『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP433-P474

結果の……どうやらわたしはいま広場できみを見受けたようですな。しかし、恐れたまえ。きみ、恐れたまえ。きみの思想の傾向はちゃんとわかっている。よろしいか、わたしはこのことを含んでおくから。わたしはね、きみ、きみの講演なぞさし許すわけにはいかん、断じていかんです。そんな請願なんか、わたしのところへ持って来ないでくれたまえ」
 彼はふたたび通り抜けようとした。
「閣下、くり返して申しますが、閣下は思い違いをしておられるのです。それは、奥さんがわたしに依頼されたのです、――しかも、講演じゃありません。明日の慈善会で、何か文学上の話をと頼まれたのです。しかし、今となっては、わたし自身からそんなご依頼は辞退します。ただ折り入ってお願いしたいのは、ほかじゃありません。いったいどういう具合で、なんのために、いかなる理由で、わたしは今日のような捜索を受けたか、それを説明していただきたいのです。わたしは幾冊かの本と、書類と、自分にとって貴重な私信を没収されて、手車に積まれて町中を引き廻されたのです……」
「だれが捜索したって?」思わずぴくりとなって、レムブケーはすっかりわれに返ると、急に顔を真っ赤にした。
 彼はちらりと、署長のほうを振り向いた。その瞬間、戸口に背中のかがんだ、ひょろ長い無恰好なブリュームの姿が現われた。
「ああ、この役人です」とスチェパン氏は彼をさした。
 ブリュームはいかにも悪かったというような、とはいえ、容易に閉口しそうもない顔つきで進み出た。
「〔Vous ne faites que des be^tises.〕(きみはこんな馬鹿なことしかしないのだ)」と、いまいましさと腹立たしさに、レムブケーは彼にほうりつけるようにいった。レムブケーはなんだか急に様子が一変して、一時に正気に返ったかのようであった。
「失礼しました……」彼は恐ろしくまごつきながら、こんかぎり顔をあかくして吃り吃りいった。「あれはみんな……あれはどうも、みんな失策にすぎないらしいです、誤解です……ほんの誤解です……」
「閣下」とスチェパン氏は口を出した。「わたしは若い時分、ある一つの興味ある出来事を目撃しました。あるとき、劇場の廊下でだれか一人の男が、足早にいま一人の男の傍へ近づいて、大勢いる前で横っ面をぴしゃりと食らわしたのです。ところが、すぐに気がついてみると、被害者は本当に撲ってやろうと思った人とは、まるで違っていて、ちょっと顔が似ているだけだ、ということがわかったのです。すると、その撲ったほうは、まるで貴重な時間を潰してる暇がないといったように、せかせかしながら、腹立たしそうな調子で、ちょうどいま閣下のおっしゃったのと寸分たがわず、『間違いました……失礼しました、これは誤解です、ほんの誤解です』といったものです。それでも侮辱を受けたほうの男が、いつまでも腹を立ててわめいているものだから、さもいまいましそうな調子で、こういったものです。『ぼくはほんの誤解だといってるじゃありませんか。なんだってあなたはいつまでも大きな声を出してるんです!』」
「それは……それはもちろん、非常に滑稽な話だが……」とレムブケーはひん曲ったような微笑を浮かべた。「しかし……しかし、わたし自身どんなに不幸な人間か、それがあなたにはわからないんですか?」
 彼はほとんど叫ばないばかりにこういった。そして……そして、あやうく両手で顔をおおいそうになった。この思いがけない病的な絶叫、いや、むしろすすり泣きの声は、聞くに堪えないほどであった。それは、おそらく昨日から今日へかけて、初めて完全に明瞭にいっさいの出来事を自覚した瞬間だったに相違ない。が、たちまちその自覚に続いて、自分を裏切るような、なんともいえぬ情けない絶望がおそうた。もう一瞬の間があったら、あるいは広間一杯に響き渡るような声で、泣き始めたかもしれぬ。スチェパン氏は、初めきょとんとした目つきで、相手の様子を眺めていたが、やがてとつぜん頭を下げ、情のこもった声でしんみりと口を切った。
「閣下、もうわたしのくだらない不平などに心を痛めないで、どうかわたしの本と手紙を戻すように命じてください……」
 彼は途中で話の腰を折られた。ちょうどこの時ユリヤ夫人が、大勢の取り巻き連をつれて、どやどや帰って来たのである。ここのところを、わたしはできるだけ詳しく書きたいと思う。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 まず第一にいっておくが、三台の馬車から下りた一同の者は、いきなりどやどやと客間へ入ったのである。ユリヤ夫人の居間へ入る口は別になっていて、玄関からすぐ左手についていたが、今はみんな広間を通って行った、――そのわけは、わたしの想像するところ、この広間にスチェパン氏が居合わしたからに相違ない。なぜなら、同氏の身に起こったことも、シュピグーリン職工のことも、みんな町へ入ると同時に、ユリヤ夫人の耳に入ったからである。これを今の間に注進したのは、リャームシンである。彼は何か失策を仕出かしたため、置いてきぼりを食わされて、今日の訪問に加えてもらえなかったが、おかげでだれよりも早くあの出来事を知ったのである。彼は意地の悪いよろこびを感じながら、愉快な報知を伝えようとコサックのやくざ馬を借りて、帰って来る一行を迎えに、スクヴァレーシニキイヘと街道づたいに飛ばして行った。わたしの考えるところでは、ユリヤ夫人は元来、男勝りの気性ではあるけれども、こうした意想外の報知に接した時は、やはり幾分まごついたに違いない。が、それとてもほんの一瞬のことらしい。たとえば、この問題の政治的方面にしたところで、そんなことは夫人の心を煩わすはずがなかった。もうピョートルが四度ばかり、シュピグーリンの暴れ者どもは一人残らずぶん撲ってやらなければならぬと、夫人の頭へ吹き込んだからである。実際、もうだいぶ前から、ピョートルは夫人にとって絶対的なオーソリティとなっているのであった。
『けれども……わたしあの人にこのお礼をしてあげるんだから』夫人はきっとこう独りごちたに違いない。ただし、あの人[#「あの人」に傍点]というのは、もちろん夫をさしているのだ。
 ついでにちょっと断わっておくが、ピョートルもやはりわざと狙ったように、今日の訪問に加わっていなかった。そればかりか、朝からだれひとり彼の姿を見たものがないのである。もう一ついっておかねばならぬことがある、ヴァルヴァーラ夫人も自宅に客人たちを迎えた後、ユリヤ夫人と一つ馬車に乗って、一同とともに町へ帰って来た。それは明日の慈善会のことで、最後の打合わせに列席するためであった。リャームシンのもたらしたスチェパン氏に関する報知は、彼女にも同じく興味をいだかせたに相違ない、いや、ひょっとしたら、胸騒ぎを感じさせたかもしれない。
 レムブケーに対する返報がえしは、すぐに始まった。ああ! 彼は自分の美しい妻を一目見るなり、早くもそれと悟ったのである。晴ればれしい顔に魅するがごときほほえみを浮かべながら、彼女は足早にスチェパン氏に近づいて、華奢な手袋をはめた手を差し伸べた。そして、まるで朝の間じゅう、一刻も早くスチェパン氏の傍へ駆け寄って、やっと来訪を受けたお礼に、できるだけ優しくもてなしたいという一念のほか、なんにも考えていなかったようなふうつきで、むやみと愛嬌のいい言葉を振り撒くのであった。今朝の家宅捜索のことは夢にも知らないように、ひと言も口に出さなかった。夫には一口もものをいわないし、またそのほうをちらと振り向いて見ようともせず、まるでそんな人は広間にいないように振舞った。そればかりか、さっそくスチェパン氏を独占して、客間のほうへ連れて行ってしまった、――それは、彼とレムブケーの間になんの相談もなかったか、或いはまたあったにしたところで、そんな話を続ける必要はない、とでもいうような具合だった。
 くり返していうが、わたしの目に映じたところでは、ユリヤ夫人は一生懸命に、高尚な調子を持しているにもかかわらず、こんどもまた一大失策を演じたのである。とくにこの際、夫人の失策を手伝ったのは、例のカルマジーノフである(彼はユリヤ夫人の特別な頼みによって、今朝の遠乗りに加わった。したがって間接ではあるけれど、いよいよヴァルヴァーラ夫人を訪問したわけである。それをヴァルヴァーラ夫人は浅はかな心から、夢中になってよろこんだ)。まだ戸口を入ってしまわないうちから(彼は一行の一ばん後から入って来たので)、スチェパン氏の姿を見るやいなや、彼は大きな声で呼びかけた。そして、ユリヤ夫人と話し中なのもかまわず、傍へやって来て抱きついた。
「ああ、何年目だろう……幾星霜を経たことだろう! やっとのことで……|優れたる友《エクセランタミ》よ」
 彼は接吻にかかった。もちろん、頬っぺたを突きつけたのである。スチェパン氏はすっかり面くらって、その頬に接吻を余儀なくされた。
『|きみ《シェル》』彼はその晩、一日の出来事を追想しながら、わたしに向かってこういったものである。『わたしはその瞬間、心の中で考えたよ。われわれ二人の中でどちらがよけい卑劣だろう? その場でわたしを辱かしめるために抱きしめたあの男か、それとも、あの男を蔑視し、あの男の頬を卑しんでいるくせに、顔をそむけることもできないで、のめのめと接吻したわたしだろうか……ちぇっ!』
「さあ、聞かしてください、すっかり聞かしてください」まるで二十五年間の生活を一時に、すっかり話しつくせるかのように、カルマジーノフはしゅっしゅっという舌ったるい声で切り出した。
 こんな馬鹿馬鹿しい軽薄なものの言い方が、『高尚な』調子なのであった。
「あなたおぼえていますか、わたしが最後にあなたとモスクワで会ったのは、グラノーフスキイ教授祝宴の席上でしたね。あれから二十四年たちましたが……」スチェパン氏は恐ろしく四角ばって理に落ちたことを、したがって、『高尚な』調子にはひどく縁遠いことをいい出した。
「Ce cher homme.(本当に懐かしい人だ)」もうあまりだと思われるくらい親しげに相手の肩をつかみながら、カルマジーノフはきいきいする声でなれなれしげにさえぎった。「ねえ、ユリヤ・ミハイロヴナ、どうか早くわたしたちをあなたの居間へ案内してくださいな、この人があちらに落ちついて、すっかり話して聞かせてくれますから」
『ところが、わたしはあの癇癪もちの女の腐ったみたいな男と、一度も親しくしていたことはないんだ』憤激のあまり体をわなわな慄わせながら、やはりその晩スチェパン氏は訴えつづけた。『わたしは、まだほとんど子供といっていいくらいの時分から、あの男が憎くてたまらなかったのだ……もちろん、あの男のほうでも、わたしに対して同じ心持ちをもっていたがね……』
 ユリヤ夫人の客間は、たちまち一杯になった。ヴァルヴァーラ夫人は、冷静を装おうと努めてはいたものの、とくべつ興奮した心持ちになっていた。わたしは、夫人が二、三度カルマジーノフのほうへ憎悪にみちた視線を投げ、スチェパン氏に憤怒の視線をそそいだのに気がついた、――それは取越し苦労の憤怒であり、心づかいと愛情から出た憤怒であった。もしスチェパン氏がいま何かの拍子で間の抜けたことをいって、一同の面前でカルマジーノフにやり込められたら、彼女はすぐに躍りあがって、彼を撲りつけもしかねまじい様子だった。わたしはいい落としていたが、そこにはリーザも居合わした。彼女がこんなに嬉しそうに、なんの心配もなくうきうきと、幸福らしい様子をしているのを、わたしはついぞ見たことがなかった。むろん、マヴリーキイもいた。それから、いつも決まってユリヤ夫人の取り巻きを勤める若い婦人連や、だいぶ放埒になった青年たちの仲間には(この仲間では、放埒が快活とされ、安価な皮肉が才知と思われているのだ)、二、三の新しい顔も見受けられた。どこかよそから来た、恐ろしくちょこまかするポーランド人と、ひっきりなしに自分で自分のウィットにさも愉快そうに大きな声で笑い興じていた頑丈なドイツ人の老医師と、ペテルブルグから来た恐ろしく年の若い公爵などであった。公爵はまるで自動人形みたいな恰好で、馬鹿馬鹿しく高いカラーをつけ、さも国家の大人物だぞというように澄まし込んでいた。しかし、見受けたところ、ユリヤ夫人は非常にこの客を大切に扱って、自分の客間がこの人に与える印象をかなり気にしている様子であった。
「|親愛な《シェル》カルマジーノフ」絵に描いたように恰好よく長いすに座を占めながら、スチェパン氏は急に、カルマジーノフにひけを取らないほど、しゅっしゅっというような声を立てて、こういい出した。「|親愛な《シェル》カルマジーノフ、わが前時代に属して一定の信念をいだいている人間の生活は、たとえ二十五年の間隔が生じたとはいいながら、ずいぶん単調に見えるに相違ありません……」
 大方、スチェパン氏が何か恐ろしく滑稽なことをいったように思ったのだろう、ドイツ人は馬の嘶くような声で、高々と引っちぎったように笑い出した。こちらはわざとびっくりした顔つきをして、じっとドイツ人を見つめたが、それはなんの効果も奏しなかった。公爵も例の高いカラーごとドイツ人のほうへ首を捩じて、鼻眼鏡を差し向けたが、しかし、好奇の色は少しも浮かんでいなかった。
「……単調に見えるに相違ありません」できるだけ長く無作法に、一語一語引き伸ばしながらスチェパン氏はわざとこうくり返した。「この四半世紀間のわたしの生活も、ちょうどそのとおりでした。et comme on trouve partout plus de moines que de raison.(実際どこでも、道理より坊主の多い世の中ですよ)わたしも全然この諺に同感ですから、したがって、この四半世紀間におけるわたしの生活は……」
「C'est charmant, les moines.(まあ坊主とは面白うございますこと)」傍に坐っているヴァルヴァーラ夫人のほうへ振り向いて、ユリヤ夫人はこうささやいた。
 ヴァルヴァーラ夫人は得意げな目つきでこれに答えた。しかし、カルマジーノフはこのフランス語の成功を、黙って見ていることができなかったので、あわてて例のきいきい声でスチェパン氏をさえぎった。
「わたしなんぞ、もうその点は平気ですよ。そして、今年で足かけ七年、カルルスルーエに落ちついています。現に去年、町会で水道施設が決議された時も、わたしはこのカルルスルーエの水道問題のほうが、ロシヤのいわゆる改造時代に生じたわが愛すべき祖国の諸問題よりも、遙かに親しみのある貴重なものだということを、心の底から感じたような次第です」
「ご同情に堪えませんね。もっとも、わたしの真情にはそむきますがね」と意味深そうに頭を下げながら、スチェパン氏は吐息をついた。
 ユリヤ夫人は得意満面だった。一座の会話が深みのある、思想的なものになってきたからである。
「それは下水道ですか?」と医者が大きな声でたずねた。
「水道ですよ、ドクトル、上水道ですよ。わたしはそのとき設計案を書くのに、一臂の力を貸したくらいです」
 医師は爆発したように笑い出した。続いて、だれかれのものが笑い声を立てたが、今度はもう無遠慮に医師に向きつけて笑った。けれど、こちらはそれに気もつかず、ただみんながいっしょに笑うので大恐悦だった。
