『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP289-336

あ、思ったとおりだ。今になってぼくの推察の正しかったことが、やっとこの目に見えて来た」公爵は相手の興奮を静めようと熱中して諄々と説いたが、かえってそれが興奮をかき立てるばかりなのに気づかなかった。
「なんですって? 何が見えて来たんです?」と人々はかみつかんばかりの勢いで、彼のほうへ詰め寄った。
「まあ、待ってください。第一に、ぼくは自分でよくブルドーフスキイ君の人物を観察したのです。もう今こそばくは同君の人となりがはっきりとわかりました……同君は無邪気な人ですが、いつも人にだまされてばかりいます! それに、ブルドーフスキイ君は寄るべのない身の上です……だからぼくは同君を許さねばなりません。ところで、第二に、ガヴリーラさんが、――この事件はガヴリーラさんに委任しておいたんですが、ぼくはしじゅう旅行してたうえに、ペテルブルグで三日ほど病気したので、だいぶ前から報告に接しなかったんですが、――いま一時間ばかり前に、思いもかけずガヴリーラさんが、ぼくの顔を見るとすぐ、自分はチェバーロフの奸計をすっかり見破った、それには歴とした証拠がある、と知らせてくだすったのです。聞いてみると、チェバーロフは甘くの想像したとおりの人でした。みんながぼくのことを白痴だといっているのは、ぼくは自分でようっく承知しています。で、ぼくが気軽に金をやるといううわさを聞きかじったチェバーロフは、ぼくをだますのはわけのないことだ、それに故人パヴリーシチェフ氏に対するぼくの感謝の情を利用することもできる、とこんなふうに考えたんです。しかし、これは余談です、――まあ、皆さんしまいまで聞いてください、しまいまで――じつはいま思いがけなく、ブルドーフスキイ君がけっしてパヴリーシチェフ氏の息子さんでないことがわかったのです! たった今ガヴリーラさんがぼくにそういって、確かな証拠が手に入ったと断言されました。皆さん、いったいなんとお思いです。今までいったりしなすったことに対しても、まったくほんとにはできないじゃありませんか! え、確かな証拠があるんだそうですよ! ぼくはまだほんとうになりません、自分でもほんとうになりません、まったくです。ガヴリーラ君はまだ詳しいことをすっかり話されませんから、ぼくもいくぶんうたがっています。けれど、チェバーロフがいかもの師なのは、もはや疑いの余地がありません。この男は、気の毒なブルドーフスキイ君も、こうして友達を助けに堂々とおいでになった皆さんも(じっさい、ブルドーフスキイ君はいまだれかの扶助を要するからだです、それはよくぼくにもわかります!)すっかり口先で丸めこんで、こんな詐欺的行為にまきこんでしまったのです。だって、じっさいこれは奸計じゃありませんか、詐欺じゃありませんか!」
「なぜ詐欺です!………なぜ『パヴリーシチェフ氏の息子』でないんです!………どうしてそんなわけがあります」と口々に叫びだした。
 ブルドーフスキイの一行は名状しがたい惑乱におちいった。「ええ、もちろん詐欺です! だって、もし今ブルドーフスキイ君が『パヴリーシチェフ氏の息子』さんでないことがわかったら、この場合、同君の要求は明白な詐欺的行為じゃありませんか。(ただし、これはむろん同君がほんとうの事情を知ってると仮定してですよ!)しかし、そこがかんじんなとこで、つまりブルドーフスキイ君はだまされたんです。だから、ぼくもこうして同君の弁護をしようとあせってるのです。同君の正直な性質は同情に価します。同君は扶助なしにやっていけないというのは、ここのことです。こう解釈しなかったらブルドーフスキイ君はこの事件でかたりになってしまいます。だから、ぼくは同君が何も知らないのだと、とっくから確信しています! ぼくもやはりスイスへ行くまでは、あれと同じような状態でした。あんなふうに取りとめのない言葉をどもりどもり話したり、なんかいおうと思ってもいえなかったり……そうしたふうの心持ちはよくわかります。ぼくはたいへん同情します、なぜって、ぼく自身ほとんどああいうふうだったんですから、こういう口をきく権利を持ってるんです。しかし、ぼくはやはり、――すでに『パヴリーシチェフ氏の息子』なるものもなく、このいっさいの事件がごまかしだとわかったにもかかわらず、ぼくは依然決心を変えないで、パヴリーシチェフ氏に対する記念として、一万ルーブリを返済するつもりです。ぼくはこの事件のもちあがるまで、パヴリーシチェフ氏の記念に一万ルーブリの金を学校事業に使用するつもりだったのですが、今となっては学校事業に費やすのも、ブルドーフスキイ君にお返しするのも、道理において違いはありません。じっさいブルドーフスキイ君は、たとえ『パヴリーシチェフ氏の息子』さんでなくとも、ほとんどそれと同じようなものです。なぜなら、同君自身もむごたらしく欺かれた人だからです。同君は真底から自分をパヴリーシチェフ氏の息子だと思っていられたんです! 皆さん、これからガヴリーラ君の話を聞いてください、そして、この事件をおしまいにしましょう。立皈なすっちゃいけません、そう、激昂なさるもんじゃありません、まあ、すわってください! ガヴリーラさんが今すぐに委細説明してくださいます。じつのところ、ぼくもたいへん一部始終の話を聞きたいんです。それでね、ブルドーフスキイ君、ガヴリーラさんはわざわざプスコフヘきみのおかあさんに会いに行かれたんですが、きみが心にもなくあの記事に書かれたように、おかあさんはけっして死ぬような病気などにかかっちゃいられないそうですよ……吻ゝ、皆さん、すわってください、すわってください!」
 公爵は腰をおろし、またしても席から飛びあがろうとするブルドーフスキイの連中を、やっとのことでもとの座に着かした。終わりの十分か二十分のあいだ、彼はまるで夢中になってしまって、ほかの人たちを圧倒しようとでもするような大きな声で、早口にじれったそうにしゃべったが、もちろん今では、不用意に口をすべらした二、三の言葉や臆測を、おそろしく後悔しなければならなかった。熱中して相手をかっとさせなかったら、もし彼があれほどまで露骨に性急にああした当て推量や、いわでもの無遠慮な言頻を、口に出すはずではなかったのだ。席につくやいなや、焼けつくような悔悟の念が痛いほど彼の胸を刺した。自分がスイスで治療してもらったと同じ病気を明からさまに擬して、ブルドーフスキイを侮辱した罪はしばらくおいても、――なおそのほか学校事業に使用するはずの一万ルーブリを提供したそのやり口が、どうもあまりに粗暴で不用意で、まるで贈り物のようになってしまったようだ。おまけに、多くの人の前で大声にしゃべってしまったではないか!『あすまで待ってふたりきりのときにいいだすべきところだった』と公爵はとっさの間に考えついた。『しかし、もうおそらくだめだろう! ほんとうにおれはばかだ、正札つきのばか者だ!』おそろしい羞恥と悲痛の発作にうたれて、彼は心の中でこう決めた。
 とかくしているうちに、今までわきのほうに控えて、かたくなに沈黙を守っていたガーニャが、公爵の招きに応じて歩み出た。彼のかたわらに立ちどまると、公爵から依頼された事件に関する報告を、静かにはっきりと述べにかかった。騒がしかった話し声はとたんに消えてしまった。一同、特にブルドーフスキイの連中は、なみなみならぬ好奇心をもって耳を傾けたのである。

      9

「きみはもちろん」とガーニャはいきなりブルドーフスキイに向かってきり出した。ブルドーフスキイはびっくりし、目を丸くして、彼を見つめながら、いっしょうけんめいそのいうことに耳を傾けていたが、ひどく狼狽しているさまはありありと読まれた。「きみはもちろん次の事実を否定なさらんでしょうね。いや、むしろ否定するのをいさぎよしとなさらんでしょうね。というのは、ほかでもないですが、きみのおかあさんが八等官ブルドーフスキイ氏すなわちきみのおとうさんと正式の結婚をなすってから、ちょうど二年たったのちにきみが生まれ落ちたという事実です。きみの生年月日を実際的に証明するのは簡単なことですから、あのきみにとっても、またきみのおかあさんにとっても非常な侮辱に当たる新聞記事中の勝手な事実改変は、単にケルレル君一個の空想が、あまりわるふざけにおちいったためとでもしなければ、説明のしようがありません。同君はそうすることによって、なおいっそうきみの権利を明瞭ならしめ、きみの利益を増すことができると考えたのでしょう。ケルレル君の説によれば、同君はあらかじめこの記事をきみに読んで聞かしたが、それも全部ではなかったとのことでした……してみると、疑いもなく、同君の読んで聞かされたのは、この辺にまで及ばなかったに相違ありません……」
「まったく及ばなかったんです」と拳闘の先生がさえぎった。「しかし、事実の全部はある確かな人がわが輩に伝えてくれたんですよ。で、わが輩は……」
「ケルレル君、失礼ですが」とガーニャは押しとどめた。「ぼくに言わしてください。大丈夫、いまにきみの文章にも及びますから、そのとき説明してください。今は順序を追って報告をつづけたほうがいいでしょう。まったく偶然のことからして、妹のヴァルヴァーラ・プチーツィナの助力で、わたしは故人パヴリーシチェフ氏の手紙を手に入れました。それは二十四年前、故人が外国からヴェーラーアレクセエヴナーズブコーヴァという、妹といたって仲のよい未亡人の地主にあてたものです。ズブコーヴァさんと近づきになってから、わたしはこの人に教えられて、退職大佐のチモフェーイ・ヴャーゾフキンという、故人とは遠縁に当たるうえに、一時莫逆の友たった人のところへ出かけました。この人のおかげで、同じく外国からよこしたパヴリーシチェフ氏の手紙が、二通手に入りました。この三通の手紙、その日付、その中に書いてある事実によって、パヴリーシチェフ氏がブルドーフスキイ君の誕生一年半以前に外国へ向けて出発し、そのままずっと三年間滞在したことが、数学的に証明されます。これはけっして否定はおろか、疑念をさし挟むことさえできぬ確かな事実です。ブルドーフスキイ君、ご承知のとおり、きみのおかあさんは一度もロシヤから外へ出られたことはありません。たださしあたり、わたしはこの手紙を読むのはやめておきます。もうだいぶ遅いですから、とにかく、わたしは事実だけを発表したのです。もしお望みなら、あすの朝でもお目にかかりますから、いくたりでもよろしいから立会人なり、筆蹟鑑定の専門家なりお連れなすってください。ただわたしのいま報告したことが明々白々たる真実であることを、確信なさらぬわけに行かないのは、疑うまでもありません。もしそうだとすれば、もちろんこの事件はこれで瓦解して、自然消滅になったわけです」 ふたたび一座はざわめき立って、深い動揺がこれにつづいた。本人のブルドーフスキイはっと立ちあがりいすを離れた。
「もしそうだとすれば、ぼくはだまされたんだ、だまされたんです。けれど、それもチェバーロフにだまされたのじゃなくって、ずっとずっと以前からです。専門家も面会もいやです。ぼくはあなたを信用するからいっさい断念します……一万ルーブリもごめんこうむります……さようなら……」
 彼は帽子を取ると、いすを押しのけて出て行こうとした。
「ブルドーフスキイ君、もしおさしつかえがなかったら」とガーニャは静かにもの柔らかく呼びとめた。「たった五分間でよろしいからお待ちを願います。この事件に関連してなかなか重大な、しかもきみにとっていずれにしても非常に興味ある事実が、二つ三つ出て来たのです。わたしの考えでは、きみもぜひそれを知っておかぬわけにいきますまい。それに、きみだって、事件がすっかり明白になったら、きっと愉快に相違ないと思います……」
 ブルドーフスキイは深くもの思いに沈んだ様子で、やや頭《こうべ》を垂れたまま黙って席に着いた。レーベジェフの甥もいっしょに出ようとして立ちあがったが、これもブルドーフスキイにつづいて元の座に直った。この男はまだなかなかとほうにくれるなどということはないが、それでもずいぶん俗気を抜かれた様子である。イッポリートは眉をひそめて、浮かぬ顔をしていたが、これもかなりびっくりしたらしい。けれども、ちょうどその瞬間に彼は激しくせき入って、自分のハンカチを血ですっかりよごしてしまった。拳闘の先生は仰天せんばかりであった。
「そら見ろ、ブルドーフスキイ!」と彼はいまいましげに叫んだ、「だからあのとき……おとといわが輩がいったじゃないか。ひょっとしたら、貴公はほんとうにパヴリーシチェフの息子じゃないかもしれんぞって!」
 このとき、おしこらえたような笑い声がおこったが、中に二、三人、ひときわ高い声で吹きだしたものがある。
「ケルレル君、きみの今いわれた事実は」とガーリャはすかさず取っておさえた。「なかなか値うちのあるものでしたよ。が、とにかく、わたしはきわめて正確な材料をもととして、りっぱにこういいきることができます。ブルドーフスキイ君は自分の生年月日をようくわかっていられたのだけれど、パヴリーシチェフ氏がそのころ外国へ行ってたことはごぞんじなかったのです。故人は生涯の大半を外国に過ごして、ただわずかのあいだだけしかロシヤヘ帰られなかったそうです。そのうえ当時の旅行は、特に二十年以上も経った今日まで記憶しておくほど、いちじるしい特殊な事実でもなかったので、パヴリーシチェフ氏とごくごく親しかった人たちでさえ、うろ覚えなくらいですから、まして当時生まれてもいなかったブルドーフスキイ君はなおさらです。もちろん、調査するのは不可能なことでもありません。しかし、白状しますが、わたしの手に入れた資料は、じつに偶然なことで発見したので、あるいは手に入らないほうが勝ちだったかもしれません。こんなわけですから、ブルドーフスキイ君のみならず、たとえチェバーロフがこの資料を手に入れようと考えたにしろ、それは絶対に不可能だったでしょう。もっとも、そんなことを考えもされなかったかもしれませんがね……」
「失礼ですが、イヴォルギンさん」ふいにイッポリートがいらいらした調子でさえぎった。「いったいなんのためにそんなくだらんことばかりおっしゃるんです(いいすぎたらごめんなさい)。事件はもう明白になって、だいたいのお説はぼくらも信じているのに、なんだってそんな重っ苦しい失礼な無駄口を、だらだら引き延ばそうとなさるんです! おおかたあなたは自分の探偵の手際を自慢なさりたいんでしょう。おれはりっぱな検事だろう、刑事だろうといって、ぼくらや公爵の前でひけらかしたいんでしょう。それともあるいは、ブルドーフスキイがこの事件に関連したのは、何も知らなかったせいだといって、彼のために弁護や謝罪の役目を引き受けてやろうというおつもりなんですか? しかし、それはあまり生意気ですよ、あなた! ブルドーフスキイがあなたの弁護や謝罪など求めていないのは、とっくにご承知のことだと思っていました! それでなくってさえ、ブルドーフスキイはくやしがってるんですよ、いま苦しい間の悪い位置にあるんですよ、あなたはそれを察して、了解してやるのがほんとうじゃありませんか……」
「たくさんですよ、イッポリート君、たくさんですよ」とガーニャはやっとすきを見て、口を入れた。「まあ気を落ちつけなさい、かんしゃくをおこしちゃいけません、きみはたいそう具合が悪いそうじゃありませんか。まったく同情しますよ。で、そういうわけなら、わたしもこれでおしまいにしましょう。つまり、わたしの信ずるところでは、皆さんが十分ご承知になったって、けっして無益ではなかろうと思う二、三の事実を、ごくてっとり早く報告することにしましょう」一座の人々が皆じれったいといったふうに、いくぶんざわざわしはじめたのを見て取って、彼はこういい足した。「わたしはこの事件に興味をいだいていらっしゃる皆さんに、次の事実を証拠に挙げてお知らせしたいと思います。そこで、ブルドーフスキイ君、きみのおかあさんがパヴリーシチェフ氏にいろいろ世話を見てもらったわけは、ほかじゃありません。おかあさんのねえさんというのが、パヴリーシチェフ氏のごく若い時分に恋した小間使だったからです。パヴリーシチェフ氏は、なんであろうとも、ぜひその娘と結婚するつもりでいたところ、そのひとは急病のためにわかになくなったのです。わたしは確かな証拠を握っていますが、この正確で誤りのない家庭内のできごとは、知る人もきわめて少なく、むしろぜんぜんわすれられていたのです。それからのちの経過をお話ししますと、きみのおかあさんは十ばかりの子供の時分、親に代わってパヴリーシチェフ氏に引き取られて養育され、莫大な持参金を分けてもらったりしたので、これが多くの親戚のあいだにたいへんやかましい取り沙汰の種をまいたそうです。中には同氏が自分の養女と結婚するのではないか、などと考えるものさえありました。ところが、とどのつまり、おかあさんは自分の望みで(これも精確無比の方法で証明することができます)、登記所官吏のブルドーフスキイ氏のところへ、二十歳の年にお嫁入りしたのです。ここにわたしはきみのおとうさんの人となりを説明するために、若干の正確な事実を収集しておきましたが、おとうさんはきわめて非事務的な方で、一万五千ルーブリというおかあさんの持参金を受け取ると同時に、官を辞して商売に于を出したが、人にだまされてすっかり資本《もと》をすってしまった、その失望に堪えきれないで酒をはじめ、それがために病気して、とうとう結婚してからわずか八年目に若死にしてしまわれました。それから、きみのおかあさんから親しく聞いたところによると、おかあさんはその後、赤貧洗うがごとき境遇におちいって、パヴリーシチェフ氏の寛大な扶助がなかったら、とっくに死んでしまわれたかもしれなかったそうです。氏は毎年六百ルーブリまでの手当てを欠かさずに送られたのです。また無数の事実の証明するところによると、氏は当時まだほんの赤ん坊であったきみを、非常にかわいがられたということです。これらの事実や、またしてもおかあさんを引き合いに出すようですが、おかあさんのお言葉などを総合してみると、氏がきみをかわいがったのは、主としてきみが幼年時代にどもりか、不具者か、なんでもそんなふうの哀れな、不仕合わせな子供といったような塩梅だったからに相違ありません(ところで、ちょっとついでにいっておきますが、パヴリーシチェフ氏はすべて造化の神にしいたげられ、辱しめられた人、ことに子供に対して、生涯ある種の優しい同情をいだいていたのは、正確な証拠によって探りえたところです。これは今度の事件にとってきわめて重要な事実であると信じます)。それから最後に、いま一つ重大な事実について、精密な調査を遂げたのを誇ってもいいと思います。この、きみに対するパヴリーシチェフ氏のなみなみならぬ親切は(氏の尽力できみは中学へ入って、特別な保護のもとに勉強することができたのです)、ついにだんだんと親戚や奉公人のあいだに、一種の疑惑を呼びおこしたのです。すなわちきみはパヴリーシチェフ氏の息子さんで、きみのおとうさんは氏のためにうまうまとだまされたのじゃないか、と疑いだしたんです。大事なことですが、この疑惑がかたく根深いものとなってしまったのは、パヴリーシチェフ氏の晩年のころで、遺言がどうなるかと皆びくびくしていたときのことです。この時分には最初の事情などすっかり忘れていたうえに、それを調べてみることもできなかったのです。ブルドーフスキイ君、疑いもなくこのうわさがきみの耳にも入って、きみの全心を支配しつくしたに相違ありません。わたしはきみのおかあさんにお目にかかりましたが、おかあさんはそのうわさを知っていられたけれども、きみがそんなうわさに迷わされていようとは、今まで夢にもごぞんじないのです(わたしもうち明けずにおきました)。ブルドーフスキイ君、わたしがきみのおかあさんにプスコフでお目にかかったとき、おかあさんは病苦と極度の貧困に悩まされておいででした。パヴリーシチェフ氏の死後そうなったのです。おかあさんはありがた涙に暮れながら、今はただきみの助力のおかげで、その日を過ごしている、そしてきみの将来に多大の望みをかけているとのことでした。おかあさんは熱烈にきみの未来の成功を信じていらっしゃるのです……」
