関することがら以上にはすこしも出ません……もっとも、わたくしはそのわけを承知していますから、けっして不平なぞ申しません……」
「レーベジェフ君、きみはなにか腹でも立てているようですね?」
「どういたしまして、ご前さま、けっして、これっからさきも!」とレーベジェフは心臓へ乎を当てながら、ぎょうぎょうしく叫んだ。「それどころではございません。わたくしは社会の位置においても、知情の発達においても、富の蓄積においても、以前の行状においても、また知識の点においてさえも、わたくしの希望の前に高く輝いているあなたの、ご前さまの信任を受ける価値はございません。もしなにかお役に立つとしましても、それは奴隷か、雇人としての働きにすぎん、ということを悟りましたので……しかし、わたくしは怒りはしません。ただ悲しいことに思っています」
「レーベジェフ君、まあ、何をいうんです?」
「それに相違ありません! 今もそうでした! あなたと顔を合わしたり、また心と頭とであなたの一挙一動を注意しているうちにも、いつもひとりで考えるのでした。自分は親友として、いろんなことをうち明けていただく値うちはないものの、家主という資格で相当の時期に、予期している時分に、まあ、その……命令といいますか、うち合わせといいますか、そんなことをいろいろ聞かしていただけるものと思っておりました。なにぶんあれやこれやの事情が変わる時が、もうまぢかに迫っていますので……」
 こういってレーベジェフは、驚いて自分のほうをながめている公爵を、小さな鋭い目で食い入るように見つめた。彼はまだやはり好奇心を満足さすことができると、一縷の希望をいだいていたのである。
「何が何やらさっぱりわけがわかりませんね」公爵はあやうく怒り出さんばかりに叫んだ。「ほんとうに……きみはあきれ果てた策士ですね!」と彼はいい、いきなり真心から出たような笑いかたで吹きだした。
 レーベジェフも同時にからからと笑った。そして、その急に輝かしくなった目つきは、自分の希望が明らかにされたのみならず、なお一倍たしかめられたことを語るかのようであった。「お聞きなさい、じつはね、レーベジェフ君、怒っちゃいけませんよ。ぼくはきみの、いや、たんにきみばかりじゃありませんが、無邪気なのに驚いてるんですよ! きみがたは恐ろしい無邪気な心持ちで、なにかしらぼくから期待してるんでしょう。ところが、ぼくにはきみがたの好奇心を満足させるようなものがなにひとつないので、きみがたに対して間の悪い、恥ずかしい気持ちがするくらいですよ。誓っていいますが、ぼくの身の上にはけっして変わったことはありません、ほんとうですよ!」
 公爵はまたもや笑いだした。
 レーベジェフは急に気取ってしまった。彼がときどき無邪気な、というより、むしろうるさいほど好奇癖を出すのは事実であるが、同時に彼はかなり狡猾なひねくれた男で、どうかするとすっかり黙りこんで、底意地わるく思われる場合さえあった。そのために、いつもいつもこの男の好意をはねつけてばかりいた公爵は、ほとんど彼を敞にしてしまったのである。けれども、公爵がはねつけるのは軽蔑のためではなく、彼の好奇心の対象があまりに微妙だからである。公爵はつい三、四日まえまで、自分の空想をほとんど罪悪のように観じていたくらいである。しかし、レーベジェフは、公爵がはねつけたのを自分に対する個人的嫌悪と不信のように解釈して、つねに毒念をもって公爵のもとを去るのであった。そして、公爵との関係から、コーリャやケルレルのみならず、自分の親身の娘ヴェーラにさえ嫉妬を感ずるのであった。このときも彼は公爵にとって、きわめて興味ある報知を伝えることもできたし、またそれを望んでいたのだが、ついに浮かぬ顔をして口をつぐんでしまった。
「ご前さま、いったいなんのご用なのでございましょう?なぜと申して、あなたは今わたくしを……お呼びになったのでございますからね」ややしばらく無言ののち、ついに彼はこういった。
「いや、じつはぼく、将軍のことをきこうと思ったんです」同様にちょっとの間おもいに沈んでいた公爵は、ぴくりと身震いして答えた。「それから……あのいつかきみがぼくに話された窃盗事件もね……」
「というのは、何のことですね?」
「おやおや、きみはぼくのいうことがまるでわからないようなふうだね! きみにいつでも芝居めいたことをしなくちゃ承知しないんですからね。金ですよ、金ですよ。ほら、きみが紙入れのまま落としたっていう四百ルーブリですよ。このあいだペテルブルグへ行く前に、ぼくのところへ寄って話したじゃありませんか、――これでわかったでしょう?」
「な、なるほど、あの四百ルーブリのことですか!」レーベジェフはやっといま判断がついたというふうに、言葉じりを引いた。
「ご親切に心配してくださいまして、ありがとうござります。わたくしにとりまして、身にあまる面目でござります。しかし……あれは見つかりました、それもずっと以前のことです」 「見つかりましたって? ああ、いいあんばいだった!」
「その叫び声はあなたとして、高潔しごくなものです。なぜと申して、四百ルーブリの金は、多くの孤児をかかえながら、苦しい労働で生計を立てている男にとって、なかなかなまやさしいことではありませんからね」
「さよう。だが、ぼくのいうのはそのことじゃありません――しかし、もちろん、ぼくは見つかったのを嬉しく思いますが」公爵はいそいで訂正した。「しかし、……一体どうして見つけたんです?」
「いやはや、造作のないことだったのです。フロックの掛けてあったいすの下にあったのです。ですから、おおかた紙入れがポケットから、床の上へすべり落ちたものと見えます」 「どうしてまたいすの下に? そんなはずはない。きみはあのとき隅々くまなくさがしたって、自分でいってたじゃありませんか。どうしてこのいちばん大切な場所を見落としたのでしょう?」