「失礼ですが、カルマジーノフさん、わたしはあなたに賛成するわけにまいりません」とユリヤ夫人が急いで口をいれた。「カルルスルーエはまあ後廻しとして、あなたはぜんたい物事をごまかしてしまうのがお好きですが、今度はあなたのお言葉を本当にできませんわ。まあ、ロシヤ人の中でロシヤの文学者の中で、あれほど豊富に現代人の典型を啓示し、あれほど多くの現代的問題を提出し、現代的活動家のタイプを形作るべき主要な現代的要素を指示したのは、いったいだれでしょう? あなたです、あなた一人きりです、ほかにだれもありゃしません。それを今さら祖国に対して冷淡になったの、カルルスルーエの水道に恐ろしく興味を感じてるのと、そんなことを人に信じさせようとなさるんですもの! はは!」
「さよう、わたしはもちろん」とカルマジーノフはまたしゅっしゅっという声で、「パゴージェフのタイプによって、スラヴ主義者のあらゆる欠点を指摘し、ニコジーモフのタイプによって西欧主義者のあらゆる欠点を暴露しましたよ……」
「ふん、あらゆる[#「あらゆる」に傍点]ときた」とリャームシンは小さな声でささやいた。
「が、それはほんのちょっと、ただそのなんとかして、うるさい時を潰すためにやったのですよ、――そして、同胞のうるさい要求を満足さすためにね……」
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたはたぶんご承知でもございましょうが」ユリヤ夫人はしかつめらしく言葉を次いだ。「明日わたくしどもは、立派な詩を聴かしていただけるのでございますよ……それはカルマジーノフさんの最近のお作の一つで、美しい芸術的感興の結晶でございますの、――題は『メルシイ』と申すのですが、その中でもう今後けっして何も書かぬ、どうあっても社会へ顔を出さぬ、たとえ天からエンゼルが降って来ても、――というより、上流社会の人がみんながかりで頼んでも、この決心は翻さない、という宣言をなさるのでございます。つまり、カルマジーノフさんは永久に筆を折られるので、この美しい『メルシイ』は、これまで幾十年かの間、絶えずロシヤの高潔な思想のためにつくされた努力に対して、社会が常に歓喜の念を払ってくれたのを、感謝する意味で書かれたのだそうでございます」
 ユリヤ夫人はもう幸福の絶頂に立っていた。
「さよう、わたしは別れを告げるつもりです。わたしは自分の『メルシイ』を述べて去るつもりです。そして……あの……カルルスルーエで目をつむろうと思っています」カルマジーノフはしだいに感傷的になってきた。
 わが国の文豪は多くそうであるが(またロシヤには、文豪がやたらにたくさんある)、彼は賞讃の辞を平気で聞いていることができなかったので、いつもの機知にも似合わず、たちまち意気地なくなりかけた。しかし、わたしの考えでは、これなどはまだ罪の浅い方である。噂によると、わが国のシェイクスピアの一人は、公けの席ではないが、いろんな話の中に、『われわれのような偉人[#「われわれのような偉人」に傍点]は、それよりほかに仕方がないのだ』と剥き出しにやっつけておきながら、自分ではそれにお気がつかないのだそうである。
「わたしはあちらで、カルルスルーエで目をつむるつもりです。われわれ偉人は、おのれの業を成し遂げたら、酬いを求めないで少しも早く目をつむるよりほか、なすべきことはないからね。わたしもそのとおりにするのです」
「どうか所を知らせてください。そしたら、わたしもあなたの墓へ詣りに、カルルスルーエヘ出かけますから」とドイツ人は突拍子もない声でからからと笑った。
「今は死人も鉄道で運びますからね」だれやら、あまり目に立つほうでない青年の一人が、出しぬけにそんなことをいった。
 リャームシンは有頂天になって、きゃっきゃっと笑い出した。ユリヤ夫人は眉をひそめた。そこヘニコライ・スタヴローギンが入ってきた。
「おや、あなたが警察[#「警察」に傍点]へ引っ張られたという話を聞きましたが?」一番にスチェパン氏のほうに向かいながら、彼はこう問いかけた。
「いや、あれはちょっとしたけいそつ[#「けいそつ」に傍点]な出来事なんですよ」とスチェパン氏は地口をいった。
「けれども、わたくしはその出来事が、あのご依頼に少しも影響しないことと、楽しんでおりますの」またもやユリヤ夫人が引き取った。「わたしは今だに、なんのことやら合点がゆきませんけれど、とにかく、あんな不快な出来事に気をお留めにならないで、わたしたちのせっかくの期待を裏切らないでくださいましね。明日の会の文学の部で、あなたの講演を拝聴する楽しみを、わたしたちから奪っておしまいになるようなことはありませんでしょうね?」
「さあ、どうしますか。わたしも今さら……」
「まったくねえ、ヴァルヴァーラ・ペトローヴナ、わたしほど不仕合わせなものはありませんわ……本当にどうでしょう、ロシヤの国でもとりわけ傑出した独創的な思想家の一人とじきじきお知合いになる日が、少しも早く来ればいいと待ち焦れている矢さきに、まあ、思いがけなく、スチェパン・トロフィーモヴィチは、わたしたちの傍を離れたいような口ぶりをお洩らしになるじゃございませんか」
「どうも賞讃のお言葉があまり大仰なので、わたしとしてはもちろん、聞かない振りをするのが当然かもしれませんが」とスチェパン氏は一語一語おし出すようにいった。「しかし、わたしのような憫れな人間が、明日のお催しにとってそれほど必要だろうとは、信じられません。けれど、わたしは……」
「おやおや、あなた方は親父を増長さしておしまいになりますよ!」疾風《はやて》のように部屋へ飛び込みながら、ピョートルがいきなりこう叫んだ。「ぼくはね、やっと親父を自分の手で押えつけたと思う間もなく、とつぜん家宅捜索、逮捕という始末になって、巡査が親父の襟首を引っつかまえたという噂でしょう。ところが、いま見ればどうでしょう、知事公のサロンで、貴婦人がたにちやほやしてもらってるじゃありませんか。きっと親父はいま嬉しさのあまり、体じゅうの骨が一本一本うずいてるこってしょうよ。こんな果報は夢にも見なかったでしょう。見ていらっしゃい、今に社会主義者の密告を始めますから!」
「そんなことがあってよいものですか、ピョートル・スチェパーノヴィチ。社会主義は実に偉大な思想ですもの、スチェパン・トロフィーモヴィチだって、それをお認めにならぬわけにゆきませんわ」ユリヤ夫人は勢い込んで弁護した。
「偉大な思想には相違ありませんが、その宣伝者がだれでも偉人だとはいえませんよ。〔et brisons-la`, mon cher.〕(なあ、お前、もうこの辺でやめておこう)」わが子のほうに向かってこう言葉を結びながら、スチェパン氏は美しいポーズを見せて席を立った。
 しかし、この時、まるで思いも寄らぬことが持ちあがった。フォン・レムブケーは、もうかなり前から客間に坐っていたが、だれもそれに気のつかないようなあんばいだった。もっとも、彼の入って来るところは、みんなちゃんと見てはいたのだ。ユリヤ夫人はその時の気分で、前々からの決心に引き込まれ、相変わらず夫をあるがなしにあしらっていた。彼は戸口の辺に席を占め、いかつい沈んだ顔つきで、一座の会話に耳を傾けていた。今朝の出来事を匂わすような言葉を聞くと、彼はなんとなく不安げにもじもじし始めた。そして、例のうんと糊がきいて前のほうへ突き出たカラーに驚いたらしく、じっと公爵に目を据えるのであった。それから、とつぜん部屋へ駆け込んだピョートルの声を聞き、姿を見ると、ぴくりと身を慄わせたように見えたが、スチェパン氏が社会主義者に関して、例の荘重な一句をいい終わるやいなや、途中に居合わしたリャームシンを突き飛ばして、彼の傍へつかつかと近寄った。リャームシンはわざとらしい様子で、びっくりしたようにすぐ飛びのいて、肩をさすりながら、いかにもひどくやっつけられたというような身振りをした。
「もうたくさんです!」レムブケーは、呆気にとられたスチェパン氏の手をいきおい猛に引っつかんで、力限り握りしめながらいい出した。「たくさんです。現代の海賊《フリブスチエール》どもはちゃんとわかっています、もう少しも言葉を加える必要はない。すでに相当の方法は講じてあるのです……」
 彼は部屋じゅうへ響き渡るような声でこういいながら、いきおい込んで最後の一句を結んだ。一座の受けた印象は病的なものであった。一同はなんとなく穏かならぬ心持ちを感じた。わたしは、ユリヤ夫人の顔があおくなったのに気づいた。しかも、そのうえに一つの馬鹿げた偶然が、さらに効果を強めたのである。相当の方法を講じた旨を宣告すると、レムブケーはくるりと向きを変えて、足早に部屋を出て行った。が、二足ばかりで絨毯の端に突っかかって思わず前へのめり、あやうくその場へ投げ出されそうになった。その瞬間、彼はちょっと立ちどまって、突っかかった場所を見つめていたが、やがて『取り替えなくちゃならん』と口に出していうと、そのまま戸の外へ消えてしまった。ユリヤ夫人は後から続いて駆け出した。
 彼女の出た後で、急にがやがやという話し声が始まったが、何が何やら少しも聞き分けることはできなかった。ただ『少し加減が悪いのだ』とか、または『ちょっといかれてるのだ』とかいう声が聞こえた。中には、指で額をさす([#割り注]気が変だという意味[#割り注終わり])ものもあった。リャームシンは隅っこのほうで、二本指を額のちょっと上へ当てがった。何かしら、家庭内の出来事をほのめかす者もあったが、それらはもちろん、すべてひそひそ声だった。だれひとり帽子に手をかけようとする者もなく、だれもがじっと待ち設けていた。ユリヤ夫人は、あの間に何をしたのか知らないが、五分ばかりたった時、懸命に平静を装いながら、引っ返して来た。彼女は曖昧な調子で、レムブケーは少し興奮しているけれど、大したことではない、子供の頃からあった病気だ、それは自分のほうが『ずっとよく』知っている、もちろん、あすの慈善会に出たら、気がうきうきして来るに相違ない、と答えた。それから、また二こと三ことスチェパン氏にお愛想をいった後(しかし、それはほんの社交上の礼儀にすぎなかった)、準備委員会の人々に向かって大きな声で、今すぐ評議会を開いていただきたい、といい出した。そこで委員会に関係のない人たちは、別れて家へ帰ろうと身支度を始めた。けれど、この運命的な朝の病的な出来事は、まだ終わりを告げていなかったのである……
 さきほどスタヴローギンが入って来た瞬間、リーザが素早くそのほうへ視線を向けて、穴のあくほど一心に見つめたのに、わたしは気がついた。彼女はその後も長い間、目を離そうとしなかったので、しまいには人の注意を惹くようになった。見ると、マヴリーキイはうしろから彼女のほうへかがみ込んで、何やら小声でいおうと思ったらしかった。が、急にまた思い直したと見え、罪人《つみびと》のような目つきで一同を見廻しながら、大急ぎで身を伸ばしてしまった。しかし、ニコライも人々の好奇心を呼び起こしたのである。彼の顔はいつもより余計にあおざめて、目は恐ろしくそわそわしていた。入りしなにスチェパン氏に向かって例の質問を放つと、彼は即座にその問いを忘れてしまったらしい。それどころか、わたしの目には、女主人のところへ挨拶に行くのさえ忘れているのではないかと、思われるほどであった。リーザのほうもまるで見ようとしなかった。それは、けっして見たくなかったからではなく、やはり彼女にまるで気がつかなかったからである。それはわたしが断言してもいい。ユリヤ夫人が一刻も時間を無駄にしないで、最後の評議会を開こうと提議した後で、ややしばらく一座を沈黙が領したが、そのとき突然リーザの甲高い、わざと大きく張り上げた声が響いた。彼女はスタヴローギンに呼びかけたのだ。
「ニコライ・フセーヴォロドヴィチ、あなたの親類だと名乗る一人の大尉が、しじゅうわたしのところへぶしつけな手紙をよこしますの。なんでも、あなたの奥さんの兄弟だそうでして、レビャードキンとかいう苗字ですが、あなたのことをいろいろ讒訴して、何かしらあなたに関係した秘密を知らせてやる、というのでございます。もしその男が本当にあなたのご親族でしたら、どうかその人にわたしを侮辱するのをやめさせてください。そして、そんないやな目をしなくても済むようにさせてくださいな」
 この言葉には恐ろしい挑戦が響いていた。一同はそれを悟った。非難は赤裸々なものであった。もっとも、彼女自身さえ思い設けなかったのかもしれない。それは、人が目をつぶって屋根から飛び下りるような趣きだった。
 しかし、ニコライの答えはさらに思いがけないものだった。
 第一、彼がいささかもたじろがず、あくまで冷静な注意をもって、リーザの言葉を聞き終わったのからして奇怪であった。彼の顔には狼狽の色も、憤怒の陰も映らなかった。彼はこの命がけの質問に対して、率直にきっぱりと、思い切った態度で即座に答えた。
「ええ、わたしは不幸にしてあの男と親類関係になっています。わたしはあの男の妹、旧姓レビャードキナの夫となって、もう追っつけ五年になります。ご安心なさい、あなたの要求は、時を移さず伝えておきます。そして、今後あの男があなたにご迷惑をかけないように、わたしが自分で責任を引き受けます」
 わたしはヴァルヴァーラ夫人の顔に描かれた恐怖の表情を、永久に忘れることができない。夫人はもの狂おしい顔つきで椅子から体を持ち上げながら、まるで防禦でもするように、右手を前へ差し伸べた。ニコライは、母と、リーザと、一座の人々をちらと見やったが、とつぜん量り知れぬ傲慢な微笑を浮かべつつ、悠々と部屋を出てしまった。ニコライが部屋を去ろうとして、向きを変えるとひとしく、リーザはふいに長いすから躍りあがって、明らかに、その跡を追って駆け出そうとするような身のこなしをしたが、すぐまたわれに返って、駆け出すのをやめた。そして、同じくだれにも別れを告げず、だれひとり見向きもしないで、そのまま静かに部屋を出て行った、――もちろん、あとからすぐ飛び出したマヴリーキイに伴なわれて……
 この晩、町に起こった騒ぎや噂話は、最早くだくだしく書かぬこととする。ヴァルヴァーラ夫人は町の家へ閉じこもってしまった。ニコライは母親にも会わないで、真っすぐにスクヴァレーシニキイヘ行ったとのことである。スチェパン氏はその晩わたしを|あの《セット》|親しい《シエール》|女友だち《アミ》のところへ使いにやって、面会の許しを乞うたが、夫人はわたしに会ってくれなかった。彼はことの意外さに打たれて泣いていた。
『なんという結婚だ! なんという結婚だ! なんということが純潔な家庭に起こったものだろう!』彼はのべつくり返していた。しかし、それでも、カルマジーノフのことを思い出しては、恐ろしい剣幕で罵倒するのであった。それから、明日の講演の用意にも一生懸命だった。しかも、――なんという芸術的な生まれつきだろう! 鏡の前で練習までするのであった。そして、明日の講演の中へ挟むために、別な手帳に書き留めてあるこれまで自分の吐いた警句や洒落などを、すっかり引っ張り出した。
「ねえ、きみ! これは偉大な理想のためにするんだよ」明らかに言いわけのためらしく、彼はわたしにこういった。「|親しき友《シェラミ》、わたしは二十五年間すみ馴れたところを去って、出しぬけにどこかへ行ってしまうのだ。どこへ? それはわたしも知らない。けれど、わたしはもう行ってしまうのだ……」
[#改ページ]

