『アンナ・カレーニナ』6-21~6-32(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]二一[#「二一」は中見出し]

「いや、公爵夫人はお疲れになったらしいから、馬などには興味がおありになるまいと思うね」スヴィヤージュスキイが新しい牡馬を見たいといいだしたので、養馬場まで行こうと誘ったアンナにむかって、ヴロンスキイはこういった。「おまえたちいっておいで、僕は公爵夫人を家までお送りするから。そして、二人でお話してるよ」と彼はいった。「もしそのほうがおよろしかったら?」と彼はドリイの方へふりむいた。
「わたし、馬のことなどなんにもわかりませんから、そのほうがたいへんけっこうでございます」とドリイはいくぶんおどろいて答えた。
 彼女はヴロンスキイの顔つきで、彼が自分から何か求めているのを察した。それははたして誤りでなかった。二人がくぐりを抜けて、ふたたび庭へ出るが早いか、彼はアンナの行ったほうをふりかえって、彼女が自分たちの姿を見もせねば、話も聞くはずがないのを確かめた後、こんなふうにきりだした。
「お察しのとおりです、僕はあなたにお話したいことがあるのです」と彼は笑うような目つきで、相手を見ながらいった。「僕の考え違いじゃないでしょうね、あなたはアンナの親友でしょう」彼は帽子をぬいで、ハンカチをとりだし、禿げかかった頭をつるりとふいた。
 ドリイはなんにも返事しないで、おびえたように彼を見やった。二人きりになったとき、彼女は急に恐ろしくなってきた。男の笑いをおびた目や、きびしい顔の表情が、彼女をぎょっとさせたのである。
 何をいいだそうとしているのだろうと思うと、種々さまざまな想像が、彼女の頭をかすめてすぎた。『この人はわたしに、子供たちをつれて自分のとこへ引き移ってくれと頼むのかしら。それなら、わたしは断らなくちゃならない。それとも、モスクワでアンナのために、社交界に一つのサークルをつくってほしいというのかしら……さもなければ、ヴァーセンカ・ヴェスローフスキイのことや、あの人とアンナの関係をきこうというのかしら。それとも、キチイのことかもしれない、キチイにたいして申しわけなく思っている、とかなんとか』彼女は、ただいやなことばかり想像したが、しかし彼のいおうと思っていることを、察しることができなかった。
「あなたはアンナにたいして、とても感化力をもっていらっしゃるし、あれもあなたを本当に愛していますから」と彼はいった。「ひとつお力添えを願います」
 ドリイは質問の表情で、おずおずとヴロンスキイの精力的な顔をながめた。その顔は、菩提樹を洩れる日光に、ときには全部、ときには一部だけ照らし出されるかと思うと、また陰にさえぎられて、暗くなってしまうのであった。彼女は、それからさき何をいうかと、待ちもうけていた。けれど、彼はステッキの先で小石を突っつきながら、黙って並んで歩いた。
「アンナの以前の女友だちの中で、あなたがたった一人です、うちへ訪ねて来てくだすったのは――ヴァルヴァーラ公爵令嬢は勘定に入れません――あなたがそうなすったのは、僕たちの境遇がノーマルなものと、お思いになったからじゃないでしょう、それは僕にもわかっています。ただこの境遇の苦しさを十分に理解しながら、それでもやはりあれを愛して、力になってやろうとお思いになったからでしょう。僕の解釈はあたっていますか?」と彼はふりかえってたずねた。
「そりゃあそうですとも」とドリイは、パラソルをたたみながら答えた。「しかし……」
「いや」と彼はさえぎった。そして、この動作によって、相手をばつの悪い立場におくことを忘れて、つい何心なく立ちどまった。で、彼女も歩みを止めねばならなかった。「僕ほど深く、強く、アンナの境遇の苦しさを、残りなく感じているものはありますまい。それは当然な話です。もしあなたが、僕を真心のある人間と思ってくださるならばです。僕はその境遇の原因となったのですから、したがって、それを感じるわけです」
「わかりますわ」彼がそういった真摯《しんし》な、断乎とした調子に、思わず見とれながら、ドリイは答えた。「でも、あなたはご自分を原因と感じてらっしゃるそのために、あまり大仰《おおぎょう》に考えてらっしゃるのじゃないかと思いますわ」と彼女はいった。「社交界では、アンナの立場はさぞ恐ろしいものでしょう、それはわたしにもわかります」
社交界、それは地獄です!」暗い顔をして眉をひそめながら、彼は早口にいった。「あれが二週間というもの、ペテルブルグで経験した精神的な苦しみといったら……あれ以上ひどいものは想像もできません。どうかそれを信じていただきたいのです」
「でも、ここでは、……アンナも……あなたも、社交界に必要をお感じにならない間は……」
社交界ですって!」と彼はさげすむようにいった。「僕が社交界なんかに、どんな必要を感じるものですか?」
「その間は――それは永久に続くと思いますが――あなたがたは幸福で、おちついていられますわ。わたし、アンナを見てそう思いますけど、あれは幸福ですわ、本当に幸福ですわ。もう自分でわたしにそういいましたもの」とドリイはほほえみながらいった。そういったとたんに、彼女はいま我れともなしに、本当にアンナは幸福なのかしら、と疑いをいだいた。
 しかしヴロンスキイは、それを疑うふうもなかった。
「そうですとも、そうですとも」と彼はいった。「あれがあの苦しみのあとで生き返ったのは、僕も承知しています。あれは幸福です。現在に幸福を感じています。しかし、僕はどうでしょう?……僕はわれわれの将来が心配なのです……ごめんなさい、あなたはお歩きになりたいのでしょう?」
「いいえ、おなじことですわ」
「ああ、それじゃここに掛けましょう」
 ドリイは、並木道のかどにあるベンチに腰をおろした。彼はその前に立ちどまった。
「あれが幸福なのは、僕にもわかっています」と彼はくりかえした。すると、はたしてアンナが幸福なのかどうかという疑問が、さらに強くドリイの胸を打った。「しかし、それが長く続くでしょうか? 僕らがしたことがいいか、悪いか、それは別問題です。しかし、運命のさいころは投げられたんですから」と彼はロシヤ語からフランス語に移りながらいった。「われわれは一生涯むすび合わされているのです。われわれは最も神聖な絆《きずな》でつながれています。僕らにはもう赤ん坊がありますし、これから先もできるでしょう。しかし、法律からいっても、われわれの境遇からいっても、幾千万の複雑な事情が現われてくるのですが、あれは今ありとあらゆる苦しみを経験した後、心底から休息しているさいちゅうですから、それが見えないのです、見ようと思わないのです。しかし、それも無理はありません。しかし、僕は見ずにいられないのです。僕の娘だって、法律からいえば、僕のものじゃなくて、カレーニンの娘なんですからね。僕はその虚偽がたまらないのです!」と彼は力強い否定の身ぶりをして、暗い質問の表情でドリイをながめた。
 彼女はなんとも答えないで、ただ相手の顔を見ていた。彼は言葉をつづけた。
「明日にも、男の子が生れるかもしれません。それは僕の息子なんですが、法律からいえば、カレーニンの子です。それは僕の苗字と、財産の相続者じゃありません。だから、僕らが家庭の中でいくら幸福であっても、またいくら子供ができても、僕と子供らのあいだにはなんの関係もないのです。それはみんな、カレーニンの家のものですから。どうか僕の立場の苦しさ、恐ろしさを察して下さい! 僕はそのことを、アンナにいおうとしましたが、その話はあれをいらだてさせるのです。あれはそれがわからないし、僕はまたあれにそれをはっきりいうことができないのです。ところで、今度は別のほうから見て下さい。僕は確かに幸福です、あれの愛情のために幸福です。が、僕は仕事をもたなくちゃなりません。僕はその仕事を見つけて、それを誇りとしています、そして、宮廷や軍隊の友だちがやっている仕事よりも、高尚なものだと思っています。もちろんのこと、僕はもうこの仕事を、あんな連中のやっている仕事に見変えようとは思いません。僕はここにじっとして働いていますが、それで幸福であり、満足しています。僕らは幸福のために、それ以上なにも必要がありません。僕はこの仕事を愛しています。Cela n'est pas un pis-aller,(それは決してくだらないことじゃありません)、それどころか……」
 彼の説明がここまでくると、しどろもどろになるのに、ドリイは気がついた。そして、彼が、なぜこんな横道へそれるのか、合点がいかなかった。それでも、彼女はこう感じた。いったんヴロンスキイが、アンナにもいえないような、心の底に秘めていることをいいだした以上、彼は今なにもかもいってしまったのであって、彼の田舎でしていた仕事の問題は、アンナとの関係と同様に、心に秘めている考えの部門に属するものにちがいない。
「そこで、先を続けますが」と彼はわれに返っていった。「何よりもかんじんなのは、仕事をする以上、自分のしていることは、自分といっしょに死んでしまうものでない、自分には後継者がある、という信念をもつ必要があります。ところが、それが僕にはないのです。自分と自分の愛する女のあいだにできた子供が、自分のものではなくて、だれかしら自分たちを憎んでいる人間、自分たちに洟《はな》もひっかけないような人間のものになるということを、前からちゃんと知っている男の立場を、あなたひとつ想像してみて下さいね、恐ろしいことじゃありませんか!」
 明らかに、はげしい興奮に襲われたらしく、彼は口をつぐんだ。
「ええ、もちろんですとも、わたしにもよくわかりますわ。でも、アンナにいったい、なにができるのでしょう?」とドリイはたずねた。
「そうです、そのおたずねが、この話を僕の目的へひっぱっていってくれるのです」強《し》いておちつこうとしながら、彼はこういった。「アンナにはできるのです、これはあれの心ひとつなんですから……庶子《しょし》の認知を皇帝に請願するためにだって、離婚が必要ですが、それはアンナしだいでどうにもなるのです。良人は離婚を承知したのです――あのときあなたのご主人か、すっかりうまく話をつけて下すったのですからね。今だっておそらく、いやだとはいわないでしょう。ただひと筆あの男に手紙を書いてやればいいんです。現にあの男は、あれが希望を表明さえすれば、自分はそれを拒絶しないと、あのときはっきりと返答したんですからね。もちろん」と彼は陰鬱な調子でいった。「それは、ああいう魂をもたない人間でなければできないような、偽善者流の残酷な行為の一つではありますがね。あの男に関する思い出の一つ一つが、あれにどんな苦しみを与えるかってことを、あの男はちゃんと承知しているものだから、それであれの手紙を要求するのです。そりゃ、あれとして苦しいのは、僕にもよくわかっていますが、しかし事柄が実に重大なんですから、passer par dessus toutes ces finesses de sentiment. Il y va du bonheur et de l'existence d'Anne et de ses enfants.(こまかい感情にかかずらうのは避けなければなりません、それはアンナと子供たちの幸福と存在に関する問題なんですからね)僕は自分のことはいいません。もっとも、僕だってつらいんですがね、非常につらいんですがね」自分がつらいということにたいして、だれかを威嚇するような表情で、彼はこういった。「こういうわけですから、公爵夫人、僕はあつかましくも、あなたを救いの錨《いかり》と思っておすがりするのです。あれを説きつけて、離婚要求の手紙を書かせるように、ひとつ僕を助けて下さい!」
「そりゃもちろんいたしますわ」最後にカレーニンと会ったときのことを、まざまざと思い起しながら、ドリイは物思わしげにいった。「そりゃもちろんいたしますわ」アンナのことを思い浮べると、彼女はきっぱりした調子でくりかえした。
「どうかあれにたいする感化力を利用して、あれが手紙を書くようにして下さい。僕はあれにこの話をしたくないし、それにほとんどすることができないのですから」
「よろしゅうございます。わたしお話いたしましょう。でも、どうしてあれは自分でそのことを考えないのでしょう?」とドリイはいったが、そのとき突然なぜか、あの目を細めるアンナの奇妙な新しい癖を思い出した。しかも、アンナが目を細めるのは、話が心の底に深く秘めた事柄にふれたときであることも、今さらのように思い起された。『まるであのひとは何から何まで見たくないために、生活にたいして目を細めてるみたいだわ』とドリイは考えた。「わたしは自分のためにも、あのひとのためにも、ぜひぜひお話いたしますわ」相手の感謝の表明にたいして、ドリイはそう答えた。
 二人は立ちあがって、家の方へ歩いて行った。

[#5字下げ]二二[#「二二」は中見出し]

