『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP241-288

正確なのは、レーベジェフが例の甥をも内々尊敬していることだ!
 とはいうものの、彼がこれらの人たちについて、早計な推断をするのはどうしたことか、きょうはじめて訪問したばかりの彼が、こんな臆測をたくましゅうするのはなんとしたことか! しかし、きょうレーベジェフは彼にとって問題の人となってしまった。じっさい、彼がこんな人だとは、公爵も思いがけなかった。以前知っていた彼はこんな男ではなかった! レーベジェフとデュバルリ夫人、――まあ、これはそもそもなにごとだろう! しかし、ラゴージンがもし殺害を企てても、六人殺しの事件のような、あんな乱脈な殺しようはすまい、あんなめちゃめちゃな真似はよもやできまい。図面つきであつらえてこしらえさした兇器に、まったく前後不覚の状態におとしいれられた六人の家族! ラゴージンがそんな兇器を図面つきで特別に注文しようはずがない……ラゴージンのところには、――しかし、ラゴージンがひとを殺すとは、はたして、たしかにきまったことなのか? こう思って、公爵はふいにびくっとした。「こんな無恥で露骨な臆測をするのは、自分として一種の罪悪ではなかろうか、卑しむべきことではなかろうか!」と叫んだ。羞恥のくれないがぱっと彼の顔を染めた。彼は愕然として根の生えたように往来に立ちつくした。
 彼は一時にすべてを思いおこした。さきほどのパーヴロフスク行きの停車場、ニコラエフスキイ停車場(モスクワ息の発車駅)、『目』のことについてラゴージンに面と向かって発した問い、いま自分で掛けているラゴージンの十字架、彼が自分からさきに立って母の祝福を受けさしたこと、ついさっき階段の上でラゴージンがしてくれた最後の痙攣的な抱擁とその最後の断念、――こういうことのいろいろあったあとで、たえずあたりから何ものかをさがし出そうとあせっている自分の心持ち……それにあの店、あの一品……なんという卑劣さ! のみならず、自分はいま『特別の目的』、特別の『思いがけない想念』をいだいて、あるところへ志しているのではないか! 絶望的な苦悶は彼の心をつかんだ。彼はすぐさま自分の宿へ引っ返すつもりで、すこしそのほうへ歩き出したが、一分とたたぬうちに立ちどまり、思荼をめぐらし、また取って返して、もとの道を進んで行った。
 ついに彼はペテルブルグ区へ来た、かの家のそばちかくまでやって来た。けれども、今の彼は以前の目的、『特別な想念』をいだいて、その家をさして行くのではない! どうしてそんなことがあってよいものか! じじつ、彼の病気は再発しかかっている、これはもはや疑うまでもない。あるいはきょうじゅうにかならず発作がおこるかもしれぬ。この暗黒状態はその発作のわざかもしれず、あの『想念』なるものも発作のせいかもわからぬ! けれど、暗雲はすでに散じ、デモンは追われ、疑惑もはや消えうせて、彼の心は歓喜の情に満ちている! ただ長く彼女を見ない、ぜひ会ってみなければならぬ。それに……そうだ、今すぐにもラゴージンに会ってその手をとり、ふたりいっしょに出かけたいものだ……彼の心は清らかである、彼はけっしてラゴージンの競争者ではない! あすにも自分でラゴージンのところへおもむいて、彼女に会ったことを告げるつもりである。じっさい、かれがここへ飛んで来たのは、(ラゴージンの言葉を借りると)ただ彼女にひと目あいたいがためである! ことによったら、望みどおり会えるかもしれぬ、彼女がパーヴロフスクにいるというのは、それほど確実なことでもないのだから!
 そうだ! 今こそいっさいをきっぱり片づけねばならぬ、すべての人がたがいの心を読み合わねばならぬ、さっきラゴージンの叫んだああした悲惨な熱狂的な断念の叫びを、いっきいなくしてしまわねばならぬ、しかも、それは無理のない、自由な、そして……明るい方法で遂行せねばならぬ。ラゴージンとても光明の精神に欠けているわけではあるまい。彼は自分の口からして、おれの愛しかたはおめえのとはまるっきり違っている、おれには同情とか憐愍とかいうものがすこしもない、こんなこともいっていたし、また『おめえの愍みはおれの恋より強いかもしれない』とこうもつけ足した。しかし、彼は自分で自分に言いがかりをしているのだ。ふむ………ラゴージンが本を読みだした、――いったいこれは『愍《あわれ》み』ではなかろうか、『愍み』のはじまりではなかろうか? ただこの本が彼の手もとにあるということだけで、彼が彼女にたいする関係を完全に自覚していることが証明されるではないか? それに、さきほどの彼の物語はどうだろう? いやいや、あれは単に情欲というよりはたしかに深いものだ。いったい彼女の顔は単に人の情欲のみをそそるようにできているだろうか? それにあの顔がいま人の情欲をそそりうるだろうか? ああ、あれこそは人の同情を呼びさまさずにはおかぬ顔だ、人の心をわしづかみにせずにはおかぬ顔だ、あの顔こそは……と、にわかにやけつくような苦しい回想が、公爵の心をかすめて通った。
 しかり、苦しい回想である。彼ははじめて彼女に発狂の兆候を認めたとき、非常に煩悶したことを思いだした。そのとき彼は本当に自暴自棄的な心持ちを覚えた。女が自分のところからラゴージンのほうへ走ったとき、どうしてそのまま捨てておいたのであろう? みずから女のあとを追って走るべきであって、安閑と人の報告など待っているべきではなかったのだ。……しかし……いったいラゴージンは今まで彼女の発狂に気がつかないのだろうか。ふむ!………ラゴージンは、あらゆる事件に別の原因を、情欲的の原因ばかり見る人である! それに、あの気ちがいじみた嫉妬はなんということだ! そうして、先刻あんな臆測をしたのは、何をいおうという腹だったのか?(こう思って、公爵はふと顔を真っ赤にした、何か心臓の中でぴくっとふるえたような気がした)
 だが、なんだってこんなことを思い出す必要があるのか? これではまるで、双方から気ちがいじみた真似をし合ってるようなものだ。いったい自分が情欲的にあの女を愛するなんて、ほとんど不可能なことだ、ほとんど残酷な不人情なことだ。そうとも、そうとも! じっさいラゴージンは自分で自分に言いがかりをしているのだ。彼は苦悶することも同情を寄せることもできる偉大な心情を持っている。もし彼がことの真相をすっかり知り抜いて、あの傷つけられた半気ちがいの女がどれほどかわいそうな存在であるかに想到したら、彼とてもその時は、以前なめさせられた苦患をことごとくゆるしてしまうだろう。きっと彼女のしもべとなり、兄弟となり、親友となり、予言者となるに相違ない。そして、同情はラゴージン自身にも教訓を授け、その生涯を意味あるものとするであろう。同情こそ全人類の生活における最も重要な、あるいは唯一の法則であるのだ。おお、自分はラゴージンにたいして、なんというゆるしがたい卑劣な罪を犯していることか! あんな恐ろしいことを想像できたとすれば、暗闇なのは『ロシヤ人の心』ではなくて自分の心だ。モスクワでふたことみこと、真心のあふれた熱烈な言葉を取りかわしたばかりで、もうラゴージンは自分を兄弟と呼んでいるではないか、それだのに自分は……いやいや、しかしあれはほんの病気がいわせるうわごとだ! みんな今にきれいに落着する!……だが、さっきラゴージンが、『おれはだんだん信仰をなくする』といった声は、なんと沈んだ調子だったろう! まったくこの男はひどく苦しまなければならぬ人だ。彼は『この絵を見るのが好きだ』といったが、好きなのではなくて、つまり必然的の要求を感じているのだ。ラゴージンはけっして単なる情欲の奴隷ではない。彼はなんといっても人生の格闘者である。失った信仰を力ずくで取りもどそうとしているのだ。彼は今苦しいほど信仰の必要を感じている……そうだ! なにかしらを信じなければならないのだ! だれかしらを信じなければならないのだ! だが、あのホルバインの絵はなんて奇妙な絵だろう……あ、もうこの通りがそうなのだ! ほら、きっとあの家だ、やはりそうだった――十六番地、『十等官フィリーソヴァ女史』……ここだ! 公爵はベルを鳴らして、ナスターシヤ・フィリッポヴナに面会を求めた。
 すると、女主人が自分から出て来て、ナスターシヤはもう朝のうちからパーヴロフスクのダーリャのもとへおもむいて、『あるいは四、五日逗留するようなことになるかもしれぬ』と答えた。フィリーソヴァは小柄な、目の鋭い、顔のとがった女で、年ごろは四十ばかり、ずるそうな目つきをしてじっと公爵を見つめた。お名前はという彼女の問いに対して(彼女はこの問いになんとなくことさらしい秘密の色を匂わせたので)、公爵ははじめのうち妙に返答がためらわれた。が、すぐに気をとり直して、自分の名をよくナスターシヤに取り次いでくれと、しつこいほどくれぐれも頼んだ。フィリーソヴァは注意を傾けて、むやみと秘密めかしい顔つきをしながら、このしつこい頼みを聞いていたが、それは明らかに、『ご心配はいりません、ちゃんと心得てますよ』という腹らしかった。公爵の名前が、強い感銘を与えたものと見える。公爵はぼんやりその顔をながめたのち、くびすをめぐらし、宿へ引っ返した。けれども、彼が出た時の様子は、はじめフィリーソヴァの家でベルを鳴らしたときと、まったく違っていた。彼の心内にはふたたび、しかも瞬間的に、なみなみならぬ変化がおこったのである。彼はふたたび色青ざめて弱弱しく、思い乱れこころ悩める人のように道を歩いた。ひざ頭がぶるぶるとふるえ、にごったような頼りなげなほほえみが、やや紫いろを帯びたくちびるにただよっていた。彼の『思いがけない想念』はにわかに事実として確かめられたのである、――かくして、ふたたび彼は自分のデモンを信じはじめた。
 しかし、はたして事実となったのであろうか? はたして確かめられたのであろうか? それにしても、この心内の暗きと寒さは、このふるえは、この冷たい汗はどうしたというのだ? たった今あの目[#「今あの目」に傍点]を見たからか? しかし、夏の園《レートエイ・サード》から一直線にやって来たのは、ただただあの目を見ようがためではなかったか? あの『思いがけない想念』というのは、このことにほかならなかったのではないか。ここへ[#「ここへ」に傍点]――との家のそばへ来れば、きっとあの『けさはどの目』が見られるということを的確に信じたいがために、ここへ来たくてたまらなかったのではないか。おのが身内もふるえるほどの。激しい望みであったものを、今さらその目をほんとうに見とめたからといって、どうしてこんなにびっくりし、そわそわしているのだ? まるで思いもよらなかったことのように! ああ、これこそあれ[#「あれ」に傍点]と同じ目[#「同じ目」に傍点]である。(あれと同じ[#「あれと同じ」に傍点]だというととはもう今となっていささかも疑う余地がない!)けさニコラエフスキイ停車場で汽車をおりたとき、群集の中で光った目である。それから先刻ラゴージンの家でいすにつこうとしたおり、肩ごしに視線を捕えたあの目である(まったくあれと同じだ!)。あのとき、ラゴージンはそれを否定して、ひん曲がった氷のような薄笑いを浮かべながら、『いったいだれの目だったんだろう?』ときいたっけ。ついさきほども、公爵がアグラーヤのところへ行くつもりで汽車に乗った時(もうこれで一日のうちに三度目だ)、ツァールスコエ・セロー鉄道の停車場であの目をふと見つけた。そのときはやたら無性にラゴージンのそばへ行って、彼に[#「彼に」に傍点]面と向かって、『あれはだれの目だったろう?』といってやりたかった。けれども、彼はそのまま停車場からかけだして、例の刃物屋の店先へ来るまで振り返ってもみなかった。ここで彼はしばらく歩みをとめ、鹿角の柄のついた一品を見て、六十コペイカくらいと値踏みしたものである。こうして、かの奇怪にして恐るべきデモンはついにまったく彼に取りついて、もはや離れようとしなかった。彼が夏の園で菩提樹の陰にすわって忘我の境をさまよっていたとき、このデモンは彼の耳にこうささやいたのである、――もしラゴージンがこうして朝からあとをつけて、一歩一歩、自分のすることをねらう必要があると考えている以上、自分がパーヴロフスタヘ行かないと知るやいなや(これはラゴージンにとって、のるかそるかの大事な点に相違ない)、かならずやすぐにあすこへ[#「あすこへ」に傍点]、ペテルブルグ区のあの家へ出かけて行って、ついけさほど、『今後けっしてあのひとに会わぬ』とか、『そんなことのためにペテルブルグへ来たんじゃない』などとりっぱな口をきいた公爵を見張ろうとするに違いない。これがデモンのささやきであった。ところで、公爵はああして痙攣にかかった人のように、まっしぐらにあの家をさしてかけだした。そうして、はたしてそこにラゴージンを迎えたのだ。しかし、それがいったいどうしたというのか? 彼はただ陰惨ではあるが、十分に察しられる心持ちをいだいた、一個の不仕合わせな人間を見たばかりである。それに、この不仕合わせな人間は、もはや隠れようともしなかったのではないか。じっさいラゴージンは、けさほどなぜか強情をはってうそをついたが、ツァールスコエ・セロー鉄道の停車場では、ほとんど姿を隠そうともせずに突っ立っていた。どちらかといえば、姿を隠したのは公爵のほうで、ラゴージンではなかった。また今度あの家のそばでは、斜めに五十歩ばかり隔てた反対側の人道に、腕組みしながら立ったまま待ちうけていた。もうすっかり全身を現わして、むしろわざと目にとまるようにしていたが、その様子が裁判官かなんぞのようで、まるっきりそれらしいところはなかった。……しかし、それ[#「それ」に傍点]とはいったいなんだ!。
 が、公爵はなぜ今も自分のほうから彼のそばへ寄らずに、知らぬふりをして身をそらしてしまったか? ふたりの目はぴったり合ったではないか(そうだ、ふたりの目はぴたりと合って、たがいに顔と顔を見合わしたのだ)。そればかりか、公爵自身が、ついさきほど彼の手を取って、いっしょにあすこ[#「あすこ」に傍点]へ行こうと思ったのではないか! あすはラゴージンのところへ行って、あのひとに会って来たというつもりではなかったか。またあすこへ行く途中、ふいに歓喜が胸に溢れて、例のデモンをふるい落としたばかりではないか! それとも、じっさい、ラゴージンの中に、つまり今日の[#「今日の」に傍点]この男の言葉、動作、行為、視線などの総和の中に、公爵の恐ろしい予覚やデモンの毒々しいささやきを肯定するような、あるものがあったのであろうか? そのあるものというのは、なにがなしに自然と感じられるばかりで、分析することも話すことも、十分な理由を挙げて証明することもできない。しかし、これらの困難と不可能にもかかわらず、そのあるものは非常にはっきりまとまった打ち消すことのできない印象を与えて、その印象がいつとなくしっかりした確信に変わっていく。のである。
 だが、確信とはなんの確信か?(ああ、この確信の、『この陋劣な予感』の奇怪さ卑劣さが、いかに公爵を苦しめたことだろう、そうして彼はどんなに自分自身を呪ったことだろう!)『いってみろ、なんの確信だか、勇気があればいってみろ!』と彼は譴責と挑戦の語気をもって、絶えまなくひとりごちた。『自分の考えていることをすっかり、明瞭に、正確に、なんのちゅうちょなしに、きちんとした形式に入れて、言い表わしてみろ! おお、おれは、なんて破廉恥漢だ!』と彼は顔を赤くしながら、憤然とくりかえした。『おれはこのさき、どのつら下げてあの男に会おうというのか! おお、きょうはなんという日だ! おお、ほんとうになんという恐ろしい夢だ!』
 ペテルブルグ区からとって返すこの長い苦しい道も終わろうとするころ、ほんの一分間ではあったが、すぐにもこれからラゴージンのところへ行って、その帰りを待ち合わせ、羞恥と涙の中に彼を抱きしめていっさいをうち明け、いっさいの片をきれいに、いっときにつけてしまいたい、という望みが公爵の心を激しくとらえた。けれども、そのときはすでに宿のそばまで来ていた……さっきもこの宿屋がなんだか気に食わなかったが、この廊下も、自分の部屋も、この家ぜんたいも、みんなひと目見たばかりで気に食わなかった。彼はこの日のうち幾度となく、またここまで帰って来なければならぬということを思い出しては、なんだか妙にいやあな気持ちがした……『きょうはなんだってまあ、患っている女みたいに、いちいち虫の知らせなんてものを気にかけるんだろう!』と彼は門際に立ちどまりながら、いらだたしげな冷笑を浮かべてこう考えた。*と、きょう見たある一つの物がこの瞬間に、きわだって心に浮かんで来た。けれど、その浮かびかたは『冷静』で、『完全なる理性』を伴っていて、もはや以前の『恐ろしい夢』は影もなかった。彼はふとさっきラゴージンのテーブルの上に見つけたナイフを思いおこしたのである。『だが、ラゴージンだって、自分のほしいだけのナイフをテーブルの上に置いてならないって法はないではないか』と考え、彼はにわかに自分で自分にびっくりした、と同時に、――びっくりしてからだの麻痺するような心持ちを覚えると同時に、さきほど自分が刃物屋の店先に立ちどまったことを思いおこした。『いったいどういう関係がその間にあるというんだ!』と叫びかけたが、いい終わらぬうちに口をつぐんだ*。堪えがたい羞恥というよりもむしろ絶望がさらに潮のごとく襲って、彼をその場へ、門の入口へ釘づけにしてしまった。彼はちょっと歩みをとめたのである。これはよくあることで、思いがけなく浮かんでくる堪えがたい回想、ことに羞恥と結びつけられた回想は、普通ちょっとのま人をその場へ立ちどまらせるものである。『そうだ、おれは真情のない人間で、そして臆病者だ!』と公爵は沈んだ調子でくりかえし、急に突発的に歩きだしたが……また歩みをとめてしまった。
 註*~*まではズ七四年版でドストエーフスキイが削除した部分である(訳者)
 ただでさえ暗いこの門はこのとき非常に暗かった。じりじりとおおいかかって雷雨を知らせる黒雲は、夕べの光を呑みつくし、公爵が宿に近寄ったときは、にわかに空一面に流れ広がった。彼が一分間ほど立ちどまってから急に歩き出したその瞬間に、彼はちょうど門のすぐ入口、往来から門へ入りこもうというところにいた。ふいに彼は門のずっと奥のほうの薄くらがり、正面階段に近いあたりに、ひとりの男が立っているのをみとめた。この男は何ものかを待ちもうけているふうにみえたが、すばやく身をひるがして消え失せた。公爵ははっきりこの男を見わけるすきがなかったので、むろんだれとたしかにはいえなかった。それに、ここは宿屋であってみれば、さまざまな人の通るのはあたりまえである。多くの人が廊下へ入ったり出たり、あわただしげに馳せちがうのも珍しくない。しかし、『自分はこの男を見わけることができた、この男はラゴージンに相違ない』という、打ち消すことのできない十分な確信を得たような気がした。一瞬ののち、公爵は彼のあとを追って、階段めがけてかけだした。彼は心臓の凍るような思いがした。『いまに万事すっかり落着するのだ!』怪しい確信をいだいて、彼はこうひとりごちたのである。
 公爵が門からかけのぼった階段は、二階と三階の廊下へ通じてい、その廊下の両側には宿の客室が並んでいた。古くから建っている家の例にもれず、この階段は石造りで、暗くて狹く、太い石柱のまわりをうねっている。はじめての踊場には、この柱の中に壁龕といったふうの穴がしつらえてあった。それは幅一歩に足りず、深さはわずか半歩くらいしかなかったが、それでも人間ひとり入るだけの余裕はあった。ずいぶん暗かったけれど、公爵はここまで馳せのぼったとき、そこに、この穴の中に、なぜか人が隠れているのを、すぐさま見わけることができた。にわかに公爵は右のほうを見ずに、ずっとそのまま通り過ぎたくなった。と、一歩ふみ出したとき、がまんしきれず振り返った。
 さっきの二つの目、あれと同じ[#「あれと同じ」に傍点]二つの目が、不意に彼の視線と出会った。穴の中に潜んでいた男も、その間に一歩ふみ出して来た。一秒間、両人はほとんどからだとからだとぴったり合うように、向き合って突っ立っていた。不意に公爵は相手の両肩をつかんで、明かりに近い階段の方へくるりとねじ向けた。もっとはっきりその顔が見たかったのである。
 ラゴージンの目はぎらぎらと輝き、もの狂おしい薄笑いにその顔が歪んで見えた。と、右手があがって、なにやらその中できらりと光った。公爵はその手を押しとどめようともしなかった。彼はただ自分が。
パルフェン、ぼくはほんとうにできない!………」
 と叫んだらしいのを覚えているばかりだ。
 それにつづいて、なにかしらあるものが彼の眼前に展開した。異常な内部の光[#「内部の光」に傍点]が彼の魂を照らしたのである。こうした瞬間がおそらく半秒くらいもつづいたろう。けれども、自分の胸の底からおのずとほとばしり出た痛ましい悲鳴の最初の響きを、彼は意識的にはっきり覚えている。それはいかなる力をもってしても、とめることのできないような叫びであった。つづいて瞬間に意識は消え、真の暗黒が襲ったのである。
 それは、もう以前から絶えてなかった癲癇の発作がおこっ。たのである。輻摘の発作というものは、だれしも知っているように、とっさの間に襲うものである。この瞬間にはふいに顔、ことに目つきがものすごく歪む、そして痙攣が顔と全身の筋肉を走って、恐ろしい、想像もできない、なんともかんともいいようのない悲鳴が、胸の底からはとばしり出る。この悲鳴の中には人間らしいところがことごとく消え失せて、そばで見ている者でさえ、これがこの男の叫び声だと考えるのは、どうしても不可能である。すくなくとも困難である。そればかりか、この男の内部にはだれか別な人間がいて、それが発した声のようにさえ思われる。すくなくとも大多数のものは、こんなふうにおのれの受けた印象を述べている。大多数のものは癲絹の発作に襲われた人を見て、なにかしら神秘的なあるものを含んだ、激しく堪えがたい恐怖をいだくものである。こうしたときのその他いっさいの恐ろしい印象にくわえるに、この突然の恐怖の感じが、ふいにラゴージンをその場へ立ちすくませ、すでに頭上にくだりつつあった免るべがらざる刃の難から、公爵を救ったものとも想像される。ラゴージンは発作ということに思い当たる暇もなく、公爵がよろよろ後ずさりするや、ふいに仰向きに倒れて、がんと頭を石段に打ち当てながら、急転直下、階段をころがり落ちるのを見ると、まっしぐらに下へかけおりて、倒れている相手を迂回し、ほとんど夢中で宿屋を走り出たのである。 痙攣と身もだえのために病人のからだは、十五段とはない階段を下までころがり落ちた。間もなく、五分もたたぬうちに見つけたものがあって、たちまち人々が黒山のように集まった。頭の辺に流れているおびただしい血が、人々の疑惑を呼んだ。この男が自分でけがしたのか、それとも『だれか悪いやつ』があるのだろうか? しかし、そのうちに、だれ彼のものが癲痢ということに思い当たった。すると、またボーイのひとりが、この人は先刻の泊まり客だといいだした。とうとうこの髓さは、ある僥倖的な事情によって、しごく都合よく解決がついた。
 コーリャ・イヴォルギンは四時ごろに『衡屋』へ帰るといっておきながら、そのままパーヴロフスクヘ出かけたが、ふと、また思い返して、エパンチン将軍夫人のところで『ご馳走になる』のをやめ、ペテルブルグへとって返し、急いで『衡屋』へ姿を見せたのは、夕方の七時ごろであった。そこへ残してあった手紙によって、公爵がこの町へ来たことを知ると、彼は、手紙に示された所書きをしるべに、取るものも待ち受けていた。だれかが発作で倒れたという話を聞きつけると、彼はたしかな予感にかられて現場へかけつけたが、はたして公爵であった。すぐさま応急の手当を施して、公爵をその部屋へ運んだ。彼は間もなく正気づいたが、それでも完全な意識に返ったのは、だいぶたってからのことである。頭部の打撲傷の診断に呼ばれた医者は、傷口に湿布を施して、打撲傷からおこりそうな危険はすこしもないといった。一時間ののち、公爵がそろそろ周囲の状態を解するようになったとき、コーリャは彼を馬車に乗せて、宿屋からレーベジェフの家へともなった。レーベジェフはひとかたならぬ熱誠を、うるさいくらいな会釈に現わして病人を迎えた。そして、この人のために特に別荘ゆきを早め、翌々日、一同はすでにパーヴロフスクの人となった。

