『アンナ・カレーニナ』1-01~1-10(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

アンナ・カレーニナ
Анна Каренина
トルストイ
米川正夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)良人《おっと》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三千|町歩《デシャチーナ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)[#5字下げ]復讐は我にあり、我これを与えん

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Hatt'ich auch recht hu:bsch Plaisir!〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
https://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html

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[#5字下げ]復讐は我にあり、我これを与えん




[#2字下げ]第一編[#「第一編」は大見出し]



[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]

 すべて幸福な家庭はたがいに似かよっているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸の趣きを異にしているものである。
 オブロンスキイ家では何もかもがごった返しであった。良人《おっと》が、かつてわが家にいた家庭教師のフランス女と関係していることを知った妻は、もう一つ屋根の下に暮すことはできない、といいだしたのである。この状態はもう三日も続いて、当の夫婦はいうに及ばず、家族一同から召使にいたるまで、ひしとそれを身に感じた。家族のものも召使も、自分たちの共同生活には意味がない、どんな旅館にたまたま寄り合った人たちでも、自分らすなわちオブロンスキイ家の家族や召使よりも、互の繋《つな》がりが多いほどだ、といったふうの感じをもっていた。妻は自分の居間から出てこないし、良人はもう一昨日《おととい》から家によりつかなかったし、子供らは迷子《まいご》のように家じゅうを駆けまわっていた。家庭教師のイギリス人は家政婦と喧嘩《けんか》をして、どこか新しい口を見つけてほしいと友だちに手紙を出した。料理人はもう昨日から、食事時分をねらって、ふらりと出てしまった。台所女と馭者《ぎょしゃ》は暇をくれといいだした。
 一昨日、二人で喧嘩したあと、スチェパン・アルカージッチ・オブロンスキイ――社交界の呼び方に従えば、スチーヴァは、いつもの時刻、つまり午前八時に、妻の寝室でなく自分の書斎の、モロッコ革の長椅子の上で目をさました。彼は長椅子のバネの上で、手入れのよくゆきとどいた肥《ふと》りじしの体《からだ》を、くるりと捻《ね》じ向けて、もう一度ぐっすりひと寝入りするつもりらしく、クッションの反対側をぎゅっと抱きしめて、片頬をすりつけたが、ふいにぱっと跳《は》ね起きて、長椅子《ながいす》の上に坐り、眼を開いた。
『ええと、ええと、あれはいったいどうだったっけかなあ?』と彼は夢を思い起しながら考えた。『ええと、どうだったっけ? そうだ!――アラービンがダルムシュタットで一席設けたんだ。いや、ダルムシュタットじゃない、何かアメリカふうのとこだったっけ。そう、しかし夢の中じゃダルムシュタットアメリカにあったんだ。そして、アラービンはガラスのテーブルでごちそうして――そのテーブルが Il mio tesoro(わが貴きもの)を歌ったっけ。いや、Il mio tesoro じゃない。もっといいものだった。それから、なんだかちっちゃなフラスコが並んでて、それがみんな女なんだ』と彼は追憶にふけるのであった。
 オブロンスキイの眼は楽しげに輝きだした。彼は微笑を浮べたまま、物思いに落ちていった。
『そうだ、いい気持だった、ほんとうにいい気持だった。まだいろいろすばらしいことがあったんだが、言葉でも思想でも捉《とら》えようがない。だいいち、うつつには表現のしようがありゃしない』
 ふと、ラシャの窓掛の横から射しこんでいる光の縞に気がつくと、彼は元気そうに両脚《りょうあし》を長椅子からおろして、妻の手になる刺繍《ししゅう》入りの上靴を探りあてた。それは去年の誕生日の贈り物で、金いろがかったモロッコ革の飾りがついていた。それから、九年来の長い習慣で、自分の寝室のいつもガウンのかかっている場所へ、坐ったままで手を伸ばした。と、その時はじめて、なぜ、どういうわけで自分が妻の寝室でなく、書斎なんかに寝ているか、ということをとっさに思い出した。微笑が顔から消え、彼は額に皺《しわ》をよせた。
『ああ、ああ、ああ! ああ!………』いっさいのことを思い浮べて、彼は唸《うな》るようにこういった。すると、彼の想像にはまたしても妻とのいさかいの一部始終、進退きわまった自分の立場が、はっきりと映ってきた。わけても苦しいのは、自分が悪いという自覚であった。
『そうだ! あれは赦《ゆる》してくれやしない、また赦すことなどできないのだ。何よりも恐ろしいのは、いっさいの原因がこのおれでありながら、別におれが悪くはないということだ。そこにいっさいのドラマがあるのだ』と彼は考えた。『ああ、ああ、ああ!』あのいさかいの中で、特に苦しかった二、三の印象を思い起しながら、彼は絶望したようにこんなことを口走った。
 なによりも不愉快だったのは、最初の瞬間である。彼は浮きうきし満ち足りた気分で芝居から帰ると、妻へ土産《みやげ》の大きな梨《なし》を持って客間へ入ったところ、そこに妻の姿が見あたらず、驚いたことには、書斎にもいなかった。最後に妻の寝室へ行ってみると、彼女はいっさいを暴露《ばくろ》したあの不運な手紙を手に持っていたのだ。
 彼女――いつも何か忙しそうにあたふたしている、彼の考えによればたいして頭のよくないドリイが、手紙を手にしてじっと坐っていたが、恐怖と絶望と憤怒の表情で良人を見すえた。
「これはなんですの? これは?」と手紙を指でさしながら問いかけた。
 この時のことを思い出すと、よくあることだけれども、事柄そのものよりも、妻の問いに対する自分の返事のしかたのほうが、よけいにオブロンスキイを苦しめたのである。
 その瞬間、彼は何かあまりにも恥ずべき事を摘発された人がやるのと、同じようなことをしたのである。彼は自分の罪を暴《あば》かれた以上、妻に対して苦しい位置に立たされたわけであるが、その位置にふさわしいような顔つきを、うまく取りつくろうことができなかった。憤然として否定し、解明するなり、赦しを乞うなり、あるいはむしろ平然としていればよいものを――そのほうが彼のしたことに比べれば、まだましだったろう――彼の顔は全く無意識に(『脳神経の反射作用だ』と、生理学の好きなオブロンスキイは考えた)、全く無意識に、持ち前の善良な、したがって愚かしい笑い方で、ついにやっ[#「にやっ」に傍点]と笑ってしまったのである。
 この愚かしい微笑だけは、彼もわれながら赦すことができなかった。この微笑を見るやいなや、ドリイはまるで肉体的に痛みでも感じたかのように、ぎくっと一つ身を慄《ふる》わせ、熱し易い気性に任せて、ひどい言葉を雨霰《あめあられ》と浴びせかけたうえ、ぷいと部屋を駆け出してしまった。それ以来、彼女は良人の顔を見るのもいやだといいだしたのである。
『あのばかげた微笑がいっさいのもとなんだ』オブロンスキイは考えた。
『しかし、どうしたらいいのだろう? どうしたら?』と彼は絶望の念をいだきながらひとりごちたが、答えを見出すことができなかった。

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

 スチェパン・アルカージッチ・オブロンスキイは、おのれ自身に対しては正直な男であった。われとわが身を欺《あざむ》いて、おれは自分のした事を後悔している、などと無理に考えることはできなかった。当年とって三十四歳、美男子でほれっぽい人間である自分が妻に首ったけでなかった。――二人の死んだ子を合わせれば七人の子供の母親であり、自分より一つしか年の若くない妻に首ったけでなかったからといって、今さら後悔などするわけにはいかない。彼はただうまく隠さなかった点だけを後悔していたのである。とはいうものの、彼は自分の立場の苦しさは十分に感じていたし、妻や子供や自分自身をかわいそうに思っていた。この事件がこれほど強い打撃を妻に与えると知っていたら、彼も自分の罪をもっと上手《じょうず》に隠しおおせたかもしれない。彼は一度もこの問題をはっきりと考えたことはないけれども、なんだか妻はだいぶ前から良人の浮気に感づいていながら、見て見ぬふりをしている、というような気がぼんやりとしていたのである。それどころか、妻はもう年をとって、しなびて、器量も悪くなり、おまけにこれというところもなく、ただ善良な母親であり、一家の主婦であるというばかり、平々凡々の女であるから、公平に見たところ、もっと謙遜《けんそん》であってしかるべきもののように思われる。ところが、事実はまるで反対だったのである。
『ああ、恐ろしい! やれ、やれ、やれ! 恐ろしいことだ!』とくりかえすばかりで、オブロンスキイは何一つ考えつくことができなかった。『しかも、これまでは実にうまくいってたんだがなあ、みんな気持のいい暮しをしてたんだがなあ! 女房は子供に満足して幸福だったし、おれも何一つじゃまをせず、子供のせわも家事のめんどうも、すっかりあれの気まかせにしてたんだがなあ。もっとも、彼女[#「彼女」に傍点]が家庭教師として家に住みこんでいたのはよくなかった。わが家の家庭教師の尻を追いまわすということには、何か卑しい俗なところがあるからな。しかし、家庭教師とひと口にいっても! (彼はローラン嬢の悪戯《いたずら》っ子らしい黒い瞳と、その微笑をまざまざと思い浮べた)。だが、なんといっても、あの女が家にいる間は、おれはあえて手を出そうとしなかった。何よりもいけないのは、あの女がもう……いったいどうしたことなんだ、なにもかもがまるでわざとみたいに! やれ、やれ、やれ! しかし、どうしたもんだろう、いったいどうしたもんだろう?』
 答えはなかった、あるのはただすべて複雑をきわめた解決不能な問題にたいして、生活が与えてくれるあの一般的な答えばかりだった。その答えというのはほかでもない、その日その日の要求に従って生きていけ、換言すれば、忘れてしまえ、ということであった。もう眠りによって忘れることは、少なくとも夜がくるまで不可能である。もうあのフラスコの女が歌った音楽に帰って行くわけにはいかない。してみると、生活の夢の中に忘却を求めねばならぬ。
『まあ、どうなるか先でわかるだろう』とオブロンスキイはひとりごちて、立ちあがり、浅黄《あさぎ》の絹裏のついた鼠色の部屋着をひっかけ、紐《ひも》を結んで、広い胸郭に思うぞんぶん空気を吸いこみ、元気のいい足どりで(いくらか、がに股のその足は、彼の肥満した体をいとも軽々と運ぶのであった)、窓に近より、カーテンを上げて、高高とベルを鳴らした。ベルの響きに応じて、古い親友である侍僕頭のマトヴェイが、服と靴と電報を持ってさっそくはいってきた。マトヴェイのうしろから、理髪師が鬚《ひげ》そり道具を用意して入ってきた。
「役所から書類がきてるかい?」電報をとって、鏡の前に腰をおろしながら、オブロンスキイはたずねた。
「テーブルの上にございます」とマトヴェイは同情をこめたまなざしで、物問いたげに主人をちらと見て、こう答えた。それから少し待って、ずるそうな微笑を浮べながらつけ加えた。「貸馬車屋の親父が、使のものをよこしてまいりました」
 オブロンスキイはなんにも返事をしないで、ただ鏡に映るマトヴェイの顔をちらりと見やった。鏡の中で出会った二人の視線から察するところ、彼らはお互に腹をのみこみあっているらしかった。オブロンスキイの目つきは、『なんだってそんなことをいうんだい? おまえわかってるはずじゃないか?』ときいているようであった。
 マトヴェイはジャケツのポケットに両手をつっこみ、片足をうしろへ引いて、無言のまま、人のいい顔つきで、あるかなきかの微笑を浮べながら、主人の顔を見つめていた。
「わたくしはこの次の日曜にこいと申しつけました。そして、それまでは旦那さまのおじゃまをしたり、自分でもむだ足を踏んだりしないようにと申しました」と彼はいったが、明らかに用意しておいた文句らしかった。
 オブロンスキイは、ははあ、これはマトヴェイのやつちょっとおつなまねをして、おれの注意をひこうとしたのだな、と悟った。電報の封を切って、例のごとくまちがった言葉を想像でなおしながら読み終ると、彼の顔はぱっと明るくなった。
「マトヴェイ、妹が、アンナ・アルカージエヴナが、明日やってくるよ」長いふさふさとした頬髯《ほほひげ》のあいだに、バラ色の道をあけていた理髪師のふっくりとつやつやした手を、ちょっとおしとどめながら彼はこういった。
「ありがたいことで」とマトヴェイはいったが、自分も旦那さまと同様に、この知らせの意義を理解している。つまり、旦那さまのお気に入りの妹アンナ・アルカージエヴナなら、夫婦喧嘩の仲裁に力になって下さるだろうということを、この返事で暗示したのである。
「お一人でございましょうか、それともおふたかたお揃いで?」とマトヴェイはきいた。
 オブロンスキイはものがいえなかった。というのは、理髪師が上唇を剃っていたからである。そこで、彼は指を一本出して見せた。マトヴェイは鏡にむかってうなずいた。
「お一人で。では、お二階のほうにご用意いたしましょうか?」
「奥さまに伺ってみろ、どこかおっしゃるだろう」
「奥さまに?」と、何か疑わしげにマトヴェイはくりかえした。
「そうだ、伺ってみるんだ。それから、この電報を持っていってお渡ししろ、なんとおっしゃるか」
『ためしてごらんになろうというのだな』とマトヴェイは合点《がてん》して、ただ「かしこまりました」とだけいった。
 マトヴェイが靴をきしませてゆるゆると歩きながら、電報を手に書斎へ帰ってきたとき、オブロンスキイはもうちゃんと洗面をすまし、頭もきれいに梳《す》き上げて、これから着替えをしようというところであった。理髪師はもう部屋にいなかった。
「奥さまはもう出ていくから、なんとでもあの人の、つまり旦那さまのお好きなようになさるようにと、そうご返事申しあげろとおっしゃいました」とマトヴェイは目だけで笑いながらそういうと、両手をポケットへつっこみ、首をわきへ傾けながら、じっと主人に目をすえた。オブロンスキイはちょっとだまっていた。ややあって、いかにも人のよさそうな、いくらか惨《みじ》めな感じのする微笑が、その美しい顔に浮んだ。
「おい、マトヴェイ?」と彼は小首をひねりながらいった。
「なに、大丈夫でございますよ、旦那さま、しぜんと丸くおさまりますで」とマトヴェイはいった。
「丸くおさまる?」
「さようでございますとも」
「おまえそう思うかい? おい、だれだい、そこにいるのは?」戸の外に女の衣《きぬ》ずれの音を聞きつけて、オブロンスキイは声をかけた。
「わたくしでございます」というしっかりした、気持のいい女の声がしたと思うと、戸の陰から保姆《ばあや》のマトリョーナ・フィリモーノヴナのいかつい、あばたの顔がぬっとのぞいた。
「なんだね、え、マトリョーナ?」とオブロンスキイは、戸口の方へ出て行きながらたずねた。
 オブロンスキイは、妻にたいして一も二もなく申しわけのないことをしたのであり、彼自身もそう感じているにもかかわらず、家じゅうのほとんどすべてのものが、ダーリヤ・アレクサンドロヴナの無二の親友である保姆までが、旦那さまの味方なのであった。
「え、なんだね?」と彼は勢いのない声でうながした。
「旦那さま、もういっぺんいらしって、おわびをなさいませ。なんとかなると思いますから。奥さまは、見る目もおいたわしいほど苦しんでいらっしゃいますし、それに家の中もまるでてんやわんやでございます。だいいち、旦那さま、お子たちもかわいそうと思っておあげにならなければ。おわびをなさいまし、旦那さま。どうもいたしかたがございません、蒔《ま》いた種は……」
「しかし、入れてくれないだろう……」
「まあ、するだけのことをなさってごらんなさいまし。神さまはお慈悲ぶこうございますから、神さまにお祈りなさるんでございますね、旦那さま! 神さまにお祈りなさいませ」
「ああ、よしよし、あっちへいきなさい」とオブロンスキイはふいに顔を赤らめて、こういった。「うん、それじゃ着替えをさしてくれ」と彼はマトヴェイの方へふりむくと、思いきりよく部屋着を脱ぎすてた。
 マトヴェイは馬の頸輪のようなかっこうにこしらえて、もうちゃんと用意しておいたシャツを捧げて、目には見えない埃《ほこり》を吹きながら待っていたが、さも満足らしいようすで、手入れのよくとどいた主人の体にすっぽりかぶせた。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

