『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP097-144

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60分、ざっと校正、097-130、全部は校正なかった。


みなりはきわめて質素で、なにかしら黒っぽい、まるで年寄じみたこしらえであるが、その物腰から話しぶり、すべての身のこなしは、この人がかつては上流の社交界をも見て来た婦人であることを思わせた。
 ヴァルヴァーラは、二十三かそこらの娘で、丈は中背、ずいぶんやせぎすのほうである。顔はごく美しいというたちではないが、器量をほかにして男の心をひき、夢中になるほど迷わせる秘密を隠していた。彼女はおそろしく母親に似ていて、おめかしをしようという気のみじんもないところから、みなりまでほとんど母親と同じであった。その灰色をした目の表情は、どうかすると非常に快活で優しくもなれるのであったが、たいていはきまじめでもの思わしげなときのほうが多く、どうかすると、あんまりだと思われることさえあった。このごろことにそれがひどい。堅固さと決断力は彼女の顔にも見られたが、この堅固さは母親のそれよりもはるかに猛烈で、勇邁かもしれぬという感じがした。ヴァルヴァーラはかなり怒りっぽい女で、兄もときどきそれには恐れをなすほどであった。今ここに腰かけている客のプチーツィンも、彼女の怒りっぽいのに恐れをなしていた。これはまだ若い三十恰好の男で、質素ではあるがしゃれたなりをしている。挙動はなかなか気持ちがいいけれど、なんだかあまりもったいぶっている。黒味がかったあごひげは、この男が勤めをもった人でないことを示していた。彼は気のきいた気持ちのいい会話をすることもできたが、多くは黙りがちであった。全体としてこころよい印象を人に与える男である。彼は明らかにヴァルヴァーラに無関心でないらしく、また自分でもその感情を隠そうともしなかった。ヴァルヴァーラのほうでは単に親友として交際していたが、ある種の問いに対しては、まだまだ返事を渋って、むしろいやがるくらいであった。しかし、プチーツィンはそれしきのことでなかなか落胆しなかった。それに、ニーナ夫人が彼に愛想よくするばかりでなく、最近いろいろなことで彼をたよりにするようになった。とはいえ、彼が多少とも確かな抵当のもとに高利の金を貸し付け、どしどしそれを殖やして行くのを専門の仕事としているのは、あまねく知れわたっている。ガーニャとはなみなみならぬ親友であった。
 行き届いてはいるが、とぎれとぎれなガーニャの紹介に対して(ガーニャは母にきわめてそっけない挨拶をしただけで、妹にはまるっきりひとことの挨拶もなしに、そのままプチーツィンをつれて部屋を出てしまったのである)、ニーナ夫人は公爵にふたことみこと優しい言葉をかけたのち、おりふし戸口からのぞきこんだコーリャにいいつけて、公爵を真ん中の部屋へ案内さした。コーリャはかなり美しく快活な顔つきをした、信じやすそうな単純な心持ちを物腰に現わしている少年であった。
「あなたの荷物はどこにあるんです?」と彼は公爵を部屋に導きながらたずねた。
「ちょいとした包みが一つあるんですが、玄関へ置いときました」
「じゃ、ぼくが取って来てあげます。うちで使ってるのは、下働きとマトリョーナきりだもんだから、ぼくもそれでお手伝いをするんですよ。ねえさんがみんなの取締りをしてるんだけど、怒ってばかりいるんですよ。あなたきょうスイスからいらしたって、にいさんがいいましたが、ほんとうですか?」
「そうです」
「スイスはいいでしょうねえ?」
「そりゃあ」
「山があるんでしょう?」
「ええ」
「ぼくすぐあなたの荷物を持って来ますからね」
 そのあとヘヴァルヴァーラが入ってきた。
「ただ今すぐにマトリョーナが、シーツを敷きに参りますから。あなたトランクをお持ちでいらっしゃいますか?」
「いえ、小さな包みが一つきりです。いま弟さんが取りに行ってくださいました。玄関に置いてあるんです」
「このちっぽけな包みのほかには、なんにもありませんでしたよ、あなた、どこへお置きになったんです?」ふたたび部屋へ帰って来たコーリャがこうきいた。
「ええ、このほかにはじっさいなんにもないんですよ」と包みを受け取りながら公爵は答えた。
「あーあ! ぼくフェルディシチェンコが持ってったかと思っちゃった」
「ばかなこというものじゃありません」とヴァーリャ(ヴァルヴァーラの愛称)はいかつい声でたしなめた。彼女の調子は公爵に対するときでさえきわめてそっけなく、ただ慇懃なというばかりであった。
「Chere Bebette(親愛なるおばかさんというのが直訳)ぼくにはもちっと優しくしてくれたっていいじゃないか、ぼくとプチーツィンさんとは違うよ」
「それどころか、おまえなんかぶってやってもいいくらいだ、コーリャ、それぐらいおまえはばかなんだよ。あの、なんでもお入り用でしたら、マトリョーナにそうおっしゃってくださいまし。食事は四時半ですが、わたくしどもとごいっしょでも、お部屋でおひとりでも、どちらでもご都合のおよろしいように。コーリャ、行きましょう、公爵のおじゃまをしてはいけません」
「行きましょうよ、怒りんぼさん!」
 出て行こうとして、ふたりはガーニャにばったりと行き会った。
「おとうさん家かい?」とガーニャはコーリャにたずね、コーリャがうんと返事をすると、なにやらひそひそ耳打ちをした。
 コーリャは一つうなずいて、ヴァーリャにつづいて出て行った。
「公爵、たったひとことお話ししたいことがあるのです。わたしもじつは例の事件にまぎれて、いい忘れていました。ちょっとお願いがあるんです。たいしてご迷惑になりませんでしたら、恐れ入りますが、わたしとアグラーヤさんとのあいだにおこったことを、どうかここでもおもらしのないように、また今後わたしどもで見聞きなさることを、あすこ[#「あすこ」に傍点]の人たちにもお話しなさらないようにお願いします。ここにもまたずいぶん外聞の悪いことが多いのですから。ええ、しかし、どうともなるがいい……が、ともかく、せめてきょう一日だけでも控えてください」
「ぼく、誓っていいます、ぼくはあなたの考えていらっしゃるほど、いろんなことをしゃべりはしなかったですよ」
 公爵はガーニャの小言にいくらかじりじりしながら答えた。ふたりのあいだの関係は目に見えてしだいしだいに険悪になってきた。
「ええ、ですが、わたしはきょうあなたのおかげで、ずいぶんひどい目にあいましたからね。まあ、要するに、お願いしているのです」
「それは、ガヴリーラ・アルダリオーノヴィチ、ぼくはあのときどういう束縛を受けなけりゃならなかったんです、なぜ写真のことを口にしてはならなかったのです? あなたからはべつになんとも依頼がなかったじゃありませんか」
「ふう、なんていやな部屋だ」さげすむようにあたりを見まわしながら、ガーニャはいった。「暗いうえに窓が裏庭のほうへ向いてる。あなたがいらしったのは、いろいろな点から見ておりが悪かったですね……だが、それはわたしの知ったことじゃない、下宿屋をやってるのはわたしじゃないのだか そこヘプチーツィンが顔をのぞけて、ガーニャを呼んだ。と、こちらは忙しげに公爵を捨てて出て行った。そのくせ、ガーニャはまだなにかしらいいたいことがあるのに、切り出しにくいと見えて、もじもじしている様子であった。部屋の悪口もなんだか、ただてれ隠しのためらしかった。
 公爵がやっと手水を使って、いくぶん身じまいもできたばかりのところへ、またもや戸が開いて、新しい人物が現われた。
 それは年のころ三十歳ばかり、背丈の低くない、肩のそびえた男であった。大きな頭には赤毛がうねり、肉づきのいい顔は赤みを帯び、くちびるは厚く、鼻は広くて低く、小さなどんよりした目は嘲笑の色を浮かべて、なんだかひっきりなしにまたたきしているように見えた。全体として見ると、これらのものすべてが、かなり厚かましく人の目に映るのであった。みなりは薄ぎたなかった。
 彼ははじめ首が突っこめるだけ戸をあけた。そして、突き出した首が五秒ばかり部屋の中を見まわしていたが、やがて戸がだんだん広く開いて来て、しきいの上にすっかり全身が現われた。しかし、客はまだ入ろうとしないで、しきいの上から目を細めながら、じろじろといつまでも公爵を見まわすのであった。やっとうしろ手に戸をしめて、のそのそそばへ近づくと、いすの上に腰をおろして、かたく公爵の手を握り、はすかいに長いすにすわらした。
「ぼくはフェルディシチェンコというものです」問いでもかけるように、じっと公爵の顔を見つめながら、男はこう口をきった。「それで、どうなんです?」と公爵は吹き出しそうにしながら答えた。
「下宿人です」とふたたびフェルディシチェンコがぶっきらぼうにいった、やはりじろじろ相手をながめながら。
「近づきになりたいとおっしゃるのですか?」
「どういたしまして!」客は髪をかきむしって、溜息をつきながらこういって、真向かいの片隅をながめはじめるのであった。
「きみ、金をお持ちですか?」と彼はふいに公爵のほうを向いてたずねた。
「すこしばかり」
「つまり、どれだけ?」
「二十五ルーブリ」
「見せてください」
 公爵はチョッキのかくしから二十五ルーブリの紙幣を取り出し、フェルディシチェンコに渡した。こちらはそれを広げて、と見こう見していたが、やがて裏返しにして光にかざした。
「ずいぶんへんですなあ」と彼はもの思わしげな風情でいいだした。「なんだってこんなに赤っ茶けてくるんでしょう? この二十五ルーブリ札は、ときによるとおそろしく赤くなります。ところが、中にはまるっきり色のさめてしまうのがあります。さあ、しまってください」
 公爵は紙幣を受け取った。フェルディシチェンコはいすから立って、
「ぼくはあらかじめきみにご注意にあがったのです。第一に、以後けっしてぼくに金を貸してはいけませんよ。なぜって、ぼくかならず無心をいうに相違ないから」
「承知しました」
「きみはここへ払いをなさるおつもりですか?」
「そのつもりです」
「しかし、ぼくはそのつもりがないんです、ありがとう。ぼくはきみの部屋から右手に当たる最初の部屋にいます。見たでしょう? ぼくのところへあまりたびたびおいでくださらんように願います。ぼくはきみのところへときどき来ますからね、ご心配なく。将軍を見ましたか」
「いいえ」
「そして、うわさもお聞きなさらん?」
「むろん、聞きません」
「じゃ、今に見たり聞いたりされますよ。おまけに、将軍はぼくのところへまで無心に来るんですからね? Avis aulecteur(これが前置きです)さようなら。しかし、いったいフェルディシチェンコなんて苗字を名乗って生きて行かれますかね、え?」
「なぜ行かれないのです?」
「さようなら」
 こういって、彼は戸口のほうへおもむいた。この男はまるで自分の義務かなんぞのように、奇警と快活で人を驚かすのを仕事にしているのだということを、公爵もあとで知ったが、彼のこうした試みはけっしてうまく行ったためしがない。ある人々にはかえって不快な印象を与える。そのために彼はすっかりしょげてしまうのであったが、それでも依然として自分の使命をなげうとうとはしなかった。戸口のところで、外から入って来るひとりの男に突き当たって、彼ははじめて態度を改めたらしかった。公爵にとって未知の新しい客をやり過ごすと、彼は幾度か警戒するように、うしろから公爵に目まぜをして見せた。こんなことをしながら、やはり泰然たる態度は失わないで立ち去った。
 新しく入って来た人は背の高い、年のころ五十五か、あるいはそれ以上かと思われる、かなり肥え太った老人で、肉づきのいいだぶだぶした顔は紫がかった赤味を帯び、そのまわりを灰色の厚い頬髯と膵髭がぐるりと縁どっている。目は大きくて、かなりとび出したほうである。押出しはずいぶんりっぱなほうらしいが、惜しいことにはからだにつきまとう落ちぶれたような、ぐったりした、おまけに薄よごれたようなあるものがじゃまをしている。もうほとんどひじが抜けそうな古いフロックコート、シャツも同じく油じみて、――すべてが内着といういでたちである。そばへ寄ると少々ばかりウォートカの匂いがするが、身のこなしはおどしの利くほうで、多少わざとらしいところもあるけれど、当人の望んでいるらしい威風堂々たる趣きはたしかにある。客は悠々と公爵に近寄って、愛想のいい微笑を浮かべながら、無言でその手を取り、そのまま放さずに、やっと見覚えのある輪郭をたしかめるという様子で、しばらくじっと相手の顔を見つめていた。
「あの男だ! あの男だ!」と低いながら重味のある声でいいだした。「そっくり生き写しだ! じつはさっきから家のものが、しきりにわたしにとって親しい懐しい名を、くり返しくり返し話してるじゃありませんか、それでふと永劫去って返らぬ昔を思い出しました……ムイシュキン公爵ですな?」
「ええ、そうです」
「わしはイヴォルギン将軍、哀れな退職の老将です。あなたのお名と父称は、失礼ですが?」
「レフ・ニコラエヴィチ」
「なるほど、なるほど! 竹馬の友といってさしつかえない ニコライ・ペトローヴィチのご子息ですな?」
「ぼくのおやじはニコライ・リヴォーヴィチと申しましたが……」
「リヴォーヴィチ」と将軍はいい直したが、すこしもあわてず騒がず、自分はけっして忘れたのではない、ただ思わず言い間違えたのだ、とでもいうような落ちつきがあった。彼は、自分で座につくと、公爵の手をとって、そばへすわらした。「わしはあんたを抱いて歩いたもんですよ」
「ほんとうですか?」と公爵はたずねた。「でも、ぼくの父が死んでからもう二十年になりますが」
「さよう、二十年と三か月です。いっしょに学校へ通ったもんだが、わしはすぐに軍隊へ入るし……」
「ええ、父もやはり軍務に服していました。ヴァシリコーフスキイ連隊の少尉でした」
「いや、ベロミールスキイです。ペロミールスキイヘ転任ということになったのは、ほとんど死なれるすぐ前でしたなあ。わしはその場に居合わせて、おとうさんを永遠の世界へ祝福してあげましたよ。あんたのおかあさんは……」
 将軍はあたかも悲しい追憶に誘われたかのごとく言葉を切った。
「ええ、母もやはり半年ばかりたって、かぜひきのために死んでしまったのです」と公爵はいった。
「かぜじゃない、かぜじゃない、年寄はうそをいいませんて。わしはその場に立ち会って葬送の式を営んだですよ。なき夫を思うかなしみのためで、かぜなどじゃありません。さよう、公爵夫人のこともわしはよう覚えておりますよ。ああ、若かったなあ! あの人のためにわしと公爵が、竹馬の友が、あやうく殺し合おうとしたことがある」
 公爵はいくぶんか疑いをはさんで聞きはじめた。
「あんたのおかあさんがまだ娘の時分、――わしの親友の許嫁《いいなずけ》の時分、わしは激しくおかあさんに思いをかけましたよ。それに気がついて、公爵は唖然としてしまったのです。ある朝早く六時ごろにやって来て、わしをおこされるじゃありませんか。わしはびっくりして着替えをしたが、両方とも沈黙です。わしはみんなさとってしまった。すると、公爵はポケットから拳銃を二梃とり出して、ハンカチの下から射ち合おう、介添人はなしだ、とこういうことでしたよ。なんの、もう五分たったらおたがいに友達を永遠の世界へ送ろうというさいに、証人もなにもいったものじゃない。それから、弾丸をこめハンカチを広げて、拳銃をたがいの胸に押し当てながら、たがいに顔をながめ合ったです。ふいにふたりとも目からあられのように涙がほとばしり、手はぶるぶるふるえるじゃありませんか。ふたりともです、ふたりとも同時にですよ! で、すぐに自然の情として、ふたりは抱き合って、両方から寛大の競争をはじめたです。公爵は、『きみのものだ』と叫ぶ、わしも『きみのものだ』と叫ぶ。一言につくせば…一言にしてつくせば……あんた家へ寄宿しなさる……寄宿を?」
「ええ、たぶんしばらくのあいだ」と公爵はなんとなくどもり気味に答えた。
「公爵、おかあさんがちょっと来てくださいって」とコーリャが戸口からのぞきこんで叫んだ。
 公爵が立って行きそうにすると、将軍はその肩に右の掌を載せて、なれなれしく元の長いすに彼を引きすえてしまった。
「なくなったおとうさんの誠実なる友として、わしはあらかじめあんたにご注意しておきたいことがあります」と将軍がいいだした。「わしはごらんのとおり、ある悲劇的な災難のためにひどい目にあいましたよ、それも無理非道に! 無理非道に! ニーナは世にも珍しい女です。ヴァルヴァーラ――これはわしの娘だが、また類の少ない娘です! 事情やむをえず下宿をはじめたが、じつに情けない零落のしようじゃありませんか! わしはこれでも総督くらいになれるはずでしたからな!………しかし、あんたが見えたのはわれわれ一同じつに嬉しい。ところが、この家に一つの悲劇がありましてな!」
 公爵はひとかたならぬ好奇心をもって、問い返すように相手をながめた。
「いま縁談がはじまっているが、それがすこぶる珍しい話なんですて。まやかしものの女と、ことによったら侍従武官にもなれようという青年との結婚ですよ。わしや妻や娘のいる家へ、あんな女を引きずり込もうというのだ! なんの、わしが息をしとるあいだは、あんなものを入れることじゃない!………わしは玄関のしきいに寝てやるから、入りたけりゃわしをまたいで行くがいい!………ガーニャとはほとんど口をききません。顔を合わせるのさえ避けるようにしております。わしはこうして、ことさらあんたにご注意しておきます。もちろんわたしどもへ寄宿されれば、ご注意しようがしまいが、どうせ見聞きされるわけだが、あんたはわしの親友のご子息だから、わしはあんたにお願いする権利があると!……」