「ところが、まったくよく調べたのですよ! 調べたってことはようく、ずんとよく覚えております! 四つんばいになって、その場所を手でなでてみました。いすまでどけて見たのですが、わたくしは自分の目が信じられんでしたよ。なんにもなくて、まるでわたくしのこの掌みたいに、すべすべした空の場所でございます。それでもいつまでもなでまわしておりました。こんな子供らしい所作は、人がぜひともさがし出したいと思ったとき、いつもよくすることなのです……大切なものがなくなって、つらくってたまらない場合ですね。なんにもない空な場所だと知っていながら、それでも十ぺんも十五へんものぞいてみるものですよ」
「かりにまあそうだとしても、いったいどうしたというんでしょう?………どうもわかりませんなあ」と公爵はまごまごしながらつぶやいた。「前にはなかったっていいながら、その場所をさがしているうちに、ふいと出て来たなんて!」
「へえ、まったくふいと出て来たんで」
 公爵は不審そうに相手を見つめた。
「で、将軍は?」とつぜん彼はこうきいた。
「といいますと、将軍がどうしましたので?」とレーベジェフはまた、わけがわからないというふうをした。
「ああ、なんというこった! ぼくのきいてるのは、つまり、きみがいすの下に紙入れを見つけたとき、将軍がなんといったかってことなんです。だって、以前いっしょにさがしたんでしょう?」
「以前はいっしょでした。けれど、今度はじつのところを申しますと、わたくしがひとりで紙入れをさがし出したのです。そして、このことはいわないで、黙ってるほうがいいと考えましたので」
「しかし、いったいなぜです……そして、金は手つかずでしたか?」
「紙入れをあけて見ましたところ、すっかりそのままでした。一ルーブリのはしたまで」
「せめて、ぼくにだけでも、知らしてくれるとよかったんですのにね」と公爵はもの思わしげにいった。
「ですけれど、あなたご自身でその……非常ななんですね……その感銘を受けておられるさいに、余計なご心配をかけてはと遠慮しましたので。それにわたくし自身も、なんにも見つけないようなふりをしております。紙入れはあけて、中を調べて、それからまたちゃんとしめて、もとの場所へ置いときましたよ」
「何のために?」
「さ、さよう、これからさきどうなるかという好奇心のためです」もみ手をしながら、レーベジェフはひひひと笑った。
「じゃ、今でも紙入れは、おとといからずっとそこにころがってるんですか?」
「いいえ、そうじゃありません。ただ一日ひと晩ころがってたきりです。ご承知か知りませんが、わたくしは将軍に見つけ出してもらいたい、という気がいくぶんあったのです。なぜと申して、わたくしがとうとう見つけた以上、将軍だっていすの下から突き出して、すぐ目に入るようになってるものに、気がつかんはずはありませんからね。わたくしは何べんもいすをもち上げて置きかえましたので、紙入れはすっかり見えるようになってしまいました。けれど、将軍はどうしても気がつかないのです。それがまる一昼夜つづきました。どうもあの人は、このごろばかにそわそわして、物の見わけもつかんと見えます。笑ったりふざけたりしながら、話しておるかと思うと、急におそろしく腹を立てて、人にくってかかる、しかもどういうわけだか、かいもくわからんのです。おしまいにふたりで部屋を出ましたが、戸はわざとあけ放しにしておきましたので、将軍はちょっと迷ったふうで、なにかいいたそうにしました。たぶんあんな大金の入った紙入れを置いとくのが、心配だったのでしょう。しかし、とつぜんめちゃくちゃに怒りだして、なんにもいいませんでした。そして、往来へ出てふた足と歩かないうちに、わたくしをうっちゃって、反対の側へどんどん行ってしまいました。その晩、ただ酒場で落ち合ったばかりです」
「でも、おしまいには、きみもいすの下から紙入れを取ったでしょう?」
「いや、その晩にいすの下から消えて失くなりましたので」
「じゃ、いまいったいどこにあるんです?」
「ここにあります」レーベジェフはすっくと立ちあがって、気持ちよげに公爵を見ながら、急に笑い出した。「いつの間にかここに、わたくしのフロックの裾に入ってるのです。ね、ごらんください、ちょっとつまんでみてください」
 じっさいフロックの左側の裾、しかも前のほうのよく目立つところに、袋のようなものができて、ちょっとさわったばかりで、ポケットのほころびから落ちこんだ、皮の紙入れのあることが察せられた。
「引き出して調べてみたら、すっかり手つかずでした。で、またもとのところへ入れて置いて、こうしてきのうの朝から、裾の中へ入れたまま持ち歩いております、足へとんとんとぶっつかりますよ」
「それで、きみは気がつきませんか?」
「いや、べつに気がつきません、へへ! ところで、ご前、どうでございましょう、――もっとも、こんなことはかくべつご注意を促す値うちもありませんが、――わたくしの服のポケットは、みんなしっかりしていたものが、ひと晩のうちにとつぜんこんな大穴が明くなんて! なおもの好きによく調べてみると、だれか鉛筆けずりのナイフで切り抜いたような具合です。どうもほんとうにならないくらいでしょう?」
「で……将軍は?」
