『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP193-P240

リーザの世話を焼きながら、自分でもその傍へ並んで腰をかけた。ちょうどからだの明いたピョートルはすぐさまそのほうへ飛んで行って、早口に面白そうにしゃべり出した。この時ニコライは例のゆったりした足どりで、とうとうダーリヤの傍へ近寄った。ダーシャは彼が近づくのを見ると、急に坐ったままもじもじし始めたが、見るからばつの悪そうな様子で、顔を真っ赤にしながら、いきなり飛びあがった。
「あなたにはもうお祝いをいってもいいと思ったが……それともまだですかね?」と彼は一種特別な表情を浮かべながらいい出した。
 ダーシャは何かそれに答えたが、ほとんど聞き取ることができなかった。
「失礼をいったらゆるしてください」彼は声を高めた。「しかし、あなたもご承知でしょうが、ぼくは知らせをもらったもんだから……あなたそれをご承知なんでしょう?」
「ええ、あなたがわざわざ知らせをお受けになったのは、わたしもぞんじております」
「けれど、あんなお祝いをいって、かえって何かお邪魔をしやしなかったでしょうね?」と彼は笑った。「もしスチェパン・トロフィーモヴィチが……」
「なんの、なんのお祝いです?」出しぬけにピョートルがそばへ飛んで来た。
「なんのお祝いです、ダーリヤさん? あっ! 例の件じゃありませんか? お顔の紅葉《もみじ》が証拠ですよ、当たったでしょう。まったく美しい、淑徳の高い処女が祝いを受けるわけはなんでしょう? そして、その処女が一番よけい顔をあかくする原因はなんでしょう? いや、本当に当たったのなら、ぼくからもお祝いを受けてください。そして、賭けを払ってくださいな。覚えてらっしゃるでしょう、あなたが結婚なんかしないとおっしゃったので、スイスで賭けをしたじゃありませんか……ああ、そうだ、スイスといえば、――本当にぼくはどうしたんだろう? まあ、どうでしょう、半分はそのためにこちらへ上ったくせに、もうあやうく忘れかけるところでしたよ。ねえ、お父さん」と彼はくるりとスチェパン氏のほうへ振り返った。「お父さんはいつスイスへ行くの?」
「わたしが……スイスへ?」とスチェパン氏はびっくりして、まごまごした。
「え、じゃ、行かないの? だって、お父さんもやっぱり結婚する人じゃないの……自分で手紙にそう書いてたくせに?」
「ピエール!」とスチェパン氏は叫んだ。
「いったいピエールがどうしたの……もしこの縁談が、お父さんに会心なものだとすれば、ぼくはこれに少しも異存がないことを知らせるために、こうして取るものも取りあえず飛んで来たんだよ。だって、一刻も早くぼくの考えが聞きたいと書いてあったからね。ところで、もし(と彼は早口でしゃべった)同じ手紙の中で、お父さんが祈るように書いているとおり、本当に『救って』あげる必要があるとしても、やっぱりぼくはできるだけのことはしてあげるつもりだよ。ヴァルヴァーラ・ペトローヴナ、親父が結婚するというのは本当ですか?」彼はくるりと夫人のほうを振り向いた。「ぼくはけっして出しゃばってないつもりですがね。だって、お父さんはあの手紙の中で、自分からそういってるんですもの。もうこのことは町じゅうみんな知っていて、だれもかれもお祝いをいって仕方がないから、その不快を避けるために、夜でなければ外へ出ないようにしてるって。その手紙は現にぼくのかくしにありますよ。が、どうでしょう、奥さん、ぼくはその手紙がてんでわからないんです! ねえ、お父さん、たった一言だけいってくださいよ、いったいお父さんは祝ったらいいのか、それとも『救わ』なくちゃならないのか、――どっちなの? 奥さん、あなたとても本当にはなさらんでしょうが、親父の手紙には、まるで幸福の絶頂に立ったような文句の間に、絶望のどん底に落ちたような言葉がまじってるんです。第一、親父はぼくに詫びをいっています。まあ、これなぞはああいう人たちの性分としておきましょうが……しかし、どうしてもいわずにいられないことがあります。考えてみてください、一生の間にたった二度、それもほんの偶然の機会でぼくを見たばかりの人が、こんど三度目の結婚をしようという間際になって、急に『そんなことをしては、あの子に対する親の義務を犯すことになる』てなことを考え出して、千露里も離れたところから『怒らないでくれ、許してくれ』といって、哀願してるじゃありませんか? お父さん、怒っちゃいけないよ、これも時代の特徴だから、ぼくは広い見地から見て、けっして非難しようとは思わない。かえってそれをお父さんの美点と見なしてもいいくらいだ。それはさておいて、肝腎なところは、その肝腎なところがてんでぼくにわからない、という点なのだ。あの手紙には何かしら『スイスにおける罪業』とかなんとか書かれていた。罪業によってだったか、他人の罪業のためだったか、とにかく結婚するというようなことで、どう書いてあったか、はっきり覚えてないけれど、――手っとり早くいえば『罪業』だ。まあ、そんなふうなことが書いてあるんですよ。『少女《とめ》は真珠にも夜光の玉にも譬うべく』だから、もちろん親父は『そを受くべき価値なきもの』に決まってますよ。ああいう人たちの一流の言い廻しです。ところが、何かの罪業とか、事情とかのために『余儀なく結婚を迫られ、スイスへおもむくべき運命と相成』ったわけなんです。こういう次第だから、『万事をなげうち、急ぎ来りてわれを救え』……ねえ、こんなふうですもの、どうしたって、少しでも合点のゆくはずがないじゃありませんか?………しかし……しかし、皆さんのお顔つきで見ると(彼は罪のない微笑を浮かべて、一同の顔を見つめながら、手紙を持ったまま、あちこちと体を捩じ向けた)、どうやらぼくはいつもどおり、明けっ放しな性分のために……というより、ニコライ君のいわゆるせっかちな性分のために、何か失敗をやったようですね。ぼくはここにいらっしゃる皆さんを自分の友だち……ではない、お父さん、あなたの友だちだと思っていたが、実際のところ、ぼくはほんの飛び入り者だったんですね。見たところ……見たところ、皆さんは何やらご承知のようですが、ぼくはその『何やら』を知らないんですよ」
 彼は絶えずじろじろ見廻すのをやめなかった。
「じゃ、スチェパン・トロフィーモヴィチが、あなたにそういう手紙をおよこしになったんですね。『スイスで行なわれた他人の罪業』と結婚するって、そして一刻も早く『救い』に来てくれって、そのとおりの言い廻しなんですね?」と、ふいにヴァルヴァーラ夫人が近寄った。顔は黄いろく歪み、唇はぴりぴりと慄えていた。
「つまり、その、なんですよ、もしこの事件について、何かぼくに合点のゆかないことがあるとすれば」ピョートルはすっかり面くらった様子で、いっそうあわて始めた。「それはもちろん、親爺がこんな書き方をしたから悪いんですよ。これがその手紙です。ごぞんじでもありましょうが、奥さん、こんな手紙が際限なしに、後から後からやって来るんですからね。ことに最近二、三か月というものは、ほとんどのべつ幕なしなんですよ。で、実のところ、ぼくもどうかすると、しまいまで読み切れないことがあるくらいです。お父さん勘忍してください、つい馬鹿なことを白状してしまって、しかし、考えてみれば、ぼくの宛名にはなっているけれど、まあ、どちらかといえば、子々孫々へ伝えるために書いたんだろうから、ぼくが読んだって読まなくたって同じこってさあね……ま、ま、そう怒っちゃいけない、なんといっても、二人は内輪同士だからね? しかし、この手紙はね、奥さん、この手紙はしまいまで読みましたよ。この『罪業』ですな、――この『他人の罪業』というやつは、大方なにか詰まらない先生自身の罪業なんでしょうよ。ぼく、賭けでもしますが、ごく無邪気な罪業なんですよ。そいつを枷《かせ》に使って、高潔なるニュアンスを帯びた恐ろしい騒ぎを持ち上げる気に、ふいとなったに相違ありません、――しかも、ただその高潔なる陰影のためのみにおっ始めたのです。ご承知でもありましょうが、ぼくらはちょっと金銭問題でゆき悩んでることがあるのです、――これはどうしても白状しなけりゃなりません。先生はご承知のとおり、カルタにはごく慎みの悪いほうで……しかし、これは余計なことですね。ぜんぜん余計なことですね、悪いことをいいました。ぼくはどうもおしゃべり過ぎてね。けれど、実際のところ、奥さん、ぼくはすっかり親父に嚇しつけられましてね、ほんとうに親父を『救う』気になったんですが、これじゃぼく自身のほうできまりが悪くなりますよ。いったい、ぼくが親父の喉もとへ、短刀でも突きつけようとしてるんでしょうか? そんなにぼくが没義道《もぎどう》な債権者に見えるでしょうか? 親父は持参金がどうとか書いてるんですが……それはそうと、お父さん、いったい本当に結婚するの? どうなの? もういい加減にして聞かせたらどうだね。まったくそんなふうになるかもしれないんだもの。いったいぼくらはいつもしゃべって、しゃべって、しゃべりまくるけれど、まったくただ言葉のためにすぎないんだよ……ああ、奥さん、今こそぼくは覚悟しています。大方あなたはぼくを悪く思ってらっしゃるでしょう、つまり、その言葉のために……」
「それどころですか、あなたのほうで勘忍袋の緒をお切らしなすったのは、わたしにもちゃんとわかります。そして、それもまったくごもっともだと思いますよ」とヴァルヴァーラ夫人は毒々しく受けた。
 彼女はピョートルの『正直な』饒舌を、意地悪いよろこびをもって聞き終わった(ピョートルが何か芝居を打ってるのは明瞭であったが、どんな芝居であるかは当時のわたしにはわからなかった。しかし、そのやり方が思い切って無遠慮なのは、争う余地もないくらいである)。
「それどころか」と夫人は語を次いだ。「あなたがそうして切り出してくだすったのを、わたしはかえってありがたく思っていますの。あなたが聞かしてくださらなかったら、このまま知らずに過ごすところだったのです。わたしは二十年の間に、今はじめて目が開きました。ニコライ、あなたは今さきわざわざ知らせを受けたとおいいだったが、あなたのところへもスチェパン・トロフィーモヴィチが、何かそんなふうの手紙をよこしたのじゃありませんか」
「ぼくはあの人からきわめて無邪気な、そして……そして……非常に高潔な手紙をもらったのです……」
「あなたは困ってますね、言葉につかえてますね――たくさんです! スチェパン・トロフィーモヴィチ、わたしはあなたに改まったお願いがありますの」と夫人は目をぎらぎら輝かせながら、そのほうへ振り向いた。「後生ですから、さっそくここを出てください。そして、今後うちの敷居を跨いではいけません」
 読者諸君、今でもなおスチェパン氏の胸に名ごりの消えやらぬ、さきほどの『感激』を想起していただきたい。もちろん、スチェパン氏自身が悪かったには相違ない! しかし、その時すっかりわたしを驚かせてしまったことがある。ほかでもない、ペトルーシャの『すっぱ抜き』に対しても、ヴァルヴァーラ夫人の『呪い』に対しても、ひと言もそれをさえぎろうとせず、驚くばかりの威厳を保って、毅然と立っていた一事である。いったいどこからこれだけの気力が出て来たのだろう? とにかく、さきほどのペトルーシャとの邂逅(つまり、さきほどの抱擁をさすのだ)によって、ふかい侮辱を感じたのは疑いのないところだ。それだけはわたしにもわかった。これは少なくとも彼の目から見て、本当の[#「本当の」に傍点]深い心の痛手だった。しかし、彼はその瞬間、また別な悲しみをいだいていた。それは自分が卑劣な真似をしたという、刺すような自覚であった。このことは後で例の開けっ放しの気性から、彼がわたしに白状したところである。けれど、この本当の間違いなしという悲しみは、その独特の徴候として、どうかするとほんの僅かな間だけでも、ふらふらした人間にしっかりと手応えのある態度をとらせるものだ。のみならず、真の心からなる悲しみのためには、馬鹿も時に賢くなることがある。もちろん、ちょっとの間だけではあるが、これが真の悲しみの特徴である。もしそうだとすれば、スチェパン氏のような人の心中に生ずるものはなんだろう? もちろん偉大なる転換だ、――が、これもやっぱりちょっとの間にすぎない。
 彼は威を帯びた態度で、ヴァルヴァーラ夫人に会釈したが、ひと言も口をきかなかった(もっとも、それ以上なにもすることはなかったのだ)。彼はそのまま出て行こうとしたが、とうとうこらえきれなくなって、ダーリヤのほうへ近寄った。こちらは相手の心持ちを感づいたらしく、大急ぎで先手を打とうとするように、ぎょっとしたふうで、さっそく自分のほうからいい出した。
「どうか、スチェパンさま、後生ですから、なんにもおっしゃらないでくださいまし」彼女は顔に病的な表情を浮かべつつ、あわてて、手を差し伸べながら、熱した早口な調子でいい出した。「わたしは、今でもやっぱり同じようにあなたを尊敬して……そして、同じように、あなたの価値を理解しています、まったくでございますの。ですから……わたしのこともやっぱり善く思ってくださいましな、スチェパンさま。そうすると、わたしもそのことを、大変大変ありがたくぞんじますわ……」
 スチェパン氏はうやうやしく彼女に会釈した。
「お前さんの考え一つですよ、ダーリヤ、このことについては、もうすっかりお前さんの考えにまかせてあるのだから! もともとそうだったし、今もそうです、またさきになってもやっぱりそうです」とヴァルヴァーラ夫人は重々しくいい切った。
「へえ! なるほど、今はじめてすっかりわかった!」ピョートルはぽんと額を叩いた。「しかし……しかし、そうしてみると、ぼくはなんという立場におかれたのでしょう? ダーリヤさん、どうかゆるしてください!………いったいお父さんはぼくをなんという目にあわせたんだい、え?」と彼は父のほうへ振り向いた。
「ピエール、お前はわたしに対して、なんとか、ほかにもののいいようがありそうなもんじゃないか、え、おい?」とスチェパン氏は非常に小さな声でいった。
「後生だからどならないでください」とピエールは両手を振った。「なに、それは年寄りの弱った神経なんでさあ。どなったってなんにもなりゃしない。それよりぼくが聞きたいのは、お父さんだって、ぼくが来るといきなりしゃべり出すってことは、たいてい想像がつきそうなはずだったのに、どうして口止めしておかなかったの?」
 スチェパン氏は穴のあくほど、わが子を見つめた。
「ピエール、お前はここの様子をそんなによく知っていながら、このことについてはなんにも知らなかったのか、なんにも聞かなかったのか?」
「なあんだって! あきれた人たちだ! 年をとった子供というだけでまだ足りないで、おまけに意地悪な子供ときた。ヴァルヴァーラ・ペトローヴナ、親父のいうことをお聞きになりましたか?」
 一座がざわついてきた。と、ふいに、だれしも思いがけないような騒動がもちあがったのである。

[#6字下げ]8[#「8」は小見出し

 まず何よりさきにいっておかねばならぬのは、しまい頃になってリザヴェータが、何か新しい惑乱におそわれたことである。彼女は母夫人と何か早口にささやき合ったり、自分のほうへかがみ込んで来るマヴリーキイに耳打ちしたりした。その顔は不安そうであったけれど、同時に断固たる色を浮かべていた。やがて帰りを急ぐもののように席を立って、母夫人をもせき立て始めた。マヴリーキイはその手を取って肘掛けいすから助け起こそうとした。しかし、彼らはこの場の様子を最後まで見なければ、立ち去ることのできない廻り合わせになっていたらしい。
 リザヴェータからほど遠からぬ片隅に、ぽつねんと皆に取りのこされていたシャートフは、なぜここを去ろうともせず、いつまでも坐り込んでいるのか、自分ながらわからないふうだったが、とつぜん椅子から立ちあがって、あわてず騒がず、しっかりした足どりで部屋を横切り、ニコライのほうへ進んで行った、まともに相手の顔を見つめながら。こちらは、まだ遠いところからその動作に気づいて、心持ちにっと笑った。けれど、シャートフがぴったり傍まで寄った時には、もう笑うのをやめてしまった。
 シャートフがじっと目をはなさずに、無言のまま彼の前に立ちどまった時、みんなは突然これに気がついて、急に鳴りを静めた。しかし、だれよりもおくれて気がついたのは、ピョートルであった。リーザと母夫人とは部屋の真ん中に立ちすくんだ。こうして五秒ほど過ぎた。ニコライの顔に浮かんでいた不敵な侮蔑の表情は、やがて憤怒の色に変わっていった。彼は眉をひそめた、とふいに……
 ふいにシャートフは、長い重たそうな手を振り上げて、力まかせにその頬っぺたを撲りつけた。ニコライはその場ではげしくよろめいた。
 シャートフの撲り方は一種特別であった。普通、頬打ちをくらわすのには、平手を使うものだが(こんなことがいえるかどうか知らないけれど)、彼は拳固を使った。ところが、彼の拳固は大きくて、どっしりと骨張っているうえに赤毛がもじゃもじゃして、そばかすだらけだった。もし鼻にでも当たったら、鼻筋を打ち砕いてしまったかもしれぬ。けれど、拳固は唇と上歯の左端をかすめて、頬へ当たったので、みるみる口から血が流れ出した。
 その時ほんの一瞬間、あっという叫び声が起こったような気がする。おそらくヴァルヴァーラ夫人であろう。しかし、すぐにまた静まり返ったので、はっきり覚えていない。しかし、この出来事は、ものの十秒と続かなかったのである。
 とはいえ、この十秒ばかりの間に、非常に多くのことが持ちあがった。
