『アンナ・カレーニナ』6-11~6-20(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]一一[#「一一」は中見出し]

 レーヴィンとオブロンスキイが、いつもレーヴィンの泊まりつけにしている百姓家へ着いたとき、ヴェスローフスキイはもうちゃんとそこにいた。彼は部屋のまんなかに腰かけて、両手を床几につっぱりながら、主婦《おかみ》さんの兄貴にあたる兵隊あがりに、泥のいっぱい入った長靴をひっぱってもらっていたが、例のはたのものにうつるような快活な笑い声を立てた。
「僕はたった今ついたばかりなんです。〔Ils ont ete' charmants.〕(愛すべき連中でしたよ)どうでしょう、さんざ飲ませて、食わせてくれましたよ。またそのパンといったら、じつにすてき! 〔De'licieux!〕(洗練を極めたものなんです)それに、ウォートカ――あんなにうまいやつは、まだ一度も飲んだことがないくらいですよ! それに、なんといっても、金を取ろうとしないんですからね。ただもう、『かれこれいわねえで』とかなんとかいうばかりでね」
「なんで金なんか取るもんですかね? だって、ふるまいでがすもん。あの連中のウォートカを、売りもんと思おっしゃるかね?」やっとのことで、黒くなった靴下といっしょに長靴をひき抜いて、兵隊あがりがこういった。
 猟人たちの靴や、体じゅうなめまわしている泥だらけの犬で汚された部屋の中の不潔さや、中に立ちこめている沼と火薬のにおいにもかかわらず、またナイフとフォークがないのにもかかわらず、猟のときでなければ味わえないような食欲で、猟人たちは夜食をしたため、茶を飲んだ。体を洗ってさっぱりした一同は、乾草を敷いた納屋へ行った。そこには馭者が旦那がたのために、寝床を用意しておいたのである。
 もう暗くなってきたが、猟人たちはだれ一人ねむくなかった。
 銃の当りぐあいや、犬や、以前の猟などの回想と物語のあいだを動揺した後、会話は一同に興味のある話題におちついた。ヴァーセンカがこの一夜の宿と、乾草の香りと、こわれた荷車(前車がはずしてあったために、こわれたものと思ったのである)と、ウォートカをごちそうしてくれた百姓たちと、めいめい自分の主人の足もとにねている犬のすばらしさを、もう何度もくりかえして賛嘆したのをきっかけに、オブロンスキイは、去年よばれて行ったマルトゥスの猟のすばらしさを物語った。マルトゥスは、有名な鉄道成金であった。オブロンスキイは、このマルトゥスがトヴェーリ県にどんな沼を買い占めていて、それがどんなふうに保存してあり、どんな馬車が猟人たちを乗せて行って、どんなテントが弁当を用意して、沼のそばに張ってあったかを、物語った。
「君の気持がわからないね」乾草の上に起きあがりながら、レーヴィンがいいだした。「どうして君は、そんな連中がいやらしくないんだい? そりゃラフィート酒つきの弁当が気持のいいことは、僕だってわかっているけれど、つまりその贅沢三昧が、どうして君はいやらしくないんだろう? そんな連中は、以前の専売商人などと同じような、金のもうけかたをしてるんだよ。もうけるときの金には、世間の軽蔑を買いながら、その軽蔑を平然と無視してさ、それからもうけた金で、以前の軽蔑を臆面もなく買い戻すんだ」
「全くそのとおりです!」とヴァーセンカ・ヴェスローフスキイが応じた。「ぜんぜん同感! もちろん、オブロンスキイは bonhomie(やさしいきもちで)そうしたんでしょうが、他人は『オブロンスキイがあすこへ行くのは……』などといいますからね」
「決して」とオブロンスキイはいったが、そのときにったり笑ったのが、レーヴィンにはちゃんと感じられた。「ただ僕はあの男を、金持の商人や貴族以上に、不正直と思わないまでの話さ。そういう連中だって同じように、労働と知力で金をもうけたんだからね」
「そう、しかし、どういう労働だとおもう? 利権を獲得して、それを転売するのが、いったい労働かね?」
「もちろん、労働さ。僕が労働というのは、あの男が、もしくはああいったふうの人間がいなかったら、鉄道もなかったろう、という意味なのさ」
「しかし、その労働は、百姓や学者みたいなものじゃないよ」
「かもしれない。しかし、彼の労働は鉄道という結果を与える、という意味の労働なのだ。しかし、君は鉄道は無益だという意見だったね?」
「いや、それは別問題だ。僕は鉄道を有益と認めるにやぶさかでないよ。しかし、投下した労力に不相応な利得は、不当なものと認める」
「じゃ、だれが当不当を決めるんだい?」
「不正直な方法や、ずる[#「ずる」に傍点]で獲得したもうけさ」正直と不正直の境界をはっきり決められそうもないのを感じて、レーヴィンはこういった。「ちょうど、銀行のもうけみたいなものさ」と彼はつづけた。「それは悪だよ、以前の買占め時代みたいに、労力なしにばくだいな財産をつくるのは――ただ形が変ったばかりだ。Le roi mort, vive le roi!(王は死んだが、別の王が生きてる)買占めを全廃したかしないかに、今度は鉄道や銀行が現われた。これも労力なしのもうけだからね」
「そう、それはみんな本当で、皮肉な見方かもしれない……じっとしてるんだ、クラーク!」とオブロンスキイは、ごそごそ体を掻いて、乾草をすっかりひき散らした犬を叱ったが、あきらかに、自分のテーマの正確さを信じきっているらしく、おちついて悠々としていた。「しかし君は、正直な労働と不正直な労働の境界を、はっきりさせなかったよ。僕が課長より(しかも仕事は課長のほうがよく知っているのに)、よけい俸給をもらっているのは、いったい不当なのかね!」
「僕にはわからんね」
「ふん、じゃ、僕がいおう。君が自分の農場で、まあ、かりに四千ルーブリよけいにもうけたとしょう[#「もうけたとしょう」はママ]。ところが、この家の主人はどんなに働いてみたって、年に五十ルーブリ以上ははいりゃしない。それは、僕が課長よりよけいに俸給を取り、マルトゥスが鉄道技師よりよけい取るのと、おなじことだよ。僕の見るところはその反対で、社会ぜんたいがそういう連中にたいして、なんの根拠もない敵意をいだいてるんだ。僕は、そこに羨望の念が働いてると思うな……」
「いや、それは違います」とヴェスローフスキイがいった。「羨望なんてものはありえません。が、そこには何か純でないものがありますよ」
「いや、ちょっと待ってくれたまえ」とレーヴィンはつづけた。「僕が五千ルーブリもうけて、百姓が五十ルーブリしかかせがないのは、不当だというんだね。そりゃまさに不当だ、それは僕も感じているが、しかし……」
「そりゃ本当ですよ。なんだって僕らは食って、飲んで、狩をするばかりで、なんにもしないでいるのに、百姓は年がら年じゅう働いてるんでしょう?」とヴァーセンカ・ヴェスローフスキイはいった。どうやら、生れてはじめて、この問題をはっきり考えたらしく、したがって、全く真剣であった。
「そう、君はそれを感じていながら、自分の領地を百姓にやらないじゃないか」とオブロンスキイは、わざとレーヴィンの痛いところを突くようにいった。
 最近、二人の婿同士のあいだに、何か秘密な敵対関係が固定してしまったようなふうであった。彼らが姉妹と結婚して以来、ふたりのあいだには、だれがよりたくみに自分の生活を整えるかで、競走でも始ったかのようであった。今も、個人的なニュアンスをとりはじめた会話で、この敵対関係が現われてきたのである。
「僕が領地をやらないのは、だれもそんなことを要求しないからだ。それに、よしんば僕がその気になっても、そういうわけにいかないんだ」とレーヴィンは答えた。「それに、やる相手もないし」
「あの百姓にやったらいいじゃないか。辞退はしまいよ」
「そう、しかし、どんなふうにしてやるんだね? いっしょに出かけて行って、登記でもするのかね?」
「そりゃ知らないが、もし君がそう確信していたら、そうしない権利はないだろう……」
「僕はちっとも確信なんかしてやしないよ。それどころか、やる権利かないと感じている。僕は土地にたいしても、家族にたいしても、義務があるからね」
「いや、待ってくれ。もし君がその不平等をまちがっていると思ったら、なぜ君はそういうふうに行動しないんだね?」
「僕はただ消極的に行動しているのだ。という意味は、自分と彼らの間に存在している境遇の差を、大きくしないように努力しているのだ」
「いや、失敬だが、それはもう逆説だ」
「そうですね、それは何か詭弁《きべん》的な説明ですね」とヴェスローフスキイも相槌を打った。「ああ、この亭主だ!」門をぎいときしませて、納屋へ入ってきた百姓に向って、彼はこういった。「どうだい、まだ寝ないのかね?」
「いんえ、どうして寝られるもんですけえ! わしゃまた、旦那がたこそもうお休みだべえ、と思っておりましたに、話し声が聞えるじゃごぜえませんか。わしゃここへ鉤《かぎ》を取りにめえりやしたんで。これ咬《か》みつきゃしませんかね?」はだしの足を用心ぶかく踏み出しながら、彼はそうつけ加えた。
「ところで、おまえはどこで寝るんだい?」
「わしらァ馬の夜番に行きますだ」
「ああ、なんて夜だろう!」今は開け放しになった門を大きな額縁《がくぶち》にして、夕焼けの弱々しい光の中に見える百姓家と、馬を放した馬車の片端を眺めながら、ヴェスローフスキイはいった。「それに、聞いてごらんなさい、ほら、女が大ぜいで歌う声が聞えますよ。しかも、なかなかうまい。ありゃだれが歌ってるんだね、亭主?」
「ありゃお邸づとめの娘《あま》っこどもが、すぐそこで、隣で歌ってるんで」
「ひとつ出かけて行って、騒ごうじゃありませんか! どうせ寝られやしないから。オブロンスキイ、行きましょう」
「こうして、ねたまま行く方法はないものかなあ」とオブロンスキイは、のびをしながら答えた。「ねているのもすてきだよ」
「じゃ、僕ひとりで行こう」とヴェスローフスキイは元気よく起きあがり、靴をはきながらいった。「諸君、さよなら。もしおもしろかったら、呼びに来てあげますよ。あなたは僕に鷸《しぎ》をごちそうしてくれたから、あなたのことは忘れやしませんよ」
「ねえ、そうだろう、気持のいい男だろう?」ヴェスローフスキイが出て行って、百姓がそのあとの門を閉めるが早いか、オブロンスキイはこういった。
「ああ、いい男だ」先ほどの話題を考えつづけながら、レーヴィンは答えた。彼はできうる限り明瞭に、自分の思想と感情を述べたつもりなのに、相当頭のいい誠実みのある人間が、二人ながら声を揃えて、おまえは詭弁を弄しているという、それが気になったのである。
「そうなんだよ、君。そこには二つに一つを選ぶしかないんだ。一つは現在の社会組織を正しいと認めるのだ。そうすれば、自分の権利を擁護することにもなるのさ。さもなければ、僕のやっているように、不当な特権を利用していると認め、かつ喜んでそれを利用するかだ」
「いや、もしそれが不当であれば、君はその特権を、喜んで利用することはできないはずだ。少なくも、僕にはできないね。僕に何より第一に必要なのは、自分は悪くないと感じることなんだ」
「どうだろう、本当に行ってみないか?」どうやら思想の緊張に疲れたらしく、オブロンスキイはこういいだした。「どうせ寝つかれやしないんだから。本当に行ってみよう!」
 レーヴィンは返事をしなかった。あの話のあいだに、自分はただ消極的な意味でのみ正しい行動をとっている、といったひと言が、彼の心を捉えているのであった。『いったいただ消極的にしか、正しい行動はとれないものだろうか?』と彼は自問した。
「それにしても、新しい乾草はずいぶん強い匂いがするもんだね!」とオブロンスキイは、身を起しながらいった。「これじゃどうしたって寝つかれやしない。ヴァーセンカがあちらで何やらはじめたらしいぞ。大ぜいの高笑いと、あの男の声が聞えるだろう? どうだ行ってみないか? 行こうよ!」
「いや、僕は行かない」とレーヴィンは答えた。
「いったいそれも、やっぱり主義に基づくのかね?」闇の中で自分の帽子をさがしながら、オブロンスキイは微笑を含んでいった。
「主義というわけじゃないけれども、行ったってしかたがないじゃないか」
「ねえ、君、君は自分で自分の身に不幸をひき起すぜ」帽子を見つけて、立ちあがりながら、オブロンスキイはこういった。
「なぜ?」
「だって、僕はちゃんと見て知ってるよ、君が細君にたいして、自分をどういう立場においてるかってことを。聞き及ぶところでは、君たちのあいだでは、君が二日泊りで猟に行くかどうかということが、第一重要の問題だそうじゃないか。それは、牧歌としてはけっこうだが、長い一生それじゃやりきれないよ。男は何ものにも掣肘《せいちゅう》されちゃいけない――男には、自分の男としての興味があるんだからね。男は男らしくしなくちゃだめだよ」とオブロンスキイは門を開けながらいった。
「じゃ、何かい、これから出かけて行って、邸づとめの娘の尻でも追いまわせ、っていうのかね?」とレーヴィンはたずねた。
「もしおもしろければ、それもしちゃならんという法はないさ。〔C,a ne tire pas a` conse'qnence.〕(別にあとくされにはならんからね)。そのために、家の女房が損をするわけじゃなし、僕がただおもしろい目をするだけだ。一番かんじんなのは、家庭の神聖を守るということだ。家庭の中には、何ごともないようにしなくちゃいかん。が、自分で自分を束縛する手はないよ」
「そうかもしれん」とレーヴィンはそっけない調子でいって、くるりと寝返りを打った。「明日は早立ちなんだからね。僕はだれも起さないで、夜明けに出かけるよ」
「Messieurs, venez vite!(諸君、早くいらっしゃい)」と引き返して来たヴェスローフスキイのこういう声が聞えた。「Charmante!(すてきですよ)あれは僕が見つけたんですからね。Charmante. 全くのグレートヒエンですよ、僕はもうその娘と近づきになりました。本当にすばらしい美人なんですよ!」まるでその娘が、自分のために美しく創られたかのように、そして自分のために、これだけの膳立てをしてくれた人間に、満足の意を表するかのように、感心、感心、とでもいったような顔つきで、彼はしゃべりたてるのであった。
 レーヴィンは眠っているようなふりをした。オブロンスキイは上靴をはき、葉巻に火をつけて、納屋を出て行ったが、まもなく、二人の話し声は聞えなくなった。
 レーヴィンは長いあいだ、眠ることができなかった。自分の馬が乾草を食べる音、それからしばらくして、亭主が総領息子といっしょにしたくして、馬の夜番に出かけて行く様子が、耳に入った。やがて、例の兵隊あがりが、自分の甥にあたるこの家の末の子と二人で、納屋の反対側で、寝じたくをする気配が聞えた。その少年が、か細い声で、猟犬がもの凄く大きく、恐ろしく思われたという印象を、叔父さんに話す声が耳に入る。それから少年が、あの犬は何をつかまえるのかとたずねると、兵隊あがりはしゃがれた寝ぼけ声で、あす猟の旦那がたが沼へ行って、鉄砲をどんどん射ちなさるのだ、と話して聞かせたあと、とうとう少年の質問を封じるために、『寝れや、ヴァシカ、早く寝ねえと、今に見てれや』といったかと思うと、まもなく、自分のほうが鼾《いびき》をかきはじめた。あたりはしんとしてしまって、ただ馬のいななきと、鷸の鳴き声が聞えるばかりであった。『本当にただ消極的にしかやれないのだろうか?』と彼はくりかえし考えるのであった。『いや、どうもしかたがない! おれが悪いんじゃない』こうして、彼はまた明日のことを考え出した。
『明日は朝早く出かけよう。そして、のぼせないように、うんと肚《はら》を据えよう。鷸は無尽蔵だし、田鴫もいる。そして、帰ってくると、キチイの手紙が届いている。そう、あるいはスチーヴァのいうとおりかもしれない。おれは女房にたいして男らしくない。おれは女の腐ったのになってしまったぞ……が、どうもしかたがない! これはまた消極的だ!』
 ヴェスローフスキイとオブロンスキイの楽しげな話し声が、夢うつつのあいだに聞えた。彼はいっとき目を見開いた。月が昇って、開け放された戸口に、明るく月光に照らされた二人が、何か話しながら立っていた。オブロンスキイは一人の娘のみずみずしさを、たった今むいたばかりの新しい胡桃《くるみ》にたとえながら、なにやらいっていた。すると、ヴェスローフスキイは、例の、はたのものにまで伝染するような笑い声を立てながら、どうやら亭主のいったらしい『気に入ったのがあったら、できったけくどきなさるがええ!』という言葉をくりかえしていた。レーヴィンは半ば夢心地で、
「諸君、明日は夜の引明けだよ!」といって、眠りに落ちてしまった。

