『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP049-P096

なった。知事は優しい、感じやすい人であったから、非常にばつの悪い思いをした。しかし、ここに面白いことは、ああいう処置を取った以上、彼もニコライが完全な判断力を持っているにもせよ、どんな気ちがいじみたことをやりだすかわからない人間だ、と考えていたに相違ないのである。クラブの連中も同様に、どうしてみんな揃いも揃ってこの一大事実を看過したのか、どうしてあの驚異に対する唯一の説明を見落としたのだろうと、恥じかつ怪しんだのである。もちろん、懐疑論者も現われたけれど、長く異説を固持することはできなかった。
 ニコラスは二月あまり床についていた。モスクワから立会い診断のために、名の知れた医者が招かれたりした。町じゅうの者がヴァルヴァーラ夫人のところへ見舞に来た。夫人は一同に対する怒りを解いた。春も近づいた頃、ニコラスは全快した。イタリアへでも旅行せぬかという母の申し出を、一言の抗弁もなく承諾したとき、夫人はこの際、町の人一同に暇乞いの挨拶をして廻って、必要な場合には、できるだけ詫び言をするようにと、一生懸命わが子に頼んだ。ニコラスは大呑み込みで承知した。クラブの人たちの聞き込んだところによると、彼はピョートル・ガガーノフときわめてデリケートな対談をして、その結果、ガガーノフもすっかり満足している、とのことであった。挨拶に廻るときのニコラスは非常に真面目で、いくぶん陰気なくらいであった。一同は見受けたところ、深い同情をもって彼を迎えたようだったが、なぜか妙にばつの悪い気持ちがして、内々彼のイタリア行きを喜んだ。知事のイヴァン・オシッポヴィチは涙さえこぼしたが、なぜか最後の告別の時ですら、思いきって彼をだきしめる気になれなかった。中にはどこまでも、『なあに、あのろくでなしめ、ただ人を馬鹿にしやがったのさ。病気、――ふん、何かそんなことがあったかもしれないよ』と信じきっている連中もあった。
 彼はリプーチンのところへも挨拶に寄った。
「一つ伺いたいことがあるんですがね」と彼はたずねた。「いったい、どうしてきみはぼくのいうことを、前もって見抜いてしまって、アガーフィヤに、あんな返答を仕込んでよこしたんです?」
「それはこうですよ」とリプーチンは笑った。「ぼく自身もあなたを賢いかただと思っているので、あなたのご返答も前から察しることができたのです」
「それにしても、珍しい符合ですね。ところで、失礼ですが、してみると、きみがぼくのところヘアガーフィヤをよこされたとき、きみはぼくを気ちがいと認めないで、賢人あつかいにされたんですね」
「飛び離れて賢い、分別のある人だと思っていました。あなたが理性を失っていらっしゃるという話は、ちょっと信じてるような顔をして見せただけなんです……それにね、あなた自身もあの時すぐにぼくの考えを察して、アガーフィヤを通して頓知に対する特許《パテント》を、わたしに送ってくだすったじゃありませんか」
「ふむ、しかし、きみは少々考え違いをしていられますよ。ぼくは本当に……健康を害していたんです……」とニコライは眉をひそめながらつぶやいた。「あっ!」彼は突然こう叫んだ。「じゃ、きみは本当になんですか、ぼくが十分正気を持っていながら、人に飛びかかることのできる男だと思っているんですね? なんのためにきみはそんなことを?」
 リプーチンは妙に口を曲げただけで、なんとも答えができなかった。ニコライはちょっと顔をあおくした(或いはリプーチンにそう見えただけかもしれない)。
「とにかく、きみは面白い考え方をする人ですね」とニコライは言葉をつづけた。「ところで、アガーフィヤのことはぼくにもわかりますよ。きみがあれをぼくのところへよこしたのは、むろんぼくに悪態をつかせるためだったのです」
「しかし、あなたに決闘を申し込むわけにもゆかないじゃありませんか」
「ああ、なるほどねえ! ぼくもなんだかきみが決闘を好かれないってことを、聞いたような気がしますよ」
「何もフランス風を直訳しなくたっていいですからね!」リプーチンはまた口を歪めた。
「国民性を主張しますかね?」
 リプーチンはいっそう口を歪めた。
「おや、おや! なんだか妙なものがあるぞ」とニコライが叫んだ。テーブルの上の一ばん目に立ちやすいところにコンシデランの一巻が置いてあるのが、ふと目に入ったからである。「きみはフーリエリスト([#割り注]フランスの共産主義者フーリエの学説を信奉する人[#割り注終わり])じゃないんですか? ひょっとしたら! だが、これだってやはりフランスの翻訳じゃありませんか?」と指で書物をはじきながら笑った。
「いや、これはフランスの翻訳じゃありません!」何かまるで一種の憤懣を感じたように、リプーチンは椅子から躍りあがった。「これは全世界人類の言葉を翻訳したものです、ただのフランス語からじゃありません。全世界人類の社会的共和諧調の国の言葉を翻訳したものです、そうなんです! ただのフランス語じゃありません……」
「ちぇっ、馬鹿馬鹿しい、そんな言葉なんぞまるでありゃしない!」ニコライは笑いつづけた。
 どうかすると些細なくだらないことが、非常に強く、長いあいだ注意を惹くものである。スタヴローギン氏に関するおもな物語はさきのほうに譲るけれども、今はただ珍しい話として、ちょっとこれだけのことをいっておこう。彼の当地滞在中に得たすべての印象のなかで、最も深く記憶に刻み込まれたのは、醜い下劣なこの県庁役人の姿であった。家庭にあっては、嫉妬ぶかい粗暴な専制君主で、食事の食べ残しや蝋燭の燃えさしまで、鍵をかけてしまっておくほどけちんぼの金貸でありながら、それと同時に、なんだかえたいの知れぬ『社会調和』の凄まじい宗徒で、夜な夜な未来の共産団の妄想を描いて歓喜に酔いながら、それが近いうちにロシヤといわずわが県内まで実現されることを、自分自身の存在ほど確かに信じきっているのである。しかも、この共産団の実現地が、彼自身わずかばかりの目腐れ金を溜め込んで、ぼろ家を買ったところであり、持参金を目当てに二度目の結婚をした土地なのである。『全世界人類の社会的共和諧調の国』の住民に、せめて見かけだけでも似寄った人間は、百露里四方の間に、当の彼を初めとして一人もいそうにない所なのである。
『いったい、どうしてああいう手合いができるのか、わけがわからない!』時々この思いがけないフーリエリストを思い出して、ニコラスは怪訝の念に打たれながら考えるのであった。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 わが王子は三年あまりも旅行をつづけたので、町でもほとんど彼のことを忘れてしまったくらいである。しかし、われわれはスチェパン氏を通じて、絶えずその動静を知っていた。彼はほとんど欧州全土を歩きつくして、エジプトへも行ったことがあるし、エルサレムにおもむいたこともある。それから後、どこかで催されたある学術的なアイスランド探検隊に加入して、実際アイスランドにもしばらくいたことがある。また一冬ドイツのある大学で講義を聞いたという噂も伝わった。彼はごくときたましか、――半年に一度か或いはもっと少なかったかもしれぬ、――母夫人に手紙をよこさなかった。けれども、ヴァルヴァーラ夫人はこれに対して、かくべつ怒りも怨みもしなかった。彼女は、一度こうときまってしまったわが子との関係を、不平なく素直に受けいれながらも、むろん、この三年間というものずっと毎月、ひっきりなしに大切なニコラスのことを心配したり、空想したり、憧れたりしていたわけだが、そうした自分の空想や哀愁はだれにもうち明けなかった。スチェパン氏をさえ、いくぶん避けようとするらしかった。夫人は心の中で何か計画を樹てたと見えて、以前にも増していよいよけちになった。そして、ますます溜め込み主義に傾いて、スチェパン氏のカルタの負けに対してますます機嫌が悪くなった。
 とうとう今年の四月になって、パリにいる幼な友だち、ドロズドフ将軍夫人、プラスコーヴィヤ・イヴァーノヴナ・ドロズドヴァから手紙が届いた。ヴァルヴァーラ夫人はもう八年間、この人と会ったこともなければ、手紙の往復をしたこともなかったが、このプラスコーヴィヤ夫人の手紙には、ニコライがこの一家と非常に親しくなって、一人娘のリーザと仲よくしている、そして夏になったら母娘《おやこ》を伴ってスイスの山岳地方《ウエルネー・モントリュー》へ行くはずになっている。もっとも、K伯爵(目下パリに滞在しているペテルブルグの有力家)の家庭では、まるでわが子のような待遇を受け、ほとんど伯爵の家にばかり寝泊りしている。しかじか、としたためてあった。この短い手紙は、右に記した事実のほか、なんの推論も提議も蔵していなかったが、その目的とするところは露骨に現われていた。ヴァルヴァーラ夫人はあまりながくも考えないで、とっさの間に決心して支度を整え、養女《やしないご》のダーシャ(シャートフの妹)を引き連れて、四月の中ごろパリからスイスへかけて飛んで行った。七月になってから、夫人はダーシャをドロズドヴァ母娘《おやこ》の手もとへ残し、単身この町へ帰って来た。夫人のもたらした報告によると、ドロズドヴァ母娘も八月の終わりには、ここへ来る約束をしたとのことである。
 ドロズドフ家はやはりこの県の地主だったが、ドロズドフ将軍(ヴァルヴァーラ夫人の親友で、その夫の同僚であった)の勤務上の都合が、いつもその見事な領地の検分に来ることを妨げるのであった。昨年、将軍の死後、嘆きに沈めるプラスコーヴィヤ夫人は、娘を連れて外国旅行へ出かけた。もっとも、これには葡萄療法を試みようという当てもあったので。場所は山岳地方《ウエルネー・モントリュー》、時は夏の後半期という予定だった。祖国へ帰ってからは、永久にこの県へ居を定めることになっていた。この町には、もう幾年となくがら空きになって、窓を釘づけにされた大きな持家があった。この一家はなかなかの物持ちで、初婚でトゥシン姓を名乗っていたプラスコーヴィヤ夫人は、寄宿学校時代の友だちヴァルヴァーラ夫人と同様に、前代に勢力を持っていた買占め専門の商人の娘で、同様に莫大な持参金を持って嫁入りしたのである。予備騎兵大尉のトゥシン自身も、同様財産もあれば相当才能もある男であったが、死ぬ間際に、当時七歳の一人娘リーザに立派な財産を譲るように遺言した。で、リザヴェータ・ニコラエヴナがすでに二十二歳にもなった今日では、彼女自身の金だけでも優に二万ルーブリを数えることができた。しかも、第二の結婚で子供を儲けなかった母の死後、当然おそかれ早かれ、彼女のものとなるべき莫大の財産については、喋々するまでもない。
 ヴァルヴァーラ夫人は今度の旅行に、しごく満足らしい様子であった。夫人の考えによれば、彼女はドロズドヴァと十分円満に話をつけたのである。そして、帰って来ると早々、いっさいのことをスチェパン氏にうち明けた。しかも、この頃かつてないことに、彼を相手にして好んで長々と、いろんな話をしたのである。
「万歳《ウラー》!」とスチェパン氏は叫んで、指をぱちりと鳴らした。
 彼は嬉しさに夢中になってしまった。友だちと別れている間、すっかりしょげきっていただけに、なお嬉しかったのである。夫人は外国へ立つとき、ゆっくり彼に別れを告げもしなければ、自分の計画についても、何一つこの『女の腐ったの』に知らさなかった。たぶん、彼がうっかりしゃべりはせぬかと危ぶんだのだろう。のみならず、当時がぜん露顕したスチェパン氏の莫大なカルタの負けに、夫人は恐ろしく腹を立てていた。けれど、スイスにいる頃から、『国へ帰ったら、置いてきぼりにしてある友だちに、なんとか礼をしてやらなければならぬ、もうずっと前からつっけんどんにばかりしてるのだから』と心の底から感じるようになった。足もとから鳥の立つような不思議な出発は、スチェパン氏の臆病な心を脅やかし、悩ましたのであるが、その上わざと狙ったように、また別な面倒が一時に起こった。彼はずっと前から、かなり大きな金の問題に苦しめられていて、ヴァルヴァーラ夫人の助力をまたないでは、しょせん解決がつきそうになかった。そのうえ、あのもの柔かな人のいい、わがイヴァン・オシッポヴィチが、この県の知事を勤めるのも今年の五月限りで、とうとうほかの人に更迭を命ぜられた。しかも、それには多少の不快事が付随していたのである。
 つづいて、ヴァルヴァーラ夫人の留守中に、新長官アンドレイ・アントーノヴィチ・フォン・レムブケーの乗り込みがあった。それと同時に、ほとんど町の社交界ぜんたいのヴァルヴァーラ夫人に対する態度、したがって、スチェパン氏に対する態度に著しい変化が現われ始めたのである。少なくとも、彼はもう幾つかの貴重な、とはいえ不快な観察を得て、ヴァルヴァーラ夫人の不在中、一人でおじけづいていた。彼はもう自分が危険人物として、新知事に密告されたのではないかと、胸を躍らせながらびくびくしていた。また土地の貴婦人のだれかれが、今後ヴァルヴァーラ夫人訪問を中止しようと考えているのを、確かに突き止めた。来るべき知事夫人については(彼女は秋ごろまでにはこちらへ来ると期待されていた)、なんでも少し熱しやすい質《たち》の人という噂ではあるが、そのかわり本当の貴婦人で、『あのみじめなヴァルヴァーラ夫人』などとは、てんで桁が違うといい合っていた。また皆の者はどこから聞き出したか、こんなことまで正確に詳しく承知していた。なんでも新知事夫人とヴァルヴァーラ夫人とは、もうかつて社交界で顔を合わしたことがあるが、ついには敵味方のように別れてしまった。で、フォン・レムブケー夫人の名をいったばかりで、ヴァルヴァーラ夫人は病的な印象を受けるとかいうことである。ヴァルヴァーラ夫人が、土地の貴婦人たちの意見や、社交界動揺の話を聞いた時の雄々しい勝ち誇ったような顔つきと、馬鹿にしきった無関心の態度とは、スチェパン氏の銷沈した心を奮い起こして、一瞬の間に浮き立たせてしまった。一種特別な、さも嬉しそうな、相手の機嫌を取るような諧謔の調子で、彼は夫人に新知事の乗りこみについて語り始めた。
「|優れたる友よ《エクセランタミ》」と彼は気取って言葉尻を引き伸ばしたり、しなを作ったりしながらいいだした。「全体から見て、ロシヤの行政官なるものがはたして何を意味するか、そして、また新しいロシヤの行政官、つまり、新しく製造されて新しく任におかれた……les interminables mots russes!(このロシヤ語という奴はどうも実に際限がない!)……まあ、こういう行政官がはたして何を意味するか、あなたはむろんいうまでもなくごぞんじでしょう、けれど、行政的感興というものが何を意味するか、またこれがどんなものかということを、実地にごぞんじかどうか、しごく疑わしいですよ」
「行政的感興? 知りませんねえ、なんのこったか」
「それはつまり……vous savez, chez nous……en un mot(いいですか、ぜんたいロシヤ人の間には……まあ一口にいえば)かりにごくごくつまらないやくざな男を、どこかの鉄道のぼろ切符売場に立たせてごらんなさい。このやくざもの先生、たちまちジュピターか何かを気取っちゃって、人を見おろす権利が生じたように考えだす。そして人が切符を買いに行くと、自分の権利が示したくてたまらない。『今に見ろ、おれは貴様に権力を見せてやるから……』こういう気持ちがこの手合いになると、ほとんど行政的感興にまで達するのです。en un mot(一口にいうと)わたしはこんな話を本で読んだことがあります。在外のさるロシヤの教会で一人の小役僧が、―― 〔mais c'est tre`s curieux〕(実に妙な話ですが)、ある立派な英国人の家族を、四旬斎の勤行《ごんぎょう》の始まるちょっと前に、教会から追い出してしまったのです。形容でもなんでもない、本当に les dames charmantes(立派な貴婦人たち)を、追い出してしまったのです。Vous savez ces chants et le livre de Job(あなた、詩編と、ヨブ記をごぞんじですか)……しかもその口実は、『外国人がロシヤの教会をうろつき廻るのは不体裁だ、ちゃんと知らせて上げた時刻においでなさい』というにすぎないのです……そうして、とうとう気絶さわぎまで起こしてしまったのです……この役僧などは、行政的感興の発作にかかって、〔et il a montre' son pouvoir〕(自分の権力を示したんですね)」
「もし、できることなら、も少し手短かに話してください、スチェパン・トロフィーモヴィチ」
「フォン・レムブケー氏はいま県内巡回に出かけました。en un mot(一口にいえば)、この男は正教を奉じているロシヤ生まれのドイツ人ですが、年のころ四十くらい、なかなか美しい男です、これは大負けに負けとくのですよ……」
「どういうところから、美しい男だなんておっしゃるの? あの人は羊みたいな目をしてるじゃありませんか」
「まったくそのとおりです。しかし、わたしは町の婦人たちの意見に譲歩したのです。そうしなければ仕方がありませんからね……」
「もう何かほかのお話にしましょう、スチェパン・トロフィーモヴィチ、お願いですから! ところで、あなたは赤いネクタイをしていらっしゃいますね、もう前から?」
「これはその……ちょっと今日だけ……」
「あなた運動をしていらっしゃる? お医者さまのおっしゃったように、毎日六露里ずつ歩いていらっしゃる?」
「え……ええ、毎日とはいきません」
「そうだろうと思ってました! わたしスイスにいる時から、そうだろうと察していましたわ!」と夫人はいらだたしげに叫んだ。「もう今度は六露里じゃない、十露里ずつ歩くんですよ! あなたは恐ろしく箍《たが》が弛んでしまいましたね、恐ろしく、まったく恐ろしく! あなたは年とったのではなくって、耄碌してしまったんです……わたしはさっきあなたに会ったとき、本当にびっくりしてしまいました。赤いネクタイはしめていらしったけどもね…… 〔quelle ide'e rouge!〕(赤とは本当になんて思いつきでしょう!)さ、フォン・レムブケーの話をおつづけなさい、もし本当に何か話すことがあるのなら……そして、お願いですから、いいかげんな時にきりをつけてちょうだい、わたし疲れてるんだから」
「En un mot(一口にいえば)わたしはこういいたかったのです。つまり、あの男は四十になって、初めて行政官の初舞台を踏んだお仲間なのです。四十までは、どこかつまらない所でまごまごしていたが、とつぜん手に入った細君か、またはそれに劣らぬ苦しい手蔓のおかげで、やっと人間まじりができるようになったのです……つまり、いま巡回に出かけていますが……つまり、わたしのいいたいことは、あの人の着任早々、わたしのことを、青年を堕落させる誘惑者だの、県内の無神論の本もとだのといって、あの人の両耳へ吹き込むやつがあったのです。そこで、あの人はすぐ取調べにかかったのです」
「まあ、本当ですか?」
「ええ、対応策まで講じたくらいです。それから、あなたのことも『告ーげー口』して、あなたが『県の支配』をしていられた、というものがあったとき、vous savex(ね、いいですか)――あの男は失礼にも、『今後そんなことはけっしてさせやせん』といったそうです」
「そんなことをいったんですの?」
「ええ、『今後そんなことはけっしてさせやせん』ってね、しかも avec cette morgue(それは横柄な調子なんです)……細君のユリヤ・ミハイロヴナは、八月の末頃ここへ来ることになってるんです、ペテルブルグから真っ直ぐに」
「外国から来るんです。わたし会いました」
「Vraiment?(本当ですか?)」
「パリでもスイスでも。あの人はドロズドヴァさんと親戚同士ですの」
「親戚ですって? なんという妙な話でしょう! なんでもたいへん虚栄心が強くって、そして……立派な知己縁者をたくさんもってるそうですね?」
「嘘ですよ、みんなくだらない連中ばかりです! 四十五まで一文なしで、オールド・ミスのお仲間だったのが、今度あのフォン・レムブケーをつかまえて、しゃしゃり出たんです。むろん、あの人の今の目的は、ご亭主に人間まじりがさしたいだけのこってす。二人とも猿知恵を廻す人ですからね」
「そして、ご亭主より二つ年上だって話ですね」
「五つですよ。あの人のお母さんはモスクワにいる時分、わたしの家の閾で一生懸命に尻尾を振ってたもんですよ。フセーヴォロドが生きていた時分、まるでお慈悲でも願うようにして、うちの夜会へ押しかけて来てましたっけ。ところが、あの女は夜っぴて踊りも踊らないで、蠅のようなトルコ玉を額にくっつけたまま、一人ぽつんと隅っこに坐ってるんでしょう。それで、わたしあまりかわいそうだもんだから、二時過ぎに初めて相手《カヴァレール》を差し向けたもんです。あの頃はもう二十五くらいだったけれど、まるで小さな女の児みたいに、裾の短い着物をきせられて、方々引き廻されてましたっけね。こんなふうだから、あの人たちを出入りさせるのが、なんだか不体裁なくらいでしたよ」
「その蠅みたいなトルコ玉が、まるで目に見えるようですね」
「うち明けたところをいいますがね、わたしここへ帰って来ると、さっそくもう悪企みにぶっつかったんですよ。あなた今ドロズドヴァの手紙を読んだでしょう。いったい、あれ以上明瞭なことがどこにありましょう。まあ、あなた、何を見つけたと思います? あのお馬鹿さんのドロズドヴァが、――あのひとはいつでもお馬鹿さんなのです、――あのひとが急に不審の目で見るようになったのです、わたしがなんのためにわざわざ出かけたんだろう、というわけでね。わたしがどんなにびっくりしたか、たいていお察しがつくでしょう! ところが、よく気をつけて見ると、あのレムブケーの細君が糸を引いてるんですの。そして、その傍にはあの従兄《クザン》がついてるんですよ、あの男はドロズドフ老人の甥ですからね、――何もかもすっかり見え透いてます! もちろん、わたくしはすぐに何もかもご破算にしてやりました。そして、ドロズドヴァは、またわたしの味方についてしまいました。が、それにしても、企んだものですね、まったく企んだものですね!」
「それにしても、あなたはずいぶん強敵を破ったもんですね。おお、ビスマルク! といいたいくらい!」
「わたしは何もビスマルクじゃありませんが、それでもまやかしと馬鹿馬鹿しいことは、出くわし次第、見あらわしてやる力がありますよ。レムブケーの家内はまやかしものです、プラスコーヴィヤは馬鹿です。わたしあんな意気地のない女には、めったに出あったことがない。おまけに両足が腫れて、おまけにお人よしなんですからね! 本当に馬鹿なお人よしほど、馬鹿げたものはありゃしない」
「意地悪の馬鹿はね、ma bonne amie(わがよき友よ)意地悪の馬鹿は、もういっそう馬鹿げていますよ」とスチェパン氏は上品に異議を挿んだ。
「ことによったら、あなたのほうが本当かもしれませんねえ。あなたリーザを覚えていらっしゃる?」
「Charmante enfant!(かわいい子ですよ!)」
「だけど、今はもう子供《アンファン》じゃありません、一人前の女です。しかも、一意地ある女です、潔白な熱のある人。わたしはね、あの子がお母さんの、あの正直なお馬鹿さんの、いいなり放題にさせないところが、気に入りましたの。けれど、あの従兄《クザン》のおかげで、あやうく一騒ぎ起こりかねないところでしたよ」
「へえ、しかし、本当のところ、あの従兄《クザン》はリザヴェータ・ニコラエヴナの親類なんかじゃまったくないのでしょう……何か当てでもあるんですか?」
「こうなんですの、あの若い将校はたいへん口数の少ない人で謙遜家といっていいくらいなのです。わたしはいつでも公平に物事を判断したいという望みなんですからね、どうもわたしには、当のその人がそんな悪企みに反対らしく思われるんですよ。策士はレムブケーの家内ひとりに違いありません。その将校はたいへんニコラスを尊敬していましたよ。ねえ、そうでしょう、すべてはリーザの胸一つにあることなんです。けれど、わたしの帰って来る時には、あの娘とニコラスの関係は、まことに申し分ありませんでした。それに、あれも十一月にはぜひうちへ帰ると、わたしに約束しましたの。してみると、小細工をしているのはレムブケーの家内だけで、プラスコーヴィヤは目の見えない女というだけのことです。あのひとったら、ふいにこんなことをいい出すじゃありませんか、――あなたの疑ってることはみんな気の迷いです、なんて。わたしは面《めん》と向かって、お前さんは馬鹿だといってやりました。ええ、わたしは最後の審判《さばき》の日だって、立派にそういいきります。本当にニコラスが、おりの来るまでうっちゃっておけと頼まなかったら、あのいかがわしい女の正体を引ん剥かないうちは、あすこを立ちゃしなかったんですよ。あの女はニコラスの手を通して、K伯爵の鼻息をうかがって、わたしたち親子を引き離そうとしたんですの。けれど、リーザはわたしたちの味方だし、プラスコーヴィヤとはちゃんと話しあいがついていますからね。あなた、カルマジーノフがあの女の親戚だってことをごぞんじ?」
「えっ? フォン・レムブケー夫人と親類ですって?」
「ええ、そう、あの女とね。遠い親戚ですの」
「カルマジーノフが、あの小説家の?」
「ええ、そう、文士のね。なんだってそうびっくりするんです! むろん、あの人はいま自分で自分を偉い者のように思ってるんですからね、ずいぶん高慢ちきな男ですよ! レムブケーの家内は、あの男といっしょにやって来るはずになっていますが、今頃はあちらで二人飛び廻ってるでしょう。あの女は今度ここで、何か文学会のようなものを起こすつもりらしいんですの。ところで、あの男は一月ばかりの予定で、この町へ来るんだそうです、なんでもたった一つ残った領地を売り飛ばすつもりなんですって。スイスでは、あやうくあの男と出くわしそうになったので、わたしひやひやしましたよ。けれど、あの男のほうでは、わたしを見覚えていることと思います。昔はわたしのところへ手紙をよこしたり、うちへ出入りしたりしてたんですからね。ときに、スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたもっと気の利いた服装《なり》をしていただけないものでしょうか。あなたは一日一日とだらしなくなっていきますよ……ああ、あなたはわたしに苦労させなさる! どう、あなたいま読書をしていらしって?」
「わたしは……わたしは……」
「わかってますよ。相変わらず『親友』たちでしょう、相変わらず酒もりでしょう、クラブでしょう、カルタでしょう、そして、無神論者の世評でしょう。わたし、この世評が気に入りませんの、スチェパン・トロフィーモヴィチ。わたしあなたを無神論者よばわりなどしてもらいたかありません、今はなおさらいやです。わたしは以前からいやだったのです。なぜって、そんなことはみんな内容《なかみ》のないおしゃべりにすぎないじゃありませんか。どうせもういつかいわなくちゃならないのだから、すっかりいってしまいますよ」
「〔Mais ma che`re〕(しかし、あなた)……」
「まあ、お聞きなさい、スチェパン・トロフィーモヴィチ、学識の点からいえば、わたしなどあなたにくらべたら、もちろん、まるで物識らずですけどね、わたしこちらへ帰って来る途中、さんざんあなたのことを考えました。そして、一つの結論に到達しましたの」
「どんな結論です?」
「つまりね、世界じゅうで一ばん賢いのは、なにもわたしとあなたと二人きりというわけじゃない、まだまだわたしたちより賢い人があります」
「皮肉ですね、図星ですね。もっと賢い人がありますよ。つまり、われわれより正しい人があるんです。で、結局、わたしたちも誤ることがありうる、ということになるんですよ。そうじゃありませんか? Mais, ma bonne amie(しかし、わがよき友よ)かりにわたしが誤っているとしても、わたしはわたしで全人類に共通な、常に変わることのない、自由な良心の至上権を持っています。またその気にさえなれば、偽善者や狂信者にならない権利を持っています。その自然の結果として、わたしは世の終わりまでいろいろな人から憎まれることでしょう。et puis, comme on trouve toujours plus de moines que de raison(それに、いつでも道理より坊主の多いたとえでね)というわけで、わたしはそれにぜんぜん同意なんですから……」
「え、え、あなたなんといったのです?」
「いつでも道理より坊主の多いたとえだといったのです。というわけで、わたしはそれに……」
「それはきっと、あなたのいったことじゃありますまい。大方どこからか取って来たのでしょう?」
「これはパスカルのいったことです」
「そうだろうと思ってました……あなたのいったことじゃありますまい。なぜあなたはいつも簡潔に、ぴったりとうがったものの言い方をしないで、ああだらだらと冗漫な話っぷりをするんでしょう。このほうがあんな行政的感興より、どれだけ気が利いてるかわかりませんよ……」
「〔Ma foi, che`re〕(まったくです、あなた)……いったいそれはなぜでしょう。まず第一には、なんといってみたところで、わたしがパスカルでないからでしょう。et puis(それから)……それから第二には、われわれロシヤ人というやつが、自分の国の言葉では何一つろくなことがいえないからです……少なくとも、今まで何一ついったことがありませんからね……」
「へえ? それは本当でないかもしれませんよ。とにかく、あなたは話の時の用意に、そんな言葉を書き留めて、覚えといたらいいでしょう。ああ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、わたくしはあなたに真面目でお話しようと思って、帰って来たんですよ」
「〔Che`re, che`re amie!〕(あなた、あなた)」
「今あんなレムブケーとか、カルマジーノフとかいう連中が、……ああ、本当にあなたはなんてまあ箍が弛んでしまったものでしょう? あなたがどんなにわたしを苦しめていらっしゃるか、とてもおわかりにならないでしょう! わたしはあんな連中が、あなたに尊敬の念を起こすようにしたいのです。だって、あんな人たちは、あなたの小指の先ほどの値打ちもないんですもの。ところが、あなたの態度ったらどうでしょう! あの連中が見たら、なんといいます? わたしどうしてあの連中に引き合わしたらいいんでしょう! 高潔な生ける証明として、一世の風潮に逆らって立ち、人の模範たる生活をつづけようとはしないで、やくざな連中に囲まれ、何かこう我慢のならない癖がしみついて、だんだん老いぼれていらっしゃるじゃありませんか。酒とカルタなしじゃ夜も日も明けないのです。あなたはポール・ド・コックばかり読んで、猫も杓子も争って書く今の世に生まれながら、まるで何も書かないじゃありませんか。あなたの時間はすっかりおしゃべりに潰れてしまってるんです。いったいまあ、あなたの腰巾着になっているリプーチンみたいな、あんなやくざ者と友だちづき合いなんかしていいものですか、許さるべきことですか?」
「なぜあの男がわたしの腰巾着[#「わたしの腰巾着」に傍点]なんです?」とスチェパン氏はおずおずたずねた。
「今あの男はどこにいるんです?」ヴァルヴァーラ夫人は厳めしい、きびしい調子で言葉を次いだ。
「あの男はどこまでも、どこまでもあなたを尊敬しています。そして、いま母の遺産を受け取るためにSへ行っております」
「あの男はいつもお金を受け取ってばかりいるようですね。どうしました、シャートフは、相変わらずですか?」
「Irascible, mais bon(怒りっぽいけれどいい男ですよ)」
「わたし、あなたのシャートフはとても我慢ができません。意地悪のうえに、自分のことばかり一生懸命に考えてるんですもの!」
「ダーリヤさんの健康はいかがですか?」
「あなたのおっしゃるのはダーシャのこと? なんだって急にそんなことを思い出したんです?」ヴァルヴァーラ夫人は不思議そうに彼の顔を眺めた。「大丈夫ですよ。あの娘はドロズドヴァのところへ置いて来ました……わたしはスイスであなたの息子さんの噂を聞きました。悪いことですよ、いいことじゃありません」
「〔Oh, c'est une histoire bien be^te! Je vous attendais, ma bonne amie, pour vous raconter〕(おお、それはあなた、馬鹿げきった話なのですよ、わたしはね、そのお話をしようと思って、あなたを待ちかねていたんですよ)……」
「もうたくさんですよ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、いいかげんにして休ませてください。もうがっかりしてしまった。お話なんかいくらでもする暇がありますよ。ことに悪い話ならね。ときに、あなたは笑う時に唾をお飛ばしになるようになりましたね。まあ、本当になんて老いぼれようでしょう! そして、なんだってそんな妙な笑い方をするようにおなんなすったの……あああ、あなたはすっかりいやな習慣を背負い込んでおしまいなすったのね! それじゃ、カルマジーノフも訪問してくれやしませんよ! それでなくってさえ、みんながしきりに気味よがっているのに……あなたは今すっかり正体を現わしておしまいなすったのねえ。さ、たくさんです、くたびれちゃった! もういい加減に容赦をしてくだすっていい頃ですよ!」
 で、スチェパン氏は『容赦』をした。しかし、夫人のもとを引きさがった彼の様子は、だいぶしょげ込んでいた。

