『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP337-P384

よ。ところが、それがかえっていけないんです。読者は依然としておめでたいんですから、賢明なる人士は彼らに衝動を与えてやるべきじゃありませんか。それだのに、あなたは……いや、しかし、もうたくさんです、失礼しました。これを根に持って怒らないようにしてください。ぼくはちょいと用件を申し上げようと思って、それでお邪魔にあがったのですが、あなたはなんだか妙に……」
 レムブケーはその間に、自分の小説を取り上げて、楢の書戸棚へしまい込んだうえ、ぴんと鍵をかけてしまった。同時にブリュームに目交ぜをして、そっと部屋の外へ消えるようにいいつけた。こちらは間伸びのした浮かぬ顔をして、姿を消した。
「わたしがなんだか妙だって、なに、わたしはただ……しじゅう不快なことが起こるのでね」と彼は眉をひそめていたが、もう別に怒ったらしいふうもなく、テーブルに向かって腰をかけながらつぶやいた。
「まあ、腰でもかけてから、きみのいわゆるちょっとした用件を聞かしてくれたまえ。だいぶしばらく会わなかったね、ピョートル君、しかし、今後、きみ一流のやり口で、断わりなしに飛び込むのだけはやめにしてもらいたいね……時として仕事でもある場合には、その……」
「ぼくのやり口はいつも同じです……」
「知ってるよ。きみになんの成心[#「成心」はママ]もないのはわたしも信じてるが、しかし、どうかすると取り込んでることがあるので……まあ、坐りたまえな」
 ピョートルは長いすに広々と座を占めると、いきなり足を膝の下へ敷き込んでしまった。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

「いったいどんな取り込みなんです? まさかこんなくだらないことじゃないでしょうね?」と彼は檄文を顎でしゃくった。「こんな紙っ切れならいくらでも持って来てあげますよ。X州でもお目にかかりましたよ」
「というと、それはきみがあちらにいた時分のことだね?」
「むろん、ぼくのいなかった時のこっちゃありませんさ。おまけに、そいつはカットつきでしたよ。上のほうに斧が描いてあるんです。ちょっと失礼(と彼は檄文を取り上げた)。なるほど、ここにも斧がある。これです、これです、寸分相違なし」
「あっ、斧だ。ねえ、見たまえ、――斧だろう」
「どうしたんです、斧にびっくりしたんですか?」
「わたしは何も斧なんぞ……それに、何もびっくりしやしないよ。が、この事件はそのなんだ、いろんな事情があってね」
「どういう事情です? なんですか、あの工場から持って来たってことですか? へへ。ときに、ご承知ですか、あの工場では、近々労働者自身が檄文を書く、とかいう話ですね?」
「なんだってそんなことが?」とレムブケーは怖い顔をしながら、驚きの色を浮かべた。
「ええ、そうなんですよ。だから、あなたもあの連中に気をおつけなさい。あなたはあまり優し過ぎるんですよ、知事公。なにしろ、小説なんか書いていられるんですからね。こういう場合に当たっては、昔ふうにやる必要がありますよ」
「昔ふうとはなんだね、いったいそれはなんの忠告だね? あの工場は消毒したよ。わたしが命令して、消毒さしたんだよ」
「ところが、職工の間に一揆が企てられてますぜ。あいつらは一人のこらず、ぶん撲ってやらなくちゃ駄目ですよ、そうすれば、けりがつくのです」
一揆? ばかなことを。わたしが命令したから、あいつらはちゃんと消毒したじゃないか」
「ちょっ、知事公、あなたは本当に優し過ぎるんですよ」
「きみ、第一、わたしは全然そんな優しい人間じゃありゃしないよ。また第二に……」とレムブケーはまたしてもむっとした。この若造が何か耳新しいことをいいはせぬかと、好奇心にそそのかされて、いやいやながら我慢して、話しているのであった。
「ああ、もう一つ古い馴染みがある?」卦算の下になっているもう一枚のピラに狙いをつけながら、ピョートルは相手をさえぎった。それもやはり一種の檄文で、どうやら外国で印刷したものらしい。が、それはぜんぶ詩の形になっていた。「ああ、これならぼくはそらで知ってますよ。『光輝ある人格』でしょう! ちょっと見ようかな。いや、やっぱりそうだ、『光輝ある人格』だ。この人格は、まだ外国にいた時分からの知り合いだ。どこで掘り出しました?」
「外国で見たって?」レムブケーはぴくりとした。
「もちろんですとも、四か月か五か月ばかり前です」
「それにしても、きみは外国でいろんなものを見たんだね」レムブケーは皮肉な目つきをした。
 ピョートルはそんなことに耳もかさず、紙きれを広げ、声を出して読み始めた。

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   『光輝ある人格』

かれ名門の出《しゅつ》ならず
野《や》にありて人となりしが
ツァーの復讐《かえし》に虐げられつ
側臣の嫉みに迫われ
ありとあらゆる苦痛、刑罰、
はた拷問に身をゆだねつつ
四海同胞、自由平等の福音を
民に説かんと出で立ちぬ

かくして乱《らん》を惹き起し
牢獄、しもと、焼けたる火箸
首斬りの厄をのがれんと
ことなる国へ走りしが
反逆の覚悟なりたる人民は
きびしき運命《さだめ》を免れんと
スモレンスクタシケント
その隅々にいたるまで
大学生の帰来をば待ち佗びたりき

人みな彼を待ちこがれたり
――いかなることのあらんとも
貴族のやからに死を宣し
ツァーの族をも剿滅し
領地を民の有となし、教会、結婚
はた家族制、すべて往時の
あらゆる弊をとことわに
復讐の火に投げ入れんため
[#ここで字下げ終わり]

