『アンナ・カレーニナ』7-11~7-20(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]一一[#「一一」は中見出し]

『なんという驚嘆すべき女だろう、美しくて優しい、しかも気の毒な女だ』オブロンスキイといっしょに、凍った外気の中へ出ながら、彼はこう思った。
「え、どうだ? 僕がそういったろう?」レーヴィンが完全に征服されているのを見て、オブロンスキイはこういった。
「うん」とレーヴィンは物思わしげに答えた。「なみはずれたひとだ! 賢いというより、驚くばかり真実みのあるひとだ。僕はあのひとがかわいそうでたまらない!」
「今度こそは、きっと何もかもうまくおさまるに相違ない。だから、そこなんだよ、見ない前から批評するもんじゃないよ」とオブロンスキイは、馬車の戸を開けながらいった。「じゃ、失敬、道筋がちがうから」
 アンナのことや、彼女とかわした単純な話のことを思いつづけ、それとともに、彼女の表情のこまかいとこまで思い起しながら、いよいよ彼女の立場を思いやり、彼女に対する憐愍《れんびん》を覚えながら、レーヴィンはわが家へ帰った。

 家へ帰ると、クジマーが主人にむかって、奥さまはお元気でいらっしゃいます、お姉上がたはつい先ほど、お帰りになったところでございますといって、二通の手紙をレーヴィンに渡した。彼はあとで気をまぎらされないために、すぐそこの控室で読んだ。一通は支配人のソコロフからきたものであった。ソロコフは、麦は売るわけにいかない、商人は五ルーブリ半しか価をつけないからである、そして金はどこからもとりたてるところがない、と書いていた。いま一通は姉の手紙で、いまだに用件がすまないのを責めていた。
『なあに、それ以上に価をつけないのなら、五ルーブリ半で売ってしまおう』今までたいへんむずかしいことに思われた第一の問題を、なみなみならぬ容易さでレーヴィンは決めてしまった。『ふしぎだな、ここへ来てから、ちっとも暇がありゃしない』と彼は第二の手紙のことでそう思った。彼は、今まで姉の頼みをしおおせていないのを、すまなく思った。『今日も裁判所へいかなかった。しかも、今日は本当に暇がなかったんだからなあ』
 明日こそ必ず行こうと決心して、彼は妻の部屋へ行った。妻の部屋へ行きながらも、レーヴィンは記憶の中で、今日の一日を迅速《じんそく》に点検してみた。今日いちんちの出来事は、ぜんぶ会話であった――彼が聞いたり、自分でも仲間入りした話ばかりであった。その話はどれもこれも、田舎に一人でいるときは、決して興味をもたないようなことばかりであった。ところが、ここにいると、それが非常におもしろいのである。それに、どれもこれもいい話ばかりであった。ただ二ところでした話は、あまりいいといわれなかった。一つは梭魚《かます》のことをいったときと、もう一つは、アンナにたいして感じた優しい愛情に、何かそうでない[#「そうでない」に傍点]ものがあった。
 レーヴィンが入って見ると、妻は沈みがちで、退屈していた。三人姉妹の食事はとても楽しかったはずなのに、いくら待っても待っても、彼が帰らないので、みんなつまらなくなって、二人の姉は帰って行った。で、彼女は一人とり残されたのである。
「で、あなた何をしていらしたの?」何かとくべつ怪しく光っている良人の目を見ながら、キチイはこうたずねた。けれど、良人がすっかりいってしまうじゃまをしないために、彼女は自分の特別な注意を隠して、けっこうけっこうというような微笑を浮べながら、良人がこの一晩をすごした報告を聞いていた。
「でね、僕はヴロンスキイに会ったのが、大いに愉快だったよ。僕はあの男と楽な気持で、ざっくばらんに話ができたよ。わかるだろう、僕はこれから、あの男と決して顔はあわさないようにするけれど、しかしあのばつの悪さだけは、おしまいにしたいものだよ」といったが、決してあの男と顔をあわさないように決心しながら[#「決してあの男と顔をあわさないように決心しながら」に傍点]、すぐその足でアンナのところへ行ったことを思い出して、彼は赤い顔をした。「ところでわれわれは、大衆が酒を飲むなんていうけれど、大衆かわれわれの階級か、僕はどっちかわからないよ。大衆はまあ祭日くらいなものだが、われわれは……」
 しかし、キチイにとっては、大衆がどんな飲み方をするか、などという理屈はおもしろくもなんともなかった。彼女は良人が赤くなったのを見て、そのわけが知りたくなった。
「そう、それから、どこへいらしたの!」
「スチーヴァがやたらに頼むもんだから、アンナ・アルカージエヴナのとこへ行ったよ」
 そういうと同時に、レーヴィンはまたいっそうあかくなった。すると、アンナのところへ行ったのがいいか悪いかという疑問は、いよいよはっきり解決がついた。あんなことをしてはいけなかったと、今さら彼は思い知ったのである。
 アンナの名を聞くと同時に、キチイの目はかくべつ大きく見開かれ、ぎらぎらと光った。が、しいてみずからおさえながら、彼女は興奮を隠して、良人をあざむいた。
「ああ!」と彼女はただそれだけいった。
「おまえはきっと、僕が行ったのに腹をたてはしないだろうね。でも、スチーヴァが頼むし、ドリイもそれを望んでいたものだから」とレーヴィンは言葉をつづけた。
「いいえ、どういたしまして」とキチイはいったが、その目の中には、自分をおさえようとする努力が見えた。それはレーヴィンにとって、そら恐ろしいものであった。
「あれはじつに愛すべき女で、じつにじつに気の毒な、いい女だよ」アンナのこと、そのしていること、それから彼女の伝言などを話した後、彼はこういった。
「ええ、そりゃあのひとは本当に、気の毒な女にちがいありませんとも」レーヴィンが話し終ったとき、キチイはそういった。「そのどこからきたんですの?」
 彼はそれに答え、そのおちついた調子にだまされて、着替えに行った。
 帰ってみると、キチイは前と同じ肘椅子にかけていた。彼がそばへよったとき、キチイはその顔を見上げて、わっと泣きだした。
「どうしたの? どうしたの?」すでに前から『どうしたのか』承知しながら、彼はこうたずねた[#「たずねた」は底本では「たずたね」]。
「あんたは、あのけがらわしい女に、ほれこんでしまいなすったんだわ、あの女はあんたに魔法をかけたんだわ。あんたの目つきで、あたしちゃんとわかったわ。そうよ、そうよ! これがいったいどうなるんだろう! あんたはクラブでさんざん飲んで、カルタをして、それから出かけたんですもの……しかも、それがだれのところなんだろう? だめよ、田舎へ帰りましょう……あたし明日にも帰るわ」
 長い間レーヴィンは、妻の心をおちつかすことができなかった。とどのつまり、酒といっしょになった憐愍《れんびん》の情で、何がなにやらわからなくなってしまったので、アンナの巧妙な感化力に巻きこまれたのだと告白し、これからあの女を避けるようにするからと誓って、やっと妻をなだめることができた。ただ一つ、さらに真心から告白したことは、こんなに長くモスクワに住んで、ただ社交界の話と、飲食のみにすごしているために、頭が変になったのだ、ということである。夫婦は夜中の三時まで話しつづけた。やっと三時になってから、すっかり和解ができたので、眠りに落ちることができた。

[#5字下げ]一二[#「一二」は中見出し]