[#6字下げ]5[#「5」は小見出し

 わが親友スチェパン氏に、少なからず悪い習慣がしみ込んだのは、本当である。近頃になって、それがことに烈しくなった。彼はみるみる調子がゆるんできた。また実際だらしなくもなった。酒の量も多くなったし、神経が弱ってきて、涙っぽくなった。そして、みやびやかなものに対する感受性が度はずれに鋭くなってきた。彼の顔は恐ろしく急激に変化する特色を現わしはじめた。たとえば、極端に厳粛な表情から、思いきって滑稽な、愚かしいほどの表情へ飛び移ってしまう。孤独に堪えることができなくなって、だれでもいい、少しも早く気を紛らしてほしいという渇望が、しじゅう彼の胸を去らなかった。で、はたの者は何か彼のために、京童の口さがない噂だとか、面白おかしい市井の出来事だとか、そんなものをぜひ話してやらなければならない上に、しかも、毎日めずらしい種でなくては気に入らぬのであった。もし長いあいだだれも訪ねて来ないと、佗しそうに家じゅうを歩き廻って、窓の傍へ寄って見たり、もの思わしげに唇を噛んだり、深い深いため息をついたりして、しまいにはもうしくしく泣きださないばかりになってくる。彼は絶えず何か予覚していた。何か意想外な、しかも、とうてい避くべからざるあるものの襲来を恐れているのであった。そして、妙に臆病になり、ひどく夢を気にし始めた。
 この日いちんち夜にかけて、彼は一方ならぬ憂欝の中に時を過ごしたが、とうとうわたしの家へ迎えの者をよこし、恐ろしく興奮して、長いこと話しつづけた。が、その話はみんなかなりまとまりのないものであった。彼がわたしに少しも隠し立てしないということを、ヴァルヴァーラ夫人はもうとっくから承知していた。とうとうわたしはスチェパン氏が何かしら一種特別な、彼自身でさえ想像できないようなものに、心を悩ましているのを見てとった。以前はわたしたちが二人おち合ったとき、そろそろ彼の愚痴が始まる頃あいには、たいていいつもしばらくたってから酒の壜が運ばれて、気の結ぼれも解けて来るのが例であったが、この日は酒が出なかった。見受けたところ、彼は幾度となく、酒を取り寄せたいという欲望を、心の中で圧しつけているらしかった。
「それに、なんだってあのひとは、のべつ腹を立ててばかりいるのだろう!」と彼はまるで子供のように、やみ間なく訴えるのであった。「〔Tous les hommes de ge'nie et de progre`s en Russie e'taient, sont et seront toujours des “cartejniki” et des “pianitsi” qui boivent en “zapoi”〕(ロシヤにおけるすべての天才とそして進歩の人は、いつもへべれけに酔っぱらっている飲んだくれで博奕打だった、今でもそうだ、そして、今後とてもそうだろう)ところが、わたしはけっしてそんな博奕打ちでもなければ、また飲んだくれでもない……あのひとはわたしが何も書かんといって責めるが、実に奇態な考えを起こしたものだ! それから、なぜそんなに寝ころんでるのだと、おいでなすった! 『あなたは世間の人の模範として、祖国に対する譴責の権化として、屹然と立っていなければなりません』だとさ。mais entre nous soit dit(しかし、ここだけの話だが)人間が譴責の権化として立つべき使命を享けた以上、寝ころんでいるよりほか仕方がないじゃないか。あのひとはそれを知ってるかしらんて?」
 そうしているうちに、わたしは今夜に限ってかくまで執拗に彼を苦しめていた一種特別な憂愁の原因を、やっと突きとめたのである。この晩、彼は幾度となく鏡に近寄って、長い間その前に立ちどまったが、とうとう鏡から目をはなして、わたしのほうへ向き、なんとなく奇妙な絶望の色を浮かべながらいった。
「|ねえ《メ》、|きみ《シェル》、ぼくは箍のゆるんだ人間なんだねえ?」
 ああ、実際いままで、今日という今日まで、ヴァルヴァーラ夫人がどんな『新しい見方』をいだこうと、どんなに『思想を変化』させようと、たった一つ固く信じていることがあった。ほかでもない、自分はやはり女としての夫人の心にとって、魅力ある一個の男性だという信念であった。それも単に追放者もしくは立派な学者としてでなく、美しい男として魅惑的だという意味なのである。もう二十年の間というもの、この気持ちのいい慰藉の力を持った信念は、彼の胸にしっかりと食い入っていたので、彼の持っているすべての信念の中でも、これと別れるのが一番つらかったかもしれない。彼は近い将来において、大きな責苦が前途に待ちかまえているのを、その晩なんとなしに予感したのであろうか?