 ドリイがもう家へ帰っているのを見ると、アンナは注意ぶかくその目を見つめた。それは、ヴロンスキイとどんな話をしたのか、ききたげな表情であった。が、言葉に出してはきかなかった。
「どうやらもう晩のお食事の時間らしいわね」と彼女はいった。「お互にまだ顔もろくろく見られませんでしたわねえ。わたし今晩を楽しみにしているんですのよ。今は着替えにいかなくちゃなりませんわ。あなたもやっぱりそうでしょう。わたしたちみんな、普請場で埃だらけになりましたものね」
 ドリイは自分の部屋へ帰ったが、自分ながらおかしくなってしまった。着替えをしようにも、着るものがなかった、というのは、一番いい着物はもう着てしまったからである。しかし、晩餐のためにしたくしたということを、せめて何かで見せるために、彼女は小間使に頼んで、着物にブラシをかけてもらい、カフスをとり変え、蝶結びを飾り、頭にはレースをつけた。
「これだけするのが、精いっぱいだったのよ」と、彼女はほほえみながら、アンナにいった。アンナはもうこれで三度目に、相変らず清楚《せいそ》をきわめた服をつけて、彼女のところへはいって来たのである。
「ええ、わたしたち、ここではひどく儀式ばっていますのよ」自分の盛装をわびるように、彼女はこういった。「アレクセイは、あなたが来て下すったので、とても喜んでいますわ、あんなことはめったにないくらいですのよ。あの人ったら、もうすっかりあなたにほれこんでしまって」彼女はつけ足した。「あなたお疲れにならなくって!」
 晩餐の前には、何を話す暇もなかった。客間に入ってみると、そこにはもうヴァルヴァーラ公爵令嬢のほか、黒いフロックを着た男たちが揃っていた。建築技師は燕尾服であった。ヴロンスキイは新しい女客に、医師と支配人を紹介した。建築技師はもう病院で紹介ずみであった。
 ふとった従僕頭が、円い剃りたての顔と、糊のきいた白ネクタイを輝かせながら、お食事の用意ができました、と報告した。で、婦人たちは立ちあがった。ヴロンスキイはスヴィヤージュスキイに、アンナに腕を貸してくれるように頼み、自分はドリイのそばへ行った。ヴェスローフスキイはトゥシュケーヴィッチに先んじて、ヴァルヴァーラ公爵令嬢に腕をさし出したので、トゥシュケーヴィッチは支配人や医師と同様に、一人だけでついて行った。
 晩餐、食堂、食器、給仕、酒、料理などは、この邸ぜんたいの新式なぜいたくな調子に相応していたばかりでなく、それよりさらに豪華で新式であった。ドリイは、自分にとって珍しいこの豪華さを観察しながら、家政をつかさどる主婦として、ここで見たものを何一つ自分の家に応用しようなどという、大それた望みはいだかなかったけれども――そのぜいたくぶりは、彼女の生活様式などには、及びもつかないものであった――われともなしにいっさいのことをこまごまと注視して、いったいこれはみんなだれが、どんなふうにしたのだろうと、心の中で疑問を発してみた。ヴァーセンカ・ヴェスローフスキイも、彼女の良人も、それどころかスヴィヤージュスキイですら、彼女の知っている多くの人々は、かつて一度もそんなことを考えたことがなく、ただすべて相当な家の主人が、自分の家ではこのとおりなにもかもりっぱにととのっているが、それでも主人である自分は何一つ骨を折りはしない、なにもかもひとりでにできるのだと客に感じさせようとする、それを言葉どおりに信じるだけのことである。ところが、ドリイにはちゃんとわかっていた。ひとりでには、子供にやる粥だってできやしない、だから、こういうみごとなこみいった晩餐をととのえるには、だれかの熱心な注意がそそがれていなければならぬ。ところで、ヴロンスキイが食卓を一瞥《いちべつ》した目つきや、彼が従僕頭に首をふって合図をした様子や、ドリイに菜葉汁《ボトヴィーニャ》と肉汁《スープ》とどちらがいいかとたずねた調子などから推して、彼女はこれらすべてが主人その人の配慮でつくりあげられ、かつ維持されていることを悟った。こういう仕事とアンナとの関係は、他人のヴェスローフスキイとほとんど変りがないのは、一見して明らかであった。アンナと、スヴィヤージュスキイと、公爵令嬢と、ヴェスローフスキイは、用意されたのを楽しく利用するという点で、同じようなお客さまであった。
 アンナは、一座の会話をあやつっていくという点で、主婦なのであった。この会話は一家の主婦として、きわめて骨の折れるものであった。食卓はさして大きくないし、支配人や技師のような、まったく別の世界に属して、ふだん見慣れぬ豪奢ぶりに圧倒されまいと努力している人人、一座の会話に長く仲間入りすることのできない人々を混えている、この骨の折れる会話を、アンナはいつもの独特な手ぎわで、自然にあやつっていった。ドリイの観察したところでは、それに満足すらも感じているらしい。
 話題は、トゥシュケーヴィッチとヴェスローフスキイが、二人きりでボート乗りをしたことに移った。それから、トゥシュケーヴィッチが、ペテルブルグのヨット・クラブが、最近催した競漕のことを話しだした。けれども、アンナは話の切れ目をねらって、さっそく建築技師のほうへ話しかけた。彼を沈黙から引き出すためである。
「ニコライ・イヴァーヌイチは、びっくりしていらっしゃいましたわ」と、彼女はスヴィヤージュスキイのことをいった。「あの方が前にいらしたときからくらべて、新しい普請がとてもはかがいった、とおっしゃってね。でも、わたしなんか、毎日行って見ながら、あまり進行が早いので、毎日おどろいていますわ」
「こちらのお邸の仕事はやりようございます」と技師は、微笑しながらいった(彼は自己の品位を意識した、うやうやしい、おちついた人間であった)。「県庁の役人相手の仕事とは、まるで違います。山のような書類を書くかわりに、わたくしが御前にじきじきご報告して、説明申しあげると、ほんのひと言ふた言ですんでしまいますから」
アメリカ式のやりかたですな」とスヴィヤージュスキイは、微笑を浮べていった。
「さよう、あちらでは合理的な建築法が行われておりますから……」
 話題は、アメリカ官権の涜職問題に移ったが、アンナはすぐそれをほかへ向けて、支配人を沈黙からひっぱり出した。
「あなた、いつか麦刈機ってもの、ごらんになって?」と彼女はドリイに話しかけた。「あたしたち、あなたに出会ったとき、ちょうどそれを見に行ってましたのよ。わたしも生れてはじめて見ましたわ」
「どんな仕掛けなんですの?」とドリイはきいた。
「まるで鋏とおなじことなの。板が一枚あって、それにたくさんの鋏がついてるんですの。こんなふうに」アンナはその美しい、真白な、一面に指輪のはまった手に、ナイフとフォークをとって、そのかっこうをして見せた。自分の説明では、何一つわかりっこないのは、彼女も明らかに承知しているらしかった。けれども、自分の話が上手で、自分の手が美しいことを心得ているので、やはり説明をつづけるのであった。
「そりゃいっそ、鉛筆削りのナイフといったほうが早そうですね」彼女から目をはなさずにいたヴェスローフスキイが、からかうようにそういった。
 アンナはこころもちにっと笑ったが、返事はしなかった。「そうじゃありません、カルル・フョードロヴィッチ、ちょうど鋏みたいでしょう?」と彼女は支配人のほうへふりむいた。
「O ja.(はい、さようで)」とドイツ人は答えた。「Es ist ein ganz einfaches Ding.(あれはいたって簡単なものでございます)」といって、機械の構造を説明しはじめた。
「あれで束《たば》を縛らないのは、物足らんですな」とスヴィヤージュスキイがいった。「私がウインの博覧会で見たのは、針金で縛っていくのでしたよ。あのほうが便利がいいようですよ」
「Es kommt drauf an …… Der Preis vom Draht muss ausgerechnet werden.(そうとしても……針金の値段も計算に入れなけりゃなりませんでな)」と沈黙を破らされたドイツ人は、ヴロンスキイのほうへふりむいて、「〔Das Ia:sst sich ausrechnen, Erlaucht.〕(一つ計算してみましょうか、御前)」とドイツ人はポケットヘ手をつっこんで、手帳にはさんだ鉛筆を出そうとした。それでいつも、計算をすることにしていたのである。しかし、自分はいま晩餐の席にいるのだということを思い出したのと、ヴロンスキイの冷やかなまなざしに気がついたのとで、そのままさし控えた。「Zu complicirt, macht zu viel Klopot.(あまりこみ入りすぎておりまして、あまりめんどうになりますから)」と彼は言葉を結んだ。
「〔Wu:nscht man Dochots, so hat man auch Klopots.〕(金がほしかったら、めんどうな思いもしなくちゃなりませんよ)」とヴァーセンカ・ヴェスローフスキイが、ドイツ人をからかいながら、そういった。「J'adore l'allemand.(僕はドイツ語が大好きですよ)」と彼はまた同じような微笑を含んで、アンナに話しかけた。
「Cessez.(およしなさい)」と彼女は冗談半分に怖い顔をしていった。
「わたしたち、畑であなたにお目にかかれると思っていましたのに、ヴァシーリイ・セミョーヌイチ」と彼女は病身な医者に話しかけた。「あなたも行って、ごらんになったのでしょう?」
「私も行って見ましたが、すぐずらかってしまったのです」と医者は陰鬱な諧謔《かいぎゃく》の調子で答えた。
「すると、いい運動をなすったわけですね」
「ええ、すばらしい運動でした!」
「ときに、あのお婆さんの容態はどんなですの? まさかチフスではありますまいねえ?」
チフスじゃありませんが、どうもけっこうだとは申しにくいですね」
「まあ、残念ですこと!」とアンナはいった。こうして、家の子郎党にひととおりのお愛想をすましてから、彼女は自分の仲間と話をはじめた。
「しかし、アンナ・アルカージエヴナ、あなたの話では、なんといっても、機械を組み立てることは難かしそうですな」とスヴィヤージュスキイが、冗談半分にいった。
「そんなことありませんわ、どうしてですの?」とアンナは、ほほえみながらいったが、その微笑は、自分が試みた機械の組立ての説明には、スヴィヤージュスキイでさえ認めざるをえなかったほど、何かの魅力を含んでいて、それを自分も承知している、という意味のことを語っていた。彼女に今までなかった、こういう若々しい媚態は、ドリイに不快な響きを感じさせた。
「しかし、そのかわり、建築のほうにかけたら、アンナ・アルカージエヴナの知識は、驚嘆すべきものですよ」とトゥシュケーヴィッチがいった。
「そうですとも、昨日も僕が聞いていたら、アンナ・アルカージエヴナが、ストローバだの、プリントゥスだのと、いっておられるじゃありませんか」とヴェスローフスキイがいった。「僕、ちがったこといってやしませんか?」
「だって、何もふしぎなことありませんわ、あんなにしょっちゅう見たり、聞いたりしてるんですもの」とアンナはいった。「あなたなんか、家はなんでつくるのか、それさえきっとごぞんじないでしょう?」
 アンナは、自分とヴェスローフスキイのあいだに結ばれた、ふざけたような調子に、自分ながら不満でいるくせに、いつとはなく自分から、その調子に落ちていくのであった。ドリイはそれを見てとった。
 この場合、ヴロンスキイのとった態度は、レーヴィンとまるで違っていた。明らかに、彼はヴェスローフスキイの饒舌を、いっこう重大視していないどころか、かえってこうした冗談を、奨励しているらしかった。
「じゃ、ヴェスローフスキイさん、いってごらんなさい、石と石を何でくっつけるんです?」
「もちろん、セメントですよ」
「大出来! じゃ、セメントって、どんなもんですの?」
「その、こう、どろどろに捏《こ》ね合わした……いや、その漆喰《しっくい》みたいなもんです」一座の哄笑を呼びさましながら、ヴェスローフスキイはこんなことをいった。
 陰気くさい沈黙に陥っている医師と、建築技師と、支配人を除いて、食卓にむかった人々のあいだには、話の絶え間がなく、ときには軽くすべっていったり、ときには何かにひっかかったり、ときにはだれかの痛いところをさわったりした。一度ドリイも痛いところにさわられて、思わずかっと赤くなるほど逆上した。それからあとになって、何かよけいな、不愉快なことをいいはしなかったか、とみずからかえりみた。スヴィヤージュスキイがレーヴィンのことをいいだして、ロシヤの農業では、機械はただ害になるばかりだという、彼の奇怪な確信を披露したのである。
「僕はそのレーヴィン氏を知る喜びを有していないけれど」とヴロンスキイは、微笑を含みながらいった。「しかし、おそらくあの人は自分の非難している機械を、一度も見たことがないのでしょう。もし自分で見て実験したとしても、いいかげんなやりかたで、しかも外国のものじゃなく、そこらへんのロシヤ出来の機械だったのでしょう。それで、どうしてちゃんとした意見がもてるものですか?」
「要するに、トルコ式の意見ですよ」とヴェスローフスキイは微笑を浮べて、アンナにそういった。
「わたしは、あの人の考えを弁護する力がありませんけれど」とドリイはかっとなって、いいだした。「あの人がたいへん教養のある人だってことは、申しあげられます。もしあの人がこの場にいらしたら、ちゃんとした返答をなすったことでしょうが、わたしにはそれができませんの」
「私もあの男が大好きで、われわれは大の仲よしなんですよ」とスヴィヤージュスキイが、人のいい微笑を浮べていった。「〔Mais pardon, il est un petit peu toque'〕(しかし、失礼ながら、あの男は少々ばかり気ちがいじみていますよ)なにしろあの男は、地方自治体だの、単独判事なんてものは、みんな不必要だといいはって、何一つ関係しようとしないんですからな」
「それは、わがロシヤ人に共通の無関心ですよ」とヴロンスキイは、氷を入れたフラスコから、細い脚のついた杯《さかずき》に水を注ぎながら、いった。「われわれのもっている権利から生ずる義務を感じないものだから、したがって、その義務を否定するのです」
「わたしはあの人ほど、自分の義務を実行するのに厳格な人を、ほかに知らないくらいでございます」ヴロンスキイのこうした優越の調子が癇にさわって、ドリイはこういった。
「僕はその反対です」なぜかしら、この話で明らかに痛いところへさわられたらしく、ヴロンスキイは言葉をつづけた。「僕はその反対です。ごらんのとおり、僕はニコライ・イヴァーヌイチの(と彼はスヴィヤージュスキイをさした)ご推薦によって、名誉単独判事にしていただいた光栄を、感謝しています。僕の考えでは、集会へ出かけて行って、百姓の馬の問題を審理する義務は、僕のなしうるいっさいのことと同様に、重大なことと思っています。だから、もし僕を県会議員に選挙してくれたら、名誉なことだと思います。僕はただそれだけで、地主として享楽している利益に、報いることができるのですから。ところが、残念なことには、この国の大地主として、当然もたなければならぬこの義務を、理解しない人がたくさんいましてね」
 ドリイにとっては、彼が自分の家の食卓にむかって、おのれの正しさを信じて泰然としているのが、ふしぎでたまらなかった。彼女はふと思い出したが、それと反対のことを考えているレーヴィンも、わが家の食卓にむかいながら、やはり自分の判断を断乎として主張するのであった。けれども、彼女はレーヴィンが好きなので、その味方であった。
「では、伯爵、この次の集会には、あなたをあてにしてよろしいですね?」とスヴィヤージュスキイはいった。「しかし、少し早目に行かなけりゃなりませんな、八日にはむこうへ着いていなけりゃ。もしあなたが宅へおいでくださればですな」
「わたしはあなたの 〔beau-fre`re〕(義弟)に多少賛成しますわ」と、アンナはドリイにいった。「でも、あの人みたいな意味じゃありませんの」彼女は微笑を浮べながら、付け足した。「近ごろロシヤには、あまりそういった社会的な義務が多すぎますもの。それが心配ですわ。もとは役人がおおぜいいて、何をするにも役人が必要でしたが、それと同じように、今ではなんでもかでも、公務員なんですわ。アレクセイは、ここへ来て六ヵ月にしかならないのに、もう確か五つか六つの、いろんな公共団体の委員ですものねえ。監査役、単独判事、県会議員、陪審員馬匹改良会のなんとか。Du train que cela va(もしこんなふうでいったら)そのためにすっかり時間をとられてしまいますわ。そんなふうな仕事がこう多くなったら、ただの形式になってしまいはしないかと、それが心配ですの。あなたは、いくつぐらい委員をしていらっしゃいます、ニコライ・イヴァーヌイチ?」と彼女はスヴィヤージュスキイに話しかけた。「たしか二十以上でしょう?」
 アンナは冗談の調子でいっていたが、その声にはいらいらしい響きがあった。アンナとヴロンスキイを、しげしげと観察していたドリイは、すぐそれに気がついた。それからまた、ヴロンスキイの顔がこの話になると、たちまちまじめで頑固な表情をおびてきたのに、ドリイは心づいた。なおそのほか、ヴァルヴァーラ公爵令嬢が話題を変えようと思って、急いでペテルブルグの知人の話をもちだしたのに気がつき、それからまた、きょう庭でヴロンスキイが藪から棒に、自分の社会的活動のことをいいだしたのを思い起して、この社会的活動の問題には、なにかしらアンナとヴロンスキイの、微妙ないさかいが結びつけられているな、とドリイは悟ったのであった。
 食事も、酒も、食卓の設備も――なにもかもりっぱなものであったが、それはみなドリイが長いこと離れている招待宴で、以前よく見たようなものばかりであった。ここにはやはりそれと同じような、無人格と緊張の性格をおびているので、不断の日のささやかなつどいであるだけ、ドリイは不快な印象を与えられた。
 食後、一同はしばらくテラスで休んだ。それからローンテニスの勝負がはじまった。人々は二組に分れ、きれいにならしてよく固めたクロケットのグラウンドに立っている、金色に塗った柱に張られたネットの両側に陣取った。ドリイはちょっとやってみたが、長いことやりかたがわからなかった。やっと合点がいったときには、すっかり疲れてしまったので、ヴァルヴァーラ公爵令嬢と並んで、ベンチに腰をおろし、ただの見物人になった。彼女のパートナーであったトゥシュケーヴィッチも、やはりやめてしまったが、そのあとの連中は、長いこと勝負をつづけた。スヴィヤージュスキイとヴロンスキイの二人は、なかなか上手で真剣に戦った。彼らは、自分の方へ飛んでくるボールをよく見きわめて、急ぎもせねば遅れもせず、そのそばへ駆けより、ちゃんとバウンドを待って、正確にラケットをふるって、ボールをネットのむこうへ送った。ヴェスローフスキイはだれよりもまずかった。あまりのぼせすぎるのであった。しかしそのかわり、陽気な騒ぎ方で、ほかのものをおもしろがらせた。彼の笑いと叫び声は、たえることがなかった。彼もほかの連中と同様、婦人たちの許しを得て上衣をとった。で、白いシャツ一枚の美しい大柄な姿と、汗ばんで紅潮した顔と、はげしい動作は、くっきりと印象に残った。
 ドリイがその晩、床について、目を閉じるが早いか、クロケット・グラウンドを飛びまわっているヴァーセンカ・ヴェスローフスキイの姿が見えてきた。
 テニスの間、ドリイは気が浮き立たなかった。そのときも、いぜんとして続いているヴァーセンカ・ヴェスローフスキイと、アンナとのふざけたような関係も、子供もいないのに大人ばかりが子供じみた遊戯をしている、その全体の不自然さが、彼女の気に入らなかったのである。しかし、ほかの人の興をさまさないためもあり、また自分でも、なんとかして暇をつぶさなければならないので、彼女はひと休みしてから、ふたたび勝負に加わって、さも楽しそうなふりをした。ドリイはその日いちんち、自分より上手な役者といっしょに芝居をして、自分のつたない演技が、全体をそこねている、というような気がしてしかたがなかった。
 彼女は、もし居心地がよかったら、二日逗留するつもりで、ここへ来たのであった。しかし、その夕方、テニスをしている間に、明日は帰ろうと決心した。道中ではあれほど憎悪した、悩ましい母親としての心づかいが、のんきに一日をすごした今となってみると、もう別なふうに思われてきて、そのほうへ心ひかれるのであった。
 晩の茶を飲み、ボートで夜遊びしたあと、ドリイは自分の居間で一人になって、着物を脱ぎ、薄い髪をとき、寝仕度にかかったとき、彼女は心からほっとした。
 それどころか、今にもアンナがやってくるのかと思うと、いやな気持さえした。彼女はたった一人で、いろいろと考えたかったのである。

[#5字下げ]二三[#「二三」は中見出し]

