『アンナ・カレーニナ』1-11~1-20(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]一一[#「一一」は中見出し]

 レーヴィンは盃を飲み干した。二人はしばらく黙っていた。
「もう一つ、君にいっておかなきゃならんことがある。君はヴロンスキイを知ってるかい?」とオブロンスキイは、レーヴィンに問いかけた。
「いや、知らない。なんだってそんなことをきくんだね?」
「もう一びんもってきてくれ」ちょうどそんな必要のないときに、二人の盃に注ぎたしなどして、そばをちょこちょこしているダッタン人に向いて、オブロンスキイはいった。
「君がヴロンスキイのことを知らなくちゃならないというわけは、その男が君の競争者の一人だからさ」
「そのヴロンスキイって、いったいなにものだね?」とレーヴィンはきいたが、つい今しがたオブロンスキイの見とれていた彼の子供らしい有頂天な顔つきは、とつぜん意地のわるそうな、不快らしい表情になった。
「ヴロンスキイか――それはキリール・イヴァーノヴィッチ・ヴロンスキイ伯爵の息子の一人で、ペテルブルグの上流社会でも最もはなばなしい、模範的な青年の一人なんだ。僕はトヴェーリで勤務している時分、その男を知ったんだ。先生、新兵募集のためにそこへやってきてね。たいした資産家で、美男で、ひきも沢山あって、侍従武官なのだ。しかも同時に、実に愛すべき善良な青年なんだ。いや、ただ善良といっただけでは足りないくらいだよ。ここでまた旧交を温めたときわかったんだが、教養もあるし、実に聡明なんだ。あの男いまにえらくなるよ」
 レーヴィンは眉をひそめて、黙っていた。
「そこでだ、彼は君が発ってまもなくここへ姿を現わしたが、僕のにらんだところでは、先生キチイに首ったけなんだ。それに、君もわかるだろうが、母親も……」
「失敬だが、僕はなんにもわからない」気むずかしげに眉をひそめながら、レーヴィンはこういった。するとたちまち、兄ニコライのことを思い出し、この兄のことを忘れうるなんて、自分はけがらわしい人間だ、と考えた。
「君、ちょっとまってくれ、ちょっと」とオブロンスキイはにこにこ笑って、彼の手にさわりながらいった。
「僕はただ自分の知ってることを話しただけだ。そして、くりかえしていうが、この微妙かつ繊細な事柄でだね、僕の推察しうるかぎりでは、勝ちみは君のほうにあるように思う」
 レーヴィンは椅子の背にもたれていたが、その顔は蒼ざめていた。
「しかし、できるだけ早く、事を決めてしまうように忠告するな」とオブロンスキイは、相手の盃に注ぎたしながらいった。
「いや、ありがとう、僕はもう飲めない」と自分の盃をおしのけながら、レーヴィンはいった。「酔っぱらってしまう……ときに、君のほうはどうだね?」と、いかにも話題を変えたいようすで、彼はつづけた。
「もうひと言。いずれにしても、なるべく早くこの問題を解決するようにすすめるが、今夜は切り出さないほうがいいぜ」とオブロンスキイはいった。「あすの朝出かけていって、公式に結婚の申しこみをするんだ、そうすれば神さまが君を祝福して下さるよ……」
「どうしてだね、君は僕のとこへ猟をしに来たい来たいといってたくせに? この春やってこないかね」レーヴィンはいった。
 今となって、彼はオブロンスキイ[#「オブロンスキイ」は底本では「オヴロンスキイ」]を相手に、こんな話をはじめたのを、心底から後悔した。彼の特殊な[#「特殊な」に傍点]感情は、だれかしらペテルブルグの将校の競争|云々《うんぬん》の話や、オブロンスキイの想像や忠言で、すっかりけがされてしまった。
 オブロンスキイはにっと笑った。彼はレーヴィンの心中を察したのである。
「そのうちに行くよ」と彼はいった。「いや、君、女ってやつは、いっさいを操る発条《ばね》だね。現に僕のとこも形勢不穏だ、大いに不穏なんだよ。それもこれも、みんな女がもとなのさ。君ひとつ歯に衣《きぬ》きせずにいってくれないか」片手でシガーをとりだし、片手で盃をおさえたまま、彼は言葉をつづけた。「君の忠言が聞きたいんだから」
「いったいどういうことだね?」
「こういうことなんだよ。まあ、かりに君が結婚していて、細君を愛しているくせに、ほかの女と浮気したとする……」
「失敬だが、僕そんなことはとんとわからないよ。それはちょうど、僕が腹いっぱいたべたすぐあとで、パン屋のそばを通りかかって、パンを一つ盜む、それと同じような話で、わかりようがないじゃないか」
 オブロンスキイの眼は、いつにも増してぎらぎら光った。
「どうして? パンはどうかすると、矢も楯《たて》もたまらんほどいい匂いがするじゃないか」

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Himmlisch ist's wenn ich bezwungen
Meine irdische Begier;
Aber doch wenn's nicht gelungen,
〔Hatt'ich auch recht hu:bsch Plaisir!〕
もしわれ地上の望みに打ち克たば
そは天のごと清きわざなれ
されどよし我つたなくして破るるとも
なお直ぐにして美しき喜びはあり
[#ここで字下げ終わり]

 こういいながら、オブロンスキイは微妙なほほえみを浮べた。レーヴィンも同様、ほほえまずにはいられなかった。
「そう、しかし冗談はさておいて」とオブロンスキイはつづけた。「君わかってくれるだろう――その女は優しく、つつましい、愛情にみちた女で、しかも貧しい孤独な身の上なのに、なにもかも犠牲にしたんだよ。もうできてしまった今となってさ、ねえ、おっぽり出しちまっていいものだろうか? まあ、かりにだ、家庭生活を破壊しないために別れるとしても、その女をかわいそうに思ってはならんだろうか、なんとか方法を立てて、罪ほろぼしをしてはならんだろうか?」
「いや、もう勘弁してくれたまえ。君も知ってのとおり、僕にとっては、女はすべて二つの種類に分れてるんだ……いや、そうじゃない……より正確にいえば、一方には女があり、いま一方には……僕は堕落したりっぱな女なんて見たこともなければ、また見ることもないだろう。ところで、あの帳場に坐っていた、髪をくるくるカールした紅白粉《べにおしろい》だらけのフランス女、あんなのは僕にとって蛇同様だ。そして、堕落した女はみんなああいうふうなんだよ」
「じゃ、福音書に書かれている女は?」
「ああ、よしてくれ! もし後世みんながこれほど濫用すると知っていたら、キリストも決してあの言葉を口にしなかったろうよ。福音書一巻の中で、みんなが覚えているのは、ただあの言葉ばかりなんだからなあ。もっとも、僕は頭の中で考えてることをいってるんじゃなくて、ただ感じたことをしゃべっただけだよ。僕は堕落した女にたいして、嫌悪の念をいだいてるんでね。君は蜘蛛《くも》を恐れているが、僕はこの種の蛇を恐れる。ねえ、君だって蜘蛛を研究したこともなければ、その習性も知らないだろう、僕もそのとおりなんだ」
「君はそんな太平楽を並べてりゃよかろうさ。それは、あの左手で右の肩ごしに、いっさいの難問をぽんぽんとほうり投げてしまう、ディッケンスの描いた先生と同じこったよ。事実の否定は答えにならないからね。どうしたらいいのか、それをいってくれたまえ、いったいどうしたらいいんだね? 女房は年をとっていくのに、こっちは生命でいっぱいなんだ。あとをふり返って見るまもないうちに、もう女房をほんとうの感情で愛することはできない、としみじみ感じさせられる。どんなに女房を尊敬していたってだめなんだ。そこへ突然、かわいいのが手もとにぶつかると、もうおしまいだ。それこそおしまいだ!」とオブロンスキイは力のない絶望の調子でいった。
 レーヴィンは薄笑いした。
「そうなんだ、おしまいなんだ」とオブロンスキイはつづけた。「そこで、いったいどうしたらいいんだい?」
「パンを盗まないことだね」
 オブロンスキイは笑いだした。
「おお、道徳家先生! しかし、ここのところをよく合点してくれよ。まず二人の女がいて、一人はただ自分の権利のみを主張している。その権利は君の愛情なんだが、君はそれを与えることができない。ところが、もう一人のほうは君のためにすべてを犠牲にして、しかも何一つ要求しない。そのとき君はどうする? どういう行動をとる? そこに恐ろしいドラマがあるわけだよ」
「もしその問題について、僕の率直な言葉を聞きたいというのなら、いうけれど、僕はそこにドラマがあるなんて信じないね。それはこういうわけだ。僕にいわせれば、愛は……ね、覚えてるだろう、あのプラトンが『饗宴《きょうえん》』の中で定義している二種の愛さ――その愛は二つながら、人間の試金石となるものだよ。ある種類の人間は、一つの愛しか理解しないし、またある種類の人間は、もう一つの愛しか理解しない。ところで、非プラトニックの愛しか理解しない人間は、いくらドラマを云々《うんぬん》したってだめなんだよ。そういう愛には、いかなるドラマも生じえないからさ。おもしろい目をさしてもらってどうもありがとう、――さよなら、それがドラマの全部なんだ。またプラトニックな愛にとっても、ドラマはありえない、というわけは、この種の愛にあっては、すべてが明朗で清浄だからさ、そしてまた……」
 その瞬間、レーヴィンは自分の罪悪と、かつて経験した内部闘争を思い出したので、ふいにこうつけたした。
「もっとも、君のいうこともほんとうかもしれないよ。大きにそうかもしれない……わからない、まるっきりわからない」
「ねえ、君」オブロンスキイはいいだした。「君は非常に純粋な人間だ。それは君の特質であると同時に、また欠点でもあるのだ。君は自分が純粋な性格だもんだから、全人生が純粋な現象から成り立つようにと望んでいるが、事実そんなことはありゃしない。現に、君は行為が目的と一致するようにと望んでいるものだから、社会的活動や勤務生活を軽蔑しているけれども、そんなことはありえないよ。また君は、一人の人間の行動がつねに目的をもっていることを望み、愛と結婚生活が常に同一であることを望んでいるが、それもありえないことだ。人生の変化も、美も、魅惑も、すべて光と影でできてるんだからな」
 レーヴィンはほっとため息をついて、なんとも答えなかった。彼は自分のことを考えて、オブロンスキイ[#「オブロンスキイ」は底本では「オブロンスキー」]のいうことを聞いていなかったのである。
 とふいに、彼らは二人ともこういうことを感じた――自分たちは親友であって、いっしょに食事をし、酒を飲んだ。それは、二人をいっそうしたしく接近させなければならぬはずであるが、めいめい自分のことを考えていて、おたがいに相手のことなんかどうでもいいのであった。オブロンスキイはすでに一度、食事のあとで接近のかわりに、こういう極端な分離を経験していたので、この場合どういうふうにしたらいいか、ちゃんと心得ていた。
「勘定!」と叫んで、彼は隣の広間へ出て行った。すると、たちまち知り合いの副官に出会ったので、ある女優とその旦那の話をはじめた。副官と話をはじめると、オブロンスキイはとたんにほっとしたような気分になり、いつも過度な頭脳と精神の緊張を感じさせるレーヴィンとの対話の、疲れなおしができたような思いであった。
 ダッタン人が二十六ルーブリ何コペイカと、それにウォートカの追加をつけた勘定を持ってきたとき、レーヴィンは田舎の住人としてほかのときなら、自分の割前勘定になる十四ルーブリという額にぞっとするところであったが、いまはそんなことには気もとめず、払いをすまして帰途についた。着替えをして、自分の運命の決せられるシチェルバーツキイ家へ赴《おもむ》くためであった。

[#5字下げ]一二[#「一二」は中見出し]

