『アンナ・カレーニナ』5-01~5-10(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#2字下げ]第五編[#「第五編」は大見出し]


[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]

 シチェルバーツカヤ公爵夫人は、もうあと五週間しかない大斎期《だいさいき》までに、結婚式を挙げるのは不可能と見なした。というのは、したくの半分もそれまでに、まにあうはずがなかったからである。しかし夫人は、斎戒期のあとではあまり遅すぎるという、レーヴィンの意見に賛成しないわけにいかなかった。シチェルバーツキイ公爵の親身の伯母にあたる老婦人が重態で、まもなく死ぬおそれがあったので、もしそうなると、挙式がいっそうおくれるからであった。そういったわけで、したくを大小二つに分けることに決めて、公爵夫人は、大斎期より前に式を挙げることに同意した。小の部に属するしたくは、今すぐ全部ととのえ、大のほうはあとから送ることに決めた。そして、レーヴィンがそれに賛成かどうかについて、ちっともまじめな返事ができないといって、ひどく腹を立てた。まして、新郎新婦は式のすみしだい、田舎へ行くが、そこでは道具類の必要がないので、この思案はひとしお好都合であった。
 レーヴィンは依然として、狂気のような状態でいた。彼は、自分と自分の幸福こそは、存在するいっさいのものの主要にして唯一の目的であるから、今はもう何一つ考えたり、心配したりする必要はない。そんなことはみんな、ほかのものが代ってしてくれているし、またちゃんと始末をつけてくれるに相違ない、というような気がしていた。それどころか、彼は将来の生活のために、なんのプランも、目的ももっていなかった。なにもかもうまくいくことがわかっていたので、そういう決定は他人にまかせきりにしていた。兄のコズヌイシェフやオブロンスキイ、それに公爵夫人が、どうしたらいいかということを、指導してくれたのである。彼は人から勧められることに、一から十まで賛成するばかりであった。兄は彼のかわりに金を借りてくれるし、公爵夫人は式がすむとすぐモスクワを立てといった。オブロンスキイは外国旅行に行けと勧めた。彼はなんにでも賛成した。
『もし諸君にそれがおもしろかったら、なんでもしたいようにしてくれたまえ。僕は幸福なんだから、諸君が何をしようと、そのために、僕の幸福はふえも減りもしやしない』と彼は考えた。
 彼がキチイに、外国を旅行しろというオブロンスキイの勧めを伝えたとき、キチイがそれに反対して、二人の未来の生活について、何かしらはっきりした要求をもっているのに、一驚をきっした。彼女は、レーヴィンが田舎に仕事をもっていて、それを愛しているのを承知していた。レーヴィンの見るところによれば、彼女はその仕事を理解していなかったばかりでなく、理解しようとさえ思っていない。にもかかわらず、それは彼女にとって、この仕事がきわめて重大なものであると考えるじゃまにはならなかった。こういうわけで、彼女は自分たちの家が田舎にあることを知っていたから、自分たちの住みもしない外国へ行くのを望まず、わが家のあるところへ行きたがったのである。このはっきりと表白された意向は、レーヴィンを驚かした。しかし、それは彼としてどちらでもよかったので、オブロンスキイにむかって、まるでそれが義兄の義務ででもあるように、ポクローフスコエ村へ行ったうえ、持ちまえの豊富な趣味を利用して、いっさいのことを思いどおりに整えてくれと頼んだ。
「だがね、一つきくが」あるときオブロンスキイは、新郎新婦の来着のため、いっさいの準備を整えた後、田舎から帰ってきて、レーヴィンにこういった。「君、懺悔式に行ったという証拠を持っているかい?」
「持っていない。それがどうしたんだい?」
「それがなければ、結婚式が挙げられないよ」
「さあ、さあ、たいへん、たいへん!」とレーヴィンは叫んだ。「僕はなにしろ、もう九年から精進をしたことがないらしいんだからな。そんなこと考えもしなかった」
「けっこうなもんだ!」とオブロンスキイは、笑いながらいった。「それで僕のことを、ニヒリストだなんていうんだからなあ! それにしても、そんなこっちゃだめだよ。精進しなくちゃいけない」
「いったい、いつ? あと四日しかありゃしない」
 オブロンスキイは、この点もうまくこしらえた。で、レーヴィンは精進をはじめた。レーヴィンは不信者であると同時に、他人の信仰を尊敬する人間なので、すべて教会の儀式に参列したり関係したりするのが、はなはだしく苦痛であった。今はすべてにたいして感じやすい、和らいだ気持になっていることとて、この仮面をかぶらなくてはならぬということが、レーヴィンにとっては単に苦しいどころでなく、まったく不可能に思われた。今や光栄に咲き匂うような心の状態になっているとき、嘘をつくという冒涜《ぼうとく》を、あえてしなければならぬ。彼はそのどちらも、できそうにないと感じた。精進せずに証明をもらう方法はないかと、いくらオブロンスキイにきいてみても、そんなことは不可能だと、いいわたされるのであった。
「だいいち、それしきのことが、なんだというのだ――たった二日の辛抱じゃないか? それに、坊さんもじつに優しくって、利口なお爺さんだよ。君が自分でも気がつかないように、その痛い歯をひき抜いてくれるよ」
 最初の祈祷式に立ったとき、レーヴィンは十六七の青年時代に経験した宗教的感情の追憶を更新しようと試みた。が、これは絶対に不可能だと、すぐに確信させられてしまった。で今度は、こんなことは他家を訪問する習慣などと同じで、なんの意味もない、空な習慣と見なすようにつとめてみた。が、それさえなんとしてもできないと感じた。レーヴィンは大多数の現代人と同様、宗教にたいしてあいまいな状態にあった。信ずることはできなかったが、同時に、それはすべてまちがっているという、強い確信ももっていないのであった。そういったわけで、自分のしていることの有意義を信ずることもできなければ、それを空な形式として無関心に見すごすこともできず、この精進のあいだじゅう、自分でも理解できないことをしながら、ばつの悪い、恥ずかしい気持を経験しどおしであった。したがって、内部の声は彼にむかって、これは何かしらよからぬ虚偽の所行である、とささやくのであった。
 勤行《ごんぎょう》の間に、彼は祈祷を聞きながら、自分の見解と背馳《はいち》しないような意味をつけようと努力したり、自分にはそれを理解する力がないのだから、誹議《ひぎ》するのが当然だと感じて、祈祷を耳に入れないようにつとめ、自分の想念や、観察や、追憶に没頭したりした。またそういうものは、教会の中にぼんやり立っているあいだに、ことさら生きいきと頭に浮んでくるのであった。
 彼は昼祈祷、夜祈祷、夕の掟を全部きいて、あくる日はいつもより早く起き、茶も飲まずに、朝の掟をきいて懺悔するため、朝の八時に教会へ行った。
 教会には、乞食のような兵隊と、二人の老婆と、教会の小使のほか、だれもいなかった。
 薄い法衣《ころも》の下から、長い背筋の右左がくっきりと見えている、年の若い補祭が彼を迎えると、いきなり壁際の小テーブルのそばへ行って、掟を読みはじめた。読経が進むにしたがって、特に『主よ憐れみたまえ』(これがちょうど『れみたん、れみたん』と聞えるのであった)という同じ言葉を、ひんぴんと早口にくりかえすところになると、自分の思想は閉ざされ、封じられてしまっているので、今はそれにさわったり、揺すぶったりしてはいけない、さもないと混乱が生じる、とこう感じた。で、レーヴィンは補祭のうしろに立ったまま、相変らず耳をかさず、注意を払わないままで、自分のことばかり考えていた。
『彼女の手は驚くばかり表情に富んでいる』昨日ふたりで隅《すみ》のテーブルにむかって坐っていたときのことを思い出して、彼はこんなことを考えた。このころはほとんどいつもそうであるが、二人は何も話すことがなかった。で、彼女はテーブルの上に手をのせて、開いたり、閉めたりしていたが、自分でもその動きを見て笑い出した。彼はその手を接吻したこと、そのあとでバラ色の掌《てのひら》についている筋を調べて見たことを思い出した。『また、れみたん、だ』とレーヴィンは十字を切り、礼拝をし、同じく拝をする補祭の背の、しなやかな運動を見つめながら、こんなことを考えた。『彼女はそのあとでおれの手をとって、筋を見ると、あなたの手相はとてもよくってよ、といったっけ』彼女は自分の手を見、補祭の短い手を見た。『さあ、もうまもなくすむぞ』と彼は考えた。『いや、またはじめからやりなおしらしい』祈祷の言葉に聞き入りながら、彼はこう考えた。『いや、やっぱりおしまいだ。そら、もう床に額をつけて、拝をしている。いつも終る前にはああするんだ』
 三ルーブリ札を目立たぬように受けとって、プリスの袖の折り返しの中に隠すと、補祭は帳面に書きこみますといって、がらんとした会堂の板石に新しい靴を響かしながら、元気よく祭壇の中へ入っていった。と、すぐにそこから顔をのぞけて、レーヴィンを小手招きした。それまで閉じこめられていた思念が、レーヴィンの頭の中で、もそろと動いたが、彼は急いでそれを追いのけた。『なんとかなるだろう』と思って、説教台の方へ進んだ。段々の上に昇って右へ曲ると、司祭の姿が目に入った。うすい半白の頤鬚《あごひげ》を生やし、疲れたような、人の好い目をした老司祭は、経机のそばに立って、聖礼記のページをめくっていた。軽くレーヴィンに会釈すると、すぐ慣れた声で祈祷を唱えはじめた。それがすむと、額を床につけて拝をし、レーヴィンの方へまともに向きなおった。
「ここには目に見えぬ主キリストが、あなたの懺悔を聞こうとして、立っておいでになります」と彼ははりつけ像をさしながらいった。「あなたは、聖なる使徒によって建てられた教会の教えることを、すべて信じておられますかな?」レーヴィンの顔から目をそむけて、両手を襟飾の下で組みあわせながら、司祭は言葉をつづけた。
「私はすべてを疑いました。今でも疑っています」とレーヴィンはわれながら不愉快な声でいって、口をつぐんだ。
 司祭は、まだ何かいわないかと、数秒間じっと待っていたが、やがて目を閉じて、Oをはっきりいうヴラジーミルふうの発音([#割り注]力点のない o は a のように発音されるのが普通[#割り注終わり])で早口にいいだした。
「疑いは弱い人間につきものでな。しかし、われわれは慈悲深い主に力をつけていただくために、お祈りをせにゃなりませんて。いったいあなたは、特にどういう罪をおもちですかな?」まるで一刻もむだにしまいとつとめるかのように、いささかの隙もなくこうつけ加えた。
「私のおもな罪は疑いです。なにもかも疑って、大部分は疑いの中におかれています」
「疑いは弱い人間につきものでな」と司祭は同じ言葉をくりかえした。「が、おもにどういうことを疑われますな?」
「なにもかも疑います。どうかすると、神の存在さえ疑うくらいです」とレーヴィンは思わずそういうと、自分で自分のいったことの無作法さにぎょっとした。が、司祭はレーヴィンの言葉に、なんの印象も受けなかったらしい。
「神の存在に、なんの疑いがありえましょうぞ?」かすかにそれと認められる微笑を浮べて、彼は急いでそう答えた。
 レーヴィンは黙っていた。
「あなたは神の創造を自分の目で見ていながら、どうしてその創造主について疑いをいだくことができるのでしょう?」と司祭は慣れた語調で早口につづけた。「天の穹窿《きゅうりゅう》をもろもろの星辰《せいしん》で飾ったのは、だれだと思います? 大地をこうした美でおおったのは、だれだと思います? 創造主でなくて何でしょう?」質問の表情でレーヴィンを見ながら、彼はそういった。
 僧侶と哲学的な討論をするのは、ぶしつけだと感じたので、レーヴィンはただ問いに直接関係のあることだけ答えた。
「知りません」と彼はいった。
「ごぞんじない? それなら、どうしてあなたは、神がいっさいを創造したことを疑われるのです?」と司祭は愉快そうな怪訝《けげん》の調子でたずねた。
「私はなんにもわかりません」自分の言葉がばかげているのを感じ、またこういう立場にあっては、ばかげて聞えないわけにいかないのを感じて、レーヴィンは顔を赤らめながら、こういった。
「神に祈って、お願せられるがよい。聖者と呼ばれる神父たちでさえ、疑いをいだいて、信仰の固めを神に祈られたくらいですからな。悪魔は大きな力をもっておるから、われわれはそれに負けてはなりません。神に祈りなさい、神にすがりなさい。神に祈りなさい」と彼は早口にくりかえした。
 司祭は何か考えこんだように、しばらく黙っていた。
「お聞きしたところでは、あなたは私の檀家《だんか》で法の子であるシチェルバーツキイ公爵の令嬢と、結婚なさるそうですな?」と彼は微笑しながら、つけ加えた。「りっぱな娘さんじゃ」
「ええ」とレーヴィンは顔を赤くしながら、答えた。『なんだって懺悔の式で、こんなことをきく必要があるのだろう?』と彼は考えた。
 彼のこの疑問に答えるように、司祭はいった。
「あなたは、これから結婚しようとしておられる。神はおそらく、あなたに子孫を恵まれるに相違ない。そうではありませんか? もし不信の方へとひいていく悪魔の誘惑を征服されなんだら、いったいあなたは自分の幼いものに、どんな教育を授けるおつもりですな?」と彼はつつましやかな非難をこめていった。「もしあなたがわが子を愛されるなら、あなたは善良な父親として、単に富や、奢侈《しゃし》や、名誉のみを、子供のために望まれはしまい。子供たちが救われるように、真理の光で魂を照らされるようにとねがわれる、そうではありませんかな? もし無垢な幼いものがあなたに向って、『お父さん、この世で私たちを喜ばしてくれるいっさいのもの――大地、水、太陽、花、草などは、いったいだれが創《つく》ったのですか?』ときいたとき、あなたはどう答えます? まさか、『わしは知らない』と答えはなさるまい。主の神が、その偉大なるみめぐみによって、あなたに啓示《けいじ》してくだすったこれらすべてのことを、知らずにおられるわけはありますまい。それとも子供さんがあなたに向って、『あの世ではいったい、どんなことが私を待ち受けているのでしょう?』ときいたとき、あなたは何も知らずにいて、いったいなんというつもりです? いったいなんと答えられます? 世俗の快楽や、悪魔の誘惑にまかせてしまわれますか? それはよくないことじゃ!」といって、彼は言葉を止め、頭を傾けて、善良なつつましい目でレーヴィンをながめた。
 レーヴィンは今はなんとも答えなかった。それは、僧侶と議論したくなかったからではなく、だれも彼にそんな問いを発するものがなかったからである。自分の幼い子供たちがこういう質問をしかけるまでには、まだまだまがあるから、なんと答えたものか考えることもできる。
「あなたはこれから、人生の盛りに入ろうとしておられる」と司祭はつづけた。「だから、おのれの進むべき道を選んで、それを守っていかねばなりません。どうか神がその大いなる恵みによって、力を与え、憐みをたれてくださるよう、よくお祈りせにゃなりませんぞ」と彼は結んだ。「主なる神であるわれらのイエス・キリストは、その豊かなる慈悲と人間愛によって、子なる汝を赦したまわん……」といって、許しの祈祷を唱え終ると、司祭は彼を祝福して、放免した。
 この日、宿へ帰ると、レーヴィンは喜ばしい気持を経験した。それは、ばつの悪い状態が終りを告げた、しかも嘘をつかないですんだ、ということなのである。なおそのほか、何か漠とした追憶が残った。あの善良で優しい司祭のいったことは、はじめ感じたほどばかげたものではなく、そこには何か闡明《せんめい》を要することがある。
『もちろんいまじゃない』とレーヴィンは考えた。『いつかまたあとで』今レーヴィンはいつもにまして、はっきりと感じた。自分の心の中は、何かしら不明瞭で、純でない。宗教に関する自分の心の状態は、自分が他人の中にまざまざと見て不快に感じ、そのために友人のスヴィヤージュスキイを非難した、あれと同じことであるのを自覚したのである。
 この晩、ドリイのもとで、許婚《いいなずけ》といっしょにすごしたレーヴィンは、ことのほか快活であった。そして、自分の興奮した心持を、オブロンスキイに説明しながら、ちょうど輪を飛びぬけることを教えられた犬が、やっと合点がいって、要求されることをまんまとやってのけ、うれしさのあまり、きゃんきゃんないたり、尻尾をふったり、テーブルや窓の上へとびあがったりする、それとおなじように愉快でたまらないのだ、といった。