 ドリイがもう寝《やす》もうとしたとき、アンナが夜の姿で入って来た。
 その日いちんち、アンナは胸の奥にしまっていることを話しだそうとしながら、いつもふた言み言いいかけては、やめてしまった。「あとにしましょう、二人さしむかいで、なにもかも話しましょうね。あなたに話したいことが、山ほどあるんですから」と言い言いしたものである。
 今こそ二人はさしむかいになったが、アンナは何を話していいか、わからないのであった。彼女は窓のそばで腰かけて、じっとドリイを見ながら、汲みつくせないように思われる胸のひめごとを、あれかこれかと残らずさがしてみたが、何一つ見つからなかった。彼女はこのとき、なにもかもいってしまったような気がした。
「ときに、キチイはどうですの?」重々しい吐息《といき》をつき、さも申しわけなさそうにドリイを見ながら、彼女はこういいだした。「ほんとのことをいってちょうだいね。ドリイ、あの人はわたしのことを怒ってやしなくって?」
「怒ってるなんて! とんでもない!」とドリイはにこやかにいった。
「でも、憎んでるでしょう。軽蔑してるでしょう?」
「そんなことあるもんですか! でもね、あんたもわかるでしょう、ああいうことは赦せないものよ」
「そりゃそうだわ」とアンナは顔をそむけて、開いた窓の方を見ながらいった。「でも、わたしが悪いわけじゃないわ。いったいだれが悪いんでしょう? また悪いって、どんなことなのかしら? あれよりほか、なりようがあったかしら? ねえ、あなたどう思って? あなたがスチーヴァの奥さんでないなんてことが、いったいありうるものかしら?」
「全くわからないわ。でも、あんた、こういうことを聞かせてちょうだい……」
「ええ、ええ、でも、わたしたちはまだ、キチイのことをすっかり話さなかったわ。あのひとはしあわせ? レーヴィンはりっぱな人だって噂だけど」
「りっぱといったくらいじゃ足りないわ。わたし、あの人以上にすぐれた人は知らないくらいよ」
「まあ、それはよかったこと! わたしも本当にうれしいわ! りっぱといったくらいじゃ足りないんですって」と彼女もくりかえした。
 ドリイはにっこり笑った。
「でも、あんた自分のことを聞かせてちょうだい。お互にいくらでも話があるんだから。それに、わたしたち話し合ったのよ。あの……」ドリイはあの男をなんと呼んでいいかわからなかっだ。伯爵というのも、アレクセイ・キリーロヴィッチと呼ぶのも、何か妙なぐあいであった。
「アレクセイとね」とアンナはいった。「わたし知ってますわ、あなたがたが、お話したことを。でも、わたしあなたに真正面からききたいの、あなたわたしのことをどう思って、わたしの生活のことを?」
「まあ、そうだしぬけにきかれたって、なんてったらいいか? わたし本当にわからないわ」
「だめよ、とにかくいってちょうだい……あなた、わたしたちの生活をごらんになったでしょう。もっとも、忘れないでちょうだい、あなたが見たのは夏の生活で、つまり、あなたもいらしったし、わたしたちが二人っきりでないときなんですから……ところが、わたしたちがここに着いたのは春のはじめで、それこそ二人っきりで暮しましたの。またこれからさきも、そうして暮しますわ。わたし、それより以上のことは望みません。でもね、考えて見てちょうだい、わたし一人で暮すことがあるの、全くのひとりぼっちで。それはこれからもあることなのよ……わたしいろんなことから推して、わかっていますの。それはしょっちゅう、くりかえされるにちがいありません。あの人は月の半分うちを明けるようになるでしょうよ」と彼女は席を立って、ドリイに近く腰をおろしながらいった。「そりゃもう」と何かいいかえそうとしたドリイをさえぎって、「そりゃもう、わたしだって、むりにあの人を引き留めはしませんわ。今度も競馬があって、あの人の馬が出るものですから、あの人も出かけて行きますの。そりゃわたしだって、喜んではあげますけど、でもあなた、わたしのことを考えてみてちょうだい、わたしの境遇を想像してみてちょうだい……でも、こんなことをいったってしようがないわ!」彼女はにっこり笑った。「で、あの人あなたにどんな話をしました?」
「あの人がいったのはね、わたしが自分で話したいと思ったことなの。だから、あの人の代弁するのは、わたしにとって楽なのよ。つまりね、なんとかならないだろうか、可能性はないだろうか……」ドリイはいいよどんだ。「あんたの境遇をなおす、いえ、よくすることはできないだろうか……ということなの。わたしがこれをどう見るかってことは、あんたにもわかってるでしょう……でも、なんといったって、できることなら、結婚したほうがいいにきまっているから……」
「つまり、離婚なのね?」とアンナはいった。「ねえ、どうでしょう、ペテルブルグで、わたしを訪ねて来たたった一人の女は、ベッチイ・トヴェルスカヤなのよ。あなた、あのひとを知ってるでしょう? 〔Au fond c'est la femme la plus de'prave'e qui existe. 〕(まったくのところ、あれはこの世で一番堕落した女ですわ)あのひとは、この上もなくけがらわしいしかたで、主人をだましながら、トゥシュケーヴィッチと関係していたんですからね。ところが、そのベッチイがわたしにむいて、あなたの境遇が変則である間は、あんたなんかと交際しない、っていうんですからね。わたしが人と比較なんかしてると、そんなふうに思わないでちょうだい‥…わたし、あなたの気持はよくわかってるんですからね、ドリイ。でも、あたしついに思い出して……まあ、それで、あの人なんていいました?」と彼女はくりかえした。
「あの人はね、あんたのためにも、自分のためにも苦しんでいるって、そうおっしゃったわ。あんたは、それはエゴイズムだっていうかもしれないけれど、でも正当なエゴイズムだわ、高潔なエゴイズムだわ! あの人は第一に、自分の娘を法律上りっぱに自分のものとしたい、あんたの良人になりたい、あんたにたいして権利をもちたいんですの」
「どんな妻だって、どんな奴隷だって、今の境遇にいるわたしほど、こんなに奴隷的になりきっているものが、またと二人あるでしょうか?」と彼女は暗い調子でさえぎった。
「何よりもいちばんあの人が望んでいるのは、あんたが苦しまないようにすることなの」
「それはできない相談よ! それから?」
「それからね、いちばん正当な希望は、あなたがたの子供たちが苗字をもつってこと」
「子供たちってなんのこと?」ドリイの顔を見ないで、目を細めながら、アンナはこうきいた。
「アニイと、それから先ざきできる子供よ……」
「それなら、あの人は安心していいわけだわ。わたしにはもう子供はできないから」
「どうしてできないっていいきれるの?……」
「できませんわ、だってわたし子供がほしくないんですもの」
 こういって、ひどく興奮しているにもかかわらず、ドリイの好奇にみちた、驚きと恐怖の無邪気な表情に気がついて、アンナは思わずほほえんだ。
「わたしお医者様にそういわれましたの、あの病気のあとでは……」
 ……………………………………………………
「そんなはずないわ!」とドリイは、大きく目を見はっていった。それは彼女にとって、ただならぬ発見の一つで、その結果と結論があまりにも大きかったので、はじめ一瞬、これを残らず考え合わせることは不可能であって、これについてはまだまだたくさん考えなければならぬ、といったような気がした。
 彼女にとって今までのみこめなかった、一人か二人しか子供のない家庭の秘密を、忽然《こつぜん》としてあからさまにしたこの発見は、あまりにも多くの想念と、考量と、矛盾した感情を呼びさましたので、ドリイは何一ついうことができず、大きな目を見ひらいて、びっくりしたようにアンナの顔をながめた。それは、自分の空想したのと同じことであったが、今それができると知ったとき、彼女は思わずぞっとした。これはあまりにも複雑な問題の、あまりにも簡単な解決であると感じた。
「N'est pas immoral?(それは不道徳なことじゃなくって?)」しばらくだまっていた後、彼女はこうきいた。
「なぜ? まあ、考えてもちょうだい、わたしには二つに一つの方法しかないのよ。妊娠するか、つまり病身でいるか、それとも良人の(だって、良人と同じことですもの)友だちとなるか、仲間になるか、ですわ」とアンナはわざとうわっすべりな、軽はずみな調子でいった。
「そりゃそうよ、そりゃそうよ」自分が自分で考えた論証を聞きながら、今はもうそこに前ほどの説得性を見いだすことができないで、ドリイはそういった。
「あなたにとっては、ほかの女の人にとっては」さながら相手の考えを察したように、アンナはいった。「まだ疑うところがあるかも知れないけど、わたしにとっては……ねえ、わかってちょうだい、わたしは妻じゃないのよ。あの人はわたしを好きなあいだは、わたしを愛してくれるでしょう。ところが、どうしてわたしはあの人の愛情を支えることができるんですの? これですの?」
 彼女は白い両手を腹の前へのばして見せた。
 興奮したときでなければないような恐ろしい速さで、思想と追憶がドリイの頭に群がり起った。
『わたしは』と彼女は考えるのであった。『スチーヴァをひきつけることができなかった。あの人はわたしを離れて、ほかの女のところへ行ってしまった。あの人がわたしに見変えたはじめての女は、いつもきれいで陽気なたちだった。でも、あの人はそれを見棄てて、別の女をこしらえた。いったいアンナも、それでヴロンスキイ伯爵をひきつけて、いつまでも留めておけるだろうか? もしあの人がそれだけを求めているとすれば、お化粧にしても態度《ものごし》にしても、もっと魅力のある、もっと楽しみになる女を見つけるに相違ないわ。アンナのむきだしの手がどんなに白くても、美しくても、あのむっちりした姿ぜんたいがどんなにりっぱでも、あの黒い髪の下に見える興奮した顔が、どんなにあでやかであっても、あの人はもっといいのを見つけるに相違ないわ、ちょうどあのいやらしい、みじめな、それでもいとしいうちのスチーヴァが、いつもさがしては見つけ出すように』
 ドリイはなんとも返事しないで、ただほっとため息をついた。アンナは不賛成を表明するそのため息に気がついたが、それでも言葉をつづけた。彼女には、まだいろいろ論証のストックがあり、しかもそれは、なんとも返事のしようがないほど強力なものであった。
「あなたは、そんなこといけないとおっしゃるのね? でも、よく分別しなくちゃなりませんわ」と彼女は言葉をつづけた。「あなたは、わたしの境遇を忘れてらっしゃるのよ。どうしてわたしに子供をほしがることができましょう? わたし、生みの苦しみのことをいってるのじゃありません。そんなことは怖かありませんもの。まあ、考えてもみてちょうだい、わたしの子供はどんな人間になるのでしょう? 他人の苗字を名乗る不幸な子供ですわ。その誕生のそもそもから、父母や自分の誕生を恥じなくちゃならない、そういう立場におかれるんですわ」
「だからこそ、離婚が必要なんじゃないの」
 しかし、アンナはその言葉を聞いていなかった。彼女は、いくども自分を説き伏せようとした論証を、最後までいってしまいたかったのである。
「もし、わたしが不幸な人間をこの世に生み出さないために、自分の理性を使わなかったら、いったいなんのために理性を授かっているのでしょう?」
 彼女はちょっとドリイを見やったが、返事を待たずに言葉をつづけた。
「わたしは年中、その不幸な子供にたいして、すまないような気がするでしょうよ」と彼女はいった。「もし生まなかったら、少なくともその子供たちは、不幸にならないでしょう。もしその子供らが不幸だったら、それはわたし一人のせいになるわ」
 それは、ドリイが自分自身にいって聞かせた論証であった。が、今アンナのいうことを聞きながら、なんのことかわからなかった。『いもしないものにたいして、どうして申しわけないことになるのだろう?』と彼女は考えた。ふと、こんな考えが浮んだ。『もしどうかしたひょうしに、わたしのかわいいグリーシャがこの世にいなかったら、それがあの子のためにしあわせだなんて、そんなことがあるかしら?』それはドリイにとってあまりにも奇妙で、とっぴょうしのないことだったので、頭の中でどうどうめぐりする、混乱した、気違いじみた考えを追い散らすために、首をふっていた。
「いえ、わたしにはわからないけど、それはよくないことだわ」嫌悪の表情を面に浮べながら、彼女はただそういったばかりである。
「そう、でもあなた忘れないでね、あなたがどういう身分で、わたしがどういう身分だかってことを……それにまだ……」自分の論証が豊富で、ドリイの論証が貧弱なのにもかかわらず、やはりそれはよくないことだと自認した様子で、アンナはこうつけ足した。「あなた、いちばんだいじなことを忘れないでちょうだい、今のわたしの境遇はあなたと違うんですから。あなたにとって問題は、もうこれ以上子供をもたないことを望むか、どうかということだけど、わたしの問題は、子供をもつことを望むかどうか、ということなんですもの。それはたいへんな相違よ。あたしの今の境遇では、そんなことを望むわけにいかないのを、あなたわかってくだすって?」
 ドリイは別に反駁しなかった。彼女はとつぜん、アンナとはもう遠く離れてしまったのを感じた。二人の間にはいろんな疑問があって、それについては、どうしても意見が一致しないから、もういっそ話さないほうがいいのであった。

[#5字下げ]二四[#「二四」は中見出し]

「だから、なおさらあんたは、自分の境遇をちゃんとしなくちゃならないじゃないの、もしできることなら」とドリイはいった。
「そうね、もしできることなら」とアンナはとつぜんまるで別な、低い、淋しそうな声で答えた。「いったい離婚はどうしてもだめなの? わたし、あんたのご主人は承知だと聞いたけど」
「ドリイ、わたしその話はしたくないの」
「じゃ、よしましょう」アンナの顔に苦痛の表情を認めて、ドリイは急いでこういった。「ただわたしが思うのはね、あんたあまり暗い見方をしてるわ」
「わたし? ちっとも。わたしとても楽しくって、満足してるわ。あなた気がついて、Je fais des passion(わたし恋をしてるのよ)ヴェスローフスキイと……」
「ええ、本当のことをいうと、わたしヴェスローフスキイの調子が気に入らないの」とドリイは、話題を変えようと思っていった。
「いいえ、そんなことは決してありませんわ! あれはアレクセイをあやつる役目をするだけで、なんでもありはしません。あの人は子供も同然で、わたしの両手にしっかりおさえられているの。あなたわかるでしょう、わたしはあの人を自由自在にあやつっているので、まあ、あなたのとこのグリーシャと同じこったわ……ドリイ!」とつぜん彼女は話題を変えた。「あなたは、わたしが暗い見方をするとおっしゃったわね。あなたにはとてもわかりっこないのよ。それはあまり恐ろしいことなんですもの。わたしは頭から見ないようにしていますの」
「でも、わたしはなんといっても、必要だと思うわ。できるだけのことは、なんでもしなくちゃならないわ」
「でも、何ができるんでしょう? 何一つできやしません。あなたは、アレクセイと結婚することが必要なのに、わたしがそれを考えないっておっしゃいましたね。わたしがそのことを考えないんですって!」と彼女はくりかえしたが、くれないの色がさっと顔じゅうにひろがった。彼女は立ちあがって、ぐっと胸を張り、ほっと重々しい吐息をつくと、例の軽い足どりで部屋の中をあちこち歩きだしたが、ときおり歩みをとめるのであった。「わたしが考えないんですって? いいえ、わたしが考えない日といっては、一日も、いっときもありません、かえって考えるがために、自分で自分を責めているほどですわ……だって、それを考えると、気が狂いそうになるんですもの。まったく気が狂いますわ」と彼女はくりかえした。「わたしこのことを考えだすと、もうモルヒネなしじゃ眠れないんですの。でも、よござんす。おちついてお話しましょう。みんながわたしに、離婚しろといいますが、第一、あの人が承知しやしません。あの人はいま、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナにひきまわされているんですから」
 ドリイはさっと身を反らして、椅子に腰をかけ、首をあちこちと向け変えながら、さも苦しそうな同情の面持で、歩きまわるアンナを目で追っていた。
「でも、やってみなくちゃなりませんわ」と彼女は小さな声でいった。
「そうね、かりにやってみるとしましょう。ところが、それはどういうことなのでしょう!」と、彼女はいったが、それは明らかに、幾千度となくくりかえして、もうすっかり諳《そら》で覚えている想念らしかった。
「それはつまり、あの人を憎んでいながら、それでも申しわけないことをしたと感じているわたしが――ええ、わたしあの人を寛大な人間と思っています――そのわたしが自分を卑下して、あの人に手紙を書くということなんです……まあ、かりにわたしが努力して、それをするとしましょう。その結果は、侮辱にみちた返事を受けとるとか、承諾の返事をもらうかですわ。まあ、かりに、結果がよくて、承諾の返事をもらうとしましょう……」アンナはこのとき、部屋の遠いすみの方へ行って立ちどまり、窓のカーテンをどうかしていた。「承諾の返事をもらったとしても、セ……セリョージャは? 決してあの子を渡してくれる気づかいはありませんわ。すると、あの子はわたしの棄てて行った父親の手もとで、わたしをさげすみながら、大きくなっていくでしょう。ね、察してちょうだい、わたしは二人を同じ程度に愛しているような気がしますの。でも、その二人を自分より以上に愛していますわ、セリョージャとアレクセイを」
 彼女は部屋のまんなかへ出て、両手でひしと胸を抱きしめながら、ドリイの前に立ちどまった。白いガウンを着たその姿は、とくべつ大きく幅広に見えた。彼女は首をすくめて、興奮のあまり全身をわなわなふるわせているドリイの、つぎの当った短上衣《コフタ》を着てナイトキャップをかぶった、やせた小柄なみじめな姿を、涙に光る目で額ごしに見つめるのであった。
「わたしは、ただこの二人だけを愛しているんですけど、その二つの愛は両立しないものなんですの。わたしは、それを結び合わすことができません。ところが、わたしに必要なのは、ただそれ一つだけなんですもの。もしそれがだめなら、もうどうでもいいの。本当にどうだってかまいませんわ。まあ、なんとか片がつくでしょうよ。こういうわけで、わたしはこのお話をすることもできなければ、したくもありませんの。ですからね、あなた、わたしを責めないで下さいね。何ごとにつけても、悪く思わないでちょうだい。あなたの純潔な心持では、わたしのくるしみを残らず理解するなんて、とてもできないことですわ」
 彼女はドリイのそばへよって、並んで腰をおろし、すまないような表情で、相手の顔をのぞきこみながら、その手をとった。
「あなた何を考えてらっしゃるの? わたしのことをなんとお思いになって? どうかわたしをさげすまないでちょうだい。わたしは侮蔑される値うちもないんですから。わたし本当にふしあわせなんですわ。もしだれか不幸な人間があるとすれば、それはほかでもない、このわたしなんですわ」というなり、彼女は顔をそむけて泣きだした。
 一人きりになると、ドリイはお祈りをして、ベッドに入った。アンナと話しているあいだは、しんそこからかわいそうでたまらなかったが、今度はどんなにつとめてみても、アンナのことを考えることができなかった。わが家と子供たちの追憶が、何かとくべつ新しい魅力をもって、一種の新しい光輝に包まれて、彼女の心に湧き起ったのである。この自分の世界が、今はなんともいえないほど尊い、懐かしいものに思われてきて、それをよそにしては、一日もよけいな時をすごす気になれなかった。で、明日はどうあっても帰ろうと肚《はら》を決めた。
 アンナはそのあいだに自分の居間へ帰って、グラスをとりだし、その中へ薬をいくたらしか落した。その主成分はモルヒネなのであった。ぐっと飲み干すと、しばらくじっと坐っていたが、やがておちついた浮きうきした気持になって、寝室へおもむいた。
 彼女が寝室へ入ったとき、ヴロンスキイはじっと注意ぶかく彼女をながめた。ドリイとの会話の痕跡《こんせき》を見つけ出そうとしたのである。彼女があんなに長くドリイの部屋にいた以上、その話はきっと出たに相違ない、それは彼も知っていた。しかし、興奮をおさえて、なにやら隠しているようなアンナの表情には、何一つ発見することができなかった。そこには、慣れっこになっているとはいいながら、いぜんとして彼を魅了せねばやまぬ美しさと、その美しさを意識する気持と、その美しさが男に作用するようにという願望があるばかりだった。彼は別に自分のほうから、二人でどんな話をしたかとはたずねなかったが、彼女が進んで何かいうだろうと、期待していた。けれども、彼女はただこういったばかりである。
「ドリイがあなたのお気に召して、あたしこんなうれしいことありませんわ。ね、そうでしょう?」
「だって、僕はあのひと前から知ってるんだもの。あれは本当に善良な人らしいね。〔Mais excessivement terre-a`-terre.〕(もっとも、ごく平凡な女ではあるがね)しかし、なんといっても、あのひとが来てくれたのは、大いにうれしかった」
 彼はアンナの手をとって、もの問いたげにその目を見つめた。
 彼女はそのまなざしを別の意味にとって、にっこり笑いかけた。

