『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP289-P336

ど、その花々しい政治的活動も、あまねく知れわたっていた。ところが、こんど急にニコライが、K伯爵令嬢の一人と婚約したという噂を、疑う余地もない事実のように世間でいい出した。そのくせ、こういう噂の起こった正確な動機は、だれひとり説明ができなかったのである。例のリザヴェータに関する奇怪なスイスの出来事にいたっては、婦人連もばったり話をしなくなった。ついでにいっておくが、ドロズドヴァ親子も、今まで怠っていた訪問を、この時すっかり果たしてしまった。で、リザヴェータのことなども、自分の病的な神経を『見得にしている』ごくありふれた娘としか見なくなった。ニコライが着いた日の卒倒騒ぎも、今ではただあの大学生の見苦しい振舞いにびっくりしたもの、というふうに解釈してしまった。前には一生懸命にファンタスチックな色彩をつけようとつとめたあの出来事さえ、今は強いて散文的なものとして取り扱うようになった。妙なびっこの女がいたことなどすっかり忘れてしまって、口に出すのさえ恥じるほどになった。
「たとえびっこの女が百人いるにもせよ、だれだって若い時分のことだもの!」と人々は思った。
 また母に対するニコライの敬虔な態度も担ぎ出された。そのほか、人々はいろいろと彼の美点をさがし出して、四年前ドイツの諸大学で獲得した彼の学識を、心から感服して語り合うのだった。ガガーノフの行為にいたっては、まるで『敵と味方の区別のつかない』拙いやり方ということになってしまった。ところで、ユリヤ夫人は、非常な洞察力をもった人という、断固たる定評を下されたのである。
 こういった具合で、いよいよ当のニコライが社交界へ姿を現わしたとき、一同はこの上もない無邪気な、真面目な態度で彼を迎えた。彼にそそがれた一同の目の中には、きわめて性急な期待が読まれたのである。しかし、ニコライはすぐさま、厳正な沈黙の中に閉じこもってしまった。もちろん、それはぺちゃぺちゃいろんなことをしゃべり散らすより、遙かに世人を満足さしたに相違ない。手短かにいえば、何もかもうまくいったのだ。彼は町の流行児となった。この県の社交界は、だれでもいったん顔を出した以上、もうどうしたって逃げ隠れするわけにはいかぬ。で、ニコライも以前どおり、洗練された技巧で県内のありとあらゆる習慣を遵奉し始めた。もっとも、人々はあまり彼を愉快な人とは思わなかったが、『なに、いろいろ苦労をしてきた人だもの、ほかの連中のようにはいかない。何か考えることもあるだろうさ』といった。四年前あれほど憎まれた高慢な態度も、傍へ近寄れないほど無愛想な様子も、今はかえって世間の気に入って尊敬を受けるようになった。
 だれより得意になったのは、ヴァルヴァーラ夫人である。リザヴェータに対していだいていた空想の崩れたために、夫人がひどく落胆したかどうかは、ちょっといいにくい。それにはもちろん家名という矜持も手伝っている。ただ一つ不思議なことに、ニコラスが本当にK伯爵の家で『選択』をしたということを、夫人は急にかたく信じ始めた。しかし、それよりさらに奇怪なのは、夫人のこれを信じるにいたった理由が、世人の耳にすると同じ途上風説にすぎないという一事である。直接、ニコライに聞くのは恐ろしかった。もっとも、二、三ど我慢し切れなくなって、彼が母親に十分うち解けてくれないのを遠まわしに責めてみたが、彼はにたりと笑ったのみで、依然沈黙を続けていた。沈黙は同意のしるしと解釈された。ところが、どうしたことか、こういう事情にもかかわらず、夫人は片時もあのびっこを忘れることができなかった。彼女のことは、まるで石ころか悪夢のように胸につかえて、奇怪な幻影が謎のように夫人を悩ました。しかも、これがK伯爵の令嬢に関する空想と、同時に隣り合って、夫人の心に宿っているのであった。しかし、このことは後で話すとしよう。いうまでもなく、社交界ではヴァルヴァーラ夫人に対して、ふたたびなみなみならぬ用心ぶかい尊敬を示し始めた。が、夫人はあまりそれを利用しようとしないで、ごくたまにしか外出しなかった。
 とはいえ、彼女は表向きに知事夫人を訪問した。もちろん、ユリヤ夫人が貴族団長の夜会でのべたかの意味深長な言葉に魅了され、とりこになった点では、彼女をもって第一に指を屈しなければならぬ。あの言葉は、夫人の胸から幾多の憂悶を去り、かのいまわしい日曜以来、彼女を苦しめていたさまざまな疑問を、一挙にして解決してくれた。
『わたしはあの女を誤解していた!』と夫人はいった。そして、持ち前の一本気な性質から、いきなりユリヤ夫人に面と向かって、『わたしはあなたにお礼をいいに[#「お礼をいいに」に傍点]来ました』といい放ったほどである。ユリヤ夫人はすっかり悦に入ったが、それでも、厳然たる態度を崩さなかった。彼女はそのころ大いに自分の価値を意識しはじめた。むしろ少々度を越すくらいだった。たとえば、彼女はさまざまな話の中で、自分はスチェパン氏の事業についても、また学者としての名声についても、今まで少しも聞くところがないといい切った。
「もっとも、わたし、ヴェルホーヴェンスキイの息子さんには、出入りもさせていますし、かわいがってもいます。あの方は無分別ではありますが、なにぶんまだお若いのでございますからね。けれど、なかなかしっかりした知識を持っていらっしゃいますよ。なんといっても、時代におくれた旧式の批評家などとは違いますからね」
 ヴァルヴァーラ夫人はすぐさま大急ぎで、スチェパン氏は、今までかつて批評家だったことはない、それどころか、一生を自分の家で過ごしたのだ、と弁解した。ただあの人が有名になったのは、社会的活動の第一歩を踏み出した時の、四囲の状況のためなので、『この状況は全世界に知れ過ぎるくらい知られて』いる。近頃になってからは、スペイン歴史のほうでも知られているし、今もドイツ大学の現状について何か書こうとしているし、それからまたドレスデンのマドンナのことも、何やら書くつもりらしい、などとのべた。手短かにいえば、ユリヤ夫人にスチェパン氏をこき下ろされたくなかったのだ。「ドレスデンのマドンナですって? それはシスティンのマドンナのことですか? ヴァルヴァーラ・ペトローヴナ、わたしあの画の前に二時間ばかり腰かけて見ましたが、とうとう失望して帰りました。わたしなんにもわかりませんでした。そして、すっかり驚いてしまったのでございますよ。カルマジーノフさんも、やっぱりわからないといってらっしゃいます。今ではみんな、――ロシヤ人でもイギリス人でも、なんの値打ちもない作だといっておりますわ。あんなやかましくどなり立てたのは、老人連ばかりでございますよ」
「つまり、流行が変わったのですね」
「ですけれど、わたしロシヤの若い人たちも軽蔑してはいけない、と思いますの。みんなが、あの連中は共産主義者だ、と申しておりますが、わたしの考えでは、あの人たちをもっと寛大に扱って、もっとあの人たちを尊重しなくちゃならない、と思います。わたし今なんでも読みますの、――どの雑誌でも、どの宣言文でも、自然科学の本でも、――なんでも取り寄せておりますの。なぜって、わたしたちだってもういい加減、自分がどこに住んでいて、だれを相手にしているかってことを、知ってもいい時分でございますからね。一生自分の空想の高嶺に住んでいるわけにはまいりません。こういう結論に到達しましたので、わたしは若い人たちを手なずけて、それでもって危い瀬戸際で引き留めよう、とこういう規則を立てましたの。ねえ、ヴァルヴァーラ・ペトローヴナ、わたしたち上流社会の人間だけが、善良な感化力と優しい態度でもって、性急な老人連に無限の淵へ追いやられている青年を、危い瀬戸際で引き留めることができるのでございます。ときに、あなたのおかげで、スチェパンさまのことを伺って、いいあんばいでした。あなたはいいことを思いつかしてくださいました。もしかしたら、あの人はわたしの文学会を後援してくださるかもしれませんね。実はね、わたし予約申込みの方法で、娯楽デーを計画しているのでございます。収入は県内の貧しい保姆に寄付するはずですの。そういった保姆は、ロシヤ全国に散らばっていますが、この一郡内だけでも六人からになります。そのほか電信技手をしてるのが二人に、大学へかよってるのが二人あります。ほかの者も勉強はしたいのでしょうが、学資がないのでございます。ヴァルヴァーラ・ペトローヴナ、ロシヤ婦人の運命は恐ろしいものでございますよ! これがいま大学制度問題にもなっていますし、国会の討議に付せられたことさえあります。まったくこの奇妙なロシヤという国では、なんでも勝手なことができるんですからねえ! こういうわけでして、やはり、いま申した上流社会の親切な態度と、人手を借りぬ直接な温みのある斡旋ひとつで、この偉大な事業に正しい方向を与えることもできるのでございます。ああ、ロシヤの国には光輝ある人格の所有者が少ないのでしょうか。いえ、そんなことはありません。ただそういう人が、てんでんばらばらになっているのでございます。ですから、一つみんなで力をあわせてもっともっと強い勢力になろうじゃありませんか。で、つまり、こんなふうに計画しているのでございます。初めは文学講演会のような催しにして、そのあとでちょっとした食事を出します。それから、しばらく休憩時間として、夜は舞踏会を開くつもりでございます。初め活人画で夜会の幕を開けようかと思ったのですけれど、あまり費用《かかり》が大きくなるようでしたから、まあ一般の公衆の得心がゆくように、カドリールを一つ二つ挟むことにしました。これはある二、三の文学上の流派を象《かた》どった特色のある面や衣裳を着けて踊るのでございます。この軽い味のある趣向は、カルマジーノフさんが貸してくだすったのです。わたしはいろいろとあの人に助けてもらっておりますの。ところでねえ、あの人はまだだれも知らない最近の作を、今度の会で朗読することになっているのでございます。向後あの人は筆を折って、もう何も書かないといっておられます。で、この最後の創作は公衆に対する告別の辞になるのでございます。このすぐれた作物は『メルシイ』という題ですの。ええ、フランス語の題ですの。けれど、あの人はそのほうが愛嬌がある、優美だとおっしゃいましてね……わたしもやっぱりそう思いますの、かえって、わたしのほうからすすめたくらいでございます。いかがでしょう、スチェパンさまも何か朗読してくださいましょうね……もっとも、あまり長くないものがよろしゅうございます。そして……あまりむずかしい議論めいたものでも困りますの。そのほかピョートル・スチェパーノヴィチと、もう一人だれやらが、何か朗読をしてくださるはずでございます。いずれピョートル・スチェパーノヴィチがお宅へお寄りして、プログラムを申し上げるでしょう。いえ、それよりも、いっそわたし自分でそれを持って、お宅へ伺うわけにはまいりませんでしょうかしら」
「ねえ、あなた、わたしにもその名簿に、寄付の申し込みを書かしてくださいまし。わたしスチェパン・トロフィーモヴィチにそういいまして、自分でも一生懸命に頼みましょう」
 ヴァルヴァーラ夫人はすっかり魅了されて、家へ帰った。彼女はもう押しも押されもせぬ、ユリヤ夫人の味方だった。そして、どういうわけか、おそろしくスチェパン氏に腹を立てていた。こちらはじっと家に引っ込んだまま、かわいそうに、なに一つ知らなかったのである。
「わたし、あのひとに惚れ込んでしまいました。本当にどうして今まで、あのひとのことを思い違いしていたのか、自分ながら合点がいかないくらいですよ」夕方せわしそうに立ち寄ったピョートルと、息子のニコライに向かって、夫人はこんなことをいい出した。
「それにしても、あなたはうちの親爺と仲直りしなくちゃいけませんよ」とピョートルはすすめた。「親爺はすっかり落胆していますよ。だって、あなたはあの爺さんを、まるで台所へ追っ払うようなことをしていらっしゃるんですもの。昨日なぞも、あなたの馬車に出会ったとき、丁寧にお辞儀をしたのに、あなたはぷいとそっぽを向いておしまいになったでしょう。実はね、ぼくらは親爺をひとつ担ぎ出そうと思ってるのです。ちょっと、当てにしてることがありましてね。親爺だって、また何か役に立つこともあるでしょうよ」
「ええ、あの人に何か朗読をさせなくちゃならないのです」
「ぼくはそのことばかりいってるわけじゃありません。ところで、きょうぼくは親爺のところへ寄って行こうと思ってたのですが、じゃ、そのことを話しておきましょうね?」
「それはお心まかせに。けれど、どんなふうにしようと思ってらっしゃいますの」と夫人は決しかねたようにいった。「わたし自分であの人と相談するつもりで、日と場所を決めようと思ってたんですがねえ」
 夫人は烈しく眉をひそめた。
「なんの、日を決める必要なんかありゃしませんさ。ぼくが手っ取り早くいっておきましょう」
「じゃあ、そういっていただきましょうか。まあ、それでもやっぱり、わたしが会見の日を決めるつもりでいると、一口いい添えてくださいな。忘れないでね」
 ピョートルは薄笑いを浮かべながら、駆け出した。いまわたしの思い出す限りでは、このごろ彼はだれに向かっても概してつっけんどんで、いらいらした無遠慮な口のきき方をしていた。が、妙なことに、みんなそれを大目に見ていたのである。それに、全体として、この男に対しては特別な見方をしなければならない、といったような意見が公認されていた。ここでちょいと断わっておくが、彼はニコライの決闘事件について、なみなみならぬ憤懣を示したのである。彼にしてみると、このことは寝耳に水だった。この話を聞いたとき、彼は真っ青になってしまった。或いはいくぶん、自尊心を傷つけられたように思ったのかもしれない。なぜなら、彼がこのことを初めて耳にしたのは、やっと翌日になってからで、もうその時は町じゅうに噂が広まっていたからである。
