『アンナ・カレーニナ』2-11~2-20(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]一一[#「一一」は中見出し]

 ほとんどまる一年の間、ヴロンスキイにとっては、それまでのあらゆる欲望の代償となって、生活の唯一無二ともいうべき絶対的な希望を作りなしていたもの、またアンナにとっては考えることもできないほど恐ろしいものながら、それだけにいっそう魅力をもった幸福の空想であったところのもの――それがいま成就されたのである。彼は真蒼な顔をして、下顎をがたがたふるわせながら、彼女のそばに立ったまま、自分でも何をどうしていいかわからないくせに、彼女に気をおちつけてくれと嘆願するのであった。
「アンナ、アンナ!」と彼はふるえる声でいった、「アンナ、後生《ごしょう》だから……」
 けれども、彼の声が高くなればなるほど、以前ほこらかに快活だった姿にひきかえて、今は恥ずかしくも浅ましい彼女の頭は、いよいよ低くたれていくのであった。そして、もし彼がささえなかったら体を二つに曲げながら、腰かけていた長椅子から床の上へ膝をつき、男の足もとへつっ伏してしまったに相違ない。
「神さま! わたくしをお赦し下さいまし!」彼女はすすり泣きの声を上げ、男の手をわが胸へおしつけながら、こういうのであった。
 彼女は自分を罪深いもの、道ならぬものと思いつめた。もうこの上は身を低くして、赦しを乞うよりほかはないような気がした。けれども、彼女にとっては今この世の中に、彼よりほかには何一つなくなっていたので、彼女はこの赦しを乞う祈りを、彼にも向けたのである。彼女は男を見ていると、肉体的に自分の堕落を感じて、これ以上なにもいうことができなかった。ところが彼のほうは、殺人者が自分の手にかけた死体を見たときのような気持を感じた。彼の手にかけたこの死骸こそ、彼らの恋であった、彼らの恋の一段階であった。この羞恥という恐ろしい代価を払って得たものを思い起すと、そこにはなにかしら恐ろしくいまわしいものがあった。自分の精神的裸形に対する羞恥の念が彼女を圧倒して、男にも伝わっていくのであった。けれど、殺人者は被害者の死骸に対して、どんなに激しい恐怖を感じても、その亡骸《なきがら》を隠すためには、それをずたずたに切り刻まなければならない。殺人行為によって得たものを、あくまで利用しなければならない。
 で、殺人者は情欲ともいうべき憤怒《ふんぬ》をいだきながら、その骸《むくろ》に飛びかかって、ひきずりまわしたり、切り刻んだりする。ちょうど、それと同じように、彼も接吻で彼女の顔や、肩をおおうのであった。彼女は男の手を持ったまま、身じろぎもしなかった。ああ、この接吻――これこそ羞恥によって贖《あがな》われたものである。ああ、この手――永久に自分のものになるだろうこの手も――わが共犯者の手である、彼女はその手を持ちあげて、それに接吻した。彼はひざまずいて、彼女の顔を見ようとしたが、彼女は顔を隠して、ひと言も口をきかなかった。ついに彼女は、自分にうちかとうと努力でもするように、つと身を起して、男をおしのけた。彼女の顔は依然として美しかったが、それだけによけいみじめであった。
「もうなにもかもおしまいだわ」と彼女はいった。「わたしにはもうあなたのほかに何ひとつないんですの。それを覚えててちょうだいね」
「どうして忘れられるものですか、それが僕の生命なんじゃありませんか。この幸福の一瞬のためには……」
「まあ、何か幸福なもんですか!」嫌悪と恐怖の調子で彼女はいった。すると、その恐怖は無意識のうちに彼に伝わった。「後生ですから、もうなんにも、なんにもいわないで」
 彼女は素早く立ちあがって、男のそばから身を離した。
「もうなんにもいわないでちょうだい」と彼女は繰り返した。そして、男の目には奇妙に思われる冷やかな絶望の表情を浮べながら、彼と別れていった。彼女は今この瞬間、新生活へ入ろうとする前に体験した羞恥と、恐怖と、喜びを、言葉に現わすことはできないと感じたし、またそれを口に出して、不正確な言葉でこの感情を俗なものにしてしまいたくなかったのである。とはいえその後、翌日になっても翌々日になっても、こうした感情の複雑さを十分に表現するだけの言葉を、見いだすことができなかったばかりか、心の中に生じたいっさいのことを、われとわが身で思いめぐらすだけの思想さえ、見つけ出すことができなかったのである。
 彼女は心の中でこういった。『いや、今わたしはこの事を考えることができない。あとでもっと気持がおちついてからにしよう』けれど、そうした思考に必要なおちつきは、なかなかやってこなかった。自分は何をしたのか、これから自分はどうなるのだろう、自分はどうしなければならないのか、などというような考えが心に浮んでくるたびに、彼女は恐怖の念に襲われるので、そういう想念を追い払うようにしていた。
「あとで、あとで」と彼女はいった。「もっと気持がおちついてから」
 その代り、自分の考えを支配する力のない夢の中では、彼女の現在の状態は、醜い赤裸々な姿のままで現われるのであった。ある一つの夢が、ほとんど毎晩のように彼女を訪れた。彼女は夢のなかで、二人が同時に自分の良人で、二人が自分に愛撫を浪費しているところを見た。アレクセイ・アレクサンドロヴィッチは、彼女の手を接吻して泣きながら、今は実にいい都合になったじゃないか! といった。アレクセイ・ヴロンスキイもやはりそこにいて、彼も同様に彼女の良人なのであった。彼女は、自分が今までそれを不可能のように思っていたのをふしぎがって、笑いながら、二人の良人に、このほうがずっと簡単で、彼らも二人ながら満足を感じ、幸福でいるではないかと、説明してやるのであった。けれども、この夢は悪夢のように彼女の心を圧倒した。そして、彼女は慄然《りつぜん》と目をさますのであった。

[#5字下げ]一二[#「一二」は中見出し]

 モスクワから帰った当座のレーヴィンは、拒絶された時の屈辱を思い出しては、そのつどぴくっと身ぶるいして顔を赤らめ、こうひとりごつのであった。『おれは物理で零点を取って原級に残された時、やはりこんなふうに赤い顔をして身をふるわせ、自分はもうだめだと思ったものだ。それから姉に頼まれた事件をやりそこなったあとでも、やっぱり自分はだめになったと思った。ところが、どうだろう? いま幾年かたって追想してみると、あんなことにどうしてああも悲観したものか、ふしぎな気がするくらいだ。今度の失望だってそれと同じだろう。しばらく時がたったら、おれは平気になるに相違ない』
 しかし、三ヵ月すぎたけれども、彼は平気になれなかった。あの当座と同じように、思い出すと苦しかった。彼はどうしても、気持をおちつけることができなかった。なぜなら、あれほど長い間結婚生活を空想し、かつそのために十分成熟しきったものとみずから感じている彼が、相変わらず妻帯しないでいるばかりか、今までのいつよりも結婚の可能から遠ざかっているからであった。彼のような年齢の男が一人でいるのはよろしくないと、周囲のものがだれも感じている、それを彼自身も病的なほどに感じるのであった。モスクワへ出かけて行く前、いつも彼が好んで話をする家畜番のニコライという素朴な百姓に、「どうだ、ニコライ! おれは結婚しようと思ってるんだが」といったところ、ニコライは決まりきったことみたいに、「もうとうからそうなさらなけりゃならなかったんでごぜえますよ、旦那さま」とたちどころに答えたものである。それを彼は覚えていた。しかし、いま結婚ということは、前よりもさらに彼から遠のいてしまった。考えていた場所がふさがったのである。彼はいま想像の中で、自分の知っている娘のだれかをその場所へすえてみても、とてもそんなことはだめだという気がするのであった。のみならず、申込を拒絶されたこと、その際、自分が演じた役まわりのことを考えると、彼は羞恥の念にさいなまれた。自分はあの場合なにも悪いことはなかったのだ、といくら自分で自分にいって聞かせても、この追憶はその他の同種類の恥ずべき記憶と並んで、彼に身ぶるいさせるのであった。彼の過去にも、すべての人と同じように、みずから意識しているよからぬ行為がいくつかあって、そのために彼は良心の呵責《かしゃく》に苦しめられねばならぬはずであった。にもかかわらず、それらのよからぬ行為に関する記憶は、前に述べたとるにたらぬ、とはいえ恥ずべき追憶ほどには、彼を苦しめなかった。この傷口には、いつまでたっても薄皮が張らなかった。これらの追憶と並んで、今度はまたキチイの拒絶と、あの晩ほかの人たちの目にも映ったに相違ないあのみじめな自分の立場が、彼の心にのしかかってきたのである。しかし、時の力と仕事が当然の作用をした。苦しい追憶は次第しだいに、目には見えないけれど、重大な意義を有する農村生活の出来事におおわれていった。一週間ごとに、キチイを思い出すことはだんだん少なくなった。彼はキチイがもう結婚したとか、あるいは近日嫁に行くとかいう知らせがくるのを、じりじりしながら待っていた。そういう便りが、ちょうどひと思いに虫歯を抜くように、すっかり自分を癒《なお》してくれるものと、心だのみにしていたのである。
 そのうちに春が来た。この季節にありがちな期待も欺瞞《ぎまん》もないすばらしい春、植物も動物も人間もともに喜ぶような、珍しい春の一つであった、このすばらしい春が、いっそうレーヴィンを興奮させ、過去のいっさいを棄て去って、自分の独居生活を、だれからも掣肘《せいちゅう》を受けず、堅固に築きあげようと決意させた。彼が村へもって帰ったプランの多くは、まだ実現されてはいなかったけれど、もっとも重要なこと――生活の清潔ということだけは、ちゃんと守られていた。これまで通常、女と接したあとに感じていた羞恥、人に顔向けもできないような感じは、経験しないですんだ。まだ二月の中に、マリヤ・ニコラエヴナから手紙が届いて、兄ニコライの健康が次第に悪化しているにもかかわらず、彼が治療しようとしないということを知った。その手紙を読むと、レーヴィンはモスクワの兄のところへ行って、医師の診察を受けたうえで、外国の温泉へ行くようにうまく説きつけた。彼は実に具合よく兄を説き伏せて、相手を怒らせずに旅費を貸すことができたので、その点かれは自分自身に満足を感じた。春には特別の注意を要求する農事と読書以外に、レーヴィンは冬ごろから農村経営に関する一つの著述を始めていた。そのプランは、労働者の性質が気候や土壌と同じように、農村経営では絶対の要素と見なされる、というのであった。したがって、すべての農村経営に関する学説は、単なる気候風土の要素のみでなく、土壌、労働者の一定不変の性質という、三要素から立てられなければならぬ、というのである。そういったわけで、独居生活にもかかわらず、あるいは独居生活のために、彼の生活は非常に充実していた。ただほんの時たま、自分の頭に去来する思想を、アガーフィヤ・ミハイロヴナのほか、だれかに伝えたいという、満たされざる要求を感じるばかりであった。じつは、彼もかなりしばしばこの老女を相手に、物理学や、農村経営の理論や、特に哲学について談じたものである。哲学はアガーフィヤの大好きな題目だったので。
 春はいつまでも本ものにならなかった。大斎期《だいさいき》の終りの一、二週間は、晴れた凍《い》て空がつづいた。昼間は日光で溶けるが、夜は零下七度までさがった。溶けて凍った雪の表面は、路のないところでも、荷橇《にぞり》が通えるほどであった。復活祭は雪の中で迎えた。ところが、その後ふいに聖週([#割り注]復活祭後の一週間[#割り注終わり])の二日目に暖かい風が吹いてきて、黒雲がわいて出、三日三晩というもの、暖かい豪雨が降りつづいた。木曜日に風が静まって、あたかも自然の中に生じた変化の秘密を隠そうとでもするかのように、灰色の濃い霧が巻き起った。霧の中で川水が溢れ、氷が割れて流れはじめ、濁って泡立った流れは、前よりも激しく奔注した。こうして、翌週月曜日《クラースナヤ・ゴルカ》には、夕方から霧に破れ目ができ、雨雲が小羊の群のように散りぢりになって、やがてすっかり晴れわたった。いよいよ本当の春になった。あくる朝、きらきらとさし昇った太陽は、水面をおおっていた薄氷《うすらい》を忽《たちま》ちのうちに溶かし、空気は生き返った大地から立ち昇る水蒸気に充満して、ちらちらとふるえた。ふるい草も、角《つの》をさしのぞかした若草も一様に青んで、はいなかり[#「はいなかり」に傍点]、すぐり[#「すぐり」に傍点]、ねばっこいアルコールのような匂いを立てる白樺の芽もふくらんだ。金色の花をふりかけたような楊《やなぎ》の上では、巣から出された蜜蜂が唸りながら飛びまわっている。緑のビロードのような冬蒔き畑や、氷におおわれた耕地の上空では、目に見えぬ雲雀《ひばり》がここを先途《せんど》とさえずっているし、まだ引き切らぬ茶色の水のたまっている窪地や沼の上では、田鳧《たけり》が泣き出しそうな声を立て、高い大空では鶴や雁が、く、く、く、くと春らしい声をして渡っている。放牧場では、脱けた毛がまだところどころ生え変らずにいる家畜類が唸り声を立て、まだ脚の曲がった子羊は、めいめいと啼《な》き立てる毛の薄くなった母親のまわりを、跳ねまわっている。すばしっこい子供らは、跣足《はだし》の足跡を残して乾きかかっている径《みち》を走り、池の方からは布を哂《さら》す女房どもの楽しげなおしゃべりが聞え、内庭では犂《すき》や把《まぐわ》をつくろう百姓たちの斧の音が響いている。本ものの春が来たのだ。

