『ドストエーフスキイ全集8 白痴 下 賭博者』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP049-096

に輝きはじめた。「いや、公爵、じつに偉大な光景でしたよ! まったくわしはすんでのことで、彼についてパリヘ行ってしまおうとした。そして、もちろん、『暑苦しい幽閉の島』へもいっしょに渡りかねなかったが、しかし、――悲しいかな! ふたりの運命は引き分けられた! われわれは別れ別れになったのです。彼は暑苦しい島へおもむきました。そこでは彼もおそろしい憂愁の瞬間に、モスクワで自分を抱きしめ、自分をゆるしてくれた哀れな少年の涙を、せめて一度ぐらい想いおこしたかもしれませんて。ところで、わしはただ規律一点張りで、友人の粗暴な言行よりほか、なにひとつ見いだすことのできない幼年学校へやられました……ああ! すべては塵芥のごとく散りうせてしまいました! 『わしはそちを母の手から奪うことができぬから、いっしょに連れてゆくわけに行かない!』とこう退却の日にいいました。『しかし、わしはそちのために、なにかしてやろうと思う』このとき彼はもう馬にまたがっていました。『わたしの妹のアルバムへ、なにか記念のために書いてくださいまし』ナポレオンが非常に沈んで暗い顔つきをしていたので、わしはびくびくしながらこういったところ、彼は振り返ってペンを命じ、アルバムを取って、『そちの妹はいくつになる?』と、ペンを手にしたままこうきくのです。『三つ』と答えますと、Petite fille alors(かわいい盛りだな)といって、アルバムへ次のように書きました。
  "Ne mentez jamais"     "Napoleon, votre ami sincere"

    けっして虚言を吐くな――なんじの親愛なる友ナポレオン
こんな場合にこんな忠言ですからな。じつになんともいえませんなあ、公爵!」
「そう、まったく意味深長ですね」
「この一葉の紙は金縁の額にガラスを当てて、一生、妹の客間のいちばん目立つ場所にかかっておりました、死ぬるまで、――妹はお産で死んだのです。今はどこにあるか知らんですが……しかし……やっ、大変! もう二時ですな! とんだおじゃまをしまし穴公爵! じつに度しがたい行為ですなあ」
 将軍はいすを立った。
「おお、どういたしまして!」と公爵は口の中でもぐもぐいった。「じつにおもしろいお話で……まったく……どうも愉快でした。ありがとうございます!」
「公爵!」急にある想念に打たれたかのごとく、とつぜんわれに返ったように、ぎらぎらと輝く目で相手を見つめながら、痛いほどその手を握りしめた。「公爵! あなたはじつにいい人だ、あなたはどこまでも正直だ、じっさいときどき、あなたが気の毒になるくらいです。わしはあなたをながめていると、万感が胸に迫ってくるです。おお、神さま、この人を祝福してください! そして、この人の生活がこれからはじまって、愛……の中に花を咲かせるように。わしの生活はもうおしまいになった! おお、ゆるしてください、ゆるしてください!」
 彼は両手で顔をおおいながら、急ぎ足に出て行った。その感奮の真実さを、公爵は疑うわけに行かなかった。とはいえ、老人が自分の成功に酔いながら、出て行ったこともよくわかっていた。それにしても、彼はやはりこんな感じがした。将軍は情欲といってもいいくらい、おのれを忘れてしまうほど、うそを愛するくせに、それでも忘我の頂点に立ったときですら、心の中で、『どうも先方はおれの言葉を信じてるらしくないぞ、いや、信じられるはずがないのだ』とこんな疑いをいだくような、うそつきのひとりであった。今の場合でも、将軍はもしかしたらふとわれに返って、無性に恥ずかしく思ったり、また公爵が自分に限りなき同情をいだいているのではないかと疑って、侮辱を感じたりしたかもしれない。『あの人をあんなにまで夢中にしたのは、惡いことじやになかったかしらん?』と公爵は気づかったが、急にがまんしきれなくなり、十分間ばかり、腹をかかえて笑った。そしてまた、こんなに笑ったりなどする自分を、責めようとしたが、しかしすぐ、なにも責めることはすこしもないと悟った。というのは、彼はかぎりなく将軍が気の毒だったからである。
 彼の予感は的中した。夕方彼は奇妙な短い、とはいえ断固たる手紙を受け取った。その中に将軍は、永久に彼と別れようと思うことや、彼を尊敬しかつ感謝してはいるけれど、その公爵からさえ、『それでなくとも、すでに不仕合せな人間の品格を貶すような同情のしるし』を受けたくないとのべていた。将軍がニーナ夫人のもとに閉じこもったと聞いたとき、公爵は彼のために安心したのである。しかし、前にも述べたとおり、将軍はリザヴェータ夫人のところでも、なにかとんでもないことをしでかした。ここでは詳しいことはぬきにして、この会見の真相を手短にいってみると、彼はリザヴェータ夫人を驚かしたあげく、ガーニャに対する辛辣な当てこすりで、夫人を憤慨さしてしまったのである。彼は見苦しくも、同家を突き出された。つまり、このためにああした一夜を明かして、翌日の朝をあんなふうにすごし、とうとうすっかり脱線してしまって、ほとんど気も狂わんばかりのありさまで、往来へ飛び出したのである。
 コーリャはやはりまだことの真相がはっきりわからないので、いかつい態度でおどしつけることができると考えた。
「え、いったいどこへ行くんです、どういうつもりです、おとうさん?」と彼はいった。「公爵のところはいやだとおっしゃるし、レーベジェフとは喧嘩をなすったし、金も持ってないんでしょう。ぼくんとこには、いつだってあったことがないし、もうわれわれは通りのまん中ですっかり豆の上にすわっちゃった」(豆の上にすわるとは、一文なしになること)
「豆の上にすわるより、豆を持ってすわったほうがいい気持ちだよ」と将軍はつぶやいた。「この……地口で、わしは皆をあっと感心させたものだ……将校仲間でな……四十四……一千……八百……四十四年だった、そうだ!………しかし、よく覚えておらん……ああ、思い出させてくれるな、思い出させて!『わが青春はいずくにありや、わがみずみずしさは今いずく』だ! なんという叫びだろう……だが、これはいったいだれが叫んだのかね、コーリャ?」
「それはゴーゴリの『死せる魂』の中にありますよ」とコーリャは答えて、おずおずと父を横目で見た。
「死せる魂! おお、そうだ、死せる魂だ! わしを葬るとき墓の上に、『死したる魂ここに横たわる!』と書いてくれんか。

   『悪名ぞわれを追うなる!』

これはだれがいったのかな、コーリャ?」
「知りませんよ、おとうさん」
「エロペーゴフがいなかったって! エロシカ・エロペーゴブが!」急に往来に立ちどまりながら、将軍は猛りたってわめいた。「しかも、それが息子の、現在血を分けた息子のいうことなんだ! エロペーゴフは十一か月のあいだわしのために、兄弟の代わりをしてくれた男だ。その男のためにわしは決闘を……ヴィゴレーツキイ公爵というわれわれの中隊長が、酒の席でこの男に向かって、『おい、グリーシャ、きさまはどこでアンナ(勲章)をもらったんだ、ひとつ承りたいもんだな?」とたずねたのさ。すると『わが祖国の戦場でもらったんです』と答えた。わしは大きな声で、『ひやひや、グリージャ!』とどなってやった。まあ、こうして決闘騒ぎがおこったんだ。その後……マリヤ・ペトローヴナ・ス……ストゥギナと結婚したが、とうとう戦場の露と消えてしまった……弾丸は、わしの胸にかけていた勲章に当たって、はね返って、その男の額に命中したのだ。『永久に忘れないぞ!』と叫んで、その場に倒れてしまった。わしは……わしは潔白に勤務してきたんだぞ、コーリャ。わしはりっぱに勤務してきたんだ。しかし、悪名が、――『悪名ぞわれを追うなる!』おまえとニーナは、わしの墓へ参ってくれるだろうな……『哀れなるニーナ』こうわしは以前呼んでいたよ、コーリャ、ずっとまえまだ結婚したばかりの時分だ。あれはほんとうにわしを愛してくれたっけなあ……ニーナ、ニーナ! わしはおまえの一生をなんということにしてしまったのだろう! おお、忍耐づよき心よ、なんのためにおまえはわしを愛することができるのだ! コーリャ、おまえのおかあさんの心は天使のようだ、いいか、ほんとうに天使のようなんだぞ!」
「それはぼくだって知ってますよ、おとうさん。おとうさん、家へ帰って、おかあさんのところへ行きましょう! おかあさんはぼくらのあとを追っかけてらっしゃいましたよ!おや、なんだって立ちどまっちゃったんです? いったいわからないんですか……おや、何を泣いてるんです?」
 コーリャ自身も泣きながら、父の手を接吻した。
「おまえはわしの手を接吻してくれたな、わしの……」
「ええ、そうですよ、おとうさんのです、おとうさんのです。それがなにか不思議なことでもあるんですか? ねえ、いったいなんだって往来のまん中でほえてるんです。それで将軍だの、軍人だのといわれるんですか。さあ、行きましょう!」
「神さま、この可憐なる少年を祝福してください。この子は
けがれたる……さよう、けがれたる老人に対して、自分の父親にたいして、礼儀を失わずにおります……ああ、おまえにもこんな子供ができるだろうが……|ローマ王《ル・ロア・ド・ローム》か……おお、『この家はわしののろいを、わしののろいを受けるんだぞ!』」
「ああ、ほんとうにいったい何ごとがおこったんです!」とコーリャは急にじりじりしはじめた。「いったい何ごとがおこったんです? なぜ今うちへ帰るのがいやなんです? いったい気でもちがったんですか?」
「わしがすっかり聞かしてやる、わしがおまえに聞かしてやる……わしがおまえにすっかり話してやるから、大きな声をするな、人が聞くじゃないか……|ローマ王《ル・ロア・ド・ローム》か……おお、息が苦しい、気分が悪い!

『乳母よ、おまえのお墓はどこにある!』これはいったいがれが叫んだのだ、コーリャ?」

「知りません、だれが叫んだのか知りません! すぐ家へ行きましょう、今すぐ! ぼくガンカをぶんなぐってやります、もし必要があったら……おや、またどこへ行くんですよう?」

 しかし、将軍は最寄りの家の玄関口へ彼をしょびいて行った。
「おとうさんどこへ? これはよその玄関ですよ!」
 将軍は階段に腰をおろして、いつまでもコーリャの手を引
くのであった。
「かがめ、おい、かがめというに!」と彼はささやいた。「おまえにすっかり教えてやるから……なんという悪名だろう……かがめ……耳を、耳を貸さんか、そっと耳うちをするから……」
「いったいなんですか!」とはいえ、やはり耳をさし出しながら、コーリャはひどくおびえた声でいった。
「|ローマ王《ル・ロア・ド・ローム》……」同じく全身をふるわせつつ、将軍はささやいた。
「なんですって! まあ、なんだか知らないが、|ローマ王《ル・ロア・ド・ローム》の一点張りですね……なんですか?」
「わしは……わしは……」しだいに強く『うちの男の子』の肩にしがみつきながら、将軍はふたたびささやいた。「わしは……おまえに……すっかり、マリヤ、マリヤ………ペ・トローヴナース……ス……ス……」
 コーリャは振りきって、今度は自分のほうから将軍の肩をつかみ、狂人のような目つきで父をにらんだ。老人は顔を紫色にして、くちびるも青ざめ、小刻みの痙攣がその顔を走るのであった。そして、だしぬけに前へのめって、静かにコーリャの手に倒れかかった。
「発作だ!」やっと、ことの真相に気づいたコーリャは、町じゅうへ響くような声で叫んだ。
      5

 じっさいヴァーリャは兄との会話で、公爵とアグラーヤの縁談に関する報知を、すこし誇張したのである。あるいは彼女は目ざとい女として、近い将来におこるべきことを洞察したのかもしれないが、あるいは煙のごとく消え散った空想(それはじっさい、自分でも心から信じてはいなかったのだが)を悲しむあまりに、災厄を誇大することによって、兄の心によけい毒を注ぎこんでやろうという、万人共通の痛快な心持ちを平気でなげうつことができなかったのかもしれない。そのくせ、彼女はその兄を心から同情し、愛してはいたのだけれど。しかし、なんであろうとも、彼女が自分の友達であるエパンチン家の令嬢たちからああした正確なしらせを得るというのは、ありそうもないことである。ただ、ほのめかすような言いまわしや、わざとらしい沈黙や、謎や、こんなものがあったばかりだ。しかし、アグラーヤの姉たちもことによったら、かえってヴァーリャのほうからなにか探り出そうと思って、わざとなにかしゃべったのかもしれない。またあるいはふたりの姉がちょっと友達を、――幼なじみの友達ではあるが、――からかってみたいという女らしい快感を、なげうつ気になれなかったのかもわからない。というのは、彼女らとてもあれだけの長いあいだには、ヴァーリャの意図をほんの端っこだけでも、のぞかずにはいられないからである。
 一方、公爵がレーベジェフに向かって、自分はなんにも知らせることができない、自分の身にはまるっきり変ったことは何ごともおこりはしなかったといったのも、まったく正し
いかもしれないが、同時にまた間違っていたかもしれない。実際のところ、すべての人の身の上に、なにか奇妙なことが生じたのである。なにもこれというほどのことはおこらないのだが、同時に非常に多くの変化が生じたようでもある。この現象を、ヴァーリャは持ち前の女らしい本能でかぎつけたのである。
 とはいえ、いったいどういうわけでエパンチン家の人々が、アグラーヤの身に非常な大事がおこって、彼女の運命が決せられんとしていると、急にみながみな、同じように考えだしたか? この問いに対して筋道の立った返答をするのは、しごく困難である。しかし、この想念がとつぜん、一時にすべてのものの心にひらめくやいなや、一同はさっそくこう主張しはじめた。こんなことはもうとうから見抜いていた、ずっと前からちゃんと承知していた、こんなことはもう『貧しき騎士』時代から、いや、もっと前から明瞭であった。ただあの時分はそんなばかばかしい話をほんとうにしたくなかっただけだ、と姉たちも同じように確言するのであった。リザヴェータ夫人はむろんだれよりもさきにすっかり見抜いてしまって、人知れず『胸を痛め』ていた。しかし、とうからにもせよ、そうでないにもせよ、急にこのごろ公爵のことを考えると、ばかに機嫌が悪くなりだした。それはつまり、公爵のことを考えると、何がなんだかわからなくなるからである。彼女の目の前には、ぜひとも解決せねばならぬ問題が横たわっていたが、その解決ができないばかりでなく、哀れな夫人がどんなにもがいてみても、その問題を自分の前へ明瞭に提出することさえできなかった。それはまったくむずかしい仕事であった。『公爵はいい人間か悪い人間か?全体としてこの事件はいいか悪いか? もし悪いとすれば(それは疑いもない話であるが)、どういうところが悪いのか? またもし、いいとすれば(これもまたありそうに思われる)、いったいどういうところがいいのか?』一家のあるじたるイヴァン将軍はもちろんまず第一に面くらったが、しばらくしてとつぜんこんなことを自白した。『まったくのところ、わたしはしじゅう、なにかそんなふうなことが頭の中をちらちらしていたよ。そんなことはない、けっしてないと思いながら、なにかの拍子でぱっとまた心に浮かんでくるのだ!』彼は妻のおそろしいひとにらみのもとにすぐ口をつぐんだ。しかし、朝のうちいったん口をつぐんではみたものの、晩にはまた妻とさし向かいのとき、またしても口をきらねばならぬはめとなって、出しぬけに一種特別な勇気を鼓したように、思いもよらぬ胸中の考えを吐き出した。『だが、ほんとうのところどうなんだろう?・:…・(沈黙)。もしほんとうだとすれば、じつに奇怪千万な話だ、それにはわたしも異存はない、がしかし……(ふたたび沈黙)。しかし、もし別な方面からまっすぐに事件をながめたら、公爵はじっさいめずらしい青年だよ、そして……そして、そして――いや、その、生まれだね、生まれがうちと親戚関係にもなっておる。から、目下零落しておる親戚の名前を維持するという体裁にもなるからね……つまり、世間の目から見て、いや、その見地から見ると、いや、つまり……もちろん世間がだね、世間は世間だ。しかし、なんといっても、公爵もまんざら無財産というでもなし……いや、それもほんのすこしばかりだがね。あの男には、その……その……その(長い沈黙ののち、ついにまったく言葉に窮す)……』夫の言葉を聞いた夫人は、とうとうがまんしきれなくなった。
 彼女の意見によると、このできごとは『ゆるすことのできないばかげた話で、犯罪といってもいいくらいだ。なんだか知らないが、ばかばかしい愚にもつかない妄想だ』というのである。なにより第一、『この公爵どのは病人で、第二に白痴、世間も知らなければ、社会上の地位も持っていない。こんな人間がだれに見せられるものか、どこへ世話ができるものか! なんだか知らないが、あるまじきデモクラートで、おまけに官等を持ってない。それに……それに………ベロコンスカヤのおばあさんがなんというだろう? そのうえ、今まであんな花婿をアグラーヤのために想像したり、さがしたりしたろうか?』この最後の論拠が、もちろん最も重大なのであった。母の心はこれを考えると、血と涙にあふれた。けれども同時に、心の奥のほうでなにやらうごめいて、『しかし、公爵のどんなところがおまえの要求と違っているのだ?』とささやくのであった。こうした自分自身の心の反抗が、夫人にとってなにより苦しかった。
