『ドストエーフスキイ全集10 悪霊 下』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP005-048

[#1字下げ]第三編[#「第三編」は大見出し]




[#3字下げ]第1章 祭――第一部[#「第1章 祭――第一部」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 祭はシュピグーリン騒ぎの日の、さまざまな奇怪な出来事にも妨げられず、いよいよ開催されることになった。わたしなどの見るところでは、よしやレムブケーがつい前の晩に死んでしまっても、祭はやはりその朝、催されたに相違ない、――それくらいユリヤ夫人はこの催しになみなみならぬ意義を認めているのであった。悲しいかな、彼女は最後の瞬間まで目がくらんでしまって、社会の気分が少しもわからなかったのである。しまいには、この祭の日に、何か恐ろしい大事件が起こらないですもうとは、だれひとり信じるものがないほどになった。一部の人などは、何か『カタストロフ』が起こるに相違ないと、前から揉み手をして待ちながら、話し合っていた。もっとも、大抵の人は気難かしげな、外交的な様子をつくろおうと努めていたが。だいたいロシヤ人というものは、全社会を引っくり返すような見苦しい騒動を、夢中になってよろこぶ癖がある。とはいえ、この町には、単なる醜聞を待ち設ける渇望以上に、もっともっと真面目な何ものかがあった。それは世間一般の焦躁である。何かしら医《いや》し難い毒心である。だれもかれも、すべてのものに飽き飽きしているような具合だった。なんだか世間一般に妙にぐらつきやすい皮肉、――やっと無理に持ちこたえているような皮肉が弥漫していた。ぐらつかないのは婦人連ばかりだった。ただし、それもユリヤ夫人に対する容赦のない憎悪という、ただ一つの点のみである。この点で、婦人社交界の各派が、ことごとく結束したのである。ところが、こちらは夢にもそんなことを知らなかった。彼女は最後の瞬間まで、自分は全社会に『取り巻かれて』いる、すべてのものが自分に『狂信的に信服している』と思い込んでいたのである。
 この町にいろいろなやくざな連中が姿を現わしたことは、もはや前にちょっとほのめかしておいた。総じて、混乱した動揺時代、過渡時代には、常にどこでもいろんなやくざものが現われるものだ。わたしがいうのは、いわゆる『先達《せんだつ》』連中のことではない。いつでも、人よりさきへ駆け抜けようと急いで(それが彼らの第一の苦心である)、いつも大抵ばかげ切ってはいるが、その代わり多少とも一定した目的を有する連中のことをいうのではない。わたしはただほんのやくざ者のことをいってるのだ。すべて過渡期には、どんな社会でもこのやくざ者がいる。彼らはなんの目的も持っていないばかりか、思想の兆候らしいものの持ち合わせさえなく、ただ、一生懸命に不安と焦躁を体現するのみである。そのくせ、これらのやくざ者は知らず識らずのうちに、一定の目的をもって行動している少数の『先達』の指揮下に落ちてしまう。そして、この少数の一団は、よくよくの馬鹿でない限り(もっとも、そういうこともよくあるのだ)、このごみごみした有象無象を、勝手放題に操るのである。
 で、この町でもいっさいが終わった今日《こんにち》では、みんなこういうふうなことをいっている。つまり、ピョートルを操っていたのはインターナショナルであるが、そのピョートルはユリヤ夫人を操り、ユリヤ夫人はまたピョートルのさし金で、いろんなやくざ者を踊らしていたというのである。町でも一ばん頭のしっかりした人たちは、どうしてあの当時ぼんやりしていたのだろうと、今さら自分で自分にあきれている。いったいこの地方の混乱時代というのは何をさすのか? また過渡時代とは、何から何への過渡なのか?――それはわたしにもわからないが、まただれ一人わかるものはないと思う。もしわかれば、それはよそからやって来た、縁も何もない少数の人ぐらいなものだろう。とにかく、思い切りやくざな連中が急に幅を利かし出して、もとは口もろくに開き得なかったものが、だれはばからぬ大声ですべて神聖なものを評価し始めたのである。しかも、今までこともなく勢力を維持していた第一流の人々が、とつぜん彼らの言に耳を傾けて、自分たちはてんでものをいわなかったではないか。中には、おぞましくも調子を合わせて、お世辞笑いをする者さえあった。
 リャームシンとか、チェリャートニコフとか、地主のチェンチェートニコフとか、洟《はな》ったらしの自称ラジーシチェフ([#割り注]第一編第一章五(二〇頁)の注参照[#割り注終わり])とか、愁わしそうな、そのくせ高慢ちきな薄笑いを浮かべていたユダヤ人だとか、よそからやって来た笑い上戸の旅客だとか、都から来た主義主張のある詩人だとか、主義や才能の代わりに百姓外套を着込み、タールを塗りこくった長靴をはいた詩人だとか、自分の職務の無意味を嘲笑して一ルーブリでも余計な儲けがあれば、さっそく剣を棄てて、鉄道書記かなんぞの椅子へすべりこもうとする少佐や大佐だとか、弁護士に鞍替えする将軍だとか、発達した仲買人だとか、発達しかけている商人だとか、数限りない神学生だとか、婦人問題の権化でございといいそうな女だとか、こういうものがみんな急にこの町で威張り出した。しかも、だれに向かって威張るのかというと、クラブとか、名誉ある政治家とか、義足を曳いて歩く将軍とか、傍へ寄りつくこともできないほど厳正な貴婦人社会に向かってなのである。ヴァルヴァーラ夫人さえ、息子に恐ろしい不幸の破裂するまで、このやくざ連の走り使いまでしかねないほどであったから、当時その他のわが貴婦人《ミネルヴァ》たちがことごとく血迷ってしまったのも、いくぶんゆるすべき点があるのだ。
 もう前にいったとおり、今では何もかもインターナショナルのせいにしてしまって、よそから来た無関係の人にさえ、この意味で話して聞かせるほどこの考えが深く根を張っている。ついこの間のことだが、クーブリコフといって、スタニスラーフ勲章を頸にかけた六十二歳の老官吏が、だれに呼ばれもしないのに、のこのこやって来て、自分はまる三か月間、うたがいもなくインターナショナルの影響を受けていたと、さも仔細ありげな声でいい出した。人々は、彼の年齢や功績に深い尊敬を払ってはいたものの、もっとよく得心のゆくように話してもらおうと、わざわざ招待したところ、彼は『自分の全感覚で直感した』というほか、なんの証拠も提出することができなかったが、とにかく、だんぜん最初の宣言を変えないので、人々もそれ以上たって追求しようとしなかった。
 くり返していうが、初めからこの騒ぎを遠ざかって、まるで錠でも下ろしたように家へ閉じこもっている、少数の用心深い一団の人々が残っていた。しかし、どんな錠前だって、自然律に抵抗のできようはずがない。どんなに用心ぶかい家庭の中でも、やはり同じように女の子が大きくなって、舞踏の一つもしなければならなくなる。で、とうとうこういう人たちもみな、結局、婦人家庭教師のために寄付することになった。しかも、舞踏会は思い切って華々しい、世にも類のないものと予想されていた。まるで奇蹟のような噂が行なわれた。柄付眼鏡を持った来遊の公爵、左の肩にリボンを付けた十人の幹事(みんな若い踊り手なのである)、ペテルブルグにいてすべてを操っていた幾たりかの人、こういうことが人々の話題にのぼった。そればかりか、カルマジーノフがあがり高をふやすために、この県独得の婦人家庭教師の服装をして『メルシイ』を読むことに同意しただの、ぜんぶ仮装ずくめの文学カドリールというものがあって、一つ一つの仮装がそれぞれ文学上の流派を現わすだの、まだその上に何かしら『ロシヤの高潔な思想』とかいうものが、同じく仮装で踊るのだという噂があった。これなどはまったく珍といわざるを得ない。どうして申し込まずにいられよう。人々は争って申し込んだ。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 祭の一日は、プログラムによると、二部にわかれていた。つまり、正午から四時までが文学の部で、九時から以後は、夜通し舞踏会ということになっていた。しかし、この手配りそのものの中に、混乱の原因が蔵されていたのである。第一に文学の部が終わるやいなや、午餐会が開かれるという噂が、最初から公衆の間に固く根を張ってしまったのである。それどころか、文学の部の終わらないうちに、とくにこれがために定められた休憩時間に午餐会は開かれる……もちろん、それはプログラムの一部となっていて、料金不要、しかもシャンペンさえつくという噂が立ったのである。三ルーブリという高価な切符代も、余計にこの噂を助長したのだ。『でなかったら、ただで寄付することになってしまうじゃないか? 会は一昼夜ぶっ通しの予定なんだから、食わしてくれるのが当たりまえだ。でなけりゃ、みんな腹をへらしてしまわあ』とこんなふうに町の人は考えた。
 実のところ、これは当のユリヤ夫人が、例の軽はずみな性質のために、自分からこういう不利な噂のもとを作ったのである。ひと月ばかり前、まだこの偉大な計画を思いついたばかりのころ、嬉しさのあまり夢中になってしまって、会う人ごとに慈善会のことをしゃべった。そして、当日はいろいろな意味のトストが挙げられる、というようなことまでしゃべり散らしたばかりか、ある首都の新聞にさえそれを報道したのである。当時、夫人は何よりもこのトストが嬉しくて、自分でその音頭が取りたくてたまらなかったので、慈善会の日を待ち設けている間に、いろいろなトストの数を考え出したものである。これらのトストは同志の旗幟を鮮明にして(いったいどんな旗幟だろう? わたしは請け合っておくが、この哀れな婦人は何一つ考えつけなかったに相違ない)、首都の各新聞の通信欄に掲載され、中央政府の人々を歓喜、讃嘆させ、驚異と模倣を呼び起こしつつ、ほかの各県へも広がっていくはずであった。しかし、トストのためにはシャンペンが必要である。ところで、シャンペンはすき腹で飲むわけにゆかないから、したがって、食卓と午餐の必要が生じるのであった。その後、夫人の運動で委員会が組織され、真面目に仕事に着手したとき、もし宴会など空想していたら、たとえ上上のあがり高が得られるとしても、家庭教師に贈る金はいくらも残らないということが、さっそく明白に証明されたのである。こういうわけで、この問題の解決法は二つとなった。盛んな饗宴を張ってトストを挙げ、家庭教師連には九十ルーブリかそこいらの金を贈るか、それとも莫大な寄付金を募って、会のほうはいわばほんの型ばかりのものにするか? もっとも、これは委員会のほうでちょっと夫人を脅やかしてみただけで、さらに第三の折衷的な賢い方法を工夫した。つまり、饗宴はすべての点において相当なものにして、ただシャンペンだけ抜きにすれば、九十ルーブリどころでなく、かなりまとまった金が残ることになる、とこういうのであった。しかし、ユリヤ夫人は賛成しなかった。彼女は生まれつき町人根性から出た中庸を卑しんでいた。で、彼女は即座にこう決めてしまった、――もし原案を実現することができなければ、直ちに全力を挙げて反対の極に投じなければならぬ。つまり、他県でも羨むくらい莫大な金を集めなければならぬ――
『世間の人だって、それくらいなことは理解してくれなくちゃなりません』と彼女は委員会の席上で、熱烈火のごとき調子で論結した。『一般人類の目的を達するということは、刹那の肉体的快楽よりも、遙かに高尚なものでございます。今度の催しも、事実、偉大な理想の宣伝にすぎないのですから、もしあんな馬鹿馬鹿しい舞踏会なんてものが、なくてすまされないということでしたら、ただほんの申しわけに、思い切ってつましいドイツ式の舞踏会で、辛抱しなくちゃなりません!』といったような勢いで、急に夫人は舞踏会を不倶戴天の仇のように憎み始めた。
 しかし、人々はやっとのことで夫人をなだめた。例の『文学カドリール』や、その他の芸術的な催しも、そのとき考えついて、これをもって肉体的快楽に代えるよう、夫人にすすめたのである。カルマジーノフがいよいよ『メルシイ』の朗読を承諾したのも、やはりその時なのである(それまではなんとかかとか、煮え切らぬことをいってじらしていた)。そうすれば、たしなみのない町の人たちの頭に巣くっている食物うんぬんの考えも、自然消滅する道理である。こういったわけで、この催しはとにもかくにも、ふたたび堂々たる華々しいものとなった。もっとも、以前とは少し意味が違っては来た。しかし、あまり浮き世ばなれがしてしまってはというので、舞踏会の初めにレモン入りの茶と円い菓子を出し、それから巴旦杏水とレモン水、そうして、最後にアイスクリームさえ出そうということに決めた。が、それきりなのである。
 ところで、いついかなる場所でも、必ず空腹、――ことに喉の渇きを感じるような連中のためには、一番はじのほうに食堂を設けて、プローホルイチ(クラブのコック頭)を、そのかかりにすることとした。彼は委員会の厳重な監視の下に、何品でも注文のものをすすめてかまわないけれど、ただ別に代金を払わねばならない。そのため、とくに広間の戸口に『食堂はプログラムの中に含まず』という張り札をしておくことに決めた。けれど、食堂は、カルマジーノフが『メルシイ』朗読を承諾した白い広間から、五つ間へだてて置くはずになっていたにもかかわらず、第一部のあいだは朗読の邪魔にならないように、ぜんぜん食堂を開かないことにした。この事件、即ち『メルシイ』の朗読を、委員会の人々がむやみに重大視したようにみえるのは、まったく不思議なくらいである。しかも、きわめて実際的な人たちすら、その例にもれなかった。少し詩的趣味を持つ人々にいたってはもう論外である。たとえば、貴族団長夫人などはカルマジーノフに向かって、自分は朗読がすむとすぐ、白い広間の壁に大理石の板を嵌めるようにいいつける。その板には金文字で『何年何月何日この所において、ロシヤおよび欧州の文豪が一代の筆をおくに際して「メルシイ」を朗読し、これによって、当市の名士を代表とするロシヤ公衆に、第一回の告別を行ないたり』と記すつもりだ。すると、この文句はすぐ舞踏会の席で、つまり、朗読が終わって五時間の後に、一同の目に触れるのだと予告した。わたしは確実に知っているが、カルマジーノフがだれよりもさきに立って、自分の朗読中はどんなことがあろうとも、食堂を開かないようにと主張した、――もっとも、二、三の委員から、そういうことは土地の風習に合わぬと、注意が出たには出たのである。
 こういう事情になっていたにもかかわらず、町じゅうのものはみんな依然として、ヴァルタザール式の饗宴、つまり無料で委員会から提供する食堂を信じていた。まったく最後の一時間まで、信じきっていたのである。若い令嬢たちまで菓子やジャムや、それから何かしら、聞いたこともないようなものが、山ほど出るように空想していた。人々は集金が素晴らしい高にのぼったことも、町じゅう大騒ぎをしていることも、郡部のほうからさえ出かけるものがあって、切符が足りないくらいだということも、よく承知していた。それから、また一定の入場料のほかに相当な寄付があったことも、一般に知れ渡っていた。たとえば、ヴァルヴァーラ夫人などは、切符代として三百ルーブリ払った上に、広間の装飾用にといって、邸内の温室にある花をすっかり寄付してしまった。貴族団長夫人(委員会のメンバー)は会場として自分の家と、それに要するあかりを提供するし、クラブは楽隊と召使を融通した上、いちんちプローホルイチを譲ることにした。
 まだそのほかに、金額はさまで大きくないが、さまざまな寄付があったので、三ルーブリの切符をニルーブリに減じよう、という考えさえ浮かんだほどである。実際、委員会のほうでも初めのうちは、三ルーブリの入場料では令嬢たちがやって来まいと心配して、何か家族切符とでもいうようなものをこしらえようではないか、という提案が生じたくらいであった。つまり、一つの家族は、その中の令嬢一人だけの分を払えば、その家庭に属するほかの令嬢たちは、たとえ十人いても無料で入場できるようにしよう、というのである。しかし、すべての心配は杞憂に終わって、かえって令嬢たちがおもな入場者であった。ごくごく貧乏な小役人でさえ、娘を連れてやって来た。もし娘がいなかったら、彼ら自身この催しに申込みをしようなどとは、夢にも考えなかったに相違ない、それは火を見るよりも明らかなことだった。ごくつまらない一人の書記などは、七人の娘をみんなつれて来た(もちろん細君は勘定に入れない)。しかも、その上に、姪までいっしょに引っ張って来たが、この連中が一人一人、三ルーブリの入場券を手にしていたものである。
 こういう有様であるから、町じゅうがどんな騒ぎだったか、想像するに難くない。祭が二部に分かれていたから、婦人たちの着物も、朗読の時のモーニングドレスと、舞踏の時の夜会服と、二通り必要になって来る。この一つだけでもたいてい見当がつく。これは後でわかったことだが、中流階級の多数はこの日の用意に、家庭の肌衣から、敷布、蒲団の類にいたるまで、何もかも町のユダヤ人どもに質入れしかねない勢いであった。またこのユダヤ人の連中が、まるでわざと狙ったように、三年ばかり前から市中に地盤を固めていって、なおも時と共にいよいよ盛んに入り込んで来るのであった。役人どもは大抵みんな月給を前借りするし、地主の中には、なくてならない家畜を売り飛ばすものもあった。それもこれも、娘をお姫様のように仕立てていって、だれにもひけを取らせまいがためだった。今度の衣裳の派手さは、ここらあたりで今までに例のないようなものであった。
 もう二週間も前から、町は家庭内の悶着ばなしにみたされてしまった。しかも、そういう噂話はすぐさま町の金棒引きによって、ユリヤ夫人の邸へ伝わっていくのであった。それから、家庭内の紛擾を描いたカリカチュアも、人々の間を転転し始めた。現にわたしもユリヤ夫人のアルバムの中で、こういったふうの画を何枚か見たくらいである。こういうことがすっかり何もかも、逸話の出処のほうへ知れてしまったので、近ごろ町の各家庭内につのって来たユリヤ夫人に対する烈しい憎悪も、案外こんなところに起因しているのではないかと思われる。今ではみんなが夫人をさんざんに罵倒して、当時を思い出しては歯噛みしている。とはいえ、もし委員会が何か公衆の気に入らぬことをしたり、舞踏会をおろそかにするようなことがあったら、それこそ未曾有の不平が爆発するに相違ない、それは前からちゃんと見え透いていた。こういうわけで、だれもかれもが心の中で、何かの騒ぎを期待していた。まったくの話、それほど期待されていたのだとすれば、騒ぎは実際おこらずにすむわけがないではないか?
