『ドストエーフスキイ全集10 悪霊 下』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP049-096

へ投げかけた。その露骨な刺すような光は、これらの人々のびくびくした様子にあまりにも不調和な感じを与えるのであった。
「その様子がわたしの胸へぐっと来ましたの。そのとき初めて、わたしもレムブケーのことを感づくようになりました」とユリヤ夫人は後でわたし自身にこう自白した。
 そうだ、夫人はこの点についても責任があるのだ。さきほどわたしの逃げ出した後で、夫人はピョートルと相談のうえ、舞踏会を開くことにしよう、そうして自分も舞踏会に出席しようと決めた時、今朝の朗読会で『理性を震撼されてしまった』レムブケーの書斎へ入って行って、ふたたびありとあらゆる秘術を尽くして夫を誘惑し、いっしょに引っ張り出したものに相違ない。しかし、いま夫人の苦しみはいかばかりかしれないのだ! が、それでもここを去ろうとしなかった! 矜持の悩みか、それとも単に分別を失くしてしまったのか、――それはわたしにはわからない。彼女は不断の傲岸な性質にも似ず、卑屈な微笑を浮かべながら、二、三の婦人に話しかけようとした。が、こちらは妙にてれ[#「てれ」に傍点]てしまって、『は』とか『いえ』とかいううさん臭そうな、簡単な返事でごまかしながら、なるべく夫人を避けようとするふうだった。
 この町で金箔つきの名士とされている人で、舞踏会に出席していたのは、前にちょっと話したことのある勢力家の退職将官一人きりだった。ほかでもない、スタヴローギンとガガーノフの決闘後、貴族団長夫人のところで初めて、『社会の焦躁のために扉を開けた』人だ。彼はものものしげに部屋部屋を歩き廻りながら、耳を澄ましたり、目をそばだてたりしていたが、その様子はいかにも『おれが来たのは、単なる気晴らしのためでなく、むしろ人心研究のためなのだ』ということを、見せたくてたまらないらしかった。彼はとうとうユリヤ夫人のかたえに陣取って、その傍を一足も離れようとしなかった。察するところ、夫人を励まし安心させようというつもりらしかった。疑いもなく彼はごく好人物で、なかなか地位のある人だし、それにもうよほどの老齢だったから、この人の口から出た同情なら、黙って聞いていても差支えはないのだったが、この老耄れたおしゃべりが僭越にも自分に同情して、『おれが同席してやるのは名誉だぞ』というような了簡で、保護者気取りでいるかと思うと、夫人はいまいましくてたまらなかった。しかし、老人は寸時も傍を離れないで、やみ間なしにしゃべりつづけるのであった。
『なんでも、町は七人の義人がなくてはもたぬというが……確か七人でしたな、正確な数はおぼえておらんですが。ところで、この七人の……正真正銘な義人の中で……この舞踏会を訪うの光栄を有した者は、はたして幾人あるかは知りませんが、しかし、そういう人の出席があるにもかかわらず、わたしは少しここが剣呑に思われ出しましたよ。Vous me pardonnerez, charmante dame, n'est-ce pas?(ごめんなさい、奥さん、そうじゃありませんか?)わたしはアレゴリックにいっとるのですが、先刻、食堂へ行って、無事に戻れたのをよろこんどりますよ……あの大事なプローホルイチは、自分の席にじっと坐っておられないのです。きっと朝までには、店ごと持って行かれてしまいますよ。いや、これは冗談ですよ。わたしはただあの『文学カドリール』というのはどんなものかと待ちかねとるのです。それがすんだら、寝床の中ですよ。まあ、リュウマチ病みの年寄りのことだから、どうかゆるしてやってください。わたしは早く寝る習慣でしてな。あなたも帰って、『ねんね』なすったらいかがです、子供にいう言い草じゃありませんが……実は、わたしは若い美人を見に来たんですて……もちろん、そういうのが豊富に揃ってるのは、ここよりほかには見られませんからなあ……みんな川向こうから来るのですが、わたしはあちらのほうへ出かけませんのでな。ある将校の……どうも猟兵隊のらしい……細君なぞはなかなか悪くないですなあ、実際。そして……そして、自分でもそれを心得とりますよ。わたしはそのおてんばさんと話してみましたが、なかなか活溌なもんですよ。そして……いや、ところで、娘さん方もやはり生き生きしとりますなあ。しかし、それだけのことで、生き生きしとるというほか、なんにもありません。もっとも、わたしはいやじゃないですがな。まったく蕾のようなのがありますて、ただ唇が少し厚いですがな。全体としてロシヤ美人の顔には、整ったのが少ないですなあ、そして……そして、幾分|薄餅《ブリン》みたいにぺちゃんこになっとりますよ…… Vous me pardonnerez, n'est-ce pas?(ごめんなさい、しかし、そうじゃありませんか?)ただし、いい目をしとります……笑ったような目つきでね。こういう蕾のような娘さんたちも、若い盛りの二年……いや、三年ぐらいは実に素っばらしいものだが、それからはもうだんだんぶくぶく脹れて来て……夫の心にかの悲しむべき無関心《インデファランチズム》を起こさせるのです。こいつがまたずいぶん婦人問題の発達を助長するものでしてな……もっとも、わたしの婦人問題のとり方が違っとれば、この限りに非ずですよ……ふむ! なかなかいい広間だ。部屋部屋の飾りも悪くない。もっと悪くたってよかったのだ。楽隊などは、ずっと悪くてもかまわなんだのだ……しかし、もっと悪くなくちゃいかんとはいいませんよ。が、全体として婦人たちの少ないのは、よくない感じを与えますなあ。衣裳のことは申しますまい。あの鼠色のズボンをはいた男が、ああ臆面もなしに、公然とカンカン踊りをやっとるのは怪しからん。もしあの男が嬉しくて夢中になっとるなら、それならわたしも免じてやる、あれは町の薬剤師だから……しかし十時過ぎには、いくら薬剤師だって早過ぎる……さっき食堂で、二人のやつが喧嘩をおっ始めたが、それでも引き摺り出されはしなかった。まだ十時頃だったら、たとえ町の風《ふう》がどうだろうと、あんな馬鹿者は引き摺り出さなくちゃいかんです……しかし、二時すぎたら、わたしもあえていいませんよ。この時刻には、もう世論が譲歩せにゃなりませんからなあ、――ただし、この舞踏会の命が二時頃まであるとすれば、の話ですよ。ヴァルヴァーラ夫人はとうとう約束に背いて、花をよこしませんでしたなあ。ふむ! あの人も花どころの騒ぎじゃないでしょう、〔pauvre me`re!〕(惘れな母よ!)ときに、リーザはかわいそうなことをしましたなあ、お聞きでしたか? なんでも秘密ないきさつがあるそうだが……役者はまたしてもスタヴローギンだということですな……ふむ! わたしはもう帰って休みたいような気がしますよ……船ばかり漕いどりますからなあ。いったいあの『文学カドリール』はいつなんです?」
 ついに『文学カドリール』が始まった。近ごろでは、来たるべき舞踏会の噂がどこかで始まると、必ず話題はすぐさまこの『文学カドリール』に落ちていくのであった。実際どんなものか、だれひとり想像がつかないので、異常な好奇心を唆ったのである。こういうわけで、成功は疑いないはずだのに、まあ、なんという幻滅だったろう!
 今まで閉まっていた白い広間の両わきの戸がさっと開いて、突然いくたりか仮装の人が現われた。一同は夢中になってそれを取り巻いた。食堂にいた連中も、一人のこさず一ときに広間へなだれ込んだ。仮装の人は舞踏の用意にそれぞれ位置を定めた。わたしはうまく前へ潜り出て、ちょうどユリヤ夫人と、フォン・レムブケーと、例の将軍の後に陣取った。そのとき今まで姿を見せなかったピョートルが、ひょいとユリヤ夫人の傍へ飛び出した。
「ぼくは今まで食堂にいて、観察していたのです」ちょうど悪いことをした小学生みたいな顔つきをして、彼は低い声でこうささやいた。もっともその表情はさらに夫人をいら立たすために、わざとこしらえたものだった。
 こちらは憤怒のあまりかっと赤くなった。
「せめてこうなってしまったら、もう嘘をつかないようにすればいいのに、なんというずうずうしい人だろう!」夫人はこらえかねて、思わず声高にこういったので、はたの人にも聞こえたくらいである。
 ピョートルは自分の成功にしごく満足な体《てい》で、傍を飛びのいてしまった。
 この『文学カドリール』なるもの以上に、みじめで、俗な、愚にもつかぬ、味もそっけもない譬喩は、ちょっと想像するのも難かしいくらいであった。これより以上、町の人に不向きなものは、とても考えつくことができない。ところで、噂によると、これを考えついたのはカルマジーノフだとのことである。もっとも、これを実際に組み立てたのはリプーチンで、ヴィルギンスキイの家の会議に出ていた例のびっこの教師も相談に乗ったのだ。しかし、カルマジーノフはなんといっても、その立案者であるばかりでなく、人の話では、自分でも何かある特別な役を引き受けて仮装しようと思ったほどだとのことである。カドリールは、六組のみじめな仮装者から出来ていた、――もっとも、本当の仮装ということもできないくらいだ。なぜなら、みんなほとんどほかの者と変わりのない服装をしているからである。たとえば、一人の背の高くない中年紳士は、燕尾服、――つまり、ほかの者と同じようななりをして、分別くさい胡麻塩の顎ひげを生やし(これは頸へ括りつけたもので、仮装といえるものはこれ一つだった)、ほとんど少しもほかへ歩かないで、せかせかと細かく足を刻みながら、ものものしい表情を顔に浮かべて、足踏みをしいしい踊っていた。彼は控えめな調子で、しゃがれたバスを立てていたが、この声のしゃがれたところが、ある有名な新聞を象徴するはずになっていた。この人に向かい合ってXとZの大入道が二つ踊っていた。この文字は、二人の燕尾服にピンで止めてあったが、いったいこのXとZが何を意味しているのやら、とうとうわからずにすんでしまった。
『潔白なるロシヤの思想』は、燕尾服に手袋と眼鏡、それに、――枷《かせ》(本当の枷なのだ!)を嵌められた中年紳士によって表わされていた。この紳士は、何か『一件書類』の入った折カバンを、小脇に抱えていた。ポケットからは外国から来たらしい封を切った手紙が覗いていたが、これは疑いをさし挾むすべての人に対して、『ロシヤ思想の潔白』を証明する証書だとのことである。これは幹事が口頭で説明したので、実際ポケットから覗いてる手紙を読んで見ることはできないわけだ。潔白なる『ロシヤの思想』はトストの音頭でも取りたそうに、差し上げた右手に杯を持っていた。両側にはこの『ロシヤの思想』と並んで、髪を短く切った『虚無主義女《ニヒリストカ》』が二人、これもちょこちょこと足を刻んでいる。ところが、相手にはやはり燕尾服を着た中年紳士が踊っていたが、これは重い樫の棍棒を手にしている。それがある新聞、――ペテルブルグのではないが、なかなか脅しの利く新聞を表わしたもので、『こいつで一つ見舞ったら、大分きき目があるぞ!』というような顔をしていた。しかし、棍棒など持っているくせに、この紳士は『潔白なるロシヤの思想』が、眼鏡ごしに自分のほうへ注ぐ視線を正視することができないで、なるべくわきを見るように務めていたが Pas de deux(踊の手)の段になると、まるで身の置き場がないように、体をひねったり曲げたりした。きっと良心の苛責に堪えなかったのだろう……しかし、こんな馬鹿馬鹿しい趣向を、みんな数え上げるのはよそう。どれもこれも似たり寄ったりなので、しまいにはわたしも恥ずかしくてたまらなくなった。ところが、ちょうどこれと同様な羞恥ともいうべき心持ちが、ほかの人たちの心にも反射されたのである。食堂から現われた、とりわけむずかしげな顔つきの人たちにさえ、同じ表情が読まれた。しばらく一同はむっつり押し黙って、腹立たしげな怪訝の目で眺めていた。人間は羞恥を感じると、よく腹を立てて皮肉を弄したくなって来るものだ。わが公衆もだんだんとざわついて来た。
「いったいあれは何事だ?」とある一団の中で、食堂の給仕がつぶやいた。
「いずれ何か馬鹿げたことさ」
「何か文学のことなんだ。『声《ゴーロス》』新聞を批評してるのさ」
「それがおれにとってどうしたというんだ?」
 また別な一団では、
「馬鹿なやつらだ!」
「いや、あの連中は馬鹿じゃない。馬鹿なのはわれわれだ」
「なぜきみが馬鹿なんだい?」
「何もぼくが馬鹿だとはいやしないよ」
「きみが馬鹿でなけりゃあ、ぼくはなおさらのことじゃないか」
 第三のサークルでは、
「あいつらみんな蹴っ飛ばしてやるといい。いや、しかし、勝手にさしとけばいいのさ!」
「広間ごとゆすぶってやりたいなあ!」
 第四のサークルでは、
「レムブケー夫婦は恥ずかしくもなくよく見ていられるなあ!」
「なぜあの二人が恥ずかしがるんだい? きみだって別に恥ずかしいことはないだろう?」
「いや、ぼくも恥ずかしい。第一、あいつは県知事じゃないか」
「きみなんか豚だよ」
「こんな思い切って平凡な舞踏会は、わたし今まで一度も見たことがない」ユリヤ夫人のすぐ傍にいた一人の婦人が、さも聞こえよがしに毒々しくこういった。
 それは、四十ばかりのでっぷり肥った婦人で、けばけばしい絹の着物をきて、頬に紅を塗りこくっていた。彼女は、町でもほとんどだれ一人知らぬものがなかったけれど、交際するものは一人もなかった。さる五等官の未亡人で、夫の遺産としては木造の家一軒と僅かな年金ばかりだったが、相当の暮らしをして馬車までかかえていた。二か月ばかり前、彼女は第一番にユリヤ夫人を訪問したが、玄関払いを食わされてしまったのである。
「こんなこととは、前から察しがついてたんだけれど」ずうずうしくユリヤ夫人の顔をまともに見据えながら、彼女はこうつけ足した。
「そんなにお察しがついてたのなら、なぜ出かけていらしったのです?」とユリヤ夫人はこらえかねていった。
「ええ、元来が正直なもんですからね」と元気のいい婦人は断ち切るようにこう答えて、むやみにそわそわと体を動かし始めた(どうかして突っかかって行きたくてたまらないらしい)。しかし、例の将軍が中へ割り込んだ。
「|奥さん《シェールダーム》」と、彼はユリヤ夫人の耳に口を寄せた。「本当にお帰りになったほうがいいですよ。わたしたちはあの連中に窮屈な思いをさせるばかりだ。わたしたちがいなくなったら、みんな思う存分浮かれましょうて。あなたは何もかもするだけのことをされたのです。あの連中のために、舞踏会を開いておやりになったのだから、もう、それから後は勝手にさしといたらいいです……それに、知事公もどうやら本当にお気分がよくないようだし……何か厄介なことが持ちあがらんうちに……」
 けれど、もうおそかった。
 カドリールの間じゅう、憤ろしげな怪訝の表情で、踊り手を眺めていたレムブケーは、見物の間で下馬評がはじまった時、不安そうにあたりを見廻しはじめた。このとき初めて、食堂で騒いでいた連中の顔が目に映ったのである。彼の目は極度の驚愕を浮かべた。とつぜん声高な笑いが、カドリールの一手《ひとて》とともに見物の中に起こった。例の棍棒を持って踊っていた『脅しの利く地方新聞』の発行者はとうとう『潔白なるロシヤの思想』の眼鏡ごしの視線に堪えかねて、体の隠し場がなくなり、出しぬけに逆立ちで眼鏡のほうへ歩き出した。それはつまり、『脅しの利く地方新聞』の常用手段たる常識の逆立ち的曲解を象徴するはずなのであった。ところで、逆立ちで歩けるのは、リャームシンよりほかにないから、彼がこの棍棒を持った新聞の役を引き受けたのである。ユリヤ夫人も、逆立ちで歩くなんてことは、夢にも知らなかったのである。『あれはわたしに隠してたのです、隠してたのです』と彼女は後でわたしに向かって、絶望と憤懣に悶えなからくり返した。もちろん群衆の哄笑は、だれになんの必要もない諷刺の意味を喝采したのではなく、単に裾のぺらぺらした燕尾服を着て、逆立ちするのを興がったにすぎない。レムブケーはかっとなって、体をぶるぶる慄わせ始めた。
「やくざ者め!」リャームシンを指さしながら彼は叫んだ。
「あの悪党をつかまえてひっくり返せ……足をひっくり返せ……頭を……頭を上に向けるんだ……上へ!」
 リャームシンはくるりと立ちあがった。笑いはさらに高まった。
「あの笑ってる悪党どもを、みんな追い出してしまえ!」と出しぬけにレムブケーは命令した。
 群衆は急にざわざわどよめき始めた。
「それはいけませんよ、閣下」
「公衆を悪罵することはできません」
「自分が馬鹿なんだ!」という声が、どこか隅のほうから響いた。
「海賊《フリブスチエール》!」また別な隅から、だれかがこうどなった。
 レムブケーは声のするほうへくるりと振り返って、顔を真っ青にした。と、鈍い微笑がその唇に浮かんだ、――ふいに何か思い出して、合点がいったような具合だった。
「皆さん」とユリヤ夫人は、詰め寄せて来る群衆に向かっていった、同時に夫の手を引き立てながら。「皆さん、アンドレイを容赦してやってください、アンドレイは病気なのです……容赦してください、ゆるしてやってください、皆さん!」
 夫人が『ゆるしてやってください』といったのを、わたしは本当に自分の耳で聞いたのである。場面の変化は驚くばかり急激だった。しかし、わたしははっきりおぼえているが、ちょうどこのユリヤ夫人の言葉と共に、見物の一部がものにおびえたように、急いで広間の外へのがれ出したのである。だれかヒステリイらしい女の声で、
「ああまた今朝と同じことになった!」と涙を含んだ調子で叫んだのさえ、思い出すことができる。ほとんどおし合いへし合いといっていいくらいなこの混雑のただ中へ、まったく『今朝と同じ』ように、また一つの爆弾が投じられたのである。
「火事だ! 川向こう一面の火事だ!」