「公爵、恐れ入りますが、ちょっと客間までいらしてくださいませんか」今度は自分で戸口までやって来たニーナ夫人が、こう呼んだ。
「まあ、どうだ、ニーナ」と将軍が叫んだ。「いろいろ話してみたところ、公爵はわしがこの手に抱いておもりをしたことがあるんだよ!」
 ニーナ夫人は夫にはたしなめるような、公爵には探り出すような注意ぶかい視線を向けたが、ひとことも口をきかなかった。公爵は夫人のあとについて部屋を出た。しかし、ふたりがやっと客間に入って、ニーナ夫人がなにやら早口に小声で話しはじめるやいなや、思いがけず将軍が自身ぶらりとやって来た。ニーナ夫人はいかにも口惜しげな様子で、編物に向かって屈みこんでしまった。将軍も夫人の表情に気がついたらしかったが、相変わらずの上機嫌で、「親友の子息!」と将軍はニーナ夫人に向かって叫んだ。「じっさい思いがけない! わしはもうとっくの昔から考えることさえよしてしまった。だが、おまえ、なくなったニコライ・リヴォーヴィチを覚えているかね。おまえもお目にかかったろう……トヴェーリで?」
「わたしニコライ・リヴォーヴィチなんてかた覚えておりません。あなたのおとうさまですか?」と夫人は公爵にたずねた。
「ええ。しかし、死んだのはたぶんトヴェーリじゃなくて、エリザヴェトグラードでしょう」と、公爵はおずおずと将軍に注意した。「ぼくはパヴリーシチェフさんに聞いたのですが……」
「いや、トヴェーリです」と将軍は断言した。「トヴェーリヘ転任の話が決定したのは、なくなるすぐ前、というより病気のあらたまる前のことでしたよ。あなたはただほんの赤ん坊だったから、転任も旅のことも覚えておられんだろう。パヴリーシチェフさんだって間違いということがありますよ。もっとも、じつにいい人だったけれど」
「では、パヴリーシチェフさんまでごぞんじですか?」
「まったく珍しい人だった。しかし、わしはちゃんとその場に居合わせたんですからな。わしは臨終の床でおとうさんを祝福してあげたんですよ」
「だって、ぼくの父は裁判中に死んだはずなんですが」と公爵はさらに注意した。「もっとも、どうしてそういうことになったのか、ぼくすこしもわからないのですが」
「おお、それはコルパコフという兵卒に関連した事件だ。それも公爵の身の明しは立つところだったのになあ」
「そうですか? あなた蘋かなことをごぞんじですね」と公爵はなみなみならぬ好奇心をもってたずねた。
「もちろんですとも!」と将軍は叫ぶようにいった。「裁判はなにひとつ決定せずに解散してしまったのですがね、じつにありうべからざる事件だ! いや、むしろ神秘的といっていいくらいだ。中隊長のラリオーノフ二等大尉が死んだので、公爵は一時かわってその職務をとるように命ぜられたと思いなさい。それは、もちろん、結構だ。兵卒のコルパコフなるものが窃盗を働いて、――友達の靴を盗んだのですな、――そいつを飲んでしまったです。これも結構。公爵は、――ここにちょっとご注意を願いたいのは、これが軍曹と伍長の立会いのもとに行なわれたことです、――公爵はこのコルパコフにさんざん譴責をくわしたうえ、笞刑にするといっておどかされた。これまたじつに結構なこった。コルパコフは兵舎に帰って寝板に横になった。すると、十五分ばかりたってから死んでしまったのですよ。これもよしと。しかし、まことに思いがけない、ほとんどありうべからざる出来ごとでした。ともかく、コルパコフの葬送がすんで、公爵は報告を書く、やがて兵卒コルパコフは名簿から削られたというわけですな。もうそれで何も申し分はないようだが、しかしそれから半年ばかりたって、旅団検閲のさい、ノヴォゼムリャンスキイ連隊第二大隊第三中隊へ、兵卒コルパコフが何くわぬ顔をして現われたんですよ。しかも、同じ旅団、同じ師団でですな!」
「なんですって!」驚きのあまりわれを忘れて公爵は叫んだ。
「それはそうじゃありません、間違いですよ」ほとんど悩ましげに公爵の顔をながめつつ、ニーナ夫人は彼に向かってそういった。「Mon mari se trompe(うちの人の思い違いです)」
「しかし、おまえ、se trompsといってしまうのはわけもないことだ。しかし、おまえ、こんな事件を自分で解決してみるがいい! みんな五里霧中に彷徨したね。わしだって人から聞いたら第一番に、qu'on se trompe(みんな思い違いをしている)といったかもしれん。しかし、不幸なるかな、わしは自分で親しく臨検し、また委員会にも列したんだからな。だれと対決さしてもみんなが口をそろえて、これは半年以前、通常礼式にしたがって、太鼓の響きの中に埋葬した、あの兵卒コルパコフに相違ありません、とこう証明するんだから仕方がない。じっさいそれは珍しい、ほとんどありうべからざることだ、それにはわしも同意する。けれども……」
「おとうさん、お食事の仕度ができましたよ」とヴァルヴァーラが部屋に入りながら知らせた。
「ああ、それは結構、ありがたい! ちょうどわしは腹をすかせていたところだ……しかし、これは心理的とさえいうことのできる事件ですよ……」
「またスープが冷めてしまうじゃありませんか」ヴァーリャはじれったそうにいった。
「すぐ行くよ、すぐ行くよ」と将軍は答え、部屋を出て行った。「どんなに調べてみても」まだこういう声が廊下から聞こえた。
「あなた、もし長くわたくしどもにおいでくださるのでしたら、いろいろなことでアルダリオンを大目に見ていただかねばなりません」こうニーナ夫人は公爵にいいだした。「でも、あの人もたいしてご迷惑をかけはいたしますまい。食事もひとりきりでいたしますから。申すまでもございませんけれど、どんな人にでも持ち前の欠点……持ち前の癖というものがありますからねえ。ことによったら、人にうしろ指をさされる人よりか、さす当人のほうにかえって欠点が多いかもしれません。ただ一つおり入ってのお願いは、ひょっとすると、夫が宿料のことで、あなたになにか申し上げるかもしれませんが、そういうときには、もうわたくしに渡したとおっしゃってくださいまし。それは、もちろん、アルダリオンにお渡しくだすっても、同様計算には入りますけれど、ただわたくし乱雑に流れないためにお願いいたすのでございます。なんです、それは、ヴァーリャ?」
 ちょうど部屋へ帰って来たヴァーリャは、無言のまま母の手ヘナスターシヤの写真を渡した。ニーナ夫人はぶるっと身をふるわせた。はじめはただ驚きの目を見はるのみであったが、やがて圧しつけられるような苦しさを覚えながら、しばらくじっと写真をながめていた。最後に大人は問いを発するような目つきでヴァーリャのほうを見た。
「きょうこの人が自分からにいさんへ贈り物としてよこしたんですって」ヴァーリャがいった。「そして、今夜、いっさいきまってしまうそうですの」
「今夜!」と夫人は絶望したように小さな声でくりかえした。「どうもしようがない? もうなんにも疑うこともなければ、希望というものもいっさいなくなりました。ナスターシヤはこの写真で自分の意向を知らせたんです……あれが自分でおまえに見せたのかえ?」と彼女は驚いたようにつけ足した。
「わたしたちがもうまるひと月口もきかないのは、ごぞんじじゃありませんか。プチーツィンさんがすっかりわたしに知らせてくだすったんですわ。写真はにいさんのテーブルのそばのぶに転がってたから、それを拾ってきたんですの」
「公爵」とふいにニーナ夫人が問いかけた。「わたくしあなたにおうかがいしたいことがございますの。(ここへご足労を願ったのもそのためですが)あなた、ずっと以前から宅のせがれをごぞんじでしょうか? あれの話では、あなたはさようはじめてどちらからかお着きになったばかりだそうですが?」
 公爵は半分以上はしょって自分の身の上話をした。ニーナ夫人とヴァーリャとは注意ぶかく聞き終わった。
「わたくしはけっして、あなたにいろんなことをおたずねして、ガーニャのことをなにか探り出そうなどという考えはございません」とニーナ夫人がいいだした。「この点はどうぞお考え違いのないように願います。もしあれになにか自分の口からいわれぬようなことがあれば、わたくしもあれをさしおいてそれを探り出そうなどとはぞんじません。わたくしがこんなことを申すのはほかでもありません。じつは先刻ガーニャがあなたのおうわさをいたしましてね、それからあなたがあちらへおたちになったあとで、わたくしがなにかあなたのことをたずねますと、『公爵はみんなそっくりごぞんじだから、今さら上品ぶったってしようがない!』とこう申すではありませんか。いったいこれはなんのことでございましょう? いえ、つまり、わたくしのおうかがいしたいのは、どれくらいの程度まで……」
 ちょうどこのとき、ガーニャとプチーツィンが入って来たので、ニーナ夫人はすぐに口をつぐんでしまった。公爵はそのそばのいすに腰をかけたままでいたが、ヴァーリャはぷいと脇のほうへ離れて行った。ナスターシヤの写真は、ニーナ夫人の前にすえてある仕事机の、いちばん目に立つ場所に載っていた。ガーニャはそれを見ると眉をしかめ、いまいましそうに机から取り上げて、部屋の反対側の隅に立っている自分の事務机の上へほうり出した。
「きょうだね、ガーニャ?」とふいにニーナ夫人が問いかけた。
「なんです、――きょうって?」とガーニャはぴくりとしたが、いきなり公爵にくってかかった。「ああ、わかった。またあなたはここへ来てまで!………まあ、まったくあなたは、なにか病気なんですかね? 黙って辛抱できないんですか? ほんとにちっとは考えてくださいよ、あなた……」
「これはだれでもない、ぼくが悪いんだよ」とプチーツィンがさえぎった。
 ガーニャは不審そうに彼をながめた。「しかし、きみ、そのほうがかえっていいじゃないか。それに一方からいえば、事はすでに決着しているんだからね」とつぶやき、プチーツィンは脇のほうへどいてテーブルの前に腰をおろし、ポケットから鉛筆でいっぱいなにか書いた紙きれを取り出し、いっしんにそれをにらみはじめた。
 ガーニャは仏頂面をしながら、不安げに家庭悲劇のひと幕を待ちもうけていた。公爵にわびをしようなどとは思いもよらなかった。
「事が決着したとすれば、そりゃ、もちろん、プチーツィンさんのおっしゃるとおりです」とニーナ夫人はいった。「どうかそんなむずかしい顔をおしでない、ね、腹を立てないでおくれ。わたしはなにもおまえのいいたくないことを、根掘り葉掘りして聞こうとはしません。ああ、もうもうわたしはすっかりあきらめました。後生だから心配しないでおくれ」
 彼女はこれだけのことを、仕事から目を離さずにいったが、じじつおだやからしい口調であった。ガーニャはちょっと面くらったが、用心ぶかく黙りこんだまま、もうすこしはっきりいってくれるのを待ち受けながら、母の様子をじっと見つめた。じっさい、この家庭悲劇には彼も今まで高い価いを払ったのである。ニーナ夫人はわが子の大事をとっている様子を見てとると、苦い微笑を浮かべてつけ足した。
「おまえはまだわたしを疑って信用しないんですね。心配おしでない。もうこれからは以前のように、泣いたり頼んだりしやしないから。すくなくともわたしだけはね。わたしはただおまえが仕合わせでいてくれるようにと願うばかりです。それはおまえだって知っておいでのはずだ。わたしは運命というものに身を任せてしまいました。けれど、わたしの心ばかりは、一つ家に住まおうと別居しようと、いつでもおまえといっしょにいます。もちろん、わたしのいうのは自分ひとりだけのことですよ。それと同じことを妹からも要求するわけには行きません……」
「ああ、またあいつが!」とガーニャは叫んで、あざけるように憎々しげに妹をながめた。「おかあさん! もう前に約束したことですが、わたしはもう一度あなたに誓います、ぼくがついているあいだは、ぼくが生きているあいだは、けっして何者にもあなたに無礼な真似はさせません。だれが問題になろうとも、わたしはあなたに対する礼儀は失いません。だれが家のしきいをまたいで入っても……」
 ガーニャはすっかり嬉しくなって、和を求めるような優しい目つきで母をながめるのであった。
「わたしはね、自分のためには何も恐れはしなかったんですよ、ガーニャ、それはおまえにもわかるだろうね。わたしがあの長いあいだ心配したり、苦しんだりしてきたのは、自分のためじゃありません。なんだかきょうすっかり片がつくそうですが、いったいなんの片なの?」
「今晩あの人が自分の家で、承知か不承知かはっきり返事をするって約束したんです」とガーニャが答えた。
「わたしたちはかれこれ三週間というもの、この話を避けていましたが、まったくそれがよかったんです。けれど、今は何もかも決着したのだから、たった一つきかしてもらいたいと思います、――どうしてあの人はおまえに承諾の返事をしたうえ、おまけに写真まで贈ることができたのかしら? だって、おまえあの人を愛してはいないんでしょう。それともおまえはあんな……あんな……」
「ふ、男を知った女を、とでもおっしゃるんですか?」
「わたしはそんなふうにいおうと思ったのじゃありません。だけど、ほんとにおまえそれほどまでにあの人の目をくらますことができたのかえ?」
 恐ろしいいらだたしさが突如この問に響いた。ガーニャはじっと突っ立ったまま、一分間ほど考えていたが、やがて冷笑の色を隠そうともせずにいいだした。
「おかあさん、あなたはまた引きこまれてがまんしきれなくなりましたね。われわれの話はいつでもこんなふうに始まって、しだいに火の手が大きくなってゆくんです。あなたはたった今、もううるさく問いもしまいし、責めもしないとおっしゃったのに、もうそいつが始まったじゃありませんか? もうよしましょう、じっさいよしましょう、そのほうがいい。すくなくも、おかあさんにはそういう意志があったんですからね……わたしはどんなことがあろうとも、けっしてあなたを見捨てはしません。これがほかの者だったら、すくなくもこんな妹のところから逃げ出してしまいますよ、ほら、あんな目をしてぼくのほうをにらんでいる! いやこれでもうよしましょう! まったくわたしは大いに嬉しく思ってたんですがね……わたしがナスターシヤさんをだますなんて、なんだってそんなことをお考えなさるんでしょう。ヴァーリャのことにいたっては、どうともあれの勝手です、それでたくさんだ。いや、もうこれで、まったくたくさんです!」
 ガーニャはおのれのひとことごとに興奮して、あてもなく部屋の中を歩きまわった。こうした会話はすぐに家族一同の痛いところへさわったのである。
「わたしもそういったじゃなくって、もしあの女がここへ入るなら、わたしこの家から出て行きますわ。わたしだっていっただけのことは実行するわ」とヴァーリャがいった。
「強情なんだ! 強情のため結婚もしないのだ! おい、なにが『ふん』だ。おれはそんなことなんか屁でもないんだ、ヴァルヴァーラ・アルダリオーノヴナ。なんなら、――今すぐでもご計画を実行なすったらいいでしょう。あなたにはほんとうにあきあきしすぎるくらいだ。なんです! 公爵、いよいよあなたはわたしたちをうっちゃって行こうとおっしゃるんですか」公爵が座を立ったのを見て、ガーニャはこう叫んだ。
 人は、憤激がある程度まで達すると、自分でもほとんどその憤激が愉快になって、どうなろうとままよというやけ気味からしだいにつのり行く快感を楽しみながら、なんの抑制もなく憤懣の情におぼれてしまう。ガーニャの声にはそういった調子が響いていた。公爵はなにか答えようとして戸口のところでふりかえったが、暴慢な相手の病的な表情によって、コップの水はいま一滴にしてあふれんとしているのを見て取ると、そのままきびすを返して無言のまま出て行った。幾分かののち、彼は客間からもれる声によって、自分がいなくなると同時に、会話はいっそう騒々しく、いっそう露骨になったことを知った。
 彼は廊下を横切って自分の部屋へ帰るつもりで、広間から玄関へ出た。出入り口の階段へ導くドアのそばを通り抜けようとしたとき、だれかが戸の外でいっしょうけんめいベルを鳴らそうとしているのに気がついた。おそらくベルのどこかがこわれたのであろう、ただちょっと震えるばかりで音がしなかった。公爵は掛金をはずして戸をあけた。と、――愕然としてたじたじとなり、仝身ぶるっとふるえたほどであった。彼の目の前にはナスターシヤ・フィリッポヴナが立っていた。彼は写真ですぐに見わけがついた。彼女が公爵に気づいたとき、その両眼は一時に爆発したいまいましさに燃え立つようであった。彼女は公爵を肩で突き飛ばし、つかつかと控室へ通ると、毛皮外套をかなぐり捨てて、腹立たしげに言った。
「もしベルを直すのがおっくうだったら、せめて人が戸をたたくとき控室にでもすわってればいいに。おや、今度は外套を落っことしたよ、まぬけ!」
 なるほど、外套は床の上に横たわっていた。ナスターシヤは公爵が脱がせるのを待ちきれずに、自分で外套を脱ぎ、ろくろく見もしないで、うしろ向きに彼の手へほうったのを、公爵は受けとめる暇がなかったのである。
「おまえみたいなやつは追ん出してしまわなくちゃ。さあ、取り次ぎをおし」
 公爵はなにかいいたかったのであるが、すっかりまごついてしまって、ひとことも口へ出なかった。で、外套を床から拾い上げると、それを手にもったまま客間へおもむいた。
「まあ、今度は外套を持って歩いてるよ! 外套をなぜ持って歩くんだえ? は、は、は! ほんとにおまえは気でもちがってるんじゃないか?」
