『ドストエーフスキイ全集10 悪霊 下』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP097-144

の思いに沈めるのであった。リプーチンはとうとう彼が憎くてたまらなくなって、どうしてもその顔から目が放せないほどだった。それは一種の神経的発作ともいうべきものであった。彼は相手の口ヘほうり込むビフテキのきれを、一つ一つ数えながら、その口がぱくっと開いて、脂ぎった肉のきれをさもうまそうにむしゃむしゃ噛んだり、汁を吸ったりするのが、憎くてならなかった。ビフテキその物までが憎らしかった。しまいには彼はなんだか目がちらちらするように思われてきた。頭が心持ちふらふらして、背中は急に熱くなったり、寒くなったりするのであった。
「きみは何もしていないんだから、一つこれを読んで見たまえ」出しぬけにピョートルが、一葉の紙きれを彼にむかってほうり投げた。
 リプーチンは蝋燭のほうへ近寄った。紙切れは拙い字で一杯に細かく書きつめられ、一行ごとに消しがあった。やっと彼が読み終えた時、ピョートルはもう勘定をすまして、出かけようとしているところだった。歩道へ出ると、リプーチンはその紙きれを彼に突き出した。
「まあ、きみ持っていたまえ、後で話すから。ところで、きみはどう思うね」
 リプーチンは全身をわなわなと震わした。
「ぼくにいわせれば……こんな檄文なんか……ただ馬鹿げたお笑い草に過ぎないですよ」
 憤怒は堰を破って出た。彼はだれかに体をわしづかみにされて、どこかへ連れて行かれるような気がした。
「もしわれわれが」彼は全身をびりびりと小刻みに震わせながら、「こんな檄文の撒布を決心したら、それこそ馬鹿な物事をわきまえない人間として、人の軽蔑を招くばかりですよ」
「ふむ! ぼくはそうは考えないね」ピョートルはしっかりした足どりで歩いた。
「ぼくこそそうは考えない。いったいこれはあなたが自分で作ったんですか?」
「それはきみの知ったことじゃないよ」
「ぼくは『光輝ある人格』、――あの想像することもできないほど愚劣きわまる詩も、やはりゲルツェンの作だとはどうしても思われませんよ」
「ばかいっちゃいけない。あれは立派な詩だよ」
「ぼくはまだまだ不思議なことがあるんです」リプーチンは勢いにかられながらどんどんまくし立てた。「どうして連中はわれわれに、いっさいの破壊を目的とする行動をとらせようとするんでしょう? ヨーロッパでこそプロレタリヤが存在してるから、いっさいの破壊を望むのは自然だけれど、ロシヤにはわれわれのようなアマチュアしかいないんだから、ただ埃を立てるばかりでさあね」
「ぼくはきみをフーリエ派かと思ってたよ」
フーリエ説は違います、まるで違います」
「まるでノンセンスだってことは、ぼくも承知してるさ」
「いや、フーリエ説はノンセンスじゃありません……失敬ですが、ぼくは五月に叛乱が起ころうとは、どうしても信じることができませんよ」
 リプーチンは上衣のボタンまではずした、それほど熱かったので。
「いや、たくさん。ところで、今ちょっと忘れないようにいっとくがね」とピョートルは恐ろしく冷静な調子で、いきなり話題を変えてしまった。「きみはこの檄文を自分の手で文選して、印刷しなくちゃならないんだよ。シャートフに預けた印刷機械を、あすぼくらが掘り出すから、きみはその日から保管を引き受けることになるんだ。そして、できるだけ急いで活字を拾って、一枚でも余計に刷ってくれたまえ。この冬じゅうかかって、それを撒き散らすんだからね。資金の出所については指令があるはずだ。とにかく、できるだけ余計に刷ってもらわなきゃ。ほかの地方からも注文があるんだから」
「いやです、それは真っぴらごめんこうむりますよ。ぼくはそんな……ことを引き受けるわけにゆきません……お断わりします」
「それでも、やはり引き受けるようになるよ。ぼくは中央委員会の命令で行動してるんだから、きみはそれに服従する義務があるんだよ」
「ところが、ぼくの考えでは、外国にあるロシヤの中央委員会は、現実のロシヤを忘れて、いっさいの連絡をこわしてしまったのです。彼らは夢を見てるにすぎない……いや、それどころか、ロシヤに何百という五人組があるというのは嘘で、ぼくらの組がたった一つしかないのじゃないか、連絡網なんてものはまるでないのじゃないか、と思われるくらいですよ」もうしまいには、リプーチンは息をつまらせてきた。
「事実の真偽さえ弁別しないで、軽率に雷同したきみたちこそ、かえって軽蔑に価するじゃないか……今だってまるで野良犬みたいに、ぼくの後から走って来るじゃないか」
「いや、走って行きゃしませんよ。ぼくらもあなたの傍を離れて、新しい結社を組織する権利を、十分にもってるんですからね」
「ばかッ!」突然ピョートルは目を輝かしながら、凄まじい勢いでどなりつけた。
 二人はしばらく相対して突っ立っていた。ピョートルはくるりとくびすを返して、たのむところありげな足どりで、元の方角へ進んで行った。
『このままくるりと向きを変えて、帰ってしまおうかしら。いま引っ返さなかったら、永久に後戻りはできないだろう』こういう考えがリプーチンの頭の中を、まるで稲妻のように閃めいた。
 彼はちょうど十歩だけ歩く間、こういうことを考えていたが、十一歩めにまた新しい自暴自棄的な想念が、彼の頭の中にぱっと燃えあがった。彼は引っ返しもしなければ、あとへ戻ろうともしなくなった。
 やがて、二人はフィリッポフの持ち家へ近づいたけれど、そこまで行き着かないうちに、横町、――というより、むしろ垣根に沿うた人目に立たない径へそれた。しばらくのあいだ、二人は溝っぷちの、急な傾斜を伝って行かねばならなかった。足がずるずる辷るので、垣根につかまって歩いた。曲りくねった垣根の一ばん暗い角のところで、ピョートルは板を一枚ぬき取った。そして、そこへ開いた穴の中へ、すぐさま潜り込んだ。リプーチンはちょっと面くらったが、やがて自分も後から這い込んだ。それから、板は元のように嵌められた。これは、フェージカがキリーロフのところへ忍び込む、例の秘密な通路《かよいじ》だった。
「ぼくらがここへ来たことを、シャートフに知らせちゃいけないんだよ」とピョートルはリプーチンに向かって、いかつい調子でささやいた。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 キリーロフはいつもこの時刻にするように、例の革張りの長いすに坐って、茶を飲んでいた。彼は腰をあげて、出迎えようとしなかったが、なんだか妙に全身をぴくりと躍らして、入り来る人々を不安げに見上げた。
「まさにご想像のとおり」とピョートルはいった。「ぼくは例の用事で来たんです」
「今日ですか?」
「いや、いや、明日ですよ……これくらいの時刻にね」
 彼は、急に落ちつかなくなったキリーロフの様子を、いくぶん不安げな表情で覗き込みながら、忙しげにテーブルの傍へ腰を下ろした。とはいえ、こちらはもうすっかり落ちついて、前と同じような顔つきをしていた。
「どうも仲間の連中が本当にしないのでね……ぼくがリプーチンを連れて来たからって、きみ、別に怒りゃしないでしょうね?」
「今夜は怒りゃしないが、明日は一人きりでいたいもんですなあ」
「しかし、ぼくが来る前にやっちゃいけませんよ。ぼくが立会いの上でね」
「きみの立会いは望ましくないんだがなあ」
「きみおぼえてるでしょう。ぼくが口授することをそっくり書いて、それに署名すると約束したじゃありませんか」
「ぼくはどっちだっていいのだ。ときに、今夜は長くいますか?」
「ぼくある男に会わなくちゃならないから、三十分ばかりお邪魔したいんですよ。その後はどうなとご勝手ですが、三十分だけは坐ってますよ」
 キリーロフは押し黙っていた。その間にリプーチンはわきのほうの、主教の肖像の下に陣取った。先ほどの自暴自棄な想念は、しだいしだいに彼の頭脳を領していった。キリーロフはほとんど彼に目もくれなかった。リプーチンは前から彼の人生観を知っていて、いつもただそれを冷笑していたが、今はむっつりと押し黙って、陰気らしい顔つきであたりを見廻していた。
「お茶をいただいても悪くないですな」とピョートルは椅子を摺り寄せた。「たった今ビフテキを食べたんですがね、お茶はたぶんあなたのところに出てるだろうと思って、当てにして来たんですよ」
「お飲みなさい、ほしかったら」
「もとは、きみのほうからもてなしてくれたじゃありませんか」ピョートルは酸っぱそうな顔をしてこういった。
「そんなことはどっちだって同じだ。リプーチン君にも飲ましたらいいでしょう」
「いや、ぼくは……飲めません」
「飲めないのか、それともほしくないのか、どっちだろう?」いきなりピョートルがくるりと振り向いた。
「ぼくはこの人のところでは飲まないです」思い入れたっぷりな調子で、リプーチンは断わった。
 ピョートルは眉をひそめた。
「神秘くさい匂いがするというわけかね。本当にきみらはわけのわからない人たちだ。なんという連中だろう!」
 だれも返事をする者がなかった。まる一分、沈黙がつづいた。
「しかし、ぼくはたった一つ知ってることがある」とつぜん彼は言葉するどくいい足した。「いかなる偏見といえども、人が自分の義務を果たすのを、妨げるわけにはいかないですよ」
「スタヴローギンは行ってしまったんですか?」とキリーロフはたずねた。
「行ってしまいましたよ」
「それはいいことをした」
 ピョートルはちょっと目を光らしたが、すぐに自制した。
「ぼくは、きみがなんと思おうと、平気ですよ。ただ、めいめいが約束を守りさえすればいいんです」
「ぼくは約束を守りますよ」
「もっとも、ぼくは不断から信じてましたよ。きみは独立不羈の進歩的な人だから、自分の義務は履行されるだろうとね」
「きみは滑稽な人だ」
「じゃ、そういうことにしときましょう。ぼくは人を笑わすのが愉快でたまらないんです。ぼくは、人様のお気に入れば、いつでもそれを愉快に思うのです」
「きみはぼくに自殺させたくてたまらないので、ひょっと急にいやだなんていい出しゃしないかと、びくびくしてるんじゃありませんかね?」
「しかし、考えてごらんなさい、きみは自分から進んで、われわれの行動と自分の計画を結び合わしたんじゃありませんか。ぼくらはもうきみの計画をあてにして、いろいろと方法を立てたんだから、きみはもう今さらいやだというわけにいかないはずですよ。きみのほうがぼくらをおびき出したんですからね」
「そんなことをしいる権利は少しもない」
「わかってます、わかってます。むろんそれは全然あなたの自由意志で、ぼくらはなんの意義もない人間です。ただ、そのきみの自由意志が、実行されさえすりゃいいんです」
「で、ぼくはきみらの醜行をすっかり引き受けなきゃならない?」
「ねえ、キリーロフ君、きみはおじけがついたんじゃありませんか? もし断わりたいなら、今すぐそういってください」
「ぼくはおじけなんかつきゃしない」
「実はきみがあまりいろんなことをきくから、それでちょっといってみたんですよ」
「きみはもうすぐ帰りますか?」
「またききますね?」
 キリーロフは卑しむように相手を眺めた。
「ねえ」しだいに腹を立てて落ちつきを失いながら、どういう語調をとったものかわからないで、ピョートルは言葉を続けた。「きみは一人になって、思想を集中するために、ぼくの去るのを望んでおられるが、しかしそれはきみにとって、――だれよりも一番にきみにとって、危険な兆候ですよ。きみはたくさん考えたがっておられるが、ぼくにいわせれば、考えたりなんかしないで、ただ簡単にやってしまったほうがいいですよ。きみはまったくぼくを心配させますぜ」
「ぼくがただ一ついやなのは、その瞬間に、きみみたいなけがらわしい虫けらが、ぼくの傍にいるということなんだ」
「ふん、そんなことはどうだって同じじゃありませんか。そんなら、ぼくそのとき外へ出て、玄関口に立っててもいい。きみが死を覚悟しながら、そんなに虚心坦懐でいられないのは……それは非常に危険なことですよ。ぼくは玄関口に立っていますよ。そして、ぼくはなんにもわからない男で、きみより無限に低い人間だと、こう仮定したらいいじゃありませんか」
「いや、きみは無限というわけじゃない。きみには才能があるんだが、非常に多くの事物に理解を欠いてるのだ。それは、きみが下劣な人間だから」
「けっこうです、実にけっこうです。ぼくは今もいったとおり、人に気ばらしをさせるのが、非常に愉快なんです……こんな瞬間にね」
「きみはなんにもわからないのだ」
「といっても、ぼくは……なんにしても、ぼくは敬意を表して謹聴しますよ」
「きみはなんにもできない。今でさえ、その浅はかな怒りを隠すことができないのだ。そんなものを顔に出すのは、きみにとって不利益なんだがなあ。もしきみがぼくに癇癪を起こさせたら、ぼくは急に半年くらいさきと、いい出すかも知れませんよ」
 ピョートルは時計を眺めた。
「ぼくは今まで一度も、きみの理論を理解しなかったが、しかし、きみがその理論を考え出したのは、われわれのためじゃないのだから、ぼくらがいなくっても、実行されるに相違ない、それだけはわかっています。それからまた、きみが思想を呑んだのでなく、思想がきみを呑んでしまったのだから、延期するわけにゆかない、ということもやはり承知していますよ」
「なんだって? 思想がぼくを呑んでしまったって?」
「そう」
「ぼくが思想を呑んだのじゃないって? それは面白い。きみにはちっぽけな知性があるんだね。ただきみがいくらからかっ[#「からかっ」に傍点]ても、ぼくは誇りを感ずるだけだ」
「けっこうですよ、けっこうですよ。まったくそうなくちゃならない。きみは誇りを感じなくちゃならないはずです」
「もうたくさん。きみも茶を飲んでしまったから、もう帰ってくれたまえ」
「畜生、本当に帰らなきゃなるまいて」とピョートルは腰を上げた。「しかし、それにしても、やはり早過ぎるなあ。ねえ、キリーロフ君、たぶんミャスニチーハ([#割り注]淫売婦の名[#割り注終わり])のところへ行ったら、あの男に会えるでしょうね、だれのことかわかるでしょう? それとも、あの女も嘘をついたかしらん」
「会えやしませんよ。あの男はここにいるので、あっちじゃないからね」
「え、ここだって、あん畜生、いったいどこにいるんです?」
「台所に坐り込んで、飲んだり食ったりしてる」
「なんて生意気なやつだ!」ピョートルは赤くなって怒り出した。「きゃつはあすこで待ってなきゃならないはずだったのに……いや、そんな馬鹿なことはない! あいつ、旅券もなければ、金もないんじゃないか!」
「どうだかね。あの男は暇乞いに来たんですよ。ちゃんと着替えをして、用意ができてたっけ。もう行きっきりで、帰って来ないんだそうだ。なんでも、きみは悪党だから、きみの金なんか待っていない、とかいってた」
「ははあ! あいつぼくがなに[#「なに」に傍点]するのが怖いんだな……もしそんなことがあったら、ぼくは今だってあいつを……どこにいるんです、台所?」
 キリーロフは、小さな暗い部屋へ通じる脇戸を開けた。この部屋から三つ段々を下りると、まっすぐに台所へ下りられるようになっていた。ここにはささやかな穴みたいな部屋が仕切ってあって、いつも下女の寝台が据えつけてあった。今この部屋の片隅にある聖像の下に、荒削りのままでクロースのかかっていないテーブルを控えて、フェージカが陣取っていた。テーブルの上にはウォートカの小びんが据えてあって、皿の中にはパン、素焼の器には一きれの冷肉と馬鈴薯が入っていた。彼は悠々と摘物《さかな》を平らげていた。もう半分酔っぱらっていたが、それでも毛皮の半外套を着込んで、もうすっかり旅支度ができているらしかった。仕切りの向こう側では湯沸《サモワール》が煮立っていたが、それはフェージカのためではない。フェージカはかえってその火を起こしたり加減を見たりして、もうこれで一週間ばかり、『アレクセイ・ニールイチ』のために、毎晩世話をやいているのだった。『どうも毎晩お茶を飲むのが、すっかり癖になってらっしゃるのでね』と彼はいった。冷肉と馬鈴薯は下女がいないところから見ると、あるじのキリーロフがフェージカのために、朝から炊いて待っていたものに相違ない、――こうわたしは固く信じている。
「いったい貴様は何を考え出したんだ?」とピョートルは下へ飛びおりた。「どうしていいつけた場所で待ってないんだ?」
 こういいながら、彼はいきおい込んで拳を固めながら、テーブルを撲りつけた。
 フェージカはぐっとそり身になった。
「お前さん、ちょっと待ちなせえ、ピョートルさん、ちょっと待っておくんなせえ」一語一語気取って刻み刻み発音しながら、彼はこういい出した。「お前さんはまず第一に、これだけのことをはらに入れなきゃならないんだ。お前さんは今キリーロフさんのところへ、お客に来てるんだよ。お前さんなぞは、始終あの人の靴を磨いてもいいくらいだ。なぜったって、あの人はお前さんなんぞに較べたら教育のある賢いお方だからな。ところが、お前さんなぞときたら、――ちょっ!」
 彼は気取った様子で、出もしない唾を、わきのほうへぺっと吐いた。彼の態度には傲慢な決然たる様子と、取ってつけたような落ちつき払った、理屈っぽいところがうかがわれた。もっとも、これは破裂の前の静けさで、きわめて危険な性質を帯びたものなのだ。けれど、ピョートルはそんな危険に気のつく余裕もなかったし、またそんなことは彼の人間観にふさわしくなかった。この日に生じたさまざまな出来事や失敗は、すっかり彼の頭脳を昏迷させてしまったのである……リプーチンは三段うえの薄暗い小部屋から、好奇の目を光らせながら、見おろしていた。
