『アンナ・カレーニナ』3-11~3-20(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]一一[#「一一」は中見出し]

 七月の中旬、ポクローフスコエから二十露里はなれた姉の村の組頭が、農園の状態や草刈りの報告を持って、レーヴィンのところへやってきた。姉の領地のおもな財源は、川添いの草場からあがる収入であった。ずっと以前は、毎年一|町歩《デシャチーナ》二十ルーブリの割で、百姓たちがそこの草を買い取ることになっていたが、レーヴィンが姉の領地の管理を引き受けることになった時、彼は草場を検分して、これはもっと値うちがあると見込みをつけ、一町歩二十五ルーブリという相場を決めた。百姓たちは、それだけの金を出そうとしなかったし、レーヴィンのにらんだところでは、ほかの買手も追っぱらってしまった様子であった。その時レーヴィンは、親しく現場へ乗り出して行って、一部は日雇いで、一部は歩合制度で、草場の刈入れをするよう手配した。村の百姓たちは、この改革を根《こん》かぎり妨害したが、仕事はどんどん進行して、最初の年は、草場のあがりがほとんど二倍に達した。一昨年も去年も、相変らず百姓たちの妨害運動がつづけられたが、取入れは同じ方法で行われた。ところが、今年は三分の一という歩合で、全部の草場を引き受けることになった。で、いま組頭がやってきて、次のような報告をした。草刈りはぜんぶ終了したが、雨のやってくる心配があったので、事務所から番頭を呼んで、その立会の上で分割し、もうご主人の分として十一|禾堆《にお》積み上げた、とのことである。一番大きな草場で、乾草がどれだけ取れたかときかれた時、その返事があやふやであったところからみても、組頭が相談もなしに、あたふたと乾草を分けたところからみても、全体にこの百姓の調子からみても、レーヴィンはこの分配に、何か臭いところがあるなと直覚して、親しく事の審理に出向くことに決めた。
 食事時分に村へ着くと、兄の乳母の亭主で、つねづね懇意にしている老人の家に馬をつないで、レーヴィンは乾草の取入れについて詳細を聞くため、老人のいる養蜂場《ようほうじょう》へ入っていった。品のいい顔をした話好きなパルメヌイチ老人は、大喜びでレーヴィンを迎え、自分のやっている仕事を残らず見せたうえ、自分の蜜蜂や今年の寄りぐあいのことなど、いとも詳細に物語った。しかし、草刈りのことをレーヴィンにきかれると、あいまいなことをしぶしぶ答えるばかりであった。それがますます、レーヴィンの推測を確かめた。彼は草場へ行って、禾堆《にお》を見た。一つ一つの禾堆は五十車ずつもありそうになかった。で、百姓たちの面皮を剥《は》がすために、さっそく乾草運びの荷車を集めさせ、一つの禾堆を起して、小屋へ移すように命じた。移してみると、三十二車しかなかった。組頭は、草がふわふわしているので、禾堆の中で嵩《かさ》が減ったのだと力説し、何から何まで真正直にしたと誓ったが、それにもかかわらず、レーヴィンは自説に[#「自説に」は底本では「自説を」]固執して、自分の命令なしに勝手に分けたのだ。から、この乾草は一|禾堆《にお》五十車として受け取るわけにいかない、といった。長いこと議論したあげく、百姓たちがその十一禾堆を五十車ずつとして、村のほうへ引き取り、地主の分としては新しく分けることに話がきまった。この交渉と禾堆の分配は小昼《こびる》まで続いた。いよいよ最後の乾草を分け終った時、レーヴィンは残った分の分配を番頭にまかせて、楊《やなぎ》の棒でしるしをした禾堆に腰をかけ、人のうようよしている草場をながめはじめた。
 彼の目の前には、小さい沼のむこうにある川の曲り角で、女房どもが朗らかな声で躍やかに、ぺちゃくちゃしゃべりながら、色とりどりな列をつくって動いていた。そして、一面に散らばっている刈草は、見るみるうちに、うす緑の草の上に、灰色の土塁《どるい》のように、えんえんと延びていった。女のあとからは、叉竿を持った百姓たちが進んで、刈草の土塁は幅の広い、ふっくりと高い禾堆に変っていった。もう取り片づけられた草場の左側には、荷馬車の轍の音ががらがらと鳴って、禾堆《にお》は大きな叉竿《またざお》で掻きくずされながら、一つ一つ消えて行き、そのかわりに香りの高い乾草が重い荷車の上に、馬の尻が隠れるほど積まれていった。
「この日和に取り入れたら、ええ乾草ができますべ!」と一人の老人が、レーヴィンのそばに腰をおろして、いった。「まるでお茶だ、――乾草なんていわれやしねえ! まるで家鴨《あひる》に麦粒まいてやったみてえに、あのさっさと拾いあげることはどうでがす!」しだいに高くなっていく禾堆を指さしながら、彼はこうつけ加えた。「昼飯からこっち、けっこう半分がた運んじめえましたよ」
「それでおしめえか、おい?」荷馬車の馭者台に立って、麻の手綱の端をふりふり、そばを通りかかった一人の若い衆に、老人はこう呼びかけた。
「おしめえだよ、父つぁん!」と若者は、馬の手綱を控えながらわめき返すと、にこにこしながら、同じようににこにこ顔で馭者台に腰かけている、赤い頬をした陽気そうな若い女房をふり返って、そのまま先へ追って行った。
「あれはだれだい? 息子かね?」とレーヴィンはたずねた。
「わしの末っ子でごぜえます」と優しい笑顔で老人は答えた。
「いい若い衆じゃないか!」
「なに、できの悪いほうじゃごわせん」
「もう嫁があるんだね?」
「へえ、この間の聖フィリップ祭で、ちょうど三年目でごぜえますよ」
「で、何かね、子供もあるかね?」
「なんの、子供なんか! まる一年の間、なんにもわかんねえでいたくれえでがすもん。それに、わしらが恥を知らせてやりますでな」と老人は答えた。「いやはや、てえした乾草だ! まるで本当の茶に変りなしだ」と彼は話題を変えようとして、こんなことをいった。
 レーヴィンはヴァンカ・パルメノフ夫婦を、気をつけて観察しはじめた。彼らはあまり遠くないところで、乾草を積んでいた。ヴァンカは荷車の上に立って、美しい若女房がはじめは両手にかかえて、あとでは叉竿にのせてさし出す乾草の大きな塊《かたま》りを受け取っては、それをならしたり、踏みつけたりしていた。若女房は軽々と、さも楽しげに、要領よく働いていた。大きく固まっている禾堆《にお》の乾草は、なかなかすぐ叉竿で起せなかった。彼女ははじめ叉竿をつっこんではほぐしたのち、弾力のある素早い動作で、叉竿の上に全身の重みをのしかけ、すぐさま赤い帯を結んだ背をくねらせて体を起すと、白い上っ張りの下からのぞいている白い胸をぐっとつき出して、器用な身のこなしで、叉竿を持った両手を握り変え、乾草の塊りを高々と荷車の上へほうりあげた。ヴァンカは、一瞬間も女房にむだな骨を折らせまいとするもののように、急いで両手を大きくひろげながら、さし出される乾草を受け取っては、それを車の上にひろげるのであった。最後の乾草を叉竿で渡すと、女房は首筋に入ったごみをはらって、日に焼けてない白い額もむきだしにうしろへずれている赤い布《きれ》をなおすと、荷に綱をかけるために、馬車の下へもぐりこんだ。ヴァンカは轅《ながえ》に綱をかけるやりかたを教えていたが、何か女房のいった言葉に、大きな声でからからと笑った。二人の顔には、目ざめてまもない、力強い、若々しい愛が、ありありと見えていた。

[#5字下げ]一二[#「一二」は中見出し]

 荷馬車には綱がかけられた。ヴァンカは車から飛びおりて、よくこえた見事な馬の手綱を取って、曳いてきた。女房は乾草の上へ叉竿をほうりあげて、輪舞《ホロウォード》でもするように集っている女連の方へ、両手をふりながら、元気な足どりで行った。ヴァンカは道路へ出て、ほかの荷馬車の列に入った。女連は叉竿を肩に担ぎ、はなやかな色を輝かし、朗らかな声をにぎやかに響かせながら、車のあとにしたがった。一人の女房が、野性的な感じのする粗《あら》い声で、歌をうたいだした。繰り返しのところまでくると、五十人ばかりの、いろいろさまざまな、あるいはあらあらしい、あるいは細い、あるいは健康な声がいちどきに調子を揃えて、また同じ歌をはじめからうたいだした。
 女房たちは歌声とともに、レーヴィンの方へ近づいてきた。と彼は、喜びの雷気を孕《はら》んだ夕立雲が、頭上におおいかかってくるような気がした。夕立雲はついに襲ってきて、彼をつつんだ。すると、彼の横たわっている禾堆《にお》も、そのほかの禾堆も、遠い野につらなる草場ぜんたいも、――何から何までがいちどきに動きだして、かん高い叫びや、口笛や、はやし声のまじった、この思い切り陽気な、野性味をおびた歌の拍手につれて、揺らぎはじめた。レーヴィンは、この健康な楽しみがうらやましくなり、この喜ばしい生命の表現に参加したくなってきた。しかし、彼は何一つすることができなかった。ただそこに横たわって、見、聞くよりほかなかった。群衆が歌声とともに視界から去り、聴覚から消えた時、おのれの孤独、おのれの肉体的無為、この世界に対するおのれの無縁を思う重苦しい気持が、レーヴィンを捕えたのであった。
 乾草のことでだれよりもいちばん彼と争った百姓、彼が侮辱を与えた百姓、あるいは彼を欺こうとした百姓、――そういう百姓たちが、楽しげに彼に会釈して、彼に対してなんの敵意もいだかず、なんの後悔も感じないばかりか、彼を欺こうとしたことさえ、まるで憶えていないらしい。そんなことはみな、共同の楽しい労働の大海中に没してしまったのである。神はこの一日を与え、神は力を与えた。そして、この一日も力も労働に捧げられ、労働そのものの中に報酬があるのだ。だれのための労働か? その労働の結果はどうであるか? そうした考量は第二義的な、とるに足らぬものである。
 レーヴィンはしばしば、この生活を恍惚として見とれ、この生活を生活している人々に、しばしば羨望の念を感じたものであるが、今日ははじめて、ことにイヴァン・パルメノフ夫婦の関係を見た印象に支配されたため、レーヴィンの頭にはじめて、こういう考えがはっきりと浮んだ。――今まで自分の生きてきた重苦しい無為の生活、人工的で個人的な生活を、あの清らかな美しい共同的な労働の生活に変えるのは、自分一人の意志で自由になることだ。
 いっしょに坐っていた老人は、もうとうに家へ帰ってしまった。群衆も全部ちりぢりになった。近所のものは家へ帰り、遠方のものは草場で食事をし、一夜を明かすために、ひと所に集っていた。レーヴィンは人々に気づかれないまま、やはり禾堆《にお》の上に横たわって、見、聞き、考えつづけた。草場に泊まるために残った連中は、夏の短夜をほとんど寝ずに明かした。はじめの間は、食事しながらの楽しい話し声や、高笑いが聞えていたが、そのうちにまた歌と笑いがひびきはじめた。
 長い労働の一日も、彼らには楽しい気分のほか、なんらの痕跡《こんせき》も残さなかった。東の白みはじめる前に、あたりがひっそりしてきた。耳に入る夜の響きは、沼の中でひっきりなしになき立てる蛙《かえる》の声と、夜明に立ち昇った霧の中で、馬が草場のあちこちに鼻を鳴らす音ばかりであった。
 ふとわれに返って、レーヴィンは禾堆《にお》から起きあがり、星を見上げた時、夜がすぎたのを知った。
『さあ、そこでおれはなんとしたものだろう? どんなふうにやったものだろう?』と彼はひとりごち、この短夜に考え尽したいっさいのことを、自分自身のために表現しようと努めた。彼の考え尽くし、感じ尽くしたいっさいのことは、それぞれ異なる三つの思想の系列であった。第一は、自分の古い生活、なんの必要もない自分の教養を否定することであった。この否定は、彼に喜びをもたらすものであって、彼としては簡単容易であった。第二の思想と空想は、いま彼が生きようと望んでいる生活に関するものであった。彼はその生活の単純さ、清浄さ、合法性を明瞭に感じ、自分が不断に病的なほど渇望している満足と、おちつきと、品位とを、その中にこそ見いだしうるものと確信していた。第三の系列に属する思想は、この旧生活から新生活への転換をいかになすべきか、という問題の上を彷徨《ほうこう》していた。が、そこには何一つ、はっきりしたものが浮んでこなかった。
『妻をもつことだ。労働を、労働の必要をもつことだ。ポクローフスコエを棄てたものだろうか? 土地を買ったものだろうか? 村組合に加入するか? 百姓娘と結婚するか? いったいそれをどんなふうにするんだ』と彼はまた自問したが、答えを見いだすことはできなかった。『もっとも、おれは夜っぴて眠らなかったんだから、自分でも何がなんだか、はっきりしないのだ』と彼はひとりごちた。『あとではっきりさせよう。ただ一つ確かなのは、この一夜がおれの運命を決したことだ。結婚生活に関して以前おれの考えたことは、みんなナンセンスだ、見当ちがいだ』と彼は自分で自分にいった。『それはみんなはるかに簡単で、しかもはるかに優れているのだ……』
『ああ、じつに美しい!』頭の真上の中空にじっとして動かぬ、小羊のような白雲の作りなおしている真珠貝のような奇《あや》しい形をながめながら、彼はこう考えた。『この美しい夜は、見るものがみなじつにすばらしい! あの真珠貝は、いったいいつできたんだろう? ついさっき空を見た時には、たった二つの白い筋のほか、なんにもありゃしなかった。そうだ、ちょうどあれと同じように、おれの人生観も、いつとも知れず変ってしまったのだ!』
 彼は草場を出て、街道づたいに村の方へ歩き出した。軽い風が起って、空は灰色に曇ってきた。たいていいつも夜明け前、闇に対する光の完全な勝利に先立って訪れる、あのうっとうしいひとときがきたのである。
 レーヴィンは寒さに身をちぢめて、地面ばかり見ながら、早足に歩いた。『あれはなんだろう。だれが乗ってくるんだろう?』ふと鈴の音を聞きつけて、彼はこう考えながら、頭を上げた。四十歩ばかり離れたところを、彼の歩いているのと同じ草深い街道づたいに、四頭立ての箱馬車がむこうから来ていた。轅《ながえ》につけられた二頭の馬は、轍《わだち》の跡を避けて、轅にくっついてしまったが、馭者台の上に横坐りに掛けていた馭者は、巧みに轅を轍の跡に沿って向けなおしたので、車はまたなめらかに走り出した。
 レーヴィンは、ただそれだけのことに気がついたばかりで、だれが乗っているかということなどは考えもせず、ぼんやりと箱馬車の中を見やった。
 馬車の中には、一人の老婦人が片すみでまどろんでおり、窓ぎわにはたったいま目をさましたばかりらしい若い令嬢が、白い室内帽のリボンを両手に持って坐っていた。レーヴィンには縁のない、優美で複雑な内部生活にみちた、明朗な感じのするこの令嬢は、物思わしげな風情で、彼の頭を越して、日の出前の空焼けを眺めていた。
 この幻影がもはや消え失せたそのせつな、真実みのこもった二つの目が、彼をちらっと見た。彼女は、彼がだれであるかに気がついた。と、驚異の喜びが彼女の顔を照らした。
 彼は思い違いなどするわけがなかった。あの目はこの世にたった二つしかありはしない。彼のために、生活のすべての光と意味を集中する力をもった人は、この世にただ一人しかいない。それは彼女であった。キチイであった。彼女は鉄道の停車場から、エルグショーヴォヘ行くところなのだ、と彼は悟った。すると、この寝られぬ一夜に、レーヴィンを興奮させたいっさいのもの、彼のとったいっさいの決意、――なにもかもかせつなに消えてしまった。彼は百姓娘と結婚しようなどと空想したことを思い出して、嫌悪の念を覚えた。あそこに、見るみる遠ざかりながら、道路の反対側へ移るあの箱馬車の中――、ただあの中にのみ、最近あれほど悩まし苦しめた生活上の謎《なぞ》を解決する鍵があるのだ。
 彼女はもうそれきり顔をのぞけなかった。車の発条《ばね》の音は聞えなくなって、ただ鈴の音ばかりがかすかに響いてくる。犬のほえ声は、馬車が村を通り抜けたことを示した、――まわりにはただがらんとした野原と、前方の村と、それから荒れた街道をただ一人進んで行く、いっさいのものに縁のない、孤独な彼自身がとり残された。
 先ほど見とれたかの真珠貝を見いだそうと思って、彼は空をふり仰いだ。それは彼にとって、昨夜の思想と感情の動きを、ぜんぶ象徴するものであった。が、空にはもう真珠貝に似たものは、何一つなかった。そのはかり知れぬ高みでは、すでに神秘な変化が成就されていた。そこには真珠貝など痕形《あとかた》もなく、たいらな毛氈《もうせん》が一枚、半空ぜんたいにひろがって、小羊のような模様は、先へ行くほどしだいに小さく、小さくなっていく。空は淡いコバルト色に輝きはじめた。そして、彼の物問いたげなまなざしに対しては、依然たる優しみを示しながらも、しかし依然として近より難い厳しさをもって応《こた》えるのであった。
『いや』と彼はひとりごちた。『あの単純な労働生活がどんなにいいからって、もうそこへ戻ることはできない。おれは彼女[#「彼女」に傍点]を愛している』

