『アンナ・カレーニナ』7-21~7-31(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]二一[#「二一」は中見出し]

 バルトニャンスキイのところで、すばらしい晩餐をごちそうになり、おびただしいコニャクを飲んだあとで、オブロンスキイは指定された時間より少し遅れて、リジヤ・イヴァーノヴナ伯爵夫人のもとを訪れた。
「伯爵夫人のとこには、ほかにまだだれが来ている? フランス人かね……」見慣れたカレーニンの外套と、ホック留めの奇妙な、ナイーヴな感じのする外套を見まわしながら、オブロンスキイは玄関番にたずねた。
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ・カレーニンさまと、ベッズーボフ伯爵でいらっしゃいます」と玄関番はいかめしく答えた。
『ミャーフカヤ公爵夫人のお察しのとおりだ』とオブロンスキイは、階段を昇りながら考えた。『奇妙だなあ! しかし、伯爵夫人と近づきになっておくのも悪くないて。なかなかの勢力家だからな。もしあのひとが、ポモールスキイに口添えしてくれたら、もう成功うたがいなしだ』
 外はまだ明るかったが、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナの小さな客間の中は、もう窓掛をおろして、ランプがつけてあった。
 ランプの下の円いテーブルのそばには、伯爵夫人とカレーニンが腰かけて、何やら小さい声で話していた。女のような骨盤をして、膝のところが内輪に曲った、美しい目のぎらぎら光る、長い髪をフロックの襟までたらした、美しい顔立ちの、ひどく蒼白な、背の高くないやせぎすの男が、むこうの端に立って、肖像画を掛けつらねた壁をながめていた。女あるじとカレーニンに会釈をして、オブロンスキイはもう一度、未知の男を見やった。
「ムシゥ・ランドー!」と伯爵夫人は、オブロンスキイが驚くほど物柔らかな、用心ぶかい声で呼びかけた。そうして、彼女は二人をひき合わせた。
 ランドーは急にふり返って、そばへより、にっこり笑いながら、オブロンスキイのさしのべた手の中へ、汗ばんだ動かない手を入れると、すぐまたむこうへ行って、肖像をながめはじめた。伯爵夫人とカレーニンは、意味ありげに目を見合わせた。
「お目にかかれて、たいへんうれしゅうございます、ことに今晩はね」オブロンスキイに、カレーニンのそばの席をさしながら、リジヤ・イヴァーノヴナはそういった。
「わたくし、あなたにご紹介するとき、ランドーと申しあげましたが」フランス人のほうをちらと見て、それからすぐカレーニンに視線を移しながら、彼女は小さな声でいった。「じつはあのかたベッズーボフ伯爵なんですの、たぶんあなたもごぞんじでいらっしゃいましょうが。ただ、あのかたはこの呼び方がお嫌いなんでして」
「ええ、聞きました」とオブロンスキイは答えた。「なんでも、ベッズーボフ伯爵夫人の病気を、きれいになおしたそうですね」
「あのかた、今日うちへいらしたんですけど、見る目もお気の毒でしたわ」と夫人はカレーニンに話しかけた。「今度の別れが、あのかたにしてみれば、とてもつらいことでしょう。恐ろしい打撃なんですものね!」
「あの人はいよいよ発《た》つんですか?」とカレーニンはたずねた。
「ええ、パリヘお帰りになるんですの。昨日お告げをお聞きになったものですからね」とリジヤ・イヴァーノヴナは、オブロンスキイを見ながらいった。
「ああ、お告げをね!」この席では、自分がまだ鍵を握っていない特殊なあるものが行われているのだから、もしくは行われんとしているのだから、できるだけ慎重な態度をとらなければならぬと感じて、オブロンスキイはおうむ返しにいった。
 つかのまの沈黙が訪れた。そのあとでリジヤ・イヴァーノヴナは、いよいよ本題にとりかかりますというように、微妙な笑いを浮べながら、オブロンスキイにいった。
「わたしは、前からあなたを存じあげておりましたが、こうしてお近しくしていただけるのは、何よりうれしゅうございますわ。Les amis de nos amis sont nos amis(お友だちのお友だちはつまり自分のお友だちですものね)。でもね、親友になるためには、相手の心をよっく考えなくちゃなりませんが、あなたはアレクセイ・アレクサンドロヴィッチにたいして、それをなさらないのじゃないかと、そう思いますのですけれど。わたしなんのことを申しているか、おわかりになりますでしょう?」美しい物思わしげな目を上げて、彼女はこういった。
「ある程度まではわかります、伯爵夫人、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチの境遇は……」オブロンスキイはなんのことやらよくわからなかったが、あたらずさわらずの返事をしておこうと思って、こんなことをいった。
「変化が生じたのは、外部の境遇ではありません」とリジヤ・イヴァーノヴナは、きびしい調子でいったが、それと同時に、席を立ってランドーのほうへ行ったカレーニンを、ほれぼれした目つきで見守るのであった。「あのかたの魂が変ったのです。あのかたは新しい魂をお授かりになりました。ところが、あなたはあのかたの心に起った変化を、とっくりと考えてごらんになったことがないのじゃございますまいか」
「といって、だいたいのところなら、私もその変化を想像することができます。私たちはいつも親しくしていましたし、今でも……」伯爵夫人の眼に優しい視線でこたえながら、オブロンスキイは心の中で、二人の大臣のうち、夫人はどちらとより親しくしているのだろう、どちらのほうに口添えを頼んだらいいかしらと、思案していた。
「あのかたの心の中に生じた変化は、同胞への愛を弱めるものではありません。それどころか、あのかたの内部に起った変化は、その愛を強めたに相違ありません。でも、あなたはわたしの申しあげる意味が、おわかりにならないのじゃないでしょうか。ときに、お茶はいかがでございます?」盆にのせて茶を運んできた従僕を指さしながら、彼女はこういった。
「十分にはわかりかねます、伯爵夫人。もちろん、あの人の不幸は……」
「ええ、不幸ですわ。でも、それはね、あのかたの心が更新されて、神の祝福でみたされた時、至高の幸福に変ったのでございます」と彼女はオブロンスキイを、ほれぼれとながめながらいった。
『これならどうやら、両方ともに口添えを頼むことができそうだぞ』とオブロンスキイは考えた。
「おお、もちろんです、伯爵夫人」と彼はいった。「しかし、私が考えますには、その変化は非常にインチメートなものですから、だれだって、どんなに親しくしている人だって、口に出すのを好まないじゃないでしょうか」
「それどころじゃございません! わたしたちはそれを話して、お互にたすけあわなくちゃなりません」
「そりゃ申すまでもありません。が、そこには信念の相違というものもありますし、それに……」とオブロンスキイは、物柔らかな微笑を浮べていった。
「神様の真理に、信念の相違なんてあろうはずがございません」
「ああ、そりゃ、もちろんそうですが、しかし……」とオブロンスキイはどぎまぎして、口をつぐんだ。これは宗教の話なのだな、と彼は悟った。
「どうやら、今にも眠りそうですよ」とカレーニンが、リジヤ・イヴァーノヴナのそばへ来て、意味ありげな声でささやいた。
 オブロンスキイはふり返って見た。ランドーは肘椅子《ひじいす》の腕木に肘つきし、背にもたれかかり、首をたれて、窓ぎわに坐っていた。自分のほうへ向けられた人々の視線に気がついて、彼は頭を上げ、子供のように無邪気な微笑を浮べて、にっこりした。
「かまわないでおおきあそばせ」とリジヤ・イヴァーノヴナはいい、軽い動作でカレーニンに椅子をおしやった。「わたくし気がついたのですけれど……」と彼女が何やらいいだした時、従僕が手紙を持って、部屋へ入ってきた。リジヤ・イヴァーノヴナは、さっさと文面に目を走らすと、ちょっと客に断って、驚くべき早さで返事をしたため、従僕に渡して、茶のテーブルへ帰ってきた。「わたくし気がついたんですけど」彼女はしかけた話をつづけた。「モスクワの人、ことに男の人は、宗教にたいしていちばん冷淡ですわね」
「ああ、それは違います、伯爵夫人、モスクワ人はだれより堅固だという、定評があるようです」とオブロンスキイは答えた。
「そう、でも、私の知っている限りでは、君は残念ながら、冷淡な人の部に属しているようだね」とカレーニンは疲れたような微笑を浮べて、彼のほうへ向いてこういった。
「どうして冷淡な気持なんかでいられるでしょう!」とリジヤ・イヴァーノヴナはいった。
「私はこの点で冷淡というのじゃなくて、待機の状態にあるのです」例の人の心を和らげるような微笑を浮べながら、オブロンスキイはそういった。「私にとっては、まだこれを問題にする時期がきたとは、思われませんのでね」
 カレーニンとリジヤ・イヴァーノヴナは、目を見合わせた。
「われわれにとって、時が来たかどうかということは、決して知ることができません」とカレーニンはきびしい調子でいった。「われわれは、心がまえができてるかどうかなどということは、考えるべきじゃないです。天恵というものは、人間の鼻先思案に導かれるものじゃないから、ときとすると、一生懸命に努力しているものには降ってこないで、サウルの場合のように、心がまえのできていないものの上に、降ってくることがあります」
「いいえ、まだ今じゃなさそうですわ」そのあいだにフランス人の動作を見守っていた、リジヤ・イヴァーノヴナはこういった。ランドーは立ちあがって、彼らのそばへ来た。
「お話をうかがってもよろしゅうございますか」と彼はたずねた。
「ええ、ええ、よろしゅうございますとも。わたくし、あなたのおじゃまをしてはいけないと思ったものですから」とリジヤ・イヴァーノヴナは、優しい目つきで相手を見ながらいった。「どうぞごいっしょにおかけなさいましな」
「光を失わないようにするには、ただ目をふさがないようにすればいいのです」とカレーニンは言葉をつづけた。
「ああ、わたしたちの味わっている幸福が、もしあなたにおわかりでしたらねえ。わたしたちはいつでも、自分の心に神の存在を感じているのですからねえ」とリジヤ・イヴァーノヴナは、さも幸福そうな微笑をもらしながらいった。
「しかし、人間はときによると、そういう高みにまで昇って行けない、と感じることがありますからね」とオブロンスキイはいった。宗教的な高みを認めるのは、良心を曲げるわざであると感じながら、同時に、たったひと言ポモールスキイに口添えするだけで、宿願の地位を授けてくれるかもしれぬ人の前で、自分の自由思想を表明する勇気がなかったのである。
「つまりあなたは、罪業《ざいごう》が障害になるとおっしゃるんですの?」とリジヤ・イヴァーノヴナはたずねた。「いいえ、それはまちがった考え方でございますわ。信ずるものにとっては、罪業などはございません、罪はもうあがなわれているのですから。失礼」また別の手紙を持って入ってきた従僕を見て、彼女はそうつけたした。手紙に目を通して、彼女は口頭で返事をした。「あす太公妃のところで……とそういっておくれ……信ずるものには罪業なんかありません」と彼女は話をつづけた。
「そうです、しかし行為のない信仰は、死んだものと同じです」教理問答の中の一句を思い出して、オブロンスキイはこういったが、ただ口辺の微笑だけで、すでにおのれの自主性を擁護しているのであった。
「ああ、それは使徒ヤコブの書にある句ですが」とカレーニンはいった。ある種の非難をこめて、リジヤ・イヴァーノヴナの方へ向いたところをみると、明らかに、二人で一再ならず論じた事柄に関係しているらしい。「この句のまちがった解釈が、どれくらい害をしたかしれません! この解釈ほど、人を信仰からつき放すものはありませんよ、『自分には仕事がない、だから信ずることができない』とこういうのですが、実際は、どこにもそんなことはいってないのです。いわれているのは、正反対なことなんです」
「神さまのために働く、勤労や精進で自分の魂を救うなんて」とリジヤ・イヴァーノヴナは、さもいやらしそうな軽蔑の表情をしていった。「それは、ロシヤの坊さんたちの野蛮な考え方ですわ……ところが、本当はどこにもそんなこと書いてありゃしません。それはね、ずっと簡単で、やさしいことなんですの」彼女は励ますような微笑を浮べて、オブロンスキイを見ながら、つけ足した。それは、宮中の不慣れな環境のためにまごまごしている、若い女官を励ますときと同じようであった。
「われわれは、われわれのために受難したキリストによって救われたのです。われわれは信仰によって救われたのです」目つきでもって、夫人の言葉に賛意を表しながら、カレーニンは相槌を打った。
「Vous comprenez l'anglais?(あなた英語おわかりになります?)」とリジヤ・イヴァーノヴナはたずね、わかるという返事を聞くと、立ちあがって、小さな書棚の本をさがしはじめた。「わたし『Safe and Happy?(安全と幸福)か、それとも『Under the wing』(翼の下にて)を読もうと思いますの」と彼女は相談するように、カレーニンを見やって、そういった。やがて、書物を見つけると、またもとの座に帰って、ページをめくった。「これはごく短いものなんですの。この中にはね、信仰を獲《え》る道と、それによって心をみたされる幸福、いっさいの地上的なものを超越した幸福のことが書いてありますのよ。信ずるものは不幸なんかにはなれません、それは一人きりでないからです。まあ、今におわかりになりますわ」彼女が読みはじめようとすると、また従僕が入ってきた。「ボロズジナ夫人? 明日の午後二時にと申しあげてちょうだい。ええ、そうですの」自分の読もうと思うページに指をはさんで、ため息とともに、美しい物思わしげな目つきで前を見つめながら、彼女はいった。「本当の信仰ってものは、こういう働きをするのでございますよ。あなた、マリイ・サーニナをごぞんじでいらっしゃいます? あのかたの不幸をお聞きになりまして? たった一人の赤ちゃんを失くされたのでございますよ。あのかたは、絶望のどん底に突き落されていらしたんですけど、それがまあ、どうでしょう? この親友を発見なさいましてね、今では赤ちゃんの亡くなったことを、神さまに感謝していらっしゃいますわ。これが信仰の与える幸福なんでございますよ」
「ああ、それは本当に……」これから読みにかかったら、ひと息つかしてもらえるだろうと楽しみにして、オブロンスキイはこういった。『いや、どうやら今夜は、なんにも頼まないほうがいいらしい』と彼は考えた。『ただどうか、へまをやらないで、足もとの明るいうちに退散することだ』
「あなたはご退屈ですわね」とリジヤ・イヴァーノヴナは、ランドーのほうへ向いていった。「あなたは英語をごぞんじないから、でもこれは短いものですの」
「いえ、私もわかります」と依然たる微笑を浮べていい、ランドーは目をつぶった。
 カレーニンとリジヤ・イヴァーノヴナは、意味ありげに目を見かわし、そこで朗読がはじまった。

[#5字下げ]二二[#「二二」は中見出し]