[#5字下げ]一二[#「一二」は中見出し]

 東が白むと同時に目をさまして、レーヴィンは友だちを起そうと試みた。ヴァーセンカは腹ばいにつっ伏して、靴下をはいた片足を、にゅっとつき出したまま、ぐっすりと寝こんでいたので、どんなに呼んでも返事がなかった。オブロンスキイは夢うつつに、そんなに早く出かけるのはいやだ、といった。乾草の端っこに丸くなって寝ていたラスカさえ、しぶしぶ起きあがって、たいぎそうに後脚を一本ずつ、かわるがわる伸ばすのであった。靴をはき、銃をとって、きいきいきしむ納屋の戸を用心ぶかく開くと、レーヴィンは外へ出た。馭者たちは馬車のそばで眠り、馬はうとうとしていた。ただ一匹だけが、鼻面で飼秣槽《かいばおけ》をひっかきまわしながら、たいぎそうに燕麦を食っていた。外はまだ灰色をしていた。
「なんでこう早く起きさっしゃりましたね、旦那さま?」ちょうど家から出てきた年取った主婦《かみ》さんが、まるで古なじみのような親しさで、彼に話しかけた。
「猟に行くんだよ、おばさん。すぐそこの沼までね」
「裏道づたいに行きゃ、まっすぐでごぜえますよ。うちの打穀場《こなしば》から、大麻畑を抜けてござらっしゃい、細い径《みち》がありますに」
 日焼けのした素肌で用心ぶかく歩きながら、老婆はレーヴィンを案内して、打穀場《こなしば》の枝折戸《しおりど》をおし開けた。
「これからまっすぐに沼へ出られますだ。うちの若えもんたちも、昨夜《ゆんべ》あすこさ夜番に行きましただよ」
 ラスカはたのしげに、細径《ほそみち》をさきに立って走り出した。レーヴィンはのべつ空を見上げながら、軽い足どりですたすたと、そのあとにつづいた。彼は陽の昇らないさきに、沼まで行き着きたかったのである。しかし、太陽は待ってくれなかった。彼が家を出る時には、まだ輝いていた月が、今はただ水銀の一片のように、ぼんやり光っているばかり。以前はいやでも目に入った暁の色が、今ではさがさなければわからなかった。先ほどまでぼんやりとしていた遠い野面のしみが、今はもうはっきりと指点された。それは、裸麦の禾堆《にお》なのであった。もう雄茎を選り抜いてしまった、丈の高い、強い香りを発する大麻に宿った露は、日光を受けないために、目には見えぬけれど、レーヴィンの足ばかりか、上衣を腰の上の辺まで、しとどに濡らした。早朝の澄みきったしじまの中では、ごく小さな物音でも、はっきり聞えた。一匹の蜜蜂が、弾丸のような唸りをたてて、レーヴィンの耳もとをかすめた。じっと目をすえて見つめると、また一匹、さらにもう一匹、目に入った。それはみんな、養蜂場の編垣から飛び出して、大麻畑の上を越し、沼の方をさして姿を消すのであった。小径はまっすぐに沼へ出てきた。沼は立ち昇る水蒸気で、たやすくそれと知られた。水蒸気は、あるところは濃く、あるところは薄いので、小島のような菅《すげ》や楊《やなぎ》の茂みが、その水蒸気の中で揺れて見えるのであった。沼のふちや道ばたで、馬の夜番をした男の子や百姓たちが、ごろごろ横になっていたが、夜明け前にみんな長外套《カフタン》をかぶって、ひと寝入りしているところであった。そこから遠くないところに、脚をゆるく縛られた三匹の馬が、歩きまわっていた。その中の一匹は、足かせをがちゃがちゃ鳴らしていた。ラスカは、早く先へ行かしてほしそうに、あたりを見まわしながら、主人と並んで進んでいた。眠っている百姓たちのそばを通りぬけて、最初の沼地まで来たとき、レーヴィンは撃発装置をしらべて、犬を放してやった。三頭の中の一つで、よく肥えた栗毛の三歳駒が、犬を見ると軽く跳ねて、尻尾をぴんと上げながら、鼻息を立てた。ほかの二頭もびっくりして、縛られた脚で水をじゃぶじゃぶいわせたり、粘《ねば》っこい泥から蹄《ひずめ》を抜くたびに、平手打ちのような音をたてたりしながら、沼の中から躍り出した。ラスカは立ちどまって、嘲《あざけ》るように馬どもをながめた後、もの問いたげにレーヴィンを見上げた。レーヴィンは、ラスカをひとつ撫でてやって、もう始めてもいいという合図に、口笛を鳴らした。
 ラスカは、足もとでふわふわする沼土を踏みながら、楽しげに、またものものしく駆け出した。
 沼の中へ駆けこむと、ラスカはすぐ草の根や、水草や、水錆などのなじみの深い匂い、それから、ここでは不似合いな馬糞の臭気などの中で、ここかしこに散らばっている鳥の匂い、何よりも強く興奮を感じさせる、ほかならぬ鷸の匂いを嗅ぎ分けた。沼の苔地や草地のそこここでは、この匂いがことに強く感じられたが、どの方角にむかって強まり、どの方角へむかって弱まっているのか、それがはっきり決められなかった。その方向を発見するためには、遠く風下へ離れなければならなかった。ラスカは自分の脚の運動を感じないで、いつでも必要な時には、すぐとまれるような緊張した駆け足で、東から吹く夜明け前のそよ風を避けて、右の方へ走って行き、今度は風に向ってくるりと身をひるがえした。小鼻をひろげて空気を吸いこむと、彼女はすぐに感じた――脚跡ばかりでなく、当の鳥どもがすぐそこにいる、自分の前にいる、しかも一羽でなく、たくさんいるのだ。ラスカは速度をゆるめた。鳥どもはそこにいる、が正確にどこにいるかは、まだ決定しかねた。その場所を見つけ出すために、彼女はもう輪を描きはじめた。と、ふいに主人の声に気を散らされた。『ラスカ! ここだ!』と彼はいって、別の方角をさしていた。ラスカは、わたしのしかけたとおりにしたほうがよくはないでしょうか、とたずねでもするように、しばらくじっと立っていた。しかし主人は、何もいそうにない、水をかぶった土の盛りあがりを指さしながら、怒ったような声で命令をくりかえした。彼女はただ主人の満足がいくように、その命に従って、ただ捜しているようなふりをしながら、土の盛りあがりをひととおり歩きまわったあと、もとの場所へひっ返した。と再び、鳥どもの気配がすぐさま感じられた。もう今は主人が邪魔をしないので、彼女はどうしたらいいか心得ていた。自分の足もとを見ないで、高い土の盛りあがりにつまずいたり、水に落ちたりして、いまいましく思いながらも、強靭《きょうじん》な脚ですぐ立ちなおっては、一心に輪を描きはじめた。これがいっさいを説明してくれるはずなのであった。鳥どもの匂いはいよいよ強く、いよいよ明瞭に彼女の鼻を打った。ふいにラスカは、はっきり確かめた。――一羽がそこに、土の盛りあがりの陰にいる、わずか五歩の距離にいる。彼女は立ちどまって、全身を静そのものに化した。脚が短いので、自分の前に何ものをも見ることはできなかったけれど、鳥が五歩以上離れていないところにいるのを、彼女は匂いで知ったのである。いよいよはっきりその存在を感じ、期待の情を享楽しながら、ラスカはじっと立っていた。緊張した尻尾はぐっと伸びて、ただその先だけがかすかにふるえるのみであった。口はこころもち開き、耳はきっと聳《そばだ》てられていた。片方の耳は、まだ走っている間に、裏返しになっていた。彼女は重重しく、とはいえ用心深く呼吸しながら、それよりもさらに用心深く、主人をふりかえった。が、首をふりむけるというよりも、むしろ目だけで見たのである。主人はふだん見慣れた顔つきながら、いつも恐ろしい目をして、土の盛りあがりにつまずきつまずき、並はずれてゆっくり歩いていた、と彼女には思われたのである。彼女には、主人がゆっくり歩いてくるように思われたが、そのじつ彼は走っていたのである。
 ラスカが、後脚で土でも掻くようなかっこうで大股に歩きながら、こころもち口を開けて、全身をぴったり地面にくっつけるようにしている、この犬独特のさがしかたに気がつくと、レーヴィンはラスカが、田鴫を狙《ねら》っているのを悟った。どうかうまくいきますように、ことに、最初の鳥を射ち損じないように、と神に念じながら、彼は犬の方へ駆けよった。ぴったりそばまで駆けつけると、背の高い彼は自分の前をながめたとき、犬が鼻で見たものを、目で見たのである。一間ほどしか離れていない、隣り合った土の盛りあがりの合《あわ》いに、田鴫の姿が見えた。田鴫は首をちょいとひねって、聞き耳を立てた。それから、軽く翼をひろげたと思うと、また畳んで、無器用らしく尾をひとふりして、陰にかくれてしまった。
「よし! 行けっ!」とレーヴィンはラスカの尻をついて、こう叫んだ。
『だって、わたしは行けないじゃないか』とラスカは考えた。『どこへ行ったらいいんだろう? ここからなら、わたしはちゃんと感じるんだけれど、前へ出て行ったら、どこに何がいるのか、なんにもわからなくなってしまう』
 しかし、レーヴィンは膝でラスカをとんとついて、興奮したようなひそひそ声で、「さあ、行け、ラスカ!」といった。
『まあ、それがお望みならしてあげますが、もうこうなったら、わたしは自分でも受け合えませんよ』と彼女は考えて、いっさんに土の盛りあがりの間を、前へ駆け出した。今はもう何一つ感じなかった。ただ何一つ合点がいかないままに、見、聞くばかりであった。
 前の場所から十歩ばかり離れたところに、ねっとりしたようなほろほろという鳴き声と、この鳥独特のふくらみのある羽音を立てながら、一羽の田鴫が飛びあがった。一発の銃声とともに、どさりと重々しく落ちてきて、白い胸を湿った沼土にぶっつけた。もう一羽は待ちきれなくて、犬もこないうちに、レーヴィンのうしろから飛び立った。
 レーヴィンがふり返ったとき、鳥はもう遠く離れていたが、しかし弾丸は命中した。足数にして二十歩ばかり飛んだとき、田鴫は上へ直線に舞いあがったと思うと、たちまち鞠《まり》でもほうったように、くるくると回転しながら、乾いた場所へどすんと落ちた。
『これなら、ものになりそうだぞ!』脂の乗った温かい田鴫を獲物袋へしまいながら、レーヴィンはこう思った。『なあ、ラスカ、これならものになるだろう?』
 レーヴィンが銃に装填して、先へ歩き出したとき、太陽は雲に隠れて見えなかったけれど、もう昇っていた。月はすっかり光を失って、一片の雲のように、空に白んでいた。星はもう一つも見えなかった。先ほどまで露で銀色に見えていた湿地が、今は金色に輝いていた。錆びた水は一面、琥珀《こはく》色に染った。草の青は、黄みがかった緑に変った。水鳥の群が、露に輝きながら長い影を投げている川辺の灌木の上で騒いでいた。一羽の隼が目をさまして、乾草の禾堆《にお》の上にとまって、小首を左右に傾け、不満げに沼をながめている。白嘴鴉《しろはしがらす》が野の方へ飛んで行く。跣足《はだし》の小わっぱが、もう馬を追って、長外套《カフタン》の下から首をのぞけて、体じゅうをぼりぼり掻いている老人の方へ行く。鉄砲の煙が牛乳のように白く、草の緑の上になびき漂う。
 男の子の一人が、レーヴィンのそばへ駆けよった。
「小父さん、きのうここに鴨がたくさんいたよ!」と叫び、遠く離れてあとからついて来た。
 レーヴィンは、自分に同感をよせてくれるこの子供の前で、次から次へと、また三羽の鷸を殺したので、愉《たの》しさを倍加する思いであった。

[#5字下げ]一三[#「一三」は中見出し]

 最初の獣なり、鳥なりをのがさなかったら、その日の山|幸《さち》はまちがいないという猟人仲間の迷信は、まさしくそのとおりであった。
 かれこれ三十露里も歩きまわって、飢え疲れながらも幸福なレーヴィンは、十九羽の鷸と、鴨を一羽もって(鴨は腰にぶら下げた、もう獲物袋に入らなかったからである)、宿へ帰った。二人の仲間は、もうとっくに目をさまして、腹がへったとかで、もう朝飯をすましていた。
「待ってくれ、待ってくれ、たしか十九羽いるはずなんだから」もう飛び立ったときのりっぱさを失って、こちこちに縮みあがり、乾いた血のほうぼうにこびりついた、首を横っちょに向けた鷸や田鴫を、もういちど数えなおしながら、レーヴィンはこういった。
 勘定は正確だった。そして、オブロンスキイの羨望が、レーヴィンには快かった。そのうえになおうれしかったのは、宿へ帰ってみると、もうキチイからの使が、手紙を持って来ていたことである。

『わたくしはいたって丈夫で、楽しい気持でおります。あなたが、わたくしの体を心配していらっしゃるのでしたら、前よりもっと安心して下すってよろしゅうございます。というのは、わたくしのためにマリア・ヴラシエヴナという、新しい護衛者ができたからでございます(それはレーヴィンの家庭生活で、新たに重大な意義をもつこととなった産婆である)。今度わたくしの診察に来てくれたのですが、いたって丈夫だとの見立てでございました。で、わたくしたちは、あなたのお帰りまで、逗留してもらうことにしました。みんな元気で達者でいますから、あなたもどうかおいそぎにならないで、もし猟のつごうがおよろしかったら、もう一日お延ばしになってもかまいません』