[#3字下げ]スタヴローギンの告白[#「スタヴローギンの告白」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 ニコライ・フセーヴォロドヴィチは、この夜まんじりともしないで、夜っぴて長いすに坐ったまま、箪笥の置いてある片隅の一点に、じっと据わって動かぬ視線をたえずそそいでいた。ランプは夜どおし彼の部屋についていた。朝の七時ごろ、坐ったままうとうとと眠りに落ちた。もうちゃんと型に入った習慣に従って、かっきり九時半に、アレクセイが朝のコーヒーを持って部屋へ入って来ながら、その物音で主人の目をさました時、彼はぱっちり目を開いたが、思いのほか長く寝てしまって、こんなに遅くなっているのに、不快な驚きを感じたらしかった。彼は大急ぎでコーヒーを飲み、手早く着替えをして、忙しげに家を出て行った。『何かお言いつけはございませんでしょうか?』というアレクセイの用心ぶかい問いに対して、なんにも返事をしなかった。彼は深いもの思いに沈んだ様子で、地面ばかり見つめながら往来を歩いて行った。ただときおり、瞬間的に顔を上げて、急に漠とした、とはいえ、烈しい不安のさまを示すばかりであった。まだ家から遠くない、とある四つ角で、通りすがりの百姓の群が彼の行手をさえぎった。五十人か、それ以上もあろうと思われるほどの数だったが、ことさららしく秩序を守って、ほとんど声ひとつ立てず、行儀よく歩いていた。彼はものの一分ばかり、一軒の店先で待っていなければならなかったが、だれか傍で、『あれはシュピグーリンの職工だ』といった。彼はそれにほとんど注意を払わなかった。
 ようやく十時半ごろに、彼は町の修道院スパソ・エフィーミエフスキイ・ボゴロードスキイの門前に着いた。修道院は町はずれの川岸にあった。その時はじめて何か厄介な、気にかかることを思い出したらしく、急いでポケットの中をごそごそ探って見て、――にたりと笑った。境内へ入ると、初めて出会った寺男を捕まえて、この修道院で行ないすましているチーホン僧正のところへは、どう行ったらよいかとたずねた。寺男はしきりにお辞儀をしながら、すぐ案内してくれた。二階建てになっている長い僧院の端にしつらえた小さなあがり段の傍で、向こうからやって来た胡麻塩頭の肥った僧が、すばやくいや応なしに寺男からニコライを引ったくって、細長い廊下づたいに導いた。やはりのべつお辞儀をしながら(もっとも、よく肥っているために低い会釈は出来ないで、ただしょっちゅうしゃくる[#「しゃくる」に傍点]ように頭を振るばかりだった)、ニコライがうしろからついて行っているのに、絶えず『どうぞこちらへ』といいつづけるのであった。肥えた僧は、何か問いを持ちかけては、修道院長のことで何やらくどくど話していた。そして、返事をしてもらえないために、かえっていっそううやうやしい態度になっていった。スタヴローギンは、いま覚えているところでは、子供の時分にしかここへ来たことがないにもかかわらず、この僧がよく自分のことを知っているのに気がついた。廊下の一番はじにある戸口までたどりつくと、僧は権威あるもののごとき手つきで扉を開け、馳《は》せ寄った庵室当番に、さもなれなれしい調子で、入ってもよいかとたずねた。そして、返事も待たずに扉をさっと一杯に開け放し、うやうやしく腰をかがめながら、『貴い賓客』を中へ通し、お礼の言葉を聞くと、まるで逃げるようにちょろりと姿を隠した。
 ニコライは大きからぬ部屋の中ヘ一歩ふみ入れた。すると、ほとんど同時に次の間の戸口に、背の高い痩せぎすの人が姿を現わした。年の頃五十ばかり、質素な内着らしい半長衣をつけていたが、一見したところ、なんとなく病身らしく思われる。なんともつかぬ曖昧な微笑を浮かべて、妙な内気らしい目つきをしている。これこそ即ち、ニコライが初めてシャートフから話を聞いて、それ以来なにかのついでに二、三の参考材料を集めておいた、チーホン僧正その人であった。
 その参考資料というのはまちまちで、矛盾したところもあったけれど、何かしら共通した点があった。というのは、チーホンを好いている人も嫌いな人も(嫌いな人もやはりあった)、みんな妙に緘黙の態度をとっていたことである、――嫌いな人はおそらく蔑視の意味だろうし、帰依者のほうは、熱心な人でさえも、――一種の遠慮のためらしかった。何かしら僧正の弱点というか、畸癖というか、そうしたものを隠したいがためのように思われる。ニコライの聞いたところによると、僧正はもう六年もこの修道院に暮らしているが、彼のところへ訪ねて来る人々の中には、ごく下層の民衆もあれば、きわめて地位の高い名流の人も交っている、そればかりか、遙かペテルブルグにも熱心な崇拝者があって、それも主として婦人が多いとのことだった。そうかと思えば、町の名士で、クラブの年寄り株であり、同時に信心家の老人から聞いた話では、『あのチーホンは、まあほとんど気ちがいといってもいいくらいの人間で、しかし、間違いのない話、酒もなかなかいける』ということであった。さき廻りしてちょっといい添えておくが、これはまったくの出たらめで、ただ久しく持病のリューマチで足を病み、ときどき何か神経性の痙攣が起こるくらいなものである。これもやはりニコライの聞いたことだが、この修道の僧正は、性格の弱さのためというより、『その位階にふさわしからぬ、またゆるすべからざる放心癖のために』、修道院の内部で特別の尊敬をかち得ることができなかった。噂によると、修道院長はその職務に対して峻酷厳正な人であり、そのうえ学殖をもって聞こえた人であるために、チーホンに対して敵意めいたものすらいだき、その無頓着な生活ぶりを指摘するのみならず、ほとんど異端思想さえも発見して、面と向かってではないけれど、間接に彼を非難しているとかいうことだった。同宿の僧たちも、病身な僧正に無頓着な、というより、あまりにもなれなれしい態度を取っていた。
 チーホンの庵室になっている二つの部屋も、なんだか妙な飾りつけになっていた。すれた革張りの古い樫の木づくりの椅子テーブルと並んで、三つ四つ優雅な品々が見受けられた。それは恐ろしく贅沢な安楽いす、見事な作りの、大きいライティング・テーブル、木彫装飾のついた上品な書籍棚、そのほか洒落た小テーブルや隅棚、すべていうまでもなくもらいものばかりである。高価なブハラ織の絨毯があるかと思えば、すぐ傍に莚があったりした。『俗世間的』な内容や、神話時代を取り扱った版画があるかと思えば、金銀燦爛たる聖像を収めた大きな龕が、すぐこの片隅に据えてある。しかも、聖像の一つなどは、遺骨入のごく古いものである。蔵書の内容も思い切って種々雑多な、矛盾だらけなもので、キリスト教の偉大な導師や苦行者の著述と並んで、『芝居の本や小説や、或いはそれよりずっとひどいもの』さえ交っている、というような噂だった。
 双方ともなぜかばつの悪い様子で、せかせかと曖昧な初対面の挨拶をすませた後、チーホンは自分の居間へ客を案内した。そして、相変わらずせかせかしたふうで、テーブルの前の長いすに坐らせると、自分は傍の籐いすに腰を下ろした。その時、驚いたことに、ニコライはすっかりまごついてしまった。それはまるで何か異常な、争う余地のない、それと同時に、彼として不可能なことを決行しようと、必死になっているような具合だった。彼はややしばらく居間の中を見廻していたが、明らかに、見ているものが何かわからないらしかった。彼は考え込んだが、何を考えているのやら、自分でもわからなかったかもしれない。あたりの静寂が彼をわれに返らした。ふと見ると、チーホンがまるで要もない微笑を浮かべながら、きまり悪げに目を伏せているような気がした。それが一瞬、彼の心に嫌悪の念と反抗心を呼びさました。彼は立上がって出て行こうと思った。彼の目には、チーホンがまるで酔っぱらっているように見えたのである。けれど、チーホンは急に瞳を上げて、思念に溢れたしっかりした目つきで彼を眺めた。しかも、同時に、ニコライがあやうく身慄いをこらえたほどの、思いがけない、謎のような表情がうかがわれたのである。すると、ふいに今度はまるで別な想念が浮かんだ、――チーホンはもう自分が何しに来たか知っている、すでに前もって予告を受けている(もっとも、世界じゅうだれ一人として、その原因を知り得るものはないのだが)、彼がまず自分から口をきかないのは、客の屈辱を恐れて、容赦しようという気があるからにすぎない。
「あなたぼくをごぞんじですか?」と彼は出しぬけに、ぶっきら棒な調子でたずねた。「入ったときに名前を申し上げましたか、どうですか? すみません、ぼくは実にぼんやりでして……」
「名前はおっしゃらなかったけれども、わたしは四年ほど前にここで、この修道院で、一度お目にかかったことがありますて……偶然のことでな」
 チーホンははっきり明瞭に一語一語を発しながら、柔かみのある声で、ごくゆっくりと、なだらかにいった。
「ぼくは四年前にこの修道院へ来たことはありません」何か不必要にあらあらしい口調で、ニコライはいい返した。「ぼくはほんの小さな子供の時に、ここへ来たことがあるきりです、まだあなたなどまるでいらっしゃらなかった時分に」
「では、お忘れになりましたかな?」しいて主張しようとせず、用心ぶかい調子で、チーホンは注意を促した。
「いや、忘れなどしません。もしそんなことを覚えていないとしたら、少々滑稽じゃありませんか」なにやら極度に主張するような態度で、スタヴローギンはいい切った。「あなたはもしかしたら、ぼくの噂をお聞きになったばかりで、何かある観念を頭の中でおこしらえになって、そのために自分で会ったように、思い違えていらっしゃるのじゃありませんか」
 チーホンは口をつぐんだ。そのときニコライは、ときどき神経的な痙攣がチーホンの顔をかすめて走るのに気づいた。それは久しい神経衰弱の兆候であった。
「お見うけしたところ、あなたはきょうご気分がすぐれないようですね」と彼はいった。「お暇したほうがいいんじゃないでしょうか?」
 彼はちょっと席から腰を上げようとさえした。
「さよう、わたしは昨日から今日へかけて、足がひどく痛みましてな、ゆうべもよく眠れなかったようなわけで……」
 チーホンは言葉を休めた。客がとつぜん何かとりとめのないもの思いに落ちたのである。沈黙はかなり長く、二分ばかりも続いた。
「あなたはぼくを観察していらっしゃいましたか?」出しぬけに彼は不安げな、うさん臭そうな調子でたずねた。
「わたしはあなたを見ているうちに、お母さまの顔だちを思い出しましたので、外面的には似たところがないようでいながら、内面的、精神的には大変よく似ておられますよ」
「似たところなど少しもありません。ことに精神的の類似など、これっからさきもないといっていいくらいです!」なぜか自分でもわからないのに、極度に固執するような態度で、またもや必要以上にいらだちながら、ニコライはいった。「あなたがそうおっしゃるのは……ぼくの現状に同情してでしょう」彼はふいにいきなりこうぶっつけた。「へえ! いったい母があなたのところへ、ちょくちょく伺うんですか?」
「お見えになります」
「知りませんでしたなあ。一度も母の口から聞いたことがありません。しょっちゅうですか?」
「たいてい毎月、いや、もっと多いですかな」
「一度も、一度も聞いたことがありません、――聞いたことがありませんなあ」彼はこの事実に恐ろしく不安を感じ始めたらしい。「あなたは、むろん、母からお聞きになったでしょう、ぼくが気ちがいだってことを?」と彼はまたぶっつけるようにいった。
「いや、気ちがいというわけでもありませんて。もっとも、そういうことを聞くには聞きました。しかし、ほかの人の口からですよ」
「では、あなたは非常に記憶力がおよろしいのですね、そういうつまらないことを覚えていられるところを見ると。頬打ち事件をお聞きになりましたか?」
「何やら聞いたようですな」
「つまり、何から何まででしょう。あなたはずいぶんそんな噂話を聞く暇がおありなんですね。じゃ、決闘のことも?」
「さよう、決闘のことも」
「へえ、ここは新聞のいらない所ですね。シャートフが先を越して、ぼくのことをしゃべったんでしょう?」
「いや。もっとも、わたしはシャートフ氏を承知しておりますが、もうだいぶ前からあの人に会いませんよ」
「ふむ……あすこにあるのは、いったいなんの地図です? おや、最近の戦争地図だ! なぜこんなものが?」
「この地図を本文と対照して調べたので。なかなか面白い記録ですて」
「見せてください。そう、この戦史は悪い出来じゃない。しかし、あなたとしては奇妙な読物ですね」
 彼は本を引きよせて、ちらと目を走らせた。それは最近の戦役に関する事情を巧みに叙述した浩瀚な書物で、軍事的というよりも、むしろ文学的に優れた労作だった。彼はちょっと本を引っくり返して見ると、急にじれったそうにぽんとほうり出した。
「ぼくはなんのためにここへ来たのか、てんでわけがわからない」相手の答えを期待するように、ひたとチーホンの目を見つめながら、彼は気難かしそうな調子でこういった。
「あなたもどうやら、あまり健康ではなさそうですな」
「ええ、そうかもしれません」
 彼は出しぬけに話し出した。それが思い切り簡単な、引っちぎったような言葉なので、どうかすると、よく聞き取れないくらいだった。その話によると、彼は一種の幻覚症にかかって、ことに夜になると、よく自分のそばに何かしら意地の悪い、皮肉な、しかも『理性のしっかりした』生き物を感じるばかりか、時によると目に見ることさえある、というのであった。
『いろんな変わった顔をして、いろいろさまざまな性格に化けて来るけれど、その正体はいつも同じものなんです。で、ぼくはいつもじりじりして来るんです!………』
 この告白は奇怪千万で、ちぐはぐで、まったく狂人の口から出たもののように思われた。けれど、この時のニコライの語調は、今までかつて見たことのないくらい、不思議なほど開けっ放しで、彼にはまるで不似合な率直さを示していたので、彼の内部に潜んでいた以前の人間が、いつの間にか忽然と消えてしまったような気がするほどだった。彼は自分の幻覚を語る時に、恐怖の色をあけすけに曝け出して、それを少しも恥じるふうがなかった。しかし、それもみなほんの束の間のことで、現われた時と同様に、たちまちすっと消えてしまった。
「だが、みんなくだらないことです」彼はふとわれに返って、ばつの悪そうないらだたしさを声に響かせながら、早口にこういった。「ぼく、医者のところへ行ってみますよ」
「ぜひお行きになるがよろしい」とチーホンは相槌を打った。
「あなたはさも当たり前のようにおっしゃいますね……いったいぼくのような人間をご覧になったことがあるんですか、こんな幻覚に憑《つ》かれた人間を?」
「見たことがありますよ。しかし、ごくたまですな。今までの経験では、たった一人だけ覚えております。将校でしてな、かけ換えのない生涯の伴侶《とも》を、つれあいを失くしてからそうなったので、もう一人は話にだけ聞いたものです。両方ともその後、外国で療治を受けたそうですよ……あなたは前からそれにかかっておられますかな?」
「一年ばかり、しかし、これはみんなくだらないことですよ。医者に見てもらいます。みんな馬鹿げたことです。恐ろしく馬鹿げたことです。それはいろんな姿をしたぼく自身にすぎないんです。いまぼくがこの一句をつけ足したので、あなたはきっとそう思っていらっしゃるでしょう、――これはまったくぼく自身であって、けっして悪霊《あくりょう》じゃないってことを、十分に確信しきっていない、いまだにやはり疑ってるだろうと」
 チーホンは不審げに彼を見つめた。
「で……あなたは、本当にそれをご覧なさるのかな?」と彼はたずねたが、それはニコライの話が確かに馬鹿馬鹿しい、病的な幻覚に過ぎないと言うことについて、いっさいの疑いを押しのけてしまおうとするような語調だった。「あなたは本当に何かの姿を見られるのかな?」