[#5字下げ]一三[#「一三」は中見出し]

 レーヴィンは大きな長靴を履《は》き、はじめて毛皮のでなくラシャの外套を着て、日光の反射で目にちかちかする小川をまたいだり、氷を踏んだり、ねばねばした泥に足を吸われたりしながら、農場の見まわりに出かけた。
 春は計画と予想の季節である。で、レーヴィンは外へ出ると、ふくらんだ芽の中に籠《こ》められている若いひこばえや枝をどこへどう伸ばしていいか、まだわからないでいる春の樹木のように、自分の好きな農村経営の仕事で、これからどういう計画に手をつけていいやら、自分でもよくはわからなかったけれども、この上もなくりっぱな計画や予想で、頭がいっぱいになっているのを感じた。まず第一番に、彼は家畜場へ足を向けた。牛どもは柵《さく》の中に放されて、抜け変ったなめらかな毛を光らせながら、日向《ひなた》ぼっこをして、野原へ出してほしそうにないていた。どこからどこまでも細かく知りつくしている牛どもにしばらく見とれた後、レーヴィンはそれを野原へ放してやって、柵の中には子牛どもを入れるように命じた。牧夫はいそいそと野原へ行くしたくに駆け出した。家畜番の女たちは裾をからげて、まだ日焼けしない白い素足で、ぬかるみをぴちゃぴちゃいわせながら、枯枝を単に持って、春のきたうれしさに、夢中になって鳴き立てる子牛どもを、内庭へ追いこもうとして、駆けまわっていた。
 並はずれて成績のよかった今年生れの胤《たね》を、うれしそうにしばらくながめた後(早生れの子牛は、百姓のもっている牝牛《めうし》くらいあったし、いま三ヵ月になるパーヴァの娘は、一歳牛ほどの大きさだった)、レーヴィンは彼らのために飼秣槽《かいばおけ》を外へ持ち出して、乾草を柵の中でやるように命じた。しかし、冬のあいだ使わない囲いの中では、去年の秋つくった柵が少々こわれていた。彼は、請負で打穀機を作るはずになっていた大工を、迎えにやった。ところが、聞いてみると、大工はもう謝肉祭あたりにできていなければならぬ耙《まぐわ》を、今ごろ修繕しているところであった。レーヴィンはいまいましくてたまらなかった。長年のあいだ全力をあげて戦っているのに、こうした経営上のだらしない状態がいつまでも繰り返されている、それがいまいましかったのである。彼の調べたところによると、冬のあいだ必要のない柵は、労働用の馬を入れる小屋へ移された。ところが、もともと子牛のためにざっと造ったものなので、すぐこわれてしまったというわけである。のみならず、その調査の結果、冬のあいだに調べて修繕しておくようにいいつけ、そのためわざわざ三人の大工を雇っておいた農具類が、まだなおしてないのであった。でも耙《まぐわ》だけは、土を砕かなければならぬ時がきて、ともかく修理ができた。レーヴィンは支配人を呼びにやったが、すぐ自分でさがしに行くことにした。支配人は、この日のすべてのものの例にもれず、にこにこと笑み輝きながら、羊皮で縫った裘《かわごろも》の姿で、わらしべを両手でむしりむしり、打穀場《こなしば》の方からやって来た。
「どうして大工は打穀機にかかっていないんだね?」
「じつは、きのう申しあげるのを忘れておりましたが、耙の修繕をしなけりゃなりませんので。なにしろもう畑起しの時がきましたから」
「いったい冬のあいだには何をしていたんだね」
「ときに、大工にご用がおありになるというのは、どういうことでございます?」
「子牛を入れる庭の柵はどこにある?」
「ちゃんと元のところへ戻しておくようにいいつけたんですが、何分あの手合いはどうにもしようがありませんので!」と支配人は片手をふりながら答えた。
「あの手合いじゃない、この支配人だ!」とレーヴィンはかっとなっていった。「おい、いったいなんのために君をかかえていると思う!」と彼はどなったが、こんなことをいったって、なんのたしにもならないと気づいて、中途で言葉を切り、ただほっとため息をついたばかりである。「それで、どうだね、もう播《ま》きつけはできるかね?」と彼はしばらく無言の後、こうきいた。
「トゥルキンのむこうは、明日か明後日ごろよろしゅうございましょう」
「苜蓿《うまごやし》は?」
「ヴァシーリイとミーシュカをやりました――播いております。でも、うまく出るかどうかわかりません、地面がじくじくしておりますから」
「幾|町歩《デシャチーナ》分?」
「六|町歩《デシャチーナ》でございます」
「どうして地所ぜんたい播《ま》かなかったのだ?」とレーヴィンは叫んだ。
 苜蓿《うまごやし》を二十|町歩《デシャチーナ》でなく、六|町歩《デシャチーナ》しか播《ま》かなかったということは、レーヴィンにとって、ますます癇《かん》ざわりであった。苜蓿の播きつけは、理論からいっても、彼自身の経験からいっても、できるだけ早く、ほとんど雪のあるうちにかかって、はじめていい成績があがるのであった。が、レーヴィンはどうしても、それを実行さすことができなかった。
「人手がありませんので。ああいう手合いを相手にどうすることができましょう? 三人のやつが出てまいりませんでした。それにセミョーンも……」
「それなら、わらのほうの仕事をやめさせたらいいじゃないか」
「だから、ちゃんとやめさせました」
「じゃ、みんなどこにいるんだね?」
「五人はコムポート([#割り注]果物の砂糖煮[#割り注終わり])をこしらえておりますし(それはコムポスト([#割り注]混合肥料[#割り注終わり])を訛《なま》ったものであった)、四人は燕麦をうつし変えております。ひょっと痛みはしないかと思いまして、コンスタンチン・ドミートリッチ」
 レーヴィンにはよくわかっていた。「ひょっと痛みはしないか」というのは、種子に使うイギリス種の燕麦を、早くもだめにしてしまったのである――またぞろ彼のいいつけたことを実行しなかったのである。
「だから、僕がもう大斎期ごろから、そういったじゃないか、通風筒、通風筒って……」と彼は叫んだ。
「ご心配なく、万事手遅れにならんようにいたしますから」
 レーヴィンは腹だたしげに片手をふって、燕麦を見に倉へいったが、すぐ厩《うまや》の方へひっ返した。燕麦は腐ってはいなかったが、雇男どもはいきなり階下《した》へ落せばよいものを、シャベルで移しているのであった。その指図をして、二人の雇男をここから苜蓿《うまごやし》の播きつけにまわした後、レーヴィンはやっと支配人に対する憤懣《ふんまん》を鎮《しず》めることができた。それに、天気があまりにいいので、腹をたててはいられなかったのである。
「イグナート!」両袖をたくしあげて、井戸のそばで幌馬車を洗っている馭者を、彼は大きな声で呼んだ。「馬に鞍《くら》を置いてくれ……」
「馬はどれにいたしましょう?」
「そうさな、まあコルピックでもいい」
「かしこまりました」
 馬に鞍をおいている間、レーヴィンはその辺をちょこまかしている支配人をもういちど呼んで、仲直りのつもりで、目の前に控えている春の仕事や、経営上の計画などを話しはじめた。
 肥料の運搬は早めに始めて、第一期の草苅りのはじまるまでには、全部かたづけてしまうこと、遠方の野も犂《すき》で耕して、閑田としてとっておくこと、乾し草もいいかげんでなく、人夫を使って全部とり入れること。
 支配人は注意ぶかく聞いていたが、しかし明らかに、主人の計画に賛意を表するのに努力しているらしかった。にもかかわらず、その顔はレーヴィンがよく知りぬいて、いつもいらいらさせられる、がっかりしたような、元気のない表情をしていた。その表情は、『それはなにもかもけっこうですが、しかしなるようにしかなりませんよ』といっていた。
 この調子ほどレーヴィンを情なく思わせるものはなかった。けれど、彼が幾度かとり変えて知っている限りでは、これはすべての支配人に共通の調子であった。どれもこれも、彼の計画に対して同じ態度を見せるのに、今ではもう彼も腹をたてなくなったけれども、情なく思った。そして、この原始的な力ともいうべきものと闘うために、いよいよ気負い立ってくる自分を感じた。この力は、『なるようにしかなりません』とより名のつけようのないもので、いつも彼に対抗してくるのであった。
「まあ、できるだけ致しましょう、コンスタンチン・ドミートリッチ」と支配人はいった。
「どうしてできないんだろう?」
「人夫をもう十五人ばかり雇わなけりゃなりませんが、それがなかなか集まりませんので。今日もくるにはきましたが、ひと夏七十ルーブリくれと、そう申すのでございますからね」
 レーヴィンは口をつぐんだ。またもや例の力が対立してきたのである。彼らがどんなに骨折ってみても、現在の賃銀では、三十七人か、三十八人、四十人以上の働き手を雇い入れることができないのを、彼は知っていた。四十人までは集ったことがあるけれど、それ以上はだめであった。しかし、それにしても、彼はやはり闘わずにいられなかった。
「もし集まらなかったら、スールイとかチェフィローフカヘ人をやってみたまえ。さがさなくちゃだめだよ」
「やるにはやりましたが」とヴァシーリイ・フョードロヴィッチは、元気のない声でいった。「ところが、その、馬が弱くなりましてな」
「買いたすさ。なに、僕にはちゃんとわかっているよ」と彼は笑いながらつけたした。「君たちはできるだけ少なく、できるだけ悪いものを作る主義だが、今年はもう君たちに自分流儀はやらせないからね。なにもかも自分でやるよ」
「なに、あなたはそれでなくても、あんまりぼやぼやしてはいらっしゃいませんよ。私どももご主人の目の前で働くほうが愉快でございますよ……」
「じゃ、白樺谷のむこうで苜蓿《うまごやし》を播いてるんだな? ひとつ行ってみよう」馭者のひっぱってきた小さい濃褐色のコルピックにまたがりながら、彼はそういった。
「小川は渡れませんよ、旦那さま」と馭者は叫んだ。
「ふん、それじゃ森づたいに行こう」
 水たまりへかかるたびに、鼻を鳴らして手綱を引く。厩に居飽きた質《たち》のいい馬に、元気のいいしゃれた※[#「足へん+鉋のつくり」、第 3水準 1-92-34]《だく》を踏ませながら、レーヴィンは内庭のぬかるみをぬけて、門から原の方へ出て行った。
 レーヴィンは、牛小屋や家畜小屋でも愉快だったが、野へ出るとさらに楽しかった。おとなしい馬の※[#「足へん+鉋のつくり」、第 3水準 1-92-34]に規則ただしく揺られ、暖かいうちにもすがすがしい雪と空気の匂いを胸に吸いこみながら、かすかに人の足跡をとどめている、やせた、もろい残雪を踏んで、森の中の道を進んで行くレーヴィンは、芽がふくらみ、皮についた苔《こけ》もよみがえってくる自分の樹の一本一本に、喜びを感じるのであった。森をぬけると、眼前は広濶《こうかつ》とひらけて、一つとして禿《は》げたところも湿ったところもない緑の秋蒔き畑が、平らなビロードの敷物のようにひろがっていた。ただところどころの窪地に、溶けかかった残んの雪が、しみになっているばかりであった。この緑の畑を踏み荒らしている百姓馬と、自分の厩の一歳駒を見ても(彼は行き会った百姓にそれを追い出すように命じた)、むこうからきた百姓イグナートの、人をばかにしたようなまぬけの返事を聞いても、彼は腹がたたなかった。彼はこの百姓に、「どうだね、イグナート、もう播きつけかね?」とたずねたところ、「その前に耕《おこ》さにゃなりましねえだよ。旦那さま」とイグナートは答えたものである。
 先へ行けば行くほど、彼はいよいよ心たのしくなり、経営のことについても、あとからあとから、すばらしい計画が浮んできた。どの畑にも南側の境界線に沿って柵をめぐらし、そこに雪が長く残らないようにすること、畑を区分して、六枚は肥料を施し、三枚は乾草を播いて予備にしておくこと、畑の一番むこうの端に家畜場をつくること、池を掘ること、施肥のために家畜用の移動柵をつくること、そうすれば三百町歩は小麦、百町歩は馬鈴薯、百五十町歩は苜蓿にあてて、やせた土地は一町歩もなくなる。
 こういった空想をいだいて、自分の作物を踏まないように、馬を畔道《くろみち》づたいに注意深くまわして行きながら、彼は苜蓿を播いている雇い男たちの方へ近づいた。種子を積んだ荷車は、畦《あぜ》でなく耕地においてあって、冬蒔きの麦は轍《わだち》に掘られ、馬に踏みにじられていた。二人の雇い男は畔《くろ》に坐りこんでいたが、おそらく一本のパイプをかわりばんこで吸っているのであろう。種子に混ぜてある車の上の土は、よくもみほぐしてなく、ごろごろ塊りだらけだったり、凍ったりしていた。主人の姿を見ると、ヴァシーリイという雇い男は車の方へ行き、ミーシュカは播きつけにかかった。これはおもしろくないことであったが、雇い男にはレーヴィンはめったに怒らなかった。ヴァシーリイが近づいた時、レーヴィンは馬を畔へひっぱって行くように命じた。
「なあに、旦那、かってに行きますだよ」とヴァシーリイは答えた。
「文句をいうのはやめてもらおう」とレーヴィンはいった。「いわれたことをすればいいんだ」
「かしこまりやした」とヴァシーリイは答え、馬の首に手をかけた。「ところで、種子は、旦那」と彼はとりいるようにいった。「飛び切り上等でごぜえますよ。ただ歩くのが大変《てえへん》でね! 一プードからの錘《おもり》を草鞋《わらじ》につけてひきずってるみてえで」
「どうしておまえたちは土を篩《ふる》わなかったんだ?」とレーヴィンはきいた。
「なに、わっしがもみほごしてるで」種子を一つかみ取って、掌《てのひら》で土をこすりながら、ヴァシーリイは答えた。
 篩わない土を渡されたからとて、それはヴァシーリイの罪ではなかったが、なんといっても業腹《ごうはら》だった。
 レーヴィンは腹の虫をおさえて、すべていやに思われることを、再びいいほうへなおす方法を知っており、これまでも一度ならず実験して効果があったので、今もその方法を応用した。両方の足にへばりつく大きな土の塊りをひきずりながら、ミーシュカの歩く様子をしばらくながめていたが、やがて馬からおりて、ヴァシーリイから種播き器械をとり、自分で播きはじめた。
「おまえどこでやめたんだい?」
 ヴァシーリイは、足で印をつけた場所をさして見せた。で、レーヴィンは腕にまかせて、種子のまじった土を播き出した。歩くのが、まるで沼の中でも行くように骨が折れた。レーヴィンはひと筋すますと、汗ばんできたので、立ちどまり、種播き器械を返した。
「もし、旦那さま、夏になってから、このひと筋でわっしに小言くわすのは、まっぴらに願えますだよ」とヴァシーリイはいった。
「え、なんだって?」自分の応用した方法が、早くもききめを現わしてくるのを感じながら、レーヴィンは愉快そうにきいた。
「まあ、夏になったら見さっしゃれ。このひと筋だけ違うだから。ひとつわしが去年の春播いたとこをごらんに入れてえ位《くれい》でさ。その生え具合ちったら! なんせ、旦那さま、わっしゃこれでも生みの親につくすと同じように、一生懸命はたれえてるつもりでごぜえますよ。わっしゃ悪いことは自分でもするのが嫌えだし、人にもさせねえでがすよ。そうすりゃ、ご主人さまにもええし、自分にもええでな。まあ、あれを見てごろうじ」とヴァシーリイは野を指さしながらいった。「気が晴ればれしますだに」
「いい春だよ、ヴァシーリイ!」
「いや、もう、こんげな春は年寄りどもせえ覚えがねえほどでがすよ。現にわっしが家さ帰った時、うちの年寄りもやっぱり、小麦を三枚の畑に播いたども、裸麦と見分けがつかねえほどだちっておりましただ」
「おまえたちは、せんから小麦を播きだしたのかい?」
「ほれ、旦那さまが一昨年|教《おせ》えて下せえましたに。旦那さまが二斗めぐんで下せえましたで、四つ一だけ売って、残りを三枚の畑に播いたわけで」
「おい、いいかい、土の塊りをよくほごすんだぞ」とレーヴィンは馬の方へ行きながら、いった。「それから、ミーシュカに気をつけてな。もしいい芽が出たら、一町歩に五十コペイカずつやるぞ」
「どうもありがとうごぜえやす。それでなくっても、わっしら旦那さまをけっこうなおかただちゅうて、喜んでおりますだよ」
 レーヴィンは馬にまたかって、去年の苜蓿《うまごやし》のある野原へ行き、それから小麦の春播きの用意に犂《すき》で起されている畑へまわった。
 苅跡に出た苜蓿の新芽は、見事なものであった。もうすっかり跡かたもなくなって、折れた去年の小麦の茎の下から、生きいきとした緑が萌《も》えはじめていた。馬はくるぶしの辺まで脚を土に埋めて、一歩ごとに半ば溶けた土から引き抜く脚が、ずぼずぼと音を立てた。犂《すき》で耕したところは、てんで馬がやれなかった。ただ薄氷の張っているところだけはもちこたえたが、溶けた畦《あぜ》では脚がくるぶしの上まで埋まった。犂の入れ方は申し分なかった。あと二日もしたら耙《まぐわ》をかけて、播きつけができそうである。なにもかも上々で、何を見ても楽しかった。帰り道は、もう水がひいたろうという勘で、レーヴィンは小川をわたって行くことにした。はたせるかな、彼は無事に渡って、二羽の鴨を飛び立たせた。『きっと鷸《しぎ》もいるにちがいないぞ』と彼は考えたが、ちょうど家へ曲るところで、森番に出会った。この男も、鷸《しぎ》がいるという彼の予想を確かめてくれた。
 レーヴィンは駆け足で家路を急いだ。早く食事をすまして、晩までに銃の用意をしておこうと思ったのである。