 公爵は引っ返し、彫像のように彼女を見つめた。相手が大きな声で笑いだすと、彼もつられて微笑したが、舌を動かすことはどうしてもできなかった。はじめ彼女のために扉をあけたとき、彼の顔は青ざめていたのに、それがいま急に真っかになったのである。
「ほんとになんて白痴なんだろう!」とナスターシヤはいまいましげに足踏みしながらどなりつけた。「あら、おまえどこへ行くんだえ? まあ、いったいだれが来たって取り次ぐつもりなの?」
「ナスターシヤ・フィリッポヴナ」と公爵はつぶやくようにいった。
「おまえどうしてわたしを知ってるの?」彼女は早口にたずねた。「わたし、おまえを見たことなんかありゃしない!いいや、行ってお取り次ぎ……おや、あれはどうしたって騒ぎなの?」
「喧嘩してるんです」と答え、公爵は、客間へおもむいた。
 公爵が入ったのは、かなりきわどい瞬間であった。ニーナ夫人はたった今『何もかもあきらめた』といったのを、もはや忘れかけていた。彼女はどうしてもヴァーリャの肩を持たずにはいられなかった。ヴァーリャのそばにはプチーツィンも、いつの間にやら、例の鉛筆でいっぱい書きこんだ紙をうっちゃって立っていた。当のヴァーリャもけっして臆しなどはしなかった。またそんなたちの娘ではない。しかし、兄の悪口雑言はひとことひとことに聞いていられないほど無作法になっていく。通常こういう場合、彼女は口をきくのをやめて、ただ黙つてわき目もふらずに、皮肉な目つきで兄の顔を見つめるのであった。この方略が兄の堪忍袋の緒を切らすに有効なのは、ヴァーリャ自身がよく心得ていた。この瞬間、公爵が部屋へ入って来て。
「ナスターシヤ・フィリッポヴナがお見えになりました」と披露した。

      9

 一座は急にひっそりとしてしまった。人々は公爵のいうことがわからないかのように、またわかりたくないかのように、彼の顔を見つめるのであった。ガーニャは驚きのあまりからだが麻痺したようになった。
 ナスターシヤの来訪は、ことにこの場合一同にとって、じつに奇怪で、厄介な、思いもかけぬできごとであった。すくなくとも、ナスターシヤがはじめてやって来たということ、それ一つだけでもそう思うのに十分であった。これまで彼女はいやに高くとまって、ガーニャと話すときにも、彼の肉親の人たちと近づきになりたいという希望すら、ほのめかしたことがないくらいであった。しかも、最近にいたっては、まるでそんな人たちはこの世にいないもののように、おくびにも出さなくなった。ガーニャは自分にとって厄介な話が遠のくのを内々喜んではいたものの、それでも内心、女の高慢さをちゃんと胸に畳みこんでいた。なにはともあれ、彼はナスターシヤから、むしろ自分の家族に対する冷笑や皮肉こそ期待していたけれど、来訪などは夢にも思いそめなかった。今度の結婚談について彼の家庭にどんなことが起こっているか、また彼の家族がナスターシヤはどんなふうに見ているか、こういうことがすべて彼女の耳に入っているのは、ガーニャもたしかに知っていた。彼女の訪問は今の場合[#「今の場合」に傍点]、――写真を男に贈ったのちでもあり、また自分の誕生日、すなわち彼の運命を決するという約束をした日でもあるから、ほとんどその決定それ自身を意味しているとも言えた。
 公爵を見つめる人々の顔にあらわれた疑惑は、さほど長くつづかなかった。ナスターシヤはもう自分で客間の戸口に姿を現わして、部屋の中へ入りながら、またしても公爵を軽く突きとばした。
「やっとのことで入れた……あなたなんだってベルを辯えつけておきなさるの?」あたふたと馳せ寄るガーニャに手をさし伸べつつ、ナスターシヤは愉快そうにいった。「なんだってそんな泡くった顔をしてらっしゃるの。紹介してちょうだいな、どうぞ……」
 ガーニャはまったく転倒しきって、最初にヴァーリャを紹介した。すると、ふたりの女はたがいに手をさし出す前に、まず奇妙な視線を交わした。ナスターシヤは、とはいえ、にっこり笑って愉快そうなふりをして見せたが、ヴァーリャのほうは仮面をかぶろうともせず、陰欝な目つきでじっと相手をながめたまま、簡単な礼譲の要求する微笑の影すら浮かべなかった。ガーニャは胆を冷やした。もう嘆願するわけもないし、また暇もないので、彼は威嚇するような視線をヴァーリャに投げつけた。ヴァーリャはこの目つきからして、今の一分間が兄のためにいかなる意味をもっているかをさとった。そこで、彼女は兄に一歩ゆずろうと決心したらしく、ナスターシヤに向かってほんの心持ちほほえんだ(家庭内では彼らもまだまだおたがいに愛し合っていた)。いくぶんこの場をとりつくろったのはニーナ夫人であった。ガーニャはすっかりまごついてしまって、妹のあとで母を引き合わせ、しかも母からさきに、ナスターシヤのそばへ進ませたのである。けれども、ニーナ夫人がやっと自分の『非常な喜び』を話しださないうちに、ナスターシヤはしまいまで聞こうともせず、くるりとガーニャのほうへふり向いて、(なんともいわれぬさきから)片隅の窓下にすえてあるふ形の長いすに腰をおろしながら、大ぎょうな声で言いだした。
「あなたの書斎はどこ? そして……そして、下宿人は? だって、あなた下宿人を置いていらっしゃるんでしょう?」
 ガーニャはおそろしく赤面して、なにやらどもりどもり答えようとしたが、ナスターシヤはすぐにこうつけ足した。
「いったいどこに下宿人をお置きになるの? あなたのとこには書斎もないじゃありませんか。ですが、もうかりますか?」ふいに彼女はニーナ夫人に向かってこういった。
「ずいぶん面倒でございます」と、こちらは答えはじめた。「それは申すまでもなく、利益もありませんでは……ですけれど、わたくしどもはほんの……」
 しかし、ナスターシヤは今度も、もう聞いていなかった。彼女はじっとガーニャを見すえていたが、やがて笑いながら叫びだした。
「まあ、あなたの顔はなんでしょう。ああ、ほんとに、こんなときになんて顔をなさるんでしょう……」
 この笑いがいっときつづいた。と、ガーニャの顔はほんとうにものすごく歪んで来た。棒のように固くなった態度や、こっけいな臆病そうなうろたえた表情がふいに消えて、気味の悪いほど真っ青な顔になり、くちびるは痙攣的にひん曲がった。彼は無言のまま気味の悪い目つきで、じっと瞬きもせずに、絶え間なく笑いつづける客の顔を見つめるのであった。
 そこにはもうひとり傍観者があった。最初ナスターシヤを見た瞬間から、麻痺したような状態に陥ったまま、じっと戸口のところで「棒立ち」になっていたが、それでもガーニャの顔が青ざめてものすごい変化をおこしたのに気づいた。この傍観者は公爵であった。彼はほとんど仰天したもののごとく、いきなり機械的に二、三歩前へ踏み出した。
「水をお飲みなさい」と彼はガーニャにささやいた。「そうして、そんな目つきをしちゃいけません」
 公爵はこれだけのことをなんの考えも目算もなく、ただほんの衝動的にいったものらしかった。けれど、この言葉のもたらした働きは異常のものであった。ガーニャの憤怒は挙げてことごとく、一時に公爵へ浴びせかけられたように思われた。彼はいきなり相手の肩をつかんで、無言のまま復讐の念にもえてさも憎々しげに、さながら一語も発することができぬといった様子で、じっとねめつけるのであった。一座はざわざわと動揺しはじめた。ニーナ夫人は低い叫び声を上げたほどである。プチーツィンは気づかわしげに一歩前へ踏み出した。おりから戸口に現われたコーリャとフェルディシチェンコは、びっくりして立ちどまった。ただヴァーリヤのみはいぜんとして額ごしに注意ぶかくできごとを観察していた。彼女は席に着きもせず母のそばへ寄って、両手を胸に組み合わしたまま立っていた。
 けれども、ガーニャはすぐ、ほとんどこの動作をはじめると同時に心づいて、神経的にからからと高笑いした。彼はすっかりわれに返ったのである。
「何をおっしゃるんです。公爵、お医者さまででもあるんですか?」と彼はできるだけ快活に磊落な調子でいった。「びっくりしたじゃありませんか。ナスターシヤさん、ご紹介いたします、このかたはじつに珍しい掘出し物なんです。もっともぼくもけさはじめて近づきになったばかりですが」
 ナスターシヤは不審そうに公爵をながめた。
「公爵ですって? この人が公爵ですの? まあ、どうしましょう、わたしさっき控室でこのかたを下男だと思って、ここへ取り次ぎによこしたんですよ、ははは!」
「大丈夫です、大丈夫です!」つかつかとそばへ寄って来たフェルディシチェンコは、彼女が笑いだしたのが嬉しくなって、こう口を入れた。「大丈夫です。Se non e vero(もし本当でなければ イタリー語)……」
「ほんとに、あなたを叱りつけんばかりでしたねえ、公爵。ごめんなさい、どうぞ。フェルディシチェンコさん。どうしてこんなときにここへ来てらっしゃるの。わたしね、せめてあんただけにでも、ぶつかりたくないと思ってましたの。どなたですって? 公爵ってどんな? ムイシュキン?」と彼女はガーニャに問いかえした。こちらはまだ公爵の肩をつかんだまま、どうかこうか紹介の役目を済ました。
「わたしどもへ下宿していなさるかたです」とガーニャはくりかえした。
 明らかに公爵をば、なにか珍しい(そうしてこのばつの悪い状態から一同を救い出してくれるような)ものとして取り扱った。人々は彼をナスターシヤのほうへ押しつけんばかりであった。公爵はうしろのほうでだれやら、――たぶんフェルディシチェンコであろう、――小さな声で『白痴』といってナスターシヤに説明しているのを、はっきり耳にした。
「ねえ、公爵、さっきわたしがあなたのことであんなにひどい……思い違いをしたときに、なぜ注意してくださらなかったんですの?」とナスターシヤは無作法きわまる態度で、公爵を頭から爪先までじろじろ見まわしながら言葉をついだ。彼女は公爵の返答が、吹きださずにはいられないほどばかげていることを、すっかり信じきって疑わないふうで、もどかしげに待ちもうけていた。
「あんまりふいにお目にかかったものですから、びっくりしてしまったのです……」と公爵はつぶやいた。
「ですが、どうしてわたしだってことがわかりました? 以前どこでわたしをごらんになったんですの? どういうわけかしら、わたしもなんだかほんとにこの人をどこかで見たような気がするわ。失礼ですが、なぜあなたはさっきいきなり棒のように突っ立っておしまいなすったの? わたしにはなにか人を棒立ちにさせるようなものがあるんでしょうか?」
「さあ、しっかり、しっかり!」とフェルディシチェンコはいつまでも道化面をしながらつづけた。「さあ、しっかり!もしぼくがこんなことをきかれたら、うんといってやることがあるんだがなあ! さあ、しっかり……公爵、そんな具合じゃ、きみはこれからまぬけにされちまうぜ!」
「そうですね、ぼくだってきみの立場にあったら、いうことはいくらでもありますよ」と公爵はフェルディシチェンコに笑いかけておいて、「じつはさっき、あなたの写真を見て、じつに強いショックを受けたものですから」と今度はナスターシヤのほうへ向いて言葉をつづけた。「そのうえ、エパンチン家の人たちともあなたのおうわさをしましたし……けさ早く、まだペテルブルグへ入らぬさきに、汽車のなかでパルプェン・ラゴージンがあなたのことをいろいろ話してくれたものですから……それにさっき玄関の戸をあけたときも、やはりあなたのことを考えていたところへ、いきなりあなたが人うていらっしゃるじゃありませんか」
「でも、どうしてわたしだってことがわかりました?」
「写真と、それから……」
「それから、ほかに?」
「それから、ほかにわけというのは、ぼくあなたという人をそんなふうに想像していましたから……ぼくもなんだかどこかであなたを見たような気がします」
「どこで? どこで?」
「ぼくはなんだかあなたの目を、どこかで見たような気がするんですが……しかし、そんなことのあろうはずがありません! これはぼくがただ……ぼくはだいいち、一度もここへ来たことがなかったんですもの。もしかしたら夢にでも……」
「ようよう、公爵!」とフェルディシチェンコがどなった。「だめだ、ぼくはさっきいったse non e veroを撤回します。もっとも……もっとも、これはみんなこの人の無邪気な性格から出ることなんですからね!」と彼は残念そうにつけ足した。
 公爵は以上の言葉をとぎれとぎれに、幾度か息をつぎながら、落ちつきのない声で話したのである。激しい動揺は、そのからだ全体に現われていた。ナスターシヤは好奇の表情で相手をながめていたが、もはや笑おうとはしなかった。ちょうどこの瞬間、別な新しい太い声が、公爵とナスターシヤをとり巻く大勢の人々のかげから聞こえた。その声が人々を一時にさっと左右へ引き分けたような具合であった。ナスターシヤの前には、一家の主たるイヴォルギン将軍が立っていた。彼はさっぱりとした胸あての上に燕尾服をつけ、鼻下の髭は美しく染めてあった。
 これはもうガーニャにとってがまんできないことだった。
 ほとんど猜疑と、神経過敏に陥るほど自尊心と虚栄心の強い彼、このふた月のあいだずっと自分を一段と高尚で上品に見せかけてくれるような足場をせめて一点なりともと、さがしまわっていた彼、しかしこの道にかけて自分はほんの新参者で、とても最後まで待ちこたえられそうもないと感じて、とうとうやけ半分に、もともと専制君主だった家庭内で、できるだけ横暴にふるまってやろうと決心したものの、それでもむごたらしいほど高飛車に出て、この期に及んでまで彼をまごつかしてばかりいるナスターシヤの目の前で決行する気になれなかった彼、ナスターシヤの評言をかりれば、『かんしゃくもちの物貰い』であり、しかもこの評言を聞きこんで以来、今にこの仕返しをせずにはおかぬぞと、ありとあらゆるものにかけて誓ったが、またそれと同時に万事をうまくまるめてしまって、いっさいの対立を妥協させようなどと、ときどき子供のような空想をたくましゅうする彼、――こういう彼が、今またさらにこの苦杯を飲みほさねばならなくなった。しかも、それがよりによってこんなときなのである! まだ一つ予期されなかったが、虚栄心の強い人間にとってなによりも恐ろしい拷問、――自分の肉親に対する羞恥の苦痛が、おまけに自分の家で、彼の頭上に落ちてきたのである。『いったいあの報酬が、これだけの値うちをもっているのだろうか?』という想念がこの瞬間、ちらとガーニャの頭にひらめいた。
 ふた月のあいだ毎夜毎夜、悪夢となって彼をおびやかし、恐怖となって胆を凍らせ、羞恥となって顔を燃やしたことが、この瞬間、事実となって現われた。すなわち、彼の父親とナスターシヤの会見が、ついに実現したのである。彼はときどき自分で自分をからかったり、いらだたせたりするような気持ちで、結婚式上の父将軍を描いてみようとしたが、いつもそのつらい光景を完成させるだけの力がなく、中途でほうり出してしまうのであった。ことによったら、彼はとほうもなく不幸を誇大していたかもしれぬが、虚栄心の勝った人はいつでもこうなのである。とにかくこのふた月のあいだに彼はいろいろと考えたあげく、どんなことがあっても、よしほんの一時でも、父将軍を押しこめるか、それともできることならペテルブルグから外へ追ん出してしまおう、母夫人の諾否などかまうことでない、とこう決心したのである。十分前にナスターシヤが入って来たとき、彼はびっくりして気が転倒したために、アルダリオン将軍がここへ現われるかもしれぬということなど、とんと度忘れして、それに対するなんの方法も講じないでいた。ところが、将軍は、早くもここへ一同の目の前に出て来たのだ。しかも、ナスターシヤが『ただただガーニャや家族のものに嘲笑を浴びせる機会をさがしている』(それは彼もちゃんと確信していた)ちょうどその瞬間に、ものものしく燕尾服など用意して現われたのである……じっさい、ナスターシヤの来訪はこの目的以外に、はたして何を意味しているだろう? 母や妹と親善を計りに来たのか、それとも彼らを侮辱に来たのか? しかし、双方の陣どっている形勢から見ても、そこになんの疑問も存在しない。母と妹は唾でもひっかけられたように、脇のほうに小さくなってすわっているし、ナスターシヤはそれに引きかえて、そんな人たちが自分と一つ部屋にいることなどは、とっくに忘れたような有様である……彼女がこのようなふるまいをする以上、もちろん、ちゃんとした目的があるのだ! フェルディシチェンコは将軍をつかまえて、しょびいて来た。
「アルダリオン・アレクサンドロヴィチ・イヴォルギン」ちょっと小腰をかがめてほほえみながら、将軍はしかつめらしく口をきった。「不幸なる老兵で、またかような美しい……かたを迎えうるという希望によって無限の幸福を感じつつある家庭のあるじでございます」
 彼がまだいい終わらないうちに、フェルディシチェンコが手早くうしろからいすを進めたので、ちょうど昼食後で足の定まらない将軍は、べたりといすの上へくずおれた、というよりむしろしり餅をついたのである。けれど、彼は、すこしもひるまず、ナスターシヤの真向かいにすわって、こころよく顔の筋肉を動かしながら、ゆっくりと気どった身ぶりで女の指をくちびるへ持って行った。総じて将軍をひるませるめは、ずいぶんむずかしいことであった。彼の外貌は、いくぶんかだらしのない点をのけたら、かなりまだ上品で、将軍自身もよくそれを心得ていた。彼も以前はごくりっぱな社交界にも出入りするおりがあったけれども、つい二、三年ばかり前から完全にのけ者にされてしまった。このときから、彼はもうとめどもなしに、ある種の弱みにおぼれるようになったのである。それでも、巧者な気持ちのいい身のこなしは、まだ今に残っていた。ナスターシヤはアルダリオン将軍が出て来たのを、心から喜んだ様子であった。この人のことはもちろん彼女もうわさに聞いていた。