 正十二時にオーケストラが轟き出した。わたしは幹事の一人だったので、つまり、『リボンを付けた十二人の青年』の一人だったので、この汚らわしい記憶すべき日が、どういう具合に始まったかということを、自分の目でちゃんと見たのである。まず尋常一様でない入り口の混雑から始まった。どういうわけで、警察を初めとして皆の者が、こんな点をうっかりしていたのだろう? わたしは何も本当の意味の公衆を非難するのではない。一家の父たる人々は、相当の官位を持っているにもかかわらず、横柄ずくで入口に押し寄せたり、ほかの者を圧しつけたりしなかったばかりか、かえって往来に立ったまま、この町に珍しい群衆のひしめきを眺めて、当惑したようなふうだったという話である。実際、群衆はぎっしりと車寄せをとり囲んで、ただ入るというのでなく、まるで突貫でもするような勢いで、飛びかかるのであった。その間に、馬車は絶え間なく寄せて来て、ついにはまったく道をふさいでしまった。
 この記録を綴っている今日では、わたしも正確な材料を握っているから、あえて断言するけれど、町で屑の屑とされているやくざ者が幾人となく、リャームシンやリプーチンの手引きで、切符なしに入り込んだのである。もしかしたら、わたしと同じ幹事役を勤めている連中の中にも、こういう手引きをしたものがあるかもしれない。少なくも、郡部のほうやなにかからやって来た、まるで見覚えも何もないような手合いまで顔を出した。こういう野蛮人どもは広間へ入るやいなや、いっせいに(まるで教えられでもしたように)、食堂はどこだときくのであった。食堂はないと聞くと、少しも遠慮なしに、この町で聞いたこともないような無作法千万な調子で、悪口雑言を放ち始めた。もっとも、そうした手合いの中には、酔っぱらったものもあった。中にはまるで野蛮人のように、今までかつて見たことのない貴族団長夫人の邸宅の華美な広間に驚嘆して、入って来る瞬間に鳴りを静め、ぽかんと口をあけたまま、あたりを見廻すものもあったのである。
 この宏大な白い広間は、古い建築ながらまったく壮麗なものであった。まず素晴らしい大きさで、窓は上下二列になっており、昔ふうにさまざまな模様を描いて、それに黄金《きん》をちりばめた天井を頂き、コーラス席の設けもあり、窓と窓の間には鏡を張り、白地に赤のカーテンを垂れ、大理石の彫像を並べ(どんな作りにもせよ、とにかく彫像である)、白地に金を施した枠《わく》に赤のビロードを張った、古いナポレオン時代のどっしりした家具類を配置してある。この日は広間の一端に、朗読を行なうべき文学者たちのために、ちゃんと高い演壇がしつらえてあった。そして、広間ぜんたいには、まるで劇場の平土間のように、椅子が一面に並べてあり、その間あいだには聴衆のために、いくつかの幅広い通路が設けてあった。しかし、最初、しばしが間《ま》の驚嘆の後、思い切って意味のない質問や意見が聞こえ始めた。
『われわれは朗読なんか聞きたくないというかもしれないぞ……われわれは金を払ったんだ……世間の者をずうずうしくごまかしやがったのだ……主人役はわれわれなんだ、レムブケーや何かじゃありゃしないぞ!………』
 手みじかにいえば、この連中を会場へ入れたのは、ただこんなぶしつけな言葉を吐かせるためではないか、と思われるくらいであった。とくに今でもおぼえているが、このとき一場の衝突が起こって、昨日の朝ユリヤ夫人の客間に来ていた、例の高いカラーをつけた、木造りの人形みたいな来遊の公爵が、ぐっと器量を上げた。この人もユリヤ夫人の切なる乞いによって、左の肩にリボンを付けて、幹事補佐の役を勤めることを承諾したのだが、この唖のように口数の少ない、バネじかけの蝋人形然とした男がしゃべるほうはとにかくとして、一種独得の働きをする能力を持っていることがわかった。ほかでもない、一人のあばた面をした、見上げるように大きい退職大尉が、後から続く一群の有象無象をたのんで、食堂へはどう行ったらいいかとしつこくたずねた時、公爵は鷹揚に巡査のほうへ目くばせした。この合図は猶予なく実行された。酔っぱらった大尉の悪口雑言に耳もかさず、巡査は彼を広間の外へ引き摺り出してしまった。そうこうしている間《ま》に、やっと『本当の』聴衆が顔を見せはじめた。彼らは長い三条の列を作って、椅子の間に作られた三つの通路を、ぞろぞろと動いて行った。不穏な分子はだんだん静まり始めたが、しかし、群衆の顔には、一番『とり澄ました』連中の間にさえ、不満げな意外らしい表情が現われていた。婦人たちの中には、もうすっかり仰天しているものもあった。
 ついに一同は席に着いた。奏楽の音もやんだ。人々は鼻をかんだり、あたりを見廻したりしながら、あまりなと思われるくらい仰々しい顔つきで待ち設け始めた――これはどんな場合でも、よくない兆候なのである。しかし、『レムブケー一家の者』はまだ来なかった。絹、ビロード、ダイヤモンドなどが四方から燃え輝いて、あたりにはえならぬ香りが漂っていた。男はありったけの勲章を付けているし、老人たちは大礼服さえ着込んでいる。やっと貴族団長夫人が、リーザといっしょにやって来た。この朝ほどリーザが目ばゆいばかりあでやかに見えたことは、今まで覚えがないほどである。またこれほど華美《はで》な衣裳を着飾って来たのも、これまでについぞないことだ。髪は豊かな房をなしてうねり、目はきらきらと輝き、顔には微笑が照りはえていた。彼女は疑いもなく一同を驚嘆させたらしい。人々は彼女を見廻したり、ささやき合ったりした。そして、『あれは目でスタヴローギンをさがしているのだ』といい合ったが、スタヴローギンもヴァルヴァーラ夫人も、姿を見せなかった。わたしはそのとき、彼女の顔の表情がわからなかった。どういうわけであんなに幸福と、よろこびと、エネルギーとがこの顔に溢れているのだろう? わたしは昨日の出来事を思い合わせて、何が何やらわからなくなってしまった。
 とはいえ、『レムブケー一家の者』は依然として顔を出さなかった。これからしてすでに失策なのである。これは後で聞いたことだが、ユリヤ夫人はいよいよという間際まで、ピョートルを待ち通したのだそうである。自分で自覚こそしていなかったものの、もうこの頃、夫人はこの人なしでは一歩も足を踏み出せなくなったのである。ちょうどついでにいっておくが、ピョートルは前日、最後の委員会があった時、幹事のリボンを辞退して、ひどく、涙の出るほど夫人を失望させた。そして、驚いたことには、この夫人の驚きは後に狼狽と変わった。彼はこの朝すっかり姿をくらましてしまって、文学会の間じゅう顔を出さなかった。そういうわけで、この日の晩までだれひとり彼の姿を見た者がないのである(このことをさき廻りして断わっておく)。ついに公衆は明らかに焦躁の色を見せはじめた。演壇のほうへもやはり登って来る人はなかった。うしろの列では、まるで芝居へでも来たように拍手を始めた。老人や夫人たちは眉をひそめて、『レムブケー一家の者はあまりもったいぶり過ぎる』とつぶやいた。聴衆の中でも、人柄な連中の集まっている方面でさえ、ことによったら、本当にこの催しは立ち消えになるのかもしれない、もしかしたら、レムブケーは本当に気がどうかしたのではないか、といったような馬鹿げきったひそひそ話が始まった。しかし、仕合わせと、ついにレムブケーが姿を現わした。彼は妻の手を引いていた。実のところ、わたし自身も、非常に彼らの到着を気づかっていたのである。が、これで馬鹿馬鹿しい想像は自然に消滅して、事実が勝ちを占めたわけである。群衆はほっと一息ついたような具合だった。
 レムブケー自身は、健康この上なしに見受けられた。わたしの覚えているかぎりでは、みなもそう確信したらしい。多くの視線が、降るように彼のほうへそそがれた。事態を闡明する便宜上、一言いい添えておくが、ぜんたいとして町の上流社会には、レムブケーが何か特殊な病気にかかっていると考えている人は、きわめて少数だった。人々は彼の行為を、全然ノーマルなものと認めていたので、昨日の朝の広場の出来事なども、かえって賞讃の声をもって迎えたほどである。
『いや、実際はじめから、あんなふうにやったほうがいいのだ』と上級官吏の連中はいった。『普通はたいてい赴任の時には恐ろしい人道主義だが、結局、あんなふうなやり方で終わるんだ。しかも、それが人道主義そのもののためにも必要なのを、ご自分で気のつかない人が多いんだからなあ』少なくも、クラブではこういうふうに批評したのである。ただあのとき彼が興奮し過ぎたのを非難して、『あれはもう少し冷静な態度でやる必要があった。しかし、まだ着任早々のことだからね』と事情に通じた人たちは、こういった。
 それと同じくらい烈しい好奇の目が、ユリヤ夫人のほうへも向けられた。もちろん、ある一つの点に関しては、何人といえども説話者たるわたしに向かって、あまり精確な説明を要求する権利を持っていないはずだ。それは秘密である。女性の一身に関したことである。しかし、ただ一つわたしの知っていることがある。ほかでもない、ゆうべ夫人はレムブケーの書斎へ入って行って、十二時すぎるまで坐り込んでいた。つまり、レムブケーはゆるされ、慰められたのである。夫婦はすべての点で一致した、何もかも忘れられた。そして、話の終わりにレムブケーが、突然おとといの晩の幕切れの一段を思い出し、慄然として妻の前にひざまずいたとき、夫人の美しい手と、それに続いて美しい口が、古《いにしえ》の騎士のようにデリケートな、とはいえ、感激に心弱った男の熱した懺悔を、押し止めてしまった。
 人々は彼女の顔に幸福の色をみとめた。彼女は見事な衣裳をつけ、晴ればれしい面もちで、しずしずと進んだ。今や夫人は、希望の頂上に立っているかのようであった。自分の政策の目的であり栄冠である慈善会が、ついに実現されたではないか。演壇のすぐ手前にある自席まで辿りつくと、レムブケー夫妻は小腰をかがめて答礼した。二人はたちまち人垣に囲まれた。貴族団長夫人は立ちあがって、彼らを出迎えようとした…が、その時一ついやな手違いが生じた。オーケストラが出しぬけに祝賀のための吹奏曲を轟かし始めた。それはけっしてマーチや何かでなく、まったく食堂向きの吹奏であった。よく町のクラブで、一同が晴れの食卓に向かって、だれかの健康を祝しながら、乾杯を唱えるときなどに使うやつである。わたしも今ではよく知っているが、これはリャームシンが幹事という資格で、入り来る『レムブケー』夫妻に敬意を表するため、余計な骨折りをしたとのことである。もちろん、彼はよく知らなかったからとか、またあまり一生懸命になり過ぎたからとかいって、弁解する余地があったのだ……ところが、悲しいかな、わたしは当時すこしも知らずにいたが、彼らはもう弁解のことなど、てんで心配していなかった。この一日で何もかも片をつけようと、考えていたのである。
 けれど、吹奏曲ばかりではすまなかった。聴衆のいまいましそうな怪訝の色と薄笑いにつれて、突然ホールの端のほうとコーラス席で万歳《ウラー》の声が響き渡った。やはりレムブケーに敬意を表するものらしい。それはあまり多人数の声ではなかったが、正直にいうと、ややしばし鳴りも止まなかった。ユリヤ夫人はかっとなって、その目はぎらぎら輝き出した。レムブケーは自席に近く立ちどまって、声のするほうへ振り向きながら、ものものしく厳めしい態度で広間を見廻した……が、人々は急いで彼を席に着かせた。彼の顔にはまたしても昨日の朝、夫人の客間でスチェパン氏の傍へ近寄る前に、じっと相手の顔を見つめていた時と同じような、例の危険性を帯びた微笑が浮かんでいた。わたしはそれに気がついて心もとなく思った。実際、いま彼の顔は、何かしら不吉な表情があるように思われた。何よりもいけないのは、その表情がいくぶん滑稽じみていたことである。――つまり、ひたすら妻の高尚な目的にそわんがために、一身を犠牲に捧げようとしている人の表情なのであった……ユリヤ夫人は手早くわたしを傍へさし招いて、これからすぐカルマジーノフのところへ走って行き、早く始めるように頼んでくれとささやいた。で、わたしがやっと体を転じようとする間もなく、またもや新しい醜事件が始まった。しかも、前よりもっともっと醜いのである。
 演壇の上に、――今まで一同の視線と、一同の期待が集中されていた空しい演壇の上に、――今まではただ小さいテーブルと、その前に置かれた椅子と、テーブルにのせられた銀盆の上の水呑みコップのほかには、何一つ目に入るもののなかった空しい演壇の上に、とつぜん燕尾服に白いネクタイを締めた、レビャードキン大尉の魁偉な姿が、ちらと映った。わたしはもう仰天してしまって、われとわが目を信ずることができないほどだった。大尉はちょっと鼻白んだらしく、演壇の奥深いところに立ちどまった。とつぜん聴衆の中から『レビャードキン! きみはいったい?』という叫び声が聞こえた。
 大尉の愚かしい真っ赤な顔には(彼はすっかり酔いくらっていた)、この叫びを聞くとひとしく、鈍そうな薄笑いがぱっと広がったように思われた。彼は手を挙げて額を押し拭うと、もしゃもしゃした頭を一振りした。そして、もうどんなことだってやって見せるぞ、と決心したように、ずかずかと二歩まえへ踏み出した、――が、急にぷっと噴き出してしまった。あまり大きくないが、引き伸ばしたような、高く低く揺れるような、さも幸福げな笑い声を立てながら、肥満した体をゆり立てて、目を細めるのであった。このありさまを見て、ほとんど聴衆の大半が笑い出した。二十人ばかりの者は、手さえ叩いた。聴衆の中でも真面目な人々は、浮かぬ顔つきで互いに目と目を見合わせていた。もっともこれはほんの三十秒たらずの間だった。突然、例の幹事のリボンを付けたリプーチンが、二人の小使を連れて演壇へ駆け登った。小使が用心深く大尉の両手を取ると、リプーチンは何やらその耳にささやいた。大尉は眉をひそめながら、「ふん、そういうわけならどうも」とつぶやいて片手を振ると、幅の広い背中を聴衆のほうへ向け、三人のものに伴われて姿を隠した。しかし、すぐにまたリプーチンは、演壇へ飛びあがった。彼の唇には思い切って甘ったるい微笑が浮かんでいた(いったい、いつもの彼の笑い方は、ふつう砂糖酢みたいな感じのするものだった)。手には一葉の書簡紙を持っていた。小刻みな忙しい足どりで、彼は演壇の端へ進み出た。
「諸君」と彼は聴衆に呼びかけた。「ちょっとした不注意のために、滑稽な手違いが生じましたが、それもすでに片づいてしまいました。ところで、わたしはこの土地における詩作家の一人から、きわめて懇切鄭重なる依頼を受けまして、成功の希望をいだきながら、その任を引き受けたのであります……それは外形こそなん[#「なん」に傍点]でありますけれど……人道的な高尚な目的……つまり、本県における教育のある、貧しい乙女たちの涙を拭うてやろうという、われわれ一同をここに結束さしたと同じ目的を、深く心にひめたこの紳士は、いや、その……土地の詩人は……なるべく名を出したくないという、平素の希望にもかかわらず……この舞踏会の初めに……いや、その、朗読会の初めに当たって、自作の詩が朗読されるのを見たいと、熱望しておる次第であります。もっとも、この詩は番外で、プログラムに入ってはおりませんが……なぜといって、手に入ってから、まだやっと三十分ぐらいしかならんからで……しかし、われわれ[#「われわれ」に傍点]は(いったいわれわれとはだれのことだろう? とにかく、わたしはこの途ぎれ途ぎれな、覚束ない演説を、一語一語そのままに記しておこう)、驚くべき快活と、同様に驚くべき無邪気な感情を結合した点において、この詩の朗読も或いは妙かもしれんと思ったのであります。もちろん真面目な作品としてでなく、ただこの盛会にふさわしいあるものとしてであります……手短かにいえば、会の精神にふさわしいあるものとして……ことに中の数行にいたりましては……かような次第で、敬愛すべき公衆諸君のお許しを乞おう、と思った次第なのであります」
「読みたまえ!」広間の向こうの端で、一人の声がこうどなった。
「では、読むのでございますか?」
「読みたまえ、読みたまえ!」という大勢の声が響いた。
「それでは、公衆諸賢のお許しを得て、読み上げることといたしましょう」相変わらず例の甘ったるい微笑を浮かべたまま、リプーチンはまたもや口をひん曲げた。
 彼はそれでも、なんとなく決しかねたふうであった。わたしの見たところでは、わくわくしているようにさえ思われた。こういう連中は、思い切って傍若無人な振舞いをするくせに、やはりどうかすると、何かにつまずくことがあるものだ。もっとも、神学生だったらつまずくことはないだろうが、リプーチンはなんといっても、旧社会に属する人間だった。
「わたしはちょっと断わっておきますが、いや、ちょっとお断わりをしときますが、これはよく祝祭などに当てて書かれておった、以前の頌歌のようなものではありません。これはほとんどまあ、狂歌といったようなものであります。しかし、遊び好きな心持ちと結び合った真摯なる精神もあれば、最も現実的な真理も含まれておるのであります」
「読め、読め!」
 彼は紙きれを広げた。むろん、だれひとり彼を止める暇がなかった。それに、彼は幹事の徽章を付けて現われたのである。彼は声高らかに朗読を始めた。

[#ここから2字下げ]
 祖国なる婦人家庭教師へ、祭の庭にて、詩人より。

ご機嫌よろしゅう家庭教師さん
うんと騒いでお祝いなされ
退歩主義者かジョルジュ・サンド
なんでもかまわぬお浮かれなされ!