「ぼくがもうちゃんと見えるといってるのに、そう念をお押しになるのは妙ですね」とスタヴローギンはまた一語一語にいらいらし始めた。「むろん見えるのです、今あなたを見ているのと同じように。どうかすると、現に見ていながら、その見ているということに確信が持てないんです……またどうかすると、ぼくとあいつと、どちらが本当なのやらわからなくなる……が、こんなことみんなくだらない話です。いったいあなたはどうしても想像がおできになりませんか、これが本当の悪霊だとは!」あまりにも急激に冷笑の調子に移りながら、彼はからからと笑って、こうつけ足した。「だって、そのほうがあなたのご商売がらにふさわしいじゃありませんか」
「おそらく病気と見るのが適当でしょう、もっとも……」
「もっとも何です!」
「悪霊は疑いもなく存在しておる。けれど、その解釈はきわめて区々まちまちのはずですて」
「あなたがまた目をお伏せになったのは」スタヴローギンはいら立たしげな嘲笑を浮かべながら、相手の言葉を抑えた。「ぼくが悪霊を信じてるので、人ごとながら恥ずかしいからでしょう。しかし、ぼくそれを信じてないというていで、一つあなたにずるい質問を提出しましょう、やつは本当にいるんですか、いないんですか?」
 チーホンはなんともつかぬ微笑を洩らした。
「いや、それじゃ、ご承知おき願いますが、ぼくは少しもあなたの思わくを恥じちゃいませんよ。で、今の失礼の代わりとして、あなたにご満足を与えるために、ぼくまじめに、かつずうずうしく声明しますが、ぼくは悪霊を信じます。比喩や何かでなく、個体としての悪霊を合法的に信じます。ぼくはだれからも何一つ探り出す必要がないのです、それっきりです」
 彼は神経的に、不自然な笑い声を上げた。チーホンは好奇の色を浮かべながら、彼を見つめていた。その目つきはもの柔らかではあったが、いくぶん臆病そうでもあった。
「あなたは神を信じますか?」出しぬけにニコライはこうぶっつけた。
「信じます!」
「でも、聖書にそう書いてあるでしょう、もし信ありて、山よ動けといわば、山すなわち動くべしって、――だが、馬鹿なことをいって失礼しました。しかし、それでも、ちょっとものずきに聞かせてください、あなたは山を動かしますか、どうです?」
「神様のお言いつけがあれば、そりゃ動かします」と低い控えめな声でチーホンはいった、またしても目を伏せながら。
「いや、それは神様が自分で動かすのと、結局、おなじことですよ。そうじゃなくって、あなたが、あなたが神に対する信仰の報いとしてです」
「動かせないかもしれませんな」
「『かもしれません?』いや、これも悪くないな。もっとも、あなたはやはり疑っていらっしゃいますね?」
「信仰が足りぬために、疑っておりますて」
「えっ、あなたまで信仰が足りないんですって?」
「さよう……信仰の仕方が足りぬかもしれません」とチーホンは答えた。
「どうもあなたを見ていると、こればかりは予想できかねましたね!」いくぶん驚いたふうで、彼は急に相手をちらりと見直した。それは、今までの質問の嘲笑的な調子とはまるっきり相応《うつ》らないほど、それこそ思い切って率直な驚きであった。
「ま、それにしても、神様の助けを借りるにしても、やはり動かせると信じてるんでしょう。いや、それだけでも不足はいえない。少なくとも信じたいという気持ちはあるんですからね。山ということも文字どおりに解釈してるんでしょう? 原則として悪くないですよ。ぼく、気がついたことですが、ロシヤのレビの子たちで最も急進的な分子は、だいぶルーテル派に傾いているようです。これはなんといっても、わずか一人やそこいらの僧正さまより、少しは大きな意味を持っていますからね。あなたはむろんクリスチャンでしょうね」スタヴローギンは早口にいった。ときに真面目な、ときに嘲るような言葉が、ばら撒くように飛び出した。
「主よ、汝の十字架をわれ恥ずまじ」とチーホンはほとんどささやくようにいった。それは一種熱烈なささやきであった。頭はいよいよ低く垂れた。
「神を信じないで、悪魔を信じることができるものですかね?」とスタヴローギンは笑い出した。
「それはもうできるだんじゃない、ざらにあることですとも」チーホンは目を上げて、にっこり笑った。
「じゃ、あなたはそうした信仰のほうが、なんといっても完全な無信仰より尊敬に価すると、思ってらっしゃるんでしょう……賭けでもしますよ」とスタヴローギンはからからと笑った。
「それどころか、完全な無神論のほうが、俗世間の無関心な態度より、ずっと尊敬に価しますよ」とチーホンは答えた。
「へえ、そんなことをお考えなのですか!」
「完全な無神論者は完全な信仰に達する、最後の一つ手前の段に立っておる(それを踏み越す越さないは別として)。ところが、無関心な人間はなんの信仰も持っておらぬ。まあ、悪い意味の恐怖くらいなものですて。しかし、それもほんの時たまで、感じの強い人にかぎりますよ」
「ふむ……あなたは黙示録をお読みになりましたか」
「読みました」
「覚えていらっしゃいますか、『なんじラオデキヤの教会の使者に書おくるべし』ってのを……」
「覚えております」
「あの本はどこにあります?」なんだか妙にせき込んで、目でテーブルの上の本をさがしながら、スタヴローギンはそわそわ落ちつかない身振りをした。「ぼくはあなたに読んで聞かせて上げたいのです……ロシヤ語訳がありますか?」
「わたしはあの場所を知っておる、覚えております」とチーホンはいった。
「そらで覚えていらっしゃる? では、読んでください……」
 彼は急に目を伏せて、両の肘を膝の上につき、こらえ性《しょう》のない様子で謹聴の身がまえをした。チーホンは一こと一こと思い起こしながら暗誦した。
『なんじ、ラオデキヤの教会の使者に書おくるべし、アーメンたる者、忠信なる真の証者、神の造化の初めなるもの、かくの如く言うと。曰く、なんじ冷やかにもあらず、熱くもあらざることを、なんじのわざによりて知れり。われなんじが冷やかなるか、或いは熱からんことを願う。汝すでにぬるくして、冷やかにもあらず熱くもあらず、このゆえに、われなんじをわが口より吐き出ださんとす。なんじみずから、われは富みかつ豊かになり、乏しきところなしと言いて、まことは悩めるもの、憐むべきもの、また貧しく目しい、裸かなるを知らざれば……』
「たくさんです」とスタヴローギンはぷつりと断ちきった。「実はねえ、ぼくあなたが大好きですよ」
「わたしもあなたが」とチーホンは小声で応じた。
 スタヴローギンは口をつぐんだ。そして、ふいにまた、さきほどと同じもの思いに沈んでしまった。それはまるで発作的に起こるらしく、もうこれで三度めだった。それに、チーホンに向かって『大好きです』といったのも、ほとんど発作的といっていいくらいだった。少なくも、われながら思いがけなかったに違いない。一分以上たった。
「腹を立てなさんな」ほとんど指をニコライの肘にふれないばかりにしながら、なんとなく気おくれのする様子で、チーホンはこうささやいた。
 こちらはぎっくりして、腹立たしげに眉をひそめた。
「どうしてあなたは、ぼくが腹を立てたのに気がついたんです?」と彼は早口にきいた。チーホンが何かいおうとしたとき、彼はふいに名状しがたい不安の色を示しながら、相手をさえぎった。
「なぜあなたは、ぼくがきっと癇癪を起こすに相違ないと、そんな想像をしたんです? そうです、ぼくは意地悪な気持ちになっていました。お察しのとおりです。それも、ほかにわけがあるからじゃない、つまり、あなたに『大好きです』なんていったからです。お察しのとおりです。しかし、あなたは下品な皮肉屋です。人間の本性というものについて、卑しい考えを持っていらっしゃるんだから。これがもしぼくでなくてほかの人間だったら、腹を立てるなんて、あり得べからざることです……もっとも、問題は人間じゃなくてぼくのこってした。が、それにしても、あなたは畸人で、そして神様きちがいですよ……」
 彼はしだいしだいにいら立って来た……そして、不思議にも、言葉づかいを遠慮しなくなった。
「いいですか、ぼくは間諜だの心理学者なんてものを好かないんです。少なくとも、ぼくの魂を覗いて見ようとするような、そうした連中を好かない。ぼくは自分の魂の中へは、だれ一人お招きしません。ぼくはだれをも必要としません。自分で自分の始末をつけますよ。あなた、ぼくがあなたを恐れてるとお思いですか?」彼はいちだん声を張って、挑むように顔を上げた。「あなたはきっとこう確信していられるのでしょう、ぼくがここへ来たのはある『恐ろしい』秘密をうち明けるためだと思って、あなた相応の庵室的好奇心を緊張させながら、今か今かと待ってらっしゃるんでしょう。なら、お断わりしますがね、ぼくはなんにも、なんの秘密もうち明けませんよ。あなたなんかのご厄介にならなくたって、けっこうやっていけますからね……」
 チーホンはしかと相手を見据えた。
「あなたは、主がただの生ぬるいものより冷たいものを愛されるのに、驚かれたようですな」と彼はいった。
「あなたもただの生ぬるいものになりたくないのでしょう。わたしはそういう予感がします、あなたはなみなみならぬ覚悟をいだいておられる。ことによったら、恐ろしい覚悟かもしれませんて。お願いだから、われとわが身を苦しめずと、すっかりいっておしまいなさい」
「ぼくが何かつもりがあって来たと、あなたは確かに見抜いてましたか?」
「わたしは……見抜いておりました」とチーホンは目を伏せながらつぶやいた。
 ニコライはややあおざめて、手がかすかに慄えていた。幾秒か、彼は最後の決心をつけようとするらしく、じっと無言のまま目を据えていた。とうとう、上着のポケットから何やら印刷した紙を取り出して、テーブルの上へ置いた。
「これは公表の予定になっている印刷物です」と彼はかすれ勝ちの声でいい出した。「もし、たった一人でもこれを読んだら、ぼくはもう隠しゃしません。みんなに読ましてやりますよ。そう決めてあるんです。ぼくはあなたなぞいっこう必要としない。すっかり決心したんだから。しかし、まあ、読んでください……読んでいる間は、なんにもいわないで、読み終わったら、すっかり聞かしてください……」
「読みますかな?」とチーホンは思い切り悪くたずねた。
「読んでください。ぼくは平気です」
「だめです、眼鏡なしじゃ字体もわかりませんて。細かい印刷なので、外国出来なので」
「さあ、眼鏡」スタヴローギンはテーブルの上から取って渡しながら、長いすの背に身をもたせた。チーホンはそのほうに目もくれないで、刷り物に没頭してしまった。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 印刷は本当に外国のもので、ありふれた小判の書簡紙三枚に刷ったものを仮綴じにしたものだった。きっとどこか外国のロシヤ活版所で、秘密に印刷したに相違ない。一見して、不穏文書といった体裁をしていた。題は『スタヴローギンより』となっていた。
 わたしは本当にこの記録を一語も洩らさず入れようと思う。ただ正字法上の誤りはあえて訂正した。こうした綴字の誤りはかなりたくさんあって、いくらかわたしを驚かしたほどである。なんといっても、筆者は教養のある人物で、むろん比較的の話ではあるけれど、博覧といってもいいくらいだったからである。文章のほうは、不正確な点もあるが、いっさい改変を加えなかった。いずれにせよ、まず第一に、筆者が文学者でないことは明瞭である。
 ちょっとさき廻りになるけれど、もう一つ断わっておく。この記録は、わたしにいわせれば病気のさせた業、というより、この人に憑いた悪霊の仕業である。たとえていえば、鋭い痛みに悩む人間が、わずかの間でも苦痛を軽くしようと思って、いや、軽くするのでもなく、ほんの瞬間的にでも、現在の苦痛を別の苦痛に変えようと思って、床《とこ》の上でもがき廻っているような具合だった。こうなってしまえば、体裁とか、理性的だとかいうことを、かまっている暇がないのはもちろんである。この記録の根本思想は、偽りならぬ恐ろしい自己刑罰の要求である。民衆ぜんたいを前にしての刑罰、生涯負わねばならぬ十字架の要求である。しかも、この十字架に対する要求が、なんといっても十字架を信じない人間に生ずるのである。したがって、これ一つだけでも優に立派な『思想』を形づくる(これはある別の機会にスチェパン氏がいったことなので)。また他の一面から見ると、この記録ぜんたいは、明らかに別な目的で書かれているにもかかわらず、それと同時に嵐のごとく狂暴なものであった。筆者の声明するところによると、彼はこれを書かずにいられなかった、即ち『強制された』とのことである。それはかなりもっともらしいことで、彼はできることなら、この苦杯を避けたかったに相違ない。けれども、実際、書かずにいられなくなって、新しく狂暴性を発揮する好機につかみかかったのである。そうだ、病人は床の中でもがき廻りながら、一つの苦痛を別の苦痛に変えようとする。ところが、対世間の闘争が最も凌ぎいい状態のように思われたので、彼はこの世間に挑戦を投げかけたのだ。
 まったく、こういう記録が書かれたという事実そのものに、社会に対する新しい、思いがけない、ゆるすべからざる挑戦が予感される。だれでもいい、ただ少しも早く敵手に出あいさえすればよいのだ。
 が、もしかしたら、この事件ぜんたいは、つまり、刷り物もその発表の計画も、やはり知事の耳を咬んだ一件の変形にすぎないのかもしれない。もうだいぶ真相が明らかにされた今日でも、なぜこの考えがわたしの頭に浮かんで来るのか、とんと合点がいかない。この記録がいかさまものだ、つまり、そっくり頭から捻り出したこしらえものだなどと、そんなことを断言しようという気もないし、証拠を引いて来ようとも思わない。何よりも確かなのは、真相をその中間に求めることだろう。もっとも、わたしはあまりさき走りしすぎた。とにかく、記録そのものについて見るのが一番である。チーホンが読んだのは、次のごときものだった。

[#4字下げ]『スタヴローギンより』

 余、すなわち退役将校ニコライ・スタヴローギンは、一八六…年、淫蕩に身をゆだねつつ、しかもそれに満足を感ずることなく、ペテルブルグに生活していた。当時、しばらくの間、余は三軒の住まいを持っていた。一軒には余自身世帯をかまえ、女中をおき、食事を調えさせていた。現在余の正妻たるマリヤ・レビャードキナも、その頃このアパートにいた。その他の二軒は恋愛遊戯のために、月ぎめで借りていたのである。一軒の住まいでは余に恋していた某貴婦人に接し、いま一軒のほうではその小間使と密会していたが、しばらくの間はこの二人、すなわち女主人と小間使が、余の家で顔を合わすように、うまく筋書を作ろうと、その計画に専念していた。余は二人の性格を承知していたので、このトリックに非常な満足を期待していた。