      6

 レーベジェフの別荘はあまり大きくはないが、かなり具合のよい、むしろ美しいといってもいいくらいな家であった。貸家に定められたその一部は、特に数奇をこらしてある。往来から内へ入る口の所にあるかなり広い露台には、オレンジ、レモン、ジャスミンなどが、緑いろに塗った大きな桶に植わって、配置よく並んでいたが、これが、レーベジェフの目算によると、借手をつるのになによりの餌なのである。これらの木のあるものは、別荘といっしょに手に入れたのだが、彼はそれが露台に添える風情にすっかりほれこんで、完、美を期するためにいいおりをねらって、似寄りの鉢植えを罧売で買い添えたのである。この木がやっと別荘へ運び込まれて具合よく配列されたとき、レーベジェフはその日のうちに幾度となく、露台の階段を往来へかけおりて、往来から自分の持ち家をながめながら、きたるべき借手に請求する金高を、そのたびごとに心の中で増してみた。憂悶し衰弱して、肉体までも傷つけられた公爵には、この別荘がひとかたならず心にかなった。
 けれど、パーヴロフスタヘ着いた日、つまり発作の翌々日、公爵はもう見たところほとんど健康のように見えた。もっとも、心の中では、やはり回復しきらぬ自分を感ずるのであった。彼はこの三日間に接したすべての人を喜び懐かしんだ。ほとんどそばに付きっきりのコーリャも、レーベジェフの家族一同も(例の甥はどこかへ姿を隠して、いなかった)、主人公のレーベジェフさえも嬉しかった。またペテルブルグにいるとき見舞に来てくれた、イヴォルギン将軍をさえ心嬉しく迎えたほどである。引っ越して来だのはもう夕景であったが、そのときには、はやかなり大人数の訪問客が露台に集まっていた。最初に来たのはガーニャであったが、しばらくのあいだにすっかりやせて、面変わりがしてしまったので、公爵はちょっと見それたくらいであった。それにつづいて、同じくパーヴロフスクの別荘に来ている、ヴァーリャとプチーツィンが姿を見せた。イヴォルギン将軍にいたっては、たいていいつもレーベジェフの家へ来ているので、引っ越しのさいにもともどもついて来たようである。レーベジェフは将軍を公爵のほうへやるまいとして、つとめて自分のそばへ引きつけていた。ふたりはもううち解けた友達同士のようにつき合った。見たところ、ずっと以前から知り合った間柄らしい。この三日のあいだに、どうかするとふたりが長いあいだ話しこんで、なにやらおそろしく高尚な問題について、大声に議論でもしているらしいのに、公爵も気がついた。レーベジェフはそうした学者ぶった議論を闘わすのが、すくなからず得意なように見受けられた。のみならず、将軍は彼にとって、なくてかなわぬ人となったのではあるまいか、とも考え‘られた。しかしレーベジェフは、公爵に対すると同じように細心な注意を、引っ越しの当日から家族のものにたいしてもはらいはじめた。公爵のじゃまになるというのを口実にして、レーベジェフはだれひとり彼のそばへ寄せつけず、例の赤ん坊の守りをしているヴェーラでさえ別あつかいにしないで、ちょっとでも公爵の部屋の露台へ行きそうなぞぶりを見せると、娘たちに地団太を踏んで飛びかかり、そのあとを追いまわして、公爵がどんなによしてくれと頼んでも聞かなかった。
「だいいち、あれらに勝手に出入りさしたら、尊敬というものがすこしもなくなってしまいます。また第二には、あまりぶしつけです……」あるとき公爵から手づめの質問に会って、彼はとうとうこう説明した。
「それはいったいなんでしょう」と公爵がたしなめた。「じっさい、きみがそうして監督して張り番してくれるのはありがたいが、それはただぼくを苦しめることになるばかりですよ。ぼくひとりぼっちでいるのは退屈でたまらないって、あれほどきみに言ったじゃありませんか。きみこそひっきりなしに手を振ったり、爪先で歩いたりして、よけいぼくの気をくさくささせるじゃありませんか」
 こうして、公爵が当てこすりをいったのはほかでもない、レーベジェフは病人に安静を与える必要があるといって、家のものをみんな追っ払っておきながら、自分はこの三日間ほとんど絶え間なしに、公爵の部屋へ入って来るのであった。そのたびごとに、まずはじめ戸をあけて頭を突き出し、ちょうど『やはりじっとしているかしら、逃げ出しはせぬかしら』と調べるような恰好で部屋の中を見まわし、それから今度は爪先を立てて、そっと盗むような足どりでひじいすに近寄るので、どうかすると、公爵も泡をくってびっくりするくらいであった。そうして、何かご用はないかと、うるさいほど公爵にきいてみて、しまいに『かまわずうっちゃっておいてくれ』といわれると、黙っておとなしく回れ右をし、また爪先を立てて戸口のほうへ歩いてゆく。しかも、その間しじゅう両手を振っているのは、つまり『もうけっしてひと口もものをいいません、ほらこのとおりいま出て行きますよ、もうこれっきりやって来ませんよ』という腹を見せようとするものらしい。しかし、十分、すくなくとも十五分くらいたつと、すぐまたやって来るのであった。コーリャは公爵のところへ自由に出入りする権利を持っていたが、それがレーベジェフにとってひどく残念でもあり、また侮辱のようにすら思われた。コーリャは、よくレーベジェフがものの三十分も戸のそとに立って、自分と公爵の話を立ち聴きするのに気づいて、そのことをむろん公爵にも知らせた。
「きみはぼくを座敷牢に入れっちまって、まるでぼくを自分の好きなようにしてるじゃありませんか」と公爵は抗議を申しこんだ。「すくなくとも、別荘に来たら、そんなことはよしてもらいたいですね。ぼくはだれにでも勝手に面会して、どこへでも好きなところへ出て行くから、そう思ってもらいますよ」 「それはすこしもご無理じゃありません」とレーベジェフは両手を振った。
 公爵は彼を頭のてっぺんから足の爪先まで、じっと見つめた。
「ねえ、レーベジェフ君、あの小戸棚ですね、ほら、きみの寝台のまくらもとのほうにつってあった……あれをここへ持って来ましたか?」
「いや、持ってまいりませんでした」
「じゃ、あすこへ置いて来たんですか?」
「とても持って来られません。壁をこわして出さにゃなりませんでな……固くって、固くって」
「そんなら、おおかたここにあんなふうのがあるんでしょう」
「ずっといいのがあります、ずっといいくらいです。家つきで買ったんで」
「ははあ。ところで、さっききみはだれをぼくのとこへ来させまいとしたんです。一時間ほどまえ……」
「あれは……あれは将軍です。まったく来させなかったのです。それに、あの人があなたのところへ来る用もありませんでな。わたくしは、公爵、あの人を深く尊敬しています。あの人は……あの人はじつに偉い人です。まったくですよ。今におわかりになります。ですが、やはり……公爵さま、あの人にはお会いなさらんほうがよろしいようで」
「なぜでしょう。ひとつうかがいたいもんですな。それに、レーベジェフさん、なんだってきみはそんなに爪先で立ってるんです。またなんだって、いつも大秘密を耳うちでもするような恰好をして、ぼくのそばへやって来るんです」
「下劣です、じっさい下劣です、自分でもそう感じますよ」と思いもよらずレーベジェフは、感じ入ったように胸をたたきながら答えた。「しかし、将軍はあなたに対して、あまりもてなしがよすぎるかもしれませんよ」
「もてなしがよすぎるって?」
「もてなしがよすぎるのです。だいいちに、あの人はわたしどもの家へ住みこもうとしています。そんなことはかまやいたしませんが、どうものぼせやすい人ですから、すぐに親類の押し売りをはじめるんです。わたしはあの人ともうなんべん親類になったかわかりません。なんでもわたしの家内があの人の奥さんの妹に当たるそうで。それに、あなたもやはり母かたの甥に当たるとかって、ついきのうわたしに話して聞かせましたよ。もしあなたがほんとうにあの人の甥ごさんでしたら、公爵さま、わたしもしぜんあなたと親類同士になるわけじゃありませんか。いや、しかしこんなことはなんでもありません。ほんの些細な欠点です。ところで、たったいまわたしにこんなことをいって聞かせるのです。あの人の見習士官時代から去年の六月十一日まで、一生涯のあいだ、毎日あの人のとこへ来て食事をする人の数が、二百よりくだったことはないなどといいだして、はては席を立つ暇もなくのべつ食事をしたり、茶を飲んだりして、一昼夜のうちに十五時間ずつもぶっ通しで、テーブルクロースを換える瑕さえあるかなしかだった。こういう有様が三十年のあいだ、一日も欠けずにつづいたというじゃありませんか。ひとり帰ればまた。ひとりやって来る、休日や祭日には客の数が三百人にもなった。そればかりか、ロシヤ建国一千年祭の日には無慮七百人とはどうです、まったくめちゃくちゃじゃありませんか、どうもはなはだよろしくない兆候ですね。こんな客あしらいのいい人を家へ呼ぶのは、かえってこわい。そこでわたしも、こんな人はあなたにとりましても、わたしにとりましても、あんまりもてなしがよすぎはせんかとぞんじまして……」
「だが、きみはあの人とたいへん仲が好さそうじゃありませんか」
「まあ、兄弟同様にして、今のような話も冗談にして聞いております。まあ、ふたりが親類同士なら親類同士にしておきましょうよ。わたしにとっちゃなんでもありません、むしろ名誉です。いや、かえってあんな二百人のお客や、ロシヤ建国一千年祭の話を通しても、あの人がりっぱなかただという見わけがつきますよ、まじめな話が。ときに公爵、あなたはいま秘密ってことをおっしゃりましたね、-その、わたしがまるで大秘密でもお知らせ申しに来たような恰好をして、あなたのそばへ寄って行くとおっしゃりましたが、その秘密がまるでわざとのようにあるのですよ。じつは例のおかたが、あなたと秘密にお目にかかりたいといってよこされたんです」
「なんだって秘密にするんです? そんなことは、けっしていりません。ぼくが自分であのひとの家へ出かけます。きょうすぐにでも!」
「そうですとも、けっしていりませんとも」レーベジェフは両手を振った。「それに、あのかたはあなたの考えてらっしゃるようなことを、恐れておいでじゃありません。ついでに申しあげますが、あの悪党め、毎日のようにあなたのお加減を問きに来るのです、ご承知ございませんか?」
「きみはなにかしじゅうあの人のことを惡党よばわりするが、ぼくにはそれが不思議でなりませんね」
「けっしてそんなに不思議がることはありません、毛頭ありませんとも」とレーベジェフは大急ぎで話をそらした。「ただわたしの申しあげたかったのは、例のおかたがあの男でなく、まるっきり別な人を恐れていらっしゃることなんです」
「いったい、どうしたんです、早くいってごらんなさいよ」レーベジェフがわざとぎょうさんらしくもったいをつけるのを見て、公爵はいらだたしげに追究した。
「そこが秘密なんですよ」と言って、レーベジェフは薄笑いをした。
「だれの秘密です?」
「あなたの秘密です。公爵、あなたがご自分で、おれのいる前で……あの、その……いっちゃいけないとおっしゃったじゃありませんか」とレーベジェフはつぶやいた。そして、相手を病的なほどいらいらさせたのに満足して、ふいにこう結んだ。「アグラーヤさんを恐れてらっしゃるんで」
 公爵は眉をひそめて、ちょっとの間だまっていたが、「レーベジェフ君、ぼくはほんとうにこの別荘を出て行きますよ」といきなり彼はいった。「ガヴリーラさんとプチーツィンさんご夫婦はどこにおいでなんです? きみのところ?きみはあの人たちまで自分のほうへ横取りしてしまったんですね」
「もう皆さんすぐそこへ見えています、見えています。おまけに、将軍までそのあとからやって来ています。戸という戸はみんなあけ放して、娘たちもみんなすっかり連れてまいりますです」レーベジェフは両手を振って、一方の戸から一方の戸へ飛びまわりながら、度胆を抜かれたようにささやいた。
 このときコーリャが往来からあがって来て、あとからお客が、リザヴェータ夫人と三人の令嬢が来ていると告げた。
「あのプチーツィンさん夫婦と、ガヴリーラさんを通したものかどうでしょう? 将軍を通したものかどうでしょう?」この報知にびっくりしたレーベジェフは、おどりあがって叫んだ。
「どうして通しちゃならないんです? 来たいという人はみんな通してください、じっさいのところ、きみはぼくたちの交友について、はじめからなんだかとんでもない早のみ込みをしてるようですね。きみはなにかしらいつも感違いをしてるんですよ。ぼくはね、人から逃げ隠れするようないわれは、すこしも持っていません」と公爵は笑った。
 彼の顔を見て、レーベジェフもここで笑うのが義務だと考えた。レーベジェフはおそろしくわくわくして胸がおどった。が、それでも見たところ、しごく満足げな様子であった。 コーリャのもたらした知らせは間違いなかった。彼は公爵に知らせるためのみに、エパンチン家の人々よりほんのひと。足はやく来たのであった。で、客人たちはふいに両方から現われた、露台からはエパンチン家の人々、次の間からはプチーツィン夫婦と、ガーニャと、イヴォルギン将軍と。
 エパンチン家では公爵の病気のことも、彼がパーグロフスクヘ来ていることも、たった今コーリャに聞いたばかりである。それまでというもの、将軍夫人は重苫しい疑惑に悩まされていた。もう二日も前に将軍は家族のものに、公爵の名刺を送り届けたが、この名刺を見て夫人は、今度は公爵が自分たちに会うために、さっそくパーヴロフスタヘ来るにちがいたいと、固く信じてしまった。令嬢たちは半年も便りをしなかった人が、今になって急にやって来るはずはない、それにあの人はペテルブルグでいろいろ仕事があるかもしれない、人の都合なんてわかるものじゃないと説いたけれど、効果はなかった。夫人はこの差し出口を聞いてぷんぷん怒りだし、すくなくとも公爵はあすになったらやって来るに相違ない、『それだってもう遅くなってるのだけれど』といって、賭でもしかねまじい勢いであった。次の日、彼女は朝のあいだじゅう待って、昼飯に待ち合わし、夕方まで心待ちにしていたが、さていよいよ暗くなってしまったとき、リザヴェータ夫人はなんでもかでも向かっ腹を立てて、家じゅうの者と喧嘩をした。もっとも、争論のさいに、公爵のことはおくびにも出方なかったのはもちろんである。翌々日も一日じゅう、公爵のことはひと言も口にされなかった。昼食のときアグラーヤがふと口をすべらして、おかあさんが怒るのは公爵が来ないからだといったのに対して、将軍がすかさず、『だが、それはあの男の知ったことでない』と言葉を挟んだとき、リザグェータ夫人はかっとなって立ちあがると、そのままぷいと食卓を離れて行った。とうとう夕方になってコーリャが訪ねて来て、知れるかぎりの報告をもたらし、公爵の遭難をも細かに物語ったのである。こうして、とどのつまりリザヴェータ夫人が大得意となったが、どちらにしてもコーリャにはずいぶん手きびしくあたった。『毎日毎日この辺をうろうろして、追ん出すこともできないほどしつこくするかと思えば、今度は鼬《いたち》の道切りだ。それに自分でやって来るのがいやだったら、せめてちょっとくらい知らせてくれればいいのに』コーリャはこの『追ん出すこともできない』という言葉にさっそくむかっ腹を立てようとしたが、考え直して、この次まで取っておくことにした。じっさい、この言葉そのものがこうまで無礼でなかったら、あるいはまったく腹なぞ立てはしなかったろうと思われるほど、公爵の病気と聞いて心配したり騒いだりするリザヴェータ夫人の心根が、コーリャには嬉しかったのである。夫人はぜひともさっそくペテルブルグへ使いをやって、医学界第一流の大家を聘して、あすの一番列車でつれて来なければならぬと、長いあいだ言い張ったが、結局令嬢たちにとめられてしまった。けれども、夫人が病人を見舞いにといっきに支度したとき、令嬢たちも母に遅れようとはしなった。
「あの人は今にも死にそうなんですよ」とリザヴェータ夫人はあたふた騒ぎながらいった。「それだのに、おまえさんたちは礼儀がどうのこうのって! あの人は家のお友達じゃありませんか、それとも違いますかね」
「浅瀬を見ずに川へ入るなってことがありますわ」とアグラーヤがいいかけた。
「ふん、じゃ行かないがいい、そのほうがかえっていいかもしれません。今にエグゲーニイさんがいらしったら、だれもお相手する人がなくなるからね」
 こういわれてみると、アグラーヤはもちろんついて行かざるをえなかった。もっとも、そういわれなくとも、行こうとは思っていたのである。S公爵もおりふし来合わせて、アデライーダと話していたが、その求めに応じてすぐ婦人たちに。同伴することを快諾した。彼はずっと前から、エパンチン家と交際をはじめたころから、公爵のうわさを聞いて深甚な興味をいだいていた。それに、彼と公爵とは知り合いの仲であった。というのは、つい近ごろどこかで心安くなって、二週間ばかりある小さな町でいっしょに暮らしたことがあるというのだ。それもつい三月ばかり前のことである。S公爵はいろいろと公爵のことを話して聞かせたりして、全体に同情のある批評をくだしていたので、今も旧知を訪問に出かけるについて、心底からの歓びを感じたのである。イヴァン将軍はちょうどこの日は不在であったし、エヴゲーニイもまだ訪ねてこなかった。
 エパンチン家からレーベジェフの別荘までは、三百歩くらいしかなかった。公爵のもとでリザヴェータ夫人が受けた不快な第一印象は、彼の周囲に大人数の客がいることであった。しかも、それらの客人たちの中には、夫人にとって犬猿もただならぬ間柄の人も、二、三見受けられたにおいてをやである。また次に驚いたのは、自分たちを迎えに出て来た公爵の、丈夫らしいにこにこした顔つきと、ハイカラなその服装であった。そこには、自分の期待したような、いまわの床に死にかかっている人なぞは、だれもいなかった。彼女はけげんの念に思わず立ちどまったほどである。コーリャはそれを見ると嬉しくてたまらなかった。彼は夫人が別荘を出かけるときに、けっしてだれも死にかかってはいない、いまわの床なぞどこにもありはしないということを、りっぱにうち明けるべきはずであったにもかかわらず、わざとそれをしなかった。それは、夫人が公爵の、自分の友達の達者でいることを知ったとき、きっと腹を立てるに相違ない、その様子がさだめしこっけいなことだろうとこすからく予想したからである。で、コーリャは、どこまでもリザヴェータ夫人をからかうつもりで、自分の想悚を無作法にも口に出していってしまった。彼と夫人とは一種の友情に結びつけられているにもかかわらず、絶えまなしに、ときとするととほうもなく辛辣な調子で争論をし合っていた。