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

 式の当日、レーヴィンはしきたりに従って(公爵夫人とドリイは、すべてのしきたりを厳重に守るように主張した)許婚の顔を見ないで、偶然来合わせた三人の独身もの、コズヌイシェフと、大学時代の友だちで今は自然科学の教授をしているカタヴァーソフと(これはレーヴィンが往来で会って、無理にひっぱってきたのである)それからモスクワの単独判事であり、レーヴィンの熊狩り仲間である介添人のチリコフと、自分のホテルでいっしょに食事をした。その会食は、非常ににぎやかであった。コズヌイシェフはこの上もない上きげんで、カタヴァーソフの奇抜な話しぶりに興がっていた。カタヴァーソフは、自分の独創ぶりが理解され、みんなに買われているのを感じて、むやみにそれをひけらかした。チリコフは、にぎやかに人のいい調子で、どんな話にでも相槌を打っていた。
「さて、そこで」講壇で癖になった言葉尻をひきながら、カタヴァーソフはこういった。「われらの友コンスタンチン・ドミートリッチは、かくのごとき有為なる青年でありました。私は、この席におらぬ人のことをいっておるのであります。その当時は学問を愛して、大学卒業後も、人間的な興味をもっておりました。ところが、今はその才能の半分は、おのれを欺くことに向けられ、残りの半分は、その虚偽を弁護することに向けられています」
「あなたのような手ごわい結婚の敵は、またと二人見たことがありませんよ」とコズヌイシェフはいった。
「いや、私は結婚の敵じゃなくって、分業の味方なんです。なんにも芸のない人間は、人間をこしらえるのが本当です。その他の人々は、できた人間の教化と、幸福に協力すべきである、とこんなふうに私は考えております。この二つの職業を混同したがるものは、数え切れないほどありますが、私はその数に入っておりません」
「君が恋をしたと知ったら、僕はどんなにうれしいかわからない!」とレーヴィンはいった。「どうか僕を結婚式に呼んでくれたまえ」
「僕はもう恋をしているよ」
「そうだ、烏賊《いか》にだろう。ねえ」とレーヴィンは兄に話しかけた。「ミハイル・セミョーヌイチは、栄養に関する著述を執筆中なんですが……」
「いや、まぜっかえしちゃいけない! そりゃなんの著述だってかまわないが、要は、僕が本当に烏賊《いか》を愛しているということです」
「しかし、烏賊は君が細君を愛するじゃまをしないだろう」
「烏賊はしないが、女房のほうがじゃまをするんですよ」
「どうして?」
「まあ、見てみたまえ。君は農場や猟を愛しているが、まあ、今にわかるよ!」
「ああ、今日アルヒープが来たが、プルードノエに大鹿がうんといるそうだよ。それに、熊も二頭ね」とチリコフはいった。
「ああ、そいつを、君たちは僕ぬきで捕るんだね」
「まったく本当だよ」とコズヌイシェフはいった。「だから、熊狩りにも、はじめからおさらばをしなくちゃならないんだ、家内が出してくれないからね!」
 レーヴィンはにっこり笑った。妻が出してくれない! そう考えると、じつにうれしくて、熊の姿を見るという喜びを永久に断念するのも、あえて辞さないと思った。
「だが、その二頭の熊を、君ぬきで捕るのかと思うと、なんといっても残念だね。覚えてる、あの最後のハピーロヴォ村を? 素晴しい猟ができるわけなんだがなあ」とチリコフはいった。
 レーヴィンは、猟なんかなくっても、どこかに何かいいことがあるかもしれない、などといって、相手をがっかりさせたくなかったので、なんにもいわなかった。
「この独身生活に別れを告げるという習慣ができあがっているのも、意味のないことじゃないね」とコズヌイシェフがいった。「どんなに幸福になるにせよ。やっぱり自由と別れるのは、名残りおしいからね」
「正直に白状したまえ、あのゴーゴリの花婿([#割り注]喜劇『求婚』の主人公ポドカリョーシン[#割り注終わり])みたいに、窓から飛び出したくなるような気持があるだろうね」
「きっとあるにちがいない、が白状なんかしやしないよ!」とカタヴァーソフはいって、大きな声でからからと笑い出した。
「どうだね、窓は開いてるよ……これからトヴェーリヘ行こうよ! 牝熊は一匹だけだから、穴までいけるよ。本当に行こうよ、五時の汽車で! そのうえは、なんとでもおかってに」とチリコフはにこにこしながらいった。
「ところが、正直な話」とレーヴィンも微笑しながらいった。「僕は自分の心の中に、自由を惜しむ気持を発見できないんだよ!」
「なに、君の心の中は混沌《こんとん》をきわめているので、何一つ発見できないのさ」とカタヴァーソフはいった。「まあ、待ちたまえ、今に少し気持の整理がついたら、そいつを発見するから」
「いや、それなら僕は自分の(彼は友人の前で、愛という言葉を使いたくなかった)……幸福感以外に、たとえ少しでも自由を失う哀惜を感じそうなもんだが……かえって反対に、その自由の喪失《そうしつ》を喜んでいるくらいだよ」
「困ったもんだ! 度し難い衆生《しゅじょう》だなあ!」とカタヴァーソフはいった。「まあ、彼の済度《さいど》のために、といって悪ければ、彼の空想がせめて百分の一でも実現するように、一つ乾杯しよう。もしそうなったら、それこそこの世にまたとない幸福だからね」
 食事がすむとまもなく、式に列席するのに着替えがまにあうように、客はみな帰っていった。
 一人きりになると、これらの独身者たちの話を思い返しながら、レーヴィンはもう一度、自分で自分に問うてみた――彼らの話した自由喪失の気持が、はたして自分の心にあるだろうか?
 彼はこの質問に微笑した。『自由だって? 自由なんか何にするのだ? 幸福というものは、彼女を愛し、彼女の望みを望み、彼女の考えを考えることで、つまりそこになんの自由もありゃしない――これこそ幸福なのだ!』
『しかし、おれは彼女の考えを、希望を、感情を知ってるだろうか?』ふいに何かの声が彼の耳に、こんなことをささやいた。微笑は顔から消えて、彼は考えこんでしまった。とつぜん、奇妙な感情がおそってきた。恐怖と疑惑――いっさいにたいする疑惑が襲ってきたのである。
『もし彼女が、おれを愛していなかったらどうする? もし彼女が、ただ結婚したいがためにのみ、おれと結婚するんだったら、いったいどうしたらいいんだ? もし彼女が、自分で自分のしていることが、よくわからないとしたら、どうしたらいいのだ?』と彼は自問した。『もしかしたら、彼女はふとわれに返って、結婚した後にはじめて、おれを愛していないことを悟るかもしれない、愛するはずがなかったことを、悟るかもしれない』こうして、キチイに関する奇怪千万な、思い切っていやな考えが、頭に浮びはじめた。彼はヴロンスキイを嫉妬して、一年前に彼女とヴロンスキイをいっしょに見たあの晩が、つい昨日のことのように思われた。もしかしたら、彼女は本心を全部うち明けなかったのかもしれない、とも疑ってみた。
 彼はがばと跳ね起きた。
「いや、このままうっちゃってはおけない!」と彼は絶望をいだきながら、こういった。『ひとつ出かけて行って、きいてみよう。そして、最後にもう一度、われわれは自由なんだから、思いとまったほうがよくはないかと、そういってやろう、どんなことだって、一生不幸な目を見て、恥をさらし、不貞を忍ぶよりはましだ※[#感嘆符二つ、1-8-75]』心に絶望をいだき、すべての人にも、自分にも、また彼女にも、毒々しい気持を覚えながら、彼は宿を出て、シチェルバーツキイ家へ出かけた。
 キチイは奥の間にいた。彼女はトランクに腰かけて、椅子の上や床にひろげ立てた、色さまざまの着物を選り分けながら、何か小間使に指図していた。
「あら!」レーヴィンに気がつくと、喜びに満面えみ輝きながら、彼女は叫び声を上げた。「あんたどうして、あなたどうして? (この最後の日まで、彼女はレーヴィンに『あんた』といったり、『あなた』といったりしていた)。まあ、思いがけない! あたし娘時代の着物を選り分けてますのよ、だれにどれをやるかって……」
「ははあ! それはいいですな!」暗い目つきで小間使を見ながら、彼はそういった。
「あっちイ行ってらっしゃい、ドゥニャーシャ、あたしまた呼ぶから」とキチイはいった。「あんたどうなすったの?」小間使がいくが早いか、思い切って『あんた』言葉を使いながら、彼女はこう問いかけた。妙に興奮した暗い男の顔に気がついて、彼女はぎょっとしたのである。
「キチイ、僕は苦しんでいるのです。一人で苦しんでいるのが、たまらなくなって」彼女の前に立ちどまり、祈るようにその目を見守りながら、声に絶望をひびかして、こういった。彼はその愛に満ちた誠実な顔を見ただけで、自分のいおうと思っていることは、なんにもならぬということを、早くも見てとりはしたものの、やはり彼女自身に、自分の疑いをはらしてもらいたかった。「僕が来たのはね、まだ時はすぎていないってことを、いうためなんです。こんなことは、すっかりご破算にして、あやまちを直すこともできますからね」
「なんですって? あたし、なんにもわからないわ。あんたいったいどうしたの?」
「ほかでもない、僕が百度も千度もいったことです。考えずにいられないことです……つまり、僕が君を妻にする資格がないってことです。君は僕との結婚を承諾するはずがなかったんですよ。もういちど考えてごらんなさい。君は思い違いをしたんです。よっく考えてごらんなさい。君が僕を愛するなんてはずがない……もし……なんだったら……いっそ正直にいって下さい」と彼は女の方を見ないでいった。「それでは、僕は不幸になるでしょう。人はなんとでもかってにいうがいい、どうなったって、そんな不幸な目にあうよりはましです……まだ手遅れにならない今のうちにしたほうがいい……」
「あたしわかんないわ」とキチイはおびえたように答えた。「つまり、あんたは破談にしようとおっしゃるの……結婚しないほうがいいって?」
「そう、もし君が僕を愛していないなら」
「あんたは気でも狂ったの!」と彼女はいまいましさに、顔を真赤にして叫んだ。けれど、男の顔があまりにもみじめだったので、彼女は自分のいまいましさを抑え、肘椅子にかかっていた着物を投げすてて、男のそば近く腰をおろした。「あんた何を考えてるの? すっかりいってちょうだい」
「僕はね、君が僕を愛するはずがないと、そう思っているのです。なんのために僕を愛することができるだろう?」
「ああ、あたしなんといったら……」というなり、キチイは泣きだした。
「あっ、僕はなんてことをしたのだろう!」と彼は叫んで、女の前にどうと膝をつくと、その手に接吻しはじめた。
 五分ほどして、公爵夫人が部屋へ入ってきたとき、二人はもう仲なおりしていた。キチイは、自分が彼を愛していることを、納得さしたばかりでなく、なんのために愛するかというわけをも、説明したのである。あたしがあなたを愛するのは、あなたという人をすっかり理解しているからです、あなたが当然、何を愛するかってことを、知っているからです、そして、あなたの愛するものは、なにもかもいいからです、と彼女はいった。彼は、それがこの上なく明瞭なことに思われた。公爵夫人が入ってきたとき、二人はトランクの上に並んで坐ったまま、着物の選り分けをしていたが、レーヴィンが結婚の申しこみをしたときに着ていた茶色の着物を、キチイがドゥニャーシャにやろうというのにたいして、レーヴィンはこの着物はだれにもやってはいけない、ドゥニャーシャには空色のをやればいいといって、口論している最中であった。
「あんたはわからないのね! あの子はブリュネットだから、そんなものは似合やしなくってよ……あたしちゃんとつもりがしてあるんですもの」
 彼がやってきたわけを知ると、公爵夫人は半分冗談、半分まじめに腹をたてて、早く帰って着替えをなさい、そしてキチイが髪を結うじゃまをしないで下さい、もうすぐにシャルルがくるんだから、といった。
「この子はそれでなくとも、この二三日なんにも食べないで、器量が悪くなったのに、あんたはそんなばかなことをいって、この子の気持を悪くするなんて」と彼女はいった。「とっとと帰ってちょうだい、とっとと帰って、いい子だから」
 レーヴィンは恥じしめられ、恐縮しながら、それでも安心してホテルへ帰った。兄も、ドリイも、オブロンスキイも、盛装して彼を待ち受け、もう聖像で祝福するばかりにしていた。もうぐずぐずしている暇はなかった。ドリイはもういちど家へ帰って、花嫁を聖像といっしょに乗せて行く役目をあてられて、ポマードをうんとつけた頭をカールさせた長男を、連れてこなければならなかった。それから、介添人を迎えに、馬車を一台やらなければならないし、コズヌイシェフを送って行くもう一台の馬車も、またここへ帰ってこさせなければならなかった……要するに、恐ろしくこみいった手配が、いろいろたくさんあったのである。ただ一つまちがいないのは、もう六時半になるから、ぐずぐずしていられない、ということであった。
 聖像で祝福するという儀式は、いっこう儀式にならなかった。オブロンスキイはこっけいなものものしいポーズで妻と並び、聖像を手に持って、レーヴィンに床に額をつけてお辞儀をするように命じた後、人のいいばかにしたような微笑を浮べて、三度かれを接吻した。ドリイもそれと同じことをして、すぐ急いで出かけたが、またもや馬車のやりくりで、こんぐらかってしまった。
「じゃ、こうしよう。おまえはうちの馬車に乗って、あの子を迎いに行きなさい。セルゲイ・イヴァーノヴィッチは、ご面倒でも家へよってもらって、それから廻したらいいじゃないか」
「なに、私はそれでけっこうですよ」
「じゃ、私はごいっしょに行くことにする。荷物はもう出したね?」とオブロンスキイはいった。
「出した」とレーヴィンは答え、クジマーに着替えを命じた。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