「いったい貴様は確かな旅券と、おれのいったところへ高飛びするたんまり[#「たんまり」に傍点]した旅費がほしくはないのか、いやか応か?」
「まあ、聞きなせえ、ピョートルさん、お前さんはそもそもの初めから、わっしをだましにかかったんだ。なぜって、お前さんは正真正銘の悪党だからね。わっしの目には見通しだよ。お前さんはまるで人間の体にくっつく、けがらわしい虱も同じこった、――まあ、こんなふうに、わっしゃお前さんのことを考えてるのさ。お前さんは罪もない人間の血に、大枚の金をわっしに約束した上、スタヴローギンさんに代わって誓いまで立てた。ところが、本当はお前さんのずうずうしい出たらめだったんだ、それっきりだ。わっしゃ一しずくだって、あの血に関係はないんだからね。千五百ルーブリどころの騒ぎじゃありゃしない。ところで、スタヴローギンさんは、この間お前さんの頬っぺたを食らわしたそうじゃないか。わっしはもうちゃんと知ってるからね。今度またお前さんはわっしを脅かして、金をやろうと約束しなさるが、どういう仕事かってきくと、お前さんも返事をしないじゃないか。わっしははらの中でこう疑ってるんだ――お前さんがわっしをペテルブルグヘやろうというのは、わっしの早呑込みをあてにして、手だてはどうだってかまわない、とにかくスタヴローギンさんに恨みをはらすためじゃないか。してみると、お前さんが一番の下手人だ、ということになるのさ。それにね、お前さんがその腐った心のために本当の神様を、――真の創造主《つくりぬし》を信じなくなったということだけで、どういうものになりさがったかわかってるかい? お前さんは偶像崇拝者《でくおがみ》だ、だから、ダッタン人やモルドヴァ人と同列なんだ。キリーロフさんは哲学者だから、お前さんに本当の神様、――つくりぬし様のことや、この世の始まりや、来世の運命や、黙示録に出て来る獣や、そのほかさまざまな生物《いきもの》の造り変えのことなどを、幾度となくお前さんにして聞かしなすったのだ。ところが、お前さんはわけのわからないでくの坊だから、唖聾みてえに頑張って、あの無神論者という極悪非道の誘惑者みてえに、少尉補のエルテレフ([#割り注]エルケリのこと、エルケリはドイツの姓だが、フェージカはそれをロシヤふうに作り変えたのである[#割り注終わり])を、同じ道へ引き込んでしまったのだ……」
「ええ、この酔っぱらいの畜生め! 自分で聖像を剥いで歩いてるくせに、まだ神様の説教なんかしてやがる!」
「そりゃね、ピョートルさん、なるほどお前さんのいうとおりわっしは剥いで廻ったよ。だが、ありゃただ真珠を剥がしただけなんだよ。それに、お前さんにゃわかるまいが、ひょっとしたら、わっしの涙がその瞬間に、神様の炉にかかって、真珠になったのかもしれないぜ。神様がわっしの受けた苦しみを憐れんでくだすってね。なぜって、わっしゃこれという決まった隠れ家のない三界に寄る辺のない身なしごだからね。お前さんは本を読んで知ってるだろうが、昔あるところに一人の商人《あきんど》が、やはりわっしと同じように、涙を流して溜め息をつきながら、お祈りを上げ上げ、聖母マリヤ様の後光についた、真珠を盗んだもんでさあ。それから後、大勢の目の前で膝を突いて、盗んだ金をすっかりマリヤ様の台の下へお返しした。ところが、マリヤ様は多くの人の目の前で、その商人《あきんど》を被衣《かつぎ》の下へお匿しなされた。こういう奇蹟《ふしぎ》がそのとき現われたので、お役人が政府《おかみ》の本へも、そのとおり書き込むようにと、お言いつけになったくらいだ。ところが、お前さんは二十日鼠を放すような真似をする。つまり、神様の思召しにたいして、悪口をついたことになるのだ。もしお前さんがわっしにとって、生まれながらのご主人でなかったら、――わっしが餓鬼のとき、この子に抱いて歩いた人でなかったら、わっしは今この場を去らずに、お前さんをばらして[#「ばらして」に傍点]しまうところなんだよ」
 ピョートルは名状し難い憤怒に襲われた。
「白状しろ、貴様は今日スタヴローギンに会ったな?」
「そんなことは、お前さんわっしにきく権利はないぜ。スタヴローギンさんはまるっきし、お前さんにあきれ返っていらっしゃる、あのかたは命令するの、金を出すのというどころか、あの事件についちゃあ、どうしたいという考えさえ、持っていらっしゃりゃしなかったんだ。あれは、お前さんがわっしを引っかけたのさ」
「金はやるよ、二千ルーブリのほうも、ペテルブルグへ着いたら、すぐにその場で、そっくり耳を揃えて渡してやる。まだその上にもっと出してやるよ」
「おいおい、大将、出たらめいうもんじゃないよ。わっしゃお前さんを見るのもおかしくってならねえ。ほんにお前さんは、なんてえ浅はかな考えを持った人だろう。スタヴローギンの旦那なぞは、お前さんから見ると、高い階段の上に立っていらっしゃるみたいなもんだ。お前さんが下のほうで、間の抜けた犬ころみてえに、心細い声できゃんきゃん吠えてるとな、あの人は上からお前さんを見おろして、唾をひっかけるのさえ、お情けのように思っていらっしゃらあね」
「やい、覚えてろ」とピョートルは形相《ぎょうそう》を変えながらどなった。「貴様のような畜生は、ここからひと足も外へ出さないで、いきなり警察へ突き出してくれるんだ」
 フェージカは、いきなり飛びあがって、もの凄く両眼を輝かした。ピョートルはピストルを取り出した。と、その瞬間、とっさのあいだに、いまわしい光景が演出された。ピョートルがピストルを向ける暇のないうちに、フェージカはたちまち身を翻して、力まかせに彼の横面を撲りつけた。と、同じ瞬間に、また一つ恐ろしい拳の音が聞こえた、続いてまた一つ、またまた一つ……みんな頬の上だった。ピョートルはぽかんとしてしまって、目を剥き出しながら、何やらぶつぶついったと思うと、突然ぱたりと枯木倒しに床の上へ倒れた。
「さあ、こいつを進上しまさあ、勝手に連れて行きなさい!」勝ち誇ったように身をかえして、フェージカはたちまち帽子を取った。そして、床几の下から包みを取り出すと、そのまま姿を消した。
 ピョートルは正気を失って、喉をごろごろ鳴らしていた。リプーチンは、本当に殺されてしまったのかと思った。キリーロフは一散に台所へ駆け下りた。
「水をかけろ!」と彼は叫んだ。
 バケツの中から、ブリキの柄杓で一杯くみ出して、頭へさっとかけた。ピョートルはびくりと身を動かして、頭を持ち上げると、やがて身を起こして坐りながら、無意味に前のほうを見つめるのであった。
「え、どんなだね?」とキリーロフはたずねた。
 こちらはまだやはり気がつかないで、じっと穴のあくほど、彼の顔を見入っていたが、ふと台所から顔を突き出しているリプーチンが目に入ると、例のいやらしい笑い方でにたりとして、とつぜん床からピストルを拾い上げながら、飛び起きた。
「きみがあのスタヴローギンの畜生のように、明日にもここを逃げ出そうなんて了簡を起こしたら」彼はふいに真っ青になって、言葉さえはっきり発音ができないで吃りながら、夢中になってキリーロフに食ってかかった。「ぼくは世界の果てまで追っかけて行って……蠅のように吊るし上げて……押し潰してしまってやるから……わかったか!」
 そういって、彼はキリーロフの額にぴたりとピストルを押しつけた。しかし、ほとんどそれと同じ瞬間に、やっとすっかりわれに返って、その手を引っ込め、ピストルをかくしへ突っ込んだ。そして、もうひと言もものをいわないで、そのまま外へ駆け出してしまった。リプーチンもそれに続いた。二人は以前の潜り穴を抜けて、またもや垣根につかまりながら、溝っぷちの傾斜を伝って行った。ピョートルはリプーチンがついて行くのに骨が折れるほど、足早に路地をどんどん歩いて行った。初めての四辻へ来たとき、彼はとつぜん立ちどまった。
「おい?」と彼は挑むように、リプーチンのほうへ振り向いた。
 リプーチンはまだピストルのことをおぼえていて、さっきの活劇を思い出しては、ぶるぶる慄えていたが、答えはなんだかこう自然《ひとりで》に、抵抗し難い力をもって、舌をすべり出てしまった。
「ぼくの考えでは……ぼくの考えでは、『スモレンスクからタシケントまで』それほど一生懸命に学生を待ち焦れてもいないようですな」
「きみはフェージカが台所で、何を飲んでたか見たろうね?」
「何を飲んでたって? ウォートカを飲んでたんでさあ」
「ところで、いいかね、あれはあの男のこの世における、ウォートカの飲み納めなんだよ。これからさきのご参考までに、ちょっと知らせとくよ。さあ、もうどこなと勝手に行きたまえ、明日まできみは用のない人間だ……だが、気をつけたまえ、馬鹿な真似をしちゃいけないぜ!」
 リプーチンは一目散に、わが家をさして駆け出した。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 彼はもうだいぶ前から、人の名義で旅券を用意していた。このきちょうめんな俗物で、家庭内の小さな暴君で、官吏で(フーリエ派の社会主義者とはいえ、やはり官吏に相違ない)、しかも資本家で、金貸しのリプーチンが、万一の場合[#「万一の場合」に傍点]いつでも外国へ逃げ出せるように、この旅券を用意しておこうなどというとっぴな考えを、ずっと前から起こしているとは、思ったばかりでも奇怪千万であった。けれど、彼はこの万一[#「万一」に傍点]の可能を認容していたのである! もっとも、この万一[#「万一」に傍点]が何を意味するか、もちろん彼自身もはっきりわからなかったのだ……
 ところが、いま突然、しかもきわめて意想外な形をとって、この万一[#「万一」に傍点]が実現されたではないか。さきほど、歩道でピョートルから、例の「馬鹿!」を聞かされた後、キリーロフのところへ入るまでいだきつづけていたかの自暴自棄的な想念は、ほかでもない、つまり明日にもさっそく夜の引き明けに、何もかもおっぽり出して、外国へ突っ走るということだった。そんなとっぴな話が、今のロシヤの日常生活にやたらに起こるはずがないと疑いをいだく人があったら、外国にいる本物のロシヤの亡命客の伝記を調べてみるがいい、一人として、これより以上に気の利いた実際的な逃げ方をしたものはないのだ。どれを見ても、とてつもない空想の世界である。それっきりなのである。
 うちへ駆けつけると、彼はまず第一番に部屋の戸を閉めて、カバンを取り出し、痙攣でも起こしたような手つきで、荷造りを始めた。彼のおもな心づかいは、金のことだった。どんなにして、どれくらい助け出せるだろう、ということだった。実際、助け出すのである。なぜなら、彼の考えでは、もはや一刻の猶予もできない。夜明けまでには、ぜひ街道へ出ていなければならないからである。それからまた、どうして汽車に乗ったものか、これもまだよくわかっていなかった。けれど、どこか町から二つ目か三つ目あたりの停車場で、乗らなければならぬ、そこまでは歩いてなりとも行き着けないことはない、――こうはらの中で漠然と決心していた。こういうふうに、本能的に、機械的に、まるで旋風のような想念を頭の中に感じながら、彼は一生懸命にカバンの始末をしていたが……急にふと手を止めた。そして、何もかもほうり出したまま、深い呻き声を立てながら、長いすの上にどうと倒れてしまった。
 彼は突然はっきりと感じた、――自分はおそらく逃げるに相違ない。しかし、シャートフを片づける前に[#「前に」に傍点]したものか、それとも後に[#「後に」に傍点]したものか、この問題を解決することは、もはや今の自分にはとうてい不可能だ、こう自覚したのである。今の彼はただ粗雑な、感覚のない体、惰力で動いている肉の塊りにすぎない。彼はいま恐ろしい外部の力に操られているのだ。たとえ外国行きの旅券があるにもせよ、またシャートフ事件から逃げ出す自由があるにもせよ(それでなかったら、こんなに急ぐ必要はないはずだ)、それでも彼が逃げ出すのは、シャートフの事件の前でもなければ、その中途でもなく、どうしてもシャートフ事件の後に[#「後に」に傍点]相違ない。それはすでに決定され、署名されて、ちゃんと判がしてあると同じことなのだ。堪え難い悒悶に、絶え間なく身を慄わせたり、自分で自分にあきれたり、呻き声を上げたり、麻痺したように静まり返ったりしながら、彼は戸を閉めきって、長いすの上に倒れたまま、翌朝の十一時まで、どうにかこうにか時を過ごした。と、ふいに、それとなく期待していた一つの事件が持ちあがって、それが彼の決心をかためさす動機となった。
 十一時に彼が部屋の戸を開けて、家族の居間へ出て行くやいなや、彼はとつぜん家の者の口から、意外な事実を聞き込んだ。ほかでもない、今まで人々におぞ毛を慄わせていた教会強盗、懲役人のフェージカ、――これまで警察が一生懸命に追跡していたけれど、どうしても捕まえることのできなかった、ついこの間の殺人放火事件の犯人が、けさ未明に、町から七露里ほど離れた県道から、ザハーリノヘ出る村道の分岐点で、何者かに殺されているのを発見されて、すでに町じゅうその噂で大騒ぎだ、というのである。彼はさっそくあとをも見ずに家を飛び出して、詳しい話を聞こうと努めた。第一にさぐり出したのは、フェージカは頭を割られて倒れていたが、あらゆる点から見て、金を剥がれたものらしいということと、それから、警察側ではこの犯人を、元シュピグーリン工場にいたフォームカらしい、という強い嫌疑をいだいているばかりか、そう断定するにたる確かな証拠さえ握っている、ということだった。フォームカというのは、レビャードキン兄弟を殺して、火を放った共犯者と推測される男で、きっとレビャードキンのところで盗み、フェージカが隠し持っていた大金のことで、途中二人の間に争論が起こったに相違ない……
 リプーチンはピョートルの住まいへも駆けつけてみた。そして、ピョートルは昨日かれこれ夜中の一時頃に帰宅したが、それからずっと朝の八時頃まで、穏かに自分の部屋でお休みになったということを、裏口から内証で聞きこんだ。もちろん、強盗フェージカの横死には、少しも不思議な点はない、こうした大団円は、ああいう場合ありがちのことだ、それは疑う余地もない。しかし、『フェージカは今夜がウォートカの飲み納めだ』という恐ろしい予言の言葉が、即座に事実となって適中したのが、いかにも意味ふかく思い合わされるので、リプーチンは急に迷うのを、やめてしまった。衝動はついに与えられた。それはちょうど大きな石が上から落ちかかって、永久に彼を圧しくじいたようなあんばいだった。家へ帰ると、彼は無言のままカバンを寝台の下に蹴込んでしまった。そして、晩に定めの時刻が来ると、第一番に約束の場所へ出かけて、シャートフを待ち合わした。もっとも、例の旅券[#「族券」は底本では「族券」]は相変わらずポケットに潜んでいたけれど。

[#3字下げ]第5章 旅の女[#「第5章 旅の女」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 リーザの横死とマリヤの惨殺は、シャートフに圧倒的な印象を与えた。わたしが前にもいったとおり、その朝ちょっと彼に会ったが、まるで正気を失っているように見えた。しかし、それでも、ゆうべ九時頃に(つまり火事の三時間まえに)、マリヤを訪問したことを話した。その朝、彼は死体を見に行ったが、わたしの知っている限りでは、その朝はどこでもなんの申立てもしなかったはずである。が、その日も暮れ方になって、彼の心に恐ろしい嵐が吹き起こった。そして……そして、わたしはきっぱりと断言することができる、――たそがれ時のある瞬間には、彼はすぐにも立ちあがって外へ出かけ、そして何もかも知らせてしまおう、と思ったほどである。何もかも[#「何もかも」に傍点]とは、いったいなんだろう、それは彼自身のみ知ったことである、しかし、もちろん、なんの結果をも得ることができないで、かえって、自分で自分を売ることになるに相違ない。なぜなら、今度の兇行を暴露しようにも、なんの証拠をも握っていないからである。ただ彼の心中には、この事件に関する漠とした推測があるばかりなのだ。もっとも、この推測は彼自身にとって、十分な確信にも均しいけれど……しかし、彼は自分の身の破滅など、あえて恐れはしなかった。ただどうかして、あの『悪党どもを踏み潰す』ことさえできればいいのだ(これは彼自身のいった言葉である)。
 ピョートルはこうした彼の心的発作を、ほぼ正確に見抜いていた。で、新たに立てた恐ろしい計画の実行を、明日まで延ばしたのは、彼として、はなはだしい冒険を試みたわけなのである。それにはいつもの自負心と、あの『けちな有象無象』に対する軽侮、――ことにシャートフに対する軽侮の念が原因となっていたのである。彼は前から、シャートフをば『泣き虫の馬鹿』といって軽蔑していた(これはずっと以前、外国にいる時分からの言い草である)。で、こんな単純な男を操縦するのは、易々たることだと固く信じ切っていた。つまり、きょう一日だけ彼の見張りをしていて、もし危険な様子が見えたら、さっそくそれを未然に防ごう、というのであった。ところが、実際ある一つの思いがけない、まるで想像もしていなかった出来事が、しばらくあの『悪党ども』を助けることになった……