 オブロンスキイは、いま聞かされている、自分にとって新しい、奇妙な言葉に、すっかりどぎもを抜かれたような気がした。ペテルブルグ生活の複雑味は、モスクワの停滞からひっぱり出してくれるために、概して彼に刺激の働きを与えてくれた。自分に親しいなじみの深いサークルでは、彼もこの複雑味を理解し、かつ愛したのであるが、この縁遠い環境の中では、ただ面くらい、どぎもを抜かれるばかりで、すべてを包容することができなかった。リジヤ・イヴァーノヴナの朗読を聞き、自分の方へそそがれているランドーの、美しい、無邪気な、それともずるそうな――彼は自分でもよくわからなかった――目を見ているうちに、オブロンスキイは何かしら一種特別な頭の重さを感じてきた。
 思いきって種々さまざまな考えが、彼の頭の中でこんぐらかった。「マリイ・サーニナは、赤ん坊が死んだといって喜んでいる……今ちょっと一服したら、さぞいいだろうなあ……魂の救いのためには、ただ信じなければならない。ところが、坊さんたちはそれをどんなふうにしたらいいか知らないけれども、リジヤ・イヴァーノヴナは知っているのだ……だが、どうしてこんなに頭が重いんだろうなあ? コニャクのせいかしら、それとも、これがあまりどうも変てこりんなためだろうか? しかし、それにしても、おれは今まで何も、ぶしつけなことはしなかったらしい。が、とにかくもうこうなったら、依頼をもちだすわけにはいかんわい。この連中は、お祈りをさせるという話だが、もしおれにそんなことをさせたら、それこそあんまりばかばかし過ぎるぞ。それにしても伯爵夫人は、なんてくだらないことを読んでいるのだろう、だが、発音はなかなかよろしい。ランドーがベッズーボフ、なんだってまたベッズーボフなんだ?』
 突然オブロンスキイは、下頤《したあご》がたまらなく動きだして、あくびになりそうなのを感じた。彼はあくびをかくすために頬髯を撫でて、ぶるっと一つ身ぶるいした。が、それにつづいて、早くも居眠りしている自分を感じた。もういびきをかかんばかりである。と、リジヤ・イヴァーノヴナが、『あの人は眠ってらっしゃいますわ』という声が耳に入った瞬間、はっとわれに返った。
 オブロンスキイは、悪いことをした、見つかったぞと思って、おびえたように目を開けたが、『あの人は眠ってらっしゃいますわ』という言葉は、自分ではなくランドーのことだとわかったので、すぐさまほっとした。フランス人も、オブロンスキイ同様に眠っていたのであるが、オブロンスキイの居眠りは、彼自身の考えたとおり、二人に侮辱感を与えたに相違ないが(もっとも、彼は別にはっきりそう考えたわけではない。すべてがあまりにも奇怪に思われたからである)、ランドーの居眠りはなみなみならず二人のもの、ことにリジヤ・イヴァーノヴナを喜ばしたのである。
「|わが友《モナミ》」音のしないように、絹の服の裾を持ち上げながら、興奮のあまりカレーニンを『アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ』でなく『|わが友《モナミ》』と呼びながら、リジヤ・イヴァーノヴナはこういった。「Donnez-lui la main(あの人に手を貸してあげてください)、Vous voyez?(おわかりでしょう?)しっ!」と彼女は入ってきた従僕を制した。「お会いしません」
 フランス人は肘椅子の背に頭をのせて、眠っていた、それとも眠っているふりをしていたかもしれない。そして、何かつかまえようとでもするように、膝の上においてある汗ばんだ手を、弱々しく動かしていた。カレーニンは立ちあがり、用心ぶかくしようと思いながら、やっぱりテーブルにごとんとさわって、フランス人のそばへ行き、その手の上に自分の手をおいた。オブロンスキイも同じく立ちあがり、もし夢でも見ているのなら、早くさめようと思いながら、大きく目を見ひらいて、二人をかわるがわる見つめていた。それはみんな現実の出来事であった。オブロンスキイは、自分の頭がだんだん変になっていくような気がした。
「〔Que la personne qui est arrive'e la dernie`re, celle qui demande, qu'elle ―― sorte. Qu'elle sorte!〕(いちばんあとに来た人で、疑いをもっているあの人は、出て行ってもらおう。出て行ってもらおう!)」とフランス人は目をつぶったままで、こういった。
「Vous m'excuserex, mais vous voyez …… Revenez vers dix heurs, encore mieux demain.(まことに申しわけありませんけど、ごらんのとおりのわけですから、十時までにいらして下さいまし、明日ならばなおけっこうでございます)」
「Qu'elle sorte!(出て行ってもらいましょう)」とフランス人は、じれったそうにくりかえした。
「C'est moi, n'est ce pas?(それは私のことでしょうか、そうでしょう?)」そうだという返事を聞いて、オブロンスキイは、リジヤ・イヴァーノヴナに頼もうと思ったことも、妹の用事も忘れてしまって、ただ一刻も早くここを逃げだしたい一心で、爪立ちで部屋を出ると、伝染病の家からでものがれるように、いっさんに往来へ駆けだした。そして、少しも早く自分を正気づけようと思って、長いこと馭者を相手に世間話をしたり、冗談をいったりした。
 フランス劇場では、やっと最後の幕に間に合ったし、それからダッタン人の料理屋で、シャンペン酒を飲みなどしているうちに、オブロンスキイ[#「オブロンスキイ」は底本では「オブロンキイ」]は吸い慣れた空気に包まれて、いくらかほっとはしたものの、それでもこの晩は、やはり本当にいつもの気分になれなかった。
 ペテルブルグの宿にしているピョートル・オブロンスキイの家へ帰ると、ベッチイからの手紙が来ていた。あの途中やめになった話をぜひ片づけたいから、明日おいでを願うというのであった。この手紙を読み終って、顔をしかめたと思ったとたん、階下《した》で何か重いものを運ぶ召使たちの足音が、ばたばたと聞えた。
 オブロンスキイは何ごとかと部屋を出てみた。それは、若返ったピョートル・オブロンスキイであった。彼はぐでんぐでんに酔っぱらってしまって、階段をあがることができなかったのである。しかし、スチェパン・アルカージッチを見ると、下へおろせといいつけ、相手の肩につかまりながら、彼の部屋へ行き、どんなふうにその晩をすごしたかという話をして、すぐに眠ってしまった。
 オブロンスキイは、めったにないことに、意気銷沈してしまって、長く寝つくことができなかった。何を思い出してもいまわしかったが、まるで何か恥ずべきことのように、何よりいまわしく思い起されたのは、リジヤ・イヴァーノヴナのもとですごした数時間であった。
 翌日、彼はアンナの離婚を拒絶するという、きっぱりした返事をカレーニンから受け取った。この決定の基礎になったのは、昨夜あのフランス人が本当か嘘か知らないが、夢の中でいったことに相違ないと悟った。

[#5字下げ]二三[#「二三」は中見出し]

 家庭生活で何かと実行するためには、夫婦間の完全な決裂か、それとも愛の一致が必要である。ところが、夫婦の関係があいまいで、どっちつかずの場合には、どんなことも実行するわけにいかない。
 多くの家庭が長年のあいだ、夫婦のどちらにとっても飽きあきした状態のままでいるのは、ただ完全な決裂も一致もないからにすぎない。
 ヴロンスキイにとっても、アンナにとっても、暑さと埃《ほこり》の中のモスクワ生活はたえがたかった。太陽はもう春というより、夏のような照らし方をし、ブルヴァールの樹はもうすっかり若葉をひろげて、その葉が早くも埃まみれになっている。にもかかわらず、彼らはもうとくに決定したとおり、ヴォズドヴィージェンスコエヘ帰らないで、二人ながらいやになってしまったモスクワの生活をつづけていた。なぜなら、最近ふたりのあいだには、一致というものがなかったからである。
 彼ら二人を離間さしているいらいらした気分には、外面的になんの原因もなかった。で、よく話をつけようとするいっさいの試みは、それを除かないばかりか、ますます増大さすばかりであった。この内面的ないらだたしさは、彼女にとっては、男の愛情の減退がもとになっていたし、彼にとっては、女のために自分で自分をこんな苦しい立場においたという悔悟の念と、その立場をアンナが楽にしようとしないどころか、いよいよ苦しくするという不満が原因になっていた。彼らはどちらも、自分のいらだたしさを口に出していわなかったが、互に相手がまちがっていると思って、なんでも口実さえあれば、それを証明しようとつとめた。
 アンナにとっては、彼は習慣も、思想も、希望も、精神的の特徴も、いっさいをひっくるめて、ただ一つのもの、すなわち女性にたいする愛であった。しかもその愛は、彼女の感じ方からいえば、自分ひとりだけに残らず集中されねばならなかった。ところが、この愛が減退したのだから、したがって、彼はその愛をほかの女、数人もしくは一人の女に移したに相違ない、とこう判断して、彼女は嫉妬するのであった。彼女の嫉妬は、特定の女に向けられたのでなく、男の愛情の減退に向けられたのである。まだ嫉妬の対象をもたなかったので、彼女はそれをさがし出そうとした。ほんのちょっとした暗示でもあると、彼女は自分の嫉妬を、一つの対象から別のものへ移した。ときには、男が独身時代からの関係で、容易に交渉をもつことのできる商売女たちに嫉妬するかと思えば、ときには、いつでも会うことのできる社交界の婦人に嫉妬し、またときには、想像の生んだ令嬢に嫉妬した。男が自分と手を切って、その令嬢と結婚しようと企《たくら》んでいる、ように思われるのであった。この最後の嫉妬が、何よりも彼女を苦しめた。その最もおもな原因は、彼自身が打明け話のとき、ついうっかりと、母はじつに自分という人間を理解しない、なぜなら、ソローキナ公爵令嬢と結婚しろとすすめるなんて、よくもそんなことがいえたものだと、口をすべらしたからである。
 こういうふうに嫉妬するにつけて、アンナは男にたいして憤慨の念をいだき、ことごとに憤慨の口実を見つけ出した。この天涯孤独な身の上で、モスクワにすごしたあいだの悩ましい期待の心持、カレーニンの不決断と返事の遅延、自分の孤立無援――これをすっかり男のせいにした。もし彼に愛情があったなら、自分の境遇の苦しさを理解して、そこからひき出してくれそうなものである。彼女が田舎でなく、モスクワに暮していることも、やっぱり男のせいなのであった。あの人は自分の望んでいるように、田舎に埋れて暮すことができないのだ。あの人は社交界がなくてかなわないために、自分をそんな恐ろしい状態におきながら、その苦しさをわかってくれようとしない。なおそのうえ、彼女が永久に自分の子供とひき分けられてしまったのも、やっぱり男の責任なのであった。
 ときとして、たまに訪れる愛情こまやかな時期でさえ、彼女は安心しきれなかった。彼女は男の愛情の中に、以前なかったおちつきと、自信のニュアンスを認めた。それが彼女をいらいらさすのであった。
 もう黄昏《たそがれ》であった。アンナは、独身連中の宴会に出かけて行った男の帰りを待ちながら、たった一人書斎のなかを、あちこち歩きまわっていた(この部屋にいれば、車道の轟音があまり聞えないのであった)。そして、昨日ふたりが喧嘩して、いいあったことを、こまかい端々まで思い返していた。いさかいの口火となった、頭に刻みこまれている侮辱的な言葉からさかのぼって、その導火線となったところまでひっ返し、そのときの話の発端までたどりつくと、彼女はあんな罪のない、だれの心にもさわらない話から、ああした不和がひき起されたとは、いかにも信じられない気持がした。全くそれはそのとおりなのであった。いっさいの事のおこりは、彼が女学校を不要なものだといって冷笑し、彼女がそれを弁護したことによるのである。彼は女子教育一般を侮蔑して、アンナの保護しているイギリス娘のハンナなども、物理の知識などてんで必要がないのだ、といった。
 それがアンナをいらいらさせた。彼女はそこに、自分の仕事にたいする侮蔑的なあてこすりを見たのである。で、彼女は自分を傷つけられたしっぺ返しを考えついて、それを口に出していった。
「わたしは、愛する人が理解するようなしかたで、あなたにわたしというものを、わたしの感情を、理解してもらおうとは思っていませんけれど、でもただのデリカシイだけは、もっていただけるものと思っていましたわ」と彼女はいった。
 案の定《じょう》、彼はいまいましさに顔を真赤にして、何かいやなことをいった。それにたいしてなんと答えたか、彼女は覚えていなかったけれども、そのとき彼はなんのためやら、おそらくこれも女を傷つけようというつもりらしく、こんなことをいったのである。
「僕はね、君があの娘を猫かわいがりするのが不快なんだ。実際それはそのとおりなんだよ。だって、それが不自然なのは見え透いているもの」
 彼女が自分の苦しい生活をまぎらすために、かろうじて築き上げた世界を破壊しようとするこの残酷さ、彼女を不自然だ、猫かぶりだといって非難するこの無理非道は、彼女を爆発させてしまった。
「わたし本当に残念ですわ、ただ粗野な物質的なものだけがあなたに理解されて、自然に見えるってことがね」と彼女はいい、部屋を出てしまった。
 昨晩、彼がアンナのところへやって来たとき、二人は以前のいさかいのことを口にしなかった。けれど、いさかいは納まりはしたものの、すっかり消えてはしまわないということを、二人とも感じていた。
 今日、彼は一日うちにいなかった。アンナは、彼と喧嘩しているのだと思うと、さびしく苦しくてたまらなかった。で、なにもかも忘れ、赦し、和解したくなり、自分を非とし、彼を是としようと考えた。
『わたしが自分でわるかったんだわ。わたしいらいらしやすくって、無意味な嫉妬《しっと》ばかりしてるんだもの……あの人と仲なおりして、田舎へ帰りましょう、むこうへ行けば、ずっと気持がおちつくから』と彼女はひとりごちた。
『不自然!』ふと、自分を何よりも侮辱したひと言を思い浮べた。いや、言葉よりもむしろ、自分を傷つけようというその心持である。『あの人が何をいおうとしたか、わかってるわ。自分の娘を愛さないで、他人の子をかわいがるのが不自然だ、とそういいたかったんだわ。あの人に、子供にたいする愛なんて、何がわかるものか、あの人のために犠牲にしたセリョージャにたいする愛情が、あの人にわかるはずがない。あれは、ただわたしの心を傷つけようと思ったまでのことだ! いいえ、あの人はほかの女を愛しているのだ、きっとそうに違いない』
 自分の心をおちつけようとして、もう何度も何度も通ったところを、またもやどうどうめぐりして、以前のいらいらした気分に帰ったのに気がつくと、彼女は自分で自分にぞっとした。
『いったいほんとにだめなのかしら? なにもかも自分にかぶることはできないのかしら?』と彼女はひとりごち、また初めからやりなおしにかかった。『あの人は真実があって、潔白で、わたしを愛しているのだわ。わたしもあの人を愛していて、近いうちに離婚も成立する。その上に何がいるんだろう? ほかでもない、おちつきと信頼だ。そして、万事自分が悪かったと思うことだ。そうだ、今にもあの人が帰って来たらさっそく、わたしが悪かったといいましょう。もっとも、わたしが悪いのじゃないけれど……そして、二人で田舎へ帰りましょう』
 もうこれ以上考えて、またいらいらした気分にひきこまれないために、彼女はベルを鳴らして、田舎へ帰るしたくに荷造りするから、トランクを持って来るように命じた。
 十時になって、ヴロンスキイが帰って来た。