 シチェルバーツキイ公爵の令嬢キチイは当年とって十八であった。彼女はこの冬はじめて、社交界へ出たのだけれども、その成功は二人の姉以上であり、母夫人の予想をはるかに越えたほどである。のみならず、モスクワの各舞踏会で踊った青年たちは、ほとんど洩れなくキチイに恋してしまい、はじめてのシーズンだというのに、もう二人までまじめな花婿の候補者ができた。それはレーヴィンと、その帰郷後あらわれたヴロンスキイ伯爵である。
 冬の初めレーヴィンが姿を現わし、ひんぴんと訪問するようになり、明らかにキチイを恋しているらしいようすは、キチイの将来について、両親のあいだにはじめてまじめな相談をさせることになり、また公爵と公爵夫人のいさかいの種ともなった。公爵はレーヴィンの味方で、キチイにとってあれ以上の良縁はないといったが、公爵夫人のほうは問題を回避する女性独特の癖で、キチイはまだ若いうえに、レーヴィンもいっこう真剣な意図があるという証拠を見せないし、キチイも彼に心ひかれているようすがない、等々の論拠を述べたのであるが、かんじんなことは口に出さなかった。――彼女は娘のために最もいい縁談を待っていたので、レーヴィンは彼女にとって虫が好かず、彼女はレーヴィンを理解できなかったのである。レーヴィンが突然モスクワを去った時、夫人は得々として、「ほらごらんなさい、わたしのいったとおりでしょう」と良人にいったものである。ヴロンスキイが出現した時、彼女はなおいっそうほくほくもので、キチイには単に良縁というだけでなく、三国一の良縁を結ばせなければならない、という意見を固めてしまった。
 母親にとっては、レーヴィンとヴロンスキイの間には、いかなる比較もありえなかった。レーヴィンが母夫人の気に入らなかったのは、彼の奇妙な驕激《きょうげき》なものの考え方であり、社交界で見せる無器用な態度であり(それは彼女にいわせると、高慢からきたものであった)、また牛馬や百姓相手に田舎で送っている(彼女の見解によると)、野蛮な彼の性格であった。それから、彼が娘に恋をして、一月半もせっせと通いながら、自分のほうから申しこみをしたら、相手かたにあまり大きな光栄を授けることになりはしないかと恐れでもするように、何かを待ち受け、ようすをうかがってばかりいて、年ごろの娘のいる家へ出入りする以上、はっきり話し合いをしなければならぬという作法をわきまえない、それもひどく公爵夫人の気に食わなかった。しかも、とつぜん、なんの話し合いもしないで、田舎へ帰ってしまったではないか。『まあ、あの人があんなすっきりしない男まえなので、キチイがほれこまなくてよかった』と母は肚《はら》のなかで思った。
 ヴロンスキイは、母夫人のあらゆる注文にはまっていた。たいへんな金持で、賢くて、家柄がよく、侍従武官としてはなばなしい栄達の途上にあり、うっとりするほどの美男子である。これ以上は望むことができないくらいである。
 ヴロンスキイは舞踏会でも、明らさまにキチイのあとを追いまわして、彼女といっしょに踊り、邸へもしげしげ出入りをしている、してみると、彼の意図の真剣さを疑うわけにはいかない。にもかかわらず、母夫人はこの冬じゅう恐ろしい不安と、動揺を感じさせられていた。
 当の公爵夫人は三十年前、伯母の仲人《なこうど》で結婚したのである。もう前からなにもかもわかりぬいている花婿候補が邸へやってきて、花嫁候補を見、自分でも相手がたに見られた。仲人役の伯母は双方の印象を聞いて、それぞれ相手がたに伝えた。印象は悪くなかった。その後、一定の日を定めて、予期された求婚が両親に申し入れられ、受納された。すべてがきわめてやすやすと簡単にいった。少なくとも、公爵夫人にはそう思われた。ところが、自分の娘たちで経験して、この一見して平凡なこと――娘を嫁にやるということが、いかに容易でなく、簡単でないかを思い知った。上の二人の娘ダーリヤとナタリヤを嫁にやるについて、どれほど心配したことか、どれほど思案に思案を重ねたことか、どれほど金を費《つか》ったことか、どれほど良人と衝突したことか! ところが今度、末娘を社交界へ出すについて、やはり同じ心配、同じ疑惑を経験し、上の二人のときよりさらにはげしい争論をくりかえした。老公爵は、すべての父親と同様に、娘の世評や純潔について、特別神経質であった。彼は無分別なほど娘のことをやきもきするたちであったが、秘蔵っ子のキチイについてはなおさらで、一歩ごとに夫人に向って、娘の世評を落すようなことをするといって、悶着を起すのであった。夫人はもう上の二人のときからそれには慣れっこになっていたが、今度はさすがの彼女も良人の神経質は多少もっとものところがあると感じた。最近、社会一般のやりかたがいろいろ変って、母親の義務がますます困難になったことを見てとった。キチイと同年の娘たちが何かの会をつくって、何とかの講義を聞きにいき、男性にたいして自由な態度をとり、一人で市中を歩きまわり、あいさつのとき小腰をかがめないものさえ多くなった。が、それより重大なのは、だれもかれも婿選みは自分たちのことであって、両親の知ったことではないと、固く信じきっていることである。
『このごろの結婚は以前のようではないわ』と、どの娘もどの娘も考えているばかりか、口にすら出している。おまけに、老人たちまでがみんなそうなのだ。それかといって、今ではどんなぐあいに娘を嫁にやるのか、公爵夫人はだれにきいても答えがえられなかった。子供の運命は両親が決めるというフランスふうのしきたりは、もはや用いられなくなり、誹議《ひぎ》されている。娘に完全な自由を与えるイギリスふうも、やはり採用されていない。ロシヤの社会では不可能なのである。ロシヤふうの仲介結婚の習慣はなにかしら醜態なように思われ、当の公爵夫人もみなといっしょにそれを冷笑している。しかし、どんなふうに結婚し、嫁入らせるかということは、だれにもわからないのである。このことで夫人の話しあう人はだれでもかれでも、異口同音に、
「とんでもない、今はもうそんな昔ふうは棄てなけりゃならない時ですよ。だって、結婚するのは子供たちで、両親じゃありませんからね。してみると、子供たちの考えるように、身のふりかたをつけさせなくちゃなりませんよ」というのであった。
 しかし、娘をもたぬ人は、そんなふうにいっているけれども、公爵夫人にはわかっていた――異性と交際しているうちに、娘は結婚の意志のない男や、良人としての資格のない男に恋するおそれがあった。夫人はいくら人から、現代では若い人たちが自分で自分の運命を処理するのが当然だ、といい聞かされても、そんなこと本当にしなかった[#「しなかった」は底本では「ならなかった」]。それは、たとえいかなる時代であろうとも、五つになる子供の一番いい玩具は弾丸をこめたピストルだ、などということがほんとうにならないのと同じである。そういったわけで、夫人は上の二人のとき以上に、キチイのことで心配なのであった。
 今は、ヴロンスキイが娘を追いまわすだけでやめてしまいはせぬかと、それが夫人は心配であった。彼女は、娘が早くもヴロンスキイを思っているのを見てとったが、あの人は正直な男だから、そんなふまじめなことはすまい、そう思ってみずから慰めていた。が、それと同時に、彼女はこういうことも承知していた――今のような自由交際の時代では、若い娘を夢中にさせるのは朝飯前の仕事であり、それに概して、男はそれくらいのことをなんとも思ってはいない。先週、キチイはヴロンスキイとマズルカを踊っているときの話を、母親にして聞かせた。その話はあるていど、母夫人を慰めてくれたけれども、すっかり安心というわけにはいかなかった。ヴロンスキイはキチイに向って、自分たちは兄弟二人とも母親に服従するのが習慣になっているから、母に相談しないでは何一つ重大なことは決行しない、といったのである。
「ですから、今も特別な幸福を待つような思いで、ペテルブルグから母が出てくるのを待ちかねているのです」
 キチイは、この言葉になんの意味もつけないで話したが、母親はそれを別様に解した。息子が老母の到着を一日千秋の思いで待っていることが、彼女にはちゃんとわかっていた。また老母がわが子の選択を喜ぶことも承知していた。で、ヴロンスキイが母の立腹を恐れて申しこみをしないでいるのが、ふしぎに思われるほどであった。とはいえ、夫人は結婚そのものはもとより、とりわけこうしたいろいろの心配から、ほっと重荷をおろしたかったので、すっかりそれを信じきる気持ちになっていた。長女のドリイが夫婦わかれしようとしている不幸な成りゆきは夫人にとってずいぶんつらいことではあったけれども、いま縁談のきまろうとしているキチイのことでやきもきしているために、そのほうにすっかり気をとられているのであった。今日はレーヴィンが姿を現わしたので、また新しい心配がふえた。キチイは母夫人の見たところでは、一時レーヴィンに好意をよせていたらしいから、よけいな義理立てをして、ヴロンスキイを断らなければいいが、それにだいたいレーヴィンの上京のために、もう大団円《だいだんえん》に近くなった話がごたごたして、延期になったりしなければいいがと、それが彼女は心配だったのである。
「どうなの、あの人は前から来てるの?」毋娘《おやこ》が家へ帰った時、公爵夫人はこうレーヴィンのことをたずねた。
「今日なのよ、ママ」
「わたしは、一つだけいっておきたいんだけれど」と夫人はいいだした。そのまじめな、しかも生きいきした顔つきで、キチイはなんの話かということを察した。
「ママ」と彼女はかっとなって、すばやく母の方へふりむきながらいった。「どうか後生だから、そのことはなんにもおっしゃらないで。あたし承知していますから、なにもかも承知していますから」
 彼女も母と同じことを望んでいたが、母のそれを望む動機が、彼女の気に食わないのであった。
「ただわたしがいいたいのはね、一方に気をもたせて……」
「ママ、後生だからおっしゃらないで。そのお話をするのはとても怖くて」
「しません、しません」娘が目に涙を浮べているのを見て、母はこういった。「でも、たった一つだけ、ねえ、キチイ、おまえはわたしに何一つ隠しだてしないと約束おしだったね。しないね?」
「決して、ママ、何一つ」とキチイはさっと赤くなって、母の顔をまともに見つめながら答えた。「でも、あたし今なにもお話することがないんですもの。あたし……あたし……かりにいいたいことがあったにしても、どういっていいかわからないわ……全くわからないわ……」
『いや、あの目つきじゃ嘘はいえない』娘の興奮と幸福にほほえみかけながら、母はそう考えた。公爵夫人が微笑したのは、かわいそうに、今キチイの心の中で進行していることが、どんなに偉大で意味ぶかいことかと考えたからである。

[#5字下げ]一三[#「一三」は中見出し]

 食事が終って夜の集りが始まるまでの間、キチイは戦闘の前の若人が感じるような気持を経験した。心臓ははげしく鼓動して、考えは何一つにも集中できなかった。二人の男がはじめて顔を合わす今晩は、自分の運命を決する時だと感じたのである。彼女はたえず二人を、ときには一人ずつ別々に、ときにはいっしょに想像してみるのであった。過去を考えると、彼女は優しい満足の気持で、レーヴィンに関する追憶に没頭した。少女時代の回想、亡くなった兄との交遊の追憶は、彼女と彼との関係に、何か特殊な詩美を添えるのであった。彼女は彼が自分を恋していることを確信していたが、その恋は彼女の心に媚《こ》び、喜ばしかった。で、レーヴィンのことを思い起すと、彼女は心が軽くなった。ところが、ヴロンスキイの追憶には、何か気まりのわるいところがあった。もっとも、彼はこのうえもなくりっぱな社交人で、おちついた人間であったが、それにもかかわらず、何かほんとうでないようなところがあった。それも彼のほうではなく――彼はごくさっぱりした愛すべき青年だった――彼女自身にあるのであった。ところが、レーヴィンに対しているときには、自分があくまで明朗な、さっぱりした女のような気がする。そのかわり、ヴロンスキイといっしょになった未来を考えるやいなや、彼女の目の前にははなばなしく幸福な展望が現われるけれども、レーヴィンとの将来はぼんやりとしか映らないのである。
 着替えのために二階へ上がり、姿見をちらと見た時、彼女は今日こそ生涯のよき日の一つであり、ありたけの力を完全に領有しているのを感じて、喜びを禁じえなかった。それは目前に控えていることのために、きわめて必要なのであった。彼女はおのれの中に表面的な静けさと、自由の動作の美を認めた。
 七時半に、彼女が下の客間へおりるやいなや、従僕が、「コンスタンチン・ドミートリッチ・レーヴィンさま」と取り次いだ。夫人はまだ居間にいたし、公爵は出てこなかった。『やっぱりそうだ』と思うと、体じゅう[#「体じゅう」は底本では「体じゆう」]の血が心臓へ流れよった。鏡をちらりと見て、彼女は自分の蒼白な顔にぎょっとした。
 いま彼女はたしかにわかっていた、彼がこんなに早く来たのは、自分ひとりだけの時をねらって、申しこみをするためなのである。と、この時はじめて彼女の目には、いっさいが別の新しい面から照らし出された。この時はじめて彼女は、これは自分一人に関係した問題ではない――自分がだれと結婚して幸福になるか、自分はだれを愛しているか、という問題ばかりでない、いま自分は現在愛している人間を侮辱しなければならないのだ、ということを悟ったのである。しかも、むごたらしく侮辱しなければならない……なんのためだろう? 彼が気持のいい男で、自分を愛してい、自分に恋しているためである。でも、しかたがない、そうしなければならない、そうならなければならないのだ。
『ああ、いったいあたしは自分でいわなくちゃならないのかしら?』と彼女は考えた。『あたしはあなたを愛しておりませんと、自分の口からいわなくちゃならないのかしら? そんなこと嘘だわ。では、ほかの人を愛していますっていおうかしら? いえ、そんなことはできない。あたし行ってしまおう、行ってしまうわ』
 彼女がドアのそばまで行った時、もう彼の足音が聞えた。
『いえ、これは卑怯《ひきょう》だわ。何をあたしは恐れなければならないだろう? あたし何も悪いことなんかしないんだもの。まあ、なるようにしかならないんだわ! ほんとうのことをいってしまおう。あの人だったら、きまりなんか悪いはずがないから、ああ、もう入ってらした。』男のたくましい、しかも臆病げな姿ぜんたいと、ひたと自分に注がれたぎらぎら光る眼を見た時、彼女はそうひとりごちた。彼女はさながら赦しでも乞うように、まともに男の顔を見て、手をさし伸べた。
「僕はどうやら時ならん時刻に伺ったようですね、あんまり早く」がらんとした客間を見まわして、彼はこういった。自分の見込みがあたって、だれも打明け話のじゃまをするものはないと見てとると、彼の顔つきは陰気そうになった。
「いいえ、そんなことございませんわ」といって、キチイはテーブルの前に腰をおろした。
「しかし、僕はあなたお一人だけのところへぶっつかろうと思って、それで伺ったんです」勇気を失わないために、腰をかけようともせず、相手の顔も見ないで、彼は口を切った。
「ママがただいま出てまいります。ママは昨晩たいへん疲れまして。昨晩は……」
 彼女は、自分の唇が何をしゃべっているかも知らずに、こういったが、祈るような愛撫するような眼を相手から放さなかった。
 レーヴィンはちらと彼女を見た。彼女は顔を赤らめて、黙っていた。
「僕は今日、長く逗留するかどうかわからない……それはあなたしだいだと、そういったでしょう」
 しだいに近づいてくるものにたいして、どう答えたらいいか自分でもわからず、彼女はだんだんと低くうなだれていった。
「あなたしだいだ、と」彼はくりかえした。「僕がいいたかったのは……僕がいいたかったのは……僕はそのために上京したんです……その……僕の妻になっていただこうと思って!」自分でも何をいったかわからずに、彼はこういいきった。が、最も恐ろしいことは口に出してしまったと感じて、ちょっと言葉を止め、彼女を見やった。
 彼女は男を見ないで、重々しく息をついていた。彼女の感じたのは歓喜の情であった。彼女の心は幸福に満ち溢れた。彼の愛の告白がこれほど強い感銘を与えようとは、夢にも思いがけなかったのである。けれども、それはほんの一|刹那《せつな》のことであった。彼女はヴロンスキイのことを思い起した。キチイはその明るい真実みのこもった眼をレーヴィンに上げた。その絶望したような顔を見ると、せきこんで答えた。
「そういうわけにはいりませんの……お赦しあそばして」
 ほんの一瞬間支えまでは、いかにキチイは彼に近く、彼の生活にとっていかに重要な存在であったか! ところが、今はなんと無縁のはるか離れた存在になったことか!
「それよりほかには、あるべきはずがなかったのです」と彼は相手の顔を見ないでいった。
 彼は一礼して、そのまま出て行こうとした。