 ひそかにこの顔合わせを準備していた余は、その二軒のうちの一つ、ゴローホヴァヤ街の大家屋内にある住まいへ、やや頻繁に足を向けねばならなかった。この住まいが小間使との密会場所だったからである。それは四階に住んでいる町人からまた借りした、たった一つきりの部屋であった。町人の家族は隣り合った別の一間に入っていたが、さらに小さい窮屈な部屋なので、境の扉がいつも開けっ放しになっていたほどである。もっとも、余自身もそれを希望していたのであった。亭主はどこかの事務所へ勤めに出て、朝から夜まで留守だった。女房は四十がらみの年増で、古ものの仕立直しを内職にして、裁ったり縫い合わせたりしては、これもかなり頻繁に、できたものを問屋へ届けに家を明けた。余は娘と二人きりで、よく留守をした。見たところ、まるでねんねえで、名はマトリョーシャといった。母はこの娘をかわいがっていたが、かなりよく折檻をして、彼らの社会ではありがちだが、裏店女房らしくがみがみどなりつけていた。この娘が余の世話をして、屏風の陰を片づけるのであった。断わっておくが、余はこの家屋の番号を忘れた。こんど調べて見た結果、この古い家は取り毀されて、以前二、三軒あった場所に、恐ろしく大きな新しい家屋が一軒立っている。町人夫婦の苗字もやはり忘れてしまった(或いは、その時から知らなかったのかもわからぬ。思い起こせば、女房の名はスチェパニーダ、父称はミハイロヴナといったらしい。亭主のほうは覚えがない)。余の考えでは、真剣にさがす気になって、ペテルブルグの警察でできるだけの調査をしてもらったら、行方を突き留めることができるだろう。その住まいは裏庭の角にあった。いっさいの事件は七月に持ちあがった。家は薄水色に塗ってあった。
 あるとき余のテーブルからナイフが見えなくなった。まるで用のない品で、ただごろごろしていたのである。余はまさか娘が折檻されようなどとは、夢にも想像しなかったので、このことを内儀《かみ》さんに話した。ところが、内儀さんはついその前に、何かの布《きれ》っ端がなくなった時、娘が盗んだのだといって、髪をつかんで引っぱったばかりのところだった。この布っ端がテーブルかけの下から出て来たとき、娘は不平がましいことを一口もいおうとせず、黙ってじっと目を据えていた。余はそれに気がついた。その時はじめてこの娘の顔を気をつけて見たので、それまではただ目の前をちらちらしている、というだけの印象しかなかった。彼女は眉や睫《まつげ》の白っぽいたちで、そばかすのあるありふれた顔をしていたが、非常にあどけない、もの静かな感じにみちていた。度はずれに静かなくらいだった。母親は、娘が無実で打たれたのに一口もとがめ立てしないのが癪にさわって、また拳固を振り上げたけれど、さすがに撲りはしなかった。そこへちょうど、ナイフ紛失という事件が持ちあがったのである。事実、余ら三人のほかだれもいなかったし、余の部屋の屏風の陰へは、娘が入ったばかりである。女房は初めの折檻が無実の罪だったので、今度こそすっかりかんかんになってしまった。いきなり箒に飛びかかって、その中から小枝を一つかみ引き抜くと、娘はもう十二になっているのに、余の見ている前で、臀部に赤いみみず脹れが出来るほど打ちのめした。マトリョーシャは折檻では泣かなかった。おそらく余が傍にいたからだろう。けれど、一打ちごとに何か奇妙なしゃくり声を立てた。それから後でまる一時間も、烈しくしゃくり泣きを続けた。
 けれど、その前にこういうことがあったのだ。女房が箒のほうへ飛んで行って、小枝を一つかみ引き抜こうとしたとき、余はナイフを寝台の上に発見した。何かの拍子に、テーブルからそこへ落ちたのである。余はその時すぐさま、娘を打たせるために、発表しないでおこうと思いついた。瞬間的に決心がついたのだ。こういうとき余はいつも息切れがする。しかし、一つとして秘密が残らないように、すべてをいっそうはっきりした形で叙述しようと思うのだ。
 余がこれまでの生涯に経験したところによれば、なみなみならぬ恥辱にみちた、卑屈な、陋劣な、しかも何より滑稽な立場に置かれると、無限の憤怒とならんで、たとえようもない快感が湧き起こるのが常であった。犯罪の瞬間も、生命に危険を感じた時も、やはり同様である。もし何か盗むようなことがあったら、余は窃盗を行なうに当たって、わが陋劣の深刻さを意識して、酔えるがごとき快感を覚えたに相違ない。余の愛したのは陋劣そのものではない(さような場合、余の理性は完全に働いていた)。ただおのが卑しさを意識する悩ましさに、ある酔い心地を愉しむのであった。またこれと同じく、余は決闘場の境界線に立って、敵の発射を待ち設ける瞬間にも、同じく屈辱にみちた、しかも狂暴な感触を経験した。一度なぞは、それが並みはずれて烈しかった。白状するが、余はしばしばこれを追求した。なぜならば、これこそ余にとって、この種の感覚中もっとも強烈なものだからである。余は平手打ちを受けた時(今までこれを二ど受けた)、恐ろしい憤怒にもかかわらず、やはりこの感覚を味わった。もしこの憤怒を抑制するならば、快感はあらゆる想像を超ゆるものがある。余はこのことをかつてだれにも話さなかった。ほのめかすことさえしなかった。むしろ恥辱とし、汚辱として隠すようにしていた。しかし、ある時ペテルブルグの居酒屋で、さんざんに打ちのめされ、髪をつかんで引き摺られた時、あいにく酔っていなかったためにこの感触を味わわず、ただ量り知れぬ憤怒を覚えたばかりで、喧嘩しただけに終わった。けれど、これがフランスの子爵だったら、――余の頬を打ったために、余は下顎を射落とされたあの子爵が、外国で余の髪を引っつかみ、首をぐんぐん押しつけたなら、余は酔うばかりの歓喜を覚えて、怒りなど感じなかったかもしれない。当時こんなふうな気持ちがしたものである。
 余がこんなことをくわしく書くのは、この感情に全幅を領し尽くされたことがかつてなく、常に完全な意識が残っていた、――いな、むしろすべてが意識の上に基礎をおいていることを、万人に知ってもらいたいからである。余は理性を失うまで、というより、意地っ張りに近くなるほど、この感情に捕えられるけれども、けっしてわれを忘れつくすまでにはいたらなかった。それは猛火の勢に達したが、同時に余はそれを完全に征服することができたばかりか、最頂上に達した時に、消し止めることさえできた。ただ、消し止めようと自らけっして思わなかっただけである。余は生来野獣的な情欲を賦与されているにもかかわらず、またその情欲を常にみずから挑発して来たにもかかわらず、僧侶のような生涯を過ごすこともできたに相違ない、とこう確信している。余はいつでもその気にさえなれば、自分自身を支配することができる。こういうわけで、ここできっぱり断わっておくが、環境の力とか病気とかいうものに、余の犯罪に対する責任免除の理由は求めたくないのである。
 娘の仕置きがすんだとき、余はナイフをチョッキのかくしに入れて、ひと言もいわずに外へ出ると、だれにもけっして見つからないように、ずっと遠く離れたところで往来へほうり出してしまった。それから、余は二日間、様子をうかがっていた。娘は泣くだけ泣いてしまうと、前よりいっそうだまり込んでしまった。余に対しては別に悪感情を持っていなかった、とひそかに信じている。しかし、そうはいうものの、余の面前でああいうていたらくで折檻されたということに、多少の羞恥は感じていたに相違ない。が、この羞恥についても、彼女は子供の常として、おそらく自分一人だけを責めていたらしく思う。
 ちょうどこの時、この二日間に、余は自分の企てた計画を抛擲して、引きさがってしまえるかどうかと、一ど自分で自分に問いを発したことがある。そのとき余はすぐに猶予なく、「できる、いつでもさっそく手を引くことができる」と感じた。余はその当時、無関心病のために自殺しようと思ったことがある(もっとも、なんの原因か自分でもよくわからない)。つまり、この二、三日の間に(というのは、娘が何もかも忘れてしまうのを、ぜひとも待たなければならなかったからである)、余は絶えずつきまとう妄想から心をそらすために(或いはただのお笑い草のためだったか)、自分のアパートで盗みをやった。それは余の生涯における唯一の盗犯である。
 この建物の中には、大勢の人間がうようよ巣をつくっていた。その中に一人の役人が家族づれで、調度つきの部屋を二間かりて住んでいた。年は四十ばかり、そして、馬鹿でもなく、かなりいい恰幅をしていたが、内証は苦しかったのだ。余はこの男と親しくしていなかった。余をとり巻いている連中に、先方が恐れをなしたのである。彼はちょうどその時、三十五ルーブリの月給をもらって来たばかりだった。余にそういう出来心を起こさせたおもな動機は、そのとき自分に金が少しもなかったことである(もっとも、四日後にはちゃんと郵便局で受け取ったのだけれども)。とにかく、余の盗みは悪ふざけのためでなく、必要に迫られたためということになる。しかも、そのやり方はこれ見よがしの、ずうずうしいものであった。余はいきなりずっと、彼のアパートへ入って行ったのだ。役人は細君や子供といっしょに、次の小さな部屋で食事をしていた。戸口のすぐ傍の椅子の上に、脱ぎ棄てた制服がたたんでのせてあった。この案はまだ廊下を歩いている時から、余の脳中に閃いたものである。余はかくしに手を突っ込んで、金入れを抜き出した。けれど、役人はかさこそという物音を聞きつけて、小部屋から顔をつき出した。少なくとも、何か変なそぶりを見たらしかったが、むろん全部すっかり見たわけではないので、自分で自分の目を信じなかったのである。余は廊下を通りすがりに、いま何時か、彼の掛け時計を覗きに寄ったのだといった。「とまっております」と彼は答えた。で、余はそのまま出て行った。
 そのとき余はめちゃくちゃに飲んでいた。余の部屋に、一小隊ほどの取巻き連がいたのである。その中には、レビャードキンも交っていた。余は金入れを小銭といっしょに棄ててしまって、さつだけ残して置いた。いっさいで三十二ルーブリ、赤さつが三枚、黄さつが二枚だった。余はすぐに赤さつを細かくしてシャンパンを買いにやった。それから、もう一枚赤さつを出して、更にまた最後の一枚も費ってしまった。四時間ばかりたってから、もう夕方に、例の役人が余を廊下で待ち受けていた。
「もし、あなた、ニコライ・フセーヴォロドヴィチ、さっきわたしどもの部屋へお寄りになったとき、何かの拍子で、制服を椅子の上からお落としになりはしませんでしたか? 戸口のところにあったのですが……」
「いや、覚えていませんな。いったいあすこに制服があったのですか?」
「はあ、ありましたんで」
「床の上に?」
「はじめ椅子の上に、それから床の上に」
「それで、あなたはそれをお拾いになりましたか?」
「拾いました」
「ははあ、それでまだ何か御用がおありになるんですか?」
「いや、そういうことでしたら、別になんでもございませんので……」
 彼は思ったことをすっかりいってしまう勇気がなかった。それどころか、アパート内のだれ一人にも、この出来事を話すことさえはばかったほどである、――こういう連中はこれほどまで臆病なものである。もっとも、アパートの中ではみんなむやみに余を恐れ、尊敬していた。その後、余は二度ばかり、彼と廊下ですれ違いざま目と目を見合わせて面白がったものだが、それにもやがて飽き飽きしてしまった。
 三日ばかりたって、余はゴローホヴァヤ街へ帰った。母親は包みをかかえて、どこかへ出かけるところだった。亭主はもちろん留守で、余とマトリョーシャだけが残ることになった。窓はみんな開け放しになっていた。その家に住んでいるのは、おおむね職人ばかりだったので、どの階からも終日《いちにち》金鎚の音や歌の声が聞こえていた。余と娘はもう小一時間じっとしていた。マトリョーシャは自分の小部屋にこもって、余に背を向けて、床几に腰かけたまま、針を持って何やらいじくり廻していた。と、そのうちにふと恐ろしく小さな声で歌い出した。こんなことは、この娘にかつて見られないことであった。余は時計を取り出して、何時か見た。二時だった。心臓がどきどき打ち出した。余は立ちあがって、娘のほうへそっと忍び寄り始めた。親子の部屋には、窓の上に銭葵の鉢がたくさんおいてあった。太陽がまぶしいほど明るく照らしていた。余は静かに彼女の傍ちかく、床《ゆか》の上に腰を下ろした。娘はぴくりと身を慄わせた。初めまず烈しい驚愕を感じたらしく、いきなり床几から躍りあがった。余はその手を取ってそっと接吻し、娘の体をまた床几のほうへ引き寄せながら、じっとその目を見つめにかかった。余が娘の手を接吻したということは、彼女を小さな子供のように興がらせたが、それはほんの瞬間のことだった。彼女はまたもや躍りあがった、今度はもう顔に痙攣が走るほどの、烈しい驚愕に打たれたのである。彼女はぞっとするほど据わって動かぬ目で、ひたと余を見つめていた。唇は今にも泣き出しそうに、ぴくぴく引っ吊りはじめた。が、それでも声は立てない。余はふたたびその手を接吻して、彼女を膝の上に抱きあげた。そのときふいに娘は全身をぐいと引いて、恥ずかしそうににっと笑ったが、それはなんだかひん曲ったような微笑だった。顔は一面ぱっと羞恥の火に燃え立った。余はまるで酔いどれのように、絶えず彼女の耳に何やらささやきつづけていた。やがてそのうちに思いがけなく、驚くばかり不思議なことが起こった。余はそれを永久に忘れることができないだろう。娘はふいに両手で余の頸を抱きしめると、いきなり自分のほうから烈しい勢いで接吻を始めた。その顔は極度の歓喜を現わしているのであった。余は今にもそのまま立ちあがって、出て行ってしまおうとしたほどである、――この幼いものの内部に潜んでいる情熱が、それほど不愉快に感じられたのである。しかも、それは突然おそって来た憐愍のためなのであった。
 いっさいが終わったとき、娘はきまり悪そうにもじもじしていた。余は彼女を安心させようとも、愛撫を示そうともしなかった。娘は臆病げにほほ笑みながら、じっと余の顔を見つめていた。余は急にその顔が愚かしく思われてきた。当惑の表情は一刻ごとに、見る見る彼女の顔にひろがっていった。ついに彼女は両手で顔をかくしたと思うと、片隅に引っ込んで、うしろ向きにじっと立ちすくんだ。またさっきのように、彼女がおびえはしないかと気づかわれたので、余は無言のまま家を出てしまった。
 思うに、この出来事はかぎりなく醜い行為として、死ぬばかりの恐怖を呼び起こしながら、彼女の心に取り返しのつかぬ烙印を捺してしまったに相違ない。まだおしめの中にいる頃から聞きなれたろうと思われるロシヤ式の口汚い罵詈雑言や、その他あらゆる猥雑な会話にもかかわらず、彼女はまだなんにも知らなかったに相違ない、と余は確信して疑わない。そして、とどのつまり、彼女は言葉に尽くされぬほど大きな、死に価すべき罪を犯して、『神様を殺してしまった』というふうな感じをいだいたに違いない。
 その晩、余は前にもちょっと述べたとおり、酒場へ行って喧嘩をした。けれど、翌朝目をさましたのは自分の下宿だった。レビャードキンが運んで来てくれたのである。目をさましてからまず頭に浮かんだのは、娘が告げたろうかどうだろう? という想念であった。それは、程度こそまださほど強くなかったが、真剣な恐怖の瞬間だった。余はその朝おそろしく陽気で、だれにでも優しくしてやったので、取り巻き連中はしごく大恐悦であった。余はかれら一同をすてて、ゴローホヴァヤ街へおもむいた。余はまだ下の入口の所で、彼女にぱったり行き会った。近所の店へ菊ぢさ[#「菊ぢさ」はママ]を買いにやられた、その帰りなのである。余の姿を見ると、彼女はたとえようのない恐怖を現わして、矢のように階段を駆け昇った。余が入って行った時、母親は『気ちがい猫みたいに』家へ駆け込んだといって、さっそく娘に拳固を一つ見舞ったところで、娘の驚愕の真因はそれでおおわれた。こういうふうで、まずさし当たり万事平穏であった。娘はどこかへ引っ込んでしまって、余のそこにいる間じゅう、ちっとも出て来なかった。余は一時間ばかりいて、帰ってしまった。