[#5字下げ]二四[#「二四」は中見出し]

「いかがでした、おもしろうございました?」男を迎えに出ながら、彼女はすまなそうな、つつましやかな表情でたずねた。
「いつものとおりさ」アンナのきげんがいいことをひと目で見てとって、彼はそう答えた。彼はそういう変化には慣れていたが、今日は自分も上々のきげんだったので、特にそれをうれしく思った。
「おやおや、これは! こいつぁいい!」と彼は控室のトランクをさしていった。
「ええ、もう帰らなくちゃなりませんわ。わたし馬車で散歩に出かけたところ、とてもいい気持でしたので、急に田舎へ帰りたくなりましたの。ね、あなたも別にご用はないでしょう?」
「それこそ僕も望むところさ。今すぐくるからね、よく相談しよう、ただちょっと着替えをするだけだ。お茶の用意をいいつけておくれ」
 そういって、彼は書斎へ行った。
 彼が『こいつぁいい』といった調子に、何か侮辱を感じさせるものがあった。まるで、だだをこねなくなった子供にでもいうようである。それよりもっと侮辱を感じさせたのは、彼女の申しわけなさそうな態度と、彼のみずからたのむところありげな態度の対照である。彼女は瞬間、心の中に闘争欲のこみあげるのを感じたが、努力してようやくそれをおさえつけて、やはり楽しげな様子で、ヴロンスキイを迎えた。
 ヴロンスキイが入ってきたとき、彼女はある程度、用意した言葉をくりかえしながら、自分のすごしたきょう一日の模様や、出発に関する計画などを話した。
「じつはねえ、わたしほとんど霊感といってもいいほどの気持がわいてきましたのよ」と彼女はいった。「なんのためにここで離婚を待ってるんだろう? そんなことは田舎にいたって同じことじゃないか? と思いましてね。これ以上待っていられませんわ。わたし、もうあてにしたくありません、離婚のことなんて、いっさい聞きたくありませんわ。そんなことは、わたしの生活になんの影響もありゃしない、とそうきめてしまいましたの、あなたも賛成して下さるでしょう?」
「そりゃそうとも!」彼女の興奮した顔を見て、ヴロンスキイは不安げにこう答えた。
「あなたクラブで、どんなことをなすったの? どんな人たちが集まりまして?」ちょっと黙っていた後、彼女はたずねた。
 ヴロンスキイは客の名前をいって、
「食事はすばらしかったよ。それに、ボート・レースがあったりして、なにもかも相当おもしろかった。しかし、モスクワでは ridicule(おかしなこと)なしじゃすまないんだね。スエーデン王妃の水泳教師という婦人が現われてね、自分の技術を示したわけさ」
「え? 泳いだんですの?」とアンナは眉をひそめてきいた。
「なんだか赤い costume de natation(水泳着)を着てるんだが、年とったみっともない女なんだ。で、いつ出発するね?」
「なんてばかげた思いつきでしょう! それで、なんですの、なにか特別な泳ぎ方をするんですの?」アンナは男の問いに答えず、こうきいた。
「なんにも変ったことはありゃしない。だから、おそろしくばかげてるっていうのさ。で、いつ出発しようと思うね?」
 アンナは、いやな想念を追いのけようとでもするかのように、さっと頭をふった。
「いつ出発するかですって? そりゃ早いだけよござんすわ、明日は間にあわないから、明後日にしましょうよ」
「そうだね……いや、待ってくれ。明後日は日曜で、母のところへ行かなくちゃならないんだ」とヴロンスキイは、もじもじしながらいった。なぜなら、母の名を口にするが早いか、アンナがうさんくさそうに、自分を見つめるのを感じるからであった。彼がもじもじすると、それはアンナの疑いを確かめることになる。アンナはかっと赤くなって、男から身を離した。今ではスエーデン王妃の水泳教師でなく、ヴロンスキイ伯爵夫人と同じモスクワ近郊の村に住んでいる、ソローキナ公爵令嬢が、アンナの心に浮んでくるのであった。
「明日だって行けるじゃありませんか!」と彼女はいった。
「ところが、だめなんだ。僕の行かなくちゃならん用事のために、明日はまず委任状と金を受け取っておく必要があるんだが、それが明日はだめなんだ」と彼は答えた。
「それなら、わたしたちは行くのをすっかりやめましょう」
「そりゃどうして?」
「わたし、それよりも遅かったら発《た》ちませんわ。月曜でなかったら、すっかりやめですわ」
「どういうわけだね?」とヴロンスキイは、驚いたようにいった。「だって、そんなこと無意味じゃないか!」
「あなたにはそりゃ無意味でしょう。だって、あなたはわたしのことなんか、どうでもいいんですもの。あなたはわたしの生活を、理解しようとなさらないんですわ。ここでたった一つわたしをひきつけていたのは、あのハンナです。ところが、あなたはそんなことなんか芝居だ、とおっしゃるんですもの。だって、昨日あなたそうおっしゃったでしょう、わたしは自分の娘をかわいがらないで、あのイギリス娘を愛しているような顔をしてる、それは不自然だって。いったいわたしがここで、どういう生活をしたら自然なのか、それがうかがいたいもんですわ」
 つかのま、彼女はわれに返って、自分のこころぐみを裏切ったことに、ぞっとした。けれど、われとわが身を滅ぼしていると知りつつ、彼女はおのれをおさえることができなかった。男のほうがまちがっていることを、証明せずにいられなかった。男に屈服することができなかった。
「僕は一度もそんなことをいやしないよ。ただそういうだしぬけの愛情には同感できない、とそういっただけだよ」
「どうしてあなたは、いつも率直を自慢なさりながら、本当のことをおっしゃらないんでしょうね?」
「僕はそんなことを自慢した覚えがないし、一度も嘘をついたこともないよ」腹の中にこみあげてくる怒りをおさえながら、彼は低い声でいった。「じつに残念だね、おまえが……なにを尊敬しないのは……」
「尊敬なんてものは、愛情のあるべきところがからっぽなとき、それを隠すために考え出したものですわ……もしあなたが、もうわたしを愛していらっしゃらないのなら、ちゃんとそうおっしゃったほうがいいわ、そのほうが潔白ですわ」
「いや、これじゃもうたまらない!」とヴロンスキイは、椅子を立ちながら叫んだ。それから、彼女の前に立ちはだかって、ゆっくりとこういった。「いったい、なんのためにおまえは、僕の忍耐力を試験しようとするのだ!」といった彼の調子は、まだいろいろいいたいことがあるけれども、がまんしているのだぞ、とでもいうようであった。「辛抱《しんぼう》にもきりがあるからね」
「それはどういう意味なんですの?」男の顔ぜんたい、ことにすごみをおびた残酷な目つきに現われている憎悪の色を見て、彼女は思わずこう叫んだ。
「それはね……」と彼はいいだしたが、やめてしまった。「いったいあなたは、僕にどうしてくれといわれるんです。それをまず聞かなくちゃならない」
「わたしに何を望むことがあるものですか? わたしに望むことができるのは、あなたがわたしを棄てないことですわ、あなたはそうしようと考えてらっしゃるけど」彼がいいきらなかったことを察して、アンナはこういった。「でも、わたしが望んでいるのは、そんなことじゃありません。そんなことは第二義的な話ですわ。わたしの望むのは愛情ですけど、それがないんですもの。だから、なにもかもおしまいですわ」
 彼女は戸口のほうへ歩きだした。
「お待ち! お……まち!」とヴロンスキイは、暗くひそめた眉を開きはしなかったが、女の手をとってひき止めながら「いったいどうしたというんだ? 僕が出発を三日のばさなくちゃならないといったら、おまえはそれにたいして、僕のことを嘘つきだ、不正直だといったろう」
「ええ、それにもう一度くりかえして申しますが、わたしのためになにもかも犠牲にしたといって、わたしを責めるような人は」またもや、以前のいさかいのときの言葉を思い出して、彼女はこういった。「そういう人は不正直よりもっと悪い、心ってものをもたない人ですわ」
「いや、人間の辛抱にもきりがある!」と叫んで、ヴロンスキイはさっと彼女の手を放した。
『あの人はわたしを憎んでいる。それはわかりきっている』と彼女は考え、無言のままふり返りもせず、不確かな足どりで部屋を出てしまった。『あの人はほかの女を愛している、それはもっとはっきりわかっている』自分の居間へ入りながら、彼女はそうひとりごちた。『わたしの望んでいるのは愛情なのに、それがないとすれば、もうなにもかもおしまいだわ』と自分で自分の言葉をくりかえした。『だから、片づけなくちゃならない』
『でも、どんなふうに?』と自問して、彼女は鏡の前の肘椅子に腰をおろした。
 自分はこれからどこへ行ったものだろう――養育してもらった伯母のところか、ドリイのところか、それともいっそ、一人で外国へ行ってしまおうか? それから、あの人[#「あの人」に傍点]はいま書斎で何をしてるだろう、あれは本当にぎりぎりの決裂なのか、それともまだ仲なおりの可能[#「可能」はママ]があるだろうか? またペテルブルグのもとの知り人たちは、こんど自分のことをなんというだろう。カレーニンはこのことをどんなふうに見るかしら――などといったような想念をはじめとして、今度この決裂のあとは、どんなことになるかという問題について、その他さまざまな想念が頭に浮んだけれども、心底からそうした考えに没頭してはいなかった。心の底にはたった一つだけ、彼女をひきつける、漠《ばく》とした想念があったけれども、はっきりそれを意識することができなかった。もう一度カレーニンのことを思い起したとき、彼女は産後の大病時代と、そのころたえずつきまとっていた感じを思い浮べた。『なぜわたしは死ななかったのかしら?』という、当時自分のいった言葉と、そのころの感情が記憶に浮んだ。と、ふいに彼女は、自分の心の底にあるものを悟った。そうだ、ただこれ一つのみが、いっさいを解決する想念なのである。『そうだ、死ぬのだわ!………』
『カレーニンとセリョージャの恥も不名誉も、わたしの恐ろしい恥辱も――なにもかも死によって救われるのだ。死ぬことだわ。そうしたら、あの人も後悔して、かわいそうに思ってくれるだろう、愛してくれるだろう、わたしのために苦しむだろう」自己憐愍の微笑を頬に凍《こお》りつかしたまま、彼女は肘椅子に坐って、左手の指輪を抜いたりはめたりしながら、自分が死んだあとの男の気持を、まざまざと心に描いてみるのであった。
 近づいてくる足音、男の足音が、彼女を呼びさました。指輪の始末に気をとられているようなふりをして、彼女はふり返ってみようともしなかった。
 ヴロンスキイはそばへよって、彼女の手をとり、低い声でいった。
「アンナ、もし望みなら、明後日たつことにしよう。僕はなんでも異存なしだよ」
 彼女は黙っていた。
「どうだね」と彼はきいた。
「あなた自分でごぞんじでしょう」と彼女はいったが、その瞬間、もうこらえきれなくなって、声を立てて慟哭《どうこく》しはじめた。
「棄ててちょうだい、わたしを棄ててちょうだい!」慟哭のあいだあいだに、彼女はいうのであった。「わたしあす出て行きます……いえ、それ以上のことをします。いったいわたしがなんでしょう? ふしだらをしでかした女です。あんたの首についた重石《おもし》です。わたしあんたを苦しめたくない。そんなこといやです! わたしあんたを自由にしてあげますわ。あんたはわたしを愛しちゃいないんですもの、ほかの女の人を愛してるんですもの!」
 ヴロンスキイは、どうか気をしずめてくれと拝むようにして頼み、おまえの嫉妬にはかけらほどの根拠もありはしない、自分の愛は一度も冷めたことがないし、今後も冷めることはない、今こそ前にも増しておまえを愛している、と誓った。
「アンナ、なんのためにおまえは自分をも、僕をも苦しめるんだね?」と彼は女の手を接吻しながらいった。今や彼の顔には、優しい愛情が現われていた。彼女は、男の声に涙の響きがあるのを自分の耳で聞き、その湿りを自分の手に感じたような気がした。そのせつな、アンナの絶望的な嫉妬は、物狂わしい情熱的な愛情に変った。彼女は男を抱きしめて、その頭、頸、両手に、接吻の雨を降らした。

[#5字下げ]二五[#「二五」は中見出し]