[#6字下げ]6[#「6」は小見出し

 ここでわたしは、おおかた忘れられてはいるが、本当はこの物語の発端になるべき出来事の叙述にかかることとしよう。
 八月もいよいよ押し詰まった頃、とうとうドロズドヴァ母娘《おやこ》がやって来た。彼らの到着は、その親戚に当たる新知事夫人の乗り込み、――町じゅうの者がとうから待ちに待っていた乗り込みのちょっと前だったので、町の社交界ぜんたいに異常な印象を与えたのである。しかし、そうした興味ある出来事は、すべて後章に譲ることとして、今はただプラスコーヴィヤ夫人が、一日千秋の思いでその到着を待っているヴァルヴァーラ夫人に、ある面倒な問題をもたらした、というだけに止めておこう。ほかではない、ニコラスがもう七月頃から彼ら一家と袂を別って、ラインあたりでK伯爵と落ち合った上、伯爵はじめその家族と連れ立って、ペテルブルグへ出かけたというのである(断わっておくが、伯爵の令嬢は三人ともいま嫁入盛りの年頃である)。
「リザヴェータはああいう高慢なしぶとい娘《こ》ですからね、あれからはなんにも聞き出すわけにいきませんでした」プラスコーヴィヤ夫人はこういって、言葉を結んだ。「けれど、あの娘《こ》とニコライさんとの間に何かあったのは、わたし自分の目で睨みましたよ。そのわけは知りません。いずれね、ヴァルヴァーラさん、お宅のダーリヤさんに、そのわけを聞かなくちゃなりますまいよ。わたしの目から見ると、リーザはひどく恥をかかされたらしいんですの。あああ、嬉しい、やっとのことであなたのお気に入りの娘をつれてきて、お手渡しすることができますよ。ほんとに重荷をおろしたようだ」
 この毒を持った言葉は、いかにもいらいらした調子で発せられた。察するところ、この『意気地のない女』は前からこれを用意しておいて、その効果を楽しんでいたものらしい。しかし、ヴァルヴァーラ夫人はそんな感傷的な効果や、謎めいた言葉でへこまされるような女ではなかった。彼女はきびしい調子で、もっと正確な、得心のゆくような説明を求めた。プラスコーヴィヤ夫人はすぐ調子を下げて、しまいにはとうとう泣きだしてしまったほどだ。そして、ごく隔てのないうち明け話を始めた。この気短かだけれど感傷的な夫人は、ちょうどスチェパン氏と同じように、絶えず真の友情に渇していたのである。それゆえ、彼女の娘リザヴェータに対するおもな不満は、「娘が自分の友だちでない」という一事につくされていた。
 しかし、夫人の説明やうち明け話の中で正確と思われるのは、事実リーザとニコラスとの間に何か仲たがいが起こったらしい、ということ一つだけであった。けれど、この仲たがいがどういう性質のものか、それについてはプラスコーヴィヤ夫人も、はっきりとは想像することができなかったのであろう。ダーリヤに対する非難の言葉は、最後にぜんぜん撤回したばかりでなく、先ほどの言葉は癇癪まぎれにいったことだから、あれはけっして気にかけないでくれと、折入って頼んだくらいである。一口にいえば、なんだかさっぱり要領をえなくなって、おまけに変に様子ありげに思われだしたのである。夫人の話によると、この仲たがいは、リーザのかたくなな人を馬鹿にした性質から起こったもので、「ニコライさんは、烈しくあの子に恋していらっしゃるけれども、あの誇りの強いご気性ですから、そんな人を馬鹿にした仕向けに我慢ができないで、ご自分から冷笑的な態度におなんなすったのです。それから間もなく、わたしたちはある若いお方と知合いになりました。なんでもあなたんとこの『先生』の甥ごさんでしたか、苗字もやはり同じでしたっけ……」
「息子ですよ、甥じゃありません」とヴァルヴァーラ夫人は訂正した。
 プラスコーヴィヤ夫人は、前からスチェパン氏の苗字が覚え込めないで、いつも『先生』と呼んでいた。
「へえ、息子さん。じゃ、息子さんにしましょう、そのほうがいい、わたしはどうだって同じことなんですから。ごくありふれた若い人でした。たいへん元気な、物腰の自由な人なんですけれど、格別こうというところはありゃしません。ところで、その時はもうリーザのほうがまったく悪かったんですの。つまり、ニコライさんにやきもちを焼かせようと思って、わざとこの若い人を傍へ引き寄せたんですよ。けれど、わたしはしいてそれを咎めはいたしません。いかにも娘の考えらしい、ありふれたことで、いっそかわいいところさえあるくらいですもの。ところが、ニコライさんはやきもちをやくと思いのほか、かえってその若い人と仲よくなすって、何も目に入らないような顔をしていらっしゃる。そんなことはどうでもいいってなふうなのでしょう、それがリーザの胸をめちゃめちゃにしてしまったのです。その若い人は、間もなく立って行きましたが(どこやらたいへん急いでいられましてね)、そこでリーザは折さえあれば、ニコライさんに突っかかって行くようになりましたの。それに、ニコライさんが時々ダーシャと話していらっしゃるのに、気がついたもんですから、その、まるで気ちがいみたいになってしまったんですよ。本当にわたしも生きてる空はありゃしません。元来わたしは腹を立てないようにって、お医者さまから止められてはいたんですが、あの名高い湖も飽き飽きしてしまって、おかげで歯はずきずき痛みだす、ひどいリョウマチ[#「リョウマチ」はママ]は背負い込む、さんざんな目にあいましたよ。よくジュネーヴの湖は歯を痛くするって、新聞なぞにも書いてますわ。そういうたちの湖なんですとさ。そのうち、ニコライさんのところへ、とつぜん伯爵夫人からお手紙が来たもんですから、あの人はさっさと立っておしまいになりました。一日で支度をしておしまいになったんですよ。別れる時の二人の様子は、いかにも仲よさそうで、リーザなどはお見送りする時、はしたないくらいはしゃいで、やたらにきゃっきゃっと笑いましたっけ。けれど、それはみんな表面《うわべ》だけなんですよ。あの人が立っておしまいになると、恐ろしく沈み込んで、あの人の噂をぱったりやめてしまって、わたしに口をきかせないんですよ。ヴァルヴァーラさん、あなたも今度このことについては、なんにもあれにいいださないようにしてくださいな。ただ事を毀すばかりですからね。黙っていらっしゃると、あの子のほうからさきにいいだしますよ。そうしたほうが、結局よくおわかりでしょうよ。わたしの考えでは、ニコライさんさえお約束どおりすぐに来てくだすったら、また元々どおりになりますよ」
「じゃ、あれにすぐ手紙を出しましょう。本当にそのとおりだとしたら、つまらない仲たがいですよ。それに、ダーリヤという娘もわたしよく知っています。なに、馬鹿馬鹿しい話ですよ」
「ダーシャのことなら、わたし後悔していますの、――罪なことをいってしまいました。ただほんのつまらない通り一ペんの話で、それも別にひそひそ話じゃなかったんですもの。まったくね、あなた、当時わたしはこのことで頭が変になってたんですよ。それに、リーザもわたしの見たところでは、あの娘《こ》と以前どおり優しくつきあっています……」
 ヴァルヴァーラ夫人はその日のうちに、ニコラスヘ当てて手紙をしたため、彼の定めた期限より、せめて一月でも早く出かけるように頼んだ。けれど、このことについては、彼女に得心のいきかねる怪しいところが残っていた。彼女はその晩よっぴて考え通した。『プラスコーヴィヤ』の考えはあまり幼稚で、感傷的に思えた。
『プラスコーヴィヤは寄宿学校時代のそもそもから、ずっと今までいつも度はずれに感傷的だった』と夫人は考えた。『ニコラスは、小娘の冷やかしが恐ろしくって逃げ出すような、そんな人間ではけっしてない。もし本当に仲たがいがあったとすれば、それには何かほかに原因がなくちゃならない。しかし、あの将校はいっしょにここへ引っ張られて来て、親戚という格であの家へ落ち着いているようだ。それに、ダーシャのことだって、プラスコーヴィヤの謝りようがあんまり早過ぎる。きっと何か口へ出したくないことがあって、胸の中へたたみこんでいるに相違ない……』
 朝になって、ヴァルヴァーラ夫人の胸には、ある一つのもくろみが成熟した。それは、せめて一つだっても不快な疑惑を一掃しうる性質のもので、しかも、そのとっぴな点において、刮目に値するようなものであった。夫人がこのもくろみを案出したときに、どういう下心を持っていたか、――それは容易に断言し難いことである。それにわたしは、このもくろみの全体を織りなしているいっさいの矛盾を先廻りして説明するのを見合わせ、ただ単なる物語の記述者として、すべての事件を実際おこったのと同じ形で描き出すに止めておく。なお、たとえその事件がどんなに奇怪に思われようと、それはわたしの知ったことでないけれど、いま一ど言明しておこう、――翌朝、夫人の胸にはダーシャに対する疑いなど、これからさきも残っていなかった。いや、それどころか、実際そんな疑いなぞかつて萠したこともなかった、それくらい夫人は彼女を信用していたのである。それに、ニコラスが自分の家の『ダーリヤ』に迷い込むなどとは、考えることもできないくらいだった。
 その朝、ダーリヤがテーブルに向かって茶をついでいる時、ヴァルヴァーラ夫人は長い間じっとその様子を見つめていたが、確信をえたように心の中で、
『あんなことはみんなでたらめだ!』と断言した。おそらく夫人は昨日から、この言葉を二十度くらいくり返したのであろう。
 ただ夫人の気がついたのは、ダーシャがなんとなく疲れたような様子をしているのと、前よりも余計もの静かに、余計だるそうに見えることだった。茶がすんだ後、ずっと前からきまって動かなくなった習慣で、二人は刺繍の仕事に向かった。ヴァルヴァーラ夫人はダーシャに命じて、外国で受けた印象を語らせた。つまり、自然、住民、都会、習慣、芸術、工業などを主として、すべて自分の目に入ったものを残らず話して聞かすのであった。ドロズドヴァ一家や、その家族との生活については、一言の質問もなかった。ダーシャは仕事づくえに向かって、夫人の傍に座を占めたまま、その刺繍の手伝いをしながら、持ち前のなだらかで一本調子な、少し弱弱しい声で、三十分ばかり話しつづけた。
「ダーリヤ」と夫人はだしぬけにさえぎった。「お前なにか、こう、特別に話したいと思うようなことはないかえ?」
「いいえ、なんにも」ダーシャは心もち考えてこう答えながら、その明るい目でちらとヴァルヴァーラ夫人を見上げた。
「お前の魂にも、こころにも、良心にも?」
「は、べつに」とダーシャは低い声でくり返したが、その声にはなんとなく気むずかしげな、堅苦しい調子があった。
「わたしもそうだろうと思ってた! いいかえ、ダーリヤ、わたしは今まで一度もお前を疑ったことはないんだからね。まあ、じっと坐って聞いておいで、いや、それよか、こっちの椅子へかわって、わたしの向かいに腰をお掛けな。わたしはお前をすっかり見たいんだから。ああ、そうそう。ところでね、――お前お嫁入りしたくない?」
 ダーシャは不審げな長い凝視でこれに答えた。が、大して驚いたふうはなかった。
「まあ、お待ち、黙っておいでよ。まず第一、年の違いだがね、これがたいへん大きいのさ。けれど、そんなことくらいなんでもないってことは、だれよりもお前が一番よく承知しておいでのはずだね。お前は分別のある女だから、お前の生涯に間違いのあろう道理がないよ。もっとも、その人はまだなかなかの好男子です。手短かにいえば、お前のつねづね尊敬しているスチェパン・トロフィーモヴィチなの。どうだえ?」
 ダーシャはまたひとしお不審げに夫人を見つめた。そして、今度はただびっくりしただけでなく、目立って顔をあかくした。
「まあ、お待ちよ、黙っておいで。何もせくには当たらないよ! お前はわたしの遺言で、お金を持ってるとはいい条、わたしが死んでしまったら、お前はいったいどうなるんだろう。よしんばお金があるにしてもさ、人にだまされてお金を取り上げられたら、もうそれっきりじゃないか。ところが、あの人のとこへ行けば、お前は名士の奥さんですよ。また別な方から見てもさ、たった今わたしが死んでしまったら、――そりゃわたしもあの人の困らないようにしておくけれど、――あの人はまあどうなるとお思いだえ? そこで、わたしはお前に望みをかけてるんだよ。まあ、お待ち、わたしはまだしまいまで言やしませんよ。あの人は軽はずみです、ぐずです、残酷です、身勝手です、下品な癖があります。けれど、お前、世の中にはまだまだひどいのがあると思えば、あの人のいいところも見てあげなくちゃあ。いったいわたしはお前をどこかの馬の骨に押しつけて、厄介払いをしようというんじゃないからね、まさかお前そんなことを考えやしないだろうね? それに第一、わたしがこうして頼んでるのだからね、それだけでもちっと考えてもらわなくちゃ」夫人は突然いらいらした調子で言葉を切った。「お前きいてくれてるの? なんだってそうむつっ[#「むつっ」に傍点]としてるんだい?」
 ダーシャはやはり押し黙って聞いていた。
「ちょっと、も少し待ってちょうだい。あの人は意気地なしです、――けれど、お前にとっては、結局そのほうがいいくらいだよ。意気地なしといっても、かわいそうな意気地なしなんだからね。女として、あんな人を愛してやる値打ちがないようなものの、あの頼りない性質を考えると、愛してあげてもいいんですよ。お前もその頼りないところを愛しておあげ。お前、わたしのいう意味がわかるだろう? わかるかえ?」
 ダーシャはちょっとうなずいて見せた。
「わたしもそうだろうと思っていました。お前のことだから、そうあるべきはずです。あの人はお前を愛しますよ。だって、それが義務だもの、義務なんだもの。あの人はお前を崇拝しなけりゃならないんです!」とヴァルヴァーラ夫人はなんだか妙にいらいらして、声を癇走らせた。「もっとも、あの人は義務なぞを抜きにしたって、やはりお前に惚れ込んでしまいます。わたしはあの人をよく知ってるんだからね。それに、わたしという者が傍へついています。心配おしでない、わたしがいつも傍についてるからね。いずれあの人はお前の讒訴をしたり、だれにでも出あい次第にお前の陰口をきいたり、めそめそしたりするようになるだろう(あの人は一生めそめそし通してるんだからね)。そして、同じ家にいながら部屋から部屋へ、お前に宛てて手紙を書くようになるだろう。一日に二本ずつくらい書くようになるだろう。けれど、それでもお前というものなしには、一日も生きていかれやしない。ここが肝腎なところなんだよ。とにかく、お前のいうことを聞くように躾けなくちゃ駄目だよ、――それができなければ馬鹿さ。また首が縊りたいなぞといって脅かすだろうけれど、本当にしちゃいけない。ただほんのでたらめなんだからね。本当にしちゃいけないけれど、それでも油断なく気をつけるんですよ。まかり間違ったら、本当に首を縊るから。ああいう人たちにはよくあることなんですよ。それも力が余って首を縊るんじゃなくって、力が足りなくってすることなのさ。だから、けっして一か八かという際どいところまで連れてってはいけない――それが夫婦《めおと》ぐらしの第一の秘訣だからね。それから、あの人が詩人だということも頭に入れておおき。よく聞いてちょうだい、ダーリヤ、自己犠牲より大きい幸福はほかにありゃしないんだよ。それに、わたしがどのくらい満足に思うかしれない。これが何より一等大切なことなんです。お前わたしのいったことを、愚にもつかない話だなどと思わないでちょうだい。わたし自分のいうことは、ちゃんとわきまえてるんだからね。ええ、むろんわたしは利己主義よ、だからお前も利己主義におなり。けれど、わたしは何もお前を縛ろうというんじゃありません。何事もお前の考えどおりです。お前の返事一つで決まることです。さあ、なんだってそんなに、ちょこんと坐りこんでしまったの、なんとかおいいよ!」
「奥さま、わたくしはどちらでも同じことでございます。もしどうしても結婚しなくちゃならないのでしたら……」ダーシャはきっぱりとこういいきった。
「どうしてもとは? それはいったいなんの謎だえ?」ヴァルヴァーラ夫人はきっと穴の明くほど、相手の顔を見つめた。
 ダーシャはのろのろ刺繍の針を動かしながら、黙り込んでいた。
「お前は利口な娘《こ》だけれど、とんでもない考え違いをしているんだよ。そりゃまったく、わたしは今ぜひともお前を嫁にやろうと考えついたけれど、何もけっして必要があってのことじゃない。ただそう思い立ったからというだけの話で、それも相手はスチェパン・トロフィーモヴィチにかぎるんです。もしスチェパン・トロフィーモヴィチという人がなかったら、わたしは今すぐお前をお嫁にやろうなどと、考えつきはしなかったでしょうよ、もっとも、お前だって今年もう二十歳《はたち》だけどね……さ、どうだね?」
「わたくしは奥様のお思召し次第でございますわ」
「じゃ、同意なんだね! ま、お待ち、黙っておいでよ、何もせくことはありません。わたしはまだしまいまで言やしないじゃないか。わたしの遺言状には、お前のために一万五千ルーブリというものが、ちゃんと決めてあるんだよ。それは式のすみ次第、すぐにもお前に渡してあげます。そのうち八千ルーブリだけ、あの人に渡しておあげ、あの人といっても、つまりわたしによこすのさ。あの人はわたしに八千ルーブリの借金があるんだからね。結局わたしが払うことになるんだけれど、それがお前の金だということを、あの人に知らせてあげなくちゃならないの。さて、つまるところ七千ルーブリだけ、お前の手に残るんだね。その金はけっして一ルーブリだってあの人に渡しちゃならないよ。あの人の借金なんか、けっして払ってあげるんじゃないよ。一ど払ってあげたら、それこそもう際限がないから。もっとも、わたしがいつも傍についててあげるがね。それから、お前たち夫婦は毎年千二百ルーブリずつ、――特別の場合には千五百ルーブリの金を、わたしから受け取ることになるんだよ。もっとも、住まいと食い扶持は別です。それは、今もスチェパン・トロフィーモヴィチにしてあげてるとおり、やはりわたしが受け持つことにするからね。ただ召使だけ、お前がたのほうで持つようにおしな。年金はわたしがお前に一度に渡してあげます。直接お前の手に入れてあげるんだよ。けれど、お前も優しい心持ちになって、時々は少しくらいあの人にあげるものだよ。そして、友だちにも出入りを許しておあげ、週に一度だけでもね。もしそれ以上たびたび来るようだったら、かまわず追ん出しておやり。けれど、わたしも自分で傍についててあげるよ。よしんばわたしが死ぬようなことがあっても、お前たち夫婦の年金は、あの人の死ぬまで続けてあげます。だけど、いいかい、あの人[#「あの人」に傍点]の死ぬまでですよ。なぜって、それはあの人の年金で、お前のじゃないんだからね。ところで、お前には今の七千ルーブリさ、自分でさえ馬鹿な真似をしなければ、そっくりそのまま残っていくし、そのほかもう八千ルーブリだけ、遺言状に書いといてあげるよ。それよりほか、お前はわたしから何ももらえないんだよ。それは承知しておいてもらいましょう。さあ、異存はないの、どうなんだね? いいかげんになんとかいったらいいじゃないか?」
「わたくしもう先刻申し上げましたわ、奥様」
「覚えておいで。お前の考え一つなんだからね、どうともお前のいうとおりにしてあげるんだよ」
「それでは、奥さま、伺いますが、スチェパン様はもうなんとかおっしゃいましたかしら?」
「いいえ、あの人はなんにも言やしないし、なんにも知りゃしないんです、けれど……今すぐうん[#「うん」に傍点]といいますよ!」
 夫人はいきなり飛びあがって、黒いショールを引っ掛けた。ダーシャはまた少しあかくなって、もの問いたげな目つきで夫人を見守っていた。ヴァルヴァーラ夫人は憤怒に燃える顔を、とつぜん彼女のほうへ振り向けた。
「お前はなんて馬鹿だろう?」と夫人は隼《はやぶさ》のような勢いで食ってかかった。「本当に恩知らずの馬鹿だよ! お前ははらの中で何を考えてるんだえ? いったいお前は何かえ、わたしがこれっから先ほどでも、お前のためにならないことをすると思ってるのかい? いいえ、あの人は膝をついて這い廻りながら、一生懸命に拝むに相違ない。嬉しさのあまりに、死んでしまうかもしれない。それくらいまでにわたしがして見せるよ! わたしがお前に恥を掻かすようなことをしないのは、お前だって知っていそうなものじゃないかね! それともお前は何かえ、その八千ルーブリがほしさに、あの人がお前をもらう気になるだろう、とでも考えてるのかい。そして、今わたしはお前を売るつもりで駆け出すのだ、とでも考えてるのかい? 馬鹿、馬鹿、だれもかれも恩知らずの馬鹿ばかりだ! さ、傘を出しておくれ!」
 こういって、夫人は湿った煉瓦の舗道《しきいみち》や木造の歩道づたいに、スチェパン氏の家へ飛んで行った。