「あわてないで控えておいで、いい子だから、せっかくお得意の膵を折らないように気をおつけ!」と答えて、リザヴェータ夫人は、公爵のすすめるいすに腰をおろした。
 レーベジェフとプチーツィンとイヴォルギン将軍は、かけよって令嬢たちにいすを進めた。アグラーヤには将軍が進めた。レーベジヱフはS公爵にもいすをさし出したが、そのさい、腰のかがめかたで並々ならぬ尊敬を表わすことを忘れなかった。ツァーリャはいつものとおり、さもさも嬉しそうに、小声で令嬢たちと挨拶を交わしていた。
「あれはほんとうですよ、わたしはね、公爵、あんたが床についていることだとばかり思っていましたよ。つまり、恐ろしい恐ろしいとぎょうさんに考えすごしたんです。うそをつくのは嫌いだから、うち明けていいますがね、わたしは今あんたの嬉しそうな顔を見たとき、くやしいような気がしたほどですの。だけど、誓っていいますが、それはほんのいっときで、すぐに気がつきました。わたしはいつでも気がつきさえしたら、なかなか賢いことをいったりしたりしますよ。たぶんあんたもご同様でしょう。いえ、まったくのところ、もしわたしにほんとうのせがれがあって、その子の病気がよくなったとしても、これほど嬉しくはないでしょう。あんたがそれをほんとうにしなければ、それはつまりあんたの恥ですよ。いえ、わたしの恥じゃありません。ところで、この小僧っ子たらあれどころじゃない、まだまだ図々しいしゃれを持ち出すんですよ。だが、あんたはあれの肩を持つらしいね。それから、わたし前からちゃんといっときますがね、いつかおりを見て、このさきあんな者とお付合いをことわってしまいます。ほんとうですとも」
「だって、ぼくがなぜ悪いんです?」とコーリャは叫んだ。
「公爵はだいぶよくなっていらっしゃるって、ぼくが幾度も幾度もいったんだけど、あんたは公爵がいまわの床にあるものと想像するほうがよほどおもしろいから、ほんとうにしようとなさらなかったのじゃありませんか」
「こちらへは長くご逗留?」とリザヴェータ夫人は公爵に向かって問いかけた。
「夏じゅう、ひょっとしたら、もっと長くいるかもしれません」
「あんた今ひとり身? 奥さんは?」
「いいえ、ありません」と公爵は夫人の刺しこんだ針の無邪気さに微笑した。
「なにもにやにやすることはありません。ありがちのこってすよ。わたしは別荘のことでちょっときいてみたんです。あんたなぜわたしどもへいらっしゃらなかった? はなれのほうはすっかりあいてるんですに。だけど、それはどうともご勝手に。ところで、これはこの人の持ち家ですの? この人の?」とレーベジェフをあごでしゃくりながら、夫人は小声でたずねた。「なんだってあの人はのべつ変な恰好をするの?」
 このとき家の中から露台ヘヴェーラが出て来た。いつものように赤ん坊を両手で抱いている。レーベジェフは今までいすのあいだをうろうろしながら、身の置きどころを知らぬというふうでいるくせに、出て行くのもいやでたまらぬ様子であったが、にわかにヴェーラのほうへおどりかかって、露台からどこかへ追っ払おうと両手を振りまわし、われを忘れて地団太さえ踏むのであった。
「あれはきちがい?」とふいに夫人はこう言いだした。
「いいえ、あれは……」
「たぶん酔っぱらってでもいるんでしょう? いったいあんたのお仲問はあまりりっぱじゃありませんね」と彼女はほかの客たちをもじろりと尻目にかけて、ぶっきらぼうに言った。「だけど、なんてかわいい娘でしょう! あれはだれです」
「あれはヴェーラ・ルキヤーノヴナといって、このレーベジヱフの娘です」
「ああ……ほんとにかわいい娘《こ》だ! わたしあの娘とおなじみになりたい」
 けれど、リザヴェータ夫人のほめことばを小耳に挾んだレーベジェフは、もう自分のほうから娘を目どおりへとひっぱって来た。
「不仕合わせな母なし子です」彼はそばへ近寄りながら、とろけそうな顔つきをした。「これに抱かれている赤ん坊もやはり母なし児で、これの妹です。娘のリュボーフィです。この間なくなった家内のエレーナと、正当な法律上の結婚でできた子です。家内は六週間前に産後の肥立ちが悪くて、神さまのおぼし召しでなくなりました。それで……母親のかわりに、ほんの姉で、ほんの姉と申すにすぎませんが……それだけのことでございますが……」
「ところで、おまえさんは、ただのばか者にすぎませんね、ごめんよ。いや、もうたくさん、おまえさん自分でもわかってるでしょう」とリザヴェータ夫人は憤懣に堪えぬといったふうに、いきなり相手の腰を折った。
「まったくそのとおりです!」とレーベジェフはうやうやしく小腰をかがめた。
「ねえ、レーベジェフさん、あんたが『黙示録』の講釈をなさるってのほんとう?」とアグラーヤがたずねた。
「まったくそのとおりで……もう十五年も……」
「あたし、あんたのうわさをよく聞きましたわ。あんたのこと、たしか、いつかの新聞にも載りましたわね?」
「いや、あれはほかの解釈家のことです。その人はもうなくなって、わたしがそのかわりになったような次第です」と嬉しさにわれを忘れてレーベジェフがこういった。
「お願いですからね、いつか二、三日のうちにあたしにも講釈してくださいな、ご近所のよしみでねえ。あたし『黙示録』に書いてあることがちっともわかりませんの」
「差し出口をしてひどく失礼ですが、アグラーヤさん、そんなことはみんなこの男のごまかしですよ。まったく」とふいにイヴォルギン将軍が口早にいいだした。どうかしてすぐそばにすわっているアグラーヤと話をはじめようと、針の上にすわったようにいらいらしながら、いっしょうけんめいに待ち構えていたのだ。「もちろん、別荘には別荘相応の権利もあれば、興味もあります」と彼はつづけた。「しかし、こんな恐ろしい僭越きわまる男を『黙示録』の講義のためにお呼びになるのは、よくありがちの思いつきです。いや、むしろその奇抜な点において、秀逸といっていいくらいでしょう。しかし、わたしは……ときに、あなたはなにかびっくりしたような目つきでわたしを見ておられるようですな? わたしはイヴォルギン将軍です。ご昵懇の機を得て光栄に存じます。アグラーヤさん、わたしはあなたを抱いてお守りをしたものです」
「たいへんうれしゅう存じます。あたしヴァルヴァーラさんともニーナ夫人とも、お心安くしていただいております」笑いだすまいといっしょうけんめいに、がまんしながら、アグラーヤは早口にいった。
 リザヴェータ夫人はかっとなった。なにかしら前から積もりつもった胸のもだもだ[#「胸のもだもだ」はママ]が、一時に出口を求めたのである。彼女は、かつてずっと以前のことだが、知り合いだったイヴォルギン将軍が、どうにもがまんできなかった。
「またあんたいつものうそをつきますね、あんたがあれを抱いて守りをなすったことなんか、ついぞ一度もありませんよ」と彼女はぶりぶりしながらさえぎった。
「おかあさん、あなた忘れてらっしゃるのよ、まったく抱いてくだすったわ、トヴェーリで」とにわかにアグラーヤが相づちを打った。
「あの時分うちじゃトヴェーリにいたでしょう。あたしあのとき六つだった、覚えていてよ。将軍は弓と矢を作って、あたしに射かたを教えてくだすったわ。そして、あたし鳰を一羽射おとしたわ。ねえ、あたしとあなたといっしょに鴆を射ったのを覚えてらっしゃいます?」
「あたしにはそのときポール紙の兜と、木刀を持って来てくだすったのよ、覚えてますわ!」とアデライーダも叫んだ。
「それはわたしも覚えています」とアレクサンドラも確かめるようにいった。「あんたがたふたりが手傷を負った鳩のことで喧嘩をして、部屋の両端へ立たされたでしょう。アデライーダは兜をかぶって、刀をさしたまま立ってたっけ」
 将軍がアグラーヤに向かって、あなたを抱いて守りをしたことがあるなどといったのは、ただただ会話をはじめるためのお座なり[#「お座なり」に傍点]で、いつも若い人たちと知り合いになる必要があると思ったときには、こんなふうに会話をはじめるからというだけの理由にすぎなかったのである。しかし、今度はまるでわざとのようにほんとうのことをいった。しかも、同じくわざとのように、これがほんとうであることを忘れていた。で、今アグラーヤが不意に、あなたといっしょに鳩を射ったことがあるといいだしたとき、彼の記憶は一時によみがえってきた。そして、よく高齢の人が何か非常に古いことを思い出すときのように、彼はこれらすべてのことを、細かい末の末まで思い出したのである。この回想のいかなる点が、いつも少々ぶつかよい気味の不幸な老将軍に働きかけたかは、ちょっといいにくいが、とにかく彼は、にわかに一方ならず感動した。
「覚えております、すっかり覚えております」と彼は叫んだ。「わたしはあのとき二等大尉だった。あなたは、ほんのちっちゃなかわいいお嬢さんでしたなあ。ニーナ……ガーニャ……わたしもあなたがたのところへ……出入りさしていただいておりましたっけなあ。イヴァン将軍は……」
「それだのにまあ、今あんたはなんということにおなんなすったの?」と夫人が切りこんだ。「そんなに感動なさるところをみると、あんた高尚な感情をすっかり酒代《さかて》にしてしまい なすったわけでもないんですね。だけど、奥さんにあんな苦労をさしたり、子供さんたちの方途もつけなきゃたらないのに、自分が債務監獄に入れられたりなんか。さあ、あんたここを出てらっしゃい。そして、どこか隅っこの戸のかげに立って泣きながら、以前の菲のない時分のことを思い出しなさ い。そしたら、神さまもおゆるしくださるかもしれません。さ、いらっしゃい、わたしまじめにいってるんです。以前のことを後悔して思い出すほど、罪滅しになることはありませんからね」
 しかし、まじめにいってるのだなどと、このうえくりかえす必要はなかった。将軍はいつも酒気の絶えぬすべての人と同様、非常に感じやすいたちであり、また極度まで堕落したすべての酒飲みと同じく、幸福であった過去の思い出を平気で堪え忍ぶことができなかった。彼はおとなしく立ちあがり、戸口のほうへ歩きだしたので、リザヴェータ夫人はすぐかわいそうになって来た。
「イヴォルギンさん、もし!」と彼女はうしろから呼びかけた。「ちょっとお待ちなさいよ。わたしたちはみんな罪の深いからだです。あんたも良心の呵責が少なくなったと思ったら、わたしのところへいらっしゃい。いっしょにすわって昔話でもしましょうよ。こういうわたしだって、あんたよか五十倍も罪が深いかもしれないんですもの。あら、今はあっち行ってらっしゃい。ここにいらっしゃることなんかありません、さようなら……」とリザヴェータ夫人はにわかにびっくりしたようにいった。将軍がのこのこ引っ返しかけたのである。
「きみ、今ついて行かないほうがいいでしょう」と公爵は、父のあとからかけだそうとするコーリャを呼びとめた。――いま行くと、すぐにまた向かっ腹を立てて、せっかくの悔悟が台なしになります」
「まったくです。かまわずにおいときなさい。三十分もたったらお行きなさい」と夫人はひとりぎめに決めてしまった。
「わずか一生にいっぺんでもほんとうのことを言うのは、こうまできき目のあるものですかねえ、涙をこぼさんばかりに感激してましたよ!」とレーベジェフは僭越にも口を出した。
「ふん、おまえさんだって、キちといい人間に違いないよ、もしわたしの聞きこんだことががほんとうだったらね」とリザヴェータ夫人はすかさず取っちめた。
 公爵のもとに集まった客人たち相互の関係は、しだいしだいに決まって来た。公爵はもちろん、大人や令嬢たちの自分にたいする同情を、ありがたく思うこともできたし、またじっさいありがたく思いもしたので、彼自身のほうからもあすといわずきょうすぐにも、こちらへ訪問に来られるより先に、時刻はかなり遅くなっているが、ぜひとも病気を押してエパンチン家へ出かける心構えであったと述べた。将軍夫人は客人たちを尻目にかけながら、それは今すぐにも実行できることですよと答えた。プチーツィンはしごく慇懃な、しごく世間なれた人だったから、間もなく席を立って、レーベジェフの住まっている離れへ退却した。そのさい、主人のレーベジェフをもいっしょにつれて行きたくてたまらなかったが、こちらはすぐあとから行きますというばかりであった。ヴァーリャは令嬢たちと会話を交えていたので、その場に居残った。彼女もガーニャも、父将軍がいなくなったので、大喜びであった。やがてそのガーニャもプチーツィンにつづいて、席をはずした。彼は、エパンチン家の人々と露台に座を同じゅうしている幾分かのあいだ、しじゅうつつましやかに、しかも品格を失うことなくふるまって、二度までも頭から足の爪先までじろじろ見まわしたリザヴェータ夫人の恐ろしい視線に、いささかも動じなかった。じっさい、前の彼を知っていた人人は、彼の人物ががらりと変わったことを思わないわけにいかなかった。これがたいへんアグラーヤの気にかなった。
「いま出て行ったのはガヴリーラさんですね?」アグラーヤはときおり好んでするように、人の話を突き破るような高い声で、だれに向かってともなくふいに問いを発した。
「そうです」と公爵は答えた。
「まあ、だれだかわからなかったわ。あの人もずいぶんお変わりなすったのねえ、しかも……ずっといいほうへ」
「ぼくもあの人のためにたいへんうれしいです」と公爵が言った。
「にいさんはたいへん病気が悪かったのですよ」ヴァーリャが嬉しそうな同情を表わしながら、つけ足した。
「なぜ、あの人がいいほうへ変わったの?」と憤懣にたえぬといった不満の調子で、仰天せんばかりにリザヴェータ夫人がきいた。「どこからそんな理屈が出て来るの? ちっともいいところなんかありゃしません。どこがいったいおまえにはよく見えるんです?」
「『貧しき騎士』よりいいものはほかにありませんよ!」しじゅうリザベータ夫人のいすちかく立っていたコーリャが、にわかにこう叫んだ。
「なるほど、わたしもやはりそう思いますね」とS公爵がいって笑いだした。
「あたしもぜんぜんそれと同意見よ」と勝ち誇ったようにアデライーダが叫んだ。
「『貧しき騎士』って何?」と将軍夫人は不思議そうに、またくやしげに、こういう人たちを見まわしたが、アグラーヤがぱっと顔を赤くしたのを見つけると、腹立たしげにつけ足した。「またなにかくだらないことをいい出したんでしょう!『貧しき騎士』つて、いったいなにものです?」
「この小僧っ子が、あなたのご秘蔵っ子が、人のいったことをはき違えるのは、今にはじまったことじゃなくってよ!」と傲慢な憤怒の調子でアグラーヤが答えた。
 アグラーヤの腹立たしげな言語動作の中には(じじつ、彼女はむやみによく腹を立てた)、そのたびごとに、まじめないかつい顔つきにもかかわらず、何か子供らしい、こらえ性《しょう》のない、小学生じみた、隠しそこなったようなあるものがのぞいて出るので、彼女をみていると、ときとして笑いださずには、いられないほどであった。それがまたアグラーヤにはくやしくてくやしくてたまらなかった。何がそんなにおかしいのか、『どうして失礼千万にも笑ったりなどできるのか』それが彼女にはよくわからなかった。こんどもふたりの姉とS公爵が笑いだした。それに、ムイシュキン公爵までが、なぜか同じように顔を赤くしながらほほえんだのである。コーリャはすっかり得意になり、からからと笑った。アグラーヤはもうむきになって怒りだしたが、それがまた一倍うつくしかった。彼女のこうした困惑と、その困惑した自分自身にたいする憤怒のさまが、なんともいえず似つかわしかったのである。
「この子はおかあさまのいったことだって、ずいぶん妙なふうに取るじゃありませんか」と彼女はいい足した。
「ぼくはあなたご自身の言葉を根拠としてるんですよ!」とコーリャが叫んだ。「ひと月ばかり前あなたは『ドン・キホーテ』をめくりながら、『貧しき騎士』よりいいものはほかにないって、大きな声でおっしゃったじゃありませんか、そのときあなたがだれのことをおっしゃったのか知りません。『ドン・キホーテ』のことか、エヴゲーニイさんのことか、それとも、もうひとりあのかたのことか、そりゃわかりませんが、とにかくだれかのことをおっしゃったに相違ありません。そして、長いことふたりでお話ししたじゃありませんか……」
「おまえさんどうもそんな当て推量するのは、あんまり出しゃばりすぎるというものです」とリザヴェータ夫人はくやしそうに制した。
「だって、ぼくだけじゃないんですもの」とコーリャも負けていなかった。「みんなそのとき話したんです、そして、今でも話してますよ。ほら、たった今S公爵もアデライーダさんも、みんな『貧しき騎士』に賛成するとおっしゃったでしょう。してみると、『貧しき騎士』なるものは存在してるんです。ぼくの考えでは、アデライーダさんさえいうことを聞いてくだされば、ぼくたちはみんな『貧しき騎士』がだれだかってことを知ったはずなんです」
「いったいあたしがなぜ悪いんですの?」とアデライーダが笑いながらたずねた。
「肖像を描くのをおいやがりなすった、それで悪いんです! アグラーヤさんがあのとき『貧しき騎士』の肖像を描いてくれとおっしゃって、自分で考え出した画題をすっかりお話しなすったでしょう、覚えてらっしゃいますか、あの画題ですよ? ところが、あなたはいやだとおっしゃった……」
「だって、どんなに描いたらいいの、だれを描いたら? あの画題によると、『貧しき騎士』は、