 もう完全に和解ができたと感じて、アンナは朝からいそいそと、出発の準備にかかった。昨夜はお互に譲り合っていたので、出発は月曜になるか火曜になるかきまってはいなかったものの、今は出発が一日早かろうが遅かろうが、アンナは全く平気な気持で、かいがいしく出発準備をすすめていた、彼女が自分の居間で、蓋《ふた》を開けたトランクの上にかがみこみながら、荷物の選《え》り分けをしているとき、もう着替えをすましたヴロンスキイが、いつもより早く入ってきた。
「僕はこれから、母のところへ行ってくるよ、エゴールの手を通して、金を送ってくれるかもしれないからね。そうすれば、僕は明日にも立てるんだ」と彼はいった。
 彼女は、申し分のないきげんであったにもかかわらず、母の別荘へ行くと聞いて、何かにちくりと刺されたような気がした。
「いいえ、わたし自分でもしたくが間に合いませんから」と彼女はいったが、すぐそのとき、『じゃ、わたしの思ったとおりにすることもできたんじゃないか』と考えた。「いいえ、あなた自分でしようと思ったとおりにしてちょうだい。まあ、食堂へ行ってらっしゃいな、わたしすぐ行きますから。ただこのいらないものを選り出してしまってから」もう山のように衣装を抱えているアンヌシカの腕に、まだ何やらのせながら、彼女はそういった。
 彼女が食堂へ入ったとき、ヴロンスキイはいつものビフテキを食べていた。
「わたし、この家の部屋という部屋が、どんなにいやでたまらないか、あなた想像もおつきにならないでしょう」男と並んで、コーヒー茶碗の前に腰をおろしながら、アンナはいいだした。
「こういった chambres garnis(造作付き貸家)ほど、恐ろしいものはありませんわね。部屋に表情がないんですもの、魂がないんですもの。あの時計、窓掛、それに何より壁紙、――まるで悪夢ですわ。わたし、まるで聖約の地か何かのように、ヴォズドヴィージェンスコエのことを考えていますのよ。あなた、まだ馬をお送りになりませんの?」
「いや、馬は僕らのあとから送らせることにした。おまえどこかへ行くのかい?」
「わたし、ウィルソンのところへ行こうと思って。あのひとに着物を持って行ってやらなくちゃなりませんの。じゃ、いよいよ、明日ですね?」と彼女は浮きうきした声でいった。が、突然その顔色がさっと変った。
 ヴロンスキイの従僕頭が、ペテルブルグから来た電報の受取をちょうだいしたい、といってきたのである。ヴロンスキイが電報を受けとったからといって、何も特別なことはないわけであるが、彼は何かアンナに隠そうとでもするように、受取は書斎にあると答え、急いで彼女に話しかけた。
「明日は必ず片づけてしまうよ」
「電報はどこからですの?」と彼女は、相手の言葉を聞かないでたずねた。
「スチーヴァからさ」と彼はしぶしぶ答えた。
「どうしてわたしに見せてくださらなかったの? スチーヴァとわたしのあいだに、何も秘密はないはずじゃありませんか」
 ヴロンスキイは従僕頭を呼び返して、電報を持ってくるように命じた。
「僕が見せなかったのは、スチーヴァがなんでも電報を打つ癖があるからだよ。何も解決がついていないのに、電報なんか打ってもしかたがないじゃないか」
「離婚のことですの?」
「そう、しかしこの電報によると、まだなんの結果も得られないということだ。近日中に確答をもらう、とはいってるがね。まあ、読んでごらん」
 アンナはふるえる手で電報を受け取って、ヴロンスキイがいったのと同じ文意を読んだ。最後にまだ、こうつけ加えてあった。『希望少なし、しかし可能なことも不可能なことも、極力やってみる』
「わたし昨日もいったとおり、いつ離婚してもらえるか、またはたして離婚してもらえるものやら、もらえないものやら、そんなことはいっさい、どうだってかまいませんの」と彼女は赤い顔をしていった。「だから、わたしにお隠しになる必要は、ちっともなかったんですわ」
『してみると、この人は女からもらった手紙も、隠せるわけだわ、いえ、隠しているかもしれないわ』と彼女は考えた。
「ところで、ヤーシュヴィンがヴォイトフと二人で、今日、午前中に訪ねてくるといってたっけ」とヴロンスキイはいった。「どうやらあの男はペスツォフを、すっからかんに負かしてしまったらしいよ。やっこさんがとても払い切れないほど――かれこれ六万ルーブリ近く」
「いいえ」明らかに男がこの話題の転換で、おまえはいらだっているぞ、ということを示したのだと思うと、彼女はいよいよいらだちながらいった。「どうしてあなたは、この知らせが隠しだてしなければならないほど、わたしにとって重大なものだとお思いになりますの? そんなことは考えたくないと、わたしそういったじゃありませんか。ですから、あなたもわたしと同じように、あまりこんなことを気になさらないように、お願いしたいものですわ」
「僕が気にするのは、状態をはっきりさせたいからだよ」と彼はいった。
「はっきりさせなくちゃならないのは、形式じゃなくて愛情ですわ」言葉ではなく、その言葉を発する男の冷たいおちついた調子に、いよいよいらだちながら、彼女はこういった。「なんのために、あなたはそれをお望みになりますの?」
『やれやれ! また愛の話か』と彼は顔をしかめながら考えた。
「なんのためかってことは、おまえも知っているはずじゃないか。おまえのためと、それからさきざきできる子供のためだ」と彼はいった。
「子供なんかできませんわ」
「それは大いに残念だ」と彼はいった。
「あなたは、子供のためにそれが必要なので、わたしのことは考えてくださらないんですのね?」彼がおまえのため[#「おまえのため」に傍点]と子供のためといったのを、すっかり忘れてしまって、というより、ろくろく耳に入れないで、彼女はこういった。
 子供ができるかどうかという問題は、久しい前から論争の的となって、彼女をいらだたせていたのである。男が子供をほしがるのを、彼女は自分の美を尊重しない証拠と見なした。
「ええ、おまえのためにといったじゃないか。何より第一に、おまえのためなんだよ」痛みでも感じたように、彼は顔をしかめながらくりかえした。「なぜって、おまえのいらいらするおもな原因は、境遇の不安定からくるものだってことを確信するからだ」
『そうだわ、今はもう空《そら》をつかうのもやめて、冷たい憎しみがまる出しだわ』男の言葉は聞こうともせず、自分をからかいながらながめている、男の中にひそむ冷やかな、残忍な審判者を、恐怖の念をもってじっと見つめながら、彼女は考えるのであった。
「原因はそんなことじゃありません」と彼女はいった。「わたしが完全にあなたの支配下にあるってことが、どうして、あなたの言葉を借りると、わたしのいらいらする原因になるのやら、わたし合点がいかないくらいですわ。そこにどうして、境遇の不安定があるのでしょう? あべこべですわ」
「おまえがわかろうとしないのは、じつに残念だ」かたくなに自分の考えを証明しようとしながら、彼はさえぎった。「不安定というのはほかでもない、おまえの目に僕が自由なように映ることだよ」
「そのことなら、あなたは全く安心していらして大丈夫ですわ」と彼女はいい、くるりと顔をそむけて、コーヒーを飲みにかかった。
 彼女は小指を一本だけ離して、茶碗をとり上げ、それを口ヘもっていった。幾口か飲むと、アンナは男のほうをちらと見た。と、その顔の表情によって、自分の手も、身ぶりも、コーヒーを飲むときに唇で立てる音も、彼にいまわしい感じを与えているのが、まざまざとわかった。
「わたしはね、あなたのお母さんが何をお考えになろうと、またどんなふうにあなたを結婚させようと、思っていらっしゃろうと、いっこう平気ですわ」と彼女はふるえる手で、茶碗をおきながらいった。
「僕らは今そんな話をしてるんじゃないよ」
「いいえ、この話をしてるんですわ。そして、はっきりいっておきますが、わたしにとって、人情ってものをもたない女は、よしんば年寄りであろうとなかろうと、あなたのお母さんであろうと他人だろうと、ぜんぜん興味がありません。そんなひとのこと、知ろうとも思いませんわ」
「アンナ、お願いだから、僕の母のことで、不遜な口のききかたをしないでくれ」
「わが子の幸福と名誉が何にあるかってことを、心で察しることのできないような女は、つまり人情がないんですわ」
「もう一度お願いするが、僕の尊敬している母のことで、不遜な口をきくのはよしてもらおう」と彼は声を高め、きっとアンナをみつめながらいった。
 彼女は返事をしなかった。じっと男を見つめ、その顔その手を見入りながら、彼女は昨夜の仲なおりの場面と、男の情熱的な愛情をこまかなふしぶしまで思い浮べた。『それと同じ愛情を、この人はほかの女にもふりまいているのだろう、ふりまこうと思っているのだろう!』と彼女は考えた。
「あなたは、お母さんを愛してなんかいらっしゃいません。そんなことは言葉だけですわ、言葉、言葉ですわ!」憎悪の色を浮べて男を見ながら、彼女はそういった。
「もしそういうことなら、そのときは……」
「決心しなくちゃなりません、だからわたしも決心していますわ」といい、彼女は出て行こうとした。が、そのときヤーシュヴィンが部屋へ入って来た。アンナはあいさつして、立ちどまった。
 胸の中に嵐が吹きすさんで、恐ろしい結果になるかもしれぬような、生涯の岐路に立っているとき、なぜそんなとき他人の前で仮面《めん》をかぶる必要があったのか、どうせ遅かれ早かれ、なにもかも知ってしまう人間ではないか? 彼女はなぜかわからなかったが、すぐさま胸の中の嵐をおししずめて、腰をおろし、客と話をはじめた。
「ときに、いかがでございます、貸し金はお手に入りまして?」と彼女はヤーシュヴィンにきいた。
「なに、べつだん。全部はもらえそうにありませんが、水曜日に出発しなきゃなりませんのでね。ところで、君たちはいつ?」とヤーシュヴィンは目を細めながら、ヴロンスキイにきいた。明らかに、いま喧嘩があったことを察したらしい。
「たぶん明後日になるだろう」とヴロンスキイは答えた。
「それにしても、ずいぶん前からの話じゃないか」
「でも、今度こそいよいよ本当ですの」まともにヴロンスキイの顔を見ながら、アンナはいった。その目つきは、どうか仲なおりの望みがあるなんて、考えないで下さい、とでもいうようであった。
「いったいあなたは、あのふしあわせなペスツォフがかわいそうでないんですの?」と彼女はヤーシュヴィンとの話をつづけた。
「そうですね、アンナ・アルカージエヴナ、かわいそうだか、かわいそうでないか、一度も自分にきいてみたことがないんでしてね。だって、僕の全財産はここにあるんですからね」と彼は脇のポケットをさしてみせた。「だから、今は金持でも、今晩クラブへ行けば、帰るときには乞食になってるかも知れないんですよ。なにしろ、僕と勝負をする相手も、やっぱり僕を肌着一枚ない丸裸にしよう、と思ってるんですからね、こっちも同じことでさあ。そこで、真剣勝負を戦わすわけでして、そこにおもしろみがあるんですよ」
「でも、もしあなたに奥さんがおありになったら」とアンナはいった。「奥さんの気持はまあ、どんなでしょう?」
 ヤーシュヴィンは笑いだした。
「だからこそ、僕は結婚しなかったし、また結婚しようとも思わなかったらしいですな」
「じゃ、ヘルシングフォルスは?」とヴロンスキイは話の仲間に入って、にっこり笑顔になったアンナを、ちらと見やった。そのまなざしに出会うと、アンナの顔はまるで『忘れちゃいませんよ、やっぱり同じことです』とでもいいたげに、冷たいきびしい表情になった。
「まあ、あなた恋をなさいましたの?」と彼女はヤーシュヴィンにきいた。
「ええ、そりゃもう! 何度やったかしれません。ところがね、中には、カルタのテーブルに向っても、ランデヴーの時間がくると、いつでもそこを離れることのできる人があるでしょう。ところが僕は、恋をすることはできるけれども、晩になると勝負に遅刻しないようにする。それが僕のやりかたなんですよ」
「いいえ、そのことじゃありません、わたし現在のことをうかがってるんですわ」彼女はヘルシングフォルス[#「ヘルシングフォルス」に傍点]といいかけたが、ヴロンスキイのいった言葉をくりかえしたくなかったので、口をつぐんだ。
 牡馬を買うことになっているヴォイトフが来た。アンナは立ちあがって、部屋を出た。
 家から出かける前に、ヴロンスキイは彼女の居間へ入ってきた。彼女はテーブルの上で何かさがしているようなふりをしようと思ったが、そんなそらぞらしいまねをするのが恥ずかしくなって、冷やかな目でまともに男を見やった。
「何ご用ですの?」と彼女はフランス語でいった。
ガンベッタの証明書をとりに来たのだ、あれを売ったもんだからね」といった彼の調子は『おれは、くどくど話し合ってる暇なんかないのだ、それになんの役にも立たないからな』という意味を、言葉よりも明瞭に表白していた。
『おれはアンナにたいして、何一つ悪いことはないのだ』と彼は考えた。『もしあれが自分で自分を罰しようと思っているのなら、tant pis pour elle(なおさらあれにとっては悪くなるばかりだ)』が、部屋を出ようとしたとき、彼女が何かいったような気がした。すると、ふいに彼の心臓は、女にたいする憐愍のためにうちふるえた。
「なんだね、アンナ?」と彼はきいた。
「わたしなんにも」と彼女は相変らず冷やかに、おちついて答えた。
『なんにも、それなら tant pis(さらにいけなくなるばかりだ)』と彼はまた冷淡な気持になり、くるりと身を転じながらこう考えて、出て行こうとした。出て行きしなに、彼女の蒼白い、唇をわなわなふるわしている顔が、鏡の中に映っているのを見た。彼は足を止めて、何か慰めの言葉をいってやろうと思ったが、彼が何かいうことを考えつくより前に、足が彼を室外へ運び出してしまった。彼はこの日いちんち家を外にすごした。夜おそく帰って来たとき、小間使が、「アンナ・アルカージエヴナは頭がお痛みになりまして、だれも部屋へ入らないようにおっしゃいましてございます」といった。

[#5字下げ]二六[#「二六」は中見出し]