[#6字下げ]7[#「7」は小見出し

 夫人は『ダーリヤ』に、恥を掻かすようなことをする気づかいがないのは、事実であった。それどころか、今こそ自分は本当にこの娘の恩人だ、と思っていたのである。で、ショールを掛けながら、養い子のとほうにくれた、うさんくさそうな目色を、ちらと見つけたとき、夫人の胸には、公明正大な憤懣が一時に燃え立った。夫人はこの娘のごく小さい時分から、しんそこかわいがってやっていたので、プラスコーヴィヤ夫人がダーリヤのことを、ヴァルヴァーラ夫人のお気に入りといったのは、もっともな話なのである。夫人はずっと以前から、『ダーリヤの気性は、兄貴とは(つまり、彼女の兄イヴァン・シャートフの気性をさしたので)、まるで違う』この子はしとやかでつつましく、非常な自己犠牲をも決行する資質があって、人に仕えて義に篤く、なみなみならぬ謙譲の徳を備え、目立って分別に富んでいるが、何よりも感心なのは、恩を知ることが深いと、一人で決めてしまっていた。そして、ダーシャも今までのところ、夫人のいかなる期待をも裏切るようなことはなかったらしい。
『この子の一生には過ちなんかないだろう』彼女がやっと十二になった時、もうヴァルヴァーラ夫人はこういった。そのうえこの娘は、すべて自分の心を捕えた空想だとか、新しい計画だとか、自分の目に美しく映じた思想だとか、そういうものに対して、執拗で熱烈な愛着をいだく質《たち》だったので、夫人はすぐにダーシャを生みの娘同様に、教育しようと決心したのである。夫人はさっそく彼女に相当の金を分けてやって、ミス・クリーグスという家庭教師を招聘した。この婦人は、ダーシャが十六になるまでずっと留任していたが、突然どういうわけか断わられてしまった。中学校からも二、三の教師がかよって来たが、中にひとり本当のフランス人がいて、これがダーシャにフランス語を授けた。この男もやはり突然、まるで追ん出すようにして断わられてしまった。そのほか、どこかよそから来た、元は由緒のあるらしい婦人が、ピアノの稽古をした。
 しかし、なんといっても、主な教師はスチェパン氏であった。本当のところをいえば、一番はじめにダーシャを発見したのも彼自身であった。彼はヴァルヴァーラ夫人が、この娘のことなど夢にも考えていない時分、当時まだおとなしい子供だったダーシャに、ものを教え始めたのである。またくり返していっておくが、幼い子供の彼になつくことは不思議なくらいであった。リザヴェータ・トゥーシナも、八つの年から十一になるまで、彼について勉強した(いうまでもなく、スチェパン氏は無報酬で教えたので、どんなことがあろうとも、ドロズドヴァ家から金なぞ取る気づかいはなかった)。もっとも、彼自身この美しい少女に惚れ込んでしまって、世界や地球の創造、人類の歴史などについて、何か叙事詩風の話をして聞かせたのである。原始時代の民族や原人などの講義は、アラビヤの伝説よりも面白かった。こうした物語を夢中で聴いていたリーザは、家へ帰ると恐ろしくふざけた調子で、スチェパン氏の真似をして見せ見せした。こちらはそれを嗅ぎつけたので、あるとき少女のふいを襲ったことがある。リーザは恐ろしくきまり悪がって、いきなり彼に飛びかかって、だきつきざま泣きだした。スチェパン氏も同様に、感きわまって泣きだしたものである。けれど、リーザは間もなくよそへ行ってしまって、ダーシャ一人きりになった。そのうちこの娘のところへ、いろんな教師たちが通うようになってから、スチェパン氏も授業をやめてしまった。そして、だんだんとこの娘に注意を払うことを忘れていった。こういうふうで、長い月日が過ぎたのである。
 ある時、ダーシャがもう十七になったとき、彼は思いがけなく、その可憐な姿に目を見はった。それは、ヴァルヴァーラ夫人のところで食卓についている時だった。彼はこの若い娘に話しかけてみたが、その返答ぶりにすっかり満足して、とうとう彼女に、ロシヤ文学史の真面目な長い講義をしようと申し込んだ。ヴァルヴァーラ夫人はその立派な思いつきを賞めそやして、礼の言葉まで述べた。ダーシャはもう有頂天だった。スチェパン氏はとくに力を入れて、講義の準備にかかった。やがていよいよ講義が始まった。古代期から始めた第一回の講義は、興味ぶかく終わりを告げた。講義の席には、ヴァルヴァーラ夫人も顔を出していた。スチェパン氏が講義を終えて、出て行きしなに生徒に向かって、この次は『イーゴリ軍譚』の解剖にかかろうといったとき、ヴァルヴァーラ夫人は急に立ちあがって、講義はもう続けなくてようございます、と宣告した。スチェパン氏は口をもぐもぐさせたが、それっきり口をつぐんだ。ダーシャはかっと真っ赤になった。それでこの思いつきも立ち消えになってしまった。それは今度ヴァルヴァーラ夫人が、突拍子もない夢のような計画を樹てた時から、ちょうど三年前であった。
 哀れむべし、スチェパン氏はただひとり、何も知らずに坐っていた。彼は佗しいもの思いに沈みながら、もうだいぶ前から、だれか知った人が来ないかと、窓の外を眺めていたのである。しかし、だれも来なかった。外は糠のような雨がしとしとそそいで、しだいにうそ寒くなってきた。もう煖炉《ペーチカ》を焚かなければなるまい。彼はほっと吐息をついた。と、ふいに恐ろしい幻像が彼の目に映った。こんな天気に、こんな妙な時刻に、ヴァルヴァーラ夫人がやって来るではないか! しかも、馬車にも乗らないで。彼はすっかり面くらって、着物を更えるのも忘れ、着のみ着のままで出迎えた。彼はいつもながらの薔薇色をした綿入のジャケツを着ていたので。
「|わがよき友よ《マボンナミ》!」と彼は出会いがしらに弱々しい声でこう叫んだ。
「あなた一人きり? それで安心しました。あなたのお友だちには我慢ができない。まあ、いつもよく煙草を喫みますねえ、なんてひどい空気でしょう。お茶もまだ飲みさしね、もう十一時過ぎてるのに! あなたの楽しみは乱雑なのね! あなたの楽しみは埃《ごみ》なんでしょう! まあ、なんだってこんなに紙を引きちぎって、床の上へ投げ散らすんですの? ナスターシヤ、ナスターシヤ! いったいあなたんとこのナスターシヤは何をしてるんですの? ああ、お前、窓をお開け、通風口も戸も、みんな開け放しておおき。さあ、わたしたちは客間へ行きましょう。わたし話があって来たんですから。お前、せめて一生に一ペんくらい掃除をおしなね!」
「お汚しになるんですもの!」とナスターシヤはいらだたしげな訴えるような調子で、黄いろい声を振り絞った。
「だからお前、掃除をしたらいいじゃないかね。一日に十五へんくらい掃除をしたらいいんだよ! あんたんとこの客間はなんてちゃちなんでしょう(二人が客間へ入った時、夫人はこういった)。戸をしっかり締めてください、あの女が立ち聴きしますから。これはぜひとも壁紙を取り替えなくちゃ駄目ですね。わたし経師屋に見本を持たしてよこしたじゃありませんか。なぜあなた選らなかったのです? まあ、坐ってお聞きなさい。お坐んなさいってば。わたしお願いしてるんですよ。あなたどこへ? どこへいらっしゃるの? まあ、どこへいらっしゃるんですよう?」
「なに……ちょっと」スチェパン氏は次の間からわめいた。「さあ、もう来ました!」
「ああ、あなたは着物をお着更えなすったのね!」と夫人は嘲るように相手を見やった(彼はジャケツの上から、フロックを羽織っているのであった)。「そのほうがまったく似合いがよござんすよ……わたくしたちのお話にね。さあ、もう坐ってくだすってもいいでしょう、後生ですから」
 夫人はいきなりぶっつけにいっさいのことを、頭ごなしに押しつけるような鋭い調子でうち明け、いま彼が困りきっている八千ルーブリの金のことを説明した。持参金のことも細かく話して聞かせた。スチェパン氏は目を丸くして慄えていた。彼は夫人の話をみんな聞いてはいたけれど、はっきり頭に描いて見ることができなかった。何かいおうとしても、声が途切れてしようがなかった。ただ何もかも夫人のいうとおりになるのだ。言葉を返すとか、不同意を唱えるとか、そんなことはしょせんむだな話で、自分はもう永久に女房持ちになってしまったのだ、ということだけはよくわかっていた。
「|しかし《メマ》、|あなた《ボンナミ》、わたしはもう三度目だし、それにもうこの年になってから……しかも、あんな子供と!」彼はやっとこういった。「Mais c'est une enfant(あの人はほんの子供ですよ)」
「ええ、子供ですよ、しかしありがたいことに、今年二十になる子供ですよ! どうかそう目玉をくるくるさせないでくださいな、後生ですから。あなたは芝居をしてるんじゃありませんからね。あなたは大変かしこい学問のある人ですけど、世間のことはまるでおわかりにならない。だから、あなたにはいつもお乳母《うば》さんがついてなくちゃいけないのですよ。もしわたしが死んでしまったら、あなたはまあどうなるんでしょう。ところが、あの娘《こ》はあなたにとって、うってつけのお乳母さんですよ。控え目な、しっかりした、分別のある娘ですからね。それに、わたしだって傍についていますよ。まだ今のいま死にゃしませんからね。あれでいい世話女房ですよ。おとなしい天使ですよ。この名案は、わたしがスイスにいる頃から、頭に浮かんでたのです。あなたおわかりになって。わたしが自分の口から、あの子はおとなしい天使だといったら、間違いっこありませんよ!」だしぬけに夫人は恐ろしい権幕でこう叫んだ。「今あなたのところは埃《ごみ》だらけでしょう。ところが、あの子はすぐ綺麗にきちんとさせてしまいます、何もかも鏡のようになるんですよ……ええ、まあ、あなたはいったいどう思っていらっしゃるの? こんな立派な宝物を持って来ても、まだわたしがぺこぺこお辞儀をして、頼まなきゃならないと思っていらっしゃるの? ありったけの利益を数え上げて、仲人口をきかなきゃならないとお思いですの? いいえ、あなたこそ膝を突いて頼まなければならないはずですよ……ええ、なんという腑甲斐ない……腑甲斐ない浅はかな人なんでしょう!」
「でも、わたしはもう老人ですから!」
「五十三やそこいらがいったいなんでしょう。五十はけっして人生の終わりじゃありません、ちょうど真ん中です。あなたは好男子です、それはあなたも自分でご承知のとおりです。またあの子がどんなにあなたを尊敬しているか、それもやはりご承知のはずです。もしわたしが死んだら、あの子はどうなると思います? ところが、あなたにさえついてれば、あれも安心ですし、わたしも安心します。あなたには価値と、名声と、愛に富んだ心という、立派な条件が備わっています。おまけに、あなたは年金を受け取ることになります。これはわたくし自身の義務としてるんですからね。それに、あなたはあの子を救うことになるかもしれません、いいえ、救うのです! 何にせよ、あの子に功徳をすることになりますよ。あなたはあの子に身の決まりをつけ、あの子の感情を発達させ、思想の舵を取ってやることになるのです。いま思想の舵の取り方の悪いために、一生を誤る人がざらにありますからね! その頃までには、あなたの著述も完成するでしょう、そして、あなたはすぐまた存在を認められるようになりますよ」
「実際わたしは」スチェパン氏はもうヴァルヴァーラ夫人の巧みな煽てに乗せられて、こうつぶやいた。「実際わたしは今『スペイン歴史物語』の述作にかかる準備をしているのです……」
「ほうらね! ご覧なさい、まるで申し合わせたようじゃありませんか」
「しかし、……あのひとは! あなたはあのひとにお話しになりましたか?」
「あの娘《こ》のことは、心配しないでもよござんすよ。それに、何もあなたが要らない詮索だてをすることはありません。そりゃもうあなたご自身であの子に頼まなきゃなりません。どうかご承諾の栄を与えてくださいといったふうに、泣きつかなきゃなりませんよ。いいですか? けれど、ご心配はいりません、わたしが傍についてますからね。それに第一、あなたはあの子を愛していらっしゃるんですよ」
 スチェパン氏は目まいがして、四方の壁がくるくる廻りだすように思われた。彼の心中には、どうしてもうち消すことのできない一つの滑稽な観念が、こびりついているのであった。
「|すぐれたる友よ《エクセランタミ》」彼の声はとつぜん慄え出した。「わたしは……わたしは今までかつて思いも設けなかったですよ、――あなたがわたしをほかの……女に片づけておしまいになろうとは!」
「あなたは娘じゃありませんよ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、片づけるというのは娘だけのことです。あなた自分で結婚なさるのじゃありませんか」とヴァルヴァーラ夫人は歯を食いしばりながら、毒々しくいった。
「〔Oui, j'ai pris un mot pour un autre. Mais……c'est e'gal!〕(わたしは言葉を取り違えたのです、しかし……そんなことはどうでもいいですよ)」と彼はうろたえた様子で相手の顔を見つめた。
「〔C'est e'gal〕(どうでもいい)ってことは、よくわかりますよ!」と夫人は見下げたような調子で、歯の間から一こと一こと押し出した。「あら、大変! 気絶だ! ナスターシヤ、ナスターシヤ、水を!」
 しかし、水までには及ばなかった。やがて彼は正気に返った。ヴァルヴァーラ夫人は傘を取り上げた。
「もう何もお話しすることはないようですね……」
「Oui, oui, je suis incapable(ええ、ええ、わたしは今だめです)」
「けれど、明日までにはゆっくり休んで、考えてください。じっと家にいるんですよ。そして、何か事があったら、知らせてちょうだい、夜中でもかまいませんからね。手紙なんか書くことはいりませんよ。それに、読みもしないから。明日またこの時刻にいよいよの返事を伺いに、わたしが自分ひとりっきりでまいりますよ。どうか得心の行くような返事であってほしいものですね。本当に気をつけてね、その時にほかに人がいたり、埃があったりしないようにしてくださいな。まったくなんというていたらくでしょう。ナスターシヤ、ナスターシヤ!」
 翌日、彼はむろん承知した。それに、承知しないわけにいかなかった。それには一つ特別な事情があったのである……