 客を送り出すと、アンナは腰をおろさないで、部屋の中をあちこち歩きはじめた。彼女は無意識のうちに(最近いつも、すべての若い男にしむけたように)きょう一晩じゅう、レーヴィンが自分を愛するように全力を傾けたのである。妻のある潔白な男にたいして、しかも一晩のうちにできるだけの程度、その目的を達したのは、彼女自身にもわかっていた。レーヴィンはたいへん彼女の気に入ったけれども(ヴロンスキイとレーヴィンのあいだには、男の立場から見て、はげしい相違があったにもかかわらず、彼女は女として二人の共通点を見てとった。つまり、そのためにキチイは、ヴロンスキイをも、レーヴィンをも愛したのである)、しかしレーヴィンが部屋を出ると同時に、彼のことなど考えなくなった。
 ただ一つ、たった一つの想念が、さまざまな形をとって、執念《しゅうね》く彼女につきまとうのであった。『わたしがこれほどほかの男に、自分の妻を愛している家庭人にさえ、強い魅力をもつことができるのに、どうしてあの人[#「あの人」に傍点]はわたしに、ああも冷たいんだろう!……いや、冷たいというのじゃない、あの人はわたしを愛している、それはちゃんとわかっているけど、何かしら新しいものが、今わたしたちふたりを隔てている。どうしてあの人は一晩じゅう、姿を見せないのだろう? あの人は、ヤーシュヴィンをうっちゃっとくわけにいかないから、大佐の勝負を監督しなくちゃならないと、スチーヴァにことづけをしてよこした。でも、いったいヤーシュヴィンは、子供だとでもいうのかしら? まあ、かりにそれが本当だとしよう。あの人は決して嘘なんかつかない人だから。でも、その本当の中には、何か別なものがある。あの人は、自分には別の義務がいろいろあるってことを、わたしに思い知らせる機会があると、それをもっけのさいわいにしてるんだわ。わたしにはそれがわかっていて、それにはわたしも異存がないけれど、なぜそれをわたしに証明しなくちゃならないんだろう? あの人は、わたしにたいする愛情も、あの人の自由を妨げるわけにいかないってことを、わたしに証明したがっているのだ。でも、わたしには証明なんか要はない[#「要はない」はママ]、わたしに必要なのは愛情なんだもの。このモスクワの生活が、わたしにどんなに苦しいかってことを、あの人はわかってくれてもよさそうなはずだのに。いったいこれが生活なのかしら? わたしは生活なんかしてやしない。ただ大団円を待っているばかりだわ。ところが、それがだんだんのびのびになっていく。また今度も返事はありゃしない! スチーヴァも、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチのとこへは行けない、なんていうんだもの。ところが、わたしはもう一度、あの人に手紙を出すわけにいきゃしないわ。わたしは何一つすることも、何一つはじめることも、何一つ変えることもできやしない。わたしは自分をおさえて、いろんな気ばらしを考え出しながら――あのイギリス人の家庭だの、小説を書くことだの、本を読むことだので気をまぎらせながら、じっと待っているばかりだわ。でも、そんなことはみんなごまかしだ、みんなあのモルヒネと同じことだ、あの人はわたしをかわいそうと思ってくれなくちゃならないはずだわ』自己憐愍の涙が目に浮ぶのを感じながら、彼女はそうひとりごちるのであった。
 ヴロンスキイのけたたましいベルの音が聞えたので、彼女は急いでその涙をおし拭った。涙をおし拭ったばかりでなく、ランプのもとに坐って、平静を装いながら本を開いた。彼が約束どおり帰ってこなかったので、不満に思っていることを、彼に見せつけなければならなかったのである。しかし、それは不満だけであって、自分の悲しみは決して見せてはならない。わけても自己憐愍などは金輪際《こんりんざい》見せられない。自分で自分を憐れむのはかまわないけれども、彼に憐れんでもらいたくない。彼女は闘争など望んではいなかったので、彼が闘おうとするのを非難していたくらいであるが、自分でも知らずしらず、闘争の態勢になっていた。
「どうだね、退屈しなかった?」彼女のそばに近づきながら、ヴロンスキイは元気な浮きうきした調子でいった。「ばくちって、じつに恐ろしい本能だね!」
「いいえ、わたし退屈なんかしませんでしたわ。もうとうの昔に、退屈しないことを勉強しましたから。スチーヴァが来ましたわ、そしてレーヴィンと」
「そう、あの二人は、おまえのとこへ来たいといってたっけ。ときに、レーヴィンは気に入ったかい?」と彼は、アンナのそばに腰かけながらたずねた。
「とても。あの人たちはさっき帰ったばかりですわ。ヤーシュヴィンはどうでしたの?」
「はじめ勝ってたんだよ、一万七千ルーブリ。そのとき僕が呼んでやったので、先生ももうすっかり帰るばかりにしていたのに、またひっ返して行って、今度は負けだ」
「じゃ、なんのためにあなたお残りになったの?」ふいに男のほうへ目を上げて、彼女はこうたずねた。その顔の表情は冷やかで、敵意をおびていた。「あなたはスチーヴァに、ヤーシュヴィンを連れて帰るために残る、とおっしゃったでしょう。ところが、それをうっちゃって帰るなんて」
 おなじように冷たい戦闘準備の表情が、彼の顔にも現われた。
「第一、僕はなんにもおまえにことづけを頼みゃしなかったよ。第二に、僕は一度も嘘をついたことはない。まあ、何よりも、僕は残りたいから残ったまでさ」と彼は渋い顔をしていった。「アンナ、いったいなんのためだ、なんのためだ?」ちょっと黙っていた後、ヴロンスキイは彼女のほうへ身をかがめて、こういいながら、手を開いた。彼女がその上に、自分の手をのせるのを期待したのである。
 彼女は、こうした愛情の誘いかけがうれしかった。けれども、何かしらふしぎな悪の力が、その気持にまかせることを許さなかった。それはあたかも、闘争の条件が彼女に、降伏を許さないかのようであった。
「そりゃもう、残りたかったから、残りなすったのでしょうよ。あなたはなんでも、したいことをしてらっしゃるんですから。でも、なんのためにわたしにそんなことをおっしゃるの? なぜですの?」しだいしだいに激してきながら、彼女はこういった。「いったいだれかが、あなたの権利を否定したのでしょうか? でも、あなたは自分だけいい子になりたいんですから、いい子になってらっしゃるがよろしいでしょう」
 ヴロンスキイの手は閉じられた。彼はちょっと身をひいた。その顔は前よりもさらにかたくなな色をおびてきた。
「あなたにとっては、それは強情というだけのことですけど」じっと男の顔を見つめていたが、とつぜん、自分をいらいらさせるその顔の表情に名前を見つけると、彼女はこういった。「全く強情なんですわ。あなたにとって問題は、ただわたしにたいして勝利者になるかどうか、というだけのことですけれど、わたしにとっては……」彼女はまたもや、われとわが身がかわいそうになって、ほとんど泣きださないばかりであった。「わたしにとってこれがどういうことか、あなたにわかってもらえたらねえ! 今みたいに、あなたがわたしに敵意を――ええ、全く敵意ですわ――もってらっしゃるのを感じると、それがわたしにとってどんな意味をもつかってことは、とてもあなたに想像もつかないでしょうね! わたしが今この時、どんなに不幸に近づいているか、どんなにわたしが恐れているか――自分で自分を恐れているか、あなたにはしょせんおわかりにならないでしょうよ!」と彼女は慟哭《どうこく》を隠しながら、くるりとむこうをむいてしまった。
「まあ、いったいおまえどうしたのだ?」彼女の絶望の表情にぞっとして、またもや女のほうへ身をかがめ、その手をとって接吻しながら、彼はこういった。「なんのためだね? いったい僕が家の外で楽しみを求めている、とでもいうのかね? 僕が女との交際を避けていない、とでもいうのかね?」
「そうでしょうとも!」彼女はいった。
「ねえ、ひとついってもらおうじゃないか、おまえの心がおちつくには、いったいどうしたらいいんだね? おまえがしあわせになるためなら、僕はどんなことでも辞せないつもりなんだよ」女の絶望に動かされて、彼はこういった。「今のように、何かわけのわからぬ悲しみから、おまえを救い出すためなら、僕はどんなことだってしてみせるよ、アンナ!」と彼はいった。
「なんでもないの、なんでもないの!」と彼女は答えた。「わたし自分でもわかりませんの、孤独な生活のためか、神経のせいか……まあ、こんな話よしましょう。競馬はいかがでした? まだ話して聞かせて下さいませんでしたわね」なんといっても、自分の側に帰した勝利の喜びを隠そうとつとめながら、彼女はこうたずねた。
 彼は夜食を注文して、競馬の模様を詳しく話しはじめた。しかし、その声の調子にも、だんだん冷やかになっていくまなざしにも、彼が女の勝利を赦し難く思っているのが、ありありと見えていた。彼女が克服《こくふく》しようとつとめた片意地な気持は、またもやしだいに彼の内部に、根を張ってくるのであった。彼は前よりもアンナにたいして冷淡になった。それはちょうど、自分のほうから折れて出たのを、後悔しているかのようであった。また彼女のほうでも、自分に勝利を与えた言葉、すなわち、『わたしは恐ろしい不幸に近づいています、それで自分で自分が恐ろしいのです』という言葉を思い起して、この武器は危険なものであるから、もう二度と使ってはならない、ということを悟ったのである。彼女はこういうことを感じた。二人を結び合わす愛と並んで、二人のあいだには、何かしら意地悪い闘争の精が巣くっていて、彼女はそれを男の心からも、ましてや自分の心からはなおさら、追い払うことができないのであった。

[#5字下げ]一三[#「一三」は中見出し]

 どんな生活条件でも、人間として慣れえないものはない。ことに、周囲のものが自分と同じように暮していると見てとった場合には、なおさらのことである。三ヵ月前のレーヴィンであったなら、いま自分のおかれているような条件で、安らかに眠ることができようとは、とうてい信じられないことであったに相違ない。何の目的もない無意味な生活をして、おまけに収入以上の生活をして、のんだくれて(彼はクラブであったことを、それ以外の呼び方ができなかった)かつて妻の恋していた男と、わけのわからない親友関係を結んで、堕落した女とよりいいようのない女を訪問するなどという、いっそうわけのわからない行動をし、その女に心をひかれて、妻に嘆きをかけた――そういう条件のもとで、安らかに眠ることができようとは、思いもよらぬことであるべきはずなのに、疲労と、不眠の一夜と、酒のおかげで、彼はぐっすりと、安らかな眠りに落ちたのである。
 五時ごろに、戸のぎいと開く音で、彼は目をさました。彼はとび起きて、あたりを見まわした。キチイはそばの寝床にいなかった。が、仕切りのむこうでちらちらと動く灯影が見え、妻の足音が聞えた。
「どうしたの?……どうしたの?」と彼は寝ぼけ声でいった。「キチイ! どうしたの?」
「なんでもないのよ」蝋燭を手に持って、仕切りのむこうから出て来ながら、彼女はそういった。「わたしちょっと気分が悪くなったものですから」と彼女はとくべつかわいい、意味ありげな微笑を浮べていった。
「どう、はじまったの、はじまったの?」と彼はおびえたように口走った。「使をやらなくちゃ」と彼はあたふたと着替えをはじめた。
「いいえ、いいえ」微笑を浮べたまま、良人の手をおさえながら、彼女はこういった。「きっとなんでもありませんわ。わたしちょっと気分が悪くなっただけで、それも今はなおりましたわ」
 そういって、彼女は寝台に近より、蝋燭を消して横になり、そのまま静まった。なにかおさえつけているらしい、彼女の息づかいの静けさも、ことに何より、彼女が仕切りの陰から出ながら「なんでもありません」といった特殊な優しみと興奮の表情も、彼にはうさんくさく思われたけれども、眠くてたまらなかったので、そのまま寝ついてしまった。ただ後になって、妻の息づかいの静けさを思い起した時、彼は悟った。彼女が女の一生で、最も偉大な出来事を待ちもうけながら、身動きもせず彼のそばにねていた時、その尊くも愛すべき心の中で生じていたいっさいを悟ったのである。七時ごろ、肩にさわった妻の手とその低いささやきが、彼の目をさました。彼女はどうやら、良人を起すのが気の毒なという気持と、話をしたいという望みのために、内部闘争を感じているらしかった。
コスチャ、びっくりしないでね。なんでもないんだから、でも、どうやら……エリザヴェータ・ペトローヴナを呼びにやらなくちゃなりませんわ」
 再び蝋燭がともされていた。彼女はベッドの上に坐っていたが、その手にはこの二三日、仕事にしている編物を持っていた。
「どうかびっくりしないでね、なんでもないんだから。わたし、ちっともびくびくしちゃいませんわ」良人のおびえたような顔を見て、彼女はこういった。そして、良人の手を自分の胸へ、それから唇へおしあてた。
 彼は自分のことなど忘れてしまい、妻から目をはなさずに、急いで跳ね起きると、部屋着をひっかけ、たえず妻を見つめながらたたずんだ。出かけなければならないのに、彼は妻のまなざしから、視線をはなすことができないのであった。彼は妻の顔を愛し、その表情、まなざしを知り抜いているはずでありながら、こういうふうな彼女は、今まで一度も見たことがないのであった。今のこういう妻の前に立って、昨夜、彼女を悲しませたことを思い出すと、彼はわれながら自分という人間がいまわしく、恐ろしいものに感じられた! ナイトキャップからはみ出した柔らかい髪に縁《ふち》どられた、ぼっと紅味《あかみ》をさした彼女の顔は、喜びと決意に輝いていた。
 キチイの性格には全体として、不自然なところや条件的なものは、きわめて少なかったのであるが、それにもかかわらず、いま忽然として、いっさいのおおいがとり去られ、彼女の魂の真の核心が、その目のなかに輝いた時、レーヴィンは自分の眼前に露呈されたものに、驚嘆の目を見はらずにはいられなかった。この単純な赤裸の姿の中に、彼の愛しているキチイが、なおはっきりと見える思いであった。彼女はにこにこ笑いながら、良人をながめていた。けれど、ふいにその眉がぴりりとふるえて、彼女は頭をぐいと上げ、足早に良人に近づいて、その手をとり、全身をぴったりおしつけて、良人に熱い息を浴せた。彼女は苦しんでい、その苦しみを良人に訴えるかのようであった。で、彼ははじめ一瞬、いつもの癖で、自分が悪いような気がした。しかし、妻の目の中にこもっている優しい表情は、わたしはあなたを責めてなんかいません、かえってこの苦痛のためにあなたを愛しています、と語っているのであった。
『このことでおれが悪いのじゃないとすれば、いったいだれが悪いのだろう?』われともなしにこんなことを考えながら、この苦痛の責任者をさがし出して、そのものを罰しようと思った。が、責任者などはなかった。彼女は苦しみ、訴えながら、この苦しみに凱歌を上げ、それを喜び愛しているのであった。彼女の魂の中で、何か美しいものが成就せられているのは、彼もはっきり見てとったけれど、それが何であるかは、理解することができなかった。それは彼の理解力を絶していることであった。
「あたしママのところへ使を出しましたわ。だから、あなたエリザヴェータ・ペトローヴナを迎えに、大急ぎでいらしてちょうだいな……あっ、コスチャ!………なんでもないの、もうなおりましたわ」
 彼女は良人のそばを離れて、ベルを鳴らした。
「さあ、もういらしてちょうだい。パーシャが来ますから。あたし大丈夫よ」
 こういってキチイは、夜の間に持って来ておいた編物仕事をとりあげて、また編みにかかった。レーヴィンはそれを見てびっくりした。
 レーヴィンは、一方の戸口から出て行くとき、もう一方の戸口から、小間使が入ってくる足音を聞いた。彼が戸のそばに足をとめて聞いていると、キチイは小間使にいろいろと詳しく指図して、自分でもいっしょにベッドを動かしはじめた。
 辻馬車はまだなかったので、橇《そり》に馬をつけさせたが、その用意のできる間に、彼は着替えをして、もういちど寝室へ駆けつけた。それは、爪先立ちで走るというより、翼が生えて飛んでいるように思われた。寝室の中では、二人の小間使がまじめな顔をして、なにやらおき変えていた、キチイは歩きあるき、せっせと編物の目をひろいながら、指図をしていた。
「僕はこれから医者を呼びにいくよ。エリザヴェータ・ペトローヴナのところへは、もう迎えが行ったそうだから。もっとも、僕もよってみるがね、何か要るものはないかね? ああ、ドリイのとこは?」彼女は良人の顔を見たが、明らかにそのいうことを聞いていないらしかった。
「ええ、ええ、行ってちょうだい」眉をしかめて、片手をふりながら、彼女は早口にいった。
 彼がもう客間へ入ろうとしたとき、とつぜんあわれっぽいうめき声が、寝室に起ったと思うと、すぐに静まった。彼は足をとめたが、長いあいだなんのことかわからなかった。
『ああ、あれはキチイだ』と彼はひとりごち、頭を抱えて、階下《した》へ駆けおりた。
『主よ、憐みたまえ! 赦したまえ、助けたまえ!』どうしたのか、ふいに口をついて出た言葉を、彼は幾度もくりかえした。しかも、不信者である彼が、ただ口先ばかりでなく、この言葉をくりかえすのであった。今この瞬間、彼のいだいているいっさいの疑惑どころか、理性によっては信ずることができないと、自分でもよく承知している体験まで、いささかも神にすがる妨げにはならなかった。いまやそれらいっさいのものは、塵泥《ちりひじ》のごとく彼の心からけし飛んでいた。自分自身も、自分の魂も、自分の愛も、その掌中に握られていると感じているものをさしおいて、はたしてだれにすがることができようぞ?
 馬はまだ用意ができていなかったが、彼は一分一刻もむだにしないで、これからなすべきことをやってのけようという肉体力と、注意力の特殊な緊張を内部に感じたので、馬を待たずに徒歩で出かけ、クジマーにあとから追ってくるように命じた。
 街かどで、むこうから急いでくる夜の辻待ち橇に出会った。小さな橇の中には、ビロードの外套を着て、肩掛けを頭からかぶったエリザヴェータ・ペトローヴナが乗っていた。『ありがたいこった、ありがたいこった!』そうと気がついて、有頂天になりながら、彼は思わず口走った。眉や睫毛《まつげ》の白っぽい彼女の小さな顔は、今やなにか特別まじめな、むしろいかついくらいな表情をしていた。
 馬をとめないようにと馭者に命じて、彼は産婆と並んで、もと来たほうへ走り出した。
「じゃ、二時間ばかりでございますね? それより長くはありませんね?」と彼女はたずねた。「ピョートル・ドミートリッチ(医者)はお宅にいらっしゃるでしょうが、お急《せ》かせなさるには及びませんよ。ああ、それから、薬局で阿片をお買いになってくださいまし」
「じゃ、あなたは無事にいくとお思いですね? 主よ、憐みたまえ、助けたまえ!」門から出てくる馬を見て、レーヴィンはこう口走った。クジマーと並んで橇に飛び乗ると、彼は医師のもとへ馬を走らせた。