 ここでもう一ど読者に断わっておく。ニコライは恐れを知らぬ人の範疇に属すべき素質を持っていた。決闘などでも敵の発射のもとに、泰然自若として立つこともできれば、また野獣のように残酷な落ちつきをもってみずから狙いを定め、相手を殺すこともできた。もしだれか彼の頬っぺたを撲りでもしようものなら、彼は決闘を申し込むなどということをせず、すぐにその場で無礼者を屠ってしまったに相違ない。実際、彼はそういう質《たち》の人間だから、殺すにも完全な意識を持ったままで、けっして前後を忘れるということはない。思慮をめぐらす余裕もない、目くるめくような憤怒の発作など、彼は一度も経験したことがなかろうと思われる。時として彼の全幅を領することのある底知れぬ憎悪を感じた場合にでも、同じく自分自身に対する支配力をつねに失わずにいることができる。したがって、決闘以外の場所で人を殺せば、徒刑に処せられるということは立派にわきまえうるのだが、それでもやはりなんら躊躇することなく、その無礼者を殺してしまったに相違ない。
 わたしは最近絶え間なくニコライの人物を研究していたから、今これを書くに当たっても、いろいろな特別な事情でずいぶんたくさんの事実を知ることができた。そこで、わたしはいま世間にさまざまな伝奇的な追憶を残している過去の人人のある者と、このニコライを比較してみたらどうかと思う。たとえば十二月党員のLについてもいろいろの話がある。ほかでもない、彼は生涯の間わざわざ危険を求めて、その感覚を貪り味わい、それをば自然の要求に化してしまったという。若い時には理由もないのに決闘を始め、シベリヤへ行ってからは、ナイフ一梃で熊狩に出かけたり、森の中で脱獄囚に出会ったりするのを好んだ。ついでにいっておくが、脱獄囚は熊よりもまだ恐ろしいのである。疑いもなく、こうした伝奇小説の主人公のような人々も、恐怖の感情をいだきえたに相違ない。或いは非常に強くそれを感じたかもしれぬ。そうでなかったら、彼らはもっと遙かに穏かな暮らしをして、危険の感覚を自己性来の要求にする、というようなこともなかったはずである。ただ自己心内の怯懦を征服するということ、これが、いうまでもなく、この人たちを魅惑し去ったものである。絶えず勝利の快感に酔い、もはや自己を征服しうる者はないと意識すること、これが彼らを誘惑したのである。このLは流刑前にもしばらく饑餓と戦って、苦しい労働でおのれのパンをえたことがある。それは、ただただ富める父親の要求が間違っているといって、どうしてもそれに従おうとしなかったからである。こういうわけだから、彼は闘争の意味をすこぶる多方面に理解していたので、けっして単に熊や決闘ばかりで、おのれの人格の力や抵抗力を誇っていたわけではない。
 しかし、その時代から見ると多くの年数がたった。そして、へとへとに疲れ果てて神経質になり、かつ二重にも三重にも分裂した現代人の性格にとって、のん気な昔の世に波乱多き生活を送った人たちが求めていたような、直接純一な感覚の要求はとうてい望まるべくもない。ニコライなぞはこのLに対して、高みから見おろすような態度を取り、ことによったら、牡鶏かなんぞのようにから威張りばかりする臆病者くらいにいいかねなかったかもしれない(もっとも、口に出してはいわなかったかもしれないが)。彼は決闘で相手を打ち殺しもしたろう、必要があれば熊退治にも出かけたろう、森の中で追剥ぎの成敗もしたろう、――しかも、Lに劣らないくらいの手並を現わしたに相違ない。しかし、その代わり少しも快感を覚えることなしに、ただただ不愉快な必要に迫られて、張り合いのない、面倒臭そうな態度でやるのだ。もしかしたら、なまあくびさえ噛み殺すかもしれない。しかし、憎悪の点においては、もちろんLにくらべても、またレールモントフにくらべても、進歩の跡が認められる。ニコライはこの二人をいっしょにしたよりも、もっと多くの憎悪を蓄えていたかもしれない。しかし、それは冷ややかに落ちつきはらった憎悪で、妙な言い方だが理知的な[#「理知的な」に傍点]ものである。したがって、この世で最もいまわしく最も恐ろしい憎悪だった。もう一どくり返していうが、わたしは当時こう信じていた(もはやいっさいが終わりを告げた今となっても、やっぱりそう信じている)。つまり、彼は人から生面《いきづら》を叩かれるとか、またはそれと同じくらいの烈しい侮辱を受けたら、決闘などを申し込まないで、即座に相手を殺してしまうような性質の人間なのである。
 とはいえ、いま起こったことはなんだか一種異様な、奇怪なものであった。
 彼が頬を撲りつけられて、見苦しくも横ざまによろめきながら、ほとんど上半身をすっかり傾けてしまった後で、やっと体を持ち直すか持ち直さないかという瞬間だった。たったいま顔の真ん中を撲りつけた、水気でも含んだような拳の音が、まだ室内に消えもやらず漂っているかと思われるその瞬間、彼はふいに両手でシャートフの肩をつかんだ。しかし、すぐほとんどそれと同じ瞬間に、また両手を、つと後へ引きのけて、背中にしっかり組み合わした。彼は無言のまま、シャートフを見つめたが、その顔はシャツのように真っ青だった。しかし、不思議にも彼の眸の輝きは、急速に消えていくようだった。十秒の後、彼の目つきは元の冷静に返って、そして(わたしは嘘をいっているのではないと確信する)まったく穏かであったが、ただ恐ろしいほどあおい顔をしていた。もちろんわたしは内心のいかんは知らない。ただ外から見たところを話すのである。もし人が自分の意力を試すために、真っ赤に灼けた鉄の棒を取って、それをば手の中に握り締め、十秒間たえ難い痛みと戦って、ついにそれに打ち勝ったとすれば、その男は今ニコライが十秒間に経験したものと、ほぼ同じような心持ちを味わうだろうと、こうわたしには感じられた。
 二人のうちまず目を伏せたのはシャートフである。どうもそうせずにいられなかったためらしい。それから、ゆっくりと向きを変えて、ぷいと部屋を出て行った。けれど、その足どりは、さっきニコライの傍へ寄った時とはまるで違っていた。彼はなんだかとくべつ不恰好に肩をうしろへ突き上げ、首を深く前へ垂れ、何やら自問自答するようなふうで、そっと静かに出て行った。何か小さな声で独り言をいったようにすら思われた。戸口のところまでは用心ぶかい足どりで、なんにも突っかからず、なんにもひっくり返さないで、無事に行き着いたが、戸はほんのぽっちり隙間ほどしか開けないで、ほとんど体を横にしながら、すり抜けた。戸をすり抜ける時に、いつもうしろ頭にぴんと突っ立っている一つかみの髪の毛が、とくべつ目立って見えた。
 続いて起こった一同の叫び声にさき立って、だれかの恐ろしい叫びが響き渡った。ほかでもない、リザヴェータは母夫人の肩を捕え、マヴリーキイの手を引っつかんで、二人を部屋の外へ連れ出そうと二、三度ぐんぐんしょびいたが、ふいに一声たかく叫んで、横倒しに床の上へ気を失って倒れたのである。彼女が後頭部を絨毯の上にこつりとぶっつけた音を、わたしは今でもまざまざと聞く思いがする。
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[#1字下げ]第二編[#「第二編」は大見出し]





[#3字下げ]第1章 夜[#「第1章 夜」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 それから八日たった。もういっさいが終わりをつげて、わたしがこうして記録を書いている今となっては、ことの真相もよくわかってしまったけれど、当時わたしたちはなんにも知らなかったので、自然の数として、いろんなことが不思議に思われた。少なくもわたしとスチェパン氏とは、はじめのうち、家にばかり閉じこもって、遠方からびくびくしながら観察していたものである。ただわたしだけは、ちょいちょい方々へ出かけて、前のとおりいろいろの報知をもたらしていた。実際、そうしなくては、一日もたちゆかなかったのである。
 町じゅうに区々まちまちな風説が広がったのは、もちろんいうまでもないことである。つまり、例の『平手打ち』だの、リザヴェータの卒倒だの、そのほか、かの日曜日の出来事に関する風説である。ただどういうわけであの出来事が、こうまで迅速正確に表沙汰になってしまったか、これだけはまったく驚くほかはなかった。当時あの場に居合わせた人の中で、事件の秘密を破る必要を感じそうな者もなければ、そんなことをしてとくのゆきそうな者もいない。召使は一人も居合わさなかった。ただ一人レビャードキンだけはなにかしゃべったかもしれない。しかし、腹立ち紛れではない。それはあの時すっかりおびえあがって、出て行ったのに徴しても明らかである(敵に対する恐怖は、憎悪の念を消すものである)。だから、ただ本当に我慢できなくてしゃべったかもしれない。レビャードキン兄妹はその翌日、行きがた知れずになってしまった。彼らはフィリッポフの持ち家に見えなくなって、まるで消えてしまったように、どことも知れず姿をくらましたのである。わたしはシャートフに会って、マリヤのことを聞いてみようと思ったが、彼は部屋の戸を閉め切ってしまい、この八日間、町のほうの仕事もほうり出して、うちにばかりこもっていたものらしい。彼はわたしに会ってくれなかった。わたしは火曜日に彼のところへ寄って、戸をノックしてみたが、返事をしてもらえなかった。けれど、ある正確な報知によって、その在宅を信じ切っていたわたしは、もう一ど戸を叩いてみた。そのとき彼は寝台から飛び下りたらしい様子で、大股に戸口のほうへ近寄ると、ありたけの声を張り上げてどなった。『シャートフは留守です』で、わたしはそのまま立ち去った。
 わたしとスチェパン氏とは、いくらか自分たちの想像の大胆さに恐れを感じながらも、互いに相手を励ますようにして、ある一つの考えを是認せざるをえなかった。つまり、この風説を触れ廻した責任者は、ピョートルをおいてほかにないと決めたのである。もっとも、彼はしばらくたって父と談話をまじえたとき、事件後はじめて会った人々は、だれもかれもみんなその噂をしていた、ことにクラブではそれがいっそうひどくって、知事夫人も知事公自身も、いろいろこまかな点までも、すっかり知り抜いていたのだ、などといって一生懸命に弁解はしていた。なおまだ驚くべきことには、その翌日、すなわち月曜日の晩方、わたしがリプーチンに会ったとき、彼はもう何もかも残るところなく知っていた。とにかくこの男なぞは、第一番に嗅ぎつけたほうといわなければならぬ。
 婦人連も(ごく上流の人まで)かの『謎のびっこ』、つまりマリヤの身の上に、好奇心をいだき始めるものが多かった。そして、ぜひ会って親しく識り合ってみたいなどといい出すものさえ出てきた。こういうわけだから、急いでレビャードキン兄妹《きょうだい》を隠してしまった人たちの行動は、すこぶる機敏といわなければならぬ。しかし、なんといっても、いちばん問題になったのは、リザヴェータの気絶だった。とにかくことが、親戚であり、かつ保護者である知事夫人ユリヤ・ミハイロヴナに関係している、という点から見ただけでも、『全社交界』の注意を惹くに十分であった。人々はありとあらゆる饒舌を逞しゅうした。この饒舌を助長したのは、いかにも秘密ありげな状態である。両家の戸はぴったりとざされてしまった。話によると、リザヴェータは熱病で倒れているとのことだし、ニコライについてもそれと同様な噂が伝わった。しかも、歯を一本たたき抜かれたとか、頬が腫れあがったとか、いやらしいほどこまごました話が付けたりになっていた。また隅のほうでこそこそと、こんな話もあった――ことによったら、この町で殺人があるかもしれぬ。スタヴローギンはけっして侮辱を忍んでいるような男でないから、きっとシャートフを殺してしまうに相違ない。しかし、公然にではなく、ちょうどコルシカ島の vendetta(仇討)のように、秘密のうちに行なわれるに違いない――この思いつきは町の人の気に入ったが、社交界若い人たちは大部分、われ関せず焉《えん》といったような無関心のていを装って(むろん付焼刃ではあるが)、さも軽蔑したような態度で聞いていた。
 ひっ括めていえば、この町の人のニコライに対する旧い敵意が、再び、明らかに現われてきたのである。身分のある立派な人たちでさえ、自分自身、ことのなんたるやを解しないくせに、無性に彼を攻撃し始めた。そして、陰のほうでこそこそと、リザヴェータの節操は彼のために穢されているだの、二人はスイスで怪しい関係があっただのと、そんなことをささやき合っていた。もちろん用心深い人たちは、慎んで控えていたけれど、しかし、みんなよろこんでそんな噂をむさぼり聞くのであった。そのほかまた別な噂もあった。それは一般にわたったものでなく、部分的な風説で、ごく時たま内証のように伝えられていたが、その内容は恐ろしく奇怪なものだった。わたしがこんな風説の存在をわざわざここへ持ち出すのは、ただ物語のさきのほうで起こる事件の予備知識として、読者の注意を促すにすぎない。それはこうである。何を根拠にいうのかしれないけれど、ニコライは何か特別な用向きがあって、この県へ来ているのだ、彼はK伯爵を通じて、ペテルブルグでもごく上流の社会へ入りこんでいるから、もしかしたら、政府に使われてるかもしれぬ、そして、だれかにある特別な任務を授けられてここへ来たのだ、とこんなことを、眉をひそめながら話し合う人もあった。ごく手堅い控え目な人たちが、この噂を聞いてにやりと笑いながら、しじゅういかがわしい騒ぎを身上《しんしょう》にして、この町へ来てからも、さっそく頬を腫らしたりなぞする男だ、あまりお役人らしくないじゃないかと、至極もっともな意見を吐いたとき、また一方は小さな声で、ニコライは表向きに勤めているのでなく、いわば内密な任務をしているのだから、したがって、なるべくお役人らしくないのが、都合がいいのではないかと答えた。この答えはかなり効果を奏した。なぜというに、この県の自治団が中央で一種特別の注意を受けているということは、土地の人に知れ渡っていたからである。しかし、くり返していうが、この噂はニコライのやって来た当時、ちょっと燃えあがったきりで、すぐに跡形もなく消えてしまった。ただ断わっておきたいのは、こういういろいろな風説のもととなったのは、先頃ペテルブルグから帰って来た近衛の予備大尉、アルチェーミイ・ガガーノフが、クラブで洩らした不明瞭で、簡単で、断片的な、しかし意地悪い二、三の言葉だった。この人は県内でも、郡内でも、うんと大きな地主で、しかも都育ちの世馴れた交際家だったが、これこそニコライが四年前、粗暴かつ奇矯な点において類のない衝突をした、町の長老ともいうべき故パーヴェル・ガガーノフの息子だった。この衝突のことは、物語の初めに述べておいた。
 また次の事実も、さっそく世間一般へ知れ渡った。ほかでもない、ユリヤ・レムブケー夫人が、ヴァルヴァーラ夫人のもとへ何か特別の用向きで馳せつけたところ、『気分が勝れぬからお会いするわけにいかぬ』といって、玄関払いを食ったのである。この訪問から二日たった後、ユリヤ夫人はわざわざ使いをやって、ヴァルヴァーラ夫人の容体をたずねさした。こうして、彼女は、しまいにはいたるところで、ヴァルヴァーラ夫人を弁護するようになった。もっとも、それは一ばん高尚な意味、すなわちきわめて漠然とした意味における弁護なのであった。つまり、あの日曜の出来事について、まず最初につたえられた気の早い当てこすりを、彼女はことごとくいかつい冷ややかな様子をして聞き流したので、二、三日たつうちには、もう彼女のいる前でそんな話をもち出すものもなくなってしまった。こういう具合なので、ユリヤ夫人はこの神秘的な事件をぜんぶ承知しているばかりでなく、その裏面の神秘的な意味すらも、微細な点まで了解している、――夫人はけっしてただの局外者ではなく、事件の直接関係者に相違ないという考えが、いたるところで確固不易なものとなってしまった。ついでにいっておくが、彼女は以前、一生懸命に追求、渇望していた上流社会における勢力を、しだいに獲得しはじめた。そして、だんだんと多くの人々に『取り巻かれた』自分を見いだすようになった。社会の一部は、彼女の実際的な才知と手腕を是認してきた……が、このことは後廻しにしよう。しかし、当時父スチェパン氏すら驚倒させたほどの、ピョートルのわが社交界における目ざましいもて方は、いくぶんレムブケー夫人の引き立てによったのである。
 或いはわたしもスチェパン氏も、大仰に考え過ぎたかもしれないが、それにしても、ピョートルは、第一に、来てから四日ばかりしかたたぬうちに、たちまちほとんど町中の者と知り合いになってしまった。彼が姿を現わしたのは日曜日であるが、火曜日にはもうアルチェーミイ・ガガーノフと、一つの馬車に乗っているところを見受けた。このガガーノフは世馴れた人物ではあるけれど、尊大で、癇癪もちで、しかも高慢なたちであるから、この人と親しく付き合うのは、いたって困難なことだった。ピョートルはまた県知事の家でもなかなかいい扱いを受けて、たちまちのうちに近しい知人、というよりは、お気に入りの青年ともいうべき位置を獲得してしまった。そして、毎日のようにユリヤ夫人のもとで食事をするのであった。彼はもとスイスで夫人と知り合いになったのだが、それにしても、閣下のもとにおける彼のこうした破天荒なもて方は、まったく何か謎のように思われるくらいだった。
 そのくせ、彼はまた、以前外国で活動していた革命家として、通り者になっていた。嘘か本当か知らないけれど、何か海外における秘密出版事業や、会議のようなものに携わっていたという噂もあった。『それは新聞を持ってきて証明することもできる』とアリョーシャ・チェリャートニコフが、かつてわたしに出会ったとき、さも憎らしそうにいったことがある。これはもと旧知事の家でお気に入りの青年だったが、無慚や今は一個の退職官吏にすぎない。しかし、ここに一つの事実が厳として控えている。ほかでもない、かつて革命運動にたずさわっていた男が、今この「もてなしのいい」祖国へ姿を現わしたのに、少しもうるさい目に会わないばかりか、むしろ歓迎されているほどであった。してみると、或いは何もなかったのかもしれない。ある時、リプーチンがわたしにこんなことを内証で聞かしてくれた、――噂によると、ピョートルはどこかで何もかもすっかり懺悔をした上に、二、三の仲間の名前をうち明けて、やっと放免されたとかいうことである。つまり、向後[#「向後」はママ]は国家有用の人物たるべきことを約して、罪亡し[#「罪亡し」はママ]をしてしまったらしい、というのだ。わたしはこの毒を含んだ言葉をスチェパン氏に伝えた。彼はとうてい考えごとなどできない状態だったけれど、これを聞くとひどく考えこんでしまった。