「承りますれば、宅のせがれが」と将軍は話しかけた。
「ええ、お宅のご子息! それにあなたも、おとうさんも結構なかたでございますこと! なぜあなたすこしも宅へいらっしゃらないんですの? なんですか、あなたご自分でお隠れなさるんですの、それともご子息があなたを隠すんですの? あなたならもうだれにも迷惑をかけずに、ご自分でいらっしゃれそうなものじゃございませんか」
「十九世紀の子供とその親たち……」と将軍はまたしてもなにやらいいかけた。
「ナスターシヤ・フィリッポヴナ! どうぞちょっとのあいだアルダリオンにごめんをこうむらしてくださいませんか。なにかあちらで用事があるそうでございますから」とニーナ夫人が大きな声でそういった。
「ごめんこうむらして? それはひどうござんすわ、わたしいろいろおうわさをうかがっていましたから、もう前からお目にかかりたいとぞんじていたのですもの! それに将軍にどんなご用がおあんなさるんでしょう? だって、いま退職してらっしゃるじゃありませんか。ねえ、将軍、あなたわたしを置いてきぼりになさりはしますまいねえ、あちらへいらっしゃりはしないでしょう?」
「わたくしお約束いたします。そのうちきっと自分で伺わせますが、今はちょっと休息いたさねばなりませんので」
「将軍、あなたご休息なさらなくちゃならないんですって!」気むずかしく不満げに顔をしかめながら、ナスターシヤは叫んだ。その調子はまるで玩具を取られかかったお転婆娘のようであった。
 将軍は将軍で、まるで自分のほうから、自分の立場をいっそうばかばかしいものにしようと、あせっているかのようであった。
「これ、おまえ! これこれ!」彼はものものしく妻に向かってとがめるようにこういって、片手で心臓の上をおさえた。
「おかあさん、あちらへいらっしゃらなくって?」と声高にヴァーリャが問いかけた。
「いいえ、ヴァーリャ、わたしはしまいまでいます」
 ナスターシヤはこの問答を聞かないはずはなかったのであるが、彼女のはしゃぎかたはそのためによけいひどくなったように思われた。彼女はすぐにふたたびさまざまな質問を将軍に浴びせかけた。やがて五分もたつうちに、将軍は最も得意な気持ちになって、はたのものが無遠慮に笑うのにもお構いなく、とうとうと弁じ立てていた。
 コーリャは公爵の上着の裾をひっぱった。
「ねえ、せめてあなたでも、どうかしておとうさんを連れて、つてくださいな! あれをうっちゃってはおけない! 後生ですから!」あわれな少年の目には、憤りの涙が輝いていた。「ガンカの極道!」と彼は口の中でつけ足した。
「じっさい、エパンチン将軍とは非常な親友でしたよ」将軍はナスターシヤの問いに対して、際阻なくまくし立てた。「わたしと、エパンチン将軍と、なくなったムイシュキン公爵、この人の忘れがたみを、きょうわたしは二十年ぶりにこの手で抱きましたが、この三人は離れることのできぬ騎士組でした、アトス、ポルトス、アラミス、といった具合にね。しかし、悲しいかな。その中のひとりは誹謗《ひぼう》と弾丸に打ち倒されて墓の中に眠り、いまひとりはあなたの前にいて、今なお誹謗と弾丸と戦っています……」
「弾丸とですって?」とナスターシヤは叫んだ。
「さよう、それはここにあります、わたしの胸の中にあります。カルスの役に受けた傷ですが、天気の悪い日にはしくしく痛むのです。しかし、ほかのあらゆる点において、わたしは哲学者として生きています。仕事から遠ざかったブルジョアみたいに散歩したり、行きつけのカフェーで将棋をさしたり、『アンデパンダンス』(仏字新聞)を読んだりしています。ところで、わがポルトス、――つまり、エパンチン将軍ですな、この人とは三年前におこった汽車の中の狆事件以来、永久に絶交してしまいましたよ」
「狆事件! それはいったいなんのことですの?』一種特別の好奇心をもって、ナスターシヤがたずねた。「狆ですって!ちょっと待ってください、そして汽車の中で!………」彼女はなにやら思いだした様子であった。
「いやいや、ばかばかしい話なんです。今さらお聞かせする値うちもありません。ベロコンスカヤ公爵夫人の家庭教師、ミセス・シュミットがもとなんです、しかし……お聞かせする値うちもありません」
「いいえ、ぜひお話しくださいまし!」と愉快げにナスターシヤが叫んだ。
「ぼくもまだ聞かなかった」とフェルディシチェンコが口を出して、「C'est du nouveau(これは珍聞だ)」
「アルダリオン!」ふたたびニーナ夫人の哀願するような声が響いた。
「おとうさん、ちょっと来てくださいって!」コーリヤは叫んだ。
「なに、ばかばかしい話で、たったひとことで済んでしまいます」と将軍は得々と語りはじめた。「さよう、二年前のことでしたよ! 二年にちょっと足りませんでしたか。新しい××鉄道が開通したばかりのとき、わたしは(そのころもう軍服を着ていなかったです)自分にとって非常に重大な用向き、事務の引渡しに関することで一等の切符を求め、汽車に入って席を取り、たばこを吹かしていました。つまり、その、引きつづき吹かしていたんです。もう前から吹かしていたわけなんで。わたしは車室の中にひとりきりでした。喫煙は禁じられてもいないが、許可されてもいず、まあ、習慣
上半許可といった形です、つまり、その人柄によってね。窓はあけてありました。すると、汽笛が鳴るまぎわに、とつぜんふたりの婦人客が、狆をつれて入って来て、わたしの真向かいに席を占めたじゃありませんか。あやうく乗り遅れるところだったのです。ひとりはけばけばしい明るい水色の着物を着ていましたが、ひとりはすこしじみな黒い絹の着物に、ショールを首に巻いていました。どちらも悪い器量ではありませんが、高慢ちきな顔つきをして、英語をぺらぺらしゃべるのです。わたしはもちろん平気です、ぷかぷか吹かしていました。いや、まんざら気がつかんでもなかったんですが、窓があいてるもんだから、窓のほうを向いて相変わらず、吹かしつづけたわけなんです。狆は明るい水色の奥さんのひざでおとなしくしていました。わたしの片手に入りそうな小さなやつで、全身真っ黒、ただ足の先だけ白い、じつに珍しいものでした。銀の首輪にはなにかの文句が彫ってありました。わたしはあくまで平気です。しかし、ちょいちょい見ると、婦人たちは腹を立てているらしい、もちろん、シガーのことです。ひとりのほうが鼈甲の柄付き眼鏡を取り出して、じっと人をにらみつけるじゃありませんか。わたしはそれでもまだ平気です。だって、何もいわないんですからね! ちょっとなんとかいって注意するとか、または頼むとかすればよさそうなもんじゃありませんか、ちゃんと人なみの舌を持ってるんですもの! ところが、やはり黙りこんでいる……するとふいに――しかも予告なしに、いいですか、それこそひと言の予告なしに、まるで気でもちがったように、――明るい水色の婦人がわたしの手からシガーをひったくって、窓の外へほうり出しました。汽車はどんどん走る、わたしはばかみたいな顔をしてぼんやりしていました。野蛮な女ですな、じつに野蛮な女です、まったく野蛮な階級から出たものに相違ありません。しかし大柄の女で、肥った背の高いブロンドで、ほっぺたは赤く(じっさいあんまりだと思われるくらいでした)、目はわたしのほうを向いて、ぎらぎら光っていました。こっちはひとことも物をいわずに、驚くべき慇懃、完成されたる慇懃、いわゆる洗練されたる慇懃さをもって、二本指を出して狆に近寄り、優しくその首筋をつかんで、シガーを投げたばかりの窓からほうり出しました。ただひとこときゃっと鳴いたばかり! 汽車は遠慮なく走りつづける……」
「まあ、あなたもひどいかたね!」とナスターシヤは大声に笑いながら、子供のように手をうって叫んだ。
「ブラヴォ、ブラヴォー」とフェルディシチェンコがどなった。
 将軍の出現がひどく不快であったプチーツィンも、思わず微笑を浮かべた。コーリャまで笑いながら、同じくブラヴォを叫んだ。
「そして、わたしは公明正大です、まったく公明正大です、徹頭徹尾、公明正大です!」と得意満面で、将軍は熱心に語をついだ。「なぜといって、ごらんなさい、もし汽車の中で葉巻が禁じられているなら、犬はなおさらのこと禁じられているはずですからな」
「ブラヴォ、おとうさん!」とコーリャは有頂天になって叫んだ。「まったくです、ぼくだってきっと、きっとそうしますよ!」
「ですが、その婦人はどうしました?」と、もどかしげにナスターシヤが追究した。
「女ですか? いや、そこなんですよ、じつにいやなのは」と眉をひそめつつ将軍は語りつづけた。「ひとことの挨拶もなく、いきなりわたしにびんたを一つ食らわしたのです! 野蛮な女だ、まったく野蛮な階級から出た女です!」
「そして、あなたは?」
 将軍は伏目になって眉を上げ、肩をそびやかし、くちびるを引きしめて両手をひろげたまま、しばらく無言でいたが、ふいに口をきった。
「つい前後を忘れました!」
「そして、ひどく? ひどく?」
「いいえ、けっしてひどくじゃありません。ひと騒動おこったんですが、ひどくではなかったのです。わたしはただ一度その手を払いのけました、それもただ払いのけるばかりでした。しかし、やはり悪魔に見込まれたんですね。明るい水色の女はベロコンスカヤ公爵夫人の家庭教師、というよりむしろその親友ともいうべきイギリス人であることがわかりました。また黒い着物のほうは公爵家の長女で、三十五歳のオールドミスだったのです。エパンチン将軍夫人がベロコンスキイ家と、どんな関係になっているかということも、よく知れわたっている話です。令嬢たちは気絶するやら、泣きだすやら、最愛の狆の喪に服するやら大騒ぎ、六人の令嬢が泣く、イギリス女が泣く、――まるで世界破滅です! で、わたしはもちろん、慚愧の意を表しておわびにも行くし、手紙も書きましたが、会ってももらえなければ手紙も受け付けてもらえない。したがって、エパンチン将軍とも仲たがいして、仲間はずれにされる、玄関払いをくうという始末でな!」
「しかし、失礼ですが、どうしたわけでしょう?」とにわかにナスターシヤが問いかけた。「五、六日前の『アンデパンダンス』で、――わたしもしじゅう『アンデパンダンス』を読んでますが、――ちょうどそれと同じ話を読みましたわ。まるでそっくりそのままなんですの! それはなんでも、ライン地方の鉄道で、あるイギリスの女とフランス人のあいだにおこったことでした。シガーをひったくったのもそっくりそのまま、狆をほうり出したのもそのまま、そうして事の決着もお話のとおりでした。おまけに、明るい水色の着物までが同じたんですものね!」
 将軍はおそろしく赤面した。コーリヤも同様まっ赤になって、両手で自分の頭をかかえた。プチーツィンはすばやくそっぽを向いてしまった。ただフェルディシチェンコのみがいぜんとして高笑いをしていた。ガーニャのことはいうもさらである。彼ははじめから、声に立てぬ堪えがたい苦痛を押しこらえながら、じっと突っ立っていた。
「いや、まったくです」と将軍はへどもどしながらいいだした。「わたしにもそれと同じことがあったのです……」
「おとうさんとペロコンスキイ家の家庭教師シュミットさんとのあいだには、まったくいやなことがあったんです」とコーリャが叫んだ。「ぼく覚えています」
「へえ! そっくりそのままにですか? ヨーロッパの端と端で細かなところで寸分ちがいのない、――明るい水色の着物まで符合した事件がおきたんですかねえ!」とナスターシヤは情け容赦もなくいい張った。「わたし、あなたに『アンデパンダンス・ベルジュ』をお送りしましょう!」
「しかし、お聞きなさい」まだそれでも将軍は負けようとはしなかった。「わたしの話は二年前でしたよ」
「へえ、たったそれだけ!」
 とナスターシヤはヒステリックに高笑いした。
「おとうさん、ちょっとひと言いいたいことがありますから、ちょっと外へ出てくださいませんか」ガーニャは機械的に、父親の肩をつかみながら、ふるえ声を絞ってきり出した。
 はかりしれない憎悪がその目の中に沸き立っていた。
 ちょうどこの瞬聞、なみはずれて高いペルの音が玄関に響きわたった、まるでベルがこわれてしまいそうな綱の引きようである。なみなみならぬ来訪であることはすぐ感じられた。コーリャはドアをあけにかけだした。

      10

 玄関がにわかに騒々しく雑踏しはじめた。客間から聞いていると、いくたりかの人が外から入って来て、なおまだ入りきらない様子であった。いくたりかの声が一時にものをいったり、どなったりしている。階段の上でもなにかしゃべったり、どなったりしており、階段から玄関へ通ずる戸もしまったようなふうはなかった。とにかく、この来訪はきわめて奇怪なものに相違なかった。人々は顔を見合わせた。ガーニャは広間のほうへ飛び出したが、もう広間にもいくたりかの人が入って来た。
「ああ、あいつがユダだ!」公爵にとって聞き覚えのある声がこうどなった。「ご機嫌よう、ガンカ(ガーニャ)のちくしょう!」
「こいつだ、こいつに違いない!」と別の声が相づちを打った。
 公爵はもはや疑う余地がなかった。一つの声はラゴージンであり、もう一つはレーベジェフである。
 ガーニャはさながら感覚を失ったもののように、しきいの上に突っ立ったまま、十人か十二人の総勢がパルフェン・ラゴージンにつづいてあとから広間へ繰りこんで来るのを、とめようともせず黙ってながめていた。この連中はおたがいにおそろしく毛色が違っていた。ただ外貌がまちまちなばかりでなく、不体裁なことも大変なものであった。中には往来と同じような気で、オーバーや毛皮外套のままで入って来るものもあった。しかし、それでも酔っぱらいはいなかったが、そのかわりみんなそろって一杯機嫌であった。だれも彼もお互い同士たより合いながら入って来たので、ひとりで乗りこむだけの勇気はなく、まるでたがいに人を前へ押し出しているような具合であった。同勢の頭領であるラゴージンさえも大事をとりながら進み出たが、さすがになにか胸に一物あるらしく、陰欝ないらいらした心配そうな風つきであった。その他の者にいたってはただ一種の景気づけ、というより、むしろ尻押しに馳せ参じた烏合の衆にすぎなかった。その中にはレーベジェフのほか、髪の毛を意気にうねらしたザリョージェフがいた。彼は控室に毛皮外套を脱ぎ捨てて、気どった鷹揚な歩きっぷりで入って来た。これに似寄ったので、一目見て小商人だとわかる男も二、三人いた。なかば軍隊式の外套を着たのもあれば、絶え間なしに笑っている、背の低い、おそろしく肥ったのもおり、身のたけ六尺近くもありそうな、人なみはずれて肥満した大男で、大いに自分の拳固に恃《たの》むところありげな、おそろしくむっつりと口数の少ないのも交じっている。医学生もいるかと思えば、いやにしなしなしたポーランド人もひとりいた。入りかねて階段のところから玄関をのぞきこむ女がふたりいたが、コーリャはその鼻のさきへたたきつけるようにぴしゃりと戸をしめて、掛け金までかけてしまった。
「ご機嫌よう、ガンカの畜生! なにかね、パルフェン・ラゴージンとは思いもかけなかったかい?」ラゴージンは客間の入口まで進んで、そこに立っているガーニャの前に来ると、またくりかえした。しかし、彼はこの瞬間、客間で自分の真向かいにすわっているナスターシヤにふと気がついた。彼女の姿がラゴージンにひとかたならぬ驚きをひきおこしたところをみると、ここで彼女に出くわそうなどとは、夢にも思いもうけなかったらしい。彼はくちびるが紫色に変わるほど青ざめてきた。「してみると、やはりほんとうなんだな!」と彼はまるでひとり言のように、まったくとほうにくれた様子でいった。「だめだ!………さあ……もうこうなったうえはきさまがおれの相手だ!」彼はすさまじい憤怒の形相でガーニャをにらみつけながら、いきなり歯をきりきりと鳴らした。「さあ……くそっ!」
 彼ははあはあ息をきらして、ものをいうのさえやっとであった。機械的に客間へ入りかけたが、敷居をまたいだところでふとニーナ夫人とヴァーリャが目に入ると、あれほど興奮していたものが、いくぶん鼻白んで立ちどまった。彼につづいて、いつも影の形に添うごとく離れたことのないレーベジェフが通った。彼はもうすっかり酔っぱらっていた。そのうしろから医学生、拳固先生、ザリョージェフ(これは入るとき、左右に向かってぺこぺこお辞儀した)、それから最後に人々を押し分けながら、背の低い肥っちょが入って来た。席に婦人たちのいるということは、まだいくらか彼らを遠慮させ、ひどくじゃまになるらしかった。しかしむろん、それとても皮切り[#「皮切り」に傍点]まで、なにか一つどなりつけて皮切りをするまでの話で……そうなれば、もうどんな婦人であろうと、彼らのじゃまをするわけには行かない。
「や! 公爵、おまえさんもここにいるのか!」公爵との邂逅《かいこう》に面くらったラゴージンは、そわそわした調子でこういった。「おまけに、やっぱりゲートルのままか、ちぇっ!」彼はもう公爵のことを忘れてしまって溜息をつき、ふたたびナスターシヤのほうへ目を転じながら、あたかも磁石に吸い寄せられるように、じりじりとそのほうへ近寄るのであった。
 ナスターシヤもやはり不安らしい好奇の目をもって、新しい客人たちをながめた。
 ガーニャはようやくわれに返った。
「しかし、これはいったいどうしたっていうんです?」いかつい顔をして新米の客を見まわしながら、主としてラゴージンに向かって大声にきり出した。「きみがたもまさか馬小屋のつもりで入ったんじゃないでしょう。ここにはぼくの母と妹がいますよ」
