『アンナ・カレーニナ』2-01~2-10(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#2字下げ]第二編[#「第二編」は大見出し]


[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]

 冬の終りのころ、シチェルバーツキイ家では医師の立会診察が行われた。それは、キチイの健康がどういう状態にあるか、また彼女の衰えいく体力を回復するにはどうしたらいいか、という問題を決定するためであった。彼女は病気であった。そして、春が近づくにつれて、その健康はしだいしだいに悪くなった。かかりつけの医者はまず肝油を飲ませ、次に鉄剤、それから硝酸銀塩を与えたが、どれも一つとしてききめがなかった。それに主治医は、春になったら外国へ出かけるように勧めていたので、有名な博士が招かれたわけである。この名医はまだたいして年をとってもいず、しかもなかなかの美男子であったが、一応病人を診察しなければといいだした。彼は見うけたところ、何かとくべつ満足そうな様子で、処女の羞恥心は野蛮時代の遺風にすぎない、まださして老年でない男が、若い女の裸体をいじくりまわすほど自然なことはない、などと主張するのであった。彼がそれを自然なことと信じたのは、現に毎日それをやっていて、しかもその際なんの感じもいだかず、べつに悪いことを考えない(と当人には思われた)からである。そういうわけで、処女の羞恥心は、単に野蛮時代の遺風であるのみならず、彼自身にたいする侮辱であるとさえ考えていた。
 どうも、折れて従うよりほかなかった。すべて医者というものは同じ学校で、同じ書物によって勉強するのであるから、彼らの知っている学問は、結局同じことであるし、それに一部の人は、この有名な博士をへぼ医者だといっているにもかかわらず、公爵夫人の家でも、一般にそのサークルでも、どういうわけか、この名医が一人だけなにか特別なことを知っていて、キチイを助けることができるのはこの人ばかりだと、頭から思いこんでいた。恥ずかしさのあまりとほうにくれて、茫然《ぼうぜん》としている病人を、念入りに聴診したり、打診したりした後、名医はくそ丁寧に両手を洗って、客間で公爵と立ち話をした。公爵は名医のいうことを聞きながら、咳《せき》ばらいをしいしい眉をひそめていた。彼は生活の経験のある人間で、しかも馬鹿でも病人でもなかったから、医術などというものを信用せず、心の中では『こんなお茶番が』とぷりぷりしていた。まして、キチイの病気の原因を十分に知りぬいているのは、ほとんど彼一人だけであってみれば、なおさらなのであった。
『ちょっ、こいつ、狸《たぬき》の八畳敷め』と彼は心の中で、猟師仲間のヴォキャブラリイからこの綽名《あだな》をぬき出して、有名な博士に擬《ぎ》しながら、娘の症状に関する相手の饒舌《じょうぜつ》を聞いていた。博士は博士で、この老貴族に対する軽蔑の表情を、やっとのことでおさえながら、その低級な理解力の程度まで、自分をひき下げるのに苦心していた。こんな老人と話したってしようがない、この家の主権は母親にあるのだ、ということをちゃんとのみこんでいたので、夫人の前で自分の雄弁を揮《ふる》おうと、手ぐすねひいて待っていた。そのとき公爵夫人が、かかりつけの医者をつれて客間へ入って来た。公爵は、このお茶番がこっけいでたまらない、という気持をみんなに悟られないようにしながら、むこうへ行ってしまった。公爵夫人はとほうにくれて、どうしたらいいかわからないでいた。キチイに対して、すまないような気がしていたのである。
「さあ、先生、わたくしどもの運命を決めて下さいまし」と公爵夫人はいった。「どうぞなにもかもおっしゃって下さいましな」彼女は『望みがございましょうかしら?』といいたかったのだが、唇がふるえたしたので、この問いが言葉にならなかったのである。「さあ、先生、いかがでございましょう?」
「奥さん、ただいま同僚と相談しますから、そのうえで、私の意見を申しあげることにいたしましょう」
「では、わたくしはご遠慮申しあげましょうか?」
「それはどうともご随意に」
 公爵夫人はほっとため息をついて、出て行った。
 医師が二人さしむかいになった時、かかりつけの医者は臆病そうに、自分の意見を述べはじめた。それは、結核の初期にあたっているが、しかし、云々《うんぬん》というのであった。有名な博士はそれをじっと聞いていたが、その話の途中で、大きな金時計を出して見た。
「さよう」と彼はいった。「しかし……」 
 かかりつけの医者は言葉なかばで、うやうやしげに口をつぐんだ。
結核の初期というやつは、ご承知のとおり、われわれには決定することができません。空洞が現われるまでは、なんら決定的な徴候がないわけですからな。しかし、推測することはできます。また多少の徴候がないでもありません、食欲不振とか、神経性の興奮とかいったようなものですな。そこで問題は、結核の疑いがあるものとして、栄養を維持[#「維持」は底本では「推持」]するにはどうしたらいいか、ということなんです」
「しかし、ご承知のとおり、こういう場合には いつも心理的、精神的原因がひそんでおるものでして」とかかりつけの医者は、微妙な薄笑いを浮べながら、思いきってこう口をはさんだ。
「さよう、それはあたりまえの話ですよ」また時計をちらと見て、名医は答えた。「失礼ですが、ヤウーズスキイ橋はもう竣工《しゅんこう》したでしょうか、それとも、まだ迂回《うかい》しなくちゃならんでしょうか?」と彼はきいた。「ああ! 竣工しましたか? ははあ。いや、それなら、私は二十分あれば行けるわけです。そこで、われわれが話していたのは、栄養を維持して神経を鎮静させる、そこが問題だというのでしたな。この二つは相互関係になっておるから、円の両側にむかって作用するようにしなけりゃなりませんな」
「ですが、外国へ旅行することは?」かかりつけの医者がたずねた。
「私は外国旅行の反対論者でしてな。まあ、考えてもごらんなさい、もし結核の初期だとしても、われわれはそれを現実に知るわけにいかないんですから、外国へいったって、なんの役にも立ちゃしません。ただ栄養を維持して、しかも、害にならないような方法をとることが必要なのですよ」
 で、有名な博士は、ソーデン水による治療の案を述べたが、この方法を指定したおもな目的は、ソーデン水なら決して害にならない、という一事に存しているらしかった。
 かかりつけの医者は注意ぶかく、うやうやしい態度で謹聴していた。
「しかし、外国行き賛成の論点として、私は習慣の変更、追憶を呼びさます生活条件の消滅、などをあげたいと思います。またそれに……母夫人も希望しておられますから」と彼はいった。
「ははあ! いや、そういうことなら、なに、行かれたらいいでしょう。しかし、ドイツの山師医者がつつきまわすことだろうなあ……ただ私のいうことを守っていただかなくちゃなりませんが……まあ、そういうことなら、外国行きとしましょう」
 彼はまたもや時計を見た。
「おや! もう時間だ」といって、戸口の方へ歩き出した。
 名医は公爵夫人にむかって(それは体裁を繕おうという気持から出たことだが)、もう一度ご病人を診察しなければなりません、といった。
「えっ! もう一度、診察ですって!」母親はぞっとしてこう叫んだ。
「ああ、いや、私はただ一、二の点について、細かいことを確かめるだけなんですよ、奥さん」
「ではどうぞ」
 で、母夫人は博士を伴なって、キチイのいる客間へ入った。やせ衰えたキチイは、先ほど恥ずかしい思いをさせられたために、頬をぽっと赤く染め、眼に特殊な光をたたえて、部屋のまんなかに立っていた。博士が入った時、彼女はさっと赤くなり、その眼は涙でいっぱいになった。彼女は、自分の病気騒ぎも、その治療も、なにもかもが実にばかげた、というよりも、むしろこっけいなことに思われた。自分を治療するのは、ちょうどこわれた花瓶のかけらをくっつけてみるのと同じように、こっけい千万なことに感じられた。自分の心は打ち砕かれているのだ。いったいあの人たちは、丸薬や粉薬で何を癒《なお》そうというのだろう? でも、母を侮辱するようなことはできない。それに、母は自分が悪かったと思っているのだから、なおさらそんなことはできない。
「恐れ入りますが、公爵令嬢、ちょっとお掛け下さいませんか」と名医はいった。
 彼は微笑を浮べながら、まむかいに腰をおろして、脈をとり、またもや退屈な質問をはじめた。彼女はそれに答えていたが、急にむかむかっとして立ちあがった。
「失礼でございますけれど、先生、こんなことは全くなんの役にも立ちはいたしませんわ。あなたは三度も同じことをおたずねになるんですもの」
 名医は別に腹を立てもしなかった。
「病的な興奮ですよ」キチイが出て行った時、彼は公爵夫人にそういった。「もっとも、私のほうはもうおしまいです……」
 それから博士は公爵夫人をつかまえて、まるで比類のない賢婦人でも相手にしているように、学問的な言葉で、公爵令嬢の容態を定義して聞かせ、結論として、必要もない例のソーデン水の飲み方について教訓を垂れた。外国へ行ったものかどうか? という問いに対して、博士はさも困難な問題を解決する人のように、深い瞑想に沈んだ。最後に、ようやく解決が発表された。つまり、出かけるがよろしい、しかし山師医者を信用しないで、万事自分に相談してもらいたい、というのであった。
 博士が帰ったあとは、まるで何か、楽しいことでも起ったかのようであった。母夫人は浮きうきして、娘のところへ戻ってくるし、キチイも心が浮き立ってきたようなふりをした。今では彼女は、しょっちゅうというより、ほとんどいつでも、心にもないぞぶりをして見せなければならぬのであった。
「本当よ、ママ、あたしなんでもないのよ。でも、ママが行きたいとお思いでしたら、ごいっしょにまいりましょう」と彼女はいった。そして、目の前に控えた旅行に興味のあるようなふりをしながら、出発準備の話をはじめた。