顔なる鋼《はがね》の格子をば、
誰《た》が前にても上げざりし。

でしょう。いったいどんな顔だっていうの? 何を描いたらいいの、格子? 仮名《アノニム》?」
「なんにもわかりゃしない、いったい格子とはなんです!」夫人はこの『貧しき騎士』なる称呼によって(しかも、だいぶ前から口にされているらしい)、だれが意味されているかがよくわかってきたので、いらいらしはじめたのである。けれど、ムイシュキン公爵までが同様にもじもじして、しまいには十ばかりの子供のように、すっかりとほうにくれたのを見て、夫人はとうとうかんしゃく玉を破裂さしてしまった。「え、どうしたの、そんなばかな話をやめますか、やめませんか? その『貧しき騎士』のわけを聞かしてくれますか、くれませんか? それともなにかそばへ寄ることもできないほどたいへんな秘密ですか?」
 しかし、一同はただ笑いつづけるばかりであった。
「いや、ほんのごくごくつまらない話なんです。一つ奇態な ロシヤの詩があって」と明らかにこの話をもみ消して話題を変えようと急ぐもののごとく、とうとうS公爵が割って入った。「その『貧しき騎士』のことを歌ってるんですが、頭も尻尾もない小さな断片なのです。ひと月ぽかりまえ、食後にみんなでふざけながら、いつものとおり、アデライーダさんの次の絵のために、画題をさがしたわけなんです。ご承知のとおり、アデライーダさんの画題をさがすのが、ずっと前からお宅で家内じゅうの仕事になっているのですから。そのときこの『貧しき騎士』を引き合いに出したんですが、だれが一番だったか覚えていません……」「アグラーヤさんです!」とコーリャが叫ぶ。
「たぶんそうでしたろう、わたしもよく覚えていません」とS公爵は言葉をついだ。「ある人はてんで頭からこの画題を茶化してしまったのですが、またある人はこれ以上の画題はないと主張しました。しかし、どっちにしても、『貧しき騎士』を描くにはモデルになる顔が必要です。それで、知った人の顔をすっかり穿鑿してみたのですが、一つも適当したのがなかったのです。それで話も立ち消えになりました。これだけのことです。ただなんのためにコーリャ君が今そんなことを思い出して引用なすったのか、どうもわかりませんな。以前おかしくて場所柄にはまっていたことも、今となってはちっとも興味がありませんよ」
「それはなんだか新しいばかげた意味を含ましたからです、毒と侮辱に満ちた意味をさ」とリザヴェータ夫人は断ち切るようにさえぎった。
「いいえ、深い深い尊敬のほかには、ばかげた意味なんかちっともありません」まったく思いもかけぬアグラーヤが、ものものしいまじめくさった声でいいだした。彼女はいつしかわれに返って、さきほどの困惑を圧しつけていた。のみならず、あれやこれやの点から察するところ、今や彼女はこの冗談がだんだんと深みへはまってゆくのを、われから喜んでいるように見うけられた。彼女の心中にこの転換がおこったのは、公爵の当惑がしだいに激しくなって今は極度にまで達したのが、あまりにもあからさまに読まれるようになった瞬間からであった。
「今まで火のついたように笑っているかと思えば、今度はいきなり深い深い尊敬が飛び出したよ! まるで気ちがいだ!なぜ尊敬だえ? さあ、いってごらん、なんだっていわれもなく、深い深い尊敬などが、いきなり飛び出したんです?」
「深い深い尊敬というのはこうですの」ほとんど癩みつかんばかりの母の問いに対して、アグラーヤはやはりものものしいまじめくさった調子で答えた。「それはこの詩の中に、理想をいだくことのできる人間が直截に描かれているからです。第二には、いったん理想を定めたらそれを信じ、それを信じた以上そのために盲目的に一生を捧げるだけの勇気を、この人は持っているのです。まったく今の世に珍しい性質ですわ。その『貧しき騎士』の理想が何か、それは詩の中にはいってありませんが、どうやら輝くばかりの姿、『清き美の姿』らしいんですの。そして、亦しいこがれた騎士はショールのかわりに、数珠を首に結びつけたそうですの。そうそう、それからまだなにかしらわけのわからない、いいさしにしたようなお題目があったっけ、A、N、Bという字、これを自分の楯の上へ彫りつけたんですって……」
「A、N、D(プーシキンの原作ではA・M・Dとなっているが、これはおそらくコーリャの記憶ちがいであろう、Bはバラシュコヴァの頭字)」とコーリャが正した。
「でもあたしは、A、N、Bといってるのよ、あたしそういいたいの」といまいましそうにアグラーヤがさえぎった。「なにはともあれ、ただ一つ明瞭なことは、この貧しき騎士は自分の嫣がだれであろうと、また何をしようと、もうすこしもかまいはしないと思うほどになりました。自分がその女の人を選び出して、その『清き美』を信じ、その前へ永久にひざまずいた、それだけでたくさんだというのです。よしやのちになって、その女のひとが泥棒であるとわかっても、彼は依然としてそのひとを信じ、その清き美のために槍を折らねばならぬ、これが彼の功績なんです。詩人はきっとこの驚くべき人物の中に、純潔で高尚なある騎士のいだいていた、中世紀のプラトニックな恋の偉大な意味を、完全に取り入れようとしたのでしょう。もちろん、これは理想であります。『貧しき騎士』におきましては、この感情が極度にまで、禁欲主義にまで達しているのです。けれど、ほんとうのところを申しますと、こうした感情をいだきうるってことは、なかなか意味深長なものでして、また一面から申しますと、きわめて賞讃すべき点があります。このことはドン・キホーテを引き合いに出すまでもありません。『貧しき騎士』はドン・キホーテと同じような人物ですが、ただまじめで喜劇的な分子のないところが違っています。あたしははじめわからないから笑いましたが、今はこの『貧しき騎士』を愛します、と申すよりか、その功績を尊敬します」
 こうアグラーヤは結んだが、その顔を見ていると、はたしてまじめにいっているのやら、笑っているのやら、とみには見わけがつかなかった。
「ふん、それはどこかのばかものだよ、その男もその功績とやらもさ!」と夫人はこうきめつけた。「それに、アグラーヤ。おまえもずいぶんお吹きだったね、まるで演説みたいだ!わたしの考えでは、おまえには少々不似合いですよ。とにかく、あんなことはいけません。そしてどんな詩なの? 読んで聞かせてちょうだい、覚えておいでだろう、きっと! わたしぜひともどんな詩だか知りたいの、わたしは一生涯、詩というものをがまんできなかったっけが、虫が知らせたのかもしれない。後生だからね、公爵、辛抱してちょうだい、わたしとあんたとは、どうやらいっしょに辛抱しなくちゃならないはめになってるようですよ」と彼女はムイシュキン公爵のほうを振り向いた。夫人はおそろしく向かっ腹を立てていた。
 ムイシュキン公爵はなにやらいおうとしたが、さきほどからの困惑に妨げられて、ひとことも口がきけなかった。ただひとり、例の『演説』でずいぶん無作法なことをいったアグラーヤのみは、いささかも動ずる色もなく、むしろ嬉しそうな様子であった。彼女は相変わらずまじめくさって、ものものしげに立ちあがり、前から心構えをして、ただ人から勧められるのを待っていたといわんばかりの顔つきで、露台の真ん中へ進みいで、しじゅうひじ掛けいすにすわったままでいる公爵の前に立った。一同はやや驚いて彼女を見やった。そして、ほとんど一同のものが、公爵も、姉ふたりも、母夫人も、にがにがしい心持ちをいだきながら、あまりにも薬のききすぎる、しかもかねて用意されてあったらしいこの新しい悪戯をながめた。けれど、アグラーヤはこのわざとらしく誇張した、いかにもこれから詩を読みます、といったような身構えが気に入ったらしい。リザヴェータ夫人は今にも娘をもとの席へ追い戻しそうな気配を示したが、ちょうどアグラーヤが詩の朗読にとりかかろうとしているところへ、新しい客がふたり声高に話しながら、往来から露台へ上って来た。これはイヴァン・エパンチン将軍とそれにつづくひとりの青年であった。ふたたび小さな動揺がおこった。

