『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP145-P192

た。「シャートフ、おい兄弟!

[#ここから2字下げ]
われは来りぬ汝《な》がもとに
日の昇りしを告げんため
もーゆーるがごときかがやきの
木々に……慄うを語るため
わが目ざめしを(こん畜生!)小枝の下に
わが目ーざーめしを語るため
[#ここで字下げ終わり]

 いや、本当は笞《むち》の下だったかもしれんぞ、はは!

[#ここから2字下げ]
鳥はみな……渇きをば告ぐ
されどもわれは何を飲む
わが飲むは何……われは知らずも
[#ここで字下げ終わり]

いやさ、馬鹿げた好奇心などわしに用はないわ! シャートフ、貴公にはわかるかい、この世に生きるということは、なんといいもんじゃないか!」
「返事しちゃいけないよ」シャートフはまたわたしにささやいた。
「開けろというに。いったい貴公知っとるか、人間同士の間には……何かその、喧嘩などよりもっと高尚なものがあるんだぞ。これでも立派な紳士のようになる時もあるんだからな………シャートフ、おれはいい人間なんだ。だから、貴公をゆるしてやるぞ、シャートフ、檄文なんぞよしちゃえよ、うん?」
 沈黙。
「おい、のろま先生、わかるかい、おれは恋をしてるんだ、おれは燕尾服を買ったんだ。いいかい、愛の燕尾服だ、十五ルーブリだぜ。大尉の恋は社交上の礼儀を要するからな……開けないか?」
 彼は急に粗野な咆哮を発して、またもや拳で猛烈に扉を叩き始めた。
「とっとと失せやがれ!」ふいにシャートフもどなった。
「どど、奴隷め! 奴隷百姓め、貴様の妹も奴隷女だ、女奴隷だ……泥棒女だ!」
「貴様は自分の妹を売りやがったくせに!」
「でたらめをつくな! おれはこうして、人の言いがかりをじっとこらえているがな、ただひと言……その、おれがいってみろ……貴様あれがどんな女か知ってるか?」
「どんな女だい?」急にシャートフは好奇の色を浮かべながら、戸口のほうへ近寄った。
「いったい貴様にわかるか?」
「わかるよ、早くだれかいってみな」
「おれは立派にいってみせる? おれはいつでも大勢の前でもいう元気があるぞ!………」
「どうだか至極あやしいものだ」シャートフはちょっとからかっておいて、わたしに聞いてみろというようにうなずいて見せた。
「怪しいって?」
「おれの考えでは怪しいよ」
「怪しいか?」
「ええ、早くいっちまえ、もしご主人の鞭が怖くないのならだよ……貴様のような臆病者が大尉でござるなんて!」
「おれは……おれは……彼女《あれ》は……あれというのは……」大尉は興奮した慄え声で、吃り吃りいいだした。
「ふん?」シャートフは耳を突き出した。
 少なくとも三十秒ばかり沈黙がつづいた。
「ひーとーでなし!」とうとう、こういう声が戸の外で響くと、大尉は素早く階下《した》のほうへ引き退ってしまった、まるでサモワールのようにふうふうと息をつきつき、一段ごとに足を踏み外して、騒々しい音を立てながら。
「駄目だ、あいつはずるいよ。酔っぱらってもうっかり口はすべらさないや」とシャートフは戸の傍を離れた。
「あれはいったいどうしたんだね?」とわたしはたずねた。
 シャートフは面倒くさそうに片手を振って、戸を開けながら、また梯子段のほうへ耳を澄まし始めた。長いことじっと聞き耳を立てて、幾段かそっと降りてまでみた。が、とうとう引っ返して来て、
「なんにも聞こえない、喧嘩もしていない。大方いきなりぶっ倒れて、往生しやがったんだろう。きみももう出かける時刻だよ」
「ねえ、シャートフ君、いったい今夜のことはどう結論すればいいのだろう?」
「ええ、どうでも勝手に結論したらいいさ!」と彼は疲れた気むずかしそうな声で答えると、そのまま自分のテーブルの前に腰をおろした。
 わたしはここを辞し去った。一つのほとんどありうべからざる想念が、しだいにわたしの心中に根を張って行った。わたしは明日の日を思って心を曇らした。

[#6字下げ]7[#「7」は小見出し

 この『明日の日』、つまりスチェパン氏の運命が永久に決せらるべき日曜日は、本記録において特筆大書すべき日であった。それは意想外な出来事の重畳した日である、古き疑惑が解けて、さらに新しき疑惑が結ばれた日である。思いがけない事実の暴露された日である、なおいっそう不可解な疑惑を生んだ日である。読者もすでに知らるるとおり、朝はヴァルヴァーラ夫人のもとへ、夫人自身の名ざしで、スチェパン氏を同道して行かねばならないし、午後の三時にはリザヴェータ嬢のところへ行って話をしたうえ(なんの話をするのか自分でもわからないが、彼女に力を貸さなければならなかった(何事で力を貸すのか)、これも自分自身わからないのである)[#「(何事で力を貸すのか)、これも自分自身わからないのである)」はママ]。ところが、すべてはだれひとり想像もしなかったような解決を告げた。てっとり早くいうと、それは不思議なほどいろいろな偶然の重なり合った日である。
 まずこの日の幕あきとして、わたしがスチェパン氏同道で、指定どおり正十二時に、ヴァルヴァーラ夫人のもとへ出かけたところ、夫人はうちにいなかった。まだ礼拝式から帰らないのであった。哀れな友はこれだけのことにも、もうどきりとするような気分になっていた、というより、むしろそれほど心が乱れていたのである。彼はほとんど力抜けがしたように、べたりと客間の肘掛けいすに腰をおろした。わたしは水を一杯飲むようにすすめたが、彼は顔色があおざめて、手がぶるぶる顫えるにもかかわらず、毅然としてそれをしりぞけた。ついでにいっておくが、この日の彼のいでたちは、すっきりと垢抜けがしていた。舞踏会にでも着て出そうな繍いのある精麻《バチスト》のワイシャツ、白いネクタイ、手に持った新しい帽子、麦藁色をした新しい手袋、おまけにあるかないかほど香水をつけている。わたしたちが座につくやいなや、シャートフが侍僕に導かれて入って来た。公式の招待を受けて来たのは、いわずと知れている。スチェパン氏は立ちあがって、手を差し伸べようとしたが、シャートフはわたしたち二人を注意深く眺めた末、くるりと体をそらして、片隅に腰を下ろしたまま、わたしたちには首を振って会釈しようともしなかった。スチェパン氏はまたおびえたように、わたしに目交ぜした。
 こうしてわたしたちはまた幾分かの間、ぜんぜん沈黙のうちに過ごした。突然スチェパン氏は恐ろしく早口に何やらささやき始めたが、はっきり聞き分けることができなかった。それに、当人も興奮のあまり、しまいまでいいきらないうちにやめてしまった。もう一ど侍僕頭が入って来て、何やらテーブルの上のものを直し始めた。きっとわたしたちの様子を見に来たのであろう。シャートフは、ふいに大きな声でこの男に話しかけた。
「アレクセイ・エゴールイチ、お前知らないかね、ダーリヤは奥さんといっしょに出かけたろうか?」
「奥さまはお一人で教会へお出かけでございまして、ダーリヤさまは二階のお居間に残っていらっしゃいます。どうもお気分が勝れないとか申されまして」とアレクセイはうやうやしくもったいぶった調子で報告した。
 哀れな友は、またもや落ちつかぬ心配らしい様子で目くばせをした。で、わたしはとうとうそっぽを向いてしまった。と、ふいに車寄せで馬車の轟きが聞こえ、家の中のどこか遠いところで、ざわざわと騒ぎ始める気配がするのは、明らかに女主人が帰って来たに相違ない。わたしたち一同は肘掛けいすから躍りあがった。しかし、ここでもまた思いがけないことが起こった。部屋の外に聞こえる大勢の足音は、夫人が一人きりで帰ったのではないことを語っていた。けれど、この時刻をわたしたちに指定したのは当の夫人であるから、この場合いくぶん奇妙に感じられた。とうとうだれやら不思議なほど足早に、ほとんど駆け出さないばかりに入って来る足音が聞こえた。しかし、ヴァルヴァーラ夫人があんな入り方をするはずがない。と思っているうちに、夫人ははあはあと息を切らしながら、恐ろしい興奮のていで部屋の中へ飛び込んだのである。その後から少し後れて(ずっと静かな足取りで)、リザヴェータが入って来た。しかも、そのリザヴェータと手を取り合って、マリヤ・レビャードキナが入って来るではないか! わたしは、たとえこんな光景を夢で見ようとも、しょせんほんとうにはできなかったろう。
 この意想外きわまる出来事を説明するためには、どうしても一時間前へ逆戻りをして、教会でヴァルヴァーラ夫人の身の上に起こった、なみなみならぬ事件を詳しく物語らねばならない。
 第一番にいっておくが、礼拝式の始まる前に、ほとんど町じゅうのもの、――といっても、町の上流社会をさすのはむろんである、――が教会に集まっていた。一同は、新知事夫人が町へ到着後、きょう初めて顔を出すことを知っていた。ついでに断わっておくが、彼女が『新しい主義』をいだいた自由思想家だという噂もすでにあまねく市中へ広まっていたのである。また彼女がなみなみならぬ趣味をもって、見事な装いを凝らして来るということも、婦人仲間へ知れ渡っていたので、この日の婦人たちの服装は一際すぐれて華美《はで》やかに、優雅なものであった。ただヴァルヴァーラ夫人のみは、いつものとおり黒ずくめの、つつましやかななりだった。夫人は最近四年間どこへ出るにも、つねにこのいでたちであった。教会へ着くと、夫人は左手の第一列に当たる、いつもの自分の場所に腰を掛けた。しきせを着た従僕は、夫人が膝をついて礼拝する時に使うビロードのクッションを足もとに置いた。つまり、万事がいつものとおりに運んだのである。けれど、この日夫人が式の間じゅう、なんだか恐ろしく熱心に祈念を凝らしているのに、一同気がついたのは事実である。後でこのことを思い出した時、涙が夫人の目に浮かんでいたというものさえあった。やがて祈祷式がすんでから、わがパーヴェル神父が、いつものとおり荘重な説教を試みるために、しずしずと教壇へ進み出た。町の人は彼の説教を愛し、また非常にそれを尊重していた。中には刊行をすすめるものさえあったが、それでも、彼はそれを実行する決心がつかなかった。この日の説教は、なんだかとりわけて長かった。
 ところが、この説教の間に一人の婦人が、辻待ちの軽車《ドロシキー》を飛ばして、会堂へ乗りつけた。それは旧式な型の馬車で、婦人なぞは、横のほうにちょこんと坐って、馭者の帯につかまりながら、車台の動揺のため、風に弄ばれる野草のように、揺られていなければならない。そういったような種類のものであった。こういうふうな百姓馬車が、いまだに市中をうろうろしている。会堂の角へ車を止めると、――門のところにはたくさん車が待っているうえに、憲兵まで立っていたから、――婦人は車から飛び降りて、馭者に四コペイカの銀貨を渡した。
「どうしたの、少ないとでもいうのかね、ヴァーニャ」馭者のしかめ面を見て、彼女はこう叫んだ、「それがわたしのありったけなんだよ」と憫れっぽい調子でつけ足した。
「仕方がない、勝手にするがいいや、相場を決めずに乗せたもんなあ」と馭者は片手を振った。そして『お前のような女に恥を掻かすのは罪だあね』とでも考えるようなふうで、じっと彼女を見つめた。
 それから革の財布を懐ろへ押し込むと、近くに待っている馭者連の嘲笑に送られながら、馬に鞭うって駆け去った。婦人が、たくさんな馬車や、あるじの帰りを待ち受けている従僕の間を縫って、会堂の門へ進んでゆく間、嘲笑や驚異の声すらも彼女のうしろから送られた。実際、どこからともなく突然、往来の人混みに立ったこの婦人の出現には、すべての人にとって思いがけない、異常なあるものが感じられたのである。彼女は病的に痩せこけて、足はびっこを引いている上に、思い切って白粉や頬紅をつけている。そして、晴れてこそいるけれど風のある寒いこの九月の日に、古いじみな着物一枚っきりで、頭巾《プラトーク》も巻かなければ羽織《ブルヌース》も引っ掛けず、長い頸をまるでむき出しにしている。そして、帽子も何もかぶらない頭には、小さな髷を後のほうにくっつけて、柳祭([#割り注]復活祭の前の日曜日、キリストがエルサレムに入った時、柳の枝を撒いて迎えられたのを記念する祭である[#割り注終わり])のとき天使の飾りに使うような、造花の薔薇が挿してあった。ゆうベマリヤを訪問した時、この柳祭の天使、――紙の薔薇の冠を被った天使が、片隅の聖像の下にあったのをわたしは覚えている。おまけに、この婦人はつつましげに目を伏せてはいたが、それと同時に楽しげな、狡猾らしい薄笑いを浮かべながら、歩いて行った。もし彼女がいまちょっとぐずぐずしていたら、とても中へ入れてもらえなかったろう……しかし、彼女は運よく会堂の中へすり抜けて、気づかぬように前へ進み出たのである。
 説教はまだ半分くらいのところで、会堂いっぱいにぎっちり詰まった群衆は、張り切った注意を傾けながら、ひっそりと静まり返って聞いていた。しかしそれでも、いくつかの目は好奇と怪訝の色を浮かべながら、入り来る女のほうへ向けられた。彼女は会堂の床に倒れ伏して、白く塗った顔を低く垂れたまま、長い間じっとしていた。どうやら泣いていたものらしい。が、ふたたび顔を上げて、膝を起こすと、とつぜん急に気を持ち直して、あたりのものに興味を持ち始めた。そして、さもさも面白そうな様子で、楽しげに人々の顔や会堂の壁に視線をすべらすのであった。中でも二、三の婦人の顔には非常な興味を感じたらしく、一生懸命に見入ったばかりでなく、わざわざ爪立ちまでするのであった。また二度ばかりひひひと、奇妙な声さえ立てて笑いだした。
 そのうち説教もすんで、十字架が持ち出された。県知事夫人は第一番に十字架のほうへ進んで行ったが、ヴァルヴァーラ夫人に道を譲る考えらしく、いま二足というところで急に足をとめた。ヴァルヴァーラ夫人は、まるで自分の前に人がいるのに気づかないように、ぐんぐんと真っ直ぐに、同じく十字架のほうへ近寄った。こうした知事夫人のなみなみならぬへりくだった態度が、一種皮肉な、見え透いたあてこすりを蔵しているのは、疑う余地もないくらいであった。ともあれ、一同はこういうふうに解釈したし、またヴァルヴァーラ夫人も同様にとった筈である。けれど、依然として何者にも目をくれず、すこしも動ずることのない威厳を示しながら、彼女は十字架に接吻して、そのまま入口のほうへ足を向けた。しきせを着た従僕が夫人の行く手を清めたが、そうしなくとも群衆は自分のほうから道を開いた。ちょうど入口の傍らなる玄関には、ぎっちりと一塊りになった群衆が、ちょっとのま道をさえぎったので、ヴァルヴァーラ夫人は足をとめた。と、ふいに奇怪な、異常な一人の人間が、――紙の薔薇を頭につけた一人の女が、群衆の間をすり抜けて、夫人の前にひざまずいた。容易なことでものに動じないヴァルヴァーラ夫人は(人前ではことにそうであった)、ものものしくいかつい目つきでそのほうを見据えた。
 ここでできるだけ簡単にいっておくが、近頃ヴァルヴァーラ夫人は度はずれに勘定だかくなって、すこしけち臭いくらいになってしまったが、時としては、慈善事業などに金を惜しまないこともあった。彼女は都のさる慈善会の会員になっていて、せんだっての饑饉年に、ペテルブルグの罹災民救助委員会へ五百ルーブリ送った時など、町でもだいぶ噂に上ったくらいである。ごく最近、新知事の任命前に、町内ばかりでなく、全県内における貧しい産婦の扶助を目的とする一つの地方婦人会を設立しようとして、ほとんどその運びまでつけていた。町の人たちは彼女の虚栄心が強いのをはげしく攻撃したが、何事も最後まで押し通さねばやまぬ夫人の執拗な性格は、ほとんどすべての障碍に打ち勝ちそうな勢いを示した。会はもう九分どおり設立の運びにいたった。そして、最初の計画は、発起者の感奮にみちた空想の中で、しだいに規模を広げてゆくのであった。彼女は同様な会をモスクワへ設立するだの、会の事業をだんだんと各県に広めてゆくだの、そんなことまで空想したのである。ところが、知事の更迭とともに、すべてはちょっと中止の形となった。しかも、新知事夫人は、こうした委員会に対する根本思想が非実際的だといって、皮肉ではあるけれども肯綮に当たった、実際的な意見を社交界で述べたとのことである。もちろんこれは尾に尾をつけて、ヴァルヴァーラ夫人へ伝えられた。人の心の深みを知るものは神様ひとりだけであるが、今ヴァルヴァーラ夫人は一種の満足すら覚えながら、会堂の入口に立ちどまった。それは今すぐ自分の傍を、新知事夫人を先頭に、一同のものが通り過ぎるのを承知していたからである。『あの女がなんと思おうと、またわたしの慈善事業についてどんな皮肉をいおうと、わたしにとっては、痛くも痒くもないってことを、よく見せておいてやらなくちゃ。さあ、みんな見物するがいい!』
「どうしたの、お前さん、どんなお願いなの?」とヴァルヴァーラ夫人は自分の前にひざまずいている無心ものをじっと注意ぶかく見つめた。
 こちらは恐ろしくおびえた恥ずかしそうな、とはいえ、うやうやしげな目つきで夫人を見上げたが、とつぜん例の奇怪な声を立てて、ひひひと笑い出した。
「この女は何者です。この女はだれです?」
 ヴァルヴァーラ夫人は命令するような、不審げな目つきで、あたりに居合わす人々を見廻したが、一同は黙然としていた。
「あなたは不仕合わせなの? お前さん合力がいるの?」
「わたしは困っているのでございます……わたしは……」と『不仕合わせな女』は興奮に途切れがちな声でいった。「わたしはただあなた様のお手が接吻したさにまいりました……」彼女はまたひひと笑った。
 そして、まるで子供が何かねだりながら甘える時に見せるような、思い切って無邪気な目つきをして、彼女は体を伸ばしながら、夫人の手を取ろうとした。が、急に何かぎょっとしたようなふうで、いきなり両手をうしろへ引いてしまった。
「ただそのためにここへ来たの?」ヴァルヴァーラ夫人は、痛ましそうな微笑を浮かべたが、すぐに手早くかくしから玉虫貝の色をした金入れを取り出して、中から十ルーブリ紙幣《さつ》を抜き取ると、それをこの見知らぬ女に渡した。
 こちらはそれを受け取った。ヴァルヴァーラ夫人はただならぬ好奇心を呼びさまされたらしい。この女がただの賤しい無心ものとは思われなかったので。
「見ろ、十ルーブリやったぜ」とだれか群衆の中でこういうものがあった。
「どうぞお手を貸してくださりませ」と『不仕合わせな女』は覚束ない口調でいった。その手には、受け取ったばかりの十ルーブリ紙幣の端っこが、指の間にしっかり挟まったまま、風にひらひら躍っている。
 ヴァルヴァーラ夫人はなぜかちょっと眉をひそめたが、真面目な、ほとんど厳めしいくらいな顔をして、片手を差し出した。と、こちらは、敬虔の色を顔に浮かべながら、それに接吻した。感謝にみちた双の目は、一種歓喜の光に輝いていた。ちょうどこのとき知事夫人が近づいた。すると、それに続いて町の貴婦人連や、高官たちの一隊がどやどやと流れ出た。知事夫人はしばらくの間、いやでも狭苦しいところに立っていなければならなかった。多くの人々は立ちどまった。
「あなた、寒いんですか、慄えてますね」ふいにヴァルヴァーラ夫人は気がついて、こういった。
 彼女は身にまとっている外套をするりと脱いでほうり出すと(これは従僕が宙にひらりと受け止めた)、なかなか安くないらしい黒のショールを肩から外して、やはり膝を突いたままでいる無心もののあらわな頸に手ずから巻きつけてやった。
「ねえ、お立ちなさいよ、膝を立ててくださいったら、後生ですから!」
 こちらは立ちあがった。
「あなたどこに住まってるの? 本当にいったいだれもこの女の住まいを知らないのかねえ?」ヴァルヴァーラ夫人はじれったそうに、もう一度あたりを見廻した。
 が、以前の群衆は最早いなかった。そこに見えるのはすべて見覚えのある、上流の人の顔ばかりであった。ある者はいかめしい驚きの色を浮かべ、ある者はずるそうな好奇の表情とともに、金棒引きらしい無邪気な熱心を示しながら、この光景を見まもっていた。中にはもう、くすくす笑い出すものさえあった。
「これはどうやら、レビャードキンの家の者らしゅうございますな」やっと一人の男が夫人の問いに対して、進んでこう答えた。これは町でも多くの人から尊敬を受けている、アンドレーエフという立派な商人で、胡麻塩の顎ひげをたくわえ、眼鏡を掛け、ロシヤふうの長い服を着て、ふだん円いシルクハット式の帽子を被っていたが、今はそれを手に持っていた。「あの兄妹《きょうだい》はボゴヤーヴレンスカヤ街の、フィリッポフの家に住まっております」
「レビャードキン? フィリッポフの家? わたしなんだか聞いたことがあるようだ……ありがとう、ニーコン・セミョーヌイッチ、だけど、そのレビャードキンというのは何者ですの?」
「ふつう大尉大尉といっておりますが、どうも乱暴な男と申さなければなりませんな。ところで、これはきっとその妹でござりましょうが、おおかたいま監督の目を盗んで、脱け出したものに相違ありませんて」アンドレーエフは声を落としながらこういって、意味ありげにヴァルヴァーラ夫人の顔を見つめた。 
「わかりました、ニーコン・セミョーヌイッチ、ありがとう。では、なんですね、あなたはレビャードキナさんですね?」
「いいえ、わたしはレビャードキナではございません」
「じゃ、兄さんがレビャードキンなのでしょう?」
「兄はレビャードキンでございます」
「じゃ、こうしましょう。わたしこれから、あなたをいっしょに家へ連れてってあげましょう。そして、家からあなたのところへ送らせますからね。あなたわたしといっしょに行きたくはありませんか?」
「ああ、行きとうございますとも!」レビャードキナ嬢は、両手をぱちりと鳴らした。
「小母さま、小母さま! あたしもいっしょに連れてってくださいまし」ふいにこういうリザヴェータの声が響いた。
 ちょっとついでにいっておくが、リザヴェータは知事夫人といっしょに礼拝式へやって来たので、母のプラスコーヴィヤは医者の指図にしたがって、その間に馬車で一廻りして来ることにした。そして、気を紛らすために、マヴリーキイを連れて行ったのである。ところが、リーザはとつぜん知事夫人を棄てて、ヴァルヴァーラ夫人のほうへ駆け寄った。
「ああ、リーザ、わたしはいつでもあんたに来てもらいたいんだけれど、お母さんがなんというだろうねえ?」とヴァルヴァーラ夫人はもったいぶった調子でいいかけたが、一通りでないリーザの興奮に気がつくと、急にまごついてしまった。
「小母さま、小母さま、あたし今日はぜひごいっしょにまいりますわ」リーザはヴァルヴァーラ夫人を接吻しながら、哀願するようにこういった。
「Mais qu'avez vous donc, Lise(それはまあ、どうしたというのです。リーザ)」と知事夫人は表情たっぷりの驚きを示しながらいった。
「あら、失礼しましたわね、あなた、〔che`re cousine〕(親愛な従姉)あたしお母さまのところへまいりますの」不快な驚きの色を見せている|親愛な従姉《シエールクジーヌ》のほうへ、あわてて振り向きながら、リーザは、二度まで接吻した。「そして、お母様にもそういってくださいましな、すぐ小母さまのところへ迎えに来てくださいってね。お母さんもぜひぜひお訪ねしたいって、つい先刻も自分で話したくらいですの。あたしついお断わりしておくのを忘れましたけれど」リーザは夢中になって弁じた。「ほんとに失礼しましたわね、怒らないでくださいね、ジュリー([#割り注]ユリヤのフランス式な呼び方[#割り注終わり])|親愛な《シエール》……従姉《クジーヌ》……小母さま、あたしいつでもよろしゅうございますよ!」
「小母さま、もしあたしを連れてってくださらなければ、あたしあなたの馬車のうしろを追っかけて、走りながらどなりますわ」ほとんどヴァルヴァーラ夫人の耳もとへ口を寄せるようにしながら、リーザは前後を忘れた調子で、早口にささやいた。
 いいあんばいに、だれもこれを聞いたものはなかったけれど、ヴァルヴァーラ夫人はたじたじと後へすさりながら、刺すような目つきでこの気ちがいじみた娘を見つめた。この一暼がいっさいを決したのである。彼女はぜひともリーザを連れて行こうとはらを決めた。
「こんなことはもういい加減に片をつけてしまわなくちゃならない」と夫人は思わず口をすべらしたが、すぐまたこうつけ足した。「よござんす。わたしよろこんであなたを連れてってあげましょうよ、リーザ。だけど、ユリヤ・ミハイロヴナが行ってもいいとおっしゃるならばですよ」と夫人は公明な態度で、真っ正直な威厳を示しながら、知事夫人のほうへぴたりと向き直った。
「ええ、よろしゅうございますとも、わたしはリーザの満足を奪おうとは思いません。それに、わたし自身でも……」驚くばかり愛想のいい調子で、ユリヤ夫人がいい出した。「わたし自身もよく……ぞんじています。お互いにとっぴなわがまま嬢さんの監督を引き受けてるのでございますからね」(ユリヤ夫人はあでやかにほほえんだ)……
「まことにありがとうございます」ヴァルヴァーラ夫人はうやうやしい、もったいぶった会釈をもって謝辞を述べた。
「それに、ことさらわたしが快く思いますのは」とユリヤ夫人は心地よい興奮に顔を真っ赤にしながら、夢中になっておしゃべりを続けた。「リーザはお宅へ伺うという喜びのほかに、美しい高尚なといってもいいくらいな感情、――つまり、同情の念に前後を忘れてしまったのでございます――(夫人はちらと『不仕合わせな女』を尻目にかけた)……しかも……しかも、会堂の戸口でございますからね……」
「あなたが美しい心を持っていらっしゃることは、そのお言葉でわかりますよ」とヴァルヴァーラ夫人は見事な態度で讃辞を述べた。
 ユリヤ夫人は大急ぎで手を差し伸べた。すると、ヴァルヴァーラ夫人もきさくに、指でちょっとその手に触った。全体の印象は申し分なかった。その場に居合わした二、三の人々の顔は満足に輝いて、中には甘ったるい媚びるような微笑も、そこここに見受けられた。
 手短かにいうと、町じゅうのものが忽然として、ある一つの事実を発見したのである。つまり、今までユリヤ夫人のほうがヴァルヴァーラ夫人をないがしろにして、訪問を怠っていたのでなく、かえってヴァルヴァーラ夫人が知事夫人に対して、城壁をかまえているのであった。知事夫人などは、もしヴァルヴァーラ夫人がけっして玄関払いをくわさないということさえわかったら、馬車にも乗らないで訪問に駆け出したに相違ない。こういうことが明瞭になって、ヴァルヴァーラ夫人の権威は、九天の高みに上げられたのである。
「さあ、お入んなさいな、あなた」ヴァルヴァーラ夫人は、近寄って来る箱馬車を指さしつつ、レビャードキナ嬢に向いてこういった。
『不仕合わせな女』は嬉しげに戸口へ駆け寄った。と、その傍に立っていた従僕が、彼女の体を支えてやった。
「えっ! あんたびっこを引いてるの!」ヴァルヴァーラ夫人はぎっくりしたようにこう叫ぶと、そのまま真っ青になってしまった(一同はその時これに気がついたけれど、なぜともわからなかった)。
 馬車は軋り始めた。ヴァルヴァーラ夫人の住家は会堂から近かったが、リーザが後で話したところによると、レビャードキナはこの馬車中の三分間ばかりというもの、ヒステリイの発作でも起こしたように笑い通していた。ところが、ヴァルヴァーラ夫人は、『催眠術にでもかかったみたいに』(これはリーザ自身の言葉なので)、じっと腰を掛けていたとのことである。