 翌朝、主人側の懇請にもかかわらず、ドリイは帰りじたくをした。あまり新しくない長外套《カフタン》をまとい、なかば駅逓馭者風の帽子をかぶったレーヴィンの馭者は、泥よけのつぎはぎだらけな幌馬車に、毛色の不揃いな馬をつけて、沈みがちな、しかも決然たる表情で、撒砂《まきずな》のしてある屋根つきの車寄せへ乗りこんで来た。
 ヴァルヴァーラ公爵令嬢や、男連中に別れのあいさつをするのは、ドリイにとって不愉快であった。一日くらしてみたうえで、彼女も主人側も、自分たちはお互にそりが合わないから、いっそ別れたほうがいいということを、はっきり感じたのである。ただアンナだけは悲しかった。ドリイの出発とともに、彼女との会談に呼びさまされたような感情を、もうだれにも胸の中にかきたてられることはない、ということが、彼女にはわかっていたのである。この感情をかきたてられるのは、彼女にとって苦痛であったが、しかしそれは彼女の魂の最もすぐれた部分である。が、この魂のよき部分も、現在、彼女の送っている生活にまぎれて、まもなくおぼろになってしまうに相違ない。それが彼女にはわかっていたのである。
 野へ出ると、ドリイはほっとしたような、快い感じを経験した。彼女は馭者たちに、ヴロンスキイ家のことをどう思うか、ときいてみたくなった。と、ふいに馭者のフィリップが、自分のほうからいいだした。
「金持なこたあ金持に相違ねえでしょうが、馬に燕麦をたった三斗しかくれねえんで、鶏の鳴くまでにゃ、きれいに食っちまいましたよ。三斗やそこらどうしますかね? ほんのおやつでさあ。きょうび宿屋でも、燕麦は四十五コペイカでがすからね。うちなんかじゃ、お客さまの馬には、いくらでも食うだけやりまさあ」
「けちな旦那ですよ」と帳場の男も相槌を打った。
「ところで、あすこの馬をどう思って?」とドリイはきいた。
「馬はもう、いうがもなァごぜえませんや。それに食べもんもけっこうで。でも、何かわっしゃおもしろくねえ気持がしましたよ、ダーリヤ・アレクサンドロヴナ。あなたさまはなんとお思いなせえますか知れませんがね」美しい善良そうな顔をふりむけて、彼はこういった。
「わたしもやっぱりそうなの。ときに、どうだろうねえ、夕方までには着くかしら?」
「着かなきゃしようがごぜえませんや」
 家へ帰ると、みんなが無事で、しかもかくべつかわいく思われたので、ドリイは急に元気になって、自分の旅の話をし、大事にもてなされたことや、ヴロンスキイ家の生活が豪奢で、その趣味のいいことや、みんなのして遊んでいることなど物語って、だれにもひと口として、彼らのことを悪しざまにいわせなかった。
「アンナとヴロンスキイがどんなに情の深い、いい人かってことを合点するためには、あの人たちをよく知らなくちゃなりません。わたしも今度、ヴロンスキイって人がよくわかりましたわ」むこうにいるあいだ感じていたばくぜんとした不満と、ばつの悪さをすっかり忘れてしまって、いま彼女はまったく嘘でもなんでもなく、そういうのであった。

[#5字下げ]二五[#「二五」は中見出し]

 ヴロンスキイとアンナは、相変らず同じ生活条件で、いぜんとして離婚のためになんの方法も講ぜず、夏いっぱいと秋のはじめを田舎で暮した。二人のあいだでは、どこへも行かないことに相談がきまっていた。しかし、長く二人きりで暮せば暮すほど、ことに秋、客のないときなどは、この生活をもちこたえていくことはできない、なんとか変更の必要があるということを、二人ながら感じさせられた。
 生活は一見したところ、これ以上は望めないと思われるほど、申し分ないものであった。収入は十分あるし、健康にも恵まれ、子供もあって、二人ながらそれぞれ仕事をもっていた。アンナは客のないときでも、いつも変りなく身じまいに心を配っていたが、同時に読書にも専念して、小説でも堅いものでも、当時評判になった本は、じゃんじゃん読んだ。彼女は、しじゅう購読している外国の新聞や、雑誌に推賞されている書物を、かたっぱしからとりよせて、孤独な生活をしている場合でなければ望まれないような注意ぶかさで、それらのものを読破した。のみならず、ヴロンスキイの携わっている仕事についても、彼女は残らず書物や専門の雑誌で研究したので、彼はしばしば農業や建築ばかりでなく、馬匹飼育やスポーツに関する質問さえ、いきなり彼女のところへもっていくようになった。彼はアンナの知識と記憶に一驚を喫して、はじめのあいだは疑いをいだきながら、その真否を確かめようとした。すると、彼女は問われたことを書物の中に見つけ出して、彼に見せるのであった。
 病院の設備も、彼女の興味を呼びさました。彼女は単に手伝いをしたばかりでなく、自分でいろいろと設備をしたり、考えついたりした。しかし、なんといっても、彼女にとって最も重要な配慮は、彼女自身であった。自分がどの程度、ヴロンスキイにとってたいせつなものであるか、彼が棄てたいっさいのものをどの程度まで償うことができるか、という意味における彼女自身なのであった。彼女の生活で唯一の目的となったこの希望、単に男に気に入ろうとするばかりでなく、一心に男に仕えようとするこの希望を、ヴロンスキイはありがたいとは思いながらも、彼女が一生懸命に男を愛の網に包みこもうとするのを荷厄介に感じるようになった。だんだん時がたっていって、ますます自分がこの網にからまれているのを見ると、彼はその中から出たいというのではないけれども、それが自分の自由を妨げはしないかどうか、試してみたいという気持を、しだいに強くいだくようになった。日とともにいよいよ募ってくる、自由になりたいというこの欲望がなかったら、そして会議や競馬のために町へ行こうとするたびに、いつも必ず起る悶着《もんちゃく》がなかったら、ヴロンスキイは自分の生活に、完全に満足だったといえるであろう。彼が選んだ役割は、富裕な土地所有者の役割であって、この階級こそロシヤ貴族の中核をなすべきものであった。この役割は、ぴったり彼の好みに合ったばかりでなく、こうして半年もすごした今となっては、たえず増大していく満足を与えるのであった。彼の仕事はいよいよ強く彼の興味をそそり、いよいよ深く彼をその世界へひきこみながら、非常に調子よく進んだ。病院や、機械や、スイスからとりよせた牝牛や、その他さまざまなものが、ばくだいな出費を要したにもかかわらず、彼は自分の財産を蕩尽《とうじん》するどころか、かえって大きくしたという確信を得た。領地の収入とか、森や穀物や羊毛の売却だとか、土地の貸付とかいう問題になると、ヴロンスキイは石のように固くて、値段を落さない腕をもっていた。このヴォズドヴィージェンスコエでも、ほかの領地でも、大農場の経営ということにかけては、彼はもっとも単純な、危険性の少ない方針を守り、この上もない倹約家で、農場関係のこまかいことにまで算盤《そろばん》をはじいた。ドイツ人の支配人は、狡猾な要領のいい男で、いつもはじめはうんと高く吹っかけておいてから、よく勘定してみたら、同じものがずっと安くできるから、すぐもうけが手に入る、といったような計算書を差し出して、いろんな買物をすすめるのであったが、ヴロンスキイはその手に乗らなかった。支配人のいうことをとっくり聞いて、詳しく根掘り葉掘りたずね、これからとりよせるものなり、造るものなりが、ロシヤに知られていない最新式のものであって、人を驚かすに足りるような場合でなければ、決して同意しなかった。のみならず、彼は余分の金があるときでなければ、大口の支出をしないようにしていたし、その支出をするときには、ありとあらゆる点を詳細に調べて、その金で最上のものを手に入れなければ承知しなかった。こういうわけで、彼の仕事のやりくちを見ただけで、彼が自分の財産に穴をあけているのでなく、かえってふとらしていることが明瞭であった。
 十月にカーシン県貴族団の選挙があった。この県にはヴロンスキイ、スヴィヤージュスキイ、コズヌイシェフ、オブロンスキイなどの領地があり、レーヴィンのも一部これに属していた。
 この選挙はさまざまな事情と、これに関係している人物のために、社会一般の注意を惹起《じゃっき》した。いろいろの噂がやかましく、人々はそれにたいして、準備おさおさ怠りなかった。これまで一度も選挙に出たことのない、モスクワやぺテルブルグの人々ばかりでなく、外国にいる人たちまでが、この選挙のために集って来た。
 ヴロンスキイはもう久しい前から、スヴィヤージュスキイに、この選挙に出かけることを約束していた。
 選挙の前に、しじゅうヴォズドヴィージェンスコエを訪問していたスヴィヤージュスキイは、ヴロンスキイを迎えにやって来た。
 その前日、ヴロンスキイとアンナのあいだには、前から予定されていた旅行のために、喧嘩がはじまらないばかりであった。それは田舎でいちばん退屈な、重苦しい秋の季節であった。で、ヴロンスキイは闘争にたいする心がまえをしながら、今までアンナと話をするときについぞ見せたことのないような、きびしい冷たい表情を顔に浮べて、自分の旅行のことを声明した。しかし、驚いたことには、アンナはその知らせを、おちつきはらって聞いた。ただ帰りはいつになるか、ときいたばかりである。そのおちつきぶりが合点いかないので、彼は注意ぶかく彼女をながめた。彼女はそのまなざしにたいして、にっこり笑った。彼女が自分自身の中に閉じこもってしまう癖があることを、ヴロンスキイは承知していた。またそれは、彼女が自分のもくろみを彼に知らさないで、何か心の中に決心したときに限るということも、彼にはわかっていた。彼はそれを恐れた。が、痴話場《ちわば》を避けたさが一心に、彼は自分の信じたいと願っているもの――彼女の分別のよさを信じでいるようなふりをした、いや、ある程度こころからそれを信じたのである。
「おまえきっとさびしがりなどしないだろうね?」
「たいてい、大丈夫でしょう」とアンナはいった。「昨日ゴチエから本が一箱とどきましたから大丈夫、さびしがりなんかしませんわ」
『ははあ、あの調子でいこうとしてるのだな、そりゃまあけっこうだ』と彼は考えた。『さもないと、いつもいつも同じことばかりだからな』
 こうして、彼はアンナに腹を割った話をさせないで、そのまま選挙に立ってしまった。彼らが結び合わされて以来、最後まではっきり気持をいいあわないで別れたのは、これがはじめてであった。一方からいうと、彼はその点が気になったけれども、また一方からいうと、そのほうがいいと思った。『はじめのあいだは今のように、何かはっきりしなくって、隠しだてでもしてるような気がするけれども、そのうちにあれも慣れてくるだろう。いずれにしても、おれはあれになんでも捧げてしまうが、男性としての独立だけはそうはいかない』と彼は考えた。

[#5字下げ]二六[#「二六」は中見出し]