 姉たちはどうしたわけか、アグラーヤと公爵との縁談が気に入って、べつにおかしいとも思わなかった。簡単にいえば、いつの間にかふたりは公爵の味方になっていたのである。しかし、ふたりともなにもいわないことに決めた。この家庭の中では、つねに次のようなことが感じられた。ほかでもない、なにか家族ぜんたいの論争の中心となる事件について、リザヴェータ夫人の反抗と固執とが頑強になればなるほど、かえってそのために、夫人はもう我を折りかけてるのではないか、という疑いを確かめるような具合になるのであった。しかし、アレクサンドラのほうはなんといっても、ぜんぜん沈黙を守るわけに行かなかった。もうずっと前から、母は彼女を相談相手にしているので、今度も絶えず彼女に呼び出しをかけて、その意見、というより、むしろ追憶を要求するのであった。つまり、『どうしてこんなことになったのか? なぜだれも気がつかなかったのか? どうしてあの当時、なんにも話がなかったのか?あの時のいやらしい「貧しき騎士」はどんな意味だったのか? なぜ自分ひとり、万事に心配をしたり、気をつけたり、先を見抜いたりしなければならなくなって、ほかのものはのんきに鳥の数を読んでいてもかまわないのだろう』などと際限がない。アレクサンドラは、はじめのうち大事をとって、ただエパンチン家の娘のひとりに、公爵を夫として選ぶのは、世間の目から見ても惡くなかろうという父の意見は、かなり正確なものだといったばかりである。が、しだいしだいに熱してきて、彼女はこんなことさえいい足した。公爵はけっして『おばかさん』ではない、一度だってそんなふうを見せたこともない。ところが、職業という点にいたっては、いく年かのちのロシヤで相当な人間の使命が那辺に存するか、――これまでのような勤務上の成功か、それともその他の事業か、そんなことは神さまにしかわかりゃしない。これに対して母はすぐさまアレクサンドラに『自由思想だ、そんなことはみな例の婦人問題にすぎない』とやりこめた。それから三十分ののち、夫人はペテルブルグへ出かけた。そしてベロコンスカヤのおばあさんを訪問に、カーメンヌイ島へおもむいた。この人は今ちょうどあつらえたように、ペテルブルグに居合わしたのである(もっとも、すぐモスクワへ帰るはずになっていたが)。『おばあさん』はアグラーヤの教母であった。
『おばあさん』は、リザグェータ夫人の熱病やみみたいな、きちがいじみた告白をすっかり聞き終わったが、とほうにくれた母親の涙にいささかも動かされたふうはなく、むしろあざけるように見つめていた。この女はおそろしい専制君主なので、他人との付きあいに(よしや非常に古くからのものであろうとも)、対等ということはどうしてもがまんできなかった。だから、リザヴェータ夫人をも三十年まえと同じように、自分のprotegee(被保護人)としてながめていたので、夫人の勝気な独立的の気性をゆるすことができなかったのである。彼女はいろいろな意見の中で、こんなことをいった。『どうもあんたがたはみんないつもの癖で、あまり先走りしすぎるようだ。そして、「蠅を象にして」騒いでいるらしい。わたしはどんなに耳をほじって聞いても、あんたの家でほんとうになにか重大なことがおこったとは信じられない。いっそほんとうになにかおこってくるまで、待ってたほうがよくはなかろうか。わたしの考えでは、公爵もれっきとした若い人だ。もっとも病身で変人で、あまり社会上の地位がなさすぎるけれど。しかしなにより感心できないのは、公然と情婦を持っていることだ』リザヴェータ夫人は、おばあさんが、自分の紹介したエヴゲーニイの失敗で、少々中っ腹になっていることを、よく承知していた。彼女は出かけて行ったときより、よけいにいらいらした気持ちで、パーヴロフスクの別荘へ帰って来た。そして、すぐ家のものに八つ当たりをはじめた。その理由は、第一にみんな『気がちがってしまった』、どこだって、ものごとをこんなふうに運んで行くところはありゃしない、うちばかりだというのである。『なんでそんなにあわてるんです? いったい何ごとがおこったというんです? わたしはどんなに目を皿のようにしても、ほんとうになにか変わったことがおこったとは、どうしても思われません! ほんとうになにかおこってくるまで、しばらく待ってらっしゃい! おとうさんの頭にとんでもない考えがちらちらするのは、今にはじまったことじゃない、蠅を象に仕立てあげるのはよしてちょうだい!』といったようなふうである。
 こうなってみると、気を静めて、冷静に観察しながら待っていたらよい、ということになるのだが、しかし、――悲しいかな! 平静は十分間とつづかなかった。平静に対する第一の打撃は、夫人がカーメンヌイ島へ行った留守中のできごとに関する報告であった(リザヴェータ夫人の出京は、公爵が九時と間違えて十二時すぎに訪問したその翌朝である)。ふたりの姉は、母のじれったそうな質問に対して、ことこまかに答えたすえ、『おかあさまの留守中に、けっしてなにもおこりはしなかったのよ』とつけ足した。それはほかでもない、公爵の来訪である。アグラーヤは長いこと、三十分ばかりも出てこなかったが、出てくるやいなや、すぐ公爵に将棋の戦を挑んだ。ところが、将棋のほうは駒の動かしかたも知らなかったので、公爵はすぐアグラーヤに負かされてしまった。彼女はおそろしくはしゃぎだし、公爵の無器用なのをこっぴどくやっつけて、さんざん彼をからかうので、しまいには見るも気の毒なくらいになった。それから、彼女はまたカルタの勝負を申し込んだ。ところが今度はまるで反対の結果を呈した。公爵はカルタのほうで非常な力量を示して、『まるで……まるで大先生のように』達者に戦った。とうとうアグラーヤはずるいことをはじめて、札をすり変えたり、公爵の鼻先で場札を盗んだりしたが、それでも公爵はいつもいつもつづけざまに五度ばかり、アグラーヤを負かしてしまった。彼女はおそろしく向かっ腹を立てて、すっかり前後を忘れ、公爵に向かってひどい当てこすりや、無作法な言葉を吐きだしたので、公爵もついにはもう笑いやめてしまった。彼女が、『あなたがいらっしゃるあいだ、あたしはこの部屋に足踏みしません。それにあんなことのあったあとで[#「あんなことのあったあとで」に傍点]家へ出入りなさるのは、――おまけによる夜中いらっしゃるのは、あなたとして恥ずべきことだわ』といったとき、彼はすっかり顔の色をなくしてしまった。アグラーヤはこういうなり、ばたりと戸をしめて出て行った。公爵は姉たちがいろいろに慰めたけれど、まるで葬式から帰った人のようなふうで立ち去ったのである。
 公爵が去ってから十五分もたったころ、とつぜんアグラーヤが二階から露台へかけおりた。あんまり急いだので、目を拭く間もなかったくらいである。彼女の目は泣きはらされていた。そんなに急いでかけおりたのは、コーリヤが針鼠を持って来たからである。一同はその針鼠をながめた。コーリャは人々の問いに対して、この針鼠は自分のではない、自分はいまひとりの友達、同じ中学生といっしょに歩いているのだと答えた。友達というのは、レーベジェフの息子のコスチヤで、手斧を下げてるのが恥ずかしいといって、家へ入らないで往来で待っているのだ。この針鼠と手斧は、たったいま通りすがりの百姓から買ったのである。百姓はその針鼠を五十コペイカで売った。手斧のほうはふたりの少年が、無理に売ってくれとねだったのである。それはついででもあるし、たいへんいい手斧だったからなので。そのときアグラーヤは、今すぐその針鼠を売ってくれと、ひどく熱心にコーリャに迫った。そして、たしなみも忘れてしまって、コーリャを『かわいい子』とまで呼んだ。こちらは長いあいだうんといわなかったが、とうとう閉口して、コスチヤーレーベジェフを呼びこんだ。コスチャはほんとうに手斧を持ってはいって来たが、すこぶるきまり悪そうな様子であった。ところがだんだん聞いてみると、針鼠はふたりのものでなく、ペトロフとかいう第三の少年の所有に属していることがわかった。この少年は、また別な金に困っている第四の少年から、シュロッセルの歴史を安く買うつもりで、ふたりの少年に金を託して依頼したのである。で、ふたりはシュロッセルの『歴史』を買いに出かけたが、途中がまんできなくなって針鼠を買った。こういうわけで、つまり針鼠も手斧もこの第三の少年のものであり、『歴史』のかわりとして、この少年のところへ運ばれているのであった。しかし、アグラーヤがあまりしつこく迫るので、ついにふたりは針鼠を売ることにした。
 針鼠を手に入れるやいなや、アグラーヤはコーリャの助けを借りて、それを編み籠に入れ、上からナプキンをかけると、コーリャに向かって、今からすぐどこへも寄らないで、針鼠を公爵に届けてほしい、そして彼女の『深厚なる尊敬のしるし』として、受け取ってもらうように頼んだ。コーリャは大喜びで承知して、ぜひ届けますと誓いまで立てた。が、すぐに、『いったい針鼠のような贈り物に、どんな意味があるんです?』とたずねた。アグラーヤは、そんなことはあんたの知ったことじゃありません、と答えた。すると彼は、きっとなにかの諷刺が含まれているに相違ない、といった。アグラーヤはかっとなって、あんたはただの小僧っ子です、それっきりです、と吐き出すようにいった。コーリャはすぐに言葉を返して、もしぼくがあなたを婦人として尊敬しなかったら、そして自分の信念を尊重しなかったら、そんな侮辱に対する返事の仕方を知ってます、それは今すぐにもお目にかけることができます、といった。しかし、とどのつまり、コーリャは大得意で針鼠を持って行くことになった。コスチャもそのあとからかけだした。アグラーヤは、少年があまり籠を振りまわすのを見てたまらなくなり、露台から大きな声で、『後生だからコーリャさん落とさないでちょうだい、いい子だからね!』と、いま喧嘩したのはうそのような調子で叫んだ。コーリャも立ちどまって、喧嘩なぞしたのはだれだといったように大のみこみの調子で、『いいえ、落としませんよ、安心してらっしゃい!』とどなり、またいっさんにかけだした。アグラーヤはそのあとで腹をかかえて笑いながら、大満足のていで、居間へかけこんだが、それから一日じゅう無性にはしゃいでいた。
 この報告は、すっかりリザヴェータ夫人を動顛さしてしまった。ただ見たところ、なんでもないことのようだが、もうすっかりそんな気分になってしまったものとみえ、夫人の心痛は極度に達した。まずなにより気がかりなのは針鼠である。『いったい針鼠になんの意味があるのだろう? どんな符号があるんだろう? いったいなんの意味だろう? なんの合図なんだろう? どんな電報になるのだろう?』そのうえ気の毒にも、偶然その場へ居合わしたイヴァン将軍が、とんでもない返答をして、なおぶちこわしをやったのである。彼の考えによると、電報なんてものはけっしてありゃしない、針鼠は、――『要するに針鼠だ、それだけのことじゃないか。まあ、そのほかに友誼とか、侮辱を忘れての仲直りとか、まあ、それくらいの意味は持ってるかもしれん。つまり、これはただのいたずらだ、ただし罪のないゆるすべきいたずらだよ』
 ちょっと括弧の中で注意しておくが、彼はすっかりほんとうのことをいい当てたのである。さんざん愚弄されてアグラーヤのもとを追い出された公爵は、家へ帰っても、いいようのない沈みきった絶望の中に三十分ばかり過ごしたが、そこへひょっこりコーリャが針鼠を持ってやって来た。と、さっそくくもった空が晴れわたって、公爵はまるで死人が生き返ったようになった。コーリャにいろんなことを根掘り葉掘りして、そのひとことひとことを咀嚼しながら、十ぺんずつぐらい聞きかえすのであった。そして子供のように笑っては、にこにこ明るい目つきで自分を見つめているふたりの少年の手を、絶え間なく握りしめた。つまり、アグラーヤが彼をゆるすということになり、したがって公爵は、今晩すぐにもまた彼女の家へ行ってかまわないことになった。これが彼にとっては重大なこと、というよりは、むしろすべてなのであった。
「ぼくたちはまだほんとうに子供ですねえ、コーリャ! そして……そして……ぼくたちが子供だってことは、じつに嬉しいですね!」ついに彼は夢中になってこう叫んだ。
「なんのかのということはない、あのひとはあなたを恋してるんです、公爵、それっきりですよ!」コーリャはえらそうにもったいぶった調子で答えた。
 公爵はかっとあかい顔をしたが、そのときはひとことも口をきかなかった。コーリャはただからからと笑って、手をうっただけである。一分ばかりたって、公爵も声高に笑いだした。彼はそれから晩までというもの、もうよほどたったろうか、晩までにはだいぶあるだろうかと、五分ごとに時計を見ていた。
 しかし、気分が理性にうちかった。リザヴェータ夫人はとうとう待ちきれなくなって、ヒステリーの発作に負かされてしまった。夫人は夫や娘たちが言葉をつくしてとめるのも聞かないで、猶予なくアグラーヤを迎えにやった。それは娘にぎりぎり結着の質問を発して、明瞭なぎりぎり結着の返事を聞くためであった。『こんなことは一時にすっかり片づけてしまって、肩を抜かなくちゃならない、そして以後おくびにも出さないようにしてもらうんです! そうでないと、わたしは晩までも生きちゃいられません!』と夫人はいった。このときはじめて人々は、事件がわけのわからないほどめちゃめちゃになってしまったことを悟ったのである。しかし、わざとらしい驚きと、公爵をはじめ、そんなことをたずねるすべての人々に対するあざけりと、――こんなもののほか、なにひとつアグラーヤから絞り取ることができなかった。リザヴェータ夫人は床についた。そして、公爵の訪ねて来る時刻に、やっと茶のテーブルへ出たばかりである。彼女はじりじりしながら、公爵を待ち構えていたので、彼がやって来たとき、夫人はほとんどヒステリーをおこさんばかりのありさまだった。 公爵自身もおずおずと、手探りでもするような恰好で入って来た。奇妙な微笑を浮かべながら、一同の顔色をうかがう様子は、何か質問でも発しているようであった。それは、アグラーヤがまたしても部屋にいないのを見て、入って来るやいなやぎくりとしたのである。その晩、他人はひとりもまじらないで、一家水入らずであった。S公爵は、エヴゲーニイのことでまだペテルブルグにいた。『せめてあの人でもいてくれたら、何か意見があろうに』と夫人はこの人を待ちこがれていた。イヴァン将軍はおそろしく心配そうに顔をしかめているし、姉たちはまじめな様子で、申し合わせたように黙りこんでいた。とうとう夫人は出しぬけに、勢い猛に鉄道の不備をののしって、挑むような断固たる態度で公爵を見やった。
 悲しいかな! アグラーヤは出て来なかった。で、公爵は身の置き場がないような気がした。彼はすっかり狼狽してしまって、やっと呂律《ろれつ》をまわしながら、鉄道の修理は非常に有益なことだという意見を述べかけたが、いきなりアデライーダがふきだしたので、公爵はまた面目をつぶしてしまった。この瞬間アグラーヤがはいって来た。落ちつき払って、ぎようさんなうやうやしい会釈を公爵にしたのち、丸テーブルのそばのいちばん目につく場所へ、揚々と腰をおろした。彼女はいぶかしげに公爵を見やった。一同は、ついにあらゆる疑惑の氷解すべき時が来たのを悟った。
「あなたあたしの針鼠を受け取って?」しっかりした、ほとんど腹立たしげな調子で、彼女はたずねた。
「受け取りました」と公爵はまっかになって、はらはらしながら答えた。
「このことについてどうお考えですか、すぐここで説明してくださいませんか。これはおかあさんはじめ、家族ぜんたいの心を安めるために必要なことですから」
「これ、アグラーヤ……」と将軍は急に心配しはじめた。
「それは、それは常軌をはずれてるというものです!」と、夫人は急になにやらぎょっとしたように叫んだ。
「常軌なんてものは、この場合すこしもなくってよ、おかあさま」と娘はさっそく厳しい声で答えた。「あたしはきょう公爵に針鼠を贈ったから、公爵のご意見がうかがいたいんですの。いかがでしょう、公爵?」
「といって、つまり、どんな意見ですか、アグラーヤさん?」
「針鼠についてよ」
「では、つまり、その、なんですね、アグラーヤさん、あなたはぼくがどんなふうに……針鼠を……受け取ったかってことが知りたいのですね……いや、その、ぼくがこの贈り物を、……つまり針鼠をどんなに見たかといったほうが、適当かもしれません。つまり……ぼくの考えではこういう場合……手短にいえば……」
 彼は息がつまって、口をつぐんでしまった。
「なんだか内容《なかみ》のないお話ですこと」五秒間ほど待ったのち、アグラーヤはこういった。「じゃ、よござんすわ、針鼠はそれでよしにしましょう。だけど、つもりつもった誤解を一掃する機会が、やっとのことで来てくれて、ほんとうに嬉しいわ。失礼ですが、あなたご自身の口からじきじき聞かしてくださいな。あなたはあたしと縁組みしようとしていらっしゃいますの?」
「まあ、なんというこった!」という叫びが夫人の口をもれて出た。
 公爵はびくっと身をふるわせて一歩すさった。将軍は棒立ちになるし、姉たちは眉をひそめた。
「公爵、うそをつかないで、ほんとうのことをいってください。あなたのおかげで、あたしは妙なことばかりしつこくきかれるんですからね。ああいう質問にも、なにか根拠があるはずじゃありませんの? さあ!」
「ぼくはそんなことしやしません、アグラーヤさん」と公爵は急にいきいきしながら答えた。「しかし……あなたご自分でもごぞんじのとおり、ぼくは非常にあなたを愛し、かつ信じています……ふフでもやはり……」
「あたしがきいてるのは、そんなことじゃありません。あなたあたしと結婚したいんですか、したくないんですか?」
「したいです」公爵は胸のしびれるような思いでこう答えた。
 一座の激しい動揺がこれにつづいた。
「そんなことは見当ちがいな話ですよ、きみ」とイヴァン将軍はおそろしく動顛しながら、いいだした。「そりゃ……そりゃほとんど不可能ですよ、もしそうだとすれば、グラーシャ(アグラーヤの愛称)……失礼ですが、公爵、失礼ですが、きみ!………ねえ、リザヴェータ!」と彼は助けを求めるように妻のほうを向いた。「なにしろ……ものの核心をつかまなけりゃ……」
「わたしはおことわりします、わたしはおことわりします!」と夫人は両手を振った。