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

 博士の帰ったあとへ、ドリイがやって来た。彼女はきょう立会診察があることを知っていたので、このあいだやっと産褥《さんじょく》を離れたばかりなのに(彼女は冬の終りに女の子を生んだのである)、自分自身の悲しみや心配事がいろいろあるのを押して、今日決しられようとしているキチイの運命を知るために、乳呑児と病気の女の子を置いてきたのであった。
「まあ、どうしたの?」帽子もとらずに部屋の中へ入りながら、彼女はこういった。「あなたがた、なんだか浮かれてらっしゃるようね。きっとよかったんでしょう?」
 人々は博士のいったことを、彼女に話して聞かそうとしたが、博士はながながと辻褄《つじつま》のあった説明をしたにもかかわらず、今になってみると、彼の話を伝えることは、なんとしてもできないのであった。ただ外国行きの許可がおりたことだけが、興味の中心であった。
 ドリイはおもわずほっと吐息をついた。だれよりも親しい友である妹が行ってしまうのだ。しかも、彼女の生活は楽しいものではなかった。スチェパン・アルカージッチとの関係は、あの和解以来、彼女にとって屈辱になってきた。アンナの試みた焼きつぎも案外もろいもので、家庭の和解はやはり同じところでひびが入った。別に、はっきりとどうということはなかったけれども、オブロンスキイはほとんどいつも家にいたことがなく、金もおおかた年じゅう、たりぬがちであった。そのうえ、良人が自分を欺《あざむ》いているという疑いは、たえずドリイを苦しめた。彼女は、前に経験した嫉妬の苦痛を恐れて、今ではその疑念を追いのけるようにしていた。すでにいちど体験した嫉妬の最初の爆発は、もはや繰り返されようがなかったし、また良人の不行跡をつきとめたにもせよ、それさえもう初めの時ほどの衝動を与えることはできなかったであろう。そんなことをあばきたてるのは、ただ彼女から家庭的な習慣を奪うだけにすぎない。で、彼女は良人を軽蔑し、ことにそうした弱点をもつ自分自身を軽蔑しながら、甘んじてわれとわが身を欺いていた。のみならず、大家族にたいする気くばりは、たえず彼女を苦しめるのであった。乳呑児の育て方がうまくいかなかったり、乳母《うば》が暇をとったり、また今みたいに子供らのだれかが病気したり。
「どう、おまえの子供たちは?」と母はたずねた。
「ああ、ママ、うちはうちで困ることがいろいろありますのよ。今もリリイが病気なんですけど、わたし猩紅熱《しょうこうねつ》じゃないかと思って、心配してるんですの。わたし様子が知りたくなって、こうして抜けて来たんですけど、もし――そんなことがあったら大変ですけど――猩紅熱だったら、家にじっと閉じこもっていなければなりませんのよ」
 老公爵は、医者が帰った後、同様に書斎から出てきた。ドリイに頬をさしだして接吻させ、二こと三こと話をした後、妻に話しかけた。
「どうだね、行くことにきまったかね? ところで、わしはどうしようというんだね?」
「わたしの思うのには、あなたには残っていただくんですね、アレクサンドル」と妻は答えた。
「どうでも好きなように」
「ママ、どうして、パパはあたしたちといっしょにいらっしゃらないの?」キチイはいった。「そのほうがお互ににぎやかでいいじゃありませんか」
 老公爵は立ちあがって、キチイの頭を撫でた。彼女は頭を上げ、むりににっこり笑いながら、父を見あげた。彼女はいつもこんな気がしていた――父はあまり自分に口をきかないけれども、家じゅうのだれよりも一番よく、自分の気持をわかってくれているのだ。キチイは末娘として、父の秘蔵っ子であった。で、彼女から見ると、自分に対する愛情が、父に洞察力を与えているように思われた。今しも彼女の視線が、じっと自分を見つめている父の善良な空色の眼と出会った時、父は自分を腹の底まで見透して、自分の内部にうごめいている良からぬものを、ことごとく理解しているような気がした。彼女は顔を赤らめながらも、父の接吻を予期して、そのほうへ身をかがめたが、父はただ彼女の髪を軽く叩いただけで、こういった。
「このばかげた入れ毛はなんだ! これじゃ本当の娘にはさわらんで、死んだ女の髪を撫でるだけだ。ときに、ドーリンカ、どうだね」と彼は長女の方へふりむいた。「おまえのところの丈夫《ますらお》は、どうしておるな?」
「別にどうも、パパ」良人のことをいってるのだと悟って、ドリイはこう答えた。「しじゅう出てばかりいまして、ろくろく顔をあわすこともないくらいですわ」彼女は嘲《あざけ》るような薄笑いを浮べて、こうつけたさずにはいられなかった。
「どうだね、あの男はまだ森を売りに領地へ出かけないのかね」
「まだですの、しじゅう出かける、出かける、とはいってるんですけど」
「なあるほど!」と公爵はいった。「じゃ、わしも出かけることと決めるかな? かしこまりました」と彼は腰をおろしながら、妻にむかってそういった。「ところでな、カーチャ」と末娘の方へ向いて、いい添えた。「おまえ、いつかふいと目をさまして、自分で自分にそういって聞かすがいい、わたしはどこもかも丈夫で、気分も浮きうきしてるのだから、パパといっしょに凍《こお》った土を踏んで散歩にでも出かけましょうとな。どうだい?」
 父のいったことは、一見きわめて単純なものであったにもかかわらず、キチイはそれを聞くと同時に、尻尾をつかまれた犯人のようにどぎまぎして、とほうにくれてしまった。『ああ、パパはなにもかも承知していらっしゃるんだわ、なにもかもわかってらっしゃるんだわ。ああおっしゃったのは、つまるところ、恥ずかしいには相違ないけれども、その恥ずかしさをつきぬけなくちゃならないってことなんだわ』彼女は勇を鼓《こ》して、何か返事をすることができなかった。口をきろうとしたが、そのとたんにわっと泣きだして、部屋を走り出た。
「ほらごらんなさい。あなたの冗談といったら!」公爵夫人は良人に食ってかかった。「あなたったらいつでも……」と彼女は例の不足を並べはじめた。
 公爵は黙りこくったまま、かなり長い妻のお説教を聞いていたが、その顔はしだいに暗くなっていった。
「あの子はそれでなくっても、かわいそうに、あんなみじめなありさまでいるじゃありませんか。それだのに、あなたったら、その因《もと》になったことをちょっとでも匂わされるのが、あの子にとってどんなにつらいか、察してやろうともなさらないんですもの! ああまで人を見そこなうなんて!」と公爵夫人はいったが、その語調の変化から、ドリイも、公爵も、これはヴロンスキイのことをいっているのだな、と察した。「ぜんたい、あんなけがらわしい、不人情な人間を罰する法律がないということが、わたし合点がいきませんわ」
「ああ、聞きたくもない」と公爵はいいながら、肘椅子《ひじいす》から立って出て行きそうにしたが、戸口のところで立ちどまった。「法律はあるんだよ、お母さん。もうおまえがこの話をするようにしむけたんだから、いって聞かせるがな、なにもかも悪いのはおまえなんだ、おまえだとも、おまえだとも、おまえ一人なんだよ。ああいう青二才を罰する法律はいつでもあったし、今でもちゃんとある! そうとも、もしこっちがまちがったことをしなかったのなら、わしは老人でこそあれ、あのにやけ男を決闘に立たしてやるとこだったよ。そうとも、しかし今となったらしかたがない。ああいう山師医者を連れてきてせっせと治療するがいい」
 公爵はまだまだいくらでも言い分がありそうだった。けれど、夫人はその語調を聞くと、いつも重大な問題についてよくやるように、すぐさま後悔して折れて出た。
「アレクサンドル、アレクサンドル」と彼女は良人にすり寄ってささやくと、おっと泣きだした。
 妻が泣きだすやいなや、公爵も静かになった。彼は妻のそばへよった。
「さあ、もうたくさんだ、たくさんだ! おまえもさぞ苦しいだろう、わしは察しておる。が、どうもしかたがないよ! まあ、たいしたことはないさ! 神さまはお慈悲ぶかいからな……ありがたいことに……」自分でも何をいってるのかわからず、自分の手に感じた接吻、妻の涙に濡れた接吻に応《こた》えながら、彼はこういった。やがて公爵は部屋を出て行った。
 もうキチイが涙ながら部屋を出た時から、ドリイは家庭の主婦として母親としての習慣から、このさい、女の仕事が要請されていることを、すぐさま見てとった。で、それをしとげようという気になった。彼女は帽子をぬぎ、いわば両手をたくし上げんばかりの意気ごみで、行動の心がまえをした。母親が父に食ってかかっているあいだは、娘としての礼儀の許す範囲内で、母親をおさえようと試みたし、父が癇癪《かんしゃく》を破裂させた時は、母に対する羞恥の念を感じ、公爵がすぐ優しい気分に返った時は、父に対する愛情を覚えたのであるが、父が出て行ってしまうと、彼女はこのさい必要な大切なことをしよう、つまりキチイの部屋へ行って、その心をおちつかせようと決心した。
「ママ、わたし前からお話したいと思ってたんですけど。実はねえ、レーヴィンさんがキチイに申しこみをしようとしたんですのよ、あの人が最近モスクワヘいらしった時、あの人ご自分でスチーヴァにその話をなすったんですの」
「で、それがどうしたの? わたしはなんのことだかわからない……」
「でね、もしかしたら、キチイはそれを断ったんじゃないかしら? あの子、ママにその話をしませんでした?」
「いいえ、あれはあちらのことも、こちらのことも、いっこう言いませんでしたよ。あの子はあまり誇りが強すぎますからね。でも、わたしにはわかっています、なにもかも因《もと》はといえばあの……」
「ねえ、ひとつ考えてみて下さいな、もしあの子が、レーヴィンさんのほうをお断りしたとすれば……だってね、あの人さえなかったら、レーヴィンさんのほうをお断りしなかったでしょうよ、わたしちゃんとわかっていますもの……あの人ったら、あとであんな恐ろしいだましようをするんですもの」
 公爵夫人は、自分が娘に対してどれだけすまないことをしているか、考えるだけでも恐ろしくてたまらなかったので、腹をたててしまった。
「あっ、わたしはもう何一つわけがわからない! この節じゃだれもかれも、自分の考えだけでやっていこうとするものだから、母親には、なんにもいおうとしないんだからねえ。それで、あとになるとこのとおり……」
「ママ、わたしあの子のとこへ行ってみますわ」
「行ってごらん。わたし何もさし止めてやしないじゃないか」と母はいった。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