「もういよいよがまんができない!」とレーベジェフの甥がじれったそうに、いきなり大きな声でいいだした。「そんな小説めいたお話が何になるんですかい?」
「陋劣だ、無礼きわまる!」とイッポリートは激しく身悶えした。
 けれど、ブルドーフスキイはなんにもいわず、身じろぎすらしなかった。
「何になるかですって? なぜですって?」自分の結論を述べようと皮肉に心構えしながら、ガーニャはわざとずるく出て驚いたような顔をした。「第一にブルドーフスキイ君も今となってみると、パヴリーシチェフ氏が自分をかわいがってくれたのは博愛心のためで、けっしてわが子として愛したのではないということを、おそらく根本的に承認なすったでしょう。ブルドーフスキイ君は、ケルレル君があの記事を読んで聞かしたとき、それを保証し賛成なすったのですから、この一事を知るだけでも、同君にとって必要なことだったのです。わたしがこういうのも、つまり、きみを高尚な人と考えるからなんですよ、ブルドーフスキイ君。第二に、この事件についてはチェパーロフさえも、ゆすりかたりの気は微塵も持っていなかった、ということがわかりました。これはわたしのほうからいっても、はなはだ肝要な点なのです。そのわけはさっき公爵が激昂のあまり、わたしまでがこの不幸な事件の詐欺的性質について、公爵と同意見であるように言われたからです。いや、それどころか、この事件は四方八方ことごとく、しっかりした確信でもって固まってるのです。あのチェパーロフにしても、あるいはじっさい大山師かもしれませんが、この事件においては単にごまかし屋、へぼ公事師、三百代言というだけのものです。彼はただ弁護人として大もうけをしようと思ったまでで、その目算は精緻で巧妙だったのみならず、また大いに正確なものであったのです。彼は公爵がやすやすと金を人に渡される事実や、公爵の故パヴリーシチェフ氏に対する感激と尊敬の情や、すでに世間へ知れわたった、名誉、良心の義務に関する公爵の古武士的な見解(これがもっとも大切なのです)、こういうものを基礎として出発したのです。さてブルドーフスキイ君自身にいたっては、むしろこういうことさえできると思います。同君はかねがね抱懐しておられた信念のために、チェバーロフや取り巻きの人たちにそそのかされて、利害問題というよりも、真理、進歩、人類に対する務めとして、今度の事件を始められたものと思います。もうこれだけの事実を報告したら、ブルドーフスキイ君が、よしや外面の現われはどうあろうとも、清浄潔白なかたであるということは、皆さんも合点なすったに相違ありますまい。そして、また公爵も以前よりいっそうすすんでこころよく親友としての助力、ならびにさっき学校とかパヴリーシチェフ氏とかの説が出たときにおっしゃったような、実際的の扶助をも与えられることと信じます」
「よしてください。ガヴリーラさん、よしてください!」と公爵はすっかり面くらって叫んだが、しかしもう遅かった。
「ぼくはもうさっきから三度もいったじゃありませんか」とブルドーフスキイはいらだたしげにわめいた。「ぼく、金なんぞいりません。受け取りゃしません……なんのために……いやだ……けがらわしい!」
 彼は今にも露台からかけおりようとした。するとレーベジェフの甥がその手をつかまえて、なにやら耳打ちした。で、彼はいきなり取って返して、ポケットから封のしてない大形の封筒を引き出すと、そのまま公爵のそばのテーブルへほうりつけた。
「さあ、金を返します!………あなたはよくも図々しく……図図しく!……金なんか!」 「二百五十ルーブリです、あなたが失礼にも贈り物という名義で、チェバーロフの手からよこしなすった……」とドクトレンコが説明した。
「あの新聞には五十ルーブリとしてあったのに!」とコーリャが叫んだ。
「ぼくが悪かったです!」公爵はブルドーフスキイに近寄りながらいった。「ブルドーフスキイ君、ぼくはきみに対してじつに済まないことをしました。けれど、あの金は贈り物としてさしあげたわけじゃありません、まったくです。ぼくは今も済まないことをいいました……先刻も済まないことをいいました(公爵は胸のうちが千々にかき乱れて、疲れきった弱弱しい様子をしていた。それに、いうことも、いっこうとりとめがなかった)。ぼくはかたりっていいましたが……あれはきみのことじゃありません、思い違いでした。それからぼくは、きみが……ぼくと同じような病人だといいました。しかし、きみはぼくなどと同じじゃありません、きみは……家庭教師をしておかあさんを養っていられますもの。ぼくはきみがおかあさんの顔に泥を塗ったといいましたが、きみはおかあさんを愛していられます。おかあさんが自分からそうおっしゃったんですもの……ぼく、知らなかったんです……先刻ガヴリーラさんがしまいまで話してくださらなかったので……ほんとうに悪かったです。またぼくは大胆にも、きみに一万ルーブリを提供するなどと申し出ましたが……あれはあんな具合にすべきものじゃなかったが、今となっては……だめだ。きみはぼくをばかにしていられるんだから……」
「ほんとにここは瘋癲病院だ!」とリザヴェータ夫人が叫んだ。
「ええ、もちろん気ちがい病院だわ!」とたまりかねてアグラーヤが言葉するどく言った。
 しかし、この言葉は人々の騒々しい声にまぎれて聞こえなかった。一同は声高に話したり、批評めいたことをいったりして、中には争論するものも、笑いだすものもあった。憤懣の頂上に達したエパンチン将軍は、おのれの威厳を傷つけられたような顔をして、リザヴェータ夫人を待っていた。レーベジェフの甥は捨てぜりふのように。
「ねえ、公爵、あなたはやはり偉いかただ。あなたはどこまでもご自分の……その、病気(まあ、遠慮してこういっときましょうよ)を利用することをごぞんじですよ。あなたの友誼を求めたり、金を提供したりなさるやり口があまりうまいもんだから、高潔な人はどうしたってそいつを受け取るわけには行かないじゃありませんか。つまり、べらぼうに無邪気なのか、それとも図抜けてうまいのか、どちらかでさあ……もっとも、あなたはどっちだがよくおわかりでしょうがね」
「ちょいと、皆さん」とかくしている暇に金包みをあけて見たガーニャは、いきなりこう叫んだ。「この中には二百五十ルーブリなんてありゃしない。いっさいでたった百ルーブリつきゃありません。いや、わたしはね、公爵、なにか間違いでもおこってはと思ったもんですから」
「うっちゃってください、うっちゃっといてください」と公爵はガーニャに向かって両手を振った。
「いや、『うっちゃってください』なんて法はありません!」とレーベジェフの甥は、すぐに食ってかかった。「わっしたちはあなたの『うっちゃってください』がしゃくにさわるんですよ、公爵。わっしたちあけっして逃げ隠れなんざあしませんからね。なにもかもあけっぱなしに申しますよ。まったくのところ、その中には百ルーブリっきりで、二百五十ルーブリじゃありません。だが、どっちにしても、つまり回じことじゃありませんか……」
「で……でも同じことじゃありませんよ」と、いかにも子供らしい腑に落ちない顔つきをして、ガーニャはすかさず言葉をはさんだ。
「まあ、話の腰を折らないでくださいな。わっしたちはあなたの高をくくってらっしゃるほどばかじゃありませんからね、弁護士さん」とレーベジェフの甥が毒々しくどなった。「もちろん、百ルーブリは二百五十ルーブリでもなければ、同じことでもありませんや。しかし、大切なのは主張ですよ、このさいただ主旨が大切なんで、百五十ルーブリ足りないのは些細なこってさあ。つまり大切なのは、ブルドーフスキイがあなたの贈り物を受け取らないで、あなたの顔へたたきつけたということで、この意味から見れば、百ルーブリも二百五十ルーブリも同じこってさあ。ブルドーフスキイが一万ルーブリを受け取らなかったのは、あなたもごらんなすったでしょう。もし卑劣な男だったら、この百ルーブリも持って来なかったでしょうよ。百五十ルーブリという金は、チェバーロフが公爵のところへ出向いて行った、その費用に要ったんです。あなたがたがわっしたちの無器用さかげんや、事務を運ぶ手並みのへまさかげんをお笑いになさるのは結構です。そうでなくってさえ、あなたがたはいっしょうけんめいにわっしたちをこっけいなものにしてやろうと苦心していなさるんだから。しかし、わっしたちを不正直だなどとはいわしませんぜ。あの百五十ルーブリの金はね、あなた、わっしたちが共同で公爵に返済します。よしんば一ルーブリずつであろうとも、かならず返します、利息をつけて返しまさあ。ブルドーフスキイは貧乏で何百万という金はなし、それにチェバーロフは旅行から帰ると勘定書を突きつける……わっしたちは勝訴したらと思ったんだが……だれだってあの男の身になったら、ほかにしようがあるもんですか」
「だれとはなんのこってす?」とS公爵は叫んだ。
「わたしは気がちがいそうだ!」リザヴェータ夫人がふいにこう叫んだ。
「これはまるで」と、今まで長いあいだじっと立ったまま傍観していたエヴゲーニイが笑いだした。「このあいだから評判のある弁護士の弁論みたいだ。その弁護士はね、強盗の目的で一度に六人の人を殺した被告の弁護をするために、被告の貧困状態を陳述してるうち、ふいとこんなふうのことを結論したんだそうです。『わが輩の被告が貧窮に責められて、この六人殺しを思いついたのは、きわめて無理からぬことであります。だれであろうとも被告の地位におかれたならば、こういうことを思いつかぬわけにいかなかったでしょう』って、まあこんなふうにいったそうですが、とにかく、ひどく愛嬌のある話ですね」
「たくさんです」腹立たしさにからだをふるわせないばかりのリザヴェータ夫人が、いきなりいいだした。「もういいかげんに、こんなわけのわからないお話の片をつけていい時分でしょう!」
 夫人はじっさいおそろしいほど興奮していた。ものすごく見えるまでに首をうしろへそらせながら、傲慢な、いらだたしげな、いどむような態度で、ぎらぎらと燃えるような視線を一座の人々に浴びせかけたが、このとき彼女はどれが敵やら味方やら、ほとんど見わけがつかなかったらしい。それは倨傲《きょごう》な争闘の要求、一刻も早くだれかに飛びかかってやりたいという要求が、矢も楯もたまらぬほど激しくなったとき、長く堰き止められていた怒りが堤を決してあふれ出る、そういったふうのクライマックスに達した心持ちであった。リザヴェータ夫人を知っている人々は、夫人の心内になにか特殊なあるものが生じたことを直覚した。イヴァン将軍は翌日S公爵に向かって、『あれはよくあんなふうになることがあるんですがね、きのうみたいに猛烈なのは少ない。まあ、三年に一度くらい、それより多いことはけっしてない! けっしてそれより多くはない』ときっぱり断言したくらいである。
「たくさんですよ、あなた、うっちゃっといてください!」とリザヴェータ夫人は将軍に向かって叫んだ。「なんだってそんなに、わたしのほうへ手を突き出してらっしゃるんです? あなたはさっきわたしを連れ出すことができなかったじゃありませんか。あなたはわたしの夫で、一家の頭ですもの、わたしがあなたのいうことを聞かないでいっしょに出て行かなかったら、わたしのようなばかものは耳でもつかんで引きずり出したらよかったんですよ。よしそうまでなさらなくっても、せめて娘たちのことでも心配なさるべきじゃありませんか! だけど、もう今はわたし自分で方法をつけます。こんな恥ずかしい思いをさせられて、とても一年や二年で消えることじゃありません……まあ、待ってください、わたしはまだ公爵にもお礼をいわなくちゃ!………公爵、ありがとう、いろいろご馳走さまでした! わたしはまた若い人たちのお話を聞こうと思って、ついつい長居をしてしまいました……ああ、ほんとうに今のはなんというざまです、なんという見苦しい! あれはまるでめちゃくちゃです、見ちゃいられない、あんなことは夢にだって見られやしない! え、あんなやつらはどこをさがしたって、ほかにいやしない! お黙り、アグラーヤ! お黙り、アレクサンドラ! おまえたちの知ったことじゃありません!………エヴゲーニイさん、なんだってわたしのそばをうろうろしなさるんです、わたしあなたには飽きあきしましたよ!………それで、公爵、あんたはあいつらにわびをするんですね」とふたたび公爵のほうを向いて突っこんだ。「なんです、いったい、聞いてれば、『まことに済みませんでした、ぼくは失礼にもきみに金なぞを捉供しようとしました』なんて……おまえはなんだって笑うのだえ、力みやさん!」ふいに夫人はレーベジェフの甥に食ってかかった。「われわれはそんな金なんかおことわりします、われわれは無心するのでなくっ七、要求するのです、だとさ! きっと、このお白痴《ばか》さんがあすにもあいつらのところへのこのこ出かけてって、また友誼とお金を持ち出すのをちゃんと知り抜いてるんだよ! ね、あんた行くだろう?行くだろう? 行くんですか、行かないんですか?」
「行きます」低いおとなしい声で公爵がいった。
「あれをお聞きかえ? それごらん、おまえはあれをあてにしてるんだろう」と夫人はまたもやドクトレンコのほうへ向いて、「もう金はポケットに入ってると同じようなもんだと思って、威張り散らすんだろう、人を煙に巻くんだろう……ね、いい子だからどこかほかへ行ってばかをさがすがいい。わたしはおまえの小細工をちゃんと見とおしてるからね!」
「奥さん!」と公爵が叫んだ。
「もう出かけようじゃありませんか、奥さん、もうずいぶんおそいですよ、そして、公爵もいっしょにおつれして行こうじゃありませんか」できるだけ落ちつき払って微笑しながら、S公爵はこう言った。令嬢たちはほとんどあっけにとられて、わきのほうに立っていたが、将軍はもうすっかり度胆を抜かれてしまった。ほかの人たちもいちようにびっくりしていた。やや離れて立っていた二、三の人は、盗み笑いをしながらなにやらささやきかわしている。レーベジェフの顔には感きわまったような色が浮かんでいた。
「めちゃくちゃで見ていられないようなことは、奥さん、どこだってありまさあ」とレーベジェフの甥はもったいぶっていったが、それでもやはり、へこんだような声であった。