 これまでついぞ一度も、喧嘩したままで、まる一日をすごしたということはなかった。今日がはじめてである。これこそ完全な恋ざめの、一目瞭然たるあかしである。彼が証明書を取りに入って来たときの一瞥《いちべつ》、いったいああいう目つきで、自分を見るなんてことができるだろうか? 自分のほうをながめて、この心が絶望のために張り裂けそうになっているのを見てとりながら、あんなに平気なおちつきはらった様子で、無言のまま通りすぎてしまうことが、いったいできるものだろうか? いや、あれは愛がさめたどころではない、自分を憎んでいるのだ。というのも、ほかの女を愛しているからだ――それはわかりきっている。
 それから、男のいった残酷な言葉を、一つ残らず思い浮べながら、アンナはなおそのうえに、彼が明らかにいおうと思った言葉、いいそうな言葉を考えついて、いやがうえにいらいらするのであった。
『僕は君を留めはしませんから』これはあの人のいいそうな言葉だ。『どこでも好きなところへ行っていいですよ。君は良人との離婚を望まなかったが、おそらくその懐へ帰るためでしょう。さあさあ、お帰んなさい。金が必要だったらあげますよ。いったい何ルーブリいるのです?』
 無作法な人間のいいそうな、残忍しごくな言葉を尽して、ヴロンスキイは彼女の想像の中で毒づくのであった。しかも彼女は、まるで男が本当にそれをいったかのように、これはもう赦せないと思うのであった。
『だって、つい昨夜あの人が、あの真実で潔白なあの人が、愛を誓ったのじゃないか? わたしがひとり合点で絶望したのも、今まで幾度もあったことじゃないか?』と彼女はあとから、すぐ思いなおすのであった。
 アンナはこの日いちんち、二時間ばかりかかって、ウィルソンのとこへ行って来たのを除《の》けると、本当になにもかもおしまいになったのだろうか、まだ和解の希望があるだろうか、すぐこのまま出て行ったものか、それとももう一度会って行ったほうがいいか、という疑惑のうちにすごした。彼女は一日ヴロンスキイを待っていたが、晩に自分の居間へひっこむ前に、頭痛がする云々《うんぬん》の言づけを命じて、それで男の心を占《うらな》おうとした。
『もしあの人が、小間使のいうことにかまわず訪ねてきたら、それはつまりまだ愛している証拠だ。けれど、もしこないとしたら、それは万事休した証拠だから、そのときどうするか、いよいよの決心をつけるんだ!………』
 その晩、彼女はヴロンスキイの馬車のとまった音、ベルの響き、その足音、小間使との話し声を耳にした。彼はいわれたことをそのまま本当にして、それ以上なにもきこうとせず、自分の部屋へ入ってしまった。してみると、なにもかもおしまいなのだ。
 死、男の心に自分にたいする愛をよみがえらせるため、彼を罰するため、彼女の胸に巣くった邪悪な精神が、男を相手につづけてきた闘争に勝をしめるための、唯一の手段としての死が、明瞭に生きいきと、彼女の眼前に立ち現われたのである。
 今となっては、ヴォズドヴィージェンスコエヘ行くとか、行かないとか、良人から離婚の承諾を得るとか得ないとかいうことは、どうだってかまわない。なにもかも不要である。ただ一つ必要なのは、彼を罰するということなのだ。
 彼女がいつもの分量だけ阿片《あへん》をついでから、このびんをぐっと飲み干しさえすれば、ぞうさなしに死ねるのだと考えたとき、そんなことなどいともたやすい、簡単なことに思われたので、彼女はまたもや一種の快感を覚えながら、もうすべてが手遅れになったときに、あの人がどんなに苦しむだろう、どんなに後悔するだろう、どんなに自分の追憶を愛惜するだろう、と考えはじめた。彼女はベッドに横たわって、目を見ひらいたまま、一本の燃え尽きんとする蝋燭の光で、天井ぎわの漆喰《しっくい》模様の蛇腹《じゃばら》、天井の一部に届いている衝立《ついたて》の影を見つめながら、自分がいなくなってしまって、自分というものは彼にとって、ただの追憶にすぎなくなったとき、はたして彼は何を感じるだろうかということを、まざまざと心に描いてみた。『どうして、おれはあんな残酷な言葉を口にすることができたのだろう?』と彼はいうだろう。『どうしてあれにひと口もものをいわずに、部屋を出てしまうことができたろう? 今はもうあれはいない。あれは永久にわれわれから去ってしまったのだ。あれはあすこにいるのだ……』が、突然、衝立の影がふるえだして、蛇腹も天井もすっかり包んでしまった。すると、反対の側から、別の影がさっと襲って来た。つかのま、影は一時にひいてしまったが、またすぐ新しい速力で襲って来て、ふるえながら合流したかと思うと、あたりはまっ暗になってしまった。『死だ!』と彼女は思った。たとえようもない恐怖に打たれた彼女は、いったい自分がどこにいるのやら、長いあいだ合点がいかず、また長いこと、ふるえる指でマッチをさがし出し、燃え尽きた蝋燭のかわりに、新しいのをつけることもできなかった。『いや、なんといっても、生きてだけはいなくちゃ! だって、わたしはあの人を愛しているのだもの。それに、あの人だってわたしを愛してるんだもの! こんなことは過ぎたことで、やがて忘れてしまうわ』生命へ帰った喜びの涙が、双の頬を流れるのを感じながら、彼女はそうひとりごちた。そして、恐怖の念からのがれるために、彼女は急いでヴロンスキイの書斎へ行った。
 彼は書斎でぐっすり寝入っていた。アンナはそのそばへよって、上から顔を照らしながら、長いことつくづくながめていた。いま男が眠っていると、彼女は心から愛情を感じて、その顔を見ていると、いとしさの涙をおさえかねるほどであった。でも、彼女はわかっていた。もし彼が目をさましたら、またもや、おのれの正しさを信じきっている冷たい目で見るだろう、またこちらも愛を語るより前に、男が自分にたいしてどんなにすまないことをしたか、証明しなければやまぬだろう。彼女は男をさまさないで、自分の居間へひっ返し、二度目の阿片を飲んだ後、夜明けちかくなって、重苦しい眠りに落ちたが、その浅い眠りのあいだじゅう、彼女はたえず自分を意識していた。
 朝になって、まだヴロンスキイと関係しない前から、いくども彼女の眠りに繰り返された悪夢が、またもや襲ってきて、彼女の目をさました。鬚《ひげ》をもじゃもじゃさした小柄な老人が、鉄の上にかがみこんで、意味もないフランス語の言葉を、呪文《じゅもん》のように唱えながら、何かしているのであった。すると彼女は、この悪夢のときいつもそうなのだが、この小柄な百姓が、自分のほうになんの注意をも向けないにかかわらず、この鉄に向っている恐ろしい仕事は、ほかならぬ自分を目あてにしているのだと感じた(それがこの夢の恐怖の中心なのであった)。彼女は冷たい汗をびっしょりかいて、目をさました。
 起きあがったとき、まるで霧を透かして見るように、昨日の一日が思い起された。
『喧嘩があったっけ。もう何度もあったことが、くりかえされたのだわ。わたしが頭痛がするといわせたところ、あの人は入ってこなかった。明日は出発なんだから、あの人に会って、出発の準備をしなくちゃならない』と彼女はひとりごちた。ヴロンスキイが書斎にいると聞いて、彼女はそのほうへおもむいた。客間を通りぬけているとき、車寄せに馬車のとまった音がしたので、窓からのぞくと、一台の箱馬車が目に入った。その中からは、薄紫色の帽子をかぶった若い令嬢が身を乗り出して、ベルを鳴らしている従僕に、何かいいつけていた。控室で何か押し問答があった後、だれやら上のほうへあがってくる。と、客間の隣で、ヴロンスキイの足音がした。彼は急ぎ足で階段をおりて行った。アンナはまた窓ぎわへよった。やがて、彼は帽子をかぶらずに車寄せへ出て、馬車のほうへよった。薄紫色の帽子をかぶった若い令嬢は、彼に包みを渡した。ヴロンスキイは微笑を含みながら、何かいった。馬車は動き出した。彼は足早に階段をもとへ駆け昇った。
 彼女の心をおおっていた霧は、突如として散ってしまった。昨日と同じ感情が新しい力をもって、病める心を締めつけた。どうして彼の家に、彼といっしょに、まる一日すごすまでに、みずから卑しゅうすることができたのか、今となっては合点がいかないほどであった。彼女は自分の決意を告げるために、彼の書斎へ入って行った。
「あれはソローキナ夫人がお嬢さんといっしょに、母の手紙と金を持ってきてくれたんだ。きのうもらえなかったものだからね。どうだね、頭痛はちっとはいいかね?」アンナの顔の暗い、勝ち誇ったような表情を、見ようとも理解しようともしないで、彼はおちついた調子でいった。
 彼女は部屋のまんなかに立ったまま、黙ってじっと男の顔を見つめていた。ヴロンスキイはちらと彼女を見上げて、ちょっと眉をひそめたが、また手紙を読みつづけた。彼女は身をかえして、ゆっくりと部屋を出て行った。彼はまだ呼びとめることができたけれども、彼女が戸口まで行き着いても、まだ黙っていた。ただ紙を巻き返す音が、さらさらと聞えるだけであった。
「ああ、ときに」彼女がもう閾《しきい》をまたごうとしたとき、ヴロンスキイはこういった。「明日はいよいよたつのかね? 本当に?」
「ええ、あなたはね、でもわたしはちがいます」と彼女は、ふり返りながら答えた。
「アンナ、こんなふうじゃ暮していけないじゃないか……」
「あなたはね、でもわたしはちがいます」と彼女はくりかえした。
「これじゃいよいよたまらない!」
「あなたは……あなたはこのことを後悔なさいますよ」と彼女はいって、出てしまった。
 アンナがこういったときの絶望の表情にぎょっとして、彼はいきなりおどりあがり、あとを追って駆け出そうとしたが、ふとわれに返って、再び腰をおろした。そして、きっと歯を食いしばり、眉をひそめた。この無作法な(と彼には思われた)何かのおどし文句が、彼をいらいらさせたのである。『おれはいっさいの手段を試みたのだから』と彼は考えた。『もうこのうえはただ気にしないで、うっちゃっとくだけだ』それから、彼は街へ出かけて行き、そのあとでもう一度、母のところへ行くしたくをした。母から委任状の署名をもらわなければならなかったのである。
 彼女はヴロンスキイが書斎を動きまわり、それから食堂を通る足音を聞いた。彼は客間でちょっと立ちどまったが、アンナの部屋へはいこうともせず、ただ自分は留守でもヴォイトフに牡馬を渡すように、と命令したばかりであった。やがてアンナは、馬車がまわされ、戸が開いて、彼がまた出て行った気配を耳にした。けれど、彼はまた玄関の中へ入った。そして、だれやら階段をとんとん駆け昇った。それは忘れた手袋をとりに、従僕頭が駆けだしたのである。アンナが窓へよって見ていると、彼は見むきもせずに手袋を受け取り、ちょっと馭者の背に手でさわって、何やらいった。それから、窓の方はふりむきもせず馬車に乗ると、いつもの姿勢で足と足を組み合わせ、手袋をはめにかかったと思うと、街の角に隠れてしまった。

[#5字下げ]二七[#「二七」は中見出し]

『行ってしまった! もうおしまいだ!』とアンナは窓ぎわに立ったまま、こうひとりごちた。すると、その言葉にたいする答えのように、蝋燭の消えた瞬間に襲いかかった暗黒と、恐ろしい夢の印象が、一つに溶け合いながら、冷たい恐怖で彼女の心をみたした。
「いえ、そんなことのあろうはずがない!」と彼女は叫ぶと、部屋を通りぬけて、強くベルを鳴らした。今では一人きりでいるのが、恐ろしくてたまらなかったので、召使が来るのを待ちきれず、自分のほうから出迎えるようにした。
「伯爵はどちらへお出かけになったか、きいて来ておくれ」と彼女はいった。
 従僕は、御前さまは競馬場の厩《うまや》へいらっしゃいました。と答えた。
「それから御前さまは、もし奥さまがお出かけになるようだったら、馬車はすぐ帰るからと、そう申しあげるようにとのことでございました」
「じゃ、いいわ。ああ、ちょっと待って。わたし今すぐ手紙を書くから。ミハイルに持たせて、厩までやっておくれ。大急ぎでね」
 彼女はテーブルに向って、次のように書いた。
『わたしが悪うございました。お帰りになって下さいまし、よくお話をしなくちゃなりませんから。後生です、帰って下さいまし。わたしは恐ろしいのです』
 彼女は封をして、従僕に渡した。
 今は一人きりでいるのが怖かったので、従僕のあとから居間を出て、子供部屋へ行った。
『どうも違う。これはあの子じゃない! あの碧《あお》い目はどこに行ったのだろう。あのおずおずした笑顔はどうしたのだろう!』頭がこんぐらかっているために、子供部屋へ行ったら見られると思ったセリョージャのかわりに、黒い毛のふさふさと縮れた、赤い頬のふっくらした女の子を見たとき、まず彼女の頭に浮んだのは、こういう考えであった。女の子はテーブルのそばに坐って、コルクの口で強くテーブルを叩きながら、二つのすぐりの実のような真黒な目で、意味もなく母をながめていた。イギリス女の問いにたいして、体のぐあいはたいへんいいから、明日は田舎へ向けてたつと答えて、アンナは女の子のそばに腰をおろし、びんの口のコルクを、その目の前でくるくるとまわしはじめた。しかし、幼な児のよく透る高い笑い声と、片方の眉を動かす様子が、いかにもよくヴロンスキイに似ていたので、彼女は慟哭《どうこく》をおさえながら、そそくさと立ちあがり、部屋を出てしまった。『いったいなにもかもおしまいになったのかしら? いいえ、そんなはずはない』と彼女は考えた。『あの人は帰ってくる。だけど、あのお嬢さんと話したときのあの笑顔と、あの生きいきした様子を、あの人はなんといって説明するだろう? いや、説明なんかしてもらわなくっても、わたしはとにかく信用するわ。もし信用できなかったら、わたしに残された道は一つしかない……でも、そんなことはいやだ……』
 彼女は時計を見た。二十分たっていた。
『今ごろあの人はもう手紙を見て、帰って来てるに相違ない、長いことはない、もう十分ばかりだ……でも、もしあの人が帰ってこなかったら、どうしよう? いや、そんなはずはない。とにかく、目を泣き膨《は》らしたところなんか、あの人に見られたくない。行って顔を洗いましょう。そう、そう、わたしは頭を梳《と》きつけたかしら、覚えがないけれど』と彼女は自分で自分にきいてみたが、思い出せなかった。彼女は手で頭をさわってみた。『そう、ちゃんと梳きつけている。でも、いつのことかしら、とんと覚えがないわ』彼女は自分の手さえ信用ができないで、本当に頭を梳きつけたかどうか確かめに、姿見のほうへ行って見た。頭はちゃんと梳きつけてあったが、いつしたのか思い出せなかった。『いったいあれはだれだろう?』妙にぎらぎら光る目で、おびえたように自分を見つめている、燃えるような顔を鏡の中に見つけて、彼女はこんなことを考えた。『まあ、これはわたしなんだ』と急に合点がいった。それから、自分の全身を見まわしているうちに、突然からだに男の接吻を感じて、身ぶるいしながら両方の肩を動かした。それから、片手を唇へもっていって、接吻した。
『まあ、これはどうしたんだろう、わたし気でも狂うのかしら』と思って、彼女は寝室へ行った。そこでは、アンヌシカが掃除をしていた。
「アンヌシカ」小間使の前に立って、その顔を見ながら、自分でも何を話すつもりかわからないで、彼女はこういった。
「あなた、ダーリヤ・アレクサンドロヴナのところへいらっしゃる、とかおっしゃいましたが」相手の気持を察したかのように、小間使はそういった。
「ダーリヤ・アレクサンドロヴナのとこ? ああ、わたし行きますよ」
『往きが十五分、帰りが十五分。もうあの人は出かけたに相違ない、やがてもう着くころだ』彼女は時計を出して見た。『でも、わたしをこんな状態でとり残して、よくまああの人は出て行かれたものだわ。わたしと仲なおりしないで、どうしてあの人は暮して行かれるのだろう?』彼女は窓ぎわへ行って、往来をながめはじめた。時間からいえば、彼はもう帰ってくるころである。しかし、時間の計算が正確でないかもしれない。で、彼女はまたもや、男の出て行った時のことを思い出して、一分二分と数えだした。
 自分の時計と合わせてみるために、大時計のそばへよって行ったとき、だれか馬車を乗りつけた。窓からのぞいてみると、ヴロンスキイの幌馬車であった。しかし、だれも階段へ昇ってこず、下で話し声がしていた。それは、使が馬車で帰って来たのである。彼女は下へおりて行った。
「御前さまとは行き違いになりました……ニジニ・ノヴゴロド線で、おたちになりましたあとでして」
「おまえどうしたの? なんだって……」奥さまの手紙を返そうとしてさしだしている、血色のいい楽しそうな顔をしたミハイルに向って、彼女はこういった。
『まあ、それじゃあの人はわたしの手紙を見なかったんだわ』と彼女は気がついた。
「じゃ、この手紙を持って、ヴロンスカヤ伯爵夫人のいらっしゃる別荘へ行っておくれ、知ってるだろう? そして、すぐにご返事をちょうだいしてくるんだよ」と彼女は使のものにいった。
『ところで、このわたし、わたしはいったいどうしたらいいのだろう?』と彼女は考えた。
『そうだ、ドリイのとこへ行こう、本当だ。さもないと、気が狂ってしまうわ。それに、電報を打つという手もあったんだわ』で、彼女は電文を書いた。
『ゼヒオハナシシタシ、スグオカエリコウ』
 電報を出してから、彼女は着替えに行った。もう着替えをして、帽子もかぶったとき、でっぷりふとっておちついたアンヌシカの目を、彼女は改めてちらと見やった。その小さい、人のよさそうな、灰色の目の中には、まざまざと同情の色が浮んでいた。
「アンヌシカ、ねえ、わたしどうしたらいいだろう?」力無く肘椅子に腰を落して、慟哭《どうこく》しながらアンナはこういった。
「何もそう気をおもみになることはございませんよ、奥さま! こんなのはよくあることでございますもの。まあ、お出かけになってごらんなさいまし、お気持が晴れますでしょう」と小間使はいった。
「ああ、出かけましょう」とアンナはわれに返って、立ちあがりながらいった。「もしわたしの留守に電報が来たら、ダーリヤ・アレクサンドロヴナの家へ届けておくれ……いえ、わたし自分で帰ってくるわ」
『そう、くよくよ考えちゃいけない、何かしなくちゃ。出かけることだ、何よりも第一に、この家から出て行くことだ』すさまじい胸の動悸《どうき》に耳を傾けて、恐怖を感じながら、彼女はこうひとりごち、急いで玄関へ出て、馬車に乗った。
「どちらへ?」馭者台へ坐る前に、ピョートルがたずねた。
「ズナーメンカ、オブロンスキイさまのお宅へ」