「おかあさま、あたしにも口をきかしてくださいな。だってこんな場合、当人のあたしにだって、なにかの意味がありますものね。あたしの運の定まる非常な時ですものね(彼女はじっさいこのとおりないいまわしをしたのである)。だから。あたしも自分で知りたいんですの。そのうえ、みんなの前だからなお嬉しいわ……ねえ、公爵、失礼ですが、もしあなたがそういう『考えをいだいて』らっしゃるとすれば、なんであたしに幸福を与えようとお思いですの、聞かしてくださいな?」
「ぼくはまったく、なんとお答えしていいやらわからないん。です、アグラーヤさん。この場合……この場合なんとお答えしたらいいのでしょう? それに……そんな必要がありますかしらん?」
「あなたはどうやらのぼせて、息切れがするようですのね。すこし休んで元気を回復なさいな。水でもめしあがったらいかが。もっとも、今すぐお茶をさしあげますけど」
「ぼくはあなたを愛しています。アグラーヤさん、非常に愛しています、あなたひとりを愛しています……どうぞ冗談をいわないでください。ぼくは非常にあなたを愛しているのです」
「けれど、これは重大なことがらですからね。あたしたちは子供ではありませんから、実際的に物ごとを見きわめなくちゃなりません……おいやでしょうが、ひとつ合点のいくように説明してくださいな、いったいあなたの財産はどれくらいなのでしょう?」
「これ、これ、アグラーヤ! おまえはなんです? そんなことはどうだっていいんだよ、そんなことは……」とイヴァン将軍はおびえたように口走った。
「なんてつらよごしだろう!」夫人は高い声でつぶやいた。
「気がちがったのよ!」と、これも大きな声でアレクサンドラがつぶやいた。
「財産……つまり金ですね?」と公爵はあきれた。
「そうですの」
「ぼくのところには……ぼくのところには、いま十三万五千ルーブリあります」と公爵はまっかになってつぶやいた。
「たった?」とアグラーヤはあかい顔もせずに、大きな声で露骨な驚きの声を発した。「もっとも、それだけあればまあまあいいでしょう。ことに経済にやって行きましたらね……勤めでもなさるおつもり?」
「ぼくは家庭教師の試験を受けたかったんですが……」
「たいへん結構ですわ。むろん、それは非常に家計の助けになりますわ。侍従武官になる気がおありですの?」
「侍従武官? ぼくはそんなことは考えてもみなかったですが、しかし……」
 けれども、このときふたりの姉はとうとうがまんしきれなくなって、ぷっと吹きだした。アデライーダはもうさきほどから、ぴくぴくと引っつるアグラーヤの顔面筋肉に、こらえきれない激しい笑いをけんめいに押し殺しているような表情を認めていた。アグラーヤは笑いこけるふたりの姉を、こわい顔をしてにらんでいたが、自分でも一秒とがまんできなくなり、きちがいじみた、ほとんどヒステリックな哄笑を発した。ついに彼女は飛びあがって、部屋をかけだしてしまった。
「わたしははじめっから、あんな笑いよりほかなんにもないだろうと思ったわ!」とアデライーダは叫んだ。「はじめつから、針鼠のときから!」
「いいえ、もうこんなことはゆるしておけません、ゆるしておけません!」とつぜん夫人は満面に怒気を浮かべ、足早に娘の跡を追ってかけだした。
 そのあとからふたりの姉もすぐに走り出た。部屋の中には公爵と将軍だけが残った。
「これは、じつに……きみはこんなことを予想できましたか、公爵?」将軍は自分でも何をいおうとしているのかわからないようなふうで、言葉鋭くこう叫んだ。「いいや、まじめに、まじめにいってみたまえ!」
「アグラーヤさんがぼくをからかったのです。それは自分にもわかりますよ」と公爵は沈んだ調子で答えた。
「待ってくれたまえ、わたしはちょっと行ってくるから、きみ、待ってくれたまえ……なぜって……ねえ、公爵、せめてきみでも、ほんとうにきみだけでも、得心のいくように聞かしてくれたまえ。どうしていったいこんなことがおこったんだろう。全体にひっくるめて、こんなことにどういう意味があるのかしらん? え、察してもくれたまえ、――わたしは父親だよ、なんといってもあれの父親だ。それだのに、何がたんだかさっぱりわけがわからん、ほんとうにきみでも話して聞かせてくれないと……」
「ぼくはアグラーヤさんを愛しています。そして、あのひとはそれを知っているんです、そして……ずっと前から知っているらしいのです」
 将軍は肩をすくめた。
「奇態だ、奇態だ!……そして、非常に愛してるのかね?」
「非常に愛しています」
「奇態だ、なにもかもわたしには奇態に見える。じつになんといいようもない、思いもよらん打撃だ……じつはね……きみ、わたしのいうのは財産のことじゃないよ(もっとも、いま少し余計あるものと期待してはいたがね)。しかし、わたしにとっては娘の幸福が……で、結局、きみはその幸福を……なんといったらいいか……与える能力があるかねえ? そして……そして……あれはいったいなんだね? あの子のほうでは冗談なのか真剣なのか? つまり、きみのことでなく、あれのことをいってるんだよ」
 このとき戸のかげから、アレクサンドラの声が聞こえた。父を呼んでいるのであった。
「待ってくれたまえな、きみ、待ってくれたまえ! 待っておる間に、よく考えてくれたまえ、わたしはすぐに……」彼はせかせかとこういって、まるでおびえたようなふうつきで、アレクサンドラの声のするほうへかけだした。
 行ってみると、妻と娘はたがいにかたく抱きあって、たがいに涙で顔を濡らしあっていた。それは幸福と、歓喜と、和解の涙であった。アグラーヤは母の手、頬、くちびるを接吻していた。ふたりは熱情をこめて、ひしと寄り添うているのであった。
「ほらね、ちょっとこの娘をごらんなさいよ、あなた、もうこのとおりですの!」と夫人はいった。
 アグラーヤは、涙に泣きぬれた幸福そうな顔を、母の胸から放して、父親のほうをひょいと見上げると、高い声でからからと笑いながら、そのそばへ飛んで行き、しっかと抱きしめて、いく度も接吻した。それからまた母のほうへ飛んで帰って、今度はだれにも見られないように、すっかり母の胸に顔を隠し、すぐにまた泣きだすのであった。夫人は自分のショールの端で娘を隠しながら、「まあ、いったいおまえはわたしたちをどうしようというの、おまえはほんとにむごい娘ですよ、まったく!」と夫人はいったが、その声はまるで、急に息が楽になったように、さも嬉しそうであった。
「むごいんですって? ええ、むごいんだわ!」とつぜんアグラーヤが引き取った。「やくざなわがまま娘よ! おとうさまにそういってちょうだい。ああ、そうそう、おとうさまはそこにいなすったのね。おとうさま、いらしって? 今のを聞いて?」と彼女は涙のひまから笑いだした。
「おお、おまえは家の秘蔵っ子だ!」と将軍は幸福に満面をかがやかせながら、彼女の手を接吻した(アグラーヤはその手を引っこめようとしなかった)。「してみると、おまえはあの青年を愛してるんだな……?」
「いや、いや、いや! がまんできなくってよ……あんたがたの『青年』はどうしてもがまんできなくってよ!」アグラーヤは急に熱くなって、首を上げた。「おとうさん、もしいま一度そんな失礼なことをおっしゃったら……あたしまじめにいってるのよ、よくって、まじめにいってるのよ!」
 じっさい、彼女はまじめにいっているのであった。顔じゅうまっかにして、目さえきらきら光りだしたほどである。父は後句《あとく》につまって、きょろきょろしていたが、夫人が娘のかげから合図をしてみせたので、彼は『いろんなことをきくな』という意味だと悟った。
「じゃ、おまえ自分の好きなようにおし、おまえの心任せにするさ。あの人はいまひとりで待ってるが、もう帰ったほうがいいと婉曲に匂わせようかね」
 今度は将軍が夫人に目くばせしてみせた。
「いいえ、いいえ、それは余計なことだわ、それに『婉曲』なんてなおさらいやだわ。おとうさまひとりであの人のところへ出てちょうだい、あたしあとからすぐ出ますから。あたしあの……『青年』におわびをしたいと思うの、だって、あの人に恥をかかしたんですもの」
「そりゃひどい恥をかかせたよ」とイヴァン将軍は大まじめで相づちを打った。
「じゃあね……いっそみんなここにじっとしててちょうだい、あたしがさきにひとりで行くから、あとからすぐ出てちょうだい、そのほうがいいわ」
 彼女は戸口まで進んだが、急に引っ返して、
「あたし、笑ってしまいそうだわ! あたし笑い死にしそうだわ!」と哀れな声で訴えた。
 しかし、すぐにくるりと向きを変えて、公爵のほうへかけだした。
「ねえ、いったいどうしたというんだろう? おまえ、なんと思うね?」と将軍は早口にたずねた。
「口に出すのもおっかないようですよ」と夫人も同様に早口でいった。「けれど、わたしの考えでは、わかりきったことです」
「わたしの考えでもわかりきったことだ。火をみるより明らかだ。恋してる!」
「恋してるどころじゃありません、首ったけですわ!」とアレクサンドラが応じた。「だけど、まあ、相手もあろうにねえ?」
「ああ、神さま、あれの運命がそうなってるなら、仕方がありません、あの子を祝福してやってください!」と夫人はうやうやしく十字を切った。
「つまり、運命なんだね」と将軍が確かめるように言った。「運命ならのがれるわけにはいかないよ」
 で、一同は客間へおもむいた。と、ここでもまた思いがけない光景が彼らを待っていた。
 アグラーヤは自分で恐れていたように、公爵に近寄りながら、吹きださなかったばかりか、ほとんどおずおずしたようなふうで、こういいだした。
「どうかこのばかで、意地悪な、わがまま娘をゆるしてください(と彼女は公爵の手を取った)。そして、あたしたちがみんな、心からあなたを愛してるってことを信じてください。あたしがあなたの美しい……善良で単純な心持ちを、生意気に笑いぐさなんかにしたのも、ただ子供のいたずらだと思ってゆるしてくださいまし。あんなばかばかしい、なんの足しにもならないようなことを主張したのをゆるしてくださいね」
 この最後の一句を、アグラーヤは特に力を入れていった。
 父や母や姉たちが客間へはいったとき、これらすべてを見もし、聞きもすることができた。で、この『なんの足しにもならないようなばかげたこと』は、一同を驚かしたのである。が、それよりも、こういったときのアグラーヤのまじめな気分は、なおさら人々をあきれさした。一同は不審そうにたがいに顔を見合わせた。しかし、公爵はこの言葉の意味を悟らなかったらしく、まるで幸福の頂上に立つたかのようであった。
「なんだってそんなことをおっしゃるんです」と彼はつぶやいた。「なんだってあなたは……そんな……おわびなんかなさるんです……」
 彼はおわびなんかいっていただく資格はない、とさえいおうと思った。あるいは彼とても『なんの足しにもならないようなばかげたこと』という意味を、悟ったかもしれない。けれど、畸人の常として、むしろそれを喜んで聞いたかもしれない。だれにも妨げられることなしに、アグラーヤのところへ遊びに来て、彼女との対談や、同席や、散歩を許してもらうということだけでも、彼にとっては疑いもなく幸福の頂上であった。そして、一生涯それだけで満足していたかもしれぬ! (この満足をリザヴェータ夫人は心の中で恐れていた。夫人は彼の人となりを見抜いていた。彼女は心の中でいろんなことを恐れていたけれど、思いきって口へ出すことができなかったのである)
 その晩、公爵がどのくらいいきいきと元気づいたか、想像するさえ困難であった。彼は傍《はた》から見ていても愉快なほど、嬉しそうだった――と、あとで姉たちがいった。彼はやたらにしゃべりだした。こんなことは半年以前、はじめてエパンチン家の人々と近づきになった朝以来、絶えてなかったことである。ペテルブルグへ帰って来てから、彼は目立って無口になった。しかも、それはわざとなのであった。つい近ごろみんなの前でS公爵に向かって、自分はどうしても自己を抑制して、沈黙を守らなくちゃならない、なぜなら、自分は思想を表現することによってその思想を辱しめているが、そんなことをする権利を与えられていないからだ、といったことがある。
 ところが、この晩はほとんど公爵ひとりしゃべりつづけて、いろんな話をした。人々の質問に対しては、明瞭詳細に、しかも嬉しそうに受け答えをした。しかし、恋人の話らしいところはすこしも彼の言葉の中にうかがわれなかった。仝体におそろしくまじめで、どうかすると、あまりひねくれすぎた思想が感じられたほどであった。公爵は自分の人生観だの、胸中に深く秘めている観察だのを披瀝した。で(これはあとで、人々が異口同音にいったことだが)、もしその説きかたがあれほど『りっぱ』でなかったら、むしろこっけいにさえ感じられたかもしれない。将軍は全体に、まじめな話題が好きであったが、リザヴェータ夫人とともに、これではあまり講義じみると考えて、しまいにはふたりともいやな顔をしはじめたほどである。しかし公爵はすっかり有頂天になって、果ては思いきっておかしい失策なぞ二つ三つ話し、自分から先に立って笑いだした。ほかの人たちは失策談そのものより、公爵の嬉しそうな笑い声がおかしくて笑いだした。アグラーヤはどうかというに、彼女はひと晩じゅうほとんどものをいわなかった。そのかわり、じっと公爵から目も放さずに聞きほれていた。聞いているというより、見ているといったほうが適当なくらいであった。
「あの見とれかたってどうでしょう。まるで目も放しゃしません。あの人のいうことに、ひとことひとこと耳を傾けて、いっしょうけんめいに聞き落とすまいとしているんですもの!」とあとになって夫人が将軍にいった。「そのくせ、恋してるなぞといおうものなら、それこそまた大乱痴気がはじまるんですよ!」
「仕方がないさ、――何ごとも運命だよ!」と将軍はひょいと肩をすくめた。
 それからのちも長いあいだ、彼はしきりに、この気に入りの言葉をくりかえした。ついでに言い添えておくが、元来事務家である将軍は、現在の状態にいろいろ気にくわないことが多かった。まずなにより不満なのは、ことの曖昧な点であった。しかし、時節の来るまでは黙って見ていよう……リザヴェータ夫人の顔色を見ていよう、と決心したのである。
 一家の喜ばしい気分はそう長くつづかなかった。アグラーヤはさっそく翌日、公爵と喧嘩した。こんなありさまがいく日もいく日も絶えずくりかえされるのであった。彼女はいく時間もぶっとおしに公爵をなぶりものにして、ほとんど道化扱いしないばかりであった。もっとも、ときおり一時間も二時間も、ふたりさし向かいで、庭の四阿に腰かけていることもあった。そういうとき、いつも公爵はアグラーヤに新聞か、本を読んで聞かしていた。
「ちょいと」あるときアグラーヤは朗読の腰を折って、こういった。「あたしはね、あなたがおそろしく無教育だってことに気がついたわ。だれが、何年に、どんな条約によって、というようなことをあなたにきいてみたって、なにひとつ満足に返事ができないじゃありませんか。あなたはまったく憐れなかたね」
「ぼくはけっしてたいして学問のある男でないと、自分からいってるじゃありませんか」と公爵が答えた。
「してみると、いったいあなたには何かあるんでしょう? どうしてあなたを尊敬することができるのでしょう? さあ、次を読んでちょうだい。いえ、まあ、よござんすわ、もうやめて」
 ところが、その晩またしてもなにかしら、一同にとって謎のようなあるものが、アグラーヤの言行にひらめいたのである。ちょうどS公爵が帰って来たので、彼女はおそろしく愛想のいい調子で、いろいろとエヴゲーニイのことをたずねた(ムイシュキン公爵はまだ来ていなかった)。ふとS公爵はうっかりして、二つの結婚式を同時に挙行するために、またアデライーダの結婚を延ばすようになるかもしれないと、夫人が何げなく口をすべらしたのを楯に取って、『近く家庭内におころうとしている新しい変化』をほのめかした。アグラーヤが『こんなばかばかしい臆測』に対してどんなに腹を立てたかは、想像するのも困難なくらいである。そして、『あたしはだれであろうと、人の色女の代理を勤める気は、まだありませんからね』という言葉が彼女の口をすべり出た。
 この言葉は一同、特に両親を驚かした。リザヴェータ夫人は夫と内密に相談して、ナスターシヤの件については、公爵からきっぱりした弁明を要求しようと主張した。
 イヴァン将軍は、それはただの『でまかせ』な言葉で、アグラーヤの『はにかみ』から出たことだ。もしS公爵が結婚式のことなぞいいださなかったら、こんな口からでまかせもいわなかったに相違ない、なぜなら、アグラーヤもそれが悪人どものいいがかりだということを、たしかに知っているからである。それに、ナスターシヤはラゴージンと結婚する気でいるので、公爵はそのことに何の関係もない。じっさい、間違いのないところをいうと、単にいま妙な関係がないというばかりでなく、今までも一度だってそんなことはなかった、と夫人に誓うのであった。
 しかしそれでも、公爵はいささかも間の悪そうなふうもなく、いぜんとして幸福な状態がつづいた。もちろん、彼とてもどうかすると、アグラーヤの目の中に、なにかじれったそうな暗い影がかすめるのには気がついた。けれど、彼はほかのあるものをより以上信じていたので、暗い影もおのずと消えて行った。彼は一度こうと信じると、もうどんなことがあっても、動揺しない性質であった。あるいは、あまり落ちつきすぎていたくらいかもしれない。すくなくとも、イッポリートにはそう感じられたので、あるときたまたま公園で公爵に出会ったとき、彼は自分のほうからそばへ寄って、公爵を引きとめながら、
「ねえ、ぼくあのときあなたは恋してるっていいましたが、やはりほんとうだったでしょう?」と口をきった。
 こちらは手をさし伸ばして、彼の『顔色がいい』のを祝した。病人は肺病患者にはありがちのことだが、だいぶ元気らしく見受けられた。
 彼は、公爵の幸福そうな顔つきをひとつ皮肉ってやろう、というつもりで寄って来たのだが、すぐに出ばなをはたかれて、自分のことをいいだした。彼は長いこといろいろと哀訴をはじめたが、その哀訴はかなり統一のないものであった。