[#5字下げ]一四[#「一四」は中見出し]

 ちょうどその時、公爵夫人が入ってきた。娘とレーヴィンが差し向かいになっているのを見、二人の苦しそうな表情に気がつくと、夫人の顔には恐怖の色があらわれた。レーヴィンはちょっと会釈《えしゃく》しただけで、なんにもいわなかった。キチイは眼を上げないで、黙っていた。『いい按配《あんばい》に断ってくれた』と母夫人は考えた、とその顔は、いつも木曜日ごとに客を迎えるときと同じ微笑に輝きわたった。彼女は腰をおろして、レーヴィンに田舎の生活のことをききはじめた。レーヴィンもまた坐りなおして、気づかれないうちに帰ってしまおうと、客の集まるのを待っていた。
 五分ばかりすると、キチイの友だちで去年の冬結婚したノルドストン伯爵夫人が入って来た。
 それは黒いぎらぎら光る眼をした、乾いた感じのする、顔の黄色い、病的に神経質な女であった。彼女はキチイが好きだったが、その愛情は既婚の婦人の処女に対する愛情の例にたがわず、自分のいだいている幸福の理想に従って、キチイを縁づけたいという希望となって現われた。彼女はキチイをヴロンスキイに世話しようと思っていたのである。レーヴィンにはこの冬のシーズンの初めころ、シチェルバーツキイ家でよく出会ったが、彼女の目にはいつも不快な人間に思われた。で、彼女はレーヴィンに会うたびに、この男をからかうのを仕事にしていた。
「わたしはね、あの男がさもえらそうにわたしを高みから見おろしたり、さもなければ、わたしがばかなもんだから、理屈っぽい話を途中でぷつりと切ってしまうか、でなければ、まあしかたがないから相手になってやろう、といったふうな態度をとるでしょう。それが好きなんですの。とても気に入ったわ。しかたがないから相手になってやろう、というのがね! あの人はわたしがいやでたまらない、それがわたしうれしいのよ!」彼女はレーヴィンのことをこんなふうにいった。
 それは考え違いではなかった。全くレーヴィンは彼女がいやでたまらず、心ひそかに軽蔑していたのである。それは彼女が自分の長所として誇っていたもの、つまり神経質なところや、すべて日常茶飯的ながさつなものに対する侮辱や無関心が、がまんできなかったからである。
 ノルドストン夫人とレーヴィンの間には、社交界でよく見うけられる関係が固定していた。それは二人の人間が表現上したしくつきあいながら、たがいに極端なまで軽蔑しあって、はてはまじめな応対もできなければ、しんから腹を立てる気にもならないほどにたちいたったのである。
 ノルドストン伯爵夫人は、さっそくレーヴィンにむかって攻勢をとった。
「まあ! コンスタンチン・ドミートリッチ! またわたしたちの堕落したバビロンへ出てらしったのねえ」いつか冬の初めに、モスクワはバビロンだといった彼の言葉を思い出しながら、小さな黄色い手をさし伸べて口をきった。「どうなんですの、バビロンが矯正《きょうせい》されたのか、それとも、あなたのほうが堕落なすったのか?」とつけたして、彼女は冷笑を浮べながらキチイをふりかえった。
「あなたが僕のいったことをそんなに憶えていて下さるとは、光栄の至りです、伯爵夫人」早くも体勢を取りなおしたレーヴィンは、いつものノルドストン夫人に対する時きまりの、習慣的な、冗談半分の敵対関係という立場をとった。
「さぞかし、そいつがあなたに強烈な印象を与えたことでしょうね」
「えええ、それはもう! わたしなんでも帳面に書きとめておくんですもの。ときに、どう、キチイ、あんたまたスケートをしてきたの?」
 こういって、彼女はキチイと話をはじめた。レーヴィンとしては、今この場を立ち去るのはずいぶんまずいやりかたには相違なかったが、それでもこのまずいことを思い切ってしてしまうほうが、一晩中ここに踏みとどまって、ときどきこちらをぬすみ見しては、自分の視線を避けるようにしているキチイを見るよりは、まだしもであった。レーヴィンは立ちあがろうとしたが、彼の沈黙に気のついた公爵夫人が話しかけてきた。
「あなたモスクワヘはしばらくご逗留のおつもりですの? だって、あなたはたしか地方自治会のほうにお勤めだったでしょう。だから、長逗留はおできにならないわけね」
「いえ、奥さん、僕はもう地方自治会には勤めておりません」と彼は答えた。「僕は四五日の予定で出てきたのです」
『この人は何か変ったことがある』彼のいかついまじめな顔に見入りながら、ノルドストン伯爵夫人はこう考えた。『どうしたのか、いつものお談義をはじめないんだもの。でも、わたし必ず釣り出してやるわ。キチイの前でこのおばかさんをけしかけるのが、わたしおもしろくってたまらない。ええ、釣り出してみせるわ』
「コンスタンチン・ドミートリッチ」と彼女はいった。「お願いですから、いったいどういうわけか、わたしの腑《ふ》に落ちるように話して下さいません――だって、あなたはなんでもごぞんじなんですもの――カルーガ県にあるわたくしどもの領地の百姓たちが、男も女もありったけのものをすっかり飲んでしまって、いま一文なしで年貢《ねんぐ》が払えないんですのよ。いったいこれはどういうことでしょう? あなたはいつも百姓をほめちぎってらっしゃるでしょう……」
 この時もう一人の婦人が部屋へ入ってきた。レーヴィンは席を立った。
「失礼ですが、伯爵夫人、僕は全くそういうことを何一つ知らないので、なんともご返事ができかねます」といって、婦人につづいて入ってきた軍人をふりかえって見た。
『これがきっとヴロンスキイに相違ない』とレーヴィンは考え、自分の推測をたしかめるために、ちらとキチイを見た。彼女は早くもヴロンスキイを見やって、レーヴィンのほうをふりかえった。われともなしに輝きをおびてきた彼女のまなざしを見ただけで、彼女がこの男を愛していることを悟った。彼女が口に出していったのと同じくらい、はっきりわかったのである。それにしても、これはそもそもどういう人物なのだろう?
 今となっては、結果がよかろうと悪かろうと――レーヴィンは踏みとどまらざるをえなかった。彼としては、彼女の愛している男が何ものであるかを、知らなければならなかった。
 世には何事にまれ幸運な競争者にぶつかるたびに、すぐさま相手のもっているいっさいの美点に面《おもて》をそむけて、ただ悪いところばかり見ようとする人がある。しかし、また反対に、その幸運な競争者の中に、勝利の原因となった資質を発見することを何よりの望みとし、うずくような心の痛みを覚えながら、ただ相手の善いところばかり探す、そういう人間もいるのである。レーヴィンはそうした種類の人間に属していた。しかし、ヴロンスキイの中のよいところ、好ましいところを発見するのは、ぞうさもないことであった。それはおのずと眼に入ってくるのだ。ヴロンスキイは、背のあまり高くない、肉づきのいい体格をしたブリュネットで、美しい顔は善良らしく、悠々とおちついた、しかもがっちりとした感じであった。その顔、体つき、短く刈りこんだ黒い頭髪《あたま》、剃り立ての青々した頤《あご》から、仕立おろしのゆったりした軍服にいたるまで、すべてがさっぱりしていて、同時に優美であった。入って行く婦人に道をゆずって、ヴロンスキイははじめ公爵夫人、それからキチイのそばへ行った。
 キチイのそばへ近よって行くとき、彼の美しい眼は格別やさしい輝きをおびた。
 ようやくそれと気づかれるほどの幸福そうな、つつましやかなとくとくたる微笑(レーヴィンにはそんなふうに感じられた)を浮べて、うやうやしく、用心ぶかく彼女のほうへ身をかがめながら、彼は小さな、しかし幅のある手をさし伸べた。
 みんなにあいさつして、二つ三つ言葉をかわすと、彼は腰をおろしたが、自分から眼をはなさずにいるレーヴィンのほうへは、一度もふりむかなかった。
「ご紹介させていただきます」と公爵夫人はレーヴィンを指しながらいった。「コンスタンチン・ドミートリッチ・レーヴィンさん。アレクセイ・キリーロヴィッチ・ヴロンスキイ伯爵」
 ヴロンスキイは立ちあがって、親しげにレーヴィンの眼を見ながら握手した。
「僕はたしかこの冬の初めごろ、あなたとごいっしょに食事をするはずになってたんですね」持ち前のさっぱりした開けっぱなしの微笑を浮べて、彼はこういった。「ところが、あなたがとつぜん田舎《いなか》へお帰りになったので」
「コンスタンチン・ドミートリッチは都会を軽蔑して、わたしたち都会のものを憎んでらっしゃるんですの」とノルドストン伯爵夫人は口を入れた。
「そんなに覚えていられるところをみると、きっと私の言葉があなたに非常な印象を与えたのでしょうね」といったが、もう前に一度おなじことをいったのだと思い出すと、レーヴィンは顔を真赤にした。
 ヴロンスキイはレーヴィンと、ノルドストン伯爵夫人の顔をちらと見て、にっと笑った。
「あなたはいつも田舎にいらっしゃるんですか?」と彼はきいた。「冬は退屈だろうと思いますが」
「退屈なことはありません、もし仕事があれば。それに、自分を相手にしてると退屈しませんね」とレーヴィンははげしい語気で答えた。「僕も田舎は好きです」レーヴィンの語調に気がついて、つかぬふりをしながら、ヴロンスキイはこういった。
「でも、伯爵、まさかあなたはしじゅう田舎住いをする、なんておっしゃらないでしょうね」とノルドストン伯爵夫人はたずねた。
「わかりませんね、長くすまってみたことがないですから。僕は妙な気持を経験しましたよ」と彼はつづけた。「ひと冬、母と二人でニイスで暮したことがありますが、あの時ほど田舎を懐《なつか》しく思ったことはないですよ、ロシヤの田舎、木の皮靴をはいた百姓《ムジック》のいるね。ニイスというところは、ご承知のとおり、それ自体退屈なところでしてね。それに、ナポリもソレントも、いいのはほんのちょっとの間だけですよ。全くああいうところへ行くと、特にひしひしとロシヤが、それも田舎が思い出されますね。それはちょうど……」
 彼はキチイとレーヴィンと両方にむかって話しながら、おちついた親しみのあるまなざしを、二人の上にかわるがわる移すのであった。明らかに、頭に浮んでくることをそのまま口に出しているらしかった。
 ふとノルドストン伯爵夫人が何かいいそうにしたのに気がついて、いいさしたことをそのままに口をつぐみ、注意ぶかく聞きはじめた。
 会話はいっときのやみまもなかった。で、いつも話題の切れた時に、古典教育と実務教育の比較論と、国民皆兵制度の是非という二門の重砲を準備している老公爵夫人は、それを戦線にくりだすおりがなかったし、ノルドストン夫人もレーヴィンをからかう隙がなかった。
 レーヴィンは一座の会話に仲間入りしたいと思ったけれど、それができなかった。『今こそ帰ろう』とのべつ肚《はら》の中でそういいながら、彼はなにやら待ち受けるような気持で、立ちかねていた。
 会話は廻転するテーブルとか、精霊とかいう問題に移っていった。降神術を信じていたノルドストン夫人は、自分の見たかずかずのふしぎを話しはじめた。
「ああ、伯爵夫人、ぜひ僕をつれていって下さい、お願いですから、一度つれていって下さい。僕は何一つ異常なことって見たことがないんですよ、いたるところそいつをさがしてるんですがね」とヴロンスキイは微笑を含みながらいった。
「よろしゅうございます、この次の土曜日にね」とノルドストン伯爵夫人は答えた。「でも、コンスタンチン・ドミートリッチ、あなたはお信じにならないのでしょうね?」と彼女はレーヴィンに問いかけた。
「なんだって僕にそんなことをおききになるんです?僕がなんというかごぞんじのくせに」
「でも、わたしあなたのご意見が伺いたいんですもの」
「僕の意見はただこれだけです」とレーヴィンは答えた。「その廻転するテーブルなんてものは、いわゆる教養階級が百姓以上でないってことを証明するばかりです。百姓らは眼の魔力だのまじないだの、妖術《ようじゅつ》だのを信じていますが、われわれは……」
「なんですの、あなたお信じにならない?」
「信じるわけにいきませんよ、伯爵夫人」
「でも、わたしが自分で見たとしましたら」
「百姓の女房だって、自分で家魔を見たっていってます」
「では、わたしが嘘をいってるとお思いですの?」
 そういって、彼女はうつろな笑い方をした。
「そうじゃないのよ、マーシャ、コンスタンチン・ドミートリッチは信じられないっておっしゃるだけなのよ」とキチイは、レーヴィンのために赤面しながらそういった。レーヴィンもそれを悟って、なおさらいらいらしながら答えようとした。が、ヴロンスキイはすかさず、例の開けっぱなしの愉快そうな微笑を浮べながら、一座を白けさせそうな会話に助け船を出した。
「あなたは、絶対に可能性をお認めにならないんですか?」と彼はたずねた。「それはなぜです? だって、われわれは自分の知らない電気の存在を認めてるじゃありませんか。それなら、なぜわれわれにとって未知の新しい力がありえないのでしょう、それは……」
「電気が発見されたときには」とレーヴィンは急いでさえぎった。「ただ現象が発見されただけで、どこからくるのか、どういう作用をするかってことはわからなかったのです。で、その応用ということを考えるまでには、長い長い世紀を要しました。ところが、降神術信者はその反対に、まずテーブルが字を書くだの、精霊がやってくるだのということからはじめて、これが未知の力だってことはそのあとからいいだしたんですからね」
 ヴロンスキイは、いつも人の話を聞くときの癖で、注意ぶかくレーヴィンの言葉を傾聴していた。どうやらその説に興味をいだいたらしい。
「さよう、しかし今では降神術信者もこんなふうにいっておりますよ――われわれはこれがどういう力か知らないけれども、とにかく力は存在する、そしてかくかくの条件のもとに働く、とね。だから、その力がなんであるかは、学者に闡明《せんめい》さしたらいいんですよ。いや、僕はそれが新しい力ではありえないという理由を認めません。もしそれが……」
「その理由は、ほかでもありません」とレーヴィンはふたたびさえぎった。「電気の場合では、樹脂で毛糸をこするたびに一定の現象が生じますが、降神術にいたっては、そのつどというわけにはいきません。したがって、これは自然現象ではない、ということになります」
 会話が客間としてはあまり固くるしい性質をおびてくる、とおそらくそう感じたのであろう、ヴロンスキイはもう反駁しないで、話題を変えようとつとめながら、愉快そうな微笑を浮べて、婦人連のほうへふりむいた。
「どうです、これから一つやってみようじゃありませんか、伯爵夫人」と彼はいいだした。けれど、レーヴィンは自分の考えをすっかりいってしまいたかった。
「僕の思うのには」と彼は言葉をつづけた。「あの降神術信者が自分の奇蹟を何かの新しい力で説明しようとする試みは、きわめて拙劣なものです。彼らはまっこうから精神的な力という点を強調しながら、それを物質的な実験によって証明しようとしてるんですからね」
 みんなは彼の議論がすむのを待ちかねていた。彼もそれを直感した。
「あなたはりっぱな霊媒《れいばい》におなりになると思いますわ」
 ノルドストン伯爵夫人はいった。「あなたには何か感激性がありますもの」
 レーヴィンは口を開けて、何かいおうとしたが、顔を赤らめて、なんにもいわなかった。
「ねえ、公爵令嬢、今すぐテーブルを出して、験《ため》してみようじゃありませんか」とヴロンスキイはいいだした。「奥さん、お許しくださいますでしょうか?」
 そういって、ヴロンスキイは目で小テーブルをさがしながら、立ちあがった。
 キチイは小テーブルをとりに立って行った。ふと通りすがりに、レーヴィンと視線が出合った。彼女は心の底からこの人が気の毒であった。まして、自分がもとで不幸に陥《おとしい》れたのであってみれば、なおさらである。『もしあたしを赦すことがおできでしたら、どうぞ赦して下さいまし』とその眼がいっていた。『あたしこんなに幸福なんですもの』
『だれもかれも憎みます、あなたも、自分も』と彼のまなざしは答えた。彼は帽子に手をかけた。しかし、彼はまだ帰っていけない廻《めぐ》り合わせになっていた。みんなが小テーブルのまわりに席を定め、レーヴィンが出て行こうとした瞬間に、老公爵が入ってきたのである。婦人たちにあいさつすると、彼はレーヴィンのほうへふりむいた。
「やあ!」と彼はうれしそうにいいだした。「もう前から? 君がここへきてるとは、わしも知らなんだよ。久しぶりに会えて大いに愉快だ」
 老公爵はレーヴィンのことを、時には『君』といったり、時には『あなた』といったりした。彼はレーヴィンを抱きしめて、ヴロンスキイにも気のつかぬまま話をはじめた。こちらは席を立って、老公爵が自分のほうを向くまで、おちついてじっと待っていた。
 キチイは、ああいうことがあったあとで、父から愛想のいい態度を見せられるのは、レーヴィンとしてさぞつらかろうと感じた。それからまた彼女は、父がヴロンスキイの会釈に対して、しぶしぶ冷やかな返礼をしたのにも気がつけば、ヴロンスキイが人なつっこい怪訝《かいが》の色を浮べて父を見つめながら、どうして自分に対してこんな無愛想な態度をとることができるのだろうと、その原因を理解しようとつとめたが、けっきょく理解できないでいるようすを見てとった。彼女は思わず赤くなった。
「公爵、コンスタンチン・ドミートリッチをこちらへよこして下さいましな」とノルドストン伯爵夫人がいった。「わたしたち実験がしてみたいんですから」
「実験てなんです? テーブルをまわすんですかな? いや、失礼ながら、皆さん、わしなんか指輪遊びでもしたほうがまだおもしろいですよ」ヴロンスキイをじっと見て、これが張本人だなと察しながら、老公はこういった。「指輪遊びのほうがまだしも意味がありますよ」
 ヴロンスキイはそのしっかりした眼を見張って、びっくりしたように老公をながめ、ようやくそれと見えるほどにやりと笑って、すぐノルドストン伯爵夫人に、来週催される盛大な舞踏会のことを話しかけた。
「あなたもきっとおいでになりますね?」と彼はキチイのほうへふりむいた。
 老公爵がむこうをふりむくが早いか、レーヴィンは見つからぬように客間を出た。この晩、彼がいだいて帰った最後の印象は、舞踏会のことをヴロンスキイにきかれたとき、それに答えたキチイの幸福そうな笑顔であった。