[#3字下げ]第5章 賢《さか》しき蛇[#「第5章 賢《さか》しき蛇」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 ヴァルヴァーラ夫人はベルを鳴らして、窓際の肘掛けいすへ身を投げだした。
「ここへお坐んなさい、さあ」と夫人はマリヤ・レビャードキナに、部屋の真ん中にある大きな円卓《テーブル》の傍の席を指さした。「スチェパン・トロフィーモヴィチ、これはいったいなんですの? ほら、ほら、あの女をご覧なさい、これはいったいなんですの?」
「わたしは……わたしは……」とスチェパン氏は吃り吃り何かいいかけた。
 が、そこへ従僕が入って来た。
「コーヒーを一杯、今すぐ、少しでも早いほうがいいんだからね! 馬はまだ車から放さないでおおき」
「〔Mais, che`re et excellente amie, dans quelle inquie'tude!〕……(しかし、親愛にして優れたる友よ、こんな心配ごとの最中に)」とスチェパン氏は消えも入りそうな声で叫んだ。
「ああ、フランス語だ、フランス語だ! 上流の社会だってことがすぐ知れる!」マリヤは両手を鳴らしながら、感に堪えたようなふうで、フランス語の会話を聴く身がまえをするのであった。
 ヴァルヴァーラ夫人はほとんど怯えたように、じっと彼女の顔を見据えた。
 一同はこの縺れがどんなふうに解けるかと、無言に待ちかまえていた。シャートフは依然として首を上げないし、スチェパン氏は何もかも自分ひとり悪いかなんぞのように、妙にへどもどしてしまって、こめかみに汗を滲ませている。わたしはそっとリーザを見やった(彼女はほとんどシャートフと押し並ぶようにして、隅っこのほうに坐っていた)。彼女の目はヴァルヴァーラ夫人からびっこの女へ、びっこの女から夫人のほうへと鋭く動きつづけるのであった。その唇には歪んだような微笑が浮かんでいたが、それはたちの悪い微笑だった。ヴァルヴァーラ夫人もこれに目を留めていた。その間、マリヤはすっかり夢中になっていた。彼女はさも愉快そうに、ヴァルヴァーラ夫人の見事な客間、――さまざまな室内家具、絨毯、四壁の額、模様つきの古風な天井、片隅にある大きな青銅のキリスト磔刑像、陶器《せと》のランプ、アルバム、卓上の小道具などを、臆面もなくじろじろ見廻すのであった。
「おや、お前さんもここにいたの、シャートゥシカ!」と、彼女はとつぜん叫んだ。「まあ、どうだろう、わたし前からお前さんの顔を見ていながら、いやいや、あの人じゃないと思ってたんだよ! どうしてここへ来たの?」
 こういって陽気に笑い出した。
「あなたこの女を知ってるんですの?」さっそくヴァルヴァーラ夫人が彼のほうへ振り向いた。
「知っています」とシャートフは口の中でつぶやいて、椅子を離れようとしかけたが、またそのまま落ちついた。
「何を知ってらっしゃるの! どうか早くいってちょうだい」
「何をって……」彼はにやりと要もない薄笑いを洩らすとまた口ごもった。「ご自分でご承知でしょう……」
「何を承知してるんです? さあ、何かお話しなさいよう?」
「ぼくと同じ家に住まってるのです……兄貴といっしょに……ある将校ですがね」
「それで?」
 シャートフはまた口ごもった。
「お話する価値がないです……」口の中でこうつぶやくと、もう断然口をつぐんでしまった。そして、自分の決然たる調子のために、顔を真っ赤にしたほどである。
「むろん、あなたなんぞそれ以上あてになりませんさ!」とヴァルヴァーラ夫人はぷりぷりしながら、断ち切るようにいった。
 みんなが何やら知っているくせに、妙にびくびくして自分の質問を避けようと努め、何か自分に隠そうとしているのは、もはや夫人にとって明瞭なことだった。
 従僕が入って来て、小形の銀盆にのせた特別注文のコーヒーを夫人の前へすすめたが、すぐに夫人の仕方を見て取って、マリヤのほうへ進んで行った。
「あんた、さっき大そう慄えておいでだったから、早くそれを飲んでお温まりなさいよ」
「|ありがとう《メルシイ》」といって、マリヤは茶碗を取った。
 が、召使にメルシイといったのに気がついて、いきなりぷっと噴き出した。けれども、ヴァルヴァーラ夫人の恐ろしい目つきに出あうと、急にしおしおとなって、茶碗をテーブルの上へ置いた。
「小母さん、あなた怒っていらっしゃるのじゃありませんか?」なんだか妙に軽はずみなふざけた調子で、彼女はこういった。
「なあんだって?」とヴァルヴァーラ夫人は、覚えず躍りあがらぬばかりに、肘掛けいすの上で身をそらした。「どうしてわたしがあんたの小母さんになるの? どういうつもりであんなことをいったの?」
 マリヤは、こう怒られようとは思いも寄らなかったので、まるで発作でも起こしたように、小刻みにぴくりぴくり慄えながら、よろよろと肘掛けいすの背に倒れかかった。
「わたし……わたしはそういったほうがいいかと思いましたので」といっぱいに目を見はって、ヴァルヴァーラ夫人を見つめながら、彼女は吃り吃りつぶやいた。「リーザもそうお呼びになりましたもの……」
「おまけに、またリーザなんて、だれのこと?」
「このお嬢さまでございます」と彼女はリーザを指さした。
「じゃ、このひとはもうお前さんにとって、ただのリーザになってしまったの?」
「だって、あなたご自分で、さきほどそうお呼びになりましたもの」マリヤはいくぶん元気づいて来た。「わたしちょうどこういうふうな美しい方を、夢に見たことがございます」と彼女はわれともなしに笑みを洩らした。
 ヴァルヴァーラ夫人は何やら思いめぐらしていたが、いくぶん心が落ちついて来た。マリヤの最後の言葉を聞いた時には、ちょっとかすかにほほえんだほどである。こちらはその微笑に気がつくと、肘掛けいすから立ちあがり、びっこを引きながら、おずおずとその傍へ寄った。
「どうぞこれを。お返しするのを忘れておりました。無作法ものにお腹立ちのないように」先ほど夫人に着せてもらった黒いショールを、ふいに彼女は肩からはずした。
「いえ、それはすぐまた巻いてちょうだい、もうしじゅうもっててかまわないんだから。さあ、行ってお坐んなさい、そして、コーヒーでもお飲みなさいよ。ね、どうかわたしを恐れないで、落ちついてちょうだい。わたしだんだんあんたがわかって来ましたよ」
「〔Che`re amie〕(親愛な友よ)……」とスチェパン氏はまた口を出しかけた。
「ああ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、このことはあなたがいなくってさえ、何が何やらわからないんですよ。せめてあなただけでも遠慮してくださいな……それよりも、どうぞあなたの傍にある、女中部屋のベルを鳴らしてくださいませんか」
 沈黙がおそった。夫人の視線は、うさん臭そうにいらいらとわたしたち一同の顔をすべって行った。アガーシャ、――夫人の気に入りの小間使が姿を現わした。
「わたしの格子縞の肩掛けを頂戴、あのジュネーヴで買ったのさ。ダーリヤは何をしてるの?」
「あまりお気分がお勝れにならないようで」
「お前、行ってね、ここへ来るようにいっておくれ。そして、加減が悪いかもしれないが、ぜひ来てほしいと念を押すんだよ」
 この瞬間、次の間でまたしてもさきほどと同じような、なみなみならぬ足音や人声が騒々しく聞こえた。とふいに『取り乱した』プラスコーヴィヤ夫人が、はあはあと息を切らしながら、閾の上に現われた。マヴリーキイがその手を支えていた。
「やれやれまあ、やっとここへ着いた。リーザ、お前はお母さんをどうする気だえ、本当に気ちがいだ!」と彼女は叫んだが、すべて弱いくせに癇の強い人の常として、積もり積もった癇癪を、この金切り声ですっかり吐き出そうとするのであった。
「ねえ、あんた、ヴァルヴァーラさん、わたしは娘をもらいに来ましたよ!」
 ヴァルヴァーラ夫人は額ごしにちらとそのほうを見ると、出迎えのしるしに半ば腰を持ち上げながら、いまいましさを隠そうともせずにいった。
「ご機嫌よう、プラスコーヴィヤさん、後生だから、まあお坐んなさいよ。いずれお見えになるだろうと思ってましたよ」