 九月に、レーヴィンはキチイのお産のため、モスクワへ移った。彼はもうまる一月、なんにもしないでモスクワに暮した。そのとき、カーシン県に領地をもっていて、近く迫った選挙に非常な関心を有しているコズヌイシェフが、選挙に出かけるしたくをととのえていた。彼は弟にも同行をすすめた。レーヴィンはセレズネフ郡の関係で、一票をもっていたのである。なおそのほか、レーヴィンは外国に住んでいる姉のために、どうしてもカーシンヘ行かなければならぬ用事があった。それは後見問題と、償還金受取に関する件である。
 レーヴィンは、いつまでも決心がつかないでいたが、良人がモスクワで退屈しているのを見たキチイが、彼にこの旅行をすすめ、黙って良人のために、八十ルーブリもする貴族団の制服を注文してしまった。制服のために支払われたこの八十ルーブリが、レーヴィンに旅行を決心させたおもな原因であった。彼はカーシンヘ向けて出発した。
 レーヴィンはカーシンヘ来て、もう六日目になる。毎日、集会へ出たり、いつまでも片づかない姉の用件で奔走したりしていた。貴族団長たちはみんな、選挙のほうに忙殺されていたので、後見に関するきわめて簡単な事件が、いっこうに要領を得ないのであった。もう一つの償還金受取の件も、同様に障碍にぶっつかった。禁止解除のために長いこと奔走したあげく、やっと金を支払ってもらえることになったが、公証人はなかなか親切な人間であったにもかかわらず、証明書を交付することができなかった。というのは、それには貴族団長の署名が必要だったのに、貴族団長が事務の引継ぎをしないで、会議のほうへ行ってしまったからである。すべてこうしためんどうくさい心づかい、役所から役所へのお百度通い、請願者の立場の不快さを十分に承知しながら、なんの助けにもならない、しごく善良なやさしい人たちとの会談、なんの結果をももたらさないむなしい緊張は、ちょうど夢の中で腕力を使おうとするときに経験する、あのいまいましい無力感に似た悩ましい気持を、レーヴィンに感じさせるのであった。自分の依頼したしごく人のいい弁護士と話しているとき、彼はよくこの気持を経験した。この弁護士は、レーヴィンを困った立場から救い出すために、できるだけのことをし、自分の知力を残らず緊張さしているらしかった。「じゃ、一つこうしてごらんなさい」と彼は一再ならずいうのであった。「これこれのところへ行ってらっしゃい」そういって弁護士は、いっさいの障碍となっている根本的な原因を避けるために、堂々たるプランを立ててくれた。が、すぐそのあとから、「それでもやっぱり、おさえられることでしょうな。だが、まあ、やってごらんなさい」とつけ加えた。で、レーヴィンはやってみた。あちこち歩きまわったり、車を乗りまわしたりした。だれもかれも善良で、愛想がよかったけれども、とどのつまり、うまく避けて通ったと思ったものが、最後にまたもや立ちはだかって、ふたたび行手をふさいでしまうのであった。レーヴィンにとって特にしゃくにさわるのは、いったいだれと闘っているのか、自分の事件が片づかないために、いったいだれが得をするのか、どうしても合点がいかないことであった。この点になると、だれもわからないらしかった。弁護士もわからなかった。停車場の出札口へ近よるには、必ず列をつくらなければならない、それはちゃんとわかっているが、それと同じように、この場合も理屈がはっきりわかっていたら、レーヴィンも別に腹がたたず、いまいましくもなかったに相違ない。しかし、この事件で彼の遭遇した障碍は、いったいなんのために存在しているのやら、だれひとり説明することができないのであった。
 しかし、レーヴィンは結婚してからこのかた、すっかり人間が変ってしまった。彼は辛抱づよくなったので、どうしてそんなふうになっているのか、納得《なっとく》がいかなかったときには、自分は全部を知りつくしているのではないから、是非の判断をすることはできない、おそらくこうあるのが必要なのだろうとひとりごちて、むやみに憤慨しないようにつとめた。
 今度も選挙に立ち会い、親しくそれに参加したとき、彼はやはり非難もしなければ、議論もしないようにつとめ、自分の尊敬する潔白でりっぱな人たちが、あれほど夢中になって真剣に打ちこんでいる事柄を、できるだけ理解しようとした。レーヴィンは結婚してからというもの、以前は軽はずみな見方から、つまらぬもののように思われていたことに、いろいろと新しいまじめな点を発見したので、この選挙にもまじめな意味があるだろうと想像し、それを見いだそうとしたのである。
 コズヌイシェフは、この選挙に予想されている変革の意義を、彼に説明して聞かせた。県の貴族団長――法律によってきわめて多くの重要な社会事業、後見の問題(今レーヴィンが悩まされている当の問題)、貴族団に属するばくだいの金、女子、男子、軍人の諸中等学校、新規程による国民教育、それから最後に地方自治体までを掌中に握っている、県貴族団長のスネトコフは、ばくだいな財産を蕩尽してしまった、人のいい、ある意味では正直な男であったけれども、新時代の要求を全く理解しない、古い型の貴族であった。彼は徹頭徹尾、貴族階級の味方で、国民教育の普及に頭から反対し、きわめて重大な意義を有すべき地方自治体に、階級的な性格を賦与するというふうであった。で、その位置にぜんぜん新しい、溌剌とした、現代的な、活動的な人物を据える必要があった。そして、単なる階級としてでなく、地方自治体の一分子として、貴族階級に与えられているいっさいの権利から、できうる限り自治上の利益をひき出せるように、仕事を運んでいかなければならない。何ごとにつけても、つねに他県に先んじている富源の豊かなカーシン県には、今や驚くべき力が蓄えられてきたので、この際、方向を誤らず実施されたことは、他県のために、いや、全ロシヤのために、模範となるかもしれないのであった。こういうわけで、このことは全体として、非常に大きな意義を有しているのであった。スネトコフのあとに新しい貴族団長として、スヴィヤージュスキイを据えようか、それとも、ネヴェードフスキイを推したほうがさらによくないか、という予想が行われていた。ネヴェードフスキイは前大学教授で、図抜けて聡明な大物で、コズヌイシェフは大の親友であった。
 会議は知事によって開かれた。彼は貴族一同に、諸君はすべからく個人的情誼によらず、国家の利益のために、しかるべき資質によって役員を選挙されたい、おそらくカーシン県の貴族諸君は、従来の選挙と同様に、神聖におのれの義務を遂行し、君主の高き信任に副《そ》い奉るものと庶幾《しょき》する次第である、と開会の弁を述べた。
 演説を終ると、知事は会場を出た。貴族たちは元気よく、がやがやとそのあとに従った。中には、感激で有頂天になっているものさえあった。そして、知事が外套を着ながら、県貴族団長と親しげに話をしているあいだ、そのまわりをとり囲んだ。レーヴィンはすべてを理解して、何一つ見落すまいと思ったので、同じくその群の中に立っていた。「どうかマリア・イヴァーノヴナによろしくお伝えを願います。妻は養育院へ行かなければならないので、お会いできないのをたいへん残念がっております」という知事の言葉が、彼の耳に入った。それから、貴族たちはにぎやかにそれぞれ外套を着て、町の中央会堂へおもむいた。
 会堂では、レーヴィンもほかの連中といっしょに、片手を上げて僧正の言葉をくりかえしながら、知事の庶幾《しょき》したいっさいを履行する由を、恐ろしい文句で宣誓した。教会の儀式は、いつもレーヴィンにある影響を与えた。で、『われ十字架に口づけす』という言葉を唱えながら、同じことをくりかえしているこの老若さまざまな群をふりかえったとき、彼はなにか感動したような気分を覚えた。
 翌日と翌々日は、貴族団の金と女学校に関する議事がつづいたが、それはコズヌイシェフの説明によると、なんら重大性をもたないものであった。で、自分の奔走している事件に忙しいレーヴィンは、それにはさして注意を払わなかった。四日目には、団長のテーブルで県貴族団の財産の検査が行われた。すると、そのときはじめて新旧両党の間に衝突が起った。金額の検査を託された委員会が、全額そっくりしていると報告した。県貴族団長は立ちあがって、貴族たちの示してくれた信頼を感謝しながら、つい涙ぐんだほどである。貴族一同は声高にかっさいして、団長に握手した。しかし、そのときコズヌイシェフの党に属する一人の貴族が、委員会は在庫金を検査することを団長にたいする侮辱と考えて、あえて検査を実行しなかったのだ、と指摘した。委員の一人が不用意にも、それを裏書きした。すると、ちょっと見にはごく若そうだけれど、なかなか皮肉な柄の小さい貴族が、その金額に関しては正確な報告を提出したほうが、団長にとって欣快《きんかい》なことに相違あるまい、委員たちのよけいな遠慮は、団長からこの精神的満足を奪うことになるだろう、といいだした。そのとき委員連は、自分たちの声明を撤回《てっかい》した。コズヌイシェフは、貴族団の金が委員会によって検査されたものと認めるか、さもなければ、検査されていないことを認めるか、そのいずれかが必要であると、論理的に証明をしはじめ、このジレンマを詳細に展開させた。反対党の饒舌漢《じょうぜつかん》がコズヌイシェフの提唱に反駁した。そのあとでスヴィヤージュスキイが発言し、それから皮肉な紳士がまた一言した。論争は長く続いて、けっきょくなんとも決定がつかずに終った。レーヴィンは、なんだってこんなことを、こんなに長く論争するのかと、ふしぎに思った。ことに彼がコズヌイシェフに向って、「あなたは、その金が使いこみになっていると思うか」とたずねたのにたいして、コズヌイシェフが次のように答えたので、なおさらあきれてしまった。
「いや、とんでもない! あれは潔白な人間だからね。ただ貴族団の事務を扱う古い家長的なやりかたを、少しゆすぶってやる必要があるからさ」
 五日目は、郡貴族団長の選挙であった。この日は、二三の郡に関して、かなり波瀾が巻き起された。セレズネフ郡では、スヴィヤージュスキイが無投票満場一致で推薦され、その晩、彼の住居で宴会が催された。

[#5字下げ]二七[#「二七」は中見出し]

 六日目には、県貴族団長の選挙が行われることになっていた。大小の広間はことごとく、さまざまな制服を着けた貴族たちでいっぱいになっていた。たいていの人は、ただこの日だけやってきたのである。あるものはクリミヤから、あるものはペテルブルグから、またあるものは外国からやってきて、ひさびさに知人同士、あちこちの広間で顔を合わすものが多かった。皇帝の肖像をいただいた県貴族団長の大テーブルでは、論争が行われた。
 貴族たちは大小の広間で、それぞれの陣営に分れて集っていた。その敵意にみちた疑ぐりぶかそうな目つきや、他人がそばへよるとぴったりやんでしまう話し声や、あるものはひそひそささやきあいながら、遠い廊下の方まで人を避けて行くその様子などで、双方ともそれぞれ、敵にたいして秘密のあることが察せられた。外見からいうと、貴族たちは新旧二つの種類にかっきりと分たれた。旧派に属する連中は概して、古い宮中礼服のボタンをきちんとかけ、剣を吊るし、帽子をかぶっているか、またはそれぞれの武勲に応じて、海軍なり、騎兵なり、歩兵なりの礼装をしていた。旧派の貴族たちの礼服は旧式な仕立て方で、肩に綿など入っていた。見るからに全体が小さく、腰の辺が短くて狭いらしく、まるで着ている当人が、服の中で大きくなったようなかっこうであった。若い連中は、腰のくくりが下のほうについた、肩のゆったりした、ボタンをかけない貴族団の制服に、白いチョッキを着ているか、それとも司法省のしるしの月桂樹を刺繍した、黒い襟の礼服を着用に及んでいた。若い連中の仲間には宮中服もまじって、群衆のそこここで異彩を放っていた。
 とはいえ、新旧両派の分類は、党別と一致しなかった。レーヴィンの観察によると、若手のあるものは旧派に属しているかと思うと、その反対に一番古い貴族でも、スヴィヤージュスキイと耳打ちなどして、新派の熱烈な味方らしいのがあった。
 レーヴィンは、喫煙室兼ブフェーになっている小さな広間で、自分の仲間がかたまっているそばに立って、みんなの話していることに耳をすましながら、その内容を悟ろうと、精神力をいっぱいに緊張させて、むなしい努力をしていた。コズヌイシェフは、また別なグループの中心になっていた。彼は今スヴィヤージュスキイと、同じ党派に属する別な郡の貴族団長、フリュストフの話を聞いていた。フリュストフは、自分の郡の貴族たちを引率して、スネトコフのところへ行き、候補に立ってくれと頼むのはいやだ、というのであったが、スヴィヤージュスキイは是非そうするように、説き伏せにかかっていた。コズヌイシェフも、その提案に賛成なのである。いったいなんのために反対党が、自分たちとして当選を望んでいない貴族団長に、立候補を懇願する必要があるのか、レーヴィンにはわけがわからなかった。
 たったいまひと口やり、一杯飲んだばかりのオブロンスキイは、香水の匂いのぷんぷんする縁縫《ふちぬい》のしてある精麻《バチスト》のハンカチで口を拭きながら、侍従の制服を着て、彼らのそばへよってきた。
「陣地は着々占領しつつあるよ」両頬の髯を左右に撫で分けながら、彼はそういった。「セルゲイ・イヴァーノヴィッチ!」
 それから、人々の会話に耳を傾けて、スヴィヤージュスキイの意見に裏書きした。
「一郡だけでたくさんですよ。スヴィヤージュスキイはもう反対派だってことが明瞭なんだから」と彼は、レーヴィンだけに意味のわからないことをいった。
「どうだね、コスチャ、君もどうやらおもしろみがわかってきたようだね?」と彼はレーヴィンのほうへむいてつけ足しながら、その腕をとった。レーヴィンもおもしろみがわかりたいのはやまやまながら、なんのことか合点がいかなかった。話し合っている人々から数歩離れたとき、なぜ貴族団長に立候補を頼むのかという疑念を、オブロンスキイに話した。
「O sancta simplicitas!(おお聖なる単純さよ)」といって、オブロンスキイは簡単明瞭にことの仔細を説明した。
 もしこの前の選挙のように、すべての郡が揃って貴族団長に懇願したら、彼は満場一致で選出されてしまうが、それでは困る。ところで今は、八つの郡が懇願説に同意しているが、もし二つの郡がそれを拒否すれば、スネトコフはおそらく立候補を断念するだろう。そのとき、旧陣営は自党の中から別の人物を選ぶだろうが、それでは彼らの目算がすっかりはずれてしまうわけである。しかし、もしもスヴィヤージュスキイの郡だけ、懇願組に加わらなかったら、スネトコフは立候補するに相違ない。そこで、みんな彼を選ぶことにして、わざと彼のほうへ票をまわす、すると反対党は計算をまごついてしまって、わが党のほうから候補者を押し出したとき、敵のほうがこの候補者に票をまわすだろう。レーヴィンはやっと合点がいったけれども、きれいさっぱり、疑念かはれたというわけではなかったので、もう二つ三つ質問しようと思ったとき、ふいにみんなががやがやしゃべりだして、大きいほうの広間をさして歩きだした。
『何ごとだ? どうしたのだ? だれだ?』『信任? だれを? なんで?』『排斥しているって?』『信任じゃない』『フレーロフの選挙権を認めないというんだ』『裁判を受けてるからって、それがなんだ?』『そんなことは卑劣だ』『そんなふうにしたら、だれひとり入れてもらえやしない』『しかし法律だもの!』という声が、四方八方からレーヴィンの耳に入った。そして、何か見のがすのを恐れるかのように、どこかへ急ぐ人々とともに、彼も大広間へ足を向け、貴族たちにぐいぐい押されながら、貴族団長のテーブルに近づいて行った。そこでは県貴族団長と、スヴィヤージュスキイと、そのほかのリーダー連が、なにやらはげしい議論を闘わしているのであった。

[#5字下げ]二八[#「二八」は中見出し]