 これは後でわかったことだが、ピョートルは非常に立派な紹介状を幾通も持って、この町へやって来たとのことである。少なくとも、その中の一通は、なみなみならぬ勢力を持ったペテルブルグのさる老貴婦人から知事夫人へあてたものだった。ペテルブルグでも指折りの名士たる元老を夫にもったこの貴婦人は、ユリヤ・レムブケーの名づけ親になっていたが、その紹介状の中にこんなことが書いてあった。『T伯爵もニコライ殿の紹介にてピョートル殿に接し、一方ならず愛《め》でいつくしまれ、かつて邪路に迷い入りたることこそあれ、将来有望の青年と申しおられ候』ユリヤ夫人は、つねづね非常な苦心を払って繋ぎ止めている『雲上人の世界』との覚束ない関係を、一方ならず大事がっていたので、むろんこの勢力家の老婦人の手紙に有頂天になってしまったのだ。しかしそれでも、やはり何かちょっと妙なところがあった。彼女は自分の夫までも強いて、ピョートルとなれなれしい関係にしてしまったのである。フォン・レムブケー氏もだいぶこぼしていたが……しかし、これもやっぱり後廻しにしよう。
 もう一つ忘れないためにいっておくが、かの大文豪もきわめて好意ある態度でピョートルに接し、さっそく自分のところへ招待した。あの高慢ちきな男のこうしたさっそくなやり方は、何よりも一番スチェパン氏の胸にちくりとこたえた。しかし、わたしは心の中で別様に解釈した。つまり、カルマジーノフがこの虚無主義者をおびき寄せたのは、もちろん両首都における進歩党の青年たちとピョートルとの交渉を、ちゃんと頭においていたのである。彼は戦々兢々として最近の革命青年の鼻息をうかがっている。彼は愚かにも、ロシヤの未来の鍵は、彼らの手中に握られているものと考えて、卑屈な媚を呈しているのだ。しかし、おもな原因は、彼らが自分にいささかの注意も払ってくれないからである。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 ピョートルは二度ばかり、父親のところへちらと顔を出したが、不幸にも、二度ともわたしのいない時だった。はじめて彼が来訪したのは水曜日、すなわち最初の会見から四日めのことで、それもおまけに何か用事のためだった。ついでに断わっておくが、領地のほうの勘定は妙にこっそりと、目立たぬように片づいてしまった。ヴァルヴァーラ夫人がいっさい自分に引き受けて、そのささやかな領地を買い取った上、全部の支払いをすましてくれたのである。けれど、スチェパン氏にはただ、いっさいかたがついたと知らせたにすぎない。従僕アレクセイ・エゴールイチが夫人の代理として、何やら書類を持って来て署名してくれといったとき、彼は無言のままなみなみならぬ品位を見せて、いわれるままに署名した。品位といえば、彼はこの三、四日の間、これが以前のお爺さんだとは思えないくらいだった。態度が前とはがらりと変わって、びっくりするほど口数がすくなくなった。そして、あの日曜以来、ヴァルヴァーラ夫人にあてて、ふっつり手紙を書かなくなった(これなどは、奇蹟といってもいいくらいだ)。まあ、何より落ち着いてきた。彼が何か最後の異常な想念に固く根をおろして、そのために平静をえたのは、明瞭だった。彼はこの想念を探り当てると、じっと坐り込んだまま、何やら待ち受けていた。もっとも初めのうち、ことに月曜日は体が悪かった。例の疑似コレラである。それでも、外からの注進を聞かずにはいられなかったが、ちょっとわたしが事実の報告をやめて本体論に移り、何か自分の推察でも述べ始めると、すぐに手を振って、やめさせてしまうのであった。しかし、わが子との二度にわたる会見は、彼に病的な影響を与えた、もっとも、決心を動揺さすほどのことはなかった。その時は、二日とも、話がすんだ後で、酢を浸したハンカチを頭に巻き、長いすの上に臥せっていた。とはいえ、第一義的の意味では、依然として落ち着いていた。
 しかし、どうかすると、彼もわたしに手を振らないことがあった。どうかすると、胸の中へおさめた秘密の決心も、どうやら忘れたような具合になって、また何か新しい誘惑をおびた想念の奔流と戦いはじめたのではないか、と思われることがあった。それはほんの瞬間の現象だが、わたしはとくにここに記しておく。まったく、彼は再びこの隠棲の境を脱して、自己の存在を表明し、争闘を挑みたくなったのではないか、最後の決戦を試みたくなったのではないか、こうもわたしは疑ってみた。
「|きみ《シェル》、わたしはあの連中をこっぱ微塵にしてやりたい!」彼は覚えず口走った。それは金曜日、つまりピョートルとの二度目の会見後で、彼は頭を手拭で巻いて、長いすの上にねそべっていた。
 この瞬間まで、彼はいちんちひと言も、わたしに口をきかなかったのである。
「〔Fils, fils che'ri〕(わが子よ、いとしきわが子よ)とかなんとかいう表現は、そりゃまったく馬鹿げてる、飯炊婆さんの語彙《ヴォキャブラリイ》だ、そりゃわたしも同意する。だが、あんなやつら、なんとでも勝手にさしとくさ。わたしもいま自分で目が開いた。わたしはあれを養わなかった、ミルクも飲ませなかった。まだ乳呑児の時分にベルリンからN県へ『郵便』で送った。いや、何もかもそのとおり、わたしも同意だ。『お父さんはぼくにミルク一つ飲ませてくれないで、郵便でていよく送り出しておきながら、おまけにここでは僕《ひと》のものを、すっかり横領してしまったじゃないか』だとさ。そこで、わたしもどなってやった。お前は不仕合わせな子だ、しかし、わたしは一生お前のことで胸を痛めていたんだよ、やはりそれも郵便で送ったんだがね! ところが Il rit.(あいつは笑いやがるんだ)しかし、わたしも同意だ、そのとおり郵便……ということにしとくさ」彼はまるでうなされてでもいるような調子で言葉を結んだ。
「Passons.(それはまあいいとして)」五分ばかりたった後、彼はさらにこういい出した。「わたしはどうもツルゲーネフが腑に落ちない。彼の書いたバザーロフは、なんだかまるで実際にいない架空の人物みたいだ。今の若い連中も、当時自分たちの口から、ぜんぜん成ってないもののようにいって、その価値を否定してしまったくらいだ。あのバザーロフという人物は、なんだかノズドリョーフ([#割り注]ゴーゴリ『死せる魂』の中の一人物、えせ快男子の典型[#割り注終わり])とバイロンをいっしょにしたような、わけのわからないしろ物だという評判があったが、c'est le mot!(けだし名言だね)しかし、あの連中を注意して観察して見たまえ。あの連中は、まるで犬の子が日向ぼっこでもするように、嬉しそうに転げ廻って、きゃっきゃっといっている。実に幸福そうだ。まったく勝利者だ。ね、いったいどこがバイロンに似てるのだろう? おまけに、まあ、なんという月並みさ加減だろう? まるで下女かなんぞのように、みえ坊の怒りん坊で、そして fair du bruit autour de son nom(自分の名を担いで騒がれたいという)下劣な欲ばかり張ってるんだ。しかも|自分の名《ソンノム》が……その、なん[#「なん」に傍点]だということにはお気がつかないのだから、もう実にぽんち絵だよ! わたしはあいつにいって、どなってやった――おいおい冗談じゃないぜ、いったいお前は現在のままの自分を、キリストの代わりに人類へ薦《すす》めようと思ってるのか、ってね。Il rit. Il rit beaucoup, il rit trop.(あいつは笑う。あいつはやたらに笑う、笑いすぎるほど笑う)あいつは、なんだか奇妙な笑い方をする。あれの母親はあんな笑い方をしなかった。Il rit toujours.(あいつはいつでも笑っている)」
 また沈黙が続いた。
「あいつらはずるいよ、日曜日には二人で企んで、あんなことをしたんだよ……」と彼はとつぜん正面から切り出した。
「おお、そりゃそうですとも」とわたしは耳をそばだてながら叫んだ。「あれはみんな細工ですよ、しかし、その細工が白い糸で縫ってあるもんだから、実にやり方が拙かったですよ」
「わたしはそのことをいってるんじゃない。ねえ、きみ、あれはわざと見透かされるように、白い糸で縫ったんだよ……もっとも、必要のある人だけに見透かしてもらいたいんだがね。きみ、それがわかるかね?」
「いや、わかりませんよ」
「Trant mieux. Passons(その方がいいのだろう。まあこの話は止めにしよう)わたしは今日むやみに癇がたかぶってるんだよ」
「スチェパン・トロフィーモヴィチ。どうしてあなたはあの人と口論なんかしたのです?」とわたしは責めるようにいった。
「Je voulais convertir.(わたしはあいつを改心させようと思ったんだ)まあ、きみ、勝手に笑ってくれたまえ、|あの哀れな《セットポーブル》小母さんは elle entendra de belles choses!(もっといろいろ好い話を聞くだろうよ!)ねえ、きみ、まったくの話だがね、わたしはさっき、自分で自分が愛国者のような気がしたよ! もっとも、わたしはいつも、おれはロシヤ人だと自覚していたがね……いや、まったく正真のロシヤ人というものは、わたしやきみのような人間でなくちゃならないはずだ。〔Il y a la` dedans quelque choses d'aveugle et de louche.〕(実際、ロシヤ人の中にもめくらや藪睨みがずいぶんあるからね)」
「そりゃそれに違いありませんよ」とわたしは答えた。
「きみ、本当の真実はいつも本当らしくないもんだよ、きみそれがわかってるかね? 真実をより以上本当らしくするためには、どうしても嘘をまぜなけりゃならない。だから、人はいつでもそうしてきたものだ。大方そこには、われわれの理解できないような点があるのだろうよ。きみはいったいどう思うね、あの勝ち誇ったような絶叫の中に、われわれの理解できないようなものがあるだろうか? わたしはあってほしいと思うんだがね。あってくれるといいがなあ」
 わたしは押し黙っていた。彼もやはりだいぶ長いあいだ無言でいたが、
「よく人は、フランス式の知恵だと、一口にいってしまうが……」とふいに熱にでも浮かされたように、呂律の廻らぬ調子でいい出した。「それは嘘だ、それは今までもずうっと続けてそうだった。なんだってフランス式の知恵に言いがかりをするのだ? それはただロシヤ人のなまけ癖なのだ。理想の獲得に対する恥ずべき無力なのだ。各国民の間に介在している、ロシヤ人のいまわしい寄生虫的状態なのだ。Ils sont tout simplement des paresseux.(彼らはみんな、単なる怠け者なので)けっしてフランス式の知恵じゃない。そうだ、ロシヤ人は全人類の幸福のために、有害な寄生虫と同じく撲滅さるべきなのだ! われわれはけっして、けっしてそんな結果に向かって努力したのじゃない。わたしは何が何やらわからない。まるでわからなくなってしまった! わたしは息子《あいつ》にこうどなってやった――いいかい、こら、いいかい、もしお前たちが断頭台《ギロチン》を一番の眼目において、しかも夢中で得意になっているとすれば、それはけっしてほかに理由はない、ただただ首を切るのが一ばん容易で、理想をもつのがなによりむずかしいからにすぎないのだ! 〔Vous e^tes des paresseux! Votre drapeau est une guenille, une impuissance.〕(貴様たちは怠け者だ、貴様たちの旗印はぼろで役に立たないヤクザなものだ)例の荷車……ではない、なんとかいったっけ。『人類にパンを運ぶ荷車の響』とやらが、システィンのマドンナよりも有益だとか、まあ、なんだか、〔une be^tise dans ce genre.〕(そんなふうなばかげたことだったよ)しかし、とこうわたしはあいつにどなってやった――いったい貴様はわかってるかね、人間には幸福のほかに、全然それと同じくらいの程度に、不幸もまた必要欠くべからざるものだ! というと、Il rit.(あいつは笑ってるんだよ)そして、いうことがいいじゃないか、お父さんはここで、『ビロードの長いすに楽々と手足を伸ばしながら』警句《ボンモー》をはき散らしてるんだとさ(あれはもっと汚い言い方をしたんだよ)……ねえきみ、親子が敬語ぬきで話し合うロシヤの習慣は、二人が仲のいい時はけっこうだけれど、さあ、いったん喧嘩でもした時にはどんなもんだろう?」
 ちょっとの間、彼は言葉を休めた。
「|きみ《シェル》」とつぜん腰を浮かしながら、彼はこう結んだ。「ねえ、きみ、これはとどのつまり、必ず何か事件を惹き起こすね?」
「そりゃもちろんですよ」とわたしはいった。
「Vous ne comprenez pas. Passons.(きみにはわからないよ。まあこんな話はよしにしよう)しかし……普通なら、世間のことはどうということもなしに片がつくが、今度は何か結末があるよ、必ず、間違いなしに!」
 彼は立ちあがった。そして、恐ろしい興奮のていで部屋の中を一廻りしたが、また長いすの傍まで来ると、力抜けがしたようにその上へぐたりと倒れた。
 金曜日の朝、ピョートルはどこか郡部のほうへ出かけて、月曜日まで滞在した。その出立のことはリプーチンから聞いたのだが、その時、何かの話のついでに、レビャードキン兄妹《きょうだい》がどこか川向こうの、壺村《ゴルショーチナヤ》辺にいるということを知った。
「しかも、ぼくが引っ越しさせたんだよ」とリプーチンはつけ足したが、急にレビャードキンの話をぶつりと切ってしまって、今度は突然こんなことを知らせてくれた。リザヴェータはマヴリーキイと結婚することになった。まだ公けに披露こそしないけれど、婚約はもうちゃんと成立してしまったとのことである。翌日、わたしはリザヴェータがマヴリーキイと騎馬で通るのに行き会った。病後はじめての散歩である。彼女は遠くのほうから、目を光らせながらわたしを見たが、急にからからと笑いだして、非常になれなれしくうなずいて見せた。わたしはこれをすっかりスチェパン氏に伝えたが、彼はただレビャードキンに関する報告に、いくぶんの注意を払ったばかりである。
 今この八日間の謎のような状態を、まだ何も知れなかった時分の心持ちで説明したから、今度はそれに続いて起こったさまざまな出来事を、もう事情を知りつくしたものの心持ちで、――つまり、何もかも明らかに暴露されてしまった時の心持ちで、描きはじめることにしよう。まず例の日曜から数えて八日目、すなわち月曜日の晩からはじめようと思う。なぜといって、実際のところ、この晩が『新しい事件』の発端となったからである。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 晩の七時だった。ニコライはただひとり、前から気に入りの書斎に坐っていた、――それはさまざまの絨毯を敷きつめた、いくぶん重苦しい昔ふうの椅子テーブルを並べた、天井の高い部屋だった。外出でもするらしい服装《なり》をして、片隅の長いすに掛けていたが、どこへも出かけそうなふうは見えなかった。すぐ前のテーブルには笠をかぶったランプが置いてあったが、大きな部屋は両わきも四すみも闇の中に没していた。彼の眼ざしは一つところに集中されたように考え深そうだったが、なんとなく落ち着かぬ様子であった。その顔は倦怠の色を帯び、いくらか痩せて見えた。彼は、実際、頬腫れに悩んでいたけれど、歯を叩き折られたという噂には誇張があった。ただ、ちょいとぐらぐらしたのは事実であるが、今ではまた元のとおりにしっかりしてきた。上唇もやはり内側のほうが切れたけれど、これも癒ってしまった。頬腫れが一週間もひかなかったのは、病人がすぐに医者を招いて、腫れを切らすということをしないで、自然に口が開くのを待ったからにすぎない。
 彼は単に医者ばかりでなく、ほとんど母夫人さえ傍へ寄せつけなかった。まあ、一日に一度か二度、それも、もう大ぶん暗くなったけれど、まだ灯はついていないというたそがれどきに、ほんのちょっとのま入れるばかりだった。ピョートルもまだこの町にいる間、一日に二度も三度もヴァルヴァーラ夫人のところへ駆けつけたが、これにもやっぱり会おうとしなかった。ところが、この月曜日の朝、ピョートルは三日ばかりの旅行から帰って来ると、もうさっそく町を一まわり駆け廻って、知事夫人ユリヤ・ミハイロヴナのところでご馳走になった後、じりじりしながら待ちこがれているヴァルヴァーラ夫人のところへ、日暮れがたようよう姿を現わした。久し振りに禁止が解けて、ニコライが会うとのことだった。ヴァルヴァーラ夫人は、自分で客を書斎の戸口まで案内した。彼女は久しい以前から、二人の面談を待ちこがれていた。しかも、ピョートルは、ニコライのところからすぐ夫人のもとへ駆けつけて、様子を伝えると約束したのである。夫人はおずおずと戸を叩いてみたが、返事がないので、思い切って戸を二寸ばかり開けてみた。「ニコラス、ピョートル・スチェパーノヴィチをご案内していいかえ?」ランプの陰からニコライの顔を見透かそうと努めながら、夫人は小さな声で控え目にこうきいた。
「いいですとも、いいですとも、むろんいいですよ!」とピョートルはこちらから声高に愉快そうに叫びながら、自分の手で戸を開けて、中へ入ってしまった。