[#5字下げ]一三[#「一三」は中見出し]

 カレーニンに最も近い人々を除いてはだれ一人として、この一見して冷静な、分別に長《た》けた男が、その性格の全体の傾向と矛盾する一つの弱点をもっていることを、知るものはなかった。カレーニンは、子供や女が泣くのを、平気で見たり、聞いたりすることはできないのであった。涙を見ると、途方にくれたような気持になり、物事を考え合わす力を失ってしまう。彼の事務主任や秘書官は、そのことを知っていたので、婦人の請願者に向って、もし事をぶちこわしたくなかったら、決して泣いてはいけないと、あらかじめ注意したものである。「閣下は腹をおたてになって、あなたのいうことをお聞きになりはしませんよ」と彼らはいって聞かすのであった、事実、こういう場合、涙のためにひき起されるカレーニンの心の乱れは、性急な憤怒《ふんぬ》となって現われた。「私は何もするわけにはいきません。とっとと帰って下さい!」そういった場合、彼はたいていこんなふうにどなったものである。
 競馬からの帰り途、アンナが自分とヴロンスキイの関係を声明したのち、いきなり両手で顔をおおって泣き出した時、カレーニンは妻に対する憎悪が湧き起ったにもかかわらず、それと同時に、いつも涙に呼びさまされる心の乱れが、潮のようにさしてくるのを感じた。自分でもそれを承知し、またこの瞬間の自分の感情表現が、事態にふさわしくないことを承知していたので、彼は自分の内部の生命感の表出をいっさいせきとめ、したがって、身じろぎもしなければ、妻の方を見ようともしなかった。こういうわけで彼の顔には、かのアンナをぎょっとさした、奇怪な、死人のような表情が浮んでいたのである。
 別荘へつくと、彼は妻を馬車からおろし、しいて自らおさえながら、いつもの慇懃《いんぎん》な態度で別れを告げ、例のなんらおのれを束縛しない言葉を発した。明日、自分の決心を知らせるから、といったのである。
 最悪の疑惑を裏書きした妻の言葉は、カレーニンの心に無慚《むざん》な苦痛を与えた。この苦痛は、妻の涙が呼び起したふしぎな肉体的憐愍感のために、いっそう強められたのである。しかし、馬車の中で一人きりになると、カレーニンはその憐愍の情からも、最近しじゅう彼を苦しめていた嫉妬の疑惑や苦しみからも、完全に解放されているのを感じて、驚きながらも、同時にうれしかった。
 彼は、長いこと痛みつづけていた歯を、ひと思いに抜いた人のような気持を経験した。恐ろしい苦痛と、何かしら巨大な、頭よりも大きなものを、頤《あご》からひっこ抜かれるような感じを覚えたのち、病人は突如として、あれほど長く自分の生活を毒し、いっさいの注意を釘づけにしていたものが、もはや存在しなくなったのを感じ、これからまた生活し、考え、自分の歯以外のものにも興味をいだきうることを知って、いまだに自分の幸福を信じることができないでいる。この感じをカレーニンは経験したのである。その苦痛はふしぎな、恐ろしいものではあったけれども、今はそれをすぎてしまった。彼は、自分がふたたび生活することができ、妻以外のことも考えることができるのを直感した。
『恥も知らなければ、真心も宗教もない堕落した女だ! おれは前からそれがわかっていた。あれをかわいそうに思って、自分で自分を欺こうと努力してはいたが、前からそれはちゃんとわかっていたのだ』と彼は自分で自分にいって聞かせた。すると、本当に前からそれを見抜いていたような気になった。以前べつだん悪いとも思われなかった過去の夫婦生活を、こまかい点まで思い起しはじめた。すると、今ではこれらのデテールが、あれは前から堕落女だったということを、明らかに証明するのであった。
『あの女と生涯を結びあわしたのは、おれのまちがいだった。しかし、おれの誤りには何一つ悪いことはない、だからおれは不幸者になるわけにいかん。悪いのはおれじゃなくて』と彼は考えた。『あいつなのだ。しかし、あんな女はおれになんの用もない。あいつはおれにとって存在しておらんのだ』
 彼女と息子に襲いかかったいっさいのことは(この息子に対しても彼の感情は、妻に対するものと同様に、がらりと一変してしまった)、もはや彼の興味をひかなくなった。いま彼の心を占めている唯一のものは、どうしたら一番うまく、世間体《せけんてい》よく、自分に都合のいいように、したがって最も公平に、妻の堕落によってひっかけられた泥をはらい落し、廉潔で有益な活動的生活の歩みをつづけることができるか、という問題であった。
『卑しむべき女が罪を犯したからといって、そのためにおれが不幸になるわけにいかん。ただおれは、その女のために立たされた苦しい立場からぬけ出す、最善の方法を発見してみせるとも』と、彼はしだいに深く眉をひそめながら、考えるのであった。『こんなことはおれがはじめてでもなければ、また最後でもないのだ』
 すると、美しきエレーナ[#「美しきエレーナ」に傍点]によって、万人の記憶に新たな、メネラスを筆頭とする歴史的の事例はいうまでもなく、上流社会に起った良人に対する妻の不貞の例が、あとからあとからカレーニンの想像に浮びあがった。
『ダリヤーロフ、ポルターフスキイ、カリバーノフ公爵、パスクージン伯爵、ドラム……そう、ドラム……でさえも……あれほど潔白有為な人物でも……セミョーノフ、チャーギン、シゴーニン』とカレーニンは思い浮べるのであった。
『それはまあ、かりに、何かしら不合理な ridicule(奇怪事)が、ああいう人たちの頭上に降りかかったのだとしても、おれはその中に不幸より以外なにものをも見ようとせず、彼らに同情をいだいたものだ』とカレーニンは考えた。もっとも、それは本当のことでなく、カレーニンはかつて一度も、この種の不幸に同情したことがなかった。そして、良人にそむく妻の実例が多ければ多いほど、いよいよ高く自分というものを評価していたのである。『これはどんな人間にも降りかかる可能性のある不幸なので、その不幸が、おれに降りかかったわけだ。ただ問題は、どうしたら一番ぐあいよくこの状態をしのいでいけるかだ』彼は自分と同じ状態におかれた人々の行動を、いちいちくわしく点検しはじめた。
『ダリヤーロフは決闘をやった……』
 決闘ということは、若いころ、カレーニンの心を特につよくひきつけたものである。というのは、彼が肉体的に臆病な人間であって、自分でもそれをよく承知していたからである。カレーニンはピストルの銃口《つつぐち》が自分の方へ向けられた場合を、恐怖の念なしに想像することができなかった。それに、これまで一度も、いかなる武器をも使用したことがなかった。この恐怖心が若いころからしばしば、彼に決闘ということを考えさせ、おのれの生命を危険にさらすような状態を想像せしめたのである。官界に成功して、この人生に確乎たる位置を獲得してからというものは、彼も久しくこの感情を忘れていた。しかし、結局、感情の習性が勝利をしめて、自分の臆病心に対する恐怖が、今なおきわめて根強かったので、カレーニンは決闘という問題を長い間、あらゆる角度から検討し、心の中で愛撫しつづけた。そのくせ、どんなことがあっても、決闘などしないということを、自分でも前から承知していたのである。
『疑いもなく、ロシヤの社会はまだ相当に野蛮だから(イギリスなどとは比較にならん)、きわめて多数のものが(このきわめて多数のものの中には、カレーニンが特に尊敬して、その意見に傾聴しているような人々も含まれていた)、決闘というものを是《ぜ》とするだろうが、しかし決闘によってどんな結果がえられるというのだ? かりに、おれが決闘を申しこむとする』とカレーニンは肚《はら》の中で考えつづけたが、自分が挑戦状を発したあとにすごすべき一夜と、自分の方へ向けられたピストルをまざまざと想像したとき、彼は思わずぴくりっとした。そして、自分にはそんなことは金輪際《こんりんざい》できない、ということを悟った。『かりに、おれが決闘を申しこむとしよう。かりに、おれはやりかたを教えられて』と彼は考えつづけた。『定めの位置に立たせられ、引金をひくとしよう』と彼は目を閉じながらひとりごちた。『そして、結局、おれがあいつを殺したとしたところで』とカレーニンはいったが、この愚かしい想像を追いのけようとでもするかのごとく、頭を左右にふった。
『罪を犯した妻と、わが子に対する態度を決定するために、殺人ということがどんな意味をもつのだ? あの女に対してとるべき処置も、やっぱりそうした方法で決めなければならんのだろうか? しかし、それよりもっと確かな疑いのない事実は、おれが殺されるか、負傷するかということだ。なんの罪もない人間、単なる犠牲にすぎないおれが、殺されたり負傷したりする。こいつはもっと無意味だ。のみならず、おれのほうから決闘を申しこむのは、潔白を欠く行為となるだろう。友だちが決しておれにそんなことをさせないのは、前からわかりきっているじゃないか、――ロシヤにとって必要な国家的名士の生命が危険にさらされるのを、みんなうっちゃっておくはずがないじゃないか。で、いったいどうなるのだ? ほかでもない、事件が生命の危険というところまでいかないのを、前もって承知していながら、この挑戦によって自分に一種虚偽の光彩を添えようと考えたにすぎない。これは潔白を欠く偽りの行為だ、これは他人をも、また自分自身をも欺くことになる。決闘なんて考えることもできない、それに、だれもそんなものをおれから期待してはいない。おれの目的は、自分の活動を支障なくつづけるのに必要な名声を、安全に保証するということなんだ』以前からカレーニンの目に大きな意義を有していた勤務活動が、今では彼にとって、特に重大なものに考えられるのであった。
 決闘という問題を検討して、これを否定すると、カレーニンは離婚という問題をとりあげてみた。これは、彼の思い浮べた世の良人たちの幾人かが選んだ第二の方法なのである。自分の知っている離婚の場合を、ことごとく記憶の中で点検してみたが(それは、彼の熟知している最上流の社会では、非常な多数にのぼった)、しかしカレーニンは、自分と同じ目的で離婚した例を、一つとして発見することができなかった。どの場合をとってみても、良人は妻を譲るか売るかしており、一方、犯した罪のために結婚する権利をもたぬ相手方は、似て非なる法律に保護されて、似て非なる良人と虚構の関係に入っていくのである。さて自分の場合としてみると、カレーニンは合法的な離婚、すなわち罪を犯した妻が社会から斥《しりぞ》けられるような離婚の目的を達することは、不可能なのであった。彼のおかれている複雑な生活条件が、妻の犯罪を明らかにするために法の要求している、粗野な事実の証明を不可能にしているのを、カレーニンは認めざるをえなかった。よしんばそういう証拠があっても、この生活の有する特殊の洗練された性格が、その証拠の適用を許容せず、もしそれを適用すれば、彼は彼女以上に、社会的に信用を失墜する、それが彼にはわかっていた。
 離婚の試みは、ただ不体裁な裁判事件となって、敵のためにはもっけの儲《もう》けものとなり、誹謗《ひぼう》の種となり、彼の占めている高い社会上の地位を傷つけるにすぎない。肝心な目的は、――混乱を最小限度にとどめて事態を決定することは、離婚の方法によっても達することができなかった。のみならず、離婚してしまえば、いな、単に離婚の試みをしてさえも、妻が良人との関係を絶って、情夫と結びついてしまうのは、明瞭な話である。ところが、カレーニンはいま妻に対して、完全に侮蔑と無関心の態度をとっている(と彼には思われた)にもかかわらず、心の底のほうでは、彼女がなんの障碍もなくヴロンスキイと結びついて、その犯罪が彼女のためにかえって有利になるのを、望まない気持が強かった。ちょっとこのことを考えただけでも、カレーニンは気持がいらいらしてきて、それを心に描いてみるが早いか、内心の痛みに思わず呻《うめ》き声をたて、馬車の中で体を起し、席を変えたほどである。彼はその後も長いこと渋い顔をしながら、冷えやすい骨っぽい足を、毛のむくむくした膝掛でくるむのであった。
『正式の離婚以外にも、まだカリバーノフや、パスクージンや、あの善良なドラムがとったような方法もある。つまり、妻と別居するのだ』ややおちついてから、彼は考えつづけた。しかし、この方法も離婚の場合と同様に、醜聞をつくるという不便を伴っていたし、それにだいいち、――やはり正式の離婚の場合とおなじく、妻をヴロンスキイの抱擁に投じることになるのであった。
『いや、それは不可能だ、不可能だ!』またもや膝掛をひっくり返しながら、彼は大きな声でこういった。『おれは不幸になるべきでないし、彼女と彼は幸福であってはならんのだ』
 真相の不明であった時に彼を苦しめていた嫉妬感は、妻の言葉によって、苦痛とともに抜歯された瞬間、消えてしまった。が、この感情は別のものに取って代られた。それは彼女が凱歌《がいか》を奏したりしないばかりか、おのれの罪に対する報いを受けるように、という願望であった。彼はこの感情を自認しなかったけれども、心の深い奥底では、彼女が良人の平安と名誉を傷つけた罰として、苦しめばよいと望んでいたのである。こうして、決闘、離婚、別居の条件を、もう一度こころの中で点検して、ふたたびそれらを否定したのち、解決の法は一つしかないと確信した、――今度の出来事を世間から隠して妻をこれまでどおり手もとへおき、それと同時に、二人の関係を絶つこと、何よりも第一に、――これは自分でも自認しなかったことであるが、――妻を罰するために、及ぶ限りの方法を講じることであった。
『おれは自分の決意を言明しなくちゃならん、――あれのために家族の陥った困難な状態を熟慮した結果、いっさいの他の方法は、外面的 statu quo(現状維持)に比べて、双方のためにならんから、おれは後者を選ぶことに同意する。ただし、あれがおれの意志を実行する、すなわち情夫との関係を絶つという、断乎たる条件を付けるのだ』この決定がいよいよ最後的に採用されたとき、それを裏書きするような重大な考量が、さらに一つカレーニンの頭に浮んできた。『この決心をしたときにのみ、おれは宗教にも一致した行動をとることになるのだ』と彼はひとりごちた。『この決心をしたときにのみ、おれは罪ある妻を斥けないで、改悛《かいしゅん》の可能を与えるのだ。それどころか、――これはおれにとって苦しいことではあるけれど、――この改悛と救いのために、自分の力の一部を捧げることにしよう』
 カレーニンは、自分が妻に対して精神的感化力を有しえないから、したがって、この改悛の試みからは虚偽以外なんの結果も生じない、ということを承知していたし、またこの苦しい瀬戸ぎわに、宗教に啓示を求めようなどとは、一度も考えたことがなかったにもかかわらず、いま彼の決定が宗教の要求と一致したと思うと、この宗教の与える裁可《サンクション》が、彼に十二分の満足と、ある程度のおちつきをもたらしたのである。これほど重大な生活上の事件に遭遇したとき、社会一般の冷淡と無関心のただ中にあって、彼が常に高々と旗幟《きし》を掲げてきた、その宗教の掟に反する行為をとったとは、よもやだれもいうものはあるまい。そう考えると、彼はうれしくてたまらなかった。それから、なおつづいて、いろいろとこまかい点を思いめぐらしているうちに、カレーニンは自分と妻の関係が、これまでとほとんど同じものではありえないという理由が、わからないほどになってしまった、疑いもなく、彼は二度と再び、妻に対する尊敬をとり戻すことはできないだろうが、しかし彼女が悪い女であり、不貞の妻であったがために、彼が自分の生涯をめちゃめちゃにして、苦しまなければならぬという理由は少しもないし、またありえなかった。
『なに、そのうちしばらくすると、時がいっさいのものをうまくおさめてくれる、そうすれば、以前どおりの関係が復活するだろう』とカレーニンは考えた。『つまり、おれが自分の生活の流れに不都合を感じない、その程度には復活するだろうよ。あれは不幸になるのが当然だが、おれはなんの罪もないんだから、おれが不幸になるわけにはいかん』