 レーヴィンはかなり遠く離れて立っていた。はあはあせいせいと息をするそばの紳士と、厚い靴の裏皮をぎしぎしきしませるもう一人の紳士が、はっきり聞き分ける邪魔をした。彼はただ遠くのほうから、県貴族団長の柔らかみのある声と、皮肉な貴族のきいきい声と、それからスヴィヤージュスキイの声を、耳にしたばかりである。彼の理解した限りでは、彼らはある法文の条項の意義と、予審下にあるもの[#「予審下にあるもの」に傍点]という言葉の意味について、論争しているらしかった。
 と、群衆は左右に分れて、テーブルに近よってくるコズヌイシェフに道を開いた。コズヌイシェフは、皮肉な貴族の演説が終るのを待って、何よりも正確なのは、じきじき条文を調べて見ることだと思うといって、秘書に条文を探して出してほしいと頼んだ。その条文には、意見不一致の場合は、投票に付すべしとなっていた。
 コズヌイシェフは条文を読みあげて、その意味を説明しはじめたが、そのとき、背が高くて、猫背の、口髭を染めた、襟が頸筋をつき上げるような窮屈そうな制服を着た一人の地主が、いきなり彼をさえぎった。彼はテーブルのそばへよって、指輪でこつんとその上を叩きながら、大きな声で叫んだ。
「投票することだ! 投票だ! 何もかれこれいうことはない! 投票だ!」
 そのとき一時にいくたりもの声が、がやがやいいだしたので、指輪をはめた背の高い貴族は、ますますいきりたちながら、だんだん声を高めてどなるのであった。しかし、彼のいっているのはなんのことやら、いっこうに聞き分けられなかった。
 彼はコズヌイシェフと、同じことをいっているのであったが、明らかに彼は、コズヌイシェフとその一党を憎んでいるらしかった。この憎悪感が党ぜんたいに感染したために、反対党の側からも、比較的紳士らしい態度ではあったが、対抗的に同じような憤激がわき起った。叫喚の声が起って、いっときなにもかもこんぐらかってしまったので、県貴族団長は静粛の注意を促さなければならなかった。
『投票だ、投票だ! 貴族である以上、ちゃんとわかってる』『われわれは血を流すことも、あえて辞せない……君主のご信任……貴族団長を責めることはない、団長は番頭じゃないんだから……いや、そんな問題じゃない……じゃ、票決しましょう? けがらわしい……』という激昂したものすごい叫びが、四方から聞えてきた。しかし、人々の顔や目つきのほうが、声よりもずっと毒々しく、ものすごかった。それは、和解の余地のない憎悪を示していた。レーヴィンは、なんのことかさっぱりわからなかったが、フレーロフに関する件を、投票に付すべきかいなかの問題を論議する、その熱狂ぶりに一驚を喫した。彼は、あとでコズヌイシェフの説明したところによると、例の三段論法を忘れたのである。一般の福祉のためには、貴族団長を追い落す必要があり、団長を追い落すためには、票数の獲得が必要であり、票数の獲得のためには、フレーロフに投票権を与える必要があった。ところが、フレーロフの資格を認めるためには、条文をいかに解釈するかを、説明する必要があったのである。
「ただの一票が事態を決するのだから、一般の福祉に奉仕しようと思ったら、真剣になって順序を踏まなくちゃならないのさ」とコズヌイシェフは言葉を結んだ。けれども、レーヴィンはそのことを忘れてしまって、自分の尊敬する善良な人々が、かくも不快な毒々しい興奮に陥っているのを、見るのも苦しいような気がした。この重苦しい感じをのがれるために、彼は論争の終るのを待たないで、小さいほうの広間へ出て行った。そこには、ブフェーのそばのボーイ連のほか、だれもいなかった。食器洗いや、皿や杯を並べるのに忙しそうな人たちを見、彼らのおちついた、しかも生きいきした顔を見ると、レーヴィンはまるで悪臭ぷんぷんたる室内から、すがすがしい外気の中へ出たように、思いがけなく気持の軽くなるのを覚えた。彼は満足感をいだいて、ボーイたちをながめながら、あちこち歩きまわりはじめた。白い頬ひげを生やした一人のボーイが、自分をからかうほかの若い連中に、侮蔑の色を見せながら、ナプキンのたたみかたを教えているのが、彼は非常に気に入った。レーヴィンが、この老給仕と話をはじめようとしたとき、貴族後見会の秘書で、全県の貴族の姓名を残らず知っているのが専門の老人が、彼の注意をそらした。
「コンスタンチン・ドミートリッチ」と老人はいった。「お兄さまがお呼びでいらっしゃいます。投票がはじまりましたので」
 レーヴィンは大広間へ入って、小さな白い玉を受け取って、兄のコズヌイシェフといっしょに、テーブルのそばへ近よった。そこにはスヴィヤージュスキイが、ものものしい皮肉な顔つきで、頤《あご》ひげをひと握りににぎって、しきりにその臭いをかぎながら立っていた。コズヌイシェフは箱の中へ手をつっこんで、どこかへ自分の玉を入れ、レーヴィンに場所をゆずると、すぐそばに立ちどまった。レーヴィンはテーブルのそばへよったが、なんのことやらとんと忘れてしまって、もじもじしながら、コズヌイシェフの方へふりむいて、「どこへ入れたらいいのです?」ときいた。彼は、みんながまわりで話しているとき、小さな声できいたので、この問いは、人々の耳に入らないだろうと、あてにしたのである。けれど、しゃべっていた人たちがぴったり口をつぐんだ。彼の無作法な質問は、聞かれてしまったのである。コズヌイシェフは眉をひそめた。
「それは各個人の信念の問題だよ」と彼はいかめしい調子で答えた。
 二三の人々は微笑した。レーヴィンは顔を赤らめ、急いでラシャの下へ手をつっこみ、右側へ投票した。玉が右手にあったからである。入れてしまってから、左手もつっこまなければならないことを思い出して、そうしたけれど、もう手遅れであった。で、なおいっそうてれてしまって、こそこそと一番うしろの列へ入ってしまった。
「賛成投票百二十六! 不賛成九十八票!」Rを発音しない秘書の声が響き渡った。つづいて笑い声が聞えた。投票箱の中にボタンが一つと、胡桃《くるみ》が二つ入っていたのである。貴族フレーロフは投票権を認められ、新人側の勝利となった。
 しかし、旧派も負けたとは思わなかった。レーヴィンは、スネトコフに立候補してほしいと頼む声を耳にし、何やらいっている県貴族団長をとり囲んだ貴族たちの一群を見受けた。レーヴィンは少しそばへよって行った。スネトコフはその貴族たちに答えながら、諸君の自分にたいする信頼と愛情を謝した後、自分はもうそうしていただく価値がない、自分の功績というのは、貴族階級にたいする信服に尽きており、その貴族階級のために、十二年の勤務生活を捧げたにすぎないのだから、といった。彼はいくども、「自分は力の及ぶ限り、信と真とをもって奉仕しました。諸君のご好意はうれしく思い、感謝に堪えん次第であります」とくりかえしていたが、とつぜん、涙に喉がつまって言葉を切り、大広間を出てしまった。その涙の原因は、自分にたいする人々の不当な処置を意識したためか、貴族階級にたいする愛のためか、自分が敵に包囲されているのを感じて、あまりにその状態が緊張していたためか、その点はっきりしなかったけれども、その興奮はしだいに伝染して、大多数の貴族は感動してしまった。レーヴィンも、スネトコフに対する優しい愛情を感じた。
 戸口のところで、県貴族団長はぱったりレーヴィンに行き会った。
「失礼、ごめんなさい」と彼は、まるで知らない人のようにいったが、レーヴィンであると気がつくと、臆病らしく微笑した。彼は何かいおうとしたけれど、興奮のあまり言葉が出なかった、というようにレーヴィンの目には映った。その顔の表情も、制服をまとい、勲章をかけつらね、金モール入りの白ズボンをはいたそのぜんたいのかっこうも、こいつはいけないぞと見てとった巻狩の野獣を、レーヴィンに連想させるのであった。団長の顔にあらわれたこの表情は、レーヴィンにとって特に痛ましい感じがした。というのは、つい昨日、後見の事件で彼の邸を訪問して、善良な家庭人としての彼の威容を見たばかりだったからである。古い伝来の家具を備えた大きな邸宅、明らかに主人を変えないでいる以前の農奴らしい、あまりしゃれたなりをしていない、いくらか汚らしい感じのする、いんぎんな、年とった従僕たち、レースの室内帽をかぶり、トルコ・ショールをまとって、小さなかわいい孫娘――娘の娘をあやしている肥えた気立てのよさそうな夫人、中学校からやってきて、父親にあいさつしながら、その大きな手に接吻した中学六年生の息子、主人公の噛んで含めるような優しい言葉や身ぶり――これらすべては、つい昨日レーヴィンの心に、知らずしらず尊敬と、同感を呼び起したものである。今はレーヴィンの目に、この老人が痛ましくかわいそうに思われた。で、何か彼のために、気持のいいことがいってやりたくなった。
「してみると、あなたはまたわれわれの団長でいて下さるんでしょうね」と彼はいった。
「さあ、覚束《おぼつか》ないですな」と団長はおびえたように、うしろをふりかえっていった。「私はもう疲れましたよ、老人ですからな。私なんかより実力のある若い人がいるのだから、そんな人がご奉公したらいいのですよ」
 そういって、貴族団長は横の方の戸の陰に姿を消した。
 いよいよ最も荘重な瞬間が訪れた。さっそく選挙にかからなければならなかったのである。両党のリーダーたちは、白と黒を指折り数えていた。
 フレーロフに関する論争は、新党のために一票を加えたばかりでなく、時をかせいでくれたので、旧派側の奸計で選挙に参加できなくなった三人の貴族を、ひっぱってくることができたのである。酒に目のない二人は、スネトコフの手先に盛りつぶされたし、もう一人は貴族団の制服を持っていかれたのである。
 この事情をかぎつけるやいなや、新人派はフレーロフに関する論争のあいだに、仲間を辻馬車で駆けつけさせて、一人の貴族にはちゃんと制服を着せるし、盛りつぶされた二人のうち一人を、選挙場へ連れてくることができた。
「一人だけひっぱってきて、水を頭からぶっかけてやりましたよ」と迎えに行った一人の地主が、スヴィヤージュスキイのそばへ行ってこういった。「大丈夫、役に立ちますよ」
「へべれけじゃありませんか、倒れやしませんかね?」とスヴィヤージュスキイは、小首をひねりながらたずねた。
「なあに、元気なものですよ。ただここで飲まされさえしなけりゃ……私はブフェーのボーイに、どんなことがあっても飲ませちゃならん、といっておきましたよ」

[#5字下げ]二九[#「二九」は中見出し]

 喫茶室兼ブフェーになっている長細いホールは、貴族たちでいっぱいだった。興奮はしだいに募って、だれの顔にも不安の色が認められた。ことに、いっさいの事情に詳しく通じて、票の数を知り尽しているリーダーたちは、ひどく興奮していた。それらは、目前に迫った戦闘の指揮官であった。そのほかの連中は戦闘前の一兵卒なので、戦いの覚悟はできていたけれども、今のところは気晴しを求めていた。あるものは立ったり腰かけたりして、むしゃむしゃやっているし、あるものは巻タバコをくわえて、長細いホールをあちこち歩きまわりながら、久しく会わなかった友だちと話をしていた。
 レーヴィンは別に食べたくもなかったし、それに不断からタバコもすわなかった。それかといって、自分の仲間、つまりコズヌイシェフや、オブロンスキイや、スヴィヤージュスキイなどと合流する気にもなれなかった。なぜなら、彼らといっしょに、主馬寮長《しゅめのりょうちょう》の制服を着たヴロンスキイが、活溌な会話をまじえながら、立っていたからである。昨日もレーヴィンは、選挙場で彼の顔を見かけたが、顔を合わせたくなかったので、つとめて避けるようにしたものである。彼は窓のそばに腰をおろして、さまざまなグループをながめまわしながら、周囲でいってることに耳をすましていた。彼は憂鬱であった。見受けたところ、みんな活気に満ちて、心配そうにし、忙しそうにしているのに、自分一人だけは、そばに坐ったひどく高齢な、海軍の礼服を着て、歯のない口でもぐもぐいう老人を相手に、興味もなければ、なすこともないありさまなので、とくに憂鬱であった。
「あいつはしようのない悪党だ! 私はあいつにいってやったんですが、やっぱりだめだ。そうですとも! あいつは三年の間に、集めることができなかったんですからね」ポマードをこてこてつけた髪を、金で刺繍《ぬい》した礼服の襟にたらした、丈の高くない、やや猫背の地主が、一見して選挙のためにおろしたらしい、新しい靴の踵《かかと》をかたかた鳴らしながら、元気のいい声でこういった。地主はレーヴィンに不満げな一瞥《いちべつ》を投げると、くるりとそっぽを向いてしまった。
「そうですとも、あの事件は臭いですよ、いわずと知れてまさあ」と小柄な地主が、細い声でこういった。
 そのあとから、ふとった将軍をとりまいた地主の一群が、せかせかとレーヴィンの方へ近づいて来た。地主連は、人に聞かれないで話し合うために、場所をさがしているらしかった。
「私があの男のズボンを盗むようにいいつけたなんて、よくもそんな失敬なことがいえたもんだ! やつはきっと、そのズボンを飲んじまったんでしょう、私はそう睨《にら》みますよ。やつが公爵だからって、そんなこと屁《へ》でもありゃしない。そんな失敬なことをいうべきじゃない、それは厚顔無恥な所行《しょぎょう》だ!」
「しかし、まあ、考えてごらんなさい! あの連中は条文をたてにとってるんですからね」とまた別のグループではいっていた。「妻は貴族として籍が入っているべきですよ」
「条文なんてくそくらえだ! 僕は誠心誠意いってるんですからね。ありがたいことに、われわれは生れながらの貴族なんですから、信頼してもらいたいもんですね」
「閣下、fine champagne(上等のシャンパン)をやりに行きましょう」
 また別の一群は、何やら大声にわめいている貴族のあとから、羊のむれのようについて行った、それは盛りつぶされた三人の中の一人であった。
「私はいつもマリア・セミョーノヴナに、土地は貸したほうがいいと忠告したものですよ。だって、あのひとには見当がつかないんだから」参謀本部付大佐の制服を着て、ゴマ塩の口ひげを生やした地主が、気持のいい声でそういった。それは、レーヴィンがスヴィヤージュスキイの家で会った例の地主であった。彼はすぐさまそれと気がついた。地主のほうでもレーヴィンに目をつけて、二人はあいさつをした。
「やあ、これは愉快ですな! どういたしまして! よく覚えておりますとも。去年、郡の貴族団長のニコライ・イヴァーノヴィッチのとこでお会いしました」
「ときに、お宅の農場はどんなふうにいっています?」とレーヴィンはきいた。
「相変らず欠損ですよ」地主は彼のそばに立ちどまって、忍従の微笑を浮べながら答えたが、その表情は、それが当然だといったような、おちつきと確信をあらわしていた。「ところで、どうしてあなたはわれわれの県に入られたのです!」と彼はたずねた。「われわれの 〔coup d'e'tat〕(クーデター)に仲間入りするために、こられたんですか?」まずいけれどしっかりとフランス語を発音しながら、彼はいった。
「ロシヤ全国がここへ集ったんですよ。侍従も、大臣といっていいほどの人たちさえね」と、白ズボンに侍従の制服を着て、将軍といっしょに歩きまわっている、オブロンスキイの堂々たる姿をさして見せた。
「正直に白状しなくちゃなりませんが、僕は貴族団の選挙の意味が、よくわからないんです」とレーヴィンはいった。
 地主はレーヴィンの顔をながめた。
「何もわかるもわからんもありゃしませんよ。意味なんかてんでないんですものな。ただの惰力で動いているすたれた制度にすぎませんよ。あの制服をごらんなさい――あれがちゃんとそう言っていますよ。これは治安判事、常任委員、等々の集りで、貴族の集会じゃありませんて」
「じゃ、あなたはなんのためにお出かけになったんです?」とレーヴィンはきいた。
「ただの習慣ですな。それに、つながりというやつも維持していく必要があります。ある意味における精神的義務ですな。それに、正直のところを申しますと、自分の利害もあるんですよ。娘の婿が、常任委員に立候補したがっておるのですが、なにしろ金といってはそうないから、うまく引きまわしてやらなくちゃならんのです。ところで、あの連中はなんのためにやってくるんでしょう?」貴族団長のテーブルのそばで論じたてている、皮肉な紳士をさしながら、彼はこういった。
「あれは貴族階級の新世代ですよ」
「新は新かも知れませんか、ただし貴族階級じゃありません。あれは土地所有者で、われわれは地主なんです。あの連中は貴族階級として、われとわが身に手をくだしているようなものですよ」
「しかし、あなたはそうおっしゃったじゃありませんか、これはすたれた制度だって」
「すたれた制度はすたれた制度ですが、しかしなんといっても、もう少し敬意をもって遇すべきですよ。あのスネトコフにしても……いいにしろ悪いにしろ、とにかくわれわれは千年以上も、生長をつづけてきた存在ですからな。たとえていえば、家の前にちょっとした庭を造ることにして、地割りをしようという段になって、ちょうどそこのとこに、何百年もたった古い木が生えてるとしましょう……それは曲りくねった老木ではありますが、なんといっても、ちょいとした花壇をつくるために、古い木を伐《か》り倒すなんて法はありません、むしろ、その木を利用するように、花壇の地割りをしなくちゃなりますまい。そういう大木は、一年で成長さすことはできないんですからな」と彼は用心ぶかい調子でいって、すぐ話題を転じた。「ところで、あなたがたの農場はいかがですな?」
「どうもいけません。やっと五分の収益ですね」
「ははあ、しかしあなたは、ご自分を勘定に入れていらっしゃらんが、あなただって何かの値うちがおありになるはずじゃありませんか。ところで、私は自分のことを申しあげましょう。私は農場をはじめるまでは、勤務で年俸三千ルーブリもらっておりました。今じゃ私は勤務以上に働いておりますが、あなたと同じことで、五分の利益しかあがりません。しかも、それだって運のいいほうなんですよ。だから、自分の働きというものは、ただになってしまうわけでさあ」
「では、なんのためにあなたは、そういうことをなさるんです? もし、てんから損耗《そんもう》とわかっていたら?」
「ところが、それでもするんですなあ! なんともいたしかたがありませんわい。習慣というやつで。それに、そうしなけりゃならんということが、自分でもわかっておるのですよ。それどころか、もっと詳しくお話しますと」と地主は窓に肘杖《ひじづえ》ついて、すっかり話に脂が乗ったふうで、言葉をつづけた。「せがれが農事にいっこう気がなくて、どうやら学問のほうがやりたいらしいのです。だから、だれも跡を継ぐものがないというわけですが、それでも私はやっぱり続けておりますよ。現に今年も、新しく果樹園をつくりましてな」
「そうです、そうです」とレーヴィンはいった。「それは全くおっしゃるとおりです。私も始終、自分の農場では本当の意味の採算などありえない、と感じているのですが、そのくせやっぱりつづけている……なにかしら土地にたいする義務、といったようなものを感じるんですね」
「さよう、こういうこともありますよ」と地主はつづけた。「私の隣にある商人が、地所を持っておりましてな、あるときいっしょに、畑や果樹園などを歩いてみました。商人がいうには、『いや、スチェパン・ヴァシーリッチ、お宅はなにもかもきちんといっておりますが、ただ庭がうっちゃらかしになっておりますな』ところが、私の庭は手入れが届いておるのです。『私の勘考《かんこう》では、あの菩提樹は伐《き》り倒したほうがよろしいですな。ただ養分をむだに吸うばかりで、ああいうふうの菩提樹が千本くらいあるでしょうが、一本からいい皮が二枚ずつ取れるでしょうよ。いま木の皮の値が出ていますから、私なら皮用の菩提樹を、どんどん伐り出すんですがな』とこんなことをいうじゃありませんか」
「その金で先生、牛馬でも買い占めるでしょうね。それとも、土地をただ同然に買って、百姓たちに貸しつけますかね」とレーヴィンは薄笑いを浮べながら、話の締めくくりをつけた。明らかに、もう一度や二度でなく、そういう算盤の取り方にぶつかったことがあるらしい。「こうして、商人は身代をつくり上げてるのに、私やあなたはただ持ってるものを失くさないで、子供たちに残すことができれば、ありがたいしあわせというありさまなんですからね」
「あなたは結婚なさったとかで、私は噂を聞きましたが?」と地主はいった。
「そうです」とレーヴィンは、誇らしい満足感をいだきながら答えた。「全く、これは何か妙なことですね」と彼はつづけた。「われわれはこうして、なんの採算もなしに暮しているんですからね、まるでご神火を守る昔の巫子《みこ》かなんぞのように、われわれは土地に付き人としておかれてる形ですね」
 地主は白い口ひげの下でにっと笑った。
「私どもの中にも変ったのがありますよ、そら、お互に知り合いのニコライ・イヴァーノヴィッチとか、今度こちらへ移って来たヴロンスキイ伯爵などで、あの衆は農業を、大きな事業としてやっていこうとしておりますが、こいつは今までのところ、ただ資本をねかすだけで、なんの結果も得られんのが普通でしてな」
「どうしてわれわれも、商人みたいにしないんでしょう? なぜ木の皮を取るために、庭の立ち木を伐らないんでしょう?」強い印象を与えられた想念に立ち戻りながら、レーヴィンはこういった。
「つまりそれは、あなたのいわれたとおり、ご神火を守るためですな。あんなやりくちは、貴族のなすべき仕事じゃありませんて。われわれ貴族のなすべき仕事は、こんな選挙場にはなくて、あちらの住み慣れた片すみにあるのです。それにまた、何をしなければならんか、何をしてはならんかということについても、やっぱり階級的本能というやつがありましてな。百姓にしてもやっぱり同じことで、私はときどきあの連中を観察しておりますが、よい百姓はできるだけよけいに、土地を借りようとします。どんなに悪い土地でも、せっせと耕している。これも採算のとれん話どころか、てんで欠損なんですからな」
「われわれもそれと同じわけなんですね」とレーヴィンはいった。「いや、お目にかかれて、じつにじつに愉快でした」むこうからやってくるスヴィヤージュスキイを見て、彼はこうつけ足した。
「お宅でお近づきになって以来、はじめてお目にかかったところ」と地主はいった。「すっかり話がもててしまいましてな[#「話がもててしまいましてな」はママ]」
「どうです、新しい制度の悪口じゃありませんでしたか?」
「多少それもありましたよ」
「それで鬱憤《うっぷん》を晴らしたというわけですね」