[#5字下げ]一四[#「一四」は中見出し]

 このうえもない愉快な気分で、家の近くまで来た時、レーヴィンは正面玄関の車寄せの方に、鈴の音を聞きつけた。
『ああ、あれは駅から来たんだ』と彼は考えた。『ちょうどモスクワ発の列車の着いた時刻だ……いったいだれだろう? もし兄貴のニコライだったら? だって兄貴は、ひょっとしたら温泉に行くかもしれないし、ひょっとしたらおまえのとこへおしかけるかもしれない、とそういってたからな』彼はこの瞬間、兄ニコライの出現が、今の春めかしい幸福な気分をぶちこわしはせぬかと、恐ろしくもあれば不愉快でもあった。しかし、彼は自分のこうした気持を恥じ、さながら心の中で抱擁の腕をひろげたようなあんばいで、今は感激にみちた喜びの気持をいだきながら、どうか兄ニコライであってくれればいいと、心の底から望みかつ期待するのであった。彼は馬をうながして、アカシヤの木陰から出た。と、近づいてくる停車場の三頭立|橇《そり》と、毛皮外套にくるまった紳士の姿が見えた。それは兄ではなかった。『ああ、もしこれがだれか話相手になるような、気持のいい人間だったらなあ』と彼は考えた。
「ああ!」とレーヴィンは両手をさしあげて、喜ばしげに叫んだ。「これはうれしい珍客だ! これは実にうれしい!」オブロンスキイの顔を見分けて、彼はこう叫んだ。
『もう結婚したか、それともいつ結婚するか、確かなことがわかるわけだ』と彼は心に思った。
 このうららかな春の日には、彼女に関する追憶も、まるで苦しくないような気がした。
「どうだ、思いがけなかったろう?」とオブロンスキイは橇《そり》から出ながら、いった。鼻柱にも、頬にも、眉にも、泥の塊りをつけていたが、愉《たの》しい気分と健康にかがやいていた。「君に会いたくて来た――これが第一と」友を抱いて接吻しながら、彼はこういった。「銃猟をやる――これが第二と、それからエルグショーヴォの森を売ること――これが第三だ」
「すてき! ところで、この春のよさはどうだい! それにしても、よく君は橇で無事にこられたねえ!」
「馬車だと、もっとひどうございますよ、旦那さま」と顔見知りの馭者がいった。
「まあ、君が来てくれて、じつにじつにうれしいよ」心の底から子供のような喜びの微笑をたたえながら、レーヴィンはこういった。
 レーヴィンは友を泊まり客用の部屋へ案内した。そこヘオブロンスキイの荷物も運びこまれた。大きな袋、サックに入った猟銃、シガーの入った袋などである。客が顔を洗ったり、着替えしたりするあいだ、かってにさせておいて、自分は畑おこしや苜蓿《うまごやし》のことをいいに、事務所まで行った。家の格式ということを、いつもひどく気にしているアガーフィヤは、食事のことをききに、彼を玄関へ出迎えた。
「どうでも好きにしておくれ、ただ少しも早くね」といって、彼は支配人のところへ行った。
 ひっかえしてくると、オブロンスキイはきれいに顔を洗って、髪も梳《と》き上げ、満面えみ輝きながら、自分の部屋の戸口から出てきた。で、二人はいっしょに二階へあがった。
「いや、やっと君のところへこられて、じつにうれしいよ! 君がここで行い澄ましている秘法が何かってことが、今こそわかりそうだよ。しかし、全くのところ、僕は君がうらやましいよ。なんて家だ、そしてなにもかもすてきだ! 明るくて、浮きうきして」一年じゅう春で、いつも今日のような晴ればれした日ばかりでないことを忘れて、オブロンスキイはこういった。「それに、君んとこの婆やは本当にすばらしいね? さらに願わしいことは、エプロンをかけたかわいい小間使がいることだが、君のような僧侶生活にこの厳粛な様式では、これが大いに適当しているわけだ」
 オブロンスキイは、いろいろとおもしろいニュースを伝えたが、わけてレーヴィンに興味があったのは、兄コズヌイシェフがこの夏、彼の持ち村へくるつもりだということであった。
 オブロンスキイは、キチイのことも、一般にシチェルバーツキイ家のことも、ひと言としていわなかった。ただ妻のよろしくを伝えたばかりである。レーヴィンは彼の細やかな心づかいを感謝し、この客の来訪を心から喜んだ。いつもの例で、彼は孤独生活のあいだに、数えきれぬほどの思想や感情が蓄積して、しかもそれを周囲のものに伝えることができなかったので、彼はオブロンスキイに詩的な春の喜びも、経営の上の失敗や今後の計画も、頭の中の考えも、読んだ本の感想も、ことごとくぶちまけてしまった。特に、自分では気づかないでいたけれども、農村経営上のいっさいの労作にたいする批評を根底においた、自分の著述について力説した。いつもちょっと暗示されただけでなにもかも了解する、勘のいいオブロンスキイは、今もかくべつ気持がよかった。で、レーヴィンはもう一つ新しく、自分にとってうれしい事実を発見した。それは自分に対する尊敬の気分と、なにかしら優しい愛情みたいなものであった。
 食事を特別よくしようとしたアガーフィヤと、料理人の努力の結果は、ただ空腹をかかえた二人の友が、前菜のテーブルのそばに坐りこんで、バタつきパンと、鳥の燻製と、塩漬の茸《きのこ》をたらふく食べたのと、それから料理人がかくべつお客様をびっくりさせようと、腕によりをかけた肉饅頭《にくまんじゅう》ぬきでスープを出せと、レーヴィンがいいつけただけのことであった。しかし、オブロンスキイは、もっと違った食事に慣れているにもかかわらず、薬草入りの酒も、パンも、バタも、ことに鳥の燻製も、茸も、蕁麻《いらくさ》のスープも、ことごとくすてきだといった。白ソースをかけたチキンも、クリミヤの白|葡萄酒《ぶどうしゅ》も、なにもかもすてきで、山海の珍味であった。
「いい、じつにいい」焼肉のあとで太い紙巻をふかしながら、彼はこういった。「僕はここへ来て、まるで騒々しい音がして揺れる汽船から、静かな岸へ降りたような気がするよ。じゃ、君の説によると、労働者の要素そのものが研究されて、経営のやりかたを指導しなければならないというんだね。ところが、僕はこの問題では全く無知のやからでね。しかし、理論とその応用は、労働者にも影響があるだろう、というような気がするよ」
「そう、しかし、待ってくれ、僕は経済学の話をしてるんじゃなくて、農村経営学のことをいってるんだからね。それは他の自然科学と同じように、所与《しょよ》の現象と労働者を、経済学の方面からも、民族学の方面からも観察しなくちゃならないのだ……」
 その時、アガーフィヤがジャムを持って入ってきた。
「やあ、アガーフィヤ・ミハイロヴナ」とオブロンスキイは、自分のふっくらした指の先を接吻しながらいった。「あんたの作った鳥の燻製は大したもんですな、そして薬草入りの酒も!……ときに、どうだね、コスチャ、もうそろそろよかないかね?」と彼はつけ加えた。
 レーヴィンは、裸になった森の梢《こずえ》に沈みかかった太陽を、窓越しに見やった。
「もういい、もういい」と彼はいった。「クジマー、馬車のしたくをしてくれ!」と彼は階下《した》へ駆けおりた。
 オブロンスキイは下へおりると、自分で漆塗《うるしぬ》りの箱から帆木綿《ほもめん》のサックを丁寧にとって、蓋を開け、新型の高価な猟銃をととのえはじめた。これは大した酒手《さかて》にありつけるぞと嗅ぎつけたクジマーは、スチェパン・アルカージッチのそばを離れず、靴下や靴をはかせにかかった。オブロンスキイも好んで、なすがままにまかせた。
コスチャ、もし商人のリャビーニンが来たら――僕は今日ここへくるようにいっといたんだが――中へ通して待つように、いいつけてくれないか……」
「じゃ、君は、リャビーニンに森を売るのかね?」
「ああ。君はいったいあの男を知ってるのかい?」
「そりゃ知ってるとも。僕はあの男と取引をしたことがあるんだよ、『断然、決定的に』さ」
 オブロンスキイは笑い出した。『断然、決定的に』は、この商人の好んで使う言葉であった。
「いや、あの男の話しぶりは、あきれかえるほどこっけいだよ。こいつ、ご主人がどこへ行くか悟りやがったな!」ラスカを片手で叩きながら、彼はこうつけたした。犬はくんくん鳴きながら、レーヴィンのまわりにからみついて、その手と、長靴と、猟銃を舐《な》めまわしていた。
 二人が外へ出た時、馬車はもう入口階段のそばで待っていた。
「そう遠くないんだけれど、僕は馬車の用意をいいつけたよ。だが、歩いて行くかね?」
「いや、車のほうがいい」とオブロンスキイは、馬車に近よりながらいった。彼は腰をおちつけて、両足を虎の皮の膝かけでくるみ、葉巻をふかしはじめた。「いったい君はどうして、タバコをやらないんだね! 葉巻ってやつは単に楽しみというばかりじゃなくって、楽しみの頂上であり、象徴でさえあるんだよ。これこそ人生だ! じつにいい! こんなふうの生活がしたいものだなあ!」
「そうするのを、いったいだれがじゃましてるんだい?」とレーヴィンはほほえみながらいった。
「いや、君は幸福な人間だ。好きなものをみんな備えてるんだからなあ。馬が好きなら馬もあり、犬が好きなら犬もあり、それに猟もやれば農場もあるし」
「それはね、僕があるものに満足して、ないもののことを、くよくよしないからかもしれないよ」キチイのことを思い出して、レーヴィンはこういった。
 オブロンスキイはその意を悟って、彼の顔を見やったが、なんにもいわなかった。
 オブロンスキイがいつもの勘で、自分がシチェルバーツキイ家の話を恐れているのに気づいて、その話をしなかったことに対して、レーヴィンはひそかに彼に感謝していた。が、今はもう自分を苦しめていることを知りたくなったけれども、自分からいいだすのをはばかった。
「ときに、君のほうはどうだね?」自分のことばかり考えるのはよくないと考えなおして、レーヴィンはこうたずねた。
 オブロンスキイの眼は愉快げに光り出した。
「君は、一定の食糧があるのに、丸パンをほしがっていいなんてことは、決して認めないだろうね。君にいわせれば、それは犯罪なんだから。ところが、僕は恋愛なしの人生を認めないんだよ」と彼はレーヴィンの問いを、自己流に解釈しながら答えた。「なんともいたしかたがないさ、僕という人間は、そういうふうにできてるんだからね。それに、まったく、そのために他人を傷つけることはめったにないし、僕はとても楽しいんだから……」