 この恐ろしい叫びは、どこで真っ先に起こったのだろう、――広間の中か、それともだれか控え室の階段から駆け込んだのか、確かなことは記憶していないが、それに続いて起こった恐慌は、とても話にできるものでない。舞踏会に集まった群衆の半分以上は、川向こうからやって来た、あの辺の木造の家の持主でなければ、その借家人であった。人々は窓のほうへ飛んで行って、たちまちのうちに窓かけを押し開き、カーテンを引きちぎった。川向こうは一面の火焔であった。もっとも、火事はまだ始まったばかりだが、まるで方角ちがいの場所が三ところも焔に包まれていた、――それが人々を戦慄さしたのである。
「つけ火だ! シュピグーリンの職工だ!」と叫ぶ声が、群衆の中に起こった。
 中でも、きわめて特色のある二、三の叫び声を、今でもよくおぼえている。
「ああ、おれはこんなことだろうと胸に感じていた、つけ火があるだろうと、この二、三日虫が知らせていた!」
「シュピグーリンの職工だ、シュピグーリンの職工だ、ほかにだれがするものか!」
「きっと留守の間につけ火をしようと思って、わざとわたしたちをここへ集めたんだ!」
 この最後の最も驚くべき叫びは、女の声であった。それは自分の家を焼かれた『小箱夫人《カローボチカ》』([#割り注]ここではプラスコーヴィヤ夫人でなく、一般に自分の世帯の小さな世界以外に何物もない女をさしている[#割り注終わり])の、企まざる自然の叫びに相違ない。すべてのものは出口へ雪崩れよせた。毛皮外套や頭巾や婦人外套を選り分ける時の控え室の雑沓、おびえあがった婦人たちの金切り声、令嬢たちの悲鳴、こんなことはもはや今さら書くまでもない。盗賊的行為などがあったろうとは信じられないが、なにしろこういう混雑の際だから、自分の外套が見つからないで、そのまますごすご帰る人が出て来たのも、別に不思議なことではない。これはその後長いあいだ、市中で途轍もない馬鹿げた誇張や、いろんなおまけをつけていい伝えられたことである。レムブケーとユリヤ夫人は群衆のために戸口の所で、ほとんど圧し潰されそうになった。
「みんな引っつかまえろ! 一人も出しちゃいかんぞ!」ひしひしと押しかけて来る群衆の上に、厳めしく手をさしのべながら、レムブケーは絶叫した。「みんな一人一人厳重に身体検査をするのだ、今すぐ!」
 広間の中から乱暴な罵詈の声が聞こえた。
アンドレイ! アンドレイ!」もう極度の絶望に陥ってしまって、ユリヤ夫人はこう叫んだ。
「この女を一番に捕縛しろ!」こちらは大人のほうへ、ものすごく指をさし向けながら、またわめいた。
「この女から真っ先に身体検査をするんだ! この舞踏会は、明らかに放火の目的をもって開かれたのだ……」
 夫人はあっと叫んで悶絶した(おお、これはむろん、本当の気絶なのである!)わたしと将軍は救助に駆け寄った。そのほかにもこの難関に当たって、わたしたちを助けてくれた人があった。その中には、幾たりかの婦人さえ交っていた。わたしたちは不幸な夫人を、この焦熱地獄から救い出して、馬車の中へ担ぎ込んだ。けれど、彼女が正気に復したのは、やっと馬車が家へ近づいた時であった。そして、彼女の最初の叫び声は、またしてもアンドレイのことだった。いっさいの幻がくずれ落ちるとともに、夫人の前に残ったのは、ただアンドレイ一人のみとなった。人々は医師を迎えにやった。わたしは夫人の傍に一時間から付いていた。公爵もやはり同様だった。将軍は寛大心の発作に駆られて(もっとも、自分でもだいぶ面くらっていたが)、夜っぴて『不幸な夫人の病牀』を離れないといっていたが、十分ばかり経つと、まだ医者の来ないうちに、肘掛けいすの上で寝込んでしまった。で、わたしたちはそのままうっちゃっておいた。
 舞踏会から火事場へ駆けつけた警察署長は、わたしたちの後からうまくレムブケーを連れ出して、一生懸命、閣下に向かって『お休みにならなければなりません』とすすめながら、ユリヤ夫人の馬車へ乗せようとした。どうして、たってもそうさせなかったのか、わたしは合点がいかない。むろん、レムブケーは休息などということなどには耳をかそうともせず、ただ火事のほうへ飛んで行こうとするのであった。が、そんなことは署長にとって理由にならない。が、とどのつまり、彼は自分の馬車に乗せて、火事場へ連れて行ってしまった。あとで彼の話したところによると、レムブケーは途中のべつ何やら身振り手真似をしながら、『とうてい実行のできないようなとっぴなことを』いい出したとのことである。その後になって、閣下は『思いがけない驚愕のために』、その時早くも精神錯乱に陥っておられた、というふうに報告されたのである。
 舞踏会がどんなふうに終わったか? そんなことなどは、今さららしくいうまでもない。幾十人かののらくら者と、それに幾たりかの婦人たちさえいっしょになって、会場にい残ったのである。警察の監督などは少しもなかった。音楽隊は帰さなかった。帰ろうとしかけた楽手は、こっぴどく撲りつけられた。夜明けごろまでには、ほとんど『プローホルイチの屋台ごと』さらっていって、人々はめちゃめちゃに飲みまくった。そして、だれはばかることもなく、カマリンスキイ([#割り注]卑俗なロシヤの民衆舞踏[#割り注終わり])を踊ったり、広間を汚したりして、ようやく明方に近い頃、泥酔したこの連中の一部は燃え残っている火事場のほうへ、また新しく一騒ぎに出かけたのである……ほかの連中はそのまま広間に泊り込んで、死人のように酔い潰れたなり(そのほかの結果は推して知るべしである)、ビロードの長いすや床の上に倒れてしまった。朝になって、人々はさっそくこの連中を、手取り足取り往来へ引き摺り出した。県内の婦人家庭教師扶助を目的とする慈善会も、こうして終を告げたのである。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 火事は放火ということが明瞭なために、ひとしお川向こうの住民を驚かしたのである。ここに注意すべきは、まず『家が焼けてる』という最初の叫びとともに、すぐ後から『シュピグーリンの職工どもがつけたのだ』という叫びが起こったことである。しかし、今では実際、もとのシュピグーリンの職工が三人だけ放火に関係していたけれど、ほんのただそれだけで、ほかの連中は世論にも官憲にも、まったく無罪と認められている。この三人のやくざ者のほかに(そのうち一人は捕縛されて自白したが、後の二人は今だに姿を晦ましている)、懲役人のフェージカも放火に関係していたのは、疑いもない事実である。目下のところ、火事の原因について分明しているのは、まあ、これくらいのことである。もっとも、いろいろな臆測となると、これはもう別な話だ。いったいこの三人のやくざ者は、どういうわけでこんなことをしたのか、だれに使嗾されたのか? この問いに答えることは、今でもしごく困難である。
 火事は烈しい風と、川向こう一帯がほとんどぜんぶ木造家屋なのと、おまけに三方から火を放ったのとで、みるみる急激に広がって、ほとんど信じられないような力で、一区画全体を嘗めつくした(もっとも、放火はむしろ二方からといったほうが正確なくらいだ。第三の火の手は燃えあがると同時に、すばやく消し止めてしまったからである。このことはまた後で書こう)。しかし、首都の新聞では、それでもこの町の災厄をかなり誇張して書いたようである。実際、焼けたのは、ざっとした勘定で、川向こう全体の四分の一を出なかった(或いはそれより少ないかもしれぬ)。消防隊は町の面積と人口に比較して、割に微力なものであったが、きわめて精確な犠牲的な働き振りを示した。けれど、もし朝方、風が変わって、夜明けすこし前にばったり落ちてしまわなかったら、住民と協力して活動した消防隊も、さしたる効果をもたらすことはできなかったに相違ない。
 舞踏会を逃げ出してから一時間ほどたって、わたしが川向こうへ駆けつけたときには、火はすでにその威力の頂上だった。川に沿った通りは、一面に焔の海となって、昼のように明るかった。火事の光景を詳しく描くのはやめにしよう。ロシヤで、そんなことを知らないものはないのだから。燃えさかっている町に近い横町横町は、名状すべからざる混乱と雑沓の巷と化していた。そこではもう火の襲来を覚悟して、住民は家財を引き出していた。が、それでも住まいの傍を離れないで、みんな引っ張り出したトランクや羽蒲団の上に坐ったまま、わが家の窓下で様子を見ていた。男連の一部は、苦しい労働に一生懸命だった。容赦なしに塀を叩き毀したり、火に近い風下の、ぼろ小屋みたいなものさえどんどん倒しているのであった。目をさましたばかりの子供が泣き出すやら、早くも道具を引き出した女どもが、歌うような調子で訴えながらわめくやらしていた。けれど、まだ運び出しきれなかった女たちは、今のところ黙り込んで、せっせと働いている。火花や火の粉が遠くまで飛んで行った。人々はできるだけそれを消し止めていた。火事場の傍には、町の隅々から駆けつけた見物人が、うようよするほどごった返していた。中には、消すほうの手伝いをするものもあったが、ほかのものは面白そうに見物していた。
 夜の大火はいつでも人をいらだたすような、同時に浮き立たすような印象を与えるものである、花火はこの理を応用したのだ。しかし、花火のほうは優美な、規則正しい一定の形を保って広がる上に、まったく危険のおそれがないから、シャンペンを一杯かたむけた後のような、遊戯的な軽い印象しか起こさない。ところが、本当の火事となると、まるで別である。ここでは恐怖と個人的危険の感じとが(なんといっても、そういう感じはいくぶんある)、夜の火事に特有の浮き立たすような印象の陰から、見ている人に(もちろん、焼けた家の人ではない)一種脳髄の震盪ともいうべきものと、自分自身の破壊的本能を呼び起こすのである。しかも、この本能はいかなる人の心にでも、――どんなに意気地のない、大勢の家族をかかえた下級官吏の心の底にも、潜んでいるのだ、――こうした陰惨な感触には、いかなる場合でも、人を酔わすようなところがある。
『わたしは火事というものを、一種の満足感なしにじっと見ていられるかどうか、まったく自分でもわからないような気がするよ』
 これは、スチェパン氏が偶然ある火事に行き会って、その第一印象に支配されながら帰って来た後、わたしにいったのを、一言一句たがえずに引用したものだ。とはいえ、こうした夜の火事の讃美者でも、自分から火の中へ飛び込んで、焼け死のうとしている子供や老婆を助け出すこともあるのは、むろんいうまでもない話だ。が、それはぜんぜん別問題である。
 弥次馬連の後から人波に揉まれながら、わたしはいろんなことをぐずぐず聞いていないで、最も重大な、最も危険な場所へ辿りついた。そうして、ユリヤ夫人の依頼でさがしていたレムブケーを、とうとうそこで見つけたのである。彼の位置は常軌を逸した、驚くべきものであった。彼は塀の毀れた上に立っていた。三十歩ばかり隔てた左のほうには、ほとんど燃えつくした木造の二階家が、黒い骸骨のように立っていて、上も下も、窓の代わりに穴がぽかんとあいて、屋根はすっかり焼け落ちていた。そして、ところどころ炭になった梁を伝って、いまだに焔の蛇がちょろちょろ這っている。庭の奥のほうでは、焼けつくした家から二十歩ばかりの辺に、同じく二階造りの離れが燃え出して、それに消防隊は一生懸命だった。右のほうでは消防隊と住民とが、かなり大きな木造の建物を守っていた。まだ燃えはじめはしないけれど、すでに幾度か火がついたのである。いずれ、全焼の運命をまぬかれまい[#「まぬかれまい」はママ]。
 レムブケーは離れのほうへ顔を向けて、わめき立てたり、手真似をしたりしながら、だれひとり実行するもののない命令を発していた。わたしは初め、皆の者が彼をここへうっちゃって、傍を退却してしまったのではないかと思った。少なくとも、ぎっしり彼を取り巻いた恐ろしく種類のまちまちな群衆が(その中には、平民どもと交って紳士連も立っていた、教会の助祭さえいた)、もの珍しげにあきれ顔をして彼の言葉を聞いてるくせに、だれひとり声をかけようとする者も、つれて帰ろうとするものもなかった。レムブケーは真っ青な顔をして、目を光らせながら、思い切りとっぴなことを口走っていた。おまけに帽子なしである、もう疾うに失くしてしまったのだ。
「何もかもみんな放火だ! これはニヒリズムだ。もし何か燃えてるとすれば、それはつまりニヒリズムなんだ!」こういう言葉を聞いた時、わたしは覚えず慄然とした。もちろん、何も今さら驚くには当たらないことなのだが、しかし、あまりに赤裸々な現実は、いつでも何かこう人の心を震撼させるようなところを持っている。
「閣下」彼の傍ヘ一人の巡査が現われた。「お宅へお帰りになって、おやすみ遊ばしたらいかがでございます……こんな所に閣下が立っていらっしゃいましては、まことに危険でございますから……」
 後で聞いたところでは、この巡査は絶えずレムブケーの傍へ付き添って彼を保護し、なるべく家へ連れて帰るように努力した上で、何か危険が生じた場合には、腕力にすら訴えなければならないという、明らかにこの巡査には及びそうもない訓令を、警察署長から授かっていたのだそうである。
「家を焼かれたものの涙は拭いてももらえるだろう。しかし、町はすっかり焼き払われるに相違ない。これはみんなあの四人の悪党、――四人半の悪党の仕業だ。あの悪党の張本人を逮捕してしまえ! 目ざす相手は一人だ、四人半のやつはそいつの泥をかぶっているんだ。あいつめときたら、よその家庭へ忍び込んで、その名誉を蹂躪するようなやつだ。そして、家を焼くために、家庭教師なんかをだしに使ったのだ。卑劣だ、実に卑劣だ? あっ、あの男は何をしてるんだ?」ふと燃えさかる離れの屋根に一人の消防手を見つけて、彼はこう叫んだ。火は、その消防手の踏んでいる屋根を突き抜けて、あたり一面に焔を吐いていた。「あの男を引き摺り下ろせ。引き摺り下ろせ。落ちてしまう、焼けてしまう。あれを消してやれ……いったいあれはあすこで何をしてるんだ?」
「消しておるのでございます、閣下」
「いや、そんなはずはない。火事は心の中にあるのだ、家の屋根の上じゃない。あの男を引き摺り下ろせ。そして、何もかもうっちゃってしまえ! うっちゃったほうがいい、うっちゃってしまったほうがいい! 勝手にどうなとなるがいいのだ! あっ、まだだれやら泣いている! 婆さんだ! 婆さんがわめいているのだ、どうして婆さんを忘れて来たんだ?」
 なるほど、燃えさかる離れの階下《した》のほうで、置き忘れられた老婆が声をかぎりに叫んでいた。これは家主の商人の親戚にあたる八十の老婆だった。もっとも、彼女は置き忘れられたのではなく、まだ火のついてない隅っこの小部屋から、自分の羽蒲団を引き出そうというむやみな考えを起こして、焼けている家の中へわれと引っ返したのである。その時はまだ入れた。が、すぐにその小部屋へも火がついたので、老婆は煙にむせ、火気にあぶられて、わめき叫びながら、それでも毀れた窓ガラスの間から、よぼよぼした手で一生懸命に、羽蒲団を押し出そうともがいているのであった。レムブケーはそのほうへ救助に飛びかかった。彼が窓の傍へ駆け寄って、羽蒲団の隅に手をかけると、力まかせに窓から引っ張り出しにかかったのは、一同の目にも映った。と、運悪くもこの瞬間に、毀れた板が一枚屋根から落ちてきて、不幸なレムブケーに当たったのである。板は落ちる拍子に、ちょっとはじが頸へ触っただけで、別に命を取るようなことはなかったが、レムブケーの公生涯は(少なくもこの町では)終わりを告げてしまった。この打撃に足をとられて、彼はそのまま知覚を失って倒れたのである。
 ついに暗澹とした気むずかしげな朝がきた。火事はその勢いを減じた。夜来の風の後でふいに凪《なぎ》がきて、やがて細かい雨が篩からおろすように、しずかに降り出した。その時、わたしはレムブケーの倒れた所からだいぶ離れた、同じ川向こうでも区の違った場所に立っていたが、ふと、そこの群衆の中で奇怪な話を耳にした。一つの不思議な事実が発見されたのである。ほかでもない、この区の一番はずれに当たって、ほかの建物からは少なくも五十歩ばかり離れたがらんとした野菜畑の傍に、ついこのあいだできたばかりの木造の小家が立っていたが、この一軒家にひとしい家が、火事の初めごろ、ほとんど第一番に焼け出したのである。もしこの家が焼き払われたとしても、あれだけの距離があることだから、火はほかの家ヘ一軒でも移るはずはなかったし、またその反対に川向こう全体が灰燼に帰したにせよ、どんな風の強い日でも、この家ばかりは助かったに相違ないのだ。したがって、この家は独立して燃え出したのであり、自然の理として無意味に焼けたのではない、とこういうことになる。しかし、何より不思議なのは、家は焼けないですんだけれども、夜が明けてからその家の中で、驚くべき事実が発見されたのである。
 この新しい家の持ち主は、市外の村に住んでいる町人だったが、新築の家が火事と見るより、さっそく飛んで来て、横手の壁際に積んだ薪に火がついたのを、近所の者と力を合わせて投げ散らし、無事に消し止めたのであるが、この家には、借家人が住んでいた、――それは町でも知らぬ人のない大尉とその妹、それにかなり年増の女中だった。この借家人が三人ながら、その夜のうちに斬り殺された上、明らかに掠奪されていたのである(レムブケーが羽蒲団を助けようとしたとき、警察署長が傍にいなかったのは、つまりここへ来ていたからである)。朝になると、この出来事はぱっと四方に広がって、ありとあらゆる種類の人間が恐ろしい群をなして、この原っぱの新しい家をさして、潮のように押しかけて来た。家を焼かれた川向こうの人さえ交っていた。その辺は、通り抜けができないほどの人だかりであった。