[#5字下げ]一四[#「一四」は中見出し]

 医者はまだ起きていなかった。下男がいうには、「おやすみになるのが遅かったので、起してはいけないというお申しつけでございました。おっつけお目ざめでございましょう」とのことであった。下男はランプのほやを掃除して、それにすっかり気をとられている様子であった。下男がほやなどに一生懸命になって、レーヴィンの家庭に生じていることに無関心なのが、はじめはひどく彼をびっくりさせたが、すぐ思い返して、だれも自分の感じを知っているものもなければ、また知る義務もないのだ、ということを悟った。だから、この無関心の障壁を打ちぬいて、自分の目的を達するためには、なおさらおちついて、よく考えたうえ、断乎たる行動をしなければならぬ。
『あわてないで、何一つ手落ちのないようにしなくちゃならんぞ』これからしなければならぬことにたいする注意力と肉体力が、いよいよ強く盛りあがってくるのを感じながら、レーヴィンはこう自分で自分にいって聞かせた。
 医者がまだ起きていないと知ったとき、レーヴィンは頭に浮んださまざまな案の中から、つぎのものを選んだ。クジマーには手紙を持たせて、別の医者のところへやり、自分は薬局へ阿片を買いに行く。もし自分が帰って来ても、まだ医者が起きていなかったら、下男に鼻薬をかがせ、もし下男がその手に乗らなかったら、力づくで是が非でも医者を起さなければならぬ。
 薬局ではやせぎすの薬剤師が、下男のほや掃除とおなじ無関心さで、前から待っている馭者のために、粉薬をオブラートで包んでいたが、阿片は売るわけにはいかない、と断った。せきこんだり、逆上したりしないようにつとめながら、レーヴィンは医者や産婆の名を挙げて、阿片が要るわけを説明しながら、薬剤師を説き伏せにかかった。薬剤師は仕切りの陰にむかって、ドイツ語で、阿片を出してもいいかと相談をし、よろしいという返事を聞いて、びんと漏斗《じょうご》をとり出して、大きいびんから小さいほうへゆっくりと移し、レーヴィンがそんなことをしなくてもいい、というのもかまわず、レッテルを貼りつけ、封をして、おまけに紙に包もうとした。これにはレーヴィンもたまりかねて、いきなりその手からびんをひったくり、大きなガラス戸の外へ駆けだした。医者はまだ起きていなかった。今度は、カーペットを敷いていた下男は、起すわけにいかぬと断った。レーヴィンはあわてずに、十ルーブリ紙幣《さつ》をとり出して、ゆっくりと一語一語発音しながら、しかも時間をむだにしないように、紙幣を下男に渡して、ピョートル・ドミートリッチが(これまでたいした存在でないと思っていたピョートル・ドミートリッチが、今はレーヴィンの目になんと偉大に、ものものしく思われたことか!)どんな時にでも往診してやると約束されたのだから、きっと腹なんかたてられはしない、どうか安心してすぐ起しに行ってくれ、とじゅんじゅんと頼んだ。
 下男は納得《なっとく》して、二階へあがって行き、レーヴィンには待合室へ通ってくれといった。
 戸のむこうでは、医者が咳ばらいをしたり、歩きまわったり、顔を洗ったり、何かいったりしているのが、レーヴィンの耳に入った。三分すぎた。レーヴィンは、もう一時間以上たったような気がした。彼はもはや待っていられなかった。
「ピョートル・ドミートリッチ、ピョートル・ドミートリッチ!」と彼は開いたドア越しに、祈るような声でいった。「どうかお赦し願います。どうかそのままで、ちょっと会ってください。もう二時間以上も待っているのですから」
「ただいま、ただいますぐ!」と答える声がしたが、医者がそれを笑い笑いいっているのを聞いて、レーヴィンは驚きあきれた。
「ほんの一分間だけ」
「ただいま」
 医者が靴をはいているあいだに、二分間たった。それから服を着て頭を梳《と》かすのに、さらに二分間すぎた。
「ピョートル・ドミートリッチ!」とレーヴィンはまたもや、哀れっぽい声でいいかけたが、ちょうどその時、きちんと着替えをし、頭を梳かした医者が、姿を現わした。『こういう連中には良心ってものがないのだ』とレーヴィンは考えた。『こっちが生きるか死ぬかという時に、悠々と頭なんか梳かしてるんだからなあ!』
「お早うございます」と医者は、手をさしのべながらいった。そのおちつきぶりは、まるで相手をからかうようであった。「まあ、そうお急ぎになることは要りません。ときに、いかがです?」
 できるだけ前後の事情をはっきりさせようとつとめながら、レーヴィンは妻の容態について、必要もないことをこまごまと話しはじめたが、のべつ自分で自分の話の腰を折っては、これからすぐいっしょに行ってくれ、と頼むのであった。
「いや、そうお急ぎになることはありませんよ。何しろ、あなたはごぞんじないでしょうが、きっと私なんかに用はありませんよ。しかし、お約束したことですから、まあ伺うことは伺いますがね、しかし、あわてることはありません。どうかまあおかけ下さい、コーヒーを一杯いかがです?」
 いったいあなたは、私をからかってるんじゃありませんか、とでもききたげな目つきで、レーヴィンは医者を見やった。しかし、医者はそんな気持などさらさらなかった。
「わかりますよ、わかりますよ、そのお気持は」と医者は微笑しながらいった。「私自身も、家庭をもった人間ですからね。しかし、こういう場合には、われわれ亭主というものは、じつにみじめな存在ですからな。私の患家先では、奥さんのお産のたびに、ご主人がいつも厩へ逃げこむというのがありますよ」
「しかし、ピョートル・ドミートリッチ、あなたのお考えはいかがです? 無事にいくとお思いですか?」
「すべての兆候から推して、ご安産といえますな」
「では、すぐ来て下さいますね?」コーヒーを運んできた男を、憎々しげに睨みながら、レーヴィンはこういった。
「一時間ばかりして伺います」
「いや、お願いですから」
「では、まあ、コーヒーだけでも、ゆっくり飲ましていただきましよう[#「いただきましよう」はママ]」
 医者はコーヒーにかかった。二人ともしばらく黙っていた。
「ときに、トルコはひどくやられてるじゃありませんか。あなた、昨日の海外電報をお読みになりましたか?」と医者はパンをむしゃむしゃ噛みながらいった。
「いや、私はもうたまらない!」とレーヴィンはおどりあがっていった。「じゃ、十五分もたったら、来て下さいますね?」
「三十分して!」
「まちがいありませんね」
 レーヴィンが家へ着いたとき、公爵夫人と落ち合った。二人はいっしょに、寝室の戸口へ近よった。公爵夫人は目に涙を浮べ、その手はふるえていた。レーヴィンを見ると、夫人は彼を抱きしめて、わっと泣きだした。
「え、どんなふうですの、リザヴェータ・ペトローヴナ?」晴ればれした、しかもものものしげな顔つきをして、戸の中から出てきたリザヴェータ・ペトローヴナの手をとって、夫人はこう問いかけた。
「順調にまいっております」とこちらは答えた。「あなたさまから、横になるようにおっしゃってくださいまし。横のほうがお楽でございますから」
 彼は今朝目をさまして、何ごとがはじまったかを知った瞬間から、早くも心がまえを定めた。それは、考えたり予想したりしないで、すべての思想と感情を閉め切ってしまい、妻の気持を乱すどころか、その反対に心をおちつかせ、その勇気をささえるようにしながら、目前に控えていることを断乎として忍ぶ、ということであった。どんなことが起るだろうか、いかなる結末を告げるだろうか、などと考えることさえみずから禁じながら、これは普通どれくらいかかるかということを、いろんな人にきいて、その答えで判断した結果、レーヴィンは一人こころの中で、五時間だけ辛抱して、自分の気持をわれとわが手にぐっとおさえつけよう、と腹をきめた。またそれは不可能でないように思われたのである。しかし、医者のもとから帰って来て、ふたたび妻の苦しみを見たとき、彼はいよいよひんぱんに、『主よ、赦したまえ、助けたまえ』をくりかえし、嘆息したり、顔を空へ向けたりしはじめた。これはもちこたえられそうもない、手放しで泣きだすか、それとも逃げだすかしそうだ、そういう恐怖さえ感じはじめた。それほど彼は苦しかったのである。しかも、まだ一時間しかたっていなかったのである。
 しかし、その一時間の後に、また一時間たち、二時間、三時間たち、ついにまるまる五時間すぎた。それは、彼が忍耐の最大限ときめた時間であったが、状態は依然として同じであった。彼はいつまでも辛抱していた。ほかにどうすることもできなかったからである。彼は一刻一刻、もうこれで忍耐の最後の局限に達した、もう今にも心臓が憐愍のために張り裂けるだろう、と心に思いつづけるのであった。
 しかし、さらに幾分かすぎ、幾時間かたち、また幾時間かたった。そして、彼の苦痛と恐怖感は、いやが上に募って、緊張するのであった。
 レーヴィンにとっては、それをぬきにしては何ひとつ考えることのできない日常生活の諸条件が、もういっさい存在しなくなった。彼は時間の観念を失ってしまった。ときにはわずか数分間――キチイが彼をそばへ呼んで、自分の汗ばんだ手を握らせ、なみはずれた力で良人の手を握りしめるかと思うと、急にまたおしのけたりした幾分かのあいだが、数時間の長さに感じられるかと思うと、また数時間が数分間のようにも思われるのであった。彼は、リザヴェータ・ペトローヴナに、衝立《ついたて》のむこうに蝋燭をつけてくれと頼まれた時、びっくりしてしまった。聞けば、もう晩の五時だったのである。もし今がやっと朝の十時だといわれても、彼はやはりたいして驚きはしなかったであろう。そのとき自分がどこにいるかということも、いつ何があったかということも、やはりよくわからなかった。彼はときにけげんそうな、ときに苦しげな、ときに微笑を浮べて良人をおちつかせようとする。妻の充血した目を見た。彼はまた公爵夫人を見た。夫人は緊張のあまり真赤な顔をして、白髪をふり乱し、唇を噛みしめて、一生懸命に涙をのみこんでいるのであった。またドリイをも、太い巻タバコをすっている医者をも、しっかりと決然たる色を面に現わして、人々をおちつかせようとしている産婆をも、渋い顔をして広間を歩きまわっている老公をも見た。しかし、彼らがいつやって来ていつ出て行ったか、彼らがどこにいたのか、彼はなんにも知らなかった。公爵夫人は医者といっしょに寝室にいたかと思うと、今度はいつのまにか、食卓のしたくのできている書斎にいた。かと思うと、それは公爵夫人でなく、ドリイだったりした。それから、どこかへ使にやられたのも、レーヴィンは覚えていた。一度、彼はテーブルと長椅子をほかへ移すように頼まれた。彼は、キチイのために必要なことだと思って、一生懸命にそれをしたところ、あとで聞けば、彼は自分のために寝床を用意したのであった。それから、彼は書斎にいる医者のところへ、何かたずねにやらされた。医者はその返事をしたあとで、議会の擾乱事件を話しだした。それから、彼は公爵夫人のいる寝室へ、金銀の袈裟《けさ》をつけた聖像をとりにやらされた。彼は公爵夫人のつれてきた老婢といっしょに、聖像をとろうとして、戸棚の上へ這いのぼったところ、燈明をこわしてしまった。老婢はキチイのことについても、燈明のことについても、心配しないようにと彼をなだめた。で、彼は聖像を持って行って、キチイの頭のところにおき、一生懸命に枕の下へつっこんだ。しかし、そういったすべてのことを、いつ、どこで、なんのためにしたのか、彼は覚えていなかった。また同様に、なぜ公爵夫人が彼の手をとって、哀れっぽい目つきでその顔を見ながら、気をおちつけてくれと頼んだのやら、なぜドリイがちょっと食事をするようにと無理にすすめて、彼を部屋から連れ出したのか、なんのために医者までが同情の目で彼をながめ、水薬を飲むようにいったのか、彼はわけがわからなかった。
 彼はただ一年前に町の宿屋で、兄ニコライの臨終の床で完成されたと同じようなことが、今また完成されようとしているのを意識し、直感しただけである。しかし、それは悲しみであり、これは喜びであった。とはいえ、その悲しみもこの喜びも、ひとしく家常茶飯事的な条件の外におかれ、この日常生活に開いた隙間とでもいうようなものであり、そのあいだから高遠なあるものがうかがわれるのであった。そして、この完成されていくあるものは、どちらの場合にも同じように、悩ましく重苦しく近づいてくるのであった。そして、どちらの場合にも、魂はこの高遠なるものを諦視《ていし》すると同時に、同じ不可解な働きによって、今までかつて想像もしなかったような偉大な高みへ昇っていった。それは、もう理性があとからついていけないような世界であった。
『主よ、赦したまえ、助けたまえ』と彼はたえず心の中でくりかえした。あれほど長いあいだ、もう二度とかえることができないほど、こういう気分とは絶縁しきったように考えていたにもかかわらず、幼年時代や少年時代と同じように信じやすい、単純な心をもって神にむかっているのが、自分でもそれと感じられた。
 この間じゅう、彼は二つの別々な気分の囚《とりこ》になっていた。一つはキチイのいないとき、つまり、太い巻タバコをあとからあとから吸っては、いっぱいになった灰皿の端でそれを消している医者といるときであり、食事や、政治や、マリヤ・ペトローヴナの病気の話をしているドリイや老公といっしょにいるときであった。そういうとき、レーヴィンはふと、つかのま、いま何ごとが行われているのか忘れてしまって、まるで夢からさめたような気がした。――もう一つは、キチイの部屋に、その枕もとにいるときの気分であった。そこでは、同情のあまり心臓が張り裂けそうでいながら、いつまでたっても裂けもしないで、彼は絶え間なく神に祈るばかりであった。そして、寝室からもれる叫び声が、つかのまの忘却から呼びさますたびに、彼は最初の瞬間に感じたのと同じ、奇妙な錯覚に襲われるのであった。いつも叫び声が耳に入るたびに、彼はおどりあがって、いいわけに駆けだすのであったが、途中で、自分が悪いのではないと思い出す。すると、なんとかして守ってやりたい、助けてやりたいと思う。けれども、妻を見ると、またしても助けることはできないと悟って、ぞっとしながら、『主よ、赦したまえ、助けたまえ』と唱えるのであった。時がたつにしたがって、この二つの気分は、いよいよ深まっていった。彼女の見えないところにいると、彼は妻のことを全く忘れて、いよいよおちついていくし、妻の叫びを聞くと、その苦しみそのものも、それにたいする無力感も、さらにさらに悩ましくなっていく。彼はおどりあがって、どこかへ逃げだしたいと思うが、やっぱり妻のもとへ駆けつけるのであった。
 どうかすると、キチイがまたしても、またしても自分を呼びつけると、彼は妻を非難したい気になるけれども、その微笑を含んだ忍従の表情を見、『あたしすっかりあなたをへとへとにしてしまいましたわ』という言葉を聞くと、彼は神を責めたくなってくる。しかし、神のことを思い起すと、すぐさま赦したまえ、憐れみたまえと祈念するのであった。