「何かね、また、何か新しいのができたのかい?」とレーヴィンはたずねた。
「できたんだよ、君! ねえ、君はオシアンの女のタイプを知ってるだろう……夢にさえ見るようなやつをさ……ところが、こいつが現実にも存在してるんだ……そうした女は恐ろしいよ。いったい、女ってものはいくら研究しても、そのたびにぜんぜん新しい存在だね」
「じゃ、いっそ研究しないほうがましだよ」
「ちがう。ある数学家がいってるじゃないか、真理の喜びは発見でなくて、探究にあるってさ」
 レーヴィンは黙って聞いていたが、いくら努力しても、友の立場へ移っていって、その感情を解し、そういう女を研究する喜びを理解することが、どうしてもできなかった。

[#5字下げ]一五[#「一五」は中見出し]

 猟場は、まばらな白楊《はこやなぎ》の林の中を流れている小川のほとりで、あまり遠くなかった。林のそばまで乗りつけると、レーヴィンは馬車をすてて、もう雪のとけてしまっている、苔《こけ》むした泥っぽい空地《あきち》の一隅へ、オブロンスキイを案内して行った。そして、自分はべつの片すみにある二|叉《また》の白樺のそばへ戻って来て、低い枯枝の股へ銃を立てかけ、長衣《カフタン》を脱ぎ、帯を締めなおして、手がどれだけ自由に動くか試してみた。
 彼のあとからついてきた灰色の老犬ラスカは、彼とむかいあわせに用心ぶかくうずくまって、きっと耳をそばだてた。太陽は大きな森の陰に沈みかかっていた。そして、白楊《はこやなぎ》の間にところどころに混っている白樺が、今にもはちきれそうに芽をふくらませているしだれ枝を、夕映えの光の中にくっきりと浮き出させていた。
 まだ雪の残っている繁った林の中からは、まだおぼつかなげに曲りくねって細々と流れている水が、かすかなせせらぎの音を立てていた。小鳥どもは声々にさえずりたてながら、時おり木から木へと飛び移っていた。
 しんかんとした静寂《しじま》の合間合間に、凍った土が溶けたり、草が伸びたりするために、ずれて動く去年の朽葉の、かさこそと鳴る音が聞えた。
『こりゃどうだ! 草の成長するのが、耳に聞えたり、目に見えたりするわい!』針のように尖《とが》った若草の芽のそばで、石筆色《せきひついろ》をした湿った白楊の朽葉がひくりと動いたのを見つけて、レーヴィンはこうひとりごちた。彼は立ったまま聞き澄ましていた。そして、足もとのじめじめした苔深い地面や、耳をそばだてているラスカや、目の前に低く海のようにひろがっている冬枯れのあらわな森の梢や、ところどころ白雲の条《すじ》をひいて黒ずんでいく空などを、かわるがわるながめるのであった。ゆったりと羽ばたきしながたら、一羽の禿鷹が遠い森の上を高く飛びすぎた。と、また一羽、やはり同じように、同じ方角へ飛んで行って、消えてしまった。小鳥どもはいよいよ声高く、気ぜわしなげに、繁みの奥でさえずった。あまり遠くないところで、みみずくが陰気くさい声で鳴きだした。すると、ラスカはぶるっと身ぶるいして、用心ぶかく二三歩ふみだした。そして、頭を横にかしげて、耳をすましはじめた。小川のむこうからは、ほととぎすの声が聞えた。ほととぎすは二度ばかり普通の鳴き声を立てたが、やがて声がかすれたので急《せ》きこんで、そのままめちゃめちゃにもつれてしまった。
「どうだい! もうほととぎすがないているぜ!」とオブロンスキイは、灌木のかげから出てきながらいった。
「ああ、僕も聞いたよ」われながら不愉快な自分の声で、森の静寂を破りながら、レーヴィンは不満げにこう答えた。「もうこうなったら間《ま》もないよ」
 オブロンスキイの姿は、ふたたび灌木のかげに隠れた。レーヴィンは、ただ赤々と燃えるマッチの火影と、つづいてそれに代ったタバコのあかい火と、青い煙を見たばかりだった。
 かちっ! かちっ! オブロンスキイの撃鉄《げきてつ》を起す音が聞えた。
「ありゃいったいなにが鳴いているのかね?」子馬がふざけて細い声でいなないているような、長い尾をひいた鳴き声に、レーヴィンの注意をうながしながら、オブロンスキイはこうたずねた。
「ああ、あれを知らないのか? あれは君、牡兎《おうさぎ》だよ。だが、しゃべるのはもうたくさんだ! ほらね、飛んでくるぜ!」レーヴィンは撃鉄を起しながら、ほとんど叫ぶようにこういった。
 遠くの方に、細い笛のような音が聞えたかと思うと、狩猟家のよく知りぬいている二秒間という一定の間《ま》をおいて、第二声、第三声とつづいた。そして、第三声のあとでは、もうころころと喉を鳴らす音が聞えてきた。
 レーヴィンは左右を一瞥《いちべつ》した。と、眼前の黒みがかったコバルト色の空に、白楊の梢がぼうっと柔らかく融けあった上を、飛んでいる鳥の姿が見えた。鳥はまっすぐに彼の方へ飛んできた。厚地の布を裂くような喉の奥で鳴く声が、ちかぢかと耳の真上で響いた。もう鷸《しぎ》の長い嘴《くちばし》と頸が見わけられた。そして、レーヴィンが狙《ねら》いをつけた瞬間に、オブロンスキイの立っていた灌木の陰から、赤い火がぱっと稲妻のように閃《ひらめ》いて、鳥は矢のように発止《はっし》と落ちてきたが、ふたたび空へ舞いあがった。ふたたび一閃の火花がひらめいて、発射の音が響いた。と、鷸は空中に身を支えようとでもするように、翼をはたはたもつらせながら、一瞬間、ひとところに静止したと思うと、たちまち重たそうな音を立てて、泥っぽい土の上へどさりと落ちた。
「しくじったかな」煙のためによく見えなかったので、オブロンスキイは叫んだ。
「なに、もうそこへ持って来てるよ!」とレーヴィンはラスカを指さしながらいった。
 犬は片方の耳を立てて、ふさふさとしたしっぽの先を高くふりながら、このうれしさを少しでも長くしたいと思うようなかっこうで、微笑でもしているような顔つきをしながら、足どり静かに近よって、死んだ鳥を主人に捧げた。
「いや、君がうまくやってくれてよかった」とレーヴィンはいったが、それと同時に、鷸をしとめたのが自分でなかったので、早くも羨望の念を覚えるのであった。
「いまいましい、右の方の銃身が射損じになりやがった!」銃を装填《そうてん》しながら、オブロンスキイはこう答えた。「しっ……やって来たぞ」
 はたして、帛《きぬ》を裂くような鋭い鳴き声が、矢つぎ早やにあとからあとからと聞えた。二羽の鷸が戯れて、互に追っかけあいながら、例の喉の奥で鳴く声は出さず、細い笛のような声ばかり立てつつ、二人の猟人の頭の真上へ飛んできた。四発の銃声が鳴りわたったと思うと、鷸は燕のようにひらりとすばやく身を翻して、視界から消えてしまった。
 ………………………………………………………………………………………………………………………………………
 猟はすばらしい成績であった。オブロンスキイはそれからなお二羽しとめ、レーヴィンも同じく二羽撃ったが、そのうち一羽は見つからなかった。やがて暗くなってきた。明るい銀色をした暮の明星は、早くも西の空ひくく、白樺の陰にその優しい輝きを見せ、東の空の高いところには、陰鬱な感じのする牛飼座の第一星が、赤みがかった光を放ってまたたきはじめた。レーヴィンは頭の真上に、大熊星座の星をふと見つけたり、また見失ったりした。鷸はもう飛んでこなくなった。けれどもレーヴィンは、いま白樺の枝の下に見えている明星が、その上の方へ昇って、大熊星がどこからでもはっきりと見えるようになるまで、待ってみようと腹を決めたのである。明星はすでに白樺の枝の上にまわり、轅《ながえ》をつけた車のような大熊星は、紺青《こんじょう》の空にもうはっきりと見えてきたが、彼はまだいつまでも待っていた。
「もう帰ることにしたら?」とオブロンスキイは声をかけた。
 森の中はもう静まりかえって、鳥一羽こそとの音も立てなかった。
「もうちょっと待ってみよう」とレーヴィンは答えた。
「じゃ、君のいいように」
 彼らは今、十五歩ばかり離れて立っていた。
「スチーヴァ!」と、ふいに思いがけなくレーヴィンがいいだした。「どうして君は話をしてくれないんだい、君の義妹《いもうと》は結婚したかどうか、それともいつ結婚することになっているか?」
 レーヴィンは、自分が毅然《きぜん》としておちつきはらっており、いかなる答えにも興奮などしないと考えていた。しかし、オブロンスキイの答えたことだけは、夢にも予期していなかった。
「結婚なんてことは考えてもいなかったし、また考えてもいないよ。あれは今ひどい患《わずら》いをしてね、医者の勧めで外国へ転地したんだよ。みんな命がどうかと心配しているくらいなのさ」
「え、なんだって!」とレーヴィンは叫んだ。「ひどく悪いんだって? いったいどうしたの? どうしてあのひとは……」
 二人がそういっているとき、ラスカは耳をそばだてて、空を高く見上げたり、責めるように二人をふりかえって見たりしていた。
『とんでもない時をねらって、話なんかはじめたもんだ』とラスカは考えた。『あいつが飛んで来てるのに……そらそら、やっぱりそうだ。逃がしてしまう……』と彼は考えつづけた。
 しかし、ちょうどその瞬間に、二人とも耳をつんざくような鋭い鳴き声を聞いた。二人はいきなり銃に手をかけた。と、二条の稲妻がさっとひらめいて、二発の銃声が間一髪を入れずとどろいた。空高く飛んでいた鷸はたちまち翼をおさめて、細いひこばえをへし曲げながら繁みの中へ落ちた。
「ああ、すてきだ! あれは二人共同だ!」とレーヴィンは叫んで、鷸をさがしにラスカといっしょに繁みの中へ走って行った。
『おやっ、いったいなんだっけな、いやな気持がしたのは?』と彼は思い出した。『そうだ、キチイの病気だ……どうもしかたかない、実に気の毒なことだ』と彼は考えた。
「あっ、見つけたか! えらいぞ」ラスカの口からまだ温かい鳥をとって、ほとんどいっぱいになった獲物袋へ入れながら、彼はこういった。「見つかったよ、スチーヴァ!」と彼は叫んだ。

