『アンナ・カレーニナ』2-21~2-35(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]二一[#「二一」は中見出し]

 臨時厩舎になっている木造のバラックは、競馬場のすぐわきに建てられており、そこへ昨日のうちに、彼の馬が連れてこられているはずであった。彼はまだ馬を見ていなかった。この二三日、彼は自分で乗らないで、調馬師に任せきりだったので、自分の馬がどういう状態で到着し、今どういうふうでいるか、自分でもてんで知らないのであった。彼が幌馬車から出るが早いか、彼の馬丁でグルームと呼ばれている少年が、遠くのほうから彼の馬車を見つけて、調馬師を呼び出した。深い長靴をはき、短いジャケツを着、下頤にだけひと塊《かたま》りの鬚《ひげ》を残した、ひからびたようなイギリス人が、騎手独特の無器用らしい足つきで、両の肘を張り、体をゆらゆらさせながら、彼を出迎えた。
「で、どうだね、フルー・フルーは?」ヴロンスキイは英語でたずねた。
「All right, sir.(万事異状ありません、旦那)」イギリス人はどこか喉の奥で答えた。「いらっしゃらないほうがよろしいですよ」と彼は帽子を持ちあげながら、つけ加えた。「私は口籠《くつご》をかぶせました、あの馬、気が立っておりますので、いらっしゃらないほうがよろしゅうございますよ。興奮させるといけませんから」
「いや、やっぱり行ってみるよ。ひと目見たいんだ」
「では、まいりましょう」相変らず口を開かないで、眉をひそめたまま、イギリス人はそういって、両肘をふりまわしながら、例のばねのゆるんだような足どりで、先に立った。
 二人はバラックのまえの小さな内庭へ入った。小ぎれいなジャケツを着たお洒落《しゃれ》な当番のボーイが、箒《ほうき》を手に持ったまま、入ってくる二人を出迎え、そのあとからついてきた。バラックには五匹の馬が、それぞれ仕切りの中に繋がれていた。そこには、同じく今日つれてこられたはずのおもな競争者、五尺四寸もあるグラジアートルという、マホーチンの所有の栗毛がいるということを、ヴロンスキイは知っていた。ヴロンスキイは自分の馬よりも、まだ見たことのないグラジアートルのほうが見たかった。しかし、競馬界の礼儀から定められた法則で、見ることはおろか、根掘り葉掘りきくことさえぶしつけとされているのを、ヴロンスキイは心得ていた。彼が廊下を歩いているうちに、ボーイは左側二番目の仕切りの戸を開けた。と、栗毛の大きな馬と白い脚が、ヴロンスキイの目に入った。
 彼は、それがグラジアートルであることを知っていたが、開かれた他人の手紙から面をそむける人の心持で、彼はつと顔をわきへ向けて、フルー・フルーの仕切りに近づいた。
「ここにあの馬がおります、マク……マク([#割り注]マホーチンのホはKとHの中間音で、イギリス人には発音困難である[#割り注終わり])……どうしてもあの名がいえません」汚い爪をした親指で、肩越しにグラジアートルの仕切りを指さしながら、イギリス人はこういった。
「マホーチンのかね? そう、あれは僕にとって、油断のならない競争者の一人だよ」とヴロンスキイはいった。
「もし旦那があれにお乗りになったら」とイギリス人はいった。「私は旦那に賭けますがね」
「フルー・フルーは神経が細かいけれど、あれのほうが力がある」自分の乗馬術を賞められたので、にこにこしながら、ヴロンスキイはこういった。
「障碍物では、問題はただ乗馬術と pluck《プラック》だけですよ」とイギリス人はいった。
 Pluck、すなわち精力と大胆さにかけては、ヴロンスキイは十分もち合わせがある、と自任していたばかりでなく、世界中でこの pluck を自分以上に備えているものは一人もない、と確信していた。
「君はたしかに知っているね、あんまりやせる[#「あんまりやせる」に傍点]必要はないだろう?」
「必要ありません」とイギリス人は答えた。「どうか大きな声をなさらないで。馬が興奮しますから」いま前に立っている戸のしまった仕切りを、頤でしゃくって見せながら、彼はこうつけたした。その中では、藁の上で脚を踏み変える音が聞こえた。
 彼は戸を開けた。で、ヴロンスキイは、たった一つの小さな窓にぼんやり照らされている仕切りへ入った。仕切りの中では、新しい藁の上で脚を踏み変えながら、口籠《くつご》をかけられた黒栗毛の馬が立っていた。仕切りの中の薄明りでざっと見まわすと、ヴロンスキイは自分の愛馬のあらゆる点を、ひと目で見てとってしまった。フルー・フルーは中背の馬で、どこから見ても、非の打ちどころがないとはいかなかった。全体が骨細で、胸部はぐっと前へ張り出していたけれども、胸郭は狭かった。尻はやや垂れ気味で、脚は前もそうだが、ことにうしろのほうががに股であった。脚の筋肉は前後とも、特に発達しているほうではなかったが、そのかわり、腹帯にあたるところが並はずれて大きく、ことにいま飼糧《かいば》前ではあり、腹部のひきしまっているこの馬としては、ひどく目立つのであった。膝の下にあたる部分の骨は、前から見ると、指くらいの太さしかなかったが、そのかわり横から見ると、図抜けて広かった。全体にこの馬は、肋骨を除いては、両側から圧しつぶされて、縦に伸びたような感じであった。とはいえこの馬には、すべての欠点を忘れさせる最高級の長所があった。その長所というのは血統[#「血統」に傍点]であった――イギリス風のいいかたによると、どことなしに表われる[#「どことなしに表われる」に傍点]血筋であった。繻子《しゅす》のように滑らかな、ひくひくと動く薄い皮膚におおわれて、網目のような血管の下からくっきりと浮き出している筋肉は、骨と同じくらい堅そうに見えた。飛び出した眼がぎらぎらと楽しそうに光る、乾いた感じの頭は、先の方の、内側の薄皮に血のみなぎったような鼻孔のあたりで、うんと広くなっていた。その体ぜんたい、ことにその頭部に、はっきりした。精力的な、同時に優しい表情があった。それは、ただ口の機械的構造が許さないばかりに物をいわない、そういった感じのする動物の一つであった。
 少なくともヴロンスキイは、この馬がいま自分の感じているいっさいのことを、わかってくれたような気がした。
 ヴロンスキイが中へ入るやいなや、フルー・フルーは深く息を吸いこんで、飛び出した眼を、白いところが充血するほどやぶにして、入って来た二人を反対側から眺めながら、口籠《くつご》をふるわせ、ばね仕掛けのように、脚をかわるかわる踏み変えた。
「そら、ごらんなさい、ずいぶん興奮してるでしょう」とイギリス人はいった。
「おお、かわいいやつ! おお!」とヴロンスキイは馬のそばへよって、なだめながらそういった。
 けれども、彼がそばへよればよるほど、フルー・フルーはますます興奮した。ただ彼が頭のところへ近づいた時、ふいにおとなしくなって、薄い華奢《きゃしゃ》な皮膚の下で、筋肉がぶるぶるとふるえだした。ヴロンスキイはそのかっちりした頸を撫で、尖った項《うなじ》に生えたたてがみが反対側へねているのを、なおしてやった後、蝙蝠《こうもり》の翼のようにひろがった薄い鼻孔へ顔をよせた。フルー・フルーは、張り切った鼻孔で音高く空気を吸ってから、また吐き出し、ぶるっと身ぶるいして、尖った片耳を臥《ね》かせ、主人の袖を捕えようとでもするかのごとく、しっかりした黒い上唇を、ヴロンスキイの方へのばした。しかし、口籠のことを思い出して、ぶるっとそれをひとふりすると、またもやその削ったような脚を、かわるかわる踏み変えはじめた。
「おちつくんだよ、おい、おちつくんだよ!」もういちど手で尻を撫でて、彼はこういった。そして、馬はこのうえない状態でいるという、喜ばしい意識をいだきながら、仕切りから出て行った。
 馬の興奮はヴロンスキイにも伝染した。彼は、全身の血が心臓へ集ってくるような気がした。馬と同様に、動いたり、噛みついたりしたくなった。恐ろしくもあれば、愉快でもあった。
「じゃ、僕は君をあてにしてるよ」と彼はイギリス人にいった。「六時半には現場にいるようにね」
「万事ちゃんとしておきます」とイギリス人はいった。「ところで、どこへいらっしゃいます、御前《マイ・ロード》?」思いがけなくも、今までほとんど使ったことのない、この日 my Lord という言葉をつかって、彼はたずねた。
 ヴロンスキイはびっくりして首を持ち上げ、相手の問いの大胆さに驚きながら、彼の得意な見方で、イギリス人の眼でなく額を眺めた。しかし、イギリス人がこの問いを発した時、彼を主人でなく騎手と見なしたのだ、ということを合点して、ヴロンスキイはこう答えた。
「ブリャンスキイのところへ行かなくちゃならないんだ。一時間したら帰るよ」
『今日はもう何度、この質問を向けられたことやら?』とひとりごちて、彼は顔を赤らめた。こんなことはめったにないことであった。イギリス人は注意ぶかく彼を見つめて、ヴロンスキイがどこへ行くか知っているように、こうつけ加えた。
「競走の前には、気を静めておくのが第一です」と彼はいった。「ふきげんになったり、何事にまれ、気持を乱したりしてはいけません」
「All right.」とヴロンスキイは微笑しながらいい、馬車に飛び乗って、ペテルゴフヘやれと命じた。
 ようやく馬車が走り出すか出さないかに、朝から雨の脅威を感じさせていた黒雲か、空一面にかぶさって、どっとばかり夕立を降らした。
『こいつはいかんぞ』とヴロンスキイは、幌を上げながら考えた。『それでなくても、いいかげんぬかるんでいたのに、これじゃすっかり沼になっちまう』幌《ほろ》で包まれた馬車の中で一人きりになると、彼は母と兄の手紙をとりだして、ひととおり目を通した。
 はたして、それは何から何まで同じことであり、母も兄も、だれもかも一様に、彼の心の問題に干渉するのを必要と見なしているのだ。この干渉は彼の内部に毒々しい感情――彼のめったに経験しない感情を呼びさました。
『いったいあの連中に、なんの関係があるんだろう? なぜみんな、おれのことを心配するのを、義務のように心得ているんだろう? それに、なんだってみんなおれにからむんだ? つまり、これはなにかしら、彼らの理解できないことだからさ、これがもしありふれた、俗悪な社交界の情事だったら、彼らもおれをかまわずに、うっちゃっといたことだろう。ところが、これはなにかしら別のものだ、玩具《おもちゃ》じゃない、あの女がおれにとって命より貴いものだということを、彼らは感じたに相違ない。で、この何かが不可解なものだから、それでみんないまいましいのだ。よしわれわれの運命がどんなものであろうと、またどうなろうと、それはわれわれが作り上げたものだから、不平なんかいいやしない』
 われわれ[#「われわれ」に傍点]という言葉で、自分とアンナを結びつけながら、彼はこうひとりごちた。
『だめだ、あの連中はわれわれに、いかに生くべきかを教えなければ承知できないんだ。ところが、彼らは幸福が何かということが、てんでわかっちゃいないのだ。われわれはこの恋がなくちゃ、幸福もなければ不幸もない、つまり生活がないってことを、彼らは知らないんだからなあ』と彼は考えるのであった。
 彼がこの干渉のために、すべての人々に腹をたてたのは、彼らすなわちすべての人々のいうことが本当であると、心の底で感じていたからである。彼は感じていた――自分とアンナを結びつけた恋は一時の浮気ではない。それならば、すべての社交界の情事のように、あるいは気持のいい、あるいは不快な記憶のほか、双方の生活になんの痕跡《こんせき》もとどめず、過ぎ去ってしまうはずである。彼は自分と彼女の立場の苦しさを、残りなく痛感していた。二人の関係が、二人の住んでいる社会ぜんたいの目に曝《さら》されていて、自分たちの恋をかくしたり、偽ったり、嘘をついたりすることが、困難なのであった。しかも、二人を結びあわしている情熱があまりにもはげしく、二人ながら自分たちの恋のほかは、なにもかも忘れがちであるにもかかわらず、その恋を隠して、策略をめぐらし、たえず他人のことを考えなければならないのだ。
 自分の本性からいっていまわしいきわみである虚偽や欺瞞《ぎまん》を、あえて犯さねばならぬ場合がしばしばくりかえされるのを、彼はまざまざと思い起した。わけても、彼女がこの虚偽と欺瞞の必要のために、羞恥の情に苦しめられるのを、彼は一再《いっさい》ならず見てとった。それを彼はまざまざと思い起した。すると、アンナと関係して以来ときおりやってくる、奇妙な感じを覚えた。それは、何ものかに対する嫌悪の念であった。それはカレーニンに対するものか、おのれ自身に対するものか、社交界ぜんたいに対するものか、自分でもよくわからなかった。しかし、彼はいつもこの奇妙な感じを、追いはらうようにしていた。で、今もぶるっと一つ身ぶるいして、自分の物思いをつづけていった。
『そうだ、彼女はもとは不幸ではあったけれども、誇りをもっておちつきがあった。ところが、今はおちついて品格を保つことができなくなった、彼女自身はそうした様子を見せないけれど。いや、これは早くけりをつけなくちゃならない』と彼は自分で肚《はら》をきめた。
 その時はじめて、はっきりした考えが頭に浮んだ。どうしてもこの虚偽を打ち切らねばならぬ、しかも早ければ早いほどいいのだ。
『二人ともいっさいをなげうって、どこかへ身をかくし、自分の恋にこもってしまうのだ』と彼はひとりごちた。

[#5字下げ]二二[#「二二」は中見出し]

 夕立は長くもつづかなかった。もう手綱なしにぬかるみを走る両方の脇馬をひっぱるようにして、全速力を出して疾駆《しっく》する中馬の働きで、ヴロンスキイが目的地へ近づいた時には、ふたたび太陽が顔をのぞけた。本通りの両側に並んだ別荘の屋根や、庭の古い菩提樹《ぼだいじゅ》は、みずみずした光で輝き、木々の枝は楽しげに雫《しずく》をふらせ、屋根屋根からは水が流れ走っていた。彼はもうこの夕立で、競馬場が台なしになることなどを考えず、この雨のおかげでたしかに彼女は家に、しかも一人でいるのに相違ないと、そればかり喜んでいた。というのは、最近、温泉場から帰ってきたカレーニンが、まだペテルブルグからここへ移って来ていないのを、知っていたからである。
 彼女一人のところへ行きあわせるものと期待しながら、ヴロンスキイはいつもよくやるように、なるべく人目につかない目的で、小橋を渡らずに馬車を下り、徒歩《かち》で歩き出した。彼は通りから正面玄関へ行かないで、内窓のほうへ入っていった。
「旦那はおいでになってるかね!」と彼は園丁にたずねた。
「いいえ、でも奥さまはおいでになります。まあ、玄関のほうからお入り下さいませ。あちらに人がおりますから、お開けいたします」と園丁は答えた。
「いや、おれは庭のほうから行くよ」
 アンナが一人きりでいるに相違ないと思い込んで、彼は彼女のふいを襲って、びっくりさせようと思った。というのは、彼はきょうくると約束しなかったし、彼女も競馬を前に控えてまさかやって来まい、と思っていたに相違ないからである。彼はサーベルをおさえて、両側に花の植わった径《みち》の砂を、用心ぶかく踏みながら、庭に面したテラスの方へ進んでいった。今ヴロンスキイは、道々考えた自分の立場の苦しさや困難さを、すっかり忘れてしまった。彼の思ったのはただ一つ、今すぐにただの空想でなく、現実にあるがままの生きた彼女の全部が見られる、ということだけであった。彼は音のしないように、足の裏ぜんたいをつけるようにしながら、早くもテラスのゆるい石段を上りかけたが、その時ふいに、いつも忘れがちのことを思い出した。それは、彼女との関係で最も悩ましい一面、彼女の息子であった。もの問いたげな、彼の目にはいやらしく思われるまなざしをした息子。
 この少年はほかのだれよりも、二人の関係の障碍になることが最も多かった。彼がそばにいると、ヴロンスキもアンナも何事にせよみんなの前でいえないよう話を、大っぴらですることができなかったばかりでなく、少年にはわからないようなことでも、匂わすようにさえ話す気になれなかった。彼らはそれを申しあわせたわけでなく、ひとりでにそう決まったのである。この少年を欺くことは、自分自身に対する侮辱と考えたに相違ない。少年の前では、二人はただの知人のように話をした。が、これほど大事をとっているにもかかわらず、ヴロンスキイは、よく自分の方にそそがれている少年の注意ぶかい、けげんそうなまなざしを捕えた。そして、自分に対する時に少年の見せる、奇妙におどおどした、むらのある態度や、ときには甘えたり、ときには冷淡になったり、はにかんだりする様子に気がついた。どうやら少年は、この男と母の間には、自分などに意味のわからぬ、何か重大な関係があるのを、直感しているかのようであった。
 また事実、少年は自分がこの関係を理解できないのを感じ、この男に対してどんな感情をもつべきであるかを、自分で自分にはっきりさせようとつとめながらも、それができないのであった。感情の発現に対する少年の敏感さで、彼は明瞭に見てとった――父親も、家庭教師も、保姆《もり》も、だれもかれもが、単にヴロンスキイを好かなかったばかりか、なんにも口に出してはいわなかったけれど、嫌悪と恐怖の目で彼をながめている。ところが母親は、最も親しい友のように扱っているではないか。
『いったいこれはどういうことだろう? あの男は何ものだろう? どんなふうにこの男を愛したらいいのかしら? もしこれがわからなければ、僕がいけないのだ。でなければ、僕が馬鹿か、悪い子供なんだ』と少年は考えた。そのために、あれほどヴロンスキイにぎごちない思いをさせた、試すような、物問いたげな、そして、いくぶん反感をいだいたような表情と、臆病なむらのある態度が生じるのであった。この子がそばにいると、ヴロンスキイはいつも必ず、最近しばしば経験するようになった、奇妙な、いわれのない嫌悪の情を呼びさまされた。この子供の同席が、ヴロンスキイとアンナの胸に呼び起す感情は、航海者のいだく感情に似通っていた。羅針盤らしんばん》を見ると、いま自分の走っている方角は、本当の正しい方向とはなはだしくかけ離れていることを知りながら、船の進行を止めるだけの力がない。一分ごとにいよいよその誤差《ごさ》は大きくなっていくが、正しい方向から遠ざかっていくのを自認するのは、おのれの破滅を自認することであった。
 人生に対してナイーヴな眼をもったこの少年は、とりもなおさず羅針盤であって、彼らが知っていながら知ることを欲しないものから、どれほどそれているかを示すものであった。
 このときは、セリョージャは家にいなかった。彼女は全くの一人ぼっちで、テラスに腰をかけ散歩に出かけて雨にあったわが子の帰りを待っていた。彼女はわが子をさがしに、下男と小間使を出し、じっと坐って待っていたのである。大きな刺繍のある白い服を着た彼女は、テラスのすみの花の陰にいて、彼の来たのに気づかなかった。黒い髪の房々と渦巻いた頭を傾けて、手すりにのっている冷たい如露《じょうろ》に額をおしあて彼のよく知りぬいている指輪をはめた美しい両手で、その如露をおさえていた。その姿ぜんたい、頭、頸、手の美しさは、そのつど、まるで思いがけないもののように、ヴロンスキイをはっとさせるのであった。彼は歓喜の目でながめながら、歩みをとめた。けれど、彼女に近よろうとして一歩ふみだした時、彼女は早くもその接近を感じて、如露をつき放し、火照《ほて》った顔を男の方へふりむけた。
「どうしたんです? かげんでも悪いんですか?」と彼は近よりながら、フランス語でいった。彼は走りよりたかったのだけれど、ひょっとだれかいるかも知れないと思い出して、バルコンの戸をふり返った。そして、いつものことながら、びくびくして、あたりを見まわさなければならぬ身の上を思って、さっと顔を赤らめた。
「いいえ、わたしなんともありませんわ」立ちあがって、さしだされた男の手を固く握りしめながら、彼女はそういった。
「わたし思いがけなかったわ……あなたがいらっしゃるなんて」
「あっ! なんて冷たい手でしょう!」と彼はいった。
「あなた、わたしをびっくりさせるんですもの」と彼女はいった。「わたしたった一人で、セリョージャを待っていたの。あの子、散歩に出かけたもんですから。あっちの方から帰ってくるわ」
 しかし、彼女がおちつこうとつとめたにもかかわらず、その唇はふるえていた。
「赦して下さい、突然やって来て。しかし、僕はあなたを見ずには、一日もすごすことができないんです」と彼はいつものようにフランス語でいった。それはロシヤ語のあなた[#「あなた」に傍点]というたまらないほど冷たい言葉と、危険なおまえ[#「おまえ」に傍点]を避けるためであった。
「なんのために赦すんですの? わたし本当にうれしいのに!」
「でも、あなたはかげんがわるいか、何か悲しいことがあるんでしょう」女の手をはなさず、相手にかがみこみながら、彼は言葉をつづけた。「いったい何を考えてたんです?」
「いつも一つことばかり[#「一つことばかり」はママ]」と彼女はほほえみながらいった。
 彼女は真実をいったのである。いつ、どんな瞬間でも、何を考えていたかときかれたら、彼女はあやまりなく、それはただ一つのこと、自分の幸福と不幸のことです、と答えたに違いない。いま彼が来あわせた時にも、彼女はこういうことを考えていたのである。ほかでもない、なぜほかの女、例えばベッチイなどにとっては(彼女は、社交界には隠されている公爵夫人と、トゥシュケーヴィッチとの関係を知っていたのである)、こういうことがすべて手軽にいくのに、どうして自分にとってはこうも苦しいのだろう、ということであった。今日はある事情によって、この想念が特に彼女を悩ました。彼女はヴロンスキイに、競馬のことをたずねた。彼はそれに答えたが、彼女が興奮しているのを見て、その気をまぎらそうと思って、競馬の準備の模様をきわめて気軽な調子で話しはじめた。
『いったものか、いわないでおこうか?』男のおちついた優しい眼を見ながら、彼女はこう考えた。『この人はあんなに幸福で、あんなに競馬に夢中になっているから、このできごとがわたしたちにとって、どんな意味をもっているか、十分にはわからないだろう、本当に理解してはくれないだろう』
「しかし、僕が入ってきた時、何を考えていたかは、いってくれませんでしたね」ふと自分の話を中途で切って、彼はこういった。「さあ、聞かしてください!」
 彼女は返事をしなかった。こころもち頭をたれて、その額ごしに、長い睫毛《まつげ》の下に輝く眼で、物問いたげに彼を見つめた。むしりとった木の葉を玩具《おもちゃ》にしていた手は、わなわなとふるえた。彼はそれに気がついた。と、その顔は従順の気持と、奴隷のような心服を現わした。彼女はそれを見ると、気が折れてしまうのであった。
「どうも見たところ、何ごとか起ったようですね。あなたに何か心配事があって、それを僕が知らずにいたら、僕はいっときでも平気でいられるはずがないでしょう? 話して下さい、お願いですから!」と彼は祈るように繰り返した。
『そう、もしこの人がこのことの意味を、十分にわかってくれなかったら、わたしこの人を赦せないに相違ない。いっそ[#「いっそ」は底本では「いつそ」]いわないほうがいい、何も試してみる必要はないわ』やはりじっと男を見ながら、彼女はこう考えたが、木の葉を持った手がしだいにはげしくふるえるのか、自分でも感じられた。
「さ、お願いだから!」と彼女の手をとってくりかえした。
「いいましょうか?」
「ええ、ええ、ええ……」
「わたし妊娠していますの」と彼女は低い声でゆっくりといった。
 手の中の木の葉は、さらにはげしくふるえだした。しかし彼女は、男がこの知らせをどう受け取るかを見定めるために、相手から目をはなさなかった。彼は、さっと蒼ざめて、何かいおうとしたが、言葉を止めて、女の手をはなし、頭をたれた。『ああ、やっぱりこの事実の意味を、すっかりわかってくれたんだわ』と考え、彼女は感謝の念をこめて、男の手を握った。
 しかし、彼女は考え違いをした。彼がこの知らせの意味を理解したのは、彼女が女として解釈したのとは違っていた。この知らせを聞くとともに、彼がこのごろよく発作的に襲われる何者かに対するかの奇怪な嫌悪の念が、いつもに十倍した力で襲ってきたのである。が、同時に、彼はこういうことも感じた。彼が常づね望んでいた危機が、今こそ到来したのであって、もはやこれ以上良人に隠すことはできない。方法はともあれ、少しも早くこの不自然な状態を破ってしまわなければならぬ。女の興奮が生理的に彼に伝染したのである。彼はうっとりした従順な目つきで女をながめ、その手を接吻すると、立ちあがり、無言のままテラスをひとまわりした。
「そう」決然とした足どりで女のそばへよって、彼はこういいだした。「僕にしても、あなたにしても、お互の関係を玩具のように見たことはありませんが、しかし今こそ僕たちの運命がきまったのです。どうしてもけりをつけなくちゃなりません」と彼はあたりを見まわしながらいった。「僕たちが生活しているこの虚偽に」
「けりをつけるんですって? どうけりをつけるの、アレクセイ?」と彼女は小さな声でいった。
 彼女はいま心がおちついて、その顔は優しい微笑にかがやいていた。
「ご主人を棄てて、二人の生活を結びあわすんです」
「今だって結びあわされてるじゃありませんか」と彼女は聞えるか聞えないかの声で答えた。
「そう、でも完全に、完全にね」
「だって、どんなふうにするんですの、アレクセイ、教えてちょうだい、どんなふうに?」出口のない自分の立場に対する悲しい嘲りを響かせながら、彼女はこういった。「いったいこんな状態から脱け出す方法があって? だって、わたしは自分の良人の妻じゃなくって?」
「どんな状態からだって、脱け出す方法はありますよ。決心しなくちゃ」と彼はいった。「どんな状態だって、いま君がおかれている状態よりかましだもの。だって僕にはよくわかっているよ、君はいっさいのものに苦しんでいる――世間にも、息子にも、良人にも」
「ああ、ただ良人には苦しみませんわ」と彼女は気さくな薄笑いを浮べていった。「わたしわからないけど、あの人のことなんか考えちゃいませんわ。あの人なんか存在していないんですもの」
「君のいうことは真実みを欠いている。僕は君って人を知ってるんだもの。君はあの人のことでも苦しんでいるよ」
「だって、あの人はてんから知らないんですもの」と彼女はいったが、突然、燃えるような 紅《くれない》の色がその顔に射してきた。頬から額、頭筋までも真赤になって、羞恥の涙が眼ににじみ出た。「まあ、あの人のことはいわないことにしましょう」