[#5字下げ]一五[#「一五」は中見出し]

 夜会が終った時、キチイはレーヴィンとの話を母親に伝えた。レーヴィンに対しては憐愍《れんびん》の情をいだいているにもかかわらず、申しこみ[#「申しこみ」に傍点]をされたと思うと心うれしかった。彼女は自分のとった態度の正しさをいささかも疑わなかった。けれども、床へ入ってから、長いあいだ寝つくことができなかった。一つの印象がしつこく彼女につきまとうのであった、それは、レーヴィンがじっと立って父の話を聞きながら、彼女とヴロンスキイのほうを見ていたときの顔である。眉をひそめて、その陰から沈んだ力のない善良な眼をのぞかしている顔。キチイはこの人が気の毒でたまらなくなって、思わず涙が眼に浮んだほどである。けれども、彼女はすぐそのレーヴィンに見変えた男のことを考えた。あの男らしいしっかりした顔、あの上品なおちつきぶり、だれに対したときでも全身に輝く善良さを、彼女はまざまざと思い起した。それから、いとしい人が自分にそそいでくれる愛を思い起して、彼女はまたもや喜ばしい気持になった。で、幸福の微笑を浮べながら枕に身を横たえた。『お気の毒だわ、ほんとにお気の毒だわ、でもしかたがないじゃないの、あたしが悪いんじゃないから』と彼女はひとりごちたが、内部の声は別のことをいっていた。彼女が後悔したのは、レーヴィンに思わせぶりをしたことか、それとも彼の求婚を断ったことか――自分でもよくわからなかった。しかし、いずれにしても、彼女の幸福は疑惑の念に毒されたのである。『神よ憐《あわれ》みたまえ、神よ憐みたまえ、神よ憐みたまえ!』と彼女は寝つくまで口の中で唱えつづけた。
 そのとき下の公爵の書斎では、秘蔵娘のことで両親のあいだにしばしばくりかえされる衝突が、またもや演じられていた。
「なんだって? わからなきゃいって聞かせてやろう!」と公爵は両手をふりまわしては、すぐさま白いガウンの前をぱっと合わしながら、大声でわめくのであった。「ほかでもない、おまえには誇りがないのだ、品位というものがないのだ、おまえたちはあのげすなばかばかしい縁談で、娘の顔に泥を塗っているのだ、一生を台なしにしているのだ!」
「まあ、とんでもない、後生ですからよして下さい、いったいわたしが何をしたとおっしゃるんですの?」と公爵夫人はほとんど泣きださないばかりにいった。
 彼女は娘と話したのち、幸福と満足のあまり、いつものとおり公爵のところへ夜のあいさつに行った。そして、レーヴィンの求婚とキチイの拒絶については、別に話をするつもりはなかったけれども、ヴロンスキイのほうはすっかり片がついたらしいということ、母親が到着すると同時に話が決まるに相違ないということだけ、良人にほのめかしたのである。そのときである、妻のこういう言葉を聞くとひとしく、公爵はふいにかっとなって、はしたないことをわめき散らしはじめたのである。
「おまえが何をしたかって? ほかでもない、第一にだ、おまえは花婿をおびきよせているから、今にモスクワ中の人に陰口きかれるに相違ない、またきかれても一言もないのだ。もし夜会を開くのなら、選り好みをしないでみんな呼ぶがいい。あの若造ども(公爵はいつもモスクワの青年たちをこういっていた)を残らず呼ぶがいい。ピアノひきでも呼んで、ダンスか何かするなら別だが、今夜みたいに花婿の候補者だけ呼んで、くっつけようとするなんかもってのほかだ。わしは見ておっても胸が悪い、じつに胸糞が悪いわい。ところが、おまえはまんまと目的を達して、娘をのぼせあがらしてしまったじゃないか。レーヴィンのほうが千倍もりっぱな人間だ。ところで、あのペテルブルグの、はいから[#「はいから」に傍点]男なんか、あんなものは機械ででも作れるくらいだ、あんな連中はどれもこれも似たりよったりで、揃いも揃ってやくざ者だ。よしんばあの男が王子さまのお血筋だろうと、わしの娘は何一つ不自由のない身の上なんだからな」
「だから、わたしが何をしたんですよ?」
「何をって……」と公爵は憤怒の声でどなった。
「わかってますわ」と公爵夫人はさえぎった。「あなたのいうことばかり聞いていたら、いつになったって娘を結婚さすことはできやしませんから。そういうことなら、田舎へひっこんでしまわなくちゃなりませんわ」
「ひっこんでしまったほうがましだよ」
「まあ、待って下さい。いったいわたしが強《し》いてとり入ろうとしてるとでも、おっしゃるんですの? そんなことなぞ、これっぱかりもありませんわ。ただあの人がとてもいい青年で、しかもあの子に夢中になっていますし、あの子のほうもどうやら……」
「そうよ、そのどうやらよ! ところで、もしほんとうにほれこんじまって、しかもあの男は結婚のことなんか、ろくすっぽ考えておらんとしたらどうする、え?……やれやれ、そんな憂《う》き目を見たくないもんだて!……『まあ、降神術! まあ、ニイス、まあ、舞踏会で……』」といいながら、公爵は夫人の身ぶりをまねているつもりで、ひと口ごとに小腰をかがめるのであった。「もしカーチェンカ([#割り注]キチイのこと[#割り注終わり])が本当にそうと思いこんだら、それこそあの子をふしあわせにしてしまうぞ……」
「まあ、どうしてそうお思いになりますの?」
「わしは思うのじゃなくって、ちゃんとわかっておるんだ。それを見ぬく目はおまえたち女じゃなくって、われわれのほうにあるんだからな。わしには真剣な気持をもっている人間はちゃんと見えておる。それはレーヴィンだ。ところで、あのおっちょこちょいの鶉《うずら》野郎なんか、ただちょっとご愉快がしてみたいだけなんだ、見え透いとるわ」
「まあ、あなたこそもう妙なことを思いこんでしまって……」
「いや、今に目がさめるだろうが、その時はもう遅いよ、ダーシェンカ([#割り注]ドリイ[#割り注終わり])と同じようにな」
「ああ、よござんす、よござんす、もうこの話はよしましょう」ふしあわせなドリイのことを思い出して、夫人は良人をおしとどめた。
「いや、けっこう、じゃ、さよなら!」
 おたがいに十字を切りあい、接吻をかわしながらも、めいめい自分の意見を固執《こしゅう》しているという感じをいだいて、夫婦は別れわかれになった。
 公爵夫人は、今晩こそキチイの運命は決せられたので、ヴロンスキイの意向は疑いの余地がないものと、はじめのうちは固く思いこんでいたが、良人の言葉は彼女の気持を濁《にご》してしまった。で、自分の寝室へ帰ると、キチイと同じように、測り知ることのできぬ未来にたいする恐怖を胸にいだきながら、『神よ憐みたまえ!』といくどか心にくりかえした。

[#5字下げ]一六[#「一六」は中見出し]