 着替えを終ると、オブロンスキイは香水を吹きかけ、ワイシャツの袖をなおし、慣れた手つきでタバコや、紙入れや、マッチや、二重の鎖と小飾りのついた時計をほうぼうのポケットヘ突っこんで、さっとハンカチをひと振りすると、例の不幸があるにもかかわらず、自分という人間がさっぱりと清潔で、気持のいい香りを放ち、肉体的にも健康で、愉快な存在のように感じながら、一歩ごとに軽く身をふるわせて、食堂へ入っていった。そこにはもうコーヒーが彼を待っており、コーヒーのそばには手紙と、役所の書類が置いてあった。
 彼は手紙に目を通した。その一通ははなはだ不快な手紙で、妻の領地の森を買おうとしている商人からきたものであった。この森はどうしても売らなければならぬ事情になっていたが、今は妻と仲なおりができるまでは、そういうことは問題外であった。何よりもいやなのは、そのために目前に控えている妻との和解に、金銭上の利害関係が介入することであった。自分はそんな利害関係に左右されるかもしれない、この森を売りたいがために妻との和解を求める、などと考えると――そう考えただけでも、彼は侮辱《ぶじょく》を感ずるのであった。
 手紙を読み終ると、オブロンスキイは役所の書類をひきよせて、手早くページをめくって、二つの事件に目を通し、太い鉛筆でいくつかの印《しる》しをつけ、書類をわきへおしやって、コーヒーに手をかけた。コーヒーを飲みながら、まだ湿りけのある朝刊新聞を広げて、読みはじめた。
 オブロンスキイが購読していたのは、自由主義の新聞であったけれども、それは極端な立場に立っているのでなく、大多数の人々がいだいている程度の自由主義であった。彼は科学にも、芸術にも、政治にも、べつだん興味をいだいているわけではなかったが、これらのものにたいして、大多数の人がもっているのとおなじ見解をもち、大多数の人が変えるときだけその見解を変えた、というより、彼が変えたのでなく、見解のほうが彼の内部で自然と変っていくのであった。
 オブロンスキイは、主義も見解も選んだことはない、主義や見解が自分のほうから、彼のとこへやってくるのであった。それはちょうど、彼が帽子や上着の型を選択しないで、みんなのかぶっているのを買う、それと同じであった。ところで、見解をもつということは、彼のごとく一定の社会に住み、ふつう中年に達したころに発達する一種の思想活動の要求を感じている人間にとっては、帽子を持つのと同様に必須事である。どうして彼が、自分と同じ社会の人々も支持する人の多い保守主義の代りに、自由主義を選んだかということについて、もしも何か理由があるとすれば、それは彼が自由主義をより合理的であると感じたからではなく、このほうが自分の生活形式によりふさわしいからであった。自由党は、ロシヤでは何もかも悪いといっていたが、なるほどオブロンスキイは借財がたくさんあって、金にひどく不自由していた。自由党のいわく、結婚は古い廃《すた》れた制度であるから、ぜひとも改造しなければならぬ、と。全く家庭生活はオブロンスキイにたいした満足を与えず、嘘をついたり仮面をかぶったりさせた(が、そんなことは彼の性質としていまわしいものであった)。自由党のいわく、というよりも、むしろ暗示したのであるが、宗教は国民の中の野蛮な一部にとって轡《くつわ》にすぎない、と。実際オブロンスキイは短い祈祷式でさえも、足の痛みを我慢して立っている始末で、いったいこんな恐ろしいかつ仰々《ぎょうぎょう》しい来世の言葉が何の役に立つのか、合点《がてん》がいかなかった。彼にとっては、この世の生活だってきわめて快適だったのである。それと同時に、愉快な洒落《しゃれ》が好きなオブロンスキイは、もし種族を誇りたいなら、リューリックを固執《こしゅう》して、人類の始祖たる猿類を否定する法はない、などといって、おとなしい人間のどぎもを抜くことを、時に快としていた。こういうわけで、自由主義はオブロンスキイにとって、習慣となってしまった。で、食後の葉巻と同じように、自分の購読している新聞を愛した。なぜなら、彼の頭に軽いもやもやを生み出してくれるからであった。彼は今日の社説を読んだが、それにはこんなことが説明してあった。いま世間で過激主義がいっさいの保守的要素をのみつくすから、政府は革命という怪物を鎮圧すべく、ありとあらゆる手段を講じなければならぬ、といったような悲鳴がもちあがっている。が、それはまちがいであって、むしろ反対に、『吾人の見解に従えば、危険は偽装せられたる革命の怪物に非ずして、進歩を阻止する伝統の頑迷に存するのである。云々《うんぬん》』
 彼はもう一つ財政関係の論文も読んだ。それにはベンサムとミルのことが書いてあって、大蔵省をちくりとやっていた。彼は持ち前の勘のよさで、一つ一つの皮肉の意味がわかった。だれが、だれに向けて、どういう件で、この針を刺したのか、といったふうである。で、これもいつものごとく、彼にある程度の満足を与えた。しかし今日は、マトリョーナの忠告や、家の中がひどくごたごたしていることを思い出すと、せっかくの満足感がそこなわれた。それから、バイスト伯がヴィスバーデンへ到着したとの風説である、というニュースを読み、今後もはや白髪はなくなるという広告や、軽装馬車売りたしとか、妙齢の婦人の職を求む、などという案内欄にまで目を通したが、こういった記事も、以前のように、静かな皮肉の満足感を与えてくれなかった。
 新聞を読み終え、二杯目のコーヒーを飲んでしまい、バタつきのパンを食べ終ると、彼は立ちあがって、パンの粉をチョッキから払い落し、広い胸をぐっと張って、うれしそうににやりと笑ったが、それは心の中が特別うきうきしていたからではない――うれしそうな微笑を呼び出したのは、消化のよい胃の腑《ふ》であった。
 しかし、この喜ばしげな微笑は、とたんにいっさいのことを思い出させた。で、彼は考えこんでしまった。
 二人の子供の声が(オブロンスキイは末の男の子のグリーシャと、長女のターニャの声を聞きわけた)、戸の前で聞えた。二人は何かを曳《ひ》きずってきて、落したのである。
「だから、屋根の上にお客さまを乗せちゃだめっていったじゃないの」と女の子は英語で叫んだ。「さあ、拾いなさいよ!」
『何もかもごっちゃごちゃだ』とオブロンスキイは考えた。『あのとおり、子供たちはかってに飛びまわってる』彼は戸口までいって二人を呼んだ。二人は汽車にしてあった箱をおっぽり出して、食堂へ入った。
 父親の秘蔵っ子であるターニャは、勇敢に入ってきて、いきなり抱きつくと、いつものように笑いながら頸っ玉にぶらさがり、父親の頬髯から発散するなじみの深い香水の匂いを楽しむのであった。そして最後に、かがんでいるために赤くなりながらも、優しい愛情に輝く父の顔を接吻した後、女の子は両手をはなして、駆け出そうとした。が、父はそれをひき止めた。
「どうだね、ママは?」娘の滑《なめ》らかな優しい頸筋を撫でながら、彼はこうきいた。「お早う」と、朝のあいさつをする男の子に笑顔を見せながらいった。
 彼は、この男の子を愛する自分の気持が足りないのを自覚していたので、いつも平等にしようと努めていた。けれども、男の子はそれを感じて、父親の冷たい笑顔に微笑をもって応《こた》えなかった。
「ママ? 起きたわ」と娘は答えた。
 オブロンスキイはため息をついた。
『してみると、またひと晩じゅう寝なかったんだな』と彼は考えた。
「どう、ママはきげんがいいかい?」
 女の子は、両親の間に争いがあって、ママはきげんよくしていられない、そしてパパもそのことを知っているにきまってるくせに、それを軽々しくきくのは白《しら》を切っているのだ、ということを知っていた。で、父親のために顔を赤くしなければならなかった。父親のほうでもたちまちそれを見てとって、同じように赤面した。
「知らないわ」とターニャはいった。「ママは勉強なさいとおっしゃらないで、ミス・グールといっしょに、散歩かたがたお祖母《ばあ》さまのとこへいらっしゃいって、そうおっしゃったわ」
「じゃ、おいで、タンチューロチカ。ああ、そうだ、お待ち」やはり娘をおしとどめて、その華奢《きゃしゃ》な小さい手を撫でながら、彼はこういった。
 彼は壁炉《カミン》の上から、昨夜おいといた菓子の箱をとって、チョコレートのとポマードのと、ターニャの好きなのを二つやった。
「グリーシャの分?」と女の子はチョコレートのほうを指しながらたずねた。
「そう、そう」それからまた娘の肩を撫で、髪の根もとと頸筋に接吻して、やっとはなしてやった。
「お馬車の用意ができました」とマトヴェイがいった。
「それから、ご婦人のお客さまがいらっしゃいます」とつけ加えた。
「前からかね?」オブロンスキイはたずねた。
「かれこれ三十分ばかり前で」
「すぐに取り次がなくちゃいかんと、何度いったか知れないじゃないか!」
「だって、旦那さまもせめてコーヒーくらいおあがりにならなくちゃ」とマトヴェイはさも友だちらしくぞんざいな調子でいったが、それに対して腹をたてるわけにはいかないのであった。
「まあ、早くお通ししろ」いまいましさに顔をしかめながら、オブロンスキイはこういった。
 訪問客は二等大尉夫人カリーニナといったが、その依頼はわけのわからぬ、できない相談なのであった。しかし、オブロンスキイは、日ごろの習わしで席に着かせ、横から口を入れないで注意ぶかく話を聞いたあと、だれに、どんなふうに頼んだらいいかと、こまごました忠言を与えたばかりか、彼女の力になってくれる人物にあてた紹介状を、大きく縦長な、美しいくっきりした筆蹟で、元気よくみごとに書いてやった。二等大尉夫人を帰すと、オブロンスキイは帽子を手にとり、何か忘れたことはないかと考えながら、ちょっと足をとめたが、やはり何も忘れたものはなかった。忘れたいと思っていること――妻のこと以外には。
『ああそうだ!』彼は頭《こうべ》をたれた。と、その美しい顔は悩ましげな表情になった。『行ったものか、それとも?』と彼はひとりごちた。すると、内部の声はこんなことをささやいた、行く必要はない、そんなことをしたって、まやかし以外のものは何一つありえないのだ、二人の関係を旧《もと》に戻したり、とりつくろったりすることは不可能である。なぜなら、妻をもういちど魅力のある、愛情をそそるような女にすることも、彼自身を愛に無能力な老人にすることもできないからである。今となっては、まやかしと虚偽のほか、なんの結果も得られるはずがない。ところで、まやかしと虚偽は彼の気性として、いまわしいものなのである。
『とはいうものの、いつかはなんとかしなくちゃならない。だって、このまますますわけにはいかないじゃないか』自分で自分に勇気をつけようと努力しながら、彼はこういった。そこで、ぐっと胸を張り、タバコをとりだして吸いつけ、二度ばかりぱっぱっとやったあと、真珠貝の灰皿へほうり投げ、足早に客間を通りぬけて、妻の寝室へ通ずるもう一つの戸を開けた。

[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]