「きのうもきょうもいちんち怒っておりました。ばかに不平らしいのです。いやみなほど嬉しがって、浮かれているかと思うと、また涙を流すくらい気が弱くなる。それかと思うと、今度は急にぷりぷり怒りだすというふうで、気味が悪くなってしまいます。いや、まったくなんで。わたくしはなんといっても軍人と違いますからね。きのうふたりで酒場に腰を据えていますと、なにかの拍子でこの裾が山のようにふくれて、みんなの目につくところへ出しゃばりました。すると、将軍はぷんとして、わたくしを尻目にかけるじゃありませんか。あの人がわたくしの目を真っすぐに見るということは、このごろもう長いあいだありません。ただうんと酔っぱらったときとか、それとも、感きわまったときかに限りますので。ところが、きのうは二度ばかり、きっとわたくしをにらみました。なんのことはない、まるで背中を氷水が流れたような気持ちでした。もっとも、あすは紙入れを見つけ出すつもりです。けれど、あすまではまだこうして、紙入れといっしょにひと晩散歩しますよ」
「何のためにきみはそうあの人を苦しめるんです?」と公爵は叫んだ。
「苦しめはしません、公爵、苦しめはしません!」とレーベジェフは熱くなっておさえた。「わたくしは衷心からあの人を愛しております。そして……尊敬しております。ところで、今となって見ると、あなたがほんとうにされようと、されまいとご勝手ですが、前よりいっそうわたくしにとって大事な人になりましたんで、わたくしはなおいっそうあの人を尊敬するようになりました!」
 レーベジェフがこういったときの調子は、あくまでまじめで殊勝らしいので、公爵はとうとう憤慨してしまった。
「愛してるくせに苦しめるんですか! まあ、考えてもごらんなさい、あの人がその紛失品をきみのプロッタの中や、いすの下に置いて、きみの目につくようにしたということ一つだけで、きみに対してけっしてずるいことをしない、正直にあやまるという意味を知らせてるんですよ。いいですか、あやまるといってるんですよ! つまり、あの人はきみの優しい感情を当てにしてるんです。つまり、きみのあの人に対する友情を当てにしてるんです。ところが、きみはあんな……潔白このうえない人に、そういう侮辱を与えるなんて!」
「潔白このうえない人ですって、公爵、潔白このうえない人ですって?」とレーベジェフは目を光らせながら叫んだ。「そういう正義の言葉を発しうるのは、とりもなおさず、ご前さま、あなたひとりでございます! そのために、いろんな悪行に心の腐ったわたくしでありますけれど、崇拝といっていいくらい、あなたに信服しておるのでござります! じゃ、もう決りました! 紙入れはあすといわず、今すぐこの場でさがし出すことにしましょう。さあこのとおり、あなたの目の前で取り出しますよ。ほら、これです。金もこれ、そっくりここにあります。どうぞこいつをあすまでお預りください。あすかあさって頂戴します。ところで、公爵、この金が盗まれた最初の晩、うちの庭の石の下かなにかに隠されていたらしいんですが、あなたどうお思いでござります?」
「いいですか、あの人に紙入れが出たなんて、むきつけにいっちゃいけませんよ。ただもうあの人が服の裾に何もないのを見て、ひとりで悟るように仕向けたらいいんですよ」
「そうでしょうかね? いっそ見つけたといって、今まで気がつかなかったようなふりをしたほうがよくないでしょうかねえ?」
「い、いや」と公爵はちょっと考えて、「い、いや、もう遅い、それは危険です、まったくいわないほうがいいんですよ! そして、あの人には優しくしておあげなさい、しかし……あまり目立つようにしちゃだめですよ、それに、それに……わかってるでしょう……」
「わかっております、公爵、わかっております。というのはつまり、実行おぼつかないということがわかっていますので。なぜって、そうするには、あなたのような心を持ってなくちゃだめですものね。それに、当のあの人からして、かんしゃく持ちのむら気ですので、ときどきあまりなと思うほど横柄な仕打ちを見せなさる。あの人は涙っぽいことをいって、抱きついたりなぞするかと思うと、急に私をばかにして、こっぴどくからかいだすのです。ですから、わたくしもそんなとき、なにくそという気になって、わざと服の裾をひけらかしてやりますよ、へへ! では、ごめんください、公爵。だいぶお引き留めして、ご愉快な感情のおじゃまをしておるらしゅうございますから……」
「しかし、お願いですから、前のように内証でね!」
「抜き足でそろりそろり、抜き足でそろりそろり、えへへ!」
 しかし、事件はこれで終わりを告げたとはいうものの、公爵は前よりもっと気がかりになってきた。彼はじりじりしながら将軍とのあすの会見を待ち受けた。

      4

 指定した時間は、十一時と十二時のあいだであったが、公爵はまったく思いがけない事情のために遅刻した。家へ帰って見ると、将軍はもう、部屋にすわりこんで待っていた。ひと目見て、彼は将軍が不満でいるのを知った。つまり、しばらく待たされたからだろう。わびの言葉をのべると、公爵は急いで席についたが、なんだか妙におじけづいていた。ちょうど客が陶器かなにかで作ったもので、どうかした拍子にこわしはしないかと、絶えずびくびくしているようなふうであった。これまで彼は、将軍の前へ出ておじけづいたこともなければ、そんなことはてんで頭にも浮かばなかったくらいである。間もなく公爵は、将軍がきのうとはまるで別人のようになっているのに気がついた。あのうろたえてそわそわした様子に引きかえて、きょうはおそろしくしっかり気を引きしめているふうが、ちらちらと感じられる。で、これはなにか断固たる決心をした人ではないか、と推量してもみたくなるほどであった。とはいえ、その落ちつきも内心のところは、見かけほどではないかもしれぬ。しかし、それはとにかく、客は控え目な品格を見せているが、それにしても、上品なうち解けた様子であった。はじめのうちは公爵との応対にも、いくぶんへりくだったようなところさえ見えた。――それは不当な侮辱を受けた誇りの強い人が、えて見せるような態麌である。声の調子になんとなく悲痛の響きがあったが、それでも、ぜんたいに優しいものの言いぶりであった。 「先日拝借した書物を持って来ました」彼は自分が持って来て、テーブルの上に置いた一冊の本を、あごでさしながらものものしくいった。「ありがとうございました」