 ニコライはノックの音を聞かないで、母夫人のおずおずした問いを、初めて聞きつけたばかりであるが、それに対して返事をする暇がなかった。ちょうどこのとき彼の前には、たったいま読み終わったばかりの手紙が置いてあった。彼はこの手紙のことで、ひどく考え込んでいたのである。思いがけないピョートルの叫び声を聞きつけると、ぎっくりして、大急ぎで手紙を文鎮の下へ隠したが、うまくいかなかった。手紙の端と封筒のほとんど全部が、まざまざと顔をのぞけていたのである。
「ぼくはあなたに準備の余裕を与えようと思って、わざと一生懸命に大きな声をしたんですよ」ピョートルはテーブルの傍へ駆け寄りながら、驚くばかり罪のない調子で、早口にこうささやいた。彼はいきなり文鎮と手紙の端に目をつけた。
「そして、ぼくがたったいま受け取った手紙を、文鎮の下へ隠したのも、むろん見て取ったでしょうね」とニコライはその場を動こうともせずに、落ちつき払ってこういった。
「手紙? あなたが何をしようと、どんな手紙を受け取ろうと、ぼくの知ったことですか?」客は叫んだ。「しかし……肝要な点はですね……」と、今はもう閉まっている戸のほうへ体をねじ向け、そのほうを顎でしゃくりながらささやいた。
「母はけっして盗み聴きなどしないよ」とニコライは冷ややかに注意した。
「が、もし盗み聴きなすったら!」ピョートルは肘掛けいすに座を占めながら、愉快そうに声を高めて、さっそくこう抑えた。「が、ぼくはそんなこと別になんとも思いやしません。ぼくはただ二人きりで話がしたくてやって来たんですからね。いや、やっとのことであなたに会えましたよ! まず何よりもお体はいかがですか? お見受けしたところ、申し分ないようですね。もしそうだったら、明日はたいてい出席してくださるでしょう、え?」
「ことによったら」
「もういい加減にして、皆を安心さしてやってください、そしてぼくも安心さしてください!」と彼はおどけた気持ちのいい顔つきで、盛んに身振り手真似をしながら、「まあ、どんなことをあの連中にしゃべって聞かせなきゃならなかったか、少しでも察してくだすったらなあ。しかし、あなたはごぞんじでしょうね」
 彼は笑い出した。
「すっかりは知りませんよ。ただきみが大いに……活動したということだけは、母から聞いていましたがね」
「といっても、別にぼくが何かはっきりしたことを、しゃべったわけじゃないんですがね」まるで恐ろしい攻撃を防ぎ止めようとでもするように、ピョートルは急に躍りあがった。「実はね、ぼくはあのシャートフの細君を道具に使ったんですよ。つまり、あなたがパリであの女に関係したという風説を利用してね、それで、むろん、あの日曜日の出来事を説明したんですよ……あなた怒りゃしないでしょうね?」
「だいぶお骨折りだったとは察しています」
「いや、ぼくはただそればかり恐れていたんですよ。しかし、その『だいぶお骨折りだった』とは、いったいなんのこってしょう? それはつまり、非難の言葉になるじゃありませんか。しかし、あなたは真正面からぶっつかってくださる。ぼくはここへ来るみちすがら、あなたが真正面からぶっつかるのをいやがりはなさらんかと、それを一ばん心配してたんですよ」
「ぼくは何事も真正面からぶっつかるのはいやだね」ニコライはちょいといらだたしそうなふうでこういったが、すぐにたりと笑った。
「ぼくがいうのはそのことじゃありません、そのことじゃありません、誤解しないでください、そのことじゃありません!」さっそくあるじのいらだたしさを見て取って、悦に入りながら、まるで豆でもまき散らすように、ピョートルは両手を振って、浴びせかけるのだった。「ぼくは仲間[#「仲間」に傍点]の問題で、あなたに癇癪を起こさせなぞはしませんよ、ことに目下のような状態におられる場合ですからね。ぼくはただ日曜日の事件について、お話しようと思って飛んで来たのですが、それも、ほんの必要な程度だけにとどめておきます。だって、実際こまりますからね。ぼくは思い切ってうち明けた相談に来たんですが、それはあなたより、むしろぼくにとって必要な事件なんです、――あなたの自尊心を傷つけまいためにいうのですが、同時に事実でもあるんですよ。ぼくは今日から常に開放的にしたいと思って、わざわざやって来たのです」
「してみると、従来は非開放的だったんですね」
「それもあなた自身ご承知のはずですがね。ぼくは幾度か狡知を弄しましたよ……あなた笑いましたね。ぼくはあなたの微笑を事実闡明のいとぐちとして、非常に嬉しく思いますよ。ぼくはね、わざと『狡知を弄した』なぞという自慢そうな言葉を使って、その微笑を引き出したんです。ただし、あなたがすぐその後で、腹を立てるだろうと予想してね。『あんなやつが狡知を弄するなんて、よく生意気なことが考えられたもんだ』というわけでさあ。ところが、ぼくは今すぐ相談にかかりたいためにいったんですよ。ね、ね、ご覧なさい、今日はぼくずいぶん開放的になったでしょう。どうです、ぼくの話を聞いてくれますか?」
 いかにも前から準備して来たらしい、何かためにするところありげな、無礼なほど罪のない、しかも思い切ってずうずうしい言葉づかいで、相手の心をいらだたせようとする、客の見え透いた計略にもかかわらず、ニコライは依然として、馬鹿にしたような落ち着きと嘲りを見せていたが、ついにいくぶん好奇の色を浮かべてきた。
「まあ、聞いてください」とピョートルは前よりいっそう烈しく活動しながらいった。「ここへ来る途中、ここといっても、全体にこの町をさすんですよ、――十日前にここへ来る途中、ぼくはもちろん、一役演じる決心でした。しかし、何よりいいのはいっさい役なしに、素のままの自分でいくに限ります。そうじゃありませんか。素のままの自分より以上、ずるいものはありませんよ。だれも本当にするものがないですからね。ぼくは実際のところ、のろまの役廻りが引き受けてみたかったんですよ。なぜって、のろまのほうが、素の自分より楽ですからね。しかし、なんといっても、のろまは少し極端でしょう。ところが、極端という奴は、とかく好奇心をひきやすいものだから、とうとうぼくは素のままの自分に決めちゃったんです。さあ、ところが、ぼくの『素の自分』はなんでしょう? いわゆる黄金のごとき中庸です。馬鹿でもなければ利口でもなく、かなり凡くらでもあるし、おまけにここの賢い人たちのいうところによると、まるで天から降ったような人間だそうですからね、じゃありませんか?」
「そうさねえ、或いはそうかもしれない」とニコライは心もち微笑した。
「あっ、あなたもご同意なんですね――大いに愉快です。ぼくもこれはあなた自身の考えだと、初めから承知してたんですよ……ああ、ご心配はいりません、ご心配は。ぼく、怒ってやしませんよ。それに、ぼくが自分自身にあんな定義を下したのは、けっしてあなたから、『いや、きみは凡くらじゃない、それどころか大いに賢いよ』といったふうな、お返しを頂戴したいからじゃありません……おや、あなたはまたにたっと笑いましたね!………またしくじったぞ。いや、あなたは『きみは利口だ』なんかいわないでしょう、まあ、そうしておきましょう、ぼくは何にでも同意しますよ。親爺の言葉じゃないが、passons(やめにしよう)です。しかし、ちょいとお断わりしておきますが、ぼくの口数の多いのに腹を立てないでください。ところで、これがまたちょうど都合のいい例になるんですよ。ぼくはいつも余分なことをいうでしょう。つまり言葉数が多いでしょう。ぼくはあまりせき込むもんだから、いつもまとまったことがいえないんです。いったいどうしてぼくは言葉数が多くて、そのくせまとまったことがいえないんでしょう? ほかではない、話が下手だからです。話上手な人は、なんでも簡単にいってのける。してみると、実際、ぼくは凡くらに相違ない、――そうじゃありませんか? しかし、この凡くらが、ぼくにとっては自然の賜物なんですから、それを人工的に利用してならないって法はないじゃありませんか。だから、ぼくもそいつを利用するんでさあ。実のところ、ここへ来る前に、ぼくはいっそ沈黙を守ろうかと思ったのですが、沈黙というやつは非常な才能だから、ぼくとしては僭越でしょう。それに、第二として、黙ってばかりいるのは、なんといっても危険ですからなあ。で、とうとうぼくはしゃべるのが一番いいときめました。ただ、凡くら式にやるのです。つまり、しゃべってしゃべってしゃべり抜くのです。やたらにせき込んで論証しようとするのです。そうして、しまいには自分でも自分の論証にまごついちまえば、聴き手のほうでも不得要領で、ただあきれて両手を広げながら(もしぺっと唾でも吐いてくれれば何よりですがね)、ぼくの傍を離れて行ってしまいますよ。こうすれば、第一、自分の人の好さ加減を吹聴し、相手をすっかりいやがらせ、しかも自分の真相を晦ませるんだから、――一挙三得ってわけじゃありませんか! どうです、これでも秘密の企みを持ってるなどと、疑う人があるでしょうか? もしぼくが秘密の企みをいだいてる、などというものがあれば、世間の人はだれでもそのものに腹を立てまさあ。おまけに、ぼくはときどき滑稽なことをいって人を笑わすでしょう、――これなぞは実にまたと得がたい武器なんですよ。だから、今じゃ世間の人も、『以前外国で宣伝《アジ》ビラなんぞ出版した賢人は、自分たちよりも馬鹿だったのか』と思って、この理由一つだけでも、すっかりぼくをゆるすに決まってますよ。そうじゃありませんか? あなたの笑顔でもって、ご同意だってことがわかりますよ」
 けれど、ニコライはまるで笑顔など見せなかった。それどころか、顔をしかめながら、幾分じれったそうに聞いていた。
「え? なんですって? あなたは今『どうでもいい』とおっしゃったようですね?」とピョートルは炒り豆のはぜるような調子でしゃべり出した(ニコライはけっして何もいいはしなかったので)。「むろんですとも、むろんですとも、ぼくは何もあなたを自分の仲間扱いにして、迷惑をかけるためにいったんじゃありません。しかしねえ、今日あなたは恐ろしく癇が立っていますよ。ぼくはうち開いた、快活な心をいだいて駆けつけたのに、あなたは一々ぼくの言葉尻をつかまえるんですもの。誓っておきますが、今日は断じて尻擽ったいようなことはいいません。あらかじめ断わっておきますよ。そして、あなたの提出なさるいっさいの条件に、前もって同意を表明しておきます!」
 ニコライはしゅうねく押し黙っていた。
「え? なんですって? あなた何かいいましたか? ああ、わかった、わかった、ぼくは一人合点をしていたようですね。あなたは何も条件など提出されはしなかったんです、そして、また提出される気色もない、そうですとも、そうですとも。いや、まあ、安心してください。ぼくだって自分でわかっていますよ。つまり、ぼくなぞを相手に、そんなものを提出する価値がない、そうでしょう? ぼくはあなたの代わりに、さき廻りして答えておきます。それは、――もちろん、例の凡くらのせいです。凡くらです、凡くらです……あなた笑ってますね? え? どうしたのです!」
「なんでもありません」ニコライはとうとうにやりと笑った。「ぼくは今はじめて思い出したが、実際、ぼくはいつだったかきみのことを凡くらだといったことがある。しかし、そのとききみはいなかったはずだから、きっとだれかきみの耳へ入れた者があるんだろう……とにかく、手っ取り早く用件にとりかかってもらいたいね」
「いや、もう用件にとりかかろうとしてるんですよ。ぼくは、つまり、日曜日のことでやって来たんです!」とピョートルはさえずり出した。「いったいあの日曜日のぼくは何者だったのでしょう、どういう役どころだったのでしょう、あなたなんとお考えです? ほかじゃありません、例のせっかちな凡くらだったのです。ぼくはきわめて凡くらなやり方で、無理に一座の会話をあやつったのです。けれど、人はぼくに何もかもゆるしてくれました。なぜって、第一に、ぼくは天から降った人間でしょう。これは今この町でみんなが勝手に決めてしまったようです。第二には、あの可憐な話をして、あなたがた一同を救い出してあげたからです、違いますか、違いますか?」
「ところが、きみの話し方は、みんなの心に疑いを残して、ぼくらの狂言や細工をぶちまけてしまうような話し方でしたよ。しかも、ぼくらの間には狂言も何もなかったし、またぼくのほうから何一つ、きみにお願いしたこともなかったんですがね」
「そうです、そうです!」まるでよろこばしさに有頂天になったような調子で、ピョートルは引き取った。「ぼくはつまり、あなたにそういう細工を、すっかり気取《けど》ってもらおうと思ってしたんですよ。ぼくは何よりもまず第一に、あなたを目やすにして、ああして一生懸命に狂言を書いたんですよ。なぜって、ぼくはあなたを釣って、あなたと妥協したかったからなんです。まず何よりもね、あなたがどのくらいまで恐れているか、それをぼくは知りたかったんですよ」
「不思議ですね、どうしてきょうきみはそんなに露骨になったんだろう?」
「怒っちゃいけません、怒っちゃ、そんなに目を光らせないでください……もっとも、あなたは別に目を光らせてるわけじゃない。ところで、どうしてぼくがこんなに露骨なのか、それが不思議だというんですね? ほかじゃありません、今ではすべてが一変したからです、終わりを告げたからです。もうすべてが過ぎ去って、砂をかぶってしまったからです。ぼくは一挙にあなたに対する考えを変えましたよ。旧い手はもうすっかりおしまいです。ぼくはもう今さら旧い手であなたを煩わしなどけっしてしません、今度は新しい手です」
「戦法を変えたんですか?」
「戦法などありゃしません。今は万事あなたの自由意志があるのみです。つまり『諾《イエス》』といいたければ『諾《イエス》』、『否《ノー》』といいたければ『否《ノー》』といってください。それがぼくの新しい戦法です。われわれ仲間[#「われわれ仲間」に傍点]の事件なぞは、あなた自身の命令があるまで、おくびにも出しゃしません。あなた笑ってるんですか? どうかご随意に、ぼくも笑いますよ。しかし、ぼくは今まじめです。まじめもまじめ大まじめです。もっとも、こんなせっかちは凡くらにきまってますがね、そうでしょう? なあに、凡くらだってなんだっていいです、ぼくはまじめ、本当にまじめですからね」
 彼は実際まじめくさった、以前とはまるで別人のような調子になって、一種特別な興奮を示しながら、こういったので、ニコライは好奇の色を浮かべて、相手を見つめた。
「きみはぼくに対する考えを変えたといいましたね?」と彼はたずねた。
「あなたがシャートフに打たれた後で、手をうしろへ引っ込めたあの瞬間から、すっかり考えを変えてしまったのです。いや、それでたくさんです、たくさんです、どうかなんにもきかないでください。これより以上、今は何もいいませんから」
 彼はまるで質問をふるい落とそうとでもするように、両手を振り廻しながら跳びあがったが、べつだん質問も受けなかったし、それかといって、自分のほうから出て行く理由もなかったので、いくぶん落ち着きながら、また肘掛けいすに腰を下ろした。
「ついでにちょっといっておきますが」と彼はすぐしゃべり出した。「この町ではね、あなたがあの男を殺すだろうなぞといって、賭けまでしている連中があるんですよ。だもんだから、レムブケーなぞは、よっぽど警察に注意しようとかかったんですが、ユリヤ夫人がとめたのです……いや、たくさん、こんなことはたくさんです、ぼくはただちょっとお知らせしようと思って。もう一つついでにいっときますが、ぼくはあの日すぐレビャードキン兄妹を、河向こうへ越させておきましたよ。ご承知でしょう。所書のついたぼくの手紙は受け取りましたが?」
「あの時すぐ受け取りましたよ」
「あれなどはもう『凡くら』のせいじゃありません、あれはぼくしんからあなたのためにしたことなんですよ。よし手際は凡くらであろうとも、その代わり誠意がこもっています」
「いや、けっこう、或いはああする必要があったかもしれない……」と、ニコライはうち案じ顔にいった。「ただね、お願いだから、もうこれからぼくに手紙をよこさないでください」
「仕方なかったのです、もうあれ一度きりです」
「じゃ、リプーチンは知ってるんですね?」
「仕方なかったのです。しかし、リプーチンはご承知のとおり、そんな大胆なことのできる男じゃありません……ちょっと断わっておきますが、ひとつ仲間のところへ出かけなきゃなりませんよ。いや、仲間[#「仲間」に傍点]じゃありません、あの連中のところです。こういっておかないと、またあなたに尻尾をつかまえられますからね。しかし、心配しないでください、今じゃありません、いつかのことです。今は雨が降ってますからね。ぼくがみんなに知らせておくと、連中あつまって来ますよ。そのとき二人で晩がた出かけましょう。ある連中は、まるで巣の中の鴉の子みたいに、大きな口を開けて待ってまさあ、いったいどんなお土産を持って来てくれたかと思ってね。どうして、熱心なもんですよ。めいめい何か本を持ち出して、一争論しようとかまえています。ヴィルギンスキイは四海同胞論者で、リプーチンフーリエ派なんです。ただし、恐ろしく刑事探偵的傾向に富んだ男ですがね。ぼくにいわせれば、あの男はある一つの点においては非常に貴重な人間ですが、その他の点においては厳重な監視を要しますよ。それから、最後にひかえているのは、あの耳の長い先生で、あれが自家独得の主義系統をのべるはずです。ところが、どうでしょう、あの連中はぼくがみんなに冷淡で、かえって水をさすようなことをするといって、憤慨しているんですよ、へへ! しかし、ぜひ出かけなきゃなりません」
「きみはあの連中に、ぼくを首領かなんぞのように吹聴したんでしょう?」できるだけ無造作な調子で、ニコライはこうぶっつけた。
 ピョートルは素早く相手を見やった。