 わたしはすぐさまいろいろな人から話を聞いた。初めて見つけ出した時、大尉は昼着のまま床几の上に倒れて、咽喉を切られていた。たぶん死人のように酔い潰れているところをやられたので、何一つ知らずに死んでしまったに相違ない。血は、まるで『牛が殺されたように』流れていたとのことである。妹のマリヤは体じゅうナイフの『突き傷だらけ』で、戸口に近い床の上に倒れていた、これはきっとかなり苦しんで、うつつに兇賊と闘ったに相違ない。女中も目をさましたものらしく、綺麗に頭を割られていたということである。家主の話によると、大尉は前日の朝、へべれけで彼の所へやって来て、だいぶたくさんの金、――かれこれ二百ルーブリ近くの金をひけらかして、大得意でいたとのことである。古いぼろぼろになった大尉の緑色の紙入れは、からっぽになって床の上に転がっていたが、マリヤのトランクには手もつけてないし、聖像に嵌めている銀の袈裟もやはり手つかずであった。大尉の衣類もそっくり無事で残っていた。察するところ、賊は大分いそいだものらしい。それに、家内の事情をよく心得た人間と見えて、ただ金ばかりに目をつけて来た様子だし、そのありかもよく承知していたに相違ない。もし家人が駆けつけなかったら、薪が一面の火となって、必ず家を焼いてしまったに違いない。『そうしたら、黒焦げの屍体ばかりでは、事実の推定もむずかしかったろう』
 こんなふうにこの出来事は伝えられた。またおまけとして、こういう話も聞かされた。つまり、この家を大尉兄妹のために借り受けたのはほかでもないスタヴローギン、――スタヴローギン将軍夫人の愛子ニコライ・フセーヴォロドヴィチで、彼自身、家主を訪れたうえ懇々と説いて、やっと承知させたとのことである。家主はこの家を酒屋にするつもりだったので、なかなか貸そうといわなかったが、スタヴローギンは金に糸目をつけないで、とうとう半年分さき払いということで話を決めたのである。
「これはただの火事じゃないぞ」という声が群衆の中で聞こえた。
 しかし、大多数は黙っていた。人々の顔は暗く沈んでいたが、大して目に立つほどの興奮は見受けられなかった。とはいえ、あたりではスタヴローギンの噂が絶えなかった。殺された女は彼の妻だということ、彼が昨日この町で、一番の金持ちドロズドフ将軍夫人の家から、『不正な手段』で令嬢をおびき出したについて、同家ではペテルブルグへ訴状を出すといっていること、彼の妻が殺害されたのは、どうもドロズドヴァ嬢と結婚したいがためらしい、というようなことを話しつづけるのであった。スクヴァレーシニキイはここから二露里半ほどしかないので、わたしは今でも覚えているが、あすこへ知らせてやったものかどうか、という考えが頭に浮かんだ。もっとも、特にだれか群衆を煽動するものがあるようには見受けなかった。実は、さっき食堂で騒いでいた連中の仲間が二、三人、目の前をうろうろしているのにわたしはすぐ気がついたけれど、そんな罪な臆側[#「臆側」はママ]を下したくはない。しかし、一人の痩せた背の高い町人らしい若者だけは、今でも思い出すことができる。まるで煤を塗ったように真っ黒な顔をした、髪の渦を捲いた、痩せひょろけた男で、後で聞いたところによると、錠前屋だとのことである。べつに酔ってはいなかったが、沈んだ様子をして立っている群衆と反対に、まるで前後を忘れたようなふうであった。彼はしょっちゅう皆に何やらいっていたが、その言葉はよくおぼえていない。ただ、彼のいった言葉の中で、多少まとまりのあるのは、
『おい、皆の衆、これはいったいどうしたってんだ? いったいこれからさきもこうなんだろうか?』というくらいのことで、それより長くはなかった。こういいながら、彼は両手を振り廻した。

[#3字下げ]第3章 破れたるロマンス[#「第3章 破れたるロマンス」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 スクヴァレーシニキイの大広間からは(これはヴァルヴァーラ夫人とスチェパン氏との最後の会見の行なわれた部屋である)、火事は手に取るように眺められた。明け方の五時ごろ、右の端の窓にリーザが立っていて、薄れゆく空明りを眺めていた。彼女はこの部屋にたった一人きりだった。彼女の身につけているのは、きのう朗読会に着て出た晴着で、一面にレースの付いた薄い緑色の華やかなものながら、もうすっかり皺くたになっていて、おまけに急いだらしいぞんざいな着方だった。ふと胸のフックがよくかかってないのを見ると、彼女は顔を真っ赤にして、忙しげに着物を直した。そして、きのう入りしなにほうり出しておいた赤いきれを肘掛けいすから取り上げると、それを頸にひっかけた。房々とした髪は乱れ解けて、きれの下から右の肩へはらりとこぼれた。顔はさも疲れてでもいるらしく不安げだったが、目はひそめた眉の陰から燃えるように光っている。彼女はふたたび窓に近寄って、熱い額を冷たいガラスに押し当てた。と、扉が開いて、ニコライが入って来た。
「ぼくはいま、使いを馬に乗せてやりました」と彼はいった。「十分も経ったら、何もかもわかります。今のところ召使どもの話では、河岸に近い、川向こうの一部が焼けたんだそうです、橋の右側がね。十一時すぎに火が出たんですが、今ではもう下火になっています」
 彼は窓に近寄らないで、リーザから三歩ばかり後にとまった。彼女は振り向こうともしなかった。
「暦では、もう一時間も前に明けるはずなのに、まだやっぱり夜みたいだわ」と彼女はいまいましそうにいった。
「暦なんてみんな出たらめですよ」彼は愛想笑いをしながら、こういいかけたが、急に恥ずかしくなってつけ足した。「暦で暮らすのは退屈なもんですよ、リーザ」
 けれど、またもや新しく口にした卑屈な言葉を、自分ながらいまいましく思ったので、彼はもうすっかり口をつぐんでしまった。リーザは歪んだような薄笑いを浮かべた。
「あなたは、あたしと向かい合っても、話に困るほど沈んだ気分になってらっしゃるのねえ。だけど、安心してください。あなたは本当にうまいことをおっしゃったわ。あたしいつも暦で暮らしてるんですの。あたしの生活は、一歩一歩、みんな暦でくってありますのよ。あなた、びっくりなすって?」
 彼女は急にくるりと窓から身を転じて、肘掛けいすの上に腰を下ろした。
「あなたもどうか坐ってくださいな。あたしたちはもう長くいっしょにいられるわけではないから、なんでも思う存分いいたいんですの……あなただって、なんでも思う存分のことをいってならないって法はないわ」
 ニコライは傍に並んで座を占めると、ほとんど恐る恐る、そっと彼女の手を取った。
「それはなんて言い方なんです、リーザ? なんだって急にそんなことをいい出したんです?『あたしたちは長くいっしょにいられるわけでない』というのは、いったいそりゃなんのことです? あなたがけさ起きてから、謎めいたことをいうのも、これでもう二度目ですよ」
「まあ、あなたは、あたしの謎めいた言葉の勘定をお始めなすったんですの?」と、彼女は笑い出した。「覚えてらしって? 昨日こちらへ入って来る時、あたし自分のことを死人《しびと》だっていったじゃありませんか。あれは忘れたほうがいいとお考えになったんでしょう。忘れるか、それでなければ、気がつかないようなふりをしたほうがね」
「おぼえていませんね、リーザ、なんだって死人だなんて? なんでも生きなきゃあ……」
「また、いいさしてやめておしまいになりましたのね。あなたのいつもの雄弁は、まるでどこへやら行ってしまったじゃありませんか。あたしはもう、この世の生涯を終わってしまったんだから、それでもうたくさんですわ。あなた、フリストーフォル・イヴァーノヴィチをおぼえてらしって?」
「いや、おぼえがありませんなあ」と彼は眉をひそめた。
「フリストーフォル・イヴァーノヴィチですよ、そら、ロザンヌ([#割り注]スイス[#割り注終わり])で会った? あの人は恐ろしくあなたを悩ましたものですわね。いつでも戸を開けて、『ほんの一分間だけ』といいながら、必ずいちんち坐り込んだものですわ。あたし、あのフリストーフォル・イヴァーノヴィチの真似をして、いちんち坐り込もうとは思いませんの」
 病的な表情が男の顔に映った。
「そのひねこじれた言い方が、ぼくは痛ましくってたまらないんです。そんな皮肉はあなた自身にとっては、ずいぶん高価なものにつくでしょうにねえ。そんなことをしてどうなるのです? いったいなんのためです?」
 彼の目は、燃えるように輝き出した。
「リーザ」と彼は叫んだ。「ぼくは誓ってもいい、昨日あんたがここへ入って来た時よりも、今のほうが余計あんたを愛しているんだよ」
「なんて妙な告白でしょう! なんだって昨日だの今日だのと、そんな比較がいるんでしょう?」
「あんたはぼくを棄てて行きゃしないだろうね」ほとんど絶望したような調子で、彼は語を続けた。「ぼくらはいっしょにここを立つのだろう、今日すぐにも、ね、そうだろう? そうだろう?」
「あっ、そんなに握ったら、手が痛いじゃありませんか! いったいきょうすぐどこへ向けて行くんですの? どこかへまた、『甦り』に行くんですか? いいえ、もう試験はたくさんです……それに、そんなまどろっこしいことは、あたしには向きませんの。そんなことあたしにはできません。それはあたしには少し高尚すぎます。もし行くなら、モスクワですわ。あすこで、人を訪問したり、自分も人から訪問されたりね、――これがあたしの理想ですの。ごぞんじ? あたしもうスイス時分から、自分がどんな女かってことを、あなたに隠し立てしなかったでしょう。けれど、あなたは奥さんがおありになるんだから、モスクワへ行って人を訪問するわけにいかない。だから、そんなことは話すがものもありませんわ」
「リーザ! 昨夜はどんなことがあったんだろう?」
「あったことがあったんですわ」
「それはひどい! それは残酷だ!」
「残酷ならどうしたんでしょう? 残酷なら、じっとこらえてるよか仕方がないわ」
「あなたは昨日の妄想のことで、ぼくに復讐してるんですね……」と毒々しげに微笑しながら、彼はつぶやいた。
 リーザはかっとあかくなった。
「なんて卑劣な考えでしょう!」
「じゃ、なぜあなたは……『あんなに大きな幸福』をぼくに授けてくれたんです? それをおたずねする権利があるでしょうか?」
「いやですねえ、なんとかして権利ぬきで話をしてくださいな。あなたの想像の卑劣さに、愚かさを加えるようなことをしないでちょうだい。今日は、あなたにとって悪日なのね。ときに、あなたは世間の口を恐れてらっしゃるんじゃありませんか。その『大きな幸福』のために非難を受けやしないかと、心配してらっしゃるんじゃありません? もしそうだったら、後生ですから、心配しないでください。あなたは何も仕出かしゃしないのです。だれに対しても責任はありません。昨日、あたしがあなたの部屋の戸を開けた時でさえ、だれが入って来るか、ごぞんじなかったくらいですもの。それはつまり、今あなたのおっしゃったあたしの妄想です。それっきりですよ。あなたは大胆に、傲然と、みんなの顔を見返していいんですわ!」
「その言葉、その笑い、もう一時間ばかりというもの、ぼくは恐ろしさに冷水を浴せられるような気がする。あんたがあれほど憎々しそうにいう『幸福』は……ぼくのためにいっさいに価してるのだ。いったいぼくは、あんたを失ってもいいのだろうか? ちかっていうが、ぼくは、昨日は、あんたにたいする愛が足りなかった。なぜあんたは今日になって、何もかもぼくから奪ってしまおうとするのだ? あれが、この新しい希望が、ぼくにとってどれだけ高い価を要したか、あんたは、とてもわからないでしょう? ぼくは、いのちの犠牲を払ったのだ」
「ご自分の、それとも、人の?」
 彼はすばやく身を起こした。
「それはいったいなんのことです?」じっと相手を見つめながら、彼はこういい出した。
「あなたのお払いになった犠牲はご自分の命ですか、それとも、あたしの命ですか、とこうおたずねしたかったのです。それとも、あなたは今すっかり、理解力をなくしておしまいになったんですの?」リーザは、かっとなった。「なんだってあなたは、急に飛びあがったんです? なんだってそんな顔をしてあたしを睨むんですの? 本当にびっくりするじゃありませんか。何をそう、びくびくしてらっしゃるんです? あたしもう前から気がついてましたが、あなたは、何か恐れてますね、今、ええ、本当に今……あら、まあ、なんてあおい顔でしょう!」
「リーザ、もしあんたが何か知ってるのなら、それなら、ぼくちかっていうが、ぼくは[#「ぼくは」に傍点]何も知らないのだ……そして、いま命の犠牲を払ったといったのは、けっしてあの[#「あの」に傍点]ことじゃないのだ……」
「あたし、あなたのおっしゃることがまるでわからないわ」おずおず吃るような調子で、彼女はこういった。
 やがて、緩やかな、もの思わしげな微笑が、彼の唇に浮かんだ。彼は静かに腰を下ろして、肘を膝の上に突きながら、両手で顔をおおうた。
「悪い夢だ、うわごとだ……ぼくらはめいめい別なことを話し合っていたのだ」
「あたし、あなたが何を話してらしったのか、まるでわかりませんでしたわ……ねえ、今日あたしがここから行ってしまうってことを、きのう本当に知らなかったんですの? さあ、知ってたんですの、知らなかったんですの、嘘をつかないで、真っ直ぐに返事をしてちょうだい」
「知ってましたよ……」と彼は静かに答えた。
「じゃ、何もいうことはないじゃありませんか。前から承知して、一つの『瞬間』を自分の心に残しておいたんですから、そのうえ何も算盤をはじくことはないはずじゃなくって?」
「さあ、本当のところを、正直にいってください」深い苦悶の声で、彼はこう叫んだ。「いったいあんたはきのう、ぼくの部屋の戸を開ける時、ほんの一時だけだってことを、自分でも承知してたんですか?」
 彼女は憎悪にみちた目で、男を見つめた。
「ごく真面目な人でも、思い切ってとっぴな問いを持ち出すものだというのは、本当のことなのねえ。それに、何をそんなにびくびくしてらっしゃるの? それとも、女のほうからさきに捨てられて、自分からさきに捨てなかったという、その自尊心のためなんですか? ねえ、ニコライさん、あたし、お宅にいる間にいろんなことを考えましたが、その中でこういう確信を得ましたの。ほかじゃありませんが、あなたはあたしに恐ろしく寛大なんですね。それがあたしいやでたまらないんですの」
 彼は席を立って、部屋の中を幾足か歩いた。
「よろしい。じゃ、こういうふうに終わるべきものとしておこう……が、どうしてこんなことになってしまったんだろう?」
「まあ、ご心配なこってすねえ! それに第一、こんなことはみんなあなたご自身で、五本の指を数えるように、知りぬいてらっしゃるんですよ。世界じゅうのだれよりも一番よく合点して、しかもご自分でそれを望んでらしったんじゃありませんか。あたしはお嬢さんです。あたしの心はオペラで養われて来たんですからね、それがつまりことの起こりなんですわ。それですっかり謎が解けるわけよ」
「違う」
「だって、あなたの自尊心を傷つけるようなことは、何もないじゃありませんか。何もかも、正真正銘の事実ですわ。まず最初、美しい瞬間から始まったのです。それをあたし、持ちこたえることができなかったんですの。おととい、あたしが皆の目の前であなたを『侮辱した』とき、あなたは立派な騎士のような態度でお答えなすった、あの後であたしは家へ帰って来ると、すぐなるほどと合点がいきました。あなたがあたしを避けるようになすったのは、あなたに奥さんがおありになるからで、けっしてあたしに対する軽蔑のためじゃない、と、こう思ったんですの。なにしろ社交界の令嬢となってみると、この軽蔑ってものが何より一等おそろしいんですからね。あなたはその時、あなたのほうがかえって、あたしみたいな無分別な女を、逃げ廻りながら守ってくだすったのだ、ということを合点しましたの。ね、あたしずいぶんあなたの心の広さを高く買ってるでしょう。そこヘピョートルさんが横合いから飛び出して、何もかもすっかり説明してくれました。あの人はあたしに向かって、あなたはある偉大な思想のために動揺を感じていらっしゃる、その思想といったら、あたしでもあの人でも、その前へ出るとまるで一文の値打ちもないほど立派なものだが、それでもやはり、あたしがあなたの行く手の邪魔になるって、こううち明けてくれたんですの。あの人は自分もその仲間に入れてるんですよ。あの人は是が非でも三人いっしょになりたがってね、思い切りとっぴなことをいうんですの、――何かロシヤの歌の中にある小舟だの、楓《かえで》の櫂だのってね。あたしはあの人を賞めて、詩人だっていってあげたの。そうするとあの人は、それをまに受けてしまったんですよ。あたしはもうずっと前から、自分はほんの刹那だけで満足することを承知してたから、それで思い切って決心しちゃったんです。ね、これっきりですの、だから、もうたくさん、どうかもう、この上の説明はやめにしましょうよ。また喧嘩をおっぱじめないとも限りませんからね。だれも怖がることはありません、何もかもあたし一人で責任を負いますわ。あたしはやくざな気まぐれ女ですからね、オペラの小舟に誘惑されたんですの。あたしどうせお嬢さんですもの……でもねえ、それでもやはりあたしはね、あなたが恐ろしく愛してくださる、とこんなことを考えていましたの。どうかこの馬鹿な女を軽蔑しないでください。いま落ちた一しずくの涙を冷笑しないで。あたしは『われとわが身のいとおしさに』泣くのが無性に好きなんですから。まあ、たくさん、たくさん。あたしもなんの役にも立たない女だし、あなたもなんの役にも立たない男、つまり、両方ともつまらない同士が二人ぶっ突かったのだから、それをせめてもの慰めにしましょうよ。少なくとも、自尊心の悩みだけはありませんからね」
「悪夢だ、うわごとだ!」スタヴローギンは折れよとばかり両手を揉み、部屋のなかを歩きまわりながらこう叫んだ。
「リーザ、あんたは不幸なひとだ! いったいあんたは自分で自分に、なんということをしたのだ?」
「蝋燭の火で焼けどをしたの、それだけのことよ。まあ、あなたまで泣いてらっしゃるじゃありませんか? もっと紳士らしくなさい、もっと無神経におなんなさい……」
「なぜ、いったいなぜ、あんたはぼくの所へ来たんだ?」