 ヴロンスキイはかつて家庭生活というものを知らなかった。母親は若いとき光まばゆいばかりの社交婦人で、結婚してからも、ことに寡婦《やもめ》になってから、かずかずのローマンスをつくっては、社交界に浮名《うきな》を流していた。彼はほとんど父の記憶がなく、幼年学校で成人したのである。
 まだごく若い時に、はなやかな青年士官として学校を出ると、彼はさっそくペテルブルグの富裕な軍人におきまりの軌道へはまりこんでしまった。彼はときどきペテルブルグの社交界へ出入りしてはいたけれども、色事はすべて社交界以外に限られていた。
 ぜいたくでがさつなペテルブルグ生活のあとで、彼ははじめて社交界の無垢《むく》な美しい令嬢に接近して、その愛を享《う》ける喜びを味わった。キチイに対する自分の態度に何か悪いところがあろうなどとは、まるで彼の頭に浮んでこなかった。舞踏会でも彼は主として彼女と踊った。彼女の家へもせっせと出入りした。ふつう社交界で語られること、つまりいろんなつまらないことを彼女と二人で話しあった。しかし、つまらないこととはいっても、女にとってはなみなみならぬものと思われるような特殊な意義を、彼はわれともなしに自分の話に加味したのである。何もべつだん、みんなの前でいえないようなことをいったわけではないが、彼は女がしだいに自分の意志に左右されてくるのを感じ、そう感じるといよいよ愉快になり、女に対する彼の感情はやさしくなっていった。彼としては、キチイに対する自分のやりかたは一定の名称を有していて、これこそすなわち、結婚の意志なくして若い令嬢をまどわすふるまいであり、これは、彼のごときはなばなしい位置にある青年にとっては、ありふれたものであるとはいえ、よからぬ行為の一つに相違ないということを、自分では意識していなかったのである。彼は自分がはじめてこの満足感を発見したような気がして、その発見を享楽していたのである。
 もしこの晩キチイの両親が話しあったことを聞くことができたら、もし自分の立場を家族という観点に移して、万一自分が拒絶したらキチイが不幸に陥るということを知ったなら、彼は心底から一驚を喫《きっ》して、しょせんそれを信じることができなかったに相違ない。自分に、というよりも、主として彼女にこれほど大きなこころよい満足を与えるものが、悪いことでありうるなどとは、彼として信じられない話であった。ましてや自分が結婚しなければならないというにいたっては、なおさら信じられないことであった。
 結婚ということは彼にとって、しょせんありうることとは思われなかった。彼は家庭生活を好まなかったばかりでなく、一般に彼の住んでいる独身者の世界から見ると、家族、特に良人というものには、何か縁もゆかりもない、氷炭相容《ひょうたんあいい》れぬ、そして何よりもこっけいなところがあるように思われた。しかし、ヴロンスキイは両親の話したことを夢にも知らなかったとはいうものの、この晩シチェルバーツキイ家を出た時、自分とキチイの間に存在していた精神的なつながりが、この晩特に強く固定したのを感じ、なんとかしなければなるまいと思った。しかし、何をしなければならぬか、何をすることができるか、彼にはとんと考えつけないのであった。
『なに、あれだけでもすてきなのだ』シチェルバーツキイ家を辞した時、いつものように清浄で新鮮なこころよい感じと(それは、彼が一晩じゅうタバコをすわなかったことにも原因していた)、同時に、自分を慕《した》う乙女《おとめ》の恋心に対する感激という新しい感じをいだきながら、彼はこう考えるのであった。『僕のほうからも、彼女のほうからも何一ついわなかったけれども、あの眼と声の調子だけの無言の会話で、おたがいによく気持がわかった。彼女はいつにもましてはっきりと、わたしは愛していますといったのだ。あれだけでもすてきだ。それに、なんというかわいらしいものごしだろう、気どりけがなくて、それにだいいち、あの信じきったような態度! おれ自身までが、今までよりも善良で、純潔になったような気持だ。自分にも心というものがある、自分にもいいところがたくさんあるような気がする。あのかわいいほれぼれしたような目つき! あの「それにとても……」といった調子』
『さて、それでどうなのだ? なあに、どうでもありゃしない。おれもいい気持だし、彼女もいい気持なんだもの』そこで彼は、今晩の締めくくりをなんとつけようかと思案しはじめた。
 彼は心の中で、これから行く先をひとわたりあたってみた。『クラブにするか? ベジク([#割り注]かるた[#割り注終わり])を一番やって、イグナートフとシャンパン酒を飲むか? いや、よした。花屋敷《シャトウ・デ・フルール》か? あすこなら、オブロンスキイに会えるだろう、クプレット([#割り注]小唄[#割り注終わり])、カンカン踊りか? いや、あきあきした。おれがシチェルバーツキイ家の人たちを好きなのは、あすこへいくとおれ自身までがよくなるからさ。家へ帰ろう』彼はホテル・ジュソーの自分の部屋へまっすぐに帰って、夜食を持ってくるように命じ、さてそのあとで着替えをし、枕に頭をつけるやいなや、ぐっすりと寝入ってしまった。

[#5字下げ]一七[#「一七」は中見出し]

 翌日の午前十一時、ヴロンスキイはペテルブルグ線の停車場へ、母を出迎えに行った。正面大階段の上で、まず最初に出会った人は、同じ汽車でくる妹を待つオブロンスキイであった。
「よう! 御前《ごぜん》!」とオブロンスキイは叫んだ。「君はだれを迎えに?」
「僕はおふくろの出迎えさ」オブロンスキイに会った人がだれでもするように、ヴロンスキイはにこにこ笑いながら答えて、握手をすると、いっしょに階段を昇っていった。「今日ペテルブルグから出てくるはずなのでね」
「ときに、僕は昨夜二時まで君を待っていたんだぜ。シチェルバーツキイ家からどこへ行ったんだね?」
「家へ帰ったよ」とヴロンスキイは答えた。「じつのところ、僕は昨夜シチェルバーツキイ家を出たとき、あまりいい気持だったので、どこへも行きたくなくなったのさ」
「駿馬はその烙印によって知られ、恋せる若人はその眼によりて見分けらる、か」とオブロンスキイは、前にレーヴィンにいったと同じことを、朗誦《ろうしょう》口調でいった。
 ヴロンスキイは、あながちそれを否定しないよ、といったようすでにっこり笑ったが、すぐに話題を変えた。
「ところで、君はだれを迎えにきたの?」
「僕かい? 僕は妙齢の佳人をさ」とオブロンスキイはいった。
「Honni soit qui mal y pense!(そを悪《あ》しと想う者に禍あれ)妹のアンナだよ」
「ああ、それじゃカレーニン夫人だね!」とヴロンスキイはいった。
「君はきっとあれを知ってるだろうね?」
「知ってるように思う! それとも、違うかな……ほんとうのところ、覚えていない」カレーニン夫人という名前で、なにかとり澄ました退屈なものをばくぜんと連想しながら、ヴロンスキイはとりとめのない返事をした。
「しかし、僕の妹婿、あの有名なアレクセイ・アレクサンドロヴィッチはきっと知ってるだろう。世界中に知られているからね」
「つまり、世間の評判だけでなら知っている、それに風采《ふうさい》も。聡明で、学識があって、ほとんど崇高なくらいな人物だってことは承知してるよ。しかし、君もわかってくれるだろうが、それは僕の…… not my line(僕には畠ちがいだ)」とヴロンスキイはいった。
「そう、あれは実にたいした人物だよ。いささか保守主義だが、しかしりっぱな人物さ」オブロンスキイはいった。「りっぱな人物さ」
「そりゃ彼のためにけっこうなこった」とヴロンスキイは微笑を浮べていった。「やあ、おまえも来ていたのか」戸口に立っている背の高い母の老僕に向って、彼は声をかけた。「こっちへ入れよ」
 最近ヴロンスキイは、一般にすべての人がオブロンスキイにいだいている好感以外、心中ひそかに彼をキチイと結びつけて考えているために、なおこの人にひきつけられるような気がするのであった。
「ときに、どうだね、日曜日には乙女[#「乙女」に傍点]のために晩餐会をやろうじゃないか?」と彼は微笑を浮べて相手の腕をとりながらいった。
「ぜひとも。僕が有志を募ろう。あっ、そう、君は昨夜、僕の親友のレーヴィンと近づきになったろう?」とオブロンスキイはたずねた。
「もちろん。でも、なんだか早く帰ってしまったよ」
「あれは実に愛すべき男だ」とオブロンスキイはつづけた。「そう思わんかね?」
「わからないね」とヴロンスキイは答えた。「いったいどうしてモスクワの人はだれでも一様に、といっても、いま話してるご当人は別だがね」と彼はふざけた調子でつけたした。「何かしらとげとげしいところがあるんだろう? なんだか始終ぷりぷりして、むきになるんだからね、まるで何かしら相手に思い知らせてやるぞ、とでもいうようにさ」
「そういうところがあるよ、たしかにあるよ」とオブロンスキイは愉快そうに笑いながらいった。
「どうだ、もうすぐかね?」とヴロンスキイは駅員に問いかけた。
「汽車はもう前の駅を出ました」駅員は答えた。
 列車の接近は、停車場の準備行動や、荷運び人夫の走りまわるようすや、憲兵や駅員たちの出現や、出迎え人の集ってくることで、だんだんはっきりと感じられるようになった。半外套に柔らかいフェルトの長靴をはいて、彎曲部のレールを渡っている人夫たちの姿が、凍った水蒸気を透して見えた。ずっとむこうのレールでは機関車の汽笛が聞こえ、何か重いものを動かす気配がした。
「いや」とオブロンスキイはいった。彼はレーヴィンのキチイに対していだいている気持を、ヴロンスキイに話したくてたまらなかったのである。「違う! 君は僕のレーヴィンに不当な評価を下している。とても神経質な人間で、ときとして不快に感じられることもある、それはたしかだけれど、そのかわりどうかすると、つくづく好漢だと思うよ。じつに潔白な、正直なたちで、美しい心の持ち主なんだよ。しかしね、昨日は特別な原因があったのさ」きのう自分の親友にたいして感じた心底からの同情を忘れはてて、今はその気持をただヴロンスキイにたいしてのみ感じながら、オブロンスキイは意味ありげな微笑を浮べて、言葉をつづけた。「そうなんだ、一つの原因があってね、あの男はかくべつ幸福になるか、それとも特にふしあわせになるか、どちらかだったのさ。」
 ヴロンスキイは立ちどまって、真正面からこうたずねた。
「といって、なにかね、あの男は昨日君の 〔belle soe&ur〕(義妹)に申しこみでもしたのかい?」
「おそらくそうだろう」とオブロンスキイは答えた。「昨日は何かそういった様子が見えていたよ。そうだ、もしあの男が早く帰ってしまって、そのうえきげんが悪かったとすれば、たしかにそうなんだ……ずっと前から首ったけだったんだね、僕はあの男がしんからかわいそうだよ」
「へえ、そうなのかい!………しかし、僕にいわせれば、君の妹さんはもっといい配偶を望む資格があると思うよ」とヴロンスキイはいい、ぐっと胸を張って、また歩きにかかった。「もっとも、僕はあの人を知らないが」と彼はつけたした。「まあ、なんにしてもつらい立場さね! それがために、大多数のものはクララとかなんとかいう女を相手にしたほうがいい、という気になるんだよ。このほうなら、ふられるのは金がたりないのを証明するばかりだが、この場合は人間としての資格がはかりにかけられるんだからね。だが、やっと汽車が入ったよ」
 なるほど、はるかかなたに早くも汽笛が響いた。しばらくすると、プラットフォームがぴりぴり震えて、寒気のために蒸気を下へ下へと吐き出し、中部車輪の槓杆《こうかん》をゆっくりと規則ただしくかがめたりのばしたりしながら、機関車がすべりこんで来た。襟巻に顔を包んで、体じゅう霜だらけになった機関手が、しきりにおじぎをしている。炭水車のあとから、きゃんきゃん鳴きたてる犬を入れた手荷物車が、だんだん速力をゆるめ、しかもいよいよはげしくプラットフォームをゆるがしながら入って来た。そして最後に、客車が停車前の細かい震動をしながら近づいた。
 小意気な車掌が、呼子をぴゅっと鳴らして飛びおりをした。と、そのあとから、せっかちな乗客が一人ずつおりはじめた。体をぐいと伸ばして、いかめしくあたりを見まわしている近衛将校、サックを手に持って、おもしろそうににたにたしている小商人、大きな袋を肩に背負った百姓。
 ヴロンスキイはオブロンスキイと並んで立ったまま、客車客車や、出てくる人たちを見まわしながら、すっかり母親のことを忘れていた。今キチイについて聞いたことは、彼を喜ばせ、興奮させた。彼の胸はわれしらず大きく張り、その眼はぎらぎら輝いていた。彼はわれこそ勝利者であると感じた。
「ヴロンスカヤ伯爵夫人はこの箱にいらっしゃいます」と小意気な車掌がヴロンスキイに近づいて、こういった。
 車掌の言葉は彼を呼びさまし、母親のこと、目前に迫った対面のことを思い出させた。彼は内心母親を尊敬していなかった。そして、なぜか知らないが、愛してもいないのであった。もっとも、彼の住んでいるサークルの考え方からいっても、自分の受けた教育からいっても、最上級の服従と尊敬よりほか、母にたいする態度を想像することもできなかったので、心の中で母を尊敬する念が少なければ少ないだけ、うわべはますます従順で、うやうやしい態度になるのであった。

[#5字下げ]一八[#「一八」は中見出し]