 晩の七時頃(それはちょうど仲間[#「仲間」に傍点]の者がエルケリのところへ集まって、ピョートルが来るのを待ちかねながら憤慨したり、興奮したりしていた時であった)、シャートフは頭痛の上に、軽い悪寒《おかん》を感じながら、暗闇の中を蝋燭もなく、寝台の上に長くなって倒れていた。彼は疑惑に悩まされつつ幾度か憤然と決心しかけたが、どうしてもいよいよという腹が据わらなかった。結局、なんの結果も見ずに終わるだろうと感じると、われとわが身が呪わしくなるのであった。しだいに彼は、うつらうつらと忘我の境に落ちて行った。と、何かしら悪夢のようなものにおそわれた。全身を細引で寝台にぐるぐる縛りつけられて身動きもできないでいると、垣根を、門を、戸を、キリーロフの住まっている離れを叩く恐ろしい音が、家も震えるばかり響き渡るのであった。それとともに、どこか遠くのほうで耳に覚えのある、彼にとって悩ましい人声が、さもあわれげに彼の名を呼ぶのであった。彼はふと目をさまして、ベッドの上に起き直った。驚いたことには、門を叩く音は依然として続いていたが、それは夢に聞こえたような烈しい音ではなかったけれど、しゅうねく頻繁に響いて来る。そして、奇妙な『悩ましい』声は、けっしてあわれっぽいどころでなく、かえってじれったい、いらだたしげな調子で、絶えず下の門の辺で聞こえていた。そして、いま一人いくぶん控え目な、普通の人声もまじっていた。彼は飛びあがって、窓の通風口を開き、そこから首を突き出した。
「そこにいるのはだれだ?」驚愕のあまり全身を石のようにしながら、彼はこう声をかけた。
「もしあなたがシャートフさんでしたら」鋭いしっかりした声で、下から答えた。「どうか男らしく、きっぱりといってください、――わたしを家へ入れてくださいますか、どうです?」
 はたしてそうである。彼はその声を聞きわけた。
「マリイ!………お前なんだね?」
「わたしです、マリヤ・シャートヴァです。まったくのところ、わたしはもう、このうえ一分間も、馬車を待たしとくわけにはまいりませんの」
「今すぐ……ぼくちょっと蝋燭を……」とシャートフは弱々しく叫んだ。それから、マッチをさがしに飛んで行った。こういう場合の常として、マッチは容易に見つからなかった。蝋燭をばたりと床へ取り落とした拍子に、下のほうでまたじれったそうな声が聞こえたので、彼は何もかもうっちゃらかして、急な階段をまっしぐらに駆け下り、木戸を開けに行った。
「すみませんが、ちょっとこのカバンを持っててくださいな、わたしこの間抜け野郎の片をつけっちまいますから」とマリヤ・シャートヴァは、いきなり下から声をかけて、青銅の鋲を打ったドレスデン製の、かなり軽い安物のズックの手提カバンを彼に押しつけると、自分はさもいらいらした様子で、馭者に食ってかかった。
「ねえ、重ねて申しますが、あんたはちと欲張ってるんですよ。あんたがここの泥だらけの町を、まる一時間あちこち引っ張り廻したからって、それはあんた、自分が悪いんじゃありませんか。だって、この馬鹿げた通りと、この間の抜けた家がどこにあるか、あんたが知らなかったんだものね。さあ、どうか約束の三十コペイカをお取りください。そして、もうこれ以上もらえないってことを、ご承知ねがいます」
「なんですね、奥さん、あんたが自分で、ヴォズネセンスキイといったんじゃありませんか。ここはボゴヤーヴレンスカヤですぜ。ヴォズネセンスキイ横町は、ここからずっとあっちのほうでさあ。かわいそうに、この去勢馬《きんぬき》を汗だらけにしちゃってさ」
「ヴォズネセンスカヤだってボゴヤーヴレンスカヤだって、そんな馬鹿馬鹿しい名前は、みんなお前さんのほうが、わたしよりよく知ってるはずじゃないか。お前さんはここに住まってる人だものね。それにお前さんのいうことは間違ってるよ。わたしがまず一番にフィリッポフの持ち家だといったら、お前さんは知ってるといったじゃないか。とにかく、お前さんは明日にも治安裁判所へ行って、わたしを訴えてもかまやしないが、今夜はお願いだから、ここで放免しておくれな」
「さ、さ、もう五コペイカあげるよ」シャートフは大急ぎで、かくしから五コペイカ玉をつかみ出し、それを馭者に突き出した。
「後生だから、そんなさし出たことをしないでちょうだい!」とマダム・シャートヴァは猛り出したが、馭者はもう「去勢馬《きんぬき》」を叱《しっ》して、行ってしまった。シャートフは女の手を取って、門の中へ連れ込んだ。
「早く、マリヤ、早く……そんなことはくだらない話だ、――そして、――まあ、お前はずぶ濡れじゃないか。静かに、ここから上らなきゃならないんだよ。どうもあかりがないのが残念だ、――急な梯子段だから、しっかりつかまっておいでよ、しっかり。さあ、これがぼくの巣だ。ごめんよ、あかりもつけないで……今すぐ!」
 彼は蝋燭を拾い上げたが、マッチは長いこと見つからなかった。シャートヴァは無言のまま身動きもしないで、部屋の真ん中に立って待っていた。
「ありがたい、やっとのことで!」部屋を灯で照らし出しながら、彼は嬉しそうにこう叫んだ。
 マリヤはちらっと室内を見廻した。
「ひどい暮らしをしてるとは聞いていたけれど、でもこれほどとは思わなかった」と彼女は気むずかしげにつぶやいて、寝室のほうへ歩き出した。「ああ疲れちゃった」彼女は力なげな様子で、ごつごつしたベッドに腰を下ろした。「どうかカバンを下に置いて、あなたも椅子におかけなさいな。もっとも、どうなとご勝手に。なんだか、あなたが目ざわりになって仕方がないんですの。わたしがあなたのところへ来たのは、何か仕事を見つける間、ほんのちょっとのつもりなんですの。だって、ここの様子ったら少しも知らないし、それにお金も持ってないんですからね。けれど、もしご迷惑のようでしたら、やはりお願いですから、今すぐこの場でそういってください。それは潔白な人間として、ぜひしなければならないことだわ。それでも、明日になったら何か売って、宿を取ることもできますが、しかし、その宿屋へは、あなたにご案内ねがわなけりゃなりませんわ……ああ、だけどわたし疲れちゃった!」
 シャートフは全身をがたがた慄わした。
「そんなことはいらないよ、マリイ、宿屋なんぞいりゃしない! 宿屋なんかどうするのだ? いったいなんのためだ?」
 彼は祈るように手を合わした。
「まあ、かりに宿屋へ行かずにすむとしても、やはり事情を明らかにしておかなきゃなりませんわ。ねえ、シャートフさん、おぼえてらっしゃるでしょう。わたしとあなたとは二週間と幾日かの間、ジュネーブで結婚生活をしました。ところが、別にこうといういさかいもなく、夫婦別れをしてしまってから、もうこれで三年ばかりになります。けど、わたしが帰って来たのは、以前の馬鹿馬鹿しい関係を復活させるためだろう、なんかって考えを起こさないでください。わたしはただ仕事をさがしに帰って来たのです。この町へ真っすぐにやって来たのも、なんだって同じことだからですの、わたしは何も後悔して、あやまりに来たわけじゃありません。後生だから、どうかそんな馬鹿馬鹿しいことを考えないでください」
「何をマリイ! そんなこと、けっしてそんなこと!」とシャートフはわけのわからぬことをつぶやいた。
「もしそうなら、もしそういうことさえわかるほど開けていらっしゃるなら、もう一つつけ足さしていただきます。今わたしがいきなりあなたのところへ来て、あなたの住まいへ入って来たのは、ほかにもわけがありますけれど、わたしいつもあなたのことを、『あの人はけっして人非人じゃない。もしかしたら、ほかの悪党どもより、ずっと立派な人かもしれない』とこう信じていたからですの」
 彼女の目はぎらぎらと光った。察するところ、彼女はどこかの『悪党』どものために、いろいろつらい目にあったに相違ない。
「どうかお願いですから、わたしのいうことを信じてください。今わたしがあなたをいい人だといったのは、けっして冷やかしたのじゃありません。わたしはいっさい飾りけなしに、ざっくばらんにいったんですの。それに、飾りけなんて大嫌いですからね。だけど、こんなことばかばかしい。わたしね、あなただけは人をうるさがらせないだけの知恵があるだろう、とこういつも思ってましたの……ああ、ずいぶん疲れた!」
 彼女は疲れ果てた悩ましげな目つきで、じいっと男を見つめるのであった。シャートフは、五歩ばかり離れた部屋のこちら側に立って、何やらなみなみならぬ輝きを顔にみなぎらせながら、臆病そうではあるけれど、何となく生まれ変わった人のような様子で、彼女の言葉に耳を傾けていた。この頑固な、がさがさした、いつも逆毛を立てているような男が、急にすっかり柔らいでしまって、晴ればれしくなってきたのである。彼の心の中には、何かしら容易ならぬ、まるで思いがけないあるものの戦慄が感じられた。別離の三年、ふみにじられた結婚生活の三年も、彼の心から何一つ追い出すことができなかった。彼はこの三年間、毎日のように彼女のことを、――かつて自分に『愛する』という一語をささやいた貴い存在のことを、空想しつづけていたかもしれないのだ。わたしはシャートフの人物を知っていたから、正確にこう断言できる、――彼は、だれにもせよほかの女が、自分に愛するといってくれるようなことがあろうとは、夢にも考えられなかった。彼は滑稽なほど童貞心、羞恥心が強く、自分を恐ろしく醜い片輪もののように思っていた。そして、自分の容貌や性質を心から憎悪して、自分は市場から市場へ引き廻して、見世物にしてもいいような怪物だと、心ひそかに思い込んでいた。こういうわけで、彼は潔白ということを何よりも重く考え、ファナチズムに近いほど自分の信念に没頭し、常に陰欝で傲慢で、腹立ちやすく無口だった。
 ところが、二週間のあいだ自分を愛してくれた(彼は常に、常にこれを信じていた)この唯一の女性が、――その過失をはっきり冷静に理解しているくせに、それでも彼自身より遙かに勝れたものと信じている女性が、――彼として何事も[#「何事も」に傍点]綺麗にゆるすことのできる女性が(それはもう問題にならぬくらい明瞭なことだった。いや、それよりむしろ反対に、自分のほうこそすべての点で、彼女に罪を犯しているとさえ、彼は考えていたのである)、この女性が、このマリヤ・シャートヴァが、突然ふたたび自分の家に坐っている、自分の前に坐っているではないか……これはほとんど理解することさえ不可能である! 彼はすっかり仰天してしまった。この出来事には、はかり知れぬ恐ろしさと、同時にはかり知れぬ幸福が含まれていた。彼はどうしても正気に返れなかった。いな、返りたくなかった、むしろ、それを恐れたくらいである。それはまるで夢だった。
 しかし、彼女があの悩ましげな目つきで彼を見つめた時、自分の限りなく愛しているこの女性が、苦しみ悶えているばかりか、もしかしたら、辱しめられているかもしれないということを、とっさの間に悟ったのである。彼の胸は萎えしびれた。彼は痛々しげに女の顔に見入った。この疲れたような顔はもうとっくに、若々しい青春の輝きを失っていた。もっとも、彼女は今でも相変わらず美しかった。彼の目から見ると、前と少しも変わりのない美人だった(実際、彼女は今年まだ二十五で、かなりしっかりした体格の上に、背も中背以上で、――シャートフより高かった、――髪は暗色《あんしょく》で豊かに波打ち、顔は卵なりをしてあお白く、大きな目は黒みがかって、熱病やみのような光を放っていた)。けれど、以前かれの見馴れた、軽はずみで、無邪気な、率直で、エネルギッシュなところは失くなって、気むずかしそうな癇性らしいところと、幻滅的な心持ちと、無恥とでもいいたいような感情が、それに代わっていた。けれども、彼女はまだこの新しい心持ちに馴れないで、自分でもそれを重荷のように感じているらしかった。が、何より気がかりなのは、彼女が病んでいることである。それは彼も明らかに見て取った。彼は、彼女に烈しい恐怖を感じているにもかかわらず、ふいにずかずかと傍へ寄って、その両手を取った。
「マリイ……あのね……お前はたいへん疲れているようだね、後生だから、怒らないでおくれ……せめてまあ、茶でも飲むのを承知してくれるといいんだけれど、え? 茶はたいへん元気をつけるものだがね、え? 本当に承知してくれるといいんだがなあ!………」
「そんなこと、承知してくれるも何もありゃしないわ、むろん承知してよ。まあ、あんたはやっぱりもとと同じような坊っちゃんね。あるのなら出してちょうだい。本当にあんたのところはなんて狭いんでしょう! なんてまあ寒いんでしょう!」
「ああ、ぼくが今すぐ薪を、薪を……薪はぼくのところにあるんだよ!」彼はあわてて、そわそわし始めた。「薪は……いや、しかし……なに、お茶も今すぐできる」自暴自棄的な決心の色を浮かべて、片手を振りながら、彼は帽子を取った。
「まあ、あんたどこへ行くの? じゃ、うちにお茶がないんですね?」
「できる、できる、今にすっかりできる……ぼくは……」と彼は棚からピストルを下ろした。「ぼくいまこのピストルを、売るかそれとも質におくかするんだ」
「なんて馬鹿馬鹿しい、それに、長くかかってたまりゃしないわ! さあ、あんたのとこに何もないのなら、わたしのお金を持ってらっしゃい。ここに十コペイカ玉が八つあるらしいわ。それでみんなよ。あんたのとこは、まるで癲狂院みたいね」
「いらない、お前の金なんぞはいらない。ぼくいますぐ、ほんの一分間で……ピストルなんかなくてもできるよ……」
 彼はいきなりキリーロフのところへ飛んで行った。それはおそらく、ピョートルとリプーチンがキリーロフを訪問する、二時間ばかり前のことらしい。シャートフとキリーロフとは、同じ地内に暮らしながらほとんど互いに顔を合わすことがなかった。途中で出あっても、会釈一つしなければ、口を一つきこうともしなかった。彼らは『アメリカであまりに長いこといっしょにごろごろしていた』のである。
「キリーロフ君、きみのところにはいつもお茶があるね。今お茶と湯沸《サモワール》があるかしら?」
 キリーロフは、部屋の中をことこと歩き廻っていたが(たいてい一晩じゅう、隅から隅へと歩きつづけるのが常であった)、ふいに立ちどまってじっと穴の明くほど、――もっとも、大して驚いた様子もなく、――駆け込んで来るシャートフを打ちまもった。
「茶はある、砂糖もある、サモワールもある。しかし、サモワールはいらないよ、お茶が熱いから。まあ、腰を下ろして飲んだらいいじゃないか」
「キリーロフ君、ぼくらはアメリカでいっしょに長いことごろごろしてたもんだっけねえ……ぼくのとこへ家内がやって来たんだ……ぼくは……お茶をくれたまえ……サモワールもいるんだ」
「細君が来たとすれば、そりゃサモワールもいるね。しかし、湯沸《サモワール》は後だ。ぼくのとこには二つあるから。まあ、いまテーブルの上から急須を取って行きたまえ。熱いんだ、思い切り熱いんだ。みんな持って行きたまえ。砂糖も持って行きたまえ、そっくりみんな。パン………パンはたくさんある。そっくり、みんな持って行きたまえ。犢肉《こうしにく》もあるよ。金も一ルーブリ」
「貸してくれたまえ、きみ、明日は返すから! ああ、キリーロフ君!」
「それは、あのスイスでなにした細君かね? それはいい、それから、きみがあんなに駆け込んだのも、あれもやはりいいよ」
「キリーロフ」とシャートフは叫んだ、急須を肘で抑えて、両手に砂糖とパンをつかみながら。「キリーロフ! もし……もしきみがあの恐ろしい空想をなげうつことができたら……あの無神論の悪夢を捨てることができたら……ああ、それこそきみはどんなに美しい人間になるか、わからないんだがなあ、キリーロフ君!」
「きみはスイス事件の後でも、やはり細君を愛してるようだね。スイス事件の後までとすれば、それは本当にいいことだよ。茶が入り用になったらまた来たまえ。夜っぴて来たってかまわないよ、ぼくはまるで寝ないんだから。サモワールは用意しとくよ。この一ルーブリを持って行きたまえ、さあ。もう細君のところへ行ってやるがいいよ。ぼくはここにいて、きみと細君のことを考えてるから」
 マリヤ・シャートヴァは、ことが迅速に運んだのに満足らしく、まるで貪るように茶を飲みにかかったが、しかし、サモワールなど取りに行く必要はなかった。彼女は茶碗に半分ほど飲んだばかり、パンも小さなきれを一つ食べただけである。犢肉などは気むずかしい、いらだたしげな様子でしりぞけてしまった。
「お前は病気なんだね、マリイ。お前の様子はいかにも病的だものね……」臆病げに、傍でかれこれ世話を焼きながら、シャートフはおずおずとこういった。
「むろん病気ですよ。どうか坐ってちょうだいな。いったいあんたはどこからお茶を取って来たの、もしあんたのところになかったとすれば?」
 シャートフはキリーロフのことを、ちょっと掻い摘んで話した。彼女もこの男のことは、何かと耳に挾んでいた。
「知ってますわ。気ちがいだってんでしょう。ありがとう、もうたくさん。馬鹿な人間なら、世間に珍しくもないわ。で、あんたはアメリカヘいらしったの? なんでも、わたしに手紙を下すったそうね」
「ああ、ぼくは………パリーヘ向けて出したのだ」
「もうたくさん、どうか、ほかの話をしてちょうだいな。あんたは心からのスラブ主義者?」
「ぼくは……ぼくは別にそういうわけじゃない……ロシヤ人になることができないから、それでスラヴ主義になったのさ」場所がらにはまらない無理な警句をいった人のように、苦しそうにひん曲った薄笑いを浮かべた。