 運のよかった猟と妻の手紙、この二つの喜びがあまり大きかったので、猟のあとに起った二つのささやかな不快事も、レーヴィンにはたいした印象を残さなかった。一つのほうは、栗毛の側馬が、明らかに昨日働きすぎたためらしく、飼秣《かいば》を食べないで、しょんぼりしていることであった。馭者は、むりをして内臓を痛めているのだ、といった。
「なにしろ、旦那さま、昨日ああ追いこくったんでございますからね」と彼はいうのであった。「十露里の道をめちゃめちゃに追いこくったんですから、たまったもんじゃありませんや!」
 もう一つの不快事は、はじめせっかくの上きげんを台なしにしたが、あとではただ大笑いに笑ってすませてしまった。ほかでもない、一週間かかっても食べ切れそうもないほど、キチイがふんだんに持たしてよこした食糧が、すっかり空になってしまったのである。疲れて腹ぺこになって、猟から帰って来たレーヴィンは、道みち肉饅頭のことばかり考えていたので、宿に近づいたころには、ちょうどラスカが野禽の匂いを感じるように、肉饅頭の匂いと味をはっきりと感じたほどである。彼は早速、フィリップに食事の用意を命じた。ところが、肉饅頭ばかりでなく、若鶏さえもないという始末であった。
「いや、もうたいした食欲でさ!」とオブロンスキイは笑いながら、ヴァーセンカ・ヴェスローフスキイをさしていった。「僕も別に食欲不振で困るようなことはないが、この先生ときたら、驚嘆するばかりだよ……」
「じゃ、しかたがない!」とレーヴィンは不きげんな顔つきで、ヴェスローフスキイを見ながらいった。「フィリップ、それなら牛肉をくれ」
「牛肉も召しあがってしまわれましたので、私は骨を犬にやりました」とフィリップは答えた。
 レーヴィンは業腹《ごうはら》でたまらなかったので、いまいましそうにいった。「せめて何かひとに残してくれたらよさそうなものを!」彼は泣きだしたくなった。
「それじゃ、とってきた禽《とり》でも料理しろ」ヴァーセンカのほうを見ないように努めながら、彼はふるえる声でいった。「それに蕁麻《いらくさ》をかけてな。それから、牛乳でも頼んでもらってこい」
 牛乳をたらふく飲んでしまうと、もうそのあとは、他人にあんないまいましさをさらけ出して見せたのが、恥ずかしくなってきた。彼は自分のひもじいまぎれのむしゃくしゃ腹が、われながらおかしかった……
 晩にも彼らは猟をして、ヴェスローフスキイでさえも幾羽か仕留めたほどである。夜中に宿へ帰った。
 帰り道も、行きと同じように愉しかった。ヴェスローフスキイは歌をうたったり、例のウォートカをごちそうして、『文句いいなさんな』といった百姓たちのことを思い出したり、それからまた、昨夜の娘《あま》っ子相手の遊びの追懐談をしたりした。そのとき、亭主の百姓が彼に、奥さんはあるかとたずね、ないと聞いて、「おまえさん、人の女房に色目つかわねえで、精出して自分の女子こせえるようにしなさろ」といった。この言葉がかくべつヴェスローフスキイをおもしろがらせたのである。
「とにかく、僕は今度の旅行が実に愉快でした。あなたはどうでした、レーヴィン?」
「僕もしんから愉快でした」とレーヴィンは正直な気持で答えた。彼は自分の家で、ヴェスローフスキイにいだいていた敵意を、すこしも感じなかったばかりでなく、かえって、このうえもない親しみを感じるようになったのが、うれしくてたまらなかったのである。

[#5字下げ]一四[#「一四」は中見出し]

 その翌朝十時ごろ、もう農場をひとまわりしたレーヴィンは、ヴァーセンカにあててある部屋の戸を叩いた。
「Entrez!(お入りなさい)」とヴェスローフスキイは叫んだ。「ごめんなさい、僕はたった今 ablutions(水浴)をしたばかりなんで」レーヴィンの前に下着一枚で立ったまま、彼はにこにこしながらいった。
「どうぞご遠慮なく」とレーヴィンは窓のそばに腰をおろした。「昨夜はよく寝られましたか?」
「まるで死んだように寝ましたよ。今日はまたなんて猟|日和《びより》でしょう?」
「あなた何を飲みます、お茶ですか、コーヒーですか?」
「どちらも飲みません、僕は軽い食事をしますから。しかし、まったく気が咎めますね。ご婦人がたはもう起きていられるでしょうね? ときに、今ちょっと散歩したらいい気持でしょう。あなた馬を見せてくれませんか」
 庭をひとまわりして、厩《うまや》にもより、平行棒の上でいっしょに体操までしたあと、レーヴィンは客とともに家へ帰り、客間へ入った。
「すばらしい猟をしましたよ、かずかずの印象を受けて帰りました!」サモワールのそばに坐っているキチイに近づきながら、ヴェスローフスキイはそういった。「女のかたがこの楽しみを奪われていらっしゃるのは、なんともお気の毒ですね」
『いや、しかたがない、あの男も主婦にたいして、何か話をしなくちゃならないからな』とレーヴィンは肚《はら》の中で考えた。彼はまたしても、客がキチイに話しかけたときの微笑や、征服者らしい態度の中に、何かあるような気持がしたのである……
 マリア・ヴラシエヴナとオブロンスキイといっしょに、テーブルの反対側にすわっていた公爵夫人は、レーヴィンを自分のそばへ招きよせて、キチイの産のためにモスクワへ移ること、そのために住居の準備をしなければならぬこと、などについて話をはじめた。レーヴィンにしてみれば、ちょうどあの結婚のときと同じように、すべて何にもせよ、準備などということは、その卑俗性によって、成就されんとするものの偉大さを侮辱するものとして不快であったが、今度の産の準備は、何かその時期を指で数えてでもいるようにのみこみ顔なので、なおさら侮辱に感じられた。彼は始終、未来の赤ん坊のおしめのしかたがどうのといったような話は、なるべく聞かないようにつとめていた。何かしら神秘めかしい無限に長い繃帯《ほうたい》とか、ドリイがかくべつ大事がる三角巾とかいうようなものには、できるだけ目をそらして、見ないようにしていた。息子の誕生(彼は男の子ができるものと、信じきっていた)という出来事は、みんなが口を揃えていってはいるものの、それでも彼はやっぱり、信じられないのであった。それほど彼の目には、なみなみならぬことに思われたのである。この事実は一方からいうと、不可能とさえ感じられるほどの大きな幸福であると同時に、また一方からいえば、あまりにも神秘な出来事であったので、先を見越したようなひとり合点の知識や、その知識を基にして、何かありふれたことのように皆のやっている準備が、彼にとっては憤慨と、屈辱の種になるのであった。
 しかし、公爵夫人は彼の気持が理解できなかったので、彼がそのことを考えたり話したりしたがらないのを、軽率で冷淡なためと解釈していた。そういうわけで、ますますしつこくつきまとうのであった。彼女はオブロンスキイに住居を見る役目を命じ、今もレーヴィンをそれで呼びよせたのである。
「僕はなんにもわかりません。公爵夫人。どうかお考えどおりにして下さい」と彼はいった。
「いつ引越しするか、それを決めなくちゃなりません」
「僕にはまったくわからないのです。ただ僕にわかっているのは、モスクワも医者もなくたって、何百万という子供が生れてるということだけです……なんのために……」
「ああ、もしそういうことなら……」
「いや、そうじゃありません、何ごともキチイの心任せです」
「キチイにそんな話をするわけにはいきません。なんですの、あなたは、わたしがあの娘《こ》をおどかせばいい、と思ってらっしゃるの? 現にこの春も、ナタリイ・ゴリーツイナが、産科医が悪かったばかりに、亡くなりましたからね」
「僕はなんとでもおっしゃるようにします」と彼は陰鬱な顔をして答えた。
 公爵夫人はまたいろいろといいだしたが、彼は聞いていなかった。公爵夫人の話も、彼のきげんをわるくしたには相違ないが、彼が陰鬱になったのはその話のせいではなく、サモワールのそばの光景であった。
『いや、あれじゃやりきれない』キチイのほうへかがみこんで、持ちまえの美しい微笑を浮べながら、何やら話しているヴェスローフスキイと、赤くなって興奮している妻のほうを、ときおりちらちらと見やりながら、彼は心の中で考えるのであった。
 ヴァーセンカの姿勢にも、その目つきにも、その微笑にも、何か不純なものがあった。それどころか、レーヴィンの目には、キチイの姿勢や目つきにさえ、何か純でないものが感じられたのである。すると、またしても彼の目の中の光が消えた。またもや前日のように、突然なんの連絡もなく、彼は幸福と、平安と、自足の絶頂から、絶望と、憤怒と、屈辱のどん底へ投げこまれたような気がした。またもやだれもかも、なにもかもいまわしく思われてきた。
「どうか、公爵夫人、お考えどおりにして下さい」と彼はまたしても、ふり返りながらいった。
「王の冠はさても重いものかな([#割り注]プーシキン『ボリス・ゴドゥノフ』の台詞[#割り注終わり])!」とオブロンスキイは冗談半分に、彼にいった。明らかに、公爵夫人との会話ばかりでなく、いち早く感づいたレーヴィンの興奮の真因を、ほのめかしたものらしい。「ドリイ、今日はおまえどうして遅かったんだね?」
 一同は、ドリイを迎えに席を立ったが、ヴァーセンカはちょっと腰をもちあげて、新しいタイプの青年に特有な、婦人にたいしてあまり慇懃《いんぎん》にしないやりくちを応用して、ほんのこころもち会釈しただけで、何やら笑いながら、ふたたび会話をつづけた。
 ヴァーセンカとキチイの会話は、またこの前と同様アンナのことと、恋は社会の条件を超越しうるかどうか、ということであった。キチイにしてみれば、この会話は不快なのであった。内容そのものからいっても、その調子からいっても、別してこれが良人にどういう影響を与えるかが、ちゃんとわかっている点からいっても、この会話は、彼女をわくわくさせないではおかなかった。が、彼女はあまりにも率直で無邪気だったので、うまくこの話を切りあげることもできなければ、この青年が明らかに自分に気のあることを感じて、そのために思わずいだかされた外面的な満足の色を、隠すことさえできなかったのである。彼女はこの会話を切りあげたいと思ったが、どうしたらいいかわからないのであった。自分が何をしても、すべて良人の注意をひいて、なにもかも悪いほうへとられるのは、彼女にちゃんとわかっていた。案の定《じょう》、彼女がドリイに、マーシャはどんなふうかとたずねたとき、そしてヴァーセンカが、こんなつまらない話がいつおわるかと待ちかねながら、気のない顔つきでドリイをまじまじ見つめはじめたとき、レーヴィンはその質問が不自然な、いとわしいごまかしのように思われた。
「どうします。今日も茸狩りに行きましょうか?」とドリイはたずねた。
「行きましょうよ、あたしもまいりますわ」とキチイはいい、顔を赤らめた。彼女は礼儀上ヴァーセンカに、あなたもいらっしゃいますか、と聞こうと思ったけれども、それが口に出なかった。「あなたどこへいらっしゃるの、コスチャ?」良人が決然たる足どりでそばを通りすぎようとしたとき、彼女はすまなそうな顔をしてこうたずねた。このすまなそうな表情が、彼の疑惑をことごとく裏書きしたのである。
「僕の留守に機械技師が来たのに、まだ会っていないんだ」と彼は、妻の顔も見ないでいった。
 彼は下へ降りて行った、が、また書斎を出る暇もなく、体にたいする注意も忘れて、足早にあとを追ってくる、聞き慣れた妻の足音が耳に入った。
「おまえどうしたんだい?」と彼はそっけなくいった。「いま忙しいんだよ」
「失礼ですが」とキチイはドイツ人の技師にいった。「あたし、ちょっと主人に話がございますので」
 ドイツ人は行こうとしたが、レーヴィンはそれにたいして、
「どうかご心配なく」といった。
「汽車は三時でしたね?」とドイツ人はたずねた。「万一おくれでもしたら」
 レーヴィンはそれに答えないで、妻といっしょに部屋を出た。
「さて、どういう話があるんです?」と彼はフランス語できりだした。
 彼は妻の顔を見なかった。それに、身重の妻が顔ぜんたいをわなわなとふるわせて、惨めな消えも入りそうな様子をしているのは、見たくなかった。
「あたし……あたしが申したいのは、こんなふうでは生きていけないってことですの、これは拷問《ごうもん》ですわ……」と彼女はいいだした。
「そこの食器室に召使がいるよ」と彼は腹だたしげにいった。「痴話場はご免こうむるよ」
「じゃ、こちらへまいりましょう!」
 二人は通りぬけの部屋に立っていたのである。キチイは隣の部屋へ入ろうとしたが、そこではイギリス婦人がターニャの勉強をみていた。
「じゃ、庭へ出ましょう」
 庭へ出ると、径《みち》の掃除をしている百姓に行き当った。奥さまの泣きはらした顔や、旦那さまの興奮した顔を百姓に見られる、などということも考えなければ、二人とも、何かの不幸からのがれようとする人のような顔つきをしていることも考えずに、彼らは早足に先へ先へと進んだ――ただ肚にあることをいってしまわなければならない、お互に疑いを解かなければならない、しばらく二人きりでいなければならない、その方法によって、いま感じている苦しみをのがれなければならないと、そのことばかりを感じながら。
「こんなふうでは生きていけませんわ。これは拷問ですわ! あたしも苦しめば、あなたも苦しんでらっしゃる、それもなんのためでしょう!」二人がようやく菩提樹並木の曲り角にある、人目離れたベンチまでたどりついたとき、彼女はこういった。
「しかし、おまえたった一つだけいっておくれ――あの男の調子には何か無作法な、純でない、ひとを卑しめるような性質の、恐ろしいものはなかったかい?」またあの晩とおなじ、両の拳《こぶし》を胸にあてたポーズで、妻の前に立ちはだかりながら、彼はこういった。
「ありました」と彼女はふるえる声でいった。「でも、コスチャ、あたしになんの罪もないってことが、いったいあなたの目には入りませんの? あたしは朝から、ちゃんとした態度をとろうと思っていたのに、ああいう人たちは……なんだってあの人はやって来たんでしょう? あたしたちはあんなに幸福だったのに!」肥えてきた体ぜんたいを揺るがせる慟哭《どうこく》に、息をつまらせながら、彼女はこういった。
 庭掃除の男は、驚きの目を見はった。はじめは何ものも旦那がたを追いかけてもいなかったし、何も避けて逃げなければならぬようなものもなかった。それから今度は、ベンチの上に何一つうれしいものもあるはずがないのに、庭掃除の見たところでは、二人はおちついた様子で、目を輝かしながら、彼のそばを通りぬけて、邸のほうへ帰って行ったのである。

[#5字下げ]一五[#「一五」は中見出し]