      7

 将軍と同道して来た青年は、年のころ二十七、八、背の高い、すらりとした、美しい、利口そうな顔だちの男で、大きな黒い目の表情は機知と冷笑に輝いていた。アグラーヤはそのほうを振りむこうともせず、わざとらしい表情で公爵ひとりをながめながら、公爵ひとりを目当てにして、詩の朗読をつづけた。これらは、なにか特別な目算があってのことなのは、今や公爵にとって明らかな事実となった。しかし、新米の客はいくぶんかばつの悪い位置から彼を救い出してくれた。彼は将軍の姿を見つけるや、すぐさま立ちあがって、遠くから愛想よくうなずいてみせ、朗読の邪魔をするなという心をさとらせ、さて自分はひじ掛けいすのうしろに退いて、左子でいすの背に頬杖を突きながら、引きつづき朗読を傾聴した。これはいすに膿掛けているよりもだいぶ具合がよく、それほど「こっけい」に見えなかった。リザヴェータ夫人はまたリザヴェータ夫人で、命令するような風つきで、二度ばかり新来の客に手を振ってみせた、それは立ちどまって聴いていろというつもりなので。その間にも、公爵は将軍について来た新顔の客を非常な興味をもってながめた。これはてっきり、エヴゲーニイ・パーヴロヴィチ・ラドームスキイに違いないと想像した。彼はこの人のことをいろいろと聞かされてもいたし、自分で考えたのも一度や二度でなかった。ただ彼はその文官の服装に奇異な感をいだかされた。エヴゲーニイが武官であることは、彼も前から聞き知っていた。詩の朗読のあいだじゅう、あざけるような微笑が新しい客の唇にただよっていた。ちょうどこの人も『貧しき騎士』のことはちょっと聞いたことがある、といったような風つきであった。『もしかしたら、この男が自分で考えだしたのかもしれないぞ』と公爵は心に思った。
 けれど、アグラーヤはそれとまるっきりあべこべであった。はじめ一座の中央に進み出たときの誇張したわざとらしさはなくなって、詩の精神に透徹するような力と誠実さで隠されてしまった。彼女は一語一語に意味を含めて、淳朴な調子で読み進んだので、終わりに近いころには、一座の注意を集めつくしたばかりか、遺憾なく譚詩《バラード》の精神を伝えた。その点において、最初ものものしく露台の真ん中に進み出たときのわざとらしく誇大した態度を、いくぶんつぐなうことさえできたほどである。いまこのものものしさの中に見られるものは、彼女がみずから進んで他人に伝えようとしたものにたいする限りない、あるいは無邪気なとさえいえるかもしれない尊崇の念ばかりであった。両眼はきらきらと輝き、その美しい顔には歓喜と霊感との軽い痙攣が、二度ばかり見えるか見えないかに現われて消えた。彼女が読んだ詩は次のようであった。

むかし世に、心すぐにて身貧しく
言葉すくなき騎士ありき。
うち見しところ憂わしく
顔の色さえ優れねど
魂すぐに勇ありき。
人の知恵には及ばざる
ある幻をいだきしが
その面影はいと深く
騎士が心に食い入りぬ。
それより恋にこがれつつ
仇しおみなに目もくれず
世を終わるまでひとことの
言葉かわすも憂しとしぬ。
騎士はおのれの頸にさえ
ショールは捲かで数珠を懸け
顔なる鋼《はがね》の格子をば
誰《た》が前にても上げざりし。
心は清き愛に充ち
甘きおもいに身は浸り
おのが血をもて楯の上に
A、M、Dと記ししか。
さてパレスチナの曠野《あらの》にて
侠者《パラジン》の群高らかに
おのれの護る姫の名を
呼びつつ岩間を戦場へ
馳せ行くときにわが騎士は
声ものすごく叫びける。Lumen coeli, sancta Rosa!
(み空の光、聖なる薔薇!)
いかずちに似る雄たけびに
邪教のやからはおののきぬ。
遠き国なるわが城に
帰りし騎士はたれこめて
ひと間の中に言葉なく
いと悲しげに暮らせしが
狂者のごとくついに死にたり。

 後日このときのことを思い出すたびに、公爵は自分として解釈のできないある疑問に悩まされ、ひとかたならぬ惑乱を感じた。それは、どうしてあのような美しい真摯な心持ちと、あのような一見して明瞭な毒々しいあざけりとをいっしょにすることができたか、である。そこにあざけりの分子があったのは疑うべからざる事実であった。公爵はそれがはっきりわかっていたばかりでなく、そう考えるべき理由を持っていた。ほかでもない、アグラーヤは朗読のさい、A、N、Dの文字をば、N、F、B(ナスターシヤ・フィリッポヴナ・バラシュコヴァの頭文字)に替える大胆を、あえてした。これは確かなことである、自分のほうに聞き違いなどのなかったのは、疑う余地もない(これが事実そうであったことはのちに証明された)。とまれ、アグラーヤの行為は、――もちろん、冗談であるが、ただしあまりに激しい軽はずみな冗談ではある――前もってもくろんだものに相違ない。『貧しき騎士』のことは、ひと月も前から一同が話して(そして『笑って』)いたのである。しかし、のちになって公爵の追憶したところによると、あの頭文字をアグラーヤはすこしも冗談らしい様子を見せず、またばかにした様子もなく、そこに潜んだ意味をはっきり浮き出させるためことさらその文字に力を入れるというでもなく、ただ前と変わらぬまじめさと無邪気な罪のない単純さをもって発音した。そのために、これらの文字がほんとうに詩の中にあったのではないか、まったく書物にそう印刷してあったのではないかと思われるほどであった。なにかしら重苦しい不快なものが、公爵の胸を刺したように感じられた。リザヴェータ夫人は、むろん文字の変わったことにも、当てこすりにも気がつかなかった。イヴァン将軍はただ詩を朗読したということ以外、てんでなんにもわからなかった。それ以外の人々の多くは事の真相を解して、アグラーヤの大胆なやりかたと企らみに一驚を喫したが、みんな黙って色に出すまいと努めた。ただエヴゲーニイのみは、単に了解したばかりでなく、その了解したことを色に出そうとさえ努めた(それは公爵が誓ってもいいと思ったくらいである)。彼はあまりにも冷笑的な笑いかたをしたのであった。
「まあ、いいこと!」朗読が終わるやいなや、夫人は心から感に堪えたように叫んだ。「だれの詩だえ?」
プーシキンですわ、おかあさま。あたしたちに恥をかかせちゃいやですよ、まったく恥だわ!」とアデライーダが叫ぶように言った。
「ああ、おまえさんたちといっしょにいると、こんなことくらいじゃない、まだまだばかになってしまいますよ」とリザヴェータ夫人は、情けなそうに答えた。「ほんとうに恥です! 帰ったらすぐ、そのプーシキンの詩を見せておくれ」
「でも、家にはプーシキンなぞ一冊もなさそうだわ」
「いつの昔からだが」とアレクサンドラがつけ足した。「ばらばらになった本が二冊ばかりころがってますよ」
「すぐにフョードルかアレクセイかを、次の列車で町へ買いにやりましょう。いえ、アレクセイのほうがよかろう。アグラーヤ、ここへおいで! さ、わたしを接吻しておくれ、おまえの朗読はほんとうにりっぱだったよ、けれど、――もしおまえがまじめで読んだのなら」と彼女はほとんどささやくようにいいたした。「わたしおまえがかわいそうです。もしあの人を冷やかすつもりで読んだのなら、わたしはおまえの考えに賛成しませんね。だから、どちらにしても、はなから読まないほうがよかったんだよ。わかったかえ? さ、いらっしゃい、お嬢さん、またあとでふたりで話しましょう。だけど、ずいぶんながいことすわりこんでしまったね」
 その間に公爵はイヴァン将軍に挨拶した。すると、将軍は彼にエグゲーニイを引き合わせた。
「途中で会ったからひっぱって来たんです。この人はたったいま汽車で着いたばかりのところでしたよ。わたしもここへ来るし、うちの者もみんなこちらへ来ていることを知ったのでね……」
「それに、あなたもここにいらっしゃるってことを聞いたもんですから」とエヴゲーニイも言葉を添えた。「わたしはももずうっと前からあなたのお近づきを、いや、お近づきばかりではなく、ご友誼を求めたいと考えてましたので、じつはこの機会を逸してはならぬと思いまして。あなたはお加減が悪いそうですね。たった今うかがったのですが……」
「いえ、もうすっかりよろしいのです。あなたとお目にかかってたいへんうれしく存じます。おうわさはかねがねうかがっておりましたし、またばく自身もS公爵とあなたのおうわさをしたこともございます」とムイシュキン公爵は、手をさし仰べながら答えた。
 双方の挨拶も済んで、ふたりはたがいに握手をし、たがいにじっと目と目を見合わした。たちまち会話は全体に行きわたった。エヴゲーニイの文官服は一同に何か非常に激しい驚愕を与え、その他の印象はすべてしばらく忘れられ、姿を潜めたくらいである。公爵はこれに気がついた(彼はいま貪婪なくらい何にでも早く気がついた。あるいは、ぜんぜんありもせぬことにまで気がついたかもしれぬ)。この服装の変化の中に、なにかひどく重大な事件が含まれてるのではなかろうか、とさえ考えられるのであった。アデライーダとアレクサンドラは、不審そうに根掘り葉掘りエヴゲーニイにきいていた。親族のS公爵はひどく不安の色さえ浮かべた。将軍の声には胸騒ぎのしているような響きがあった。ただひとりアグラーヤのみは、文官服と武官服とどちらがよく似合うか比べて見るかのように、ちょっとエヴゲーニイの顔をもの珍しそうに、とはいえまったく冷静にながめていたが、やがてつと向きをかえて、それきり彼を見ようとしなかった。リザヴェータ夫人もやはりいくぶん心配らしい様子であったが、同じくなにひとつきいてみようともしなかった。エヴゲーニイはあまり夫人のお覚えめでたくないように、公爵には見受けられた。
「いや、びっくりした、まったく驚きましたよ」とイヴァン将軍は人々の問いに応じていった。「わたしはさっきペテルブルグで会ったときから、ほんとうとは思われなかった。おまけに、なぜふいにそんなことをされたのかそれがわかりませんて。会うとすぐいきなり、もうお役所のいすをこわすのはたくさんだ、とこうなんですからね」
 いろいろとその場で取り交わされた会話を総合してみると、エヴゲーニイはもうずっと前から退職のことを披露していたのだが、いつもそのいいかたがなんとなくふざけたように聞こえたので、とてもほんとうにするわけにいかなかったものと見える。それに、彼はいつもまじめなことを話すにも、妙にふざけた様子をしてみせるので、真偽のほどが曖昧であった。ことに、自分でもはっきりわかってもらいたくないと思ったときには、なおさらなのである。
「なに、ぼくはちょっと三、四か月、長くも一年くらい休職で暮らしてみるだけなんですよ」とエヴゲーニイは笑いながらいった。
「だが、わたしの知ってるかぎりでは、あなたの目下の事情はすこしもそんなことを必要としないじゃありませんか」となおも将軍は憤慨した。
「ですが、領地を乗りまわすのはどうです? あなたもご自分で勧めてくだすったじゃありませんか。それにぼく、外国旅行もしてみたいんですよ……」
 とはいえ、話題は間もなくほかへ移った。しかし、傍観者たる公爵の見るところでは、あまりにも激しく度を超えた不安はやはりいつまでもつづいて、その中にはたしかに何かある特殊なものがあった。
「じゃ、なんですか、『貧しき騎士』がまた舞台へ出たんですか?」とエヴゲーニイはアグラーヤに近寄りながら問いかけた。
 ところが、そばで見ていた公爵の驚いたことには、アグラーヤは、けげんな顔をして、不審そうに相手をながめた。まるでふたりの間に、『貧しき騎士』などの話が取り交わされたはずがない、あなたのおっしゃることはなんだかわかりませんよ、といいたそうな具合であった。
「いいえ、遅いです、今からプーシキンを買いに町へ行かせるのは遅いです、遅いですよ!」とコーリャは夢中になってリザヴェータ夫人といい合っていた。「さっきから幾度いってるかしれないじゃありませんか、遅いですよ」
「ええ、まったく今から町へ使いをやるのは遅いですよ」いち早くアグラーヤをはずしたエヴゲーニイが、ここへもすかさず割りこんだ。「ぼくの考えでは、ペテルブルグの店はもう戸を閉めたころですね、八時すぎですもの」彼は時計を引き出して、こう決めてしまった。
「今まで長いこと気がつかずにいたんですもの、あすまでくらい大丈夫、待てるわ」とアデライーダが口を挟んだ。
「それに、不似合いですよ」とコーリャがつけたした。「上流社会の人がそんな文学などに熱中するなんて。まあ、エヴゲーニイさんにきいてごらんなさい、それよか、赤い輪のついた黄色い散歩馬車に憂き身をやつしたほうが、どんなによく似合うかしれませんよ」
「またなにかの本の文句をひっぱり出したわね、コーリャ」とアデライーダが注意した。
「ええ、この人は本の文句を引き合いに出すよりほか、話のしかたを知らないんです」とエヴゲーニイが引き取った。「よく批評集かなにかの長たらしい句を、そのまま引用するんですからね。ぼくは前から、コーリャ君の話をうけたまわる光栄を有しましたが、今のは、しかし、本の文句じゃなかったようです。明らかにコーリャ君は、赤い輪のついたぼくの黄色い散歩馬車を、当てこすったんです。しかし、ぼくはもうほかのと取っ換えてしまいましたよ、少々おそまきでしたね」
 公爵はエヴゲーニイの話しぶりを聞いて、彼がいかにも控えめに、しかもりっぱな朗らかな態度で終始しているのを感じた。それに、自分に突っかかってくるコーリャに向かって、へだてなく親しげな調子で話すのが、とりわけ気に入ったのである。
「それは何?」と将軍夫人はレーベジェフの娘ヴェーラに問いかけた。娘は手に装幀の美しい、まだま新しい、大形の書物を幾冊か捧げて、夫人の前に立っていたのだ。
プーシキン、宅のプーシキンでございます」とヴェーラは答えた。「父が奥さまに進呈するように申しつけましたので」
「なんだってそんな? どうしてそんなことが?」とリザヴェータ夫人はびっくりした。
「進上いたすのではございません。進上いたすのではありません。けっしてそんな失礼なことは申しあげません!」娘の肩のかげからレーベジェフが飛び出した。「相当のお値段で、へえ! これはわたくしども家庭用のプーシキン、アンネンコフ版でして、今ほしいと申しても手に入る品ではございません、――まあ相当のお値段で、へえ! 謹んでお譲りいたしとうござります。それでもって、奥様のあっぱれな文学的感情のお渇きをうるおしていただけましたら、なにより満足のことに存じますので」
「ああ、売ってくれるんですか、そんならありがとう。とても損のいくようなことはおしでないだろうからね。だけど、そんな妙な恰好をするのだけはよしてちょうだい。わたしおまえさんがなかなかの学者だといううわさを聞いていましたが、いつかお話ししてみましょうよ。どうだね、きょうおまえさん自分で持って来てくれますかね!」
「謹んで……うやうやしく承知いたしました!」と娘の手から書物をひったくりながら、レーベジェフはたまらなく嬉しそうに身をくねらした。「結構、だがなくしちゃだめですよ、大切にもってらっしゃい。そんなに謹んだり、うやうやしくしたりしなくてもいいからね。だけど、条件つきですよ」と夫人は相手をじろじろ見まわしながら、いいたした。「しきいのとこまでは入れるけれど、きょうおまえさんを中へ通すつもりはないんだからね。けれど、娘のヴェーラさんは今すぐでもよこしなさい。あの娘はわたしすっかり気に入っちゃった」
「おとうさん、なぜあの人たちのことをおっしゃらないの?」と、こらえかねたようにヴェーラは父にいった。「そうこうしているうちに、あの人たちは自分で入って来てよ。ほら、あんなにがやがやいいだしたわ。公爵さま」このときもう自分の帽子を手に取っていた公爵のほうに向いて、彼女はこう告げた。「あちらへだれだが四人ばかりの人がまいりまして、わたしどものほうで待ちながら、乱暴なことばかりいっています。父はこちらへ通しちゃいけないと申すのですけれど」
「どんなお客さま?」と公爵がたずねた。
「用事で来たと申すのでございますけれど、もし今ここへ通さなかったら、途中で待伏せでもしかねないような人たちでございます。公爵さま、まあひとまず通してやって、それからいい加減なときに追っ払ってやるとよろしゅうございますよ。あちらでガヴリーラさんにプチーツィンさんが、いろいろいい聞かしてらっしゃるのですけど、なかなかはいといわないのでございます」
「パヴリーシチェフさんの息子です! パヴリーシチェフさんの息子です! なに、あんなやつ相手になさる値うちはありません」とレーベジェフは両手を振りまわしながら、「あんな者のいうことなど、聞いてやる値うちはありません。公爵さま、そんなことを気におかけなさるのも、ご身分にかかわるくらいです、それだけのことです。あいつらにはそれでたくさんです……」
「パヴリーシチェフさんの息子? ああ、なんということだ!」と公爵はひどく狼狽して叫んだ。『ぼく、知ってます……だけど、ぼくはその……この事件をすっかりガヴリーラさんに委任したんですが……たった今さきもガヴリーラさんがぼくにそういいました……」
 しかし、このときガヴリーラは早くも家の中から露台へ出て来た。そのあとからプチーツィンもつづいた。すぐ次の間からは、まるでいくたりかの声を圧倒せんとしているような、イヴォルギン将軍の大きな声が、騒々しい物音といっしょに響いた。コーリヤはすぐに物音のするほうへかけだした。
「こいつは大いにおもしろいぞ!」とエヴゲーニイが口に出していった。
『してみると、ちゃんと事情を知ってるんだな!』と公爵は腹の中で考えた。
「パヴリーシチェフさんの息子ってだれです? それに……パヴリーシチェフさんの息子なんて、あるはずがないじゃありませんか」イヴァン将軍は不審そうに一同の顔を見まわしたが、この新しい事件を知らないのは自分ひとりだけだと気がつくと、彼はけげんな顔をしてこうきいた。
 いかにも一同はこぞって胸をおどらせながら、どんなことが持ちあがるかと、待ち設けていたのである。公爵はまったく自分一個のみに関する事件が、かくまで激しく一同の興味をひくのを見て、深い驚きに打たれた。
「もしあなたが今すぐ、あなたおひとりで、この事件の片を付けておしまいなすったら、ほんとにおもしろうございましょうねえ」アグラーヤはなんだかいやにまじめくさった様子をして、公爵のほうへ近寄りながらいいだした、「そして、あたしたち一同はここにこうしていて、あなたの証人にならしていただきとうございますわ。ねえ公爵、今あなたの顔に泥をぬろうとするものがあるのですから、あなたはりっぱに身の明かしをお立てにならなくちゃなりませんわ。あたしは今から、それをあなたのためにお喜びしていますの」
「わたしも早くこのいまいましいゆすり事件の片をつけてもらいたいですね!」と将軍夫人も叫んだ。「そんなやつらはぴしぴしとやっつけておやんなさい、公爵、ちっとも容赦はいりませんよ。わたしこの話を耳にたこができるほど聞かされたので、あんたのためにどれだけ気をもんだかわからないんですよ。それに、どんなやつらだか見るのも一興ですからね、ここへ呼んでごらんなさい、わたしたちはじっとすわっていましょう。ほんにアグラーヤの思いつきはなかなかよかった。公爵、あなたはこのことについてなにかお聞きになりまして?」と彼女はS公爵に向かってたずねた。
「もちろん聞きました、やはりお宅で。が、わたしもやはり、おそろしくその若い連中の顔が見たいんですよ」とS公爵は答えた。
「いったいその連中てのはニヒリストなのですかねえ?」
「いえ、あいつらはニヒリストとは違いますので」これも同じく興奮のあまりぶるぶるふるえださんばかりのレーベジェフが、一足まえへしゃしゃり出た。「あいつらはそれとはまるで違う、特別な連中でござります。わたくしの甥にいわせますと、あいつらはニヒリストよりもっと上手なのです。あなたは、自分がそばにいたらあいつらがまごつくだろうとお思いのご様子ですが、なかなかどうして、あいつらはそれしきのことでまごつくような連中じゃありませんて。ニヒリストの中にはままもののわかった、学者とでもいいたいような人がおりますが、こいつらときたら、それどころの騒ぎでないのです。なぜと申すに、まずなにより実際的な連中だからです。これはつまりニヒリズムの結果でありましょうが、まっすぐな道を通って来たんでなくって、ほんの聞きかじりか、ただしはニヒリズムの前を横目ににらみながら通り抜けたくらいのところです。それに、雑誌に論文かなにか載せて意見を発表するなんて、まわりくどいことはいたしません。なんでもかでもじっさいにやって見せるのです。たとえば、やれ、プーシキンは無意味でござるの、やれ、ロシヤの国はいくつにも分裂しなくちゃならんのと、そんなことはまるでお話が違うのです。ただその、なにかひどく執心なことがあると、たとえそれがために八人の人を殺す必要ができても、むちゃくちゃにやりとおす権利があると思ってるのです。公爵、わたしはやはりどうも賛成いたしかねますが……」
 けれど、公爵はもう戸をあけに立って行った。
「レーベジェフ君、それはいいがかりというもんですよ」と彼はほほえみながらいいだした。「あの甥ごさんはだいぶきみをおどしつけたと見えますね。奥さん、どうかこの人のいうことを、ほんとうにしないでくだい。ゴールスキイやダニーロフ(当時新聞を賑わした殺人犯)などはほんの偶然の産物ですし、この人たちはただ思い違いをしてるまでのことです……ただ一つぼくはここで、皆さんの前でそんな話をしたくないですから、奥さん、まことに申しかねますが、あの人たちがやって来たら一応お目にかけて、それからあちらへ連れて行かしていただきます。さあ、皆さん、どうぞ!」
 しかし、それよりもむしろ別な種類の苫しい想念が彼を悩ますのであった。ほかでもない。もしやだれかが前から考えて、この事件がちょうど今このとき、こうした来客の前で持ちあがるように、しかも彼の勝利とならず、かえって大恥をかかされるのを予期して、こんな細工を企らんだのではなかろうか、といったふうの考えが、ちらっと心に浮かんだのである。けれども、彼は同時に、自分の『奇怪なほど意地わるく疑ぐりぶかい』性質が浅ましく、妙に沈んだ気持ちになった。自分の心中にこんな想念が潜んでいることをだれかに知られたら、彼はとても生きてはいられなかったであろう。で、ちょうど新しい客人たちがどやどやと入って来た瞬間、彼はここにいる人の中で、自分が道徳的に最も劣等な人間なのだと、真底から考えた。入って来たのは五人であった。四人は新顔で、最後のひとりはイヴォルギン将軍であった。彼はおそろしく激して興奮して、発作にかかったような雄弁をふるっていた。『この人はきっとぼくの味方だ!』と公爵はほくそえみながら考えた。コーリャも皆といっしょにすべりこんだ。そして、新来の客の中にまじったイッポリートと、なにやら一生懸命に話していた。イッポリートは耳を傾けながら、にやっと笑った。
 公爵は客をそれぞれ席に着かした。彼らはみなそろいもそろってなま若い、まだ一人前になりきらぬ青年ばかりなので、こんな連中のために、これほどものものしい接見の場を準備したのが、不思議なくらいであった。たとえば、この『新しい事件』について、なんの知るところもないエパンチン将軍は、こうしたなま若い連中を見て急にぶつぶついいだした。もし夫人が公爵の私的利害に関して、不思議なほどの熱心を示さなかったら、たしかになんとかぐずぐずいいだしたに相違ない。とにかく、彼はなかば好奇心、なかば人のいいためそこに居残った。なんといっても、自分は一座の権威として役に立つことができると信じたからなので。けれど、あとから入って来たイヴォルギン将軍が、遠くから会釈をしたとき、彼はまたいまいましい気持ちになった。彼は顔をしかめ、もう何ごとがおころうと、いっさい口をきくまいと腹を決めた。 四人の若い来客のうちにただひとり、もう三十くらいになるらしい男がいた。それは『旧ラゴージンー党』に属していた退職中尉で、望み手があれば十五ルーブリで拳闘の教授もする男であった。彼がほかの連中について来たのは、単に誠実なる親友として、仲間の元気を鼓舞しようというにすぎないらしい。ただし、いったん必要が生ずれば、庇護の役に当たるつもりなのはもちろんである。ほかの三人のうちで座頭役を勤めていたのは、かのパヴリーシチェフの息子と呼ばれる屶である。もっとも、自分ではアンチープ・ブルドーフスキイと名乗りを上げた。彼は身なりの貧乏くさく無精たらしい若者で、両ひじが油でてらてらと鏡のように光るフロックに、いちばんうえまでボタンをかけたべとべとのチョッキ、どこへ行ったか影も見えないワイシャツ、とても余人には真似ができそうもないほど脂じみて、よれよれになった黒い絹の襟巻を着けている。手はろくすっぽ洗わないらしく、顔にはものすごくにきびが吹き出し、髪は亜麻のように白っぽかった。それに目つきが、しいていってみれば、罪のない傲慢な表情をしている。年かっこうは二十二くらい、やせているが背丈はあまり低くないほうである。その顔には、いささかの皮肉も自己反省も映っていなかった。それどころか、おのれの権利に対する安全な(しかもいかにも遅鈍らしい)心酔の色と、また一方、つねに『自分は踏みつけにされてばかりいる』と考えたがる、一種不思議な欲望のかげが勁いている。彼はやたらに激昂してせきこみ、どもりどもり話をするので、言葉をひとつひとつはっきりしまいまでいわないのではないか、と思われる。まるでどもりでなければ、外国人そっくりであるが、そのくせ純粋のロシヤ生まれなので。 第一番に彼のあとからついて来たのは、読者にとって顔なじみのレーベジェフの甥で、その次はイッポリートであった。イッポリートはいたって年少の、十七か十八くらいの青年で、思慮ありげには見えるが、いつもいらいらしい表情を帯びた顔には、病気の恐ろしい痕跡を印している。からだは骸骨同然にやせさらばい、青ざめた黄いろみを呈し、両眼はぎらぎらと輝き、双の頬には二つのしみが燃えるように赤かった。彼は絶えまなくせきつづけるので、そのひとことひとこと、いな、その一呼吸一呼吸にぜいぜいという響きがまじっていた。ひと目みたばかりで、肺病が極度にまで達しているものと知れた。彼の寿命もここ二、三週より長くはないらしい。彼は疲れきったように、だれよりもさきにどかりといすへ身を投げ出した。ほかの連中は入って来るときにいくぶんまごついた様子で、妙に四角ばっていたが、それでも、尊大にあたりを見まわしながら、なにかの拍子で自分の威厳を落としはせぬかと、びくびくしていたので、そうした態度は、無益で瑣末な交際上の礼儀とか偏見とか、あるいは一歩すすめて、自分の利益以外ほとんど世界のいっさいを否定しているという定評に、妙に調和しないのであった。
「アンチープ・ブルドーフスキイです」とせきこみながら、どもりどもり、『パヴリーシチェフの息子』がきり出した。
「ヴラジーミル・ドクトレンコ」とレーベジェフの甥は、まるで自分がドクトレンコであることを自慢でもするように、明瞭にきっぱりと名乗りを上げた。
「ケルレルです」と退職中尉が口早にいった。
「イッポリート・チェレンチエフ」と最後に出しぬけに甲高い声が叫んだ。
 とかくして一同は、公爵にむかい合って、一列にいすを占めながら名を名乗ると、自分で自分に元気をつけるために、帽子を左右の手に持ち換え、眉をひそめて、今にも口をきろうと身構えていた。しかし、一同はなぜか黙りこんで『おい、やっこさんだめだよ、その手は食わんぞ!』といったような、挑戦的な顔つきをして、なにやら待ち設けていた。ただだれかひとり皮切りに、なにかひとこといいだしたら、彼らはそろって一時に、おたがい同士じゃまをしながら、競争でがやがやしゃべりだすに相違ない、といったふうの気配が感じられた。