[#ここで字下げ終わり]

「ああ、これはレビャードキンだ! レビャードキンの仕事に相違ない!」という幾たりかの声が聞こえた。
 どっと笑い声が起こった。人数は少なかったけれど、拍手の音さえ聞こえた。

[#ここから2字下げ]
洟《はな》ったらしの子供らに
フランスのいろはを教えちゃおれど
誘う水ありゃ寺男にさえも
色目つかうも厭やせぬ
[#ここで字下げ終わり]

「ウラー、ウラー!」

[#ここから2字下げ]
とはいうものの、大改革の今の世にゃ
寺男でさえもろうちゃくれぬ
銭がいります、お嬢さん、それが駄目なら
やはりいろはと首っ引き
[#ここで字下げ終わり]

「そのとおり、そのとおり、なるほどこれは現実的だ、金がなくちゃ二進《にっち》も三進《さっち》も行きゃしない!」

[#ここから2字下げ]
ところが今日は酒もり半分
わしらがお金を集めて上げた
ダンスしながら持参の金を
ここの広間で贈りましょう
退歩主義者かジョルジュ・サンド
なんでもかまわぬお浮かれなされ!
お前は持参金つきの
家庭教師じゃないかいな
何に遠慮があるものか
さあさ祝うた祝うた!
[#ここで字下げ終わり]

 正直にいうと、わたしは自分の耳を信じることができなかった。そこにはたとえ無知をもって弁明するとも、とうていリプーチンをゆるすことのできないような、見え透いたずうずうしい企みがあった。それに、本来、リプーチンは馬鹿ではない。目的とするところは、少なくもわたしにとってきわめて明白だった。まるでだれもかれもがわれさきにと、混乱をかもし出そうとしているようであった。この馬鹿げきった詩の幾連かは(たとえば、一番しまいの一連のごとき)、どんな無知の輩《やから》といえども、黙過し難いような性質のものだった。リプーチン自身も、こういう殊勲はたててみたものの、自分一人であんまり責任を負い過ぎたなと感じたらしく、自分で自分の無鉄砲におじけづいて、演壇を去ることもできず、まだ何かいい足したそうに立ちすくんでいた。きっと、何かもっと違った結果を予想していたのだろう。ところが、朗読の間じゅう喝采していた一団の無頼漢でさえ、やはり同様におじけづいたものらしく、急にしんと静まり返ってしまった。何よりも馬鹿馬鹿しいのは、彼らの多数がこの朗読を夢中になって歓迎したことである。つまり、くだらない落首だなどとはもうとう考えず、婦人家庭教師に関する正真正銘の現実的真理、語を変えていえば、立派な傾向詩と合点したのである。けれど、あまりといえばあまりなこの詩のぶしつけな調子は、ついにこういう連中をさえひやりとさせた。
 一般聴衆はどうかというに、彼らは気色《きしょく》を悪くするのを通り越して、目に見えて侮辱を感じたらしかった。わたしはこの時の印象を伝えるのに、けっしてあやまたないつもりである。ユリヤ夫人は後になって、もう一分間あのままで過ぎたら、気絶して倒れたに相違ないと語った。中でも、とりわけ地位の高い一人の老人は、老夫人をたすけ起こして、人々の不安げな視線に送られながら、二人ともさっさと広間を出てしまった。或いは、ほかに幾たりかの人が、この例にならったかもしれないが、ちょうどおりよく、この瞬間に当のカルマジーノフが、燕尾服に白い頸飾りをしめ、ノートを手にして、演壇へ姿を現わした。ユリヤ夫人は、まるで救い主かなんぞのように、歓喜に溢れた目をそのほうへ向けた……けれど、わたしはもう楽屋のほうへ入っていた。リプーチンに話がしたかったのである。
「きみ、あれはわざとしたんでしょう?」憤懣のあまり彼の手をつかみながら、わたしはいきなりこういった。
「どうして、どうして! 思いもそめないこってすよ」彼はさっそく嘘をつき出した。そして、さも不仕合わせな人間らしい表情をしながら、体をくねくねさせるのであった。「あの詩は、たった今もって来たばかりなので、ぼくはただほんの座興によかろうと思って……」
「きみはまるでそんなことを思やしなかったのです。いったいきみはこの愚にもつかないやくざな詩《もの》を、罪のない座興と思うんですか?」
「ええ、ええ、そう思いますよ」
「きみはなんのことはない、ただ嘘を吐いてるんです。それに、この詩は、けっしてたった今もって来たばかりじゃありません。これはきみが自分で、レビャードキンといっしょに作ったのですよ。ひょっとしたら、もう昨日あたりできてたのかもしれない。つまり、見苦しい騒ぎが起こしたかったんだ。最後の一連は確かにきみの作です。寺男のくだりもやはりそうです。いったいあの男はどういうわけで、燕尾服なぞ着込んで出たんです? つまり、あの男に朗読させようという、きみたちの狂言なのです。ただあの男がぐでんぐでんに酔っぱらったもんだから……」
 リプーチンは冷たい毒のある目つきでわたしを見つめた。
「いったいそれがきみにどういう関係があるんです?」妙に落ちつき払って、彼は突然こうきいた。
「どういう関係がある? きみだってやはりこのリボンを付けてるんでしょう……ピョートル君はどこにいるんです?」
「知りません。どこかその辺にいるでしょうよ。いったい何用です?」
「ほかじゃありませんよ、ぼくは今こそ何もかも、すっかり見え透いて来ました。これは、つまり、みんなが申し合わせて、今日の催しにけち[#「けち」に傍点]をつけるために、ユリヤ夫人を陥れる陰謀に相違ないです……」
 リプーチンはいま一度わたしを尻目にかけた。
「それがきみにとって、どうだというんです?」彼はにたりと笑って、肩をすくめると、そのままわきのほうへ行ってしまった。
 わたしはまるでひや水でも浴せられたような気がした。わたしの疑惑はことごとく事実となって現われたのである。ああ、それだのに、わたしはどうか思い違いであれかしと祈っていたのだ! いったいどうしたらいいのだ? スチェパン氏に相談しようかと思ったが、彼は姿見の前に立っていろいろな笑い方の研究をしながら、ノートのしてある紙きれを、ひっきりなしに覗き込んでいた。彼は今すぐカルマジーノフの後で、演壇に登らなければならないので、もうわたしと話などしている余裕がなかった。では、ユリヤ夫人のところへ駆けつけたものだろうか? しかし、夫人に告げるには、まだ時期が早かった、彼女の病気をなおすには、――自分はみんなの者に『取り巻かれて』いる、みんな自分に対して『ファナチックな信服を示して』いるという迷いをさますには、もっともっとひどい目に遭わなくてはならないのだ。彼女は到底わたしの言葉を信じないで、わたしを妄想狂だと思うに違いない。それに、夫人だって、どうともしようがないではないか?『ええ、ままよ』とわたしは考えた。『まったくのところ、おれにどういう関係があるんだ。いよいよおっ始まったら[#「いよいよおっ始まったら」に傍点]、リボンをはずして家へ帰るまでだ』わたしはこのとき本当に『いよいよおっ始まったら』といった。わたしはそれを覚えている。
 が、とにかく、カルマジーノフの朗読を聞きに行かなければならない。最後に楽屋を振り返って見たとき、用もない人たちがかなり大勢、出たり入ったり、うろうろしているのに気がついた。中には女さえ交っている。この『楽屋』というのは、幕で厳重に仕切れたかなり狭くるしい場所で、うしろのほうは一筋の廊下によってほかの部屋部屋へ通じている。そこで講演者が番を待つことになっていた。
 しかし、このときとくにわたしの注意を惹いたのは、スチェパン氏の次に講演するはずになっている人だった。それはやはり大学教授といったような人で(わたしは今だにこの人がどういう人物なのか、はっきり知らない)、かつて学生間に騒擾のあった時、進んである学校を退いたが、こんど何用があったか、つい二、三日前この町へやって来たのである。この人も同じくユリヤ夫人に紹介されたが、夫人はまるで神様のように彼を迎えた。今ではわたしもよく知っているが、彼は朗読会の前にたった一晩、夫人のところへ出かけたばかりである。しかも、一晩じゅうむっつりと黙り込んで、ユリヤ夫人を取り巻く一座の諧謔や、全体の調子に対して、うさん臭い薄笑いを洩らしていた。その高慢げな、と同時に臆病なほど自尊心の強そうな様子は、人々に不快な印象を与えた。こんど彼に朗読を依頼したのは、ユリヤ夫人自身の所望なのであった。
 いま彼はスチェパン氏と同様に、部屋の中を隅から隅へと歩き廻りながら、何やら口の中でぼそぼそつぶやいては、鏡は見ないで、じっと足もとを見つめていた。彼はしょっちゅう貪婪な薄笑いを浮かべていたが、笑い方の研究などはしなかった。この男にも話ができないのは、一見して明瞭だった。見たところ四十恰好の年輩で、背は低いほう、頭は禿げて、頤には灰色がかった鬚をたくわえ、みなりはきちんとしていた。しかし、何よりも面白いのは、くるりと一廻りするたびに、右の拳を振り上げて、頭の上で空《くう》に一振りすると、だれか目に見えぬ敵を粉砕するように、いきおい込んでその手を打ち下ろす。この芸当をのべつ幕なしにくり返すのであった。わたしは妙に息づまるような気がしたので、急いでカルマジーノフの講演を聴きに飛び出した。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 広間のほうでも、何やら不穏な空気が漲っていた。前もってお断わりしておくが、わたしは、むろん、天才の威光に跪拝するものである。しかし、どういうわけでわがロシヤの天才諸氏は、その光栄ある生涯の終わりに際して、時々ちっぽけな子供みたいな真似をするのだろう? むろん、彼が文豪カルマジーノフとして、五人の侍従をたばにしたような気取り方で出たからって、そんなことは別にどうこういうものはない。しかし、たった一つの文章で、この町のような聴衆を一時間以上も惹きつけることが、どうしてできるものか! 全体として、わたしの観察するところでは、たとえどんな素晴らしい天才にもせよ、こういう肩の凝らない公けの朗読会では、二十分以上無事に聴衆の注意を惹きつけることは、まあまあ不可能である。もっとも、この大天才の登壇が、きわめて敬虔な態度で迎えられたのは事実である。ごくごくやかまし屋の老人連さえ、好意と興味の色を現わした。婦人たちにいたっては、ある程度、歓喜の情さえ浮かべたほどである。とはいえ、拍手はあっさりしたもので、なんだか不揃いな、ちぐはぐな感じがした。しかし、カルマジーノフ氏が口をきくまでは、うしろのほうでも別にとっぴな半畳を入れるものは一人もなかった。とにかく、どこがどうというほど不都合なことは起こらなかった。ただまあ、なんとなく得心のいきかねるような色が見えただけである。わたしはもう前にもちょっといっておいたが、彼の声はあまりきいきいしていて、いくぶん女じみた感じさえする上に、生粋な貴族特有のしゅっしゅっというような、洒落た発音がついて廻るのであった。
 彼が、やっとふた言かみ言しかいわないうちに、とつぜんだれか後列のほうで、無遠慮にも大きな声で笑い出した。たぶんそれは今まで上流社会の端くれも覗いたことのない、おまけに、元来おかしがりに生まれついた、立派な社交界を知らぬ馬鹿者に相違ない。しかし、示威などの意味は、これっからさきもなかった。それどころか、かえってこの馬鹿者は、ほかの人からしっしっと制止されて、それきりぐうの音《ね》もたて得なかった。ところが、カルマジーノフ氏は、気取った身振り、声音《こわね》でやり出した。『自分は初めどうしても朗読したくないといったのだ』(そんなことを広告する必要がどこにある!)『中でもある数行のごときは、真に肺腑を衝いてほとばしり出たもので、ほとんど言葉で形容できないほどである。それゆえ、こういう神聖なものを公衆にさらすに忍びない。(それでは、なんのために哂したのだ?)しかし、人々の乞いもだし難く、ついに断然さらすことにした。その上、自分は永久に筆をおいて、今後いかなることがあっても書かないと決心したから、つまり、これら自分にとって絶筆となるわけである。また自分は今後どんなことがあろうとも、公衆の面前で朗読しないように誓ったから、即ちこの一文が公衆に向かう最後の朗読なのである』というようなことを、くどくどと述べ立てた。
 けれど、こんなことは、まあ、どうでもいいのだ。だれだって、作者の前置きがどんなものかってことは、百も承知している。もっとも、ついでにちょっといっておくが、町の聴衆の教養の不十分なことや、後列の人々の気短かな点などを考えたら、こういうこともやはり影響しないとはいえない。実際、何か短い物語でも読んでおいたほうがよくはなかったろうか? もと彼がよく書いていたような小短編などは、よしんばあまり磨き過ぎて厭味になっているとはいえ、それでも時には機知に富んだものがあった。そうしたら、何もかも埋め合わせがついたに相違ないのだ。ところが、そうでない、まるでそんなことじゃないのだ! 長たらしいお説教が始まったのだ! おまけにその中には、一切合切みんな詰め込まれているのだ! わたしはきっぱり断言するが、この町の人ばかりでなく、首都の聴衆だってうんざりしてしまうに相違ない。まあ、かりに気取った役にも立たない世迷いごとが、印刷で三十ページも続くような文章を想像してみるがよい。おまけに、この人はまるで同情のあまりお慈悲でもって、高い所から見おろすような態度で読んだのだから、聴衆に対してほとんど侮辱に当たるくらいだった……
 ところでテーマは?………こいつがまただれにだってわかりっこないのだ! それはまあ、いわば、いろんな印象や追憶の総締めのようなものであった。しかし、なんの印象だろう? なんの追憶だろう? 一同は朗読の半ばごろまで、額に皺を寄せて、一生懸命に意味をつかもうとしたけれど、田舎者の悲しさで何一つ呑み込めず、後の半分はほんのお義理で聞いているだけであった。もっとも、恋のことがしこたま書いてあった。それはある婦人に対する天才の恋だが、正直なところ少々落ちつきが悪かった。わたしの見るところでは、この文豪の小柄なずんぐりした姿に対して、最初の接吻の物語はどうもうつりが悪かった……それにまた癪にさわるのは、この接吻の仕方が、一般人類のそれと違っていることである。まずあたりには必ず一面に、えにしだが生えていなければならぬ(ぜひともえにしだか、或いは植物学の本でも調べねばならぬような草であることを要する)。それから、空にはぜひ紫色の陰影が必要である。これなどはもちろん、凡人どものかつて気づかなかったものだ。つまり、見てはいたけれど、気をつけることができなかったのである。ところで、文豪は『そら見ろ、おれは一目でちゃんと見てとった、お前たち馬鹿者のために、ごくごくありふれたものとして、描いて見せてるのだ』といったふうである。この興味ある一対の男女が、根もとに座を占めた木は、必ずオレンジか何かの色をしていなければならぬ。二人坐っているのは、ドイツのどこかである。とつぜん彼らは、闘いの前夜のポンペイウスかカッシウスを見て、歓喜の冷感が骨髄に滲み入るような気がした。何かニンフみたいなものが藪の中で啼き出すと、突然グリュックが、葦の茂みでヴァイオリンを弾き始める。彼の奏した曲は en toutes lettres(すっかり完全に)名を呼びあげられたのだが、だれ一人知ったものはない。音楽辞典でも調べてみなければならない。やがて霧が渦巻きはじめた。その舞うこと舞うこと、まるで霧というよりは、数百万の枕といったほうが適切なくらいである。と、ふいに何もかも消えてしまって、こんどは、冬の暖い上溶けの日に、文豪はヴォルガの河を橇で渡っている。この渡河に二ページ半ついやしてあるが、それでもとうとう氷に明いた穴へ落っこちてしまう。天才は沈んで行く、――そしてついに溺死してしまう、と読者諸君は思われるかもしれないが、どうして、どうして、そんなことは夢にも考えていないのだ。それはただ、彼が水の底へ沈んでしまって、あぶあぶもがいている時、ふいに目の前ヘ一|塊《かい》の氷を浮かばせるためなのである。それはきわめて小さな、豌豆くらいな大きさだが、まるで『凍れる涙』とでもいいたいほど、清らかに透き通っている。この一塊の氷の中にドイツ、――というより、むしろドイツの空が映っているのだ。この映像の虹のような閃きが、ある一滴の涙を思い起こさせたのである。それは、――
『お前はおぼえているか、わたしたちがエメラルド色をした木の下に坐っていると、お前はよろこばしげな声で、「罪なんてものはありません!」と叫んだ。「そうだ。しかし、もしそうだとすれば、この世に正しき者もなくなるわけだ」とわたしは涙のひまから答えた。と、この時、お前の目からまろび出た涙なのだ。二人は烈しく慟哭して、そのまま永久に別れてしまった』