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 プラスコーヴィヤ夫人にとっては、こういうもてなし振りも、べつだん意外なことではなかった。ヴァルヴァーラ夫人はごく小さな娘時分から、この同窓の友を横暴に取り扱っていた。そして、仲がいいというのを見せかけにして、ほとんど馬鹿にしないばかりの有様であった。しかし、今の場合は、ある特別な事情が潜んでいた。前にもちょっといっておいたとおり、この二軒の家の間には、恐ろしいひび割れが生じ始めたのである。この不和の原因はまだ今のところ、ヴァルヴァーラ夫人には合点がゆかなかったが、それだけ余計にいまいましく感じられた。が、何よりいまいましいのは、プラスコーヴィヤが急に恐ろしく大ふうな態度を取り出したことである。ヴァルヴァーラ夫人はもちろん感情を害してしまった。その間にまたいろいろな風説が耳に入って来たが、それがみな茫としてとりとめのないために、ますます夫人の心をいらだたした。ヴァルヴァーラ夫人は一本気で、勝気で、開けっ広げな生まれつきで、万事につけてがむしゃらなところがあった(もしこんな言い方が許されるならば)。陰に隠れて人の悪口をいうようなことは何よりも嫌いなので、常に正々堂々の戦いを好んだ。が、何にもせよ、両夫人はもう五日ばかり顔を合わさなかったのである。最後に訪問したのはヴァルヴァーラ夫人のほうであったが、夫人はそのとき当惑げな立腹の様子で、『ドロズジーハ』([#割り注]ドロズドヴァを侮蔑した呼び方[#割り注終わり])のもとを立ち去った。
 わたしは間違いなくこう断言しておく。今プラスコーヴィヤ夫人はなぜか知らないけれど、ヴァルヴァーラ夫人が自分に対してびくびくしなければならぬはずだと、単純に信じきってやって来たのである。これはもう夫人の顔の表情でわかっていた。しかし、ヴァルヴァーラ夫人は、自分が人から踏みつけにされたという疑いが、いささかでも心の中に生じると、たちまちむらむらと倨傲な憤怒に、全幅を領せられるような性質の婦人であった。ところが、プラスコーヴィヤ夫人は、弱い人間の常として、長いあいだ一言の抗議も試みないで、他人の侮蔑に身をまかせているくせに、いったん自分にとって有利な局面展開を見るやいなや、突然いきおい猛に敵に躍りかかるという特性を持っていた。それに、彼女はいま健康を害していたが、病気の時にはいつもよけい癇が昂ぶるのも事実であった。
 最後に一ついい添えておくが、たとえこの二人の幼な友だちの間にいさかいが持ちあがるとしても、わたしたちが客間に居合わせたために遠慮して控え目にする、などということはあり得なかった。わたしたちは二人の夫人にとって内輪同士、というより、むしろ手下のように思われていたからである。わたしはその時すぐこの事実を想起して、いくぶん危惧の念すら覚えた。スチェパン氏は、ヴァルヴァーラ夫人の帰宅以来、ずっと立ったままであったが、プラスコーヴィヤ夫人の甲走った声を耳にすると同時に、ぐったりと力抜けがしたように、椅子へ腰を下ろしながら、とほうにくれて、わたしの視線を捕えようとするのであった。シャートフは椅子に坐ったままくるりと向きを変えて、口の中でぶつぶつ小言さえ洩らし始めた。彼は立ちあがって出て行こうとしているのではないかと、わたしには感じられた。リーザはちょいと心もち腰を浮かしたが、すぐ元の席に落ちついてしまった。そして、母親の叫び声に相当の注意を払おうともしなかった。しかし、それはけっして『意地悪根性』のためではなく、何かべつな力強い観念の威力に圧伏されているためらしかった。彼女はいま放心したような目つきで、どこか当てもない空を見つめながら、マリヤのほうさえも前ほど注意して見ようとはしなかった。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