[#5字下げ]一五[#「一五」は中見出し]

 彼は時刻が遅いのか、早いのか、まるでわからなかった。蝋燭はもうほとんど燃え尽きていた。ドリイはつい今しがた書斎へやって来て、ちょっと横になったら、と医者にすすめた。レーヴィンは、医者のしゃべっている山師の催眠術師の話を聞きながら、じっとそこに腰をおちつけて、彼の巻タバコの灰をながめていた。ちょうど陣痛のおさまっているときだったので、彼は自己忘却の状態に陥っていた……彼はいま起っていることを、すっかり忘れてしまっていた。医師の話を聞きながら、彼はそれをちゃんと理解していた。とふいに、なんともいえない叫び声が聞えた。その叫びが、たとえようもないほど恐ろしかったので、レーヴィンはとびあがることさえせず、息を殺しながら、おびえたような、物問いたげな目つきで医者を見やった。医者は小首をかしげながら聞き耳を立て、けっこうけっこうというような微笑を洩らした。すべてがなにもかもあまり異常だったので、レーヴィンはもうなんにも驚かなかった。『きっとこれがあたりまえなのだろう』と彼は考えて、そのまま腰をおちつけていた。ああ、あれはだれの叫び声だったろう? 彼はおどりあがって、爪先立ちで寝室へ駆けこみ、リザヴェータ・ペトローヴナと公爵夫人のうしろをまわって、枕もとのほうに決められた自分の場所に立った。叫び声は静まったが、今度は何やら変ったところがあった。何が変ったのか――彼は見もしなければ、わかりもしなかった。それに、また見たいとも、わかりたいとも思わなかった。しかし、彼はリザヴェータ・ペトローヴナの顔つきで、それを見てとったのである――産婆の顔はいかつく蒼ざめていた。そして、下顎はこころもちふるえ、両眼はじっとキチイの顔にそそがれてはいたけれど、相変らず決然たる色を見せていた。汗ばんだ頬や額に髪がねばりついて、燃えるように赤い、苦しみぬいてへとへとになったキチイの顔は、良人のほうへ向けられて、その視線を捕えようとしていた。そして、さしあげられた両手は、彼の手を求めるのであった。彼女は汗ばんだ両手で、彼の冷たい手をつかみ、それを自分の顔へおしあてはじめた。
「行かないで、行かないで! あたし怖くないわ、怖くないわ!」と彼女は早口にいった。「お母さま、耳輪をはずして、じゃまっけになるから。あなた怖がってなんかいらっしゃらないわね? もうすぐね、すぐね、リザヴェータ・ペトローヴナ……」
 彼女はおそろしく早口にこういって、にっこり笑おうとした。とふいに、その顔が醜くゆがんで、彼女は良人をぐいとおしのけた。
「だめだ、ああ、たまらない! あたし死んじゃう! あっちィ行って、あっちィ行って!」と彼女は叫んだ。そして、またもや、あのなんともいえないような叫び声がはじまった。
 レーヴィンは両手で頭をかかえて、部屋の外へ駆けだした。
「大丈夫、大丈夫、これでいいのよ!」とドリイがうしろから彼に声をかけた。
 けれど、みんながなんといおうとも、彼は今こそもう万事休すと思いこんでいた。彼は戸口の柱に頭をもたせながら、隣の部屋につっ立ったまま、今までかつて聞いたこともないような、ある何ものかの叫びと咆哮《ほうこう》を聞いていた。そして、これはかつてキチイであったものが叫んでいるのだ、ということを彼は知っていた。彼はもうとっくから、子供なぞどうでもよくなっていた。それどころか、今はその子供を憎んでいた。もはや彼女の命さえどうでもよかった。彼はただこの恐ろしい苦痛がやんでくれればと、それのみひたすら祈った。
「ドクトル! これはいったいどういうことなんです? どういうことなんです? ああ、やりきれない!」入って来た医者の手をつかんで、彼はこういった。
「おしまいですよ」こういった医者の顔が、あまりまじめだったので、レーヴィンはおしまい[#「おしまい」に傍点]という言葉を、死という意味にとったのである。
 われを忘れて、彼は寝室へ駆けこんだ。彼が最初に見たものは、リザヴェータ・ペトローヴナの顔であった。それは前よりももっと気むずかしい、いかつい表情をしていた。キチイの顔はなかった。もとその顔があった場所には、緊張した様子からいっても、そこから起る響きからいっても、ものすごいようなあるものがあった。彼は心臓が張り裂けそうな気がして、寝台の横板に顔を伏せた。恐ろしい叫びはやまなかったばかりか、ますますその恐ろしさを増していったが、やがてあたかも、恐怖の頂上まで達したように、突然ぴたりとやんでしまった。レーヴィンは、われとわが耳が信じられなかったが、疑うことはできなかった。叫び声はやんだのである。そして、静かな、しかも忙しそうな動きと、衣《きぬ》ずれの音と、あわただしい息づかいが聞えた。とぎれとぎれながらも、生きいきとした、優しい幸福そうな彼女の声が静かに「やっとすんだ」といった。
 彼は頭をもちあげた。両手をぐったりと蒲団の上に投げ出して、なみなみならぬ美しい、おだやかな顔をした彼女が、無言のままじっと彼を見ていた。そして、にっこり笑おうとしたけれど、それができないのであった。
 すると、急にレーヴィンは、この二十二時間ずっと住んできた神秘な、恐ろしいこの世ならぬ世界から、たちまちもとの住み慣れた世界へ、戻って来たような気がした。けれども、それは今や新しい堪え難いほどの幸福の光に、満ち輝いているのであった。張りきっていた絃《いと》はすっかり断ち切られた。まるで思いもかけなかった歓びの号泣と涙が、恐ろしい力で腹の底から湧き起り、全身をふるわせはじめたので、彼は長いあいだ口がきけなかったほどである。
 彼は寝台の前にばったり膝をついて、妻の手を唇へおしあてながら、しきりに接吻した。すると、その手はかすかな指の動きで、夫の接吻にこたえるのであった。ところが、そのあいだに寝台の裾のほうでは、リザヴェータ・ペトローヴナの巧者な手の中で、まるで燭台の上に燃える小さな火のように、一箇の人間の生命が揺れ動いていた。それは、これまでかつてなかったものであるけれど、やはり人なみに同じような権利を主張し、同じように自分なりの意義を感じながら生きて行き、自身と同じような人間を繁殖して行くのである。
「生きています! 生きています! しかも、男の子さんですよ! ご心配はいりません」リザヴェータ・ペトローヴナが、ふるえる手で赤ん坊の背中をぺちゃぺちゃたたきながら、こういう小声がレーヴィンの耳に入った。
「お母さま、ほんと?」とキチイの声がいった。
 ただ公爵夫人のすすりなきが、彼女に答えるのみであった。
 と、沈黙のただなかに、母親の問いにたいする疑う余地のない答えとして、室内のそこここに聞える控えめな話し声とはまるきり違った、新しい声が起った。それは、どこからとも知れず出現した新しい一箇の生命の、勇敢で傍若無人な、何一つ顧慮しようとしない叫び声であった。
 もしちょっと前に人がレーヴィンにむかって、「キチイは死んだ、そして赤ん坊も彼女といっしょに死んだ、彼らの子供は天使で、神はつい彼らの前にいられるのだ」といっても、彼は少しも驚かなかったに相違ない。けれども、今はもう現実の世界へ立ち帰ってしまってみると、妻が生きているばかりでなく、健康でやけにわめきたてている生きものが自分の息子だ、ということを了解するためには、一生懸命に思考力を緊張させなければならないのであった。キチイは無事で、苦しみは終った。そして、自分は筆紙につくせないほど幸福である。彼はそれを理解して、そのためにこの上もなく幸福であった。しかし、赤ん坊は? いったいどこから、なんのために来たのだろう? そして、何者だろう?……彼はどうしても、この考えになじむことができなかった。彼はそれが何かありあまった、よけいなものみたいに感じられて、長いあいだ慣れることができなかった。