[#5字下げ]三〇[#「三〇」は中見出し]

 スヴィヤージュスキイはレーヴィンと腕を組んで、自分の仲間のほうへ行った。
 今となっては、ヴロンスキイとの対面を避けるわけにいかない。彼はオブロンスキイとコズヌイシェフと並んで、近づいてくるレーヴィンをまともにながめていた。
「非常に愉快です、たしかいちど拝顔の栄を得たようですね……シチェルバーツキイ公爵家で」と彼は、レーヴィンに手をさしのべながらいった。
「あのときのことはよく覚えています」とレーヴィンはいい、紫色に見えるほど真赤になって、すぐそっぽを向いてしまい、兄と話をはじめた。
 ヴロンスキイは軽くにやっと笑って、スヴィヤージュスキイと話をつづけた。明らかに、レーヴィンと話をはじめたいという希望は、いささかももっていないらしい、ところが、レーヴィンは兄と話をしながらも、たえずヴロンスキイのほうをふりかえって、自分の無作法を償うために、どんな話をもちだしたらいいか、思案をめぐらすのであった。
「いま問題は何なのです?」スヴィヤージュスキイとヴロンスキイのほうをふりかえりながら、レーヴィンは問いかけた。
「スネトコフのことなんだ。あの男に承諾するか、辞退するかしてもらいたいのさ」とスヴィヤージュスキイは答えた。
「それで、どうなんです、承諾したんですか、辞退したんですか?」
「ところが、そのどっちでもないから困るんですよ」とヴロンスキイはいった。
「もし辞退したら、だれが候補に立つんです?」とレーヴィンは、ヴロンスキイのほうをふりむきながらたずねた。
「有志のものですよ」とスヴィヤージュスキイが答えた。
「あなたは立ちますか?」
「いや、私に限ってそんなことは」コズヌイシェフのそばに立っている皮肉な紳士に、おびえたような視線をちらっと投げて、スヴィヤージュスキイはどぎまぎしながら、そういった。
「じゃだれです? ネヴェードフスキイですか?」とレーヴィンは、しどろもどろになったのを感じながらいった。
 しかし、それはもっといけなかった。ネヴェードフスキイもスヴィヤージュスキイも、二人ながら候補者だったのである。
「ただし、僕だけはどんなことがあってもまっぴらです」と皮肉な紳士はいった。
 それが当のネヴェードフスキイであった。スヴィヤージュスキイは、レーヴィンをひき合わせた。
「どうだね、君もだいぶ真剣になってきたようだな?」とオブロンスキイは、ヴロンスキイに目配《めくば》せしながらいった。「これも一種の競馬だからね。賭だってできるぜ」
「そう、こいつも全く真剣になれるよ」とヴロンスキイは答えた。「いちど手を出すと、最後までやりとげたくなるね。戦争だよ!」眉をひそめ、たくましい頬骨をぐっと締めて、彼はこういった。
「スヴィヤージュスキイはたいしたやり手ですね! あの男にかかると、たちまち万事はっきりしますからね」
「そりゃまったくです」とヴロンスキイは、そわそわした調子でいった。
 沈黙が襲った。その間に、ヴロンスキイは何か見なくてはならないので、レーヴィンの方へ視線を向けた。はじめ足、それから制服、最後に顔をながめたが、自分にそそがれている暗い目つきにぶつかると、ただ何かいうためにこういった。
「どうしてあなたは年じゅう、田舎に暮していらっしゃりながら、治安判事をなさらないんですか? あなたは治安判事の制服を着ていらっしゃいませんね?」
「ほかでもありません、治安判事なんかばかけた制度だと思うからです」こんど会ったら必ず自分の無作法を償うために、ヴロンスキイと胸襟を開いて語ろうと、その機会を待っていたにもかかわらず、レーヴィンは暗い調子でこう答えた。
「僕はそう思いませんね。むしろその反対です」とヴロンスキイは、おちついた驚きの調子でこういった。
「あんなものは玩具《おもちゃ》ですよ」とレーヴィンはさえぎった。「治安判事なんてものは、われわれに必要がありません。僕は八年間に、一度も訴訟を起したことがありませんからね。いちど起したところ、まるっきり逆の判決を受けましたよ。治安判事は、僕の家から四十露里も離れたとこにいるものだから、二ルーブリの事件のために弁護人をやって、十五ルーブリから礼を出さなくちゃならないという始末です」
 それから彼は、ある百姓が水車場の粉を盗んだので、水車場の主人がそれをなじったところ、百姓は誹譏罪《ひきざい》の訴訟を起した顛末《てんまつ》を話したが、それが変にとってつけたようで、まが抜けていた。レーヴィンも話しながら、自分でそれを感じた。
「いやはや、どうも相変らずの変人だよ!」とオブロンスキイ[#「オブロンスキイ」は底本では「オブロンスキー」]は、例のアメンドウのような微笑を浮べて言った。「だが、そろそろ出かけようよ。どうやら投票がはじまったようだ……」
 それで、彼らは別れわかれになった。
「どうもわからんね」弟のとっぴょうしもない話しぶりを見ていたコズヌイシェフは、こう言って注意した。「どうしてあんなにまで政治的なこつ[#「こつ」に傍点]を欠いていられるか、わけがわからん。これがわれわれロシヤ人に欠けているものなんだね。県貴族団長はわれわれの敵なのに、おまえはあの男と ami cochon(親しい仲)で、候補に立ってくれなんて頼んでる。ところでヴロンスキイ伯爵は……僕はあの男を親友にしようとは思わない。あの男は晩餐に呼んでいるけれど、こっちは行く気はない。しかし、それでもあの男はわが党なのに、何もあの男を敵にすることはないじゃないか? それからまた、おまえはネヴェードフスキイに、候補に立つかなんてきいたけれど、あんなことを言うものはありゃしない」
「ああ、僕は何がなんだかちっともわからない! しかし、そんなこと、みんなくだらないこってすよ」とレーヴィンは暗い調子で答えた。
「おまえはそんなふうに、なにもかもくだらないことだというが、いざ自分でやるとなると、すっかりごちゃごちゃにしてしまうんだから」
 レーヴィンは口をつぐんだ。こうして二人はいっしょに、大広間へ入って行った。
 県貴族団長は、自分のために設けられている陥穽《おとしあな》を、空中に感じたにもかかわらず、また自分に懇願したのが全員でなかったにもかかわらず、それでも立候補を決心した。大広間は闃《げき》と静まりかえった。秘書は雷霆《らいてい》のごとき声で、近衛騎兵大尉ミハイル・スチェパーノヴィッチ・スネトコフ氏、県貴族団長選挙に立候補すと宣言した。
 郡貴族団長連が、小さな玉の入った皿を持って、それぞれ自分のテーブルから県貴族団長のテーブルへ行った。こうして、選挙がはじまったのである。
「右の方へ入れるんだよ」レーヴィンが兄とともに、団長のあとからテーブルに近づいたとき、オブロンスキイは彼にそうささやいた。しかし、今レーヴィンは説明してもらった計画をどう忘れして、オブロンスキイが『右』といったのはまちがいではないか、と心配になった。なにしろ、スネトコフは敵なのである。箱のそばまで行ったとき、彼は玉を右手に持っていたが、これはまちがいだと思って、箱のすぐ手前で、左の手へ玉を持ちかえて、あけすけに左のほうへ入れた。箱のそばに立っている専門の係員は、肘の動きだけで、だれがどちらへ入れたかを察してしまうのであったが、われともなく眉をひそめた。その洞察力を働かす余地がなかったのである。
 あたりはしんとして、ただ玉を数える気配だけがしていた。やがて、ただ一人の声が賛否両票の数を読み上げた。
 貴族団長は相当の多数で選挙された。一同はざわめきたって、まっしぐらに戸口の方へおしかけて行った。スネトコフが入ってくると、貴族連はそれをとりまいて、祝辞を述べた。
「さあ、これでおしまいなんでしょう?」とレーヴィンはコズヌイシェフにきいた。
「なに、やっとはじまったばかりさ」とコズヌイシェフのかわりに、スヴィヤージュスキイは答えた。「ほかの候補者が、より以上の票数を獲得するかも知れないからね」
 レーヴィンはまたしても、それをころりと忘れていた。今になってはじめて、そこには何か微妙な魂胆があったのだと思い出したが、それがどういうことなのか、考え出すのがめんどうくさくなってきた。彼は気がくさくさしてきたので、この群衆の中から出て行きたくなった。
 だれも自分のほうに注意を払っていず、したがって、だれにも用がないらしいのをさいわい、彼はブフェーのある小さい広間へ、そっと出て行った。ふたたびボーイたちを見たとき、しんからほっとした。年とったボーイが、ひと口いかがですというので、レーヴィンは食べることにした。いんげん豆をつけあわしたカツレツを食べ終り、ボーイを相手に昔の旦那がたの噂をした後、レーヴィンはいやでたまらない大広間へ行きたくなさに、合唱隊席へ行ってみた。
 合唱隊席は、きらびやかな婦人たちでいっぱいだった。みんな手すりから乗り出して、階下《した》で話していることを、一つとして聞きもらすまいと、一生懸命であった。婦人たちのそばには、優美なかっこうをした弁護士や、中学教師や、将校などが、立ったり坐ったりしていた。話はいたるところ、選挙のことや、貴族団長がへとへとに疲れていることや、討論がすてきだったこと、などでもちきりだった。ある一群の中で、レーヴィンは兄にたいする賛辞を聞いた。一人の婦人がある弁護士にむかって、
「わたしコズヌイシェフの演説が聞かれて、本当にうれしゅうございましたわ! あれなら、おなかをすかして聞いている値うちかありますわ。すばらしいものですねえ! 本当にはっきりと、なにもかも聞えるんですもの! あなたがた、裁判関係の人で、あれほどしゃべれる人はだれもありませんもの。まあ、マイデル一人くらいのものですけど、それだってとても、あれほど雄弁じゃありませんもの」
 手すりにおいたところを見つけて、レーヴィンは上半身を乗り出しながら、見たり聞いたりにかかった。貴族たちはみんなそれぞれの郡に分れて、小さな仕切りの陰に腰かけていた。大広間のまんなかには、制服を着た男が立って、細いがかん高い声でこういっていた。
「県貴族団長候補者として、騎兵二等大尉エヴゲーニイ・イヴァーノヴィッチ・アプーフチン氏が立たれます!」
 死のような沈黙が訪れた。と、弱々しい年寄りめいた声が聞えた。
「辞退します!」
「七等官ピョートル・ペトローヴィッチ・ボール氏が立候補されます」と、また例の細い声がいいだした。
「辞退します!」という若いきいきい声が聞えた。
 またもや同じことがはじまって、またもや『辞退します』であった。こういうふうで、一時間ばかりつづいた。レーヴィンは手すりにもたれて、見かつ聞いていた。はじめ彼はあきれながら、これはなんの意味かを、合点しようとつとめていたが、やがてこんなことは理解できないと悟ると、退屈になってきた。やがて、一同の顔に認めた興奮と狂憤を思い出すと、気が重くなってきた。彼は帰ることにきめて、下へおりて行った。合唱隊の入口を通りぬけようとしたとき、眼に皮下出血した中学生が、わびしげにあちこちしているのを見受けた。また階段の上では、踵《かかと》ですたすた走ってくる婦人と、身軽そうな検事の一組に出会った。
「遅刻しやしないと、私がいったじゃありませんか」レーヴィンが婦人を通そうとして、わきへよったとき、検事はこういった。
 レーヴィンはもう出口の階段まで来て、外套の番号札をチョッキのポケットからとり出しにかかったとき、秘書が彼をつかまえた。
「コンスタンチン・ドミートリッチ、どうぞこちらへ、投票がはじまりました」
 あのだんぜん拒絶したネヴェードフスキイが、団長の候補者として、投票を受けているのであった。
 レーヴィンは大広間の戸口に近よった。扉はしまっていた。秘書がノックすると、扉があいた。と、真赤になった二人の地主が、中からちょろりと戸口をくぐって、レーヴィンのそばをすべり抜けた。
「もうやりきれんよ」と真赤になった地主の一人がいった。
 地主のあとから、県貴族団長の顔がぬっとのぞいた。その顔は困憊《こんぱい》と恐怖のために、恐ろしいほどであった。
「ちゃんとそういっといたじゃないか、だれも出しちゃならんて」と彼は小使にどなりつけた。
「わたくしは入れたのでございます、閣下!」
「ああ、なんてことだ!」と県貴族団長はため息をついて、例の白いズボンをちょこちょこと、さも疲れたように動かしながら、首をたれたまま、広間のまんなかにある大テーブルの方へ行った。
 かねての計画どおり、ネヴェードフスキイのほうが票数が多かった。こうして、彼は県貴族団長になった。多くのものは浮きうきとし、満足で幸福そうな様子をしていたが、また多くのものは不満な、ふしあわせらしいふうであった。スネトコフは絶望の色を包みきれなかった。ネヴェードフスキイが広間を出て行くとき、群衆は四方から彼をとり囲んで、歓呼の声を上げながら、そのあとにつづいた――ちょうど第一日に、知事が開会の辞を述べたとき、そのあとに従ったように、またスネトコフが貴族団長に選挙されたとき、同じくそのあとに従ったように。

[#5字下げ]三一[#「三一」は中見出し]