「やれやれ、ここにしよう」とプラスコーヴィヤ夫人はテーブルの傍の肘掛けいすを指さしながら、マヴリーキイの助けを借りて、重々しくその上に腰を下ろした。「ねえ、ヴァルヴァーラさん、わたしはこの足さえ悪くなかったら、あんたのところに腰なんか掛けはしないんだけれど!」と、うわずった声でつけ足した。
 ヴァルヴァーラ夫人は心もち首を上げて、病的な表情をしながら、右手の指を右のこめかみに押し当てた。見受けたところ、烈しい痛み(tic douloureux)を感じているらしい。
「どういうわけなの、プラスコーヴィヤさん? どうしてわたしのところへ坐りたくないの? わたしは亡くなったあんたのご主人とは、一生涯こころ安くしていただいたし、あんたとわたしとは寄宿舎で、いっしょにお人形を持って遊んだ仲じゃないの」
 プラスコーヴィヤ夫人は両手を振った。
「またそんなことだろうと思ってた! あんたはわたしをやり込めようと思う時には、いつでも寄宿舎を持ち出しますね、――あんたの奥の手なんですよ。わたしにいわせれば、ただ口先ばかりです。わたしもうあんたの寄宿舎は我慢できません」
「あんたはどうも大層ご機嫌の悪い時にいらしったようね。足はどんなふうですの? さあ、コーヒーを持って来ました。お願いですから、一つそれでも飲んで、腹を立てるのはやめてちょうだい!」
「まあ、ヴァルヴァーラさん、あんたはわたしをまるで小さな娘っ子扱いになさるのね。わたしコーヒーなんかいやです、はい!」
 と、彼女はコーヒーを持って来た従僕にむかって、いどむような身ぶりで手を振った(もっとも、コーヒーはわたしとマヴリーキイを除《の》けて、ほかの者はみんな辞退した。スチェパン氏はいったん茶碗を手に取りかけたが、またテーブルの上に置いてしまった。マリヤはもう一杯ほしくてたまらない様子で、ほとんど手を差し伸べようとしたが、考え直して、行儀よく辞退した。そして、それがいかにも得意そうな様子だった)。
 ヴァルヴァーラ夫人は渋い薄笑いを浮かべた。
「ねえ、プラスコーヴィヤさん、あなたはきっと何かまたとんでもない妄想を起こして、それでここへやって来たんでしょう。あんたは一生涯、妄想ひとつで生きてたんですからね。現にあんたはいま、寄宿舎のことで向かっ腹を立てなすったが、ほら、覚えていますか、いつかあんたが学校へやって来て、シャブルイキンという軽騎兵があんたに結婚を申し込んだって、クラスじゅうへ吹聴したところが、マダム・ルフビュールにさっそく化の皮を剥がされたじゃありませんか。だけど、本当は、あなたが嘘をついたんじゃなくって、ただ慰み半分の妄想がつのったばかりなんですよ。さあ、いってごらんなさい、今日は何用で来たんですの? どんな妄想を起こしたの? 何がいったい不平なんですの?」
「ところが、あんたは寄宿舎時分、宗教初歩の講義をしていた牧師さんに恋したじゃありませんか。あんたが意地悪くいつまでも、あんなことを覚えてらっしゃるなら、これがわたしのご返報よ! ははは!」
 彼女は癇性らしく笑ったが、そのままはげしく咳き入った。
「へえ、あんたはまだあの牧師さんのことを忘れないでいたの……」ヴァルヴァーラ夫人は憎々しげに相手を見つめた。
 彼女の顔は真っ青になった。プラスコーヴィヤ夫人は急に威猛高になった。
「わたしはいま笑ってるどころのだんじゃありません。なぜあんたはわたしの娘を、町じゅうの人が見ている前で、あんたの穢らわしい騒ぎの中へ捲き込んでくだすったんです。わたしはそのご返答を聞きに来たんですの」
「わたしの穢らわしい騒ぎですって?」突然、ヴァルヴァーラ夫人は、恐ろしい顔つきでそり身になった。
「お母さん、あたしもやはりお願いしますから、も少し控え目にしてくださいな」とふいにリザヴェータが口を出した。
「お前なにをおいいだえ?」母夫人はまた甲走った声を立てようとしたが、ぎらぎらと光る娘の視線に射すくめられてしまった。
「どうしてお母さんは、穢らわしい騒ぎなどとおっしゃるんでしょう?」とリーザはかっとなっていった。「あたしはマリヤ様のお許しをもらって、自分でこちらへお邪魔にあがったんですわ。だって、あたし、この不仕合わせな方の身の上を聞いたうえで、なんとかしてあげたいと思ったからですの」
「『この不仕合わせな方の身の上』だって?」意地わるい笑い声とともに、プラスコーヴィヤ夫人は言葉尻を引きながらそういった。「いったいお前がそんな『身の上』にかかずらってよいものですか? ねえ、ヴァルヴァーラさん、もうあんたの専制主義はたくさんです!」と彼女は急に凄まじい勢いで、ヴァルヴァーラ夫人のほうへ振り向いた。「本当か嘘か知らないけれど、人の噂では、この町をあんたの手一つで自由に引き廻していらしったそうですが、今度はあんたも年貢の納め時が来たようですね?」
 ヴァルヴァーラ夫人はまさに弓弦《ゆづる》を放れようとする矢のように、張り切った様子をして坐っていた。そして十秒間ばかりいかつい顔をして、じっとプラスコーヴィヤ夫人を見まもっていた。
「まあ、神様にお礼をおっしゃいな、プラスコーヴィヤさん、仕合わせと、ここにいらっしゃるのは内輪の人ばかりでしたよ」ついに彼女は気味悪いくらい落ちつき払って、やっと口を切った。「あなたはずいぶん余計なことをいいましたものね」
「わたしはね、あなた、だれやらさんのように、世間体なんてものをそれほど恐れはしませんよ。高慢の仮面《めん》をかぶって、世間体ばかりびくびく気にしてるのは、そりゃあんたのこってすよ。ここにいらっしゃるのが、内輪の人ばかりだってことは、あんたにとってこそ都合がいいでしょうよ。なんといったって、赤の他人に聞かれるよりかね」
「あんたはこの一週間のうちに、だいぶん利口におなんなすったのね?」
「わたしがこの一週間で利口になったのじゃなくって、この一週間のうちに、ことの真相が暴露されたらしいんですよ」
「いったいどんな真相が暴露されたの? まあ、お聞きなさい、プラスコーヴィヤさん、どうかわたしをじらさないで、今すぐわけを話してくださいよ、わたし真面目に頼みますから。いったいどんな真相が暴露されたんですの? その言葉の裏はどういうんですの?」
「その真相は、ちゃんとそこに坐ってますよ!」とプラスコーヴィヤ夫人は突然マリヤを指さした。その様子には、もはや結果なぞ考えていられない、ただもう今すぐ相手をやり込めることができさえすればよいという、無鉄砲な決心が現われていた。
 マリヤは浮き浮きした好奇の目で、始終の様子を眺めていたが、憤怒の形相すさまじい客人が、自分に指先を突きつけた時、さも嬉しそうに笑いながら、楽しげに肘掛けいすの上で身動きし始めた。
「おお、神様、この人たちは、いったい気がちがったのでしょうか!」とヴァルヴァーラ夫人は叫んで、顔を真っ青にしながら、肘掛けいすの背へ倒れるように身をもたせた。
 夫人の顔色の変わり方があまり烈しいので、ちょっとした混乱が一座に起こったほどである。第一番にスチェパン氏が飛んで行くし、わたしも傍へ近寄った。リーザまでちょいと身を起こしたが、やっぱりそのまま坐っていた。しかし、だれよりも一番びっくりしたのは、プラスコーヴィヤ夫人である。ありったけの声を出して叫びながら、椅子から身を起こして、ほとんど泣き出しそうな声でこういった。
「ねえ、ヴァルヴァーラさん、わたしが意地の悪い馬鹿なことをいったのは勘弁してちょうだい! まあ、だれかこの人に水でもあげてくださいな!」
「後生だから、泣き声を出さないでちょうだい、プラスコーヴィヤさん、お願いよ。そして、皆さんもお願いですからひいてください。水なんかいりません!」とヴァルヴァーラ夫人は、高くはないがしっかりした声で、紫色の唇を動かしながらいった。
「あなた!」プラスコーヴィヤ夫人は心もやや落ちついてこういった。「ねえ、あなた、ヴァルヴァーラさん、あんな無考えなことをいったのは、もちろんわたしが悪かったけれど、わたしもどこかのうようよ連から無名の手紙の砲撃にあって、もういいかげん気がいらいらしてたもんですからねえ。本当に、あんたのことを書いてるんだから、あんたのとこへよこせばよさそうなもんだのに、わたしには娘があるもんですから……」
 ヴァルヴァーラ夫人はつぶらな目を見はって、言葉もなく相手の顔を見つめながら、驚きの表情をもって聞いていた。
 この瞬間、片隅の脇戸が音もなく開いてダーリヤが姿を現わした。彼女はちょっと立ちどまって、あたりを見廻した、一座の動揺にびっくりしたらしい。彼女はまだだれからも話を聞いていなかったので、すぐにはマリヤの姿に気づかなかったものと見える。スチェパン氏はまず第一に、彼女が入ったのに気がついて、もぞもぞ身を動かしながら、顔を真っ赤にした。そして、なんのためやら「ダーリヤ・パーヴロヴナ」と声高に呼びかけたので、すべての目が一時に彼女のほうへ向けられた。
「え、じゃ、この人が、お宅のダーリヤ・パーヴロヴナでいらっしゃいますか!」とマリヤは叫んだ。「ねえ、シャートゥシカ、お前さんの妹さんはあまりお前さんに似てないねえ! どうしてうちのやつはこんな美しい人を、奴隷女のダーシカなんていうんだろう?」
 ダーリヤは、もう大分ヴァルヴァーラ夫人の傍へ近寄っていたが、マリヤの叫び声にぎょっとして、つとそのほうへ振り向いた。そして、吸いつけられたような目つきで、じいっとこの気ちがい女を見つめながら、テーブルの前に立ちすくんでしまった。
「お坐り、ダーシャ」気味の悪いほど落ちついた声で、ヴァルヴァーラ夫人はいった。「もそっと近く、そうそう、坐っててもこの女は見られるだろう。お前この女を知っておいでかえ?」
「わたし一度も見たことがございません」とダーシャは低い声で答えたが、しばらく無言の後いい足した。「きっとレビャードキンとかいう人の妹で、病身の方なんでございましょう」
「あなた、わたしは今はじめて、あなたにお目にかかったばかりでございます。けれども、ずっと以前から、お近づきになりたいと思っていました。まったくあなたの立居振舞いには、立派な教育が見えております!」とマリヤは前後を忘れて叫んだ。「うちの下男は悪口をついておりますが、あなたみたいなそんな教育のある美しい方が、あれら風情の金をとるなんて、そんなことがあってよいものですか? だって、あなたは美しい方、本当に美しい美しい方ですものね、それはわたしが請け合っておきます!」と彼女は目の前で手を振り立てながら、夢中になって言葉を結んだ。
「お前このひとのいうことが少しはわかりますか?」倨傲な品位を見せながら、ヴァルヴァーラ夫人はこうたずねた。
「すっかりわかります……」
「お金のことを聞いたかえ?」
「それはまだスイスにいた頃、ニコライさまに頼まれまして、このひとの兄さんのレビャードキンに渡したお金のことでございましょう」
 沈黙がそれに続いた。
「ニコライが自分でお前に頼んだんだね?」
「ニコライさまは大変そのお金を、――みんなで三百ルーブリでございましたが、レビャードキン大尉に渡したがっていらっしゃいました。ところが、大尉の住所をごぞんじなくて、ただ大尉がこの町へ来るということだけ知っていらしったものですから、もしレビャードキンが来たら渡してくれといって、わたしにおことづけになったのでございます」
「どういう金なんだろう……失くなりでもしたのかしら? 今この女がいったのはなんのこと?」
「それはわたしにもわかりかねますが、なんでもレビャードキンは、わたしがお金をすっかり渡さなかったといって、公然ふれ歩いているという噂が、わたしの耳へも入りました。けれど、これはなんのことだか少しもわかりません。三百ルーブリ受け取ったから、三百ルーブリ送ったまででございます」
 ダーリヤはもうすっかり落ちついていたといってもよかった。それに概してこの娘は、はらの中でどう感じているにもせよ、長く彼女を苦しめたり、まごつかせたりするのは、非常にむずかしいことであった。今もあわてず騒がずいちいち答弁を述べ、すべての質問に対して、静かに、なだらかに、しかも猶予なく、正確な答えを与えるのであった。そして、何にもせよ、わが罪を自認したと解《と》られるような、ふいを打たれた惑乱や困惑は、陰すら見せなかった。彼女の話している間じゅう、ヴァルヴァーラ夫人の視線は寸時もその顔を離れなかった。ヴァルヴァーラ夫人はしばらく考えていた。
「もしも」夫人は断固たる調子でとうとうこういい出した。その目はダーシャ一人を見ているだけであったが、明らかに一同を対象においているらしかった。「もしニコライがその用事をわたしにさえ相談しないで、お前に頼んだというのなら、それにはそうするだけのわけがあったんでしょう。またそれをわたしに隠したいというのなら、わたしもそれを詮索する権利を持っていません。けれど、お前がそれに関係しているということ一つだけで、わたしはまったく安心することができます。これは何より一番に承知してもらいたいことなの。けれどもね、たとえお前は清い心を持っているとしても、まだ世間というものを知らないから、何かとんでもない不用意をしでかさないとも限らないよ。現にどこの馬の骨だか知れぬ男とかかりあいをつけたのは、まったく一つの不用意です。あのやくざ者が触れ廻している噂は、お前の失策を裏書きしてるじゃないか。けれど、あの男のことはわたしが調べ上げる。わたしはお前の保護者だから、わたしが立派にお前の加勢をしてあげるよ。けれども、さし向きこんなことは、みんな片づけてしまわなくちゃなりません」
「一番いいのは、あいつがお宅へまいりましたら」出しぬけにマリヤが、肘掛けいすから身を乗り出しながら、引き取った。「さっそく下男部屋へ迫いやっておしまいなさいまし、そこで床几に腰を掛けて、勝手に下男どもとカルタでもさしておいて、わたしたちはここでコーヒーを飲みましょう。そりゃコーヒーの一杯ぐらいは、くれてやってもよろしゅうございますけれど、わたしはしんからあの男を軽蔑しているのでございます」と彼女は思い入れたっぷりで、頭をひと振りした。
「もうこれは片をつけてしまわなきゃならない」マリヤの言葉を一心に聞いていたヴァルヴァーラ夫人は、もう一度くり返した。「スチェパン・トロフィーモヴィチ、お願いですから、ベルを鳴らしてくださいな」
 スチェパン氏はベルを鳴らしたが、とつぜん恐ろしい興奮のていで前へ進み出た。
「もし……もしわたしが……」と彼は熱に浮かされたように赤くなって、息を切らしたり、吃ったりしながらいい出した。
「もしわたしも同じようにこのいまわしい話、というより、むしろ言いがかりを耳にしたとしたら、その……非常な憤激を感じたに相違ないです…… 〔enfin c'est un homme perdu et quelque chose comme un forc,at e'vade'〕(つまり、あれは一種の亡びたる人間で、いわば脱獄囚のようなものです)」
 彼は途中で言葉を切って、しまいまでいいえなかった。ヴァルヴァーラ夫人が顔をしかめながら、彼の頭のてっぺんから足の爪先まで、じろじろ見廻したからである。そこへきちんととり澄ましたアレタセイ・エゴールイチが入って来た。
「馬車を用意するんだよ」とヴァルヴァーラ夫人は命じた。
「それからね、アレクセイ、お前このレビャードキンのお嬢さんを、家まで送ってあげておくれ。道はこの方が自分で教えてくださるだろうから」
「レビャードキンさまはもうご自分でお見えになって、もうしばらく下でお待ちでございます。そしてぜひお取次してくれとおっしゃりますので」
「それはとうてい駄目です、奥さん」今まで無言のまま泰然と控えていたマヴリーキイが、とつぜん心配そうに割って出た。「差し出がましいようですが、あれはこういう席へ出られるような人間じゃありません。あれは……あれは……あれは鼻持ちのならん男ですよ、奥さん」
「ちょいと見合わせておくれ」とヴァルヴァーラ夫人はアレクセイにいった。こちらはすぐに引きさがった。
「〔C'est un homme malhonne^te et je crois me^me, que c'est un forc,at e'vade' ou quelque chose dans ce genre〕(あれは悪党です、そしてわたしの信ずるところでは脱獄囚か、でなければ何かそんなふうな人間です)」とスチェパン氏はまたいいかけたが、また顔をあかくして、言葉を途切らしてしまった。
「リーザ、もう出かけていい頃だよ」と気づかわしげな調子で言いながら、プラスコーヴィヤ夫人は椅子から立ちあがった。夫人はさっき面くらって、自分で自分を馬鹿などといったのが口惜しくてたまらぬらしい。ダーリヤが答弁している間にも、夫人は唇に高慢そうな陰を漂わしながら聞いていた。しかし、何よりもわたしを驚かしたのは、ダーリヤが入ってからの後のリーザの顔つきである。彼女の目には隠すことのできない憎悪と侮蔑の色が輝いていた。
「ちょいと待ってちょうだい、プラスコーヴィヤさん、後生だから」依然として落ちつき払った声で、ヴァルヴァーラ夫人が呼び止めた。「後生だから、腰をかけてちょうだい。わたし何もかもすっかりいってしまおうと思ってるんですが、なにぶんあなたは足が悪いんですからね。ええ、そうそう、ありがとう。さきほどはわたしもついあとさきを忘れて、なにかと無考えなことをいいました。どうか堪忍してちょうだい。わたしが馬鹿だったのです。だから、こうして、自分のほうから悔悟の意を表しておきます。わたしは何につけても、公平ということが好きなんですからね。そりゃ、あんたもつい夢中になって、あんな無名の手紙のことなんぞいい出しました。けれど、すべて無名の手紙なんてものは、署名がしてないということ一つだけでも、侮蔑してやるべき理由が立派にあるんです。もしあんたが変わった考えを持ってらっしゃるとしても、わたしはそれを羨しいとは思いませんよ。とにかく、わたしがあんたの位置にあったら、そんなくだらないもののために、懐ろへ手を突っ込むような真似はしません。自分の体まで穢すようなことはしませんよ。ところが、あんたはすっかり自分の体を穢してしまいました。もうあんたのほうからさきに切り出したことですから、わたしもすっかりうち明けてしまいますがね、実はわたしも六日ばかり前、同じようにふざけきった、無名の手紙を受け取ったんですの。その手紙にはね、どこのやくざ者か知らないけれど、ニコライが発狂しただの、『あなたはあるびっこの女を恐れなければならぬ。その女はあなたの運命に重大な役目を演じている』だの書いてあるじゃありませんか。わたし文句まで覚えていますよ。わたしは、ニコライにたくさん敵があることを知っていますので、いろいろと勘考した末、ここに住んでいるある一人の男を呼びにやりました。それは、ニコライの敵の中でも一ばん卑劣な、一ばん復讐心の強い秘密の敵なんですの。そして、その男との話によって、わたしはすぐに馬鹿馬鹿しい無名の手紙の出所を悟りました。で、もしね、プラスコーヴィヤさん、あなたがわたしのために[#「わたしのために」に傍点]、そんな馬鹿馬鹿しい手紙のことで心配なすったとすれば、――今あんたのおっしゃった『砲撃』をお受けになったとすれば、わたしはもちろん罪もないのにそんなことの原因になったのを、だれよりも一ばん残念に思います。さあ、わたしがあんたにお話したいと思ったのはこれっきりですが、どうも残念なことには、お見受けしたところ、あんたはだいぶ疲れて、夢中になっていらっしゃるようね。そればかりでなく、わたしはそのうさん臭い男を通して[#「通して」に傍点]やろうと決心しましたの。今マヴリーキイさんは会って[#「会って」に傍点]やるわけにいかないとおっしゃいましたが、そんな言葉はあの男の分に過ぎていますよ。けれど、リーザはここにいたって仕方がないでしょうね。リーザ、さあ、お別れにも一ど接吻さしてちょうだい」
 リーザは部屋を横切って、無言のままヴァルヴァーラ夫人の前に立ちどまった。夫人は彼女に接吻して、その手を取り、少し自分の傍から離しながら、情をこめてじっと見つめていたが、やがて十字を切って、も一ど接吻してやった。
「じゃ、さようなら、リーザ(ヴァルヴァーラ夫人はほとんど涙声であった)、どうぞ忘れないでちょうだい、今後あんたがどういうことになろうとも、わたしはいつまでも変わらないで、あんたを愛します……神様があんたの傍についていてくださいますからね……わたしはいつも、神様のみこころを祝福していましたの……」
 夫人はまだ何かつけ足そうとしたが、じっとこらえて口をつぐんだ。リーザは依然として無言のまま、もの思わしげなさまで、自分の席へ帰って行こうとしたが、ふいに母夫人の前に立ちどまった。
「お母さん、わたし家へ帰らないで、もうしばらく小母さまのところにいさしていただきますわ」と彼女は静かな声でいったが、この静かな言葉のうちに鉄のような決心が響いていた。
「まあ、お前はどうしたというの!」とプラスコーヴィヤ夫人は力なげに、ぱちりと両手を組み合わせながら叫んだ。
 けれど、リーザはなに一つ耳に入らなかったもののように返事をしなかった。彼女は元のとおり隅のほうへ引っ込んで、またしてもどこか空中の一点を見つめ始めた。
 何かしら勝ち誇ったような色が、ヴァルヴァーラ夫人の顔に輝き出した。
「マヴリーキイさん、まことにすみませんが、どうぞお願いですから階下《した》へ行って、あの男の様子を見てくださいませんか。そして、もし通して[#「通して」に傍点]差支えのないようなふうが少しでも見えましたら、そのレビャードキンを連れて来てくださいましな」
 マヴリーキイは一揖して出て行った。一分の後、彼はレビャードキン大尉を連れて来た。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 わたしは一度この男の風貌を述べたことがある。背の高い、髪の渦を巻いた、肉づきのいい四十恰好の男で、真っ赤な顔はいくぶん腫れ気味でだぶだぶしているし、頬は頭を動かすたびにびりびり顫える。小さな目は血走って、かなり狡猾そうに見えた。口ひげや頬ひげをたくわえているけれど、顎の下にはこのごろできはじめたらしい肉団子がぶらさがって、かなり不愉快な風体をしていた。しかし、何よりも目立つのは、彼がきょう燕尾服にきれいなワイシャツを着けて来たことである。かつてリプーチンがスチェパン氏から冗談半分に、みなりがだらしないといって攻撃された時、『世の中にはきれいなワイシャツを着るのが、かえって無作法になるような人間がありますからね』と答えたことがある。いま大尉は黒の手袋を持っていたが、右のほうは嵌めないで手に握っていた。左の分は無理やりに嵌め込んだらしく、ボタンも掛けてないのが、肉づきのいい左手を半分どころまで隠している。その手の中には、明らかに初めてご用を勤めるらしい、つやつやした真新しい山高帽を持っていた。してみると、きのう彼がシャートフにどなっていた『恋の礼服』なるものは本当にあったのである。これは後で知ったことだが、この燕尾服も、ワイシャツも何もかも、リプーチンのすすめによって、ある秘密な目的のために用意したのである。それに、いま彼がここへやって来たのも(むろん辻馬車に乗って)、やっぱりはたから焚きつけられて、だれかの助けを借りたということは疑う余地もなかった。たとえ会堂の入口であったことがすぐ彼に知れたと仮定しても、三十分や四十分の間にいっさいの事情を悟って、着物を着替え身支度をし、最後の決心をつけるということは、彼ひとりきりの業としてはでき過ぎる。彼は酔っぱらってこそいなかったけれど、幾日も幾日もぶっ通しに飲みつづけた後で、ふいと正気づいた人にありがちの重苦しい、ぼやっとした心持ちでいるらしかった。見たところ、ちょいと肩をつかまえて二度ばかり揺すぶったら、すぐまた酔が出て来そうに思われた。
 彼は非常な勢いで客間へ飛び込みかけたが、たちまち戸口の辺で絨毯につまずいた。マリヤはさもおかしそうに笑いこけた。彼は獰猛な目つきで妹を睨んだが、急に二足三足ヴァルヴァーラ夫人のほうへ近寄った。
「奥さん、わたしは……」と彼はまるでラッパのような声でどなった。
「あなた、お願いですから」ヴァルヴァーラ夫人はきっとなった。「どうぞ、あそこの、あの椅子にご着席ねがいます。そこからでもお話は聞こえますし、あなたのお顔も、ここから一番よく見えるのですから」
 大尉は鈍い目つきで前のほうを見つめながら、立ちどまったが、それでもくるりと向きを変えて、戸口の傍らなる指定の席に腰を下ろした。彼の顔には自分自身に対する烈しい危惧の念と、また同時に不断の焦躁と、傲慢不遜の表情が浮かんでいた。彼が恐ろしくおじけづいているのは見え透いていたが、また自尊心にも苦しめられているらしかった。そこで、彼は臆病風こそ吹いているけれど、何か機会があったら、このいらいらした自尊心の発作に駆られて、どんな暴慢なことをしでかさないとも限らぬ、これはきわめて考えうべきことであった。見たところ、彼は自分の無骨な体の一挙手一投足に、戦々兢々としているらしかった。だれでも知るとおり、こういう連中が何か不思議な機会で、立派な人の中へ出たとき、何より苦しい思いをするのはその手である。自分の手を礼儀にかなった正しい位置に置くのは、とうてい不可能だということを、絶え間なしに意識するのが彼らの常である。大尉は両手に帽子と手袋を持ったまま、無意味な視線をヴァルヴァーラ夫人の厳めしい顔から離さないで、固くなって椅子の上に坐っていた。おそらく彼はもっと注意ぶかく辺りを見廻したかったのだろうが、まだ今のところそれをするだけの勇気がなかった。マリヤはまたしても、彼の恰好がおかしく見えたのだろう、再びからからと笑い出したが、彼はもう身動きもしなかった。ヴァルヴァーラ夫人は残酷にも長い間、まる一分間ばかり、容赦なくじろじろ見廻しながら、そのままの姿勢でうっちゃっておいた。
「まず第一にあなたのお名を、あなたご自身の口から承りましょう」意味ありげな規則ただしい調子で、夫人は切り出した。
「レビャードキン大尉です」と大尉は轟くばかりの声でいった。「奥さん、わたしがまいりましたのは……」彼はまたもぞもぞ身動きしかけた。
「失礼ですが!」とヴァルヴァーラ夫人は再び相手を押し止めた。「今日わたしの好奇心を呼び起こしたこのお気の毒な婦人は、本当にあなたのお妹ごですか?」
「そうです、奥さん、監督の網を潜り抜けた妹です。なぜというに、あれはこういう状態になっていますので……」
 彼は急に口ごもって真っ赤になった。
「奥さん、どうか妙なふうに解《と》らないでください」彼はもうすっかりまごついてしまった。「わたしは兄の身として、妹の恥になるようなことは申しません……こんな状態といったのは、けっしてその……わが家の名誉を汚すような意味での『こんな状態』ではないんです……最近において……」
 彼は突然ぷつりと語を切った。
「あなた!」とヴァルヴァーラ夫人はきっと首をそらした。
「つまり、こんな状態なのです!」指で自分の額の真ん中を突っつきながら、出しぬけにこう言葉を結んだ。
 しばらく沈黙が続いた。
「もうこのひとは長くこの病気を患ってるんですか?」ヴァルヴァーラ夫人は心もち言葉尻を引いた。
「奥さん、わたしは妹が会堂の入口でいただいたご親切に対して、ロシヤふうに……兄弟ふうに打ち解けた方法で、お礼をしようと思ってやって来たのです」
「え、兄弟ふうですって?」
「いや、なに、兄弟ふうじゃありません。つまり、それは、わたしがこの妹に対して兄に当たるから、それで兄弟ふうにといったのですよ、奥さん、ねえ、奥さん」また真っ赤になってせき込みながら、彼はいった。「わたしはお宅の客間における第一印象で感じられるほど、無教育な人間じゃないです。ここに見受けられるけばけばしさにくらべたら、わたしや妹などは埃《ごみ》くず同然ですし、それにまた、さまざまなことをいい触らすやからもたくさんあります。しかし、レビャードキンは自分の名誉に対しては非常な誇りを持ってるです、奥さん。で……で……わたしはお礼返しに来ました……さあ、奥さんこれが金です!」
 こういいながら、彼はかくしから紙入れを取り出して、一束の紙幣《さつ》を抜き取った。そして、烈しい焦躁の発作におそわれつつ、慄える手でそれをめくりにかかった。彼は一刻も早く何やら説明したい様子だった。実際、ぜひそうしなければならなかった。けれども、紙幣を持ってまごまごするのは、ますます馬鹿馬鹿しく見えるに相違ないと感じると、彼はついに最後の自制力を失ってしまった。指もつれがして、紙幣はどうしても数えられなかった。おまけに恥の上塗りといおうか、緑色の紙幣《さつ》が一枚紙入れからすべり出て、稲妻形の線を描きながら、ひらひらと絨毯の上に落ちた。
「二十ルーブリ」大尉は苦心のあまり顔に汗を滲ませながら、紙幣の束を片手に持って、ふいに椅子から立ちあがった。床の上に落ち散っている紙幣に気がつくと、かがみ込んで拾おうとしたが、なぜか急に恥ずかしそうにして手を振った。
「お宅の召使にやってください、奥さん、一番に拾ったボーイにやってください。妹レビャードキナの記念のために!」
「そんなことけっして許すわけにゆきません」ヴァルヴァーラ夫人はいくぶん面くらったらしく、あわててそういった。
「そういうことなら……」
 彼は身をかがめて拾いながら、真っ赤になった。と、ふいにヴァルヴァーラ夫人に近づいて、勘定して別にした紙幣を突き出した。
「それはなんです?」夫人も今度は本当に驚いて、椅子に坐ったまま尻込みさえした。
 マヴリーキイ、わたし、それにスチェパン氏は、おのおの一歩前へ踏み出した。
「静かに、静かに、わたしは気ちがいじゃないから、まったく気ちがいじゃありません!」と大尉はあわてて四方へ首を向けながら言いわけした。
「いいえ、あなたは気がちがってるのです」
「奥さん、あなたが考えておいでなさるのは、まるで間違っております! わたしはもちろん、つまらん塵あくた同然の男です……ああ、奥さん、あなたのお館《やかた》は綺羅を極めておりますが、マリヤ・ネイズヴェーストナヤ([#割り注]見知らぬ怪しい女という意味を含ませている[#割り注終わり])は貧しい茅屋に住まっております。もちろん、これはわたしの妹で、立派にレビャードキン家の娘ですが、当分ネイズヴェーストナヤと呼んでおきます。しかし、奥さん、当分ですよ、ほんの当分[#「当分」に傍点]の間だけですよ。永久にそうすることは、神様がお許しくださらんです! 奥さん、あなたはこれに十ルーブリおやりになって、これも黙って受け取りましたが、それはあなただから[#「あなただから」に傍点]ですよ、奥さん! いいですか、奥さん! このマリヤ・ネイズヴェーストナヤは世界じゅうのだれからも、そんな恵みを受けはしないです。もしそんなことをすれば、エルモーロフ将軍のご馬前で、コーカサス役に佐官として戦死を遂げた祖父《じい》が、棺の中で慄え出しますよ。しかし、あなたからはね、奥さん、あなたからはなんでも受け取ります。が、一方の手で受け取りながら、いま一方の手で二十ルーブリをあなたに差し伸べて、首都のある慈善会へ寄付金として提供します。それはね、奥さん、あなたも会員になっていらっしゃる慈善会ですよ……なぜといって、あなたご自身『モスクワ報知』に広告なさったでしょう。当市にあるその慈善会の寄付帳は、あなたのところへ備えつけになっておって、だれでもそれに記入することができるって……」
 大尉は急に言葉を切った。彼は何か困難な仕事でもした後のように、重々しく息をついていた。この慈善会云々は、やっぱりリプーチンの仕組んだ筋書によって、あらかじめ用意して来たものらしい。彼はまたいっそうひどく汗をかいた。文字どおりに玉の汗がこめかみに滲み出ていた。ヴァルヴァーラ夫人は刺すような目で見入っていたが、
「その寄付帳は」と厳かな調子で切り出した。「いつも階下《した》の玄関番のところにありますから、もしお望みなら、そこで寄付額を書き込んでくださればよろしいのです。だから、どうぞそのお金をやたらに振り廻さないで、早くしまってくださいまし。ええ、そうそう。それから、どうぞ元のお席に着いてくださいませんか。ええ、そうそう。そこで、あなた、わたしはお妹ごさんのことで大変な思い違いをして、これほど裕福でいらっしゃるのも知らず、めぐみ金などして、まことに失礼でございました。ただ一つ合点がゆかないのは、なぜお妹ごはわたしからなら受け取って、ほかの人からはどうしてもお取りにならないのでしょう。あなたはこの点に力をお入れなさいましたから、わたしも十分正確なご説明を願いたいのです」
「奥さん、それは棺の中にのみ葬りうる秘密です!」と大尉は答えた。
「なぜですか?」とたずねたヴァルヴァーラ夫人の声は、もう前ほどきっぱりしていなかった。
「奥さん、奥さん……」
 彼は足もとを見つめて、右手を胸に当てながら、暗然たる表情で口をつぐんだ。
「奥さん!」彼は突然またどなり出した。「失礼ですが、一つ質問を提出さしていただきます。たった一つですが、その代わり露骨で直截で、ロシヤふうな、心の底からの質問です」
「さあ、どうぞ」
「奥さん、あなたはこれまでお苦しみになったことがありますか?」
「つまり、あなたがおっしゃりたいのは、あなたがだれかに苦しめられたことがあるとか、またはいま苦しめられているとか、そういうふうのことなんでしょう?」
「奥さん、奥さん!」自分で自分が何をしているかわからないようなふうで、彼は自分の胸をとんと叩きながら、またもや椅子を飛びあがった。「ここが、この胸の中が、実に、実に煮え返るようなのです。もし最後の審判《さばき》の日に、これをすっかりぶちまけてしまったら、神様でさえびっくりされるくらいですよ!」
「へえ、ずいぶん猛烈な言い方ですね」
「奥さん、ことによったら、わたしはいらいらした言葉づかいをするかもしれませんが……」
「ご心配はいりません、いつあなたの口を止めたらいいかってことは、自分でよく承知していますから」
「もう一つ質問を提出してよろしゅうございますか?」
「もう一つくらいいいでしょう」
「ただただ自分の高潔な心情のためのみに、死ぬことができるものでしょうか?」
「知りません、そんなことは考えたことがありませんから」
「お知りにならない? そんなことは考えたこともおありにならん!」と彼は悲痛な皮肉の調子で叫んだ。「そういうわけなら、そういうわけなら――