[#5字下げ]二三[#「二三」は中見出し]

 ヴロンスキイは、今ほどきっぱりした調子ではなかったけれども、すでに幾度か自分たちの状態を考察するように、彼女に話を向けたものであるが、いつも表面的で軽はずみな彼女の考え方にぶっつかるのであった。今も彼女はその調子で、彼の申し出に答えたわけである。そこにはなにかしら、彼女が自分にもはっきりさせることのできない、否、させたくないようなものがあるらしかった。彼女がその話をはじめるたびに、本当のアンナはどこか、自分自身の内部へひっこんでしまって、彼にとって縁のない、彼の嫌いな、彼の恐れている、奇妙な、別の女が姿を現わして、彼に楯《たて》つくのであった。しかし、今日は彼もすっかりいってしまおうと決心した。
「あの人が知っているにせよ、知らないにせよ」とヴロンスキイは持ち前のしっかりした、おちついた調子でいった。「あの人が知っているにせよ、知らないにせよ、そんなことは僕たちに、なんのかかわりもありゃしません。僕たちは……あなたはこのままでいるわけにいきません、ことに今となっては」
「じゃ、あなたはどうしろとおっしゃるんですの?」と彼女は依然たる軽い嘲笑の調子でたずねた。男が自分の妊娠を軽く受けとりはしないかと恐れていた彼女が、今度は男がそのために何か企てねばならぬという結論をひきだしているのをみて、いまいましくなったのである。
「あの人になにもかも打ち明けて、あの人を棄てて行くのです」
「たいへん結構ですわ。まあ、かりにわたしがそうするとして」と彼女はいった。「それからどうなるかおわかりになって? わたし今からなにもかも話してお聞かせしますわ」たった今まで優しかった彼女の限の中に、毒々しい光が燃えはじめた。「《あなたはほかの男を愛して、その男と罪ふかい関係を結んだんですな?》」彼女は良人の口まねをしながら、カレーニンがいつもするように、罪ふかい[#「罪ふかい」に傍点]という言葉に力を入れた。「《私は宗教、民法、家庭の面において、いかなる結果が生ずるかを、あなたに警告しておきました。ところが、あなたは私のいうことを聞かなかったのです。いまさら私は自分の名を、汚辱にゆだねるわけにいきません……》」彼女は《自分の息子をも》といいたかったのであるか、わが子を冗談事にひきだすわけにいかなかった。「《自分の名を汚辱にゆだねるわけにいかない……》まあ、こんなふうのことを、まだ何かいうでしょうよ」と彼女はつけたした。「だいたいまあ、あの人は持ち前の国士ぶった態度で、明瞭正確に、わたしを手放すことはできないが、しかしできるだけの手段を講じて、外聞の悪いことを避けるようにする、というでしょう。そして、自分のいったことを、おちつきはらって几帳面《きちょうめん》に実行するに違いありません。そういうことになるんですの。あれは人間じゃなくて機械です。しかも、意地のわるい機械ですわ、怒ったときにはね」と彼女はつけ加えたが、その時カレーニンの姿や話しぶりを、こまごましたところまで一つ残らず思い起して、その中に見出しえる限りのものを良人の罪に擬《ぎ》し、自分が良人にたいして犯した恐るべき罪悪のために、かえって何一つ良人を赦そうとしないのであった。
「しかし、アンナ」とヴロンスキイは、彼女をなだめようと努《つと》めながら、相手を説伏しなければやまぬような、しかし物柔らかい声でいいだした。「それにしても、あの人にいわなくちゃならない、そのうえではじめて、あの人のとる方法に従って善処すべきだよ」
「どうするの、駆落ちするの?」
「駆落ちしたってかまわないじゃありませんか。僕はこのままでつづけていけるとは思われない……それも自分のためじゃない――あなたが苦しんでいるのが、目に見えているんだから」
「そう、駈落ちして、あなたの情婦になるんでしょう」と彼女は毒々しくいい放った。
「アンナ」と彼は優しく咎めるような調子でいった。
「そうよ」と彼女はつづけた。「あなたの情婦になって、なにもかも破滅させてしまうんだわ……」
 彼女は、息子をもといいたかったのだが、この一語を口にすることができなかった。
 あの強い潔白な性情をもっているアンナが、どうしてこの偽りの状態を忍びながら、そこから出て行こうとしないのか、ヴロンスキイには合点がいかなかった。しかし、そのおもな原因が、彼女の口に出すことのできない息子という一語にあることが、彼には察しられなかったのである。わが子のこと、その父親をすてた母親に対する将来の関係のことを考えると、彼女は自分のしたことが空恐ろしくなって、もはや冷静に判断しようとせず、ただもう女らしく、すべてをもとのままにして、息子がどうなるかという恐ろしい問題を忘れたい一心に、虚偽の理屈や言葉で自分を安心させようとするのであった。
「わたしお願いするわ、哀願するわ」突然、彼女は男の手をとって、今までとはころりと違った、真実みのある優しい声でいった。「この話はもう二度としないでちょうだい!」
「でも、アンナ……」
「決して二度とね。万事わたしにまかせてちょうだい。自分の立場の卑しさも恐ろしさも、わたしはよっく知っているのですけれど、それはあなたの考えてるほど、たやすくきめられるものじゃないわ。だから、わたしにまかせて、わたしのいうことを聞いてちょうだい。もうわたしに向って、その話は二度としないでね。約束して下さる?……だめ、だめ、約束して!」
「そりゃなんでも約束するけれど、僕はどうしても平気でいられない、ことにいま君のいったことを聞いたあとでは。君が平気でいられないのに、僕だって平気でいられまいじゃないか……」
「わたし?」と彼女はおうむがえしにいった。「そう、わたしもときには苦しみますわ。でも、あなたが二度とこの話をもちだして下さらなければ、こんなこともそのうちになんとかなりますわ。あなたかそのことをいいだしなさると、ただわたしを苦しめるばかりよ」
「わからないなあ」と彼はいった。
「わたしにはわかっていますわ」と彼女はさえぎった。「あなたみたいに潔白な人は、嘘をつくのがさぞ苦しいでしょう。そう思って、わたしあなたがお気の毒なの。わたしよくそう思うんですけど、あなたはわたしのために、自分の一生を台なしになすったのねえ」
「僕もいまちょうどそのことを考えてたんだ」と彼はいった。「君も僕のために、なにもかも犠牲にしてくれたねえ。君が不幸だということで、僕は自分で自分を赦すことができない」
「わたしが不幸なんですって?」男の方へ身をよせて、歓喜の微笑でその顔を見とれながら、彼女はこういった。「わたしはね、お腹のすいた人が食べるものをもらったみたいよ。そりゃ、その人は寒いかもしれません。着物も破れているかもしれません、恥ずかしいかもわかりません。でも、その人は不幸じゃありませんわ。わたしが不幸なんですって? いいえ、これがわたしの幸福なんだわ……」
 ふと近づいてくるわが子の声を聞いて、彼女は素早くテラスを一瞥《いちべつ》して、とっさに立ちあがった。その眼は、ヴロンスキイの見なれた火に燃えだした。彼女は敏捷な身ぶりで、いっぱい指輪のはまった美しい両手を上げ、男の頭をはさんで、じいっと長いこと見つめていたが、笑みを含みながら、唇を開いて、顔を近づけ、すばやくその口と両方の眼に接吻して、つき放した。彼女は行こうとしたが、ヴロンスキイがそれをひきとめた。
「いつ?」有頂天になって女をながめながら、彼は小声できいた。
「今晩一時に」と彼女はささやき、ほっと重い息をつくと、例の軽く早い足どりで、わが子を迎えに行った。
 セリョージャは大公園で雨にあい、保姆《もり》と二人で四阿《あずまや》に坐っていたのである。
「では、さよなら」と彼女はヴロンスキイにいった。「もう急いで競馬場へ行かなくちゃだめよ。ベッチイがわたしを迎えにくるって約束なの」
 ヴロンスキイはちらと時計を見て、そそくさと出て行った。

[#5字下げ]二四[#「二四」は中見出し]

 カレーニン家のバルコンで時計を見た時、ヴロンスキイはひどく不安な気がして、自分の考えたことに気をとられていたため、文字盤の針を見ながら、いったい何時かわからなかった。彼は国道へ出て、ぬかるみの中を用心ぶかく歩きながら、自分の馬車の方へ行った。彼の心は、アンナに対する感情でいっぱいだったので、いったいいま何時やら、ブリャンスキイのとこへ寄る暇があるのやら、ないのやら、なんにも考えなかった。よくあることだが、何のあとには何をすることにきまっているという、外部的な記憶力しか残っていなかった。もう影の斜めになっている茂った菩提樹の下で、馭者台の上に居眠りしている自分の馭者に近づいて、汗ばんだ馬の上で縒《よ》れつ縺《もつ》れつしている蚊や、ぶよ[#「ぶよ」に傍点]にしばらく見とれた後、馭者を起し、馬車に飛び乗って、ブリャンスキイのとこへやれといいつけた。七露里ばかり行った時、やっといくらか正気づいて、時計を見たところ、もう五時半だとわかって、こいつは遅れたぞ、と思った。
 この日は幾種類かの競馬があった。まず護衛兵の競馬、それから将校の二露里競馬、四露里競馬、そのあとが彼の参加している障碍物であった。自分の競馬には間《ま》にあうことができたけれども、もしブリャンスキイのとこへ行ったら、もうやっとこさで、それも陛下や扈従《こじゅう》の臨御されたあとへ着くようになる。それはよろしくなかった。しかし、ブリャンスキイにはぜひよると約束したので、彼はつづけて先へ行くことにし、馭者には三頭立に容赦しないように命じた。
 ブリャンスキイの家へ着くと、五分ほどいたばかりで、もと来た道へひっ返した。この疾駆《しっく》は彼の気持をおちつけた。アンナとの関係にふくまれた重苦しいいっさいのものも、二人の話のあとに残った宙ぶらりんなものも、すべて彼の頭から吹っ飛んでしまった。今や彼は楽しい興奮をいだきながら、競馬のことや、とにかく間にはあうということを考えた。そして、時おり、今夜のあいびきの幸福を期待する念が、あざやかな光のように、想像裡に燃えあがるのであった。
 別荘帰りの馬車や、ペテルブルグから競馬に行く馬車を追い越し追い越し、競馬場の雰囲気へしだいに近づくにしたがって、目前に控えた競馬を思う気持が、いよいよ彼の全幅を領していった。
 彼の宿舎には、もうだれ一人いなかった――みんな競馬へ行ってしまったので、従僕は門のそばで彼を待ちわびていた。彼が着替えしている間に、従僕はもう二番の競馬が始ったこと、大ぜいの旦那が彼のことをたずねに来たこと、厩舎からは二度もボーイが駆けつけたこと、などを報告した。
 急がず騒がず着替えをして(彼は決して急いだり、自制心を失ったりすることかなかった)、ヴロンスキイはバラックへ馬をやるように命じた。バラックからは、もう競馬場をとり囲んでいる馬車、徒歩の人、兵隊などの海が見え、人でわきたっている桟敷が見渡された。どうやら、第二番の進行中らしかった、というのは、彼がバラックに入った時、鈴《りん》の音が聞えたからである。厩に近づくと、マホーチンの持ち馬で、脚の白い栗毛のグラジアートルに出あった。青い縁《ふち》飾りがついているために耳の大きく見える、だいだい色に青の馬衣を着せられて、競馬場へ曳かれて行くところであった。
「コードはどこにいる?」と彼は馬丁にたずねた。
「厩の中にいます、鞍をおいてるところで」
 戸の開いた仕切りの中で、フルー・フルーはもう鞍をつけていた。これから曳き出すところであった。
「遅れなかったね?」
「All right! All right! なにもかもちゃんとしております、ちゃんとして」とイギリス人は答えた。「どうか興奮なさらんで下さい」
 ヴロンスキイはもう一度、全身をふるわしている愛馬の美しい姿を一瞥した後、やっとの思いでこの見ものから目を放しながら、バラックを出た。彼はだれの目もひかないように、ちょうどいいころあいに桟敷へ乗りつけた。たった今、二露里競馬が終ったばかりで、一同の眼は最後の力を揮《ふる》って馬を追いながら、決勝点へ近づいている先頭の近衛騎兵と、それにつづく軽騎兵にそそがれていた。輪《わ》の中からも外からも、人々は決勝点へひしめき寄った。近衛騎兵の一団は兵隊も将校も、自分たちの将校であり同僚である人の優勝を期待しながら、喊声《かんせい》を上げて、喜びを表現していた。勝負の終りを告げる鈴が鳴り渡るとほとんど同時に、ヴロンスキイは群衆の中へ気づかれぬように入った。と、泥のはねだらけになった、背の高い一着の近衛騎兵は、鞍の上につっ伏して、苦しそうな息をしている、汗で黒ずんだ、灰色の牡馬の手綱をゆるめはじめた。
 牡馬は懸命に足をつっぱりながら、大きな体の速度を縮めた。すると、近衛騎兵は重苦しい夢からさめたもののように、あたりを見まわし、かろうじて微笑をもらした。同じ隊や他の隊の人々が、どっとばかり彼をとり囲んだ。
 ヴロンスキイは、桟敷の前を控えめな、しかも自由な態度で動きまわったり、話をしたりしている、一粒選りの上流の人々を、わざと避けるようにしていた。彼はそこにカレーニナも、ベッチイも、兄の妻もいることを知ったが、ほかのことに気をまぎらさないために、わざと彼らのそばへ行かなかった。けれども、ひっきりなしに出会う知人たちは、済んだ競馬の詳細を物語ったり、なぜおくれたのかとたずねたりした。
 優勝者が賞品をもらいに桟敷へ呼ばれて、一同がその方へふりむいた時、ヴロンスキイの兄のアレクサンドルが近よって来た。参謀肩章をつけたこの大佐は、あまり背が高くなく、アレクセイと同様にがっしりした体格だったが、それよりさらに美男で、酔って赤い鼻をしていたけれども、開けっぱなしなバラ色の顔をしていた。
「おまえは僕の手紙を受け取ったかね?」と彼はいった。「おまえはいつ行ってみても、つかまらないんだからなあ」
 アレクサンドル・ヴロンスキイは、放縦な、ことに酒びたりの生活で有名だったが、それにもかかわらず、完全に宮廷風の人間であった。
 今も彼は弟を相手に、きわめておもしろからぬ話をしようとしながら、多くの人々の目が自分たちにそそがれるおそれがあるのを知っていたので、何かつまらないことで弟と冗談をいってでもいるように、笑顔をつくっていた。
「受け取りましたがね、全くのところ、何をあなたが[#「あなたが」に傍点]やきもきされるのか、とんと合点がいきませんよ」とアレクセイはいった。
「僕がやきもきするのはほかでもない、今もおまえがいないことに気がついたし、月曜日にもペテルゴフでおまえに会った人があるという、そのことなんだよ」
「しかし、世の中には、その直接の当事者のみが審議《しんぎ》すべきことがありますからね。あなたのやきもきなさることは、やはりそういった……」
「そう、しかしその時は勤めなんかしないで……」
「僕は干渉しないで下さいとお願いしてるんです、それっきりですよ」
 アレクセイ・ヴロンスキイの眉をひそめた顔は、さっと蒼くなり、つき出た下頤がぴくっとふるえた。こんなことは、彼としては珍しいことであった。彼はきわめて善良な心をもった人の常として、めったに怒ることはなかったけれども、いったん腹をたてて、下頤がふるえると、危険な男になってくるのを、アレクサンドル・ヴロンスキイは心得ていた。アレクサンドル・ヴロンスキイは、愉快そうに微笑した。
「僕はただ、お母さんの手紙を渡そうと思っただけだよ。お母さんに返事を出しなさい。そして、競馬の前に気分を乱しちゃいけないよ。Bonne chance(幸運を祈るよ)」と彼はにこにこしながらつけ加えると、そばを離れてしまった。
 そのあとで、またもや親しげなあいさつの声が、ヴロンスキイをひきとめた。
「君は友人を無視する気なのかい! ごきげんよう、mon cher!(君!)」とオブロンスキイが声をかけた。この燦然《さんぜん》たるペテルブルグの上流人の中でも、モスクワにいる時に負けず劣らず、バラ色の顔と、きれいにつやつやと撫でつけられた頬髯を輝かしている。「昨日やって来たんだがね、君の勝利を見ることができて、非常にうれしいよ。いつ会えるかね?」
「あす集会所へ来てくれたまえ」とヴロンスキイはいい、失礼を謝しながら、外套の袖に握手して、競馬場のまんなかへ行った。そこでは大障碍物競走の馬が、もう曳き出されていた。
 競走をすまして、汗みどろにへとへとになった馬は、馬丁に曳かれて連れて行かれ、次の競走に出る新しい元気な馬が、あとからあとからと姿を現わした。多くはイギリス種で、頭被をかぶり、腹のぐっと緊《し》まっているところでは、大きな怪鳥《けちょう》のようにおもわれた。全体にひきしまった美女フルー・フルーが弾力のこもったかなり長い脛《はぎ》を、バネ仕掛けのように踏みかわしながら、右手へ曳かれて行った。フルー・フルーから遠くないところでは、耳のたれたグラジアートルが、馬衣をとってもらっていた。すばらしい尻をして、蹄《ひずめ》のすぐ上にのっているような感じのする、度はずれに短い脛《はぎ》をもったこの牡馬の、完全に均斉《きんせい》のととのった、大柄な美しい姿は、思わずヴロンスキイの注意をひきとめた。彼は自分の馬の方へ行こうとしたが、またもや知人にとめられた。
「ほら、あすこにカレーニンがいるよ」とその知人は、話をしている途中でこういった。「細君をさがしてるんだ。ところが、細君は桟敷のまんなかにいるんだが、君、会ったかい!」
「いや、会わなかった」とヴロンスキイは答え、知人が指さしたカレーニナのいる桟敷の方へふりむかず、自分の馬に近よった。
 ヴロンスキイが指図しようと思っていた鞍を見る暇もないうちに、騎手たちは番号札を受け取りに桟敷へ行って、それから出発せよと呼び出された。真剣な、厳しい、多くは蒼白な顔をした十七人の将校は、桟敷に集って、番号を抽《ひ》いた。ヴロンスキイは十七番に当った。「乗馬!」という声が聞えた。
 自分がほかの騎手たちとともに、衆目の焦点になっているのを感じて、ヴロンスキイは緊張した気持で、自分の馬に近づいた。彼は緊張すると、おおむね動作がゆっくりして、おちつくのであった。調馬師のコードは晴れの競馬だというので、よそ行きの服を着ていた。それは、ボタンをきっちりかけた黒のフロックコートに、頬をつき上げる糊のきいたカラア、黒の山高帽に、騎兵靴であった。彼は常のごとく、ゆったりとものものしい態度で、フルー・フルーの前に立って、手ずから両方の手綱をおさえていた。馬は依然として、熱病にでも罹《かか》ったようにふるえていた。焔にみちた眼は、近づいてくるヴロンスキイの方へ、ぐっと斜《はす》に向けられた。ヴロンスキイは、腰帯の下へ指を一本さしこんでみた。馬はいっそう眼をやぶにして、歯をむき出し、一方の耳をねかした。イギリス人は唇を皺めた。自分のつけた鞍を検査などするのに対して、冷笑を示そうと思ったのである。
「早くお乗りなさい。そのほうがわくわくしませんから」
 ヴロンスキイは最後にもう一度、自分の競走者たちを見まわした。いったん走り出したら、もう見られないことを知っていたのである。二人は早くも衆に先んじて、スタートの方へ馬を進めていた。危険な競争者の一人であり、ヴロンスキイの友人であるガリツィンは、自分を乗せようとしない栗毛の牡馬のまわりを、うろうろしていた。細い乗馬ズボンをはいた小柄な近衛軽騎兵は、イギリス人のまねをしようと思って、猫のように馬の背中に身をかがめながら、※[#「足へん+鉋のつくり」、第 3水準 1-92-34]《だく》ですすんでいた。クゾヴリョフ侯爵は真蒼な顔をして、グラーボフ牧場産の純血種の牝馬に乗り、イギリス人に轡《くつわ》をとらしていた。ヴロンスキイも同僚一同も、クゾヴリョフの癖を知っていた。神経が『弱い』くせに恐ろしく自尊心が強いのであった。一同は、彼がなんでもかでも恐れることを知っていた。彼は軍馬を走らせるのを恐れているくせに、今は軍馬で競走することに決心したのである。それはほかでもない、それが恐ろしいことであるのと、よく人が頸の骨を折るのと、障碍物の一つ一つに軍医がおり、赤い十字を縫いつけた病院車や、看護婦が控えているからであった。二人は目と目を見合わせた。ヴロンスキイは賛成といったように、愛想よく彼に瞬きして見せた。ただ一人、最も主な競争者である、グラジアートルに乗ったマホーチンだけは、そこに見あたらなかった。
「お急ぎにならないで」とコードはヴロンスキイにいった。「そして、一つだけ覚えていていただきたいのは、障碍物の前で手綱をしめても、ゆるめてもいけないということです。馬のするままにさせてお置きなさい」
「よろしい、よろしい」とヴロンスキイは手綱をとっていった。
「もしできれば、先頭にお立ちになることですが、たとえあとになっても、最後の一分まで自暴《やけ》になっちゃいけません」
 馬が動く暇のないうちに、ヴロンスキイはしなやかな力強い動作で、刻み目を入れた鋼鉄の鐙《あぶみ》に片足かけ、ひきしまった体をぎいぎい音の鞍の上に、軽々と、しかもしっかりおちつけた。右足を鐙にはめ、二重になった手綱を、慣れた手つきで指の間に巧《うま》くおさめた。すると、コードは手を放した。どの脚から先に踏出したらいいかわからないように、フルー・フルーは長い頸で手綱をひっぱったと思うと、バネ入りのようにしなやかな背の上で、乗り手を軽く揺りながら歩き出した。コードは歩度を速めながら、あとからついてきた。興奮した馬は、乗り手をだまそうとしながら、左右かわるがわる手綱を引いた。ヴロンスキイはそれをなだめようとして、声と手で空しい努力をするのであった。
 もう彼らは、スタートになっている場所をさして、堰《せ》き止めてある川のそばへ近づいていた。騎手は前の方にも、うしろの方にも、大ぜいいたが、突然ヴロンスキイは自分のうしろから、ぬかるみの道を※[#「足へん+鉋のつくり」、第 3水準 1-92-34]《だく》で走ってくる馬蹄の音を聞きつけた。と、あの脚が白くて、耳の大きいグラジアートルに跨《また》がったマホーチンが、彼を追い越した。マホーチンは大きな歯をむき出しながら、にっこり笑った。けれど、ヴロンスキイは怒ったように彼をじろっと見た。概して、彼はこの男を好かなかったが、今は彼を最も危険な競争者と見なしていたので、彼がそばを駆けぬけて、自分の馬を逸《はや》らせるのがいまいましかった。フルー・フルーは※[#「足へん+鉋のつくり」、第 3水準 1-92-34]《だく》の姿勢で、右脚をさっと上げると、二つばかり跳ねた。そして、手綱がしまっているのに腹をたてて、速足に移り、騎手を揺り上げ、揺り上げしはじめた。コードも同じく眉をひそめ、しゃれた足つきで、ほとんど走るように、ヴロンスキイのあとを追った。