 レーヴィンは妻を二階へ送って、ドリイのほうへ行ってみた。ドリイはドリイで、この日ひどく悲観しきっていた。彼女は部屋の中を歩きまわって、すみっこに立って泣きわめいている女の子に、怒ったような声でこんなことをいっていた。
「今日はそうして、一日立ってらっしゃい、そしてご飯も一人で食べるんですよ。そして、お人形さんも持たしてあげないし、新しい着物もこしらえてあげないから」もうどんな罰をくだしたらいいかわからないで、彼女はこういった。
「ああ、だめです、この子にはほとほと愛想がつきてしまいますわ!」と彼女はレーヴィンのほうへふりむいた。「いったいどこから、あんないやな性質が出てくるんでしょうねえ?」
「しかし、いったいなにをしたんです?」とレーヴィンは、かなり冷淡な調子でたずねた。彼は自分のことを相談しようと思ったのに、ばつの悪いところへ来合わせたのが、いまいましかったのである。
「この子はグリーシャと二人で、木苺《きいちご》畑へ行きましてね、そこで……いえ、わたしこの子のしたことを、口でいうこともできませんわ。わたしつくづく。ミス・エリオットが惜しくてなりません。今度の家庭教師ったら、ちっとも気をつけてくれないんですもの、ただの機械ですわ……Figurez vous, que la petite ……(まあ、考てもみて下さいな、こんな小さな娘が……)」
 ドリイはマーシャの犯罪を物語った。
「そんなことは、なんの証明にもなりゃしません、それはいまわしい傾向じゃなくって、ただのいたずらですよ」とレーヴィンは、義姉をなだめようとした。
「でも、あなた何か気になることがおありのようですね? なんの用でいらしたの?」とドリイはたずねた。「あちらはどんなふうですの?」
 この問いの調子には、自分のいおうと思っていることが、きりだしやすいようなところがある、とレーヴィンは感じた。
「僕はあちらにはいなかったのです、キチイと二人で庭にいたのです。僕らはもうこれで二度喧嘩をしたのです、あれ以来……スチーヴァが来てから……」
 ドリイは賢そうな、理解のある目で彼を見た。
「ねえ、ひとつ胸に手をおいて、僕の問いに答えて下さい。キチイではなく、あの男の態度に、良人にとって不愉快な、いや、不愉快なのじゃない、恐ろしい、侮辱になるようなところはなかったでしょうか?」
「さあ、なんといったらいいでしょう……立ってらっしゃい、すみっこに立ってらっしゃい!」と彼女はマーシャにむかってそういった。女の子は、母の顔にあるかなきかの微笑を見てとると、さっそくからだを動かそうとしたのである。「社交界の意見としては、あの人の態度は、若い人のだれでもとるような態度だ、とそういうでしょう。〔Il fait la cour a` une jeune et jolie femme.〕(若い美しい女のごきげんをとっている)のですから、社交界慣れた良人は、それを得意としなくちゃなりませんね」
「そう、そう」とレーヴィンは暗い顔をしていった。「でも、あなたは気がついたでしょう?」
「わたしばかりじゃありません、スチーヴァも気がついていますわ。たくはお茶のあとで、わたしにはっきりいいましたもの、〔je crois que Veslovsky fait un petit brin de cour a` Kiti.〕(僕は確かにそう思うね、ヴェスローフスキイはキチイに少々ばかりおぼしめしがあるんだよ)って」
「いや、けっこう、それで安心しました。僕はあの男を追っぱらってやります」とレーヴィンはいった。
「まあ、何をいうんですの、気でも狂ったんですか?」とドリイはぎょっとして叫んだ。「何をいうんですの、コスチャ、正気に返って下さいよ!」と彼女は笑いながらいった。「さあ、もうファンニイのとこへ行ってもよろしい」とマーシャにいって、「そりゃだめよ。でも、たってのお望みなら、わたしからスチーヴァにいいましょう。たくがうまく連れて帰ってくれますわ。ほかにお客さまが見えることになってるから、とでもいえますからね。どっちにしたって、あの人はこの家には不向きな人ですものね」
「いや、いや、僕が自分でいいます」
「でも、あなた喧嘩をしてしまうでしょう?」
「とんでもない。僕はかえって愉快なくらいです」とレーヴィンは全く愉快そうに、目を輝かせながら答えた。「さあ、この子を赦しておやんなさいよ、ドリイ! もうこれからはしないから」と幼い犯人のことをそういった。マーシャは、ファンニイのとこへ行こうとしないで、思い切り悪そうに母の前に立ったまま、期待の情をこめて、上目づかいに母の視線を捕えようとしていた。
 母親はちらとその方を見やった。女の子は、わっとばかりしゃくりあげて泣きながら、母の膝に顔を埋めた。ドリイはその頭の上に、やせたしなやかな手をのせた。
『われわれとあの男のあいだに、いったいどんな共通点があるのだ?』と考えて、レーヴィンはヴェスローフスキイをさがしに出かけた。
 控室を通りぬけるついでに、停車場行きの幌馬車の用意を命じた。
「昨日バネがこわれましたので」と従僕がいった。
「ふん、じゃ旅行馬車でもいい、ただ早くするんだぞ。お客さまはどこに見える?」
「ご自分の部屋へいらっしゃいました」
 レーヴィンが入って行ったとき、ヴァーセンカはカバンの中から、いろんな物をとり出して、新しいロマンスの譜をひろげたて、馬に乗るために、革の脛当《すねあて》を足に合わしているところであった。
 レーヴィンの顔つきに、何か特別なものがあったか、それとも当のヴァーセンカが、自分の企てた ce petit brin de cour(ちょっとした恋愛遊戯)が、この家庭にふさわしくないと感じたのか、とにかく彼は、いくぶんレーヴィンの出現にどぎまぎした。
「君は脛当をつけて、馬に乗るんですか?」
「ええ、このほうがずっとすっきりしますよ」とヴァーセンカは、肥えた足を椅子にのせて、いちばん下のボタンをかけながら、快活な人のよい微笑を浮べて、こういった。
 彼はまぎれもなく、愛すべき好漢であった。で、レーヴィンは、ヴァーセンカの目つきに臆した色を認めたとき、彼がかわいそうになり、家の主人たる自分として、われながら気がさした。
 テーブルの上には、けさ二人が体操をしながら、水ぶくれのした平行棒を持ち上げようとして折った、棒の端くれがのっていた。レーヴィンはこの棒の端くれを取り上げて、なんときりだしたらいいかわからぬままに、ささくれ立った端っこをむしりはじめた。
「僕、じつは……」彼はこれで口をつぐもうとしたが、ふとキチイと、今まであったことを残らず思い起すと、断乎たる目つきで相手をながめながら、彼はこういった。「僕は君のために馬車の用意をさせましたよ」
「といって、なんのことです?」と、ヴァーセンカはびっくりしていいだした。「どこへ行くんです?」
「君が停車場へ行くんです」棒の端をむしりながら、レーヴィンは陰鬱な調子で答えた。
「あなた、どこかへ行くんですか、それとも何か起ったんですか?」
「何か起ったというのは、新しい客がくることになったものだから」ささくれた棒の端っこを、いよいよ早くむしりながら、レーヴィンはいった。「いや、客がくるんじゃありません、何ごとも起ったのじゃありません、が、僕は君に発《た》ってもらいたいのです。僕の無作法は、なんとでもかってにご解釈を」
 ヴァーセンカはぐっと身を反らした。
「僕はあなた[#「あなた」に傍点]に説明を願います……」やっと事情を悟って、彼は威厳を示しながら、こういった。
「僕は説明するわけにいきません」頬骨がふるえるのを隠そうとつとめながら、レーヴィンは低い声でゆっくりといった。「君もきかないほうがいいですよ」
 もうささくれた端っこは、全部むしりとられたので、レーヴィンは太いほうの端に指をかけて、棒を二つにひき裂き、落ちかけた端を一生懸命につかまえた。
 どうやら、この緊張した両腕と、けさ、体操のとき自分でいじってみた筋肉と、ぎらぎら光る目と、低い声と、ぴくぴくふるえる頬骨が、言葉以上にヴァーセンカを納得させたらしい。彼はひょいと肩をすくめて、ばかにしたように、にたりと笑って、おじぎをした。
「ちょっとオブロンスキイに会うことはできませんか?」
 肩をすくめたのも、ばかにしたような笑い方をしたのも、レーヴィンをいらだたせなかった。
『この男、それよりほかに何をすることがあるものか?』と彼は考えた。
「今にここへよこします」
「それはまた、なんて気ちがいじみたまねだ!」友だちの口から、彼がこの家を追い出されようとしているのを聞いたオブロンスキイは、レーヴィンが客の出発を待ちながら、庭を散歩しているところを見つけて、こういった。「Mais c'est ridicule!(だって、ばかげてるじゃないか!)いったい君は何を血迷ったんだい? Mais c'est au dernier ridicule!(これはばかの骨頂だよ!)いったい君はどんな気がしたんだい、もし若い男が……」
 しかし、レーヴィンを血迷わせた事情は、どうやらまだ彼に痛みを感じさせるらしかった。というのは、オブロンスキイが原因を説明しようとしたとき、急いでそれをさえぎったからである。
「どうか、原因を説明しないでくれ! 僕としては、それよりほかの方法がないんだから! 僕は君にたいしても、またあの男にたいしても、はなはだ気が咎めるけれど、しかし、あの男としては、ここを出たってたいしてつらいことはないだろうが、僕と家内にとっては、あの男の存在が不愉快なんだ」
「しかし、あの男にとっては侮辱だよ! Et puis c'est ridicule(それに、これはばかばかしいこったよ)」
「ところが、僕にもそれは侮辱で、苦痛なんだ! 僕は何も悪いことをしないんだから、僕が苦しむわけはない!」
「いやはや、君がこんなことをしようとは、これだけは僕も思いがけなかったよ! 〔On peut e^tre jaloux, mais a` ce point c'est du dernier ridicule!〕(人間やきもちをやくのはかまわんが、もうこうなっちゃばかの骨頂だよ!)」
 レーヴィンはくるりと踵《くびす》を転じて、義兄のそばを離れ、並木道の奥へ入って、ただ一人あちこち歩きつづけた。まもなく、旧式な旅行馬車のとどろきが聞えたと思うと、ヴァーセンカが乾草の上に坐って(不運にも、この旅行馬車には腰掛かなかったのである)、例のスコットランドふうの帽子をかぶって、ごとごと揺られながら、並木道を通りすぎるのが見えた。
『こりゃまた、いったいどうしたんだ?』従僕が家から駆け出して馬車をとめたとき、レーヴィンはこう思った。それは、レーヴィンのすっかり忘れていた技師であった。技師はぴょこぴょこおじぎをしながら、ヴェスローフスキイに何かいったかと思うと、やがて馬車に乗って、二人はいっしょに行ってしまった。
 オブロンスキイと公爵夫人は、レーヴィンのやりかたに憤慨していた。彼自身も、このうえない|ばかげた《リディキュール》ことであるのみならず、四方八方へ申し訳がなく、恥さらしをしたように感じていた。しかし、自分ら夫婦がさんざん苦しんだことを思い出したとき、この次にはどういう処置をとるだろうと自問したが、やっぱり同じことをすると自答した。
 それにもかかわらず、その日の終りごろには、レーヴィンのやりかたを赦すことのできない公爵夫人を除く一同は、まるで罰をすました子供か、苦しい接見式の接見を終った大人のように、なみはずれてうきうきし、元気になってきた。そういうわけで、その晩、公爵夫人がいなくなってから、ヴァーセンカ追放の一件を、ずっと前の出来事のように話し合った。父親に似て、おもしろおかしく物語る才能をもったドリイは、ヴァーレンカを笑いころげさせてしまった。ほかでもない、彼女は三度も四度も、新しくこっけいなおまけをつけながら、こんな話をしたのである。彼女がお客さまのために、新しい蝶むすびをつけてしたくをし、もう客間へ入ろうとしたとき、突然がらがらと大きい頑丈な馬車の音がした、いったいだれがあの車に乗っているのだろう? と思って見ると、当のヴァーセンカが、スコットランドふうの帽子をかぶって、ロマンスの譜と脛当《すねあて》をかかえて、乾草の上に坐っているではないか。
「まあ、せめて箱馬車でも出してやればいいものを! と思っていると、『待ってくれ』という声が聞えるじゃないの。ああ、やっぱり気の毒になって、ひきとめるのかと思いながら見ていると、ふっとちょ[#「ふっとちょ」はママ]のドイツ人をわきに乗せて、がらがらと行っちまったじゃありませんか……それで、わたしの蝶むすびもむだになってしまいましたわ!………」

[#5字下げ]一六[#「一六」は中見出し]