「きっとこれはあの将校から手に入れたんでしょう?」とピョートルはたずねた。
「きみはあの将校を知っているのかね?」
「当たり前ですよ。ぼくはあすこで二日間、いっしょに酒を飲んだんですもの。あの男がああした気ちがいになったのは、むしろ当然の結果なんですよ」
「しかも、ことによったら、気がちがったんじゃないかもしれんよ」
「それは、人に咬みつき出したからですか?」
「だが、ちょっと聞かしてもらおう。きみがこの詩を外国で見たというのに、その後、こちらであの将校が持っていたとすれば……」
「どうしたのです? 何か細工があるように思われるのですか! ねえ、知事公、見受けたところ、あなたはぼくをためしておられるようですね? いいですか」突然なみなみならぬ威を示しながら、彼はこういい出した。「ぼくが外国で見たことについては、帰国後もうだれかれの人に説明しておいたです。そして、ぼくの説明は、筋道の立ったものと認められました。そうでなかったら、ぼくはべんべんとここに滞在して、この町に光栄を与えるわけにいかないじゃありませんか。この意味において、ぼくのことはもう片がついたものと思っています。したがって、だれに対しても弁解の義務はもたないはずです。しかし、ぼくが密告者になりさがったために片づいたのじゃありません。ほかに仕方がなかったからにすぎません。奥さんに紹介状を書いてくれた人たちは、ちゃんと事情を知り抜いているから、ぼくのことを潔白な人間として認めてくれています。いや、しかし、そんなことはどうだってかまやしない。ぼくは真面目な話があって伺ったのです。ですから、あの煙突掃除にここを遠慮さしてくださったのは、ちょうどいい幸いでした。これはぼくにとって重大なことがらなんですよ。実は一つあなたに非常なお願いがあるのです」
「お願い? ふむ……さあ、ご遠慮なく、わたしも実のところ興味をもって聴きますよ。しかし、全体としていい添えとくが、きみはかなりわたしをびっくりさせるね、ピョートル君」
 レムブケーはいくらか胸を躍らしているようだった。ピョートルはやおら片足を膝の上へのせた。
「ペテルブルグでは」と彼は切り出した。「ぼくは多くの点で開放主義を持して来ました。しかし、何かその……つまり、こんなふうのことに関しては(彼は『光輝ある人格』を指でつっ突いた)。ぼくは沈黙を守っていました。それは第一、話すだけの価値がないからでもありますし、第二には、聞かれることよりほかしゃべらないようにしていますのでね。この意味で、お先っ走りは好まないですよ。ぼくはこういうところに卑劣漢と、単に周囲の状況で余儀なくされた潔白人と、この両者の区別を認めています……いや、まあ、そんなことはさておいてですね、つまり、目下……ああいう馬鹿者どもが……なに、ああいう事情が暴露されて、何もかもあなたの手中に握られた今日となっては、もう隠し立てしたって無駄だと思います――実際あなたは眼識のある人で、前もってあなたのはらを見透かすことは、とうていできませんからなあ。ところで、あの馬鹿者どもは今だに引き続いて……ぼくは……ぼくは……いや、まあ、手っとり早くいいますと、ぼくはある一人の男を助けていただこうと思って、こうしてお邪魔にあがったわけなのです。その男はやはり馬鹿なのです、いや、気ちがいかもしれません。しかし、その年の若さに免じて、不幸な境遇に免じて、またあなたの人道的なお心持ちに甘えて、しいてお願いにあがったのです……あなただってご自作の小説の中だけで、ああいう人道主義者を気取っておいでになるわけではないでしょう!」彼は露骨な皮肉の調子で、さもいらだたしげにとつぜん言葉を切った。
 要するに、この男は真正直な人間だが、人道的な感情があり余って、しかもそのうえ尻擽ったい立場に立っているために、下手にまごついてばかりいて、恐ろしく外交が拙い、それに何より知恵が少し足りないようだ、とレムブケーはさっそくきわめて鋭敏に鑑定を下してしまった。もっとも、このことはもう前から推測していたのだ。ことに最近の一週間は、毎晩、書斎にただ一人閉じこもって、どうしてあの男がああうまくユリヤ夫人にとり入ったものだろう、実にわけがわからんと、はらの中で一生懸命に彼を罵っていた時など、なおさらそう思い込んでいた。
「いったいきみはだれのことを頼んでいるんだね。それに、全体として、きみの言葉はどういう意味なんだね?」自分の好奇心を隠そうとつとめながら、彼はもったいぶった調子でこうたずねた。
「それは……それは……ちょっ、困ったなあ……実際、ぼくがあなたを信じてうち明けるというのは、何も悪いことじゃありませんからねえ! ぼくがあなたを潔白な、しかも、もののわかった、つまり、その……困ったなあ……なにを理解する能力のある人と考えるのが、いったいどこが悪いんでしょう……」
 かわいそうに、彼は自分で自分の始末に困っているらしかった。
「ねえ、いい加減あなたも察してくだすっていいでしょう」と彼は語を次いだ。「ねえ、ぼくがその男の名をいったら、結局その男をあなたに売ることになる、そういうわけじゃありませんか。ね、売ることになるでしょう、そうでしょう、そうでしょう?」
「きみが思い切っていい出さないのに、どうしてわたしにそんな察しがつくもんかね」
「そ、そ、それなんだ、あなたはいつもその論法で、挙げ足を取るんですもの。ちょっ、困ったなあ……ああ、困った……その『光輝ある人格』は、その『大学生』というのは――ほかでもない、シャートフですよ。さあ、いよいよいってしまいました!」
「シャートフ? というと、つまり、だれがシャートフなんだね?」
「シャートフです、ここに書いてある大学生です。現にここに住んでるのです。もとの農奴出身で、そら、ね、このあいだ頬桁を食らわした……」
「わかった、わかった!」とレムブケーは目を細めた。「しかし、失敬だが、その男がいったいどういう点で罪があるのかね? 第一、きみは何を請願しているのだね?」
「あの男を救ってくださいと、お願いしてるんじゃありませんか! ぼくは八年も前からあの男を知ってて、あの男の親友といってもいいくらいだったんですよ」ピョートルはやっきとなった。「いや、ぼくは何も昔の生活を、あなたに報告する義務なんぞ持ってやしないんです」と彼は手を振った。
「そんなのはみんなつまらないことです、そんなことはみんな、三人半ばかりの人間がやってることです。外国でやってる仕事だって、十人とは集まってやしませんよ。とにかく、ぼくはあなたの人道的な感情と、聡明な頭脳に希望を繋いでるのです。あなたは理解してくださいます。あなたはことの真相をありのままに示してくださいます。けっして、とんでもない妄想など起こさないで、気ちがいじみた男の愚かな夢にすぎないってことを、ちゃんと了解してくださいます――まったくその男は不幸のために……長年の不幸のために、頭が変になったのです。けっして何かとんでもない、国事犯だの陰謀だのなんのと、そんな大それたことじゃありません……」
 彼はほとんど息を切らしていた。
「ふむ……では、その男はどうやら斧のついた檄文に関して、何か罪があるらしいね」ほとんど荘重ともいうべき調子で、レムブケーは結論を下した。「しかし、待ってくれたまえ、もしその男が一人きりだとすると、どうしてそんなに方方へ撒き散らせたんだろう。この町や地方ばかりでなく、X県のほうへまで……それに、第一、どこから手に入れたんだろう?」
「先刻からそういってるじゃありませんか、あの連中は全体で五人くらいのもんですよ。まあ、十人もいますかね、そんなことはぼくの知ったこっちゃない」
「きみ、知らないって?」
「どうしてぼくが知ってるもんですか、馬鹿馬鹿しい!」
「でも、シャートフが共謀者の一人だということを、現に知っとったじゃないか?」
「ええ?」とピョートルはさながら、詰問者の圧倒的な洞察力を払い除けるように、手を振った。「まあ、お聴きなさい。ぼくは本当のことをすっかりいってしまいます。檄文のことはなんにも知りません、まったく正真正銘なんにも知らないです。馬鹿馬鹿しい、あなた『なんにも』という言葉の意味をごぞんじでしょう?………いや、あの中尉はむろんそうです。それから、まだこの町にもだれか一人……いや、まあ、シャートフかもしれません。そのほかにもまだだれかいるでしょうよ。それくらいのもんです。まったくやくざな、惨めなもんですよ。しかし、ぼくはこのシャートフのことをお願いに来たのです。あの男を救ってやらなきゃなりません。なぜって、この詩はあの男の自作だし、印刷もあの男の手を経て外国でやったものです。これだけのことはぼくも確かに知っています。が、檄文のことはまったく少しも知りませんよ」
「もしこの詩が当人の自作だとすれば、檄文も確かにそうだろう。しかし、どういう事実を根拠にシャートフ君を疑うんだね?」
 ピョートルはいよいよ勘忍袋の緒を切らしたような表情をして、かくしから紙入れを取り出した。そして、中から一通の手紙を抜き出した。
「これがその根拠です!」テーブルの上へ手紙をほうり出しながら、彼はこうどなった。
 レムブケーは広げて見た。見ると、手紙は半年ばかり前にここから外国のどこかへ宛てて書いたもので、二行ばかりのごく短いものだった。
『光輝ある人格の印刷当地にては不能、かつ余は何一つなす能わず、外国にて印刷せられたし。イヴァン・シャートフ』
 レムブケーはじっとピョートルを見据えた。ヴァルヴァーラ夫人がこの人のことを、山羊のような目をしていると評したのは、真を穿っていた。時とすると、しみじみその感が深かった。
「つまり、それはこういうわけなんですよ」とピョートルは勢い込んでいった。「つまり、この男は半年ばかり前にこの詩を書いたのです。ところが、ここで印刷することができなくなって、――つまり、何かの秘密出版所なんですよ、――それで、外国で印刷してくれと頼んでるのです……明瞭にわかるようですね?」
「そう、明瞭です。しかし、だれに頼んでるんだろう? それがまだ不明瞭だね」きわめて老獪な皮肉を持たせながら、レムブケーはこういった。
「キリーロフじゃありませんか、本当にじれったい。この手紙は外国にいるキリーロフに宛てたものです……いったいごぞんじなかったんですか? 本当にあなたは何かぼくに癪にさわることでもあるんですか? だって、あなたはそんな白っぱくれた振りをして、その実、とうの昔からこの詩のことでもなんでも、すっかり知っておられたのでしょう? どうしてあなたのテーブルの上なんかに、ひょっくりのっかってたんです? まさかひとりでのっかったわけでもありますまい? もしそうとすれば、なんだってあなたはぼくをそういじめるんです?」
 彼は痙攣的に額の汗をハンカチで押し拭った。
「わたしにも多少は知れてることがあるかもわからんさ……」とレムブケーは巧みにごまかした。「しかし、そのキリーロフというのは何者だね?」
「ええ、それはよそからやって来た技師で、例のスタヴローギンの介添人をした男です。夢中になってものに凝る、気ちがいみたいな人間ですよ。あの中尉が、本当に熱に浮かされた一時的の精神錯乱とすれば、まあ、この男なぞは正真正銘の立派な気ちがいです、その点はぼく十分に保証します。ねえ、知事公、政府のほうでも、この連中が実際どんな人間かってことを確かめたら、まさか手を下す気にはならなかったでしょう。あんなやつはみんな残らず、そのまま癲狂院へでも送ってやったらいいですよ。ぼくはスイスにいる時もいろんな集会で、あんな連中を飽き飽きするくらい見ましたよ」
「あちらで? ここの運動を支配してる本場で?」
「え、いったいだれが支配するんです? 三人半ばかりの人間ですか。実際あの連中を見てると、しみじみ情けなくなりますよ。それに、ここの運動って、全体どんな運動があるんです? 檄文のことでもいわれるんですか? それに、どんな人間が加入してるんでしょう? 熱に浮かされた中尉殿に、二人か三人の大学生ですかね? あなたは聡明なかたですから、一つ質問を提出しましょう。どうしてあの連中の仲間には、勝れた人物が加入しないんでしょう。なんだってだれもかれも大学生だの、二十二かそこらの小僧っ子ばかりなんでしょう? それにそんなに多いんですかね? 何百万という犬がさがし廻っているにもかかわらず、あまり挙がってこないじゃありませんか。七人かそこいらのもんでしょう。まったく情けなくなってきますよ」
 レムブケーは注意ぶかく聴いていたが、『昔話じゃ鶯は飼えないぞ』というような表情をしていた。
「しかし、失敬だが、きみの確信するところによると、この手紙は外国へ宛てて出したというのだね。けれど、ここに宛名がないじゃないか。この手紙がキリーロフ氏に宛てたもので、しかも外国へ向けて出したということが、どうしてきみにわかったんだろう。それに……それに、はたして本当にシャートフ氏が書いたということが……」
「じゃさっそく、シャートフの筆蹟をさがして、ご覧になったらいいでしょう。何かシャートフの署名が一つくらい、きっとあなたの事務所にあるはずですからね。またキリーロフに当てたということは、本人のキリーロフが当時ぼくに見せてくれたのでわかります」
「じゃ、きみが自分で……」
「ええ、ええ、もちろんぼくが自分で見たのです。ぼくにはいろんなものを見せてくれましたよ。ところで、この詩ですな、これは亡くなったゲルツェンが、まだ外国を放浪している時分に、邂逅の記念のためだか賞讃のためだか、それとも紹介のつもりだか、まあ、そんなことは知りませんが、なんでもシャートフに書いてやったんだそうです。それで、シャートフはこいつを若い連中の間に吹聴して廻ってるんです。これがゲルツェン自身のぼくに関する意見だ、とかいってね」
「な、な、な」やっとのことで、レムブケーはすっかり腑に落ちた。「それでわたしも変に思ったんだよ。檄文、――それだけならわかってるが、詩なんか、いったいなんのために刷ったんだろうと思ってね」
「まあ、あなたはどうして合点がゆかないんでしょう。ちぇっ、馬鹿馬鹿しい、いったいぼくはなんのために今まであなたにしゃべり立てたんだろう! いいですか、どうかぼくにシャートフを渡してください。もうこうなったら、ほかの連中なんかどうなろうとかまやしない。キリーロフだってどうなと勝手になさい。あの男は、シャートフの住まっているフィリッポフの持ち家に閉じこもって、じっと隠れ込んでるのです。あの男はぼくを好かないんですよ。なぜって、ぼくがこちらへ帰って……とにかく、シャートフのことだけはぼくに約束してください。その代わり、ほかの連中は一皿に盛り上げて、あなたの膳にすすめますよ。ぼくだって役に立ちますぜ、知事公! ぼくの考えでは、あのみじめな連中はみなで九人か、――十人くらいのものだと思います。ぼくはあの連中の様子を探ってるんです。個人としてね。今のところ、三人だけわかっています。シャートフと、キリーロフと、それからあの中尉さんです。後の連中はまだやっと見当をつけている[#「見当をつけている」に傍点]ところで……ぼくもまんざらの近眼じゃありませんよ。まあ、ちょうどあのX県と同じようなもんですよ。あそこで檄文事件でつかまったのは、大学生が二人に中学生が一人、はたちばかりの貴族が一人に小学教師が一人、それから酒のために耄碌した六十ばかりの退職少佐、これだけなんです。まったくのところ、これっきりなんですからね。しかし、六日の日数がいりますね。ぼくはもう算盤をはじいて見たが、六日はかかります。それより早くというわけにいきません。もし何かまとまった結果が見たかったら、六日の間はあの連中をそっとしておいてください。ぼくは一《ひと》網にすっかり挙げてしまいます。もしそれより以前に手を出したら、せっかくの巣を散らしてしまいますよ。しかし、シャートフはぼくにください。ぼくはシャートフのためになら……一番いい方法としては、秘密にあの男を呼び寄せて、親友的な態度でこの書斎なり、どこなりへ通してですね、彼らの内幕をさらけ出して見せて、一つ試験してやるんですな……そうすれば先生、きっとあなたの足もとに身を投じて、声をあげて泣き出すに相違ありません! あれは神経質で不幸な男なんです。あの男の細君は、スタヴローギンと勝手な真似をしているんですからね。実際すこし優しくしてやったら、あの男はすっかり自分のほうからぶちまけてしまいますよ。しかし、六日の猶予はどうしても必要です……ところで、何よりも、その、何よりも奥さんに一言半句も洩らさないことが、もっとも肝腎な点なのですよ。秘密が守れますか?」
「なんだって?」とレムブケーは目を剥き出した。「きみはユリヤにもまだ何も……うち明けていないのかね?」
「奥さんにですか? とんでもない! ねえ、知事公! 一つまあ聞いてください。ぼくは奥さんの友情を非常にありがたく思って、心から奥さんを尊敬しておりますし……その、すべてなんですが……しかし、けっして迂濶なことはしゃべりません。ぼくは奥さんに反対するわけじゃありません。なぜって、奥さんに楯つくのは、あなたもご承知のとおり、きわめて危険ですからね。もっとも、ちょっと一言くらい匂わしたかもしれません。それが奥さんの好物ですから。けれど、今あなたに申し上げたように、名前を洩らすとかなんとか、そんなことは、あなた、どうしてどうして! 実際、いまぼくがこうしてあなたにうち明けるのは、どういうわけでしょう? ほかじゃありません、なんといっても、あなたが男だからです。昔からしっかりした勤務上の経験をもった、真面目なお方だと思うからです。あなたは酸いも甘いも噛み分けた人です。あなたは例のペテルブルグ一件の例もあるから、こういうことにかけたら、ぴんからきりまでわかっていらっしゃるはずです。ところが、奥さんに今の二人の名でもいおうものなら、あの方はさっそく方々へ触れ廻しておしまいになります……奥さんはここからペテルブルグをあっといわしたくて、たまらないんですからね。いやまったく、あまりご熱心な質でしてね、実際!」
「そう、あれはまったくそうした癖が少々あってね」このぶしつけ者が自分の妻のことをあまり無遠慮に批評するのを、心のうちで大いにいまいましく感じながら、同時にいくぶん小気味がよいといったような顔つきで、レムブケーはこうつぶやいた。
 ピョートルは、これだけではまだ不十分だ、もっともっと馬力をかけてご機嫌を取ったうえ、十分に『レムブケー』を手のうちにまるめ込まなければならぬ、とこんなふうに考えたらしい。
「いや、まったく癖ですね」と彼は相槌を打った。「実際あの方は天才的な、文学趣味のある婦人かもしれませんが、せっかく集まった雀を追い散らしておしまいになりますよ。六日はさておき、六時間と辛抱ができないんですからね。まったくですよ、知事公、婦人に六日などという期限を押しつけるもんじゃありませんよ! ねえ、ぼくが多少の経験を持ってることを、あなたも認めてくださるでしょう、つまり、こういう方面に関してね。ぼくもちょいちょい知ってることがあります。ぼくがちょいちょいいろんなことを知っているはずだとは、あなたご自身も認めておられるでしょう。ぼくが六日の期限をお願いするのは、けっして彼らを容赦するからじゃありません、実際、必要があるからです」
「わたしも少しくらい聞いている……」レムブケーは確たる意見をいい渋った。「きみが外国から帰った時、その筋に対して……その懺悔というような意味で、何か申立てをしたということは聞いているがね」
「ええ、そんなことぐらいありましたさ」
「それは、もちろん、わたしもあえて立ち入ろうとは望まない……しかし、わたしの目から見ると、きみはここでぜんぜん別な性質の意見を今まで吐いているように想像していたんだがね。たとえば、キリスト教の信仰だとか、社会的施設のことだとか、ないしは政府のことだとか……」
「ぼくだっていろんなことをいいましたさ。今だってやはりいっていますよ。ただそういうふうの思想を、あんな馬鹿者たちと同じような具合に実行するのじゃない、そこが肝腎な点なのですよ。人の肩に咬みついたって何になるのです? あなただって、ぼくの意見に同意してくだすったでしょう、ただ時期が早すぎるということで」
「わたしはなにもそのことに同意したわけじゃない。その意味で、時期が早いといったんじゃないよ」
「しかし、あなたは一こと一こと穿鑿しながら、ものをいってらっしゃいますね、へ、へ! なかなか用心ぶかいかただ!」突然ピョートルが面白そうにいった。
「ねえ、あなた、とにかく、ぼくはあなたという人物を見極める必要があったのです。それだから、ぼくは自己一流の方法で話したんでさあ。これはあなた一人きりじゃない。いろんな人に対して、こんなふうの研究をするのです。ぼくは、まあ、あなたの性格を十分に知悉したかったのです」
「なんだってわたしの性格がきみに必要なんだね?」
「なんのために必要なのか、そんなことぼくが知るもんですか(と彼はまた大声で笑った)。ねえ、閣下、あなたはまったくずるいですよ、しかし、それ[#「それ」に傍点]までにはいたっていません、またきっとそういう時機は来ないでしょう、おわかりになりますか? たぶんおわかりになるでしょう? ぼくは外国から帰った時、その筋の人にある申立てはしましたが、しかし、ある信念をいだいている人間が、その誠実な信念のために行動するわけになぜいかないんでしょう、とんと合点がゆきませんねえ……とにかく、ぼくはあちら[#「あちら」に傍点]で、だれにもあなたの性格を注文されたこともなければ、またあちら[#「あちら」に傍点]からそんな注文を受け取った覚えも、かつてありません。一つとくと合点していただきたいのです。ぼくは今の二人の名前を、最初あなた一人にうち明けないで、いきなりあちら[#「あちら」に傍点]ヘ――つまり、ぼくが初めて申立てをしたところですな――あちら[#「あちら」に傍点]へ知らせてやることもできたのです。これがもし経済関係から、つまり利益を念頭において骨を折ってるとすれば、それはもちろん、ぼくの算用違いといわなきゃなりません。なぜって、今度は感謝を受けるのはあなたばかりで、けっしてぼくじゃないですからね。ぼくはただただシャートフのためにお願いするのです」とピョートルは潔くつけ足した。「ぼくは以前の友情を思って、シャートフのために、お願いするんです……ところでですな、あなたが筆をとって、あちら[#「あちら」に傍点]へ報告される場合、まあ、ぼくのことを賞めてくださるとする……そんな時にはぼくもけっして異存ありませんよ、へ、ヘ! ときに、もうさようならにしましょう、ずいぶん長座をしましたよ。それに、こんなおしゃべりをする必要はなかったのです!」と、いくぶん愛嬌を見せながらいい足して、彼は長いすから立ちあがった。
「それどころじゃない、わたしはかえって事件がだんだんはっきりして来るので、たいへん喜んでいたくらいだ」明らかに最後の一句が利いたらしく、レムブケーも愛想よげに立ちあがった。「わたしは感謝の意を表して、きみのお骨折りを受けるよ。きみの労に対するわたしの推薦という点に関しては、きみ、安心していてくれたまえ……」
「六日間ですよ、肝腎なのは六日間の期限ですよ。そのあいだ手を出さないようにしていただきたい、これがぼくにとって必要なんですよ」
「よかろう」
「もちろん、ぼくはあなたの手を縛ろうとするのじゃありません。あなただって探査せずにはいられないでしょうけれど、ただ期限以前にやつらの巣を脅かしちゃいけませんよ。この点に関して、ぼくはあなたの頭脳と経験に非常な期待をかけてるのです。ところで、あなたはずいぶんたくさん猟犬を飼っておいででしょうなあ、その、いろんな密偵をね、へ、へ!」とピョートルはうきうきした軽はずみな調子で(これは若い人の癖なのだ)、真正面からぶっつけた。
「まんざらそうでもないがね」とレムブケーは気持ちよさそうに相手の鉾先を避けた。「それは若い人の偏見だよ、そうたくさん飼っておくなんて……しかし、ついでにちょっと一つききたいことがあるんだがね。ほかじゃない、もしあのキリーロフが、スタヴローギンの介添人になったとすれば、スタヴローギン氏もやはり……」
「スタヴローギンがどうしたんですって?」
「つまり、二人がそんなに親しい仲だとすれば……」
「とんでもない、違います、違います、違います! あなたもなかなかずるい人だけれど、とうとうぼろを出しましたね。ぼく面くらっちまいましたよ。このことについては、あなたも相当事情に通じていられることと思ってましたよ……ふむ……スタヴローギン……あれはまったく正反対の位置に立ってるんですよ、つまり、全然…… avis au lecteur.(ちょっとご注意までに申し上げます)」
「どうだかね! まさか……」とレムブケーは疑わしげにいった。「わたしはユリヤから聴いたのだが、あれがペテルブルグから受け取った通知によると、あの男は一種の内命を授かってるとか……」
「ぼくはなにも知りません、すこしも知りません、まったく少しも。Adieu. Avis au lecteur.(さようなら、ちょっとご注意までに申し上げたのです)」ピョートルは急にありありと逃げを打ち始めた。
 彼は戸口のほうへ飛んで行った。
「ちょっと、きみ、ピョートル君。ちょっと!」レムブケーは叫んだ。「もう一つ、ちょっとした用事があるんだ。それでもうきみを引き留めはしないよ」
 彼はテーブルの抽斗から、一つの封筒をとり出した。
「やはり同じような種類に属するしろ物なんだ、これをきみに見せるんだから、わたしがどれくらいきみを信用しているか、察してくれたまえ。さあ、きみのご意見はどうだね?」
 封筒の中には一通の手紙が入っていた――それはレムブケーに宛てた怪しい無名の手紙で、つい、きのう受け取ったばかりなのである。ピョートルはいかにもいまいましそうな様子で、次のとおり読みくだした。

[#ここから1字下げ]
『閣下!
実際、官等からいえば、貴殿は閣下なのだから、こう呼んでおく。この手紙をもってぼくはすべての顕官ならびに祖国に対する陰謀を通報する。すでに事態は勢いそうなっていってるのだ。ぼくは自身で長年の間、絶えず檄文を撒き散らしてきた。同時にまた無神論も宣伝した。暴動の準備は着々進捗している。幾千という檄文が撒かれたが、もし政府が前もって没収しなければ、百人ばかりの人間が一枚一枚、舌を吐きだしながら追いかけている。つまり、彼らは莫大な報酬を約束されているからである。なにしろ一般人民は馬鹿なものだ。それにウォートカというやつもある。人民は罪人を尊敬して、罪人も官憲もどちらも搾っているのだ。ぼくはどっちを向いても恐ろしいので、おのれの関知しない事件に対して、慚愧の意を表している。なぜなら、ぼくの事情がそんなふうになってしまったからだ。もし祖国と教会と聖像を救うために、密告してほしいとならば、それをなしうるのはぼくを措いて他にだれもない。ただし、即刻第三課から電報で、ぼくをゆるすという命令を発することを条件にしてもらいたい。それはぼく一人だけでよろしい、ほかの連中は勝手に罪に問われるがいい。どうか毎晩七時になったら、玄関番の窓に合図の蝋燭を立ててもらいたい。それを見たら、ぼくも首都から差し伸べられた慈悲の手を信じて、それを接吻に来ることにする。しかし、年金下賜の条件付でなくてはならぬ。でなかったら、ぼくは生計の方法が立たないのだ。貴殿はけっして後悔などすることはない。貴殿は勲章を授かるに決まっている。が、とにかく機密を要する。でないと、首を捩じ取られる。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から4字上げ]閣下の足元に身を投じたる絶望の男
[#地から1字上げ]悔悟せる自由思想家(Incognito)』

 フォン・レムブケーの説明によると、手紙はきのう玄関番部屋へ、人のいない暇を見て投げ込まれたのである。
「で、あなたはどう思うんです?」ほとんど不作法といっていいくらいの調子で、ピョートルはこうたずねた。
「わたしの考えでは、これはからかい半分の落首にすぎないらしいよ」
「大方そんなところが落ちでしょう。あなたに一ぱいくわすわけにゃいきませんからなあ」
「なに、わたしはあんまり馬鹿げてるから、そう考えるんだ」
「あなたはここへ来てから、まだほかにこんな落首を受け取ったことがありますか?」
「二度ほど受け取ったよ、無名の手紙をね」
「そりゃ、もちろん、署名なんかしませんさ。みんな違った文体で? 手もまちまちで?」
「みんな違った文体で、手もまちまちだ」
「やはりこれと同じようなふざけたものですか?」
「そう、ふざけたものだ、そしてね、きみ……実に醜悪なんだよ」
「なるほど、もう今までもそういうことがあったとすれば、今度もやはり同じこってすよ」
「つまり、わたしはあまり馬鹿げてるもんだから……実際、あの連中は教育があるんだから、けっしてこんなことを書きゃしないものね」
「ええ、そりゃそうですとも」
「しかし、だれか本当に密告しようと思っているんだったらいったいどうしたもんだろう?」
「そんなことがあるもんですか」ピョートルはにべもなく打ち消した。「いったい第三課の電報とか、年金とかいうのは何事です! 見え透いた悪戯ですよ」
「そうだ、そうだ」とレムブケーは鼻白んだ。
「ねえ、知事公、この手紙をぼくに貸してください。ぼくきっとさがし出してあげます。例の連中よりさきにさがし出してあげますよ」
「持って行きたまえ」いくぶん躊躇の気味でレムブケーは承諾した。
「あなただれかにお見せになりましたか?」
「いや、どうしてそんなことを! だれにも見せやしない」
「というと、奥さんにも?」
「おお、とんでもない。きみもお願いだから、あれに見せないでくれたまえ?」とレムブケーはおびえあがって叫んだ。「そんなことをしたら、びっくりしてしまって……ひどくわたしにくってかかるに相違ない」
「そうですなあ、あなたは一番やっつけられますなあ。こんな手紙を受け取る以上、あなたはこんなことを書かれるだけの値打ちしかないのだ、てなことをいってね。婦人の論理は、ちゃんと先刻承知していますからね。じゃ、さようなら。ぼくはことによったら三日間位で、この手紙の筆者を突き出して見せるかもしれません。しかし、何よりも、例の約束を忘れないように願いますよ」