[#5字下げ]一四[#「一四」は中見出し]

 ペテルブルグの街へ近づくにつれて、カレーニンはこの決定を動かすべからざるものと考えたばかりでなく、妻に与える手紙の文句まで、頭の中で組み立てたほどである。玄関番の部屋へ入って、本省から届けられた書類や手紙に目を走らせると、あとから書斎へ持ってくるように命じた。
「馬を車から放しておけ、そしてだれも通さんようにな」玄関番の問いに答えて、一種の満足感さえ表わしながら、『通さんように』という言葉に力を入れていった。これは彼のきげんがいいことを証明する徴候なのであった。
 書斎へ入ると、カレーニンは二度ばかり部屋の中を往復して、もう先に入ってきた従僕が、蝋燭を六本ともしていった大きな仕事テーブルのそばに立ちどまり、指をぽきぽき鳴らして、文房具をいじりながら腰をおろした。テーブルの上に両肘《りょうひじ》ついて、頭を横にかしげ、ちょっと考えたのち、それから寸時もペンを止めずに書きはじめた。彼は最初の宛名を書かず、フランス語で手紙を認めた。フランス語の vous(あなた)は、ロシヤ語の v’i ほどの冷たさをもっていないからである。

『最後の話合いの際、私はあの話合いの内容に関する自分の決定を伝えるという意向を、あなたに洩らしておきました。すべてを慎重に考慮したうえ、いま私はこの約束を実行する目的で筆をとりました。私の決定は次のとおりです。あなたの行為がいかようなものであるにもせよ私は神の権力《ちから》によって結ばれた絆《きずな》を破る権利が自分にあろうとは考えられません。家庭は夫婦の一人の気まぐれや、わがままや、いな、それどころか犯罪によってすら、破壊さるべきものではありません。したがってわれわれの生活は従前どおりに続けられるのが当然です。それは私にとっても、あなたにとっても、私たちの子供にとっても必須《ひっしゅ》であります。今あなたは、その手紙の原因となった事実について、悔悟されたこと、悔悟されつつあるものと確信します。あなたはわれわれの不和の原因を根絶し、過ぎ去ったことを忘れるために、私に協力して下さることを信じてやみません。さもなくば、何があなたとあなたの子供を待ちもうけているかはあなた自身たやすく想像しうるところであります。これらいっさいについては、面晤《めんご》の節、さらに詳しく相談しうるものと庶幾《しょき》する次第です。もはや別荘生活の季節も終りに近づいたことゆえ、できるだけ早く、火曜日までにペテルブルグへ帰ってもらいたいと思います。あなたの引越しに必要な処置は、残らずしておきます。注意しておきますが、私はこの希望の実行に、特殊の意識を賦与《ふよ》しているのです。
[#地から1字上げ]A・カレーニン
 二伸 あなたがたの経費として必要と想像される金を、この手紙に同封します』

 彼は手紙を読み返してみて、そのできばえに満足した。ことに、金を封入することを思いついたのが大出来であった。そこには残忍な言葉づかいもなければ、非難や叱責もないが、さればといって、下手《したで》に出たようなところもない。肝要なのは、妻の帰宅のために黄金の橋を渡すことである。手紙を畳んで、大きなどっしりした象牙紙切りナイフで、押しをつけ、金といっしょに封筒へ入れると、いつもよく整頓のできた文房具を扱うときに感じる満足感をいだきながら、ベルを鳴らした。
「これを小使に渡して、明日、別荘のアンナ・アルカージエヴナにお届けするようにいってくれ」といって、彼は立ちあがった。
「かしこまりました、閣下。お茶はお書斎のほうへお持ちいたしましょうか?」
 カレーニンは茶を書斎へ持ってくるように命じ、例のどっしりした紙切りナイフを玩具《おもちゃ》にしながら、肘椅子の方へいった。そこにはランプと、読みかけのフランス語の本が用意してあった。それはエジプトの象形文字《しょうけいもじ》に関するものである。その肘椅子の上に、有名な画家の手でみごとに描かれたアンナの肖像が、楕円形の金縁《きんぶち》に納められてかかっていた。カレーニンはなにげなくそれを見上げた。浸透することを許さないような二つの目が、最後の話合いをしたあの晩のように、傲慢な嘲るような表情で、彼を見おろしていた。画家の筆で巧みに描かれた頭の上の黒レース、黒い髪、薬指に指輪をいっぱいはめた白い美しい手などを見ていると、カレーニンは堪え難いほどずうずうしい挑戦の印象を受けた。カレーニン肖像画をちらと見上げると、唇が躍《おど》って『ブルル』という音を立てたほど、はげしい身ぶるいをして、顔をそむけた。
 彼は大急ぎで肘椅子に腰をおろし、書物をひろげた。続きを読もうとしたけれど、どうしても以前のような、象形文字に対するあの熱心な興味を、よみがえらすことができなかった。彼は本を見ながら、ほかのことを考えているのであった。しかし、彼が考えたのは妻のことではなく、最近かれの政治活動に生じた面倒な事情で、これが近ごろの彼にとって、勤務上のおもな興味を形づくっていたのである。彼は今いつにも増してこの事件の核心《かくしん》に徹して、すばらしい考えが頭に浮かんだように感じた。この案こそは問題ぜんたいを解決して、政界における彼の位置を高め、敵を失脚させ、したがって国家に大なる利益をもたらすに相違ないとは、彼もうぬぼれぬきに断言しうるところであった。従僕が茶道具を調えて、部屋を出ていくやいなや、カレーニンは仕事テーブルヘいった。当面の問題をおさめてある折カバンを、まんなかへ引きよせると、あるかなきかの自己満足の微笑を浮べながら、筆立てから鉛筆をぬき取って、今日とりよせてきた面倒な事情に関する書類に読みふけりはじめた。面倒な事情というのはこうであった。政治家としてのカレーニンの特質、すぐれた官僚ならだれしもそなえている個人的な特質、根強い名誉心や、控えめな態度や、廉潔や、自信などとともに、彼をして今日の栄達をなさしめた特質は、ほかでもない、官省式の書類万能主義を蔑視して、往復文書を簡略化し、できうる限り生きた事件に直接ぶっつかって、金と時間と労力を節約することであった。ところが、たまたま有名な六月二日の委員会で、ザライスキイ県の耕地|灌漑《かんがい》の件が問題となった。これはカレーニンの省の管轄で、予算の浪費と事に対する文書的取扱いを代表する絶好の例であった。カレーニンは、問題になるのが当然だということを心得ていた。ザライスキイ県の耕地灌漑事業は、カレーニンの先任の先任によって着手されたが、事実この事業には莫大《ばくだい》な金が支出され、現在も支出されつつあるが、全然効果があがらず、この事業自体がなんの結果をももたらさないのは、明らかであった。カレーニンは就任とともに、すぐさまその点を洞察して、これに大|斧鉞《ふえつ》を加えようと思った。しかし、最初、彼は自分の地位がまだ鞏固《きょうこ》でないのを感じていたので、あまりに多くの人の利害にふれるこの事業に手をつけるのは、賢明[#「賢明」は底本では「腎明」]な策ではないと考えた。それからしばらくするうちに、ほかの仕事に忙殺されて、この問題をころりと忘れてしまった。で、灌漑事業はすべてのお役所仕事と同様、自然に惰力で進行していた(多数の人々がこの事業で食べていたが、ことにあるきわめて謹厳な、同時に音楽好きな家族などは、その最《さい》たるものであった。この家の娘はみんな弦楽器を弾いた。カレーニンはこの家族を知っていて、上の娘の一人の名付け親にさえなったほどである)。この事業を敵対派の省が問題にしたのは、カレーニンにいわせると、卑怯なやりかたなのである。なぜなら、どの省にも、これどころかもっとひどいことがあるのだけれど、周知のごとき役人どうしの仁義によって、だれも問題を起さないのである。しかし、すでに手袋を投げつけられた今となっては、彼は敢然《かんぜん》とそれをとりあげて、ザライスキイ県耕地灌漑委員会の仕事を研究し、検討するために、特別委員会の制定を要求したが、そのかわり、これからはもう相手がたの連中に対しても、いっさい容赦しないことにした。彼は異民族厚生の件についても、さらに特別な委員会の制定を要求した。異民族厚生の問題は、偶然六月二日の会議で提起されたのであるが、カレーニンは国内の異民族が悲惨な状態にあるのを理由として、猶予することのできない緊急事業と見なし、熱心に支持しはじめた。委員会ではこの問題が、二三の省の抗議の原因となった。カレーニンと敵対関係になる省は、異民族の状態はすこぶる良好であって、いま予想されている改革は、かえってその繁栄を滅ぼすおそれがある、もし何か良からぬことがあるとすれば、それはただカレーニンの省が、法律の命じた施設を実行しない結果である、と論証した。そこで今カレーニンは、次の要求を提出しようと考えた。第一、新しい委員会を組織して、これに異民族の現地状態の調査を委嘱《いしょく》すること、第二、もし異民族の状態が、真に委員会の手中にある公文書の示すごときものであるならば、異民族のかかる悲しむべき状態を招致した原因探究のため、別箇に新しい学術委員会を組織すること。なおその研究は、[#「(a)」は縦中横]政治的、[#「(b)」は縦中横]行政的、[#「(c)」は縦中横]経済的、[#「(d)」は縦中横]人種学的、[#「(e)」は縦中横]物質的、[#「(f)」は縦中横]宗教的見地より行うこと。第三、現在異民族の置かれている不利な条件を防止するために、敵対派の省が過去十年間にいかなる方策をとってきたかについて、該省《がいしょう》から報告を求めること。第四、最後に、何ゆえ該省は、委員会に提出された報告、すなわち一八六三年十二月五日付第一七〇一五号、および一八六四年六月七日付第一八三〇八号の示すごとく、法令集第*巻第十八条および第三十六条ただし書きの根本精神に反するごとき行動をとったかについて、該省から説明を求めること。こういった行動案の概要をさらさらと書き留めていったとき、カレーニンの顔は活気に赤らんできた。一枚の紙にびっしり書き終ると、彼は椅子から立って、ベルを鳴らし、必要な事項を調査して届けるようにという手紙を、自分の事務主任に渡した。立って部屋をひとまわりしたのも、彼はまた肖像画を見上げ、眉をひそめて、さげすむようににたりと笑った。象形文字に関する書物を少し読んで、以前の興味をとり戻すと、カレーニンは十一時に寝室へおもむいた。床の中に身を横たえながら、妻の事件を思い起した時、もうそれはさほど暗澹《あんたん》たるものとは思われなかった。

