『アンナ・カレーニナ』5-11~5-20(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]一一[#「一一」は中見出し]

 アトリエの中へ入ると、画家のミハイロフはもう一度客を見まわして、さらにヴロンスキイの顔、ことにその頬骨の表情を、自分の想像の中へとり入れた。彼の芸術家的感情はたえまなく働いて、素材を蒐集していたにもかかわらず、また自分の作品の批評される時が近づいてくるために、いよいよはげしく興奮を覚えていたにもかかわらず、彼はほとんど目に立たぬほどの徴候によって、この三人の人物に関する概念を、敏速かつ繊細につくりあげていった。あれ(ゴレニーシチェフ)はこの土地のロシヤ人であるが、ミハイロフはその姓名も、どこで会ったかも、何を話したかも覚えていなかった。彼はどんな顔でも、いちど見た以上のこらず覚えているので、ゴレニーシチェフの場合も、顔だけは覚えがあった。しかし、なおそのうえに彼の記憶の中では、こけおどかしのものものしさばかりで、表情の乏しい顔という、きわめて大きな部門に編入されている顔の一つであることも、同様に覚えていた。大きく盛りあがった髪と、恐ろしく開けっぱなしの額は、その顔に外面的なものものしさを与えていたけれども、その実はただ小っぽけな、子供らしい不安げな表情があるばかりで、それは迫った鼻筋に集中されているのである。ヴロンスキイとカレーニナは、ミハイロフの想像によると、身分の高い富裕なロシヤ人の例にもれず、芸術など少しもわからないくせに、その愛好家かつ鑑賞家を気どっているのである。
『きっともう古い画はすっかり見つくして、今はドイツの山勘絵かきや、イギリスのばかげたラファエル前派など、新しい流派のアトリエを廻って歩いているので、おれのとこへはただ見聞の充実という意味で、やって来ただけの話だろう』と彼は思った。彼はこうしたジレッタントの癖を、よく知りぬいていた(彼らは賢ければ賢いほど、ますますいけないのである)この連中が現代のアトリエを見てまわる目的は、ただ『芸術は堕落した、新しい作品を数多く見れば見るほど、古い巨匠たちの模倣を許さぬ偉大さがわかってくる』とこういう権利を得るためにすぎないのだ。彼はそれを期待していたばかりでなく、彼らの顔つきにもそれを見てとったし、また彼らが互に話しあったり、模像や胸像をながめたり、今にも画家が作品のおおいをとって見せるだろうと待ちもうけながら、自由にその辺を歩きまわったりする、その無関心で無造作な態度にも、それがまざまざと見えていた。が、それにもかかわらず、自分のデッサンをめくって見せたり、ブラインドを上げたり、おおい布をとりのけたりしている間、彼ははげしい胸騒ぎを感じた。身分の高い富裕なロシヤ人は、彼の観念によると、みんなばかの畜生にきまっているにもかかわらず、ヴロンスキイと、ことにアンナが気に入ったので、その胸騒ぎはいよいよ強くなってきた。
「これはいかがですか?」と彼は、例のちょこちょこ歩きで脇の方へのいて、ある一つの画をさしながらたずねた。「これはピラトの訓戒です。マタイ伝第二十七章の」興奮のために唇がふるえはじめるのを感じながら、彼はこういった。彼はそこを離れて、二人のうしろに立った。
 訪問客が黙って画面をながめている幾秒かの間、ミハイロフも同様に無関心な、他人のような目でながめていた。この幾秒かの間に、最高の公平無私な批評が、ほかでもない、つい一分前まであんなに軽蔑していた、この訪問客の口から発せられるに違いない、と彼は前もって信じきっていた。彼は以前、制作中の三年間、この画について考えていたことを、残らず忘れてしまった。今まで彼にとって、疑いの余地のなかったこの画の長所を、ことごとく忘れつくして、彼はいま無関心な、他人のような、新しい目でながめた。そして、何一ついいところが発見できなかった。前景にピラトのいまいましげな顔と、キリストのおちついた顔、そのうしろにピラトの家来たちの姿と、その場の様子に見入っているヨハネの顔がある。一つ一つの顔はなみなみならぬ探求と、多くの誤謬と訂正を経た後、おのおの特殊な性格となって、彼の心に生え抜いたものであり、彼に無量の苦悶と喜びを与えたものである。全体の調和のために、幾度となく置き変えられたこれらの顔、筆紙につくせぬ困苦によって到達したすべての色彩と、調子のニュアンス――これらいっさいのものが、今この訪問客の目で見ると、百度も千度もくりかえされた俗悪なもののように思われてきた。彼にとって最も貴い顔、はじめて発見したときには、彼にあれほどの歓喜をもたらした、画面の中心であるキリストの顔も、いま彼らの目で見ると、彼にとって、いっさい無価値になってしまった。彼はただよく描かれた(いや、それさえいいとはいわれない、今は無数の欠点がありありと彼の目に映った)、チチアン、ラファエル、ルーベンスというふうに、無限にあるキリスト、兵士、ピラトの反覆を見るばかりであった。それらはみな俗悪で、貧弱で、古くさく、おまけにできばえも悪かった――色がごちゃごちゃして、力がない。彼らは画家の前では、わざとらしく慇懃《いんぎん》な文句を並べて、自分たちだけになると、気の毒がったり冷笑したりするだろうが、それはもっともせんばんである。
 彼は、この沈黙があまりにも苦しくなったので(そのくせ、一分以上はつづかなかったのである)その沈黙を破って、自分は興奮などしていないことを見せるために、強いて自ら努力しながら、ゴレニーシチェフに話しかけた。
「たしか、あなたにはお目にかかったことがあるように思いますが」といいながらも、彼は不安げに、アンナとヴロンスキイを、かわるがわるふり返っては、その顔の表情の一点一画をも見おとすまいとした。
「そりゃもう! 私たちはロッシイのとこでお会いしました。ほら、覚えておいででしょう、あのイタリーのお嬢さん、新しいラシェルが朗読をした晩ですよ」いっこうなごりの惜しげな様子もなく、画から目を離して、画家の方へ向きながら、ゴレニーシチェフは自由な態度でしゃべりだした。
 しかし、ミハイロフが画の批評を待っているのに気がつくと、彼はこういった。
「あなたの画は、このまえ拝見したときから比べると、たいへん進捗しましたね。あのときもそうでしたが、今でも私はピラトの姿に、異常なショックを感じますよ。善良で気持のいい男ではあるけれども、自分で自分が何をしているかわきまえない、腹の底までの役人であるこの人物が、じつによくわかりますよ。しかし、私の見るところでは……」
 ミハイロフのよく動く顔ぜんたいが、ふいにさっと明るく輝いて、その目はぎらぎら光りだした。彼は何かいおうとしたが、興奮のために言葉を発することができず、咳ばらいをするようなふりをした。彼はゴレニーシチェフの芸術理解力を、きわめて低く評価していたにもかかわらず――役人としてのピラトの顔の表情が正確であるという、決まりきった意見は、つまらないものであったにもかかわらず――もっとも重要な点を不問に付して、まず第一番にこんなつまらないことを問題にされたのは、彼としてずいぶん癪に障ることだったにもかかわらず――ミハイロフはこの評言に、有頂天になってしまった。彼自身もピラトの姿については、ゴレニーシチェフがいったのと同じことを考えていた。こうした批評は、いずれも肯綮《こうけい》を穿《うが》つに相違ない幾千万というその他の批評の一つにすぎないことは、ミハイロフも確かに承知しているくせに、それでも彼にとって、ゴレニーシチェフの言葉は価値を減じなかった。彼はこの評言のために、ゴレニーシチェフが好きになり、意気銷沈の状態から、一足飛びに有頂天になってしまった。たちまちその画面は、生けるものの名状し難い複雑さを十二分に発揮して、彼の目の前によみがえってきた。ミハイロフはまたしても、自分もピラトをそのように解釈している、といおうと試みたが、唇はいうことをきかずに、ぶるぶるとふるえ、何一つ言葉が出なかった。ヴロンスキイとアンナも、何か小さな声でいった。それはいくぶん、画家を侮辱しないためでもあったが、またいくぶんかは、絵の展覧会などで美術を語る場合、よく人がうかうかと口にしやすいばかげたことを、大きな声でしゃべらない用心であった。ミハイロフは、自分の画がこの二人にも印象を与えたように感じた。で、彼はそのそばへよっていった。
「キリストの表情の、まあすてきですこと!」とアンナはいった。今まで見たうちで、この表情がいちばん彼女の気に入った。彼女はこれが画の中心であるから、この賛辞は画家にとってうれしいだろう、と感じたのである。「ピラトをかわいそうに思ってるのが、ありありと見えていますわ」
 これもまた彼の画の中にも、キリストの顔の中にも発見することのできる、幾千万の肯綮を穿った評言の一つであった。彼女は、キリストはピラトがかわいそうなのだ、といった。キリストの表情には、きっと憐愍もあったに相違ない。なぜなら、そこには愛と、この世ならぬおちつきと、死の覚悟と、言葉の無益《むえき》にたいする意識の表情があったからである。もちろん、ピラトに役人らしい表情があり、キリストに憐愍の表情があるのはいうまでもない。なぜなら、一は肉的生活の具象であり、他は精神的生活の権化だからである。そういったようなことや、そのほか多くのことが、ミハイロフの頭に閃いた。と、またしても彼の顔は歓喜の色に輝いた。
「そう、この人物の出来ばえはどうです、そして空気の満ち溢れていること、あのうしろが廻れそうなくらいです」とゴレニーシチェフはいったが、明らかにその評言によって、この人物の内容と思想に感服しないことを、示そうとするらしかった。
「そう、驚くべき手腕だ!」とヴロンスキイはいった。「あの背景の人物の、くっきりと浮き出してることはどうだ! これがテクニックなんだ」と彼はゴレニーシチェフに向っていったが、それはかつて二人で話しあったとき、ヴロンスキイがこのテクニックを身につけるのに失望したといったのを、ほのめかしたものである。
「そう、そう、すてきです!」とゴレニーシチェフとアンナは、相槌を打った。
 興奮した心の状態であったにもかかわらず、テクニックうんぬんという評言は、ひどくミハイロフの気持をかきむしった。で、彼は腹だたしげにヴロンスキイを見やったが、急にしかめ面になってしまった。彼はよくこのテクニックという言葉を聞いたが、その言葉のもとにいかなる意味が蔵されているのか、とんと合点がいかなかった。彼の理解するところによれば、この言葉の陰には、内容とはぜんぜん無関係な、描いたり塗ったりする機械的な才能が意味されていた。今の賛辞と同様に、悪いものをよく描くことができるかのように、テクニックを内面的価値に対立させるのは、彼のしばしばみとめたところである。彼は知っていた、おおい布をとるとき、自分の作品を損《そこな》わないために、またすべてのおおいをとるためには、非常な注意と細心を必要とする。しかし、画を描く技術のためには、そこになんらのテクニックも必要でない。もし幼い子供や台所女中に、彼の見たのと同じものが啓示されたら、彼らも自分の目に映ったものを、ちゃんとひんむいて見せたに相違ない。ところで、どんなに経験を積んだ巧妙な技巧家の絵かきでも、その前に内容の限界が啓示されない以上は、単なる機械的の能力だけでは、何一つ描くことができないはずである。のみならず、もしテクニックを口にする以上、テクニックのために自分を褒めるわけにいかないのを、彼はちゃんと悟っていた。自分の描きつつあるもの、すでに描き終ったものの全部に、彼は一見して目を射る幾多の欠点を認めていた。それは、おおいをとるときの不用意から生じたもので、今となっては、作品の全部を損わずに、もはやそれを訂正することができないのである。ほとんどすべての姿や顔に、まだ十分おおいをとらなかった痕跡があり、それが画面をそこなっているのを、ちゃんと見てとっていた。
「ただ一ついうことができるのは……ただし、あなたがその感想を述べさせて下さればですが……」とゴレニーシチェフがいった。
「ああ、それは喜んで伺います。どうぞ」とミハイロフは、わざとらしく微笑しながらいった。
「ほかでもありませんが、あなたのキリストは神人でなくて人神です。もっとも、あなたがそうしようとお思いになったのは、承知していますが」
「私は自分の心にある以外のキリストを、描くことができなかったのです」とミハイロフは陰気な調子で答えた。
「さよう、しかし、そういうわけでしたら、もしあなたが私の考えをいうことを許してくだされば……あなたの画はじつにりっぱなのですから、私の感想などが、その価値を傷つけることはできませんし、それにこれは私一箇の意見ですからね。あなたのはこりゃ別です。またテーマそのものも別ですが、まあ、かりにイヴァノフを例にとってみましょう[#「みましょう」は底本では「みましよう」]。私の考えでは、もしキリストが歴史的人物の段階にひき下げられたのなら、イヴァノフとしてはもっと別な、人の手をつけてない、新しい歴史的テーマを選んだほうがよかったでしょう」
「しかし、これがもし芸術に与えられた最大のテーマだとしたら?」
「さがしたら、もっとほかなのが見つかりますよ。しかし、問題はですね、芸術が論争や理屈を容れないということです。イヴァノフの画の前に立っていると、信仰者にとっても、不信仰者にとっても、これは神であるや否やという疑問が浮んできて、印象の統一を破壊するのです」
「なぜでしょう? 私は教養のある人にとっては」とミハイルはいった。「論争などありえないと思われますが」
 ゴレニーシチェフはそれに同意せず、自分が最初に述べた芸術に必要な印象の統一説を固執して、ミハイロフを論破した。
 ミハイロフは躍起《やっき》となったけれども、自説の弁護に何一ついうことができなかった。