[#2字下げ]口を噤みね、望みなき胸!

だ!」と彼はもう一度いきおい猛に胸を叩いた。
 彼はまたぞろ部屋を歩き出した。こういう連中の特徴は、心の中に欲望を抑えつけておくことが、まるっきりできないという点であった。それどころか、彼らは何か欲望が生じるやいなや、だらしなくぶちまけてしまいたいという、やみ難い要求さえ感じるのであった。こういう連中は、少し自分より毛色の変わった社会へ入って来ると、まず最初馬鹿におどおどしているのが普通である。けれど、ちょっとでもこちらから下手に出ようものなら、もうさっそく一足飛びに、思い切り暴慢な態度を取るものである。大尉は今やすっかりのぼせあがって、歩き廻ったり手を振ったりして、人のたずねる言葉なぞ耳にも入れず、自分のことばかり早口にまくし立てた。どうかすると、舌縺れがして、一つの言葉をいい終わらないうちに、次の言葉に移ってしまう。もっとも、全然しらふでいたわけでもないのだ。一座の中にはリザヴェータが坐っていたが、彼はその方を一度も見なかった。しかし、この令嬢がいるために、恐ろしく動顛していたらしいが、これは単なる臆測にすぎない。とにかく、こう考えて来ると、ヴァルヴァーラ夫人が嫌悪の念を抑えて、こんな男のいうことをしまいまで聞こうと決心したには、何か特別な原因がなくてはならぬ。
 プラスコーヴィヤ夫人は、ただもう恐ろしさに顫えていた。もっとも、ことの真相ははっきりわかっていないらしかったけれど……スチェパン氏も同様に慄えていたが、この人はいつもの癖として、余計に気を廻し過ぎるためなのである。マヴリーキイは、一同の護衛者といったポーズで立っていた。リーザは真っ青な顔をしながら、大きな目をいっぱいに開けて、瞬きもせずにこの奇怪な大尉を見守っていた。シャートフはもとのままの姿勢だった。が、何より不思議なのは、マリヤが笑いやめたばかりでなく、恐ろしく沈み込んでしまったことである。彼女はテーブルの上に右手を肘突して、滔々と弁じ立てる兄の様子を、じっと食い入るような、愁わしげな目つきで注視していた。ただ一人ダーリヤのみが、平然と落ちついているように思われた。
「それはみんな一文にもならない諷喩《アレゴリ》です」ヴァルヴァーラ夫人はとうとう腹を立ててしまった。「あなたは『なぜ』というわたしの問いに答えませんでした。わたしは、あくまでそのお答えを待ってるんですよ」
「『なぜ』に対して答えなかったとおっしゃるんですか? 『なぜ』に対する答えを待っておられるんですって?」と大尉は目をしばたたきながらいった。「この『なぜ』という小さな言葉が、世界創造の第一日からして、全宇宙に漲り渡っているのですよ、奥さん。そして、自然界ぜんたいは創造主に向かって、一刻も絶え間なくこの『なぜ』を叫んでおりますが、もう七千年間というもの、答えをえないでいるのです。はたしてレビャードキン一人が、この答えを与えなきゃならんでしょうか? これがはたして公平といわれるでしょうか、奥さん?」
「それはみんな寝言です、見当ちがいです」とヴァルヴァーラ夫人は本当に怒ってしまった。もう我慢しきれなくなったのである。「それはアレゴリです。おまけに、あなたのものの言い方はあんまり飾りが多過ぎて、もうきざに思われるくらいですよ」
「奥さん」と大尉はそれには耳もかさないで、「わたしはエルネストと呼ばれたいくらいに思っているのですが、実際においては、イグナートなどという下品な名を持って歩かねばならぬ仕儀になっております、――それはいったいなぜでしょう、あなたなんとお考えになります? またわたしはド・モンバール公爵と呼ばれたいくらいに思っているのに、実際はただのレビャードキンです。白鳥《レーベジ》から取った名前です、――いったいなぜでしょう? 全体わたしは心からの詩人で、出版者から千ルーブリぐらいの金が取れるはずなんですが、実際はいぶせき茅屋《あばらや》に住まねばならぬ仕儀になっている。なぜでしょう、いったいなぜでしょう? 奥さん! わたしにいわせれば、ロシヤは運命の悪戯です、――それっきりです!」
「あなたはどうしても、ちゃんとまとまったことが何一ついえないのですか?」
「わたしは『油虫』という詩を朗読してお聞かせすることができます、奥さん!」
「なあんですって?」
「奥さん、わたしはまだ発狂してはおりませんよ! いずれ発狂するでしょう、いや、きっと発狂するでしょうけれど、まだ発狂しておらんです! 奥さん、ある一人の友だちが、――立派な一人の紳士が、『油虫』という題で、一つクルイロフ式の寓意詩を書いたのです――そいつを朗読してよろしいですか?」
「あなたは何かしら、クルイロフの寓意詩を朗読するつもりなんですか?」
「いいや、クルイロフの寓意詩を朗読しようというのではありません。わたしの詩です、わたしが自分で作ったものです! いいですか、奥さん、腹を立てられては困りますが、わたしはロシヤがクルイロフという偉大なる寓意詩人を所有してるのを知らないような、そんな無教育な、堕落した人間じゃありませんよ。クルイロフのためには文部大臣が、『|夏の園《レートニイ・サード》』に銅像を建てて、幼年者の遊び場にしてあります。ところで、奥さん、あなたは『なぜ』とおたずねになりますが、それに対する答えはこの寓意詩の裏に、焔のごとき文字で書かれてあるです!」
「じゃ、その寓意詩を読んでごらんなさい」

[#ここから2字下げ]
昔々一匹の
油虫めがおりました
子供の時から正真の
間違いなしの油虫
あるときふっと蠅捕りの
薬を入れたコップヘと
のこのこ入って行きました……
[#ここで字下げ終わり]

「ええまあ、それはいったいなにごとです?」とヴァルヴァーラ夫人は叫んだ。
「それはつまり夏にですな」朗読の邪魔をされた作者らしい、いらだたしそうな焦躁の表情で、やたらに手を振り廻しながら、大尉はせき込んでこういった。「夏、蠅がコップに集まると、それ、蠅が薬に酔ってふらふらになる。こんなことはどんな馬鹿でもわかります。まあ、口を出さんでください、口を出さんで。今にわかりますよ、今にわかりますよ……(彼はのべつ両手を振っていた)

[#ここから2字下げ]
油虫めの場所ふさぎ
おいらのコップが恐ろしく
狭うなったと蠅どもは
不平たらたらしまいには
ジュピター様にと大声で
喚き出したが、がやがやと
騒ぎの中にニキーフォルの
偉い老爺《じじい》が罷り出て……
[#ここで字下げ終わり]

 これからさきはまだ仕上げができていませんが、まあ、同じことでさあ、口でいいましょうよ!」大尉はせき込んで、じりじりしながらこういった。「ニキーフォルはコップを取って、がやがや騒ぎ立てるのもかまわず、その喜劇をそっくりそのまま、蠅も油虫もいっしょに、豚小屋へぶちまけてしまいました。実際、もう疾うにそうしてやるべきはずだったんですよ! ところが、いいですか、いいですか、奥さん、油虫は不平をいわなかったです! これがあなたの『なぜ』という問いに対する答えです!」と彼は大得意でどなった。「『あーぶら虫は黙々と、ちっとも不平をいわなんだ』そこで、ニキーフォルはどうかというと、これは自然を象徴したものなんです」と口早にこうつけ足して、さも満足そうに部屋の中を歩き出した。
 ヴァルヴァーラ夫人はもうすっかり腹を立ててしまった。
「それじゃおたずねしますが、あなたはニコライが送ってきた金を、すっかりあなたに渡さなかったといって、家にいるある一人の人物を責めたそうですが、いったいそれはどういう金なんですか!」
「そりゃ言いがかりです!」悲劇じみた恰好で右手を差し上げながら、レビャードキンは咆えるようにいった。
「いいえ、言いがかりじゃありません」
「しかし、奥さん、時としては、万やむを得ざる事情のために、無遠慮に真実を高唱するよりもですな、むしろ一家の屈辱に甘んじなくちゃならんことがあるもんですよ、奥さん。レビャードキンはけっして口外しませんよ」
 彼はもう有頂天になって、目が眩んでしまったらしい。彼は急に偉くなったような気がした。きっと何か妙なことを心に浮かべたに相違ない。彼はどうかして人を侮辱したり、醜態を演じたりして、それでもって自分の威力を見せたくてたまらなかった。
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、どうかベルを鳴らしてくださいな」とヴァルヴァーラ夫人が頼んだ。
「レビャードキンはずるいですよ。奥さん」彼はいやらしい薄笑いとともに、目をぱちりとさせた。「ずるいですが、やっぱり弱味を持っております、情熱の入口を持っています! この情熱の入口は、かのジェニス・ダヴィドフ([#割り注]一七八一―一八三九年、ナポレオン侵略の際、遊撃隊として活躍した詩人[#割り注終わり])の唱ったお馴染みの軽騎兵の酒びんです。この入口に立ったとき、素晴らしい韻文の手紙を送るようなことをしでかすですよ、――しかし、後になると、ありったけの涙を流して、その手紙を取り戻したいと思うのです、実際、美の感情が崩されますからな、けれど、鳥が立ってしまった後で、尻尾を抑えることはできません! この入口に立った時にですな、奥さん、レビャードキンは侮辱に掻き乱された魂の、高潔なる憤激といったような意味合で、名誉ある令嬢のことについても、口をすべらすことがある。そこを敵に利用されたのです。しかし、レビャードキンはずるいですよ、奥さん! 意地の悪い狼が盃に酒を注《つ》ぎ込んでは、今か今かとその結果を待ち受けながら、じっと傍で見張っていますが、とても駄目なことです。レビャードキンはうっかり口をすべらす男じゃありません。いつもびんの底に残るのは、当てにしていた甘い汁でなくって、このレビャードキンの抜け目のないところばかりでさあ! しかし、たくさんです、もうたくさんです! 奥さん、あなたの立派なお館は、ある立派なご仁のものになるかもしれなかったのですが、しかし、油虫は不平をいいません! いいですか、まったくいいですか、けっして不平をいいませんからね。どうか偉大なる精神を認識してください!」
 ちょうどこの瞬間、下の玄関でベルの音が響きわたった。そして、スチェパン氏の鳴らしたベルに対して、少し顔を出し遅れたアレクセイが、ほとんど同時に姿を現わした。不断きちんととり澄ましたこの老僕が、今はなんだか恐ろしく狼狽している様子であった。
「若旦那さまがただ今お着きになりまして、さっそくこちらへおいでのところでございます」ヴァルヴァーラ夫人の不審そうな目つきに答えるように、彼はこう披露した。
 わたしは今でもこの瞬間の夫人を、はっきりと思い出すことができる。はじめ彼女はさっと顔をあおくしたが、とつぜん目がぎらぎら光り出したと思うと、なみなみならぬ決心をおもてに見せて、肘掛けいすの上できっと身を正した。それに、一同の者も実際びっくりしたのである。まだ一月たたなければこの町へ帰らないものと想像されていたニコライの、この意想外な到着は、単に思いがけないというばかりでなく、ちょうどこの運命的な瞬間に遭遇した点において、なんともいえない奇怪な感じを与えた。さすがの大尉も部屋の真ん中へ棒立ちになって、大きな口をぽかんと開けたまま、馬鹿げきった様子をして、戸口のほうを見やるのであった。
 と、隣室の大きな長いホールから、しだいに近づいて来るいそがしげな足音が聞こえてきた。だれか恐ろしく小刻みな足音で、まるで転がってでも来るようであった、――と、いきなり客間へ飛び込んで来たのは、ニコライとはまるで違った、だれひとり見覚えのない青年だった。