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 ピョートルは実際、目はしの利く男だったかもしれない。しかし懲役人のフェージカが、『あの人は自分で人のことをこうと決めてしまって、それで安心してるたちの人なんですよ』といったのは、真を穿っている。彼はレムブケーのもとを去る時に、少なくとも六日間は知事の心を落ちつけたと信じ切っていた。この六日という期限は、彼にとって是が非でも必要なのだった。しかし、その目算は間違っていた。何もかも、彼の独り合点がもとになっていたのである。彼はもうてんから、レムブケーを箸にも棒にもかからない間抜け者に、決めてかかっていた。
 レムブケーはすべて病的に疑り深い人の常として、何か未知の境から一歩ふみ出した瞬間には、いつも嬉しさのあまり、過度に信じやすくなる。何か局面が一転したような場合には、いろいろ面倒な事情が新たに持ちあがりはするものの、初めはちょいと具合よく運びそうに思われた。少なくも、以前の疑念は、跡形なく消え失せるのであった。そのうえこの数日間、彼ははなはだしく疲労を覚えてきた。まるでへとへとになって、気力も何も尽き果てたような心持ちがしはじめたので、彼の心は自然と安静を渇望するようになった。が、悲しいことに、彼はまたしてもその安静を失ったのである。長年のペテルブルグ生活は、彼の心に消え難い痕跡を残した。『新しき世代』の表面的な推移も、その秘密な運動も、彼にはかなりよくわかっておった。彼は好奇心のさかんな男だったから、檄文なぞもずいぶん蒐集した、――が、その運動の意味がどうしてもてん[#「てん」に傍点]からわからなかった。ところが、今度はまるで深い森に迷い込んだようなものである。彼はあらゆる直覚力を働かして、こういうことを感得した。ピョートルの言葉の中には、形式や約束を無視した、何かこう、ぜんぜん辻褄の合わないところがある。『もっとも、この新しき世の中からどんなものが飛び出すか、まるで見当がつかないんだからなあ。それに、どんなふうにそいつが生長してゆくのか、こんりんざいわかりっこありゃしない!』こう考えてるうちに、思想がめちゃめちゃにこぐらかってしまった。
 その時、ちょうど狙ったように、またもやブリュームが、彼の部屋へ顔を覗けた。ピョートルの来訪中、彼はほど遠からぬところで待っていたので。このブリュームは、レムブケーの遠い親戚に当たるのだが、それは一生涯、細心な注意をもって隠蔽されていた。わたしはこの取るに足らぬ人物のために、ここで、数言を費すのを読者に許してもらわねばならぬ。ブリュームは『不幸なドイツ人』という、奇妙な種族に属していた。が、けっして持ち前の極端な無能が原因ではなく、どういうわけか皆目わからないのであった。『不幸なドイツ人』は神話でもなんでもなく、現実界、いな、ロシヤにすら存在していて、自己独得の典型を有しているのだ。レムブケーは感心なほど彼に同情を寄せ、勤務上の成功を獲得するにしたがって、事情の許す限り、いたるところで部下の椅子に坐らすようにしていた。しかし、彼はどこへ行っても運が悪かった。時にはその椅子が定員外になったり、時には長官が変わったりした。一度なぞはほかの連中といっしょに、ほとんど裁判所へ突き出されないばかりの目に遭った。彼はきちょうめんだったが、しかし必要もないのにきちょうめんすぎるくらいだし、またあまり陰気な性分のために損ばかりしていた。髪の赤い、背の高い、猫背の沈んだ男で、非常に感傷的なたちだった。意気地のないくせに強情で、まるで牛のように頑固だったが、その力瘤の入れ方が、いつも見当ちがいなのである。彼は妻や大勢の子供らと同じように、長の年月レムブケーに対して敬虔な信服の情をいだいていた。彼を好く者は、レムブケーのほか一人もなかった。ユリヤ夫人はさっそく彼を排斥にかかったが、しかし、夫のかたくなな同情を征服することはできなかった。これが彼らの最初のいさかいだった。それは結婚後まもない蜜月の初め頃、突然ブリュームが夫人の前に現われた時に端を発したのだ。それまでは、夫人にとっていまわしい親戚関係とともに、小心翼々として夫人の目から隠されていたのである。レムブケーは、両手を合わせて拝みながら、感傷的な調子でブリュームの身の上と、ごく小さいときからの二人の友情を物語った。けれど、ユリヤ夫人は、自分が永久に穢されたもののように感じて、気絶という武器まで応用して見せた。が、それでもレムブケーは一歩も譲らなかった。そして、どんなことがあろうとも、ブリュームを見棄てたり、身辺から遠ざけたりしない、と宣言した。で、とうとう夫人もあきれ返って、ブリュームを置くことを許さざるをえなくなった。ただ親戚関係のあることは、今までよりも一段と気をつけて、できるだけ隠すことに決められた。ブリュームの名前と父称も変えることになった。どういうわけか、ブリュームも同じように、アンドレイ・アントーノヴィチと呼ばれていたからである。
 ブリュームはこの町へ来ても、あるドイツ人の薬剤師のほかには、だれひとり知己をこしらえようともしなければ、どこを訪問してみようともしなかった。ただこれまでの習慣で、けちけちと淋しい生活を送っていた。彼は久しい以前から、レムブケーの文学道楽を知っていた。彼はいつも決まって呼び出され、内証でさし向かいに、自作小説の朗読を聞かされるのであった。大抵ぶっ続けに六時間くらい、じっと棒のように坐りとおしていた。そして、居睡りをしないで微笑を浮かべるために、汗を滲ませながら渾身の力を緊張させた。家へ帰ると、足の長い痩せひょろけた細君とともに、ロシヤ文学に対する恩人の情けない弱点を、互いに嘆き合うのであった。
 レムブケーは苦痛の表情で、入り来るブリュームを見やった。
「プリューム、お願いだから、わたしにかまわんとおいてくれ」彼は不安げに早口でこういった。ピョートルの来訪によって妨げられたさきほどの会話を、ふたたび新たにするのを避けようと思っているらしい。
「けれども、それはまったく婉曲な方法で、少しも世間へ知れないように実行できるのです。あなたはあらゆる権能を授けられていらっしゃるのですから」背中をかがめて小刻みな足取りで、じりじりレムブケーのほうへ詰め寄りながら、うやうやしい調子ではあるが執拗な態度で、彼は何やらしきりに主張していた。
「ブリューム、きみはあくまでわたしに信服して、わたしのためにつくしてくれるので、わたしはいつもきみを見るたびに、恐ろしさに胆を冷やすじゃないか」
「あなたはいつも何か気の利いたことをおっしゃいます。そして、自分で自分の言葉に満足して、穏かな夢を結ばれるのです。ところが、それがあなたを毒しているのじゃありませんか」
「ブリューム、わたしはたったいま十分に確信をえた、そんなことはすっかり見当ちがいだよ、まるで見当ちがいだよ」
「それはあのいかさま者の、根性骨の曲った若造の言葉を本当にされたからでしょう。あなたご自身も、あの男を疑ぐっていられるじゃありませんか? やつはあなたの文学上の才能を、お世辞たらたら賞めちぎって、あなたを手のうちへまるめ込んだのです」
「ブリューム、きみは何もわからないのだ。きみの計画は愚の骨頂だと、そういってるじゃないか。そんなことをしたところで、何一つ見つけ出すことができないで、ただ恐ろしい騒ぎを持ち上げるばかりだ。それから続いて嘲笑、その後からユリヤ……」
「いえ、わたしたちが求めているものは、すっかり見つかるに相違ありません」右手を胸に当てながら、ブリュームは毅然たる足取りで、一歩知事のほうへ踏み出した。「家宅捜索はふいにやったほうがいいです、朝早く。そして、私人に対する礼儀も、法の厳格な形式も、十分に守るのはもちろんです。リャームシンとか、チェリャートニコフとかいう若い連中は、必ずわれわれの望むものをすべて発見できると、立派に断言しておりますよ。あの連中は、たびたびあすこへ出入りしていましたからね。ヴェルホーヴェンスキイ氏に同情をいだいてるのは、だれ一人ありゃしません。スタヴローギン将軍夫人も公然と、あの人の保護を断わってしまいました。潔白な心を持った人間は(この俗な町に、そんな人間があるとすればですよ)、不信と社会主義的伝道の源が、いつもあすこに隠れていたと信じます。あの人のところには、国禁の書物がすっかり保存されています。ルイレーエフ([#割り注]プーシキンの友、十二月党員、死刑に処せられる[#割り注終わり])の『想い』もゲルツェンの全集も……わたくしは万一の場合のために、概略の目録をこしらえておきました」
「おいおい、何をいってるんだ、そんな本はだれでも持ってるじゃないか、お前はどうも頭が単純だから困るよ、ブリューム!」
「それに檄文もたくさんあります」相手の言葉は耳にも入れず、ブリュームはつづけた。「そして最後に、この町の檄文の本当の出処を突き止めようじゃありませんか。あの小ヴェルホーヴェンスキイも、いたって怪しい人物ですからね」
「しかし、きみは、親父と息子をごっちゃにしているじゃないか。あの二人は折合いが悪いんだぜ。息子は公然と親父を笑い草にしてるじゃないか」
「それはただの仮面です」
「ブリューム、きみはわたしを苦しめようという誓いでも立てたのかい! 考えてもみたまえ、あの人はなんといってもここの名士だよ。もと大学の教授だったんだぜ。あれでなかなか世間に知られた人だから、あの人が公然と世論に訴えてみたまえ、すぐ町中の笑い草になって、ひどい味噌をつけてしまうじゃないか……それに、ユリヤがどんなにいうか、まあ、考えてみたまえ……」
 ブリュームはなおも前へ前へと乗り出して、ろくろく耳をかそうともしなかった。
「あの人はただの助教授だったのです。ほんの助教授に過ぎません。官等からいっても、退職の八等官です」彼は胸をとんと叩いた。「勲章一つ持ってるわけじゃありませんし、おまけに反政府的陰謀の嫌疑で免職されたんですよ。あの人は以前秘密監視を受けていました、今でもきっとそうに違いありません。それに、こんど暴露された不体裁な事件の関係からいっても、あなたはそれだけのことを実行する義務を持っておられます。それだのに、あなたはかえって真犯人に手ぬるい態度を取って、殊勲を現わす機会をわざわざ逸しておられるのです」
「ユリヤだ! 早く出て行きたまえ、ブリューム!」隣室で妻の声を聞きつけたレムブケーは、出しぬけにこう叫んだ。
 ブリュームはびくりとしたが、それでも容易に屈しなかった。
「さあ、許可を与えてください、許可を」いっそう強く両手を胸に当てながら、彼はまたもや前へ攻め寄せた。
「出て行かんか!」とレムブケーは歯咬みをした。「どうともしたいようにするがいい……あとで……ああ、なんということだ!」
 とばりがさっとあがって、ユリヤ夫人が姿を現わした。ブリュームの姿が目に入ると、彼女はものものしい様子で立ちあがりながら、まるでこの男がここにいるというだけのことが、彼女にとって侮辱ででもあるかのように、尊大な腹立たしげな目つきで、じろりと彼を見やった。ブリュームは無言のまま、うやうやしく腰を深くかがめて、夫人に一揖すると、尊敬の意を表するために体を二つに折りながら、ちょっと両手を左右に拡げ、爪立ちで戸口のほうへおもむいた。
 最後にレムブケーの発したヒステリックな叫び声を、本当にお前の請求どおりにしろという許可の意味に解したのか、それとも結果の成功を信じ過ぎたために、てもなく恩人の利益を図るつもりで、わざとこの言葉の意味を曲解したのか、とにかく後に説くとおり、この長官と部下の会話からして、多くの人に腹をかかえさせるような思いがけない出来事が始まったのである。この出来事は世間へぱっと知れ渡って、ユリヤ夫人の猛烈な憤怒を呼び起こしたばかりでなく、そうしたさまざまな結果を伴なったために、すっかりレムブケーをとほうにくれさせ、もっとも多事多端な時に、何より悲しむべき優柔不断な心持ちに陥れてしまったのである。