 ドリイは自分の思いつきを実行して、アンナのもとへ出向いた。彼女としては、妹につらい思いをさせ、その良人に不快な感じを与えるのは、はなはだ不本意なことであった。ヴロンスキイといっさい交渉をもちたくないという、レーヴィン夫婦の気持は、もっとも千万だとは承知していたけれども、彼女はちょっとでもアンナのもとへ訪れて、たとえ相手の境遇は変っても、自分の感情は変るわけがないということを、彼女に示すのが、自分の義務であると思った。
 この旅行については、レーヴィン家に厄介《やっかい》をかけまいと思って、ドリイは村方へ使をやって、馬を雇おうとした。が、レーヴィンはそれを知って、彼女のところへ不足をいいに来た。
「あなたの旅行が、僕にとって不愉快だろうなんて、どうしてそんなことを考えたんです? よしんばまた不愉快であるにもせよ、あなたが僕の馬を使って下さらなけりゃ、僕としてはなお不愉快だろうじゃありませんか」と彼はいった。「あなたはいよいよ本当に出かけるってことを、いちども僕にいわなかったんですものね。村方で馬を雇うということは、第一、僕にとって気持がわるいばかりでなく、何よりいけないのは、百姓たちは引き受けるのは引き受けても、満足に行き着きゃしませんよ。とにかく、馬は僕のとこにあるんだから、もし僕にいやな思いをさせたくなかったら、そいつを使って下さいよ」
 ドリイは承知しないわけにいかなかった。当日レーヴィンは義姉のために、労働用や乗馬用の中から選り抜いて、四頭立ての馬と替馬を用意した。見てくれははなはだよくなかったけれど、一日のうちにドリイを目的地まで送り届けることは、まちがいなかった。ちかぢか出発する公爵夫人のためにも、産婆のためにも、今は馬が必要なときだったので、これだけのことをするのは、レーヴィンにとって楽ではなかったが、現在、自分の家に泊っているドリイが、よそで馬を雇うのを見すごすということは、亭主の義務として、どうしてもできなかった。のみならず、この馬代として請求されていた二十ルーブリの金が、ドリイにとっていかに重大であるかを、彼はよく承知していた。はなはだかんばしからぬ状態にあったドリイの会計は、レーヴィン夫妻にとって、人ごとでなく感じられるのであった。
 ドリイはレーヴィンのすすめに従って、夜の明けぬ間に出発した。道はいいし、馬車は乗り心地がよく、馬は楽しげに走った。馭者台の上には馭者のほかに、レーヴィンが道中安全のためといって、従僕の代りにつけてよこした帳場のものが腰かけていた。ドリイはうとうとまどろみはじめたが、ふと目をさますと、馬車は早くも、とある立て場へ近づいていた。そこでは、馬を替えなければならないのであった。
 かつてレーヴィンが、スヴィヤージュスキイのところへ行くとき立ちよった、例の裕福な百姓の家で茶を飲んで、嫁たちと子供の話をし、老人とヴロンスキイ伯爵の噂をしたあと(老人はヴロンスキイをしきりに褒《ほ》めそやした)、ドリイは十時にさきへ乗り出した。家にいるときは、子供の世話にまぎれて、彼女はものを考える暇など少しもなかった。そのかわり、もう今はこの四時間の道程のあいだに、これまで封じこめられていた考えごとが、とつぜん一時に頭の中に群がり起って、彼女はこれまでついぞないことに、自分の生活をあらゆる側面から考えなおしてみた。その考えは彼女自身にとっても、われながらふしぎなものであった。はじめ、彼女は子供たちのことを考えた。子供たちは、公爵夫人と、それにだれよりもキチイが(彼女は妹のほうをよけい頼りにしていた)、よく見てくれると約束はしたものの、それでも彼女は心配であった。『どうかマーシャが、二度とあんないたずらをしなければいいが、グリーシャが馬に蹴られなどしないだろうか、リリイのお腹《なか》こわしがもっとひどくならなければいいが』しかし、やがて現在の問題が、近い将来の問題に代りはじめた。この冬はモスクワで新しい住居を借りて、客間の家具も新しいのにとり変えなければならない、長女の毛皮外套も買ってやらなければ、などと彼女は考えはじめた。それから、彼女の頭には、もっと遠い将来の問題が浮び出した――どうして子供たちを世の中へ出してやったものだろう? 『女の子はまだたいしたことはないけれど、男の子はどうしたものだろう?』
『今はわたしが、グリーシャの勉強を見てやっているからいいようなものの、それはただわたしが今のところ自由な体で、お産をしないからというだけのことだ。もちろん、スチーヴァなんか、なんのあてにもなりゃしない。だから、わたしが親切な人たちの力を借りて、世の中へ出してやらなくちゃならない。でも、もし、またひょっとお産でもしたら……』すると、こんな考えが頭に浮んだ。女は苦痛のうちに子供を産むというのろいがかけられているというが、それはなんというまちがった話だろう。『産むのはなんでもありゃしないけど、妊娠ということ、――これがたまらないわ』自分の最後の妊娠中のことや、そのとき生んだ赤ん坊の死を思い浮べて、彼女はこう考えた。すると、あの立て場で若い嫁と話したことが思い出された。おまえには子供があるかという問いにたいして、美しい若嫁は快活にこう答えた。
「女の子が一人おりましたけんど、神さまが厄介払いして下せえました。戒食祭のとき、お葬《とぶれ》えをしましただよ」
「どうして、おまえその子がかわいそうじゃないの?」とドリイはたずねた。
「何を惜しがることがありますべえ。そんでなくとも、爺さまにゃ孫がえっとあるだもん。たんだ世話がやけるばっかで、仕事も何もできゃしねえ。たんだ足手まといになるばっかだに」
 若嫁がかわいい、人の好さそうな顔つきをしているにもかかわらず、この答えは、ドリイの耳にいまわしく響いた。が、今はわれともなくこの言葉が思い出された。この無恥な言葉の中にも、いくぶんの真理があった。
『それに、どう考えてみても』結婚後のこの十五年間の生活を顧みて、ドリイはこう考えるのであった。『妊娠、つわり、頭が鈍くなって、なにもかもどうでもいい、といったような気持、それにだいいち、見っともなくなってしまうんだからねえ。キチイだって、あの若くきれいなキチイだって、ずっと器量が落ちたくらいだもの、わたしなんか妊娠すると、見っともない女になってしまう。それは自分でもわかってるわ。お産、苦しみ、あの醜い苦しみ、あの最後の瞬間……それから、お乳を飲ませはじめてからは、夜もおちおち眠られないうえに、あの恐ろしい痛み……』
 ほとんど子供を産むたびに経験する、乳頭のひびの入ったあの痛みを思い出しただけで、ドリイはぞっと身ぶるいした。『それから、子供の病気、あの年じゅうやみまのない心配、そのうえにあの思い出、いまわしい傾向(彼女は、マーシャが木苺畑で犯した罪をおもい起した)、勉強、ラテン語――こんなことはなにもかもわけがわからないで、おまけに骨の折れることばかりだ。そのうえにかてて加えて、その子供が死ぬということ』と、またしても彼女の想像には、クルップ病で死んだいちばん末の乳呑み児の死、あの母心をさいなんでやまぬ、むごたらしい追憶が浮んできた。それから、その葬式、その小さなバラ色の棺にたいする一同の無関心な態度、金モールの十字架のついたバラ色の蓋をしようという瞬間、棺の中から見えた、左右のこめかみに毛の渦巻いている蒼ざめた額や、びっくりしたような小さな口を見たときの、胸を裂かれるような痛み、ただ自分ひとりだけの淋しい悲しみが思い出された。
『こんなことはみんな、なんのためだろう? これがいったいどうなるのだろう? わたしが妊娠したり、乳を飲ませたりしながら、いっときも楽な目をせず、年じゅう腹をたてて、ぶつぶつ口小言をいい、自分でもへとへとになり、他人をも悩まして、良人に嫌われきらわれ、一生を送るだけのことなんだ。子供らがろくな教育も受けず、貧しいままに、不幸なものとして生長して行くだけのことなんだ。現にいまだって、もしレーヴィンの家でこの夏をすごさなかったら、わたしたちはどんなにして暮しをつけたかわかりゃしない。そりゃいうまでもなく、コスチャもキチイも気のやさしい人だから、そんなことは気のつかぬようにしてくれるけれども、これは長いことつづくはずがない。あの夫婦も、子供があとからあとから生れるようになったら、わたしたちを助《す》けてくれるわけにはいかない。いまだってあの二人は、窮屈な思いをしているんだもの。お父さまなど、ご自分にはほとんど何一つお残しにはならなかったんだから、どうして頼みになりゃしない。してみると、わたし一人じゃ、子供たちを一人前にすることはできっこない。まあ、自分を卑下して、人の力を借りるよりしかたがない。まあ、かりにいちばん運のいい場合を想像してみても、もう今後子供たちが死なないで、わたしがあれたちをどうにかこうにか育て上げる、というくらいなものだわ。いちばんうまくいった場合は、あれたちがどうやら、やくざ者にならずにすむ、ということだろう。わたしの望むことができるのは、まあ、それが精いっぱいだ。たったそれだけのことに、どれだけ苦しんだり、もがいたりしなければならないやら……一生は台なしだ!』彼女はまたもや、あの若嫁のいったことを思い出した。すると、今度も思い出すさえ胸が悪かったが、しかし、その言葉のうちには、粗野なものとはいえ、いくぶんの真理が含まれていることを、認めないわけにいかなかった。
「どう、まだ遠いかしら、ミハイラ!」われながら空恐ろしくなるような想念から、気をまぎらすために、ドリイは帳場のものにこう問いかけた。
「この村から、七露里ちゅうことでございます」
 馬車は村の通りに沿って、小さな橋にさしかかった。その橋の上を、穀束を背負った百姓女のひと群が、大きな声でにぎやかにしゃべりあいながら、通っていた。女たちは物珍しそうに、馬車をふりかえりながら、橋の上に歩みをとめた。ドリイの目には、自分のほうへ向けられた顔が、どれもこれも健康そうで、さも楽しげで、生の喜びに満ちているように思われ、それが彼女をからかうような気がした。『みんな生きているのだ、みんな生活を楽しんでいるのだ』女たちのそばを通りぬけて、坂道へさしかかったとき、古馬車の柔らかいバネに快く身をゆすぶられながら、ドリイは物思いをつづけた。『ところが、わたしはまるで牢から出されたように、いろんなめんどうや心配でわたしの命を取る世界からのがれて、今ほんのいっとき、人心地がついているありさまだ。みんな生活している、あの女房たちも、妹のナタリイも、ヴァーレンカも、これから訪ねて行こうとしているアンナも、ただわたしだけがそうでないのだ』
『みんなはアンナを攻撃しているけれど、いったいなんのためだろう? いったいわたしのほうが、ましだとでもいうのかしら? わたしには、少なくとも、自分の愛している良人がある。もっとも、わたしの望んでいるような愛し方じゃないけれど、とにかくにも愛している。ところが、アンナは自分の良人を愛していなかった。いったいあのひとのどこが悪いのだろう? あのひとは生活したいのだ。神さまがわたしたちの魂に、そういう欲望を植えつけてくだすったんだもの。わたしだって、あれと同じことをしたかもしれない、それは大きにありそうなことだ。わたしはいまだにわからない――あの恐ろしいとき、あのひとがモスクワの家へ訪ねて来たとき、あのひとのいうことを聞いたのは、いったいよかったのかどうか? あのときわたしは良人を棄てて、新しい生活をはじめなくちゃならなかったんだわ。そうしたら、本当に愛し愛されることもできたろうに。いったい今のほうがいいとでもいうのかしら? わたしはスチーヴァを尊敬していないけど、あの人はわたしに必要だもんだから』と彼女は、良人のことを考えつづけるのであった。『それで辛抱しているだけだわ。いったいそのほうがいいとでもいうのかしら? あの時分なら、わたしも人に好かれたかもしれない。わたしには若いころの器量がまだ残っていたもの』と、ドリイは考えつづけているうちに、ちょっと鏡がのぞいて見たくなった。彼女はハンド・バッグの中に、旅行用の小鏡を用意していたので、それを出して見たい気になったが、馭者の背中と、ゆらゆら揺れている帳場の男の背中を見ると、もしどちらかがふりむいたら、きまりの悪い思いをするだろうと感じて、とうとう鏡を出さなかった。
 しかし、鏡を見なかったけれど、今だってまだ遅くない、と考えた。彼女は、自分にたいしてかくべつ愛想のいいコズヌイシェフや、猩紅熱《しょうこうねつ》のときいっしょに子供の看病をして、彼女に惚れこんでいたスチーヴァの友人、トゥロフツインのことなどを思い浮べた。それからもう一人、良人が冗談半分にいったところによれば、彼女のことを姉妹じゅうで一番の美人と思っている、まだずぶ若い青年がいた。すると、思い切って情熱的な、ほとんどありえないような恋物語が、ドリイの想像に浮んできた。
『アンナのしたことはりっぱなことだわ。わたしもうどうしたって、あのひとを非難なんかしやしない。あのひとは自分も幸福なら、相手の人をも幸福にして、しかもわたしみたいに、いじいじしてやしない。きっといつものように、みずみずとして、聡明で、何にたいしても、開けっぱなしの態度をとっていることだろう』とドリイは考えつづけた。と、何かずるそうな薄笑いが、その唇を皺《しわ》めた。それは特に、アンナのロマンスを考えているうちに、ドリイはそれと平行して、自分に恋している想像上の、集合名詞的性質をおびた男性と自分との、ほとんど同じようなロマンスを思い描いたからである。彼女もやはりアンナと同様に、なにもかも良人に告白してしまったのである。すると、それを聞いたときのスチーヴァの驚きと、狼狽ぶりが、彼女に薄笑いを浮べさしたのである。
 こういった空想のうちに、大街道からヴォズドヴィージェンスコエ村へむかう、曲り角に近づいた。

[#5字下げ]一七[#「一七」は中見出し]