「あなたは決闘する権利など、少しもなかったんですよ」
 とうとう五日もたって、偶然クラブでスタヴローギンに出会った時、彼はささやくようにいった。
 なお一つ奇妙なのは、ほとんど毎日ヴァルヴァーラ夫人のところへ寄っていたピョートルが、その五日間、一度もスタヴローギンに会わなかったことである。
 ニコライは『まるでなんのことだかわからない』といったような気のない目つきで、じっと言葉もなく相手を見つめていたが、そのまま立ちどまろうともせず、歩みを運んだ。彼はクラブの大広間を横切って、酒場《ブフェー》のほうへ行こうとしていたのである。
「あなたはシャートフのところへも行きましたね……そして、マリヤさんのことも発表しようと思ってるんですね」と彼はその後を追って走りながら、妙に落ちつきのない手つきで相手の肩を抑えた。
 ニコライは、いきなり肩からその手を振り落として、もの凄く顔をしかめながら、くるりと後を振り向いた。ピョートルは奇妙な引き伸ばすような微笑を浮かべながら、じっとその顔を見守った。それはほんの一瞬間だった。ニコライはさっさと向こうへ行ってしまった。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 彼はさっそくヴァルヴァーラ夫人の家から、『親爺』のところへ駆け出した。彼がこんなに急いだのは、ただ以前うけたある侮辱の腹いせをするためであった。わたしはついその日まで、この侮辱一件を少しも知らなかったが、実はこの前ピョートルが訪ねて来た時(それは先週の木曜日だった)、スチェパン氏は、自分のほうから喧嘩の火蓋を切ったくせに、とうとう息子を棒切れで追い出してしまったのである。当時、彼はこのことをわたしに隠していた。しかし、今ピョートルがいつもの癖で、子供らしいくらい高慢な薄笑いを浮かべて、じろじろと隅から隅まで探り廻すような、気持ちの悪いほど好奇心の勝った目つきで、いきなり部屋の中へ駆け込むやいなや、スチェパン氏はこっそりとわたしに合図をして、この部屋を出て行くなという意を伝えた。こういうわけで、わたしは今度こそ二人の話を初めからしまいまで聴いてしまった。で、はじめてこの親子の本当の関係が目の前に暴露されたのである。
 スチェパン氏はソファーの上に長くなって坐っていた。例の木曜日以来だいぶ痩せて、顔色まで黄がかってきた。ピョートルは思い切ってなれなれしい様子で、父親の傍に腰を下ろした。しかも、子として父に対する礼儀の要求するより、ずっと余計に場所を取りながら、両足を尻の下に敷いて、ソファーの上に納まり返ったのだった。スチェパン氏は無言のまま威を示しながら、少しわきのほうへ片寄った。
 テーブルの上には、一冊の本が開いたまま置いてあった。それはチェルヌイシェーフスキイの小説『何をなすべきか』であった。悲しい哉、わたしはここでこの親友の奇怪な、狭量な態度を、是認しないわけにはいかない。ほかでもない、自分はこの隠遁生活を脱して、最後の一戦に勝負を決しなければならぬという空想が、彼の魅惑された脳裏にだんだん強く根を張ってきたのである。彼がこの小説を手に入れて研究[#「研究」に傍点]しているのは、ただただ『怒号叫喚せるやから』と衝突の避け難くなった時をおもんぱかって、あらかじめ敵の態度と論法を、敵自身の『経典《カテヒジス》』によって究めたうえ、この戦闘準備で彼ら烏合の衆を、みごと夫人の眼前に[#「夫人の眼前に」に傍点]くつがえしてくれようという作戦である。わたしはそれを見抜いていた。ああ、この本がどれくらい彼を苦しめたことだろう! 彼はときおり夢中になってそれをほうり出しながら、いきなり椅子を飛びあがって、前後を忘れたように部屋じゅう歩き廻るのだった。
「この著者の根本思想が間違ってないということは、それはわたしも是認する」と彼は熱に浮かされたような調子でわたしに言いいいした。「しかし、それだけになお恐ろしくなる! 思想は同じくわれわれのものだ。正真正銘、われわれのものだ。きみ、われわれが初めてこれを播《ま》いて、育てたのだ。われわれが準備したのだ、――そうさ、あいつらはわれわれの後から出て来たくせに、なんの自力で新しいことがいえるものか! しかし、まあ、これはなんという表現だろう。なんという曲解だろう、なんという冒涜だろう!」と彼は指で本をはじきながら叫んだ。「いったいわれわれはこういう結果を目ざして努力したんだろうか? 本来の思想は、まるで見分けも何もつきゃしない!」
「文化の空気を呼吸してるの?」テーブルから本を取って、標題をみながら、ピョートルはにやりと笑った。「とうからそうすべきはずだったんだよ。もしなんなら、ぼくもっと気の利いたのを持って来てあげよう」
 スチェパン氏はまたもや威を示しながら、無言を守っていた。わたしは片隅の長いすに腰をかけていた。
 ピョートルは早口に来訪の理由を説明した。もちろん、スチェパン氏は一方ならず驚いて、異常な憤懣を混じた驚愕の表情で聴いていた。
「いったいあのユリヤ・ミハイロヴナが、そんなことを当てにしてるのかい、わたしが出かけて行って、朗読するなんて?」
「といっても、あの人たちは何もそんなに、お父さんを必要としてるわけじゃないんだよ。それどころか、ほんのちょっと、あんたにお愛想を見せて、それで、ヴァルヴァーラ夫人のご機嫌をとろうというだけなのさ。しかし、もちろん、この朗読を断わるなどという、そんな失礼なことはできないよ。それに、ぼくなんか、自分でもやってみたいように思われるがなあ」彼はにやりと笑った。「お父さんみたいな老人連は、だれでも地獄の火みたいな野心が勃々としてるんだから。しかしね、とにかく退屈にならないように気をつけてください。たぶん、なんだね、スペイン史か何かだろうね。何にしても、三日ばかり前に一どぼくに読ませてください。でないと、きっと眠くなるようなものに相違ないから」
 あまりにも露骨で粗暴で、しかも、せっかちなこの皮肉の調子は、明らかに前もって企んだものだった。さながらスチェパン氏に対しては、これ以外もっと婉曲な表現や観念をもって話し合うことは、とうてい不可能だというようなふうだった。スチェパン氏は依然として、侮辱に気を留めないようにと努めていた。しかし、続いて報じられた出来事は、いよいよ出でていよいよ恐ろしい印象を与えたのである。
「え、あのひとまで、あのひとまで自分で[#「自分で」に傍点]このことを伝言するように……あなた[#「あなた」に傍点]に命じたのですか?」と彼はあおくなってたずねた。
「いや、本当は二人でよく打ち合わせるために、日にちと場所を決めようといってるのさ。あなたがた二人の感傷ごっこの名ごりだあね。なにしろ二十年間、あのひとのご機嫌をとってたものだから、思い切って滑稽な癖を教え込んでしまったんだ。が、心配しなくてもいいよ。今はもうまるで違ってしまった。あのひとも自分の口から、今では『ものを見透す』ようになったと、口癖のようにいってるからね。ぼくはいきなりあのひとにこういって聞かせてやった。あなた方の友情なんてものは、まるでなんのことはない、泥水の吐き合いっこだ、とね。あのひとはね、お父さん、いろんなことを話して聞かせましたぜ。ふう、本当にお父さんは長年の間、それこそ体《てい》のいい下男奉公をしてきたってわけなんだねえ。まったくおかげで顔を赤くしちゃった」
「わたしが下男奉公をしてたって?」スチェパン氏はとうとう我慢しきれなくなった。
「もっと悪いくらいだよ。お父さんは居候だったんだ、つまり、押しかけの下男だったんだ。働くのは大儀だし、金はだれしもほしいからね。今はあのひともそれをすっかり悟っちまったのさ。少なくも、お父さんのことであのひとの聞かせた話は、実に戦慄すべきものだった。ねえ、お父さん、あのひとに宛てたお父さんの手紙では、ぼくすっかり腹をかかえて笑っちゃったよ。きまりも悪いし、いやらしくもあるしさ。しかし、とにかく、あなた方は堕落してるんだ。極端に堕落してるんだ。恩恵というやつの中には、永久に人を堕落させるようなものが含まれてるが、お父さんの場合はその好適例だね!」
「あのひとがお前にわたしの手紙を見せたって?」
「一つ残らず。もっとも、そんなものを一々読んでる暇なんか、もちろん、ありゃしないけれどね。ふう、だがお父さんも恐ろしく手紙を書き潰したもんだなあ。おおかた二千通以上あるよ……ところでね、親爺《おやじ》さん、ぼくの考えでは、あのひとがあんたと結婚する気になった時が、ほんの一瞬間くらいあったらしいね。それをお父さんが間の抜けたことをやって、取り逃してしまったのさ! ぼくはもちろんお父さんの見地に立って話してるんだよ。しかし、それでもまだ今よりはよかった。今はほんの慰み者の道化かなんぞのように、『他人の罪業』と結婚させられようとしてるんだからね、しかも、金のためにさ」
「金のために? あのひとが、あのひとが金のためにといったのか!」とスチェパン氏は病的にわめいた。
「でなきゃ、どうだというの。いったいお父さんどうしたんだ、ぼくは、むしろ、あんたを弁護したんじゃないか。実際、それがお父さんにとって、唯一の弁明法だからね。あのひとは自分でもちゃんと飲み込んだよ、――あんただって、ほかの人と同様に金が必要だったし、また、その点はおそらく正当だろうからね。ぼくはね、あんた方が利益交換を基礎として暮らしていたのを、二二が四よりも明瞭に証明してやった。つまり、あのひとは資本家だし、お父さんはお傍つきのセンチメンタルな道化だったのさ。もっとも、金のことだったら、たとえお父さんがあのひとを牝山羊のように搾ったからって、けっしてあのひとは腹を立てやしない。ただ二十年もあんたを信用したのが、いまいましいんだ。あんたが高潔高潔であのひとをだまし込んで、あの長いあいだ嘘ばかりつかしたのが腹が立つんだ。あのひと自身で嘘をついたのは、けっして自覚しやしない。しかし、そのためにお父さんは、二重にひどい目に遭わなきゃならないのだ。だが、どうしてお父さんは、いつか総勘定をする時が来るってことに思い到らなかったんだろう。それがぼくには合点がいかない。なんてっても、あんたにだっていくらか知恵があったんだからなあ。ぼくはあんたを養老院へ入れるように、昨日あのひとにすすめたのさ。まあ、安心なさい。体裁のいい所へ入れるんだよ。腹の立つようなことはありゃしない。あのひともたぶんそうするだろうよ。お父さんが二週間まえX県あてで、ぼくによこした一番しまいの手紙を覚えてる?」
「まさかお前、あれを見せやしないだろうな?」スチェパン氏は慄然として躍りあがった。
「へ、どうして見せずにいるもんですか! まっさきに見せちゃったよ。つまり、あのひとがお父さんの才を羨んで、お父さんを利用しようとしてるだの、例の『他人の罪業』のことだのを知らせてよこした、あの分でさあ。しかし、お父さん、あんたの自惚れの強いのにも驚いてしまうね! ぼく腹をかかえて笑っちゃったよ。とにかく、全体お父さんの手紙は退屈千万なもんだ。あなたの句法ときたら、たまらないからね。ぼくはしょっちゅう読まないでうっちゃっとくのだ。一通なんぞは今だに封を切らないで、ごろごろしているくらいだよ。一つ明日お返ししよう。けれど、あの、あの一番しまいの手紙ときたら、もう完全の極致だ! 実に笑っちゃった、腹をかかえて笑っちゃった」
「悪党、悪党!」とスチェパン氏はわめいた。
「ちぇっ、あきれちゃったね、あんたとは話もできやしない。ねえ、あんたはまた前の木曜日みたいに怒り出すの?」
 スチェパン氏は気色《けしき》を変えて身を伸ばした。
「なんだってお前はおれに向かって、そんな言葉づかいができるんだ?」
「へえ、どんな言葉づかいなんだろう。簡単で明瞭な言葉づかいじゃないか?」
「やい、悪党、いったい貴様はおれの子なのかどうなのだ、まっすぐに白状しろ!」
「そんなことは、お父さんのほうがよく知ってるはずじゃないか。もっとも、父親というものはこんな場合、えて目が眩みやすいものだけれど……」
「黙れ、黙れ……」スチェパン氏は全身をわなわなと慄わした。
「そうら、お父さんはまたこの前の木曜日のように、どなったり悪態をついたりして、ステッキを振り廻さないばかりの勢いだが、ぼくはあんたのために、証拠書類をさがし出してあげたよ。もの珍しさに、ゆうベ一晩がかりでカバンの中を掻き廻したのさ。もっとも、別にどうといってとりとめもないことばかりだから、安心していいよ。例のポーランド人に宛てたお母さんの手紙だがね、お母さんの性質から判断してみると……」
「もうひと言いってみろ、おれは貴様に頬桁を食らわしてやるから!」
「ああいう人だ!」突然ピョートルはぼくのほうへ振り向いた。「ねえ、ぼくらはもう先週の木曜日からこんなふうになってるんですよ。今日はそれでも、あなたが立ち会ってくださるから、ぼくは大いに嬉しいんです。まあ、考えてみてください。まず最初の事実はこうなのです。親父は、ぼくが母のことをあんなふうにいうって、怒ってるんですが、ぼくがそうするようにと仕向けたのは、親父自身なんですよ。ぼくがまだ中学生時分に、親父はペテルブルグで一晩に二度くらいずつ、ぼくを揺すぶり起こして、一生懸命にだき締めるのです。そして、まるで女の腐ったみたいに泣きながら、毎晩毎晩どんなことを話して聞かせたか、まあ、あなた想像がつきますか。つまり、今のように無作法千万な、母の昔話じゃありませんか! ぼくは親爺の口から、初めて耳にしたような始末なのです」
「おお、おれはあの時もっと高遠な意味でそういう話をしたのだ! おお、貴様はおれの心持ちがちっともわからなかったのだ。貴様は少しも、てんで少しもわからなかったのだ」