「そうかもしれないが、あんなふうのはありません! 今おまえさんたちのして見せたようなのは、どこの世界にだってありゃしない!」とまるでヒステリイでもおこしたように、毒々しい笑いを浮かべつつ、リザヴェータ夫人がおさえた。「まあ、皆さん、うっちゃっといてくださいってば」夫人は自分をさまざまになだめようとする人々に向かって叫んだ。「ねえ、エヴゲーニイさん、あなたまでが今こんなことをおっしゃったでしょう。どこかの弁護士が、貧苦のために人を六人殺すほど自然なことはないっていったそうですね。してみると、いよいよ世も末になったんです。わたしはまだそんなの聞いたこともありません。今こそ何もかも合点が行きました。ほら、このどもりさん、いったいこの男が人殺しをしないでしょうか?(と彼女は、けげんな顔をして自分のほうをながめているブルドーフスキイを指さした)。いいえ、わたし睹でもします、きっと人殺しをしますとも! ね、公爵、たぶんこの男は一万ルーブリのあんたのお金を受け取らないでしょう、たぶん良心にとがめられて受け取らないでしょう。けれど、夜中にやって来て、あんたを殺して、手箱の中からその金をひき出すに相違ない、良心にとがめられてきっとひき出すに相違ない。でも、それもこの男に言わせれば不正なことじゃないのだそうだ。『高尚な絶望の発作』だとか、なんとかの『否定』だっていうんだろう……けがらわしい。もうよろずのことがみんなあべこべに転倒してしまったのだ。家の中にばかり育って来た娘の子が、いきなり往来の真ん中で旅行馬車にひらりと飛び乗って、『おかあさん、わたし二、三日前にカールルィチとかイヴァーヌィチとかいう、これこれの人と結婚しましたからね、さようなら!』なんていうようなことが、おまえさんたちの考えではりっぱな行ないなんですかえ? 尊敬すべき自然なことだというのですかえ?婦人問題というんですかえ? ほら、この小僧っ子も(とコーリャを指さして)、こんなものまでこのあいだひと[#「ひと」に傍点]と議論して、今のようなことこそ『婦人問題』だっていうじゃありませんか。よしんば母親はみんなばかだとしても、せめて人間らしく付き合うがいい!………これ、おまえさんがたはさっきなんだって、首をそっくりかえらして入っておいでだったえ? まるで、『おれさまたちが歩いてるのだ、そばへも寄ることはならんぞ。おれさまたちにありったけの権利をよこせ、しかしきさまなんぞは目通りで口をきくこともならんぞ。おれさまたちにありったけの尊敬を払え。この世の中にないような尊敬も払わなくちゃ承知しない、そのかわり、きさまなどは最下等な下男よりもひどい扱いをしてやるから!』とでもいったふうな恰好じゃないか。なんだえ、真理を求めるの、権利を主張するのといいながら、ご自身たちは回教徒そこのけの讒謗を、新聞でこの人に浴びせかけたじゃないか。『要求するのです、無心じゃありません。われわれはひと言もあなたにお礼なんかいいません。なぜなら、それをするのはご自分の良心を満足させるためですからね!』だとさ、なんて理屈だろう! ふん、もしおまえさんが公爵にひと言もお礼をいわなければ、公爵だっておまえさんにこう返答するかもしれないよ。『わたしはパヴリーシチェフさんをすこしもありがたいとは思っていません、なぜならパヴリーシチェフさんが善根を施したのも、やはり自分の良心を満足させるためだから』とね。ところが、おまえはただ公爵がパヴリーシチェフさんに懐《いだ》いている、そのありがたいという心持ちばかりが目当てなんじゃないか、まあ、考えてもごらん、この人はおまえから借りたんじゃないよ、おまえに義理があるわけじゃないよ。してみれば、そのありがたいって心持ちのほか何を目当てにするものがあります? よくもまあ自分で、お礼はけっしていわないなんて口がきけたものだ! まるできちがいだ! 世間が誘惑に負けた娘をいじめると、人はその世間を野蛮な不人情なものに考えるのが普通です。世間を不人情だと思ったら、こんな世間を渡って行かねばならぬ娘は、さぞ苦しい辛いことだろうと考えてやるのもあたりまえです。ところが、おまえはそれをわざわざ新聞で世間の前へ引き出して、苦しいだの辛いだのといってはならぬ、と無理な要求をする。ほんにきちがいだ! 見栄坊だ! 神さまを信じない人たちだ、キリストを信じない人たちだ! ああ、おまえたちはもうすっかり見栄坊とから威張りの根性が骨までしみこんでるから、とどのつまりは共食いぐらいが落ちだ、わたしがいっときますよ。ほんとうにこれでも横紙破りでないかえ、めちゃくちゃでないかえ、ふしだらでないのかえ? ところが、この恥しらずはまだ性懲りもなく、あいつらのとこへのこのこおわびに行くなんていってる! おまえたちのような人がどこにあるものかね。何がいったいおかしくって笑うの? わたしがおまえたちを相手にして、自分で自分の顔に泥を塗ったからかえ? ああ、それはもう済んだことだから、なんともしようがありません!………これ、おまえそんなにたにた笑いはよしておくれ、このへっぽこ!(と、夫人はにわかにイッポリートに食ってかかった)。やっと虫の息でいながら、他人に放埒を教えこむなんて。おまえはわたしのこの子供を、放埒者に仕込んでおくれだったね(といいながら、彼女はふたたびコーリャを指さした)。この子はおまえのことばかり、うわごとにまでいってるじゃないか。おまえはこの子に無神論をお教えだね、おまえは神さまを信じないんだね。ほんとうにおまえのようなものは、まだまだひどい目にあわしていいのだ。おとといおいで!………じゃ、ムイシュキン公爵、おまえさんはお出かけなんだね、あすあいつらのとこへお出かけなんだね?」と夫人は、はあはあ忙しく息をつきながら、またもや公爵に問いかけた。
「出かけます」
「そんなら、もうおまえさんみたいな人なんか見たくもない!」と夫人はす早く身をかえして立ち去ろうとしたが、ふいにまたもどって来て、「そして、この無神論者のとこへも行くつもりなの?」とイッポリートを指さした。「まあ、なんだっておまえはわたしを見て、にたにた笑ってるんだえ!」なんとなく不自然な声でこう叫ぶと、彼女はイッポリートのほうへ飛びかかった。彼女はその悪どい冷笑に堪えきれなかったのである。
「奥さん! 奥さん! 奥さん!」と叫ぶ声が四方からおこった。
「おかあさま、なんて恥ずかしいことを!」とアグラーヤは声高に叫んだ。
「ご心配なさいますな、アグラーヤさん」とイッポリートは落ちついていった。リザヴェータ夫人は彼におどりかかったが、なぜかしらその手をつかんで放さなかった。夫人は彼の前に立ちはだかったまま、じっともの狂おしい目をすえて、吸いつけられたようにその顔を見つめているのであった。「ご心配なさいますな、こんな死にそこないをぶつわけにいかないってことは、おかあさまもすぐお気がつくことでしょうから……ぼくがなんのために笑ったかってことは、いつでも申し開きをします……聞いてくだされば幸甚です……」
 彼はいきなりひどくせきこんで、まる一分間ばかりせきを納めることができなかった。
「もう死にかかってるくせに、まだえらそうにしゃべってるよ!」とリザヴェータ夫人は彼の于を放して、そのくちびるから血を拭き取るさまを、ほとんど恐怖に近い表情をもってながめながらこう叫んだ。「おまえ、話どころの騒ぎじゃないじゃないかね! なによりもまず寝に行かなくちゃならないのに……」
「ええ、そうしますよ」と、ほとんどささやくような低いしゃがれ声で、イッポリートは答えた。「ぼくうちへ帰ったらすぐ休みます……もう二週間たったらぼくは死ぬんです、ぼく知っています……先週Bがそういったのです……で、もし失礼でなかったら、ぼくはお別れにたったひとこと申しあげたいことがあるんですけど……」
「まあ、おまえさんは気でも狂ったんじゃないの? ばかなことばかり! 静かに療治でもしなきゃならないのに、お話どころの沙汰ですか! さ、さ、あっちへ行ってお休み!……」とリザヴェータ夫人はびっくりして言った。
「いちど横になったら、もう死ぬまで起きられないんですよ」とイッポリートは微笑した。「ぼくはきのうもそんなふうに、もう二度と起きないように、死ぬまで起きない覚悟で寢てしまおうかと思ったんですが、まだ足の立つ間はと思って、あさってまで延ばしたのです……その、そこの連中といっしょに、ここへきょうやって来るために……しかし、もうすっかりくたびれてしまいましたよ」
「さ、すわんなさい、すわんなさい、なんだって立ってるんだえ! ほら、いすをあげます」とリザヴェータ夫人はおどりあがって、みずからいすをすすめた。
「ありがとうございます」とイッポリートは静かに言葉をついだ。「では、あなた向き合ってすわってください、すこしお話ししましょう……ふたりでぜひお話をしましょう、ね、奥さん、ぼくはこんどはこのことを言い張りますよ……」と彼はふたたび夫人に笑顔を見せた。「まあ、考えてみてくださいな、ぼくがこうして外の空気を呼吸したり、人なかにまじったりするのもこれがおしまいで、もう二週間たったら間違いなく土の中に入るんですからね、つまり、いってみれば、これが人間と自然とに対する告別みたいなもんですよ。ぼくはそうたいして感傷家でもありませんが、でもねえ、やはりこの事件がパーヴロフスクでおこったのを、とても嬉しく思ってるんです。なんといっても、若葉の萌えた木立ちを見てるのはいいもんですからね」
「まあ、今度は何を言いだしたんだろう」とリザヴェータ夫人はますますあっけにとられた。「おまえさんはもうすっかり熱にうかされている。さっきは黄いろい声を出してわめき立てたくせに、今度はやっとのことで息をつきながら、はあはあいってる!」
「ぼくいますぐ休みます。だが、なぜあなたはぼくの最後のお願いを聞いてくださらないんでしょう……じつはねえ、奥さん、ぼくせんからどうかしてあなたとお心安く願いたいものだと考えてたんです。あなたのことはいろいろ聞いていました、コーリャから。いや、じっさい、ぼくを見捨てないでいてくれるのは、コーリャひとりくらいのもんです……あなたはまったく変わった突飛なかたですね。ぼくいま親しくお目にかかって知りました……じつはぼく、あなたが少々好きになって来ましたよ」
「まあ、わたしはそれだのに、まったくのところ、この子をあやうくぶつところだった」
「あなたをとめたのはアグラーヤさんです。ね、ぼくの想像は違わないでしょう。ね、このかたがお嬢さんのアグラーヤさんでしょう! まったく美しくていらっしゃるんですね。ぼくいままで一度もお目にかかったことはないけれど、さっきひと目見てそうだと悟りました。この世の見納めに、せめて美しいかたなりとよくながめさしてください」とイッポリートはなんとなくきまり悪そうな、ひん曲がったような微笑を浮かべた。「さあ、ここには公爵も将軍も、皆さんがそろってらっしゃるのに、なぜあなたはぼくの最後の願いをいれてくださらないのです?」
「いすを!」とリザヴェータ夫人は叫んで、自分で手ずから引き寄せて、イッポリートに向かい合って腰をおろしながら、「コーリャ」と呼んだ。「おまえさん、この人といっしょにすぐ出かけてちょうだい、あすはわたしが自分でかならず……」
「まことに失礼ですが、ぼく公爵に茶を一杯いただきたいのです……すっかり疲れちまいました。いかがです、奥さん、あなたは公爵といっしょに茶を飲みに行こうとおっしゃいましたが、ひとつここに残っていっしょにいてくださいませんか。公爵はきっとみんなに茶をふるまってくださるでしょうから。どうか指図がましいところはおゆるしを願います……しかし、ぼくにはあなたという人がよくわかっています。あなたはじつにいいかたです。公爵も同様です……われわれはみんなぞろいもそろって、こっけいなほどお人よしなんですからね……」
 公爵は急にせかせかしだした。レーベジェフがいっさんに部屋をかけだすと、娘のヴェーラもあとにつづいた。 「まったくだね」と将軍夫人はずばりと断ち切るように答えた。「じゃ、お話しなさい。だけど、なるべく静かにだよ、夢中になっちゃいけないから。とうとうおまえさんはわたしを泣き落としにかけてしまった……公爵!・ わたしはあんたのとこでお茶なんぞ飲んであげるわけがないんだけど、今のような始末だから、このままじっとしていましょうよ。でも、わたしはだれにもわびなんかしやしないから! ええ、だれにも! ばかばかしい! もっとも、わたしがあんたの悪口をついたのだったら、どうかまあ、勘弁してもらいましょう、――だが、それもいやなら、いやでかまいませんよ。けれど、わたしはだれも無理に引きとめてるわけじゃないんですよ」と夫人はいきなりなみなみならぬ憤怒の形相で、夫と娘たちのほうへ振りむいた、ちょうどこの人たちが夫人に対して、なにか済まぬことでもしたかのように。「わたしはひとりだって家へ帰れますからね……」
 しかし、人々は彼女にしまいまでものをいわせなかった。一同は近寄って、そのまわりをぐるりと取り囲みながら機嫌をとった。公爵はさっそく一同に、居残って茶を飲むようにすすめ、かつ今までこのことに気がつかなかったのをあやまった。将軍までがおそろしく愛想よくなって、『だが、露台じゃ冷えはしないかね?』などとやさしく話しかけながら、夫人に向かってなにやら気の静まるようなことをいった。彼はイッポリートにさえも、『もう大学には前から通っていますか?』ときこうとしかけたが、さすがにそれはしなかった。エヴゲーニイとS公爵は、にわかに愛想よく快活になってきたし、アデライーダとアレクサンドラの顔には、さきほどから消え残っている驚きの表情のあいだから、満足といってもいいくらいな影が現われた。要するに、皆のものはリザヴェータ夫人の危機が通り過ぎたのを喜んだのである。ただアグラーヤだけは眉をひそめて、やや離れた席に無言のまま腰をおろした。
 その他の人々も居残って、だれひとり、イヴォルギン将軍すら出て行こうとはしなかった。もっともイヴォルギン将軍は、レーベジェフから通りすがりになにやら小声でいわれたが、それが、あまり気持ちのいいことでなかったらしく、すぐにどこか隅っこのほうへ消えてしまった。公爵はブルドーフスキイとその仲間をも、ひとりのもれなしに招待してまわった。こちらはいかにもわざとらしい顔つきで、イッポリートの帰りを待つむねを答え、すぐと露台のいちばん遠い端へ引っこんで、またそこでも一列に並んですわった。おそらく茶は、レーベジェフが自分の家で飲むのに用意していたのだろう、間もなくそこへ運び出された。
 十一時が打った。

      10

 イッポリートは、ヴェーラ・レーベジェヴァのさし出す茶にくちびるをうるおして、茶碗をテーブルへ置いたが、ふいにきまり悪くなったような顔つきで、もじもじしながらあたりを見まわした。
「ちょっと、奥さん、この茶碗をごらんなさいな」と彼は妙にせきこんだ。「この瀬戸焼の茶碗は、しかもうんと上等らしいこの瀬戸焼の茶碗は、いつもレーベジェフの家の、ガラス戸つきの茶箪笥にちゃんとしまいこんであって……今まで一度も出たことがないんです……これはよくあるやつで……細君の嫁入道具なんですよ……そういう習慣なんです……で、いまぼくたちにこれを出したのは、もちろんあなたに敬意を表したんです、それくらいあの男は有頂天になったんですよ……」
 彼はまだなにかいい足したかったのだが、うまく出て来なかった。
「それでも、さすがにきまりが悪くなったんですね、それくらいが落ちだろうと思ってましたよ!」
 エヴゲーニイが、ふいに公爵の耳に口を寄せてささやいた。「少々けんのんですね、え? じつにはっきりした兆候だ、今にきっと腹立ちまぎれになにかこう恐ろしい、リザヴェータ夫人もいたたまらないような、突拍子もないことをしでかすに相違ありませんよ」
 公爵は反問するように相手の顔をながめた。
「あなたは概して、突拍子もないことを恐れはなさらんでしょう?」とエヴゲーニイはいい足した。「わたしもやはりそうなんです、むしろ切望してるくらいですよ。というのは、わが親愛なるリザヴェータ夫人にぜひともきょう、今すぐに罰が当たればいいと思うからなので、それを見ないうちは帰らないつもりです。おや、あなたは熱でもあるんじゃありませんか」
「あとでまたお話ししましょう、じゃまになりますから。ほんとうにぼくは気分が悪いんです」と答えた公爵の調子は、そわそわしているというよりか、むしろいらだたしげであった。
 彼はふと自分の名を耳にしたので気がついてみると、イッポリートが自分のことをうわさしてるのであった。
「あなたほんとうになさいませんか?」とイッポリートはヒステリックに笑った。「そりゃそのはずです。けれど、公爵はとたんにいっぺんこっきりでほんとうにして、すこしもびっくりなんかなさらんでしょうよ」
「あんた聞いてたかえ?」リザヴェータ夫人は公爵のほうへ振り向いた。「聞いたの?」
 あたりに笑い声がおこった。レーベジェフは忙しそうに前のほうへ割って出て、リザヴェータ夫人のすぐ目の前をうろうろしはじめた。
「この人がいうのにね、このひょっとこが、あんたの大家さんが、あんたをこきおろしたさっきの新聞記事を、そこにいる先生に頼まれて直したんだとさ」
 公爵はあきれてレーベジェフを見つめた。
「なんだってあんたは黙ってるの?」とリザヴェータ夫人は地団太さえ踏んで見せた。
「どうも仕方がありません」相変わらずレーベジェフを見まもりながら公爵はつぶやいた。「この人が直したってことはもうわかっています」
「ほんとうかえ?」とリザヴェータ夫人は急にレーベジェフを振り返った。
「まったくそれに相違ありません、奥さま!」毅然とした揺ぎない調子でこう答えて、レーベジェフは片手を心臓の上へ当てた。
「まるで手柄でもしたようだ!」と夫人はほとんどおどりあがらんばかりに叫んだ。
「下劣なことでした! 下劣なことでした!」とレーベジェフはつぶやいて、胸のあたりをとんとんたたきながら、しだいに頭を低く垂れるのであった。
「おまえが下劣な人間だろうがなんだろうが、わたしの知ったこっちゃない! この男は『下劣でした』くらいにいっておけば、済むと思ってるんだよ。それに、公爵、あんたはこんな連中を相手にして、よくまあ恥ずかしくないのねえ。もう一度、わたしはあんたに注意します! 愛想もこそも尽きた人だ!」
「公爵はわたしをゆるしてくださいます!」と確信と感銘を帯びた声で、レーベジェフがいいきった。
「ただただ高潔な心からして」不意に前の方へ飛び出したケルレルは、いきなりリザヴェータ夫人に向かって、朗々たる声を張り上げながらこういった。「ただただおとしいれられた友達を売るまいという高潔な心のために、わが輩はこの男が、あなたもお聞きになったでしょうが、われわれを梯子段から突き落とすなどといったにもかかわらず、記事の訂正についてはひと言も口に出さんかったのです。真実を明らかにするために白状しますが、わが輩はじっさい、この男に六ルーブリで依頼したです。しかし、それとて文章のためではなく、ただただ主として、わが輩の知らない事実を知らんがためだったのです。つまり、信頼すべき人間としてこの男に頼んだのです。ゲートルの件だの、スイスの先生の家で大食した件だの、二百五十ルーブリのかわりに五十ルーブリとした件だの、つまり、そういうふうの細工はみんなこの男の責任です、この男が六ルーブリでやったことです。が、文章は直しゃしなかったです」
「わたしは、ぜひ注意しておかんけりゃならぬことがあります」しだいに大きくなって行く笑い声の中で、レーベジェフは、熱病やみのようにいらいらした、しかもなんとなくしょげた声でさえぎった。