「ときに」まるで聞こえないふうをして、急いでもみ消そうとするように、彼はこう引き取った。「ぼくはヴァルヴァーラ夫人のところへも二、三度顔を出したが、やはりいろんなことをいわなくちゃならない始末になりましてね」
「察しています」
「いや、あまり察しないでください。ぼくはただあなたがあの男を殺す気づかいはない、といったような甘いことを、少しばかりいったきりでさあ。ところが、どうでしょう、お母さんはぼくがマリヤ嬢を河向こうへ越さしたことを、翌日さっそく知ってしまわれましたよ。いったいあなたが話したのですか?」
「思いも寄らないね」
「そうでしょう、あなたじゃないと思ってました。あなたでなけりゃ、いったいだれでしょう? おかしいなあ」
「むろん、リプーチンですよ」
「ど、どうして、リプーチンじゃありません」とピョートルは顔をしかめながら口ごもった。「それは今にぼくが洗い上げますよ。なんだかシャートフらしいとこもあるな……が、馬鹿馬鹿しい、もうこんなことはよそう! しかし、これでなかなか大切なこったからなあ……ときに、ぼくはいつも待ちかまえてたんですよ、――ほかじゃありませんが、いきなりお母さんがぼくに面と向かって、一ばん肝腎な質問を切り出されはしないかと思いましてね……ああ、そうそう、お母さんは初めのうち毎日毎日、恐ろしく気むずかしそうな様子をしておられましたが、きょう来てみると、まるでにこにこものでいらっしゃる。これはいったいどうしたわけなんでしょう?」
「それはね、もう四、五日たったらリザヴェータ・ニコラエヴナに結婚の申し込みをすると、きょうぼくが母に約束したからです」突然おもいがけない剥き出しな調子で、ニコライはこういい切った。
「ああ、なるほど……そりゃもちろん……」とピョートルはへどもどした様子で口ごもった。「いま町でマヴリーキイ氏とあのひとと婚約の噂があるのを、あなた知っていますか? まったく確かな話なんです。いや、しかし、あなたのいうとおりです。あのひとは式の間際にでも、あなたが一口声をかけさえすれば、さっそく逃げ出して来ますからね。ときに、あなたはぼくに腹を立てちゃいませんね、ぼくがこんな口のきき方をするので?」
「いや、腹なんか立てちゃいません」
「ぼくもさっきから気がついているんですが、今日はあなたを怒らすのが、恐ろしくむずかしいようですね。ぼくはなんだか気味が悪くなってきましたよ。しかし、明日あなたがどんなふうにして、顔出しをされるだろうかと、それを楽しんでるんですよ。きっと、いろんなことを準備してらっしゃるでしょう。ときに、あなたはぼくに腹を立てちゃいませんね、ぼくがこんな口のきき方をするので?」
 ニコライはまるで返事をしなかった。で、ピョートルはすっかりいらいらしてしまった。
「ときに、あなたはリザヴェータさんのことを、真面目でお母さんにそういったのですか?」
 ニコライはじっと冷ややかに相手を見据えた。
「ははあ、なるほど、ただちょっと気休めにね、そうでしょう?」
「もし真面目だったら?」とニコライはしっかりした調子できき返した。
「どうもしませんさ。こういう場合よくいうことですが、どうなとご随意に。仕事の邪魔にはなりませんさ。(いいですか、ぼくは今われわれの仕事といわなかったんですよ、あなたはわれわれという言葉がお嫌いですからね)ところで、ぼくは……ぼくはどうだっていいです。ぼくはあなたのためには犬馬の労をいといません、それは自分でもご承知のはずです」
「そう考えますか?」
「ぼくは何も、けっして何も考えてやしません」とピョートルは笑いながら大急ぎでいった。「だって、ぼくはちゃんと承知していますもの――あなたは自分のことはすべて前もって熟考を重ねたうえ、はっきりした思案がつけてあるに相違ないんですからね。ただぼくがいいたかったのは、いついかなる場所においても、またいかなる場合に当たっても、ぼくは真面目にあなたのために、犬馬の労をつくそうと覚悟してるってことなんです。いいですか、いかなる場合に当たってもですよ、わかりますか?」
 ニコライはあくびをした。
「だいぶ倦きられましたな」ふいにピョートルはまだ真新しいソフトを取って、さも出て行きそうな恰好をしながら立ちあがったが、それでもやはりじっと踏みとどまって、立ち身のままひっきりなしにしゃべりつづけた。そして、時々部屋の中を歩き廻りながら、興に乗じると、帽子で膝を叩くのだった。
「ぼくはまたあのレムブケー夫婦のことで、ちとあなたを笑わしてあげようと思ったんですよ!」と彼は愉快げに叫んだ。
「いやもう、たくさん、後でまた。しかし、ユリヤ夫人のご機嫌はどうです?」
「あなた方はだれでも実に如才ないですねえ。あのひとのご機嫌なんぞは、あなたにとって、灰色の猫の子のご機嫌くらいにしか思われないはずなんだけれど、それでもちゃんとおききになるところが感心ですね。達者ですよ、そして、まるで迷信じみるほどあなたを崇めています。迷信じみるほど多くのものをあなたから期待しています。例の日曜日の一件については口をとざしていますが、あなたがちょっと姿を現わしただけで、すべてがあなたの足下に慴伏するものと、固く信じています。まったくのところ、あのひとは、あなたのことをどんなことでもできる人のように想像していますよ。けれど、今あなたはこれまでにも増して、謎めいた小説的な人物になっているのです。――実にきわめて有利な立場といわなきゃなりませんよ。だれも本当になりかねるほど、あなたの出現を翹望しています。ぼくはこんど旅行したでしょう、――その前もやはり熱心なことは熱心なものでしたが、今はまだまだ盛んです。ときに、もう一ど手紙のお礼をいっときます。あの連中はみんなK伯爵を怖がってるのです。どうでしょう、あの連中はどうもあなたを間諜扱いにしてるらしいですよ! ぼくはそれに相槌を打つようにしてるんですが、あなた怒りませんか?」
「かまいません」
「かまわないんですよ。これがさきで非常に役に立つんですからね。ここの連中には一種特別な方式があるんですよ。ぼくはもちろんそれに賛成でさあ。ユリヤ夫人を初めとして、ガガーノフもやっぱりそれです……あなた笑っていますね? 実際、ぼくには術《て》があるんですよ。さんざ法螺を吹き散らしておいて、ちょうどみんなが求めている頃を見計らって、出しぬけに一つ気の利いたことをいってやる。と、奴さんたち、四方からぼくを取り巻くんです。そこで、ぼくはまた法螺を吹き始める。で、とうとうみんながぼくに愛想をつかして、『才能はあるんだが、どうも天から降ったような男でね』てなことをいう。レムブケーはぼくを匡正しようと思って、勤めにつくようにすすめていますよ。ところがね、ぼくあの男をひどい目に遭《あ》わすもんだから、つまり、うんと恥を掻かせてやるもんだから、奴さん目ばかりぱちくりさせてますよ。ユリヤ夫人はかえってそれを奨励してるんです。ああ、ついでにいっときますが、ガガーノフは恐ろしくあなたに腹を立てていますよ。昨日、ドゥホヴォ村でぼくに向かって、あなたのことを思いきり悪くいってましたっけ。ぼくはすぐに事実ありのままをいってやりました。といっても、むろん、本当の事実ありのままじゃないんですよ。ぼくは一日ドゥホヴォ村のあの男のまで暮らしましたが、なかなか立派な領地ですね、いい家ですよ」
「じゃ、あの男は今でもドゥホヴォ村にいるんですね?」突然ニコライは躍りあがって、烈しく前のほうへ乗り出すようにした。
「いや、今朝ほどぼくをこちらへ送って来てくれました。ぼくらはいっしょに帰ったのです」ニコライの刹那の惑乱にはいっこう気もつかぬ様子で、ピョートルはこういった。「おや、ぼくは本を落っことした」彼は自分がさわって落とした本を、かがみ込んで拾い上げた。「バルザックの女たち、挿絵入りだな」とふいに彼はページを繰って見た。「読んだことがない。レムブケーもやっぱり小説を書いてますよ」
「へえ?」とニコライは興味を感じたもののようにきき返した。
「ロシヤ語でね、もちろん内証です。ユリヤ夫人は知っていながら、大目に見てるのです。先生のろまではあるが、態度だけはなかなか立派ですよ。なかなかよく練りあげたもんでさあ。あのいかめしい形式、あのどっしりと控え目なこと! われわれにも何かああいうふうなものが必要じゃないかしら」
「きみは行政官を讃美しますか?」
「どうして讃美せずにいられます? ロシヤにおいて唯一の自然なもの、完成されたものじゃありませんか……もうやめます、やめます」と彼は急に泡を食った「ぼくは[#「食った「ぼくは」はママ]あのことをいってるんじゃありません。もうこんなデリケートな問題は、ひと言も口にしないことにしますよ。じゃ、失敬します。しかし、あなたはなんて顔色が悪いんでしょう」
「ぼくは熱があるんです」
「そりゃそうでしょう。お休みなさいよ。ときに、この県には去勢宗派がいるそうですね、面白い連中ですよ……が、まあ、後にしましょう。しかし、もう一つ奇談があるんです。やはりこの郡内に歩兵連隊がありましてね、金曜日の晩、ぼくはBで将校連といっしょに一杯やったのです。そこにはわれわれの友だち、――|わかるでしょう《コムプルネー》?――が三人いるんですよ。やがて無神論の話になりましてね、だんだんに神様をこき下ろしてしまったもんでさあ。みんなよろこんで、きゃっきゃっという騒ぎなんです。話のついでで思い出したが、シャートフの説くところによると、ロシヤで叛乱を起こそうと思ったら、ぜひとも無神論から切り出さなきゃならないそうです。或いは真を穿ってるかもしれませんよ。ところが、一人ごましおの特進大尉が、いつまでもいつまでもじっと坐ったまま、しじゅうだんまりで一口もものをいわないでいたが、出しぬけに部屋の真ん中へ突っ立って、まあ、どうでしょう、恐ろしい大きな声をしてさ、しかも、まるで独り言のような調子で『もし神様がないとすれば、ぼくだってもう大尉でもなんでもありゃせん』といったかと思うと、いきなり帽子をとって両手を広げると、そのままぷいと部屋を出てしまったじゃありませんか」
「かなりまとまった思想を表白しているね」ニコライはまた三度目のあくびをした。
「そうかしら? ぼくは合点がゆかなかったから、あなたにきこうと思ってたんですよ。ところで、まだ何か話すことはなかったかしらん。あのシュピグーリンの工場は面白いところですね。あすこにはご承知のとおり、五百人の職工がいますが、まるでコレラ菌の繁殖場でさあ。なにしろ十五年間、まるで掃除ということをしないんですからなあ。あすこじゃ職工の工賃をかするんですよ。工場主の商人連はみんな揃って百万長者でさあ。ところで、ぼくまじめでいいますが、職工の中にはインターナショナルの何たるやを解したものもいるんですよ。おや、にたっと笑いましたね? いや、今にわかりますよ、まあ、もう少し、ほんのもう少し待ってください! ぼくは前にも一とき待ってくださいといいましたが、今また改めて頼みますよ。その時になったら……いや、失礼、もういいません、ぼくは何もあのことをいったわけじゃありませんよ。そう顔をしかめないでください。じゃ、失礼します。おや、ぼくはどうしたんだろう?」とふいに彼は途中から引っ返した。
「まるっきり忘れていた、しかも、一ばん大切なことだ。ぼくたったいま聞いたんですが、ぼくらのトランクがペテルブルグから着いたそうですね」
「というと?」ニコライは合点がゆかないで、じっと相手を見つめた。
「つまり、あなたのトランクです。あなたの荷物です。燕尾服や、ズボンや、肌衣が、着いたそうじゃありませんか? 本当ですか?」
「そう、なんだかそんなことをいってたっけ」
「では、今すぐ、いけないですか」
「アレクセイに聞いてみたまえ」
「いや、明日にしましょうね、明日に? あの中にはあなたの物といっしょに、ぼくの背広と、燕尾服と、それからズボンが三着はいってるはずです。ほら、あなたの紹介で、シャルメルで作った分ですよ、おぼえていますか?」
「噂によると、きみはここでだいぶん紳士ぶってるってね?」ニコライはにやりと笑った「調馬師[#「笑った「調馬師」はママ]について馬の稽古をするというのは本当のことですかね?」
 ピョートルはひん曲ったような薄笑いを浮かべた。
「ねえ」と彼は妙に慄えを帯びた、とぎれとぎれな声で、突然せき込みながら、こういった。「え、ニコライ・フセーヴォロドヴィチ、お互いに個人的にわたる話はやめようじゃありませんか、え、今後永久にね? もちろん、あなたがおかしいと思ったら、いくらぼくを軽蔑なすってもかまわんですが、しかし、しばらくの間は個人的にわたる話をしないようにしたほうがよかありませんか、え?」
「よろしい、じゃぼくはもういいますまい」とニコライは答えた。
 ピョートルはにこりと笑って、帽子でぽんと膝をたたき、足をちょっと踏み変えて、以前と同じ姿勢をとった。
「だって、今ここの人はぼくのことを、リザヴェータ・ニコラエヴナに対するあなたの競争者のようにいってるんですからね、ぼくだってちっとは様子をかまわんわけにゆかないじゃありませんか」と彼は声を立てて笑った。「しかし、だれがそんなことをあなたに密告するんだろう。ふむ! ちょうど八時だ。さあ、そろそろ出かけましょう。ぼくはヴァルヴァーラ夫人のところへ寄る約束をしたけれど、すっぽかすことにしましょう。あなたもお休みなさい。そうすれば、明日はもっと元気が出ますよ。そとは雨が降って真っ暗だけれど、なに大丈夫、ぼくには馬車があります。だって、ここは夜になると往来が物騒ですからね……ああ、それはそうと、ちか頃この町の近辺を、囚人のフェージカというのがうろうろしてるんですよ。シベリヤから逃げ出したんですがね。十五年まえ、うちの親父が兵隊にたたき売って金にした下男なんですよ。なかなか面白いしろ物でしてね」
「きみは……その男と話してみましたか?」ニコライは急に視線を上げた。
「話しましたよ。ぼくが目をつけたら、隠れっこはありませんよ。なんでも平気といったしろ物です、まったくなんでもね。もちろん、ぜに金ずくですが、それも一種の信念を持ってるんですよ、むろん、人物相当のものですがね。ああ、そうそう、もう一つついでにいっときますが、もしあなたがさっきおっしゃった計画、あのリザヴェータさんに関する計画が真面目な話でしたら、ぼくもやはり何事をも辞せずというところです。もう一ど念のためにいっときます。どんな性質の仕事だろうと、あなたのためにはよろこんで引き受けますよ……え、どうしたのです? あなたステッキでも引っつかもうとなさるんですか、ああ違った、ステッキじゃなかった……まあ、どうでしょう、ぼくはあなたがステッキをさがしていられるのかと思いましたよ」
 ニコライはべつに何もさがしもせず、何一ついいもしなかったが、実際、一種奇怪な痙攣を顔に浮かべながら、突然ひょいと腰をあげたのである。
「それから、もしガガーノフについても、何かあなたに必要なことがあったら」今度はもう露骨に文鎮を顎でしゃくりながら、ピョートルはたたきつけるようにいった。「その時はぼくがいっさいひき受けていいです。大丈夫、ぼくを出し抜くようなことはなさらんでしょうね」
 彼は返事を待たないで、出しぬけにぷいと出て行った。が、またもう一ど隙間から頭を突き出した。
「ぼくがこんなことをいうのは」と彼は早口にいった。「たとえば、例のシャートフですね、あの男だってこの間の日曜のように、あなたの傍へのこのこやって来て、命賭けの危い仕事をする権利なんか、けっして持っていないと思うからです、そうじゃありませんか? ぼくはこれをあなたに承認してもらいたいんですよ」
 彼はふたたび答えを待たないで、消えてしまった。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 ことによったら、彼は自分の姿を消す時に、『きっとニコライは一人きりになったとき、両の拳を固めて、壁をどんどん撲り始めるに相違ない』とこんなことを考えて、できることなら、ちょいとその様子をのぞいて見たい、くらいに思ったかもしれない。もしそう思ったとしたら、彼は非常な失望を感じたに違いない、ニコライは依然として落ち着き払っていた。二分間ばかり、彼は元のままの姿勢で、テーブルの傍に立っていた。見たところ、非常に考え込んでいるらしい。が、間もなく弛緩した冷たい微笑が、その口辺におし出された。彼は元の席、――片隅の長いすへ腰を下ろすと、疲れ切ったように目を閉じた。手紙の端は相変わらず文鎮の下からのぞいていたが、彼はそれを直すために、身じろぎさえしなかった。
 間もなく、まったく彼は忘我の境へ落ちてしまった。
 ヴァルヴァーラ夫人は、この数日来心配のあまり、身も細るような思いをしていたが、もうとうとう我慢がしきれなくなった。ピョートルが寄って行くと約束しながら、その約束を守らないで去ってしまった後、指定されている時間とは違うけれど、勇を鼓して、自分からニコラスの様子を見に行こうと決心した。もういい加減にして、何かきっぱりしたことをいってくれそうなものだ、こういう心持ちが絶えず夫人の頭に浮かぶのであった。彼女はさきほどと同じように、ほとほと静かに戸をたたいたが、今度もやはり返事がなかったので、自分で戸を開けた。ニコラスがなんだかあまり静かに坐っているので、夫人は胸を轟かしながら、そうっと長いすへ近づいて見た。ニコラスがこんなに早く寝入ったうえ、こうして身動きもせずにきちんと坐ったまま寝ていられるのが、なんだか妙に感じられた。そればかりか、寝息さえほとんどわからないくらいだった。彼の顔はあおざめて険しい表情を帯び、凍りついたようにぴくりともしなかった。少し眉根を寄せて、八の字にひそめているところなど、まるで息のかよってない蝋細工にそっくりだった。夫人は呼吸さえもはばかりながら、三分ばかりわが子の傍に立ちつくしていたが、とつぜん恐怖の情が彼女の全身をおそうた。彼女は爪立ちで部屋を出ながら、戸口のところで立ちどまって、手早くわが子に十字を切ると、だれの目にも触れずにその場を去ってしまった、また新たな重苦しい感触と、異なった憂愁をいだきながら。