「いや、どうも。あなたはこの文章をお読みになりましたか? いかがです、お気に入りましたか? なかなかおもしろいでしょう?」公爵は、すこしでも本筋を離れた世間話をはじめる機会が、こう早くやって来たのを喜んだ。
「おもしろいかもしらんが、蕪雑な書きかたですなあ。そして、もちろん他愛もない話ですよ。ことによったら、一つ一つみんなうそかも知れませんて」
 将軍は泰然自若として、ちょっと言葉じりまで引きながらこういった。
「どういたしまして、これはじつに正直な話なんですよ。フランス軍のモスクワ滞留のことを書いた、一老兵の目撃談なんです。この中には、なんともいえないほどいいところが、ちょいちょいあります。それに実見者の記録というものは、どれでも貴重なものだと思います。その実見者がだれであろうとも。ね、そうじゃありませんか?」
「わたしが編集者だったら、こんなものは掲載しませんな。ところで、一般に実見者の記録ということにいたっては、つまり世間の人たちが、まじめな価値のある人の説よりも、ほら吹きのたいこもちを信用する、ということを証明しておるのです。わたしも十二年の戦争(一八一二年のナポレオン侵入)に関する記録をいくつか知っとりますが、そりゃ……じつは、公爵、わたしは今度この家を、レーベジェフの家を出ようと決心したですよ」
 将軍は意味ありげに公爵をながめた。
「あなたは、パーヴロフスクにご自身の家があるじゃありませんか……お嬢さんのとこに……」なんと挨拶していいかわからないので、公爵はこんなことをいった。
 彼は、将軍が一|期《ご》の浮沈に関するような大事件について、助言を求めに来たのだということを思い出した。
「わたしの妻《さい》のところです。つまり、いいかえれば、自分のところでもあれば娘のところでもあるんですよ」
「ごめんください、ぼくは……」
「わしがこの家を出て行くわけはね、公爵、レーベジェフのやつと絶交したからです。ゆうべ絶交したんですが、なぜもっと早くしなかったかと後悔しましたよ。わしは元来尊敬を要求するのです。そして、なんですな、わしが自分の心を贈り物にするような人たちからさえも、この尊敬を受けるのを希望しているわけです。まったくわしはしばしば自分の心を贈り物にします。そして、ほとんで[#「ほとんで」はママ]つねにあざむかれてばかりいますよ。あの男もわしの贈り物を受ける価値のないやつでした」
「あの人にはずいぶんだらしのないところが多いです」と公爵は控え目な調子で口をいれた。「そして、一、二の性質は……しかし、その間にあって、なお誠意が認められます。狡猾ではありますが、なかなか興味のある人間です」
 公爵の巧緻ないいまわしと、うやうやしい語調とは将軍の心に媚びたらしい。もっとも、彼はいぜんとしてときどきふいに、信じかねるらしい目つきをすることもあるけれど、公爵の語調があまり自然で誠実なので、疑いをいれる余地がなかったのである。
「あの男にもいい資質があるということは」と将軍が引き取った。「あの人間に、ほとんど友誼ともいうべきものを与えたこのわしが、第一番に意見を発表したのです。わしは自分 でも家族を持っておるから、あの男の家やもてなしには何の要もありません。もっとも、わしは自分の乱行を弁護しようとするのじゃない。わしは不謹慎な男だから、あの男といっ しょに酒を飲みました。そして今そのことを思って泣いとるかもしれんです。しかし、たびたび飲酒のためのみに(どうか公爵、このいらいらした男の粗暴ないいまわしをお許しく ださい)、しかしただただ飲酒のためのみに、わしはあの男と交わりを結んだのじゃないです。わしはつまり、今あなたのいわれた性質に惚れこんだのです。が、なにもかもすべて
ある程度までで、人の性質もその例をまぬかれませんよ。もしあの男がふいにわしに面と向かって、十二年の戦争のとき、まだほんの赤ん坊のころ、子供のころに右足を失って、それをモスクワのヴァガンコフスキイ墓地に葬った、などというような失敬なことをいったとすれば、それはつまりはめをはずしたのであって、不敵と高慢を示すことになるのです……」
「それはたぶんただちょっとにぎやかに、人を笑わすための冗談なのでしょう」
「承知しています。にぎやかに人を笑わすための無邪気なほらは、たとえぶしつけなものであっても、人を侮辱しないです。中には、ただ相手に満足を与えんがため、単なる友誼の念からしてうそをつくものもあります。ところが、もしその中から不敬の色が透いて見える場合には、――もし『おまえと交際するのはいやになった』という意味を、その不敬の色によって示そうとする場合には、高潔なる人はただその男からおもてをそむけて、そんな無礼者に相当な仲間を教えてやるよりほか、仕方がないじゃありませんか」
 将軍はこういいながらまっかになった。
「だって、レーベジェフが十二年にモスクワへ行くはずがありませんよ、それにしては、あまり年が若すぎますものね。まったくおかしな話です」