 群衆、ことに女たちが、結婚式のために煌々《こうこう》と照らされた教会を、とりまいていた。中へもぐりこむことのできなかった連中は、窓のあたりに群がって、ぶつかりあったり、口論したり、格子の間からのぞきこんだりしていた。
 もう二十台以上の馬車が、憲兵に整理されて、往来に沿ってならんでいた。警部は厳寒をも物ともせず、制服を輝かしながら、入口に立っていた。なおあとからあとからと、たえまなく馬車が乗りつけた。時には、花を飾り裳《もすそ》をかかげた貴婦人、時には、男が縁《ふち》なし帽や黒いソフトをぬぎながら、教会の中へ入ってきた。会堂の中では、二つの吊燭台も、季節季節に関する聖像の前の蝋燭も、もう赤々とともされていた。聖壁の真赤な地色の上に輝く金泥、金箔をほどこした聖像の木彫、栄福燈や燭台の銀、床の板石、ところどころの毛氈《もうせん》、唱歌席の上に下げた幡《はた》、説教壇の階《きざはし》、黒ずんだ古い書物、袈裟《けさ》、法衣《ころも》、すべてのものがいっぱいに光を浴びている。暖炉で温められた会堂の右側には、燕尾服、白ネクタイ、制服、花|緞子《どんす》、ビロード、繻子《しゅす》、髪、花、あらわな肩、胸、長い手袋などの群れている中で、控えめなしかし活気のある会話がつづいて、それが高い円天井に怪しくこだまするのであった。扉がぎいと開くたびに、群衆の話は静まって、新郎新婦の入ってくる姿を見んものと待ちかまえて、いっせいにその方をふりむいた。が、扉はもう十度も開いたにもかかわらず、いつもそれは――右手の招待席に加わる遅参した男客か女客か、でなければ、警部をだますか手なずけるかして、左手の一般席に加わる見物の女であった。身内のものも見物人も、期待のありとあらゆる段階を越してしまったのである。
 はじめのあいだは、新郎新婦が今にもくることと思って、この遅延をなんとも思わずにいた。それから、だんだんとひんぱんに戸口の方をふり返って、何か起ったのではないかといいあった。やがて、この遅延がばつが悪くなってきて、親戚も客も、花婿のことは考えないで、話に気をとられているようなふうをしようとつとめだした。
 補祭頭は、自分の時間の貴重なことを思い知らせるかのごとく、じれったそうに、窓のガラスが震えるほど、大きな咳ばらいをした。唱歌席では、待ちあぐねた歌手たちが、声ならしをしてみたり、洟《はな》をかんだりするのがきこえた。司祭は、花婿はまだこないかと、伴僧や補祭をかわるがわる出して、自分も紫色の袈裟に繍《ぬ》いの帯をしめた姿で、いよいよひんぱんに脇の戸口へ出ていっては、花婿の到着を待ちかねていた。とうとう一人の貴婦人が時計を見て、「それにしても妙ですね!」といった。すると、客はみんな不安を感じて、声高に驚きや不満を表白しはじめた。介添人の一人が、何ごとが起ったのか様子を見に出かけた。
 そのときキチイは、もうとっくにしたくをすまして、白い式服に長いヴェールをたらし、金柑の花を飾った冠をかぶって、仮親になった姉のリヴォーヴァ夫人といっしょに、シチェルバーツキイ家の広間に立って、花婿が教会へ着いたという知らせが、自分の介添人からくるのを、もう三十分以上もむなしく待ちながら、窓の外をながめていた。
 その間にレーヴィンは、ズボンをはいているが、チョッキも上衣もなしで、自分の部屋をあちこち歩きまわっては、のべつ戸の外をのぞいて、廊下を見まわしていた。しかし廊下には、自分の待ち受けている人の姿が見えないので、絶望したような顔つきでひっ返しては、悠然と煙草をふかしているオブロンスキイに、両手をふりまわして、食ってかかるのであった。
「こんな恐ろしい立場におかれた人間が、いったいどこにあるだろうか!」と彼はいった。
「そう、ばかげているね」とオブロンスキイは、とりなすように微笑しながら、相槌を打った。「だが、おちつきなさい、今に持ってくるから」
「いや、どうして、君」とレーヴィンは、狂憤をおさえながら、いうのであった。「それに、このばかばかしく胸のあいたチョッキ! がまんができない!」自分のワイシャツの皺になった胸を見ながら、彼はこういった。「それにしても、もし荷物が停車場へ行ってしまったら、どうしよう!」と彼は絶望して叫んだ。
「そのときは僕のを着るさ」
「そんなら、とっくにそうすりゃよかったんだ」
「こっけいに見えちゃよくない……まあ、待ちたまえ、まるくおさまるから[#「まるくおさまるから」に傍点]」
 それは、こういう次第である。レーヴィンが着替えを命じたとき、老僕のクジマーが燕尾服、チョッキ、その他、必要なものいっさいを持ってきた。
「シャツは!」とレーヴィンは声をつつ抜けさせた。
「シャツはお召しになっていらっしゃいます」平然としてほほえみながら、クジマーは答えた。新しいシャツを残しておくということを、クジマーは考えなかった。なにもかも荷造りして、シチェルバーツキイ家へ運べという命令を受けて、彼は燕尾服ひと揃いだけ残して、すっかり持って行ってしまったのである。新郎新婦は今晩すぐ、シチェルバーツキイ家から発つことになっていた。朝から着ているワイシャツは、もみくたになっていて、胸あきの大きな最新流行のチョッキでは、どうにもならなかった。シチェルバーツキイ家へ使をやろうにも、あまり遠すぎた。で、ワイシャツを買いにやったが、まもなくボーイが帰ってきて、日曜だからどこもかしこも閉っている、とのことであった。オブロンスキイの家へ人をやったところ、持ってきたシャツが、お話にならぬほど幅が広くて、丈が短かった。とうとうシチェルバーツキイ家へ使をやって、荷物を解かせることにした。みんなが教会で花婿を待っているのに、当人は檻《おり》に閉じこめられた獣のように、部屋の中をあちこち歩きまわっては、廊下をのぞきのぞき、今日キチイに会ったことを思い出して、今ごろキチイはどんなことを考えているかしれない、と想像しながら、恐怖と絶望に襲われていた。
 やっとクジマーが申しわけなさそうな顔をして、息も絶えだえに、ワイシャツを持って部屋へ飛びこんだ。
「危いところでまにあいました。もう車力に積んでいるところでございました」とクジマーはいった。
 三分ほどして、レーヴィンは傷口を暴《あば》きたくなさに時計も見ず、いちもくさんに廊下を駆け出した。
「もうそんなことをしたって、いくらの違いもありゃしないよ」悠々と彼のあとからついて行きながら、オブロンスキイは微笑を含んでいった。「まるくおさまるよ[#「まるくおさまるよ」に傍点]、まるくおさまる[#「まるくおさまる」に傍点]ってば……」

[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]