[#5字下げ]一五[#「一五」は中見出し]

 ヴロンスキイがアンナに向って、彼女の位置があるまじきものだといい、いっさいを良人に打ち明けるべきであると説いた時、彼女は執念《しゅうね》くやっきとなって反対したけれども、心の底では自分の位置を虚偽なもの、潔白を欠いたものと感じ、しん底からそれを一変したいと願っていた。良人といっしょに競馬から帰る途で、彼女は興奮にまかせて、なにもかもいってしまった。そして、そのとき心の痛みを覚えはしたものの、そうしたことを喜んだ。良人が彼女を残して行ったあと、彼女はこれでなにもかもはっきりしてうれしい、少なくとも虚偽や偽りはなくなるわけだ、と自分で自分にいって聞かせた。彼女は、もう今度こそ自分の位置が永久に決定する、とそういう気がしたのである。その新しい位置はよくないかもしれないが、そのかわりはっきりして、そこにはあいまいさも虚偽もなくなるのだ。あの言葉を発することによって、彼女が自分と良人にあたえた苦痛は、今後いっさいが決定するということで償われるのだ。こう彼女は考えた。その晩、彼女はヴロンスキイに会ったけれども、自分と良人とのあいだにあったことを男に話さなかった。しかし、自分の位置が決定するには、話さなければならなかったのである。
 翌朝、目をさました時、第一に彼女の頭に浮んだのは、彼女が良人にいった言葉であった。その言葉はあまりにも恐ろしいものに思われたので、今となってみると、どうしてああいう奇怪な乱暴な言葉を口にすることができたか、われながら合点がいかなかったし、またその結果がどうなるか、想像もつかないほどであった。しかし、ともあれあの言葉はすでに口から発せられ、カレーニンはなんにもいわずに行ってしまった。
『わたしはヴロンスキイに会いながら、あの人にその話をしなかった。あの人が出て行こうとした時、わたしは呼び返して話そうかと思ったのだけれど、なぜいちばんはじめにいわなかったのかと、変に思われそうな気がしたものだから、また考えなおしてしまった。いったいどうしてわたしは話そうと思いながら、いわないですましたのだろう?』
 この問いに対する答えのように、燃えんばかりの羞恥のくれないが、彼女の顔にひろがった。彼女は自分をひき留めたのがなんであるかを悟った、つまり、自分は恥ずかしかったのだと悟った。つい昨日の晩はっきりしたように思われた自分の位置が、今となってみると、はっきりしていないどころか、逃げ道がないもののように感じられた。これまで考えもしなかった恥さらしということが、急に恐ろしくなってきた。良人がどうするだろう、とただそう考えただけでも、このうえもない恐ろしい想像が彼女の頭に浮んだものである。今にも執事がやってきて、自分を家から追い出す、すると自分の恥が世界中へ吹聴《ふいちょう》される、そんな考えも浮んできた。もし家を追い出されたら、いったいどこへ行ったものだろう、と彼女は自問したが、答えを見出すことはできなかった。
 ヴロンスキイのことを考えると、彼はもう自分を愛していず、かえって自分を荷厄介にしているので、この男に自分を捧げようにも、捧げるわけにいかぬだろうと思われ、そのため彼に対して敵意を感じる始末であった。またこんな気もした、――彼女が良人にいった言葉、彼女がいま自分の心の中でたえず繰り返している言葉は、良人ばかりかみんなにいってしまったので、だれもかれもそれを聞いたに違いない。で、彼女はいっしょに住んでいる人たちの顔を、思い切って見る勇気がなかった。小間使を呼ぶ気力もなかったばかりか、階下《した》へ降りて、わが子や家庭教師の顔を見るなどということは、なおさら思いもよらなかった。
 もうだいぶ前から戸口で聞き耳を立てていた小間使は、自分のほうから彼女の部屋へ入ってきた。アンナは物問いたげに、ちらとその目を見たが、おびえたようにさっと顔を赤らめた。小間使は入ってきた詫《わび》をいい、ベルが鳴ったような気がしたので、と言い訳した。彼女は着物と、ベッチイの手紙を持ってきたのである。ベッチイは今朝自分のところへ、リーザ・メルカーロヴァと、シュトルツ男爵夫人が、崇拝者のカルージュスキイとストレーモフ老人を伴って、クロケットの競技に集ってくることになっているから、そのことで彼女に念をおしているのであった。『せめて人情研究の意味ででもいらして下さいな。お待ちしています』と彼女は結んでいた。
 アンナは手紙を読み終って、重々しくため息をついた。
「なんにも、なんにもいらないよ」と化粧机の上のピンや刷毛を、おきなおしているアンヌシカに向って、彼女はこういった。「行ってもいいよ。わたしすぐ着替えをして、出て行くから。なんにも、なんにもいらない」
 アンヌシカは出ていった。が、アンナは着替えをしようともせず、頭《こうべ》をたれ、両の手をだらりと下げたまま、同じ姿勢でじっと坐っていた。時おり、何かの身ぶりをし、何かいおうとするかのように、全身をぴくりとふるわせたかと思うと、また不動の姿に返るのであった。彼女はひっきりなしに、『ああ、神さま! ああ、神さま!』と繰り返していたが、『ああ』も『神さま』も彼女にとってなんの意味ももっていなかった。自分の状態に宗教の助けをかりようというような考えは、自分の教育環境である宗教に、一度も疑惑をいだいたことがないにもかかわらず、彼女にとって無縁のものであって、それは当のカレーニンに助けを求めるのと同じくらい無意味であった。宗教の助けが可能となるのは、ただ自分の全生活の意義となっているものを断念する、という条件がついた場合に限るのを、彼女はあらかじめ知っていた。彼女は今までかつて経験したことのない新しい心の状態を、単に苦しいと思うばかりでなく、それに対して恐怖さえ感じはじめた。彼女は自分の心の中が二つに割れてくるような気がした。それは疲れた目に、時として、物が二つに割れて見えるようなあんばいであった。どうかすると、自分が何を恐れているのか、何を望んでいるのかわからなかった。すでに出来たことを恐れているのか、あるいは望んでいるのか、それともこれから起ることなのか? そもそも何を望んでいるのか、彼女にはわからなかった。
『まあ、わたしは何をしているのだろう?』ふいに頭の両側に痛みを感じて、彼女はこうひとり言をいった。ふと気がついてみると、彼女は両手で自分のこめかみの毛をつかんで、ぎゅっと締めつけているのであった。彼女は躍りあがって、あちこち歩きはじめた。
「コーヒーのおしたくができました。そしてマドモアゼルも坊ちゃんといっしょにお待ちでございます」ふたたびひっ返してきて、またもやアンナが同じ姿勢でいるのを見て、アンヌシカがこういった。
「セリョージャ? セリョージャがどうしたの?」とふいに生きいきした顔つきになって、アンナはたずねた。この朝はじめて、わが子の存在を思い出したのである。
「どうやら、おいたをなすったようでございます」とアンヌシカはにこにこしながらいった。
「え、おいたをしたって?」
「あちらのすみのお部屋に桃がおいてございましたの。それを坊ちゃんがこっそり一つ召しあがったらしゅうございますので」
 わが子のことをいいだされた時、アンナは忽然として、今まで落ちこんでいた救いのない状態からひきだされた。彼女は、かなり誇張もありながら、部分的には真実な役割、息子のために生きている母親の役割を思い起した。彼女は過去数年来、この役割を引き受けていたのであるが、いま陥っている救いのない状態にも、良人やヴロンスキイとの関係に左右されない自分の王国があることを感じた。この王国は息子であった。たとえどんな境遇に入ろうとも、息子を見棄てることはできない。たとえ良人が自分の面皮を剥いで追い出そうとも、よしんばヴロンスキイの愛が冷《さ》めて、自分のかってな生活をつづけようとも(彼女はまたしても癇《かん》の立った非難まじりの気持で男のことを考えた)、自分は子供を見放すことはできない。自分には生活の目的がある。行動しなければならない。わが子との現在の境遇を保障するために、子供を奪い去られないために、行動を開始しなければならない。それどころか、なるべく早く、一刻も早く、自分の手から奪われないうちに、行動しなければならぬ。子供をつれて行ってしまわねばならぬ。これが、今しなければならぬ唯一のことである。この苦しい境遇から抜け出して、気持をおちつけなければならぬ。わが子に結びついた目前の仕事と、子供をつれてすぐにもどこかへ行ってしまわねばならぬという考えは、彼女にこのおちつきを与えたのである。
 彼女は手早く着替えをして、階下《した》へおり、いつもコーヒーと、セリョージャと、女家庭教師が待っている客間へ、断乎とした足どりで入った。白ずくめの服装《なり》をしたセリョージャは、姿見の下にあたるテーブルのそばに立って、背中と頭をかがめ、緊張した注意の表情で、自分の持って帰った花をどうかしていた。その表情は彼女のよく知りぬいたものであり、父親を連想さすものであった。
 家庭教師は格別きびしい様子をしていた。セリョージャはいつもよくするように、かん高い声で、「ああ、ママ!」と叫んだが、花を棄てて母親のそばへ朝の挨拶《あいさつ》をしに行ったものか、それとも花輪を仕上げて、それを持っていったものかと、決心のつかぬ様子で立ちどまった。
 家庭教師はあいさつをすましたのち、セリョージャのいたずらを長々と、はっきりしたいいかたで話しだしたが、アンナは聞いていなかった。彼女は、この女を連れていったものかどうかと考えていたが、『いや、連れていくのはよそう、あの子と二人だけでいくことにしよう』と決めた。
「そうね、それは本当によくないことですわ」とアンナはいい、わが子の肩に手をのせて、厳しいというより、むしろ臆病な目つきでその顔を見てから、接吻した。その目つきは少年をまごつかせもしたが、喜ばせもしたのである。
「ちょっとわたしたちふたりだけにして下さい」と彼女はあきれ顔の家庭教師にいって、わが子の手をはなさずに、コーヒーの用意のしてあるテーブルに着いた。
「ママ、僕は……僕は……何も……」桃事件の罰として何が自分を待っているかを、母の顔つきで察しようとつとめながら、少年はこういった。
「セリョージャ」家庭教師が部屋を出るやいなや、彼女はきりだした。「あんなことはいけませんよ。でも、坊やはもうあんなことしませんね……坊やはママが好き?」
 彼女は、涙が目にたまってくるのを感じた。『いったいこの子を愛さずにいられるものか』わが子のおびえたような、同時にさもうれしそうな目にじっと見入りながら、彼女は心にそういった。『いったいこの子も父親と一つになって、わたしを罰するのだろうか? わたしをかわいそうと思わないのだろうか?』涙は早くも彼女の顔をつたって流れた。彼女はそれを隠すため、そわそわと立ちあがり、ほとんど走るようにして露台へ出た。
 二三日つづいた雷雨のあとで、冷たく晴れた日和がやってきた。雨に洗われた木の葉を透してくる日はまぶしかったが、大気は冷えびえとしていた。
 彼女はぶるっと身ぶるいした。それは寒さのためでもあったが、清らかな大気の中で新しい力をもって彼女をつかんだ恐怖のためでもあった。
「あっちイいらっしゃい、マリエットのとこへいらっしゃい」彼女はあとを追ってきたセリョージャにそういって、露台に敷いたござの上を歩きだした。
『いったいあの人たちはわたしを赦してくれないかしら? これがみんなこうなるよりしかたなかったことを、わかってくれないかしら?』と彼女はひとりごちた。
 彼女は歩みをとめて、風にそよぐ泥楊《どろやなぎ》の梢の、冷たい太陽にきらきらと輝いている、雨に洗われた葉むらを眺めた時、――彼らは赦してくれない、すべての人は、この空のように、またこの緑のように、自分に対して情も容赦もないだろう、ということを悟った。と、またしても、彼女は自分の心が二つに割れていくのを感じた。
『もういい、考えないほうがいい』と彼女はひとりごちた。『したくしなくちゃならない。が、どこへ? いつだれを連れて行ったものかしら? そうだ、モスクワへ、晩の汽車で行くことにしよう。アンヌシカとセリョージャ、それにごくごく必要なものだけ。それにしても、前にあの二人に手紙を書かなくちゃ』
 彼女は家の中へ入って、自分の居間へ行き、テーブルにむかって、良人への手紙を書きはじめた。
『ああいうことのありました以上、わたくしはもうあなたの家にとどまっているわけにはまいりません。わたくしは出ていきます。そしてセリョージャを連れてまいります。わたくしは法律は存じませんから、男の子は二親のうちどちらにつくのかも知りません。が、とにかくわたくしは連れてまいります、なにゆえと申して、あの子なしには生きていることができませんから。どうか寛大なお心をもって、あの子はわたくしのほうへお残し下さいまし』
 ここまではすらすらと自然に書けたが、自分で認めてもいない良人の寛大心に訴える言葉と、なにか感動的な句で手紙を結ばなければならぬ必要が、彼女の手をとめた。
『わたくしは自分の罪とか、悔悟とかいうことは申しあげるわけにいきません、なぜなら……』
 ふたたび彼女は、自分の思想に脈絡を見出すことができなくて、ペンをとめた。
『いや』と彼女はひとりごちた。『なんにも必要はない』で、手紙をひき破って、寛大|云々《うんぬん》のところを抜いて書きなおし、封筒に入れた。
 もう一通、ヴロンスキイあてに書かなければならなかった。『わたしは主人にいってしまいました』と書いたが、先をつづける気力がなく、長い間じっと坐っていた。これはあまりにも粗野で、あまりにも女らしくない。『それに、いったいあの人に何を書くことができるのだろう?』と彼女は心に思った。またしても羞恥のくれないが彼女の顔をおおい、男のおちつきはらった態度が思い出された。男に対するいまいましさの情が、その一句だけ書いた紙をずたずたにひき裂かした。『なんにも書く必要はないわ』と彼女はひとりごち、吸取り紙を畳んで、二階へあがり、家庭教師をはじめ召使たちに今晩モスクワへ発《た》つといいわたし、荷ごしらえにかかった。