 つまり、女はどこかの海岸へ、彼はある洞窟の中へと、別れて行ったのだ。で、いま彼は洞窟の下を一生懸命に下りて行く。モスクワのスハレヴァ塔の下あたりを、三年の間ひたすら下りつづけている。すると、ふいに土の懐のただ中とおぼしきあたりで、彼は一つのともし火を見いだした。ともし火の前には一人の隠者がいる。隠者は祈祷を捧げている。天才はささやかな格子窓へ近づいた。と、思いがけなく吐息の声が聞こえた。読者諸君はこれを隠者の吐息と思われるか? なんの、彼はそんな隠者などに少しも用はないのだ! ただただこの吐息が、三十七年前の彼女の最初の吐息を、思い出させたばかりなのだ。
『お前はおぼえているか、わたしたちがドイツで、瑪瑙色の木の下に坐っていると、お前はわたしにこういった。「いったいなんのために愛するのでしょう? ごらんなさい、あたりにはあかい色の花が咲いています。あの花が咲いてる間は、わたしもあなたを愛します。けれど、あの花が咲かなくなったら、わたしの愛もさめるのです」このときふたたび霧が渦巻いて、ホフマンが現われた。ニンフが、ショパンの何かを笛に吹き始めると、霧の中から忽然としてアンクス・マルチュウス([#割り注]紀元前六三八―六一四年、ローマ四世の帝王と伝えられる[#割り注終わり])が月桂冠を戴いて、ローマの空高く立ち現われた。歓喜の冷感がわたしたちの背筋を走って、二人は永久に別れた』云々、云々。
 手っとり早くいうと、わたしの話が間違っているかもしれないし、またわたしにこういう話をする能がないのかもしれないが、このおしゃべりの意味はこんなふうのものだった。それに、全体として、ロシヤの天才の有する高等|地口《じぐち》を弄びたがる性癖は、なんという浅ましいことだろう! ヨーロッパの大哲学者も、碩学も、発明家も、奮闘家も、殉教者も、――すべてこういう重荷を背負って努力している人々も、わがロシヤの大天才にとっては、まったくわが家の台所にうようよしている料理人同様である。つまり、彼が旦那様なのだ。彼らは手に白頭巾を持って、彼のもとへ伺候し、その命を待っているようなあんばいである。もちろん、彼はロシヤそのものをも、高慢ちきに冷笑している。そして、ヨーロッパの天才の面前で、あらゆる点におけるロシヤの破産を宣言するのが、何より愉快なことに相違ないのだが、しかし彼自身にいたっては、もはやこれらヨーロッパの天才さえ、眼下に見おろしているのだ。そんなものはすべて彼の地口の材料にすぎない。彼が何か他人の思想を取って、それに対するアンチテーゼをくっつければ、もうちゃんと地口ができるわけなので。犯罪は存す、――犯罪は存せず、真理は存せず、正しきものは存せず、そのほか無神論、ダーヴィニズム、モスクワの鐘……(しかし、悲しいかな、彼はすでにモスクワの鐘を信じていないのだ)、ローマ、月桂冠……(しかし、彼は月桂冠さえ信じていないのだ)……それから、お定まりのバイロン式憂愁、ハイネから借用して来た渋面、ペチョーリン式の味などを、ちょいと添える、――と、もう文豪の機械はしゅっしゅっと、風を切って動き出すのだ……
『しかし、とにかく褒めたまえ、褒めたまえ、ぼくはそれが大の好物なんだから。なに、一代の筆をおくというのは、ただちょっとそういってみるだけさ。待っていたまえ。ぼくはまだ三百編くらい書いて、きみたちを悩まして上げるよ。読むのに飽き飽きするくらいね……』とでもいいたそうであった。
 もちろん、あまり無事にはすまなかった。が、何よりもいけないのは、彼自身から騒ぎを起こした点である。もうだいぶ前から足をごそごそいわせたり、鼻をかんだり、咳をしたりする声が聞こえ出した。つまり、どんな文学者にもせよ、朗読会で二十分以上、聴衆を引き止めた時に起こる現象が、ここでも始まったのである、しかし、天才はそんなことにはいっこうお気がつかなかった。彼は聴衆のほうなぞいっさいおかまいなしに、相変わらずしゅっしゅっという音を立てたり、口の中でむにゃむにゃいったりしているので、とうとうみんなは呆気にとられてしまった。その時、とつぜん後列のほうで、たった一人きりではあるが、大きな声でこういうのが聞こえた。
「まあ、なんという馬鹿げた話だ!」
 これは自然に口をすべり出た言葉で、そこになんら示威の意味を含んでいないことは、わたしの固く信ずるところである。ただもうがっかりしたのだ。けれど、カルマジーノフ氏は朗読をやめて、嘲るように聴衆を一瞥した。そして、威厳を傷つけられた侍従官といった態度で、突然しゅっしゅっという音を立てながら、口を切った。
「諸君、諸君は大分わたしの朗読に退屈されたようですね?」
 つまり、こうして、彼のほうからさきに口を切ったのが悪かったのだ。こうして答えを求めるような言葉を発したために、かえっていろんなごろつきどもに大威張りで口を出す機会を与えたからである。もし彼がじっと押しこたえていたら、みんな無性に洟をかんだかもしれないけれど、とにかくなんとか無事にすんだはずなのである……ことによったら、彼は自分の問いに対して、拍手を期待していたのかもしれない。ところが、拍手の音は響かず、あべこべにみんなびっくりしたように、小さくなって静まり返ってしまった。
「あなたはアンクス・マルチュウスなんか、まるで見たこともないのだ。そんなのはみんな美文ですよ」一人のいらいらした悩ましげな声が、出しぬけにこう響き渡った。
「そのとおり」ともう一人の声がすぐに引き取った。「今の世の中に幻なんかありゃしない。今は自然科学の時代だ。少し自然科学でも調べてごらん」
「諸君、わたしはそんな抗議を受けようとは、夢にも思わなかったですよ」カルマジーノフは恐ろしく面くらってしまった。
 大天才はカルルスルーエにいる間に、すっかり祖国のことにうとくなってしまったのである。
「今の時代に、世界が三匹の魚で支えられてるなんて、本で読むのも恥ずかしいくらいですわ」とふいに一人の娘が甲高い声でいい出した。「カルマジーノフさん、あなたは洞窟の中へ入って隠者に出会ったりなんか、できないはずじゃありませんか。それに、今の世の中で、隠者の話なんかするものはありゃしませんよ」
「諸君、諸君がそう真面目にとられるということは、わたしの何よりも驚愕に堪えないところであります。もっとも……もっとも……まったく無理はありません。何人といえども、わたし以上にリアリスチックな真実を尊ぶものはないのですから……」
 彼は皮肉な微笑を浮かべてはいたが、それでもひどく狼狽していた。その顔の表情はまるで、『わたしは、諸君の思っておられるような人間じゃありません。わたしは諸君の味方です。ただわたしを讃めてください、もっと讃めてください、できるだけ讃めてください。わたしはそれが大好きなんですから……』とでもいってるようだった。
「諸君」とうとうすっかり自尊心を毒されてしまって、彼はこう叫んだ。「見受けたところ、わたしの詩は不幸にも発表の場所を誤ったようですな。それにわたし自身も出るべき場所を誤ったようです」
「からすを狙って、かますを打ったのかね」とだれか馬鹿なやつが大きな声を一ぱいに張り上げてどなった。きっと酔っぱらいに相違ない。したがって、こんなやつにはぜんぜん注意を払う必要はなかったのだ。
 もっとも、ぶしつけな笑い声が響いたのは事実だ。
かますですって?」とカルマジーノフはすぐに抑えた。彼の声はだんだんきいきいしてきた。「からす[#「からす」に傍点]とかます[#「かます」に傍点]のことについては、わたしはわざと口をつぐむことにします。たとえ無邪気なものとはいいながら、そんな比較を口にするべく、あまりに聴衆を尊敬しています。よしやどのような種類の聴衆でも……しかし、わたしはこう思っていました……」
「しかし、きみはあまり口が過ぎやしないかね」とだれやら後列のほうからわめいた。
「けれど、わたしは一代の筆をおくに際して、読者に別れを告げようとしているのですから、とにかく聴いていただけることと思っていました……」
「聴きます、聴きます、わたしたちは聴きたいのです」思い切って勇を鼓したような二、三の声が、やっと前列のほうから響いて来た。
「読んでください、読んでください」と、幾たりかのうちょうてんになった婦人連の声が、それに相槌を打った。ついに拍手の音も起こったが、しかし、あっさりした勢いのないものだった。
 カルマジーノフはひん曲ったような微笑を浮かべて、椅子から体を持ち上げた。
「まったくでございますよ、カルマジーノフさん、わたしたちはみんな名誉と思ってるくらいなのですから……」とうとう貴族団長夫人も、我慢し切れなくなっていった。
「カルマジーノフさん」広間の奥まったほうから、出しぬけに若々しい声でこう呼びかけるものがあった。それは郡部の小学校の若い教員で、この地へはつい近ごろ来たばかりの、おとなしい人柄な青年だった。彼は堂々と自席から立ちあがった。「カルマジーノフさん、もしわたしが、今あなたの朗読されたような愛の幸福を恵まれたとしても、まったくのところ、朗読会の席上で読み上げる文章の中へ、自分の恋物語をおさめようとは思いませんね……」
 彼は顔を真っ赤にしていた。
「諸君、わたしはもう朗読を終えたのです。もうこれでおしまいとして、退席します。しかし、ただ最後の六行だけ読ましていただきます」
「さらばわが友よ、読者よ、さらば!」彼はさっそく原稿を手にして読み始めた。が、もう肘掛けいすには腰をおろさなかった。「さらば、読者よ。とはいえ、余はしいて友として袂を別たんことを主張するものではない、事実、このうえ諸君を煩わす必要がどこにあろう。もし幾分たりとも諸君の慰みになることなら、余は罵られてもいとわない、おお、余は甘んじて罵られよう。けれど、もしわれわれが永久に忘れ合うことができれば、それが何より一番である。そして、かりに読者諸君が突然やさしい心になって、余の前にひざまずき、涙をこぼしながら、『書け、カルマジーノフよ、おお、われらのために書け、祖国のために書け、子孫のために書け、月桂冠のために書け』と乞うにしても、余は礼節を守ってその好意を謝しながら、なおも諸君に答えるだろう。『いや、愛すべき祖国の同胞よ、われわれはもう互いに十分面倒をかけ合った。メルシイ、今はめいめい思い思いの道をとるべき時だ! メルシイ、メルシイ、メルシイ!』と」
 カルマジーノフはうやうやしく一揖すると、まるでうだったように真っ赤になって、楽屋の中へ入ってしまった。
「ふん、だれが膝を突いたりなんかするものか。なんという馬鹿げた想像だろう」
「実にどうもえらい自惚れだね!」
「あれはただのユーモアだよ」だれやら少しもののわかるのが、こう訂正した。
「ちょっ、そんなユーモアなんぞ真っ平ご免だよ」
「だが、それにしてもあれは生意気だよ、諸君」
「けれど、まあ、とにかくやっとすんだよ」
「ほんとに睡くなっちゃったあ!」
 しかし、こうした無作法な後列の(もっとも、後列ばかりではなかった)高ごえは、別な方面の聴衆の拍手に消された。それはカルマジーノフを呼び出したのである。ユリヤ夫人と貴族団長夫人をかしらにした幾たりかの婦人が、演壇の傍へ押し寄せた。ユリヤ夫人の手には、白いビロードの台にのせた見事な月桂冠と、もう一つ薔薇の生花で作った花環があった。
月桂冠!」とカルマジーノフは微妙な、やや毒を含んだ薄笑いを浮かべながらいった。「わたしはもちろん感謝の情に堪えません。あらかじめ用意されたものではありますが、まだ凋れる暇のない、生きた感情のこもったこの花環を受納いたしましょう。しかし、淑女方《メーダーム》、まったくのところ、わたしはこんど急にリアリストになりましたので、今の世の中では、月桂冠もわたしの手にあるよりは、熟練した料理人の手にあるほうが、遙かにところを得たものと思われます……」
「そうとも、料理人のほうがずっと役に立たあ」ヴィルギンスキイの家で『会議』に列した、例の神学生がこう叫んだ。
 会場の秩序は少なからず破られた。月桂冠の贈呈式を見ようとして、方々の席から跳びあがるものが大分あった。
「ぼくはこれから、料理人に三ルーブリ増してやってもいい」も一人が大きな声で相槌を打った。その声は、あまりだと思われるくらい大きかった、これでもかというような大きな声だった。
「ぼくもそうだ」
「ぼくも」
「いったいここに食堂はないのか?」
「諸君、つまりわれわれは詐欺にかかったのだ……」
 しかし、ついでに断わっておくが、こういう無作法な連中も、まだやはり町の上級官吏や、同じく広間にい合わした警部などを、ひどく恐れていたのである。十分ばかり経ってから、ようやく人々は元の席に着いたが、以前の秩序はもはや回復できなかった。かわいそうにスチェパン氏の講演は、ちょうどこうした混乱がそろそろ萌し始めた時に当たったのである。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 けれど、わたしはも一ど楽屋へ駆け込んで、もう前後を忘れながら彼に忠告した。わたしの考えでは、すでに何もかもぶっ毀れてしまったのだから、この際ぜんぜん演壇に登らないで、腹痛か何かを口実にさっそく家へ帰ったほうがよかろう、そうすれば、わたしもやはりリボンを捨てて、いっしょに出かけてもかまわない、といった。彼はこの瞬間、演壇のほうへ向かっていたが、急にその足をとめて、傲然たる目つきでわたしを頭から足の爪先まで見おろすと、勝ち誇ったようにいい放った。
「きみ、きみはいったいどういうわけで、わたしをそんな卑怯なことのできる人間だと思うのです?」
 わたしはそのまま引きさがってしまった。この人が何か恐ろしい騒動を起こさないで、無事にあすこから帰って来るはずはないと、わたしは信じて疑わなかった。それは二二が四というくらい明瞭だった。わたしはすっかりしょげてしまって、ぼんやり立っていると、スチェパン氏の後で登壇する順序になっている、来遊の教授の姿がちらと目に映った。例の、拳をたえず上へ振りあげては力まかせに打ち下ろしていた、さっきの人である。彼は相変わらず自分の仕事に夢中になって、意地悪げなしかも勝ち誇ったような薄笑いを浮かべ、何やら口の中でぼそぼそいいながら、あちこち歩き廻っている。わたしはほとんど無意識に彼の傍へ寄った。ここでも余計なおせっかいをしたものである。
「あなたごぞんじですか」とわたしはいった。「いろんな例から推してみるのに、講演のとき二十分以上も聴衆を引き止めると、もうそれからさきはてんで聴いてもらえませんよ。どんな名家でも、三十分と持ちこたえることはできないです……」
 彼はとつぜん立ちどまって、憤怒のあまり全身を慄わしたかと思われるほどであった。はかり知れない傲慢な表情が彼の顔に浮かんだ。
「ご念には及びません」と彼は吐き出すようにつぶやいて、わたしの傍を歩み去った。
 このとき広間で、スチェパン氏の声が響き出した。
『ええっ、お前たちはみんなどうともなるがいい……』と考えながら、わたしは広間へ駆けだした。
 スチェパン氏は、さきほどの混乱の名ごりの収まらぬうちに、肘掛けいすに腰を下ろしたのである。前列の人々は、あまり同情のない目つきで彼を迎えたらしい(最近、クラブではどうしたものか彼を嫌い出して、前のように尊敬しなくなった)。しかし、それでも叱々《ヒス》の声がかからなかったのが、まだしもなのである。わたしの頭の中には昨日あたりから妙な考えがこびりついていた。ほかでもない、彼が壇に登るやいなや、いっせいに口笛が響き出すに相違ない、という気がしてならなかったのだ。ところが、先刻の混乱の名ごりで、聴衆もすぐには彼の登壇に気づかなかった。実際、カルマジーノフでさえあんな目に遭ったのに、いったいこの人は何を当てにしようというのだ? 彼はあお白い顔をしていた。なにしろ、もう十年も公衆の前に現われたことがないのだ。その興奮した態度といい、またわたしにとって馴染みの深いすべてのそぶりといい、彼自身この登壇をもって自己の運命の解決とか、またはそれに類した行為とみなしているのは、もはや明々白々のことであった。つまり、これをわたしは恐れていたのだ。この人はわたしにとって大切な人なのである。それゆえ、彼がまず口を開いたとき、彼の最初の一句を聞いた時、わたしの心持ちはそもそもどんなであったか!