[#5字下げ]二五[#「二五」は中見出し]

 競走に加わった将校は、全部で十七人であった。競馬は、桟敷の前面にひろがった周囲四露里もある、大きな楕円形の囲いの中で行われることになっていた。この囲いの中に、九つの障碍物が設けてあった。河、桟敷のすぐ前にある高さ三尺の板を張った大きな柵、水のない溝、水のある溝、斜面、アイルランド式の踏※[#「土へん+朶」、第3水準 1-15-42]《バンケット》(それは、枯枝を一面に突き刺した土坡《どは》で、一番むずかしい障碍物の一つであった)、そのかげに――馬の目に見えないように――もう一つ溝が設けてあったので、馬は一度に二つの障碍物を跳《と》び越すか、命を落すかしなければならなかった。そのあとになお二つの溝――水のあるのとないのとがあって、決勝点は桟敷の反対側になっていた。けれど、競馬のスタートは円周の中ではなくて、それより百間ばかり離れたわきのほうになっていた。しかも、これだけの距離の間に、第一の障碍物があった――それは、幅七尺ばかりの水を堰《せ》いた河で、跳《と》び越そうと歩いて渡ろうと、騎手たちの随意になっていた。
 騎手たちは、三度ばかり一列に並んだが、そのたびにだれかの馬が前に乗り出すので、またしてもはじめからやりなおさねばならなかった。スタートの名人になっているセストリン大佐は、もう癇癪を起しかけたが、四度目にやっと号令をかけることができた。「進めえ!」――と、騎手たちはいきなりぱっと飛び出した。
 すべての目、すべての双眼鏡は、騎手たちがスタートで列を作りはじめた時から、色さまざまなその一団に向けられていた。
「そら出た! 走り出した!」期待の沈黙がつづいたあとで、あちらからもこちらからも、こういう声々が聞えた。
 群を作っているのや、一人一人別になっている立ち見の連中は、すこしでもよく見えるように、ちょこちょこ歩きながら、あっちこっち場所を変りはじめた。騎手の集団は、もう最初の瞬間から少し延びて、あるいは二人ずつ、あるいは三人ずつ、あとからあとからと川へ近づくのが見えた。観衆の目には、みないっしょに駆け出したように見えたが、騎手たちにとっては重大な意義を有する一秒、ないし二秒の差があったのである。
 興奮しているうえに、あまり神経質すぎるフルー・フルーは、最初の瞬間を逸したので、幾頭かの馬にスタートを先んじられたが、まだ川まで走り着かないうちに、ヴロンスキイは、むやみに手綱をぐんぐんとひく馬を、一生懸命におさえながら、苦もなく三頭を抜いてしまった。
 もう彼の前には、すぐ鼻の先で軽々と尻で拍子をとっている、マホーチンの栗毛グラジアートルと、一番のトップを切っている美しいジアナと、この二頭だけになった。ジアナは、生きた心地もないクゾヴリョフを乗せて、走っていた。
 はじめ幾分かのあいだ、ヴロンスキイはまだ自分をおさえることも、馬を制御することもできなかった。第一障碍物の川に着くまでは、馬の運動を指導できなかった。
 グラジアートルとジアナは、いっしょに川へ近づいて、ほとんど同じ瞬間にさっと河の上へ飛びあがり、向かい側へ跳《おど》り越した。フルー・フルーは目にも止まらぬ早業で、さながら空とぶ鳥のように、二頭のあとから高く舞いあがった。ヴロンスキイは、体が空中へもちあがったなと感ずると同時に、思いがけなく自分の馬のほとんどすぐ下に、川の向こう側でクゾヴリョフがジアナといっしょに、ばたばたもがいているのに気がついた(クゾヴリョフは跳んだあとで、手綱をゆるめたので、馬は彼を乗せたままもんどりうったのである)。ヴロンスキイがこの顛末《てんまつ》を知ったのはあとのことで、その時はただ、フルー・フルーが足をおろすべき場所が、ジアナの足か頭かにあたりはしないかと、それを気づかっただけである。けれど、フルー・フルーは、ちょうどおちていく猫のように、跳躍のあいだに足と背に力を入れて、馬をよけて飛びおり、そのまま先へ突進した。
『おお、かわいいやつ……』とヴロンスキイは考えた。
 川を越してからは、ヴロンスキイは完全に馬を自由に扱えるようになった。で、大きい柵はマホーチンのあとから越して、その先の無障碍区間二百間ばかりのところで、彼を追いぬいてみようと計画しながら、馬をひきしめにかかった。
 大障碍の柵は玉座のまん前にあった。彼らが悪魔(この板張りになった柵は、こういう綽名《あだな》をつけられていた)のそばへ近づいた時、皇帝も、廷臣一同も、群衆も――あらゆる人が彼ら二人、ヴロンスキイと、一馬身だけ先に立っているマホーチンを見つめていた。ヴロンスキイは、四方からそそがれているこれらの視線を身に感じながら、何一つ目に止まらなかった。彼が見ているのは、ただ自分の馬の耳と頸、それに向こうからこちらを目がけて飛んでくる地面と、彼の前で目まぐるしく拍子をとりながら、いつも同じ距離を保って行くグラジアートルの胴体と、白い足ばかりであった。グラジアートルは飛びあがったかと思うと、何一つぶっつかった音も立てず、短い尾をひとふりして、ヴロンスキイの視界から消えてしまった。
「ブラーヴォ!」とだれかの声が叫んだ。
 その瞬間、ヴロンスキイのすぐ前、というより彼の眼の下に、柵の板がちらと見えた。馬は運動にいささかの変化を示さないで、彼を乗せたまま舞いあがった。板は隠れた。ただうしろで、何かがたりと音がしただけである。先頭に進んでいるグラジアートルのために逸《はや》り立ったフルー・フルーは、柵の手前で、あまり早く飛びあがったので、後足の蹄《ひづめ》で板を打ったのである。けれど、彼女の歩調は狂わなかった。ヴロンスキイは、泥の塊《かたま》りを顔にはねつけられながら、またグラジアートルと同じ距離になったのを悟った。彼はまたしても自分の目の前に、グラジアートルの胴体と、短い尻尾と、相変らず遠ざかりもせず迅速に動く白い足を見た。
 ヴロンスキイが、今こそマホーチンを追いぬかなければと思った同じ瞬間に、フルー・フルーは早くも彼の意中を察して、まだなんの合図も受けないうちに、ぐんと歩度を加え、いちばん有利な側面――縄を張ってある方からマホーチンに近づきはじめた。けれど、マホーチンは縄の方へ近づけないようにした。ヴロンスキイが外側からでも抜けると考えるが早いか、フルー・フルーはもう足を変えて、そのとおりに追い越しはじめた。もう汗で黒ずみかけたフルー・フルーの肩は、グラジアートルの胴体と並行した。しばらくのあいだ彼らは並んで走った。けれど、やがて近づいて来た障碍物の手前で、ヴロンスキイはあまり大きく外廻りをしないように、手綱を操《あやつ》りながら、斜面の上ですばやくマホーチンを追い越した。泥のはねで汚れた相手の顔が、ちらっと彼の目に映った。相手がにやりと笑ったようにさえ思われた。ヴロンスキイはマホーチンを抜いたが、それでも自分のすぐうしろに敵手の存在を感じ、背中のすぐそばに拍子ただしい蹄の音をたえまなく聞き、きれぎれな、まだなまなましいグラジアートルの息を感じた。
 つづく二つの障碍物――溝と柵は、難なく越された。しかし、ヴロンスキイの耳には、グラジアートルの鼻息と蹄の音が、いっそう近く聞えて来た。彼は馬に拍車《はくしゃ》を入れた。と、フルー・フルーがやすやすと速力を加えたのを感じて、喜びを禁じえなかった。グラジアートルの蹄の音は、ふたたび前と同じ距離で聞えはじめた。
 ヴロンスキイは先頭になった。それは自分でも望んだことだし、コードもすすめたことである――今では彼も成功を信じて疑わなかった。彼の興奮と喜びと、フルー・フルーに対する優しい愛情は、次第に強くなって行った。あとをふり返って見たくてたまらなかったけれど、思い切ってそうすることができなかった。そして、グラジアートルに残っていると感じられただけの余力を、自分の馬にも蓄えておくために、なるべく気をおちつかせるようにしながら、馬にも拍車を入れないようにつとめた。ただ一つ、しかも最も困難な障碍物が残っていた。それさえまっさきに越したら、彼は第一着となるに相違ない。彼はアイルランド式踏※[#「土へん+朶」、第 3水準 1-15-42]《バンケット》を目ざして突進した。彼はフルー・フルーといっしょに、まだ遠くの方からこの踏※[#「土へん+朶」、第 3水準 1-15-42]《バンケット》を見た。と、彼らは両方とも、人も馬も、一瞬間、疑惑に襲われた。彼は馬の耳に躊躇の動きを認めて、鞭をふり上げた。けれどもすぐに、その疑惑は根拠のないものだと感じた。馬はなすべきことを心得ていた。フルー・フルーはぐっと身を乗り出すと、彼が予想したのと寸分たがわず正確に一跳ねして、大地を蹴ったまま惰力に身をまかせ、その力に乗って、遠く溝の向こう側まで飛んでいった。それから、フルー・フルーはなんの努力もなく、同じ調子、同じ足どりで疾走をつづけた。
「ブラーヴォ! ヴロンスキイ!」障碍物のそばに立っていた一団の人々のこう叫ぶ声が、彼の耳にも聞えた――彼は同じ連隊仲間の声だと承知していた。彼は、ヤーシュヴィンの声をいやでも聞き分けたが、その姿は見えなかった。
『おお、なんてかわいいやつだ!』と彼はうしろの気配に耳を澄ましながら、フルー・フルーのことを考えた。『越しやがったな!』うしろにグラジアートルの跳躍の音を聞きつけて、彼はこう考えた。もう残っているのは、幅四尺五六寸の、水をたたえた最後の溝が一つだけであった。ヴロンスキイはもう、そんなものなど眼に入らなかった。彼は大きく差をつけて、一着になりたいと思ったので、疾走の勢いにうまく拍子をあわせて、馬の頭を上げたり下げたりしながら、円形を描くように手綱をさばきはじめた。馬が最後の力を出しながら、走っているのを感じた。馬は肩や頸をびっしょり濡らしているばかりでなく、たてがみや頭や尖った耳の上にも、汗が玉をなして滲《にじ》み出していた。彼女ははっはっと呼吸していた。けれど、この最後の力だけでも、残りの二百間には十分なのを、彼は承知していた。ヴロンスキイは、自分の体がいっそう地面に近づいたように感じたのと、一種特別な柔らかい動き方によって、自分の馬がうんと速力を加えたのを知った。小溝などは、まるで気もつかぬように飛び越えた。まるで小鳥のように飛び越えたのである。
 けれども、ちょうどその瞬間に、ヴロンスキイは自分が馬の運動に従わないで、自分でもどういうことかわけがわからなかったが、鞍の上に尻を落して、騎手として許すことのできないような拙《つたな》い動作をした。彼はそれを感じてぎょっとした。と、たちまち彼の姿勢が変った。彼は、何か恐ろしいことが起ったのを感じた。まだ何ごとか起ったのか、はっきり思いめぐらす暇もないうちに、早くも栗毛の牡馬の白い足が彼のすぐそばに閃き、マホーチンが全速力で駆けぬけて行った。ヴロンスキイの片足が地面にふれた。そして、馬の体がその上に倒れかかった。彼がやっとのことで足を抜くか抜かぬかに、馬は横だおしに打ち倒れて、苦しげにぜいぜい喘《あえ》ぎながら、起きあがろうと努力して、その細い汗みどろの頸を空しくさしのべるのであった。彼女はまるで弾丸《たま》を受けた小鳥のように、彼の足もとでばたばたと身をもがいた。ヴロンスキイの拙《つたな》い動作が、背骨を折ったのだ。けれども、彼がそれを悟ったのは、ずっと後のことである。いま彼が感じたのは、マホーチンが見るみるうちに遠ざかって行くことと、自分がじっと動かぬ汚ない地面に、よろよろしながら立っていることと、フルー・フルーが苦しげに息をつきながら、彼の前に身を横たえて、主人の方へ頭をねじむけながら、その美しい眼で見つめていること、ただそれだけであった。ヴロンスキイはそれでもまだ、どうしたことやら、はっきり合点がいかないで、馬の手綱をぐいとひっぱった。馬はまた小魚のように全身びくびくさして、鞍の両翼をはためかせながら、前足を立てようとしたが、尻を持ち上げるだけの力がなく、すぐによろよろとなって、また横だおしに倒れてしまった。ヴロンスキイは、興奮のあまり醜くなった顔を真蒼にしながら、下顎をがくがくふるわせ、靴の踵で馬の腹を蹴って、またもや手綱をひっぱりはじめた。けれども、馬は動かなかった。鼻面を土の中へおしつけて、例のものういような眼つきで、ただじっと主人を見上げるばかりであった。
「あああ!」とヴロンスキイは両手で頭を抱えながら、うめき声を立てた。「あああ! おれはなんということをしたんだ!」と彼は叫んだ。「競馬には負けてしまった。しかも、それはおれ自身の罪なのだ、恥ずかしい、許すべからざる罪なのだ! おまけに、あたらかわいい馬を台なしにしてしまった! あああ! おれはなんということをしたんだ」
 大ぜいの人や、医者や、看護手や、同じ連隊の将校たちが、彼の方へ走ってきた。なさけないことに、彼は自分が無事で、少しも負傷していないのを感じた。馬は背骨を折っていたので、射殺ということにきまった。ヴロンスキイは、人々の質問に答えることもできなければ、だれ[#「だれ」は底本では「たれ」]一人に口をきくこともできなかった。彼はくるりと踵《くびす》を返すと、頭から落ちた帽子を拾おうともしないで、自分でもどこへという考えなしに、さっさと競馬場を出ていった。彼は自分を不幸な人間と感じた。彼は生れてはじめて極度の苦しい不幸――自分が因《もと》となったとり返しのつかない不幸を、身に体験したのである。
 ヤーシュヴィンは帽子を持って彼に追いつき、家まで送っていった。三十分の後、ヴロンスキイはわれに返った。しかし、この競馬の思い出は、彼の生涯のうちで最も重苦しく、悩ましい追憶として、永久に彼の心に残ったのである。

[#5字下げ]二六[#「二六」は中見出し]