[#5字下げ]一二[#「一二」は中見出し]

 アンナとヴロンスキイは、もう前から目を見合わせて、自分の友だちの賢明な饒舌《じょうぜつ》を哀れんでいた。とうとう、ヴロンスキイは主人の案内を待ち切れないで、次の小さな画に移った。
「ああ! なんとすばらしい、じつにすばらしい! 奇蹟だ! ほんとにすばらしい!」と二人は異口同音に叫んだ。
『いったいなにがそんなに気に入ったんだろう?』とミハイロフは思った。三年前に描いたこの画のことなど、とんと忘れてしまっていた。何ヵ月かの間、寝ても覚めても、この画が気にかかっていた時分に経験したいっさいの苦悶も、喜びも、すべて完成した画のことを忘れる癖として、ころりと忘れていたのである。彼はその画を見ることさえ好まず、ただそれを買おうといったイギリス人を待っていたために、並べておいたに、すぎないのである。
「これはちょっとしたもので、だいぶまえの習作です」と彼はいった。
「じつにいい!」これも同様、心からこの画の美に打たれたらしく、ゴレニーシチェフはそういった。
 二人の少年が楊《やなぎ》の陰で魚を釣っていた。一人年かさのほうは、たったいま糸を投げたばかりで、一生懸命に茂みの中から浮きをひき出しながら、その仕事に注意を呑みつくされている。もう一人年下のほうは、草の上にねそべって、白っぽい髪のもつれた頭を両腕にのせ、もの思わしげな空色の目で、水面をながめている。いったい何を考えているだろう?
 この画に対する一同の感嘆は、ミハイロフの心に以前の興奮を呼びさました。しかし、彼はこうした暢気《のんき》な懐旧の念を恐れ、かつ嫌っていたので、この賞賛はうれしかったにもかかわらず、彼は訪問客を、三番目の画のほうへひっぱっていこうとした。
 しかし、ヴロンスキイは、この画を売っていただけるでしょうか、とたずねた。今この訪問客のために興奮しているミハイロフにとって、金の話はきわめて不愉快であった。
「そりゃ売るために並べてあるのですから」と彼は陰気くさく、眉をひそめながら答えた。
 客が立ち去った後ミハイロフは、ピラトとキリストの画の前に腰をおろして、客のいったことや、口には出さないまでも、客が暗にほのめかしたことを、心の中でくりかえしていた。と、ふしぎにも、客がそこにいて、彼が心中ひそかに彼らの見地に立っていたときは、あれほどの重みをもっていた言葉が、忽然としていっさいの意味を失ってしまった。彼は自分の完全な芸術的見方で、画をながめはじめた。そして、自分の画が完璧であり、したがって、重大な意義をもっているという自信に到達した。それは、他のあらゆる興味を排除する緊張感のために必要なのであって、彼はただこういうときにのみ、仕事をすることができたのである。
 下から見上げるように描かれたキリストの足は、なんといっても的がはずれていた。彼はパレットをとって、仕事にかかった。足をなおしながら、彼は背景になっているヨハネの姿に見入っていた。訪問客は気にとめなかったけれども、それが完成の極致であることを、彼は承知していた。足がすむと、彼はこの人物にとりかかろうとしたが、この仕事のためにあまり興奮しすぎていると感じた。彼は冷淡な気持でいるときも、またあまり感動しすぎて、なにもかも見えすぎるときも、同じように仕事ができないのであった。仕事ができるためには、冷静から感激に移る過程のうち、たった一つの段階があった。が、今はあまりにも興奮しすぎていた。彼は画面におおいをかけようとしたが、ちょっとその手をとめて、おおい布を持ったまま、幸福げにほほえみながら、ヨハネの姿を長いことうちまもっていた。やがてとうとう、何か悲しげな目を放して、おおいをかけ、疲れてはいたが幸福な気持で、住居のほうへ帰って行った。
 ヴロンスキイと、アンナと、ゴレニーシチェフは、帰る道すがら、かくべつ活気づいて、快活であった。彼らは、ミハイロフとその作品の話をした。才能[#「才能」に傍点]という言葉――それは彼らの使い方によると、知性と心情を超越した生れながらの、ほとんど生理的ともいうべき能力であって、彼らはこの言葉によって、画家の体験するいっさいを呼びたかったのであるが、この言葉が彼らの話の中に、かくべつひんぱんに出てきた。なぜなら、自分たちがなんの観念ももっていないくせに、話したくてたまらないことをさしていうのに、必要かくべからざるものだったからである。彼らはこんなことをいった――ミハイロフの才能は否定できないけれども、ロシヤの画家のすべてに共通の不幸である教養の不足のために、才能は伸びていくことができない、と。しかし、二少年の画は彼らの記憶に根をおろして、ともすれば話がそれに帰っていった。
「じつにすばらしい? どうしてああ単純にうまくいったんだろう? あの男は、あの画がどんなにいいかわからないのだ! そうだ、機会をのがさずに、あれを買わなくちゃならない」とヴロンスキイはいった。

[#5字下げ]一三[#「一三」は中見出し]

 ミハイロフはヴロンスキイに自分の画を売って、アンナの肖像を描くことを承諾した。約束の日にやって来て、仕事をはじめた。
 その肖像は、五回目あたりから一同、特にヴロンスキイを驚かした。それは、ただよく似ているからというだけでなく、一種特別な美のためであった。その特別な美を、どうしてミハイロフが見いだしえたか、ふしぎなくらいである。『彼女のこうした美しい精神的表情を発見するためには、おれと同じように彼女を知り、かつ愛さなければならぬはずだ』とヴロンスキイは考えた。そのくせ、彼自身この肖像によって、彼女のこうした美しい精神美を発見したのである。けれども、その表情がいかにも真実みに満ちていたので、彼にしても、またほかの人にしても、前からそれを知っているような気がした。
「僕はあんなに長いこと苦労しているのに、なんにもしでかせないでいるが」と彼は自分の肖像画のことを、そういった。「あの男はちょっと見て、たちまち描いてしまった。これがつまりテクニックなんだ」
「それは今にできるさ」とゴレニーシチェフは、彼を慰めた。彼の考えによると、ヴロンスキイは才能、ことに教養があるから、これが芸術にたいして、高邁《こうまい》なる見解を与えるのであった。なおそのほか、ゴレニーシチェフがヴロンスキイの才能を、固く信じていたのは、自分の論文や思想にたいするヴロンスキイの同感や、賞賛が必要だったからでもある。賞賛や支持は、相互的なものでなくてはならない、そう彼は感じていた。
 ミハイロフは他人の家、ことにヴロンスキイの邸宅《パラッツォ》では、自分のアトリエにいるときとは、まるで別人のようになった。さながら、自分の尊敬しない人々との接近をおそれるかのように、彼は固く城壁をかまえたような、うやうやしい態度を持《じ》していた。彼はヴロンスキイを御前と呼び、アンナやヴロンスキイが招待しても、決して食事に残らず、画を描くときよりほかには、訪ねてこなかった。アンナはほかのだれよりも彼に優しくして、肖像画のことを感謝していた。ヴロンスキイは彼に対して、慇懃以上の態度をとり、明らかに、自分の画に対するこの画家の批評に興味をもっているらしかった。ゴレニーシチェフは、ミハイロフに真の芸術観を吹きこむ機を、のがそうとしなかった。しかしミハイロフは、すべての人に対して、どこまでも冷淡であった。アンナは彼の目つきによって、彼が自分を見るのを喜んでいるなと感じたが、彼はアンナと話すのを避けるようにしていた。ヴロンスキイが絵画の話をしむけても、彼はかたくなに沈黙を守り、ヴロンスキイの作品を見せられても、同じく頑固におし黙っているのであった。そして、ゴレニーシチェフの話も明らかに苦痛であるらしく、少しも反駁しなかった。
 要するに、ミハイロフの控えめな、まるで敵意でもいだいているような不快な態度のため、三人は彼を近しく知るようになってから、ひどく気に入らなくなってしまった。で、写生が終って、みごとな肖像が手に残り、彼がやってこなくなった時、彼らはほっとしたように喜んだ。
 ゴレニーシチェフは、みんなが心にいだいていた考えを、まず第一番に口に出した。つまり、ミハイロフはなんのことはない、ただヴロンスキイをうらやんでいるのだ。
「まあ、やっかんでまではいないかもしれない。だってあの男には才能[#「才能」に傍点]があるのだからね。しかし、宮内官で、金持で、おまけに伯爵(なにしろ、彼らはすべてこういうことを憎悪しているからね)こういう人間が、格別なんの苦労もなしに、この道に一生を捧げたあの男より、優れた仕事とはいえないまでも、同じことをしているのが、いまいましいんだよ。何よりも第一に教養さ――あの男のもっていない教養さ」
 ヴロンスキイはミハイロフを弁護したが、心の深い底のほうでは、その説を信じていた。なぜなら、彼の見解によると、自分より低い別の世界に属する人間は、羨望するのがあたりまえだからである。
 彼とミハイロフが同じように、モデルを写して描いたアンナの肖像は、彼とミハイロフの間に存在する相違を、当然ヴロンスキイに証明すべきはずでありながら、彼はその差違に気がつかなかった。ただ彼はミハイロフの肖像ができあがると、自分のアンナ像を描くのをやめてしまった。それは今むだなことだ、と決めたのである。しかし、中世時代を主題とした画は、相変らずつづけていた。彼自身も、ゴレニーシチェフも、ことにアンナは、それがたいへんよくできていると思った。というのは、ミハイロフの画よりも、ずっと有名な傑作に似ていたからである。
 ミハイロフは、アンナの肖像に心からうちこんだにもかかわらず、画が完成して、もはやゴレニーシチェフのお説教を聞くこともなく、ヴロンスキイの画を見なくともすむようになったとき、むしろ彼ら以上に喜んだ。ヴロンスキイが画をおもちゃにするのを、さし止めるわけにはいかない、彼はそれを知っていた。自分にしても、またすべてのジレッタントにしても、なんでも好きなものを描く権利があるのは承知していたが、それでも彼は不愉快であった。人が大きな蝋人形をつくって、それに接吻するのをさし止めるわけにはいかない。しかし、かりにこの人が人形を持って、相愛の男女の前に坐りこみ、恋するものが相手の女を愛撫するように、その人形を愛撫しはじめたら、恋するものはきっと不快に相違ない。ミハイロフはヴロンスキイの画を見るとき、それと同じ不快感を覚えたのである。彼はおかしくもあれば、いまいましくもあり、みじめでもあれば、腹だたしくもあったのである。
 絵画と中世時代にたいするヴロンスキイの熱中も、あまり長くはつづかなかった。彼は相当、絵画にたいする趣味をもっていたので、自分の画を完成することができなかった。作品は頓挫してしまった。はじめはあまり目立たなかった欠点が、続けていくにしたがって、人を驚かすようになるだろう、それを彼はおぼろげながら感じたのである。彼の心には、ゴレニーシェチフと同じようなことが生じたのであった。ゴレニーシチェフは、自分は何もいうことがないと感じながら、たえず自ら欺いて、まだ思想が熟さないから、今のところ想を練りながら、材料を集めているのだ、といっていた。しかし、ゴレニーシチェフはそのために癇をたてて、自分で苦しんでいたが、ヴロンスキイはみずから欺いたり、苦しんだり、ことに癇をたてたりすることができなかった。彼は持ちまえの思い切りのよい性質で、なんの説明も弁解もなく、画を描くことをやめてしまった。
 けれども、こういう仕事がなくなると、イタリーの町におけるヴロンスキイとアンナの生活は(彼女は男の幻滅に呆《あき》れていた)、退屈きわまりないものに思われてきた。邸宅《パラッツォ》は突然、見るからに古ぼけて汚くなり、窓掛のしみや、床のひび割れや、蛇腹の漆喰《しっくい》の剥げたところが、やたらに不愉快に目についてきた。そして、いつも変らぬゴレニーシチェフや、イタリー人の教授や、ドイツの漫遊者が、たまらなく鼻についてきたので、生活を一変する必要が生じてきた。二人はロシヤヘ帰って、田舎へひっこむことに決めた。ペテルブルグでは、ヴロンスキイは兄と遺産分割の話をとり決め、アンナはわが子に会おうと考えていた。夏はヴロンスキイの大きな領地ですごそう、という計画であった。

[#5字下げ]一四[#「一四」は中見出し]