 馭者は四頭立てをとめて、右手の裸麦畑を見やった。そこには百姓たちが一台の荷車のそばに坐りこんでいた。帳場の男は飛びおりようとしたが、そのあとでまた考えなおして、百姓をさし招きながら、命令口調でどなった。馬車が動いているあいだに、顔を撫でていた微風は、とまると同時にぴったり落ちた。汗ばんだ馬が、腹だたしげに追っても追っても、虻《あぶ》がその体にびっしりへばりついた。荷車のほうから伝わっていた、鎌を研《と》ぐ金属性の音が、急にぴったりやんでしまった。百姓たちの一人が起きあがって、馬車のほうへやって来た。
「ちぇっ、あのひょろひょろしてるこたあどうだ!」まだ十分に車で乗り固められていない、ばさばさに乾いたでこぼこ道を、はだしでのろのろと歩いてくる百姓にむかって、帳場の男は怒ったようにどなった。「早くやってこんか!」
 もしゃもしゃした髪を菩提樹の皮で縛った老人が、曲った背を汗で黒ずまして、歩みを早めながら馬車に近より、日焼けのした手で泥よけにつかまった。
「ヴォズドヴィージェンスコエのお邸へおいででがすかね? 伯爵さまんとけえいらっしゃるんでがすかね?」と彼はくりかえした。「あの丘一つ越えたら、すぐ左ィ曲りなさろ、そして広い道まっすぐに行くと、突当りがそうでがすよ。ときに、おめえさまがたァどなたにご用でがすね? 御前さまかね?」
「どうだろうね、お爺さん、みなさんお家にいらっしゃるかしら?」百姓にさえ、アンナのことをどうきいたらいいかわからないで、ドリイはあいまいな調子でこうたずねた。
「きっと家さいらっしゃるだべ」はだしの足を踏み変え踏み変えして、五本の指までくっきりと埃の上に足跡を残しながら、百姓は答えた。「きっと家さいらっしゃるだべ」と、どうやらひとしゃべりしたそうな様子で、くりかえした。「つい昨日もお客さまがみえましただよ。いつもえれえお客さまでの……おう、何用だ?」荷車のそばから、何やらわめく若者のほうへふりかえってから、「ああ、そう、そう! さっきみんな馬ん乗って、麦刈り見物にここさ通らしゃったで、今ごろきっと家にいらっしゃるに違えねえ。ときに、おめえさまがたはどこからござらしゃっただね?」
「おれたちは遠方のもんだよ」と馭者が馭者台にあがりながらいった。「じゃ、もうすぐだな?」
「すぐそこだちゅうに。ちょっと出ると……」手で車の泥よけをいじりながら、老人はいった。丈夫そうながっしりした若者も、同じようにそばへよって来た。
「なんだね、とり入れのほうの仕事でもねえだか?」と彼はきいた。
「知らないよ」
「だから、つまり、左さ曲ると、すぐお邸さ突き当るだで」と百姓はいった。どうやら旅の人と別れるのが心残りで、もっとしゃべりたいらしい様子であった。
 馭者は車を進めた。が、一行が曲り角を入るか入らないかに、百姓はどなりだした。
「待ちなさろ! おうい、旅の衆! 待ちなさろ!」今度は二人、声を揃えて叫ぶのであった。
 馭者は馬をとめた。
「お邸の旦那衆がござらっしゃるだよ! そうれ、そこんとこに!」と百姓は叫んだ。「そうれ、おしかけて来さっしゃるわ!」街道づたいに進んでくる四人の騎馬の人と、四輪馬車に乗った二人を指さしながら、彼はこういった。
 それは馬に乗ったヴロンスキイと、その騎手と、ヴェスローフスキイと、アンナ、それから四輪馬車に乗ったヴァルヴァーラ公爵令嬢と、スヴィヤージュスキイであった。彼らは散歩のついでに、あたらしく着いた麦刈り機の動きぐあいを、見に来たのである。
 馬車がとまったとき、騎馬の人々はゆっくり歩き出した。先頭にはアンナと、ヴェスローフスキイが立っていた。アンナはがっちりした、背の低い、たてがみを刈りこんだ、尾の短いイギリス種の馬に乗って、おちついた並足で進んでいた。高い帽子の下から、黒い髪のはみ出した美しい首、むっちり肥えた肩、黒の乗馬服に包まれた細腰、それに全体におちついた優美な乗り方は、ドリイをはっとさせるほどであった。
 最初の瞬間、アンナが馬に乗っているのが、無作法なように思われた。女が馬に乗るということは、ドリイの考え方では、若い娘の軽い媚態《びたい》と結びついていたので、彼女にいわせると、アンナの境遇にふさわしくないのであった。けれども、彼女をちかぢかと見たとき、ドリイはすぐさま、彼女の乗馬に妥協してしまった。その優美な姿にも似ず、アンナのポーズも、衣装も、動作も、すべてがじつにさっぱりとおちついて、気品があるので、これ以上自然にはなりえないほどであった。
 アンナと並んで、スコットランドふうの帽子のリボンをなびかせながら、ヴァーセンカ・ヴェスローフスキイが、はやりにはやった灰色の騎兵馬にまたがり、ふとった両脚を前へつき出して、明らかにわれとわが姿に見とれながら、進んで来た。彼に気がつくと、ドリイは浮きうきした微笑を禁じえなかった。そのあとから、ヴロンスキイが馬を進めていた。その乗っている馬は、※[#「足へん+鉋のつくり」、第 3水準 1-92-34]《だく》をかけさせられて、はやりきったらしい、純血種の濃い栗毛であった。彼はそれをおさえようとして、手綱をさばいていた。
 そのあとには、騎手の服装をした小柄な男がつづいた。スヴィヤージュスキイと公爵令嬢は、大きな逸物の黒馬《あお》をつけた新しい四輪馬車に乗って、騎馬の人々に追いついて来た。
 古い幌馬車のすみっこにちぢこまっている小柄な婦人が、ドリイと気がついた瞬間、アンナの顔は喜ばしい微笑に輝いた。彼女はあっと叫んで、鞍の上でぶるっと身をふるわせ、馬に※[#「足へん+鉋のつくり」、第 3水準 1-92-34]《だく》をかけた。幌馬車のそばまでくると、人手を借りず馬から跳《と》びおりて、乗馬服をおさえながら、ドリイのほうへ走って行った。
「わたしはそうだろうと思いながら、まさかと思いましたよ。まあ、なんてうれしい! わたしがどんなにうれしいか、あなたにはとても想像がつかないでしょう」ドリイに顔をおしあてて接吻したり、また身をはなして、にこにことドリイを見まわしたりしながら、彼女はこういった。「アレクセイ、うれしいことがあるのよ!」馬から降りて、こちらへ近よってくるヴロンスキイをふりかえりながら、アンナは声をかけた。
 ヴロンスキイは、灰色の高い帽子をぬぎながら、ドリイのそばへよった。
「あなたに来ていただいて、僕たちがどんなにうれしいか、おそらく本当にしては下さらないでしょうね」自分のいった言葉に特別の意味を加えながら、丈夫そうな白い歯を見せてほほえみつつ、彼はこういった。
 ヴァーセンカ・ヴェスローフスキイは、馬から降りないで、例の帽子をとり、さもうれしそうに頭の上でリボンをひらひらさせながら、婦人客に歓迎の意を表した。
「このかたはヴァルヴァーラ公爵令嬢ですの」四輪馬車がそばまで来たとき、ドリイの物問いたげな視線にこたえて、アンナはそういった。
「ああ!」とドリイはいったが、その顔はわれともなしに、不満の色を現わした。
 ヴァルヴァーラ公爵令嬢は、自分の良人の叔母で、彼女は前から知っていたけれども、尊敬してはいなかった。ヴァルヴァーラ公爵令嬢は、生涯、金持の親戚の居候《いそうろう》をしてすごした。それは彼女も知っていたが、今は赤の他人のヴロンスキイの家にいるということが、良人の親戚であるだけに、ドリイに侮辱を感じさせた。アンナはその表情に気がつくと、どぎまぎして顔をあからめ、乗馬服を手から放したひょうしに、その裾を踏んづけた。
 ドリイは、そこにとまった四輪馬車に近よって、そっけなくヴァルヴァーラ公爵令嬢とあいさつした。スヴィヤージュスキイもやはり知り合いであった。彼は、あの変人の友だちが若妻といっしょに、どんな生活ぶりをしているかとたずねた後、不揃いな馬や、つぎはぎだらけな幌馬車の泥よけを、ちらと一目に見てとると、ご婦人がたは四輪馬車にお乗りになったら、と申し出た。
「ところで、私はこの『乗りもん』に乗って行きましょう」と彼はいった。「馬はおとなしいし、公爵令嬢はりっぱな馭者ですから」
「いいえ、あなたがたはそのままにしていらっしゃい」と、アンナがそばへよりながらいった。「ところでわたしたちは幌馬車でまいりましょう」とドリイの腕をとって、いっしょにつれて行った。
 ドリイは、まだ見たこともない優美な馬車や、すばらしい馬や、自分を囲む優美な輝かしい人人を見て、目がちらちらするほどであった。しかし、何よりもびっくりしたのは、よく知りぬいている、自分の好きなアンナに生じた変化である。もとアンナを知らなかった、しかもそれほど注意ぶかくないほかの女であったなら、わけても、ドリイが道々考えたようなことを考えなかった女なら、アンナに何も変ったところはない、と思ったに相違ない。
 けれども、今のドリイは、ただ恋愛の時期にのみ女に現われる一時的な美しさ、今アンナの顔に見いだしたその美しさに、はっと目を見はったのである。彼女の顔のなにもかも、――はっきりと現われている頬の笑《え》くぼも、頤《あご》も、唇の締め方も、顔のまわりを飛びめぐっているようなほほえみも、目の輝きも、動作の優美で機敏なことも、声音《こわね》の豊かさも、それからヴェスローフスキイが、彼女のイギリス馬に乗らせてほしい、右足からの※[#「足へん+鉋のつくり」、第 3水準 1-92-34]《だく》を教えたいからといったとき、それに答えた腹だたしげな、しかも優しい調子―なにもかもか特に魅力的であった。しかも、彼女自身もそれを知って、喜んでいるように思われた。
 女ふたりが幌馬車に乗ったとき、ふたりながらどぎまぎしてしまった。アンナがどぎまぎしたのは、ドリイが自分にそそいでいる注意ぶかい、物問いたげなまなざしのためであった。ドリイのほうは、スヴィヤージュスキイが『乗りもん』といったひと言から、アンナが自分といっしょに汚い古馬車に乗ったため、気がさしたのである。馭者のフィリップも、帳場の男も、同じことを感じた。帳場の男は当惑を隠すために、婦人たちを助け乗せようとして、そわそわしはじめたが、馭者のフィリップは陰気になってしまい、これから先は、こんな見てくれのよさに気圧《けお》されまい、と心がまえをした。彼は逸物の黒馬《あお》を見て、皮肉らしくにやっと笑った。この黒馬は、四輪馬車につけてプロミナージュ([#割り注]プロムナードのなまり[#割り注終わり])にはよかろうが、暑さの中をひと息に四十露里も走れっこないと、早くも決めてしまったのである。
 百姓たちは荷車のそばから立ちあがって、主客の出会いを物珍しく、楽しげに見物しながら、それぞれ感想を述べるのであった。
「やっぱうれしいと見《め》えるな、長えこと会わなかったでな」もしゃもしゃ髪を菩提樹の皮で縛った老人が、こういった。
「のう、ゲラシム小父《おじ》さ、あの黒馬《あお》さつけて麦運びしたら、はかがいくべなあ!」
「見れや! あの股引きはいてるな。女だべか!」女鞍《めぐら》にまたがったヴァーセンカ・ヴェスロースキイをさしながら、一人がこういった。
「うんにや[#「うんにや」はママ]]、男だあ。見れや、あの早く突っ走ったことを!」
「どうだね、皆の衆、どうやら昼寝はしねえと見えるな?」
「今どきなんの昼寝どこけえ!」と老人はいって、はすに太陽を見上げた。「もう午《ひる》はすぎちまったでねえか! さあ、釣《かぎ》ィ持って、はじめた、はじめた」

[#5字下げ]一八[#「一八」は中見出し]

 アンナはドリイのやせて、疲れはて、小皺に埃のたまった顔を見て、心に思ったこと、つまりドリイがやせたことをいおうとしたが、自分がいちだんと美しくなったことを思い出し、ドリイの目もそれを語っていることに気がついて、ほっとため息をつきながら、自分のことをいいだした。
「あなたはわたしを見て」と彼女はいった。「わたしのような境遇にいてしあわせになれるものかと、そう考えてらっしゃるでしょう? まあ、かまわないわ! こんなこと白状するのは恥ずかしいんだけど、わたしは……わたしは申し訳のないほど幸福なんですの。わたしの身の上には、まるで魔法みたいなことができたんですの。よく夢の中であるでしょう、怖くって息がつまりそうなのに、ふと目をさましてみると、なんにも怖いことはないのに気がつく。わたしも目をさましたんですの。わたしはとてもせつない、恐ろしいことを経験したんですけど、今ではもうずっと前から、とりわけここに移ってから、本当に幸福なんですのよ……」と彼女は臆病げな質問の微笑をうかべて、ドリイを見ながらそういった。
「わたしも本当にうれしいわ!」とドリイはほほえみながらいったが、その調子は自分で思ったより冷たかった。「わたしあんたのために、とてもうれしいわ。どうして手紙をくれなかったの?」
「どうしてって?……わたしにそれだけの勇気がなかったんですの……あなたは、わたしがどんな境遇にいるかってことを、忘れてらっしゃるんですわ……」
「わたしに手紙を書くのに? 勇気がなかったんですって? ああ、あんたにわかってもらえたらねえ、わたしはどんなに……わたしが思うのにはね……」
 ドリイは、けさ考えたことをいおうと思ったが、なぜか今は、場所柄に似合わしくないような気がした。
「もっとも、この話はあとにしましょう。あの普請《ふしん》はなんなの?」彼女は話題を変えたいと思って、アカシヤやライラックの生垣の緑ごしに見えている、赤や緑の屋根を指さしながら、こうたずねた。「まるで小さな町みたいね」
 けれども、アンナはそれに答えなかった。
「いや、いや! あなたはわたしの境遇を、どう考えてらっしゃるの、どういうご意見ですの? 聞かせて」と彼女はきいた。
「わたしの思うには……」とドリイはいいかけたが、ちょうどそのとき、イギリス馬に右足から※[#「足へん+鉋のつくり」、第 3水準 1-92-34]《だく》を踏ませることに成功したヴァーセンカ・ヴェスローフスキイが、短いジャケツを着て、女鞍《めぐら》の鞣《なめ》し革に重々しくぺたぺたと尻を落しながら、二人のそばを※[#「足へん+鉋のつくり」、第 3水準 1-92-34]で走りすぎようとした。
「うまくいきますよ、アンナ・アルカージエヴナ!」と彼は叫んだ。が、アンナはそのほうを見ようともしなかった。けれど、ドリイはまたしても、馬車の中でこんな長い話をするのは、ぐあいが悪いように感じたので、自分の考えを短く縮めていった。
「わたしはなんとも考えちゃいませんわ」と、彼女はいいだした。「わたしはいつもあんたが好きなのよ。ところで、人を愛する以上、あるがままのその人を、そっくり愛するのが本当で、こう自分であってほしい、というようなことじゃありませんわ」
 アンナは友の顔から視線をそらし、目を細めて(それはドリイの今まで知らなかった、新しい癖である)、この言葉の意味を十分に理解しようとして、じっと考えこんだ。やがて、自分の望みどおりに解釈したらしく、ちらとドリイを見やった。
「もしあなたに罪があるとしても」とアンナはいった。「あなたが来て下すったのと、いまいってくだすった言葉とで、すっかり帳消しになってしまうでしょう」
 ドリイは、彼女の目に涙が浮んだのを見てとった。彼女は無言に友の手を握りしめた。
「ところで、あの普請はなんですの? ずいぶんたくさんねえ!」つかのまの沈黙の後、彼女は前の問いをくりかえした。
「あれは使用人の住居だの、工場だの、厩だの、そんなものですの」とアンナは答えた。「そして、ここから遊園地になりますのよ。なにもかも荒れほうだいだったのを、アレクセイがすっかりもとのとおりにしましたわ。あの人はこの領地が大好きでしてね、わたしも思いがけなかったくらいですの。もう夢中になって、農場の経営に打ちこんでますのよ。もっとも、あの人は才分の豊かな人でしてね! 何に手をつけても、りっぱにやってのけますの。あの人は退屈なんかしないどころか、熱心に仕事をしていますわ。わたしの知っているかぎりでは、あの人はよく見通しのきく、りっぱな農場主になりましてね、そのほうにかけては、けちなくらいですの。もっとも、けちなのは農場経営のほうだけで、何万というお金に関係したことになると、勘定なんかしないんですからね」と、彼女はさもうれしそうな、しかもずるいところのある微笑を浮べていった。それはよく女が、自分の好きな男の性質で、自分だけが発見した秘密を語るときの微笑であった。「ほら、あすこに大きな普請が見えるでしょう? あれは新しくできる病院ですのよ。あたしの考えるには、十万以上かかるでしょうよ。これが今のところ、あの人の dada(道楽)ですの。しかも、これがどんなことではじめられたかご存じ? 百姓たちが草場を安く譲ってくれと頼んだところ(確かそうだったと思いますわ)、あの人はそれを※[#「てへん+発」、ページ数-行数]《は》ねつけたんですの。そこで、わたしがあの人のことを、けちだといって攻撃したところ、もちろん、そのためばかりじゃなくって、いろんなことがいっしょになったんですけど、あの人はこの病院の普請をはじめたんですの。どうでしょう、自分のけちでないところを見せるためなんですからねえ。まあ、それはかりに c'est une petitesse(つまらないこと)かもしれませんけれど、わたしはそのために、よけいあの人を愛していますのよ。いまにあなた家をごらんになりますが、それはお祖父さん時代からの邸で、外から見たところは、何一つ変っていませんの」
「まあ、すばらしいわねえ!」庭に繁っている老木の、濃淡さまざまな緑のあいだから見える、円柱の並んだりっぱな邸を見て、ドリイは思わず賛嘆の声を上げた。
「ね、いいでしょう? それに家の中からも、二階から見た景色なんて、すてきですのよ」
 二人の馬車は、小石を敷きつめ、花壇で飾った玄関前の広庭へ入って行った。そこでは二人の職人が、ほろほろした花壇の土を、孔の多い石で囲っていた。馬車は屋根付きの車寄せにとまった。
「ああ、あの人たちはもう着いていますわ」たったいま入口階段のそばから曵かれて行く乗馬を見て、アンナはこういった。「ね、この馬、いい馬でしょう? あれがカップなんですの。わたしの愛馬でしてね。こっちへ曳いて来て、お砂糖をやっておくれ。伯爵はどちら?」内から飛んで出た二人の接客係の従僕に、アンナはこう問いかけた。「ああ、あすこだわ!」ヴェスローフスキイといっしょに、中から出てくるヴロンスキイを見て、彼女はこういった。
「公爵夫人はどこへお入れします?」とヴロンスキイはフランス語で、アンナに問いかけたが、返事を待たないで、もう一度ドリイにあいさつし、今度はその手に接吻した。「僕は、バルコンに向いた大きい部屋がいいと思うが」
「ああ、いいえ、あすこは遠すぎますわ! それよか、かどのお部屋がよろしゅうございますわ。わたしたち、しょっちゅう会うんですから。さあ、まいりましょう」とアンナは、従僕の持ってきた砂糖を馬にやりながらいった。
「Et vous oubliez votre devoir.(あなたはご自分の義務をお忘れですのね)」同じく入口階段へ出て来たヴェスローフスキイに、彼女はそういった。
「Pardon j'en ai tout plein les poches.(ごめんなさい、ポケットにいっぱいもってるものですから)」と、こちらはポケットのチョッキに指をつっこみながら、笑顔で答えた。
「Mais vous venez trop tard.(でも、あなたのいらっしゃりようが遅すぎるんですもの)」砂糖をやるとき馬に濡らされた手を、ハンカチで拭きながら、彼女はそういった。
 アンナはドリイのほうへふりむいた。
「あなた、ごゆっくりおできになって? それとも一日きり? そんなことだめですよ!」
「わたし、そういう約束で来たんですもの、それに子供たちが……」とドリイは、われながらどぎまぎした気持で、そういった。それは、幌馬車の中からハンド・バッグをとってこなければならぬからでもあったし、また自分の顔が埃まみれなのを知っていたからでもある。
「だめよ、ドリイ、後生ですから……まあ、今にわかりますわ。さ、まいりましょう、まいりましょう!」といって、アンナはドリイをその部屋へ案内して行った。
 その部屋は、ヴロンスキイのいった本座敷ではなく、アンナの言葉を借りると、ドリイにあやまらなくてはならぬような部屋であった。が、そのあやまらなくてはならないような部屋さえ、ドリイがいままで、かつて住んだことのないようなぜいたくなもので、外国の一流のホテルを連想さすのであった。
「ああ、ほんとにこんなうれしいことないわ!」乗馬服のままで、ちょっとかりにドリイのそばに腰をおろしながら、アンナはこういった。「子供たちのことを話して聞かしてちょうだいな。スチーヴァにはほんのちょっと会いましたけど。でもあの人には、子供の話なんかできないんですもの。わたしの大好きなターニャはどうしています? もう大きくなったでしょうね、きっと?」
「ええ、とても大きくなりましたわ」とドリイは言葉みじかに答えたが、子供のことをこんな冷淡な調子で答える自分に、われながらあきれる思いであった。「わたしたち、レーヴィン家で楽しく暮していますのよ」と彼女はつけ加えた。
「じつはね」とアンナはいった。「あなたがわたしをさげすんでいらっしゃらないことがわかっていたら……みなさんで家へ来て下さるとよござんしたのに。だって、スチーヴァとアレクセイは、古くから大の仲良しだったんですもの」と彼女はいい足して、ふいに真赤になった。
「そうね、でもわたしたち、いまでも気持よく暮していますから……」とドリイはもじもじしながら答えた。
「そうね。もっとも、わたしうれしまぎれに、ばかなことばかりいってますわ!」とアンナは、また嫂《あによめ》に接吻しながらいった。「でも、あなたはわたしのことをなんと、どんなふうに考えてらっしゃるか、それをまだおっしゃいませんでしたわね。わたし、それが聞きたくてたまらないんですの。だけど、あなたにありのままの自分を見ていただけるのが、わたしとてもうれしいんですのよ。わたし何よりも、自分が何かを証明したがっているなんて、そんなことを人から思われたくありませんわ。わたし、なんにも証明しようとは思いません。わたし、ただ生きたいだけですの。自分以外のだれにも、悪いことをしたくないと思うだけですわ。それだけの権利は、わたしにもありますわね、そうじゃなくって? もっとも、こんなことをいいだしたら、長い話ですから、あとでなにもかもゆっくりお話しましょうね。これからわたし着替えにまいりますわ。ここへも小間使をよこしますから」