「じゃ、あんたはロシヤ人でないの?」
「ああ、ロシヤ人じゃない」
「ふん、そんなことみんな馬鹿げてるわ。さ、お坐んなさいな。わたし頼んでるじゃないの。なんだってあんたは始終あっちへ行ったり、こっちへ行ったりするの? わたしが譫言《うわごと》をいってると思って? だけど、本当に譫言をいい出すかもしれないわ。あんたは、二人きりでこの家に住んでるといったわね?」
「二人きり……下に……」
「しかも、こんな賢い人ばかり。下になんですって? あんた下にといいましたね?」
「いや、なんでもない」
「何がなんでもないの? わたし知りたいわ」
「ぼくがいおうと思ったのはね、いまぼくらはこの家に二人きりしかいないが、もとは下にレビャードキンとその妹が住んでた……ということなんだ」
「それはゆうべ殺されたあの女?」彼女は突然おどりあがった。「わたし聞いたわ。着くとすぐ聞いたわ。この町で火事があったんですってね?」
「ああ、マリイ、そうだよ。ことによったら、ぼくは今この瞬間に、あの悪党どもをゆるすということによって、恐ろしい卑劣な真似をしてるかもしれないのだ……」彼は出しぬけに立ちあがって、前後を忘れたように両手を振り上げながら、部屋の中を歩き廻り始めた。
 けれど、マリヤは彼の言葉がはっきりわからなかった。彼女はうっかり彼の返事を聞いていた。自分のほうからいろんなことをたずねながら、ろくろく耳をかしていなかったのである。
「あんた方は、いろいろけっこうなことをしてらっしゃるのね。ああ、何もかも卑劣なことばかりだ! だれもかれも卑劣なやつらばかりだ! さあ、いい加減にしてお坐んなさいよう、お願いしてるんじゃありませんか。ああ、本当にあんたにはじりじりさせられちゃうわ!」
 こういって彼女はぐったりと、枕に頭を埋めるのであった。
「マリイ、もうしないよ……お前ちょっと横になったらどうだね、マリイ?」
 彼女は返事をしないで、力なげに目を閉じた。そのあお白い顔は、まるで死人のようになった。彼女は、ほとんど見てる間に寝入ってしまった。シャートフはあたりを見廻して、蝋燭の火を直し、もう一ど女の顔を心配そうに見やると、両手をかたく胸の上に組みながら、そっと爪立ちで廊下へ出た。梯子段の上で、顔を隅っこの壁に押し当てたまま、十分ばかりじっと身動きもせず立ちつくしていた。彼はもっと長く、そうしていたかもしれなかったが、ふいに下のほうから、静かな用心ぶかい跫足が聞こえた。だれか登って来る様子である。シャートフは木戸を閉め忘れたのを思い出した。
「そこにいるのはだれだ?」と彼は小声でたずねた。
 未知の客は悠々と急がずに、返事もしないで上って来た。すっかり昇り切った時、彼は立ちどまった。まっ暗闇なので、何者とも見分けがつかなかった。とつぜん用心ぶかい質問が聞こえた。
「イヴァン・シャートフですか?」
 シャートフは名を名のったが、すぐに相手を押し止めるように、手をさし伸べた。と、男はいきなり彼の両手をつかんだ。シャートフは、まるで恐ろしい毒虫にでもさわったように、思わず身を慄わせた。
「ここに立っていたまえ」と彼は早口にささやいた。「入っちゃいけない。ぼくはいまきみを通すわけにいかないんだ。家内が帰って来たんだから。ぼくすぐに蝋燭を持って来るよ」
 彼が蝋燭を持って引っ返してみると、だれやらまだ生若い将校が立っていた。名前は知らないけれど、どこかで見たことがあるような気がする。
「エルケリ」とこちらは名のりを上げた。「ヴィルギンスキイのところで会ったはずです」
「おぼえてる。きみはじっと腰をかけて、何か書いてたっけ。ねえ」ふいに前後を忘れたように、相手のほうへつめ寄ったが、声は依然としてささやくような調子で、シャートフは熱くなってこういった。「きみはいまぼくの手をつかみながら、手で合図をしたね。しかし、覚えていてくれたまえ、ぼくはそんな合図なんか、弊履のごとく棄てることもできるんだからね! ぼくはそんなものを認めやしない……ぼくはいやだ……ぼくは今すぐに、きみをこの梯子段から突きおとすこともできるんだよ。きみはそれを承知しているかね?………」
「いや、ぼくはそんなこと、少しも知りません。それに、どうしてあなたがそんなに腹を立てられるのか、いっさいわけがわからないです」少しも毒けのないほとんど子供らしい調子で客は答えた。「ぼくはちょっとお伝えしたいことがあるので、一刻も時間を無駄にしまいと思って、そのためにわざわざやって来たのです。ほかじゃありませんが、あなたはご自分の所有に属していない印刷機械をもっておられるはずです。そして、ご自分でご承知のとおり、それについて報告の義務を帯びていられるのです。ぼくは、明日の午後正七時に、その機械をリプーチンに引き渡してしまうよう、あなたに要求しろと命ぜられたのです。なおそのほかに、今後あなたはもうなんらの要求をも受けられない、とこう伝えるように命じられました」
「もう何一つ?」
「ええ、けっして。あなたの請求は会のほうで容れられて、あなたは永久に除名されたのです。このことは間違いなく、あなたに伝えるようにとの命令でした」
「だれが命令したのです?」
「それはぼくに合図を教えてくれた人たちです」
「きみは外国から来た人ですか?」
「それは……それはあなたにとって、なんの関係もないことだろうと、ぼくは考えますがね」
「ええ、ばかばかしい! ときに、きみはそんな命令を受けながら、どうして早くやって来なかったんだね?」
「ぼくはある訓令に従って行動していたし、それに、一人きりでなかったものですから」
「わかってます。きみが一人きりでないことは、わかっています。ええ、ばかばかしい! いったいどういうわけで、リプーチン自身来なかったんだろう?」
「そういうわけで、ぼくは明晩、正六時に迎えに来ますから、いっしょにあすこへ歩いて行きましょう。われわれ三人のほかにはだれも来やしません」
「ヴェルホーヴェンスキイは来るかね?」
「いや、あの人は来ません。ヴェルホーヴェンスキイは明日の朝十一時に、この町を出発することになっています」
「そうだろうと思った」とシャートフは気ちがいのように叫びながら、拳を固めてわれとわが股を打った。「逃げやがった、悪党め!」
 彼は興奮のていで考え込んだ。エルケリはじっとその様子を見つめながら、無言のまま控えていた。
「きみたちはどうして受け取るつもりなんだね? あんなものを一ペんに、手で提げて持ってくわけにいかないじゃないか」
「そんなことをする必要はないです。ぼくらはあなたに場所を教えてもらって、本当にそこへ埋めてあるかどうか、確かめさえすればいいんですから。ぼくらはその場所がどの方面にあるか知ってるだけで、場所そのものは知らないのです。あなたはその場所をだれかに教えたことがありますか?」
 シャートフはじっと彼を見つめていた。
「きみは、きみはそんな小僧っ子のくせに、――やはり羊かなんぞのように、あんな仕事に頭を突っ込んでしまったのかね! ああ、やつらはつまり、こういうふうな甘い汁が吸いたいんだ! さあ、行きたまえ! ああ、あの悪党め、きみらをみんなだましておいて、そのままどろんを決めやがったんだ」
 エルケリは明るい落ちついた目で、相手を眺めていたが、なんのことかわからないらしかった。
「ヴェルホーヴェンスキイが逃げた、ヴェルホーヴェンスキイが!」シャートフはもの凄く歯を鳴らした。
「いや、あの人はまだここにいます、どこへも行きゃしませんよ。あの人は明日たつのです」ものやわらかな諭すような調子で、エルケリは口を挟んだ。「ぼくはとくにあの人に立会いを頼んだのです。ぼくの受け取った訓令は、全部あの人から出たもんですからね(と彼は、無経験な青年の常として何もかもぺらぺらいってしまった)。けれど、残念ながら、あの人は出発を口実として、承知してくれませんでした。それに、まったく何やら馬鹿に急いでるのです」
 シャートフはもう一ど憫むように、この正直者に視線を投げたが、急に『ふん、憫んでやる価値があるかい』とでも考えたように、片手を振った。
「よろしい行きましょう」とつぜん彼は断ち切るようにこういった。「だから、もう行ってくれたまえ、さあ、早く!」
「じゃ、ぼくは正六時に来ますよ」とエルケリは丁寧に会釈して、悠々と梯子段を下りて行った。
「ばか!」こらえ切れないで、シャートフは梯子段の上からどなった。
「なんですか?」こちらは下からきき返した。
「なんでもない、行きたまえ」
「ぼくは何かいわれたのかと思いましたよ」

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 エルケリは、肝腎な統治者としての分別こそなかったけれど、こせこせした被統治者としての分別は、狡猾といっていいくらい、かなり多分に持ち合わした『馬鹿者』だった。ファナティックか赤ん坊のように、『共同の事業』、といっても、その実ピョートルに信服し切った彼は、今もピョートルの命令にしたがって行動したのである。この命令はさっき仲間[#「仲間」に傍点]のものが集まって、いろいろあすの手はずや役割を決めた時、ピョートルが彼に授けたのである。ピョートルはあの間に彼を小わきへ呼んで、十分ばかり話をしたのち、彼に使者の役目を授けてしまったのだ。こういう分別の欠けた、他人の意志に隷属することばかり望んでいる浅薄な人間にとっては、実行方面の仕事が本性の要求だった、――むろん『共同の事業』のためとか、『偉大な事業』のためとかいう口実が、いつでも付き物ではあるけれど……しかし、それさえどうでもかまわないのだ。というのは、エルケリのような年若のファナティックは、理想に対する奉仕ということを、自分が心から信じきって理想の代弁者とする人物に結びつけなければ、どうしても了解できないからである。
 感じやすくて、善良で、優しいエルケリは、ことによったら、シャートフ目がけて飛びかかった仲間の中で、最も冷酷な下手人だったかもしれない。自分ではなんの私怨もないくせに、目一つぱちりともさせないで、惨殺の場所に立会ったに相違ない。たとえていおうなら、彼は使命を実行するに当たって、目下のシャートフの事情をよく見て来るように、という命令をも授けられていたが、シャートフが階段の上で彼に応対しながら、つい夢中になって自分でもそれと気がつかず、妻が帰って来たと口をすべらした時も、エルケリは、この、妻が帰って来たという事実は、自分の計画遂行に重大な意味をもってるな、という考えが、電光のように脳裡にひらめいたにもかかわらず[#「かかわらず」は底本では「かかわからず」]、少しもさきを聞きたそうな様子を見せないだけの、本能的な狡知を持っていたのである。
 まったくそのとおりであった。この出来事一つが『悪党ども』を、シャートフの決心から救ったと同時に、彼を『片づける』助けとなったのである。第一に、この出来事はシャートフを興奮させ、心の軌道から叩き出してしまって、いつもの明敏な透察力と、慎重な態度を奪い取ったのである。自己の安全などという考えは、ぜんぜん別なことがらにみたされている彼の頭に、浮かんで来ようはずがなかった。それどころか、明日ヴェルホーヴェンスキイが逃げ出すということを、彼は一も二もなく本当にしてしまった。この話はあまりにぴったりと、彼の想像に符合するからである。自分の部屋へ帰って来ると、彼はふたたび隅っこに腰を下ろして、膝に両肘を突きながら、手で顔をおおった。苦しい想念が彼を悩ますのであった……
 やがて彼はまた首を上げて、そっと爪さきで立ちあがると、静かに妻の顔を覗きに行った。
『ああ、どうしよう! 明日の朝は熱を起こすに相違ない、いや、ひょっとしたら、もう起こってるかもしれん! むろん風邪を引いたのだ。こんな恐ろしい気候に馴れてないし、それに三等の汽車旅、あらし、雨……おまけに、こんな冷たい外套一つで、別に暖い着物一枚ないんだ……こんな場合にうっちゃらかすなんて、たよりのない境遇に捨てておくなんて……そして、このカバンはどうだろう、なんだか小っぽけな軽そうなしわの寄ったカバンで、十斤ばかりしか重みがなさそうだ! かわいそうに、なんというやつれ方だろう。ずいぶん苦労したんだろうなあ! あれは誇りの強い女だから、それで口に出して訴えないのだ。しかし、あの癇の強いことは! なにしろこの病気だからなあ。どんな天使だって、病気にかかれば癇が強くなるさ。あの額はきっと乾き切って、火のように熱いことだろう。そして、あの目の下の暗いこと……しかし、あの卵なりの顔の美しいことはどうだ。そして、あの髪の房々としていること、実に……』
 彼は急いで目を転じた。彼はこの女性の中に、他人の扶助を要する疲れ悩む不幸な人間というよりほかに、何か別なものを見出しはしないか、とそう考えただけでも、ぎょっとしたかのように、あわてて目をそらした。
『いったいこんな場合にどんな希望[#「希望」に傍点]があるものか! ああ、おれはなんという下司な、なんという陋劣な人間だろう!』
 彼はふたたび元の片隅へ引っ込んで、腰をおろすと、両手で顔を隠してしまった。そして、ふたたび空想に耽りながら、さまざまなことを思い起こすのであった……すると、またしても同じ希望が頭をかすめた。
『ああ、疲れちゃった、ああ、疲れちゃった!』という妻の呻きが思いおこされた。それは弱々しい、ひっちぎれたような声であった。『ああ! 今あれをうっちゃってしまったらどうだろう。あれは八十コペイカしか持っていないのだ。古いちっぽけな金入れを突き出したっけ! 仕事をさがしにやって来たって、ふん、あれに仕事のほうなんかわかってたまるものか。あの連中にロシヤのことなんか何がわかるものか。あんな連中は、まるで罪のない子供みたいなものだ。あの連中のすることは、みんな自分で考え出した空想なんだ。かわいそうに、あれもここへ来てみて、どうして本当のロシヤは、外国で空想したのと違うのだろうと思って、腹を立ててるのだ! なんという不幸な人たちだろう、なんという罪のない人たちだろう!……しかし、本当にここは寒いなあ……』
 彼は妻が寒さを訴えたことや、自分が暖炉を焚くと約束したことを、思い出した。
『薪はあすこにあるから、持って来ることはできるが、ただ起こさないようにしなければ……だが、大丈夫だ。ところで、犢肉のことはどうしたもんだろう? 目をさましたら、食べたいというかもしれないからなあ……が、まあ、それは後でいい、キリーロフは一晩じゅう寝ないんだから……何か掛けてやるといいなあ。ぐっすり寝入ってるけれど、きっと寒いに違いない。ああ、寒そうだなあ!』
 彼はもう一ど妻の様子を見に行った。と、着物が少しまくれて、右の足が半分ばかり、膝の辺まであらわになっていた。彼はほとんどおびえたように、つと顔をそむけた。そして、自分の厚い外套を脱いで、古いフロック一枚になると、なるべくそのほうへ目を向けないようにしながら、剥き出しになったところを隠してしまった。
 薪を焚きつけたり、爪立ちで歩き廻ったり、寝ている妻の様子を見たり、部屋の隅で空想にふけったり、また寝ている妻の様子を見たりするのに、だいぶ時間が潰れた。こうして、二、三時間たってしまった。この間にキリーロフのところへ、ヴェルホーヴェンスキイとリプーチンがやって来たのである。やがて彼も隅のほうで、うとうと眠りに落ちてしまった。ふいに、女の呻き声が聞こえた。マリヤは目をさまして彼を呼んだ。彼はまるで罪人《つみびと》のように躍りあがった。
「マリイ! ぼくはついうとうとしかけたよ……ああ、マリイ、ぼくはなんて陋劣な人間だろう!」
 彼女は自分がどこにいるかわからないように、びっくりしてあたりを見廻しながら、起きあがった。と、急に憤怒のあまり躍りあがった。
「わたしあんたの寝床を占領してたのね。わたしは疲れちゃって、つい夢中で寝てしまったんだ。まあ、どうしてあんたは起こしてくれなかったんです! わたしがあんたの厄介になるつもりだなどと、よくもそんな失礼なことが考えられたわね!」
「どうしてぼくが起こせるものか、マリイ?」
「起こせますとも、起こさなきゃならなかったんですよ! もうほかにあんたの寝るところもないのに、わたし、あんたの寝床を占領してたんじゃありませんか。あんたとしては、わたしをうしろめたい立場に落としちゃならなかったはずなんです。それとも、わたしがあんたのお情けにあずかりに来た、とでも思ってるんですか? さあ、今すぐご自分の寝床に入ってください。わたしは隅っこのほうへ椅子を並べて寝ますから……」
「マリイ、そんなに椅子はありゃしないよ。それに敷くものもないんだよ」
「じゃ、床の上へじかに寝るわ。だって、あんたが床へ寝るようになるじゃないの。わたし床の上に寝たいんですの、すぐ、今すぐよ!」
 彼女は立ちあがって、一あし踏み出そうとしたが、ふいに烈しい引っ吊るような痛みが、一どきに力と決断を奪いつくしたように、彼女は高い呻き声とともに、ふたたび寝床の上に倒れてしまった。シャートフは思わず傍へ駆け寄った。けれど、マリヤは顔を枕の中に埋めながら、いきなり彼の手を取って、力まかせに握りしめたり、捩じ廻したりし始めた。これが一分間ばかり続いた。
「マリイ、お前、もしなんだったら、ここにフレンツェルという医者があるんだがね。ぼくの知人で、大変……ぼく一走り行って来ようか」
「ばかなことを!」
「何がばかなことだ? ねえ、マリイ、いったいどこが痛むんだい? なんなら湿布をして……腹か何かに……そんなことなら、医者はいなくっても、ぼくにできるが……でなければ、芥子泥《からしでい》でも……」
