『アンナ・カレーニナ』7-01~7-10(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#2字下げ]第七編[#「第七編」は大見出し]


[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]

 レーヴィンはもう足掛け三ヵ月モスクワで暮していた。この方面のことに詳しい人たちの、正確無比な計算で予定されていたキチイの分娩の時期は、とっくにすぎてしまった。彼女はいぜんとして、大きなお腹をかかえていたが、どう見ても、二月前より今のほうが産期に近いとは思われなかった。医師も、産婆も、ドリイも、またとりわけ、だんだん迫ってくる出来事を恐怖の念なしには考えることのできなかったレーヴィンも、焦燥と不安を感じはじめた。ただキチイばかりはおちつきはらって、幸福な気持でいた。
 今や彼女は未来の、いな、ある程度すでに現在の赤ん坊にたいする、新しい愛情の誕生を、自分の内部にはっきりと感じて、愉楽の念をいだきながら、その感じに耳を傾けていた。赤ん坊はもはや完全に彼女の一部分ではなく、ときには彼女から独立した自分の生活で生きていた。彼女はそのために、しばしば痛みを感じさせられたけれども、同時に奇妙な新しい喜びに、笑いだしたくなるのであった。
 彼女の愛する人々はすべて身近にあり、だれもが彼女に優しくして、いろいろせわをやいてくれ、万事につけて気持のいいようにばかり仕向けてくれたので、もしこれがまもなくおしまいになるということを承知もせず、感じもしなかったら、彼女はこれ以上たのしく、気持のいい生活を望むこともできなかったであろう。ただ一つこのすばらしさをそこなうものは、良人が自分の好きなような良人、つまり、田舎にいた時分のような良人でなくなったことである。
 彼女は、田舎にいたころの良人の、おちついた、優しい、客好きの態度が好きであった。ところが、都会へ出て来てからは、おちつきがなくなって、ひょっとだれかが自分を、ことに妻を侮辱しはしないかと恐れてでもいるかのように、いつも警戒しているようなふうであった。あの田舎にいたころは、明らかに、自分がおのれの位置にいることを心得ていたらしく、どこへも急ごうともせず、何か仕事をしていないときはなかった。ところが、この都会へ来てからは、まるで何か仕落しはせぬかと恐れてでもいるように、始終せかせかしていたが、そのくせなにもすることはないのであった。で、彼女は良人が気の毒になった。ほかの人にとっては、彼は決してみじめな人間には見えなかった、それは彼女も承知していた。それどころか、キチイは人々の中にまじったとき、愛する人が他人にどんな印象を与えるか確かめようと思って、他人でもながめるように、嫉妬を感じはしないかと恐れさえいだきながら、良人をながめたけれども、彼はみじめでないどころか、魅力さえもっていた。りっぱな紳士らしい態度、婦人にたいしていささか旧式ではあったけれども、内気らしいいんぎんな応対ぶり、たくましい風采、特に表情に富んでいる、と彼女には思われた顔などの魅力である。しかし、彼女は良人を外面からではなく、内部からながめていた。彼女は、良人がここでは本当の良人でないことを見てとった。それよりほかに、彼女は良人の状態を定義することができなかった。ときには、良人が都会で生活するすべを知らないのを、心の中で非難した。が、またときには、ここで満足がいくように生活を築くのは、まったくむずかしいことだと自認するのであった。
 事実、彼に何をすることがあろう? カルタを闘わすことは嫌いだし、クラブへも出入りしない。オブロンスキイのように陽気な男連中と交際するのが、どういうことを意味するかは、今では彼女にもすでにわかっていた……それは酒を飲んだうえに、どこかへくりだすことであった。そういう場合、男がどこへ行くかを、彼女は恐怖の念なしには考えることもできなかった。では、社交界に出入りするか? しかし、そのためには、若い女との接近に満足を見いださなければならないのは、彼女にもわかっていた。が、それは彼女として望むわけにいかない。では、家にいて、自分や、母や、姉たちと時をすごしたらいいか? しかし、キチイにとって、いつもいつも同じ話、老公爵の『アリーナ・ナージナ』と称する姉妹同士の話が、どんなに気持がよく楽しかろうと、良人にとって退屈なのは、彼女にもわかっている。では、そのほか良人にとって何をすることがあろう? 自分の著述の続きを書くことか? 彼はこれもやろうとしてみた。はじめは図書館へ通って、自分の著書のために調べや書抜きをしたが、妻に話したところによると、彼は何もしないでいればいるほど、ますます暇がなくなるのであった。のみならず、彼はこんなことまで妻に訴えた。彼はここであまりたくさん、自分の本のことをしゃべりすぎたので、思想がすっかり混乱して、興味を失ってしまったのである。
 この都会生活のありがたさの一つは、ここへ来てから、夫婦のあいだに一度もいさかいの起らないことであった。それは都会生活の条件が別なためか、それとも夫婦が二人ながらこの点で用心ぶかくなり、分別がついてきたためか、都会へ越してくるときあれほど心配した、嫉妬がもとの夫婦喧嘩は、モスクワでは少しももちあがらなかった。
 この点で、二人にとってきわめて重大な、とさえいえる一つの事件が起った。ほかでもない、キチイとヴロンスキイの出会いである。
 キチイの名付け親である老公爵夫人、マリヤ・ボリーソヴナは、いつもひどくキチイをかわいがっていたが、ぜひとも彼女に会いたいといいだした。キチイは身重の体なので、どこへも行かないことにしていたが、父親とともに、この尊敬すべき老夫人を訪問して、そこでヴロンスキイに出会ったのである。
 この対面のとき、キチイはその文官服姿のうちに、かつてあれほど親しかった顔かたちを見分けたとき、思わず息がつまりそうになり、血が心臓にどっとおしよせて、自分でもわかるほど、顔が真赤になった。彼女があとで自分を責めることができたのは、ただそれだけであった。しかし、それはただ数秒のあいだのことであった。わざと大きな声でヴロンスキイと話していた父親が、まだ話を終らぬうちに、彼女はもうすっかり、ヴロンスキイを見る心がまえができていた。もし必要とあらば、公爵夫人マリヤ・ボリーソヴナと話したのと同じように、彼と言葉をかわすことさえ辞さなかった。何よりもかんじんなのは、言葉や調子や微笑のはしばしまでが、良人に良しと見られるように話す自信があった。彼女はこの瞬間、目に見えぬ良人の存在を自分の上に感じていたのである。
 キチイは彼と二三言葉をかわし、彼が『われわれの議会』と称する選挙のことで、冗談話をしたとき、おちついた微笑さえ浮べたほどである(洒落《しゃれ》を理解したしるしに、微笑することは必要であった)が、すぐさまマリヤ・ボリーソヴナのほうへくるりと向いて、彼が立ちあがって別れのあいさつをするまで、一度もそのほうを見なかった。けれども、そのとき彼女はヴロンスキイのほうを向いたが、それは明らかに、相手がおじぎをしているのに、そのほうを見ないのは失礼であるからにすぎないらしい。
 彼女は、父がヴロンスキイとの出会いのことを、ひと口もいわなかったのにたいして、父に感謝の念をいだいた。しかし、この訪問をすまして、いつもの散歩をしているあいだ、特別やさしい態度を見せたことによって、彼女は父が自分の態度に満足しているのを悟った。彼女はわれながら満足であった。ヴロンスキイにたいする以前の感情を、どこか心の奥のほうにおさえて、まったく無関心なおちついた様子を見せる、いや、本当にそういう気持でいる力が自分にあろうとは、彼女も自分で思いがけないほどであった。
 公爵夫人マリヤ・ボリーソヴナのところで、ヴロンスキイに会ったということを、妻の口から聞いたとき、レーヴィンは彼女よりもずっと赤くなった。彼女としては、良人にそのことをいうのは骨が折れたが、その出会いの顛末《てんまつ》を話しつづけるのは、もっと骨が折れた。というのは、彼がそれを聞こうとせず、むずかしい顔をして、妻を見つめているばかりだったからである。
「あたしはね、あなたがその場にいらっしゃらなかったのが、とても残念ですわ」と彼女はいった。「いえ、あなたが部屋にいらっしゃらなかったことじゃないのよ……あなたがそばにいらしたら、あたしああしぜんな気持でいられなかったと思うわ……あたしいまのほうがずっと赤い顔をしていますのよ、ずっと、ずっとよけいに」涙のにじむほど顔を赤らめて、彼女はいった。
「つまりね、あなたが隙間から見られなかったのが残念なの」
 キチイの正直な目つきによって、彼女が自分で自分に満足していることを、レーヴィンは見てとった。で、彼女が赤い顔をしているにもかかわらず、すぐに安心してしまって、いろいろのことをたずねはじめた。彼女のほうでも、ただそれのみを望んでいたのである。なにもかも聞いたとき――キチイがはじめの瞬間は赤くならずにいられなかったけれども、その後は、ただ偶然出会った人にたいするときと同じように、すっかり平気で楽な心持になった、というようなデテールまで聞いたとき、レーヴィンはすっかり浮きうきしてしまって、それはじつにうれしいことだ、もうこれからは自分も選挙のときのように、あんなばかなまねはしない、今度ヴロンスキイに会ったら、できるだけ親しい態度をとるようにつとめよう、といった。
「出会うのも苦しいような人、ほとんど敵ともいうべき人がどこかにいる、そう考えるほどいやなことはないからねえ」とレーヴィンはいった。「これで僕も本当に、本当にうれしい」