「わたしが直したのはほんの前半で、まんなか辺まで来たとき、ある一つの点で意見が合わずにいい合いして、それきり、あとの半分はもう訂正しなかったのです。だから、あの記事の中の見苫しいところは(まったく記事は見苦しいものですからね!)けっしてわたしの責任じゃありませんので……」
「この男の気をもむのはそれくらいなことだ!」とリザヴェータ夫人は叫んだ。
「ちょっとうかがいますが」とエヴゲーニイはケルレルに向かって、「その記事を訂正したのはいつですか?」
「きのうの朝でした」とケルレルが報告した。「そのさい、われわれは双方から秘密を守るという約束をしましたので」
「そんなら、この男があんたの前にはいつくばって、どんなことでも仰せのとおりいたします、なんていってた時分なんですよ。ええ、まあ、なんて連中だろう! おまえのプーシキンもいらない、おまえの娘もよこしちゃなりません!」
 こう言って、リザヴェータ夫人は立ちあがろうとしたが、ふとイッポリートの笑ってるのに気がつくと、いらいらした様子で振りむいた。
「おまえさんはいったいわたしをみんなの笑いぐさにするつもりで引きとめたのかえ!」
「まあ、とんでもない!」とイッポリートはくちびるをねじ曲げながら、にやりと笑った。「しかし、あなたがなみはずれていっぷう変わってらっしゃるのには、ぼくびっくりしちまいました。じつをいうと、レーベジェフの一件がどれくらいあなたに利き目があるか、ためしてみようと思って、わざわざひっぱり出してみたんですよ。ええ、そうです、あなたひとりが目当てだったのです。なぜって、公爵はきっとゆるされるに相違ないと考えたからです。それに、じっさいのところ、ゆるされたじゃありませんか……もしかしたら、胸の中で、あれのためにいいわけを考えついたかもしれませんよ。ね、公爵、そうでしょう?」
 彼は息をきらしていた。その奇怪な興奮は一語ごとに度を増してゆくのであった。
「ふん!………」とリザヴェータ夫人は、相手の語調に一驚を吃しながら、腹立たしげにいった。「それで?」
「ぼくはあなたのことをいろいろうわさに聞きました、今の話に似寄りのことをですね……そして、たいへん愉快に感じました……今ではたいへんあなたを尊敬してるんですよ」とイッポリートはつづけた。
 こういいながらも、同時に彼はこれらの言葉で、まるっきり別な意味を表わそうとしているらしかった。彼は話の調子に冷笑の影を帯びさせていたが、またそれと同時に不思議なほどわくわくして、疑ぐりぶかい目つきであたりを見まわしながら、わき目にもいちじるしいほどへどもどして、ひと口ごとに言葉をつまらせるのであった。これらの事柄が、その肺病やみらしい容貌や、激昂した怪しく光る目つきなどといっしょになって、いつまでも人々の注意をひきつけるのであった。「ぼくはいっこう世間しらずなんですが(これはぼくりっぱに白状します)それでも、ずいぶんびっくりしましたね。だって、あなたはさっきご身分をもお考えにならないで、ぼくらの仲間と一座なすったのみならず、この……お嬢さんがたまでここへおいて、こんな醜聞を耳にお入れになるんですもの、もっとも、お嬢さんがたも、こんなことはすっかり小説で読んでらっしゃるでしょうがね。ですが、こうはいうものの、ぼくすこしうろたえてるから、ほんとうのことはわかりませんけれど……しかしなんといってもこんな小僧っ子の(ええ、ぼくは小僧っ子に相違ありません、これもまた白状しておきます)、いうことを聞いて帰るのをやめたうえ、いっしょにお茶を飲んだり、なにかの……世話を焼いたりして、そしてあくる日はずかしい思いをするような人が、あなたをおいてほかにないことは確かです(もっとも、ぼくのいいまわしが壺をはずれてることも自分で承知しなくちゃなりませんが)……とにかく、こうしたいっさいのことを、ぼくは大いに讃美し尊敬します。しかし、閣下は、あなたのご主人は、こんなことなどけっしてなすべきことでないと思ってらっしゃる、それは閣下のお顔を見ただけでわかります……ひひ!」すっかり狼狽してしまって、彼はばかにしたような笑いかたをしたが、にわかにせきがこみ上げてきて、二分間ばかりというもの、あとをつづけることができないほどであった。
「まるで息づまりでもしたようだ!」激しい好奇心をもって彼を見つめながら、リザヴェータ夫人は鋭く冷ややかな調子でいった。「ねえ、いい子だ、もうたくさんです。もう遅いんだから!」
「失礼ですがね、きみ、わたしにもひと言いわしてください」とエパンチン将軍はがまんしきれなくなって、ふいにいらだたしげに口をきった。「妻《さい》がここにこうしているのは、ムイシュキン公爵がわれわれ一同の友達でもあり、ご近所同士でもあるからです。何にせよ、きみのような年のいかん人が、リザヴェータの言行を批評したり、わたしの顔に書いてあることを口に出して、しかも面と向かってうんぬんするのはいささか僭越ですよ、まったく。それに、妻《さい》がここに居残ったというのも」とほとんど一語一語にかんしゃくをあおり立てながら、将軍は語をついだ。「つまりね、きみ、一つはあまり驚いたのと、一つには奇態な若い人たちを見て行こうという、われわれにも了解できる現代的な好奇心のためです。わたしが居残ったのも、いわば往来で立ちどまったのと同じですよ。なにか――ベつの価値ある、その……その……その……」
「珍しいものですか」とエヴゲーニイが口を入れた。
「いや、さよう、そのとおり」少々譬喩に困っていた将軍は大いに喜んだ。「つまり、その珍しいものを見るような心持ちです。しかし、リザヴェータがきみといっしょに居残ったのは、単にきみが病身だから(もしきみの死にかかっているというのがほんとうならばだね)、きみの哀れっぽい言葉に動かされた同情心のためなのだ。きみのような若い人で、なおそれにお気がつかれんというのは、わたしにとってなによりも驚くべく悲しむべきことです、文法上こんな言いかたはできんかしらないがね。どんなことがあろうとも、妻の名誉、性質、品位に汚名をきせることは不可能です……リザヴェータ!」と将軍は真っ赤になって結論した。「もうそろそろ出かけたいなら、公爵にお暇ごいしてそれから……」
「ご教訓ありがとうございました、将軍」と思いもよらぬイッポリートが、もの思わしげに彼の顔を見ながら、まじめに いった。「行きましょう、おかあさま。まだなかなかなんですの!」と、いすを立ちあがりざま、アグラーヤはもどかしげにぷりぷりしながらいった。
「ね、あなた、もしおさしつかえなかったら、もう二分ばかり待ってくださいまし」とリザヴェータ夫人は威を帯びた態度で、夫のほうへ振りむいた。「わたしはなんだかこの人がすっかり熱に浮かされて、うわごとばかり言ってるように思われます。ええ、それに相違ありません。あの目つきでわかります。このままうっちゃって置くわけにいきません。ムイシュキン公爵! この人を今夜あんたのとこへ泊めていただけますか、これからペテルブルグへこの人を連れて帰るなんて無理ですからね。Cher prince(親愛なる公爵)あなたお退屈じゃありません?」と夫人は何を思い出したのか急にS公爵のほうへ振りむいた。「アレクサンドラ、ここへおいで、髪をちょっと直さなくちゃ、さあ」
 夫人はすこしも直す必要などのない娘の旻を直し、さて接吻をしてやった。彼女がわざわざ娘を呼んだのはただそれがためなので。
「奥さん、あなたはまだまだ生長しうる資質のあるおかただと思いましたよ……」もの思いからさめたイッポリートはまたいいだした。「ああ、そうだ! ぼくはこんなことをいおうとしてたんです」ふいになにやら思い出したふうに、彼は嬉しげに叫んだ。
「ほら、プルドーフスキイは真底から母親を保護しようと思ったんでしょう、ね? ところが、案外にも、それが母親に泥を塗るような結果になっちまったじゃありませんか。また公爵にしろ、清いお心からブルドーフスキイに友情と巨額な金を提供しようとされた。そして、おそらくわれわれのうちだれひとりとして、公爵に嫌悪の念などいだいてる者はない。ところが、このふたりの人はまるで不倶戴天の仇みたいな具合になってしまいました……ははは! 皆さんは、ブルドーフスキイが自分の母親に対して、皆さんの考えによると、みにくい不体裁なふるまいをするというので、あの男を憎んでいらっしゃる、ね、そうでしょう? でしょう? でしょう? だって、皆さんはむやみに体裁とか形式美とかいうものがお好きで、それのみを主張していらっしゃるんですものね、まったくでしょう?(ええ、それのみです、ぼく、以前からそう考えていました!)いや、まったくのところ、皆さんのうちどなただって、ブルドーフスキイほどには自分の母親を愛されなかったかもしれないんですからね! それから、公爵、あなたはガーネチカの手からこっそりと、ブルドーフスキイの母親に金をお送りになったでしょう。ぼく知ってます。ところで、誓って申しますがね(彼は、ひひひ!とヒステリックな笑いを発した)、誓って申しますが、今度はブルドーフスキイのほうが、形式のデリカシイが欠けているとか、母を尊敬していないとかいって、あなたに食ってかかりますよ、ええ、ほんとうですとも、ははは!」
 彼はまたしても息がつまって、せきこむのであった。
「さ、それでおしまい? もう済んだの、みんな言ってしまったの? もう行っておやすみ、おまえさん熱に浮かされてるんですよ」相手から不安げな目を離そうとせぬリザヴェータ夫人は、いらだたしそうにさえぎった。「ああ、まあ、どうしたらいいのかしら! まだ、この人は話してるよ!」
「あなたはたんだか笑ってらっしゃるようですね、なんだってあなたはぼくを見ちや笑うんです? いいえ、ぼく知ってます、あなたはぼくのことを笑っていなさるんです」落ちつきのない、いらいらした口調で、彼はとつぜんエヴゲーニイに向かってこういった。 エヴゲーニイはじっさい、笑っていたのである。
「ぼくはただ、きみにおたずねしたいと思っただけなんですよ……イッポリート……いや、失礼ですが、ぼくはちょっときみの苗字を忘れました」
チェレンチエフ君」と公爵が口を入れた。
「ああ、チェレンチェフ、ありがとう、公爵、さっき教えてくだすったんですが、ついすっぽ抜けちゃって……チェレンチエフ君、ぼくちょっときみにおたずねしたいと思ったんですよ。きみはちょいと窓越しに十分か、十五分ばかり群集と話をしたら、みんなはすぐきみのいうことに賛成して、きみのあとからついて行く、といったふうなご意見のように聞いていましたが、まったくですか?」
「大いにいったかもしれません……」と、イッポリートはなにやら考え出したふうで答えた。「いや、きっとそういったに違いありません!」とふたたび元気づきながら、きっとエヴゲーニイの顔をながめて、ふいにつけ足した。「それがいったいどうしたんですか?」
「べつにどうもしません。ぼくはただ参考のため完全に知っておこうと思って」
 エヴゲーニイは口をつぐんだが、イッポリートはもどかしげな期待の念をもって、いつまでも相手を見つめていた。
 「え、どうしたのです、済みましたか?」とリザヴェータ夫人はエヴゲーニイに向かって、「さあ、早く済ましておしまいなさい、この人はもうやすまなくちゃならないんですから、それとも、あとが出ないんですか?」
 彼女はひどくぷりぷりしていた。
「ぼくはこういい足すのを辞さないです」とエヴゲーニイは微笑しながらいった。「きみの友人諸君のいわれたことすべて、それからいまきみがいともあざやかに述べられたことすべてを総合すると、ぼくの見るところでは、一つの権利謳歌の理論に帰着するようですね。あらゆるものをあとにし、あらゆるものを放棄し、あらゆるものを除外し、しかもことによったら、権利そのものが何に起因するやも研究しないで……ええ、違いますか、ぼくのいうことは?」
「もちろん違います、ぼくはあなたのおっしゃることがわからないくらいです……それから?」
 一隅でもやはりぶつぶついう声がおこった。レーベジェフの甥は小声でなにやらつぶやき出した。
「もうほとんどいうことはないのです」とエヴゲーニイが言葉をついだ。「ただひと言いっておきたいのは、こうした理論からすぐに力の権利、すなわち単一無二なる拳固の権利、個人的欲求の権利へ、一足飛びに飛んでしまいたがることです。もっとも、。世間のことはそれでたいてい、けりがつくんですがね。プルードンも力の権利ということを力説したですからね。アメリカの戦争のときにも、最も進歩した自由主義の人たちが、大農場主の利益を保護するために、こんなふうのことを宣言しましたよ。黒人は黒人、白人よりは下に立つべきものだ、したがって、力の権利は白人の有に帰しているって……」
「それで?」
「したがって、きみも力の権利を否定しないでしょう?」
「それから?」
「きみはずいぶん理屈屋ですね。ぼくのいいたいのは、力の権利ってやつは虎や鰐の権利、ダユーロフやゴールスキイの権利とあまり縁が遠くないってことなんですよ」
「わかりません、それから?」
 イッポリートは、ほとんどエヴゲーニイのいうことを聞いていなかった。で相手に向かって『それで』とか『それから』とかいってるのも、どちらかといえば、会話にさいして古くからなれきった習慣のためで、注意や好奇心のためではないらしい。
「それからさきはありません……それっきりです」
「しかし、ぼくはけっしてあなたに腹など立てちゃいません」ふいに思いもかけずイッポリートはそういって、顔に微笑すら浮かべつつ、ほとんど無意識に片手をさし伸ばした。
 エヴゲーニイは、はじめちょっとびっくりしたが、やがておそろしくまじめな様子をして、謝罪でも受けるようにその手にさわった。
「ぼくはいまひとことつけ加えないわけにいきません」と彼は持ち前のなんとなく裏表のありそうな、うやうやしい調子で言った。
「ぼくはきみが多大なる注意をもって、ぼくのいうことをしまいまで聞いてくだすったのを衷心から感謝します。なぜなら、わが国の自由主義者なんて連中は、ほかの人がなにか飛び離れた信念を持しているのを、とても平気で見ていることができないで、すぐ論敵に罵詈を浴びせかけたり、あるいはそれよりもっと悪辣な手段をもって報いたりしたがるもんですからね……」
「そりゃまったくきみのいわれるとおりですよ」とエパンチン将軍は口をいれた。そうして両手を背中に組み合わせながら、退屈でたまらぬという顔つきをして、露台の出口まで引きあげると、いまいましそうにあくびをした。
「さあ、もうあんたのお話はたくさんですよ」とリザヴェー夕夫人はいきなりエヴゲーニイにこういった。「わたしあんたにはあきあきしました……」
「もうずいぶんおそいようだ!」とイッポリートは、きまり悪そうにあたりを見まわしながら、おびえたように、とつぜん心配らしく立ちあがった。「ぼくすっかり皆さんをお引きとめしちまいましたね。ぼくはあなたがたになにもかもいっちまおうと思ったんです……ぼくはあなたがた皆さんが……おわかれに……しかし、それもこれもみなぼくの妄想でした……」
 見受けたところ、彼は突発的に元気づいて、二分か三分くらいうわごとのような状態からわれにかえり、ふいに完全な意識を取りもどしてさまざまのことを思いだしては、口にしているようであった。もっとも、その言葉は多く断片的で、おそらく孤独な病床に寝られぬ夜長の淋しいおりおり、ずっと以前から思いついて、そらんじていたものらしい。
「じゃ、さようなら!」と彼はふいにそぎ落とすような口調でいった。「けれど、あなたがたはぼくが平気でさようならをいえるとお思いですか? はは!」と自分で自分のまずい[#「まずい」に傍点]質問をいまいましげにあざけったが、またとつぜん、ちょうどいいたいことがうまく口に出て来ないのを、もどかしがるようなふうで、声高にいらだたしそうにいいだした。「閣下! まことにぶしつけなお願いではございますが、どうぞぼくの葬式にお立ち会いくださいませんか、ただし、そうしてくださるだけの価値があるとお思いになったらですが……そして、皆さんもどうぞ将軍につづいて……」
 こういって、彼はふたたび笑いだした。しかし、それはもう狂者の笑いであった。リザヴェータ夫人はびっくりして彼のほうへ寄り添いながら、その一方の手をつかまえた。イッポリートは例の笑いを含んだまま、じっと相手の顔を見つめていた。とはいえ、その笑いはもはやほんとうにつづいてるのではなく、あたかも顔の上に凍りついたまま残っているかのように見えた。
「じつはねえ、ぼくがここへ来たのは木を見るためなんですよ。ほら、あれですよ……(と彼は公園の木立ちを指さした)。ずいぶんおかしいじゃありませんか? え? ほんとうにおかしかありませんか?」と彼はまじめにリザヴェータ夫人にたずねたが、いそなり考えこんだ。やがてまたすぐに頭を持ちあげて、一心に群の中をさがしはじめた。彼はエヴゲーニイをさがそうとしたのである。エヴゲーユイは前と同じく、右側のあまり遠くもない場所に立っていたのだが、彼はすぐ忘れてまたさがしはじめた。「ああ、あなたお帰りになったのじゃないんですか!・」と彼はやっと見つけ出した。
「あなたはさっき、ぼくが窓ごしに十五分ばかり話をしようとしているとかいって、しきりに笑ってらっしゃいましたね……ほんとうのところ、ぼくはもう十八の子供じゃありませんよ。ぼくは長いこと枕の上に寢つづけて、長いあいだその窓をながめて、長いあいだ考えました……もう……ありとあらゆることを……死人には年がないってことを、あなたごぞんじですか。ぼくはつい先週、夜中にふいと目がさめたとき、このことを考えたんです……ところで、あなたは何をいちばんに恐れていらっしゃるか、おわかりですか? あなたはぼくたちの誠実を何よりも恐れていらっしゃるんです。もっとも、ぼくたちをばかにしきってはおいでですがね! このこともやはりその夜、枕の上で考えたんですよ……ねえ、奥さん、ぼくがさっきあなたを笑いぐさにしようとしたなんて、そんなことを思ってらっしゃるんですか? いいえ、ぼくはあなたのことを笑ったりなんかしやしません、ぼくはただあなたを賛美しようとしたんです……コーリャの話に、公爵があなたのことを子供だと言われたそうですが……それはほんとうのこってす……おや、いったいぼくは……なにかまだいいたいことがあったのになあ……」
