『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP097-P144

「きみの話があんまり意外なもんだから……」とスチェパン氏はへどもどした調子でいった。「わたしはどうも本当にならんよ……」
「まあ、待ってください、待ってください」と、まるで相手の言葉も耳に入らないようなふうで、リプーチンはさえぎった。「まあ、これで奥さんの心配も不安も、たいてい見当がつくでしょう。なにしろああいう高いところから、そんな重大問題をひっさげて、わたしみたいな人間に相談を持ちかけられるんですからな。それに、ご自分のほうから内密に頼むなどと、それほど卑下した態度に出るなんて、実になんといったらいいのでしょう? あなた、何かニコライ・フセーヴォロドウィチについて、意外な報知でもお聞きになりませんでしたか?」
「わたしは……そんな報知なんかまるで知らないよ……もう二、三日あわないから。しかし、きみにちょっと注意するが……」かろうじて思想を整頓しているようなふうつきで、スチェパン氏は吃り吃りこういった。「しかし、リプーチン君、きみにちょっと注意するが、――きみは内密にといってうち明けられた話を、今みんなの前で……」
「まったく内密にうち明けられたのです!………もしそんな……そんなことをすれば、神罰が立ちどころに当たりますよ……しかし、今ここで話したのが、それがいったい、どうだとおっしゃるんです? わたしたちはそんな水臭い仲ではないじゃありませんか。キリーロフ氏にしたって同じことですよ」
「わたしはその意見に賛成するわけにはいかないね。むろん、わたしたち三人は秘密を守るに相違ないが、第四人めのきみが心配だよ。わたしは何一つきみを信用することができないんだ!」
「それは全体なんのことです? わたしはだれよりも一ばん関係が深いんですよ。わたしは永久の感謝を約束されてるんですよ! ところで、わたしはこの問題について、一つ奇怪きわまる事実を指摘しようと思ってたんです。いや、奇怪というより、むしろ心理的な事実なんです。ほかじゃありませんが、ゆうべわたしは、ヴァルヴァーラ夫人の話から受けた感激に駆られて(わたしがどんな印象を受けたか、あなた方もお察しくださるでしょう)、キリーロフ氏のところへ行って、遠廻しに問いかけたもんです。つまり、『あなたは外国にいらっしゃる頃といい、またその前のペテルブルグ時代も、ニコライ・フセーヴォロドヴィチをごぞんじだったのですが、あの人の頭脳や能力について、どういう考えをお持ちですか?』とこうきいてみました。すると、この方のご返事は、例によって簡単です。曰く、『非常に細緻な頭脳と、判断力を持った人だ』とのことです。『あなたは長い年月の間に、何かその、思想の偏向というか、特殊な思想の形態というか、さもなくば、その、いわば精神錯乱の徴候に、お気がつかれましたか?』となんのことはない、ヴァルヴァーラ夫人の質問を、そのままこの方に持ち出してみたのですよ。すると、どうでしょう、キリーロフ氏はふいにじっと考え込んで、ちょうどいまと同じように顔を顰めるじゃありませんか。『そうだねえ、ぼくにもときどき思われることがあるよ』とこういわれるのですが、ねえ、考えてもごらんなさい、キリーロフ氏までなんだか変に思われるとすれば、本当はまあどうなんでしょう、え?」
「それは本当のことですか?」とスチェパン氏はキリーロフのほうを振り向いた。
「ぼくはこのことについて、口をききたくないのです」とキリーロフは急に首を上げて、目を光らしながら答えた。「リプーチン君、ぼくはきみの権利を否認するよ。きみはこの場合そんなことをしゃべる権利なんか持ってやしないんだから。ぼくはけっして自分の意見を、ぜんぶきみに洩らしたわけじゃない。もちろん、ぼくもスタヴローギンとはペテルブルグで知り合いになったが、それはもうずうっと前のことだからね。今度も会ったにゃ会ったけれど、ぼくがあの男について知るところははなはだ少ないのです。だから、どうかぼくだけは、この話の圏外に置いていただきたい、それに……こういう話はなんだかくだらない陰口めいてね」
 リプーチンは『罪なくして迫害される人』という表情で、両手を広げて見せた。
「告げ口屋ですかね! いっそのこと、間諜《いぬ》といってしまったらどうです? アレクセイ・ニールイチ、あなたなぞはいっさいの圏外に立って、冷静な批評をされるんだからけっこうなもんですよ。ところで、スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたはとても本当になさるまいけれど、あのレビャードキン大尉ですね、あれはその、なんです……馬鹿ですよ、馬鹿というのも恥ずかしいくらいな馬鹿なんです。ほら、こういう意味の程度を現わすロシヤ式の比較法があるでしょう。ところがですね、あの男はニコライ・フセーヴォロドヴィチから、侮辱を受けたように考えてるんですよ。そのくせ、あの方の機知には兜を脱いでしまって、『あの人にはまったく度胆を抜かれちゃった。まるで賢《さかし》き蛇だよ』(これはあの男の言葉そのままです)といってました。そこで、わたしは彼奴に向いて(その時もやはり昨日の感激の名ごりがあったし、それにキリーロフ氏と話した後のことでもあったのでね)、『どうだね、大尉、きみは自分の立場上どう考える、きみのいわゆる賢き蛇は気がちがってるだろうかね?』とたずねると、まあ、どうでしょう、まるでうしろから断わりなしに鞭でどやしつけられでもしたように、いきなり椅子から飛びあがるじゃありませんか。『そうだ……そうだ、しかし、それがためになんの影響もないだろう……』というのです。が、何に対する影響やら、そこのところははっきりいいませんでしたがね。それから、急に悲しそうな恰好をして、酒の酔いも一時に醒めはてた様子でしたよ。わたしたちは、フィリッポフの酒場に陣取っていたんですが、三十分ばかりもたったとき、先生、急に拳固でテーブルを叩いて『そうだ、或いは気がちがってるかもしれん。しかし、それがためになんの影響もないだろう……』といいだしたが、何に対する影響なのか、それはまたいわずにしまいました。もちろん、わたしは肝腎なところだけ取り次いでるんですが、いわんと欲するところはおわかりでしょう。だれに聞いてごらんになったって、頭に浮かぶ考えはこれ一つきりですよ。もっとも、以前はだれだって、そんなことを考えるものもなかったんですがね。『そうだ、気ちがいだ、非常に利口な人だが、しかし、まったく気ちがいかもしれん』とこうだれでも思いますよ」
 スチェパン氏はもの思う風情で、じっと坐ったまま、かれこれと一生懸命に思い合わせていた。
「ところで、レビャードキンは、どうして知ってるんだろう?」
「そのことなら、いまわたしに間諜《いぬ》よばわりをされたキリーロフ氏におたずねになったらいかがです。わたしは間諜《いぬ》でありながら何も知らないけれど、キリーロフ氏は底まで知りながら、黙り込んでいらっしゃる」
「ぼくはなんにも知りません、知ってるにしても、ごく僅かです」依然としていらだたしげな声で、技師は答えた。「きみは一つ何か嗅ぎ出すつもりで、レビャードキンを盛り潰そうとかかっているが、ぼくをここへ引っ張って来たのも、何か嗅ぎ出そうというつもりだったんだろう。ぼくに白状させるもくろみだったんだろう。してみれば、つまり間諜《いぬ》じゃないか」
「わたしはやつを盛り潰そうとしたことはありません。第一、あの男の秘密なんか、そんなお金をかける値打ちがありませんや。あなたはどうお思いか知らないけれど、わたしはあの男の秘密なんか、それくらいのものだと思ってますよ。それどころじゃない、あの男、十二日ばかり前には、わたしのところへやって来て、十五コペイカの無心をいったもんだが、今じゃ札びらを切ってるんですよ。シャンパンを奢ったのもわたしじゃありません、あの男なんですよ。しかし、あなたはいい思案を貸してくだすった。まったく必要に応じては、一つあの男を盛り潰してやりましょう、つまり、嗅ぎ出すためにね。そして、本当に嗅ぎ出してお目にかけましょう……あなたの秘密とかいうやつをね」とリプーチンは毒々しげに食ってかかった。
 スチェパン氏は相争える二人の者を、不審げに見まもっていた。二人とも自分の本音を吐きながら、少しも遠慮しようとしなかった。わたしの見るところでは、リプーチンがこのキリーロフを引っ張って来たのは、つまり第三者を介して、自分の狙っている話の中へ技師を引き摺り込む計略らしく思われた、――これは常に彼の好んで用いる兵法であった。
「キリーロフ氏は知りすぎるほど、ニコライ・フセーヴォロドヴィチを知っていられるくせに」と彼はいらいらした調子でつづけた。「ただ隠してばかりいられるのです。ところで、あなたはレビャードキン大尉のことをおたずねになりましたが、あの男はわれわれ仲間のだれよりも早く、もう五、六年も前から、ペテルブルグでニコライ・フセーヴォロドヴィチと近づきになったのです。つまり、あの方の生涯中でも不明の闇に包まれた(もしそんな言い方ができればですよ)時分のことです。その時分あの方はわざわざ来訪して、われわれに光栄を垂れようなどとは、考えてもいられなかったのですよ。こういうわけですから、わが王子はあの当時、ずいぶん奇妙な交友の選択をしていられたものと、こう結論を下さざるをえんですなあ。このキリーロフ氏と近づきになられたのも、やっぱりこの時分のことらしい」
「気をつけたまえ、リプーチン君、ニコライ君は近いうちにここへ来るつもりだったんだよ。あの男は自分の名誉を守るすべを知ってるからね」
「わたしはなにも、あの方に憎まれる覚えはありませんよ。わたしは自分から音頭取りになって、デリケートな洗練された頭脳を持った方だ、と吹聴してるじゃありませんか。昨日もヴァルヴァーラ夫人にこのことをいって、とっくりと気を落ちつかしてあげたのです。ただ『あの方の気性については、なんともお請合いができません』と、これだけは申しあげておきました。ところが、昨日レビャードキンも、まるで申し合わせたようにこういいましたよ。『あの気性のおかげで、どれだけひどい目にあったかわからない』って。ねえ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたはけっこうなもんですよ。人のことを告げ口屋だの間諜《いぬ》だのいっておきながら、ご自分ではすっかり、わたしから聞き出してしまったじゃありませんか。しかも、ずいぶん恐ろしい好奇心をむき出しにしてね。ところが、ヴァルヴァーラ夫人のいわれるには(夫人は昨日ちゃんと急所を刺しておしまいになりましたよ)、『あなたは直接事件に関係していらっしたのですから、それであなたにご相談申しあげるのです』と、こうなんです。もっとも至極の話じゃありませんか! え、わたしが衆人|稠座《ちゅうざ》の中で、あの方から侮辱を嘗めてるのに、目的も何もあったもんですか? わたしだって、ただの誹譏、讒謗以外、この事件に興味を持つ仔細がありそうなもんですよ。なにしろ、今日親しそうに握手するかと思えば、もう明日は数数の心づくしのお礼に、ただちょっとした気の向き方一つで、多くの人の面前で、その男の頬桁をお見舞い申すというふうなんですからね。つまり、不自由がなさすぎるからですよ! あの方の事件というのは、まあ主に女性ですな。なにしろ軽きこと春蝶のごとく、猛きこと雄鶏《ゆうけい》のごとしだからたまりませんや! 古《いにしえ》の愛神《アモル》みたいに翼を持った地主で、なんのことはないペチョーリン([#割り注]レールモントフ作『現代の英雄』の主人公[#割り注終わり])式の女殺しですな? ねえ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたは気随気ままの独身者だから、そんな暢気なことをいって、あの方のためにわたしを告げ口屋よばわりなさるのもいいでしょう。が、もしこれで綺麗な若い娘さんと結婚でもされれば(だって、あなたはまだ今でもなかなかの好男子でいらっしゃるから)、その時はあなたもわが王子の来襲を恐れて、戸に鍵を掛けるばかりでなく、自分の家に防塁《バリケード》でもおこしらえなさるでしょうよ! 実際これはなんという事情でしょう。もしあの鞭で毎日ひっぱたかれているレビャードキナ嬢が、気ちがいでびっこでなかったら、まったくのところ、あの女がわが王子の情欲の犠牲だったのじゃないか、そして、レビャードキン大尉のいわゆる『家系の傷』なるものも、ここに潜んでいるのじゃないか、と考えるとこだったんですよ。ただあの方の洗練されたる趣味に矛盾したところがあるんだけれど、それも大したことじゃないかもしれませんさ。どんなしろ物だろうと、うまくあの人の気分にぴたりと合えば、立派に役を勤めることができるんですからね。ところが、あなたはすぐ讒謗よばわりをなさる。わたしはもう町じゅうが大騒ぎしているから、それで初めてわめきだしたんです。わたしはただ人の噂を聞いて、相槌を打ってるだけなんです。だって、相槌を打つのは法度《はっと》になっていませんからなあ」
「町じゅうが大騒ぎしている? 何を大騒ぎしてるんだね!」
「なに、つまりレビャードキン大尉が酔った勢いで、町じゅう響けとわめいてるんです。だからもう、広場一杯の群衆がわめいてるのも同じことじゃありませんか! いったいわたしのどこが悪いんです? わたしはただ親友同士の間で、ちょっと好奇心を動かしてるだけです。実際、これでもわたしはいま親友の間にいるものと考えてるんですからね」と彼は罪のない顔つきでわたしたちを見廻した。「ところが、ここに一つ事件があるんですよ。いいですか。あの男の話によると、わが王子はまだスイスにいられる時に、淑徳ならびなき一人の令嬢を介して(この方はわたしも拝顔の栄を担いましたが、きわめて柔和な孤児といってもいいくらいなものです)、レビャードキン大尉に渡すようにといって、三百ルーブリの金を送られたんだそうです。ところがレビャードキンは、間もなくある人から精密な報知をえたのですが、それによってみると送った金は三百ルーブリでなくて、まる千ルーブリだったとのことです(わたしはだれからその報知をえたかいいませんが、やっぱりれっきとした身分ある人なんですよ)。そこでレビャードキンは、あのお嬢さんがおれの金を七百ルーブリくすねおったとわめきだして、もうあやうく警察沙汰にまでしようという騒ぎなんです。少なくも町じゅう触れ廻して、示威運動をやってるんで……」
「それは卑劣だ、それは、きみ、卑劣だ!」とふいに技師は椅子から躍りあがった。
「だって、そのれっきとした身分のある人というのは、ほかじゃない、あなたのことなんですぜ。ニコライ・フセーヴォロドヴィチがスイスから送ったのは、三百ルーブリではない千ルーブリだ、とあなたが断言なすったんでしょう。当のレビャードキンが酔っぱらって教えてくれましたよ」
「それは……それは不幸な誤謬だ。だれか思い違いをしてそんなことになったのだ……それはでたらめだ、そして、きみは卑劣な人だ!………」
「ええ、わたしもでたらめだってことを信じたいのですが、悲しいかな、耳に入る噂をいかんせんですよ。なぜって(あなたはどうお思いになろうとご勝手ですが)、あの淑徳ならびなき令嬢が、第一にその七百ルーブリ事件、第二にニコライ・フセーヴォロドヴィチとの艶聞にも、関係があるんですからなあ。実際、わが王子にとって、無垢な処女を傷つけたり、他人の妻をけがしたりするのは、朝飯前の仕事ですよ。ちょうどいつかのわたしに関した事件と同じようにね。不幸にして、寛厚の心にみちた人物が、あの方の行く手に出くわそうなものなら、すぐ自分の潔白な名前をもって、他人の罪業をおおうような目にあわされますよ。ちょうどわたしがあったような目にね。わたしは自分のことをいってるんですよ……」
「気をつけたまえ、リプーチン!」とスチェパン氏は、肘掛けいすから身を起こしながら、顔の色を真っ青にした。
「本気にしちゃいけません、本当にしちゃ! それはだれかが間違って……それにリプーチンは酔っぱらってるんですから……」たとえようもない興奮のさまを示しながら、技師はこう叫んだ。「今にすっかりわかります。が、ぼくはもうたまりません……それは、卑劣なことだと思いますから、いや、たくさんです、たくさんです!」と彼は部屋を駆け出した。
「おや、あなたはどうしたんです? じゃ、わたしもいっしょに!」リプーチンは急に泡を食って飛びあがると、そのままキリーロフの後を追って駆け出した。