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

「では、後生ですから、ボールさんのとこへよってちょうだいね」午前十一時、レーヴィンが家を出る前に妻の部屋へよったとき、キチイは良人にむかってこういった、「あなたがクラブで食事をなさるのは、あたしも知っていますわ、パパがあなたの分も申しこみなすったから。でも、昼のあいだはどうなさいます?」
「僕はカタヴァーソフのところへよるだけだ」とレーヴィンは答えた。
「なんだってそんなに早く?」
「あの男がメートロフに紹介するって、約束したもんだから。僕、自分の仕事のことで、メートロフと話がしてみたいのだ。その人は、ペテルブルグから来た有名な学者なんだよ」とレーヴィンはいった。
「ああ、そうそう、あなたはその人の論文を、たいへん賞めていらっしゃいましたわね。で、そのあとは?」キチイがたずねた。
「それから、もしかしたら、姉さんの事件で裁判所へまわるかもしれない」
「音楽会は?」と彼女はきいた。
「一人で行ったって、しようがないじゃないか!」
「いいえ、いらっしゃいよ。今日は新しい曲がいろいろあるそうですから……あなたいつも、興味をもってらしたじゃありませんの。あたしだったらぜひともまいりますわ」
「まあ、いずれにしても、僕は食事の前にちょっと家へ帰るよ」と彼は時計を見ながらいった。
「フロックを着ていらっしゃいね、そのまますぐボール伯爵夫人のとこへ、おまわりになれるように」
「いったいそれはどうしても必要なのかね?」
「ええ、どうしてもよ! あちらからも来てくだすったんですもの。ねえ、なんでもないことじゃありませんか? ちょっとよって、腰をかけて、ものの五分間もお天気の話か何かして、それから立って、お帰りになればいいんですもの」
「いや、おまえには想像もつかないだろうが、僕は長くそういうことから離れていたので、そのなんでもないことに、気がさしていけないんだよ。だって変じゃないか? 縁もゆかりもない人間がやって来て、坐りこんでさ、なんの用もないのに尻を据えて、こっちも迷惑なら、ご当人も気が気じゃない、そのあげくのはてに、ぷいと帰ってしまう」
 キチイは笑いだした。
「だって、あなたは独身時代に、訪問なすったんでしょう?」と彼女はいった。
「するにはしたけれど、いつも気がさしてしようがなかったんだ。ところが、今はそういう習慣から離れてしまったものだから、まったくのところ、そんな訪問をするよりも、二日間めしを食わないでいるほうが、ましなくらいだ。じつに気がさしてかなわん! なんだか先方が腹をたてて、おまえはなんだって用もないのにやって来たんだ? といいそうな気がしてしかたがないのだ」
「いいえ、腹なんかたてやしませんわ。それはもうあたしが請けあいますわ」笑い笑い、良人の顔を見ながら、キチイはそういった。彼女は良人の手をとった。「では、さようなら……本当にお願いだから、行ってちょうだい」
 彼は妻の手に接吻して、もう出て行こうとしたとき、彼女はそれを呼びとめた。
コスチャ、じつはね、あたしの手もとに、もう五十ルーブリしか残っていないんですのよ」
「ああ、そうか、じゃ銀行へよってとってくるよ。いくら?」妻にはなじみの不満げな表情を浮べて、彼はこういった。
「だめよ、待ってちょうだい」と彼女は良人の手をとって、ひきとめた。「よくお話しましょう、あたし気になるんですもの。あたしは何一つむだ使いしていないつもりなのに、お金がどんどん出ていってしまうんですもの。何かしら、あたしたちのやりかたが悪いんでしょうか?」
「いや、決して」軽く咳ばらいして、上目づかいに妻を見ながら、彼はこういった。
 この咳ばらいを彼女はよく知っていた。それは、彼がひどく不満なしるしなのであった。が、その不満は妻にたいするものではなく、自分自身にたいするものであった。彼は事実不満なのであった。しかし、それは出費がかさむからではなくて、何かぐあいの悪いところがあると承知しながら、忘れようとしていることを、思い出させられたからである。
「僕はソコロフに麦を売ることと、水車場の損料を先取りすることをいいつけておいたから、いずれにしても金はできるよ」
「そうじゃないの、ただあたしは全体にお金がたくさん……」
「決して、決して」と彼はくりかえした。「じゃ、さようなら、キチイ」
「いいえ、全くのところ、あたしときどきお母さまのいうことを聞いたのを、後悔しているくらいですのよ。田舎だと、どんなによかったでしょうねえ! ところが、ここじゃあたしみんなに苦労かけて、それによけいなお金をつかって」
「決して、決して。僕は結婚してこのかた、現在の状態を変えたほうがいいなんてことは、一度もいったことがないじゃないか……」
「ほんと?」と彼女は、良人の目を見ながらいった。
 彼はただ妻を慰めたいばかり、なんの考えもなくそういったのである。けれど、妻をちらりとながめ、真実のこもったかわいい目が、疑問をこめて自分のほうヘそそがれているのを見ると、彼はもう心底から同じことをくりかえした。『おれは本当にこれのことを忘れかけている』と彼は考えた。そして、近く彼ら二人を待ち受けていることを思い起した。
「もうすぐかい? 気分はどんなふう?」と妻の両手をとって、彼はささやいた。
「あたし今まで、あんまりしょっちゅう考えたものですから、今はもうなんにも考えませんの、だからわかりませんわ」
「怖《こわ》かない?」
 彼女はさげすむように笑った。
「これっぱかりも」と彼女はいった。
「でも、もし何かあったら、僕はカタヴァーソフのとこにいるからね」
「いいえ、なんにもありゃしませんわ、そんなこと考えないで。あたしパパとブルヴァールヘ散歩に出かけますわ。そして、ドリイのとこへよってみるつもりですの。じゃ、食事の前にお待ちしてますわね。ああ、そうそう! あなたご存じ、ドリイの内輪が、もうどうにもならないほどひどくなってますのよ。あちらもこちらも借金だらけで、お金ったらちっともないんですって。昨日あたしたち、ママやアルセーニイ(彼は姉の良人のリヴォフのことを、こう呼んでいた)と話をして、あなたとアルセーニイとで、スチーヴァに話していただくことにきめたんですの。これじゃ本当にどうにもなりませんもの。パパにはそんな話はできないし……もしあなたとアルセーニイで……」
「でも、僕たちにどうすることができるだろう?」とレーヴィンはきいた。
「それにしても、とにかくアルセーニイのとこへ行って、二人で相談してみてちょうだい。あたしたちの決めたことは、アルセーニイがお話しますから」
「そりゃ、僕はアルセーニイの意見なら、もう前からなんでも賛成だよ。じゃ、あの人の家へよってみよう。ついでだから、もし音楽会へ行くとしたら、僕ナタリイといっしょに行こう。じゃ、さよなら」
 入口階段で、いまだに独身生活をつづけて、モスクワの家の切り盛りをしている老僕のクジマーが、レーヴィンを呼びとめた。
「クラサーフチック(これは田舎から連れてきた左の轅鉄《ながえうま》である)の蹄鉄《かなぐつ》を変えてやりましたが、やっぱり跛《びっこ》をひいておりますので」と彼はいった。「どういたしましたもので?」
 モスクワへ来てはじめのあいだは、レーヴィンは田舎から連れてきた馬に興味をもっていた。この方面をうまく経済にやっていこうと思ったのである。ところが、自分の馬は辻馬車よりも高くついて、しかも、辻馬車だってやはり雇わなければならない、ということがわかってきた。
「じゃ、獣医を呼びにやりなさい、馬脚|贅腫《ぜいしゅ》かもしれんな」
「では、奥さまのお馬はどういたしましょう?」とクジマーはきいた。
 モスクワ生活のはじめのころは、ヴォズドヴィージェンカからシフツェフ・ヴラジョークまで行くのに、たくましい二頭立てを重い箱馬車につけ、この馬車を曵いて、二町あまりの道を、雪をこねかえしながらたどりつくと、そこで四時間も待たせて、その賃銀として五ルーブリも払うということに、レーヴィンは胆をつぶしたものであるが、今ではもうそんなことなど、しぜんに思われるようになった。
「辻馬車屋へ行って、うちの箱馬車につけるのだといって、二頭注文してこい」と彼はいった。
「かしこまりました」
 こうして、田舎では彼にとっておびただしい辛労と、注意を要する難問を、都会生活の条件のおかげで、いとも簡単にやすやすと解決した後、レーヴィンは入口階段へ出ると、辻馬車を呼んで乗りこむなり、ニキーツカヤ街へ走らせた。道々、彼はもう金のことなど考えず、社会学専攻のペテルブルグの学者と相識になり、自分の著述の話をする、その段取りを考えはじめた。
 ただモスクワへ移ったごくはじめのころだけ、田舎の住人にとってはふしぎに思われる出費、あちらからもこちらからも要求される不生産的な、しかし避けることのできない出費が、レーヴィンにとって驚異であった。が、今では彼もそれに慣れっこになってしまった。この点において、彼の心に生じたことは、酒飲みによくいわれる、一杯目は棒ぐいのよう、二杯目は鷹のよう、三杯目からは小鳥同然という、あれに似よったものであった。レーヴィンがはじめて百ルーブリ紙幣を、従僕と玄関番のしきせを買うために両替したとき、彼は心ならずもこんなことを考えた。だれにも必要のないしきせではあるが、そんなものなどなくてもすむとほのめかしたとき、公爵夫人とキチイはあきれかえった。その驚きようで判断すると、やっぱりなくてかなわぬ必要品であるこのしきせは、夏の雇い男二人分の賃銀に相当する。換言すれば、神聖週間から大斎期のはじまりまで、約三百日の労働日数に相当する。しかも、毎日毎日、朝早くから晩遅くまで、苦しい働きをつづけなければならないのだ。で、この最初の百ルーブリ紙幣は、棒ぐいのように喉につかえた。しかし、次の分は、実費二十八ルーブリを要した親戚の招宴のため、食料品を買うのに両替したのであるが、レーヴィンは心の中で、この二十八ルーブリは燕麦九|斗《チェルトエルチ》に相当し、それを作るには、汗を流してあえぎあえぎ、刈ったり、束ねたり、叩いたり、簸《ひ》にかけたり、ふるいわけたり、つめたりしなければならぬのに、という想念をいだかされはしたものの、とにかく次の百ルーブリ紙幣は、比較的らくに喉を通った。ところで、このごろ両替する紙幣は、もうとくにそんな感慨を呼び起さなくなり、小鳥のように飛び散るのであった。金銭の獲得に投入された労力が、それによって晴われるものの与える満足に相当するかどうか――そういう考察は、もうとくの昔に失われていた。一定の穀物には一定の相場があって、それ以下に売ってはならぬという、農場経営者としての採算も、同様に忘れられていた。彼が長いこと値段をがんばっていた裸麦も、一月前につけられた相場よりは、一|斗《チェルトエルチ》について五十コペイカも安く売ってしまった。それどころか、こんな支出ぶりでは、借金せずには一年と暮していけないという胸算用、それさえもはやなんの意味もなかった。ただ一つ必要なのは、銀行に金をおいておくことであった。それがどこから入るものであろうとかまわない、ただ明日の牛肉代は大丈夫だという安心感を、常にもっていさえすればいいのだ。この胸算用だけは、これまでちゃんと守ってきた。彼はいつでも銀行に金をもっていた。ところが、こんど銀行の金がすっかり出てしまって、どこから金を手に入れたものか、彼にはよくわからなかったのである。つまりそのために、キチイが金のことをいいだしたとき、彼はちょっといやな気がしたのである。しかし、彼はそんなことを考えている暇がなかった。彼はカタヴァーソフのことと、目の前に控えたメートロフとの会見のことを思いめぐらしながら、馬車を走らせていたのである。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