 彼は両手で顔をおおうて考えこんだ。
「ああ、こうなんです。さっきあなたがさようならとおっしやったとき、ああ、ここにこういう人たちがいるが、この人たちもすぐにみんななくなってしまうのだ。永久に! とふいにこんなことを考えました。そして、この木立ちもなくなってしまい――残るのはただ煉瓦の壁ばかり……ぼくの窓の真向かいにあるマイェルの家の赤い壁ばかり……おい、やっこさん、こういうことをすっかりあの連中にいってみろ……ためしにいってみろ。ほら、ここに絶世の美人がいる……ところが、おまえは死人じゃないか、死人でございますって名乗りを上げろ。『死人は何をいってもかまわない』つてそういってみろ、公爵夫人マリヤ・アレクセエヴナも叱りゃしないって、そういわないか、はは! おや、皆さん笑ってらっしゃらないんですか?」と彼は猜疑の目をもってあたりを見まわした。「ところでねえ、まくらに頭を載せてじっとしていると、いろんな考えが浮かんでくるんですよ……じつは、ぼくね、自然は皮肉なりと確信しました……あなたはさっきぼくを無神論者だとおっしゃったでしょう。ところが、この自然は……なんだってあなたがたはまた笑うんです? あなたがたはじつに残酷な人たちですねえ!」と彼はふいに沈みきった憤懣を声に響かせながら、一同を見まわすのであった。「ぼくはけっしてコーリャを堕落さしたりなんかしませんよしとつぜん思い出したように、彼は今までとまるで違った、まじめな、なにか思いこんだような調子で言葉を結んだ。
「ここにいる人はだれも、だれもおまえさんのことを笑ったりなんかしやしないから、心配おしでないよ!」とリザヴェータ夫人はほとんど苦しそうな様子でいった。「あすは新しいお医者を呼んで来ます、前の医者は見立てちがいをしたんです。まあ、おすわりなさいってば、足もとがよろよろしてるじゃないの! まるでうわごとばかり……ああ、この人をいったいどうしたらいいんだろう!」とリザヴェータ夫人はうろうろしながら彼を肘いすにすわらせた……
 彼女の頬には涙がぼちりと光った。
 イッポリートは、まるで雷に打たれたように立ちどまり、片手を上げ、おずおずとさし伸べながら、この涙にさわってみた。彼は妙に子供らしい笑いかたで、ほほえんだ。
「ぼく……あなたが……」と彼は妙に嬉しそうにいいだした。「あなたはとてもおわかりになりますまいね、ぼくがどれだけあなたを……この男はいつもぼくをつかまえて、あなたのことを夢中になって話して聞かせるんです、そら、この男、コーリャです……ぼくは、もうこの男の夢中になるのが、好きでたまらないんですよ。ぼくはけっしてコーリャを堕落なんかさせやしません! でも、ぼくはこの男をうっちゃって行かなきゃならない……はじめ、ぼくはだれも彼もみんなうっちゃって行こうと思っていたけれど、そんな人はだれもいませんでした、だれもいませんでした……ぼくはまた行動者たらんとも欲していました、そして、その権利を持っていたのです……おお、ぼくはなんと多くのものを望んだことだろう! しかし、今はぼくなんにも望みません、なんにも望むことを欲しません。ぼくはもうなんにも望まないという誓いを立てたのです。ぼくがいなくっても、ほかの人が真理を探求するでしょうよ! じっさい、自然は皮肉ですねえ! なぜ自然は」と彼は熱を帯びた調子で突っこむようにいった。「なぜ自然は、ただただ冷笑せんがためのみに、最も優れたるものを創り出すのでしょう? 自然は、この地上におけるすべての人が完全の典型と認めるほどの唯一無二の人を世に示しながら、恐ろしい流血の原因となるべき言葉を発せざるを得ないような運命をその人に与えたじゃありませんか……その血、その血がもし一時に流れたら、人類はきっとむせ返ったに相違ありません! ああ、ぼくが死んでゆくのは、かえっていいことなんだ! ぼくも生きてたら、やはりなにか恐ろしいうそをいったかもしれませんからね。自然がそんなふうに仕向けるに相違ありません!………ぼくはけっしてだれも堕落なんかさせやしませんでした……ぼくはただ万人の幸福のため、真理の発見宣伝のために生きたかったんです……ぼくはマイエルの家の壁を窓ごしにながめながら、わずか十五分ばかり話しているうちに、ありとあらゆる者を帰服させたいと思ったことがあります。ところが、一生のうちにただ一度……あなたひとりと意気投合しました、万人というわけにはいかなかったけど!………しかし、こんなことをいってみたところで、かちえたものはなんでしょう! 何もありません! かちえたのは侮蔑ばかり! 要するにばかなんです、つまり用のない人間なんです、つまり時が来たんです! しかも、なにひとつ思い出となるべきものを残しえずに――音もなく、足跡もなく、たった一つの事業もなく、これという信念を宣伝することもできないで!………どうかこのばか者を笑わないでください! 忘れてください! すっかりみんな忘れてくださればいいんです……どうかただ忘れてしまって、残酷な取り扱いをしないでください! じつをいいますとね、たとえこんな肺病にかからなかったにしろ、どうせぼくはやはり自殺でもする人間なんですよ……」
 彼はまだまだしゃべりそうなふうであったが、急にいいさしてひじ掛けいすに身を投げ出し、両手で顔をおおって、子供のように泣きだした。
「まあ、ほんとうにこの子をどうしろとおっしゃるの!」と叫びながら、リザヴェータ夫人は彼のほうへとかけ寄って、その頭に手をかけ、しっかりと自分の胸へ抱きしめた。彼は痙攣的にしゃくりあげて泣くのであった。「さあさ! さ、泣くのはおよし、たくさん、おまえさんはいい子なんだよ、おまえさんはなんにもものを知らないから、そんなことをおいいだけれど、それは神さまがゆるしてくださる。さ、たくさんです、男らしくなさいよ……それに、おまえさん恥ずかしいとは思わないの……」
「ぼくにはね、あっちのほうに」と、頭を持ち上げようとつとめながら、イッポリートがいいだした。「あっちのほうに弟がひとりと、妹がふたりあるんです、まだ頑是ない、かわいそうな、罪のない子供なんです……あのひと[#「あのひと」に傍点](イッポリートの母、大尉未亡人をさす)がこの子たちをめちゃめちゃにしちまいますから、――奥さん――マドンナのような奥さん……あなたはご自身が子供なんですから……あの子たちを救ってください! あの子たちをあの手から奪ってください! あのひとは……ああ、いうのも恥です! おお、あの子たちを助けてやってください、助けて……そのかわりに神さまが、それを百倍にして返してくださいます、後生です、一生のお願いです!………」
「ほんとうになんとかいってくださいな、あなた、いったいどうしたらいいんです!」じりじりしたような声でリザヴェータ夫人が、イヴァン将軍に叫んだ。「お願いですから、そのもったいらしい無言の行を破ってください! あなたがなんとかきめてくださらなけりや、わたしはここへ居残って泊まりますから、そうお覚悟を願います。あなたは今までひとりで権力をふりまわして、ずいぶんわたしをおいじめなすったんですからね!」
 リザヴェータ夫人は夢中になってこう問いかけながら、猶予のない返事を待ち設けていた。しかし、こういう場合その座に居合わすものは、よしその人数が大勢であっても、ただ事なかれ主義を守って、おおむね沈黙と消極的な好奇心をもって報いるのみで、ずっとのちになってから、自分の考えを述べるものである。この場合に居合わせた人々の中には、ただひと言も口を出さないで、夜が明けようと朝になろうと、平気で腰を落ちつけていそうな連中もあった。たとえば、ヴァァルヴぁーらのごときがそれで、彼女はこの晩ずっとすこし離れたところにすわって、無言のままいっさいの様子を、ひとかたならぬ好奇心をもって聞いていた。もっとも、それはなにか仔細のあることかもしれぬ。
「わたしの意見をいわせればね、リザヴェータ」と将軍がきり出した。「今この場合、必要なのは、いわばむしろ看護婦で、われわれの大騒ぎじゃない。そして、なんなら、頼もしいまじめな人がひと晩いてくれるといいんだがな。しかし。なんにしても、公爵に相談して……安静を与えなくちゃならん。あすになったら、またなんとかご相談に乗ってもいいじゃないか」
「もう十二時だ、わっしたちゃそろそろ出かけますよ。イッポリートはいっしょに行くんですか、それとも、あなたんとこへおじゃまになるんですかね?」とドクトレンコはいらだたしそうに、ぷりぷりしながら公爵にきいた。
「なんなら、きみがたもいっしょに泊まって行かれたらいいでしょう」と公爵はいった。「場所はありますから」
「閣下」思いがけないケルレルが、いかにも感激したようなふうで、将軍のそばへかけよった。「もし今夜ひと晩の看護に信頼すべき人が必要でしたら、わが輩よろこんで友達のために犠牲となります……あれはじつに愛すべき男です! わが輩はとうからあの男を偉人として尊敬しています、閣下!わが輩などはもちろん、修養の点においては欠けておりますが、この男になにか批評でもさしたら、まるで真珠です、咳唾珠をなすといっていいくらいです、閣下!」
 将軍はたまらぬといったように顔をそむけた。
「ぼくはむろん、あの人に泊まっていただければ嬉しいです、ええ、あの人はどうしたって汽車なんかに乗るわけにいきません」リザヴェータ夫人の癇性らしい問いに答えて、公爵はこう説明した。
「おまえさんはいったい居睡りでもしてるの? もしいやだったら、わたしが、この子を家へつれて帰りますよ! おや、まあ、この人までが今にも倒れそうな顔をしてる! いったいあんた具合でも悪いの?」
 リザヴェータ夫人はさきほど公爵が、いまわの床にふしていないのを見たとき、その様子から察して、公爵の健康状態をあまりよいほうへ誇張して考えすぎたのである。しかし、ついさきほどまでの病気、それに伴う苦しい回想、こと多かりしこの一夜の疲れ、『パヴリーシチェフの息子』事件、それから今のイッポリートの事件、――これらすべてのものが寄ってたかって、病的に鋭敏な公爵の感受性を、ほとんど熱病的な状態に達するまでにいらだたせたのである。しかし、なおそのほかに、いま彼の目の中にはなにかまだ別な心づかい、むしろ危惧の念とでもいうようなものが映っていた。彼は、イッポリートがまだなにか仕出かしはしないかと心配するように、恐るおそるイッポリートをながめていた。
 ふとイッポリートは、ものすごいほど青い顔をして立ちあがった。そのひん曲がった顔には、捨て鉢に近いような恐ろしい羞恥の色が浮かんでいた。こうした表情は、主として、憎にくしげにまた臆病そうに一同をながめる視線と、ぴりぴりふるえるくちびるにただようねっとりした、気力のない、ゆがんだような冷笑に現われるのであった。が、その視線を彼はすぐ下に落として、依然微笑を含んだまま、露台の出口のあたりに立っているブルドーフスキイと、ドクトレンコのほうへよろよろしながら歩いて行った。この人たちといっしょに婦ろうというのであった。
「ああ、これをぼくは心配してたんです!」と公爵は叫んだ。「きっとそうに違いないと思った!」
 イッポリートはきちがいじみた憎悪をもって、くるりと彼のほうへ振り返った。その顔面筋肉の一本一本がぴりぴりふるえながら、ものをいうように思われた。
「ああ、あなたはこれを心配してたんですか!『きっとそうに違いないと思った』んですって、じつをいいますとね」と彼は口から泡を飛ばしながら、のどにかかったような甲高い声でわめいた。「もしぼくがここにいる人の中で、だれか憎んでるものがあるとすれば(ぼくはあなたがたをみんなみんな憎んでいるけれど)、ことにあなたを――仮面《めん》かぶりの、口さきのうまい若さまの、白痴の、百万長者の慈善家のあなたを、世界じゅうのだれよりも何よりもいちばんに憎みます! ぼくはとうからあなたという人を見透して憎んでたんです。まだうわさだけしか知らなかった時分から、ぼくは心内にありったけの憎悪を傾けてあなたを憎んでたんです……今夜のことはみんなあなたが仕組んだわざです……ぼくを発作に近い状態へ導いたのもあなたのしわざです! あなたは死にかかってる病人に恥をかかせました、ぼくのさっきの大人げない所作はあなたの罪です! ぼくがもし死なないで生きてたら、きっとあなたを殺すでしょうよ! あなたのお慈悲なんぞに用はありません、そんなものだれからも貰いやしない、よござんすか、だれからもなんにも貰わないから! さっきぼくは熱に浮かされてたんだから、あなたたちは得意になる権利などないんだ……ぼくはあなたたちをみんな永久に呪います」
 といって、彼はすっかり息をつまらしてしまった。
「さっき泣いたのが自分で恥ずかしくなったのです」とレーベジェフはリザヴェータ夫人にささやいた。「『きっとそうに違いないと思った!』なんて、どうも公爵! すっかり見透しましたね……」
 しかし、リザヴェータ夫人は彼に一ベつすらも与えなかった。彼女は傲然と身をそらし、頭をうしろへぐいと引いて突っ立つたまま、軽蔑のまじった好奇の目をもって、この『連中』を見まもっていた。イッポリートの言葉が終わったとき、将軍はちょいと両肩を揺すり上げたが、夫人は『いったいその所作はなんですか?』とでもいいたそうに、腹立たしげに頭のてっぺんから足の爪先まで夫をねめまわした。が、すぐにまた彼女は公爵のほうへ向き直って。
「公爵、うちの突飛な親友さん、どうもありがとう、わたしたち一同に愉快なひと晩を過ごさしてくだすって……たぶん、わたしたちをこのばか騒ぎに巻きこんでやったと思って、嬉しくってたまらないのでしょう……もうたくさん、ありがとう、せめてわたしに自分の姿をよっく見さしてくだすっただけでも、お礼を中さねばなりません!………」
 と夫人はぷりぷりしながらケープを直しはじめ、『あの連中』が出て行くのを待っていた。間もなく『あの連中』のところへ辻待の軽馬車がやって来た。それは、まだ十五分ばかり前にドクトレンコが、レーベジェフの息子の中学生を走らせて呼んで来たのである。将軍も夫人のあとからすかさず口をいれた。
「公爵、じっさい、わたしはまるで思いもよらんかったですよ!………ことに、ことにああして親密に交際していただいたあとだからね……それにまたリザヴェータも……」
「まあ、どうして、こんなことができたんでしょう!」と叫んで、アデライーダは公爵に近寄り、握手を求めた。
 公爵は茫然自失したように、彼女の顔を見てほほえんだ。ふいに早口なささやきが、熱した彼の耳を焼いたように感じた。
「もしあなたがこのけがらわしい人たちを、今すぐうっちゃ っておしまいにならなければ、あたしは一生、一生あなたを憎みますよ!」とアグラーヤがささやいたのである。彼女は激昂の極に達している様子であったが、公爵がその顔を見るすきもないうちに、すばやく体をかわしてしまった。けれど、公爵には今さら『うっちゃってしまう』べき人もものもなかった。病人のイッポリートはみんなでどうかこうか辻馬車に乗せて、行ってしまったので。
「どうでしょう、あなた」とリザヴェータ夫人は夫にいった。「まだ長くいつまでもこんなことがつづくんでしょうか、あなた、なんとお考えになります? まだまだわたしはあの意地悪な小僧どもにいじめられなくちゃならないんですか?」
「なに、おまえ……わたしもちゃんと覚悟があるし……公爵も……」
 エパンチン将軍も同様、公爵に手をさし伸べたが、握りしめる暇もなく、リザヴェータ夫人のあとを追ってかけだした。夫人は騒々しいもの音を立てながら、ぷりぷりして露台をおりて行った。アデライーダと婚約の夫、それからアレクサンドラなどは、真底から愛想よく公爵に別れを告げた。エヴゲーニイもその数にもれなかったが、これはひとりではしゃいでいた。
「案の定でしたね! ただあなたまでがお気の毒な、ずいぶん苦しい思いをしましたね」彼はなんとも言えぬかわいい薄笑いを浮かべてささやいた。
 アグラーヤは別れを告げずに帰って行った。
 しかし、この夜の異変はこれのみではまだ終わらなかった。リザヴェータ夫人はまた一つ、じつに思いがけない人との邂逅で、苦しい思いをしなければならなかった。
 夫人が階段を伝って、公園をぐるりと取り巻く往来までおりきらぬときに、二頭の白馬をつけた目のさめるようなりっぱな馬車――幌馬車が、公爵の別荘のそばを疾駆して過ぎた。馬車の中には、盛装の貴婦人がふたりすわっていた。けれども、十歩と乗り過ぎないうちに、馬車はふいにぴたりととまった。貴婦人のひとりは、自分にとって見すごしのならぬ知人が目に入ったようにとつぜんうしろを振り返った。
「エヴゲーニイさん! まあ、あんたでしたの?」とふいに澄みきった美しい声が響きわたった。その声を聞いたのは、公爵のほかに、いまひとりだれかあったらしい。「ああ、ほんとうに嬉しい、とうとうさがし出してやったわ! わたし、あんたのために町へわざわざ使いを出したのよ、ふたりまで! 一日あんたをさがしまわったわ!」
 エヴゲーニイは雷に打たれた人のように、階段の途中で立ちすくんだ。リザヴェータ夫人もその場にじっとたたずんでいたが、エヴゲーニイと違って、恐ろしさに全身が麻痺したのではない。彼女はさっきあの『連中』を見すえたときと同じく、傲然と冷ややかな侮蔑の目をもって、この大胆不敵な女を見つめたのであるが、彼女はすぐにその目をエヴゲーニイヘ転じた。
「ニュースがあるのよ!」と澄みきった声がつづける。「クプフェルの手形のことは心配ご無用ですよ、ラゴージッが三万ルーブリで買い取ったから、わたしが説き伏せたのよ。すくなくも、とうぶん七月ばかりは安心しててよござんすわ。それから、ピスクープとかなんとかいうがらくた連中のほうは、もともと知り合いの仲だから、たんとかうまく折り合うでしょう! ま、こんなふうに万事都合よく運んだの。ご機嫌よう。またあすお目にかかりましょうね!」
 幌馬車は動き出したが、見る間に消え失せた。