[#6字下げ]5[#「5」は小見出し

 それはピョートルにとって忙しい日であった。フォン・レムブケーのもとを辞すると、彼は大急ぎでボゴヤーヴレンスカヤ街さして駆け出した。しかし、牡牛街《ブイコーヴァヤ》を歩いているうちに、ふと、カルマジーノフの住んでいる家の前へさしかかった。彼はとつぜん足をとめて、にたりと笑うと、そのまま家の中へずかずか入って行った。『お待ちかねでございます』という取次の言葉は、彼になみなみならぬ好奇の情をいだかした。なぜなら、彼は自分の来訪を前もって知らせたことがなかったからである。
 しかし、大文豪は本当に彼を待ちかねていた。しかも、昨日、おとといあたりから待ち佗びていたのである。四日前、彼はピョートルに『感謝《メルシイ》』の原稿を渡した(それはユリヤ夫人の慰安会の文学の部で、朗読するつもりでいたものである)。自分の傑作を発表前に見せてやるということが、聞く人の自尊心に快い作用をもたらすに相違ないと信じ切って、特別の親切心からしたことなのである。ピョートルは前からこういうことを見抜いていた。ほかではない、この虚栄の塊ともいうべきわがままな駄々っ子、――『選ばれざる』階級の人に対しては、暴慢といってもいいくらい高くとまっている『国家的名士』が、正直なところ、まったくピョートルの鼻息をうかがっているのだ。しかも、一生懸命なのである。わたしの見るところでは、彼はこの青年を、全ロシヤにわたる秘密な革命運動の首魁と思っていないまでも、少なくとも、ロシヤ革命運動の秘密に最も密接な関係を持ち、新しき世代に絶対的勢力を有する人間の一人くらいに考えている。それをピョートルも悟ったに違いない。『ロシヤにおいて最も聡明なる名士』のこうした気分は、彼に非常な興味をいだかせたのである。しかし、彼はこれまである事情のために、ことの真相を明らかにするのを避けるようにしていた。
 文豪は自分の妹の家に逗留していた。これはさる侍従官の細君で、同時に女地主だった。夫婦とも天下の名士たるこの親戚を、崇拝しきっていたが、目下残念ながら、モスクワに滞在中なので、侍従官の遠縁に当たる貧しい老婦人が、接待役の光栄を担うこととなった。これは前から同家に暮らして、いっさいの家事を取りしきっていたので。カルマジーノフが到着してからこのかた、家じゅうの者は戦々兢々として、爪さき立ちで歩くようになった。老婦人はほとんど毎日のようにモスクワへ手紙を出し、どんなふうにやすまれて、何を召し上ったか、というようなことまで報らせてやった。一度なぞは電報で、客人が市長のもとへ食事に招待された後、一匙の健胃剤を用いるの余儀なきに立ちいたった旨を、報告したくらいである。老婦人に対する彼の応対は丁寧ではあったが、そっけないもので、何か用事がなければ口をきかなかったので、彼女はほんの時々しか文豪の部屋へ推参しえなかった。
 ピョートルが入って行ったとき、彼は赤葡萄酒をコップに半分ばかり注いで、朝飯のカツレツを食べていた。ピョートルは、もう前にもちょいちょい来たことがあるが、いつもこのカツレツに出くわすのであった。しかも、彼は客の面前でそいつを平らげて、一度も客にふるまったことがない。カツレツの後で、別にコーヒーを小さな茶碗に一杯もって来た。食事を持って来る侍僕は、燕尾服を着込んだうえに、柔かい音のしない靴をはいて、手袋をはめていた。
「ああ!」ナプキンで口を拭きながら、カルマジーノフは長いすから立ちあがり、心底から嬉しそうな表情を浮かべて、接吻を始めた、――これは特筆すべきロシヤ人の習慣であるが、ただし非常に有名な人に限るので。
 しかし、ピョートルは以前の経験から、この人は接吻するような振りをするだけで、その実ただ頬っぺたを差し出すにすぎないのをおぼえているので、今度はこちらからも同じことをした。この二つの頬かぴたりとぶっつかった。カルマジーノフは、それに気がついたようなふうを見せないで、やおら長いすに腰を下ろし、さも気持ちよさそうな顔つきで、ピョートルに向かいの肘掛けいすを示した。こちらはすぐその上にどさりと倒れ込んだ。
「きみその……飯はどうですな?」今日は従来の習慣を破ってこうたずねた。しかし、もちろん、慇懃な否定の答えを暗示するような調子だった。
 ピョートルはさっそく朝飯を所望した。侮辱されたような驚きの影が、主人の顔を曇らした。が、それは一瞬のことだった。彼は神経質らしくベルを鳴らして、下男を呼び、人格にも似合わぬ怒りっぽい調子で、声を高めながら、もう一人前べつに朝飯の支度を命じた。
「きみ、何がお好みです、カツレツですか、コーヒーですか?」彼はもう一どたずねた。
「カツレツもコーヒーも両方とも、それから葡萄酒を添えるようにいってくださいな。ぼくすっかり腹がへっちゃった」落ち着き払って、注意ぶかく主人のみなりを見つめながら、ピョートルは答えた。
 カルマジーノフ氏は貝ボタンの付いた、ちょっとジャケツふうな綿入れの短衣《カツアウエイカ》を着ていたが、あまり極端に短か過ぎるので、かなり膨らんだ腹や丸まっちい腿などと、少しも調子が取れていなかった。しかし、人の趣味はさまざまである。部屋の中はずいぶん暖いのに、膝の上には格子縞の毛織の膝掛けを広げていた。
「お加減でも悪いんですか?」とピョートルはきいた。
「いや、加減が悪いのじゃない。気候がこんなだから、加減が悪くなるのを恐れてるんです」と文豪は持ち前の甲高い声で答えた。もっとも、一語一語に優しく力を入れたり、地主式にしゅっしゅっというような音を発しながら。「わたしは昨日からきみを待っていましたよ」
「なぜです? ぼくなにも約束しなかったはずですが」
「そう、しかし、きみのところへわたしの原稿が行ってるもんだから。きみ……読みましたか?」
「原稿? どんな?」
 カルマジーノフはひどく仰天した。
「いや、きみ、冗談は別として、あれを持って来てくれましたか?」
 彼は俄然あわて出した。とうとう食事もそっちのけに、おびえたような顔つきで、ピョートルを見つめた。
「ああ、それはあの “Bonjour”(お早う)のことですね……」
「“Merci”(ありがとう)です」
「まあ、どうでもいいです。まるで忘れてしまっていましたよ。まだ読みません、暇がないものですから。いったいどうしたんだろう、かくしにもない……きっと家のテーブルの上にでもあるんでしょう。ご心配にゃ及びません、出て来ますよ」
「いや、それより、わたしはいまきみの家へ取りにやりましょう。なくなるおそれがあります、いや、或いは盗まれるかもしれません」
「へっ、そんなものがだれにいるもんですか! それに、なんだってあなたそう泡を食うんです。ユリヤ夫人の話では、あなたはいつも原稿を幾通りかこしらえて、一部は外国の公証人のところへ、一部はペテルブルグ、一部はモスクワ、そしていま一部は銀行か何かへ、送っていられるそうじゃありませんか」
「しかし、それでも、モスクワだって焼けないとも限りません。そうすれば、わたしの原稿もいっしょに焼けてしまいます。いや、すぐ取りにやったほうがいい」
「ちょっと待ってください、ああ、あったあった!」ピョートルはうしろかくしから、一束の書簡箋を取り出した。「少し皺になりましたよ。どうでしょう、あの時、あなたから受け取ったなり、ずっと鼻かみハンカチといっしょに、うしろかくしにしまいっ放しになってたんですよ。すっかり忘れてた」
 カルマジーノフは飛びつくようにして原稿を手に取って、一生懸命に点検して枚数をかぞえると、うやうやしげに傍にある特別な小机へちょっとかりにのせた。が、いつまでもそれが目に入るように位置を加減した。
「きみはどうもあまり多読しないようですね?」彼は我慢しきれないで、歯の間から押し出すようにこういった。
「ええ、あまり多読しませんよ」
「じゃ、ロシヤの純文学のほうは、――かいもく読みませんか?」
「ロシヤの純文学方面? 待ってください、ぼくなんだか読みましたよ……『途中』……だったか『途へ』……だったか『分れ路』だったか、何かよくおぼえていません、ずっと前に読んだのです、五年ばかりになりますかなあ。暇がないんです」
 ちょっと沈黙がおそうた。
「わたしはここへ来ると、皆の者をつかまえて、きみがずば抜けて聡明な人だということを、極力吹聴したものだが、今この町の人は、実際、きみのことでほとんど夢中になっているようじゃありませんか」
「ありがとうございます」とピョートルは落ち着き払って答えた。
 やがて朝餐が運ばれた。ピョートルは恐ろしい食欲を示しながら、カツレツに飛びついた。みるみるうちにそいつを平らげて、酒を呷り、コーヒーを啜った。
『この不作法ものめ』最後の一片を噛みしめ、最後の一滴を飲み干しながら、カルマジーノフはもの思わしげに相手を横目に見やった。『この不作法者め、たぶんいまおれのいった言葉の皮肉な意味を、十分さとったに相違ない……それに、原稿だって、もちろん夢中で読んだくせに、何か思わくがあって、嘘をついてるに違いないのだ。しかし、ことによったら、嘘をついてるんじゃなくて、本当に馬鹿なのかもしれないぞ。おれは少々間の抜けた天才が好きだ。まったくのところ、あの男は仲間うちでも一種の天才かもしれんて。いや、まあ、あんなやつなんかどうだってかまうもんか』
 彼は長いすから立ちあがって、運動のため部屋の中を隅から隅へと歩き廻りにかかった。これは朝飯後に欠かさずやることなので。
「もうじきお立ちですか?」と、ピョートルは巻煙草を吹かしながら、肘掛けいすの中から問いかけた。
「わたしがここへ来たのは、ほかでもない、領地を売るためだから、今のところ支配人のやり方一つなんですよ」
「しかし、あなたがここへ見えたのは、あちらで戦争後に、伝染病流行のおそれがあるからじゃありませんか?」
「いいや、あえてそうばかりでもない」気取った調子で、一語一語アクセントをつけながら、カルマジーノフ氏は言葉を続けた。彼は隅から隅へ向けて回転するたびに、見えるか見えないかくらいに、右足を元気よく跳ねるのであった。
「わたしは実際」彼は幾分あてこすりめいた調子で薄笑いを浮かべた。「できるだけ長生きしようと思っています。ロシヤの貴族社会は、すべての点において、何かこう妙に早く疲弊する癖がありますね。ところが、わたしはできるだけ長く疲弊したくないと思っています。だから、今度はすっかり外国へ移ってしまうつもりです。あちらは気候もいいし、建物も石造だし、万事につけて手固いですからね。わたしの一代ぐらい、西欧も無事でいるだろうと思いますよ。きみのお考えはどうです?」
「それがぼくの知ったことですか」
「ふむ……もしあちらでバビロン塔が崩壊して、その崩壊の度が甚大だとすれば(この点ではわたしもきみたちにぜんぜん同意です。もっとも、わたしの一代は無事だろうと思いますがね)、わがロシヤでは崩れようにも崩れるものがない。ただし比較的の話ですよ。ロシヤでは石が崩れるのじゃなくて、何もかも泥の中へもぐり込んでしまうんだね。神聖なるロシヤは、何物かに対する抵抗力としては、世界じゅうで一ばん役に立たないしろ物でね。それでも、一般民衆はまだどうにかこうにか、ロシヤの神で踏ん張っています。が、しかし、最近の情報によると、ロシヤの神も大して当てにならんようだね。農奴解放の改革に対してすら、ほとんど抗しえなかったんだからなあ、少なくとも一大動揺を来たしたのです。それに、鉄道ができたり、きみたちのような人が現われたり……いや、もうわたしはてんでロシヤの神を信じませんよ」
「じゃ、ヨーロッパの神は?」
「わたしはいかなる神も信じません。世間のやつらはわたしのことをロシヤの青年に讒誣したけれど、わたしはいつも若い人たちの運動にことごとく同感しているんですよ。わたしはこの町の檄文を見せてもらいました。みんな外形に脅かされて、一種の疑念をもって眺めているようだが、しかし、みんな一様にその威力を信じていますよ。もっとも、自分でそれを自覚してはいないがね。もうずいぶん前から、だれもかれもばたばた倒れています。しかも、縋りつくものが何もないということも、とうからちゃんと承知している。ロシヤはどんなことでも思う存分に、なんの抵抗も受けずにやることができるという意味で、今は全世界に唯一無二の国です。わたしもこの事実を基礎として、ああした秘密運動の成功を信じているのです。なぜ資産のあるロシヤ人がどんどん外国へ流れ出るのか、またどういうわけでそういう人がますますふえて来るか、わたしはそれがわかり過ぎるほどわかります。それはつまり、本能ですな。船が沈む時には、第一番に鼠が逃げ出して巣を変えます。神聖なるロシヤは木造のみじめな、そして……けんのんな国です。上流の階級には虚栄心の強い乞食が跋扈し、大多数の人民はひょろひょろのぼろ小屋に住んでいる。で、どんなふうにでも、その状態を抜け出せれば嬉しいのだから、ちょっといって聞かしてさえやればいいのだ。ただ政府だけはまだ抵抗したがって、やみくもに棒ちぎりを振り廻すもんだから、かえって同士打ちなぞしてるんですよ。もうここではすべてのものが、運命を決定され、宣告されています。現在あるがままのロシヤはもう未来がない。わたしはドイツ人になりました。そして、自分でそれを光栄としています」
「しかし、あなたはいま檄文の話を始められましたが、あれについてどういう意見を持っておいでです、ひとつすっかり聞かしてくださいませんか」
「みんなが恐れているところを見ると、檄文というやつは偉大な力を持ってるに相違ない。実際、すべての檄文は公然と偽の衣を剥いでくれます。ロシヤには何一つ縋りつくものもなければ、よりかかるものもない、ということを証明してくれます。一同が沈黙を守っている時に、檄文は声を高めて呼号してくれる。とりわけ何より力強いところは(もっとも、形式には感心しませんがね)、あの前代未聞の勇気です、真実のおもてを見つめうる勇気です。この真実の顔を見つめうる勇気は、ただただロシヤ人にのみ属している性質です。どうしてどうして、ヨーロッパではまだそれほど大胆でないですよ。あちらは石の王国だからまだ倚りかかるところがありますよ。わたしの見かつ判断しうる限りでは、ロシヤの革命思想の本質は、すべて名誉の否定ということに含まれている。わたしはこの点を大胆に、恐れげもなく表白しているのが気に入りましたよ。どうしてどうして、ヨーロッパじゃまだこれは理解できません。ところが、ここはほかならぬこの点に向かって突進してるんですからね。ロシヤの人間にとっては、名誉はよけいな重荷にすぎない。さよう、常に、歴史ぜんたいを通じて重荷だったのです。『不名誉に対する公然の権利』を餌《えさ》にロシヤ人を釣ることなぞは、易々《いい》たるものですよ。わたしは旧時代の人間だから、白状しますと、まだ名誉のほうに味方しますが、それはほんの習慣にすぎない。わたしが古い形式を愛するのは、まあ、いわば、了簡が狭いからですよ。とにかく、どんなにでもして余生を送らなきゃなりませんからな」
 彼はとつぜん口をつぐんだ。
『だが、おれがこうしてしゃべって、しゃべって、しゃべり抜いてるのに』と彼は考えた。『先生だまりこくって、様子を見てやがる。先生がやって来たのは、おれに真正面から質問をさせようという目算なんだな。よし、そんならしてやろう』
「実はユリヤ夫人から、ぼくに依頼があったんですがね、――あさっての舞踏会に、あなたがどんな surprise(思いがけない贈物)を用意していらっしゃるか、それをなんとかして策略で探り出して来い、とおっしゃるのでね」突然ピョートルがこうたずねた。
「そう、それは実際 surprise でしょうな。わたしは、実際、皆を駭目させるつもりなんでね……」とカルマジーノフはちょっとそり身になった。「しかし、秘密の存するところをいうわけにはいかんですよ」
 ピョートルも強いてとはいわなかった。
「ここにシャートフとかいう人物がいるでしょう」と文豪はたずねた。「どうでしょう、わたしはその男に会ったことがないのですよ」
「なかなか立派な人物ですよ。で、どうしました?」
「なに、その男が何やらいってるんです。それ、スタヴローギンの頬っぺたを撲ったとかね?」
「そうです」
「きみはスタヴローギンのことをなんと考えますね?」
「知りません。なんだか色魔とでもいいたいような人物ですなあ」
 カルマジーノフはスタヴローギンを憎んでいた。それは、彼がいつでもこの文豪を、まるで目にも入らないように振舞うからであった。
「あの色魔なんか」彼はひひひと笑いながらいった。「もしあの檄文に宣言してあるようなことがいつか実現されたら、あの男なんぞはおそらく真っさきに木の枝に突き刺されるね」
「或いはもっと早いかもしれませんよ」とふいにピョートルはいった。
「それが当然なんだ」もう笑おうともせずに、恐ろしく真面目な調子で、カルマジーノフは相槌を打った。
「あなたは一度そのことをいったことがありますよ。それでね、ぼくはあの男に聞かせてやりましたぜ」
「え、本当に聞かせたんですか?」カルマジーノフはまた笑った。
「すると、あの男のいうのにはね、もしぼくが木の枝に刺されるのなら、カルマジーノフ氏など笞刑くらいでたくさんだ。しかし、それは敬意を表しての処置ではない、ちょうど百姓を撲るようにやっつけるんだって」
 ピョートルは帽子を取って、席を立った。カルマジーノフは別れの挨拶に、両手を差し伸べた。
「どうでしょう」彼はふいに黄いろい甘ったるい声で、何か一種特別な抑揚をつけながらいい出した、相変わらず相手の両手を握ったまま。「どうでしょう、もしいま企てるような……陰謀が、すっかり実現するものとしたら、それはいつ突発するでしょうなあ?」
「ぼくがなんで知るもんですか」とピョートルはいけぞんざいにいった。
 両方ともじっと互いに睨み合っていた。
「でも、およそ、大体」今度はいっそうあまったるい声で、カルマジーノフがいった。
「あなたが領地を売って、逃げ出す暇はありますよ」とピョートルはいっそういけぞんざいにいった。
 両方ともさらに鋭く睨み合った。
 沈黙の一分が過ぎた。
「今年の五月はじめに起こって、聖母祭([#割り注]十月一日[#割り注終わり])までに片がつきます」出しぬけにピョートルがこういった。
「いや、どうもまことにありがとう」相手の両手を握りしめながら、カルマジーノフはしみじみといった。
『鼠野郎、大丈夫、船から逃げ出すひまはあるよ!』通りへ出ながら、ピョートルは考えた。『ふん、あの「ほとんど国家的名士」が、ああして一生懸命に、日にちや時間まできいたうえ、ああ丁寧に答えをもらった礼をいうところを見ると、もういよいよぼくらも自分の実力を疑うわけにはいかないわい(彼はにやりと笑った)。ふむ……しかし、あの男はああいう仲間としては利口だよ。が……要するに、火事の前に船を逃げ出す鼠にすぎない。あんなやつに密告なんかできるものか』
 彼はボゴヤーヴレンスカヤ街なるフィリッポフの持ち家[#「ボゴヤーヴレンスカヤ街なるフィリッポフの持ち家」はママ]さして駆け出した。