 キチイの居間は vieux saxe(古サクソニヤ焼)の陶器人形などを飾った、バラ色のかわいい部屋であった。ふた月まえの当のキチイと同じように、若々しい快活な感じのする、このバラ色の部屋へ入りながら、ドリイは去年この部屋を妹と二人で、いとも楽しく、深い愛情をこめて飾ったことを想い起した。ところが、ドアのすぐそばにある低い椅子に坐って、カーペットの一隅にじっと動かぬ眼をそそいでいるキチイを見た時、心臓の凍るような感じがした。キチイはちらと姉を見やったが、その冷たい、いくぶんきびしい顔の表情は変らなかった。
「わたしこれから帰って、しばらく外へ出られないし、あんたもくるわけにいかなくなるから」とドリイは妹のそばに腰をおろしながらいった。「ちょっとあんたに話したいことがあってね」
「なんのお話?」おびえたように顔を上げて、キチイは早口にこうきいた。
「なんの話って、あんたの苦しみのことでなくって、なんでしょう?」
「あたしには苦しみなんてありゃしないわ」
「よしてちょうだい、キチイ、わたしが知らずにいるなんて思ってるの。わたしはなにもかも知っていますよ。まあ、わたしのいうことを信じてちょうだい、そんなこと全くつまらないことなんだから……わたしたちはみんなその中を通ってきたんですもの」
 キチイは黙っていたが、その顔はきびしい表情をおびてきた。
「あの人は、あんたがそう苦しむほどの値うちはなくってよ」とドリイは単刀直入に要点にかかりながら、言葉をつづけた。
「ああ、あの人はあたしをないがしろにしたんですからね」とキチイはひびの入ったような声でいい放った。「もういわないでちょうだい!お願いだから、いわないで!」
「まあ、だれがいったいそんなことをいったの? だあれもそんなことをいったものはありゃしません。あの人はあんたを想っていたし、今でもやっぱり想っています。わたしそう確信しているわ。ただね……」
「ああ、あたしそういう同情の言葉が何よりも恐ろしいわ!」とキチイは、急にかっとなって叫んだ。彼女は椅子の上でぐるりと身を転じ、顔を真赤にして、せかせかと指を動かしながら、ちょうどもっていたバンドの尾錠《びじょう》を、左右の手でかわるがわる握りしめはじめた。妹がかっとなったとき、両手でかわるがわる物を握る癖があるのを、ドリイは知っていた。また彼女は、キチイが何かで逆上したとき、前後を忘れてむやみとよけいな不快なことを口走ることがあるのを知っていた。で、ドリイは妹をおちつかせようとした。けれど、もう手遅れであった。
「何を、何を姉さんはあたしに思い知らせようとなさるんですの?」とキチイは早口にいった。「あたしが唾もひっかけてくれない人を想って、それで、恋の病いに死にかかっているってことですの? それをいうのが現在の姉さんなんですからね。そのくせ……そのくせ……ご自分では、あたしに同情してらっしゃるおつもりなんですからね!………あたしそんな同情や、そらぞらしい見せかけは、まっぴらごめんですわ!」
「キチイ、あんたは思い違いしてるのよ」
「なんだって姉さんはあたしを苦しめなさるの?」
「まあ、とんでもない……わたしはあんたが苦しんでいるのを見かねて……」
 けれど、逆上してしまったキチイは、耳にも入れなかった。
「あたしは別に苦しんでもいないし、慰められることもありません。あたしはとても誇りが強いから、自分を愛してもいない人を恋すなんてことは、金輪際《こんりんざい》いたしません」
「だから、わたしもそんなことをいってやしませんよ……ただ一つね、わたしに本当のことをいってちょうだい」とドリイは妹の手をとってこういった。「ねえ、いってちょうだい、レーヴィンさんが、あんたに申しこみをしたでしょう?……」
 レーヴィンのことをもちだされたことは、キチイに最後の自制心を失わせたらしかった。彼女はいきなり椅子から立ちあがると、尾錠《びじょう》を床へ叩きつけ、両手で目まぐるしく何かの身ぶりをしながら、
「まだおまけにレーヴィンさんのことまで、なんのためにおっしゃるんですの?」といいだした。「なぜ姉さんにあたしを苦しめる必要があるのか、わけがわからないわ? あたしさっきもいったけれど、もういちどかさねていいますわ、あたしは誇りの強い女ですから、姉さんのなさるようなまねは決して、決してしませんからね。自分にそむいてほかの女を愛した男のふところに、もういちど帰っていくなんて! そんなことあたし理解ができないわ! 姉さんにはできても、あたしにはできない!」
 これだけのことをいって、彼女は姉の方を見やった。ドリイが悲しげに頭《こうべ》を垂れて、じっと黙っているのを見て、キチイは考えたとおりに部屋から出て行くのをやめ、ドアのそばに腰をおろし、ハンカチで顔を隠して、うなだれた。
 沈黙は二分ばかりつづいた。ドリイは自分のことを考えていた。彼女が常づね感じていた自分の卑下した態度は、妹にいいだされてみると、かくべつ痛く胸にひびいた。彼女は妹がこれほど残酷なことをしようとは思いももうけなかったので、むっとしてしまった。が、ふと衣ずれの音とともに、とつぜん堰《せき》を切って出たのを無理におし殺したような慟哭《どうこく》の声が耳に入った。と、だれかの手が下の方から彼女の頸にからみついた。キチイは姉の前にひざまずいていた。
「ドーリンカ、あたしとてもふしあわせなのよ!」と彼女はすまなそうにささやいた。
 涙に濡れたかれんな顔が、ドリイのスカートの中に埋もれた。
 涙はさながら、姉妹《きょうだい》の意志を疎通さす機械の運転に、なくてはならない油か何かのようであった。二人の姉妹は泣いたあとで、いいたいと思うのとは別のことを話し出した。しかし、よそごとを話しながらも、彼らはお互に理解しあった。キチイのほうでは、自分の腹たちまぎれにいった良人の不行跡《ふしだら》と妻の屈辱うんぬんのひと言が、あわれな姉の胸を底の底まで傷つけたけれど、姉はそれを赦してくれたということを悟った。ドリイはまたドリイで、自分の知りたいと思ったことを、残らず悟った。彼女は自分の推測がまちがわなかったことを確信した。キチイの悲しみ、癒《いや》すことのできない悲しみは、レーヴィンが求婚したのにそれを拒絶したこと、ヴロンスキイが彼女を欺いたこと、今では彼女もレーヴィンを愛して、ヴロンスキイを憎む気持になっているのだ。キチイはそのことについては、ひと言もいわなかった。彼女はただ自分の心の状態を話したばかりである。 
「あたし悲しいことなんか少しもないのよ」と彼女はすっかりおちついてから、こういった。「でも、姉さんにはとてもわかりっこはないでしょう。あたしなにもかもが、けがらわしく、いやらしく、下品に思われてきたわ、なによりも第一にあたし自身が。あたしが何事につけても、どんなにけがらわしいことを考えるか、姉さんにはとても想像がつかないでしょうよ」
「まあ、あんたがいったいどんなけがらわしいことを考えるのでしょう?」とドリイは、ほほえみながらきいた。
「とても、とてもけがらわしい、下品なことよ。あたし姉さんにいえないわ。それはふさぎの虫でもなければ、倦怠というのでもなくって、ずっといけないものなの。なんだか、あたしのもっていたものが、すっかりどこかへ隠れてしまって、一等いやらしいものばかりが残ってるみたい。さあ、なんていったらいいかしら?」姉の眼にけげんそうな表情を見て、彼女は言葉をつづけた。「現に今もパパがあたしに話をしかけなすったでしょう……するとあたしは、パパはただあたしが結婚しなくちゃならないと、ただそればかり考えてらっしゃるような気がするの。ママがあたしを舞踏会へつれてって下さると、あたしすぐそう思うの――ママがつれ出して下さるのは、ただ少しも早くあたしをお嫁にやって、やっかいばらいをするためなんだわ、ってね。そんなことまちがってるのは承知してるんだけど、あたしそうした考えを追いのけることができないんですの。いわゆる花婿の侯補者ってものは、あたし見ていられないわ。みんなあたしの寸法をとってるような気がするんですもの。前は、舞踏服を着てどこかへ出かけていくのが、ただもう単純な満足を与えてくれて、あたし自分で自分に見とれていたもんだけど、今は恥ずかしくって、ばつが悪いばかりなの。で、どうしろっておっしゃるの? お医者さまは……え…」
 キチイは口ごもった。彼女はそれからつづいて、この変化が生じて以来、オブロンスキイがいやになって、思いきり下品な醜いことを想像しないでは、姉婿を見ることができない、ということが話したかったのである。
「で、まあ、あたしはなにもかも思いきり下品な、けがらわしい姿で想像するようになったんですの」と彼女はつづけた。「それは、病気のせいなんですわ。もしかしたら、そのうちになおるかもしれませんわねえ」
「あんた考えないほうがいいのよ……」
「考えずにいられないんですもの。ただ子供といっしょにいるときだけいい気持なのよ、姉さんのところにいるときだけ」
「あんた家へくるわけにいかなくって、残念だわ」
「いいえ、あたし行くわ。あたしもう一度猩紅熱をしたんですもの、ママにお願いするわ」
 キチイはとうとう我《が》を張って、姉のもとへ移った。それから、案の定《じょう》やってきた猩紅熱の間じゅう、子供たちのめんどうをみてやった。二人の姉妹は、無事に六人の子供たちを守りおおせたが、キチイの健康は回復しなかった。で、大斎期《だいさいき》になってから、シチェルバーツキイー家は外国旅行の途に上った。

[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]

 ペテルブルグの上流社会は元来、一体をなしていて、すべての人はおたがい同士知りあってるばかりでなく、おたがい同士ゆききしあっているほどである。しかし、この大きな組織にも、おのずから分類があった。アンナ・アルカージエヴナ・カレーニナは、二つの異なったサークルに友達があって、密接な関係をもっていた。その一つは良人の属している勤務関係の官僚的なサークルであって、社会的条件から見ると種種雑多な組み合わせで、いとも気まぐれに結び合わされ、または引き離される同僚や部下たちから成っていた。アンナははじめのうちこれらの人々に対して、ほとんど敬虔《けいけん》といっていいほどの尊敬をいだいていたが、今ではその気持を思い出すのに骨が折れるくらいであった。いま彼女はこれらの人々を、小さな地方の町の人々がおたがい同士知りあっているように、一人残らず知りぬいていた。だれそれはどういう癖があり、どういう弱点を持っているか、だれそれはどっちの足の靴が窮屈か、といったようなことも承知していれば、彼ら相互間の関係も、政治中心との関係も知っており、だれはだれを頼りにしているか、それはまたどんなふうに、何を手段としているか、だれはだれとどういう問題で提携もしくは乖離《かいり》しているか、というようなことも心得ていた。けれども、この官僚的、男性的興味で固まったサークルは、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナからいくらありがたみを説いて聞かされても、彼女の興味をそそることができなかった。で、彼女もそれを避けるようにしていた。
 もう一つアンナの親しみを感じているサークルは、カレーニンが栄達の踏台にしたものであって、そのサークルの中心に納っているのは、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナである。それは年をとった、器量の悪い、信心ぶかい、有徳な婦人たちと、聡明《そうめい》で、学問のある、名誉心の強い男子連の集りであった。このサークルに属する聡明な男の一人が、これを『ペテルブルグ社交界の良心』と名づけた。カレーニンはこのサークルを大いに尊重していた。だれとでも、調子をあわせていくことのできるアンナは、ペテルブルグ生活の初期には、このサークルの中にも、いくたりかの親友を発見したものである。ところが、今度モスクワから帰ってみると、このサークルがたまらなくいやになってきた。彼女は自分もほかの人たちも、みんな仮面《めん》をかぶっているような気がして、この連中のあいだにいると退屈で、ばつが悪くなるのであった。そういうわけで、彼女はなるたけリジヤ・イヴァーノヴナのとこへ行かないようにした。
 最後に、アンナの関係していた第三のサークルは、本当の社交界であった。それは舞踏会、晩餐会、輝かしい衣装くらべの社交界であった。売笑の世界まで堕落しないために、片手でしっかりと宮廷につかまっているこの社会は、自分では売笑の世界を軽蔑しているつもりでありながら、その実、かれらの趣味はそれと似かよっているどころか、全く同じものなのであった。このサークルとアンナとの関係は、公爵夫人ベッチイ・トヴェルスカヤを通じて保たれていた。これは彼女の従兄《いとこ》の妻で、年十二万ルーブリからの収入があった。アンナが社交界へ現われたそもそものはじめから、彼女にほれこんでしまって、なにかとちやほやしては、自分のサークルへひっぱりこもうとした。伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナのサークルを冷笑して、
「わたしも年をとってみっともなくなったら、あんなふうになりますよ」とベッチイはいった。「でも、あなたみたいな若くて美しいかたは、あんな慈善院へ入るのはまだ早すぎますよ」
 アンナもはじめのうちはできるだけ、トヴェルスカヤ公爵夫人のこのサークルを避けるようにしていた。というのは、この交際には彼女のふところ以上の金がかかったし、それに彼女自身こころの中では、どちらかといえば、リジヤ・イヴァーノヴナのサークルを好んでいたからである。ところが、モスクワへ行ってから、それがあべこべになってしまった。彼女は以前の修養の友を避けるようになり、はなばなしい社交界へ出入りするようになった。そこで彼女はたびたびヴロンスキイに出会い、出会うたびに胸の躍るような喜びを感じた。一番よくヴロンスキイに出会うのは、ベッチイの家であった。彼女はヴロンスキイ家の出で、彼とは従姉弟《いとこ》同士にあたっていた。ヴロンスキイは、アンナに会えそうなところだったら、どこへでも姿を見せ、機会あるたびに、自分の愛を彼女に告げるのであった。彼女はそれにたいして、因縁《いんねん》をつけられるようなことはいっさいしなかったけれども、彼と顔をあわすたびに、はじめて汽車の中で彼を見たあの日と同じように、生きいきした感情が心のなかに燃えあがるのであった。彼女自身も、彼を見ると、自分の眼に喜びの色が輝き、唇が微笑にほころびるのを感じた。そして、この喜びの表情を消すことはできないのであった。
 はじめのうちアンナは、彼が大胆にも自分をつけまわすのを不満に思っていると、真剣に信じきっていたが、しかしモスクワから帰ってまもなく、ヴロンスキイに会えると思っていた夜会へ来てみて、彼の姿が見えなかった時、急にものさびしい気分にとらわれたところから、彼女は自分で自分を欺いていたことを悟った。このつけまわしは、彼女にとって不快でないばかりか、これこそ彼女の生活興味の全部をなしているのであった。