[#6字下げ]7[#「7」は小見出し

 スチェパン氏はもの思わしげに、じっと一分間ばかり突っ立ったまま、何を見ているのかわからないような目つきで、わたしの顔を見つめていたが、とつぜん帽子とステッキを取って、静かに部屋を出て行った。わたしは先ほどと同じように、また後からついて行った。彼は門を出るとき、わたしがついて来るのに気がついてこういった。
「ああ、そうだ、きみは証人になるかもしれない…… de l'accident(この事件の)。Vous m'accompagnerez n'est-ce pas?(きみ、わたしについて来てくれるでしょうね)」
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたはまたあすこへいらっしゃるんですか? まあ、考えてごらんなさい。そんなことをしたら、いったいどんな騒ぎになるでしょう?」
 悄然ととほうにくれたような微笑を浮かべながら、――やるせない絶望と羞恥の色を帯びてはいるが、同時に何やら奇怪な歓喜を含んだ微笑を浮かべながら、彼はちょっと立ちどまってささやいた。
「しかし、わたしは『他人の罪業』と結婚するわけにいかないからね!」
 わたしは実にこの一言を期待していたのである。長い間わたしに隠していた秘密の一言は、一週間のごまかしと弥縫の後、ついに彼の口から発しられた。わたしはすっかり憤慨してしまった。
「そんな醜悪な、そんな……卑劣な考えがよくまあ、あなたの、スチェパン・ヴェルホーヴェンスキイ氏の心中に湧き出たものですね。あなたの明快な頭の中に、あなたの善良な心の中に……しかもリプーチンの話を聞かない先から!………」
 彼はわたしの顔を見まもったが、返事もしないでぐんぐん歩きつづけた。わたしは遅れまいとした。ヴァルヴァーラ夫人のために証人になりたかったのである。もしこれが持ち前の女々しい狭い心から、ただリプーチンの言葉だけを彼が信じたものならば、わたしもそれを諒としたに相違ない。けれど、彼はリプーチンの話を聞かないうちから、このことをなにもかも自分で考えついたので、リプーチンはただ彼の猜疑に裏書きし、燃ゆる火に油をそそいだにすぎない。それはもはや疑いをいれなかった。彼はもうそもそもの初めから、なんの根拠もないのに、まったくリプーチンほどの根拠もないのに、ダーリヤの純潔を疑い始めたのである。彼はヴァルヴァーラ夫人の横暴な処置に対して、ほかに解釈の方法を見出しえなかった。つまり、夫人は自分の限りなく愛しているニコラスの貴族にありがちな罪業を、名誉ある人との結婚によって少しも早く塗り潰そうと、夢中になっているのだ! わたしは彼がこの卑劣な疑いに対して、ぜひとも罰を受けるようにと心に願った。
「O! Dieu, qui est si grand et si bon!(おお、偉大にして善良なる神よ!)おお、だれがわたしを慰めてくれるのだろう?」また百歩ばかり歩くと、ふいにぴたりと足を止めて、彼はこう叫んだ。
「すぐ家へ帰りましょう、わたしがすっかり説明してあげます!」とわたしは無理に家のほうへ引き戻しながらいった。
「おや、まあ! スチェパンさま、あなたでございましたか? まあ?」とつぜん音楽かなんぞのように新鮮な、若々しい、蓮葉な声が、二人の傍で響いた。
 わたしたちは少しも気がつかないでいたが、ふいにかの騎馬令嬢リザヴェータ・ニコラエヴナが、いつものつれといっしょに二人の傍へ現われたのである。彼女は馬を止めた。
「いらっしゃい、早くいらっしゃい!」と彼女は高い声で愉快げに叫んだ。「あたしもう十二年もお目にかからなかったけれど、すぐわかりましたわ、スチェパンさま……あなた、あたしがおわかりになりません?」
 スチェパン氏は、差し伸べられた女の手をとって、うやうやしく接吻した。彼はまるで祈りでもするように、女の顔を見つめたまま、とみに言葉さえ出なかった。
「まあ、気がついてよろこんでらっしゃる! マヴリーキイ・ニコラエヴィチ、この方はあたしに会ったのが嬉しいって、夢中になっていらっしゃるのよ! どうしてあなたまる二週間というもの、訪ねて来てくださいませんでしたの? ヴァルヴァーラ小母さんたらね、あなたはご病気だから、うっちゃっておくほうがいいっておっしゃるけど、あたしだって、小母さんが嘘ついていらっしゃるくらい知ってますわ。あたしね、いつもじだんだふんで、あなたの悪口ついていたんですけど、でも、ぜひあなたのほうから先に来ていただきたかったので、わざとお迎えをあげませんでしたの。あら、まあ、ちっともお変わりにならないのねえ!」と彼女は鞍の上からかがみ込むようにして、彼の顔をと見こう見するのであった。「本当におかしいほど変わってらっしゃらない! あっ、そうじゃない、小皺がある、目のまわりや頬の辺にたくさん小皺がある、それに、白髪も交ってるわ。だけど、目はもとのままよ! ですが、あたし変わったでしょう? ね、変わったでしょう? まあ、なんだってあなた黙り込んでらっしゃるんですの?」
 わたしはこの瞬間、彼女の昔話を思い出した。十一の年にペテルブルグヘ連れて行かれた時は、ほとんど病人といっていいくらい体が弱かったが、病気などした時には、泣いてスチェパン氏に会いたがったということである。
「あなた……わたしは……」今はよろこびのあまり途切れがちな声で、彼は舌を縺らせながらこういった。「わたしはたった今『だれがわたしを慰めてくれるのだろう!』と叫んだばかりなんですよ。ところへ、あなたの声が聞こえたじゃありませんか。それこそ奇蹟だと思います。〔et je commence a` croire〕(わたしはまた信仰を回復しそうです)」
「En Dieu? 〔En Dieu, qui est la`-haut et qui est grand et si bon?〕(神に対する信仰でしょう、高き所にあり、偉大にしてかつ善良なる神に対する信仰でしょう?)ねえ、あたしあなたの講義をすっかり暗記していますの。マヴリーキイさん、この方はね、その頃あたしに偉大にして善良なる神に対する信仰を、熱心に説いてくだすったものよ! あなた覚えていらっしゃって、コロンブスアメリカを発見した時、みんなが陸地陸地と叫んだ話をしてくだすったのを? あたしは後でその晩夢中になって、うわごとに陸地、陸地といったって、乳母のアリョーナ・フローロヴナが話して聞かせましたの。それから、王子ハムレットの話を聞かせてくだすったのを、覚えていらっしゃいます? ああ、そしてまた哀れな移民たちが、ヨーロッパからアメリカへ輸送される光景を、くわしく目に見えるように教えてくださいましたわねえ、だけど、あれはみんな嘘でしたわ。あたしその後、ほんとの輸送の模様を見ましたもの。けれどね、マヴリーキイさん、この方はその時どんなに上手に嘘をおつきになったでしょう。本当よりもいいくらいですわ。スチェパンさま、なんだってそんなにマヴリーキイさんを一生懸命に見ていらっしゃいますの? この方は地球全体の人間の中で、一等すぐれた、一等誠実な方ですから、あなたもぜひあたし同様に、かわいがってあげてくださいな! il fait tout ce que je veux(この人はあたしの望むことを何でもしてくださいますの)ときにスチェパンさま、あなた往来の真ん中で『だれがわたしを慰めてくれるのだ』などとわめいていらっしゃるところを見ると、まだやっぱり不仕合わせでいらっしゃると見えますね? 不仕合わせなんでしょう、ね、そうでしょう? そうでしょう?」
「今はもう仕合わせになりました……」
「小母さまが失礼なことをなさるんですの?」と彼女は相手の言葉に耳を藉さないで、勝手に話しつづけるのであった。「いつもいつもあのとおり意地の悪い、勝手な人ですけれど、いつまでたってもあたしたちにとって大切な人は、あの小母さまですわねえ! 覚えていらしって? あなたがよく庭の中でいきなり飛びかかって、あたしを抱きしめてくださると、あたしは泣きながら、あなたを慰めたものですわねえ。ああ、マヴリーキイさんを怖がらないでくださいな。この人はあなたのことを、とうの昔からすっかり知ってらっしゃるんですもの。あなたこの人の肩にもたれかかって、いくらでも足りるほどお泣きになってよござんすの。この人は幾時間でもじっと立ってますから!………まあ、帽子を少し持ち上げて、いえ、ちょっとの間すっかり脱いでくださいな。そして、首を伸ばして爪立ちをしてくださいな。あたしすぐにあなたの額を接吻しますから。ちょうど最後のお別れにしたようにね。ご覧なさい、あのお嬢さんが窓の中から、あたしたちを不思議そうに眺めていますわ。さあ、もっと、もっと寄ってちょうだい! あらまあ、なんて白髪におなんなすったのでしょう!」
 彼女は鞍の上から身をかがめて、スチェパン氏の額を接吻した。
「さあ、今度はお宅へまいりましょう! あたしあなたのお宅をぞんじてますわ。あたしすぐに、本当に今すぐお宅へあがりますわ。あなたが頑固屋さんだから、こちらから先にまず訪問しておいて、それから一日あなたを宅へ引きつけてしまいますよ。さあ、いらっしゃい。そして、もてなしの用意をしといてくださいな」
 こういって、彼女は自分の守護者《ナイト》マヴリーキイとともにかなたへ駆け去った。で、わたしたちも引っ返した。スチェパン氏は長いすに身を投げて、さめざめと泣き出した。
「Dieu, Diue!」と彼は叫んだ。「Enfin une minute de bonheur!(ああ、ああ、ついに幸福の瞬間が来た!)」
 十分もたたないうちに、彼女は約束どおり、マヴリーキイを連れてやって来た。
「〔Vous et le bonheur, vous arrivez en me^me temps!〕(あなたと幸福が同時に到着しました!)」と彼は入り来るリーザを迎えに立ちあがった。
「さあ、花束を差しあげます。あたし今マダム・シュヴァリエのところへ行ってまいりましたの。あの店には冬の間だって、命名日の主人公に贈る花束がありますの。さ、この方がマヴリーキイさんです、どうぞお心安く願います。あたし、花束のかわりにお菓子っていったんですけれど、マヴリーキイさんがそれはロシヤ式でないとおっしゃるものですから」
 このマヴリーキイは砲兵大尉で、年は三十三、四、背の高い、美しい、申し分のない気品のある容貌を持った紳士である。表情は幾分ものものしく、ちょっと見はいかついくらいであったが、実際はどんな人でも、彼と近づきになった最初の瞬間から、すぐ気づかずにいられないような、驚くばかり優しい善良な人なのであった。けれども、彼は非常に無口で、見たところいかにも冷淡な性質らしく、しいて交遊を求めようとしないらしかった。その後、この町で多くのものがあれは少し鈍い人間だなどといったが、それはぜんぜん正鵠を穿っているとはいえない。
 わたしはリザヴェータの美貌を描き立てるのはやめようと思う。もう町じゅうで彼女の美しさを囃し立てているのだから。もっとも夫人連や令嬢たちの中には、大いに憤慨してこの評判を否定するものもあった。中にはリザヴェータを憎むものすらあった。その理由は、第一に高慢だというのである。ドロズドヴァ母子は、まだ町の名士連の訪問を始めなかったので、それが生意気に思われたのだ。しかし、この訪問延引の原因は、実際のところ、プラスコーヴィヤ夫人の患いがちなためだった。また第二の原因は、彼女が知事夫人の親戚に当たるということであり、第三は彼女が毎日馬に乗って散歩するということだった。この町では、それまで女の馬乗りが一人もなかったので、まだ訪問も始めないうちに、馬で散歩などするリザヴェータの出現が、わが社交界を憤慨さしたのはもっともな次第である。とはいえ、彼女が馬上で散歩するのは、医師の命令によるものだということを、人々はもう承知していたのである。そのうえ彼女の病身な生まれつきを、皮肉な調子で噂し合っていた。
 実際、彼女は病身のほうだった。彼女に会ってまず第一に気がつくのは、病的な神経質らしい、絶えず落ちつく暇のないような表情であった。哀れにもこの薄命な処女は、非常な苦しみを経験していたのだ。それは後ですっかりわかった。しかし、今こうして過去を追懐するに当たって、わたしは彼女が当時自分の目に映ったほど、素晴らしい美人だとはあえていうまい。ことによったら、まるで美人でなかったかもしれない。背が高くてほっそりしていながら、同時に強靭な体を持った彼女は、その顔面の不規則な輪郭によって、奇異の感じをいだかせるほどであった。彼女の目はカルムイク人([#割り注]南部シベリヤ土民、蒙古族[#割り注終わり])のように、なんだか少し斜《はす》に吊っていた。顔立ちは痩せて、頬骨が出て、あお白い色つやをしていたが、その中には何か相手の心を征服しなければやまぬ、魅力に富んだあるものが感じられた。何か非常に力強いあるものが、その暗い色をした、燃えるような眼ざしの中に感じられた。彼女は『征服せんがために、征服者として』出現したのである。実際、彼女は傲岸[#「傲岸」はママ]に見えるばかりでなく、どうかすると暴慢に感じられることさえあった。彼女が善良な人間になりえたかどうかは知らぬが、しかし、強制的に自分を善良な人間にしたくてたまらないので、そのために煩悶しているのは、わたしにも察しられた。もちろんこの人の内部《うち》には美しい翹望も、正しい試みも十分にあったが、しかし、彼女の持っているすべてのものは、常に正しい標準点をえようとして、しかも、永久にそれを見出しえないために、何もかも混沌と、擾乱と、不安の渦中に投じられている、といったふうな様子だった。彼女はあまり厳格すぎるほどの要求をもって、自分自身に対しているのかもしれぬ。けれど、その要求を満足させるだけの力は、どうしても発見できないらしい。
 彼女は長いすに坐って、部屋を見廻した。
「どうしてあたしはこういう時に、いつも妙にもの悲しくなるんでしょう、あなた学者だから一つ解いてくださいな。あたしね、今までずうっと考えてましたの、もしあなたに会って昔のことを話したら、まあどんなにか嬉しいだろうって。ところが、今はなんだかまるで嬉しくないような気がするじゃありませんか。それでいて、あたしあなたが大好きなんですの……あらまあ、ここにあたしの肖像がかかってるわ! ちょっと見せてくださいな、あたし覚えててよ、覚えててよ!」
 十二のリーザを描いたこの見事な小品の水彩画は、かつて九年ほど前にドロズドフ家の人が、ペテルブルグからスチェパン氏へ送ったものである。それ以来この肖像画は、いつも書斎の壁にかかっていた。
「まあ、本当にあたしこんなかわいい子だったのかしら? 本当にこれがあたしの顔でしょうか?」と彼女は立ちあがって、肖像を片手に持ちながら、鏡を見つめた。
「早く取ってください!」肖像を手渡しながら、彼女はこう叫んだ。「今かけないでちょうだい、あとで。あたしもう見るのもいや」彼女はふたたび長いすに腰を下ろした。「一つの生活が終わって、新しい生活が始まり、それがすんでしまうと、今度はまた別な生活が始まる、――こうして際限なしに続くんですわね。鋏でちょんちょん切ったようにね。ねえ、あたしとても古い話を持ち出すでしょう、けれど、この中にはずいぶん真理がありますわ!」
 彼女は薄笑いを浮かべながら、わたしを見た。もう彼女は幾度となくわたしに目をつけたが、スチェパン氏はすっかりのぼせてしまって、わたしを引きあわせるという約束を忘れているのであった。
「ですが、なんだってあたしの肖像は、匕首《あいくち》の下にかかってるんでしょう? まあ、なんだってあなたは匕首や刀を、あんなにたくさんもってらっしゃるの?」
 実際、なんのためだか知らないが、壁には二ふりの|トルコ剣《ヤタガン》が、十字形に組み合わせてかかっている上に、本物のチェルケス刀まで飾ってあった。こんなことを聞きながら、彼女はひたとわたしのほうを見つめるので、わたしも何か返事しようとしたが、口ごもってしまった。スチェパン氏はやっと気がついて、わたしを紹介した。
「知ってます、知ってます」と彼女はいった。「まったく嬉しゅうございますわ。母もやっぱりあなたのことを、いろいろ伺って承知していますの。マヴリーキイさんとも近づきになってあげてくださいな、それはいい人なんですから。あたしね、あなたという人のことで、おかしな概念を作り上げてしまってるんですの。だって、あなたはスチェパンさまの相談柱でしょう?」
 わたしはあかくなった。
「ああ、どうか堪忍してくださいましね、あたし妙な言葉づかいをしてしまいまして。何もけっしておかしいことはないんですの、ただその……」彼女は顔をあかくし、どぎまぎしてしまった。「もっとも、あなたが立派な方だからって、何も恥ずかしがることはありませんわねえ。それはそうと、マヴリーキイさん、そろそろお暇しましょう! スチェパンさま、もう三十分たったら宅へいらっしゃらなくちゃいけませんよ。ねえ、うんと話しましょうよ! もう今度はあたしが相談柱ですよ、すっかり話しましょうね。すっかり[#「すっかり」に傍点]。よござんすか?」
 スチェパン氏はたちまちもう泡をくった。
「おお、マヴリーキイさんはみんな知ってらっしゃるんですの。この方にご遠慮はいりませんわ!」
「何を知ってらっしゃるんです?」
「まあ、あなた何をおっしゃるんですの!」と彼女は驚いて叫んだ。「なるほど、みんなが隠してるっていうのは、まったくなんですわね。あたし本当にできなかったわ。ダーシャまで隠そうとしてるのよ。小母さんたら、さっきあたしを、ダーシャに会わしてくださらないんですもの。あの娘《こ》は頭が痛いとかいってね」
「しかし……どうしてあなたそんなことを知ったのです?」
「まあ、何をおっしゃるの、皆と同じように知っただけですわ。なにも大して知恵なんか、いりゃしませんよ!」
「え、皆が……」
「そうですわ、なぜ? もっとも、最初はお母さんが、乳母のアリョーナから聞きましたの。そして乳母にはね、お宅のナスターシヤが駆けつけて知らせてくれましたの。だって、あなたナスターシヤにお話しなすったんでしょう? あれがそういってましたもの、あなたご自身の口から聞いたんだって」
「わたしは……わたしはたった一ど話したきりです……」とスチェパン氏は真っ赤になって、吃り吃りこういった。「しかし……ただちょっと匂わしたばかりなんで…… 〔j'e'tais si nerveux et malade et puis〕(わたしはあのとき非 常に神経が昂ぶって病的になってたんです。それに)……」
 彼女はからからと笑った。
「それに、手近なところに相談柱が居合わさなかった、そこへ折よくナスターシヤが来合わせたんでしょう、――それだけでもうたくさんなのよ。あの女にかかったら、町じゅうが親類同士みたいなもんですからね。まあ、そんなことどうでもいいわ! 知ったなら知ったで好きにさせとけばいいのよ。かえってそのほうがいいくらい。どうぞ、早く来てくださいな。うちじゃ正餐《ごはん》が早いんですから……ああ、忘れてた」と彼女はふたたび腰をおろした。「ねえ、いったいシャートフってどういう人ですの?」
「シャートフですか? あれはダーリヤさんの兄さんです!……」
「兄さんてことは知ってますわ、本当にあなたはなんて人でしょうねえ」と彼女はじりじりしながらさえぎった。「あたしその人物が知りたいんですの、いったいどんな人でしょう?」
「C'est une pense-creux d'ici. C'est le meilleur et le plus irascible homme du monde(あの男はこの土地での空想家ですが、世界じゅうで一ばん人のいい、そして一ばん怒りっぽい男なんです)」
「あの方が妙な変人だってことは、あたしも聞いてましたわ。だけど、そのことじゃありませんの。なんでもあたしの聞いたところでは、シャートフさんは三か国の言葉を知っていて、英語にも詳しく、文学的の仕事にも携わることができるそうですね。そうすると、あたしその人に向きそうな仕事をいくらでも持ってるんですの。あたし助手が入用なんですの、そして早いだけけっこうなのよ。その人はそういう仕事を引き受けてくださるでしょうか。ちょっと推薦する人がありましてね」
「そりゃもちろんですよ。et vous fairex un bienfait……(そして、あなたは功徳を施すことになりますよ)」
「あたしけっして功徳のためじゃありませんわ。あたし自身に助手がいるんですの」
「ぼくはかなりよくシャートフを知っています」とわたしがいった。「で、もしその伝言をぼくに託してくだすったら、すぐにこれから出かけますが」
「じゃ、明日十二時に来るようにいってくださいな。まあ、いい都合だこと! ありがとうございます。マヴリーキイさん、お支度はよくって?」
 二人は立ち去った。わたしはむろんすぐさまシャートフの家をさして駆け出した。
「|きみ《モナミ》」とスチェパン氏は、玄関の出口でわたしに追いついて、「ぜひお願いだから、十時か十一時頃、わたしの帰って来る時分に、うちへ来てくれたまえな。おお、わたしは実に、実にすまない。きみに対しても……またみんなに対しても、まったくすまない」