[#6字下げ]8[#「8」は小見出し

 スチェパン氏の領地なるものは(昔ふうに数えて、小作五十人づきのもので、スクヴァレーシニキイと境を接していた)、ぜんぜん彼のものではなく、先妻の所有に属していたので、今では当然、二人の間にできた息子、ピョートル・スチェパーノヴィチ・ヴェルホーヴェンスキイのものであった。で、スチェパン氏は後見の役を勤めているにすぎなかった。したがって、この雛鳥の毛も生え揃った今は、息子の正式な委任状によって領地管理の役目をしている。この契約は息子にとって非常に有利なものだった。つまり、彼は毎年領地の収入として千ルーブリ近くの金を父親から受けとっているが、実際、新しい制度になってからは、五百ルーブリくらいしか収入がなくなったからである(それより少ないかもしれない)。どうしてこんな関係になったのかわからないが、とにかくこの千ルーブリの金は、そっくりヴァルヴァーラ夫人が送ってやって、スチェパン氏は一ルーブリも手伝わなかった。それどころか、その小さな地面から上る収入は、全部自分の懐ろにしまい込んでいたが、とうとうしまいに、どこかの事業家に貸してやったり、この領地の中で一番値打ちのある森をヴァルヴァーラ夫人に内証で伐らせたりして、めちゃめちゃに荒してしまったのである。この森はもう大分まえから、ちょくちょく小刻みに売っていたが、全体として、少なくとも八千ルーブリほどの値打ちはあるにもかかわらず、僅か五千ルーブリくらいしか彼の懐ろに入らなかった。そのわけは、ときどきクラブで大きな負け勝負をすることがあっても、その尻拭いをヴァルヴァーラ夫人に頼むのが恐ろしかったからで。こういうことをしまいにすっかり嗅ぎつけた時、ヴァルヴァーラ夫人は歯がみをして憤慨した。
 ところが、今度とつぜん息子のほうから、自身この町へやって来て、是が非でも領地を売り払うつもりだから、どうか急いでその尽力を頼むという報らせがあった。スチェパン氏は、潔白な欲のない性質として、ce cher enfant(いとしいわが子)に対して、内心|忸怩《じくじ》たるものがあったのは、わかりきった話である(彼が最後に息子の顔を見たのは、もうまる九年も前のことで、場所はペテルブルグ、息子がまだ大学時代であった)。初めはこの領地も全体で、一万三千ルーブリか、あわよくば、一万四千ルーブリくらいの値打ちもあったろうが、今では五千ルーブリも出し手があるか、それさえ覚束ないほどである。もちろんスチェパン氏は、正式の委任を受けている点からいって、森を売り払う権利があったのだ。そのうえ、とうていできるはずのない千ルーブリの金を、長年きちきちと送ってやったのをいい立てにして、精算のとき自己弁護をすることもできたのである。しかし、スチェパン氏は高遠な志望をいだいた廉潔の士だったから、彼の頭脳には驚くばかり美しい一つの想念が閃いた。ほかではない、ペトルーシャ([#割り注]ピョートルの愛称[#割り注終わり])が帰って来たとき、いきなり最大の金額、つまり一万五千ルーブリの金を、立派にテーブルへ広げて、今まで送ってやった金のこともほのめかさずに、ce cher enfant(かわいい息子)を、涙とともに固く固くだき締めて、それでいっさいの片をつけようというのであった。この場の光景を、彼は遠廻しに用心深い調子でヴァルヴァーラ夫人に展開して見せた。そして、こうした行為は二人の友情に、二人の『理想』に、何かこう特別な、上品な色合いを添えるようになるだろう、ともほのめかした。それからまた、この行為は現代の新しい軽薄な、社会主義かぶれのした若い連中に比べて、前代の父親、というより、全体に前代の人間に、高潔で寛厚な姿を帯びさせるに相違ない、というようなことをまだいろいろと話したが、ヴァルヴァーラ夫人はしじゅうおし黙っていた。とどのつまり、それでは息子さんの土地を最高価格、つまり六千ルーブリか七千ルーブリで買ってもいいと、そっけない調子でいいだした(実際は、四千ルーブリくらいで買えるのであった)。森といっしょに飛んでしまった残り八千ルーブリのことは、※[#「口+愛」、第 3水準 1-15-23]《おくび》にも出さなかった。
 それは縁談の持ちあがる一月前であった。スチェパン氏は仰天して、思案にくれ始めた。前にはまだもしかしたら、息子はてんで帰って来ないだろう、というような望みもあった。もっとも、これは傍《はた》から見た望み、つまり、だれかしら関係のない第三者の望みであって、スチェパン氏はむろん父親として、こんなことを当てにする心持ちを、憤然としてしりぞけたに相違ない。それはとにかくとして、ペトルーシャについては、いつも妙な噂ばかり耳に入るのであった。まず六年ばかり前に大学を卒業すると、彼はこれという仕事もなく、ペテルブルグでぶらぶらしていたが、そのうちに、何かビラに使う宣言文の編成に携わって、その仲間に引き込まれているという報らせが、突然わたしたちの耳に入った。その後、彼は思いがけなく外国に姿を現わした。場所はスイスのジュネーブだという話である、――どうせろくなことではない、逃げ出したものに相違ない。
『わたしはどうも不思議でならない』とその当時スチェパン氏はひどくうろたえて、わたしたちにこんな講釈をしたものである。『ペトルーシャは 〔c'est une si pauvre te^te!〕(実に情ない奴だよ!)あれは気だてのいい、潔白な、しかも情に脆い子でね、わたしはペテルブルグで会った当時も、現代の青年者流に比べて、非常に嬉しくも思ったもんだよ。しかし、〔c'est un si pauvre sire tout de me^me〕(なんといってもやくざ者だよ)……しかもだ、それはみんな例の月足らずだからさ、感傷主義から起こることだよ、あの手合いが眩惑されるのは、社会主義の現実的な方面じゃなくって、感傷的理想的方面なのだ。つまり宗教的色彩といおうか、詩味といおうか、そんなところが嬉しいのだ……もちろん、それも他人の説を拝借したにすぎないのさ。けれども、わたしの、わたしの気持ちは、まあ、どうだろう! わたしはここにもあれだけの敵があるんだから、あちら[#「あちら」に傍点]へ行けばなおなお大変だ。何もかも親父の感化ということにされてしまうよ……ああ! ペトルーシャが動力の位置に立ってるなんて! なんという時勢に生まれ合わせたもんだろう!』
 けれど、ペトルーシャは間もなく、いつもの送金の都合上、スイスにおける自分の正確な住所を知らせてきた。してみると、ぜんぜん亡命客に成りきったのでもなさそうである。ところが、こんど四年ばかりの外国滞在の後、とつぜん祖国に姿を現わして、近々この町へ到着する旨を知らせてきた。これで見ると、なんの罪状も擬せられているのではなさそうだ。のみならず、だれか親身に彼のことを心配して、保護してくれるものがあるらしくも思われた。彼は今度は南露のほうから手紙をよこした。だれかの私用ではあるが、だいぶ重大な任務を帯びて出かけたので、なにかしきりに奔走しているのであった。それもこれもけっこうなことだが、しかし、領地の最高額に相当する七千ルーブリか、八千ルーブリの金はどこで手に入れたものであろう? もし、諍《いさか》いなど持ちあがったらどうしよう? 荘厳なる光景の代わりに、訴訟さわぎなどが始まったらなんとしよう? 何かしらあるものがスチェパン氏の耳に、お前の感傷的なペトルーシャは、けっして自分の利益を譲るようなことはしないぞ、とささやいて聞かせるのであった。
『わたしはこういうことに気がついたよ』スチェパン氏は、ある時こうわたしにささやいた。『いったいどういうわけで、ああした猛烈な社会主義者共産主義者が、同時に底の知れないほどけちんぼで、掻き込み屋で、私有論者なんだろう、まったく、社会主義者として深みに入れば入るほど、いよいよ私有論者的傾向が烈しくなるんだからねえ……いったいどういうわけだろう? やっぱり、例の感傷主義から起こるのだろうかねえ?』
 このスチェパン氏の言に真理が含まれているかどうか、わたしは知らない。ただ、ペトルーシャも森林やその他のものの売却のことをうすうす聞き込んでいるし、またスチェパン氏も、息子が何やら聞き込んでいるということを心得ているらしい、とよりほかにはいっこう知るところがないのである。わたしも偶然ペトルーシャの手紙を二、三通読んだことがある。彼は極端に筆不精で、一年に一度か、それよりもっと少ないくらいであった。ただ最近にいたって、自分が近くやって来ることを知らせるについて、引きつづき二通の手紙をよこしただけである。彼の手紙はいつも短くそっけなくて、ただ用件を並べてあるにすぎない。それに、この父子《おやこ》はペテルブルグで会ったそもそもから、当時の流行で t'i([#割り注]きみまたはお前と訳すロシヤ語、親密な関係または侮蔑を含んだ意味に用いられる[#割り注終わり])で呼び合っていたから、ペトルーシャの手紙はまるで改革前の地主が、領地の支配人として選んだ召使の者へ、都からいろいろな命令を発した昔のふうに、そっくりそのままであった。ところが、この事件を解決してくれる八千ルーブリの金が、今とつぜんヴァルヴァーラ夫人の縁談で飛び出したのである。しかも、夫人はその際、この金がもうけっしてどこかほかから飛び出して来る気づかいがないのを、いやというほどはっきり匂わせているではないか。もちろんスチェパン氏は同意した。
 彼は、夫人が帰るとすぐ、わたしを迎えによこしたきりで、その他の面会人をいっさいことわり、いちんち閉じこもっていた。もちろん、泣きもしたし、くどくどと、しかし、巧みに話もした、やたら無性に脱線もした、ひょいと洒落をいって、それを嬉しがってもみた、それから後で、ちょっとしたヒステリイの発作もあった、――つまり万事いつもの定式どおりに進行したのである。それがすむと、今度は二十年も前に死んだ、ドイツ人の細君の写真を引っ張り出して、『お前、わたしをゆるしてくれるかい?』と憫れっぽい調子で口説き始めた。とにかく、彼はなんとなく常軌を逸しているようなところがあった。悲しさを紛らすために、二人で一杯ひっかけもした。とはいえ、彼はすぐ気持ちよさそうに寝入ってしまった。翌朝、彼は巧者にネクタイを結んで、大念いりで着物をつけ、幾度も幾度も鏡と睨めっこをした。それから、ハンカチに香水を振りかけたが、それもほんの心持ちだった。しかし、ヴァルヴァーラ夫人の姿が窓越しに目に入るやいなや、大急ぎで別のハンカチを取って、香水をつけたほうは枕の下へ隠してしまった。
「そりゃけっこうですね!」同意の旨を聞き終わると、ヴァルヴァーラ夫人はこういって賞めた。「第一、立派な決心でもありますし、第二に、あなたが理性の声に耳をお傾けになったのも、いいこってすよ。あなたはいつもご自分の一身上のことについては、あまりそんなものにおかまいなさらないんですがね。もっとも、急ぐことはありませんよ」と夫人は相手の白いネクタイの結びめをじろじろ見廻しながら、こういい足した。「当分だまっててくださいね、わたしも黙っていますから。近いうちに、あなたの誕生日が来ますから、その時わたしはあの子といっしょにまいりましょう。あなたは茶会《ティパーティ》を用意してちょうだい、しかし、お願いですから酒や摘物《ザクースカ》は抜きにしてね。もっとも、わたしが万事自分でしてあげましょうよ。それから、あなたは友だちの方をお呼びなさい、――だけど、その人選は、わたしと二人でいっしょにするんですよ。もし必要があったら、前の日にあの子とよく話し合ってごらんなさい。そして、夜会の席では別に披露だとか、相談だとかいうようなことをしないで、仰山でなくあっさりと匂わすなり、知らせるなりするんですよ。それから、二週間ばかりたって式ですが、できるだけ騒ぎをしないようにね……場合によっては、式がすむとすぐ、しばらくどこかへ二人づれで出かけるとよござんすわ。モスクワでもいいでしょう。わたしももしかしたらごいっしょに行くかもしれません……とにかく、それまでは黙っててちょうだい」
 スチェパン氏は仰天してしまった。そんなことはとてもできない、一ど相手の女と話し合ってみなければ、といいかけたが、ヴァルヴァーラ夫人はいらだたしげにどなりつけた。
「それはなんのためですの? 第一、何事もなくてすむかもしれないんですからね……」
「え、何事もないって!」すっかり度胆を抜かれた花婿は、へどもどしながらこういった。
「ええ、わたしはまだ研究してみなくちゃなりません……けれど、結局わたしのいったとおりになりますよ。だから、心配しないでください。あの子にはわたしが自分でよくいい含めてやります。あなたが話をする必要なんか、ちっともないじゃありませんか。必要なことはすっかりいいもしますし、また、してもおきますから、あなたの口を出す筋合いは少しもありません。いったいなんのためなんです、どんな役割がしてみたいんですの? いいえ、自分でのこのこ出かけちゃいけません。手紙も書くわけにゆきません。とにかく、影も形も見せないようにしてください、頼みましたよ。わたしもやはり黙っていますから」
 夫人はどうしてもそれ以上の説明を肯んじなかった。そして、いかにも度を失った様子で帰って行った。スチェパン氏があまり気乗りがしているのに一驚を喫したのだろう。哀れむべし、スチェパン氏はまるで自分の立場がわからなかった。この問題はいろいろな点で、まだ観察しつくせないところがあった。のみならず、夫人の態度には、何かしら一種あたらしい調子が見え始めた。妙に得々とした、軽はずみなある物が感じられたのである。彼は急に力みだした。
「こいつはすっかり気に入った!」と彼はわたしの前に立ちどまって、両手を広げながら叫んだ。「きみ、聞いたでしょう? あのひとはね、しまいにはこっちからいやだといいだすように仕向けてるんだよ。実際、わたしだって、いつか堪忍袋の緒を切らして、そして……いやだといいだすかもしれないからね! 『じっと坐ってらっしゃい。あなたが会いに行く必要はありません』だとさ。しかし、とどのつまり、このわたしがぜひ結婚しなくちゃならないわけがどこにあるんだ? ただあのひとが急に滑稽な妄想を起こしたからにすぎないんだ。しかし、わたしだって真面目《しんめんぼく》な男子だから、そそっかしい女の暢気な空想に盲従するのは、いやだといいだすこともできるんだからね! わたしには息子に対する義務がある、そして……そして自分自身に対する義務がある! いったいあのひとにはわからないのかしらん、わたしはいま自分を犠牲に供しようとしてるんだ。わたしが承諾したのも、実は人生というものに飽き飽きして、もうどうだってかまわないという気になったからかもしれない。けれど、あのひとがあんまりわたしの神経を昂ぶらせると、もうどうだってかまわんなどとすましていられない。わたしは憤りを発して、だんぜん拒絶してしまう…… et enfin le ridicule(それに第一お笑い草だよ)ああ、クラブでは何というだろう? そして……リプーチンはどういうだろう?『もしかしたら、何事もなくてすむかもしれません』だとさ……何という言い草だ? ここまで来ればもう頂上だ? これは実際……これは実に言語道断だ! 〔je suis un forc,at, un Badinguet〕(ああ、わたしは囚人だ、バタンゲのような脱獄囚だ)壁におしつけられた人間だ!」
 が、それと同時に、なんとなく気まぐれな自足の色と、妙にうわついた遊びの気分が、この訴えるような叫びの隙間からことごとに顔を覗けるのであった。その晩、わたしたちはまた一杯ひっかけた。