「諸君!」もう何もかも決心したという調子で、とつぜん彼はこう口を切った。が、それでも声は大分かすれていた。
「諸君! つい今朝ほどわたしの前には、近頃この地に撒布された無法な刷りものが一枚おかれていました。わたしは幾度となく、自分で自分にこういう問いを発しました、この紙片の有する秘密ははたしてなんであるか?」
 大きな広間はたちまち闃《げき》として、一同の目は彼のほうへ向けられた。その中にはおびえたような目つきもまじっていた。けっこうなことだ、一語にして興味を惹きつける腕があるのだ。楽屋のほうからも、首を突き出すものがあった。リプーチンやリャームシンは、貪るように耳を澄ましていた。ユリヤ夫人はふたたびわたしを小手招きして、
「やめさしてください、どうしてもやめさしてください!」と不安げにささやいた。
 わたしはただ肩をすくめるのみであった。決心してしまった[#「決心してしまった」に傍点]男を留めるなんて、はたしてできることだろうか? 悲しいかな、わたしにはスチェパン氏の気性が、あまりにわかり過ぎていた。
「へえ、檄文のことだぞ!」とつぶやく声が聴衆の中で聞こえた。広間がざわざわし始めた。
「諸君、わたしは秘密の存するところをことごとく明らかにしました。彼らの奏しつつある効果の秘密は、要するに、彼らの愚という点に帰するのであります!(彼の目はぎらぎら輝き出した)それでですね、諸君、もしそれがわざと企らんだ偽の愚なら、それこそ実に、天才のわざといってもいいくらいです! ところが、彼らの長所をも十分に認めてやらなければなりません。彼らは別にいささかも企んだものではありません。それは思い切って剥き出しの、思い切って正直な、思い切って単純な愚であります―― 〔c'est la be^tise dans son essence la plus pure, quelque chose comme un simple chimique〕(それは最も純粋な愚のエッセンスであります、化学的元素のようなものであります)、これがもしほんの滴ほどでも利口な言い方がしてあったら、だれだってこの単純な愚のやくざ加減に、たちまち気がつくに相違ありません。ところが、いま人々はけげんに思いながら躊躇しているのです。つまり、それほどまで原始的に愚なものだとは、しょせん信じられないからです。『この中に、これ以上の意味が全然ないはずはない』とこう思って、だれでも秘密を探り出そうとする、言葉の裏を読もうとするのです、――こうして、効果は奏せられたのであります! ああ、これほどに愚昧が華々しい報酬を受けたことは、今までかつてないのであります。もっとも、ちょいちょいした報いはしばしば受けておりました……つまり 〔en parenthe`se〕(ついでに申しますが)、愚昧は大天才と同様、人類の運命にとって均しく有益なものだからであります」
「四十年代の地口だ!」というだれかの声が聞こえた。が、ごくおとなしい調子だった。
 しかし、それに続いて、すべてが堰を破ったようになった。烈しい喧囂と騒音が起こった。
「諸君、ウラー! わたしは愚のために祝杯を提議したいと思います!」もうすっかり激昂してしまって、ホール全体を呑んでかかりながら、スチェパン氏はこう絶叫した。
 わたしは水を注ぎ添えるのを口実に、彼の傍へ走り寄った。
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、うっちゃっておしまいなさい、ユリヤ夫人の頼みですから……」
「いや、きみこそわたしをうっちゃっといてくれたまえ、本当にこの軽薄才子が!」と彼は一ぱいに声を張り上げて、わたしに食ってかかった。
 わたしはそうそうに逃げ出した。
「|諸君《メッシゥ》」と彼は語をついだ。「その興奮はなんのためです? わたしの耳にする憤慨の叫びはなんのためです。わたしは橄欖の枝をもって来たのであります。わたしは最後の言葉をもたらしたのであります。実際わたしはこの問題については、最後の言葉を握っているのであります、――そうして、お互いに和睦しようではありませんか」
「そんなものはいらない!」と一方で叫ぶと、
「しっ、いわしてみろ、しまいまでいわしてみろ」と、また一方で金切り声を立てた。
 とりわけ興奮しているのは、すでに一ど口を切った若い教員だった。彼はもうじっとしていられないようなふうであった。
「諸君《メッシゥ》、この問題に対する最後の言葉は、――いっさいをゆるすことであります。わたしはすでに生活を終えた老人として、はばかるところなく堂々と断言しますが、生命の霊気は依然躍動しています。生の力は若き世代の中にも涸渇しておりません。現代の青年の感激は、わたしたちの時代と同様、清浄にして光明にみちています。変わったのはただ一つだけです。すなわち、目的の移動、美の転換であります! すべての疑惑は、ただ一つの問に含まれています。つまり、どちらがより多く美であるか、――シェイクスピアか靴か、ラファエルか石油か?」
「それは誣告だ!」ある一群がわめいた。
「そんな質問は、人に鎌をかけるというものだ!」
「その筋の回し者だ、煽動者だ!」
「ところで、わたしはこう断言する」もはや憤激の極に達して、スチェパン氏は癇走った声をふりしぼった。「わたしはこう断言する、シェイクスピアやラファエルは農奴の解放より尊い、国民性より尊い社会主義より尊い、若き世代より尊い、化学より尊い、ほとんど全人類より尊いのだ。なぜなれば、彼らはすでに全人類の得た果実、真実の果実だからである。いな、或いはこの世に存在し得る最高の果実かもしれないのだ! 彼らはすでに獲得されたる美の形体だ。この美の獲得をよそにしたら、わたしは生きることすら潔しとしないのだ……おお、なんということだ!」彼は両手をぱちりと鳴らした。「十年前ペテルブルグで、わたしはちょうど今と同様に演壇に立って、ちょうどこれと同じ言葉をもって叫んだことがある。が、ちょうどこれと同じように、彼らはわたしの言葉を解しないで、笑ったり叱声を発したりした。ああ、単純なる人々よ、諸君は何が不足しているために、この言葉の意味を解しないのか。しかし、記憶しておくがいい、記憶しておくがいい、イギリス人はなくても、なお人類は存在し得る、ドイツ人がなくとも、大丈夫だ、ロシヤ人がなくともなおさら大丈夫だ、科学がなくともかまいはせぬ、パンがなくともなお可なりだ。ただ一つ美がなくては、絶対に不可能だ。なぜなれば、人々はこの世でなんらなすべきことがなくなるからだ! いっさいの秘密はここにある、いっさいの歴史はここにあるのだ! 科学すらも美がなかったなら、一刻も存在することができないのだ、――笑うものよ、きみたちははたしてこれを知っているか、――美がなかったら、科学は一介の奴隷と化して、釘一本も発明することができないのだ! なんの譲るものか!」最後に彼は愚かしくこうわめきながら、拳を固めて力まかせにテーブルを叩いた。
 しかし、彼が意味も順序もなくわめき立てているうちに、広間の秩序もしだいに乱れて来た。多くのものは席を飛びあがった。中には、演壇へじりじり押し寄せて来るものがあった。全体として、こういうふうの出来事は、わたしがここに描写しているよりも、ずっと迅速に進行していったので、対応策を講ずる暇がないくらいであった。いや、もしかしたら、だれもそんなことをしようとしなかったのかもしれない。
「ふん、何もかも据え膳で暮らしているきみたちは、それでけっこうだろうよ、呑気なものさ!」例の神学生が演壇のすぐ傍に立って、さも快げにスチェパン氏に歯を剥いて見せながら、こうどなった。
 こちらはそれに気がついて、一番はじのほうへ飛び出した。
「いったいあれはわたしじゃないのか? 若き世代の感激も以前と同じように清浄で光明にみちているが、ただ美の形式を誤ったために堕落してるといったのは、あれはわたしじゃないか? きみたちはあれでまだ不足なのか? それに、これを叫んだのが、打たれ辱められた一個の父親《てておや》であることを考えたら、これ以上公平冷静な意見を求めることはできないはずではないか!………ああ、なんという恩を知らない……非道なやつらだろう……どうして、まあ、どうしてきみらは和解がいやなのだ……」
 というやいなや、彼は出しぬけにヒステリックな声で泣き出した。彼はせぐり来る涙を指で払い払いした。肩と胸は歔欷に慄えた……彼はもう何もかも忘れてしまったのである。
 たとえようのない驚愕が広間をおそった。ほとんどみんな総立ちになった。ユリヤ夫人も、夫の手を取って、肘掛けいすから引き立てながら急に立ちあがった。容易ならぬ騒ぎが始まった。
「スチェパン氏!」と神学生がさもうれしそうにどなった。「今この町から近在へかけて脱獄囚のフェージカというやつがうろついています。こいつは方々で強盗を働いていますが、ついこの間も、また新しく殺人を遂行しました。ところが、一つおたずねしますが、もしあなたが十五年以前、カルタの負債を償却するために、あの男を兵隊にやってしまわれなかったら、いや、わかりよくいえば、もしあなたがカルタに負けなかったら、あの男が懲役にやられるようなことになったでしょうか? え、今のように生存のための争闘に、人を斬ったりするようなことが起こったでしょうか? え、ご返答はどうです、もし、耽美派先生?」
 わたしはもはや、次に起こった情景を描くことができない。まず第一に兇猛な拍手の音が響いた。もっとも、皆がみな拍手したわけではなく、せいぜい聴衆席の五分の一ぐらいにすぎなかったが、とにかく、その拍手は兇猛なものだった。その余の聴衆は、どっと出口のほうへ押し寄せたが、拍手をした一部の聴衆がしきりに演壇のほうへ押して来るので、ついに広間ぜんたいの大混乱となった。婦人連は金切り声を立てるし、娘たちの中には家へ帰ろうと泣き出すものもあった。レムブケーはけげんな目つきで、きょろきょろあたりを見廻しながら、自席の傍に立った。ユリヤ夫人は、もうすっかりとほうにくれてしまった。それは夫人が町の交際場裏に立ってから初めてであった。スチェパン氏はどうかというに、彼は初め文字どおりに、神学生の言葉に打ち挫がれたようなふうであった。が、とつぜん彼は聴衆の上にさしかざそうとでもするように、両手を高くさし上げながら叫び出した。
「わたしは足の砂を払って、呪ってやる……もう駄目だ……もう駄目だ……」
 こういって、くるりと向きを変えると、威嚇するように両手を振り廻しながら、そのまま楽屋へ駆け込んでしまった。
「あれは社会を侮辱した!………ヴェルホーヴェンスキイを捕まえろ!」と兇猛な声が咆哮し始めた。
 実際、楽屋へ追っかけても行きかねない勢いだった。少なくもその瞬間には、会場をとり鎮めるなどということは、てんで不可能だった。と、――ふいに最後のカタストロフが、まるで爆弾のように会衆の頭上に落ちかかって、そのただ中で破裂した。三番目の講演者――楽屋でしじゅう拳固を振り廻していた例のマニヤークが、とつぜん舞台へ駆け出したのである。
 彼の顔つきはまったく気ちがいじみていた。底知れぬ自信をたたえた勝ち誇ったような微笑を、顔一面に浮かべながら、湧き立つ広間を見廻していたが、自分でもその混乱をよろこんでいるようであった。彼は、こんな騒動の中で演説するようになったのに、毫も当惑したふうはなく、かえってこれ幸いと思っているらしかった。これがあまりにもありありと見え透いていたので、すぐに一同の注意を惹いた。
「あれはまた何者だ?」ときく声が聞こえた。「あれはまただれだい! しっ! いったい何をいおうというんだい?」
「諸君!」ほとんど演壇のとっぱなに立ちはだかりながら、カルマジーノフと同じ女のような黄いろい声で(ただし、貴族的なしゅっしゅっという音は出さなかった)、マニヤークは力の限りにこうどなった。「諸君! 二十年以前、ヨーロッパの半ばを敵とする戦いの前夜に当たって、ロシヤはすべての官僚派の目に、立派な理想的国家と映りました! 文学は検閲局のご奉公をし、大学では調練が教えられ、軍隊は舞踏団と化し、人民は農奴制度のしもとの下に、年貢を納めて無言の行をしていた。愛国主義は生きた者からも死んだ者からも、遠慮なく賄賂を取るということになってしまって、賄賂を取らないものは、かえって反逆者と見られていた。つまり、一般の調和を破るからであります。白樺の森は、秩序維持という名目のために倒された。かくして、ヨーロッパは慄然と恐れをなしていたのであります。しかし、ロシヤはわけのわからぬ過去一千年の存在の間にも、かかる恥ずべき状態に陥ったことはかつてなかった……」
 彼は拳を振り上げ、うちょうてんになって、もの凄い勢いで頭上《ずじょう》に一振りすると、まるで敵を粉砕しようとするかのように、いきなり猛然と打ちおろした。兇猛な叫喚が四方から起こって、耳を聾するような拍手の音が降りかかった。もうほとんど広間半分まで拍手したのである。まるで子供のように罪もなく、夢中になってしまったのだ。ロシヤが公衆の面前でおおっぴらに侮辱されたのだもの、うちょうてんになってどならずにいられるはずがない。
「ふん、そりゃ、そのとおりだ! まったく、そのとおりだ! 万歳! いや、これはもう美学や何かじゃない!」
 マニヤークはうちょうてんになって叫びつづけた。
「それ以来、二十年の星霜を経ました。大学は諸所に開設せられて、その数を増し、調練は変じて伝説と化し、将校の定員は幾千となく不足を生じ、鉄道はすべての資金をくらい尽して、ロシヤ全国に蜘蛛の巣とかかり、いま十五年も経ったら、まあ、どこへでも旅行できるようになろうか、と予想されています。橋はごく時たまにしか焼けることがないが、町は一定の順序によって、火事のシーズンに規則ただしく焼けていっています。また裁判所では、ソロモンも三舎を避けるような判決が下され、陪審員は自分が餓え死しそうな時でなければ、つまり、生存競争に余儀なくされた場合でなければ、けっして賄賂を取らぬ、と誇称しております。そして、農奴は自由になりながら、以前の地主に代わって、今はお互い同士を撲り合っている。ウォートカは政府の予算を不足させないために、大海の水もただならぬほど消費され、ノヴゴロドでは、古い役にも立たないソフィア寺院の向かいに、過去の動乱と混沌との一千年記念として、厖大な青銅の地球儀が据えられた。かくして、ヨーロッパは眉をひそめながら、ふたたび心配を始めたのであります……ああ、改革に着手して十五年! しかもロシヤは、完全に鳥羽絵めいた混沌の時代においてすら、いまだかつてかくのごとき……」
 最後の言葉は聴衆の咆哮で、聞き取ることができないくらいだった。ただ彼がふたたび手を振り上げていま一ど勝ち誇ったように、打ち下ろすのが見えたばかりである。聴衆の歓喜は、もう常軌を逸してしまった。人々はわめいたり拍手したりした。中には『もうたくさん! もうなんにもいわないでください!』と叫ぶ婦人もあった。みな酔心地であった。弁士は一同をじろり見廻したが、自分の大成功にとろけそうだった。レムブケーがいいようのない興奮のさまで、何かだれやらに指さしているのが、ちらとわたしの目に入った。ユリヤ夫人は真っ青になって、傍へ駆け寄った公爵に、何やら急《せわ》しげな口調でいった……けれど、この瞬間、一群の人が、――多少とも公職の意味を有する人々が、六人ばかり、楽屋からどやどやと演壇へなだれ込むと、いきなり弁士を引っつかんで、楽屋へ引き摺って行った。どうしてこの人たちを振り放したのか、わたしはいまだに合点がゆかないが、とにかく彼はうまくすべり抜けて、ふたたび演壇のとっぱなへ躍り出た。そして、例の拳を振り廻しながら、あらん限りの声をふりしぼって、やっとこれだけどなった。
「しかし、ロシヤはいまだかつてかくのごとき……」
 けれど、彼はまたもや引き摺られて行った。わたしは、十五人ばかりの者が彼を救うために、楽屋へ押しかけたのを見た。しかし、それは演壇を通らずに、ちょっとした仕切りのある横手へ抜けようとしたので、仕切りはめりめりと破れて倒れてしまった……続いて、ヴィルギンスキイの妹の女学生が、例の巻いた書類を小脇に抱え、あの時と同じ服装で、あの時と同じ赤い顔をして、あの時と同じむっちり肥った体で、二、三の男女に取り巻かれながら、ふいにどこからか演壇へ飛びあがった時には、わたしはほとんどわれとわが目を疑った。うしろからは、かの不倶戴天の仇なる中学生が随っている。わたしは次のような言葉さえ耳にしたほどである。