[#5字下げ]一九[#「一九」は中見出し]

 一人きりになると、ドリイは主婦の目で自分の部屋を見まわした。邸へ近づいてくる途中、またその中を通ってくるあいだじゅう、それから自分の部屋へおちついた今、すべて彼女の目に入るものは、これまでイギリス小説の中で読んだばかり、ロシヤでは、しかも田舎では、ついぞ見たこともないような、新しいヨーロッパふうの奢侈と、華美と、豊富の印象を与えた。フランスふうの新しい壁紙をはじめとして、部屋いっぱいに敷きつめてあるカーペットにいたるまで、なにもかも新しかった。寝台はマット付きのバネ入りで、枕|上《がみ》には特別な飾りがついており、いくつか重ねた小さなクッションには、絹の枕おおいがしてあった。大理石の洗面台、化粧机、小さなソファ、テーブル、壁炉《カミン》の上の青銅の置時計、巻カーテン、帷《とばり》――すべて高価な新調品であった。
 ご用をききに来た小間使は、着物から髪かたちまで、かえってドリイよりも流行のふうをしていて、部屋ぜんたいと同じように、高価な新品であった。ドリイは、この小間使がていねいで、こざっぱりしていて、まめまめしいのが気持よかったけれど、なんとなく間が悪かった。ちょうど、運悪く、まちがって持ってきた補布《つぎ》のあたった短上着《コフタ》のために、きまりの悪い思いをさせられたのである。わが家ではあれほど自慢にしていたつぎはぎが、ここでは恥ずかしかったのである。家では事情がはっきりしていた。六枚の短上着《コフタ》をつくるのに、尺《アルシン》六十五コペイカの生地が二十四|尺《アルシン》いる、したがって、飾りや仕立てを別にしても、合計十五ルーブリ以上になるが、その十五ルーブリを倹約したわけである。ところが、この小間使の前では、あながち恥ずかしいというのではなく、ばつが悪いのであった。
 古いなじみのアンヌシカが、部屋の中へ入って来た時、ドリイはしんからほっとした。おしゃれの小間使は、奥さまの方へ呼ばれていったので、アンヌシカはドリイと二人きりになった。
 アンヌシカは、オブロンスキイの奥さまの来訪がうれしくてたまらぬ様子で、のべつ幕なしにしゃべりつづけた。彼女は自分の奥さまの境遇や、とりわけアンナにたいする伯爵の愛情と信服について、自分の考えを述べたがっているのに、ドリイは気がついた。けれども、相手がその話をもちだしそうにすると、ドリイはつとめてそれをおさえるようにした。
「わたくしは、アンナ・アルカージエヴナとごいっしょに育てられましたので、わたくしにとっては、あのかたが何よりもいちばん大切なのでございます。それはもう、わたくしどもがとやかく申すことではございませんけれど、もうあんなに思い合うということは……」
「ではね、お願いだから、これを洗濯に出してちょうだいな。もしよかったら」とドリイは話の腰を折った。
「かしこまりました。こちらには洗濯だけに、女が二人べつに雇ってございましてね、みんな機械で洗濯するのでございますよ。御前さまがなにもかも、みんなご自分でお指図をなさいましてねえ、あんな旦那さまはそれこそ……」
 そのときアンナがはいって来て、そのためにアンヌシカのおしゃべりがとぎれたので、ドリイはやれやれと思った。
 アンナは、きわめてあっさりした精麻《バチスト》の服に着替えていた。ドリイはそのあっさりした服を、仔細《しさい》にながめた。このあっさりした趣味が、いかなる価値を有し、またどれだけの金を要したかを、彼女は知っていた。
「古いおなじみでしょう」とアンナはアンヌシカをさしていった。
 アンナは今はもじもじしなかった。彼女はすっかりおちついて、自由な態度になっていた。いま彼女は、ドリイの来訪によってひき起された印象を、征服してしまって、表面的な無関心の調子になっているのが、ドリイの目にもとまった。それは彼女の感情や、大切な思念をしまっている心の房《へや》の扉を、ぴったり閉めきったようなぐあいであった。
「ときに、あんたの赤ちゃんはどんなふうなの、アンナ?」とドリイはたずねた。
「アニーですの?(彼女は自分の娘のアンナをそう呼んでいた)丈夫ですわ。もうすっかりよくなりましたの。あなた、ごらんになりたい? じゃ、まいりましょう、お目にかけますわ。保姆《もり》のことで、とてもめんどうなことがいろいろとありましてね」と彼女は話しはじめた。「わたしどもは、イタリー人の乳母を置いていましたが、いい女なんですけど、とても頭がわるいんでしてね! いっそ国へ帰そうかと思ったんですが、アニーがすっかりなついてしまったので、やはりそのままにしていますの」
「でもあんたがた、どんなふうになすったの?……」とドリイはいいかけた。女の子がどちらの姓を名乗ることになったのか、それをききたかったのだけれども、アンナの顔が急に曇ったのに気がついて、問いの意味を変えてしまった。「どういうふうになすって? もう乳をお離しになったの?」
 けれど、アンナは悟ってしまった。
「あなたがきこうとなすったのは、そんなことじゃないでしょう? あなたはあの子の苗字《みょうじ》のことがききたかったんでしょう? あたったでしょう? そのことでは、アレクセイも苦しんでいますわ。あの子には苗字がないんですもの。いえ、あの子はカレーニナですけどね」合わさった上下の睫毛《まつげ》しか見えないほど目を細めて、アンナはこういった。「もっとも」と、ふいに明るい顔になって、「このことはあとでよくお話しましょう。さあまいりましょう、あの子をお目にかけますから。〔Elle est tre`s gentille〕(とてもおとなしいんですのよ)。もうはいはいしていますわ」
 家じゅうどこへ行っても、ドリイの目をそばだたした豪奢さが、子供部屋ではなおいっそう、彼女に感嘆の目を見はらせた。そこには、イギリスから取りよせた小さな車、歩くための練習の器械、それからはいはいのために特別に設けられた玉突き台に似たソファ、揺《ゆ》りかご、一種特別な新しい浴槽などがあった。それらはみなイギリス製の、がっちりした上質のもので、ちょっと見ただけでも、きわめて高価なものらしかった。部屋も大きくて、非常に天井が高く、それに明るかった。
 二人が入って行ったとき、女の子は肌着一枚で、テーブルのそばの小さな肘椅子に坐って、スープを吸わしてもらっていたが、胸のあたりはびしょびしょになっていた。子供部屋の雑用をするロシヤ人の女中が、赤ん坊を養ってやりながら、どうやら自分もいっしょに、ごちそうになっていたらしい。乳母も保姆もいなかった。この二人は次の間にいて、そこから奇妙なフランス語の話が聞えてきた。彼女たちはその言葉でやっとおたがい同士、意志を通じ合うことができたのである。
 アンナの声を聞きつけて、しゃれたなりをした、背の高い、不快な顔をした、不純な表情のイギリス女が、白っぽい髪をふり立てながら、せかせかと戸口から入ってきて、アンナが何一つ小言をいったわけでもないのに、すぐさまいいわけをはじめた。アンナがひと口いうたびに、イギリス女は急いで、「Yes my lady(はい、奥さま)」といくたびでもいうのであった。
 眉毛と髪が黒くて、顔の紅い、鶏肌の丈夫そうな赤い体をした女の子は、見なれない顔をじっと見たときのきびしい表情にもかかわらず、ドリイの気に入ってしまった。彼女は、その丈夫そうな様子が、うらやましくなったほどである。その子のはいかたも、やはりひどく彼女の気に入った。ドリイの子供は一人も、こんなはいかたをしなかった。この子は、カーペットの上におろされて、着物の裾をかかげてもらったとき、思わず見とれるほどかわいかった。まるで小さな野獣のように、輝かしい黒い瞳で、大人たちを見まわしながら、みんなが自分を見とれているのが、いかにもうれしそうな様子で、にこにこしながら、足を横っちょに向け、両手にうんと力を入れてつっぱると、勢いよく胴体をぐっと前へ引きつけて、また両手をさきのほうへのばすのであった。
 しかし、子供部屋ぜんたいの空気と、ことにイギリス女が、ひどくドリイの気にくわなかった。アンナのように人を見る目をもった女が、こんな感じの悪い、下品なイギリス女を、自分の子供につけておくのは、アンナの作っているような正常でない家庭へは、りっぱな婦人が雇われてこないからだ、とそうよりほかには、ドリイも解釈のしようがなかった。のみならず、アンナと、乳母と、保姆と、赤ん坊は、どうも一つに溶け合っていないで、母親がここを訪ねてくるのは異例に属するということを、何かの言葉の端から、ドリイは悟ったのである。アンナは子供に玩具《おもちゃ》をとってやろうとして、それを見つけ出すことができなかった。
 何よりもあきれたことには、赤ん坊の歯が何本生えているかときかれたとき、アンナはその答えを誤った。最近生えた二本の歯のことは、ぜんぜん知らなかったのである。
「わたしどうかすると、自分がここではよけいな人間だと思うと、苦しくなることがありますのよ」子供部屋を出ながら、戸口にあった玩具をのけるために長裳《トレーン》をかかげて、アンナはそういった。「はじめての子のときは、こんなふうじゃなかったんですけど」
「わたしその反対だと思ってましたわ」とドリイは臆病そうにいった。
「いいえ、違いますわ! だって、あなたご存じでしょう、わたしがあの子に会ったことを、セリョージャに」とアンナは、さながらはるかな何ものかを見るように、目を細めながらいった。「もっとも、その話はあとにしましょうね。あなた、とても本当にできないでしょうが、わたしはまるで飢えきったものが、急に山ほどのごちそうを出されたので、何から先に手をつけていいかわからない、ちょうどそれと同じことなんですのよ。山ほどのごちそうというのは、ほかでもない、あなたのことなの! これからあなたとしようと思っている、いろいろなお話のことなの。そういう話は、ほかのだれともできませんからねえ。だから、わたしどの話から始めていいかわかりませんのよ。〔Mais je ne vous ferai gra^ce de rien.〕(でも、わたし何も遠慮してるわけじゃありませんの)。わたし、なにもかもいってしまわなくちゃなりません。そう、そう、これから家でお会いになる人たちのことを、ひととおり説明しておかなくちゃなりませんわねえ」と、彼女はいいだした。「まず婦人のほうから申しますと、第一がヴァルヴァーラ公爵令嬢ですが、あなたあのことご存じですわね。あなたとスチーヴァが、あのひとのことをどう考えてらっしゃるかも、わたしちゃんと知っていますわ。スチーヴァにいわせれば、あのひとの人生の目的は、カチェリーナ・パーヴロヴナ伯母さまより、自分のほうがえらいってことを、証明することなんだそうですが、それは全くそのとおりだとしても、あのひとはいい人ですわ。それにわたし、あのひとに心から感謝していますの。ペテルブルグにいるころ、わたしいっとき、どうしても un chaperon(付添婦人)の要《い》ることがありましてね、そのときちょうど、あのひとが現われたってわけですの。でも、全くあのひとはいい人ですのよ。あのひとのおかげでわたしの境遇の苦しさが、ずいぶん楽になったんですもの。どうやらお見受けしたところ、あなたはわたしの境遇の苦しさが、十分にわかっていらっしゃらないようね……。あのペテルブルグにいたときのことですの」と彼女はつけ足した。「ここではわたし、すっかり気持がおちついて、幸福でいます。でも、この話もあとにしましょう。ほかの人たちのことも、順々にお話しなくちゃね。次はスヴィヤージュスキイですが、あの人はここの貴族団長で、なかなかりっぱな人なんですの。ただあの人は何かアレクセイに頼みごとがありましてね。あなたもおわかりでしょうが、今度わたしたちが田舎へおちつくことになってから、アレクセイはあれだけの財産を持っているものですから、大変な有力者になったわけですの。それからトゥシュケーヴィッチ、あなたお会いになったことがあるでしょう。もとベッチイのとこにいたんですけど、今度お払い箱になったものですから、わたしどもの方へ来たわけですの。あの人は、アレクセイの言葉を借りますと、ご当人が見せかけようとするとおりの人物として受け取れば、非常に気持のいい人間の一人なんだそうです。それに、ヴァルヴァーラ公爵令嬢にいわせると、Et puis, il est comme il faut(とても申し分のない人ですからね)それから、ヴェスローフスキイ……かれはあなたもご存じですわ。とてもかわいい坊っちゃんですの」と彼女はいったが、いたずらっ子らしい微笑がその唇を皺《しわ》めた。「あのレーヴィンとのいきさつは、なんと乱暴な話でしょう? ヴェスローフスキイがアレクセイに話して聞かせたんですけど、わたしたちほんとにできませんわ。〔Il est tre`s gentil et nai:f〕(とてもおとなしくって、無邪気な人なもんですものね)」と彼女はまた、例の微笑を見せていった。「男の人には、気の紛れることが必要なもんですから、アレクセイにもいろいろと、お仲間が要《い》るわけなんですの。ですから、わたしもあの人たちを大事にしていますのよ。家の中を生きいきとにぎやかにして、アレクセイが何も新しいことを望まないように、しなくちゃなりませんからね。それから、今に支配人をごらんになるでしょう。ドイツ人ですけれど、とてもいい人間で、仕事もよくできるものですから、アレクセイは大変この人を高く買っていますわ。それから、お医者さまがいます。若い人で、ずぶの虚無主義者ってわけじゃありませんが、まあ、どうでしょう、ナイフでものを食べるんですのよ……でも、なかなかいいお医者さんですわ。それから、もう一人は建築技師…… Une petite cour(ちょっと宮廷といった形ですわ)」