「やっと着いた! あれが花婿さんだ!」「どれが?」「ちょっと若いほうかしら?」「ところで、花嫁さんは、まあ、生きた心地もなさそうだわ!」レーヴィンが車寄せで新婦を迎え、相たずさえて基内へ入ったとき、群衆ががやがやしゃべりだした。
 オブロンスキイは、遅れたわけを妻に話した。客は微笑しながら、おたがい同士ささやきあっていた。レーヴィンは何一つ、だれひとり目に入らなかった。彼は目もはなさずに、新婦を見つめていたのである。
 人々は異口同音に、彼女がこの二三日のあいだにひどく器量が落ちて、かんじんの式のとき、ふだんよりずっと見劣りがするといった。が、レーヴィンはそうは思わなかった。長いヴェールをかぶって、白い花で飾られた高い髷《まげ》や、かくべつ処女らしい羞恥の風情で長い頸の両脇を隠し、前の方を開いて見せている襞《ひだ》の多い高い立襟や、驚くばかり細い腰を見て、彼はキチイがいつもより美しいような気がした。それは、こうした花や、ヴェールや、パリからとり寄せた衣服が、彼女の美に何ものかを加えたからでなく、こうした衣装の人工的なはなばなしさにもかかわらず、その愛らしい顔や、まなざしや、唇の表情が、いぜんとして、彼女独特の無垢《むく》な誠実さの表現だったからである。
「あたし、もう逃げたくおなりになったのかと思ったわ」と彼女はいい、にっこり笑って見せた。
「じつにばかばかしいことができちゃって、話すのも気がひけるほどさ!」と彼は赤い顔をしながらいったが、このときそばへよったコズヌイシェフの方へ向かなければならなかった。
「お前のワイシャツ一件は傑作だねえ!」とコズヌイシェフは、頭をふりふり、微笑しながらいった。
「ええ、ええ」何をいわれているのやらわからずに、レーヴィンはそう答えた。
「さあ、コスチャ、今こそ決断しなくちゃならないぜ」とオブロンスキイが、わざとおびえたような顔をしていった。「重大な問題なんだ。今こそ君は、その重大性を完全に評価しうる状態にあるんだからね。蝋燭は使いさしのにするか、それとも新しいのにするか、とこうきかれたんだがね。値段の違いは十ルーブリ」唇を微笑の形にしながら、彼はこうつけ足した。「僕は決を下したんだが、君が異存を申し立てやしないかと思って、心配なのさ」
 レーヴィンは冗談だということを悟ったが、笑うことができなかった。
「さあ、そこで、どうなんだ、新しいのにするか、使いさしのにするか? そこが問題なんだよ」
「そう、そう! 新しいのだ」
「いや、それで僕も大いにうれしい! 問題は解決した!」とオブロンスキイは、にこにこしながらいった。「それにしても、人間はこういう場合ずいぶんばかになるもんだなあ」レーヴィンがとほうにくれたように義兄の顔を見て、新婦の方へ歩き出したとき、彼はチリコフにそういった。
「よくって、キチイ、あなたが先にカーペットに膝をつくのよ」とノルドストン伯爵夫人が、そばへよりながらいった。「あなたもけっこうですこと!」彼女はレーヴィンにいった。
「どう、恐ろしくない?」年とった伯母のマリヤ・ドミートリエヴナが、そうきいた。
「あなた寒くないの? 顔が蒼いわよ。ちょっとかがんでごらん!」姉のリヴォーヴァ夫人がキチイにそういって、肉づきのいいみごとな両腕を丸くしながら、微笑を浮べて、妹の頭の花をなおしてやった。
 ドリイがそばへよって、何かいおうとしたが、言葉が出ず、泣きだしたかと思うと、不自然な声で笑った。
 キチイはレーヴィンと同じく、心ここにないような目で一同をながめていた。自分に話しかけられるすべての言葉にたいして、ただ幸福の微笑で答えることができるだけであった。それが今の彼女には、きわめて自然なのであった。
 とかくするうちに、番僧たちは法衣をまとい、司祭は補祭とともに、戸のそばにある聖書台のそばへ進み出た。司祭は何かいってレーヴィンの方へ向いた。レーヴィンは司祭のいったことが、よく聞き分けられなかった。
「花嫁の手をとって、前へお出なさい」と介添人がレーヴィンにいった。
 長いことレーヴィンは、自分が何を要求されているか、わからなかった。長いこと人々は、彼のすることをなおそうとし、もううっちゃっておこうと思った。というのは、彼がいつも違う手を出したり、違う手をとったりしたからである。――と、そのときやっと彼は悟った。右の手で、位置を変えずに、花嫁の右手をとらなければならなかったのである。ようやく彼が、花嫁の手をちゃんと本当にとったとき、司祭は数歩ふたりの前へ出て、聖書台のそばに立ちどまった。親戚や知人の群が、ざわざわ話したり、裳《もすそ》をさらさら鳴らしたりしながら、二人のあとから進み出た。だれかが、かがみこんで、花嫁の裳をなおした。会堂の中はしんと静まり返って、蝋のたれる音さえ聞えるほどであった。
 円い僧帽をかぶり、銀髪を二つに分けて、耳のうしろにはさんだ小柄な老司祭が、背中に金の十字架のある重い銀の袈裟の下から、小さな年寄りじみた両手を出して、聖書台のそばで、何かをまさぐっていた。
 オブロンスキイは用心ぶかく、そのそばへ行って、なにやらささやくと、レーヴィンに目くばせし、またうしろへひっこんだ。
 司祭は、花模様のある蝋燭を二本ともして、蝋がゆっくりたれるように左手で横に持ち、新郎新婦に顔をむけた。司祭は、レーヴィンの懺悔僧をしたのと同じ人であった。司祭は疲れたような、もの憂い目つきで花婿花嫁を眺め、ほっとため息をついて、袈裟の下から右手を出し、その手で花婿を祝福すると、同じようではあるが、慎重な優しみのニュアンスをつけながら、三つ合わせた指を、キチイのうなだれた頭にのせた。それから、二人に蝋燭を渡して、振香炉《ふりこうろ》をとると、ゆっくりそばを離れた。
『いったいこれは本当なのだろうか?』とレーヴィンは考えて、花嫁をふりかえった。少し上の方からその横顔が見えたが、わずかにそれと知られる唇と、睫毛《まつげ》の動きによって、彼女が男の視線を感じたことがわかった。彼女は、ふりむきはしなかったけれども、高い襞襟《ひだえり》が動いて、小さなバラ色の耳の方へあがった。ため息はその胸の中で止まって、長い手袋をはめた、蝋燭を持っている小さな手がふるえたのが、彼の目に入った。
 ワイシャツの騒ぎも、遅刻も、知人や親戚との会話も、彼らの不満も、自分のこっけいな立場も、なにもかもいちどきに消え失せて、彼はうれしくもあれば、恐ろしくもなってきた。
 銀色の法衣を着て、長い捲き毛を左右に立てている、美しい大柄な補祭頭が、元気よく前へすすみ出て、慣れた手つきで、二本指で聖帯をひき上げ、司祭の前に立ちどまった。
『主よ、祝福したまえ!』ゆっくりと、あとからあとから荘重な音が、空気の波をふるわせながら響きはじめた。
『われらが神よ、常に祝福したまえ、今も、とわに、とことわに』と老司祭は、聖書台の上で何かをまさぐりつづけながら、つつましく、歌うような調子で答えた。すると、目に見えぬ唱歌隊の完全な和音が、会堂を窓から円天井までみたしながら、広々と調子よく起って、一瞬やんだかと思うと、静かに消えた。
 いつもの如く、天より下したまうやわらぎと救い、宗務省、皇帝のために祈った。また、今日むすびあわされる神のしもベコンスタンチンと、エカチェリーナのうえを祈った。
『おお、神よ、彼らにより全く、より平和なる望みと、助けを授けたまえと祈り申す』という補祭頭の声で、全会堂は呼吸するかのようであった。
 レーヴィンはそれらの言葉を聞いていたが、思わずはっとした。
『どうしてあの人たちは、助けということを悟ったんだろう、まったく助けが必要だ!』先ほどの恐怖と疑惑を思い起しながら、彼はそう考えた。『おれはいったい何を知ってるんだ? こんな恐ろしいことを決行しながら、いったいおれに何ができるというのだ?』と彼は考えるのであった。『助けもなしに? まったく、今のおれには助けが必要なんだ』
 補祭が唱応歌を終ったとき、司祭は本を手に持って、新郎新婦にむかった。
『離れしものを一つに結びたまう、とわなる神よ!』と彼はつつましい、歌うような声で唱えた。『破るべからざる聖なる愛の結合を彼らに授け、イサクとレベッカに世継ぎを与えて、汝の聖約を示したまいし神よ。汝みずから、汝のしもベコンスタンチンとエカチェリーナを祝福し、すべてのよき行いに導きたまえ。恵み深く、衆生を愛し給うおん神なれば、汝に栄えを送らん、父と子と精霊に、今に、とわに、とことわに』
『アーメン』目に見えぬコーラスが、空中に流れひろがった。
『離れしものを一つに結びたまう、愛の結合を授けたまう――これはなんという意味深い言葉だろう、このあいだ感じていることに、なんとよく適当していることだろう!』とレーヴィンは考えた。『いったいあれもおれと同じことを感じてるのかしら?』
 と、ふり返ったひょうしに、視線がぱったり出会った。
 そのまなざしで、彼女も自分と同じことを感じていると結論した。が、それはまちがっていた。キチイは勤行《ごんぎょう》の言葉を、ほとんど理解しなかったばかりか、式の間じゅう、まるで聞いていなかったのである。そんなものを彼女は聞いたり、理解することができなかった。彼女の心をみたして、いやが上にもましていく一つの感情が、あまりにも強かったのである。それは、もはや一月半も前から彼女の心に成就して、この六週間というもの彼女を喜ばし、かつ苦しめていたことが、完全に成就した喜びの情であった。彼女が茶色の着物をきて、アルバートの家で無言のまま彼に近より、彼に身をまかせたあの日に、彼女の心の中で、あの日あの時、いっさいの過去の生活との絶縁が成就し、全く別な、新しい、彼女にとってぜんぜん未知な生活がはじまったが、現実においては、古い生活がつづいていた。この六週間は、彼女にとって最も幸福な、と同時に、最も苦しい時であった。全生活も、あらゆる希望も、期待も、自分にとってまだよくわからぬ、あの一人の男性に集中された。この男性とは、当人以上に不可解な感情――ときどき接近させ、ときどき反※[#「てへん+発」、ページ数-行数]させる感情によって結ばれていながら、それと同時に、彼女は前と同じ生活条件で暮しつづけていた。古い生活をつづけながら、彼女は自分自身と、過去のいっさい――品物、習慣、自分を愛してくれた人々、また現に愛してくれている人々にたいする、なんともしようのない完全な無関心にぞっとした。この無関心を悲しんでいる母親にたいしても、かつてはこの世の何よりも愛していた優しく懐かしい父にたいしても、その無関心は同じことであった。時にはこの無関心にぞっとしたり、時にはまた、自分をこう無関心にさせたものを喜んだりした。この男性との生活をほかにしては、何一つ考えることも望むこともできなかった。しかし、この新しい生活はまだこないで、それをはっきり想像することさえできなかった。あるのはただ、新しい未知のものに対する期待と――恐怖と、喜びだけであった。ところが、今こそ、今こそ期待も、未知も、以前の生活を斥けた悔悟も――なにもかも終りを告げて、新しいものがはじまるのだ。この新しいものは、未知であるがゆえに、恐ろしくないはずがなかった。しかし、恐ろしいにせよ、恐ろしくないにせよ――それはもう六週間前に、心の中で成就され、今は心の中でとっくに成就されたものが、聖化されているのみである。
 司祭はまた聖書台の方へ向いて、キチイの小さな指輪を、やっとのことでとり上げ、レーヴィンに手を出させて、その指のいちばん上の関節にはめた。『神のしもベコンスタンチンは、神のしもベエカチェリーナにめあう』それから、あまりの弱々しさに哀れをもよおすような、キチイのバラ色をした小さな指に、大きな指輪をはめて、司祭は同じことをいった。
 新郎新婦はいくども、どうしたらいいのか察しかねて、そのつど、まちがってばかりいるので、司祭は小声で、それを訂正してやった。ついに必要なことをなし終えると、彼は二人に指輪で十字を切って、またキチイに大きな指輪を渡し、レーヴィンに小さいほうを渡した。二人はまたもやまちがって、二度も指輪を手から手へ渡したが、それでも、要求されるのとは違ったふうになった。
 ドリイとチリコフとオブロンスキイは、それをなおそうとして前へ出た。あたりがざわつき、ささやきが起り、人々の顔に微笑が浮んだが、新郎新婦の荘重な感激の表情は、依然として変りがなかった。それどころか、手のやりかたをこんぐらかせながらも、二人の顔つきは前よりさらにまじめに、ものものしくなった。オブロンスキイは、めいめい自分の指輪をはめるように、微笑を浮べながらささやいたが、その微笑はひとりでに唇の上に凍りついた。さすがの彼も、この場合いかなる微笑も二人を侮辱するにちがいない、と感じたのである。
『なんじははじめより男と女の性を創りたまい』指輪の交換がすむと、司祭はこんなふうに誦《ず》しはじめた。『なんじのみ手によりて、妻は族《うから》を助け受くるため、良人に結び合わさるるなり。良人に結び合わさるるなる。われらの主なる神よ、なんじのみ業《わざ》の継承となんじの聖約のために、選ばれてなんじのしもべとなりしわれらの父祖に真実を授けたまいし神よ、なんじのしもベコンスタンチンとエカチェリーナを守りて、彼らの婚姻を信仰と、一致と、真理と、愛の中に固めたまえ……』
 レーヴィンは、いよいよ強く感じざるを得なかった。結婚に関して自分のいだいていたすべての空想、いかにして自分の生活を建設しようかという空想は、ことごとく児戯《じぎ》にすぎない。結婚というものは、自分が今まで理解していなかった何ものかである。それはいま現在、自分の身の上に成就されんとしているにもかかわらず、今はなおさら、はっきりと理解できないでいる。彼の胸には、いよいよはげしい戦慄がこみ上げてきて、聞き分けのない涙が、目に溢れるのであった。