 ヴロンスキイは車掌のうしろから車の中へ入っていったが、車室の入口のところで、中から出てくる貴婦人に道をゆずった。
 社交人には慣れっこになった勘で、この貴婦人の外貌を見るやいなや、ヴロンスキイは最上級の社会に属するひとだと判定した。彼は失礼といって、車室へ入ったが、もう一度この貴婦人をふり返って見たいという、やみがたき要求を感じた――それも、彼女が非常に美人だったからでもなければ、その姿ぜんたいに現われている繊細な感じと、つつましい優美さのためでもなく、彼女がそばを通りすぎたとき、その愛くるしい表情の中に、一種特別な優しい、愛想のいいところがあったからである。彼がふり返ったとき、彼女も同じように首をこちらヘ向けた。濃い睫毛《まつげ》のために黒く見える輝かしい灰色の眼は、さも親しげな注意をこめて、彼の顔を見つめた。それはさながら、彼がだれであるかを認めたかのようであった。が、すぐさま、だれかをさがすように、通りすぎていく群衆のほうへ転じた。このつかのまの凝視の中に、ヴロンスキイは彼女の顔に躍っているつつましやかな、生きいきした表情に気がついた。それは彼女の輝かしい眼と、こころもちゆがんでいる紅い唇を、あるかなきかの微笑となって飛びめぐるのであった。ありあまる何ものかが彼女の全存在に溢れて、それがわれともなしに眸《ひとみ》の輝きや、ほほえみとなって現われるかのようであった。彼女はしいて眼の輝きを消したが、それは彼女の意思に反して、あるかなきかの微笑となって光っていた。
 ヴロンスキイは車室へ入った。母親は黒い眼に黒い髪をした、かさかさの老婦人であったが、眼を細めてじっと息子を見ながら、薄い唇に軽い微笑を浮べた。ソファから身を起し、小間使にハンド・バッグを渡すと、彼女は息子に小さなかさかさした手をさしだし、その手に接吻するわが子の首を持ち上げて、額にキスをした。
「電報はつきましたか? 変りはないね? まあ、よかった」
「道中ごきげんよろしゅうございましたか?」と母のそばに坐って、息子はこう問いかけたが、戸の外から聞える女の声に思わず耳を傾けた。それは出口で会った貴婦人の声に相違ない、と気がついたのである。
「わたしそれでもあなたのご意見には不賛成ですわ」という貴婦人の声が聞えた。
「それは、奥さん、ペテルブルグ式の見方ですよ」
「ペテルブルグ式じゃありません、ただ女としての見方ですわ」と彼女は答えた。
「では、お手に接吻させて下さい」
「さよなら、イヴァン・ペトローヴィッチ。ああ、ちょっと見て下さいな、その辺に兄がおりませんか。いたら、こちらへくるようにおっしゃって」と貴婦人は戸のすぐそばでいい、また車室へ入ってきた。
「いかがでした。お兄さまお見つかりになりまして?」とヴロンスカヤ伯爵夫人は、こう貴婦人に話しかけた。
 ヴロンスキイは、これはカレーニン夫人だったと思い出した。
「お兄さまはここへみえています」と彼は立ちあがりながらいった。「失礼しました、ついお見それしまして。ほんのわずかな間のご交際でしたので」とヴロンスキイは会釈しながらつづけた。「きっと私をお覚えではありますまい」
「いいえ、どういたしまして!」と彼女はいった。「わたしもあなたに気がついたはずなんてございますのに。なぜって、わたしはお母様と道々あなたのことばかりお噂していたんでございますの」外へほとばしり出ようとしていた、例の生きいきした気持に、とうとう出口を与えて、微笑にあらわしながら、彼女はそういった。「ところで、兄はやっぱりまいりませんわ」
「アリョーシャ、おまえよんできておあげなさい」と老伯爵夫人は息子に命じた。
 ヴロンスキイはプラットフォームヘ出て、
「オブロンスキイ! ここだよ!」と叫んだ。
 けれども、カレーニナは兄がくるのが待ちきれず、その姿を見つけると、断乎とした軽い足どりで車を出た。兄がそばへよるが早いか、ヴロンスキイがびっくりするほど思い切った、しかも優美な身ぶりで、兄の頸《くび》を左手で抱き、すばやく自分のほうへ引きよせて、しっかりと接吻した。ヴロンスキイは目もはなさず彼女を見つめ、自分でもなんのためとも知らず、微笑するのであった。が、母親が待っていることを思い出して、また車の中へ入った。
「ねえ、かわいいひとじゃないかえ、そう思わない?」と伯爵夫人はカレーニナのことをいった。「ご主人があのひとを、わたしといっしょの室へお乗せになったんだけれど、わたしほんとうにうれしかった。途中ずっとあのひととおしゃべりしどおしでね。ときにおまえは、人の噂によると…… vous filez le parfait amour. Tant mieux, mon cher, tant mieux.(おまえはすっかり好きな人ができたんだってね。けっこうだよ、おまえ、けっこうだよ)」
「お母さん、何をほのめかしていらっしゃるのか、僕にはわかりません」と息子は冷たい調子で答えた。「どうです、お母さん、行きましょうか?」
 カレーニナは、伯爵夫人に別れのあいさつをするために、また車室へ入ってきた。
「さあ、奥さま、あなたはご子息にお会いになりましたし、わたくしは兄に会いました」と彼女は楽しげにいった。「それに、わたくしもお話がすっかり種切れになりましたから、もうこの上お話しすることもなさそうでございますわ」
「いいえ、違いますよ」と伯爵夫人は彼女の手をとって応じた。「わたしはあなたとなら、世界を一周したって、退屈なんかしませんよ。あなたは、お話をしても黙っていても気持のいい、そういうかわいい女のかたの一人でいらっしゃる。ところで、坊っちゃんのことはどうぞお考えにならないで。いつも離れないでいるわけにはまいりませんものねえ」
 カレーニナはひどく体をまっすぐにし、身動きもせずに立っていたが、その眼は笑っていた。
「アンナ・アルカージエヴナには」と伯爵夫人は息子に説明した。「坊っちゃんがおありになるんだよ、たしか八つだと思ったがね。一度もお離れになったことがないものだから、おいてらしたのを始終苦にしていらっしゃるんだよ」
「ええ、わたしは始終、奥さまとそのお話ばかりしていましたの。わたしは自分の子のことを、奥さまはまたご自分のお子さまのことばかりね」とカレーニナはいったが、またもやほほえみがその顔を照らした。それは彼に関連した優しい微笑であった。
「さぞかしご退屈なことでしょうね」相手が投げかけた媚態《コケトリイ》の毬《まり》を、すぐさま宙で受け止めながら、彼はこういった。けれども、彼女はどうやら、こういった調子の会話をつづけたくないらしく、老伯爵夫人のほうへふりむいた。
「まことにありがとうこざいました。わたくし、きのう一日をどうしてすごしたか、覚えがないほどでございました。では、奥さま、失礼いたします」
「さよなら、アンナ・アルカージエヴナ」と伯爵夫人は答えた。「どうかその美しいお顔に接吻させて下さいましな。わたしは年寄りですから、ざっくばらんに申し上げますが、あなたというかたが好きになりましたよ」
 この文句はずいぶん紋切型ではあったけれども、カレーニナは見うけたところ、心底からそれをほんとうにして、喜んだらしかった。彼女は顔を赤らめ、軽く身をかがめて、自分の顔を伯爵夫人の唇にさしだした。それから、また身を伸ばして、例の唇と眼の間にいざよう微笑を見せながら、ヴロンスキイに手をさし伸べた。こちらはさし出された小さな手を握ったが、彼女がエネルギッシュな握手をして、強く大胆に彼の手をふったのを、何か特殊なことのようにうれしく思った。彼女は、かなり肥えた体をふしぎなほど軽々と運ぶ早い足どりで、車から出ていった。
「ほんとにかわいい」と老母はいった。
 息子もそれと同じことを考えた。彼は、カレーニナの優美な姿が隠れつくすまで、そのあとを目送していた。ほほえみはその顔から消えなかった。窓越しに見ていると、彼女は兄に近づき、自分の手を兄の手にのせて、なにやら生きいきとした調子で話しはじめた。明らかに、それは彼ヴロンスキイになんの関係もないことらしかったが、彼はそれがいまいましいことに思われた。
「ときに、どうです、お母さん、体はすっかりいいのですか?」と彼は母のほうへ向きなおりながら、こうくりかえした。
「なにもかもけっこう、申し分なしだよ。アレクサンドルはとてもかわいかったし、それにマリイもたいそうきれいになってね。あの子は、なかなかうまみのある娘だよ」
 こうして、またしても彼女は自分にとって何よりも興味のあること――そのためにわざわざペテルブルグまで出向いた孫の洗礼のこと、長男に向けられた皇帝の特別な恩寵《おんちょう》などを話しだした。
「ああ、やっとラヴレンチイが出ました」とヴロンスキイは窓外を見ながらいった。「さあ、行きましょう、もしおよろしかったら」
 夫人と同伴できた老侍僕頭が、車室へ入ってきて、すっかり用意ができましたと報告した。で、伯爵夫人は出かけるために身を持ち上げた。
「行きましょう。もう人も少なくなりましたから」とヴロンスキイはいった。
 小間使はサックと狆《ちん》を持ち、侍僕頭と荷担《にかつ》ぎ人夫がほかの荷物を持った。ヴロンスキイは母の手をとった。けれども、彼らがもう車から出ようとしたとき、突然、いくたりかの人がおびえたような顔をして、そばを駆けぬけた。風変りな色の制帽をかぶった駅員も、同じように駆けて行った。何か変事が起ったのは明らかである。汽車から出た連中も、あとへ駆け戻った。
「何?……何?……どこで?……飛びこんだ! 轢《ひ》かれた!」という声が、そばを通る人々の間から聞えた。
 腕を組みあっていたオブロンスキイも妹のアンナも、やはりおびえたような顔つきをしてひっ返し、群衆をよけながら、車の出口に足を止めた。
 婦人たちは車の中へ入った。ヴロンスキイはオブロンスキイといっしょに、不祥事の詳細をききに群集のあとからついて行った。
 線路番人が、酔っぱらっていたのか、それとも極寒のためにあまり外套を深くかぶり過ぎていたのか、逆行する列車に気がつかないで、轢き殺されたのであった。
 ヴロンスキイとオブロンスキイが帰ってくる前に、婦人たちは侍僕頭からその詳細を知った。
 オブロンスキイもヴロンスキイも二人ながら、目もあてられない死骸を見たのである。オブロンスキイは見るからに苦しそうなようすであった。彼は顔をしかめて、今にも泣き出しそうにしていた。
「ああ、なんて恐ろしいことだ! ああ、アンナ、もしあれをおまえが見たら! ああ、なんて恐ろしい!」と彼はいいつづけるのであった。
 ヴロンスキイは黙っていた。その美しい顔はまじめな表情をしていたが、きわめて平静であった。
「ああ、伯爵夫人、もしあなたがごらんになったら」とオブロンスキイはいった。「細君がそこにいましてね……それは見る目も恐ろしい……亭主の死骸に身を投げて……何でも人の話では、その男が一人で大ぜいの家族を養っていたそうですよ。じつに恐ろしい」
「その女のために、何かしてやることはできないものでしょうか?」とアンナ・アルカージエヴナは、興奮したように小声でささやいた。
 ヴロンスキイはそれを一目ちらりと見て、いきなり車を出て行った。
「お母さん、すぐ帰ってきますから」戸口のところでふり返りながら、彼はこうつけたした。
 しばらくして彼が帰ってきたとき、オブロンスキイはもう伯爵夫人を相手に、新しい歌姫の話をしていた。夫人は息子を待ちかねて、じれったそうに戸口をふり返りふり返りしていた。
「さあ、今度こそ出かけましょう」とヴロンスキイは入りながらいった。
 彼らは打ち揃って外へ出た。ヴロンスキイは母とともに先頭に立ち、あとからはカレーニナが兄といっしょについて行った。停車場の出口で、あとを追ってきた駅長がヴロンスキイに近づいた。
「あなたですか、助役に二百ルーブリお渡しになったのは? ごめんどうですが、だれにおやりになるのか、はっきりおっしゃっていただきたいのですが」
「あの後家になった女ですよ」とヴロンスキイは肩をすくめながらいった。「何をきいておられるのか、わけがわかりませんよ」
「君めぐんでやったのかい?」とオブロンスキイはうしろから叫び、妹の手を握りしめながらつけたした。「じつにいい、じつにいい! ねえ、そうだろう、気持のいい男じゃないか? では、さよなら、伯爵夫人」
 こういって、彼はアンナとともに、妹の小間使をさがしながら立ち止った。
 二人が外へ出たとき、ヴロンスキイの馬車はもう行ってしまっていた。入ってくる人たちは、いまだにあの変事の話をしあっていた。
「どうも恐ろしい死にざまだなあ」と、ある紳士が通りすがりにいった。「まっ二つになったそうだよ」
「僕の考えはその反対だね、あっという間もない、一番らくな死に方だ」といま一人がいった。
「どうして適当な処置を講じないのだろう?」とさらに一人がいった。
 カレーニナは馬車に乗った。兄は、その唇がふるえ、かろうじて涙をおさえているのを見て、びっくりした。
「おまえどうしたんだい、アンナ?」馬車が幾百間か離れたとき、彼はこうたずねた。
「わるい兆《しらせ》ですわ」と彼女は答えた。
「何をつまらない」とオブロンスキイはいった。「おまえが来てくれた、これがいちばんかんじんなことだよ。僕がどれくらいおまえを頼りにしているか、想像もつかないだろうよ」
「兄さんは前からヴロンスキイさんをごぞんじ?」と彼女はきいた。
「ああ、ところでね、僕らはあの男がキチイと結婚するものと、楽しみにしているんだよ」
「そう?」とアンナは静かな声でいった。「さあ! いよいよ兄さんの話をしましょう」何かよけいな邪魔物を肉体的に追い払おうとするかのごとく首をふって、彼女はこうつけ加えた。「あなたの問題を話そうじゃありませんか。わたし兄さんの手紙を見たものだから、それで飛んで来たんですのよ」
「ああ、今ではおまえが唯一の望みなんだよ」と兄はいった。
「まあ、すっかりわけを聞かしてちょうだい」
 で、オブロンスキイは話しはじめた。
 家の前までくると、彼は妹を馬車からおろし、ほっとため息をついて妹の手を握り、役所へ馬車を走らせた。

[#5字下げ]一九[#「一九」は中見出し]