[#5字下げ]一六[#「一六」は中見出し]

 どの部屋もどの部屋も、庭番や、園丁や、下男たちが、荷物を運び出しながら歩きまわっていた。戸棚や箪笥は開け放しになっていた。二度も近所の小店へ、使が紐《ひも》を買いに駆け出した。床には新聞紙がちらかっていた。二つの大トランク、それから旅行袋や物をくるんだ膝掛などが、玄関の控室へ運ばれた。箱馬車と二台の辻馬車が、入口階段のところに待っていた。荷造り騒ぎで内心の不安を忘れたアンナは、自分の旅行袋をまとめていたが、ふいにアンヌシカが、馬車の近づく音に彼女の注意を向けた。アンナは窓の外を見やった、とカレーニンの小使が入口階段に立って、扉のベルを鳴らしているのが、目に入った。
「行って、きいてごらん、なんの用だか」と彼女はいい、いっさいのことに対して覚悟のできているおちつきはらった態度で、肘椅子に腰をおろし、両手を膝の上に組みあわせた。下男が、カレーニンの筆蹟で上書きした分厚な包みを持ってきた。
「小使はご返事をいただいてこいと申しつかったそうで」と下男はいった。
「いいわ」と彼女は答え、下男が出ていくが早いか、ふるえる指先で手紙の封を切った。帯封をした紙幣の束が、曲げないままで封筒から出てきた。彼女は手紙を抜き出して、終《しま》いのほうから読みはじめた。『あなたの引越しに必要な処置を講じておきます。私はこの希望の実行に特殊な意味を賦与《ふよ》しているのです』とアンナは読んだ。彼女はその先に目を走らせ、前のほうを読み、ぜんぶ読み通したが、さらにもう一度はじめから読み返した。それがすんでしまうと、彼女は寒けだってきて、夢にも思いがけない恐ろしい不幸が、くずれかかったような気がした。
 つい今朝は、良人にあんなことをいったのを後悔して、あの言葉が口から発しられたのでなかったら、とそればかり願ったものである。ところが、この手紙はあの言葉がいわれなかったものと見なして、彼女の望んだとおりのものを与えてくれたわけである。にもかかわらず、今この手紙は、自分の想像しうる最も恐ろしいものに思われたのである。
『本当だ! あの人が本当だ!』と彼女はひとりごちた、『もちろん、あの人はいつも正しいんだわ、あの人はキリスト教徒なんだから、度量が大きいんだわ! でも、卑劣な、いやらしい人間だ! それはわたしよりほかだれ一人わかってもいないし、またわかりっこないんだわ。それに、わたしも得心のいくように説明ができない。世間では、宗教的で、道徳的で、潔白で聡明な人だといってるけれど、世間の人はわたしの見たことを見てやしない。あの人が八年間わたしの生活を窒息させたことを、わたしの中に生きているいっさいのものを窒息させたことを、世間の人は知らないんだ――あの人は、わたしが愛情を必要とする生きた女だってことを、一度も考えたことがない、それをみんなは知らないんだわ。あの人が一歩ごとにわたしを侮辱しながら、自分で自分に満足していたことを、だれも知りはしない。わたしは生活の意義を見つけ出そうとして、努力しなかったとでもいうのかしら? 一生懸命に努力しなかったかしら? わたしはあの人を愛しようと試みなかったかしら? もうあの人を愛することができなくなった時、わたしは子供を愛するように努めたんだわ。でも、もう時がきた、わたしはこれ以上、われとわが身を欺くことができないと悟ったのだ。わたしは生きた人間だから、神さまがわたしをこんな女につくって下すったからって、何もわたしのせいじゃありゃしない。わたしは愛さなくちゃならない、生きなくちゃならない。それなのに、これはまあ、なんだろう? もしカレーニンがわたしを殺したら、あの人を殺したら、わたしは何もかも耐え忍んで、いっさいを赦したに違いない。ところが、だめ、あの人は……』
『どうしてわたしは、あの人のしそうなことを察しなかったのかしら? あの人は自分の卑劣な性格にふさわしいことをするにきまっていたものを。わたしはもう破滅した女なのに、それをもっとひどく、もっと惨めに破滅させようとしていながら、あの人はどこまでも正しい人間で通っていくのだ……』
『何があなたとあなたの息子を待ちもうけているかは、あなた自身たやすく想像しうるところであります』という手紙の文言を彼女は思い浮べた。『これはあの子を取りあげるぞという脅かしなのだ。そして、あの人たちのばかげた法律では、それができるんだわ。でも、なんのためにあの人がこんなことをいうのか、わたしにそれがわからないと思ってるのかしら? あの人はセリョージャに対するわたしの愛情を信じないか、でなければ軽蔑しているんだわ(いつもなんでもせせら笑うあの調子で)。あの人は、わたしのその感情を軽蔑してはいるものの、わたしがあの子を棄てはしない、棄てることはできないってことを承知しているのだ。あの子なしには、たとえ好きな人といっしょになっても、わたしにとって生活はありえない、ところで、あの子を棄てて良人のもとを[#「良人のもとを」はママ]走ったら、わたしが何よりも卑しい、けがらわしい女と同じ行動をとることになる、それをすっかり知りつくしているのだ。そして、わたしにそれができないってことを知りぬいているのだ』
『われわれの生活は従前どおりにつづけられるのが当然です』と彼女はまた別の文言を思い出した。『あの生活は前だって苦しかったのに、近ごろではもう恐ろしいものになっていたのだから、これから先はいったいどうなるのだろう? しかも、あの人はそれをなにもかも知っているのだ、わたしが呼吸したり愛したりするのを、後悔するわけにいかないってことを、ちゃんと承知しているのだ。そんなことをしたって、嘘とごまかしのほか、なんの結果も得られないってことを、承知しているくせに、ひきつづきわたしを苦しめることが、あの人にとっては必要なんだわ。わたしはあの人がちゃんとわかっている。あの人は魚が水の中を泳ぐように、虚偽の中を泳ぎまわって、いい気持でいるんだわ、ちゃんとわかってる。でも、お気の毒さま、わたしはいい気持になんかさせてあげはしない。あの人は虚偽の蜘蛛《くも》の巣にわたしを包みこもうとしているけれど、わたしはそれを破ってやる。どうともなるようになるがいい、どんなことだって、嘘やごまかしよりかましだもの』
『でも、それにはどうしたものだろう? ああ神さま! 神さま! わたしみたいにふしあわせな女が、いつかこの世にあったでしょうか?』
「いいえ、破ってみせる、破ってみせる!」と彼女はおどりあがり、涙をおさえながら叫んだ。彼女はまた新しく良人あての手紙を書くつもりで、書きもの机のそばへ寄った。しかし、心の深い底のほうでは、自分には何一つ破る力はない、いかにも虚偽にみちた不正なものであろうとも、従前どおりの境遇から抜け出る力はないということを、早くも感じていたのである。
 彼女は書きもの机に向って腰をおろしたが、書こうともしないで、机の上に両手を重ね、その上に頭をのせて、子供のようにしゃくりあげ、胸ぜんたいをふるわせながら泣き出した。それは、自分の位置を明らかに決定しようと思った空想が、永久に崩壊したのを悲しむ涙であった。なにもかももともとどおり、いな、もともとどおりよりさらに悪くなるということが、彼女には今からわかっていたのである。今まで享楽していた社交界の地位、つい今朝ほどはなんの価値もないように思われていた地位、その地位が彼女にとっては貴いものであって、良人を棄てて仇《あだ》し男のもとに走った卑しい女の立場に、それを見変える気はないに相違ない、どんなにも がいてみても、しょせん自分自身より強くはなれない、それを彼女は感じたのである。自分はなっても、恋愛の自由を味わうことができないで、罪の女として残るだろう。しょせん一つの生活に溶けあうことのできない、自由きままな境涯にある、縁のない男と恥ずべき関係をつづけるために、良人を欺きながら、たえず罪証発覚の脅威下におかれるのだ。彼女はそうなるにきまっていることを承知しながら、同時に、それが恐ろしくてたまらず、結局どういう終りを告げるのやら、想像することもできないほどであった。彼女はついにこらえかねて、罰を受けた子供のように、ひた泣きに泣いた。
 近づいてくる下男の足音が、彼女をわれに返らせた。顔を見せないようにして、手紙を書いているようなふりをした。
「小使がご返事をと申しておりますが」と下男はいった。
「返事? そうね」とアンナはいった。「まあ待たしておいてちょうだい。わたしベルを鳴らすから」
『わたしに何を書くことができるだろう?』と彼女は考えた。『わたし一人で何が決められるだろう? わたしに何がわかってるというの? わたしが何を望んでるというの? わたしが何を愛しているというの?』ふたたび彼女は、自分の心が二つに割れていくのを感じた。彼女はまたもやこの気持にぎょっとして、自分にばかりかまけたがる物思いをそらしてくれるような、申し訳ばかりの行動計画が頭に浮ぶと、いきなりそれにしがみついた。『わたしはアレクセイに会わなくちゃならない(彼女は心の中でヴロンスキイをそう呼んだ)、わたしが何をしなくちゃならないか、それがいえるのはあの人だけだわ。ベッチイのとこへ行ってみよう、ひょっとしたら、あそこで会えるかもしれない』とひとりごちた。彼女はすっかり忘れてしまっていた。つい昨日、彼女がトヴェルスカヤ公爵夫人のとこへは行かないといったら、彼はそれなら自分も行かない、といったのであった。彼女はテーブルのほうへいって、『お手紙落手いたしました。A』と良人あてに書いて、ベルを鳴らし、下男に手渡しした。
「わたしたち、発つのは見合わせたよ」と彼女は入ってきたアンヌシカにいった。
「すっかりおとりやめでございますか!」
「いいえ、明日まで荷物はとかないでおくれ。そして、馬車もそのままにしてね。わたしこれから公爵夫人のとこへいくから」
「お召し物はどれにいたしましょう?」

[#5字下げ]一七[#「一七」は中見出し]