 レーヴィンが結婚して、三月目になった。彼は幸福だった。けれども、それは彼が期待していたのとは、まるで違っていた。彼は一歩ごとに以前の空想の幻滅と、新しい思いがけない魅惑にぶつかったのである。彼は幸福だったが、結婚生活に入ってみると、自分の想像していたものとは全然ちがうということを、一歩ごとに知らされたのである。湖上を滑《なめ》らかにすべる小舟の、幸福げな動きに見とれていた人が、その後、自分でその小舟に乗ってみて感ずるような、そうした気持を、一歩一歩に経験したのである。つまり、体を揺すぶらないようにしながら、平均を保って乗っているだけでは足りない――どの方向をさしていかねばならぬかということや、板子一枚下は水で、その上を漕いでいかねばならぬということや、慣れない腕にはその仕事がつらいということや、ただ見ていたときは楽そうだったけれど、自分でやってみると、非常に楽しくはあるけれども、きわめて困難な仕事だということなどを、瞬時も忘れずに、しじゅう気を配っていなければならない――彼はそれを悟ったのである。
 独身時代には、他人の結婚生活を観察して、彼らのこせこせしたくだらない心配や、いさかいや、嫉妬さわぎなどを見ると、彼は内心ひそかに、軽蔑の微笑を洩らすだけであった。彼の確信に従えば、彼の未来の夫婦生活には、そのようなことはいっさいありえないのみならず、すべての外面的な形式までが、あらゆる点において、他人の生活とは全然ちがっていなければならないように思われた。ところが、思いがけなくその期待に反して、彼と妻との生活は特殊な形をとらなかったばかりか、かえってすべてが何から何まで、以前あれほど軽蔑していた、思い切ってつまらない、些末《さまつ》なことで固まってしまったのである。しかも、その些末なことが、今では彼の意志に反して、否むことのできない、なみなみならぬ意義をおびてくるのであった。そのうえにレーヴィンは、こうしたいっさいの些末なことをきずきあげていくのが、前に考えていたほど、さほど容易なわざではないのを悟った。レーヴィンは結婚生活というものについて、きわめて正確な観念をもっているように思いこんでいたにもかかわらず、やはりすべての男性と同じように、結婚生活というものを、何ものからも障碍を受けることのありえない、また些末な心づかいにまぎらされたりするようなことのありえない、単なる愛の享楽というふうに、知らずしらず想像していたのである。彼の解釈によれば、彼は自分の仕事にいそしんで、その休息を愛の幸福の中にもとむべきであった。彼女は愛せられさえすればいいので、それ以上のものであってはならなかった。しかし、彼はすべての男性とおなじように、妻も働かなければならぬということを、忘れていたのであった。で、レーヴィンは彼女が――この詩的な美しいキチイが、結婚生活の最初の週、いや。それどころか最初の日から、テーブル・クロースだの、家具だの、来客用の敷蒲団だの、盆だの、料理人だの、食事だの、そういったふうのことを考えたり、覚えたり、心配したりすることが、どうしてできるのだろうと、一驚を喫したほどである。まだ婚約時代から、彼女が外国旅行を拒絶して、自分はほかに、大事なことのあるのを承知しているので、恋以外に別のことを考えることもできるといったような按配《あんばい》で、田舎行きに決めたそのはっきりした態度に、レーヴィンは面くらったものである。そのときも、彼はそれに侮辱を感じたが、今でも彼女がこまごました些末なことに、あくせくして心を配るのに、彼はいくどとなく侮辱を感じさせられるのであった。けれども、彼女として、それはやむをえないことだと悟った。で、彼は妻を愛していたがゆえに、なぜということはわからなかったし、また、そうした心づかいをひやかしていたけれど、やっぱりそれに見とれないではいられなかった。彼女が、モスクワから持ってきた家具を配置したり、自分の部屋と良人の部屋を新しく飾りなおしたり、窓掛をかけたり、来客やドリイのために、あらかじめ部屋の割り当てをしたり、自分のつれてきた新しい小間使に居間を整えてやったり、年寄りの料理人に食事をいいつけたり、アガーフィヤ・ミハイロヴナを食料係の位置から遠ざけて、そのために彼女と口論したりするのを見て、彼はそれを茶化していた。彼はまた、年寄りの料理人が彼女に見とれながら、そのいかにも不慣れらしい不可能な命令を聞いて、にやにや笑っているのを見た。またアガーフィヤが、若奥さまの食料品貯蔵に関する新しいやり口に驚いて、考え深そうに、優しく首をふっているのも見た。それからキチイが、泣いたり笑ったりしながら、小間使のマーシャが前からの癖で、自分のことをお嬢さまと呼ぶために、だれも自分のいうことをきかないといって、彼のところへ訴えにきたとき、その様子がいつにも増してかわいらしかった、それをも彼は見てとった。こういうことは、彼の目にかわいくも感じられたが、また変てこにも思われた。で、こういうことはないほうがよさそうだと考えた。
 レーヴィンは、彼女が結婚後に経験している変化の感情を、知らなかったのである。彼女は生家《さと》にいるころには、ときどきクワスを添えたキャベツだの、菓子だのを、ほしいと思うことがあっても、そういうものを自由に手に入れるわけにはいかなかった。ところが、今はなんでもほしいものを注文することができるし、金も好きなだけ使うことができ、ケーキなども、なんなりと好きなのを注文することができたのである。
 いま彼女は、ドリイが子供たちを連れてくるのを、喜びにみちた気持で想像していた。これがかくべつうれしいわけは、ほかでもない、子供たちにめいめいの好きなケーキをこさえさせてやろう、するとドリイは、きっと新しい世帯ぶりをほめてくれるに違いない――とこう思うからであった。彼女自身はどういうわけとも、またなんのためとも知らなかったけれど、家政という仕事に、否応のない力でひかれていった。彼女は本能的に、春の近づいてくるのを感じると同時に、不幸や災厄の日があることも知っていたので、力相応、一生懸命に巣ごしらえをした。巣ごしらえをすると同時に、そのこしらえかたをも覚えこもうと、あせるのであった。
 こうしたキチイの些末な心づかいは、レーヴィンの最初いだいていた高遠なる幸福の理想に相反するもので、彼の幻滅の一つであった。と同時に、このかれんな心づかいは、その意味こそ彼にわからなかったけれど、愛さないではいられない新しい魅力の一つであった。
 いま一つの幻滅と魅惑は、いさかいであった。レーヴィンの気持では、自分と妻とのあいだには、うれしい愛情と尊敬以外に、ほかの関係などがありえようとは、てんで想像することもできなかった。ところが、結婚早々から、二人はもう喧嘩をはじめてしまって、とうとうキチイは彼にむかって、あなたはわたしを愛しているのではなくて、ただ自分自身を愛しているだけだといって、泣きながら両手をふりまわしたくらいである。
 彼らのこうした最初のいさかいは、レーヴィンが新たに設けた農園を見に出かけたとき、近道をしようとして道に迷い、半時間ばかり予定より遅れて、帰って来たのがもとだった。彼はただ彼女のことや、彼女の愛のことや、自分の幸福のことばかり考えながら、家路へ急いでいたので、わが家に近づくにつれて、妻にたいする優しい愛情が、ますます強く燃え立ってきた。彼はかつて結婚の申しこみに、シチェルバーツキイ家へおもむいたときのような、いや、それよりもっと強い愛情をいだきながら、部屋の中へ駆けこんだのである。ところが、彼を出迎えたのは、今までついぞ見たこともないほど、陰鬱な妻の表情であった。彼は妻を接吻しようとした。けれども、妻は彼をつき退けた。
「おまえどうしたの?」
「あなたお楽しみですわね……」つとめておちついた、毒々しい調子を響かせようとしながら、彼女はいいはじめた。
 けれど、彼女が口を開くやいなや、無意味な嫉妬と、窓に腰かけて身動きもせずにすごしたこの半時間、彼女を苦しめつづけたありとあらゆるむしゃくしゃが、はげしい非難の言葉となってほとばしり出た。そのとき彼ははじめて、式のあとで彼女を教会から連れて出たときに、よく了解できなかったことが、やっとはっきりわかったのである。彼女は自分にとって近しい存在であるばかりでなく、今ではもうどこまでが彼女で、どこからが自分なのかわからない――それを彼は了解したのである。この瞬間に経験した苦しい自己分裂の気持によって、彼はそれを了解したのである。彼もはじめは少しむっとしたが、すぐその瞬間に、自分は妻に腹などたてさせられるわけがない、彼女は要するに自分自身なのだからと、感じたのである。彼が最初の瞬間に経験した気持を、たとえていうならば、ふいにうしろから強い打撃を受けた人が、いまいましさのあまり、仕返しのために相手を見つけようと思って、あとをふりむいてみたところ、それは何かのはずみに自分を打ったので、だれに腹をたてることもない、じっとこらえて、痛みを鎮めるほかない、とこう悟ったときに、味わうような感じなのであった。
 もうそのあとになってからは、彼もそれほど強くその感じを経験しなかったが、そのはじめてのときは、長いあいだわれに返ることができなかった。自然の感情は、おのれの弁解をして、彼女のあやまちを証明するようにと彼に要求した。しかし、彼女の罪を証明することは、ますます彼女をいらだたせて、いっさいの不幸の原因となった決裂を、いよいよ大きくするばかりである。一つの習慣的な感情は、罪を自分からとり除いて、彼女の方へ投げかけるようにと命じたが、それよりさらに力強いもう一つの感情は、いったん生じた決裂を大きくさせないで、早く、少しも早く、それをなおさなければならぬ、というのであった。そうした不当の非難を受けっぱなしにするのは、苦しいことに相違なかったけれども、自己弁解をして彼女に痛みを与えるのは、それよりもっと悪かった。夢うつつの間に、痛みに悩んでいる人のように、彼は痛む箇所をひきちぎって、投げ棄ててしまいたいと思ったが、われに返ってみると、痛む箇所は自分自身であると感じた。ただできるだけがまんして、痛みを楽にするよりしかたがない。で、彼はそうするように努力したのである。
 二人は仲直りした。彼女は自分の罪を認めたが、口に出してはいわなかった。ただ前よりも、彼に優しくなったばかりである。こうして二人は、前に倍した新しい愛の幸福を味わった。が、そうかといって、これに類した衝突がくりかえされるのを、防ぐ助けにはならなかった。それどころか、特に思いがけない、とるに足らぬ原因で起ることが、しばしばであった。これらの衝突は、相手にとって何が大事なのかを、知らないために起るのであったが、また結婚当座、ふたりながら不きげんでいることが多かったからでもある。一方が上きげんでいるのに、いま一方は不きげんというようなときには、平和が破られなかった。しかし、二人そろってきげんの悪いときには、あまりつまらないことなので、合点がいかぬような原因から衝突がはじまって、あとで何をいい争ったのか、われながら思い起せないほどであった。もっとも、彼らが二人ながらきげんのいいときには、生活の喜びは二倍、三倍になったとはいうものの、なんといってもこの結婚当座は、二人にとって苦しい時期であった。
 この新婚当時は、ずっとひきつづき、特にまざまざと緊張した心持が感じられた。それはちょうど、二人をむすびあわしている一本の鎖を、めいめい自分の方へかわるがわるひっぱっているようなぐあいであった。概してこの蜜月、世間の言い伝えによって、レーヴィンがあれほど多くのものを期待していた結婚後の一月は、蜜のように甘いものでなかったばかりか、生涯の最も重々しい屈辱の時期として、二人の記憶の中に残ったほどである。彼らは二人ながら、その後の生活に入ってから、ノーマルな気持でいることのまれであった、つまり、彼らが自分自身であることのまれであった、この不健全な時期の、醜い恥ずかしいことどもを、記憶の中から掻き消してしまおうとつとめた。
 やっと夫婦生活の三月目になって、二人が一月ばかりモスクワへ行って帰ってから、彼らの生活はやや平調になってきた。

[#5字下げ]一五[#「一五」は中見出し]