「第一が、これです。しかし、かりにあの当時生まれてたとしても、フランスの猟兵があいつに大砲の口を向けて、ただ慰みのために片足うち落としただの、その足をまたあいつが拾いあげて、家へ持って帰り、あとでヴァガンコフスキイ驀地に埋葬しただのと、そんなことを面と向かっていい張るにいたっては、言語道断です。おまけにその墓の上に石碑を立てて、表のほうには『十等官レーベジェフの足ここに葬らる』裏のほうには『わが愛《いと》しき舎利よ、喜びの朝まで静かに眠れ』という銘が彫ってあるだの、毎年この足のために法要を営むだの(これなぞにいたっては、もう贖神罪に相当します)、このために先生自身、毎年モスクワへ出向くだの、勝手なことを吹き散らすのです。この話の証拠としてその墓を見せるから、モスクワへ出かけようというのです。そればかりじゃない、クレムリンに置いてある、フランスから分捕った例の大砲まで見せる、とこういうじゃありませんか。なんでも、門から十一番目の旧式なフランス小砲だと、いい張るんですよ」
「それにあの人の足は、両方ともりっぱにそろってるじゃありませんか、しかもみんなの目にさらされてますよ!」と公爵は笑いだした。「まったくのところ、それは無邪気な冗談ですよ、腹を立てるのはおよしなさい」
「しかし、わしのいいぶんも聞いてください。足がみんなの目にさらされているということもですな、あの男にいわせると、チェルノスヴィートフ式の義足だと主張するんですが、一概に荒唐無稽ともいわれんですからね……」
「ああ、なるほど、チェルノスヴィートフ式の義足なら、ダンスさえできるって話ですね」
「まったくそのとおりです。チェルノスヴィートフが義足を発明したとき、まず第一番にわしのところへ見せに来たもんですがね。しかし、その発明が完成されたのは、ずっとあとでしたよ……ところがあの男は、なくなった細君さえ長い結婚生活のあいだ、自分の亭主の足が木だということを知らなかったというのです。わしがいろいろあの男の不合理を指摘してやったら、こういうじゃありませんか。『もしおまえさんが十二年の戦争にナポレオンの小姓をしてたのなら、わしにだって自分の足をヴァガンコフスキイに葬るくらいのことは許してもよかろう』だって」
「あなたはほんとうに……」といいさして、公爵はまごついた。
 将軍も同様に、ほんの心持ちてれたようなふうであったが、その一刹那おもいきって横柄な、ほとんど冷笑さえまじえた目つきで、きっと公爵を見つめた。
「しまいまでおっしゃい」と彼は特になめらかな調子で、言葉じりを引き伸ばすようにいった。「しまいまでおっしゃい。わしはおとなしい人間だから、しまいまで聞きますよ。自分の目の前に落ちぶれはてた……役立たずの人間を見ながら、同時にその人問が……偉大なるできごとの実見者であったという話を聞くのが、あなたにとってこっけいに思われるなら、包まずまっすぐに白状なさい。あいつ[#「あいつ」に傍点]はまだなんにもあなたに……讒訴しませんかね?」
「いいえ、ぼくはレーベジェフから、なんにも聞きません。もしあの人のことをおっしゃるのなら……」
「ふむ! わしはその反対かと思ってた。じつはゆうべわれわれふたりのあいだの話題が例の……本の中の奇怪な文章のことに移ったのです。わしはあの文章の不合理なことを指摘してやりました。なぜといって、わしはあの戦争の実見者だったので……あなたはにやにや笑っておられますな、公爵、あなたはじろじろわしの顔を見ておられますな?」
「い、いいえ、ぼくは……」
「わしは見かけこそ若く見えるけれど」と将軍は言葉じりを引いた。「しかし、ほんとうは、見かけより年を取っておるのです。十二年の戦争のときにわしは十か十一ぐらいでした。わしの年は自分でもよくわからんです。履歴書ではすこし減らされてるんです。またわし自身も年を隠したがる弱点がありましてな、ずっと一生のあいだ……」
「いや、まったくのところ、ぼくはあなたが十二年の戦争のとき、モスクワヘいらしったということを、ちっとも妙だとは思いません、ですから……あなたは多くの実見者と同じように……いろんなことをお話しになってよろしいのです。あるひとりの自叙伝の作者は、自分の著書の冒頭に、十二年の戦争のときモスクワでフランスの兵士が、まだほんの赤ん坊であった著者を、パンで養ったと書いています」
「それ、ごらんなさい」と将軍はつつましげに同意を表した。「わしの事件はもちろん日常茶飯事の域を脱していますが、しかしまるで荒唐無稽な話でもないのです。真実がありうべからざることのように見えるのは、ままある例です。皇帝つきの小姓! というと、もちろん妙に聞こえるかもしれません。けれども、十歳になる子供の冒険は、つまりその年齢でもって説明できるかもしれません。十五の子供だったら、そんなことはたぶんなかったでしょう、いや、きっとそうに違いないです。なぜといって、もしわしが十五にもなっておったら、ナポレオン入京の日にモスクワを逃げ遅れて恐ろしさにぶるぶるふるえている母のそばを離れ、スターラヤ・バスマンナヤ街にある木造の家をぬけ出すようなことはしなかったでしょうからなあ。十五にもなっておったら、おじけがついたに相違ありません。ところが、わずか十にしかならないわしは、何ものにも驚かなかったです。そして、ナポレオンが馬をおりようとしているとき、群集を分けて、宮殿の玄関さして進みました」
「年が十だから恐れなかった、ということにお気がついたのは、疑いもなく卓見でしたね……」と公爵はばつを合わせたが、今にもあかい顔をしはせぬかと、びくびくしながら気をもむのであった。
「まったく疑う余地もありません。この事件はすべて実際においてのみおこりうるように、自然にかつ単純に運んだのですよ。もしこの事件に小説家が筆を染めたら、きっとありうべからざる空想を織りまぜるに相違ありません」
「おお、それはじっさいそのとおりですよ!」と公爵は叫んだ。「それはぼくも大いに痛感した思想なんです、おまけについ近ごろ、ぼくはたった一つの時計のために、人を殺したほんとうの話を知っていますが、――これはもう新聞にも載っています。もしこんなことを小説家が作り出そうものなら、民衆生活研究の大家や批評家連はかならず、そんなことがあるものかと怒号するに相違ありません。しかし、これを新聞紙上で事実として読んでいるうちに、こういう事実からしてほんとうにロシヤの現実を学ぶことができるものだと。しみじみ感心してしまいます。まったく、あなたはいいところにお気がつきました」まざまざと顔をあかくする機会を免れおおせたのを喜びながら、公爵は熱くなってこう結んだ。