 妻に対するカレーニンの態度は、外面から見ると、もとのとおりであった。たった一つ違ってきたのは、彼が前よりもっと多忙になったことである。前年と同じように、春になると共に、冬のあいだ毎日毎日懸命に働くため損《そこな》った健康を回復に、外国の温泉に出かけた。そして、いつものとおり、七月に帰ってくると、すぐさま前にも増した精力をもって、例のごとき仕事にとりかかったのである。そして、いつものとおり、妻は別荘へ移り、彼はペテルブルグに残った。
 トヴェルスカヤ公爵夫人の夜会の後、アンナと話しあって以来、彼はもう二度と妻に自分の疑念や、嫉妬の話をしなかった。で、だれかの役を演じているような、例のごとき彼の調子は、今のような妻に対する関係のためには、このうえなく便利なものとなった。彼は前より、いくらか妻に対して冷淡になった。彼ははじめてあの夜、話しあおうとしたのに、妻がそれを避けたことに対して、ちょっとした不満を持っている。ただそれだけのように思われた。妻に対する彼の態度には、いまいましさの陰があったが、それきりだった。
『おまえは、私と本当に話しあおうとしなかったが』と彼は心の中で妻に向って、こういっているようであった。『それは結局、おまえの損なんだよ。今となっては、おまえのほうから頼んでも、私は話しあいなんかしないからね。結局、おまえの損になるばかりだ』と彼は心の中でいった。それはちょうど、火事を消そうとして空しい努力をしたあげく、自分の空しい努力に腹をたてて、『さあ、これがおまえの罰だ! それならもうかってに燃えろ!』という人のようであった。
 彼も――勤務にかけては聡明で、細かい神経をもった人物も、妻に対するそうした態度がはなはだ気違いめいていることを、理解しなかった。理解しなかったのは、自分の本当の立場を理解するのが、あまりに恐ろしかったからである。で、自分の家族、すなわち妻子に対する、自分の感情をおさめた手箱の蓋《ふた》をしめ、鍵《かぎ》をかけ、封印をしてしまった。これまで注意ぶかい父親であった彼が、この冬の終りごろから、わが子に対してひどく冷淡になり、わが子に対しても、妻に対する時と同じ、小ばかにしたような態度をとりはじめた。「ああ! わが青年!」と彼はセリョージャにいうのであった。
 カレーニンは、今年ほど勤務上の仕事の忙しいことはないと、考えもし、いいもした。しかし、彼はこういうことを意識しなかった――彼は今年わざと自分で仕事を考え出したので、それは妻子に対する感情と、思想の入っている箱を、開けない方法の一つであったが、それが長く入っていればいるほど、恐ろしくなるのであった。もしだれかがカレーニンに、あなたは奥さんの行状をどう思っていらっしゃいますかと、きく権利をもっているとしたら、柔和で温厚なカレーニンは、なんにも返事をしないで、そんなことをきいた男に腹をたてたに相違ない。つまり、それがために、妻の健康をきかれた時のカレーニンの表情が、何か傲慢《ごうまん》で厳《いか》めしくなるのであった。カレーニンは妻の行状や感情のことは、なんにも考えたくなかったし、事実、彼はそれについて、何一つ考えなかったのである。
 カレーニン家のいつもきまった別荘はペテルゴフにあって、たいてい、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナが、毎年の夏、近所に住んで、始終アンナと交渉をもつ習わしになっていた。ところが、今年はリジヤ・イヴァーノヴナはペテルゴフで暮すのをやめて、一度もアンナを訪ねてこず、カレーニンにむかって、アンナがベッチイやヴロンスキイと親しくするのはおもしろくない、とほのめかすのであった。カレーニンはそれをおし止めて、自分の妻はそんな疑いを超越していると言明したが、それ以来リジヤ・イヴァーノヴナを避けるようになった。彼は、社交界で多くのものが、自分の妻を白眼でにらんでいることを、見まいとしたし、また見もしなかった。そして、妻がベッチイの住んでいるツァールスコエ――ヴロンスキイの連隊の野営地に近いツァールスコエヘ移ろうと、特にいいはったわけを、理解しようとしなかった、また理解しなかったのである。彼はそんなことを考えるのを、いさぎよしとしなかったし、また考えもしなかったが、それと同時に、決して自分で自分にそんなことをいいもせず、またそれに対する証拠はもちろん、疑惑さえなかったにもかかわらず、心の深い底のほうでは、自分が欺《あざむ》かれたる良人であることをまちがいなく承知し、そのために心から不幸であった。
 八年間の幸福な結婚生活のあいだに、世間の不貞な妻や欺かれた良人を見て、カレーニンは幾度こういったことだろう。『どうしてあんなになるまで、うっちゃっといたのだろう? どうしてあの醜悪な状態を解決しないんだろう?』ところが、いま不幸が自分の頭上に落ちてきた時、彼はこの状態を解決しようと考えなかったばかりか、その事実を認めようともしなかった。彼が認めようとしなかったのは、それがあまりに恐ろしく、あまりに不自然だったからである。
 外国から帰って以来、カレーニンは二度別荘へ行った。一度は食事をし、一度は客と一夕をすごしたが、以前の習慣に反して、一度も泊まらなかった。
 競馬の当日は、カレーニンにとってはなはだ多忙な一日《いちじつ》であった。しかし、朝のうちに一日の時間割をきめた。早|昼食《ひる》をすましたら、すぐ妻のいる別荘へ行き、そこから競馬へ駆けつける。そこには両陛下が扈従《こじゅう》を従えて、臨御されるはずであるから、ぜひ顔を出さなければならない。妻の所へは、世間体《せけんてい》のために週に一度、行くことにきめていたからでもあるし、そのほか、一定のしきたりに従って、この十五日に生活費を渡さなければならないからでもあった。
 妻に関してこれだけのことを考えた後、自分の想念を支配する習慣から、それ以上妻のことをいろいろと考えるのは、自分で自分に許さなかった。
 この朝、カレーニンは多忙をきわめた。前日、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナが、有名な中国旅行家のパンフレットを送ってきて、当の旅行家に会ってもらいたい、それはさまざまな点から考えてしごく興味のある、また必要な人物だから、と添え手紙をしてよこした。カレーニンは昨夕、そのパンフレットを読み終ることができなかったので、朝になって残りを読んだ。それから、請願人が出頭して、報告、面接、任命、免職、賞与や年金や俸給の割振り、往復文書――カレーニンのいわゆる日常茶飯事がはじまって、それが非常に時間をとった。そのあとは私事で、医師が来訪し、執事がやってきた。執事はあまり手間をとらせなかった。ただカレーニンに必要な金を渡して、財政状態を簡単に報告しただけであるが、それはあまりよくなかった。というのは、今年は私用の旅行が多くて、支出がかさみ、赤字が出たからである。そのかわり、カレーニンと友だち関係になっているペテルブルグで有名な医師は、ひどく時間を潰さした。カレーニンは今日この医師を期待していなかったので、突然の来訪に驚かされた。ことに、医師がひどくまじめに、カレーニンの健康を根掘り葉掘りききただし、胸部を聴診したり打診したり、肝臓をおさえてみたりしたから、なおさらびっくりしてしまった。カレーニンは次の事情を知らなかったのである。彼の親友であるリジヤ・イヴァーノヴナが、今年はカレーニンの健康が思わしくないと見てとって、行って病人を診察してほしいと、この医師に頼んだのであった。
「どうかわたしのために、そうして下さいな」と伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナは、医師にそういった。
「私はロシヤのためにいたしますよ、伯爵夫人」と医師は答えた。
「かけがえのないかたですものね!」とリジヤ・イヴァーノヴナはいった。
 医師は、カレーニンの容態にひどく不感服であった。彼の診察によると、肝臓はいちじるしく腫《は》れているし、食欲は減退して、温泉の効果は少しも認められないのであった。彼は、なるべく肉体運動に力を入れて、精神的緊張を減らし、ことに心配事はいっさい無用と命じた。それはつまり、カレーニンにとっては、呼吸をせずにいろというのと同様に、不可能なことであった。こうして、医師はカレーニンの心に、何か自分の内部にはよくないことがあるけれどもそれを匡正《きょうせい》することは不可能だという、不快な意識を残して、立ち去った。
 カレーニンのもとを辞した医者は、入口階段のところで、カレーニンの事務を鞅掌《おうしょう》している、かねてごく懇意な仲のスリュージンに、ぱったり会った。彼らは大学時代からの友だちで、めったに会うことはなかったけれど、お互どうし尊敬しており、したがって、きわめて親しい間柄であった。こういうわけで、病人について忌憚《きたん》のない意見を述べるのに、スリュージンほど適当の聞き手はなかったのである。
「君が見に来てくれて、じつによかった」とスリュージンはいった。「どうもアレクセイ・アレクサンドロヴィッチは具合がよくない。それに、僕の見るところでは……しかし、どうなの?」
「じつはね」スリュージンの頭越しに、自分の馭者に手をふって見せ、馬車をまわすようにと合図しながら、医師はいった。「じつはね」と医師は白い手にキッド革の手袋をとって、指にはめながらいった。「絃《いと》を強く張らずにおいて、そいつを切ろうとしても、なかなか容易じゃないが、これ以上だめというまで張って、その張りつめた絃を指一本でおさえてみたまえ、――ぷつんと切れてしまうから。ところが、あの人は辛抱づよくて、仕事に対して良心的だから、これ以上だめというところまで張りつめているわけだ。そこへもってきて、わきのほうから圧迫がくわえられている、しかも重い圧力だからね」と医師は意味ありげに眉を上げて、こう結んだ。「ときに、競馬へ行くかね?」廻された馬車の方へ降りて行きながら、彼はつけ加えた。「そう、そう、もちろん、非常な暇つぶしさ」スリュージンに何かいわれたが、よく聞えないままに、医師はこう答えた。
 ひどく手間をとらした医師のあとから、有名な旅行家が姿を現わした。カレーニンは読んだばかりのパンフレットと、この方面に関して前から蓄えていた知識を利用して、おのれの博学と文化的な視野の広さで、旅行家を驚かした。
 この旅行者と同時に、ペテルブルグへ出て来たさる県の貴族団長の来訪が取りつがれた。この男とは用談があったのである。これが帰ると、そのあとでスリュージンと日常茶飯事を片づけ、それからさらに重大な用件で、ある名士を訪問しなければならなかった。カレーニンはやっと、五時の食事までに帰ることができた。スリュージンといっしょに食事をすると、彼を誘って、別荘行と競馬見物に同行させることにした。
 自分でもそれを意識しないままに、今もカレーニンは妻と会うのに、第三者をそばにおく機会を求めていたのである。

[#5字下げ]二七[#「二七」は中見出し]

 アンナは二階で鏡の前に立ちながら、アンヌシカに手伝わせて、いま最後のリボンを服にとりつけるところであったが、ふと車寄せのあたりで砂利を噛む轍《わだち》の音を耳にした。
『ベッチイにしては早すぎるわ!』と彼女は考えて、窓の外をのぞいた。と、箱馬車が目に入り、その中からつき出ている黒い帽子と、知りすぎるほど知っているカレーニンの耳が見えた。『これは都合のわるいこと。いったい泊まるのかしら?』と彼女は考えたが、それから生じる結果を思うと、恐ろしくてたまらなくなったので、彼女は一刻も思案せず、楽しげに顔を笑みかがやかせて、良人を出迎えにいった。早くも自分の内部に、かねて覚えのある虚偽と、欺瞞の悪魔がひそんでいるのを感じながら、彼女はすぐさまこの悪魔に身をゆだね、自分でも何をいうかわからずに、しゃべりだした。
「まあ、よくいらっしゃいましたこと!」良人に手をさしのべ、スリュージンには内輪の人として微笑であいさつしながら、彼女はこういった。「あなた、今夜は泊まって下さるでしょうね?」これが虚偽の悪魔の助言した最初の言葉であった。「ところで、今はごいっしょにまいりましょう。ただ残念なのは、わたしベッチイに約束したことなんですの。あのひと、わたしを迎えに来てくれることになってますのよ」
 カレーニンは、ベッチイの名を聞くと、顔をしかめた。
「いやあ、私は何も離れがたい仲をひき離そうとはしないよ」と彼は例の冗談口調でいった。「私はスリュージン君といっしょにいくから、それに、医者も運動しろというから、途中すこし歩くよ。そして、温泉場にいるものと想像しよう」
「何もお急ぎになることありませんわ」とアンナはいった。「お茶はいかが?」
 彼女はベルを鳴らした。
「お茶を持ってきてちょうだい。それからセリョージャに、お父さまがいらっしたといってね。ときに、あなたのお体はどうですの? ミハイル・ヴァシーリッチ、あなたここにおいでになったことがおありですの? 見て下さいな、うちのバルコンはいい気持でしょう」と彼女は二人にかわるがわる、話しかけるのであった。
 彼女の話しぶりはきわめて率直で、自然だったが、しかしあまり言葉が多すぎ、あまり早口すぎた。彼女は自分でもそれを感じた。ことに、自分を見るスリュージンの好奇心にみちたまなざしで、彼女はこの男が自分を観察しているらしいのを見てとったので、なおさらそう感じないわけにいかなかった。
 彼女は良人のそばへ腰をおろした。
「あなた、あまりお顔の色がすぐれないようですわね」と彼女はいった。
「ああ、きょう医者がやってきてね、一時間も暇をつぶさしたよ。これはどうも友だちのだれかが、私のところへさしむけたらしい。それほど私の健康は貴重なものとみえるよ……」
「それよか、お医者さまはなんとおっしゃいまして?」
 彼女は良人の健康や仕事のことを、いろいろとたずねたあげく、休暇をとって自分のところへ移るように勧めた。
 そういったようなことを、彼女はさも楽しそうに、早口に、一種特別の光を眼にたたえながらいった。しかし、今カレーニンは彼女のこうした調子に、なんの意味も認めなかった。ただ妻の言葉を聞いて、その言葉のもっている直接の意味を認めるだけであった。そこで、彼はふざけた口調ではあったが、率直に受け答えをした。この会話ぜんたいに、何一つ特別なものはなかったが、アンナはその後いつになっても、羞恥の悩ましい痛みを感じずには、この短い一場面を思い出すことができなかった。
 セリョージャが、家庭教師につれられて入ってきた。もしカレーニンがあえて観察眼を働かせたなら、セリョージャがおどおどした、途方にくれたような目つきで、父と母とを見上げたのに、心づいたのであろう。しかし、彼は何も見たくなかったので、何一つ見なかった。
「ああ、青年! 大きくなったものだね。本当に、りっぱな一人前の男になっていく。ごきげんよう、わが青年」
 そういって、彼はおびえたようなセリョージャに手をさしのべた。
 セリョージャは前から、父親に対しては臆病だったが、カレーニンが彼をわが青年と呼びはじめて以来、またヴロンスキイが味方か敵かという疑念が、頭に忍びこんでからというもの、父を避けるようになった。彼は保護を求めるように、母親の方をふり返った。ただ母といるときだけ、彼はぐあいがよかった。そのあいだに、カレーニンは家庭教師に話しかけて、わが子の肩に手をのせていたが、セリョージャは苦しくてたまらず、今にも泣きだしそうなのを、アンナは見てとった。
 わが子が入ってきた瞬間、さっと顔を赤らめたアンナは、セリョージャのばつの悪そうな様子を見ると、つと立ちあがって、わが子の肩にのっているカレーニンの手をのけ、わが子に接吻して、テラスへ連れて出たと思うと、すぐさまひっ返した。
「でも、もう時間ですわ」と彼女は自分の時計を見て、いった。「どうしてベッチイはこないのかしら……」
「そう」とカレーニンはいった。そして、椅子から立つと、手を組みあわせて、ぽきぽきと指を鳴らした。「私はおまえに金を渡そうと思って、よったんだよ。なにしろ、鴬《うぐいす》だっておとぎ話だけで飼うことはできないからね」と彼はいった。「おまえも要《い》るだろうと思って」
「いいえ、いりません……でも、いりますわ」良人の顔を見ず、髮の根まで赤くして、彼女はそういった。「そして、あなたも競馬のあとで、ここへいらっしゃるでしょうね」
「ああ、くるとも!」とカレーニンは答えた。「そら、ペテルゴフの花、トヴェルスカヤ公爵夫人のお越しだ」イギリス風の馬具をつけた、バネの上に車体が恐ろしく高くのっている幌馬車が近よるのを、窓越しに見て、彼はこうつけ加えた。「じつにしゃれた車だね! すてきだ! さあ、われわれもいくとしようか」
 トヴェルスカヤ公爵夫人は、馬車から降りなかった。ゲートル付きの靴をはいて、肩あてをのせ、黒い帽子をかぶった従僕が、車寄せへ飛び降りたばかりである。
「じゃ、わたしまいりますわ、さよなら!」といって、アンナはわが子に接吻し、カレーニンに近づいて、手をさしのべた。「ほんとに、よくいらして下さいましたわね」
 カレーニンは妻の手を接吻した。
「じゃ、さよなら! あなたお茶を飲みにいらっしゃいますわね、けっこうですわ!」といい、彼女は楽しげに笑みかがやきながら、出て行った。けれども、良人の姿が見えなくなるやいなや、彼女は自分の手に良人の肩のふれた場所を感じて、嫌悪の念にぶるっと身ぶるいした。

[#5字下げ]二八[#「二八」は中見出し]

 カレーニンが競馬場に姿を現わした時、アンナはもうベッチイと並んで、上流社会の全部が集っている桟敷に坐っていた。彼女はまだ遠いところから、良人に気がついた。良人と情夫、この二人は彼女にとって、生活の二つの中心だったので、外部の感覚の助けをからずとも、彼女は常にその接近を感じた。彼女はまだ遠くのほうから、良人の接近を感じたので、群衆の波を分けて動いている彼の姿を、思わずじっと注視した。見ると彼は、ごきげんをとるような会釈にたいして、わざとていねいに応えたり、同輩にはあるいは親しげな、あるいは放心したようなあいさつのしかたをしたり、この世の権力者に会うと、一生懸命にその視線を待ち受けて、耳の端をおさえつける大きな円い帽子をとりながら、桟敷の方へ近づいてくるのであった。
 良人のこういう態度は、彼女のよく知りぬいているところで、それが一から十までいやらしかった。
『ただ虚栄心ばかり、ただ成功したいという気持ばかり――あの人の心にあるのは、ただそれっきりなんだわ』と彼女は考えた。『高遠な思想、文化にたいする愛、宗教、そんなものはみんな、成功のための武器にすぎないんだわ』
 婦人席を見まわす彼の目つきによって(彼はまともに妻の方を見ながら、紗《しゃ》の着物や、リボンや、羽や、パラソルや、花の海にまぎれて、見分けがつかなかったのである)、彼が自分をさがしているのを悟った。しかし、彼女はわざと良人に気のつかないふりをしていた。
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ!」と公爵夫人ベッチイは叫んだ。「あなたはきっと奥さまがお目に入らないんでしょう。ここですよ!」
 彼は持ち前の冷やかな笑い方で、にっとほほえんだ。
「ここはあまり光輝|燦然《さんぜん》としているので、目移りがしてしまいますよ」といって、彼は桟敷に入ってきた。彼は妻にほほえみかけたが、それはたったいま別れたばかりの妻を見た良人が、当然うかべるような微笑であった。それから、公爵夫人をはじめ、その他の知人にあいさつして、その一人一人にしかるべき応対をした。つまり、婦人たちには冗談をいい、男連とはあいさつの言葉をかわしたのである。下の方の桟敷のそばには、カレーニンの尊敬している、頭脳と教養で知られた将官の侍従が立っていたので、カレーニンはその人に話しかけた。
 ちょうど競馬の間だったので、だれも話のじゃまをするものはなかった。将官の侍従は競馬攻撃論をした。カレーニンはその反駁《はんばく》をして、競馬を弁護した。アンナはそのなだらかな細い声を、一語ものがさず聞いていたが、そのひと言ひと言に誠実みがないように思われ、聞くに堪えない気がした。
 四露里の障碍物競走が始ったとき、彼女は身を乗り出して、自分の馬に近より、やがてその背に跨がるヴロンスキイを、わき目もふらずながめていたが、同時に、あの止み間のないいとおしい良人の声を聞いているのであった。彼女は、ヴロンスキイを気づかう恐怖に悩まされていたが、それよりもさらに、聞き慣れたアクセントをつけてしゃべる良人の、かぼそい[#「かぼそい」は底本では「かばそい」]、やみまのないように思われる声の響きに悩まされた。
『わたしは悪い女だ、堕落した女だ』と彼女は考えた。『でも、わたしは嘘をつくのは嫌いだ、嘘というものはがまんできない。ところが、あの人[#「あの人」に傍点](良人)のおしゃべりは嘘なんだ。あの人はなにもかも知っている、なにもかも見ている。それなのに、あんなにおちついて話ができるなんて、いったいあの人は、どんなふうに感じているのだろう? もしあの人がわたしを殺したら、ヴロンスキイを殺したら、わたしあの人を尊敬したに相違ない。ところが、だめ、あの人に必要なのは嘘なんだ、ただ世間態なんだ』自分は良人から何を望んでいるのだろう、良人がどういうふうであってほしいのだろう、と考えながら、こうひとりごつのであった。しかし、これほど彼女をいらいらさせた今日のカレーニンの多弁は、単に彼の内部の不安の表現にすぎないことを、彼女は悟らなかったのである。怪我をした子供が、痛みをまぎらすために、足をばたばたさせて、筋肉を運動させるのと同じように、カレーニンにとっては、いま妻とヴロンスキイを目の前におき、ヴロンスキイの名がたえず繰り返されるために、自分の注意を強要する妻に関連した想念をまぎらすためには、知的運動が必要なのであった。子供にとって、足をばたばたさせるのが自然なように、彼としては、上手な気のきいた話をするのが自然だったのである。彼はこんなことをいっている。
「軍人、つまり騎兵の競馬に危険が伴なうことは、競馬に必須の条件です。もし英国戦史において、騎兵の輝かしい業績を指示することができるとしたら、それはただただ英国が歴史的に、馬と人間の力を発達させていったおかげです。競技は、私にいわせると、大きな意義をもっておるものですが、われわれはいつものとおり、最も皮相な面ばかりを見ているのです」
「皮相な面ばかりじゃございませんわ」とトヴェルスカヤ公爵夫人はいった。「一人の将校なんか、肋骨を二本折ったって話ですものね」
 カレーニンは持ち前の笑い方でにっと笑ったが、それは歯を見せただけで、何一つ語るものではなかった。
「じゃ、公爵夫人、それは皮相なものでなくて、内面的なものだとしましょう」と彼はいった。「しかし、問題はそんなことじゃないのです」と彼は前からまじめな話をしていた将官の方へ、ふたたび話しかけた。「しかし、競走に加わっているのは、特にこの業《わざ》をみずから選んだ軍人であることを、お忘れにならないでいただきたいものです。ところで、ご承知でもありましょうが、すべての職業は楯《たて》の半面をもっておるものでしてな。それは直接、軍人の義務に属するものですよ。拳闘とか、スペインの闘牛とかいう醜い競技は、野蛮の兆候ですが、専門化された競技は、文化発達の象徴です」
「ああ、わたしはもう二度と来ませんわ。あんまり興奮させられるんですもの」と公爵夫人ベッチイはいった。「そうじゃなくって、アンナ?」
「興奮させられはしますけれど、そのくせ目が離されませんわ」ともう一人の貴婦人がいった。「もしわたしが古代ローマの女でしたら、一度だって闘技場を欠かしはしなかったでしょうよ」
 アンナはなんにもいわないで、オペラ・グラスを眼から放さず、じっと一つところを見つめていた。
 その時、背の高い将軍が桟敷を通りぬけた。カレーニンは急に話をやめて、忙しそうに、しかし威厳を失わぬように立ちあがり、かたわらを通りすぎる将軍に、うやうやしく会釈した。
「あなた競走に加わりなさらんのですか?」と将軍は冗談口をきいた。
「私の競馬のほうが、もっと骨が折れるのでございますよ」とカレーニンはいんぎんに答えた。
 その答えは、別に何の意味があるわけでもなかったが、将軍は聡明な言葉を聞いた、というような顔つきをして、十分に la pointe de la sauce(ソースのぴりっとしたところ)を玩味した。
「これには二つの面がありますよ」とカレーニンは言葉をつづけた。「実演者と観覧者です。こういう観せものを喜ぶのは見物人にとって、文化的発育の遅れている確かな証拠です。それには私も異存ありませんが、しかし……」
「公爵夫人、賭をしましょう!」とベッチイに話しかけるオブロンスキイの声が、下の方から聞こえた。「あなたはだれにお賭けになります」
「わたしとアンナは、クゾヴリョフ公爵ですわ」とベッチイは答えた。
「私はヴロンスキイです。手袋ひと組」
「よろしゅうございます!」
「じつに美しいじゃありませんか、え、どうです!」
 カレーニンは、自分のまわりで話し声のしているあいだは口をつぐんでいたが、すぐにまた話し出した。
「私も同感です、しかし、男性的な競技というものは……」と彼は言葉をつづけた。
 しかし、そのとき騎手たちがスタートを切ったので、いっさいの会話はぴったりやんでしまった。カレーニンも同様に口をつぐんだ。一同は立ちあがって、川の方へ向いた。カレーニンは競馬に興味がなかったので、走る騎手を見ないで、疲れたぼんやりした目つきで、観衆を見まわしにかかった。彼の視線はアンナの上にとまった。
 彼女の顔は蒼ざめて、いかつかった。彼女は明らかに、ただ一人のほか、だれひとり、何ひとつ見ていないらしかった。その手は痙攣《けいれん》的に扇を握りしめていた。彼女は息もしなかった。彼はその様子をちらと見ると、急いで顔をそむけ、ほかの人たちの顔を見まわした。
『ああ、あの婦人も、それからほかの婦人たちも、ひどく興奮しているが、それももっともな話だ』とカレーニンはひとりごちた。彼は妻のほうを見まいとしたけれども、その視線はわれともなしに、そのほうへひきつけられるのであった。彼は、そのうえにかくも明瞭に書かれていることを読まないようにつとめながら、ふたたびその顔にじっと見入った。と、思わずも自分の意志に反して、知ることを欲しなかったものを読みとって、ぞっとしてしまった。
 最初、川のふちでクゾヴリョフが落馬した時は、一同の興奮を呼び起したが、しかしカレーニンはアンナの蒼ざめた顔に、自分の見ている人は落馬しなかったという、勝ち誇ったような色を、まざまざと見てとった。マホーチンとヴロンスキイが、大きな柵を跳《と》び越したあとで、それにつづく将校がその場で真逆様《まっさかさま》に落ちて、致命的な打撲傷を負い、恐怖のざわめきが群衆ぜんたいを流れ走った時、アンナはそれに気さえつかず、まわりの人々が何を話しだしたやら、それすらほとんど合点がいかないでいるのを、カレーニンは見てとったのである。しかし、彼はますますひんぱんに、ますます執拗にその顔にながめいった。疾駆するヴロンスキイの姿に、心をのまれつくしていたアンナも、わきの方から自分にそそがれている良人の冷たい視線を感じた。
 彼女は一瞬ふり返って、いぶかしげに良人を見やったが、かすかに眉をひそめて、すぐまた顔をそむけてしまった。
『ああ、わたしはどうだってかまいませんわ』とでもいったようなふうであったが、彼女はもうそれっきり一度も、良人の方を見なかった。
 その競馬は不運なものであった。十七人のうちから半分以上が、馬から落ちて負傷した。競走の終り近いころには、だれもかれもが興奮しきっていた。その興奮は、陛下が不満をいだかれたがために、さらに大きくなっていったのである。