 彼らはモスクワから帰って来たばかりで、自分たちの世間離れた生活に歓喜していた。彼は書斎の仕事机にむかって、書きものをしていた。彼女のほうは、黒みがかった薄紫色の服を着て――それは結婚当時に着ていたものだが、今日もまたとり出して着たので、彼にとってはことに思い出の深い貴いものであった――レーヴィンの父や祖父の時代から、ずっと書斎に置かれていた、古い革張りの長椅子に腰をかけて、broderie anglaise(イギリス刺繍)をしていた。彼はたえず喜びをもって、彼女の存在を感じながら、考えては書いていた。農場のほうの仕事も、新しい農村経営の基礎を述べるはずになっている著述の仕事も、二つながら彼は放擲《ほうてき》しなかった。しかし、前はこの仕事が、全生活をおおっている暗黒に比べて、些細なとるに足らぬもののように思われていたのと同じ程度に、いまでは幸福の光をいっぱいに浴びている未来の生活に比べて、些細なとるに足らぬもののように思われるのであった。彼は自分の仕事をつづけていたが、いまでは注意の焦点がほかのほうへ移って、その結果ちがったふうに、もっと明瞭に、事態を眺めるようになったのを感じた。以前この仕事は彼にとって、人生からの救いであった。以前は、この仕事がなかったら、自分の人生はあまりにも暗黒となるであろう、とそう彼は感じていた。ところが、今は生活があまり単調に明るすぎないために、この仕事が彼にとって必要なのであった。もういちど原稿を手にとって、自分の書いたものを読み返した彼は、この仕事が力を入れる価値のあるものであることを発見して、満足の情を感じた。以前の思想の中には、よけいであり極端であると思われるものも多かったが、彼が記憶の中で問題ぜんたいを新しい目でながめたとき、今までの空白だった多くの点が、明瞭になるのであった。彼はいま、ロシヤにおける農業の不利な状態に関する新しい章を書いていた。ロシヤの貧困は単に私有土地のあやまれる分配法と、当を失した方向に起因するのみならず、最近、変態的にロシヤに接種された外面的文化、ことに鉄道交通が、ますますこれを助長している。その結果は都市中心主義、奢侈《しゃし》の向上となり、さらにその結果としては、農村を犠牲とする工業、銀行業、およびその同伴者たる投機取引の発達を招来した、それを彼は論証しようとしていた。彼の見るところによると、ある国家において富の発達がノーマルである場合、すべてこれらの現象が生じるのは、すでに農業にたいして相当の労力が注入され、農業が正しい、少なくとも、一定した条件におかれたときに限るのである。一国の富は均等に生長すべきであって、特に富の他の部門が農業を凌駕《りょうが》しないことを必要とする。農業の一定段階に応じて、交通機関もそれに相当したものがなくてはならない。しかるに、わが国のごとく、土地の利用があやまっている場合には、経済的必要でなく政治的必要によって生れた鉄道は、時期尚早であって、予期のごとく農業を助成するどころか、かえって農業を追い越してしまうために、工業と銀行業の発達を促して農業を阻止《そし》してしまう。したがって、動物の内部機関の一つが、一方的な早期の発達をした場合、その全体的発達を妨げると同様に、銀行業や鉄道や工業の発達は(これらのものは、時宜《じぎ》に適しているヨーロッパでは、疑いもなく必須《ひっしゅ》なものであるが)ロシヤの国富の全般的発達にとって、ただ害をなしたのみである。それは当面の重大問題である農業の整理を無視したからである。
 彼が原稿を書いているあいだ、彼女はこんなことを考えていた。チャールスキイ若公爵が出立の前後、ひどく無器用なやりかたで、彼女にまつわりついたが、良人は彼にたいして、不自然な愛想を示したものである。『本当にこの人は、やきもちをやいてるんだわ!』と彼女は考えた。『まあ、あきれた! なんてこの人はかわいいおばかさんなのだろう? あたしのことでやきもちをやくなんて! あたしにとってはあんな人たちなんか、料理人のピョートルとなんの変りもないのに、それをこの人に知らせてあげたいわ』われながらふしぎな専有感をいだいて、彼の後頭部や赤い頸筋を見ながら、彼女は考えるのであった。『仕事の途中でお気の毒だけれど(でも、ちゃんとまにあわせなさるわ!)いちど顔を見なくちゃならない。あたしが見てることを、感じてらっしゃるかしら? こっちを向いて下さればいいのに……向いてほしいわ、さあ!』彼女は目をさらに大きく見開いた、それで自分のまなざしの作用を強めようと思ったのである。
『そうだ、そんなものは、いっさいの滋養分を自分のほうへばかり吸ってしまって、虚偽の光彩をつけるばかりだ』と彼は手を止めて、こうつぶやいたが、妻が自分のほうを見ながら、にこにこしているのを感じて、ふり返った。
「どうだね?」徴笑を含んで立ちあがりながら、彼は問いかけた。
『本当にこっちを見たわ』と彼女は思った。
「なんでもないの、あたしただ、あなたがこっちをごらんになればいい、と思っただけなの」自分が仕事を中断したのを、良人がいまいましく思っているかどうか察しようとして、じっと相手を見つめながら、彼女はそう答えた。
「ねえ、お互に二人きりでいるのは、なんていい気持だろう! いや、それは僕のことなんだがね」妻のそばへよって、幸福の微笑に輝きながら、彼はいった。
「あたしも本当にいい気持だわ! あたし、どこへも行きゃしない、別してモスクワへは」
「いったいおまえなにを考えてたの?」
「あたし? あたしが考えていたのは……いや、いや、あっちイ行ってお書きなさいな、気を散らさないで」と彼女は唇を皺《しわ》めながらいった。「あたしこれから、ほら、この穴を切り抜かなくちゃならないから」
 キチイは鋏《はさみ》をとって、切り抜きにかかった。
「いや、何を考えてたか、いってごらん」妻のそばに腰をおろして、小さな鋏が円く動くのを見ながら、彼はこういった。
「あら、あたし何を考えてたんでしょう? わたしね、モスクワのことだの、あんたのうしろ頭のことだのを考えていたの」
「いったい僕はなんのために、こんな幸福を授かったんだろう? 不自然だ。あまりよすぎる」と彼は妻の手を接吻しながらいった。
「あたしその反対よ、よければよいほど自然な感じがするわ」
「ああ、おまえ、編髪が」と彼は用心ぶかく、妻の頭を自分のほうへ向けながらいった。「編髪が、ほらごらん、こんなに。いや、いや、僕たちは仕事をしなくちゃならないのだ!」
 けれど、もう仕事はつづけられなかった。クジマーが、お茶の用意ができたことを知らせに入ったとき、二人は悪いことでもしたもののように、さっと離れた。 
「ときに、町から郵便が届いたかい?」とレーヴィンはクジマーにたずねた。
「たったいま届きましてございます。ただいま、より分けておりますところで」
「あなた早くいらっしゃいよ」とキチイは書斎を出ながらいった。「でないと、あたしかってに手紙を読んでしまってよ。それから、ピアノの連弾をしましょうよ」
 一人きりになって、自分の手帖を妻の買ってくれた新しい折カバンにしまった後、彼はキチイとともに姿を現わした、優美な、新しい附属品のついた、新しい洗面所で手を洗いはじめた。レーヴィンは、われとわが考えに微笑すると同時に、その考えに感服しかねるといったように、首をふった。悔恨に似た感じが、彼を悩ますのであった。なにかしら恥ずかしい。遊惰《ゆうだ》に流れた、彼のいわゆるカピュア([#割り注]イタリーの古都遊惰享楽の町[#割り注終わり])式なものが、今の生活の中に含まれていた。
『こんなふうに暮すのはよくない』と彼は考えた。『もうこれでまもなく三月たってしまうが、おれはほとんどなんにもしやしない。今日はほとんどはじめて、真剣な気持で仕事にとりかかったのに、どうだ? はじめたと思うと、すぐやめてしまったじゃないか。いつもやっている仕事でさえ、ほとんどうっちゃらかしにしている。農場のほうだって、ほとんど見まわりをしやしない。時にはあれをうっちゃっておくのがかわいそうになったり、また時には、あれが退屈そうなのが目に入ったりする。おれは、結婚以前の生活はいいかげんなもので、勘定に入らないほどだけれども、結婚後には、それこそ本当の生活が始まると思っていた。ところが、やがてまる三月になるというのに、おれは遊惰な、無益な生活を送っている、こんなことは今まで、一度もありゃしなかった。いや、これじゃいけない、はじめなけりゃならん。もちろん、あれに罪はない。あれは何一つ非難するところがなかった。本当なら、おれ自身がもっとしっかりして、男性の独立を守らなくちゃならなかったのだ。こんなふうにしていたら、自分でも慣れてしまうし、あれにも遊惰を教えこむことになる……もちろん、あれが悪いのじゃない』と彼はひとりごちた。
 しかし、不満を感じている人にとって、自分の不満の原因について、だれか他人、ことに最も身近い人間を責めずにいるのは、困難なわざである。で、レーヴィンの心にも、こんなばくぜんとした考えが浮ぶのであった。別に彼女自身が悪いというわけではないが(彼女はいかなることについても、科《とが》のあろうはずがない)、ただ彼女の受けたあまりにも表面的で、軽佻《けいちょう》な教育が悪いのだ。(『あのチャールスキイのばかめ、おれにはちゃんとわかっているが、キチイはあの男を止めようと思ったのだけれども、それがうまくできなかったのだ』)
『そう、家に対する興味と(それはたしかには、自分の化粧と、|broderie anglaise《ブロドーリ・アングレース》のほかには、あれはまじめな興味がないのだ。自分の仕事にたいしても、家政にたいしても、百姓にたいしても、かなり上手な音楽にたいしても、読書にたいしても、なんの興味をもっていない。あれはなんにもしないで、すっかり満足しきっているのだ』
 レーヴィンは心の中でこんなふうに非難しながら、まだ次の事情を理解しなかったのである。彼女はやがて到来すべき活動の時期にたいして、準備をしているのであった。彼女は同時に良人の妻でもあれば、一家の主婦でもあり、また子供たちを孕《はら》んだり、乳を飲ませたり、教育したりしなければならない。彼女はそれを直覚で承知して、この恐ろしい労働にたいする準備をしていたので、愛の幸福に満ちたのんきな今のあいだに、楽しい気持で未来の巣をつくりながら、その幸福を享楽しているからといって、みずから責める気にならなかった、それを彼は理解しなかったのである。

[#5字下げ]一六[#「一六」は中見出し]

 レーヴィンが二階へあがったとき、妻は新しい銀のサモワールのそばに、新しい紅茶セットを前にして坐っていた。そして、アガーフィヤを小さなテーブルの前に坐らせ、紅茶さえ注いでやっていた。彼女は、互にたえずひんぱんに文通をつづけているドリイからきた手紙を、読んでいるとこであった。
「まあ、ごらんくださいまし、奥さまがわたくしに、いっしょに坐れとおっしゃいましてねえ」とアガーフィヤはさも親しげに、キチイにほほえみかけながら、こういった。
 レーヴィンは、アガーフィヤのこういった言葉のなかに、最近、彼女とキチイのあいだにもちあがったドラマの、円満な解決を読みとった。新しい主婦が、アガーフィヤから一家の支配権をとりあげて、彼女になみなみならず悲しい思いをさしたにもかかわらず、キチイはそれでも勝利をしめて、自分を愛させるように仕向けた。それを彼は見てとったのである。
「今あたし、あなたの手紙を読んだとこなのよ」無学な手で書かれた手紙を良人に渡しながら、キチイはこういった。「これはどうやら、あなたの兄さんの女から来たものらしいわ……」と彼女はいった。「あたし読みはしなくってよ。ところで、これはあたしの家とドリイから来た手紙なの。まあ、どうでしょう! ドリイはサルマーツキイ家の子供舞踏会に、グリーシャとターニャを連れて行ったんですって。ターニャが侯爵夫人の扮装をしたんですとさ」
 しかし、レーヴィンは聞いていなかった。彼は顔を赤らめながら、かつて兄ニコライの情婦であったマリア・ニコラエヴナの手紙をとって、読みはじめた。これはもう、マリアから来た二度目の手紙であった。マリアは最初の手紙で、兄がなんの罪もないのに、自分を追い出したことを報じ、自分は乞食のような境涯にいるけれども、何もお願いしない、何も望んではいない、ただニコライ・ドミートリッチが体がお弱いから、自分がいなくなったら、破滅してしまわれるだろうと思うと、いても立ってもいられないと、いじらしいほど率直な調子で書き加え、どうかあの人に気をつけてほしい、と頼んでいた。ところが、今度は別のことを書いてよこした。彼女はモスクワでニコライにめぐり会って、また同棲するようになり、彼がこの県の県庁所在地で勤め口ができたので、いっしょにそっちへ移って行った。ところが、彼はそこで上官と喧嘩をして、もとのモスクワさして出発したが、途中で発病して、ほとんど再起の望みがなくなった――とこう彼女は書いていた。『始終あなたのことをいっていらっしゃいました、それにお金ももうありません』
「読んでごらんなさい、ドリイがあなたのことを書いてますから」とキチイはにこにこしながらいいかけたが、急に変った良人の顔に気がついて、ぷっつり言葉を切った。「なんですの、あなた? いったい何ごとですの?」
「あの女の知らせによると、兄は、ニコライは、死にかけているそうだ。僕は行ってくるよ」
 キチイの顔も一変した。ターニャの侯爵夫人のことも、ドリイのことも、すっかりどこかへ消し飛んでしまった。
「いつ出発なさいますの?」と彼女はたずねた。
「あす」
「あたしもいっしょに行きますわ。よくって?」と彼女はいった。
「キチイ! いったいそれはなんのことだね?」と彼は非難をこめていった。
「なんのことって、なんのことですの?」良人がしぶしぶと、いまいましそうに自分の申し出を受けたのにむっとして、「どうしてあたしが行っちゃいけないんですの? あたし、あなたのじゃまをしやしません。あたし……」
「僕が行くのは、兄が死にかかってるからなんだよ」とレーヴィンはいった。「なんのためにおまえが……」
「なんのためですって? それはあなたと同じわけじゃありませんの」
『おれにとってこんな重大なときに、あれは一人になったら淋しいなんて、そんなことばかり考えてるのだ』とレーヴィンは考えた。これほど重大な事件にこういう口実をもうけるとは、そう思って彼は腹をたてた。
「そんなことはできない」と彼はきびしい声でいった。
 アガーフィヤは、事が喧嘩にまでなりそうなのを見て、そっと茶碗をおいて、部屋を出てしまった。キチイはそれに気もつかぬほどであった。最後の一句をいった良人の調子は、彼女を侮辱した。ことに、自分のいったことを、どうやら信じていないらしいので、なおさらであった。
「あたしはっきりいっておきますけど、あなたがいらっしゃるなら、あたしもいっしょにまいります。ぜひともまいります」と彼女は急《せ》きこんで、腹だたしげにいった。「なぜできないんですの? なぜできないなんて、おっしゃるんですの?」
「だって、行く先がどんなところだか、途中がどんなふうか、どんな宿屋かわかりもしないのに……おまえがいると、僕は自由に行動ができないよ」とレーヴィンは、冷静になろうとつとめながら、こういった。
「決してそんなことありませんわ。あたしなんにも要りませんもの。あなたのいらっしゃるとこなら、どこまでもついて行きます……」
「いや、むこうには、お前が親しくするわけにいかない例の女がいる、それ一つだけでも」
「あたしむこうにだれがいるか、何があるのか、そんなこと少しも知らないし、知ろうとも思いません。あたしにわかっているのは、良人の兄が死にかかっていて、良人がそこへ行くということだけですわ。だから、あたしも、自分の良人といっしょに行くのです、つまり……」
「キチイ、腹をたてないでおくれ。しかし、考えてごらん、これはじつに重大なことなんだよ。それなのに、おまえは自分の女々《めめ》しい感情、一人で残りたくないという気持と、いっしょくたにしている。そう思うと、僕は情ないんだよ。もし一人でいるのが淋しいと思ったら、まあ、モスクワへでも行ったらいいじゃないか」
「ほら、あなたはいつでも[#「いつでも」に傍点]あたしにいやな、あさましい考えをおしつけようとなさるんですわ」侮辱と憤怒の涙を浮べながら、彼女はいいだした。「あたしなにも、女々しい感情も、なにも……あたしはただ、良人が悲しんでいるときには、良人といっしょにいるのか自分の務めだと思うばかりですわ。それなのに、あなたはわざと、あたしを傷つけようとなさるんですもの、わざと人の気持を理解しまいと……」
「いや、これは恐ろしい。まるで何かの奴隷になったみたいだ!」つと席を立ったレーヴィンは、もはやいまいましさを隠す力もなく、こう叫んだ。が、その瞬間、おれは自分で自分をぶっている、と感じた。
「じゃ、なぜ結婚なすったんですの? 自由な身でいらしったものを、後悔するくらいなら、なぜ?」というなり、彼女は席を蹴って、客間のほうへ駆け出した。
 彼が跡を追っていったとき、彼女は涙にむせて、しゃくりあげていた。
 彼は疑いを解くというよりも、妻をおちつかせるような言葉を見いだそうと努めながら、いろいろに話しはじめたが、彼女はそれを聞こうともせず、なんといっても承知しなかった。彼は妻のほうへかがみこんで、ふりほどこうとする手をとった。彼は妻の手を接吻し、その髪を接吻し、また手を接吻した。が、彼女はどこまでもおし黙っていた。けれど、彼が妻の顔を両手におさえて、「キチイ!」といったとき、ふいに彼女はわれに返って、ひと泣きすると、我《が》を折った[#「我《が》を折った」は底本では「我《が》折をった」]。
 翌日いっしょに出かけることに、相談がきまった。レーヴィンは妻に向って、彼女が同行を望んだのは、ただ何かの役に立ちたいからだということを信じている、といった。そして、兄のそばにマリアがいるということも、別に世間体のわるいことはない、と賛意を表した。しかし、心の奥のほうでは、自分にも妻にも不満な気持で出発した。彼が妻に不満なのは、必要なときに良人を出してやるだけの、健気《けなげ》さがないからであった。(考えると、実にふしぎであった。つい近ごろまで、彼女が自分のようなものを愛しうるなど、そういう幸福を信じる気力さえなかったのに、いまは彼女があまり自分を愛しすぎるといって、自分を不幸に感じているのだ!)また自分に不満をいだいたのは、意地をとおすことができなかったからである。それよりなおいっそう、深い心の奥底では、キチイが兄と同棲している女になんのかかわりもないという意見に、同意することができず、どんな衝突が起るかもしれないと想像して、恐怖を感じるのであった。自分の妻であるキチイが、娼婦と一つ部屋にいるということを考えただけでも、彼は嫌悪と恐怖の念に、戦慄せずにいられなかった。