 夕方になって、余はまたぞろ恐怖を感じたが、今度はもう比較にならぬほど烈しかった。むろん、余はどこまでも突っぱることができたけれど、真相を暴露される恐れもあった。余の頭には流刑などという考えも閃いた。余はかつて恐怖というものを知らなかった。この時を除いては、一生涯あとにもさきにも、何一つ恐ろしいと思ったことがない。だから、シベリヤなどを恐れるわけはなおさらなかった。もっとも、そこへ流されてもいいようなことは、一度や二度でなく仕出かしたものだけれど。が、その時は余もすっかり臆病になり切って、なぜか知らないが、本当に恐怖を感じた。それは生まれて初めてのことで、――実に悩ましい感じだった。のみならず、その晩、余は自分の宿にいて、彼女に烈しい憎悪をいだき始めた。余は憎しみのあまり、殺してしまおうと決心したほどである。憎悪のおもなる原因は、彼女の微笑を思い起こしたことに潜んでいた。それから、彼女がすべて終わった後に片隅へ飛んで行って、両手で顔を隠したことを考えると、なんともいえない嫌悪を伴なった侮蔑感が余の心中に湧き起こって、名状しがたい狂憤がこみ上げて来る。と、それにつづいて悪感《おかん》が襲って来、とうとう夜明け頃には熱を出してしまった。余はまたもや恐怖のとりこになったが、もはやこれ以上の苦しみはなかろう、と思われるほどの烈しさであった。しかし、余はもう娘を憎まなかった、――少なくとも、宵に経験したような病的な発作に達するほどではなかった。烈しい恐怖は、完全に憎悪と復讐の念を駆逐するものだ。これは余の観察である。
 余は正午頃、健全な体で目をさました。それは、昨夜来の苦悩の烈しさが妙に思われるほどであった。――もっとも機嫌はよくなかった。余はいやでたまらないのを我慢して、またもやゴローホヴァヤ街へ出かけなければならなかった。今でも覚えているが、そのとき途中でだれかと喧嘩がしたくてたまらなかった。ただし、真剣な喧嘩でなくてはならない。ゴローホヴァヤヘ来て見ると、余の部屋にニーナ・サヴェーリエヴナが来ていた。これは例の小間使で、もう一時間ちかく余を待っていたのである。余はこの女をまるで愛していなかったので、彼女は呼ばれもしないのに訪れて来て、余に怒られはしないかと、ややびくびくものでやって来たのである。けれど、余はにわかに彼女の来訪を喜んだ。このニーナはちょっと渋皮のむけた女だったが、つつましやかなたちで、町人社会で喜ばれそうなものごしや話し振りなので、下宿の女房はもう前から余に向かって、さんざんこの女のことを褒めちぎっていたものである。余が入ったとき、二人はさし向かいでコーヒーを飲んでいた。かみさんは愉快な話し相手をつかまえ大恐悦だった。その小部屋の隅に、余はマトリョーシャの姿を認めた。彼女はそこにたたずみながら、母親と女客をじっと見つめていた。余が入って行っても、彼女は前のように隠れようとも、逃げようともしなかった。ただげっそり痩せて、熱でもありそうなふうに思われた。余はニーナに優しくしてやって、かみさんの部屋との境の戸を閉めたりした(こんなことは、もう久しい前からなかったことなので)。ニーナはすっかりうちょうてんになって帰って行った。余は自分で彼女の手を取って送り出し、それきり二日間ゴローホヴァヤ街へ帰って来なかった。もう飽き飽きしてしまったのである。余は何もかも片づけて、下宿のほうも引き払い、ペテルブルグから立ってしまおうと決心した。
 しかし、下宿を断わりに行って見ると、かみさんは不安と悲しみに包まれていた。マトリョーシャはもう三日前から病人で、毎晩熱に悩まされ、夜になると譫言《うわごと》をいうとのことであった。むろん余はどんな譫言かたずねた(二人は余の部屋でひそひそ話したのである)。すると、母親が余の耳にささやくには、『恐ろしい』『神様を殺してしまった』というのが、娘の譫言なのだそうである。余は自分で金を出すから、医者を呼んで来るように提議したが、女房は承知しなかった。「まあ、神様のお助けで、このままでもよくなるでございましょう。のべつ臥《ね》通しというわけでもありません、昼間は外へも出るのでございますよ。たった今もそこの店までお使いに行ったくらいなので」余はマトリョーシャ一人だけの時に来ようとはらを決めた。幸い女房が、五時頃に川向こうへ行って来なければならぬと口をすべらしたので、晩方にまた帰って来ることにした。
 余は小料理屋で食事をして、ちょうど五時十五分にゴローホヴァヤ街へ引っ返した。余はいつも自分の鍵で中へ入るのであった。マトリョーシャのほかにはだれもいなかった。彼女は小部屋の屏風の陰で、母親の寝台に臥ていた。余は彼女がちらと覗いたのを見たが、気がつかないようなふりをしていた。窓という窓はみんな開いていた。空気は暖いというより、むしろ暑いくらいであった。余は少し部屋の中を歩いた後、長いすに腰をかけた。余はいっさいのことを最後の瞬間まで覚えている。マトリョーシャに話しかけないでじらすのが、余はたまらなく嬉しかった。なぜかわからない。余はまる一時間待っていた。と、ふいに彼女は自分で屏風の陰から飛び出した。彼女が寝台から飛びおりた時、両足が床にぶつかってどんといったのも、それに続いて、かなり早めな足音がしたのも聞いた。と、彼女はもう余の部屋の閾の上に立っていた。立って、無言のままじっと見ていた。余は卑劣千万にも、うれしさに心臓の躍るのを覚えた。つまり、余が意地を立て通して、彼女のほうから出て来るまで待ちおおせたからである。この数日来、一度も間近く見なかったが、まったくその間に彼女は恐ろしく痩せた。顔はかさかさになって、頭はきっと燃えるようだったに相違ない。大きくなった目はじっと据わって、ひたと余を見つめている。初めはそれが鈍い好奇の表情のように思われた。余はじっと坐ったままそれを見返して、身動きもしなかった。と、その時またふいに憎悪の念を感じた。しかし、間もなく、彼女がまるで余を恐れていない、それよりむしろ熱に浮かされているのだ、と見て取った。が、熱に浮かされているわけでもなかった。とつぜん彼女は余のほうへ向けて、顎をしゃくり始めた。それはゼスチュアを知らぬ単純な人間が、人を責める時にやるような、そうした顎のしゃくり方であった。と、ふいに、彼女は余に小さな握り拳をふり上げて、その場を動かずに威嚇をはじめた。最初の瞬間、余はこの動作が滑稽に感じられたが、だんだんたまらなくなって来た。彼女の顔には、とうてい子供などに見られないような絶望が浮かんでいたのである。彼女は絶えず余を嚇かすように、小さな拳を振っては、例の譴責の顎をしゃくるのであった。余は恐怖を覚えながら立ちあがって、彼女の傍へ寄り、そっと用心ぶかく、穏かに、優しく話しかけたが、その言葉が彼女の耳に入らないのを見て取った。やがて彼女は、あの時と同じように、いきなりぱっと両手で顔を隠して、余の傍を離れると、こちらへ背を向けて窓ぎわに立った。なぜ余はそのとき立ち去らないで、あることを待つもののごとくい残ったのか、ふつふつ合点がいかない。間もなく、余はふたたびせかせかした足の響きを聞いた。彼女は木の廻廊に通ずる戸口へ出て行った。そこから階段づたいに下へおりる口があった。余はすぐに自分の部屋のドアヘ駆け寄り、そっと細目にあけて見ると、マトリョーシャが小っぽけな物置きへ入るのが目についた。便所と隣りあった鶏小屋みたいなものである。きわめて興味のある想念が余の頭に閃いた。なぜこの想念がまず第一に余の心に浮かんだのか、いまだに合点がいかない。つまり、そうなるべき運命だったと見える。余は扉をしめて、また窓ぎわに腰をおろした。もちろん、いま閃いた想念をまだ信ずるわけにはいかない、――『しかしそれでも……』(今でもすっかり覚えているが、余の心臓は烈しく鼓動した)。
 一分ほどたって、余は時計を眺めた。そして、できるだけ正確に時刻を見さだめた。なんのために正確な時刻が必要だったのか知らない。けれど、余はそれをするだけの余裕があった。全体に、余はその時すべてのことを見のがすまいとした。で、そのとき観察したことを今でも覚えているばかりでなく、現に目の前に見るような思いさえする。夕闇がせまって来た。余の頭の上で蠅が一匹うなって、のべつ顔にとまった。余はそれをつかまえて、しばらく指で抑えていたが、やがて窓のそとへ放してやった。下のほうで一台の荷馬車が、やけに大きな音を立てながら、門内へ入って来た。一人の仕立職人が、裏庭の片隅に当たる窓のなかで、もうずっと前から、思い切り大きな声で歌をうたっている。仕事をしていたのだけれど、姿は見えない。ふと、こんな考えが頭に浮かんで来た。余が門内へ入って、階段を昇って来るときにも、だれひとり行き会ったものがないのだから、これから下へおりる時にも、もちろん、だれにも行き合わないほうがいい。そう思って、余はほかの下宿人どもが見つけないように、用心ぶかく椅子を窓の傍から離した。本を手に取り上げたが、すぐにほうり出して、銭葵の葉にのっかっている小っちゃな赤い蜘蛛を見まもっているうちに、忘我の境に落ちてしまった。余はいっさいのことを最後の瞬間まで覚えている。
 余はふいに時計を取り出した。マトリョーシャが出て行ってから、ちょうど二十分たっている。想像はどうやら適中したらしい。しかし、余はもう十五分かっきり待ってみることに決めた。ひょっとしたら、彼女は引っ返したのに、こちらでそれを聞き洩らしたのかもしれない、――こういう考えも余の頭に浮かんで来た。しかし、それはあり得ないことだった。死のごとき静寂があたりを領して、一匹一匹の蠅のうなり声さえ聞き分けられるくらいであった。ふいに余の心臓はまた烈しく鼓動を始めた。時計を取り出して見ると、まだ三分残っていた。心臓は痛いほど動悸していたが、余はその三分間じっと坐り通した。それから、やっと立ちあがって、帽子を目ぶかにかぶり、外套のボタンをかけた後、余のここへ来たことを示す痕跡はないかと、部屋の中を見廻した。椅子はもとのように窓ぎわ近く寄せて置いた。最後に、余はそっと扉をあけて、自分の鍵で戸締りをし、さて物置のほうへ足を向けた。物置きの戸は締めてあったけれど、鍵をかけてなかった。この戸にいつも鍵をかけたことがないのを、余はちゃんと承知していたが、それでも開けて見たくなかった。ただ爪立ちをして、隙見をはじめた。この瞬間、爪立ちをしながら、余はふと思い出した、さきほど窓ぎわに坐って、赤い蜘蛛を見つめながら、いつしか忘我の境に陥ったとき、自分が爪先立ちをしながら、この隙穴まで片目を持って行く姿を心に描いたものである。このデテールをここへ挿入するのは、余がどの程度まで自分の知性をはっきり掌中に把握していて、すべてに責任を持ちうるかということを、是が非でも証明したいからである。余は長いこと隙穴を覗いていた。中が暗かったからである。しかし、まっ暗闇でもなかったので、ついに見分けることができた、余にとって必要なものを……
最後にここを立ち去る決心をした。階段ではだれにも出会わなかった。三時間の後、余は宿でいつもの連中といっしょに、上着を脱ぎすてて茶を飲みながら、古いカルタを弄んでいた。レビャードキンは詩を朗読していた。いろんな話がたくさん出たが、まるでわざと誂えたように、みんな上手に面白おかしく話してくれて、いつものように馬鹿馬鹿しくなかった。そのときキリーロフも一座にいた。ラムのびんはそこにあったけれど、だれも飲むものはなかった。ただ時々レビャードキンが一人で、ちょいちょい口をつけるくらいなものであった。
 ブローホル・マーロフは、「ニコライ・フセーヴォロドヴィチ、あなたが機嫌をよくして、くさくさしていらっしゃらないと、われわれまでがみんな陽気になって、気の利いたことをいいますぜ」と言った。余はこれをすぐその場で記憶にたたんだ。してみると、余は愉快で、機嫌がよくて、くさくさしていなかったわけである。が、それは表面だけのことである。忘れもしない、余はおのれの解放を喜んでいる自分が、卑屈で陋劣な臆病者だ、しかも、一生、この世でも、死んだ後でも、けっして潔白な人間にはなれないということを、自分でもちゃんと承知していた。それから、まだこういうこともある。余はその時、『自分の臭いものは匂わない』というユダヤの諺を、おのれの身に実現したのだ。というのは、余が心の中で卑劣だと感じていながら、それを恥とも思わず、全体にあまり良心の苛責を感じなかったからである。
 そのとき余は茶を飲みながら、取り巻き連としゃべっているうちに、生まれてはじめて厳粛に自己定義をした、――ほかでもない、自分は善悪の区別を知りもしなければ、感じもしない。いや、自分がその感覚を失ったばかりでなく、もともと善悪などというものは存在しない(それも余にとっては気持ちがよかった)、ただ偏見あるのみだ、自分はあらゆる偏見から自由になることができるが、しかし、この自由を獲得したら身は破滅だ、――とこういうふうのことだった。それは生まれてはじめて定義の形で意識したもの、しかも取り巻き連と茶を飲みながら、わけのわからないでたらめをしゃべったり、笑ったりしているうちに、偶然うかんで来た意識なのである。しかし、それでも余はいっさいを覚えている。だれでも知っている古い思想が、突然なにか新しいもののように心に映ずることがよくある。それは人生五十年の坂を越した後でも、起こり得るものである。
 その代わり、余は始終なにごとか期待していた。と、はたして案のとおりであった。もうかれこれ十一時ごろに、ゴローホヴァヤの家の庭番の娘が、かみさんの使いで駆けつけた。マトリョーシャが首をくくったという急報を、余にもたらしたのである。余はその小娘といっしょに出かけた。行って見ると、かみさんはなぜ余を迎えによこしたのか、自分でもわからないのであった。彼女はわめいたり、もがいたりしていた。人が大勢あつまって、警察の人も来ていた。余はしばらくそこに突っ立っていたが、やがて引き上げてしまった。余はその後もずっと別に迷惑を受けなかった。ただ必要な訊問に答えたばかりであった。余は、娘が病気して、うわごとをいっているので、自費で医者を呼びにやろうと申し出た、ということ以外には何もいわなかった。それから、ナイフのことでも何やら訊問を受けた。余はそれに対して母親が折檻したけれど、別になんのこともなかったと答えた。余があの晩行ったことは、だれも知らなかった。
 余は一週間ばかり、そこへ足を向けなかった。もう葬式もすんでしまってから、余は部屋を明けに出かけて行った。内儀さんはもう前々どおりに、ぼろ切れや縫い物をごそごそ始めていたけれど、それでもやはり泣きつづけていた。「あれはなんでございますよ。あなたのナイフのために、あの子をひどい目に遭わしたのでございます」と彼女はいったが、大して余を責めるような調子でもなかった。余はもはやああいうことがあった以上、この部屋でニーナに逢うわけにゆかないというのを口実にして、かみさんとの勘定をすましてしまった。彼女はお別れにもう一度ニーナを褒めてくれた。帰りしなに、余は決まりの部屋代のほかに、五ルーブリ心づけをしておいた。
 しかし、何よりいやなのは、頭がぼうっとするほど、生活に飽き飽きしたことである。もし自分が気おくれしたことを思い出して、いまいましさを感じることさえなかったら、ゴローホヴァヤ街の事件も、当時のあらゆる出来事と同様、危険が過ぎ去ると同時に、すっかり忘れてしまったかもしれないのである。余は、だれであろうと相手かまわず、機会さえあれば欝憤を晴らしていた。その当時、まったくなんの理由もないのに、余はだれかの生活をぶち毀してやろうという考えを起こした。ただできるだけ醜悪な方法でやりたかったのである。もう一年も前から自殺を考えていたが、それよりもっとうまいことが現われた。