 ダーリヤ・アレクサンドロヴナは短い上衣を着、かつては濃くふさふさとしていたが、今ではもう薄くなった髪をピンでうしろ頭に留め、やせてげっそりこけた顔に、おびえたような目ばかりを大きく目立たせながら、部屋じゅうとり散らした荷物の間で、衣装戸棚《いしょうとだな》の蓋を開け、その中から何やら選《よ》り出していた。良人の足音を聞きつけると、戸口の方を見やって手を休め、自分の顔に厳しい、ばかにしたような表情を与えようと、むなしい努力をした。良人を恐れ、目前に迫った顔合わせを恐れているのを、自分でも感じていた。彼女はこの三日間にもはや十度も試みたことを、もういちど試みているところであった。ほかでもない、自分と子供らのものを選り分けて、母親のところへ運ぼうというのであったが、やっぱりそれも思いきってできなかった。しかし、今も前と同じように、これはこのままには棄《す》てておけない、何かの方法を講じて良人を罰し、面皮《めんぴ》を剥《は》ぎ、自分の受けた苦痛のせめて何分の一かでも、良人に復讐しなければならない、と自分で自分にいい聞かせていた。彼女は相も変らず、この家を出て行くのだといいながらも、それが不可能なのを感じていた。それが不可能なわけは、彼を自分の良人と考え慣れ、愛し慣れた気持を、棄ててしまうことができないからであった。のみならず、ここで、この家で五人の子供のせわをするのがやっとこさであってみれば、一同をひきつれて移ろうとしている里方《さとかた》では、なおさら子供らが不自由をするに相違ない。それを彼女は直感したのである。それでなくてさえ、わるい肉汁《ブイヨン》をやったために、末の男の子が病気になったし、ほかの子供らは昨日ろくろく食事らしい食事をしなかったではないか。出て行くのは不可能だ、と彼女は感じた。にもかかわらず、自分で自分を騙《だま》しながら、相変らず荷物をよりわけつつ、ほんとうに出て行くようなふりをしていたのである。
 良人の姿が目に入ると、彼女は手箱の引出しに手をつっこんで、何かさがしているようなかっこうをした。彼が妻のそばへちかぢかとよってきたとき、はじめて彼女はそのほうをふりかえって見た。しかし、彼女が厳しい断乎たる表情を与えようとしているその顔は、とほうにくれた、さも苦しげな表情を浮べていた。
「ドリイ!」と彼は静かな臆病らしい声でいった。彼は首を肩の間へすくめて、さもあわれっぽいおとなしいようすをしようと思ったが、それでもやはり、その体からはさわやかな健康の気が発散していた。ドリイは、さわやかな健康美に輝く良人を、ちらりと頭から足の爪先まで見まわした。
『そうなんだわ、この人は幸福で、満足しきっているんだわ』と彼女は考えた。『ところが、わたしは?………それに、あのいやらしい人の善《よ》さ、みんなはそのためにあの人を好いて、ほめているけれども、わたしはこの人の善さが憎らしい』と彼女は考えた。と、その口が歪《ゆが》んで、蒼ざめた神経的な顔は、右の片頬の筋肉をぴくぴくとふるわせた。
「何ご用ですの?」と彼女は借りもののような、胸の奥から出るような声で、早口にこういった。
「ドリイ!」と彼はふるえをおびた声でくりかえした。
「アンナが今日やってくるんだよ」
「それがどうしたんですの? わたしは会うわけにはまいりません!」と彼女は叫んだ。
「しかし、なんといったって、ドリイ……」
「行って下さい、行って下さい、行って下さい!」良人のほうを見ないで、彼女はこう叫んだが、その叫びはまるで肉体的苦痛から出たもののようであった。
 オブロンスキイは、さっき妻のことを考えている間は、心の平静を保って、マトヴェイの言葉を借りると、なにもかも丸くおさまると期待し、おちつきはらって新聞を読み、コーヒーを飲むこともできた。が、妻の憔悴《しょうすい》した受難者のような顔を見、運命にまかせたような自暴《やけ》半分の声を聞いた時、彼は息がつまり、なにかしら喉もとにせぐりあげて、眼は涙に光りはじめた。
「ああ、おれはなんてことをしたんだろう! ドリイ! お願いだ!………だって……」彼は言葉をつづけることができなかった、慟哭《どうこく》は喉につかえた。
 ドリイは衣装戸棚の蓋をぱたんと閉《し》めて、良人の顔を見た。
「ドリイ、おれに何をいうことができよう?………ただ一つ、赦してくれというよりない……まあ、思い出してくれ、いったい九年間の夫婦生活が……ほんの一時のなにを……あがなうことはできないものだろうか……」
 ドリイは眼を伏せて、良人が何をいうかと待ちながら、聞いていた。それはさながら、どうかしてわたしの考え違いを正してもらいたい、と祈っているようであった。
「その、ほんの一時の浮気をあがなうことは……」といいきって、その先をつづけようと思った。と、この一語を聞くと同時に、ドリイの唇はさながら肉体的な痛みでも感じたように、ぎゅっと緊《しま》り、またもや右の頬の筋肉が躍った。
「行って下さい、ここを出ていって下さい!」と彼女は前よりもはげしく刺すような声で叫んだ。「あなたの浮気だのなんだのと、けがらわしい話をしないで下さい」
 彼女は出て行こうとしたが、思わずよろよろっとして、椅子の背につかまってもたれた。良人の顔はひろがり、唇は脹《ふく》れ、眼は涙でいっぱいになった。
「ドリイ!」と彼はもうすすりあげながらいった。「後生《ごしょう》だから、子供のことを考えてくれ、子供らに罪はないんだから! 罪はおれにある、だから罰してくれ、罪滅ぼしをするように命令してくれ。おれにできることなら、なんでもする覚悟だ! おれが悪かった、どれほど悪かったか、言葉につくせないくらいだ。しかし、ドリイ赦してくれ!」
 ドリイは腰をおろした。良人は彼女の大きな重々しい息づかいを聞いて、名状しがたい憐愍《れんびん》を覚えた。彼女は幾度か口をきろうとしたが、舌がいうことをきかなかった。良人は待っていた。
「あんたが子供のことを覚えてらっしゃるのは、いっしょに遊びたいからでしょう。ところが、わたしはね、子供らがだめになったことだけ知っています、覚えています」と彼女はいったが、それはどうやら、この三日間いくたびも腹の中でくりかえした文句の一つらしかった。
 彼女は良人に『あんた』といった。で、良人は感謝の色を浮べて妻を見やり、その手をとろうとしたが、妻は嫌悪《けんお》のさまで身をよけた。
「わたしは子供たちのことを覚えています。だから、子供たちを救うためには、この世でできるだけのことはなんでもしたいんですけど、どうしたら救えるかわかりませんの。父親の家から連れ出したものか、それとも放埒《ほうらつ》な父親の手もとに残したものか。――そうですわ、放埒な父親ですとも……ねえ、考えてもごらんなさい、あんなことがあったあとで、わたしたちがいっしょに暮せるかどうか? いったいそんなことができるとお思いですの? さあ、いって下さい、そんなことができるかどうか?」と彼女はしだいに声を高めながら、こうくりかえした。「わたしの良人が、わたしの子供らの父親が、自分の子供らの家庭教師と恋愛関係になったそのあとで……」
「でも、どうしたらいいの? いったいどうしたら?」自分でもなんといったらいいのかわからず、しだいしだいに低く首をたれながら、彼はあわれっぽい声でこういった。
「わたしあなたみたいな人はけがらわしい、いやらしい!」と妻はいよいよのぼせながら叫んだ。
「あなたの涙なんか、水と同じですわ! あなたは、一度もわたしを愛したことなんかないんです! あなたという人には心もなければ、潔白なところもないんです! あなたなんかいやらしい、けがらわしい。あなたは赤の他人です、縁もゆかりもない赤の他人です!」自分にとって恐ろしい他人[#「他人」に傍点]というこの一語を、彼女は痛みと憎悪をこめて口に出した。
 彼は妻を見やった。と、その顔に現われた憎悪は、彼をおびやかし驚かした。彼は、自分の憐愍が妻をいらだたせたことを理解しなかったのである。彼女が良人に認めたのは憐愍であって、愛ではなかった。『いや、あれはおれを憎んでいる。こいつは赦しちゃくれない』と彼は考えた。
「これは恐ろしい、恐ろしい!」と彼は口走った。
 この時、隣の部屋で、おそらく転んだのであろう、赤ん坊がわっと泣いた。ダーリヤ・アレクサンドロヴナはじっと耳を澄ましたが、その顔は急に和らいできた。
 彼女は見うけたところ、自分がどこにいるか、何をしたものかわからないようすで、しばらくわれに返りかねていたが、急に立ちあがって、戸口のほうへ行きかけた。
『だって、あれはおれの子を愛しているんじゃないか』赤ん坊の泣き声を聞いたとたんに、妻の顔つきが変ったのに気がついて、彼はこう考えた。『おれの[#「おれの」に傍点]子を。それだのに、どうしておれを憎むことができるんだろう?』
「ドリイ、もうひと言いいたいことが」と彼は妻のあとからついていきながら、声をかけた。
「もしわたしのあとからついていらっしゃれば、わたし召使を呼びますよ、子供たちを呼びますよ! あなたが極道者《ごくどうもの》だってことを、みんなに知らせますから! わたしは今日すぐ出ていきますから! あなたはここでご自分の色女といっしょにお暮しなさいまし!」
 そういって、彼女は戸をぱたんと閉めて、出ていった。
 オブロンスキイはほっとため息をつき、顔を拭《ふ》いて、静かな足どりで部屋を出ようとした。『マトヴェイは丸くおさまるというが、どんなふうにおさまるんだろう? おれにはそんなことができそうにも思われん。ああ、ああ、恐ろしい! それに、あれのはしたないわめきようはどうだろう』極道者、色女という妻の叫びを思い起しながら、彼はこうひとりごちた。『ひょっとしたら、女中どもが聞いたかもしれない! 実にはしたない、恐ろしいこった』オブロンスキイはしばらくたたずんでいたが、やがて眼を拭《ぬぐ》い、ほっとため息をつき、ぐっと胸を張って、部屋を出た。
 ちょうど金曜日で、食堂ではドイツ人の時計屋が、時計を巻いていた。オブロンスキイは、この几帳面《きちょうめん》な禿頭《はげあたま》の時計屋のことで、洒落《しゃれ》をいったことを思い出した。『あのドイツ人は時計を巻くために、自分でも一生ゆるまんようにねじを巻かれてるんだよ』彼はにやっと笑った。オブロンスキイは気のきいた洒落が好きなのであった。『もしかしたら、丸くおさまるかもしれん! 丸くおさまる[#「丸くおさまる」に傍点]、いい言葉だな』と彼は考えるのであった。『これは一つ話してやろう』
「マトヴェイ」と彼は叫んだ。「じゃ、おまえマリヤといっしょに、その長椅子部屋に、アンナ・アルカージエヴナをお入れするように、万事用意してくれ」姿を現わしたマトヴェイにそういった。
「かしこまりました」
 オブロンスキイは毛皮|外套《がいとう》をまとい、入口階段へ出た。
「お食事はお宅でなさいますか?」と見送りに出たマトヴェイがたずねた。
「出たとこ勝負さ。さあ、これを当座の費用にとっておけ」紙入れから十ルーブリ紙幣をぬき出して、彼はこういった。「足りるかい?」
「足りるにも足りないにも、まにあわせなくちゃなりますまいよ」馬車の戸をばたりと閉めて、入口階段へ身をひきながら、マトヴェイは答えた。
 その間に子供をなだめたダーリヤ・アレクサンドロヴナは、馬車の響きで良人が外出したことを知り、また寝室へ戻った。それは彼女にとって唯一の避難所で、ここを一歩出るとすぐ、家政の雑事にとりまかれるのであった。今もちょっと子供部屋まで出ていったわずかの間に、イギリス婦人とマトリョーナ・フィリモーノヴナは、いくつかのっぴきならぬ相談をもってきたが、それは『お子さまがたには散歩のとき何をお着せいたしましょう?』とか、『牛乳をさしあげたものでございましょうか?』とか、『代りの料理人を呼びにやらなくってよろしゅうございましょうか?』などといったような、彼女でなければ返事ができないことなのであった。
「ああ、もううっちゃっといてちょうだい、わたしにかまわないで!」と彼女はいい、寝室へ帰って、良人と話しあったその場所に腰をおろし、指輪のぬけそうなほどやせて骨ばった手を握りしめながら、先ほどの会話を残らず記憶の中から探り出しにかかった。『行ってしまいなすった! でもあの女[#「あの女」に傍点]との片《かた》はどんなふうについたのかしら?』と彼女は考えた。『それとも、やっぱり会っているのかしら? どうしてそれをきいておかなかったのだろう? いえ、いえ、もう縒《よ》りは戻せない。たとえ一つ家で暮すにしても、わたしたちはもう他人同士だ。永久に赤の他人だ!』自分にとって恐ろしいこの一語を、彼女は特殊の意義をつけてくりかえした。『でも、わたしはあの人をどんなに愛してたかしれない、ほんとうにどんなに愛してたかしれないほどだわ!………しんから底から愛していた! それに、いまだって愛していないだろうか? 前よりもっと、もっと愛しているかもしれないくらいだ。何より恐ろしいのは……』と心の中でいいかけたが、それをいい終ることができなかった。マトリョーナが戸口から顔をのぞけたからである。
「もうほんとうに弟を呼びにやらせて下さいまし」と彼女はいった。「あれならお料理がなんでもできますから。そうでもいたしませんと、お子さまがたは昨日のように、六時までもご飯を召しあがらないで……」
「まあ、いいわ、わたし今すぐ出ていって始末をつけるから、ああ、新しい牛乳をとりにやったかしら?」
 こうして、ダーリヤ・アレクサンドロヴナはその日の用事に没頭して、それで一時だけ自分の悲しみをまぎらしたのである。

[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]