 トヴェルスカヤ公爵夫人がアンナを招待したクロケットの仲間は、二人の貴婦人とその崇拝者のはずであった。この二人の貴婦人は、ペテルブルグで何かの模倣を模倣して、Les sept merveilles du monde(世界の七不思議)と呼ばれている、新しい選り抜きのサークルのおもな代表者であった。二人の属しているのは、正に最高のサークルではあったものの、それはアンナの出入りしているサークルとは、にらみあいの関係にあった。のみならず、リーザ・メルカーロヴァの崇拝者であり、ペテルブルグでも有力者の一人であるストレーモフ老人は、勤務上からいってカレーニンの敵なのであった。それやこれやを考えあわせて、アンナはここへきたくなかったので、トヴェルスカヤ公爵夫人の手紙にあったあてこすりも、この点に関係していたのである。ところが今アンナは、ヴロンスキイに会えるという希望のために、出かける気になったのである。
 アンナはほかの客人たちよりも先に、トヴェルスカヤ公爵夫人の別荘へ到着した。
 彼女が中へ入ろうとした時、頬ひげをきれいに撫でつけた、侍従武官然としたヴロンスキイの従僕が、同様に入りかけていた。彼は戸口に立ちどまって、帽子をぬぎ、アンナを先に通した。アンナはこの男を見分けたが、その時はじめて、昨日ヴロンスキイがこないといったことを思い出した。おそらくそのことで、手紙を持たしてよこしたのであろう。
 彼女が控室で上衣をぬいでいる時、従僕がRを侍従武官気どりで発音しながら、『伯爵から公爵夫人へ』といって、手紙を渡しているのが聞えた。
 彼女はこの男に、旦那さまはどこにいらっしゃるかとききたかった。彼女はひっ返して、この男に手紙を渡し、ヴロンスキイが自分のところへくるか、自分のほうから彼のところへ行くように、いってやりたかった。しかし、それもこれもできない相談であった。もうむこうのほうで、彼女の来訪を告げるベルの音が聞え、トヴェルスカヤ公爵夫人の従僕が、もう戸口のところで半ば横向きになって、彼女が部屋の中へ通るのを待っていた。
「奥さまはお庭にいらっしゃいますが、今すぐお取次ぎいたします。いかがでございます。お庭のほうへいらっしゃいましては?」と、別の部屋にいる別の従僕がこういった。
 思い切りの悪い気持、あいまいな状態は、家にいた時と変らなかった。というより、もっと悪かった。なぜなら、なに一つすることができず、ヴロンスキイに会うこともできず、ここで見も知らぬ連中にまじって、自分の気分と正反対な席に残っていなければならないからであった。けれど、自分でもよくうつることのわかっている身じまいをしているし、またここではひとりぼっちではなかった。しかも、彼女をとり巻いているのは、いつもなじみの、華麗な無為《むい》の環境であったから、家にいるよりは楽であった。もう何をしなければならぬか、などということを考え出す必要がなかった。なにもかも自然に進行していく。はっと目を見はらせるほど優美な白い衣装をつけたベッチイに出会った時、アンナはいつものようににっこり笑った。トヴェルスカヤ公爵夫人はトゥシュケーヴィッチと、それから一人の令嬢といっしょであった。これは、娘が有名な公爵夫人のもとで夏をすごしているというので、田舎の両親を有頂天にさしている親戚の娘であった。
 おそらく、アンナには何か特別なところがあったのであろう、ベッチイはすぐそれをいいだした。
「わたしよく寝《やす》まれなかったものですから」とアンナは答えながら、むこうからくる従僕にじっと目を据えていた。彼女の想像によると、ヴロンスキイの手紙を持ってきているらしい。「でも、あなたがきて下すって、わたし本当にうれしゅうございますの」とベッチイはいった。
「わたし少し疲れたものですから、みなさんがお見えになるまでに、お茶を一杯いただこうと思っておりましたの。ところで、あなたは」と彼女はトゥシュケーヴィッチにいった。「マーシャといっしょにクロケットのグラウンドへ行って、あの刈りこみをしたところを試してごらんになったら。ねえ、アンナ・アルカージエヴナ、お茶をいただきながら思う存分、we'll have a cosy chat.(おもしろいおしゃべりをしようじゃありませんか)いかがでございます?」パラソルを持ったアンナの手を握って、笑顔で話しかけた。
「そうね、まして今日は長くお邪魔できませんのですから、なおさらですわ。わたしどうしても、ヴレーデ老夫人のとこへまいらなければなりません。わたしもう百年も前から、行く行くって約束をしたものですからね」とアンナはいった。彼女は、嘘をつくことなどに縁のない生れつきであったにもかかわらず、今では嘘をつくことくらい朝飯前で、社交界では自然であるのみならず、かえってある満足をすら覚えるのであった。つい一分前まで考えていなかったことを、なんのためにいいだしたのやら、自分でもとうてい説明できなかったに相違ない。彼女がこんなことをいったのは、ヴロンスキイがこない以上、自分の自由を確保して、なんとか彼に会う試みをしなければならないと、そう考えたからにすぎない。しかし、ほかのすべての人と同様、なんの用もない老女官のヴレーデのことをもちだしたのが、彼女自身も説明できなかったけれども、それと同時に――これはあとでわかったことだが――ヴロンスキイと会うために、どんなに巧妙な手段を考え出そうとしても、これ以上の方法はなかったのである。
「いいえ、わたし金輪際《こんりんざい》あなたを放しゃしませんよ」じっと注意ぶかくアンナの顔に見入りながら、ベッチイは答えた。「本当に、もしあなたが好きでなかったら、わたし腹をたてるはずですよ。まるであなたは、わたしの家へ集まる人と一座したら、ご自分の沽券《こけん》にかかわる、とでもおっしゃるようですわ。どうかわたしたちのお茶を、小さいほうの客間に用意しといて」いつも召使にものをいうときの癖として、目を細めながら彼女はそういった。
 従僕から手紙をとって目を通した。
「アレクセイは嘘をつきましたわ」と彼女はフランス語でいった。「こられないって手紙をよこしたんですの」まるでヴロンスキイはアンナにとって、クロケットをして遊ぶ以外なにかの関係がありえようとは、夢にも考えないような、自然で率直な調子で、彼女はつけたした。アンナは、ベッチイがなにもかも知っているのを承知していたが、ベッチイが自分の前でヴロンスキイのことをいいだすと、いつもちょっと一瞬、『このひとはなんにも知らないんだわ』といったような気がするのであった。
「ああ!」そんなことはたいして興味がないらしく、アンナは無関心な調子でいい、微笑を含みながら言葉をつづけた。「どうしてお宅のお客様と一座するのが、どなたの沽券《こけん》にかかわるのでしょう?」
 こうした言葉の戯《たわむ》れや、こうした秘密ごっこは、すべての女の例に洩れず、アンナにとっても大きな魅力であった。秘密にしなければならぬ必要でもなければ、その目的でもなく、秘密にする経過そのものが、アンナをひきつけるのであった。
「わたし、ローマ法王以上にはカトリック的になれませんわ」とベッチイはいった。「ストレーモフさんも、リーザ・メルカーロヴァも、社交界の花の花ですからね。それにあの人たちは、どこでも歓迎されていらっしゃるんですもの。それに、わたし[#「わたし」に傍点]だって」彼女はわたし[#「わたし」に傍点]という言葉に力を入れた。「時にはさほどやかましいことも申しませんし、短気でもなくなりますのでね。ただ暇がないだけですの。ああ、そうじゃない。あなたはもしかしたら、ストレーモフさんと顔をあわすのが、おいやなのかもしれませんね? なにね、あの人とアレクセイ・アレクサンドロヴィッチは、かってに委員会でしのぎをけずらせておいたらいいんですわ――それはわたしたちに関係したことじゃありませんもの。でもね、あの人は社交界でも、わたしの知っている限りでは、このうえもない愛想のいい人でしてね、クロケット気ちがいなんですの。今にごらんになったらわかりますわ。それに、年とってからリーザに恋しているあの人の立場は、そりゃこっけいなものに相違ありませんけれど、あの人がそのこっけいな立場をうまく切りぬけていらっしゃるところは、とにかく見ものですわ! とても気持のいいかたですのよ。あなたサフォ・シュトルツをごぞんじ? これは新しい――全く新しいタイプなんですの」
 ベッチイはこんなことをしゃべっていたけれども、その愉快らしい利口そうな目つきで、アンナは悟った、――このひとはある程度、自分の立場をのみこんで、何か企らんでいるらしい。二人は小さいほうの書斎にいたのである。
「それにしても、アレクセイに返事を書かなくちゃなりませんわ」そういって、ベッチイはテーブルに向い、二三行かいてから、封筒に入れた。「わたしね、あの人に食事にいらっしゃいと書きましたの。うちでは、女の人がひとり食事に残ることになってるんですけど、相手になる男のかたがないんでしてね。ちょっと読んでみて下さいな。これであの人を説き伏せられますかしら? 失礼、わたしちょっとあちらへまいります。お願いですから、封をして、使の者に渡して下さいません?」と彼女は戸の外からいった。「わたしちょいと指図をしなければなりませんのでね」
 一分の躊躇もなく、アンナはベッチイの手紙を持ってテーブルにむかい、読みもせずにその下へ、『わたしぜひともあなたにお目にかかりたいことがあります。ヴレーデの庭までいらして下さいまし。わたしは六時にそちらへまいっております』と書き添えて、封をした。で、ひっ返してきたベッチイは、彼女の前で手紙を渡した。
 涼しい小さな客間へ、小さな台にのせて運ばれた茶に向ったとき、事実、二人の婦人のあいだには、ベッチイの約束したとおり、客の集まるまでの a cosy chat がはじまった。待ち受けている人たちの品定めをしているうちに、話はリーザ・メルカーロヴァのことにおちついた。
「あのかたは本当にいい人ですわね。わたしいつも好もしく思っていましたのよ」とアンナがいった。
「あなた、リーザを好いておやりにならなくちゃなりませんわ。あのひとはあなたを、夢にまで見てるんですもの。昨日、競馬のあとで、わたしのとこへきましてね、あなたに会えなかったって、涙をこぼさないばかりでしたの。まあ、こんなことをいうんですのよ――あのかたは本当に小説のヒロインで、もしわたしが男だったら、あのひとのために数え切れないほどばかけたことをしたに相違ない、って。すると、ストレーモフさんが、あなたはそれでなくっても、ばかげたことばかりしていらっしゃるって、そういったんですの」
「でも、一つおたずねしますが、わたしどうしても、わからないことがありますの」とアンナは、しばらく黙っていたあとにいいだしたが、その調子から推して、これは暇つぶしの問いではなく、彼女がたずねているのは、当人にとって当然以上の重要性をもっていることが、まざまざとわかった。「ねえ、後生ですから、教えて下さいましな、いったいあのひととカルージュスキイ公爵、通称ミーシュカとの関係はどういうのでしょう? わたしあのお二人には、あまりお目にかかりませんけど。いったいどういうんですの?」
 ベッチイはにっと笑って、注意ぶかくアンナを眺めた。
「新しいやり口なんですの」と彼女はいった。「あのひとたちは、そのやり口を選んだわけでしてね、見栄も外聞も蹴飛ばしてしまったんですわ。でも、その蹴飛ばし方だって、いろいろやり方がありますもの」
「そうですわね、でもあのひとと、カルージュスキイ公爵の関係は、どうなんですの?」
 ベッチイは突然さもおもしろそうに、おさえきれない笑い声を立てた。こんなことは彼女として珍しいことであった。
「それはあなた、ミャーフカヤ公爵夫人のお株をとるっていうものですよ。それは|怖るべき子供《アンファン・テリーブル》の質問ですわ」ベッチイはこらえようとしたらしいが、結局こらえきれなくて、めったに笑わない人によく見られる、他人に感染させなければやまぬ笑いを爆発させた。「そりゃあの二人にきかなくちゃわかりませんわ」笑いに誘われた涙のひまから、彼女はこういった。
「だめですよ、あなたはお笑いになるけれど」とアンナは思わず笑いを感染《うつ》されながらいった。「わたしどうしてもわかりませんの。その場合、ご主人の役割はどんなふうなのか、それがわかりませんの」
「主人ですって? リーザの主人はあとから膝掛を持って歩いて、いつでもご用を勤めるしたくをしていますわ。でも、本当のところ、それから先はどうなのか、そんなことはだれも知りたがるものはありませんわ、ねえ、たしなみのいい社会では、お化粧の詳しい秘密は口にも出さないし、考えもしないじゃありませんか。これもそれと同じですわ」
「あなたロランダキ夫人のお祝にいらっしゃいます?」とアンナは話題を変えるために、こうたずねた。
「そのつもりはありませんねえ」とベッチイは答え、自分の親友を眺めながら、小さな透き通った茶碗に用心深く、香りの高い茶を注ぎにかかった。茶碗をアンナのほうへ進めて、巻タバコをとりだし、銀のパイプへさして、吸いはじめた。「ね、ごらんのとおり、わたしはつごうのいい立場にいますから」と彼女はもう笑わずに、茶碗を手にとっていいだした。「わたしにはあなたのことも、リーザのこともわかりますの。リーザはね、ナイーヴな性質でしてね、まるで子供みたいに、何がいいか何が悪いかがわからないんですの。少なくも、まだごく若い時分には、それがわからなかったことだけは本当ですわ。ところが今は、このわからないってことが、自分に似合うのを悟ったんですの。今ではひょっとしたら、わざとわからないふりをしてるのかもしれませんわ」とベッチイは微妙なほほえみを浮べていった。「だけど、なんといっても、それがあのひとには似合いますね。ところでねえ、同じ一つのことを、悲劇的に見て苦しむこともできれば、単純な見方、どころか、楽しい見方をすることもできますわね。ひょっとしたら、あなたは物事をあまり悲劇的に見る傾きが、おありになるかも知れませんね」
「わたしは自分に自分のことがわかるように、ほかの人のこともわかりたくってたまらないんですけどねえ」とアンナはまじめな、物思わしい調子でいった。「わたしはいったいほかの人より悪いかしら、いいのかしら? どうも悪いほうらしいわね」
「|怖るべき子供《アンファン・テリーブル》、|怖るべき子供《アンファン・テリーブル》!」とベッチイはくりかえした。「ときに、みなさんがみえました」