[#6字下げ]8[#「8」は小見出し

 シャートフは家にいなかった。二時間ばかりたって、もう一ど駆けつけてみたが、やっぱり留守だった。とうとう七時過ぎにわたしは会って話をするか、さもなくば置き手紙をして行こうという決心で、彼のもとへ出かけた。と、はたしてまた留守だった。その住まいには鍵がかかっていた。しかも、彼はまるで召使をおかずに、たった一人で暮らしているのだ。わたしは階下《した》のレビャードキン大尉にぶっつかって、シャートフのことを聞いてみようかと考えついたが、ここもやっぱり戸が閉まって、こそとのもの音もしない。まるで空家のよう。わたしはさきほどの話の印象を忘れかねて、好奇の念を覚えながら、大尉の住まいの戸口を通り抜けた。結局、わたしは明日の朝、早目に寄ってみることにした。置き手紙もあまり当てにならなかったからである。シャートフはしぶとくて人ずきの悪い男だから、そんなものなぞ大して気にかけそうもない。わたしは自分の失敗を呪いながら、門を潜って出ようとすると、偶然にもキリーロフ氏に行き会った。彼は家へ入ろうとするところだったが、まず第一番にわたしの顔を見分けた。向こうからいろいろと問いかけるので、わたしも事の始末をかいつまんで話したうえ、手紙を持っていることを告げた。
「まあ、おはいんなさい」と彼はいった。「ぼくがすっかりよくしてあげます」
 わたしはふと思い出した。リプーチンの言葉によると、彼は今朝から裏庭に建っている木造の離れを借りているはずである。独り者には少し広すぎるこの離れには、年とった聾の女房が住んでいて、これが彼の世話をやくことになっていた。この家の持ち主は別の通りにある別の新しい家で、料理屋を経営していたが、その親類に当たるとかいうこの老婆は、古い家ぜんたいの監督にここへ残っているのであった。離れの部屋はいずれも小ざっぱりしているが、壁紙が汚かった。わたしたちのはいって行った部屋を飾る道具は、寄せ集めの大小不揃いなもので、まったくのがらくたであった。まずカルタ卓が二つ、榛《はん》の木造りの箪笥一棹、どこかの百姓小屋か、台所からでも引っ張り出したような、大形の荒削りのテーブル一つ、いくつかのいす、格子のよっかかりと固い革枕のついた長いす一脚、といったふうなものである。片隅には時代ものの聖像が飾ってあって、その前には、わたしたちのはいって来ないうちにお婆さんのともした燈明が吊るしてあった。傍の壁には、朦朧とした二枚の大きな油絵の肖像がかかっていたが、一つは先帝ニコライ一世を描いたもので、見受けたところ、二十年代に写し取ったものらしい。いま一つは何か僧正の姿を現わしたものであった。
 キリーロフ氏は部屋へはいると蝋燭をともし、まだ片づけもせず、隅のほうにほうり出してあるカバンの中から、封筒と封蝋と水晶の封印とを取り出した。
「その手紙に封をして、封筒に宛名をお書きなさい」
 わたしはそんな必要はないといってみたが、彼はどうしても聞かなかった。封筒に宛名を書くと、わたしは帽子を取り上げた。
「ぼくは茶でもなにされるかと思っていました」と彼はいった。「ぼく、茶を買ったです。おいや?」
 わたしは辞退しなかった。間もなく婆さんが茶を持って来た。というのは、熱い湯の入った素晴らしく大きな土瓶と、ふんだんに茶を入れた急須と、俗な模様のついた無骨な茶碗二つと、大きな丸パンと、深皿いっぱいに盛った割り砂糖とであった。
「ぼくは茶が好きです」と彼がいった。「夜ね、やたらに歩いては飲むんです。夜が明けるまで。外国にいると、夜の茶は都合が悪いですね」
「あなたは夜明けにお休みになるんですか?」
「ええ、いつも――ずっと以前から。ぼくはあまり物を食べないで、茶ばかり飲むんです。リプーチンは狡猾だけれど、せっかちですね」
 この人が何をいおうとするのかわからないで、わたしは面くらってしまった。わたしはこの機を利用しようと決心して、
「さっきはちょっといやな行き違いが起こりましたね」といってみた。
 彼は恐ろしく顔をしかめた。
「あれは馬鹿げたことです。あれはまったく下らんことです。あれはもう一から十まで下らんことばかりです。なぜって、レビャードキンは酔っぱらいじゃありませんか。ぼくはリプーチンに話をしたんじゃありません。ちょっと下らんことを説明しただけなんです。それをあの男がまた尾鰭をつけたのです。リプーチンはやたらに想像が強いから、針小棒大にやってるんです。ぼくは昨日までリプーチンを信じていました」
「ところで、今日はぼくを信じるんですか?」とわたしは笑った。
「さっきの一件でたいていもうおわかりでしょう。リプーチンは弱い男か、でなければせっかちか、でなければ有害な男か、でなければ……やっかみ屋なんです」
 わたしはこの最後の言葉に一驚を喫した。
「しかし、あなたはずいぶんたくさん形容詞をおならべになりましたね。それだけいえば、どれか一つくらい当てはまるでしょうよ」
「ところが、どれにもすっかり当てはまるかもしれません」
「ええ、それもそうですね。リプーチンはまるで一つの混沌ですからねえ? ときに、あなたが何か著述をなさるように、先ほどあの男がいったのは、でたらめですか?」
「なぜでたらめなんです?」じっと足もとを見据えながら、彼はまたも眉をひそめた。
 わたしは失言を謝して、何か探り出そうなどというはらでないことを誓った。彼は顔をあかくした。
「あの男のいったのは本当です。ぼく、書いています。けれど、そんなことはどうだっていいじゃありませんか」
 しばらく二人は黙っていた。とふいに、彼は先ほどと同じ子供らしい笑い方でほほえんだ。
「が、あの首の話はあの男が、本の中から引っ張り出したのです。初め自分でぼくに話して聞かせましたが、その解釈が成ってないです。ぼくはただね、どういうわけで人間は自殺する勇気を持たないか、その原因を求めているのです。それっきりです。が、これもどうだっていいです」
「なぜ勇気がないのです! 自殺の数が少ないとでもおっしゃるのですか?」
「非常に少ないです?」
「え、あなたはそうお考えですか?」
 彼は答えなかった。そして、ふいと立ちあがり、物思いに沈んであちこちと歩き始めた。
「あなたのお考えによると、人間の自殺を妨げるものはなんでしょう?」とわたしはたずねた。
 彼はたったいま二人が話し合ったことを、思い出そうとでもするように、ぼんやり視線を向けた。
「ぼくは……ぼくはまだよくわかりませんがね……二つの偏見が邪魔をしてるんですよ。二つのもの、たった二つのものです。一つは非常に小さいけれど、いま一つはたいへん大きいのです。しかし、小さいほうだって、やはり非常に大きいですね」
「小さいほうってなんです?」
「痛みです」
「痛み? いったい、それがそんな大した問題なのでしょうか……この場合?」
「最も重要な問題です。これにも二種類ありますがね。非常な憂愁とか、また憤懣のために自殺する者、気ちがい、それから……まあ、なんだっていい、そんな連中はいきなりやっつけます。こんな連中はあまり痛みのことなど考えないで、いきなりやっつける。ところが、思索の結果やる連中は、非常に考えるんです」
「思索の結果やる者があるでしょうか?」
「非常にたくさんあります。もし偏見がなかったら、もっとたくさんあるんです。非常にたくさんあるんです、みんなそうです」
「へえ、みんなになっちまいましたね」
 彼はいっとき口をつぐんだ。
「けれど、痛みなしに死ぬ方法がないと思いますか?」
「いいですか」と彼はわたしの前に立ち止まった。「かりに大きな家ほどもある大磐石を想像してごらんなさい。そいつが宙にぶら下って、あなたがその下にいるんです。ところで、もしそれがあなたの頭の上へ落ちて来たら――痛いでしょうか?」
「家くらいの石? むろん、恐ろしいですよ」
「ぼくは恐ろしいかどうか聞いてるんじゃない。痛いでしょうかというんです」
「山のような石ですね、百万貫もある? もちろん、少しも痛かありませんさ」
「ところが、実際その下へ立ってみたら、そいつがぶら下っている間じゅう、あなたはさぞ痛いだろうと思って、非常に恐れるに相違ない。どんな第一流の学者だって、第一流の医者だって、みんなだれでも非常に恐れるに相違ない。だれでも痛くないと承知しながら、だれでも痛いだろうと思って、非常に恐れるに相違ない」
「なるほど、じゃ第二の原因は、大きいほうは?」
「来世です」
「というのは、神罰ですか?」
「そんなことはどうだっていいです。来世です、ただ来世だけ」 
「しかし、ぜんぜん来世を信じない無神論者もあるでしょう?」
 ふたたび彼は言葉を切った。
「あなたはおそらく自分を基にして判断してるんでしょう」
「だれだって自分を基にして判断するより、仕方がないじゃありませんか」と彼は顔を染めながらいった。「完全な自由というものは、生きても生きなくても同じになった時、初めてえられるのです。これがいっさいの目的です」
「目的? それじゃだれ一人、生を欲するものがなくなるんですね?」
「ええ、だれ一人」彼はきっぱりといいきった。
「人間は生を愛するがゆえに死を恐れます。これがぼくの見解です」とわたしはいった。「そして、これが自然の命令です」
「それは陋劣です。その中にいっさいの欺瞞があるのです!」彼の目はぎらぎら光ってきた。「生は苦痛です。生は恐怖です。ゆえに人間は不幸なのです。現代はすべてが苦痛と恐怖です。いま人間は生を愛している、それは苦痛と恐怖とを愛するからです。そして、実際そのとおりにしてきたのです。いま生活は苦痛と恐怖の代償として与えられている、しかも、その中にいっさいの欺瞞が含まれているのです。今の人間は本当の人間じゃありません。今に幸福と誇りとに満ちた新人が出現する。生きても生きなくても同じになった人が、すなわち新人なのです。苦痛と恐怖とを征服した人はみずから神となる。そうすると、今までの神はなくなってしまう」
「してみると、今までの神はあるとお考えなんですね?」
「神はない、けれど、神はある。石の中に苦痛はないけれど、石に対する恐怖には苦痛がある。神は死に対する恐怖の苦痛です。苦痛と恐怖とを征服したものはみずから神となるのです。その時こそ新生活がはじまる、新人が生まれる。いっさいが新しくなる……その時こそ、歴史は二つの部分に分けられるようになる――ゴリラから神の撲滅までと、神の撲滅から……」
「ゴリラまで?」
「地球と人類の物理的変化まで。人間が神になると、肉体的にも変化します。そして世界も変化し、事物も変化します、思想も感情もすべて変化します。あなたどう思います。その時は人間が肉体的に変化しますか?」
「もし生きても生きなくても同じになったら、みんな自殺してしまいますよ。まあ、それくらいの変化でしょうかねえ」
「そんなことはどうだっていい。欺瞞が殺されるのです。だれにもせよ最高の自由を欲するものは、必ず自殺する勇気を持ってなくちゃならない。自殺する勇気のある者は、欺瞞の秘密を見破ったのです。もうそれ以上の自由はない。その中にすべてがあるのです。それより先には何もありません。自殺する勇気のある者は、もう神になったのです。神もなければ何物もないという状態には、現在だれでもすることができる。しかし、まだだれも今までやったものがない」
「自殺したものは、何百万あったかわかりませんよ」
「しかし、みんな目的が違います。みんな恐怖をいだきながらやってるので、まるで目的が違います。けっして恐怖を殺すためじゃない。ただただ恐怖を殺さんがために自殺するものだけが、初めて神になるのです」
「たぶん間に合わんでしょう」とわたしがいった。
「それはどうだっていいです」彼は侮蔑といっていいくらい平静な誇りの色を浮かべて、小さな声でこう答えた。「あなたは冷やかしていられるようですね、ぼくはそれが残念ですよ」としばらくたって彼はいい足した。
「ぼくはまた、さっきあんなにいらいらしておられたあなたが、そんなに落ちついて話をなさるのが不思議なんです。もっとも、だいぶ熱心な様子ではありますがね」
「さっき? さっきはおかしかったのです」と彼は微笑を浮かべながら答えた。「ぼくは口論するのが嫌いなんです。そして、どんなことがあっても、冷やかしなどしません」と彼は沈んだ調子でいい添えた。
「けれど、あなたが茶を飲みながら送られる夜な夜なは、あまり愉快なものじゃありませんね」
 わたしは立ちあがって、帽子を取った。
「そうお思いですか?」いくらか驚きの色を見せて、彼は微笑した。「なぜ、いや、ぼく……ぼくわからんです」と彼は急にまごついて、「ほかの人はどうか知らんが、ぼくはそう感じられるのです、――ぼくはほかの人のようにはできない。ほかの人は何か考えると、すぐにまたほかのことを考える。ぼくほかのことは駄目だ。ぼくは一生ひとつことばかり考えてきたです。ぼくは一生、神に苦しめられました」と彼は急に驚くばかり多弁になって、こう言葉を結んだ。
「失礼ですが、ちょっと伺います。あなたはどうしてそんな不正確なロシヤ語をお話しなさるんです? 外国に五年もいる間に、お忘れになったのですか?」
「へえ、ぼく、不正確ですか? わかりません。いや、外国のせいじゃない。ぼくはずっとこんなふうに話してきたのです……ぼくどうでもいいです」
「もう一つ伺います、しかも、より以上デリケートな質問ですよ。あなたは人に会うのがあまりお好きでないでしょう。そして、あまり人とお話しにならんでしょう。ぼくは固くそう信じます。ところで、今はどうしてぼくに向かってそう多弁になられたんでしょう?」
「あなたに向かって? さっきじっと坐っていられた様子が、気に入ったのです。それに、あなたは……もっとも、こんなことはどうだっていいけれど……あなたはぼくの兄弟に似ていらっしゃる、非常に、大変」と彼は真っ赤になっていった。「七年前に死にました、兄貴です。非常に、非常によく似てらっしゃる」
「きっとあなたの思想に影響を与えたんでしょうね」
「い、いいえ、兄は口数が少なかったです。兄はまるで口をきかなかったです、ぼくあなたの手紙をお渡ししましょう」
 彼はわたしの出た後で戸締りをするために、角燈を持って門まで送って来た。『むろん、気ちがいだ』とわたしは心の中で決めてしまった。と、門の下でまた別の男に行き当たった。

[#6字下げ]9[#「9」は小見出し

 わたしがくぐりの高い閾を跨ごうとして片足ふみ出した時、とつぜんだれかの強い手が、むんずとわたしの胸倉を抑えた。
「こいつあ何者だ!」とだれかの声が咆えるようにいった。「敵か味方か? 白状せえ!」
「味方だ、味方だ!」リプーチンの黄いろい声がすぐ傍から起こった。「これはGさんだ、古典教育を受けて、上流の社交界に知己の多い青年紳士だよ」
社交界、そいつあ気に入った、古典……じゃあ深い教養があるんだな……わしは退職大尉イグナート・レビャードキン、世のため親友のためには、いつでも一肌ぬごうという男だ……もしきゃつらに誠があればだ、もし誠があればだよ、こん畜生!」
 レビャードキンは六尺ゆたかの大男で、体は肥えて肉が盛りあがり、髪は渦を巻いて、顔はすっかり酔っぱらって真っ赤だったが、わたしの前に立っているのもやっとの思いで、むずかしそうに舌を廻していた。もっとも、わたしは以前遠くのほうからこの男を見たことがある。
「やあ、こいつもか!」まだ角燈を持ったまま、去りもやらずにいるキリーロフを見ると、彼はまた咆えるようにこういった。拳を振り上げようとしたが、すぐに下ろしてしまった。
「学問に免じてゆるしてやろう! イグナート・レビャードキン、――ふかあい教養のある男だ……」

[#ここから2字下げ]
燃え上る愛の榴弾、破裂しぬ
イグナーチイの胸の中にて
さらにまた苦《にが》き悩みに
腕なしは泣き出《いだ》すなり
セヴァストーポリを思い出《いだ》して
[#ここで字下げ終わり]

「セヴァストーポリの役に参加したこともなければ、また腕なしでもないけれど、まあ素敵なリズムじゃないか!」と彼は熟柿臭い顔をわたしのほうへ突き出した。
「この人はお忙しいんだよ、まったくお忙しいんだよ、家へお帰りになるんだ」とリプーチンがなだめた。「明日リザヴェータさんに、すっかりいいつけられてしまうぜ」
「リザヴェータさんに!」と彼はまたわめき出した。「待て、行っちゃいかん! かえ歌だ」