[#5字下げ]二八[#「二八」は中見出し]

 晴れ渡った日であった。朝のうちは、ずっとこまかいぬか雨が降っていたが、つい先ほどからっと晴れたのである。屋根の鉄板、歩道のブロック、車道の丸石、往き交う馬車の轍《わだち》、革、真鍮《しんちゅう》、ブリキ――なにもかもが、五月の日ざしにきらきらと輝いていた。午後の三時で、街はいちばんにぎやかな時であった。
 葦毛《あしげ》の速足につれて、しっかりしたバネの上でほんのこころもち揺れる、ゆったりした馬車のかたすみに腰かけて、アンナは絶え間のない車輪のごうごうたる響きの中で、清らかな外気を吸い、目まぐるしく入れ変る印象を送り迎えしながら、またしても最近数日間の出来事を、心の中で繰り返しているうちに、自分の境遇が家で考えたのとは、全く別のように思われてきた。今では死という考えも、それほど恐ろしく明瞭なものには映らなかったし、死そのものも、もはや避くべからざるものとは思われなかった。今では彼女は、自分が身を落して、屈辱に甘んじようとしているのを、みずから責めた。
『わたしは、あの人に赦してくれと哀願している。わたしはあの人に屈服してしまったのだ。つまり、自分が悪かったということを認めたわけなんだけど、いったいなんのためだろう? わたしは、あの人なしには生きていけないのかしら?』あの人なしにどうして生きていこうか、という疑問に答えないで、彼女は看板を読みはじめた。『事務所と倉庫、歯科医……そうだ、わたしドリイになにもかもいってしまおう。あのひとは、ヴロンスキイが嫌いなのだから。さぞ恥ずかしくて、つらいことだろうけれど、でもなにもかもいってしまうわ。あのひとはわたしが好きなんだから、わたし、あのひとのいうとおりにするわ。アレクセイに負けてたまるもんか、あの人なんかに教育されはしないから。フィリッポフ商店、丸パン……なんでも、この店はペテルブルグまで生パンを出してるって話だっけ。モスクワの水はそれほどいいんだわ。ムイチーシチの井戸、薄餅《ブリン》』ふと、彼女はまだ十七の年に、伯母といっしょにトロイツァヘ行ったことを思い出した。『まだ馬車だったんだからねえ。いったいあの赤い手をしてた小娘が、わたしだったのかしら? あの時分、わたしの目にとても美しい、及びもないように思われたもので、今つまらなくなったものもずいぶんあるけれど、でもあの時分に持っていたもので、いま及びもつかぬようになったものもたくさんあるわ。自分がこれほどまで身を落してしまうなんて、あの時分は考えることもできやしなかったわ。わたしの手紙を見たら、あの人はどんなに得意になって、満足がるか知れやしない! でも、わたしあの人に思い知らせてやるわ……まあ、このペンキのいやなにおいったら。なんだってみんな、ああ家を建てて塗りたくるんだろう? 流行装飾品』と彼女は看板を読んだ。一人の男が彼女に会釈した。それはアンヌシカの亭主であった。『うちの寄生虫』ふと、ヴロンスキイのいった言葉を思い出した。『うちの? なぜうちのだろう? 過去を根こそぎ、ひき抜いてしまえないということは、本当に恐ろしい。でも、ひっこ抜いてしまうことはできなくっても、その記憶を隠すことはできる。わたしも隠すことにしよう』そのとき彼女は、カレーニンとの過去を思い浮べ、それを自分の記憶から消してしまったことを考えた。『ドリイは私のことを、二度目の良人と別れるような女だから、つまりまぎれもなくよくないことだ、なんて考えるだろう。いったいわたしは、正しい人間になりたがっているのかしら! わたし、そんなことなんかできやしないんだわ!』と口に出していって、彼女は泣きたくなった。けれど、すぐに彼女は二人の娘を見て、何がうれしくてああにこにこ笑えるのだろう、と考えはじめた。『きっと愛の話をしてるんだろう? そんなことなどちっとも楽しくなくって、本当に卑しいことなのに、あの娘たちはそれを知らないんだわ……。ブルヴァール、子供たち。男の子が三人かけずりまわっている、お馬ごっこだ。セリョージャ! ああ、わたしはなにもかも失くしてしまう、あの子もとり戻せやしない。そうだわ、もしあの人が帰ってこなかったら、わたしは、なにもかも失くしてしまうんだわ。ひょっとしたら、あの人は汽車に乗り遅れたので、今ごろはもう帰ってるかもしれない。おや、わたしはまた屈辱を望んでいるのかしら!』と彼女はひとりごちた。『いや、わたしはドリイの部屋へ入ったら、いきなりこういってしまうわ。わたしはふしあわせなのよ、もっともそれはあたりまえの話で、自分が悪いのだけれど、それでもとにかくふしあわせなんだから、助けてちょうだい、って。この馬、この馬車――こんな馬車に乗っているわたしは、われながら愛想がつきるわ――みんなあの人のものなんだもの。でも、わたしはもう二度と、こんなものを見やしない』
 ドリイになにもかもいってしまう、その言葉を肚《はら》の中で考え考え、わざとわれとわが傷をかき立てながら、アンナは階段を昇って行った。
「どなたか見えてらしって?」と彼女は控室でたずねた。
「カチェリーナ・アレクサンドロヴナ・レーヴィナさまでございます」と従僕は答えた。
『キチイだ、あのヴロンスキイが恋したことのある、あのキチイだ!』とアンナは考えた。『あの人が愛情をこめて思い出している、あのキチイだわ。あの人は、キチイと結婚しなかったのを、後悔してるに相違ない。わたしのことなんか、にくにくしい気持で思い出して、なんだってあんな女といっしょになったんだろうと、後悔してるにきまってるわ』
 アンナが来たとき、姉妹のあいだには、赤ん坊に乳をやることで、相談がはじまっていたのである。ドリイは一人だけ、ちょうどそのとき話のじゃまをした女客を迎えに出た。
「あら、あんたまだたたなかったの? わたし、こちらから一度お訪ねしようと思ってたのよ」と彼女はいった。「今日スチーヴァから手紙が来ましたわ」
「うちへも電報が来ましたの」キチイを見つけようと思って、あたりを見まわしながら、アンナは答えた。
「その手紙にはね、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチがどういうつもりでいるのか、いっこうわけがわからないけれども、返事をもらわないうちは帰らないって、そう書いてありますの」
「わたし、だれかお客さまがあるらしいと思ったのに。その手紙、読んでもよくって?」
「ええ、キチイなの」とドリイは照れていった。「子供部屋に残っているわ。とても体が悪かったのよ」
「わたしもその話を聞きましたわ。手紙を読んでもよくって?」
「今すぐ持って来ます。でもね、はねつけてるわけでもないのよ。それどころか、スチーヴァは望みをかけているくらい」とドリイは、戸口に立ちどまっていった。
「わたし、望みなんかかけていませんわ。それに、かえっていやなの」とアンナはいった。
『これはいったいどういうことかしら、キチイはわたしに会うのを、身分にかかわるとでも思っているのかしら?』一人きりになって、アンナはそう考えた。『もっとも、それが本当かもしれないけれど、あのひとが、ヴロンスキイに恋していたあのひとが、わたしにそんな様子を見せるって法はないわ。わたしみたいな境遇にいる女は、れっきとした婦人だったら、だれ一人つきあうわけにはいかない、そりゃわたしにもわかっている。あの最初の瞬間から、わたしはなにもかもあの人のために犠牲にした、それはわたしも覚悟の前だけれど、その報いがこれなんだわ! ああ、わたしはあの男が憎くてたまらない! それに、なんだってわたしはここへ来たんだろう? よけいいやな気がして、よけい苦しいばかりなのに』次の間で、二人の姉妹の話し合っている声が、彼女の耳に入った。『いったいわたしはこれからドリイに、何を話したらいいのだろう? わたしがふしあわせだといって、キチイの気休めをするつもりかしら、あのひとの保護に身を屈しようというのかしら? いやだ、それにまたドリイだって、なんにもわかりゃしないわ。何もあのひとに話すことなんかありゃしない。ただキチイを見ることだけは興味がある。わたしがなにもかも、だれもかれも軽蔑している、今となっては、どうだってかまやしないことを、あのひとに見せつけてやるんだ』
 ドリイが手紙を持って入ってきた。アンナは目を通すと、黙って手紙を返した。
「これはもう、わたしの知ってることばかりですわ」と彼女はいった。「だから、こんなことちっとも興味がないわ」
「まあ、どうして? わたしはそれどころか、望みをかけていますのよ」とドリイは好奇の目で、アンナを見ながらいった。今までアンナがこんなに奇妙な、いらいらした様子になっているところを、一度も見たことがなかったのである。「あんた、いつたつの?」と彼女はたずねた。
 アンナは目を細めて、前のほうをながめたが、返事はしなかった。
「どうしたんですの、キチイはわたしに会いたくなくって、隠れてるんですの?」戸口のほうを見て、顔を赤らめながら彼女はこういった。
「まあ、なんてつまらないことを! あれはいま赤ちゃんにおっぱいをやってるんですよ。どうもうまくいかないものだから、わたし教えてやったとこなんですの……あれはとても喜んでますわ。今に来ますよ」嘘をつくことが下手なので、ドリイはしどろもどろにこういった。「ああ、ほら、来ましたわ」
 アンナの来訪を聞いて、キチイは出るのをいやだといったが、ドリイがそれを説き伏せたのである。キチイは勇をふるってくると、顔を赤らめながらそばへよって、手をさしのべた。
「お目にかかれて、本当にうれしゅうございますこと」と彼女はふるえる声でいった。
 キチイの心の中では、このよくない女にたいする敵意と、寛大にしなくちゃならないという気持が相剋《そうこく》していたので、彼女はどぎまぎしていたのである。けれど、アンナの美しい人好きのする顔を見るやいなや、そんな敵意などはたちまち消えてしまった。
「あなたが、わたしに会うのをお望みにならなかったとしても、わたしふしぎに思いはしませんわ。わたし、どんなことにも慣れてしまいましたから。あなたご病気だったんですって? そう、あなたもお変りになりましたわね」とアンナはいった。
 キチイは、アンナが自分を敵意の目でながめているのを感じた。それは、もと保護者の立場にいたアンナが、自分の前で気まずい位置におかれたためだと解釈して、キチイは彼女がかわいそうになった。
 三人は病気のこと、子供のこと、スチーヴァのことなど話したが、明らかに、何一つアンナには興味がなさそうであった。
「わたしお暇乞いにおよりしましたの」と彼女は席を立ちながらいった。
「いつおたちになるの?」
 けれど、アンナはまたもや返事をしないで、キチイに話しかけた。
「ああ、そう、わたしあなたにお目にかかれて、とてもうれしゅうございますわ。あなたのお噂は四方八方から、いろいろ聞いていましたもの、ご主人の口からさえもね。ご主人は宅へいらっしゃいましたが、わたしたいへんあのかたが好きになりましたわ」まさしく肚に一物《いちもつ》ある様子で、彼女はこうつけ足した。「今どこにいらっしゃいますの?」
「田舎のほうへ帰りました」とキチイは顔を赤らめながら答えた。
「どうぞよろしくおっしゃって下さいましな、ぜひともよろしく」
「ぜひとも!」同情の面持ちで相手の目を見つめながら、キチイは単純にくりかえした。
「では、さよなら、ドリイ」ドリイに接吻し、キチイの手を握りしめて、アンナは急ぎ足に出て行った。
「やっぱりもとのままね、そしてやっぱり美しいわね。ほんとにすてき!」姉とさしむかいになったとき、キチイはそういった。「でも、何かしら気の毒なところがあるわ。とても気の毒だわ」
「いえ、今日は何か特別なのよ」とドリイはいった。「わたしが控室まで見送りに行ったとき、なんだか泣きだしそうな様子に見えたもの」

[#5字下げ]二九[#「二九」は中見出し]