[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]

 教会には、モスクワじゅうの親戚、知人が集っていた。結婚式のあいだ、ともし火の照り輝く会堂の中では、盛装の夫人、令嬢、燕尾服に白ネクタイや制服姿の男たちのあいだでは、作法を乱さぬ程度の静かな会話がつづいていた。それは主として、男子たちが口きりをするので、女のほうは常に彼らの心を強く動かす神聖な儀式の、一部始終を観察するのに、すっかり気をとられているのであった。
 花嫁にいちばんちかいサークルの中には、二人の姉がいた。それは上のほうのドリイと、外国から帰ってきた、おちつきのある美人リヴォーヴァ夫人である。
「いったいまあ、なんだってマリイは、ご婚礼だというのに、あんな黒みたいな紫色の服なんか着てるんでしょう?」とコルスンスカヤはいった。
「あのひとの顔色では、あれがたった一つの救いですもの……」とドルベッカーヤが答えた。「でも、ふしぎですわねえ、どうして晩に結婚式なんか挙げるんでしょうねえ。これは商人ふうのやりかたですわ……」
「だって、きれいに見えますもの。わたしもやっぱり晩に式をしましたわ」とコルスンスカヤは答えて、ため息をついた。その晩の自分がどんなにあでやかであったか、良人の自分に首ったけになった様子が、どんなにこっけいだったかを回想し、今はなにもかもすっかり変ってしまった、とそう思ったからである。
「なんでも、十度以上介添人をすると、結婚できないっていう話ですね。私は自分を結婚から保証するために、十度目を勤めたいと思ったんですが、先口を取られてしまいましたよ」とシニャーヴィン伯爵は、自分に気のある美しいチャールスカヤ公爵令嬢にそういった。
 チャールスカヤは、ただ微笑だけで答えた。彼女はキチイをながめながら、いつ、どんなふうにしてシニャーヴィン伯爵と並んで、キチイの位置に立つだろう、そのときはどんなぐあいに今の冗談を思い知らせてやろうか、などと考えていた。
 シチェルバーツキイ公爵は、老女官のニコラーエヴァに、自分はキチイが幸福になるように、あの子の付け髷の上に冠をのせてやるつもりだ、などといっていた。
「付け髷なんかすることはなかったのですよ」自分の好きな年とった寡夫《かふ》が、もし自分と結婚したら、式はごく簡素なものにしようと、前から決めこんでいたニコラーエヴァは、こう答えた。「わたし、そんな大げさなことが嫌いでしてね」
 コズヌイシェフは、ダーリヤ・ドミートリエヴナをつかまえて、結婚式のあとで旅行に出る風習がひろまったのは、新郎新婦はいつも多少きまりが悪いからだと、冗談まじりに大まじめでいった。
「弟さんは、おいばりになってもよろしゅうございますわ。すばらしくきれいな花嫁さんですもの。あなたきっとお羨《うら》やましいでしょう?」
「私はもうそんな気持なんか、卒業してしまいましたよ」と彼は答えたが、その顔は思いがけなく沈んだ、きまじめな表情になった。
 オブロンスキイは妻の妹に、例のラズヴォードの地口《じぐち》を話して聞かせた。
「冠をなおさなくちゃなりませんわ」とこちらは聞きもしないで、こう答えた。
「あのひと、すっかり器量が落ちてしまって、本当に残念ですこと」とノルドストン伯爵夫人は、リヴォーヴァ夫人にいった。「それにしても、レーヴィンさんは、あのひとの小指だけの値うちもないわ。そうじゃなくって?」
「いいえ、あたしあの人が大好きですわ。何も、あの人が未来の義弟《ボー・フレール》だからじゃありませんの」とリヴォーヴァ夫人は答えた。「それに、あの態度のりっぱなことはどうでしょう! ああいう場合、りっぱな態度をとるってことは、こっけいに見えないってことは、とてもむずかしいものよ。ところが、あの人はこっけいじゃないわ、固くならないで、いかにも感動している様子なんですもの」
「あなた、これを待ってらしたご様子ね?」
「ええ、ほとんど。あの子はいつも、あの人を好いておりましたもの」
「さあ、これから、どちらが先に敷物の上に足を入れるか、見てみましょうよ。わたし、キチイに入れ智恵しておいたんですの」
「おなじことですわ」とリヴォーヴァ夫人はこたえた。「わたしたちはみんな従順な妻ですもの。これはわたしたちシチェルバーツキイ家の筋なんですもの」
「わたし、わざとヴァシーリイより先に足を入れましたわ。あなたは、ドリイ?」
 ドリイは二人のそばに立って、その話を聞いていたが、返事をしなかった。彼女はすっかり感動していたのである。涙が目にあふれて、ちょっとひと言いっても、わっと泣き出しそうであった。彼女はキチイとレーヴィンのために喜んでいた。心中ひそかに、自分の結婚式のころに立ち帰りながら、笑み輝いているオブロンスキイをちょっと見やって、現在のすべてを忘れてしまい、無垢な初恋の時代ばかりを追想していた。彼女は自分一人ばかりでなく、身辺の親しい婦人たちすべてを思い起した。かれらがキチイと同じように、過去と絶縁して、神秘な未来へ踏み入ろうとし、愛と、希望と、恐怖をいだきながら冠の下へ立った、あの生涯にただ一度しかない荘重な瞬間における彼女らのことを考えたのである。こうして、心に浮んできた多くの花嫁たちの中で、彼女はふと、かの愛すべきアンナのことを思い浮べ、つい近ごろ、聞いたばかりの離縁話の詳細を思い出した。彼女も同じように金柑の飾り、ヴェールをかぶって、清浄無垢な姿をして立っていたではないか。ところが、今はどうだろう?『本当にふしぎなものだ!』と彼女は思わず口に出していった。
 この神聖な式の詳細を注視していたのは、姉たちや、親友や、親戚ばかりではなかった。縁もゆかりもない見物の女たちも、胸をわくわくさせ、息を殺しながら、新郎新婦の一挙一動、顔の表情の一つ一つも見のがすまいと、一心不乱に目を凝《こ》らして、冗談をいったり、よそごとをいったりする無関心な男たちにたいしては、いまいましそうな様子で、返事をしなかったり、ときには耳もかさないのであった。
「どうしてあんなに目を泣きはらしてるんでしょう? いやいやお嫁にいくのかしら?」
「あんなりっぱな男のとこへ、いやいやいくなんてことがあるもんですか? あれは公爵か何かですか?」
「ところで、白い繻子《しゅす》の衣裳を着ているのは、姉さんでしょうか? まあ、あの補祭がどなるのを聞いてごらんなさい『なん[#「さい『なん』ですって」はママ]じの良人を恐れよ』ですって」
「チェードフ寺院の連中でしょうか?」
「いえ、宗務省づきですわ」
「わたし、従僕にきいたんですけど、すぐ自分の領地へつれて帰るんですって。ものすごいお金持なんですとさ。だから、お嫁にやったのよ」
「いいえ、似合いのご夫婦だわ」
「ねえ、マリヤ・ヴァシーリエヴナ、あなたは硬布製下袴《クリノリン》は離して着るものだ、などと議論してらしたけど、ごらんなさい、あの鳶色《とびいろ》の着物を着てるかた、公使の奥さんだそうですけど、あんなにくっついてるじゃありませんか……だから、またあんなふうになったんですわ」
「まあ、なんてかわいい花嫁さんでしょう、まるで花で飾った小羊みたい! なんとおっしゃったって、わたしは自分の仲間だけに女のほうが気の毒ですわ」
 教会の戸口をすべりこんだ見物の女たちの間では、こんな会話がかわされていた。

[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]

 結婚の儀式が終り、番僧は会堂のまんなかにあたる聖書台の前に、バラ色の小さい絹のきれを敷いたとき、コーラスは技巧をこらした複雑な賛美歌をうたいはじめた。それは、バスとテノールが、互に交錯する仕組みになっていた。司祭は新郎新婦に向って、いま敷かれたバラ色の織物を指さした。先にこの敷物に足を入れたものが、家庭の中で牛耳を取るという話は、二人ともいくど聞いたかしれないのに、レーヴィンもキチイもこの敷物に進みながら、そのことを思い出さなかった。あるものの観察によれば、男のほうが先だったといい、またあるものにいわせれば、二人いっしょだったという声高な話し声も議論も、両人ながら耳に入らなかった。
 二人は結婚を望んでいるか、ほかに約束した人はないかという、きまりきった質問があり、両人が自分ながら奇妙に思われるような答えをした後、新しい勤行がはじまった。キチイは祈祷の意味を理解しようと思って、その言葉に耳を傾けたが、やっぱりわけがわからなかった。勝ち誇ったような感じと、明るく澄んだ喜びは、式が進むにしたがって、いやがうえにも彼女の心を昂揚させ、ほかのことに注意する可能性を奪ったのである。
 祈祷の言葉はこうであった。『この両人を益するために、貞操と母胎の実行を授けたまえ、男女の子らを見て、心たのしませたまえ』それから、こういう言葉もあった。神は女をアダムの肋《あばら》から創りたもうたものであるから、『かるが故に、人は父と母を見すてて女と合し、二人一体となるなり』であって、『これ大いなる神秘なり』といい、神は両人にイサクとレベッカのごとく、ヨシフ、モーゼ、セプホーラのごとく、多産と祝福を授けたもうものであるから、彼ら両人も子孫を見るように、と祈った。『それはみんなけっこうなことだわ』キチイはこういう文句を聞きながら、心の中に考えた。『それよりほかには、ありようがないわ』すると、喜びの微笑が、彼女の明るい顔に輝いて、それを見ている人々に、われ知らず感染していった。
「すっかりかぶらせておあげなさい!」司祭が二人に冠をかぶせたとき、こう注意する声々が聞えた。で、若いシチェルバーツキイは、三つボタンの手袋をはめたふるえる手で、キチイの頭上たかく冠を捧げた。
「かぶらせてちょうだい!」と彼女はほほえみながら、こうささやいた。
 レーヴィンは彼女の方をふり返ったが、その顔にあふれている喜びの輝きに、はっとなった。この感情は、しぜんと彼にもうつった。彼はキチイと同じ明るい愉《たの》しい気持になった。
 彼らは使徒の書《ふみ》を聞いたり、一般の見物が首を長くして待っていた、最後の詩編を誦《ず》する補祭の、雷霆《らいてい》のごとき声を聞いたりするのが、愉しかった。浅い皿で水を割った生ぬるい葡萄酒を飲むのも、愉しかった。司祭が袈裟をはねのけ、二人の両手を自分の手にとって、『イサク喜びたまえ』と言葉をひきながら、咆哮《ほうこう》するバスの響きの中で、聖書台のまわりを一周した時、二人はさらに愉しい気持になった。冠を新郎、新婦の頭上に捧げているシチェルバーツキイとチリコフは、花嫁の長い裳《もすそ》に足をからまれながら、やはりにこにこして、何か喜びながら、時には歩調を遅らしたり、司祭が足を止めるたびに、新郎新婦につまずいたりした。キチイの心内に燃えはじめた喜びの火は、堂内にいあわすすべての人に感染したらしかった。レーヴィンの目には、司祭や補祭までが、自分と同じように、微笑を洩らしたがっているように思われた。
 二人の頭から冠をとって、司祭は最後の祈祷を唱え、新郎、新婦に祝福を与えた。レーヴィンはキチイを見やったが、彼は今までかつて、彼女のこんな様子を見たことがなかった。彼女は、その顔にあふれている新しい喜びの輝きで、特別うつくしかったのである。レーヴィンは話しかけたかったけれども、式がすんだかどうかわからなかった。司祭が、二人をこの当惑から救い出した。彼はその善良らしい口でにっこり笑い、小さな声で「妻を接吻なされ、あなたは良人に接吻なされ」といって、二人の手から蝋燭をとった。
 レーヴィンはそっと用心ぶかく、微笑を浮べている彼女の唇に接吻し、手をさし出した。そして、ふしぎな近さを感じながら、教会を出ていった。彼は、これが本当だとは信じられなかった。どうしても信ずることができなかった。ただ二人の驚いたような、おずおずした目と目が出会ったとき、やっと信ずることができた。自分たちがすでに一体であることを感じたからである。
 晩餐会がすむと、新郎新婦はその晩すぐ、田舎へむけて出発した。