[#5字下げ]一八[#「一八」は中見出し]

 幾人かの足音と、男の声、それから女の声と笑い声が聞えたかと思うと、つづいて待たれていた客が入ってきた。サフォ・シュトルツと、健康の過剰《かじょう》に輝くような、ヴァシカと呼ばれている青年である。一目見たばかりで、この男は血のたれるようなビフテキや、松露や、ブルゴン洒や、そういうものの栄養が役に立っていることが明瞭であった。ヴァシカは二人の婦人に会釈して、その顔をちらと見たが、それもほんの一瞬であった。彼はサフォのあとから客間へ入り、まるで縛りつけられてでもいるかのように、彼女のあとに従いながら、客間の中を歩きまわった。そして、食べてしまいたいとでも思うように、ぎらぎら光る目を彼女から放さなかった。サフォ・シュトルツは、黒い目をしたブロンドであった。踵《かかと》の高い靴をはいた足を、小刻みに元気よく運びながら入ってきて、男のするように強く二人の婦人に握手した。
 アンナはまだ一度も、この有名な新人に会ったことがなかったので、その美貌と、極端な化粧ぶりと、大胆なものごしに一驚を喫《きっ》した。自毛と入れ毛のまじった柔らかい金髪は、砲台ほどもある大きな髷《まげ》に束ねられて、そのために頭が、形のよいふっくらした胸と同じくらいの大きさになっていた。背は思い切り大きくえぐってあった。体の動かし方の激しさも驚くべきもので、歩くたびに、膝から股の形が着物を透して、はっきり描き出されるので、上のほうは存分むき出しにされ、下のほうやうしろは厳重に隠されている彼女の小さなすらりとした体は、この美しく揺れ動く山のような衣装のそもそもどこで終っているのか、思わず疑問をいだかずにはいられないのであった。
 ベッチイは急いで彼女をアンナに紹介した。
「まあ、どうでしょう、わたしたちあぶなく二人の兵隊さんを、轢《ひ》き殺すところだったんですのよ」と彼女は目配せしてほほえみながら、物語をはじめた。そして、あまり横のほうへ捌《さば》き過ぎた尾《トレーン》を、さっとひき戻すのであった。「わたしヴァシカといっしょに乗ってまいりますと……あら、あなたがたはまだごぞんじなかったんですわね」彼女は苗字《みょうじ》をいって青年を紹介し、顔を赤らめて、朗らかに自分の謬《あやま》りを笑い飛ばした。つまり、未知の人にヴァシカなどといったことなのである。ヴァシカはもう一度アンナに会釈したが、なんにもいわなかった。彼はサフォに話しかけた。
「賭《かけ》はあなたの負けですよ。僕たちのほうが先に着いたんですから。さあ、金を払って下さい」と彼はにやにや笑いながらいった。
 サフォはまた一段とおもしろそうに笑った。
「今はだめですよ」と彼女はいった。
「どうせ同じことですよ、あとでもらいますから」
「いいわ、いいわ。ああ、そうだ!」と彼女はふいに女主人の方へふりむいた。「わたしったらまあ……すっかり忘れてしまって……お客さまをお連れしてきたんですのよ。ほら、あのかた」
 サフォがひっぱってきて忘れていたふいの客は、まだ年こそ若かったけれど、なかなか身分の高い人だったので、二人の婦人はそれを迎えるために、席を立ったほどである。
 それはサフォの新しい崇拝者であった。彼も今はヴァシカと同様に、彼女のあとをつけまわしているのだった。
 まもなくカルージュスキイ公爵と、リーザ・メルカーロヴァが、ストレーモフと同道でやってきた。リーザ・メルカーロヴァは、東洋風のものうげな顔だちをしたブリネットで、すべての人の言葉によると、得もいわれぬ美しい眼をしていた。そのじみな着付けの性格は(アンナはすぐにそれを認めて、高く評価した)、彼女の美と完全に調和していた。サフォが思い切りよく、てきぱきしているのと同じ程度に、リーザはぐにゃぐにゃして、だらしがなかった。
 けれども、アンナの好みからいうと、リーザのほうにずっと魅力があった。ベッチイはアンナに向ってこの女のことを、無知な幼な子の役割を演じているのだといった。が、アンナは彼女を見ると同時に、それはまちがっていると感じた。彼女はなるほど無知な、頽廃した女ではあったけれども、愛すべき無邪気な性質であった。もっとも、彼女の調子もサフォの調子と同じで、やはりサフォの場合と同様、彼女のあとにも二人の崇拝者が、縛りつけられたようにつきまとって、貪るような目つきで見つめていた。一人は若くて、一人は老人なのである。しかし彼女には、自分をとり囲んだものを超越したようなところがあった。ガラスにまじる本物のダイヤモンドのような光輝があった。この光輝は、全く得もいわれぬ美しい眼から流れ出すのであった。暗い輪《わ》でくまどられたその疲れたような、同時に情熱的なまなざしは、まぎれもない真実みで人を打った。その眼をひと目みたものは、だれでも彼女の全部を知り尽したように思い、知った以上は愛さずにいられない。アンナを見るやいなや、彼女の顔は突如、喜ばしげなほほえみに輝きわたった。
「まあ、あなたにお目にかかれて、本当にうれしゅうございますわ!」と彼女は近よりながらいった。「きのう競馬場で、やっとお席までたどりついたと思うと、もうお帰りになったあとなんですものねえ。わたしね、ぜひ昨日お目にかかりとうございましたのよ。ねえ、恐ろしいことじゃございませんか?」心の底まで開いて見せるかと思われるような目つきで、じっとアンナを見つめながら、彼女はそういった。
「ええ、わたしもあんなに興奮させられようとは、われながら存じませんでしたの」とアンナは顔を赤らめていった。
 そのとき一座は、庭へ出ていこうとして、席を立ったところであった。
「わたしまいりませんわ」とリーザは微笑を浮べ、アンナのそばへ腰をおろしながらいった。「あなたもいらっしゃらないでしょう? クロケットなんかして、何がおもしろいのでしょう!」
「いいえ、わたしは好きなんですの」
「あら、そんなふうにして、あなたは退屈でないようになさるんですのね? あなたをお見受けしていますと、気が浮きうきしてまいりますのよ。あなたは生活していらっしゃる、ところがわたしは退屈なんですものね」
「どうしてお退屈なんでしょう? それどころか、あなたがたはペテルブルグでも、いちばん華やかなお仲間じゃございませんか」とアンナはいった。
「もしかしたら、わたしどものお仲間以外の人は、もっと退屈してらっしゃるかもしれませんわね。でも、わたしたちは、もっと確かに申しますとわたしは、おもしろくないどころか、とても、とても退屈なんですの」
 サフォはタバコをくゆらせながら、二人の青年といっしょに庭へ出た。べッチイとストレーモフはお茶に残った。
「どうしてお退屈なんですの?」とベッチイはいった。「サフォの話では、昨日お宅でたいへんにぎやかにお遊びになったそうじゃございませんか」
「ああ、わたしやりきれないほどくさくさしましたわ!」とリーザ・メルカーロヴァはいった。「あの競馬のあと、みんなで、宅へ集ったんですけど、いつもいつも、同じ顔ぶればかりでねえ! いつもいつも同じことばかりなんですもの。一晩じゅう長椅子の上でごろごろしていましたわ。それで、いったいなにがおもしろいのでしょう? ねえ」と彼女はまたアンナに問いかけた。「あなたは退屈しないために、どうなすっていらっしゃいますの? あなたを拝見していますと、ああこれこそ幸福であろうと、不幸であろうと、とにかく退屈しない女のかただ、という気がいたしますものね。いったいどういうふうにしていらっしゃるか、教えて下さいましな」
「どんなふうにもいたしませんわ」このしつこい問いに顔を赤らめながら、アンナは答えた。
「それがいちばんいい方法なんですよ」とストレーモフが話に口を入れた。
 ストレーモフは年のころ五十前後、頭こそ半白になっているが、まだみずみずしい男で、ひどく男前は悪いけれども、特色のある聡明そうな顔をしていた。リーザ・メルカーロヴァは、その妻の姪《めい》であるが、彼は暇さえあれば、いつも彼女とともに時をすごしているのであった。アンナ・カレーニナに出会うと――彼は勤務上カレーニンにとっては敵方であった――聡明な社交人の常として、政敵の妻である彼女に、かくべつ愛想よくしようと努めた。
「どうもしない」と彼は微妙なほほえみを浮べながら、ひき取った。「これが最上の方法なんです。あなたにも前からそういっておったでしょう」と彼はリーザ・メルカーロヴァの方へ向いて、「退屈しないためには、退屈だろうなどと考えないようになさいって。それは不眠症を恐れる人が、寝られないのじゃないかと心配してはならない、それと同じことですよ。アンナ・アルカージエヴナは、それをおっしゃったんですよ」
「もしわたしがそれを申したのでしたら、どんなにかうれしいでしょう。だって、それは気がきいているというだけでなく、真理でございますもの」とアンナは微笑を含んでいった。
「いいえ、わたしぜひ伺いとうございますわ、なぜ寝つくことができないか、なぜ退屈しないでいられないか」
「寝つくためには、働かなくちゃなりません。楽しい気持になるためにも、やっぱり働かなきゃなりませんな」
「わたしの働きなんかだれにも必要がないのに、いったいなんのために働くんでしょう? それかといって、わざと働くふりをするなんて、わたしにはできもしませんし、そんなこといやですわ」
「あなたはどうも手がつけられないな」ストレーモフは相手を見ないでそういうと、またアンナに話しかけた。
 あまりアンナに出会うことがないので、彼は月並なことより何も話すことがなかった。で、いつペテルブルグへ引き移るかだの、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナがひどく彼女を好いているだの、そんな月並をならべはじめた。しかもその表情は、心から彼女に好感を与え、自分の尊敬、いや、それどころか、さらにより以上のものを示そうとしている、といったようなふうであった。
 トゥシュケーヴィッチが入ってきて、一同がクロケットの勝負をお待ちかねですといった。
「いけません、お帰りにならないで」アンナが帰ると聞いて、リーザ・メルカーロヴァは哀願した。ストレーモフもそれに声をあわせた。
「あんまりコントラストがひど過ぎますよ」と彼はいった。「この一座から、ヴレーデのお婆さんとのころへいらっしゃるなんて。それに、あなたはあのお婆さんにとって、ただ人の悪口をいう機会を与えておやりになるだけのものですが、ここにいらっしゃれば全然べつな、悪口などとは正反対の、このうえもなく美しい感情を、呼び起しなさるばかりですからね」と彼はいった。
 アンナはちょっといっとき、決しかねるように考えこんだ。この聡明な人物の賛辞、リーザ・メルカーロヴァの示してくれた無邪気な好意、そしてこのなじみのふかい社交界の雰囲気――これらはすべてきわめて気やすい感じであるのに反して、彼女を待ち受けているのは、あまりにも苦しいことだったので、このままここに居残って、苦しい相談の時をもう少し延ばすことにしようかと、彼女はいっとき心を決しかねたのである。
 けれど、もしなんの決断もつけなかったら、わが家で一人きりになった時、どんな苦しみが待ち受けるかわからない、とそう思い起した時――あの思い出してさえ恐ろしい、われとわが髪を両手でひっつかんだありさまを思い起した時、彼女は暇《いとま》を告げて立ち去った。

[#5字下げ]一九[#「一九」は中見出し]