[#3字下げ]第3章 他人の罪業[#「第3章 他人の罪業」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 一週間ばかりたった。そして、事件はいくらか進展し始めた。
 ついでにちょっといっておくが、この迷惑しごくな一週間のうちに、わたしはだれより隔てのない相談相手として、とつぜん縁談の当事者となったスチェパン氏の傍につききっていたので、ずいぶんいやな思いをしたものである。わたしたち二人はこの一週間だれにも会わないで、差し向かいで家にばかり閉じこもっていたけれど、彼は何より羞恥の念に悩まされて、しまいにはわたしさえも恥ずかしがるようになった。自分でわたしにいろんなことをうち明ければうち明けるほど、ますますわたしに癇癪を起こすのであった。持ち前の疑り深い性分から、何もかも町じゅうへ知れ渡ったような気がして、クラブはおろか自分たちの仲間にすら、顔を出すのを恐れていた。運動のためにやむをえず散歩に出るのさえ、たそがれの色が濃くなった時ばかりを選んだ。
 一週間たってしまった。けれども、本当に自分が花婿なのかどうか、彼は依然として知らずにいた。またいかにもがいてみたところで、それを正確に突き止めることは、どうしてもできないのであった。花嫁ともまだ会わなかった。第一、彼女が自分にとって花嫁なのかどうか、それさえよくわからなかった。それどころか、この話に少しは真面目なところがあるのやらないのやら、それさえかいもく見当がつかないのであった。ヴァルヴァーラ夫人は、どうしたのか、だんぜん彼を寄せつけようとしなかった。最初かれの送った手紙の一つに対して(彼は数知れず手紙を書いた)、夫人は思いきり無愛想な返事で酬いた。いま忙しいから、しばらくいっさいの交渉をお断わり申したい、が、自分からもいろいろと重大なことをお知らせしなければならないから、今より少し暇な時が来るのを待っている、おいでになってもいい時には、自分の方から追っつけ[#「追っつけ」に傍点]お知らせする、またお手紙は封のままそっくりお戻ししよう、あんなことは『ただのおしゃべり』にすぎないから、――というのであった。この手紙はわたしも読んで知っている。当のスチェパン氏が見せてくれたので。
 しかし、こうした無礼も、決まりのつかない状態もすべて、彼のいだいているおもな不安にくらべたら、些々たるものであった。この不安は恐ろしい力をもって、しゅうねく彼を苦しめた。彼はそのために身も細り、心も弱ってゆくばかりであった。それは、彼が心中なにより恥ずかしく思って、わたしにさえも話さないことであった。実際、彼はわたしに話すどころか、折りにふれ時にふれ、まるで小さな子供のように嘘をついたり、ごまかしたりばかりしていた。そのくせ自分のほうから、毎日のようにわたしのところへ使をよこして、わたしというものなしでは二時間と過ごせなかった。まるで空気か水のようにわたしを必要としていたのである。
 こうした彼の仕向け方は、幾分わたしの自尊心を傷つけた……もちろん、わたしはもうとっくにこの主な秘密を洞察して、彼のはらを底の底まで見とおしていた。当時、わたしはこの秘密、すなわちスチェパン氏のおもな不安を暴露するのは、けっして彼の名誉を増す所以でないと深く信じていたので、若い者にはありがちのことだが、彼の感情が粗暴で、その疑いの醜いのに、幾分もう腹をすえかねる思いでいた。で、わたしはつい興奮のあまり(実際のところ、彼の相談相手に選ばれて、退屈でたまらなくなったせいでもあるのだ)、やり過ぎたかと思われるくらい、手ひどく攻撃してやった。この容赦ない攻撃のおかげで、わたしはとうとう彼に何もかも白状さしてしまった。もっとも、ある種の事柄になると、なかなか自白がむずかしいということは、是認せざるをえなかった。彼のほうでも、わたしのはらを見透かしていた。つまり、わたしが彼のはらを見透かして、憤懣をいだいているということを、明瞭に見て取ったのである。そして、わたしが彼に憤懣の情をいだいており、彼のはらを底まで見透かしているのを根に持って、自分のほうからわたしに憤懣の念をいだいていた。ことによったら、わたしの憤慨は浅薄で、馬鹿馬鹿しいものだったかもしれない。しかし、二人さし向かいでいるということは、どうかするとはなはだしく真の友情を傷つけるものである。彼は一定の観点からは、自分の位置のある側面を正確に理解し、格別かくす必要を認めないような点については、きわめて細緻な解剖を試みるのであった。
「ああ、あの時分はあのひともあんなじゃなかった!」彼は時おりヴァルヴァーラ夫人について、こんなふうに口をすべらした。「以前われわれ二人がいろんな話をした時分は、けっしてあんなじゃなかった……きみも知ってるだろうが、あの当時は、あのひとも話をするすべを心得てたよ。きみは本当にできないかしらんが、あの時分はあのひとにも思想があった、自分の思想というものがあった。ところが、今はすっかり変わってしまった! あのひとにいわせると、そんなことはみんなただの古くさいおしゃべりにすぎないんだそうだ! あのひとは昔のことを馬鹿にして……今じゃまるでどこかの手代か、家事取締りのように、恐ろしい気の荒い人になってしまった。そして、しじゅう腹を立ててばかりいる……」
「何を今さら怒ることがあるんでしょう、あなたはあのひとの要求をいれたんじゃありませんか!」とわたしは言葉を返してみた。
 彼は微妙な表情を浮かべて、わたしの顔を見た。
「|ねえ、きみ《シェラミ》、もしわたしが承諾しなかったら、どんなに腹を立てたかしれやしない、そりゃ恐ろしいよ! しかし、それでも、わたしの承諾してしまった今ほどじゃなかったろうよ」
 この一言で彼は満足した。その晩わたしたちは一壜飲み干した。が、それはほんの一時で、翌日はまた今までにないほどもの凄い、気むずかしそうな様子になっていた。
 けれど、何よりわたしのじれったく思ったのは、こんど到着したドロズドヴァ母子《おやこ》と旧交を温めるためにぜひしておかねばならぬ訪問を、彼が怠っていることである。そのくせ、先方でもこれを望んでいる証拠には、彼のことをいろいろたずねたそうだし、彼自身も非常に懐かしがっていた。リザヴェータのことなどは、わたしに合点のゆかぬほど感激にみちた調子で話し話しした。それはもちろんリザヴェータという女について、以前こころからかわいがっていた子供のおもかげを描いていたのであろうが、単にそればかりでなく、ひょっとしたら、自分の大きな疑惑を解くこともできるだろうと、なぜかこんなふうに空想していたからである。とにかく彼はリザヴェータを、非常に変わった女のように想像していた。それでいて、毎日のように考えているくせに、やはり彼女を訪ねて行かなかった。
 が、それよりもわたし自身が、彼女に紹介してもらいたくてたまらなかった。けれども、そうするにはスチェパン氏よりほか、だれ一人あてにする人がなかった。わたしはもうたびたび彼女に出会って、なみなみならぬ印象を受けていた。むろん、それは途中の行きずりで、彼女が馬上で散歩に出かける時だった。彼女は乗馬服を着て、見事な馬に跨がり、例の親戚の男という美しい将校、亡くなったドロズドフ将軍の甥と連れ立っているのが常であった。しかし、わたしの迷いはほんの一ときしかつづかなかった。わたしはすぐに自分の空想が、しょせん実現できないのを悟ってしまった。が、ほんの一ときとはいい条、そういう感じが実在していたのは、いなむことができない。だから、当時わたしが気の毒な友人に対して、どんなにその頑なな蟄居を不満に思ったかは、推察するにあまりがある。
 わたしたちの仲間に対しては初めから公然と、スチェパン氏はしばらくだれにも面会しないから、どうか邪魔をしないように、と触れ込んであった。彼はわたしが留めるのも聴かないで、ぜひとも一人一人知らせて廻らねばならぬといい張るので、わたしも彼の乞いをいれて、仲間の家を廻って歩いた。そして、ヴァルヴァーラ夫人が『老大人』(わたしたちは仲間同士で、スチェパン氏をこう呼んでいた)に急ぎの仕事を依頼した、なんでもこの二、三年来の手紙を整理するとかいって、書斎の中へこもってしまったので、わたしも彼の手伝いをしている、といったふうのことを吹き込んだものである。ただ、リプーチンのところへだけは寄る暇がなくて、ずるずるべったりに延ばしていた、というより、むしろわたしは、この男のところへ行くのが怖かったのである。この男がわたしのいうことをこれっから先も信じないで、『これには何か秘密があって、自分一人にだけ知らすまいとしているのだ』などと気を廻して、わたしが外へ出るとすぐ町じゅうを飛び歩き、根掘り葉掘りさぐり出し、根もないことを触れ廻すに相違ないと、前から見抜いていたからである。
 こんなことを思いめぐらしているうちに、わたしは計らず往来で彼に出会ってしまった。聞いてみると、彼はたった今わたしが知らせてきた仲間から、もう何もかも聞き込んでいるのであった。けれど、不思議なことに、彼は持ち前の好奇癖を起こして、スチェパン氏のことをたずねようともせず、かえってわたしが通知の遅れた詫びをいいだそうとすると、自分のほうから話の腰を折り、すぐに別な話題へ移ってしまった。実際、彼はうんと話の種を蓄めていた。そして、恐ろしく感情を興奮さしていたので、やっとわたしという聴き手をつかまえる機会がきたのを、馬鹿によろこんだのである。彼はさっそく市中の珍聞を話しだした。それは新知事夫人が『新しい話題』を持って乗り込んだということ、クラブではもうその反対党が組織されたということ、だれもかれも新理想を叫んで、まるではやり病いかなんぞのようだ、ということであった。
 彼は十五分ばかりしゃべりとおした。しかも、その話っぷりが面白いので、どうしても耳を傾けずにいられなかった。わたしはこの男が大嫌いなのだけれど、彼が自分の言説を傾聴せしめる天分を持っていることは、認めてやらぬわけにゆかない。ことに、何かに腹を立てた時、その特色はいよいよ鮮やかに発揮せられた。わたしの見るところでは、この男は生まれつき腹からの密偵で、いついかなる時でも、市中のごくごく新しい出来事や、底の底の秘密までも知らないことがなかった。それも、おもに醜怪な方面に関したものが多かった。どうかすると、自分にまるっきり関係のないことを恐ろしく気にする癖があるのには、一驚を喫せざるをえなかった。わたしはいつもそう思っていた。彼の性格の基調をなすものは、嫉妬なのである、と。その晩わたしがスチェパン氏に、今朝のリプーチンとの邂逅や、二人の話などを知らせたところ、彼は意外にも恐ろしく気を揉み出して、『リプーチンは知ってるか、どうだろう?』などという奇怪な質問さえ発した。わたしは、そんなに早く知れるはずがない、第一、聞く人がないではないかと反駁したが、スチェパン氏はいっかな譲ろうとしなかった。
「きみは本当にしようとしまいと勝手だが」彼はとうとうふいにこういう意味の言葉で話を結んだ。「わたしは固くこう信じている。あの男は今のわれわれ[#「われわれ」に傍点]の状況を、細大洩らさず知っているばかりでなく、そのほかに何か、きみもわたしも知らないようなことも、知っているに相違ない。しかも、そのことはわれわれに、とうてい知れる時がないのだ。たとえ知れることがあっても、それはもう手遅れになって、取り返しのつかない時なのだ!………」
 わたしはじっと黙っていたが、この言葉は無量の意味を暗示していた。その後まる五日間、わたしたちは一口もリプーチンの噂をしなかった。スチェパン氏もうっかり口をすべらして、そういう疑念をわたしにうち明けたのを、今さら後悔しているのが、わたしにはありありとわかっていた。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 ある朝、――それはスチェパン氏が結婚を承諾してから、七日めか八日めのことだった、――およそ十一時ごろ、例によって『悲しめる友』のもとへ急いで行く途中、ある一つの出来事が生じた。
 わたしは、リプーチンのいわゆる『大文豪』カルマジーノフに出会ったのである。わたしはカルマジーノフを子供の時分から愛読していた。彼の小説や短編は、前時代はおろか現代にまでもあまねく知れ渡っている。わたしは夢中になって読んだ。彼の作品は少年時代、青年時代におけるわたしの快楽であったが、その後、わたしは彼の筆に対して、いくぶん冷淡になった。このごろ彼が書きつづけている傾向的な小説は、もう以前の作品ほど好きでなくなった。彼の最初の創作は偽らざる自然の詩味に富んでいたが、ごく最近のものになると、もうまるで嫌いになってしまった。
 こういう尻くすぐったいことについて、自説を吐くのも生意気なようだが、全体として、こういう中どころの才能しか持ち合わせないくせに、存命中天才扱いをされる先生がたは、たいてい死んでゆくと同時に、世間の記憶から跡形もなく消えてしまうのはまだいいほうで、どうかすると、まだ生きているうちから、新しい世代が生長して、大家連の活動していた時代に取って代わるが早いか、不思議なほど早く人から忘れられ、度外視されてしまうものである。どういうわけか、ロシヤではこういうことが、まるで芝居の背景でも取り替えるように、実にとっさの間に行なわれる。こういう場合、プーシキンゴーゴリモリエールヴォルテールなどというような、自分自身の新しい言葉を発するために生まれてきた人たちとは、まったくわけが違うのである。またこうした中どころの才能を持った先生がたが、年功で尊敬される人生の下り坂にかかる頃には、普通、自分でもまるで気のつかないうちに、意気地なく書きつくして種切れになるのは間違いのない話である。久しい間、きわめて深い思想をいだいているものと信じられ、社会運動に対する大きい真面目《しんめんぼく》な影響を期待された作家が、とどのつまり自分の根本思想の稀薄で瑣末なのを暴露し、意外に早く種切れになったからといって、だれひとり惜しがってくれない、というようなことも、往々にして見受ける習いである。ところが、かしらに霜をおいた老作家はそれに気がつかないで、腹を立てている。彼らの自負心は、まさにこの活動の終わりに近い頃、ますます大きくなっていって、時としては、驚嘆を禁じえないことさえある。いったいこの連中は、自分をなんと心得ているのか知らないが、少なくとも神様くらいには思っているのだろう。
 カルマジーノフについてはこんな話がある。ほかでもない、彼は有力な人たちや上流の社交界との関係を、わが魂よりも大事がっているとのことである。人に出会った時は、愛想を振り撒いたり、お世辞をいったりして、うち解けた調子で相手をとりこにしてしまう。もちろん、その男が何かのわけで必要のある場合とか、或いはあらかじめ紹介を経ている場合などにいたっては、言を用いるまでもないことである。ところが、公爵とか伯爵夫人とか、または自分の恐れている人の前へ出たが最後、その男が傍を離れるか離れないかに、まるで木っぱか蠅みたいに、思いきり人を馬鹿にしたとぼけた態度で、その男のことをけろりと忘れてしまうのを、神聖なる義務と心得ている。それが最も高雅な美しい社交上の態度だと本気で考えているのだ。彼は非常に慎み深くもあるし、模範的な挙措動作も完全に承知しているくせに、ヒステリイじみるほど自尊心が強くって、あまり文学に興味を持たない社会へ出ても、作者としての癇癖を隠そうとしない。もし偶然だれかが冷淡な態度で、彼に間の悪い思いでもさせようものなら、彼は病的に憤慨して、復讐に努めるとのことであった。
 一年ばかり前、わたしはある雑誌できわめて幼稚な詩味と、おまけに心理まで狙った、彼の一文([#割り注]「船火事」ツルゲーネフ[#割り注終わり])を読んだことがある。それはどこかイギリスの海岸で、一艘の船が沈没した模様を書いたもので、彼はそのとき現場に居合わして、死にかけている人たちが救助されるところや、溺死したものが引き上げられるところなどを見たのである。かなり長くてむだの多いこの一文は、ただ自分を見せ物にしたさに書かれたもので、『さあ、わが輩に気をつけたまえ、この瞬間にわが輩がどんな態度をとったか、見てくれたまえ。そんな海や、暴風や、岩や、船のかけらなんか見てどうするのだ? そんなことはわが輩の霊活の筆をもって、十分に描いておいたじゃないか。なんだってきみがたは生のかよってない、両手に死んだ子供をだき締めた、溺死女なぞに気をとられてるんだ? それよりか、わが輩のほうを見たまえ――わが輩がこの光景を見るに堪えないで、顔をそむけたところは見ものだよ。そら、わが輩はくるりとうしろ向きになった。そら、わが輩は恐ろしさのあまり、うしろを振り返って見る勇気がないんだよ。さあ、わが輩は目をつぶった、――実に面白いじゃないか?』といっているのが、文章の陰から明らかに読まれるのであった。わたしがこの一文に関する意見をスチェパン氏に述べたところ、彼もわたしの言葉に同意してくれた。
 先頃カルマジーノフ来訪の噂が立ったとき、むろん、わたしも一度あってみたい、できることなら、親しく接してみたいという、強い欲望を感じた。しかし、それをするには、ぜひスチェパン氏の手を経なければならない、二人はかつて親友だったのだ。ところが、いまはからずも四辻で、ぱったりこの人に出会ったのである。わたしはすぐに見分けがついた。二、三日前、彼が知事夫人といっしょに、幌馬車に乗って行くところを、わきの人に教えてもらったからである。
 それは恐ろしく背の低い、高慢そうな老人だった。もっとも、年は五十五を出ないらしく、顔色はかなり赤みがかって、房々とした灰色の髪は、円いシルクハット風の帽子からはみ出しながら、綺麗な薔薇色をしたかわいい耳のあたりで渦を巻いている。綺麗な顔だが、大して美しいとはいえない。薄い長めの唇は狡猾そうに結んで、鼻はやや肉が厚く、目は鋭く利口そうだったが、少し小さかった。身なりは今時の気候なら、どこかスイス、でなければイタリアの北のほうででも着そうな、妙なマント様なものを羽織って、なんとなく古めかしく見えた。しかし、少なくとも、その着物に付属しているこまごましたもの、たとえばカフスボタンだとか、カラーだとか、ボタンだとか、細い黒紐のついた鼈甲縁の眼鏡だとか、指環だとかいうものは、一点非の打ちどころのない、作法をわきまえた人たちにのみ見受けられるようなものだった。『夏になったら、この人は何か横のほうに青貝のボタンのついた、色ラシャの靴をはいて歩くに相違ない』とわたしは思った。二人が行き会ったとき、彼は往来の曲り角に立ちどまって、注意深くわたしの顔に見入った。わたしがもの珍しそうに眺めているのに気がつくと、彼は少しきいきいしているけれど、蜜のような甘ったるい声で問いかけた。
「ちょっとおたずねしますが、ブイコーヴァ街へ出る近道は、どう行ったらいいでしょう?」
「ブイコーヴァ街ですって? もうここがそうですよ」とわたしは馬鹿に胸を躍らせながら叫んだ。「この通りを真っ直ぐに行って、二つ目の角を左へ曲るんです」
「どうもありがとう」
 この時わたしはいまいましいことをしてしまった。どうもわたしは少し気おくれがして、へつらうような目つきでもしたらしい。彼は一瞬の間にそれを見て取って、すぐに何もかも承知した。つまり、わたしがもうこの人の何者たるやを知っているということも、ずっと子供の時分からこの人のものを愛読して、この人を神様のように崇めているということも、いま気おくれがして、へつらうような目つきをしているということも、すっかり見抜いたのである。彼はにたりと笑って、一つうなずくと、教えられたとおり、真っ直ぐに歩き出した。なんのためか知らないが、わたしはまた彼の後について、もと来たほうへと引っ返した。そして、どういうつもりか、十歩ばかり傍にくっついて駆け出した。と、彼はとつぜん足をとめた。
「どうでしょう、ごぞんじありませんか、ここから一ばん近い辻馬車の立て場は、どこでしょうな?」と彼はまた叫んだ。
 いやな叫び方、いやな声!
「辻馬車ですか? 辻馬車の立て場でここから一ばん近いのは……教会堂の傍です、あそこにはいつでもいますよ」といいながら、わたしはあやうく馬車を呼びに駆け出そうとした。それが彼の思う壺だったのではないか、とも疑われる。もちろん、わたしはすぐわれに返って、足をとめた。が、彼はこのわたしの挙動をよく目に留めて、例のような薄笑いを浮かべながら、わたしの様子を見守っていた。この時、わたしの一生わすれられないことが起こったのである。
 彼はとつぜん左の手に持っていた、小さなサックを取り落とした。もっとも、それはサックでなく、何か小さな箱のようなもの、というよりむしろ小形のポートフォリオ、いや、もっと適切な言葉を求めれば、一種のリジキュールであった。古風な婦人用の手提袋みたいなもので、とにかく、なんというものか知らないが、わたしがそいつを飛んで行って、拾おうとしたのだけは確かである。
 わたしはけっして拾いはしなかったと、固く信じているけれど、わたしの最初の動作ばかりは、なんとも弁護の余地がない。わたしはもう隠しようがなくて、馬鹿みたいに顔を真っ赤にしてしまった。ところが、古狸はすぐにこの場の様子から、自分の力で想像できるだけのことを、すっかり推測してしまったのである。
「ご心配なく、わたしが自分でします」と彼はいかにも愛想のいい調子でいった。つまり、わたしが手提袋を拾わないものと、十分に見きわめがついたのだろう。自分でそれを拾い上げると、わたしに断わりでもいうように、もう一度うなずいて見せて、わたしをぽかんと一人とり残したまま、さっさと自分の行くべきほうへ歩き出した。これでわたしが拾ってやったのも同じようになってしまった。五分ばかりの間、わたしはもうすっかり、永久に泥を塗られたような気持ちがした。けれど、スチェパン氏の家へ近づいた頃、わたしはだしぬけにからからと笑いだした。今の邂逅が恐ろしく愉快に感じられたので。わたしは、この話でスチェパン氏の気を紛らしてやろう、顔つきまで真似て、今の一幕を描いて見せよう、と即座に決心した。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 しかし、行ってみると、意外にも今日は彼の様子が、まるで変わっているではないか。もっとも、わたしが入ると同時に、餓えた獣のように飛びかかってきて、わたしの話を聴き始めたのは事実である。しかし、妙に喪神したような顔つきで、初めのうちなどわたしのいうことが、ろくにわからないようなふうだった。けれど、わたしがカルマジーノフの名を口にするやいなや、彼はとつぜん前後を忘れてしまって、
「いわないでくれたまえ、その名を口に出さないでくれたまえ!」と、まるで気でもちがったような調子で叫んだ。「さあ、さあ、これを見たまえ、これを読んでくれたまえ! ちょっと読んで見たまえ!」
 彼は抽斗を抜いて、何やら鉛筆で走り書きした小さな紙きれを、テーブルの上へほうり出した。これは三つともヴァルヴァーラ夫人から来た手紙で、最初の分はおととい、二度目のは昨日の日付けになっていて、三度目のは今日、たった一時間ばかり前に来たばかりである。内容はごくつまらないことで、みんなカルマジーノフに関連したものだった。つまり、カルマジーノフが自分のことを忘れて、訪ねて来ないのではなかろうかという心配のために、どれほどヴァルヴァーラ夫人があわただしい、浅はかな苦労をしているかが、すっかり暴露されていた。一昨日(もしかしたら先おとといか、それとも、もう一日前かもしれない)着いた手紙は、次のようなものである。