「しかし、お父さんの話は、ぼくのよりかもっと下劣だったろう。実際、下劣だったろう、白状しなさい。実はね、ぼくそんなことどうだってかまやしないんだよ。ぼくはあなたの身になっていってるので、ぼく自身の見地に戻れば、ぼくはもうとう母を責めようと思わない。その点はご心配ないように。あなたはあなた、ポーランド人はポーランド人さ。どっちだって同じことさ。お父さんがベルリンでへまな目に遭ったからって、何もぼくの知ったことじゃないからね。それに、第一、あんたなぞに気のきいたことができっこないじゃないか。いったいこんなことばかりしていても、それでもあんた方は滑稽な人間でないというの! それに、ぼくがあなたの子だろうと、またそうでなかろうと、そんなことはどっちだって同じじゃないか? 実はね」彼はまたもや出しぬけにわたしのほうへ振り返った。「親爺は一生涯、ぼくのために一ルーブリの金も使わず、十六の年までまるっきりぼくを知らなかったばかりか、その後になってぼくの財産をすっかり横領してしまったくせに、今さらとなって、やれ一生ぼくのことで心を痛めたとかなんとかわめいて、ぼくの前で役者めいた所作をするじゃありませんか。ぼくはヴァルヴァーラ夫人と違うからね、とんでもないこった!」
 彼は立ちあがり、帽子を取った。
「おれは今後、おれの名をもって、貴様を呪ってやる!」スチェパン氏は死のごとく真っ青になって、わが子の頭上に手を差し伸べた。
「人間もまあどこまで馬鹿になるか方図が知れん!」とピョートルはあきれ返った。「じゃ、さようなら、古物先生、もう二度とあんたのところへ来やしないから。論文はなるべく早く届けるんだよ、忘れないようにね。そして、できることなら、馬鹿馬鹿しい理屈は抜きにして、事実、事実、事実と、こういうふうに頼みますよ。そして、何よりも簡単でなくちゃ困る。さようなら!」

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 もっとも、これにはまだ別な動機もあったのだ。実際、ピョートルは父親にすこし当てがあったのだ。わたしの考えるところでは、彼は老人を極度の絶望に導いて、そのうえである種の騒ぎを引き起こそうともくろんでいるらしかった。これは彼にとってゆくゆく別な目的に役立つのだった。しかし、このことはまた後で話そう。こういうふうの目論見や計画は、当時、彼の頭に山ほど積まれていた――が、もちろんそれはみんなとてつもない、夢のようなものばかりだった。彼の狙っている犠牲は、スチェパン氏のほかにもう一人あった。全体として、彼の犠牲は一人や二人でなかった、これは後日判明したことなので。しかし、この犠牲だけは彼も特別あてにしていた。ほかでもない、かのフォン・レムブケー氏その人である。
 アンドレイ・アントーノヴィチ・フォン・レムブケーは、自然の恩寵をほしいままにしている種族([#割り注]ドイツ人をさす[#割り注終わり])に属していた。この種族は、ロシヤでは年鑑を繰って見ると、何十万と数えるほどの人数を含んでいて、自覚こそしていないかもしれないが、その全人員をもって、厳正に組織化せられた一つの連盟を形づくっているのだ。もちろん、この同盟は、ことさら計画したものでもなければ、人為的に工夫したものでもなく、一つの種類全体がなんの契約も条文もなく、一種の精神的義務団体というような意味で、自然と結合している現存のものであって、時や場所や状況のいかんを問わず、常に連盟加入者の相互扶助を目的としている。レムブケーは幸いにして、比較的ひきや[#「ひきや」に傍点]財産の多い家の子弟でみたされた、ロシヤの高級な学校の一つで教育を受けることができた。この学校の生徒は卒業後ただちに、何か国務機関の一つに入って、かなり重要な職にありつくのだった。レムブケーは工兵中佐の叔父を一人と、パン屋の叔父を一人もっていたが、この貴族的な学校へもぐり込んでみると、自分に似たような境遇にいる同種族の者を少なからず発見した。
 彼は快活な学生だった。成績は少し鈍いほうだったが、みんなに好かれた。もう上のクラスは多数の青年が(それはおもにロシヤ人だった)、見よう見真似で、思い切り高遠な現代の諸問題を論じて、今に学校を出たら、いっさいの懸案を解決して見せるぞと、そればかり待ちかねてるようなふうでいるのに、レムブケーは依然として、のんき千万な悪戯を仕事にしていた。彼はいろんなとっぴなことを仕出かして皆を笑わした。もっとも、その冗談も大して奇才に富んでいるわけでなく、ただ猥雑なというだけのことだったが、彼はそれを自分の使命のように心得ていた。たとえば講義の席で、講師が彼に何かの質問を向けた時、何かこう奇てれつな音をさせて洟をかんで、友だちや講師を笑わしてみたり、または共同寝室で卑猥な活人画の真似をして、一同の喝采を買ったり、鼻ばかりでフラー・ディアボロ([#割り注]十九世紀におけるナポリの巨盗、オペラ「オーベル」の主人公[#割り注終わり])の開幕奏楽《ウーウェルチュール》をかなり上手に演奏したり、すべてこういったふうの類だった。また彼はわざわざ身汚い恰好をして、しかも、どういうわけか、それを一種の伊達のように考える癖があった。
 卒業の一年前あたりから、彼はちょいちょいロシヤ語の詩を書き始めた。肝腎な自分の種族の言葉は、ロシヤにおける同族の多数と同じように、ごく非文法的な知識しかもっていなかった。この詩作の傾向は、ある一人の陰欝な、何かにへしつけられたような級友を彼に接近せしめる動機となった。この級友はさる貧しいロシヤ将官の息子で、クラスでは未来の文豪視されていた。未来の大文豪はレムブケーに対して、保護者然たる態度を取った。ところが、学校卒業後三年ばかりたった時である。この陰気な級友はロシヤ文学のために勤めを抛って、ぼろぼろの靴を自慢そうにひけらかしながら、秋も更けた時候に夏外套を着て寒さにがちがちと歯を鳴らしていたが、偶然にも|馬の橋《アニーチコフ・モスト》([#割り注]ネーフスキイ通り中心[#割り注終わり])の袂で、以前の被保護者「レムブカー」に出あった(当時、学校で彼のことをそう呼んでいたのである)。ところが、どうだろう? 彼は一目みたとき、人違いではないかと思ったほどである。彼は呆気にとられて立ちどまった。目の前には、一点の隙もない身なりをした青年が立っているではないか。立派に手入れがゆきとどいて、赤みがかったつやを帯びた頬ひげ、鼻眼鏡、エナメルの靴、真新しい手袋、ゆったりしたシャルメル仕立ての外套、そうして折カバンまで小脇にかかえている。レムブケーは旧友に愛想のいい言葉をかけ、住所を知らせ、またいつか晩にでも訪ねるようにいった。聞いてみると、名前までがただの『レムブカー』ではなく、フォン・レムブケーだとのことであった。旧友はさっそくたずねて行った。しかし、それはただただ面当てのためかもしれない。どうしても正面玄関とはいえない美しからぬ階段には、それでも緋ラシャが敷いてあった。玄関番が彼を出迎えて名をたずねた。上のほうでベルが高々と鳴り響いた。客は贅を極めた住まいを想像していたが、入ってみると、わが『レムブカー』は、横のほうの小さな一間に陣取っていた。それはうす暗い古めかしい部屋で、くすんだ緑色の大きなカーテンで二つに仕切ってあった。椅子類は布張りではあるが、その布がくすんだ緑いろの思いきって古いものだった。細長い窓には、やっぱりくすんだ緑いろのカーテンがかかっていた。フォン・レムブケーは自分の保護者である、だいぶ遠縁の一将官のもとに寄寓しているのであった。彼は愛想よく客を迎えた。その態度はものものしく慇懃で、同時に垢抜けがしていた。文学の話も出たけれど、度を越えない範囲内に止められた。白いネクタイをした侍僕が、なんだか妙に薄いお茶に、小さなこつこつした丸い菓子を添えて持って来た。旧友はわざと意地悪くゼルツェル水を所望した。望みの品は出されたけれど少々手間どった。しかも、レムブケーはわざわざ侍僕を呼び寄せて、ものをいいつけるのが極りの悪いようなふうだった。彼は客に向かって、何かひと口食事をしてはどうかとすすめたが、客がそれを辞退して、とうとう帰って行った時は、いかにも嬉しそうな様子だった。手っとりばやくいえば、レムブケーは出世の第一歩を踏み出して、自分と同族とはいえ、地位のある将軍のもとに寄食者《かかりうど》となっていたのである。
 そのころ彼は、将軍の五番目の娘に、焦がれていた。そして、相手のほうでも、やはり彼を憎からず思っていたらしい。しかしそれでも、アマリヤは年頃になると、とどのつまり老将軍の昔馴染みの、年とった工場持ちのドイツ人にやられてしまった。レムブケーは大して悲観するでもなく、紙細工の劇場をこしらえた。幕があがると、役者が出て来て、手で身振りをする。桟敷には見物が坐っているし、オーケストラは機械仕掛けで、ヴァイオリンを弓でこするし、楽長は指揮棒を振り廻した。土間では伊達男や将校連が喝采する、――これがすべて紙でできていたのだ。すべて、レムブケー自身の考案であり、かつ仕事だった。彼はこの劇場の製作に六か月かかった。将軍はわざわざ内輪同士の夜会を開いて、この劇場を観覧に供した。新婚のアマリヤをまぜて五人の将軍令嬢、新郎の工場主、それに大勢の夫人令嬢が、めいめい相手のドイツ男を引き連れて出席したが、みな一生懸命に劇場を点検して、その出来ばえを褒めた。その後で舞踏が始まった。レムブケーはすっかり満足して、間もなく悲しみを忘れてしまった。
 幾年か過ぎて、官界における彼の地位も定まった。彼は相変わらず自分の同族を長官にいただいて、常に有利な位置で勤務をつづけ、ついに年の割にしては花々しい官等にまで漕ぎつけた。彼はもうだいぶ前から結婚を望んで、注意ぶかく目をくばっていた。一ど上官に内証で、自作の小説をある雑誌の編集局へ送ったことがある。ついに掲載はされなかったけれど、その代わり立派な汽車をこしらえて、またもや素敵なしろものができあがった。群集がカバンを持ったり、サックを持ったり、子供や犬をつれたりして、停車場から出たり、汽車へはいったりしている。車掌や駅夫があちこち歩き廻っているうちに、やがてベルが鳴り信号が与えられて、列車がそろそろと動き出す。この込み入った細工のために、彼はまる一年つぶした。
 しかし、それでもやっぱり、結婚しなければならなかった。彼の交友の範囲はかなり広かった。主としてドイツ人仲間だったが、ロシヤ人の交際社会にも出入していた。もちろん、上官の筋を伝って行くので。ついに彼が三十八の声を聞いた時、遺産まで譲り受けることができた。パン屋の叔父さんが死んで、彼に一万三千ルーブリの財産を、遺言で残してくれたのである。もはや問題は地位の点一つになった。もっとも、フォン・レムブケー氏は、勤務上かなり花々しい栄達をしたにもかかわらず、きわめて欲のないたちだった。彼は自分の権限にまかされた、官用薪材の受入れとかなんとか、そういったふうの小甘い汁の吸えそうな主任の地位で、一生満足していたかもしれない。ところが、忽然として、今まで予期していたミンナとかエルネスチーナ([#割り注]共にドイツ娘のありふれた名前[#割り注終わり])の代わりに、思いがけなくユリヤ・ミハイロヴナというしろものが引っかかったのである。彼の栄達はたちまちにして、いま一段の向上を見ることとなった。律義で欲のないレムブケーも、自分だって少し自尊心を持っていいわけだ、と感じるようになった。
 ユリヤ夫人は、昔ふうに勘定すると二百人の農奴のほかに、りゅうとした保護者をもっていた。一方から見ると、レムブケーは美男子で、ユリヤは四十を越している。注意すべきことには、自分がユリヤの未来の夫だと感じるにつれて、レムブケーはしだいに彼女を真剣に恋するようになった。結婚当日の朝、彼はユリヤに詩を贈った。こういうことがことごとく彼女の御意にかなったのである、その詩までが。実際、女の四十といえば冗談ではない。間もなく彼はお定まりの官等と、お定まりの勲章をもらって、それから、この県へ任命されて来たのである。
 この県へ赴任するとき、ユリヤ夫人は自分の夫について、一生懸命に策をめぐらしたのである。彼女の意見によると、彼もまんざら無能な人物ではなかった。客間へ入るすべも知ってるし、初対面の挨拶をする法も心得ている。深遠な思想でもありそうに、人のいうことを傾聴して、自分では何一ついわずに黙っていることも、きわめて慇懃に気取るすべも知っているばかりでなく、演説の一つもすることができ、いろんな思想の切れっぱしやかけらさえも蓄えていて、いまの世で必要欠くべからざる最新の自由思想のつやもかぶせおおせている。ただなんといっても心配なのは、なんだかあまり感受性の鈍いこと、長いあいだ絶えず立身出世の方法に汲々とした結果、無性に安息の要求を感じはじめたことである。夫人は自分の名誉心を、夫に注ぎ込みたくてたまらなかった。ところが、どうだろう、夫は思いがけなく紙細工の教会をこしらえ始めたではないか。牧師が出て来て説教をはじめると、人々はうやうやしく手を前に組んで、お祈りをしながら聴いている。一人の夫人はハンケチで目を拭いているし、老人は鼻をかんでいる。一番しまいにオルガンが鳴るという趣向だが、これは費用をいとわずに、わざわざスイスへ注文して取り寄せたのである。ユリヤ夫人はこのことを知るが早いか、一種の恐怖さえ感じながら、その細工をいっさい取り上げて、自分の箱の中へ鍵をかけてしまい込んだ。その代わり、彼女は小説を書くことを許したが、それも内証にという条件つきだった。それからというもの、夫人はただ自分一人のみを当てにするようになった。が、悲しいことに、それがかなり軽はずみで、おまけに度というものがなかった。運命はあまり長く彼女を老嬢の境遇にとどめていたので、今はいろんな考えが後から後からと、虚栄心の強い、しかも、幾分いらいらした彼女の脳中に浮かび出るのだった。彼女にはいろいろな思わくがあった。彼女は是が非でも、県の政治を切って廻したかった。いまにもすぐ多くの人に取り巻かれたいというのが、彼女の空想だった。彼女はさっそく方針を確定した。レムブケーは幾分ぎょっとしたが、しかし、すぐに官吏特有の直感で、自分は何も県知事の職を恐れるには当たらない、ということを悟ってしまった。初めのふた月み月はなかなかうまくいった。ところが、そこヘピョートルが割り込んで、何かこう奇妙な具合になってきたのである。