 スチェパン・アルカージッチ・オブロンスキイは学校時代には素質がよいために成績がよかったが、なまけ者の悪戯《いたずら》っ子だったので、卒業の時にはびりに近かった。しかし、いつも放埒な生活をして、官等も低く、年もさほどとっていないにもかかわらず、モスクワのある役所で高い位置を占め、俸給もよかった。この位置は、妹アンナの良人、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ・カレーニンの世話で手に入れたのである。カレーニンは、その役所の監督庁である某省の高官であった。とはいえ、もしカレーニンが自分の義兄をその位置に任命しなかったとしても、スチーヴァ・オブロンスキイは、兄弟姉妹、親戚、叔父叔母など、幾百人とも知れぬ人々のあっせんで、その位置でなければ、ほかの似たような口を手に入れて、年俸六千ルーブリもらったに相違ない。この六千ルーブリは、かなり大きな妻の財産があるにもかかわらず、彼の財政状態が紊乱《びんらん》していたために、なくてかなわぬ金なのであった。
 モスクワとペテルブルグの上流社会は、半分がたオブロンスキイの知り合いだった。彼はこの世の強者、もしくは強者となった人々の環境に生れてきたのである。国家的人物の三分の一は彼の父の友人で、子供のころから彼を知っていたし、三分の一は彼と『君僕《きみぼく》』の間柄だったし、三分の一は親友であった。したがって、位置、借地権、その他あらゆる利権といったような地上の幸福の配給者は、ことごとく彼の知り合いだったから、自分の仲間をのけ者にするはずがなかった。こういうわけで、オブロンスキイは有利な位置を獲得するのに、格別ほねをおる必要がなかった。ただ人の頼みを断ったり、他人をうらやんだり、喧嘩をしたり、腹をたてたりさえしなければよかった。またそんなことは、根が善良な人間だったから、ついぞしたことがなかったのである。もしだれかが彼に向って、おまえは必要なだけの俸給を与えてくれる位置にはありつけないぞといったら、おかしく思われたに相違ない。まして、彼は何も法外な要求をしたのではないから、なおさらの話である。彼は自分と同年の連中が手に入れたような位置を望んだのであって、その種類の職務なら、彼はどんな人にも負けぬようにやってのけられた。
 オブロンスキイは、善良で、快活でしかも潔白な性質のために、知ってる限りの人から好かれたばかりでなく、輝かしい眼、黒い眉や髪の毛、白い上に紅みのさした顔、といったような明るく美しい彼の風采《ふうさい》の中には、出会った人の生理に親しみと楽しさを感じさせるような何ものかがあった。『ああ! スチーヴァ! オブロンスキイ! やあ、あの男がきた!』いつも彼に会うたびに、いつもみんなが喜ばしげな微笑を浮べながら、こういったものである。よしんば時たま、彼と話したあとでべつだんおもしろいことがなかったにもせよ、その翌日なり翌々日なり彼に出会うと、だれもがまたぞろ喜びの声を立てるのであった。
 モスクワのその役所で、もう三年越し局長級の位置を占めているうちに、オブロンスキイは、同僚、部下、長官、その他接触するいっさいの人の愛情はもちろん、尊敬さえも受けるようになった。こうして、例外なく勤務上の尊敬を獲得した彼のおもな性質は、第一、なみはずれて他人に寛大なことだったが、それは、彼が自分の欠点を自覚しているからである。第二には、徹底した自由主義であった。それも新聞から習ったのではなく、もともと彼の血の中を流れている自由主義である。そのために彼は身分や官等の差別なく、あらゆる人と一様に隔てなくつきあうのであった。第三には――これが最も肝腎《かんじん》なのだが――彼は自分のやっている仕事に対して、極端に無関心であった。そのために、決して夢中になったり、まちがいをしでかしなどしなかった。
 自分の勤めている役所へ着くと、オブロンスキイは、うやうやしく折カバンをひきとった門衛にお伴をされながら、小さな局長室へ入って、制服に着替えると、執務室へ行った。書記や事務の連中は、楽しそうに、しかもうやうやしくおじぎをしながら、いっせいに席を立った。オブロンスキイは、いつものごとくせかせかと自席へ近より、同僚の手を握って、腰をおろした。彼は作法を乱さない程度に洒落をいったり、むだ口をたたいたりして、仕事にかかった。自由と、くだけた態度と、公式的な言語動作は、気持よく執務するのに必要なものであるが、それにはおのずから折り目切り目がある。それをちゃんと心得ている点では、オブロンスキイの右に出るものがなかった。彼の局にいるものはだれでもそうだが、秘書は楽しげにしかもうやうやしく、書類を持ってそばへより、オブロンスキイの創始にかかるうちとけた自由な調子で話しかけた。
「やっとこさでペンザ県庁から照会の返事をもらいましたよ。これですが、いかがでしょう……」
「とうとう届いたかね」とオブロンスキイは、書類の間へ指をはさみながらいった。「じゃ、諸君……」こうして執務がはじまった。
『もしこの連中が』ものものしげに首をかしげて報告を聞きながら、彼はこんなことを考えた。『この閣下殿が半時間前に、いたずらをして叱られた子供よろしくのかっこうをしていたのを、この連中が知ったらどうだろう!』と、報告を聞いている彼の目は、微笑をおびてきた。仕事は二時までぶっ通しにつづいて、二時が昼食休みになっていた。
 まだ二時ちょっと前に、とつぜん入口の大きなガラス戸が開いて、だれやら入ってきた。皇帝の肖像の下にいたものも、正義標([#割り注]官衙で机上に置かれる三面立体の装飾[#割り注終わり])のうしろにいたものも、気のまぎれることができたと喜びながら、いっせいに戸口のほうへふりむいた。しかし、戸のそばに立っていた小使が、すぐさま入ってきた男を追っぱらって、ガラス戸を閉めてしまった。
 仕事はひとまず片づいた。オブロンスキイは、一つ伸びをして立ちあがり、時代の自由主義の風潮に敬意を表して、執務室で巻タバコを一本とりだし、自分の部屋へ入った。役所の古鼠であるニキーチンと、侍従武官の肩書をもっているグリネーヴィッチと、この二人の同僚が彼といっしょに出てきた。
「弁当をつかってからでも片づくね」オブロンスキイはいった。
「そりゃ大片づきですよ!」とニキーチンはいった。
「だが、あのフォミンという男は、なかなかのしたたかものに相違ないですね」とグリネーヴィッチは、みんなで審理している事件の関係者のことをこういった。
 オブロンスキイはグリネーヴィッチに顔をしかめて見せた。それは、前から先入見をもつのはよろしくない、という意味を悟らせるためであった。彼はなんとも返事しなかった。
「さっき入って来たのはだれだね?」と彼は小使にきいた。
「なに、閣下、わたくしがちょっと横を向いた間に、どこの何者か無断でのこのこ入って来まして、閣下にお目にかかりたいと申しますので、わたくしは、会議が終ったらそのとき……」
「その男はどこにいる?」
「玄関の方へ出ていったらしゅうございます。のべつその辺を歩きまわっておりましたっけが。ああ、あれでございます」といって、小使がさした方を見ると、体格のがっしりした、肩幅の広い、頤鬚《あげひご》のもしゃもしゃした男であった。羊の毛皮の帽子を脱がないで、石の階段を足早に軽々《かるがる》と昇って来た。おりからカバンを小腋《こわき》にかかえて階段を降りていたやせぎすの役人が、ちょっと歩みをとめて、駆け上がる男の足を不感服そうな目つきでながめたが、今度は伺いを立てるような表情で、オブロンスキイを見やった。
 オブロンスキイは階段の上に立っていた。金モールの襟《えり》の上で善良そうに輝いていた彼の顔は、駆け昇ってくる男を見分けた時、なおその輝きを増した。
「やっぱりそうだ! レーヴィン、とうとうやってきたね!」そばへ寄ってくるレーヴィンを見まわしながら、隔てのない、からかうような微笑を浮べて、彼はこういった。「よくまあ、こんなむさくるしい巣窟[#「巣窟」に傍点]然としたところへ訪ねてきてくれたね?」とオブロンスキイはいい、ただ握手ばかりでは満足できないで、親友に接吻した。「もう前から?」
「僕はたった今ついたばかりなんだが、君に会いたくてたまらなかったもんだから」内気らしい、同時に腹だたしく不安げな目つきで、あたりを見まわしながら、レーヴィンはこう答えた。
「さあ、僕の部屋へ行こう」自尊心が強くて憤慨しやすい性質から出た親友の羞恥癖を知っているオブロンスキイは、こういって彼の手をとり、危険を縫って救い出してでもいるようなかっこうで、先に立って歩き出した。
 オブロンスキイはほとんどすべての知人と『君僕』で話した。六十からの老人も、二十そこそこの小僧っ子も、役者も、大臣も、商人も、将軍級の侍従武官も区別がなかった。こういう次第で、彼と『君僕』の間柄でいる人たちは、社会上の階段の両極端に位置していたので、オブロンスキイを通じて互に何か共通点をもっていると知ったら、彼らはびっくり仰天《ぎょうてん》したに相違ない。彼はいっしょにシャンパンを飲んだ人なら、だれとでも『君僕』の間柄になった。ところが、シャンパンはどんな人とでもいっしょに飲むから、部下のいる前で恥さらしな[#「恥さらしな」に傍点]『君僕』連中に出会うと(彼は多くの友だちをそう呼んでいた)持ち前の勘のよさで、部下が受けるこの不快な印象をうまく軽減するのであった。レーヴィンは恥さらしな『君僕』連中ではなかったけれども、オブロンスキイが部下の前で彼と親しくしているのを見せたがらないということを、レーヴィンのほうでも感ぐっていた。オブロンスキイも持ち前の勘のよさでそれを察したので、さてこそ急いで彼を自分の部屋へひっぱりこんだのである。
 レーヴィンは、オブロンスキイとほとんどおない年《どし》で、二人が『君僕』の間柄になったのは、あながちシャンパンの仲立ちばかりではなかった。レーヴィンは幼いころからの竹馬の友であり、悪戯《いたずら》仲間であった。ごく若いころに親しみあった友人は、たがいに離れられないものであるが、この二人も性格や趣味の相違があるにもかかわらず、おたがいに愛しあっているのであった。しかし、そのくせ、活動の分野を異にしている人その常として、理屈では相手の仕事を是《ぜ》としながら、心の中ではそれを軽蔑しているのであった。二人が二人ながら、自分の送っている生活こそ唯一無二の真の生活であって、相手の生活などは幻にすぎない、といったような気がしていた。オブロンスキイはレーヴィンを見ると、軽い嘲笑を禁ずることができなかった。田舎《いなか》からモスクワへ出てきたレーヴィンを見るのは、もうこれで何度目かわからないが、オブロンスキイは、その田舎で友人がなにかしていることだけは知っていたけれど、それがいったいどういうことなのかは、とっくり合点がいかなかったし、また知ろうという興味もなかった。レーヴィンがモスクワへ出てくるときには、いつも興奮して、そわそわして、いくらか遠慮しているような気味であったが、同時に自分で自分の遠慮気分にいらいらして、たいていのときはまるっきり思いがけない新しい物の見方をするのであった。オブロンスキイはそれを笑いながらも愛していた。レーヴィンのほうでもまたそれと同様に、友人の都会生活を内心軽蔑し、その勤務をナンセンスとして冷笑していた。しかし、違ったところは、みんなと同じことをしているオブロンスキイが、自信のある善良な気分で冷笑しているのにたいして、レーヴィンの冷笑には自信がなく、時としては腹たちまぎれだという点にあった。
「われわれはもうとうから君を待っていたんだよ」自分の部屋へ入ると、オブロンスキイはこういって、レーヴィンの手を放した。それはまるで、やっと危険区域を脱したということを示すようであった。「やっと君に会えて、じつにうれしい」と彼はつづけた。「ときに、どうだね? 君のほうはいつ出てきたい?」
 レーヴィンは、なじみのないオブロンスキイの同僚二人の顔をまじまじと見ながら、おし黙っていた。わけても優美なグリネーヴィッチの手、すばらしく真白な長い指、すばらしく長い先の曲った黄色い爪、ぴかぴか光る大きなカフスボタン、こういったものが彼の注意をのみつくして、思想の自由を妨げるらしかった。オブロンスキイはそれに心づいて、にやりと笑った。
「ああ、そう、ひとつ紹介させてもらおう」と彼はいった。「こちらは僕の同僚で、フィリップ・イヴァーノヴィッチ・ニキーチン君と、ミハイル・スタニスラーヴィッチ・グリネーヴィッチ君。それから」とレーヴィンのほうへふりむいて、「こちらは地方自治体で働いている新人で、片手で二十貫も持ち上げるスポーツマンで、畜産家で、狩猟家で、僕の親友のコンスタンチン・ドミートリッチ・レーヴィン、セルゲイ・イヴァーノヴィッチ・コズヌイシェフの弟です」
「大いに愉快です」と老人はいった。
「兄さんのセルゲイ・イヴァーノヴィッチは存じあげておりますよ」長い爪をした華奢《きゃしゃ》な手をさしのべながら、グリーネヴィッチはこういった。
 レーヴィンは顔をしかめ、そっけなく握手して、すぐにオブロンスキイのほうへ向いてしまった。彼は、ロシヤ全国に名を知られた文学者である胤《たね》ちがいの兄を、心から尊敬してはいたものの、人が自分をコンスタンチン・レーヴィンとしてでなく、有名なコズヌイシェフの弟として取り扱うと、がまんしきれないほどいやだったのである。
「いや、僕はもう地方自治体に勤めちゃいないよ。もうみんなと喧嘩わかれしちまって、もう会議へは出ないことにしたよ」と彼はオブロンスキイに向いていった。
「ずいぶん早いんだね!」とオブロンスキイは微笑を含みながらいった。「しかし、どうして? なぜ?」
「話せば長いことさ。またいつか物語るとしよう」とレーヴィンは答えたが、すぐに物語を始めた。「まあ、手っとり早くいえば、地方自治活動なんてものは断じて存在しない、また存在しえないと確信したからだ」まるで、たったいまだれかに侮辱でもされたように、彼はしゃべりだした。「それに、一方からいうと、一種の玩具《おもちゃ》で、みんな議会ごっこをしているのだが、僕は玩具遊びをするには若さも足りないし、年のとりかたも不十分だからね。また一方からいうと(彼はちょっとどもった)、あれは地方の coterie(有象無象《うぞうむぞう》)のための金もうけの手段にすぎないんだ。以前は管理機関とか、裁判所とかいうものがそれだったが、今は地方自治体だ。それも賄賂《わいろ》という形でなく、不当の俸給という形式をとっているのさ」まるでだれかそこにいる人が、その意見を論駁《ろんばく》でもしているように、熱くなって彼はこういった。
「ははあ! どうも君は、こう見たところ、また新しい転換をやったらしいね。保守主義のほうへさ」とオブロンスキイはいった。「だが、それはあとにしよう」
「そう、あとにしよう。しかし、僕は君に会わなくちゃならんことがあるんでね」とレーヴィンは、憎悪をこめてグリネーヴィッチの手を睨《にら》みながらいった。
 オブロンスキイはようやくそれとわかるくらい、にっと笑った。
「いったいどうしたんだね、君はもう決して西欧風の服は着ないっていったじゃないか?」明らかにフランス人に仕立てさせたらしい、レーヴィンの新しい服を、と見こう見しながら、彼はそういった。「なるほど! わかった、新しい転換だ!」
 レーヴィンは急に顔を赤らめた。が、それは大人の場合のように、自分でそれと気のつかない軽い赤面でなく、子供のような赤くなりかたであった。子供は、自分のはにかみ癖がこっけいに見えるのを感じて顔を赤くし、そのためになおはにかみ、ほとんど涙が滲むほど顔を赤らめるものである。この賢そうな男らしい顔が、こんな子供じみたふうになっているのを見ると、奇妙な感じがするくらいであった。で、オブロンスキイはもうそのほうを見なくなった。
「だが、どこで会おう? じつは、僕ぜひぜひ君に話さなくちゃならんことがあるのだから」とレーヴィンはいった。
 オブロンスキイは何か考えこむようなふうであった。
「こうしようじゃないか、グリーンへ食事に行って、そこでゆっくり話そうよ。僕は三時まで体があいてるから」
「いや」とレーヴィンはちょっと考えてからいった。「僕はまだ行ってこなくちゃならんところがあるんだ」
「じゃ、いい、それならいっしょに晩飯を食おう」
「晩飯? なに、僕は何も特別……ただほんのひと言いえば、ちょっときいたら、それでいいんだからね。そのあとでゆっくり話そうよ」
「それなら、今すぐそのひと言をいったらいいじゃないか。おしゃべりは晩飯のときとして」
「そのひと言というのはこうなんだ」とレーヴィンはいった。「もっとも、たいしたことじゃないけれど」
 彼の顔は急に毒々しい表情をおびてきた。それは自分の内気を克服しようとする努力からきたものであった。
「シチェルバーツキイの人たちはどうしている? やっぱり相変らずかい?」と彼はいった。
 オブロンスキイは、レーヴィンが自分の義妹のキチイに恋していることを、もう前から知っていたので、あるかなきかの微笑を浮べた。その眼は浮きうきした光をおびてきた。
「君は自分のひと言をいったが、こっちはひと言じゃ返事ができない、というのは……あ、ちょっと失敬」
 秘書が入ってきた。慣れなれしさをこめたうやうやしい態度で、すべての秘書に共通の『私のほうが上官より仕事がよく知っていますよ』といったような、つつましい優越の意識の意識をいだきながら、書類を持ってオブロンスキイに近づき、質問といった体裁で、何かやっかいな事件を説明しはじめた。オブロンスキイはみなまで聞かず、秘書の袖の上に優しく手をのせた。
「いや、それはもう君、私のいったとおりにしてくれたまえ」微笑で自分の言葉を和らげながら、彼はこういった。そして、事件に対する自分の解釈を手短かに説明したあと、書類をおしのけて、つけ加えた。「じゃ、そうしてくれたまえ、ザハール・ニキーチッチ、どうかそうして」
 秘書は照れてむこうへ行った。秘書と友人の相談中にすっかり当惑を回復したレーヴィンは、両手でテーブルの上に肘杖《ひじづえ》したまま立っていたが、その顔の嘲けるような注意の表情があった。
「わからないな、わからないな」と彼はいった。
「何がわからないんだね?」依然としてにこやかに笑いながら、巻タバコをとりあげて、オブロンスキイはそういった。彼は、レーヴィンが何かとっぴなことをいいだすだろうと、待ちもうけていたのである。
「君たちのやっていることがわからないんだよ」とレーヴィンは肩をすくめながらいった。「どうしてそんなことをまじめにやっていられるんだろう?」
「どうしてさ?」
「どうしてって……何もすることなんかないじゃないか」
「君はそう思うかい、ところが、僕たちは仕事が山ほどあるんだよ」
「紙の上の仕事がね。いや、なに、君はそのほうの天分をもっているよ」とレーヴィンはつけ加えた。
「つまり、何かね、僕に何か欠陥でもあるというのかね」
「あるいは然《しか》らんだ」とレーヴィンはいった。「しかし、そうはいうものの、僕は君の偉大さにつくづく見とれてしまうよ、そして自分の親友にこんな偉人を持っていることを、誇りとするよ。しかし、君は僕の質問に答えてくれなかったね」一生懸命の努力をして、オブロンスキイの顔を正視しながら、彼はこうつけ加えた。
「いや、よろしい、よろしい。まあ、ちょっと待ってくれ、いずれそこへくるんだから。君がカラジンスキイ郡に三千|町歩《デシャチーナ》の地所をもっていて、そのうえ、そんなりっぱな筋肉をしていてさ、おまけに十二歳の少女みたいな新鮮さを保っているのは、結構なことだがね――しかし、その君もやはり僕らの仲間入りをするよ。さて、君の質問の件だが、何も変りないね、ただ君があんなに長く無沙汰《ぶさた》していたのが残念だよ」
「それはなんのことだい?」とレーヴィンはおびえたように問い返した。
「いや、なんでもないさ」とオブロンスキイは答えた。
「よく話しあおうよ。だが、君はいったいなんのために出てきたんだね?」
「あっ、そのこともやっぱりあとでよく話そう」また耳の付け根まで赤くなって、レーヴィンは答えた。
「いや、よろしい、わかってる」とオブロンスキイはいった。「そこでだね、僕は君を家へ呼びたいのだが、家内が少々加減がわるいのでね。ところでだ、もし君があの人たちに会いたいのなら、あの連中は四時から五時までのあいだ、きっと動物園に行ってるよ。キチイがスケートをやってるのでね。君そこへ行ってみたまえ、僕もよるから、それからいっしょにどこかへ晩めしを食べにいこう」
「けっこう、じゃさよなら」
「だが、いいかい、僕は君という男を知ってるが、うっかり度忘れして、また田舎へ帰ったりしちゃだめだよ!」とオブロンスキイは笑いながらどなった。
「大丈夫、そんなことしやしない」
 それから、もう戸口まできた時、オブロンスキイの同僚たちにあいさつするのを忘れたことを、はじめて思い出したが、レーヴィンはそのまま部屋を出てしまった。
「きっとたいした精力家でしょうな」レーヴィンが出ていった時、グリネーヴィッチはそういった。
「そうなんだよ、君」とオブロンスキイは首をふりながらいった。「あれこそしあわせものさ! カラジンスキイ郡の三千町歩を初めとして、何もかも前途に控えているし、あの底の知れない新鮮さ! われわれなんかとは違うよ」
「あなたはいったいなにが不足なんですか、スチェパン・アルカージッチ?」
「いやあ、だめだよ、なっちゃいないや」とオブロンスキイは、一つ重々しいため息をついていった。