「まあ、本当にあなた、そんな質問を口になされば、社交界の目から見てどれくらい滑稽な位置に立つかってことが、おわかりにならないんですの?」
「なぜあんたは、自分を破滅させるようなことをしたんだ、しかもそんなに醜く馬鹿馬鹿しく……いったいこれからどうするつもりなの?」
「ああ、それが、スタヴローギンでしょうか? あなたに焦れ切っているこの町のある婦人がいった、『吸血鬼のスタヴローギン』でしょうか! ねえ、あたしはもうさっきもいったとおり、一生をたった一時間に換算してしまったから、落ちついたもんですよ。だから、あなたも、ご自分の生涯を換算しておしまいなさい……もっとも、あなたには、なんのためという当てもありませんわねえ。あなたなぞはこれからさき、まだいろいろの『時間』や、『瞬間』がたくさんできるでしょうからねえ」
「あんたと同じだけしかできやしない。それはぼく、立派に誓っておく、あんたより一つだって余計な『時間』はできやしない!」
 彼は絶えず歩きつづけていたので、とつぜん希望に照らし出されたかのように見える、電光のごとく早い刺すような女の視線に気がつかなかった。けれどその光は、同時に消えてしまった。
「ああ、今のぼくの不可能[#「不可能」に傍点]な誠実の値《あたい》を、あんたが知ってくれたらなあ! リーザ、あんたにうち明けて見せることができたらなあ……」
「うち明けて? 何かあたしにうち明けようと思ってらっしゃるの? あなたのうち明け話は真っ平ですわ!」と彼女はほとんどおびえたようにさえぎった。
 彼は言葉を止めて、不安げに待ち設けていた。
「あたし、白状しなくちゃならない。まだあのスイスにいた時分から、あなたの心の中には、何か恐ろしい、けがらわしい、血なまぐさいものがある、しかも……そのくせ、おそろしく滑稽に見せるようなものも隠れている、――こういう考えが、あたしの頭にこびりついてしまったんですの。だから、もし本当なら、あたしにうち明けるのは気をおつけなさいな。あたし、笑い草にしてしまうから。一生涯、あなたを笑ってあげますわ……あら、またあおい顔をなさるのね。もういいません、もういいません、あたしすぐ行きますわ」と彼女は、いまわしげな、さげすむような身振りで、急に椅子から飛びあがった。
「ぼくを苦しめてくれ、ぼくを罰してくれ、ぼくにその胸の欝憤を晴らしてくれ」と彼は夢中になって叫んだ。「あんたは十分にその権利をもっているのだ! ぼくは自分があんたを愛していないことも、あんたを破滅さしたことも承知してる。そうだ、ぼくは『刹那を保留した』のだ。ぼくには希望があったのだ……もうずっと以前から……最後の希望があったのだ……あんたがきのう自分からさきに、たった一人でぼくの部屋へ入って来た時、ぼくは自分の胸を照らし出した一道《いちどう》の光明を、どうしてもしりぞけることができなかったのだ。ふいにその希望を信じてしまったのだ……いや、ことによったら、今でも信じてるかもしれない」
「そういういさぎよい告白に対しては、あたしも同じもので報いなくちゃなりませんわね。あたしあなたの看護婦になりたくありません。もし今日うまく死ぬことができなかったら、本当に看護婦になるかもしれません。けれど、よしなるにしても、あなたのところへは行きゃしない、あなたなんぞはもちろん、足なしや手んぼうぐらいのところでしょうがね。あたしはね、何かまるで、人間ぐらいの背丈をした大きな性悪な蜘蛛の住んでいる恐ろしいところへあなたに連れて行かれて、そこで二人は一生涯その蜘蛛を見つめながら、始終びくびくして暮らしていく、そいった[#「そいった」はママ]気持ちがいつもしていましたの。そうして、あたしたち二人の恋も終わりを告げてしまうんですわ。まあ、ダーシェンカに相談してごらんなさいまし。あのひとなら、あなたのお伴をしてどこまででも行きましょうよ」
「ああ、あんたはこんな時にも、あれのことを思い出さずにいられないんですね?」
「まったくかわいそうな犬ころだ! どうかあのひとに、よろしくいってください。あなたが、老後のおもり役として、もうスイス時分からあのひとを選んでらっしゃるのを、あのひとは自分で承知してらっしゃるんでしょうか? 本当にあなたはなんて用意周到な方でしょう! なんて先見の明に富んだ方でしょう! あら、あれはだれでしょう?」
 広間の奥のほうでほんの心もち戸が開いて、だれかの頭が覗いたかと思うと、すぐ慌しげに隠れてしまった。
「アレクセイかい?」とスタヴローギンがたずねた。
「なに、ぼくがちょっと」またピョートルが、半分ばかり頭を覗けた。「お早う、リザヴェータさん、なんにせ、けっこうな朝と申さなくちゃなりませんね。きっとこの広間にお二人がおられることと思ってましたよ。ニコライ君、ぼくはまったくほんの一分間だけ、お邪魔にあがったんですがね、――ぜひともたったひと言お話したいことがあって、飛んで来たんですよ……ほんのほんのちょっとだけ!」
 スタヴローギンは立って行ったが、三足ほど引っ返して、リーザの傍へ寄った。
「リーザ、いま何か変わったことが耳に入ったら、それはぼくの責任だと承知してください!」
 彼女はぴくりとして、怯えたように男を見上げた。が、彼は急ぎ足に出てしまった。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 ピョートルの首を覗けた部屋は、大きな楕円形の控え室だった。そこには前にアレクセイがいたのを、彼が使いに出してしまったのである。ニコライは広間に通じる戸をうしろ手に閉めて、待ち設けるように立ちどまった。ピョートルは試験するように、ちらと相手を見やった。
「で?」
「つまり、あなたがもう知っていられるなら」まるで、目で魂まで刺し通そうとするように、ピョートルはせき込んでこういい出した。「もちろん、ぼくら二人は毫も責任[#「責任」は底本では「責仕」]はないんです。ことにあなたはそうですよ。なぜって、これはつまり……偶然の一致……偶然の暗合なんですからね……手っ取り早くいえば、法律的にはあなたに関係するはずがない、それを知らせに飛んで来たんですよ」
「焼けた! 殺された?」
「殺されたが、焼けはしなかった。こいつがちょいと具合が悪いけれど、しかし、ぼくは立派に誓っておきますよ、――あなたがどんなにぼくを疑っても、ぼくはけっしてこの事件に罪はないんですよ。だって、実際あなたはぼくを疑っているらしいんだものね、そうでしょう? お望みなら、ありのままの事実をいいますがね、こうなんですよ。まったくのところ、ぼくの頭にそうした考えが浮かんだのです(それは、あなたが自分でぼくに暗示したんですよ。もっとも、真面目にじゃなくて、からかい半分にいわれたんです。だって、あなたが真面目でぼくにそんなことをいうはずがありませんものね)。しかし、ぼくは決心がつかなかった。どうしてどうして、百ルーブリもらったって、決行するはずじゃなかったんですよ、――それに、有利な点は少しもないんだから。いや、これはこっちの話ですよ、ぼく一人の話ですよ……(彼は恐ろしくせき込んで、南京花火のようにしゃべり立てた)。ところが、そこへ素晴らしい偶然の暗合が出て来たんですよ。ぼくは自分の金をね(いいですか、自分の金ですよ、あなたの金は一ルーブリだってなかったんですからね。第一、それはあなた自身よくご承知です)、自分の金を二百三十ルーブリ、あの酔っぱらいの馬鹿者のレビャードキンに、一昨日の晩くれてやったんです、――いいですか、一昨日ですよ、昨日の朗読会の後じゃありませんよ、この点にご注意を願います。これはきわめて重大な偶然ですよ。だって、その時あなたは、リザヴェータさんが来られるかどうか確かなところは知らなかったんですからね。ところで、ぼくが自分の金を出したわけは、ほかじゃありません、一昨日あなたがどえらいことを仕出かしたからです、皆に秘密を暴露しようなんて、とんでもない気になったからです。いや、まあ、あなたの……私生活に立入るのはやめましょう……なにしろ、騎士の考えは別ですからね……が、正直、驚きましたね、まるで棒で眉間《みけん》をがんとやられたような気がした。けれど、ぼくはああした悲劇がいと興ざめだったので、――ちょっとお断わりしますが、ぼくはスラブ言葉なんか使っていますが、本当は大まじめなんですよ、――ああいうことは、どうもぼくの計画を毀すようになるから、どんなことがあってもレビャードキン兄妹を、あなたに知らせないでペテルブルグへ送ろうと、固く決心したわけなんです。ことにあの男、自身でもしきりに行きたがってるんですからね。たった一つ、失策をやったのです。ほかでもない、あなたの名で金をやったんですが、失策ですかどうです? ひょっとしたら、失策じゃないかもしれませんね、え? ところで、どうでしょう。ね、どうでしょう、それが今度、ああいうふうに展開したんですからね……」
 彼は話に夢中になって、ぴたりとスタヴローギンに寄り添いながら、フロックの胸をつかもうとした(実際、わざとしたことかもしれない)。スタヴローギンは力一杯にその手を撲りつけた。
「おや、いったいどうしたんですよ……いい加減におしなさい……そんなにしたら、手が折れてしまうじゃありませんか……つまり、肝腎なのは、どうしてああいうふうに展開したかという点なので」撲られたのにはいささかも驚く色なく、彼はふたたびさえずり始めた。「ぼくは、晩方あいつに金をくれてやったんです、妹といっしょにあす夜の引明けに出立する、という条件つきでね。ぼくはこの仕事を、リプーチンの悪党に頼んだのです。で、あの男が自分で汽車に乗せて、出立させるという段取りになった。ところが、あのリプーチンの畜生、なんの必要もないのに、聴衆相手に悪くふざけようなんて了簡を起こしゃがった、――多分お聞きになったでしょうね? 朗読会の席で。ね、どうでしょう、本当に……二人とも酔っぱらって、詩なんか作ったんですよ。しかも、半分はリプーチンの作なんですからね。あん畜生、大尉に燕尾服なんか着込ましておきながら、ぼくに向いては『けさ出立させた』としらを切って、この間に大尉をどこか裏の小部屋へ隠したもんです。出しぬけに演壇へ飛び出させようという寸法でね。ところが、大尉先生、思いがけなくすこぶる機敏に、一杯きこしめしてしまったものだから、その後でごぞんじの醜体を演じて、結局、半分死んだような有様で家へ送り帰されるという始末。ところで、リプーチンはそっとあいつのポケットから二百ルーブリ抜き取って、はした銭だけ残しておいたんでさあ。けれど、運の悪いことに、大尉がもう朝のうちに、その二百ルーブリをポケットから引っ張り出して、場所がらもわきまえず大自慢で見せびらかしたんですよ。ところが、フェージカはキリーロフのところで、ちょっくら小耳に挾んだことがあるので(ほらね、あなたがちょいと匂わしたでしょう)、そればっかり待ちかまえていたもんだから、この機乗ぜざるべからずと決心したわけです。まあ、これが事実の全部なんですよ。しかし、フェージカが金を見つけなかったのを、少なくもぼくは大いによろこんでいますよ。なにしろあん畜生、千ルーブリぐらいは当てにしてたんですからね! どうやら恐ろしくあわててしまって、自分でも火事に面くらったらしいですよ……本当になさるかどうか知りませんが、ぼくもあの火事には、薪で頭をどやしつけられたほどびっくりしましたぜ。実になんといっていいか、まったく僭越な振舞いですよ……ねえ、ぼくはあなたにあれだけ大きな期待をいだいてるので、何一つあなたに隠そうとしないです。そこでですね、ぼくの頭の中では、その火事という考えがずっと前から熟していたんですよ。この火事というやつは、実に国民的な、通俗的なものですからね。しかし、こいつはいざという時までとっておいたんですよ、ぼくら一同が蹶起する貴重な瞬間まで……ところが、やつらは、とつぜん僭越にも、なんの命令もないのに、今のような手で口を押えて息を潜めるべき時に当たって、ああいうことを仕出かすじゃありませんか! いや、実に言語道断な僭越ですよ! しかし、要するに、ぼくはまだ何も知らないのです。いま町で、シュピグーリンの職工が二人どうとかしたっていってますがね……あの事件に仲間の連中[#「仲間の連中」に傍点]が交ってるとすれば、――仲間の連中[#「仲間の連中」に傍点]が一人でも手を染めてるとすれば、そいつは禍なるかなですよ! ねえ、ごらんなさい、わずかでも手を緩めると、こういう有様ですよ! いや、まったく、あんな五人組なんかをかしらにしてる民主主義の有象無象は、あまり頼みがいがありませんね。われわれにとって必要なのは、たった一人の堂々とした、偶像のような魅力を持った専制君主です。片片たる偶像でなしに衆俗を超越したものを足場にしてる人です……その時こそは五人組も服従の尻尾を捲いて、いざという場合に、欣然と相当の役目を果たすようになるでしょうよ。が、とにかく、いま町じゅうで、スタヴローギンは自分の女房を焼き殺すために町を焼き払ったのだと、大げさに吹聴しているけれど、しかし……」
「もうそんな大げさに吹聴してますかね?」
「いや、実はそんなことはちっともないのです。正直なところ、ぼくはまだ何も聞いたわけじゃない。けれど、世間のやつって仕方のないもんでね、ことに火事にあった連中ときたら…… Vox populi vox Dei(民の声は神の声)ですからな。馬鹿げた噂を蒔くのに、手間はいりませんや……が、実際のところ、あなたはけっして何も恐れることはないですよ。法律的に見れば、ぜんぜん潔白なんですものね。良心のほうからいったって、同じことでさあ。だって、あなたはいやだといってたんですからね。いやだったんでしょう? 証跡といっては少しもありません、ただ暗合があるだけです……例のフェージカが、あの時キリーロフのところで洩らされた、あなたの不用意な言葉を思い出しゃしないか、という懸念もありますが(いったい、なぜあなたはあの時あんなことをいったのです?)、それとて、まるでなんの証拠にもなりゃしない。それに、フェージカはぼくが片づけますよ、今日にも片づけてしまいますよ……」
「死骸は焼けなかったんですか?」
「ちっとも。本当にあん畜生、まるで何一つ気の利いた仕事ができないんだ。けれど、ぼくは何にしても、あなたがそうして落ちついていられるのがうれしいですよ、だって、あなたはこの事件にまるで責任がない、――そんな意志さえなかったとはいうものの、それでもやはりねえ……それにまあ、考えてごらんなさい、今度の成行きで、あなたのほうは都合よく運んでゆくじゃありませんか。あなたは突然やもめとして自由な体になったので、素晴らしい財産を持った美しいお嬢さんと、今すぐにも結婚ができるんですからね。しかも、その人はもう、あなたの掌中にある。ねえ、くだらない事情の巧まざる暗合が、こういう結果を作り出し得るんですからね、え?」
「きみはぼくを脅かそうというんだね、なんて間抜けな男だろう?」
「まあ、何をいうんです。たくさんですよ。ぼくはいま実際間抜けなんですが、しかし、なんという調子でしょう! こんどのことなどはよろこんでもいいくらいだのに、あなたは……ぼくは少しも早く知らせようと思って、わざわざ飛んで来たんじゃありませんか……それに、ぼくなぞ、どうしてあなたを脅かせるものですか? 脅しであなたを納得さしたって、しようがないじゃありませんか! ぼくはあなたの自由意志が必要なのです。恐ろしさにいやいや承知してもらいたくはないですよ。あなたは光です、太陽です……ぼくこそ、心の底から、一生懸命にあなたを恐れてるんです、けっしてあなたがぼくを恐れてるんじゃありません! だって、ぼくはマヴリーキイじゃありませんからね……実際どうでしょう、ぼくがいま軽車《ドロシキイ》に乗ってここへ駆けつけると、マヴリーキイが庭の後の隅っこで、鉄柵にもたれてるじゃありませんか……外套がぐしょぐしょになってるところを見ると、きっと、夜っぴてそこでじっとしてたに相違ない! 実に奇蹟ですなあ! 人間て、どのくらい性根を失くすものか、まったく方図が知れませんね!」
「マヴリーキイ! 本当?」
「本当ですとも、本当ですとも。庭の鉄柵の傍にしゃがんでるんです。ここから、――ここから三百歩くらいしかないと思いますね。ぼくは大急ぎで傍を通り抜けたんだが、やはり見つかっちゃった。じゃあなたは知らなかったんですか? そういうことなら、忘れずにお知らせしていいあんばいだった。まったくああいう男が一ばん危険ですよ。ことにピストルでも持ってるような場合にはね。それに、夜ではあり、霙は降る、そのうえ、当然、癇はたかぶってる、――実際、あの男の境遇は惨澹たるものですからね、はは! あなたどう思います、あの男はなんのためにあんなところにいるんでしょう?」
「もちろん、リザヴェータさんを待ってるのさ」
「ヘーえ! しかし、あのひとが先生のところへなんぞ、出て行くはずがないじゃありませんか? それに……こんな雨の降る中を……本当に馬鹿なやつですなあ!」
「あのひとはいま、先生のとこへ出て行こうとしてるんだよ」
「へえ! そりゃ珍聞ですね! してみると……けれど、まあお聞きなさい、今度あのひとの状況は、すっかり変わったじゃありませんか。今さらマヴリーキイになんの用があるんでしょう? ねえ、あなたはもう自由な独り者だから、明日にもさっそくあのひとと結婚できるじゃありませんか。あのひとはまだ知らないんでしょう、――万事ぼくにまかせてください、ぼくがあなたの代わりに、うまく繕ってあげますから。どこにいるんです? あのひとだって早くよろこばしてあげなくちゃ」
「よろこばせる?」
「当たり前ですよ。さあ行きましょう」
「いったいきみは、あのひとが二人の死骸のことを、悟らないでいると思うんですか?」スタヴローギンは何かこう特別に眉をひそめた。