「あなたはとても信用なさらんでしょうが」と彼は結んだ。「じっさいあすこの連中はみんなおそろしくかんしゃく持ちで、こせこせして、利己的で見栄坊で、しかもぼんくらなんですよ。ほんとうになさるかどうか知りませんが、あの連中がぼくを引き取ったのは、ぼくができるだけ早く死ぬようにという条件つきなんですからね。ところが、いっこう死にそうな様子もなく、かえってだんだん具合がいいのを見て、まっかになって怒ってるんですよ。喜劇ですね!・ ぼくちかってもいいです、あなたは今の話をほんとうにしていないでしょう!」
 公爵はいま言葉を返したくなかった。
「ぼくときどき、もう一度あなたのところへ引っ越そうかと思うんです」とざっくばらんな調子でイッポリートはいい足した。「では、あなたはあの連中のことを、ぜひともできるだけ早く死んでくれという条件つきで、他人を引き取るようなことのできない人たちだ、とこうお思いなんですね?」
「ぼくはあの人たちがきみを呼んだのは、なにかほかに思惑があってのことだと思ってました」
「へえ! あなたはなかなかどうして、人のいうように正直なかたじゃありませんね! 今はその時期でないんですが、ぼくはちょっとあなたに、ガーネチカのことだの、あの男の胸算用だのをお知らせしたいと思ってるんですよ。公爵、あなたは陥穽《おとしあな》を掘られていますよ、恐ろしい陥穽を……まったくそんなに落ちつきはらっていられるのが、いっそ気の毒なくらいです。しかし、なんともしようがない!………あなたにゃそれよりほかの態度がとれないんですからね!」
「おやおや、とんでもないことを心配してくれますね!」と公爵は笑いだした。「じゃ、なんですか、きみの考えでは、ぼくがもすこし心配そうにしたら、いっそう幸福だろうというんですか?」
「幸福で……のほほんとしてるよりは、不幸であっても知っているほう[#「知っているほう」に傍点]がいいですよ。あなたはてんからほんとうにしないのですか、あなたに競争者があるってことを? おまけに……あの方角からですよ」
「競争者うんぬんというきみの言葉は、少々皮肉ですね。イッポリート君。ぼくは残念ながら、きみにお答えする権利を持っておりません。ところで、ガヴリーラ君のことにいたっては、全体あの人があれだけのものを失ったあとで、平然と落ちつきすましていられると思いますか。もしきみがすこしでもあの人の内情を知ってたらねえ……ぼくはこの見地から批判したほうが、適当だと考えますよ。あの人はまだ変化する余裕があります。あの人はまだまだ生きることができます、人生は豊穣ですからね……けれど……けれど……」と公爵は急にまごまごしだした。「陥穽とやらいうことにいたっては、きみのいわれるこ。とがさっぱりわからない。いっそ、こんな話はやめにしようじゃありませんか、イッポリート君」
「まあ、ある時期が来るまでお預けにしておきましょうよ。それに、どうしてもあなたとしては、寛仁の態度をとらなくちゃすまないんですからね。なにしろ二度とこんなことを信用しないようにするには、あなたが自分の指でいじってみる必要がありますよ、はは! ところで、あなたはいま非常にぼくを軽蔑してらっしゃるでしょう、どうです?」
「何のために? きみがわれわれ以上に苦しんでいるためにですか?」
「いいえ、この苦しみを受ける値うちがないからです」
「より以上に苦しみうる人は、当然より以上に苦しみを受ける値うちがあります。アグラーヤさんもきみの告白を読んだとき、きみに会いたいといわれましたが、しかし……」
「さし控えてるんでしょう? あのひとにはできません、そりゃわかってます、よくわかっています……」イッポリートはすこしも早く話題を変えようとあせるようにさえぎった。「ついでにいいますが、あなたは自分であのうわごとを、アグラーヤさんに読んで聞かしたそうじゃありませんか。まったくあれは熱に浮かされて書いたんです……こしらえあげたんです。だから、あの告白をもってぼくを責めたり、またあれをぼくに対する武器につかうためには、量りしれないくらい子供らしい虚栄心や、復讐心が強くなくちゃなりませんよ、ぼくは残忍さという言葉は使わなかったです(それはぼくにとって侮辱になるから!)。心配しないでください。ぼくはあなたに当てつけて、いったんじゃありません」
「しかし、きみがあの告白の価値を否定されるのは、じつに惜しいですよ。あれは真摯の気に満ちていました。正直なところ、あの中の思いきってこっけいな部分さえ、――そんなところがたくさんありましたが(このときイッポリートはひどく顔をしかめた)、そんな部分さえ、深刻な苦悶によってつぐなわれています。なぜって、ああいうこっけいな点まで告白するのは、やはり一種の苦痛ですからね……いや、あるいは非常な勇気を示しているかもしれません。とにかく、きみにあの筆をとらした動機は、かならずりっぱな根拠を持ってるに相違ないです、たとえ外見上どうあろうともね。時がたつにしたがって、それがますます明瞭にわかるような気がします。いや、まったくですよ。ぼくはきみを批判してるんじゃありません。ただ心に思ってることを、すっかり吐露してしまいたくていうのです。ぼくはあのときなぜ黙っていたかと思うと、残念でたまりません……」
 イッポリートはかっとなった。公爵はわざとこんな殊勝らしいことをいって、自分を罠にかけようとしているのではあるまいか、こういう想念がちらと彼の頭をかすめたのである。しかし、相手の顔をじっと見入っているうちに、だんだんその誠意を認めないわけに行かなくなった。彼の顔は晴ればれとして来た。
「しかし、なんといっても、死ななくちゃなりませんよ」といったが、彼はあやうく『ぼくのような人間はね!』とつけ足すところだった。「ところで、あのガーニャがぼくをどんなに悩ましているか、ほんとうに察してくださいよ。あの男はね、ぼくの告白を聞いた人たちの中で、ことによったら三人も四人もぼくよりさきに死ぬかもしれないなんて、ちょっと抗議といったような体裁でいいだすじゃありませんか! どうでしょう! これがぼくにとって、慰藉になるとでも思ってるのでしょう、はは! 第一にまだだれも死なないし、よしまたみんなころころ死んでしまったとしても、それがぼくにとってなんの気やすめになりましょう。ね、そうじゃありませんか! あの男は、万事自分を標準にして、判断するんですものね。ところが、あの男はさらに一歩を進めて、今じゃもう頭から罵倒するんです。こんな場合常識のある人間は黙って死ぬものだ、おまえのやりかたは万事利己的でいけないってね。どうでしょう! いえさ、あの男の利己的なことったらどうでしょう! あの連中の利己主義の婉曲で、同時に露骨なことはどうでしょう! そのくせ、自分ではそれにすこしも気がつかないんですからね……公爵、あなたは十八世紀のスチェパン・グレーボフという男の死を、読んだことがありますか? ぼくきのう偶然読んだのです……」
「スチェパン・グレーボフつてだれです?」
ピョートル大帝の治世に杙《くい》に突き刺された……」
「ああ、なるほど、知ってます! 凍ての日に十五時間、外套一枚で杙に突き刺されたまま、非常に沈着な態度で死んだ人でしょう。ええ、読みましたとも……それがどうしたんです?」
「神さまはほかの人間には、ああいう死にかたを恵んでくださるくせに、われわれにはそれがないのです! あなたはたぶん、ぼくにはとてもグレーボフのような死にかたができない、と思っていらっしゃるでしょう?」
「おお、どういたしまして」と公爵は面くらった。「ただぼくがいいたかったのは……つまり、きみがグレーボフに似ていないというわけではないが、しかし、……きみだったらむしろ……」
「察しがつきますよ、グレーボフでなくオステルマン(一六八六―一七四七年、はなばなしい宮廷生活ののち追放せられて流謫地)となったろう……とおっしゃるんでしょう?」
「オステルマンとはだれです?」と公爵はびっくりした。
ピョートル大帝時代の外交家オステルマンです」急にいささか鼻白みながら、イッポリートがつぶやいた。
 なんとなく間の悪いあうな心持ちがふたりを襲った。
「おお、そ、そうじゃありません! ぼくがいおうとしたのは、そんなことじゃありません」と公爵は、しばらく沈黙ののち、出しぬけに引き伸ばすような調子でいった。「ぼくの見るところでは、きみはけっしてオステルマンになれない人です」
 イッポリートは顔をしかめた。
「ぼくがこんな断定がましいことをいうのはね」と公爵はいいつくろおうとするかのように、とつぜん言葉をつづけた。「ほかでもありません、あの時分の人たちは、今のわれわれとはぜんぜん別種なものです(実際です、ぼくはいつもこの事実に驚嘆しているんですよ)。今の人間とはまるで人種が違うのです、まったく別な種族です……あの時代にはみんな一つの理想で固まった人たちばかりでした。ところが、今はずっと神経的で、頭も発達してれば、感覚も鋭敏で、同時に二つも三つも理念をいだいてるようです……今の人間はずっと広いです……で、まったくのところ、それがあの時代のように、一本気な人になることを妨げるんです……ぼくが……ぼくがあんなことをいったのは、ただこういいたかったので、けっして……」
「わかってますよ。あなたはね、ぼくに相づちを打たなかったときのナイーヴな言葉の代償として、いまぼくを慰めようとかかってらっしゃるんです、はは! あなたはまったく子供ですね、公爵。それはそうと、あなたがたはみんなぼくをまるで……まるで瀬戸物みたいに扱ってますね、わかりますよ……なんでもありません、なんでもありません、ぼく怒りゃしませんよ。しかし、妙な話になっちまいました。あなたは、しかし、どうかするとまるっきり子供になりますね。でもね、ぼくもオステルマンよかすこし気の利いたものになりたい、という心持ちがなくもないのですよ。オステルマンにとっては、死んでからまたよみがえることはいらないんですからね……もっとも考えてみると、ぼくはできるだけ早く死ななくちゃならんのですよ。でなければ、ぼく自身で……いや、うっちゃっといてください。さよなら。ところで……まあ、いいや。いや、ひとつ教えてくれませんか、どうしたらいちばんいい死にかたができるでしょうね?……つまり、できるだけ徳にかなった死にかたがね、教えてください!」
「われわれのそばを通り抜けてください、そしてわれわれの幸福を許してください!」と公爵は低い声でいった。
「ははは! ぼくもそうだろうと思った! きっとそんなふうの言葉が出るだろうと思ってた!! しかし、あなたがたは……その……その……口のうまい人たちですね! さよなら、さよなら!」

      6

 エパンチン家の別荘で催される夜会へ、ペロコンスカヤ大人が招待されたといって、ヴァルヴァーラが兄に伝えたのも、やはりまったくの事実であった。同家ではその晩、いくたりかの客を招待することになっていたのである。しかし、彼女はこのことについても、ほんとうよりすこしぎょうさんに吹聴した。じっさい、このことはずいぶん急に、余計な騒ぎをしてまでとり決められた。というのは、この家で『ことを運ぶ具合が、よそとはまるで違っていた』からである。万事『もうこのうえちゅうちょすることは望まない』リザヴェータ夫人のせっかちと、娘の幸福を思う両親の胸のおののきによって、とり決められたのである。そのうえペロコンスカヤ夫人が、近々モスクワへ帰ることになっていたからである。この人の保護は、社交界では非常に重大視されていた。ところで、このひとが公爵に好意を持ってくれるだろうと期待したので、両親はもしアグラーヤの花婿が、この口八丁手八丁の『おばあさん』の手から『社交界』へ打って出たならば、よしこの結婚になにか変なところがあるとしても、おばあさんの威光でその変さかげんが薄らぐわけだ、とこう胸算用したのである。『はたしてこの結婚に変なところがあるかしら、あるとすれば程度はどんなものだろう? またあるいはすこしも変なところはないかしら?』この問題を両親が決しかねたのが、第一の原因であった。ことにアグラーヤのおかげで、なにひとつきっぱりと決まらない目下の状況では、権威ある相当な人たちのうち明けた隔てのない意見が、なにより役に立つことになる。なににしても、おそかれ早かれ、公爵を社交界へ出さなければならぬ。それは彼が社交についてなんの観念も持っていないからである。つまり、てっとり早くいえば、みんな公爵をよその人に『見せ』たいのであった。夜会の計画は簡単であった。招待された客はごく少数の『一家の親友』ばかりで、ベロコンスカヤ夫人のほかには、あるひとりの貴婦人、ごく有力な貴族で政治家の夫人ぐらいなものであった。若い人の中では、ほとんどエヴゲーニイひとりきりといっていいくらいである。彼は『おばあさん』の伴をして、出席しなければならなかった。
 ベロコンスカヤ夫人の来ることは、もう夜会の三日ぐらい前から公爵も聞いていた。夜会の催しについては、やっと前日に知ったばかりである。むろん、彼は家族の人々の忙しげな様子に気がついた。そして、ほのめかすような心配らしい口ぶりから推して、自分の客人に与える印象をみんなで心配しているのを洞察した。しかし、エパンチン家ではみんな申し合わせたように、公爵はあのとおり気の好い人間だから、人が自分のことをそんなに心配しても、けっして気がつくはずはないと決めこんでいた。そういうわけで、人々は彼を見て心の中でくよくよ案じていた。もっとも、彼はじっさい、目前に迫る事件に対して、ほとんどすこしの意味をも付与していなかった。彼は別のことに気を取られていたのである。アグラーヤの気まぐれが刻一刻はげしくなって、様子がしだいに沈んでゆく、――それが彼の気をもませるのであった。この夜会にエヴゲーニイも招かれていると知ったとき、彼は』非常に喜んで、前からあの人に会いたいと思っていたといった。なぜかこの言葉は、人々の気に入らなかった。アグラーヤはいまいましそうに部屋を出てしまって、その晩遅く――公爵が帰り支度をはじめた十一時すぎに、やっと見送りに出た。ふたりきりになった折を見はからって、彼女はちょっとひとことささやいた。
「あたしできることなら、あなたがあす一日いらっしゃらないで、晩にあの……お客が集まったとき、はじめて来てくださればいいと思ってよ。あなたはお客のあることをごぞんじでしょう?」
 彼女はじれったそうな、かくべつ厳しい様子をしてこういった。彼女が『夜会』のことをいいだしたのは、これがはじめてである。彼女も客ということを考えると、たまらなくいやだった。一同はこのことに気がついていた。もしかしたら、彼女はこのことについて、うんと両親と口論したかったのかもしれないが、高慢とはにかみの癖が口をきるのを妨げたのである。公爵はすぐ、彼女が自分のことを心配している(しかも、それを白状する気になれない)のに心づいて、自分でも急におじけがついた。
「そう、ぼくも招待されているんです」と彼は答えた。
 見たところ、彼女はつぎの言葉に窮しているらしかった。
「いったいあなたを相手に、たにかまじめな話ができるんでしょうか? せめて一生に一度でもねえ」と彼女は急に何のためかわからないが、自分をおさえつけることができないほど、無性に腹を立てだした。
「できますとも。ぼくはあなたのおっしゃることを聞きます。ぼくは大いに嬉しいですよ」と公爵はつぶやいた。
 アグラーヤはまた一分ばかり無言でいたが、やがていかにも進まぬ調子でいいだした。
「あたしはこのことで家の人と喧嘩したくなったの。だって、どうかすると、なんとしても物の道理がわからないことがあるんですもの。あたしはね、いつもおかあさまの遵奉している規律がいやでたまらないの。あたしおとうさまのことはいいませんわ。あの人にものをたずねて、取りとめのあった例がないのよ。おかあさまだってむろん高尚な婦人ですわ。ためしになにか卑劣なことをすすめてごらんなさい、そりゃ大変だから! それだのに、あの……やくざものを夢中になって崇拝してるじゃありませんか! あたしベロコンスカヤ夫人のことをいってるんじゃなくってよ。よぼよぼばあさんで性質もやくざだけれど――利口な人なんだから、家の人をみんな手の中に丸めこんでるのよ、まあ、それだけでもえらいとしておくんですわね。おお、なんて卑屈な話でしょう! しかも、こっけいだわ。あたしたちは中どころの、――まったく代表的な中どころの階級の人間ですからね、あんな上流の社交界へのこのこ出るわけなんかありゃしないわ! 姉さんたちはあんなところへ出るつもりなのよ。あれはS公爵がみんなをのぼせさせてしまったんだわ。なぜあなたはエヴゲーニイさんが見えるのが嬉しいの?」
「ねえ、アグラーヤ」と公爵がいった。「あなたがたはあすぼくが……あの夜会でへまなことをしやしないかと、心配してらっしゃるように見えますが……」
「あなたのことを? 心配してますって?」アグラーヤはま っかになった。「よしんばあなたが……よしんばあたながこっぴどく恥をおかきになろうと、あたしが心配するわけなんかないじゃありませんか? あたしにとってそれが何でしょう? それに、どうしてあなたはあんな言葉が使えるんでしょう?『へま』って何のことですの? それはやくざな下品な言葉だわ」
「これは……小学生の言葉です」
「ええ、そうよ、小学生の言葉よ! やくざな言葉よ! あなたはあすもそんな言葉ばっかり使って、話をなさるおつもりらしいわね。家へ帰ったらご自分の辞書を引いて、そんな言葉をもっともっとおさがしなさい。そしたら、すばらしい効果がありましょうよ! だけど、惜しいことに、あなたは上手に客間へはいることをごぞんじらしいのね。どこでお習いなすったの? それから、ほかの人がわざとあなたのほうを見てるとき、ていよくお茶碗を取って、お茶をのむすべをごぞんじ?」
「知ってるつもりです」
「それは残念だこと。あたし、うんと笑ってあげようと思ってたのに。それにしても、客間にある支那焼の花瓶ぐらいこわしてちょうだいね! たいへん高いもんだそうですから、ぜひどうぞこわしてちょうだい。なんでもよそからいただいたものだそうですから、おかあさまがきちがいのようになって、みんなの前でおいおい泣きだすでしょうよ、――それほど大事にしてるのよ。いつもなさるようなぎょうさんな身ぶりをして、たたきこわしてちょうだいね。わざとそばにすわったらいいわ」