「そうでしょう? そうでしょう?」と将軍は満足のあまり、目さえ輝かせながら叫んだ。「で、危険ということを知らない子供は、光りかがやく軍服や、供奉の大や、前からうんと話に聞いていた偉人を見ようと思って、群集を押し分けて進みました。なぜというに、二、三年まえからみんな口を揃えて、この人のことばかり話しておりましたからな。世界じゅうがこの人の名で満たされていたのです。わしはまあ、いわばこの名を乳といっしょに飲んでおったようなものです。ナポレオンは二、三歩へだたったところを通りすがりながら、ふとわしの視線を見わけました。わしはそのとき貴族の子供らしい服を着ていたのです。平生から身なりはぜいたくにしておったのでな。つまり、そうした群集の中でわしがひとり……な、お察しがつくでしょう……」
「それはおっしゃるとおり、ナポレオンの目にとまるはずです。なぜって、その事実から推して、だれも彼も町を棄てて走ったわけじゃない、貴族の大たちも子供を連れて居残っている、ということが証明されますからね」
「そこです、そこです! 彼は貴族を引き寄せたかったのですな! ナポレオンがその鷲のような視線を投げたとき、わしの目はそれに答えて、一時に輝き出したに違いないです。Voila un garcon bien eveille! Qui est ton pere?(おお、なんて元気な子供だ! おまえのおとうさんは、いったいだれだね?)わしは興奮のために、はあはあ息を切らしながら、さっそくこう答えたです。『祖国の戦場で討ち死にをした将軍です』Le fils d’un boyard et d’un brave par-dessus le marche! J’aime les boyards. M’aimes-tu petit?(この子は貴族で、おまけに英雄の息子だ。わしは貴族が好きだ、おまえはわしが好きかね?)この早口な問いに対して、わしも同じく早口に答えました。『ロシヤ人は祖国の敵の中にさえ、偉人を見わけることができます!』いや、なに、このとおりな言いまわしをしたかどうかは、覚えておらんが……なにぶん子供のことだからな……しかし、意味はたしかにこうでしたよ! ナポレオンは、びっくりしてじっと考えておったが、やがて供奉の人たちに向かって、『わしはこの子供のプライドが気に入った!しかし、すべてのロシヤ人がこの子供のように考えてるとすれば……』こういいさして、宮殿の中へ入ってしまいました。わしはすぐに供奉の人たちにまじって、彼のあとを追ったです。供奉の人たちのだれ彼は、わしのために道を開いて、寵児かなにかのようにわしを見まわしておる。しかし、そんなことは、ちらとわしの目をかすめたきりです……今でも覚えているのは、最初の広間へ入ったとき、皇帝がふいにエカチェリーナ女帝の肖像の前に立ちどまって、長いあいだもの思わしげに見つめていたが、やがて、『このひとはえらい女たった!』といって、そばを通り過ぎました。二日後、わしは宮殿でもクレムリンでもみんなに知られて le petit boyard(小さい貴族)と呼ばれるようになりました。そして、夜寝るときだけ家へ帰ったものです。家ではみんなが気も狂わんばかりの騒ぎです。それから、また二日ののち、ナポレオンの小姓のド・パザンクール男爵が遠征の苦に堪えないで死にました。そのときナポレオンは、わしのことを思い出したわけです。人々はわしをつかまえて、何ごとやらわけも話さずに、引っ張って行きました。そして、故人の、――バザンクールは十二ばかりの子供でした、――制服を、わしのからだに合わして見るのです。やっと制服を着て、わしはご萠へ引き出されました。皇帝がわしにちょっと首を振ってみせたとき、わしは自分が恩寵にあずかって、小姓の役を仰せつけられたことを聞いたのです。じつに嬉しかったですなあ。じっさい、もうずっと前から、皇帝に対して熱い同情を感じとったのでね……それに、みごとな軍服というやつが、子供にとっては、重大な意義を持っておりますからなあ……わしは裾の細くて長い、渋い緑色の燕尾服を着て歩きました。金のボタン、金のぬいがしてある赤い袖口、ぴんと立って前の開いた高い襟、金のぬいをした裾、きっちりと足にくっつく大鹿皮の白ズボン、白い絹のチョッキ、絹の靴下、留金付きの靴……そして、皇帝が馬上で散歩をなさるとき、もしわしがお供の人数に加わっていたら、深い大長靴をはくのです。軍の状況はあんまりかんばしくなく、しかもおそろしい災難は予感されておったけれど、格式はできるだけ守られていた。いや、むしろそうした災難が予感されればされるほど、
ますます厳格になったくらいです」「そう、もちろん……」と公爵はとほうにくれたようなふうでつぶやいた。「あなたがその時のことをお書きになったら……さぞおもしろいでしょうにね」
 もちろん将軍は、きのう一度レーベジェフに話したことをくりかえすのだから、その語調はしたがってなめらかなものであったが、またしても疑わしそうなまなざしで、公爵を尻目にかけた。