[#6字下げ]5[#「5」は小見出し

 わたしはちょっとここで物語の進行を止めて、とつぜん現われてきたこの人物の輪郭を、ざっと描いておくことにする。
 これは年の頃二十七かそこいらの若者で、中背よりも少し高く、かなり長い髪は薄くて白っぽく、ちょぼちょぼとした口ひげや顎ひげは、やっと見えるか見えないかであった。みなりはさっぱりとして流行ふうだったが、さりとて伊達男というほどでもない。ちょっと見には、ずんぐりむっくりして不恰好のようだが、けっしてずんぐりむっくりどころでなく、かえってとりなしは捌けたほうである。なんだか変人らしくも思われるが、その後、町の人たちの噂によると、彼の言語挙動は作法にかなって、話しぶりも場所がらにはまっていた。
 容貌にしても、けっして醜いという者はなかろうが、その顔はだれにも好かれなかった。後頭が少し長めになって、まるで両わきから押し潰されたような具合なので、顔までが妙にとがって見えた。彼の額は高くて狭く、顔の輪郭はこせこせしている。目は鋭く、鼻は小さく尖って、唇は長くて薄かった。全体の顔の表情は病的なようであったが、それはただそう思われるというまでのことだ。頬から顴骨のほうへかけて、なんだかかさかさしたような線が浮かんで、そのために重病の回復期にある人らしく見えるが、実際はまったく健康で体力も強く、今までまるで病気したこともないくらいだった。
 彼はやたらに忙しそうに歩いたり、動きまわったりする。が、別段どこといって急いでいるわけでもない。彼は見たところ、どんなことがあってもへこまされそうにない。どんな事情の下におかれても、どんな人の中へ出ても、平然としていそうである。非常に自己満足の性質を持っているけれど、自分ではそれに気もつかない。
 彼の話は早口で忙しそうであったが、同時に恐ろしく自信に富んでいて、まごついて言葉をさがし廻るようなことはなかった。その急がしそうな様子にも似ず、彼の思想は平静で、明瞭で、きっぱりしている、――これがとくに目立つのであった。発音は驚くばかり明晰だった。まるでちゃんと拾い分けて、いつでも役に立つように用意してある、綺麗に揃った大振りな豆粒みたいに、言葉が後から後からと撒き出されるのだ。だれも初めはこれが気に入るけれど、後にはだんだんいや気がさして来る。それはただあまりに明晰なこの発音のためである、ちゃんと用意のできた南京玉のような言葉のためなのである。彼の口の中に隠れている舌は、きっと一種特別な恰好をしているに相違ない、恐ろしく細長くて、やたらに赤く、しかも、さきがむやみに尖って、ひとりでに絶え間なく動きつづけているに相違ない、こういったような感じがしだいに強くなって来る。
 で、この青年がいま客間へ飛び込んで来たのである。実際のところ、わたしは今でもやっぱり、この青年が次の間あたりから話しかけて、そのまましゃべりながら入って来たように思われて仕方がない。彼はたちまちヴァルヴァーラ夫人の目の前に現われた。
「……まあ、どうでしょう、奥さん」と彼は南京玉を撒き散らすような調子でいった。「ぼくはもうあの人が十五分くらい前に、ここへ来ているものと思って入って来たんですよ。あの人が着いてから、もう一時間半になりますよ。ぼくらはキリーロフのところで落ち合ったのです。あの人は三十分前に、真っ直ぐにこちらへ向けて出かけましてね、ぼくにも十五分ばかりたったら、やっぱりこちらへ出向くようにと、いいつけて行ったんですがね……」
「え、まあ、だれのことですの? だれがこちらへ来いといいつけたんですの!」とヴァルヴァーラ夫人はたずねた。
「だれって、ニコライ君にきまってるじゃありませんか! じゃ、あなたは本当に今はじめてお聞きになるんですか? しかし、それにしても、荷物がとっくに届いていそうなもんですが、どうしてあなたに知らせなかったんでしょう? じゃ、つまり、ぼくが第一番にお知らせしたわけなんですね。どこかへあの人を迎えにやってみてもいいですが、きっと間もなくお見えになるでしょう。あの人のいだいてるある期待に符合する時刻にね。少なくも、ぼくの判断するところでは、あの人のいだいているある目算に符合する刻限にね」と、ここで彼は部屋の中を一巡ぐるりと見廻したが、その目はとくに大尉のうえに注意深く据えられた。「ああ、リザヴェータさん、来るとさっそくあなたとお目にかかれるなんて、実に愉快ですな。こうしてあなたのお手を握るのは実に嬉しいです」と彼は素早く飛んで行って、愉しげにほほえみつつ、差し伸べられたリーザの手を握った。「それから、お見受けしたところプラスコーヴィヤさんも、この『先生』を忘れていらっしゃらないようですね。スイスではいつも怒ってばかりいらっしゃいましたが、今はべつにご立腹の模様もありませんね。ときに、ここへいらしってからおみ足はいかがですか? そして、故国の気候の効能を説いたスイスの医者の言葉は本当でしたろうか? え? 湿布ですって? きっと、ききめがあるに相違ないでしょう。しかし、奥さん(と彼はまた素早くヴァルヴァーラ夫人のほうへ振り向いた)、ぼくはあのとき外国でお目にかかって、新しく敬意を表することができなかったのを、どんなに残念に思ったでしょう。それに、いろいろとお知らせしたいこともあったんですからね。ぼくがここへ来るってことは、うちの爺さんに知らせといたんですが、この人は大方、例によって例のごとく……」
ペトルーシャ!」([#割り注]ピョートルの愛称[#割り注終わり])忽然として茫然自失の状態から醒めたスチェパン氏は、ふいにこう叫んで両手を鳴らしながらわが子のほうへ飛びついた「Pierre!([#割り注]ピョートルのフランス読み[#割り注終わり])倅《モナンファン》! わたしはお前を見それていたよ!」彼はわが子をじっとだき締めた。涙はその目からはふり落ちた。
「ちえっ、冗談はおよしよ、冗談は。身振りは抜きにしてもらいたいな、さあ、たくさんたくさん、後生だから」父の抱擁を免れようと努めながら、ペトルーシャは忙しそうにこういった。
「わたしはいつもお前にすまんことばかりしていた!」
「もうたくさんだってば、その話は後にしましょうよ。きっとふざけた真似をはじめなさるだろうと思っていたが、はたせるかなだ。さあ、少し真面目になってくださいな、後生だから」
「だといって、わたしはもう十年からお前を見なかったんだよ!」
「それだから、なおさらそんな芝居めいたせりふを並べるわけはないじゃないか……」
「倅《モナンファン》!」
「いや、わかってるよ、お父さんがぼくを愛してくれることは、よくわかってるよ。さ、その手をどけてください。だって、ほかの人の邪魔になるじゃないか……おや、ニコライ君が見えた。ね、冗談はよしにしよう、お願いだから!」
 実際、ニコライはもう部屋の中に入っていた。彼は静かに入って来ると、戸口のところでちょっと立ちどまって、じいっと一座を見廻した。
 四年前はじめて見た時と同じように、今度もわたしは一瞥してすぐ彼の容貌に打たれた。けっして彼の顔を見忘れたわけではないが、よく世間にはいつでも会うたびに何か新しいあるもの、――よしんば今まで百ぺんくらい会ったことがあるにせよ、以前少しも気のつかなかったようなあるもの、――を表わして見せる容貌の所有者があるものだ。もっとも、一見したところ、彼は四年前と同じようだった。同じように優美で、同じように尊大で、同じように若々しく、そして、入って来た時の態度もあの時のままに尊大であった。軽い微笑は同じように礼儀ばった愛嬌を帯びて、また同じように自足の色を表わしているし、眼ざしは同じように厳めしく考え深そうで、しかも何となく放心したようであった。要するに、われわれは昨日別れたばかりのような気がしたほどだ。が、ただ一つわたしを驚かしたことがある。ほかでもない、以前は美男子の定評はあったけれども、社交界の口悪な婦人仲間で噂したとおり、彼の顔は実際『仮面《めん》に似て』いた。ところが、今はどうだろう、――今はなぜだか知らないけれど、わたしは彼を一目見るなり、何一つ非の打ちどころもない立派な美男子だと感じた。もはや彼の顔が仮面《めん》に似ているなどとは、どうしてもいうことができなかった。それは以前より心もちあおざめて、いくぶん痩せて見えるせいだろうか? それとも、何か新しい観念が、いま彼の目に輝いているためだろうか?
「ニコライ!」ヴァルヴァーラ夫人は、肘掛けいすから下りようともせず、ぐっと身をそらして、高圧的な身振りでわが子を押し止めながら叫んだ。「ちょっとそこに待っててちょうだい!」
 しかし、この身振りと叫びに続いて発せられた恐ろしい質問、――ヴァルヴァーラ夫人のような性質の人からさえも、とうてい予想することのできないような、あの質問を明らかにするために、わたしは読者諸君に対して、ヴァルヴァーラ夫人の性質が常にどんなものであったか、想起せられんことを望んでおく。実際、夫人は何か異常な瞬間に遭遇すると、まるで前後を忘れてしまって、思い切ったことを平気で断行するというふうであった。それから、もう一つ頭に入れといてもらいたいのは、夫人は意志が鞏固で、相当の分別もあれば、実際的(家政的といってもいいくらい)の手腕にも長けているにかかわらず、その生涯の間には、突然なにもかも忘れてしまって、こらえじょうなしに(もしこんな言い方が許されれば)、自分の感情に没頭してしまう瞬間が、ほとんど絶え間なしに続いていたことである。それから最後に、もう一つ注意を払っておいてもらいたいことがある。ほかではない、今のこの瞬間は彼女にとってまったく重大な意義を帯びたもので、この一瞬間のうちには、ちょうどレンズの焦点のように、生活の本質、――過去、現在、もしかしたら、未来の真髄までがことごとく圧搾され、封じ込められていたかもしれないのである。それから、なお一ついっておかねばならぬのは、夫人の受け取った無名の手紙である。さきほど夫人はプラスコーヴィヤに向かって、いらいらした調子でこの手紙のことをいい出したが、どうやら立ち入った内容にいたっては口を緘していたらしい。どうして夫人がわが子に向かって、あんな恐ろしい問いを発することができたか、という不思議な謎を解く秘|鑰《やく》も、もしかしたら、この手紙の中に潜んでいるのかもしれない。
「ニコライ」と夫人は一句一句明確に句ぎりながら、しっかりした調子でくり返した。その声には、恐ろしい挑むような意気込みが響いていた。「あなた後生だから今すぐ、この場を動かないで返答をしてください。いったいあの不仕合わせなびっこの婦人、――ほら、あのひとです、ごらんなさい、あそこにいます! いったいあのひとが……あなたの正当な妻だというのは、本当のことですか?」
 わたしはこの時のことをはっきりおぼえている。彼は目ばたきもしないで、じっと母親を見つめた。そして顔色を微塵も変えなかった。やがて、妙にへりくだったような微笑を浮かべながら静かににやりとしたかと思うと、ひと言も答えないで、おもむろに母に近寄ってその手を取り、うやうやしく唇へ持って行って接吻した。彼がいつも母親に与える打ち克ち難い力が、ここでもまた強くヴァルヴァーラ夫人に働いたので、夫人はすぐその手を振り払う勇気がなかった。夫人は全身一つの質問に化したかと思われるほど、じっとわが子の顔を見つめていた。この様子を見ただけで、もう一瞬間このままで続いたら、夫人はとうてい未知の苦悶に耐えきれないだろう、と察しられた。
 しかし、彼は依然として無言のままであった。母の手を接吻すると、いま一ど部屋の中をぐるりと見廻した。そして、やっぱり悠々たる足取りで、マリヤのほうへ向けて歩き出した。ある瞬間における人間の表情を描写するのは、非常にむずかしいものである。たとえば、わたしの記憶している範囲では、マリヤは驚きのあまり麻痺したような表情をしながら、彼を出迎えるつもりらしく立ちあがり、まるで哀願でもするように両手を組み合わせた。が、同時に、歓喜の色がその眼ざしに浮かんだのを、わたしは確かにおぼえている。それは、彼女の輪郭まで曲げてしまうようなもの狂おしい歓喜、――人間の心には堪え難いほどの烈しい歓喜だった。或いは驚愕も歓喜も、両方ともあったかもしれない。けれど、わたしは自分があわてて彼女の傍へ摺り寄ったのを今だに覚えている(わたしはほとんど彼女のすぐ傍に坐っていた)、彼女が今にも卒倒しそうに思われたからである。
「あなたはここにいらっしゃるわけにまいりません」と彼は優しいメロディックな声でマリヤにいった。その目にはなみなみならぬ優しさが輝いていた。
 彼は非常なうやうやしい態度で彼女の前に立っていたが、その一挙一動にも、偽りならぬ尊敬の色が表われていた。『不仕合わせな女』はせき込んで息を切らしながら、ささやくような声で呟いた。
「わたし……今……あなたの前に、膝をついてよろしゅうございますか?」
「いいえ、それはどうしてもいけません」と彼は鮮やかにほほえんで見せた。すると、彼女もそれに釣られて、嬉しそうににっと笑った。
 彼は例のメロディックな声で、まるで子供かなんぞのように言葉やさしくすかしながら、ものものしい調子でこういい足した。
「まあ、考えてごらんなさい。あなたは娘さんのお身の上でしょう。それに、わたしはあなたにとって、真実なお友だちではありますけれど、それだってやっぱり赤の他人です。夫でもなければ、お父さんでもなく、また許婚《いいなずけ》というわけでもありません。さあ、お手を貸してください。お伴しましょう。わたしが馬車までお見送りしますから。しかし、お望みでしたら、お宅まで送って差し上げましょう」
 彼女は男の言葉を聴き終わると、何か思案げに小首をかしげた。
「まいりましょう」と彼女は吐息をつき、手を差し出しながら、こういった。
 けれど、ちょうどこの時、小さな不幸が彼女の身に生じた。きっと不注意に身を転じて、病んでいる短いほうの足から踏み出したためだろう、彼女は横ざまにどっと肘掛けいすの上に倒れた。もしこの肘掛けいすがなかったら、彼女は床の上へほうり出されたかもしれない。ニコライはたちまち手を伸べて彼女を抱き留め、しっかりと腕を組み合わせながら、情けをこめてそろそろと戸口へ連れて行った。彼女は明らかに、自分の失策を悲しんでいるらしく、どぎまぎしながら真っ赤になって、恐ろしく恥じ入った様子であった。無言のまま足下に目を落とし、烈しくびっこを引きながら、ほとんど男の手にぶらさがるようにして、その後にしたがった。こうして、二人は出て行った。リーザは(わたしはちゃんと見ていた)、とつぜんなんのためやら肘掛けいすから躍りあがって、二人が戸の陰に見えなくなるまで瞬きもせずに見送った。やがて無言のまま再び腰を下ろしたが、その顔にはまるで何やら毒虫にでもさわったような、痙攣的な顫動が見られた。
 ニコライとマリヤとの間にこの場面が続いているうちは、みんな呆っ気に取られて鳴りを潜めていた。それこそ蠅の羽音まで聞こえそうなほどだった。が、二人が出て行くと同時に、一座は急にがやがやと話し出した。