「とんでもない、かえってなるべく離れてすわるようにします。ご注意くだすってありがとう」
「じゃ、あなたは例のぎょうさんな身ぶりをするだろうと思って、今から心配してらっしゃるのね。あたし請け合っておくわ、きっとあなたはなにかまじめな、高尚な学問上のテーマを持ち出しなさるに決まっててよ。まあ、どんなに……似つかねしいでしょう!」
「ぼく、そんなことはばかばかしく聞こえるだろうと思います……もしとんでもないときに持ち出したら」
「ねえ、もうこれがいいおさめですよ」とついにアグラーヤはこらえかねていった。「もしあなたがなにか死刑だとか、ロシヤの経済状態だとか、『美は世界を救う』だとか、そんなふうなことをいいだしたら、そしたら……あたしはむろん喜んで、うんと笑ってあげますけどね、しかし前もってご注意しておきますが、以後あたしの目の前に出ないでくださいよ! よござんすか、あたしまじめにいってるのよ! こんどこそまじめにいってるのよ!」
 彼女はこのおどし文句をほんとうにまじめで[#「まじめで」に傍点]いった。で、その言葉の中にはなにかひととおりでないものが響いていた。そしてその目つきには、今まで公爵が見たことのないような表情がひらめいていた。もう冗談らしいところはすこしもなかった。
「ああ、今あなたはぼくがかならずなにか『いいだし』て、おまけに花瓶までこわすように仕向けてしまいました。たった今さきまで、ぼくはなんにも恐ろしくなかったのに、もう今はなにもかも恐ろしくなりました。ぼくきっとへまなことをしますよ」
「じゃ、黙ってらっしゃい。黙ってすわってらっしゃい」
「だめでしょう。ぼくきっと恐ろしさのあまり『しゃべりだし』て、恐ろしさのあまり花瓶をこわすに相違ないと思います。つるつるした床の上にすべってころぶとかなんとか、とにかくそんなふうのことをしでかすに相違ありません。なぜって、今までそんなことがときどきあったんですもの。きっと今夜、ぼくはひと晩じゅうそればかり夢に見ますよ。なんだってあなたはそんなことをいいだしたんです?」
 アグラーヤは沈んだ目つきで彼をながめた。
「ねえ、どうでしょう。ぼくはいっそ、あす出席しないことにしましょうか。病気だとふれこんでおけば、それでことはすみます!」とうとう彼はこういいきった。
 アグラーヤはとんと足踏みして、憤怒のあまり顔色まで変えた。
「えっ! そんな話ってどこにありますか! そのためにわざわざ催した夜会に、かんじんの当人が出席しないなんて……ええ、なんというこってしょう! ほんとうにあなたみたいな……わけのわからない人を相手にするのは、いい災難だわ!」
「じゃ、まいります、まいります!」と公爵はあわててさえぎった。「そして、あなたに誓います、ぼくはひと晩じゅう、ひとことも口をきかないで、すわっています。ええ、間違いなくそうします」
「それはりっぱな処置ですわ。ときに、あなたは今『病気だとふれこんで』とおっしゃいましたね。ほんとうにあなたはどこからそんな言いまわしを覚えていらっしゃるんでしょう? そんな言葉を使ってあたしと話をするなんて、まあなんという好奇でしょうね。いったいあたしをからかってらっしゃるんじゃなくって?」
「失礼しました。これもやはり小学生の言葉です。以後つつしみます。あなたが……ぼくのことを心配してくださるのが、ぼくにはよくわかります……(まあ、怒らないでくださいよ!)そして、ぼくはそれがなんともいえないほど嬉しいのです。あなたはとても想像もつきますまいが、ぼくは今あなたのお言葉が恐ろしくもありますけれど、同時にどんなにか嬉しく思ってるんですよ。しかし誓って申しますが、そんな心配は些細なことです、つまらないことです。まったくですよ、アグラーヤ! そして、ただ、喜びばかりが残って行きます。ぼくはあなたがそんな子供なのが――そんな美しい心を持つたかわいい子供なのが、嬉しくってたまらないんですよ! ああ、アグラーヤ、あなたはじつにりっぱな人間になれますよ!」
 こんな言葉に対して、もちろんアグラーヤは腹を立てるべきはずであった。そして、じっさい、腹を立てようとしたのだが、とつぜんなにかしら、彼女自身にも思いがけないような感情が、一瞬にして彼女の心をつかんでしまった。
「あなたは、今のあたしのはしたない言葉を、おとがめにならないでしょうか……いつか……あとになって?」とつぜん彼女はこうきいた。
「あなたどうしたんです、どうしたんです! なんだってまたそんなに興奮なさるんです? そらまた陰気な目つきをしていらっしゃる! アグラーヤ、あなたはこのごろときどき恐ろしく陰気な目つきをなさいますね。そんなことは以前すこしもなかったのに。ぼくそのわけを知っています……」
「いっちゃいけません、いっちゃ!」
「いや、いっそいってしまったほうがいいです。ぼくはとうからいいたかったのです。一度お話ししたこともありますが、あれだけでは不十分です。だって、あなたはぼくを信じてくださらなかったんですものね……なんといってもぼくたちふたりのあいだには、あるひとりの人物が介在していますから……」
「いっちゃいけません、いっちゃいけません、いっちゃいけません、いっちゃいけません!」とアグラーヤは公爵の手をかたく握って、ほとんど物に魘《おそ》われたような目つきで見つめながら、いきなりさえぎった。
 ちょうどこのとき彼女を呼ぶ声が聞こえた。彼女はその機会を喜ぶかのように、公爵を捨ててかけだした。
 公爵はその晩よっぴて熱に悩まされた。不思議にも、彼はもういく晩もつづけて熱病に襲われるのであった。ところが、こんどはなかばうなされたような状態にありながら、『もしあす客の前で発作がおこったらどうだろう?』という想念が心に浮かんで来た。じっさい、今までうつつに発作の起こることもたびたびであった。彼はこれを考えると、身うちの凍る思いがした。ひと晩じゅう、彼はまるで話に聞いたこともないようなりっぱな交際社会で、どこかの奇妙な人々と一座しているさまを、ありありと見ていた。そして、なにより恐ろしいのは、彼が『しゃべりだした』ことである。しゃべっちゃならぬということはよく心得ているくせに、彼は絶えず口を動かして、なにやら熱心に人々を説いている。エグゲーニイとイッポリートも、やはり来客の中にまじって非常に仲よさそうに見えた。
 彼は八時すぎに目をさましたが、頭がしんしん痛んで、思いは乱れ、奇怪な印象が心に残っていた。彼はおそろしくラゴージンに会いたくなった。会っていろいろ話したかった。しかし、何を話すのやら、自分にもわからなかった。それから、また何用だが知らないけれど、イッポリートを訪問しようと思って、一時ほとんどその気になってしまったほどである。とにかく、なにやら濁ったものが、心臓にいっぱいたまっているようで、そのためにこの朝、彼の周囲に生じたいろいろな事件が、非常に激しい、とはいえなんとなくもの足りないような印象を与えた。この事件の一つは、レーベジェフの来談であった。
 レーベジェフはかなり早く、九時すぎに、しかもぐでんぐでんに酔っぱらってやって来た。このごろ公爵は、あまりものごとに気がつかないようになっていたが、それでもイヴォルギン将軍が引き払って以来三日ばかり、レーベジェフの品行が非常に悪くなったのは、しぜんと目にはいらないわけにはいかなかった。彼はなんだか急に油じみて、きたならしくなり、ネクタイは横っちょにねじれ、フロックの襟はほころびている。うちでは乱暴を働くようにさえなり、騒々しい物音が小さな庭越しに、公爵のところまで聞こえることもあった。一度なぞはヴェーラが涙ながらにやって来て、なにかくどくどと話していったこともある。いま公爵の前に立つと、彼は自分の胸をたたきながら、なんだかおそろしく奇妙な調子で弁じ立て、なにかしらわびごとなぞをはじめるのであった。
「とうとうくらいました……裏切りと卑劣な行ないのために、罰をくらいました……平手打ちをくらいました!」最後に彼は悲劇的な口調でこう結んだ。
「平手打ちを? だれから?………しかも、そんなに早く?」
「早くですって?」レーベジェフは皮肉な薄笑いを浮かべた。
「この場合、時なぞに何の意味もありません……たとえ肉体的の罰としましたところでね……けれど、わたしがくらったのは精神的の……精神的の平手打ちで、肉体的のじゃありません!」
 彼はいきなり無遠慮にぐったりと腰をおろして、話しにかかった。その話かひどくとりとめのないものなので、公爵は顔をしかめて、出て行こうとした。が、ふとちょっとしたひとことが彼をぎょうてんさした。彼は驚きのあまり棒のように立ちすくんだ……レーベジェフ氏の話したのは、じつに奇怪なことがらであった。
 はじめ話は、なにかの手紙に関するものであった。そして、アグラーヤの名前も口にのばった。それから、とつぜんレーベジェフは当の公爵を非難しはじめた。どうやら彼は、公爵のやり口に侮辱を感じているらしい。彼のいうところによれば、はじめのうち公爵は例の『人物』(ナスターシヤ)の事件で彼を信頼していた。ところが、その後、急に彼との交渉を避けて、なさけ容赦もなく身辺から追っ払ってしまった。それがしまいには『近くおころうとしている一身上の変化に関する罪のない質問』さえも、そっけなく突っぱなしてしまうほどになった。レーベジェフは、酔っぱらいの目に涙を浮かべながら自白した。
「あれ以来、わたくしはどうしても勘弁がならないのです。ましてわたくしはいろんなことを知ってるのですものね……ラゴージンからも、ナスターシヤさんからも、ナスターシヤさんの女友達からも、ヴァーリャさんからも……それから……それから、当のアグラーヤさんからも、いろんなことをたくさん聞いて知っております。こんなことは考えもつかんか知りませんが、ヴェーラ――わたくしのかわいい、天にも地にもたったひとりの……いや、しかしたったひとりとはいえませんな、わたくしには子供が三人もあるのですから……とにかく、娘のヴェーラさえ道具に使って、聞きこんだのですよ。いったいあなたはごぞんじでございますか、あのリザヴェータ夫人に手紙を送って、大変な秘密を知らせたのはだれでございましょう? へへ! あのおかたに、いっさいの事情とまた……ナスターシヤという人物の動静を書いてやったのはだれでござんしょう、へへへ! いったいこの無名の人間はだれでござんしょう! 失礼ながらひとつうかがいましょうよ」
「まさかきみじゃないでしょう!」と公爵は叫んだ。
「そのとおり」と酔いどれはものものしく答えた。「けさ八時半ごろ、今から三十分ばかり前、いや、もう四十五分ぐらいたっておりましょうな、将軍夫人をお訪ねして、あるできごとを……大変なできごとをお知らせしたいと申し込みました。裏玄関から女中に頼んで、手紙で申し込んだのです。ところが、さいわい会ってくださいました」
「きみが今リザヴェータ夫人に会ったんですって?」公爵は自分の耳を信じかねてこう訊いた。
「いま会って、平手打ちをくらったのです……その精神的のやつをね。奥さんは手紙を突き返されました。封も切らないでたたきつけなすったのです……そして、おととい来いと追ん出されましたよ……しかし、それもただ精神的にでして、肉体的に追ん出されたのではありません……もっとも、ほとんど肉体的といってもいいくらいですが、いますこしというところでした」
「どんな手紙を奥さんが、たたきつけなすったんです、封も切らないで?」
「おや、ほんとうに……へへへ! じゃ、まだあなたにお話ししなかったのですね! わたくしはもうお話ししたことだと思ってました……じつは手紙を一通ことづかってるのです……」
「だれから? だれにあてて?」
 しかし、レーベジェフの説明はおそろしくごたごたしていて、そこからなにかすこしでも汲み取ろうというのは、きわめて困難なことであった。けれど、公爵はいろいろとできるだけ想像して、その手紙はけさヴェーラが女中の手を通して、宛名の人に渡してほしいという依頼とともに受け取った――これだけの意味が判じられた。
「前と同じようです……前と同じように、例のおかたから、例の人物にお出しなすったので……(わたくしはあのふたりのうち、ひとりには『おかた』、いまひとりにはただ『人物』という名称を用います。それは尊卑と区別を明らかにするためです。なぜと申しまして、純潔で高尚な将軍令嬢と、そして……椿姫とのあいだには、たいへんな相違がありますものね)で、その手紙はAという頭字の『おかた』から出たのです……」
「どうしてそんなことが? ナスターシヤさんに? ばかばかしい!」と公爵は叫んだ。
「あるのです、あるのです。しかし、あのひとにあてたのじゃなくって、ラゴージンです。ラゴージンにあてたも同じことです。一度なぞは、イッポリートにあてたのさえありました。その、ことづけのためにね、Aという頭宇のおかたから」とレーベジェフは目をぱちりとさして、薄笑いを浮かべた。
 この男はよく一つの話題から別な話題へひょいひょい飛んで行って、話のまくらがどうだったか忘れてしまうたちなので、公爵はいうだけいわせてみようと思って、黙って控えていた。しかし、そんな手紙がじっさいあったとすれば、はたして彼の手を通って行ったのか、ヴェーラの手を通って行ったのか、そのへんのところがどうもはっきりしない。とはいえ、彼が自分の口から、『ラゴージンにあてるのは、ナスターシヤにあてるのと同様だ』といいきった以上、手紙は彼の手を通ったものでない、とみたほうが確かである。ところで、どういうふうでこの手紙がいま彼の手に落ちたか、そこはまったく合点がいかなかった。おそらく彼がどうかしてヴェーラの手から盗み取って……そっと取り出とて、なにかあてがあってリザヴェータ夫人のところへ持って行った、と想像するのがいちばん正確らしい。こう考えて、公爵はやっと合点がいった。
「きみは気でもちがったんですか?」彼はすっかり動顛してしまって、こう叫んだ。
「まんざらそうでもございません、公爵さま」とレーベジェフはいくぶんむっとしたふうで答えた、「まったくのところ、わたくしはよっぽど、あなたに、その忠義だてのために、お手渡ししようかと思いましたが……それよりか、おかあさまに忠勤をはげんで、事情をすっかりお話ししたほうがいい、と『思い直したのです……なぜと申して、前にも一度無名の手紙でお知らせしたことがあるんですものね。で、さきほども紙の切れっぱしに、八時二十分にご面談を願いたいと、前もってご都合うかがいの手紙を書いたときも、やはり『あなたの秘密の通信者より』と署名しましたので、すると、すぐ猶予なしに、おそろしく性急に、裏口から通してくださいました……おかあさまのお部屋へね」
「で?………」
「その次はもうわかりきった話です、あやうくなぐりつけられるところでした。ほんのいますこしの瀬戸ぎわでした。つまり、その、ほんとうになぐりつけられたといっていいくらいで。そして、手紙をたたきつけなすったので。もっとも、ご自分の手もとへ残して置きたかったのですが(それはわたくしにもわかりました、ちゃんと気がつきました)、しかしまた思い返して、たたきつけられたのです。『もしおまえのようなものにことづけたのなら、勝手に先方へ届けるがいい』……とおっしゃいましてね、たいそうご立腹なされました。だって、わたくしのようなものに、恥ずかしくもない、そんなことをおっしゃったとすれば、つまり、ご立腹なすったに相違ございますまい。まったく短気なご気性ですよ!」
「いったいその手紙は今どこにあるんです?」
「やっぱりわたくしが持っております、これ」
 とアグラーヤがガーニャにあてた手紙を、公爵に手渡しした。これこそガーニャが二時間ばかりたったのち、大いばりで妹に見せた手紙なのである。
「この手紙は、きみの手もとに置くべきものじゃありません」
「あなたに、あなたにさしあげます! あなたに贈呈いたします」とこちらはのぼせたような調子で、すぐ引き取った。「これからまたわたくしはあなたのものでございます、からだじゅう――頭から心臓まで、すっかりあなたのものでございます。ちょっと謀叛気をおこしましたが、もう今度こそあなたの奴隷でございます! どうぞ心臓を罰して、髯を容赦してくださりませ。これはトマス・モールスのいった文句です……あのイギリスの、大ブリテンのね。Mea culpa, mea culpa(わが罪なり、わが罪なり)これは|ローマ法王《リームスカヤ・パーパ》のいったことなので……ほんとうはその|ローマ法王《リームスカヤ・パーパ》……ですが、わたくしは|ローマ法王《リームスカヤ・パーパ》と申します」
「この手紙は今すぐ渡さなくちゃなりません」と公爵は心配そうにいい出した。「ぼくが渡してあげましょう」
「でも、いっそ、いっそ、ねえ、公爵さま、いっそ、あの……なにしたほうが……」
 レーベジェフは奇妙な哀願するようなふうに顔をしかめた。そして、まるで針かなにかで刺されてでもいるように、急にそわそわと動きだした。彼はわるごすそうに、目をぱちぱちさせながら、手でなにか仕方をして見せるのであった。
「なんです?」と公爵はこわい顔をしてきいた。
「先まわりをして、あけてみたらどうです!」と感動をこめたなれなれしい様子で、彼はこうささやいた。
 と、公爵はいきなりすさまじい剣幕で、おどりあがった。レーベジェフは一目散にかけだそうとしたが、戸口まで行ったとき、もうおゆるしが出はしないかと待ちうけて、立ちどまった。
「ええ、レーベジェフ君、いったいどうしたらきみのように、そんな卑劣な、だらしのない気持ちになれるんです?」と公爵は愁わしげに叫んだ。
 レーベジェフの顔色は急にはればれしくなった。
「卑劣です、卑劣です!」われとわが胸をたたいて、目に涙を浮かべつつ、すぐに彼はそばへ寄って来た。
「じつにけがらわしいことです!」
「まったくけがらわしいことで。一語でつくしています
!」