「むろんさとりゃしないですよ」ピョートルは思い切り白っぱくれた調子で引き取った。「だって、法律的には……おやっ、あなたどうしたんです! それに、よし悟ったからってなんでしょう! 女てものは、そんなことうまくごまかしてしまいますよ。あなたはまだ女の心を知らないんですね! それにあのひとは、あなたと結婚するのが一番とくなんです。だって、あのひとはなんといってもやはり自分の顔に泥を塗ってしまったんですからね。そのうえ、ぼくはあのひとに『小舟』式の話を、うんとして聞かせたんですよ。まったく、あのひとには『小舟』式の話が何より利きめがあるんだから、どれくらいの娘さんかってことも、大抵わかってまさあね。ご心配はいりませんよ、あのひとは平気で鼻歌を唱いながら、二人の死骸を跨ぎますよ――それに、あなたはまるで、まったく清浄潔白なんですもの、ねえ、そうじゃありませんか? ただあのひとは結婚後二年目ぐらいから、あなたをちくりちくりいじめるために、あの死骸を大切にとっとくぐらいのもんでさあ。どんな女でも、結婚する時には、夫の過去からこういうふうなものをさがし出して、それをとっときにするのが普通ですからね。しかし、その頃にはまた……実際、一年たったらすっかり具合が違いますよ、ははは!」
「きみ、馬車に乗って来たのなら、今すぐあのひとをマヴリーキイのとこまで連れてってくれませんか。あのひとはぼくがいやでたまらないから、もうぼくの傍を離れてしまうって、たった今、そういったんですよ。だから、むろんうちの馬車なんかに乗って行きゃしない」
「ヘーえ! じゃ、本当に帰ってしまうんですか? どうしてそんなことになったのでしょう?」ピョートルは馬鹿げた顔つきをした。
「ぼくがあのひとを少しも愛してないってことを、ゆうべなんとかして察したんだろうよ……もっとも、そのことは前から承知してたんだがね」
「へえ、いったいあなたはあのひとを愛してないんですか?」ピョートルは仰天したような顔色を作りながら引き取った。「そういうわけなら、どうして、昨日あのひとがやって来た時、そのまま自分のとこへ置いたんです? どうして潔白な紳士のするように、自分はお前を愛していないって、まっすぐに告白しなかったんです。それはあなたとして恐ろしく卑劣なやり方じゃありませんか。それに、あなたのおかげで、ぼくはあのひとに対して、陋劣きわまる人間にされてしまいますよ」
 スタヴローギンは突然からからと笑い出した。
「ぼくは自分の猿を笑ったんだ」と彼はすぐ、こう説明した。
「ああ! ぼくがちょっと道化の真似をしたのに、気がつきましたね」とピョートルもすぐに高笑いした。「ぼくはちょっとあなたを笑わそうと思って! 実はねえ、ぼくはあなたが出て来るやいなや、顔つきでもって、何か『不幸』があったな、と察しましたよ。ひょっとしたら、ぜんぜん失敗だったかもしれませんね、え? ああそうだ、間違いない」ほとんど満足のあまりむせ返らないばかりに、彼はこう叫んだ。「あなた方は一晩じゅう広間の椅子に行儀よく並んで坐ったまま、何かしら高遠な品性論でもしながら、貴重な時間を消費してしまったんでしょう……いや、失礼、失礼、何もぼくの知ったことじゃない。ぼくはもう昨日から、きっとあなたはこの一件を馬鹿馬鹿しくおじゃんにしてしまうに相違ないと、ちゃんと見当をつけてましたよ。ぼくがあのひとを連れて来たのは、ただ、あなたを楽しませようと思ってのことです。ぼくがついてたら退屈しないってことを、証明しようがためなのです。こんなふうなことなら、何百ぺんでもお役に立ちますよ。ぼくは全体として、人によくするのが好きなんでね。もしぼくの予想どおり、あのひとがあなたに不要だとすると(ぼくも実はそのつもりでやって来たんですが)、そうすると……」
「それじゃ、きみはただぼくを楽しませたいばかりに、あのひとを連れて来たんですか?」
「でなくって、なんのためでしょう?」
「ぼくに女房を殺させるためじゃないんですか?」
「ヘーえ、いったいあなたが殺したんですか? なんという悲劇好きな人だろう!」
「同じことだよ、きみが殺したんだから」
「へえ、ぼくが殺したんですって? ぼくはこれっぱかりも関係がないって、さっきからいってるじゃありませんか。しかし、あなたのおかげで、ぼくはそろそろ心配になって来た……」
「さっきの続きをいって見たまえ。きみは『もしあのひとが不要だとすれば』といったね」
「むろん、それならぼくにまかせておしまいなさい! うまくあのひとをマヴリーキイにくっつけますよ。もっとも、あの男を棚の傍へ立たしたのは、けっしてぼくじゃありませんよ。そんなことまで考えてもらっちゃ困りますからね。ぼくは今あの男が怖いんです。ところで、あなたはいま馬車に乗って来たかといいましたね。ぼくはちょうどそばを駆け抜けて来たんだが……本当にもしあの男がピストルを持ってたら、どうでしょう? ……いいあんばいに、ぼくも自分で一梃もって来ましたがね。ほら(彼はかくしからピストルを出して見せ、すぐにまたしまった)少し遠方だからと思って、持って来たんですよ……もっとも、こんなことはすぐにまるくおさめてあげます。あのひとはいま少しばかりマヴリーキイが恋しくなってるんです……少なくも、恋しくなるべきはずですからね……まったくのところ、ぼくは少々あのひとがかわいそうなんですよ! ぼくあのひとをマヴリーキイといっしょにしてやります。そうすると、あのひとはすぐにあなたのことを思い出して、あの男の目の前であなたを褒めちぎり、当人のことは面と向かってけなすようになります、――それが女心でね! ほう、あなたはまた笑いますね? あなたがそんなにうきうきして来たのが、ぼく嬉しくってたまらない。じゃ、どうです、行こうじゃありませんか。ぼくはまずマヴリーキイから始めましょう。ところであの……殺された連中のことは……ねえ、いま黙ってたほうがよかありませんか? 遅かれ早かれ知れるんだから」
「何が知れるんですって? だれが殺されたんですの? あなたは今、マヴリーキイさんのことを、なんとおっしゃったんですの!」突然リーザが戸を開けた。
「ああ! あなたは立ち聴きしたんですか?」
「あなた、マヴリーキイさんのことをなんとおっしゃったの? あの人が殺されたんですか?」
「ああ! それじゃよく聞こえなかったんだ! ご安心なさい、マヴリーキイさんは生きて、ぴんぴんしています。それはあなたご自身で、今すぐ確かめられますよ。あの人はいま庭の鉄柵に近い、路ばたに立っておられますからね……どうやら、夜っぴてそこで明かされたらしいんです。外套を着て、体じゅうぐっしょりになってね……ぼくがここへ来る時、あの人はぼくを見たんですよ」
「そりゃ嘘です。あなたは『殺された』とおっしゃいました……だれが殺されたんです?」胸をかきむしるような疑いの調子で彼女はしゅうねくたずねた。
「殺されたのは、ただぼくの家内と、その兄のレビャードキンと、二人の使ってた女中っきりです」とスタヴローギンはきっぱりいいきった。
 リーザはぴくりとなって、みるみる顔をあおくした。
「奇怪な、残忍な事件です、リザヴェータさん、馬鹿げきった強盗殺人の事件です」とピョートルはすぐさま豆のはぜるように、口を入れた。「火事のどさくさまぎれにやった強盗、それだけのことです。それは懲役人のフェージカの仕事です。つまり、みんなに金を見せびらかしたレビャードキンの馬鹿が悪いのです……ぼくはそのために飛んで来たんです……まるで、石で額をがんとやられたような気がしましたよ。スタヴローギンさんは、ぼくがこの事件を知らせると、あやうく卒倒しないばかりでした。ぼくらはあなたにお知らせしたものかどうかと、ここでいま相談したところなんですよ」
「ニコライさん、この方のいったことは本当ですか?」リーザはやっとの思いでこれだけいった。
「いや、嘘です」
「どうして嘘です?」ピョートルはぴくりとした。「それはまたなんのことです?」
「ああ、あたし気が狂いそうだ!」とリーザは叫んだ。
「まあ、あなた少しは察しなくっちゃいけませんよ、この人はいま気が狂ってるんですよ!」とピョートルは一生懸命に叫んだ。「なんといっても、妻となった人が殺されたんですからね! ごらんなさい、なんてあおい顔をしてるんでしょう……実際、この人は一晩じゅうあなたといっしょにいて、少しも傍を離れなかったじゃありませんか。どうしてこの人を疑うことができます?」
「ニコライさん、どうか、神様の前へ出たつもりで、あなたに罪があるのかないのか、本当のことをいってください。そしたら、あたしはあなたのおっしゃったことを、神様の言葉として信じます。ええ、誓ってもいいわ、あたしは世界の果てでもあなたについて行きますわ、ええ、行きますとも! 犬っころのようについて行きます……」
「なんだってあなたはそうこの人を苦しめるんです、本当になんてとっぴなことを考える人だろう!」ピョートルは憤然として叫んだ。「リザヴェータさん、ぼく誓っていいますよ、もし嘘だったら、ぼくを臼の中へ入れてついてもいいです。ニコライさんは潔白です。かえって自分が殺されたようになって、ごらんのとおり、うわごとばかりいってるんです。けっしてなに一つ、――心の中でさえ、罪を犯してはいません!………何もかもまったく強盗どもの仕業です。きっと一週間も経ったらさがし出されて、鞭でぶん撲られるに相違ありません……あれは懲役人のフェージカと、シュピグーリンの職工どものしたことです。このことは、町じゅう大騒ぎして噂をしています。だから、ぼくもいってるんです!」
「そうですか? そうですか?」全身をわなわな慄わせながら、リーザは最後の宣告を待っていた。
「ぼくは自分で手を下しもしなかったし、そんな企てに反対もしてたんですが、しかし、あの人たちが殺されると知っていながら、下手人を止めようとしなかったのです。さあ、リーザ、ぼくから離れてください」といって、スタヴローギンは広間へ歩み去った。
 リーザは両手で顔をおおうと、そのまま家を出てしまった。ピョートルは後を追おうとしたが、すぐまた広間へ引っ返した。
「あなたはそういう気なんですか? 本当にそういう気なんですか? じゃ、あなたは何ものも恐れないんですね?」ほとんどいうべき言葉も知らないで、口のほとりに泡を吹かせつつ、憤怒のあまりスタヴローギンに躍りかからないばかりの勢いで、彼は脈絡もない言葉を口走るのであった。
 スタヴローギンは広間の真ん中に立ったまま、ひと言も返事をしなかった。彼は左手でちょっと一房の髪を握りながら、自失したような微笑を浮かべていた。ピョートルは、ぐいとその袖を引っ張った。
「いったいあなたは駄目になってしまったんですか? あんなことを始める気になったんですか? 大方あなたはみんなを密告して、自分は修道院か何かへ行ってしまうんでしょう……しかし、ぼくはどっちにしたってあなたを殺してしまいますよ、いかにあなたがぼくを恐れないたって駄目だ!」
「ああ、きみだね、騒々しくしゃべってるのは?」やっと、スタヴローギンは相手の顔を見分けた。
「あ、早く駆け出してくれたまえ」とつぜん彼はわれに返った。「あのひとの後を追っかけてくれたまえ、馬車をいいつけて。あのひとをうっちゃっといちゃいけない……早く、早く追っかけて! だれにも見つからないように、家まで送ってやってくれたまえ。あのひとがあすこへ……死骸を……死骸を見に行かないように……力ずくで馬車へ乗せてくれたまえ……アレクセイ! アレクセイ!」
「まあ、お待ちなさい、どならないで! あのひとは、今もうマヴリーキイに抱かれてますよ……大丈夫、マヴリーキイがあなたの馬車に乗せやしないから……お待ちなさいっていうのに、今は馬車より大切なことがあるんですよ!」
 彼はふたたびピストルを取り出した。スタヴローギンは真面目な表情でそれを見やった。
「仕方がない、殺したまえ」静かな、ほとんど諦めたような調子で、彼はこういった。
「ふう、馬鹿馬鹿しい、人間はどこまで偽りの仮面《めん》をかぶっていられるんだろう!」ピョートルは本当にぶるぶると体を慄わした。「まったく、殺してしまいたいほどだ! 実際、あのひとも、きみには唾を吐きかけずにはいられなかったろう!………きみは本当になんという『小舟』だ! もう毀すより仕方のない、古い穴だらけの薪舟だ!……ちぇっ、せめて面当てにでも、まったく面当てにでも、目をさましたらよさそうなもんだがなあ! ええっ! 自分から額へ弾丸をぶち込んでくれと頼むくらいなら、今はもうどっちにしたって同じでありそうなもんだ!」
 スタヴローギンは奇妙な薄笑いを洩らした。
「もしきみがそんな道化でなかったら、ぼくも今は諾《うん》といったかもしれないんだ……ほんの少しばかりでも利口だったら……」
「ぼくは道化です。しかし、あなたが、ぼくのおもな半身たるあなたが、道化になってしまうのはいやです! ぼくのいうことがわかりますか?」
 スタヴローギンはその言葉の意味を悟った。それはおそらく彼一人だけだろう。かつてスタヴローギンがシャートフに向かって、ピョートルには感激《エンスージアズム》があるといったとき、相手はすっかり呆気に取られたものである。
「さあ、もうぼくの傍を離れて、どこなと勝手に行きたまえ。明日までには、ぼく何か自分の中から搾り出すかもしれないさ。あす来たまえ」
「本当に? 本当に?」
「そんなことがわかるものか!……さあ、早く、とっとと行きたまえ!」
 こういって、彼はホールを出てしまった。
「ふん、或いはいいほうに向くかもしれないぞ」とピョートルはピストルを隠しながら、口の中でつぶやいた。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 彼はリザヴェータの跡を追って駆け出した。彼女はまだあまり遠くまで行かないで、家からわずか十歩ばかりの所にいた。跡をつけて行った老僕のアレクセイが、今はうやうやしげに燕尾服の小腰をかがめ、帽子もかぶらないで、一歩あとからついて歩きながら、しきりに彼女を引き止めようとしていた。馬車のできるまで少し待ってくれと、根気よく頼むのであった。老人はすっかりおびえてしまって、ほとんど泣き出さないばかりだった。
「お前早く行かないか。旦那様がお茶をくれといってらっしゃるのに、だれもあげる人がないんだよ」
 とピョートルは老人をはねのけ、いきなりリザヴェータの手を取って、小脇にかい込んだ。
 こちらは、その手を振りほどこうとしなかったが、まだすっかり正気に返ってはいなかった。
「第一、あなたの歩いてらっしゃるのは道が違いますよ」とピョートルが猫撫で声でいい出した。「こちらへ行かなくちゃならないんですよ。そんなに庭について行くんじゃありません。それに、どうしたって歩いて行かれやしませんよ。お宅まで三露里からあるうえに、あなたは雨着も持ってらっしゃらないじゃありませんか。ほんのちょっと待ってくださるといいんですがなあ。実はぼく軽車《ドロシキイ》に乗って来たので、馬はそこの裏庭に立ってるんですよ。今すぐここへ廻して、あなたをお乗せしましょう、お宅までお送りしましょう。そうしたら、だれも見る人はありゃしません」
「あなた本当にご親切ねえ……」とリーザはやさしくいった。
「とんでもない、こういう場合には、だれだって、少し人情のある者は、ぼくみたいな立場におかれたら……」
 リーザはじっと彼の顔を見て、思わずびっくりした。
「あらまあ、わたしやっぱりあのお爺さんだと思ってたわ」
「ねえ、ぼくはあなたがそういう態度でこの事件に接してくださるのが実に嬉しい。なぜって、こんなことはみな実際ばかげ切った偏見ですからね。まあ、こういうことになってしまった以上、すぐあのお爺さんにいいつけて、馬車の用意をさしたほうがよかないでしょうか。ほんの十分ばかりです。その間ちょっと引っ返して、玄関の軒下で待ってようじゃありませんか、え?」
「あたしはまず何よりも……あの死骸が見たいんですの、どこにあるんでしょう?」
「おやおや、まあ、なんて馬鹿げた考えでしょう! それをぼくは心配していたんだ……いけません、あんなやくざなものはうっちゃっときましょうよ。それに、何もあなたなぞ見るがものはありませんやね」
「あたし、どこにあるか知ってます、あの家も知ってます」
「知ってらっしゃればどうしたのです! 冗談じゃない、この雨に霧じゃありませんか(ちぇっ、なんて神聖な義務を背負い込んだもんだ!………)。まあ、お聞きなさい、リザヴェータさん、二つに一つですよ。もしぼくといっしょに軽車《ドロシキイ》に乗ってらっしゃるなら、しばらくここで待っててください。ひと足も前へ出ちゃいけませんよ。いま二十歩も前へ出ると、どうしたってマヴリーキイ氏に見つかるんですから」
「マヴリーキイさん! どこに? どこに?」
「ふん。もしあの人といっしょに行きたいんでしたら、もう少しあなたをお送りして、あの人のいるところを教えてあげましょう。ぼくはもう従順なしもべですからね。ただぼくは今あの人の傍へは寄りたくないんです」
「あの人はあたしを待ってるんだ、ああ、どうしよう!」とつぜん彼女は足をとめた。くれないがさっとその顔にみなぎった。
「しかし、まあ、考えてもごらんなさい、あれがくだらない偏見のない人ならとにかく……ねえ、リザヴェータさん、こんなことはまるで、ぼくの知ったことじゃないですからね。ぼくはぜんぜん路傍の人です。それはあなた自身でもよくご承知のはずでしょう。が、それでもやはり、ぼくはあなたのためによかれと祈っています……よしわれわれの『小舟』が失敗に終わったとしても、よしそれがぶっ毀すより仕方のない、古い、腐った団平船にすぎなかったとしても……」
「まあ、痛快だこと!」リーザは叫んだ。
「痛快だなんていいながら、ご自分は涙を流してらっしゃるじゃありませんか。気をしっかり持たなきゃ駄目ですよ。どんなことでも、男に負けんようにしなきゃいけません、現代の世界では婦人といえども……ちぇっ、馬鹿馬鹿しい(ピョートルは本当に唾を吐きかけかねない様子だった)。第一、くやしがることは少しもありませんよ。かえってああなったのが、もっけの幸いだったかもしれないのです。マヴリーキイ氏はああいう……つまり、その、感情的な人ですからね。もっとも、口数は少ないが……しかし、あの人にくだらない偏見がなかったら、という条件つきで、それもかえっていいことではありますがね……」