「それはいったいなんですの?」彼女は頭を持ち上げて、おびえたように男の顔を見つめながら、奇妙な調子でこうたずねた。
「といって、つまり、なんのことだね、マリイ?」シャートフは合点がゆかなかった。「お前なにをきいてるんだい? ああ、どうしよう、ぼくはまるでとほうにくれてしまった。マリイ、堪忍しておくれ、ぼくはなんにもわからないんだ」
「ええ、やめてちょうだい、あんたなぞの知ったことじゃないわ。それに、おかしいじゃないの……」と彼女は苦しそうに笑った。「何か話してちょうだい。部屋の中を歩き廻りながら、話をしてちょうだいな。そんなに傍に立って、わたしの顔を見ないでちょうだい。これはわたし特別に折り入ってお願いするわ!」
 シャートフは彼女のほうを見ないようにして、一生懸命に床を見つめながら、部屋の中を歩き始めた。
「実はね、――マリイ、後生だから怒らないでおくれ、――実はね、すぐ手近な所に犢肉と茶があるんだが……さっきお前の食べようがあんまり少なかったもんだから……」
 彼女は、ぞんざいな意地悪げな様子で手を振った。シャートフは絶望したように言葉を呑んだ。
「ねえ、わたしは合理的な協力主義を基礎として、ここで製本屋を始めようと思ってるんですの。あんたはここに住んでる人だからおわかりでしょうが、いったいどうお思いになって、うまく行くでしょうかねえ?」
「とんでもない、マリイ、この町の人は本なんか読みやしないよ。それに、本もまるでありゃしないさ。それに、あいつが製本なんかするものかね?」
「あいつとはだれ?」
「この町の読者や、この町の住民ぜんたいをさしたんだよ、マリイ」
「それならそれと、はっきりおっしゃいよ。あいつ[#「あいつ」に傍点]だなんて、だれがあいつかわかりゃしないわ。いったい文法をごぞんじないの?」
「それは言葉の調子だよ、マリイ」とシャートフはつぶやいた。
「ああ、そんな調子なんか、どこかへほうっちまってちょうだい、飽き飽きしちゃったわ。なぜここの住民とか読者とかは、製本ということをしないのでしょう」
「つまり、読書と製本は、人知発達の異なった二つの時代、しかも、大きな時代を表わしてるからさ。初めのうち、人間は少しずつ本を読むことを習うわけだ、むろん、それには何百年という時日を要する。けれど、要するにくだらないものとして、ばらばらに読み崩したままうっちゃってしまう。ところが、製本ということは、もう書物に対する尊敬を示している。単に読むのが好きになったばかりでなく、真面目な仕事と認めるようになったしるしなんだ。ロシヤ全体がまだこの時期までにいたってないのだね。ヨーロッパはもうだいぶ前から製本してるよ」
「それは少々ペダントくさいところがあるけれど、でもちょっと気の利いた言い廻しねえ。なんだか三年前が思い出されるわ。あんた三年前には、かなりウイットがあったのね」
 これだけのことをいうのにも、以前の気まぐれな言い草と同じように、やはり投げやりな調子だった。
「マリイ、マリイ」シャートフは感激の色をおもてに浮かべながら、妻に向かってこういった。「おお、マリイ! この三年間にどれだけの変化が起こったか、それをお前が知ってたらなあ! これは後で聞いたことだが、お前はぼくが変節したといって、ひどくぼくを軽蔑してたそうだね。しかし、ぼくが見棄てたのはいったいだれだろう? 生きた生命の敵だ、自分自身の独立独歩を恐れる時代おくれの自由主義者だ、思想の下男だ、個性と自由の敵だ、死屍と腐肉の老いぼれた宣伝者だ! 彼らの持っているのはなんだろう? 耄碌だ、黄金の中庸主義だ、思いきり下司で卑屈な凡庸主義だ、嫉妬にみちた平等主義だ、自己の尊厳を持たぬ平等主義だ……下男の意識するような平等主義だ、一七九三年代のフランス人が意識したような平和主義だ……が、何より癪にさわるのは、どこへ行っても陋劣漢の揃ってることだ、陋劣漢だ、陋劣漢だ!」
「ええ、陋劣漢の多いことだわ」マリヤは病的な調子で切れぎれにこういった。
 彼女は疲れたような、しかし燃えるような目で、天井を見つめながら、ちょっとはすかいに頭を枕の上に投げ出したまま、身動きするのも恐れるように、じっと長くなって横になっていた。その顔はあおざめ、唇はすっかり乾いてがさがさに荒れていた。
「お前もそう思うかね、マリイ、そう思うかね!」とシャートフは叫んだ。
 彼女は首を振って、否定のしるしをして見せようとしたが、とつぜん前と同じ痙攣が起こった。彼女はふたたび顔を枕に埋めて、まる一分ばかり一生懸命な力で、恐怖のあまり夢中に駆け寄ったシャートフの手を、痛いほど握りしめるのであった。
「マリイ、マリイ! これはことによったら、なかなか重態かもしれないよ、え、マリイ!」
「黙っててちょうだい……わたしいやです、いやです、いやです」ふたたび仰向けに向き変わりながら、彼女は恐ろしい勢いで叫んだ。「そんな同情めいた様子をして、わたしの顔を見ないでちょうだい! さあ、部屋を歩きながら、何か話をしてちょうだい、話を……」
 シャートフはまるでとほうにくれたように、また何やらいい出した。
「あんた、ここで何をしてらっしゃるの?」気むずかしげな焦躁のさまで相手をさえぎりながら、彼女は突然こうたずねた。
「ある商人の店へかよってるのだ。ぼくはね、マリイ、その気にさえなれば、ここでいい金儲けもできるんだがね」
「そりゃおめでとう……」
「ああ、マリイ、そんなふうなことを考えないでおくれ。ぼくがいったのはただ……」
「それから、まだ何かしてらして? 何を宣伝してらっしゃるの? だって、あんたは何か宣伝しずにいられない人なんですもの。そういう性質なんですものね!」
「神を宣伝してるよ、マリイ」
「自分でも信じてない神をね。わたし、その思想がどうしても合点がいかなかった」
「やめとこう、マリイ、それは後にしよう」
「じゃ、ここにいたあのマリヤ・チモフェーヴナというのは、いったい何者なんですの?」
「それもやはり後にしよう、マリイ」
「わたしにそんな忠告はやめにしてちょうだい! あの人殺しは……あの連中の兇行だということですが、いったい本当なんでしょうか?」
「間違いなくそうなんだ」シャートフは歯をきりきりと鳴らした。
 マリヤは急に頭を上げて、病的な声で叫び出した。
「もうそのことをわたしにいわないでちょうだい、けっしていっちゃいけません。二度といったら承知しませんよ!」
 こういいながら、彼女は以前と同じひっ吊るような痛みに、ふたたびベッドの上へ倒れてしまった。もうこれで三度目だった。しかも、今度は呻き声が前より高くなって、ほとんど叫び声に変わってしまった。
「おお、あんたはなんてたまらない人だろう! おお、なんてやり切れない人だろう!」彼女は上からかがみかかるシャートフを突きのけながら、自分をいたわることも忘れ、夢中になって身をもがくのであった。
「マリイ、ぼくはなんでもお前の好きなようにしてあげる……歩いて……話をしてもいい」
「まあ、いったいあんたは、何が始まったのか、わからないんですか!」
「何が始まったかって、マリイ?」
「ああ、わたしの知ったことですか? いったいこれがわたしの知ったことだろうか?……ああ、呪われた女! おお、初めっから、何もかも呪ってやる!」
「マリイ、本当に何が始まってるのか、お前がいってくれたらなあ……そうしたら、ぼくは……そんなふうでは、ぼくに何がわかるものかね」
「あんたは抽象的なおしゃべりばかりしてる役立たずだわ。おお、世の中のものを何もかも呪ってやる!」
「マリイ! マリイ!」
 この女は気がちがいかかっているのだと、真面目にそう考えた。
「いったいあんたもいい加減、わかりそうなもんじゃないの。お産の陣痛よ!」恐ろしい病的な憤怒に顔を歪めて、じっと男を見つめながら、彼女は半ば身を起こした。「もう今から呪われるがいい、こんな子供なんか!」
「マリイ」ようやくことの真相を悟って、シャートフはこう叫んだ。「マリイ……どうして初めからそういってくれなかったのだ?」彼は急にわれに返った。そして、断固たる決心を示しながら、帽子を取り上げた。
「ここへ入って来る時に、そんなこととは知らなかったんだわ。でなかったら、あんたのところへ来るはずがないじゃないの。まだ十日ぐらいあるということだったんですもの! どこへ、あんたどこへ行くの、そんなことだめよ!」
「産婆を呼びに! ぼくはピストルを売るのだ。今は何よりも一番に金だからね」
「なんにもしちゃいけない。産婆など呼んだら聞きませんよ。ほんの手伝い女でいい、どこかの婆さんでいいの、わたしの蟇口に八十コペイカあるから……田舎の女なんか、産婆なしでお産をするじゃないの……かたわになったら、結句そのほうがいいわ……」
「産婆も来る、婆さんも来るよ。だが、ぼくは、ぼくはお前を一人ぼっちでおいて行かれない、マリイ!」
 しかし、後でこの頼りのない女を一人ぽっち[#「一人ぽっち」はママ]にするよりは、今おいて行ったほうがまだましだと考えたので、彼はマリヤの烈しい憤怒にもかかわらず、その呻き声も、腹立たしげな叫びも聞かないで、自分の早い足に望みをかけながら、まっしぐらに梯子段を駆け下りた。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 まず一番にキリーロフのところへ駆けつけた。もう夜中の一時頃だった。キリーロフは部屋の真ん中に突っ立っていた。
「キリーロフ君、家内が産をしてるんだ!」
「といって、なんのこと?」
「産をしてるんだ、子供を生んでるんだ!」
「きみ……思い違いじゃない?」
「いや、そうじゃない、いま陣痛が始まってるんだ……産婆がいるんだ、何か婆さんのようなものが、――ぜひ今すぐいるんだ……いま呼んで来られるかしらん? きみのところには婆さんが大勢いたがなあ……」
「どうもたいへん気の毒だが、ぼくは産をすることが下手でね」とキリーロフは考え深そうに答えた。「いや、つまり、ぼくが産が下手なのじゃなくって、産の上手なようにすることができない……いや……駄目だ、ぼくにはうまくいえない」
「つまり、きみが自分でお産の手伝いができない、ということなんだろう。しかし、ぼくのいうのはそのことじゃない。婆さんがいるんだ、婆さんが。ぼくは女を頼んでるんだ。看護婦だ、女中だ!」
「婆さんは呼べるが、しかし、今すぐというわけにはいかない。もしなんなら、ぼくが代わりに……」
「ああ、それは駄目だ。ぼくはこれからヴィルギンスカヤのとこへ、あの産婆のところへ行くんだから」
「あの毒婦か!」
「ああ、そうだよ、キリーロフ。しかし、あの女が一番うまいんだからね! ああ、それにああいう偉大な神秘、――新しい生命の出現が、敬虔の念もなければ歓喜もなく、嫌悪と嘲罵と冒涜をもって行なわれるんだからね……きみ、あれはもう今から赤ん坊を呪ってるんだよ……」
「もしなんならぼくが……」
「いけない、いけない。ぼくが駆け廻ってるうちに(大丈夫、ぼくはヴィルギンスカヤを引っ張って来る)、きみはときどきぼくの梯子段のところへ行って、そっと中の様子に耳を澄ましてくれたまえ。ただ、けっして中へ入っちゃいけないよ、あれがびっくりするから。どんなことがあっても、入っちゃいけない。ただ聞いてるだけなんだよ……万一、どんな恐ろしいことがないとも限らないからね。で、もし何か非常のことが起こったら、その時はかまわず入ってくれたまえ」
「わかった。金はまだ一ルーブリある。さあ、ぼくはあす鶏《とり》を買おうと思ったんだが、今はもうほしくなくなった。早く走って行きたまえ。一生懸命に走って行きたまえ。サモワールは一晩じゅうあるよ」
 キリーロフは、シャートフに関する仲間[#「仲間」に傍点]の計画を、少しも知らなかった。それに、前からシャートフの身に迫る危険の程度を、まるで知らずにいたのである。ただシャートフと『あの連中』の間に、古くから何やら義務関係がある、ということだけしか知らなかった。もっとも、彼自身も外国にいる時分、ある命令を授けられたため、いくぶんこの仕事に関係していたが(彼は何ごとも、あまり深く立ち入って仕事をしたことがないので、この命令というのもごく表面的なものだった)、しかし、最近なにもかもいっさいの委託を投げうって、あらゆる仕事(ことに『共同の事業』)からすっかり身をひいて、瞑想生活に没頭してしまったのである。
 ピョートル・ヴェルホーヴェンスキイは会議の席で、キリーロフが与えられた時機に、『シャートフの事件』を引き受けるかどうかを確かめるため、リプーチンを同道して行ったけれど、キリーロフとの問答中シャートフのことは、一言もほのめかそうとしなかった。多分、そんなことをいうのは拙いと考えたのでもあろうし、キリーロフを当てにならぬ人間とも思ったので、あす何もかもすんでしまって、キリーロフが『どうだって同じだ』と考えるまで待とう、――少なくも、ピョートルはキリーロフのことを、こんなふうに判断したに相違ない。リプーチンもやはり同じように、ああした約束があったにもかかわらず、シャートフの話が少しも出なかったのに、十分気がついていたけれど、抗議を提出するには、あまり興奮しすぎていたのである。
 シャートフはまるでつむじ風のように、蟻街《ムラウィーヤナ》をさして駆け出した、果てしもないように思われるわずかな道のりを呪いながら。
 ヴィルギンスキイのところでは、長いあいだ戸を叩かねばならなかった。もうだいぶ前に寝てしまったのである。しかし、シャートフはなんの遠慮もなく、力まかせに鎧戸を叩きつづけた。庭に鎖で繋いである犬が飛びかかろうともがきながら、意地悪そうな声で吠え立てると、町内の犬がその声に応じて、恐ろしい犬のコーラスが始まった。
「なんだってそんなに叩くのです、いったいなんの用です?」とうとう窓の中から、主人のヴィルギンスキイの声、――こうした『侮辱』にふさわしからぬ、もの柔かな声が響いた。
 と、鎧戸が開かれ、続いて通風口もあいた。
「そこにいるのはだれ、どこのやくざ者なの?」今度はもうすっかり『侮辱』に相応した声、――ヴィルギンスキイの親戚に当たるオールドミスの、意地悪そうなきいきい声が響いた。
「ぼくはシャートフです。家内がぼくのところへ帰って来て、いま産をするところなんですよ……」
「ええ、勝手に産でもなんでもするがいい、早く行っておしまいなさい!」
「ぼくはアリーナさんを迎えに来たんです。アリーナさんを連れないでは帰りませんよ!」
「アリーナさんはね、だれのところへでも行く人じゃありません。夜ふけに出るのは、専門の人がありますよ……さっさとマクシェーヴアのところへでも行くがいい。騒々しくしないでちょうだい、失礼な!」意地くね悪そうな[#「意地くね悪そうな」はママ]女の声が、はぜるようにこういった。
 ヴィルギンスキイの押し止める声が聞こえた。けれど、老嬢は彼を突きのけながら、なかなか折れて出ようとしなかった。
「ぼく帰りゃしないから!」とシャートフはまたどなった。
「待ってくれたまえ、ね、待ってくれたまえってば!」やっと老嬢をなだめて、ヴィルギンスキイはこうわめいた。「シャートフ君、お願いだから、五分ばかり待ってくれたまえ。ぼくアリーナを起こすから、どうか叩いたりどなったりしないでくれたまえ……ああ、なんという恐ろしいことになったもんだ!」
 果てしのない五分という時が経ってから、やっとアリーナが姿を現わした。
「あなたのところへ奥さんが帰って来たんですって?」という彼女の声が通風口から聞こえた。驚いたことに、その声は少しも意地悪そうでなく、ただいつもの癖で、ちょっと命令的に聞こえるばかりだった。アリーナはそれよりほかに、口のきき方を知らなかったので。
「ええ、家内が、――そして産をしてるんです」
「マリヤ・イグナーチエヴナが?」
「ええ、マリヤ・イグナーチエヴナです。もちろん、マリヤ・イグナーチエヴナです!」
 ちょっと沈黙がおそうた。シャートフはじっと待ち設けていた。家の中では、人々が何やらささやき交していた。
「奥さんはもう前から来てらっしゃるの?」またマダム・ヴィルギンスカヤがこうたずねた。
「今夜八時に来たのです。どうか早くしてください」
 ふたたび囁きが聞こえて、どうやら相談してるらしいふうだった。
「ねえ、思い違いをしてらっしゃるんじゃありませんか? あのひとが自分でわたしを迎えによこしたんですか?」
「いや、あれが自分でよこしたんじゃありません。あれはぼくにいろんな費用を負担させまいと思って、ただの婆さんをといったのです。しかし、心配しないでください、ぼくちゃんとお礼をしますから」
「よろしい、お礼はなさろうとなさるまいと、わたし行ってあげますわ。わたしはマリヤさんの独立不羇な気性に、いつも感心していましたの。もっとも、あのひとはわたしをおぼえてらっしゃらないかもしれませんがね。それから、あなたのところには、どうしてもなくてはならないものが揃ってますか?」
「なんにもありません。が、みんな揃えます、みんなすっかり……」
『あんな連中にもやはり侠気《おとこぎ》があるんだなあ!』リャームシンのところへ急ぎながら、シャートフはこう考えた。『主義と人間性、――これは多くの点において、全然ことなった二つのものらしい。おれはあの人たちに対しても、ずいぶん悪いことをしてるかもしれない!………みんな悪いのだ、みんな罪があるのだ、そして、みんなこれに気がつきさえすればいいんだがなあ!………」