[#5字下げ]二〇[#「二〇」は中見出し]

「さあ、小母さま、ドリイをお連れしましたよ、あなたずいぶん会いたがっていらっしゃいましたわね」ドリイといっしょに、大きな石畳のバルコンヘ出ながら、アンナはこういった。そこには、日陰になったところで、ヴァルヴァーラ公爵令嬢が刺繍台にむかって、アレクセイ・キリーロヴィッチ伯爵のために、肘掛椅子のカヴァーをぬいとっていた。「このひとは、晩のお食事まで、何もほしくないっておっしゃるんですけど、何かひと口食べていただくように、あなたからお指図してくださいませんか。わたしアレクセイをさがしに行って、みなさんをお連れしてきますから」
 ヴァルヴァーラ公爵令嬢は愛想よく、そしていくらか保護者めいた態度で、ドリイを迎えると、すぐさま説明にかかった。わたしがアンナのところで暮しているのは、もう前から、姉のカチェリーナ・パーヴロヴナ(これはアンナを養育した人である)よりも、あれを愛していたからであるが、みんながアンナを見すててしまった今となっては、この一番つらい過渡期にあれを助けてやるのが、自分の義務と思うからです、というのであった。
「そのうちに、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチが、離縁を承知してくれたら、そのときはわたし、またもとの独り暮しにかえります。ところが、今のうちは、わたしもあれの役に立ちますから、ずいぶんつらいことがありますが、自分の義務をつくします。だって、他人とは違いますからね。それにしても、おまえは感心だね、本当によく来てやってくれました! あの二人はどこへ出しても恥ずかしくない、りっぱな夫婦のように暮しておりますよ。あの二人を裁くのは神さまで、わたしたちの知ったことじゃありません。だって、ピリュゾフスキイとアヴェーニエヴアにしても……それに例のニカンドロフだって、それからヴァシーリエフとマーモノヴァにしても、リーザ・ネプトゥノヴァにしても……だれもあの人たちのことを、なんともいわなかったじゃありませんか? そして、とどのつまり、みんなあの人たちとつきあうようになりました。それに、〔c'est un inte'rieur si joli, si comme il faut. Tout-a`-fait a` l'anglaise. On se re'unit le matin au breakfast et puis on se se'pare.〕(この家の中が本当に楽しくって、しかも礼儀正しくって、すっかりイギリスふうなんです。朝の食事のときみんな顔を合わせて、それからめいめい別れわかれになるんですよ)。晩餐の時までは、みんな自分の好きなことをすることになっています。晩餐は七時なの。スチーヴァがおまえをここへよこしたのは、大変いいことです。あの人もここの二人と、関係を続けたほうが得ですもの、おまえもおわかりのとおり、あの人はお母さまと兄さまの手を通したら、どんなことでもおできになるんだからね。そればかりでなく、あの人はずいぶん善根を施していますよ。あの人はおまえに病院のことをおっしゃらなかった? Ce sera admirable.(さぞりっぱなものになるでしょうよ)なにもかも、パリからとりよせなすったんだからねえ」
 二人の話は、アンナに腰を折られた。彼女は男連中を玉突き部屋で見つけて、みなといっしょにテラスヘひっ返したのである。晩餐まではまだだいぶ時間があったし、天気もよかったので、この残った二時間をすごすために、いくつかの案がもちだされた。ヴォズドヴィージェンスコエでは、時をすごす方法はいくらでもあったが、それはすべてポクローフスコエとは違っていた。
「Une partie de lawn tennis.(テニスをひと勝負しましょう)」と、ヴェスローフスキイが美しい微笑を浮べながら提議した。「アンナ・アルカージエヴナ、またあなたと組みましょう」
「いや、暑いから。それより庭を散歩して、ボートに乗ることにしよう。ダーリヤ・アレクサンドロヴナに、両岸の景色を見せるから」というのは、ヴロンスキイの提案であった。
「私はなんにでも賛成です」とスヴィヤージュスキイがいった。
「わたしの思うには、ドリイは散歩がいちばんいいでしょう、そうじゃありません? ボートはそれから後にしましょう」とアンナはいった。
 そういうことにきまった。ヴェスローフスキイ[#「ヴェスローフスキイ」は底本では「ヴェスローフキイ」]とトゥシュケーヴイッチは、川の水浴場へ行って、そこでボートの準備をしたうえ、みんなを待っていると約束した。
 二組の男女が、小径《こみち》づたいに歩き出した、アンナとスヴィヤージュスキイ、ドリイとヴロンスキイとである。ドリイは、いま自分をとり囲んでいる新しい環境に、いくらか気づまりを感じて、不安をいだいていた。抽象的、理論的には、彼女もアンナの行為を認めていたばかりか、かえっていいことのようにさえ思っていた。概して、一点非の打ちどころのない貞淑な女というものは、その貞淑な生活の単調さに疲れたとき、遠くのほうから不倫の恋を見て、これを赦す気になるのみか、むしろうらやむほどである、なおそのほか、彼女は心からアンナを愛していた。しかし、現実の彼女が、ドリイにとって縁のない人々にとり巻かれているのを見、またこれらの新しい人々の上品な調子に接したとき、彼女はどうもばつが悪かった。ことに不愉快なのは、自分の享楽している生活の便宜のために、いっさいを赦しているヴァルヴァーラ公爵令嬢であった。
 概して、抽象的には、ドリイもアンナの行為を是認していたが、その行為の原因となった男を見るのは、彼女にとって不快であった。のみならず、彼女はヴロンスキイをいつも虫が好かなかったのである。彼女はヴロンスキイを、ひどく高慢ちきな人間のように見なしていたが、しかも彼という人間に、財産以外、なにも誇るべきものを見いだすことができなかったのである。ところで、彼のほうは自分の家にいるために、知らずしらず、前よりもっとドリイの前でぶる[#「ぶる」に傍点]ようなところがあったので、彼女はヴロンスキイといっしょにいると、どうしても自由な気持になれないのであった。ドリイが彼にたいして感じた気持は、自分の短上着《コフタ》のために、小間使にたいして感じた気持に似かよっていた。小間使の前で、自分のつぎあてのために、べつだん恥ずかしいというわけではないが、ばつの悪い気持がしたのと同じように、ヴロンスキイの前へ出ると、彼女はいつも自分自身のために、恥ずかしいというのでもないが、ばつの悪い思いをするのであった。
 ドリイは、自分がどぎまぎしているのを感じて、何か話題を見つけ出そうとした。家や庭を賞めたりするのは、権高い性質の彼には、気に入らないだろうとは感じたけれども、ほかに話の種を考えつくことができなかったので、彼女はとうとうヴロンスキイにむかって、お宅がとても気に入りました、といった。
「ええ、あれは非常に美しい建物です。いい意味の古風なスタイルでしてね」と彼はいった。
「わたしはお玄関の前の広庭がとても気に入りましたわ。あれはもとからあのとおりでしたの?」
「いいえ、そうじゃありません!」といった彼の顔は、満足のあまり輝きわたった。「この春のあの広庭を、あなたのお目にかけたかったですよ!」
 それから彼は、はじめ控えめであったが、そのうちにだんだん夢中になりながら、邸や装飾の細かな点に、彼女の注意をうながしはじめた。見受けたところ、ヴロンスキイは自分の荘園の改良と美化に、少なからず力をそそいだので、新しい客の前で自慢をしたいという要求を感じたらしく、ドリイの賛辞をしんから喜んだ。
「もし病院を見たいとお思いでしたら、そしてお疲れでなかったら、すぐそこなんですがね。行ってみましょう」といいながら、本当に相手が退屈していないか確かめるために、彼女の顔色をうかがった。
「おまえも行くかね、アンナ?」と彼女のほうへふりむいた。
「ごいっしょにまいりましょう、よろしいでしょう?」と彼女は、スヴィヤージュスキイに話しかけた。「Mais il ne faut pas laisser le pauvre Veslovsky et Touchkevitch se morfondre dans le bateau.(でも、ヴェスローフスキイとトゥシュケーヴィッチを、あのボートのなかで待ちぼうけさせちゃかわいそうですわ)だれかやって、そういわせなくちゃ。――ええ、それはね、あの人がここへ立てようとしている記念碑ですの」前に病院の話をした時と同じ、いかにも心得ているような、ずるそうな微笑を浮べながら、彼女はドリイの方へ向いてそういった。
「いや、大変な事業ですな!」とスヴィヤージュスキイはいった。しかし、ヴロンスキイにお太鼓をたたいていると思われたくないので、彼はすぐさま、やや非難をこめた調子でつけ加えた。「しかしね、伯爵、私がふしぎに思いますのは」と彼はいった。「民衆のために衛生方面でこれだけたいしたことをなさりながら、学校事業にたいして、いっこう無関心でいらっしゃることです」
「〔C'est devenu tellement commun, les e'coles〕(それはもうすっかり月並みになってしまいましたからね、学校なんか)」とヴロンスキイはいった。「わかってくださるかどうか、私そういう意味でなく、つい熱中してしまったんですよ。では、病院はこっちのほうです」並木道から横へそれる径《こみち》を、ドリイにさして見せながら、彼はこういった。
 婦人たちはパラソルを開いて、横の径へ出た。いくつかかどを曲って、小さなくぐりの外へ出ると、ドリイは前の方の高台にそびえている。大きな、美しい、凝った形の建物を見た。もう普請はほとんど終っていて、まだペンキを塗らない屋根が、強い日光にまぶしく光っていた。落成した建物のそばに、もう一つ新しいのが起工され、ぐるりにいっぱい足場がかけてあった。前掛をした職人たちが、足場の下で煉瓦積みをしていたが、桶《おけ》から漆喰《しっくい》を流しては、鏝《こて》でならしていた。
「お宅の仕事は、ずいぶんはかがいきますな!」とスヴィヤージュスキイがいった。「この前うかがったときは、まだ屋根ができていなかったのに」
「秋までには、すっかり落成いたしますの。中のこまかいところは、おおかたもうできあがっていますから」とアンナはいった。
「ところで、この新しいほうはなんですか?」
「それは医者の住居と薬局です」とヴロンスキイは答えたが、むこうから短い外套を着た建築技師がこちらへやって来るのを見ると、婦人たちにわびをいって、そのほうへ歩いて行った。
 職人たちが石灰を取り出している坑《あな》をぐるりとまわって、彼は建築技師といっしょに立ちどまり、なにやら熱心にしゃべりだした。
「破風《はふ》がやっぱり低いんだよ」どうしたのかというアンナの問いにたいして、彼はそう答えた。
「わたし、土台を上げなくっちゃと申しましたでしょう」とアンナはいった。
「さよう、もちろん、そうすればよかったのですが、アンナ・アルカージエヴナ」と技師はいった。「しかし、もう時機を失しましたから」
「ええ、わたしとても、こういうことに興味があるんですの」アンナが建築のことに詳しいのに感嘆したスヴィヤージュスキイに、彼女はそう答えた。「新しい建物は、病院につりあわなければならないのですけど、後から考えついたものですから、設計もなしにはじめてしまいましてね」
 建築技師との話を終ってから、ヴロンスキイは婦人たちのほうへ帰って来て、病院の内部を案内した。
 外のほうはまだ軒蛇腹《のきじゃばら》の仕上げさいちゅうだし、階下ではペンキを塗っているのに、二階はもうほとんど全部が完成していた。広い鋳鉄《ちゅうてつ》の階段を昇って、小広いところへ出ると、彼らはとっつきの大きな部屋へ入った。壁は大理石まがいに塗られ、大きな一枚ガラスがもう窓々にはめられて、ただ寄せ木の床が完成していないだけであった。持ち上げた角板に鉋《かんな》をかけていた指物師が、仕事をやめ、髪を縛っていた紐をとって、旦那さまにあいさつをした。
「これが受付の部屋です」とヴロンスキイがいった。「ここには写字台と、テーブルと、戸棚のほか、なんにも置きません」
「どうぞこちらへ、こうまいりましょう。あなた、窓のそばへよらないで」とアンナは、ペンキが乾いたかどうか試しながらいった。「アレクセイ、ペンキはもう乾いてますわ」と彼女はつけ足した。
 受付室から、一行は廊下へ出た。ここでヴロンスキイは、新式の換気装置を見せた。それから、大理石の浴室や、変ったバネのついた寝台を見せた。つづいて次ぎつぎと、病室と物置、洗濯物入れの部屋を見せた後、新しい装置の暖炉、それから、必要な品を廊下づたいに運んでいくとき、音を立てない手押車、その他さまざまなものを見せた。新しい発明なら、なんでも知っているスヴィヤージュスキイは、これらすべてのものに敬意を表した。ドリイは、いままで見たこともないものばかりなので、ただもう驚嘆の目を見はるばかりであった。そして、なにもかも知ろうとして、いちいちくわしく質問したが、それがいかにも、ヴロンスキイにとってうれしそうであった。
「いや、これはロシヤでたった一つの、完全な設備をもった病院でしょうよ」とスヴィヤージュスキイはいった。
「こちらには、産科はおおきになりませんの?」とドリイはたずねた。「これは田舎では、たいへん必要なものでございますわ。わたしもよく……」
 すると、いつものいんぎんさにも似ず、ヴロンスキイはそれをさえぎった。
「ここは産院じゃなくって、病院なので、伝染病以外のあらゆる病気を、目標にしているのです」と彼はいった。「ああ、これを一つ見てください……」と彼はドリイのほうへ、回復期の患者用として、新しくとりよせた肘椅子をおし出した。「あなた、ちょっとごらんください」といって、彼はその椅子に腰かけて、動かしはじめた。「患者は歩くことができないのです、まだ力がないか、それとも足が悪くってね。ところが、患者にとっては、新鮮な空気が必要です。そこで、これに坐って、自分で動かして行く……」
 ドリイはすべてのものに興味をもった。彼女はなにもかも気に入ったが、なにより気に入ったのは、この自然で素朴な熱中ぶりを示す、当のヴロンスキイであった。
『そうだわ、この人はとてもかわいい、いい人なんだわ』彼の言葉を聞いているのではなく、その顔を見ながら、彼女はときおりそう思った。そして、彼の表情にじっと深く見入りながら、心ひそかにアンナの立場に身をおいてみた。彼の生きいきとした様子が、すっかり気に入ってしまったので、彼女はアンナが彼に打ちこんだ理由がわかってきた。