「母と妹のいることくらいわかってらあ」と歯のあいだから押し出すようにラゴージンがいった。
「母と妹だってことは見えすいてまさあ」とただの重みをつけるために、レーペジェフが相づちを打った。
 拳固先生は時こそ来たれと思ったらしく、なにやらぶつぶつうなりはじめた。
「しかし、とにかく!」にわかに突拍子もなく調子を張って、ガーニャがいいだした。「まずここから広間へ引き取ってくれたまえ、そのうえでお話を……」
「へん、空っとぼけやがって!」とラゴージンは動きそうな様子もなく、毒々しげに歯をむいた。「ラゴージンにお見知りがねえのかね?」
「まあ、かりにどこかでお目にかかったことがあるとするさ、しかし……」
「へえ、どこかでお目にかかった! ばかにするない、三月前にてめえはカルタの勝負で、おれからおやじの金を二百ルーブリまき上げたじゃねえか、それがために爺は死んじゃったあ。それを知らねえとはなんだ。てめえがおれをひっぱりこんでクニッフの野郎がいかさまにかけやがったんだ。おい、まだ知らねえのか? プチーツィンが証人だよ! ほんとにてめえはルーブリ銀貨を三枚ポケットから出して見せたら、それがほしさにヴァシーリエフスキイ(ネヴァ河上の島、ペテルブルグ市内)で四つんばいになって行かあ、――てめえはそれくらいのやつよ! てめえの根性骨はそれくらいのものよ! おれは今もてめえをすっかり金で買いに来たんだぜ。おれがこんな靴をはいて来たからって、心配しなくてもいいよ。おれんとこにはな、やっこさん、金はいくらでもあるんだから、てめえも、てめえの屋台骨もすっかり買ってやらあ……買いたいと思ったら、てめえたちすっかりひっくるめて買ってみせらあ! 何もかもありったけ買ってみせらあ!」とラゴージンは夢中になった。まるでしだいに酒の酔いがまわってくるような具合である。「おい!」と彼は叫んだ。「ナスターシヤさん! 追っ立てないでくれ、そしてひとこと返答しておくんなさい、いったいおまえさんこの男と夫婦になるつもりなのかね、え?」
 ラゴージンのこの問いを発した様子は、まるでとほうにくれたものが神さまにでも向かっていうようであったが、同時に、もはや失うべき何ものをも持たぬ死刑囚の大胆さがその中にあった。彼は死ぬばかりな苦悩のうちに答えを待っていた。
 ナスターシヤはあざ笑うような高慢なまなざしで、じろじろ男を見まわしていたが、ふとヴァーリャとニーナ夫人を見やり、ガーニャをちらりとひと目見ると、にわかに調子をがらりと変えた。
「けっしてそんなことはありませんよ、いったいあなたどうなすったの? どういうわけでそんなことをきこうと思いつきなすったの?」静かにしんみりと、いくぶん驚いたような風つきで、彼女は答えた。
「ない? ないって!」と嬉しさのあまり気も狂わんばかりにラゴージンは叫んだ。「じゃ、ほんとうにないんだね?あいつらおれに……ああ……ねえ! ナスターシヤさん! おまえさんがガンカと約束しなすったって、みんながぬかすんですよ! あの男と? ほんとにそんなことがあってもいいもんですか!(だから、おれのいわねえこっちゃねえ!)おれはこいつに手をひかせるために、百ルーブリでこいつをすっかり買ってやる。千ルーブリくれてやろうか、いや、三千ルーブリやる。そして、こいつが婚礼の晩、花嫁をおれの手に残して逃げ出すようにしてやるんだ。おい、そうじゃねえか、ガンカ、ちくしょう! なあ、いっそ三千ルーブリ取ったほうがいいだろう! ほら、これがそれだ、ほら! おれはてめえからその受取りをもらおうと思ってやって来たんだ。いったん買うといったら、買わずにゃおかねえんだ!」
「とっとと出て行け、きさまは酔っぱらってるんだ!」とガーニャは赤くなったり、青くなったりしながらどなった。
 この叫び声と同時に、にわかにいくたりかの声が、爆発するようにおこった。前からこの一瞬を待っていたラゴージンの一隊である。レーベジェフはなにやらいっしょうけんめいで、ラゴージンに耳打ちした。
「うまい、腰弁!」とラゴージンは応じた。「うまいぞ、へべれけ! なんのくそ、かまうことあねえ! ナスターシヤさん!」なかば気ちがいじみた目つきでどなった。彼はいじけてびくびくしているかと思うと、たちまち急に不敵なほど気負ってくるのであった。「ここに一万八千ルーブリある!」彼は紐で十文字にしばって白い紙に包んだ束をナスターシヤの前のテーブルへほうり出した。「これだ! そして……まだできるよ!」
 彼もさすがに、いいたいことをしまいまでいいきる勇気がなかった……
「いけない、いけない!」とまたしてもレーベジェフが、びっくりぎょうてんしたような顔をしてささやいた。察するところ、彼はその莫大な額に驚いて、比較にならぬほど小なところからためしてみるように勧めたのであろう。
「いいや、こういうことにかけちゃてめえはばかだ、まるで。畑違いだあ……いや、しかしおれもおたがいにばかかもしれないよ」ナスターシヤのぎらぎら光るまなざしに射すくめられ、彼は急にわれに返って身震いした。「ええっ、おれはばかなことをいったぞ、てめえのいうことなんぞ聞いたもんだから」と彼は深く後悔したようにいいたした。
 ラゴージンのとほうにくれたような顔を見ると、ナスターシヤはいきなり笑いだした。
「一万八千ルーブリ、わたしに? とうとう百姓のお里が現われたわね!」と傲慢ななれなれしい調子でこういうと、そのまま長いすから立ちあがり、出て行きそうにした。
 ガーニャは心臓の鼓動のとまるような苦悩を覚えながら、始終の様子をながめていた。
「じゃ、四万ルーブリ、四万ルーブリだ、一万八千は取消しだ!」とラゴージンは叫んだ。「ヴァーニカ・プチーツィンとビスクープが七時までに、四万こさえてやると約束した。四万ルーブリ! すっかり一時にテーブルの上にそろえてみせる!」
 一座の光景は常軌を逸して醜悪なものとなった。けれども、ナスターシヤはことさらそれを長くつっておこうとするかのように、立ち去ろうともせず笑いつづけていた。ニーナ夫人とヴァーリャとは、ともに同じく席を立って、どこまで行ったら果てることかと、おびえたように言葉もなく待ちもうけていた。ヴァーリャの目はぎらぎら輝いていたが、ニーナ夫人にはこの事件がおそろしく病的に働いて。彼女は今にも悶絶して倒れそうに、わなわなふるえていた。
「ええ、そんなら十万ルーブリだ! きょうすぐ耳をそろえてお目にかける! プチーツィン、助けてくれ。おまえだって、うんと暖まるぜ!」
「きみ、気でもちがったのか!」プチーツィンは急につかつかと彼のそばへ寄って、手首をつかみながらささやいた。「きみは酔っぱらってるんだ、交番へ突き出されるぞ。きみは自分がどこにいるのか知ってるか?」
「酔った勢いででたらめをいってるんだわ」とナスターシヤはからかうようにいった。
「いんや、でたらめじゃない。こしらえる、夕方までにこしらえる………プチーツィン、助けてくれ、高利貸野郎、利息はいくらでも取るがいい、十万ルーブリ夕方までに調達してくれ。こんなことでへこまねえってところを見せてやるんだから!」とラゴージンは夢中になるほど気負ってきた。
「だが、しかしこれは全体どうしたというのだ?」思いも寄らぬアルダリオン将軍が、怒り心頭に発してラゴージンのほうへつめ寄りながら、すさまじい剣幕でこうわめいた。今まで黙って控えていた老人のこうした突飛な言葉は、多分のコミズムを含んでいた。だれかのくすくす笑う声が聞こえた。
「こいつ、またどこから飛び出したんだ?」とラゴージンは笑いだした。「おい、爺さん、行こう、一杯飲ますぜ!」
「これはもうあんまりだ!」コーリャは恥ずかしいやらくやしいやらで、ほんとうに泣きながら叫んだ。
「ほんとにこの恥知らずの女をここから引きずり出す人が、あなたがたの中にだれもいないんですか!」と憤怒に全身を打ちわななかせながら、ヴァーリャがにわかにこう叫んだ。
「恥知らずの女というのは、わたしのことですの」と相手のいうことなど気にもとめないような浮きうきした調子で、ナスターシヤが受けながした。「わたしはまた皆さんを晩餐に招待に来たりなんかして、なんてばかだったんでしょう! ねえ、ガヴリーラさん、あなたのお妹さんはあんなふうにわたしを扱いなさるんですよ!」
 思いがけない妹の言葉に、ガーニャは雷にでも打たれたように、しばらくじっと立ちすくんでいた。けれど、今度こそほんとうにナスターシヤが出て行こうとするのを見ると、彼は夢中で妹に飛びかかり、怒りに任せてむずとその手をつかんだ。
「きさま何してくれたんだ!」と彼はいきなりどなりつけた、まるでこの場で灰にしてしまいたいと望むかのように、妹をにらみつけながら。彼はもはやまったく前後を忘れて、ほとんど分別を失ってしまった。
「わたしが何をしたかですって? どこへわたしをひっぱって行くんです? いったい、あの女が来てあなたのおかあさんに恥をかかせ、あなたの家をけがしたことに対して、あの女におわびでもしなくちゃならないんですの? あんたは卑劣な男です」勝ち誇ったような調子で、挑戦的に兄の顔をながめながら、ヴァーリャはふたたび叫んだ。
 幾瞬かのあいだ、ふたりは顔と顔を突き合わして立っていた。ガーニャはいつまでも妹の手をつかんだままでいた。ヴァーリャは力いっぱい自分の手をひっぱった、――また一度、――しかし力が足りなかった。と、ふいにわれを忘れて彼女は兄の顔に唾を吐きかけた。
「おやおや、大変なお嬢さまだこと!」とナスターシヤが叫んだ。「おめでとう、プチーツィンさん、わたし、あなたにお祝い申し上げます!」
 ガーニャは目の前が暗くなってきた。彼はまったく前後を忘れ、ありたけの力をこめて、妹めがけて手を振り上げた。拳はかならず妹の顔に当たるに相違ないと思われた。と、ふいに今一つの手が、あわや打ちおろさんとするガーニャの手を支えたのである。
 ふたりのあいだに公爵が立っていた。
「およしなさい、たくさんですよ!」と彼は押しつけるようにいったが、そのからだは恐ろしい心内の動乱にわなわなとふるえていた。「おお、きさまどこまでもおれのじゃまをしようというんだな!」ヴァーリャの手を棄てたガーニャは、ほえるようにこういって、極度まで達した怒りに任せて、力かぎり公爵の横つらをなぐりつけた。
「あっ!」とコーリャは思わず手を打ち鳴らした。「あっ、大変!」
 驚愕の声が四方からおこった。公爵の顔は一度にさっと青ざめた。不思議な詰問するようなまなざしで、彼はひたとガーニャの目に見入った。そのくちびるはふるえつつ、なにやらいいだそうとあせったが、ただ取ってつけたような奇妙な微笑に怪しく歪むのであった。
「ええ、ぼくならどんなにされてもかまいません……けれど、あの人には……けっして手出しをさせませんよ!」とようやく彼は小さな声でいった。しかし、彼はついに堪えかねたか、もうガーニャにかまうことをやめて、両手で顔をおおいながら、片隅へ退き、壁に面したまま、とぎれとぎれな声でいいだした。
「おお、きみはどんなに自分のしたことを後悔されるでしょう!」
 ガーニャはしんじつ穴へでも入りたいようなふうで、茫然と立っていた。コーリャは馳け寄って公爵に抱きつき接吻をした。つづいてラゴージン、ヴァーリャ、プチーツィン、ニーナ夫人、――ことにアルダリオン将軍まで、一同あらそってそのまわりにひしひしと集まった。
「なんでもありません、なんでもありません!」公爵はやはり取ってつけたような微笑を浮かべたまま、左右へふり向いてつぶやいた。
「そうとも、後悔しなくってさ!」とラゴージンがどなった。「ガンカ、てめえよくまあ恥ずかしくもねえ、こんな……羊っ子を(彼はこれ以外の言葉を考えつくことができなかったのである)いじめやがったな! 公爵、おめえはいい子だ。あんなやつらはうっちゃっておきな。唾でもひっかけといて、おれといっしょに行こうじゃねえか。ラゴージンがどれくらいおめえにほれこんでるか、今にわかるだろう」
 ナスターシヤも同じくガーニャのふるまいと、公爵の答えに心を打たれた。さきほどのわざとらしい空笑いとはすこしも調和しないいつも青白い彼女の顔が、今や明らかに、ある新しい感情にかき乱されたようであった。けれど、彼女はやはりそれを表に現わしたくないと見えて、あざけりの調子が顔の上にありありともがいているかのようであった。
「ほんとだ! わたしどこかで、この人の顔を見たことがある!」またふいにさっきの疑問を思い浮かべたように、彼女は思いもよらぬまじめな声でこういった。「あなたもまたそれでちっとも恥ずかしくないんですか! あなたはもとからそんなかたなんですか。いいえ、そんなはずはありません!」いきなり公爵は深い心の底から、責めなじるような調子で叫んだ。
 ナスターシヤは面くらってにたりと笑った。しかし、その笑いの中になにかを隠してでもいるように、いくぶんへどもどして、ちょっとガーニャを尻目にかけると、そのままぷいと客間を出てしまった。が、まだ控室までも行かぬうちに、彼女はにわかに引っ返してニーナ夫人に近寄り、その手を取って自分のくちびるに押し当てた。「わたしはね、まったくのところこんな女ではありません、あの人のいったとおりですの」と早口に熱した調子でささやいたが、ふいにかっとなって顔をまっかにすると、いきなり身をひるがえして客間を出て行った。その動作の素早さは、ほんの一瞬のあいだであったから、なんのために彼女が引っ返したのか、だれひとり想像する暇もなかった。ただなにかニーナ夫人にささやいて、その手に接吻したらしい、それだけのことに気がついたばかりである。しかし、ヴァーリャのみは、それをすっかり見もし聞きもしたので、びっくりして彼女を目送するのであった。
 ガーニャはふとわれに返って、ナスターシヤを見送りにかけだしたが、彼女は早くも外へ出てしまっていた。彼がやっと階段の上で追いついたとき、
「お見送りにはおよびません!」とナスターシヤが叫んだ。「さようなら、また晩にね! きっとですよ、よござんすか!」
 彼はとほうにくれて、もの思わしげに部屋のほうへ引っ返した。苦しい謎、さきほどよりもっともっと苦しい謎が、彼の心を圧するのであった。公爵のこともちらと頭をかすめた……ちょうどそのときラゴージンを先頭にした一隊が、われがちに外へ出ようと押し合いへし合い走り過ぎた。戸口のところで彼を突き飛ばすものさえあった。もの思いに沈んだガーニャは、それさえはっきり見分けることができなかった。彼らはみんななにやら声高に論じている。当のラゴージンはプチーツィンと肩を並べて歩きながら、重大なさし迫った用件があるらしく、しつこく念をおしている。
「負けたな、ガンガ!」すれ違いざま彼はこう浴びせかけた。
 ガーニャは不安げにそのあとを見送るのであった。

       11

 公爵は客間を去って自分の部屋に閉じこもった。そこへすぐにコーリャが慰めに来た。あわれな少年は、もう彼を離れることができぬというふうであった。
「あなた、出ておしまいなすってよかったですよ」と彼はいった。「あすこの騒ぎは、まだまだもっとひどくなるところだったのですから。うちじゃもう毎日こうなんです。それもこれもみんなあのナスターシヤのおかげなんですからね」
「お宅ではいろんなたくさんの病いが高じて、ひどくなったんですね、コーリャさん」と公爵がいった。「ええ、病いが高《こう》じたんです。ぼくたちのことなんか何もいうことはありません。みんな自分たちが悪いんですから。ああ、そうそう、ぼくにひとり非常な親友があるんですが、それはもっともっと不仕合わせなんですよ。なんならお引き合わせしますけれど」
「ええ、ぜひとも。きみの友達ですか?」
「ええ、ほとんど友達といっていいくらいです。このことはあとですっかりお話ししましょう……あのナスターシヤさんは美人ですね、あなたどうお思いです? ぼく、今まで一度もあの人を見たことがなかったので、ずいぶん苦心したものですよ。まったく目がくらむようでした。もしにいさんが愛のために結婚するというのなら、ぼく何もかもゆるしてやるんだけど……ほんとになんだってにいさん金なんかもらうんだろう、それが困るんですよ!」
「そうですね、わたしもきみのにいさんあまり好きじゃありませんねえ」
「そりゃもうあたりまえですよ! ことにあなたはさっきあんな……あのね、ぼくもなんだかんだってえらそうなことを並べるのが大嫌いなんです。たとえば、どこかのきちがいか、でなければばか、でなければ気ちがいのように見せかけた悪党が、人の顔をぶつとしますね。すると、その人はもう一生涯名誉を傷つけられて、血で洗い落とすか、相手が膝をついて謝罪するかしなければ、ゆるすことができないってわけでしょう。ぼく考えるのに、こんなことはじつにばかげた専制主義です。『仮面舞踏会《マスカラード》』ってレールモントフの戯曲は、そこをねらって書いたつまらない、――とぼく思うんです、――ものですね。いや、ぼくは不自然だというつもりだったんですよ。もっとも、あれはレールモントフがほんの子供のときに書いたんだけど」
「ぼくはきみのねえさんがたいへん気に入りました」
「ほんとに痛快なほどガンカの顔へ唾をひっかけたもんだなあ。ヴァーリャはえらいや! でも、あなたは唾なんかかけませんでしたね。あれはぼく信じていますよ、けっして勇気が足りないからじゃありません。おや、ねえさんがやって来た、うわさをすれば影か。ぼくも今にやって来るだろうと思ってました。それはいろいろ欠点もありますが、潔白な人ですからね」
「おまえなんかここに用事はありません」とヴァーリャは、まず弟に食ってかかった。「おとうさんのとこへおいでなさい。さぞおうるさいでしょうね、公爵?」