 レーヴィンは今度モスクワへ出て来たとき、大学時代の旧友で、結婚してからあと会ったことのないカタヴァーソフ教授と、また親しく交わるようになった。カタヴァーソフは、その人生観が単純明瞭な点で、レーヴィンにとって感じがよかった。カタヴァーソフの人生感が明瞭なのは、彼の天性の貧しさから生じたのだ、とレーヴィンは心に思っていた。ところが、カタヴァーソフのほうは、レーヴィンの思想に一貫性がないのは、彼の知性に訓練が不足しているからだ、とそう思っていた。にもかかわらず、カタヴァーソフの明瞭さはレーヴィンに快かったし、レーヴィンの訓練されない思想の豊富さは、カタヴァーソフにとって気持がよかったので、二人はときどき会って議論するのを好んでいた。
 レーヴィンは、自分の著述のところどころを、カタヴァーソフに読んで聞かせたところ、それが彼の気に入った。昨日、公開講演で出会ったとき、カタヴァーソフはレーヴィンにむかって、レーヴィンの気に入った論文の筆者である有名なメートロフが、今モスクワに来ていて、カタヴァーソフがレーヴィンの著述のことを話したところ、彼はそれにひどく興味を感じた由を語り、明日はメートロフが十一時に、自分の家へくることになっており、レーヴィンと近づきになることを欣快《きんかい》としている、と告げたのである。
「まったく君は几帳面《きちょうめん》になってきましたね、大いに愉快だ」とカタヴァーソフは、小さい客間でレーヴィンを迎えながらいった。「ベルの音が聞えたので、君が時間どおりにくるなんて、そんなはずはない……と思ったところなんですがね。ときに、どうです、モンテネグロ人は? 生れつきの軍人だね」
「何がどうしたんです?」とレーヴィンはたずねた。
 カタヴァーソフに簡単に最近の戦況([#割り注]一八七六年のバルカン戦争[#割り注終わり])を伝えた。それから書斎へ入ると、あまり背の高くない、肉付きのいい、きわめて感じのいい風貌をした一人の人物を、レーヴィンに紹介した。それが、メートロフであった。会話はしばらく政治を題目にして、ペテルブルグの最高政界では、今度の事変をなんと見ているか、というようなことを話しあった。メートロフは、この問題について、皇帝と一人の大臣によって洩らされたとかいう言葉を、さる信頼すべき筋から聞きこんだものとして、受け売りした。ところが、カタヴァーソフは、皇帝が全然それと反対なことをいわれたと、同様に正確な情報として聞きこんでいた。レーヴィンは、その両方とも事実でありうるような状態を、考えつこうと苦心した。で、この問題に関する会話は中絶された。
「さよう、ところで、この人が土地にたいする労働者の自然的条件について、ほとんど一冊の書物を書いたのですが」とカタヴァーソフはいいだした。「私はそのほうの専門家じゃありませんが、しかしこの人が人類というものを、何か動物学的法則の外にあるものとしないで、その反対に、環境に左右されるものと見なし、その従属性の中に発達の法則を求めているのが、私は自然科学者として気に入ったのです」
「それはじつにおもしろいですね」とメートロフがいった。
「僕はじつのところ、農場経営の本を書きだしたんです。ところが、農場経営のおもな手段である労働者の研究をしているうちに、知らずしらず」レーヴィンは顔を赤らめながらいった。「ぜんぜん意想外な結果に到着したのです」
 それからレーヴィンは、まるで足場をさぐりながら進むように、用心ぶかく、自分の見解を述べはじめた。メートロフが、一般に採用されている経済学の教義とは、正反対の論文を書いたことは、レーヴィンも承知していたけれど、どの程度まで自分の新しい見解にたいする同感を、この人から期待していいかわからなかった。それは、この学者の聡明らしい、おちついた顔つきでは、察することができなかった。
「しかし、あなたはいったいどういうところに、ロシヤの土地労働者の特質を認められますか?」とメートロフはいいだした。「彼らの、いわば、動物学的特性にですか、それとも彼らのおかれている条件にですか?」
 レーヴィンは、すでにこの問いの中に、自分のものとは反対の思想を見てとった。しかし、彼は自分の思想を述べつづけた。それはつまり、ロシヤの土地労働者は、ほかの国民とは全く別な、土地にたいする見方をもっている、というのであった。この仮定を証明するために、彼は急いでつけ足した。ロシヤ国民のこの見方は、彼の意見によると、東方における広大な、まだ人に占められていない面積に植民するという、おのれの使命を自覚しているところから生じたものである。
「国民ぜんたいの使命について結論を下すと、迷妄《めいもう》に陥りやすいですよ」とメートロフは、レーヴィンをさえぎりながらいった。「労働者の境遇は、いつも土地と資本にたいする関係に依存するものです」
 そういって、もはやレーヴィンにはその思想をしまいまでいわせないで、メートロフは自分の教義の特性を述べはじめた。
 彼の教義の特性がどこにあるのか、レーヴィンは合点がいかなかった。合点しようと骨を折らなかったからである。メートロフもほかの学者と同じように、論文の中では一般経済学者の教義をしりぞけながら、相変らずロシヤの労働者の状態を資本、賃銀、地代の観点からながめている、それをレーヴィンは見てとったのである。ロシヤの大部分を占めている東方では、地代などゼロであり、賃銀は八千万のロシヤの人口の十分の九にとっては、ただ自分の口すぎというだけのものにすぎず、資本はまだ最も原始的な武器の形式でしか存在しない。それをメートロフも認めるのが当然であるにもかかわらず、彼はただこの観点からのみ、すべての労働者をながめていた。そのくせ、多くの点では一般経済学者に同意せず、賃銀については、レーヴィンに述べたような自己の新しい理論をもっているのだ。
 レーヴィンはいやいや聞きながら、はじめのあいだは論駁《ろんばく》していた。彼は自分の思想を述べるために、メートロフをさえぎりたい気がしていた。その思想は、彼の意見によると、それ以上の説明を不要にするものであった。しかし、その後、自分ら二人はこれほどまで違った見方をしているのであるから、決してお互に理解しあうはずがないと確信してから、彼はもう反駁しないで、ただ聞いていた。今となっては、メートロフのいうことなど、もはや少しもおもしろくなかったが、それでも彼は聞いていて、ある種の満足を感じた。これほどの学者が、これほどの注意をこめて、レーヴィンの知識にたいする信頼をいだいて、ときにはただの暗示で事柄の大きな一面を示しながら、彼に自分の思想を述べているという点で、彼の自尊心が満足させられたのである。彼はそれを自分のえらいせいにしたが、いずくんぞ知らん、メートロフはこの問題について、すべての近しい人らと語りつくしたので、今は特に好んで新しい人にこの話をしたのである。それに概して、まだ自分自身にもはっきりしない問題について、だれとでも進んで話したのである。
「しかし、遅刻しますよ」メートロフが論述を終るやいなや、カタヴァーソフは時計を見て、こういった。
「そう、今日は学術愛好会で、スヴィンチッチの五十年記念祭があるんだよ」とカタヴァーソフが、レーヴィンの問いに答えていった。「僕もピョートル・イヴァーノヴィッチとそこへ行くことになっていてね。僕は動物学方面の業績について、話をすると約束したものだから。いっしょにいかない? なかなかおもしろいよ」
「そうだ、本当にもう時間がきた」とメートロフはいった。「ごいっしょに乗りましょう。そのあとで、もしおよろしかったら、宅へいらっしゃいませんか。私はあなたの著述の話が伺いたいので」
「いや。そりゃかまいませんが、それはまだほんの草稿の形で、それにまだ完結もしないのですから。しかし、記念祭には喜んでお伴します」
「どうです、聞きましたか? 私は別の意見を提出したんですよ」次の間で燕尾服を着ながら、カタヴァーソフがいった。
 こうして、大学問題の話がはじまった。
 大学問題はこの冬、モスクワ中の大きな事件であった。三人の古い教授が、会議のとき少壮派の意見を採用しなかった。そこで、少壮派は別箇の意見を提出した。その意見は、ある人にいわせると恐るべきものであり、またある人の説によると、きわめて単純かつ正当な意見であった。こうして、教授連は二派に別れたのである。
 カタヴァーソフの属している派は、反対側のすることを唾棄すべき密告行為であり、欺瞞《ぎまん》であると見なした。すると、一方は若造の生意気なふるまいで、権威を尊敬しない行為であると見た。レーヴィンは大学に関係してはいないけれど、モスクワ滞在中にいくどとなく、この事件について人の話も聞けば、自分でも話したことがあって、それについては、自分自身の意見ももって[#「もって」は底本では「もつて」]いた。彼は、外へ出てまでもつづいている二人の話に仲間入りをして、三人ともしゃべりながら、古い大学の建物までたどりついた。
 会はもうはじまっていた。カタヴァーソフとメートロフの着席した、ラシャのかけてあるテーブルの前には、六人のものが陣取っていて、その中の一人はちかぢかと原稿にかがみながら、何やら読んでいた。レーヴィンはテーブルのまわりに並んでいる、あいた椅子の一つに腰をおろし、そばにかけている大学生に、いま読んでいるのは何かと小声でたずねた。大学生は不満げにレーヴィンをふりかえって、
「伝記です」といった。
 レーヴィンは、その学者の伝記などに興味はなかったけれども、ばくぜんと聞いているうちに、この有名な学者の生涯について、二三おもしろい新事実を教えられた。
 読み手が終ったとき、議長はそれに感謝を述べて、この記念祭のために送られた詩人メントの詩を朗読し、詩人にたいする謝辞を数言のべた。それから、カタヴァーソフが持ちまえの、どなるような大声で、故人の学術上の業績について、自分の感想を朗読した。
 カタヴァーソフが終ったとき、レーヴィンは時計を見ると、もう一時をまわっていたので、音楽会のはじまるまでに、自分の著述をメートロフに読んで聞かせる暇はないと見てとった。それに、今はもうそれもしたくなかったのである。彼は朗読のあいだに、先ほどの話についても考えてみたのだが、今となってみると、メートロフの思想も意義があるかもしれないけれど、自分の思想も同様に意義がある。そして、これらの思想が明瞭になって、何かの結論に導くこともありうるだろうが、それはおのおのがおのれの選んだ道を進みながら研究した場合に限るのであって、二人の思想を融合させたところで、何ものをも生じえない――ということが明らかにわかった。で、メートロフの招きを辞退することに肚《はら》を決めて、レーヴィンは会の終ったとき、そのそばへ近よった。メートロフは議長をつかまえて、政治上のニュースを話していたが、レーヴィンを見ると、議長に紹介した。そのときメートロフは議長にむかって、レーヴィンにいったのと同じことを話しだしたので、レーヴィンも今朝いったのと同じ感想を述べた。ただし、変化をつけるために、たったいま頭に浮んだ新しい意見をつけ加えた。そのあとで、またもや大学問題の話がはじまった。レーヴィンはもうそんな話は何度も聞いていたので、急いでメートロフにむかい、遺憾ながらご招待に応じかねる由を述べ、会釈をして、リヴォフの家へおもむいた。

[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]