『皆さん、わたしは不幸なる大学生の苦痛を訴えて、いたるところ彼らに抗議を提出させるために、ここへ来たものであります』
 が、わたしはもうそのとき駆け出していた。リボンはポケットの中へ隠して、勝手を知った裏口から往来へ抜け出した。もちろんまず第一にスチェパン氏のところへ志した。

[#3字下げ]第2章 祭の終わり[#「第2章 祭の終わり」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 彼はわたしに会わなかった。彼は閉じこもって、何か書いていた。わたしが幾度も続けざまに戸を叩いたり、呼んだりすると、戸の向こうから、ただこう答えた。
「きみ、わたしはもう何もかも片づけてしまったのだ。もうだれだって、このうえわたしに用のあるはずはないじゃないか?」
「あなたは何も片づけやしません、ただ何もかもめちゃめちゃになるように、し向けただけですよ。スチェパン・トロフィーモヴィチ、後生だから地口は抜きにして、開けてください。なんとか方法を講じなきゃならないじゃありませんか。ひょっとしたら、またここへぞろぞろ押しかけて、あなたを侮辱するかもしれませんからね……」
 わたしはこの際、とくにやかましく、命令的に出る権利があると思った。彼が何かもっと気ちがいじみたことを仕出かしはしないか、と心配したのである。けれど、驚いたことに、わたしはなみなみならぬ断固とした返答にぶっ突かった。
「どうかきみからさきに立って、わたしを侮辱しないでくれたまえ。これまでのことに対しては、厚くきみにお礼をいう。しかし、くり返していうが、わたしはもう人間と縁を切ったのだ、善い人間とも、悪い人間とも。今ダーリヤさんに手紙を書いてるところだ。わたしは今まであのひとのことをすっかり忘れてしまって、実に申しわけのないことをしていた。もし好意があったら、明日にもこの手紙を届けてくれたまえ。が、今は『メルシイ』だ」
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、本当のところ、これはあなたの考えておられるより、ずっと重大なことですよ。あなたは、だれかをめちゃめちゃに粉砕したつもりでいるんでしょう? ところが、あなたはだれも粉砕しやしない、かえってあなたのほうが、からのガラスびんみたいに砕けてしまったんですよ(おお、わたしはなんという粗暴な、失礼なことをいったのだろう。思い出すたびに慚愧の念を禁じ得ない!)ダーリヤさんのところなぞへ、あなたが手紙を出すことは少しもありゃしません……それに、わたしというものがなかったら、あなたは二進《にっち》も三進《さっち》もいかないじゃありませんか? あなたに世間のことが何がわかります? あなたはきっと何か企んでいますね? 本当に、あなたがこのうえ何か企んだら、それこそ失敗をくり返すだけですよ……」
 彼は立ちあがって、戸のすぐ傍へ近づいた。
「きみはあの連中と付き合ってそう長くないが、言葉も調子もすっかりかぶれてしまったね。Dieu vous pardonne, mon ami, et Dieu vous garde(どうか神がきみを赦しきみを護りたまわんことを)。しかし、わたしは常にきみの中に、紳士的素質の萌芽を認めていたから、またそのうちに悟ることもあるだろう、――ただし、すべてわれわれロシヤ人の癖として、もちろん、〔apre`s le temps〕(遅れ馳せに)だね。ところで、わたしの非実際的性質に関するきみのご注意に対しては、わたしが前からいだいていた一つの思想をきみにご紹介しよう。ほかじゃない、わがロシヤの国では、ほとんど数え切れぬほどの人たちが、実にどうも恐ろしい剣幕で、しかも夏の蠅ほどうるさく執拗に、人の非実際的性質の攻撃を唯一の仕事にしている。そして、自分以外の人間をだれかれの差別なく、手当たり次第に『非実際的だ』といって非難するんだからねえ。きみ《シェル》、わたしはいま興奮してるんだから、そのことを頭において、わたしを苦しめないでくれたまえ。いろいろきみにはお世話になった。もう一度メルシイをいうよ。そして、カルマジーノフが公衆と別れたように、別れようじゃないか。つまり、できるだけ寛大な心をもって、お互いに忘れようじゃないか。もっとも、ああしつこく昔の読者に忘れてくれと頼んだのは、あれはあの男の細工なんだが 〔quant a` moi〕(わたしにいたっては)、あんなに見得坊じゃないから、何よりもまずきみの心の若さに、――まだ誘惑に毒されない心に、望みを嘱してるんだよ。実際、きみなぞが、こんな老人を永くおぼえてる必要がないものね。きみ、『永く永く生きてください』だ。これは前の命名日に、ナスターシヤがわたしにいってくれた言葉だ。Ces pauvres gens ont quelque fois des mots charmants et pleins de philosophie.(ああいう詰まらない人間が、どうかすると、哲理に富んだ美しい言葉を持っているものだね)。きみにはあまり多くの幸福を望むまい。飽き飽きして来るからね。しかし、不幸をも望みやしない。ただ平民哲学の真似をして『永く永くお生きなさい』とだけくり返しておこう。そして、どうかあまり退屈しないように努めたまえ。この空しい希望は、わたしのものとしてつけ足しておくのだよ。じゃ、さよなら、本当にさよなら。もう戸の傍に立つのをよしたまえ、わたしは開けやしないから」
 彼は向こうへ行ってしまった。で、わたしは結局なんら獲るところなしに終わった。彼のいわゆる興奮にもかかわらず、そのいうことは滑らかで、悠々として重味があり、明らかに人の肺腑を貫こうと努めているらしかった。もちろん、彼はわたしに少し憤るところがあって、間接に復讐したものに相違ない。もしかしたら、昨日の『囚人馬車』や、『ぱっと両方へ割れる床』に対する復讐かもしれない。ことにきょう公衆の前で流した涙は、ある勝利を獲得させたとはいいながら、やはりいくぶん滑稽な立場に彼を陥れたのである。彼もこれを承知していた。ところが、スチェパン氏のように、友人同士の関係で形式の美と厳正を気にかける人は、またとほかに類がなかった。ああ、わたしは彼を責めることができない! しかし、ああした惑乱にもかかわらず、あの細かい心づかいや皮肉が残っているという事実は、わたしをそのとき安心させてしまったのである。不断とあまり変わりのない人間が、その瞬間に何か悲劇的な、思い切ったことを仕出かすような気分になっていないのは、もちろんわかり切った話である。こうわたしはそのとき考えたのだが、ああ、なんという考え違いだろう! わたしはあまりに多くのものを見のがしていたのである……
 続いて起こった出来事をしるすに当たって、翌日ダーリヤが本当に受け取った手紙の最初の数行を、ここに引いておこうと思う。
『|わが子よ《モナンファン》、わが手はおののきつつあり。されど余はいっさいを破棄せり。きみは世人を敵とする余の最後の白兵戦に、姿を示したまわざりき。きみはかの『朗読会』に出席したまわざりしが、まことによくぞせられたり。されど、剛直の士に乏しきわがロシヤの国に、ただ一人の勇士毅然として立ち、四方より起こる威嚇の声にも動ずることなく、これらの衆愚に向いて彼らの真相、即ち彼らの愚人なることを喝破せし次第を、きみは後に聞きたもうなるべし。おお、彼らは憫むべき小無頼漢、小愚人にすぎず ―― 〔voila` le mot!〕(ああいかにこの語の適切なることよ)かくして籖は抽かれたり。余は永久にこの町を去らんとす。しかも、そのいずくへ行くやを知らず。かつて余の愛したるものは、ことごとく余に背を向けたり。さわれ、きみよ、きみは清浄無垢の人なり、謙抑なる人なり。かつて心変わりやすく我意つよき女のこころによりて、ほとんど余と生涯を共にせんとしたる人なり。ついに成就せざりし二人の結婚の前に当たりて、余が心狭き涙を流したるとき、きみは侮蔑のまなこをもって余を見たまいしなるべし。きみはその美しき心根をもってしても、なおかつ笑うべき人物とよりほかには、余を眺め得ざりしことなるべし。されど、きみにこそ、余はわが心の最後の叫びを送らん。きみにこそわが最後の務めを果たさん。おお、そはただきみ一人のみ! 余は恩を知らざる痴呆漢《うつけもの》、下司なる利己主義者と、余をさげすみたまえるきみを後にして、永久に別れ去るに忍びざるなり。おもうに、かの忘恩のつれなき女《ひと》は、日ごとにこれらの言葉をきみの耳にささやけるなるべし。さわれ、悲しい哉、余はこのひとを忘るるを得ざるものなり……』云々、云々。
 こういうふうなことが、大判四ページも書き連ねてあるのだ。
 彼の『開けやしないから』の答えに、三ど拳で戸を叩いて、その後から、あなたは今日のうちに三度ぐらい、ナスターシヤを使いによこすだろうが、こっちからはけっしてもう来やしないから、とどなっておいて、わたしはそのまま彼を見棄てると、ユリヤ夫人のところへ駆けつけた。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 そこでわたしは一つの苦々しい場面の実見者となった。不幸な婦人はみすみす皆にだまされているのであった。しかも、わたしはなんとも手の出しようがなかったのだ。それに実際、わたしは夫人に向かって何がいえたろう? 落ちついてよく考えてみると、わたしの心にはただ一種の感覚、疑わしい予感のほか、なんにもありはしないのだ。わたしが入った時、夫人はほとんどヒステリイのようになって泣きながら、オーデコロンで額をしめしたり、コップの水を呑ましてもらったりしていた。彼女の前には、のべつしゃべりたてるピョートルと、まるで口に錠でも下ろされたように押し黙った公爵が立っていた。彼女は泣いたりわめいたりしながら、ピョートルの『裏切』を責めていた。夫人はこの日の失敗と恥辱とが、すべてピョートルの不在のみに起因したと考えている。それがすぐわたしの注意を惹いた。
 ピョートルについては、或る一つの重大な変化が目についた。ほかでもない、彼はなんだか恐ろしく心配そうな、ほとんど真面目くさった様子をしているのであった。ふだん彼が真面目な様子をしていることはけっしてない。いつでも笑っている、怒った時でさえ笑っているのだ。ところで、彼はよく怒った。実際、今も機嫌が悪く、乱暴で無作法な口をききながら、なんともいまいましくじれったそうだった。彼は今朝早く、偶然ガガーノフの家へ出かけたところ、そこで頭痛がして嘔気を催して来たのだと、一生懸命に弁解していた。ああ、不幸な婦人はまだこのうえだまされたかったのだ! わたしが入ったとき、一座を占めていたおもな問題は、舞踏会、――即ち、慈善会の第二部を開いたものか、どうかということだった。ユリヤ夫人は『さっきのような侮辱』を受けた後で、舞踏会に出席するのは、どうしても厭だといった。別の言葉でいえば、夫人は無理やり出席させられたかったのである。しかも、ぜひとも、ピョートルにそう仕向けてもらいたかったのだ。夫人はまるで予言者《オラクル》かなんぞのように彼を見上げていた。もし彼がすぐこの場を去ったら、夫人は病の床に就いてしまうだろう、と思われるくらいだった。しかし、彼は立ち去ろうなどと考えもしなかった。彼自身、是が非でも今日の舞踏会が成立して、どうしてもユリヤ夫人に出席してもらわなければならなかったのである。
「ちぇっ、なんだって泣くんです? あなたはどうあっても不体裁な場面を演じたいのですか? だれかに欝憤がはらしたいのですか? じゃ、ぼくにそれをはらしてください。ただお早く願いますよ。なにしろ時間はどんどん経って、なんとか決めなきゃならないんですからね。朗読会で味噌をつけたら、舞踏会で取り返すんですよ。そら、あの公爵もご同意です。ああ、公爵がおられなかったら、まあ、どんなことになったかわかりゃしない!」
 公爵は舞踏会に反対だったが(というより、ユリヤ夫人が舞踏会に出席するのに反対だった。なぜなら、舞踏会はいずれにしても開かなければならないからである)、しかし、二、三ど自分の意見なるものが引用されたとき、彼もだんだん同意のしるしに、ふんふんというようになった。それからまた、ピョートルの一通りならぬ無作法な調子にも、わたしは一驚を吃したのである。これは大分のちの話だが、ユリヤ夫人がピョートルと何か妙な関係があるなどという下劣な誹謗も行なわれたが、わたしは憤然としてこれをしりぞけた。そんなことはけっしてない、またあり得べきはずがないのだ。彼はただそもそもの初めから、社会と本省に対して勢力を得ようという夫人の空想に一生懸命で相槌を打ったり、夫人の計画に立ち入って世話をやいたり、自分から夫人のためにいろんな計画を立ててやったり、下劣なおべっかで取り入ったりして勢力を占め、ついには頭から足の爪先までまるめ込んで、夫人にとってまるで空気と同じくらいなくてはならぬものとなりおおせたのである。わたしの姿を見るとひとしく、夫人は目を輝かせながら叫んだ。
「ああ、あの方に聞いてごらんなさい。あの人もやはり公爵と同じように、始終わたしの傍を離れずにいてくだすったんですから。ねえ、あなた、これが企みだということは、ちゃんと見え透いてるじゃありませんか。ええ、わたしやアンドレイに、できるだけ悪いことを仕向けようという、いやしい狡猾な企みなんです。ええ、みんなが申し合わせたんです! ちゃんと計画が立っていたんです。みんなぐるなんです、立派にぐるなんです!」
「ああ、またいつもの癖で、仰山に考え過ぎてるんですよ。あなたの頭には、永久に詩がこびりついてるんですね。しかし……なに[#「なに」に傍点]のお見えになったのは好都合です……(彼はわたしの名を忘れたような振りをした)。この方に一つご意見を伺いましょう」
「わたしの意見は」とわたしは急き込みながら、「わたしは万事ユリヤ夫人と同意見です。企みだということは、見え透き過ぎるほどです。奥さん、わたしはこのリボンをお返しに来ました。舞踏会を開いたものかどうかという問題は、もちろんわたしの容嘴すべきことでありません。わたしにそんな権限がないのですからね。しかし、幹部としてのわたしの役目はもうすみました。短気な点はどうぞおゆるしを願いますが、どうも自分の常識と信念を傷つけるような行為をするわけにまいりません」
「お聞きになって、お聞きになって?」と夫人は両手を拍った。
「聞きましたよ。ついては、あなたに申し上げることがあります」と彼はわたしのほうへ振り向いた。「察するところ、あなた方はみんな何か変なものを食べたんですね。それで、みんなうわごとのようなことをいってるんでしょう。ぼくにいわせれば、何事も起こりゃしなかったんですよ。この町で今までになかったようなことは、またこの町で起こり得ないようなことは、けっして持ちあがりゃしなかったのです。企みとはなんです? もちろん見苦しい、いうに堪えない、馬鹿馬鹿しいことになってしまった。けれど、企みがどこにあります? それはいったいユリヤ夫人を苦しめようという企みですか? あの連中のいたずらを寛大にゆるして甘やかしておられた、彼らにとって大切な保護者を、苦しめようという企みですか? ねえ、奥さん! いったいわたしが一か月間、口を酸っぱくしていったのはなんでしょう。何をご注意したのでしょう? まあ、本当に、本当にあんな連中がなんのために必要だったのです? あんな有象無象にかかり合う必要がどこにあったのです? なぜです、なんのためです? 社会を結合するためですか? なんの、あんな連中が結合してたまるものですか、冗談じゃない!」
「いつあなたがわたしに注意してくだすって? いいえ、あなたはかえって賛成なすったのです、いいえ、要求なすったのです……わたし正直なところ、すっかり面くらってしまいました……だって、あなたが自分で奇妙な人たちを、大勢つれて来たんじゃありませんか」