 ほかでもない、小ヴェルホーヴェンスキイは、そもそもの初めからレムブケーに対して不遜の態度を示したばかりでなく、なにか一種奇怪な優越権すら握ったかのようであった。それなのに、つねづね夫の権勢をひどく大切がっているユリヤ夫人は、まるでこのことが目に入らぬような具合だった。少なくも、これを重大視しなかったのである。ついにこの青年は夫人の寵児となって、飲み食いから起き臥しまで、この家でするようになった。レムブケーは予防線を張りはじめた。彼は他人の前でピョートルのことを『あの青年』といったふうの呼び方をしたり、いかにも保護者めかしく肩をぽんとたたいたりしたが、いっこうききめが見えなかった。ピョートルは相変わらず面とむかって、彼を冷笑するような態度をやめなかった(そのくせ、そういう時でも、ちょっと見たところは、いかにも真面目な話しっ振りだったけれど)。そして、他人のいる前で、思いきり無作法な言辞を弄するのであった。
 ある時、レムブケーが外から帰ってみると、『青年』は留守の間に自分の書斎へ入り込んで、断わりもなしに長いすに坐り込んでいた。彼の言いわけによると、ちょいと通りすがりに寄ってみたが留守だったので、『ついでに一寝入りした』とのことだった。レムブケーはむっとして、もう一ど夫人に愁訴した。けれど、こちらは夫の怒りっぽい性質を一笑に付して、皮肉な調子でこういった。どうもあなたは自分の地位に相当した態度が取れないようだ。少なくも、わたしに向かってはあの小僧っ子も、そんな狎れ狎れしい態度なんかあえて取ろうとしない。『とにかく、あの人は無邪気で清新なところがあります、社会の常軌にはずれていますけどね』レムブケーは面を膨らしたが、その場は夫人が二人の仲を取りなした。ピョートルは別に詫びをいおうともせず、何かぶしつけな洒落をいってごまかしてしまった。その洒落なども、普通の場合だったら、また別な侮辱に取られたかもしれないが、その時は後悔の意と解釈された。
 フォン・レムブケーは初《しょ》っぱなから大失策をやって、とんでもない弱点を握られてしまった。ほかでもない、例の小説のことをうち明けたのである。久しい前から、聴き手をほしがっていたレムブケーは、ピョートルを詩情に富んだ熱烈な青年のように解釈し、近づきになってからまだ幾日もたたぬうちに、ある夜、自作の一節を二章ばかり読んで聞かせた。こちらは退屈なのを隠そうとせず、無遠慮なあくびをしながら聞き終わった。そして、一度もお世辞などいわなかった。ただちょっと原稿を貸してもらいたい、暇な時に感想をまとめてみるからと、帰りしなに頼んだ。で、レムブケーは貸してやった。それ以来、彼は毎日ちょこちょこ寄って行くくせに、原稿はいっこう返しそうな模様がない。こちらからたずねても、笑いで答えるばかりだった。とうとう終いになって、あれはあの日すぐ往来でなくしたといい出した。このことを聞いたユリヤ夫人は真っ赤になって夫を怒りつけた。
「いったいあなたは教会のことも、あの人に話してしまったんじゃありませんか?」ほとんどおびえたように、夫人はこう叫んだ。
 フォン・レムブケーはひどく考え込むようになった。ところが、考え込むのは彼の体に悪いことなので、医者から固く禁じられていた。それに、県の行政上いろいろ面倒が起こるばかりでなく(このことは後で話すとしよう)、そこに一種特別の事情が介在していた。つまり、単に長官としての自尊心のみにとどまらず、夫としての感情すら傷つけられたのである。レムブケーは結婚生活に入るにあたって、将来家庭内に不和や衝突が起こりえようとは、想像さえしなかった。これまでもミンナやエルネスチーナを空想しながら、やはりそういうふうな考えを持ってきたのである。自分は家庭内の暴風雷雨に堪えられない、と彼は直感していた。ついにユリヤ夫人は、明けすけにぶちまけてしまった。
「あなた、そんなことで腹を立てるわけにいきませんよ」と、彼女はいった。「あなたのほうがあの人より二倍も三倍も分別があって、社会上の地位からいっても、比較にならないほど高い所に立ってらっしゃる、というだけの理由から見ましてもね。あの坊っちゃんには、以前の自由思想のとばっちりが、まだまだたくさん残っていますが、わたしにいわせれば、なに、ほんの子供じみた悪戯ですよ。なにしろ、急にということはできませんから、だんだん直していくんですね。ロシヤの新しき世代を尊重しなくてはなりませんよ。わたしは愛の力で感化を及ぼして、すわという瀬戸際で引き止めるつもりでいますの」
「しかし、本当にあいつは何をいい出すかわかりゃしない」とレムブケーは承知しなかった。「あいつは衆人擱座の中で、しかもわたしを目の前において、政府はことさら国民を暗愚にするためにウォートカなどを飲ませ、それで一揆を防止してる、などと断言するにいたっては、わたしもそうそう寛大な態度ばかり取ってもいられないじゃないか。他人の前でこんなことを聞かねばならぬわたしの役廻りの苦しさも、察してもらいたいよ」
 こういいながら、フォン・レムブケーは、つい近頃ピョートルと交わしたある会話を思い出した。一つ自由思想を道具に使って、相手の毒気を抜いてやろうという、罪のない目算から、彼は一八五九年以来、道楽というわけではないが、しごく有益な好奇心をもって、ロシヤはおろか外国まで手を伸ばして丹念に寄せ集めた、ありとあらゆる檄文の秘密なコレクションを出して見せた。ピョートルは彼の目的を見抜いたので、無作法な調子でこういってのけた。『新しい檄文のたった一行でも、そんじょそこらのお役所にある書類をみんな集めたより、ずっと多くの意義を含んでいますよ。おそらくあなたのお役所も、その例に洩れんかもしれませんね』
 レムブケーはぴりっとした。
「しかし、これはロシヤじゃ早過ぎる、あまり早過ぎる」と彼は檄文をさしながら、ほとんど哀願するような調子でいった。
「いや、早過ぎはしません。現にあなただって、そのとおり恐れていらっしゃるではありませんか。してみると、別に早過ぎはしないです」
「しかし、たとえば、ここにある教会破壊の煽動なぞは……」
「なぜそれがいけないんです? あなただって聡明なお方ですから、もちろん、信仰なぞ持ってはいらっしゃらないでしょう。信仰が必要なのは、単に人民を暗愚化するためにすぎないくらいのことは、自分でよくご承知のはずです。実際、真理は虚偽より美しいですからなあ」
「そのとおり、そのとおり、わたしはぜんぜんきみに同意だが、しかし、それはロシヤじゃ尚早だよ、尚早に過ぎるよ……」とレムブケーは顔をしかめた。
「へえ、あなたは本当に教会を打ち壊したうえ、棒ちぎりをもってペテルブルグへ押し寄せるのに同意する、ただ問題は時期の点にすぎないなどといいながら、よくまあ政府の公吏で澄ましていられますねえ!」
 レムブケーはこうまで無遠慮に尻尾をつかまえられて、もうすっかりのぼせてしまった。
「それは違う、それは違う」しだいに強く自尊心をいらだたせながら、彼は夢中になっていった。「きみは年も若いし、またわれわれの目的もよく了知していないので、そういう誤謬に陥るんだよ。ねえ、ピョートル君、きみはわれわれを政府の公吏と呼んだね? いかにもそうだ。それは独立不羈の公吏だろうか? いかにもそうだ。しかし、われわれがどんなふうに活動してるか、いったいきみはご承知かね? われわれには責任がある。が、結果においては、われわれもやはりきみたちと同じように、共同の事業に奉仕しているんだよ。ただわれわれは、きみたちが揺すぶるんでぐらぐらしているもの、――われわれがいなかったら、四方八方にけし飛んでしまうおそれのあるものを、抑制しているのだ。われわれだってきみたちの敵ではない、けっしてそうじゃない、われわれはあえてきみたちにそういうよ、――進みたまえ、進歩したまえ、揺すぶりたまえ、――といって、つまり、当然改造さるべき一切の古いもののことだがね……しかし、一たんその要を認めた場合には、必要な範囲内においてきみたちを制止し、それによってきみたちを自分自身から救ってあげねばならん。なぜといって、きみたちばかりでわれわれというものがなかったら、ロシヤの国をがたがたにしてしまって、しかるべき体面をなくしてしまうに相違ない。このしかるべき体面ということを心配するのが、すなわち、われわれの役目なのだ。いいかね、われわれときみたちとは、お互いに必要欠くべからざるものだ。それを腹に入れてくれたまえ。イギリスでも、進歩党と保守党とは、お互いに必要なもんだからね。そうじゃないか、われわれが保守党で、きみたちが進歩党なのさ。まあ、こんなふうにわたしは解釈してるんだ」
 フォン・レムブケーはもう熱くなってしまった。彼はペテルブルグ時代から気の利いた、自由思想めいた議論をするのが好きだったが、今は傍で聴くものがないので、なお調子に乗ってしまった。ピョートルは無言のまま、なんだかいつもに似合わず真面目な態度を持していた。これがいっそう弁士を煽ったのである。
「ねえ、きみ、わたしはこの『県の主人』だ」と書斎を歩き廻りながら、彼は語を次いだ。「ねえ、きみ、わたしはあまり任務が多いために、ほとんど何一つ実行ができないでいる。ところが、一方から見ると、わたしはここにいても何一つすることがない、これもまた正確な事実なのだ。というと、不思議なようだが、その実は政府の態度一つでどうともなるものさ。かりに政府が一種の政策のためとか、または熱烈な要求を鎮撫するために、共和国か何か、まあそんなものを建てながら、同時に一方では知事の権力を増したとする。そうすれば、われわれは県知事の席に着いたまま共和国を丸呑みにするよ。なあに、共和国がいったいどうしたというのだ! われわれはなんなりとお好み次第のものを鵜呑みにしてご覧に入れるよ。少なくともわたしは……それだけの用意があるように思う。要するに、もし政府がわたしに電報で、〔activite' de'vorante〕(献身的活動)を命令して来るとすれば、わたしは 〔activite' de'vorante〕 を開始するよ。わたしはこんど諸君の眼前で、直截にこういった。『諸君、すべて県政機関の均衡と隆興に必要なものは、たった一つしかありません、曰く、県知事の権力を拡張することであります』え、きみ、地方団体にしろ、裁判機関にしろ、すべてのこういう行政司法庁は、いわゆる二重生活の方法を取らなくちゃならん。つまり、これらの機関は存立すべきものであるが(まったくそれは必要だ)、また一方から観察すると、彼らの絶滅が必要でもある。何ごとも政府の態度一つさ。一たんこれら諸機関の必要を感ぜしめるような風潮が起これば、わたしはそれをちゃんと目の前に揃えてご覧に入れる。ところが、その必要が去ってしまえば、わたしの支配下をどんなにさがしたって、そんなものはけっしてみつかりっこなしさ。まあ、こういうふうに、〔activite' de'vorante〕 を解釈してるのだ。ところが、この活動は、県知事の権力拡張をほかにしては、けっして求めることができないのだ。わたしたちはこうして、二人きりさし向かいで話してるんだよ。わたしはね、きみ、県知事官舎の門前に、特別歩哨を一人おく必要があるということを、もうペテルブルグへ請求してやって、いま返事を待ってるところなんだ」
「あなたには二人くらいいりましょうよ」とピョートルがいった。
「なぜ二人だね?」フォン・レムブケーは彼の前に立ちどまった。
「あなたを尊敬せしむるには、おそらく一人じゃ不足でしょう。どうしても二人いなくちゃ」
 レムブケーは顔をひん曲げた。
「ピョートル君、きみは臆面もなしに、よく口から出まかせがいえるね。わたしが優しくするのにつけあがって、いろんな当てこすりをいうじゃないか。まるで bourru bienfaisant(気むずかしやの慈善家)の役廻りを演じてるのだ」
「まあ、なんとでもお考えなさい」とピョートルは言葉を濁した。「が、とにかく、あなたはぼくらのために道をひらいて、ぼくらの成功の下地を作ってくださるのですよ」
「ぼくらのためとは、いったいだれのためだね、そして、また成功とはなんのことだね」とレムブケーはびっくりして相手を見据えた。けれど、返事は聞かれなかった。
 ユリヤ夫人はこの話の顛末を聞いて、恐ろしく不満そうだった。
「しかし、そんなことをいったって」とフォン・レムブケーは弁解した。「あれはお前のお気に入りだからね、上官の権力を笠にきて、頭ごなしにやっつけるわけにいかないじゃないか。ことに差し向かいの時にね……わたしだって、ついうっかり口をすべらすこともあるさ……人がいいもんだから」
「あまり人が好すぎるもんですからね。あなたが檄文のコレクションを持っていらっしゃることなんか、わたしは少しも知りませんでしたわ。お願いだから、見せてちょうだいな」
「だが……だが、あの男がたった一日といって、無理に持って帰ってしまったんだよ」
「まあ、あなたはまたお貸しになったんですの!」とユリヤ夫人は怒ってしまった。「なんて拙いやり方でしょう!」
「すぐ取りにやるさ」
「よこしゃしませんよ」
「わたしは是が非でも要求する!」レムブケーはかっとなって、席を跳びあがった。「そんなにあいつを恐れねばならないなんて、いったいあいつは何者だ? またこっちから何一つ仕出かすことができないなんて、いったいおれは何者だ?」
「まあ、坐って気をお鎮めなさいな」とユリヤ夫人は押し止めた。「あなたの第一の問いに対して、わたしこうお答えしますわ。あの人については、わたし立派に紹介を受けていますの。なかなか才気のある人で、どうかすると、たいへん気の利いたことをいいますよ。カルマジーノフもわたしに断言しました。あの人はいたるところに関係を結んでいて、都の青年層では大した勢力をもってるんですとさ。もしわたしがあの人を通じて、すべての青年層を惹きつけたうえ、自分の周囲に一つのグループを作ったら、その人たちの功名心に新しい道を示して、滅亡の淵から救ってやれますわ。あの人は心からわたしに心服して、なんでもわたしのいうことを聞いてくれます」