 アンナは家を出るときより、もっといやな気持で馬車に乗った。今は以前の苦しみにかてて加えて、キチイとの邂逅でまざまざと感じた、はずかしめられ、斥《しりぞ》けられた思いがあった。
「どちらへまいりましょう? お邸へ?」とピョートルがたずねた。
「ああ、うちへ」今はどこへ行くなどということは考えもせず、彼女はそういった。
『あの二人は、まるで何か恐ろしい、わけのわからない、珍しいものか何かのように、わたしをじろじろ見ていたっけ。だいたいあの男は、何をああむきになって、しゃべることがあるんだろう?』二人の通行人を見ながら、彼女はこんなことを考えた。『自分の感じてることを、人に話すことなんてできるかしら? わたしもドリイに話そうと思ったけど、話さなくってよかったわ。わたしの不幸を聞いたら、あのひとはどんなに喜んだかしれやしない! あのひとはその気持を隠しはしたろうけれど、おもな気持は、あのひとが常々うらやましがっていた楽しみのために、わたしが罰しられたといううれしさに相違ないわ。キチイとなったら、もっと喜ぶにきまっている。あのひとの心持は見通しだわ! キチイは、わたしのあのひとのご亭主に、普通より以上あいそよくしたのを知っているものだから、わたしに焼きもちをやいて、わたしを憎んでいるんだわ。おまけに、ひとを見下げている、あのひとの目から見ると、わたしは不身持な女なんだもの。もしわたしが不身持な女だったら、あのひとのご亭主を首ったけにすることもできたんだわ……もしわたしがその気になったら。それに、わたしその気になったわ。ああ、あの男は自分で自分に満足しきっている』むこうから馬車でやってきた、赤ら顔のふとった紳士のことを、彼女はこう考えた。この紳士は、彼女を知り人と思って、てらてら光る帽子を、てらてら光る禿頭の上に持ちあげたが、やがて自分のまちがいに気がついた。『あの人はわたしを知ってるように思ったんだ。あの人はわたしなんか知りゃしない、世界中のだれだって、わたしのことを知らないのと同じくらいにね。本人のわたしだって知らないんだもの。わたしは、フランス人のいうように、自分の食欲を知ってるくらいなものだわ。ほら、あの子たちはあのきたならしいアイスクリームが食べたいんだ。それは当人たちも確かに知ってるに違いない』アイスクリーム屋を呼びとめた二人の男の子を見ながら、彼女は心に思った。アイスクリーム屋は頭から桶をおろして、手拭の端で汗だらけの顔をふいた。『わたしたちはみんな甘いもの、おいしいものがほしいんだわ。もしお菓子がなかったら、きたならしいアイスクリームでも。キチイだってそうだわ。ヴロンスキイでなければ、レーヴィンといったふうにね。あのひとはわたしがうらやましいのだ。そして、わたしを憎んでいる。わたしたちはみんな、お互に憎み合っているんだわ。わたしはキチイを、キチイはわたしを。それこそ本当だわ。チューチキン理髪店…… Je me fais coiffer par Tutjkine.(わたしはチューチキンのところで髪を結わせるわ)……あの人が帰って来たら、この話をしてあげよう』と考え、彼女はにっと笑った。が、その瞬間、今となってだれに、何一つおかしい話をすることもないのだ、とそう思い返した。『そうだわ、何もおもしろいことも、おかしいこともありゃしない。なにもかもいやらしい。晩祈祷の鐘が鳴っている。あの商人はまあ、なんて几帳面《きちょうめん》に十字を切ってるんだろう、まるで何か落しはしないかと、心配してるみたい。あんな教会だの、鐘の音だの、いったいなんのためだろう、なんのためにあんな嘘が必要なんだろう? ただわたしたちがみんな、お互に憎み合ってることを、隠すためなんだわ。ちょうどあの辻待ち馭者が、さもにくにくしそうに悪口をつきあってるようなふうに。ヤーシュヴィンもそういったっけ、相手はこっちを裸にしようとしてるし、こっちも相手をそのとおりにしてやるつもりだって、それが本当なんだわ!』
 こんなことを考えて、すっかりそれに気がまぎれ、自分の立場さえ考えなくなっていたとき、馬車は邸の玄関先にとまった。迎いに出た玄関番を見たとき、彼女ははじめて手紙を持たしてやり、電報を打ったことを思い出した。
「返事はあって?」と彼女はたずねた。
「ただいま見てまいります」と玄関番は答え、事務机の中を見て、小さな四角い電報入の封筒をとり出し、彼女に渡した。
『十時前には帰れぬ、ヴロンスキイ』と彼女は読んだ。
「使のものはまだ帰らない?」
「まだでございます」と玄関番は答えた。
『ああ、そういうことなら、わたしもどうしたらいいかわかってる』と彼女はひとりごち、腹の中にこみ上げてくる漠とした怒りを感じながら、二階へ駆け昇った。『わたし、自分で押しかけていくわ。永久に去ってしまう前に、なにもかもいってやる。わたしは今まで一度も、あの男ほど憎いと思ったことがない!』と彼女は考えた。外套掛に男の帽子を見ると、彼女は嫌悪のあまり身ぶるいした。男の電報は、自分の電報にたいする返事で、手紙はまだ届いていないということを、彼女は思いめぐらさなかったのである。いま平然として母やソローキナ嬢と話をして、自分の苦しみを喜んでいる男の姿を、彼女は想像に描いた。『そうだ、早くいかなくちゃならない』まだどこへいくのか、自分でもわからないままに、彼女はこうひとりごちた。ただこの家の中でいだかされる感情から、少しも早くのがれたかったのである。この家の召使、壁、品物――なにもかもが彼女の心中に嫌悪と、毒念を呼び起して、一種の重量感をもってのしかかるのであった。
『そうだ、停車場へいかなくちゃならない。そして、もしいなかったら、あすこへ行って、面の皮をひんむいてやらなけりゃ』アンナは新聞で汽車の時間表を見た。晩の汽車は八時二分発であった。『そうだわ、間に合うわ』彼女は馬をつけ変えるように命じて、二三日の旅に必要なものを、カバンにつめはじめた。もう二度とここへ帰ってこないことは、彼女もわかっていた。いろいろ頭に浮ぶ計画の一つとして、彼女はばくぜんとこんなふうにも決めてみた。停車場や伯爵夫人の領地で何かしたあと、ニジニ・ノヴゴロド線の汽車で次の駅まで行き、そこで足をとめることにしよう。
 テーブルの上には、食事のしたくができていた。彼女はそばへよって、ちょっとパンとチーズの匂いを嗅いでみて、何によらず食べものの匂いは、やりきれないのを確かめると、馬車の用意を命じて、外へ出た。家は早くも、往来いっぱいに影を投げていた。日向《ひなた》はまだ暖かい、よく晴れた夕方であった。荷物を持ってお伴についてきたアンヌシカも、馬車の中へ荷物を入れたピョートルも、明らかに不満げな様子をした馭者も――だれもかれも彼女の目にはいまわしく、その言葉も動作も、彼女をいらいらさせるのであった。
「おまえはこなくてもいいよ、ピョートル」
「でも、切符をいかがいたしましょう?」
「じゃ、好きなようにおし、わたしはどっちでもいいから」と彼女はいまいましそうに答えた。
 ピョートルは馭者台に飛び乗って、両手を腰にあてると、停車場へやるように命じた。

[#5字下げ]三〇[#「三〇」は中見出し]

『さあ、また馬車に乗った! またわたしはなんでもわかるようになった』馬車が動き出して、車道のこまかい丸石の上で揺れながら、がらがらと轍《わだち》の音を立て、またしても目に映る印象があとからあとから変りはじめたとき、アンナはこうひとりごちた。
『ええと、いちばんおしまいに、うまいことを考えたのは、いったいなんだったっけ』と彼女は一生懸命に思い出そうとした。『チューチキンの理髪店だったかしら? いや、そうじゃない。ああ、そうだ、ヤーシュヴィンのいったことだっけ。人間を結び合わせるたった一つのものは、生存競争と憎悪だってことだ。だめよ、あなたがたはそんなに馬車を走らせたって、しようがありませんよ』どうやら郊外へ遊山《ゆさん》にいくらしい、四頭立ての幌馬車に乗った連中に向って、心の中でそういった。『それに、あなたがたの連れて行ってる犬だって、なんの助けにもなりませんよ。自分というものから、のがれることはできませんからね』ふとピョートルのふりむいた方へ視線を投げたとき、頭をぐらぐらさせながら巡査にひかれていく、半分死人のように酔いつぶれた職工が目に入った。『そうだ、あのほうか早道だわ』と彼女は考えた。『わたしもヴロンスキイ伯爵と二人で、たくさんのものを期待したけれど、あれだけの満足も発見することができなかったわ』彼女はそのときはじめて、今まで考えるのを避けるようにしていた自分たち二人の関係に、いっさいのものを明瞭に照らして見せる光線をあててみた。『いったいあの人は、わたしに何を求めたのだろう? 愛よりも虚栄心の満足のほうだったんだわ』彼女は、二人が結び合ったはじめのころ、男のいった言葉や、おとなしい猟犬を思わせるような表情などを思い起した。今となってみると、なにもかもが彼女の推測を裏書きするのであった。『そうだ、あの人の心の中にあったのは、虚栄的な成功の勝利感だったんだわ。そりゃもちろん、愛もあったに違いないけど、成功の誇りのほうが勝っていた。あの人はわたしを自慢にしていたのだ。ところが、今はそれも過ぎてしまって、何も自慢にすることがなくなってしまった。自慢どころか、恥ずかしくなったんだわ。あの人は、できるったけのものを、わたしからとってしまって、今じゃわたしはいらないものになったのだ。あの人はわたしを荷厄介にしながら、わたしのことについて破廉恥になるまいと、骨折っているのだ。昨日もひょいと口をすべらして、自分は背水《はいすい》の陣を布《し》くために離婚を望むのだ、結婚を望むのだといったっけ。あの人はわたしを愛してはいるけれども、その愛し方はどんなふうなんだろう? The zest is gone(味がぬけてしまったのだ)。あの男は、みんなびっくりさせてやろうと思って、自分で自分に大満足なんだわ』馬術練習所の馬に乗って行く、頬っぺたの赤い手代を見ながら、彼女はこんなことを考えた。『そう、あの人にとっては、わたしというものに、もうあの味がなくなったんだわ。もしわたしが離れてしまったら、あの人は肚の底で喜ぶに相違ない』
 それは単なる想像ではなかった――今や彼女に人生と、人間同士の関係の意義を啓示してくれる、かのふしぎな光線によって、はっきりとそれを見定めたのである。
『わたしの愛はだんだん情熱的になり、わがままになっていくのに、あの人の愛は次第に消えていく、だからそのために、わたしたちはだんだん離れていくんだわ』と彼女は考えつづけるのであった。『しかも、それをどうすることもできない。わたしにとっては、すべてがあの人の中にあるので、あの人がもっともっと、わたしにいっさいを捧げてくれるように要求する。ところが、あの人はだんだん、だんだんわたしから離れようとしている。わたしたちはつまり、結びつくまでは両方から接近していったのだけれど、それからあとは、支えることのできない力で、別々のほうへ離れていってるんだわ。しかも、それを変えることはできない。あの人はわたしのことを、無意味にやきもちを焼くというし、わたしも自分のことを、無意味にやきもちを焼くといったけれども、それは本当じゃない。わたしはやきもち焼きじゃなくって、不満なのだわ。でも……』突然ある想念が浮んだために、彼女は興奮のあまり思わず口を開き、馬車の中で位置を変えた。『もしわたしが、あの人の愛撫だけを熱情的に望むただの情婦だけでなく、そのほかの何かになることができたらいいのだけど、わたしはほかのなんにもなることはできないし、またなりたくもないわ。わたしはこういう望みをもっているために、あの人に厭気《いやき》を起させるし、あの人はあの人で、わたしに憎らしいという気を起させるんだわ。でも、そうなるよりほかしかたがないのだ。そりゃわたしにだってわかっている、あの人はわたしをだましたりなんかしやしない。ソローキナに気があるわけでもなければ、キチイに恋してもいないし、わたしに心変りもしやしない。そんなことはすっかりわかっているけれども、それだからって、わたしの気持は休まりゃしない。もしあの人が愛してもいないくせに、義理[#「義理」に傍点]でわたしに優しく親切にするばかりで、わたしの望むものを与えてくれなかったら、それは憎しみよか千倍も悪いくらいだ! それは地獄というものだ! ところが、本当にそのとおりなんだわ。あの人はもうとうから、わたしを愛しちゃいない。ところで、愛が尽きると、憎しみがはじまるものだから……このへんの通りはちっとも見覚えがないわ。何かしら丘みたいなものがあって、どこもかしこも家ばかりだ……そして、家の中には人、どこへ行っても人、人……どれくらいいるのやら、際限がありゃしない。しかも、みんなおたがい同士憎み合っているのだ。さて、そこで一つ考え出してみよう。わたしは幸福になるために、いったい何を望んでいるのだろう? そこでと? わたしは離婚の承諾をもらって、カレーニンがセリョージャも返してくれたとしよう、そしてヴロンスキイと結婚する』カレーニンのことを思い出すと、彼女はまざまざと生けるがごとく、その姿を目の前に見た。火の消えたような、生気のない、つつましやかな目、白い手の上に浮いた青い血管、声の抑揚、指をぽきぽき折る音。それにつづいて、二人のあいだにあった、同様に愛と呼ばれていた感情を思い起すと、彼女は嫌悪の念にぶるっと身ぶるいした。『さて、わたしは離婚の承諾をもらって、ヴロンスキイ夫人になるとして、それからどうだろう、キチイは今日みたいなあんな目つきで、わたしを見なくなるかしら? だめだわ。それに、セリョージャだって、わたしに二人の良人があることをたずねたり、考えたりしなくなるかしら? またわたしとヴロンスキイのあいだに、どんな新しい感情を考えつこうというのだろう? 何か――もう幸福などということは望まないまでも、せめて苦しまないですむような状態が、つくりだせるかしら? だめ、だめ!』今や彼女はいささかの躊躇もなく、われとわが問いに答えた。『だめなことだ? わたしたちは生活の力におされて、別れわかれになっていくのだわ。そして、わたしはあの人の不幸の原因になり、あの人はわたしの不幸のもとになる。しかも、あの人にしても、わたしにしても、別の人間につくりなおすことはできやしない。ありとあらゆる試みをしつくして、ねじはできるだけ巻いたんだもの……ああ、乞食女が赤ん坊をつれている。あの女は、自分をかわいそうなものと思っているだろうが、わたしたちはみんなだれもかれも、ただおたがい同士憎み合い、苦しめ合うためだけに、この世へほうりだされたのじゃないかしら? 中学生が通っている――笑ってる。セリョージャ?』と彼女は思い出した。『わたしも自分はあの子を愛していると思って、われとわが愛情に感激したものだっけ。ところが、わたしはそれをほかの愛情に見変えて、あの子なしに暮しながら、恋に満足しているあいだは、なんにも不平をいわなかったじゃないか』恋と呼んでいたもののことを思い浮べると、彼女は嫌悪の情に打たれた。彼女はいま自分の生活のみならず、いっさいの人の生活を見透すことができたが、その明察は彼女を喜ばせた。『わたしにしても、ピョートルにしても、馭者のフョードルにしても、あの商人にしても、あの広告に書いてあるヴォルガ河の岸に住んでいる人たちにしても、みんな同じことだわ。どこへ行っても、いつの世でも』彼女がそう考えたとき、馬車はもうニジニ・ノヴゴロド停車場の低い建物に近づいて、荷担ぎ人夫がばらばらと、馬車を目がけて駆けだした。
「切符はオビラロフカまでにいたします?」とピョートルがきいた。
 彼女はどこへ、なんのために来たのか、すっかり忘れてしまっていたので、この問いをのみこむのに、ひどく骨が折れた。
「ああ」と金を渡しながら答えると、赤い小さなハンド・バッグをとりあげて、彼女は馬車をおりた。
 群衆を分けて、一等待合室の方へ向かいながら、彼女は自分の境遇のいっさいのデテールと、自分の迷っているさまざまな決心を思い起した。と、またしても、ときに希望、ときに絶望が、痛ましくふるえおののく疲れきった心の古傷を、ここかしことかきたてるのであった。汽車を待つ間に、放射状の長椅子に腰をかけたまま、彼女は入ったり出たりする人々を、嫌悪の念をもってながめながら(彼らはみんないやらしかった)いろいろのことを考えた。ときには、オビラロフカの駅へ着いて、男に手紙を書くことや、何を書こうかということを考えたり、ときには、今あの人が母親に向って(こちらの苦しみも知らないで)自分の境遇の苦しさを訴えていることを想像したり、またときには、自分が部屋へ入って行ったとき、男に向っていうことを考えたりした。かと思うと、自分の生活はまだ幸福であるかもしれないということや、自分が苦しいほど男を愛しかつ憎んでいることを考え、心臓が恐ろしいまで鼓動しているのを感じた。