 リャームシンのところでは、そう長く叩かなくてもよかった。驚いたことには、彼はすぐ寝床から跳ね起きて、鼻風邪の危険さえ忘れ、シャツ一枚で跣足《はだし》のまま通風口を開けた。彼はふだん恐ろしく神経家で、自分の健康をひどく気にするたちだった。しかし、こんなに目ざとくさっそくに出て来たのには、また特別な理由があったのだ。リャームシンは今夜の『仲間』の会議の結果、一晩じゅう戦々兢々として、いまだに寝つけなかったのである。なんだかはなはだ望ましくない押しかけ客が、四、五人もやって来そうな気がしてならなかった。シャートフの密告という情報は、何よりも彼を苦しめたのである……ところが、突然わざと狙ったように、恐ろしく猛烈に窓を叩く音が聞こえるではないか……
 彼はシャートフを見ると、すっかりおびえあがって、すぐに通風口をぱったり閉め、寝台のほうへ逃げ出してしまった。シャートフはすさまじい勢いで、叩いたりわめいたりし始めた。
「なんだってきみは夜中にどんどん叩くんだね!」やっとシャートフが一人きりで来たのを確かめたので、二分ばかり経ってから、もう一ど通風口を開けることに決心したリャームシンは、恐ろしさに胸をしびらせながら、いかめしい声でこう叫んだ。
「さあ、ここにきみのピストルがある。これをもとへ引き取って、十五ルーブリ出してくれたまえ」
「それはいったいなんのこったね、きみは酔っぱらってるのかい? そりゃ強盗じゃないか。ぼくが風邪を引くばかりだ。ちょっと待ちたまえ、ぼくは夜着を羽織ってくるから」
「今すぐ十五ルーブリ貸してくれたまえ。もし出してくれなきゃ、ぼくは夜明けまでどんどん叩いて、わめきつづけるよ。ぼくはこの窓を毀してしまうから」
「そんなことをすりゃ、ぼくは巡査を呼んで、きみを留置場へ引っ張って行かせるさ」
「きみはぼくを唖とでも思ってるのか? ぼくにも巡査が呼べないと思ってるのか。いったいだれが巡査を恐れなきゃならんのだ、きみかぼくか?」
「きみはそんな卑劣な信念をいだき得る人なんだね……きみが何をほのめかしてるのか、ぼくは承知してるよ……待ちたまえ、待ちたまえ、お願いだから、叩かないでくれたまえ! まあ、考えてみるがいい、だれが夜中に金を持ってるものかね。いったいなんだって金がいるんだね、もしきみが酔っぱらっているのでなけりゃ……」
「家内が戻って来たんだ。ぼくはきみに十ルーブリひいてやるんだよ。まだ一度も射ってみたことはないんだけれど、さあ、このピストルを引き取ってくれ、すぐ引き取ってくれたまえ」
 リャームシンは機械的に通風口から手を伸ばして、ピストルを受け取った。彼はしばらくじっとしていたが、とつぜんすばやく通風口から首をつき出して、まるで背中に悪寒でも感じるように、前後を忘れてこうささやいた。
「きみは嘘をついてるんだ。細君が帰って来たなんて、まるででたらめだ……それは……それはただどこかへ逃げ出そうという魂胆なのだ」
「ばか、ぼくがどこへ逃げるんだ? それはきみたちのヴェルホーヴェンスキイが逃げ出すんで、ぼくのことじゃあないよ。ぼくはつい今しがた産婆のヴィルギンスカヤのところへ行って来た。すると、あの女もすぐ承知してくれたよ。なんなら聞き合わせて見たまえ。家内は非常に苦しんでるのだ。まったく金が必要なんだ、さあ、出してくれ!」
 さまざまな想念がまるで花火のように、リャームシンのすばやい頭の中でひらめいた。局面がすっかり一変してしまったのだ。けれど、恐怖の念が冷静な判断を許さなかった。
「だが、どういうわけで……だって、きみは細君と同棲していないじゃないか?」
「そんなことをきくと、ぼくはきみの頭をぶち割ってしまうぞ」
「あっ、こりゃどうも、失敬した。いや、わかってるよ。なにしろ、ぼくはすっかり仰天してしまったのでね……いや、わかってるよ、わかってるよ、しかし……しかし、――いったいアリーナさんがきみのところへ行くだろうか? きみは今あのひとが出かけたっていったね? きみ、そりゃ嘘だよ。見たまえ、そら見たまえ、きみは一こと一こと嘘をついてるじゃないか」
「あのひとはきっと今ごろ、家内の傍に坐ってるに相違ないのだ。もういい加減にしてくれ。きみが間抜けだからって、ぼくの知ったことじゃないよ」
「嘘だ、ぼくは間抜けじゃないよ。失礼だが、ぼくはどうしても……」
 彼はもう何が何やらわからなくなって、三たび戸を閉めようとしたが、シャートフが恐ろしい勢いで、わめき出したので、彼はまたもや大急ぎで首を突き出した。
「こりゃ、きみ、純然たる人権侵害だよ。いったいきみは何をぼくに要求するんだね、え、何を、何を、はっきりいいたまえ。それに、考えても見たまえ、考えても、――こんな真夜中にさ!」
「十五ルーブリの金を要求してるんじゃないか、なんてばか頭だ!」
「しかし、ぼくは全然ピストルを買い戻したくないかもしれないんだぜ。きみにはなんの権利もないのだ。きみは品物を買っただけだ、――それで話はおしまいじゃないか。きみにそんなことを要求する権利はない。ぼくはどうしても、夜中にそんな金をこしらえるわけにいかない。どうしてそんな金が手に入るもんかね?」
「きみはいつでも金を持ってるよ。ぼくは十ルーブリひくといったじゃないか。なんだ、折紙つきのユダヤ人のくせに」
「あさって来たまえ、――いいかね、あさっての朝、正十二時に来たまえ。すっかり耳を揃えてあげるよ、いいだろう?」
 シャートフは三ど兇暴な勢いで窓を叩いた。
「じゃ、十ルーブリよこしたまえ。そして、明日の朝ひきあけに五ルーブリ」
「いかん、明後日の朝五ルーブリだ。明日はどうあっても駄目だ。まあ、来ないほうがいいよ、まるで来ないほうが」
「十ルーブリよこしやがれ、こん畜生!」
「なんだってきみはそんなに悪口をつくんだい? まあ、待ちたまえ、あかりをつけなきゃ。ほら、こんなにガラスを毀しちゃったじゃないか……よる夜中、こんなにどんどん叩くやつが、どこにあるものかね? さあ!」と彼は窓から紙幣《さつ》をさしのぞけた。
 シャートフは引っつかんだ、――紙幣は五ルーブリだった。
「どうしても駄目だ。たとえ殺されたってできやしない。明後日は都合できるが、今はどうしても駄目だ」
「帰りゃしないぞ!」とシャートフはわめいた。
「さあ、これを取ってくれたまえ。もう一枚。いいかね、もう一枚あるだろう。もうそれより駄目だ。きみが喉の張り裂けるほどどなったって、ぼくは出しゃしないから。どんなことがあったって出しゃしないから。出さない、出しゃしない!」
 彼は前後を忘れて夢中になって、汗をたらたら流していた。彼が後からさし出した紙幣は、一ルーブリ二枚だった。こうして、シャートフの手には合計七ルーブリできた。
「じゃ、勝手にしやがれ、明日はまた来るから。リャームシン、八ルーブリ用意しておかなかったら、ぼくはきみをのしちゃうから」
『ふん、おれは家にいやしないんだから、ばか野郎!』とリャームシンははらの中ですばやく考えた。
「待ちたまえ、待ちたまえ!」もう駆け出したシャートフの後から、彼は気ちがいのようにわめいた。
「待ちたまえ、引っ返して来たまえ。ねえ、きみ、いま細君が帰って来たといったのは、ありゃ本当なのかい?」
「ばか!」シャートフはぺっと唾を吐いて、一目散にわが家をさして駆け出した。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 断わっておくが、アリーナは、ゆうべ会議を通過した決議のことを、少しも知らずにいたのである。帰宅した時、ヴィルギンスキイはすっかり顛倒してしまって、まるで力抜けしたようになっていたので、今夜の決議を妻に告げる勇気がなかった。けれど、やはり持ちこたえることができないで、事実の半分だけうち明けた、――つまり、必ずシャートフが密告するに相違ないという、ヴェルホーヴェンスキイのもたらした報知である。しかし、彼はすぐその場で、どうもこの報知は十分信用できかねるとつけ足した。アリーナは恐ろしく仰天してしまった。こういうわけなので、シャートフが迎えに駆けつけた時、ゆうべ夜っぴて一人の産婦を相手に、さんざん骨を折らされたにもかかわらず、さっそく出かけようと決心したのである。彼女はふだん常々、『あんなシャートフのようなやくざ者は、きっと社会的に卑劣なことを仕出かすに相違ない』と信じ切っていたが、しかし、マリヤ・イグナーチエヴナの到着は、事件に新しい光を投げた。シャートフの動転した態度や、助けを乞うときの絶望的な哀願の調子などは、明らかにこの裏切り者の感情の転化を示していた。単に他人を亡さんがためのみに裏切りまでしようと決心した人間なら、いま実際に見受けられたのとは、ぜんぜん別な様子をしているはずだ。とにかくアリーナは、万事自分の目ですっかり見きわめようと、決心したのである。ヴィルギンスキイは妻の決断に大恐悦だった、――まるで五プード([#割り注]約二十貫[#割り注終わり])の重荷を、肩からおろしてもらったような気持ちがした! それどころか、一種の希望さえ彼の心に生じた。実際、シャートフの様子は、ヴェルホーヴェンスキイの想像と、少しも一致するところがないように思われたのである。
 はたしてシャートフの想像は誤らなかった。彼が家へ帰ったとき、アリーナはもうマリイの傍に坐っていた。彼女はここへ来るとすぐ、階段の下にぽかんと立っているキリーロフを、ばかにしきった態度で追い出してしまった。そして、どうしても彼女を旧知と受け取らないマリイと、手早く初対面の挨拶をすました。産婦は『恐ろしく険悪な徴候』を示していた。つまり、取り乱して、意地悪げで、おまけに『気の狭い絶望』に陥っているのであった。アリーナはわずか五分ばかりの間に、産婦のさまざまな反抗を、すっかり抑えつけてしまった。
「あなた上等の産婆がいやだなんて、なんだってそう駄々をこねるんですの?」シャートフが入って来た瞬間に、彼女はこんなことをいっていた。「ばかげきった話ですよ。あなたのアブノーマルな状態から起こった不正直な考えですよ。ただのちょっとした婆さん、――教育のない取上げ婆さんの手にかかったら、十中の五までは悪い結果をみるものと、覚悟しなきゃなりません。そうすると、上等の産婆にかかるよりもよけい騒ぎが大きくなって、余計お金を費わなきゃなりませんからね。それに、どうしてわたしを上等の産婆に決めておしまいになるの? なに、払いは後でいいんですよ。あなたから余計なお銭《あし》はいただきゃしませんから。そして、お産のほうは請合いますよ。わたしにかかったら、死ぬようなことはありません。これどころか、まだまだひどいのを手がけましたからね。ところで、生まれた子供は明日にも養育所へ送って、それからしばらく経ったら、田舎へ里子にやってあげますよ。そしたら、もうことはおしまいですよ。そのうちに、あなたもよくおなんなすって、何か恥ずかしくないだけの仕事についたら、いいじゃありませんか。そうすれば、ごく僅かな間にシャートフさんへ、部屋代だの諸がかりだのを返せるわけですよ。諸がかりだって、ほんの知れたもんですからね……」
「わたしのいうのはそんなことじゃありません……わたし、あの人にそんな迷惑をかける権利がないんですの……」
「そりゃ筋の立った、立派な公民らしい感情です。でも、わたしのいうことをお聴きなさい。もしシャートフさんが気ちがいめいた空想家を廃業して、ほんの少しでも正しい思想の人となったら、ほとんど何一つ失わないですむんですよ。ただ馬鹿な真似をしなきゃいいんです。仰山に太鼓を叩いて、はあはあ舌を吐き出しながら、町じゅう駆け廻るような真似をしなけりゃいいんです。あの人は傍《はた》から両手を抑えていなかったら、夜明けまでにはこの町の医者を、大方みんな叩き起こしてしまうでしょうよ、まったく。さっき家《うち》の通りの犬という犬を、すっかり起こしてしまったんですもの。医者なんかいりゃしません。今もいったとおり、わたしがいっさい引き受けますよ。しかし、婆さんくらいは、手廻りの用に傭ってもいいでしょう。いくらもかかりゃしませんから。もっとも、あの人だって、馬鹿な真似しかできないわけじゃない、たまには何かの役に立つかもしれませんわ。手もあれば、足もあるんですもの。薬屋へ駆け出すぐらいは、してくれるでしょう。それっぽちのことを恩に着せて、あなたの感情を侮辱するようなことはないでしょうよ。それに、なにが恩なものですか! だって、あなたをこんな境遇に落としたのは、あの人じゃありませんか。あなたがよその家庭教師をしてらっしゃるとき、あなたと結婚しようという利己的な目的で、家の人と喧嘩をさしたのは、あの人じゃありませんか。わたしたちも少しは聞いています……もっとも、あの人は今も自分から、まるで気ちがいみたいに飛んで来て、往来一杯に響くほどどなりたてましたがね。わたしはだれのところへも押しつけがましく出かけはしないんですが、わたしたちはみんな同じように、連帯の責任があると信じてればこそ、あなたのためを思って来たんですの。わたしはまだ家を出ないうちから、このことをあの人に宣言したくらいですからね。もしあなたがわたしに用がないとお考えなら、これでごめんこうむりますよ。ただ何か不幸が起こらなければよござんすがね。しかも、そんなものは、わけなく避けることができるのに」
 彼女は椅子を立ってまで見せた。
 マリイはこうした頼りない身の上ではあり、またずいぶん苦しんでもいたし、それに実際のところ、間近に迫った産を思う恐れがあまり強かったので、彼女を帰してしまう勇気がなかった。とはいえ、マリイはこの女がとつぜん憎くてたまらなくなった。いうことが見当ちがいだ。マリイの胸にあることとまるで違っている! しかし、無経験な取上げ婆さんの手にかかって、命を落とすかもしれないという予言は、ついに嫌悪の念を征服してしまった。けれど、その代わりシャートフに対しては、この瞬間からいっそうわがままになり、いっそう容赦がなくなった。ついには自分のほうを見るばかりでなく、自分のほうを向くことさえ禁じてしまった。陣痛はまたつのって来た。呪詛の声、罵詈の声は、だんだん狂暴になっていった。
「ええッ、もうあの人をよそへやってしまいましょう」とアリーナは断ち切るようにいった。「あの顔色ったらありゃしない。ただあなたをびっくりさせるだけですよ。まるで死人みたいにあおい顔をしてるわ! いったいあんたなんの用があるの、どうか聞かしていただきたいもんですねえ、なんておかしな変人さんだろう! まるで喜劇だわ!」
 シャートフは返事しなかった。もういっさい返事をしまいと決心したのである。
「わたしもこういう場合に、よく馬鹿げた父親《てておや》を見ましたよ、やはり気が狂ったようになるんですがね、しかし、そんなのはなんといっても………」
「やめてちょうだい、それでなければ、わたしをうっちゃっといて、勝手に片輪にしてしまってちょうだい! 一口もものをいっちゃいけない! いやです、いやです!」とマリイは叫び立てた。
「もしあなた自身が、分別をなくしていらっしゃらないなら、一口もものをいわずにいられないぐらいのことは、おわかりになりそうなはずですがねえ。と、まあ、わたしはこの場合、あなた方のことを考えますのさ。なんにしても、用事だけはいわなきゃなりません。ねえ、何か用意がしてありますか? シャートフさん、あなた返事してちょうだい。あのひとはそれどころでないんだから」
「つまり、何がいるのかいってください」
「じゃ、なんにも用意してないんだ」
 彼女はぜひ欠かすことのできない品を、すっかり並べて聞かせた。しかし、彼女の察しのよさも認めてやらなければならぬ。彼女はこの際、まったく裏長屋のお産同然な、ほんのなくてならぬ物だけですましたのである。二、三のものはシャートフのところに見つかった。マリイは鍵を取り出して、彼のほうへさし出しながら、自分のカバンの中をさがしてくれと頼んだ。彼は手がわなわなと慄えるので、馴れないカバンを開けるのに、普通より少し長くごそごそしていた。マリイは前後を忘れるほどいらいらしたが、アリーナが飛んで行って鍵を引ったくろうとすると、彼女はどうしてもアリーナにカバンを覗かれるのをいやがった。そして、恐ろしい声を立てて泣き叫びながら、カバンはシャートフ一人にしか開けさせないといい張った。
 ある品は、キリーロフのところへ取りに行かねばならなかった。シャートフが身を転じて、外へ出ようとするやいなや、彼女はすぐに兇猛な声を立てて彼を呼び返した。シャートフが一目散に引っ返して、自分はちょっとの間、ぜひなくてはならぬものを取りに行くだけで、すぐに帰って来ると説明した時、はじめてやっと安心したのである。
「まあ、まあ、奥さん、あなたのご機嫌をとるのはむずかしいことですね」とアリーナはからからと笑い出した。「じっと壁のほうを向いて、顔を見てもくれるなというかと思うと、今度は急に、ちょっとの間も傍を離れてはいやだなんていって、泣き出しなさるんですもの。そんなことをすると、あの人がまた何か考えるかもしれませんよ。さあ、さあ、そんなにだだをこねたり、むずかったりするのはおよしなさい。わたしなんか笑ってるじゃありませんか」
「あの人はけっしてそんなことを考えやしませんよ」
「おっとっと、もしあの人が羊みたいに、あなたに惚れ込んでいなかったら、あんなにはあはあ舌を吐きながら、通りから通りを駆け廻って、町じゅうの犬を起こすような真似はしなかったでしょうよ。あの人はうちの窓を叩きこわしてしまいましたよ」

[#6字下げ]5[#「5」は小見出し