 有名な歌姫の第二回出演というので、上流社交界の全部が劇場に集った。第一列目の自分の席から従妹を見かけたので、ヴロンスキイは幕間《まくあい》も待たず、その桟敷へ入って行った。
「あなた、どうして食事にいらっしゃらなかったの?」とベッチイは彼に話しかけた。「全く恋する人の直覚力には驚いてしまいますね」と彼女は、相手一人にだけ聞えるような声でこうつけたした。「あのひとがこなかったからなのね[#「あのひとがこなかったからなのね」に傍点]。でも、オペラがすんだらいらっしゃいね」
 ヴロンスキイは質問の表情で彼女を見やった。彼女は頭をかがめた。ヴロンスキイは微笑で感謝のこころを見せ、そのそばに腰をおろした。
「でもねえ、あなたの日ごろの皮肉を思い出すとねえ!」この種の情熱の成否を注視することに、特殊な興味をいだいている公爵夫人ベッチイは言葉をつづけた。「あれはいったいどこへ行ってしまったのでしょう? あなたはとりこになってしまったのねえ」
「僕は、そのとりこにされることばかり念願にしてるんですよ」持ち前の、おちついた、人のよさそうな微笑を浮べながら、ヴロンスキイは答えた。「もし、何か不足があるとしたら、とりこにされかたが少ないからですよ、正直にいいますとね。僕は希望を失いかけましたよ」
「いったいどんな希望をもつことがおできになりますの?」とベッチイは自分の親友のために侮辱を感じてこういった。「entendons nous(ひとつ伺いましょう)……」しかし、その眼の中にちらちらしている火花は、あなたがどういう希望をもつことができるか、わたしもあなたと同じくらい正確に、よく承知しております、といっていた。
「まるでないのです」とヴロンスキイはびっしり並んだ歯を見せて、笑いながら答えた。「失礼」とつけ加えて、彼はベッチイの手からオペラ・グラスをとり、そのあらわな肩ごしに、向こう桟敷を見まわしにかかった。「僕は自分がだんだんこっけいな人間になっていきゃしないかと、それが心配なんです」
 そのくせ彼はよく承知していた。ベッチイをはじめ、すべての社交界の人々から見て、彼は決して物笑いになるような危険を冒してはいなかった。これらの人々の目から見ると、生娘とか、一般に自由な立場にある女に不運な恋をしている男は、あるいはこっけいに映るかもしれないが、良人のある婦人を追いまわして、是《ぜ》が非《ひ》でも姦淫関係にひき入れようと命がけになっている男の役まわりは、なにかしら美しい偉大なところがあって、決してこっけいに見える気づかいはない。それを彼はよく心得ていた。そういうわけで、彼は口髭《くちひげ》の下に誇らかな楽しそうな微笑を躍らしながら、オペラ・グラスをおろして従妹の顔を見た。
「ね、いったいどうして食事にいらっしゃらなかったんですの?」とベッチイは、彼に見とれながら問いかけた。
「それは、ひとつお話しなくちゃならんことがあるのです。僕は忙しかったんですが、それがなんだと思います? これは百のうち九十九まで……いや、千のうち九百九十九まで、ご想像がつかないでしょう。じつはね、ある良人と、その細君を侮辱した人間を仲直りさせていたんです。いや、本当ですとも!」
「で、どうですの、その仲直りは成立しましたの?」
「ほとんどね」
「それはぜひ聞かせていただかなくちゃなりませんね」と彼女は立ちあがりながらいった。「今度の幕間にいらっしゃいな」
「だめなんです、僕はフランス劇場へいかなくちゃなりませんから」
「ニルソンを聴《き》かないで?」とベッチイは、ぞっとしたようにいったが、そのくせご当人、ニルソンとただのコーラス・ガールとの区別もつかないのであった。
「どうもしかたがありません。むこうで会う約束をしてるんですから、やっぱり、その仲裁役の一件でね」
「和らぎを来たすものは幸いなるかな、彼らは救わるべし、ですね」だれかから何か似たようなことを聞いたのを思い出して、ベッチイはこういった。「さあ、それじゃお坐んなさい、そして、どういうことか話して下さいよ」
 そういって、彼女はふたたび腰をおろした。

[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]

「これはいささか不謹慎の嫌いはありますがね、実におもしろいお話なので、お聞かせしたくてたまらないんですよ」笑《え》みを含んだ眼で相手を見ながら、ヴロンスキイはこういった。「しかし、苗字《みょうじ》だけはいわないことにしましょう」
「でも、わたし察してしまいますわ、そのほうがかえってけっこうよ」
「いいですか、二人の陽気な若い男が、馬車を走らせていたとしましょう……」
「もちろん、あなたの連隊の将校がたでしょう?」
「僕は将校とはいいません、ただちょっと飯を食って出た二人の青年ですよ」
「翻訳なさい、一杯きげんの二人、と」
「かもしれません。とにかく、きわめて浮きうきした気分で、友だちの家の晩餐会へ行く途中だったのですよ。ふと見ると、あでやかな婦人が辻馬車に乗って、二人を追い越しながら、しきりにあとをふりかえり、うなずいたり笑ったりして見せている。少なくとも、彼らにはそう思われたのです。そこで、まっしぐらに追いかけました。ところが、驚いたことには、その麗人は、彼らの目指した家の車寄せに、馬車を停めるじゃありませんか。麗人は二階へ駆けあがりました。彼らはただ短いヴェールの下からのぞく紅い唇と、小さな美しい足を見たばかりでした」
「あなたがそう一生懸命に話してらっしゃるところを見ると、その二人のうち一人は――あなたご自身らしいわね」
「おや、あなたはたった今なんといいました? さて、二人の青年は、友だちの住居《アパルトマン》へ入りました。そこでは送別会があったのです。そこでは、まさにしたたか飲んでいたことでしょう。送別会の常としてね。宴会の間に、二人はみんなをつかまえて、この上に住んでいるのはだれだとたずねましたが、だれひとり知ったものがないのです。ただ主人の従僕が、この上にマドモアゼル[#「マドモアゼル」に傍点]が住んでいるかという二人の問いに答えて、そんなのはいくらでもいます、といいました。宴会のあとで、二人の青年は主人の書斎へ行って、未知の婦人に手紙を書きました。愛の打明けみたいな、情熱あふるる手紙を書いて、自分でそれを二階へ持って行きました。手紙では十分わかりにくいことを、よく説明するためにね」
「あなたはなんのために、そんなけがらわしいことをお話しなさるの? で、それから?」
「ベルを鳴らしました。すると女中が出てきたものだから、その手紙を渡して、自分たちは二人とも恋いこがれて、今にもこの戸口で死にそうだといったものです。女中はけげんそうに押し問答しています。と、ふいに腸詰《ソーセージ》みたいな頬髯を生やした紳士が、うで蝦《えび》のように真赤な顔をして姿を現わし、この家には、自分の身内よりほかだれもいやしないといって、二人を追い出してしまいました」
「その人が腸詰みたいな頬髯をしているなんて、どうしてごぞんじですの?」
「まあ、聞いてらっしゃい。僕は今日その連中の仲裁に行ったんですよ」
「で、それがどうなりました?」
「さあ、ここがいちばんおもしろいとこなんです。聞いてみると、それは九等官と九等官夫人の幸福な夫婦なのでした。九等官氏が訴えて出たものですから、僕、仲裁役になったんですが、その仲裁ぶりはどんなだったと思います!………誓っていいますが、僕に比べたら、タレイランもものの数じゃありません」
「なんでそう骨が折れたんですの?」
「いや、まあ、聞いて下さい……われわれはしかるべく謝罪しました。『私たちはとほうにくれているのです、あれは不幸な誤解なんですから、どうか平《ひら》にお赦しを……』といったわけで……腸詰をくっつけた九等官も、そろそろ折れ出したんですが、しかしご同様に自分の感情を吐露《とろ》したくなってきた。それはまあいいが、そいつを吐露しはじめるが早いか、恐ろしくのぼせあがって、乱暴なことをいいだしたものだから、僕も、自分の外交的才能を駆使《くし》しなければならなくなった次第です。『なるほど、彼らの行動がよくなかったのは私も認めますが、しかしどうか、思い違いということと、彼らが若いってことを考慮に入れていただきたいもので。おまけに、彼らはちょっと前に食事をしたばかりなんですから。ね、わかって下さるでしょう。彼らは衷心《ちゅうしん》から後悔して、どうか罪を赦していただきたいといってるんですから』九等官はまた折れてきました。『なるほど、私も異存ありません、伯爵。しかし、察しても下さい、私の家内が、れっきとした婦人が、追いまわされたり、ずうずうしく失礼な目にあわされたんですからな、どこの馬の骨ともしれぬ若造《わかぞう》に、やくざな野郎に……』ところが、どうでしょう、その若造がその場にいるんですからね、また両方をなだめなくちゃならない。またぞろ僕は、外交的手腕を発揮しなくちゃならなくなりました。やっと事を円く納めようとするとたん、わが九等官、また真赤になって逆上《のぼ》せあがって、例の腸詰をふり立てるものだから、僕はまたしてもまたしても、微妙な社交術の限りをつくすという騒ぎです」
「ああ、この話はぜひあなたにお聞かせしなければなりませんわ!」とベッチイは、桟敷へ入って来た婦人に話しかけた。「この人にすっかり笑わせられてしまいましたのよ……では、bonne chance(ご成功を祈りますわ)」手に扇を持っていたが、彼女はあいた指をヴロンスキイにさしだし、ちょっと肩を動かして、ずりあがった上着の胴を下げながら、こうつけたした。それは、フットライトの方へ行って、ガスの光の中で一同の目にさらされるとき、すっかり肩をあらわにしておくためであった。
 ヴロンスキイはフランス劇場へ行った。そこでは本当に連隊長に会わねばならぬ用があったのである(連隊長は、フランス劇団の芝居は一度も欠かさない人であった)。それは、もうこれで足かけ三日というもの、忙しい思いもさせられているが、同時にお座興にも感じている仲裁の件について、連隊長と打合わせをするためだった。この事件には、彼の好きなペトリーツキイと、もう一人、最近入隊したケードロフという若い公爵で、友だちとして申し分ない好漢が、関係していたからでもあるが、何よりも重大なのは、これが連隊の利害に関する問題だったからである。
 二人ともヴロンスキイの中隊に所属していた。ある官吏が連隊長のもとへ、自分の妻を侮辱した部下の将校を訴えにきた。それが九等官のヴェンデンであった。ヴェンデンの話によると、その若い妻は――彼らは結婚してまだ半年にしかならなかった――母親といっしょに教会へ行ったが、急にかの状態([#割り注]月経[#割り注終わり])のために気分が悪くなり、じっと立っていられなくなったので、手あたり次第の辻馬車に乗って家路へ向った。すると、あとから将校たちが追ってきたので、彼女はびっくりしてしまい、ますます病気がひどくなって、わが家の階段を駆け昇ったわけである。当のヴェンデンは役所から帰ると、ベルの音が聞え、だれかの人声が耳に入ったので、玄関へ出てみると、酔っぱらいの軍人が手紙を持っているので、外へ突き出してしまった。彼は厳重に処罰してくれと頼んだ。
「いや、君がなんといったって」と連隊長は、さっそくヴロンスキイを自宅へ呼んで、こういった。「ペトリーツキイはだんだん手に負えなくなる。ただの一週間だって、問題を起さずにすんだことがない。あの官吏はこのままでひっこみはせん、どこまでも押していくよ」
 ヴロンスキイは、この事件のかんばしくないことを見てとったが、決闘なんてことにはなりっこないから、その九等官をなだめて、事件をもみ消すため、できるだけのことをしなければならぬと考えた。連隊長がヴロンスキイを呼んだのは、彼が潔癖で聡明な人間であって、しかも第一に、連隊の名誉を尊重する将校であることを、承知していたからである。二人はいろいろ相談したあげく、ペトリーツキイとケードロフが、ヴロンスキイと同道で、その九等官のところへ謝罪に行くことにきめた。連隊長もヴロンスキイも二人ながら、ヴロンスキイという名前と、侍従武官の徽章《きしょう》は、九等官をなだめるのに、大いに力があるに相違ないということを、ちゃんと心得ていたのである。はたせるかな、この二つの武器はある程度、効を奏した。仲裁の結果は、ヴロンスキイも話したとおり、依然として不徹底であった。
 フランス劇場へ着くと、ヴロンスキイは連隊長といっしょに運動場へ行って、自分の成功というか、失敗というか、を報告した。いっさいの事情を考慮したうえ、連隊長はこの事件を未解決のまま放任しておくことにきめたが、そのあとでおもしろ半分に、会見の顛末《てんまつ》をヴロンスキイに根掘り葉掘りした。いったん折れて出そうになった九等官が、事件の詳細を思い出して、急に逆上《のぼ》せあがったこと、ヴロンスキイが最後に、あいまいな仲裁の言葉を述べながら、いいかげんに舵《かじ》をとっておいて、ペトリーツキイをさきに押し出しながら、退却した一部始終を聞くと、長いこと腹をかかえて笑った。
「いやな話だが、腹の皮を縒《よ》らせるよ! まさかケードロフがその先生と決闘するわけにゃいかんなあ! では、かんかんになって怒ったかね?」と彼は笑いながらきき返した。「ところで、今夜のクレールはどうだ? 正に奇蹟だ!」と彼は新しいフランス女優のことをいった、「いくら見ても、毎日あたらしい感じなんだからな。こいつができるのは、フランス人ばかりだよ」

[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]