[#5字下げ]一七[#「一七」は中見出し]

 ニコライ・レーヴィンのねている県庁所在地の旅館は、清潔で、快適で、そのうえ優美でさえあろうという、この上もない結構な意図をもっている、最新式の完備した型によって建てられた地方旅館の一つであった。しかし、こういったふうの旅館は、やってくる客のために、驚くべき早さで汚らしい居酒屋に変ってしまう。それでいて、現代風の完成さを気取っているのだが、かえってその気取りけのために、ただ単純に汚い旧式の宿屋よりも、さらに劣るのであった。この旅館も、すでにそういう状態になっていた。玄関番のつもりらしく、汚れた軍服を着て入口で煙草を吸っている兵隊上がり、透し模様のついた陰気で不愉快な鋳鉄《ちゅうてつ》の階段、汚《きたな》い燕尾服を着たいやにざっくばらんな給仕、埃っぽい蝋細工の花束がテーブルを飾っている広間、いたるところに見られる埃、不潔、だらしなさ、それと同時に、この旅館の何かしら新しい、現代式、鉄道式の、ひとりよがりな心得顔――こういうすべてのものが、若々しい新婚生活を送ってきたレーヴィンに、なんともいえぬ重苦しい感じを起させた。ことに、旅館の与えるいかさまな印象が、彼らを待ち受けているものと、どうしても調和しないから、なおのことであった。
 例によってどういうお値段の部屋にいたしましょうか、という質問のあとで、いい部屋は一つもないことがわかった。一つのいい部屋は、鉄道の検察官が占領しているし、もう一つはモスクワの弁護士、もう一つは田舎から出て来たアスターフィエヴァ伯爵夫人に占領されていた。たった一つ残っていたのは汚い部屋で、その隣にもう一つ、晩までにはあくというのがあった。自分の想像したことがあたった、つまり、兄はどうなっているかという心配で、うわの空になっているようなときに、すぐさま兄のとこへ駆けつけるかわりに、着くと早々、妻のことを心配しなければならぬ羽目になった。で、妻のことを内心いまいましく思いながら、レーヴィンは自分にあてられた部屋へ、妻を入れた。
「いらっしゃいな、いらっしゃいな!」と彼女は臆病げな、すまなそうな目つきで良人を見ながらこういった。
 彼は黙って戸の外へ出た、とそのひょうしに、マリア・ニコラエヴナに鉢合わせした。彼の到着を知ったのだが、思い切って中へ入りかねていたのである。彼女はモスクワで会ったときと、そっくりそのままであった。同じ毛織りの服、むきだしの腕と頭筋、同じように善良でにぶそうな、いくらかふとったあばたの顔。
「やあ! どうです? 兄はどんなです? どうしています?」
「たいへん悪いのでございます。お起きになれないので。始終あなたばかり待っていらっしゃいます。あのかたは……あなたは……奥さまとごいっしょで」
 レーヴィンははじめひととき、何を女がもじもじしているのかわからなかったが、むこうのほうでさっそくそれを説明した。
「わたしあっちへまいります。台所のほうへ行っています」と彼女はいった。「あのかたもお喜びになるでしょう。噂は聞いてご承知でいらっしゃいます。外国でお会いになって、覚えていらっしゃいますから」
 レーヴィンは、女が自分の妻のことをいっているのだと悟ったが、なんと答えていいか、わからなかった。
「いきましょう、いきましょう!」と彼はいった。
 しかし、彼が足を踏み出そうとしたとたん、彼の部屋の戸が開いて、キチイが顔をのぞけた。レーヴィンは恥ずかしさと、いまいましさに、顔を赤らめた。自分自身をも、良人をも、こういう苦しい羽目《はめ》に立たせた妻が、癇《かん》ざわりだったのであるが、しかしマリアのほうは、もっと赤くなった。彼女はひと縮みになって、涙のにじむほど真赤になり、両手で肩掛の端をしっかと握り、何をいい、何をしていいかわからずに、赤い指先でその端をぎりぎり捩《よ》っていた。
 最初の瞬間レーヴィンは、妻が自分にとって不可解な、恐ろしいこの女を見る目つきに、むさぼるような好奇の色を認めたが、それはほんの一瞬間であった。
「さあ、どうなんですの? 兄さんはどんなふうなんですの?」と彼女ははじめ良人に、それからマリアに問いかけた。
「でも、廊下で立ち話をするわけにはいかないよ!」
 このときさも用事ありげに、足をふるわせながら廊下を通りかかった紳士の方を、いまいましげにふり返りながら、レーヴィンはこういった。
「そうね、じゃ、入ってちょうだい」ようやく心を取りなおしたマリアにむかって、キチイはこういったが、良人のおびえたような顔を見て、「いえ、それよか、いらっしゃい、いらっしゃい、そしてあたしを呼びによこしてくださいな」と彼女はいって、部屋の中へひっこんだ。レーヴィンは兄のほうへ行った。
 兄の部屋で見、かつ感じたことは、彼の全く予期しないところであった。彼は依然として、例の自己|欺瞞《ぎまん》の状態を見いだすものと思っていた。それは、彼の聞いたところによれば、肺病患者によくあるもので、去年の秋、兄がやって来たときも、彼はそれにひどく驚かされたものである。まぢかに迫った死の肉体徴候は、さらにはっきりと現われ、衰弱もいっそうはげしくなり、もっとやせているに相違ないが、しかし状態はほとんど前と同じだろう、と予期していたのである。そして、自分もあのとき経験したのと同じ、愛する兄をうしなう哀惜の情と、死の恐怖を感ずることだろう。ただその度が強いだけだ、というふうに想像していたので、それにたいする心がまえをしていたのだが――彼の見たものは、全く別なものであった。
 小さい汚い部屋、ペンキ塗りの壁にはやたらに唾が吐き散らしてあり、薄っぺらな仕切板のむこうには話し声が聞え、空気は息づまるような汚物の臭気に充満していて、壁から少し離した寝台の上に、毛布にくるまった肉体が横たわっている。その肉体についている手が一本、毛布の上にのせられていたが、その手の熊手のように大きな手頸が、先も中ほどと同じような細長い棒に、なんのためとも知れずくっついている。頭は横向きに、枕の上にのっていた。こめかみの上の汗ばんだ薄い髪と、皮膚がぴんと張って透き通るような額が、レーヴィンの目に映った。
『この恐ろしい肉体がニコライ兄だなんて、そんなことのあろうはずがない』とレーヴィンは考えた。しかし、さらに近くよって顔を見たとき、もはや疑うことはできなくなった。恐ろしく相好《そうごう》が、変ってしまったにもかかわらず、人の入ってくる気配に上げられたその生ける目を見、ぴったり糊づけになった髭の下でかすかに動く口もとを見ただけで、この死せる肉体が生きた兄であるという、恐ろしい真実を理解するのに十分であった。
 輝かしい目はいかめしく非難をこめて、入ってくる弟を見上げた。と、すぐさまこの視線によって、生きたもの同士のあいだの生きた関係が結ばれた。レーヴィンは、自分にそそがれた視線の中に、たちまち非難の色を読みとって、自分の幸福にたいする悔恨が感じられた。
 レーヴィンが兄の手をとったとき、ニコライはにっと笑った。この微笑は、ようやくそれと知られるほどの弱々しいものだったので、きびしい目の表情は、それくらいの微笑では変らなかった。
「こんなになっていようとは、思わなかったろうな」と彼はかろうじて口をきった。
「ええ……いや……」とレーヴィンは、言葉にまごつきながらいった。「どうしてもっと早く、知らせてくれなかったんです、つまり、僕の結婚当時に? 僕はほうぼうたずねさせたんだけれど」
 黙っていないためには、話をしなければならなかった。が、何を話したらいいかわからなかった。まして、兄が何も返事をしなかったから、なおさらである。ニコライはただ、目もはなさずに弟を見つめるのみで、明らかに、一語一語の意味に徹しようとしているらしかった。レーヴィンは、妻もいっしょに来たことを知らせた。ニコライは満足の色を表わしたが、こんなありさまを見せて、びっくりさせはしないか心配だ、といった。沈黙が襲った。突然ニコライは身を動かして、何かいいだした。レーヴィンはその表情によって、何かとくべつ重大な意味のあることを待ちもうけたが、ニコライは自分の健康のことをいいはじめた。彼は医者を責めて、モスクワの名医がいないことを残念がった。やはりまだ望みをいだいているのだな、とレーヴィンは察した。
 沈黙の訪れるのを待って、レーヴィンは一刻《いっとき》でも苦しい気持からのがれたいと思って、立ちあがり、ちょっといって、妻をつれてくるからといった。
「いや、よかろう。おれはここを掃除するようにいいつけるから。ここは汚いうえに臭いだろう。マーシャ、少し片づけろ」と病人はかろうじていった。「それから、これを片づけたら、はずしなさい」相談するように弟を見上げながら、彼はこうつけ加えた。
 レーヴィンはなんとも答えなかった。廊下へ出ると、彼はちょっと立ちどまった。妻をつれてくるとはいったものの、いま自分の感じていることを吟味してみて、それどころか、病人のとこへいかないように、できるだけ妻を説き伏せようと胆《はら》を決めた。『なんのためにあれがおれと同じように苦しまなくちゃならないんだ?』と彼は考えた。
「え、いかがでした? どんなふうですの?」おびえたような顔つきで、キチイはたずねた。
「ああ、これは恐ろしいことだ、恐ろしいことだ! なぜおまえはやって来たんだ?」とレーヴィンはいった。
 キチイは臆病らしく、哀れっぽい目つきで良人を見上げながら、しばらくだまっていた。それから、そばへよって、両手で彼の肘をつかんだ。
コスチャ、どうかあたしを連れていってちょうだい、二人のほうが楽だわ。ただ連れていってちょうだいね、連れていって、そしてあなたは出ていってちょうだい」と彼女はいいだした。「察してもちょうだい、あたしあなたを見て、あの人に会わないでいるのは、かえってずっとつらいんですもの、あちらへいったら、あなたのためにも、兄さんのためにも、何かお役に立つかも知れませんわ。お願いだから許して!」まるで一生の幸福が、これにかかっているかのように、彼女は良人に哀願するのであった。
 レーヴィンも同意しないわけにいかなかった。心を取りなおし、もうマリアのことはすっかり忘れてしまって、彼はふたたびキチイとともに、兄の部屋へおもむいた。
 軽く歩みを運んで、たえず良人のほうをふり返り、同情に満ちた勇敢な顔を見せながら、彼女は病人の部屋へ入っていくと、ゆっくりとうしろむきになって、音のしないように戸を閉めた。足音のせぬように、すばやく病床に近づくと、病人が顔を向けなおす必要のない側へまわりながら、さっそく自分の新鮮な若々しい手に、大きな骨ばかりの病人の手をとって、それを握りしめた。そして、女に独特の、気を悪くしないような、同情に満ちた、静かな活気をおびた調子で、彼に話しかけた。
「わたしたち、ソーデンでお会いしましたわね、お近づきにはなりませんでしたけれど」と、彼女はいった。「まさかあたしがあなたの妹になろうとは、夢にもお考えになりませんでしたでしょうね」
「途中で会っても、おわかりにならないでしょうな」彼女が入ってくるとともに、輝きわたった微笑のまま、ニコライはそういった。
「いいえ、わかりますわ。でも、よくお知らせ下さいましたわね! コスチャはただの一日だって、あなたのことを思い出して、心配しない日はございませんでしたのよ」
 しかし、病人の元気は長くつづかなかった。
 彼女がまだ話し終らないうちに、彼の顔にはまたしても、いかめしい非難の色が凍《こご》りついた。死に行くものの、生けるものにたいする羨望の表情である。
「あたしなんだか心配ですわ。ここはあなたのために、あまりよくないのじゃございませんかしら」じっと自分にそそがれたまなざしから顔をそらして、部屋を見まわしながら、彼女はいった。「主人にそういって、ほかの部屋と替えてもらいましょうよ」と彼女は良人に話しかけた。「そして、あたしたちの部屋へ近くなるようにね」