「書いたらって」と彼はなお一倍、得々たる様子でいった。「わしの話を書いたらって? どうもそんな気にはならなかったですよ、公爵! しかしお望みなら、わしの回想録はもうできとるんですよ、しかし……それは書見台の中に潜んどるのです。わしのからだを土でおおうときに、はじめて、世に出るものなら出してもいいです。そしたら、きっと外国の言葉にも翻訳されるに違いありません。もっとも、文学的価値のためではありません。わしが自分で目撃した偉大な事実が重要なものであるからです。当時わしはほんの子供だったけれど、そのためにいっそう価値が生じるのです。つまり、子供だというので、わしはあの『偉人』のごく身近かまで、寝所にまで入りこみましたからね! わしは『不幸におちいった巨人』の呻吟の声を、毎晩聞きましたよ。まったくそんな子供の前でうめいたり泣いたりするのに、遠慮なぞするはずがないですからね。もっとも、わしは彼の苦悶の原因がアレクサンドル帝の沈黙にある、ということをよく承知しておりましたがね」
「そうでしょう、そしてナポレオンは手紙を書いたでしょう……講和を申し込むために……」と公爵は臆病らしく相づちを打った。
「はたしてどんな申込みか、われわれにはわからんですが、しかし毎日、毎時、あとからあとがら手紙を書いていましたよ! おそろしく興奮してね。ある晩わしは目に涙を浮かべて、彼に飛びかかりました(ああ、じっさい、わしは彼を愛しておったのです!)そして、『アレクサンドル陛下におわびをなさい、ねえ、おわびを!』と叫びました。つまり、『アレクサンドル陛下と和睦なさい!』というべきところだったのですが、子供のことだから、無邪気に自分の考えをいったわけです。すると、彼は部屋の中をあちこち歩きまわっていましたが、『おお、わが子供よ!』と叫びました。『おお、わが子供よ!』彼は、その当時わしが十やそこいらの子供だということに、気がつかないようなふうで、むしろわしと話をするのを好んでおりましたっけ。『おお、わが子供よ!わしはアレクサンドル陛下なら、足に接吻することさえあえて辞せないが、そのかわりプロシヤの王や、オーストリヤの皇帝や、あんなやつらは、永久に憎まずにはいられない! そして……しかし、そちは外交のことなぞ、なにもわからないのだ!』彼はこのとき急に、相手がだれであるかを思い出したように、ぴたりと口をつぐんでしまったが、その目は長いあいだ火花を散らしておりました。まあ、こんなふうの事実をすっかり書いてごらんなさい、――まったくわしはこの偉大なる事実の実見者だったのですからな、――そして、今にもそれを出版してごらんなさい、あんな批評家だとか、文学上の虚栄心だとか、羨望だとか、または党派だとか、そんなものはすっかり消し飛んでしまうんだが……しかし、わしはまっぴらごめんですよ!」
「党派のことについてあなたのおっしゃったことは、もちろん公明な説です。ぼくはあなたに同意ですよ」と公爵はつかの間の沈黙ののち、小さな声でこういった。「ぼくもついこのあいだシャルラスの『ワーテルロー会戦』を読んでみました。これは明らかにまじめな著書で、この本がなみなみならぬ知識をもって書かれたことは、専門家さえも保証しています。しかし、てページごとにナポレオンの没落を喜ぶ心持ちがうかがわれます。もし他の戦役においても、ナポレオンの才能のあらゆるしるしを否定することができたら、シャルラスは非常に嬉しくてたまらなかったでしょう。これはどうもこんなまじめな本として、よろしくないと思いますよ。なぜって、これも一種の党派根性ですものね。ところで、あなた、お勤めのほうは非常に忙しかったですか……皇帝のおそばで?」
 将軍は有頂天であった。公爵の言葉は、まじめで虚心坦懐な点において、彼の疑惑の最後の残滓を吹き散らしてしまった。
「シャルラスですか! おお、わし自身も大いに不満だったので、当時あの人に手紙をやったことがあります。しかし……わしも確かなことはいま覚えておらんが……で、わしの勤務が忙しかったかときかれたんですな? いやいや、どうして! わしは皇帝つきの小姓と呼ばれてはおったが、そのときもうそれをまじめな話だと考えていなかったのです。それに、ナポレオンはまもなく、ロシヤ人を近づけようというすべての望みを失ったので、もし……もし個人としてわしを愛しておらんかったら(と、こうわしはいま大胆にいうことができますよ)、単に政略のために近づけたわしのことも、むろんとうに忘れたはずです。ところで、わしはまた心から彼に引きつけられたのです。勤務なんてそんなものは要求されなかった。ただときどき宮殿へ伺候して……白エ帝の散歩に騎馬でおともをすればよかった、ただそれっきりです。わしはかなり馬に乗れましたのでな。彼は昼餐まえに出かけましたが、供奉の中にはたいてい、タブーと、わしと、騎兵扈従のルスタン……」
「コンスタンじゃありませんか」とつぜんどうしたわけか公爵は口をすべらした。
「い、いいや、コンスタンは当時もういなかったです。あの人は手紙を持って…ジョゼフィーヌ皇后のところへ行っていました。あの人のかわりにふたりの伝令と、ポーランドの槍騎兵が四、五人いましたよ。まあ、それが供奉の全体です、が、むろんほかに将軍や元帥たちが大勢いるんですよ。これはナポレオンがいっしょに地形や軍の配置を覬察したり、いろんな相談をしたりするために選び出したのです……いちばんよくおそばにいるのはダヴーで、いま覚えているところでは、大きな肥った冷淡な男で、眼鏡をかけた奇妙な目つきをしていたっけ。この人を皇帝はいちばんよく相談相手にしとりました。皇帝はこの人の考えを尊重しておりましたよ。今でも覚えておるが、ふたりでいく日もいく日も相談しておることがありましたよ。ダヴーが朝に晩にやって来て、争論することさえあった。しまいにはナポレオンも同意しそうなふうに見えました。ふたりがさし向かいで書斎にすわっておると、わしはほとんどふたりの目にも入らないようなふうで控えておる。するといきなり、ふいとナポレオンの目がわしのほうへ向く。なんだか不思議な想いがその目を、ちらとかすめたようでした。『子供よ!』と出しぬけに、彼はわしに向かって、『そちは何と思う、もしわしが正教を採用して、この国の奴隷を自由にしてやったら、ロシヤ大はわしに従うかどうだろう?』『けっしてそんなことはありません!』とわしは憤慨して叫んだ。ナポレオンは、はっとして、『愛国心に輝くこの子供の目色の中に、わしはロシヤ全国民の意見を読むことができた。たくさんだ、タヴー! そんなことはみんな妄想だ! ほかの方策を申して見い』」