 彼は長いこと、一時間以上も眠りとおした。しかも、初めから、しまいまで、この麻痺したような状態がつづいた。顔面筋肉一本うごくでもなければ、体じゅうどこ一つぴくりとする様子もなかった。眉は依然として気むずかしげに、八の字に寄せられたままだった。もしかりにヴァルヴァーラ夫人が、もう三分間ここに残っていたら、必ずやこの昏睡病的《レタルジック》な不動のもたらす、おしつけられるような印象に堪え切れないで、わが子を呼びさましたに相違ない。けれども、彼はふいに自分でぱっと目を開けた。そして、やはり身じろぎもしないで、さももの珍しげにまじまじと部屋の一隅を見つめながら、十分間ばかりじっと坐っていた。その様子は、何か非常に変わったものが目にとまったかなんぞのようだったが、そこには格別これという珍しいものも、変わったものもなかったのである。
 とうとう大きな掛時計が静かな、厚みのある音を立てて一つ鳴った。彼はいくぶん不安げなおももちで、首をねじ向けて文字盤を見ようとしたが、ちょうどそのとき廊下へ通ずるうしろ側の戸が開いて、侍僕のアレクセイが姿を現わした。彼は片手に冬の外套と、襟巻と、帽子を持ち、いま一方の手に手紙をのせた銀盆を捧げていた。
「九時半でございます」と彼は静かな声でいって、持って来た衣類を片隅の椅子の上にのせ、手紙ののった盆を差し出した。それは、鉛筆で二行ばかり走り書きしたまま、封もしてない小さな紙きれだった。
 この手紙にざっと目をとおすと、ニコライもやはりテーブルから鉛筆を取り、手紙の端にふた言ばかり書き添えて、また元の盆へ戻した。
「ぼくが出たらすぐ渡すんだよ。さあ、着せてくれ」長いすを離れながら、彼はこういった。
 ふと軽いビロードの背広を着ているのに気がつくと、彼はちょっと考えた後、別なラシャのフロックを出すようにいいつけた。それは、少し改まった夜分の訪問に用いるものだった。ようやくすっかり着替えを終わって帽子をかぶると、彼は母夫人の入って来た戸口を閉ざして、文鎮の下に隠してあった手紙を引き出し、アレクセイを従えて、無言のまま廊下へ出た。そうして、そこの狭い石の裏梯子から真っすぐに庭に面している出入口へ下りた。その隅には、角燈と大きな蝙蝠《こうもり》傘が用意してあった。
「どうも恐ろしい大雨で、どの町もどの町も、大変なぬかるみでございますが」主人の夜歩きを、遠廻しに思いとまらせようとする、最後の試みといった体裁で、アレクセイはこう注意した。
 けれど、主人は傘を拡げて、穴蔵のように暗い、底まで湿りけの浸み込んだ、ぐしょぐしょの古い庭へ、言葉もなく出て行った。風はごうごうと鳴って、半分裸にされた立木の梢を揺すぶっていた。細い砂利路はふわふわして、すべりそうだった。アレクセイは今まで着ていた燕尾服のままで、帽子もかぶらず、角燈をかざして三歩ばかり前を照らしながらついて行った。
「見つかりゃしないかね?」突然ニコライは問いかけた。
「窓からは見えはいたしません、それに、もう前からよっく見ておきましたで」と下僕《しもべ》は小さな声で、正確に間をおきながら答えた。
「お母さんはお休みかね?」
「二、三日この方のしきたりで、正九時に部屋の戸をかけておしまいになりました。でございますから、奥様に知れる気づかいはけっしてございません。いく時ころにお待ち申したらよろしゅうございましょう?」彼は思い切って、つけたりにこうきいた。
「一時か一時半だ、二時より遅くはならない」
「承知いたしました」
 二人ともそらで覚えている庭を、うねりくねった細径づたいにぐるりと廻って、石塀の傍まで辿り着いた。そして、塀の一番はじのところに、小さなくぐりをさがし出した。これは狭い淋しい横町へ通じる出口で、ほとんどいつも閉めきりになっていたが、その鍵は今アレクセイの手にあった。
「戸が軋みはしないだろうね?」と再びニコライがきいた。
 けれど、アレクセイの報告するところによると、戸にはきのう油をさしたばかりだし、『今日もやっぱりさしておいた』とのことだった。彼はもう今の間にぐっしょり濡れていた。戸を開き終わると、アレクセイは鍵をニコライに渡した。
「もしあまり遠方へお越しになるのでございましたら、ちょっとご注意申し上げておきますが、ここの人間どもはなかなか油断がなりませんでな、ことに淋しい横町をお通りになる時は、一段とご用心が肝要でございます。それに河向こうときたら、なおさらでございますよ」彼は我慢し切れなくなって、も一度こういった。彼は昔、ニコライのおもり役として、だき歩きしたことのある老僕だった、人間が真面目で厳格なたちなので、好んで聖書の類を人に読んで聞かせてもらったり、自分でも読んだりしていた。
「大丈夫だよ、アレクセイ」
「どうか神様が、あなたにお恵みを垂れてくださいますように……と申しても、ただあなたが善いことをなさる時だけの話でございますよ」
「なんだって?」もう横町ヘ一歩ふみ出しながら、ニコライはこういって、足を止めた。
 アレクセイはきっぱりと今の言葉をくり返した。彼は今までけっして自分の主人に向かって、こんな言葉づかいをする男ではなかったのである。
 ニコライは戸を閉めて、鍵をポケットへ入れ、一歩ごとに三、四寸ずつもぬかるみへ踏み込みながら、横町を向こうのほうへ歩き出した。やがて石をたたんだ、長いがらんとした通りへ出た。町の案内はたなごころをさすように明らかだった。けれども、ボゴヤーヴレンスカヤ街はまだまだ遠かった。やっとのことで、彼が黒く古びたフィリッポフの持ち家の、閉め切った門の外へ立ち止った時は、すでに十時を過ぎていた。階下《した》の部屋は、レビャードキン兄妹の引っ越しとともに空家になって、窓はすっかり釘づけになっていたが、シャートフの住んでいる中二階には、灯影がさしていた。門にベルがなかったので、彼は手で門の戸をたたき始めた。と、窓が開いて、シャートフが往来へ首を出した。しかし、恐ろしい闇なので、あやめもわかぬほどだった。シャートフは長いあいだ、一分間ぐらいじっと見透かしていた。
「ああ、あなたですか?」とふいに彼はたずねた。
「ぼくです」と待ち設けぬ客が答えた。
 シャートフはぱたりと窓を閉じて、下へおり、門の鍵をはずした。ニコライは高い閾を跨ぐと、ひと言もものをいわないで、その傍を通り抜け、真っすぐにキリーロフの住まっている離れのほうへ通って行った。

[#6字下げ]5[#「5」は小見出し

 離れのほうは、どこもかしこも鍵がかかっていないばかりか、ろくろく閉めてもなかった。玄関もその次のふた間も真っ暗だったが、キリーロフの借りている一ばん奥の部屋には(そこで彼はいつも茶を飲んでいた)、あかりがさしていた。そして、なんだか奇妙な叫びや笑い声が洩れて来る。
 ニコライはあかりのするほうへ歩いて行ったが、中へ入らないで、閾の上に立ちどまった。茶の道具がテーブルの上に置いてあった。部屋の真ん中には家主の親類にあたる老婆が立っていた。頭には帽子も頭巾もかぶらないで、着物もただちょっとしたスカートの上に、兎のジャケツを着込んでいるばかり、靴も素足にひっかけていた。老婆の手には、シャツ一枚きりで、小さな足を剥き出しにした生後一年半ばかりの赤ん坊がだかれていた。たったいま揺り籠から下ろしたばかりらしく、頬がかっかと赤く火照って、白っぽい髪がくしゃくしゃに乱れている。つい今しがた大泣きに泣いたと見えて、まだ涙が目の下に溜まっていたが、ちょうどこの瞬間、小さな両手を伸ばして、ぱちりと鳴らしながら、幼い子供がだれでもするように、しゃくり上げて笑っていた。その前でキリーロフが大きな赤いゴム毬を、床へほうりなげているのだった。毬が天井まで跳ねあがって、また下へ落ちて来ると、子供は『まい、まい』と叫んだ。キリーロフは『まい』をつかまえて、子供へ渡した。すると、こちらは覚束ない小さな手で、今度は自分で投げるのであった。キリーロフはまた駆け出して、それを拾ってやった。そのうちにとうとう、『まい』は戸棚の下へ転がり込んだ。
「まい、まい!」と子供は叫んだ。
 キリーロフは床へ坐って、腹這いになりながら、戸棚の下から手で毬を取り出そうと努めた。ニコライは部屋の中へ入った。子供は彼の姿を見ると、老婆にひしとしがみつきながら、いきなり子供らしい長い泣き声を立て始めた。老婆はさっそく部屋の外へ連れ出してしまった。
「スタヴローギン君?」手に毬を持って、床から起きあがりながら、ふいの来訪にいささかも驚く色なくキリーロフはこういった。「お茶を飲みますか?」
 彼はすっかり体を起こした。
「けっこうですね、もし冷たくなかったら」とニコライはいった。「ぼくすっかりびしょ濡れだ」
「温いです、いや、熱いくらいです」とキリーロフは得意そうに引き取った。「まあ、おかけなさい。きみ、泥だらけですね。いや、かまわない。ぼくあとで床を濡れ雑巾で」
 ニコライは席に着いた。なみなみと注いだ茶碗を、ほとんど一息に飲み干した。
「まだ?」とキリーロフがきいた。
「ありがとう」
 今まで坐っていなかったキリーロフは、さっそくむかい合わせに座を占めると、問いを発した。
「きみは何用で来たのです?」
「ちょっと用事があって。きみこの手紙を読んでみてくれたまえ、ガガーノフから来たんです。覚えていますか。いつかペテルブルグできみに話したことがあったでしょう」
 キリーロフは手紙を取って読み終わると、また元のテーブルヘのせて、待ち設けるように相手を見つめた。
「このガガーノフという男には」とニコライは説明にかかった。「きみもご承知のとおり、一月ばかり前に、生まれて初めてペテルブルグで会ったんです。ぼくらは二、三ど集まりの席で、顔を合わしたばかりなんですがね、紹介もされなければ、言葉を交わしたこともないくせに、なんと思ったか、ぼくに思いきり失敬な真似をするんです。このことは当時きみに話したけれども、ただ一つきみの知らないことがある。あの男はぼくよりさきにペテルブルグを立ったが、その時だしぬけに一通の手紙をよこした。もっとも、この手紙のようなことはないけれど、やはり思いきって無作法きわまるものなんです。第一、そんな手紙を書く気になった動機がまるで説明してない。それが何より奇妙なんですよ。ぼくはその時、さっそく返事をやった。やっぱり手紙でね。そして、きわめて腹蔵のない調子で、こういってやった、――あなたはおそらく四年前、ここのクラブで起こったご尊父に関する出来事を根にもって、わたしに腹を立ててるんでしょう。そのことならば、できるかぎり謝罪の方法を講ずる覚悟です。もっとも、ぼくの行為がべつに悪意あってのことではなく、単に病気のさせた業にすぎない、ということを前提にしたのです。どうか自分の謝罪を聞いたうえで、思案をしてくれと頼んでやりました。けれど、あの男は返事もよこさないで立ってしまったのです。ところが、今ここであの男の噂を聞いてみると、まるで気ちがいのようになってるそうです。あの男が衆人|稠座《ちゅうざ》の前で発したぼくに対する評言を三つ四つ耳にしたが、もう純然たる悪罵で、おまけにびっくりするような言いがかりなんですからね。ところが、とうとう今日の手紙が来ました。こんな手紙をもらった者は、今までかつて一人もないだろう、罵詈雑言をつくしたうえに、『貴様の撲られたしゃっ[#「しゃっ」に傍点]面』といったような文句まで使ってあるんだからね。ぼくは、きみが介添人たるの労をいとわれないだろうと思って、やって来たんですよ」
「きみは、こんな手紙をもらったものは一人もないといいましたが」とキリーロフがいった。「だれでも夢中になったらやりかねませんよ。こんなことを書いたのは、二人や三人じゃない。プーシキンもへッケルン([#割り注]プーシキンを決闘で倒したフランス生まれの将校[#割り注終わり])にあてて書きました。よろしい、行きましょう。で、どうするんです?」
 ニコライの説明によると、彼は明日にもさっそく決行したいと望んでいるが、その前にぜひもう一どあらためて謝罪を申し込もうと思う。いや、もう一ど謝罪の手紙を約束してもかまわない。ただし、ガガーノフのほうからも、今後二度と手紙をよこさない、という約束をしなければならぬ。今まで受け取った手紙は全然なかったものと見なしておこう、とこういうのであった。
「それじゃ、譲歩し過ぎる。あの男が承知しないでしょう」とキリーロフがいった。
「ぼくがここへ来たのは、何よりも第一に、きみがこういう条件を先方へ伝えてくれるかどうか、それを聞きたいがためなんですよ」
「ぼくは伝えます、人のことですもの。しかし、あの男が承知しません」
「承知しない、それはぼくも知っています」
「あの男は決闘したいのです。で、どうして闘うんです?」
「つまり、そこなんですよ。ぼくはぜひあすじゅうに、すっかり片をつけてしまいたい。朝の九時ごろ、きみあすこへ行ってくれたまえ。あの男はきみのいうことを聞いて、不同意を唱える。そして、自分のほうの介添人にきみを引き合わせる、――それがまあ、十一時になるでしょう。きみはその男と万端の手筈を決めてください。それから、一時か二時には、双方指定の場所へ出合わなくちゃならない。きみお願いだから、そういうふうにしてくれたまえ。武器はむろんピストル。そして、とくにお願いがあるんです。二つの発射線の間は十歩として、われわれ二人をその線からおのおの十歩の距離に立たしてください。われわれは一定の合図で近づくことにしましょう。もちろん、どちらも発射線に行き着かなくちゃならないけれど、発射はその前に、歩きながらやってもかまわない。まあ、これくらいなもんですね、ぼくの考えてるのは」
「発射線間十歩の距離は近すぎます」とキリーロフがいった。
「じゃ、十二歩、それ以上だめです。きみにもわかるでしょうが。あの男は真面目に決闘を望んでるんですよ。きみ、装填ができますか?」
「できます。ぼくピストルを持っています。ぼくは、きみが一度もぼくのピストルを使ったことがないということを、先方へ誓っておきます。先方の介添人にも、やはり自分のピストルのことをね、――そう誓わせます。そこで、この二組のピストルの中から、丁半《ちょうはん》をやってみて、先方のかこっちのか決める」
「けっこう」
「ピストルを見ますか?」
「そうですね」
 キリーロフはまだ片づけないで、片隅に置いてあるカバンの前へしゃがんで(彼は必要にしたがってこの中から、いろんな物を引っ張り出すのだった)、内側に紅いビロードを張った棕櫚の箱を、底のほうから引き出した。中からは洒落た、恐ろしく上等のピストルが一対でてきた。
「すっかり揃ってる。火薬も、弾丸《たま》も、弾薬筒もね。ぼくはまだ連発拳銃《レヴォルヴァ》を持ってますよ。ちょっと待ってください」
 彼はまたもやカバンの中へ手を突っ込んで、アメリカ製の六連発拳銃の入った箱を引き出した。
「きみはずいぶんピストルを持ってますね、しかも、立派なのばかり」
「まったく。非常に」
 ほとんど乞食のような貧しい境涯にいるキリーロフが(もっとも、自分の貧しさに一度も気がつかないでいたけれど)、今夜はさも自慢そうに、高価な武器を持ち出して見せるのだった。それはいうまでもなく、非常な犠牲を払って手に入れたものに相違ない。
「きみは今でもやはり、あのとおりな考えでいるんですね?」つかの間の沈黙の後、スタヴローギンはいくぶん大事を取るような調子で、こうきいた。
「あのとおりです」とキリーロフはすぐに声の調子で、問いの意味を察してしまったので、言葉みじかに答えながら、テーブルから、拳銃を片づけにかかった。
「いつ?」再び幾分かの間《ま》をおいて、前よりもさらに大事を取りながら、スタヴローギンはたずねた。
 キリーロフはその間に箱を両方ともカバンヘしまっておいて、もとの席へ腰を下ろした。
「それはご承知のとおり、ぼくの意志できまるわけじゃない。人がきめてくれます」いくぶん問いを持てあますようなふうだったが、同時に、このさきどんなことを問いかけられても、躊躇なしに答えそうな様子を示しながら、彼はこうつぶやいた。
 彼はなんとなく穏かな、人のいい、やさしい感情をこめながら、光のない黒い目で、あからめもせずスタヴローギンを見つめるのであった。
「ぼくにもむろんわかります、――ピストル自殺」長いこと三分ばかり、もの思わしげに黙り込んでいた後、ニコライは心もち眉をひそめながら、再びきり出した。「こいつはぼくもときどき自分で考えてみましたよ。するとね、いつも何かこう、新しい考えが湧いて来るんですよ。つまり、非常に兇悪なこと、でなければ非常に恥ずかしいこと……といって、非常な恥辱になることね、しかも、思いきって陋劣な、そして滑稽なことをやっつける、――そこで……人がそのために千年万年も覚えていて、千年万年も爪はじきする、と仮定しましょう。そのとき忽然として『こめかみにどんと一つ打ち込んだら、もう何一つ残りゃしないじゃないか』とこういう想念が浮かんだらどうでしょう。そうしたら、人がなんと思おうと、千年万年つまはじきしようと、いっこうかけかまいはないじゃありませんか、そうでしょう?」
「きみはそれを新しい思想というんですか?」ちょっと考えた後、キリーロフはこうたずねた。
「ぼくは……あえてそういうわけじゃない……ただかつてこのことを考えた時に、まったく新しい思想だと感じたのです」
「新しい思想だと感じた?」キリーロフは鸚鵡返しにいった。「それはいいことです。そういう思想はたくさんあります、――いつでもある、それがとつぜん新しくなる、それは本当です。ぼくもこの頃いろんなことがまるで初めて見るように目に入りますよ」