[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]

 オブロンスキイに、いったいなんの用で来たかときかれた時、レーヴィンは顔を真赤にし、その顔を赤くしたことに対して自分で自分に腹を立てたが、それはほかでもない、『僕は君の義妹に結婚を申しこみに来たのだ』とはっきり答えることができなかったからである。しかも、彼の上京の目的はただそれだけだったのである。
 レーヴィン家もシチェルバーツキイ家も、古いモスクワの貴族の家柄で、いつも親しい交友関係をつづけていた。この結びつきは、レーヴィンの大学在籍中さらに固められた。彼はドリイとキチイの兄にあたるシチェルバーツキイ若公爵と、大学の受験準備も入学も、ともにしたのである。そのころレーヴィンはよくシチェルバーツキイ家へ出入りして、シチェルバーツキイの家にほれこんでしまった。それはずいぶんへんな話ではあったが、レーヴィンは全く家に、家族にほれたのである。ことにシチェルバーツキイ家の婦人たちに、ぞっこん打ちこんでしまった。レーヴィン自身は母親というものの味を知らず、たった一人の姉は年が上だったので、彼はシチェルバーツキイ家へきて初めて、父母の死のために知らずにいた、教養もあり潔白さも備えた古い貴族の環境を見たのである。この家族の人々はだれもかれも、ことに婦人たちが、何かしら神秘で詩的な帷《とばり》で蔽《おおわ》われているように思われた。彼はこの家の人々に何一つ欠点を見出さなかったのみならず、彼らを蔽っている詩的な帷の陰に、きわめて高尚な感情とすべての完成された資質を想像していた。なんのためにこの三人の令嬢が一日おきに、フランス語と英語で話さなければならないのか、なぜ彼女らは一定の時間に、代りばんこピアノを弾《ひ》かなければならないのか(その響きは学生たちが集って勉強している二階の兄の部屋まで聞えた)、なんのためにあんなフランス文学とか、音楽とか、画とか、ダンスとかの先生たちがやってくるのか、なぜきまった時間に三人の令嬢が、マドモアゼル・リノンといっしょに、幌馬車でトヴェルスコイの並木街《ブルヴァール》へ出かけるのか(そのとき三人とも繻子《しゅす》仕立の毛皮外套を着ていたが、ドリイのは長く、ナタリイのはやや長めで、キチイのは赤い靴下をぴっちりはいたすらっとした足が、すっかりまる見えなほど短かかった)、なぜ彼女らは金の紋章つきの帽子をかぶった従僕を供にして、トヴェルスコイ並木街《ブルヴァール》を歩かなければならないのか――こういったようなことや、なおそのほか彼らの神秘な世界で行われる多くのことは、彼にはとんと合点がいかなかったけれども、この家で行われるいっさいのことは美しいと頭からきめてしまって、その行事のほかならぬ神秘性にほれこんだのである。
 大学時代に、彼は長女のドリイに危く恋しないばかりであったが、これはまもなくオブロンスキイに縁づいてしまった。その後、彼は二番目のナタリイに恋しはじめた。彼はなぜか姉妹《きょうだい》の一人に恋しなければならぬように感じていたが、いったいどれに恋していいのか、判断がつかなかったのである。しかし、ナタリイも社交界に顔を出すが早いか、すぐ外交官のリヴォフと結婚してしまった。キチイは、レーヴィンが大学を出た時には、まだ孩児《ねんねえ》であった。シチェルバーツキイの若公爵は海軍に入ったが、バルト海で水死してしまったので、レーヴィンとシチェルバーツキイ家の関係は、オブロンスキイとの交遊があるにもかかわらず、しだいに遠くなっていった。ところが、今年の冬のはじめ、一年間田舎ぐらしをしたあとでモスクワに出てきたレーヴィンが、シチェルバーツキイ家の人々に会った時、彼は三人の令嬢のうちだれに恋すべき運命《さだめ》であったかを、忽然《こつぜん》として悟ったのである。
 はた目から見ると、生れはよし、貧乏人と違って財産家の三十二になる男が、シチェルバーツキイ公爵令嬢に求婚するのは、いともたやすいことのように思われたであろう。あらゆる点から見て、彼は即座に好配偶と認められたに相違ない。けれど、レーヴィンは恋する男の常として、キチイがすべての点で非のうちどころのない、地上のいっさいを超絶した完成の極致のように思われた。しかるに、彼は卑しい地上的な存在であるから、他人から見ても当のキチイの目からも、彼女に値する人間と認められようなどとは、考えも及ばないことであった。
 ほとんど毎日キチイと会って(彼はキチイと出会うため、社交界へ出入りするようになったのである)、二ヵ月を夢うつつにモスクワで暮した彼は、突然こんなことはできない相談だと決めてしまって、田舎へひっこんだのである。
 レーヴィンがこれはできない相談だと確信した根拠は、次のようなことであった――彼はキチイの肉親の人々の目から見て、あでやかな彼女にとっては不利不相応なのであり、当のキチイも彼を愛することなどはできようはずがない。肉親の人々から見ると、彼はこれというはっきりした、つねづね見慣れているような仕事もしていないし、社会上の地位というものもなかった。ところが、彼が三十二になった今日では、友だちはもうそれぞれ、あるいは大佐で侍従武官に、あるいは大学の教授に、あるいは銀行の頭取または鉄道の社長に、あるいはオブロンスキイのように役所の局長になっている。しかるに彼は(彼は他人の目に映っていろはずの自分というものを、よく知りぬいていた)、一介の地主であって、牛を殖《ふ》やしたり、田鷸《たしぎ》を射ったり、普請に凝《こ》ったりするのが仕事にすぎず、要するに、何一つしでかさなかった無能の輩《やから》であって、社会の目から見ると、なんの役にも立たない連中と同じことをやっている人間なのである。
 また当の神秘な美しいキチイにしても、こんな醜い男を(彼は自分でそう思いこんでいた)、愛することなどできはしない――それにだいいち、自分は何一つすぐれたところのない平凡な人間ではないか。のみならず、以前の彼とキチイの関係――彼と兄との交遊から生じた大人と子供の関係も、愛情にとって新しい障碍《しょうがい》であるように思われた。彼が自分でそうと思いこんでいるような醜い善良な男は、友人としてこそ愛することができるけれども、自分がキチイを愛しているような、そうした愛し方で愛されるには、しょせん美男子にならなければならない、わけても非凡な人間にならなければならない――そう彼は思ったのである。
 もっとも、女が醜い平凡な男を愛することもよくある、という話は彼も聞いていたけれど、そんなことはほんとうにしなかった。なぜなら、自分を標準にして考えても、ただ美しい、神秘的な、なみはずれた女しか愛せないからである。
 しかし二ヵ月の間たった一人で田舎に暮したあと、彼ははっきり確信した。これはごく若いころに経験したような浮気沙汰でなく、この恋ごころは彼に一刻の安静をも与えず、彼女を妻となしうるか否かの問題を解決しないうちは、生きていくことができない。ところで、彼の絶望は自分の独《ひと》り考えにすぎないのであって、必ず拒絶されるという証拠は何一つないではないか。で、こんど彼は断乎たる決意をいだいて、モスクワへ出てきたのである――とにかく求婚してみて、容れられたら結婚する、もし……拒絶されたらどうなるか、彼はそこまで考えることができなかった。

[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]

 朝の汽車でモスクワへ着くと、レーヴィンは同腹の兄コズヌイシェフのもとにおちついた。着替えをすましてから、さっそく上京の目的を兄に話し、忠言も聞こうと思って、書斎へ入っていった。けれども、兄は一人きりではなかった。そこには有名な哲学の教授が坐りこんでいた。これはきわめて重大な哲学上の問題について、二人のあいだに生じた疑義を闡明《せんめい》するために、わざわざハリコフからやって来たのである。教授は唯物論者を相手どって熱烈な論争をつづけていた。セルゲイ・コズヌイシェフは興味をいだきながら、たえずその論争の跡を追っていたが、最近教授の書いた論文を読んで手紙を送り、駁論《ばくろん》を述べてやった。つまり、教授があまり唯物論者に譲歩しすぎる、といって非難したのである。教授は会って直接話しあうために上京したのである。二人の話は、人間活動の心理的現象と生理的現象のあいだに境界があるものか、あるとすればどこにあるか? という当節流行の問題であった。
 コズヌイシェフは、どんな人にも見せる愛想のいい冷たい微笑で義弟を迎え、教授に紹介して、話をつづけた。
 額の狭い、眼鏡をかけた小柄な男は、あいさつのためにちょっと話をとぎらしただけで、すぐレーヴィンには一顧の注意も払わず、議論をつづけた。レーヴィンは腰をおろして、教授が帰るのを待っていたが、まもなく話の題名に興味を感じはじめた。
 レーヴィンは、いま問題になっている諸論文で雑誌で読んで、自分にとってなじみの深い自然科学の根底の――彼は大学で博物学科に籍を置いていたのである――発展という意味で興味をいだいたものであるが、しかしこういった動物としての人間の発生とか、反射作用とか、生物学とか、社会学とかに関する科学上の論結を、彼自身にとって重大な生死の問題と結び合わそうとはしなかった。この問題は最近、頻繁に彼の心を訪れるようになったのである。
 兄と教授の会話を聞いているうちに、彼はこういうことに気がついた。二人は科学上の問題を精神的な問題に結びつけ、幾度もそこへ近づきながら、いつも最も肝要な点へ近づくたびに、すぐ急いでそこから離れていき、また細かい分類や、留保や、引用や、暗示や、オーソリティの借用や、そういった領域へ深入りするように思われた。で、彼はいったいなんの話をしているのやら、理解するのに骨が折れた。
「私はそういうことを許容するわけにいきません」とコズヌイシェフは、持ち前の明晰《めいせき》な表現と優美な発音を発揮しながらいった。「私はケイスの説には断じて同意できません、外界に関する私の全観念が印象から生じたものだなんて。存在[#「存在」に傍点]に関する私の最も根本的な概念は、感覚から受けたのではありません。なぜなら、この概念を伝える特殊な機関[#「機関」はママ]がないからです」
「さよう、しかし彼ら――ヴールスト、クナウスト、プリパーソフなどは、こう答えるでしょう、あなたの意識は全感覚の総合から生じたものであって、この存在の意識こそ感覚の結果である、と。ヴールストはさらに一歩すすんで、もし感覚がなければ、存在の概念もないだろう、とさえいっております」
「私はその反対を主張しますね」とコズヌイシェフはいいだした。
 しかし、そのときもまたレーヴィンは、彼らが最も肝要な点に近づきながら、またぞろ離れていこうとするように思われたので、思い切って、教授に質問を発してみることにした。
「してみると、もし私の感覚が滅却したら、もし私の肉体が死滅したら、もはや、いかなる存在もありえないのですね?」と彼はきいた。
 話の腰を折られた教授はいまいましそうに、一種肉体的な苦痛を浮べながら、哲人というより、曵舟《ひきふね》人足といいたいような奇怪な質問者をじろりと見て、『これでいったい何がいえます?』とききたげな顔つきで、コズヌイシェフに目を転じた。しかし、コズヌイシェフは教授ほどむきになって、一面的な議論をしていず、教授に応答しながらも、同時にこの質問を発した単純かつ自然な観点を理解するだけの余裕が頭にあったので、にこりと笑ってこういった。
「われわれはまだその問題を解く権利を持っていないのでね……」
「材料がないというわけです」と教授は相槌《あいづち》を打って、自分の論証をつづけた。「いや」と彼はいうのであった。「私は次の点を指摘しておきましょう、もしプリパーソフがまっこうからいっておるように、感覚が印象を基礎とするならば、われわれはこの二つの概念を厳格に区別しなければなりません」
 レーヴィンはもはや聞こうとしないで、教授の帰るのを待っていた。