[#5字下げ]三一[#「三一」は中見出し]

 ベルが鳴って、だれかしらみっともない、ずうずうしい、と同時に自分の与える印象にたいして注意ぶかい若い男たちが、せかせかと通って行った。それから、鈍い動物的な顔をしたピョートルも、例のしきせ[#「しきせ」に傍点]を着てゲートルつきの靴をはいた姿で、待合室を横切り、奥さまを汽車まで送るために、彼女のそばへやって来た。アンナがプラットフォームづたいに、騒々しい男たちのそばを通りぬけたとき、彼らはぴったりと鳴りをひそめた。一人がいま一人に、アンナのことを耳打ちした。もちろん、何かいやらしいことにきまっている。彼女は高いステップに昇って、たった一人|車室《クペー》の中で、かつては白かったものらしい、汚れきったバネ入りの長椅子に腰をおろした。荷物はバネの上でぶるっとふるえて、すぐおちついた。ピョートルはばかみたいな微笑を浮べて、車の外で別れのしるしに、金モール入りの帽子を持ちあげた。高慢ちきな車掌が戸をぱたんと閉めて、掛金をかけた。大きく腰をふくらました醜い婦人、(アンナは心の中で、この女を裸にしてみて、その醜さにぞっとした)と二三人の女の子が、不自然な笑い方をしながら、下のほうを駆けぬけた。
「カチェリーナ・アンドレエヴナのとこよ、なにもかもあのひとのところよ、|叔母さま《マ・タント》!」と一人の女の子がわめいた。
『あの女の子もみっともないくせして、しなをつくってるわ』とアンナは思った。だれも見たくなさに、彼女はすばやく席を立って、空っぽの車の反対側の窓ぎわに腰をおろした。もつれた髪の毛を帽子の下からはみ出させた、きたならしい、醜い百姓が、身をかがめて、列車の車輪を見ながら、窓のそばを通りぬけた。『このみっともない百姓には、何か見覚えがあるみたいだ』と、アンナは考えた。と、例の夢を思い出して、彼女は恐怖のあまり身ぶるいしながら、反対の戸口のほうへ身をひいた。車掌が戸を開けて、夫婦づれの旅客を入れた。
「あなたお出になりますか?」
 アンナは答えなかった。車掌も、入って来た旅客も、ヴェールにかくされた彼女の顔の恐怖の色に、気がつかなかった。彼女はもとの片すみにひっ返して、腰をおろした。夫婦づれは、そっと気どられぬように、注意ぶかく彼女の着物を見まわしながら、反対側に席をしめた。亭主も細君も、アンナの目にはいまわしく思われた。亭主のほうは、タバコを吸ってもかまいませんかとたずねたが、それは明らかにタバコを吸うためではなく、彼女に話しかけるためらしかった。かまいませんという返事を聞くと、彼は細君を相手に、フランス語で話しはじめたが、それはタバコよりもっと必要のなさそうな話であった。二人はただ、アンナに聞いてもらいたさに、空とぼけながら、ばかげたことばかりしゃべっていた。彼らが互に鼻についてしまって、おたがい同士憎み合っているのを、アンナはまざまざと見てとった。またこういうみじめな醜夫醜婦を、憎まないわけにいかないのだ。
 第二鈴が鳴った。つづいて手荷物を運ぶ音、ざわざわという物音、叫び、笑い声などが聞えた。アンナにとっては、だれも何一つうれしがることがないのは明瞭だったので、その笑い声が痛いほど心をいらいらさせた。で、彼女はそれを聞かないために、耳に蓋をしたいほどであった。ついに第三鈴が鳴って、笛がぴりぴりと鳴り、汽笛が響き渡ると、連結部がぐいと張った。亭主のほうは十字を切った。『いったいあれはなんのつもりなのか、ひとつご当人にきいてみたいものだわ』にくにくしげに男を見やりながら、アンナは肚の中でそう思った。彼女は、細君の顔をかすめて窓越しに、じっとプラットフォームに立っているのに、まるでうしろへ流れていくような見送りの人々をながめていた。アンナの乗っている車は、レールの継ぎ目継ぎ目で、規則ただしくごとんごとんと躍りながら、プラットフォームを通りすぎ、石垣をすぎ、信号所をすぎ、ほかの車輛のそばをかすめすぎた。車輪はしだいに調子よく、なめらかに軽い響きを立てながら、レールの上をすべって行った。窓は夕日にあかあかと照らされ、そよ風はカーテンをもてあそんだ。アンナは相乗りの人たちのことを忘れて、車の軽い動揺に身をまかせ、新鮮な空気を吸いこみながら、またもや考えはじめた。
『ええと、何をわたしは考えていたんだっけ! そうだ、人生が苦痛でないような状態は考え出せない、ということだったわ。わたしたちはみんな、苦しむために生れてきたんだわ。わたしたちはみんなそれを承知していながら、どうかして自分で自分をだまそうと、その方法を考え出しているのだ。でも、真実を見ぬいてしまったら、いったいどうしたらいいのだろう?』
「人が理性を授けられているのは、平安を乱すものからのがれるためですわ」と女のほうはフランス語でいった。いかにも自分のいった言葉に満足らしい様子で、怪しげな発音に臆面なしであった。
 その言葉はさながら、アンナの想念に呼応するかのようであった。
『平安を乱すものからのがれる』とアンナは心の中でくりかえした。そして、頬っぺたの赤い亭主とやせた細君をちらと見て、こんなことを見てとった。細君が自分のことを、理解されざる女気取りでいると、亭主のほうは細君を欺いて、彼女のうぬぼれを支持しているのだ。アンナは例の光線をこの二人の上に移して、あたかも彼らの生涯の歴史を知りつくし、彼らの魂の路地という路地を究《きわ》めつくしたような気がした。しかし、そこに何もおもしろいものはなかった。で、彼女は自分の想念をつづけた。
『そうだわ、とても平安を乱されているわ。ところで、それからのがれるために、理性が授けられているのだから、のがれなくちゃならない。もうなんにも見るものがなくなって、なにもかも見るのがいやらしくなったんだもの、どうして蝋燭を消さないって法があるものか? だけど、どんなふうにしたものだろう? なんだってあの車掌は、棒の上なんか伝って走って行ったんだろう? なんだってあの連中は、向うの車にいる若い人たちは、あんなに大きな声でわめいているのだろう? なんだってあんなにしゃべってるんだろう、なんだって笑ってるんだろう? なにもかもまちがっている、なにもかも嘘だ、なにもかも偽りだ、なにもかも悪なんだ!………」
 汽車が停車場へ近づいたとき、アンナは旅客の群にまじって、外へ出た。そして、まるでだれもかれも癩病《らいびょう》患者ででもあるかのように、一生懸命、人にさわらないようにしながら、プラットフォームに降り立つと、いったい自分はなんのためにここへ来たのだろう、何をするつもりだったのかと、しきりに思い出そうとした。前には可能に思われたことが、今ではひどく困難に感じられた。ことに、しばらくもじっとさせてくれない醜悪な人々の騒がしい群の中では、何一つ思いめぐらすことができなかった。荷担《にかつ》ぎ人夫が駆けよって、荷物を持たしてくれというかと思えば、若い人たちがプラットフォームの板を踵でがたがた踏み鳴らし、大きな声でがやがや話し合いながら、アンナをじろじろふり返って見たり、それかと思うと、向うからくる人が、自分の避けるほうへ道を避けるのであった。もし返事がなかったら、また先へ乗っていくつもりだったのを思い出して、彼女は一人の人夫を呼びとめ、ヴロンスキイ伯爵あての手紙を持った馭者が、その辺にいないかとたずねた。
「ヴロンスキイ伯爵ですって? 今そこにあのお邸から来た使のものがおりやしたが、ソローキナ公爵夫人とお嬢さまの迎いにみえたので。その馭者ってのは、どんな様子をした男でございますね?」
 彼女が人夫と話しているあいだに、青いしゃれた袖無し外套を着こみ、時計の鎖などちらつかせた、赤ら顔の陽気そうな馭者のミハイルが、りっぱに使命をはたしたのが大自慢の態《てい》で、彼女のそばへよって手紙をさし出した。アンナは封を切ったが、もう読まない先から、心臓が縮まる思いであった。
『おまえの手紙が行き違いになったのを、非常に残念に思っている。僕は十時に帰宅する』とヴロンスキイは無造作な筆蹟で書いていた。
『やっぱりそうだ! わたしの思ったとおりだ!』と彼女は毒々しい薄笑いを浮べながら、ひとりごちた。
「いいわ、おまえうちへお帰り」とアンナはミハイルに向って、小さな声でいった。彼女が小さな声でいったのは、心臓の鼓動が早いので、息がよくできなかったからである。『いいえ、わたしはおまえなんかにいじめられやしないから』と彼女は威嚇《いかく》の気持で考えたが、その相手はヴロンスキイでもなければ、自分自身でもなく、自分を苦しませる何者かであった。彼女は停車場の建物を通り越して、プラットフォームを先へ先へと行った。
 プラットフォームを歩いていた二人の小間使が、首をうしろヘそらせて彼女をながめ、その衣装の品さだめをして、何やらいった。『あれは本物よ』彼女の身につけているレースのことを、こんなふうにいった。若い男たちは、彼女をじっとさせておかなかった。彼らはまたしても、アンナの顔をのぞきこんで、何やら不自然な声で、笑い笑いどなりながら、そばを通りすぎた。駅長が通りすがりに、汽車にお乗りになるのですか、とたずねた。クワス売りの少年は、目もはなさず彼女を見つめていた。『ああ、いったいどこへ行ったものだろう?』プラットフォームを先へ先へと進みながら、彼女はこう考えた。いちばんはじまで来て、立ちどまった。眼鏡の紳士を出迎えに来て、大声に笑ったり、しゃべったりしていたいくたりかの婦人と子供たちは、彼女がそばまで来たとき、じろじろその様子を見まわすのであった。彼女は歩みを速めて、そのそばを離れ、プラットフォームのはずれまで行った。向うから貨物列車がやって来た。プラットフォームが震動しはじめ、彼女はまた汽車に乗っているような気がした。
 と、はじめてヴロンスキイに会った日、轢死《れきし》した男のことを思い出すと、彼女は忽然《こつぜん》として、何をなすべきかを悟った。水の入ったタンクから線路のほうへ通じているいくつかの階段を、軽々とした早い足どりで降りて行くと、彼女は走りすぎる列車とすれすれのところに立った。彼女は汽車の下のほうを見つめた。ゆっくりとすべって行く第一輛目の車の螺旋《らせん》、鎖、高い鋳鉄の車輪――彼女は、前部の車輪と後部の車輪の中間にあたる部分と、その中間の部分が、自分のまん前へくる瞬間を、目分量で測定しようとした。
『あすこだ!』石炭の粉と石にまみれた、車の陰の枕木を見つめながら、彼女はこうひとりごちた。『あすこだ、ちょうどまんなかを狙《ねら》って。そうすれば、あの人を罰することにもなるし、すべての人からも自分自身からも、のがれることになるんだ』
 彼女は、ちょうど自分の前へ来た第一輛目の車の、中央部へ身を投じようとしたが、赤いハンド・バッグを腕からはずそうとして、それに手間どった。もう遅い、第一輛目の中央部はすぎてしまった。次の車を待たなければならない。水浴びをしようとして、いざ水へ入るときに感じるような気持が、彼女をつかんだ。彼女は十字を切った。この十字を切るという仕慣れた動作は、彼女の心に娘時代、子供時代の幾多の思い出を呼び起した。とふいに、彼女にとっていっさいをおおっていた闇がさっと破れて、そのせつな、生活が過去の明るい喜びをことごとく網羅して、彼女の眼前にひらけた。けれど、彼女は近づいてくる二輛目の車の車輪から、目をはなさなかった。そして、車輪と車輪の中間部がちょうどまん前へ来たとき、彼女は赤いハンド・バッグをわきへ投げ出すと、首を両肩のあいだへひっこめて、車の下へ両手をついて倒れた。そして、すぐに起きあがるための用意らしく、身軽な動作で膝をついた。と、その瞬間、彼女は自分のしたことにぞっとした。『わたしはどこにいるのだろう? わたしは何をしているのだろう? いったいなんのために?』彼女は身を起して、わきのほうへ飛びのこうとした。が、何かしら容赦のない大きなものが、彼女の頭をひと突きし、背中をつかんでひっぱった。『神さま、どうかなにもかも赦して下さい!』争ってもかいのないのを感じて、彼女はこう口走った。小柄な百姓が何やら唱えながら、鉄の上で何か仕事をしていた。彼女は一本の蝋燭の光で、不安と、欺瞞と、悲哀と、悪にみちた書物を読んでいたが、その光はかつてないほどの強さでぱっと燃えあがって、今まで闇の中に沈んでいたいっさいのものを照らし出したと思うと、急にぱちぱちと音を立てて暗くなり、永久に消えてしまった。
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