 公爵夫人ベッチイは最後の幕を見ないで、劇場を出てしまった。彼女が化粧室へ入って、その長い蒼ざめた顔に白粉をはき、それをさっと拭《ふ》きとって、身じまいをなおし、大きいほうの客間へ茶を出すように命じるか命じないかに、大モルスカヤ街の大きな邸宅に、あとからあとからと馬車が乗りつけて来た。客が広々とした車寄せにおりると、毎朝、通行人に対する教訓のために、ガラス戸の中で新聞を読んでいる肥った玄関番が、その大きな扉を、音もなく開けて来客を通すのであった。
 髪をなおし、化粧をととのえた女主人が、一方の戸口から客間へ入るのと、客がもう一つの戸口からやってくるのと、ほとんど同時であった。壁のくすんだ、毛深い絨毯《じゅうたん》を敷いた大きな客間には、テーブルがあかあかと照らされて、雪白のテーブル・クロース、銀のサモワール、透き通るような陶器《やきもの》の茶器などが、おびただしい蝋燭《ろうそく》の光に輝いていた。
 女主人はサモワールの前に席を占めて、手袋をぬいだ。目立たぬようにふるまう従僕たちの手をかりて、椅子を動かしながら、一同は二組に別れてそれぞれ席についた――一組はサモワールを控えた女主人のまわりに、一組は客間の反対側の端にいる、くっきりと眉の黒い、美しい黒ビロード姿の公使夫人をかこんで坐った。はじめのあいだはいつもそうだが、どちらの組も、人々のあいさつや、お茶をすすめる言葉などに腰を折られて、何にきめたものかと探ってでもいるように、会話は動揺しがちであった。
「あれは女優として、ずばぬけてりっぱですね。カウルバッハを研究しつくしたことが、ちゃんとわかりますよ」公使夫人のグループにいる外交官がそういった。「あの倒れ方をごらんになりましたか……」
「ああ、お願いですから、ニルソンの話はしないことにしましょうよ! あの女優については、なんにも新しいことはいわれませんもの」と、ふとった婦人がいった。赤ら顔には眉がなく、白っぽい髪には入れ毛を使わず、身には古い絹の服をまとっている。それは、態度がざっくばらんで、乱暴なので有名な、綽名を enfant terrible(恐るべき子供)と呼ばれている、ミャーフカヤ公爵夫人である。ミャーフカヤ公爵夫人は、二つの組のまんなかに坐っていたので、かわるがわる耳を傾けては、両方の話に口を入れていた。「今日はわたし三人の人から、そのカウルバッハのことで、同じ文句を聞かされましたよ、まるで申しあわせでもしたよう。その文句が、どういうわけだかわからないけれども、とてもその人たちの気に入ったらしいんですの」
 会話はこの横槍のために中絶されたので、また新しい話題を考え出さなければならなかった。
「どうぞ、何かおもしろい話をして聞かして下さいな、ただ、毒のないことをね」英語での small talk(小話)といわれている優美な話の名人である公使夫人が、同じく今なにを話したらいいかわからないでいる外交官にむかって、こういった。
「そういうのが非常にむずかしいので、ただ毒のある話がおもしろがられるっていいますからね」と彼は微笑を含みながらいった。「しかし、やってみましょう。一つテーマを出して下さい。問題はすべてテーマですよ。テーマさえ出してもらったら、その上に模様をぬいとっていくのは、楽なものですよ。私はよく思うんですが、前世紀の有名な話術家も、今では気のきいた話をするのに当惑するでしょうね。気のきいた話は、みんな鼻についてしまったから……」
「もうとっくの昔にいい古されてしまいましたわ……」と公使夫人は笑いながら、さえぎった。
 会話は優美な調子で始ったが、あまり優美すぎるために、また停頓してしまった。そこで、決してまちがいのない確実な方法、毒舌にうったえるよりほかしかたがなかった。
「あなたそうお思いになりませんか、トッシュケーヴィッチには、どこかルイ十五世に似たところがありますね」テーブルのそばに立っている白っぽい髪をした美しい若者をさしながら、彼はこういった。
「ええ、そうですわ、あの人はこの客間とちょうどおなじ趣味の人ですわ、だからしじゅうここへくるんでしょうよ」
 この話は一同の支持を受けた。というのは、ほかならぬこの客間で話すわけにいかないこと、つまり女主人とトゥシュケーヴィッチとの関係が、ほのめかされたからである。
 そのあいだに、サモワールと主婦をとりかこんでの会話は、やはり同様に三つの話題――最近の社会的なニュースと、芝居と、知人の陰口のあいだを、しばらく彷徨《ほうこう》した後、いよいよ最後の手段たる毒舌に落ちていって、同じくそこで固定した。
「あなたお聞きになって、マリチーシチェヴァさんも――お嬢さんのほうじゃなくてお母さんのほうが、diable rose(血紅色)の着物をこしらえてらっしゃるんですよ」
「そんなことがあるものですか! でも、それはすてきね!」
「わたし驚いてしまいますわ、あのかたくらい賢い人が――だって、決して頭のない人じゃありませんものね――ご自分がどんなにこっけいに見えるかってことが、おわかりにならないんですものねえ」
 不幸なマリチーシチェヴァを非難したり、笑ったりするのに、一人一人が、何かそれぞれいうことをもっていた。で、会話は燃えさかった焚火《たきび》のように、さも楽しげに、ぱちぱちと音を立てんばかりであった。
 人のよい、ふとっちょで、熱心な版画の蒐集家《しゅうしゅうか》であるベッチイの良人は、妻のところに客が来ていると聞いて、クラブへ行く前に客間へ入ってきた。柔らかいカーペットを音のしないように踏みながら、彼はミャーフカヤ公爵夫人のそばへ近よった。
「ニルソンはいかがでしたか?」と彼は問いかけた。
「まあ、そんなに人のそばへ忍びよるって法があるものですか? すっかりびっくりさせておしまいになりましたよ!」と彼女は答えた。「お願いですから、わたしにオペラの話なんかしかけないで下さい、あなたは音楽なんか、まるっきりおわかりにならないんですからね。それよか、わたしあなたのとこまで程度を下げて、マジョリカ焼や版画のお話をしますよ。ねえ、このあいだ骨董市《こっとういち》で、どんなお宝を掘り出しなさいました?」
「なんなら、お見せしましょうか? しかし、あなたは目がないんだから」
「見せてちょうだい。わたしは、あの、ええと、なんとかいったっけ……銀行家に教えてもらいましたよ……あそこにはすばらしい版画がありますね。あそこで見せてもらいましたの」
「え、あなたシュルツブルグのとこへいらっしゃいましたの?」と女主人が、サモワールのそばからたずねた。
「行きましたよ、〔ma che`re〕(貴女)。わたしたち夫婦で晩餐に呼ばれましたの。ところが、この晩餐に使ったソースは千ルーブリからしたって、そういうじゃありませんか」ミャーフカヤ公爵夫人は、みんなが聞いているなと感じながら、大きな声でこういった。「しかも、それがとてもいやなソースなんですよ、なんだか緑色をした。ところで、今度はこちらから招待しなくちゃならないから、わたしは八十五コペイカでソースを作りましたがね、みんなとても喜んで下さいましたよ。わたしは千ルーブリのソースなんかとても作れませんよ」
「あの人はかけがえのないかたですわねえ!」と主婦はいった。
「驚嘆すべき人ですな!」とだれかがいった。
 ミャーフカヤ公爵夫人の話の呼び起す効果は、いつも同じようであった。彼女の呼び起す効果の秘訣は、今の場合とおなじように、あまり機宜《きぎ》を得ているとはいえないけれども、何か意味のある単純な話をするところにあった。彼女の住んでいる社会では、そうした言葉が、最上の機知をおびた洒落《しゃれ》と同様の働きをするのであった。ミャーフカヤ公爵夫人は、どうしてこんな働きをするのか、自分ではわからなかったけれども、そういう働きをすることだけは承知していたので、いつもそれを利用するのであった。
 ミャーフカヤ夫人がしゃべっているあいだ、みんながその話を聞いていたので、公使夫人の周囲の会話はとぎれてしまった。で、女主人は一座を一つにまとめようと思って、公使夫人に話しかけた。
「あなた、どうしてもお茶を召しあがりませんの? こちらの方へおうつりになったらいかがでございます?」
「いいえ、わたしたちはここでもたいへんぐあいがよろしいんですもの」と公使夫人はほほえみながら答えて、しかけた話をつづけた。
 会話は特に愉快なものであった。人々はカレーニン夫妻を非難していたのである。
「アンナさんはモスクワから帰ってらしてから、すっかり変っておしまいになりましたわ。何か奇妙なところができて」と彼女の女友だちがいった。「その変ったおもなところは、アレクセイ・ヴロンスキイの影をつれて帰ったことでしょう」と公使夫人が口を入れた。
「それがどうしました? グリムに影のない男、影をなくなされた[#「なくなされた」はママ]男という、おとぎ話があるじゃありませんか。それは何かの罰でそうなったんですが、いったいなんの罰なのやら、わたしどうしてもわかりませんでしたっけ。でも、女にとっては影がないってことは、きっといやなものでしょうよ」
「そう、でも、影をもった女は、たいていおわりがよくないものですわね」とアンナの女友だちはいった。
「あなた舌が腐りますよ」ふいに彼女の言葉を聞きつけて、ミャーフカヤ公爵夫人がこういった。「カレーニナはりっぱな婦人です。主人のほうは好きでないけれど、あのひとはわたし大好き」
「なぜあなたは、ご主人のほうをお嫌いになりますの? だって、あんな豪《えら》いかたじゃございませんか」と公使夫人はいった。「たくの主人なども、ああいう政治家はヨーロッパにも少ないって申しておりますわ」
「うちの主人もそういっておりますが、わたしは本当にしません」とミャーフカヤ公爵夫人は答えた。「もし主人たちがいろんなことをいわなかったら、わたしどもも物事をありのままに見たでしょうねえ。カレーニンは、わたしにいわせれば、なんのことはない馬鹿です。これは小さな声でいっておきますがね……、ね、なにもかもはっきりしてくるじゃありませんか、そうでしょう? 以前、あの人を賢い人物と思えといわれた時には、わたしは一生懸命に探したけれど、あの人の賢さがわからなくって、自分のほうが馬鹿なのだと思っていました。ところが、わたしがあの人は馬鹿だ[#「あの人は馬鹿だ」に傍点]というが早いか――ただし小さな声ですがね――なにもかも実にはっきりしてきました、そうじゃありませんか?」
「今日はあなた、なんてお口が悪いんでしょう!」
「いいえ、ちっとも。わたしとしては、ほかに解決のしかたがないんですもの。二人のうちどちらかが馬鹿なんですもの。ねえ、あなただってわかって下さるでしょうが、自分のことはどうしたって、馬鹿といえないじゃありませんか」
「なんぴともおのれの富には満足せざれども、万人おのが知恵に満足するものなり」と外交官はフランスの詩を口ずさんだ。
「そう、そう、それなんですよ」とミャーフカヤ公爵夫人は、急いでその方へふりむいた。「でも問題は、わたしがアンナを、あなたがたの手に渡さないってことですよ。あれは実にりっぱなかわいいひとですものね。みんながあのひとに恋して、影のようにあとをつけまわすからって、あのひとどうにもしようない[#「しようない」はママ]じゃありませんか?」
「だから、わたくしも、あのひとを悪くいおうなんて、考えておりませんわ」とアンナの女友だちはいいわけした。「わたしたちのあとから、だれも影のようについて歩かないからって、わたしたちが人を悪くいう権利をもってる証拠にはなりませんよ」
 こうして、しかるべくアンナの女友だちにお灸《きゅう》をすえた後、ミャーフカヤ公爵夫人は立ちあがり、公使夫人といっしょに別のテーブルへ行った。そこでは、みんながプロシャ王の話をしていた。
「あなたはなんで毒舌をふるっていらっしゃいました?」とベッチイがたずねた。「カレーニンさんご夫婦のことですの。公爵夫人が、カレーニンのご主人の性格解剖をなさいましてね」と公使夫人は微笑を含んで、テーブルにむかって腰をおろしながら答えた。
「それを伺わなくって残念ですこと」と女主人は、入口の戸をじっと見ながらこういった。「ああ、やっとのことで!」と入ってくるヴロンスキイに笑顔で声をかけた。
 ヴロンスキイは、一同と知り合いだったばかりでなく、ここに居合わす人々に毎日会っているので、たったいま出て行ったばかりの部屋へ帰って来たような、おちつきはらった態度で入って来た。
「どこから来たかとおっしゃるんですね」公使夫人の問いに答えて、彼はそういった。「どうも致し方がありません、白状しなければなりませんが、実は笑劇《ブッフ》座からなんです。もう百ぺんも見たんですが、いつも新しい満足を感じますね。すてきですよ! そんなことは恥ずかしいことだとは承知してますがね。オペラでは居眠りをする私が、笑劇《ブッフ》座では最後の一分間まで、じっと坐っていますよ、しかも愉快にね。今日は……」
 彼はフランスの女優の名をいって、何か話そうとしたが、公使夫人はふざけた恐怖の表情を浮べて、さえぎった。
「お願いですから、あんな恐ろしいことをお話にならないで」
「じゃ、やめましょう。ことに、その恐ろしいことは、みんなが知ってるんですからね」
「もしあれがオペラと同じように、わたしたちの見るものとなっていたら、みんな笑劇《ブッフ》座へおしかけて行ったでしょうよ」とミャーフカヤ公爵夫人がひき取った。