「しかし、そうそう甘やかしていると、あいつらどんなことを仕出かすかわかりゃしないよ! むろんそれは立派な……考えだが……」とレムブケーは曖昧な調子で弁解するのであった。「しかし、……しかし、わたしの聞いたところでは、**郡に何か檄文が現われたとかいうことだよ」
「だって、それは夏頃の噂だったじゃありませんか、――やれ檄文、やれ贋造紙幣って、いろんなことをいい触らすんですわ。ところが、今まで一つとして手に入らないじゃありませんか。だれがあなたにそんなことをいいましたの!」
「わたしはフォン・ブリューメルから聞いたのだ」
「ああ、あんな人はまっぴらごめんですよ、あんな人のことをいったら、わたし承知しませんから!」
 ユリヤ夫人はかっとなって、しばらく口がきけないほどだった。フォン・ブリューメルは知事官房の吏員だったが、夫人はこの男をとくべつ憎んでいた。このことは後で話そう。
「どうかヴェルホーヴェンスキイのことは心配しないでください」と彼女は話の括りをつけた。「もしあの人が何かそんな悪戯に関係していたら、今あなたを初めとして、ほかのだれかれに話してるような具合に、いろんなおしゃべりができるものじゃありませんわ。多弁家はけっして恐ろしいものではありません。それどころか、わたしはかえってこう断言しておきます、――もし何かそんなふうなことが起こったら、わたし一番にあの人の口から聞き出しますわ。あの人は夢中になって、本当に夢中になって、わたしに心服してるんですの」
 事件の描写に移るにさき立って、わたしはちょっとここで断わっておく。もしユリヤ夫人の自負心と虚栄心が、あれほど烈しくなかったら、あの悪人ばら[#「悪人ばら」はママ]がこの町で仕出かしたようなことは、おそらく起こらなかったに相違ないのだ。これについては彼女に大部分責任があったのである!

[#3字下げ]第5章 祭の前[#「第5章 祭の前」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 ユリヤ夫人が県内の保姆たちのために、予約申し込みの方法で計画した祭の日取りは、幾度も変更され延期された。いつもお決まりで、夫人の周囲をちょこちょこしていたのはピョートルのほかに、走り使いの役を仰せつかっている小役人のリャームシン(これは、一時スチェパン氏の所へ出入りしていたが、急に例のピアノのおかげで、知事邸内のお気に入りとなったのである)、リプーチン(これは近く発行される県内の独立した新聞の編集係に当てようという、ユリヤ夫人の目論見だった)、幾たりかの夫人、令嬢、それからカルマジーノフ――などという顔触れだった。この文豪はべつにちょこちょこもしなかったけれど、文学カドリールで皆をあっといわせるのが愉快だと、公然とさも得意らしく吹聴していた。申し込み者や寄付者の数は大したものだった。町でも一流の錚々《そうそう》たるところは、ことごとくこれに加わった。しかし、金さえ持って来れば、あまり錚々たらざる連中も入場を許された。ユリヤ夫人の説によると、各階級の混合は、時として許さるべきことだった。
『でなかったら、だれもああいう人たちを教育する者がなくなるじゃありませんか』
 非公式な内輪の委員会も設けられた。その会議の結果、祭の催しは民主的ならざるべからず、ということに一致した。おびただしい申し込みの数は、自然いろいろな出費の原因となって、一同は何か素晴らしいものを作りあげたいと考え出した。こういうわけで、たびたび延期されたのである。また会場をどこにしようか、――この一日のために宏大な邸を提供しようという貴族団長の好意を無にしまいか、それともスクヴァレーシニキイなるヴァルヴァーラ夫人のところにしようか、この問題もまだ決まっていなかった。スクヴァレーシニキイは少し遠すぎるが、委員の多数は『あそこのほうが遠慮が少ないだろう』と主張した。当のヴァルヴァーラ夫人は自分の家に決めてもらいたくってたまらないのだ。なぜあの誇りの強い婦人が、あんなにユリヤ夫人の鼻息をうかがうのか、ほとんど合点がゆかなかったけれど、おそらく知事夫人のほうからも、ニコライに腰を低くして、ほかの人にはちょっと見せないくらいの愛嬌を振り撒くのが、ヴァルヴァーラ夫人の気に入ったからだろう。もう一度くり返していうが、ピョートルはこのあいだしじゅう知事邸内へ、目立たぬように一種の、すでに芽ざしていた観念を植えつけていた。つまり、ニコライはあるきわめて秘密な社会に極めて秘密な関係をもっていて、この町へも何か使命を帯びて来たに相違ない、とこういうのであった。
 当時この町の気分はなんだか妙になっていた。ことに婦人社会では、一種軽佻な気分が顕著になった。しかも、しだいにそうなったとはいいにくい。思い切って放縦ないろいろの思想が、さながら、とつぜん風にでも持って来られたような具合だった。何かしら馬鹿げて陽気な、軽々しい気分が町をおそった。が、それは、いつでも気持ちのよいものとは申しかねる。一種人心の惑乱ともいうべきものが流行し始めたのだ。あとで何もかも片がついてしまったとき、人々はユリヤ夫人に罪を帰し、夫人の周囲とその感化を責めた。けれど、何もユリヤ夫人一人から起こったとは、ちと受け取りにくい。それどころか、多くのものは初めのうちさきを争って、新知事夫人の社会を結合する腕を讃美し、急に町が陽気になったといって嬉しがったものだ。中には二、三|顰蹙《ひんしゅく》すべき出来事も起こったが(それもユリヤ夫人の全然あずかり知らぬところだ)、それでも、当時人々はただげらげら笑って、いい慰みのように心得ていた。それを防止しようというものは一人もなかった。もっとも、かなり多数の人々は当時の風潮にたいして、自家独得の見解を持し、傍観的態度を取っていた。けれど、この連中もべつだん不平を訴えるでもなく、かえって、にやにや笑っていたものである。
 今でも覚えているが、当時かなり大きな一つのグループが自然と形づくられた。その中心は、やはりどうも、ユリヤ夫人の客間にあったらしい。夫人の周囲に集まるこの水入らずのグループのなかでは(むろん、若い人たちに限られていたが)、さまざまな悪戯をすることが許されていた――というよりも、まるで憲法のようになっていた。そして、中には事実かなりだらしのない悪戯もあった。グループのうちには、なかなか綺麗な婦人がいた。こういう若い人たちは、野遊びを試みたり、夜会を催したり、どうかするとまるで騎馬行列よろしく、騎馬や馬車で町じゅう練り廻すことがあった。彼らは変わった出来事をさがして歩くばかりか、ただただ愉快な話の種をえたいばかりに、わざと自分たちで作り出したり、工夫したりするのだった。彼らはわたしたちの町を、まるで愚人町《グルーポフ》([#割り注]伝説の町[#割り注終わり])かなんぞのように扱っていた。人々は彼らを口悪だの、皮肉屋だのと呼んでいた。それは、彼らがなんでも平気でやってのけたからである。
 早い話が、こんなこともあった。土地のさる陸軍中尉の細君で、夫の俸給が少ないために、痩せこけてはいたけれど、まだごく若いブリュネットが、ある夜会でちょっとした軽はずみな心持ちから、賭けの大きいカルタの勝負に加わった。それはどうかして婦人外套を買う金だけでも勝ちたいという、ただそれだけの欲だったのである。ところが、勝つどころか、十五ルーブリも負けてしまった。彼女は夫が恐ろしいうえ、第一、払おうにも金がなかったので、もとの勇気を奮い起こして、さっそくその夜会の席で、この町の市長の息子にこっそりと借りる決心をした。市長の息子は、年に似合わぬ摺れっからしの、しようのない不良少年だったので、その頼みを撥ねつけたばかりで足りないで、おまけにげらげらと大声で笑いながら、夫のところへ告げ口に行った。実際、俸給だけで世知がらい暮らしをしていた夫の中尉は、細君を家へ連れ帰ると、泣いたりわめいたり膝を突いて詫びたりするのに耳もかさず、腹さんざん油を絞った。この苦々しい顛末は、町じゅういたるところでただ一場の笑いぐさにされてしまった。しかも、この不幸な中尉夫人は、ユリヤ夫人をとり巻くグループに入っていたわけでなく、ただこの騎馬隊に属する一人の夫人、――とっぴで元気なたちの女――が、何かでこの中尉夫人を知っていたので、彼女の家へ出かけて行って、自分のところへお客に来いと、てもなくひっ張り出したのである。このときすかさずわが悪戯小僧の面々は中尉夫人をとり巻いて、優しい言葉を浴せたり、いろいろ贈り物の雨を降らせたりして、四日ばかり夫の手へ返さずに引き留めた。彼女は元気のいい夫人の家に暮らして、毎日のようにその夫人を初めとして、人はしゃぎの連中といっしょに町じゅう散歩に練り歩いたり、いろんな陽気な催しや舞踏などに加わった。一同はこの間しじゅう彼女をけしかけて、夫を法廷へ引き出して、一騒動もち上げるようにすすめた。そして、みんな彼女の味方をして、証人になってやると誓うのだった。夫はあえて争いを挑もうともせず、口を緘して黙っていた。ついに、哀れな中尉夫人は、とんでもない災難に落ち込んだのを悟って、恐ろしさに生きた心地もなく、四日目の晩たそがれに乗じて、保護者たちの手から夫のもとへ逃げ帰った。夫婦の間にどういうことが起こったか、くわしいことはわからないけれど、中尉の借りて住んでいた低い木造の小家の窓は二つとも、二週間ばかり鎧戸を閉めたきり開かなかった。ユリヤ夫人はこの出来事をすっかり聞いた時、いたずら小僧たちの仕打ちにひどく腹を立てた。元気のいい夫人が、中尉の細君をぬすみ出した初めての日、ユリヤ夫人に引き合わせたとき、彼女はそのやり口にだいぶ不満らしかったが、このことはすぐに忘れられてしまった。
 またその次には、他郡からやって来た青年で、低いところに勤めている官吏が、これまたつまらない小役人ではあるけれど、見たところなかなか品のいい一家の主といったような人から、十七になる娘をもらい受けて結婚した。それは町でもだれ知らぬ者のない美人だった。ところが、突然、こんなことが人々の耳に入った。ほかでもない、結婚の第一夜に新郎は、その美人に対して、自分の名誉を傷つけられた復讐だとかいって、穏かならぬ振舞いをしたとのことである。祝い酒に酔いつぶれてその家に泊ったため、ほとんど全部その出来事の目撃者となったリャームシンは、さっそく夜が明けるか明けないかに、この愉快な報知を携えて、みんなのところを駆け廻った。たちまちに十人ばかりの一隊が組織され、一人の除外例もなく騎馬で出かけた。ある者、たとえばピョートルとかリプーチンなどのごときは、借りもののコサック馬に跨った。リプーチンは白髪の見え初める年をしながら、町の軽はずみな青年の企てる苦々しい馬鹿騒ぎを、ほとんど一つとしてはずしたことがなかった。町の習慣で、結婚の翌日はどんなことがあろうとも、必ず知人訪問をしなければならないので、若夫婦が二頭立ての馬車に乗って往来に現われた時、この騎馬隊はいきなり陽気な笑い声を上げて、若夫婦の馬車をとり囲み、朝の間じゅう町をぞろぞろついて歩いた。もっとも、家の中までは入らなかったけれど、馬に乗って門の傍で待っていた。新郎新婦に格別どうというほどの侮辱を加えることは慎んだものの、とにかく見苦しい光景を呈したのは確かである。町じゅうがこの噂をした。いうまでもなく、みんなげらげらと笑ったのである。しかし、この時、フォン・レムブケーが恐ろしく腹を立てて、ユリヤ夫人と一場の活劇を演じた。夫人も一通りならず立腹して、以後この悪戯小僧どもの出入りを断わろうと考えた。が、翌日ピョートルの弁解とカルマジーノフの数言によって、ついに一同をゆるすことにした。カルマジーノフがかなり機知に富んだ『洒落』をいってのけたのである。
「あれはここの気風なんですよ」と彼はいった。「少なくも奇抜ですよ、そして……痛快です。ご覧なさい、みんな笑ってるじゃありませんか、ぶつぶついってるのはあなた一人だけですよ」
 しかし、続いてかのいまわしい性質を帯びた、もはやとうてい我慢のできない悪ふざけが起こった。
 わたしたちの町に福音書を売り歩く行商の女が現われた。それは町人の生まれだったが、立派な尊敬すべき婦人であった。そのころ首都の新聞でも、こうした行商の女について、面白い批評が現われはじめたばかりだったので、それはすぐ人々の話題に上った。ところが、今度もまたやくざ者のリャームシンが、小学教師の口を求めてのらくらしている神学生と協力で、この婦人の本を買うような振りをして、外国製の猥雑な写真を一束、そっと袋の中へ忍ばせたのである。後で聞けばこの写真は、首に立派な勲章の一つも掛けていようというさる身分ある老人が(名前はいわずにおく)、この計画のためにわざわざ寄付したとのことである。老人は彼自身の言い草によると『健全なる笑いと愉快な冗談』が好きなのだった。で、哀れな婦人が町の勧工場で聖書を出そうとしたとき、例の写真がばらばらと落ち散った。群衆の哄笑、つづいて憤慨の声が起こった。一同はひしひしと詰めかけて罵り始めた。もし折よく警官が駆けつけなかったら、殴打さわぎにもなりかねないところだった。聖書売りの女は留置場に押しこめられた。ようやく夕方になって、このいまわしい事件の内幕をくわしく聞き知ったマヴリーキイが、非常に憤慨していろいろ尽力した結果、やっと釈放されて、市外へ送り出された。今度こそはユリヤ夫人も、断然リャームシンを放逐しようとしたが、その晩、連中が一同うち揃って、彼を夫人のところへつれて来た。そして、彼が一種特別なピアノの曲弾きを工夫したことを報告して、ちょっと聞くだけ聞いてくれと懇願した。それは『普仏戦争』という曲目で、まったく愛嬌のあるものだった。曲はいかめしいマルセイエーズの響きで始まった。

[#ここから2字下げ]
Qu' un sang impur abreuve nos sillons!