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 もっとも、それは話というより叫びに近かった。その時の細かい順序は、わたしももはやはっきり覚えていない。なにしろ、何もかもめちゃめちゃになってしまったのである。スチェパン氏はフランス語で何か叫んで、両手をぱちりと鳴らした。が、ヴァルヴァーラ夫人はそれどころでなかった。マヴリーキイさえも何やら早口に、きれぎれな調子でつぶやいた。けれど、だれよりも一番あつくなったのはピョートルだった。彼は盛んな身振りをしながら、何やら一生懸命にヴァルヴァーラ夫人を説いていたが、わたしは長い間なんのことだか会得できなかった。彼はまたプラスコーヴィヤ夫人や、リザヴェータにもときどき言葉をかけたが、その間にはつい夢中になって、――父親にも何やらどなりつけていた、――手短かにいえば、彼は部屋じゅうをくるくる飛び廻っているのだった。ヴァルヴァーラ夫人は真っ赤になって、思わず席を飛びあがりかけると、プラスコーヴィヤ夫人に向かって、『あんた聞いて? あれが今ここであの女にいったことを聞いて?』と叫んだ。けれど、こちらはもう返事ができず、ただ手を振って、何やらもぐもぐいうばかりだった。哀れなプラスコーヴィヤは自身に心配を持っていたのだ。彼女はひっきりなしにリーザのほうへ首を向けて、ゆえのない恐怖に慄えながら、娘を眺めるのであった。娘が席を立たないうちに、立ちあがって出て行くなどとは、思いも寄らぬことであった。大尉はこのどさくさ紛れに、すべり抜けようと思ったらしい。それはわたしも気がついた。ニコライが入って来た瞬間から、すっかりいじけ込んでしまったのは、ありありと見え透いていた。しかし、ピョートルはその手をつかまえて逃さなかった。
「そりゃ、ぜひともそうしなくちゃなりません、ぜひともそうしなくちゃ」と彼は例の南京玉を撒き散らすような調子で、相変わらずヴァルヴァーラ夫人を説きつづけた。
 彼は夫人の前に突っ立っていた。夫人はもう肘掛けいすに腰を下ろして、わたしの覚えている限りでは、貪るように相手の言葉に耳を澄ましていた。ところが、これがこちらの思う壺だった。彼は首尾よく夫人の注意を奪ってしまったのである。
「そりゃ、ぜひともそうしなくちゃなりません。奥さんもご覧のとおり、これには誤解があるのです。そして、ちょっと見には、いかにも奇怪千万なことだらけのようですが、事実、この出来事は蝋燭のごとく明瞭で、手の指のごとく単純なものなんです。ぼくは別にだれからも一部始終の顛末を話してくれと依頼されたわけではないです。かえって自分から差し出がましいことをするのは、あるいは滑稽に属するかもしれませんが、しかし、まず第一に、ニコライ君自身はこの事件に、なんの意味も認めていられないし、また世間には往往、自分であえて説明するのが具合が悪いために、ぜひともそれをよりたやすく述べられる第三者の労を必要とするような、デリケートな事柄を含んだ場合もまたありがちのことですからね。まったくですよ。奥さん、ニコライ君はさっきあなたの問いに対して、すぐ端的に明瞭に返事をされなかったですが、けっしてあの人が悪いのじゃありません。なにしろ馬鹿馬鹿しい話なんですからね。ぼくはもうペテルブルグ時分からこの話を知ってるんですよ。それにこのエピソードはかえってニコライ君のために、名誉を増すことになるくらいですよ、もしぜひともこの『名誉』というような曖昧な言葉を使わねばならんとすればですね……」
「では、つまり、あなたはこの……誤解の原因となったある事件の、実見者だったとおっしゃるのですか?」とヴァルヴァーラ夫人がたずねた。
「実見者でもあり、関係者でもあったのです」とピョートルはさっそくひき取った。
「もしあなたが、わたしに対するニコライの優しい感情をけっして侮辱しない、と誓ってくださるならば……あれは何一つわたしに隠し立てしないのですから……それからまた、ニコライがかえってよろこんでくれる、という自信があなたにおありでしたら……」
「そう、そりゃもうよろこぶに相違ありません。それだからこそぼくは自分でもこれを非常なよろこびとしているのです。ぼくはむしろ、あの人のほうから進んで頼むだろう、と信じてるくらいです」
 まるで天から降って来たようなこの紳士が、自分のほうから押しつけがましく、他人の身の上を話そうなぞといい出すのは、ずいぶん奇怪なことでもあり、また普通のやり方とも違っていた。しかし、彼はヴァルヴァーラ夫人の一ばん痛いところへ触れて、まんまと思う壺へはめてしまったのである。当時わたしは、まだこの男の性質もまったく知らないくらいだったから、その目論見なぞはなおさらわかろうはずがなかった。
「では、お聴きしましょう」自分の譲歩をいくぶん心苦しく感じながら、ヴァルヴァーラ夫人は控え目な用心ぶかい調子でこういった。
「話はごく簡単なんです。あるいは厳密な意味において、事件ということはできないかもしれません」と彼は南京玉を撒き散らし始めた。「もっとも、小説家に聞かせたら、退屈まぎれに一編の物語にでっち上げるかもしれません。かなり面白い話ですからね、プラスコーヴィヤさん、それにリーザさんも、興味をもって聴いてくださることと思います。なぜって、これには不思議とまではゆかないでしょうが、なかなかふう変わりな点がたくさんあるんですから。五年ばかり前ニコライ君はペテルブルグで、初めてこの先生と知り合いになられました。――そら、このレビャードキン先生です。先生、口をぽかんと開けて立ってるが、今にも抜け出そうと身がまえてるようですね。いや、奥さん、ごめんください。ねえ、きみは今ここを逃げ出さないほうがよかろうぜ、糧秣局の退職官吏さん(どうだね、よく覚えてるだろう)。きみがここでやった小細工は、ぼくにもニコライ君にも、わかり過ぎるくらいわかってるんだから、きみはその責任を明らかにする義務があるんだよ、忘れちゃいけないぜ。いや、奥さん、失礼しました、もう一度お詫びいたします。ニコライ君は当時この先生のことを、ファルスタッフといっておられましたが、それはきっと(彼はとつぜん説明を始めた)、それは以前どこかにいた burlesque(滑稽)な人物で、人もこの男を笑い草にしていたし、また自分でも平気で笑い草にされて、ただ金さえもらえばいい、というふうだったんでしょう。ニコライ君は当時ペテルブルグで、なんといいますか、嘲笑的生活を送っておられました。ぼくはこれ以外、当時のあの人の生活を形容すべき適当な言葉を発見することができません。なぜって、あの人はけっして幻滅などに陥る人じゃありませんし、また仕事などというものは当時すっかり馬鹿にしきって、少しも手を出さなかったんですからね。奥さん、ぼくはただあの時のことだけをいってるんですよ。ところで、このレビャードキンには妹がありました。そら、たった今までここに坐ってた女ですよ。この兄貴と妹は、自分の棲家というものを持っていなかったので、人の家ばかりごろつき廻っていました。先生のほうは勧工場の廊下をうろうろして(きっと以前の制服を着てたに相違ありません)、小綺麗ななりをした通行人の袖を引いたものです。そして、もらい集めた金は、みんな飲みしろにしてしまうのです。妹のほうはまるで空の鳥と同じような口すぎをしていました。つまり、方方の貧乏長屋の手伝いをしたり、忙しい時の使い走りなどしていた。いやはや、なんともいえない恐ろしい乱脈でしたが、まあ、こんなどん底生活の描写はぬきにしましょう。とにかく、ニコライ君もその偏屈な性癖のために、この生活に没入してしまわれたのです。奥さん、ぼくはただ当時のことだけをいってるんですよ。ところが、この『偏屈』というのは、ニコライ君自身いったことなんです。あの人はいろんなことをぼくにうち明けてくれますのでね。あの人は一頃マドモアゼル・レビャードキナにしょっちゅう出あう機会がありましたが、嬢はあの人の美貌に打たれてしまったのです。なにしろ、あの人は嬢の生活のむさくるしい背景に、一点かがやきだしたダイヤモンドみたいなものなんですからね。ぼくは微妙な感情の描出などということにかけては、しごく不得手なほうですから、いい加減にして先へ行きましょう。しかし、うるさい木っ葉連どもが、さっそくあの女をいい笑い草にしてしまったので、あの女はひどくふさぎ込むようになりました。なに、あの女はいい加減みんなの笑い草にされていたのですが、それまでは自分でも気がつかなかったので。もうその頃から頭が変でしたが、しかしそれでも、今ほどじゃありませんでしたよ。子供の時分には、だれか世話になった奥さんのおかげで、ちょっと教育も受けたらしい形跡があるんでね。ニコライ君はあの女なぞには一顧も与えないで、たいていいつも小役人どもを相手に、古い脂じみたカルタを握って、二厘五毛賭けのプレフェランス([#割り注]勝負の名[#割り注終わり])をやっておられました。ところが、ある時またあの女をからかったものがあった。その時ニコライ君はわけもたださないで、いきなりその小役人の襟髪を引っつかむが早いか、二階の窓から外へほうり出してしまったのです。しかし、これは虐げられたる無辜に対するナイト式感憤、などというようなものではけっしてありません。この荒療治はみなのきゃっきゃっという笑い声の中で行なわれたのです。そして、当のニコライ君などは、だれよりも一ばん余計に笑っていましたよ。で、万事おだやかに落着してしまった時、双方が揃ってポンス酒を飲み出したくらいです。けれど、その『虐げられた無辜』どののほうで、このことをいつまでも忘れなかった。で、結局、あの女の知的能力が根本から震撼されたのは申すまでもありません。ぼくは微妙な感情の描写は不得手です。これはくり返しお断わりしておきますが、しかし、ここでおもな働きをしているのは空想です。しかも、ニコライ君はまるでわざとのように、この空想を突っつくようなことを仕向けたのです。てんで頭から笑ってしまえばいいものを、なんと思ったか、突然思いがけないうやうやしい態度で、レビャードキナ嬢を遇し始めたのです。当時あちらのほうにいたキリーロフも(恐ろしいふう変わりな男ですよ、奥さん。そして、恐ろしいぶっきら棒な男なんですがね、たぶんどっかでお逢いになるでしょう。今こちらへ来ていますから)。で、このキリーロフが不断むっつりしているたちにも似ず、急に憤慨しだして、今でも覚えていますが、ニコライ君に忠告したものです、――あなたはあの婦人を、まるで侯爵夫人のようにあしらっておられるが、そんなことをすると、もう取り返しのつかないほど、あの女の運命を粉砕することになる、とこうです。念のために申しておきますが、ニコライ君も幾分このキリーロフを尊敬してましたよ。ところで、あの人がどう答えたとお思いになります。『キリーロフ君、きみはぼくがあの女をからかってると思ってるようだが、それは考え違いだ。ぼくは本当にあの女を尊敬してるんだ。だって、あの女はわれわれのだれよりも優れてるからさ』しかもね、奥さん、それが実に真面目な調子なんですよ。ところが、あの人はこの二、三か月の間あの女に向かって、ただ『今日は』と『さよなら』のほか、まったく一言も口をきかなかったんです。ぼくはその場にいた人間だからよくおぼえていますが、しまいにはあの女がニコライ君を、自分の許婚みたいに考えるようになった。この許婚の夫が自分を「盗み出して」くれないのは、ただ彼に大勢の敵がいたり、家庭上の障碍があったりするためだ、とかなんとか、そんなことを信じるまでにいたったのです。まあ、とにかくみんな笑わされたもんですよ! そうこうしているうち、ニコライ君はこちらへ来ることになったが、出発する前に、あの女に補助金を出してやるように手続きされました。しかも、かなりまとまった年金で、おそらく三百ルーブリより少なくはないと思います。手っとり早くいえば、このことはニコライ君のがわから見ると、時ならずして疲労を感じ始めた男の妄想、――出来心ともいい得るでしょう。ことによったら、キリーロフのいったように、すべてに飽満を感じている男が、気の狂った片輪ものをどのくらい夢中にすることができるか、一つためしてやれというような目的で、書いた狂言にすぎないかもしれません。『きみはわざわざ屑の屑ともいうべき女を選り出した、永劫に消えない汚辱と、打擲《ちょうちゃく》の痕におおわれた片輪ものを選び出したのだ、――しかも、その女がきみ自身に喜劇めいた恋をいだいて、焦れ死に死にそうなのを百も承知でいるくせに、きみはわざとそれを惑わすようなことをするじゃないか。しかも、その目的は、ただただこうすればどうなるだろう? という好奇心にすぎないんだからね!』とこうキリーロフはいっていました。しかし、いつも二こと以上言葉をかけたことのない、気ちがい女の妄想に対して、特別どういう責任があるんでしょう? ねえ、奥さん、世間には気の利いた体裁で話せないばかりでなく、第一、話し出すのさえ間が抜けて見えるようなことが、ままあるものです。まあ、やっぱり『偏屈』くらいのところでしょうね、――それ以外なんともいいようがありませんもの。ところが、それだけのことから大騒ぎが持ちあがったんですよ……奥さん、ぼくはここでどういうことが起こってるか、たいてい承知してますよ」
 話し手はふいに言葉を切って、レビャードキンのほうへ向こうとしたが、ヴァルヴァーラ夫人が急に彼を押しとめた。夫人はもうすっかり感動してしまったのである。
「もうしまいまでお話しになりまして?」と彼女はたずねた。
「いや、まだです。ぼくは自分の説明を完全にするために、もしお許しくださるなら、ちょいとこの先生に訊問したいことがあるんです……今にすっかり真相がおわかりになりますよ、奥さん」
「たくさんです、それは後にして、ちょいと待ってください、お願いですから。ああ、あなたの話をとめないで、本当にいいことをしました!」
「それにねえ、奥さん」とピョートルは跳ねあがるような調子で、「実際、ニコライ君だって、さっきあなたの質問に対して自分で返答ができたとお思いになりますか、――あの質問はどうも、あまり思い切りがよすぎましたからね」
「ああ、まったくあんまりでした」
「それに、ぼくがああいったのは実際でしたろう、――つまり、――ある場合には、当事者自身より、第三者のほうがずっと説明しやすいってことです!」
「ええ、ええ……だけど、ただ一つあなたは考え違いをしていらっしゃいました。そして、残念ながら、今でも引き続いて考え違いしていらっしゃるようでございます」
「そうですか? なんでしょう?」
「ほかではありません……ですが、ピョートル・スチェパーノヴィチ、あなたお坐りになってはいかがです」
「ああ、それはどうともお気に召したように。ぼくも少々疲れましたから、ありがたくお請けしましょう」
 彼はたちまち肘掛けいすを前へ引き出した。そして、ちょうど一方にヴァルヴァーラ夫人、いま一方にはテーブルに対坐したプラスコーヴィヤ夫人を控え、しかも、レビャードキン氏を真正面に見据えるような位置へ、うまく肘掛けいすを落ちつけてしまった。彼はちょっとの間も大尉から目をはなさなかった。
「つまり、あなたがこの事件を、一概にあれの『偏屈』といいきっておしまいになるのを、わたしお考え違いだと申すのでございます……」
「ああ、もしそれがただ……」
「まあ、まあ、まあ、ちょっと待ってください」とヴァルヴァーラ夫人は夢中になって、滔々と弁じ出しそうな気がまえを見せながら、相手を押し止めた。
 ピョートルはそれに気がつくやいなや、さっそくからだ全体を注意そのものにした。
「違います、あれには何か『偏屈』以上のものがあります、神聖なといっていいくらいのものがあります! 誇りが強くて、しかも、あまりに早く侮辱を感じ、それがために恐ろしく『冷笑的』な態度を取るようになった、一個の人間なのです。あなたがお下しになったこの評言は、まったく正鵠を穿っております。つまり、あの当時スチェパン・トロフィーモヴィチのおっしゃった、ハーリイ王子という立派な比較につきていますよ。この比較はぜんぜん正確といっていいくらいですけれど、少なくもわたしの見たところでは、どちらかというと、ハムレットのほうに余計似ているようでございます」
「Et vous avez raison(あなたのお言葉も一理あります)」情をこめた重々しい調子で、スチェパン氏はこういった。
「ありがとうございます。スチェパン・トロフィーモヴィチ。いつもあなたがニコラスを信じてくだすったのを、あれの心情と使命の気高さを信じてくだすったのを、とりわけありがたく思っているのですよ。わたしがすっかり落胆しそうになった時でさえ、あなたは、わたしの心にこの信仰を維持さしてくださいました」
「|あなた《シエール》、|あなた《シエール》……」
 スチェパン氏はもう一ど踏み出しかけたが、いま話をさえぎるのは危いと考え直して、足を止めた。
「もしいつもあれの傍に」と夫人はもう半ば歌でもうたうように続けた。「ホレーショのように、落ちついた、偉大な隠忍の友がついていたら(スチェパン・トロフィーモヴィチ、これもあなたのおっしゃった美しい表現ですよ)、あれは疾うにあのいつもいつもあれを苦しめてきた『思いがけない憂欝な冷笑の悪魔から』救われていたに相違ありません(この冷笑の悪魔というのも、やっぱりあなたのおっしゃったことなんですよ、スチェパン・トロフィーモヴィチ)。けれど、ニコラスにはホレーショもなければ、オフェリヤもなかったのです。もっとも、あれには一人の母親がありましたが、ああいう場合、母親一人きりでどれほどのことができましょう。ねえ、ピョートル・スチェパーノヴィチ、わたしはどういうわけで、ニコラスみたいな人間が、今あなたのお話なすったような穢らわしい、洞穴みたいなところへ出入りする気になったか、その心持ちがだんだんよくわかって来るように思われます。今こそわたしは、その人生に対する『冷笑的な態度』も(本当に驚き入った正確な評言です!)飽くことを知らぬコントラストの渇望も、あれが『ダイヤモンドのように』輝き出でた暗澹たる背景も(『このダイヤモンド』もあなたのお言葉ですよ、ピョートル・スチェパーノヴィチ)、何もかもはっきり想像することができます。ところが、ちょうどそういう場所で、あれは世間から虐げられた一人の哀れな人間に出くわしたのです。その女は半分気ちがいみたいな片輪ものかもしれませんが、あるいは同時に、高潔な感情をいだいていたかもしれません!………」
「さよう……あるいはまあ……」
「ところが、これから後がまるであなたにわからないのです。あれはけっして皆と同じように、あの女を冷笑しておりません! まったく世間の人はねえ! あなた方はおわかりにならないでしょうが、あれは迫害者の手からあの女をかばっているのです。『侯爵夫人に対するような』尊敬をもって、あの女を包んでいるのです(そのキリーロフとかいう人は、非常に深く人間を知っておられるに相違ありません、もっとも、ニコラスを理解することはできなかったのですけれど!)。まあ、それはとにかく、つまり、そのコントラストのために悲劇が起こったのです。もしもあの不仕合わせな女が別な境遇にいたら、あれほど頭を晦ましてしまうような、烈しい空想をいだくにはいたらなかったでしょうにねえ。女です、女です。女でなければ、とてもその心持ちはわかりません。ピョートル・スチェパーノヴィチ、あなたが……いえ、何もあなたが女でないのを悲しむわけではありませんが、せめて今ちょっとの間だけでも、この心持ちを理解するためにね!」
「それはつまり、悪ければ悪いほどますますよくなるという、その意味合でおっしゃるのでしょう。わかりますよ、奥さん、ぼくだってわかりますよ。それはつまり、宗教などで見受けるのと、同じ性質のものでしょう。人間の生活が苦しければ苦しいだけ、一国民の状態が貧しく虐げられていればいるだけ、いよいよ天国の酬いを空想する念が執拗になって来る。しかも、かてて加えて、十万人からの坊主どもが一生懸命に骨折って、その空想に油をかけ、薪《たきぎ》を添えるようなことをすれば、それはもう……ぼくはよくあなたの心持ちがわかりますよ、奥さん、どうぞご安心ください」
「それはどうやら十分あたっていないようですが、まあ、あなたはどうお思いになります。いったい、ニコラスはあの不仕合わせなオルガニズム(どうして夫人がオルガニズムなどという言葉をつかったのか、わたしはかいもくわからなかった)の中に燃えている空想を消すために、自分でもはたの小役人どもと同じように、あの女を冷笑したり、侮辱したりせねばならなかったのでしょうか? いったい、ニコラスが突然きっとした調子でキリーロフに『ぼくはあの女をからかってやしないんだ』といった時のあの気高い同情や、腹の底から出るような高潔な戦慄を、いったいあなたは否定しようとなさるのですか。なんという高潔な尊い答えでしょう!」
「崇厳《シュブリーム》です」とスチェパン氏はつぶやいた。
「それにご承知ねがいたいのは、あれはお考えになるほど、けっして富裕な身の上ではないのです。富裕なのはわたしで、ニコラスじゃありません。当時あれは少しもわたしの仕送りを受けていませんでした」
「わかりました、すっかりわかりました、奥さん」とピョートルはもうじれったそうに、体をもじもじさせ始めた。
「ああ、まったくわたしの性質そっくりです! わたしはニコラスの中に、自分自身を見ることができます。わたしにはあの若さが感じられます。烈しくもの凄い情の激発が感じられます……ねえ、ピョートル・スチェパーノヴィチ、もしわたしたちがいつか近しくお付き合いするようになれば(もっとも、これはわたしのほうで心底からお願いすることなんですよ。まして、いろいろお世話になったんですもの)――その時はあなたもおわかりになることと思います……」
「おお、もうそれはぼくのほうから、お願いすることですよ」とピョートルは素っけない調子でつぶやいた。
「その時はあなたも、そうした感情の激発を会得なさいますよ。そういう時は、盲目な高潔心にかられて、あらゆる点から見て自分より劣った人間を選び出すのです。まるでこちらを理解することができないで、機会さえあれば恩人を苦しめようとする人間を選び出して、あらゆる矛盾をも省みずに、いきなり自分の生きた理想、生きた空想として崇めまつり、その人の中にあらゆる希望を封じ込め、その前にひざまずき、生涯その人を愛するのです。しかも、なんのためやら、まるでわからないんですからね、――まあ大方、相手がそうしてもらう価値のない人だからでしょうよ……ああ、どんなにわたしは生涯くるしんだことでしょう、ピョートル・スチェパーノヴィチ!」
 スチェパン氏は病的な表情をして、わたしの視線を捕えようとかかった。けれど、わたしは素早くそらしてしまった。
「……しかも、つい近頃のことです。近頃のことですの、――おお、わたしはニコラスにすまないことをしました!………本当にしてはくださらないでしょうけれど、みんなが四方八方から、わたしを苦しめるんですの。ええ、だれもかれも、その辺のうようよした連中も、敵も、味方も、ひょっとしたら、敵よりも味方のほうが、余計くるしめたかもしれません。初めてわたしのところへあの賤しい無名の手紙をよこした時、まあ、ピョートル・スチェパーノヴィチ、どうでしょう、わたしはあの悪企みに対して、十分の侮蔑をもって酬いるだけの力がなかったのです……わたしはわれながら、ああ量見の狭かったのを、到底ゆるすことができないと思っています!」
「ええ、全体としてここの無名の手紙のことは、ぼくも今までだいぶ聞き込んでいますよ」ピョートルは急に元気づいた。「そのことはぼくがすっかり探り出してあげますから、どうかご安心なすってください」
「ですけれど、ここでどんな陰謀が始まってるか、あなたとても想像がつきますまい! その連中はかわいそうに、プラスコーヴィヤさんまでを苛め出したんですからね、――この人なんぞは、そんなことをされるわけがないじゃありませんか! わたし今日あんたに向かって、あまり失礼なことをいい過ぎたかもしれませんね」と夫人は寛大な感動の発作に駆られてつけ足したが、いくぶん得意そうな反語の調子がないでもなかった。
「もうたくさんですよ、あなた」とこっちは気が進まぬらしくつぶやいた。「それよりもいい加減に片づけたほうがいいと思いますよ。ずいぶん口数は多かったんですものね……」
 プラスコーヴィヤ夫人は、またもや臆病げにリーザを見やったが、彼女はじっとピョートルを見つめていた。
「ところで、あの不仕合わせな女、何もかも失いつくして、ただハートばかりを守っている気の狂った女ですね、あれをこれから、自分の娘分にしようと思っています!」とふいにヴァルヴァーラ夫人が叫んだ。「それはわたしの義務です。わたしはそれを神聖な態度で履行するつもりです。今日からさっそくあの女を保護してやります!」
「それはある意味で、大いにけっこうなことですよ!」とピョートルはすっかり元気づいた。「失礼ですが、ぼくはさっきしまいまでいい切らなかったのです。ぼくは、つまり、その保護のことを、お話しようと思ったのです。まあ、こういうわけなんですよ。当時ニコライ君がよそへ立って行かれると(ぼくはさっきやめたところから始めることにしますよ、奥さん)、さっそくこの先生が、このレビャードキン先生自身ですよ、妹のものと指定されている補助金を、一文残らず自由勝手に処分する権利があるように考えて、それを実行したわけなんですよ。当時ニコライ君がどんなふうにしていたか、確かなところは知りませんが、一年ばかりたった時、外国を旅行中のニコライ君はこの事情を聞きつけて、余儀なく別な方法をとることとなった。この点についても、ぼくはやっぱり詳しいことは知りません。いずれニコライ君からお話があるでしょうが、ただ一つ、あのふう変わりなお嬢さんをどこか遠い修道院へ入れた、ということだけは承知しています。そこでは非常に安楽にしておられたようですが、ただ友だち仲間の監視は受けていたのです。え、どうです? このレビャードキン氏がどんなことをやっつける人間か、あなた想像がおできになりますか? 先生はまず全力をつくして自分の米櫃、すなわち妹の隠れ家をさがしていましたが、この頃になって、やっと目的を達したのです。そして、自分はこの女に対して権利がある、とかなんとかいって、修道院から引っ張り出して、真っ直ぐにここへ連れて来たものです。ここへ来てから、先生は妹に食べ物もやらないで、打ったり叩いたりひどい目にあわせ、とうとうどう手を廻したものか、ニコライ君から莫大な金をもらって、さっそく酒に酔い食らってるんです。しかし、それをありがたいと思わないで、ついに生意気千万にもニコライ君に向かって、真っ直ぐに自分の手へ補助金を渡せばよし、さもなくば裁判所へ訴えるぞと、わけのわからん要求を提出して、ニコライ君を脅かそうとするじゃありませんか。こういうわけで、ニコライ君の好意上の贈り物を、先生は貢物かなんぞのように思っている、実にあきれてしまうじゃありませんか? レビャードキン君、ぼくが今ここでいったことはみんな[#「みんな」に傍点]本当だろう?」
 今まで無言のまま伏目で立っていた大尉は、急に二あし前へ出て、顔を真っ赤にした。
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、あなたはこのわたしに対して、残酷な仕打ちをなさいますなあ」と彼は引っちぎったような調子でいった。
「どうして残酷なんだね、どういうわけで? 失礼だが、残酷だの親切だのという話は後にして、ぼくはいま第一の問いに答えてもらいたいんだ、いまぼくのいったことはみんな[#「みんな」に傍点]本当かね、どうだね? もし間違ってると思ったら、すぐに異議の申立てをしたらいいだろう」
「わたしは……あなたご自分で知っておられるじゃありませんか、ピョートル・スチェパーノヴィチ……」と大尉はいいかけたが、急にぷつりと言葉を切って、黙ってしまった。
 ちょっと断わっておくが、ピョートルが足を組み合わせながら、肘掛けいすに腰をかけているに反して、大尉はすっかり恐れ入った姿勢で、その前に立っているのであった。
 レビャードキンの不決断は、大いにピョートルの気に入らなかったらしい。彼の顔は腹立たしげにぴりりと引っ吊った。
「本当にきみは何かいいたいことがあるのかね?」と彼は微妙な眼ざしで大尉を見つめた。「もしそうなら、遠慮なくいいたまえ、みんな待ってるんだから」
「わたしが何もいえないのは、ピョートル・スチェパーノヴィチ、あなたのほうでよくご承知じゃありませんか」
「いや、ぼくはそんなこと知りませんよ、はじめて承るんだから。どうしてきみは申立てができないんだね?」
 大尉は目を伏せたまま黙っていた。
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、わたしは帰らせていただきます」と彼はきっぱりいった。
「しかし、ぼくの第一の問いに対して、なんとか返事しなくちゃいけません、ぼくのいったことがすっかり[#「すっかり」に傍点]本当かどうか」
「本当です」とレビャードキンは響きのない声でいって、暴虐なぬしに目を上げた。
 彼の額には汗さえにじみ出ていた。
「みんな[#「みんな」に傍点]本当だね?」
「みんな[#「みんな」に傍点]本当です」
「もう何かいい足すことはありませんか、何か申し立てることは? もしぼくが不公平だと思ったら、遠慮なくいってくれたまえ、抗議を申し込んでくれたまえ、公然と不満を申し立ててくれたまえ」
「いえ、何もありません」
「きみは最近、ニコライ・フセーヴォロドヴィチを脅迫したかね?」
「それは……それはおもに酒のさせたわざなんで、ピョートル・スチェパーノヴィチ(彼はふいに首を上げた)――ピョートル・スチェパーノヴィチ、もし一家の名誉を思う心と、身に覚えない侮辱とが、世間に向かって訴えの叫びを上げるとしても、それでも、――いったいそれでもその男が悪いのでしょうか?」また前と同じく前後を忘れて、彼は突然こうわめいた。
「きみは今しらふなのかね、レビャードキン君?」ピョートルは刺し通すように相手を見つめた。
「わたしは……しらふです」
「一家の名誉と、身に覚えない侮辱とはなんのこってす?」
「それはだれのことでもありません、だれをどうしようというのじゃありません。わたしはただ自分のことをいったので」大尉はまたへたへたとなった。
「きみはどうやら、きみやきみの行為についてぼくのいった言葉が、非常に癪に触ったらしいね。きみは恐ろしい癇癪持ちだからね、レビャードキン君。しかし、いいかね、ぼくはまだきみの行為をありのままにはいわなかったよ。ところが、ぼくはきみの行為をありのままにいうつもりだよ。ああ、いうとも、それはいつのことかわからないがね。しかし、まだありのまま[#「ありのまま」に傍点]にはいってないんだよ」
 レビャードキンはぎくっとして、けうとい目つきでピョートルを見据えた。
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、わたしは今やっと目がさめて来ました!」
「ふむ! それはぼくがさましてあげたのかね!」
「ええ、あなたがさましてくだすったので、ピョートル・スチェパーノヴィチ。わたしは四年間というもの、上からおっかぶさった黒雲の下で眠ってたんですよ。もうこれでいよいよ帰ってよろしいですか?」
「もういいです。ただし、奥さんに何かご用がおあんなされば……」
 けれど、夫人は両手を振った。
 大尉は一揖して、二あしばかり戸口のほうへ踏み出したが、ふいに立ちどまって、手で心臓を抑えながら、何やらいおうとした。が、結局それも口に出さず、すたすた駆け出した。と、ちょうど戸口のところで、ぱったりニコライに行き会った。彼はちょっと身を避けた。大尉は急に縮みあがったようなふうで、まるで大蛇に見込まれた野兎のように、じっと相手を見つめたまま、その場へ立ちすくんでしまった。ニコライはしばらく間をおいた後、軽く片手でわきへ押し退けるようにしながら、ずっと客間へ入って来た。