「いいえ、どういたしまして、それどころじゃありません」
「また姉さん風を吹かせだした。これがこの人の悪いところなんですよ。あ、そうそう、ぼくはね、おとうさんがラゴージンといっしょに行っちまうかと思ってました。今ごろきっと後悔してますよ。ほんとうにどうしていなさるか見てこよう」とコーリャは出しなにつけ足した。
「まあ、いいあんばいにわたしがおかあさんを連れてって、寝かしてあげましたからね、もうあれっきりぶり返さないで済んでしまいましたの。にいさんすっかりしょげて考えこんでいます。もっとも、それはあたりまえなんですけれど。ほんとにいい見せしめでしたわ!………わたし、あなたにお礼かたがた、ちょっとおうかがいしようと思って、またぞろおじゃまにまいりましたの。公爵、あなた今まで、ナスターシヤさんをごぞんじありませんでしたの?」
「いえ、知りませんでしたよ」
「じゃ、どういうわけであの人に面と向かって、『そんな人じゃない』とおっしゃったんでしょう。しかも、それが当たったようでしたものね。もしかしたら、ほんとうにあんな女じゃないのかもしれませんわ。だけど、なにがなんだかわかりません。それは申すまでもなく、恥をかかせようという目的で来たものに相違ありません。それはもう目に見えています。わたしは前からあの人について、いろいろな奇妙な話を聞いていましたけれど、もしあの人がわたしたちを招待に来たものとすれば、なぜはじめおかあさんに対してあんな真似をしたんでしょう? プチーツィンさんはあの人をよく知ってるけど、さっきのことばかりはわからないって、そういってますの。それから、あのラゴージンとの話し合ったらどうでしょう? もし自分を尊重する気持ちがあったら、とてもあんなふうの話っぷりはできません、しかも自分の……なんの……家ですからねえ。おかあさんもやはりあなたのことを、たいへん気づかっていますの」
「もうけっして!」と言って、公爵は手をひと振りした。
「けども、なぜあの人はあなたの言うことを聞いたんしょう……」
「言うことを聞くって?」
「だって、あなたがあの人、よくまあ恥ずかしくないこったとおっしゃったら、ふいにあの人がすっかり別人になりましたもの。あなたはあの人に感化力を持っていらっしゃるんですわ」くすぐったいような笑いかたをして、ヴァーリャはこうつけ足した。
 戸があいた。そしてまったく思いがけないガーニャが入って来た。
 彼はヴァーリャを見てもびくともしなかった。いっとき、しきいの上に立っていたが、にわかに決然たる態度で公爵に近寄った。
「公爵、わたしはじつに陋劣な行為をしました。ゆるしてください、お願いですから」といきなり強い情をこめてきり出した。彼の顔面筋肉の一つひとつが激しい苦悩を現わしていた。公爵はびっくりしてその顔を見つめたまま、すぐには返事もしなかった。
「ね、ゆるしてください、ね、ゆるしてください!」といらだたしげにガーニャはくりかえした。「ね、もしお望みでしたら、わたしは今すぐにでもあなたの手に接吻します!」
 公爵は深く心を打たれたさまで、無言に両手を広げてガーニャを抱きしめた。ふたりはともに真心こめて接吻した。
「ぼくはどうしても、あなたがこんな人だとは思えなかったんですよ」公爵はやっと息をつきながら、とうとう口をきった。「ぼく、思ってました、あなたは……とても……」
「謝罪なんかすることのできない男だって? わたしはまたさっきなんだって考えついたんでしょう、あなたが白痴《ばか》だなんて! あなたはほかの者にけっして気のつかないようなことをちゃんと気づくことのできる人です。あなたはともに語るに足りる人です。話したいことがあります、が……かえってお話ししないほうがいいでしょう!」
「ここにもうひとり、あなたの謝罪しなければならぬ人がおります」ヴァーリャを指さしつつ、公爵はこういった。
「いいや、それはみんな、わたしの敵です。いや、まったくですよ、公爵、いろんな手だても採ってみたんですが、この家では真心から人をゆるすことはしません!」と思わず熱してガーニャは叫び、ヴァーリャから顔をそむけた。
「いいえ、わたしゆるしますわ!」とふいにヴァーリャがいった。
「じゃ、今夜ナスターシヤさんのとこへ行くかい?」
「行けというなら行きますわ。だけど、にいさん、自分でよく考えてごらんなさいよ。今となってわたしがあの人のところへ行けるものだと思って?」
「しかし、あれはあんなふうの人間じゃないのだからね。あの人は、つまり、いろんな謎をかけてるんだよ! 手品なのさ!」ガーニャは毒々しく笑いだした。
「そりゃ、あんなふうの人間でないことも、謎や手品を道具に使ってるってことも、自分でよく知ってますわ。だけど、にいさん、考えてもごらんなさいよ、あの人はにいさんをどんなふうに見てるんでしょう。ええ、あの人はおかあさんの手に接吻しました。それはなにかの手品だとしても、それでもあの人はにいさんを笑いぐさにしたじゃありませんか。これじゃ七万五千ルーブリの値うちがありませんわ、えーえ、そうですとも! にいさんなどはもっと高尚な感情の所有者になる資格があります、だからこそこんなこともいうんですわ。ね、にいさんも今夜ゆくのをおよしなさいよ! ね、用心しなくちゃだめよ! こんな話はけっしてうまくまとまりっこないんですもの」
 これだけのことをいうと、ヴァーリャはむやみに興奮しながら、ぷいと部屋を出て行った。
「いつでもあの調子なんですからね!」とガーニャは苦笑いしながらいった。「いったいあの人たちは、わたしにそれしきのことがわからないと思ってるのかしらん? わたしはあの人たちよりかずっと余計に知ってまさあ」
 こういってガーニャは長いすに腰をおろした、まだまだゆっくりして行きそうな様子で。
「もしそのことをごぞんじならば」と公爵はかなりおずおずとたずねた。「なぜあなたはそんな苦痛を自分から進んで背負おうとなさるんでしょう。その苦痛が七万五千ルーブリくらいでは引き合わないということを、じっさいにご存じなのに」
「わたしはそのことをいってるんじゃありません」とガーニャはつぶやいたが、「それはそうと、ひとつおたずねしたいことがある、あなたはどうお考えです、つまりその、あなたのご意見がうかがいたいのです、いったいこの『苦痛』は七万五千ルーブリで帳消しになりますか、なりませんか?」
「ぼくの考えでは、なりませんねえ」
「なるほど、そんなことだろうと思ってました。そして、なんですか、この結婚も恥ずべきことですか?」
「じつに恥ずべきことです」
「じゃ、ご承知を願いましょう、ぼくは結婚します、今はもう是が非でもします。ついさきほどまでは心がまだぐらついていましたが、今はもうそんなことは断じてない! いや、たくさん! あなたが何をいおうとしてらっしゃるか、わたしはちゃんと知ってます……」
「いえ、ぼくのいいたいことは、あなたの考えていらっしゃるのと違います。ぼくはあなたの過度な自信に驚かざるをえません……」
「何にたいして? どんな自信です?」
「つまり、ナスターシヤさんがかならずあなたと結婚するもの、いっさいのことはもうすでに片がついたものと、決めてらっしゃるでしょう。また第二には、かりにあの人が結婚を承諾したにもせよ、例の七万五千ルーブリの金が右から左へあなたのポケットに入るものと、すっかり信じきっていらっしゃる。もっとも、ぼくはまだいろいろ事情を知らないのですから……」
 ガーニャはじりじりと公爵のほうへつめ寄った。
「もちろん、あなたはすべての事情に通じていられないのです。それに、わたしだってなにか当てがなくちゃ、こんな重荷を背負いこみはしませんよ」
「でも、なんだかぼくは……じっさい、世間によくあるやつですからね。金を目当てに結婚したところが、金は細君のふところに入ってしまうなんてね」
「い、いいえ、われわれのあいだにはそんなことけっしてありません……そこには……そこには、いろいろ事情が伏在してるんですから……」とガーニャが不安げなもの思いに引き込まれつつつぶやいた。「また、あの人の返答に関しては、もうなんの疑いもありません」と彼は口早にこういい足した。「いったいあなたはどういう点からして、あの人が拒絶するなどとおっしゃるんです?」
「ぼくは自分で見た以外なんにも知りません。しかし、たった今ヴァルヴァーラさんのおっしゃったとおり……」
「なんの! あの人たちはただその、もう言うことが尽きたからですよ。ところが、あれはラゴージンをさんざん愚弄していました。ええ、それは確かな事実です、それはわたしがちゃんとにらんでおきました。それはひと目見て知れますよ。以前はいささか心配でしたが、きょうこそすっかり見抜いてしまいました。それとも父や母、それからヴァーリャにあんな牡度をとったからですか?」
「そして、あなたにも」
「大きにそうかもしれません。しかし、それは紋切りがたの女の復讐というやつです、それっきりでさあね。あれはおそろしくかんしゃくもちの、疑いぶかい、しかも自尊心の強い女なんです。いわば昇給もれになった役人のようなものですね! 意地のあるところを見せたいんです、うちの人たちに対して……いや、わたしに対してもそうでしょう……軽蔑の情をひけらかしたくてたまらないんですからね。これはじっさいです、わたしも否定しません……が、それでもやはりわたしのとこへ来るに相違ないです。人間の自尊心がどんな手品をして見せるか、あなたなんか夢にもご存じないでしょう。あの女はね、わたしがおおっぴらで金のために人の思いものと結婚するのを楯にとって、わたしを卑劣溟よばわりしてますが、ほかの者だったらまだまだ卑劣な手で、あれをだましたかもしれないということには、いっこうお気がつかんのですよ。だれかがあれにうるさく付きまとって、自由進歩的思想を頭から浴びせかけ、おまけに婦人問題の一つ二つもひっぱり出したら、あの女はすぐその男の思うつぼにはまってしまいますよ。『自分があなたと結婚するのは、その高潔なる心情と不幸な境遇のためのみだ』などと、自尊心の強いばか女をいいくるめて(それはじつにやすやすたるものです!)そのくせ、自分はやはり金が目あてで結婚するんですからね。わたしがあの人の気に入らないのは、そういうごまかしが嫌いだからです。ところで、そいつが必要なんですよ。それに、あの女自身だってどんなことをしています?同じようなものじゃありませんか。いったいなんだってわたしを侮蔑して、あんな芝居をおっぱじめるんでしょう? それはわたしが降参しないで、プライドを持しているからです。まあまあ、今にわかりますよ!」
「いったいあなたはこれまで、あの人を愛したことがあるんですか?」
「はじめのうちは愛しました。しかも、かなり熱烈に……ねえ、世間にはよく恋人たるにのみ適して、それ以外なんの役にも立たない女があるでしょう。わたしはなにも、あれが自分の恋人だったというのじゃありません。が、とにかく、向こうでおとなしく暮らそうというなら、わたしもおとなしく暮らしますさ。しかし、謀叛でもおこそうものなら、すぐにほうり出して、金はこっちへ捲き上げてしまいます。わたしは人の笑いぐさになるのがいやです。なによりも人の笑いぐさになりたくないんです」
「しかし、どうもぼくにはそう思われますね」と公爵は大事をとりながら注意した。「ナスターシヤさんは利口な人です。そんな苦痛を感づいていながら、わざわざわなへかかりに来るでしょうか? だって、ほかの人とでも結婚できるんですからね。こいつがぼくには合点ゆきません」
「そ、そこにつまり成算があるんです! あなたはまだご存じないことが多いから……そこに……またそればかりでなく、あの人はわたしがきちがいになるほどあれを恋しているものと、かたく信じて疑わないんです、それはわたしが誓ってもよろしい。そしてね、あの人はわたしを愛しているに相違ないと思います。むろん、それは一流の愛しかたなんですが……ほら、ごぞんじでしょう。『ほれた男をたたいてみたい』という諺を? あの人は生涯わたしをダイヤのジャックと同じように見るでしょう(ことによったら、ほかならぬそれがあの女に必要なのかもしれません)、がそれでもやはり、自己一流の愛しかたで愛してくれるでしょう。あの人は今その準備をしてるんです、もうしようがないですね、性分ですから。あの人は極度にロシヤ型の女です、これはあなたに断言しておきます。わたしはまたわたしで、贈り物の方法はちゃんと用意していますよ。さっきのヴァーリャの一件はほんの偶然におこったんですが、わたしのためにかえって好都合でした。あの人はあれを見てから、わたしがあの人のためには肉親の関係さえ打ち破ってしまう、つまり、献身的にあの人を愛している、ということを信じきったでしょう。ひと言にして尽くせば、こっちだってそんなにばかじゃありませんからね、ご安心を願います。ときに、公爵、あなたはわたしのことをしようのないおしゃべりだと思ってらっしゃるんじゃありませんか。ねえ、公爵、もしかしたら、じっさいあなたにこんなうち明け話をするのは、あんまりよくないことかもしれませんが、しかしこれというのも、あなたのような高潔なおかたに今までかつて会ったことがないので、いきなりあなたに飛びかかったのです。いえ、『飛びかかった』というのを地口に取ってくだすっては困ります。もうあなたはさっきのことで、怒ってなどいらっしゃらないでしょう、ね?わたしはこの二年間こころの底から話をするのははじめてなのです。ここには潔白な人があまりにも少ないですからね。プチーツィンより以上に潔白な人がないんですよ。おや、あなたは笑っていらっしゃるようですね、違いますか? 卑劣なものは潔白な人間を好むって事実を、あなたはごぞんじなかったんですか? わたしなんかもう……いや、しかしいかなる点でわたしは卑劣漢なんでしょう、公爵、どうか正直にいって聞かせてください。あの女をはじめ、みんながわたしのことを卑劣漢と呼ぶのはなぜでしょう? しかも、みんなのあとについてわたしまでが、自分で自分を卑劣漢と呼んでるんですよ! これこそじつに卑劣です、卑劣きわまることです!」
「ぼくはもうこれから決してあなたのことを、卑劣漢だなどと思いません」と公爵がいった。「さっきぼくはあなたを悪党だとさえ思いましたが、今あなたは思いがけなくわたしを喜ばせてくださいました、――まったくいい教訓でした。物事は試さないさきに判断すべきものじゃありませんね。今こそわかりました、あなたは単に悪党でないばかりか、あんまりひねくれた人とさえいうことができません。ぼくの考えでは、あなたはごくありふれた平凡な人で、ただ非常に弱いというだけ、すこしも独自なところがありません」
 ガーニャは毒々しく胸の中で薄笑いしたが、口に出しては何もいわなかった。公爵は自分の評言が相手の気に入らないのを見ると妙にてれて、同じように口をつぐんだ。
「おとうさんがあなたに金の無心をいいましたか?」とふいにガーニャがたずねた。
「いいえ」
「今にします。けっして貸しちゃいけませんよ。あれでも昔はなかなか品格のある人間でしてね。身分のある人とも交際ができてたんですよ。ところが、ああいう昔ふうのりっぱな人間がみんなあとからあとからと滅びてゆくことはどうでしょう! ほんのすこしばかり世間の事情が変わってくると、もう以前の面影など見ることもできないんですからね、まるで火薬に火がついたと同じことです。おやじも元はああまでうそなどつく人じゃありませんでした。以前はただ過度に感激しやすい人間だったのですが、――それが今はあのありさまですからね! もちろん、酒がさせるわざです。ごぞんじですか、おやじが妾をおいているのを。今じゃもう罪のないうそつきだけじゃなくなったのです。おかあさんの辛抱づよいのが不思議なくらいです。おやじはあなたにカルス包囲の話をしましたか? でなければ、葦毛の脇馬が物をいいだしたって話を? じっさいそんなにまでひどくなってるんですからね」と言い、ガーニャはにわかに腹をかかえて笑いだした。
「なんだってわたしの顔ばかり見ていらっしゃるのです?」ふいにガーニャは公爵にきいた。
「ぼくはね、あなたが真底から笑いなすったのが、不思議なんです。まったくあなたはまだ子供らしい笑いが残っています。さっきも仲直りに入って来られたとき、『なんなら、ぼくあなたの手に接吻します』といわれたでしょう。あれはちょうど、子供同士が仲直りのときにいうような調子でした。してみると、あなたはまだそうした言葉や挙動を、口にしたり実行したりすることができるんです。ところが、そうかと思うと、だしぬけにあんな暗欝な思想や、七万五千ルーブリがどうのこうのと、とうとうと講釈なさる。まったくのところ、あんなのはなんだかいやにばかげていて、ほんとうと思えません」
「それで、あなたはいったいなにを論結しようとおっしゃるんです?」
「ほかではありません、あなたがあまり軽率に身を処していられはしないかということです。もっとよく周囲を見まわさねばならないのじゃないかしら。ヴァルヴァーラ・アルダリオーノヴナのおっしゃったのはほんとうかもしれませんよ」