[#6字下げ]6[#「6」は小見出し

 ピョートルはまずキリーロフの部屋へ入って行った。こちらはいつものとおり独りだったが、今日は部屋の真ん中で体操をしていた。つまり、足を広げたまま、両手を一種特別の方法で頭上たかく振り廻しているのであった。床には毬が転がっていた。朝からの茶がまだ片づけられないで、テーブルの上に冷たくなっていた。ピョートルはちょっと閾の上に立ちどまった。
「しかし、きみは恐ろしく健康を気にしますね」彼は部屋の中へ入りながら、大きな声で愉快そうにいった。「だが、なんという見事な毬だろう。ほう、恐ろしくはずむなあ。これもやはり体操のためですか?」
 キリーロフはフロックを着た。
「ええ、やはり健康のため」と彼はそっけなくいった。「お坐んなさい」
「ぼくはちょっと寄っただけなんですよ。が、まあ、坐ろうかな。健康は健康として、とにかくぼくはあの約束のことで、注意に来たんですよ。『ある意味において』われわれの期限も近寄って来るのでね」と拙い逃げを張りながら、彼は言葉を結んだ。
「約束とは?」
「約束とは? とはなんのことです?」ピョートルは思わずぴくりとした。彼はもう度胆を抜かれてしまった。
「あれは約束でも義務でもない。ぼくは何一つ自分を縛るようなことを言やあしない。それはきみの思い違いです」
「でも、まあ、きみ、それでどうしようというんです?」ピョートルはとうとう跳びあがった。
「自分の意志どおりに」
「もともとどおり」
「というと、どんな意味に解したらいいんでしょう? つまり、きみが以前どおりの考えでいる、というわけですか!」
「つまり、そうです。しかし、約束などはいっさいありません、以前だってなかったです。ぼくは何一つ自分を縛るようなことを言やしなかった。ただぼく自身の意志があったきりです。そして、今でもやはりぼく自身の意志があるきりです」
 キリーロフはずばずばと、気むずかしそうな調子で応対した。
「いや、承知です、承知です、きみの意志けっこう、ただその意志が変わってさえくれなけりゃ」得心のいったような調子で、ピョートルはふたたび腰を下ろした。「きみは言葉づかいに腹を立てるもんだから。きみは近頃、なんだか大変おこりっぽくなりましたね。だから、ぼくも訪問を避けるようにしてたんですよ。しかし、けっして違背はされまいと、信じきってはいましたがね」
「ぼくはきみが嫌いでたまらないんですよ。けれど、信じきっていてよろしい! もっとも、違背だの履行だのと、そんなものは少しも認めませんがね」
「だがね、きみ」とピョートルはまたぎくっとした。「ようく話しておかなきゃいけない、間違いのないようにね。ことは正確を要しますよ。なにしろ、きみはひどくぼくを仰天させたよ。話してもいいですか?」
「お話しなさい」キリーロフは片隅を凝視しながら、ずばりといった。
「きみはとうから自殺しようと決心してたでしょう……つまり、そういう観念をいだいておったでしょう。どうです、ぼくの言い方は正しいですか? 何か間違いはありませんか?」
「ぼくは今でも同じ観念をいだいています」
「けっこう。ところで、一つ注意してもらいたいのは、きみはだれにもこの決心を強いられたわけじゃありませんよ」
「当たり前ですよ、なんて馬鹿なことを」
「いいです、いいです。ぼくは恐ろしい馬鹿な言い方をしました。もちろん、そんなことを強制するなんて、馬鹿げきったことです。で、続けていうと、きみはまだ旧組織時代の会の一員だった。そして、きみはこのことをすぐ会員の一人に告白した……」
「ぼくは告白なんかしやしない。ただいっただけです」
「よろしい。まったくそんなことを『告白』するなんて、滑稽でさあね。懺悔式か何かじゃあるまいし。きみはただいったんです、いや、けっこう」
「いや、けっこうなことはありません。だって、きみの言い方はまったく煮えきらないからね。ぼくはきみに対してなんら説明の義務を持っていない。それに、ぼくの思想はきみなんぞにわかりゃしない。ぼくが自殺したいのは、そういう思想がぼくにあるからです。死の恐怖がいやだからです、そして……そして、きみなぞにわかることじゃないからです……きみ、なんです! 茶が飲みたいんですか? 冷たいですよ。まあ、ぼくは別のコップを持って来てあげましょう」
 ピョートルはなるほど急須に手を掛けて、からの容器《いれもの》をさがしていた。キリーロフは戸棚まで行って、きれいなコップを持って来た。
「ぼくは今カルマジーノフのところで朝飯を食ってきたんですよ」と客はいった。「それから、あの男の話を聞いて汗が出ちゃったが、ここへ走って来たもんだから、また汗をかいてしまった、どうもやたらに喉が渇いてたまらない」
「お飲みなさい。冷たい茶はいいですよ」
 キリーロフはまた椅子に腰を下ろして、またもや片隅を凝視し始めた。
「そこで、会ではこういう考えを起こしたんです」と彼は前と同じ声で語りつづけた。「もしぼくが自殺すれば、或いはそれが何かの役に立つかもしれない。きみらがここで何か仕出かして、犯人の捜索が始まった時、とつぜんぼくがピストル自殺をして、何もかも自分の仕業だという書置きを残せば、まあ、一年くらいきみたちに嫌疑がかからないだろう、とこういう注文なんでしょう」
「せめて二、三日でもいいですよ。一日の日も貴重なんだから」
「よろしい。この意味で、もしぼくにその気があれば少し待ってくれ、とこうきみがいった。で、ぼくは会からその時期をいって来るまで、待つことにしようと答えたのです。ぼくにとっては、どっちだって同じことだから」
「そう。しかし、忘れちゃいけませんよ、きみが書置きを書く時には、必ずぼくとの立会のうえにする。そして、ロシヤヘ帰って来てからは、ぼくの……まあ、つまり、ぼくの自由にまかせると、約束しましたよ。といって、もちろんこの件に関する範囲内で、その他の点に関しては、むろんきみは自由なんですがね」ほとんど愛嬌を交ぜるようにして、ピョートルはこうつけ足した。
「ぼくは約束しやしない、ただ同意しただけです。ぼくにとっては、どっちだっておなじことだから」
「ええ、それでけっこうです、けっこうです。ぼくはきみの自尊心を傷つけようという気なんて少しもないです、しかし……」
「何もこのことで自尊心なんか関係はありゃしない」
「しかし、おぼえておってください、きみの旅費として百二十ターレルを醵金しましたぜ。つまり、きみは金を受け取ったわけですよ」
「まるで違う」キリーロフはかっとなった。「金はそんなつもりじゃありません。そんなことのために金を取るものなんかありゃしない」
「時には取ることもありますよ」
「ばかをいうもんじゃありません。ぼくはペテルブルグから出した手紙で、断わっておきました。そして、ペテルブルグで百二十ターレル返したじゃありませんか、きみに手渡ししたんですよ……もしきみが自分で着服しなかったら、あっちへ送られたはずだ」
「いいです、いいです。ぼくは何も違ってると言やしません、送りましたよ。とにかく要点は、きみが以前と同じ考えでいるか、どうかということなんだから」
「同じ考えでいますよ。きみがやって来て、『よし』といえば、ぼくはすっかりそれを実行します、どうです、もうすぐですか?」
「そう日数はありませんよ……が、おぼえておってください、手紙はぼくと二人でこしらえるんですよ、その晩にね」
「その日だっていい。きみの話では、檄文の責任を引き受けるんでしたね」
「それから、ほかにもちょっと」
「ぼくはなんでもかでも引き受けやしないよ」
「どんなことを引き受けないというんです?」ピョートルはまたもやびくっとした。
「気の向かないことは。もうたくさん。ぼくはもうこの話はしたくない」
 ピョートルはやっとのことで自分を抑えて、話題を変えた。
「じゃ、別の話にしましょう」と彼はあらかじめ断わっておいて、「今夜、きみは会へ出席しますか? ヴィルギンスキイの命名日だから、それをだしに使って集まるんです」
「いやです」
「お願いだから出てください。人数と顔とで脅かさなきゃ……きみの顔は……まあ、手っとり早く言やあ、きみは宿命的な顔をしていますからね」
「そう思いますか?」とキリーロフは笑った。「よろしい、出席しましょう、ただし、顔のためじゃないがね。何時?」
「ああ、少し早目に、六時半、それでね、きみはそこへ行っても、じっと坐ったきり、幾人そこに人がいようと、だれとも話をしなくたってかまわない。ただね、紙と鉛筆を持って来るのを忘れないように」
「それはなんのため?」
「だって、きみはどっちだって同じことでしょう。これはぼくの特別なお願いなんだから。きみはもう本当にだれとも話をしないで、じっと坐って聴いてりゃいいんです。ただ時々なにか控えるような恰好をしてください。なに、何か絵でも描いてりゃいいんですよ」
「なんて馬鹿げたことを、いったいなんのために?」
「ちぇっ、どっちだって同じことなら……だって、きみはしじゅう、どっちだって同じことだといってるじゃありませんか」
「いや、なんのためか聞かしてもらいたい」
「実はこういうわけなんですよ。会員の一人で監督官をしてる男が、モスクワに当分とどまることになったんですが、ぼくは今夜ことによったら、監督官が来るかもしれないと、こう二、三の者に話したんです。だから、連中はきみを監督官と考える、といったようなわけでさあ。それに、きみがここへ来て、もう三週間になるから、連中はいつそう[#「いつそう」はママ]面食らうに相違ない」
「手品だ。モスクワのサークルに、監督官なんてものはありゃしない」
「まあ、なければないで、いいじゃありませんか。そんなものなぞ、どうだってかまやしない。ねえ、きみには関係のないことじゃありませんか。それがいったいどれだけきみの迷惑になるというんです? きみ自身、会の一員じゃありませんか」
「じゃ、皆にぼくを監督官だとおいいなさい。ぼくは黙って坐ってますよ。しかし、紙と鉛筆はお断わりします」
「なぜ?」
「いやだ」
 ピョートルはむっとして、顔まで真っ青にしたが、またしても、自分を抑えつけて、帽子を取りながら、立ちあがった。
「あいつ[#「あいつ」に傍点]はきみのところですか?」ふいに彼は小声でこういった。
「ぼくのところにいますよ」
「それはいい。ぼくがすぐ引き摺り出してやります。心配しないでいらっしゃい」
「ぼくは心配なんかしやしない。あの男はただ夜とまるだけなんです。婆さんは病院にいるので(嫁が死んだんです)、この二日ばかりぼく一人きりなんですよ。ぼくが垣根の板が一枚はずれる場所をあの男に教えてやったところ、あの男そこから這い込むようになった。しかし、だれにも見つかりゃしない」
「ぼくは今にあの男を抑えてやるから」
「でも、あの男は、寝場所くらいいくらでもあるようにいってる」
「嘘です、あいつはお尋ね者だが、ここにいれば、当分目にかからないんですよ。いったいきみはあの男と話をしてるんですか?」
「ああ、一晩じゅう。きみのことをさんざん悪くいってますよ。ぼくがある晩、あの男に黙示録を読んで聞かして、お茶をご馳走してやると、あの男は一生懸命に聴いていたっけ。本当に一生懸命に、夜っぴて」
「へえ、馬鹿馬鹿しい。じゃ、きみはあの男をキリスト教に入れようというんですか!」
「あれはそんなことをしなくても、初めからキリスト信者ですよ。心配しなくてもいい、あの男は殺しますよ。いったいきみはだれを殺させたいんです?」
「いや、ぼくはそんなつもりで、あの男をなにしてるんじゃない。ほかに目的があるんでね……ところで、シャートフはあのフェージカのことを知ってますか?」
「ぼくシャートフとは何一つ話もしなければ、会いもしない」
「腹でも立ててるんですか?」
「いや、別に喧嘩をしてるわけじゃない、ただ背中を向け合ってるばかり。あまり長くアメリカでいっしょにごろごろしてたもんだから」
「ぼくは今すぐあの男のところへ寄るつもりです」
「ご勝手に」
「ぼくはまたスタヴローギンといっしょに、あすこの帰りにここへ寄るかもしれませんよ。まあ、十時頃に」
「おいでなさい」
「ぼくはあの男といっしょに、重大要件を相談しなくちゃ……ときに、きみの毬を譲ってくれませんか。今となって、きみになんの必要があるんです? ぼくも体操がしたいんですよ。なんなら、金を払いますよ」
「まあ、いいから持ってお行きなさい」
 ピョートルは毬をうしろのかくしにしまった。
「ぼく、スタヴローギンのためにならぬようなことは、何一つきみにさせやしませんよ」客を送り出しながら、キリーロフはこうつぶやいた。
 こちらはぎょっとして彼を眺めたが、別に返事をしなかった。
 キリーロフの最後の言葉は、なみなみならずピョートルをまごつかせた。が、彼がまだその意味をさとる暇もないうちに、早くもシャートフの部屋へ導く階段に立っていた。彼は自分の不満げな顔つきを、愛嬌のある表情に変えようと苦心した。シャートフは家にいたが、少し具合が悪かった。彼は寝床で横になっていたが、服はそのままだった。
「や、これはしまった!」とピョートルは閾の上から叫んだ。「ひどく悪いんですか?」
 彼の顔の愛嬌のある表情は、急に消えてしまった。何かしら毒々しいものがその目に閃いた。
「いや、ちっとも」シャートフは神経的に跳ね起きた。「ぼくはちっとも病気じゃない。少し頭が……」彼はうろたえたようにさえ見えた。こういう客人の思いがけない出現は、すっかり彼を面食らわしたらしい。
「ぼくが来たのも、まさに病気なぞしていられないような用件なんですよ」とピョートルは早口に、なんとなく威を帯びた調子できり出した。「まあ、坐らしてもらおう(彼は坐った)。ところで、きみもそのベッドに坐ってください。そうそう。今日はね、ヴィルギンスキイの誕生日というていで、仲間のものがあそこへ集まるんですよ。もっとも、別にどうという色彩を帯びるわけじゃけっしてない。そういう手配がしてあるんですよ。ぼくはニコライ・スタヴローギンといっしょに出かけます。ぼくも今のきみの思想を知ってるから、もちろん、そんなところへ引っ張って行くはずじゃなかったんだが…もっとも、それはきみにいやな思いをさせたくないという意味なんで、けっして、きみが密告するだろう、などと考えてのことじゃありませんよ。ところが、結局、きみに出席してもらわなけりゃならんことになったんです。あすこへ行ったら、きみは仲間のものに会って、どういうふうに脱会するか、だれにきみの預り物を渡すか、そういうことを綺麗に決めようじゃありませんか。それは目立たぬようにするんです。ぼくがきみをどこか隅のほうへ引っ張って行きますよ。なにしろ大勢いるんだから、皆が皆に知らす必要はない。実のところ、ぼくはきみのおかげで口を酸っぱくしましたよ。しかし、今じゃ皆も同意したようです。ただし、いうまでもなく、きみが印刷機械といっさいの書類を引き渡す、という条件つきでね。そうしたら、きみはもう勝手にどこへなと大手を振って行けるわけです」
 シャートフは眉をひそめて、腹立たしげに聞いていた。さきほどの神経的な驚愕は、もうすっかりどこへやらいっていた。
「ぼくはどこの何者か知れない奴に、弁白なんかする義務を少しも認めない」と彼はずばりといい切った。「だれにもせよ、ぼくを自由にする権利なんか持った者はないのだ」
「とばかりもいきませんよ。きみにはいろんな秘密をうち明けてあるんだからね。きみはそういきなり手を切ってしまうなんて、そんな権限を持ってなかった。それに、きみは今まで一度も、そのことを明白に申し出なかったから、みんな曖昧な位置に立たされるんでね」
「ぼくはここへ来るとすぐ、明瞭に書面で申し出たじゃありませんか」
「いや、明瞭じゃないです」とピョートルは駁した。「たとえば、ぼくがきみに『光輝ある人格』と、それから二種類の檄文を送って、ここで印刷に付したうえ、請求されるまでどこかきみのところへ隠しておくように頼んだ時、きみはなんの意味もなさない曖昧な手紙といっしょに、それを返送してきたじゃありませんか」
「ぼくは真正面から印刷を拒絶したのです」
「そう、しかし、真正面からじゃない。きみはただ『能わず』と書いたきりで、どういうわけか、原因を説明しなかったじゃありませんか。『能わず』は『欲せず』と違いますからね。きみは単に外部的原因のためにできなかったのだ、とこうも考えることができます。つまり、われわれはこういうふうに解釈したので、きみはやはり会との関係持続を同意したもの、と見做していたんです。だから、今後またきみに何かをうち明けて、したがって、みずから危うするおそれもあったわけです。ここの連中は、こんなことをいってるんですよ、――きみは何か重要な情報をえて、それを密告せんがために、われわれを欺こうとしてるのだ、とね。ぼくは極力きみを弁護しながら、きみにとって有利な証拠物件として、例の二行ばかりの書面の返事を見せた。しかし、いま読み返して見ると、この二行の文句は明瞭を欠いている、欺瞞に陥れるおそれがあることを、ぼく自身も認めざるをえなかったのです」
「きみはあの手紙を、そんなに大切に保存しといたんですか?」
「保存しといたって、そんなことはなんでもない。今でもぼくもってますよ」
「ちぇっ、勝手にするがいい、畜生………」とシャートフは凄まじい剣幕でどなった。「きみたち仲間の馬鹿者らは、ぼくが密告したとでもなんとでも勝手に考えるがいい。そんなことをぼくが知るものか! ただきみたちがぼくにどれだけのことをなしうるか、ぼくはそれが見たいと思うよ!」
「きみをちゃんとブラックリストにのせて、革命が成功するやいなや、一番に首を吊し上げてしまうさ」
「それはきみたちが最上権力を獲得して、全ロシヤを征服した場合のことかね?」
「きみ、わらうのはおよしなさい。くり返していうが、ぼくはきみを弁護したんですよ。なんにしても、とにかく、今日は出席するようにおすすめします。いかさまな自尊心のために、役にも立たない口をきいて何になるんです。それより、仲よく別れたほうがいいじゃありませんか。それに、なんといっても、例の印刷機と古い活字と、書類の引渡しをしなきゃならない。つまり、このことを話そうというんです」
「行きますよ」もの思わしげに首をたれながら、シャートフは唸るようにいった。
 ピョートルは自分の席からはすかいに、じろじろ彼を見つめていた。
「スタヴローギンも出ますか?」ふいに首を上げながら、シャートフは問いかけた。
「間違いなく来ます」
「へ、ヘ!」
 二人はまたちょっと黙り込んだ。シャートフは気むずかしげに、いらいらした様子で薄笑いを洩らした。
「あのぼくがここで印刷を断わったきみのけがらわしい『光輝ある人格』は、もう印刷になったんですか?」
「なりました」
「やはりあれは、ゲルツェンみずからきみのアルバムに書いたのだといって、中学生どもをだましてるんですか」
「ゲルツェンみずからですよ」
 またもや二人は、三分間ばかり押し黙っていた。とうとうシャートフは寝床から起きあがった。
「さあ、もうぼくの部屋を出てくれたまえ。ぼくはきみといっしょに坐っていたくない」
「行くよ」むしろなぜか愉快そうにこういって、ピョートルはさっそくたちあがった。「しかし、たったひと言たずねたいことがある。どうやらキリーロフは、あの離れにたった一人ぼっち、下女も置かずに暮らしているようだね?」
「一人ぼっちだ。さあ、行きたまえ。ぼくはきみと一つ部屋にいられない」
『ふん、貴様はいま本当にいい人間なんだよ!』ピョートルは往来へ出ると愉快そうに考えた。『そして、今夜もいい人間になるんだよ。おれはいま貴様に、ちょうどそういう人間でいてもらいたいんだ。実に申し分なしだ。まったく申し分なしだ。とりも直さず、ロシヤの神の加護によるのだ!』