[#5字下げ]一六[#「一六」は中見出し]

 九時すぎ、老公と、コズヌイシェフと、オブロンスキイは、レーヴィンの部屋に坐って、産婦のことをちょっと話した後、よもやまの物語に移った。レーヴィンはそれを聞きながら、いつともなく過去のこと、今朝までのことを思い出すと同時に、自分のこと、このことのあった昨日までの自分をも思い起した。すると、まるであれ以来、百年もたったような気がした。彼は何かしら、及びもつかない高みへ昇ってしまったような感じで、いま話し合っている人たちを侮辱しないために、しいてその高みから、下界へ降《くだ》っていくのであった。彼は話をしながらも、たえず妻のこと、彼女の現在の状態の詳細、わが子のことなどを考えていた。彼はその息子の存在ということに、自分の考えを慣らそうとつとめていた。結婚して以来、彼にとっては新しい、未知の意義を生じてきた女の世界ぜんたいが、今では彼の観念の中で、ぐっと高くひきあげられてしまい、彼の想像では抱擁することもできないほどであった。昨日のクラブの宴会の話を聞きながら、『あれは今、どうしているんだろう? 寝ついたかしらん? 気分はどんなだろう? 何を考えているかしら? 赤ん坊のドミートリイは泣いているかしら?』などと考えるのであった。ふと話の途中で、何かいいさしにしたまま、彼はおどりあがって、ぷいと部屋を出てしまった。
「あれのとこへ行ってもいいか、だれかいいによこしてくれないか」と公爵はいった。
「承知しました、今すぐ」とレーヴィンは答え、足をとめもせず、そのまま妻の部屋へ行った。
 彼女は眠っていなかった。きたるべき洗礼のことで、ああかこうかと計画を立てながら、母夫人と小さな声で話していた。
 身じまいをし、髪を梳《と》かしてもらって、何か水色の飾りのついたしゃれたナイトキャップをかぶった彼女は、両手を掛蒲団の上に出して、仰向《あおむ》きにねていたが、目で良人を迎えると、その目で彼を自分のほうへひきよせるのであった。それでなくとも晴れやかな彼女の目は、良人が近づくにつれて、いよいよ輝きを増すのであった。その顔には、よく死者に見られるのと同じ、地上的なものからこの世ならぬものへ移る変化が認められたが、しかしそれは永別であり、これは邂逅《かいこう》である。またしても、あの分娩のときと同じ興奮が、彼の胸に迫ってきた。彼女は良人の手をとって、眠れましたかときいた。彼は答えることができなかったので、おのれの弱さを自認しながら、顔をそむけた。
「あたし、とろとろっとしましたのよ、コスチャ!」と彼女はいった。「それで、今あたしとてもいい気持」
 彼女は良人を見上げたが、急にその顔の表情が変った。
「あたしに貸してちょうだい」赤ん坊の泣き声を聞きつけて、彼女はいった。「貸してちょうだい、リザヴェータ・ペトローヴナ、そしてこの人にも見てもらいますから」
「さあ、どうぞ、パパさんに見ていただきましょうね」と産婆は、何かしら赤い、奇妙な、ふるいおののくものをとりあげて、こちらへさしだしながらいった。「ちょっとお待ちあそばせ、その前に身じまいをいたしますからね」といって、リザヴェータ・ペトローヴナは、このふるえおののく赤いものを、ベッドの上において、指だけで持ち上げたり、向きを変えたりしながら、おしめをひろげたり、何かふりかけたり、くるんだりしはじめた。
 レーヴィンはこの小っぽけな、いとも憐れな存在を見ながら、何かしら父親らしい感情のしるしだけでも、自分の内部に見いだそうと、むなしい努力をするのであった。が、彼はただ嫌悪の念を覚えるのみであった。しかし、赤ん坊が裸にされて、サフラン色をした細い細い手や足が、目の前にちらついたとき――やはり一人前に指がついて、おまけに、ほかの指とはちがった形の親指まで見分けられたとき――産婆がそのひくひく動く小さい手を、柔らかいバネのようにおさえつけて、リンネルの初衣《うぶぎ》の中に包もうとしたとき、とつぜん彼は、この小さい生きものにたいする耐え難い憐愍の情と、産婆が粗忽《そこつ》でもしはせぬかという恐怖に襲われて、思わず彼女の手をおさえた。
 リザヴェータ・ペトローヴナは笑いだした。
「ご心配はいりません、ご心配はいりませんよ!」
 赤ん坊の身じまいができて、しゃんとした人形よろしくのかっこうになると、産婆は自分の仕事を誇るかのようにひと揺りして、ちょっとわきのほうへよった。息子のみごとさを、残りなくレーヴィンに見させようというのである。
 キチイも目をはなさず、横目にそちらをながめていた。
「貸してちょうだい、貸して!」と彼女はいい、身を起そうとまでした。
「まあ、あなた、カチェリーナ・アレクサンドロヴナ、いけませんよ、そんなにおうごきになっちゃ! ちょっとお待ちあそばせ、ただ今さしあげますから。今パパさんに、いい男ぶりをごらんに入れますから」
 そういって、リザヴェータ・ペトローヴナは、レーヴィンのほうへ向いて、このぐらぐら揺れながら、初衣《うぶぎ》の中に首を半分かくした、奇妙な赤い生きものを、片手でさしあげて見せた(もう一方の手は、ぐらぐらするうしろ頭を、ただ指でささえているばかりであった)。しかし、そこにはやはり鼻もあれば、横っちょを見ている目もあり、ちゅっちゅっと鳴る唇もあった。
「りっぱな赤ちゃんでございましょう!」と産婆はいった。
 レーヴィンは情なさそうに吐息をついた。このりっぱな赤ちゃんは、ただ嫌悪と憐愍の情を呼び起すばかりであった。それは、彼の予期していたのとは、全然ちがった感情であった。
 産婆が赤ん坊を、慣れない乳房に吸いつかせようと苦心しているあいだ、彼はわきのほうを向いていた。
 とつぜん、笑い声が彼に頭を上げさせた。それは、キチイが笑ったのであった。赤ん坊が乳を吸いたしたのである。
「もうたくさんでございます、たくさんでございます!」と、産婆はいったが、キチイは放そうとしなかった。赤ん坊はその腕の中で寝てしまった。
「さあ、ごらんなさいまし」良人によく見えるように、赤ん坊をくるりとまわしながら、キチイはそういった。小さな年寄りくさい顔が、いっそうくしゃくしゃになったと思うと、赤ん坊はくさめをした。
 レーヴィンは微笑をし、感動の涙をかろうじておさえながら、妻に接吻すると、薄暗い部屋から出て行った。
 彼がこの小さな生きものにたいしていだいた感情は、予期していたのとは全然ちがっていた。この感情の中には、何一つ楽しいものも、喜ばしいものもなかった。それどころか、それは新たな悩ましい恐怖であった。それは、新たに傷つきやすい領域ができた、という意識であった。しかも、この意識ははじめのあいだじつに苦しかった。この頼りない生きものが苦しむようなことはないか、という恐怖があまりにも強かったので、それにまぎれて、赤ん坊がくさめをしたときに経験したふしぎな無意味な喜び、というよりむしろ誇らしい感じには、いっこう気づかずにしまったのである。

[#5字下げ]一七[#「一七」は中見出し]