「痛快だこと、痛快だこと!」と、リーザはヒステリックに高笑いした。
「ああ、どうもしようがないなあ……リザヴェータさん」ふいにピョートルは改まってこういい出した。「ぼくは今あなたのために……いや、何もぼくの知ったことじゃない……ぼくは、昨日あなたがご自分で望まれた時、あなたのためにつくしましたが、今日は……ほら、ここからマヴリーキイ氏が見えますよ。ね、あすこに坐ってるでしょう。ぼくらに気がつかないで。ときに、リザヴェータさん、あなた、『ポーリンカ・サックス』を読みましたか?』
「なんですって?」
「『ポーリンカ・サックス』という小説があるんですよ。ぼくはまだ学生時分に読みましたがね、サックスという財産家の官吏が、不義をした細君を別荘で捕まえたんです……ちぇっ、馬鹿馬鹿しい、こんなことなんかしようがあるもんか! まあ、見てらっしゃい、マヴリーキイ氏はまだ家まで行きつかないうちに、あなたに結婚を申し込みますよ。あの人はまだぼくらに気がつかないんだ」
「ああ、気がつかないほうがいいんですよ!」ふいにリーザが、まるで気ちがいのようにこう叫んだ。「行きましょう、行きましょう! 森の中へ、野原のほうへ!」
 こういい捨てて、彼女はもと来たほうへ駆け出した。
「リザヴェータさん、それはあまり気が狭すぎますよ!」ピョートルはその後を追って行った。「どうしてあなたは、あの人に見られるのがいやなんです? それどころか、大威張りでまともに見ておやんなさい……もしあなたが何かその……処女の純……なんてことを気にしていらっしゃるのなら……それはまったく古くさい偏見ですよ……いったいどこへ行くんです、どこへ? どうも、あの走りようはどうだ! ねえ、いっそスタヴローギンのとこへ引っ返そうじゃありませんか、ぼくの軽車《ドロシキイ》に乗りましょうよ……いったいどこへ行くんです? そっちは野っ原ですよ、あっ、転んじまった!……」
 彼は立ちどまった。リーザは自分で自分の行く手も知らず、鳥のように飛んで行くので、ピョートルはもう五十歩ばかり遅れてしまった。と、彼女は苔の生えた短い切り株につまずいて、ばたりと倒れた。その瞬間、うしろのほうから恐ろしい叫び声が聞こえた。それは、彼女の走ってゆく姿と、続いて地びた[#「地びた」はママ]に倒れた様子を見て、野原を横切って駆け寄るマヴリーキイの叫び声だった。ピョートルはたちまち踵《きびす》を転じて、スタヴローギン家の門内へ引っ返し、大急ぎで自分の軽車《ドロシキイ》に乗ってしまった。
 マヴリーキイは恐ろしい驚愕におそわれながら、リーザの傍に立った。こちらは、す早く身を起こしていた。彼は上からかがみ込むようにして、女の手を両の掌に包むのであった。この邂逅の奇怪きわまる情景は、彼の頭脳を震盪させてしまった。涙は彼の顔を伝って流れた。今まで自分の崇拝していた女がこんな時刻に、こんな天気に、外套もなく、昨日の華やかな衣裳を着けたまま(それも今は揉みくたになって、しかも倒れたために泥まみれだった)、原中を狂ったように走っている姿を、目の前に見せられたのである……彼はひと言も口をきけないで、無言のまま自分の外套を脱ぎ、震える手で女の肩に着せ始めた。ふいに彼は、思わずあっと叫んだ。彼女の唇が自分の手にさわったのに気がついたのである。
「リーザ」と彼は叫んだ。「ぼくはなに一つ能のない男ですが、どうかあなたの傍を追っぱらわないでください!」
「ええ、ええ。さあ、早くここを出てしまいましょう。どうか、あたしをうっちゃらないでね!」彼女は自分のほうから男の手を取って、さきに立ってぐんぐんしょ引く[#「しょ引く」はママ]のであった。
「マヴリーキイさん」彼女はふいに声をひそめた。「あたし、あすこでは、始終、から元気を出してたけれど、ここへ来たら、死ぬのが怖くなった。あたし死ぬの、もうすぐ死んじまうの、だけど恐ろしい、死ぬのが恐ろしい……」固く男の手を握りしめながら、彼女はこうつぶやいた。
「ああ、だれでもいいから来てくれるといいのになあ!」彼は絶望したように、あたりを見廻した。「せめてだれか通り合わせの人でもあればなあ! あなた、足を濡らしてしまいますよ、あなたは……気がちがってしまいますよ!」
「大丈夫、大丈夫よ」と彼女は相手をはげました。「これでいいの。あなたが傍についててくださると、あたしそれほど怖くはないわ。じっと手を握って、あたしを連れてってくださいな……そして、今あたしたちはどこへ行くんでしょう、家へ? いいえ、あたし殺された人たちをさきに見たいの。あの人の奥さんが殺されたんですとさ。そして、あの人のいうには、あの人が自分で殺したんですって。そんなことは嘘だ。嘘だわねえ? あたし殺された人たちを自分で見たいの……あたしのためなんですもの……あの人はね、あの人たちが殺されたために、一晩であたしが嫌いになったんですって……あたし自分で見にいって、何もかも見抜いてしまうわ。さ、早く、早く、あたしあの家を知ってるんだから……あの火事のあった所よ……マヴリーキイさん、ねえ、あたしをゆるしちゃいけませんよ、あたしは穢れた女なんですから! ええ、あたしみたいなものがゆるされるはずはないわ! なんだって、お泣きになるんですの? さあ、あたしの頬っぺたを打ってください、この原中で、野良犬みたいに殺してちょうだい!」
「今、あなたを裁くものは、だれもありません」マヴリーキイはきっぱりといい切った。「神様はゆるしてくださるでしょう。ぼくなぞは、だれよりも一番、あなたを裁く資格のない者です!」
 しかし、二人の会話を書きつづけたら、ずいぶん奇妙なものができたろう。その間に二人は手に手をとって、まるで気ちがいのようにせき込みながら、足早に歩いた。彼らは真っ直ぐに火事場をさして進んだ。マヴリーキイは、なにか百姓馬車にでも出会いそうなものだと、しじゅう一縷の希望をいだきつづけたが、だれひとり出会う人もなかった。小粒な細かい雨足はあたりを一面に包んで、あらゆる光と陰を呑みつくし、何もかも、ただ一色の煙のような、鉛色のいっさい無差別なマッスに化してしまっていた。もうだいぶ前から昼の時刻になっているのに、まだ夜が明けないように思われた。突然この煙のような冷たい靄の中から奇妙な間のぬけた人影が浮かび出て、こちらへ進んで来る。今その当時を想像してみると、もしわたしがリザヴェータの位置に立ったら、とても自分の目を信じられなかったろう。やがて彼女は歓喜の声を上げた。すぐに近づいて来る人がだれかわかったのである。それはスチェパン氏であった。どんなにして彼が家を去ったのか? どんなふうにして家出という気ちがいじみた机上の空想が実現されたのか?――それは後で話すことにしよう。ここでは、ただこれだけいっておこう。この朝、彼はすでに熱病にかかっていたが、病いも彼を引き止めることはできなかった。彼はしっかりした足どりで、濡れた土の上を歩いた。察するところ、彼はこの計画を、無経験な書斎生活の許す限り、相談相手もなしにただ一人、できるだけ一生懸命に考え抜いたらしい。
 彼は『旅装』を調えていた。旅装といっても袖つきマントに、金具のついた漆塗りの幅の広いバンドを締め、それに新しい長靴をはいて、ズボンをその中へたくし込んでいた。おそらく彼はずっと前から、旅行者というのはこんなものと想像していたのだろう。歩きにくいてらてら光る軽騎兵式の深い長靴や、バンドは、四、五日前から用意していたに相違ない。鍔の広い帽子と、しっかり頸筋を包んだ毛糸の襟巻と、右手に持ったステッキと、左手に提げた思い切り小さな、そのくせ思い切りぎっしり詰まったカバンとが、彼の旅装の点睛となっていた。そのうえ、同じく右の手には傘を広げてさしていたが、この三つの物、――傘とステッキとカバンとは、初めの一露里は持ちにくくて窮屈だったし、二露里めからは重くなって来た。
「まあ、本当にあなたなんでしょうか?」と彼女は相手を見廻しながら叫んだ。初めの無意識なよろこびの突発は、すぐさま愁わしげな驚きに変わった。
「リーズ!」これもほとんど夢中で飛びかかりながら、スチェパン氏は叫んだ。「|あなた《シエール》、|あなた《シエール》、あなたもやはり……こんな霧の中を? まあ、ごらんなさい、あの空あかりを! 〔Vous e^tes malheureuse, n'est-ce pas?〕(あなたは不仕合わせなんでしょう、そうでしょう?)いや、わかります、わかります、お話には及びませんが、わたしのことも聞かずにおいてください。Nous sommes tous malheureux, mais il faut les pardonner tous. Pardonnons, Lise.(わたしたちはみんな不仕合わせだ、けれど、あの連中をみんなゆるしてやらなきゃなりません。ゆるしてやりましょうね、リーズ)そして、永久に自由になりましょうよ。この世間の煩いを振り棄てて、完全に自由の身となるためには、il faut pardonner, pardonner et pardonner!(ゆるさなければなりません、ゆるすことです、ゆるすことです!)」
「まあ、あなたはなぜ膝なんかお突きになるんですの?」
「それはこの世間と別れるに当たって、あなたの中にこめられたわたしの過去ぜんたいに別れを告げるためなんです!」彼は急に泣き出しながら、リーザの両手をとって自分の泣き腫らした目に押し当てた。「わたしは、自分の生涯中で美しかったすべてのものの前にひざまずくのです、接吻するのです。感謝するのです! いまわたしは自分を二つに裂いてしまいました。あちらのほうには二十二年間、空へ飛びあがることばかり空想しつづけた一個の狂人が残っているし、ここには打ちのめされて寒さに凍えはてた商人《あきうど》の家の老いぼれた家庭教師がさまよっています。s'll existe pourtant ce marchand(もしどこかにそんな商人があるとすれば……)、しかし、あなたはなんという濡れ方でしょう、リーズ!」自分の膝も湿った土でぐしょぐしょになったのに気がついて、急に身を起こしながら彼は叫んだ。「まあ、どうしたというんです、そんな着物をきて……しかも、歩いて、こんな原中を……あなた泣いてるんですか? 〔Vous e^tes malheureuse?〕(あなたは不仕合わせなんですね?)ああ、わたしもちょっと聞いたことがある……しかし、いったいあなたは今、どこからいらしったんです?」深い疑惑の念にマヴリーキイを見つめながら、臆病げな様子で、彼はたたみかけてこうたずねた。「mais savez-vous l'heure qu'il est?(が、いま何時でしょう、ごぞんじですか?)」
「スチェパンさま、あなたはあの人殺しのことを、何かお聞きになって?……あれはいったい本当なんでしょうか? 本当なんでしょうか?」
「あの連中! わたしはあの連中の仕業が空に映るのを、一晩じゅう眺めていました。あの連中は、ああでもするよりほかに仕方がなかったのです! (彼の目はふたたび輝き出した)。わたしは熱病やみの悪夢からのがれ出るのです、ロシヤをさがしに行くのです、existe-t-elle la Russie?(ああ、はたしてロシヤは存在しているのだろうか?)Bah, c'est vous, cher capitaine!(おや、大尉、あなたですか!)わたしはいつも固く信じていましたよ、どこかで立派な善行をなさるところへ、いつかは必ず行き会うに相違ないと思っていましたよ……だが、わたしの傘を持っていらっしゃい、それに、――ぜひとも歩かなきゃならないわけはないのです。ねえ、後生だから、この傘を持ってらっしゃい。わたしはどうせどこかで馬車を雇いますよ。実は、わたしが歩いて出たのはね、もし Stasie《スタシイ》([#割り注]つまりナスターシヤ[#割り注終わり])が、わたしの出て行くことを知ったら、往来一杯にわめき散らすに相違ない、とこう思ったからです。それで、わたしはできるだけ内証に、こっそり家をぬけ出したんですよ。この頃どこへ行っても、強盗が横行してるとかって、『声《ゴーロス》』などで書き立ててるのは承知してますが、しかし、わたしの考えでは、街道へ出るとさっそく強盗が現われるなんてことは、まさかありゃしないでしょうよ? 〔Che`re Lise,〕 今あなたは、だれかが殺されたとかいったようですね? O, mon Dieu(おやおや)、あなた、顔色が悪いですね!」
「行きましょう、行きましょう!」またもやさきに立って、マヴリーキイを引っ立てながら、リーザはヒステリイのように叫んだ。「待ってちょうだい、スチェパンさま」出しぬけに彼女は後へ引っ返した。「待ってちょうだい、あなたは本当にお気の毒な人ね、さあ、あたしが十字を切ってあげましょう。本当はあなたをお留めしたほうがいいのかもしれませんけど、まあ、やはり十字を切ってあげますわ。だから、あなたも『不仕合わせな』リーザのために、お祈りをしてちょうだいな、――だけど、ほんのちょっとでいいんですの。あまり一生懸命にならなくってよござんすわ。マヴリーキイさん、この赤ちゃんに傘を返しておあげなさい、ぜひ返してあげなくちゃいけないわ。ええ、そうよ――さあ、行きましょう! さあ、行きましょうってば!」
 彼らがかの運命的な家へたどり着いた時には、その前へ群がった黒山のような群衆が、スタヴローギンのことや、彼にとって妻を殺すのがいかに有利であったかなどということを、もうさんざん聞かされた後だった。しかし、くり返していうが、大多数の人間は依然として無言のまま、なんの動揺も示さずに聞いていた。前後を忘れて騒いでいるのは、ただ口やかましい酔っぱらい連中と、例の手を振り廻している職人に類した、「すぐに激しやすい」手合いぐらいなものだった。この職人は不断おとなしい男で知られていたが、もし何かに刺激を受けると、まるで綱でも切れたように、盲滅法飛んで行くたちであった。わたしはリーザとマヴリーキイがやって来たのに気がつかなかった。初めて、あまり遠からぬ群衆の中にリーザの姿を見つけた時、わたしは驚きのあまり棒立ちになってしまった。マヴリーキイには、はじめは気がつかなかった。たぶん雑沓がひどいので、どうかした拍子に一、二歩おくれたのか、それとも群衆に隔てられるかしたのだろう。リーザは自分のまわりへは目もふれず、またなに一つ気もつかないで、群集を押し分け押し分け進んだ。さながら病院から抜け出した熱病やみのようなその姿は、もちろんすぐに人々の注意をひいた。とつぜん人々は声高に話したりわめいたりし始めた。と、だれやらが大きな声で、
「あれがスタヴローギンの情婦《いろ》だ!」と叫んだ。
 するとまた一方から、
「殺したばかりじゃ足りないで、のこのこ見物に来やがった!」
 と、見ると、――うしろからだれかの手が、リーザの頭上《ずじょう》に振り上げられたと思うと、さっと打ち下ろされた。リーザは倒れた。その瞬間、マヴリーキイの恐ろしい叫び声が聞こえた。彼は助けに行こうと身をもがきながら、リーザと自分を隔てる一人の男を力まかせに撲りつけた。しかし、その瞬間、例の職人が両手でうしろから彼を抱きしめた。しばらくの間はあたり一面がやがやと入り乱れて、何が何やら見分けがつかなかった、リーザはそれから、いま一ど起きあがったようにおぼえている。けれど、すぐにまた新しい打撃にばたりと倒れた。とつぜん群衆はさっと分かれて、倒れたリーザのまわりにささやかな空地ができた。狂気のようになった血みどろのマヴリーキイは、泣いたり、わめいたり、われとわが手を捻じたりしながら、彼女の上に立ちはだかっていた。それからさきどうなったか、精確なことはわたしもおぼえていない。ただ、突然、人々がリーザをどんどん担ぎ出したことだけは記憶している。わたしもその後から駆け出した。彼女はまだ生きていた。もしかしたら、まだ意識があったかもしれない。
 後で、この群集の中から例の職人と、別に三人のものが検挙された。この三人は今日《こんにち》まで、自分らはあの兇行になんの関係もない、自分らが捕まったのは誤解にすぎない、といい張っている。或いは彼らのいうとおりかもしれない。職人などは、明らかな証跡を握られているにもかかわらず、元来わけのわからない男のことだから、いまだに秩序だって事件の説明ができないでいる。わたしも少々離れてはいたが、目撃者の一人として、予審で申立てをしなければならなかった。わたしの申立てはこうだった、――この事件はきわめて偶発的のものだし、それに関係者はみんな酔っぱらって、事件の糸筋などはまるで見失ってしまった連中だから、或いは前から狂暴な気分になっていたかもしれないが、ほとんど自分の行為を意識していなかったに相違ない。今でもわたしはこういう意見を持している。

[#3字下げ]第4章 最後の決議[#「第4章 最後の決議」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 この朝いろんな人がピョートルの姿を見た。そういう人はみんな同じように、彼がやたらに興奮していたことを後で思い出した。午後の二時頃に、彼はガガーノフのところへ寄った。彼はついその前日、田舎から出て来たばかりで、その家は訪問客で一ぱいになっていた。彼らは今度あらたに出来《しゅったい》した椿事を、一生懸命に熱くなって論じ合っていた。ピョートルはだれよりも一番にしゃべって、他人に自分の説を傾聴さした。彼はいつもこの町で『頭に穴の明いたおしゃべりの書生さん』ということになっていたが、いま彼はユリヤ夫人のことをいい出したので、町じゅう大騒ぎをしている場合だから、この話題はたちまち一座の注意を集めた。彼はつい近頃まで、夫人にとってごく親しい隔てのない相談相手であった立場から、いろいろと珍しい意想外な報道をもたらした。その中に彼は何げなく(もちろん不注意に)、町でも名を知られた多くの人に関するユリヤ夫人の意見も少々もらして聞かせたが、むろんそれはすぐに一座の人の自尊心を傷つけた。彼の話は全体に曖昧で、ちぐはぐだった。それは悪気のない正直な人間が、一度に山のような誤解を解かねばならぬ苦しい羽目になって、単純な駆け引きのない性分のために、何かいい出してどう締め括りをつけたものか、自分でもわからないでいるように見受けられた。