[#5字下げ]二九[#「二九」は中見出し]

 一同は声高に不感服の気持を表明し、だれかのいった、『ただ獅子のいる闘技場でないというだけのことだ』という一句を、だれもかれもがくりかえすのであった。恐怖は、すべての人がいだいている感情であったので、ヴロンスキイが落馬して、アンナが大きな声で、あっといったのも、別段なにも並はずれたことではなかったわけである。しかし、それにつづいてアンナの顔に起った変化は、もはや断じてはしたないものであった。彼女はすっかり途方にくれてしまった。さながら捕えられた小鳥のように身をもがきながら、立ってどこかへ行こうとしたり、ベッチイにこんなことを口走ったりするのであった。
「行きましょう、行きましょう」と彼女はいった。
 けれど、ベッチイはその声が耳に入らなかった。彼女は下の方へかがみこんで、そばへ寄ってきた将軍と話していたのである。
 カレーニンはアンナのそばへ行って、いんぎんに片手をさしのべた。
「よかったら、行きましょう」と彼はフランス語でいった。が、アンナは将軍のいっていることに耳を澄まして、良人に気がつかなかった。
「やっぱり足を折ったそうですよ」と将軍はいった。「まるでお話になりませんな」
 アンナは良人に答えないで、オペラ・グラスを取り上げ、ヴロンスキイの落馬した場所を見やった。しかし、ずいぶん遠く離れていたうえに、人が大ぜい黒山のように集っていたので、何一つ見分けることができなかった。彼女はオペラ・グラスをおろして、出て行こうとした。と、その時、一人の将校が駆けつけて、何事か陛下に奏上した。アンナは身を乗り出して、耳を澄ました。
「スチーヴァ! スチーヴァ!」と彼女は兄を呼んだ。
 しかし、兄には彼女の声が聞えなかった。彼女はまたもや出て行こうとした。
「もしあなたがお出になりたいのでしたら、私はもう一度あなたに手をお貸ししましょう」とカレーニンは、妻の手に触れながらいった。
 アンナは嫌悪の念を示して、良人から身をよけ、その顔を見ないで答えた。
「いえ、いえ、うっちゃって下さい、わたし残っていますわ」
 今や彼女は、ヴロンスキイの落馬したところから、一人の将校が場内を横ぎって、桟敷の方へ走ってくるのを認めた。ベッチイはそれにハンカチを振った。将校のもたらした知らせによると、騎手はなんの怪我もなく、ただ馬が背骨を折ったばかりだ、とのことであった。
 これを聞くと、アンナはいきなりどっと腰をおろし、扇で顔をおおった。彼女は泣いていた。そして涙ばかりか、胸を激しく上下させる慟哭《どうこく》すら、隠すことができないのを、カレーニンは見てとった。カレーニンは自分の体を妻の垣にして、彼女に様子をつくろう暇を与えた。
「もう一度、三度目に手をお貸しします」しばらくたって、彼は妻に言葉をかけた。アンナは彼を見上げたが、なんと答えていいか、わからなかった。公爵夫人ベッチイが、彼女に助け舟を出した。
「いいえ、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、わたくしが奥さんをお連れしてきましたので、お送りするのもやっぱり、わたくしと約束したんですの」とベッチイが割りこんだ。
「いや、公爵夫人」いんぎんな笑顔を見せながらも、きっとした様子で相手の眼を見つめながら、彼はこういった。「見たところ、アンナは体のぐあいがよくないようですから、私といっしょに家へ帰ったほうがよさそうです」
 アンナはびっくりしたように良人をふりかえると、おとなしく立ちあがって、良人の腕に手をのせた。
「わたしあの人のとこへ使をやって、はっきりつきとめたうえ、お知らせにさしだしますわ」とベッチイは彼女の耳にささやいた。
 桟敷の出口で、カレーニンはいつもと同じように、行き会う人たちと言葉をかわした。で、アンナもいつものとおり、返事をしたり、物をいったりしなければならなかった。けれど、心は上の空で、夢遊病者のように、良人と腕を組んで歩いていた。
『落ちて死んだのじゃないかしら? 無事だってのは本当かしら? 今夜あのひとに会えるかどうか?』と彼女は心に思った。
 彼女は無言のまま、カレーニンの馬車に乗って、無言のまま、乗物のひしめきあっている中を出た。カレーニンは、あれだけのことを見せつけられたにもかかわらず、やはり妻の本当の状態を考えることを、自分で自分に許さなかった。要するに、外的徴候を見たにすぎないではないか。しかし、妻のはしたない所業《しわざ》を目撃したのであるから、そのことを妻に注意するのを、おのれの義務であると考えた。とはいえ、彼としては、単にそれだけのことをいって、それ以上を控えるというのは、きわめて困難であった。彼は口を開いて、おまえは、はしたないまねをしたといおうと思ったが、自然と別のことをいってしまった。
「それにしても、どうして、われわれはああいう残酷なことを見たがるんだろう」と彼はいった。「私の気がついたところでは……」
「なんですって? わたしなんのことかわかりませんわ」とアンナは蔑《いや》しむようにいった。
 彼はむっとして、いきなりいおうと思ったことをいいだした。
「私はあなたにいわねばならんことがある……」と彼はきりだした。
『ああ、いよいよはじまった、真剣な話合いが』と彼女は考えて、恐ろしくなった。
「私はいわなければならん、今のあなたのふるまいは、はしたないものでした」と彼はフランス語でいった。
「どういうところが、はしたなかったんですの?」くるりと良人の方へ顔を向けて、まっすぐにその眼を見つめながら、彼女は大きな声でいった。しかし、それはもう前のように、何か隠している浮きうきした様子ではなく、決然たる面持であった。彼女はそのうわべ[#「うわべ」は底本では「うわへ」]のもとに、いま自分のいだいている恐怖を、かろうじて隠しているのであった。
「忘れないで」正面の馭者台にむかった窓が開いているのをさしながら、彼は妻にこう注意した。彼は身を起して、ガラスをあげた。
「何をはしたないふるまいとお思いになりまして?」と彼女はくりかえした。
「騎手の一人が落馬した時、あなたがうまく絶望を隠せなかったことです」
 彼は妻の反駁を待っていた。が、彼女は前の方を見つめたまま、黙っていた。
「どうか社交界へ出た時は、口の悪い連中も何一つ、あなたにうしろ指をさすことができぬようにして下さいと、もう前にもお願いしたはずです。私も内面的関係について、云々した時代もありましたが、今はそんなことをいいません。今はただ外面的な関係だけについていっておるのです。あなたのふるまいは、はしたないものでしたから、そういうことがくりかえされないようにしてもらいたいですな」
 彼女は良人の言葉を半分も聞いていなかった。ただ彼にたいする恐怖のみを感じながら、ヴロンスキイが死ななかったというのは、事実かどうかばかりを考えていた。騎手は無事で、ただ馬が背骨を折ったというのは、彼のことなのだろうか? カレーニンがいい終った時、彼女はただわざとらしく、にやりと冷笑を浮べただけで、なんとも返事しなかった。というのは、良人のいうことを聞いていなかったからである。カレーニンは敢然《かんぜん》として話しはじめたが、自分のいっていることを明瞭に理解した時――妻のいだいている恐怖が彼にも感染した。彼は妻の冷笑を見ると、ふしぎな錯覚に襲われた。
『あれはおれの疑いを冷笑しているのだ。そうだ、今にもあの時と同じことをいいだすだろう――そんな疑いはなんの根拠もないことで、ただこっけいなばかりです、というに相違ない』
 今、なにもかも暴露されるおそれが目前に迫っているのに、彼は今度も以前と同じように、そんな邪推はこっけいです。なんの根拠もありはしませんという妻の答えが、なによりも期待されるのであった。彼は、自分の知っていることが、あまりに恐ろしかったので、今はどんなことでも、本当にしようという気になったのである。けれども、妻のおびえたような暗い表情は、今となっては、偽りの希望さえもたせなかった。
「もしかしたら、私の考え違いかもしれないが」と彼はいった。「それならば、私はお詑びをします」
「いいえ、お考え違いじゃありません」良人の冷やかな顔を、自暴自棄の表情で見つめながら、彼女はゆっくりとこういった。「お考え違いじゃありません。わたしは絶望していました、また絶望せずにはいられません。わたしは、あなたのおっしゃることを聞きながら、あの人のことを考えているのです。わたしはあの人を愛しています、わたしはあの人の情婦です、わたしはあなたががまんできません、わたしはあなたが恐ろしい、わたしはあなたを憎みます……どうともわたしを存分にして下さい」
 そういうなり、馬車の片すみに身を投げて、両手に顔をおおいながら、よよとばかり泣きだした。カレーニンは身じろぎもせず、まともに見すえた目の方向を変えもしなかった。しかし、その顔ぜんたいは、ふいに死人のように荘重な不動の表情を浮べた。そして、この表情は別荘へ着くまで、道々ずっと変らなかった。わが家のそばへ近づくと、彼は依然たる表情で妻のほうへ首をねじ曲げた。
「そうか! しかし、私は外面的にだけは体面を保つことを要求する」彼の声は慄えた。「私が、自分の名誉を保証するような方法を講ずるまではね。それはいずれ、あなたに知らせましょう」
 彼は先に馬車を出て、妻をたすけおろした。召使の見ている前で、無言のまま妻に握手すると、彼はまた馬車に乗って、ペテルブルグへ帰ってしまった。
 そのあとからすぐ、公爵夫人ベッチイの従僕が来て、アンナに手紙をもたらした。
『わたしはアレクセイのところへ使をやって、体のぐあいをきかせましたところ、無事でぴんぴんしているけれども、絶望しているという返書がございました』
『では、あの人[#「あの人」に傍点]はやってくる』と彼女は考えた。『なにもかもいってしまって、本当にいいことをしたわ』
 彼女は時計を見た。まだ三時間あいだがあった。最後に会ったときのこまごました思い出が、彼女の血を燃え立たせた。
『ああ、なんて明るいんだろう!([#割り注]ペテルブルグの白夜[#割り注終わり])これは恐ろしい。でも、わたしはあの人の顔を見るのが好きだわ、この幻想のような明りが好きだわ……良人! ああ、そうだ……まあ、あのほうはすっかり片づいて、本当にいいあんばいだった』

[#5字下げ]三〇[#「三〇」は中見出し]

 人の集まる場所はどこでもそうであるが、シチェルバーツキイ一家の到着したドイツの小さな温泉場でも、一人一人に一定不変の場所を与える、例のごとき社会的結晶というべきものが行われていた。水の微分子が一定の密度で、いつも必ず決まった雪の結晶形をとるように、この温泉場に来た新しい人は、さっそく自分に適当した場所へはまりこむのであった。
 〔Fu:rst Schtcherbazki zamt Gemalin und Tochter〕(シチェルバーツキイ公爵夫人と令嬢)は、その借りた住居からいっても、名声からいっても、彼らがここで発見した知己からいっても、さっそく前から予定されていた一定の場所に結晶した。
 この温泉場には、今年ほんとうのドイツの大公妃が来ていたので、そのために人々の結晶作用はいっそうさかんに行われた。公爵夫人は是《ぜ》が非《ひ》でも、娘を大公妃に拝謁《はいえつ》させたいという気を起して、二日目にその儀礼をすました。パリーからとりよせた、ごくさっぱりした[#「ごくさっぱりした」に傍点]、というのは、非常に豪華な夏服を着たキチイは、うやうやしく、しかも優美に会釈した。大公妃は、「いまにそのかわいらしい顔に、バラ色が戻ってくることと思います」といった。で、シチェルバーツキイ一家のためには、もはや二度とぬけることのできない一定の生活道程が、ただちに固定してしまったのである。シチェルバーツキイ一家は、英国の貴婦人の家族と、最近の戦争で負傷した息子を連れたドイツの伯爵夫人と、スウェーデンの学者と、M. Canut と、その妹とも知り合いになった。
 しかし、シチェルバーツキイ家のおもな交友は、自然のうちに、モスクワの貴婦人のマリヤ・エヴゲーエヴナ・ルチーシチェヴアとその令嬢(その令嬢は、キチイにとって不愉快に思われた。なぜなら、キチイと同じく失恋のために病気になったからである)、それから、モスクワの大佐ということになった。キチイはこの人を子供の時分から知っていて、よく肩章つきの軍服姿を見たものであるが、ここでは並はずれてこっけいであった。というのは頸筋をむきだしにして、色物のネクタイを締め、おまけに小さな眼をしているからであった。それに、しつこくつきまとうので、うんざりさせられるのであった。こういう状態が、はっきりきまってしまうと、キチイは退屈でたまらなくなった。まして、公爵がカルルスバードヘ行ってしまって、母夫人と二人でとり残されたから、なおさらであった。彼女は、自分の知っている人々には、興味をもたなかった。彼らから何一つ、新しいことは期待できそうにない、とそう感じたからである。今度この温泉場へ来てから、彼女のおもな精神的興味をなすものは、彼女の知らない人々に関する観察や想像であった。生れながらの性質で、キチイはいつも他人、ことに自分の知らない人々の中に、ありとあらゆる美しいものを想像する癖があった。今も彼女は、あれはだれだろう、あの人たちの間はどういう関係なのだろう、あの人たちは何者だろう、というような推察をしながら、きわめて美しい驚くべき性格を想像していたが、また自分の観察が確かめられるのを見出すのであった。
 そうした人々の中で、マダム・シュタールと呼ばれる、病身なロシヤの貴婦人といっしょにこの温泉場へ来た、一人のロシヤ娘が特に彼女の興味をそそった。マダム・シュタールは、上流の社会に属していたが、ひどく病身だったので、歩くことができず、ただたまに天気のいい時、車のついた肘椅子に乗って、鉱泉場へ姿を見せるだけであった。しかし、公爵夫人の解釈によれば、マダム・シュタールはただ病気のせいばかりでなく、高慢ちきな性分のために、ロシヤ人のだれとも近づきにならないのであった。ロシヤ娘は、マダム・シュタールの看護をしていたが、そのほか、キチイの観察したところでは、この温泉場に大ぜいいる重病人のみんなと親しくして、ごくしぜんに彼らのめんどうをみてやっていた。このロシヤ娘は、キチイの観察によると、マダム・シュタールの肉親ではなかったが、同時に雇われている助手でもなかった。マダム・シュタールが、彼女をヴァーレンカと呼んでいたので、ほかの人たちも『マドモアゼル・ヴァーレンカ』といっていた。この娘とシュタール夫人、ならびにその他の未知の人々との関係を観察することが、キチイの興味をそそったのは、いうまでもないとして、よくあることながら、キチイはこのマドモアゼル・ヴァーレンカにえたいの知れない好感を覚えるとともに、時おり出会う目つきから推して、自分も相手の気に入っていることを感じた。
 このマドモアゼル・ヴァーレンカは、ごく若いほうでないどころか、まるで若さをもたぬ存在のようであった。彼女は十七くらいにも見えれば、三十ぐらいかとも思われた。よく顔立ちを見ていると、その病的な色つやにもかかわらず、不器量というよりも、むしろ美人のほうであった。もし体がひどくかさかさしていず、ふつりあいに頭が大きくなかったら、中背ではあり、姿もよかったに相違ない。しかし、彼女は男好きのするほうではありえなかった。彼女は花瓣こそ揃っているけれど、もう盛りをすぎて香りのなくなった、美しい花に似ていた。なおそのほか、彼女が男好きのしないもう一つの理由は、キチイにはあり過ぎるほどあるもの――抑制のある生命の火と、自分の魅力にたいする意識が、彼女に欠けていることであった。
 彼女はいつも、なんの疑惑もありえないような仕事に追われていて、そのために、ほかのことに何一つ、興味を持つ暇がなさそうであった。こんなふうに、自分とまるで正反対な点が、ことにキチイをひきつけるのであった。この娘に、この娘の生活ぶりに、いま自分が苦しいほどさがし求めている生活の興味、生活の品位などの規範《きはん》が見つかるに相違ない、とこんなふうにキチイは感じていた。それらは、キチイにとっていまわしい、社交界の男女関係の外になければならぬ。そこでは、娘は買手を待って、恥さらしな共進会に並べられているように、今のキチイには思われるのであった。自分の未知の友を観察すればするほど、キチイはこの娘こそ、自分の想像に描いていた最高の完成である、という確信をたしかめ、いよいよこの娘と近づきになりたくなってきた。
 二人の娘は、一日のうちに幾度も顔をあわしたが、そのたびにキチイの眼は、『あなたはどなたですの? どういうかたですの? だって本当でしょう、あなたは、わたしの想像に描いているような、すばらしいかたでしょう? でも、後生ですから』と彼女の眼はつけ加えるのであった。『あたしがずうずうしく友情の押し売りをするなんて、そんなことを考えないで下さいましな。あたしはただあなたが好きで、あなたに見とれているだけなんですから』『わたしもあなたが好きなんですのよ。あなたは本当に、本当にかわいいかたなんですもの。もし暇があったら、もっと好きになるんですけどね』と未知の娘は答えた。またそのとおり、キチイが見ていると、彼女はいつも忙しそうであった。あるロシヤ人の家族の子供たちを、鉱泉から連れて帰ったり、病身な女のために膝掛を持っていって、その体をくるんでやったり、いらいらした病人を一生懸命になだめたり、だれかのために、コーヒーのとき食べるビスケットを選んで買ってやったり。
 シチェルバーツキイ親子が到着してからまもなく、朝の鉱泉にまた二人のものが姿を現わして、一同の快からぬ注目をひいた。その一人は図抜けて丈の高い、猫背の、大きな手をした男で、背丈にあわぬ短い古外套を着、黒いナイーヴな同時に恐ろしい眼をしていた。いま一人は、ひどく粗末で没趣味な服装《なり》をした、あばた[#「あばた」に傍点]ながら垢ぬけのした顔立ちの女であった。この二人がロシヤ人だとみてとったキチイは、早くも彼らについて美しい、感動的なローマンスを、想像の中で組み立てはじめた。けれど、公爵夫人は Kurliste(旅客名簿)で、これがニコライ・レーヴィンとマリヤ・イヴァーノヴナであることを知って、このレーヴィンがどんな悪い人間であるかということを、キチイに説明して聞かせた。で、この二人に関する空想は、きれいに消えてしまった。しかし、母に話を聞かされたためというよりも、むしろ彼がコンスタンチンの兄であるということによって、キチイの目にはこの二人が、急にこの上もなく不快になってきた。このレーヴィンは例の首をしゃくる癖で、どうしようもない嫌悪《けんお》の念を、彼女の心に呼び起すのであった。
 彼女をじっと注視しているその大きな恐ろしい眼の中には、憎悪と嘲りの色が浮んでいるように思われ、彼女はこの男と出会うのを避けるようにした。