 シャートフが入って行った時、キリーロフは依然として部屋の中を、隅から隅へと歩き廻っていたが、すっかり放心状態になって、マリイの到着のことなど忘れてしまったように、相手の言葉を聞きながらも、なんのことか合点がゆかないふうであった。
「ああ、そう」今まで没頭していた何かの想念から、やっとのことでちょっとの間、心をもぎ放したように、彼はとつぜん思い出してこういった。「そう……婆さん……細君だったかね、婆さんだったかね? いや、ちょっと待ちたまえ、細君と婆さんと両方だっけね、そうだ。おもい出した、――行って来たよ。婆さんはやって来るには来るけれど、今すぐというわけにゆかない。枕、持って行きたまえ。それから、なんだね? ああ……ちょっと待ちたまえ、シャートフ君、きみはときどき永久調和の瞬間を経験することがあるかね?」
「ねえ、キリーロフ君、きみはこれから、よる寝ない習慣をやめなきゃ駄目だよ」
 キリーロフはようやくわれに返った。そして(不思議なことには)、いつもよりずっと滑らかに、調子よく話し出した。察するところ、彼はもうずっと前から、この思想をすっかりまとめ上げていたらしい。或いは何かに書きつけていたかもしれない。
「ある数秒間があるのだ、――それは一度に五秒か、六秒しか続かないが、そのとき忽然として、完全に獲得されたる永久調和の存在を、直感するのだ。これはもはや地上のものではない。といって、何も天上のものだというわけじゃない。つまり、現在のままの人間には、とうていもちきれないという意味なんだ。どうしても生理的に変化するか、それとも死んでしまうか、二つに一つだ。それは論駁の余地のないほど明白な心持ちなんだ。まるで、とつぜん全宇宙を直感して、『しかり、そは正し』といったような心持ちなんだ。神は、世界を創造したとき、その創造の一日の終わるごとに、『しかり、そは正し、そはよし』といった。それは……それはけっしてうちょうてんの歓喜ではなく、ただ何とはない静かな喜悦なのだ。人はもはやゆるすなどということをしない。なぜなら、何もゆるすべきことがないからだ。愛するという感情とも違う、――おお、それはもう愛以上だ! 何よりも恐ろしいのは、それが素敵にはっきりしていて、なんともいえないよろこびが溢れていることなんだ。もし十秒以上つづいたら、魂はもう持ち切れなくて、消滅してしまわなければならない。ぼくはこの五秒間に一つの生《せい》を生きるのだ。そのためには、一生を投げ出しても惜しくない。それだけの価値があるんだからね! ところで、十秒以上もちこたえるためには、生理的に変化しなくちゃあ駄目だ。ぼくはね、人間は生むことをやめなきゃならんと思う。目的が達しられた以上、子供なぞなんになる、発達なぞなんになる? 福音書にもいってあるじゃないか、復活の日には人々生むことをせずして、ことごとく天使のごとくなるべしって。面白い暗示じゃないか。きみの細君は生んでるんだね?」
「キリーロフ、それはしょっちゅうあるのかね?」
「三日に一度あったり、一週間に一度あったり」
「きみ、癲癇の持病はないのかい?」
「ない」
「じゃ、今に起きるよ。気をつけたまえ、キリーロフ、癲癇はちょうどそんな具合に始まっていくって、ぼく、人から聞いたことがあるよ。ぼくはある癇癪持ちから、発作の前の感覚を詳しく話してもらったが、いまきみのいったのと寸分ちがわない。その男もやはり五秒間と、はっきり区切ったよ。そして、それ以上は持ち切れないといったっけ。きみ、マホメットが甕から水の流れ出てしまわないうちに馬に乗って天国を一周した話を思い出して見たまえ。甕、――これがつまりその五秒間なんだ。きみの永久調和にそっくりじゃないか。しかも、マホメットは癲癇持ちだったんだからね。気をつけたまえ、キリーロフ、癲癇だよ!」
「もう間に合わないよ」キリーロフは静かに薄笑いをもらした。

[#6字下げ]6[#「6」は小見出し

 夜はすでに明けようとしていた。シャートフは使いにやられたり、ののしられたり、また呼びつけられたりした。マリイの生を気づかう恐怖の念は、もう極度に達していた。彼女は生きたい、『どうしても、どうしても生きたい』、死ぬのは恐ろしいと叫んだ。『もういい、もういい!』ともくり返した。もしアリーナがいなかったら、どうしようもなかったに相違ない。しだいしだいに、彼女はすっかり産婦を征服してしまった。産婦はまるで赤ん坊のように、彼女の一語一語にしたがうようになった。アリーナは、やさしく機嫌をとるというより、むしろ怖《こわ》もてで脅しつけたのだが、その代わり働くことにかけたら、手に入ったものだった。やがて夜も白み始めた。ふとアリーナは、シャートフが梯子段のところへ駆け出して、祈りを捧げているのではないか、と考えついて、面白そうに笑い出した。マリイもやはり意地悪げに、毒々しく笑い出した。しかし、この笑いのおかげでなんだか気分が軽くなったらしかった。とうとうシャートフは、すっかり部屋を追い出されてしまった。湿っぽい冷々した朝が訪れた。彼は、ちょうどゆうべエルケリが入って来た時と同じように、隅っこの壁に顔を押しつけた。まるで木《こ》の葉のように慄えながら、一生懸命に恐ろしい想念を抑えつけようとした。けれども、彼の心はよく夢の中で経験するように、ただひたむきにその想念につかみかかろうとする。さまざまな空想は、絶え間なく彼をあらぬほうへ誘って行っては、絶え間なく腐った糸のように、ぷつりぷつりと切れるのであった。やがて部屋の中からは、もう呻吟の声というよりも、むしろもの凄い、純然たる野獣のような叫びが、どうにも我慢のならぬ恐ろしい叫びが洩れてきた。彼は耳に蓋をしたかったが、それもできなかった。そして、いきなり床に膝をつきながら、無意識にくり返すのであった。
「マリイ、マリイ!」
 と、ふいにまた叫び声が聞こえた。が、それは新しい叫び声だった。シャートフはぴくりとして、躍りあがった。それは弱々しいひびの入ったような、赤ん坊の泣き声なのである。彼は十字を切って、部屋の中へ飛び込んだ。
 アリーナの手の中には、小さな、赤い、皺だらけな生物が、大きな声で泣き立てながら、小さな手足をもぞもぞ動かしていた。まるで一片のちり芥のように、ひと吹きの風にも得堪えぬ、恐ろしいほど頼りなげな存在ながら、やはり生の絶対権でも持っているように、大きな声で自己を主張するのであった……マリイは意識を失ったように、じっと横になっていたが、やがて、一分ばかり経って、目を開《あ》けた。そして、奇妙な、実に奇妙な目つきでシャートフを見つめた。それはまったく別な目つきだった。けれど、どんなふうかときかれても、シャートフはまだ答えができなかったろう。しかし、彼女がこんな目つきをしたのは、今まで一度もおぼえがない。
「男の子? 男の子?」彼女は病的な声でアリーナにたずねた。
「腕白さんですよ!」赤ん坊をきれに包みながら、こちらはどなるようにこう答えた。
 彼女がすっかり子供を包み終え、寝台に枕を二つ並べた間へ、横向きにねさせる支度をするから、ちょっと抱いてくれと、シャートフに子供を渡した。マリイはアリーナを恐れるように、そっと内証で彼に合図をした。こちらはすぐにその意を悟って、赤ん坊を傍へ持って行って見せた。
「なんて……かわいい子だろう……」彼女は微笑を浮かべながら、弱々しくつぶやいた。
「ふっ、この人の顔つきはどうでしょう!」シャートフの顔を覗き込みながら、得意のアリーナは愉快そうに笑い出した。
「なんて顔をしてるんでしょう!」
「お浮かれなさい、お浮かれなさい、アリーナさん……これはまったく、偉大なよろこびですからね……」子供のことをいったマリイのひと言で、よろこびに輝き渡ったシャートフは、間の抜けたおめでたそうな顔つきでこういった。
「まあ、あなた、偉大なよろこびなんて、いったいなんのことですの?」アリーナはまるで懲役人のように、なりもふりもかまわず、忙しそうに後片づけをしながら、本当に浮かれ出してしまった。
「新しき生の出現の秘密です。説明のできない偉大な神秘ですよ、アリーナさん。あなたにそれがおわかりにならないのは、どうも実に残念ですね!」
 シャートフはうちょうてんになって、とりとめもないことを、むせ返るような調子でいった。ちょうど頭の中で何かがぐらつき出し、それがひとりでに胸から流れ出るような具合だった。
「今まで二人しかなかったところへ、急に第三の人間が、――新しい霊魂が生まれる。それは人間の手ではとうていできない、渾一、完成したものです。新しい思想、新しい愛、本当に恐ろしいくらいだ……これより立派なものは、この世にまたとありゃしません!」
「ええ、くだらないことをしゃべり立てたものだ! なあに、ただ有機体の発展ですよ、それっきりですよ。なんにも神秘なんかありゃしません」アリーナは心から面白そうに、からからと笑った。「そんなことをいったら、一匹の蠅だって神秘になってしまいまさあね。ただね、あなた、余計な人間は産まれる必要がありませんよ。まず初めいっさいのものを鍛え直して、そういう人間を有用な材にしておかなきゃなりません。子を産むのは、それからの話ですよ。でないと、この子にしてからが、明後日は育児院へ連れて行って……もっとも、これはぜひそうしなきゃ駄目ですがね」
「ぼくはけっしてこの子を育児院なんかへやりゃしない!」じっと床を見つめながら、シャートフはきっぱりといいきった。
「養子になさるの?」
「この子は初めっからぼくの子です」
「むろん、この子はシャートフです、法律上シャートフに相違ありませんがね、何もあなた、そんなに人類の恩人を気取ることは、ないじゃありませんか。この節の人はみんなだれでも、立派そうな文句を並べずにいられないんだからねえ。まあ、まあ、ようござんすよ。ところでね」彼女はやっと片づけをすました。「わたしもうお暇しなきゃなりません。また朝のうちに一ど来ます。もし用があったら、晩もまいりますがね、今のところ万事めでたくすんだから、ほかのほうへも行ってみなきゃなりません。もうとうから待ってるんですから。シャートフさん、どこかあちらのほうに婆さんが来てますよ。しかし、婆さんは婆さんとして、あんたもここを離れないようになさいね、旦那さん。傍についていておあげなさい。何か役に立つこともあるでしょう。マリヤさんも追っぱらいやしないでしょうよ……ま、ま、わたし冗談にいってるんですよ……」
 シャートフが門まで送り出した時、こんどは彼一人だけに向かって、彼女はこうつけ足した。
「あなたはほんとに笑わしたわね。わたし一生わすれませんよ。お金はあなたからもらおうと思ってやしません。本当に夢にまで笑わされそうだ。今夜のあなたほどおかしな人は、今まで見たことがない」
 彼女はすっかり満足のていで帰って行った。シャートフの様子やその話から察したところ、この男が『親父の仲間入りをしたがっている、意気地なしの中の意気地なし』だということは、火をみるよりも明らかだった。彼女は、そのままほかの産婦を見舞うのが、ついででもあれば近道でもあったけれど、ヴィルギンスキイにこのことを知らせたかったので、わざわざわが家へ駆け戻った。
「マリイ、あの女は、しばらく寝ないでいるほうがいいといったよ。もっとも、そんなことはずいぶんむずかしそうだがね……」とシャートフは臆病そうにいい出した。「ぼくはあの窓のところに坐って、お前を見ていてあげよう、ね?」
 こういって、彼は長いすのうしろ側の、窓際に腰を下ろした。で、彼の姿は産婦の目に入らなくなったわけだ。けれど、一分と経たぬうちに、彼女は彼を呼び寄せて、枕の具合を直してくれと、気むずかしげな声で頼んだ。彼は直しにかかった。こちらは腹立たしそうに壁を見つめていた。
「そうじゃない、ああ、そうじゃない……なんて無器用な手でしょうねえ!」
 シャートフはまたやり直した。
「わたしのほうへかがんでちょうだい」できるだけ相手の顔を見ないようにしながら、彼女は出しぬけに奇妙な声でこういった。
 彼はぎくっとしたが、いわれるままにかがみ込んだ。
「もっと……そうじゃない……もっとこっちへ」というかと思うと、ふいにその左の手が、つと男の首にかかった。彼は自分の額に力のこもった、しっとりした接吻《くちづけ》を感じた。
「マリイ!」
 彼女の唇は慄えた。彼女はじっと押しこたえていたが、ふいに身を起こして、目を輝かしながら、こういった。
「ニコライ・スタヴローギンは悪党です!」
 こういうと、彼女はなぎ倒されでもしたように、力なく顔を枕にうずめながら、くず折れてしまった。ヒステリックなすすり泣きの声をあげて、じっとシャートフの手を握りしめたまま。
 この瞬間から、彼女はもう一刻も、男を傍から離さなかった。彼女はシャートフに向かって、枕もとへ坐ってくれと、どこまでもいい張るのであった。自分ではあまり話ができなかったけれど、絶えず男の顔を見つめながら、さも幸福そうにほほ笑んでいた。彼女は突然ばかな小娘になってしまって、何もかもすっかり生まれ変わったようだった。シャートフは、時には子供のように泣くかと思うと、時には思い切って突拍子もないことを、奇妙な、むせ返るような、うちょうてんな調子でしゃべり立てた。時には、マリイの手に接吻することもあった。彼女は嬉しそうに聞いていたが、言葉の意味はよくわからなかったかもしれぬ。けれど、力の抜けた手で、男の髪をやさしくいじったり、撫でおろしたり、じっと眺めたりするのであった。彼はキリーロフのことや、また二人でこれから『新しく永久に』生活を始めようということや、神の存在していることや、すべての人が善良だということなどを話した。彼は歓喜のあまり、またしても赤ん坊を引き出して、眺めるのであった。
「マリイ」両手に赤ん坊を支えながら、彼はこう叫んだ。「古いうわごとも、屈辱も、死屍も、そんなことはみんなすんでしまった。これから新しい道に向かって、三人で働こうじゃないか、ね、ね!………ああ、そうそう、この子になんと名をつけたらいいだろう、マリイ?」
「この子になんという名を?」と彼女はびっくりしたように問い返したが、突然その顔に恐ろしい悲しみの色が浮かんだ。
 彼女は両手を鳴らして、ちらと責めるような目つきでシャートフを見やると、そのまま枕に顔を埋めた。
「マリイ、お前どうしたんだね?」悲しげな驚きを現わしながら、彼は叫んだ。
「あんたまでも、よくもよくもそんな……ああ、なんて不人情な人でしょう?」
「マリイ、堪忍しておくれ、マリイ……ぼくはただ、どんな名にしようかときいただけなんだよ。ぼく、どうもわけがわからない……」
「イヴァン([#割り注]シャートフ[#「シャートフ」は底本では「シヤートフ」]の名[#割り注終わり])ですよ、イヴァンとつけるんですよ」と彼女は火のように燃える、涙に濡れた顔を振り上げた。
「いったいまあ、あなたは、何かほかの恐ろしい[#「恐ろしい」に傍点]名がつけられると、思ってらしったの?」
「マリイ、気をお落ちつけよ! ああ、お前はだいぶ取り乱してるんだよ!」
「またそんな失礼なことを、――取り乱したせいにするなんて、わたし請け合っておくわ、――もしわたしがこの子に……あの恐ろしい名前をつけようといったら、あなたはすぐ賛成なさるに相違ないわ。それどころか、まるで気がつかなかったかもしれないわ! ああ、なんて、不人情な下劣な人たちだろう、ええ、みんなみんなそうよ!」
 一分の後には、二人はむろん仲直りした。シャートフは彼女にひと寝入りしろとすすめた。マリイはやがて眠りに落ちたが、それでも男の手を放そうとしなかった。そして、たびたび目をさましては、もしや行ってしまいはせぬかと心配するように、じっと彼の顔を見入りながら、やがてまたすやすやと眠りに落ちるのであった。
 キリーロフは、一人の老婆を『お祝い』によこした。またそのほかに熱いお茶と、たったいま焼いたばかりのカツレツと、それに『マリヤさんに』といって、スープを白パンといっしょに届けてくれた。産婦は貪るようにスープを飲み干した。老婆は赤ん坊の襁褓《おもつ》をかえた。マリイは、シャートフにもカツレツを食べさせた。
 こうして時は過ぎていった。シャートフはぐったりしてしまい、椅子に腰を掛けたまま、マリイの枕に頭を埋めながら、寝入ってしまった。約束どおりやってきたアリーナは、こうした二人の様子を見つけて、愉快そうに彼らを呼び起こした。そして、マリイに必要なことを何かと話して、赤ん坊をちょっと検査してみた。彼女はまたしてもシャートフに、傍を離れるなといいつけた。それから、いくぶん軽蔑したような高慢な色を浮かべながら、『夫婦』をからかった後、さっきと同じように、満足のていで帰って行った。
 シャートフが目をさました時は、もうすっかり暗かった。彼は大急ぎで蝋燭をともして、老婆を呼びに駆け出した。彼がようやく梯子段を一足おりかけた時、自分のほうへ向けて登って来る、だれかの静かな悠々とした足音が、思わず彼をぎょっとさせた。エルケリが入って来た。
「入っちゃいけない!」とシャートフはささやいた。そして、だしぬけにむずと彼の手をつかんで、門の傍へ引き戻した。「ここで待ってくれたまえ、すぐ出て来るから。ぼくはまるできみのことを忘れてたよ! ああ、なんだってきみは思い出させてくれたんだ!」
 彼は恐ろしく急いでいたので、キリーロフのところへも寄らず、ただ老婆だけを呼び出して来た。マリイは『わたしを一人でうっちゃって行くなんて、よくもそんなことが考えられたもんだ!』と憤怒のあまり絶望の色さえ浮かべた。