 彼はかなり不注意に、ユリヤ夫人はスタヴローギンの秘密をすっかり承知していて、あの陰謀を操ったのは、つまり、あのひとなのだ、――という意味のことをうっかり口からすべらした。つまり、夫人が、彼ピョートルに、あんなことをさせるように仕向けたのだ。なぜなら、彼自身あの『薄命なリーザ』に恋していたから、彼はほとんど[#「ほとんど」に傍点]自分でリーザを馬車に乗せて、スタヴローギンの家へ連れて行くように、うまく『持ちかけられ』てしまった、とこういうのである。
「ええ、ええ、あなた方はいくらでも笑ってください。ああ、ぼくも前からわかってたらなあ! これがどういう結果になるかってことが、ちゃんと前からわかってたらなあ!」と彼は語を結んだ。
 スタヴローギンに関するさまざまな不安げな問いに対して、彼はきっぱりと答えた。レビャードキンの横死は彼の考えによると、本当に純然たる偶然の出来事で、金を見せびらかした当のレビャードキンが徹頭徹尾わるいのだ、――こういうふうのことを、彼は格別あざやかに説明した。聴き手の一人が何げなく、きみは「そんなえらそうなことをいったって」駄目だ、きみはユリヤ夫人の家で飲み食いして、ほとんど寝泊りしないばかりの関係だったくせに、今となって自分から音頭を取って、夫人の顔に泥を塗っている、そんなやり方はけっしてきみの考えてるほど見っともいいものではない、と注意した。しかし、ピョートルはすぐに抗弁した。
「ぼくがあすこで飲み食いしたのは、何も金がなかったからじゃありません。あすこの人がぼくを招待したからって、それはぼくの知ったことじゃないでしょう。あれだけのことに対して、どのくらい感謝したらいいか、それはぼく自身の判断にまかせていただきたいもんですね」
 結局、全体として一座の受けた印象は、彼にとって有利なものであった。『まあ、あの男が無邪気な、間が抜けた、そして、もちろんからっぽな人間だとしても、ユリヤ夫人の愚かな真似に対しては、あの男に責任のありようがないじゃないか? それどころか、かえってあの男が夫人を引き止めるようにしていたんだもの……』
 その日の二時ごろ、とつぜん新しい報知が伝わった。ほかでもない。あれほど喧しい噂のあったスタヴローギンが、ふいに正午の汽車でペテルブルグへ立ってしまった、というのである。この報知は多大の興味を惹き起こした。多くの人は眉をひそめた。ピョートルは極度の驚きに顔色まで変えて、『だれがあの男を逃がしてしまったんだ?』と奇妙な叫びを発したとのことである。彼はすぐさまガガーノフの家を駆け出した。とはいえ、彼はそれから二、三軒の家で姿を見せた。
 日暮れごろ、彼は非常な困難を排して、ユリヤ夫人の家へも首尾よく入り込んだ。夫人は断じて彼に会わないといっていたのだ。このことは、三週間後、夫人がペテルブルグへ出発する前に、当の夫人の口から初めて聞いたのである。夫人は詳しいことはいわなかったが、『あの時はもう、お話にならないほど脅しつけられましたの』と彼女は胸を慄わせながら語った、察するところ彼は、もし夫人が何か『口をすべらそう』などという気を起こしたら、夫人をも連類者にしてしまうぞ、と脅しつけたものらしい。夫人威嚇の必要は、もちろん当の夫人などにはうかがい知れぬ、当時の彼の陰謀と密接な関係を持っていたが、どういうわけで彼が夫人の沈黙いかんをああ気づかったか、またどうして夫人の新しい憤激の爆発をああ恐れたか? それを夫人自身が知ったのは、それから五日ばかり経った後のことである。
 もうすっかり暗くなったその晩の七時すぎに、町はずれのフォマア横町の歪みかかった小家、――少尉補エルケリの住まいに、五人組の『仲間』がぜんぶ顔を揃えて集まった。この総会は、当のピョートルが決めたのだが、彼は不都合千万にもすっかり遅刻してしまった。会員の連中は、もう一時間から待ち呆けを食わされた。この少尉補エルケリは、ヴィルギンスキイの命名日に、鉛筆を手にし手帳を前に控えて、しじゅう無言のまま坐り込んでいた、例のよそ者の若い将校だった。彼はつい近頃この町へやって来て、町人うまれの老姉妹の住んでいるさびしい横町の家に間借りしていたが、もう近いうちに転任しなければならなかった。こういうわけで、彼の家は仲間の集まりに一ばん目立たない安全な場所であった。この奇妙な少年は、並みはずれて無口な性質で知られていた。どんなに一座が騒ぎたっていようと、どんなに異常な事柄が話題に上っていようと、自分からはひと言も口をきかないで、一生懸命に注意を緊張させ、子供らしい目つきで話し手を注視して耳を傾けながら、十晩でもぶっつづけに坐りとおすことができる。彼はきわめて愛くるしい、ほとんど利口そうに見えるくらいな顔だちをしていた。彼は五人組に入っていなかったが、ほかの連中はたぶんなにか実行的の方面で特別な任務を帯びているのだろうと想像していた。しかし、今では特別任務を帯びているどころか、自分の位置さえろくろくわきまえていなかったことが明瞭になった。ただ彼は、ついさき頃はじめて会ったピョートルに深く心酔していたにすぎないのである。もし彼が、時を過って堕落した社会主義かぶれの怪物《モンスタア》に出会って、何か社会的かつロマンチックな口実のもとに強盗の寄り合いのような徒党を作り、まず試験のために、だれでも出会い次第の百姓を殺して有り金を強奪しろと焚きつけられたら、彼は必ずのこのこ出かけて行って、いわれたとおりをするに相違ない。彼はどこかに病身な母親を持っていて、月々貧しい俸給の半ばを割いて送っていた、――ああ、彼女はこの亜麻色をしたかわいい頭に、どんなに熱い接吻をしたことだろう、どんなにわが子の上を思って慄えたことだろう、どんなにわが子の上を神に祈ったことだろう! わたしがこの男のことをこんなに長々と書いたのは、この少年がかわいそうでたまらないからである。
『仲間』は興奮していた。昨夜の出来事は彼らを顛倒さした。一同はどうやらおじけづいているらしかった。彼らが今まで熱心に加担していた単純な、とはいえ一定の系統のある醜悪事件は、ついに彼らにとって意想外な結果を来たしたのである。夜の火事、レビャードキン兄妹の惨殺、リーザに対する群衆の暴行、――こういうことはすべて彼らがプログラムの中で、夢にも予想しなかった意外事であった。彼らは専制と専横をもって自分たちを操る人間を、熱くなって非難した。手短かにいうと、彼らはピョートルを待っている間に、互いに調子を合わせて、もう一ど彼にはっきりした説明を求めよう、もし彼がもう一度この前のように、曖昧なことをいってごまかそうとするなら、もはやだんぜん五人組をぶち毀してしまって、その代わり『理想宣伝』の新しい秘密結社を創立しよう。が、それはもう自分たちの発意に係るもので、同等の権利に立つ民主的なものでなくてはならない、ということに決心したのである。
 リプーチンとシガリョフと民情通とは、ことにこの説を主張した。リャームシンは同意らしい顔つきをしながら、沈黙を守っていた。ヴィルギンスキイはなんとも決しかねて、まずピョートルの言い分を聞こうとした。で、一応ピョートルの説明を聴くことに決まった。しかし、彼はいつまで経ってもやって来なかった。こうした、人を眼中におかぬやり方は、いっそう彼らの心に毒をそそいだのである。エルケリはぜんぜん沈黙を守って、ただ茶を出すほうばかり一生懸命に斡旋していた。彼は湯沸《サモワール》も持ち込まなければ、女中も入れないで、コップに注いだのを盆にのせて、主婦のところから自分で運んで来るのであった。
 ピョートルはやっと八時半に顔を出した。彼は、一同の座をかまえている長いすの前の円テーブルへ、ずかずかと早足で近寄った。手には帽子を持ったままで、茶も辞退して飲まなかった。彼は毒々しい、いかつい、高慢げな顔をしていた。きっと人々の顔つきで、皆が『謀反』を起こしているな、と悟ったに相違ない。
「ぼくが口を開く前に、一つきみたちの思っていることをぶちまけてくれたまえ。きみたちはなんだか妙に取りすましているじゃないか」一同の顔をじろりと見廻しながら、意地悪げな冷笑を浮かべて、彼はこう切り出した。
 リプーチンは『一同を代表して』口を切った。憤慨のあまり声を慄わせながら、「こんな調子で続けていったら、かえって自分の脳天をぶち割るようなことになるかもしれない」といい放った。むろん、自分たちは脳天をぶち割ろうとどうしようと、少しも恐ろしいとは思っていない、いな、むしろそれを覚悟しているくらいだが、しかし、それはただただ共同の事業のためのみである(一座に動揺と賛成の気配が感じられた)。だから、どうか自分たちに対して、赤裸々にやってもらいたい、いつでも前もって知らせてもらいたい、そうしなかったら、どんなことになるかわかったものじゃない(またもや一座が動揺して、幾たりかの喉を鳴らす声が聞こえた)、あんなふうに仕事をするのは、自分たちにとって屈辱でもあれば、危険でもある……こんなことをいうのは、けっしておじけがついたためではない、ただ一人の人間が自分だけの一了簡で働いて、ほかの者が将棋の歩の役廻りをしていたのでは、その一人がやり損ったら、ほかの者までみんな引っかからなきゃならない(しかり、しかりという叫び、一座の声援)。
「ちょっ、馬鹿馬鹿しい、いったいどうしろというんだろう?」
「いったいあのスタヴローギン氏のくだらない陰謀が」リプーチンはかっとなった。「共同の事業にどういう関係を持ってるんです? あの人が中央本部と何か秘密の関係を結んでいるのは勝手です。ただしそのお伽噺めいた中央本部なるものが、実際に存在しているとすればだが、そんなことは別に知りたくもありませんよ。ところで、今度あの殺人が遂行されて、警察が騒ぎ出した。糸を手繰って行けば、しまいにゃ糸巻まで探り当てる道理ですからね」
「あなたがスタヴローギンといっしょに捕まえられたら、われわれも同様にやられることになるんですよ」と民情通がいい添えた。
「そして、共同の事業のためには、ぜんぜん無益なことですからね」とヴィルギンスキイが大儀そうに語を結んだ。
「なんてくだらないことを! あの人殺しはまったくの偶発事件だよ。フェージカが強盗の目的でやったことじゃないか」
「ふん! しかし、妙な暗合ですね」とリプーチンは体をもじもじさせた。
「お望みとあればいってしまおう、あれはみんなきみの手を通して行なわれたことなんだよ」
「どうしてぼくの手を通して?」
「第一にね、リプーチン君、きみ自身この陰謀に加担してたじゃないか。また第二には、レビャードキンを送り出すように命令を受けて、金を渡されたのはきみじゃないか。ところが、きみはなんということを仕出かしたのだ? もしきみがあの男を出発させたら、何も起こらないですんだんだよ」
「しかし、あの男を演壇に出して、詩を読ませたら面白かろう、という暗示を与えたのは、あれはあなたじゃありませんか?」
「暗示は命令じゃありません。命令は出発させろということでした」
「命令? ずいぶん奇妙な言葉ですねえ……それどころか、あなたは出発を中止するように命令したのです」
「きみは思い違いをしたのです。そして自己の愚劣と僭越を暴露したのです。ところで、あの殺人事件はフェージカの仕業で、下手人はあの男一人、つまり強盗の目的でやったことだ。きみは世間の噂を聞き込んで、それを信じてしまったんだ。きみはおじけがついたんだ。スタヴローギンはそんな馬鹿じゃない。その証拠には、あの人はきょう昼の十二時に、副知事と会見した後で、ペテルブルグへ立ってしまった。もし何かきみのいうようなことがあったとすれば、昼の日中、あの人をペテルブルグへ立たすはずがないじゃないか」
「そりゃぼくだって、スタヴローギン氏がみずから手を下したと、断言しやしませんよ」毒を含んだ無遠慮な調子で、リプーチンはこう引き取った。「スタヴローギン氏はぼくと同様に、なんにも知らなかったかもわかりませんさ。ねえ、ぼくは羊肉が鍋へぶち込まれるように、この事件に引き込まれたかもしれないが、わけは少しも知らなかった。それはあなたにも、わかり過ぎるほどわかっているはずです」
「じゃ、きみはだれが悪いというんです?」ピョートルは沈んだ目つきで相手を見つめた。
「つまり、町を焼く必要を感じた連中ですよ」
「しかし、きみがたがごまかそうとするのが、何より最も悪いんだよ。だが、一つこれを読んでみて、ほかの人にも見せたらどうです。ただ参考までにね」
 彼はレムブケーに宛てたレビャードキンの無名の手紙を、ポケットから取り出して、リプーチンに渡した。こちらはそれを読んで見て、だいぶびっくりしたらしく、何やら考え込みながら、隣りへ廻した。手紙は迅速に一座を一廻りした。
「これは本当にレビャードキンの手ですか?」とシガリョフがたずねた。
「あの男の手です」リプーチンとトルカチェンコ(例の民情通)が断言した。
「ぼくはきみがたがレビャードキンのことで、だいぶ後生気を起こしたのを承知してるから、それでちょっとご参考までに」手紙を受け取りながら、ピョートルはいった。「そういうわけでね、諸君、フェージカなんてどこの馬の骨とも知れぬやつが、まったく偶然にわれわれから、危険な人物を除いてくれたわけなんです。偶然てやつはこういう仕事をするからねえ! まったくいい教訓じゃないか!」
 会員連はちらりと顔を見合わせた。
「ところで、諸君、今度はぼくのほうから、きみがたにおたずねする番が廻って来ましたよ」とピョートルは開き直った。「ほかじゃないが、どういうわけで諸君は許可も受けずに、町を焼くようなことをあえてしたのです?」
「そりゃまたなんのことです! ぼくらが、ぼくらが町を焼いたって? そりゃ自分の罪を人に塗りつけるというもんだ!」と人々の叫び声が起こった。
「なに、ぼくにはよくわかってる、きみがたはあまり図に乗りすぎたんだ」とピョートルは頑強に語を次いだ。「しかし、これはユリヤ夫人相手の悪戯とは、ことが違いますからね。ぼくがここへ諸君のお集まりを願ったのは、つまり、諸君が愚かしくも自分からつつき出した危険の程度を、説明するためなんです。実際、それはきみがたばかりでなく、いろんなことに対して、重大な脅威となるんですからね」
「とんでもない、それどころか、たったいまわれわれのほうから、会員に一言の相談もなく、あれほど重大な、同時に奇怪な手段を採られたその専横と不公平の程度を、きみに指示しようと思ってたんですよ」
 今まで沈黙を守っていたヴィルギンスキイが、憤然としてこう切り出した。
「じゃ、諸君は否定するんですね? ところが、ぼくはこう断言する、町を焼いたのは諸君です、諸君ばかりです、ほかにだれもありゃしない。諸君、嘘をついちゃいけない。ぼくには正確な報知が手に入ってるんだから。ああいう専横な行為によって、諸君は共同の事業さえ危殆に陥れたのです。諸君は無限な結社の網の、わずか一つの結び目にすぎない。そして、中央本部に絶対盲従の義務を有してるんです。ところが、諸君のうち三人まで、なんの通牒も受けないで、シュピグーリンの職工に放火を煽動した。こうして火事が起こったのです」
「三人とはだれです? ぼくらのうち三人とはだれのことです?」
「おとといの夜三時すぎに、きみは、――トルカチェンコ君は『忘れな草』で、フォームカ・ザヴィヤーロフを焚きつけたじゃないか」
「冗談じゃない」とこちらは躍りあがった。「ぼくはほんのひと言をいったかいわないかだし、おまけに、それもなんの気なしだったのです。ただあの朝、やつがぶん撲られたからですよ。ところが、やつがあんまり酔っぱらってるのに気がついたので、そのままうっちゃってしまったんです。今あなたがそういわれなかったら、ぼくはまるで忘れてしまったくらいでさあね。たったひと言のために、町が焼けるなんてことがあるもんですか」
「きみは一つぶの火の粉のために、大きな火薬庫がすっかり爆破してしまったのを、びっくりする人間によく似ているよ」
「ぼくは隅のほうで、小さな声であいつに耳打ちしたのに、どうしてそれがあなたに知れたんです?」トルカチェンコはふいに気がついて、こうたずねた。
「ぼくはあすこのテーブルの下に隠れてたのさ。ご心配にゃ及びませんよ、諸君、ぼくは諸君の一挙一動ことごとく承知していますからね。リプーチン君、きみは毒々しそうな笑い方をしてるね。ところが、ぼくはね、さきおとといの夜中、きみが寝室でふせりながら、細君を抓ったことまで知ってるからね」
 リプーチンはぽかんと口を開けたまま、真っ青になった。
(このリプーチンの手柄話は、彼の使っているアガーフィヤという女中がしゃべったことが、後になってやっと判明した。ピョートルはそもそもの初めから、この女に金を握らして間諜の役を命じていたのである)
「ぼくは事実を証明していいですか?」とつぜんシガリョフが席を立った。
「証明したまえ」
 シガリョフは腰を下ろして、身づくろいした。
「ぼくの了解したところによると(それに了解しないわけにゆかない)、あなたは最初に一度と、それから後にもう一度、きわめて雄弁に、――もっとも、あまり理論的ではありましたが、――いかに無限の結社の網でロシヤがおおいつくされているかを、われわれに説明してくだすった。ところで、一方からいうと、現に活動しつつあるこれらの結社は、おのおの絶えず新しい党員をつくって、さまざまな支社によって、無限に広がっていきながら、絶え間なく地方官憲の権威を失墜さして、住民の間に懐疑の念を呼び起こし、シニズムと醜行と、いっさいのものに対する絶対の不信と、よりよき状態に対する渇望をかもし出し、ついには火事という国民的性質を帯びた方法をもって、もし必要と認められたら、予定されたある瞬間に、一国を挙げて絶望の淵に沈めてしまうという、系統的な破邪の宣伝を目的とすべきである、とこういうふうなお話でした。ぼくはあなた自身の言葉を、一語一語違わないように努めながらくり返したのですが、どうです、違っていますかしらん? これは確かあなたが、中央本部から送られた代表者として、ぼくらに報告された予定の行動なのです、そうじゃありませんか? もっとも、その中央本部とやらも、今日までまるでえたいの知れない、われわれにとってほとんど夢みたいな存在物なんですがね」