[#5字下げ]一八[#「一八」は中見出し]

 レーヴィンは、おちついた気持で兄を見ることもできなかったし、自分もその前では自然な、おちついた態度をとることができなかった。病人の部屋へ入っていくとき、彼の目も彼の注意も、無意識に膜がかぶさったようになって、兄の状態の詳しいことは目にも入らず、見分けることもできなかった。ただ恐ろしい臭気を鼻にし、不潔と無秩序と悩ましげなありさまを見て、これはどうすることもできない、と感じるばかりであった。病人の状態を詳細に、一つ残らず分析してみようなどとは、考えもつかないことであった。あの毛布の下に、兄の体がどんなふうに横たわっているか、あのやせほそった脛《はぎ》や、腰や、背が、どんなふうに曲っておさまっているか、どうしたらそれをもっとぐあいよくすることができるか、せめてよくすることはできないまでも、つらいのをいくらかでも少なくする方法はないか――などということは、まるで頭に浮ばないのであった。ちょっとでもそういった詳細な点を考え出すと、背筋のあたりがぞっとしてくるのであった。彼は、生命を延ばすためにも、苦痛を軽くするためにも、何一つすることはできないと、固く信じきっているのであった。しかし、援助はいっさい不可能と認めているその意識が、病人にはちゃんと感じられるので、それが彼をいらいらさせた。そのために、レーヴィンはひとしお苦しくなるのであった。病人の部屋にいるのは苦しかったが、いなければもっといけなかった。で、彼はたえずさまざまな口実をつくって出ていくが、一人でいるのに堪えられなくなって、また入ってくるのであった。
 けれども、キチイの考えたり、感じたり、行動したりするのは、それとはまるで違っていた。病人を見たとき、彼女はかわいそうになった。しかも、その女らしい心に湧き起った哀憐の情は、良人の場合のように、恐怖や嫌悪の念とは全然べつな要求、行動を開始して詳しい容態を知り、それに援助を与えよう、という要求を呼びさましたのである。彼女は、援助を与えなければならぬということを、露いささかも疑わなかったので、それが可能であるということも、疑おうとしなかった。で、さっそく仕事にとりかかったのである。良人のほうでは、考えただけでもぞっとせずにいられなかった詳細な点が、ただちに彼女の注意をひいた。彼女は医者を迎えにやり、薬屋へ使を走らせ、つれてきた小間使とマリアに、部屋の拭き掃除をさせ、自分でも何やら洗ったり、毛布の下へ何かさしこんだりした。彼女の指図によって、病人の部屋へ何やら持ちこまれたり、持ち出されたりした。彼女自身も、幾度か自分の部屋へ通ったが、そのとき通りかかった客などには、なんの注意も払わなかった。そして、敷布だの、枕覆《まくらおお》いだの、手拭だの、シャツだのをとり出して、運んできた。
 広間で技師の連中に食事を出していたボーイは、幾度も彼女に呼ばれて、仏頂面《ぶっちょうづら》でやってきたが、そのいいつけを聞かないわけにはいかなかった。それは、彼女がいかにもやさしい、しかも執拗《しつよう》な調子で頼むので、いいかげんにして離れるわけには、いかなかったからである。レーヴィンはそれにあまり感服していなかった。そんなことをして、何か病人のためになろうとは、信じていなかったのである。何よりも彼は、病人が腹をたてはしないか、と心配した。しかし、病人はそれにたいして一見、平気な顔をしてはいたものの、腹をたてはしなかった。ただ恥ずかしそうな様子であった。概して彼は、キチイがいろいろと自分にしてくれることに、興味を感じているらしかった。キチイに頼まれて、医者を迎えに行ったレーヴィンは、帰って入口の戸を開けると、ちょうどそのときキチイの指図で、病人の肌着を替えているところであった。あらわになった、長い、真白な、骨と皮ばかりの背中、突き出した大きな肩胛骨《けんこうこつ》、一枚一枚浮き出した肋骨と椎骨《ついこつ》、マリアとボーイは、だらりとたれた長い腕を、シャツの袖に通すことができないで、まごまごしていた。キチイは、レーヴィンのうしろの戸を急いで閉め、その方を見ないようにしていた。けれども、病人がうめき声を立てると、つかつかとその方へいった。
「早くなさいよ」と彼女はいった。
「ああ、こないで下さい」と病人は腹だたしげに口走った。「私が自分で……」
「なんとおっしゃったんですの?」とマリアが問い返した。
 しかし、キチイは聞き分けて、病人は自分の前で裸になっているのがきまり悪く、不愉快なのだということを悟った。
「あたし見ちゃいませんわ、見ちゃいませんわ!」と彼女は、腕をなおしてやりながらいった。「マリア・ニコラエヴナ、あなたはむこう側へまわって、なおしておあげなさいな」とつけ加えた。
「お願いだから、行ってきてちょうだいな、あたしの小さいカバンの中に、ガラスのびんが入ってますから」と彼女は良人に話しかけた。「ごぞんじでしょう、わきのポケットになったとこよ。後生だから、とってきてちょうだい。そのあいだにここをすっかり片づけますから」
 レーヴィンが小びんを持ってひっ返してみると、病人はもう毛布にくるまれているし、そのまわりもすっかり様子が変っていた。いやな臭気は、香水をまぜた酢の匂いに代っていた。キチイは口をつき出し、バラ色の頬をふくらませながら、小さい管でそれを吹いているのであった。埃などはどこにも見えず、寝台の下にはカーペットが敷いてあった。テーブルの上には薬瓶やフラスコがきちんと並べられ、必要な布類や、キチイの手仕事の |broderie anglaise《ブロードリ・アングレース》 などが重ねてあった。病人の寝台のそばにあるもう一つのテーブルには、飲み物、蝋燭、粉薬などがおいてある。当の病人は体を拭いてもらい、頭を梳《と》きつけてもらって、清潔なシーツの上に横たわり、高く重ねた枕に頭をのせて横たわっていた。清潔なシャツの襟の中から、不自然にほそい頸をのぞかせて、希望の色を浮べながら、目もはなさずキチイを見まもっていた。
 レーヴィンがクラブで見つけて、ひっぱってきた医者は、今までニコライが治療を受けていて、不満に思っていたのとは、別の人であった。新しい医師は聴診器をとり出して、病人の診察をすると、首をふって、処方を書き、はじめまず薬の飲み方、それから食餌療法を、特別くわしく説明した。彼がすすめたのは、生《なま》か半熟の玉子と、ソーダ水と、適度に温めた牛乳であった。医者が帰って行ったとき、病人は弟に何かいったが、レーヴィンは最後の『おまえのカーチャ』という言葉しか聞き分けられなかった。しかし、兄が彼女を見やった目つきで、レーヴィンは兄が彼女を賞めたのを悟った。ニコライは、彼の呼び方によると、カーチャをもそばへ呼びよせた。
「私はもうずっと快くなった」と彼はいった。「あんたに看病してもらっていたら、とっくの昔に全快してたんだがなあ。じつにいい気持だ!」彼はキチイの手をとって、自分の唇の方へひきよせたが、相手にいやな思いをさせぬかと心配したらしく、思いなおして手をはなし、ただちょっと撫《な》でるだけにした。キチイは両手で義兄の手をとって、握りしめた。
「今度は左向きに寝返りさせてもらおう、それでもう休んでおくれ」と彼はいった。
 そのいったことは、だれにも聞き分けられなかったが、キチイだけはそれをのみこんだ。彼女に合点がついたのは、たえず心の中で、病人に必要なことに、注意を向けていたからである。
「寝返りさせるのよ」と彼女は良人にいった。「兄さんはいつも、あちらむきでお休みになるんですわ。あなた、向きを変えてお上げなさいな、ボーイを呼ぶのはいやですから。あたしにはできませんもの。あなたおできになって?」と彼女はマリアに問いかけた。
「わたし怖いんですもの」とマリアは答えた。
 レーヴィンは、自分の手でこの恐ろしい体をかかえるのは、――想像することさえ憚《はばか》られた毛布の下の部分に手をかけるのは、ずいぶん気味の悪いことではあったけれども、妻の気分につりこまれて、キチイのよく知っている決然たる表情をしながら、両手をさしこんで、抱き起そうとした。が、平生の力持ちにも似ず、この衰え果てた肢体のふしぎな重さに驚かされた。大きなやせた腕で頸を巻かれているのを感じながら、レーヴィンが兄を寝返りさせているあいだに、キチイは手早く音のしないように、枕をひっくり返し、かるくそれを叩いて、病人の頭と、またもやこめかみにへばりついた薄い髪をなおしてやった。
 病人は、弟の手を自分の掌にじっとおさえていた。レーヴィンは、兄がその手をどうかしようと思って、どこかへひっぱっているのを感じた。レーヴィンは胸のしびれる思いで、なすに任せていた。そうだ、兄は自分の口へひきつけて、接吻したのだ。レーヴィンは、慟哭《どうこく》に全身をわなわなとふるわせたと思うと、何一つ言葉を発する力がなく、ぷいと部屋を出てしまった。

[#5字下げ]一九[#「一九」は中見出し]