[#ここから2字下げ]
数多きアマゾンの円舞の中を
馬を駆り飛びちがうなり星のアマゾン
われを見て駒の上よりほほえみぬ
ああなれこそは貴族の子なれ
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]『星のアマゾンへ』

「おい、いいか、これは頌歌だぞ! これは頌歌だぞ、貴様が驢馬でなけりゃわかるだろう! ああ、本当に能なし野郎め、わかるもんか! 待て!」わたしが一生懸命くぐりのほうへ逃げようとすると、彼はひしとわたしの外套にしがみついた。「おい、わしは潔白なナイトだと、そういってくれ。ダーシュカ([#割り注]ダーリヤのこと、ダーシャ、ダーシェンカは愛撫を表わすが、このダーシュカは侮蔑の感じを示す[#割り注終わり])なんぞ……ダーシュカなんぞ、二本指で抓み出してくれる……地主に縛られた女奴隷の分際で生意気な……」
 こういって、彼はばったり倒れてしまった。わたしが無理にその手をもぎ放して、通りを駆け出したからである。リプーチンはまた後からつきまとって来た。
「あの男はキリーロフさんが始末をつけてくれますよ。実はね、ぼくあいつから面白いことを聞いたんですよ」と彼はせわしない調子でしゃべり出した。「あの詩を聞きましたか? あいつはあの『星のアマゾンへ』という詩を封筒の中へ入れて、明日リザヴェータさんのとこへ送ろうとしてるんですよ。しかも、立派に自分の署名をしてね。まあ、どうです!」
「ぼくは賭でもします。それはきみが自分で入れ知恵をしたんでしょう」
「そりゃきみの負けですよ!」とリプーチンはからからと笑った。「惚れ込んでるんです、まるで猫の仔のように惚れ込んでるんです。ところがね、実際は憎い憎いから始まったことですよ。あいつはこれまでリザヴェータさんを憎んでいたのです。あのひとが馬に乗って歩くからといってね、ほとんど往来で悪口つかないばかりでしたよ。いや、実際罵倒したものです。つい一昨日もあのひとが馬で通った時、悪口雑言したんですが、いいあんばいに、あのひとに聞こえなかったです。ところが、今度はだしぬけに詩と来るじゃありませんか! まあ、どうです。あいつは大胆にも、結婚を申し込もうとしてるんですぜ。まったく、まったくですよ!」
「きみにもあきれてしまいますね、リプーチン君、ちょっとでもこうしたいまわしい話が持ちあがると、もうきみはさっそくそこで采配を振ってるじゃありませんか!」とわたしは憤然としていった。
「しかし、きみ、きみは少しいい過ぎやしませんか、G君。いったい競争者が現われたのにびっくりして、心の臓が縮みあがりでもしたのですか? え?」
「なあんだって?」わたしは歩みを止めて、こうどなった。
「いや、もう罰としてなんにもいいませんよ? きみはさぞ聞きたいでしょうね! ただ一つだけ教えてあげますが、今あの馬鹿者はもうただの大尉じゃなくって、この郡の地主さまですぜ。地主もかなり大きなほうでさあ。というのは、ニコライさんが以前もっていた二百人という農奴つきの領地を、ついこの間あいつに譲ったんですからね。ぼくは誓ってもいい、――嘘なんかつきゃしません。たったいま聞いたばかりですがね、その代わり出所は確かですよ。さあ、もうこれから先は一人で探り出しなさい。もうなんにもいわないから。さよなら!」

[#6字下げ]10[#「10」は小見出し

 スチェパン氏は、ヒステリイじみたいらだたしい心持ちで、わたしを待っていた。彼はもう一時間から前に帰っていたのだ。わたしが部屋へ入ったとき、彼はまるで酔っぱらいのようであった。少なくとも最初五分ばかり、わたしは酔ってるものとばかり思っていた。悲しいかな、ドロズドフ家の訪問はかえって彼の頭をすっかり混乱させてしまったのである。
「Mon ami わたしはすっかり手蔓を失くしてしまった…… Lise ……わたしは依然として、そうだ、まったく依然としてあの天使を敬愛しているが、しかし、どうやらあの人たちは二人とも、ただもうわたしから何か探り出して……つまり、てもなくわたしからいるだけのものを引き抜いてさ、あとはどうとも勝手になさい……といったふうな目的で、わたしを呼んだのじゃないかと思われる。いや、まったくそのとおりなんだよ」
「あなたはよくまあ、恥ずかしくないこってすねえ!」とわたしはこらえかねてこう叫んだ。
「ねえ、きみ、わたしはいま本当に一人っきりだ。enfin c'est ridicule(要するに、滑稽な話だがね)まあ、考えてもみたまえ、あの家まですっかり秘密に包まれてるじゃないか。母娘《おやこ》はいきなりわたしに飛びかかって、例の鼻だの耳だの、それにペテルブルグ時代の秘密だの、そんなことを聞き出そうとするのさ。母娘《ふたり》は四年前ここでニコラスのしたことを、今度はじめて知ったんだからね。『あなたはここにいて、ご自分でご覧になったのですもの。いったい、あの人が気ちがいだってのは本当ですか!』だとさ。全体そんな考えがどこから飛び出したんだろうね、合点がいかないよ。どうしてプラスコーヴィヤさんはなんでもかでも、ニコラスを気ちがいにしてしまいたいんだろう? あのひとはそうしたくてたまらないんだよ。本当に! あのモーリイス、じゃない。なんとかいったっけなあ、あのマヴリーキイ・ニコラエヴィチは、〔brave homme tout de me^me〕(とにかくいい男だよ)、しかし、それが当人のためになるかなあ。しかも、あのひとがわざわざパリから〔cette che`re amie〕(うちの気の毒な友だち([#割り注]ヴァルヴァーラ夫人をさす[#割り注終わり]))へ宛てて、あんな手紙をよこした後で……enfin(要するに)〔cette che`re amie〕(うちの親愛なる友だち)のいわゆるプラスコーヴィヤは、一つの立派なタイプだね。ゴーゴリが不朽にした小箱夫人《カローボチカ》([#割り注]『死せる魂』の一人物、わからずやの典型[#割り注終わり])だ。ただこの小箱《カローボチカ》は意地悪で、喧嘩買いだ、無限に誇大される小箱だよ」
「それじゃ、大箱になってしまうじゃありませんか、もし無限に誇大すればですね」
「じゃ、縮小されたものでもいいよ、どっちも同じこった。ただ横槍を入れないでくれたまえ。わたしはなんだかごっちゃになってしまったんだから。あの連中はすっかり喧嘩わかれになってしまったらしいよ。もっとも Lise だけは別だ。あれは今でもやっぱり『小母さん、小母さん』といってる。しかし、Lise はずるいから、そこにはなにか底意があるようだ。秘密さ。しかし、お婆さん同士は喧嘩したんだ。|あの気の毒《セットポーヴル》な小母さんはまったく皆に対して、暴虐をふるいすぎるからね……なにしろ県知事夫人が現われたり、社会全体の尊敬が薄らいだり、カルマジーノフが『不遜の態度』を示したり、いろんなことが重なってるところへ、かてて加えて、ニコラスの発狂などという疑いが湧いて出たり、ce Lipoutin, ce que je ne comprends pas ……(それにあのリプーチンの件、あれはどうしてもわからない)なんでも話によると、頭を酢でしめしたり、大騒ぎだったそうだ。そこへ持ってきて、われわれ二人がいろんなことを訴えたり、手紙を送ったりするんだろう……ああ、わたしはあのひとを苦しめたのだ、しかもよりによってこういう時にさ! Je suis un ingrat!(わたしは恩知らずだ!)まあ、どうだろう、わたしが帰ってみると、あのひとから手紙が来てるじゃないか、読んでみたまえ、読んでみたまえ! 実にわたしは忘恩の振舞いをしていたよ」
 彼はたった今うけ取ったばかりの、ヴァルヴァーラ夫人の手紙を差し出した。夫人は今朝ほどの『家にじっとしていらっしゃい』を後悔しているらしい。今度の手紙は慇懃な書き方だったが、それでもやっぱり言葉少なく、断固たるものであった。ほかではない、明後日日曜正十二時に、ぜひとも家へ来てほしい、そしてなるべくだれか一人、友だちをつれて来るように、とのことであった(括弧の中にわたしの名前が入っていた)。同時に夫人は自分のほうからも、ダーリヤの兄として、シャートフを招待する旨を約していた。『あなたは彼女《あれ》の口から、最後の決答を聞くことができるのです。それでご満足ですか! この形式的な手続きがご入用だったのですか?』
「このしまいに書いてある形式的云々の、いらいらした文句に注意してくれたまえ。気の毒だ。本当に気の毒な人だ、わたしの生涯を通じてたった一人の友だちなんだがなあ! しかし、まったくのところ、わたしの運命はこの思いがけない[#「思いがけない」に傍点]決定のために、まるで圧しひしがれてしまったようなものだ……わたしは白状するが、今まではまだやっぱり一縷の希望をいだいていた。が、今は tout est dit(すべては語られたりだ)もうわかってる、万事了したんだ。C'est terrible(恐ろしい)ああ、今度の日曜というものがなくて万事いままでどおりだったらなあ。きみも毎日来てくれるし、わたしもここにいて……」
「あなたはさっきリプーチンのいった穢らわしい作りごとに、すっかり迷わされてしまいましたね」
「ねえ、きみ、きみは今その友情に富んだ指で、また別な傷口に触ったね。そうした、友情の指というやつは、えて残酷なもんだよ、時には条理を没却することもあるくらいだ。pardon(失敬)しかし、きみは信じてくれるかどうか知らないが、わたしはもうそうした穢らわしい話を、おおかた忘れてしまってた。いや、けっして忘れたわけではないが、例のおめでたい性分だから、Lise のところにいる間じゅう、幸福になろうと努めた。そして、おれは幸福なのだと、自分で自分に思わせようとしたものだ。しかし、今は、……いまわたしはあの度量の大きい、人道的な婦人のことを考えてるのだ。わたしの醜い欠点に対して辛抱づよい婦人のことをね、――もっとも、非常に辛抱づよいというわけにはゆかないが、しかし、わたし自身がどんな人間で、どんなに空虚な、いとわしい性格を持ってるかってことを考えたら、こんなことなぞいわれた道理ではないのだ! 実際、わたしはおめでたい子供だ。そのくせ、子供特有の利己心ばかりは、そっくり全部もち合わせているが、その無邪気さはまるでないんだよ。あのひとは二十年間、乳母かなんぞのようにわたしの世話をしてくれた、|あの気の毒《セットポーヴル》な小母さん――これは Lise の考え出した優雅な呼び方なんだよ……ところが、二十年もたった後に、この子供が急に結婚しようといいだした、早く嫁を取ってくれ、早く嫁をといった調子で、後から後から手紙を書き始めたじゃないか。で、あのひとは、つむりを酢でしめすという始末さ、ところが……ところが、とうとう無理にねだりつけて、今度の日曜日には立派な女房持ちだ、冗談じゃないねえ……しかし、わたしは自分のほうから何をいい張ったんだろう、まあ、なんだって自分のほうから手紙なぞ書いたんだろう? ああ、忘れていたが、Lise はダーリヤを神様のように崇めているよ、少なくともそんなふうにいってるね。あの女はダーリヤのことを C'est un ange(あの人は天使です)、ただ少し引っ込み思案すぎるけれど』といっているのさ。とにかく、母娘《おやこ》ともわたしにすすめてくれたよ、プラスコーヴィヤでさえ……いや、プラスコーヴィヤはすすめてくれたんじゃない。まったくあの『小箱《カローボチカ》』の中にはずいぶん毒が隠れてるからねえ! それにリーザだって、本当にすすめたわけじゃないんだ。曰く『なんだってあなた、結婚の必要なんかあるんでしょう。知識の楽しみだけで十分じゃありませんか』といって大きな声で笑うのだ。わたしはその哄笑をゆるしてやった。あのひと自身も胸を掻きむしられるようなんだからね。それから、母娘《おやこ》でいうことには、『でも、あなたはやっぱり女なしじゃいられない。だんだんと老衰していらっしゃるんだから、その時にはあの女がよく世話をしてくれるでしょうよ、でなければまた……』ma foi(実際のところ)わたし自身もこうしてきみと話している間じゅう、心の中でそう考えていたよ、――これは荒れに荒れたわたしの生涯の終わりに当たって、神様があのひとを授けてくだすったのだ、あのひとはわたしをよく世話してくれるに相違ない、でなければ…… enfin(つまり)、また家政を見てくれるものが必要なんだ。そら、わたしの家はあんなに埃《ごみ》だらけだ、見たまえ、あのとおりごちゃごちゃなんだ、ついさっき掃除をいいつけたんだがね。それに、本まで床にごろごろしている。la pauvre amie(あの不幸な女友だち)はわたしのところが埃《ごみ》だらけだといって、始終おこり通していたっけが……ああ、もうこれからはあのひとの声も響くことはないのだ! 二十年《ヴァンタン》! ところが、あの母娘《おやこ》の者は、無名の手紙を幾本も持ってるらしい、実に驚いてしまうじゃないか。ニコラスがレビャードキンに領地を売ってしまったなんて。C'est un monstre(まったくどえらいことだよ)|つまり《アンファン》、レビャードキンとは何者かという問題なんだ。Lise は一生懸命に聴いてるんだ! 夢中になって聴いてるんだ。わたしがあの哄笑をゆるしたのも、つまり、その聴いてる顔つきが真剣だったからさ。ところが、ce Maurice(あのモーリス)……わたしは今のあの男の役には廻りたくないよ。〔brave homme tout de me^me〕(とにかく正直な男だが)、少し内気すぎるよ。だが、あんな男のことなぞどうだってかまわないさ……」
 彼は口をつぐんだ。彼は疲れて、しどろもどろになり、ぐったりしたように、じっと床を見つめながら、力なくかしらを垂れて坐っていた。わたしは言葉の切れ目を幸いに、例のフィリッポフの持ち家訪問を物語った。そのついでに、ぶっきら棒なそっけない調子で、自分の考えを話してみた。ほかでもない、あのレビャードキンの妹は(もっとも、自分で会ったことはないけれど)、ニコラスがリプーチンのいわゆる謎の生活を送っていた時代に、実際、彼の犠牲になったのかもしれない。そして、レビャードキンがなぜかニコラスから金をもらっているというのも、大いにありうることだ。しかし、ほんのそれだけのことらしい。ダーリヤに関する讒謗にいたっては、もうまったく馬鹿馬鹿しい話で、リプーチンの畜生のこじつけにすぎない。少なくも、キリーロフがむきになって、その噂を否定している以上、われわれはその言葉を信じないわけにいかない。
 スチェパン氏はまるで、自分にはなんのさし触りもないような、ぼんやりしたふうでわたしの説明を聞いていた。わたしは話のついでに、キリーロフとの対話を物語って、あの男はことによったら気ちがいかもしれぬ、といい足した。
「あの男は気ちがいじゃなくて、お手軽な思想を持った連中の仲間なのさ」と彼はさも大儀そうなだらけた調子で、口の中でもぐもぐいった。「〔Ces gens-la` supposent la nature et la socie'te' humaine autres que Dieu ne les a faites et qu' elles ne sont re'ellement〕(ああいう連中は自然や人間社会を、神が造ったものとも、また実際におけるものとも、別なふうに想像している)よく人はああいう連中と遊びたがるものだが、少なくともスチェパン・ヴェルホーヴェンスキイはそんなことをしない。わたしは〔avec cett che`re amie〕(わが親愛なる女友だちといっしょに)、ペテルブルグであの手合いに会ったが(当時、わたしは実際あのひとを侮辱したものだ!)、わたしはあの手合いの罵倒ばかりでなく、賞讃の言葉にさえ驚かなかった。今でも驚きゃしないよ。mais parlons d'autre chose(しかし、もうほかの話をしよう)……わたしはどうも恐ろしいことをしでかしたような気がする。まあ、どうだろう、わたしは昨日ダーリヤに手紙を出したんだ。そして……わたしは今となって、そんなことをした自分を自分で呪っている!」
「何を書いたんです?」
「ねえ、きみ、それもこれもみんな高潔な心持ちでしたことなんだ。わたしはあのひとにね、五日ばかり前ニコラスに手紙を出したと書いてやったのさ。これもやっぱり高潔な心持ちでしたことなんだよ」
「今こそわかった!」とわたしは熱くなって叫んだ。「どんな権利があって、あなたはそういうふうにあの二人を対照させるんです?」
「しかし、きみ、どうか最後の一撃を与えないでくれたまえ、そうどならないでくれたまえ、それでなくてもまるで……まるで油虫のように踏み潰されてしまってるんだから。それに、わたしはむしろ高潔なことと思ってるんだよ。まあ、かりに何か実際…… en Suisse(スイスで)何か起こった……いや、まあ、起こりかかったと仮定したまえ。わたしはあらかじめ、二人の心中を聞いておく義務があるじゃないか。|つまり《アンファン》、二人の心の邪魔にならないように、二人の行く手をふさがないようにさ……わたしはつまり高潔な心持ちからして……」
「まあ、本当に、なんて馬鹿なことをしたんでしょう!」わたしは思わず声を筒抜けさした。
「馬鹿なことだ、馬鹿なことだ」と彼は貪るような調子で引き取った。「きみの今までいった言葉の中で、一ばん気が利いてるよ。〔c'e'tait be^te, mais que faire, tout est dit〕(まったく馬鹿なことだ、が、仕方がない、してしまったことだもの)どうせ結婚するんだ。『他人の罪業』とだってかまやしない。してみると、手紙なぞ書く必要はなかったんだね? そうじゃないか?」
「あなたはまたそんなことを!」
「おお、今はもういくらどなっても、わたしをへこますわけにはいかない。いまきみの前にいるのは、依然たるスチェパン・ヴェルホーヴェンスキイじゃないよ。あれは、もう葬り去られたのだ。Enfin tout est dit(つまり、すべてが終わったのだ)。それに、いったいなんのためにどなるんだね? ほかでもない、要するに、結婚する当人がきみでないからだ、お定まりの飾りを頭へのせるのがきみでないからだ。それできみは気が気でないんだろう? きみはかわいそうなものだよ、きみはまだ女をしらないんだ。ところが、わたしはその研究を仕事にしているのだ。『もし全世界を征服せんとせば、まず汝みずからを征服せよ』これは義兄シャートフの、――きみと同じようなロマン派の言として、たった一つ成功したモットーなのだ。わたしはあの男の言を好んでここに引用するよ。そこで、わたしはみずからを征服するつもりだが、さてかちうるものはなんだろう、全世界はさておいてさ。ねえ、きみ、結婚というやつは、すべて誇り高き魂、独立不羈の心にとって、精神上の死なんだよ。結婚生活はわたしを淫佚にし、事業に奉仕すべき精力と勇気とを奪ってしまう。そして、子供でもできたら……それも或いは自分のものでないかもしれぬ――いいや、もちろん、自分のものではないのだ。賢者は真実を直視することを恐れないからね……リプーチンはさっき、バリケードでニコラスを防げとすすめたが、あれは馬鹿なのだ、リプーチンは。女というやつは、最も透徹した眼光すら欺くからね。もちろん、le bon Dieu(かの善良なる神様)は女を造るとき、相手の何者たるやを自分でもよくごぞんじだったが、わたしの信ずるところでは、女が自分から神様の邪魔をして、自分というものを今のようなふうに……今のような属性をつけて造られてしまったのだ。さもなければ、だれがただでそんな面倒な仕事をするものかね。ナスターシヤはわたしの放埒無慚な考えを聞いたら、さぞ腹を立てることだろうね。……だが、enfin tout est dit (しかし万事了したのだ)」
 もし彼が一時流行した安価な地口式自由思想を捻り出さなかったら、彼はもう前後も忘れてしまったに相違ない。が、少なくとも、今はこのちょっとした地口でみずから慰めた。とはいえ、それも長くはつづかないのだ。
「おお、どうしてこの明後日が、この日曜日がなくちゃならんのだろう?」ふいに彼はすっかり絶望しきったように叫んだ。「どういうわけで、せめてこの一週間だけでも、日曜なしですまされないのだろう、 ――si miracle existe(もし奇蹟があるならば)、せめて無神論者どもに威力を示して、et que tout soit dit(何もかもいってしまう)ためだけにでも、たった一度の日曜日を暦から抹殺するくらい、神様にとってどれだけの労でもないじゃないか! ああ、わたしはあのひとを愛していた。二十年間、まる二十年間、しかも、あのひとは一度もわたしの心を知ってくれなかった!」
「だれのことをいってるんです? ぼくはあなたのいうことがわかりませんよ!」とわたしはびっくりしてたずねた。
「二十年《ヴァンタン》! しかも、あのひとは一度もわたしの心を知ってくれなかった、おお、なんという残酷なことだ! いったいあのひとはわたしが恐怖や必要のために、結婚すると思ってるのか! おお、汚らわしいことだ!『小母さん』『小母さん』、みんなあなたのためですよ! ああ、あのひとに、あの『小母さん』に、ぜひこのことを知ってもらわなきゃならん。わたしは二十年間、あのひと一人だけを崇めてきたのだ! あのひとはぜひそれを知らなけりゃならん、そうしなきゃ駄目だ。そうでなかったら、むりやりにわたしを ce qu' on appelle le(いわゆる)華燭の典へ引っ張って行くも同じだ!」
 わたしは初めてこの告白、かくまで力強く表現された告白を聞いた。しかも、隠さずに白状するが、わたしは噴き出したくてたまらなかった。が、それは間違っていた。
「そうだ、あれが一人きりだ、あれがいまわたしに残された唯一のものだ、わたしの唯一の希望だ!」とつぜん思いもよらぬ想念に打たれたように、彼はふいに両手を拍った。「もう今はあれ一人きりだ。あの不仕合わせな子がわたしを救ってくれるだけだ。そして、――ああ、なぜ帰って来ないのだろう? おお、わが子よ、おお、ペトルーシャよ……わたしは父の名に値しないけれど、むしろ虎といったほうがいいくらいだけれど、しかし……laissez moi, mon ami(きみ、もうわたしをうっちゃっといてくれたまえ)わたしは少し休んで頭をまとめよう。すっかり疲れちゃった、すっかり疲れちゃった。それに、きみももう寝る時刻だろう、voyez vous(見たまえ)、十二時だよ……」