      8

「皆さん、皆さんがここへおいでくださろうとは、思いもよりませんでした」と公爵は口をきった。「ぼく自身もついきょうの日まで病気してたもんですから。それにあなたのお話は(と、彼はブルドーフスキイのほうへ向いて)もうひと月も前から、ガグリーラーイヴォルギン氏に委託しました。そのことは当時あなたのほうへ通知しておきました。もっとも、ぼくだって自分で親しくお話しするのを避けるわけではありませんが、ごらんのとおり、時が時ですから……どうぞぼくといっしょに別室へお運びを願いたいのです。けっしてお手間はとらしません……今ここにはぼくの友人のかたがたがいられますから、その……」
「友人のかたがた……ええ、ええ、お幾人でも、しかし失礼ですが」とふいにレーベジェフの甥が、まだあまり声は張らないけれど、おそろしく高飛車な調子でさえぎった。「失礼ですが、わたしのほうにも少々いい分がありますよ。あなたはわれわれを遇するに、もすこし丁寧であってもよかったようですね。人をボーイ部屋に二時間も待たせるなんて、あんま力でさあ……」
「それに、もちろん、ぼくだって……それに、あんなのをお華族式というんですか! それに、あんなことは……つまり、あなたは将軍気取りなんですね! ぼくだってなにもあなたのボーイじゃありまぜんよ! それにぼくは、ぼくは……」といきなりアンチプ・ブルドーフスキイが、なみはずれた興奮のていでいいだした。屈辱に堪えぬかのごとく声をふるわし、くちびるをぴくぴく動かし、口から泡を飛ばす様子は、まるでからだが破裂するか、あるいは、ちぎれてけし飛びでもしたようである。しかし、にわかにかっとせきこんだので、もう十こと目くらいから、何をいってるやらわからなかった。
「それがお華族流というのだ!」甲高いひびの入ったような声でイッポリートが叫んだ。
「もしこれがわが輩のことだったら」と拳闘の先生もどなりだした。「その、つまり、直接わが輩の身に関したことだったら、わが輩がブルドーフスキイの位置に立たされたら、わが輩は身分ある紳士として……」
「皆さん、ぼく皆さんのいらしったことを、たったいま知ったばかりなんです。うそじゃありません」と公爵はふたたびくりかえした。
「公爵、われわれはあなたの友人がどんな人だろうと、けっして恐れやしませんよ。われわれにはちゃんとりっぱな権利があるんだから」とまたしてもレーベジェフの甥がいった。
「しかし、ちょっとうかがいますが、あなたはいかなる権利があって」イッポリートが今度はおそろしくぶりぶりして金切声をだした。「ブルドーフスキイの事件を、自分の友人たちに審判させようとなさるんです? われわれはあなたの友人の審判なんか、望まないかもしれないじゃありませんか。あなたの友人の審判にどれだけの価値があるかってことは、あんまりよくわかりすぎてます!………」
「ですが、ブルドーフスキイさん、もしここで話すのがおいやでしたら」と相手のこうした出かたにすくなからず驚かされた公爵は、やっと口をいれることができた。「先刻から申すように、さっそく別間へご案内しましょう。あなたがたのことはまったくのところ、たったいま聞いたばかりなんです……」
「しかし、そんな権利はありません、そんな権利はありません、そんな権利はありません!………あなたの友人なんか……もう!………」粗暴な、しかもおずおずした目つきであたりを見まわしながら、ブルドーフスキイはたどたどしくいいだした。彼は他人を信ずる心が少なく、忌避の念がつのるに従ってますます熱中し、前後を忘れてゆくのであった。「あなたにそんな権利はありません!」
 こういってしまってから、彼はぷつりと引きちぎったように口をつぐみ、赤い太い筋の浮いた、おそろしく飛び出した近視の目を丸くしながら、全身を前へ乗り出すようにし、もの問いだけに公爵を見すえた。公爵はこれにすっかり面くらって、自分まで黙りこんでしまい、同じく一語も発せず、目を丸くして相手をながめていた。
「公爵!」ふいにリザヴェータ夫人が呼びかけた。「さあ、これを今ここで読んでごらんなさい、今すぐに、これはあんたに直接関係があります」
 彼女はせかせかと一枚の週刊滑稽新聞を突き出して、とある文章を指さした。これはまだ客人たちが入ったばかりのとき、レーベジェフが前からなんとかしてご機嫌をとろうと苦心していた将軍夫人のそばへ、そっと横のほうから馳せ寄って、ひとことも口をきかずにポケットからこの新聞を引き出し、しるしの付けてある一欄を指さしながら、夫人の目の前へ突きつけたのである。リザヴェータ夫人は手早く目を通して見たが、ひとかたならず驚いて激昂した。
「ですが、音読でないほうがよかありませんかしら」と公爵は狼狽して、おどおどいいだした。「ぼくひとりで読みたいんですが……のちほど……」 
「じゃ、いっそおまえさん読みなさい。今すぐ、声を出して!」夫人は、いらだたしげに、公爵がやっと手を触れたばかりの新聞をひったくると、コーリヤに向かってこういった。「さあ、大きな声で、ひとりひとりにきこえるように」
 リザヴェータ夫人は熱して夢中になりやすいたちの人であったから、どうかするとろくろく考えもせずにばたばたと、まるで天気模様も調べずに錨を上げて大海へ乗り出すようなことをするのも、珍しくなかった。イヴァン将軍は不安そうにもじもじしていた。しかし、ちょっといっとき、一同はわれともなく静まりかえって、不思議そうに待ち設けていた。コーリヤは新聞を広げて読みにかかった。レーベジェフはかけよって場所を教えてやった。

『プロレタリヤと成金』
  連日白昼に行なわれる強盗事件の一実話!
  進歩! 改革! 正義! 公平!