「あれはきちがいだ!」腹立たしさのあまり真っ赤になって、合点のいかぬ様子であたりを見まわしながら、エヴゲーニイが叫んだ。「何をあの女はいうのやら皆目わけがわからん! いったいなんの手形だ! いったいあの女は何者だ!」
 リザヴェータ夫人は、それからまだ二秒ばかりのあいだ、じっと彼をにらんでいたが、いきなり急に踵をめぐらして、わが家の方へ歩き出した。一同もそれにつづいた。ちょうど一分間たってから、エヴゲーニイが恐ろしい惑乱のていで、公爵の立っている露台へ引っ返して来た。
「公爵、まったくあなたは、今のことがなんだかおわかりになりませんか?」
「いいえ、なんにもわかりません」自分でもひととおりならぬ病的に緊張した心持ちにおちいっていた公爵はこう答えた。
「ごぞんじないですか?」
「ぞんじません」
「ぼくもわからないんです」とふいにエヴゲーニイは笑いだした。「ええ、ほんとうにあんな手形とかなんとかいうものには、なんの関係もないんです。いや、まったく、信じてください……おや、あなたはどうなすったのです、卒倒でもしそうなんですか?」
「おお、そんなことはありません、そんなことは、ほんとうです、けっしてありません……」

      11

 やっと三日目になって、エパンチン家の人々の機嫌が直った。
 公爵はいつもの癖として、多くの点において自分を責め、真底から懲罰を期待していたのだが、それでもはじめから、リザヴェータ夫人が自分に真剣で腹を立てるはずはない、夫人はどちらかといえば自分で自分に腹を立てたのだと、心のうちでかたく信じきっていた。ところが、こうしたにらみ合
いの時期が案外ながびくので、公爵も三日目あたりには、なんともいえぬ暗澹たる迷路に踏みこんでしまった。それにはいろいろな事情も手伝っていたのだろうが、主としてある一つのことが原因となったのである。しかも、それがこの三日間に、だんだんと公爵の猜疑心の中に根を張ってしまった(公爵はついさきごろから、二つの相反した性癖のためにみずから責めていた。すなわち、なみなみならぬ『ばかばかしいくらいしつこい』信頼心と、またそれと同時に『どす黒い陋劣な』猜疑心である)。手短かにいってみると、あのエクセントリックな貴婦人に関するできごとが、あの幌馬車の中からエヴゲーニイに話しかけた貴婦人の件が、三日目ごろになって謎のように薄気咏わるく、彼の心中に拡大されたのである。この事件の他の方面はしばらくおくとして、公爵にとってその謎の本体は、『この奇怪な新しい事件について、はたして自分に罪があるのだろうか、それともただ……』(彼はそのほかだれに罪があるのか、いいきらなかった)という悲しい疑問にほかならぬのであった。N・F・Bの頭文字にいたっては、公爵の見解によれば、あれはただほんの罪のないいたずら、というよりむしろ子供らしいいたずらで、こんなことをなにかと深く考えるのは恥ずべきことであり、むしろある点から見れば、ほとんど破廉恥な所業である。
 もっとも、あの公爵ひとりが『もと』で恐ろしい乱脈をひきおこした翌朝、公爵はS公爵とアデライーダの来訪の栄に接した。このふたりがやって来たのは、『主として[#「主として」に傍点]公爵の健康をたずねるため』に、ふたりきりの散歩のついでに立ち寄ったのである。アデライーダはそのすぐ前に、公園で一本の木を見つけた。珍しい古木で、長いうねうねした枝がいっぱい繁った上に若緑がさして、幹には洞や裂け目があった。彼女は、是が非でもそれを描いてみよう! と決めたといって、訪問の半時間をただこの話だけで持ちきった。S公爵はいつものとおり優しく愛想のいい調子で、公爵に以前のことをたずねたり、ふたりがはじめて知り合いになった当時を追懐したりした。そんなありさまで、ゆうべのことはいっさい口にのぼらなかった。が、とうとうアデライーダはこらえきれなくなって、にやりと笑いながら、じつはきょう微行《インコグニト》で来たのだと、白状した。自白はそれきりでおしまいであったが、それだけでも両親が、ことにリザヴェータ夫人が、なにかとくべつ不機嫌でいるのを察することができた。夫人のことも、アグラーヤのことも、おまけにイヴァン将軍のことさえも、アデライーダとS公爵は来訪中ひとことも口にしなかった。それから、また散歩にといって出ていくときも、公爵にいっしょに参りましょうとはいわなかった。わが家へ招待するなどということにいたっては、ほのめかすような調子さえなかった。この件に関しては、アデライーダがひとこと注意すべき言葉をもらした。自作のある水彩画の話をしたとき、彼女はふいにそれを公爵に見せたいと言いだした。『どうかして早くお目にかけたいものですがね! ああ、そうだ! もしきょうコーリャが来たら、その絵を持たせてよこしましょう。でなければ、あすわたしがS公爵と散歩に出るときに、自分で持ってまいりますわ』と彼女は決めたが、こうしてだれにも迷惑のないように、むずかしい懸案を上手に解決しえたのが、いかにも嬉しそうな様子であった。 最後に、もうほとんど別れの挨拶も済んだとき、S公爵はとつぜんおもい出したように、
「ああ、そう」とききだした。「ねえ、ムイシュキン公爵、あなた、あの婦人がだれだかごぞんじありませんか、ほら、ゆうべ馬車の中からエヴゲーニイを呼びかけた……」
「あれはナスターシヤ・フィリッポヴナです」と公爵は答えた。「ほんとうにあなたは今まで、あのひとがだれだかごぞんじなかったのですか? ですが、あのひとといっしょにいたのは、だれだか知りません」
「わたしも、うわさで知っています!」と、S公爵は受けた。「しかし、あの女のいったことは、いったいなんのこってしょう。じつのところ、それがわたしにとっても、またほかの人にとっても大きな謎なのです」
 S公爵はよそ目にもそれとわかるくらい、深い驚愕の念をいだいている様子であった。
「あの人がいったのは、なにかエヴゲーニイさんの振り出した手形のことなんです」と公爵の答えはおそろしく単純だった。「それがどこかの高利貸の手に入ったのを、あの人の頼みでラゴージンが引き取った。そしてラゴージンは、エヴゲーニイさんのために猶予するはずだ、とこういったんでしょう」
「それはわたしも聞きましたよ、聞きましたよ、公爵。しかし、考えてもごらんなさい、そんなことのありようがないでしょう! エヴゲーニイが手形なんか出すはずは、けっしてないじゃありませんか! あれだけの財産を持ってるんですもの……もっとも、以前は、持ち前の軽はずみからそんなことがあって、わたしも始末をしてやった覚えはありますが……しかし、あれだけの財産があるのに、高利貸に手形を渡して心配の種を作るなんて、ありうべからざるこってす。それに、あの男が、ナスターシヤと、『あんた』だのなんだのって、親しげな口をきき合うほどの間柄になるというのも、あるまじきことです、――つまり、謎というのは、おもにこの点にあるのです。あの男は、なんだかちっともわけがわからんといっていますが、わたしもそれを信じます。ところで、それはそれとして、公爵、ひとつあなたにおたずねしたいのは、このことでなにかお聞きこみになりませんか? つまり、なにかの奇跡によって、せめてあなたのところへなりとも、風説が伝わりはしなかったかと思いましてね」
「いいえ、なんにも知りません。誓って申しますが、ぼくは、この件には、けっしてなんの関係もないのですから」
「ああ、あなたはきょうどうなすったんですか? まるで人が違ったようですよ。どうしてあなたがこんな事件の関係者だなどと想像できるものですか?………いや、あなたはきょうだいぶお加減がわるいようです」こういいながら、彼は相手を抱いて接吻した。 「いったい『こんな』事件の関係者って、どんな事件なんです? ぼくには『こんな』事件なんてものは、すこしもないように見えますがねえ」
「疑いもなく、あの婦人はひとのいるところで、エヴゲーニイの持ってもいないし、また持つはずもないような性質を押しつけて、エヴゲーニイの妨害をしようと思ったに相違ありません」とS公爵はかなりそっけない口調で答えた。
 ムイシュキン公爵は、ちょっとまごまごしたが、依然として、もの問いたげに相手の顔をじっとながめつづけた。しかし、こちらは黙りこんでいた。
「でも、あれは単に手形だけのことではないでしょうか?ゆうべのことは単純にありのままに解釈すべきものではないでしょうか?」公爵はとうとう、たまらなくなったというふうにこうつぶやいた。
「だから、わたしがいうのじゃありませんか、まあ、ご自分で考えてごらんなさい。エヴゲーニイと……あの女と、おまけにラゴージンとのあいだに、どんな関係がありうるものですか? くりかえして申しますが、あの男の財産はじつにたいしたものです、それはちゃんとわたしにわかっています。そのほか、いま一つ別な財産を、伯父さんからもらうことになっているんですからね、つまり、ただナスターシヤが……」
 S公爵はまたもふいに口をつぐんだ。彼は明らかに、公爵にナスターシヤのことを話すのが、いやだったらしい。
「してみると、いずれにしても、あのひとはエヴゲーニイさんと知り合いなんですね」ちょっと一分間ばかり無言でいたムイシュキン公爵は、いきなりこうきいてみた。
「それはじっさいらしいのです、なにしろ軽はずみな男ですからね! ですが、もしほんとうだとしても、よほど前のことらしいです、まだあの……いや、その、二、三年も前のことでしょう。なにしろ、あの男はトーツキイとも知り合った仲ですから。しかし、今のところ、あんなふうなことはけっしてあるべきはずがないんです。『あんた』呼ばわりなんか、断じてあるべきものでないんです! あなたもご承知のとおり、あの女だって、ずっとこちらにいなかったんですからね。どこにもいなかったんですからね。あの女がまた姿を現わしたということは、たいていの人がまだ知らないでいるくらいです。わたしがあの馬車に気づいたのはこの三日ばかりで、けっしてそれより前じゃありません」
「りっぱな馬車ですわねえ!」とアデライーダがいった。
「ええ、ずいぶんりっぱな馬車です」
 こんな調子ではあったが、とにかくふたりはムイシュキン公爵にきわめて親しい、きわめて隔てのない心持ちをいだいて立ち去った。
 われらの主人公にとって、この訪問は甚大な意味を蔵していた。かりに公爵が昨晩以来(あるいはもっと前から)、種種の疑惑を重ねたとしても、この訪問を受けるまでは自分の危惧を肯定する気はなかった。ところが、今はなにもかも判明した。もちろん、S公爵はこの事件を誤って解釈しているが、それでもやはり事実の近くを徘徊していたのだ、ともあれ奸計[#「奸計」に傍点]のあることを見抜いたのだ。『もしかしたら、あの人は腹の中ではほんとうのことがわかってるかもしれない』と公爵は考えた。『しかし、ただそれを町言したくないので、わざと間違った解釈をしたのかもしれぬ』しかし、なにより明白なのは、人々が(つまりS公爵が)、なにか事実闡明の一助にもというつもりで、自分のところへやって来たことである。はたしてそうとすれば、自分はこの奸計の一味と思われているに相違ない。のみならず、もしこれがさほど重大な事実とすれば、あの女[#「あの女」に傍点]にはなにか恐ろしい目的があるに違いない、いったいどんな目的だろう! じつに恐怖すべきことだ!『どうしてあの女を引きとめたらいいのだろう? あの女[#「あの女」に傍点]がいったんこうと思いこんだら、どうしたって引きとめることはできない!』公爵はこのことをみずから経験して知っていた。『きちがいだ! きちがいだ!』
 しかし、この朝はまだほかにも雑多な解決のつかぬ事情が、あまりにも多く輻湊《ふくそう》して、それがみんな一時に猶予なき解決を要求するので、公爵はひどく憂欝であった。いくらか彼の気をまぎらしてくれたのは、ヴェーラ・レーベジェヴァである。彼女は赤ん坊のリューボチカを抱いてやって来て、なにやかや長いこと笑い笑い話して行った。そのあとから妹が口をぽかんとあけて遊びに来るし、最後にレーベジェフの息子の中学生も入って来た。この少年のいうには、かの地上の水の源に陥ちた『黙示録』の茵闥《いんちん》の星は、父親の講釈によると、ヨーロッパー円に広がっている鉄道網にほかならぬそうである。公爵は、レーベジェフがそんな講釈をするとは思われなかったので、いいおりがあったら早速、当人にきいてみることにきめた。公爵はまたヴェーラから、昨晩以来ケルレルがこの家へころがりこんで、いろいろな点から察するところ、しばらく出て行きそうもないということを聞き知った。それにはわけがある。この家にはなかなかいい相手がいて、ことにイヴォルギン将軍とは非常に仲よくなってしまったのである。もっとも、彼自身のいうところによれば、彼がこの家にとどまるのは、ただただ自分の教育を完成したいがためだそうである。こうして、一般にレーベジェフの子供たちは、しだいに日を追って公爵の気に入って来た。コーリヤは一日うちにいなかった。彼は早朝からペテルブルグへ出かけたのである(レーベジェフはやはり未明に、なにか自分の用向きで出発した)。しかし公爵は、きょうかならず自分のところへ来なければならぬはずになっているガーニャの来訪を、じりじりしながら待ち受けていた。
 ガーニャは午後六時すぎ、食事を終えるとすぐに訪ねて来た。公爵は彼の様子をひと目見ると、すくなくともこの人は事情を、誤りなく知っているに違いない、――またどうして知らぬはずがあろう、この人にはヴァルヴァーラとか、プチーツィンとかいう、りっぱな助手がついているのだもの、と考えた。けれど、公爵とガーニャの関係は、一種不思議なものであった。もちろん、公爵は彼に、ブルドーフスキイ事件の調査を委託して、そのために折り入って懇願したほどであるが、こうした信頼や、以前の関係などがあるにもかかわらず、おたがいになにもいいだすまいと約束でもしたようなところが、いつもふたりのあいだにちらほら見えていた。しかし、どうかすると公爵は、『もしかしたらガーニャがみずから進んで、いささかもわだかまりのない至情を披瀝したようなまじわりを求めているのではないか』と思われることがあった。たとえば、今も今とてガーニャが入って来るやいなや、今この瞬間こそすべての点でふたりのあいだの厚氷を打ち砕くべき時だといったふうの固い確信を、ガーニャの顔色に読めたような気持ちがした(もっとも、ガーニャは妙にせかせかしていた、というのは、妹のヴァーリャがレーベジェフのところで彼を待っていたからである。ふたりともなにかの用事で先を急いでいた)。
 けれど、もしガーニャが公爵のもどかしそうな質問や、われともなしに出て来る報告や、隔てのない心情の吐露などを期待していたとすれば、それはむろん非常な間違いである。この二十分の訪問のあいだじゅう、公爵はひどく考えこんで、ほとんどぼんやりしてるといっていいくらいであった。待ちもうけていた数々の質問、というよりむしろガーニャが待ちのぞんでいたある一つの重大な質問は、とても出そうになかった。で、ガーニャもすこし控え目に話そうと腹をきめて、二十分間というもの、口を休めずに、ごく軽い罪のないおしゃべりを早口につづけたが、重大な点には触れずに終わった。
 ガーニャはなにかの話のついでに、ナスターシヤがこのバーヴロフスクヘ来てから、たった四日ばかりにしかならぬのに、早くも世間の注意をひいていることを物語った。彼女はどこかマドロス街にあるダーリヤの粗末な小家に住んでいるが、その馬車はバーヴロフスク一番といいたいようなものである。彼女の周囲には、早くも老若の崇拝者が群れをなして集まり、どうかすると、騎馬の人が彼女の幌馬車に付き添っていることがある。ナスターシヤは以前のようになかなか穿鑿が厳しくて、仔細に吟味したうえで自分のそばへ近づけているのだが、それでもすでに一小隊くらいの人数ができて、まさかのときに頼る人は十分あるということだった。別荘ずまいの連中のうちで、もはや正式に婚約のできたある男が、彼女のために早くも相手の娘と口論したとか、ある年とった将軍が息子に対してほとんど呪いの言葉を浴びせたとか、うわさとりどりである。彼女はよくひとりの美しい少女を連れて乗りまわす。それはやっと十六か十七くらいの年ごろで、ダーリヤの遠縁に当たるとのことであった。この少女は非常に歌がうまいので、その小さな家は、夜ごとに通行の人の注意をひいている。とはいえ、ナスターシヤは貴婦人として恥ずかしからぬようにふるまって、身なりの好みもけばけばしくないばかりか、人なみ優れた趣味が現われているので、貴婦人たちはその趣味、美貌、幌馬車をしきりにうらやましがっている。
「ゆうべの突飛なやり口は」とガーニャは口をすべらした。「むろん、前々から企んでいたことですから、勘定に入れるわけにゃいきません。なにかあのひとに突っかかって行くのには、ことさら妨害運動をするか、それとも悪口でもしなけりゃなりませんが、それも、しかし、猶予しちゃいけません」とガーニャは結んだが、きっと公爵が、『なぜ昨夜の出来ごとを前々から企んでいたことというのか、そしてなぜ猶予してはならぬのか』ときくだろうと思ったのである。しかし、公爵はなんにもきかなかった。
 エヴゲーニイのことに関しては、べつになんともきかれぬ前から、ガーニャは長々と報告した。それも、なんのきっかけもなしにふいと持ち出したのだから、はなはだ具合が変であった。ガーニャの意見によると、エヴゲーニイは以前もナスターシヤを知らなかったし、今だって顔に見覚えがあるかないか、わからぬくらいである。なぜなら、彼はつい四日ばかりまえ散歩に出たとき、だれかからナスターシヤに紹介されて、一度その家へ寄ったことがあるにすぎない、しかも、ほかに連れがあったのである。例の手形の件は、ありそうなことである(ガーニャはこれを摧実に知っていた)。エヴゲーニイの財産の莫大なのは、言をまつまでもないが、『領地のほうの財政は、いくぶんか乱脈になっている………』といいさして、ガーニャはこの興味ある事実の報告をぷつりと断ち切った。ナスターシヤの昨夜の突飛な行動については、彼は右にちょっと述べたことのほか、ひとことも口に出さなかった。やがて、ヴァルヴァーラが兄につづいて入って来て、一分間ばかりすわっていたあいだに、やはりきかれもしないさきから、次のようなことを知らせた。エヴゲーニイはきょうあすのうちにペテルブルグへ行くし、夫のプチーツィンも同じくエヴゲーニイの用事で、同じくペテルブルグへ出発するはずである。じっさい、なにやら事件が持ちあがったらしい。彼女が帰りしなにつけ足したところによると、リザヴェータ夫人はきょうおそろしく不機嫌だが、なにより変なのは、アグラーヤが家じゅうのものと喧嘩したことで、しかも父将軍や母夫人ばかりが相手でなく、ふたりの姉たちとも言いあらそいをしたのである。『これなどはまったくよくないことで