 オブロンスキイの財政状態は、はなはだかんばしくなかった。
 森を売った金の三分の二は、すでに使いはたされ、残りの三分の一は、一割の利息天引きで、ほとんどぜんぶ商人から取ってしまった。それ以上、商人は金を出そうとしなかった。そのうえ、ドリイがこの冬はじめて頑強に自分の財産権を主張して、森の最後の三分の一にたいする代金受領契約書に、署名することを拒んだから、なおさらであった。俸給はぜんぶ家のほうの費用と、始終たえまのないこまごました借金の支払に消えてしまうので、金というものがてんでなかった。
 それは不快な、ぐあいのわるいことで、オブロンスキイの意見によると、このままつづいてはいけないのであった。その因《よ》って起るところは、彼の考え方によれば、自分のとっている俸給が、あまり少ないからであった。彼の占めている地位は、五年前には、明らかにきわめて有利なものであったが、今となっては、もうそういうわけにはいかない。ペトロフは銀行の頭取を勤めて、一万二千ルーブリ取っているし、スヴェンチーツキイは会社の重役で一万七千ルーブリ、ミーチンは銀行の創立者として、五万ルーブリ取っている。
『きっとおれは居眠りをして、人に忘れられてしまったのだ』とオブロンスキイは肚の中で考えた。で、彼はあたりの情勢に耳を澄まし、目を配りはじめたが、その冬の終りごろ、一つ非常に有利な位置を見つけ出したので、はじめまずモスクワから、伯父や、伯母や、友人たちを通して攻撃を開始したが、機熟したころを見計らって、その春みずから、ペテルブルグへ乗りこんだ。それはこのごろ以前よりずっと多くなった、甘い汁のたっぷり吸える、年収千ルーブリから五万ルーブリまで、いろいろ段階のある地位の一つで、彼がねらったのは、南方鉄道と銀行との合併による、相互信用代理委員会の位置なのである。この位置は、すべて類似の位置と同じく、一人の人間に具備することのむずかしいほど、広汎《こうはん》な知識と活動力を要求した。ところで、そういう資質を具備した人間はいないけれども、不潔白な人間より、潔白な人間がこの位置についたほうが、なんといってもまだましである。オブロンスキイは、力点なしの潔白な人間であったのみならず、力点つきの潔白な人間でもあった。それは、モスクワ人が潔白な活動家、潔白な作家、潔白な雑誌、潔白な会社、潔白な方向、などというときに、この言葉がもつ特殊な意味においてである。それは、人間なり会社なりが、不潔白でないということを意味するばかりでなく、場合によっては、政府にちくりと針を刺すだけの働きがある、という意味なのである。オブロンスキイはモスクワで、この言葉の用いられている社会に生活し、その社会で潔白な人間と見なされていたので、ほかのもの以上、その位置にたいする権利をもっていたわけである。
 この位置は、七千ルーブリから一万ルーブリの年収を与えるし、それにオブロンスキイは官職を退くことなしに、その位置を占めることができるのであった。これを獲得できるかどうかは、二つの省と、一人の貴婦人と、二人のユダヤ人によって決定されるのであった。これらの人々には、もう渡りがつけてあったけれども、オブロンスキイはじきじき、ペテルブルグでみんなに会っておく必要があった。のみならず、オブロンスキイは離婚問題で、カレーニンからきっぱりした返事をもらってやると、妹のアンナに約束していた。そこで、ドリイに頼んで五十ルーブリもらうと、彼はペテルブルグへ向けて発《た》って行った。
 カレーニンの書斎に腰かけて、ロシヤの財政不振の原因を論じた意見書を聞きながら、オブロンスキイは、自分の用件とアンナのことをきりだそうと、朗読の終る時をひたすら待っていた。
「そう、そりゃ実際そのとおりだ」もうこれなしでは字を読むことのできなくなった鼻眼鏡をはずして、カレーニンが旧《もと》の義兄を疑問の表情でながめたとき、オブロンスキイはこういった。「そりゃ細部に関しては実に正鵠《せいこう》をうがっているが、しかしそれにしても、現代の原則は自由ということだから」
「さよう、しかし私は、自由の原則を包括《ほうかつ》する別の原則を提唱するものだ」『包括する』という言葉に力を入れて、カレーニンはこういった。それから、また鼻眼鏡をかけながら、そのことを述べてある場所を、読んで聞かせにかかった。
 まわりを大きく空けて、きれいに書いた原稿をめくって、カレーニンはもう一度、説伏力にみちた箇所を朗読した。
「私が保護政策を望まないのは、個々の人の利益のためではなくて、一般の福祉のためなんだ――下層階級のためにも、上流階級のためにも同様にね」鼻眼鏡の上からオブロンスキイを見ながら、彼はそういった。「ところが、彼らは[#「彼らは」に傍点]これが理解できないんだ、彼らは[#「彼らは」に傍点]個人的利益のみに没頭して、美辞麗句をのみ、これ事としているのだ」
 オブロンスキイにはちゃんとわかっていた。カレーニンが彼ら[#「彼ら」に傍点]、すなわち彼の政策を容れないで、ロシヤにとって、大きな悪の原因となった人々が、行なったり考えたりしていることを話しはじめると、その時はもう話が終りに近づいた証拠なのである。そういうわけで、彼は喜んで自由の原則を撤回《てっかい》して、万事カレーニンの説に賛成した。カレーニンは物思わしげに、原稿のページをめくりながら、口をつぐんだ。
「ああ、ときに」とオブロンスキイはいった。「君にお願いがあるんだけれど、いつかポモールスキイに会ったとき、話のついでに、一口そういってもらえないかしらん、僕が南方鉄道相互信用代理委員会に、今度あきのできる位置を非常に希望しているって」オブロンスキイは、この位置のことを夢寐《むび》にも忘れなかったので、その名称もすっかり慣れっこになっていた。で、一口もまちがわずに、すらすらといってのけた。
 カレーニンは、その新しい委員会の仕事がどういうのか、根掘り葉掘り詳しくたずねて、じっと考えこんだ。その委員会の活動に、何か自分の案に牴触《ていしょく》するようなところはないかと、かれこれ思い合わせていたのである。しかし、この新しい機関の活動範囲は、きわめて複雑なものであり、一方、彼の法案はすこぶる広汎な領域にわたるので、即座にこれを判断することができなかった。そこで、彼は鼻眼鏡をはずしながらいった。
「そりゃもういってあげていいが、しかしいったいなんのために、君はその位置を望むんだね?」
「俸給がいいのだ、九千ルーブリまでは出るんだからね。ところで、僕の財政状態といったら……」
「九千ルーブリ」とカレーニンはおうむ返しにいって、眉をひそめた。
 この俸給の大きな数字は、彼にこういうことを思い起させた。この面から見ると、オブロンスキイの望んでいる仕事は、彼の法案の根本意義に正反対なのであった。なぜなら、彼の方針はいつも緊縮に傾いていたからである。
「私は、いつかも覚え書に書いたとおり、現代においてそうした巨額な俸給は、わが国の政治のあやまれる経済的 assiette(状態)の兆候だと思う」
「じゃ、いったい君はどうなればいいというんだね?」とオブロンスキイはいった。「まあ、早い話が、銀行の頭取は一万ルーブリから取っているが、それはつまり、それだけの値うちがあるからだろう。また高級の技師は、二万ルーブリももらっている。なんといったって、生きた仕事だからね!」
「私にいわせれば、俸給は商品に対する代価なんだから、やはり需要供給の法則に従わなくちゃならん。もし俸給額の指定が、この法則からはずれるとだね、たとえば、二人の技師が同じ専門学校を卒業して、二人とも同じくらい学問と才能があるのに、一人は四万ルーブリからもらって、もう一人は二千ルーブリで満足しなくちゃならん、というような場合だね。さもなくば、銀行の頭取に法律家とか、軽騎兵とか、特殊な専門知識をこれっぽっちももっていない連中を任命して、莫大な俸給を与えるとすればだね、俸給は需要供給の法則によらずして、情実によったものだと結論しなくちゃならん。そこには、それ自身としても重大であると同時に、国政にも有害な影響を与える職権濫用が存するので、私が思うのには……」
 オブロンスキイは急いで、義弟の言葉をさえぎった。
「そりゃそうだが、しかし君もわかっているとおり、こんど新設される委員会は、まぎれもない有益な施設なんだからね。なんといったって、生きた仕事だよ! 特に、仕事を潔白に運用していくことが大事とされているのだ」とオブロンスキイは力点をつけていった。
 しかし、潔白[#「潔白」に傍点]という言葉のモスクワ的な意味は、カレーニンに通じなかった。
「潔白は単に消極的な資質にすぎないよ」と彼はいった。
「しかし、とにかく」とオブロンスキイはいった。「ポモールスキイにひと言いってくれたら、僕は大いに恩に着るよ。ちょっと、話のついでにさ」
「しかし、このことでは、ボルガーリノフのほうが主役だと思うが」とカレーニンはいった。
「ボルガーリノフのほうは、もうすっかり承知しているのだ」とオブロンスキイは、顔を赤くしながらいった。
 ボルガーリノフの名が出たとき、オブロンスキイが赤くなったのは、ほかでもない、彼は今朝このユダヤ人のボルガーリノフのところへ行ったところ、この訪問が彼に不快な記憶を残したからである。
 オブロンスキイは、自分の奉仕しようとしている仕事が、新しい、生きた、潔白な仕事であることを、固く信じきっていたのだが、今朝ボルガーリノフが、疑いもなく故意に彼を二時間も、ほかの請願者といっしょに応接室に待たしたとき、彼は急にばつが悪くなってきた。
 彼がばつの悪い思いをしたのは、リューリックの遠孫である彼オブロンスキイ公爵が、ユダヤ人の応接室で二時間も待たされたということか、それとも生れてはじめて、祖先の例に従って国家に勤務しないで、新しい舞台に乗り出そうとしていることか、いずれにしても、彼はひどくばつが悪かった。ボルガーリノフのところで待たされたこの二時間のあいだ、オブロンスキイは元気よく応接室を歩きまわったり、頬髯《ほおひげ》をひねったり、ほかの請願者と話したり、自分がユダヤ人のところで待たされたことについて、あとで人に聞かせるために地口《じぐち》を考えたりしながら、彼は自分のいだいている感情を、他人はもちろん、自分自身にさえ隠そうと一生懸命であった。
 にもかかわらず、彼はその間ずっとばつが悪く、いまいましかった。しかも、われながらなんのためかわからないのである。地口を考え出そうとしたが、『猶太人《ジュウ》に用事があって、十分くさった』といったようなことより、何一つうまい考えが出なかったせいか、それとも、何かほかに原因があったのだろうか。ところで、ようやくボルガーリノフが面会して、明らかに相手の屈辱を勝ち誇るような態度で、くそ丁寧に扱いながらも、ほとんど拒絶同様の返事をしたとき、オブロンスキイは一刻も早くそのことを忘れてしまおうとした。で、今もそれを思い出すやいなや、赤面したわけである。

[#5字下げ]一八[#「一八」は中見出し]