「そうですか、しかし、その方策は力強い思想でしたね!」公爵は見うけたところ、興味を感じたらしくこういった。「で、あなたはその方策を、タブーのものとなさるのですね!」
「すくなくとも、ふたりがいっしょに相談したんですな。むろん、ナポレオン式の鷲のような思想です。しかし、今一つの方策も、やはりりっぱな思想でしたよ……それは例の有名なconseil du lion(獅子の献策)です。これはナポレオン自身がダヴーにいった言葉です。それはつまり、全軍を率いてクレムリンにたてこもり、バラックを建て、壕をつくり、砲を配置して、できるだけ馬を貎って、肉を塩漬にしておく。そしてまたできるだけ穀類を買いこんだり、略奪したりして、春が来るまで冬ごもりをする。そして春が来たら、ロシヤ軍を突破しようというにあるんです。この方策は強くナポレオンの心を引きました。われわれは毎日クレムリンの城壁をぐるぐるまわりました。彼はどこをこわすとか、どこに眼鏡堡を建てるとか、どこに半月堡を築くとか、どこに防塞を建てるとか、そういう指図をしたが、――いや、その着眼といい、機敏といい、正確といい、驚くべきものです! とうとうなにもかも決まったので、タブーはいよいよの決定を迫りました。ふたたびふたりはさし向かいになりました。そして、わしは第三者です。ふたたびナポレオンは腕組みしながら、部屋の中を歩きだしました。わしはその顔から目を放すことができなかった。わしの心臓は早鐘のように動悸を打っておりました。『わたくしは参ります』とダヴーがいうと、『どこへ?』とナポレオンがききました。『馬を塩漬けに』というダヴーの返事です。ナポレオンは溜息をつきました。運命はまさに決せられんとしてるのです。『子供よ』と、彼は出しぬけに、わしに問いかけました。『そちはわれわれの計画を、なんと思うか?』もちろん彼がこうきいたのは、偉大な知恵をもった人が時としてせっぱつまったとき、鷺と格子(貨幣の裏表)で占うのと同じ理窟ですな。わしはナポレオンのかわりにタブーに向かって、霊感でも受けたように、傲然とこういったです。『将軍、もうお国へ逃げてお帰んなさい!』これでこの方策もおじゃんになりました。ダヴーは肩をすくめながら、出がけに小さな声でBah! Il deviant superstiticux !(おやおやこの人はすっかりご幣担ぎになった)といった。その翌日、進出の命令がくだったのです」
「それはじつにおもしろい話ですね」と公爵はおそろしく小さな声でいった。「もしそれがほんとうにあったことなら……いや、ぼくがいおうと思ったのは……」彼はあわてていいなおそうとした。
「おお、公爵!」と将軍は叫んだ。彼は自分の物語ですっかりいい気持ちになって、極端に不注意な失言にさえ、かくべつ気をとめそうな様子はなかった。「あなたは『そんなことがあったら』とおっしゃるが、しかしそれより以上のことがあったのです、まったくずっと以上のことがあったのです! そんなことはつまらん政治上の事実ですが、くりかえして申します、わしはこの偉人の夜の臥床の涙や、うめきの目撃者なんですよ。このことにいたっては、わしよりほかに、だれも見たものはありません! しまいには、もう涙を流して泣くようなことはなくなって、ただときどきうめいておるばかりでした。しかし、その顔はだんだん暗い影でおおわれて行きました。それはちょうど永遠が自分の暗澹たる翼で包んでいるような具合でした。どうかすると、われわれふたりはいく晩もいく晩も長いことさし向かいで、時を過ごすことがあった、――騎兵扈従のルスタンはよくお次の間でいびきをかいていたっけ。じつにぐっすり寝る男でしたからね。『そのかわり、あれはわしに対しても、わしの王朝に対しても忠実なやつじゃ』とナポレオンは、この男のことをいっておりましたよ。あるとき、わしは妙につらくってたまらないことがありました。ふと彼は、わしの目に涙が浮かんでるのに気がついて、さも感激したようなふうでわしを見つめていたが、『そちはわしをあわれんでくれるのか?』と彼は叫んだ。『おお、子供よ、そちのほかに、まだひとり別な子供が、わしをあわれんでくれるかもしれない。それはわしの息子のle roi de Rome(ローマ王)だ。ほかのものは、みんなわしを憎んでおる。兄弟らは第一番に、不幸につけこんで、わしを売るやつなのだ!』わしはしゃくりあげながら、彼に飛びかかった。すると彼もたまらなくなって、ついにふたりは抱き合いました。ふたりの涙が一つに流れ合うばかりでした。『手紙を、手紙をジョゼフィーヌ皇后にお書きなされませ!』とわしは泣きながらこういった。ナポレオンはぴくっと体をふるわせて、ちょっと考えたすえ、『そちはわしを愛してくれる第三の心を、思い出させてくれた、じつにありがたく思うぞよ!』といいました。さっそく彼はテーブルに向かって、手紙を書きましたが、翌日それをコンスタンに持たせて、出発させたわけです」
「あなたはりっぱなことをなさいましたね」と公爵はいった。「悪い考えに浸っている人間に、美しい感情を呼びさましておやりになったんですもの」
「そこですよ、公爵、あなたはじつに美しい解釈をしてくれましたね、あなたご自身の心に似つかわしい解釈を!」と将軍は歓喜の声を上げた。すると不思議にも、真の涙がその目