[#5字下げ]一六[#「一六」は中見出し]

 家へ帰る道々、レーヴィンはキチイの病気と、シチェルバーツキイの計画について詳細のことを、一つ残らずききだした。そんなことを認めるのは、われながら良心が咎めたけれども、彼はそれを聞いて気持がよかった。気持がよかったというのは、そこにまた希望が生じたからでもあるが、なおそのほか、自分にあれほどつらい思いをさせた彼女が、いまつらい思いをしているからでもあった。けれども、オブロンスキイがキチイの病気の原因を語りはじめて、ヴロンスキイの名を口にした時、レーヴィンはそれをさえぎった。
「僕はね、よその家庭の細かい内輪話を知る権利なんか、もっていないんだよ、いや、正直なところをいうと、その興味さえ全然ないのだ」
 オブロンスキイは、束《つか》の間《ま》に友の顔に現われたなじみの深い変化を、早くも見てとって、にやりと笑った。ほんの一分前まで浮きうきしていたレーヴィンが、それと同じ程度に、陰鬱になってしまったのである。
「君、森のことだが、リャビーニンとの話、すっかり済んでしまったのかね?」とレーヴィンは問いかけた。
「ああ、済んでしまったよ。申し分のない相場でね、三万八千ルーブリなのさ。八千ルーブリ前払いで、あとは六年年賦ということにした。あいつを相手に、ずいぶんやっさもっさしたよ。だれもそれ以上買おうとしないのでね」
「それじゃ、君、ただで森をやったようなもんじゃないか」とレーヴィンは陰気くさい調子でいった。
「といって、なぜただでやることになるんだね?」今はレーヴィンの目から見ると、なにもかもよろしくないということが、前からちゃんとわかっていたので、オブロンスキイは好人物らしい微笑を浮べながらきいた。
「なぜって、あの森は少なくとも、一|町歩《デシャチーナ》あたり五百ルーブリするんだもの」とレーヴィンは答えた。
「いやはや、君のような農村経営者にかかったら、やりきれん!」とオブロンスキイはおどけた調子でいった。「われわれ都会人に対する君たちのその侮蔑の調子ときたら!………ところで、いざ仕事をやる段になると、われわれのほうがずっと上手にやってのけるんだからね。僕は何から何まで算盤《そろばん》をはじいてみて」と彼はいった。「あの森がいい値で売れたと思ってる。だから、先生、破談にでもしやしないかと、恐れているくらいだよ。だって、あれは木屋むきの森じゃなくって」この木屋むき[#「木屋むき」に傍点]という言葉で、レーヴィンに彼の疑念がまちがっていることをたちどころに証明しようと思って、オブロンスキイはこういった。「どっちかというと、薪を取るやつなんだからね。しかも、一町歩から三十棚([#割り注]七立方尺[#割り注終わり])以上に取れないんだぜ。それなのに、やつは一町歩二百ルーブリ出すんだからね」
 レーヴィンはばかにしたように、にたりと笑った。
『わかってるよ』と彼は考えた。『この都会人の癖は。しかも、一人だけでなく、みんなそうなんだ。十年に一、二度田舎へ来て、二つか三つ田舎の言葉を覚えると、もうなにもかもすっかり知りぬいたように思いこんで、つぼにはまろうとはまるまいと、やたらにそいつをふりまわすんだ。木屋むき[#「木屋むき」に傍点]、三十棚[#「三十棚」に傍点]。言葉だけは知ってても、ご当人なんにもわかっちゃいないんだからな』
「僕はね、君が現にお役所で書いていることを、今さら君に教えようとはしないよ」と彼はいった。「しかし、必要とあればきくがね、君はそれで森のイロハぐらいわかってるつもりなんだね。ところが、これはなかなかむずかしいものなんだよ。いったい君は立木の数を勘定したのかね?」
「え、立木の数を勘定するんだって?」相変らず友のふきげんをなおそうとして、オブロンスキイは笑いながらいった。「浜の真砂《まさご》を数えたり、遊星の光線を計算したりするのは、よしんば偉大な頭脳の所有者だって……」
「そう、ところが、リャビーニンの偉大な頭脳なら、それができるんだよ。どんな商人だって、勘定しないで買うやつは、一人もありゃしない。まあ、君のように、ただでくれてやるなら別だがね。君の森は僕も知ってるよ、毎年あすこへ猟に行くのでね。君の森は一町歩、現金で五百ルーブリの値うちがある。それなのに、やつは年賦で二百ルーブリ出すという。つまり、君はやつに三万ルーブリばかり、ただで進呈したわけさ」
「いや、お調子に乗るのはよしてくれ」とオブロンスキイはあわれっぽい声でいった。「それなら、どうしてだれもそんな値をつけなかったんだい?」
「そりゃ、やつが商人どもと共謀《ぐる》になってるからさ。みんなに手をひかすように、金を握らしたんだよ。僕はあの連中と取引したことがあるから、よく承知しているよ。だって、やつらは商人じゃなくて、高利貸みたいな連中なんだもの。あの男は一割や、一割五分の話には乗りゃしない、二十コペイカで一ルーブリのものを買う機会をねらってるんだ」
「おい、いいかげんにしろよ! 君は今ごきげんななめなんだよ」
「とんでもない」とレーヴィンは陰鬱くさい調子で答えた。その時、二人は邸の車寄せに近づいていた。
 車寄せには、鉄と革で頑丈に包んだ田舎馬車が、幅の広い綱で食いふとった馬をしっかりつけて、もうちゃんと乗りつけていた。車の中には、リャビーニンのために馭者がわりを勤めている、突けば血の噴《ふ》きそうな番頭が、帯をぎゅうぎゅうにしめて腰かけていた。リャビーニンはもう家の中へ入っていて、二人の友を玄関で出迎えた。リャビーニンは背の高いやせぎすの中年男で、鼻の下に髭を生やし、突き出た下頤《したあご》をきれいに剃って、飛び出たような眼はどんよりしていた。尻の下のほうまでボタンのついた、裾の長い、青いフロックコートを着用し、くるぶしのところに皺がよって、ふくらはぎの辺がまっすぐになった深い長靴をはき、その上に大きなオーヴァシューズをつけていた。彼はハンケチで顔をぐるっと円く拭いて、それでなくともきちんとしているフロックコートの前をあわせ、入ってくる二人を笑顔で迎えた。そして、まるで何かをつかもうとするようなかっこうで、オブロンスキイに手をさしのべた。
「あ、もう来てくれたんですね」とオブロンスキイは、彼と握手しながらいった。「けっこう」
「道はずいぶんひどうござんしたが、御前《ごぜん》さまのご命令に背くわけにまいらんと存じまして。途中、断然、すっかり歩かされましたが、それでも時間までにちゃんと到着いたしました。コンスタンチン・ドミートリッチ、ごきげんよろしゅう」と彼はレーヴィンに声をかけ、その手をも捕えようとした。しかし、レーヴィンは顔をしかめ、彼の手に気のつかないようなふりをして、鷸《しぎ》を袋から出していた。「猟ですか、それはご愉快でいらっしゃいました。これは、つまり、なんという鳥でございますかな?」ばかにしたように鷸を見やりながら、リャビーニンはこうつけ加えた。「やっぱり、その、味がございますのでしょうな」そういって、不賛成らしく首をふったが、その様子はまるで、こんなものに金と時間を潰す値うちがあるかと、大いに疑念をいだいているようであった。
「どうだね、書斎へ行ったら?」とレーヴィンは陰気らしく眉をひそめて、フランス語でオブロンスキイにいった。「書斎へ行って、あそこで話をしたまえ」
「いや、さしつかえありません、どこでもけっこうでございます」とリャビーニンは、人を食ったような気取った調子でいった。それは、ほかのものなら、だれにはどういう態度をとるかについて、当惑を感じるかも知れないけれど、自分はどんな場合でも困ったりなどしない、ということを思い知らせるためらしかった。
 書斎へ入ると、リャビーニンは昔からの癖で、聖像はどこにあるかと、あたりを見まわしたが、見つかったにもかかわらず十字を切らなかった。彼は本の入った戸棚や棚をじろりと見たが、鷸の時と同じような疑惑の表情を浮べ、ばかにしたようににやっと笑って、こんなことに金や時間を潰す値うちがあろうとは、どうしても考えられないとでもいうように、不賛成らしく首をふった。
「どうです、金は持って来ましたか?」とオブロンスキイはたずねた。「まあ。おかけなさい」
「わっしどもはお金のことなら、決して遅滞はござりませんが、ちょっとお目にかかって、お話しようと思ってまいりましたんで」
「話とはなんです? が、まあ、おかけなさい」
「そりゃ、かけてもよろしゅうございます」といって、リャビーニンは腰をおろし、いかにも窮屈なかっこうで、肘椅子の背に肘づきをした。「少々お負けにならなければなりませんよ、公爵、罪でございますよ。金は決定的に用意ができております、一コペイカも欠けなしに。お金のほうは決して遅滞はござりませんで」
 その間に、銃を戸棚にしまい終ったレーヴィンは、もう戸口から出ようとしていたが、商人のこの言葉を耳にはさんで、歩みをとめた。
「それでなくても、君はただ同然で森を手に入れたんじゃないかね」と彼はいった。「この男の来かたが遅かったから、しかたがないけれど、さもなければ、僕が値をつけてやったものを」
 リャビーニンは席を立って、何にもいわずにやにやしながら、レーヴィンを頭から爪先まで見まわした。
「たいそうもないおしまりかたで、コンスタンチン・ドミートリッチ」笑顔をオブロンスキイの方へ向けながら、彼はこういった。「こちらでは断然なにもいただけませんよ。小麦で商談いたしましてな、ずいぶんいい値段をつけたんでございますが」
「だって、自分のものを君にただであげるわけがないじゃないか。僕はなにも地面に落ちてるものを拾ったんでもなければ、盗んだわけでもないからね」
「ご冗談ばっかり、きょうび盗みなんか、決定的にできるこっちゃござんせん。きょうびでは断然なにもかも、公開裁判ということになっておりますから、今では万事、公明正大でございます。盗みをするどころじゃござんせん。わっしどもは正直にお話をしたのですが、あの森のおっしゃり値は、どうも高過ぎましてな、算盤がとれませんから、どうか少々引いていただきたいもので」
「いったい君たちの取引はすんでいるのか、住んでいないのか? もしすんでいるのなら、なにも押問答の必要はありゃしない。が、もしすんでいないのなら」とレーヴィンはいった。「あの森は僕が買う」
 リャビーニンの顔からは、とつぜん微笑が消えて、隼《はやぶさ》のように貪欲《どんよく》残忍な表情がそこに固定してしまった。彼は骨ばった指を機敏に働かして、フロックコートのボタンをはずし、ルバーシカやチョッキの真鍮《しんちゅう》ボタンや、時計の鎖を見せながら、手早く古い厚みのある紙入れをとり出した。
「どうぞお納めを、森はわっしのもんで」すばやく十字を切って、手をさし伸ばしながら、彼はいった。「どうぞ金を受け取って下さいまし、森はわっしのものでございます。リャビーニンの取引ぶりは、まあこんなもんで、はした金をとやかく申しませんよ」と彼は顔をしかめて、紙入れをふりまわしながらいった。
「僕が君だったら、売り急ぎしないんだがなあ」とレーヴィンはいった。
「冗談じゃない」とオブロンスキイはあきれていった。「だって、もう約束してしまったんじゃないか」
 レーヴィンは戸をぱたんと叩きつけて、部屋を出て行った。リャビーニンはその戸を見ながら、にやにやして首をふっていた。
「なにもかもお年若のせいで、もう断然お坊ちゃん育ちですな。なんせ、わっしが買ったのは、正直、信用していただきたいんですが、ただもう名誉のためなんで、つまり、オブロンスキイ家の森を買ったのは、ほかならんリャビーニンだ、といわれたいがためなんで。まあ、運よく算盤が取れればいいがと思っとりますよ。誓って申します。さあ、どうぞ契約書にご署名を……」
 一時間ほどして、商人は下着の前を几帳面にあわせ、フロックコートのボタンをかけ、契約書をポケットに入れて、頑丈に鉄や革を張った馬車に乗って、帰路についた。
「いやはや、ああいう旦那衆ときたら!」と彼は番頭にいった。「みんな同じような連中だて」
「そりゃまったくそのとおりで」と番頭は手綱を渡して、革の膝掛をボタンで止めながら答えた。
「ときに、ミハイル・イグナーチッチ、お買物のお祝いに一つ?」
「うん、よし、よし……」