「ところで、僕はもう一つ用事があるんだよ、君も察していると思うが……アンナのことなんだ」しばらく無言の後、このいやな記憶を払い落しながら、オブロンスキイはいいだした。
 オブロンスキイがアンナの名を口に出すが早いか、カレーニンの顔は見る間に一変した。先ほどまでの生きいきした表情にひき変えて、疲れて死んだような色が浮んできた。
「いったいどういうご用ですかね?」廻転椅子をくるりとまわして、鼻眼鏡をサックにしまいながら、彼はこういった。
「解決なんだよ、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、なんらかの解決だ。いま僕は君を」オブロンスキイは、『侮辱されたる良人としてでなく』といいかけたが、それでは事をこわしてしまうおそれがあると考えて、こういう言葉にかえた。「国家的人物としてでなく(しかし、これはとってつけたようであった)ただ一箇の人間として、善良な人間として、キリスト教徒として頼むのだ。君はあれを憐んでやらなくちゃならない」と彼はいった。
「といって、いったいなにを憐むんだね?」とカレーニンは小さな声でいった。
「つまり、あれを憐むんだよ。もし君が僕のように、始終あれに会っていたら――僕は冬中ずっとあれといっしょにすごしたんだが――君もあれをかわいそうと思ったに相違ない。あれの境遇は恐ろしいものだ、全く恐ろしいものだ」
「私の見るところでは」とカレーニンはさらに細い、ほとんどきいきい声で答えた。「アンナ・アルカージエヴナは、自分の望んだすべてのものを得たように思われるが」
「ああ、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、お願いだから、お互に罪を問い合うようなことは、やめようじゃないか! すんだことはすんだことだからね。あれが何を望み、何を待っているかは、君もわかっているだろう――つまり離婚だ」
「しかし、私の考えでは、アンナ・アルカージエヴナは、私が息子を置いていくように要求したら、離婚は断念するということだったが。私はそのとおりの返事をしたので、この話もそれで終ったものと思っていた。私はこの話は終りを告げたものとみなします」とカレーニンはきいきい声でいった。
「いや、お願いだから、興奮しないで」とオブロンスキイは、義弟の膝にさわりながらいった。「事件は終りを告げちゃいない。くどいようだが、もう一度いわせてもらうと、こういうことなんだよ。君たち二人が別れた時、君は男として、できうる限り寛大な態度をとって、あれになにもかも、自由も、そして離婚さえも与えてくれた。あれはそれをありがたく感じた……いや、君、妙に思わないでくれ、全くありがたく感じたんだよ。あまり感激しすぎたものだから、はじめは君にたいするおのれの罪を感じて、いろいろなことをとっくり考えなかった。考えることができなかったのだ。あれはなにもかも辞退してしまった。しかし、現実が、時《タイム》が証明したのだ、自分の境遇が苦しい、やりきれないものだってことを」
「アンナ・アルカージエヴナの生活は、私にとってなんの興味もありえません」カレーニンは眉を上げながら、さえぎった。
「失礼ながら、僕はそれを信じない」とオブロンスキイはもの柔らかにいい返した。「あれの境遇は、あれにとって苦しいばかりでなく、それがだれにとっても、なんの役にも立たないんだからね。それは身から出た錆《さび》だ、と君はいうだろう。そりゃあれも自分で承知しているので、君にお願いしているわけじゃない。あれは自分ではっきりと、あの人に何かお願いするなんて、そんなずうずうしいことはできない、といっているくらいだ。しかし、僕が、われわれ肉親が、おれを愛してるみなのものが、君にお願いする、懇願するよ。なんのためにあれは苦しんでいるのだ? それがためにいったいだれが得をするのだろう?」
「失敬だが、君は私を被告の立場においてるようだね」とカレーニンは口をきった。
「いや、決して、決して、これっぱかりも、君ひとつ合点してくれたまえ」またもや彼の手にさわりながら、オブロンスキイはこういった。それはまるで、こうして彼の体にさわるということが、義弟の心を和《やわ》らげると、確信しているもののようであった。「僕はただ、あれの境遇が苦しいものであるが、それは君によって救われる、しかも君はそのために何一つ失うことはない、とただそれだけのことがいいたいのだ。僕がすっかりうまくやって、君が気もつかないようにしてみせるよ。だって、君は約束したんじゃないか」
「その約束は前にしたので、私の考えでは、息子の問題がこの件を決定したものだと思う。のみならず、アンナ・アルカージエヴナも、寛大な気持をもってくれそうなものだと、私もそれをあてにしていたんだが」とカレーニンは真蒼になり、わなわなふるえる唇で、やっとこれだけのことをいった。
「あれのほうでこそ、いっさいを君の寛大心にゆだねているんだよ。あれが願っているのは、懇願しているのは、たった一つ――現在おかれているやりきれない境遇から救い出してほしいということだ。あれはもう、子供を渡してくれとはいっていないよ、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、君は優しい人だから、ほんのいっとき、あれの身になってくれたまえ。あれのような境遇におかれていると、離婚の問題は生死の問題だからね。もし君が前に約束しなかったら、あれも自分の境遇をあきらめて、田舎に住んでいたかもしれないが、なにしろ君の約束があるものだから、あれも君に手紙を出して、モスクワへ引き移ってきたわけだ。ところが、モスクワではだれか人に会うたびに、心臓に刀を刺されるような気がするんだが、そのモスクワにもう六ヵ月もすごして、毎日毎日解決を待っているんだからね。それは、なんのことはない。死刑を宣告された人間の首に縄をつけたまま、もしかしたら殺すかもしれぬが、またひょっとしたら赦免《しゃめん》にするかもしれぬといって、何ヵ月も何ヵ月も置いておくようなものだよ。あれに憐みをたれてやってくれたまえ、あとは僕がひき受けて、なにもかもうまくまとめるから…… Vos scrupules(君の懸念は)……」
「私はそんなことをいってるんじゃない、そんなことを……」とカレーニンは、さもけがらわしそうにさえぎった。「しかし、あるいは、私は約束する権利のないことを、約束したかもしれない」
「じゃ、君はいったん約束したことを拒否するのかね?」
「私はかつて一度も、なしうることを実行するのを拒否なんかしたことがない。しかし、あの約束したことがどの程度まで可能かどうか、すこし時間の余裕がほしいね」
「いや、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ」とオブロンスキイは、おどりあがっていいだした。「僕はそんなことを信じたくない! あれは女として想像しうる限りの、不幸な身の上なんだよ。君は拒絶する権利がないよ、それしきの……」
「どの程度まで約束したことが可能かどうか。〔Vous professez d'e^tre un libre penseur,〕(君はみずから自由思想家と公言しておられる)が、私は信仰をもつ人間として、こういう重大な件について、キリスト教の掟にそむくような行動はとれない」
「しかし、キリスト教の社会でも、わがロシヤでも、僕の知っているかぎりでは、離婚は許されている」とオブロンスキイはいった。「離婚はロシヤの教会でも許されている。現にわれわれは……」
「許されてはいるが、そういう意味ではない」
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ、それは君とも思われない」しばらく黙っていて、オブロンスキイはこういった。「ほかならぬキリスト教徒の感情に動かされて、いっさいを赦し、すべてを犠牲に供する覚悟をしたのは、いったい君じゃなかったのかね?(また僕らもそれに敬服したのじゃなかったかね?)現に君は自分の口から、下衣を取るものに上衣を与えよう、といったじゃないか。それなのに、今は……」
「お願いです」ふいにすっくと立ちあがり、真蒼な顔をして、頤《あご》をがたかたふるわせながら、カレーニンはきいきい声でこういいだした。「お願いです、やめて下さい、やめて下さい……その話は」
「ああ、いけない! もし君をいやな気持にさしたのなら、堪忍してくれたまえ、どうか堪忍してくれたまえ」とオブロンスキイは片手をさしのべて、どぎまぎしたように、微笑しながらいった。「僕はただ使者として、頼まれたことを伝えただけなんだからね」
 カレーニンも自分の手を出して、じっと考えこんだが、やがて口をきった。
「私はよく熟考して、指示を求めなけりゃなりません。明後日きっぱりした返事をしましょう」と彼はなにやら考え合わせた様子でこういった。

[#5字下げ]一九[#「一九」は中見出し]

 オブロンスキイがもう帰ろうとしたとき、コルネイが来て取り次いだ。
「セルゲイ・アレクセエヴィッチでございます!」
「セルゲイ・アレクセエヴィッチて、いったいだれだね?」とオブロンスキイはいいかけたが、すぐ思い出した。
「ああ、セリョージャか!」と彼はいった。『セルゲイ・アレクセエヴィッチなんて、どこかの局長かと思った。ちょうどアンナも、会って来てくれと頼んでたっけ』と彼は思い出した。
 と同時に、アンナが自分を送り出しながら、『とにかく、あの子に会うでしょう。いまどこにいて、だれがついているか、よくきいてちょうだいね。そしてね、スチーヴァ……もしもできたら! だって、できるでしょう?』といったときの、臆病らしいみじめな表情を思い出した。オブロンスキイは、この『もしもできたら』が何を意味するかを悟った。それは、もしできたら、子供をこちらへもらえるように離婚の話をまとめてくれ……というのであった。今となってみると、そんなことは考えるまでもない、ということがわかっていたが、それでもオブロンスキイは、甥《おい》に会えたのがうれしかった。
 カレーニンは義兄に向って、息子には決して母親の話をしないことになっているから、ひと口もいわないようにしてくれと頼んだ。
「あの子は母親に会ったあとで、ひどい病気にかかったんですよ、われわれがついうっかりしていたものだから」とカレーニンはいった。「みんな、命さえどうかと心配したくらいだが、合理的な治療と夏の海水浴で、やっと健康をとりもどしたわけです。今度も私は医師のすすめで、あの子を学校へやることにしました。するとはたして、友だちの影響があれによくきいて、今ではすっかり丈夫になってね、勉強もよくできますよ」
「よう、りっぱな若者になったね! なるほど、これじゃセリョージャじゃなくて、まさしくセルゲイ・アレクセエヴィッチだ!」青い上衣に長ズボンをはいて、元気よく、らいらくに入って来た、美しい、肩幅の広い少年を見ると、オブロンスキイはにこにこしながらいった。少年は健康そうな、快活らしい様子をしていた。彼は他人のつもりで伯父《おじ》にあいさつしたが、ふと気がつくと、顔を赤らめ、何か侮辱でもされたように、腹だたしげにくるりとそっぽを向いた。少年は父のそばへよって、学校からもらってきた通信簿を渡した。
「うむ、これなら人並みだ」と父はいった。「もう行ってよろしい」
「あの子は少しやせて、背が高くなったね。もう子供じゃなくて少年だ。僕はあんなのが好きさ」とオブロンスキイはいった。「どうだね、私を覚えているかね?」
 少年はちらと父をふり返った。
「覚えています、mon oncle(伯父さん)」と彼は伯父を見あげて答えたが、また目を伏せてしまった。
 伯父は少年を呼びよせて、その手をとった。
「え、どうだね、何をしてる?」いろいろ話をしたいと思いながら、何をいったらいいかがわからなくて、彼はそういった。
 少年は顔を赤らめ、返事をしないで、自分の手をそっと伯父の手からひきぬこうとした。オブロンスキイがその手を放すやいなや、彼は放たれた小鳥のように、物問いたげに父の顔を見ると、足早に部屋を出てしまった。
 セリョージャが最後に母を見てから一年たった。それ以来、彼は一度も母のことを聞かなかった。その年に彼は学校へ入れられ、友だちというものを知り、彼らを愛した。あの再会のあとで、彼を病気にした母に関する空想や思い出は、今ではもう彼の心を占めなくなった。そういうものが頭にうかんでくるときは、男の子であり学生である自分にとって恥ずかしい、女々《めめ》しいものとして、追い払うようにした。彼は、父と母のあいだに争いがあって、そのために二人は別れたのだ、ということを知っていた。父親といっしょに残るのが自分の運命であると承知して、その考えに慣れようとつとめた。
 母親に似た伯父を見ると、彼はいやな気がした。それは、かの恥ずべきものと考えている思い出を、呼び起したからである。そのうえ、書斎の戸口で待ちながら、小耳にはさんだ言葉から推しても、ことに、父親と伯父の顔つきから判断しても、二人のあいだには、母の話がかわされていたに相違ないと察したので、彼はなお不快であった。自分といっしょに暮していて、自分に命令権をもっている父を非難したくないのと、わけても卑しいものと信じている感傷にとらわれないために、セリョージャは、自分の平静を乱しに来たこの伯父を見ないように、またこの伯父の思い出させたことを考えないようにつとめた。
 しかし、あとから出て来たオブロンスキイが、階段の上で彼を見つけて、そばへ呼びよせ、学校では放課時間に何をしているかときいたとき、セリョージャは父がいないために、伯父と話しこんだ。
「僕らはこのごろ鉄道ごっこをしてるんです」と彼は伯父の問いに答えていった。「それはね、こうするんです。二人がベンチの上に坐って、お客になるんです。一人はベンチの上に立って、みんなつながるんです。手と手をつないでもいいし、バンドを持ってもいいんです。こうして、部屋中を駆けだすんです。戸はみんな前から開けておくんです。ところが、その中でも車掌になるのが、とてもむずかしいんですよ!」
「それは立ってるのかい?」とオブロンスキイは、ほほえみながらきいた。
「ええ、そりゃ勇気がいるし、はしっこくなくちゃいけないんです。急にとまったり、だれか落っこちたりしたときなんかなおさらね」
「うん、そりゃなまやさしいことじゃないね」今はもう子供らしくなく、ぜんぜん無邪気といえない、母親似の生きいきした目を、淋しい気持で見入りながら、オブロンスキイはそういった。カレーニンには、アンナのことをいわないと約束したにもかかわらず、彼はつい辛抱しきれなくなって、
「おまえお母さんを覚えているかね?」とふいにたずねた。
「いえ、覚えちゃいません」とセリョージャは早口に答えたと思うと、紫色に見えるほど赤くなって、目を伏せてしまった。もうそれ以上、伯父は何一つききだすことができなかった。
 三十分ばかりたった時、スラヴ人の家庭教師が、自分の教え子を階段の上で見つけたが、すねているのか泣いているのか、わからなかった。
「どうしたんです、きっと倒れたときにどこか打ったんでしょう?」と家庭教師はいった。「だから、あの遊戯は危いといったんですよ。校長先生に申しあげなくちゃなりませんね」
「もし打ったからって、だれにも見つかるようなことはしやしませんよ。本当ですとも」
「じゃ、いったいどうしたんです?」
「うっちゃっといてちょうだい!………覚えていたっていなくたって……あんな人のかまったことじゃありゃしない! 僕がなんのために覚えているんだ? どうかかまわないでおいてください!」と彼はいったが、それは家庭教師ではなく、全世界にむかっていったのである。

[#5字下げ]二〇[#「二〇」は中見出し]