すわ』とヴァルヴァーラはいった。ちょっと話のついでのようにこの最後の事実(公爵にとってはきわめて意味ぶかい事実)を報告すると、兄妹はいとまを告げて出て行った。『パグリーシチェフの息子』事件に関しても、ガーニャはやはり、ひとことも口にしなかった。それはうわっつらばかりの遠慮のためか、さもなくば『公爵の心持ちを察して』のことかもしれぬ。しかしとにかく、公爵は彼の骨折りで事件の落着したことを、あらためて礼をいった。
 やっとのことでひとりきりにしてもらえたのを喜びながら、公爵は露台をおりて往来を横切り、公園へ入った。どんなふうに『第一歩』を踏み出すべきかを熟考し、解決したかったのである。けれど、この『第一歩』は熟考すべき種類のものではなく、熟考せずにただただ決行すべき性質のものであった。にわかに彼は、こんなことをいっさいふり棄てて、もと来たほうへ引っ返し、どこか遠い田舎にでも引っこんでしまいたい、今すぐ、だれにも別れを告げずに立って行きたい、という激しい欲求を感じた。もう二、三日でもここにぐずぐずしていたら、この世界へ永久に引きずりこまれて、この世界が生涯の運命となってしまうだろう、と彼は痛感したのである。しかし、十分と考えないうちに、逃げ出すことは不可能だ、これは自分の意気地なさから出たことだ、自分の前にはある問題が展開していて、それを解決しないのは、すくなくともその解決に全力をそそがないのは、今の自分として許されないことだ、と、はらを決めた。こうした想念をいだいて家へ帰ったが、十五分間とは散歩しなかったのである。このとき彼は、じつにじつに不幸な人間であった。
 レーベジェフがやはりまだ不在だったので、夕方ケルレルは首尾よく公爵のところへ押しかけて来た。酔っぱらってはいなかったが、感慨にたえないという調子で、心情を吐露しながら懺悔話をはじめた。彼はぶっつけに公爵に向かって、自分は公爵に今までの仝生涯を話しに来た。パーヴロフスクヘ残ったのもそれがためだといった。この男を追い出すのは所詮不可能であった。彼はどんなことがあろうと出て行きそうになかった。ケルレルは長々と、とりとめない話をしそうな様子であったが、ふいに、まだ二口か三口しかいわぬうちに、もう結論へ飛び越してしまい、自分はあらゆる道徳の幻影を失って(それはもっぱら上帝に対する不信から生じたものであるが)、ついには盗みをするまでに立ちいたった、とうち明けた。
「あなたはほんとうに想像がつきますか!」
「ねえ、ケルレル君、ぼくだったら特別な必要もないのに、そんなことを自白しませんがねえ」と公爵はいいかけた。「もっとも、きみは自分にいいがかりをしておられるのかもしれませんね」 「いや、これはあなただけです、あなたひとりだけに、自分の精神的発育を助けたいと思っていうのです! ほかの人にはけっして口外することじゃありません。死ねば、この秘密は経帷子の下へ持って行きます! しかし、あなたはごぞんじないかもしれませんが、とてもごぞんじはないでしょうが、現代において金をもうけるってことは、じつにむずかしいもんですなあ! どこへ行けば金が手に入るんです、ひとつうかがいたいですよ。こういうと、いつも返事はただ一つです。『黄金か、ダイヤモンドを持って来い、それを抵当に金を貸してやろう』とこうです。つまり、わが輩の持ってないものばかり注文するんです。あなた、これが想像できますか? わが輩はとうとう腹を立てて、いつまでもじっと立ってたです。『エメラルドの抵当で貸してくれますかね』ときくと、『エメラルドなら貸そう』『いや、それはなによりだ』といってわが輩は帽子をかぶって外へ出ましたよ。ちぇっ、あんちくしょう、あいつらみんな悪党だ! ええ、そうですとも!」
「ところで、きみはほんとうにエメラルドを持ってたんですか?」
「どんなエメラルドをわが輩が持ってるとおっしゃるんです! いや、公爵、あなたはまだ光明的に、無邪気に、いわば牧歌的に人生を見てますね!」
 公爵は気の毒なというより、なんとなく良心のとがめを感じてきた。彼の胸にふとこんな考えが浮かんだ。『だれかの善良な感化の力を借りて、この男をなにかに仕立てあげることはできないかしらん?と思ったが、自分の感化は二、三の原因できわめて不適当であると考えた、――それは自卑心から出たことではなく、彼の特殊な物の見かたによるのである。だんだんとふたりは話に油が乗って、別れるのがいやなほどになった。ケルレルはしゃあしゃあとした平気な調子で、どうしてこんなことが話せるか、とても想像のつかぬようなことを自白するめで。あった。彼は新しい物語にかかるたびに、心に慚愧の涙が満ちあふれていると、むきになって誓った。そのくせ、彼の話しぶりは、自分のしたことを自慢しているような具合で、どうかするとふたりともきちがいみたいに、大きな声で笑い出さずにいられないほどおかしいことがあった。
「しかし、きみにはどこか子供らしいほど人を信じる心持ちと、なみはずれて正直なとどろがあります。それが大切なんですよ」最後に公爵がこういった。「まったくきみはこれだけでも、ずいぶん償いができるというもんです」
「わが輩は高潔です、高潔です、騎士のように高潔です!」とケルレルは夢中になって念を押した。「ところが、公爵、こんなことはみんな心の中で考えるだけで、いわゆるから元佩にすぎない。じっさいに現われるのとはまるで違うというのは、どうしたわけでしょう? 合点がゆかんです」
「そう落胆したものじゃありません。いまきみは自分の秘密をすっかりぼくにうち明けなすった、とこう罹実にいえますね? すくなくとも、きみがいま話されたものに、なにも補足することはできないでしょう? そうでしょうね?」
「できない?!」となにかしら哀れむような声で、ケルレルが叫んだ。「おお、公爵、あなたはまだそれほどまで、その、スイス的に人間を解釈されるんですか」
「まだなにかつけ足すことができるというんですか?」と臆病げな驚きの表情で公爵は問い返した。「じゃ、いったいきみはぼくから何を期待してたんです、どうぞいってください、それに、なんのためにぼくのとこへ来て、懺悔なんかしたのです?」
「あなたから? 何を期待していた? だいいち、あなたの淳朴な心を見ているだけでも愉快です。あなたと対座して話しをするのが愉快なんです。すくなくとも、いまわが輩の前にいるのは、最も善徳な人だということがよくわかりますからね……ところで、第二には……第二には……」
 と彼は文句につまった。
「たぶん金でも借りたいと思ったんでしょう」と公爵はまじめで単純な、それどころかいくぶん臆病げな調子で助言した。
 ケルレルはぎくっとした。彼は以前見せたような驚きの色を浮かべて、ちらりと公爵の目をまともにながめたが、やがて拳をもって強くテーブルをたたいた。
「これだ、この調子であなたは人の度胆を抜いてしまわれるんですよ! ね、公爵、お手柔らかに願いますよ。ふだんあんなふうな、黄金時代にも聞いたことのないような、淳朴で無邪気な態度をとっていられるかと思うと、にわかにそんな深刻な心理観察の矢でもって、人の心を突き通されるんですものね。が、失礼ながら、これには説明を要します。なぜというのに、わが輩は……わが輩は……いや、すっかり面くらっちまった! もちろん、究極の目的は、詮ずるところ、金を借りるにあるんです。しかし、あなたがいま金のことをきかれた調子は、まるでそんなことはすこしもとがむべきじゃない、それが当然だ、といったような具合でしたものなあ」
「ええ……きみとしてはそれが当然です」
「憤慨もなさいませんか?」
「ええ……なんだって?」
「まあ、聞いてください、公爵、わが輩がゆうべからここへ居残ってるのは、第一、フランスのブルダルウ大司教に敬意を表するためなんです(レーベジェフのところで三時まで酒燈の栓を抜きましたよ)。ところで、第二は(わが輩のいうことが正真正銘まちがいなしということは、ありとあらゆる十字架にかけて誓います!)わが輩がここへ居残ったのは、あなたにすっかり心の底から懺悔して、おのれの精神的発達に資せんがためだったんです。こういう考えをいだきながら、わが輩は涙にかきくれつつ、三時過ぎに寝ついたんです。このときのわが輩が高潔無比な人間であったことは、信じてくださるでしょうな。ところで、わが輩がこうして真底から、内面的にも外面的にも涙に暮れながら、(というのは、わが輩そのとき、とうとうしゃくりあげて泣いたからです、じっさい!)さて、いよいよ寝つこうとしている瞬間に、『どうだろう、最後にあの男から金を借りることはできんだろうか、懺悔をしたあとで』という憎むべき考えが浮かんで来たのです。こういう具合で、わが輩はなにかの『愁嘆場』みたいなふうに懺悔の腹案をしたのです。つまり、その涙で路を歩きよくしておいて、あなたが惻隠の情を起こしたときに、百五十ルーブリほど出させようと思ったのです。あなた。これを卑劣だとは考えませんか?」
「いや、それはきっとほんとうじゃないでしょう。これはその二つの事実が偶然いっしょになったのです、二つの考えが一時に浮かんだのです、よくあるこってす。ぼくなんかしょっちゅうですよ。それにしても、よくないことだと思いますね、そして、ケルレル誰、ぼくはなによりもこの点で自分を責めています。きみはまるでぼく自身の話をされたようですね。ぼくは時とすると、こんなふうに考えることがありますよ」公爵は深い興味を呼びさまされたかのように、おそろしくまじめな、誠実な調子で言葉をついだ。「つまり、『人間というものはだれでもそうだ』というのを口実にして、自分の行為を是認するようにさえなりかけたのです。なぜって、この二重[#「二重」に傍点]思念というやつを敵にして戦うのは、非常にむずかしいことですものね、ぼく覚えがありますよ。どこからやって来るのか、どうして生まれるのか、まったくはかりしることができません。ところで、きみは直截に卑劣だといわれる!そういわれてみると、ぼくはまたこの二重思念が怖くなりだしそうですよ。しかし、ぼくはきみの裁判官じゃありませんが、それにしてもぼくの考えでは、これを卑劣だといきなりいい捨てるわけにいかない、きみはどう考えます? きみは涙で全を引き出そうという奸策を講じた。しかしきみの懺悔にはまだほかに高尚な、金銭以外の目的があったと、現にいまきみ自身で誓ったじゃありませんか。ところで、その金のことですが、それはおそらく遊興に要るんでしょうね? そうだとすれば、あんな懺悔をしたばかりのきみとして、もちろんだらしない考えですよ。しばらく遊興から遠ざかるというのはどうです? やはり不可能ですか。どうしたらいいんでしょう? 結局、きみ自身の良心に委せるのが最上策でしょう、なんと考えます?」
 公爵はひととおりならぬ好奇心をもってケルレルをながめた。見たところ、二重思念の問題は前から彼の心を領していたらしい。
「いったいこんなあなたのような人を、なぜ白痴《ばか》白痴《ばか》というんでしょう、わけがわからん!」とケルレルは叫んだ。
 公爵はぽっと顔を赤くした。
「ブルダルウ大司教ですな、ああいう人でさえこんな男をゆるしはしなかったでしょう。ところが、あなたはわが輩をゆるしたうえに、人道的に裁断してくだすった! わが輩は自分に対する罰として、かつはわが輩が非常に感動したことを証明するために、百五十ルーブリを撤回しますから、どうぞ二十五ルーブリだけください、それでたくさんです! それだけあれば、すくなくとも、二週間はわが輩にとって十分です。二週間たたないうちに、金なんかけっしてねだりに米ません。じつはアガーシュカのご機嫌をとってやろうと思ったんですが、あんなやつ、それだけの価値がありません。おお、親愛なる公爵、ねがわくは神の祝福を受けたまえ!」
 たったいま帰ったばかりのレーベジェフが、そのうちにいよいよ入って来た。そして、ケルレルの握っている二十五ルーブリ札をみて、ちょっと顔をしかめた。けれども、金良平に入れたケルレルは大急ぎで逃げ出し、たちまち姿を消してしまった。レーベジェフはさっそく彼の讒訴《ざんそ》をはじめた。
「きみのいうことは公平を欠いています、あの人はほんとうに後悔しましたよ」最後に公爵はこう注意した。
「ですが、そんな後悔がなんです? ちょうどゆうべわたしが申したのと同じです!『卑劣です、卑劣です』というけれど、それはただ口さきだけです」
「じゃ、きみがああいったのは、口さきだけだったんですか、ぼくはまた……」
「では、ひとつあなたに、まったくただあなただけにほんとうのことを申します、あなたは人の腹ん中をお見通しなさいますからね。口さきも実行も、-うそもまことも、わたしの心の中じゃみんないっしょになっていて、みんなほんとうなのです。まことと行ないとは、ほんとうに心から後悔したときに出て来るのです。ほんとうになさろうと、なさるまいとご勝手ですが、わたしはけっしていつわりは申しませんので。ところが、うそと口さきは、どうかして人をつってやろう、後悔の涙で泣きおとしにかけてやろうという、鬼のような(といっても、だれしもありがちな)考えをおこしたときに出て来るのです。いや、まったく、そうしたもんです。ほかの者にはけっしていうところじゃなかったのです。いえば、笑うか唾を吐きかけるかします。けれど、公爵、あなたは人道的に判断なさいますので……」
「おや、たった今もあの人が、それと寸分ちがわないことをいいましたよ」と公爵は叫んだ。「それに、きみがたはふたりとも、まるで自慢でもするような調子ですね! きみがたにはあきれてしまいますよ。ただあの人のほうがきみよりも真実です。きみはまったく一個の職業にしてしまっています。いや、もうたくさん、レーベジェフ君、そんなに顔をしかめるのはよしてください、そして手を心臓に当てるのも……きみはなにかいうことがあるんじゃないんですか。ただやって来るわけはないでしょう……」
 レーベジェフは顔をしかめて、からだを縮こめた。
「ぼくはひとつきみにたずねたいことがあって、いちんちきみの帰りを待ってたんですよ。せめて一生に一度だけでも、最初からほんとうのことを答えてください。きみはあの昨夜の馬車事件にいくぶんか関係があるんでしょう」
 レーベジェフはまたもや顔をしかめて、ひひひと笑いながら、もみ手をし、くしゃみまでして見せたが、それでもまだ容易に口をきろうとしない。 「関係があるらしいふうですね」
「けれど、ほんの間接に、まったくただ間接にちょっと。わたしはほんとうに間違いのないとこを申しております。わたしが関係したというのは、ただわたしどもへ今こうした集まりがあって、その中にはこれこれの人がおられますということを、例のかたにおりを見計らってお知らせしただけなんで」
「ぼくは、きみが息子さんをあすこ[#「あすこ」に傍点]へ使いにやったのを知ってます。本人がさっきぼくにそう言いました。しかし、まあ、なんという小細工だろう!」と公爵はこらえかねて叫んだ。
「それはわたしのふ細工じゃございません、違います」とレーベジェフは両手を振った。「まったく別な人たちです、別な人たちです。それに、これは小細工と申すよりも、むしろその……空想のさせたわざでございます」
「ほんとにどうしたわけなんです、後生だから、うち明けた話を聞かしてください。これが直接ぼくに関係しているってことが、いったいきみにはわからんのですか。それに、エヴゲーニイさんの面目をつぶすようなことをしてるじゃありませんか」
「公爵、公爵のご前さま!」とレーベジェフはまたしてもからだを縮めて、「だって、あなたがわたしにほんとうのことを、そっくりいわしてくださらないのじゃありませんか。まったくのところ、わたしがあなたにほんとうのことを申しあげようとしたのは、一度や二度じゃございません。それでも、あなたはしまいまでいわせてくださらなかったので……」
 公爵はしばらく黙って考えていたが、
「じゃ、よろしい、ほんとうのことをいってごらんなさい」と重々しくいいきったが、、それまでにはだいぶ激しい心内の闘争があったらしい。
「アグラーヤさまが……」レーベジェフはさっそくきり出した。
「お黙んなさい、お黙んなさい!」と公爵は声あららかに叫んだが、その顔は怒りのために(あるいは羞恥のためかもしれぬ)真っ赤になった。「そんなことのあるはずがない、それはみんなでたらめです! それはみんなきみか、でなければきみのような気ちがいの考え出したこってす。ぼくは今後、けっしてきみからそんなことを聞かないから、そう思ってください!」
 その晩おそく、もう十一時近いころに、コーリャが新しい報告をしこたま持って来た。彼の報告はペテルブルグに関するものと、パーヴロフスクに関するものとふたとおりであった。ペテルブルグのほうはまたのちほどゆっくり話すつもりで、コーリャは大急ぎで、ごくかいつまんでの話をしたのち(それは主として、イッポリートと昨夜のできごととに関するものであった)、すぐさまパーヴロフスクの問題に移った。彼は三時間ばかり前にペテルブルグから帰って来たが、公爵のところへは寄らずに、すぐエパンチン家へおもむいた。『ところが、そこはまるでめちゃめちゃ』なのである。もちろん、そのおもな原因はあの幌馬車のことであったが、しかしそのほか、まだ彼にも公爵にもわからないことがなにかおこったに相違ないらしい。『ぼくはむろん、スパイなんかしやしなかったんですから、だれにも根掘り葉徊りきこうとは思わなかったのです。でも、ぼくが行ったら、なかなか歓待してくれましたよ。じっさい、思いがけないくらい歓待してくれた。でもね、公爵、あなたの話はひと口も出ませんでした!』とコーリャは報告した。