[#3字下げ]第4章 跛の女[#「第4章 跛の女」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 シャートフは別に強情も張らず、わたしの手紙に応じて、正午にリザヴェータのところへやって来た。わたしたちはほとんどいっしょに入った。わたしもやっぱり最初の訪問に出かけたのである。一同、――といっても、リーザと、母夫人と、マヴリーキイは、大広間に坐って言いあいをしていた。母夫人はリーザに向かって、何かワルツをピアノで弾くようにといいだしたが、こちらがいわれるままの曲を弾き出すと、それは別なワルツだといい張った。マヴリーキイが持ち前の正直な性質から、リーザの肩を持って、ワルツは注文どおりのものだと主張したので、老婦人は面当てがましく、手放しで泣きだしてしまった。彼女は病気して、歩くのもやっとだった。両方の足をすっかり腫らしているので、この三、四日気まぐればかり起こしては、だれにでもかれにでも食ってかかるのを仕事にしていた。もっとも、リーザにはいつも一目おいていたけれど。一同はわたしたちの訪問を心からよろこんだ。リーザは、嬉しさのあまり顔をあかくしながら、わたしに|ありがとう《メルシイ》といって(むろんシャートフを連れてきたお礼なので)、彼のほうへ近寄り、もの珍しそうに、じろじろ見廻すのであった。
 シャートフは入口のところで、不恰好に立ちどまった。リーザは彼に来訪の礼を述べたうえ、母夫人の傍へ連れて行った。
「この方がいつかお話したシャートフさん、この方はGさんといって、あたしにとっても、スチェパンさまにとっても、ごくごく親しいお友だちなんですの。マヴリーキイさんも昨日お近づきになられましたわ」
「どちらが先生なの?」
「先生なんか、てんでいらっしゃりゃしないわ」
「いいえ、いらっしゃるよ。お前自分で、先生がお見えになるといったじゃないか。きっとこの人だろう」と彼女は気むずかしい顔つきで、シャートフをさした。
「あたしお母さんに先生がいらっしゃるなんて、一度もいったことはありゃしなくってよ。Gさんはお勤めですし、シャートフさんは以前、大学の学生でいらしったんですもの」
「学生だって先生だって、やっぱり大学の人じゃないか。お前さんはただもう口返答さえすればいいんだからねえ。あのスイスの先生は口ひげもあったし、顎ひげも生やしていたね」
「母はスチェパンさまのご子息のことを、先生先生って仕方がないんですの」リーザはこういいながら、シャートフを連れて、広間の向こう側に据えてある、長いすのほうへ行ってしまった。「お母さんは足が腫れると、いつもあんなふうなんですの。おわかりでしょうけれど、病身なものですからねえ」と彼女はシャートフにささやいたが、相変わらず恐ろしい好奇の心を浮かべながら、相手の全身、――ことに頭の上にぴんと突っ立っている一房の髪毛を、じろじろ見廻すのであった。
「あなた軍人ですか?」老婦人はわたしに問いかけた。リーザは無慈悲にも、この老婦人の傍へわたしを置き去りにしてしまったのである。
「いいえ、わたしは勤めに出ていますので……」
「Gさんはスチェパンさまの大の親友でいらっしゃるのよ」とすぐにリーザが応じた。
「スチェパン・トロフィーモヴィチのところで勤めていらっしゃるんですか? だって、あの人先生でしょう?」
「まあ、お母さん、あなたはきっと夜寝てまで、先生の夢を見てらっしゃるんでしょう」とリーザがじれったそうに叫んだ。
「夢どころじゃない、本物だって見すぎるくらい見ていますよ。いったいお前はいつもいつも、お母さんに楯ついてばかりいるじゃないかえ。あなたは、四年前ニコライ・フセーヴォロドヴィチが見えたとき、ここにいらっしゃいましたか?」
 わたしはそうだと答えた。
「その時あなた方の仲間に、だれかイギリス人がおりましたか?」
「いいえ、おりませんでしたよ」
「ほらご覧、イギリス人なんか、まるでいなかったそうじゃないか、してみるとでたらめなんだね。ヴァルヴァーラさんもスチェパン・トロフィーモヴィチも、二人ともでたらめをいってるんだよ。ああ、みんなでたらめばかりいってるんだよ」
「あれはね、小母さまのせいなんですの。スチェパンさまも昨日こうおっしゃったんですの……ニコライ・フセーヴォロドヴィチは、沙翁の『へンリイ四世』に出て来る、ハーリイ王子と似たところがあるって。お母さんがイギリス人というのは、このことなんですよ」とリーザが説明してくれた。
「ハーリイがいなければ、つまり、イギリス人がいなかったことになるじゃないか。ニコライ・フセーヴォロドヴィチ一人だけが馬鹿な真似をしたのさね」
「あれはね、まったくのところ、お母さんわざとああいってるんですの」リーザはシャートフに弁解の労をとる必要を認めて、こういった。「お母さんは沙翁をよく知っていますのよ。『オセロ』の序幕なんか、あたし自分で読んで聞かせてあげたくらいですわ。だけど、いま病気が悪いもんですから……ねえ、お母さん、十二時が打ちますよ。もうお薬を召しあがる時刻ですわ」
「お医者さまが見えました」小間使が戸口に姿を現わした。
 老婦人が立ちあがって、犬を呼び始めた。
「ゼミルカ、ゼミルカ、せめてお前でも、わたしといっしょに行っておくれ」
 みすぼらしい小さな老いぼれ犬のゼミルカは、いうことを聞かないで、リーザの坐っている長いすの下へ潜り込んでしまった。
「いやかえ? じゃ、わたしもお前なんかいやだよ。さよなら、あなた、わたしはあなたのお名前を知りませんが」と彼女はわたしにいった。
「アントン・ラヴレンチッチ……」
「いえ、同じこってすよ。わたしなんか伺ったって、すぐ耳から耳へ抜けてしまうのですから。マヴリーキイさん、どうか送らないでちょうだい、わたしはゼミルカを呼んだだけですよ。仕合わせと、まだ一人で歩けますからね。明日は馬車で散歩に出かけます」
 彼女は腹立たしげに広間を出て行った。
「アントン・ラヴレンチッチ、あなたはちょっとの間、マヴリーキイさんと話してくださいな。あたし請け合っておきますわ。あなた方がお互いにもっと親しくおなんなすったら、お二人ともいいことをしたとお思いになりますよ」
 リーザはそういって、マヴリーキイにさも親しげな微笑を見せた。こちらはその一瞥で、満面よろこびに輝き渡った。
 わたしは仕方なしにそこへ居残って、マヴリーキイと話にかかった。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 驚いたことに、シャートフに対するリザヴェータの用事というのは、まったく文学上のものにすぎないことがわかった。わたしはなぜか知らないが、彼女がシャートフを呼んだのは、何か別なことだとばかり思っていた。われわれ、といって、つまりわたしとマヴリーキイは、二人がべつに隠し立てをするふうもなく、かなり大きな声で話をするので、しだいにそのほうへ耳を傾けはじめた。しまいには、かえって向こうからわたしたちに相談をしかけてきた。話というのはほかでもない、リザヴェータはもうとうから、彼女の意見によると非常に有益な、ある書物の出版を思いついていたが、まるでそのほうの経験がないので、協力者を必要とするというのであった。シャートフに自分の計画を説明する彼女の真面目な態度は、むしろわたしを驚かしたくらいである。
『きっと新しい女の仲間に相違ない』とわたしは考えた。『なるほどスイスにいただけのことはある』
 シャートフは、視線を地べたへ突き刺すようにしながら、注意ぶかく聴いていた。そして、軽はずみな上流の令嬢が、こうした柄にもない仕事に手を出すのを、いっこう不思議がるふうはなかった。
 その文学的な仕事というのは次のようなものであった。いまロシヤには中央・地方ひっくるめて、無数の新聞雑誌が出版されている。その中には、毎日無数の出来事が報道されているが、一年もたつと新聞はどこの家でも、戸棚の中に積み込まれるか、埃だらけになるか、破けるか、それでなければ包み紙や、上被いに使われてしまうかである。で、いったん発表された多くの事実は、一時読者に印象を与えて記憶に残るけれど、年とともにだんだんと忘れられてゆく。多くのものは、後で何か調べてみたいと思っても、その出来事の起こった日も、場所も、月もわからないことが多いのだから、無尽蔵な紙の山からさがし出すのは、容易ならぬ努力である。ところで、こうしたふうの出来事を、一年ごとに一冊の書物にまとめてみたらどうだろう。一定の立案により、一定の思想を基として、目次や索引をつけ、月日順に配列したらどうだろう。新聞雑誌に発表される事実は、実際に起こるそれにくらべたら、ほとんどいうに足らぬ一小部分にすぎないけれど、こうして一まとめになった出来事は、過去一年間におけるロシヤ生活の真髄を、明瞭に描き出すに相違ない。
「それじゃ無数の新聞紙の代わりに、幾冊かの厖大な本ができあがるばかりですよ」とシャートフがいった。
 しかし、リザヴェータは説明が困難で、うまくゆかないのにも屈しないで、熱心に自分の思いつきを弁護するのだった。彼女の主張によると、本は一冊で、しかもあまり厚くないものにする必要がある。まあかりに厚くなるとしても、明瞭でなくてはならない。なぜというに、要は事実の配列方法と、その性質にあるからである。もちろんすべてを蒐集して、印刷に付するのは不可能だ。政府の布告や政治的処置や、地方令や、法規や、そんなものは非常に重大な事実ではあるけれど、予定されている出版ではこの種の事実はぜんぜん逸してしまってもかまわない。まだいろいろのものを芟除《せんじょ》して、多少なりその時代の国民の精神的個人的生活、ロシヤ国民の個性を表示するような出来事を、選び出すだけでかまわない。もちろん、その本にはなんでも入れることができる。滑稽な出来事、火事、寄付、すべての善行悪行、すべての意見や演説、洪水の報知、あるいは進んで、ある種の法令さえも登載することができる。しかし、何にもせよ、時代を描いて見せるようなものばかりを選択する必要がある。すべての出来事は、一定の解釈と、一定の意図と、一定の思想とによって編入され、その思想に全体が照らし出されていなければならぬ。また最後にこの書物は、調べ物の参考として必要なばかりでなく、軽い読物として興味がなくてはならない! つまり、この書物は、一年間におけるロシヤの精神的、倫理的内部生活の絵巻物でなくてはならぬ。
「みんなに買ってもらわなくちゃなりません。あたしこの本を机上必備のものにしなくちゃいやですわ」とリーザは主張した。「あたし、この仕事の成否は、ただ工夫一つにあるのを知っていますから、それであなたにお願いするんですよ」と彼女は言葉を結んだ。その様子があまり熱心なので、その説明が模糊として不十分なのにもかかわらず、シャートフもだんだん合点がいってきた。
「つまり、何か傾向を帯びたものができるわけですね。ある一定の傾向の下に、事実を取捨するんでしょうね」まだやっぱり首を上げないで、彼はこうつぶやいた。
「けっしてそうじゃありません。そんな特定の傾向の下に取捨する必要はありませんわ。それに、傾向なんてものはいっさい必要がありません。公平無私、これが傾向なんですの」
「傾向もあながち悪くはありません」とシャートフはごそごそ体を動かしながら、「それに、少しでも取捨が加わる以上、ぜんぜん傾向を避けることはできません。事実の取捨の中に、解釈の方向がうかがわれますからね。が、あなたの思いつきはけっこうですな」
「じゃ、そういう本もできるとおっしゃるんですね?」とリーザはほくほくものだった。
「しかし、よく落ちついて考量しなければなりません。これはなかなか大事業ですからね。ちょっと急には考えがつきませんよ。経験が必要です。それに、いよいよ本を出す段になっても、出版についていかなる方法を取るか、こいつが容易に及び難い問題ですよ。まあ、いろいろ経験を積んだ後に、やっと合点がゆくんでしょう。けれど、その思想はまとまりますね。思いつきはなかなか有益ですよ」
 彼はやっと目を上げたが、その瞳は満足の色に輝いていた。彼はすっかり引きこまれたのである。
「これはあなたご自分でお考えつきになったのですか?」と彼は優しい恥じを含んだような調子で、リーザに問いかけた。
「だって、考えつくのは、大した骨折りじゃないんですもの、骨の折れるのは立案ですわ」とリーザはにっこり笑った。「あたしは大してもののわかる女でもなければ、あまり賢いほうでもありませんから、ただ自分ではっきりわかってることばかり追求するんですの……」
「追求なさる?」
「もしかしたら、間違った言葉づかいをしたかもしれませんね?」とリーザは早口にきいた。
「その言葉でもいいのかもしれません。ぼくなにもべつに」
「あたし外国にいるあいだから、自分だって何か有益なことができそうなものだ、という気がしていましたの。あたし自分のおあし[#「おあし」に傍点]を持っていながら、それをただつまらなく寝かしてるんですもの。あたしだって公共の事業のために、働けないわけがありませんわねえ。それにこの考えはまるで自然《ひとりで》に、頭に浮かんだような具合なんですの。あたしべつに考えだそうとしたわけでもなかったものですから、この考えが浮かんだ時とても嬉しゅうございましたわ。ですけど、すぐに『これは手伝っていただく人がなくちゃ駄目だ』と悟りましたの。だって、自分じゃ何一つできないんですもの。その協力者は、もちろん、また本の共同出版者にもなるわけですの。あたしたちすっかり半々持ちでやりましょう。あなたの立案と労力、そして、あたしの思いつきと資本、――ねえ、算盤が取れるでしょう」
「もし正しい案を掘り当てたら、確かにこの本は成功しますよ」
「前もってお断わりしておきますが、あたしけっして営利のためにするわけじゃありませんけれど、うんと本の売れるのを望んでいます。そして、儲けがあるのを誇りとしますわ」
「なるほど、しかし、ぼくはどういう位置に立つのです?」
「あたしの協力者になってくださいと、そう申してるじゃありませんか……半分半分ですわ。あなたが案を考えだしてくださるんですの」
「どうしてあなたは、ぼくにそれを案出する力があるとお考えです?」
「人の噂でも聞いてましたし、ここへ来てからも、いろいろ耳に入りましたもの……あなたがたいへん賢い方で……真面目な仕事をしていらしって、そして……ずいぶん思索もしていらっしってるってことは、あたしよく承知していますの。あたしピョートル・スチェパーノヴィチ([#割り注]ヴェルホーヴェンスキイの息子[#割り注終わり])からもスイスであなたのことを伺いましたわ」と彼女は早口にいい足した。「あの人はたいへん賢い方ですわね、そうじゃありません?」
 シャートフは瞬間ちらとかすめるような目つきで、ちょっと相手の顔を見上げたが、すぐにまた目を伏せてしまった。
「ニコライ・フセーヴォロドヴィチも、あなたのことをいろいろ聞かしてくださいました」
 シャートフはとつぜん真っ赤になった。
「まあ、とにかくここに新聞がありますが」とリーザは前から用意して括ってある新聞の束を、忙しそうな手つきで椅子から取り上げた。「あたし選び出す時の参考に、いろんな事実にしるしをつけたり、取捨をしたり、番号を打ったりしてみましたの……あなたご覧なすってください」
 シャートフは束を受け取った。
「お家へ持って帰って見てくださいましな。あなたお住まいはどこでございますの?」
「ボゴヤーヴレンスカヤ街で、フィリッポフの持ち家です」
「あたし知ってますわ。あそこにはなんとかいう大尉が、あなたのお傍に住んでるそうですね、レビャードキンとかいう人が?」相変わらずせき込みながらリーザはたずねた。
 シャートフは新聞の束を受け取ると、片手にぶらりとぶら下げたまま、じっと床を見つめながら、一分間ばかり返事もせずに坐っていた。
「そんな仕事には、だれかほかの人をお選びになったらいいでしょう。ぼくはまるでお役に立ちません」なんだか恐ろしく調子を下げて、ほとんどささやくような声で、とうとう彼は口をきった。
 リーザはかっとあかくなった。
「そんな仕事とは何をおっしゃるんですの? マヴリーキイさん!」と彼女は叫んだ。「どうかさっきの手紙をここへ貸してくださいな」
 わたしもマヴリーキイの後からテーブルのほうへ近づいた。
「まあ、これを見てください」と彼女は恐ろしく興奮して、手紙を広げながら、だしぬけにわたしのほうへ振り向いた。「まあ、こんなものをいつかご覧になったことがありますか? どうか声を出して読んでみてくださいましな。あたしシャートフさんにも聞いていただきたいのですから」
 わたしは少なからぬ驚きを覚えながら、声高に次の手紙を読み上げた。