 オブロンスキイはいつものごとく、ペテルブルグでもむだに時をすごしはしなかった。ペテルブルグでは、妹の離婚と就職運動という仕事のほか、彼のいわゆるモスクワのかびくさい臭いを、洗い落す必要があった。
 モスクワは、カフェ・シャンタンや乗合馬車があるとはいっても、やっぱりよどんだ沼であった。それは、オブロンスキイの常に感じるところであった。しばらくモスクワにいて、ことに家族のそばに暮していたために、彼は意気|沮喪《そそう》したのを自分で感じた。長いこと、どこへも出ずにモスクワに暮していると、彼はとどのつまり、妻のふきげんや口小言、子供たちの健康や教育、自分の勤務上のこせこせした興味などで、神経衰弱になりそうになるのであった。それのみか、借金をかかえているということさえ、気になってくる。ところが、ペテルブルグへやって来て、自分の仲間のサークルでしばらく暮すと、たちまちそうした物思いも、火の前の蝋のように溶けてしまった。そこはモスクワと違って、人々は無意味な生存をつづけているのでなく、生活している、人間らしい生活をしている。
 妻とは何か?……つい今日も彼は、チェチェンスキイ公爵と話したことである。チェチェンスキイ公爵には妻も家族もある――貴族幼年学校に入っているもう一人前の子供たちがある。にもかかわらず、一方には別の正式でない家庭があって、そこにも子供たちがいる。第一の家庭もりっぱなものではあるけれども、チェチェンスキイ公爵は、第二の家庭にいるときのほうが、より多く幸福なのである。彼は長男を第二の家庭へつれて行って、それをわが子の知情を発達させる有益なことと考えている、などとオブロンスキイに話したが、もしこれがモスクワだったら、人がなんというだろう?
 子供たちは?………ペテルブルグでは、子供たちは父親の生活のじゃまをしない。子供はそれぞれ学校で教育を授けられていて、モスクワのように、子供たちにはありったけぜいたくな生活をさして、両親はただ働いて苦労するのが本当だなどという、このごろはやりの、たとえばリヴォフの主張するような、むちゃな考え方は存在しない。ここでは、人はすべて教養ある人間として当然しかるべきように、自分自身のために生きなければならぬ、ということをちゃんと理解している。
 では、勤務は?……勤務もここでは、モスクワのように末の見こみのない、根気一点ばりの労役ではない。ここでは勤務にうまみがある。えらい人に邂逅《かいこう》して、何かとサービスをしたり、気のきいたことをいったり、いろいろとおもしろいことを仕方話《しかたばなし》で、巧みにやって見せたりすると――ブリャンツェフのように、思いがけない出世ができる。この人には、オブロンスキイも昨日出会ったが、今では一流の政治家である。こういう勤務にはうまみがある。
 とりわけ、金銭上の事柄に関するペテルブルグ人の見方は、オブロンスキイの心をおちつかせるような働きがあった。バルトニャンスキイは、その|暮し振り《トラン》からみて、少なくとも年五万ルーブリは使っているに相違ないが、昨日この問題について、彼におもしろいことをいった。
 食事の前、オブロンスキイは話に脂《あぶら》がのって、バルトニャンスキイにこんなことをいった。
「君はたしか、モルドヴィンスキイと懇意にしているはずだね。どうか僕のためにひと肌ぬいで、あの男にたったひと言口添えしてくれないか。じつは、僕の坐りたい椅子があるんだ。南方鉄道……」
「いや、どうせ僕は忘れてしまうよ……しかし、君もいい物好きだね、ユダヤ人どもといっしょに、あんな鉄道事業に首をつっこむなんて……君がなんといったって、やっぱりけがらわしいこったよ」
 オブロンスキイは、これは生きた仕事だとはいわなかった。バルトニャンスキイには、そんなことをいっても、わからないに違いない。
「しかし、金がいるんだよ、生活していけないんだもの」
「だって、現に生活しているじゃないか?」
「そりゃ生活はしているが、借金でさ」
「え、なんだって? たくさんあるのかい?」とバルトニャンスキイは、同情の色を浮べてたずねた。
「ああ、うんとあるんだ、二万ルーブリから」
 バルトニャンスキイは、おもしろそうにからからと笑った。
「いやはや、しあわせものだよ!」と彼はいった。「僕なんか百五十万から借金を背負って、なんにもありゃしないけれど、ごらんのとおり、それでも生きていけるよ!」
 オブロンスキイは口先ばかりでなく、実際それが本当なのを見せられた。ジヴァーホフは三十万の借金があって、懐には一コペイカもないくせに、ちゃんと生活している、しかもその生活ぶりといったら! クリフツォフ伯爵は、とっくに社会から葬られた身でありながら、女を二人も囲っている。ペトローフスキイは、五百万ルーブリの金を蕩尽《とうじん》した男であるが、いまだに依然たる生活をつづけているのみか、大蔵省に勤めて、二万ルーブリの年俸をもらっている。しかし、そればかりでなく、ペテルブルグはオブロンスキイに、肉体的にも快い作用を及ぼした。つまり、若返らすのであった。モスクワでは、彼はどうかすると白髪を見つけたり、食後に居眠りをしたり、伸びをしたり、重々しい息をつきながら、ゆっくりゆっくり階段を昇ったりして、若い女を相手にしても退屈し、舞踏会でも踊らなかった。ところが、ペテルブルグへくると、いつも骨の髄から、十も若返るような気がするのであった。
 彼がペテルブルグで経験する気持は、外国から帰ったばかりの六十歳になるオブロンスキイ老公爵が、ついきのう彼に話したのと同じであった。
「われわれはここでは、生活のしかたを知らないのだ」とピョートル・オブロンスキイはいった。「君は本当にするかどうか知らんが、わしは、バーデンでひと夏すごしたが、いや、全く、すっかり若返ったような気持になったよ。若いきれいな女を見ても、すぐあじな気になるし……ちょっと食事をしても、一杯やっても、力がわいて、元気が起ってくるんだからな。ところが、ロシヤヘ帰ってくると、女房のところへは行かにゃならん、それからまた田舎へも行く用事があったりして、いや、全くのところ、二週間もたつと、もう部屋衣なんか着こんでしまって、食事のときも着替えをしなくなってしまう。若い女のことを考えるどころか、すっかり爺くさくなってしまって、もう後生願いをせんばかりのありさまだ。これでまたパリあたりへ行けば、またとり戻せるだろうがな」
 オブロンスキイも、このピョートル老公爵と全く同じ相違を感じた。モスクワではすっかり箍《たが》がゆるんでしまって、もしその調子で長くつづけたら、それこそ万が一、後生願いをしはじめないとも限らない。が、ペテルブルグへくると、またりっぱに一人前の男だ、という気持になる。
 ベッチイ・トヴェルスカヤ公爵夫人と、オブロンスキイのあいだには、久しい以前から、はなはだ奇妙な関係が存在していた。オブロンスキイはいつも冗談半分に、夫人の尻を追いまわして、同じく冗談半分に、思いきってぶしつけなことを口に出した。それが何よりも、夫人の御意に入るのを知っていたからである。カレーニンと話し合った翌日、オブロンスキイは夫人の家へよったところ、すっかり若返った気持になって、この冗談半分のごきげんとりとでたらめぐちに、ついうかうかと深入りしてしまい、のっぴきならぬ羽目になってしまった。しかも、ふしあわせなことには、彼は夫人が好いたらしいどころか、いやでたまらなかったのである。そういうわけで、ミャーフカヤ公爵夫人がやって来て、このさしむかいにけりをつけてくれたので、もう大喜びであった。
「ああ、あなたもお見えになっていらしたのねえ」とミャーフカヤ夫人は、彼を見ていった。「ときに、あのお気の毒なお妹さんはどうしていらっしゃいます? あなたそんなふうに、わたしをごらんにならないで下さいましよ」と彼女はつけ足した。「みんな世間の人が――あのひとより百倍も劣るような人たちが、みんながかりで、あのひとの攻撃をはじめましたけれど、わたしはあのひとのしたことを、りっぱだと思っていますわ。あのひとがペテルブルグへ来たとき、ヴロンスキイがわたしに知らせてくれなかったので、けしからんと思っておりますよ。わたし、あのひとを訪ねて行って、どこへでもいっしょにおしまわったんですがねえ。どうか、わたしが変らぬ愛情をもっているってことを、お妹さんに伝えて下さいましな。さあ、あのひとのことを話して聞かせてちょうだい」
「いや、あれの境遇は苦しいものです、あれは……」『あのひとのことを話して聞かせてちょうだい』というミャーフカヤ公爵夫人の言葉を、持ちまえの単純な心から真《ま》に受けて、オブロンスキイは物語をはじめようとした。ミャーフカヤ夫人はいつものでんで、すぐにそれをさえぎって、自分のほうから話しはじめた。
「あのひとは、わたしを除けて、みんなのしていることをしたまでですが、ただ隠さなかっただけのことです。あのひとは嘘をつきたくなかったので、それこそりっぱなやりかたですわ。それよりいっそうよかったのは、あの半気ちがいの義弟《ボー・フレール》([#割り注]カレーニン[#割り注終わり])を棄てなすったことですよ。どうか失礼ごめん。みんなはあの人のことを、賢い、賢い、っていってましたが、ただわたしだけはばかだっていってましたよ。ところが、今度リジヤ・イヴァーノヴナと、ランドーと結びついたのを見て、みんなあの人のことを、半気ちがいだといいだしたんですよ。わたしも、みんなのいうことに同意したくないんですけど、今度ばかりはそういうわけにいきませんの」
「ああ、一つ私に事情を話して下さいませんか」とオブロンスキイはいった。「いったいこれはどういうことでしょう? きのう私は妹のことで、あの男を訪ねて行って、きっぱりした返事を聞かせてくれといったところ、返事はしないで、少し考えるからということでした。ところが、今朝、返事のかわりに、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナのところへこい、という招待が届いたのです」
「ああ、そうですよ、そうですよ!」とミャーフカヤ夫人は、さもうれしそうにいった。「あの二人は、ランドーのご託宣を聞くんですよ」
「え、ランドーですって? なんのために? そのランドーって何者です?」
「まあ、あなたはジュール・ランドーをごぞんじないんですの? Le fameux Jules Landau, le clairvoyant?(あの有名な千里眼のジュール・ランドーを?)これもやっぱり半気ちがいですがね、あなたの妹さんの運命は、この男次第なんですよ。あなたがなんにもごぞんじないのも、みんな田舎暮しのせいですよ。じつはねえ、このランドーというのは、パリのある商店の手代だったんですが、あるときお医者さまのところへ行きましてね、そのお医者さまの待合室でつい居眠りをしたんですの。その夢の中で、一人一人の患者に療法を教えはじめたじゃありませんか。それがふしぎにあたるんですの。その後、ユーリイ・メレジンスキイ――ごぞんじでしょう。あの病気している?――の奥さんが、このランドーのことを聞いて、ご主人のとこへひっぱって来て、治療をさせたと思《おぼ》しめせ。わたしにいわせると、いっこうなんの験《しるし》もありゃしません。だって、あの人は相変らず、ひ弱そうな様子をしているんですもの。ところが、あのご夫婦はすっかり信用してしまって、あの男を方々ひっぱりまわしましてね、とうとうロシヤヘつれて帰ったわけですの。すると、ここの人がみんなどっとおしかけましてね、そこでランドーがみんなを治療しはじめたわけですの。ベッズーボヴァ伯爵夫人は、あの男に病気を癒《なお》してもらったために、すっかりほれこんでしまって、とうとう養子になすったくらいですの」
「どうして養子にしたんです?」
「どうしてもこうしてもありません、ただ養子にしたんですよ。あの男は今もうランドーじゃなくって、ベッズーボフ伯爵なんですの。しかし、それはどうでもいいことでしてね、リジヤが――わたしはあのひとが大好きなんですけど、でも頭がまともについていないんですわ――そのリジヤがね、あたり前の話ですけど、あのランドーに打ちこんで、今ではあのひとも、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチも、あの男なしじゃ何一つ決められないんですの。ですから、あなたの妹さんの運命も、今じゃそのランドー、一名ベッズーボフ伯爵の手に握られてる、というわけなんですの」