「かりにきみが月の世界に住んでいて」相手のいうことには耳をかさず、自分の思想の糸を手繰りながら、スタヴローギンはさえぎった。「まあ、かりにきみが月の世界で、ありとあらゆる滑稽醜悪なことをしつくしたとする……ところが、きみはこの地球に居を移しながら、月の世界できみの名を千年も万年も、永久に月の存在のつづく限り、笑ったり爪はじきしたりしてるのを、ちゃんと百も承知してると仮定しよう。しかし、きみはもうここにいて、ここから月の世界を眺めてるんだからね、きみが向こうで何をしたにしろ、また向こうの人間が千年万年つまはじきするにしろ、そんなことはここにいる以上、なんのかけかまいがあるものですか、そうじゃありませんか?」
「知りません」とキリーロフは答えた。「ぼくは月の世界にいたことがないから」いささかの皮肉もなく、ただ単なる事実表白のために、彼はこうつけ足した。
「あのさっきのはだれの子です?」
「あの婆さんの姑がよそから来たんです。いや姑じゃない、嫁だ……まあ、どっちでもいい、三日まえにね。ところが、子供といっしょに病気して臥《ね》てるんです。子供は夜になると無性に泣くんですよ、腹痛《はらいた》でね。母親は寝てる、しょうことなしに婆さんが連れて来るんです。で、ぼくは毬をもってね……毬はハンブルグから持って来ましたよ。ハンブルグで買ったんです、投げたり、つかまえたりしようと思ってね……背中を丈夫にしますから……女の子です」
「きみ、子供は好きですか?」
「好きです」とキリーロフは答えたが、それはかなり気のない調子だった。
「じゃ、きみは生活も愛してますね?」
「ええ、生活も愛してます、それがどうしたのです?」
「でも、自殺を決心してるとすれば」
「それがどうしたんです? なぜそれをいっしょにするんです? 生活は生活、あれはまたあれです。生活はあります。しかし、死というものはまるでありゃしない」
「きみは未来の永世を信じるようになったんですか?」
「いや、未来の永世じゃない、この世の永世です、一つの瞬間がある、その瞬間へ到達すると、時は忽然ととまってしまう、それでもう永世になってしまうのです」 
「きみはそういう瞬間へ到達しうると思いますか?」
「ええ」
「それはどうも現代じゃ不可能らしいね」と同じくいささかの皮肉もなく、ニコライは答えた。「黙示録の中で、一人の天使が、時はもはやなかるべし、と誓っていますがね」
「知っています。あれはまったく非常に正確な言葉です。明晰で的確です。完全な一個の人間が幸福を獲得した場合、時はもはやなくなってしまいます。必要がないですものね。非常に正確な思想です」
「いったいどこへ隠すんでしょう?」
「どこへも隠しゃしない。時は物件じゃなくて、思念ですからね。心の中で消えてしまう」
「古い哲学のきまり文句だ、開闢以来、相も変わらないもんだね」なんだか気むずかしげな憐憫の色を浮かべながら、スタヴローギンはつぶやいた。
「相も変わらない! 開闢以来、相も変わらない、ほかにけっしてありようがないです!」と、まるでこの観念の中に、立派な勝利でも含まれているように、キリーロフは目を輝かせつつさえぎった。
「キリーロフ君、きみは非常に幸福らしいですね?」
「ええ、非常に幸福です」と、彼はまるで平凡な日常茶飯事かなんぞのように答えた。
「しかし、きみはつい近ごろ非常に悲観して、リプーチンのことで腹をたててたじゃありませんか?」
「ふむ!………しかし、今は人を罵倒したりなんかしませんよ。あの時はまだ自分が幸福なことを知らなかったんです。きみは葉を見たことがありますか、木の葉を?」
「ありますよ」
「ぼくはついこのあいだ黄いろのを見ましたよ。もう青いところは少なくなって、ぐるりが枯れかかってるんです。風に飛ばされたんですね。ぼくは十ばかりの頃、冬わざと目をふさいで、葉脈の青々とくっきりした木の葉を想像してみた。陽がきらきら照ってるんです。それから目をあけて見たとき、なんだか本当にならないようでした。だって、実にいいんですものね。で、ぼくはまた目をふさぐ」
「それはなんです、比喩ででもあるんですか?」
「い……いや、なぜ? ぼく比喩なんか。ぼくはただ木の葉……ほんの木の葉のことをいっただけです。木の葉はいいもんです。何もかもいいです」
「何もかも?」
「何もかも。人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです。それだけのこと、断じてそれだけです、断じて! それを自覚した者は、すぐ幸福になる、一瞬の間に。あの姑が死んで、女の子がたった一人取り残される、――それもすべていいことです。ぼくは忽然としてそれを発見した」
「人が飢死しても? 女の子を辱しめたり、けがしたりしても、――それでもやっぱりいいことなんですか?」
「いいことです。人が子供の敵討《かたきうち》に脳味噌をたたき潰しても、それでもやっぱりいい。また脳味噌をたたき潰さなくても、それもやはりいいことです。すべてがいい、すべてが! すべてがいいということを知ってる者は、すべてがいいのです。もし世の中の人が、自分たちにとってすべてがいいということを知ったら、すべてがよくなるんだけれど、彼らがすべて善なりということを知らないうちは、彼らにとってもいいことはないでしょう。それが全部の思想です。もうそのうえほかの思想なんかありゃしない!」
「きみは、いつ自分がそんなに幸福だってことに気がつきました?」
「先週の火曜日、いや、水曜日です。あの時はもう水曜になってたっけ。夜中だったから」
「どういう動機で?」
「おぼえていませんね。ただひょっこり、なんでも部屋の中を歩き廻っていたっけ……まあ、そんなことはどうでもいい。ぼくは時計をとめちゃった。なんでも二時三十七分のところでしたっけ」
「時はとどまらざるべからず、という象徴ですか?」
 キリーロフは黙っていた。
「世間の人は好くない」とつぜん彼はまたこういい出した。「それは、自分たちのいいことを知らないからです。もしそれを悟ったら、小さな女の子を辱しめなどしなくなるでしょう。みんな自分のいいことを知らなくちゃならない。そうすれば、みんなよくなるです、みんな一人残らず」
「ところが、きみはそれを悟ったから、きみはいい人なんですね?」
「ぼくはいいですよ」
「もっとも、それはぼくも同感ですね」とスタヴローギンは眉をひそめながらつぶやいた。
「すべて善しということを教える人は、この世界を完成する人です」
「それを教えた人は磔刑《はりつけ》にされたっけね」
「その人は必ずやって来る。その名は人神」
「神人?」
「人神、そこに区別がありますよ」
「ときにこの燈明をつけるのは、きみじゃありませんか?」
「そう、これはぼくがつけたんです」
「信心してるんですか?」
「あの婆さん、燈明をあげるのが好きで……ところが、今日ひまがなかったもんだから」とキリーロフはつぶやいた。
「きみは自身で祈祷しませんか?」
「ぼくはすべてのものに祈祷します。ほら、蜘蛛が壁を這ってるでしょう。ぼくはじっと見てるうちに、その這ってるのがありがたくなる……」
 彼の目は再び燃えてきた。彼はしじゅうしっかりした撓《たゆ》みない目つきで、じっとスタヴローギンを見つめていた。スタヴローギンは眉をひそめながら、気むずかしそうに相手を注視していたが、その眼ざしにはいささかの冷笑も見えなかった。
「ぼく誓ってもいいですよ、今度ぼくが来る時には、きみはもう神を信じるようになってるから」立ちあがって帽子を取りながら、彼はこういった。
「なぜ?」キリーロフも腰を浮かした。
「もしきみがね、自分で神を信じてるということを悟ったら、きみは実際信じたでしょうよ。しかし、きみはまだ神を信じてるということを悟らないから、つまり信じていない」とスタヴローギンはにやりと笑った。
「それは違う」じっと考え込んだ後、キリーロフはこう答えた。「それはぼくの思想を逆にしたのです。才子流の駄洒落です。スタヴローギン、きみがぼくの生涯にどんな意義をもっていたか、それを思い出してください」
「失敬、キリーロフ」
「夜分にまた来てください。いつ?」
「いったいきみは明日のことを忘れてやしませんか?」
「ああ、忘れてた。大丈夫、寝すごしゃしません。九時ですね。ぼくはいつでも、自分の起きたい時に起きられます。寝る時に、七時だぞといっておくと、七時に目がさめる。十時というと、十時に目がさめる」
「きみはふう変わりな特色をもってますね」スタヴローギンは相手のあおざめた顔を見つめた。
「ぼく行って門を開けましょう」
「それには及びません。シャートフが開けてくれます」
「ああ、シャートフ。じゃ、さようなら」

[#6字下げ]6[#「6」は小見出し

 シャートフの住んでいるがらんとした家のあがり口は、鍵がかけてなかった。けれど、廊下へ入ってみると、まるで真の闇だった。スタヴローギンは手探りで、中二階へ登る階段をさがし始めた。と、急に上のほうの戸が開いて、あかりがさした。シャートフは自分では出て来ないで、部屋の戸だけ開けたのである。ニコライが部屋の閾に立ったとき、片隅のテーブルの傍に、待ち心で立っているあるじを見つけた。
「用事があって来たんですが、会ってくれますか?」と彼は閾の上からきいた。
「入ってお坐んなさい」とシャートフは答えた。「まあ、戸を閉めてください。いや、ぼく、自分でしましょう」
 彼は戸に鍵をかけて、テーブルの傍へ引っ返すと、ニコライの真正面に腰を下ろした。彼はこの一週間にだいぶ痩せが見えた。そして、今は熱でもありそうなふうであった。
「きみはぼくを苦しめましたね」と彼は伏目がちで、なかばささやくように口をきった。「どうして来なかったんです?」
「じゃ、きみは、ぼくがここへ来るものと確信してたんですか?」
「いや、ちょっと、ぼくは譫《うわ》ごとをいったんです……ひょっとしたら、今も譫ごとをいってるのかもしれない……ちょっと待ってください」
 彼は立ちあがり、三段になっている本棚の中で、一ばん上の端にのせてある一物を取りおろした。それはピストルだった。
「ある晩、ぼくは熱に浮かされましてね、きみが殺しに来そうに思われて仕方がないんです。で、翌朝はやく、例ののらくら先生のリャームシンを訪ねて、なけなしの金をほうり出して、このピストルを買ったんですよ。ぼくはきみにおくれを取りたくなかった。ところが、後で気がついてみると……火薬も弾丸も持ってないじゃありませんか。それ以来、そのまま棚の上にうっちゃらかしたままなんです。ちょっと待ってください……」
 彼は立ちあがって、窓の通風口を開けようとした。
「ほうるのはおよしなさい、なんだってそんなことを?」ニコライは押し止めた。「それだって売れば金になる。それに、明日になったら、人がいろんなことをいい出しますよ、シャートフの窓の下にピストルが転がっているって。さ、もとのところへのっけておきたまえ。そうそう。ところで、さっそくおたずねしますが、いまきみは、ぼくが殺しに来るだろうと考えたのを、なんとなくすまないと思っていられるようだが、いったいそれはどういうわけです? ぼくは今だって何も和睦に来たのじゃない。ただ必要なことを話しに来ただけですからね。まず第一にはっきりしてほしいのは、あのとききみがぼくを撲った原因ですよ。まさかきみの奥さんとぼくとの関係じゃないでしょう?」
「そのためでないということは、きみ自身も知ってるでしょう!」とシャートフは再び目を伏せた。
「じゃ、ダーリヤさんのことに関した馬鹿馬鹿しい流言を、信じたためでもないでしょうね?」
「違います、違います、むろん違います! ばかなことを! 妹は最初からぼくにうち明けていますよ……」とシャートフはほとんど地だんだふまないばかりの勢いで、じれったそうに声を尖らせた。
「じゃ、ぼくの想像は当たっていた。そして、きみの想像も当たっていたのです」とスタヴローギンは落ち着き払った調子でいった。「きみの想像のとおりです。マリヤ・レビャードキナは、ぼくの正妻です。四年半ばかり前に、ペテルブルグで立派にぼくと結婚式を挙げたのです。ねえ、きみはあれのためにぼくを撲ったんでしょう?」
 シャートフはまるで雷《らい》にでも打たれたように、一言も発せずに聴いていた。
「ぼく想像はしていたけれど、本当にできなかった」奇妙な目つきでスタヴローギンを見つめながら、ついにシャートフはつぶやいた。
「それで撲ったんですか?」
 シャートフは急にかっとなった。そして、ほとんど脈絡もなく、しどろもどろにつぶやき始めた。
「ぼくは、きみの堕落のために……きみの虚偽のために撲ったのです。しかし、ぼくがきみの傍へ近寄ったのは、あえてきみを罰しようというつもりじゃなかった。出て行った時には、撲ろうなどと、考えてもいなかった……ぼくがあんなことをしたのは、きみがぼくの生涯において実に意味ぶかい人だったからなんです……ぼくは……」
「わかった、わかった。どうか言葉を節してもらいたいですな。きみが熱に浮かされてるのは残念だ。実はごく大切な用件があるんですがね」
「ぼくはずいぶん長くきみを待ったですよ」まるで全身を慄わさないばかりにしながら、シャートフはこういって、また腰を浮かせかけた。「早くきみの用件を話してください。ぼくもやはりいいますから……後で……」
「その用件はまるで範疇が違うんですよ」とニコライは好奇の色を浮かべて、相手の顔をのぞき込むようにしながらいい出した。「ぼくはやむを得ない事情のために、今こういう時を選んできみのところへやって来て、ぜひとも注意しておかねばならなくなったのです。ねえ、きみはもしかしたら殺されるかもしれませんよ」
 シャートフはけうとい目をして、彼を見つめた。
「そういう危険がぼくを威嚇するおそれがあるのは、ぼくも知っています」と彼はなだらかにいった。「しかし、――きみがどうしてそれを知りえたのです?」
「それは、ぼくもやっぱりきみと同様に、あの連中に加わっているからさ。きみと同様に、あの会の会員だから」
「きみが……きみがあの会の会員だって?」
「ぼくはきみの目つきでちゃんとわかります。きみはぼくをどんなことでもしかねない人間と思っていたけれど、こればかりは思いもかけなかったのでしょう」とニコライはあるかないかの薄笑いを洩らした。「しかし、ちょっとききますが、じゃ、なんですね、きみは自分が狙われていることをもう知ってたんですね?」
「考えたこともありません。今だって、現在きみにそういわれても、やっぱり本当と考えられません。しかし……しかし、あの馬鹿者どもにかかったら、どんなことにでもなりかねない!」拳固でテーブルを撲りつけながら、ふいに凄まじい勢いで彼はこう叫んだ。「ぼくはあんなやつら恐ろしくない! ぼくはあいつらと縁を切ったんだ! もっとも、あの男が四へんもぼくのところへ駆けつけて、大いに……」と彼はスタヴローギンを見やった。「あり得ることだとはいってたけれど。で、いったいこのことについて、きみはどういうことを知ってるんです?」
「心配ご無用、ぼくはきみをだましたりなんかしやしません」単に自分の義務のみ果たそうとする人のように、かなり冷淡な調子で、スタヴローギンは言葉をつづけた。「きみはぼくがどういうことを知ってるか、それを試験しようとするんですね? ぼくはこれだけのことを知っています、きみは二年前、外国であの会へ入ったでしょう、それはあの会の組織が変わらないさきのことでした。ちょうどきみのアメリカ行きの前、例のぼくら二人が話し合ってから間もなくのことらしいですね。あの話のことは、きみがアメリカからよこした手紙にも、ずいぶん書いてありましたっけ。ああ、手紙といえば、悪かったですね、ぼくはあのとき同じように手紙で答えないで、ただ単に……」
「送金だけですましたんですか。お待ちなさい」とシャートフは相手をおし止め、忙しげにテーブルの抽斗をあけて、書類の間から一枚の虹色|紙幣《さつ》([#割り注]百ルーブリ[#割り注終わり])を取り出した。「さあ、受け取ってください。きみの送ってくれた百ルーブリです。きみという人がなかったら、ぼくはもう駄目になるところでした。この金はまだ近いうちに返せるはずじゃなかったけれど、幸いきみのお母さんのおかげでね。九か月まえぼくの病後に、困るだろうといって恵んでくだすったのです。しかし、どうか次を話してください……」
アメリカできみは思想を一変して、スイスへ帰って来ると、退会を申し込んだのです。ところが、会のほうではうんともすんとも答えないで、かえって、ロシヤヘ帰ったらこの町である人からある活版の機械を受け取って、会から人が引き取りに来るまで預っているように命ぜられた。ぼくはすべてを完全、正確に知ってるわけじゃないが、大体こんなふうだったのでしょう? きみはこれが彼らの最後の要求で、これがすんだら綺麗に放してくれるだろうと当てにして(或いはそういう条件だったかもしれない)、とにかく引き受けたのです。今いったことは、みんな本当か嘘か知らないが、それをぼくが知ったのは、あの連中の口からではなく、まったく偶然なことだったのです。しかし、たった一つだけ、きみも今まで知らないことがあるらしい、――あの先生たちはまるできみと別れる気なんかないのです」
「それは馬鹿げた話だ!」とシャートフは叫んだ。「ぼくはすべての点で彼らと見解を異にしていると、立派に宣告したじゃないか! これはぼくの権利だ、良心と思想の権利だ……ぼくはもう我慢ができない! もうこのうえ…」
「ねえ、きみ、そんなにどなるもんじゃありませんよ」とニコライは大真面目で彼を押し止めた。「ヴェルホーヴェンスキイはああいうたちの人間だから、自分で来るか人の耳を借りるかして、今もぼくらの話を立ち聴きしてるかもしれませんよ。ことによったら、きみの家の廊下でね。あの飲んだくれのレビャードキンでさえ、きみに対する監視の義務をもっていたといってもいいくらいなんですからね。しかし、きみもあの男に対して、そういう地位に立ったんじゃありませんか、そうでしょう! それよりまあ伺いましょう、ヴェルホーヴェンスキイはいまきみの論点に同意してるんですか、どうです?」
「同意してるんです。あの男はそれはできる、きみには権利がある……とそういっていました」