 が、なによりも不思議で重要なのは、さきほどアグラーヤがガーニャの肩を持って、家族のものと口論したことである。詳しい事情は知るよしもないが、とにかくガーニャの肩を持ったのは事実である。(まあ、いったいどうしたことでしょう! とコーリャがいった)。しかも、その口論がずいぶん猛烈だったから、なにか重大な事柄に相違ない。将軍は遅れてやって来た。エヴゲーニイと連れ立って来たのだが、不機嫌らしく眉をひそめていた。ところが、エヴゲーニイは一同から歓迎され、おそろしく快活で愛嬌があった。最も内容に富んだ報告は、リザヴェータ夫人がヴァルヴァーラを追い出した頤末である。夫人は、令嬢たちのところへすわりこんで話しているヴァーリャを自分の居間へ呼び寄せ、いたってもの静かな慇懃な調子で、永久にこの家へ足踏みしないように命じた。『ぼく、本人のヴァーリャから聞いたんです』とコーリャは、注を入れた。しかし、ヴァーリャがリザヴェータ夫人のもとを去って、令嬢たちと別れを告げたとき、令嬢たちは、彼女が永久に訪問をことわられて来たことも、これが最後の告別だということも知らなかった。
「けれど、ヴァルヴァーラさんは七時ごろに、ぼくのとこへ来ていらしったんですがね」と公爵は驚いてたずねた。
「しかし、追ん出されたのは七時すぎか、八時くらいでした。ぼくはヴァーリャとガーニャが、かわいそうでたまらないんですよ……あのふたりはいつもなにか悪企みをやってるに相違ない、そんなことでもしないじや、いられないんですからね。しかし、何を企んでるやら、ちっともわかんない、またわかろうとも思いませんよ。ですけどね、ぼくの大好きな公爵、誓ってもいいです、ガーニャには良心があります。にいさんは多くの点から見て滅びた人だけど、また多くの点において、さがして見つけ出してやるだけの価値のある性質をもっています。ぼくはもとあの人を理解しなかったのを、許すことのできない誤ちだったと思います……けれど、今ヴァーリャの一件をお話ししたあとで、ぼくとしてこのさきをつづけて話したもんでしょうかねえ。じっさい、ぼくはごく最初からぜんぜん独立して離れた立場にいたんですが、それでもやっぱり考えないといけませんものね」
「きみ、そんなににいさんを気の毒がっても、しようがないじゃありませんか」と公爵は注意した。「もし事件がそれほどまでに進行したものとすれば、ガヴリーラさんはリザヴェータ夫人の目にも、危険だと思われるようになったんでしょう、つまり、あの人のあの期待は裏書きされたわけなんでしょう」
「期待ってなんです、どんな期待です?」とコーリャはびっくりして叫んだ。「もしやあなたは、こんなことを考えてらっしやるのじゃありませんか、アグラーヤさん……が、そんなことのあろうはずがありません!」
 公爵は黙っていた。
「あなたは恐ろしい懐疑派ですね、公爵」二分間ばかりののちに、コーリャはつけ足した。「ぼく、なんだかあなたがいつごろからか、非常な懐疑派になったような気がしてなりません。あなたは何ものも信じないで、いつも臆測ばかりするようにおなんなさいましたよ……でも、ぼくがこの場合『懐疑派』という言葉を使ったのは、ほんとうに正確だったでしょうか?」
「正確なんでしょうね。もっとも、ぼく自分でもほんとうのことはわかりませんがね」
「ですが、ぼくのほうから『懐疑派』という言葉は撤回します。そのかわり新しい説明を見つけました」とふいにコーリャが叫んだ。「あなたは懐疑派でなくって、やきもちやきです! あなたは、ある高慢ちきなお嬢さんのことで、ガーニャにひどくやきもちを焼いてらっしゃるんです!」
 コーリャはいきなり飛びあがって、今までおそらくこんな笑いかたはできなかったろうと思われるほど、気持ちよくからからと高笑いした。公爵が顔中真っ赤になったのを見ると、コーリャはいっそう声高に笑いだした。公爵がアグラーヤのことでやきもちを焼いているという考えは、おそろしくコーリャの気に入ったのである。しかし、公爵が真剣に煩悶しているのに気がつくと、彼はすぐに笑いやんだ。それから、ふたりはまじめな心配らしい調子で、まだ一時間か一時間半ばかり話しつづけた。
 翌日、公爵はあるのっぴきならぬ用事で、午前中をペテルブルグに過ごした。もう午後の四時すぎたころ、彼はパーヴロフスクヘの帰途についたが、停車場でぱったりエパンチン将軍に出くわした。彼はいきなり公爵の手を取って、なんとなくびくびくしたようにあたりを見まわしながら、いっしょに帰ろうといって、公爵を一等車のほうへひっぱって行った。彼はなにやら重大な事がらで談合したいと、いっしょうけんめいなのであった。
「ねえ、公爵、まずどうかわたしに腹を立てないでくれたまえ。もしわたしがなにか悪いことをいったりしたりしたら、それも水に流してくれたまえ。わたしはゆうべきみのところへ訪ねて行こうと思ったんだが、ただこのことについてリザヴェータがどういうかわからなかったもんだからね……うちは……まるで地獄さ。なにか謎のようなスフィンクスの棲家になってしまったよ。わたしはただうろうろするばかりで、なんにもわからない。きみ一身に関していえば、わたしの考えでは、きみはわれわれのうちでいっとう罪が軽い。もっとも、きみのためにいろいろごたごたもおきたのはもちろんだがね。まったく、公爵、博愛家になるのは愉快なものに相違ないが、その愉快もたいしたものじゃないね。しかし、わたし自身もあるいは禁制の木の実を食べたほうかもしれないて。わたしはむろん善を奸むから、したがってリザヴェータをも尊敬している、が……」
 イヴァン将軍はまだそれから長いあいだ、こんな調子で話しつづけたが、その言うことは驚くばかりとりとめがなかった。極度に不可解なもののために昏迷し、惑乱しているらしかった。「きみがこの事件になんのかかわるところもないのは、わたしにとって微塵うたがいの余地もないさ」彼はやっとのことでいくらか明瞭に語りだした。「しかし、当分のあいだ、うちを訪ねないようにしてくれたまえ、このさき風向きの変わるまでね、親友としてお願いするのだから。ところで、あのエヴゲーニイ君のことにいたっては」と、彼はなみなみならぬ熱をもって叫んだ。「あれはなんの意味もない讒謗だ。讒。謗も讒謗、恐ろしい讒謗だ! あれはいいがかりだ。これにはなにか企みがある、すべてを瓦解させ、われわれを反目させようという手段だ。じつはね、公爵、これはここきりの話だが、われわれとエヴゲーニイ君とのあいだには、まだひと言もきり出されてないのだよ。わかるかね? われわれはなにものにも束縛されてはいない、――しかし、このひと言はいまにきり出されるかもしれない、もうすぐ近いうちに。こういうわけだから、これにじゃまを入れようという悪だくみなんだ! しかし、なんのために、なんのわけでというと、わたしは、さっぱりわからん。恐ろしい女、無鉄砲な女、わたしは夜もおちおち寝られんほどあの女がこわい。それに、あの馬車はどうだね、それに白い馬、まったくシ″クだ、じっさいあれはフランス語でいうシックじゃないか。だれがあの女に買ってやったものだろう? じつのところをいうとね、罪なことだが、わたしはおとといエヴゲーニイ君に疑いをいだいたよ。しかし、それはありうべきはずがないということがわかった。もしそんなことがないとすれば、なんのためにあの女はこのさい、じゃまを入れようとするのだ?ね、ね、じっさい、謎じゃないか! あの女が自分のそばヘエヴゲーニイ君を引きつけておきたいのか、しかし、またくりかえしていうが、同君はあの女と知り合いでもなんでもない。これはわたしがきみに誓ってもいい。そして、あの手形うんぬんはまったく捏造《ねつぞう》だ! あの往来ごしに大きな声で『あんた』呼ばわりをした、あの図々しい態度はどうだ! 純然たる奸策だ! わかりきったことだ、侮蔑をもって否定すべきことであり、またエヴゲーニイ君に対しては、尊敬を倍加すべき愚かなことだ。わたしはリザヴェータにもこのとおりにいっておいた。では、今度はわたしの極秘を聞かしてあげよう。わたしのかたく信ずるところでは、これはあの女
が以前のわたしの行為に対して、個人的復讐心からやったことではなかろうか。もっとも、わたしはけっしてなにもあの女に対して悪いことをした覚えはないけど、ただある一事を思い出しては赤面しているのだ。ところが、今となって、またしてもあの女が飛び出して来た。わたしはもうすっかり消えてなくなったものと思っておったに。いったいあのラゴージンはどこにいるのかね、お願いだから教えてくれたまえ。わたしはもうとうにあの女[#「あの女」に傍点]はラゴージン夫人かと思っておった」
 てっとり早くいえば、この人はすっかりとほうにくれているふうであった。道みち一時間ばかり、彼はほとんどただひとりで話しつづけ、さまざまな疑問を提出しては自分でそれを解決し、しょっちゅう公爵の手を握りしめるのであった。そして、いかなる件についても公爵に嫌疑をかけようなどとは思いもそめぬと、すくなくともそのことばかりいっしょうけんめいに誓った。これが、公爵には重大な意味を帯びて響いた。いちばんしまいに将軍は、ペテルブルグのある役所で長官を勤めているエヴゲーニイの親身の叔父に関する物語をした。
「なかなか羽振りのいい人で、年は七十からになるが、好色漢《すきもの》で、くい道楽で、なかなかの苦労人さ……はは! わたしはよく知ってるが、この人がナスターシヤのうわさを聞いて、手に入れようと骨を析ったものだ。先刻ちょっと寄ってみたが、加減が悪いとかで面会できなかった。しかし、金持ちでね、じっさい金持ちだ、そして位も高いし……まあ、どうか精々達者で長生きされるように! だが、なんといっても、遅かれ早かれエグゲーニイ君の于に入るのさ……さよう……しかし、わたしはそれでもやはりこわい! なんだかわからんがこわい……なにかしら空中を翔《かけ》っているものがあるような気がするんだ。ちょうど、こうもりかなんぞのように、災難が飛んでいるような……こわい、こわい!………」
 それからわれわれがすでに述べておいたごとく、ようやく三日目にエパンチン家とムイシュキン公爵とのあいだに、公式の和解が成立したのである。

      12

 午後七時ごろであった。公爵が公園へ出かけようとしているところへ、ふいにリザヴェータ夫人がたったひとり、彼の露台へ入って来た。
「一番に[#「一番に」に傍点]ことわっておきますがね」と彼女は口をきった。「わたしがあやまりに来たなんて、虫のいいことを考えないでちょうだい。ばかばかしい! なにもかもすっかりあんたが悪いんです」
 公爵は黙っていた。
「悪いの、惡くないの?」
「ええ、ちょうどあなたと同じくらいに。しかし、ぼくもあなたも意識的にはけっしてなにも悪いことなどしていません。ぼくはおととい自分が悪いと考えましたが、今はそれが間違いだという判断がつきました」
「まあ、あんたはそんなこと! ま、ま、ようござんす、わたしのいうことをお聞きなさい、そして、腰でもおかけなさいよ。わたしもここに突っ立ってる気は毛頭ありませんからね」
 ふたりは席に着いた。
「それから第二には[#「第二には」に傍点]、あの憎らしい小僧っ子どものことを、ひとことも口に山しちゃなりませんよ! わたしは十分間ここにすわって、あんたと話をしますからね。わたしはあんたにききたいことがあって来たんですよ(いったいあんたなんだと思ったの?)だから、もしあんたがただのひと言だろうと、あの生意気な小僧っ子どものことをおくびにでも出したら、わたしはすぐに立って出て行きます。そしたら、もうすっぱりあんたと絶交ですよ」
「いいです」と公爵は答えた。
「じゃ、ひとつききますがね、あんたはふた月か、ふた月半くらい前、復活祭のころアグラーヤに手紙を送りましたか」
「か、かきました」
「どんな目的があって? 手紙にはなにが書いてあったの?その手紙を見せてちょうだい!」
 リザヴェータ夫人の目はぎらぎらと燃え、からだはもどかしさにふるえんばかりであった。
「手紙はぼくのとこにありません」と公爵は度胆を抜かれて、急におじけづいた。「まだそっくりあるとすれば、アグラーヤさんとこにあるはずです」
「ごまかすんじゃありません! 何を書いたんです?」
「ぼく、何もごまかしもしなければ、恐れもしません、なにもぼくがアグラーヤさんに手紙を上げてはならぬってわけはないと思いましたから……」 「お黙んなさい! あとでなんとでもおっしゃい、手紙にはなんと書いてありました? なんだってあんた赤い顔をするの?」
 公爵はちょっと考えて、
「奥さん、ぼくにはあなたのお考えがわかりませんが、ただこの手紙がたいへんお気にさわったらしいことだけはわかります。ね、そうじゃありませんか、そんな問いに答えるのは、ぼくおことわりしたかもしれないんですよ。しかし、ただぼくがあの手紙のことを恐れてもいなければ、それを書いたのを後悔してもいず、またけっしてそれがために赤い顔もしないということを知っていただくために(こういった公爵の顔は前に倍して赤くなった)、あなたにその手紙を読んでお聞かせしましょう、たぶん暗記していると思いますから」
 こういって、公爵はほとんど一字たがわず手紙を暗誦した。
「なんてばかなこったろう? そんなでたらめになにか意味があると思ってるんですか?」と異常な注意をもって聞き終えた夫人は、言葉するどくたずねた。
「自分でもしっかりとはわかりません。しかし、ぼくの感情が真実だったとは思います。あの時分、ぼくはよく生命の希望に充ちた瞬間をたびたび経験しましたから」
「どんな希望?」
「どうも説明しにくいですが、ただあなたがいま考えておられそうなのとは違います。希望……って、つまり未来の希望、つまりその、あるいは自分もあすこで[#「あすこで」に傍点]まんざら縁もゆかりもない他人ではないかもしれぬ、といったふうな歓喜の希望なんです。ぼくは生まれ故郷のこのロシヤが、ふいに大好きになったのです。それで、ある太陽のかがやかしい朝ペンを取って、アグラーヤさんにあてた手紙を書いたんです。なぜアグラーヤさんにあてたかってことは――自分でもわかりません。まったく人はどうかすると、自分のそばに親友がいてほしいと思うことがあるでしょう。ぼくもやはり親友がほしくなったものと見えます……」しばらく無言ののち、彼はこうつけ加えた。
「あんたほれたんじゃないの?」
「い、いいえ。ぼく……ぼくは妹にあてるようなつもりで書いたのです。だから、署名も兄よりとしました」
「ふ、わざとでしょう、わかってますよ」
「ぼくはそんな問いにお答えするのが、つらくてなりません、奥さん」
「つらいのはわかってます、だって、あんたがいくらつらくたって、ちっともわたしの知ったことじゃありません。さ、わたしのいうことを聞いて、神さまの前に出たつもりでほんとうのことをいうんですよ。あんたうそをついてますか、ついてませんか?」
「ついてません」
「ほれていないってのはほんとうですか?」
「たぶん、まったくほんとうだと思います」
「ほらほら、『たぶん』だなんて! あの小僧っ子が渡したの?」
「ぼくはニコライ・アルダリオーノヴィチに……」
「小僧っ子ですよ! 小僧っ子ですよ!」とリザヴェータ夫人は憤怒の声あらく叫んだ。「わたしはニコライ・アルダリオーノヴィチなんて、いったいどんな人やら皆目知りませんよ! 小僧っ子です!」
「ニコライ・アルダリオーノヴィチです……」
「小僧っ子だっていってるじゃないの!」
「いいえ、小僧っ子じゃありません。ニコライ・アルダリオーノヴィチです」しっかりした、とはいえ、かなり低い声でついに公爵はこう答えた。
「ええ、よござんす、公爵、よござんす! これもちゃんと勘定に入れておくから」
 彼女はいっとき興奮をおさえて、ほっと息をついた。
「じゃ『貧しき騎士』つてなんですの?」
「まったく知りません、これはぼくの関係しないことです。おおかた、なにかのしゃれでしょう」
「まあ、思いがけなくおもしろいことを聞くものだ! だけど、いったいうちの娘があんたに興味を持ったのかしら?だって、あの子は自分の口からあんたのことを『片輪』だの『白痴《ばか》』だのといったんですものね」
「ぼくにそんなことを知らせてくださらなくてもよかったんですのに」とがめるような、がほとんどつぶやくような声で公爵はいった。
「怒んなさんなよ。あの子は甘やかされて育ったものだから、我が強くってきちがいみたいな女なんだからね、――だれか気に入ったとなると、きっと大きな声で悪口いったり、面と向かってからかったりします。わたしもちょうどあれと同じような娘でしたよ。ただね、後生だから、そう得意にならないでちょうだい、あんたのものじゃありませんからね。わたしはそんなことをほんとうにしようとは思いません、またそんなことけっしてあろうはずがありません! わたしはね、ただあんたがなんとか方法をつけるようにと思って、こんなことをいうんです。ね、誓ってちょうだい、あんたはあの女[#「あの女」に傍点]と夫婦になってやしないんだね」
「奥さん、何をおっしゃるんです、とんでもないことを!」
 公爵は驚きのあまり、いすから飛びあがらんぽかりであった。
「だって、今にも結婚しかねない勢いじゃなかったの?」
「ほんとうに結婚しかねない勢いでした」とつぶやき、公爵はうなだれた。
「じゃ、どうです、そうしてみると、あの女[#「あの女」に傍点]にほれてるんでしょう! 今度もあの女[#「あの女」に傍点]のためにやって来たんじゃないの? 例のあの?」
「ぼくは結婚などのために、ここへ来たんじゃありません」と公爵は答えた。
「なにかあんたにとって神聖なものがこの世にありますか?」
「あります」