[#ここから1字下げ]
『もしあの人があなたのところへ今日にでもお見えになったとしたら、どうかわたしのことは一口もいわないでください。少しでもそんなことをほのめかしてはいけません。けっしてあなたのほうから話しかけたり、匂わしたりしないでください。V・S』
[#ここで字下げ終わり]

 昨日の分は、

[#ここから1字下げ]
『もしあの人が遅蒔きながら、今朝にもあなたを訪問する気になったとしても、全然お会いにならないほうが、わたしは立派だと思います。これはわたしの考えですが、あなたのお考えはいかがですか。V・S』
[#ここで字下げ終わり]

 きょう来た最後の分は、

[#ここから1字下げ]
『あなたのところには、ごみが車に一台くらい溜まっていて、煙草の煙で家じゅう濛々としているに違いないと思いますから、マリヤとフォムシカをお宅へ上げます。この二人でしたら、三十分で片づけてしまいますよ。ですから、あなた邪魔をしないように、掃除の間お台所にでも坐っててください。それからブハーラ織の絨毯と、支那焼の花瓶を二つ持たせてやります。これは前から差し上げたいと思っていたのですから。そのほか、うちのテニエルス([#割り注]一七世紀フランドルの画家[#割り注終わり])も持たせます(これはしばらくの間ですよ)。花瓶は窓の上にでものっけて置かれますし、テニエルスは右側のゲーテ像の下にお掛けなさいまし。あすこが一番目立つところですし、毎朝、日がさしますからね。もしいよいよあの人が見えたら、垢抜けのした丁寧な態度で応対しなきゃ駄目ですよ。なるべく軽いちょっとした学者らしい話をするようにして、つい昨日わかれたばかり、といったような顔をしていらっしゃい。わたしのことはおくびにも出さないでください。晩になったら、ちょっと様子を見に行くかもしれません。V・S
二伸 もし今日みえなかったら、もうけっして来やしません』
[#ここで字下げ終わり]

 読み終わってから、なぜ彼がこんなくだらないことで、こうまで興奮するのだろうと、わたしは不思議に思ったので、不審の目つきで彼のほうを見ると、スチェパン氏はわたしが手紙を読んでいるうちに、いつの間にやら不断の白いネクタイを赤いのに取り替えていた。そして、帽子とステッキがテーブルの上に置いてあった。当のスチェパン氏は顔を真っ青にして、手までわなわな慄わしていた。
「あのひとの心配なんか、こっちの知ったことじゃない!」わたしの不審そうな目つきに答えるように、彼はのぼせ上ってこうわめいた。「Je m'en fiche!(もう愛想がつきはてた!)あのひとはカルマジーノフのことで気を揉む暇があっても、わたしの手紙には返事もくれないのだ! そら、ここにわたしの手紙がある。これは昨日あのひとが、封のまんまで返してよこしたのさ。そら、そのテーブルの上さ、その本の下にあるんだ、『笑う人《ロンム・キ・リ》』([#割り注]ユゴーの小説[#割り注終わり])の下にあるんだ。あのひとがニコーレンカ([#割り注]ニコライの愛称[#割り注終わり])のことで、どんなに苦労しようと、それをこっちが知ったことか! 〔Je m'en fiche et je proclame ma liberte'.〕 Au diable le Karmazinoff! Au diable la Lembke!(もう愛想がつきた。わたしは自分の自由を宣言する。カルマジーノフの畜生なんかどうでもしろ、レムブケー夫人の畜生なんか、勝手にするがいい!)わたしは花瓶を控え室へ隠してしまった。テニエルスも箪笥の中へしまっちゃった。そして、あのひとにすぐ来てくれと要求してやった。いいかね、要求してやったんだよ! わたしはね、あのひとと同じような紙っきれに、鉛筆の走り書きのまま封もしないで、ナスターシヤに持たせてやったんだ。そうして、返事を待っているところなのさ。わたしはダーリヤが自分の口から天帝の立会いの下に、いや、少なくともきみの立会いの下に、立派に断言するのが聞きたいのだ。〔Vous me seconderez, n'est ce pas, comme ami et te'moin〕(きみはわたしのために立会ってくれるだろうね、友人として、また事件の精通者としてさ)わたしは赤い顔をしたくない、嘘をつきたくない。わたしは秘密を欲しない。この事件には断じて秘密の存在を許さない! わたしはすべてをうち明けてもらいたいんだ! 露骨に、率直に、公明に……そうすれば……そうすれば、わたしは自分の寛大な態度で、一世を驚倒したかもしれないんだがなあ! いったいわたしは卑劣漢なのかどうだろう、え、きみ!」とつぜん彼はこういって、語を結んだ。まるでわたしが彼を卑劣漢と思ってでもいるように、凄い目でわたしを睨みつけながら。
 わたしは水を一杯のむように頼んだ。この人がこんな様子をしたのを、今までかつて見たことがない。彼はしゃべっている間じゅう、部屋の中をあっちの隅から、こっちの隅へと駆け廻っていたが、とつぜん何かこう一通りならぬ身構えをして、わたしの前に立ちどまった。
「いったいきみは」彼は再び病的に傲慢な態度で、わたしを頭のてっぺんから足の爪先まで、じろじろ見廻しながら、こう切り出した。「いったいきみはわたしに、スチェパン・ヴェルホーヴェンスキイに、まるで気力がないと思ってるのかね? 自分の名誉心と、偉大な不羈独立の主義を要求する場合には、あの箱([#割り注]ロシヤで旅行に用いる曲木製の箱[#割り注終わり])を取って、――あの見すぼらしい箱を取って――、この弱い肩に振り掛け、門の外へ踏み出して、永久にここから姿をくらましてしまう気力が、ないと考えてるのかね! どうして、スチェパン・ヴェルホーヴェンスキイが男らしい態度で専制主義を撃破したのは、もう一度や二度じゃないからね。もっとも、それは気ちがいじみた一婦人の専制主義ではあるが、これこそこの世で実現しうる最も暴慢な、最も残酷な専制主義なんだよ。きみは今わたしのいうことを聞いて、失礼にもにやりと笑ったようだが、いくら笑ったって駄目だよ、きみ! ああ、きみは信じてくれないんだ、――わたしが心中に勇気を奮い起こして、どこかの商人の家で家庭教師として生を終わるか、またはよその垣根の下で餓え死にすることもできるということを、きみは信じてくれないんだ! さ、返答したまえ、たったいま返答したまえ、きみは信じてくれるのか、くれないのか?」
 わたしはわざと押し黙っていたばかりか、どうもうんというのも躊躇されるし、さりとて、いやと答えるわけにもゆかない、というような顔つきさえして見せた。こうした彼のいらだたしい態度には、何か極度にわたしの憤懣をしいるようなものがあった。しかし、それはわたし一個人に関したことではない、けっしてそうではない! まあ……後で説明することにしよう。
 彼は顔の色まであおざめてしまった。
「G君(これはわたしの苗字で)、たぶんきみはわたしといっしょにいるのが退屈なんだろう。きみはもう全然……ここへ来ないようにしたいと思っているのだろう?」たいていの場合、凄まじい感情激発の前兆となるあおざめた沈静の調子で、彼はこういいだした。
 わたしはぎょっとして飛びあがった。と、その瞬間、ナスターシヤが入ってきて、無言のままスチェパン氏に、何か鉛筆で書きつけた紙きれを差し出した。彼はちらと目をそそぐと、そのままわたしのほうへほうり出した。その紙きれにはヴァルヴァーラ夫人の手で、たった二こと書いてあった。
『うちに坐っていらっしゃい』
 スチェパン氏は無言で帽子とステッキを取り、ぷいと部屋を出て行った。わたしも機械的に後からついて出た。すると、とつぜん廊下でだれかの話し声と、忙しそうな足音が聞こえた。彼はまるで雷に打たれたように、立ちすくんでしまった。
「あ、リプーチンだ。もうおれは駄目だ!」と彼はわたしの手をつかまえながらささやいた。
 その瞬間、リプーチンが入ってきた。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 どうしてリプーチンのために駄目になったのか、わたしは知らない。それに、わたしはこの言葉に大した意味を認めもしなかった。当時、わたしは何もかも、神経のせいにしていたからである。が、それにしても、彼の驚きようがあまり烈しかったので、わたしは仔細に観察することに決心した。
 リプーチンは、入ってきた様子だけで判断しても、『今日こそいくら禁止があったって、大っぴらで来る特権を持っていますぜ』というように見えた。彼はだれかよそ者らしい、見知らぬ人を連れていた。そこへ棒立ちになったスチェパン氏の、きょとんとした目つきに答えるように、彼はさっそく大声にわめきだした。
「お客様をつれて来ました、しかも、特別のお客様ですよ。せっかくのご隠棲を乱すようですみませんが、この方はキリーロフ氏、立派な腕を持った建築技師です。第一、ご子息を知っておられます。あのピョートルさんをね。非常に親しい間がらなんです。それに、ご子息から何かことづけを頼まれていられるそうで。つい今しがたお着きになったばかりです」
「ことづけというのはきみのつけたりですよ」と客はぶち切るようにいった。「ことづけなんかありゃしません。しかし、ヴェルホーヴェンスキイ君は実際知っています。X県で別れたばかりです、十日ほど前に」
 スチェパン氏は機械的に手を出して、握手した後、腰をおろすよう、仕方ですすめたが、ぼんやりわたしの顔を見てから、次にまたリプーチンのほうを見やった。と、ふいにわれに返って、あわてて腰を掛けたが、手にはやはり帽子とステッキを持ったまま、気がつかずにいるのであった。
「おや、お出かけなんですね。わたしはあまり仕事に熱中されて、ご病気のように聞いていましたが」
「ええ、病気なんだがね、今ちょっと散歩に出ようと思って、その……」
 スチェパン氏は言葉を切って、帽子とステッキを手早く長いすの上へほうり出した。彼はもう真っ赤になってしまった。
 わたしはその間にざっと客を観察した。彼はまだ二十七かそこいらの若い男で、これという難のない身なりをした、背のすらりとした痩せぎすのブリュネットだった。あお白い顔はいくらか薄汚いような陰を帯び、黒い目には光がなかった。物を考えふける質《たち》の放心家らしく、妙に断片的な文法に合わない話し振りで、言葉と言葉の配列がなんとなく変だった。そして、少し長めな話になるとまごつくのであった。リプーチンは、スチェパン氏の恐ろしいあわて方をすっかり見てとって、いかにも満足らしい様子だった。彼は籐いすを部屋の真ん中へ引っ張り出して、その上に腰を掛けた。それは、主客が部屋の両端にある二つの長いすに向かい合って坐っているので、その間に同じくらいの間隔をおいて陣取るためだった。その鋭い目に好奇の色を浮かべながら、部屋の隅隅を探り廻していた。
「わたしは……もう長くペトルーシャに会いませんが……あなたは外国でお会いになったのですか?」とスチェパン氏は客に向かって、やっとどうやらこうやらこれだけのことをいった。
「ええ、こちらでも、外国《あちら》でも」
「アレクセイ・ニールイチは、外国に四年ばかり滞在されて、つい近ごろ帰られたばかりなんですよ」とリプーチンが引き取った。「専門のほうの研究に出向かれたのですが、今度こちらへ見えたのは、ここの鉄橋架設工事に口が見つかるという、確かな当てがあったからなんですよ。目下さきの返答を待っておられるのです。ドロズドフ家の人たちも、――リザヴェータさんも、ご子息さんを通じてよく知っていられます」
 技師はまるで鳥が毛を逆立てたような恰好をして、その場のばつが悪くなるほど、じれったそうな様子で耳を傾けていた。何かこの人は怒ってるのではないかと、わたしは思った。
「この方はニコライ・フセーヴォロドヴィチもごぞんじですよ」
「ニコライ君もごぞんじですって?」とスチェパン氏がたずねた。
「あの人も知っています」
「わたしは……わたしはもう長いことペトルーシャに会いません……なんだか自分で父だなどと名乗るのが、心苦しいくらいです……c'est le mot(これは名言だ)わたしは……あれは、あなたとお別れした時どんなふうでした」
「いや、べつに……あの男は自分でやって来ますよ」とキリーロフ氏はまた急いで逃げを打った。
 彼はもう間違いなく腹を立てていた。
「やって来ますって! それで、やっとわたしも……ねえ、あなた、わたしはもう長くあれに会わないんですよ」スチェパン氏はすっかりこの文句にこびりついてしまった。「わたしはあの不仕合わせな子供を、待ち焦れてるんですよ。あれに対して……わたしはあれに対して、悪いことをしているんです! いや、なに、わたしがいおうと思うのは、あのペテルブルグで別れた当時……つまり、手短かにいえば、まるであれを眼中においてなかったのです、quelque chose dans ce genre(まあ、そういったあんばいだったので)あの子はご承知のとおり、神経質な、恐ろしく感じやすい……そして気の小さい質でした。夜やすむ時にも、寝てる間に死んでしまやしないかと心配して、床に額をつけて拝むやら、枕に十字を切るやら大騒ぎなのです……je m'en souviens. Enfin(わたしは覚えています。要するに)優雅な感情というものが少しもない、つまり、高級な根本となるようなもの、――まあ、何か将来の理想の萌芽ともいうべきものが欠けているのです……〔c'e'tait comme un petit idiot〕(いわば、馬鹿な子供といったようなもので)しかし、わたしは自分で話をこんぐらかしてしまったようですね、ごめんなさい。わたしは……いまちょうど……」
「あの男が枕に十字を切ったというのは、真面目なお話ですか?」何か一種特別な好奇の色を浮かべながら、技師はこう問い返した。
「ええ、十字をね……」
「いや、なんでもないです。わたしはただちょっと……さあ、先を話してください」
 スチェパン氏は不審そうに、ちらりとリプーチンを見やった。
「わたしはご来訪を衷心から感謝していますが、実のところ今わたしは……とてもお相手ができませんので……が、ちょっとおたずねしますが、あなたはどこにお住まいです?」
「ボゴヤーヴレンスカヤ街、フィリッポフの持ち家です」
「ああ、それじゃシャートフの住まいと同じ所ですね」とわたしはつい口を出した。
「そのとおり、同じ家です」とリプーチンは叫んだ。「ただシャートフは上のほうに、中二階に陣取っていますが、この方は階下《した》に、レビャードキン大尉のところにいられるのです。この方はシャートフも知っておいでですし、シャートフの配偶《つれあい》も知っておいでです。あのひととは外国で大そう親しくなすったそうです」
「|へえ《コンマン》! じゃ、あなたは|あの憫れな友人《スポーヴルアミ》と、あの女との不仕合わせな共同生活について、何かごぞんじですね?」とスチェパン氏はとつぜん夢中になって叫んだ。「あのことを親しく知ってる人にお会いするのは、これが初めてなんですよ。もし……」
「何を馬鹿なことを!」と技師は真っ赤になって、叩き切るように言った。「リプーチン君、なんだってきみはそうつけたりばかり言うんです! ぼくはけっしてシャートフの細君などに会ったことはありません。一度ちょっと遠くから見たことはあります。けれど、親しくなんて、まるで嘘です……シャートフは知っています。なぜきみはいろんなつけたりばかりいうんです?」
 彼はくるりと長いすの上で向きを変えて、自分の帽子を引っつかんだが、またそれをわきへ置いた。そして、改めて前のとおりに坐り直すと、喧嘩でも吹っかけるような態度で、黒いぎらぎらと光る目をスチェパン氏にそそいだ。わたしはこうした不思議ないらだちようが、とんと腑に落ちなかった。
「どうかごめんください」とスチェパン氏は、しみじみした調子でいった。「なるほど、これはいたって微妙な問題らしいですから……」
「微妙な問題なんか少しもありません。そんなことをいうのは恥ずかしいくらいじゃありませんか。しかし、ぼくが『馬鹿なこと』とどなったのは、あなたに向けていったのじゃなくって、リプーチンがつけたりばかりいうからです。もしあなたが自分のことのようにお解《と》りになったら、どうかおゆるし願います。ぼくシャートフは知っていますが、あの男の細君はまるで知りません。少しも知らない!」
「ええ、わかっています、わかっています。わたしがああしつこくいったのは、わが不幸なる友を、notre irascible ami(わが怒りやすき友)を愛しているからです、いつもあの男のことを心配しているからですよ……わたしの見るところでは、あの男は急にこの頃になって以前の思想を一変してしまいました。それはあまり幼稚なものだったかもしれませんが、とにかく正しい思想でしたよ。ところが、今ではもうやたら無性に notre sainte Russie(わが神聖なるロシヤ)とかなんとか、いろんなことをわめき散らしているのでね、わたしはもう前からオルガニズムの上のこの変化を(どうもほかの言い方はしたくありませんな)、烈しい家庭内の動揺、つまりあの不幸な結婚に帰してるんですよ。わたしはね、わが憫れなるロシヤを自分の指と同じくらい精密に研究して、露国民のために一生を捧げたのだから、あなたに向かって断固としてこういうことができます、――あの男は露国民を知りません、そしておまけに……」
「ぼくもまるで露国民を知りません、それに、てんでそんなことを研究してる暇がありません!」と技師はまたもや叩き切るようにいって、ふたたび長いすの上でくるりと向きを変えた。
 スチェパン氏は話なかばで腰を折られた。
「この方は研究していられますよ、研究して」とリプーチンが抑えた。「もう研究を始められましたよ。このごろロシヤで非常に多くなった自殺の原因と、それから一般に自殺病の瀰漫を助長したり、抑制したりする原因について、興味ある論文を書いておられます。そして、実に驚嘆に値する結論に到達されたのですよ」
 技師は恐ろしく興奮した様子で、
「そんなこと、きみ、少しも権利を持ってないよ」と彼は腹立たしげにつぶやいた。「ぼくは何も論文なんか……そんな馬鹿なことをしやしないよ。ぼくはきみを親友だと思って、ついなんの気なしに、あんなことを頼んだんだ。論文なぞ書きゃしない。ぼくは、発表なんかしやしない。きみにそんな権利はありゃしない……」
 リプーチンは相手の憤激を楽しむようなふうで、
「いや、これは悪うございました。あなたの文学的労作を論文といったのは、わたしの間違いかもしれません。この方はただご自分の観察を、蒐集しておられるだけの話でして、問題の本質、いや、問題の倫理的方面には触れていないのです。それどころか、倫理そのものさえ否定して、究極の善なる目的のためにはいっさいを破壊すべしという、最新の主義を捧持していられるのです。この方は、ヨーロッパに健全なる叡知を樹立するために、一億以上の人間の首を必要としていられるのです。最近の平和会議で要求されたよりも、ずっとずっと上手《うわて》です。この意味においてキリーロフさんは、だれよりも進歩したお方だということができます」
 技師は、あおざめたさげすむような微笑を浮かべながら聞いていた。三十秒ばかりみんな黙っていた。
「そんなことはみんな馬鹿馬鹿しいこったよ、リプーチン」ついにキリーロフ氏は一種の威厳を示しながら口をきった。「ぼくがうっかりきみに向かって、あの二、三の点を洩らしたのを、きみがさっそく取って抑えたとすれば、それはきみのご勝手だ。しかし、きみはそんな権利を持っちゃいない。なぜって、ぼくは一度だってそんなことを、だれにもいったことはないんだからね。ぼくは……そんなことをいうのを蔑視している。もし信念があるとすれば、ぼくにとっては明らかに……ところが、きみは馬鹿なことをいったんだ。ぼくは、もうすっかり片のついてしまった点を、議論しようとは思わない。ぼくは議論するのが大嫌いなんだ。ぼくはけっして議論しようと思わない……」
「それはけっこうなことかもしれません」スチェパン氏はこらえきれなくなって、こういった。
「どうかごめんください。ぼくはここにおられるどなたにも、腹なぞ立ててはいないんですから」と客は熱した早口な調子で語を次いだ。「ぼくは四年あまり人に接しなかったものですから……ぼくはちょっとした目的があって、四年間あまり話もしなければ、用のない人に会うのも避けるようにしていたのです、四年の間というものはね。リプーチンはそれを嗅ぎつけて、笑ってるんですよ。ぼくはそれがちゃんとわかってるから、一顧の注意も払いません。ぼくはそんな怒りっぽい男じゃありません。ただこの男のわがままがいまいましいのです。ところで、ぼくがあなた方に自分の抱懐を披瀝しないのは」とつぜん彼は言葉を切り、きっとした目つきで一座を見廻した。「けっして、あなた方が政府へ密告したりなさるのを、恐れてるからじゃありません。大違いです、どうかそんなことを考えないでください……」
 この言葉に対しては、もうだれひとり返事するものもなく、ただ互いに目まぜをするばかりだった。リプーチンさえも、例のいひひ笑いを忘れていた。
「皆さん、まことにどうも残念ですが」とスチェパン氏は決然として、長いすから立ちあがった。「今日わたしはどうも気分が勝れなくって、調子が変なものですから、失礼ですが……」
「ああ、帰れとおっしゃるんですね」キリーロフ氏は急に気がついて、帽子をつかんだ。「よくいってくださいました、ぼくはうっかりやですから」
 こういって立ちあがると、彼はきさくな様子で手を差し出しながら、スチェパン氏に近寄った。
「ご気分が勝れないのにお邪魔して、実に残念なことをしました」
「どうかこちらで成功なさるように祈ります」とスチェパン氏は差し伸べられた手を愛想よげにゆっくりと握りしめながら答えた。「なるほど、もしお言葉どおり、長く外国に滞在して、目的遂行の都合上、他人を避けていられたため、ロシヤを忘れておしまいになったとすれば、わたしたちのような生え抜きのロシヤっ子に対しては、自然と驚異の念を感じられるに相違ありません。もっとも、わたしたちもあなたに対して、それと同じ程度の感じをいだきますがね。mais cela passera(が、それもちょっとの間でしょう)ただ一つ判断に苦しむのは、あなたはここで橋を架けようとしていられるのに、一切破壊の主義を奉じていらっしゃることです。それじゃ、あなたに橋を架けさせる者はいますまいよ!」
「え? なんとおっしゃったんですか……ちょっ、馬鹿馬鹿しい!」とキリーロフはぎょっとして叫んだが、急に思いきって愉快そうな、晴ればれした声を立てて笑いだした。
 一瞬にして、彼の顔は恐ろしく子供らしい表情を浮かべた。それが彼の顔に似つかわしく思われた。リプーチンは、スチェパン氏の巧妙な皮肉で有頂天になって、しきりに両手を揉んでいたが、それにしてもスチェパン氏が、リプーチンの声を聞きつけた時、あんなにあわてて、『わたしはもう駄目になった』などと叫んだわけが、わたしにはどうも合点がゆかなかった。