「ああ、精神修養ですか! そりゃ、わたしがまだほんの小僧っ子だってことは、自分でも知っています」と熱くなってガーニャはさえぎった。「すくなくとも、あなたにこんな話をしたということだけでもね。わたしはね、公爵、利害の打算のみでこの結婚をしようというのじゃありませんよ」自尊心を毒された青年の常として、余計なことまで口をすべらしながら、彼は言葉をついだ。「利害の打算では、きっと失敗するに違いありません。なぜなら、頭脳からいっても人格からいっても、わたしはまだ十分堅固でないから、わたしは熱情によって、執着に導かれて進んでるのです。というのは、わたしには大きな目的があるのです。たぶんあなたは、わたしが七万五千ルーブリ受け取ると、すぐ箱馬車でも買いこむ、と思っていられるのでしょう。大違い、わたしはそのときでも三年ごしの古いフロックを着ます、クラブの遊び友達などはみんな棄ててしまいますよ。いったいロシヤには辛抱づよい人ってのが少ないです。そのくせ、だれも彼も高利貸ばかりですがね。そこでわたしは辛抱しぬいてみたいんです。この場合、しまいまで持ちこたえるということが肝要なのです、――問題はことごとくそこにかかっています。プチーツィンは十七年間往来に寝ながら、ナイフなんか売って一コペイカから積んでいったのです。目下あの男は六万ルーブリの財産家ですが、それはずいぶん激しい体操をやってからのことです。で、わたしはこの体操のほうはすっかりぬきにして、いっきょに資本から活動を始めます。十五年もたったら、『あれがユダヤ王のイヴォルギン』だと、人からいわれるようになってお目にかけましょう。あなたはいまわたしのことを独創のない人間だとおっしゃいましたね。ねえ、公爵、考えてみてください。現代の人間にとって、おまえは独創もなければ、性格も弱い、これという才能もない、平凡な人間だといわれるくらい、腹の立つことはありません。あなたはわたしをれっきとした悪者の数にも入れてくださらなかった。うち明けていうと、さっきあなたを取って食いたいほどでしたよ。あなたはエパンチン将軍以上にわたしを侮辱しました。エパンチン将軍はわたしを目して(べつに深い考えも悪い企みもない、ただ単純な心持ちからですがね)、自分の妻をすらあの人に売ることのできる男だ、などと考えてるんです。こいつが以前からしゃくにさわってたまらないから、わたしはいっそ金でも取ってやれという気になったのです。金でももうけたら、わたしはうんと思いきって独創的な人間になりましょうよ。金というものがなによりも卑劣でいまわしいゆえんは、人間に才能まで与えてくれるからです。ええ、そうですとも、世界の終わりまで与えてくれます。あなたはすべてそんなことは子供じみた、一種の詩にすぎないとおっしゃるかもしれないが、仕方がありません。それならそれで、わたしはいっそう愉快なんですから。理屈はどうだろうと、ことはとにかく成就されますよ。しまいまで持ちこたえて辛抱します。Rira bien qui rira le dernier(最後に笑うものがいちばんよく笑う)ですよ! なぜエパンチン将軍がわたしを侮辱するか、あなたご存じですか? 意地悪のためだとお思いですか? けっして! 単にわたしがあまりやくざだからにすぎません。ところでと、そのときは――いや、もうよしましょう、それに食事時分です。コーリャがさっきから、もう二度ばかり顔をのぞけました。あなたに飯を知らせてるんです。わたしはちょっと出かけます。またときどきおじゃまにあがりますからね。あなたもわたしどもへ見えて、あまりいやな気持ちはなさらんでしょう、――これからは皆、あなたを親身として取り扱いますから。いいですか、背負投げを食わしちゃいけませんよ。なんだか、わたしとあなたは親友でなければ、敵同士になるような気がしてなりません。もしさっきわたしが手を接吻したら(あのとき真底からいいだしたんですが)、そのためにあとであなたの敵となったでしょうか、どうお考えです、公爵!」
「きっとなりましたね、しかし永久にではありません、やがてそのうちにたまらなくなって、ゆるしてくだすったでしょう」しばらく考えてから笑いながら、公爵はこう断定した。「おやおや! あなたはよっぽど警戒しなくちゃならんぞ。こんなところにまで毒を注ぎこむんだもの。だが、じっさいわかりませんよ、あなたはわたしにとって仇敵かもしれないですからね。結局、好都合でしょうよ、ははは! あ、忘れてた、あのナスターシヤさんですね、ずいぶんお気に召したように見えましたが、違いますか、え?」
「ええ……気に入りました」
「ほれこみましたか?」
「い、いいえ」
「でも、まっかになって、もがいていられるところを見ると……いや、なんでもありません、なんでもありません。もう笑いませんよ。さようなら。ああ、そうだ、あの人はねえ、あの人はねえ、あれでなかなか品行方正の婦人ですよ。あなたほんとうにしませんか? あの人がトーツキイといっしょに暮らしていると思いますか? けっして、けっして! それもずいぶんまえからです。お気がついたでしょうが、あの人はおそろしく間が悪いというふうで、どうかするとすっかりまごついてたじゃありませんか! ほんとうです。こんなふうの女がえていばりたがるもんです。では、失礼!」
 ガーニャは入ったときよりもだいぶうち解けて、上機嫌で出て行った。公爵は十分間ばかり身動きもせずに、じっと考えこんでいた。 コーリャがふたたび戸のあいだから頭をのぞけた。
「コーリャ君、ぼくは今なんにもほしかありません。さっきエパンチン将軍のとこでうんと食べて来たんです」
 コーリャはすっかり戸の中へ入って来て、公爵に紙きれを渡した。それは将軍からの手紙で、きちんと畳んで封がしてあった。この紙きれを渡すのが、コーリャにとって非常に苦しい役目だということは、その顔つきからありありと読まれた。公爵は読み終わるや、立ちあがって帽子をとった。
「じきそこなんですよ」とコーリャはもじもじしながらいいだした。「おとうさんは今お酒を飲んでるんですが、どうして信用借りなんかできたか、――ほんとに不思議ですね。ねえ、公爵、後生ですから、ぼくが手紙をあなたに取り次いだなんて、うちの人にいわないでくださいよ。もうこんな手紙は取り次がないって、いくど約束したかしれないんですけど、でもやっぱりかわいそうなんですもの。ああ、それからねえ、どうぞおとうさんに遠慮しないでください。いくらか申しわけほどやってくだすったら、それで片がつくんですから」
「コーリャ君、ぼくも自分で考えることがあったんです。その……ちょっとした用事で……おとうさんにお目にかかりたかったんです……さあ、出かけましょう……」

      12

 コーリャは公爵を、ほど遠からぬリテイナヤ街のカフェー兼ビリヤードへ案内した。それは、とある建物の階下を占めて、往来からすぐ入れるようになっている。その家の右手の隅に小さく仕切られた部屋の中で、古くからのお得意といった様子で、イヴォルギン将軍が陣取っていた。酒壜の載っかった小テーブルを前に控え、手にははたして『アンデパンダンス・ベルジュ』を持っていた。彼は公爵を待ちもうけていたのである。公爵の姿を見つけるやいなや、彼はすぐ新聞をわきへ押しやって、熱心にくどくどと言いわけをはじめたが、公爵にはなにひとつ腑に落ちなかった。というのは、将軍がもういい加減きこしめしていたからで。
「十ルーブリといってはちょうど持ち合わせがありません」と公爵はさえぎった。「ここに二十五ルーブリ紙幣《さつ》が一枚だけあります。これをくずして十五ルーブリおつりをください。でないと、ぼくまで一文なしになっちまいますから」
「ええ、そりゃそうでしょうとも。ご安心なさい、もう即刻……」
「ぼくはそれにひとつお頼みがあるんですがね、将軍。あなたは今まで一度も、ナスターシヤさんのとこへいらしったことがありませんか?」
「わしがですか? わしがまだ行ったことがないかって? あなたはわしに向かってそんなことをおっしゃるんですかね? どうして、なんべんも行きましたよ、あなた、なんべんも?」勝ち誇ったような得意げな皮肉の発作に襲われて、将軍は叫んだ。「だが、わしは結局、自分のほうから関係を断ちました。なぜといってごらん、不都合な結婚に賛成するわけには行きませんでな。あなたごらんでしたろう、けさのていたらくを自分で目撃しなすったろう。あのとおりに、わしは父親としてできるだけのことをしました。父親といっても温良にして謙抑な父親でした。しかし、もうこうなっては、ぜんぜん別種な父親が舞台へ現われなくちゃならん。まあ、そのときはどうするか見てるがいい、名誉ある老将が奸計を粉砕するか、破廉恥な売笑婦《カメリヤ》が高潔なる家庭へ乗りこむか」
「お頼みというのはほかでもありません。あなたは古い知人として、ぼくを今晩ナスターシヤさんのとこへ連れてってくださいませんか。どうしても今晩でなくちゃならないんです。用事があるのです。ところが、どんな具合にして入ったらいいか、まるでわからないで困っています。ぼくさっき紹介はされましたが、でもやはり招待されたわけじゃありません。なにしろ今夜は夜会があるんですからね。けれども、ぼくすこしくらいの礼節は飛び越える覚悟でいます。笑われたってかまいませんから、どうにかして入りこみたいのです」
「あんたはぜんぜん、ぜんぜんわしの考えに一致しましたよ、公爵」と将軍は、有頂天になって叫んだ。「わしは、こんなくだらん用事であなたをお呼びしたのじゃない」といいながら、やはり金をつかんで、ポケットヘ納めた。「わしがあんたをお呼びしたのは、ナスターシヤに向かう遠征隊、というよりむしろナスターシヤを襲う遠征隊の仲間入りをしていただこうと思ってですよ! イヴォルギン将軍、ムイシュキン公爵! こう出たら、あの女どんな気がするだろう! わしは誕生日のお祝いというふうに見せかけて、きょうこそ自分の考えを存分に吐露する。それも横のほうからそおっと持ってまわるので、まっこうからじゃないがね。でも、まっこうからいうのと同じようにやりますよ。そうしたらガーニャも、いかに自分の処置をつけるべきかがわかる。名誉ある父親が……その……なんですなあ……それともまた……しかし、おこるべきことはどうしてもおこるんだ! あんたの考えはかならず効果を奏しますな。九時ごろに出かけましょう。まだ時間はあるから」
「あの人はどこに住んでいます?」
「ここから遠いですよ。『大劇場』のそばでね、ムイトフツォーヴァの持ち家です。二階《ベルエタージュ》にいます、ほとんど広場のすぐ前です……誕生日といっても、きょうはたいしてりっぱな夜会じゃありますまいよ、客は早く帰ってしまいます……」
 もう日はとっくに暮れていた。公爵はやはり腰をかけたまま、将軍の話を聞きながら待っていた。将軍は数えきれないほどのアネクドートをはじめたが、一つとしてけりをつけたのはなかった。公爵が来てから、彼はあらたにひと壜注文したが、一時間もたってやっと飲み終わると、さらにまた一本命じた。やがてそれも飲みほした。将軍はその間に、ほとんど自分の全生涯を語りつくしたかとさえ思われた。ついに公爵は立ちあがり、このうえ待つわけに行かぬ由を告げた。将軍は最後の残滓《おり》まで飲みほして腰を上げ、はなはだ危なっかしい足どりで部屋を出た。公爵はすっかり絶望してしまった。こうまで愚かしくこんな人を信用した自分の心持ちがわからなかった。じつのところ、彼はけっして信用したわけではない。ただ、どうかしてナスターシヤのところへ入りこむためには、すこしくらい不体裁をしでかしてもかまわぬつもりで、将軍を当てにしたのである。しかし、あまりひどい不体裁は当てにするわけに行かなかった。将軍はぐでんぐでんに酔っぱらって、おそろしく雄弁になり、胸中暗涙うかぶといったような情のこもった調子で、やみまなしに語りつづける。そのやみまない話のテーマは、すべて家族のよがらぬ行ないのために何もかも崩壊してしまったこと、こういう状態もいいかげんにきりをつけるときが来た、などということであった。ふたりはとうとうリテイナヤ街へ出た。いぜん雪解けがつづいて、うっとうしい、腐ったような、なま暖かい風が街をひゅうひゅう吹きすさんだ。馬車はぬかるみにはねを上げ、駿馬もやくざ馬も、音高く蹄鉄を敷石に鳴らした。徒歩の人はうっとうしいじめじめした群をなして歩道をさ迷っていた。酔漢もその中に見受けられた。
「ごらんなさい、この明りのついた二階《ベルエタージュ》を」と将軍がいいだした。「この中にはみんなわしの仲間の連中が住んでいるのですぞ。ところがわしは、-だれよりもいちばん長く勤め、だれよりもいちばん余計に苦労したわしは、こうして徒歩で『大劇場』さして、どこの馬の骨ともしれぬ女のところへとぼとぼ歩いて行く。胸の中に弾丸を十三もった男……といってもほんとうになさるまい。ところが、かつてピロゴーフ(有名なロシヤの外科医、軍医)が、ただただわしのためにパリヘ電報を打って、包囲されたセヴァストーポリを一時放棄したです。すると、ネラトンというパリの侍医が、科学のためという理由で自由通過の運動をして、包囲されたセヴァストーポリヘわしを診断に来たですよ。このことはずっと上のほうにも知られていましてな、『ああ、それは弾丸を十三、胸に持っている、あのイヴォルギンか!………』と、こんなふうにいいますて! 公爵、ちょっとこの家をごらんなさい。ここの二階にわしの古い友達で、ソコローヴィチという将軍が住んでいる。人数が多いが、なかなか上品な家庭ですよ。この家のほかネーフスキイ(ペテルブルグの目抜き通り)に三軒、モルスカヤ街に二軒、これが目下におけるわしの知人の全サークル、というのはわし一個の知人をさすのですぞ。ニーナはもうとうからあきらめているけれど、わしは今だにやはり思い出す……いや、その、今でもわしを尊敬してくれる旧友や部下などの、教養ある社会で休息しているようなわけですよ。このソコローヴィチ将軍は(しかし、わしはだいぶ長くご無沙汰している、アンナ・フョードロヴナにもしばらくお目にかからん)……なあ、公爵、どうも自分で来訪の客に接しないと、なんだか自然とよそへ行かなくなるものでしてな。それはそうと……ふむ! あんたはなんだかほんとうになさらんようですね……しかし親友の、竹馬の友の忘れがたみを、この美しい家庭へ紹介しないわけに行かん。イヴォルギン将軍とムイシュキン公爵か! それにあなた、りっぱなお嬢さんを見られますよ。ひとりきりじゃない、ふたり、いや三人、みんな首都の花、社交界の花ですぞ。器量、教育、傾向……婦人問題、詩、――これらが色とりどりに美しくまじり合ってるんだからね。また婦人問題、社会問題がどうあろうと、けっしてじゃまにならぬ持参金のことは言わずもがな。これがひとりずつに現なまで八万ルーブリ……つまり、わたしはどうしても、是が非でもあんたを紹介する義務がある。イヴォルギン将軍、ムイシュキン公爵! こいつあ……ききめがあるぞ!」
「今? すぐにですか? でも、あなたお忘れになりは……」公爵がいいだした。
「いいですて、いいですて、忘れやしません、行きましょう! ここです、この壮麗なる階段がそうなんです。や、こいつは驚いた、どうして門番がおらんのだろう、しかし……祭日だから、門番もどこかへ行ったと見える。まだ、あの酔っぱらいを追ん出さないで使っているのだ。このソコローヴィチというのは家庭の幸福、勤め向きの好運、ことごとくわしのおかげで手に入れたんですぞ。わしひとり、ほかにだれもおりゃしません。ところで……もうここがそうです」
 公爵はもうこの訪問に対して言果を返そうともせず、ただ将軍の心をいらだたせぬよう、おとなしくあとからついて行った。彼は心の中で、今にソコローヴィチ将軍もその家庭も、しだいに蜃気楼のごとく蒸発してしまい、実在のものでないことがわかり、自分たちもゆうゆうと階段をおりて、引っ返すことができるに相違ないと確信していた。けれど、恐ろしいことに、彼はしだいにこの確信を失いかけたのである。将軍はじっさいここに知人を持っている人のような態度で、階段を上へ上へと公爵を導いた。そして、数学的な正確さにみたされた、伝記的、地誌的の詳細をたえず話しつづけるのであった。ついにふたりは二階《ベルエタージュ》へ登り着いて、向かって右側にあるぜいたくな住まいの戸口に立ちどまった。将軍が呼鈴の手を握ったとき、公爵はとうとう逃げ出しにかかった。が、とある一つの奇妙な事柄が、いっとき彼の足をとめた。
「将軍、あなた間違っていらっしゃいますよ」と、彼は注意した。「戸の上にはクラコフと書いてあります。だって、あなたはソコローヴィチさんを訪問なさるんでしょう」
「クラコフ?………クラコフなんて、なんでもありゃしません。ここはソコローヴィチの住まいです。わしはソコローヴィチを訪ねていますとも。グラコフなんか唾でもひっかけてやるがいい、……ほら、あけました」
 じじつこのとき戸が開いた。そうして、侍僕が首をのぞけて、「だんながたはお留守でございます」と告げた。
「残念だ、じつに残念だ、まるでわざとのようだ」遺憾に琺えないといったふうに、アルダリオン将軍は幾度となくくりかえした。「おい、きみ、よくいっといてくれたまえ、イヴォルギン将軍とムイシュキン公爵が、心からの敬意を表明しようと思ってまいりましたが、じつにじつに残念でしたとな……」
 このとき戸の隙間からもう一つ顔がのぞいた。この家の女執事か、あるいは家庭教師かとさえ思われる黒い服を着た四十恰好の女である。イヴォルギン将軍とムイシュキン公爵の名を小耳にはさんで、好奇心と疑惑の念にかられて出たのである。
「マリヤ・アレタサンドロヴナはお留守でございます」特に将軍の様子をじろじろ見まわしながら彼女はいった。「お嬢さま……アレクサンドラ・ミハイロヴナとごいっしょに、おばあさまのところへお出かけになりました」
「じゃ、アレクサンドラ・ミハイロヴナもご同道で、いやはや、なんたる不運でしょう! お察しください、あなた、いつでもわたしのうかがうときはこうなんですよ! どうかくれぐれもよろしくお伝えください。またアレクサンドラ・ミハイロヴナには、その……つまり、木曜日の晩ショパンのバラードが響いているところで、わたしに申してくだすったと同じことを、真底から望んでいたとおっしゃってください。きっと思い出しなさる……わしが真底から望んでいたと! イヴォルギン将軍にムイシュキン公爵です!」