[#5字下げ]三一[#「三一」は中見出し]

 天気模様の悪い日で、午前ちゅう雨が降っていた。病人たちは傘を持って、廻廊に群がっていた。
 キチイと母夫人は、モスクワの大佐といっしょに散歩していた。大佐は、フランクフルトで買った既成品の、ヨーロッパ式フロックコートをひけらかして、愉快そうであった。彼らは、反対側を歩いているレーヴィンを、避けるようにしながら、廻廊のこちら側を散歩した。いつものとおりじみな着物をきて、ふちの下へ曲った黒い帽子をかぶったヴァーレンカは、目の見えないフランス婦人の手をひいて、廻廊を端から端へと往復していた。キチイと出会うたびに、彼らはさも親しげな、愛情のある視線を投げかわすのであった。
「ママ、あのひとに話をしかけてもよくって?」未知の知人を目で追っていたキチイは、こういった。ヴァーレンカは泉のそばへよって行ったので、あそこで落ちあったらいいと思ったのである。
「そうね、おまえがそんなにご所望なら、わたしが先にあのひとのことを調べてみましょう。わたし自身で近づきになることにしましょうよ」と母は答えた。「いったいあのひとに、どんな変ったところを見つけたんだろうねえ? きっとお話し相手なんだよ。なんなら、わたしシュタール夫人とお近づきになってもいいよ。わたしはあのひとの義妹《ベル・スール》を知っているから」と公爵夫人は、傲然《ごうぜん》と頭《こうべ》をそらせながらいった。
 公爵夫人は、シュタール夫人が交際を避けていると思って、それに侮辱を感じているのであった。キチイはそれを知っていたから、強《た》ってとはいわなかった。
「まあ、なんて優しい人でしょう!」ヴァーレンカがフランス婦人にコップを渡すのを見て、彼女はこういった。「ちょっとごらんなさい、あのひとのすることは、本当になにもかも率直で優しいわ」
「おまえの engouements(酔狂)ったら、わたしおかしくってしようがない」と公爵夫人はいった。「いいえ、もういっそひっ返しましょうよ」むこうからやってくるレーヴィンと連れの女を見とめて、彼女はこうつけたした。レーヴィンは、そばについているドイツ人の医者と、何か大きな声で腹だたしげにしゃべっていた。
 キチイらが家へ帰ろうとして踵《くびす》をめぐらしたとき、ふいに声高な話し声、というよりも叫びが聞えた。レーヴィンが立ちどまって、どなっているのであった。医者もやはり激昂《げっこう》していた。そのまわりには人だかりがした。公爵夫人とキチイは急いで立ち去ったが、大佐は事の次第を知ろうと思って、やじうまの仲間に加わった。
 しばらくして、大佐は二人に追いついた。
「いったいなんでしたの?」と公爵夫人がきいた。
「恥っさらしな話ですよ!」と大佐は答えた。「私がたった一つ恐れるのは、ほかでもない、外国でロシヤ人に出会うことです。あののっぽ先生、医者の治療のしかたがまちがってるといって、喧嘩をおっぱじめて、雑言《ぞうごん》を吐き散らしたあげく、杖までふりまわすんですからなあ。まったくの恥っさらしですよ!」
「まあ、いやですことねえ!」と公爵夫人はいった。「で、どんなふうにおさまりましたの?」
「ありがたいことに、その時あの……あの茸《きのこ》のような帽子をかぶった娘が仲裁に入りましてな。どうやらロシヤ人らしいですね」と大佐はいった。
「マドモアゼル・ヴァーレンカでしょう?」とキチイがうれしそうにきいた。
「そう、そう、あの娘が一番に機転をきかせましてね、あの先生の腕をとって、つれていったんです」
「ほら、お母さま」とキチイは母にいった。「それだのに、お母さまったら、わたしがあのひとに感心するのがおかしいなんて、あきれてらっしゃるんですもの」
 次の日から、キチイは自分の未知の友を観察しているうちに、マドモアゼル・ヴァーレンカがレーヴィンと連れの女に対して、早くもほかの被保護人《プロテジェ》と同じような態度になっているのに気がついた。彼女はこの二人に近よって、世間話をし、外国語の一つもわからない連れの女のために、通訳の労をとってやるのであった。
 キチイは前よりもさらに熱心に、ヴァーレンカとの交際を許してくれとねだりはじめた。公爵夫人にしてみれば、失礼千万にもなにやらお高くとまっているシュタール夫人に、こちらから近づきを求めたがって、その第一歩を踏み出す形式になるのが心外だった。けれども、ヴァーレンカについていろいろ問い合わせをし、詳しい情報を手に入れたところ、この交際にはたいしていいこともないが、別段なにも悪いことはなさそうだということになり、夫人自身がまずヴァーレンカに接近して、近づきになった。
 娘が泉の方へ行き、ヴァーレンカがパン屋の前へ立ちどまった時を選んで、公爵夫人は彼女のそばへ近よった。
「どうぞお近づきにならして下さいな」と彼女は、持ち前の上品な笑顔で話しかけた。「わたくしの娘が、もうあなたに首ったけでございましてね」と彼女はいった。「あなたはごぞんじないかもしれませんが、わたくしは……」
「公爵夫人、それはもったいないくらいでございますわ」とヴァーレンカは早口に答えた。
「昨日あなたは、本当にいいことをなさいましたわね、あの惨めなお故国《くに》の人に!」と公爵夫人はいった。
 ヴァーレンカは顔を赤らめた。
「覚えておりませんわ、わたしなんにもしなかったようですけど」と彼女はいった。
「だって、あなたはあのレーヴィンを、いやな場面から救っておあげになったじゃありませんか」
「ああ、あれは sa compagne(あの連れのかた)が、わたしをお呼びになったものですから、わたしあのかたのお気をおちつけるように、骨折っただけですわ。あの人はご病気で、お医者さまにご不満なのでございますの。ああいうご病人のめんどうを見るのが、わたしの癖でございまして」
「ああ、わたしも聞きました。あなたはメントナでお伯母さまと、たしかシュタール夫人とごいっしょに、暮していらっしゃるんですってね。わたし、あのかたの義妹《ベル・スール》を存じあげておりますの」
「いいえ、あのかたはわたしの伯母さまではございません。わたしあのかたをママと呼んではおりますものの、親身の関係ではございません。わたしあのかたの養娘《やしないご》でございますの」と、また顔を赤らめながら、ヴァーレンカはこう答えた。
 そのいい方がいかにも率直で、その正直であけっぱなしな顔の表情は、いかにも愛くるしかったので、なぜキチイがこのヴァーレンカにほれこんだのか、公爵夫人はそのわけがわかった。
「で、あのレーヴィンはどんなふうですの?」と公爵夫人はきいた。
「もうお発《た》ちになるそうでございます」とヴァーレンカは答えた。
 この時、母親が未知の友と近づきになったという喜びに輝きながら、キチイが泉のほうから帰ってきた。
「さあ、キチイ、これでいよいよ、おまえがあれほどご交際をお願いしたがっていたマドモアゼル……」
「《ヴァーレンカ》」とこちらはにこにこしながら加勢した。「みなさんがわたしのことを、そうおっしゃるんですもの」
 キチイはうれしさのあまり顔を赤らめて、無言のまま、新しい友の手を長いこと握りしめた。けれど、その手は彼女の握手に応《こた》えないで、彼女の手の中でじっとしていた。しかし、手こそ握手に応えなかったが、マドモアゼル・ヴァーレンカの顔はやや愁いをおびてこそいたけれど、静かな喜ばしい微笑を浮べて、大きいけれど美しい歯をあらわしていた。
「わたしのほうでも前から、こうしていただきたいと、心に思っていたのでございますよ」と彼女はいった。
「でも、あなたはとても忙しくていらっしゃいますから……」
「いいえ、あべこべですわ、わたしなんにも用事がないんですのよ」とヴァーレンカは答えたが、その口の下から、新しい知人を見棄てていかなければならなかった。というのは、二人の小さなロシヤ娘が(ある病人の子供であった)、彼女の方へ走ってきたからである。
「ヴァーレンカ、ママが呼んでてよ!」と二人は叫んだ。
 で、ヴァーレンカはそのあとからついて行った。

[#5字下げ]三二[#「三二」は中見出し]

 ヴァーレンカの過去、マダム・シュタールとの関係、それから当のマダム・シュタール自身について、公爵夫人の知った詳細は次のようなものであった。
 マダム・シュタールは、ある人々には良人を悩ました女といわれていたが、またある人々からは、良人の放縦に苦しめられた女ともいわれいつも病身で感激家であった。すでに良人と離婚した後、彼女ははじめての子供を生んだが、その赤ん坊はすぐに死んでしまった。シュタール夫人の肉親の人々は、彼女の感じやすい性質を知っていたので、これを知らせたら夫人の一命が危いと思って、その晩おなじ建物の中で生れた宮中のコックの娘を連れてきて、取代え児をした。それがヴァーレンカだったのである。後日マダム・シュタールは、ヴァーレンカが自分の娘でないと知ったが、ひきつづき彼女を手もとで養育した。ことに、その後まもなく、ヴァーレンカには身内というものが一人もなくなったから、なおさらのことであった。
 マダム・シュタールは、もはや十年以上も門外不出、一度も床を離れることなく、南欧で外国生活をしていた。ある人々はマダム・シュタールのことを、徳の高い宗教的な婦人として、たくみに社会的地位をつくり上げた人だというし、またある人々は、ただ隣人のためにのみ生きている高い精神をもった女性と見えるばかりでなく、真底からそういう婦人である、といっていた。彼女がいったいそういう宗教を信じているのか――カトリックか、プロテスタントか、ロシヤ正教か、だれも知る人がなかったけれども、ただ一つまちがいないのは、彼女があらゆる教会、あらゆる信仰の最高代表者と、このうえもなく親近な関係にあることだった。
 ヴァーレンカは夫人とたえず外国で暮していた。そして、マダム・シュタールを知っているほどの人は、いわゆる「ヴァーレンカ」を知り、かつ愛していた。
 こうした詳細を残りなく知った公爵夫人は、娘がヴァーレンカと近しくしても、別になにもとやかくいうことはないと判断した。ことにヴァーレンカは優れた教育を受け、ものごしも実にりっぱなもので、フランス語も英語もあざやかに話した。が、なにより公爵夫人がこの交際を是認した原因は、マダム・シュタールが病気のために、公爵夫人と近づきになる光栄を奪われて、残念に思っている旨を、ヴァーレンカを通して伝えたことである。
 ヴァーレンカと近づきになってから、キチイはいよいよこの親友にほれこんでしまい、毎日のように、新しい美点を発見するのであった。
 公爵夫人は、ヴァーレンカが歌が上手だと聞いて、今晩うちへきて歌ってほしいと頼んだ。
「キチイは弾けるんですのよ、それに宅にピアノもありますから、もっとも、いいピアノじゃございませんが、そうして下されば、わたしどもどんなにうれしいかしれませんもの」と彼女はいつもの甘ったるい微笑を浮かべていった。キチイはいま特にこの微笑がいやに思われた。というのはヴァーレンカがあまり歌いたくないらしいのに、気がついたからである。
 にもかかわらず、その晩ヴァーレンカは楽譜の手帳を持ってきた。公爵夫人はマリヤ・エヴゲーエヴナ母娘《おやこ》と、大佐を招待した。
 ヴァーレンカは、知らない人たちが同席しているのにもいっこう平気らしく、さっそくピアノのそばへ行った。彼女は自分で伴奏ができなかったけれども、譜を見ながらりっぱに歌った。ピアノの上手なキチイが伴奏することになった。
「あなたは非凡な才能をもっていらっしゃいますのね」ヴァーレンカが第一回を歌い終った時、公爵夫人はそういった。
 マリヤ・エヴゲーエヴナ母娘《おやこ》は、礼をいって賞めた。
「ごらんなさい」と大佐は窓の外を見ながらいった。「あなたの歌を聞きに、あの人の集ったことはどうです」
 なるほど、窓の下にかなり大ぜいの人が集っていた。
「みなさまに喜んでいただいて、わたしも本当にうれしゅうございますわ」とヴァーレンカは気取りけなしにそう答えた。
 キチイは誇らしげに自分の親友を見やった。彼女はその技巧にも、その声にも、その顔にも有頂天になっていたが、何よりも感心したのは、明らかにヴァーレンカが自分の歌のことなどいささかも考えず、人々の賞賛に全く無関心なことであった。ただ、もっと歌ったものでしょうか、それとももうたくさんですかしら? とききたそうな様子であった。
『これがもしあたしだったら』キチイは肚《はら》の中で考えた。『どんなに得意がったかしれやしないわ! あの窓の下の人だかりを見て、どんなにうれしがったかわからないわ。ところが、このひとはまるっきり平気なんだもの。このひとを動かしているのは、ただママの頼みをしりぞけないで、喜んでもらおうという気持ばかりなのだ。いったいこのひとの中には何があるのかしら? このひとにいっさいを無視する力と、何ものにも左右されないおちつきを与えているのは、いったいなんだろう? ああ、なんとかしてその秘密を知って、それを習いたいものだわ!』その平静な顔をながめながら、キチイはこう考えた。
 公爵夫人はヴァーレンカに、もう一つ歌ってくれと頼んだ。ヴァーレンカはピアノのそばにまっすぐに立って、やせた浅黒い手で軽くピアノを叩いて拍子をとりながら、相変らずなだらかに、はっきりと、上手に二曲を歌い終った。
 手帳に書いてある次の曲は、イタリー歌謡であった。キチイは序曲を弾いて、ヴァーレンカをふりかえった。
「これは抜かしましょう」とヴァーレンカは顔を赤らめていった。
 キチイはびっくりして、物問いたげなまなざしをヴァーレンカの顔にとどめた。
「じゃ、ほかのを」この曲には何か結びつけられたものがあるのだな、とすぐに察して、譜をめくりながら、キチイは急いでこういった。
「いえ」手を譜の上にのせてほほえみながら、ヴァーレンカは答えた。「いえ、やっぱりこれにしましょう」
 彼女はこの曲をも、依然としておちついた冷静な調子で、上手に歌い終った。
 歌がすむと、一同はふたたび謝辞を述べて、お茶を飲みに立った。キチイはヴァーレンカといっしょに、家のそばにある小さい庭へ降りていった。
「ねえ、そうでしょう、あの歌にはあなたの心の中で、何かの思い出が結びあわされているんでしょう?」とキチイはいった。「いえ、お話して下さらなくってもようござんすの」と彼女は急いでつけたした。「ただあたっているかどうか、いっていただけばいいんですの」
「いいえ、かまいませんわ! お話しますわ!」とヴァーレンカは率直にいって、返事も待たずにつづけた。「ええ、それは思い出ですの、しかも以前は苦しい思い出でしたわ。わたしはある男を愛して、その人にあの曲を歌って聞かせたんですの」
 キチイは大きく両眼を見ひらいて、無言の感激をこめてヴァーレンカを見つめていた。
「わたしはその人を愛していましたが、その人もわたしを愛してくれました。でも、その人のお母さまが不賛成でしてね、その人はほかの女の人と結婚してしまいました。今その人はあまり遠くないところに住んでいるものですから、わたし時どき見かけることがありますの。あなたはきっと、わたしにはローマンスなんかないとお思いになっていたでしょう?」と彼女はいったが、その美しい顔には、ほんのりと紅《くれない》の光がさした。これがかつてはこのひと全体を照らしたに相違ない、とキチイは考えた。
「どうしてあたしが思わなかったんですの? それどころか、もしあたしが男だったら、あなたを知ったあとでは、だれもほかのひとを愛することなんか、できなかったろうと思いますわ。ただあたしわかりませんの、どうしてその人はお母さまの気に入るために、あなたを忘れて、あなたをふしあわせにすることができたのでしょう――その人には心ってものがなかったんですわ」
「いいえ、その人はとてもいい人だったんですのよ、それにわたしもふしあわせじゃありませんわ。それどころか、わたしとてもしあわせなんですの。ときに、今夜はもう歌わないんでしょうか?」と彼女は家の方へ足を向けながら、つけ加えた。
「なんてあなたはいい人でしょう、なんてあなたはいい人でしょう!」とキチイは叫び、彼女をひき止めて接吻した。「もしもあたしがほんの少しでも、あなたに似ることができたらねえ!」
「なんのためにあなたがだれかに似なくちゃなりませんの? あなたはそのままでもいい人じゃありませんか」持ち前のつつましい疲れたような微笑を浮かべながら、ヴァーレンカはいった。
「いいえ、あたしはちっともいい人間じゃないんですの。ときに、おたずねしますが……まあ、ちょっと待って下さいな、少し腰かけましょうよ」ふたたび友をベンチの上に自分と並んで坐らせながら、キチイはこういった。「ねえ、男の人があなたの愛をないがしろにして、結婚しようとしなかった、そう考えると腹がおたちになりません?……」
「でも、その人はないがしろにしたんじゃありませんわ。あの人はわたしを愛してくれたんですけど、親孝行だったんだと信じていますの……」
「そうね、でも、もしその人がお母さまの意志に従ったんでなくて、ただ自分かってに?……」とキチイはいったが、もう自分は自分の秘密をさらけ出してしまった、羞恥の紅《くれない》に燃える自分の顔が、もう自分の秘密を暴露してしまった、と感じた。
「それなら、その人は悪いことをしたのですから、わたしなら、そんな人を惜しいと思いませんわ」明らかに、これはもう自分のことではなく、キチイの話だと悟ったらしく、ヴァーレンカはこう答えた。
「でも、侮辱はどうしますの?」とキチイはたずねた。「侮辱を忘れることはできませんわ、忘れられませんとも」舞踏会で奏楽がやんだ時、自分が男にそそいだ最後の一瞥《いちべつ》を思い出して、彼女はこういった。
「侮辱ってなんですの? だって、あなたは何も悪いことをなすったんじゃないでしょう?」
「悪いことより、もっといけないことですわ――恥ずかしいことをしたんですもの」
「でも、何が恥ずかしいんですの?」と彼女はいった。「だって、あなたはご自分に無関心な男の人に、その人が好きだとおっしゃったわけじゃないでしょう?」
「そりゃもう、そんなことありませんでしたわ。あたし一度も、ひと言だって口に出しませんでしたわ。だけど、その人は知っていましたの。でも、だめ、だめ、目つきだってありますし、そぶりだってありますもの。あたし百年も長生きしたって、忘れることはできませんわ」
「で、どうしたんですの? わたしわかりませんわ。かんじんなのは、今でもあなたがその人を愛してらっしゃるか、どうかですわ」とヴァーレンカはなにもかも名ざしていった。
「あたしはその人を憎んでいます。ただ自分で自分を赦すことができませんの」
「で、どうなんですの?」
「羞恥、侮辱」
「まあ、もしだれもかもが、あなたみたいに感じが強かったら」とヴァーレンカがいった。「それと同じことを経験しない娘さんは、一人もいないでしょうよ。それに、そんなことはちっとも重大じゃありませんわ」
「では、何が重大なんですの?」好奇心のまじった驚きの眼で、相手の顔を見つめながら、キチイはこうたずねた。
「そりゃ、重大なことはたくさんありますわ」とヴァーレンカはほほえみながら答えた。
「でも、なんですの?」
「そりゃ、もっと重大なことがたくさんありますとも」とヴァーレンカはなんといっていいかわからないで、そう答えた。しかし、そのとき窓の中から、公爵夫人の声が聞えた。
「キチイ、冷えてきましたよ! ショールを持っていくか、それでなければ、家の中へお入り」
「ほんとにもう時刻ですわ!」とヴァーレンカは立ちあがりながらいった。「わたし、まだマダム・ベルトのところへよらなくちゃなりませんの、頼まれたことがありましてね」
 キチイはその手を握ったまま、情熱にみちた好奇心と祈願をこめながら、まなざしで問いかけた。『なんですの、そんなおちつきを与えるいちばん重大なものって、いったいなんですの? あなた知ってらっしゃるんでしょう! あたしに聞かせてちょうだいな!』
 けれどもヴァーレンカは、キチイのまなざしが何をきいているのか、それさえ理解しなかった。彼女が覚えているのは、ただ今夜まだマダム・ベルトのところへよって、お茶に間に合うように、十二時までにママのいるわが家へ帰らなければならぬ、ということだけだった。彼女は部屋の中へ入ると、譜を集めて、一同に別れを告げ、出かける用意をととのえた。
「失礼ですが、お送りしましょう」と大佐が申し出た。
「そうですとも、どうして今ごろ、夜中に一人で行けるものですか!」と公爵夫人はひき取った。「わたしせめてパラーシャにでもお送りさせますわ」
 ヴァーレンカは、自分のようなものを送らなければならぬという言葉を聞いて、やっとのことで微笑をこらえた。キチイはそれを見てとった。
「いいえ、わたしいつも一人で歩くんですけど、一度だって何かあったためしはございませんわ」と彼女は帽子をとっていった。それから、もう一度キチイに接吻すると、何が重大なことであるかを話さないで、そのまま小わきに譜をかかえ、元気な足どりで、夏の夜の薄闇の中へ隠れてしまった――何が重大なのか、何があのうらやむべきおちつきと品格をあたえるのか、という秘密を身につけたまま。