[#4字下げ]『完璧の処女トゥシン嬢へ呈す』

[#地から2字上げ]エリザヴェータ・ニコラエヴナの君よ!

[#ここから3字下げ]
おお美しきかの君よ
トゥシン嬢の美しさ
身うちの男《もの》と連れ立ちて
女鞍《めぐら》に乗りてかけるとき
房なす髪のはらはらと
風に戯れ遊ぶとき
或《ある》は母|御《ご》と打ち連れて
み堂の床にぬかを垂れ
うやうやしかるかんばせ
薔薇《そうび》の色の散れるとき
その時われは正当の
結婚の夢にあくがれつ
母|御《ご》とともに帰り行く
君が跡より涙贈るも
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]―無学者のいさかいなかばにものせる詩―
[#ここから1字下げ]
『一筆啓上つかまつり候!
 小生何よりも遺憾に存じ候は、足一度もセヴァストーポリの土を踏まず、したがって、かしこにて隻腕を喪わざりしことにご座候。当時小生はかの戦役の初めより終わりまで、小生のいさぎよしとせざる賤しき糧食供給に関する勤務に没頭つかまつり候。貴嬢は女神にして、小生は一顧の価値なき奴輩に候えども、無限ちょうことに想到つかまつり候。何とぞ詩としてご覧くだされたく、それ以外なんらの意味をも付与なされまじく候。なんとなれば詩は詮ずるところ、取るに足らざる譫言《たわごと》にして、散文にて非礼と見做さるることをも、是認しくるるものにこれあり候。たとえ滴虫類が水滴をもて何物かを作り出したればとて、太陽がこれに対して怒りを発するごときことこれあるべきや(もし顕微鏡をもて見れば、一滴の水中にも、無数の滴虫類を見出し得るものにこれあり候)。ペテルブルグにおける上流の家畜愛護会すらも、犬馬の権利のために同情の涙をそそぎながら、滴虫類のことにいたっては、彼らがある程度の生長に到達せずとの理由により、全然これを口にのぼすものなく、蔑視しおり候。小生も一定の生長に到達せざるものにご座候えば、貴嬢と結婚を望むがごときは、さぞかし滑稽に感ぜらるることと存じ候えども、貴嬢の軽蔑せらるるかの嫌人主義者を通じて、近々二百の農夫を有する領地の持ち主と相成るべく候。なお種々お耳に入れたきこともこれあり、小生は証書を提出して、もし必要あらば、シベリヤへ赴くをさえ辞せざるものにご座候。希くば、小生が申込みを一笑に付したもうことなかれ。詩もてしたためたる方を、滴虫類の手紙と思召し下さるべく候。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から7字上げ]貴嬢の柔順なる友にして閑人なる
[#地から1字上げ]レビャードキン大尉』