[#5字下げ]一七[#「一七」は中見出し]

 オブロンスキイは、商人から受け取った三ヵ月先払いの銀行手形で、ポケットをふくらまし、二階の部屋へ入った。森の一件も片がついて、金がふところに入っているうえに、猟の首尾もよかったので、オブロンスキイは上々のきげんであった。で、彼はなおのこと、レーヴィンのふきげんを追いはらいたくてたまらなかった。彼は夜食の間に、今日の日を始まりと同様、気持よく終らせたかったのである。
 事実レーヴィンはきげんがわるかった。好きな客を愛想よく優しくもてなそうと、一生懸命つとめたにもかかわらず、どうしてもおのれを抑制することができなかった。キチイが結婚しないという報知は、酒の酔いのように、しだいに彼の体をまわりはじめたのである。
 キチイは結婚しないで、病気している。それも、彼女を袖にした男にたいする恋患いである。この侮辱は、あたかも彼の頭上に落ちてくるような感じであった。ヴロンスキイは彼女を袖にしたが、彼女は彼レーヴィンを袖にした。従ってヴロンスキイはレーヴィンを軽蔑する権利があり、それゆえ彼の敵である。しかし、彼はそれをはっきり考えたわけではない。彼はただ、そこに何か自分にとって侮辱的なものがあると、ぼんやり感じたにすぎない。で、今も自分の心を乱した事実に腹をたてるのでなく、ただ目にふれるものみなに、八つ当りするのであった。ばかばかしい森の売買、オブロンスキイのひっかかった欺瞞、しかもそれが自分の家で行われたということが、彼をいらいらさせたのである。
「やあ、すんだかね?」と彼は二階で、オブロンスキイを迎えながらいった。「夜食、やる?」
「ああ、辞退しないよ。田舎へ来たら、がぜん食欲が出るね。ふしぎなくらい! どうして君はリャビーニンに、食事をすすめなかったんだい?」
「ふん、あんなやつまっぴらごめんだ!」
「それにしても、君のあの男をあしらう態度といったら!」とオブロンスキイはいった。「手も握ろうとしないんだからなあ。なにも握手してならんという法はなかろう?」
「それは、下男と握手しないのとおなじ理由だよ。しかも、下男のほうがあいつより百倍もましだよ」
「それにしても、君はずいぶん退嬰《たいえい》主義だなあ! じゃ、階級の融和ってことをどう思う」とオブロンスキイはいった。
「融和したい人は、どうぞごかってに、だが僕はいやだ」
「どうも見たところ、君は純然たる退嬰《たいえい》主義だよ」
「じつのところ、僕は自分が何ものかなんてことを、一度も考えたことがないね。僕はコンスタンチン・レーヴィンだ、それっきりさ」
「しかも、ごきげんはなはだ斜めなコンスタンチン・レーヴィンだろう」とオブロンスキイは笑いながらいった。
「ああ、僕はふきげんだ、それがなぜか知ってる? それはね、失礼ながら、君のばかげた取引のせいなんだよ……」
 オブロンスキイは、罪もないのに、侮辱され、気持を悪くさせられた人のように、人のいい表情で顔をしかめた。
「もう、たくさんだよ」と彼はいった。「だれかが何か売った場合、すぐそのあとで、『あれはずっと高いものだったのに』と人からいわれなかった例《ためし》は、これまでついぞないからね。ところが、売ろうとしている時には、だれ一人そんな値をつけてくれるものはありゃしない……いや、どうも見かけたところ、君はあの不運なリャビーニンに含むものがあるらしいな」
「あるかもしれない。ところで、君、なんのためかわかるかい? 君はまだ僕のことを退嬰《たいえい》主義者とかなんとか、恐ろしい言葉で呼ぶだろうが、とにかく僕は、いたるところで進行している貴族階級の貧困化を見るのか、いまいましくもあり心外でもあるのだ。僕はこの階級に属しているが、階級の融和が叫ばれているにもかかわらず、これに属することを大いに喜びとするものだ……ところで、その貧困化は奢侈《しゃし》の結果じゃないのだ。もしそうなら結構なんだ。旦那さま然《ぜん》として一生を終る――それは貴族の特色で、それができるのはただ貴族だけだからね。このごろ、われわれの周囲の百姓が土地を買い集めているが、これは僕も腹がたたない。旦那は何もしないのに、百姓は働いているのだから、無為な人間がおしのけられるわけで、それは当然の話だよ。僕は百姓のために大いに喜んでいるよ。しかし、僕はあの、なんといったらいいかわからないが、何か得体《えたい》の知れない無邪気さのために起る貧困化を見ると、腹がたってたまらない。こちらでは、土地借り専門のポーランド人が、ニイスで遊び暮しているさる奥さんから、すばらしい領地を半値で買うかと思うと、あちらでは一町歩十ルーブリの値うちのある土地を、一ルーブリで商人に貸してしまう。ここでは現に君が、なんの理由もないのに、あんなかたりに三万ルーブリくれてやったんだからなあ」
「それじゃ、どうなんだね? 立ち木を一本一本数えるのかね?」
「ぜひ数えなくちゃならないよ。君は数えなかったが、リャビーニンは数えたんだよ。で、リャビーニンには子供の生活費も、教育費も残っていくけれど、君の子供のためには、おそらくそれがないだろうよ!」
「いや、失敬ながら、そんな勘定をするやりかたは、何かみみっちくていやだね。われわれにはわれわれの仕事があり、やつらにはまたやつらの仕事がある。やつらには儲《もう》けが必要なんだよ。だが、しかし、もう取引はすんでしまって、けりがついたんだ。おや、目玉焼が出た、玉子焼の中では僕これが大好きさ。アガーフィヤ・ミハイロヴナが、またあのすばらしい薬草入りの酒を出してくれるだろうな……」
 オブロンスキイはテーブルについて、アガーフィヤと冗談話をはじめ、こんな昼餮や夜食はもう久しく食べたことがない、といい張るのであった。
「あなたさまはそういってほめて下さいますが」とアガーフィヤはいった。「うちの旦那さまは何をさしあげても、たとえパン皮であっても平気で、黙って召しあがって、ぷいといっておしまいになりますよ」
 どんなに自分をおさえようと努めてみても、レーヴィンは気が沈んで、沈黙がちであった。彼はオブロンスキイに、一つ質問しなければならぬことがあったが、どうしてもふんぎりがつかず、それにその質問の形式も見つからなければ、いつどんなふうにそれをもちだしていいかも、わからなかった。オブロンスキイはもう階下《した》の自分の部屋へおりて、服を脱ぎすて、もういちど顔を洗って、襞《ひだ》つきの夜のシャツを着て、横になった。レーヴィンはいろんな無駄話をしながら、いつまでも彼の部屋にぐずぐずしていて、自分のききたいことを切り出す勇気がなかった。
「じつにどうも、石鹸のつくりかたが上手になったもんだなあ」と彼は香りの高い石鹸の包み紙をといて、つくづくとながめながらいった。それは、アガーフィヤが客のために準備しておいたのだが、オブロンスキイの使わずにいたものである。「君、見たまえ、これはもう一箇の芸術品だよ」
「ああ、今じゃなにもかも完成の域に達したね」とオブロンスキイはうるみのある、陶然《とうぜん》たるあくびをしながらいった。「早い話が、芝居だって、それからあの娯楽場だって……あ、あ、あ!」と彼はあくびをした。「電燈も、いたるところついてるし……あ、あ!」
「そう、電燈もね」とレーヴィンはいった。「そう。ときに、ヴロンスキイは今どこにいるね?」と彼はふいに石鹸をおいてこうたずねた。
「ヴロンスキイ?」とオブロンスキイはあくびをやめていった。「ペテルブルグにいるよ。君が発《た》ったあとすぐに行っちまって、それからは一度もモスクワへやってこないんだ。ねえ、コスチャ、僕は君に本当のことをいうが」と彼はテーブルに肘《ひじ》づきし、美しいバラ色の顔を掌にのせて、言葉をつづけた。その顔には、油を流したようにどんよりした善良らしい眼が、星のように光っていた。「あれは君自身が悪かったんだよ。君が競争者を恐れたもんだから。ところが、僕はね、あのときも君にいったとおり、どっちのほうにより多くの勝味があったか、自分でもわからないんだよ。どうして君はどこまでも押していかなかったんだ? あの時も君にいったとおり……」彼は口を開けないで、顎だけであくびをした。
『この男は、おれが申込をしたことを知ってるのか、知らないのか?』とレーヴィンは彼を見つめながら考えた。『そうだ、この男の顔にはなにかずるい、外交家式のところがあるよ』自分が赤くなっていくのを感じながら、彼は無言のまま、オブロンスキイの顔をまともに見やった。
「もしあのとき彼女に何かあったとすれば、それはただ見てくれに迷わされたんだよ」とオブロンスキイは言葉をついだ。「それはね、君、全くの貴族主義と、未来の社会上の地位が作用したんだよ、彼女自身でなく母親のほうにさ」
 レーヴィンは顔をしかめた。彼の経験したあの拒絶からくる侮辱感が、さながらたった今うけたなまなましい傷のように、彼の心をひりひりと焼いた。しかし、いま彼はわが家にいたので、自分の家では四方の壁が助けになった。
「ちょっと、ちょっと」彼はオブロンスキイをさえぎりながら、いいだした。「君は貴族主義というが、ひとつ君に質問を許してもらおう。ヴロンスキイにしろだれにしろ、その貴族主義というのは、いったいなんだね? つまり、僕を軽蔑するにたる貴族主義というのは? 君はヴロンスキイを貴族《アリストクラート》とみなしているが、僕はそうは思わない。父親はつまらんところから官海游泳術で成りあがった男だし、母親はおよそどんな男とでも関係したと思われるような女……いや、失敬ながら、僕は僕自身や、僕のような人間を貴族《アリストクラート》と考えるよ。それらの人々は過去において、三代か四代の名誉ある家族、最高の教養を身につけた人々を名ざすことができるのだ(天稟《てんびん》とか頭脳とかになると――それはもう話が別だよ)。彼らは僕の父や祖父のしてきたように、いかなる人の前でも、かつて一度も卑屈なふるまいをせず、だれの保護も必要としなかった人たちだ。しかも、僕はそういう人たちを大ぜい知っている。君は、僕が立ち木を数えるのを卑しい業《わざ》と見なして、リャビーニンに三万ルーブリの金を進呈している。しかし、君には貸地の地代とか、そのほか何かしら、いろんな収入があるだろうが、僕はそんなことをしない。なぜなら、先祖伝来のもの、労働から得たものを貴ぶからだ……貴族《アリストクラート》はわれわれであって、この世の権力者のお情のみで生存をつづけている連中でもなければ、二十コペイカくらいのはした金で買収されるような連中でもないよ」
「いったい君はだれのことをいってるんだね? しかし、僕は君の説に賛成だ」とオブロンスキイは、衷心《ちゅうしん》から楽しそうにいった。もっとも、レーヴィンが二十コペイカで買収される連中と名づけた中に、自分も含まれていることを直感していたけれど、レーヴィンの真剣な生きいきした態度は、冗談でなく気に入ったのである。「いったいだれのことをいってるんだね? 君がヴロンスキイについていったことは、まちがった点もすくなくないけれど、しかし僕がいうのは、そんなことじゃない。僕はざっくばらんにいうが、もし僕が君の立場にあったら、これからいっしょにモスクワへ出かけるね……」
「いや、君は知ってるかどうかわからないが、僕はどうだっていいんだよ。もう一つ君にいうけれど、僕は申込をして、拒絶されたんだ。だから、カチェリーナ・アレクサンドロヴナ([#割り注]キチイ[#割り注終わり])は、僕にとって苦しい、恥すべき記憶なんだよ」
「どうして? それこそくだらん話だよ!」
「しかし、その話はよそう。もし僕が、君に失敬な態度をとったなら、どうか勘忍してくれたまえ」とレーヴィンはいった。今ではなにもかもいってしまったので、また朝と同じような気分になったのである。「君、僕に腹をたてちゃいないね、スチーヴァ? どうか腹をたてないでくれよ」といって、彼はほほえみながら友の手をとった。
「なあに、ちっとも、それに、何も怒るわけがないじゃないか。それどころか、すっかり話しあったので、かえって喜んでるくらいだよ。ときに、朝の猟もどうかするといいものだぜ。ひとつ出かけようか? 僕はこのまま睡《ねむ》らなくたってかまわない、猟からすぐ駅へ行ってしまうから」
「大いにけっこう」