[#5字下げ]八[#「八」は中見出し]

 教授が立ち去ると、コズヌイシェフは弟に話しかけた。
「よく来てくれたね。しばらく滞在かね? 領地のほうはどう?」
 領地の経営など兄にとってたいした興味はなく、ただ義弟の顔を立てるためにきいただけだと承知しているので、レーヴィンはただ小麦を売ったこと、金のことを話したばかりであった。
 レーヴィンは結婚の意思を兄に打ち明け、その忠言すら求めようと思い、そのことを固く決心さえしていたにもかかわらず、いま兄の顔を見、教授との会話を聞き、農地経営のことをたずねたときの無意識な、保護者めいた調子を耳にしたとき(母の領地は分割されなかったので、レーヴィンは二人の分を管理していた)レーヴィンはなぜかしら、兄に結婚の決心を切り出すわけにいかないと感じた。兄はこの件について、自分の望むような見方をしないだろう、という気がしたのである。
「ときにどうだね、おまえのほうの地方自治体は、どんなふうだい?」地方自治体にひどく興味をもって、これに多大の意義を賦与《ふよ》しているコズヌイシェフはこうたずねた。
「どうも、よくわかりませんよ……」
「え? だって、おまえは郡会議員じゃないか?」
「いや、もう議員じゃありません、僕はやめちまいました」レーヴィンは答えた。「だから、もう会議に出ませんよ」
「惜しいことをしたね」とコズヌイシェフは眉をひそめていった。
 レーヴィンはその言いわけに、郡会がどんなふうになっているかを話しだした。
「それはいつものとおりなんだ!」と兄はさえぎった。「われわれロシヤ人はいつもそうなんだよ。もしかしたら、それはわれわれの美点かもしれないよ――自分の欠点を省みるという美点さ。しかし、これは薬がききすぎる。われわれはいつでも舌の先にぶらさがっている皮肉で、自己慰安をやってるんだからな。僕のいいたいことはただこれだけだ――もしもだね、わが国の地方自治体のごとき権利を西欧の国民に与えたら、ドイツ人でもイギリス人でも、それから自由をつくり出しただろうが、われわれはこのとおり皮肉をいうばかりさ」
「でも、どうしたらいいんです?」とレーヴィンはすまなそうにいった。「これは僕として最後の試練だったんですからね。僕は一生懸命に努力してみたんですが、だめです、その能力がありません」
「能力がない」とコズヌイシェフはいった。「おまえはそんなふうに問題を見ていないはずだが」
「かもしれません」とレーヴィンは悄然《しょうぜん》と答えた。
「ところで、おまえ知ってるかい、ニコライがここに来てるんだよ」
 ニコライはコンスタンチン・レーヴィンの肉親の兄で、コズヌイシェフの異父弟であったが、かなりたくさんな遺産の分け前を蕩尽《とうじん》して、兄弟と喧嘩をしたあげく、じつにふしぎな与太者仲間を転々としている、手のつけられぬ人間であった。
「え、なんですって?」とレーヴィンはぎょっとして叫んだ。「どうしてそれを知ってるんです?」
「プロコーフィが往来で見かけたのさ」
「ここに、モスクワに? いったいどこにいるんです? 知ってますか?」まるで今すぐ出かけそうなかっこうをして、レーヴィンは椅子から立ちあがった。
「僕はおまえにその話をしたのを後悔するね」とコズヌイシェフは、弟の興奮を見て、首をひねりながらいった。「僕はあれの宿所をつきとめにやって、あれが振り出して、僕の払ったトルビンあての小切手を送ったのさ。ところが、その返事がこうなのさ」
 こういって、コズヌイシェフは文鎮の下から、一通の手紙をとり出し、弟に渡した。
 レーヴィンは奇妙な、とはいえ懐しい手跡で書かれた文言を読んだ。
『どうかお願いですから、僕のことはかまわないで下さい。僕は親愛なる兄弟諸君にこれを要求します。ニコライ・レーヴィン』
 彼の内心では、もはや不幸な兄のことを忘れたいという希望と、それはよくないことだという意識が相戦った。
「あれは明瞭に僕を侮辱しようと思っているのだ」とコズヌイシェフはつづけた。「しかし、あれに僕を侮辱することはできないよ。僕は心底からあれを助けてやりたいと思ってるんだが、それが不可能なのは自分でも承知しているよ」
「そうです、そうです」とレーヴィンはくりかえした。「僕は、兄さんの態度はよくわかります、そしてありがたく思っています。が、それでも僕は行ってみます」
「もし行きたいのなら、行ってくるがいい。しかし僕は不賛成なんだがなあ」とコズヌイシェフはいった。「といって、自分に関する限り、僕は別に恐れはしない。あれは君と僕を不和になんかさせることはできないからね。しかしね、君のために忠告するんだが、行かないほうがいいぜ。助けることなんかできないんだから。もっとも、したいようにするがいいさ」
「そりゃ、助けることはできないかもしれませんが、僕はそういう気がするんです、ことに今この際は――いや、これは別の問題です――僕はじっとしていられない気がするんです」
「ふん、そいつはわからんね」とコズヌイシェフはいった。「ただ一つわかっているのは」と彼はつけ足した。「これが謙抑《けんよく》の課業だってことだ。ニコライが現在のごとき人間になってからこのかた、僕は陋劣《ろうれつ》と呼ばれているものにたいして、今までとは違って、もっと寛大な見方をするようになったからね……あれがどういうことをしたか、おまえは知ってるだろう」
「ああ、なんて恐ろしいことだ、なんて恐ろしいことだ!」とレーヴィンはくりかえした。
 コズヌイシェフの従僕から兄の住所を聞いて、レーヴィンはすぐさま出かけることにしたが、また考えなおして、晩まで延ばすことにした。まず何よりも、心の平静を獲得するためには、上京の目的である事柄を解決しなければならなかった。レーヴィンは義兄の家からオブロンスキイの役所へ出向いて、シチェルバーツキイのことをたしかめたのち、たぶん会えるだろうと教えられた場所へ橇《そり》を走らせた。

[#5字下げ]九[#「九」は中見出し]