『賢《さか》しきものに隠して、幼な子と智恵なきものに顕《あら》わしたまえり』その晩、妻といろいろ話をしているうちに、レーヴィンは妻のことをそう思った。
 レーヴィンが聖書の箴言《しんげん》を考えたのは、自分を賢者とうぬぼれていたからではない。彼は自分を賢者とうぬぼれてはいなかったが、しかし自分が妻やアガーフィヤより賢いということは、知らないではいられなかった。また、彼が死について考えるとき、ありたけの精神力を緊張させて考えるということも、知らないわけにいかなかった。彼はまたこういうことも知っていた。彼はこの問題について、多くの男性の大思想家の本を読んだが、彼らもこの問題に思いをひそめながら、この問題については、妻やアガーフィヤの知っている百分の一も知らないのである。アガーフィヤとカーチャ(これは兄ニコライの呼び方であったが、今レーヴィンもこう呼ぶのが、特に気持よく思われた)、この二人の女は、ずいぶんかけ離れた人間ではあったけれども、この点に関しては、完全に似かよっていた。彼女たちは、生とはなんであり、死とはなんであるかを、まちがいなく承知しているのだ。もっとも、レーヴィンの頭に浮ぶような疑問に、答えることもできなければ、それを理解することさえできないであろうが、二人ともこの現象の意義に疑いをさしはさまず、単に二人の間ばかりでなく、幾百万の人々と見解を同じゅうしながら、全く一様にこれを見ているのだ。彼女たちが、死がなんであるかを、しっかりと承知している証拠には、彼女たちは死に行く人々をどんなふうにしたらよいかを、一分一秒も疑うことなく、はっきり知っていて、恐れたりなどしない。しかるに、レーヴィンやその他多くの人々は、死についていろいろのことをいうことはできたであろうが、死を恐れるが故に、死を知らなかったのは明瞭であり、したがって、他人が死んでいくときどうしたらいいか、まるっきり知らないのである。もし今レーヴィンが、ただ一人、兄ニコライと相対していたら、ただ恐怖の念をもって兄をながめ、さらに大きな恐怖をいだきながら待っているだけで、それよりほかには、何一つなしえなかったに相違ない。
 のみならず、彼は何をいい、どんなふうに見、どんなふうに歩いてよいかさえ、知らなかった。よそごとを話すのは、兄を侮辱するようで、それもできない。かといって、死を談じたり、暗鬱な話題をもちだしたりするのも、やはり不可能である。黙っていること、これもできない。
『おれが顔を見ていると、兄はひとの様子を研究してやがる、怖がってやがると思うだろうし、見ないでいれば、よそごとを考えていると思うだろう。爪立ちで歩くと、兄は不満に思うだろうし、足をいっぱいにつけて歩くのは気がひける』
 ところが、キチイは明らかに、自分のことを考えていないし、また考える暇もなさそうであった。彼女は何ごとかを知っていたために、病人のことを考えていた。で、なにもかもうまくいった。彼女は自分のことや、自分の結婚式のことなどを話したり、にこにこしたり、気の毒がったり、優しく撫でたりしながら、全快したときの話もするので、なにもかもうまくいくのであった。してみると、彼女は知っているにちがいない。彼女やアガーフィヤのすることが本能的な、動物的な、非知性的なものでないという証拠には、アガーフィヤやキチイは肉体的な看護、苦痛を軽くするということ以外に、もっと重大なあるもの、何かしら肉体的な看護よりさらに重大なあるものを、死に行く人のために要求している。それは肉体的な条件と、なんら共通点をもたぬあるものである。アガーフィヤは死んだ老人のことを、「なに、ありがたいことに、聖餐の式も塗油の式もしてもらいましたよ。どうか神さまのお恵みで、だれしもああいう死に方をしたいものでござります」といった。カーチャもまったくそれと同様に、肌着や、床ずれや、飲み物などの心配のほか、着いた日にさっそく病人を説いて、聖餐式と塗油式の必要なことを納得《なっとく》さした。
 夜おそく、病人のところから、二間つづきの自分の部屋へ帰ってくると、レーヴィンは何をしたものかわからずに、首をたれて坐っていた。夜食をするとか、寝じたくにかかるとか、これから自分たちのすることを考えるとか、そうしたことはいうもさらなり、妻と話をすることさえできなかった。良心が咎めたのである。ところが、キチイは反対に、いつもよりは能率的であった。それどころか、いつもより生きいきしているくらいであった。彼女は夜食を持ってくるように注文し、自分で荷物を解き、ベッドを敷く手伝いをし、その上に除虫剤をふりかけることも忘れなかった。彼女の内部には、ある興奮と、思考の敏活さが働いていた。それは、男性にあっては、戦争や闘争の前のような、生涯の運命を決する危急存亡のとき、つまり、男がただいちど自分の価値を示して、自分の全過去は無意味なものでなく、この瞬間にたいする準備であったことを証明する、そういうときに現われるものであった。
 彼女の手にかかると、なんでも仕事のはかがいった。まだ十二時にならないうちに、荷物はすっかり清潔に、規則ただしく、何か特別なふうに仕分けられたので、宿屋の部屋がわが家のような、彼女の居間のような感じがするほどであった。床はのべられ、ブラシ、櫛、小鏡などがその辺に並び、ナプキン類がそこここに敷かれた。
 レーヴィンは今でさえ、食べたり、寝たり、話したりするのを、赦すべからざることのように思っていた。そのため、自分の一挙一動が、ぶしつけなように感じられた。ところが、彼女はブラシを選り分けていたが、そこには何も失礼なことはない、といったような態度であった。
 とはいえ、二人とも物を食べることはできなかった。そして、長いあいだ眠ることができず長いこと床にさえつかなかった。
「あたし明日、塗油式をするように兄さんを説き伏せたので、うれしくてしようがないわ」短上衣《コフタ》のまま、組立式の鏡台の前に腰かけて、柔らかい香りの高い髪を、目の細かい櫛で梳《と》かしながら、彼女はこういった。「あたし、一度も見たことがないけれども、知ってますわ、ママが話してらしたから、あれは病気平癒のお祈りなんですって」
「いったいおまえは、兄さんが癒るかも知れないと思ってるの?」彼女が櫛を前の方へ持っていくたびに見えなくなる、まるい頭のうしろの細い分け目を見ながら、レーヴィンはこうたずねた。
「あたし、お医者さまにきいてみたら、三日以上もたないっていいましたわ。でも、あんな人たちに何がわかるものですか? とにかく、あたしは兄さんを説き伏せたので、うれしくってしようがないの」と彼女は髪の陰から、良人を流し目に見ながらいった。「どんなことだって、起らないとは限りませんもの」と一種特別な、やや狡猾な感じのする表情で、彼女はつけ加えた。それは、宗教の話をするとき、いつも彼女の顔に浮ぶものであった。
 二人がまだ許婚《いいなずけ》だったとき、宗教の話をして以来、彼のほうからも彼女のほうからも、かつてこの問題について、話をもちださなかった。けれども、彼女は教会詣り、祈祷などの儀式を欠かさないで、しかもそれは必要なことだという、一様におちついた意識をもっているのであった。彼が反対のことをいったにもかかわらず、彼女は良人が自分と同じようなキリスト教徒であるどころか、むしろ自分より以上の信者であって、この問題について彼のいったことは、彼の男らしい突拍子もない言いぐさの一つであって、たとえば |broderie anglaise《ブロードリ・アングレース》 のことを、善良な人間は穴かがりをするのに、おまえはわざと穴をあけているといったような、そういう種類のものにすぎないと、信じきっていた。
「そう、あの女、マリア・ニコラエヴナは、ああいうことを、すっかりとりしきりかねていたのに」とレーヴィンはいった。「それなのに……僕は白状するが、おまえが来てくれて、本当にうれしいよ。おまえは純潔そのもので、まったく……」彼は妻の手をとって、接吻はせず(この死の迫っている中で、妻の手を接吻するのは、不謹慎のように思われた)、明るくなった妻の目を、さもすまなそうに見つめながら、ただその手を握りしめたばかりである。
「もしあなたが一人きりでしたら、さぞ苦しいことだったでしょうね」と彼女はいい、高く両手を上げて、うれしさに赤くなった頬を隠しながら、うしろ頭の束髪をぐっと捩《ね》じて、ピンで留めた。「いいえ」と彼女はつづけた。「あのひとには、わかりゃしませんわ……あたし幸い、ソーデンでいろいろと習ったものですから」
「あそこにもやっぱり、ああいう病人がいるのかね?」
「もっとひどいくらいですわ」
「僕にとって恐ろしいのは、兄さんの若かったときの姿を、見ずにいられないことなんだ……兄さんがどんなに美しい青年だったか、おまえはとても本当にできないだろう。でも、僕はあの時分、それがわからなかったのだ」
「信じますとも、そりゃ信じますとも。あたしそう思うのですけど、あたしたち、あの兄さんと仲よく暮せたでしょうにねえ」といった彼女は、自分のいったことにぎょっとして、良人の方をふり返った。と、涙がその目に浮んだ。
「そう、仲よく暮せただろうになあ」と彼は物悲しげにいった。「あれこそ、よくいう、この世に生きるために生れたのでない、そういう人の一人だよ」
「それにしても、あとまだ幾日もあるのですから、もう寝なくちゃなりませんわ」自分の小さな時計を見て、キチイはそういった。

[#5字下げ]二〇 死[#「二〇 死」は中見出し]