   (敵の鮮血わが野を浸せ)
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 花々しい挑むような音律、未来の勝利に陶酔したような譜調がひびき出した。しかし、思いがけなく、巧みにつくり変えられた国歌の拍子と同時に、どこか隅っこの、脇のほうで、Mein lieber Augustin([#割り注]わしの愛しいアウグスチン――ドイツの俗歌[#割り注終わり])の野卑な響きが聞こえてきた。それは深い底のほうから響いていたけれど、また恐ろしく近いところに聞こえるのだった。が、マルセイエーズはそれに気づかないで、自分の雄壮な調子に酔いきったもののよう。しかし、アウグスチンはそれに屈せず、いよいよ粗暴な調子を発揮していった。と、ふいにアウグスチンの拍子はどうしたものか、マルセイエーズの拍子といっしょになり始めた。こちらは腹を立て始めたようなふうである。今になって、やっとアウグスチンの存在に気がついたので、ちょうど取るに足らぬうるさい蠅でも払いのけるように、一生懸命ふり落とそうと試みたが、『わしの愛《いと》しいアウグスチン』はしっかり食いさがってしまった。彼女は浮き浮きとして、大得意で、さも嬉しそうに、しかも暴慢だった。マルセイエーズはどうしたものか、急にひどく間が抜けてきた。もう癇癪を起こしてぷりぷりしていることを隠そうともしなくなった。それは憤慨の悲鳴だった。神に両手をさし伸べて、一生懸命に押し揉みながら発する、呪いの言葉であり涙であった。

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Pas un pouce de notre terrain,
Pas une pierre de nos forteresses.
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(われらの土地の一寸も
 われらの城の一石も)
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 しかし、すでに彼女は『わしの愛《いと》しいアウグスチン』と拍子を揃えて歌わねばならなくなった。その音はどうしたことか、ばかばかしくもアウグスチンの調に移っていって、しだいに力を弱めつつ、消ゆるになんなんとしている。ただ時時、突発的に、qu' un sang impur(敵の鮮血)という響きが聞こえるが、すぐにいまわしいワルツに飛び移るのだった。彼はもうすっかり諦めてしまった。それはちょうどビスマルクの胸にだかれて慟哭しながら、なにもかも投げ出してしまったジュール・ファーヴル([#割り注]ビスマルク講和条約を結んだ仏の外相[#割り注終わり])のようだった。こうなると、アウグスチンはますます猛威を揮った。しわがれた声が聞こえ、めちゃめちゃにビールを呷りつけたようなもの狂おしい自己喝采や、幾十億の償金、細巻きのシガー、シャンパン、人質――こういうものの要求が音響の中に感じられた。やがて、アウグスチンは猛烈な叫喚に移ってゆく……こうして普仏戦争は終わりを告げた。
 仲間の連中は喝采した。ユリヤ夫人は、ほほえみながら、『まあ、どうしたらこの人を追い出せるでしょう』といった。これで講和は締結された。この卑劣漢は、実際ちょっとした才能を持っていた。スチェパン氏は一度わたしたちに向かって、最も芸術的な天才でも、同時に最も戦慄すべき卑劣漢でありうる、この二つはけっして互いに反撥するものでないと、口を極めて主張したことがある。その後、人の噂によると、この曲は、リャームシンがある一人のきわめて謙抑な、才能ある青年の作を剽窃したとのことである。それは彼の知人で、通りすがりにしばらくこの町で逗留したのだが、そのまま人に知られないで終わった。それはさておき、今まで幾年かの間スチェパン氏の家の集まりで、おのぞみ次第に、いろんなユダヤ人の真似をしたり、聾のお婆さんの懴悔や、赤ん坊の生まれるところなどを写して見せたりして、いろいろご機嫌を伺っていたこのやくざ者が、今は時々ユリヤ夫人のところで、当のスチェパン氏をつかまえて、『四十年代の自由思想家』という名称のもとに、悪どい戯画にして見せるのであった。一同はそのたびに笑い転げた。かような次第で、しまいには全然おっ払うということができなくなった。そんなことをするには、あまりにもう必要な人物となったのである。そのうえに、彼はいやらしいくらいピョートルのご機嫌を取った。ピョートルはまたピョートルで、最近にいたって不思議なくらい、ユリヤ夫人に一方ならぬ勢力を振るうようになった。
 わたしはけっしてこんな卑劣漢のことを、とり立ててかれこれいうつもりではなかった。こんな男のために時間をつぶす値打ちはない。ところが、この時、一つのいまいましい事件が起こった。人の話によると、彼もそれに係り合っていたとのことである。そうして、またこの出来事はわたしの記録から、どうしても逸することができないのである。
 ある朝、いまいましく、醜い、冒涜的な出来事に関する噂が、町じゅうに広がった。町の大きな広場の入口に、この古い町でもことに珍しい古蹟とされている聖母誕生寺という古びた教会があった。この教会の塀の門際に、古くから聖母マリヤの大きな聖像が金網をかぶせて塀の中へ嵌め込んであった。ところで、この聖像が一夜の中に盗難に遭ったのだ。厨子のガラスは叩き毀され、金網は引き破られて、冠や袈裟につけてあった宝石や真珠が、非常に高価なものかどうか知らないが、とにかくいくつか抜き取られたのである。しかし、なによりひどいのは、単に盗みをしたばかりでなく、おまけに人を馬鹿にしたような、わけのわからぬ涜神の振舞いをした点だった。ほかでもない、厨子の毀れたガラスの中に、生きた二十日鼠が入っているのを朝になって発見した、というのだ。四か月を経過した今日《こんにち》では、この犯罪を行なったのは懲役人のフェージカであると確かめられてきたけれど、同時にまたどういうわけか、リャームシンもこれに係り合いがあると、つけたりにいい出すようになった。当時はだれ一人、リャームシンのことなぞ口にする者もなかったのに、今ではみんなが口を揃えて、あのとき二十日鼠を入れたのはリャームシンに相違ない、と断言している。
 忘れもしない、当時官憲も大分ショックを受けたふうである。群衆は、朝から犯罪の現場に押しかけた。どんな種類の人か知らないけれど、いつでも百人くらいの群衆が集まっていた。一人去ればまた一人、というふうなのである。近寄って来る人々は、十字を切って、聖像に接吻するのだった。やがて喜捨する人もぼつぼつ出て来たので、教会では賽銭受けの皿を出して、その傍に坊主を一人立たした。やっと三時近くなって、警察のほうでも、町民が一つところに立って、押し合いへし合いしないように、お祈りをし接吻して喜捨をすましたら、さっさと通り過ぎるように、命令することもできるわけだと気づいた。この不幸な出来事は、フォン・レムブケーにきわめて暗い印象を与えた。わたしが人からまた聞きしたところによると、ユリヤ夫人は後でこんなことをいったそうである。彼女はこの不吉な変の起こった朝以来、妙に意気銷沈した心持ちが夫の顔に現われ始めたのに、心づいたとのことである。この表情はつい二月まえ、病気のゆえをもって町を去るまで、ずっと引き続いて彼の顔を離れなかった。いま彼はこの県における短い行政官生活の後、スイスで休養を続けているのだが、この表情はおそらくあちらでも、やっぱり付きまとっていることだろう。
 今でも覚えているが、わたしも昼の十二時すぎ、その広場へ行ってみた。群衆は多く無言がちで、人々の顔はなんとなくとげとげしく気むずかしそうだった。脂ぎって黄いろい顔をした一人の商人が、田舎ふうの馬車に乗って近づいたが、傍まで来ると乗り物から下りて、額が地につくほどうやうやしく礼拝すると、聖像《みぞう》に接吻して一ルーブリの喜捨をし、嘆息しながら馬車に乗って、ふたたび向こうへ行ってしまった。また一台の幌馬車がやって来た。それには町の貴婦人が二人、例の悪戯仲間を二人お伴にして乗り込んでいた。青年たちは(ただし、一人のほうはもう青年といえなかった)、同様に馬車から下りて、かなり無遠慮に群衆を掻き分けながら、聖像のほうへ押しかけた。二人とも帽子を取らなかったばかりか、一人のほうはわざわざ鼻眼鏡を掛けた。群衆の中でぶつぶついう声が聞こえた。もっとも、低い調子ではあったが、かなり反感をいだいているらしかった。鼻眼鏡の青年は、紙幣《さつ》のぎっちり詰まった金入れから、一コペイカの銅銭を取り出して、ぽんと皿の上へほうり出した。二人は声高に笑ったり、話したりしながら、馬車のほうへ取って返した。ちょうどこの時、リザヴェータがマヴリーキイと同道で駆けつけた。彼女は馬から飛び下りると、マヴリーキイには馬上のまま、そこへじっとしているようにいいつけて、手綱をその手に投げつけるなり、聖像の傍へ近寄った。それは銅銭のほうり出された瞬間だった。憤怒のくれないが彼女の頬にさっと漲った。彼女は円い帽子と手袋を脱ぐやいなや、いきなり聖像に向かって汚い歩道にひざまずき、うやうやしく三度まで額を土につけた。それから、自分の金入れを取り出したが、その中には十コペイカの銀貨が二、三枚しかなかったので、さっそくダイヤの耳環をはずして、皿の上にのせた。
「かまいませんか、かまいませんか? お袈裟の飾りにね?」全身をわくわくさせながら、彼女は僧にこうたずねた。
「よろしゅうございます」とこちらは答えた。「喜捨はすべて功徳になりますで」
 群衆は非難の声も立てねば、賞讃の意も表わさないで、無言のまま控えていた。リーザは汚れた着物のまま馬に跨って、まっしぐらに駆け去った。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 いま話した事件から二日たったのち、騎馬の人々にとり巻かれた三台の幌馬車に分乗し、どこかへ出かけて行く大人数の団体の中に、わたしはリザヴェータを見つけたのである。彼女は手でわたしを差し招いて、馬車を止め、わたしもこの団体に加わるように、一生懸命に頼み始めた。馬車の中にはわたしが坐るだけの場所があった。彼女は、けばけばしい作りをした同乗の婦人たちに、笑い笑いわたしを紹介した後で、これから素敵に面白い遠征に出かけるところだと説明した。彼女はからからと声高に笑って、何か度はずれに幸福らしく見受けられた。ちかごろ彼女はなんだか蓮っ葉なくらい浮き浮きしてきた。
 実際、この遠征はとっぴなものだった。一同は川向こうの商人セヴァスチャーノフの家へ押しかけて行くところである。その家の離れにはもう十年近く、セミョーン・ヤーコヴレヴィチといって、単にこの町ばかりでなく、近県はおろか両首都まで知れ渡っている予言の聖者が、穏かに何不自由なく、ちんまりとその日その日を送っていた。人々、――とりわけよそから来た旅人は、彼の奇矯な一言をうるために、わざわざ訪ねて来て、拝んだり、喜捨をしたりするのであった。喜捨の金は時とすると、かなり莫大な高にのぼることがあったが、その場でセミョーン聖者が使いみちを指定しないかぎり、うやうやしく神のみ寺へ送られることになっていた。寺は町の聖母誕生寺がおもだった。で、寺からはこの目的のために僧が一人来て、絶えずセミョーン聖者の張り番をしていた。一行は図抜けて愉快な出来事を予期していた。一行中には、セミョーン聖者を見たものが一人もなかった。ただリャームシンだけは、いつか一ど行ったことがあるとかで、いま一生懸命にその話をするのだった。なんでも聖者は、彼を箒で叩き出せといいつけたうえ、大きな馬鈴薯の煮たのを二つ、自分の手で後から投げつけたとのことである。騎馬の連中のうちには、またしても借り物のコサック馬に乗ったピョートルと(彼は恐ろしく落ちつき悪そうに跨っていた)、同じく騎馬のニコライが見受けられた。彼はどうかすると、こうして一同うち揃っての騒ぎに加わることがあった。そういう場合にはいつでも人の感情を傷つけないような、愉快そうな顔を作っていたが、それでも依然として、あまり口数をきかなかった。