[#5字下げ]一八[#「一八」は中見出し]

 ヴロンスキイの内生活は、ことごとくかの情熱にみたされていたにもかかわらず、外面生活は社交界と連隊の、さまざまな関係と興味から成る、古い習慣的な軌道に沿って、前と変らず、のっぴきなしに流れていった。連隊の興味は、ヴロンスキイの生活でも、重大な位置を占めていた――それは、彼が連隊を愛していたからでもあるが、さらにまた、彼が連隊内でみなに好かれていたからである。連隊では、みながヴロンスキイを愛していたばかりでなく、彼を尊敬し、かつ誇りとしていた。莫大な財産を有し、りっぱな教養を身につけ、はなばなしい才能を有するこの男が、成功と、名誉と、栄達にむかう大道が開けているにもかかわらず、これらのいっさいを軽視して、あらゆる生活興味の中でも連隊と、将校団の興味を何より大切に考えていたので、みなはそうした彼を誇りとしていたわけである。ヴロンスキイは、自分に対する同僚のこうした考え方を知っていたので、ただにこの生活を愛したばかりでなく、連隊内に固定してしまったこの考え方を維持するのを、おのれの義務と感じるようになった。
 いうまでもなく、彼は仲間のだれにも自分の恋を話しはしなかった。どんなに羽目をはずした酒席でも、決して口をすべらすようなことはなかったし(もっとも、彼は自制力を失うほど酩酊《めいてい》したことは、かつて一度もなかったけれど)、彼の情事を匂わせようとする軽はずみな同僚には、口を割らせないように手を打ちもした。が、それにもかかわらず、彼の恋は全市中に知れ渡っていた。カレーニナに対する彼の関係は、だれもが多少なりと正確なことを想像していた。若い連中の大多数は、彼の恋で最も苦しい点、つまり、カレーニンの地位が高いために、浮名が華美《はで》なことをうらやんでいた。
 常々アンナを羨望して、彼女が節操の正しい婦人という評判をとっている[#「節操の正しい婦人という評判をとっている」に傍点]のに、もう久しい前からうんざりしていた若い婦人の多くは、自分たちの予想があたったのをうれしがり、世論の転換が確定的になるのを待って、ありったけの侮蔑を浴びせかけ、どっとばかり彼女になだれかかろうと、手ぐすねひいていた。彼らは機会が熟したとき、彼女に投げつけるはずの土くれを、早くもそれぞれ用意しているのであった。年配の連中や地位の高い人々の多くは、こうして着々準備されていく社交界のスキャンダルを、おもしろからず思っていた。
 ヴロンスキイの母親は息子の情事を知って、はじめのうちは満足していた――それは彼女の意見によると、上流社会における情事ほど、輝かしい将来をもつ青年に、最後の磨きをかけてくれるものはないからであったが、なおそのほかに、あれほどわが子の話ばかりして、彼女に好感をもたせたカレーニナが、やっぱり結局のところ、ヴロンスカヤ伯爵夫人の見解によると、やっぱりすべての美しいれっきとした夫人たちの例にもれなかったからでもある。ところが、最近になって、息子が将来の栄達のために重要な意義を有する位置をすすめられたのにもかかわらず、現在の連隊にとどまっていればカレーニナと会えるので、その申し出を断ってしまったために、上司の人々の不満を買ったという話を聞いて、母夫人は自分の意見を変えた。のみならず、この件について聞きこんだあらゆる情報から判断したところ、それは彼女の奨励するはなばなしい、優美な、社交的な情事ではなくして、何かしらウェルテルめいた命がけの恋で、わるくしたら、息子はばかげた羽目に落ちこんでしまう、こんなふうにみんないっていることも、彼女の気に入らなかった。彼女は、息子が思いがけなくモスクワを発《た》ってしまって以来会っていないので、長男を通して一度やってくるようにと命じた。
 この兄も弟に不満を感じていた。彼は弟の情事がどんなものか、豊かなものか、けちけちしたものか、熱烈なものか、ちょっとした浮気か、悪徳の性質をおびているのか、そうでないのか、そんなことには頓着なかった(彼自身も子供があるくせに、あるバレーの踊子を囲《かこ》っていたくらいだから、この点では他人に対して寛大だったのである)。しかしこの情事が、お気に入る必要のある人たちの気にくわないことを知っていたところから、そのために弟の行状を困ったものだと思っていた。
 勤務と社交のほかに、ヴロンスキイはなお一つ仕事を持っていた。それは馬である。彼は熱心な馬道楽であった。
 ちょうど今年は、将校たちの障碍物《しょうがいぶつ》競馬が催されることになっていた。ヴロンスキイはこの競走に加入して、純血なイギリス種の牝馬を買った。そして、恋にうつつを抜かしながらも、目前に控えている競馬に、多少遠慮してはいたが、内心夢中になっていた。
 この二つの熱情は、互に妨げとならなかった。それどころか、彼にとっては、恋愛と関係のない仕事なり、道楽なりが必要なので、それによって、あまりに魂を興奮させる印象から、気分を一新させ、休息したかったのであった。

[#5字下げ]一九[#「一九」は中見出し]