[#6字下げ]7[#「7」は小見出し

 彼は楽しげに落ちつき払っていた。もしかしたら、わたしたちこそ知らないけれど、たったいま何か非常に嬉しいことが彼の身に起こったのかもしれない。とにかく、彼は何やら恐ろしく満足そうな様子をしていた。
「ニコラス、お前はわたしをゆるしてくれるでしょうね?」とヴァルヴァーラ夫人はもうこらえきれないで、いそいそとわが子を出迎えるように立ちあがった。
 しかし、ニコラスは思い切って大きな声でからからと笑った。
「果たせるかなだ!」彼は人の好さそうなふざけた調子で叫んだ。「見たところ、何もかもすっかりご承知のようですね。ぼくはここを出て、馬車に乗ってから考えましたよ。『それにしても、あの逸話だけでも、話したほうがよかったのじゃないかしらん。あんなふうにぷいと出て行くなんて、だれにしたってしやしない』けれど、ヴェルホーヴェンスキイ君がここに残ったのを思い出したので、そんな心配なぞはどこかへけし飛んでしまいました」
 こういいながら彼は、ちらと一座を見廻した。
「ピョートル・スチェパーノヴィチはある畸人の生涯中、とりわけ面白いペテルブルグの逸話を聞かしてくだすったんだよ」ヴァルヴァーラ夫人は有頂天になって引き取った。「その人は気まぐれで、気ちがいじみているけれど、その感情はいつも高尚で、いつも古武士のように潔白なんです……」
「古武士のように? おやおや、そんな騒ぎになってしまったのですか?」とニコラスは笑った。「しかし、今度はぼくもヴェルホーヴェンスキイ君のせっかちを感謝します」(このとき彼ら二人は、ちらと素早く目交ぜをした)「お母さん、あなたにもご承知を願っておきますが、この人はどこへ行っても、調停者の役廻りなんです。これがこの人の病気で、そして得手なんです。ぼくはとくにこの点でこの人を推薦しますよ。この人がここでどんなことをしゃべりまくったか、たいてい見当がつきます。いや、この人が何かの話をするのは、まったくしゃべりまくるんですからね。この人の頭の中は、まるで事務所かなんぞのようになってるんですよ。ところが、この人はリアリストの立場からして、嘘をつくことができない。自分の成功いかんより、真実のほうが大切なんですからね……もちろん、成功のほうが真実より尊いという、特別な場合を除いてですよ(といいながら、彼はしじゅうあたりを見廻した)。こういうわけですからね、お母さん、あなたのほうからお謝りになる必要がないのは、明白なことじゃありませんか。もしこの際、気ちがいめいた行為があったとすれば、それはむろん、ぼくのせいなのです。したがって、結局、ぼくは気ちがいだということになるんです――だって、土地の評判を裏書きしなくちゃなりませんものね」
 ここで彼は優しく母をかきいだいた。
「とにかく、この事件は終わったのです、話しつくされたのです。だから、もうこの話はやめにしてもいいわけでしょう」と彼はいい足したが、その声にはなんとなく素っけない、こつこつしたような響きがあった。
 ヴァルヴァーラ夫人はこの響きを聞き分けたが、彼女の感激はまだ静まるどころか、むしろその反対だった。
「わたしはね、お前が帰って来るのはまだ一月あとのことで、それより早くなろうとは思いも寄りませんでしたよ、ニコラス?」
「そりゃもうすっかりわけをお話しますが、今は……」
 こういって、彼はプラスコーヴィヤ夫人のほうへ進んだ。
 夫人は、三十分前に初めて彼が姿を現わしたとき、仰天しないばかり驚いたにもかかわらず、今度はほとんど顔を向けようともしなかった。いま夫人には新しい心配が生まれたのである。大尉が部屋を出ようとして、戸口のところでニコライに行き当たった瞬間から、リーザは急に笑いだした、――初めは低くきれぎれだったが、しだいに笑いがつのっていって、声高にありありと聞こえるようになった。彼女は顔を真っ赤にしていた。さきほどの沈み切った様子にくらべると、その対照があまりに烈しかった。ニコライがヴァルヴァーラ夫人と話している間に、彼女は何やら耳打ちでもしたいらしいふうで、二度までもマヴリーキイを招き寄せた。けれど、相手が彼女のほうへ身をかがめるやいなや、リーザはすぐにからからと笑いだした。で、結局、彼女は憐れなマヴリーキイをからかっているものと想像するより仕方がなかった。とはいえ、彼女は一生懸命に我慢しているらしく、ハンカチを顔に押し当てていた。ニコライはきわめて無邪気な砕けた顔つきで、彼女に挨拶をのべた。
「あなた、どうぞごめんなすって」と彼女は早口にいった。「あなたは……あなたは、むろん、マヴリーキイさんとお会いになったことがあるでしょう……まあ、本当にマヴリーキイさん、あなたはなんてそう方図もなく背が高いんでしょう!」
 こういってまた笑いだした。マヴリーキイは背の高いほうだったけれど、けっしてそんなに方図もなく高くはなかった。
「あなたは……もうとうにお着きでございましたか?」と彼女はまた自分を制しながら、なんだか間の悪そうな様子でつぶやいたが、その目はぎらぎら光っていた。
「二時間あまり前でした」じっと相手に見入りながら、ニコライは答えた。ついでにいっておくが、彼はなみなみならず慇懃で控え目だったけれども、その慇懃という点をのけてしまうと、まるで気のないだらけた顔つきになるのであった。
「どこにお住まいなさいます?」
「ここで」
 ヴァルヴァーラ夫人も同様リーザを注視していたが、突然ある考えが彼女の頭に浮かんだ。
「ニコラス、お前はこの二時間あまりというもの、どこにいました?」と夫人は傍へやって来た。「汽車は十時に着くはずですが」
「ぼくはじめヴェルホーヴェンスキイ君をキリーロフのところへ連れて行ったのです。そのヴェルホーヴェンスキイ君とは、マトヴェーエヴォ駅(三つさきの停車場)で一つ箱に乗り合わせ、いっしょにここまでやって来たのです」
「ぼくは夜明け頃から、マトヴェーエヴォで待ってたんです」とピョートルが口をいれた。「ぼくの乗った列車のうしろの箱がゆうべ脱線して、あやうく足を折るところでした」
「足を折るところでしたって!」とリーザが叫んだ。「お母さん、お母さん、先週いっしょにマトヴェーエヴォヘ行こうっていいましたが、やっぱり足を折るところだったのねえ!」
「まあ、縁起でもない!」とプラスコーヴィヤ夫人は十字を切った。
「お母さん、お母さん、ねえ、お母さん、もしあたし本当に両足折ってしまっても、びっくりしちゃいやですよ。あたしにはありそうなことなんですもの。お母さん、自分でいってらっしゃるじゃありませんか、あたしが毎日めちゃくちゃに馬を飛ばしてるって。マヴリーキイさん、あたしがびっこになったら、あなた手を引いてくだすって!」彼女はまたしてもからからと笑った。「もし本当にそんなことになったら、あたしあなたのほかには、けっしてだれにも手を引かせやしないわ、大威張りで当てにしててちょうだい。まあかりにあたしが片足だけでも折ったとすれば……ねえ、後生ですから、それを幸福に思うといってちょうだい」
「片足になって何が幸福なんです?」とマヴリーキイは真面目に眉をひそめた。
「その代わりあなた手が引けますよ、あなた一人っきり、だれにも引かせやしないわ!」
「あなたはその時だって、ぼくを引き廻しなさるでしょう、リザヴェータさん」いっそうまじめな調子でマヴリーキイはつぶやいた。
「あら、どうしましょう、この人は地口をいおうとしてるんですよ!」まるで恐ろしいことでも聞いたかのように、リーザは叫んだ。「マヴリーキイさん、もうけっしてそんな野心を起こさないでちょうだい! だけど、あなたはどこまで利己主義だか、底が知れませんわ! あなたの名誉のために誓って申しますが、あなたはいま自分で自分を誹謗してらっしゃるのよ。それどころか、あなたは朝から晩まで、『あんたは片足なくして、かえって面白い人になった』と、あたしにお説教なさるに相違ないわ! ただ一つどうにもならないことは、あなたはそんなに方図もなく背が高いでしょう、ところで、あたしは足を失くすとずっと低くなるから、あなたじゃあたしの手の引きようがないわ。あたしたちどうも一対になれなくってよ!」
 こういって、彼女は病的に笑った。皮肉も当てこすりも平板な拙いものだったが、彼女は人の思惑などかまっていられなかったらしい。
「ヒステリイだ!」とピョートルはわたしにささやいた。「早くコップに水を持って来さしてください」
 彼の想像は当たった。一分の後、人々はあわてだした。水も運んできた。リーザは母をだいて、熱い熱い接吻をすると、急にその肩に顔を埋めて、泣き出した。が、すぐそれと同時に身をそらして、母の顔を見つめながら、いきなりからからと笑い出すのであった。とうとう母夫人もしくしく泣き出した。ヴァルヴァーラ夫人は、親子二人を急いで自分の部屋へ、さきほどダーリヤの出て来た戸口から連れて行った。しかし、二人がここにいたのは長いことではなかった。まあ、四分かそこいらで、それより以上ではない……
 今わたしはこの記憶すべき朝の最後の幾分間かを、一点一画も遁さないように、努めて思い出したいと思う。わたしの記憶しているところによると、婦人たちがいなくなって(ただしダーリヤだけは席を動こうともしなかった)、わたしたち男連中ばかり残った時、ニコライは部屋を一巡して、シャートフを除く一同と挨拶を交わした。シャートフは、依然として隅っこに坐ったまま、前よりよけい下のほうへかがみ込んでしまった。スチェパン氏はニコライに向かって、何か非常に気の利いたことをいおうとしかけたが、こちらは急に身をそらして、ダーリヤのほうへ歩き出した。すると、その途中でピョートルが、ほとんど無理やりに捕まえて窓ぎわへ連れて行き、そこで何やら早口にささやき出した。そのささやきに伴う顔の表情や身振りなどから察するところ、何か非常に重大な話らしい。しかし、ニコライは恐ろしく気のなさそうな、ぼんやりした様子で、持ち前のよそ行きの微笑を浮かべながら聞いていたが、しまいにはもうじれったそうな顔つきで、しきりにあちらへ行きたそうな素振りを見せ始めた。彼が窓の傍を離れた時、婦人たちは客間へ帰って来た。
 ヴァルヴァーラ夫人は、リーザを元の席に坐らせながら、せめて十分くらいは、ぜひ休みながら待っていなければならぬ、いますぐ新鮮な空気に当たるのは、疲れた神経によくあるまい、などとしきりに説いていた。夫人はなんだか無性に