 あるとき、余は跛のマリヤ・レビャードキナを見ているうちに(彼女はその当時まだ気ちがいでなく、ただ感激性の強い白痴というだけであった。ときおりこの貸部屋で余の身のまわりの用を足していたが、心ひそかに夢中になるほど余に恋していることを、取り巻き連中が嗅ぎ出したのである)、余は突然この女と結婚しようと決心した。スタヴローギンがこうした人間の屑の屑と結婚するという考えが、余の神経を刺戟したのである。これより以上の醜悪事は、想像もできないほどである。いずれにしても、余が彼女と結婚したのは、ただ『乱宴の後の酒杯の賭』ばかりのためではない。この結婚の証人は、当時ペテルブルグにい合わせたキリーロフと、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキイと、それから兄のレビャードキンと、プローホル・マーロフ(今は死んでいない)であった。それ以外のものはだれもこんりんざい知らなかったし、立ち会った連中も沈黙を約束した。余はいつもこの沈黙がいまわしい行為のように思われたが、しかし、今日までその約束は破られなかった。もっとも、余は公表の意図を持っていたが……今こそ何もかもいっしょに発表してしまう。
 結婚後、余は母のもとに帰省するためN村へ向けて出発した。この旅行は気ばらしが目的だった。故郷の町に余は気ちがいという印象を残した、――この印象は今だにしっかり根を張っていて、疑いもなく余に害をなしている。そのことは後で説明するつもりである。それから余は外国へ旅立ち、そこで四年を過ごした。
 余は東洋へも行った。アトスでは八時間の終夜祷を立ち通しても見た。エジプトへも足を踏み入れたし、スイスで暮らしたこともある。氷島アイスランド》へさえも渡った。ゲッチンゲンでは一年間の講義を完全に聴講した。最後の一年間に、余はパリであるロシヤの上流の家庭ときわめて近しい間がらになり、スイスでは二人のロシヤ令嬢と知合いになった。
 二年前フランクフルトで、ある紙屋の店先を通りかかった時、余はたくさんの売物の写真の中で、優美な子供服を着た娘の小さな写真に目をつけた。それが恐ろしくマトリョーシャに似ているのであった。余はすぐさまその写真を買って、ホテルへ帰ると、マントルピースに飾って置いた。そこで写真は一週間ばかり手つかずにのっかっていた。余はちらとも振り返って見なかった。そして、フランクフルトを立つとき、持って行くのを忘れてしまった。
 こんなことをここへ書き入れるのは、ほかでもない。どれだけ余が自分の追憶を支配して、無感覚になり得たかということを証明するためなのである。余はそれらの追憶を一まとめにして、一どきにほうり出してしまう。すると一群の追憶が、いつも余の欲するがままに、おとなしく消えていくのであった。余はいつも過去を追憶するのが退屈で、ほとんどすべての人がやるように、昔話を喋々することができなかった。ことに余の過去は、余に関するいっさいのものと同様に、憎悪すべきものばかりだから、なおさらである。マトリョーシャのことにいたっては、写真をマントルの上に置き忘れたほどである。
 一年ばかり前の春のこと、ドイツの国を通過中に、ぼんやりして乗換え駅を通り過ごし、ほかの線へ入ってしまった。余は次の駅で降ろされた。それは午後の二時すぎで、晴ればれとした日であった。場所はドイツの小さな田舎町である。余はある旅館を教えてもらった。次の列車は夜の十一時に通るので、かなり待たなければならなかった。余は別にどこへも急ぐわけでなかったので、むしろこの出来事を喜んだくらいである。旅館は小さくやくざなものだったけれど、すっかり緑に包まれ、四方から花壇に取り囲まれていた。余は狭い部屋を当てがわれた。気持ちよく食事をすますと、徹夜で乗り通して来たので、午後四時ごろにぐっすり寝入ってしまった。
 そのとき余は実に思いがけない夢を見た。こんな夢はかつて見たことがなかったのである。ドレスデンの画廊に、クロード・ローレンの画が陳列されている。カタログには『アシスとガラテヤ』となっているが、余はいつも『黄金時代』と呼んでいた。自分でもなぜか知らない。余は前にもこの画を見たことがあるけれど、その時も三日前に、また通りすがりに気をつけて見た。というより、この画を見るために、わざわざ画廊へ出かけて行ったのである。ドレスデンへ寄ったのも、ひっきょうそのためかもしれない。で、この画を夢に見たのだが、しかし、画としてでなく、さながら現実の出来事のように現われたのである。
 それはギリシャ多島海の一角で、愛撫するような青い波、大小の島々、岩、花咲き満ちた岸辺、魔法のパノラマに似た遠方《おちかた》、呼び招くような落日、――とうてい言葉で現わすことはできない。ここで欧州の人類は、自分の揺籃を記憶に刻みつけたのである。ここで神話の最初の情景が演じられ、ここに地上の楽園が存在していたのである……ここには美しい人人が住んでいた。彼らは幸福な穢れのない心持ちで、眠りから目ざめていた。森は彼らの楽しい歌声にみたされ、新鮮な力の余剰は、単純な喜びと愛に向けられていた。太陽は自分の美しい子供たちを喜ばしげに眺めながら、島々や海に光を浴びせかけていた! これは人類のすばらしい夢であり、偉大な迷いである! 黄金時代、――これこそかつてこの地上に存在した空想の中で、最も荒唐無稽なものであるけれど、全人類はそのために生涯、全精力を捧げつくし、そのためにすべてを犠牲にした。そのために予言者も十字架の上で死んだり、殺されたりした。あらゆる民族は、これがなければ生きることを望まないばかりか、死んでいくことさえできないくらいである。余はこういうような感じを、すっかりこの夢の中で体験した。余は本当のところ、なんの夢を見たのか知らないけれど、眠りがさめて、生まれてこの方初めて文字どおりに泣き濡れた目を明けた時、岩も、海も、落日の斜な光線も、まざまざと目のあたり見るような心地がした。かつて知らぬ幸福感が痛いほど心臓にしみ込んで来る。もう暮近い頃で、余の小さな部屋の窓からは、そこにならべた植木鉢の緑を通して、落日の斜な光線が太い束になって流れ込み、余に明るい光を浴びせていた。余は過ぎ去った夢を呼び返そうとあせるように、急いでまた両眼を閉じた。けれど、ふいに、さんさんたる日光の中から、何かしら小さな一点が浮き出すのを見つけた。この点はふいに何かの形になっていき、突然まざまざと小さな赤い蜘蛛が余の眼前に現われた。余は忽然と思い起こした、それは同じように落日の光線がさんさんと注いでいるとき、銭葵の葉の上に止っていたものだ。余は何ものかが、ぐさと体を刺し貫いたような気がして、身を起こしてベッドの上に坐った……
(これがそのとき生じたことの全部である!)
 余が目の前に見たものは! (おお、それは、うつつではない! もしそれが本当の映像であったら!)余が目前に見たのは、痩せて熱病やみのような目つきをしたマトリョーシャ、――いつか余の部屋の閾の上に立って、顎をしゃくりながら、余に向かって、小っぽけな拳を振り上げたのと、そっくりそのままなマトリョーシャである。余はこれまでかつて、これほど悩ましい体験を覚えたことがない! 余を威嚇しながらも(しかし、なんで威嚇しようとしたのだろう? いったい余に対して何をすることができたのだろう? ああ!)、結局、わが身ひとりを責めた、理性の固まっていない、頼りない少女のみじめな絶望! こういうものは後にもさきにも覚えがない。余は夜になるまで、じっと身動きもせずに坐ったまま、時の移るのも忘れていた。これが良心の苛責とか、悔恨とか呼ばれているものだろうか、余にはわからない。今でさえなんともいえないに相違ない。しかし、余はただこの姿のみがたまらないのである。つまり、閾の上に立って、余を威嚇するように、小さな拳を振り上げている姿、ただこの姿、ただこの瞬間、ただこの顎をしゃくる身振り、これがどうしてもたまらないのだ。その証拠には、今でもほとんど毎日のように、これが余の心を訪れる。いや、映像のほうから訪れるのではなくて、余が自分で呼び出すのである。そういうふうでは生きて行くことができないくせに、呼び出さずにいられないのである。たとい幻覚でもよい、いつかうつつにそれを見るのだったら、まだしも忍びやすいに相違ない!
 なぜ生涯を通じての追憶中、どれ一つとしてこういう悩ましさを、余の心に呼び起こすものがほかにないのだろう? 実際、人間の裁きの標準からいえば、それよりはるかにひどい追憶が、いくらでもあるはずではないか。それらの追憶によって感じるものは、ようやくわずかに憎悪の念くらいにすぎない。それも現在こんな状態だから現われるので、以前はそんなものなど冷ややかに忘れるか、わきのほうへ押しのけるかしたものである。
 それ以来、余はその年いっぱい放浪を続けて、気を紛らそうと努めた。今でもその気になれば、マトリョーシャさえ脇へ押しのけることができる、と信じている。余は前と変わらず、おのれの意志を完全に支配することができる。ところが、困ったことには、けっしてそうしようという気持ちを起こさないのである。自分でそうしたくないのだ。これから後も、そういう気にはなるまい。こういう状態が余の発狂するまで続くことだろう。
 スイスへ行って二月ほど経ったとき、余は烈しい情欲の発作を感じた。それはかつて初期の頃に経験したのと同じような、狂暴きわまる性質のものであった。余は新しい犯罪への恐ろしい誘惑を感じた。ほかでもない、二重結婚を決行するところだったのである(なぜなら、余はすでに妻帯者だから)。けれども、ある娘の忠言にしたがって、そこから逃げ出した。この娘に余は何もかもうち明けてしまった。自分のあれほど望んだ女さえまるで愛していないし、全体に、かつて一度もだれひとり愛したことがない、ということまで告白したのである。――けれど、この新しい犯罪も、いっこうマトリョーシャからのがれる役には立たなかった。
 こういうわけで、余はこの手記を印行して、三百部だけロシヤヘ携行することに決心した。時いたったならば、余はこれを警察と土地の官憲へ送るつもりである。と、同時に、すべての新聞社へ送付して公表を乞い、ペテルブルグとロシヤの国土に住む多数の知人にも配付しようと思う。これと並行して、外国でも訳文が現われるはずである。法律的には、余は別に責任を問われないかもしれない。少なくとも、大問題を惹起することはなかろうと思う。余一人が、自分自身を起訴するだけで、ほかに起訴者がないからである。それに証拠が全然ない、或いはきわめて少ない。また最後に、余の精神錯乱に関する疑いは、牢固として世間に根を張っているので、必ずや肉親の人々はこの風説を利用して、余に対する法の追求を揉み消すことに努力するだろう。余がかかる声明をするのは、わけても、自分が現在完全な理知を有していて、おのれの状態を理解していることを証明せんがためである。しかし、余の身になって見れば、いっさいのことを知るべき世上の人々が残るのである。彼らは余の顔を見るだろうが、余も彼らの顔を見返してやるのだ。余はみんなに顔を見られたい。これが余の心を軽くするかどうか、余自身にもわからない。が、とにかく最後の方法に訴えるのである。
 なお一つ、――もしペテルブルグ警察が極力捜索したならば、或いは事件を発見できるかもしれない。あの職人夫婦は今でもペテルブルグに住んでいるかもわからぬのである。家はむろん思い出されるに相違ない。薄水色に塗った家だった。余はどこへも行かないで、当分のあいだ(一年もしくは二年)母の領地スグヴァレーシニキイに滞在するつもりである。もし呼ばれたら、どこへでも出頭する。
[#地から1字上げ]ニコライ・スタヴローギン

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 告白の黙読は約一時間つづいた。チーホンはゆっくりゆっくり読んで、所によると二度ずつ読み返したらしかった。スタヴローギンはそのあいだ始終じっと身動きもせず、無言のまま坐っていた。不思議なことに、この朝ずっと彼の顔に浮かんでいた焦躁と、放心と、熱に浮かされたような表情は、ほとんど消えてしまって、平静の色に変わっていた。そこには真摯の影さえもうかがわれて、ほとんど気品の高い感じを与えるほどであった。チーホンは眼鏡をはずして、しばらくためらっていたが、やがて相手の顔へ目を上げて、やや用心ぶかい調子で最初に口を切った。
「この書きものに、多少の訂正を加えるわけにいきませんかな」
「なんのために? ぼくは誠心誠意で書いたんですよ」とスタヴローギンは答えた。
「少しばかり文章を……」
「ぼくはあらかじめお断わりしておくのを忘れましたが」と彼は全身をぐっと前へ乗り出しながら、早口に鋭くいった。「あなたが何をおっしゃろうと、それはいっさいむだですよ。ぼくは自分の意図を撤回しゃしません。どうか留めだてしないでください。ぼくは必ず公表します」
「あなたはさきほどこれをお渡しになるときも、その予告をお忘れにならなかった」
「同じことです」とスタヴローギンはきっぱりとさえぎった。「もう一どくり返して申しますが、あなたの抗議の力がどんなに強くても、ぼくは自分の意図を変更しやしません。断わっておきますが、ぼくはこの拙い言葉で(或いは巧妙な言葉かもしれません、それはご判断にまかせます)、あなたが少しも早くぼくに反対し、意見をなさるように仕向けようなんて、そんなつもりはもうとうないんですからね」
「わたしはあなたのお考えに反対したり、ことに、計画を抛擲するようにご意見したりなど、そのようなことはしようとてできませんよ。これは実に偉大な思想で、キリスト教思想をこれ以上完全に表白することはできません。それに、あなたの計画しておられるような驚くべき苦行は、人間の悔悟が達し得られる最大限度です。ただもし……」
「ただもしなんです?」
「ただもしこれが本当に悔悟であり、本当にキリスト教思想であったならばです」
「ぼくは誠意をもって書いたのです」
「あなたは心に望んでいられたよりも、なんだかわざと余計に、自分自身を粗野なものに見せかけておられるように思われますな……」チーホンはだんだん無遠慮になってきた。明らかにこの『書きもの』は、彼に強烈な印象を与えたらしい。
「見せかける? くり返して申しますが、ぼくは『見せかけ』たことなどありません。ことに芝居など打ったことは」
 チーホンはつと目を伏せた。
「この告白はとりもなおさず、死ぬばかり傷つけられた心の、やむにやまれぬ要求から出たものと思いますが、そうでしょうな?」と彼はなみなみならぬ熱心な調子で、しゅうねく言葉をつづけた。「さよう、これは懺悔です。あなたはこの懺悔の自然な要求に打ち負かされた。そして、前代未聞の偉大な道に踏み込まれたのです。しかし、あなたはもう今から、ここに書かれたことを読む人々すべてを憎悪し侮蔑して、彼らに戦いを挑んでおられるように見えますな。罪業を告白するのを恥じぬあなたが、なぜ懺悔を恥じなさるのです?」
「恥じてるんですって?」
「恥じ恐れておられます!」
「恐れてるんですって?」