「とんでもない、ぼくはあなたと争ったのです。賛成などしやしません。ところで、連れて来たには、――なるほど連れて来たに相違ありませんが、しかし、あの連中が自分のほうから、一ダースぐらい押しかけて来たからですよ。それもごく近頃のことで、『文学カドリール』をするのに、ああいうがらくたがぜひ必要だったからです。けれど、ぼくうけ合っておきますが、今日はああいうふうながらくたを十人か二十人、切符なしで引っ張り込んだものがあるのです!」
「間違いなしです!」とわたしは相槌を打った。
「そら、ごらんなさい、あなたは、もうぼくに同意してるじゃありませんか。それに一つ思い出してごらんなさい、近頃のここの風儀はどんなものです、つまり、この町ぜんたいのことですよ。ねえ、何もかも鉄面皮と、破廉恥に化してしまったじゃありませんか。あれはまったく見苦しい馬鹿騒ぎを、のべつ楽隊で囃し立ててるようなものです。あれは、そもそもだれが奨励したのです? 自分のオーソリティで擁護したのはだれでしょう? 世間の者をまごつかせたのはだれでしょう? 町のわいわい連中を怒らしたのはだれでしょう? ねえ、あなたの家のアルバムには、この町のあらゆる家庭の秘密が詩や画になって載っているじゃありませんか。その詩人や画家の頭を撫でてやったのは、あれは、あなたじゃなかったでしょうか? リャームシンに手を接吻させておやりになったのは、あれはあなたじゃなかったでしょうか? 一介の神学生が堂々たる四等官を罵倒して、その令嬢の着物をタール塗りの靴で汚したのは、あなたの目の前で起こったことじゃありませんか。ですもの、町の人があなたに反抗的な気勢を示したからって、お驚きなさることは少しもありませんさ」
「だって、それはみんなあなたが自分でなすったことですよ? ああ、なんということだろう!」
「いいえ、ぼくはあなたに注意したのです。あなたと議論までしました。おぼえていらっしゃいますか、議論までしたのですよ!」
「まあ、あなたは面と向かって嘘をつくんですか?」
「ええ、まあ、なんとでもおっしゃい。あなたはそんなことをいっても平気なんですから。あなたはいま犠牲がいるんです。だれにでもいいから欝憤がはらしたいのです。さあ、ぼくにそれをはらしてください、さっきもそういったじゃありませんか。しかし、ぼくはきみにお話したほうがいいようだ、あの……(彼はいまだにわたしの名を思い出せないようなふうをした)一つ指を折って、勘定してみようじゃありませんか。ぼくは断言しておきますが、リプーチン以外には、企みなんてものは少しもありません、けっしてありません! それはぼくが証明してお目にかけますが、まずリプーチンを解剖してみましょう。あの男は、レビャードキンの馬鹿者の作った詩をひっさげて登壇しました、――ところで、どうでしょう、きみのご意見ではこれが企みなんですか? しかしねえ、リプーチンにしてみれば、あれが単に気の利いた洒落のように思われたのかもしれませんよ。真面目に、まったく真面目にそう思ったのかもしれません。あの男は、みんなを笑わせてやろうという目的で、登壇したばかりです。第一に、自分の保護者たるユリヤ夫人を、慰めて上げようと思ったのです。それっきりですよ。きみ、本当にしませんか? だって、この一月ばかりの間、ここでやっていたことを考えると、これなぞも同じ調子のものじゃありませんか? それに、なんなら、すっかりいってしまいますがね、まったくのところ、ほかの場合だったら、或いは問題にならずにすんだかもしれないくらいですよ! もちろん無作法な洒落です、いや、むしろ薬の利き過ぎた洒落です。が、まったく滑稽な洒落じゃありませんか?」
「え? じゃあなたはリプーチンの行為を、気の利いた洒落だと思ってるんですか?」恐ろしい憤懣のさまで、ユリヤ夫人はこう叫んだ。「まあ、あんな馬鹿な、あんなへまな、あんな下劣な、卑怯な、――あれはわざとしたことです、ええ、あなた方がわざと仕組んだことです、――そんなことをおっしゃる以上、あなたもやはりその仲間です!」
「そうでしょうとも、うしろのほうに隠れていて、あのからくりをすっかり操っていたのでしょうよ。しかし、もしぼくがその企みに加担していたとすれば、――ねえ、いいですか、――到底リプーチン一人ですみやしなかったはずですよ! こういえばあなたは、ぼくが親父としめし合わしてわざとあんな醜体を演じさした、とでもおっしゃるでしょう。ところが、親父に演説なんかさしたのは、いったいまあだれの責任なんでしょう? 昨日あなたを止めたのはだれでしょう、ついほんの昨日のことですよ!」
「Oh, hier il avait tant d'esprit.(ああ、昨日あの人はあれほどの才気をお見せになったのに)わたし、それを当てにしていたんですの。それに、あの人の態度も立派ですから、わたしもよもやあの人とカルマジーノフに限って……ところが、あのとおりの始末です!」
「ええ、あのとおりの始末です。しかし、その tant d'esprit(あれほどの才気)にもかかわらず、親父は会をめちゃめちゃにしてしまいました。ところで、もし親父が会をめちゃめちゃにするってことを、ぼくが初めから知っていたとすれば、ぼくはあなたのご意見によると、明らかにこの催しをぶっ毀す企みに加担してるんだから、山羊を畠へ放つようなことをしてはいけないなどと、昨日あなたを留めるはずがないに決まってるじゃありませんか、ね、そうでしょう? ところが、ぼくは昨日あなたを留めました、――つまり、虫が知らせたから留めたのです。もっとも、何もかも見抜くなんてことは、不可能でした。おそらく親父も一分まえまでは、何をいい出すか自分でもわからなかったのでしょう、全体あんな神経過敏な老人連に、人間らしいところでもありますか? しかし、まだ応急の方法があります。明日にも公衆の憤慨を満足させるために、法定の手続きを踏んで、あらゆる礼儀を失わないように、親父の所へ二名の医師をやって、健康診断をさせたらいいですよ。なんなら、今日でもかまいません。すぐに病院へやって、冷湿布でもさせるんですな。そうすれば、少なくとも、みんなお笑い草にしてしまって、何もむきになって怒ることはない、と悟りますよ。ぼくは今日さっそく舞踏会でこのことを披露しましょう。だって、ぼくは親父の子ですからね。しかし、カルマジーノフのほうは違います。あの男はまったく馬鹿げきった様子で登壇して、まる一時間あの文章を読みつづけたんですからなあ、――これなどはもう明白に、ぼくとぐるになったのです! さあ、一つユリヤ夫人をへこますために、一騒ぎ起こしてやろうかなというはらで!」
「おお、カルマジーノフ、Quelle honte! (なんて恥さらしだろう!)わたしは顔から火が出るようでした。聴き手の心を想像すると恥ずかしくって、まるで顔から火が出るようでした!」
「ふん、ぼくは顔から火を出すどころじゃない、自分であいつを烙き殺してやりたいくらいでしたよ。まったく聴き手のほうがもっともなんです。ところで、しつこいようですが、カルマジーノフの一件はだれの責任なんでしょう? ぼくがあの男をあなたに押しつけたのでしょうか? あの男の崇拝に、ぼくもお仲間入りをしたのでしょうか? いや、まあ、あんなやつなんかどうでもいい。さて、今度は三番目に出た変人、あの政治気ちがいですが、これはちょっと種が違います。あれは皆が揃って失敗したのです。何もぼくの企みばかりのせいじゃありません!」
「ああ、もういわないでください、恐ろしい、恐ろしい! それはもうわたし一人の責任です」
「もちろんです。が、ここでぼくはあなたの弁護をしましょう。まったくああいう無作法な連中の監督は、だれにだってし切れるものじゃありません! ペテルブルグの会だって、ああいう連中を防ぎきれやしませんよ。それに、あの男は紹介状を持って来たんでしょう、しかも立派な紹介状を! そこで、あなたも合点がいったでしょう。あなたはどうしても今夜の舞踏会に出席する義務があります。ね、ここが肝腎なとこなんですよ。だって、あなたが自分であの男を、演壇へ引き出したも同じわけなんですからね。だから、あなたは今夜、公衆に向かって、自分はあの男と共同で仕事をしてるわけじゃない、あの乱暴者はもう警察の手に渡されている、自分はいつともなしにだまされていたのだ、とこういっておく義務があります。あなたは自分が気ちがいの犠牲になったということを、憤慨の語気をもって告げなければなりません。だって、あの男は気ちがいじゃありませんか、それっきりですよ。あの男のことは、そんなふうにいっておく必要があります。ぼくはああいう咬みつき屋がいやでたまらないんだ。もっとも、ぼくのほうがより以上ひどいことをいってるかもしれません。しかし、演壇に立ってるのと違いますからね。それに、この頃ちょうど元老院議員の噂が喧しいおりですから……」
元老院議員てだれのこと? だれがそんなことをいってますの?」
「実は、ぼく自身なんにも知らないんですが、奥さん、あなたは元老院議員とかいうような噂を、少しもごぞんじないのですか?」
元老院議員?」
「まあ、お聞きなさい、世間ではね、ある元老院議員がここの知事に任命されることになった、つまり、本省のほうであなた方を更迭させようとしている、とこんなふうに信じきってるんですよ。ぼくはいろんな人から聞きましたよ」
「ぼくも聞きました」とわたしは裏書きした。
「だれがそんなことをいってました?」ユリヤ夫人は顔をかっとあかくした。
「つまり、だれが一番にいい出したか、とおっしゃるんですね?……そんなことぼくが知るはずはありませんさ。ただみんながそういってるんです。世間でそういってるんです。ことに、昨日などは盛んなものでした。どうもみんなが恐ろしく真面目なんです。そのくせ、ちっともとりとめたところはないんですがね。むろん、すこし考えのある、もののわかった人は黙っていますけれど、それでも中には、世間の話に耳を傾ける人もあります」
「なんという卑劣な! そして……なんという馬鹿馬鹿しいこったろう!」
「ね、だから、こういう馬鹿者どもに思い知らせてやるために、あなたは今夜どうしても出席しなくちゃなりません」
「わたしも実のところ、そうする義務があると感じてはいるのですけれど、でも……もしまた新しい恥をみるようなことがあったら、どうしましょう? もし人が集まらなかったら、どうしましょう? だって、だれも来やしません、だれ一人、だれ一人……」
「どうしてあなたはそう熱くなるんです! それは、あの連中が来ないということですか? じゃ、新しく縫った着物はどうするんです? 令嬢方の衣裳はどうなるんです? そんなことをおっしゃるようじゃ、ぼくは婦人としてのあなたの資格を否定しますよ。人情通というものは、そんなもんじゃありませんよ!」
「貴族団長の奥さんはお見えになりません、ええ、お見えになりません!」
「だが、いったい何事が起こったというんです! なぜ人が出て来ないんです?」とうとう意地悪げな、いら立たしい調子で、彼はこうどなった。
「不名誉です、恥辱です、――こういうことが起こったのです。わたしも何がなんだかはっきりはわかりませんが、とにかく、わたしとして出席できないようなことがあったのです」
「なぜです? まあ、いったいあなたがどうして悪いのです? なんだって自分ひとり悪者にしておしまいになるのです? むしろ聴衆のほうが悪いのじゃありませんか。あなたから見れば年長者であり、一家のあるじたる人たちは、ああしたやくざなごろつきどもを制止すべきじゃなかったのでしょうか。実際、あいつらはやくざなごろつきで、少しも真面目な分子はなかったのですからね。いかなる社会にあっても、単に警察の力ばかりでは、けっして制御しきれるものじゃありません。ところが、ロシヤではだれでもかれでも社会へ入って来ると、自分に巡査を一人特別に付けて保護してくれと要求しています。なにしろ、社会はみずから保護するものだということがわからないんですからね。今度のような場合、一家のあるじとか、高官とか、妻とか、娘とかいう人たちは、どういう態度をとるでしょう? 黙ってふくれるだけです。まったくいたずら者を取り締るというだけの範囲ですら、社会の自発的精神が欠けてるんです」
「まあ、なんといううがった言葉でしょう! 黙って脹れて……そして、あたりを見廻してるんですわ」
「それがうがった言葉だとすれば、あなたはこの際、それを口に出していわなきゃなりません、傲然と厳めしく……実際あなた、自分が敗北したのでないってことを、示してやる必要がありますよ。あの老人連や、主婦たちに示してやらねばなりません。ええ、あなたならできますとも。あなたは頭のはっきりしている時には、天賦の才能があるんですもの。ああいう連中をひとまとめにしといて、大きな声でやるんですよ、大きな声で。それから後で、『声《ゴーロス》』や『取引所報知』の通信欄へ寄稿するんですね。いや、お待ちなさい、ぼくが自分で仕事にかかりましょう。ぼくがすっかりうまくこしらえて上げましょう。もちろん、いっそうの注意を要しますがね。食堂の監督もしなけりゃなりません。それには、公爵もお願いしなきゃならないし、あの……なに[#「なに」に傍点]にもお願いしなきゃならないですねえ、|きみ《ムッシゥ》、こうして何もかも、初めからやり直さなければならないって時に、われわれを見棄てたりなんかできませんよ。ね、奥さん、こうして最後にあなたが、知事公に手をひかれて出るという段取りです。ときに、知事公のご容体はいかがですか?」
「ああ、あなたはいつでもあの天使のような人に、なんという不公平な間違った批判を加えていらしったでしょう!」とつぜん思いがけない発作に駆られて、ほとんど涙をこぼさないばかりに、ハンカチを目へ持ってゆきながら、ユリヤ夫人は叫んだ。
 ピョートルもちょっと毒気を抜かれた。
「とんでもない、ぼくは、――まあ、いったいどうしたというんです!………ぼくはいつも……」
「いいえ、あなたは一度も、一度もあの人を本当に認めなすったことがありません!」
「女というものは、とてもわかりっこありゃしない!」ひん曲ったような苦笑を浮かべつつ、ピョートルはこうつぶやいた。
「たくは類のないほど正直な、優しい、天使みたいな人です! 類のないほどいい人です!」
「とんでもない、知事公がいい人だってことは、ぼくらにも……知事公がいい人だってことは、ぼくも始終みとめて……」
「いいえ、一度だってそんなことはありゃしません! だけど、もうその話はやめましょう。わたしの口の出し方もずいぶんまずかったのですから。さっきあの貴族団長の細君がね、本当に憎らしい、昨日のことで二こと三こと皮肉をいったんですのよ」
「おお、あのひとは今きのうの皮肉どころじゃありません。あのひとには今日の心配が別にあるんです。それに、あのひとが舞踏会に来ないからって、どうしてそんなに気をお揉みになるんでしょう? むろん、あんな醜事件にかかりあった以上、けっして来られやしませんさ、或いはあのひとに罪はないかもしれない。けれど、世間が承知しませんよ。もう手が汚れてるんですからね」
「なんですって、わたしよくわかりません。なぜ手が汚れてるんですの?」とユリヤ夫人は不審げに相手を見つめた。
「いや、ぼくは何も保証するわけじゃありませんがね、しかし、町じゅうのものが、あのひとの手引きだといってはやし立てていますよ」
「なんですって? だれを手引きしたんですの?」
「へえ、いったいあなた方はまだごぞんじないのですか?」彼は巧みに驚愕の表情を示しながら叫んだ。
「スタヴローギンとリザヴェータさんをですよ!」
「えっ? なんですって?」とわたしたちは口を揃えて叫んだ。
「じゃ、本当にごぞんじないのですか? ふゅう!(と彼は口笛を吹いた)とんでもない悲劇小説が持ち上ったのですよ。リザヴェータさんがいきなり貴族団長夫人の馬車から飛び出して、スタヴローギンの馬車へ乗り移ると、そのまま『相手の男』といっしょに、スクヴァレーシニキイヘ突っ走ってしまったんです、しかも昼の日中にね。つい一時間ばかり前です。いや、一時間にもならぬくらいです」