「奇々怪々なる事件が、いわゆるわが神聖なるロシヤにおいて、行なわれつつある。しかも、それは現代改革のとき、会社企業の盛んなるとき、国民的自覚のとき、年々数億の正貨が外国へ流出するのとき、工業奨励のとき、労働者の手を必要とせざるとき等々、……いや、いくら数えても数えきれることでない。読者諸君のお許しを得て、いざ本題にとりかかろう。
「今回ここに生じた一つの奇談というのは、ほかでもない、わが国では、もはや過去の遺物たる地主仲間(de profundis!)(深き底より――ラテン語)の子孫のひとりに関するものである。もっとも、地主仲間の子孫とはいい条、これはなかなか曰くつきな代物で、祖父はルーレットできれいに財布の底をはたき上げ、おやじは仕方なしに軍隊に入って、見習士官か少尉を勤めたあげく、罪のない官金費消かなにかで裁判に付せられ、営倉の中でおだぶつになってしまう。すると、子供らはこの物語の主人公と同様印館でなければ、刑法上の罪に問われるようなとんでもないことをしでかす(しかし、こんなのは陪審員たちが、大いに啓発して改心させたらいい、などと弁護してくれるが)。それから、さらにひどいのになると、めくらめっぽうなことをしでかして世間の人の度胆を抜き、それでなくてさえいいかげんけがらわしい現代に恥の上塗りをする、とまあいったふうな連中のひとりなのである。
「この話の主人公は半年ばかり前、足には外国ふうのゲートルをはき、寒中に裹もついてない外套にくるまってぶるぶるふるえながら、今まで白痴の療治(sic!)に滞在していたスイスから、ロシヤの国へと帰って来た。うち明けたところ、先生なかなか運のいい男である。というのは、例のスイスで癒して来た、と称するおもしろい病気(が、いったいばかを直すことができるものかどうか、諸君、考えてみたまえ?!!)のことはいうにも及ばず、『ある種の人々はつねに幸福なり(馬鹿には幸運がめぐって来る)』というロシヤの格言を、一身に体現したと申すも過言ではない。思ってもみたまえ、おやじは中尉であったが、中隊の金をちょろりとカルタにつぎこんだせいか、あるいは余計に部下のものをなぐりつけたためか(ご承知のとおり、昔はみなそんなものだった)、なにかの事件で裁判沙汰になっているうちに死んでしまった。ところが、この男爵はほんの赤ん坊のころおやじに死に別れてから、あるロシヤの富裕な地主におなさけで引き取られることになった。
「このロシヤの地主は、――かりにPと呼んでおこう、――以前の黄金時代には四千人の農奴の持ち主だったが(農奴!この言葉の意味がわかりますか、諸君! ぼくにはわからん。ひとつ詳しい辞書でも調べてみなくちゃならん。『神代の話じゃないけれど、やはりほんとうになりかねる』(クリポエードフ『知恵の悲しみの中の句』)だ)、察するところ、夏は温泉、冬はパリの花屋敷で、のんき至極な暮らしをし、そんなところに数えきれぬほどの金をまき散らす、ロシヤ式のらくら者の仲間らしい、すくなくとも、農奴の年貢の三分の一はシャトー・ド・フルールの経営者のふところへ収まった、とだけはたしかにいいきることができる(シャトー・ド・フルールの持ち主こそあやかり者なれだ!)
閑話休題、裕福なPはみなし児の男爵を王子同様に育てた。家庭教師や女教師を(それもむろん、渋皮のむけたのばかりに相違ない)、ついでのときに自分でパリから連れて来た。が、一門のうち最後にひとり生き残った華族の忘れがたみは白痴であって、シャトー・ド・フルール式家庭教師はいうこうお役に立たず、わが男爵は二十の年まで、どこの国語でも話一つすることができなかった。わがロシヤ語もむろんその例外とはならぬのだ。もっとも、ロシヤ語の件はとがめだてすることもない。ついにP氏の地主らしい胸に一つの妄想が浮かんで来た。つまり、スイスでなら白痴に知恵をつけることができるというのであった。しかし妄想とはいえ、なかなかこれは論理的で、なまけ者の物持ちが、金さえ出せば知恵だって市場で買える、ましてスイスでなら買えないはずはないと思ったのは、まことに自然なことである。スイスのさる博士のもとで五年ばかり療治してもらったが、もちろん白痴が利口になるはずはない、その間には幾千という金が出て行った。一説には、それでもどうやら人間に似て来たということだが、いいかげんなできそこないなのは申すまでもない。
「ところが、ふいにP氏が頓死した。遺言なぞはむろんない。あとはお定まりの乱脈、山ほどの相続人がてんやわんやに名乗り出たがその連中にしてみれば、おなさけで、スイスくんだりまで行って療治してもらっている一門最後の忘れがたみなどは、どうなろうとかまったことではない。忘れがたみ先生、ばかとはいい条、博士を欺して恩人の死去を隠し、二年間ただで療治をしてもらったという。さりながら、この博士というのがしたたかな食わせ者だから、とうとう金のないのに、というより、二十五歳の居候の健啖に恐れをなして、自分の古いゲートルをはかせ、よれよれの外套を着せ、お慈悲に三等の汽車賃をくれてnach Russland(ロシヤヘ向けて――ドイツ語)スイスから『おととい来い』とほうり出した。
「どうやら運というやつが、わが主人公に背中を向けた塩梅式だが、おっとどっこい、さにあらず。飢饉をもって数県の人民を瀕死の状態におとしいれた運命は、自分の贈り物を一時にこの男爵の上へ浴びせかけた。例のクルイロフの寓意詩の夕立雲が、からからにかわいた野の上を走り過ぎて、大洋の上にくずれ落ちた、というのにさも似たりではないか。この男がスイスからペテルブルグへ出て来るとほとんど同時に、モスクワにいる母かたの親戚が死にかかっていた(母親というのは、もちろん、商家の出たので)。それは年寄った子供のない商人で、髯むくじゃらな分離派教徒だが、これが正真正銘のりっぱな現金で、何百万という遺産を置き土産にして行こうというのだ(読者諸君、おたがいにあやかりたいものではないか!)この金がそっくり例の忘れがたみ先生のものとなった、この金が、スイスで削綰の療治をしてもらった男爵殿のものになったのだ! すると、早速、まわりの人たちの調子がころりと違って来た。かつてはゲートルばきで、ある有名な美人妾のあとを追っかけようとした男爵のまわりに、とたんに友人や親友がうようよ集まって、親戚と名乗る者さえ出て来た。それに、なによりうらやましいのは名門の令嬢たちが結婚を求めて、山のごとくに慕い寄るという一条である。じつに結構なることどもで、貴族、百万長者、白痴、にうした特質をことごとく一身に具備している花婿は、提灯つけてさがしても見つかるまい、別あつらえでも作れまい……」
「それは……それはいったいなんのことです? わたしにゃさっぱりわからん」とイヴァン将軍は極度の憤慨にがられて叫んだ。
「コーリャ君、よしてください!」公爵は哀願するような声でいった。
 叫び声が四方からおこった。
「読みなさい! どうあっても読まなくちゃなりません!」
 一生懸命に自分をおさえようとするかのさまで、リザヴェータ夫人はこうさえぎった。「公爵、もしあんたが読むのをやめさせれば、わたし喧嘩しますよ」
 いかんともせんすべがないので、コーリャは興奮してわくわくしながら、顔を赤くして、ふるえ声で読みつづけた。「さてわが一夜漬けの大富豪が、いわゆる天にも昇ったような心持ちでいる間に、まったく寝耳に水とでもいうべき一事が出来した。ある日、とつぜんひとりの紳士が彼のもとへ訪れた。この紳士は落ちつき払った厳めしい顔つきをし、服装はあえて流行を追わぬ上品なものであった。慇懃で威厳かあり、しかも道理にかなった言葉には、明らかに進歩的な思想のかげがひらめいていた。紳士はごく手短かに来意を告げた。それによると、この紳士はある有名な弁護士で、ひとりの青年に一事を託され、その代理として訪問したのだ。この青年というのは、別な苗字を名乗ってはいれど、亡きP氏の正真正銘の息子にほかならぬのだ。
「多情なるP氏は若気のあやまちで、正直な貧しい召使の一少女をそそのかしたことがある。召使といってもヨーロッパふうの教育は受けていた(もちろん、農奴制時代の地主さまの威光でできたことだが)。けれども、この関係がたちまちにして例の避くべがらざる結果をもたらしたのを認めると、P氏は娘をさる職人、というよりは、むしろ某処の勤め人に大急ぎで縁づけてしまった。これは生来正直な男で、もうずっと前からその娘に恋していた。はじめのうちは、P氏も新夫婦に扶持をやっていたが、正直な亭主は間もなくその助力を断わった。しばらくたつうち、P氏はだんだんとその娘のことも、その娘に生ませたわが子のことも、とんと忘れてしまって、その後なんらの処置をも取らず亡き人となったのである。
「そうこうしているうちに、その子供は、正当な結婚をした夫妻のあいだに生まれ、夫なる人の寛大な性質のおかげで、本当の息子ということにしてもらって、他姓を名乗って大きくなったのである。とかくするうち、義理ある父はあの世の人となったので、彼は貧しい財産と足の立たぬ病身な母親をかかえて、遠い田舎に取り残された。彼は憤然起って都へ赴き、商人の家の家庭教師となってその日その日の糧を儲け、最初は中学に、やがてある有益なる講義の傍聴生となって、高遠の目的に資したのである。しかし、ロシヤ商人の家庭教師を勤めて、一回十コペイカくらいもらったところで、どれだけの収入があろう。それに、遠い田舎には病身な母親がいて、これも容易に死んで息子の足手まといをとこうとはせぬ。ここで一つの問題というのは、かの忘れがたみ先生は道義上なんと判断すべきであるか? 読者諸君、諸君はもちろん、このにわか分限が次のように独りごちたと考えられるであろう。
『おれは一生涯、P氏からあらゆるものを賦与せられた。教育、家庭教師の招聘、スイスでの白痴療法などのために幾万という金を費やした。ところで、おれはいま数百万の財産の所有者であるのに、P氏の高潔なる息子は、自分では毛頭あずかり知らぬ軽薄にして忘れっぽい父の所行のために、家庭教師などをして飢えに瀕している。おれのために費やされたものの全部は、道義上ことごとくその息子に返さねばならぬ。おれのために浪費されたかの莫大な金高は、じっさいのところおれのものではない。これは単に運命の神の錯誤であって、あの金は当然P氏の息子に属すべきだ。この人のために使用されるべきものだったのだ。それがおれのために費消されたのは、要するに、軽薄にして忘れっぽいP氏の空想的な欲望の所産にすぎない。で、もしおれが非常に高潔でデリケートで正直な男だったら、おれは自分の財産を等分して、この息子にやるのがほんとうだろう、けれども、おれはあまりに打算的な人間だし、それにこの事件があまり法律的でないことが見えすぎるから、財産の半分をやるわけにはゆかぬ。けれど、P氏がおれの白痴に費消してくれた幾万ルーブリかの金すら返さないのは、こりゃまたあまり卑劣で恥しらずというものだ(成金君は「あんまり打算的でなさすぎる」とつけたすのを忘れたのだ)。じっさい、この問題はただ良心と道義の問題だ。もしP氏がおれを引き取って養ってくれず、そのかわりに自分の息子のことを心配したとすれば、おれはそもそもどうなったか?』と。
「ところが、読者諸君よ、大違い! わが忘れがたみ先生は、そんなふうの考えかたをしない。この青年の弁護士は単に友誼のため、進まぬ青年を無理やりに説き伏せて、事件を引き受けたのだが、弁護士が、どんなに名誉、廉潔、道義、さては単なる利害関係からして、彼の果たすべき義務を諄々と説き諭しても、スイスがえりの成金先生は、いっかな耳を傾けようとしない。が、これはまあ仕方がないとしても、ここに一つ、じっさいなんとしても、ゆるすべからざる、またいかなる奇病を楯にとっても許すべからざる事実がある。やっと恩師のゲートルを脱いだばかりの百万長者は、家庭教師の勤めに骨身を削っている高潔な青年が、けっしてなにもお恵みや扶助金をこうているのではなく、ただただ法律的ではないまでも自己の当然の権利を請求している、――いな、自分から請求しているのではなくて、友人たちが彼にかわって奔走しているにすぎないという、きわめて単純な事情さえも会得しないではないか。
「自分の譲り受けた何百万かのおかげで、人からうしろ指さされず弱い者を金で圧しつけることができるようになったのが、嬉しくてたまらぬといったふうな、さもえらそうな顔つきで、成金公爵は五十ルーブリ紙幣を取り出して、傲慢にも贈り物という体裁で心情高潔なる青年に突きつけたのだ。読者諸君、なんとこれがほんとうと思われようか! 諸君はさだめし悩乱憤怒して、憤怒の叫びを挙げられることだろう。けれど、じじつこの成金はそれをあえてしたのだ。むろん、金はすぐに返してしまった。いわゆる、しゃっ面へたたきつけたのである。ああ、いかにこの事件は解決されるだろうか? もちろん、これは法律上の問題で。はないから、残るところただ公衆の批判を仰ぐばかりだ。われわれはこの奇談をおおかた諸賢に訴うるに当たって、その正確を保証するにはばからぬ。うわさによれば、現今名声嘖々たるユーモア作家がこの事件を驚嘆すべき一つの寸鉄詩に作って、自分の意見を発表したそうである。しかも、その詩たるや、単に地方のみならず、都会新聞の風俗欄において、顕著なる位置を占むべき価値があるとのことである。左に紹介する。

  『レフはシナイデルの外套を
  五年のあいだおもちゃにし
  月なみしごくな紋切り型で
暇をつぶしていたりけり
窮屈そうなゲートルで
帰ればすぐに百万の
金が手に入る嬉しさに
ロシヤ語で祈りは上げたれど
貧乏書生の金ぬすむ』」
 *原注=忘れがたみの君の名 **原注=スイスの医者の名