「ふん、それはただそういって、きみをだましてるんです。ぼくの知ってるところでは、ほとんどこのことに無関係なキリーロフでさえ、きみに関する報告を提供してるんですからね。あの連中には手先がたくさんあります。中には、あの会のご用を勤めていることを、自分で知らないような廻し者さえあるんですよ。きみはいつも監視を受けてたんです。ヴェルホーヴェンスキイがここへ来たのは、いろいろ用事のあるうちでも、きみの事件をすっかり片づけるのが主なのです。そして、それに対する全権を帯びているのです。つまり、ほかじゃありませんが、都合のいい時機を見計らって、きみを、あまりに多くのことを知り、かつ密告のおそれある人物として、殺してしまおうというのです。くり返していいますが、これは確かな事実ですよ。それから、もう一つつけ足さしてもらいましょう。あの連中はなぜだか、きみが廻し者で、たとえ今まで密告しなかったにせよ、将来かならず密告するものと、堅く信じきっています。いったいそれは本当ですか?」
 こういう平気な調子で発しられたこの問いを聞いて、シャートフは口を曲げた。
「もしぼくが廻し者だとすれば、いったいだれに密告するんだ?」直接問いには答えないで、彼は憎々しげにこういった。「いや、もうかまわないでください、ぼくのことなんかどうだっていいです!」と、ふいにまた最初の想念に躍りかかりながら、彼は叫んだ。あらゆる徴候から察するところ、この想念は自分自身の危険に関する報知よりも、さらに烈しく彼の心を震撼したものらしい。「きみ、きみ、スタヴローギン、いったいきみはどうしてあんな破廉恥で無能な、下司ばった、ばかばかしい仕事にかかり合う気になったんです! きみが、あの会の会員ですって! それがまあ、ニコライ・スタヴローギンの仕事ですか?」と彼はほとんど絶望したように叫んだ。
 彼は手さえぱちりと鳴らした、まるで自分にとってこれ以上悲しい、いたましい発見はないかのように。
「いや、ごめんください」と実際ニコライは面くらってしまった。「しかし、きみはまるでぼくを太陽かなんぞのように考えて、きみ自身という人をぼくに比較すると、ほとんど虫けら扱いにしてるようじゃありませんか。この事実は、きみがアメリカからよこした手紙によっても、明らかに見てとることができましたよ」
「きみ……きみはご承知でしょうか……いや、もうぼくのことなんかすっかり、すっかりやめてしまったほうがいい!」と、ふいにシャートフは語をきった。「もしきみが、きみ自身について何か説明ができるなら、早く説明してください……ぼくの問いに答えてください!」と彼は熱に浮かされながらくり返した。
「いいですとも。まずどうしてぼくがあんな穢らわしい仲間にかかり合ったか、とこういう質問なんですね? ぼくもああいう事実をきみに通告したうえは、多少ともこの件についてうち明けたお話をするのが、義務だとさえ考えてるんですよ。いいですか、ぼくは厳正な意味において、全然あの会に属していないんです。また以前とても属してはいなかった。だから、きみより以上に脱会の権利を持っています。なぜって、初めから入会しなかったんだから。それどころか、ぼくは初めからちゃんと宣言してあるんです、ぼくはあの連中の仲間じゃないってね。たまたま手を貸したことがあるとすれば、それはただ閑人としての仕事だったのです。ぼくは、あの会が新しい計画によって組織の変更をしたとき、ちょっとそれに関係しただけなんです、それっきりです。ところが、今あの連中は考えを変えて、ぼくという人間もやはり手放しては危険だと、内々決議した。だから、ぼくも同じ宣告を受けているらしいんです」
「おお、やつらはなんでもかでも死刑です、なんでもかでも指令で決まるんです。何かの紙切れに印を捺して、三人半ばかりの人間が署名するんだ! で、きみはやつらにそんなことができるとお思いですか?」
「きみのいうことはなかば正しく、なかば違っていますね」スタヴローギンは相変わらず気のない調子で、むしろ大儀そうに言葉を次いだ。「そりゃ、いつでもこういう場合に見受けられるように、愚にもつかない空想がたぶんに含まれてるのはもちろんです。一塊りぐらいの人間が、その発達や勢力を誇張して考えてるんですよ。遠慮なくいわしてもらうと、あの連中の仲間は、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキイ一人きりなんです。ところが、当のあの男さえ、自分はある会の代表者にすぎないと、こんなことを考えてるほどのお人好しなんですからね。しかし、根本の理想は、他の同種類のものに比較すると、いくぶん気が利いているようです。あの連中は、インターナショナルと連絡を保って、ロシヤ各地へ巧みに代表者を置いたものです。しかも、ずいぶん奇抜な方法を考えついたようですが……しかし、もちろん、理論のみにとどまっている。ところで、この土地における彼らの計画はどうかというと、わがロシヤではそうした結社運動が実に曖眛で、人の意表外に出るから、まったくのところ、ロシヤではなんでもやってみることができますよ。きみも気がついたでしょうが、ヴェルホーヴェンスキイは執念ぶかい男ですからね」
「あいつは南京虫だ、下司だ、ロシヤのことをなに一つ知らない馬鹿者だ!」とシャートフは毒々しく叫んだ。
「きみはあの男をよく知らないのです。そりゃ全体として、あの連中がロシヤについて知るところが少ないのは事実だが、しかし、きみやぼくよりほんの少しばかり、知り方が少ないというだけのこってすよ。それに、ヴェルホーヴェンスキイは熱情家ですよ」
「ヴェルホーヴェンスキイが熱情家ですって?」
「ええ、そうですとも。ある一つの点があって、それを踏み越えると、もうあの男は道化じゃなくなって、その……半きちがいになるのです。『一人の力がいかに偉大なるかをきみは知りたもうや?』といったきみ自身の言葉を思い出したらいいでしょう。どうか、笑わないでくれたまえ。あの男はいざとなったら、引き金を下ろす力をもってるんだから。あの連中はぼくを廻し者と信じ切っています。あの連中はだれもかれも、自分でうまく仕事を運ぶ腕がないものだから、人を間諜よばわりするのが、恐ろしく好きなんですよ」
「しかし、きみは恐ろしくないですか?」
「い、いや……ぼくは大して恐ろしくないです……しかし、きみの場合は全然べつです。とにかく、ぼくはきみがこのことを頭におくように、前もって注意しておきますよ。ぼくにいわせれば、馬鹿者どものために危険が迫ったからって、憤慨する必要は少しもありません。問題は彼らの賢愚いかんにあるのじゃないですからね。きみやぼくどころじゃない、まだまだ立派な人たちにも、彼らは謀計をめぐらしてるんですよ。あっ、もう十一時十五分だ」彼は時計を眺めて立ちあがった。「しかし、ぼくは一つきみに、まるっきり筋の違った質問を提出したいんですがね」
「どうかお願いです!」と叫んでシャートフは凄まじい勢いで躍りあがった。
「というと?」ニコライはけげんそうに見やった。
「提出してください、きみの質問を提出してください、お願いです」名状し難い興奮の体で、シャートフはくり返した。「ただし、ぼくもきみに別な質問を提出する、という条件つきですよ。お願いだから、そいつを許してください……ああ、ぼくは駄目だ……早くきみの質問をしてください!」
 スタヴローギンはいっとき控えていたが、やがて口をきった。
「ぼくの聞いたところでは、ここできみはあのマリヤ・チモフェーヴナに一種の感化力を持っていて、あれもきみに会って話を聞くのを楽しんでいたそうですね。本当ですか?」
「ええ、聞いていましたよ……」とシャートフはちょっとまごついた。
「ぼくは二、三日のうちに、あれとぼくとの結婚を、この町で公けに披露しようというつもりなんです」
「いったいそんなことができるものですか?」シャートフはぎょっとしたようにこうつぶやいた。
「というと、どういう意味で? 何もむずかしいことはないでしょう。結婚の証人はここにいるじゃありませんか。それはあのときペテルブルグでゆっくり落ち着いて、完全に公定の手続きを踏んでやったことですからね。今までそれが世間へ知れなかったのは、この結婚のたった二人の証人、つまりキリーロフとヴェルホーヴェンスキイ、そしていま一人、当のレビャードキン(これがいまありがたいことには、ぼくの親戚ということになってるのです)、この三人が当時沈黙を守ると、約束したためにすぎないのです」
「ぼくがいうのはそれじゃない……きみはよくそんなに落ち着き払って話せますね……しかし、次をおっしゃい! いや、ちょっと、きみは何もこの結婚を、力ずくで強制されたんじゃないでしょう、ね、そうじゃないでしょう?」
「違います、だれもぼくを力ずくで強制したものはありません」シャートフの突っかかるようなせき込み方を見て、ニコライはにやりと笑った。
「じゃ、どういうわけであのひとは、自分の生んだ赤ん坊のことなんかいってるんです?」熱に浮かされて脈絡もなく、シャートフはせき込んでこうたずねた。
「自分の生んだ赤ん坊のことをいってる? へえ! 知らなかった。初耳ですねえ。あれには赤ん坊なぞなかった、またあるべきはずがない。マリヤは処女ですからね」
「ああ! ぼくもそうだろうと思った。まあ、聞いてください!」
「シャートフ、きみはいったいどうしたんです?」
 シャートフは両手で顔をおおいながら、くるりと横を向いたが、出しぬけにしっかりとスタヴローギンの肩をつかんだ。
「ねえ、きみ、ねえ、なんといっても、きみ自身にはわかってるでしょう」と彼は叫んだ「なんの[#「叫んだ「なんの」はママ]ためにきみはこんなことを仕出かしたんです。そして、なんのために今そんな刑罰を受けようと、決心したのです?」
「きみの質問は気が利いて、皮肉だね。しかし、ぼくもやはりきみをびっくりさしてあげるつもりですよ。ええ、なんのためにぼくがあのとき結婚したか、またなんのためにいまきみのいわゆる『そんな刑罰』を受けようと決心したか、ぼくには大抵わかっています」
「いや、このことはやめましょう……このことは後にしましょう。ちょっと話すのを控えてください。それより肝腎のことを話しましょう、肝腎のことを。ぼくは二年のあいだきみを待っていました」
「そうですか?」
「ぼくはもうずっと前からきみを待っていました、絶えずきみのことを考えていました。きみはその……あれを成し遂げうる唯一の人です。ぼくはまだアメリカにいた頃、このことをきみに書いてあげました」
「ぼくもきみのあの長い手紙のことは、よく覚えています」
「しまいまで読み通すのに長すぎる? もっともです。書簡紙六枚ありましたからね。黙ってらっしゃい。黙ってらっしゃい! 一つおたずねしますが、きみはもう十分だけぼくのために時をさくことができますか、今、今すぐに……ぼくはあまりに長くきみを待ってたのです!」
「さあ、どうぞ。もう三十分割愛しましょう。しかし、それ以上は駄目ですよ。もしそれでお間に合えば」
「ただし」シャートフは猛然として引き取った。「きみのその調子を変えていただきたいのです。いいですか、ぼくは、実際、哀願しなくちゃならない地位にありながら、これを要求するのです……え、わかりますか、哀願しなくちゃならないのに、要求するということは、そもそも何を意味するのでしょう?」
「わかりますよ。そういうふうにして、きみはいっさいの日常茶飯事から超絶しようというんでしょう。より高遠な目的のためにね」ほんの心もちニコライは微笑した。「同時に、きみが熱に浮かされているのを見て、ぼくははなはだ悲しく思いますよ」
「ぼくは自分に対して尊敬を求めます、いや、強要します!」とシャートフは叫んだ。「しかし、それはぼくの人格に対してじゃありません、――そんなものはどうだっていい、――まるで別なものです。今こうしている間だけでいいです、ぼくのある言葉に対してね……われわれは二つの存在です、それが無限の中に相会したのです……宇宙あって以来、最後の会見です。さあ、きみのその調子を捨てて、人間らしい調子でお話しなさい! せめて一生に一度でも、人間らしい声でものをおいいなさい。ぼくはけっして自分のためじゃない、きみのためにいってるんですよ。いいですか、ぼくがきみの頬を打ったとき、自分の無限な力を感ずる機会をきみに与えた、この一つの理由だけでも、きみはぼくをゆるしてくれるべきです……またきみは例の気むずかしそうな、社交紳士的な笑い方をしてますね。おお、いつになったらぼくを了解してくれるんです! 若様根性は断然すてておしまいなさい。ぼくがこれを要求してるという心持を了解してください。でなくちゃ、ぼくはもう話すのもいやだ、どんなことがあったっていいやしない!」
 彼は激昂のあまり、ほとんどうなされてでもいるような有様だった。ニコライは眉をひそめて、いくぶん大事をとり始めたふうだった。
「ねえ、いまぼくにとって非常な大切な時を割いて」と彼はいい含めるような、真面目な調子で切り出した。「もう三十分ほどきみのところに居残ろうと決心したのは、実際、少なくも、興味をもってきみの話を聞く意志があるからですよ。そして……いろいろきみから珍しいことが聞けると、信じているからですよ」
 彼は椅子に腰を下ろした。
「お坐んなさい!」とシャートフはどなって、妙に出しぬけに自分でも腰を下ろした。
「失礼ですが、ちょっと注意しますよ」とスタヴローギンはまた急に思い出していった。「ぼくはマリヤのことについて、きみに一つ依頼を持ち出しかけたんですがね。少なくとも、あの女にとって非常に重大なことです……」
「で?」とシャートフはふいに顔をしかめた。一ばん肝腎なところで話の腰を折られたので、相手を眺めてはいるけれど、まだその間《かん》の意味を会得する暇がない、といったような顔つきをしていた。
「ところが、きみはそれをしまいまでいわしてくれなかったのです」とニコライは微笑を浮かべながらつけ足した。
「ええ、つまらんことを、後でいい!」やっとのことで相手の要求を了解すると、シャートフは気むずかしそうに片手を振って、さっそく自分の話の眼目に移った。

[#6字下げ]7[#「7」は小見出し

「あなたわかりますか」目をぎらぎらと輝かしながら、右手の人差指を目の前にさし上げて(自分でもこれに気がつかないらしい)、椅子に腰かけたまま前へ乗り出しつつ、彼はほとんど威嚇するような調子でいい出した。「あなたわかりますか、今この地上において、新しき神の名によって世界を更新し救済すべき、唯一の『神を孕める』国民はだれでしょう? いのちと新しき言葉の鍵を与えられた唯一の国民はだれでしょう……きみはこの国民が何者かわかりますか、そして、その名をなんというかわかりますか?」
「きみの態度から察しると、ぼくはぜひとも、そして、できるだけ迅速に、それはロシヤ国民だと、結論しなくちゃならないようですね……」
「きみはもう茶化してるんですね、おお、なんという情けない人たちだ!」とシャートフは猛り始めた。
「まあ、落ち着いてください、後生だから。それどころか、ぼくは初めから、そんなふうの話を期待してたんですよ」
「そんなふうの話を期待してた? いったいきみ自身この言葉におぼえはないのですか?」
「大いにあります。きみが何をいおうと思ってるかは、ぼくには明瞭すぎるくらい見え透いています。きみの文句は『神を孕める』国民という表現にいたるまで、二年あまり前、きみがアメリカヘたつ間際に、外国で交換した二人の議論の、単なる結論にすぎないのですよ。少なくも、いまぼくの思い起こしうる限りではね」
「これはきみのいった言葉そっくりそのままなんです。ぼくのいったことじゃありません。みんなきみ一人のいったことで、二人の話の結論じゃありません。『二人』の話なぞはてんでなかった。偉大な言葉を告げる師匠と、死から甦った弟子があったばかりです。ぼくがその弟子、きみがその師匠だったのです」
「しかし、今おもい出せる限りでは、きみがあの会へ入ったのは、ぼくの話を聞いてからで、アメリカへ渡ったのはその後でしょう」
「そうです。だが、ぼくもそのことはアメリカから、手紙できみに知らせましたよ。何もかも書きましたよ。まったく子供の時分から根を下ろして育った地盤を、血の滲むような思いをしてまで、すぐさまもぎ放すことが容易にできなかったのです。なにしろぼくの希望の歓びもぼくの憎悪の涙も、それ一つにかかってたんですからね……神を取り替えるのはむずかしいことですよ。ぼくはあのとききみの言葉を信じなかった。信じたくなかったからです。そして、ここを最後とばかり、あの腐った溝《どぶ》にしがみついたのです……しかし、種は残って生長しました。真面目に、本当に真面目にいってください、――きみはアメリカから送ったぼくの手紙を、しまいまで読まなかったのですか? ひょっとしたら、まるっきり読まなかったかもしれませんね?」
「ぼくはあのうち三ページだけ読みましたよ。初めの二ページと終わりの一ページと……それに、中のほうもざっと目をとおしたっけ。もっとも、ぼくはしじゅう読もうとは思って……」
「ええ、どっちだって同じこってす、やめてください、勝手になさい!」とシャートフは手を振った。「もしきみが今になって、あの時の国民に関する言葉を否定してるとすれば、どうしてあの時あんな言葉を発することができたのでしょう、それがいまぼくの心を圧してやまない問題なのです」
「ぼくはけっしてあのとききみをつかまえて、冗談をいったのじゃない。きみを説伏しようとすると同時に、ぼくはむしろ自分のことを心配したかもしれませんよ」とスタヴローギンは謎めいた調子でいった。
「冗談をいったのじゃないって! ぼくはアメリカで三か月間ある一人の……不幸な男と枕を並べて、藁の上に寝てたのです。その男の口から聞いたのですが、きみはぼくの心に神と故郷《ふるさと》を植えつけたのと同じ頃、いや、もしかしたら、まったく同じ時かもしれない、――その男の、つまり、あの気ちが