 キチイの姉ナタリヤの良人であるリヴォフは、今までの一生、自分の教育を受け、かつ外交官として勤めてきた両首都([#割り注]ペテルブルグとモスクワ[#割り注終わり])と外国ですごした。
 去年、彼は外交官の職を辞したが、それはいやな事情のためでなく(彼はかつてだれとも、いざこざを起したことがないのである)二人の小さな男の子に最上の教育を授けるため、宮内省関係の勤務で、モスクワへ移ったのであった。
 習慣も見解も思いきって正反対であり、そのうえリヴォフのほうが、レーヴィンより年長であるにもかかわらず、二人はこの冬ひどく気が合って、おたがい同士好きになった。
 リヴォフは家にいたので、レーヴィンは案内も乞わず、彼の部屋へ入った。
 リヴォフは内着のフロックに帯をしめ、キッド革の靴をはいて、肘椅子に腰をかけ、半分ほど灰になった葉巻を持った美しい手を、からだからちょっと離して持ちながら、青いレンズのはまった鼻眼鏡をかけて、書見台にのせた本を読んでいた。
 まだ若々しく美しい、華奢《きゃしゃ》な顔は、ふさふさした銀色に輝く髪のために、いっそう血統ただしい表情を添えていたが、レーヴィンを見ると、さっと一面に笑み輝いた。
「ああ、これはちょうどいい! 君のとこへ使を出そうと思ったところだ。ときに、キチイはどうだね? さあ、ここへかけたまえ、もっと楽に……」彼は立ちあがって、船底椅子をすすめた。「〔Journal de St.-Pe'tersbourg〕(ペテルブルグ雑誌)の最近号にのった回文を読んだ? 僕はすばらしいもんだと思うがね」と彼はややフランスなまりでいった。
 レーヴィンは、カタヴァーソフから聞いたペテルブルグの噂を伝え、ちょっと政治談をした後、メートロフと近づきになった次第と、記念祭へ行ったことを話した。リヴォフはそれにひどく興味をもった。
「それが僕はうらやましいね、君はそういうおもしろい学術の世界へ出入りができるんだから」と彼はいい、話しこんでいるうちに、いつものとおりフランス語に移った。「もっとも、僕も暇がないんだがね。僕は勤めと子供の勉強で、そういうことかできないんだ。そのほか、僕はあえていうが、僕の教育はそんなことのためには、あまりにも不十分なのでね」
「そんなことはないと思いますよ」とレーヴィンは微笑しながらいって、例のごとくこの義兄の自ら卑下した考え方に、一種の感動を覚えた。それは決して、謙遜に見せかけようとか、いや、それどころか、謙遜になろうとかいう付《つ》け焼刃《やきば》の希望からきたのでなく、全く誠実なものであった。
「いや、本当だとも! 僕は今つくづく、自分は教養が少ないと思うよ。僕は子供の教育のために、記憶を呼びさます必要があるばかりでなく、ただもう勉強しなくちゃならないんだ。なぜといって、教師ばかりでなく、監督が必要なんだからね、ちょうど君の農場で、労働者と監視人が必要なようにね、現に僕はこれを読んでいるが」と、彼は書見台の上にのっているブスラーエフの文法をさして見せた。「ミーシャがこれをやらされてるんだが、じつにむずかしいね……まあ、ひとつこれを説明してみてくれたまえ。ここでブスラーエフはこういってるが……」
 レーヴィンは、そんなことはとてもわからない、研究してみなければ、といおうとしたが、リヴォフはそれに同意しなかった。
「いや、君は僕をからかってるんだ!」
「あべこべですよ、あなたには想像もできないでしょうが、僕はいつもあなたを見ながら、これから自分のしなくちゃならないことを、勉強しているんですよ、つまり子供の教育を」
「なあに、勉強することなんかありゃしないよ」とリヴォフはいった。
「僕はただこれだけのことを知ってるばかりです」とレーヴィンはいった。「お宅の子供さんほど、しつけのいい子供は見たことがありませんし、またそれ以上の子供は望まないくらいですよ」
 どうやらリヴォフは、うれしさを見せないために、しいて自分をおさえようとしたらしかったが、その顔は明るい微笑に輝きわたった。
「ただ子供らが僕よりりっぱになってくれればねえ。それが僕の望むすべてだよ。君は男の子にどれだけ骨が折れるか、まだ知らないだろうが」と彼はいいだした。「うちの坊主たちなんか、外国でうっちゃらかしになっていたんだからねえ」
「そんなことはとりかえしがつきますよ。みんな出来のいい子供ですからね。かんじんなのは精神教育ですよ。僕はお宅の子供さんたちを見ながら、それを勉強しているんです」
「君は精神教育というけれど、それがどんなに困難なものか、想像もできないくらいだよ! やっと一つの問題を征服したかと思うと、すぐにほかの問題が起ってくる、するとまた闘争だ。もし宗教の支えがなかったら――君、覚えている、二人で話したことを?――もし宗教の助けがなかったら、どんな父親だって、自分の力だけでは子供たちを教育することはできないね」
 いつもレーヴィンに興味を感じさせるこの話は、もう外出の衣装《いしょう》をつけた、美しいナタリヤ・アレクサンドロヴナが入ってきたので、中絶された。
「まあ、わたし知りませんでしたわ、あなたが来てらっしゃることを」もうとくに知れきっていて、聞きあきているこの話を中絶したのを、いささかも残念がらないばかりか、むしろ喜んで、彼女はこういった。「ときに、キチイはどうです? 今夜はわたしお宅で食事をしますわ。ねえ、アルセーニイ」と彼女は良人の方へふりむいた。「あなた馬車に乗っていらっしゃるでしょう……」
 それから、夫婦のあいだには、どうしてこの一日をすごすか、という相談がはじまった。良人のほうは勤務関係で、だれやらを迎えに行かなければならないし、妻のほうは音楽会と、南東委員会の集りに出席しなければならないので、いろいろとよく考えて、決めねばならぬことがたくさんあった。レーヴィンも身内の人間として、この相談に一枚加わらなければならなかった。とどのつまり、レーヴィンはナタリイといっしょに音楽会と集会へ行き、そこから馬車を事務所へまわして、アルセーニイを迎える。すると、アルセーニイは妻のところまでやって来て、キチイの家へ妻を送り届ける。が、もし彼の仕事が片づいていなかったら、馬車をもとへ返す、するとレーヴィンがナタリイといっしょに行く、ということに決った。
「どうもこの人は、私を甘やかしていけないんだよ」とリヴォフは妻にいった。「うちの子がりっぱな子だなんていってさ。ところが、あれたちにはたくさんよくないところがあるのを、私は自分で承知しているんだから」
「わたしいつもそういうんですけど、アルセーニイは極端に走っていけませんのよ」と妻はいった。「完全なんてものを望んだら、決して満足することはありゃしませんわ。お父さまがおっしゃるのは本当よ。自分たちが両親に育てられていたころは、いつも中二階におしこめられて、親たちは二階のいちばんいい部屋に住むというふうで、極端に走りすぎていたものだが、今はその反対で、両親は物置へ押し込んで、子供たちをいちばんいい部屋へ入れる、両親は自分の生活をしてはいけない。なにもかも子供たちのために捧げろ、なんていうようになった、って」
「なに、いいじゃないか、そのほうが気持がよければさ」美しい微笑を浮べて、妻の手にさわりながら、リヴォフはこういった。「おまえってものを知らない人は、あれは実母じゃなくて継母《ままはは》だと、そういうかも知れないよ」
「いいえ、極端ってことは、何につけてもよくありませんわ」とナタリイは、良人の紙切りナイフを、テーブルの上のきまった場所へ片づけながらいった。
「さあ、こっちへおいで、模範生たち」とリヴォフは、入って来た二人の美しい男の子にいった。子供たちはレーヴィンにおじぎをして、父親のそばへよった。いかにも何か聞きたそうな様子である。
 レーヴィンは子供たちと話もしたり、彼らが父親にいうことを聞きもしたかったのであるが、ナタリイが彼に話をもちかけた。それに、ちょうどそこへ、リヴォフの勤務上の同僚でマホーチンという男が、宮内官の制服を着て入って来た。いっしょにだれかを迎えに行こうというのである。そこでさっそくヘルツェゴヴィナとか、公爵令嬢コルジンスカヤとか、議会とか、アプラクシナ夫人の急死とか、いったような話がはじまって、言葉の切れ目がなくなった。
 レーヴィンは、自分に頼まれた用事を忘れていたが、もう玄関の控室へ出たときに、やっと思い出した。
「ああ、そうだった、キチイがオブロンスキイのことで、あなたと相談してくれという頼みでしたっけ」妻と義弟を見送りに出たリヴォフが、階段の上に足をとめたとき、彼はこういった。
「そう、そう、お母さまがわれわれ 〔les beaux fre`res〕(義弟たち)に、あの人を攻撃させようとしてるんでしょう」と彼は顔を赤らめながらいった。「しかし、それにしても、なんのために僕なんか?」
「それじゃ、わたしが攻撃してあげますわ」白い犬の袖無し外套を着て、話のすむのを待っていたリヴォーヴァ夫人は、微笑を浮べながらこういった。「さあ、乗りましょう」

[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]

 昼の音楽会には、きわめて興味のある曲が二つあった。
 一つは『曠野のリヤ王』という幻想曲で、もう一つは、バッハの記念に捧げられた四重奏曲であった。二つながら新曲で、新傾向のものだったので、レーヴィンはそれについて、自分の意見をまとめたいと思っていた。義姉をその席まで案内すると、彼は円柱のそばに立って、できるだけ注意して、良心的に聞こうと心がまえした。いつも音楽的な注意力を不快にわきへそらせたがる、白ネクタイの指揮者の絶え間ない手の運動や、音楽会のためにかくべつ念入りに、リボンで耳が隠れるように帽子をかぶった貴婦人たちや、無念無想の顔や、種々雑多な興味に心を占められてはいるけれど、ただ音楽だけには無関係らしい人々の顔を見ながら、彼はどうかして気を散らすまい、音楽的な印象を傷つけまいと苦心するのであった。彼は音楽通や饒舌漢《じょうぜつかん》に出会うのを避けるようにして、自分の前の低いところを見つめながら、じっと立って聞いていた。
 しかし、『曠野のリヤ王』の幻想曲を聞き進むにしたがって、彼は何にもあれ、はっきりした意見をまとめるのは不可能だ、という気がしてきた。音楽的感情表現が絶えずはじまっては、どうやらまとまりかけようとするかと思うと、たちまちこなごなに砕けて、音楽的表現の新しい要素の断片と、いったようなものになってしまう。どうかすると、作曲家の気まぐれよりほか、何ものにもつなぎ合わされていない、そのくせ非常に複雑な音ばかりになることがある。しかし時には、美しいこれらの音楽的表現の断片そのものさえ、彼には不愉快なのであった。それはあまりに唐突《とうとつ》で、なんの準備もなしにやってくるからであった。たのしい気分も、憂愁も、絶望も、優しさも、勝利感も、まるで狂人の感情のように、まったくなんの権利もなしに現われるのであった。そして、また狂人の場合と同じように、それらの感情は突如として消えて行くのである。
 レーヴィンは演奏のあいだ、ずっとはじめからしまいまで、踊りを見ている聾者《つんぼ》のような気持を経験した。やがて曲が終ったときは、彼は完全に怪訝《けげん》な感じに捕えられ、何ものによっても報いられない緊張した注意のために、恐ろしい疲労を感じた。四方から盛んな拍手が起った。一同は立ちあがって、歩きまわったり、しゃべったりしはじめた。他人の印象によって、自分の疑問をはらそうと思って、レーヴィンは音楽通をさがしに行った。すると有名な音楽通の一人が、知り合いのペスツォフと話しているのを見つけて、彼はうれしい気がした。
「驚嘆すべきものですよ!」とペスツォフの太いバスがいった。「やあ、ごきげんよう、コンスタンチン・ドミートリッチ、あのコルデリヤの接近が感じられるところですね、女が、das ewig Weibliche(永遠の女性)が、運命との闘いに入るところ、あそこなんか特に形象的で、いわば彫刻的で、色彩が豊富じゃありませんか。そうでしょう?」
「といって、なぜあそこにコルデリヤが?」この幻想曲は、曠野におけるリヤ王を描いたものだということを、すっかりど忘れしてしまって、レーヴィンはおずおずとたずねた。
「コルデリヤが出てくるんですよ……ほら!」と、手に持っているプログラムを指の先で叩いて、それをレーヴィンに渡しながら、ペスツォフはこういった。
 そのときはじめてレーヴィンは、この幻想曲の題名を思い出し、プログラムの裏に印刷してある、露訳のシェークスピヤの本文を、あわてて読んだ。
「こいつがなくちゃ、とてもついていけませんよ」とペスツォフはレーヴィンに話しかけた。というのは、今までの話し相手がむこうへ行ってしまって、ほかにだれも相手がなくなったからである。
 幕間《まくま》に、レーヴィンとペスツォフのあいだに、音楽におけるワーグナー的傾向の長所と、欠点に関する論争がはじまった。レーヴィンはワーグナールおよびその追随者の誤謬《ごびゅう》として、音楽を他の芸術の領域へ侵入せしめんとしている、という点を指摘した。それは詩の場合も同様で、当然、絵画の仕事であるべき顔の輪郭を描写するごとき、すなわちそれである。またそうしたあやまちの一例として、台座の上に立っている詩人のまわりに生じた詩的形象の影を、大理石に刻もうと企てた彫刻家をあげた。「その影は――彫刻じゃ影なんてものはめったにないものだから、階段につかまっているんですよ」とレーヴィンはいった。この一句は自分ながら気に入ったが、しかし前にもこれと同じ句を、ほかならぬペスツォフにいわなかったかしら、それをはっきり覚えていなかったので、そういったあとで、彼はてれてしまった。
 ところがペスツォフは、芸術は一つのものであるから、全部門を結合したときに、はじめて最高の発現に到達しうるものである、と論じた。
 音楽会の第二曲目となると、レーヴィンはもう聞いていられなかった。ペスツォフは彼のそばに立ちどまって、この曲がよけいな、甘ったるい、とってつけたような単純みをおびているのを非難し、それを絵画の方面の、ラファエル前派の単純みと比較したりなどして、ほとんどのべつまくなしにしゃべった。帰りがけに、レーヴィンはさらに多くの知人に出くわして、政治や音楽を語り、共通の知人の噂などしあった。なかんずく、訪問しようと思ってすっかり忘れていたボール伯爵にも出会った。
「それじゃ、これからすぐいらっしゃいな」レーヴィンからその話を聞いて、リヴォーヴァはこういった。「ひょっとしたら、面会してもらえないかもしれませんけど。そのあとで、集会のほうへ迎えに来て下さいな。まだ間に合いますわ」