[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]

 入口に人の足音が聞えた。公爵夫人ベッチイは、カレーニナだということがわかったので、ちらとヴロンスキイを見やった。彼は戸口をながめたが、その顔はふしぎな新しい表情を浮べていた。彼はさもうれしげにわき目もふらず、そのくせ臆病そうに、入ってくる人を見つめながら、ゆっくりと腰を持ち上げた。客間ヘアンナが入って来た。いつものように、人並以上にぐっと首を反らし、視線の方向を変えないで、ほかの貴婦人たちとは違う、しっかりした軽い早足で、女主人と自分を隔てている幾足かの距離を歩くと、ベッチイの手を握りながら、にっこり笑って、その笑顔のまま、ヴロンスキイの方へふりむいた。ヴロンスキイは低く腰をかがめて、彼女のために椅子をおしやった。
 アンナは、ちょっと頭を下げただけで答礼し、顔を赤らめ、眉をひそめた。が、すぐ知人一同に軽く会釈し、さしだされた手を握りながら、女主人に話しかけた。
「わたくし、リジヤ伯爵夫人のとこへ行ってまいりましたの。もっと早く伺うつもりでしたけれど、ついあちらが長くなってしまいましてね。サァ・ジョンがお見えになっていらっしゃいましたが、とてもおもしろいかたですのねえ」
「ああ、あの宣教師ですね?」
「ええ、あのかたインド生活のお話をなさいましたが、本当におもしろうございましたわ」
 アンナの出現でいったんとぎれた会話は、またよりが戻って、あおりを食ったランプのように燃えあがった。
「サァ・ジョン! ああ、サァ・ジョンですの。わたくしもお会いしましたわ。なかなか話がお上手ですね。ヴラーシエヴァさんは、すっかりあの方にほれこんでおしまいになりましたわ」
「ときに、ヴラーシエヴァさんの下のお嬢さんが、トポフさんと結婚なさるって、本当でございますの?」
「ええ、あのお話はすっかりきまった、とかいうことでございますよ」
「わたし、あの親御さんの気が知れませんわ。だって、恋愛結婚だそうじゃありませんの」
「恋愛結婚ですって? あなたはなんて旧式な考えをもってらっしゃるのでしょう? 今どきだれが恋愛なんてことをいう人がございます?」と公使夫人がいった。
「どうもしかたがありませんよ。あのばかげた大昔の流行が、いまもってすたれないんですからね」とヴロンスキイはいった。
「それならなおのこと、そんな流行を守っている人のためになりませんわ。わたくしのぞんじております幸福な結婚は、ただ理性によって結ばれたものばかりですわ」
「そりゃそうですが、そのかわり理性結婚の幸福が、よく塵泥《ちりひじ》のごとく吹っ飛んでしまうじゃありませんか。しかも、それがほかでもない、以前みとめなかった恋が頭をもちあげたからなんですよ」とヴロンスキイはいった。
「でもね、わたくしが理性結婚というのは、もう二人とも血道をあげきったあとの結婚なんですの。それはもう猩紅熱みたいなもので、そこをぬけて行かなくちゃなりませんわ」
「じゃ、恋愛も天然痘《てんねんとう》と同じに、人工的に植えつけなくちゃなりませんね」
「わたしは若いとき、番僧にほれたことがありますが」とミャーフカヤ公爵夫人が口を入れた。「それが役に立ったかどうか知りませんねえ」
「いいえ、冗談はぬきにして、わたしが思いますには、恋愛というものを知るには、一度まちがいをして、それから改めることですね」と公爵夫人ベッチイがいった。
「結婚したあとでもですか?」と公使夫人がふざけた調子できいた。
「後悔には、遅すぎるということはありませんよ」と外交官はイギリスのことわざを引用した。
「そうなんですよ」とベッチイは受けた。「まちがいをして、それから改めるんですよ。あなた、このことをどうお思いになりまして?」と彼女はアンナの方へふりむいた。こちらは、ようやくそれと知れるほどの堅い微笑を浮べて、この会話を聞いていた。
「わたしの思いますには」とアンナは、ぬいだ手袋をおもちゃにしながら答えた。「わたしの思いますには……もし人の頭が違えば、考えも違うというのが本当としますと、人の心が違えば、愛情の種類もちがうのじゃございませんかしら」
 ヴロンスキイはアンナを見つめて、彼女が何をいうかと、胸のしびれるような気持で待っていた。彼女がこれだけのことをいってしまうと、彼は危険のすぎたあとのように、ふっと吐息をついた。
 アンナは突然、彼の方へふりむいた。
「わたしはモスクワから手紙を受け取りましたが、キチイ・シチェルバーツカヤが、大変わるいそうでございますよ」
「本当ですか?」とヴロンスキイは眉をひそめていった。
 アンナはいかつい顔つきで彼を見すえた。
「この話、あなたには興味がおありになりません?」
「それどころか、非常に興味があります。いったいどんなことが書いてありました? もしおさしつかえなければ」と彼はたずねた。
 アンナは立ちあがって、ベッチイのそばへ行った。
「わたしにお茶を一ぱいくださいません?」女主人の椅子のうしろに立ちどまりながら、彼女はこういった。ベッチイが茶を注いでいる間に、ヴロンスキイがアンナに近よった。「いったいどんなことが書いてあったのです?」と彼はくりかえした。
「わたしよくそう思うんですけど、男の人って、潔白というものが何かおわかりにならないくせに、それをよく口になさるもんですわね」とアンナは、彼の問いに答えないでいった。
「わたし前から、あなたに申しあげたいことがあったんですの」と彼女はつけ加え、幾足か歩いて、アルバムののったすみのテーブルのそばに腰をおろした。
「僕はあなたのお言葉の意味がよくのみこめません」とアンナに茶をさしだしながら、彼はこういった。
 アンナがそばの長椅子をちらと見やったので、彼はすぐさまそれに腰をかけた。
「ええ、わたし前から、あなたに申しあげたいことがあったんですの」と彼女は相手を見ないでいった。「あなたのなすったことは、いけないことです、大変いけないことです」
「僕が悪いことをしたのを、自分でも知らずにいるとお思いですか? しかし、僕があんなふうに行動した原因は、いったいだれでしょう?」
「なぜあなたは、わたしにそんなことをおっしゃるんですの?」きっと相手を見すえながら、彼女はこういった。
「なぜだかごぞんじのはずです」アンナの視線をじっと受け止めて、そのまま眼をはなさず、彼は大胆に、喜ばしげにこう答えた。
 どぎまぎしたのは、彼ではなくて彼女であった。
「それはただ、あなたが心ってものがないことを証明するだけですわ」と彼女はいった。しかし、その眼はかえって、あなたに心があることは知っています、それだからこそあなたを恐れるのです、と語っていた。
「今あなたがおっしゃったことは、単なる過失です、愛じゃありません」
「わたしその言葉を、そのいまわしい言葉を口にするのを、あなたにさし止めたでしょう、覚えていらっしゃいます?」とアンナはぎくっとしていった。しかし、それと同時に、このさし止めたというひと言で、彼に対する一種の権利を自認したことになり、そのために、かえって愛を語ることを奨励したわけである、とこう直覚した。「これは前から、あなたに申しあげようと思ったことなんですけど」思いきって相手の眼を見つめ、真赤になった顔を火のようにほてらせながら、彼女は言葉をつづけた。「で、今日はあなたにお会いできると思って、わざとこちらへまいったんですの。わたしがまいりましたのは、こんなことはもうおしまいにしなければならないってことを、申しあげるためなんですの。わたしはついぞ今まで、だれの前でも赤い顔なんかしたことがないのに、あなたはわたしに何かしら、悪いことをしているような気をおさせになるんですもの」
 ヴロンスキイは彼女をながめながら、その顔に表われた新しい精神的な美に打たれた。
「僕にどうしろとおっしゃるんです?」と彼は率直な、しかも、まじめな調子でたずねた。
「わたしはね、あなたにモスクワへ行って、キチイに謝罪していただきたいのです」と彼女はいった。
「あなたはそんなこと、望んではいらっしゃいません」と彼は答えた。
 彼女は自分のいいたいことでなく、みずから強《し》いていわせようとしていることをいったにすぎない、それを彼は見てとったのである。
「もしあなたがおっしゃるように、本当にわたしを愛していらっしゃるのでしたら」と彼女はささやいた。「わたしの気持がおちつくようにして下さいまし」
 彼の顔はさっと輝きわたった。
「あなたが僕にとって全生命だということを、いったいあなたはごぞんじないのですか? しかし、おちつきなんてものは、僕知りもしないし、さしあげるわけにもいきません。が、僕の全部、愛……それならさしあげられます。僕はあなたと自分とを、別々に考えることはできません。僕にとって、あなたと僕は一つものです。僕は将来あなたのためにも自分のためにも、おちつきなんてものがありうるとは思いません。僕に考えられるのは、絶望、不幸の可能性か……さもなければ、幸福の可能性です、しかもその幸福といったら!………いったいそれは不可能なんでしょうか?」と彼は唇だけでつけ加えたが、それは彼女の耳に入った。
 彼女はありたけの理性の力を緊張さして、いわねばならぬことをいおうとしたが、そうするかわりに、愛情にみちた視線をじっと相手にすえて、なんとも答えなかった。
『おお、これは!』と彼は有頂天《うちょうてん》になって考えた。『もう絶望に瀕《ひん》して、これではきりがなさそうだと思っていたやさきに――これだ! このひとはおれを愛している。自分でそれを白状している』
「では、わたしのために、これだけのことをして下さい。あの言葉だけは、わたしに向いていわないようにね。仲のいいお友だちになりましょう」と彼女は言葉ではそういったが、眼はまるで別のことをいっていた。
「僕たちは友だちになることなんかできません、それはあなたご自身ごぞんじでしょう。ところで、世の中で一番幸福な人間になるか、一番不幸な人間になるか、それはあなたの掌中にあります」
 彼女は何かいおうとしたが、彼はそれをさえぎった。
「だって、僕がお願いするのは、たった一つだけじゃありませんか。僕は今のように希望をいだきながら、苦しむ権利をお願いしているのです。しかし、それさえだめだとしたら、消えてなくなれと命令して下さい、僕は姿を消します。もし僕の存在があなたを苦しめるのでしたら、もう二度とあなたの目にふれないようにします」
「わたし、どこへもあなたを追いやりたくはございませんわ」
「ただなんにも変更しないで下さい。なにもかも現在のままにして下さい」と彼はふるえる声でいった。「あっ、ご主人が」
 事実、この瞬間カレーニンがいつもの泰然とした、無恰好《ぶかっこう》な足どりで、客間へ入ってきた。
 妻とヴロンスキイの方をちらとふりむいて、彼は女主人に近づき、茶碗の前に腰をおちつけて、持ち前の悠然とした、いつもみんなに聞える声でしゃべりはじめたが、それは例のごとくだれかをからかうような、ふざけた調子であった。
「やあ、あなたのラムブイエ([#割り注]侯爵夫人、パリの文学的社交の一中心[#割り注終わり])は完全にせい揃《ぞろ》いですな」と彼は一座を見廻しながらいった。「美《グラチャ》の神々も、芸術《ミューズ》の神々も」
 けれども、公爵夫人ベッチイは彼のこうした調子、彼女にいわせれば sneering(嘲弄)ががまんできなかったので、すぐさま彼に水を向けて、国民皆兵制度というまじめな話をしかけた。カレーニンはすぐこの話題に熱中して、この新しい勅令をもう真剣に弁護しはじめた。ところが、公爵夫人ベッチイはその反対派であった。
 ヴロンスキイとアンナは、依然として小テーブルのそばに坐っていた。
「あれはもうぶしつけになってきますね」と一人の婦人が、アンナとヴロンスキイとカレーニンを目でさしながら、こうささやいた。
「いかがです、わたくしそう申しましたでしょう」とアンナの女友だちは答えた。
 しかし、この二人の婦人ばかりでなく、客間にいたほとんどすべての人が、ミャーフカヤ公爵夫人や当のベッチイまで、一同から離れて行った二人の方を、まるでみんなのじゃまになるとでもいうように、幾度もじろじろふりかえって見た。ただカレーニンだけは一度もその方を見ないで、いったんはじめた興味のある話題から、注意をそらさなかった。
 一同の受けている不快な印象に心づいて、公爵夫人ベッチイはほかの人を自分のかわりに、カレーニンの聴手役にしておいて、アンナの方へ行った。
「お宅のご主人のお話がはっきりして正確なのには、わたしいつも感心してしまいますわ」と彼女はいった。「あのかたがお話になりますと、どんな高遠な思想でも、ちゃんとわかるんですものね」
「ええ、そうですのよ!」とアンナは、幸福に満面えみかがやきながらいったが、ベッチイのいったことは、ひと言もわからなかったのである。彼女は大テーブルの方へ移って、一座の会話の仲間入りをした。
 カレーニンは三十分ばかりいて、妻に近より、いっしょに帰らないか、といった。けれど、彼女は良人の方を見ないで、わたしは夜食に残りますと答えた。カレーニンは一同に会釈して、出て行った。
 ぴかぴか光る皮外套を着た、アンナの馭者《ぎょしゃ》の肥《こ》えた老ダッタン人は、車寄せで棒立ちになって暴《あば》れる凍《こご》えきった葦毛《あしげ》の脇馬を、やっとのことでおさえていた。従僕は馬車の戸を開けて控えているし、玄関番は表の戸に手をかけて立っていた。アンナは小さい敏捷《びんしょう》な手で、毛皮外套のホックにひっかかった袖のレースをはずしながら、首をうつむけて、送ってくるヴロンスキイの言葉を恍惚として聞いていた。
「まあ、あなたはなんにもおっしゃらなかったものとしましょう、僕も何ひとつ要求しませんから」と彼はいった。「しかし、ご承知を願いますが、僕に必要なのは友情じゃありません。この世で僕にとって可能な幸福は、たった一つしかありません。それはあなたの大嫌いなひと言です……そうです、愛です……」
「愛……」と彼女は口の中でゆっくりと、おうむ返しにいった。とふいに、レースをはずすと同時につけたした。「わたしがこの言葉を嫌いなのは、それがわたしにとって意味が深すぎるからですの。あなたのお察しになれる[#「お察しになれる」はママ]よりずっと深い意味がね」彼女は相手の顔を見やった。「さよなら!」
 アンナは彼に手をさし伸べて、弾力のある早い足どりで玄関番のそばを通りぬけ、箱馬車の中に姿を隠した。
 彼女のまなざし、彼女の手の接触は、ヴロンスキイに火傷《やけど》のような感じを与えた。彼は自分の掌《てのひら》の、アンナのさわったところに接吻して、今晩は過去の二ヵ月間以上に、ずっと目的の到達に近づいた、という意識をいだきながら、幸福者になりきって家路へむかった。