 アンナが部屋へ入ったとき、ドリイは小さいほうの客間に坐って、今ではもう父親に似てきた、頭の白っぽい、まるまるした男の子を相手に、フランス語の読み方のレッスンを聞いてやっていた。男の子は本を読みながらも、とれかかっている上着のボタンを手でひねくりまわしては、一生懸命にもぎちぎろうとしていた。母親は幾度もその手をのけさせたが、子供のふっくらした手はすぐボタンにかかるのであった。とうとう母親はボタンをひきちぎって、ポケットへ入れてしまった。
「手をじっとしてらっしゃい、グリーシャ」と彼女はいって、久しい前からの仕事になっている毛糸の掛蒲団をとりあげた。これはいつもつらいことがあったときにすることになっていたので、今も神経的に指を動かして、目を数えながら編みはじめた。彼女はきのう良人に向って、妹が来ようと来まいと、自分の知ったことではありませんと、召使を通していわせたにもかかわらず、なにかと彼女が到着したときの用意をして、わくわくしながら義妹を待ち受けているのであった。
 ドリイは自分の悲しみに打ちひしがれて、それにすっかり心をのまれていたとはいうものの、義妹のアンナがペテルブルグでも一流の政治家の夫人で、首府の grande dame(貴婦人)であることは、ちゃんと覚えていた。そういうわけで、彼女は良人にいったことを実行しなかった、つまり、義妹がくることを忘れなかったのである。
『それにまた、アンナはなんにも悪いことなんかないんだもの』とドリイは考えた。『わたしあのひとのことといったら、それこそいいことよりほかには何も知らないし、わたしに対する仕打ちだって、いつも親切で優しいんだもの』もっとも、ペテルブルグでカレーニンの家へ泊まったときの印象を記憶している限りでは、彼らの家そのものは彼女の気に入らなかった。
 彼らの家庭生活のありかたは全体として、なにかしっくりつぼにはまっていないような感じであった。
『それにしても、あのひとに会わないなんて理由はないわ。ただあのひとが、わたしを慰めようなんて気を起してくれなければいいが!』とドリイは考えた。『慰めだの、忠告だの、キリスト教徒としての赦罪だとか、そういうものはみんな百度も千度も考えてみたけれど、どれもこれもなんの役にも立ちゃしない』
 この数日間、ドリイはただ子供たちとばかり暮してきた。彼女は自分の悲しみを口に出すのはいやだったが、こういう悲しみを心にいだきながら、ほかのつまらない話をするのは、彼女としてできないことであった。いずれにせよ、アンナにはなにもかも話してしまうだろうと、自分でも前から承知していた。で、ときによると、なにもかも話してしまうのだと思うとうれしい気持がしたが、またどうかすると、自分の屈辱をあの男の妹に話して、できあいの忠告や慰藉《いしゃ》の言葉を聞かなければならぬのだと考えると、毒々しい気持になりもするのであった。
 よくあることだが、彼女は一分ごとに時計を見ながら、義妹の到着を待ちかねていたくせに、ちょうど客のきた一瞬をうっかりしていて、ベルの鳴る音を聞かなかったのである。
 もう戸口のところで衣《きぬ》ずれの音や、軽い足音を耳にして、彼女はうしろをふりかえった。と、そのやつれた顔にはわれともなしに、喜びならぬ驚きの色が現われた。彼女は立ちあがって、義妹を抱擁した。
「あら、もう着いたの?」
「ドリイ、やっとお目にかかれて、こんなうれしいことはありませんわ」
「わたしもうれしいことよ」アンナが事情を知っているかどうか、その顔の表情で察しようとつとめながら、ドリイは弱々しい微笑を浮べてこういった。『きっと知ってるんだわ』アンナの顔に同情の色を認めて、彼女はそう考えた。「さあ、行きましょう、あんたのお部屋へ案内するから」できるだけやっかいな話を先へ延ばそうと思って、彼女は言葉をつづけた。
「これグリーシャですの? まあ、なんて大きくなったことでしょう」とアンナはいい、男の子を接吻すると、ドリイから眼をはなさずにたたずんだまま、顔を赤らめた。「ねえ、どこへもいかないことにしましょうよ」
 彼女はショールをはずし、帽子を脱いだ。そのひょうしに、いたるところ渦を巻いている黒い髪のひと束に帽子がひっかかったので、頭をふりふり髪をはなした。
「まあ、あんたはいかにも幸福で健康そうで、光り輝いてるようだわ!」とドリイはほとんど羨望《せんぼう》の調子でいった。
「わたし?………そうね」とアンナは答えた。「あらまあ、ターニャ! うちのセリョージャとおない年だったわね」部屋へ駆けこんできた女の子を見て、彼女はこうつけたした。彼女はターニャを抱き上げて、接吻した。「かわいい子ね、なんてかわいいんでしょう! どうかみんな見せて下さいよ」
 彼女は子供たちの名前をことごとく呼びあげた。しかも名前ばかりでなく、すべての子供の年、月、性質、病気までも覚えていたのである。ドリイもそれには感心せずにいられなかった。
「じゃ、子供部屋へ行きましょう」と彼女はいった。「ヴァーシャは今ねんねしてるから、起すのかわいそうですもの」
 子供たちを見てから、彼女たちはもう二人きりで、コーヒーを前にして客間に坐った。アンナは盆に手をかけたが、またむこうへおしやった。
「ドリイ」と彼女は口を切った。「わたし兄さんから話を聞きましたわ」
 ドリイは冷やかにアンナを見やった。いま彼女は、わざとらしい同情の文句を期待していたのである。けれども、アンナは何一つそんなことをいわなかった。
「ドリイ、優しいドリイ!」と彼女はいった。「わたしはあんたにたいして兄の弁護もしたくなければ、またあんたを慰めようとも思いません。それはできないことですもの。でもね、ドリイ、わたしただあんたがかわいそうなの、しんからかわいそうでたまらないの!」
 輝かしい眼を縁とっている濃い睫毛の下から、ふいに涙が流れ出た。彼女は嫂《あによめ》のそばへ坐りなおして、精力の溢れているような小さい手で、ドリイの手をぎゅっと握った。ドリイは身をかわしはしなかったけれども、その顔はそっけない表情を変えなかった。彼女はいった。
「わたしを慰めるなんてできないことよ。あんなことがあった以上、なにもかもおしまいですわ。なにもかもだめになってしまったんだわ!」
 そういうかいわないかに、彼女の顔の表情はふいに和らいだ。アンナはドリイのやせたかさかさの手をとって接吻し、そしていった。
「でもね、ドリイ、どうしたらいいんでしょう、いったいどうしたらいいんでしょう? この恐ろしい立場に立って、どういうふうにするのがいちばんいいのでしょうね? それを考えなくちゃならないわ」
「なにもかもおしまいになったんだわ、それだけのことよ」とドリイはいった。「なによりもつらいのは、ね、あんたも察して下さるでしょうが、あの人を棄ててしまうことができないんですのよ。子供ってものがあるから、わたしは縛りつけられてるようなものよ。かといって、あの人といっしょに暮すことはできません。わたしあの人を見るのが苦痛ですもの」
「ドリイ、わたし兄さんから話を聞いたけど、今あんたの話が聞きたいの、なにもかもすっかりいってちょうだいな」
 ドリイは物問いたげな眼で彼女をながめた。
 偽りならぬ同情と愛が、アンナの顔にあらわれていた。
「じゃ、いうわ」ふいに彼女はきりだした。「でも、わたしそもそもの初めからお話しするわ。あたしの結婚がどんなものだったかは、あんたも知ってらっしゃるわね。わたしはお母さまの教育のおかげで、ただ無垢《むく》というばかりでなく、ばかだったんですわ。わたしなんにも知らなかった。なんでも人の話では、良人は妻に自分の過去の生活を話すもんですってね、わたしもそれを知ってるけれど、スチーヴァは……」といいかけて、訂正した。「スチェパン・アルカージッチは、なんにもわたしに話してくれませんでした。あんたはほんとうにできないでしょうが、わたしは今が今まで、あの人の知っている女は自分一人だけだと、思いこんでいたんですからねえ。こうしてわたしは八年間くらしてきました。察してもちょうだい、わたしは不実なしうちなんか疑ってみたこともないばかりか、そんなことなどありえないとまで思っていました。それが、まあどうでしょう。そういう頭でいるところへもってきて、寝耳に水で恐ろしいこと、けがらわしいことを一度に聞かされたんでしょう……ほんとうに察してちょうだい、自分の幸福を心底から信じ切っているところへ、突然……」とドリイは慟哭《どうこく》をおさえながら、言葉をつづけた。「手紙を見つけたでしょう……あの人が自分の情婦に、うちの家庭教師にあてた手紙、いいえ、それはあんまり恐ろしいことです!」彼女はそそくさとハンカチをとりだして、顔をおおった。「わたしも一時の浮気ならまだわかりますわ」しばらくだまってから、彼女はまたつづけた。「でも、計画的に狡猾《こうかつ》なだましかたをするなんて……しかも、相手はだれでしょう?………あんな女といっしょになりながら、引き続きわたしの良人でもあるなんて……ああ、恐ろしい! あんたにはとてもわからないでしょう……」
「いいえ、違います、わたしわかってよ! わかってよ、ドリイ、わかってよ」とアンナは彼女の手を握りしめながらいった。
「ところで、あの人はわたしの立場の恐ろしさをわかってくれると思って?」とドリイはつづけた。「これっから先もわかっちゃいないの! あの人は幸福で、満足してるんだわ」
「そりゃ違うわ!」アンナは早口にさえぎった。「兄さんは今みじめよ、後悔にうちのめされて……」
「あの人に後悔なんてできるかしら?」義妹の顔を注意ぶかく見つめながら、ドリイはさえぎった。
「できますとも、わたしあの人をよく知っていますもの。兄さんたら、かわいそうで見ていられなかったわ。ねえ、あんたもわたしもあの人をよく知ってるじゃありませんか。兄さんはいい人だけれど、誇りの強いところがあるでしょう、それが今はすっかり卑下《ひげ》してしまって。それに、何よりわたしが動かされたのは……(このときアンナは、ドリイの心を動かしうる最良の武器を考えついたのである)。兄さんは二つのことで苦しんでいますのよ。一つは、子供に対しても面目《めんぼく》ないということと、また一つは、あんたというひとを愛していながら……ええ、ええ、この世の何よりも愛していながら」何かいい返そうとするドリイを急いでさえぎった。「あんたにつらい目をさせたことなの、あんたに重い傷手《いたで》を負わせたことなの。『いや、いや、あれは決して赦してくれやしない』って、のべつそういってますわ」
 ドリイは義妹の言葉を聞きながら、物思わしげにその顔から眼をそらしていた。
「ええ、わたしわかるわ、あの人の立場は恐ろしいでしょう。悪いことをしたものは、罪のないものより苦しいっていいますからね」と彼女は口をきった。「もしあの人が、こういう不幸もみんな自分が罪を犯したからだ、とそう感じてるとすればねえ。でも、どうしてわたしに赦すことができると思って? あの女のあとで、どうしてもう一度あの人の妻になることができると思って? もうこうなったら、あの人といっしょに暮すのは苦痛だわ。というのも、つまり、自分の過去の愛情を愛してるからなの、あの人にたいする愛情を……」
 すると、慟哭《どうこく》の声がその言葉を中絶した。
 しかし、まるでわざとのように、彼女は気が折れるたびに、またしても腹のたつことをいいださずにいられなかった。
「だって、あの女は若いでしょう、器量がいいでしょう」と彼女はつづけた。「あんたわかって、アンナ、わたしの若さも器量もすっかりとられてしまったんですの……しかも、だれのためかといえば、あの人とあの人の子供のためなんですもの。わたしはあの人にお勤めをして、そのお勤めで、自分のもってるものを、すっかり費いはたしてしまったんだわ。だから、あの人は若い下等な女のほうをうれしがってるにきまっています。あの人はきっとあの女と二人で、わたしの噂をしたに相違ない、それともわざと黙っていたかしら、そのほうがもっと性《たち》が悪いんだけど……あんたわかる、この気持が?」
 ふたたび彼女の眼は憎悪に燃えたった。
「そんなことがあったあとで、あの人はわたしに向って、なんとかかとかいうでしょうが……ねえ、それがわたしに信じられて? 決して、決して。いいえ、もうなにもかもおしまいだわ、わたしのために慰めとなっていたもの、骨折りや苦しみの報酬となっていたものが、すっかりおしまいになったんだわ……あんたほんとうにするかどうか知らないけれど、今もわたしはグリーシャの勉強を見てやってたのよ。これまではそれが楽しみだったのに、今では苦しみになってしまったの。なんのために骨折ってるんだろう、なんのためにあくせく働いてるんだろう? なぜ子供なんかできたんだろう? とそう思ってね。何より恐ろしいのは、突然わたしの魂がひっくりかえしになって、やさしい愛情のかわりに憎しみが湧いてきたことなの。ええ、ただ憎しみばかりよ。わたしはいっそあの人を殺して……」
「ねえ、ドリイ、あんたの気持わかるわ、でもどうか自分で自分を苦しめないでちょうだい。あんたはてひどい侮辱を受けて、興奮してらっしゃるから、いろんなことにたいして見方が狂ってくるのよ」
 ドリイは静まった。二人は二分ばかり黙っていた。
「どうしたらいいの、アンナ、考えてちょうだい、助けてちょうだい。わたし思案を重ねたけれど、何一つ考えつけないんですもの」
 アンナも何一つ考えつくことはできなかったが、その心臓は嫂《あによめ》の一語一語、その顔の表情の一つ一つにじきじき反応していた。
「わたし一つだけいいたいことがあるわ」とアンナはいいだした。「わたしは妹ですから、あの人の性格をよく知っていますの、なにもかも忘れてしまって(彼女は額の前で手を動かしてみせた)、すっかり夢中になってしまうけれど、そのかわり心底から後悔する、あの人の癖を知っていますの。兄さんは今、どうしてあんなことができたかと、自分でもふしぎに思っているくらいですわ」
「いいえ、あの人はわかってるんです、わかってしているんです!」とドリイはさえぎった。「でも、あんたはわたしのことを忘れてるのよ……いったいわたしのほうが楽だとでもいうの?」
「まあ、待ってちょうだい。わたし兄から話を聞いたとき、正直な話、あんたの立場の恐ろしさが十分にわからなかったんですの。わたしは兄を見ただけで、家庭がめちゃめちゃになったということしかわかりませんでしたわ。わたし兄がかわいそうでしたわ。ところが、あんたと話をしてみたら、わたしも女ですから、見方が違ってきました。あんたの苦しみようを見て、どんなにお気の毒になってきたか、口ではいえないほどですわ! でもねえ、ドリイ、あんたの苦しみはすっかりわかったけれど、たった一つだけわからないことがあるの。わたしわからないというのは……あんたの心の中にまだどれだけ兄さんにたいする愛情があるか、それがわからないの。あんたにはそれがわかってるでしょう、――赦すことができる程度にその愛情があるかどうか。もしあったら、赦してあげてちょうだい!」
「いいえ」とドリイはいいかけたが、アンナはそれをさえぎって、もう一度嫂の手を接吻した。
「わたしはあんたより世間を知ってますわ」と彼女はいった。「スチーヴァみたいな人も知っていれば、ああいう人がこの問題をどう見ているかってことも知っています。あんたそういいましたね、兄があの女とあんたの噂をしただろう、って。そんなことありませんわ、ああいう人は不実なことはしても、自分の家庭とか妻とかいうのは、あくまで神聖なものとしています。どういうものか、ああした女はどこまでも軽蔑されているから、家庭ってもののじゃまにならないのよ。ああいう人たちは家庭と道楽の間に、なにかしら越えることのできない境目をつけてるんですの。わたしそのほうのことはわからないけれど、それはそのとおりですわ」
「だって、あの人はあの女に接吻して……」
「ドリイ、お願いだから待ってちょうだい。わたしはあんたに恋していた時分のスチーヴァを見て知っているわ。わたしあの時分のことを覚えているけれど、兄さんはよくわたしのとこへ来て、あんたのことを話しながら泣いたものよ。あんたは兄にとってこの上もない誇りだったわ、美そのものだったわ、兄はあんたといっしょに暮していればいるほど、あんたは兄にとって尊いものになっていったんです、わたしわかってるわ。だって、わたしたち以前よく兄のことを笑ったものよ。兄はひと口ごとに、『ドリイは驚くべき女だ』ってつけたすんですもの。あんたは兄にとっていつも神聖なものだったわ、今だって現にそのとおりで、今度のことなんかも魂の迷いじゃなくって……」
「でも、その迷いがくりかえされるようだったら?」
「そんなことがあろうはずはありません、わたしの知っている限りでは……」
「そう、でも、あんたなら赦せる?」
「わからないわ、なんともいえないわ……いえ、赦せます」とアンナはちょっと考えてからいった。それから、頭の中で状況をはっきりつかまえて、それを心の秤《はかり》にかけてつけ加えた。「いいえ、赦せます、赦せます、赦せます。ええ、わたしだったら赦すわ。そりゃ前々どおりではいられないでしょうが、でも赦しますわ。しかもそんなことなんかなかったように、まるっきりなかったように、赦してしまいますわ……」
「そりゃ、もちろんだわ」とドリイは早口にさえぎった。それは再三こころに思ったことを口にしたようなあんばいであった。「でなかったら、赦したことになりゃしないもの。赦すくらいなら、きれいさっぱりと赦さなくちゃ。じゃ、行きましょう、あんたのお部屋へ案内してあげますから」と彼女は席を立ちながらいった。そして、途中アンナを抱きしめて、「あんたはいい人ね、あんたが来てくれて、わたしどんなにうれしいかわからないわ。おかげで楽になった、ずっと楽になった」