 赤村《クラスノエ・セロ》の競馬の当日、ヴロンスキイはいつもより早目に、将校集会所の食堂へ、ビフテキを食べに行った。彼は体重がちょうど所定の四プード半に達していたから、あまり厳重に節制する必要はなかった。しかし、これ以上ふとってはいけないので、澱粉質と甘いものを避けるようにしていた。彼は上衣のボタンをはずして、白いチョッキを見せ、両手でテーブルに肘つきをして、注文のビフテキを待つあいだ、皿の上にのっていたフランス語の本を見ていた。それは、出たり入ったりする将校連と口をききたくないためで、その実は考えごとをしているのであった。
 彼は、きょう競馬のあとで会おうといったアンナの約束を、考えているのであった。しかし、彼はもう三日も彼女に会わないでいたし、良人が外国から帰って来たため、はたしてきょう会えるかどうか、わからなかった。けれど、どうしてそれをたしかめたものか、わからないのであった。いちばん最後には、公爵夫人ベッチイの別荘で会った。カレーニン家の別荘へは、なるべく行かないようにしていたが、今日はそこへ行きたくなったので、『それをどんなふうにやるか?』という問題で、頭をひねっているのであった。
『もちろん、おれはベッチイの使で、競馬に行くかどうかをたずねに来たのだといおう。どうしても行く』と彼は本から頭を上げながら、一人でこう決心した。彼女に会ったときの幸福を、まざまざと心に描いた時、彼の顔はぱっと輝きわたった。
「おれの家へ使をやって、大急ぎで、幌馬車に三頭立をつけるようにいってくれ」ビフテキを熱い銀の皿にのせて持ってきたボーイに、彼はこういいつけて、皿をひきよせ、食事にかかった。
 隣の玉突き部屋で玉のあたる音や、人の話したり笑ったりする声が聞えた。入口の戸から将校が二人あらわれた。一人はちかごろ幼年学校を出て、彼らの連隊へ入った、弱々しい細おもての若い将校で、もう一人は手に腕輪をはめた、小さい眼の隠れそうなほど、ぶよぶよふとった老将校であった。
 ヴロンスキイはちらとこの二人を見て、眉をひそめた。そして、気のつかないようなふうで、本を横目ににらみながら、同時に食べかつ読みはじめた。
「どうだね? 仕事の前に腹ごしらえしてるのかね?」と、ぶよぶよした将校は、彼の横に腰をおろしながらいった。
「ごらんのとおりさ」顔をしかめて、口を拭きふき、相手を見ないで、ヴロンスキイは答えた。
「ふとるのが怖《こわ》くはないかね?」若い将校のほうへ椅子をねじむけながら、相手はこうきいた。
「え?」とヴロンスキイは、嫌悪の情を隠そうともせず、渋い顔をして、例のびっしり並んだ歯を見せながら、さも腹だたしげに問い返した。
「ふとるのが怖くはないのかね?」
「おうい、シェリイ酒!」とヴロンスキイは返事をせずにこう叫ぶと、本を反対の側へ置きなおして、読みつづけた。
 ぶよぶよした将校は、酒の表をとりあげて、若い将校に話しかけた。
「何を飲む、君自分できめたまえ」表を渡して、相手の顔を見つめながら、彼はこういった。
「じゃ、ラインワインにするかな」ヴロンスキイのほうをおずおずと横目に見やり、やっと生えかかった口髭を、指先でつまもうと苦心しながら、若い将校はこういった。ヴロンスキイがこちらへ向かないのを見て、若い将校は立ちあがった。
「玉突き場へ行こう」と彼はいった。
 ぶよぶよした将校は、おとなしく席を立った。こうして、二人は戸口のほうへ向った。
 その時、部屋の中へ、背が高くて押し出しのいい、ヤーシュヴィン大尉が入ってきた。二人の将校のほうへ、軽蔑するように頤《あご》をしゃくって、ヴロンスキイに近よった。
「ああ! ここにいたのか!」と叫んで、彼は大きな手で強く肩章を叩いた。ヴロンスキイは怒ったようにふりかえったが、たちまちその顔は持ち前のおちついた、しっかりしたところのある、優しい表情に輝きわたった。
「こりゃうまい考えだ、アリョーシャ」と大尉は声高《こわだか》なバリトンでいった。「これからひと口食べて、一杯飲もうじゃないか」
「どうもほしくないんだがな」
「つがい離れぬってやつだよ」このとき部屋から出て行こうとしている、二人の将校を嘲るように見やりながら、ヤーシュヴィンはこうつけ加えた。そして、椅子の高さにくらべてあまり長すぎる、狭い乗馬ズボンをはいた腿《もも》と脛《はぎ》を鋭角に曲げて、彼はヴロンスキイのそばに腰をおろした。「どうして昨日|赤村《クラスノエ》の劇場へこなかったんだい? ネメローヴァがじつによかったぜいったいどこへ行ってたんだい?」
「僕はトヴェルスコイのとこに腰をすえちまったんだよ」とヴロンスキイはいった。
「ははあ!」とヤーシュヴィンは答えた。
 ヤーシュヴィンはばくち打ちで、道楽者で、いっさい規範《きはん》をもたないどころか、破倫《はりん》の規範を奉ずる男であったが――このヤーシュヴィンが連隊じゅうで、一番ヴロンスキイとうまのあう親友であった。ヴロンスキイが彼を愛したのは、一つには彼の並はずれた体力のためであった。彼は酒樽のように飲むことや、徹夜しても普段と変らぬ態度でいられることで、この体力を証明したものである。また二つには、その偉大なる精神力のためで、それは上官や同僚に対したとき、相手に恐怖と尊敬を呼び起させることや、勝負をすればいつも何万という金を賭《か》け、酒を飲んでも細心で確実で、イギリス・クラブでも第一のカルタ師とされていること、などで証明された。しかし、ヴロンスキイが特に彼を敬愛したのは、ヤーシュヴィンが彼を名や富のためでなく、彼そのものを愛したがためである。多くの人の中で、ヴロンスキイが自分の恋を語ってもいいと思ったのは、この男一人だけであった。ヤーシュヴィンだけは、一見して、あらゆる愛情を軽蔑しているらしいにもかかわらず、今ヴロンスキイの全生活をみたしている激しい情熱を、理解してくれるに相違ない、ヴロンスキイはそれを直感したのである。のみならず、ヤーシュヴィンに限って、陰口やスキャンダルに興味をもたず、この感情を本当に正しく理解してくれるに違いない、つまり恋愛は冗談でもなければ、慰みでもなく、何かしらもっとまじめな、もっと重大なものであることを承知し、かつ信じている――こうヴロンスキイは確信しきっていたのである。
 ヴロンスキイは、彼に自分の恋を語りはしなかったけれども、彼がいっさいを知り、いっさいを正しく理解しているのを承知し、それを相手の眼つきで読みとるのが快かった。
「ああ、そうか!」とトヴェルスコイのところへ行ったという、ヴロンスキイの言葉に対して、彼はこういった。そして、黒い眼をぎらっと光らして、左の口髭をつまみ、いつもの悪い癖で、それを口へ入れはじめた。
「ところで、君は昨日どうした? 勝ったかい?」とヴロンスキイはきいた。
「八千ルーブリ。だが、三千はだめだ、よこしそうもない」
「ふん、それじゃ僕の分も負けるかもしれないね」とヴロンスキイは笑いながらいった(ヤーシュヴィンはヴロンスキイの競馬に、大きな睹で勝負することになっていたのである)。
「金輪際《こんりんざい》、負けるもんか。ただマホーチンだけが危いけれどな」
 それから、話は今日の競馬の予想に移った。ヴロンスキイは今このことよりほか、考えられなかったのである。
「行こう、僕はすんだんだから」とヴロンスキイはいって、立ちあがり、戸口のほうへ足を向けた。ヤーシュヴィンも、その大きな脚と長い背中をのばして、同じく立ちあがった。
「僕はまだ食事をするのは早すぎるけれど、一杯ひっかけなきゃならん。いますぐ行くよ。おうい、酒だ!」号令にかけては有名な厚みのある声で、窓ガラスをふるわせながら、彼はどなった。「いや、いらん!」とすぐにまたこう叫んだ。「君うちへ帰るのかい、じゃ、おれもいっしょに行こう」
 そういって、彼はヴロンスキイとともに外へ出た。

[#5字下げ]二〇[#「二〇」は中見出し]

 ヴロンスキイは、広々として、清潔な、二つに仕切られた、フィンランド風の田舎家に泊まっていた。ペトリーツキイは野営でも、彼といっしょに起居していた。ヴロンスキイとヤーシュヴィンが入っていった時、ペトリーツキイは眠っていた。
「起きろ、寝るのはたくさんだ」ヤーシュヴィンは仕切りのむこうへ入って、鼻を枕につっこみ、髪をふり乱して寝ている、ペトリーツキイの肩をゆすぶりながらいった。
 ペトリーツキイはいきなり起きあがって膝をつき、あたりをきょろきょろ見まわした。
「君の兄さんがここへ来たよ」と彼はヴロンスキイにいった。「いまいましい、ひとを起しゃがって、またくるといったよ」そういって、また毛布をひっかぶりながら、枕に頭をおとした。「おい、よせよ、ヤーシュヴィン」と彼は、毛布をひっぺがそうとするヤーシュヴィンに、ぷりぷりしながらいった。「よせったら!」彼は寝返りして眼を開けた。「君、それより何を[#「何を」に傍点]飲んだらいいか教えてくれ、口の中がいやあな気持だ、それこそ……」
「ウォートカが一番だ」とヤーシュヴィンは低音《バス》でいった。「テレシチェンコ、旦那にウォートカと、それから胡瓜《きゅうり》だ!」と彼は叫んだが、どうやら自分の声を聞くのが楽しみらしかった。
「ウォートカがいいと思うかい? え?」顔をしかめ、眼をこすりながら、ペトリーツキイはいった。「じゃ、君もやるかい? いっしょなら飲むとしよう! ヴロンスキイ、君もやるね?」とペトリーツキイは起きあがり、腕から下を虎の毛皮にくるまりながらいった。彼は仕切りの戸口へ出て、両手をさし上げ、フランス語で歌い出した。「トゥルに一人の王ありて……ヴロンスキイ、飲むかい?」
「うるさい」従僕のさしだした上衣を着ながら、ヴロンスキイはいった。
「おや、いったいどこへ行くんだい?」とヤーシュヴィンはたずねた。「そら、三頭立が来たぜ」と、近づいてくる幌馬車を見て、つけ加えた。
「厩《うまや》へ行くんだよ。それに、僕はブリャンスキイのとこへも、馬のことで相談にいかなくちゃならないんだ」とヴロンスキイはいった。
 本当にヴロンスキイは、ペテルゴフから十露里はなれたところにいるブリャンスキイに、馬の代金を届けてやる約束をしていたので、そこへもなんとかして寄りたいと思っていた。しかし二人の友は、彼の行き先はそこばかりでないことを、たちまち見ぬいてしまった。
 ペトリーツキイは、やはり歌いつづけながら、片目をちょっとぱちつかせて、唇を尖らせたが、その様子はまるで、それがどんなブリャンスキイか、ちゃんと承知してるよ、とでもいうようであった。
「いいか、遅れないようにしろ!」とヤーシュヴィンは、ただそれだけいって、すぐ話題を変えるために、「どうだね、おれの葦毛《あしげ》は、よくご奉公してるかい?」と彼は窓の外を見ながらきいた。自分の譲った中馬のことである。
「ちょっと!」もう出ていこうとするヴロンスキイのうしろから、ペトリーツキイはこう叫んだ。「君の兄さんが手紙を置いていったよ。待ってくれ、どこへやったかな?」
 ヴロンスキイは歩みをとめた。
「さあ、いったいどこにあるんだ?」
「どこにあるかな? こいつが問題だて!」人差し指を鼻の前で上向きに立てながら、ペトリーツキイはものものしい調子でいった。
「おい、いわんか、そんなことばかげてるじゃないか!」とヴロンスキイは、にやにやしながらいった。
「ストーヴは焚《た》かなかったし、と。どこかこの辺に相違ない」
「さあ、悪ふざけはたくさんだ! どこに手紙があるんだよ?」
「いや、本当に忘れたんだ。それとも、あれは夢だったかな? 待てよ、待てよ! まあ、何もそう怒ることはないじゃないか! 君だって昨日の僕のように、一人当り四本の酒を空《から》にしてみろ、自分がどこにねてるのかも忘れてしまうから。待て待て、いま思い出すよ!」
 ペトリーツキイは仕切りのむこうへ行って、自分の寝台に横になった。
「待ってくれ! おれがこうしてねていると、あの男はこんなふうに立っていた、と。そう――そう――そう――そう……ほら、ここだ!」そういってペトリーツキイは藁《わら》蒲団の下から、しまい忘れた手紙をとりだした。
 ヴロンスキイは手紙と、兄の書き残しを受けとった。それはまさしく彼の予期していたもので、彼がこないのを責めた母の手紙であった。兄の書き残したものには、何か話があるとしたためてあった。ヴロンスキイには、相変らず例の問題だということがわかっていた。
『あの人たちになんの関係があるというのだ!』とヴロンスキイは考え、手紙をわしづかみにして、上衣のボタンの間へつっこんだ。道道ていねいに読むつもりだったのである。入口の廊下で、二人の将校にぱったり出会った。一人は同じ連隊、もう一人はほかの隊に勤めていた。
 ヴロンスキイの宿舎は、あらゆる将校の巣窟《そうくつ》になっていた。
「どこへ?」
「ペテルゴフヘ用があるんだ」
「王村《ツァールスコエ》の馬は来たかい?」
「来た、が僕はまだ見ていないんだ」
「なんでも、マホーチンのグラジアートルが、びっこをひきだしたそうだね」
「何をくだらない! それより、君、このぬかるみをどうして駆けるつもりだい?」と、も一人のほうがいった。
「ああ、おれの救い主が来た!」新しく入ってきた二人を見て、ペトリーツキイがこう叫んだ。そのまえには、ウォートカと塩漬け胡瓜を盆にのせた従卒が立っていた。「じつはね、ヤーシュヴィンが宿酔《ふつかよい》に一杯やれというんでね」
「いや、昨夜はおかげで、ひどい目にあったよ」と新来の一人がいった。「夜っぴて寝さしてもらえないんだもの」
「いや、それより結末がたいへんだったんだよ」と、ペトリーツキイは話し出した。「ヴォルコフのやつが屋根へはいたして、おれは淋しいっていうじゃないか。そこで僕が、楽隊、演奏、葬送曲だ! とやったもんだから、先生そのまま屋根の上で、葬送曲を聞きながら、寝入ってしまったってわけさ」
「飲め、ぜひともウォートカを飲むんだ。そのあとで、ソーダ水にレモンをうんと入れてな」まるで子供に薬を飲ませようとしている親よろしく、ペトリーツキイのそばに立って、ヤーシュヴィンはこういった。「それから、いよいよシャンパンだ、ほんの少し、まあ小びんだな」
「いやあ、こいつは気がきいてるぞ。待て、ヴロンスキイ、やろうよ」
「いや、失敬する、諸君、今日はぼく飲まないから」
「どうしたんだい、体が重くなるかい? じゃ、われわれだけでやろう。ソーダ水とレモンを持ってこい」
「ヴロンスキイ!」彼がもう入口の廊下へ出た時、だれかがこう叫んだ。
「なんだい?」
「君、刈込《かりこ》みをしたらいいのに、でないと、髪が重っ苦しく見えるよ、ことにその禿げたところが」
 実際、ヴロンスキイは年に似合わず、早くも頭が薄くなりかかっていた。彼はびっしり並んだ歯を見せて、愉快そうにからからと笑い、禿げたところへ帽子をずらせて、外へ出ると、幌馬車に乗った。
「厩舎《きゅうしゃ》へ!」と彼はいい、もいちど読み返そうと思って、手紙を出しかけたが、すぐにまた、馬の点検をすますまでは、気を散らさぬことに考えなおした。『あとにしよう!………』