「この手紙は、しようのないやくざ者が、酔っぱらった勢いで書いたものです!」とわたしは憤懣のあまり叫んだ。「わたしはこいつを知っています」
「あたし昨日この手紙を受け取ったんですの」とリーザは真っ赤な顔をして、せき込みながら説明を始めた。「あたしはすぐに、これはどこかの馬鹿者がよこしたのだと察しましたの。ですから、まだお母さんに見せないんですよ。またこのうえ心配さしては大変ですからね。だけど、今後やっぱりこんなことをつづけられたら、あたしもうどうしていいかわかりませんわ。マヴリーキイさんは出かけて行って、とめて来るとおっしゃるんですけれど、あたしあなたを」と彼女はシャートフのほうを向いて、「自分の協力者のように思っていましたし、同じ家に住まってもいらっしゃるものですから、あなたのご判断に照らして、あの男がこの上まだどんなことをするか、それを伺いたいと思いましてね」
「酔っぱらいのやくざものです」とシャートフは進まぬ調子でつぶやいた。
「どうでしょう、いつもこんな馬鹿な男なのでしょうか?」
「いいえ、あの男が酔っぱらってない時は、けっして馬鹿どころじゃありません」
「わたしはちょうどこいつにそっくりの詩を作った、ある将軍を知っていますよ」とわたしは笑いながらいった。
「この手紙で見ても、ちゃんとはらに一物あることがわかりますよ」無口なマヴリーキイが突然こう口をはさんだ。
「この男はなんだか妹といっしょにいるそうですね」とリーザがたずねた。
「ええ、妹といっしょです」
「その妹をいじめるっていうのは、本当ですの?」
 シャートフはまたちらりと見上げたが、眉をひそめながら、「それはぼくの知ったことじゃありませんよ!」とつぶやいて、そのまま戸口のほうへ歩き出した。
「あら、待ってくださいな」とリーザは心配そうに叫んだ。「あなたどこへいらっしゃいますの? あたしまだいろいろお話したいことがあるんですから……」
「何を話すんです? あすぼくがお知らせしますよ……」
「いえ、あの一等肝腎なこと、活版のことですの! まったくですよ、あたし冗談でなく真面目にこの仕事をしたいと思ってるんですから」しだいに不安がつのっていく様子で、リーザは一生懸命にいった。「もし本当に出すとしたら、どこで印刷したものでしょう? これが一番大切な問題なんですよ。だって、あたしたちはそのためにわざわざモスクワへ行くわけにもいきませんし、ここの活版屋でそれだけの印刷はとてもできやしませんもの。あたし前から自分で活版所を起こそうかと思ってましたの、あなたのお名前でも拝借しましてね。母もあなたのお名前でしたら許してくれますわ、ええ、きっと……」
「どうして、あなたは、わたしが活版屋になれるとお思いですか?」とシャートフは気むずかしそうに問い返した。
「それはね、まだスイスにいる頃から、ピョートル・スチェパーノヴィチが、あたしにあなたを名ざしてくださいましたの。そして、あなたは活版事業を経営することがおできになる、事務に精通していらっしゃると、こうおっしゃったものですから。それに、ご自分からあなたに宛てて、手紙を書いてやるとまでおっしゃったんですの。あたしお願いするのを忘れてしまいましたけれど」
 今おもい出してみると、シャートフは急に顔色を変えた。彼は二、三秒間じっと立っていたが、突然ぷいと部屋を出てしまった。
 リーザは恐ろしく腹を立てた。
「あの人はいつもあんな帰り方をなさるんですの?」とわたしのほうを振り向いた。
 わたしは肩をすくめた。と、ふいにシャートフが帰って来た。そして、いきなりテーブルへ近寄って、いったん受け取った新聞の束をその上へ置いた。
「ぼくあなたの協力者になるのはやめにしましょう、暇がないから……」
「なぜですの、なぜですの? あなた腹をお立てになったようですね?」とリーザは絶望したような哀願の調子でたずねた。
 その声の響きは彼の心を打ったようであった。幾分かの間、まるで相手の心を見抜こうとするかのように、じっと穴のあくほどリーザの顔を見つめていたが、
「そんなことはどうだっていいです」と彼は小さな声でつぶやいた。「ぼくはいやなんです……」
 こういって、彼はいよいよ本当に帰ってしまった。リーザはもうあきれ返って、開いた口がふさがらなかった。少なくとも、わたしにはそう思われた。
「あきれ返った変人だ!」とマヴリーキイは大きな声でいった。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 もちろん『変人』である。しかし、この出来事ぜんたいの中には、まだまだわからないところがたくさんある。この出来事の裏には、何か隠れた意味があるに相違ない。わたしはあの出版の話には頭から信をおかなかった。それから、例の手紙、――ずいぶんばかげてはいるが、あの中には明らかに、何やら『証拠書類』を持って出るところへ出る、というようなことが書いてあるにもかかわらず、皆この点を不問に付して、よそごとをいっている。それから、またあの活版所の話、そして、最後に活版所の話を持ち出したがために、シャートフがとつぜん帰ってしまったこと、――かれこれ綜合してみると、どうもわたしの来る前に何かあって、それをわたしが少しも知らずにいるのではないか、というふうに考えられる。そうだとすれば、自分は余計な人間で、こんなことはいっさいわたしの知ったことでない。それに、もうそろそろ出かけてもいい時分である。初めての訪問にしてはこれでたくさんだ。そう思って、わたしは挨拶のためにリザヴェータの傍へ近づいた。
 彼女は、わたしが同じ部屋の中にいたことも忘れたらしく、首を垂れて絨毯の上の一点をじっと見つめながら、何やら思いに沈んだ体で、依然として元のテーブルの傍に立っていた。
「ああ、あなたも、じゃ、さようなら」と彼女は習慣になった優しい声でいった。「どうかスチェパンさまによろしく、そして、なるべく早く遊びに来てくださるように、あなたから勧めてくださいましね。マヴリーキイさん、Gさんがお帰りになりますよ。失礼ですが、母はご挨拶に出られませんですから……」
 わたしが外へ出て、もう階段を下りてしまったとき、ふいに下男が出口で追いついた。
「奥さまがぜひお帰りくださるようにとのことで……」
「奥さんですか、お嬢さんですか?」
「お嬢さまで」
 わたしがリーザを見つけたのは、以前の大広間ではなく、一ばん手前の応接室であった。今マヴリーキイが一人きり残っているその大広間へ通ずる戸口は、ぴったり閉めてあった。
 リーザはわたしにほほえみかけたが、その顔は真っ青だった。彼女はいかにも決しかねたらしい、心中の闘争に苦しんでいるようなふうで、部屋の真ん中に立っていたが、いきなりわたしの手を取って、無言のまま早足に窓のほうへ引っ張って行った。
「あたしすぐにあの女[#「あの女」に傍点]が見たいんですの」いささかの抗言すら許さぬ、熱した、強い、こらえ性《しょう》のない視線をわたしの顔へ注ぎながら、彼女は小声にささやくのであった。「あたし自分の目で、あの女を見なくちゃならないんです、どうかあなた助けてくださいませんか」
 彼女はもうすっかり前後を忘れて、自暴自棄の状態に陥っていた。
「あなただれが見たいとおっしゃるんです?」とわたしは面くらってこうたずねた。
「あのレビャードキナです、あのびっこです……あの女がびっこだっていうのは本当ですか?」
 わたしは胸がどきんとした。
「わたしはまだ一度も会ったことはありませんが、あの女がびっこだってことは聞きました。ついきのう聞いたばかりです」とわたしも同様にささやくような声で、なんの躊躇もなく忙しそうにこう答えた。
「あたしぜひあの女を見なくちゃなりませんの。あなた今日にもなんとか運びをつけていただけませんでしょうか?」
 わたしは彼女が気の毒でたまらなくなった。
「これはとうてい不可能です。それに、わたしもどういうふうに運びをつけたものか、まるでわからないんですもの」とわたしは彼女を納得させにかかった。「まずシャートフのところへ行って……」
「もしあなたが明日までに、運びをつけてくださらなければ、あたし自分であの女のところへ出かけます。だって、マヴリーキイさんは承知してくださらないんですもの。あたしは今あなただけを当てにしているんですもの、もうほかにだれも頼る人がありません。あたしさっきシャートフさんに馬鹿なことをいいましたわねえ……あたしはあなたが潔白な方で、ことによったら、あたしのために一臂の労を惜しまないほうかもしれない、とこういうふうに信じていますのよ。ですから、どうぞ運びをつけてくださいませんか」
 わたしの心にはなんであろうと、ぜひ彼女を助けてやりたいという、烈しい望みが湧き起こった。
「じゃ、こうしましょう」ちょっと心もち考えてからわたしはこういった。「わたしが自分で出かけます。そして、きょう必ず、必ず[#「必ず」に傍点]あの女に会って来ます! わたしはなんとでもして会って来ます。これはあなたに誓っておきます。ただシャートフにうち明けるのだけ許してください」
「では、あの人にそういってください、あたしの望みは一通りのものでないのですから、もうどうしても待つわけにいきません。けども、さっきはけっしてあの人をだましたわけじゃありません、とね。あの人が帰って行ったのも、あの人があまり潔白なものですから、あたしがあの人をだましでもするような態度をとったのがお気に入らなかったせいかもしれません。けれど、あたしだまそうとしたのじゃありません。あたし本当にあの本を発行して、活版所を起こそうと思っているのでございます……」
「あれは潔白な男です、まったく潔白な男です」とわたしは熱心に相槌を打った。
「もっとも、明日までに話がまとまらなかったら、あたしどんなことがあろうと自分で出かけます。人が知ったってかまいません」
「わたしは明日三時より早くこちらへあがれません」わたしは幾分おちついた気持ちになってから、こう断わった。
「じゃ、三時ですね? してみると、昨日あたしがスチェパンさまのところで想像したのは、本当のことだったんですわね。あたしはね、あなたがあたしのために尽くしてくださる人だと思いましたの」彼女は忙しげにわたしに最後の握手をして、一人とり残されたマヴリーキイのところへ急ぎながら、にっこりと笑って見せた。
 わたしは自分のした約束のために、圧しつけられるような心持ちを覚えながら外へ出た。いったい何事が起こったのやらわけがわからなかった。ただほとんど未知の男に大事をうち明けて、自分を危くするのもあえていとわないくらい、絶望の極に陥った一個の女を見たのみである。ああした苦しい瞬間に洩らした彼女の女らしいほほえみと、もう昨日からわたしの心持ちに気がついていたという意味ありげな彼女の言葉とは、さながらわたしの心臓を突き通したように思われた。しかし、とにかくかわいそうだ、まったくかわいそうだ、――それだけのことなのだ! すると、急に彼女の秘密が、何か神聖犯すべからざるものに思えてきた。で、今その秘密を開いて見せようとする者があっても、わたしは耳に蓋をして何一つ聞かなかったに相違ない。ただわたしは何かあるものを予感した……しかし、どういうふうにして、少しなりとも運びをつけるつもりなのか、もうまるっきりわからなかった。そればかりでない、つまりどういう行動をとればいいのか、いまだにさっぱりわからないのであった。会見だろうか! 会見とすれば、どういう会見なのだろう? それに、どうしてあの両女《ふたり》を引き合わせようというのだ? 希望は挙げてことごとくシャートフにかかっていたが、しかし、彼がどれだけの助けにもならないのは、初めからたいてい見当がついている。が、とにかくわたしは彼のもとへ走って行った。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 やっと晩の七時すぎに、わたしは彼をその住まいに発見した。驚いたことには、彼のところに来客があった。一人はキリーロフで、一人はわたしにとって半面識しかない人、――ヴィルギンスキイの細君の弟に当たる、シガリョフという男であった。
 このシガリョフはもうこの町に二か月ばかりも逗留しているはずだが、いったいどこから来たのか、それもわからぬ。わたしがこの男について知っているのは、彼がペテルブルグのある進歩派の雑誌に、何か論文を載せたということばかりだ。一度ヴィルギンスキイが偶然往来で、わたしにこの男を引きあわせてくれたことがある。わたしは今まで人間の顔でこれほど陰気な、燻り返った不景気な表情を見たことがない。彼の顔つきはまるで世界の破滅を待っているようだ。しかも、それは場合によって外れることのある漠然とした予言などを信じたためでなく、まるで明後日の十時二十五分かっきりといったような具合に、あくまで正確に予知しているようなふうつきであった。もっとも、わたしたちはそのときひと言もいわないで、悪事の連判人かなんぞのように、互いに握手をしたのみで別れてしまった。何より驚いたのはその耳であった。不自然なほどの大きさで、長くて広く、おまけに厚みがあって、なんだか特別不揃いに突っ立っているようだった。その動作は無器用で、のろのろしている。もしかりにリプーチンなどが、わが県内で共産団の実現を夢みているとすれば、この男はきっとその実現の時日を正確に知っているに違いない。彼はいつもわたしに薄気味の悪い印象を与えた。今シャートフの家でこの男に出あって、わたしは一驚を吃した。ことに、シャートフは一般に来客をよろこばないから、なおさら不思議であった。
 もう階段のあたりから三人が一時に口を開いて、何か大きな声で話し合っている、というより、むしろ論じ合っているのが聞こえた。が、わたしが姿を現わすと同時に、一同はぴたりと口をつぐんだ。彼らは立ったまま論争していたが、急に三人とも一時に腰を下ろしたので、わたしも腰を掛けねばならなかった。間の抜けた沈黙は、まる三分ほどもすこしも破れなかった。シガリョフはわたしがだれかということに気がついたが、わざと知らん顔をしていた。それも敵意があってのことではなく、なんというわけなしなのである。キリーロフとは互いに軽く会釈をしたが、それも無言のままで、なぜか両方とも握手をしなかった。とうとうシガリョフはいかつい顔をして、眉をひそめながらわたしを睨み始めた、そうすれば、わたしが急に立ちあがって出て行くだろうという、きわめて無邪気な信念をいだきながら。やがてシャートフも椅子を立った。すると、一同はとつぜん同じように立ちあがって、挨拶もせずに外へ出た。ただシガリョフばかりは、もう戸口まで出たとき、見送って来たシャートフに向かって、
「覚えていてくれたまえ、きみは報告の義務があるんだぜ」
「そんな報告なんか糞くらえだ! ぼくはどこのどいつにも義務は負ってないから」といって、シャートフは戸口に鍵をかけた。
「馬鹿者らめ!」彼はじろりとわたしを見、妙に口を曲げて笑いながら、こういった。
 彼の顔はいかにも腹立たしそうであった。しかしわたしは、彼が自分から口をきったのがなんとなく奇妙に感じられた。以前わたしがここへやって来たときは(もっとも、そんなことは時たまだったが)、たいていは彼は眉をひそめながら隅っこに坐って、腹立たしそうに受け答えをしているが、しばらくたつとすっかり元気づいて、しまいには愉快そうに話しだす。が、その代わり別れる時には、いつもまた必ず眉をひそめて、まるで仇敵でも追ん出すように、送り出すのが常であった。
「ぼくはあのキリーロフ君のところで、ゆうべ茶を飲んで来たよ」とわたしはいった。「あの男は無神論で気が触れてるようだね」
「ロシヤの無神論は、地口より先へ進んだことがないよ」古い蝋燭の燃えさしを新しいのに取り替えながら、シャートフは不満らしげにいった。
「いや、あの男は、ぼくの見るところでは地口じゃない。あの男は話ができないんだよ、地口どころじゃない」
「紙でこしらえた人間だよ。そんなことはみんな、思想的下男根性のために起こるんだ」シャートフは椅子の片隅に腰を乗っけて、膝の上に両肘を突きながら、落ちつきはらっていった。「そこにはまだ憎悪も手伝っているんだ」ちょっとのま黙っていたが、やがてこういいだした。「もしロシヤの国が、あの連中の夢想しているように改造されて、とつぜん無際限に豊富にかつ幸福になったら、あの連中はだれよりも真っ先に、恐ろしく不仕合わせなものになるだろうよ。そうなると、憎むべき対象がなくなるからだ、侮蔑と嘲笑の対象がなくなるからだ! あの連中の持ってるのは、ロシヤに対する憎悪ばかりだ。肉体組織の内部まで食い入った、飽くことなき動物的憎悪ばかりだ……表面の笑いの陰に秘められた、世の人に見えない涙なんて、けっしてありゃしないんだよ! 今までロシヤで発しられた言葉の中でも、この見えざる涙なんて言い草ほど、そらぞらしい言葉はありゃしない!」と彼は猛烈な勢いで叫んだ。
「きみはいったい何をいってるんだい!」とわたしは笑った。
「きみは『穏健な自由主義者』さ」とシャートフはにやりと笑った。「ところでだね」と彼は急に気がついたように、「ことによったら、『思想的下男根性云々』は、ぼくのいい過ぎだったかもしれないね。おそらくきみはすぐにこういいたかったんだろう。『それは自分が下男の子に生まれたんで、ぼくは下男じゃないよ』ってね」
「ぼくはまるでそんなことをいう気はなかったよ……きみは何をいいだすんだろう!」
「まあ、きみ、言いわけなんかしないでいいよ。ぼくはきみを恐れてやしないから。あのときぼくはただ下男の子に生まれたきりだったが、今はぼく自身、きみたちと同じような下男になっちゃった。わがロシヤの自由主義者はまず何より下男なのさ。そして、だれか靴を磨かしてくれる人はないかしらんと、きょろきょろあたりを見廻しているのだ」
「靴だって? それはなんの比喩なんだい?」
「比喩も何もありゃしない? きみは冷やかしているようだね……スチェパン氏がいったのは本当だよ、ぼくは石の下に敷かれてるんだ。そして、圧し潰されながら死にきれないで、ただぴくりぴくりやってるのさ。これはあの人にしてはうまい比喩だったね」
「スチェパン氏はきみのことを、ドイツ人崇拝で気が触れたんだといってるよ」とわたしは笑った。「しかし、なんといっても、われわれはドイツ人から何かしら引き出して、ポケットの中へしまい込んだね」
「二十コペイカ玉一つもらって、自分のほうから百ルーブリくれてやったようなもんさ」
 わたしたちはちょっとのま黙っていた。
「あれは先生、アメリカで寝すぎたために背負い込んだのさ」
「だれが? 背負い込んだとは何を?」
「ぼくはキリーロフのことをいってるんだ。ぼくは向こうにいる時、あの男と四月の間一つ小屋の中で、床《ゆか》の上にごろごろしてたんだからね」
「え、きみはいったいアメリカへ行ったのかい?」とわたしはびっくりして、「きみはちっとも話さなかったじゃないか」
「何も話すことはないさ。おととしぼくはキリーロフといっしょになけなしの金を出して、移民船でアメリカへ渡ったのだ。それは『自分の体でアメリカの労働者の生活を経験して、この社会で最も苦しい階級に属する人間の状態を、個人的[#「個人的」に傍点]経験によって検覈《けんかく》しよう』とこういう目的で二人は出かけたんだ」
「へえ!」とわたしは笑いだした。「そんな目的なら農繁期に、この県内のどこかへ行ったほうが、もっとよく『個人的経験で味わう』ことができたろうに、アメリカ三界まで飛んで行くなんて!」
「ぼくらはある開墾業者のところへ、労働者として傭われて行った。そこにはわれわれロシヤ人仲間が六人いた、――大学生もいれば、自分の領地を持った地主もいるし、将校までいるじゃないか。それがみんな同じように、崇高なる目的を持って来てるのだ。で、まあ、働いたよ、汗みどろになって、苦しい思いをして、疲れるほど働いた。が、とうとうぼくとキリーロフは逃げ出してしまった、病気にかかって、辛抱できなかったのだ。農園の主人は、勘定のとき算盤をごまかして、約束の三十ドルの代わりに、ぼくには八ドル、キリーロフには十五ドルきゃよこさないのだ。ぼくらもずいぶん撲られたものさ。ところが、こうして仕事がなくなったもんだから、ぼくらはある小さな町で四か月の間、床《ゆか》の上に並んで臥《ね》ていたんだ。あの男が一つのことを考えると、ぼくはまた別なことを考えるというふうでね」
「いったい主人がきみらを撲ったのかい、それがアメリカでの話なんだね? それでどうしたい、きっときみらはうんと罵倒したろうね?」
「どうして、少しも! それどころか、ぼくとキリーロフは、さっそくこういうことに決めたのさ。『われわれロシヤ人はアメリカ人の前へ出ると、まるで子供だ。やつらと同じ水準線へ立つためには、アメリカで生まれるか、それとも長いあいだアメリカ人の中で生活しなくちゃ駄目だ』それでまあ、どうだろう。僅か一コペイカか二コペイカのしろ物に一ドルも二ドルもぼられながら、ぼくらは大恐悦でそれを払ったばかりでなく、まるで夢中になってしまったものだ。ぼくらはなんでもかでも讃美した。降神術も、私刑《リンチ》も、ピストルも、放浪者までもね。あるとき汽車に乗ってると、一人の男がぼくのかくしへ手を突っ込んで、ぼくの髪ブラシを取り出しながら、そいつで頭を梳かし始めたんだ。ぼくとキリーロフとは、ただ目と目を見交すばかりだった。そして、『これはいい、大いに気に入った』と、二人で決めてしまったよ……」
「しかし、ロシヤ人はすべて思いつくだけでなく、それを実行するから妙だね」とわたしはいった。
「紙でこしらえた人間なんだ」とシャートフはくり返した。
「けれども『個人的経験で体得するため』とはいいながら、移民船で大洋を乗り切って、知らぬ他国へ渡って行くというのは、――まったく何か一種悠暢たる堅固さがあるようだね……ところで、きみはどうしてそこから抜け出したの?」
「ぼくは欧州にいる一人の男に手紙を書いたんだ。すると、その男が百ルーブリ送ってくれたのさ」
 シャートフはいつもの癖で、熱した時にさえ首を上げないで、始終しゅうねく足もとを見つめながら話していたが、この時とつぜん顔を上げた。
「きみ、その男の名を教えようか?」
「だれだね、いったい?」
「ニコライ・スタヴローギン」
 彼はとつぜん立ちあがって、菩提樹のテーブルに近寄り、その上で何やらさがし始めた。われわれの間では漠然としたものではあるが、正確な一つの噂が伝わっている、ほかではない、彼の妻がしばらくの間ニコライとパリで関係をつづけたというのである。しかも、それがちょうど二年ほど前だから、つまりシャートフがアメリカにいた頃に当たる、――もっとも、ジュネーブで棄てて行ってから、だいぶ時はたっていたけれど。『もしそうだとすれば、なんだって今頃そんな名前を担ぎ出して、くだらんことを捏ね廻す気になったんだろう?』とわたしは考えた。
「ぼくはいまだにそれを返さないでいるんだ」とつぜん彼はまたこちらを振り向いて、じっとわたしを見据えると、片隅に引っ込んで元の座に坐った。そして、今度はすっかり別な声で、引きちぎったような調子で問いかけた。
「きみはもちろんなにかの用で来たんだろう、なに用なんだい?」
 わたしはすぐにいっさいの顛末を、正確な歴史的順序を立てて物語ったうえ、こうつけ足した。いま自分は先はどの興奮から落ちついて、少し考え直すこともできたけれど、それでもいっそう頭がごたごたになってしまった。これにはリザヴェータ嬢にとって、何か非常に重大な事柄が含まれているのは確かだ、そして、ぜひとも助力したいという望みは固いけれど、ただ困ったことには、どんなにしたら、あのひととの約束を守ることができるかわからない。のみならず、はたして何を約束したのか、それさえ今はあやふやになってきた、――こういった後で、さらにわたしはしみじみした調子で、あのひとはきみをだます気ではなかったのだ、そんなことは考えてもいなかった、だからあのとき妙な誤解が生じて、きみがさっき突然な帰り方をしたのを、たいへん苦にしている、と断言した。
 彼は注意ぶかく聞き終わった。
「もしかしたらぼくは例の癖で、さっき本当に馬鹿なことをしたかもしれない……しかし、あのひと自身も、どうしてぼくがあんな帰り方をしたか知らないとすれば、それなら……あのひとにとっては、結局、仕合わせだ」
 彼は立ちあがって戸口に近寄り、ちょっとドアを開けて、階段の下へ聞き耳を立てた。
「きみは自分であの婦人を見たいというのかね?」
「それがぼくに必要なんだ、しかし、どうしたらいいんだろう」とわたしはよろこんで飛びあがった。
「なんでもないさ、あの女が一人きりでいる間にいっしょに行こう。あいつが帰って来て、ぼくらが来たってことを知ったら、またぶん撲るよ。ぼくはよく内証で行ってやるんだよ。ぼくはさっきも、やつが妹を打とうとした時、やつを撲りつけてやった」
「どうしてきみそんなことを?」
「つまり、ぼくがやつの髪をつかんで、妹から引き放してやったのさ。すると、やつめ、怒ってぼくを撲ろうとするから、ぼく、脅しつけといてやった、それでおしまいさ。ただ酔っぱらって帰りゃしないかと心配してる。あれを思い出したら、またこっぴどく妹を撲りつけるからね」
 わたしたちはすぐに降りて行った。