「身も世もあらぬほど。みんな自分の顔を見るがよい、とこうあなたは書いておられる。ところで、あなたご自身は、どうして世間の人の顔をご覧になるつもりですな? あなたの告白には、ところどころ、強い表現が使ってあります。あなたはどうやら、ご自分の心理に見とれて、一つ一つ細かい気持ちを取り上げておいでになる。ただもう自分の無神経さをひけらかして、読者を驚かしてやりたい、といったふうに見えますよ。ところが、そんな無神経などというものは、あなたにお持ち合わせがない。どうです、これでも挑戦ではありませんか、罪人の判官に対する傲慢不遜な挑戦では?」
「どこがいったい挑戦なんです? ぼくは自分自身の批判をいっさい排除したつもりです?」
 チーホンは口をつぐんだ。くれないの色がそのあおざめた頬をさっと刷《は》いた。
「その話はやめましょう」とスタヴローギンは鋭くさえぎった。「では、今度はぼくのほうから一つ質問さしていただきましょう。もうこれが(と彼は刷り物を顎でしゃくった)すんでから、かれこれ五分間も話をしていますが、あなたのお顔にいやらしそうな表情も、恥ずかしそうな様子も見受けられません。あなたは別に気むずかしそうな顔もしていらっしゃらないように……」
 彼はしまいまでいい終わらなかった。
「あなたにはもう何一つ隠し立てをしますまい。わたしは慄然として恐れたのです、無為のためにわざわざ穢らわしい所業に浪費された偉大な力を。罪業そのものにいたっては、同じような罪を犯したものは大勢あるけれど、みんな若気の過ちぐらいに考えて、安らかな良心をいだいて、平穏無事に暮らしておる。同様な罪を犯しながら、慰安と愉楽を味わっておる老人たちさえある。世の中はこうした恐ろしいことで、一ぱいになっておるくらいです。ところが、あなたはその罪の深さを底の底まで感じなさった。それまでに達するのは、ざらにないことですて」
「その刷り物を読んでから、ぼくをにわかに尊敬するようになったんじゃありませんか?」スタヴローギンはひん曲ったような苦笑を洩らした。
「それに対して直接のお答えは、せぬことにしましょう。しかし、あなたがその少女にされたような行為より以上に大きな恐ろしい犯罪は、むろん、ありませんし、またあり得ません」
「そんなに一々|尺《ものさし》で量るようなことはよしましょう。ぼくはここに書いたほど苦しんじゃいないかもしれません。また、実際、いろいろ自己讒謗をやっているかもしれませんよ」と彼は出しぬけにこうつけ足した。
 チーホンはふたたび口をつぐんだ。
「ところで」とチーホンはまた口を開いた。「あなたがスイスで手を切ったという娘さんは、ぶしつけなおたずねですが、いま……どこにおられますかな?」
「ここです」
 またもや沈黙がおそうた。
「ぼくはあなたに対して、大いに自己讒謗をやったかもしれませんよ」また執拗な調子でスタヴローギンはくり返した。「もっとも、仕方がない。ぼくはこの告白の粗暴な調子で、世間の人に挑戦したってかまやしませんよ、もしあなたがこの中に挑戦をお認めになるとすればね。ぼくはいっそうみんなに憎まれるばかり、それっきりです。なに、そのほうがぼくは楽なくらいです」
「それは、つまり、あなたの中の毒念が、それに応ずる毒念を呼び起こすのです。そうして憎んでおるほうが、人から憐愍を受けるよりも、かえって気が楽になるというわけですて」
「おっしゃるとおりです」とスタヴローギンは出しぬけに笑い出した。「この告白を発表したら、ぼくはジェスイット教徒と呼ばれるかもしれませんね。でなければ、しんの怪しい狂信者とでも。そうじゃありませんか、は、は、は」
「もちろん、そういう批評は必ずありましょうとも。ときに、その決心はちかぢかに実行なさるおつもりですかな?」
「今日か、あすか、あさってか、そんなことはわかりません。とにかく、近いうちのことです。いや、あなたのおっしゃるとおりです。多分そのとおりになるでしょう。ぼくはこれを出しぬけに発表するでしょう。つまり、世間の連中が憎くてたまらない、悩ましいほど復讐心の燃え立ったような瞬間に」
「わたしの問いに答えてください。ただ真実に、わたしだけに、わたし一人だけに」とチーホンはまるで別な声でいい出した。「もしだれかがこのことをゆるしたら(とチーホンは刷り物を指さした)、――それもあなたが尊敬しているとか恐れているとか、そういう種類の人でなくて、あなたの一生を知るおりのないような未知の人が、この恐ろしい告白を読んで、心中無言にあなたをゆるすとしたら、それを考えただけでも心が楽になりますか? それとも、どうでもいいようなことでしょうか?」
「楽になります」とスタヴローギンは小声に答えた。「もしもあなたがゆるしてくだすったら、ぼくはずっと楽になるでしょうに」と彼は目を伏せながらつけ足した。
「あなたも同様、わたしをゆるしてくださるという条件で」しんみりした声でチーホンはこういった。
「いやな謙抑ぶりですね。ねえ、そういう坊さんにお定まりの公式は、まったく醜態といっていいくらいですよ。ぼくはほんとのことをすっかりいってしまいましょう。ぼくはあなたがゆるしてくださればいいと望みます。あなたといっしょに、もう一人か二人の人間が。しかし、世間の人は、世間ぜんたいの人は、憎んでくれたほうがいい。しかし、それは謙抑な気持ちで迫害に耐えるためなんです……」
「世間一般の憐愍をも、同じ謙抑な気持ちで耐え忍ぶことはできませんかな?」
「できないかもしれません。なぜそんなことを……」
「あなたの誠実さの度合を信じますよ。そして、わたしが人間の心に近寄っていくことの下手なのを、もちろんすまなく思っております。わたしはいつも自分でこの点に大きな欠陥を感じております」スタヴローギンの目をまともに見つめながら、チーホンは魂のこもった真率な声でいった。「わたしがこういうことをいうのも、あなたの身の上が恐ろしいからなので」と彼はつけ足した。「あなたの前には、ほとんど量り知れぬ深淵がひらけておりますぞ」
「持ち切れませんか? 世間の憎悪が耐えきれませんか?」スタヴローギンはぴくりとした。
「ただ憎悪ばかりじゃありません」
「ほかにまだ何があります?」
「世間の人の笑い」やっとの思いでいったように、チーホンは半ばささやくような声でこれだけのことを洩らした。
 スタヴローギンはどぎまぎした。不安な色が彼の顔にあらわれた。
「ぼくはそれを予感していました」と彼はいった。「してみると、ぼくはその『刷り物』を読んでいただいた後で、ひどく滑稽な人物に見えたわけですね。どうぞご心配なく、そう間を悪がらないでください。ぼくはそれを期待していたのですから」
「恐怖はすべての人が洩れなく感じるでしょう。しかし、真摯な恐怖より、上っつらのものがむしろ多いと思います。人間というものは、直接自分の利害を脅かすものに対してのみ恐怖を感じるものでしてな。わたしがいうのは純真な魂のことではありません。純真な魂の所有者は心の中で慄然として、自分みずからを責めるでしょうが、それは黙っておるから、目には立ちますまい。ところが、笑いはそれこそ世間ぜんたいに響き渡ることでしょう」
「あなたは人間というものを、ずいぶん悪く、ずいぶん穢らわしく考えていらっしゃいますね、驚いてしまいますよ」と、いくぶん憤激のさまでスタヴローギンはいった。
「誓っていいますが、それは他人よりも、むしろ自分をもとにした判断ですよ!」とチーホンは叫んだ。
「本当ですか? いったいあなたの心に、ぼくの不幸を見て面白がるような、そうしたふうなところがあるんですか?」
「それはあるかもしれません。いや、大きにあるかもしれませんて!」
「たくさんです。ねえ、いってください、いったいぼくの手記のどこがそう滑稽なんです? ぼくは自分でもどこが滑稽なのか知っていますが、それでも、あなたの指でさしてもらいたいのです。どうかなるべく露骨にいってください。あなたとしてできるだけ無遠慮にいってください。くり返して申しますが、あなたは恐ろしくふう変わりな人ですね」
「どのように偉大な告白でも、その外形には何か滑稽なところが含まれておるものです。いや、あなたが人の心を征服し得ないなどと、そのようなことを信じてはなりません!」と彼はほとんど感激のていで叫んだ。「この形式でさえ(と彼は刷り物を指さした)征服しますよ――ただ、あなたがどんな侮辱でも悪罵でも真摯な態度で受けいれさえなさればな。謙抑な苦行の態度が真摯であったら、どのように見苦しく恥ずかしい十字架でも、ついには偉大な光栄、偉大な力となるのが常ですて。あなたの生存中にさえ、慰安を得られるかもしれません」
「では、あなたはただ形式の中にだけ、滑稽な点を発見なさるんですね?」とスタヴローギンは追求した。
「まったくそのとおりです。醜さが致命傷を与えますでな」とチーホンは目を伏せながらつぶやいた。
「醜さ! 醜さとはなんです?」
「犯罪の醜さです。世の中にはしんじつ醜い犯罪があるものですぞ。犯罪はどんな性質のものであろうとも、血が多ければ多いほど、恐怖が多ければ多いほど、それだけ効果が強まる。つまり、絵画的になるものです。ところが、また醜悪な、恥ずべき犯罪があります。いっさいの恐怖を別にして、なんというか、あまりにも美しからぬ犯罪が……」
 チーホンはしまいまでいい切らなかった。
「では、つまり」とスタヴローギンは興奮して引き取った。「あなたは薄ぎたない小娘の手を接吻するぼくの姿が、きわめて滑稽だとお思いになるんですね……ぼくはよくわかります。あなたがぼくのためにやっきとなってくださるのは、つまり、美しくない、いまわしい、――いや、いまわしいじゃなくて、恥ずかしい、滑稽なという点なんですね。これがぼくにはきっと耐えきれまいとお思いになるんでしょう」
 チーホンは無言のままでいた。
「わかりました。スイスの女がここにいるかどうかと、ぼくにおたずねになったわけが」
「あなたはまだ用意ができていなさらん、鍛錬が足らぬ」とチーホンは目を伏せながら、臆病らしくつぶやいた。「大地からもぎ離されておられる、信仰がない」
「ねえ、チーホン僧正、ぼくは自分で自分をゆるしたいのです。それがぼくのおもな目的なのです。それがぼくの目的の全部なのです?」暗い感激の色を目にたたえながら、スタヴローギンは出しぬけにこういった。「もうわかっています。そうした時に初めて映像が消えるのです。だからこそ、ぼくは無量の苦痛を求めているのです。自分でわざわざ求めているのです。どうかぼくを脅やかさないでください。でないと、ぼくは毒念をいだいたまま滅びてしまいます」
 この真剣さはあまりにも思いがけなかったので、チーホンはわれともなく席を立った。
「もしあなたがみずからゆるせると信じておられるなら、そして、その赦免をこの世で苦しみによって獲得できると信じておられるなら、――断固たる信念をもってこの目的をみずから課されるなら、――その時こそあなたはいっさいを信じておられるのです!」とチーホンは感激の調子で叫んだ。「神を信じておらぬなどと、どうしてあなたは、そのようなことがいえたのです!」
 スタヴローギンは答えなかった。
「神はあなたの不信をゆるしてくださいます。なぜといって、あなたは知らず識らず神を崇めておられるのだからな」
「ついでに、キリストもゆるしてくれるでしょうか?」スタヴローギンはひん曲った微笑を浮かべ、急に声の調子を変えながら、こうたずねた。その質問の調子には、軽い皮肉のかげが感じられた。
「聖書にもそういってあるではありませんか、――『この小さきものの一人をつまずかするものは』覚えておいでですかな? 聖書の教えでは、これより大きな罪はないのですぞ……」
「あなたは、ただただ見苦しい騒動を起こしたくはないので、ぼくを罠にかけようとしておられるのでしょう、チーホン僧正」そのまま席を離れそうな気組を示しながら、スタヴローギンは無造作にいまいましそうな声でいった。「一口にいえば、あなたはぼくがどっしりと落ちついて、なんならまあ、結婚でもした上、ここのクラブ員にでもなり、祭日ごとにこの修道院に参詣しながら、一生無事で終わるようにと望んでいらっしゃるんでしょう。まあ、いわば贖罪の難行ですな! そうじゃありませんか! もっとも、あなたは人間の魂の透視者だから、きっとそうなるに違いないと、予感していられるのかしれませんね。肝腎なのは、いま見せしめに、よおっくぼくにお灸を据えておくことなんですよ。なにしろ、ぼく自身もただそれだけを渇望してるんですからね。そうじゃありませんか!」
 彼は毀れたような薄笑いを洩らした。
「いや、その難行ではない、別なものを考えておるのです!」スタヴローギンの冷笑や皮肉にはいささかの注意も払わず、チーホンは熱のこもった声でいった。「わたしは一人の長老を知っております。この土地ではない、ここからほど遠からぬところに住んでおる隠者だが、あなたやわたしなどには考えも及ばぬような、キリスト教の叡智にみちたお方です。その方はわたしの願いを聞いてくださるだろうから、わたしはその方にあなたのことをすっかり話しましょう。一つその方のところへ修行に出かけて、五年でも七年でも、必要と思われるだけ、その方の戒《かい》を守ってごらんなさい。必ず掟どおりに暮らすという誓いを立ててごらんなさい。すれば、その偉大な犠牲によって、あなたの渇しておられるもの、いや、あなたの期待しておられぬものまでも、あがない得ることができましょうぞ。まったくどのような結果を得られるか、今のところ想像することもできぬくらいですて」
 スタヴローギンはまじめに聞き終わった。
「あなたはその修道院へ行って僧侶になれと、ぼくにおすすめなさるんですか?」
「あなたは修道院へ入ってしまうこともいらなければ、僧侶になることもいりません。ただ聴法者になればよいのです。それも表面には現われぬ秘密の聴法者なのですよ。或いは初めから世間で暮らしながら、戒を守ることもできるので」
「よしてください、チーホン僧正」とスタヴローギンは気むずかしげに相手をさえぎって、椅子から立ちあがった。チーホンも同じく席を離れた。
「あなたどうしたのです?」ほとんど驚愕の表情でチーホンの顔を見入りながら、彼はふいにこう叫んだ。こちらは掌を前にして両手を組みながら、客の前に立っていたが、あたかも異常な驚愕に打たれたような病的な痙攣が、稲妻のごとくその顔を走ったようにみえた。
「どうしたのです? どうしたのです?」僧を支えようとして、その傍へ馳せ寄りつつ、スタヴローギンはくり返した。チーホンが倒れそうに思われたのである。
「わたしには見える……まるでうつつのように見える」チーホンは深い悲痛な表情を浮かべ、魂へ滲み入るような声で叫んだ。「ああ、気の毒な破滅した青年、あなたは今のこの瞬間ほど、新しく大きな犯罪に近づいたことは、これまでかつてなかったくらいですぞ」
「落ちついてください!」僧正の身に心からの不安を感じたスタヴローギンは、しきりにこういってなだめた。「ぼくはまださきに延ばすかもしれませんよ……あなたのおっしゃったとおりです……」
「いや、この告白の発表前に、それどころか、偉大な決心を断行する一日前、一時間前に、あなたは窮境を脱する出口として、新しい犯罪を決行します。それもこの刷り物の公表を遁れたいがために、ただただそのためにのみ」
 スタヴローギンは憤怒とほとんど驚愕のあまり、身慄いさえはじめた。
「いまいましい心理学者め!」彼はとつぜん狂憤におそわれたていで、ぷつりと断ち切るようにこういい棄てると、そのまま後をも見ずに庵室を出て行った。
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