 ヴロンスキイは一見して、軽はずみな社交生活を送っているにもかかわらず、ほんとうはだらしのないことの大嫌いな男であった。まだ若い幼年校時代に、金につまって借金を申しこんだところ、まんまと断られて恥をかいたため、それ以来、一度も自分をそういう立場においたことがなかった。
 いつも自分の財政をきちんとしておくために、彼はその時の状況に応じて加減はするが、年に五度ばかり一室に閉じこもって、自分の財政状態をはっきりさせることにしていた。彼はそれを「勘定する」もしくは faire la lessive と称していた。
 競馬の翌日、おそく目をさましたヴロンスキイは、顔も剃《そ》らず湯浴みもしないで、白い夏の軍服を着て、テーブルの上に金や算盤《そろばん》や手紙をひろげ、仕事にかかった。ペトリーツキイは、こういう場合のヴロンスキイが、怒りっぽいのを承知しているので、朝、目をさまして、友だちが仕事机に向っているのを見ると、邪魔をしないように、そっと着替えをして、部屋を出た。
 どんな人でも、自分をとり巻いているやっかいな条件を、残りなく知りつくしながら、この条件の複雑さや、それを説明することのむずかしさは、単に自分だけの偶然な特性にすぎないと、なんとなしに漠然と想像するものである。が、ほかのものも自分と同じように、複雑な条件にとり囲まれていることは、夢にも考えないのである。ヴロンスキイもやはりそんな気がしていた。で、彼はいくらか内心の誇りを感じながら、もしほかのものがこんなやっかいな条件におかれたら、とっくに手も足も出ないようになり、よくない行動をとるに相違ないと考えていたが、あながち根拠のないことではなかった。しかし、ヴロンスキイは後日、窮地に落ちないために、今こそ財政を整理して、自分の状態を明瞭にしなければならぬと感じた。
 ヴロンスキイが一番らくな仕事として、まず最初に手をつけたのは金のほうであった。自分の借金を書翰箋《しょかんせん》に、こまかい筆で残らず書き抜いたのち、合計を出して、一万七千ルーブリ借りのあることを発見した。はしたの何百ルーブリかは、勘定をはっきりさせるために、切り棄ててしまった。現金と銀行の通帳を計算した時、自分の手に残っているのは、千八百ルーブリしかないことを発見した。ところが、新しい入金は新年までなんの見こみもなかった。借金の書抜きを読みなおして、ヴロンスキイはそれを三種類に分けて清書した。第一類は、今すぐ払わなければならないか、少なくとも、請求された場合、一刻の猶予もないように、現金を用意していなければならない負債であった。こういう負債が、約四千ルーブリあった。千五百ルーブリは馬の代、二千五百ルーブリは、若い同僚のヴェネーフスキイが、ヴロンスキイの見ている前で、いかさま師にかかってカルタに負けたとき、保証に立った金である。彼はその時、すぐ金を払おうとしたのだが(その時は金があったので)、ヴェネーフスキイとヤーシュヴィンは、それは自分たちが払う、勝負に加わらなかったヴロンスキイに出させはしない、と主張したわけである。それはよかったが、このけがらわしい事件について(もっとも、彼は言葉の上でヴェネーフスキイの保証をした、というだけの関係しかなかったけれど)、是が非でも、二千五百ルーブリの金を握っていなければならない、とヴロンスキイは覚悟していた。それは詐欺師《さぎし》野郎にこの金を叩きつけて、それ以上こんなやつと、口もきかないためなのである。そういう次第で、この最も重要な第一類のほうで、四千ルーブリを用意しておかなければならなかった。
 第二類の八千ルーブリは、それほど重大でない借金であった。それは主として、競馬場の厩《うまや》とか、秣《まぐさ》商人とか、英国人の調馬師とか、馬具商などに借りた金である。この部門でも、すっかり面倒をなくするためには、やはり二千ルーブリくらいは播かなければならない。最後の部門は、ほうぼうの店やホテル、仕立屋などの借りで、それは考える必要もないていのものであった。こういうわけで、当面の支出として、少なくとも、六千ルーブリの金が要るのであったが、手もとに千八百ルーブリしかない。
 みんなが推定するところによると、ヴロンスキイは十万ルーブリの年収をもっているのであるから、それほどの資産家にとっては、これしきの借金など何も困ることはないはずであった。ところが問題は、彼の年収がこの十万ルーブリに遠く及ばないことなのである。父の遺した莫大な領地だけでも、二十万からの年収があったが、これは二人の兄弟で分割せずに、共有ということになっていた。ところで、兄のほうが山のような借財を背負っているくせに、一文の持参金もないヴァーリャ・チルコヴァ公爵令嬢という、十二月党員の娘と結婚した時、ヴロンスキイは父の領地からあがる全収入を兄に譲って、自分はその中から、ただ二万五千ルーブリだけもらうことにしたのである。ヴロンスキイはそのとき兄に向って、自分が結婚するまでは、これだけの金で十分だろうし、だいいち、決して結婚などはしやしない、といった。兄は最も費用のかかる連隊の長をしていたし、また結婚したばかりでもあったので、この贈り物を受けないわけにいかなかった。しかしヴロンスキイは、兄から保留しておいた二万五千のほか、さらに二万ルーブリずつ母からもらっていた。それを彼はみんな費いはたしていたのである。しかし、近ごろになって、母はわが子がああいう色恋沙汰をはじめ、かってにモスクワから帰ってきたことで腹をたて、その金を送らなくなったのである。その結果、もう四万五千ルーブリの生活に慣れてしまったヴロンスキイは、今年たった二万五千ルーブリしかもらわなかったために、いま動きのとれぬ状態になった次第である。このやっかいな状態を切りぬける手段として、母に金をねだるわけにはいかない。前日、母から受け取った最後の手紙は、ことに彼をいらいらさした。ほかでもない、その中には、わたしは社交界や勤務上の成功のためなら、どこまでもおまえの力になってやろうと思っているけれど、りっぱな社会に醜聞を流すためならお断りだと、思わせぶりが書いてあったからである。自分を買収しようという母親の腹は、彼に真底から侮辱を感じさせ、いよいよ母に対する気持を冷淡にしてしまった。今や彼は、カレーニナとの関係に、何か偶発事件が生ずるのを予想して、兄に向って発した寛大な言葉は軽率であり、独身の自分でも、収入の十万ルーブリがぜんぶ必要になる場合もありうる、とこう感じていたにもかかわらず、いったん口から出した寛大な言葉を、取り消すわけにいかなかった。そんなことはどうしてもできない。ただ嫂《あによめ》を思い出しただけで――あの愛すべき善良なヴァーリャがおりあるごとに、わたしはあなたの寛大な処置をいつも覚えていて、ありがたく思っているというのを思い起しただけで、いったんやるといったものをとり返すわけにいかないことが、身にしみて感じられるのであった。それは女をなぐったり、盗みをしたり、嘘をついたりするのと、同じくらい不可能なことだった。ただ一つ可能であり、当然である手段があった。で、ヴロンスキイは一刻の猶予もなく、そうと肚《はら》を決めた。それは高利貸から一万ルーブリの金を借りること(それはなんの面倒もないはずである)、ぜんたいに経費を削減《さくげん》すること、競馬用の馬を売ることであった。そう肚を決めると、彼はさっそくロランダキに手紙を書いた。これは彼に馬を売ってくれと、一再ならず使をよこした男なのである。それから、イギリス人と高利貸のところへ使を出し、手もとにある金を計画どおりに分けた。この仕事を片づけると、彼は母親にあてて冷やかな、とげとげしい返事をしたためた。それから、紙入れの中からアンナの手紙を三通とりだし、いちど読み返したのち、焼き棄てた。と、きのう彼女とかわした会話を思い出して、考えこんでしまった

[#5字下げ]二〇[#「二〇」は中見出し]

 ヴロンスキイの生活は特に幸福なものであった。というのは、しなければならぬことと、してはならぬことを、一つ残らず明瞭に決定する規則が、ちゃんとできあがっているからである。この規則は、生活条件のきわめて狭い範囲を包容するものであったが、そのかわり規則そのものは、一点の疑いを容れないのであった。で、ヴロンスキイは決してその範囲を出ることなく、しなければならぬことを実行するのに、かつて一度も躊躇することがなかった。この規則ははっきりと、次のことを規定していた。いかさま師に負けた金は払わなければならないが、仕立屋には払わなくてもよい。男に嘘をつくことはできないが、相手が女ならばかまわない。何人《なんぴと》をも欺くことは許されないが、良人だけはこの限りでない。侮辱を赦すことはできないが、他人を侮辱するのはさしつかえない、等々である。こういった規則は、不合理でよくないかもしれないが、しかし疑うべからざるものであった。で、ヴロンスキイはそれを履行しながら、心の安らかなるを感じ、昂然《こうぜん》と頭を反らすことができた。ただ最近アンナとの関係について、ヴロンスキイは、自分の規則が必ずしもいっさいの生活条件を規定するものでない、と感じはじめた。そして、前途に困難と疑惑が予想されてきたけれども、ヴロンスキイはもはやそれに対して、手引きの糸を見いだすことができなかった。
 アンナとその良人にたいする現在の関係は、彼にとって単純明瞭だった。それは彼の頼りにしている規則で、明瞭正確に規定されている。
 彼女は、彼に愛を捧げたれっきとした婦人であり、彼もまた彼女を愛している。したがって、彼女は法律上の妻と同様の、いな、それ以上の尊敬に値する婦人であった。彼女を侮辱することはおろか、単に婦人として要求しうる尊敬を示さないような言葉を口にしたり、あるいはほのめかしなどするくらいなら、むしろその前に、自分の手を切り落してもらったに相違ない。
 社会に対する関係も明瞭であった。だれでも二人の関係を知ることも、想像することもかってであるが、だれにもせよ、それを口に出すなどということは許されぬ。さもなければ、彼はそういう人間を沈黙させ、自分の愛している婦人の仮想の名誉を重んじることを、教えてやる覚悟であった。
 良人に対する関係は最も明瞭である。アンナがヴロンスキイを愛するようになって以来、彼はアンナに対する自分の権利を、とうてい奪うべからざるものと見なしていた。良人はただよけいな邪魔者にすぎなかった。良人の立場がみじめなのは疑いもないけれど、しかしなんともしかたがない。良人の有している唯一の権利は、武器を手にして満足を要求することであって、それならヴロンスキイは最初の瞬間から、心構えができていた。
 ところが最近、ヴロンスキイと彼女の間には、新しい内面的な関係が現われて、何かはっきりしないところがあるために、ヴロンスキイに無気味な感じをいだかせるようになった。つい昨日、彼女は妊娠していると打ち明けた。この知らせと、彼女が自分から期待しているものとは、何かあるものを要求している、そうヴロンスキイは感じたが、それは今まで生活の指針としてきた例の法典では、はっきりと規定されないのであった。全くのところ、彼はふいを打たれたので、最初、彼女が自分の状態を打ち明けた瞬間、彼の心は良人を棄てるようにという要求を彼にささやいた。彼はそれを口にしたが、今よく考えてみると、そんなことをせずにすましたほうがよいということが、はっきりわかった。と同時に、そう自分で自分にいいながらも、これは悪いことじゃないかと、心配になるのであった。
『[#「『」はママ]おれが良人を棄てろといったら、それはおれといっしょになれということになる。が、おれはそれに対する用意ができているだろうか? いま金もないのに、どこへあの女を連れて逃げるのだ? よしんば、かりになんとか方法がつくにしても……勤務のあるおれが、どうしてあの女を連れて逃げようというのだ? おれもああいったからには、その用意だけはしておかなくちゃならない。つまり、金をこしらえて、退職しなくちゃ」[#「」」はママ]
 そこで彼は考えこんだ。退職したものかどうかという問題は、もう一つの秘密な、彼一人だけしか知らぬ利害関係につながりをもっていた。それは深く秘められてはいるけれど、彼の全生活ちゅうほとんど最も重大なものといってよいほどであった。
 名誉心は彼の少年時代、青年時代を通じて、長い間の空想であった。彼はこの空想を、自分でも認めようとしなかったが、しかしきわめて強烈なものであって、今でもこの情熱が恋愛と闘っているほどであった。社交界と勤務の方面における第一歩はうまくいったが、二年前に、彼はとほうもないまちがいをしでかした。自分の独立|不羈《ふき》なところを見せて、それによって昇進を早めようという下心で、自分に勧められたある地位を断った。この拒絶でいっそう自分に箔《はく》がつくとあてにしたのである。ところがそのじつ、彼はあまり大胆すぎて、うっちゃらかしにされてしまった。いやおうなしに、独立|不羈《ふき》の人間という立場をつくってしまった彼は、自分はだれにも腹をたてていはしない、だれにも侮辱されたとは考えていない、ただかまわずにうっちゃっておいてもらいたい、自分は愉快なのだから、とでもいったようなぐあいに、きわめて細心かつ聡明な態度をとりながら、その立場を誇示するようにした。が、正直なところ、もう去年モスクワへ去ったころから、彼は愉快でもなんでもなくなったのである。なんでもしようと思えばできるのだが、ただ何もしたくないのだというような、この独立不羈な人間の立場も、そのうちにだんだん手ずれがしてきて、多くの人は彼のことを、正直で善良な青年というよりほか、なんの能もない人間だと考えるようになった、それを彼は感じたのである。あれほど世を騒がして、人々の注意をひいたカレーニナとの関係は、彼に新しい光彩を与えて、彼の心を蝕《は》む名誉心の虫を一時おさえつけたが、一週間ばかり前に、この虫がまた新たな力をもって目をさましたのである。彼の竹馬の友であり、同じ環境、同じ社会に属し、幼年学校の同窓で、学課でも、体操でも、いたずらでも、名誉心の空想でも、すべて彼の競争相手であったセルプホフスコイという男が、最近、中央アジアから帰って来たのである。彼はそこで二級昇進し、こんな年若な将官としては、珍しい勲章を授けられたのであった。
 彼が、ペテルブルグへ到着するやいなや、新しく穹窿《きゅうりゅう》にさし昇った一等星か何かのように、その噂でもちきりであった。ヴロンスキイと同年の同級であったこの男が、今はすでに将官であり、国家の政治をも左右すべき位置に任命されるのを待っている。しかるに、ヴロンスキイは独立不羈の人間で、美しい女性に愛されているはなやかな存在ではあるものの、しかし一介の騎兵大尉であって、いくらでも好きなだけ独立不羈でいるがよいと、つっぱなされた形である。
『もちろん、おれはセルプホフスコイをうらやみもしないし、またうらやむこともできないが、あの男の栄達は、時期さえ待っていれば、おれのような人間の出世は非常に早いものだ、ということを説明している。つい三年前には、あの男はおれとおなじ地位にいたのだ。退職するのは、自分の船を焼き払うのと同じことになる。ところが、軍職にとどまっていれば、何一つ失うことがないわけだ。それに、彼女自身も自分の境遇を変えたくないといったじゃないか。おれはあの女に愛されているのだから、セルプホフスコイをうらやむにはあたらない』
 そう考えて、ゆっくり口|髭《ひげ》をひねりながら、彼はテーブルから立ちあがって、部屋をひとまわりした。彼の目はことさらきらきらと輝いていた。彼はいつも自分の状態をはっきりさせたあとに経験するしっかりと、おちついた、喜ばしい気持を覚えた。先ほどの計算のあととおなじように、なにもかもがさばさばして明瞭であった。彼は顔を剃《あた》り、冷水浴をし、服を着替えて、外へ出た。