[#6字下げ]5[#「5」は小見出し

 レビャードキンの戸口は閉めてあるばかりで、鍵が掛けてなかった。で、わたしたちは自由に入ることができた。兄妹《きょうだい》の住まいというのは、薄汚い小さな部屋二つきりで、煤けた壁には汚い壁紙が、文字通りに房をなして下っていた。ここは幾年まえかに、家主のフィリッポフが新しい家へ引っ越すまで居酒屋を開いていたのだが、当時店に使っていた部屋はみんな閉め切りになって、この二つだけがレビャードキンの手に入ったのだ。家具は幾脚かの粗末な床几と、荒削りのテーブルばかりで、手の取れた古い肘掛けいすが唯一の例外だった。次の部屋の隅のほうには、更紗の夜具を掛けた寝台があったが、これはマドモアゼル・レビャードキナのものである。当の大尉は夜寝るとき、たいてい着のみ着のままで、床の上にごろりとひっくり返るのがきまりだった。家の中はどこもかしこも傷だらけ埃《ごみ》だらけで、おまけにべとべとしていた。ぐちょぐちょに濡れた、どっしりと大ぶりな雑巾が、とっつきの部屋の床《ゆか》の真ん中にほうり出されてあると、すぐ傍の水溜りの中には、はきへらした古靴が転がっている。見受けたところ、ここではだれも仕事なぞしないらしい。煖炉も焚かなければ、食事の支度もしない。シャートフが進んで説明したところによると、サモワールさえ持っていないとのことだ。大尉が妹を連れて来た時は、まるで乞食同然で、実際、リプーチンのいうように、方々の家を歩き廻って無心したものだ。ところが、急に思いがけない金を手に入れると、きっそくもう飲みにかかった。そして、酒にうつつを抜かして、家政も糞もなくなったのである。
 わたしが会おうと思ったレビャードキナ嬢は、次の間の隅っこで、荒削りの台所机を前にして、床几の上におとなしく、ひっそりと坐っていた。わたしたちが戸を開けても、別に声をかけようともせず、その座を動こうともしなかった。シャートフの話によると、この家ではいつも戸を閉めないそうで、一度なぞは一晩じゅう、玄関の戸が明けっ放しになっていたとのことである。鉄の燭台に立ててある細い蝋燭の朦朧たる光の中に、わたしは年の頃三十ばかりの、病的に痩せた女を見分けることができた。何かじみな古い更紗の着物をきていたが、細長い頸は何物にもおおわれることなく、うすい暗色《あんしょく》の髪はうしろ頭のほうで、二つ三つの子供の拳固くらいな小さな髷に束ねてあった。女はかなり愉快そうにわたしたちを眺めた。燭台のほか、彼女の前のテーブルには、木の枠をつけた小さな鏡と、一組の古いカルタと、ぼろぼろになった何かの唄本と、もう一口二口くい欠いたドイツ風の白パンが置いてあった。明らかにレビャードキナ嬢は、白粉をつけたり、頬紅をつけたりしたうえ、唇にも何か塗っているらしい。そうしなくともほっそりと長い黒い眉にまで、眉墨をつけている。狭くて高い額には、白粉にも隠されぬ三本の長い皺が、かなりはっきりと刻まれている。わたしは、この女がびっこだと知っていたけれども、このとき彼女は初めからしまいまで立ちも歩きもしなかった。いつかまだ青春の花の開き始める頃には、この痩せこけた顔も、さして悪くなかったかもしれない。その静かな優しい灰色の目は、今でも水際立っていた。静かな、ほとんど嬉しげに見える眼ざしには、何かしら空想的で真摯なあるものが輝いているように思われた。彼女のほほえみにも表われるこの静かな落ちついたよろこびは、例のコサックの鞭を手はじめに、いろいろ兄の乱行を聞かされていた後のこととて、驚異の念をわたしに与えたほどである。すべてこういうふうに神の罰を受けた人たちの前にいる時、普通感じられる重苦しい、恐怖に近い嫌悪の情を覚えるかわりに、不思議にもわたしは最初の瞬間から、この女を眺めるのが愉快なほどであった。その後つづいてわたしの心をみたしたものは憐愍の情くらいのもので、けっして嫌悪の念ではない。
「ほら、あんなふうに坐ってるんだ。文字どおりに毎日ぶっ通し、たった一人ぼっちで、身動きもせずにカルタの占いをしたり、鏡を見つめたりしてるんだ」とシャートフは閾のところからわたしに指さして見せた。「あいつ、ちっとも食べ物を当てがわないんだよ。離れの婆さんが、ときどきお情けに何か持って来るくらいなものさ。どうして蝋燭を持たせたまま一人きりでうっちゃっとくんだろう!」
 驚いたことに、シャートフはまるで女が部屋にいないもののように、大きな声でこんなことをいうのであった。
「ご機嫌よう、シャートゥシカ!」とレビャードキナ嬢は愛想よく声をかけた。
「ぼくはね、マリヤ・チモフェーヴナ。お客様を連れて来たよ」とシャートフはいった。
「それはよくいらっしゃいました。いったいお前さん、だれを連れて来たの、こんな人、なんだか覚えがないよ」と彼女は蝋燭の陰からじっとわたしを見つめたが、すぐにまたシャートフのほうへ向いてしまった(それからはもうずっとしまいまで、わたしの相手をしようとしなかった、まるでわたしという人間が傍にいないように)。
「お前さん、一人きりで部屋の中を歩き廻るのが、退屈になってきたの?」と彼女は笑ったが、そのとき二列の見事な歯が現われた。
「ああ、退屈になった。だから、お前をたずねてみる気になったんだ」
 シャートフは床几をテーブルのほうへ引き寄せて、わたしを傍へ並んで坐らした。
「わたし、話はいつでも好きだよ。だけど、お前さんはいつもおかしな恰好をしてるね、シャートゥシカ、まるでお坊さんみたいだよ。お前さんはいつ頭を梳かしたの? さあ、わたしがまた梳かしてあげましょう」と彼女はかくしから小さな櫛を取りだした。「たぶんこの前わたしが梳かしてあげた時から、まるで梳かないんでしょう?」
「それに、ぼくは櫛を持ってないんだよ」とシャートフも笑いだした。
「本当? じゃ、わたし自分のをお前さんにあげるよ。だけど、これじゃない、別の。ただそういってくれなくちゃ駄目だよ」
 彼女は思いきり真面目な様子をして、男の髪を梳かしにかかった。そして、横のほうに分け目までこしらえると少し体をうしろへそらして、よくできたかどうかちょいと眺めたうえ、また元のかくしへ櫛をしまった。
「ねえ、シャートゥシカ」と彼女は首を振りながら、「お前さんは、たぶん分別のある人だろうけれど、いつもぼんやりふさいでるね。わたしだれでも、お前さんみたいな人を見てると、不思議でならないよ。どうして人はあんなにふさぐんだろう、合点がゆかない。悲しいのとふさぐのとは別だよ。わたしは面白い」
「あんな兄貴といっしょにいて面白いかい?」
「お前さんはレビャードキンのことをいってるの? あれはわたしの下男《しもおとこ》だよ。あれがいようといまいと、わたしはまるで同じことだ。わたしが、『レビャードキン、水を持って来い、レビャードキン、靴を持って来い』というと、あれはあわてて駆け出すんだよ。どうかすると、あまりひどいと思うこともあるくらいなの。あれを見てるとおかしくなるよ」
「あれはまったく寸分たがわずあのとおりなんだよ」シャートフはまたしてもわたしのほうを向いて、大きな声で無遠慮にいいだした。「この女は兄貴をまるで下男同様に扱ってるんだ。この女が『レビャードキン、水を持って来い』といって、からからと笑うのをぼく自分で聞いたことがある。ただ違っているのは、レビャードキンが駆け出して水を取りに行かないで、かえってそういわれたために、この女をぶつという点なのさ。しかし、この女はいっこう兄貴を恐れていない。なんだか神経的な発作が毎日のように起こってね、すっかり記憶を奪ってしまうんだ。それで発作が起こった後は、たった今あったことをみんな忘れてしまって、いつも時をごっちゃにするんだよ。きみはぼくらの入って来た時のことを、この女がおぼえてると思うかね? 事実あるいはおぼえてるかもしれないが、しかし、きっと何もかも、自己流に作り変えてしまってるよ。そして、ぼくがシャートゥシカだってことは覚えているけれど、ぼくらを実際とは違った別な人間のように考えているに相違ない。ぼくが大きな声で話すって? なに、平気だよ。この女はすぐに相手の者のいうことを聞きやめて、自分の空想に飛びかかるんだからね。まったく飛びかかるんだよ。恐ろしい空想家だからなあ。毎日いちんち八時間くらいずつ、ひと所にじいっと坐ってるんだ。ここにパンがあるだろう。これなぞもたぶん、朝からたった一度くらいしか噛らないんだろう。すっかり片づけてしまうのは明日のことだよ。そら、今度はカルタで占いを始めた……」
「占ってるには、占ってるけれどね、シャートゥシカ、どうも妙なことばかり出て来るんだよ」相手の最後の言葉を小耳に挿んで、ふいにマリヤはこう引き取った。そして、べつに視線を転じないで、パンのほうへ手を伸ばした(やはりパンという言葉も耳に挿んだのだろう)。
 彼女はとうとうパンを取って、しばらく左手で持っていたが、新しく湧いてきた話題に気を取られ、一口も噛まないで、いつの間にか元のテーブルへ置いてしまった。
「いつも同じことばかりよ、道だの、悪党だの、だれかの悪企みだの、臨終の床だの、どこからか来た手紙だの、思いがけない知らせだの、――わたしはみんなでたらめだと思うよ。シャートゥシカ、お前さんはどう考える? 人間が嘘をつくくらいなら、カルタだって嘘をつかぬはずがないからね」と彼女はカルタをいっしょくたに交ぜてしまった。「わたしはこれと同じことを、プラスコーヴィヤの尼さんにも一ど話したことがあるよ。立派なひとだったがね、いつも院主の尼さんの目をぬすんで、わたしの房《へや》へ走って来て、カルタ占いをしたものだ。それも、このひと一人きりじゃなかった。みんなため息をついたり首を振ったりして、一生懸命に並べてるのさ。で、わたしは笑ってやった。『まあ、どうしてお前さん、プラスコーヴィヤさん、手紙なんか来るもんかね、もう十二年も来なかったんじゃないか』このひとはご亭主に娘をどこかトルコのほうへ連れて行かれて、十二年のあいだ音も沙汰もないんだよ。ところが、そのあくる日の晩、わたしは院主の尼さんのところで、お茶をご馳走になっていた(院主は公爵家のお生まれなんだよ)。そこには、どこかよそから来た奥さまと(これが大変な空想家なの)、それからアトスから来た坊様とが坐ってたっけ。この坊様はわたしにいわせれば、ずいぶんおかしな人だったよ。ところが、どうでしょう、シャートゥシカ、この坊様がちょうどその朝、プラスコーヴィヤ尼に宛てた娘の手紙を、トルコから持って来てくれたの。――ダイヤのジャックが出ただけのことはあったよ、――まったく思いがけない便りだったからね! わたしたちがお茶を飲んでいると、このアトスの坊様は院主の尼さんにこういうんだよ。『院主さま、この僧院《おてら》が神様から受けている祝福のなかで何よりもありがたいのは、この中に世にも稀な宝ものをおさめておられることでござりましょうな。』『その宝ものというのはなんでござりますな?』と院主の尼さんがきかれると、『あの奇特なリザヴェータ尼でござります』この奇特なリザヴェータ尼は、僧院《おてら》のまわりの塀に嵌め込んだ長さ一間、高さ二尺ほどの檻の中に坐ったまま、鉄格子の陰で十七年くらしてきた人なんだよ。身には麻の襦袢を一枚つけたきりで、しかもしじゅう藁だの、小枝だの、手当たりまかせのもので、その麻の襦袢ごしにちくちく体をつっ突いてるのさ。十七年のあいだ何一つものもいわず、髪も梳かず、顔も洗わない。冬になると、毛皮の外套を差し込んでやるくらいのものでね、毎日の食べ物は小箱に入れたパンと、コップ一杯の水っきりなんだよ。順礼の女たちはそれを見ると、あれまあと感心して、ため息をつきながら、お金を入れて行くよ。『とんだ宝ものを見つけたものですね』と院主の尼さんは返答せられたが、すっかり腹を立ててしまわれた。リザヴェータが恐ろしく嫌いだったのでね。『あの女は面当てに強情を張って、あんなところに坐っているのだ。あれはみんな見せかけだ』とこういわれるが、わたしはこれが気に入らなかったよ。だって、わたしもその当時、自分でそういうふうに閉じこもってみたかったんだもの。『わたしの考えますには、神様と自然は一つのものでござります』とこういったところ、みんな一時に口を揃えて、『これは、これは!』というではないかね。院主の尼さんは笑いだして、何やら奥様とひそひそ話をされたうえ、わたしを傍へ呼んで撫でてくだされたよ。それから、奥様はわたしに薔薇色のリボンをくだされたが、なんなら見せてあげてもいいよ。ところが、坊様はすぐわたしにお説教をしてくれたが、その言い方が優しくて穏かで、きっと立派な知識のお話に相違ないと思うよ。わたしはじっと坐って聴いていたが、『わかったかな』と聞かれたとき、『いいえ、ちっともわかりませんでした。どうかわたしにはかまわずにおいてください』といったものだから、その時から、わたしはいつも一人ぼっちで、だれひとりかまってくれるものがなくなったよ、シャートゥシカ。ところが、その僧院《おてら》の中には、予言をするとて懲らしめを受けているお婆さんが一人あったが、この人が礼拝堂を出る時に、耳の傍へ口を持ってきて、こういうんだよ。『聖母とはなんだと思いなさる?』『えらいお母さん、すべての人間が頼りに思うお方』とこうわたしは返答した。『そうだよ、聖母は偉大なる毋。うるおえる母なる大地なんだよ。そしてこの中に人間の大きなよろこびが含まれてるのだからね。あらゆる地上の悲しみ、あらゆる地上の涙は、わたしたちにとってのよろこびなんだよ。自分の涙で足もとの土を五寸、一尺と、だんだん深く濡らしていくうちに、すべてのことをよろこばしく思うようになる。そうすると、けっして悲しみなんてものはなくなってしまう。これがわたしの予言なんだよ』この言葉が当時わたしの心に深くしみ込んでね、それからというもの、お祈りで額を地びたにつけてお辞儀をする時、きっといつも大地に接吻をするようになったの。自分で接吻をしては泣くんだよ。まあ、聞いてちょうだい、シャートゥシカ、この涙の中にはちっとも悪いところはないよ。だって、自分には少しも悲しいことがなくなって、ただ嬉しいばかりに涙の出ることがあるんだもの。涙がひとりでに出る、それは本当だよ。わたしはよく湖の岸へ行った。一方はわたしたちの僧院《おてら》で、一方は尖った山なの。それで、その山を本当に皆とんがり山といってたよ。わたしはこの山に登ると、東のほうを向いて地びたに倒れたまま、泣いて泣いて泣きつくすの。何時間泣いてたかしれないくらい。それに、その時はなんにも知らなければ、覚えてもいなかった。それから起きあがって、後を振り返って見ると、お日さまが沈みかかってるんだよ。そのまあ大きくて、華々しくって、見事なこと、――お前さんお日さまを見るのは好き、シャートゥシカ[#「シャートゥシカ」は底本では「シャートシカ」]? いいもんだね、だけど淋しい。それからまた東のほうを振り返ると、影、――その山の影が矢のように狭く長く、湖の上を遠く走って、一里も先にある湖の上の島まで届いてるの。この石だらけの島がちょうどまっ二つに、山影を切ってしまうんだよ。ちょうどまっ二つに切れたと思うと、お日さまはすっかり沈んでしまって、まわりは急に火が消えたようになる。そこで、わたしはふいに恐ろしく悲しくなって気がつくと、闇が怖いような気がしてくるんだよ、シャートゥシカ。だけど、わたしは何よりも一番、自分の子供のことを思って泣いたっけ……」
「いったい子供があったのかい?」初めからなみなみならぬ注意を払って聞いていたシャートフは、このとき肘でわたしをとんと突いた。
「あったともね、かわいい薔薇色をした子で、こんな小っちゃな爪をしてたの。ただわたしのつらいことには、それが男の子だったか、女の子だったか、まるで覚えていないんだよ。どうかすると、男の子のようにも思われたり、また女の子のようにも思われたりするんだもの。当時わたしはその子を生むと、すぐ精麻《バチスト》やレースにくるんで、薔薇色のリボンで帯をしめ、体じゅう花で飾って、お祈りを唱えると、まだ洗礼もしない子を抱いて行った、森を越して抱いて行ったの。ところが、わたしは森が怖いから、気味が悪くてならなかった。ところがね、わたしはその子を産んだけれど、亭主がだれかわからないのが何よりつらくて泣いたんだよ」
「しかし、亭主があったんだろうか?」とシャートフは大事を取りながらたずねた。
「お前さんはおかしな考え方をする人だねえ、シャートゥシカ。あったんだよ。きっとあったんだよ。けれど、あったって仕方がないじゃないか、まるでないのも同じことなんだもの。さあ、この謎は、あまりむずかしくないから、解いてごらんよ!」と彼女はにたりと笑った。
「赤ん坊はどこへ抱いて行ったの?」
「池の中へ連れて行ったよ」と彼女は吐息をついた。
 シャートフはまたわたしを肘で突いた。
「もし赤ん坊もなにも、てんでなくって、そんなことはみんな夢だとしたら、どうするんだい、え?」
「むずかしい問いをかけたね、シャートゥシカ」こうした問いに驚く色もなく、彼女はもの思わしげに答えた。「このことは、わたしなんにもいわないことにしよう。もしかしたら、なかったのかもしれない。だけど、わたしにいわせれば、それはお前さんのもの好きな詮索だてだよ。わたしはどっちにしたって、あの子のために泣くのをやめやしないから、夢なんかで見たんじゃないからね」大粒な涙が彼女の目に光った。「シャートゥシカ、シャートゥシカ、お前さんの奥さんが逃げ出したというのは本当?」ふいに彼女は両手を男の肩に掛けて、憫れげにその顔を見入った。「ねえ、お前さん腹を立てないでちょうだい。だって、わたし自分でも情けなくなるんだもの。実はねえ、シャートゥシカ。わたしこんな夢を見たのよ、――あの人がまたわたしのところへ来て手招きしながら、『仔猫さん、うちの仔猫さん、わたしのほうへ出ておいで!』と声をかけるの。わたしこの『仔猫さん』が何よりも嬉しかった。かわいがってくれてるのだ、とこう思ったから」
「もしかしたら、本当にやって来るかもしれんさ」とシャートフは小声でつぶやいた。
「いいえ、シャートゥシカ、それはもう夢だよ……あの人が本当に来るはずがないもの。お前さんこういう唄を知ってる?

[#ここから2字下げ]
新しき高きうてなも
われは欲りせずこのいおりこそ
とどまりてあらんところぞ
世を捨てて住みや果てなん
君が上《え》を神にいのりつ
[#ここで字下げ終わり]

おお、シャートゥシカ、わたしの大事なシャートゥシカ、どうしてお前さんはちっともわたしにきかないの?」
「とても言やしないだろうと思って、それでぼくもきかないのさ」
「いわないとも、いわないとも、殺したって言やしない」と彼女は早口に受けた。「烙き殺したって言やしない。どんなに苦しい目にあったって、わたしはなんにも言やしないから。人に知らせることじゃない!」
「そら、ごらん、だれだって自分の秘密を持っているからなあ」しだいに低くかしらを垂れながら、シャートフは一段小さい声でそういった。
「だけど、お前さんがきいたら、わたしいうかもしれないよ、本当に、いったかもしれないよ?」と彼女は有頂天になってくり返した。「なぜきいてくれないの? きいてちょうだい、よっくきいてちょうだい、シャートゥシカ、わたし本当にいうかもしれないよ。一生懸命たのんでごらん、シャートゥシカ、わたし承知するかもしれないんだよ………シャートゥシカ、シャートゥシカ!」
 けれど、シャートフは黙っていた。一分間ばかり沈黙が一座を領した。涙は、白粉を塗った彼女の頬を伝って、静かに流れた。彼女は両手をシャートフの肩におき忘れたまま、じっと坐っていたが、もうその顔を見てはいなかった。
「ええ、お前なんぞにかまっていられない、それに罪なこった」ふいにシャートフは床几から立ちあがった。「おい、立たないか!」と彼は腹立たしげに、わたしの腰かけている床几をひったくって、元の場所へ戻した。
「もうやって来るよ、けどられないようにしなけりゃあ。ぼくももう行かなくちゃ」
「ああ、お前さんはやっぱりうちの下男《しもおとこ》のことをいってるんだね!」とマリヤは急に笑いだした。「怖いの! じゃ、さよなら、ねえ、ちょっとの間でいいから、わたしの話を聞いてちょうだい。あのね、さっきキリーロフさんが、あの赤ひげの家主のフィリッポフといっしょにやって来たの。ちょうどそのときうちの男がわたしに飛びかかったものだから、家主があいつをつかまえて、部屋じゅう引き摺り廻すんだよ。するとあいつは『おれが悪いんじゃない、人の罪で苦しんでるのだ!』とわめくものだから、お前さん本当にゃなるまいけれど、わたしたちその場に居合わせたものは、みんなおなかをかかえて笑ったよ……」
「なんの、マリヤ、それは赤ひげじゃなくって、ぼくだったんだよ。ぼくがさっきあいつの髪をつかまえて、お前から引き放してやったじゃないか。あの家主は一昨日やって来て、お前たちと喧嘩をして行ったんだ。それを、お前がいっしょにしたんだあね」
「待ってちょうだい、本当にわたしはいっしょにしてた。お前さんだったかもしれないよ。だけど、くだらないことでいい合うことはない。あの男から見れば、だれに引き放されたって同じじゃないの」と彼女は笑いだした。
「出かけよう」ふいにシャートフはわたしを引っ張った。「門がぎいといったから。もしぼくらを見つけたら、また妹を撲りつけるよ」
 しかし、わたしたちが階段のところまで出る暇のないうちに、早くも門の辺で酔っぱらいらしいどなり声が響きわたり、乱暴な罵詈雑言が、豆を撒き散らすように聞こえてきた。シャートフはわたしを自分の部屋へ入れて、戸にぴんと鍵をかけた。
「きみ、ちょっとここで待ってなきゃならないよ、もし悶着がいやだったらね。そら、まるで豚の子みたいにわめいてるだろう。きっとまた門の閾につまずいたんだよ。いつでも長くなってぶっ倒れるんだから」
 しかし、悶着なしではすまなかった。

[#6字下げ]6[#「6」は小見出し

 シャートフは鍵をかけた戸の傍へ立って、階段のほうへ聞き耳を立てていたが、ふいにさっと飛びのいた。
「こっちへ来てる、そうだろうと思った!」もの凄い調子で彼はこうささやいた。「ひょっとしたら、夜なかまでつきまとって、離れないかもしれないよ」
 と、急にどんどん拳で強く扉を乱打する音が、続けざまに響いた。
「シャートフ、シャートフ、開けてくれ!」と大尉がどなっ