[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]

 ヴロンスキイとアンナはもう三ヵ月も、いっしょにヨーロッパを旅行していた。二人はヴェニス、ローマ、ナポリを巡遊して、とある小さなイタリーの町へ着いたばかりである。ここにしばらく足をとめようと思っていた。
 ポマードをしこたまつけた濃い髪を、頸筋の辺からきれいに分けて、燕尾服の胸から真白な精麻《バチスト》のシャツを大きくのぞかせ、円く突き出た腹の上に時計の小飾りをいっぱいぶら下げた好男子のボーイ頭は、両手をポケットにつっこんだまま、小馬鹿にしたように目を細めて、そこに立っている紳士に、きびしい調子でなにやら返事していた。車寄せの反対側から、階段を昇ってくる足音を聞きつけて、ボーイ頭はそのほうをふりかえった。このホテルでも上等の部屋を占領しているロシヤの伯爵を見ると、うやうやしく両手をポケットからぬき出し、ちょっと前こごみになって、「小使がやってきて、邸宅《パラッツォ》を借りる話はまとまった」と報告した。総支配人が、契約に署名してもいいというのである。
「ははあ! それはありがたい」とヴロンスキイはいった。「ところで、奥さまはいらっしゃるかどうだね?」
「ちょっと散歩にお出かけになりましたが、ただ今お帰りでございます」とボーイ頭は答えた。
 ヴロンスキイは縁《ふち》の広いソフトを頭から脱いで、汗ばんだ額からかけて、耳の半分どころまで垂らしている、禿を隠すためにバックにした髪を、ハンカチで拭いた。まだその辺に立って、自分の方をうかがっている紳士をちらと見て、彼はそのまま通りすぎようとした。
「あのかたはロシヤの人で、あなたさまのことをたずねておいでなので」とボーイ頭はいった。
 どこへ行っても、知人をのがれることはできない、といういまいましさと、なんでもいいから生活の単調をまぎらす方法を見つけたい、という希望の入りまじった気持で、ヴロンスキイは、いったん出て行こうとして立ちどまった紳士を、もう一度ふりかえった。と、瞬間、両方の目がさっと明るくなった。
「ゴレニーシチェフ!」
「ヴロンスキイ!」
 はたして、これはヴロンスキイの貴族幼年学校時代の友だち、ゴレニーシチェフであった。ゴレニーシチェフは、幼年学校では自由主義者の党に属し、学校を出るときには、文官の資格を取って、どこにも勤めなかった。二人の友だちは、卒業後すっかり別れ別れになり、爾来たったいちど会ったばかりだった。
 その再会のとき、ヴロンスキイの知ったところによると、ゴレニーシチェフはなにか高尚な、自由主義的活動の道を選んで、そのためにヴロンスキイの仕事と、その身分を軽蔑しようとしていた。そのためにヴロンスキイのほうでも、ゴレニーシチェフに会ったときは、冷やかに傲然たる反※[#「てへん+発」、ページ数-行数]をとることにした。彼は他人にたいして、そういう態度を示すことが巧みで、その意味は、『僕の生活ぶりが君の気に入ろうと、入るまいと、こっちにとっては、まるっきり同じことなんだ。だから、もし君のほうで僕とつきあいたければ、僕を尊敬しなくちゃならんのだ』ということになるのであった。ところで、ゴレニーシチェフのほうは、ヴロンスキイのこうした調子にたいして、軽蔑を含んだ無関心を示した。したがって、この再会はいっそうふたりをひき離したはずなのである。が、いま彼らはお互の顔を見分けると、喜びに顔を輝かせて、叫び声すら立てたほどである。ヴロンスキイは、これほどゴレニーシチェフとの邂逅《かいこう》がうれしかろうとは、われながら夢にも予期していなかった。しかし、おそらく彼は自分がどんなに退屈しているかを、自分で知らなかったのであろう。彼はこの前の再会の不快な印象を忘れて、開けっぱなしのうれしそうな顔をして、かつての友に手をさしのべた。ゴレニーシチェフの顔も、それと同じような喜びの色が、以前の不安げな表情にとってかわった。
「君に会えてじつにうれしい!」友情の微笑で、白いしっかりした歯並みを見せながら、ヴロンスキイはこういった。
「僕もヴロンスキイと聞いたものの、どのヴロンスキイかわからなかったんだよ。じつに、じつにうれしい!」
「さあ、入ろう。ときに、君は何をしてるんだい?」
「僕はもう足かけ二年、ここで暮してるんだよ。仕事をしているのさ」
「ははあ!」とヴロンスキイは興味ありげにいった。「とにかく入ろうよ」
 ロシヤ人の習慣にしたがって、下男に隠したいと思うことをロシヤ語で話すかわりに、フランス語でしゃべりだした。
「君はカレーニナと知己があるかい? 僕らは二人で旅行してるんだよ。これからあの人のところへ行くんだ」注意ぶかくゴレニーシチェフの顔に見入りながら、彼はフランス語でいった。
「へえ! そりゃ知らなかった(そのくせ、彼は知っていたのである)」とゴレニーシチェフは無関心に答えた。「君はだいぶまえに着いたのかい?」と彼はつけ足した。
「僕かい? 今日で四日目だよ」もう一度しげしげと友の顔を見入りながら、ヴロンスキイはこう答えた。
『うん、この男はちゃんとした人間だ、物事を正しく見ている』ゴレニーシチェフの顔の表情と、彼が話題を変えた意味を悟って、ヴロンスキイはひとりごちた[#「ひとりごちた」は底本では「ひとりごちだ」]。『これならアンナに紹介してもいい、本当の見方のできる男だから』
 ヴロンスキイは、外国でアンナとすごしたこの三ヵ月間、新しい人に出会うたびに、この新しい人物が、自分とアンナの関係をどんなふうに見るだろう、という問いをいつも心に発したが、たいていの場合、男のほうにこの本当の理解を見いだしたものである。しかし、この理解はそもそもどういうことであるかと、彼が人に問われたら、いや、この『本当に』理解している人々が、だれかにそれをきかれたら、彼もその人々も、はたと当惑したに相違ない。
 実際のところ、ヴロンスキイの意見によると、『本当に』理解している人々も、そんなことなどまるでわからないで、この人生を四方八方からとり囲んでいるいっさいの複雑な、理解することのできない問題に関して、しつけのいい人たちのとるどっちつかずの態度をとって、あてこすりや不快な質問を避けながら、作法を守るにすぎなかった。彼らはその状態の意義や、真意を完全に理解して、それを認めるのみか、賛成さえしているような顔をしながら、じつはただそれをはっきりさせるのをぶしつけな、よけいのことと思っているだけなのである。
 ヴロンスキイは、ゴレニーシチェフがそうした人間の一人であることを、すぐに悟ってしまったので、彼に会ったのが二重にうれしかった。はたしてゴレニーシチェフはカレーニナの部屋へ通された時、彼女に対して、ヴロンスキイの望みうる限りの態度をとった。明らかに、彼はいささかの努力も払わず、ばつの悪いことになりそうな話は、いっさい避けているらしかった。
 彼は以前アンナを知らなかったので、その美貌に一驚を喫したが、それにもまして、彼女が自分の位置を処理していくその単純さに感心した。ヴロンスキイが、ゴレニーシチェフを案内して入った時、彼女は顔を赤らめたが、その開けっぱなしの美しい顔を染めた子供らしい紅《くれない》は、なみなみならず彼の気に入った。が、なによりかくべつ気に入ったのは、彼女が他人の前で誤解のないように、わざと意識して、すぐさまヴロンスキイをアレクセイと呼び、そして今度借り入れた家、ここのいいかたに従えば邸宅《パラッツォ》へ、いっしょに引き移るつもりだ、といったことである。自分の位置にたいするこうした率直な、さっぱりした態度が、ゴレニーシチェフの気に入ったのである。アンナの善良で快決な、しかもエネルギッシュな挙動《ものごし》を見ていると、カレーニンとヴロンスキイを知っているゴレニーシチェフには、すっかりこの女を理解してしまったような気がした。彼は、アンナにどうしてもわからないことが、わかったような気がした。ほかでもない、良人を不幸にし、良人を棄てわが子を棄て、名声を失ってしまった彼女が、どうしてエネルギッシュで快活な、幸福な気持でいられるか、という問題である。
「それは案内記にもあるよ」とゴレニーシチェフは、ヴロンスキイの借りようとしている邸宅のことを、そういった。「そこにはすばらしいチントレットがあるんだよ。晩年の作品でね」
「ねえ、お天気もいいことだから、もう一度あすこへ行ってみようじゃありませんか」とヴロンスキイはアンナに話しかけた。
「まあ、うれしい、わたしすぐいって、帽子をかぶってきますから。外は、お暑いんですって?」戸口に立ちどまって、質問の目つきでヴロンスキイを見ながら、彼女はこういった。と、またもや濃い紅がその顔にさっと散った。
 ヴロンスキイはその目つきで悟った。彼女は、ヴロンスキイがゴレニーシチェフと、どういう関係を定めようとしているかわからないで、自分の態度が男の望みに違いはせぬかと、心配しているのであった。
 彼は優しい目つきで、じっと彼女を眺めた。
「いや、それほどじゃありません」と彼はいった。で彼女も、自分がなにもかも悟ったような気がし、男も自分に満足しているように思われた。彼女はにっこり笑って、すばやい足どりで戸の外へ出た。
 二人の友は、互に顔を見合わせたが、その顔には困惑の色が現われた。それはちょうど、ゴレニーシチェフは明らかにアンナに見とれていたので、何か彼女のことをいおうと思ったが、なんといっていいのか考えつけないふうだし、ヴロンスキイのほうではそれを恐れもし、かつ望んでもいるという様子であった。
「すると、なんだね」とヴロンスキイは何か話をはじめるために、こう口を切った。「じゃ、君はここにおちついてるわけなんだね? で、相変らずここで例の仕事をしてるのかい?」ゴレニーシチェフが何か書いているという話を思い出して、彼は言葉をつづけた。
「ああ、僕は『二つの起源』の第二部を書いてるんだよ」この質問を聞いて、うれしそうにさっと顔を赤くしながら、ゴレニーシチェフは答えた。「いや、正確にいえば、まだ書いているのじゃなくて、準備しているところだ。材料を集めているんだ。それは前のよりずっと浩瀚《こうかん》なもので、ほとんどあらゆる問題を包含するんだよ。わがロシヤでは、われわれがビザンチンの後継者だってことを、理解しようとしないんだからね」と彼はとうとうと熱心に説明をはじめた。
 はじめのうちはヴロンスキイも、著者か何か周知のもののようにいいだした『二つの起源』の、第一部さえ知らずにいたので、ちょっとばつが悪かった。しかし、そのあとでゴレニーシチェフが、自分の思想を述べにかかって、ヴロンスキイもそのあとを追うことができるようになった時、彼は『二つの起源』を知らないままに、ある興味をいだきながら、耳を傾けることができるようになった。ゴレニーシチェフの話が上手だったからである。しかし、ゴレニーシチェフが自分の研究題目を話すときの、いらいらと興奮した態度が、ヴロンスキイを驚かせもすれば、がっかりもさせた。話が先へ進むにしたがって、彼はますます目を燃え立たせ、ますますせきこんで、仮想の敵に論駁し、その顔の表情はますます不安げに、腹だたしくなってきた。幼年学校では、いつも首席の生徒であり、やせて、生きいきした、善良で、潔白な少年であったゴレニーシチェフを思い出すと、ヴロンスキイはどうしても、その癇癪の原因を察しることができず、感服しかねるのであった。特に気に入らなかったのは、良家の子弟であるゴレニーシチェフが、えたいの知れぬへぼ文士と同一レベルに立って、そのためにいらいらさせられ、腹をたてていることであった。いったいそんな値うちがあるのだろうか? それがヴロンスキイの気に入らなかったけれども、それにもかかわらず、彼はゴレニーシチェフがふしあわせなような気がして、かわいそうになってきた。彼がアンナの出てきたのにも気がつかないで、熱中してせかせかと、自分の思想の開陳をつづけている時、そのよく動くかなり美しい顔には不幸、というより、ほとんど狂気の陰が見てとられた。
 アンナが帽子をかぶり、マンチリヤを羽織って部屋に現われ、美しい手をすばやく動かして、パラソルをおもちゃにしながら、彼のそばに立ったとき、ヴロンスキイははっとしたような気持で、ひたと自分のほうにそそがれた、訴えるようなゴレニーシチェフの目から、のがれることができた。そして、新しい愛情を感じながら、自分の美しい、生命と喜びに満ちた生活の伴侶《はんりょ》をながめた。ゴレニーシチェフもかろうじてわれに返ったが、はじめのうちは元気がなくて、暗い顔をしていた。けれど、だれにたいしても愛想のいいアンナが(そのとき彼女はそういう気分になっていた)、持ちまえの単純で快活な態度で、まもなくその場の空気を朗かにした。いろいろと話題を試みた後、彼女は絵画のほうへ話をむけた。このほうにかけては、彼はなかなかよく話したので、彼女はその言葉に耳を傾けていた。三人は今度借りた家までたどりつき、その中を検分した。
「わたし、一つとてもうれしいことがあるんですの」もう帰りかけてから、アンナはゴレニーシチェフにそういった。「それは、アレクセイのために、いいアトリエができることですの。あんたぜひこの部屋をおとりなさいね」と彼女はロシヤ語で、『あんた』言葉を使いながら、ヴロンスキイに話しかけた。それは、ゴレニーシチェフが、二人の世間離れた生活で親しい人となり、なにもこの男の前で隠しだてする必要のないことを悟ったからである。
「へえ、君絵を描くのかい?」とゴレニ一シチェフは、急にヴロンスキイのほうへふりむきながらいった。
「ああ、僕はもう前からやってるんだが、今度すこし描きはじめたんだよ」とヴロンスキイは顔を赤くしながら答えた。
「この人はたいした才能があるんですのよ」とアンナは、うれしそうなほほえみを浮べながらいった。「そりゃわたしなんか批評家じゃありませんけど、その道の批評家がそう申しますから」