「そのとおりです。もっとも、きみの言い方は少し冗漫だがね」
「人はだれでも自由な発言権を持っています。ところで、あなたの言葉から推測するところ、ロシヤ全国を網目のごとくおおっている結社の数は、いますでに百という数に上っているそうです。そうして、あなたの仮定を敷衍すると、もし各人が自分の仕事を完全にやり遂げたら、ロシヤ全国は与えられたる時期までには、一発の信号を合図に……」
「ええっ、面倒くさい、そうでなくってさえ仕事はたくさんあるんだ!」ピョートルは肘掛けいすに坐ったまま、くるりと向きを変えた。
「よろしい、じゃぼくは簡略して、単なる質問をもって結びましょう。われわれはすでにさまざまな醜行を見ました、住民の不満を見ました、この地の行政官の没落を目前に見たばかりか、みずからそれに手を下しました。そして、最後に、この目で火事さえ見たのです。そのうえ、あなたは何が不満なのでしょう? これはあなたの予期したプログラムじゃありませんか? いかなる点において、われわれを譴責しようとするんですか?」
「きみらの専横を責めるんだ!」ピョートルは猛然として叫んだ。「ぼくがここにいる間は、ぼくの許可なしに行動はできないはずだ。もうたくさん。もう密告の用意はできてるんだから、明日といわず今夜にも、きみらはみんなふん捕まってしまうんだ。これがきみらの受ける報いだ。これは確かな情報なんだよ」
 これにはもうみんな、開いた口がふさがらなかった。
「しかも、単に放火使嗾の件ばかりでなく、五人組として捕まるんだ。密告者には結社の秘密な連絡がよくわかってるんだからね。さあ、きみたちの悪戯がこういうことになったんだよ!」
「きっと、スタヴローギンだ!」とリプーチンが叫んだ。
「なんだって……なぜスタヴローギンだ?」ふいにピョートルはへどもどしたようなふうだった。
「ちょっ馬鹿馬鹿しい」彼はすぐわれに返った。「それはシャートフだよ! おそらく諸君も今はご承知だろうけれど、シャートフは一時われわれの仕事に加わってたことがあるんです。ぼくは何もかもうち明けなきゃならない。ぼくは、あの男の信用し切っている二、三の人を通じ、絶えずあの男を監視しているうちに、驚いたことには、あの男が、各結社連絡の秘密もその組織も……つまり、何もかも知り抜いているということを発見したのです。以前、自分が加担していた罪を免れるために、あの男はわれわれ一同を密告しようと決心した。が、今まで躊躇していたので、ぼくもあの男を大目に見ていた。ところが、こんどきみがたはあの火事でもって、やつの心の綱を切って放したのだ。彼はあのために極度の震撼を受けて、もう躊躇の念を棄ててしまった。だから、明日にもわれわれは放火犯および国事犯として、捕縛されなきゃならないのだ」
「本当だろうか? どうしてシャートフが知ってるんだ?」
 一座の動揺は名状すべからざるものがあった。
「いまいったことはすっかり本当です。ぼくは自分の足跡を諸君に啓示して、発見の道筋を説明する権利を持たないけれど、さし当たりこれだけのことは、諸君のためにすることができるのです。ほかじゃない、ぼくはある人間を通して、シャートフに影響を及ぼす。すると、あの男は自身そんなことを夢にも悟らないで、密告を延ばすことになる。しかし、それもわずか一昼夜きりで、一昼夜以上の猶予はもうぼくの力に及ばない。そういうわけで、きみがたも、明後日の朝までは、自分の安全を保障されたものと思ってさしつかえないのだ」
 一同は押し黙っていた。
「もういよいよあいつをやっつけなきゃいかんぞ!」最初にトルカチェンコがどなった。
「とっくにやってしまわなきゃならなかったんだ!」リャームシンが拳固でテーブルをとんと叩きながら、毒々しい声でこういった。
「しかし、どういうふうにやるんだ?」とリプーチンがつぶやいた。
 ピョートルはすぐこの問いの尻を押えて、自分の計画を述べた。それはこうである。シャートフの保管している秘密の印刷機械を引き渡すという口実の下に、明日の晩、日が暮れてから間もなく、機械の埋めてある寂しい場所へおびき出し、『そこで片づけてしまおう』というのである。彼はいろいろ必要なデテールに立ち入って説明し(それはいま略しておこう)、シャートフの中央部に対する曖昧な態度を詳しく話した。が、これもやはり読者にはもうわかっていることだ。
「それはまったくそうに違いないけれど」リプーチンが思い切りの悪い調子でいい出した。「しかし、また……同じような性質の異変が重なるわけだから……あまり人心を脅かし過ぎやしないかしらん」
「むろん」とピョートルは相槌を打った。「しかし、それもちゃんと見抜いてあるんだ。完全に嫌疑を避ける方法が講じてあるんだよ」
 彼は依然として正確な語調で、キリーロフのことを話して聞かせた。彼が自殺を決心したこと、合図を待つと約したこと、死ぬ前に書置きを遺して、口授されることを全部わが身に引き受けるといったこと、――つまり、読者のすでに知悉していることばかりである。
「自殺しようという彼の決心、――哲学的な、というより(ぼくの見るところでは)むしろ気ちがいめいた決心が、――あちら[#「あちら」に傍点]の本部の知るところとなったのです」とピョートルは説明を続けた。「なにしろ、あちら[#「あちら」に傍点]では髪の毛一筋も、塵っぱ一本も見失わないで、それをみんな共同の事業のために利用するんだからね。本部ではこの決心のもたらす利益を見抜き、かつ彼の覚悟の徹頭徹尾まじめなことを確かめたので、ロシヤまで帰る旅費をあの男に送って(あの男はなぜかぜひともロシヤで死にたいというのだ)、ある一つの任務を託したところ、彼はその遂行を誓った(そして、実際、遂行したのだ)。その上に、本部から命令のあるまでは、けっして自殺を決行しないという、すでに諸君もご承知の誓いを、あの男に立てさしたのだ。すると、彼はすべてを約束した。ここでちょっとご注意を願いたいのは、彼がある特別な事情で結社に入っていて、事業のためになることをしたいと、望んでいることです。しかし、これ以上、うち明けるわけにいかない。そこで明日シャートフの後で[#「シャートフの後で」に傍点]、ぼくはあの男に口授して、シャートフの死因は自分にあるという手紙を書かせるつもりだ。これは非常にもっともらしく思われるんだ。なぜって、あの二人は初めごく仲がよくって、いっしょにアメリカへも行ったんだが、後に喧嘩をおっ始めたんだからね。こういうことはすっかり遺書の中に書き込むつもりだ……それに……それに場合によっては、まだほかにも何か、キリーロフに背負わしてやってもいい。たとえば檄文のことだとか、放火の責任の一部分だとか……もっとも、このことはぼくももっとよく考えてみるがね。ご心配にゃ及びませんよ。あの男はくだらない偏見を持っていないから、なんでも承知してくれますよ」
 一座に疑惑の声が起こった。話があまりとっぴで、小説じみているように思われたのである。もっとも、キリーロフのことはみんな多少とも耳にしていた。ことにリプーチンなぞは、一ばん深く知っていたのである。
「もしあの男がとつぜん考えを変えて、いやだといい出したらどうです」とシガリョフがいった。「その話が本当としたところで、あの男はやはりまったく気ちがいなんだから、その希望は不確かなものといわなきゃなりませんよ」
「ご心配はいりませんよ、諸君、あの男はいやだなんて言やしない」とピョートルは断ち切るようにいった。「契約によると、ぼくは前日、つまり今日ですな、あの男に予告しなきゃならないのです。そこで、ぼくはリプーチン君を誘って、今すぐいっしょにあの男のところへ出かけよう。そうするとリプーチン君は、ぼくのいったことが嘘か本当か確かめた上で、必要とあれば、今夜すぐにでもとってかえして諸君に報告するでしょう。もっとも」こんな人間どもを相手にして、こうまで一生懸命に説いて聞かせるのは、光栄すぎて罰が当たるとでも感じたらしく、急に凄まじい憤懣の色を浮かべて、ぷつりと言葉を切った。「もっとも、諸君のご随意に行動したまえ。もし諸君が決心しなかったら、この結社はこなごなに粉砕されてしまうのだ。それもただ諸君の反抗と、裏切りが原因なのですぞ。そうすれば、われわれはこの瞬間から、めいめい自由行動を取ることになる。しかし、前もって承知してもらいたいことがあります。もしそういうふうになれば、シャートフの密告と、それに関連する不快事のほかに、もう一つちょっとした不快事を背負わなくちゃなりませんよ。それは結社組織の際に固く宣言したことだからね。ところで、ぼく自身にいたっては、ぼくはね、諸君、あまり諸君を恐れちゃいませんよ……どうかぼくが諸君にしっかり結びつけられてる、などと思わないでくれたまえ……もっとも、そんなことはどうでもいいや」
「いや、ぼくらは決心します」とリャームシンは言明した。
「ほかに仕方がないからね」とトルカチェンコがつぶやいた。「もしリプーチンがキリーロフの件の事実を確かめたら……」
「ぼくは反対です。ぼくはそんな残忍な決議には極力反対します!」突然ヴィルギンスキイが席を立った。
「しかし?」とピョートルはきき返した。
「しかし[#「しかし」に傍点]とはなんです?」
「きみがしかしといったので、ぼくはその次を待ってるのさ」
「ぼくはしかし[#「しかし」に傍点]などといわなかったはずです……ただぼくがいいたかったのは、もし皆がそんな決議をすれば……」
「その時は?」
 ヴィルギンスキイは口をつぐんだ。
「ぼくの考えでは、自己の生命の安全を等閑に付するのはかまわないが」出しぬけにエルケリが口を開いた。「もし、共同の事業を傷つけるような場合には、自己の生命の安全を等閑にすることはできないと思います……」
 彼はまごついて顔をあかくした。一同は自分の想念に没頭していたが、それでも、みんなびっくりしたように彼を見つめた。この男が同じように口を開こうなどとは、まるで思いがけなかったのである。
「ぼくも共同の事業に与《くみ》するものです」ふいにヴィルギンスキイがこういった。
 一同は席を立った。明日はもう一ところに集まらないで、昼までにいま一ど一同の情報を総合した上、いよいよ最後の打ち合わせをしようと決定した。そして、印刷機械の埋めてある場所が指示せられ、めいめいの役割が決められた。リプーチンとピョートルとは相ともなって、さっそくキリーロフのもとへおもむいた。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 シャートフが密告するということは、『仲間』のもの一同かたく信じ切っていた。しかし、ピョートルが自分らを、まるで将棋の歩《ふ》のように翻弄しているということも、やはり信じ切っていた。それから、明日はなんといっても、一同が揃って指定の場所へ集まり、シャートフの運命を決してしまうのだということも、また覚悟していた。とにかく、彼らはまるで蠅のように、大きな蜘蛛の巣にかかったのを感じて口惜しがったけれど、それでも恐怖に震えあがっていた。
 ピョートルは疑いもなく、彼らに対して拙いことをしたに相違ない。彼がほんの心もち現実に色どりをほどこしたら、万事はもっと穏かに、もっとやさしく[#「やさしく」に傍点]運んだはずなのである。ところが、彼は事実を穏かな光に包んで、古代ローマの市民らしい行為とかなんとか、そんなふうに説明しようとしないで、単に粗野な恐怖と、自己の生命に関する威嚇のみに力点を置いた。これなぞは、すでにぜんぜん礼儀を蹂躪した仕方である。もちろん万事が生存競争の世の中で、ほかになんの自然律もないのはわかりきっているが、しかしなんといっても……
 けれど、ピョートルは彼らの『ローマ市民』らしい心に触れる暇がなかったのだ。彼自身からして、常軌を逸したような心持ちになっていた。ほかでもない、スタヴローギンの逃亡は彼を仰天させ、圧倒してしまったのである。スタヴローギンが副知事に面会したというのは、彼のでたらめである。それどころか、彼はだれ一人、母親にさえ会わないで出発したのだ。実際、だれも彼を止めるもののなかったのが、不思議なくらいである(その後、地方長官はこの点について、特別な弁明書を徴された)。ピョートルはいちんち探り廻ったけれど、さし当たりこれという手蔓もなかった。彼がこんなに心配したのは、これまでにないことである。実際そう急に綺麗さっぱりと、スタヴローギンを諦めるわけにいかないではないか! それがために彼は仲間に対しても、あまり優しくできなかったのである。それに、彼はいま自由な体ではなかった、――猶予なくスタヴローギンの後を追おうと、決心したのである。ところが、シャートフの一件が彼の足を止めた。万一の場合のため、五人組をしっかり固めておかなければならない。『あれだって、ただうっちゃってしまうわけはない。或いはまた何かの役に立つかもしれないからなあ』こういうふうに考えたものとわたしは想像する。
 シャートフのほうはどうかというと、ピョートルは彼の密告を固く信じて疑わなかった。もっとも、『仲間』に話した密告書などということは、みんなでたらめなのである。彼はそんな密告書などかつて見たことも聞いたこともなかったが、それがこしらえてあることは、二二が四というほど確かなものと信じていた。シャートフはどんなことがあっても、今度の事件、――リーザの死、マリヤの惨殺を、我慢することはできない、今この瞬間にこそ、密告の計画を断行するに相違ない、と信じ切っていたのである。ことによったら、案外かれはこの想像に確かな根拠を持っていたかもしれない。また彼が個人的にシャートフを憎んでいたのも、やはりわれわれの間に知れわたった事実である。かつて彼ら二人の間にはいさかいがあったが、彼はけっして侮辱を忘れるような男ではない。これこそおもな理由ではないか、とさえわたしは信じているのである。
 町の歩道は煉瓦畳の狭くるしいもので、通りによると板張りの所さえあった。ピョートルはその歩道を一ぱいに占領しながら、真ん中を無遠慮に歩いて行った。そして、リプーチンが並んで歩く場所がなくて、時には一歩うしろからついて来たり、時には並んで話しながら歩くために、往来のぬかるみへ駆け下りたりしているのに、彼は一顧の注意さえ払おうとしなかった。ピョートルはふと思い出した、――ついこのあいだ彼自身も、スタヴローギンの後からついて行くために、これと同様にぬかるみの中をちょこちょこ駆け出したものだ。すると、スタヴローギンはちょうどいまの自分のように、歩道いっぱいに幅をしながら真ん中を歩いて行ったのだ。あの時の光景をまざまざと思い浮かべると、彼は狂暴な憤怒に息がつまるような気がした。
 けれど、リプーチンも憤懣に息をつまらせていた。たとえピョートルが『仲間』のものを、思う存分に扱うとしても、自分に対しては……なぜといって、自分は仲間の中のだれよりも一番よく事情を知って[#「知って」に傍点]いて、この事件についても一ばん密接な関係をもっており、だれよりも一ばん深く立ち入っている。そして、今まで間接とはいいながら、絶え間なくこの事件に力を添えていたのだ。ああ、彼は立派にわかっている、――ピョートルは今でさえ絶体絶命の場合[#「さえ絶体絶命の場合」に傍点]には、彼リプーチンを亡きものにするに相違ないのだ。しかし、彼はもうとうから、ピョートルを憎んでいた。それは何も、いっしょに仕事をするのが危険だからではなく、その傲慢な態度のためだった。今度こういう残虐を決行せねばならぬ羽目になったので、彼は仲間をみんないっしょにしたより以上に業を煮やしたのである。けれど、悲しいことには、明日の晩かれは間違いなく『奴隷のように』、第一番に約束の場所へ出かけて行くばかりか、ほかの者さえ引き立てて連れて来るに相違ない。それは彼自身にもわかっていた。が、もし明日までにどうかして、わが身を滅ばさずにピョートルを殺すことができたら、彼は必ず殺してしまうに違いないのだ。
 こうした想念に没頭してしまって、彼は無言のまま暴君のうしろから、ちょこちょこと小刻みに歩いて行った。こちらは彼のことなど忘れ果てた様子で、ときどき不注意に、肘で彼を突っつくばかりだった。突然ピョートルは、町でも一ばん賑かな通りに立ちどまって、ある料理屋へ入って行った。
「いったいどこへ行くんです?」リプーチンはかっとなった。「ここは料理屋じゃありませんか」
「ぼくはビフテキが食いたいのさ」
「冗談じゃない、ここはいつも人で一ぱいですよ」
「いいじゃないか」
「しかし……遅れるじゃありませんか。もう十時ですからね」
「あすこへ行くのに、遅れる遅れないのってわけはないさ」
「しかし、ぼくは遅くなっちゃ困りますよ! 仲間がぼくの帰りを待ってるじゃありませんか」
「かまうもんかね。きみ、あんな連中のところへ行くのは、馬鹿馬鹿しいじゃないか。今日はきみたちが騒ぐもんだから、ぼくまだ食事をしてないんだよ。キリーロフのところなら、遅ければ遅いだけ確かなんだから」
 ピョートルは別室に陣取った。リプーチンは腹立たしげな、侮辱されたような顔つきで、わきのほうの肘掛けいすに腰を下ろしながら、相手の食事をじっと見つめていた。こうして三十分以上も経った。ピョートルは泰然と落ちつき払って、さもうまそうに舌を鳴らしながら食べ始めた。そして二度も芥子を取り寄せたり、その後でビールを注文したりして、そのあいだひと言も口をきかなかった。彼は深いもの思いに沈んでいた。彼は一どきに二つの仕事をすることができた、――つまり、物を味わいながら食べると同時に、深いも