 コーリャは読み終わるやいなや、大急ぎで新聞を公爵に波して、ひとことも口をきかずに片隅へ走って行き、ぴたりと壁に身を押しつけ、両手で顔を隠した。まだ世の中のけがれになれない、子供らしく感じやすい彼の心は、過度にかき乱されたのである。彼はなにかしら恐ろしい、いっさいのものを転倒してしまうようなことがおこったのを感じ、しかもいま自分が声高にこの記事を朗読しただけで、りっぱに自分がその事件の原因を構成したもののように思われた。
 しかし、一座の人もことごとく、それに似通った気持ちを感じたらしかった。
 令嬢たちはおそろしくばつの悪い、恥ずかしい思いをした。リザヴェータ夫人は心中の激しい憤怒をおさえつけながら、同じくこんな事件に口を入れたのを、ひどく後悔している様子であった。もう彼女はかたく口をつぐんでしまった。公爵はどうかというに、あまり遠慮ぶかすぎる人がこうした場合に経験すると同じ感じを味わわされた。他人の行動、若い客人たちのふるまいを、わがことのように深く恥じ入った彼は、最初その人たちの顔を見るのさえ恐ろしかった。プチツィーン、ヴァーリャ、ガーニャ、おまけにレーベジェフまでが、なんとなくとほうにくれたような顔つきをしていた。が、なにより不思議なことに、イッポポリートと『パヴリーシチェフの息子』さえも同様に、なにかびっくりしたように見受けられたし、それにレーベジェフの甥もなにやら不満げな風つきであった。ただひとり拳闘の先生だけは、鹿爪らしい顔をして髭などひねりながら、落ちつき払って構えこんでいた。いくぶん伏目がちにしているのも、けっしてきまりが悪いからではなく、味方の大勝利があまりに見えすいているので、敵を気の毒に思う上品な慎しみのためらしかった。この記事がおそろしく彼の気に入ったことは、万事につけてありありと見えている。
「これはまあ、いったいなんというこった」とイヴァン将軍は低い声でぶつぶついいだした。「まるで下司なボーイ連が五十人も集まって、いっしょに作ったような文章だ」
「閣下、失礼ですが、ちょっとうかがいます。あなたはそんな想像をたくましゅうして、ぼくらを侮辱しようとなさるんですね」こうきいたイッポリートは、体じゅうぴりぴりふるわした。
「それは、それは品位ある紳士のご身分として……ね、そうじゃありませんか、将軍、かりにも品位ある紳士の言として、あんまり無礼じゃないですか!」となぜか同様に身震いして、口髭をひねり上げたり、両肩から胴体までぴくぴく動かしながら、拳闘の先生はうなるようにいいだした。
「だいいち、わたしはきみがたに閣下などといわれる覚えがない。また第二に、わたしはきみがたに一言たりとも弁明の労をとろうと思わん」おそろしく激昂したイヴァン将軍は、ぶっきらぽうにこう答えて席を立ち、一語も発せず露台の出口のところまで身をひくと、一同に背を向けて階段の一番上に立ちどまった。彼はリザヴェータ夫人が座を動こうともしないのを、たまらなく腹立たしく思った。
「皆さん、皆さん、どうぞいいかげんにして、ぼくにひと口いわしてください」胸の憂悶と擾乱を声に響かせつつ公爵が叫んだ。「そして、お願いですから、おたがいにとっくり了解し合うことができるように、話をしようじゃありませんか。皆さん、あの新聞記事のことについては、ぼく平気です、かまいません。ですが、あの中に書いてあることは、すっかりでたらめです。ぼくは、皆さんもそのことをよくご承知だからこういうのです。まったく恥ずかしいくらいじゃありませんか。こういうわけですから、もし万一この文章を、皆さんのうちどなたかがお書きになったとしたら、ぼくはただ驚くほかありません」
「ぼくはたった今のいままで、この記事のことを知らなかったのです」とイッポリートは明言した。「ぼくもこの記事には感服できません」
「わっしゃ書いたのは知っていましたがね、しかし……やはり印刷するということには賛成したくなかったですよ、まだ時期が来ないからなあ」とレーベジェフの甥はつけ足した。
「ぼくは知っていました。けれどもぼくには権利があります……ぼくは……」と『パヴリーシチェフの息子』は早口にいいだした。
「え! じゃ、これはすっかりきみが自分で作ったのですか」と公爵は好奇の色を浮かべながら、ブルドーフスキイを見つめた。「まさか、そんなことが!」
「しかし、あなたはそんなことをきく権利があるんですかね?」とレーベジェフの甥が割りこんだ。
「だって、じっさいおどろかずにいられないじゃありませんか、ブルドーフスキイ君がこんな思いきった……いや……その、ぼくのいいたいのは、あなたがたがこの事件をこうして世論に訴えられた以上、さっきぼくが友人がたの前でそのことをいいだしたとき、なんだってあんなに腹をお立てになったのです?」
「そこですよ!」とリザヴェータ夫人はいまいましそうに叫んだ。
「もし、公爵、しっかりしてくださいまし」もうたまりかねたレーベジェフは、まるで熱にでも浮かされたような調子でこういいながら、いすのあいだを縫って前へ出た。「お忘れなすっちゃいけませんよ、あいつらをここへ通して、言い分を聴いておやりになっただけでも、やつらには過ぎた好意だったのです。なんの、あいつらに権利なぞあってたまるもんですか。まして、この事件をガヴリーラさんにすっかり委任なすったとおっしゃいましたが、そうしてみれば、なおさらもって不都合なことです。それだって、公爵さまがなみなみならんおなさけでそうしてくだすったのだと、ありがたく思わなけりゃならんはずだのに。さあ、公爵さま、せっかくりっぱなお客さまがたがいらっしゃいましたのに、こんな連中のために時間をおつぶしなさるという法はありません。こんな連中はどしどし玄関口からつまみ出したらいいじゃありませんか。わたくしは亭主役にひとつよろこんで……」
「まったくそうだよ!」と家の奥のほうからイヴォルギン将軍の声が響きわたった。
「レーベジェフさん、たくさんですよ、たくさんですよ……」と公爵がいいだしたが、憤懣の声が破裂するようにおこり、彼の言葉をもみ消してしまった。
「いや、公爵、失礼ですが、今はけっしてたくさんどころの騒ぎじゃありませんぜ」ほとんど一同の声を圧倒するくらいな高調子で、レーベジェフの甥がどなった。「このさい、大いに事件をはっきりと、そしてしっかりと確定する必要がある。どうも合点がまいらないようですからね。まったくこの事件には、法律的に引っかかるところがあるもんだから、そこをつけこんで、わっしたちを玄関口からたたき出そうというんですね! 公爵、あなたはいったい、この事件がぜんぜん非法律的で、もし法律的にせんさくしたら、われわれは一ルーブリたりとも、あなたから請求する権利がない、というくらいなことがわからないような間抜けだと考えてるんですか? はばかりながら心得てまさあ。けれどもね、よしんば法律上の権利はないにしてからが、そのかわりにゃ人道的、自然的な権利を持ってますよ、常識の権利、良心の声があるんでさ。こうしたわれわれの権利は、人間のこしらえたけがらわしい法典なんかにゃ、けっして載ってはいますまいよ。しかし、清廉潔白な人士、言葉をかえていえば、つまり常識ある人士は、法令に書いてないような点においても、つねに清廉潔白たるべき義務があります。わっしたちが玄関口からつまみ出される(あなたは今こういっておどかしなすった)のも恐れず、また、こんなに遅くお訪ねするのは重々失礼だと知りながら(もっとも、わっしたちは、そう遅く来たわけじゃないんですがね、あなたがボーイ部屋へお待たせなすったんですよ)、わざわざこちらへやって来たのは、ただわれわれが無心などしてるのじゃなくって、要求すべきものを要求しているのだ[#「無心などしてるのじゃなくって、要求すべきものを要求しているのだ」に傍点]と思うからです。くどいようですが、わっしたちが何ものも恐れずにやって来たのは、あなたを常識のある人、すなわち良心と廉恥のある人だと敬うからこそですよ。じっさいわっしたちはさっき、居候か無心者みたいに、びくびくもので入っては来なかった、自由不羈の人間として昂然と入って来ました。けっしてけっして無心なんかに来やしませんよ、誇りに満ちた自由な要求を持って来たんです(ようござんすか、無心じゃなくて要求に来たんですぜ、よく頭の中へたたきこんでください!)われわれは品位ある人間として、あなたに手づめの問題を提出します。あなたはこのブルドーフスキイの件について自分を正当と思いますか、不正と思いますか?・ あなたは自分がパヴリーシチェフ氏に恩を受けた、いや、あるいは死ぬところを助けてもらったことを認めますか?・ もし認めるとすればですね(わかりきったことですが)、あなたがすでに巨万の富を得た今日、貧困に苦しんでるパヴリーシチェフ氏の子息に(目下ブルドーフスキイと名乗ってはいるけれど)、故人の恩に報いようというお考えですか、いや、良心に照らして、そうするのを正当とお思いですか? 諾か否か? もし諾[#「諾」に傍点]ならば、つまり、あなたがたの言葉で名誉とか良心とかいい、わっしたちが、もういっそう正確な『常識』なる名称によっていい表わすものが、あなたの心中にあるならばですね、すぐわれわれの要求をおいれなさい、それでけりがついちまいまさあ。しかし、いれなすったからって、わっしたちはなにも強いてお願いするんじゃないから、べつにお礼なんかいいませんぜ。そんなものをあてにしてもらっちや困りますよ。なぜって、あなたがそうするのは、けっしてわっしたちのためじゃなくって、正義のためですからね。もしあなたがわれわれの要求をいれぬとおっしゃれば、つまり否[#「否」に傍点]とおっしゃればですね、われわれはすぐに帰ります、それでこの事件もおしまいでさあ。しかし、われわれはあなたの友人がたがおいでの目の前で、あなたのことを頭脳の粗笨《そほん》な、発達の低級な人だといいますぜ。そしたら、今後あなたは、廉恥あり良心ある人間と名乗るわけにいきませんよ、そんな権利はありませんよ。この権利を安あがりで手に入れようたって、そうは問屋がおろしませんさ。わっしのいい分はこれっきりです。問題はこれで確定しました。もし元気があれば、玄関口から追ん出しなさい。しようと思えば、それくらいのことできますよ、あなたは権利を持ってます。ですが、いずれにしても覚えててください、わっしたちは要求するので、無心とは違いますぜ。要求するんです、無心じゃありません」 レーベジェフの甥はすっかりのぼせあがって、こう言葉を結んだ。
「要求するんです、要求するんです。要求するんです。無心じゃありません……」ブルドーフスキイはまわらぬ舌を動かして叫び、蝦のように真っ赤になった。 レーベジェフの甥が気焔を吐き終わったとき、一座の人々はなんとなく色めきわたって、中には憤慨の語気をもらす者さえあった。しかし一同はそれでもやはり、かかり合いになるのを避けようとしているらしかったが、レーベジェフだけは例外で、彼はまるで熱にでも浮かされているようであった。(不思議なことに、レーベジェフは、疑いもなく公爵に味方しているにもかかわらず、いま甥の演説を聞いて、なんとなくこんな場合に身内の人がよくいだくような、一種の誇りがましい満足を味わった。たとえそうでないまでも、すくなくとも、なみなみならぬ満足らしい顔つきで、一同を見まわしたのである)。
「ドクトレンコ君」と公爵はかなり穏かな調子で言いだした。「ぼくの考えでは、きみのいまいわれたことは、半分くらいぜんぜん事実です、いや、大半事実だといってもいいくらいです。で、もしきみのお言葉になにか抜けたとこがなかったら、ぼくはまったくきみと同意見なのでした。しかし、いったい何が抜けていたかときかれたら、ぼくも的確にそれをいい表わすことができません。しかし、ぜんぜん真実だと言うには、きみの言葉にはもちろん、なにか不十分なところがある。が、いっそてっとり早く仕事にかかりましょう。ひとつ皆さんにおたずねしたいのは、なぜこんな記事を新聞に載せたんです。だって、この中の一語一語みんな罵詈讒謗じゃありませんか。ぼくに言わせれば、あなたがたのやりかたは、はなはだ陋劣です」
「ちょっとお待ちなさい……」
「あなた!………」
「それは……それは……それは……」などという声が、激昂した若い客人たちの間からいっせいにおこった。
「その記事のことなら」と、イッポリートが甲高い声で口を入れた、「その記事のことなら、ぼくもほかの連中もけっして賛成しないって、もうさっき申しあげたじゃありませんか。それを書いたのは、ほら、この男です(と彼はならんですわっている拳闘家を指さした)。書きかたはいかにも無作法千万です。この男と同じ退職士官の使いそうな文句をいっぱいいれて、いかにも無学らしい書きかたです。この男がばかのうえに職人根性だってことは、ぼくも異存ありません、それは毎日むきつけにいってやることです。が、それにしても、やはりこの男にもいくぶんの権利はあります。公開ということは法によって認可された各人の、したがってブルドーフスキイの権利です。また愚にもつかんことを書き立てたのは、この男が自分で責任を負いましょうよ。それから、ぼくがさっき一同を代表して、あなたの友人がたの同席を拒んだ件に関しては、ぜひとも皆さんがたに申し開きしなけりゃなりません。ぼくが抗議を申しこんだのは、単にわれわれの権利を主張するためにすぎなかったのです。じっさいをいえば、われわれはむしろ立会人のあるほうを望みます。それはまだここへ入る前から、皆で決めたんです。あなたの立会人がだれであろうと、よしや友人であろうと、かならずやブルドーフスキイの権利を認めないわけに行かんでしょうからね(じじつ、それは数学的に明瞭なんですもの)。その立会人があなたの友人だとすれば、なおさら結構です。事実の真相がますますあきらかになるわけですからなあ」
「ほんとうですよ、わっしたちは、そう決めてたんでさあ」とレーベジェフの甥は念を押すようにいった。
「じゃ、なんだってさっき口をきるかきらぬうちに、ああどなったり騷いだりしたんです、そうきめてやったのなら!」と公爵はあきれてきいた。
「公爵、あの記事のことですな」と拳闘の先生が割って入った。見受けたところ、さきほどからひと言なかるべからずとむずむずしていたらしく、元気のいい愉快そうな訓子であった(それは婦人たちの同席がだいぶきいたのではないかとも疑われた)。「あの記事はじつのところ、わが輩が作者です。イッポリートは今あれをくそみそに罵倒したですが、なに、わが輩はあの男が病気で衰弱しきってる事情を酌量して、なんといっても黙許してやることに決めてるです。しかし、わが輩はこの文章を自分で作って、莫逆《ばくぎゃく》の友のやってる雑誌に通信という体裁で掲載しました。ただ詩だけはじっさいわが輩の作じゃなくって、ある有名なユーモア作家の筆にかかるものです。プルドーフスキイにはたった一度通読して聞かせ
たが、それも全部じゃありません。そして、すぐに掲載の同意を得たんです。ただし、ちょっとご承知を願いたいのは、たとえ同意がなくたって、わが輩は掲載を断行する決心でいたです。公開ということは一般に認められたりっぱな高尚な権利です。ねがわくば公爵ご自身も進歩的な人であって、この事実を否定しないでいただきたいものですな」
「ぼくなんにも否定などしやしません。けれど、考えてもごらんなさい、あなたの文章は……」
「猛烈だとおっしゃるんですか? だが、あの文章は、いわゆる社会の利益ということを眼目にして書いたもんだから、こういう機会を逸するわけにいかないじゃありませんか?もちろん、それは悪いことをした当人にとっては、大いに都合がわるいに相違ないが、社会の利益ということがまず第一ですからなあ。またあの記事の中にある若干の誤謬、といっても一種の誇張法にすぎんですが、あれはつまり、当然ながら、一文の動機たる主旨目的に重きをおいたからです。大切なのはその公明正大なる態度にあるんだから、瑣末な枝葉の点はあとでゆっくり調べたらいいです。それに、いま一つ文章の調子というものがあるし、また、なんといったらいいか、諧謔という別途な目的もあるし、それに――、だれでも皆あんなふうに書くじゃありませんか、ねえ、そうでしょう! はは!」
「しかし、その方法がぜんぜんまちがっていますよ! 皆さん、ぼくは誓って申します」と公爵は声を励ました。「あなたがたは、ぼくがどうあってもブルドーフスキイ君の要求を
いれぬものとして、あの記事を掲載されたのです。つまり、それでもってぼくをおどかして、腹いせしようがためなんです。しかし、何を根拠としてそんなことを決めました? もしかしたら、ぼくはブルドーフスキイ君の要求をいれようと、とっくに決心してるかもしれないじゃありませんか。いや、今こそばくは皆さんの前で宣告しますが、ぼくはじっさいそうするつもりです……」
「ああ、それでこそ、もののわかった潔白な人の言葉です。潔白なもののわかった言葉です!」と拳闘の先生が歓呼の声を上げた。
「まあ、なんという!」とリザヴェータ夫人が覚えず叫んだ。
「もうお話にならん!」とイヴァン将軍はつぶやいた。
「お静かに、皆さん、お静かに、ぼくがことの顯末をお話ししますから」と公爵は哀願するように言った。「五週間ぽかりまえ、ぼくがZにいる時、チェバーロフというブルドーフスキイ君の代人がやって来ました。ケルレル君、きみはたいへんひいき目にあの男の描写をなすったが」ふいに笑いだしながら、公爵は拳闘の先生に向かっていった。「しかし、ぼくはまったくあの男がいやでした。ひと目見たばかりで、このチェバーロフが事件の張本人で、それに、少々ぶしつけないいかたですが、この男がブルドーフスキイ君の正直なのを利用して、こんな事件をはじめるように知恵をつけたのかもしれない、とこう見てとりました」 「あなたはそんなことを口にする権利はありません……ぼくは正直じゃない……それは……」とブルドーフスキイは興奮して、どもりどもりいいだした。
「あなたにそんな臆測をする権利はすこしもありませんよ」とレーベジェフの甥が諭《さと》すような調子でくちばしをいれた。
「これはじつに無礼きわまる!」とイッポリートが黄いろい声で叫んだ。「じつに無礼な、見当ちがいな臆測だ」
「ごめんなさい、皆さん、ごめんなさい」と公爵はあわててわびをした。「どうぞおゆるしください。これは、ただおたがいにすっかり胸襟を開いてしまったほうがよくないかと思ったから、いってみたまでのことです。しかし、どうともご随意に。で、ぼくはチェバーロフに向かって、自分はこのとおりいまペテルブルグの町にいないのだから、さっそく友達に頼んでこの事件を処理してもらいましょう、といったのです。で、ブルドーフスキイ君、その結果は今お知らせしますよ。うち明けたところを申しますとね、皆さん、ぼくはこの事がひどく詐欺じみたものに思われたのです。なぜなら、そのときチェバーロフが……ああ、そうご立腹じゃ困りますよ、皆さん、後生だから腹を立てないでください!」と公爵はびっくりして叫んだ。またしてもブルドーフスキイが憤懣の色を示し、仲間の人たちも気色ばんでがやがや騒ぎだしたのである。「ぼくがこの事件を詐欺じみてるといったからって、なにも皆さんに直接の関係はないじゃありませんか!まったくそのときぼくは皆さんのうちどなたにも、親しくお目にかかったことはなく、おまけに名前すら知らなかったんですものね。ぼくはただチェバーロフひとりについて判断したんですよ。ぼくのいうのは一般的なことなんです。というわけは、皆さんご承知ないかもしれませんが、あの遺産を譲り受けてからというもの、ぼくはずいぶん人からだまされました!」
「公爵、あなたはおそろしく正直ですね」とレーベジェフの甥は注意した。
「それでいて、公爵で百万長者だとさ! ねえ、公爵、あなたは、ほんとうに善良で正直な心を持っておいでかもしれませんがやはり、万人共通の法則を免れることは、むろんできませんよ」とイッポリートは宣告するように言った。
「かもしれません、大きにそうかもしれません」と公爵はせきこんで、「もっとも、きみのおっしゃる万人共通の法則とは、はたしてどんなものか、よくわからないですがね。しかし、つづけてさきを申します。ただし、つまらんことに腹を立てないでください。誓って申しますが、ぼくは微塵もあなたがたを侮辱しようなんて気はないんですからね。ですが、皆さんはまあいったいどうしたというのでしょう。あなたがたは、ひと口でもほんとうのことをいおうもんなら、すぐ腹をお立てになるんですもの! ところで、まず第一に、ぼくが驚いたのは、『パヴリーシチェフ氏の息子』なるものが存在しているということ、しかも、チェバーロフの言によると、いやはや、恐ろしい境遇で存在しているということです。パヴリーシチェフ氏はぼくの恩人であり、ぼくの父の友人であります(ああ、ケルレル君、きみはあの記事の中でひどいでたらめを書きましたね、ぼくの父のことで! 中隊の仝を費いこんだとか、部下の者を凌辱したとか、そんなことはけっしてありません。それはぼくうけ合います。よくまあ、あんな中傷を平気で書く気になりましたね!)。それもいいとして、パヴリーシチェフ氏に関するきみの記事にいたっては、じつに言語道断です。きみはあの高潔無比な人を、淫乱な軽薄漢にしてしまいましたね。しかも、きみはまるで正真正銘の真実でも語るように、思いきって大胆な、思いきって独断的な書きかたをしましたね。ところが、この人は世にも珍しい純潔なかたでした。そして、りっぱな学者でした。この人は、科学界における多くの尊敬すべき人たちのために通信員の役をつとめ、科学奨励のために莫大な金を投じたのです。またその情愛や善行にいたっては、ぜんぜんきみの書かれたとおりです。ぼくはそのころ、ほとんど白痴同様で、なんにもわからなかった(もっとも、そうは言うものの、ロシヤ語は自分で話すこともでき、人の言うのを聞きわけることくらいはできましたがね)。しかし、いま思いおこすことの数々は、ちゃんと評価することができます……」
「ちょっと失礼ですが」とイッポリートは甲高い声で、「あなたのおっしゃることは、あんまりセンチメンタルすぎはしないでしょうか。ぼくらは子供じゃありませんからね。あなたはてっとり早く事件にかかるとおっしゃいましたよ。もう九時すぎですよ、それをご承知ねがいます」
「失礼、失礼」と公爵はさっそく同意した。「最初ちょっと疑ってもみましたが、いやいや、自分だって思い違いをしたいともかぎらん、パヴリーシチェフ氏にはまったく息子さんがあったかもしれぬ、とこう考え直しました。しかし、どら