 翌日、病人は聖餐を受け、聖油を塗られた。この儀式の間、ニコライ・レーヴィンは熱心に祈った。いろいろのナプキンでおおわれた、カルタ机の上に置いてある聖像にそそがれた彼の大きな目の中には、いともはげしい祈りと希望が現われていたので、レーヴィンは見るのが恐ろしいほどであった。このはげしい祈りと希望は、彼があれほどまで愛していた生との別れを、ただいっそう苦しくするばかりなのが、レーヴィンにはちゃんとわかっていた。彼は兄の性格と、その考え方がわかっていたのである。兄の不信は、信仰をもたぬほうが生きやすいからではなく、この世の現象の現代科学的な説明が、一歩一歩信仰をおし出したからである。したがって、いま兄が信仰に帰ったのは、同じ思想のプロセスによって成就された合法的なものでなく、物狂わしい全快の望みから出た一時的な、利己的なものにすぎない、そのこともレーヴィンにはわかっていた。なおまたレーヴィンは、キチイが自分の聞いた不可思議な全快の例を話して、この希望をさらに強めたということも知っていた。それらがすべてわかっていたので、その希望にみちた祈るような目付きや、かろうじて上へあがっては、ぴんと皮の張った額に十字を切るやせこけた手、突き出した肩、病人がこれほど切《せつ》にねがっている生命をすでに盛ることのできない、ぜいぜいいううつろな胸を見ているのが、レーヴィンはたまらず苦しかったのである。神秘の式の間じゅう、レーヴィンは不信者ながら、今まで百度も千度もしたことをした。彼は神にむかって、こういったのである。『もしなんじにして実在するならば、この男を全快せしめたまえ(これは、しかくたびたびくりかえされた現象ではないか)、さらばなんじは余をも救うべし』
 聖油を塗った後、病人は急にずっとよくなった。まる一時間のあいだ、一度も咳をしないで、にこにこと笑い、キチイの手を接吻しては、涙ながらに礼をいい、自分はいい気持で、どこも痛くない、食欲も感じるし、力が出たような気がする、といった。スープが運ばれたとき、彼は自分で起きあがり、おまけにカツレツまで請求した。彼は全く絶望であって、ひと目みただけでも全快の望みがないのは、明瞭であったにもかかわらず、レーヴィンもキチイもこの一時間は、一様に幸福な、とはいえ、ひょっとまちがいではないかという、臆病な興奮に捕われていた。
「気分はよくって?」「ああ、ずっと」「ふしぎねえ」「なにも不思議なことはありゃしない」「とにかく、ずっとよくなった」彼らは互にほほえみあいながら、ひそひそ声で、こんなことをいっていた。
 しかし、この迷いも長くはつづかなかった。病人はすやすやと寝ついたが、三十分ほどして、咳で目がさめた。すると突然、すべての希望ははたのものにとっても、病人自身にとっても、名残りなく消え失せた。疑う余地もない、いな、以前の希望に関する追憶さえもない苦悶の現実が、レーヴィンと、キチイと、病人自身のいだいていた希望を、破壊しつくしたのである。
 三十分前まで何を信じていたのか、それさえわからず、そんなことは思い出すのさえ気恥ずかしいというように、彼はヨードの吸入をさしてくれといった。小さな穴のぷつぷつあいた紙でおおいをしたヨード入りの小びんを、レーヴィンはとって渡した。すると、聖油を塗ってもらうときと同じ希望に満ちたまなざしが、今度は弟の顔にそそがれて、ヨードの吸入は奇蹟的な効果を奏するといった、医師の言葉の裏書きを求めるのであった。
「どうだ、キチイはいないかね?」レーヴィンが気乗りのしない調子で、医師の言葉を確かめたとき、ニコライはあたりを見まわしながら、しゃがれた声でこういった。「いない、それじゃいってもいい……おれはあれのためにあの喜劇を演じたんだ。あれは本当にかわいい女だからな。もうお互に、今さら自分を欺いたってしかたがない。まあ、これならおれも信じるよ」といって、彼は骨張った手で薬瓶を握りしめながら、吸入をしはじめた。
 晩の七時すぎ、レーヴィンが妻とともに自分の部屋で茶を飲んでいると、マリアが息せき切って駆けつけた。その顔はまっさおになって、唇はわなわなふるえていた。
「もうご臨終でございます!」と彼女はささやいた。「もう今にも息をお引き取りになりそうで、心配でなりません」
 二人は兄のところへ走っていった。彼は床の上に起きなおっていた。片肘ついて、長い背中を曲げ、首を低くたれていた。
「気分はどうです?」しばらく黙っていた後、レーヴィンはひそひそ声でたずねた。
「いよいよ往生という気分だよ」骨は折れる様子であったが、恐ろしくはっきりと一語一語おし出すような調子で、ニコライはこういった。彼は首を上げず、ただ上目づかいに見たが、視線は弟まで届かなかった。「カーチャ、おまえはあっちへいってておくれ!」とさらにいい足した。
 レーヴィンはおどりあがって、命令するようなささやきで、妻を出ていかせた。
「いよいよ往生だよ」と彼はまたいった。
「なんだってそんなことを考えるんです?」とレーヴィンは、何かいうためにそうきいた。
「なぜって、往生するからよ」この表現が気に入ったように、彼はまたくりかえした。「もうおしまいだよ」
 マリアがそばへよってきた。
「あなた、横におなりになったらよろしいのに、そのほうがお楽でございますよ」と彼女はいった。
「今にすっかり横になるよ」と彼は小さい声でいった。「死骸になってな」と、彼は嘲るように、腹だたしげにいった。「だが、まあ、横にしてもらおう、お望みなら」
 レーヴィンは兄を仰向きにねかして、そのそばへ腰をかけ、息もせずに、その顔を見つめはじめた。瀕死の病人は目を閉じて、横たわっていたが、深い、緊張した物思いにふけっている人のように、額の筋肉がときおり、ひくひくと動くのであった。レーヴィンは、いま兄の内部に成就しつつあることを、われともなしに、兄といっしょになって考えはじめたが、いっしょに歩調をあわせようと、どんなに努力してみても、兄のおちついたきびしい顔の表情や、眉の上の筋肉の動きなどから察して、自分にとっては依然として暗澹としていることが、死に行く人にはしだいしだいに、はっきりしていくのを見てとった。
「そう、そう、そうだ」
 一語一語まをおきながら、瀕死の人はゆっくりといった。「待ってくれ」それからまた黙っていた。「そうだ!」さながら、彼にとっていっさいのことが解決したかのように、とつぜん安心した語調で、彼は言葉をひいた。「おお主よ!」といって、彼は重重しくため息をついた。
 マリアは彼の足にさわってみた。
「冷たくなってきましたわ」と彼女は囁《ささや》いた。
 長い間、非常に長い間(とレーヴィンには思われた)、病人は身動きもせず横たわっていた。しかし、彼は相変らず生きていて、ときおりため息をつくのであった。レーヴィンはもう思想の緊張に疲れてきた。どんなに思想を緊張さしてみても、何がそうだなのか、自分には理解することはできないと感じた。彼はもうとっくに、死に行く人から離れて、うしろへとり残されたような気がした。もはや死の問題そのものを考えることができなくて、心にもなく、これから自分のしなくてはならないこと――目を閉じてやったり、経帷子《きょうかたびら》を着せたり、棺を注文したりなどせねばならぬ、そんなことが頭にうかんでくるようになった。そして、ふしぎなことには、彼は自分がまったく冷淡になりきっているのを感じた。悲しみも、喪失感もなく、ましてや兄にたいする憐憫など、なおさらなかった。もしいま兄にたいして何かの感情があるとすれば、それはむしろ、瀕死の人がすでに獲得している知識、自分のもちえない知識にたいする羨望くらいなものであった。
 彼はこうしてまだ長い間、依然として終焉《しゅうえん》を待ちながら、兄の枕もとに坐っていた。しかし、終焉は訪れなかった。戸が開いて、キチイが姿をあらわした。レーヴィンはそれを止めようとして、椅子から立った。けれど、立ちあがろうとした刹那《せつな》、死者の身動きが彼の耳に入った。
「行かないでくれ」とニコライはいって、手をさしのべた。レーヴィンは自分の手を握らせ、出て行けというように、腹だたしげに、妻に片手をふって見せた。自分の手に死者の手を握ったまま、彼はじっと坐っていた。三十分、一時間、また一時間。いまや彼は、もう死のことなどは、まるで考えていなかった。キチイは何をしているだろう、隣の部屋にはだれがいるのだろう、医者の住居は持ち家だろうか借家だろうかなどと、そんなことを考えるのであった。腹がへって、眠くなってきた。彼はそうっと手をぬいて、足にさわってみた。足はもう冷たかったが、病人はまだ息があった。レーヴィンはまた爪立ちで出て行こうとした、と病人がまた身を動かして、「行かないでくれ」といった。…………………………………………………………
 夜が明けた。病人の容態は、依然として同じことであった。レーヴィンはそっと手をはなして、瀕死の兄の顔も見ずに、自分の部屋へ帰り、そのまま寝入ってしまった。目がさめたとき、彼は兄が死んだという知らせのかわりに、病人は前と同じ様子になったと知らされた。彼はまた起きなおったり、咳をしたりしはじめたばかりか、また物を食べはじめ、話をしはじめ、また死を口にしなくなり、また全快の希望を洩らしはじめ、前よりもっといらいらして、気むずかしくなった。弟も、キチイも、だれ一人としてそれをなだめることができなかった。彼はだれにでも腹をたて、だれにでもいやなことをいい、自分の苦痛のためにすべての人を責め、モスクワから名医を招けと、要求するのであった。気分はどうかときかれるたびに、彼は憎悪と非難の表情で、「とても苦しい、やりきれん!」と一様に答えるばかりであった。
 病人の苦しみは、ますますひどくなっていった。ことに、もはや施す術《すべ》のない床ずれのために悩んで、周囲の人に、腹をたてるのもいよいよはげしくなった。なんでも人のせいにしたが、とりわけ、モスクワから医者を呼んでくれなかったといって、責めたてた。キチイは手を変え品を変えて、彼を楽にし、慰めようと努めたが、すべては徒労であった。彼女自身口に出してこそいわなかったけれど、肉体的にも精神的にも、へとへとになっているのを、レーヴィンは見てとった。彼が弟を呼びによこした晩、生命との訣別によって、一同の胸に呼び起された死の感じは、あとかたもなくくずれてしまった。彼が近いうちにまちがいなく死ぬ、もうすでに半分、死骸になっているのだということは、だれもかれも承知していた。一同の望んでいるのはただ一つ、少しも早く死んでもらいたい、ということであったが、みんなはそれを隠して、薬瓶から水薬を飲ましたり、薬や医者をさがしたりして、病人をも、自分をも、おたがい同士をも欺いているのであった。それらはすべて虚偽であった、いまわしい、人を侮辱する冒涜的な虚偽であった。レーヴィンは自分の性質からいっても、この虚偽をとくに痛切に感じたのである。
 もうだいぶ前から、せめて臨終のときにでも兄たちを和解させたいと考えていたレーヴィンは、コズヌイシェフに手紙を書いてやったところ、この義兄から返事が届いたので、その手紙を病人に読んで聞かせた。コズヌイシェフは、自身出かけることができないといって、感慨深い言葉で、義弟に赦しを乞うていた。
 病人はなんにもいわなかった。
「なんと書いてやりましょう?」とレーヴィンはきいた。「もうあなたも、腹をたてちゃいないでしょうね?」
「いいや、ちっとも!」とニコライは、この問いがさもいまいましそうに答えた。「ここへ医者をよこしてくれるように書いてやってくれ」
 それからまだ悩ましい三日がすぎた。病人は依然として同じ容態であった。今では彼を見るものがだれもかれも、彼が死ねばいいという感情をいだくようになった、宿のボーイたちも、主人も、すべての泊まり客も、医者も、マリアも、レーヴィンも、キチイも。ただ当の病人だけは、そういう感情を表明しなかった。それどころか、名医を呼ばなかったといって腹をたて、薬の服用をつづけ、生きることばかり話していた。ただたまに阿片の力で、ほんのひととき、たえまない苦痛を忘れることができたときだけ、ほかのだれより最も強く彼の心に根ざしていることを、半睡半醒の境で口走るのであった。「ああ、せめて早く最後が来たらいいのに!」といったり、「いったいいつになったら、これがおしまいになるんだろう?」といったりした。
 苦痛は歩一歩、規則ただしくつのって、おのれのなすべきことをなし、死にたいする準備をすすめた。彼が苦しまないですむ状態というものもなければ、おのれを忘れることのできる瞬間もなく、痛み悩まない肉体の部分も一つとしてなかった。この肉体に関する記憶、印象、想念すらも、もはや彼の心に肉体そのものと同じく、嫌悪の情を呼びさますようになった。他人の姿、その口にする言葉、自分自身の記憶――こういうものがなにもかも、彼にとっては、ただ苦しいばかりであった。周囲の人々もそれを直感して、無意識ながらも、彼の前では自由に動きまわったり、話したり、希望を表明するのを慎しんだ。彼の全生活は苦悩感と、それからのがれようという希望のみに凝集《ぎょうしゅう》していた。
 明らかに、彼の内部には一つの転機が生じて、そのために彼は死を目して、希望の充足、幸福と観ずるようになったらしい。以前、苦痛や欠乏によって呼び起された箇々の希望は、饑餓や、疲労や、渇きなどと同様に、彼に快感を与える肉体的機能の遂行によって満足を与えられたが、今は欠乏と苦痛は満足感を与えられず、満足を得ようとする試みは、新しい苦痛を呼び起すばかりであった。そのために、すべての希望は一つの希望――すべての苦痛とその源である肉体からのがれたい、という希望に凝集したのである。しかし、この解放の希望を表現するために、彼は言葉をもっていなかったので、彼はそれを口に出していわず、相変らず習慣によって、もはや満たすことのできない希望の満足を要求するのであった。寝返りをさせてくれといいながら、すぐそのあとで、もとのとおりに寝かしてくれと要求する。スープをくれというかと思えば、スープなんか片づけてしまえという。「何か話してくれないか、なんだって黙りこくっているのだ」で、はたの者が何か話しはじめるが早いか、彼は目を閉じてしまって、疲労と、無関心と、嫌悪の色を示すのであった。
 この町へ来てから十日目に、キチイは病気になった。頭痛がして、嘔《は》き気《け》を催してくるので、彼女は朝のうち床を離れることができなかった。
 医者は、疲労と興奮の結果おこった病気であると説明し、精神的安静を命じた。
 食後、それでもキチイはいつものように、手仕事をもって病人のところへいった。彼女が入ったとき、ニコライはきびしい目つきで彼女をながめ、病気だったときくと、ばかにしたように、にやりと笑った。この日、彼はのべつ幕なしに洟《はな》をかんだり、哀れっぽくうなったりしていた。
「お気分はいかがですの?」と彼女はたずねた。
「だんだんわるくなる」と彼はやっとのことで、こういった。「痛い!」
「どこが痛いんですの?」
「どこもかも」
「今日がお終いですよ、見てらっしゃい」とマリアはいった。低いささやきではあったけれど、それでもレーヴィンの観察したところでは、きわめて敏感な病人の耳に入ったにちがいない。レーヴィンはしっと制して、病人のほうをふり返って見た。ニコライはこの言葉を耳にしていたが、それは彼になんの印象をも与えなかった。その目つきは、いぜんとして非難の色をおび、緊張していた。
「どうしてそう思います?」マリアがレーヴィンのあとから廊下へ出たとき、彼はこうきいた。
「自分の体をいじりまわすようになりましたもの」とマリアはいった。
「いじりまわすってどう?」
「こんなふうに」自分の毛織の服の襞《ひだ》をほうぼうひっぱりながら、彼女は言った。なるほど、レーヴィンも、病人がこの日|一日《いちんち》じゅう、自分の体をあちこちつまんでは、何かひきむしろうとでもするようなぐあいなのに気がついた。
 マリアの予言は適中した。夜になると、病人はもう手を上げる力もなく、注意を一つに集中したようなまなざしを変えないで、じっと前方を見つめているばかりであった。弟かそれともキチイが、いやでも目に入るようにかがみこんでも、病人の目つきはやっぱり同じであった。キチイは司祭を迎えにやって、臨終の祈祷を上げてもらうことにした。
 僧が臨終の祈祷を上げている間、死に行く人は、なんら生の徴候を見せなかった。目はふさいだままであった。レーヴィンとキチイとマリアは、ベッドのそばに立っていた。祈祷がまだ終らないうちに、瀕死の人はぐっと伸びをして吐息をつくと、目を見ひらいた。司祭は祈祷を唱え終ると、冷たい額に十字架をあて、それからゆっくりと聖帯にくるみ、なお二分ばかり無言のまま立っていたが、冷たくなった、血の気のない、大きな手にさわった。
「ご臨終です」と司祭はいって、そばを離れようとした。と、ふいにぴったり貼《は》りついていた死者の口ひげが動いて、胸の奥のほうから出るきっぱりと鋭い響きが、しんと静まりかえった中で、明らかに聞えた。
「いや、まだ……もうじきだ」
 一分の後、その顔は急に明るくなって、口髭の下には微笑が浮んだ。集ってきた女たちが、かいがいしく死体の始末にとりかかった。
 兄の様子と死の接近は、兄が自分の家へやって来たあの秋の夜、ふいに襲ってきた恐怖の情を、新しくレーヴィンの心に呼びさました。それは死の不可解と、同時にその接近、その不可避にたいする恐怖である。今やこの感情は、前よりもっと強かった。彼は前よりもいっそう死の意味を解く力のない自分を感じ、その不可避はさらに恐ろしく感じられた。しかし、今は妻が身近にいるおかげで、この感情も彼を絶望に導かなかった。彼は、死というものがあるにかかわらず、生きかつ愛さなければならぬ必然性を感じた。この愛が絶望から救い、この愛が絶望の脅威の下にありながら、さらに強く純潔になっていく、それを彼は感じた。
 彼の眼前で死という一つの神秘が、不可解のまま成就したかしないかに、同じ程度に不可解な、愛と生とへさし招くいま一つの神秘が生じた。
 医師はキチイについて、自分の予想を確かめた。彼女の気分がすぐれないのは、妊娠だったのである。