 正四時にレーヴィンは、心臓の鼓動を感じながら、動物園の前で辻待ち橇をおり、径《こみち》づたいに手橇すべりの山とスケート場のある方へ歩いて行った。そこでは、確かに彼女に会えることがわかっていた。というのは、車寄せのところで、シチェルバーツキイ家の箱馬車を見うけたからである。
 それはよく晴れた、凍《い》ての厳しい日であった。車寄せには馬車、橇、辻馬車、そして憲兵が、列をなして並んでいた。小ざっぱりした身なりの群衆が、輝かしい太陽に帽子を光らせながら、入口のところや、きれいに雪掃除のできた径々《みちみち》に沿って並んでいる、木彫の飾りのあるロシヤ式の小家の間でひしめきあっていた。雪の重みで巻き毛のような枝という枝をたらした古い白樺は、新しい荘重な袈裟《けさ》に飾り立てられているようであった。
 彼は経《こみち》づたいにスケート場の方へ歩みながら、ひとりごつのであった。
『わくわくしちゃいけない、おちつかなくちゃ。おまえはどうしたのだ? 何をびくびくしてるんだ? だまれ、このばかもの』と自分の心臓に話しかけていた。
 しかし、彼が自分でおちつこうとすればするほど、事態はますます悪くなって、息がつまるのであった。だれか知人が向うからやってきて、声をかけたけれども、レーヴィンはそれがだれやら見分けさえつかなかった。彼は手橇すべりの丘へ近づいた。そこでは手橇をおろしたりひっぱりあげたりする鎖ががらがらと鳴り、すべり落ちる手橇の音や、陽気そうな人声がひびいていた。彼は幾歩かあるいて行った。と、目の前にスケート場がひらけ、そこですべっている多くの人々の間に、すぐさま彼女の姿が見分けられた。
 彼は、心臓を緊めつけた歓喜と恐怖の情から、彼女がそこにいることを知った。彼女はスケート場のむこうはしに立って、一人の婦人と話をしていた。その服装にしても、姿勢にしても、これといって格別のことはなかった。しかし、レーヴィンにとって、彼女をこの群衆の中に見分けるのは、蕁麻《いらくさ》の間にバラの花を見分けるくらいたやすかった。なにもかもが彼女に照らされているのであった。彼女は周囲を照らすほほえみであった。
『おれはあの氷の上へ降りていって、彼女のそばへよってもいいだろうか?』と彼は考えた。彼女のいる場所は、近づくべからざる聖地のように感じられて、一瞬、彼はほとんど帰ってしまおうかとさえ思った。彼は自分自身にたいして努力をしたあげく、彼女のまわりにも、ありとあらゆる種類の人が歩きまわっているのだから、自分だってスケート靴をはいて、あすこへすべりにいくこともできるのだ、と分別するのであった。さながら彼女が太陽ででもあるかのごとく、長いこと見るのを避けるようにしながら、彼は池へ降りていったが、しかし太陽と同じに、見ないでも彼女がちゃんと見えていた。
 一週間のうちでも、この日この時刻には、同じサークルの人たちが氷の上に集まるので、みんなおたがい同士に知りあっていた。そこには技を誇るスケートの名人もあれば、椅子の背につかまって、臆病そうに無器用らしく動いている初心者もあった。子供もいれば、運動のためにすべっている老年の人もいた。だれもかれもレーヴィンの目から見れば、選ばれたる幸福者のように思われた。なぜなら、彼らはそこに、彼女のそばにいるからであった。スケートをしている人は一人残らず、まったく平気らしい顔つきで彼女に追いついたり、追い越したりしているばかりか、彼女と話さえしている。人々はすばらしい氷と上々の天気を楽しみながら、彼女とはぜんぜん無関係に浮かれていた。
 キチイと従兄《いとこ》のニコライ・シチェルバーツキイは、短いジャケツに狭いズボンを着けて、足にスケートをはいたまま、ベンチに腰かけていたが、レーヴィンを見ると声をかけた。
「やあ、ロシヤ一番のスケーター! 前から来てるんですか? すばらしい氷ですよ、早くスケートをおつけなさい」
「僕はスケートも持っていないんでね」彼女がいるところで、かくも大胆にざっくばらんな態度をとるニコライにあきれながら、レーヴィンはこう答えた。彼女の方を眺めていなかったけれど、一刻もその姿を見失わなかった、彼は太陽がしだいに近づくのを感じた。彼女は片すみに立って、編上靴《あみあげぐつ》をはいた細い足をややひろげめにして、見るからにおっかなびっくりで、彼の方へすべってきた。ロシヤ風の服装をした男の子が、やけに両手をふり、上半身を低くかがめて、彼女を追い越していった。彼女のすべりかたはあぶなっかしかった。紐で吊るしたマッフから両手をぬきだして、万一の場合に備えてひろげ気味にしていたが、レーヴィンを見てそれと気がつき、にっこり笑ったが、それは相手に向けると同時に、自分の臆病さを笑う意味でもあった。カーヴが終ったとき、彼女は弾力にみちた片足でひと蹴りすると、まっすぐにニコライの方へすべってきて、その腕にしがみつくと、微笑を浮べながらレーヴィンにうなずいてみせた。彼女は、彼が考えていた以上にあでやかであった。
 彼女のことを思うとき、彼はすぐさま、まざまざと彼女の姿ぜんたい、ことにあの子供のように朗らかで善良な表情を浮べて、形のいい娘らしい肩の上に自然にのっている、小さな、ブロンドの首の美しさを思い浮べることができた。その顔の表情の子供らしさは、姿ぜんたいの微妙な美しさといっしょになって、彼女の特殊な美を形づくっているので、彼もそれをよく了解していた。しかし、いつも何か思いもかけないことのように彼を驚かすのは、つつましい、おちついた、正直らしい眼の表情と、わけてもその微笑であった。それはいつも、レーヴィンをまどわしの世界へつれていき、まだごく小さい時分ほんの時たま経験したような、感激と和らぎにみちた気持を感じるのであった。
「もうだいぶまえに出ていらっしゃいましたの?」と彼女は手をさし伸べながらいった。「ありがとうございます」マッフから落ちたハンカチを拾って渡した時、彼女はこうつけたした。
「僕ですか? 僕はついさっき、昨日……いや、今日……ついたばかりです」相手の質問が急には合点いかないで、レーヴィンは答えた。「僕お宅へ伺いたいと思って」といいかけたが、どういうつもりで彼女をさがしたかを思い出すと、もじもじして顔を赤らめた。「あなたがスケートをなさるってことは知りませんでした、なかなかお上手ですね」
 彼女は、相手のもじもじした原因を知ろうとでもするように、注意ぶかくレーヴィンの顔を見つめた。
「あなたに褒《ほ》めていただいて光栄ですわ。ここではね、あなたがスケートの名人だって言い伝えが、いまだに残っているんですもの」黒い手袋をはめた小さな手で、マッフに落ちた霜の針を払いながら、彼女はそういった。
「ええ、僕も昔は夢中になってすべったものです。完璧《かんぺき》の域に達したいと思いましてね」
「あなたはどうやら、なんでも夢中でなさるたちらしゅうございますね」と彼女はほほえみながらいった。「あたし、あなたのおすべりになるところを、ぜひ拝見しとうございますわ。ね、スケートをおつけになって。ごいっしょにすべりましょうよ」
『いっしょにすべる! いったいそんなことができるんだろうか?』とレーヴィンは彼女の顔を見ながら、腹の中で考えた。
「すぐつけます」と彼は答えた。
 レーヴィンはスケートをつけに、そこを離れた。
「旦那さま、ずいぶんしばらくお見えになりませんでしたね」とスケート場の主人は片足をもって、踵《かかと》のネジを締めながらいった。「あなたさまのあとにつづくような名人は、旦那がたの中にございませんですよ。これでよろしゅうございますか?」と彼はバンドを締めながらきいた。
「よろしい、よろしい、後生《ごしょう》だから早くして」われともなしに顔にひろがる幸福の微笑を、やっとのことでこらえながら、レーヴィンは答えた。
『そうだ』と彼は考えた。『これが生活なのだ、これが幸福なのだ! ごいっしょ[#「ごいっしょ」に傍点]に、ってあのひとはいったっけ。ごいっしょにすべりましょうよ[#「ごいっしょにすべりましょうよ」に傍点]って。いま打ち明けたものだろうか? しかし、いまいいだすのはこわい、というのは、いまおれが幸福だからだ[#「幸福だからだ」は底本では「幸福なからだ」]、たとえ希望だけででも幸福だからだ[#「幸福だからだ」は底本では「幸福なからだ」]……いってしまって、もしそのとき?………でも、いわなくちゃならない! いわなくちゃならない、いわなくちゃ! 弱気は棄ててしまえ!』
 レーヴィンは立ちあがり、外套を脱ぎ、小屋のそばのがさがさした氷の上を勢いよく走って、滑らかな氷の上へ出た。そして、なんの努力もなく、さながら自分の意志一つで速度を早めたり、ゆるめたり、方向を変えたりすることができるように、自由にすべりはじめた。彼はびくびくものでキチイのそばへ近よったが、その微笑はふたたび彼の心をおちつかした。
 彼女は手をさしのべた。で、二人は少しずつ歩みを速めながら、並んですべり出したが、速度が早くなればなるほど、彼女はいよいよ強く男の腕を締めるのであった。
「あなたもいっしょにすべったら、早く上達しそうな気がしますわ。あなたなら、なぜか信頼できますのよ」と彼女はいった。
「僕もあなたがよりかかってらっしゃると、自信が出てきます」と彼はいったが、すぐ自分のいったことにぎょっとして、顔を赤らめた。また事実、彼がこの言葉を口から出すやいなや、とつじょ太陽が雲にかくれたように、彼女の顔はすっかり今までの優《やさ》しみをなくしてしまった。レーヴィンはかねて見覚えのある、思想の努力を示す表情の動きを、彼女の顔に認めた。その滑らかな額には、ひと筋の皺が浮んだ。
「あなた、何か不快なことでもおありになりませんか? もっとも、そんなことをおたずねする権利はありませんがね」と彼は早口にいった。
「なぜですの?………いいえ、あたしなんにも不快なことなんかありませんわ」とそっけなく答えて、彼女はすぐつけたした。「あなた、マドモアゼル・リノンにお会いになって?」
「いえ、まだです」
「じゃ、行ってあげて下さいな、あのひとはあなたが大好きなんですから」
『これはどうしたのだろう? 僕がいやな思いをさせたのかしらん? ああ、神さま、たすけて下さい!』とレーヴィンは考え、ベンチに腰かけている白髪のフランス女のところへ走って行った。彼女は入れ歯をむき出して、にこにこ笑いながら、レーヴィンを旧友として迎えた。
「ええ、こうして大きくなる人もあれば」と目でキチイをさしながら、彼女はそういった。「年とっていくものもありますよ。Tiny bear(子熊)が大熊になりましたからね!」とフランス女は言葉をつづけた。レーヴィンが三人の令嬢をイギリスの童話に出てくる三匹の子熊になぞらえた、古い冗談《じょうだん》を思い出させたのである。「覚えていらっしゃる? よくそういってらしたじゃありませんか」
 彼はまるっきり覚えていなかったが、彼女のほうはもう十年間、この冗談をもちだしては笑っていた、すっかり気に入ったのである。
「さあ、いっておすべりなさいまし。ときに、うちのキチイはよくすべれるようになりましたでしょう、そうじゃございません?」
 レーヴィンがキチイのそばへ駆けつけた時には、彼女の顔はもういかつさがなくなって、目つきは前のとおり正直そうで優しかったが、レーヴィンから見ると、その優しさの中には何か特別な、わざとらしくおちついた調子が感じられた。彼は憂鬱になった。自分の年とった家庭教師とその奇癖について語ったあと、彼女はレーヴィンの生活ぶりをたずねた。
「あなた田舎にいらしってお退屈じゃございません?」
「いや、退屈なんかしません、僕は非常に忙しいんですから」相手が自分のおちついた調子に従わせようとしているのを感じながら、レーヴィンはこう答えた。彼はこの冬の初めと同じように、この調子からぬけ出ることができないのであった。
「長らくご逗留《とうりゅう》ですの?」とキチイはたずねた。
「わかりません」自分でも何をいってるかわからず、彼はこう答えた。もし相手のおちついた友情の調子にひきこまれたら、今度も何一つ決めることができないで、田舎へ帰っていかなければならぬのだ、こういう考えがふと頭に浮んだので、彼は思い切ってこの調子に逆らおうと決めたのである。
「どうしておわかりになりませんの?」
「わかりません。それはあなたしだいなのですから」と彼はいって、すぐさまわれとわが言葉にぎょっとした。
 それが聞えなかったのか、それとも聞きたくなかったのか、彼女はつまずきでもしたように、二度ばかり片足でとんとんやると、急いで彼のそばを離れてしまった。かれはマドモアゼル・リノンのそばへすべって行き、何やらいったあと、小屋の方へ足を向けた。そこでは、彼女たちがスケートを脱いでいた。
『ああ、おれはなんてことをしたんだろう! ああ、神さま! どうかお助け下さい、どうしたらいいか教えて下さい!』とレーヴィンは祈りながら口走ったが、それと同時に、はげしい運動の要求を感じて、さっとすべり出したと思うと、外まわり内まわりの輪を描きはじめた。
 その時、新しいスケートの名手とされている若者の一人が、口にタバコをくわえ、足にスケートをつけたまま喫茶店から出て来て、勢いよく走り出したと思うと、鉄《かね》をがちゃがちゃ鳴らし、ひょいひょい躍りあがりながら、スケートのままで石段を降りはじめた。下まで降りきると、自由な手の位置さえ変えずそのままで、氷の上をすべり出した。
『ああ、あれが新しい手なんだな!』レーヴィンはひとりごち、すぐさま駆けあがって、その新手をやろうとした。
「転んだらおしまいですよ、慣れが要《い》りますからね!」とニコライ・シチェルバーツキイが叫んだ。レーヴィンは石段の上へあがって、できるだけ勢いよく走り出すと、慣れない動作なのでようやく両手でバランスをとりながら、下へ降りていった。最後の一段でちょっとひっかかったが、片手がわずかに地面にさわっただけで、うんとはげしい動作をすると、重心を取り返し、笑いながら氷の上をすべり出した。
『気持のいいりっぱな人だわ』この時、マドモアゼル・リノンといっしょに小屋を出たキチイは、静かな愛撫の微笑を浮べて、好きな兄でも見るように彼をながめながら、心の中でそう思った。『でも、いったいあたしが悪いのかしら? あたし何かよくないことでもしたのかしら! 人はふまじめな媚態だっていうけれど。自分の愛しているのはあの人でないってことを承知してるけど、でもあたしあの人といっしょにいると楽しいんだもの。それに、あの人はあんないいかただし。だけど、なぜあんなことをおっしゃるんだろう?』と彼女は考えるのであった。
 キチイが、石段のところで会った母親といっしょに帰ろうとしているのを見て、レーヴィンはちょっと立ち止って、考えこんだ。彼はスケートを脱いで、動物園の出口で母娘《おやこ》に追いついた。
「あなたにお目にかかれて、うれしゅうございますこと」公爵夫人はいった。「相変らず木曜日が宅の面会日でございますから」
「というと、今日ですね」
「どうぞいらして下さいまし」と公爵夫人はそっけなくいった。
 このそっけなさは、キチイにとってつらかったので、母の冷たい態度のつぐないをしたいという気持を、おさえることができなかった。彼女は頭《こうべ》をめぐらして、微笑を浮べながらいった。
「さよなら」
 この時オブロンスキイが、帽子を横っちょにかぶり、眼はいうに及ばず、顔まで輝かしながら、陽気な征服者然として動物園へ入ってきた。が、公爵夫人のそばへよると、沈んだ申しわけなさそうなようすをして、ドリイの健康をたずねる姑《しゅうとめ》の問いに答えた。小さな元気のない声で姑との話を終ると、彼はぐっと胸を張って、レーヴィンの腕をとった。
「さあ、どうだい、出かけようじゃないか?」と彼はいった。「僕はしじゅう君のことを考えていたもんだから、こうして出てきたのが実に、実にうれしいよ」と意味ありげなようすで友の目を見ながら、彼はこういった。
「行こう、行こう」さよならといった声を聞き、それをいったときの微笑を見つづけている幸福なレーヴィンは、こう答えた。
「『イギリス亭』か、それとも『エルミタージュ』か?
「僕はどっちでもいいよ」
「じゃ、『イギリス亭』だ」とオブロンスキイはいった。彼が『イギリス亭』を選んだのは、『エルミタージュ』よりそこのほうに借りが多かったからで、そのために『エルミタージュ』にしては悪いと思ったのである。「君、辻馬車を待たしてるかい? いや、けっこう、僕は箱馬車を帰したのでね」
 道々ずっと二人の友は黙っていた。レーヴィンは、いったいキチイの表情の変化はどういう意味だろうかと考え、時には望みがあると信じてみたり、絶望に陥ったりした。そして結局、望みをかけるなんて狂気の沙汰だということを、明瞭に見てとった。にもかかわらず、彼女の微笑を見、『さよなら』という言葉を聞くまでの自分とは、全く別人になったような気がした。
 オブロンスキイは道々メニューを考えていた。
「君、ひらめは好きかい?」
「なんだって?」とレーヴィンは問い返した。「ひらめ? ああ、僕はひらめがとっても[#「とっても」に傍点]好きだよ」

[#5字下げ]一〇[#「一〇」は中見出し]