 この遠征隊が橋のほうへ下りて行って、町の宿屋の傍まで来たとき、たった今この宿の一室で、ピストル自殺を遂げた旅人を見つけて、警察の臨検を待っているところだと、突然だれかいうものがあった。すぐさまその自殺者を見ようじゃないか、という動議が提出せられた。この説はたちまち賛成者をえた。一行の婦人たちは、まだ一度も自殺人を見たことがなかったので。なんでも一人の婦人が、さっそく大きな声で、『もう何もかもすっかり飽き飽きしてしまったから、気の紛れることなら、ちっとも遠慮する必要ないわ、面白くさえあればいいじゃないの』といったのを覚えている。ただ幾たりか少数のものが玄関の前で待っていたばかりで、ほかのものは一同揃ってどやどやと、汚い廊下へ雪崩れ込んだ。その中には、驚いたことに、リザヴェータの姿も見受けられた。自殺人の部屋は開け放してあって、むろん、われわれに留め立てなどするものはなかった。彼はまだやっと十九になったばかりで、けっしてそれより上ではあるまいと思われるくらいな、ずぶ若い青年だった。きっと美しい容貌の持ち主だったに相違なく、白っぽい髪の毛は房々と伸び、輪郭の正しい顔は卵なりをして、額は清らかに美しかった。もう体が硬直して、白い顔は大理石のように見えた。テーブルの上には遺書がのっていて、自分の死についてはだれをも咎めてくれるな、この自殺の原因は四百ルーブリの金を『飲んでしまった』からだと書いてあった。『飲んでしまった』という言葉は、ちゃんと手紙に載っていたのである。そして、四行ばかりの間に、文法の誤りが三つまであった。そこに居合わした一人の肥った地主ふうの男が、ことに同情してため息をついていた。見たところ、用事があって同じ宿に泊っている近所同士の人らしい。この男のいうところによると、少年は家族の者、――後家でいる母親や、姉、叔母たちの命を受けて、町の親戚の婦人のもとへおもむき、その指図を受けて、一ばん上の姉の嫁入支度に必要な品をいろいろと買い調え、それを家に持って帰るつもりで村を出たのであった。幾十年間の辛抱で貯えられた四百ルーブリの金は、このとき彼に託されたのである。親たちは心配のあまり吐息をつきながら、くどくどと果てしのない教訓や、お祈りや、十字のまじないで彼を見送った。彼はこれまでごくおとなしい、末頼もしい少年だった。
 三日前に当市へ着くと、彼は親戚の婦人のところへ顔を出さないで、この宿につくやいなや、いきなりクラブへ出かけた。どこか裏のほうの部屋に、旅の銀行師か、それともストック師([#割り注]共にカルタの勝負[#割り注終わり])くらいいるだろうと、当てにしたのである。ところが、その晩はちょうどストック師も銀行師もいなかった。もはや夜なか過ぎて宿へ帰ると、シャンパンとハバナのシガーを取り寄せ、六皿か七皿の晩食を注文した。しかし、シャンパンに酔ったうえ、シガーで胸を悪くしたので、運んで来た食べ物には手も触れず、ほとんど前後不覚で床に就いた。その翌朝は、林檎のようにさばさばした心持ちで目をさました。そしてさっそく、ゆうベクラブで聞いたジプシイの部落をさして、河向こうの村へ出かけたまま、二日間宿へ帰って来なかった。ようやく昨日の夕方五時ごろ、ぐでんぐでんになって帰って来るなり、いきなりぶっ倒れてしまって、晩の十時までぐっすり寝込んだ。目がさめると、彼はカツレツにシャトー・ディケームを一びん、そして葡萄一皿を誂えて、紙とインクと勘定書を持って来さした。だれひとり彼の様子に、変わったところがあるとも気づかなかった。彼は落ちついて、静かで、もの優しかった。自殺したのはまだ十二時前後らしいが、不思議にも、だれもピストルの音を聞いたものがなかった。やっと午後の一時頃に気がついて戸を叩いたが、いくら叩いても返事がないので、戸を毀して中へ入ったのである。シャトー・ディケームのびんはなかば空しくなり、葡萄もやはり半分ばかり皿に残っていた。自殺は三連発の小型ピストルでやったもので、弾丸《たま》はまっ直ぐに心臓に打ち込まれていた。血はごくぽっちりしか出ていなかった。ピストルは手からすべって、絨毯の上に落ち、当の少年は片隅の長いすの上になかば横たわっていた。ほんの刹那に、縡《こと》切れてしまったものと見えて、知死|期《ご》の苦悶の痕はいささかも顔に見えなかった。その表情は穏かで、ほとんど幸福らしく、さながら生けるもののようであった。
 わたしたち一行は貪るような好奇心をもって、一心に見守っていた。一般に、すべて他人の不幸というものは、いかなる場合でも、傍観者の目をたのしませるようなものを含んでいる、その傍観者がだれであろうと例外にはならぬ。婦人連は無言でじろじろ見廻しているし、つれの男たちは元より皮肉の鋭さと、図抜けて胆玉が据わったので聞こえた連中だった。なるほど、これは一ばん気のきいたやり口だ、この少年もこれ以上賢い分別はつかなかったろう、と一人がいえば、ほんのちょっとの間ではあるが、生き甲斐のある暮らしをしたものだ、ともう一人が結論した。すると、第三の男が出しぬけに、どうしてロシヤではこうやたらに首をくくったり、ピストル自殺をしたりするものが多くなったのだろう、まるでみんな根が切れてしまったか、足もとの床がわきへすべり抜けてしまったかなんぞのようだ! とやっつけた。人人はこの理屈屋の顔を無愛想にちらと見た。その代わり、仲間のために道化役を勤めるのを、ほとんど名誉のように心得ているリャームシンが、皿の上から葡萄を一房ひっ張り出した。続いてもう一人が笑いながらその真似をすると、三番目のものはシャトー・ディケームのびんに手を伸ばそうとしたが、ちょうどそこへやって来た警察署長が押し留めた。のみならず、『この部屋を引き上げる』ように頼んだ。もうみんな飽きるほど見てしまったので、争おうともせずにすぐ出て行った。もっとも、リャームシンは何かいいながら、署長に付きまとっていた。一行の浮き浮きした気分と、笑声と、奔放な会話とは、そのあとの半分道を行く間じゅう、ほとんど前に倍して元気づいた。
 ちょうど午後一時、わたしたちはセミョーン聖者のところへ着いた。かなり大きな商人の家の門は開け放しになっていて、離れのほうの出入りは自由だった。行くとすぐセミョーン聖者はお食事中だけれど、面会なさるということがわかった。わたしたちの一行は一時にどやどやと中へ入った。聖者が食事をとり、来訪者に接する部屋は、三つ窓のついた、かなりゆっくりしたものだったが、高さ腰までの木格子で横に壁から壁まで、ちょうど真半分に仕切られてあった。普通の来訪者は、格子の向こうに残っていたが、特別のあやかり者だけ聖者の指定で、格子にしつらえた戸を潜って、奥へ入れられることになっていた。そのうえ、彼は気さえ向けば、自分の古い革張りの肘掛けいすや、長いすに坐らすのであった。聖者自身は必ず、ヴォルテール式の耗《す》れた古い肘掛けいすに坐るのが決まりだった。彼は年の頃五十五ばかり、かなり大柄な、ぶよぶよむくんだような、黄いろい顔をした男で、禿げた頭には白っぽい薄い髪が生え残り、顎ひげは剃り落とされていた。右の頬がはれて、口は心もち歪んだように見え、左の鼻の孔の傍に大きな疣があった。目は小さくて、顔は落ちつき払った、ものものしい、そのくせ眠そうな表情をしていた。服装はドイツふうの黒いフロックコートだが、チョッキもなければネクタイもなかった。フロックの陰からは、かなり地は粗いけれど汚れのない白いシャツが覗いていた。見たところ病気持ちらしい足には、スリッパをはいている。わたしの聞いたところでは、彼はもと官吏を勤めたこともあって、官等さえ持っているとのことである。彼はたったいま軽い魚汁《ウハー》を食べ終わって、二つ目の皿、――皮つきの馬鈴薯と塩、――に手をつけたところだった。これ以外の食べ物はけっして口に入れなかった。ただその代わり、お茶はたくさんのんだ。これが大の好物なのである。まわりには三人の給仕があちこちしていた。これはあるじの商人が給料を出しているので。一人は燕尾服を着込んだ侍僕だし、いま一人は職工組合あたりから来たものらしく、もう一人は寺の番僧かなんぞのようだった。そのほか、いたって腕白らしい、十六ばかりの小僧っ子がいた。給仕たちのほかには、少し肥え過ぎてはいるけど、相当地位のありそうな胡麻塩の僧が、賽銭受けの壺を捧げて控えていた。いくつかあるテーブルの一つには、図抜けて大きな湯沸《サモワール》が煮立っていて、その傍にはほとんど二ダースもありそうなコップをのせた盆が置いてある。反対側にあるテーブルには寄進の品々、――幾つかの砂糖の大塊や、一斤ずつ袋に入れた砂糖や、二斤ばかりの茶や、刺繍をしたスリッパや、絹のハンカチや、ラシャの切れっ端や、麻のきれや、そんなものがのせてある。金の喜捨は大抵、僧の持っている壺の中へ入ってゆくのだった。
 部屋の中は大変な人ごみで、少なくも一ダースくらいの来訪者があった。そのうち二人だけは格子の向こうへ入って、セミョーン聖者の傍に坐っていた。それは、白髪頭をした『平民出』の年寄った巡礼で、もう一人は小柄な、乾からびた、よそものの僧だったが、ちんと畏まって、伏目がちに控えていた。その余の来訪者は格子のこちら側に立っていた。大抵は平民階級の者が多かったが、中に他郡から来た顎ひげの長い、純ロシヤふうのなりをした、丸持ち長者という評判の高い肥えた商人と、年とった見すぼらしい士族出の婦人と、一人の地主がまじっていた。一同は幸運が廻って来るのを待っていたが、口に出してはいわなかった。四人ばかりのものは膝を突いていたが、中でもだれより目に立つのは、年頃四十五ばかりの肥満した地主だった。彼は格子のすぐ傍の一ばん目立つところに膝をついて、セミョーン聖者のやさしい視線か言葉のかかるのを、悲しげに待ちかまえていた。彼はもうかれこれ小一時間もそうしていたが、こちらは相変わらず少しも彼に目をくれなかった。
 われわれ一行の婦人は楽しそうな、嘲るような声でひそひそささやきかわしながら、格子のすぐ傍へ押し寄せた。膝をついていた者も、その他すべての来訪者も、ことごとく押し狭められたり、前に垣をされたりしてしまった。ただ例の地主ばかりは、根気よく目に立つ場所に居残ったまま、両手で格子をつかまえていた。貪るような好奇心に輝く楽しそうな目は、いっせいにセミョーン聖者の上にそそがれた。中には柄付眼鏡や、鼻眼鏡や、双眼鏡まで光った。少なくも、リャームシンは双眼鏡で、ためつすがめつしていた。セミョーン聖者は小さな目で一同を、落ちつき払って大儀そうにじっと見廻した。
「色目をこととするやからじゃ! 色目をこととする!」と軽く嘆息するように、彼はしゃがれたバスでいった。
 みないっせいに笑い出した。『いろめってなんのこと!』しかし、セミョーン聖者はまた沈黙に返って、馬鈴薯を平らげにかかった。ついにナプキンで口を拭きおわると、給仕が茶を出した。
 彼が茶を飲むのは、たいてい一人ではなくて、来訪の者にも注いで飲ませた。けれど、なかなか一同に残らず配ってやるようなことはしなかった。ふつう自分で中のだれかを指さして、この光栄を与えるのが常だった。その指図の仕方が思い切りとっぴなので、いつも人々を驚かした。時には富豪や高官を出し抜いて、苔の生えそうな老婆や百姓にやれといいつけることもあれば、また時には貧しい人々を素通りして、何か脂肥りのしたような金持ちの商人に飲ますこともあった。茶の注ぎ方もやはりまちまちで、砂糖をコップに入れてやったり、添えてかじらせたり、まるで砂糖なしで飲ませたりした。今日この光栄を受けた人々は、よそものの僧――これはコップの中へ砂糖を入れてもらった、――と年寄りの巡礼で、これは砂糖なしだった。町の修道院から来ている、例の壺を持った太り肉《じし》の僧は、これまで毎日一杯ずつもらっていたにもかかわらず、なぜか今日はまるで持って来てもらえなかった。
セミョーン長老さま、なにかお言葉をかけてくださいませんか。わたしはずうっと以前から、あなた様とお近づきになりたいとぞんじまして」一行中の華美《はで》づくりな婦人が笑みを浮かべ、目を細くしながら、唱うような調子でこういった。これは、さきほど『気の紛れることなら、ちっとも遠慮する必要ないわ、面白くさえあればいいじゃないの』といった当人である。
 セミョーン聖者は、そのほうに目をくれようともしなかった。例の膝を突いていた地主は、まるで大きな鞴《ふいご》を上げてまた下げたように、すうっと深いため息をついた。