「ほんとうになんという癖でしょうね、そんな……妙なことばかりしでかすなんて! だって、きみは……なんのことはない、ていのいいスパイじゃありませんか! きみは何のために無名の手紙を書いて……あんな人の好いりっぱな婦人に心配をかけたんです? またなぜアグラーヤさんにしても、だれであろうと、自分のすきな人に手紙を書く権利を持ってないのです? いったいきみはなんですか、告げ口でもするつもりで、きょうあすこへ出かけたんですか? どんなとくがあると思ったんです? なんだってそんな告げ口をする了簡になったんです?」
「それはただただ悪気のない好奇心と……高潔な心の忠義立てから出たことです、はい!」とレーベジェフはおずおずといった。「今からは、もうすっかりあなたのものです、またもとのとおりにすっかり……たとえ絞り首になりましても……」
「きみは今のような恰好をして、リザヴェータ夫人のところへ出かけたんですか?」と公爵は嫌悪の念を感じながら、ちょっとこんなことをきいてみた。
「いいえ……もっとすっきりした……もっと作法にかなった様子でした。こんな……恰好になったのは、恥ずかしい目にあったあとです」
「まあ、よろしい、ぼくにはかまわないでください」
 しかし、『客』がやっと思いきって出て行くまでに、いく度となくこの頼みをくりかえさなければならなかった。もうすっかり戸をあけ放しておきながら、また引っ返して、抜き足で部屋の真ん中へやって来ては、また手紙をあけてみろという手つきをするのであった。けれど、さすがにこれを口に出して勧める勇気はなかった。それから、静かな愛想のいい微笑を浮かべながら、とうとう部屋を出て行った。
 こんなことを耳にするのはたまらなくいやだった。しかし、この話の中でただ一つ、重大にして異常な事実があった。ほかでもない、アグラーヤがなぜか知らないが(『嫉妬のためだ』と公爵は腹の中でつぶやいた)、激しい不安と、激しい動揺と、激しい苦痛に襲われているという事実である。また同様に、彼女がよくない人々に迷わされている、ということもこの話から想像された。公爵はどうして彼女がそんな人たちを信用したのか、不思議でたまらないくらいであった。もちろん、この世間を知らぬ、熱烈で傲岸な頭脳の中に、なにか特殊な計画が熟しているに相違ない。しかも、ことによったら、身の破滅を招くような……前代未聞の計画かもしれないのだ。公爵は無上におびえてしまって、どんな行動をとっていいか、かいもくわからないほど頭が乱れた。とにかく、是が非でも、なにか未然にことを防ぐような方法をとらなければならぬ、とは彼の痛切に感じたところである。彼はもう一度、封をしたままの手紙の宛名を見た。そこには彼にとって、なんの疑惑も不安もなかった。すっかり信じきっていたからである。この手紙の中で、彼に不安を感じさせたのはほかのことである。彼はガーニャを信用することができなかった。
 しかし、とにかく、自分でこの手紙を手から手へ渡そうと決心して、彼はそのためにわざわざ家を出たが、また途中で考えを変えた。ちょうどプチーツィンの家のすぐそばで、まるであつらえたようにコーリャと出くわしたので、公爵はアグラーヤから直接たのまれたといって、この手紙を兄に渡してくれと頼んだ。コーリャはなにひとつたずねるでもなく、すぐ兄の手へ届けたので、ガーニャはこの手紙がいろんな関所を通過して来たとは、夢にも知らなかった。家へ帰ると、公爵はヴェーラを自分の部屋へ招き、話すべきことを話して、彼女を安心させた。彼女はそれまでいっしょうけんめいに手紙をさがして、さがしあぐんで泣いていたのである。手紙を持って行ったのが父親だと聞いて、彼女はぎょうてんせんばかりであった(のちになって、公爵はこの娘から、彼女がいく度もラゴージンとアグラーヤのために、秘密の仲だちをしたことを知った。これが公爵のためにならぬことだとは、彼女は夢にも考えなかったのである……)。
 そのうちに、公爵はすっかり頭が混乱してしまった。二時間ばかりたって、コーリャからの使いがかけつけて、父将軍の発病を知らせたときにさえ、なんのことやらほとんど合点がいかなかったほどである。しかし、このできごとは彼の気を引き立ててくれた。そっくり彼の注意をそちらへ奪ってしまったからである。彼はニーナ夫人のもとに(病人はもちろんここへかつぎこまれたので)、晩までずっと居通した。彼はなんの役にも立たなかった。しかし苦しいときそばにいてくれると、なぜか気持ちのいい人がよくあるものだ。コーリャはおそろしく動顛してしまって、ヒステリーみたいに泣きとおしていたが、それでもしじゅう走り使いにばかり出て、医者を迎えに行き、三人までさがし出したり、薬屋や理髪店へかけつけたりした。将軍は息を吹き返したけれども、意識はもどらなかった。医者は『とにかくこの患者は非常に重態です』といった。ヴァーリャとニーナ夫人は、病人のそばを離れなかった。ガーニャはすっかり狼狽して動顛していたが、それでも二階へあがろうとしないばかりか、病人の顔を見るのさえ恐れていた。彼はじりじりして、両手をねじまわしていたが、公爵を相手のとりとめのない話の中に『ああ、なんという災難でしょう。しかもわざとのように、こんな時をねらって!』と何げなく口をすべらした。公爵は、彼のいうのがどんな時だか、わかるような気がした。イッポリートはもうこの家の中に見当たらなかった。
 夕方、レーベジェフがかけつけた。朝の『告白』がすんでから今までぐっすり、一度も目をさまさずにやすんだのである。いま彼はほとんどしらふになって、病人が親身の兄でもあるように、偽りならぬ涙をこぼして泣いた。彼はなんともわけをいわないで、しきりにわびごとをいうのであった。そして、ニーナ夫人のあとを迫いまわすようにしながら、『これはわたくしの仕業です、わたくしがもとです、わたくしよりほかにはだれもありません……しかも、それはただただ悪気のない好奇心から出たことです。ああ、「故人」は(彼はまだ生きている将軍をつかまえて、なぜかしつこくそう呼ぶのであった)、じつに天才ともいうべき人でした!』とひっきりなしにいいつづけた。彼はこの天才ということを、ことさらまじめにいい張った。その調子はまるでこの事実からして、なにか非常な利益でも生じるもののようであった。とうとうニーナ夫人も、その真心からの涙を見て、すこしも不平がましいところのない、むしろ優しいぐらいの語調で、『まあ、大丈夫ですから、泣かないでくださいね、神さまがあなたをゆるしてくださいます!』といった。レーベジェフはこの言葉とその調子にすっかり感激してしまって、ひと晩じゅうニーナ夫人のそばを離れようとしなかった(次の日も、その次の日も、将軍の死ぬまで、彼はほとんど朝から晩まで、イヴォルギン家で時を送ったのである)。この日のうち二度リザヴェータ夫人の使いが将軍の容態を聞きに来た。
 公爵がその晩九時ごろ、もう客でいっぱいになったエパンチン家の客間へあらわれたとき、リザヴェータ夫人はすぐ病人のことをこまごまと、熱心にたずねはじめた。そして、『いったい病人とはだれのことです、またニーナ夫人というのはどんな人です?』というベロコンスカヤ夫人の問いに対して、ものものしい調子で返事をした。公爵はこれがたいへん気に入った。彼自身も夫人との応答中、あとで姉娘たちの評したところによると、『りっぱな』話しぶりを示した。『余計な言葉を使わないで、身ぶりも入れず、つつましやかな、おっとりした、品のある話しぶりだった。それに、入ったときの様子もりっぱだったし、身なりもすばらしかった』前の日心配したように、『つるつるした床で滑ってころば』なかったばかりか、むしろ気持ちのいい印象を与えたほどである。
 公爵はまた公爵で、座に着いてあたりを見まわしたとき、ここに集まったすべての人々が、きのうアグラーヤのおどしたような、ないしはひと晩じゅう夢に見てうなされたような、あんな恐ろしい妖怪めいたものではけっしてない、ということをすぐに見て取った。彼は生まれてはじめて『社交界』という恐ろしい名で呼ばれているものの、わずか一端をうかがったのである。彼はある特別な希望と想像とあこがれのために、この夢幻の国に似た階級へ入りこむことを、もうとうから渇望していたので、この集まりの第一印象に、なみなみならぬ興味を覚えた。この第一印象は、魅力に満ちたものでさえあった。なんだかこれらの人々は、こうしていっしょになるために生まれて来たのだ、といったような考えがすぐ彼の心に浮かんだ。今夜エパンチン家には、べつだん夜会などというものもなければ、招待客などというものもいない。ここにいる人たちはまったく『うちの人』同様で、彼自身もずっと前から、これらの人々の隔てない親友であったのだが、ついしばらく別れていて、ふたたびその仲間へ帰って来たのだ、というような気持ちがした。 都雅なふるまいや、隔てのない調子や、いかにも心の美しそうな様子、そういうものの魅力はほとんど魔術めくほどであった。彼はこうした美しい心も、上品な態度も、機知に富んだ談話も、品位の高い風采も、単なる芸術的技巧にすぎないかもしれぬなどとは、夢にも思いそめなかった。客の多くは人に尊敬の念をおこさせるような風貌を備えているが、むしろ頭脳の空疎な人たちばかりであった。もっとも、彼ら自身も、自分たちの持っている美点はただの付け焼刃にすぎないことを知らずにいた。しかし、その付け焼刃も彼ら自身の罪ではない。なぜなら、それは無意識の間に生じ、遺伝的に譲られたものだからである。公爵も第一印象の美しさに魅了されて、そんなことは考えてみようともしなかった。たとえば、この老人、年からいえば、彼の祖父にしてもいいほどのえらそうな政治家は、こんな経験の浅い若輩の言葉を聞くために、わざわざ自分の話をやめたというふうに思われた。そして、ただ聞いているだけでなく、いかにもその意見に感心したらしい様子で、彼に対して優しい、まごころから出た善良な態度を示すのであった。しかも、ふたりはいまはじめて顔を合わしたばかりで、見ず知らずの他人ではないか。ことによったら、この優美に慇懃な調子がなにより強く、公爵の鋭敏な感受性に作用したのかもしれないが、あるいは彼がはじめから、あまり買いかぶって、幸福な印象を受け入れるような気分になりきっていたのかもしれない。 しかし、これらの人々は、―むろんこの家にとっても、またおたがい同士のあいだでも、『親友』であったには相違ない――けれども、公爵がこれらの人々に紹介されて近づきになるやいなや、すぐ正直に信用してしまったほど、この家にとってもおたがい同士のあいだでも、そう深い親友ではなかった。その中には、エパンチン家の人々を、ほんのこれっぱかりも対等に考えていない人もあった。また、たがいに激しく憎みあっている人もあった。ベロコンスカヤのおばあさんは一生涯、『老政治家』の夫人を『侮って』いたし、またその夫人はリザヴェータ夫人が大きらいだった。その夫の『政治家』はどうしたわけか、エパンチン将軍夫婦の若いころからの保護者で、今夜一座の采配を振っていた。この人はイヴァン将軍の目から見ると、とてつもない偉大な人傑なので、彼はこの人の前へ出ると、恐怖と刪疣の念よりほか、何の感じもいだけなかった。そんなわけで、もし彼がほんの一分間でも、この人をオリンピヤのジュピターと崇めないで、対等の人間だなどと考えるようなことがあったら、それこそ心から自分を侮蔑したに相違ない。
 一座の中にはまたこんな人もあった。もういく年も顔を合『わしたことがないので、おたがいに嫌悪の念でないまでも、無関心な気持ちよりほか、なんにも感じていないくせに、まるでついきのうあたり、非常にうち解けた気持ちのいい会合で顔を合わしたばかりのようなふうつきでいた。しかし、この集まりはさして大人数ではなかった。ベロコンスカヤ夫人と『老政治家』(これはほんとうに権勢家であった)、そしてその夫人を別として、第一番に指を折られるのは、なかなかりっぱな地位を占めた、男爵か伯爵か知らないが、ドイツー名前を持った、さる陸軍の将官であった。思いきって無口な人だが、政治方面のことに驚くべき知識を持っており、むしろ学者といってもいいくらいな評判であった。それは『かんじんのロシヤをのけたほかのものは』なんでも知らないものはないという、オリンピヤの諸神にもたぐうべき行政官のひとりで、『深刻驚くべき』警句を、五年に一度吐いて聞かせるような人だった。もっとも、その警句は、間違いなく一代のはやり言葉となって、九重の奥深きところにまで知られるのである。つまり、この人は通常、おそろしく長い(むしろ奇態なほど長い)勤務ののち、高い官等と、りっぱな位置と、莫大な金を持って死んで行く、ありふれた長官のひとりなのであった。もっともこんな人は、これというほどのたいした勲功も立てないけれど、自分ではかえって、勲功など少少憎んでいるくらいである。この将軍は勤務上、エパンチン将軍の直属長官に当たっているので、エパンチンは持前の熱烈な、感じやすい性質のうえに、うぬぼれまでが手伝って、この将軍をもやはり恩人扱いにしていた。しかし、この将軍はけっして自分のことを、エパンチン将軍の恩人とは思っていないので、平然として、いいかげんにあしらっていたが、それでもエパンチン将軍の示してくれるさまざまな好意を、いい気持ちで利用するのであった。そのくせ、たとえれっきとした理由はなくても、なにかひょいと気が変わったら、すぐさま平気でイヴァン将軍のいすにほかの官吏をすわらせたかもしれない。
 そこにはいまひとり、もうかなりな年配の偉い紳士がいた。この人のことをリザヴェータ夫人の親戚のようにいうものもあったが、それはまるで根もないことである。これは官等も位置もりっぱな人で、財産もあれば門閥もよい。肉づきのいい、がっしりした体格で、非常に多弁家である。世間では不平家という評判さえあり(それもきわめて穏当な意味においてである)、かんしゃく持ちというものさえあった(それすらこの人にあっては、気持ちよく感じられた)が、万事につけて、英国の貴族めいた習慣を持っていて、趣味もイギリスふうである(たとえば、血のたれるようなローストビーフだとか、馬のつけかただとか、侍僕の服装だとか、そんなふうの事柄である)。彼は『老政治家』と大の仲よしで、いつもこの人の機嫌を取っていた。そのほかに、リザヴェータ夫人はどういうわけか、ある奇妙な考えをいだいていた。ほかでもない、この紳士が(この人はいくぶん軽はずみで、かなり好色家だから)、ひょっとしたら、アレクサンドラに結婚を申し込んで、玉の輿の幸福を授けるかもしれない、というのであった。
 この最上流に位する、重みのある階級のつぎには、同じく都雅な資質に輝いてはいるけれど、いくぶん年の若い人々の階級が控えていた。S公爵とエヴゲーニイのほか、この階級に属する人に、有名な好男子のN公爵があった。これはヨーロッパじゅうの女の誘惑者であり、同時に征服者であった。もう四十五ぐらいになるけれど、いぜんとして美しい容姿を保っている。まれに見る話上手で、いくぶん家政が紊乱してはいるものの、財産家で、習慣上おもに外国でばかり暮らしていた。
 そこにはまた、第三の階級ともいうべきものを形作っている人々があった。元来の身分としては、『選ばれたる』階級にはいらないけれど、エパンチン家の人々と同様に、なぜかしらときどきこの『選ばれたる』階級のあいだに見受けられる人々である。これらの人々の原則としている一種の術によって、エパンチン家の人々はごくたまに催す夜会などで、上流の人々とすこしその下につく人々――『中流階級』の選り抜きの代表者とを、好んでつきまぜるのであった。人々はそのためにかえってエパンチンー家を賞賛して、自分の位置を知った人、社交術に長けた人として遇するので、彼らもこういう批評を誇りとしていた。この晩の『中流社会』の代表者は、ある工兵の大佐であった。まじめな人物で、S公爵とは非常に親しく、この人を通してエパンチン家へ出入りするようになった。もっとも、一座の中では無口のほうで、右手の人さし指に、ご下賜品らしい、大きな、よく目立つ指輪をはめていた。
 またそこにはいまひとり文学者――詩人といってもいいくらいの人がいた。生まれはドイツ人だが、ロシヤの詩人であるうえに、きわめてたしなみがいいので、どんなりっぱな席へでも、危なっけなしに案内ができた。彼は生まれつき風采がよかった、とはいえ、どういうわけか妙に厭味な顔をしている。年は三十八ぐらいで、どこという難のない身なりをしている。きわめて俗な、けれど非常に尊敬されているドイツ人の家庭に人となったが、身分の高い人の保護を受けて、その愛顧にしがみつくためには、あらゆる機会を利用するのであった。いつだったか、ある有名なドイツ詩人の大作を韻文でロシヤ語に訳したとき、さる名士に献呈するほどの働きがあった。いつも有名な、しかし今は故人となっているロシヤの詩人と親交のあったことを自慢にしている(文士の中には偉大な、ただし今は世にない文豪との親交を、新聞雑誌で押し売りしたがる連中がうようよしている)。この詩人はつい近ごろ『老政治家』夫人の手引きで、エパンチン家へ出入りしはじめたのである。
 老政治家夫人は文士や学者の保護者でとおっていた。そして、じっさい、自分を尊敬してくれる名士連の助力を借りで、二、三の文学者に奨励金を与えている。この夫人も一種の勢力は持っていたのである。年ごろは四十五ぐらい(だから、こんなしわだらけなじいさんの夫人としては、いたって若いほうである)、もとはなかなかの美人だったが、今は四十五、六の貴夫人にありがちの病いで、おそろしく、はで作りにすることが好きなのである。あまり頭のいい人でもないし、文学上の知識もいたって怪しいものだ。しかし、文学者の保護はこの夫人にとって、はでななりをするのと同性質の病いだった。多くの著述や翻訳が夫人に献呈されている。二、三の文学者は夫人の許可を得て、非常に重大なことがらをしたためた夫人あての手紙を、公けに印刷したこともある……