 新任貴族団長と勝ち誇った新人党の多数は、この晩ヴロンスキイの住居の宴会に列した。
 ヴロンスキイが選挙にやって来たのは、田舎にばかりいるのが退屈で、アンナにたいする自分の権利を声明するためでもあったが、また地方自治体の選挙のとき、ヴロンスキイのために奔走したスヴィヤージュスキイを、今度の選挙で支持するためでもあった。しかし、最もおもな理由は、みずから選び定めた貴族として、土地所有者としての義務を、残らず履行するためなのであった。しかし、この選挙という仕事がこれほど興味があって、これほど自分を熱中させようとは、まったく意想外であったし、また自分がこれほどうまく、この仕事をやってのけようとも思わなかった。彼はこの土地の貴族仲間では、まったくの新顔であったが、しかしまちがいなく一同に認められた。彼は貴族仲間に早くも勢力を獲得したと考えたが、それは誤りではなかった。それを助けたのは、彼の富と、家柄と、市中にもっている立派な住居と(それは財政方面の仕事をしていて、カーシンで繁昌している銀行を創立した、シルコフという古い知人に譲ってもらったのである)、村のほうから連れてきた腕のいいコックと、知事との交友と(ネヴェードフスキイは彼の仲間、しかもヴロンスキイの保護を受けている仲間であった)、などであったが、何よりも力があったのは、だれにたいしても分け隔てのない、ざっくばらんな態度で、これが早くも貴族の大多数をして、あいつは高慢だという不当な判断を一変させたのである。彼は自分でも感じていた―― 〔a` propos de bottes〕(藪から棒に)なんの役にも立たないばかげたことを、自分にむかってさんざんいいちらした気違いじみた先生、キチイ・シチェルバーツカヤと結婚したレーヴィンを除いたほか、自分の近づきになったすべての貴族は、一人のこらず自分の味方になってしまった。ネヴェードフスキイの成功が彼の助力に負うところが多いのは、自身もはっきり承知しているばかりでなく、ほかの人々も認めている。で、今もわが家の食卓にむかいながら、彼は自分の推挙した当選者のために、快い勝利感を覚えた。選挙そのものもひどく興味があって、これからさき三年のあいだに結婚したら、自分でも候補に立とうという気さえ起った。それはちょうど、騎手の手柄で賞品を獲得した後、今度は自分がはしってやろうという気を起すのと、同じわけである。
 ちょうど今、騎手の獲得した賞品を祝っている最中であった。ヴロンスキイが食卓の上座に坐り、その右手には、侍従将官である若い知事が座を占めていた。すべての人にとって、これは全県の命令者であり、今日の選挙をはじめるにあたって開会の辞を述べ、ヴロンスキイの見受けたところでは、一同に尊敬と畏怖《いふ》の念をいだかせた人物であるが、ヴロンスキイにとっては、自分の前でもじもじしているので、かえってこちらから 〔mettre a` son aise〕(くつろがせよう)と骨折っている、幼年学校時代の綽名《あだな》に従えば、マースロフ・カーチカにすぎないのである。左手にはネヴェードフスキイが、例の若若しい、確乎不動の、皮肉な顔つきでかけている。ヴロンスキイは彼にたいして、ざっくばらんな、相手の顔を立てるといったような態度をとっていた。
 スヴィヤージュスキイは、自分の失敗を朗かな目で見ていた。それは、彼自身もいったとおり、失敗ですらなかった。彼はシャンパンの杯を挙げて、ネヴェードフスキイにむかい、貴族階級の支持すべき新しい風潮にたいしては、これより以上の代表者は望めない、したがって、すべて廉潔の士は今日の成功の味方であって、それを祝賀しているのである、といった。
 オブロンスキイは、自分も愉快に時をすごせば、みんなも満足しているので、ご同様に大喜びであった。みごとな食事のあいだ、選挙に関する挿話があれこれともちだされた。スヴィヤージュスキイは、旧貴族団長の涙っぽい演説を、おもしろおかしくまねたあと、ネヴェードフスキイにむかって、閣下は涙などよりもっと手のこんだ、在庫金の検査方法を選ばねばなりますまい、と注意した。もう一人の冗談ずきな貴族は、旧貴族団長が舞踏会のために、絹の長靴下をはいたボーイたちを狩り集めたが、もし新団長が絹靴下付の舞踏会を開かなければ、今度はそれをもとへ帰さなければなるまい、といった。
 人々は食事のあいだ、たえずネヴェードフスキイにむかって、「わが県の貴族団長」とか、「閣下」とかいって話しかけた。
 それはちょうど、新婚の女を良人の苗字に『マダム』をつけて呼ぶ、それと同じ満足感をもって、くりかえされたのである。ネヴェードフスキイは、そんな肩書にはなんの興味もないような、またはそんなものを軽蔑しているようなふりをしたが、しかし明らかに彼は幸福であった。そして、みんなの所属している、新しい自由主義的な党派としてあるまじき、有頂天の気持を現わすまいと、手綱《たずな》をしめているらしかった。
 宴会のあいだに、選挙の経過に関心をもっている人々に、幾通かの電報が送られた。オブロンスキイは一杯機嫌になっていたので、ドリイに次のような電報を送った。『ネヴェードフスキイ二十票で当選、祝す、伝言せよ』彼はその文句を口授しながら、「あれたちも喜ばしてやらなくちゃならんからな」といった。ところが、ドリイは電報を受けとると、ただ料金の一ルーブリを思ってため息をついた。そして、これは宴会の終りごろに出したのだなと察した。スチーヴァが宴会の終りに 〔faire jouer le te'le'graphe〕(電報ごっこをする)癖があるのを、彼女はよく知っていたのである。
 なにもかもが、すばらしい食事や、ロシヤ商人の手を通したものでなく、外国で直接びん詰にした酒類とともに、上品でしかもさっぱりして楽しかった。二十人ばかりの一座は、スヴィヤージュスキイが選んだもので、志を同じうする、自由主義的な、新しい活動家であると同時に、それぞれ機智に富んだ、しかもりっぱな紳士ばかりであった。祝杯もやはり冗談まじりで、新任県貴族団長のためにも、知事のためにも、銀行の頭取のためにも、『愛想のいいこの家の主人』のためにも挙げられた。
 ヴロンスキイも満足だった。地方でこんな気持のいい応対に接しようとは、思いがけなかったのである。
 宴会の終りは、さらに愉快になってきた。知事はヴロンスキイに、同胞のための慈善音楽会に出席してくれと頼んだ。それは妻の主催にかかるもので、妻もヴロンスキイと近づきになりたいと望んでいる。
「そのあとで舞踏会があるんだが、君、この町の美人が見られるよ。本当におもしろいんだから」
「Not in my line(僕の畑じゃないがね)」この文句の好きなヴロンスキイはそう答えたが、それでもにっこり笑って、出席を約した。
 もうそろそろ食卓を離れようとして、みんながタバコを吸いはじめたとき、ヴロンスキイの従僕頭が手紙を盆にのせて、彼のそばへ近づいた。
「ヴォズドヴィージェンスコエから急の使が、これを持ってまいりました」と彼は意味ありげな表情でいった。
「あの男が検事補のスヴェンチーツキイに似てること、驚くほどだね」ヴロンスキイが顔をしかめながら手紙を読んでいる間に、客の一人が従僕頭のことを、フランス語でそういった。
 手紙はアンナからきたものであった。彼はまだ読まぬ先から、その中身がわかっていた。選挙が五日間で終るものと予想して、彼は金曜日に帰ると約束したのである。今日は土曜日であったから、手紙の内容は、彼が約束どおりに帰らなかったことを、責めたものに相違ない。彼が昨日出した手紙は、まだおそらく着かなかったのだろう。
 内容は彼の想像したとおりであったが、その形式は思いがけない、彼にとってとくべつ不快なものであった。『アニーがひどく悪くて、医者は肺炎になるかも知れぬと申しております。わたし一人でとほうに暮れております。ヴァルヴァーラ公爵令嬢は頼りになるどころか、かえって邪魔でございます。わたしは一昨日と昨日、お帰りを待っておりましたが、あなたが今どこで何をしていらっしゃるか知りたさに、この使をさし出します。わたしは自分で行こうと存じましたが、それはあなたのお気にさわることがわかっておりますので、考えなおしました。とにかく、何かお返事を下さいまし、どうしたらよいか分別がつきますから』
 赤ん坊が病気だというのに、自分で来ようと思った。娘が病気なのに、この敵意を含んだ調子。
 この当選祝賀の無邪気な楽しい空気と、自分の戻っていかなくてはならぬ重苦しい愛は、そのコントラストでヴロンスキイをぎょっとさせた。しかし、帰らなければならない。で、彼はその夜、間に合いしだいの汽車で出発した。

[#5字下げ]三二[#「三二」は中見出し]

 ヴロンスキイが選挙にむかって出発する前、彼が出て行くたびにくりかえされる痴話場は、ただ男の愛を冷ますばかりで、その心をひきつけることにはなるまいと分別して、アンナはできる限りの努力をして自分をおさえ、心静かに男との別離に耐えようと決心した。けれども、彼が旅行のことをいいに自分のところへ来たときの、あの冷たいきびしい目つきは、彼女に侮辱を感じさせた。で、まだ出発前から、早くも彼女の平静は破れたのである。
 その後ひとりになって、自由にたいする権利を現わすあの目つきを思い返しながら、彼女はいつものごとく、ただ一つの結論、おのれの卑下を意識する気持に到着した。『あの人はいつ、どこへなりと出て行く権利をもっている。ただ出て行くばかりでなく、わたしを残して行く権利なのだ。あの人はいっさいの権利をもっているのに、わたしは一つとしてもっていない。でも、あの人はそれを承知しているんだから、そんなことをしちゃならないはずだわ。それなのに、あの人はなんてことをしたのだろう?……あんな冷たい、厳しい目つきで、わたしを見たじゃないの。もちろん、それはばくぜんとして、はっきりはつかめないけれども、あの目つきにはいろいろの意味がこもっている』と彼女は考えるのであった。『あの目つきは、恋ざめのはじまっている証拠だわ』
 恋ざめがはじまっていると確信はついたものの、彼女としてはなんともしようがなかった、男にたいする関係をどう変えようもなかった。相変らず前と同じように、ただ愛情と美貌で男をひきとめることしかできなかった。以前と同じように、昼は仕事、夜はモルヒネの力によって、もしあの人の愛がさめたらどうしようという、恐ろしい想念を消すばかりであった。もっとも、まだほかに一つ方法があった。ひきとめるのではなく――そのためなら、彼女は男の愛よりほか何一つ望まなかった――男に接近して行くことである。すてられないような境遇になることである。その方法というのはまず離婚、ついで結婚である。で、彼女もそれを望むようになり、当の彼なりスチーヴァがいいだすのを機会に、さっそく承諾しようと肚《はら》を決めた。
 こういう想念をいだきながら、彼女は男の不在ときまった五日間を、一人ですごした。
 散歩、ヴァルヴァーラ公爵令嬢との談話、病院の訪問、それになによりも読書、あとからあとから読みつづけること、それで彼女の時間はつぶされた。けれども、六日目に馭者が、一人だけで帰って来たとき、彼女はもはやどうしても彼のことを考え、彼が何をしているかを考えずにはいられないと感じた。ちょうどそのとき娘が病気したのである。アンナはその看病をはじめたが、それでも気はまぎれなかった。まして危険な病気でないから、なおさらであった。どんなに努力してみても、彼女はこの娘を愛することができなかったし、愛情を装うことは、なお不可能であった。その晩ひとりきりになったとき、アンナは男のことを思うと、恐ろしくてたまらなくなったので、町へ出かけようと決心したが、よく考えなおしたあげく、あのヴロンスキイの受け取った、ちぐはぐな手紙を書くと、読み返しもせず、急の使をさしたてたのである。あくる朝、男の手紙を受け取って、あんな手紙を出したことを後悔した。男が帰って来たとき、ことに女の子が危篤でないと知ったとき、例の出立前に投げたあのきびしい目つきが、もう一度くりかえされるに相違ないと思うと、彼女は恐ろしくなってきた。しかし、それにもかかわらず、彼女は手紙を出したのをうれしく思った。男が自分を重荷に感じていること、哀惜の念をもって、自由を見すてて自分のもとへ帰ってくるに相違ないということを、彼女もみずから認めたのであるが、にもかかわらず、男の帰ってくるということがうれしかった。よし重荷と感じるがいい、そのかわりあの人は自分のそばにいて、自分はあの人を見、あの人の一挙一動を知ることができる。
 彼女は客間のランプの下で、テーヌの新しい著書を手に腰をおろし、外の風の音に耳を傾け、馬車が乗りこんでくるのを、今かいまかと待ちかねていた。幾度も轍《わだち》の音が聞えたような気がしたが、それは空耳《そらみみ》であった。が、とうとう、車輪の音ばかりでなく、馭者の馬を叱する声や、屋根つきの車寄せに響くこもった物音まで聞えた。ひとりカルタをしていたヴァルヴァーラ公爵令嬢までが、それを確かめたので、アンナはかっと赤くなって、立ちあがった。が、その前は二度も行って見たくせに、今度は下へおりようとしないで、そこにたたずんでいた。とつぜん、自分の嘘が恥ずかしくなったのであるが、何よりもいちばん、彼が自分にどんな態度をとるかと思うと、恐ろしくなってきたのである。侮辱感はもはやすぎてしまった。彼女はただ、男の不満の表情が恐ろしかったのである。女の子がもう昨日からすっかり快くなったのを思い出した。むしろ女の子が、ちょうど手紙を出したときに快くなったのが、いまいましいくらいであった。それから、彼がついそこにいることを思い出した。
 手も、目も、何もかも、そっくりした男がそこにいるのだ。彼女は男の声を耳にした。と、なにもかも忘れてしまって、うれしさにわくわくしながら、迎えに駆け出した。
「ええ、どうだね、アニーは?」駆けおりてくるアンナを、下から見上げながら、彼はおずおずした声できいた。
 彼は椅子に腰かけ、従僕が防寒用の長靴を、その脚からひっぱっているところであった。
「大丈夫、だいぶ快くなりましたわ」
「で、おまえは?」と彼は体をひとふりしながらいった。
 彼女は両手に男の手をとって、その顔から目をはなさず、自分の細腰の方へひきよせた。
「いや、たいへん[#「たいへん」は底本では「たへん」]けっこうだ」彼女の髪のかたちから着物まで、冷やかな目で見まわしながら、彼はこういった。自分を迎えるために着替えたものだということは、彼にもわかっていた。
 それらはすべて彼の気に入ったが、しかしいくど気に入ったことだろう! 彼女のあれほど恐れていた、きびしい、石のような表情が、その顔にじっと凍《こお》りついた。
「いや、たいへん[#「たいへん」は底本では「たへん」]けっこう。ところで、おまえは達者かね?」濡れた頤ひげをハンカチで拭いて、女の手を接吻しながら、彼はそういった。
『もうどうだっていいわ』と彼女は考えた。『この人がそばにいてくれさえしたら、そばにいれば、この人わたしを愛さずにはいられない、愛さないなんて、そんな失礼なことはできやしないから』
 その夜はヴァルヴァーラ公爵令嬢も一座して、幸福にたのしくすぎた。公爵令嬢は、アンナが留守のあいだにモルヒネをのんだことを訴えた。
「だってしようがないじゃありませんの? 眠られないんですもの……いろんな考えごとがじゃまをして。この人が家にいらっしゃるときは、わたし決してのみませんわ、まあほとんどね」
 彼は選挙の話をした。アンナは巧みに問い出して、彼を喜ばせている主《おも》なこと、彼の成功に話頭を転じていった。そして、家のほうで彼の知りたそうなことを話した。彼女の報告はどれもこれも、きわめて愉快なことばかりであった。
 しかし、その晩おそく、彼らが二人さしむかいになったとき、アンナはふたたび男の心をしっかり捕えているのを見きわめて、手紙のために男に与えたいやな印象を拭いとりたくなった。で、彼女はこういった。
「ね、白状なさい、あの手紙が届いたとき、あなたはいまいましい気がしたでしょう、本当になさらなかったでしょう?」
 彼女はこれをいうかいわないかに、たちまち悟った。彼がどんなに優しい愛情にみちた気持になっているにせよ、これだけは赦すことができないのであった。
「ああ」と彼はいった。「じつに妙な手紙だったね。アニーが病気だというかと思えば、おまえが自分で来ようと思ったなんて」
「それはみんな本当だったんですもの」
「そうさ、それは僕も疑いはしないかね」
「いいえ、あなたは疑ってらっしゃるんだわ。あなたは不満なのよ、わたしにはちゃんとわかっていますわ」
「いや、これっから先も、ただ僕は不満だね。それは本当だ。つまり、おまえはどうやら義務があるってことを、認めようとしないらしい、そのことなんだ」
「音楽会へ出かける義務ですの?……」
「いや、もういうのをよそう」と彼はいった。
「どうしてよすんですの?」と彼女はいいかえした。
「ただ僕がいいたいのはね、のっぴきならぬ用事もありうるということなのさ。現に今だって、家の用事でモスクワへ行かなくちゃならないんだ……ああ、アンナ、どうしておまえはそういらいらしやすいんだろう? おまえなしには僕は生きていかれない、それがいったいおまえにわからないの?」
「もしそうなら」とアンナは、とつぜんがらりと変った声でいった。「あなたはこの生活を荷厄介に感じてらっしゃるんですわ……だって、あなたはちょっと一日だけ来て、すぐ帰っておしまいになる、ちょうど……」
「アンナ、それは残酷だよ。僕は一生を投げ出す覚悟でいるのに……」
 けれど、彼女は聞いていなかった。
「もしあなたがモスクワへいらっしゃるのなら、わたしも行きます。わたしここに残ってなんかいませんわ。わたしたちは別れてしまうか、それともいっしょに暮すかですわ」
「だって、おまえも知ってるじゃないか、それ一つが僕の望みなんだよ。しかしそのためには……」
「離婚が必要なんでしょう? わたしあの人に手紙を書きますわ。こんなふうでは生きていけないってことが、わたしにもわかりました……でも、モスクワへはいっしょについて行きますわ」
「まるでひとをおどかしてるみたいだね。なに、それはね、おまえと別れないということは、僕の何よりも望むところだよ」とヴロンスキイ[#「ヴロンスキイ」は底本では「ヴロンスキイー」]は微笑しながらいった。
 しかし、彼がこの優しい言葉を口にしたとき、その目に光ったのは単なる冷たさではなく、追いまわされて癇《かん》の立った人間の毒々しい表情であった。
 彼女はそのまなざしを見て、その意味を正確に察した。
『もしそうだと、これは不幸だぞ!』とそのまなざしはいっていた。それはつかのまの印象であったが、彼女はその後けっしてそれを忘れなかった。
 アンナは離婚を哀願する手紙を、良人に書き送った。十一月の末、ペテルブルグへ行く用事のあるヴァルヴァーラ公爵令嬢に別れを告げて、ヴロンスキイとともにモスクワへ移った。毎日毎日、カレーニンの返事と、それにつづく離婚を待ちかねながら、二人はいま夫婦と同じように同棲したのである。
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