 レーヴィンがオブロンスキイといっしょにホテルへ入った時、彼は友の顔に表われた控えめな輝きや、からだ全体に何か特殊なところがあるのに気がついた。オブロンスキイは外套をぬぎ、帽子をアミダにかぶって、食堂へ通り、燕尾服を着、ナプキンを持って四方八方からたかるダッタン人に命令を下した。いつものごとく、ここにも居合わせて、うれしそうに会釈する知人に向って、左右におじぎをしながら、ブフェーに近づき、小魚でウォートカを一杯のみ、帳場のむこうに坐っている、リボン、レース、カールで飾り立てている女に何かいった。すると、そのフランス女でさえ、腹の底から笑い出した。
 レーヴィンがウォートカを飲まなかったのは、このフランス女が癪《しゃく》にさわったからである。この女は入れ毛と、poudre de riz(米粉)と、vinaigre de toilette(化粧酸)でできているように思われた。彼は、まるでけがらわしい場所ででもあるように、この女のそばを離れた。彼の心はキチイの追憶にみち、その眼には勝利と幸福の微笑が輝いていた。
「御前《ごぜん》さま、こちらへどうぞ、ここでは御前さまにうるさくするものはございません」特別くっついてきた年寄りのダッタン人が、こういった。幅広の骨盤をして、その上に燕尾の裾をひろげている。「どうぞ、御前」オブロンスキイに敬意を表して、その客人にもサービスしながら、彼はレーヴィンにそういった。
 たちまちのうちに、青銅の壁燭台の下の円卓の上に設けてあるテーブル・クロースの上に、さらに新しいテーブル・クロースをひろげて、老ボーイはビロード張りの椅子を引きよせ、手にナプキンとメニューを持って、オブロンスキイの前に立ち、命《めい》を待っていた。
「御前さま、もし別室がご所望でございましたら、ただいますぐあきますで。ゴリーツィン公爵さまがご婦人とごいっしょにいらっしゃいますので。牡蠣《かき》は新しいのが入りましてございます」
「ああ! 牡蠣か」
 オブロンスキイは考えこんだ。
「ひとつプランを変えるかな、レーヴィン?」メニューの上に指をのせたまま、彼はそういった。その顔は真剣に迷っているような表情になった。「牡蠣は上等かい? おい、大丈夫か?」
「フレンスブルグのでございます、御前さま、オステンドのはございません」
「フレンスブルグはフレンスブルグにしても、新しいかい?」
「昨日はいりましたので」
「じゃ、どうだね、牡蠣からはじめて、そのあとでもうすっかりプランを変えるかな、え?」
「僕はどうだって同じだよ。僕は玉菜汁《シチイ》と粥《カーシャ》が一番いいのだが、ここには、そんなものないだろう」
「粥《カーシャ》なら、ア・ラ・リュス([#割り注]ロシヤ風[#割り注終わり])はいかがでございます?」まるで赤ん坊にむかう保姆《うば》のように、レーヴィンの上にかがみこみながら、ダッタン人はこういった。
「いや、冗談はさておいて、君の選ぶものでいいよ。僕はスケートで駆けまわったので、腹がへっちゃった。どうか思い違いをしないでくれ」オブロンスキイの顔に不満げな表情を認めて、彼はこうつけたした。「僕は君の選択に敬愛を表《ひょう》さないわけじゃないんだから。僕は喜んで、なんでもよく食べるよ」
「もちろんさ! なんといったって、これは人生の快楽の一つだからな」とオブロンスキイはいった。「じゃ、おまえ、牡蠣を二十もってきてくれ、いや、それとも少ないかな――三十だ。それから野菜入りスープと」
「プランタニエールでございますな」とダッタン人はひきとった。しかし、どうやらオブロンスキイは、彼にフランス語で料理の名前をいう満足を許したくないらしかった。
「野菜の根入りだぞ、わかった? そのあとは濃いソースのかかったひらめ、それから……ローストビーフ。だが、いいか、上等のだぞ。それから去勢※[#「奚+隹」、第 3水準 1-93-66]《カブルン》にするかな、そして罐詰のくだもの」
 ダッタン人は、フランス語で料理の名前をいわないオブロンスキイのやりかたを思い出して、あとからついていわなかったが、その代り注文の品を全部くりかえすことで満足した。
「スープ・プランタニエール、ボーマルシェ・ソースのひらめ、プラルド、ア・レストラゴン、マセドアヌ、ド・フリュイ……」といって、すぐさまバネ仕掛けのように、綴《と》じたメニューを置くと、今度は別なワイン・メニューを取って、オブロンスキイにさし出した。
「何を飲もう?」
「僕はなんでもいい、ただし、ほんの少しだ………シャンパン」とレーヴィンは答えた。
「えっ? はじめから? もっとも、成程それもよかろう。君は白封のほうが好きかい?」
「カシェ・ブラン」とダッタン人がひき取った。
「じゃ、それを牡蠣のときに出してくれ、そのあとはそのときしだいだ」
「かしこまりました。テーブル・ワインはなんになさいます?」
「ニュイを持ってきてくれ。いや、いっそ定例のシャブリにしよう」
「かしこまりました。御前さま[#「御前さま」に傍点]のチーズはいかがでございます?」
「そうだな、パルメザンだ。それとも、君は何かほかのが好きかい?」
「いや、僕はなんだっていいんだよ」微笑をおさえる力がなくて、レーヴィンはそういった。
 ダッタン人は、燕尾の裾を翻しながら駆け出していったが、五分ばかりたつと、玉虫色に光る貝の上に載せた牡蠣料理と、酒のびんを指の間にはさんで飛びこんできた。
 オブロンスキイは、糊のきいたナプキンを揉みほぐして、チョッキの間に差しこみ、両手をゆったりとテーブルの上において、牡蠣にとりかかった。
「うん、わるくないわい」銀のフォークで、玉虫色に光る貝殻から汁気の多い身を剥《は》がし、あとからあとから口へ持っていきながら、彼はこういった、「わるくない」うるみをおびて光る眼を、レーヴィンとダッタン人の方へ、かわるがわるふりむけながら、またこう繰り返すのであった。
 レーヴィンは牡蠣も食べたが、チーズをつけた白パンのほうが気持がよかった。それよりむしろ、彼はオブロンスキイに見とれていた。ダッタン人でさえも、コルクを抜いて、漏斗形《じょうごがた》の薄い盃に泡立つ酒を注ぎ分けると、目に見えて満足の微笑を浮べ、白いネクタイをなおしなおし、オブロンスキイをながめていた。
「君はあまり牡蠣が好きじゃないのかい?」とオブロンスキイは盃を干しながらいった。「それとも、何か気にかかることでもあるのかね? え?」
 彼は、レーヴィンに快活にしてほしかったのである。しかし、レーヴィンは快活でなかったというのではないが、何か窮屈な感じがした。いま心にいだいているようなものをもって、みんなが婦人同伴で食事をしている部屋部屋にはさまれながら、こんなレストランに坐りこんで、人々の走りまわったり、ざわざわしたりする足音を聞くのは、妙に気づまりで、おちつかないのであった。こうしたブロンズ、姿見、ガス燈、ダッタン人、といったような環境は、彼にとって侮辱のように思われた。心をみたしているものをけがしはしないかと、それが心配だったのである。
「僕? そう、気にかかることがあるんだ。が、そればかりでなく、僕はこういうものが何もかも、窮屈でしょうがないんだ」と彼はいった。「君には想像もつかないだろうが、僕みたいな田舎《いなか》ものにとっては、こんなのが何もかも奇怪千万に思われるんだ、ちょうど君のとこで会ったあの紳士の爪のようにね……」
「ああ、僕も気がついていたよ、君はあの不運なグリネーヴィッチの爪に、ひどく興味を感じたようだね」とオブロンスキイは笑いながらいった。
「やりきれないんだ」とレーヴィンは答えた。「君ひとつ努力して、僕の立場になってみてくれたまえ、田舎に住んでいる人間の立場にさ。われわれ田舎に住んでいるものは、できるだけ働きいいように、自分の手を処理しているので、そのために爪も切るし、ときには袖もたくしあげる。ところが、ここではみんながわざと、のばせるだけ爪をのばして、小皿みたいな飾りボタンをつけて、手では何一つできないようにしてるんだからなあ」
 オブロンスキイはおもしろそうに笑い出した。
「それは要するに、荒仕事などは必要がないというしるしさ。あの男は頭を働かしてるんだから……」
「かも知れない。が、それにしても、やっぱり僕の目には奇怪千万なんだ。それはね、われわれ田舎の人間が早く仕事にかかれるように、急いで腹へつめこもうとするのに、ここではなるべく長く腹を脹《ふく》らさないように苦心して、そのために牡蠣なんか食べているのだろう、それが奇怪千万に思われるのと同じことなのさ……」
「いや、もちろんさ」とオブロンスキイは受けた。「しかし、それが教養というものの目的なんだよ、いっさいを化して快楽にするということがね」
「ふん、それが目的だとしたら、僕は野蛮人でいたいよ」
「君はそれでなくっても野蛮人だよ。君たちレーヴィン一統はみんな野蛮人だよ」
 レーヴィンはため息をついた。彼は兄ニコライのことを思い出した。と、彼は気がとがめ胸が痛くなって、眉をひそめた。けれども、すぐに気がまぎれてしまった。というのは、オブロンスキイがこんなことをいいだしたからである。
「ときに、どうだね、今日われわれのところへ、つまりシチェルバーツキイ家へやってくるかね?」からになったがさがさの牡蠣殻をわきのほうへおしやり、チーズをひきよせながら、彼は意味ありげに眼を光らせていいだした。
「ああ、必ず行く」とレーヴィンは答えた。「もっとも、公爵夫人の招待のしかたはしぶしぶみたいに思われたけれどね」
「君は何をいってるんだ! ばかばかしい! あれはあのひとの癖だよ……おい、スープを出さんか!………あれはあのひとの癖だよ、grande dame(貴婦人)だからね」とオブロンスキイはいった。「僕も行くけれど、僕はその前にボーニナ公爵夫人のとこへ、合唱の練習に行かなくちゃならないのでね。さてと、君は実際、野蛮じゃないか。現に、去年とつぜんモスクワから姿を消してしまった一件などは、なんといって説明したらいいんだ? シチェルバーツキイの人たちは、のべつ僕にそのわけをきいたもんだよ、まるで僕が知ってるのがあたりまえみたいにさ。ところが、僕の知っているのはたった一つ、君がいつも人のしないようなことをする、ということだけさ」
「そう」レーヴィンはゆっくりと、しかも興奮のていでいった。「全く君のいうとおり、僕は野蛮人だ。しかしね、僕が野蛮なのは、あの時ここを発《た》ったことじゃなくて、今度また出てきたってことなんだ。こんど僕が出てきたのは――」
「ああ、君はなんという幸福な男だ!」とオブロンスキイはレーヴィンの眼を見つめながら、すかさずこういった。
「どうして?」
「駿馬《しゅんめ》は烙印《らくいん》により、恋せる若人はその眼によりて見分けられるよ」とオブロンスキイは朗読口調でいった。「君はいっさいが前途にあるんだからなあ」
「じゃ、いったい君はもう過去の人になったのかい?」
「いや、過去の人というわけじゃないが、とにかく君には未来があるけれど、僕には現在しかない。しかも、その現在がちょぼちょぼなんだからね」
「どうしたんだね?」
「とにかく芳《かんば》しくないんだよ。いや、まあ、僕は自分のことは話したくない、それに、なにもかもすっかり説明するなんて、不可能だからね」とオブロンスキイはいった。「そこで、君はなんのためにモスクワへ出てきたんだい?……おい、片づけろ!」と彼はダッタン人に叫んだ。
「君、察してるだろう?」深い底のほうに輝いている眼を友の顔から放さないで、レーヴィンは答えた。
「察してるよ。が、自分からその話を切り出すわけにはいかない。だから、もうそれだけで僕の推察が正しいかどうか、君にはわかるはずだよ」微妙なほほえみを浮べてレーヴィンを見ながら、オブロンスキイはこういった。
「じゃ、君の意見はどうだね?」とレーヴィンはふるえ声でいったが、自分の顔の筋肉が一つ一つ痙攣《けいれん》するのを感じた。「君はどう思う?」
 オブロンスキイはレーヴィンから眼をはなさないで、ゆっくりとシャブリの盃を飲み干した。
「僕かね?………」とオブロンスキイはいった。「これ以上の願わしいことはないよ! これこそ何よりもけっこうなことだ」
「しかし、君、考え違いをしてやしない? 僕がなんの話をしてるか、君わかるかい?」相手の顔を食い入るように見つめながら、レーヴィンはこういった。「君はそれをできることと思う?」
「できることと思うさ。どうしてできないんだい?」
「いや、君ほんとにこれができることと思うんだね? いや、君こころに思っていることを、そっくり残らずいってくれたまえ! だが、もしも僕を待ち受けているのが拒絶だとすれば!………それどころか、僕はそれを確信している……」
「どうしてそんなことを考えるんだね?」相手の興奮を微笑でながめながら、オブロンスキイはこういった。
「どうかすると、そんな気がするんだよ。なんにしても、それは恐ろしいことだからね、僕にとっても、彼女にとっても」
「いや、なんにしても娘のほうにとっては、何も恐ろしいことはありゃしないよ。どんな娘だって、求婚されるのを誇りとしてるからね」
「ああ、どんな娘だってそうだが、あのひとだけは違う」
 オブロンスキイはほほえんだ。彼はレーヴィンのそういった気持を、よく承知していたのである。レーヴィンにとっては、世界じゅうの娘が二つの部類に大別されていた。一つは彼女を除いた世界じゅうの娘ぜんぶであって、これらの娘たちはあらゆる人間的な弱点をもっており、きわめてありふれた女にすぎない。ところが、いま一つの部類は彼女ただ一人であって、これは何一つ弱点などもたず、いっさいの人間的なものを超越しているのだ。
「ま、ちょっと、ソースをとりたまえ」ソースをおしのけようとするレーヴィンの手をおさえ、彼はこういった。
 レーヴィンはおとなしくソースをかけたが、相手に食べる暇を与えなかった。
「いや、君、ちょっと、ちょっと」と彼はいった。「察してもくれたまえ、これは僕にとって、生死の問題なんだからね。僕は今までかつて、だれともこの話をしたことがない。君以外にはだれともこの話をすることができないんだ。ねえ、君と僕とは、あらゆる点において縁のない人間で、趣味から、見解から、なにもかも違っている。しかし、君は僕を愛し、理解してくれることがわかっているので、僕は君が大好きなんだ。しかし、お願いだから、ほんとうに腹蔵なく打ち明けてくれたまえ」
「僕は腹に思っているとおりをいってるよ」とオブロンスキイは、ほほえみながら答えた。「しかしね、僕はそれ以上のことをいうよ。僕の家内はじつに驚くべき女でね……」オブロンスキイは妻と自分との関係を思い出すと、ほっと一つため息をついて、ややしばらく無言ののち、言葉をつづけた。「あれは予見の才能をもっていて、人の心を見透《みすか》すんだが、なおそのほかに、未来のことまでわかるんだ、ことに結婚のほうにかけてはね。たとえば、あれは、シャホフスカヤがブレンテルンのとこへ行くと予言したもんだ。だれ一人として、それを本当にするものがなかったけれど、そのとおりになったからね。ところで、家内は君の味方なんだよ」
「といって、どうなんだね?」
「こうなんだ、あれは君が好きなばかりでなく、キチイは必ず君の奥さんになる、といってるんだよ」
 この言葉とともに、レーヴィンの顔はとつぜん微笑に輝いた。それは感動の涙に近い微笑であった。
「あのひとがそういってるのかい!」とレーヴィンは叫んだ。「僕はいつもそういってたんだよ、あのひとは、君の奥さんは、すてきな人だって。だが、もうたくさん、この話はたくさんだ」と彼は席を離れながらいった。
「よしよし、だが、まあ掛けたまえ」
 しかし、レーヴィンはじっと坐っていられなかった。彼は持ち前のしっかりした足どりで、鳥籠のような小部屋を二度ばかりぐるぐるまわって、涙を見られないようにしきりに瞬《まばた》きしていたが、そのうちにやっと元の席についた。
「君、察してくれたまえ」と彼はいった。「これは恋じゃないんだよ。僕も恋をしたことがあるが、これはあんなものじゃない。これは僕自身の感情じゃなくて、何かしら外部の力が僕をつかんだんだ。僕がここを発《た》って行ったのはね、それはありえないことだと決めてしまったからだ。ね、わかるだろう、地上にありえない幸福みたいな気がしたんだ。自分自身と闘ったあげく、これなしには生活もないということがわかったんだ。で、なんとか決めなくちゃならない……」
「いったいなんのために発ってしまったんだい?」
「ああ、ちょっと! いやはや、どうもいろんな考えが浮んできて! ききたいことも山ほどある! 君は今いったことで、僕にどれだけのことをしてくれたか、想像もつかないだろう。僕はすっかり幸福な気分になって、われとわが身がいやらしくなったくらいだ。なにもかも忘れてしまってさ。僕はね、今日兄のニコライのことを聞いたんだが……君、知ってる、兄はここにいるんだよ……その兄のことさえ、僕は忘れてしまったんだからね。兄貴までが幸福でいるような気がしてさ。これは一種の狂気状態だ。しかし、一つ恐ろしいことがある……君は結婚しているから、この気持はわかっているだろうが……恐ろしいというのはほかでもない、われわれはもう相当の年配で、すでに過失をもっている、しかも恋愛でなしに、ただ罪悪にすぎない関係なのだ……それが突然、清浄無垢《しょうじょうむく》な処女に接近する、これは唾棄すべきことじゃないか。だから、自分は処女に値しない人間だと、感ぜざるを得ないのさ」
「なあに、君の罪悪なんか、たいしたことはありゃしない」
「いや、それにしたってさ」とレーヴィンはいった。「とにかく、僕は嫌悪の念をもって、過去の生活を読み返しながら、ふるえおののき、呪詛《じゅそ》し、悲痛な訴えを口走っている……そうなんだよ」
「どうもしかたないさ、世界がそんなふうにできてるんだから」とオブロンスキイはいった。
「ただ一つの慰藉《いしゃ》は、ちょうどあの僕の好きなお祈りにあるとおり、われを赦したまえ、わが功績のために非《あら》ず、なんじのおん慈悲によりて赦したまえ、だ。ただそういう意味で、彼女は僕を赦すことができるだろう」