[#6字下げ]7[#「7」は小見出し

 どうやら彼はこの日方々駆け廻って、だいぶ骨を折ったものらしい。しかも、その骨折りが成功したに相違ない、――それは、彼が晩の正六時に、ニコライ・フセーヴォロドヴィチの家へ来た時の、得意らしい顔つきにも現われていた。しかし、彼はすぐ通してもらえなかった。ニコライはたった今、マヴリーキイといっしょに書斎へ閉じこもったばかりであった。この報らせはたちまち彼を不安に駆り入れた。彼は客の帰りを待つために、戸口のすぐ傍に坐りこんだ。話は聞こえるには聞こえたけれど、言葉はどうしてもつかめなかった。この訪問はあまり長くつづかなかった。間もなく騒々しい物音が聞こえて、恐ろしく鋭い声が高く響き渡ったと思うと、続いて戸がさっと開いて、マヴリーキイが真っ青な顔をして出て来た。彼はピョートルには気もつかず、急ぎ足に傍を通り過ぎてしまった。ピョートルはすぐに書斎へ駆け込んだ。
 二人の『競争者』の異常な短い会見、――今までの行きがかり上、とうてい成立しそうもなく思われながら、実際に実現されたこの会見に関しては、詳細な説明を避けるわけにいかない。
 それはこういう具合だったのである。食後ニコライが書斎の寝いすでうとうとしていると、突然アレクセイが入って来て、思いがけない客人の来訪を告げた。取り次がれた名前を聞くと、彼は座を躍りあがって、ほとんど信ずることができないほどであった。けれど、間もなく微笑が彼の唇に輝いた。――それは傲慢な勝利の微笑だったが、同時になんだか鈍い、合点のいかないような、驚異の微笑でもあった。入って来たマヴリーキイ・ニコラエヴィチは、この微笑にはっとしたようなふうであった。少なくも、とつぜん部屋の真ん中に立ちどまって、前へすすんだものか引っ返したものか、決しかねるようなふうだった。あるじはすぐに顔の表情を改めて、真面目な怪訝の色を浮かべながら、相手のほうヘ一歩すすみ寄った。こちらは差し伸べられた手を握ろうともせず、無器用らしい手つきで椅子を引き寄せると、坐れともいわないのに、主人よりさきに腰をかけてしまった。ニコライは寝いすへはすかいに座を占めて、マヴリーキイの顔を見つめながら、言葉を発しないで待ちかまえていた。
「もしできることなら、リザヴェータ・ニコラエヴナと結婚してください」とつぜん客は叩きつけるようにこう切り出した。それに、何よりおかしいことには、声の調子だけでは、頼んでいるのやら、推薦しているのやら、譲歩しようというのやら、もしくは命令しているのやら、かいもく見当がつかなかった。
 ニコライは依然として黙っていた。が、客はもう来訪の目的である要件をすっかりいってしまったらしく、返事を待つようにじっと相手を見つめていた。
「しかし、わたしの思い違いでないとすれば(もっとも、これは正確すぎるくらいの話ですが)、リザヴェータ・ニコラエヴナとあなたは、もう婚約ができてるのじゃありませんか」とついにスタヴローギンは口を切った。
「婚約して、固めまでしたのです」マヴリーキイはきっぱりした明瞭な調子で、相手の言葉を確かめた。
「あなた方はいさかいでもなすったのですか?……失礼なことをおたずねするようですが」
「いや、あのひとはわたしを『愛しもし尊敬もし』ています、これはあのひと自身のいったことなのです。あのひとの言葉は何より確かですからね」
「それはまったくそれに相違ありません」
「ところが、あのひとは、よしんば結婚の式上で聖壇の前に立っていても、もしあなたが声をかけたら、わたしを捨て、すべての人を捨てて、あなたのところへ走ってしまいます」
「結婚の式上で?」
「結婚式の後でも」
「お考え違いじゃありませんか?」
「いや、あなたに対するやみ難い憎悪の陰から、――強い真剣な憎悪の陰から、絶え間なく愛がひらめいています……気ちがいめいた……心底からの深い深い愛、――つまり、気ちがいめいた愛です! それと反対に、あのひとがわたしにいだいている愛、やはり愛の陰から、絶え間なしに憎悪がひらめき出ています、――限りなき憎悪です! 以前だったら、わたしはこんな……メタモルフォーズを理解するようなことはなかったのですが」
「が、それにしても、どうしてあなたは、リザヴェータ・ニコラエヴナの一身について、指図がましいことをいいに来られたのか、それがわたしは不思議ですね。そういう権利を持っておられるんですか? それとも、あのひとが委任されたのですか?」
 マヴリーキイは顔をしかめて、ちょっと首をたれた。
「それはあなたとして、ただの辞令にすぎないです」とふいに彼はいった。「うまくやっつけてやったという、勝ち誇った言葉です。あなたは言外の意味を汲み取ることのできる人だと、こうわたしは信じています。いったいこの場合、ちっぽけな虚栄心など入り込む余地があるでしょうか? いったいあなたはこれでも満足できないのですか? いったいまだこのうえに、恥の上塗りをしなくちゃならないのですか、屋上屋を架する必要があるのですか? よろしい、それほどわたしの屈辱が見たければ、わたしは恥の上塗りをしましょう、――権利なぞもっていません、委任などもあるべきはずがない。リザヴェータ・ニコラエヴナはなにもごぞんじないのです。ところが、許婚《いいなずけ》の夫はもうすっかり性根を失くしてしまって、癲狂院にでも送られそうな有様になっています。おまけに、それでもまだ足りないで、あなたのところへそれを報告に来ているのです。世界じゅうで、あのひとを幸福になしうるのは、あなたをおいてほかにありません。そしてまた、あのひとを不幸になしうるのは、わたし一人なんです。あなたはあのひとを争い取ろうと、しきりにつけ廻しておられます。しかし、なぜだが知れませんが、結婚しようとはなさらない。もしそれが外国で始まった恋人同士の喧嘩で、その片をつけるためにわたしを犠牲に供しようというのなら、どうかそうしてください。あのひとがあまり不幸な身の上だから、わたしはそれを見るに堪えないのです。わたしの言葉は許可でもなければ命令でもありません。だから、あなたの自尊心も傷つけられるわけはありますまい。まああなたがわたしに代わって聖壇の傍に席を占めたければ、あなたはわたしの許可なぞ受けないでも、そのとおりにされてかまわないのです。そうすれば、わたしは何もこんな気ちがいじみたことをいうために、ここへ来る必要はもちろんなかったのです。ことに、わたしの結婚は今のわたしの行為によって、ぜんぜん不可能になってしまったのですからね。わたしは卑劣漢となってまでも、あのひとを祭壇へ導くことはできません。わたしがここでしていることは、わたしがあなたにあのひとを売るということは、あのひとにとって不倶戴天の仇に売るということは、わたしの目から見ると、いうも愚かですが、とうていゆるすべからざる卑劣な振舞いですからね」
「あなたはわたしたちの結婚のとき自殺しますか?」
「いや、ずっと後です。わたしの血であのひとの晴れの衣裳を汚して何にしましょう。もしかしたら、まるで自殺しないかもしれません、今も、また今後も」
「あなたはたぶんそういって、わたしを安心させようと思ってるのでしょう」
「あなたを? 余計な血が一しぶき飛んだからって、それでびくともするあなたでしょうか?」
 彼は真っ青になった。その目はぎらぎら輝いた。つかの間の沈黙が続いた。
「失礼なことをおたずねしてすみませんでした」とさらにスタヴローギンは口を切った。「中でも二、三の事柄は、全然おききする権利を持っていなかったのです。しかし、ただ一つのことだけは、十分おたずねする権利があるように思われます。ほかじゃありませんが、あなたはどういう根拠があって、リザヴェータ・ニコラエヴナにたいするわたしの感情を、ああいうふうに結論なすったのですか。つまり、わたしがいうのは、その感情の程度なんです。それについて、あなたに確信があったからこそ、こうしてわたしのところへやって来て……そして、ああいう勧告の冒険をあえてなすったのでしょう」
「なんですって?」マヴリーキイは心持ちぴくりとした。「いったいあなたは、あの人を獲ようとしていたんじゃないのですか? 獲ようと努めてるんですか? 獲たいと思ってるんじゃないのですか?」
「全体として、わたしは婦人に対する自分の感情を、その当人以外だれであろうとも、第三者に口外するわけにいきません。失礼ですが、それが人間機能の不思議な性質なんですから。その代わりほかのことなら、何もかもすっかり本当のことを申します。わたしは妻帯の身です。だから結婚したり、女を『獲ようとしたり』することは、不可能なんです」
 マヴリーキイはもうすっかり仰天してしまって、肘掛けいすの背によろめきかかった。そして、しばらくのあいだ身じろぎもせず、スタヴローギンの顔を眺めていた。
「これはどうだ。まるでそんなことは思ってもいなかった」と彼はつぶやいた。「あなたはあの時、あの朝、結婚してないといわれたので、わたしはそのとおり信じていました、結婚してはいられないんだと……」
 後は恐ろしくあおくなった[#「12381」はママ]。とつぜん彼は拳を固めて、力まかせにテーブルを撲りつけた。
「もしきみがこんな告白をした後までも、やはりリザヴェータ・ニコラエヴナにつきまとって、あのひとを不幸に落とすようなことがあったら、ぼくはきみを塀の下の犬のように、棒で撲り殺してしまうから!」
 こういうなり、彼は躍りあがって、足早に部屋を出てしまった。いきなり駆け込んだピョートルは、あるじがまるで思いがけない機嫌でいるのを発見した。
「ああ、きみですか!」とスタヴローギンはからからと高笑いした。それは、矢も楯もたまらぬ好奇心にかられて駆け込んだピョートルの恰好が、おかしくて笑ったにすぎないらしい。
「きみは戸口で立ち聴きしてたんでしょう? ちょっと待ってください、きみはなんの用事で来たんでしたっけね? なんだかきみに約束したはずなんだが……ああそう、思い出した、『仲間』の所へ行くんだっけ! 行きましょう、たいへんけっこう。今のところ、これより好都合なことは、きみも考えつくわけにはいかなかったろうよ」
 彼は帽子を取った。二人はさっそく家を出た。
「あなたは『仲間』が見られるからって、もう今から笑ってるんですね」愉快そうにちょこちょこしながら、ピョートルはこういった。後は、時には狭い煉瓦の歩道を、つれと並んで歩こうと骨折ったり、時には車道のほうへ駆けおりて、ぬかるみの真ん中へ踏み込んだりした。それはつれのニコライが、自分ひとり歩道の真ん中を歩きながら、自分の体でいっぱい幅をしているのに、まるで気がつかなかったからである。
「ちっとも笑ってやしない」とスタヴローギンは大きな声で、愉快そうに答えた。「それどころか、あすこに集まってるきみの仲間は、だれよりも一番まじめな人たちだと、信じてるんですよ」
「『気むずかしい鈍物ども』でしょう。これはいつかあなたのいった評言ですよ」
「でも、人によっては、『気むずかしい鈍物』ほど愉快なものはないね」
「それは、あのマヴリーキイのことをいってるんでしょう! あの人は今あなたに婚約の女を譲りに来たんでしょう、それに相違ない、ね? 実は、ぼくが間接に、あの男をけしかけたんですよ、驚いたでしょう。しかし、あの男が譲ってくれなけりゃ、ぼくらは自分であの男の手から取るだけでさあ、――ね?」
 こういう小細工を弄するのが、危険だということは、むろん百も承知しながら、ピョートルはいつも興奮に駆られると、いっそ何もかも犠牲にしたってかまわない、未知の境に立たされるよりはましだ、という気になるのであった。ニコライはただからからと笑った。
「じゃ、きみは今でもやはり、ぼくの手伝いをするつもりなんですか?」と彼はたずねた。
「もしあなたのお声がかりがあったら。しかしねえ、ここに一つ何よりうまい方法があるんですがね」
「きみの方法なんかちゃんとわかってる」
「へえ、しかし、これは当分秘密です。ただね、おぼえておってください。この秘密は金がかかるんですよ」
「いくらかかるかということまでわかってらあ」とスタヴローギンは口の中でつぶやいたが、やっと押しこたえて、黙ってしまった。
「いくらかかるか? あなたはなんといったのです?」とピョートルは躍りあがった。
「ぼくはね、きみなんかその秘密とやらを持ってどこなと行くがいい、とこういったのさ! それよりか、きみ、あすこへどういう人が来るんです? むろん、命名日に呼ばれて行くってことは、ぼくもちゃんと知ってますがね、いったいだれだれがやって来るんです?」
「ああ、それはもう思いきって有象無象の集まりなんでさあ! キリーロフもやって来ますよ」
「みんな各支部の会員ばかり?」
「ちょっ、馬鹿馬鹿しい、あなたもずいぶんせっかちですねえ! まだ支部なんてものは、一つも成立してやしませんよ」
「へえ、だって、きみはずいぶん檄文を撒き散らしたじゃありませんか?」
「いまぼくらが出かけているところには、皆で四人だけ会員がいます。あとの連中はみんなあるものを待ちかまえながら、互いに競争で探偵し合っては、そいつをぼくに報告するんですよ。なかなか有望な連中です。とにかく、みんなまだ材料にすぎないんだから、こいつを組織立てて、整理しなきゃならないんです。もっとも、あなたは自分で規約を書いたんだから、あなたに説明なんかする必要はありませんね」
「どうです、なかなかうまく進行しませんか? 一頓挫きたしたんですか?」
「進行? たやすいことこのうえなしでさあ。一つあなたを笑わしてあげましょうか。まず何より彼らにききめがあるのは、――ほかでもない官僚式です。官僚式以上に、よく利くものはありませんね。ぼくはわざと官等や職務を考え出してるんです。秘書官もあれば、秘密監視もあり、会計係もあれば、議長もあり、記録係もあれば、その助手もありというふうだ、――それが大変お気に召して、恐ろしく歓迎されたんですよ。それに次ぐ力は、もちろん感傷主義です。ねえ、ロシヤに社会主義がひろまったのは、主として感傷主義のためですからね。ただ困ったことには、例の咬みつき少尉みたいな連中が出て来ます。ちょいと油断してると、すぐもう鎖を切ってしまうんですからね。その次は本当の詐欺師連です。これはなかなかいいです。時によっては、大いに役に立ちます。が、その代わりこの連中には、ずいぶん時間が潰れるんです。ちょっとも油断なしに、監督しなくちゃなりませんからね。ところで、最後に最も重要なる力は、――ほかじゃありません、自分自身の意見に対する羞恥です、――これはいっさいを結合させるセメントです。実に素晴らしい力ですぜ! 実際、だれ一人の脳中にも、自己の思想というものが一つも残らなくなったとは、いったいまあだれが努力した結果なんでしょう? いったいどこの『感心な男』の仕業なんでしょう? まるで恥辱のように思ってるんですからねえ」
「そういうわけなら、きみはなんだってそんなにやきもきしてるんです?」
「でも、何をするでもなく暢気に寝そべって、人のすることをぽかんと口を開けて見てるようなやつは、引っかけて来ずにいられないじゃありませんか? どうもあなたは成功の可能を、真面目に信じていないようなふうですね。なに、信念はあるんです。ただ欲望が必要なんですよ。つまり、ああいう連中が相手だから、成功が可能なんです。ぼくはあえていいますがね、あの連中なら火の中でも潜らしてみせますよ。ただお前の自由思想はまだ不十分だ、とこうどなりつけさえすりゃいいんでさあ。馬鹿者どもはぼくが中央本部だの、『数限りない支部』だのと出たらめをいって、この町の連中をだましたと非難しています。現在あなたも、いつかそのことでぼくを責めたでしょう。しかし、それにいったいどんな嘘があるのです。中央本部はぼくとあなたです。支部なんかはいくらでもできまさあね」
「それがどれもこれも、あんなやくざ者ばかりだ!」
「材料ですよ。あれだって役に立つこともあります」
「で、きみはやはりぼくを当てにしてるんですか?」
「あなたは領袖です、力です。ぼくはただあなたの傍についてる一介の秘書官にすぎません。ねえ、ぼくらはあの小舟に乗り込むんですよ。かえでの櫂に絹の帆張りで、艫《とも》には麗《くわ》し乙女子の、リザヴェータのきみぞ坐したもう……とかなんとかいうんだったね、あの歌は……ええ、どうだっていいや」
「つまっちゃった」とスタヴローギンは高笑いした。「いや、それよりももっといいお話をしよう。きみはいま指を折って、会を成立させる力を数えましたね。その官僚式とか感傷主義とかいうものも、むろん立派な糊に相違ないだろうが、まだ一つもっともいいものがある。ほかではない、四人の会員をそそのかして、もう一人の会員を、密告のおそれがあるてなことをいって、殺さすんですよ、そうすると、きみはすぐさま、その流された血によって、四人の者を固く一つ絆《きずな》に繋ぐことができる。彼らはもうすっかりきみの奴隷になりきって、叛旗を翻すこともできなければ説明を要求することもできなくなってしまいますよ。ははは!」
『だが、貴様は……だが、貴様はその言葉を、おれから買い戻さなくちゃならないぞ』とピョートルは心の中で考えた。『今夜すぐにもそうさしてみせるから。貴様はあまり無遠慮すぎるぞ』
 こういうふうに、もしくはほとんどこういうふうに、ピョートルはこころの中で、考え込まざるをえなかった。とはいえ、二人はもうヴィルギンスキイの家に近づいていた。
「きみはもちろん、あの連中にぼくのことを、外国か何かからやって来た、インターナショナルと関係のあるメンバーのように触れ込んだね、監督官かなんぞのように?」ふいにスタヴローギンはこうたずねた。
「いや、監督官じゃありません。監督官になるのはあなたじゃありません。あなたは外国から来た創立委員で、いろいろ重大な機密を知ってる、――これがあなたの役廻りなんです。あなたはもちろん何か話すでしょうね?」
「それはきみどういうところから決めたんです?」
「もうこうなった以上、話すべき義務がありますよ」
 スタヴローギンは驚きのあまり、街燈からほど遠からぬ往来の真ん中に立ちどまった。ピョートルは大胆にも、平然と相手の視線をじっと受け止めた。スタヴローギンはぺっと唾を吐いて、またさっさと歩き出した。
「で、きみは何を話すんですか?」とつぜん彼はピョートルに問いかけた。
「いや、ぼくはまあ、あなたの話でも聞いてましょうよ」
「こん畜生! きみは本当にぼくに暗示を与えたよ!」
「どんな?」とピョートルは飛び出した。
「いや、たぶんあちらで話すでしょうよ。しかし、その代わり後できみに仕返しをしますよ。しかも、うんと仕返しするんですよ」
「ああ、それで思い出したが、ぼくはさっきカルマジーノフにこういったんですよ、――つまり、あなたがカルマジーノフのことを、あの男はぶん撲ってやらなけりゃならん、それも形式的なものじゃなくって、百姓かなんぞ撲るように、本当に痛い目を見せてやらなきゃならん、とこんなことをいってたってね」
「だって、ぼくは一度もそんなことを言やしませんよ、は、は!」
「なに、かまやしませんよ。〔Se non e` vero〕(本当でないにしても)……」
「いや、ありがとう、心から感謝します」
「ところでねえ、まだカルマジーノフがこんなことをいうんですよ。われわれの教義は、本質上、廉恥心の否定だ、そして破廉恥に対する公然の権利ほど、ロシヤ人を釣るいい餌はない、とこういうのです」
「名言だ! 金言だ!」とスタヴローギンは叫んだ。「すっかり図星だ! 破廉恥に対する権利、――なるほど、これじゃみんなわれわれのほうへ帰順しちゃって、一人も残るものはなくなってしまうだろう! ときに、ヴェルホーヴェンスキイ君、きみは高等警察の廻し者なんですか、え?」
「そんな疑問を心にいだいている人は、けっしてそれを口ヘ出しゃしません」
「そりゃそうだ。しかし、ぼくらは内輪同士じゃありませんか」
「いや、今のところ高等警察の廻し者じゃありません。もうたくさん、来ましたぜ。さあ、スタヴローギンさん、一つあなたの顔の造作をこしらえてください。ぼくはあの連中のところへ出る時、いつもやるんです。なるべく陰気らしい様子をすればいいのです。ほかになんにもいりゃしません。ごく簡単な細工でさあ」