「さよう申しますで」ようやく疑いをはらしかけた女は、こういって会釈した。
 階段をおりながら将軍は、まださめきらぬ熱をもって、留守のために公爵がりっぱな知人を失ったことを、かえすがえすも残念がった。
「いったいわしはいくぶん詩人の性情をもってるほうだが、あんたお気がつかれなかったですか。しかし……しかし、どうもわれわれは違ったとこへ入ったらしい」将軍はふいに思いがけなく、こんなことをいいだした。「わしは今おもい出したが、ソコローヴィチは目下ぜんぜんべつの家に住んでおりますよ。そうだ、モスクワにいるらしい。そう、わしは少少おもい違いをしていましたよ。が、そんなことは……どうでもよい」
「ぼくはただ一つうかがいたいのですが」と公爵は元気のない声で注意した。「ぼくはもうあなたを当てにするのはさっぱりとあきらめて、ひとりで出かけなくちゃならんのでしょうか?」
「あきらめて? 当てにするのを? ひとりで? だが、なんだってそんなことを? これはわしの全家族の運命が大部分かかっている大きな仕事じゃありませんか。いや、公爵、あんたはイヴォルギンをよくごぞんじないんだ。イヴォルギンというのは、『鉄壁』というのと同じことだ、イヴォルギンに依頼したら、鉄壁によりかかったようなものだと、はじめ奉職した中隊時代から、わしはこういわれたもんですぞ。ところで、わしはちょっと一分間ばかり、ある家へ寄り道をして行きたいんですがね。それはもう何年かのあいだ、心配ごとや苦労のあったとき、わしのこころが休息するところでね……」
「あなた家へお帰りになりたいのですか?」
「いいや! わしは……チェレンチェフ大尉夫人のとこへちょっと……もとわしの部下というよりむしろ親友だったチェレンチエフ大尉の未亡人でな……この大尉夫人のところでわしは精神的に復活するんです、ここへ生活上や家庭内の苦しみを捨てにくるんです……そこで、きょうわしは堪えがたい心の重荷を背負っておるので、つまりその……」
「ぼくはそれでなくてさえ、先刻あなたにご迷惑をかけたりなんかして、たいへんばかなことをしたような気がします。それに今あなたは……じゃ、ごめんなさい!」と公爵はつぶやくようにいった。
「だが、わしはどうも、どうも今あんたを手放すことができんですよ、公爵」と将軍は叫んだ。「その未亡人は子供もだいぶあるけれど、わしの全存在に響きわたるような微妙な琴線を、その心の中からくり出してくれるんです。訪問といったって、わずか五分間ばかり、わしはそこにいるときはちょっとも遠慮がなくて、ほとんどわが家のようなもんです。顔でも洗って、ぜひ必要な身じまいをして、それから辻馬車で『大劇場』へ向けて出かけるとしましょう。いや、ほんとのことです。わしは今夜じゅう、あんたに付き添うていただかんけりゃならんのです……そら、その家です。もう着きました。おや、コーリャ、おまえはもうここへ来てるのか? どうだ、マルファ・ボリーソヴナは家かな、それともおまえもいま来たばかりか?」
「いいえ、違います」ちょうど家の門前で、ふたりにばったり行き会ったコーリヤは答えた。「ぼく、ずうっと前からここへ来て、イッポリートと話してたんです。きょうはだいぶわるくって、朝から寝たっきりなんですよ。ぼくはいまそこの店までカルタを買いにおりて来たところです。マルファおばさんが待ってますよ。だけど、おとうさん、あなたはまあなんてふうでしょう!………」と、将軍の歩きぶり、立ちぶりをじっとながめながら、コーリヤはいった。「まあ、仕方がありません、行きましょう!」
 コーリヤにめぐりあったことは公爵をして、このマルファ・ボリーソヴナのもとへも将軍に同道しようという気にならせた。ただし、それもほんのちょっとである。公爵はコーリヤに用があったのである。将軍だけはどんなことがあっても思いきらねばならぬ、と彼は心に思い、先刻この人に望みをかけたことを、われながらゆるしがたいと思った。三人は裏階段を伝って、えっちらおっちらと四階をさして登って行った。「公爵を紹介するつもりなんですか?」とみちみちコーリャがたずねた。
「ああ、そうだよ、紹介してあげようと思ってね。イヴォルギン将軍にムイシュキン公爵さ。しかし、なには……どうだね……マルファおばさんは……」
「ねえ、おとうさん、あなたまったくいらっしゃらないほうがいいですよ! 取って食われますよ! きょうでもう三日も顔出しなさらないでしょう、ところが、おばさんはお金ばかり待ちかねてるんです。なんだっておとうさん、お金なんか約束するんです? いつもいつもそうなんですもの! 今度こそ、のがれっこなしですよ」
 四階に登り着くと、彼らは、とある低い戸の前に立ちどまった。将軍は見るから気おくれがしたらしく、公爵を前のほうへ押しやるのであった。
「わしはここへ残っておりますよ」と彼はへどもどした声でいった。「わしはふいの贈り物を一つ用意したいから……」
 コーリャが先頭に立って入った。とほうもなく白く塗り立てて頬紅までさし、短上着を着て上靴をはいた妙な女が、戸口から首をのぞけた。年のころ四十ばかり、頭を小さなさげがみに結っている。これで将軍の『贈り物』も水泡に帰した。女は彼の姿を見つけるが早いか、いきなりどなりだした。
「ああ、この卑怯者の意地悪め、どうも虫が知らせたと思?だ!」
「さあ、入りましょう。こりゃあただ、その……」将軍はいぜんとして、罪のない笑いかたをしながらつぶやいた。 しかし『ただその』ではなかった。天井の低い薄暗い控室を抜けて、半ダースばかりの籘いすと二脚のカルタづくえの並べてある狹い客間に入るやいなや、女主人はなんだか取って付けたような、泣きだしそうな、癖になった調子でののしりつづけるのであった。
「よくもまあ、あんたは恥ずかしくないもんだ。野蛮人、ひとの家を荒らす極道者! 野蛮人、きちがい! 汁も残さずかっさらって、それでもまだ承知しないのだ。どれだけあんたのために苦労したらいいのですよう? ほんとにずうずうしい恥知らず!」
「マルファ、マルファ! これは……ムイシュキン公爵だ。イヴォルギン将軍にムイシュキン公爵」度を失ってびくびくしながら将軍はつぶやいた。
「まあ、あなた、聞いてくださいな」とふいに大尉夫人は公爵のほうへ向いた。「まあ、あなた聞いてくださいな、この恥知らずは、頼りないわたしの子供たちさえかわいそうと思わないで、ありったけかっさらって、ありったけ持ち出して、洗いざらい売ったり質においたりしてしまったんですよ。なにひとつ残っちゃおりません! ねえ、あんたの借用証文がなんの役に立ちます、ほんにあんたはずるい不人情な人だ! 返事をしなさい、意地悪、返事しなさいってば、ごうつくばり、どうして、いったいどうしてわたしはたよりない子供たちを養って行くんですかよう? ほうら、ぐでんぐでんに酔って足も立ちゃしない……いったいわたしは何をして神さまのお腹立ちに触れたんだろう? 見るのもけがらわしい意地悪、返事しなさいってば!」
 しかし、将軍はそれどころの騒ぎでなかった。
「マルファ、さ、ここに二十五ルーブリある……この高潔なる親友のご助力でもって……それ以上はとても手に合わぬ。公爵、わしはおそろしい思い違いをしとりましたよ! 人生とは……かくのごときものなり……がもう……ごめんなさい、わしはどうも弱くてな」部屋の真ん中に立って、四方八方へお辞儀をしながら、将軍はいいつづけた。「わしはどうも弱くて、ごめんなさい! レーノチカ! まくらを……な、いい子だ!」
 今年八つになるレーノチカという女の子は、さっそくまくらを取りに駆け出したが、それを持って来ると、ぼろぼろに破れた油布張りの固い長いすの上に置いた。将軍はまだまだうんと話す気ですわったが、長いすに届くか届かないうちに、すぐさま横になり、壁のほうへくるりと向いたなり、正直者にしかできないような寝かたで寝入ってしまった。マルファ・ボリーソヴナは慇懃に悲しげに、カルタづくえのそばのいすを公爵に指さして、自分もその向かいに腰をおろし、片手で右の頬を支え、じっと公爵をながめながら、言葉もなく溜息をついた。三人の子供たちは(ふたりは女、ひとりは男の子で、レーノチカがいちばん年上である)テーブルに近づいて、三人一様に手をその上に載せ、同じく三人一様に瞬きもせず公爵をながめまわしていた。次の間からコーリャが出て来た。
「ぼくはね、コーリャ君、ここできみと会ったのをとても喜んでいるんですよ」と公爵は彼に声をかけた。「ぼくを助けてくれませんか? ぼくはどうあっても、ナスターシヤさんのとこへ行かなけりゃならないんです。さっきおとうさんにお願いしたんですが、このとおり休んでおしまいなすったから、きみひとつ案内してくれませんか。ぼくは街も知らなければ道も不案内です。もっとも、ところはわかっています。『大劇場』のそばで、ムイタフツォ・ヴァの持ち家です」
「ナスターシヤさんが? いいえ、あの人は一度も『大劇場』のそばなんかにいたことありませんよ。それにおとうさんは、もしなんなら申しあげますが、まだナスターシヤさんのとこへ行ったこともないんです。いったいあなたがおとうさんをなにかの頼りになさるって、不思議なこってすねえ。あの人はヴラジーミルスカヤ街に近い、ピャチ・ウグロフ(五つ辻)の辺にいますが、このほうがずっと近いです。今すぐにですか? いま九時半、じゃ、ご案内しましょう」
 公爵とコーリャはさっそくそとへ出た。が悲しいかな? 公爵は辻馬車を雇おうにも、一コペイカの持ち合わせもなかったので、ふたりは徒歩で行かなければならなかった。
「ぼく、あなたをイッポリートに紹介したいと思ってたんです」とコーリャがいった。「というのは、あの短上着のおばさんの長男です。いま次の間にいました。からだのあんばいが悪いもんだから、きょうは一日寝てたんです。だけど、ずいぶん奇妙な男で、やたらに怒りっぽいんですよ。今もなんだか、あなたがあんな時にいらしったもんだから、あなたにたいして気まり悪がるでしょう……ぼくなんか、そうたいして気まりが悪くもありませんよ。なぜって、ぼくのほうはおとうさん、イッポリートのほうはおかあさんですからね、どうしてもどこかに相違がありましょう。だって、男性にとってはあんな場合、不名誉ってものがないんですもの。でも、この両性の見解については、偏見があるかもしれません。イッポリートなどはほんとうにいい男なんだけど、やっぱりなにかと偏見の奴隷になっているところがあります」
「きみ、その人は肺病だと言いましたね?」
「ええ、いっそ早く死んじまったほうがいいんです。ぼくがあんな具合になったら、きっと死ぬことを望みますよ。ただ、イッポリートは弟や妹たちがかわいそうなんですって、ほら、あの小さな人たち、ね、もしできることなら、もし金が手に入ったら、ぼくらは別に家を借りて、家庭なんてものをごめんこうむりたいや。これがぼくたちの空想なんですよ。ああ、そうそう、さっきぼくがあなたのことを話したらねえ、イッポリートがひどくかんしゃくをおこしていうんですよ、――横面をぶたれたのをそのまま許して決闘を申し込まないのは卑劣なやつだって。もっとも、べらぼうに怒りっぽいんで、ぼくもあの男と議論するのはもうよしちゃいました。ああ、そうだ、じゃ、なんですね、ナスターシヤさんがさっそくあなたを招待したんですね?」
「それなんですよ、招待したんじゃないんです」
「えっ、それだのに、どうしていらっしゃるんです?」とコーリャは叫び、歩道の真ん中で歩みをとめた。「それに……そんな着物で、きょうは招待された人だけの夜会なんでしょう?」
「いや、じっさいどうしてはいっていいか自分でもわからないんです。通してくれれば結構だし、でなければ、――つまり、無視されたというまでのことです。また着物の点にいたっては、なんとも仕方がありませんよ」
「あなたなにか用がおありになるんですか。それともただ『上品な人たち』のあいたでpour passer le temps(時を過ごすため)なんですか?」
「いいえ、ぼくはつまり……その、ぼくは用事で行くんで……どうもなんといっていいかむずかしいけれども、しかし……」
「まあ、どんな用事でいらっしゃろうとご勝手ですが、ぼくとしては、あなたが、ただ単純に娼婦だの、将軍だの、高利貸だのの華やかな夜会へ、むりやりに押しかけて行くのではない、ということを確かめたいんです。もしそうだったら、失礼ですが、ぼく、あなたの愚を笑います、そしてあなたを軽蔑します。だって、ここには潔白な人がおそろしく少なくって、だれひとり尊敬するに足るものさえないんですからね。で、しようがないから、こちらがいきおい尊大になるでしょう。するとまた彼らは尊敬を強請するのです。ヴァーリャがその随一です。公爵、あなたもお気がついたかしれませんが、現代の人間はみんな山師ですね! しかも、それが、ロシヤにおいてです、わが愛すべき祖国においてです、どういうわけでそんなことになったか、それはわかりません。もとはしっかりした足場に立っていると思ったのに、今のありさまはどうでしょう? これはじっさいみんなが口をそろえていってることです。いたるところで書いたり、摘発したりしてることです。ロシヤ人はだれでもみな摘発するのが好きなんですよ。だいいち、親たちがさきに退歩的になって、自分たちが前に説いた道徳を恥じてる始末ですもの。現にモスクワのある人が息子に向かって、金儲けのためには何ものにも譲歩してはならぬと教えたって、新聞に書いてありましたよ。うちの将軍だってごらんなさい。まあ、なんて人間になったものでしょう! だけどもねえ、公爵、うちのおとうさんは潔白な人だと思います。ええ、ほんとうですよ! あれはただ不規律な生活と酒がわざわいしてるんです。ええ、ほんとうですとも! ぼく、むしろ気の毒なんです。でも、笑われるのがいやだからだれにもいいやしません。けれど、ほんとうに気の毒なんです。ところで、あの利口な人たちの正体はなんでしょう! 高利貸です、みんなひとりのこらず。イッポリートは、高利貸もいいと言うんですよ。――それも仕方がない、経済界の激動だの、なんとかの潮の満干だの、なんだのかだのって、ばかげたことばかり。ぼくあの男のことでは、これだけがしゃくにさわってしようがないんだけど、向こうでも意地になっているんですね。それはそうと公爵、イッポリートのおかあさん、あの大尉夫人ときたら、おとうさんから金をもらっては、それをまたおとうさんに高利で貸し付けるんですよ。なんて恥ずかしい欲張り根性でしょう!ところがねえ、おかあさん、――その、うちのおかあさんです、将軍夫人は、――イッポリートに金やら、着物やら、肌着類やら、いろんなものを贈ってるうえに、イッポリートを通じて子供たちまで補助してやっているんです。なぜって、あの家ではだれも子供なんかかまってやらないんですもの。姉さんもやっぱりそれをしています」
「ほらごらんなさい。きみは潔白な人も強い人もない、人間はみな高利貸だっていうけれど、現にきみのおかあさんにヴァーリャさんという、強い人がいるじゃありませんか。ここで、こんな事情のもとにいて他人を助けるのは、精神的な力のしるしじゃないでしょうか?」
「ねえさんは見栄からやってるんですよ。おかあさんに負けまいという慢心からです。ええ、おかあさんはまったく……ぼく尊敬しています。尊敬もすれば、いいことだとも思っています。イッポリートさえもそれを感じてる様子です。でも、これについてははじめずいぶん憤慨したもんですよ。おかあさんのやり口が卑劣だって、冷笑していました。しかし、このごろになって、ときどき感じだしたらしいんです。ふむ! じゃ、あなたはこれを力とおっしゃるんですね? ぼくもそう思います。ガーニャはまだ知らないけれど、もし知ったら偽善だって言うでしょうよ」
「ああ、ガーニャさんは知らないんですか? ガーニャさんはまだまだ知らないことが多いらしい」思い沈んでいた公爵はわれともなしにこういった。
「ねえ、公爵、ぼくあなたが大好きですよ。さっきのできごとをぼくどうしても忘れることができない」
「ぼくもきみが大好きですよ、コーリャ君」
「あなたはここでどんなふうに暮らすおつもりですか? ぼくは今に自分で仕事を見つけて、いくらか稼ぎますからね。ぼくとあなたとイッポリートと三人で家を借りて、いっしょに暮らそうじゃありませんか。おとうさんもこっちへ引き取ってね」
「ぼくは大賛成ですとも。しかし、どうなりますかねえ。ぼくは今おそろしく……おっそろしく頭が乱れてるから……え? もう着いたんですか? この家に……なんというりっぱな車寄せでしょう! そして玄関番も。だけど、コーリャ君、いったいどうなることやら見当がつきませんよ」
 公爵はとほうにくれたようにたたずんだ。
「まあ、あしたお話を聞かせてください! あんまりびくびくしちゃいけませんよ! どうかうまくやってくださいな。ぼくはすべての点であなたと信念を同じゅうしてるんですから。さようなら。ぼくはまたあすこへ引っ返して、イ″ポリートにすっかり聞かしてやります。それから、通してくれるかどうかってことなら、けっして心配はいりません。通してくれるに決まってます! あの人はとっても奇抜な女ですから。この階段を上がってはじめての層《エタージ》です、玄関番が案内してくれますよ」

      13

 公爵は階段を登りながらも不安でたまらず、ありたけの力を出して、自分で自分を励ました。『十のうち九分までは』と彼は考えた。『通してくれないだろう。そして、なにかぼ