[#5字下げ]八[#「八」は中見出し]

 アンナが解放されて、ぐんぐんと健康を回復していったこの最初の時期には、われとわが身が赦し難いほど幸福で、生の喜びにみちているように感じた。良人の不幸を思い出しても、それは彼女の幸福を毒さなかった。その思い出は、一方からいうと、考えるのさえあまりに恐ろしかったし、一方からいえば、良人の不幸は、後悔すべくあまりに大きな幸福を、彼女に与えたのである。あの病気のあとで起ったいっさいのこと、良人との和解、決裂、ヴロンスキイの負傷の報、彼の出現、離婚の準備、良人の家を見すてたこと、わが子との告別、これらいっさいに関する追憶は、熱病やみの悪夢のように思われ、ヴロンスキイと二人きりで外国の旅に立ったとき、ようやくその夢からさめた思いである。自分が良人になした悪を回想すると、嫌悪に似た感情を経験した。それは溺れかかった人間が、自分にしがみついた人をつき放したときに、経験しそうな気持であった。その人は溺れ死んでしまった。もちろん、それは悪いことに相違ないけれども、しかしそれはたった一つの救いであるから、そういう恐ろしい詳細は、思い出さないにしくはない。
 自分のしたいことについて、気休めになるような一つの理屈が、決裂の当時、まず第一に彼女の頭に浮んだ。ところで、いまいっさいの過去を追憶していると、彼女の思い出すのは、ただその理屈ばかりであった。
『わたしはのっぴきならぬことで、あの人を不幸にしてしまった』と彼女は考えるのであった。『でも、わたしはその不幸を利用したくない。わたしもやっぱり苦しんでいるのだし、これから後も苦しむだろう。わたしは、自分の何よりも大切に思っていたものを失った――わたしは名声と、一人息子を失ったんだもの、わたしは悪いことをしたのだから、幸福なんか望みはしない、離婚も望まない。そして、恥をさらすことと、わが子に別れることで苦しむのだ』
 しかし、どんなに心から苦しもうと思っても、彼女は事実くるしんでいなかった。恥さらしなどはいささかもなかった。二人とも、十分に持ち合わせている要領のよさで、外国へ来た後は、ロシヤの貴婦人を避けるようにしていたので、自分たちをいかがわしい立場におかなかった。いたるところで彼らが迎えるのは、彼らの相互関係を、彼ら自身よりずっとよく理解している、というようなふりをする人ばかりであった。愛している一人息子との別離も、はじめのうちは彼女を苦しめなかった。ヴロンスキイの子である幼い娘が実にかわいくて、この子ばかりが彼女の手に残って以来、アンナの心を強くひきつけてしまったので、アンナもセリョージャのことは、たまにしか思い出さなかった。
 健康の回復によって、さらにつのってきた生活の要求はあまりにも強く、生活条件はあまりにも新しく愉快だったので、アンナはわれながら赦し難いほど幸福に感じた。ヴロンスキイの人となりを知るにしたがって、彼女の愛はいよいよ深くなった。アンナは彼を、彼自身のために愛するとともに、自分に対する愛のために愛したのである。ヴロンスキイを完全に独占するということは、彼女にとって常に喜ばしかった。彼が身近くいるということは、彼女に快かった。彼の性格を深く知れば知るほど、そのさまざまな面が、言葉につくせぬほどかわいかった。文官服を着けたために一変した彼の風采は、アンナにとって、恋せる若い娘のように魅力があった。彼がいったり、考えたり、したりするいっさいのことに、彼女は何か特別潔白な、高尚なものを見いだした。こうして、男を随喜渇仰する気持は、よく彼女自身をぎょっとさせた。彼女は男の中に美しからぬものをさがしたが、どうしても見いだすことができなかった。彼女は、自分がつまらない女だという自覚を、ヴロンスキイに見せる勇気がなかった。もし男がそんなことを知ったら、自分に対する愛が早く冷めてしまいそうな気がした。今の彼女にとっては、そんな理由などが少しもないにもかかわらず、男の愛を失うほど恐ろしいことはなかった。しかし彼女は、自分に対する男の態度に、感謝せずにはいられなかったし、それをどんなにありがたく思っているかを、男に示さずにもいられなかった。ヴロンスキイは、アンナの考えによると、国家的な仕事に対して一定の天職を有し、当然それによって顕著な役割を勤めるべきはずであったが、それにもかかわらず、彼女のために名誉を犠牲にして、しかもついぞいちど、いささかも残念そうな様子を見せないのである。彼は以前にもまして、彼女に愛情のこもったうやうやしい態度をとり、どうかして彼女が現在の位置のために、ばつの悪い思いをしないようにという心づかいは、片時も彼の頭を離れないのであった。あれほど男らしい男である彼が、彼女に対する場合には、かつて一度も反対しなかったのみならず、自分の意志というものをもたないで、ただ彼女の望みを察しようと、それのみに没頭しているらしかった。で彼女も、それをありがたく思わずにいられなかったが、彼のこうした注意があまり緊張していすぎるのと、彼がアンナをとりかこむこの心づかいの雰囲気が、ときとしては彼女に重荷と感じられることもあった。
 いっぽうヴロンスキイは、あれほど長い間のぞんでいたものを、完全に実現しながら、十分に幸福ではなかった。まもなく、希望の実現は、かねて期待していた幸福に比べると、大きな山の砂粒一つしかもたらしてくれなかった、と感じるようになった。この実現は、幸福というものを希望の実現と心得ている人々が、常に犯すあやまちを示したわけである。アンナといっしょになって、文官服を着て以来、しばらくの間は、今まで知らなかった自由一般の魅力、恋の自由の魅力を残りなく味わって、満足を感じていたけれども、長くはつづかなかった。まもなく彼は、自分の心の中に希望の希望――ふさぎの虫が、頭をもちあげてくるのを感じた。自分の意志とは関係なしに、彼は刹那《せつな》、刹那に消える気まぐれにとりついては、それを希望か目的のように思いはじめた。一日のうち十六時間は、何かでつぶさなければならなかった。というのは、ペテルブルグでは時間つぶしになってくれた、一定の社会生活の条件をもたぬ外国で、完全な自由のうちに暮していたからである。前の外国旅行のときに、ヴロンスキイをまぎらしてくれた、独身生活の楽しみなどというものは、考えることさえできなかった。なぜなら、そういう種類のたのしみを、ちょっと口にしただけで、アンナは知人と遅い夜食にむかっているときでさえ、思いがけなく、そういう席にふさわしくない悄気《しょげ》かたをするからであった。彼らの位置がはっきりしていないために、土地の社交界やロシヤ人の交際仲間とさえ、きまった関係を結ぶことができなかった。名所見物にいたっては、もうなにもかも見てしまったことはいうまでもないとして、彼はロシヤ人として、また聡明な人間として、イギリス人が巧みに賦与《ふよ》するような説明を絶した意義を、こういう仕事に見いだすことができないのであった。
 飢えた獣が、行きあたりばったりのものに食いついて、そこに食いものを発見しようと望みをかける、ちょうどそれと同じように、ヴロンスキイは全く無意識に、時には政治、時には新刊の書物、時には絵に飛びかかっていった。
 彼は若い時分から絵の才能があったし、それに、金を何に使っていいかわからなかったので、版画の蒐集《しゅうしゅう》を始めたところ、絵を描くことに気持がおちつき、それを仕事にしだした。こうして、満足を要求してやまぬ空白になった希望のストックを、この中に打ちこみはじめたのである。
 彼は絵を理解し、正確に、趣味をもって、芸術を模倣する能力があったので、画家に必要なかんじんの素質があると思って、どういう性質の絵を選ぼうか、宗教画か、歴史画か、風俗画か、それとも写実画か、としばらく迷ったあげく、いよいよ描きはじめた。彼はあらゆる種類の絵画を理解し、そのいずれにも感激することができた。しかし、絵画にどんな種類があるかということは、まるっきり知らないでも、また自分の描くものがどういう一定の種類に属するか、そんなことを心配しないでも、自分の心にあるものに、直接インスピレーションを受けることができる、それを彼は想像してみることもできなかったのである。彼はそれを知らなかったので、直接人生そのものでなく、すでに絵画によって具現された間接的な人生によって、インスピレーションを受けた。そこで、彼はきわめて迅速かつ容易に感激し、同様に迅速かつ容易に得た結果というのは、彼の描いたものが、彼の似せようと思った種類の画に、はなはだよく似てきたことである。
 彼はどの種類の画よりも、優雅で効果的なフランスふうが気に入ったので、イタリーふうの服装をしたアンナの肖像を、そういった調子で描きはじめた。しかし、その肖像は彼自身にも、それを見たすべての人にも、きわめて成功した作品のように思われたのである。

[#5字下げ]九[#「九」は中見出し]