[#3字下げ]第7章 仲間[#「第7章 仲間」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 ヴィルギンスキイはムラヴィーナヤ街にある自分の家、といって、つまり、細君の持ち家に暮らしていた。木造の平屋建てで、別に同居人というものはなかった。主人の誕生日というふれ込みで、十五人からの客が集まったが、ありふれた地方の誕生日の集まりらしいところはいっこうなかった。ヴィルギンスキイ夫婦は共同生活を始めたそもそもから、命名日に客を集めるのは馬鹿げている、それに『何も嬉しがることは少しもないじゃないか』ということに、ぴしっと決めてしまったのである。この二、三年に二人の者は自分のほうで、もうすっかり社会から遠ざかってしまった。彼は相当才能もあって、『気の毒なやくざ者』などというような人物ではなかったが、なぜか世間では彼のことを、孤独を好んで、『高慢ちきな』ものの言い方をする男のようにいっていた。マダム・ヴィルギンスカヤにいたっては、産婆を商売にしているのだから、夫が将校相当の官位を持っているにもかかわらず、すでにそれ一つだけでも社会の一段ひくい階級に立って、坊主の家内より下に見られているわけだが、彼女の態度にはその使命に相当した、へりくだった心持ちはもうとう見受けられなかった。ところが、例のまやかし者のレビャードキン大尉と、馬鹿馬鹿しい関係を結んだうえ、それをば主義から出たことだとかなんとかいって、ずうずうしくも露骨な振舞いをして以来、町の婦人連の中で一ばん気位の低い人たちでも、一方ならぬ軽蔑の目をもって顔をそむけてしまった。けれど、マダム・ヴィルギンスカヤはそういうふうのことをも、これこそ自分の願うところだというような態度であしらっていた。
 しかし、ここに注意すべきは、この厳格な貴婦人たちもただならぬ体になると、この町にいるほかの三人の産婆をさし措いて、なるべくアリーナ・プローホロヴナ(つまり、マダム・ヴィルギンスカヤ)にかかりたがるのであった。郡部のほうからでさえ、地主あたりが迎えに来るという有様で、異常な場合における彼女の知識と技術と、そして運強いことが、すっかり信じ込まれたのである。で、彼女もしまいには、一ばん金持ちの家でなければ、出入りしないようになってしまった。もちろん、金は強欲といっていいほど好きなのだった。十分わが力量に自信ができると、彼女はもう少しの遠慮もなく、わがまま一杯に振舞った。ことによったら、わざとかもしれないが、上流の立派な家に出入りしながら、まあなんだか聞いたこともないような、ニヒリスト流の無作法な振舞いや、『すべての神聖なるもの』に対する冷笑などで、神経の弱い産婦の荒胆をひしぐのであった。しかも、『神聖なるもの』のことさら必要な瞬間を選んでやっつけるのだ。町の医者のローザノフ(これも産科医)の証言によると、あるとき産婦が苦痛に堪えかねてさけびながら、全能の神の御名を呼んでいるとき、ヴィルギンスカヤは思いがけなく、まるで鉄砲の火蓋でも切ったように、そうしたふうな冒涜の言葉を吐いた。ところが、これが産婦に強い驚愕をひき起こして、かえって分娩を早めたという話である。
 もっとも、ニヒリストとはいいながら、ヴィルギンスカヤも必要に応じては、単なる上流社会の風習のみか、きわめて古い迷信的な習慣すらも、けっしておろそかにするようなことはなかった。が、それはこういう習慣によって、利益をうる場合に限るのであった。たとえば、自分の取り上げた赤ん坊の洗礼式などは、どんなことがあっても、のがしっこなかった。そういう時、彼女は尻尾のついた緑色の絹の服を着て、入毛をうねらしたりちぢらしたりしてやって来た。そのくせ、ふだんは自分のお引摺りを痛快に感じるほどの女であった。聖なる儀式の行なわれる間じゅう、いつも坊さんがまごつくほど、『高慢ちきな顔つき』をしているが、式がすんでしまうと、必ず自分でシャンパンを注いでまわる(つまり、そのためにお洒落をして来るのだ)。そして、もし彼女にご祝儀をやらないで杯を取ろうものなら、それこそ大変な騒ぎである。
 今夜ヴィルギンスキイのところに集まった客は(大抵みんな男だった)、偶然どこからか寄せ集めたような、一種異様な風体をしていた。摘物《ザクースカ》もなければ、カルタもなかった。恐ろしく古い空色の壁紙を張った客間の真ん中には、二つのテーブルがくっつけ合って据えられ、その上から大きくてたっぷりはしているが、あまりきれいでないクロースを掛けてあった。テーブルの上には湯沸《サモワール》が二つたぎっていた。二十五のコップをのせた大きな盆と、男女学生を置いた厳格な寄宿舎にでもありそうな、ありふれたフランスパンを薄く切ったのを山ほど盛った籠が、テーブルの一方のはじを占領している。三十恰好の老嬢が茶を注いでいた。これは、女あるじの姉に当たる、眉のない、白っぽい毛をした、無口な、ひねくれた女で、新しい思想にも共鳴していた。主人のヴィルギンスキイさえ家庭内の生活では、いたくこの女を恐れている。
 部屋の中には、つごう三人の女がいた。女あるじと、眉なしの姉と、ペテルブルグからやって来たばかりの、主人ヴィルギンスキイの親身の妹、――という顔触れだった。アリーナ・プローホロヴナは、顔だちもさして悪くない、二十七ばかりの押出しの立派な婦人だったが、いくぶん頭をばさばささして、かくべつ晴着でもないらしい、青みがかった毛織の服を着込んでいた。大胆な目つきで客を見廻しながら、かまえ込んでいる様子は、『見てください、わたし何も恐ろしいものはないんですから』ということを、知らせたくてたまらないらしかった。きょう着いたばかりのヴィルギンスカヤ嬢、――例のニヒリストの女学生は、やはり相当に美しい顔だちだったが、脂が廻って肉づきがよく、まるで毬みたいにころころしていた。恐ろしく赤い頬っぺたをして、背はあまり高くなかった。何やら書類を巻いたものを手にしながら、まだ道中着のまま、アリーナの傍に陣取って、さもじれったそうな、躍りあがるような眼ざしで、きょろきょろ一座を見廻していた。あるじのヴィルギンスキイは、今夜すこし気分がすぐれなかったが、それでもやはり客間へ出て来て、ティー・テーブルの前なる肘掛けいすに腰を下ろした。客一同も同様に座に着いていた。こうして一つのテーブルを囲み、きちんと行儀よく椅子に腰かけた一座の様子には、いかにも何かの会議らしい気分が感じられた。見受けたところ、一同は何やら待ち設けているらしかった。そして、待っている間に、声高な調子ではあるが、なんとなくよそごとらしい会話を続けていた。スタヴローギンとヴェルホーヴェンスキイが姿を現わした時、一座は急にぴったりと鳴りを静めた。
 ここでわたしは叙述の正確を期するために、ちょっとした説明を加えようと思う。
 わたしの考えでは、これらの人々は、実際なにか特別耳新しいことを聞き込むつもりで、それを楽しみに集まったものらしい。しかも、前もって予告を受けて、集まったものに相違ない。彼らはこの古い町でもことに濃厚な赤色を呈した、自由主義の代表者なのであった。そして、ことさらこの『集会』のために、きわめて慎重な態度をもって、ヴィルギンスキイが取捨選択したのである。もう一つ断わっておくが、この連中のある者は(もっとも、ごく少数な人たちである)、今まで一度もこうした集会に出席したことがなかった。もちろん大多数のものは、なんのためにこんな通知があったのか、はっきり知らないくらいだった。もっとも、彼らはすべてその当時ピョートルを、臨時に密使としてロシヤヘ帰って来た海外全権委員のように考えていた。この想像はどういうわけか、間もなく正確無比なものとされ、かつ自然の結果として、人々の気に入ったのである。
 とはいえ、誕生日の祝いを口実に集まったこの社会人のむれの中には、はっきりとある任務を依頼された人も幾たりかあった。ピョートルはもうこの町へ来てから、モスクワや郡部の将校仲間で、すでにできあがっているような、『五人組』を組織してしまったのである。ついでながら、この『五人組』はX県にもできていたそうである。五人組は今も大テーブルに向かって座を占めていたが、きわめて巧妙に、平々凡凡たる顔つきをとりつくろっているので、だれ一人そんなことに気のつくものはなかった。もはや今では、秘密でもなんでもないからいってしまうが、それは第一にリプーチン、次にあるじのヴィルギンスキイ、ヴィルギンスカヤ夫人の弟にあたる耳の長いシガリョフ、リャームシン、それから最後に、トルカチェンコという奇妙な男だった。もう四十を越した年輩で、ロシヤ民衆――主として悪党や泥棒――の偉大な研究者として知られていた。ことさら居酒屋ばかり巡歴して(もっとも、これは民衆研究のためばかりでない)、汚い服や、タールを塗りこくった兵隊靴や、妙に目に皺を寄せたずるそうな顔つきや、気取った俗語などを自慢にして、仲間にひけらかしている男だった。以前リャームシンは一度か二度ほど、この男をスチェパン氏のところの集まりに連れて行ったことがあるが、別に大した印象も残さなかった。この男が町へ姿をあらわすのは、特に職がない時で、普通は鉄道などに勤めていた。
 この五人組は、自分らこそロシヤ全国に散在している何百何千という同じような五人組の一つだ、そして自分たち一同はある偉大な、とはいえ、秘密の中央団体の意志で動き、その中央機関はさらに欧州におけるインターナショナルと有機的に連絡を保ってるのだ、というおめでたい信念をいだいた第一の集団であった。しかし、残念ながら、彼らの間にも内輪もめが現われ始めたことを、認めざるをえない。それはこういうわけである。彼らはすでに春ごろから、初めトルカチェンコによって、次によそから来たシガリョフによって、あらかじめ予告されていたピョートルの到着を、待ちくたびれていたので、彼から何か異常な奇蹟のようなものを期待して、いささかの批判も反省もなしに、二つ返事で即座に結社へ入ったのである。けれど、五人組が成立するやいなや、さっそく彼らは腹を立てたらしい様子である。しかも、その原因は、わたしの想像するところ、自分たちがあまり速く承知してしまったからである。もちろん、彼らは後で『意気地がなくて入らなかったのだ』などといわれたくないために、寛大な羞恥心から入会したわけなのだが、それにしても、いま少し自分たちの立派な勲功を、ピョートルに尊重してもらいたかった。少なくもお礼として、何か非常に重大な意義を帯びた、逸話でも話すのが当然である。が、ピョートルは、彼らの道理至極な好奇心をけっして満足させようとせず、余計なことは何一つしゃべらなかった。そして、目に見えて厳格な、おまけに人を馬鹿にしたような態度で、彼らを遇するのであった。これがすっかり五人の者に癇癪を起こさせてしまった。シガリョフなどはほかの五人組を焚きつけて、『説明を要求しよう』といきまいた。しかし、それはもちろん、今ここで、――はたの者の大勢あつまっている、ヴィルギンスキイの家でいうのではない。
 はたのものといえば、もう一つわたしの感じたことがある。前に述べた五人組の仲間は、この晩ヴィルギンスキイの家に集まった客の中に、何か自分たちの知らぬほかの団体に属したものがいはしないか、とこんなことを疑っているのであった。しかも、この団体はやはり秘密な性質のもので、同じくヴェルホーヴェンスキイの手によってこの町に組織されたものと信じていた。で、結局、この席に集まったすべての者は、互いに相手のはらを探り合って、互いに妙な気取った態度を持し合っていた。こういう事情は、この集合の席になんとなくちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]な、いくぶん小説じみた気分を与えたのである。もっとも、中には全然そういう疑惑の圏外に立っている人もあった。たとえば、ヴィルギンスキイの近い親戚に当たる現役少佐などがそうであった。彼はごくごくナイーヴな人間で、今夜も別に招待されたわけではないが、自分から命名日の祝いと称してやって来たので、どうしても断わるわけにいかなかったのである。しかし、夜会のあるじは平気だった。『なに、大丈夫、密告などするものか』と多寡をくくっていたからである。生まれつきのろまな性質にもかかわらず、これまでしじゅう、極端な自由主義者の出入する場所をうろつき廻るのが好きなのであった。自分では別に同感しているわけではないが、人の話を聴くのが大好きなので。それに、幾分うしろ暗いところもあった。というのは、若い時分『警鐘《コロコル》』([#割り注]ゲルツェンが英国で発行した雑誌[#割り注終わり])と幾種類かの檄文を、倉に入れても余るほど取り次いだことがあった。もっとも、自分ではページをめくって見るのも恐れたくせに、その取次を断わるのはこの上もない卑怯なことと思い込んだのである、――ロシヤにはこういう人間が、今でもたまには見つかる。
 その他の客は、いらだたしいほど圧迫された高潔な自尊心の所有者といったタイプでなければ、熱しやすい青春期の最初の高潔な発作を感じているタイプであった。中には、二、三人の学校教師もあった。一人はもう四十五ばかりのびっこの中学教師で、恐ろしく皮肉な、人並みはずれて虚栄心の強い男だった。二、三の将校もいたが、中の一人はごく若い砲兵将校だった。これはつい近頃、ある陸軍の学校を出て、この町へ来たばかりではあり、恐ろしく無口な少年なので、まだだれとも知己を結ぶ暇もなかったのに、今夜とつぜんヴィルギンスキイのところに現われて、鉛筆を手にかまえ込んでいる。そして、ほとんど話にも口を出さず、絶え間なく手帳に何やら書き留めているのであった。一同はむろんそれを見ていたが、なぜか気がつかない振りをしようと努めていた。そこにはまたリャームシンとぐるになって、聖書売りの女の籠に猥雑な写真を押し込んだのらくら者の神学生もいた。大柄な若いもので、磊落らしいと同時にうさん臭そうな素振りのうえに、いつも人のあらでもさがしているような微笑を浮かべ、自分ほどえらいものはないぞというような、得々たる落ちつき払った顔つきをしていた。それからまた、なんのためか知らないけれども、この町の市長の息子も出席していた。例の年に似合わずすれからした不良少年である。この男のことは、可憐な中尉夫人のできごとを話す時、すでに説明しておいた。彼は一晩じゅうだまり込んでいた。それから、最後に一人中学生がいた。並みはずれて熱しやすい、髪をくしゃくしゃに掻き乱した、十八ばかりの少年で、自己の尊厳を傷つけられた若者といったようなふうで、沈んだ顔つきをしながら腰かけていたが、見受けたところ、自分の十八という年が苦になってたまらないらしい。この小わっぱが、中学の上級に組織されていた、ある陰謀団の団長になっていることが後でわかって、一同をあっといわしたものである。
 わたしはシャートフのことをいわなかった。彼はテーブルのうしろのほうの隅に陣取り、椅子を人より少し前へ引き出して、じっと足もとを見つめながら、陰気くさく黙り込んでいた。茶もパンも辞退して、しじゅう手に帽子をつかんだまま控えている様子は、おれは客じゃなくて、用事で来ただけだから、気さえ向けばすぐ立って出てしまうぞ、ということを知らせるつもりらしかった。彼の傍からほど遠からぬところに、キリーロフも座を占めていた。同様に押し黙っていたが、足もとなど見つめてはいず、それどころか、例の光のない据わって動かぬ目で、話し手の顔を一人一人穴のあくほど見つめながら、いささかの興奮も驚異の色もなく傾聴していた。初めて彼を見る客の二、三は、もの案じ顔に盗むように、まじまじと彼をうち守っていた。