 こうした一座の人々を、公爵はすこしも混ぜもののない、純良無垢の金貨のように考えたのである。もっとも、これらの人々はこの晩まるで申し合わせたように、非常に上機嫌で、自分に満足しきっていた。そして、皆がみなひとりの例外もなく、自分がエパンチン家を訪問したのは、同家に偉大な名誉を与えたことになるということを、ちゃんと承知していた。しかし、悲しいかな! 公爵にはそんな機微の点は想像もつかなかった。一例を挙げると、エパンチン家の人々は娘の運命にかかわる、重大な決心をとろうとしているときに当たって、自分ら一家の保護者たる老政治家に、公爵を紹介しないでうっちゃっておくなどという、大胆な行為には出られないのである――こんな事情を公爵は、夢にも悟ることができなかった。ところで、老政治家のほうはどうかというに、彼はエパンチン家に生じた最も恐るべき不幸の報告すら、平然と落ちつきはらって受け取れそうな様子でありながら、もしエパンチン夫妻が彼に相談しないで、――つまり彼にことわりなしに、娘の婚約などしようものなら、かならず感情を害するに相違ないのであった。
 またN公爵-この人なつこい。頓智のうまい、そして人格の高い、心の潔白な人はどうかというに、彼はわれこそ今夜エパンチン家の客間にさし昇った太陽みたいなものだと、あくまで信じきって、この家の人たちをずっとずっと卑しいものに思いこんでいる。こうした天真爛漫な高潔な考えが、エパンチン夫妻に対する彼の態度を、おそろしく愛想のいい、うち解けた、隔てのないものにした。彼はこの晩ぜひとも、一座を魅了するような話をしなければならないと思って、ほとんど霊感ともいうべき心持ちをいだきつつその心構えをしていた。しばらくたってこの話を聞いたムイシュキ冫公爵は、このN公爵のようなドン・フアンの口から出た輝かしい諧謔や、驚くべき快活な調子や、ほとんど感に堪えた天真爛漫な話しぶりこそ、今まで聞いたものの中で、類を求めることができないくらいであると、感服してしまった。しかし、内実、この話はもういいかげん方々へ持ちまわられた、陳腐なものだということを、公爵はすこしも知らなかった。まったく話し手がひと言ひと言そらで覚えるくらい、ひねくりまわして手ずれがしているので、もうどこの客間でもこの話には飽きあきしてしまっていたが、おめでたいエパンチン家へ来るとまた珍しいもの扱いにされて、今をときめくりっぱな紳士が思いがけなく誠実なはなばなしい追憶談を聞かしてくれた、ということになるのであった。例のドイツ生まれの詩人は、非常に愛想よくつつましげにふるまっていたが、それでも自分の来訪をもって、この家の光栄かなんぞのように考えかねまじい勢いであった。しかし、公爵はこうしたものの裏面やかくれた事情には、いささかも気がつかなかった。
 この災厄は、アグラーヤも前もって見抜くことができなかった。もっとも彼女自身は、この晩、ことにあでやかであった。三人の令嬢はみんなさしてけばけばしいほどではないが、それぞれ粧いを凝らして、髪の結いぶりもなんとなく、いつもと違っているようであった。アグラーヤはエヴゲーニイと並んで、さも親しそうに話しあったり、冗談をいったりしていた。エヴゲーニイもやはり名士連に敬意を表するためか、いつもよりすこし重々しくふるまっていた。もっとも、彼は社交界ではとっくに顔を知られて、年こそ若いけれど、もうすっかり場なれていた。この晩、彼は帽子に喪章をつけてやって来たので、ベロコンスカヤはこの処置を激賞して、まったくほかの人、しかも社交界の人であったら、この場合あんな伯父のために喪章なんか着けなかったろうに、といった。リザヴェータ夫人も、同様これには満足らしいふうであったが、総じてなんだかひどく心配らしい様子を見せていた。公爵は、アグラーヤが二度までも、自分のほうをじいっと見つめたのに気づいたが、彼女もどうやら公爵の態度に満足しているらしく見えた。しだいに彼は自分を幸福に感じるようになった。さっきレーベジェフと話したあとで経験した『妄想』や疑惧の念が、今もひょいひょいと心に浮かんできたけれど、それはもうまるで辻褄の合わない、しょせんこの世にありそうもない、むしろこっけいな夢かなんぞのように思われた! それでなくとも、彼はさっきから――というよりまる一日のあいだ、どうかしてこの夢を信じまいと、無意識ではあるけれどいっしょうけんめいにこいねがっていたのである。彼はあまり口をきかなかった。ときたま話しても、ただ質問に答えるだけであった。しまいには、すっかり黙りこんでしまい、こころよい感じに浸っているかのように、じっとすわって耳を傾けていた。だんだん彼自身の心中にも、一種の感興がわきおこって、折りがあったらほとばしり出そうになってきた……彼はついに口をきいた。しかし、それもやはり質問に答えたにすぎない。それも特別の意図は全然ないようであった……

      7

 彼がさも嬉しそうに、N公爵とエヴゲーニイと話し合っているアグラーヤを見守っているあいだに、今まで一方の隅で老政治家のお相手をして、なにやら夢中になって話していたかなりな年配の英国狂紳士は、とつぜんニコライ・アンドレエヴィチ・パヴリーシチェフ氏の名前を口にした。公爵もそのほうをふり向いて、耳を傾けはじめた。
 話は××県の地主領に対する現行制度と、その不合理に関するものらしかった。アングロマンの話はなにかおもしろいことだとみえて、とうとう老政治家は相手の癇性らしい熱した調子を笑いだした。アングロマンは母音にいちいちやさしいアクセントをつけ、なんだか不機嫌らしい調子で、言葉じりを引きながら、現行制度のために××県にあるみごとな領地を、かくべつ金がいるというわけでもないのに、ほとんど半値で売ってしまい、そのかわりに訴訟問題の付帯している損のゆく荒れた領地を、金まで払いながら保留しておかねばならなくなった事情を、なめらかな調子で物語るのであった。
「なおそのうえ、パヴリーシチェフ家の領地と訴訟でもおこしたら大変だと思って、それがこわさに逃げだしてしまいました。ほんとうに、あんな遺産をもう一つ二つもらったら、それこそわたしは破産してしまいますよ。もっとも、わたしはあそこですばらしい地面を、三千町歩ばかり手に入れましたがね!」
「ほらあの……イヴァン・ペトローヴィチは、亡くなったパヴリーシチェフさんの親類なんだよ……きみは親類の人を搜しておったようだね」イヴァン将軍は、公爵がふたりの話に異常な注意を払っているのに心づき、とつぜんそばへやって来て、小声にこうささやいた。
 将軍はそれまで、自分の長官のお相手をしていたが、もう前から公爵がたったひとり、のけものになっているのに気がついて、気をもみはじめたのである。彼はある程度まで、公爵を会話の仲間へ引き入れて、もう一度、上流の『名士』に紹介しようと思いたった。
ムイシュキン公爵は両親をうしなってから、パヴリーシチェフ氏に引き取って養われた人でございます」と彼はアングロマンの視線を迎えて、口を入れた。
「いやあ、どーうも愉快です」とこちらはばつを合わした。「ようく覚えています。さっきエパンチン将軍がご紹介をなすったとき、ああそうそうと思いました。顔さえ見覚えがありますよ。まったくあなたはあまりお変わりにならんようですな、わたしがあなたを見たのは、まだあなたが子供の時分でしたがね、あの時分、十か十一ぐらいでしたね。しかし、なんとなく面ざしに、昔を偲ばせるところがありますよ……」
「あなたは子供時分のぼくをごぞんじですって?」公爵はなにか非常な驚きを顔に表わしながら、こうたずねた。
「もうずっと昔のことですよ」とアングロマンは語をついだ。「あれはズラトヴェールホヴォ村で、あなたがわたしの従姉たちの世話になっておられたころです。わたしはかなりしばしば、ズラトヴェールホヴォ村へ出向いていましたが、――わたしを覚えてはおいででないでしょうな? 覚えていらっしゃらんのがあたりまえですよ……あなたはあの時分……なにか病気をしておいでのようでしたね。一度なぞ、あなたを見てびっくりしたことさえありましたよ……」
「なんにも覚えていません!」公爵は熱して、うけあった。
 それから、しごく落ちつき払ったアングロマンと不思議なほど興奮した公爵とが、さらにしばらく話し合ってみた末に公爵の養育を託された、パヴリーシチェフ氏の親族に当たる、ズラトヴェーホヴォに住んでいた中年の老嬢ふたりは、このアングロマンの従姉に当たることがわかった。この人もほかの人々と同様に、どういうわけでパヴリーシチェフ氏が、養い子にした幼い公爵の身の上をあんなに心配したか、その理由をすこしも説明することができなかった。
「それにあの当時、そんな好奇心をおこすのを忘れてたんですよ」といったが、それにしてもこの人はなかなか記憶がよかった。なぜなら、彼はマルファ・ニキーチシナという年上のほうの従姉が、幼い公爵に対して非常に厳重だったことまで、思い出したからである。
「ですから、一度などはあなたの教育方針について、その従姉と喧嘩したことさえありますよ。じっさい病身な子供を仕込むのに、一にも鞭二にも鞭というありさまでしたからなあ――そんなことは……ねえ、まったくその……」ところが、年下のほうのナタリヤ・ニキーチシナは、病身な子供に対してごく優しかった……「いまふたりとも(と彼は進んで説明した)××県に住んでいますが、はたして生きてるかどうか知らないです。××県には、パヴリーシチェフ氏がふたりの従姉に残した、ごくごくちんまりした領地があるのですよ。マルファのほうは(修道院へ入りたがっていたという話ですが、これはたしかに保証できません。ことによったら、だれかほかの人の話だったかもしれないです……ああ、そうだ、これはついこのあいだ、あるお医者さんの細君のうわさを聞いたんだっけ……」
 公爵は歓喜と感激に目を輝かせながら、こうした物語を聞いていた。ききおわると、彼はこの六か月間、内部諸県を旅行したとき、もとの養育者をさがし出して訪問する機会を捕えなかったのを、自分でもじつに済まないと思っていると、おそろしく熱した調子で告白した。毎日毎日、出かけたいと思いながら、やはりいろんな事情に妨げられたのである……しかし今度こそは……ぜひとも……たとえ××県でもかまわない、行ってこようと誓ったのである……
「じゃ、あなたはナタリヤさんをごぞんじなんですね! なんという美しい、なんという尊い心のかたでしょう! けれどマルファさんも……いや、失礼ですが、あなたはマルファさんを見誤っていらっしゃるようです! じっさいあのかたは厳格でした。けれど……あの当時のぼくみたいな……白痴には、まったく愛想を尽かさずにはいられないじゃありませんか(ひひ!)。だって、ぼくはあのころまったく白痴でしたからね、あなたはほんとうになさいませんか(はは!)。もっとも……もっとも、あなたは、あのころのぼくをごぞんじですね……しかし、どうしてぼくはあなたを覚えてないのでしょう。え、いったいどういうわけでしょう? じゃ、あなたは……ああ、なんということだろう、じゃ、ほんとうにあなたはパヴリーシチェフ氏のご親類なんですね?」
「だーいじょうぶ、間違いありません」とアングロマンは、公爵をじろじろ見まわしながら微笑した。「おお、ぼくはけっして……疑ったがために、あんなことをいったわけじゃありません。それに、まあこれがいったい疑われるようなことでしょうか(へへ!)……たとえすこしばかりでも? まったくほんのすこしばかりでも!! (へへ!)ぼくがあんなことをいいだしたのは、ほかじゃありません、亡くなったパヴリーシチェフ氏が、じつにりっぱな人だったからです! まったく度量の大きい人でしたねえ、ほんとうにぼくちかって申します!」
 公爵は息切れがした、というよりは、むしろ『美しい情愛のためにむせかえった』のである。これは翌朝アデライーダが、未来の夫S公爵との話の中でいったことなので。
「おやおや、これはどうも!」とアングロマンは笑いだした。「どうしてわたしは度量のおーきーな人の親戚になれないんでしょう?」
「ああ、とんでもない!」公爵はしだいしだいに興奮しながら、あわててまごまごした様子で叫んだ。「ぼくは……ぼくはまたばかなことをいいました、しかし……そうあるべきはずなんです、なぜって、ぼくは……ぼくは……しかし、ぼくはまたしても、辻褄の合わないことをいってますね! それに、こんな興味ある事実の前に……こんなすばらしい、興味のある事実の前に……ぼくのことなんか話して何になりましょう! それに、あんな度量の大きな人と比べると、なおのことですよ――だって、まったくあのかたは度量の大きな人でしたものね、そうじゃありませんか? そうじゃありませんか?」
 公爵はからだじゅうぶるぶるふるわしていた。なぜ彼がこれというわけもないのに、急にこう騒ぎだしたのか、なぜ話題のわりにして合点の行かないほど、感激したのか――それはなかなか解決しにくい問題であった。まあ、とにかく、こうした気分になっていたのだろう。彼はこの瞬間だれかに対して、何のためか知らないが、非常に熱烈な、感傷的な感謝の念をいだかんばかりであった、――おそらく、この感謝の念はアングロマン、いや、客ぜんたいに向けられていたのかもしれない。彼はもう『幸福の絶頂に』あったのである。アングロマンはとうとう一段と目をすえて、彼を見まわしはじめた。『老政治家』もおそろしく真顔になって彼を見つめていた。ベロコンスカヤ夫人は、彼のほうへ腹立たしげな視線をそそいで、くちびるを噛みしめていた。N公爵、エヴゲーニイ、S公爵、令嬢たちも、話をやめて耳を澄ましていた。アグラーヤは、ぎょっとしたらしい様子であった。リザヴェータ夫人は、もうなんのことはない、びくびくものであった。この母娘《おやこ》はじつに奇態な人たちである。彼らは自分たちで勝手に、公爵はひと晩じゅう黙ってすわってたほうがよかろうと決めておきながら、公爵がほんとうにひとりぼっちで片隅にすわって、自分の境遇に満足しきっているのを見ると、もうすぐ心配になってきた。もすこしのところでアレクサンドラが彼のそばへ行き、部屋を横切ってベロコンスカヤ夫人の隣にすわらせ、N公爵の仲間へ加えるところであった。ところが、とつぜん公爵が自分のほうから話しだすと、母娘はいっそう気をもみだしたのである。
「立派な人だったということは、あなたのおっしゃるとおりですよ」とアングロマンは、もうにこっともしないで、押しつけるような調子で言った。「さよう、さよう……あれはまったく美しい人でした! りっぱな、そして尊敬に価する人でした」としばらく息を休めてからいい足した。「それどころか、あらゆる尊敬を受くべき価値のある人、といってもいいくらいでしたよ」と彼は三たび沈黙ののち、さらに当てつけがましくつけ加えた。「そして……そして非常に愉快ですな、あなたがそんなに……」
「いつかカトリックの僧院長に関連した……奇妙な事件をひきおこしたのは、そのパヴリーシチェフ氏じゃないですか……カトリックの僧院長……なんという僧院長……だか忘れてしまったが、あの当時みんなしきりに騒いでたじゃありませんか」と急に思い出したように『政治家』がこういった。
「あれはジェスイット派の僧院長グロウです」とアングロマンは口を添えた。「さよう、じっさいロシヤでも珍しいりっぱな人でした。なんといっても門閥はよし、財産はあり、侍従官ではあるし、ずっとつづけて勤めていたら……ところがとつぜん勤務も何もすっかりほうり出してしまって、カトリックに改宗して、ジェスイット派になるなんて、しかもほとんど大ぴらで、なんだか得意らしい様子なんですからなあ。まったくいい具合におりよく死んだんですよ……ほんとうに。しかし、なかなか評判でしたよ……」
 公爵は思わずわれを忘れて、
「パブリーシチェフさんが………「ヴリーシチェフさんがカトリックに改宗したんですって? そんなことがあるものですか!」と彼はぞっとしたように叫んだ。「え、『そんなことがあるものか』ですって!」とアングロマンはものものしくいった。「それはすこし言いすぎじゃないですか、ご自分でもおわかりでしょうが……しかし、あなたは非常に故人を尊敬しておいでのようですから……じっさいあの人は好人物でしたよ。つまり、そのために、グロウなどという山師につけ込まれたんだと思います。ですが、その後このグロウー件について、わたしがどれほど骨折って奔走したか、まったくお聞かせしたいくらいですよ。どうでしょう」と彼はふいに老政治家のほうを向いた。「その連中が、遺産分配上の要求まで持ち出そうとしたのですよ。で、わたしはやむを得ず、その、非常手段に訴えました……でなければ、とても性根に入らないんですからね……まったく、やつらもさる者ですよ! 驚きいーるほどです! だが、ちょうどさいわい、この事件はモスクワでおこったものですから、わたしはすぐ伯爵のところへかけつけて、やつらの……性根に入るようにしてやりました……」
「こんなことをいっても、ほんとうになさらないかもしれませんが、あなたはぼくをすっかり悲観させておしまいになりました、びっくりさせておしまいになりました!」と公爵はふたたび叫んだ。
「お気の毒でしたな。しかし実際のところ、この事件はつまらない話です。そして、いつものお決まりで、つまらなく終わりを告げるはずだったんですよ。わたしはそう信じています。去年の夏」と、またしても老政治家のほうを向いて、「K伯爵夫人もやはり外国のなんとかいう、カトリックの教会へはいったそうです。どうもロシヤ人はあの……山師にかかったとき、じっと持ちこたえることができないようですね……ことに外国にいる人に、その傾向が顕著ですよ」
「それはつまり、ロシヤ人の倦怠から生じることだ……と思うね」と老政治家はおっかぶせるような調子でつぶやいた。「それにあの連中の伝道の仕方が……一種特別な優美なもので……なかなかおどかしがうまいよ。わしも三十二年こ(一八三二年)にウインでおどかされたが、もろくはかぶとをぬがないで、逃げだしてしまったよ、はは!・ まったく逃げだしたんだよ」
「だけど、わたしの聞いたところでは、あんたはレヴィーツキイ伯爵夫人といっしょに、任務を棄てて、ウインからパリヘ逃げだしたそうじゃありませんか、ジェスイット派から逃げだしたのじゃありますまい」とふいにベロコンスカヤ夫人が口をいれた。