[#5字下げ]八[#「八」は中見出し]

 カレーニンは、妻とヴロンスキイが別のテーブルに坐って、何か熱心に話していたのを、別に変ったこととも、ぶしつけなこととも思わなかった。しかし、客間に居合わせたほかの人たちの目に、何か特別なぶしつけなことのように映ったのに気がついて、自分でも特別なぶしつけなことのように思われてきた。彼は、このことを妻にいわなければならぬ、と腹をきめた。
 わが家へ帰ると、カレーニンはいつものごとく書斎へ入って、肘椅子に腰をおろし、法王論の紙切りナイフのはさんであったところを開けて、いつものとおり一時まで読むことにした。ただ時おり、何かをはらいのけようとでもするかのごとく、秀《ひい》でた額をこすったり、頭をふったりした。いつもの時刻に、彼は立ちあがって、寝る前の身じまいをした。アンナはまだ帰らなかった。本を脇の下に抱えて、彼は二階へあがった。しかし、今夜に限って、いつもの勤務上の仕事に関する想念や考慮の代りに、彼の頭は妻のことと、妻の身に生じた何かしら不快なことで、いっぱいになっていた。彼は普段のしきたりに反して、ベッドの中へ入ろうとせず、両手を背中に組みあわして、部屋部屋をあちこち歩きまわりはじめた。彼は寝ることができなかった。その前に、新しく発生した事情を、よく考慮しなければならなかったのである。
 カレーニンが、妻とよく話しあわなければならないと、肚《はら》の中で決心した時には、そんなことなどたやすい単純なことのように思われた。ところが、この新しく発生した事情を、今とくと考えはじめてみると、それがきわめてこみいった、やっかいなことであるのを発見した。
 カレーニンは嫉妬深いほうではなかった。嫉妬は、彼の確信によると、妻を侮辱するものであった。妻に対しては信頼を持たねばならない。なぜ信頼の念をもたねばならぬか、いいかえれば、なぜ若い妻は常に自分を愛しているという確信をいだかねばならぬか、それについては、みずから反問したことがない。彼は妻に対して、不信の念をいだいたことがないから、したがって、信頼感をもっている。また自分自身に対しても、もたねばならぬといっていた。ところが今、嫉妬は恥ずべき感情であるから、信頼感をもたねばならぬ、という確信は崩れていなかったにもかかわらず、彼は何か非論理的なわけのわからぬものに直面して、どうしたらいいかわからないでいるのを感じた。カレーニンは生活に直面したのである、すなわち、彼の妻が彼以外のだれかを愛するかもしれぬという事実に直面したのである。これは彼にとってはなはだ得体の知れぬ、奇怪千万なものに思われた。なぜなら、それが生活そのものだったからである。
 カレーニンはこれまでずっと、生活の反映である勤務の世界に住み、そこで働いてきたので、生活そのものにぶっつかるたびに、それから身をかわすようにしていた。が、いま彼の感じた気持は、深淵にかかった橋の上を悠々と渡っていた人が、突然、その橋がこわれており、それから先は深淵なのを見たときに似ていた。その深淵は生活そのものであり、橋はカレーニンの生きてきた人工の世界であった。妻がだれかを愛するかもしれぬという疑問が、生れてはじめて頭に浮んだので、彼はそれに思わずぎょっとした。
 彼は着替えもせず、たった一つのランプに照らされた食堂の嵌木床《バルケット》を、持ち前の規則ただしい足どりで、こつこつと大きな音を立てながら歩いたり、長椅子の上にかかっている、近ごろできた彼の大きな肖像画だけに、ぼんやりと光の反射している客間の、柔らかい絨毯《じゅうたん》を踏んだり、アンナの肉親や女友だちの肖像画や、テーブルの上に置いてある前からなじみの装飾品が、二本の蝋燭に照らされている妻の居間を通り抜けたり、そこから寝室の戸口まで行って、またひっ返したりした。
 この散歩をひとわたりすますたびに、彼はいちど立ちどまって(場所はたいてい、明るい食堂の嵌木床《バルケット》の上であった)、こうひとりごつのであった。
『そうだ、これはきっぱりさし止めて、このことに関するおれの見解と、決意を表明しなければならぬ』
 それから、彼はあとへひっかえした。
『しかし、いったい何を表明するのだ? 決意といってなんだろう?』と彼は客間でひとりごちたが、答えは見出されなかった。『それに、第一』妻の居間へ曲る前に、彼はこう自問した。『いったい何ごとが起ったというのだ? なんにもありはしない。あれはあの男と長いこと話をしておった。さあ、それがどうしたのだ? 社交界の婦人がだれかと話をするのは、珍しいことではありゃしない。それに、嫉妬するというのは、つまり自分をも妻をも卑しめることだ』妻の居間へ入りながら、彼はこう独語した。
 しかし、以前すくなからぬ重みをもっていたこの判断も、今ではなんの重みも価値ももたなかった。彼はまた寝室の戸の前から、広間のほうへひっかえした。が、暗い客間へ入りかけたとたんに、何かの声がこういった――それは違う、ほかの人たちがあれに目を止めた以上、つまり、そこには何かあるのだ。彼はまたもや食堂でいった。
『そうだ、これはぜひとも断然さし止めなけりゃならん、自分の見解を表明しなければ……』
 それからふたたび、客間で方向転換する前に、いったいどう解決するのだ? と自問した。つづいて、いったいなにごとが起ったというのだ? と自問し、なんにもありはしない、と答え、嫉妬は妻を卑しめる感情であることを想い起した。が、またもや客間で、なにごとか起ったと確信するようになった。彼の思想はその体と同様に、何一つ新しいものにぶっつかることなしに、どうどうめぐりをするばかりであった。彼もそれに気がついて、顔をひと撫でし、妻の居間に腰をおろした。
 そのとき、孔雀石《くじゃくいし》の吸取紙ばさみや、書きかけの手紙ののっているテーブルを見ているうちに、彼の考えは急にぐらりと変った。彼は妻のこと、妻の考え感じることを考えはじめた。彼ははじめて、妻の個性、妻の思想、妻の希望を、まざまざと思い浮べた。と、妻にも自分自身の生活がありうる、いな、あるのが当然だという考えが、あまりにも恐ろしいもののように感じられ、彼はあわててそれを追いのけようとした。これこそ、彼がのぞいて見るのを恐れたかの深淵であった。思想と感情によって他人の内部へ移入するのは、カレーニンには縁遠い精神活動であった。彼はこの精神活動を有害かつ危険な妄想《もうそう》と見なしていた。
『何よりも恐ろしいのは』と彼は考えた。『おれの仕事が終りに近づいて(彼は、目下通過させようとしている法案のことをさしたのである)、心の平穏と精力が特に必要な今という時をねらって、こんな無意味な心配事が降りかかったことだ。いや、どうもしかたがない。おれは不安や心配事がもちこたえられないで、敢然とそれに直面する気力のない人間と違うからな』
「おれはよく考えて、決断を下し、はね飛ばしてしまわなけりゃならん」と彼は声を出していった。
『あれの感情や、あれの心の中が、どういうふうになっておるか、乃至《ないし》、どんなふうになる可能性があるか、云々、といったような問題は、あれの良心の問題であって、宗教の範疇《はんちゅう》に属すべきものだ』とひとりごちて、こんど発生した事情に該当《がいとう》する法文の部門が発見されたという意識に、ほっとした思いであった。
『そこでと』カレーニンは独語をつづけた。『あれの感情云々の問題は、あれの良心の問題であるから、おれにはなんの関係もありえないわけだ。ところで、おれの責務は明白に決定されている。おれは一家の長として、あれを指導すべき立場にあるから、多少は責任のある人間だ。おれは自分の目に映る危険を指摘して、それを予防し、進んでは権力さえも行使しなければならん。あれに何もかもいってしまう必要がある』
 カレーニンの頭の中には、これから妻にいうべきことが、すっかり明瞭に組み立てられた。いうべきことを考えながらも、こうした家庭内の事柄に、貴重な時間や能力を、知らずしらずのうちに浪費しなければならぬのを惜しんだ。が、それにもかかわらず、彼の頭の中には、これからいおうとする話の形式や順序が、報告演説のように、明瞭的確に組み立てられた。
『おれは次のことをいわねばならん、表明しなけりゃならん。第一、世評と礼節観念の意義を説明すること、第二、結婚の意味を宗教的に説明すること、第三、必要の場合には、息子《むすこ》にとって不幸が起るかも知れぬという点を指摘すること、第四、彼女自身の不幸を指摘すること』
 それからカレーニンは、左右の指を組みあわせ、掌を下へむけて、ぐいとひっぱった。と、指の関節がぽきぽきと鳴った。
 このしぐさ、両手を組みあわせて指をぽきぽき鳴らす悪い習慣は、いつも彼をおちつかせて、規律ただしい気持にしてくれた。それは今の彼にはなはだ必要なのであった。
 車寄せに馬車の乗りつける音が聞えた。カレーニンは広間の真中に足を止めた。
 階段を昇る女の足音がしはじめた。演説の心がまえをしているカレーニンに、組みあわせた指を締めながら、まだどこか鳴らないかと期待して立っていた。一つの関節がぽきっといった。
 階段を昇る軽い足音で、妻の近づいてくるのを感じた彼は、自分の演説には満足だったにもかかわらず、目前に控えた妻との問答が恐ろしくなってきた。