 ヴィルギンスカヤ夫人が五人組の存在を知ってるかどうか、確かなことはわからなかったが、わたしの想像では、何もかも知っているらしかった。つまり、夫の口から洩れたのである。女学生はもちろん、なんにも関係していなかった。彼女にはまた自分の心配があった。彼女はほんの二、三日ここに逗留して、それから、大学所在地を一つ一つ歴訪しながら、先へ先へと進んで行く計画だった。それは、『貧しい大学生の苦しみに参与して、彼らに抗議を提出させよう』というのである。彼女は石版刷の宣伝書を幾百枚か持っていたが、それはどうやら彼女自身の起草に係るものらしい。ここに注意すべきは、例の中学生が、一目この女学生を見るやいなや、さながら不倶戴天の仇のように憎み出した一事である。そのくせ、中学生が彼女を見るのは生まれて初めてだし、彼女とてもご同様なのであった。少佐は彼女の親身の叔父に当たっていた。きょう会ったのは十年振りなのである。スタヴローギンとヴェルホーヴェンスキイが入って来たとき、彼女の頬は苺のように真っ赤になっていた。たったいま叔父を相手に、婦人問題に関する主張の相違で一議論やったばかりなのである。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 ヴェルホーヴェンスキイはほとんどだれにも挨拶せず、目立って無作法な恰好で、上席の椅子にどかりと身を投げた。その顔つきは気むずかしげといおう[#「といおう」はママ]より、むしろ傲慢なくらいだった。スタヴローギンは丁寧に会釈したが、一同は二人が来るのばかり待ちかねていたくせに、みんな号令でもかかったように、二人の姿にほとんど気のつかない振りをしていた。スタヴローギンが席に着くやいなや、主婦は厳めしい態度でそのほうへ振り向いた。
「スタヴローギンさん、お茶をあがりますか?」
「いただきましょう」とこちらは答えた。
「スタヴローギンさんにお茶」と彼女は注ぎ手に号令をかけた。「あなた、あがりますか?」(これはヴェルホーヴェンスキイにいったので)
「むろんもらいますとも、そんなことをお客にきく人がありますか? それから、クリームもお出しなさい。いったいあなたのところではいつもお茶と称して、なんだかえたいの知れないものを出すんですからね。しかも、今日は命名日の祝いじゃありませんか」
「え、じゃ、あなたも命名日をお認めになるんですか?」と出しぬけに女学生が笑い出した。「たった今その話をしたばかりですのに」
「古くさい」と中学生がテーブルの向こうの端からつぶやいた。
「古くさいとはなんですか? どんなに無邪気なものであろうとも、偏見を忘れるってことは、けっして古くさかありません。それどころか、恥ずかしいことには、今日まで新しい意義のあることになってるのです」女学生は、しゃくるように椅子から乗り出しながら、さっそくこうやり返した。「それに無邪気な偏見なんてありゃしません」と彼女はやっきとなっていい足した。
「ぼくはただ、こういうことがいいたかったのです」中学生は恐ろしく興奮し出した。「偏見なるものは、もちろん古いしろもので、撲滅すべきものに相違ありません。しかし、命名日が馬鹿馬鹿しい黴の生えたしろものだってことは、もうだれでも承知しています。そんなもののために、貴重な時間をつぶす価値はありません。そうでなくってさえ、世界じゅうの人が空しく逸してしまった貴重な時間じゃありませんか。そんなことより、もっと必要の切迫した事柄に、あなたの機知を利用したほうがよかないでしょうか……」
「あんまり長ったらしくって、なんのこったかわかりゃしない」と女学生は叫んだ。
「ぼくは、どんな人でもほかの者と同じように、発言権を有していると思います。だから、ぼくがほかの人と同じように、自分の意見を発表しようと望んでいる以上……」
「だれもあなたの発言権を取りゃしませんよ」と今度はもう主婦が自分で口を出して、言葉するどくさえぎった。「ただね、口の中でむにゃむにゃいわないでくれと頼んでるのです。だって、あなたのいうことは、だれにもわからないじゃありませんか」
「しかし、もうひと言いわしてください。あなた方はぼくを尊敬してないんですね。ぼくが、かりに自分の考えをじゅうぶん表白しえなかったとしても、それはけっしてぼくに思想が欠乏しているからじゃない、むしろ思想があり余ってるからです……」と中学生はほとんど夢中になってつぶやいたが、すっかりまごついてしまった。
「話すことができなきゃ、黙ってらっしゃい」と女学生は、叩きつけるようにいった。
 中学生はもう椅子から躍りあがった。
「ぼくはただこういうことをいいたかっただけです」羞恥の念に体じゅう燃え立たせながら、あたりを見廻す勇気もなく、彼はこう叫んだ。「あなたがその利口さを見せびらかしに出しゃばったのは、ただスタヴローギン氏が入って来たからです、――それっきりです!」
「あなたの思想はけがれています。背徳の思想です。そして、あなたの発達の劣等さを暴露しています。もうわたしに話しかけてもらいますまい」と女学生はぷりぷりしながらいった。
「スタヴローギンさん」と主婦は口を切った。「あなたのいらっしゃる前、つい今までここで家庭の権利ということを、やかましく論じていましたの、――その将校なんですよ(と彼女は親戚に当たる少佐を顎でしゃくった)。むろんわたしは、とうの昔に解決されている古臭い無意味な問題で、あなたを煩わそうとは思いませんが、しかし、いったいどこからそんな家庭の権利だの、義務だのというものが生じたのでしょう? つまり、いま一般に考えられているような、偏見の意味を帯びた権利や義務のこと、それが問題なんですの。あなたのご意見は?」
「どこから生じたとは、なんのこってす?」とスタヴローギンは問い返した。
「それはこうですの。たとえば、神に関する偏見が雷鳴や電光から生じたのは、われわれ一般に知れきったことでしょう」まるでスタヴローギンに躍りかかるような目つきで、またもや女学生が出しぬけに口を開いた。「原始の人類が雷鳴や電光に驚いて、そういうものに対する自己の弱小を感じたために、この目に見えぬ敵を神化したということは、わかり過ぎるくらいわかっています。しかし、家庭に関する偏見はどこから生じたのでしょう? また家庭そのものはどうしてできたのでしょう?」
「それとこれとは、ちょっと違いますよ……」と主婦は押し止めようとした。
「そういう質問に答えるのは、少々ぶしつけじゃないかと思います」とスタヴローギンはいった。
「どうしてなんですの?」と女学生はしゃくるように前へ乗り出した。
 けれど教師仲間のサークルで、押し潰したような盗み笑いが聞こえた。すると、いま一方の隅から、リャームシンと中学生がすぐそれに声を合わせた。続いて、親戚の少佐のしゃがれた高い笑いが起こった。
「あなたは、ヴォードビルでもお作りになったらいいでしょうよ」主婦はスタヴローギンに向かってこういった。
「それはあなたの……お名前を知りませんが、あなたのお答えはあまりご名誉になることじゃありませんよ」と憤懣に堪えぬといった様子で、女学生は叩き切るようにいった。
「ところで、お前は出しゃばらんようにしなさい!」と少佐がどなりつけた。「お前は娘の身分だから、しとやかにしなけりゃならんはずだのに、まるで針の莚にでも坐っとるように、ちっともじっと落ち着いとらんじゃないか」
「お黙りなさい。そして、そんな馬鹿げた比喩なんか引っ張り出して、わたしになれなれしい口のきき方をしないでください。わたしは今度はじめてあなたに会ったきりです。わたしあなたなんかの親属[#「親属」はママ]関係は、認めやしませんから」
「これ、わしはお前の叔父さんだぞ。お前がまだ乳呑み児の時分に、この手に抱いて歩いたもんだぞ!」
「あなたが、何を抱いて歩こうと、わたしの知ったことですか。わたしは何もその時分だいてくださいって、頼んだことはありませんよ。してみると、あなた自身の楽しみにしたことじゃありませんか、本当に無作法な将校さんだわ。それに、ご注意しておきますがね、もし万民平等の主意から出たことでなければ、わたしのことをお前[#「お前」に傍点]なんかっていっていただきますまい。わたし断然おことわりしておきます」
「この頃の女はみんなもうあのとおりだ!」自分の正面に坐っているスタヴローギンに向かって、少佐は拳固でテーブルを叩きながらこういった。「いや、ごめんなさい、わしは自由主義や現代主義は、大いに好きです。賢明な人たちの談話を聞くのも大好きです。しかし、断わっておきますが、これは男のことをいっているんですぞ。女となったら、――ことに、こんな現代式なお転婆どもときたら、いや、もう真っ平だ。これはわしにとってなんともいえない苦痛です! お前そうばたばたするんじゃない!」椅子から跳ねあがろうとする女学生にむかって、彼はこうどなった。「ふん、わしだって発言権を要求する、わしは腹が立つ」
「あなたはほかの人の邪魔をするばかりじゃありませんか。ご自分では何一つ意見が吐けないくせに」と主婦は不平そうにつぶやいた。
「いや、こうなれば、わしもすっかりいってしまう」と少佐は熱くなって、スタヴローギンにいった。「スタヴローギンさん、わしはあなたを新来の客として、あなたに望みを嘱しておるです。もっとも、知己の光栄を有しませんがね。女なんてものは、男がなかったら、蠅かなんぞのようにくたばってしまう、――これがわしの意見なのです。あいつらのいう婦人問題なるものは、単に創意の欠乏にすぎん。わしはあえて断言します、――あんな婦人問題なんてものは、みんな男が考え出したものです。馬鹿な、自分から藪をつついて蛇を出したんです。まあ、仕合わせと、わしは女房がありませんがね! まるっきり変化というものがないんですからなあ。きわめて単純なあやさえ、考え出すことができないんですよ。婦人問題のあやは、みんな男が代わって考え出したものです! たとえば、この娘にしろ、わしが小さい時分だいても歩いたし、十くらいの頃には、いっしょにマズルカを踊ったこともある。ところで、きょう久し振りにやって来たものだから、自然の情として跳びついて、抱きしめてやろうとすると、この娘はいきなり二こと目から、神はないなどといい出すじゃありませんか。まあ、二こと目からでなくて、三こと目からだとしても、とにかくあまり急ぎ過ぎるじゃありませんか? そりゃ賢明な人たちは、信仰を持ってないかもしれないが、それは自分の頭のせいです。ところが、お前なんぞはあぶくだ。いったいお前なぞに神様のことが何がわかる? お前なんか大学生から教わったんだろう。もしお燈明を上げろと教わったら、本当にお燈明を上げるに相違ない」
「あなたは嘘をついてます、あなたは恐ろしい意地悪です。わたしはさっきあれほど論理的に、あなたの無資格を論証してあげたじゃありませんか」こんな男と長く議論するのは馬鹿馬鹿しいといいたげに、女学生はほうり出すような調子で答えた。「わたしさっき、あなたにいったばかりじゃありませんか、――わたしたちはみんなキリスト教初等講義によって、『おのれの祖先と両親を敬うものは、息災長命、富を授かるべし』と教えられたものです。これが十戒に載ってるんです。もし、神様が、愛に報酬を与える必要を認めたとすれば、それは取りも直さず、不道徳な神様です。こんなふうな言葉を使って、わたしはさっきあなたに論証して聞かせたのです。けっして二こと目じゃありません。だって、あなたがご自分の権利を声明なすったんですもの。いったいあなたが鈍感で、今までそれがわからないからって、そんなことだれが知るもんですか。あなたはそれが癪にさわるもんだから、勝手に腹を立ててるんですよ、――これがあなた方の世代の正体なんですよ」
「おたんちんめ!」と少佐はいった。
「あなたが馬鹿なのよ」
「そんな悪口をつくか!」
「しかし、カピトン・マクシームイチ、失礼ですが、さっきあなた自身そういわれたじゃありませんか、おれは神を信じていないって」テーブルの向こうの端から、リプーチンが黄いろい声でこう叫んだ。
「わしが何をいおうとかまやしません、――わしのことは別問題ですよ! 或いは、実際、わしは信仰を持っとるかもしれません。が、信じきっとるわけじゃありませんぞ。たとえ、ぜんぜん信仰を持っとらんにしても、それでも、神は銃刑にしてしまわねばならんなどと、そんなことはけっしていわんです。わしはまだ軽騎兵隊に勤めておる時分、よく神の問題で考え込んだものですて。大抵の詩では、軽騎兵というものを、酒を呑んだり、騒いだりしてばかりおるように書くのが、定式になっておりますなあ。そりゃわしも、酒ぐらい飲んだかもしれません。しかし、本当になさらんでしょうが、よく夜中に靴下ひとつで寝床から跳ね起きて、神が信仰を恵んでくださるようにと、十字を切ったりなぞしたものですぞ。その当時から、神はありやなしやという問題で、平然としておれんかったものでな。それほどわしはこのことについて、苦しい思いをしてきたものですよ! もっとも、朝になると、もちろん、また気が紛れて、信仰がなくなるような気味あいでしたがな。全体として、わしの観察によると、だれでも昼間はいくぶん信仰が薄らぐもんですな」
「あなたのところにカルタはありませんか?」無遠慮に大あくびをしながら、ヴェルホーヴェンスキイは主婦にたずねた。
「わたしはまったく、まったくあなたの質問に同感しますわ!」少佐の言葉に対する憤慨のあまり、真っ赤になって、女学生は吐き出すようにいった。「馬鹿な話を聞いてて、貴重な時間を無駄にするばかりですわ」と主婦は断ち切るようにいい、命令するように夫を見やった。
 女学生はきっとなった。
「わたしはこの集まりの皆さんに、大学生の苦痛と抗議に関して、一言したいと思っていました。ところが、不道徳な会話で時間が浪費されますから……」
「道徳的なものも不道徳なものも、そんなものは一つもありゃしません」女学生が話を始めるが早いか、さっそく中学生はこらえきれないでこういった。
「そんなことはね、中学生さん、あんたが習ったよりか、ずっとさきに知ってましたよ」
「じゃ、ぼくはこう確信します」とこちらは猛然と奮い立った。「あんたはね、こっちがもうちゃんと知ってることを、ぼくらに教えようと思って、はるばるペテルブルグからやって来た赤ん坊です。あなたがろくそっぽしまいまで読めなかった『汝の父母を崇めよ』の聖訓だって、あれが不道徳なものだということは、――もうベリンスキイ以来、ロシヤ全国に知れ渡っていますよ」
「まあ、これがいつかおしまいになるんでしょうか?」ヴィルギンスカヤ夫人は断固として、夫にこういった。
 彼女は主婦として、会話の馬鹿馬鹿しい調子に赤面してしまった。ことに幾たりかの笑顔や、新しく招いた人々の怪訝の表情を見ると、もう恥ずかしくてたまらなくなった。
「諸君」ヴィルギンスキイはとつぜん声を高めた。「もしだれでも、より以上この会合にふさわしい話を始めたいとか、或いは何か発表したいと望んでおられるかたは、どうか時を逸することなしに、始めていただきたいものです」
「では、失礼ながら、一つ質問を提出さしてもらいましょう」今までことに行儀よくきちんと坐って、しゅうねく押し黙っていたびっこの教師が、もの柔かな調子で口を切った。
「いったいぼくたちは今ここで、何かの会議に列してるのでしょうか、それともまた単に客として招待された、普通のつまらん人間の寄り合いでしょうか、それが一つ知りたいものですね。これはただより多く秩序的にやりたい、五里霧中でいたくない、という精神からおたずねするので」
 この『狡妙』な質問は一種の印象を与えた。一同は互いに答えを求めるように、目くばせした。と、ふいに号令でもかけられたように、ヴェルホーヴェンスキイとスタヴローギンに視線を向けた。
「わたしはいっそ、『われわれは会議の席にありやいなや』という質問に対する答えを、みんなで投票したらと思います」とヴィルギンスカヤ夫人がいい出した。
「わたしはまったくその動議に賛成します」とリプーチンが応じた。「もっとも、やや漠然とした動議ではありますが」
「ぼくも賛成します――わたしも」という人々の声が聞こえた。
「わたしも、そのほうが秩序が立ってよさそうに思われます」とヴィルギンスキイが断案をくだした。
「では、投票を始めます!」と、主婦が宣言した。「リャームシンさん、あなたピアノに向かってください。あなたも投票が始まったら、そこから声をかけられますよ」
「また!」とリャームシンは叫んだ。「ぼくはもういい加減あなた方のために、ばらんばらんやりましたね」
「でも、わたしはたってお願いするのです。さあ、あっちへ行って弾いてください。それとも、あなたは共同の事業に仕えるのがいやなのですか?」
「だって、アリーナさん、大丈夫だれも立ち聴きするものはありゃしません。それはあなたの杞憂ですよ。それに、窓もこんなに高いんですもの、よしんばだれか立ち聴きした