 古い荒れた邸宅《パラッツォ》――漆喰《しっくい》の装飾のある高い天井、壁画のある壁、モザイクの床、黄色い花|緞子《どんす》の重いカーテンのかかった高い窓、花瓶ののっている飾り棚や、マントルピース、木彫の飾りのある扉、一面に絵をかけた陰気な広間――そういったふうなこの邸宅《パラッツォ》は、二人がそこへ引き移って以来、この外見によってヴロンスキイの心中に、自分はロシヤの地主とか、退職|主馬寮官《しゅめのりょうかん》とかいうよりも、教養ある芸術の愛好者であり、保護者であって、しかもその上、社交界も、係累《けいるい》も、名声も、愛する女性のために棄てた、つつましい芸術家であるという、快い錯覚を呼びさましたのであった。
 ヴロンスキイの選んだ役割は、邸宅《パラッツォ》へ移るとともに、ぴったりとうまくいった。ゴレニーシチェフの紹介で、二三の興味ある人物と近づきになった彼は、はじめしばらくのあいだおちつきが得られた。彼はイタリー人の絵画教授の指導のもとに、自然を写生した習作を描き、中世イタリー生活の研究に従事した。中世イタリーの生活は、最近すっかりヴロンスキーの気に入ってしまい、彼は帽子でも、引廻しでも、中世風の着方をしたが、それが彼によく似合うのであった。
「僕らはここに生活していながら、なんにも知らないでいるんだよ」あるとき、朝やって来たゴレニーシチェフに、ヴロンスキイはこういった。「君はミハイロフの画を見たかね? つい今朝とどいたばかりの新聞を渡して、一つの記事をさし示しながらつづけた。それは、同じこの町に住んでいるロシヤの画家に関するものであった。彼は最近ある一枚の画を完成したが、それはだいぶまえから評判になっていて、できあがらない前から、売約済みになっていたのである。その記事には、こうした卓越した画家が奨励金も、補助金も与えられないでいるといって、政府やアカデミイにたいする非難が述べられていた。
「見たよ」とゴレニーシチェフは答えた。「もちろん、天分がないわけではないが、まったく邪道に陥っているね。キリストや宗教画に対する態度は、相変らずイヴァノフ的、シュトラウス的、ルナン的なんだからね」
「その画は何を描いたものですの?」とアンナがたずねた。
「ピラトの前のキリストですよ。そのキリストが、新派の写実主義を縦横に駆使して、ユダヤ人にされてしまっているんです」
 絵の内容に関する質問で、自分の最も得意とする話題の一つに、水を向けられたゴレニーシチェフは、とうとうと弁じはじめた。
「どうして彼らは、ああいう粗野なあやまりに陥りうるのか、僕はとんと合点がいかんよ。キリストはすでに老大家達の芸術によって、一定の肉体化がなされているのだから、したがって、神でなしに革命家とか、賢人とかを描こうと思うなら、かってに歴史のなかから、ソクラテスでも、フランクリンでも、シャルロット・コルデでも、とってきたらいいんだ、ただし、キリストだけはいかん。彼はほかならぬ、芸術のためにとるべからざる人物をとってきて、しかも……」
「ところで、そのミハイロフがひどく困っているというのは、本当かね?」とヴロンスキイはたずねた。自分はロシヤの芸術保護者《メツエナート》として、画の善悪にかかわらず、その画家を助けなければならぬ、と考えたのである。
「さあ、どうだかねえ。彼はりっぱな肖像画家なんだ。君、あの男の描いたヴァシーリチコヴァの肖像を見たかい? しかし、どうやら今後もう、肖像画を描かないつもりらしいんだ。そのために、もしかしたら、本当に困っているかもしれない。僕がいうのは、その……」
「ひとつその男に、アンナ・アルカージエヴナの肖像を描いてもらうわけに、いかないかしらん?」とヴロンスキイがいいだした。
「なんのためにわたしの肖像なんか?」とアンナはいった。「あんたに描いてもらったあとですもの、ほかの肖像なんか一つも要りませんわ。それよか、アーニャのかよござんすわ(彼女は自分の女の子をそう呼んでいた)。ほら、あすこにいますわ」彼女は窓から顔をのぞけて、赤ん坊を庭へつれ出した美しいイタリー人の乳母を見ると、すぐ目に立たぬようにヴロンスキイをふり返って、こうつけ足した。ヴロンスキイは、この美しい乳母の首を自分の画のために写生したが、それがアンナの生活における唯一の秘められたる悲しみであった。ヴロンスキイは、このイタリー女を写生すると、その美貌と中世的な趣きに、つくづくと見とれたものである。アンナは、この乳母に嫉妬を感じはしないかと恐れているのを、自分で自分に白状する勇気がなかった。そのために、この女をも、その小さな男の手をも、特別にかわいがって、甘やかすのであった。
 ヴロンスキイも同じく窓を見やり、アンナの目を見たが、すぐにゴレニーシチェフの方へふりむいて、こういった。
「ときに、君はそのミハイロフを知ってるの?」
「会ったことはある、しかし、あれは変りもんで、まるっきり教養のない男なんだよ。つまりね、このごろよく出くわす新しい野蛮人の一人なのさ。つまり、不信と、否定と、唯物主義の観念の中で 〔d'emble'e〕(一気|呵成《かせい》に)教育された自由思想家のお仲間なんだ、以前は」アンナとヴロンスキイが、何かいいたそうにしているのに気がつかず、もしくは気をつけようとせず、ゴレニーシチェフはこういった。「以前の自由思想家は、宗教や、法律や、道徳の観念の中に教育されたあと、みずから闘争の困苦によって、自由思想に到達したものだが、今日では生れながらの自由思想家という、新しいタイプが現われてきた。彼らは、道徳や宗教の掟があったということも、オーソリティがあったということも、夢にも聞いたことがないままに生長して、いきなりいっさいの否定という観念の中で人となった連中、つまり野蛮人なんだ。あの男がつまりそれなのさ。確かモスクワ給仕長のせがれで、なんの教育も受けなかったらしい。先生、アカデミヤに入学して、世間で名を成すにいたると、まんざらばかなやつでもないから、自分に教養をつけようという気になった。で、教養の源と信じたものにとりついたわけだが、それが雑誌なのさ。ねえ、どうだろう、昔は教養を身につけたいと考えた人間、まあ、かりにそれがフランス人なら、すべての古典作家や、神学者や、悲劇詩人や、歴史家や、哲学者や、まあ、ひと口にいえば自分の前にあるいっさいの知的労作を、残らず研究しはじめたに相違ない。ところが、現代のロシヤのことだから、先生、いきなり否定文学にぶっつかったわけさ。そして、あっという間に、否定主義の学問を身につけてしまったら、もうそれで出来上がりだ。のみならず、これが二十年前なら、彼もこの文学の中にオーソリティや長い世紀にわたる見解と闘った徴候を認めて、その闘いからして何か別なものかあったことを、悟ったに違いないのだが、今どきは古い見解なんか論ずる価値もないとするような学問に、いきなり首をつっこんじまってさ、頭からなんにもありゃしない、〔e'volution〕(進化)、自然|淘汰《とうた》、生存競争――これが全部だとくる、僕は自分の論文で……」
「ねえ、いかがでしょう?」もう前からヴロンスキイと目くばせして、ヴロンスキイにはその画家の教養など興味がなく、ただ彼を援助するために肖像を注文したい、という気持でいっぱいなのを見てとって、アンナはこういいだした。「ねえ、いかがでしょう?」と彼女は、むきになって論じたてるゴレニーシチェフをさえぎった。「その人のところへ行ってみようじゃありませんか!」
 ゴレニーシチェフもわれに返って、喜んで同意した。が、画家は遠い区に住んでいるので、馬車を雇うことに決めた。
 一時間ののち、アンナとゴレニーシチェフは並んで馬車に坐り、ヴロンスキイは前の席に腰をかけて、離れた区にある新しい、見てくれのよくない家へ乗りつけた。出てきた庭番の女房から、画家は今ついそこにある住居のほうへ行っていると聞いて、一行はその女房に名刺を持たせ、作品を見せてもらいたいと申し入れた。

[#5字下げ]一〇[#「一〇」は中見出し]

 画家のミハイロフは、ヴロンスキイ伯爵とゴレニーシチェフの名刺が届けられたとき、いつものごとく仕事にむかっていた。朝はアトリエのほうで、大きな作品を描くことにしていたのである。住居のほうへ帰ると、借金の催促にきた主婦《かみ》さんをうまくあしらわなかったといって、細君に向っ腹をたてはじめた。
「もうこれで二十ぺんもそういったじゃないか、立ち入った言いわけなんかするんじゃないって。それでなくってさえばかなおまえが、イタリー語で言いわけなんか始めると、三層倍もばかになってしまうんだ」長い言い合いのあとで、彼はそういった。
「それなら、あなたもだらしなくしないでくださいよ、わたしのせいじゃありませんからね。わたしだってお金さえあれば……」
「おれにかまわないでくれ、お願いだから!」とミハイロフは声に涙を響かせながら叫ぶと、耳に蓋をして、仕切りのむこうになっている仕事部屋へ入り、戸に錠をかけてしまった。『わからずやの女め!』と彼はひとりごちて、テーブルにむかい、紙ばさみを開いて、すぐ特別な熱心さで、描きかけのデッサンにとりかかった。
 彼にあっては、生活状態が悪いときほど、特に妻と口論したときほど、熱心にしかもうまく仕事のできることはなかった。『ええっ! どこへなと失《う》せやがれ!』と彼は仕事をつづけながら考えた。彼は、憤怒の発作に襲われた男のデッサンを描いているのだった。このデッサンは、前にも描いたことがあるけれど、彼は満足がいかなかった。『いや、あれのほうがよかった……あれはどこにあるかな?』彼は妻のところへいって、渋い顔をしながら、妻の方を見ないようにして、上の女の子に、前にやった紙はどこにあるか、とたずねた。描き棄てのデッサンは、見つかるには見つかったが、さんざんに汚されて、蝋がいっぱいたれていた。それでも、彼はそのデッサンをもっていって、自分のテーブルの上におき、ちょっと離れたところから、目を細くしてながめはじめた。突然、彼はにっこり笑って、うれしそうに両手をふり上げた。
「そうだ、そうだ!」といって、いきなり鉛筆をとり、手早く描きはじめた。蝋のしみが、人物に新しいポーズを与えたのである。
 彼はこの新しいポーズを描き出した。と、ふいに、いつも葉巻を買うことにしている店屋の主人の、頤《かご》の突き出た、エネルギッシュな顔が、心にうかんだので、その顔、その頤を、デッサンの人物に描き添えた。彼はうれしさのあまり、声を立てて笑い出した。今まで死んだこしらえものであった人物は、急に生命をおびてきて、もはや変更の余地のないものとなった。この人物は生命を呼吸し、まごうかたなく明瞭に決定されていた。この人物の要求に応じて、デッサンを変更することができた。足のひろげかたも別にし、左手の位置を変え、髪もうしろへなびかせることができる。いや、そうしなければならないのだ。しかし、これらの修正を施しながらも、人物そのものには変更を加えず、ただ隠すものをとり去ったばかりである。それはちょうど、全体を見ることを妨げていたおおいを、画面からとりのけていくようなぐあいであった。新しい線を一つ加えるたびに、エネルギッシュな力に満ちた人物ぜんたいが、いよいよ明瞭に現われていった。それは蝋のしみのために、突如として彼の心眼にあらわれたものである。彼が入念に人物の仕上げをしているとき、名刺が届けられた。
「今すぐ、今すぐ!」
 彼は妻のところへいった。
「さあ、もうたくさんだよ、サーシャ、怒るのをやめなさい?」おずおずと優しくほほえみながら、彼は妻にいった、「おまえも悪かったが、おれも悪かった。なにもかもおれがうまく始末をつけるから」こうして妻と仲直りすると、ビロードのついたオリーブ色の外套を着、帽子をかぶって、彼はアトリエへ行った。成功したデッサンのことなどは、もう忘れていた。今かれを喜ばせ、興奮させているのは、馬車で乗りつけた身分の高いロシヤ人の訪問であった。
 いま画架にのっている作品については、彼は心の中に一つの考えをもっていた。ほかでもない、こうした作品は今までかつてなかった、という信念である。もちろん、自分の画がラファエルのすべての作品より優れている、などとは考えていなかったけれども、彼がこの画で伝えようと思ったものは、今までだれも伝えたことがないのである、それは彼も確かに知っていた、この画を描きはじめたときからすでに知っていた。とはいうものの、だれにせよ他人の意見は、彼にとって大きな重要性をもっていて、心底から彼を興奮さすのであった。自分がこの画の中に見ているもののごく小さな一部分でも、他人から認められたということを証明するような評言は、たとえきわめて些末なものであっても、深く彼の心を躍らせるのであった。そういう批評をする人は、いつも自分より以上に深い判断力をもっているように考えた。で、自分さえその作品の中に見ていないような何ものかを、常にそういう人々から期待していた。またしばしば他人の評言の中に、そういうものを発見するような気がした。
 彼は早足に自分のアトリエに近づいた。と、かなり興奮していたにもかかわらず、車寄せの陰に立って、何か熱心にしゃべっているゴレニーシチェフに耳を傾けながらも、明らかに近づいてくる画家を見定めようとしているらしい、アンナの姿のやわらかい照明が、思わず彼をはっとさせた。彼は自分でもそれと気づかずに、一行に近づきながら、この印象をつかんで、のみこんでしまった。それは、あの葉巻を売っている商人の頤と同じことで、どこか頭の中へ隠しておいて、必要な時にそこから引き出すのであった。ゴレニーシチェフの話で、前からこの画家に幻滅を感じていた一行は、その外貌を見て、さらに幻滅を深めた。ミハイロフは中背で、ずんぐりして、ちょこちょこ歩きの癖があり、頭に茶色の帽子をかぶって、オリーブ色の外套を身にまとい、もうとっくから広いズボンが流行になっているのに、細いズボンをはいていたし、ことにその幅広な顔つきの平凡なところと、おどおどしているくせに、自分の品格を守ろうとする気持のいっしょになった表情が、不快な印象を与えるのであった。
「どうぞお入りください」しいて平気らしい様子を見せようとしながら、彼はこういった。そして、玄関へ入ると、ポケットから鍵をとり出して、戸をひらいた。