「いや、それでもやはりジェスイット派を避けたことになりますよ、やはりね!」老政治家は愉快な追憶にからからと笑いながら、こう受けとめた。「きみはいまの若い人に珍しい宗教的なかたらしいですな」いぜんあっけにとられたように口を開いたまま、いっしょうけんめいに耳を傾けているムイシュキン公爵に向かって、彼は愛想よげにこういった。老政治家はちょっとわけがあって、公爵に非常に興味を感じたので、もっとよくこの青年の人となりを見きわめたかったらしい。
「パヴリーシチェフさんは明るい思想を持ったキリスト教徒でした」とつぜん公爵がこういった。「それですもの、あの人が……反キリストの宗旨に屈服するなんてはずはありません! カトリックは反キリストも同じことです!」急に彼は目を輝かして、一座をひっくるめて見まわすように、前方を見つめながら、こうつけ足した。「どうもこれはあんまりだ」と老政治家はつぶやいて、びっくりしたように、イヴァン将軍を見やった。
カトリックが反キリスト的信仰だというのはいったいどういうわけです?」アングロマンはいすの上でくるりとむきをかえた。「じゃいったいどんな信仰なんです?」
「第一に反キリストの宗旨です!」公爵は異常な興奮のさまで、度はずれた鋭い訓子で、ふたたびいいだした。「これが第一です。第二には、ローマン・カトリック無神論よりもっと悪いくらいです、これがぼくの意見です。ええ、これがぼくの意見なのです! 無神論は単に無を説くのみですが、カトリックはそれ以上に歩を進めています。つまり、みずから讒誣し中傷した、ゆがみくねったキリストを説いているのです、まるきり正反対のキリストを説いているのです! 反キリストを説いているのです、誓ってもいいです、まったくです! これはぼく自身まえからいだいている信念で、ぼくも自分でこの信念に悩まされたくらいです……ローマン・カトリックは世界統一の国家的権力なしには、地上に教会を確立することができないと宣言して、Non possumus(われ能わず、法皇の権利を主張する)と叫んでいます。ぼくの意見では、ローマン・カトリックは宗教じゃなくて、まったく西ローマ帝国の継続です。ここでは宗教をはじめすべてのものが、こういう思想に支配されています。法王は土地と地上の玉座を得て、剣を取りました。それ以来、たえず同じ歩調をつづけていますが、ただ剣のほかに虚言と老獪な行動と、欺瞞と狂妄と、迷信と悪業とを加えました。そして最も神聖で、正直で、単純で、熱烈な民衆の感情をもてあそび、なにもかもいっさいのものを、金と卑しい地上の権力に換えてしまいました。これでも反キリストの教義ではなかったでしょうか! こんなものの中から、どうして無神論が出ずにいられましょう? 無神論はなによりも第一に、この中から出て来たのです。ローマンーカトリックからはじまったのです、カトリ″ク教徒が、どうして自分を信じることができましょう? 無神論は彼らの自己嫌悪に基礎を固めたのです。無神論は彼らの虚偽と精神的無力との産物です! ああ、無神論! ロシヤで神を信じないものは、ただ特殊の階級のみです、先日エヴゲーニイさんのおっしゃった巧妙な比喩を借りると、根こぎにされた人たちばかりです。ところが、あちらでは、西ヨーロッパでは、民衆そのものの大部分が、信仰を失いはじめたんですものね――それも以前は暗黒と虚偽のためでしたが、今は教会とキリスト教に対する狂妄な憎悪の結果です」
 公爵は息をつくために語を休めた。彼はおそろしい早口で弁じ立てるのであった。その顔色は青ざめて、息切れがしていた。一同は顔を見合わせていたが、やがて老政治家が無遠慮に笑いだした。N公爵は柄付き眼鏡を取り出し、目も離さずにじっと公爵を見つめていた。ドイツ生まれの詩人は片隅からはい出して、気味の悪い笑みを浮かべながら、テーブルのほうへにじり寄った。
「あなたは非常におーおげーさで誇張していますね」とアングロマンはいくぶん退屈らしい、なにかはばかるような調子で、言葉じりを引きながらいった。「あちらの教会にだって、やはり尊敬に値する、徳のたかい代表者があります……」
「ぼくはけっして個々の代表者についていったわけじゃありません。ぼくはローマン・カトリックの本質を論じたのです。ぼくはローマというものを論じたのです。いったい教会がぜんぜん消滅するなんて、そんなことがありましょうか? ぼくはそんなことをいった覚えはありません!」
「同意です、しかしそんなことは知れきったことで、むしろ不必要ですよ……それは神学に属することがらです……」
「おお、違います! おお、違います! けっして神学のみに属することがらじゃありません、まったく違います! これはあなたがたのお考えになるより、はるかに深く、われわれに関連しているのです。これがただの神学的なことがらでない、ということを見抜きえないところに、われわれの誤りが含まれているのです!・ 社会主義というものは、やはりカトリック教と、カトリック精神の産物なんですよ!・ これは兄弟分の無神論と同じく、絶望から生まれたのです。そして、精神的の意味でカトリック教の反対に出て、みずから宗教の失われたる権力にかわって、渇ける人類の精神的飢渇をいやし、キリストのかわりに暴力をもって、人類を救おうとしているのです! これもやはり暴力を通じての自由です、これもやはり剣と血を通じての結合です!『けっして神を信じるな、財産を所有するな、個性を持つな、fraternity ou la mort(友愛か死か)二百万の蒼生よ!』と叫んでいます。それは彼らのすることを見ればわかります! そして、そんなことはわれわれにとって、たいして恐ろしくない、無邪気なから騒ぎだ、などと思ったら大変です。それどころか、今すぐ支柱が必要なのです、一分も猶予してはいられません!われわれが保存して来たロシヤのキリストを――彼らの今まで知らなかったロシヤのキリストを、西欧文明に対抗して輝かさなくちゃなりません! のめのめとカトリック教徒の罠にかかることなく、ロシヤの文明を彼らの前に捧げつつ、われわれはいま彼らの前に出現すべき時なのであります。そして、いまだれかのいわれたように、カトリック教徒は優美だなどと、いう人のないようにしたいものです……」
「失礼ですが、失礼ですが」アングロマンはおそろしく泡をくって、すこしおじけづいたようにあたりを見まわしながらいった。「あなたの議論は、じつに愛国心に満ちたりっぱなものです。しかし、非常に誇張されております……むしろこの問題は、他日に譲ったほうがよさそうですね……」
「いいえ、誇張されてはいません、かえって控え目すぎるくらいです。まったく控え目すぎるくらいです。なぜって、ぼくは表現の力がないから、しかし……」
「しつれいですが!」
 公爵は口をつぐんだ。彼はいすの上にそり返って、燃えるような目つきでアングロマンを見つめるのであった。
「きみはどうも、恩人の改宗事件にあまり驚きすぎたようですな」と老政治家はまだ忍耐を失わないで、もの優しくいった。「きみはことによったら……隠遁生活のために熱しやすくなったのかもしれませんて。もすこし世間へ出て、多くの人とまじわって、そして人からりっぱな青年だと、ちやほやされるようになったら、むろんそんな興奮もしずまって、世間のことは存外筒単なものだと、悟られるに相違ないですよ……それに、わしの見解では、あんな類の少ないできごとも、一部分はわれわれの飽満から、一部分は……倦怠のために生じるのですな……」
「そうです、まったくそうです」と公爵は叫んだ。「それはじつに優れたご意見です! まったく『倦怠のため、ロシヤの倦怠のため』です。もっとも、飽満のためではありません。むしろその反対に渇望から来ているので……けっして飽満の結果じゃありません。この点であなたは考え違いをしていられます! 単に渇望のためのみでなく、激情のためといってもいいくらいです、熱病のような渇望の結果なんです! それに……それに、ただ笑ってすますことのできるような些細な形式をとっている、などと思ってはいけません。生意気な言葉ですが、ことを未然に悟る力がなくちゃだめです! ロシヤ人は岸へ泳ぎついて、これが岸だなと信じると、もう有頂天に喜んでしまって、どんづまりまで行かなくちゃ承知しない、これはいったいどういうわけでしょう? あなたがたは今パヴリーシチェフ氏の行為にびっくりして、その原因を同氏のきちがいじみた、人の好い性格に帰しておしまいになりましたが、あれは間違っています! まったくそういう場合、単にわれわればかりではなくヨーロッパぜんたいが、わがロシヤ人の熱病にびっくりするのです。いったんロシヤ人かカトリックに移ったら、かならずジェスイット派にはいり。ます、それもいちばん堕落したのを選ってはいるのです。いったん無神論者となった以上は、かならず暴力をもって、――つまり、剣をもって、神に対する信仰の根絶を要求するようになります。これはどういうわけでしょう? どういうわけで、一時にこんなきちがいじみた真似をするのでしょう?あなたがた、おわかりになりませんか? それはこういうわけです。つまり、彼はここで見落とした父祖の国を、かしこに発見したのです。そして、これこそほん七うの岸だ、陸を見つけたぞと、夢中になって飛びかかって、接吻するのです! ロシヤの無神論者やジェスイット派は、単に虚栄心――見苦しい虚栄的な感情の結果ばかりでなく、精神的の痛み、精神的の渇きから生まれて来るのです。つまり、人生最貴の仕事、堅固な岸、父祖の国――こういうものに対する憧憬から出て来るのです。いまロシヤ人は、こうした父祖の国を信じなくなりましたが、それは今まで一度も見せてもらったことがないからです。ロシヤ人は、世界じゅうのどの国民より、いちばん容易に無神論者になりうる傾向をもっていまず! しかも、単に無神論者になるばかりでなく、必然的に無神論を信仰します。まるで新しい宗教かなんぞのように信仰します[#「信仰します」に傍点]。そして、自分が無を信仰してるってことには、すとしも気がつかないのです。われわれの渇望はこれほどまでになってるのです! 『自分の足下に地盤を持たないものこは、同様に神を持っていない』これはぼくの言葉じゃありません。ぼくが旅行中に出会った旧教派の商人の言葉です。じつのところ、いいかたはすこし違っていました。この商人は、『自分の父祖の地を見棄てたものは、自分の神も見棄てたことになる』といったのです。まったくロシヤで最上の教育を受けた人たちでさえ、鞭身派《フルイストフイチナ》へはしったことを考えてみましたらねえ……しかし、こんな場合、鞭身派《フルイストフイチナ》はどういう点において、虚無主義や、ジェスイット派、無神論などに劣るのですか? あるいはこんなものよりずっと深味があるかもしれませんよ! とにかく、憧憬はこんな程度にまで達したのであります!………おお、渇きに燃えるコロンブスの道づれに『新世界』の岸を啓示してください、ロシヤの人間に、ロシヤの『世界』を啓示してください、地中に隠された黄金を、宝を、彼に与えてください!・ 全人類の更新と復活とを、未来において啓示してください。しかも、それはただただロシヤの思想と、ロシヤの神と、キリストのみによって、なしとげられるものかもしれません。そのときこそは力強くして誠実に、智恵あって謙抑な巨人が、驚倒せる世界の前に……驚倒し畏怖せる世界の前に、忽然と立ちあがるのであります。なぜというに、彼らがロシヤから期待しているのは、ただ剣のみ――剣と暴力のみだからであります。彼らはおのれによって人を判ずるため、バーバリズムを抜きにしたロシヤを想像できないからであります。今までずっとそうでした。時を経るにしたがって、この傾向はますます顕著になっていきます! そして……」
 しかし、このとき、ふいに生じたあるできごとのために、公爵の熱弁は思いがけなく、なかばにして破られた。
 この長い長い突飛な発言、おそろしく混乱してぶつかり合いながら、たがいに先を争って飛び越そうとしている、奇怪なそわそわした言葉や、歓喜に満ちた思想の奔流は、外見上これという原因もなく、とつぜん興奮して来た青年の心中に、なにかしら危険な、なにかしら特殊なものが生じたのを、予言するかのようであった。客間に居合わす人々のうちでも、公爵を知っているすべての人は、彼の平生の臆病で控え目な性質や、どうかすると、容易に得がたいとさえ思われる独自の交際術や、上流社会の礼儀に対する本能的敏感などに不似合いな、今の奇怪な行為に一驚を喫し、危惧の念をもって(あるものは羞恥の念をもって)ながめていた。どうしてこんなことになったのか、彼らはどうしても合点がいかなかった。まさか、パヴリーシチェフ氏に関する報告が、原因となったのでもあるまい。
 婦人席のほうでは、きちがいでも見るように彼を眺めていた。ベロコンスカヤはあとで、『もう一分もつづいたら、わたしはもう逃げだそうと思っていた』と自白した。『御老人連』はのっけに度胆を抜かれて、ぼんやりしてしまった。長官の将軍は自席から不満そうにながめているし、工兵大佐はひっそりと静まり返っていた。ドイツ生まれの詩人は顔色まで変えたが、それでも人がなにかいうかと、あたりを見まわし、つくり笑いをしながらにたにたしていた。しかしこの不面目な事件も、あるいはもう一分くらいののちに、ごく穏かな自然な方法で納まったかもしれない。イヴァン将軍ははじめひどくびっくりしたけれど、第一番にわれに返ったので、いく度も公爵の話をとめようと試みた。が、どうも思うようにいかないので、今や彼は固い断固たる決心をもって、公爵をさして客のあいだを縫って行った。もう一分も待ってみて、ほかに仕方がなかったら、病気を楯にして、親友らしい態度で、公爵を部屋から連れて出ようと決心したのである。病気というのはまったく事実なのかもしれない、いや、イヴァン将軍は心の中で、たしかにそうと信じきっていたのである……けれども、事態はまったく別様に転化してしまった。
 最初、公爵が客間へ入ったとき、彼はアグラーヤにおどしつけられた支那焼の花瓶から、できるだけ遠く離れて腰をかけた。きのうアグラーヤにあんなことをいわれてから、どんなにその花瓶から遠のいても、どんなに災厄を避けるようにしても、かならずあすはこの花瓶をこわすに相違ないという、消しがたい一種の信念――荒唐無稽な一種の予感が、彼の心に巣くった――こんなことがほんとうにできようか!しかし、じっさいそれに相違なかったのである。ところが、夜会の進行につれて、別種な強い、しかし明るい印象が、彼の心を満たしはじめた。このことはもう前にいっておいたとおりである。そして彼は以前の予感を忘れてしまった。彼がパヴリーシチェフの名を聞きつけたとき、イヴァン将軍があらためて彼をアングロマンのところへつれて行って、紹介したとき――公爵はテーブルに近く席を変えて、ひじいすの上にいきなり腰をおろした。そのそばにはみごとな支那焼の大花瓶が花台の上に立っていた。それはほとんど彼のひじのすれすれになって、ほんの心持ちうしろのほうにあったばかりである。
 最後の言葉を発すると同時に、彼はとつぜん席を立って、なにかこう肩を動かすような身ぶりをする拍子に、不注意にも手を振ったのである……と、一座が声をそろえてあっと叫んだ! 花瓶ははじめ、老人連のだれかの頭の上に倒れてやろうかと、ちょっと決しかねたかのようにふらふらと揺らいだが、ふいに反対の方角ヘ――さも恐ろしそうにあやうく飛びのいた詩人のほうへ傾いて、床へどうと倒れた。囂然たる物音、一同の叫び、絨毯の上に散乱した破片、恐怖、驚愕――ああ、公爵の心の中はどうだったろう、言葉に現わすのも困難であるが、しかしその必要もない! とはいえこの一刹那、彼の心を打った一つの奇怪な感触――雑然としたその他の茫漠たる奇妙な感覚の中でも、特に強く、ぱっと明るく照らし出された一つの感触ばかりは、ちょっと説明しないわけにいかぬ。彼の心を射たのは羞恥でもなければ、不体裁なできごとでもない、恐怖でもなければ、ふいをうたれたためでもない。つまり、なによりも予言の的中ということであった! いったいこの想念の中に、なにか驚駭に価するものがあるだろうか? 彼はこれを説明することができなかった。ただ腹の底まで驚かされたのを感じたばかりで、ほとんど神秘的な畏怖をいだきつつ、突っ立っていた。その一刹那が過ぎたとき、急に目の前がぱっと開けたような気がした。恐怖に代わって光明と、喜悦と、狂歓がわきおこったのである。たんだか息もつまるような心持ちがしてきた、そして……しかし、その一刹那も過ぎた。さいわいにもこれは本物でなかった! 彼はほっと息をついで、あたりを見まわした。
 彼は自分の周囲にわきかえる混乱を、長いこと会得しかねたようである。いや、なにもかも見て取って、すっかり合点はいったけれど、まるでこのできごとにまるきり無関係な人のように、ぼんやり突っ立っていた。それはちょうどお伽噺の中に出る隠れ蓑を着た男が、よその部屋へ入りこんで、自分にとってなんの縁故もないけれど、興味のある人々をながめている、とでもたとえることができよう。彼は侍僕らがかけらを取り片づけるさまを見、人々の早口な会話を耳にした。そしてすっかり蒼ざめ、不思議な、とても不思議な顔つきをして、自分をながめているアグラーヤを見た。その目の中には、いささかも憎悪の色がなかった、いささかも憤怒の影がなかった。彼女はおびえたような、そのくせ同情のあるまなざしで公爵をながめていたが、ほかの人に向けられた目は妙にぎらぎら光っていた……彼の心臓は急に甘く柔らかにしびれてきた。彼は、人々がまるで何ごともなかったようなふうつきで、笑い声さえもらしながら座に着いたのを見て、はじめて不思議な驚きを感じた。一分ののちには、いっそう笑い声が高まった。もうしまいには、麻痺したように棒立ちになっている彼を見ながら、笑いだした。けれど、それはいかにも隔てのない、愉快げな笑いかたであった。多くの人は彼に向かって話しかけたが、その調子がいかにも愛想よく聞こえた。とりわけリザグェータ夫人がそうであった。彼女は笑い笑い、なにかしら、おそろしく親切な言葉をかけた。と