[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]

「もしかしたら、会っていただけないかもしれないね?」とレーヴィンは、ボール伯爵家の玄関へ入りながらきいた。
「お会いになります、どうぞお入り下さいまし」と玄関番が、勢いよく彼の外套を脱がせながらいった。
『やれやれ、困ったことだな』ため息とともに両方の手袋をぬぎ、帽子をなおしながら、レーヴィンは考えた。『いったいおれは、なんのために入って行くんだ? あの人たちと何を話そうというんだ?』
 最初の階段を通りぬけようとしたとき、レーヴィンは戸口のところで、ものものしい怖い顔をして、従僕に何やらいいつけている、ボール伯爵夫人に出会った。レーヴィンを見ると、夫人はにっこり笑って、次の小さい客間へ通ってくれといった。そこからは人声が聞えていた。この客間には、この家の令嬢二人と、レーヴィンの知っているモスクワの大佐が、肘椅子に腰かけていた。レーヴィンはそのそばへよって、あいさつをすますと、長椅子のわきに腰をおろし、帽子を膝の上にのせた。
「奥さまのお体は、いかがでいらっしゃいます? あなた音楽会にいらっしゃいまして? あたくしたち、まいれませんでしたわ。ママがご法事にまいらなければならなかったものですから」
「ああ、僕も聞きました……じつに思いがけない急なことでしたね」とレーヴィンはいった。
 伯爵夫人が入ってきて、長椅子に腰をおろすと、同じように奥さまのお体のことと、音楽会のことをたずねた。
 レーヴィンはそれに答えた後、アプラクシナ夫人の思いがけない、急な不幸に関する文句をくりかえした。
「もっとも、あのかたはいつも健康がおすぐれになりませんでしたけどね」
「あなた昨夜オペラにいらっしゃいまして?」
「ええ、まいりました」
ルッカがたいへんよろしゅうございますね」
「ええ、とてもよかったです」と彼はいった。そして、人が自分のことをなんと思おうと、いっこうに痛痒《つうよう》を感じなかったので、この歌姫の特殊な才能について、人から何百ぺんとなく聞いたことを、もう一度くりかえしはじめた。ボール伯爵夫人は、それを聞いているようなふりをした。彼がいいかげんしゃべって、やがて口をつぐんだとき、今度は今まで黙っていた大佐がしゃべりだした。大佐もやはりオペラのことだの、照明のことなど話しだした。いちばん最後に、チューリン家で催されることになっている 〔folle journe'e〕(馬鹿騒ぎ)の話をすると、大佐はからからと笑って、騒々しく立ちあがり、帰って行った。レーヴィンも同様に席を立ったが、伯爵夫人の顔色で、まだ辞去すべき時でないと気がついた。もう一、二分間いなければならないのだ。で、彼は腰をおちつけた。
 しかし、こんなことがいかにばかばかしいか、そればかり始終かんがえていたので、彼は話の種を見つけることができず、おし黙っていた。
「あなた、今日の集会へいらっしゃいませんの? たいそうおもしろいそうじゃございませんか?」と伯爵夫人がいいだした。「いえ、私は 〔belle-soe&ur〕(義姉)を迎えに行くことになっておりますので」とレーヴィンは答えた。
 沈黙が訪れた。母と娘はもういちど顔を見合わせた。
『さあ、どうやらもういいらしいぞ』とレーヴィンは考えて、腰を上げた。婦人連も立ちあがって、奥さまに mille choses(よろしく)伝えてほしいと頼んだ。
 玄関番は彼に外套をさしだしながら、こうたずねた。
「失礼でございますが、お住居はどちらでいらっしゃいましょうか?」それから、すぐさまりっぱな表紙のついた帳面に、それを書きつけた。
『もちろん、おれはどうだって同じことなんだが、それでもなんだが気がさす、それにおそろしくばかげている』とレーヴィンは考えながらも、みんなこのとおりのことをしているのだとみずから慰めて、委員会の集りへ馬車を駆った。彼はそこで義姉を見つけて、彼女といっしょに、家まで帰らなければならないのであった。
 委員会の会場には、大勢人が集っていて、ほとんど社交界の全部といっていいくらいであった。
 レーヴィンが着いたときには、まだ報告が終っていなかった。それは、みんなのいうところによると、非常におもしろいものだったそうである。報告の朗読が終ったとき、レーヴィンはスヴィヤージュスキイにも会った。スヴィヤージュスキイは、今夜、農村経営協会で有名な報告演説があるから、ぜひくるようにと誘った。それから、たったいま競馬から駆けつけたばかりのオブロンスキイや、その他いろいろの知人に会った。で、レーヴィンはこの会のこと、新しい曲のこと、訴訟事件のことなどで、種々さまざまな意見を聞きもすれば、自分でもしゃべった。しかし、あまり注意しすぎて疲労を感じたせいだろうか、彼は訴訟事件の話をしながら、まちがったことをいってしまった。その誤りは、後になっていくども思い出され、いまいましかった。レーヴィンは、ロシヤで裁判を受けている一人の外国人が、近いうちに処罰されることを話し、この外人に国外追放の罰を下すのは本当だと論じたが、それは昨日ある知人から聞いた受け売りなのであった。
「僕の考えでは、彼を国外へ追放するのは、梭魚《かます》を罰するのに、水中へ放つのと同じことです」とレーヴィンはいった。もうあとになって、自分のものとして吹聴したこの思想が、じつは知人の口から聞いたものであるばかりか、それはクルイロフの寓話《ぐうわ》からとってきたものであり、その知人はまたある新聞の雑録欄から、その思想を拝借したのだ、ということを思い出した。
 義姉といっしょにいったんうちへ帰り、キチイが無事できげんがいいのを見届けて、レーヴィンはクラブへ出かけた。

[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]

 レーヴィンがクラブへ着いたのは、ちょうどいい時刻であった。彼といっしょに、来賓や会員がぞくぞくと乗りつけた。レーヴィンは、もうずいぶん長いこと、クラブへ足踏みしなかった。まだ大学を出た当時、モスクワに住んでいて、社交界へ出入りしていたとき以来なのである。彼はクラブそのものや、その組織の外面的なデテールは覚えていたけれども、以前、自分がクラブで経験した印象は、すっかり忘れてしまっていた。けれども、半円形をした広い庭へ乗りこんで、辻馬車から降り、玄関へひと足ふみこみ、肩帯をつけた玄関番が音もなくドアを開いて、彼を迎えながら会釈をした瞬間――階上《うえ》までもちこむよりも、階下《した》でぬいだほうがやっかいがなくていいと分別した会員たちの、オーヴァシューズや外套を玄関番部屋に見た瞬間――自分の来着を先ぶれする神秘めかしいベルの音を聞き、坂になった絨毯《じゅうたん》の階段をあがりながら、踊り場に飾った彫刻を見、二階の戸口で三人目にあたる、ひどく年とったなじみの玄関番が、クラブのしきせを着て、急がず遅れずドアを開けてくれて、入ってくる客をじろじろ見まわした瞬間―――久しい昔のクラブの印象――休息と、逸楽《いつらく》と礼儀の印象が、レーヴィンの心を捕えた。
「お帽子をいただきます」下の玄関番部屋に帽子を置くという、クラブの規則を忘れたレーヴィンに、この玄関番はそういった。「ずいぶんお久しゅうございますな。公爵さまがもう昨日、あなたさまのことをお申しこみになりました。オブロンスキイ公爵さまは、まだお見えになりません」
 この玄関番は、レーヴィンを覚えていたばかりでなく、その縁戚も交友関係も、のこらず承知していたので、さっそく彼に親しい人々の名をいった。
 衝立《ついたて》のおいてある、通路になった最初の広間と、果物の売店のある、仕切りをした右手の部屋を通りぬけると、レーヴィンはのろのろと歩く老人を追い越して、大ぜい人のざわついている食堂へ入った。
 もうほとんど占領されているテーブルの列に沿って進みながら、彼は客を見まわした。ここかしこと飛びとびに、思い切って色わけのちがう――あるいは年とった、あるいは若い、ごく浅い知り合いや、きわめて近しい友人などが、彼の目に入ってきた。怒ったような顔や心配そうな顔は、一つとして見えなかった。どうやらすべての人が、帽子といっしょに、自分の不安や心配ごとを、玄関番部屋に残してきて、この世の物質的幸福を、悠々急かず、享楽する心がまえでいるらしかった。そこにはスヴィヤージュスキイも、シチェルバーツキイも、ネヴェードフスキイも、老公爵も、ヴロンスキイも、コズヌイシェフもいた。
「やあ、どうしてこんなに遅かったんだ?」と肩越しに手をさしのべながら、老公爵はいった。
「どうだね、キチイは?」チョッキのボタンのあいだにつっこんだナプキンをなおしながら、彼はこうつけ足した。
「べつに、達者でいます。いま姉妹三人、うちで食事をしているところですよ」
「ああ、アリーナ・ナージナか! さあ、ここには席がないんだよ。まあ、あのテーブルにでも行って、早く場所をとりなさい」と言って、老公はくるりとむこうへむき、ひげ魚のスープを盛った皿を、用心ぶかく受けとった。
「レーヴィン、こっちへ来たまヘ!」ちょっと先の方から、こういう人のよさそうな声が聞えた。それはトゥロフツインであった。彼は若い軍人と並んで腰かけてい、そのわきの椅子が二つさかさに立ててあった。レーヴィンは喜んでそのそばへよった。彼はふだんからずっと、人のいい遊び手のトゥロフツインが好きであった。――この男とは、キチイに心を打ち明けたときの思い出が結びついているのであった。――しかし今日は、気の張る議論めいた話をたくさんしたあとなので、トゥロフツインの人のよさそうな様子が、彼にはとりわけ快かったのである。
「これは君と、オブロンスキイのために取っておいた場所なんですよ。あの人もすぐ来ますよ」
 ひどくそっくりかえっているか、いつも楽しそうな笑みを目に浮べた軍人は、ペテルブルグから来たガーギンであった。トゥロフツインは二人を紹介した。
「オブロンスキイは年じゅう、遅刻ばかりしている」
「おや、ちょうどやって来た」
「君、たったいま来たばかりなんだろう?」とオブロンスキイは、つかつかとそばへよって来て、こういった。「ごきげんよう。ウォートカを飲んだかい? じゃ、行こう」
 レーヴィンは立ちあがって、彼のうしろから、ウォートカの類をはじめとして、変化をきわめた前菜《ザクースカ》の並べてある、大きなテーブルのそばへ行った。二十種類からある前菜の中からは、どんなものでも、好みの品が選び出せそうであったが、オブロンスキイは何か、特別のものを注文した。すると、そこに立っていたしきせのボーイの一人が、すぐさま注文の品を持って来た。二人は杯に一杯ずつ飲んで、食卓へひっ返した。
 魚スープがすむと、もうさっそく、ガーギンはシャンペン酒を注文し、それを四つのコップに注ぎ分けさした。レーヴィンは、すすめられる酒を辞退しないで、もう一本自分で注文した。彼はすっかり腹をへらしてしまったので、さもうまそうに食い、かつ飲んだばかりか、それよりさらに楽しげに、人々のにぎやかな罪のない話に仲間入りした。ガーギンは声を落して、新しいペテルブルグ仕込みの逸話を話した。それはいかがわしいばかげた話ではあったけれども、なんともいえないほどこっけいなものだったので、レーヴィンは近所の人たちがふりかえって見るほど、大きな声でからからと笑った。
「これは例の『わしはそんなことなど、がまんがならんほど大嫌いだ!』というあの式だね。君、知ってる?」とオブロンスキイはきいた。「全く、すてきな話なんだよ! もう一本もってこい」と彼はボーイに命じて、話をはじめた。
「ピョートル・イリッチ・ヴィノーフスキイが、これをさしあげてくれとのことでございます」と年とったボーイが、オブロンスキイをさえぎった。まだシャンペン酒が泡立っている華奢《きゃしゃ》なコップを、オブロンスキイとレーヴィンにむけて捧げている。オブロンスキイはコップをとって、テーブルのむこうの端に坐っている頭の禿げた、赤い口髭を立てている男と目礼をかわし、微笑を浮べながら、首をふって見せた。
「あれはだれだね?」とレーヴィンはたずねた。
「君は一度、僕のとこで会ったことがあるじゃないか、覚えてるだろう? 愛すべき好漢だよ」
 レーヴィンも、オブロンスキイと同じことをして、杯をとった。
 オブロンスキイの座興談も、同様になかなかおもしろいものであった。レーヴィンも自分の知っている話をもちだしたが、これまたみんなの気に入った。それから、話が馬のことに移って、今日の競馬のこと、ヴロンスキイのアトラス号が、はなばなしく一等賞をとったことなどが、噂にのぼった。レーヴィンは、いつの間に食事が終ったのか、気のつかぬほどであった。
「ああ! とうとうやってきた!」もう食事の終りころに、オブロンスキイはこういった。そして、椅子の背越しに身をそらせ、背の高い近衛《このえ》の大佐といっしょに近づいてくるヴロンスキイに、手をさしのべた。ヴロンスキイの顔にも、クラブぜんたいにみなぎっている、浮きうきした人のよい気分が現われていた。彼は楽しげに、オブロンスキイの肩に肘をのせて、何やらささやきながら、おなじ浮きうきした微笑とともに、レーヴィンに手をさしのべた。
「お目にかかれてじつに愉快です」と彼はいった。「あのとき選挙場で、あなたをさがしたんですが、もうお帰りになったということで」と彼はいった。
「ええ、あの日すぐ帰ってしまったのです。僕らはたった今、あなたの馬の話をしていたとこなんですよ。おめでとう」とレーヴィンはいった。「ものすごい速力だったそうですね」
「しかし、あなたも馬をおもちなんでしょう」
「いや、親父がもっていただけです。しかし、僕は覚えています。知っています」
「君はどこで食事したんだね?」とオブロンスキイはたずねた。
「僕らは円柱のむこうの第二テーブルだよ」
「この男の祝賀会をやってたんですよ」と、背の高い大佐はいった。「皇帝賞の二等なんですからね。僕もこの男の馬くらいな幸運が、カルタのほうへめぐってきたらなあ」
「いや、何も貴重な時間を、むだにつぶすことは要《い》りゃしない。おれは地獄部屋へいくよ」大佐はいって、食卓を離れた。
「あれはヤーシュヴィンです」とヴロンスキイはトゥロフツインに答え、このグループのそばのあいた席に腰をおろした。すすめられたシャンペン酒の杯を乾して、彼は新しいびんを注文した。クラブの印象に支配されたのか、それとも飲んだ酒のせいか、レーヴィンは優良種の家畜のことでヴロンスキイと話しこみ、この男にたいしてなんの敵意も感じないのをうれしく思った。彼は何かの話のうちに、公爵夫人マリヤ・ボリーソヴナのところで、家内があなたにお会いしたとかいうことを、家内の口から聞きましたと、こんなことさえいった。
「ああ、公爵夫人マリヤ・ボリーソヴナですか、あれはじつにいいひとだなあ!」とオブロンスキイはいい、この夫人のことでちょっとした小話を一席弁じ、一同を笑わした。なかんずく、ヴロンスキイはなんともいえぬ人の好い顔つきで、大笑いに笑いこけたので、レーヴィンは心の中で、すっかりこの男と和解した気持になった。
「どうだね、もうおしまいだろう?」とオブロンスキイは立ちあがり、にこにこ笑いながらいった。「行こうじゃないか!」