[#5字下げ]二〇[#「二〇」は中見出し]

 アンナはその日いちんち家で、つまりオブロンスキイ家ですごし、だれにも面会しなかった。というのは、もう知人のだれかれが早くも彼女の到着を聞きつけて、その日に訪問したからである。アンナは午前中ずっとドリイと子供たちを相手におくった。ただ兄に簡単な手紙を役所へ持たせて、ぜひ家で食事をするようにといってやった。『帰ってらっしゃい、神さまはお慈悲ぶこうございます』と彼女は書いた。
 オブロンスキイは自宅で晩の食事をした。食卓の会話にはみんなが加わって、ドリイも良人と言葉をまじえ、『あんた』という呼び方をした。それは前になかったことである。夫婦の態度には依然としてよそよそしさが残っていたが、もう別れ話などはおくびにも出なかった。オブロンスキイは話しあいのうえ、仲直りをする可能性があると見てとった。
 食事がすむと、すぐキチイがやってきた。彼女はアンナ・アルカージエヴナを知ってはいたが、ほんの一面識にすぎないので、みんながしきりにほめそやすこのペテルブルグの貴婦人が、自分をどんなふうに迎えてくれるかと、今も多少びくびくものである。しかし、彼女はアンナの気に入った――それは彼女にもすぐわかった。アンナは明らかにキチイの美貌と若々しさに、見とれているふうであった。で、キチイは正気づく暇もないうちに、早くも自分が彼女の影響に支配されているばかりでなく、彼女にほれこんでさえいるのを感じた。それは若い処女が、よく年上の既婚の婦人を慕う、そういったふうなのである。アンナは社交界の貴婦人とか、八つになる男の子の母親とかいうふうには見えなかった。かの、キチイをはっとさせると同時に、強くその心をひきつけるまじめな、ときとしては沈みがちな眼の表情さえなかったら、身のこなしのしなやかなところからいっても、みずみずしさからいっても、微笑やまなざしに溢れ出るいつも生きいきした顔の表情からいっても、むしろ二十《はたち》くらいの娘に近いくらいであった。アンナがさっぱりした気性で、何一つ肚《はら》に隠していることがないのは、キチイもよくわかっていたけれど、それにもかかわらず、彼女の中には何かしら一段高い世界、キチイなどには及びもつかぬ複雑で詩的な興味にみちた、別の世界があるように思われた。
 食後ドリイが自分の居間へひっこんだとき、アンナは立ちあがって、葉巻をふかしている兄のそばへよった。
「スチーヴァ」と快活に眼くばせして、兄に十字を切り、戸のほうを目でさしながら、彼女はこういった。
「いらっしゃい、神さまが力をかして下さるから」
 彼は妹の言葉の意味を察して、葉巻を棄てると、戸の向こう側へ姿を隠した。
 オブロンスキイが出て行くと、彼女は子供たちにとりまかれながらもと坐っていた長椅子へひっ返した。ママがこの叔母さんを好いているのを見てとったからか、それとも自分で叔母のもっている特別な魅力を感じたのか、小さい子供にはよくあることだが、上の二人と、それにつづいて下の弟や妹までが、もう食事の前から新しい叔母にまつわりついて、そばを離れようとしなかった。そして、彼らの間には何かしら一種の遊戯みたいなものができてしまった。それはできるだけ叔母さんの近くに坐って、その体にさわり、小さな手を握って接吻し、その指輪をおもちゃにするか、でなければ、せめてその着物の襞《ひだ》にでもふれようというのであった。
「さあ、さあ、さっき坐ったとおりに坐るんですよ」とアンナは、自分の席におちつきながらいった。
 すると、またもやグリーシャは彼女の腕の下へ頭をつっこんで、その着物にもたれかかり、誇らしさと幸福の情に満面を輝かした。
「で、今度は舞踏会はいつですの?」と彼女はキチイに問いかけた。
「来週ですの、りっぱな舞踏会ですわ。いつも楽しい舞踏会の一つですのよ」
「まあ、いつも楽しい舞踏会なんてありますの?」とアンナは優しい冷笑の調子でたずねた。
「妙なことですけど、ありますの。ポブリーチェフ家のはいつでも楽しゅうございますし、ニキーチン家のもそうですわ。ところが、メジュコフ家のはいつも退屈なんですの。あなたお気づきになりませんでした?」
「いいえ、あなた。わたしにとってはもう楽しい舞踏会なんてありませんもの」とアンナはいった。すると、キチイはその眼の中に、自分には啓示されてないかの特殊な世界を認めた。「わたしにとっては、まあいくらか骨の折れない、多少退屈でない舞踏会があるばかりですの……」
「あなたが舞踏会で退屈なさるなんて、どういうことでしょう?」
「どうしてわたしは舞踏会で退屈するはずがないんでしょう?」とアンナはたずねた。
 アンナはどういう返事を聞かされるか、ちゃんと承知していた。キチイもそれに気がついたのである。
「だって、あなたはいつでも一番お美しくていらっしゃるんですもの」
 アンナは赤くなる癖があった。彼女は顔を赤らめて答えた。
「第一に、そんなことは決してありませんし、第二に、よしんばそうにしましても、そんなことがわたしにとって何になるでしょう?」
「あなた今度の舞踏会へお出になりまして?」とキチイはたずねた。
「どうも出ないわけにはまいりませんでしょうね。さあ、これをあげましょう」彼女の細いまっ白な指の先で、今にも抜けそうになっている指輪をひっぱっていたターニャにむかって、彼女はそういった。
「あなたがお出になりましたら、あたしほんとうにうれしゅうございますわ。あたし、舞踏会へお出になったお姿が拝見したくてたまりませんのよ」
「もし出かけるようなことになりましたら、それがあなたをお喜ばせすることになると思って、それをせめてもの慰めにいたしましょう……グリーシャ、後生だから、そういじくらないで。そうでなくっても、すっかりばさばさになってるんだから」グリーシャがおもちゃにしたために、こぼれたおくれ毛をなおしながら、彼女はこういった。
「あたしね、あなたが藤色のお召物をつけて、舞踏会へお出になったところが想像されますのよ」
「どうして必ず藤色でなくちゃなりませんの?」とアンナはほほえみながらいった。「さあ、子供たち、あっちイいらっしゃい、いらっしゃい。叔母さまのいうことが聞えて? ミス・グールがお茶をって呼んでますよ」と彼女は子供をもぎ離し、食堂のほうへ追いやりながらいった。
「なぜあなたがわたしを舞踏会へお呼びになるか、わたしちゃんと存じていますよ。あなたはその舞踏会に大きな期待をかけていらっしゃるので、みんなに居合わせてもらいたいのでしょう、みんなに参加してもらいたいのでしょう」
「どうして、それがおわかりになりまして? ええ、そうなんですの」
「ああ! あなたのお年ごろは全くようございますわね」とアンナは言葉をつづけた。「わたしもあの空色をした霧のような気分を覚えていますわ、知っていますわ、ちょうどあのスイスの山にかかった霧みたいな。その霧は、今にも少女時代を終ろうとするその幸福な時代には、なにもかもすっぽり包んでくれるんですのよ。その大きな、幸福で楽しい世界を出ると、道がだんだんだんだん狭くなっていきますけれど、その狭い道へ入っていくのが楽しくもあれば、息のつまるような気持もする……もっとも、その道は明るくて美しいように思えるんですけど。だれだって一度はこれを通っていくんですわね?」
 キチイは無言のままほほえんでいた。『でも、このかたがどんなふうにその道を通っていらしったんだろう?このかたのローマンスをすっかり知りたくてたまらないわ』彼女の良人であるアレクセイ・アレクサンドロヴィッチの散文的な風貌を思い起しながら、キチイは肚《はら》の中でこんなことを考えた。
「わたしもいくらか知っていますのよ、スチーヴァが話してくれましたから。おめでとうございます、わたしもあのひと気に入りましたわ」とアンナはつづけた。「わたし停車場でヴロンスキイさんにお目にかかりましたの」
「あら、あのかた停車場へいらっしゃいましたの?」とキチイは顔を赤らめてきいた。「いったいスチーヴァがどんなことを申しあげましたかしら?」
「スチーヴァがなにもかもしゃべってしまいましたわ。わたしもたいへんうれしく存じます……わたし昨日、ヴロンスキイさんのお母さまと汽車がいっしょでございましてね」と彼女はつづけた。「お母さまはのべつあの人のことばかり話していらっしゃいましたわ。――どうやらご秘蔵っ子らしゅうございますね。母親がどんなに子供に甘いものかってことは、わたしも承知しておりますけれど、しかし……」
「お母さまはあなたにどんなことをお話しになりまして?」
「それはいろいろなことを! あの人がお母さまの秘蔵っ子だってことは、わたしにもわかってますけれど、でもあの人はりっぱなナイトですわ、ちゃんと見えています……まあ、たとえば、お母さまはこんなお話をなさいましたっけ。あの人が全財産を兄さんにあげてしまおうとなすったり、まだ子供の時分にも何か非凡なことをなすったり――一人の女を水から救い上げなすったんですって。ひと口に申しますと、英雄ですわね」とアンナは微笑しながらいったが、その瞬間、彼が停車場で与えたあの二百ルーブリのことを思い出した。
 しかし、彼女はこの二百ルーブリのことは話さなかった。なぜかこのことを、思い出すといやな気持になるのであった。そこには何か自分に関係のある、しかもあってはならないことが隠れている、そういうような気がしたのである。
「お母さんはぜひ来てほしいと、くれぐれもお頼みになりましてね」とアンナはつづけた。「わたしもあのかたにお目にかかるのは楽しみですから、明日お訪ねしたいと思っておりますの。でも、いいあんばいに、スチーヴァがいつまでもドリイの居間にいますこと」とアンナは話題を変えて、立ちあがりながらこうつけ加えた。そのようすがキチイには、何か不満なように感じられた。
「いや、僕が先だ! いえ、あたいが先よ」お茶をすまして、アンナ叔母さんの方へ駆け出してきながら、子供らは口々に叫んだ。
「みんないっしょ!」とアンナはいい、笑いながら子供の方へ走っていって抱きつくと、有頂天になってばたばたしたり、きゃっきゃっ騒ぐ子供たちを、ひとかたまりにしておし倒した。