[#5字下げ]九[#「九」は中見出し]

 アンナは頭《こうべ》をたれ、外套の頭巾《ずきん》の紐をまさぐりながら入ってきた。その顔は明るい光に輝いていた。しかし、それは楽しい光ではなく――真暗な夜中に燃える恐ろしい火事の明りを連想さした。良人を見ると、アンナは頭を上げて、さながらふっと目をさましたように、にっこり笑った。
「あなたまだベッドに入っていらっしゃいませんの? まあ、珍しいこと!」といって、頭巾をはねのけ、足を止めないで、そのまま奥の化粧室へむかった。「もう時間ですよ、あなた」と彼女は戸のむこうから声をかけた。
「アンナ、私はおまえに話さなければならんことがあるのだ」
「わたしに?」と彼女は驚いたようにいって、戸の陰から出てくると、良人の顔をじっと見つめて、「なんのことですの? どういうお話?」と坐りながらたずねた。「じゃ、お話をしましょう、もし、たって必要なのでしたら。でも、やすんだほうがいいんですけどね」
 アンナは口から出まかせのことをいったが、自分の言葉を聞きながら、われながら嘘をつくことの上手なのにびっくりした。彼女の言葉は、いかにも単純で自然であり、ただ眠いばかりだというのは、いかにも本当らしく聞えた! 彼女は、自分が堅固な嘘の鎧《よろい》につつまれているような気がした。なにかしら目に見えぬ力が自分を助け、支えてくれる思いであった。
「アンナ、私はおまえに警告しなけりゃならんことがあるのだ」と彼はいった。
「警告ですって?」と彼女は問い返した。「何をですの?」
 彼女の目つきはきわめて単純で、楽しそうに見えたので、良人ほどに彼女を知りつくしていないものには、彼女の言葉のひびきにもその意味にも、何一つ不自然なところを認めることができなかったに相違ない。しかし、妻を知りぬいている彼にとっては――自分が五分遅く床についても気がついて、その理由をただす妻を知っている彼にとっては――いかなる喜びでも、楽しみでも、乃至《ないし》悲しみでも、すぐさま良人に話す妻の平常を知っている彼にとっては、いま彼女が良人の心の状態に気づこうとせず、また自分のことをひと口も話そうとせぬ様子を見ると、これはなかなか意味深長なことであった。これまではいつも、良人に対して開け放されていた彼女の心の奥底が、今は堅く閉ざされているのを、カレーニンは見てとった。のみならず、彼は妻の言葉の調子で、彼女がそれをきまり悪くさえ思わないで、そうですよ、わたしの心は閉じてありますよ、これはあたりまえのことで、これから先もそうですよ、と真正面からいってでもいるように思われる、それをみてとったのである。今や彼は、わが家へ帰って、戸が閉っているのを発見した人にも似た感情を経験した。
『しかし、あるいは鍵が見つかるかもしれない』とカレーニンは考えた。
「私がおまえに警告したいと思うのは、ほかでもない」と彼は低い声でいいだした。「おまえは不注意と軽率のために、世間で陰口をきかれる種子を蒔《ま》くかもしれないよ。今日おまえがヴロンスキイ伯爵と(彼はこの名をおちついて、はっきりと、ひと綴りひと綴り句切るように発音した)、あまり熱心に話していたものだから、みんなの注意をひいてしまったのだ」
 彼はこういって、笑いを含んだ妻の眼を見た。今はもう他人の侵入を許さぬといったようなその表情は、彼をぎょっとさせた。彼は話しながらも、自分の言葉の無意味さばかばかしさを、ひしひしと感じた。
「あなたはいつでもそうなんですわ」良人のいうことがまるっきりわからない、といったような顔つきをして、彼のいった言葉の中でただ最後の一句だけを、故意にこころに留めながら、彼女はこう答えた。「わたしが退屈がっているのがおいやかと思うと、陽気にしているのもご不快なんですもの。今夜わたし退屈じゃございませんでした。それがあなたのお気にさわりましたの?」
 カレーニンはぴくっと身をふるわせ、指を鳴らそうとして手を曲げた。
「あっ、お願いですから、ぽきぽきいわさないで下さい、わたし大きらいなんですから」と彼女はいった。
「アンナ、それがおまえのいうことかね?……」じっと虫を殺して、手の運動を止めながら、カレーニンは低い声でそういった。
「それがいったいどうしたんですの?」と彼女は大まじめな、喜劇がかった驚きの表情でたずねた。「いったいわたしに、どうしろとおっしゃるんですの?」
 カレーニンは口をつぐんで、片手で額と眼をこすった。彼は自分のしようと思ったこと、つまり社交界の目から見た妻の過失を警告するかわりに、妻の良心に関する点でわれともなく興奮して、なにかしら自分で築きあげた壁と戦っているのであった。
「私はこういうことをいおうと思ったのだ」と彼は冷やかに、おちつきはらって言葉をつづけた。「ひとつしまいまで聞いてもらいたい。おまえも知ってのとおり、私は嫉妬というものを恥ずべく、卑しむべき感情とみなしているから、決してこの感情に支配されるようなまねはしない。しかし、一定の礼儀上の掟《おきて》があって、罰を受けずにはそれを踏み越えることはできない。今晩は私が自分で気がついたのじゃない、一座の人みんなが受けた印象から判断して、おまえの態度挙動があまり望ましいものでないということを、すべての人が認めたわけなんだ」
「まるっきりなんのことやら合点がいきませんわ」とアンナは、ひょいと肩をすくめていった。『この人はどうだってかまわないんだけれど』と彼女は考えた。『ただ社交界で気づかれたものだから、それで気をもんでるだけだわ』
「あなた体の加減がお悪いんですわ、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ」と彼女はつけ加え、立ちあがって戸口の方へ行こうとした。けれど、カレーニンはそれを引き止めようとでもするかのごとく、そのさきにまわった。
 彼の顔は、今までついぞアンナが見たことのないような、醜い陰鬱な表情をしていた。彼女は歩みをとめて、頭をうしろや横へ傾けながら、持ち前の敏捷《びんしょう》な手つきでピンを抜きはじめた。
「さあ、わたし伺っていますわ、それからどうなんですの」と彼女はおちついた嘲るような調子でいった。「それどころか、興味をもって伺いますわ、どういうことか納得させていただきたいんですから」
 そういいながらも、彼女は自分の自然で、おちついた、正確な調子と、自分の使った言葉の選択に、われながら驚いてしまった。
「おまえの微細な点に、いちいち干渉する権利は私にはないし、また概してそんなことは無益な、いや、むしろ有害なことと考えておる」とカレーニンはいいだした。「われわれは自分の心の中をほじくりたてていると、そっとわからないままにしておいたらと思うようなものを掘り起すことが、よくある習いだからな。おまえの感情は、おまえの良心の問題だ。しかし、私はおまえの義務を指示することを、おまえに対し、自分に対し、神に対しての義務と心得ておる。私たちの生活は人間ではなく、神によって結ばれておるのだ。この結び目を破りうるものは、ただ犯罪あるのみで、しかもその種の犯罪は必ず刑罰を伴なうものだ」
「なんにもわかりませんわ。ああ、やれやれ、まああいにくと、眠くて眠くてたまりませんわ!」手早く髪をさぐって、残ったピンをさがしながら、彼女はそういった。
「アンナ、お願いだから、そんなふうにいわないでおくれ」と彼は、つつましやかにいった。
「あるいは私の考え違いかもしれないが、しかし私のいうことを信じておくれ。私がこういうのは、おまえのためでもあるが、また自分のためでもあるんだからね。私はおまえの良人で、おまえを愛しておるのだよ」
 一瞬、アンナの面は伏せられ、眼の中の嘲るような火花も消えた。しかし、愛するというひと言は彼女をぞっとさした。彼女は考えた。
『愛しているだって? いったいこの人に愛することなんかできるのかしら? もし愛ってものがあることを人から聞かなかったら、この人は決してこの言葉を使いはしなかったに違いない。この人には愛がなんだかわからないんだわ』
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、わたしは全くなんのことだかわかりませんわ」と彼女はいった。「もっとはっきりいって下さいな、何をあなたは……」
「まあ、しまいまでいわせておくれ。私はおまえを愛している。が、私は自分のことをいっておるのじゃない。この場合の主要人物は、私たちの子供とおまえ自身なのだからね。私のいうことはおまえの目に全く無用な、場所がらにはまらんもののように思われるかもしれない、それは大いにありそうなことだよ。もしかしたら、それは私の迷いから出たものかもしれん。そうだったら、どうか赦しておくれ。しかし、もしおまえ自身が、ほんの少しでも私のいうことに根拠があると思ったら、ひとつ考えてもらいたい。そして、もしおまえの心がそうだといったら、私に打ち明けて……」
 カレーニンは自分でも気がつかないうちに、準備したのとは全然ちがったことをいっていた。
「わたしなんにも申しあげることはありませんわ。それに……」やっとのことで微笑を制しながら、彼女は突然早口にいいだした。「ほんとうにもう、寝る時刻ですもの」
 カレーニンは吐息をついて、そのうえなにもいわず、寝室へいった。
 アンナが寝室へ入った時、彼はもう横になっていた。その唇はきっとひきしめられ、眼は彼女の方を見ていなかった。アンナは自分のベッドに入って、良人がまた口をきるのを、今か今かと待っていた。彼女は良人が口をきるのを恐れもすれば、またそうしてもらいたくもあった。しかし、彼は黙していた。彼女は長いあいだ、身動きもせずに待っていたが、やがて良人のことを忘れてしまった。彼女はもう一人のことを考えていた。彼女はその姿を見ていた。そして、彼のことを考えると、心が興奮と罪深い喜びでいっぱいになるのを感じた。突然、規則ただしくおちついた鼾《いびき》が聞こえた。カレーニンは自分の鼾にびっくりしたふうで、すぐにやめたが、二つほど呼吸する間を待って、鼾はさらにおちついた規則ただしさで始った。
「遅いわ、もう遅いわ」と彼女は微笑を浮べてつぶやいた。彼女は長いこと目を見開いたまま、身動きもせず横たわっていたが、その眼の光は自分でも闇の中に見えるような思いであった。

[#5字下げ]一〇[#「一〇」は中見出し]

 そのとき以来、カレーニン夫婦にとって新しい生活がはじまった。外から見ると、何も特別なことがあったわけではない。アンナはいつものごとく社交界へ出入りした。特に公爵夫人ベッチイのもとへ行った。そして、いたるところでヴロンスキイに会っていた。カレーニンはそれを見ながら、どうすることもできなかった。彼がまじめな話をしようとありたけの手をつくしても、彼女は何か楽しげな、けげんそうな表情の障壁をかまえて、よせつけなかった。うわべは同じようでありながら、内面の関係はがらりと変ってしまった。政治のほうではあれほど強いカレーニンが、ここではつくづくおのれの無力を感じた。さながら牡牛《おうし》のように、自分の頭上にふり上げられたように思われる斧《おの》のもとに、彼はおとなしく首をたれて待っていた。このことを考えはじめるたびに、もう一度やってみなくてはならない、善良な気持と優しい態度と確信の力で、まだ妻を救い出し、反省させる望みがあると感じて、毎日のようにそれをいいだそうと思った。しかし、いつも妻に話しはじめるたびに、彼女を捕えている悪と偽りの精霊が、自分をも捕えるのを感じた。で、彼は前に思ったのとまるで違ったことを、違った調子で話すのであった。彼はわれともなくいつもの癖で、そんなことをいう人間を愚弄するような調子で話しだした。この調子では、妻にいわなければならぬことを話すわけにいかなかった。
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