[#5字下げ]八[#「八」は中見出し]

 テーブルを離れると、レーヴィンは歩くたびに、両手がかくべつ規則ただしく、軽々とふれているのを感じながら、ガーギンといっしょに、天井の高い部屋部屋を越して、玉突き部屋のほうへ行った。大広間を通りぬけているとき、彼は舅《しゅうと》にぶつかった。
「どうだい? われらが遊楽の殿堂は、気に入ったかね!」と老公は、彼の腕をとりながらいった。「さあ、行こう、少し歩こうじゃないか」
「僕も少し歩いて、見物したいと思ったとこなんですよ。これは興味がありますからね」
「そうだ、おまえには興味があるよ。しかし、わしの興味はもうおまえのとは別だよ。まあ、あの老人たちを見てごらん」柔らかい靴をはいた足を、運びながら、むこうからくる背の曲った、下唇のたれているクラブ員を、すれ違いざま指さして、彼はこういった。「おまえは、あれが生れながらのシュリューピックだと思うかい?」
「シュリューピックってなんのことです?」
「ほら、おまえはこの綽名《あだな》を知らないだろう? これはクラブのテクニカル・タームなんだよ。おまえは卵ころがしを知ってるだろう。あんまり長く転かしていると、シュリューピック(ぶよぶよ)になってしまう。われわれ仲間もそれと同じさ。あんまり長くクラブへ通ってると、シュリューピックになってしまう。いや、今おまえは笑っとるが、われわれはもう自分が、いつシュリューピックの仲間入りするかと思って、心配してるんだよ。おまえは、チェチェンスキイ公爵を知っているかね?」と公爵はたずねた。レーヴィンはその顔つきで、これは何かおかしい話をしようとしているのだな、と悟った。
「いや、知りません」
「へえ、どうしてだい! だって、チェチェンスキイ公爵は有名な人じゃないか。まあ、そんなことはどうでもいい。ところで、この人はいつも玉突きをやるんだが、三年ばかり前は、まだシュリューピックじゃなかったから、から元気をつけて、自分からほかのやつを、シュリューピック呼ばわりしたもんだ。ところが、あるとき、クラブへくると、おれたちなじみの玄関番……おまえ知っているかい、ヴァシーリイを? そら、あのふとった男だ。こいつがたいした警句家《ポンモチスト》でな。さて、チェチェンスキイ公爵がこの男に『おい、どうだ、ヴァシーリイ、だれとだれが来てる? シュリューピックがいるかい?』ときいたところ、ヴァシーリイはその返事に、『あなたさまが三人目でいらっしゃいます』といったものだ。いや、コスチャ、そういったわけさ!」
 行き合った知人にあいさつしたり、しゃべったりしながら、レーヴィンと老公は、ありったけの部屋を歩きまわった。大きな部屋では、もうカルタ机が並べてあって、慣れた同士が組になって、小さな勝負をやっていた。長椅子部屋では、将棋の勝負を戦わしていて、コズヌイシェフがだれかと話をしていた。玉突き部屋のちょっと曲ったところに、長椅子が置いてあって、ガーギンをまじえた陽気なシャンペンのグループが、そのそばに集っていた。地獄部屋ものぞいてみた。早くもヤーシュヴィンの陣取っているテーブルのそばに、ばくち仲間がおおぜいたかっていた。二人は音のしないように、読書室へ入った。そこでは笠のついたランプの下に、怒ったような顔をした一人の青年が、あとからあとからと雑誌を手にとってい、頭の禿げた将軍は、読書に没頭していた。老公のいわゆる『明智』の部屋へも入ってみた。この部屋では三人の紳士が、最近の政治上の出来事を熱くなって論じていた。
「公爵、どうぞおいでを、もう用意ができました」と勝負仲間の一人が見つけて、こういった。で、老公は出て行った。レーヴィンはしばらく坐って聞いていたが、今朝からの話を残らず思い出すと、急におそろしく退屈になってきた。彼はあたふたと立ちあがり、オブロンスキイとトゥロフツインをさがしに行った。この二人といっしょにいれば、気が浮き立つからであった。
 トゥロフツインは、玉突き部屋の背の高い長椅子に、飲み物のジョッキを持って腰かけていたし、オブロンスキイは部屋の遠い片すみの戸口に立って、何やらヴロンスキイと話していた。
「あれはくよくよしている、というわけでもないが、あれの境遇のはっきりしないこと、ちゃんと決まらないことが……」という声が聞えたので、レーヴィンは急いでそばを離れようとしたが、オブロンスキイが呼びとめた。
「レーヴィン」とオブロンスキイはいった。その目には涙とまではいかないが、一杯やったときか、さもなければ、ひどく感動したときにいつも現われる、一種のしめり気が溢れているのに、レーヴィンは気がついた。今夜は、その両方がいっしょになったのである。「レーヴィン、行っちゃいけない」と彼はいって、金輪際《こんりんざい》はなしはせぬといったように、相手の肘を固くつかんだ。
「これは僕の誠実な親友、いや、ほとんど最上の友なんだよ」と彼はヴロンスキイにいった。
「それから、君も僕にとって同じように、それ以上に親しい大事な友だちだ。だから、君たち二人は仲よく、親しくしてほしい。僕にはわかってる、それが必要なんだ。だって、君たちは二人ながらいい男なんだもの」
「そうだね、もうこの上は、われわれは接吻し合うだけのことだよ」人のいい冗談口調で、ヴロンスキイは手をさしだしながら、こういった。
 彼はさしのべられた手をすばやくとって、それを固く握りしめた。
「僕はじつに、じつに愉快です」とレーヴィンは、彼の手を握りながらいった。
「ボーイ、シャンペンを一本」とオブロンスキイは叫んだ。
「僕も非常に愉快です」とヴロンスキイはいった。
 しかし、オブロンスキイが気をもみ、当人同士も互にそれを望んだにもかかわらず、二人は何も話すことがなかった。彼ら両人もそれを感じた。
「君、知ってるだろう、この先生はアンナとまだ近づきでないんだよ」とオブロンスキイは、ヴロンスキイにいった。「だから、僕はぜひともアンナのとこへ、ひっぱって行こうと思うんだ。行こうよ、レーヴィン!」
「本当に?」とヴロンスキイはいった。「そりゃあれも喜ぶだろうよ。僕も今すぐ家へ帰りたいんだが」と彼はつけ足した。「ヤーシュヴィンが気がかりでね、あの男が勝負を終るまで、僕はそばについてやりたいんだ」
「どう、だめかね?」
「ずっと負けてばかりいるんだ。ところで、あの男をおさえることができるのは、僕一人だけなんだからね」
「ところで、どうだね、一つピラミッドをやったら? レーヴィン、君、やらないかね? そう、うまいぞ」とオブロンスキイはいった。「ピラミッドの用意をしてくれ」と彼はゲーム取りのほうへ向いていった。
「とっくに用意ができております」もう赤玉を三角形に積み上げて、退屈ざましに赤玉を転がしていたゲーム取りが、こう答えた。
「さあ、やろう」
 一ゲームやったあと、ヴロンスキイとレーヴィンは、ガーギンのテーブルのそばに腰をおろした。レーヴィンは、オブロンスキイの勧めに任せて、ポイント遊びをはじめた。ヴロンスキイは、のべつ近よってくる知人にとり囲まれて、テーブルのそばに腰かけているかと思うと、地獄部屋ヘヤーシュヴィンの状況偵察に行く。レーヴィンは、昼間の頭脳の疲れが安まっていく快さを感じた。ヴロンスキイとの敵対関係が消えたのがうれしく、平安と、礼儀と、満足の印象がたえず彼の心にあった。
 勝負が終ったとき、オブロンスキイは、レーヴィンの腕をとった。
「さあ、それじゃ、アンナのとこへ行こう。すぐね? いいだろう? あれは家にいるよ。僕はもう前から、君をひっぱって行く約束をしてるんだよ。君は今晩どこへ行くつもりだったんだね?」
「別にどこっていうことはない。スヴィヤージュスキイと農村経営協会へ行く約束をしたんだけれど……じゃ、出かけるとしようかね」とレーヴィンはいった。
「大出来、出かけよう! おまえ行って、おれの馬車が来たかどうか、きいてみてくれ」とオブロンスキイは、ボーイのほうへ向いていった。
 レーヴィンはテーブルへ近よって、ポイント遊びで負けた四十ルーブリを払い、なにかしら摩訶《まか》ふしぎな方法で、戸口のところに立っている、年取ったボーイにだけわかっているクラブ関係の費用を支払い、とくべつ両手をふりながら、ありたけの部屋を通りぬけて、出口へ向った。