 わたしたちは化石のようになってしまった。が、もちろん、すぐに先を争って、くわしい様子をたずねた。けれど、驚いたことには、自分で偶然その場にい合わせたといってるくせに、彼は何一つ順序だった話ができなかった。とにかく、事件は次のようにして起こったらしい。貴族団長夫人が『朗読会』から、リーザとマヴリーキイを連れて、馬車でリーザの母(彼女は依然として足を病んでいた)の家へ着いたとき、車寄せから二十五歩ばかり隔てた小わきのほうに、だれかの馬車が待ちかまえていた。リーザは車寄せへ飛び下りるやいなや、いきなりこの馬車のほうへかけ寄った。馬車の戸は開いて、またばたりと閉まった。リーザがマヴリーキイに向かって、『勘忍してちょうだい!』といったかと思うと、――馬車はまっしぐらにスクヴァレーシニキイヘ馳せ去った。いったいそれには前もって打ち合わせがあったのか? 馬車の中にはだれがいたか? というようなわたしたちの性急な問いに対して、ピョートルは何も知らないと答えた。ただむろん前から打ち合わせはあったものに相違ない、また馬車の中には当のスタヴローギンの姿は見分けられなかったが、たぶん老僕のアレクセイでもいたのだろう、というくらいのことだった。『どうしてあなたはその場にい合わせたのです? また、確かにスクヴァレーシニキイヘ行ったということを、どうしてご承知なのです?』という問いに対して、彼はただ偶然そばを通りかかったために、い合わしたのだと答えた。彼はその時リーザの姿を見つけたので、馬車の傍へ駆け寄りさえした、とのことである。(それだのに、あの好奇心のさかんな男が、馬車の中にだれがいるのか、見きわめなかったというのだ!)マヴリーキイは、跡を追おうとしなかったばかりか、リーザを引き止めようとさえ試みなかった。そして、一ぱいの声を張り上げて、『あの子はスタヴローギンの所へ行くんです! スタヴローギンの所へ!』と叫ぶ貴族団長夫人を、自分の手で押し止めたほどである。この時、わたしは我慢しきれなくなって、憤然とピョートルをどなりつけた。
「このやくざ者め、それはみんな貴様の仕組んだことだ! 貴様はそのために今朝一ぱいつぶしてしまったのだ。貴様がスタヴローギンの手伝いをしたんだ、貴様がその馬車に乗って来て、貴様が自分で乗せたんだ……貴様だ、貴様だ、貴様だ! 奥さん、こいつはあなたの敵ですよ、こいつはあなたの一生も台なしにしてしまいます! 気をおつけなさい」
 こういうと、わたしは一さんに家を駆け出した。
 どうしてあの時あんなことをどなったのか、今にいたるまで合点がいかない。自分でも驚いているくらいである。しかし、わたしの想像はことごとく的中した。ほとんどわたしのいったとおりであったことが後日判明した。何よりも、彼がこの出来事を語った時のうさん臭い態度が、あまりにもまざまざと見え透いていたからである。彼はこの家へ来たとき、非常な出来事として第一番にこれを報告すべきはずなのに、お前たちはもう自分の来ないさきに知ってるだろう、というような顔つきをしていた、――そんなことがあれだけの短時間のうちにできるはずがないではないか。よしんば知っていたとしても、彼が口を切るまで黙っているわけがないのだ。また、町で貴族団長夫人のことを『囃し立ててる』ことなど、やはりあの短時間のうちに聞き込めるものでない。そればかりか、彼はあの話をしているうちに二度までも、なんだか妙に卑しげな軽はずみな笑いをにたりと洩らした。おそらくわたしたち馬鹿者をすっかりだましおおせた、とでも思ったのだろう。しかし、わたしはこんな男にかまっている暇がなかった。大体の事実だけは信じたので、われを忘れてユリヤ夫人の家を駆け出したのである。
 このカタストロフはわたしの心臓を刺し貫いた。わたしは涙の出るほど苦しかった。いや、或いは本当に泣いたかもしれない。もう、どうしたらいいかまるでわからなかった。まずスチェパン氏のところへ飛んで行ってみたが、なんといういまいましい人間だろう、また開けてくれなかった。ナスターシヤはうやうやしげな声で、いま横になって休んでおられますとささやいたが、わたしは本当にしなかった。リーザの家では、召使のものにいろいろと聞くことができた。彼らも家出のことは肯定したが、それ以外のことは、自分たちでもまるで知らなかった。家の中はごたごた混雑していた。病める老夫人が気絶したのである。マヴリーキイはその傍に付き添っていたので、彼を呼び出すことはできないと感じられた。ピョートルのことについては、召使もわたしの執拗な問いに対して、あの人はこの二、三日しきりに出入りして、ときによると日に二度も来たことがあると答えた。召使たちは沈み勝ちな様子をしていて、リーザのことは特別うやうやしげな調子で語った。みんな彼女を好いていたのである。彼女が自滅したことは、――すっかり自滅してしまったということは、もはやわたしにとって疑う余地がなかった。けれど、この事件の心理的方面にいたっては、わたしにはかいもく見当が立たなかった。ことに、きのう彼女とスタヴローギンの間にああいう場面があったばかりだから、なおさらである。町じゅう駆けずり廻りながら、もう疾くにこの噂を聞き込んで、意地悪いよろこびを感じてるに相違ない知己の家々で様子をただすのは不快であったし、第一リーザにとって恥辱になることだった。しかし、不思議なことに、わたしはダーリヤのもとへ立ち寄ったのである。もっとも会ってはくれなかった(スタヴローギン家では昨日のことがあって以来、だれにも面会しないのだ)。わたしはなんのためにここへ寄ったのか、何を彼女に話そうと思ったのか、今だにわれながら合点がいかない。彼女のもとを辞すると、わたしはその兄の家へおもむいた。シャートフは気難かしそうな様子をして、無言のまま聞き終わった。ついでにいっておくが、彼はこれまでにない沈んだ心持ちでいるらしかった。なんだかひどく考え込みながら、わたしのいうことなども、やっと努力して聞いている様子だった。彼はほとんど一言も発しないで、いつもより余計に大きく靴音を立てながら、部屋の中を隅から隅へ絶え間なく歩き廻った。もうわたしが階段を下りかけていると、彼はうしろから声をかけて、リプーチンのところへ寄ってみろとどなった。
「あすこへ行ったらみんなわかるよ」
 が、わたしはリプーチンのところへ寄らないで、もうだいぶ離れていたのに、途中からまたもやシャートフのところへ引っ返した。そして、戸を半分開けたまま中へは入らず、少しの説明もなく言葉少なに、
「きみ、今日マリヤさんのところへ行ってみませんか?」と命令するようにいった。
 この返答に、シャートフはさんざんわたしを罵倒した。が、わたしはそのまま立ち去った。忘れないように、ちょっとここへ書いておくが、彼はその晩わざわざ町はずれまで出かけて、だいぶしばらく会わなかったマリヤを訪れたのである。行ってみると、マリヤはこの上なく丈夫で機嫌がよかったが、レビャードキンは取っ付きの部屋の長いすの上で、死人のように酔っぱらって寝ていた。それは正九時だったとのことである。翌日、往来でわたしに出会った時、彼は自分の口から忙しげにこのことを報告した。
 わたしはもう夜九時すぎになって、舞踏会へ出かけようと決心した。しかし、それは『幹事たる青年』という資格ではなく(それに、リボンもユリヤ夫人のところに残して来た)、ただ制し難い好奇心のためである。つまり、ああした出来事を町の人はどう噂してるか、それを自分の口からきかないで、黙って観察したかったからである。それに、遠くのほうからでもいいから、一目ユリヤ夫人の顔が見たくもあったのだ。さきほどあんなふうに夫人のもとを駆け出したのが、恐ろしく心に咎めてならなかったのである。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 ほとんど馬鹿馬鹿しいくらいの出来事にみちたこの晩と、恐ろしい『大団円』をもたらしたその明け方とは、いまだにまるで醜い悪夢かなんぞのようにわたしの脳裡にちらついて、この記録の最も苦しい部分、――少なくもわたしにとっては、――を成しているのだ。わたしは舞踏会にそれほど遅れたわけでもなかったが、それでも行きついた時には、すでに終わりに近かった(実際この舞踏会は、そんなにも早く終わるべき運命を担っていたのである)。わたしが貴族団長夫人の家の車寄せに駆けつけた時は、もはや十時すぎていた。今朝ほど朗読会の行なわれた例の白い広間は、僅かの間にもうすっかり飾りつけができて、町じゅうの人の(という予想だったので)おもな舞踏場として準備が整っていた。わたしは今朝ほどずいぶんこの舞踏会の成功を危んではいたものの、それでも事実に現われたようなことは予期していなかった。上流の家庭からだれひとり姿を見せなかったのはもちろん、官吏仲間でもちょっと地位のある者はみな背を向けた、――これなどはきわめて重大な徴候である。夫人令嬢などはどうかというに、さきほどのピョートルの予想は、まるで間違いだということがわかった(今になってみれば、それも狡猾なごまかしだったに相違ない)。集まって来たのはごく小人数で、男四人あたりに婦人が一人あるかなしの有様だった。しかも、その婦人というのが大変なしろ物なのだ!『どこの馬の骨か知れないような』連隊つき尉官の細君や、郵便局員や小役人の家内といったようなごみごみした連中のほかに、娘をつれた三人の医者の細君、二、三人の貧乏地主の妻、前にもちょっと紹介しておいた書記の姪と七人の娘、商家の内儀連、――これがまあ、ユリヤ夫人の期待していたものだろうか? 商人連でさえ半分もやって来なかった。
 男のほうはどうかというに、町の名士は揃って顔を見せなかったが、それでも人数だけは、うようよするほど集まっていた。しかし、全体の印象は、なんだか妙なうさん臭いものだった。もちろん、幾人かのもの静かな将校たちも、細君同道で来ていたし、例の七人の娘をつれた書記のように、相当身分のある一家のあるじといったような人もだいぶ見えていたが、こうしたおとなしいごみごみした連中でさえ、いわば『やむを得ず』顔を出したにすぎない。現にこの連中の一人がそういったのである。ところが、いま一方から見ると、わいわいの弥次馬連や、今朝わたしやピョートルが切符なしに入れてもらったのではないかと疑ったような連中は、今朝よりずっと増えていた。彼らはまずしばらく食堂に坐り込んでいた。それどころか、やって来るといきなり、まるで前からしめし合わせた場所かなんぞのように、ずっと食堂へ通って行くのだ。少なくもわたしにはそう思われた。食堂は一番はじの広い室に設けてあった。そこではプローホルイチが、クラブの庖厨のありとあらゆる誘惑を移して、摘物《ザクースカ》や飲物をこれ見よがしに並べ立てながら、陣取っていた。
 わたしはここでただ穴が開いてないというだけのフロックや、思い切って舞踏会らしくない怪しげな服を着た連中が幾人かいるのに気がついた。彼らは幹事の恐ろしい骨折りで、ほんのちょっとの間だけ酔っぱらい騒ぎを我慢しているに相違ない。中にはどこからやって来たのか、よその町の人間も少し交っていた。もちろん、ユリヤ夫人の発議で、舞踏会は思いきり民主的なものにする予定だったのは、わたしも承知していた。『もしただの平民でも、切符代を払いさえすれば、入場を拒絶しないことにしよう』夫人は委員会の席上で、こういう言葉を大胆にいい放った。しかし、それはこの貧しい町の平民がただの一人だって、切符を買おうという気を起こすはずがないのを、十分信じ切っているからである。が、いかに委員会が民主的傾向を持っているにもせよ、こんな破れフロックを着た怪しげな連中を入れようとは、思いも寄らなかった。いったいだれがどんな目的で入れたのだろう? リプーチンとリャームシンは、もう幹事のリボンを剥がれてしまった(もっとも『文学カドリール』に加わっているので、広間の中にい合わせたけれど)。しかし、リプーチンの跡をおそったのは、意外千万にもスチェパン氏との争いによってだれよりも一ばん朗読会をけがした例の神学生だし、リャームシンの後任は当のピョートルだった。こういう有様だもの、万事はおよそ想像がつくではないか!
 わたしは努めて、人々の会話に耳を澄ましたが、中には奇怪さにあきれ返るような意見もあった。たとえばある一団では、スタヴローギンとリーザの一件を仕組んだのはユリヤ夫人で、夫人はその礼として、スタヴローギンから金を取ったと断言したばかりか、その金額さえ明らかに名指すのであった。彼らの話によると、この会もその目的で開かれたので、町の人もことの真相を悟ったために、半分以上顔を出さないのだ、ところで亭主のレムブケーは、あんまり小っぴどくやられたので、『頭の調子を変にしてしまった』、そこでユリヤ夫人は気のちがった亭主を自由に操っているのだ、――この言葉と共に粗野な、しゃがれた、はらに一物ありげな笑声が、どっと起こった。舞踏会のことも同様おそろしくこき下ろしていたが、ユリヤ夫人にいたっては、もう頭から無遠慮に罵倒するのであった。全体として、これらの会話はだらしのない、途切れ勝ちな、ざわざわした、一杯機嫌の饒舌なので、よく咀嚼して何かの意味をつかもうなどということは不可能だった。
 この食堂には、ただなんという意味もなく陽気にはしゃいでいるような連中も陣取っていた。その間には幾たりかの婦人すら交っていたが、それはどんなことがあってもびくともしないしたたか者らしかった。おもに夫君同道の将校夫人で、恐ろしく愛嬌がよくて、陽気そうにしている。彼らは組を作って別のテーブルに向かいながら、ひどく愉快そうに茶を飲んでいた。こうして食堂は、集まって来た人々の半数のための暖い避難所という形になってしまった。けれど、いま少し経ったらこの群衆が、どやどやと広間へ押しかけて行くに相違ない、こう思ったばかりでも恐ろしい気がした。
 その間に、白い広間では例の公爵も加わって、三度ばかり貧弱なカドリールがあった。娘たちが踊ると親はそれを見てよろこんでいた。しかし、ここでもちょっと身分のある人々の中には、いいかげん娘をよろこばせたら、『おっ始まらないうちに』うまく逃げ出したいものだ、と考えている連中が大分あった。だれでもかれでも差別なしに、必ず『おっ始まる』に相違ないと固く信じていた。当のユリヤ夫人の心持ちを描き出すことは、わたしにとってほとんど不可能である。わたしはかなり間近く夫人の傍を通り過ぎたが、別に話はしなかった。入りしなに会釈をしたが、夫人はわたしに気がつかないで、それに答えようとしなかった(実際、気がつかなかったのだ)。その顔は病的な表情を呈して、目には嘲るような傲慢な色が浮かんでいたけれど、きょときょとと落ちつきがなく不安そうであった。見受けたところ、夫人は自分で自分を抑制しようと苦しんでいるらしい。いったいそれはなんのため、だれのためだろう? 彼女はぜひこの場を去って、夫を(これが最も大切なことである)連れて行かなければならなかったのだ。けれども、彼女は踏みとどまった! もはや顔を見ただけでも、夫人の『目はすっかりあいて』しまって、このうえ何物をも期待できないと覚悟しているのは、ちゃんと見えているのであった。夫人はもうピョートルを傍へ呼び寄せようともしなかった。こちらでもみずから夫人を避けているらしい(わたしは食堂で彼を見かけたが、恐ろしく陽気らしいふうであった)。が、それでも夫人は舞踏会に踏みとどまって、レムブケーをちょっとの間も放さないようにした。ああ、彼女は最後の瞬間までも、偽りならぬ心からの憤激をもって、夫の健康を云々する当てこすりをしりぞけたかったのである、今朝ほどでさえそうだったのだ。しかし、いま彼女の目は、この点に関しても、開かれなくてはならなかったのである。
 わたしはどうかというに、一目見るなりレムブケーの様子が、今朝よりずっと悪くなっているように思われた。まるで茫としてしまって、自分が今どこにいるかということすら、はっきりわかっていないらしかった。ときどき彼は思いがけない厳めしい顔をして、傍らを振り返ってみるのであった。わたしなども二度ばかり睨まれた。一度は何やら話そうとして、大きな声で口を切ったが、しまいまでいわずにやめたので、ちょうど傍にい合わせた一人のおとなしい老官吏などは、ほとんどおびえあがらないばかりだった。しかし、白い広間にい合わした公衆の中でも、このおとなしい部類に属する人たちでさえ、沈んだ様子でこそこそと、ユリヤ夫人をよけて通ったが、それと同時に、ひどく奇妙な視線を知事公のほう