[#5字下げ]三三[#「三三」は中見出し]

 キチイはシュタール夫人とも知り合いになった。その交際は、ヴァーレンカに対する友情とともに、単に強い影響を与えたばかりでなく、彼女の悲しみをも慰めた。彼女がそこに見いだした慰藉《いしゃ》というのは、ほかでもない、この交際のおかげで、過去とはなんの関係もない、全然あたらしい世界が開けたことである――それは高遠な美しい世界であって、その高みに立つと、おちついた気持でその過去がながめられた。つまり、今までキチイの没頭していた本能的な生活のほかに、精神的な生活もある、ということを発見したのである。この生活は、宗教によって開かれたのではあるが、それはキチイが子供の時分から知っていた宗教とは、なんの共通点ももっていなかった。それは知人のだれかれに会える教会のミサや、寡婦《かふ》の家の夜祈祷という形式をとる宗教でもなければ、神父に叩きこまれたスラヴ語のテキストの暗記に表現されるものとも違っていた。それは多くの美しい思想や、感情と結びあわされた高遠神秘な宗教であって、命じられたがために信じられるというばかりでなく、愛することのできる宗教であった。
 キチイはこうしたいっさいのことを、言葉によって知ったのではない。マダム・シュタールがキチイに話す態度は、自分の青春の思い出として、思わず見とれずにいられないかれんな幼児《おさなご》に対するようであった。たった一度だけ、すべて人間の悲しみを慰めるものは、ただ愛と信仰ばかりである、われわれ人間に対するキリストの憐憫にとっては、些細《ささい》なとるにたらぬ悲しみは存在しない、といったばかりで、すぐさま話題を他に転じてしまった。けれども、キチイは彼女の一挙一動に、その一言一句に、またキチイのいわゆる天国の翳《かげ》を宿したまなざしの一つ一つに、とりわけヴァーレンカから聞いた夫人の身の上話に――そうしたいっさいの中に、『何が重大であるか』という、キチイの今まで知らなかったものを、認識したのである。
 しかし、シュタール夫人の性格がいかに高尚であっても、その生涯がいかに感動的であっても、その生涯がいかに優しく高遠であっても、キチイは心にもなく夫人の中に、何かまごつかせるような点を認めないわけにいかなかった。キチイに肉親の人たちのことをいろいろたずねているうちに、マダム・シュタールはキリスト教徒の善良性にそむく侮辱的な笑いを、にやりと洩《も》らしたことがある。それにキチイは気がついた。それからまた、ある訪問のとき、カトリックの僧侶が居合わせたが、マダム・シュタールは、自分の顔をなるべくランプの笠に隠すようにしながら、なにか特別なにやにや笑いをしているのにも気がついた。この二つの観察は、極めて些細なものではあったけれども、それは彼女をまごつかせ、彼女はマダム・シュタールに疑念をいだくようになった。
 しかし、そのかわり、身寄りもなければ友もない孤独の身で、わびしい失意をいだきながら、何一つ望みもしなければ、何一つ物惜しみもしないヴァーレンカは、キチイが心ひそかに念願していた、かの完成そのものであった。ただおのれみずからを忘れて他人を愛しさえすれば、おちつきと幸福と美を獲得できるということを、ヴァーレンカの実例によって悟ったのである。キチイは自分もああいうふうになりたいと思った。何が最も重大[#「最も重大」に傍点]であるかを悟って、キチイはこの発見に有頂天になるだけで満足せず、いま啓示された新しい生活に猶予《ゆうよ》なく心身を捧げた。マダム・シュタールをはじめ、ヴァーレンカの数えあげたその他の人々が、どんなことをしたかという彼女の話を総合して、キチイは早くも、未来の生活プランを立てた。ヴァーレンカからいろいろ話を聞かされたシュタール夫人の姪《めい》アリーヌのように、いかなるところに住もうとも、常に不幸な人々を見つけ出して、できるだけの助けを与え、聖書を頒《わか》ち、病人や犯罪人や瀕死の人々に、福音書を読んで聞かそう。アリーヌがしたように、犯罪者に福音書を読んで聞かすという考えは、わけてもキチイの気に入った。が、それらはすべてキチイの秘密の空想であって、母親はおろか、ヴァーレンカにさえ打ち明けなかった。
 とはいえ、この計画を大規模に実行する時期のくるまで、キチイは今すぐこの温泉場でも――ここにはあんなにおおぜいの病人や不幸な人人がいることだから、ヴァーレンカにならって、自分の新しい生活規範を実地に応用する機会を見いだすのは、容易なわざであった。
 はじめ公爵夫人は、キチイがシュタール夫人ことにヴァーレンカに対する熱狂《アングーマン》にひどく浮かされていると、ただそれだけのことに気がついたにすぎなかった。母夫人の見たところによると、キチイは単に行動の上で、ヴァーレンカを模倣しているばかりでなく、知らずしらずのうちに、歩きぶり、話し方、まばたきする癖まで、まねているのであった。しかし、しばらくたって公爵夫人は、娘の内部でそうした憧憬《しょうけい》とは別に、何かしらまじめな精神的転換が成就《じょうじゅ》されているのを認めた。
 キチイは以前ないことに、シュタール夫人からもらった聖書を毎晩のように読み、社交界知人をさけて、ヴァーレンカの保護のもとにある病人、ことに病める画家ペトロフの貧しい一家と接近した。公爵夫人はそれに気がついた。キチイは明らかに、この家族の中で特志看護婦の義務を果しているのが、自慢らしかった。なにもかも結構なことで、公爵夫人もそれに対して何もいい分はなかった。まして、ペトロフの妻はどこから見ても、れっきとした婦人であり、大公妃もキチイの活動に目をつけて、彼女を慰めの天使といってほめそやしたくらいだから、なおのこと文句のつけようがなかった。もしそこに行きすぎさえなかったら、なにもかも結構だったはずである。公爵夫人はキチイが極端に走っているのをみて、じきじきに娘にそれを注意したことがある。
「Il ne faut jamais rien outrer. (物事は決して度を過ごしてはいけません)」と彼女はいった。
 しかし、娘はなんとも答えなかった。ただ心の中で、キリスト教の仕事で行きすぎをうんぬんすることはできない、とそう考えただけである。一方の頬を打たれたら今一方をさし出せ、外套を剥《は》がれたら肌着をも与えよと命じている、そうした教えに従うのに、どんな行き過ぎがありうるものか? けれど、公爵夫人はその行き過ぎが気に入らなかった。しかも、それよりもっと気に入らなかったのは、キチイが自分の秘密をみなまで母に打ち明けようとしない、とこう直感したことである。事実、キチイは自分の新しい見方や感情を、母から隠していたのである。キチイがそれを打ち明けなかったのは、母親を尊敬しなかったからでも、愛しなかったからでもなく、ただそれが自分の母親だったからにすぎない。彼女は母親にそれを話すくらいなら、いっそ行きあたりばったりの人に打ち明けたに相違ない。
「どうしたものやら、アンナ・パーヴロヴナは、長いこと家へおみえにならないねえ」と公爵夫人はある時、ペトロフの妻のことをそういった。「わたし呼んだんだけれど。あのひとはどうやら何かに不満らしいね」
「いいえ、あたしそんなこと気がつきませんでしたわ」とキチイはさっと顔を赤くしていった。
「おまえもずいぶん、あそこへ行かないじゃありませんか?」
「あたしたち明日、お山へ遠足に行くことになっていますもの」とキチイは答えた。
「なに、いいでしょう、いらっしゃい」娘のもじもじした顔に見入って、その当惑の原因を察しようとつとめながら、公爵夫人はそう答えた。
 その日ヴァーレンカが食事にやって来て、アンナ・パーヴロヴナが明日の山登りを中止したことを知らせた。と、キチイがまた顔を赤らめたのに、公爵夫人は気がついた。
「キチイ、おまえペトロフさん夫婦と、なにかいやなことがあったんじゃない?」母子《おやこ》ふたりきりになった時、公爵夫人はそうきいた。「どうしてアンナ・パーヴロヴナは、子供たちもよこさなければ、うちへも来なくなったの?」
 キチイはそれに答えて、自分たちの間には何も変ったことはなかった、アンナ・パーヴロヴナは、あたしに不満をいだいているらしいけれど、どういうわけか合点がいかないといった。キチイがそう答えたのは、全く本当のことであった。彼女は、アンナ・パーヴロヴナの態度が変った理由を、知らなかったとはいうものの、ほぼ推察はしていた。その推察というのは、母親に話すことができなかったばかりでなく、自分自身にさえいいかねるような性質のものであった。それはわかってはいても、自分でさえはっきり認めることのできないような、そうした推察の一つであった。それほど恐ろしいことで、もし違っていたら、恥じ入らなければならない。
 またしても、またしても彼女の心の中で、この家族と自分との関係を、一つ残らず検《あらた》めてみた。いつも会うたびに無邪気な喜びを現わす、アンナ・パーヴロヴナの人の好さそうな円顔を思い浮べた。病画家に関するふたりの会話、さし止められている仕事から気持をそらすようにして、なるべく散歩につれ出そうという相談、『僕のキチイ』といって、彼女がそばにいなかったら寝ようとしない小さい男の児の愛着、こういうことを思い起した。そのころはなにもかも実によかった。それにつづいて、茶色の上衣を着た、頸の長いペトロフのやせた姿、まばらな縮れ毛、はじめの間キチイに恐ろしく思われた物問いたげな水色の眼、彼女がいると元気に生きいきと見せかけようとする病的な努力、それを彼女は思い出した。はじめのうち、彼女はすべての肺病患者に対して感じるのと同じ嫌悪《けんお》を、克服《こくふく》しようとつとめたこと、なんの話をしようかと話題を考え出すのに苦心したこと、なども思い起した。キチイを見る時のペトロフのおずおずした、感激にみちた目つき、そういうとき彼女の経験した同情と、奇妙なばつの悪い感じ、そのあとから頭をもちあげる自分の善行意識、それを彼女は思い起した。こういうことは、なにもかも実によかった! でも、それはみな、はじめの間だけであった。今は、三四日前から、急にすっかりだめになってしまったのである。アンナ・パーヴロヴナは、そらぞらしいお愛想でキチイを迎え、たえず彼女と良人を観察するのであった。
 彼女がそばへよるたびにペトロフの示す、あのいじらしいほどの喜びが、はたしてアンナ・パーヴロヴナの態度の冷淡になった原因だろうか?
『そうだわ』と彼女は追想をつづけた。『一昨日、アンナ・パーヴロヴナが、いまいましそうな口調で、《もうね、ずっとあなたばかり待ち焦《こが》れて、あなたとごいっしょでなければ、コーヒーもいただこうとしないんですのよ、あんなにひどく弱ってしまっているのに》といった時、そこには何か不自然なものが感じられ、あのひとの善良な性質に不似合いなものがあったっけ』
『そう、もしかしたら、あたしがあの人に膝掛を渡したのが、アンナ・パーヴロヴナは不愉快だったかもしれない。そんなことはいっこうなんでもないのに、あの人がひどく不手際な受け方をするものだから、あんなにくどくどとお礼をいうものだから、あたしまでが悪くなってしまったくらいだわ。それに、あの人が描いて、しかもみごとに出来たあたしの肖像。それに何より問題なのは、あのもじもじした、優しみの溢れた目つき………そうだわ、そうだわ、きっとそうに違いない!』キチイはぞっとしながら、ひとりこうくりかえした。『いいえ、そんなはずはない、そんなことがあってはならない! あの人はあまり惨めすぎるわ!』と彼女はあとからすぐこうひとりごちた。
 この疑念が、彼女の新生活の魅力に毒をさすのであった。

[#5字下げ]三四[#「三四」は中見出し]

 もう医者から指定された湯治の期限も終るころに、シチェルバーツキイ公爵が帰って来た。彼はカルルスバードから、当人の言いぐさによると、ロシヤ気分を満喫するために、キッシンゲンにいるロシヤの知人を訪ねて来たのである。
 公爵夫妻の外国生活を見る目は、全く相反していた。公爵夫人はなにもかもりっぱなものと思って、ロシヤの社会では確乎たる位置を占めているにもかかわらず、外国ではヨーロッパ式の貴婦人になろうとつとめていた。しかし、彼女はロシヤ貴族の夫人であって、ヨーロッパの貴婦人ではなかったから、いくらかぐあいが悪いというようなふりをしていた。ところが、公爵のほうはその反対に、外国のものはなにもかもいやなものにきめてしまって、ヨーロッパ風の生活を苦痛に思い、ロシヤで身につけた自分の習慣を固持して、外国ではことさら実際以上に、欧州人らしく見せまいと努力していた。
 公爵は全体にやせて、頬に袋がぶらさがるほど皮膚をたるませて帰って来たが、しかしこのうえもない上きげんであった。ことにキチイがすっかり快《よ》くなっているのを見て、彼の浮きうきした気分はさらにたかめられた。キチイがシュタール夫人と、ヴァーレンカと親しくしているという報告、それからキチイに何かの変化が生じたという公爵夫人の観察は、公爵をまごつかせた。それは、自分よりほかのものに娘が心をひかれるとき、彼のいつも感じる珍しくもない嫉妬感と、娘が自分の感化を脱してどこか手の届かない領域へいってしまいはせぬか、という恐怖を呼びさましたのである。しかし、そういうおもしろからぬ報告も、彼がいつも持ち合わしているし、特にカルルスバードの温泉でさらに度を増した、人のよい楽しい気分の中に溺れてしまった。
 帰って来た翌日、公爵はいつもの長い外套を着て、ロシヤ人らしい皺《しわ》のよっただぶだぶの頬を、糊のきいたカラアで突きあげながら、上々のきげんで、娘とともに鉱泉場へ出かけた。
 それはすばらしい朝であった。小庭つきのさっぱりした楽しそうな家々、ビールのせいで顔も手も赤くして、愉快そうに働いているドイツ人の女中たちの姿、輝かしい太陽などは、人の心を浮き立たせた。けれど、鉱泉場へ近づくにしたがって、行き合う病人の数が多くなった。ドイツではあたりまえになっている整美した生活条件の中で、彼らの姿はひとしお惨めに見えるのであった。この矛盾も、今ではもうキチイの心を打たなくなった。さんさんたる太陽も、楽しい緑の輝きも、音楽の響きも、彼女にとってはすべての知人たちをかこむ自然の額縁《がくぶち》であり、よいほうなり悪いほうなりにむかう変化の背景であった(彼女はその変化にたえず注意していた)。しかし、公爵の目から見ると、六月の朝の輝きと光や、流行の浮きうきしたワルツを奏する音楽のひびきや、ことに頑丈な女中たちの姿は、ヨーロッパのあらゆるすみずみから集って、わびしげに動きまわっている死人のような人々と一つになって、何かぶしつけな醜いもののように思われた。
 いま愛娘《まなむすめ》と腕を組んで歩いている公爵は、得得たる感じと、何か若返ったような気持さえ覚えながらも、自分の元気な歩きぶりや、脂《あぶら》の乗りきった大柄な肉体が、なんとなくばつの悪いような、気の咎《とが》めるような思いであった。彼はほとんど、人中で裸になっている人と同じ気持を経験した。
「ひとつ紹介しておくれ、おまえの新しい友だちにわしを紹介しておくれ」と彼は肘《ひじ》で娘の腕を締めつけながら、いった。「わしはな、この大嫌いなソーデンではあるが、おまえをこんなに快くしてくれたので、大好きになったよ。しかし、ただ気が滅入《めい》る、気が滅入っていけない。あれはだれだね?」
 キチイは、むこうからやってくる知った人やら、知らない人の名を父に教えた。公園の入口のすぐそばで、女の手引きにつれられた盲目のマダム・ベルトに出会った。キチイの声を聞きつけると、この年とったフランス婦人の顔に、感動の表情が浮かんだのを見て、公爵はうれしくなってしまった。マダム・ベルトはさっそく、フランス人特有の大仰《おおぎょう》なお世辞をふりまきながら、公爵に話しかけて、こんなお嬢さまをおもちになっておしあわせでございます、と賞めそやし、キチイのことを面と向って、宝だ、真珠だ、慰めの天使だといいながら、天にまで持ちあげかねない勢いであった。
「ははあ、ではこの子は第二の天使なんですか」と公爵は微笑しながらいった。「この子はヴァーレンカを天使第一号といっていますから」
「おお! マドモアゼル・ヴァーレンカ――あれは本当の天使でございますよ、allez(まったく)」とマダム・ベルトはひき取った。
 廻廊で、彼らは当のヴァーレンカに出会った。彼女は赤い優美なハンド・バッグを持って、いそいそとむこうからやってきた。
「やっとパパが帰ってらっしゃいましたわ」とキチイは彼女にいった。
 ヴァーレンカは、何をしてもそうなのであるが、率直な自然なこなしで、頭を下げるとも、小腰をかがめるともつかぬ、そのあいだの動作をして、すぐさま公爵に話しかけたが、それは彼女があらゆる人と話すのと同じ、無理のないさばけた調子であった。
「もちろん、あなたのことは知っております。知っておりますとも」と公爵はほほえみながらいったが、キチイはその微笑によって、自分の親友が父の気に入ったことを悟った。「いったいどこへそんなに急いでおいでですな?」
「母がここへきていますの」と彼女はキチイの方へ向いていった。「昨晩よっぴて眠れなかったものですから、お医者さまが外出するようにとおっしゃいましたの。わたし、母の手仕事を持っていくとこなんですの」
「では、あれが天使第一号だな」ヴァーレンカが立ち去った時、公爵はこういった。
 公爵は、ヴァーレンカを冷やかしてやろうと思ったのだけれども、この娘が気に入ってしまったので、どうしてもそれができなかったのである。キチイはそれを見てとった。
「さあ、これからおまえの親友を、すっかり見ることができるぞ」と彼はつけ加えた。「マダム・シュタールも、もしもわしに光栄を授けて思い出してくれたらな」
「まあ、パパはあのかたを知ってらっしゃいましたの?」マダム・シュタールの名を口にした時、父の眼に輝いた嘲笑を見てとって、キチイはぎょっとしながらたずねた。
「あの女の亭主を知っておったよ、それにあの女も少々、あの女が敬虔主義者《ピエチスト》になる前にな」
「なんですの、ピエチストって?」自分がシュタール夫人の中に認めて、あれほど高く評価していたものが、一定の名称をもっているのに、早くも驚愕の念をいだきながら、キチイはこうたずねた。
「わしも自分でよくわからんのだが、ただあの女がなんでもかでも、どんなふしあわせでも神さまに感謝する……ということだけは知っておるがな。なにしろ、亭主が死んだことまで、神さまに感謝してるんだからなあ。いやはや、おかしなことになってくるのさ、夫婦の仲がよくなかったのでな……あれはだれだ? なんというみじめな顔をしておることか!」ベンチに腰かけている、あまり背の高くない病人に気がついて、彼はそうきいた。病人は茶色の外套を着て、白ズボンをはいていたが、それは肉のなくなった足の骨の上に、奇妙な襞《ひだ》をつくっていた。この病人は、麦わら帽子をちょっともちあげて、まばらな縮れ毛と、帽子の痕《あと》が病的に赤く残っている秀でた額をあらわした。
「あれはペトロフといって、画家なんですの」とキチイは赤くなって答えた。「そして、あれが奥さん」と彼女は、アンナ・パーヴロヴナを指さしながら、つけたした。ペトロフの妻はこの時わざと、径《こみち》づたいに駆け出した子供のあとを追って行ったのである。
「なんて惨めな男だろう、だが、実に人なつこい顔をしとる?」と公爵はいった。「どうしておまえそばへ行ってあげなかったんだ? 何かおまえにいいたそうにしておったじゃないか」
「そうね、じゃ行きましょう!」キチイは決然とうしろへ返りながら、こういった。「今日はお加減いかがですの?」と彼女はペトロフに問いかけた。
 ペトロフは杖にもたれて立ちあがり、臆病げに公爵を眺めた。
「これはわしの娘ですよ」と公爵はいった。「お近づきを願います」
 画家は会釈して、輝くばかり白い歯を見せて、にっこり笑った。
「公爵令嬢、私たちは昨日あなたをお待ちしていたんですよ」と彼はキチイにいった。
 そういうひょうしに、彼はひょろっとよろけた。するともう一度その所作を繰り返して、わざとしたのだというふりを見せようとつとめた。
「あたし、お訪ねしようと思ったんですけど、ヴァーレンカの話によりますと、アンナ・パーヴロヴナからお使があって、あなたがたはいらっしゃらないってことでしたから」
「え、行かないんですって!」とペトロフは真赤になって、すぐに咳きこみながら、妻を目でさがしさがしいった。「アネッタ、アネッタ!」と彼は大声に呼んだ。すると、その細い白い頭筋には、太い血管が縄のように怒張《どちょう》した。
 アンナ・パーヴロヴナがそばへ寄った。
「どうしておまえは、公爵令嬢のとこへ、私たちはまいりませんなんて使を出したんだ?」声が出なくなって、彼はいらいらとささやくようにいった。
「こんにちは、お嬢さま」とアンナ・パーヴロヴナは、わざとらしい微笑を浮べていったが、それは今までの態度とは、似ても似つかないものであった。「お近づきになれまして、光栄でございます」と彼女は公爵の方へ向いた。「ずいぶん長くお待ち申しあげていたのでございますよ、公爵」
「どうしておまえは公爵令嬢のとこへ使を出して、私たちが行かないなんて申しあげたんだい?」と画家はもう一度しゃがれた声でいったが、それは前よりもっと腹だたしげであった。明らかに、声がいうことを聞かないで、自分の言葉に思いどおりの表情を与えることができないために、ますますいらだってくるらしかった。
「あら、どうしましょう! わたし、うちでは行かないものと思ってたものですから」と妻はいまいましそうに答えた。
「どうして、だって……」彼はまた咳きこんで、あきらめたように片手をふった。
 公爵はちょっと帽子を持ちあげて、娘とともにそばを離れた。
「やれやれ!」と彼は重々しく吐息をついた。「ああ、ふしあわせな人たちだ!」
「そうなんですのよ。パパ」とキチイは答えた。「それに、ごぞんじないでしょうけれど、お子さんが三人もあって、女中はいないし、蓄えもほとんどないんですからねえ。アカデミイから少々もらってらっしゃるだけでね」自分に対するアンナ・パーヴロヴナのふしぎな態度の変化のために、こみあげてくる興奮をおさえつけようとしながら、彼女は勢いこんで物語るのであった。「ああ、むこうからマダム・シュタールも見えましたわ」と車のついた肘椅子を指さした。その中では、枕をぐるりと積んだ上に、何かしら鼠色と空色の着物に包まれたものが、パラソルの下に横たわっていた。それがシュタール夫人なのであった。そのうしろには、車を押す役になっている、頑丈づくりのドイツの人夫が立っていた。そばには、キチイの名前だけ知っている、白っぽい髪をしたスウェーデンの伯爵がいた。幾たりかの病人がこの貴婦人を、何か珍しいもののように見物しながら、肘椅子の辺をうろうろしていた。
 公爵はそのそばへ寄った。と、その眼の中には、いつもキチイを当惑させる冷笑の火花が閃いたのを、彼女は早くも認めた。彼はマダム・シュタールに近づいて、みごとなフランス語で話しかけたが、それは今ではもう話す人のきわめて少なくなった、実に慇懃《いんぎん》な愛想のいいフランス語であった。
「私を思い出して下さるかどうか知りませんが、私は娘にお示し下さるご親切にお礼を申しあげるため、自分のほうからご記憶を呼びさましてさしあげねばなりません」帽子をとったままかぶらないで、彼はこういった。
「アレクサンドル・シチェルバーツキイ公爵でございましょう」とマダム・シュタールは、例の天国を反映したような眼を上げて答えたが、今やキチイはその中に不満の色を読みとった。「本当にうれしゅうございますこと。わたしはお嬢さまがとても好きになってしまいましてねえ」
「お体の調子は相変らずおよろしいんでしょうな?」
「はあ、わたくしもう慣れてしまいましたから」とマダム・シュタールはいって、スウェーデンの伯爵を公爵にひきあわせた。
「あなたはあまりお変りになりませんな」と公爵は彼女にいった。「私はもう十年か、十一年もお目にかかる光栄を有しませんでしたが」
「はあ、神さまはわたくしどもに十字架もお下しになりますが、それを背負っていく力も授けて下さいますから。いったいなんのためにこの生活がつづいていくのか、よくふしぎに思うくらいでございますよ……そっち側ですよ!」と彼女はいまいましそうに、ヴァーレンカをきめつけた。膝掛で足をくるむ、そのしかたが悪かったのである。
「それは善行をするためでしょうな、おそらく」と公爵は目で笑いながらいった。
「それはわたくしどもの、とやかく考えるべきことではございません」公爵の顔に浮んだニュアンスに気がついて、シュタール夫人はそういった。「では、そのご本を、わたくしに届けて下さいますね、伯爵? ご親切くれぐれもありがとうございます」と彼は若いスウェーデン人にいった。
「やあ!」そばに立っているモスクワの大佐が目に入ると、公爵は思わず叫び声を上げた。シュタール夫人に会釈したあと、父娘《おやこ》は仲間に入ったモスクワの大佐とともに、そのそばを離れた。
「あれがわがロシヤの|貴族《アリストクラート》ですよ!」冷笑的になりたい気持で、モスクワの大佐はこういった。彼はシュタール夫人が自分と近づきでないので、いささか向っ腹を立てていたのである。
「あの女は、相変らずですわい」と公爵はいった。
「あなたは病気前から、あのひとをごぞんじだったんですか、公爵、つまり、あのひとが床につく前から?」
「なに、あの女は私の知っておる時分に、床についたんですよ」と公爵はいった。
「なんでも、十年間おきたことがないそうですな……」
「起きないわけは、足が短いからですよ。あれはひどくかっこうの悪い女でな……」
「パパ、そんなはずありませんわ!」とキチイが叫んだ。
「口の悪い連中はそういっとるよ、おまえ。それにしても、おまえのヴァーレンカはさぞいじめられてることだろうな」と彼はつけ加えた。「いやはや、ああいう病気の奥さんがたときたら!」
「あら、違いますわ、パパ!」とキチイは熱くなって、抗議を申しこんだ。「ヴァーレンカはあのかたを、神さまみたいに崇拝していますわ。それに、あのかたは数え切れないほどいいことをしていらっしゃるし! だれにでもお好きな人にきいてごらんなさいまし! あのかたとアリーヌ・シュタールは、だれでも知らない人はありませんから」
「そうかもしれん」と公爵は、彼女の腕を締めながらいった。「しかし、それよりいいのは、だれにきいても、だれも知らないようにすることだよ」
 キチイは口をつぐんだが、それは何もいうことがなかったからでなく、父にも自分の秘密の考えを、打ち明けたくなかったからである。とはいえ――ふしぎにも――彼女は父の見方に屈服せず、自分の聖物に近よらせない覚悟であったにもかかわらず、一ヵ月のあいだ大切に胸の中にしまっていたシュタール夫人の神々しいおもかげが、あとかたもなく消え失せたのを感じた。それは、その辺にほうり出されている着物を人間と思い違いしたものが、ただ着物がころがっているにすぎないと、悟ったのと同じ気持であった。そこに残ったのは、ただ足の短い女であった。自分の姿が悪いために寝床から離れずにいて、膝掛のくるみかたが違うといって、おとなしいヴァーレンカを苦しめているのだ。もうどんなに想像力を働かせても、もはや以前のマダム・シュタールを復活させることはできなかった。