[#5字下げ]九[#「九」は中見出し]

「オブロンスキイさまのお馬車!」と玄関番が怒ったような声で叫んだ。馬車が入口階段のそばへくると、二人は乗りこんだ。ただはじめのうち、馬車がクラブの門を出て行くあいだだけ、レーヴィンは依然としてクラブの平安と、満足と、周囲のものの疑いもない礼儀ただしさの印象を感じていたが、馬車が表へ出て、道の凹凸《おうとつ》のために車の動揺が感じられ、すれちがう辻馬車屋の叫びが耳に入り、ぼんやりした灯《あか》りの中で、居酒屋や小店の赤い看板が目に映るが早いか、この印象はたちまちくずれてしまって、彼は自分の行動を反省しはじめた。そして、今アンナのところへ行くのは、はたしていいことだろうか? キチイはなんというだろうか? と自問した。しかしオブロンスキイは、長く考えこませておかなかった。あたかも相手の疑惑を察したかのように、それを追い散らしてしまった。
「僕はじつにうれしいよ」と彼はいった。「今に君は、あれがどういう女かってことを、知るんだからな。君、知ってるかね、ドリイは前からこれを望んでいたんだよ。それに、リヴォフもあれのところを訪ねて行って、ときどき出入りしてるんだからね。あれは僕にとって妹ではあるけれども」とオブロンスキイはつづけた。「僕はあえていうが、あれはたいした女だよ。まあ、今にわかるがね。あれの境遇は苦しいものだ、ことに今は格別」
「どうして今は格別なんだね?」
「いま法律上の良人と、離婚の交渉中なんだ。先方もそれは同意なんだが、ここに一つめんどうなのは、息子の問題なんだ。この話は、もうとくに片づいていなけりゃならんはずなのに、もうこれで三月も長びいているのだ。離婚が成立したら、あれはさっそくヴロンスキイと結婚するんだ。じっさいあの堂々めぐり、イサヤ悦べ([#割り注]教会結婚の形式[#割り注終わり])の旧い習慣ほど、ばかばかしいものはありゃしないよ。そんなものだれ一人、信じてもいないんだけれど、そいつが人の幸福をじゃまするんだからな!」とオブロンスキイは言葉をはさんだ。「まあ、そうなったら、あれの境遇も、君や僕と同じように、はっきりするというものだ」
「めんどうって、いったいどういうことなんだね?」とレーヴィンはいった。
「いや、それは長い退屈な話なんだよ! ロシヤでは、そういうことがみんな、じつにあいまいなんだね。しかし、問題はほかでもない、あれはその離婚を待ち受けながら、知人のいっぱいいるモスクワで、三月も暮しているということなんだ。どこへも行かず、女にはドリイのほかだれにも会わないって状況だ。なぜといって、君もわかるだろうが、あれはお情で人から訪問してもらったりするのがいやなんでね。あの馬鹿女のヴァルヴァーラ公爵令嬢ね、あれさえ世間体が悪いなどといって、出てしまったんだからね。こういうわけで、もしほかの女がああいう境遇におかれたら、手も足も出なかったに相違ないんだが、あれは、今に君も自分の目で見るわけだが、じつにうまく自分の生活をととのえてさ、ちゃんとおちついて、品位をたもっているんだからね。左、教会の前を横町へ入るんだ!」とオブロンスキイは、馬車の窓から身を乗り出しながら叫んだ。「ふう! なんて暑いんだろう!」零下十二度という寒さにもかかわらず、彼はさらでだに前のはだかっている毛皮外套を、さらにひろげながらこういった。
「それに、あのひとには女の子があるんじゃないか、きっとそのせわで気がまぎれているだろう?」とレーヴィンはいった。
「君はどうやら、女ってものをだれでもかれでも、ただの une couveuse(巣についた牝鶏)のように考えてるらしいね」とオブロンスキイはいった。「仕事があれば、それは必ず子供のことにきめてるんだもの。いや、あれはその女の子をりっぱに育ててるに相違ないが、その話はちっともしないんだ。あれの仕事は、第一に、書くことなんだよ。おや、見受けたところ、君は皮肉なにやにや笑いをしてるらしいが、そりゃいかんよ。あれは子供のための本を書いてるんだぜ。自分ではだれにもしゃべらないけれど、僕にだけは読んで聞かせた。で、僕がヴォルクーエフに原稿を渡したところ……君、知ってるかい、あの出版者さ……同時に自分でも作家らしいので、一|隻眼《せきがん》を備えているのだが、これはすばらしいものだっていったよ。しかし、それなら女流作家だな、なんて思わないでくれ。どうして、どうして。あれは何よりもまず、心情をもった女なんだから、今にわかるよ。今あれはイギリス人の女の子と、その家族をまるまる引き受けていてね、それで忙しいんだよ」
「それは何かね、慈善事業とでもいったようなものかね?」
「どうも君はなんでも、すぐ悪いほうからばかり見たがる癖があるね。慈善事業じゃなくって、まごころの仕事だよ。あすこには、といって、つまりヴロンスキイのところには、イギリス人の調馬師がいるんだ、その道にかけては名人なんだけれど、のんべでね。すっかりのみくらって、delirum tremens(震戦性譫妄症《しんせんせいせんもうしょう》)になって、家族なんかふりむこうともしないんだ。それをあれが見つけてね、助けてやったところ、だんだんひきこまれていって、今じゃ家族ぜんたいが、あれの手にかかっているわけだ。しかし、金の力で、恩にかけるようなやりかたじゃなくって、男の子たちは中学へ入れてやるために、自分でロシヤ語の準備をしてやってるし、女の子は自分の手もとへひき取った次第さ。まあ、今に君、自分の目で見るがね」
 馬車は邸のなかへ乗りこんだ。オブロンスキイは、橇《そり》の待っている車寄せで、音高くベルを鳴らした。
 戸を開けた雇男《やとい》の従僕に、主人は在宅かどうかもきかないで、オブロンスキイは玄関へ入った。レーヴィンは、自分のしていることは、いったいいいことか悪いことかと、しだいしだいに疑惑を増しながら、そのあとについて入った。
 鏡をちらと見て、レーヴィンは自分の顔が赤いのを見たけれど、酔っぱらってはいないという自信があったので、オブロンスキイのあとから、カーペットを敷いた階段を昇って行った。上へあがると、親しい訪問客という扱いで会釈した従僕をつかまえて、オブロンスキイは、アンナ・アルカージエヴナのとこへ来ているのはだれだれか、とたずねた。すると、ヴォルクーエフさまです、という返事であった。
「どこにいらっしゃる?」
「お書斎でございます」
 暗い色の羽目板を張った小さな食堂を通りぬけて、オブロンスキイとレーヴィンは柔らかいカーペットづたいに、大きなうっとうしい笠をかぶせたランプ一つだけに照らされているほの暗い書斎へ入った。もう一つ、反射鏡のついたランプが壁についていて、大きな全身大の婦人像を照らしていた。レーヴィンは思わず、それに注意をひきつけられた。それは、イタリーでミハイロフの描いた、アンナの肖像画であった。オブロンスキイが、何かの蔓《つる》を這わした四つ目垣([#割り注]室内に設けたあずまや風のもの[#割り注終わり])の中へ入って行って、今まで聞えていた男の声が途絶えたとき、レーヴィンは明るい照明の中に、額縁から浮き出した肖像画をながめていたが、そこから目をはなすことができなかった。彼は自分がどこにいるかさえ忘れて、人の話していることも耳にさえ入らず、驚嘆すべき肖像画を一心に見まもっていた。それは画ではなく、生ける美女であった。黒い髪はふさふさと渦巻いて、肩も腕もあらわに、優しい生毛におおわれた唇には、物思わしげな、なかばほほえむような翳《かげ》を浮べて、勝ち誇ったように、しかも優しく彼をながめている、その目つきが彼を困惑させた。彼女が生きた女でないのは、ただ生きた女には不可能なくらい美しかったからである。
「まあ、うれしゅうございますこと」とつぜんすぐそばで、明らかに彼に向けられたらしい声が聞えた、彼が肖像画の中で見とれていた女の声である。アンナは彼を迎えに、蔓垣《つるがき》の中から出て来た。レーヴィンは書斎の薄明りの中で、肖像と同じ女を見た。青のかった[#「青のかった」はママ]じみな友禅の服をつけており、姿勢も表情も肖像画とは違っていたが、肖像の画家がとらえたのと同じ、美の頂上に立っていた。現実の彼女は、輝かしさこそ少なかったけれども、そのかわり生ける彼女には、肖像画のもたぬ一種の新しい魅力を蔵していた。

[#5字下げ]一〇[#「一〇」は中見出し]