[#6字下げ]5[#「5」は小見出し

 わたしたち一同は戸口の閾に立っていた。それはふつう主客のものが、最後にいそがしく愛想のいい言葉をとりかわして、めでたく別れて行こうとする瞬間だった。
「この方が今日あんなにむずかしい顔をしていられるのは」もうほとんど部屋を出てしまってから、リプーチンが早口に言葉を入れた。「さっきレビャードキンと、妹のことで口論されたからです。レビャードキン大尉は気のちがったかわいい妹を、毎日のように鞭でもって、――正真正銘のコサック鞭でもって、――折檻するのです。もう毎朝、毎晩のことですよ。それだもんだから、キリーロフ氏もそんなことにかかり合いたくないといって、同じ家の中ではありますが、離れのほうへ越してしまわれましたよ。じゃ、さようなら」
「妹を? 病身の? 鞭でもって?」まるで、自分がいきなり鞭で引っぱたかれたように、スチェパン氏はこう叫んだ。「妹ってだれだね? レビャードキンて何者だね?」
 以前の動乱した心持ちが、一瞬にしてよみがえったのである。
「レビャードキン! 退職大尉です。以前は二等大尉と名乗っていたのですが……」
「ええ、そんな男の官等なんかどうだっていいよ。いったい妹ってだれのこと? ああ、本当に……きみ、話して聞かしてやってくれたまえな。だって、きみ、われわれの仲間にも、もとレビャードキンというのがいたじゃないか……」
「あれです、あれです、われわれの仲間の[#「われわれの仲間の」に傍点]レビャードキンですよ。そら、覚えていらっしゃるでしょう、ヴィルギンスキイのところにいた?」
「でも、あの男は紙幣贋造事件でくらい込んだじゃないか」
「ところが、そいつが戻って来たのです。もう三週間くらいになりますよ。なんでも特別な事情があるということで」
「だって、あいつはしようのないやくざ者じゃないか?」
「まるでわれわれ仲間にやくざ者などいるはずがない、というようなお口ぶりですね」とリプーチンは持ち前の泥棒くさい、相手を探り廻すような目つきをしながら、苦笑を洩らした。
「まあ、きみはとんでもない、わたしは何もそんなこと言やしないよ……もっとも、やくざ者に関するきみの説には、ぜんぜん同感だがね。つまり、きみの説だからだよ。しかし、それからどうしたの、その先は? きみはその話で何をいおうとしたんだい? 実際、きみはこの話でもって、何かいおうとしたに相違ないからね!」
「なあに、みんなつまらんことばかりですよ……つまり、この大尉殿があのとき町を逃げ出したのは、どうやら贋造紙幣のためじゃなくって、ただもう自分の妹をさがし出そうという一心からだったらしいのです。妹はあの時どこかで、兄貴から身を隠していたらしいんです。そいつを今度ひっ張って来た、というだけの話ですよ。なんだってそんなにびっくりなさるんです、スチェパン・トロフィーモヴィチ? もっとも、わたしはあの男の酔っぱらったあげくのおしゃべりを、取り次いでいるにすぎないので、しらふの時はあの男もなるべく隠すようにしていますよ。なかなか癇癪もちでしてね、いわば、まあ、軍隊的審美眼を持ってるんですが、趣味が下等なんですよ。妹というのはただの気ちがいでなくって、びっこなんですよ。だれかに誘惑されて、貞操を穢されたんだそうで、そのためにレビャードキン氏は、もう長年の間、高潔なる憤激に対する賠償として、相手の男から毎年仕送りを受けてるんです。少なくともあの男のおしゃべりによると、そういうことになるんですが、わたしにいわせれば、酔っぱらいのでたらめにすぎませんよ。ただもうえらそうなことをいってみたいんでさあ。それに、もうずいと安直にできるこってすからね。しかし、あの男が金を持ってるってことは、もうまったくの事実です。十日ばかり前に跣足《はだし》で歩いていたものが、今は手に何百ルーブリという金を持っているんですもの。それはこの目で見ましたよ。妹のほうは、毎日なにかの発作が起こって、ひいひい悲鳴をあげると、あの男は『正気をつけてやるのだ』といって、鞭で引っぱたくじゃありませんか。女には尊敬の念を起こさせなきゃならない、とこういうんですからね。一つ合点のゆかないのは、シャートフがやはりあの兄妹《きょうだい》といっしょに、引きつづいて暮らしていることです。このキリーロフ氏などは、ペテルブルグ時代からの知り合いだというので、三日ばかりいっしょにおられましたが、今ではもう見ていられないといって、離れのほうへ引っ越してしまわれましたよ」
「あれはすっかり本当のことですか?」とスチェパン氏は技師にたずねた。
「リプーチン君、きみはよくしゃべる人だね」と、こちらはさも腹立たしげにつぶやいた。
「じゃ、秘密ですね、神秘ですね? まあ、どうしたってわれわれの仲間には、突然そんなに秘密や神秘が、むやみと湧いて出たんだろう?」とスチェパン氏はもうたしなみを忘れて叫んだ。
 技師はちょっと眉をひそめ、赤い顔をして、ひょいと肩を突き上げるような恰好をして、部屋を出ようとした。
「一度キリーロフ氏は鞭をもぎ取るなり、いきなり押っぺしょって、窓の外へほうり出し、思いきって口論されたことさえあるくらいです」とリプーチンはつけ足した。
「なんだってきみはそうしゃべるんです、馬鹿馬鹿しい、なんのためです?」とキリーロフはまたさっとうしろを振り返った。
「どうして隠す必要があるのです、自分の心の、つまり、あなたの心の高潔な動揺を話すのに、謙遜なんかいらないじゃありませんか。わたしは自分の自慢をしてるんじゃありませんよ」
「なんて馬鹿馬鹿しい……まるでいらないことじゃないか……レビャードキンは馬鹿な男です。なかみが空っぽで、実行の点になると、まるで役に立たない……有害無益な人間です。なんだってきみはそういろんなことをしゃべるんです。ぼくはもう帰る」
「ああ、それは残念ですなあ」とリプーチンははればれした微笑を浮かべながら叫んだ。「実はね、スチェパン・トロフィーモヴィチ、もう一つ面白いお話をして、あなたを笑わしてあげようと思ったんですけれど。たぶんご自分でお聞き込みになったでしょうが、わたしはこのお話がしたいばっかりに、お邪魔にあがったんですよ。が、仕方がない、今度にしましょう、キリーロフ氏があんなにお急ぎですから……さようなら。実はヴァルヴァーラ夫人のことで、面白い話が始まったんですがね。一昨日わたしはあの方にさんざん笑わせられちゃったのです。わざわざわたしを呼びに、使いをよこしなさるんですからね、実にお笑いですよ。じゃ、さようなら」
 けれども、今度はスチェパン氏のほうが放さなかった。彼は相手の両肩をつかまえて、くるりと部屋のほうへ捩じ向けると、そのまま椅子の上へ押し倒してしまった。リプーチンはおじけづいてきた。
「いや、その、なんですよ」椅子の上から、用心ぶかくスチェパン氏を見守りながら、彼は自分のほうから話しだした。
「突然わたしをお呼び寄せになりましてね、『うち解けた調子で』(これはわたし自身の観察ですよ)、こんなことをきかれるんです、――うちのニコライは気がちがってるんだろうか、それとも正気なんだろうかって。どうも驚かざるをえないじゃありませんか?」
「きみは気でも狂ったのかね!」とスチェパン氏は、つぶやくようにいったが、急に前後を忘れたように、「リプーチン君、きみは自分で知りすぎるくらい知ってるだろうが、きみは何かそんなふうな穢らわしい話がしたいばっかりに……いや、もっともっと汚い話がしたいばっかりに、わざわざここへやって来たのだ!」
 この瞬間、わたしはふと思い出した。彼はかつて『リプーチンはこの事件について、われわれよりよけい知っている、いや、それどころか、かえってわれわれがとうてい知りえないようなことまで、何か嗅ぎつけている』という想像を洩らしたことがある……
「とんでもない!」リプーチンは恐ろしく怯えあがった様子で、こういった。「とんでもないこと……」
「余計なことをいわないで話したまえ! あなたもすみませんが、どうか引っ返してご同席くださいませんか、キリーロフさん、お願いします! さあ、お坐りください。ところで、リプーチン君、きみは始めてくれたまえ、正直にごまかさずに!」
「いや、あなたがそんなにびっくりなさると知っていたら、けっして口外するんじゃなかったんですがね、……実は、あなたも当のヴァルヴァーラ夫人から、残らずご承知だとばかり思ったもんですから」
「きみがそんなことを思うもんですか! さ、始めたまえ、始めたまえといってるじゃないか!」
「ですが、後生ですから、あなたも腰をおろしてくださいませんか。でないと、わたしはこうして坐っているのに、あなたは夢中になってわたしの前を……駆け廻っていらっしゃるから、どうも落ちつきが悪いじゃありませんか」
 スチェパン氏はやっと自分で自分を制しながら、ものものしい様子で肘掛けいすに腰をおろした。技師は浮かぬ顔をして、じっと足もとを見つめている。リプーチンはたまらないほどの歓喜の色を浮かべながら、二人の様子を見くらべていた。
「いったいどういうふうに始めたもんでしょう……おかげですっかり間が悪くなっちゃった……」

[#6字下げ]6[#「6」は小見出し

「一昨日のことでした、奥さんが突然わたしのところへ使いをよこして、あす十二時に宅へおいでを願いたい、という口上でした。まあ、こんなことが想像できますか? わたしは仕事をそっちのけにして、きのうちょうどかっきり正午十二時に、ベルを鳴らしました。すると、真っ直ぐに客間へ案内されて、一分間ばかり待っていますと、奥さんが出て来られました。わたしを坐らして、ご自分も真向かいに腰をおろされましたが、わたしは坐りながらも、まるで本当にならなかったです。あの方がふだんわたしにどんな取扱いをしていられたか、あなた方もご承知のとおりですからね! やがて奥さんはいつもと違って、少しも廻りくどい前置きなしに、いきなりぶっつけにこう切り出されました。『あなたもお覚えでしょうが、四年まえ宅のニコラスが病気のせいか、ちょいちょい妙なことをいたしました。そして、事情がわかってしまうまでは、町じゅうの者がみんな不思議がったものでございます。ところで、あれのしたことの中で、一つは直接あなたに関係しておりましたので、あの時ニコライはわたしの願いをいれて、病気全快後あなたをお訪ねしたようなわけでございます。それから、その以前もあれは幾度かあなたとお話したことがあるように承知しています。で、一つ底意のない、うち明けたご意見が伺いたいのでございますが、あなたはどんなふうに……(と、ここで奥さんは少しいいよどまれました)――全体として、あなたはどんなふうにあれをご覧になりました……つまり、あれについてどんな意見をお持ちになりました? そして、いま持っていらっしゃるご意見も、伺いたいのでございますが』ここまで来ると、もうすっかりまごついてしまって、まる一分間ことばを休めていられましたが、急に真っ赤な顔をされるじゃありませんか。わたしはもう面くらってしまいました。やがてまた切り出されましたが、その調子は感傷的というよりも(あの方には似合いませんからね)、なんだかこう[#「こう」に傍点]恐ろしくもったいぶっていました。『わたしは自分の考えていることを、ようく間違いなしに汲み取っていただきたいのでございます。あなたに今おいでを願ったのは、あなたが眼光の犀利な、機知に富んだ、正確な観察を下す力のあるお方だと、こう考えているからでございます(なんといううまいご挨拶でしょう)。あなたはもちろん、わたしが母親として申しあげることを、十分了解してくださるでしょうね……ニコライは自分の生涯のうちで、いろいろな不幸と、いろいろな変化を経験しておりますから、それがみなあれの頭の調子に影響を与えたかもしれません。もちろん、わたしは発狂なんてことをいってるのじゃありません。そんなことはけっしてあるべきはずがございません! (奥さんは傲然と、きっぱりした調子でいい切られました)けれど、思想の何か奇妙な、一種特別な偏向とか、特殊なものの見方をしやすい傾向とか、そうしたものがあったかもしれません。(これはみなあの方のおっしゃった言葉そのままです。スチェパン・トロフィーモヴィチ、わたしは奥さんが正確な言葉で事態を説明する力を持っていられるのに、びっくりしてしまいました。実に知力の優れた方ですなあ!)少なくとも、わたし一人はあれの様子からして、何かしら絶え間のない不安と、何かこう[#「こう」に傍点]偏した方向に走りたがる心持ちを見て取りました。けれど、わたしは母親ですし、あなたは第三者の位置に立つ人ですから、つまりあなたのほうが、比較的とらわれない意見をお樹《た》てになることができるわけでございます。さあ、後生ですから(奥さんは『本当に後生ですから』といわれましたよ)、事実ありのまま少しも飾りけなしに聞かしてください。そして、もしあなたが今後いつまでも、今日あなたに申しあげたのはまったく内密の話だってことを、けっして忘れないと約束してくだされば、わたしは向後[#「向後」はママ]いつまでも機会のあるたびに、十分お礼をするつもりでおりますから、それは当てにしてくだすってよろしゅうございます』とこうなんです。え、まあ、どうでしょう!」