[#5字下げ]三五[#「三五」は中見出し]

 公爵は自分の浮きうきした気分を、家族のものにも、知人にも、シチェルバーツキイ一家の滞在している家の主人であるドイツ人にまで感染さした。
 キチイといっしょに鉱泉場から帰ると、公爵は自分の家へ大佐と、マリヤ・エヴゲーニエヴナと、ヴァーレンカをコーヒーに招待して、テーブルと肘椅子を小庭の栗の木の下へ持ち出させ、そこで昼食のしたくを命じた。主人も下女も、彼の浮きうきした気分にかぶれて、元気づいてきた。彼らは公爵の切離れのいいことを知っていた。で、三十分ののちには、二階に住んでいるハンブルグの病身な医者でさえ、栗の木の下に集った健康そうなロシヤ人の一座を窓越しに見て、羨望の念を覚えたほどである。白いテーブル・クロースをかけ、コーヒー沸し、パン、バタ、チーズ、野禽《やきん》の冷肉などを並べたテーブルのそばには、薄紫色のリボンのついたレース帽をかぶった公爵夫人が、無数の輪《わ》になってふるえる木の葉の影を受けて、お茶やサンドウィッチを配っていた。その反対の端に公爵が陣取って、健啖《けんたん》を発揮しながら、大きな声でおもしろそうに話していた。公爵のそばには、買物がひろげて立ててあった。ほうぼうの温泉場で買ったさまざまな小箱、麦わら細工、ありとあらゆる種類の紙切りナイフなどを、みんなに頒《わ》けてやった。女中のリースヘンと主人も、数に洩れなかった。彼は主人を相手に、こっけいなブロークンのドイツ語で冗談をいいながら、キチイを癒《いや》したのは鉱泉ではなくて、彼のつくるすばらしい料理、ことに黒すもも入りのスープだ、と主張するのであった。公爵夫人は、良人のロシヤ式の癖をひやかしながらも、この温泉場へ来てからついぞないほど元気づいて、浮きうきしていた。大佐は例によって、公爵の冗談を聞いて、にやにやしていた。しかし、彼が細心に研究している(と当人は考えていたのだ)ヨーロッパのこととなると、彼は公爵夫人の肩をもつのであった。人のいいマリヤ・エヴゲーニエヴナは、公爵がこっけいなことをいうたびに、腹をかかえて笑った。ヴァーレンカも、今までキチイが見たこともないほど、公爵の冗談にくすぐられて、弱々しいが伝染性の笑いでぐったりとしていた。
 それらはすべて、キチイの心を楽しませたが、それでも彼女は、ある一事を心にかけずにはいられなかった。父が彼女の親友たちをはじめとして、彼女が好きでたまらなくなった新しい生活を、妙におもしろそうにながめるために、自然と彼女の胸に呼びさました問題が、どうしても解けないのであった。この問題にかてて加えて、ペトロフ一家との関係が一変してきた。この変化は、今日ことさら不快に感じられたのである。一座の人々はみんな楽しそうであったが、キチイは愉快になることができなかった。それがまたよけいに、彼女を苦しめるのであった。彼女はちょうど、子供の時分に罰として自分の部屋へ閉じこめられ、姉たちの楽しげな笑い声を聞いたときに似たような、そうした気持を経験していた。
「まあ、あなた、なんだってこうむやみにお買いになりましたの?」と公爵夫人は微笑を浮べて、コーヒーの茶碗を夫に渡しながらいった。
「なに、ちょっと散歩に出かけて、その辺の小店のそばによるだろう、すると『エルラウヒト・エクスツェンツ・ドゥルヒラウヒト(閣下、旦那さま、御前さま)』といって、お買いあげを懇願するのだ。そこで、この『|御前さま《ドゥルヒラウヒト》』を聞くと、わしはもうがまんができなくなって、十ターレルくらいはいつのまにか消えてしまう、というわけだ」
「それはお退屈のせいですわ」と公爵夫人はいう。
「むろん退屈のせいさ。退屈さといったら、おまえ、身の置き場がないほどだよ」
「どうして退屈することなど、おできになるのでしょうね、公爵? いまドイツには、あれほどおもしろいことがたくさんございますのに」とマリヤ・エヴゲーニエヴナはいった。
「なに、わしもおもしろいことはすっかり知っておりますよ。黒すもも入りのスープも知っていれば、えんどう入りのソーセージも知っておりますよ」
「いや、公爵、なんといわれても、彼らの施設は興味がありますよ」と大佐はいった。
「じゃ、いったいなにがおもしろいんです? やつらはみな銅銭《あかせん》のように満足しておる、どいつもこいつも負かしたというわけでな。ところが、わしはいったい、なにに満足しろといわれるんですな? わしはだれも負かしはせん。ただ自分で靴をぬいで、おまけに、それを戸の外へ出しておかにゃならん。それだけのことですよ。朝になると起き出して、さっそく着替えをして、サロンへ茶を飲みにいかにゃならん始末ですよ。ところが、国におればまるで別ですて! 朝も悠々《ゆうゆう》と目をさまして、ちょいと何かに腹をたてて、口小言をいって、よっく正気に返ってから、何から何までとっくりと考える、すべて急がず慌《あわ》てずにな」
「しかし、時は金なりですよ、あなたはそれを忘れていらっしゃる」と大佐は注意した。
「時といって、どんな時です! そりゃ時によると、まる一月分に五十コペイカくらいしか出せないこともあれば、三十分の間に一文もとれんことがありますのでな。そうだろう、カーチェンカ? おまえどうしたんだね。ひどくつまらなそうな顔をしとるが」
「あたしどうもしませんわ」
「あなたいったいどこへ? もっとゆっくりしていらっしゃい」と、彼はヴァーレンカの方へふりむいた。
「わたし家へ帰らなくちゃなりませんの」とヴァーレンカは立ちながらいい、またきゃっきゃっと笑い出した。やっと笑いがおさまると、彼女は暇を告げ、帽子をとりに家の中へ入った。
 キチイはそのあとからついていった。ヴァーレンカさえも今は彼女の目に、別人のように映ってきたのである。それは別に悪くなったわけではないが、前に想像していたのとは違ってきたのである。
「ああ、こんなに笑ったことは、久しいことなかったわ!」傘やハンド・バッグを集めながら、ヴァーレンカはこういった。「なんていいかたでしょうね、あなたのお父さまは!」
 キチイは黙っていた。
「今度いつお目にかかりましょう?」とヴァーレンカはきいた。「ママは、ペトロフさんとこへ行くっていってるんですけど、あなたもいらっしゃる!」ヴァーレンカを試すつもりで、キチイはこういった。
「わたしまいりますわ」とヴァーレンカは答えた。「あの一家は、出発の用意をしていますから、荷造りのお手伝いをするように、お約束しましたの」
「じゃ、あたしもいきますわ」
「いいえ、なんだってあなた?」
「なぜ? なぜ! なぜ?」とキチイは眼をいっぱいに見ひらきながら、ヴァーレンカをやるまいと、パラソルに手をかけていった。「いえ、待ってちょうだい。なぜですの?」
「なんでもないの。だって、お父さまもお帰りになったことだし、それにあそこでも、あなたがいらっしゃると、窮屈がるでしょうから」
「いいえ、いってちょうだい、どうしてあたしが、ペトロフさんとこへしょっちゅう行くのをお望みにならないの? だって、あなた望んでいらっしゃらないでしょう? なぜですの?」
「わたし、そんなこといいはしませんでしたわ」とヴァーレンカはおちついた声でいった。
「いいえ、お願いですから、いってちょうだい!」
「すっかりいってしまいましょうか?」とヴァーレンカはきいた。
「ええ、すっかり、すっかり!」とキチイはひきとった。
「いえね、それには何も、とりたてていうほどのことはないのよ。ただミハイル・アレクセエヴィッチが(それは画家の名であった)、もとは早く引き上げるといってらしたのに、今度は立つのがいやになってきたんですの」とヴァーレンカはほほえみながらいった。
「で、で?」とキチイは、沈んだ眼でヴァーレンカを見つめながら急《せ》きたてた。
「でね、どうしたわけかアンナ・パーヴロヴナが、あの人がたちたがらないのは、あなたがここにいらっしゃるからだ、とそういったんですの。もちろん、それはまずかったんですけど、つまりそのために、あなたのことから喧嘩が起ったんですのよ。なにぶんごぞんじのとおり、ああいう病人は、癇《かん》が強うござんすからねえ」
 キチイはいよいよ顔をくもらせながら、押し黙っていた。ヴァーレンカは、自分の言葉の効果を和らげ、相手をおちつかせようとつとめながら、一人でしゃべっていた。彼女は爆発が近づいてくるのを見ながら、それが涙になるか言葉になるか、見当がつかなかった。
「ですからね、あなたはいらっしゃらないほうがいいのよ……ね、あなたおわかりになるでしょう、気を悪くなさらないでね……」
「自業自得《じごうじとく》なんだわ、自業自得なんだわ!」ヴァーレンカの手からパラソルをひったくって、友の眼をちょっとはずした方角を見ながら、キチイは早口にいいだした。
 ヴァーレンカは、友の子供らしいいきどおりを見て、にっと笑おうとしたが、気を悪くされてはと遠慮した。
「何が自業自得なんですの? わたしわかりませんわ」と彼女はいった。
「自業自得というのはね、こんなことなにもかも見せかけだったからですわ。みんな真心から出たんじゃなくて、考えだしたことだったんですわ。よその人なんか、あたしになんの用があるんでしょう。現にそのために、あたしは夫婦喧嘩のもとになってしまいました。あたしが、だれにも頼まれもしないことをしたからだわ。なにもかも見せかけだからよ! 見せかけだわ! 見せかけだわ!」
「だって、なんのために見せかけなさる必要があるんですの?」とヴァーレンカは静かにいった。
「ああ、なんてばかげているんでしょう、なんていまわしい! あたしなんの必要もなかったんですわ……なにもかも見せかけよ!」と彼女はパラソルを開けたり、つぼめたりしながらいった。
「でも、どんな目的で?」
「自分をよく見せたいためですわ、世間の前で、自分の前で、神さまの前で。みんなをだますためだったんですわ。いいえ、もうこれからは、そんな誘惑には乗りません! たとえ悪い人間でも、とにかく、嘘つきの面かぶりにはなりませんわ!」
「まあ、だれが嘘つきなんですの?」とヴァーレンカはなじるようにいった。「あなたのおっしゃることを聞いていると、まるで……」
 しかし、キチイは激情の発作に襲われていた。彼女は相手にしまいまでいわせなかった。
「あたし、あなたのことをいってるんじゃなくってよ、決してあなたのことじゃありません。あなたは完成そのものですもの。ええ、ええ、あなたがたがみんな完成された人だってことは、あたし承知しています。でも、あたしがいけない人間だからって、どうしようがあるんでしょう? もしあたしが悪い人間でなかったら、こういうことにならなかったでしょうか? してみると、あたしは面なんかかぶらないで、ありのままの人間でいますわ、アンナ・パーヴロヴナなんかに、なにも関係ありゃしませんわ! あの人たちはどうとも、好きなように暮したらいいんです、あたしはあたしの好きなようにするから。あたし、これよりほかの人間にはなれません……こんなことはみんな見当ちがいですわ、見当ちがいですわ!………」
「いったいなにが見当ちがいなんですの?」とヴァーレンカはけげんそうにきいた。
「なにもかも見当ちがいなんですの。あたしは、自分の心の命じるようにするほか、生きていくことができません。ところが、あなたがたは規則どおりに生活していらっしゃるんですもの。あたしはただ単純に、あなたを好きになっただけですけど、あなたはただあたしを救うために、あたしを教えるために愛して下すったんでしょう!」
「それはあなたのお考え違いよ」とヴァーレンカはいった。
「いえ、あたし人さまのことはなんにも申しません、あたしただ、自分のことをいってるだけですの」
「キチイ!」と呼ぶ母夫人の声が聞えた。
「こっちへきて、パパにあの珊瑚《さんご》を見せておあげなさい」
 キチイは傲然として、親友と和睦《わぼく》もせず、テーブルの上から珊瑚の入った箱をとって、母の方へいった。
「どうしたのおまえ? 真赤な顔をして?」と両親は声を揃えていった。
「なんでもありません」と彼女は答えた。「あたしすぐまいりますから」といって、もときた方へ駆け戻った。
『あのひとまだその辺にいるわ!』と彼女は考えた。『なんといったらいいかしら、ああ、どうしよう! あたしなんてことをしでかしたんだろう、なんてことをいってしまったんだろう! なんのためにあのひとに失礼なことをいったのかしら? どうしたものだろう? あのひとになんといおう?』と考えながら、キチイは戸口に立ちどまった。
 ヴァーレンカは帽子をかぶり、傘を手に持って、テーブルの前に腰をおろしたまま、キチイのこわしたバネをと見こう見していた。彼女はふと頭をあげた。
「ヴァーレンカ、勘忍してちょうだい、勘忍して!」とキチイはそばへよりながら、ささやいた。「あたし自分でも何をいったか、覚えがないんですの。あたし……」
「わたくし全くのところ、あなたにいやな思いをさせたくなかったんですの」とヴァーレンカはほほえみながらいった。
 講和は締結された。しかし、父親の帰来とともに、キチイにとっては、今まで自分の生活していた世界が一変してしまった。彼女は今度あたらしく認識したいっさいを、否定はしなかったけれども、自分がなりたいと望んだものになれると思ったのは、自己|欺瞞《ぎまん》であったと悟った。それはさながら、目のさめたような気持であった。自分が達したいと思ったあの高みに、みせかけも虚栄心もなしに身をささえるのは、容易ならぬわざであることをはっきりと感じた。のみならず、彼女は自分の住んでいる、この悲しみ、病気、瀕死の人々の世界の重苦しさをも、身にしみじみと感じた。それを愛しようとして、われとわが身に加えている努力も、悩ましいものに思われてきて、少しも早くすがすがしい空気の中へ、ロシヤへ、エルグショーヴォ村へ帰りたくなった。そこへは、手紙で知ったところによると、もう姉のドリイが子供たちをつれて、引き移っているのであった。
 けれども、ヴァーレンカに対する愛は衰えなかった。別れに際して、キチイは彼女に、ぜひロシヤヘ帰って、自分の家へ来てほしいと頼んだ。
「あなたの結婚なさる時に伺いますわ」とヴァーレンカは答えた。
「あたし決して結婚しませんわ」
「あら、それじゃわたしも決してお伺いしないことよ」
「じゃ、あたし、ただそのためだけに結婚しますわ。よござんすか、その約束を覚えててちょうだいね!」とキチイはいった。
 医師の予言は適中した。キチイは完全に回復して、ロシヤヘ帰った。彼女は前のようにのんきで、快活ではなくなったが、そのかわりおちついてきた。モスクワの悲しみも、今は思い出となってしまった。
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