 彼女は、レーヴィンに会えるうれしさを隠そうともせず、いそいそと出迎えに立ったのである。小さいけれど、エネルギッシュな手を彼にさしのべたとき、それからヴォルクーエフを紹介し、すぐそこに坐って編物をしていたかわいい女の子をさして、これはわたしの養い子ですといったとき、そういう場合のおちついた態度には、レーヴィンがよく知っていて、快い感じを受ける上流婦人の態度、いつもおちついていて自然な上流婦人の態度が、ありありと見えるのであった。
「ほんとになんてうれしいことでしょう」と彼女はくりかえしたが、彼女の口から出ると、この平凡な言葉も、なぜか特殊な意義をおびてくるように、レーヴィンは感じたのである。「わたしはあなたのことは、前まえから存じ上げておりまして、スチーヴァと親しくして下さるので、なつかしく存じていたのでございますよ。それから、あなたの奥さまの関係でも……わたし奥さまを存じ上げていたのは、ほんのちょっとのあいだのことでしたけれども、奥さまからは、美しい花のような印象を受けましたわ、まったく花ですわ。それがもう間もなく、お母さまにおなんなさるなんてねえ!」
 彼女はときおり、レーヴィンから兄に視線を移しながら、自由な調子でゆっくりと話した。レーヴィンは、その目つきから受ける印象がよかったので、たちまちまるで子供時代からの知り合いのように、楽な、肩の張らない、楽しい気分になった。
「わたし、イヴァン・ペトローヴィッチとごいっしょに、アレクセイの書斎に陣取ったのよ」タバコを吸ってもいいかという、オブロンスキイの問いに答えて、彼女はそういった。「つまり、タバコを吸うためなんですの」それから、レーヴィンの方をちらと見て、タバコをおあがりになりますか? ときくかわりに、鼈甲《べっこう》のシガレットケースをひきよせて、一本ぬき出した。
「この頃、体のぐあいはどうなの?」と兄は彼女に問いかけた。
「べつに。ただいつものとおり神経がね」
「ねえ、とてもいいだろう?」レーヴィンがちらちらと肖像を見上げているのに気づいて、オブロンスキイはいった。
「これ以上の肖像画は見たことがないよ」
「それに、とてもよく似ている、そうじゃありませんか?」とヴォルクーエフがいった。
 レーヴィンは肖像から実物に目を移した。アンナがその視線を身に感じた時、なにか特殊な輝きが彼女の顔を照らした。レーヴィンは赤くなった。その当惑感を隠すために、ドリイに会ったのは大分まえのことか、と問いかけた。が、それと同時に、アンナのほうから話しかけた。
「わたし、今イヴァン・ペトローヴィッチと、ヴァシチェンコフの近作のお話をしておりましたのよ。あなたごらんになりまして?」
「ええ、見ました」とレーヴィンは答えた。「でも、失礼いたしました、お話の腰を折ったようでございますね。あなた何かいおうとなすったのでございましょう……」
 レーヴィンは、ドリイに会ったのは前のことか、とたずねた。
「あのひとは、昨日うちへ来て下さいました。グリーシャのことで、ひどく中学校に腹をたてていらっしゃいましたわ。ラテン語の先生が、何かあの子に不公平なことをしたとかで」
「ええ、僕はヴァシチェンコフの絵を見ましたが、そうたいして気に入りませんでしたね」とレーヴィンは、彼女のはじめた話題に帰った。
 今ではもうレーヴィンの話ぶりは、昼間のような、事務的なところが、すっかりなくなってしまった。アンナと話していると、一つ一つの言葉が、特殊の意義をおびてくるのであった。彼女と話すのも気持がよかったが、彼女の話を聞いていると、もっと気持がいいのであった。
 アンナの話しぶりは自然だったばかりでなく、聡明なものであった。が、聡明であると同時にむぞうさで、自分の思想にはなんの価値も認めず、相手の思想に大きな価値を賦与《ふよ》するのであった。
 話題は芸術の新しい方向や、フランスの一画家が試みた聖書の新しい挿絵に転じた。ヴォルクーエフは、粗野に堕したこの画家のレアリスムを難じた。レーヴィンはそれにたいして、フランス人はどの国民よりも以上に、芸術上の約束をぎりぎりのところまで持って行ってしまったので、したがって、レアリスムへの復帰を特別な功績のように思っているのだ、彼らはもはやうそをつかぬという点に、詩美を見いだしたのだ、と述べた。
 レーヴィンは、今まで自分のいった聡明な言葉の中で、これほど彼に満足感を与えたものはなかった。アンナがこの思想を正しく評価すると同時に、その顔は忽然として輝きをおびた。彼女は笑いだした。
「わたし笑っていますけど」と、彼女はいった。「それはね、とてもよく似た肖像画を見るときに笑いだす、あれなんですの。あなたのおっしゃったことは、今のフランス芸術の特質を、そっくり定義していますわ、絵ばかりでなく、文学にまであてはまりますものね、ゾラとか、ドーデエとか。でも、それはいつでもそうなのかも知れませんわね。頭で考え出した約束的な人物で、自分の comceptions(構想)を組み立てているうちに、やがてありたけの組合せも使いはたして、頭で考え出した人物にも飽きてしまうと、今度はもっと自然な、本当らしい人物を考え出すようになるんですわ」
「いや、それこそ全くそのとおりですよ!」とヴォルクーエフはいった。
「じゃ、あなたがたはクラブヘいらしたの?」と彼女は兄に話しかけた。
『そうだ、そうだ、これこそ本当の女だ!』レーヴィンはわれを忘れてしまって、いま突如として一変した、美しい動的な感じのする顔を、穴のあくほどながめながら、こう考えるのであった。彼女が兄のほうへかがみこんで、何を話しているのか聞えなかったけれども、レーヴィンはその顔の変化に一驚を喫した。今までは、そのおちつきのために美しかった顔が、とつぜん妙な好奇心と、憤怒と、誇りを現わしているのであった。しかし、これはほんのつかのまであった。彼女は何か思い起しでもしたように、目を細めた。
「まあ、でも、こんな話、だれにもおもしろかありませんわね」といって、彼女はイギリス娘のほうへふりむいた。「Please order the tea in the drawing room.(どうか応接間でお茶の用意をするように、いいつけてちょうだい)」
 女の子は立ちあがって、出て行った。
「ときに、どうだね、あの子は試験が受かったかね?」とオブロンスキイはたずねた。
「りっぱに受かりましたわ。とてもできのいい子で、かわいい性質なんですの」
「あげくのはては、自分の娘よりかわいくなるんだろう」
「それは、男の人のいうことですわ。愛情に大きいも小さいもありませんわ。自分の娘を愛するのと、あの子を愛すのとは、愛し方が違いますもの」
「それについて、私はアンナ・アルカージエヴナにいってるんですがね」とヴォルクーエフが口を入れた。「もしあのイギリス娘にそそがれている精力の百分の一でも、一般ロシヤの少年少女の教育に向けられたら、アンナ・アルカージエヴナは大きな、益のある仕事をなしとげられたでしょうにね」
「ところが、そのおっしゃることが、わたしにはできませんの、アレクセイ・キリーロヴィッチ伯爵が(このアレクセイ・キリーロヴィッチ[#「アレクセイ・キリーロヴィッチ」に傍点]伯爵という言葉を出すとき、彼女は許しを乞うような、臆病らしいまなざしでレーヴィンを見やった。すると、彼は思わず知らず、うやうやしい肯定するような視線で、それにこたえたのである)田舎で学校事業をするようにと、水を向けたものですから、わたしも何度か通ってみましたの。みんなとてもかわいい子でしたけど、わたしこの仕事に愛着をもつことができませんでしたの。あなたは精力とおっしゃいますが、精力には愛が基になっています。ところで、その愛はどこから取ってくることもできなければ、命令するわけにもまいりませんもの。あの娘《こ》はふと好きになったんですけど、なぜだか自分でもわかりませんの」
 こういって、彼女はまたもやレーヴィンをちらと見た。と、その微笑も、まなざしも、なにもかもが、こんなことを語っていた――わたしは、あなたのご意見を尊重してもいますし、同時に、わたしたちふたりがおたがい同士、理解し合っているということを、前もって承知しているものですから、あなた一人だけに向けて、このお話をしているのでございますよ。
「それは僕によくわかります」とレーヴィンは答えた。「学校ばかりでなく、一般にそういったような施設には、本当に心を傾けることができないものです。だから、そうした慈善事業が、いつも大した成績をあげないんだと、そう僕は思いますね」
 彼女はちょっと黙っていたが、やがてにっこり笑った。
「そうですわ、そうですわ」と彼女は確かめた。
「わたし、どうしてもできませんでしたの。〔Je n'ai pas le coe&ur assez large〕(わたしには、それだけの大きな心がございませんもの)きたならしい女の子のいっぱいいる養育院を愛するなんて。〔Cela ne m'a jamais re'ussi〕(そんなことはわたし、ついぞ一度もうまくいったことがございませんの)そのために position sociale(社会的位置)をこしらえた女の人は、ずいぶんあるんですけどね。そのうえ、今となってはなおさらですわ」と彼女は打ち沈んだ、信頼にみちた表情でいった。ちょっと見たところでは、兄に話しかけるようなふうであったが、レーヴィン一人を目標にしているのは、明らかであった。「今はわたし、何か仕事をもってるってことが、とても必要なんですけど、わたしにはできませんの」そういってから、ふいに眉をひそめて(彼女は自分のことなどいいだした自分にたいして、眉をひそめたのである。レーヴィンはそれを悟った)彼女は話題を変えた。「わたし、あなたのこと存じていますのよ」とレーヴィンに話しかけた。「あなたが公民として、感心できないかただってことを。でも、わたしはわたしなりに、あなたの弁護をいたしましたけど」
「どんなふうに弁護してくださいました?」
「そりゃ攻撃のしぶりによって、いろいろですわ。もっとも、お茶をひとついかがでございます?」と彼女は立ちあがり、モロッコ革で装幀した本をとりあげた。
「それを私にくださいませんか、アンナ・アルカージエヴナ」とヴォルクーエフは、本をさしながらいった。「それはじゅうぶん値うちがありますよ」
「いえ、いえ、これはまだ仕上げが本当にできていないんですもの」
「僕はあの男にその話をしたんだよ」とオブロンスキイは、レーヴィンをさしながら、妹にいった。
「まあ、いやねえ。わたしの書くものなんて、いわばリーザ・メルカーロヴァがときどきわたしに売りつける、囚人たちのつくった籠や、木彫細工みたいなものですわ。あのひとは慈善会で、監獄のほうの主任をしてらっしゃるんですの」と彼女はレーヴィンの方へ向いていった。「あのふしあわせな人たちの作ったものといったら、それこそ忍耐の奇蹟ですわ」
 レーヴィンはそこでまた、このなみなみならず気に入った女性の中に、一つの新しい特性を発見した。聡明さと、優雅さと、美しい容姿のほかに、彼女は真実みをもっていたのである。彼女は自分の境遇の苦しさを、レーヴィンに隠そうとしなかった。彼女はそういうと、ほっと一つ吐息をついたが、その顔はまるで化石でもしたように、とつぜんきびしい表情になった。この表情を浮べた彼女の顔は、前よりもさらに美しかった。しかし、この表情は新しいものであった。それは、画家があの肖像の中で捕えた、幸福にかがやき、幸福を生み出す、あの環境の外に属するものであった。レーヴィンはもういちど肖像をながめ、それからさらに、兄の腕をとって高いドア口から出て行く彼女の姿を見やったとき、われながら驚かれるほど、彼女にたいする優しい愛情と、憐愍を感じたのである。
 彼女はレーヴィンとヴォルクーエフに、客間へ先に行ってくれと頼んで、自分は兄と何かの話をするために残った。『離婚のことか、ヴロンスキイのことか、ヴロンスキイがクラブで何をしているかということか、それともおれのことか』とレーヴィンは考えた。彼は、アンナがオブロンスキイと何を話しているか、ということにばかり気をもんでいたので、アンナの書いた少年小説のよさを説くヴォルクーエフの言葉が、ほとんど耳に入らないほどであった。
 茶のあいだにも相変らず気持のいい、内容の充実した話がつづいた。話題をさがさなければならないようなことは、ただの一分間もなかった。それどころか、自分のいいたいことを述べるのが、まにあわないくらいであったが、同時に人の話を聞くために、自分のいいたい気持をおさえるのも、快いのであった。そのとき話したことは何もかも、アンナ自身ばかりでなく、ヴォルクーエフやオブロンスキイのいったことまで、すべてがアンナの心づかいや、彼女のはさむ言葉のおかげで、特殊な意味をおびてくるのであった。
 興味ふかい会話の流れを追いながらも、レーヴィンはたえず彼女に見とれていた。――その美貌、聡明さ、教養ばかりでなく、その単純さと、情味深さに見とれていた。彼は聞いたり話したりしながらも、彼女の感情を察しようと努め、彼女のことを考え、その内生活を考えていた。以前あれほどきびしい態度で、彼女を非難していた彼が、今はふしぎな思想の流れによって、彼女の弁護をするようになり、同時に、ヴロンスキイが十分に彼女のよさを理解していないのではないか、というようなことまで気にしはじめた。十時をまわってから、オブロンスキイが立ちあがって帰りじたくをした時(ヴォルクーエフはもうその前に辞し去った)レーヴィンはつい今しがた来たばかりのような気がした。彼はなごり惜しい気持で、同様に席を立った。
「さようなら」彼の手をひきとめるようにして、なにか引力のあるまなざしで彼の目を見つめながら、彼女はそういった。「わたし本当にうれしゅうございますわ、que le glace est rompue(わだかまりが溶けて)」
 そういって、彼の手をはなし、目を細めた。
「どうか奥さまにそういって下さいましな、わたしはもともとどおり、あのかたを愛していますって。もしあのかたが、わたしの境遇を赦《ゆる》すことがおできにならなかったら、どうか永久に赦さないでいただきたいんですの、それがわたしの望みでございますの。わたしを赦すためには、わたしと同じことを体験しなくちゃなりませんが、そんなことがあったら大変ですものね」
「ええ、必ず、僕そのとおりに伝えます……」とレーヴィンは、顔を赤らめながら答えた。