「しかしね」彼は揚々として叫んだ。「これはもう本当に最後の一歩なんだ! それからさきには、新しい道がひらけてるんだよ。そしたら、もうけっして、けっして古い恐怖のことなぞは、おくびにも出しゃしない!」
 やっとのことで彼はマリイを納得させて、正九時には必ず帰って来ると約束した。そして、強く彼女に接吻し、赤ん坊に接吻した後、彼は急ぎ足でエルケリのほうへ駆けおりた。
 二人はスクヴァレーシニキイなる、スタヴローギン公園をさして出かけた。それは一年半ばかり前、彼が委託された印刷機械を埋めたところである。公園の中でも一番はじに当たる、松林に接したさびしい荒れた場所で、スタヴローギン家からだいぶ離れているから、ほとんど人目にかかる心配はなかった。フィリッポフの持ち家からは、三露里半ないし四露里([#割り注]約一里強[#割り注終わり])歩かなければならなかった。
「まさか、すっかり歩きどおしじゃないだろう! ぼくは辻馬車を雇おう!」
「いや、お願いだから雇わないでください」とエルケリは答えた。「この点をくれぐれも注意されたんです……馭者もやはり証人になり得るわけですからね」
「ちぇっ……馬鹿馬鹿しい! どうだっていいや、ただもう早く片づけちゃえばいいんだ、片づけちゃえば!」
 二人は恐ろしく早足に歩き出した。
「エルケリ君、可憐なる好少年!」とシャートフは叫んだ。「きみはいつか幸福だったことがあるかね!」
「ところで、あなたは今たいへん幸福でいられるようですね」好奇の念を声に響かせながら、エルケリはこういった。

[#3字下げ]第6章 多労なる一夜[#「第6章 多労なる一夜」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 ヴィルギンスキイはこの日二時間ばかり無駄にして、『仲間』のものをいちいち訪ね廻り、昨夜の出来事を報告しようと思い立った。つまり、シャートフのところへ細君が帰って来て、子供を生んだので、彼は確かに密告なぞする気づかいはない。『いやしくも人情をわきまえているものは』、この瞬間かれを危険なものとは、とうてい想像ができないというのであった。しかし、リャームシンとエルケリのほか、どこへ行ってみても不在なので、彼ははたと当惑した。エルケリは晴れやかに彼の目を見つめながら、無言のままこの知らせを聞き終わった。『きみは六時に出かけるかどうか!』という真っ正面からの質問に対して、彼は明るい微笑を浮かべながら、『むろん行きますとも』と答えた。
 リャームシンは見受けたところ、だいぶ重い病気にでもかかったらしい様子で、頭から毛布を引っかぶって、ねていた。ヴィルギンスキイの入って来る姿を見て、彼はぎょっとした様子だった。そして、客が口を切るやいなや、いきなり毛布の下で両手を振りながら、どうか自分にかまわないでくれ、と頼んだ。が、それでもシャートフの一件は、黙って聞き終わった。だれを訪ねても留守だと聞いた時、彼はどういうわけか、なみなみならず驚いた様子であった。彼はもうリプーチンを通して、フェージカの惨死を知っていた。彼は自分からこのことを、忙しそうなとりとめのない調子で、ヴィルギンスキイに話して聞かせた。この事実は今度あべこべに、客のほうを驚かせたのである。『今夜、出かけなきゃならないかしら、どうだろう!』という真正面からの質問に対して、リャームシンはまたとつぜん両手を振って、『ぼくはぜんぜん路傍の人だよ、ぼくは何も知りゃしない。どうかかまわずにおいてくれたまえ』と哀願するのであった。
 ヴィルギンスキイは烈しい不安に悩まされながら、疲憊しきった体を家へ運んだ。家庭に隠さなければならないのも、彼にとって苦しいことの一つだった。彼は、何もかも妻にうち明けるのが癖になっていた。もし彼の焼けただれたような頭脳に、その瞬間あたらしい想念が照らし出さなかったら、――将来の行動に関する一つの新しい、妥協的な計画が浮かんで来なかったら、彼も或いはリャームシンと同様に、床についてしまったかもしれない。けれど、この新しい想念は彼に力を与えた。いな、それどころか、彼はじりじりするような思いで、約束の刻限を待ちかねた。そして、少し早目に、打ち合わせた場所へ出かけたのである。
 それは広いスタヴローギン公園の端にある、恐ろしく陰惨な場所だった。わたしは後でわざわざそこへ行ってみたが、この暗澹たる秋の夜には、ここがどれくらいもの凄く見えたことだろう、と想像された。この辺から古い禁伐林になっているので、幾百年と経った巨大な松の木が、陰欝な糢糊とした斑点をなして、闇の中に見透かされた。それはまったく真の闇で、二歩はなれても、互いに見分けがつかないほどだった。しかし、ピョートルとリプーチン、それから後れて来たエルケリは、めいめい角燈を携えていた。なんのためにいつできたものかわからないが、ここには鑿の加わらない自然石で組み立てた、何かかなりへんてこな洞窟が、世人の記憶を絶した昔からあった。洞《ほら》の中にあるテーブルや床几は、すでにとうから朽ちてばらばらに崩れていた。二百歩ばかり隔てた右手には、公園の第三の池がつきなんとしている。この三つの池は、邸のすぐ傍から始まって、互いに繋り合うようにしながら、公園の一番はずれまで、一露里以上にわたって続いているのだ。
 ここから何かのもの音や叫び声が(よしや鉄砲の音であろうとも)あるじのいないスタヴローギン邸の、召使かなんぞの耳まで届こうとは、とうてい想像できなかった。昨日スタヴローギンが出立して、老僕アレクセイが引き払って以来、大きな邸の中には、五、六人しか住んでいるものがなかったし、おまけに、それも廃物同様の連中ばかりだった。いずれにせよ、こうして淋しく引きこもっている人たちが、たとえ人間の悲鳴や救助の叫びを聞きつけたとしても、それは恐怖の念を引き起こすのみで、だれひとり暖炉の傍や、ぬくみの廻った寝床を離れて、救助に出かけようとするものはあるまいと、十分の確信をもって断定ができる。
 六時二十分には、シャートフを迎いにやられたエルケリを除《の》けて、もうみんなすっかり顔が揃った。ピョートルも今度はぐずぐずしていなかった。彼はトルカチェンコといっしょにやって来た。トルカチェンコは眉をひそめて、心配らしい顔をしていた。いつもの取ってつけたような、高慢らしい断固たる様子は、もはやすっかり彼の顔から消えていた。彼はほとんど少しも、ピョートルの傍を離れなかった。察するところ、突然ピョートルに対して、限りなき信服を感じ出したものらしく、しょっちゅうこそこそと傍へ寄り添うて、何やらささやきかけるのであった。けれど、こちらはほとんど何一つ答えずにすましたが、時々いい加減にして追っ払うために、何やらいらだたしげにつぶやくぐらいのものだった。
 シガリョフとヴィルギンスキイは、ピョートルより少し早目にやって来た。彼が姿を現わすやいなや、二人は明らかに前から企んでいたらしく、深い沈黙を守りながら、少し脇のほうへどいてしまった。ピョートルは角燈を掲げながら、人を馬鹿にした無遠慮な態度で、じっと穴のあくほど二人を見廻した。『何かいおうとしてるのだな』という考えが、ちらと彼の頭をかすめた。
「リャームシンはいないんですか?」と彼はヴィルギンスキイにたずねた。「あの男が病気だといったのは、だれです?」
「ぼくはここにいますよ」ふいに、木の陰から立ち現われながら、リャームシンが答えた。
 彼は暖かそうな外套を着て、その上からしっかり毛布にくるまっていたので、角燈を持っていながらも、その顔がはっきり見分けられないほどだった。
「じゃ、リプーチンがいないだけですね!」
 ところが、リプーチンも、のっそり洞の中から出て来た。ピョートルはふたたび角燈をさし上げた。
「なんだってきみはあんなところへもぐり込んだのだ。どうして出て来なかったんだね!」
「ぼくはね、われわれはすべて自分の……行動の自由を保有してると思う」とリプーチンはつぶやいたが、自分でも何をいおうとしたのか、はっきり意識していないらしい。
「諸君」いままでの半ばささやくような会話の調子を破って、ピョートルは初めて声を張った。それがかなりの効果を奏したのである。「今となって、何もぐずぐずいう必要のないことは、諸君もよくご承知のことと思います。もうきのう何もかもすっかり、直截明確に討議し、咀嚼したじゃありませんか。しかし、諸君の顔つきから察するところ、この中にだれか意見の発表を望む人があるように思われます。もしそうだったら、早く願います。冗談じゃない、時間はいくらもありゃあしない。エルケリが今すぐにもあの男を連れて来るかもしれないんですよ……」
「先生きっとあの男を連れて来るよ」なんのためかトルカチェンコが口をいれた。
「もしぼくの思い違いでないとすれば、まず初めに印刷機械の授受をやるのでしょう?」またしても、なんのためにこんな質問を発するのやら、自分でもはっきりわからないような調子で、リプーチンはこう問いかけた。
「ああ、もちろんむだに棄ててしまう必要はないさね」とピョートルは彼の鼻さきに角燈を突きつけた。「しかし、実際に授受をやる必要はないって、昨日みんなで決めたじゃないか。あの男が自分で埋めた地点を、きみに教えておきさえすれば、後でわれわれが自分で掘り出すさね。それはなんでも、この洞の隅から十歩離れたところだ、ということだけはぼくも聞いてるよ……が、そんなことはどうでもいいが、きみはなんだってそれを忘れたんだね、リプーチン君! あの時のうち合わせによると、まずきみが一人であの男を出迎えて、それからぼくらが出て行くことになってるんじゃないか……きみが今更そんなことをきくのは変だね。それとも、ただちょっといってみただけなのかね!」
 リプーチンは陰欝な様子をして、押し黙っていた。一同も口をつぐんだ。風は松の梢を揺すぶっていた。
「しかし、諸君、ぼくは諸君のおのおのが、自己の義務を履行されることと信じています」ピョートルはじれったそうに沈黙を破った。
「ぼくはシャートフのところへ細君が帰って来て、子供を生んだことを正確に知ってるです」突然ヴィルギンスキイがこう切り出した。興奮してせかせかしながら、言葉もはっきりと発音できないで、しきりに身振り手真似をするのであった。「いやしくも人情をわきまえているものは……いま彼が密告するはずのないことを、固く信じていいわけです……なぜって、彼はいま幸福に包まれてるんですからね……そういう事情で、ぼくはさきほどみんなのところを廻ったけれど、だれもかれも不在だったのです。こういうわけで、今となっては、全然なにもする必要がないかもしれん、と思うのです……」
 彼は言葉を切った。息がつまったのである。
「ヴィルギンスキイ君、もしきみがとつぜん幸福な身になったとすれば」ピョートルは彼のほうヘ一歩つめ寄った。「そのとききみは密告なんてことは別としても、何か公民としての冒険的な行為を延期しますか。それは幸福になる以前に企てたもので、危険とか幸福の喪失とかにかかわらず、自己の義務と考えているような行為です」
「いや、延期しない! どんなことがあっても延期しないです!」なんだか恐ろしく馬鹿げた熱心を表しつつ、ヴィルギンスキイは全身をむずむずさせながら、こういった。
「きみは陋劣漢たらんよりも、むしろふたたび不幸の人たらんことを望むでしょうね?」
「そうですとも、そうですとも……ぼくはそれどころか正反対に……ぜんぜん陋劣漢たらんことを……いや、そうじゃない……けっして陋劣漢じゃない。つまり、陋劣漢たらんよりも、むしろぜんぜん不幸の人たらんことを望みますよ」
「ね、ところで、いいですか、シャートフはこの密告を、公民としての義務と考えている。自己の最も高遠な信念と思ってるのです。その証拠には、自分でもいくらか政府に対して、危険を冒すことさえいとわないじゃありませんか。もっとも、あの男は密告のために、十分情状酌量をしてもらえるのはもちろんだけれど……ああいう男はけっして意を翻しはしない。いかなる幸福もこれにうち勝つことはできない。一日も経ったら、はっと目がさめて、自分で自分を叱咤しながら、だんぜん素志を果たすに相違ない。それに、あの男の細君が三年間の別居の後、スタヴローギンの子を生みに帰って来たということに、ぼくはなんの幸福をも見出すことができない」
「しかし、だれひとり訴状を見た者がないじゃありませんか」突然シガリョフが、一徹な調子でいい出した。
「訴状はぼくが見た」とピョートルはどなった。「ちゃんとできてるのだ。しかし、諸君、こんなことは馬鹿げきってるじゃないか!」
「が、ぼくは」急にヴィルギンスキイが熱くなり出した。「ぼくは抗議します……全力をつくして抗議します……ぼくは……ぼくはこうしたいのです……あの男が来たら、ぼくらはみんな揃って出て行って、みんなであの男を詰問する。もし事実だったら懺悔さして、あの男に立派に将来を誓わしたうえ、放免してやる、とこういうふうにしたいのです。とにかく、裁判ということは必要だ。万事、裁判によって決しなきゃならない。みんなが陰に隠れていて、ふいに飛びかかっていくなんて……」
「誓いぐらいで共同の事業を危険にさらすのは、それこそ愚の骨頂だ! ばかばかしい、諸君、今となってそんなことをいうのは、実に馬鹿げてるじゃないか! いったい諸君はこの危急存亡の時に当たって、どんな役廻りが勤めたいのです?」
「ぼくは抗議する、抗議する」とヴィルギンスキイは同じことをくり返すのであった。
「せめてそうどなるのだけでも、やめてくれたまえ。信号が聞こえないじゃないか。諸君、シャートフは……(ちょっ、いまいましい、今となってなんという馬鹿げた話だ!)ぼくがもう前にいったとおり、シャートフはスラヴ主義者なのです。つまり、この世で最も馬鹿な人間の一人なのです……いや、しかし、馬鹿馬鹿しい、そんなことはどうだってかまやしない、勝手にするがいい! 本当にきみたちのおかげで、ぼくも何がなんだかわからなくなってしまった……諸君、シャートフは世をすねた人間なんです。しかし、当人が望んでいるいないは別としても、やはりわが党に属しているのだから、ぼくは最後の瞬間まで共同の事業のために、あの男をすね者として利用できる、うまく使いこなすことができると当てにしていたので、本部から厳密な命令を受けていたにもかかわらず、あの男を容赦して守っていたのです……ぼくはあの男の実際の価値よりも、百倍ぐらいよけいに容赦してやった! けれども、あの男は結局、密告なんか企てることになった。しかし、こんなことは馬鹿馬鹿しい、勝手にするがいい……ところで、いまだれでもここを抜け出してみるがいい! きみたちはだれ一人だって、この仕事を抛擲する権利を持ってやしないんだ! そりゃお望みならば、今あの男と接吻したってかまやしないけれど、共同の事業を一片の誓言などにゆだねるなんて、そんなことをする権利はきみたちにないのだ! そんな真似をするのは豚だけだ、政府に買収された間諜《いぬ》だけだ!」
「ここにだれか政府に買収された者がいるんですか?」と歯の間から押し出すような声で、またリプーチンがいった。
「きみかもしれないよ。リプーチン君、きみはいっそ黙ってたほうがいいだろう。きみはただそんなことをいってみるだけなんだよ、いつもの癖でね。諸君、政府に買収された間諜というのは、つまり、危険に際して臆病風を吹かす連中さ。恐怖というやつは、いつでも馬鹿者を作り出すものです。こんな連中は最後の瞬間になると、いきなり警察へ駆けつけて、『ああ、どうかわたしだけはお助けください、仲間をみんな売ってしまいますから!』とわめくんだ。しかし、諸君、いいですか、きみたちはもうこうなってしまったら、いくら密告したってゆるしてもらえませんぞ。たとえ刑二等を減じられるとしても、それでもやはり、めいめいシベリヤぐらい覚悟しなきゃなりません。それにね、諸君は、いま一つの剣《つるぎ》をも免れることはできない。この剣は政府のよりも少し鋭いからね」
 ピョートルは憤りに駆られて、無駄なことまで、しゃべり立ててしまったのである。シガリョフは決然として、三歩ばかり彼のほうへ踏み出した。
「昨日の晩から、ぼくはとくと事態を熟考してみました」と彼は例の信ずるところありげな、秩序だった語調で切り出した(見受けたところ、彼はたとえ足下の大地が崩れ落ちても、やはり声を張り上げたり、秩序だった叙述の調子を変えたりしなかったに相違ない)。「とくと事態を熟考した末、ぼくは次の結論に到達しました。いま企てられている殺人は、単に貴重な時間の浪費であるばかりでなく(実際この時間はも少し本質的な、直接的な方法で使用できるのです)、そればかりでなく、ノーマルな道を逸した恐るべき彷徨であります。これは常に何より最も事業を荼《と》毒し、数十年間その成功を遅らせていました。なんとなれば、純粋の社会主義者でなく、政治的色彩の勝った軽率な人々の勢力に、屈服するからであります。ぼくがここへやって来たのは、現に企てられている仕事に反対を唱えて、一同を覚醒せしむるためにすぎません。そうして、どういうわけかきみが危急のときと呼んでいられる今の瞬間から、自分を除外するつもりなのです。ぼくが去るのは、この危険を恐れるからでもなければ、シャートフに対するセンチメンタリズムのためでもありません。ぼくはけっして、あの男と接吻なんかしたくないです。ただただこの仕事が終始一貫して、ぼく自身のプログラムに文字どおり矛盾するからです。しかし、密告とか政府の買収とかいう点につ