「あの人に砂糖を入れたのをな!」丸持ち長者の商人を指さしつつ、セミョーン聖者は出しぬけにそういった。
 丸持ち長者は前へ進み出て、地主と押し並んで、立ちどまった。
「あれにもっと砂糖を入れてやれ!」もうコップに茶を注ぎ終わった時、セミョーン聖者はいいつけた。また一人前の砂糖が投じられた。「もっと、もっと入れるのだ!」でまた一ど、さらにまた一ど砂糖が加えられた。
 商人はさもうやうやしげに、シロップのような茶を啜り始めた。
「ああ、神様!」とささやきながら、群衆は十字を切った。
 地主はまたしても深いため息を音高く洩らした。
「長老さま、セミョーン上人さま!」悲しそうではあるが、それこそ思いがけないほど甲走った声が、ふいに高く響き渡った。それはわれわれ一行に壁へ押しつけられていた見すぼらしい老女の声だった。「もうまる一時間お情けを待っておりまする。わたくしにお言葉をかけてくださりませ。頼りのない年寄りに知恵を授けてくださりませ」
「聞いてみい」とセミョーン聖者は給仕の番僧にいいつけた。
 彼は格子の傍へ近づいた。
「あなたは、この前セミョーン上人さまのおっしゃったことを、ちゃんとそのとおりなさいましたかね?」と彼は低いなだらかな声でやもめに問いかけた。
「おお、長老さま、セミョーン上人さま、何ができるものでござりますか、あいつらを相手に何ができるものでございましょう!」とやもめは泣くように叫んだ。「あの人呑鬼《にんどんき》めら、わたくしを裁判所へ訴えるの、元老院へ突き出すのといって、脅しているのでござります。まあ、現在の母親を!」
「あれにやれ!………」セミョーン聖者は砂糖の大塊を指さした。
 小僧は飛び出して、砂糖の塊りをつかむと、それをやもめのほうへだいて行った。
「おお、まあ、長老さま! なんというありがたいことでございましょう。まあ、こんなにいただいてどういたしましょう!」とやもめは泣くような声でいった。
「もっと、もっと!」とセミョーン聖者はまだ施し物を指図するのであった。
 砂糖の塊りがもう一つ運ばれた。『もっと、もっと』聖者はまだやめなかった。三つ目の塊りに続いて、また四つ目が運んで来られた。やもめは四方から砂糖に取り囲まれてしまった。聖母寺院から派遣された僧侶は、ほっとため息を吐いた。これだけの砂糖は、これまでの例にしたがえば、今日にも僧院へ入って来るべきものであった。
「まあ、こんなにいただいて、どうしたらよろしゅうございましょう!」やもめはつつましやかに吐息をついた。「わたし一人でこんなに頂戴して……おなかを悪くしてしまいますよ! これは何かのお告げでもございましょうか、長老さま!」
「そうに違いない、きっとお告げなのだ」と群衆のなかでだれかがいった。
「あれにもう一斤やれ、もう一斤!」セミョーン[#「セミョーン」は底本では「セミヨーン」]聖者はなかなか承知しなかった。
 テーブルの上には、もう一つ大きな塊りが残っていたが、聖者は一斤だけやれといいつけた。で、やもめはまた一斤もらった。
「神様、神様!」と群衆はため息をついたり、十字を切ったりした。「たしかにお告げに違いない!」
「それはまず自分の心を愛と恵みで甘くして、それから現在自分の血を分けた生みの子を訴えに来るがいい、というような喩《たと》えでもあろうかな」先刻、茶のもてなしを受け損ねた肥えた僧侶は、意地悪い自尊心の発作にかられて、われと説明の役を引き受けながら、低いけれど、得意そうな声でいった。
「まあ、方丈さま、何をおっしゃるのでござります」とやもめはふいに腹を立て出した。「だって、あいつらはヴェルヒーシンの家が焼けた時、わたくしの頸に繩をかけて、火の中へ引きずり込もうとしたではありませんか。あいつらはわたくしの箱の中に、死んだ猫を押し込んだではございませんか。そういうふうで、どんな乱暴でもしかねまじいのでござります……
「追い出せ、追い出してしまえ!」突然セミョーン聖者は両手を振った。
 番僧と小僧は格子の向こうへ飛び出した。番僧がやもめの手を取ると、こちらは急におとなしくなって、もらった砂糖の塊りを振り返り、振り返り、戸口のほうへ進んだ。砂糖は小僧が後からかかえて行った。
「一つ取り戻せ、取り上げて来い!」傍に残っている職人体の男に向かって、セミョーン聖者はこういいつけた。
 彼は一散に駆け出して、立って行った人々の後を追った。やがてしばらくたってから、三人の給仕は、一度やっておきながら、またやもめの手から取り戻した砂糖の塊りを一つ持って引っ返した。それでもやもめは大きなのを三つ持って行ったのである。
セミョーン長老さま」うしろの戸のすぐ傍で、だれかの声が響き渡った。「わたくしは夢に鳥を見ました。鴉が水の中から飛び出して、火の中へ入ったのでございます。いったいこの夢はどういうことでございましょう?」
「寒さに向かうということだ」とセミョーン聖者は答えた。
セミョーン長老さま、どうしてあなたはわたしに、なんともご返事くださらないのでございます。わたしはもうずうっと前から、あなたに興味を持っていたのでございます」とまた一行の婦人がいい出した。
「聞いてみい!」その言葉には耳もかさず、膝を突いている地主を指さしながら、セミョーン聖者は出しぬけにいった。
 聞き役を仰せつかった僧侶は、容体ぶって地主に近づいた。
「どんな悪いことをせられましたな? 何かしろといいつかったことでもありますかな?」
「諍《いさか》いをしてはならぬ、わが手に自由をさすな、ということでございました」かすれた声で地主が答えた。
「そのとおり守りましたか?」
「まもれません、自分で自分の力に負かされるのでございます」
「追い出せ、追い出せ、箒で追い出せ、箒で!」セミョーン聖者は両手を振り始めた。
 地主は刑罰の下るのを待たないで、ぱっと跳ね起きると、そのまま外へ飛び出した。
「ここに金貨を残して行きました」床の上から五ルーブリ金貨を拾い上げながら、僧侶は披露した。
「ほら、あれにやれ!」セミョーン聖者は指で丸持ち長者をさし示した。
 丸持ち長者は辞退する勇気もなく、そのまま受け取った。
「金に金を加えるとは」僧侶はこらえ切れないでこういった。
「それから、この男に砂糖入りの茶をやれ」突然セミョーン聖者はマヴリーキイを指さした。給仕は茶を注いだが、間違えて鼻眼鏡の洒落男に持って行こうとした。
「高いほうだ、高いほうだ」とセミョーン聖者が口を出した。
 マヴリーキイはコップを受け取ると、軍人ふうの軽い会釈をして、飲みにかかった。なぜか知らないが、わたしたち一行は、きゃっきゃっと笑い転げた。
「マヴリーキイ・ニコラエヴィチ」と出しぬけにリーザがいい出した。「あの今まで膝を突いてた人が行ってしまったから、あなた代わりに膝を突いてくださいな」
 マヴリーキイはけげんそうに彼女を眺めた。
「お願いよ、後生だから、わたしのいうとおりにしてちょうだいな。ねえ、マヴリーキイ・ニコラエヴィチ」とつぜん彼女は執拗で、片意地な、熱した調子で、早口にいい始めた。「是が非でも膝をついてちょうだい、わたしぜひとも、あなたの膝をついた様子が見たいんだから。もしそれがおいやなら、もうわたしのところへ来ないでちょうだい。どうしても見たいの、どうしても!………」
 どういうつもりで彼女がこんなことをいったのか、それはわたしにもわからない。しかし、とにかく、まるで発作でも起こったように、頑固一徹な調子でいい張るのだった。これは後でまた話すつもりだが、このごろことに烈しくなったリーザのこうした気まぐれな要求を、マヴリーキイは自分に対する盲目な憎悪の突発と解釈していた。とはいえ、けっして腹立ちまぎれや何かではない。それどころか、彼女は常に彼を尊敬し、愛慕しているくらいで、それは彼自身も承知していた。つまり、何か一種特別の無意識的な憎悪で、彼女自身もどうかした拍子には、抑制することができないらしかった。
 彼は自分の持っていたコップを、うしろに立っているどこかの老婆に無言のまま手渡しして、格子の扉を開けると、許しも受けないで、セミョーン聖者の居場所となっている仕切りの中へ入って行った。そして、一同の眼前に姿を曝しながら、部屋のまん中にいきなり膝を突いた。察するところ、満座の中でリーザから無作法な、人を馬鹿にした態度を示されたために、その純な優しい心は極度にまで震撼されたのだろう。或いは自分から強《た》っていい張ってはみたものの、実際こうした見すぼらしい男の姿を見たら、リーザも自分で恥ずかしくなるだろう、とこんなふうに考えたかもしれない。もちろん、こんな正直な危い方法で女を匡正しようなどと決心しうるのは、彼を措いておそらくほかに二人となかろう。彼は持ち前の泰然自若としたしかつめらしい表情を顔に浮かべながら、細長い無恰好なおかしい体つきで、じっと膝をついていた。が、われわれ一行もさすがに笑わなかった。こうしたとっぴな行為が、ほとんど病的な効果を与えたのである。一同はリーザを見守っていた。
「膏《あぶら》を、膏《あぶら》を!」とセミョーン聖者はつぶやいた。
 リーザは急にさっと顔をあおくして、あっという叫びを発しながら、格子の向こうに飛んで行った。このときとっさの間に、奇怪なヒステリイじみた一場の光景が演出された。彼女は一生懸命にマヴリーキイを起こそうとして、両手でその肘を引き立てるのであった。
「お起きなさい、お起きなさい!」と彼女は夢中になって叫んだ。「起きてください、さあ、今すぐ! まあ、よく膝なんか突けたもんだわ!」
 マヴリーキイは膝を起こした。彼女は両手で肘の少し上をじっとつかんで、穴の明くほど相手の顔を見つめていた。恐怖の色がありありとその目に読まれた。
「色目をこととするやからじゃ、色目をこととするやからじゃ!」もう一度セミョーン聖者はくり返した。
 彼女はとうとうマヴリーキイを格子の向こうへ引き戻した。一行中に烈しい動揺が生じた。例の婦人は、こうした不穏の気分を揉み消そうとでも思ったらしく、依然わざとらしい微笑を浮かべながら、黄いろい甲走った声でセミョーン聖者に向かい、三たびくり返してこういった。
「どうしたのでございます、セミョーン上人さま、わたしに何か、『ご託宣』を聞かしてくださいませんの? わたしすっかり当てにしておりましたのに」
「ええ、この阿魔め、云々……」ふいにセミョーン聖者はこの婦人に向かって、思い切り猥雑な罵詈を投げつけた。しかし、その言葉は恐ろしいほど明瞭に、獰猛な勢いで発しられたのである。一行の婦人たちは黄いろい声を上げながら、一目散に外へ飛び出した。男たちはきゃっきゃっと笑い興じた。それで、わたしたちのセミョーン聖者訪問も終わりを告げたのである。
 ところが、ここにもう一つ、きわめて奇怪な、謎のような出来事が起こったとのことである。白状するが、わたしがこの遠征をああ詳しく書いたのも実はそのためなので。
 人の話によると、一同がどやどや入り乱れて駆け出したとき、マヴリーキイに助けられたリーザが、群衆の押し合う狭い戸口のところで、思いがけなくニコライにばったり行き会ったのである。断わっておくが、例の日曜の朝の卒倒さわぎ以来、二人はたびたび顔を合わせはしたけれど、まだ一度も傍へ寄って口をきき合ったことはない。わたしは二人が戸口で落ち合ったのを見た。二人はその時ちょっと立ちどまって、なんだか奇妙な目つきで互いに顔を見合わせた、――ように感じられた。しかし、混雑の中で見誤ったかもしれない。しかし、人々の主張、しかも恐ろしく真面目に主張するところによると、リーザはじっとニコライの顔を見つめると、急に片手を振り上げて、相手の顔と平行する辺まで持って行った。もしニコライが身をかわさなかったら、確かに顔をぶたれたに相違ない。とこういうのである。ことによったら、彼の顔の表情が気に入らなかったのかもしれないし、またつい今しがたマヴリーキイとああした挿話を演じた後だから、何か冷笑のようなものでも目にとまったのかもしれない。白状するが、わたしはなんにも見なかった。が、その代わりだれもかれもが見たと主張した。もっとも、あの混雑のなかで、一同がそんなことを見るはずはない、ただ二、三の者にすぎなかったろう。しかし、当時わたしはその話を本当にしなかった。ただ、今でも覚えているが、帰途ニコライは初めからしまいまで、やや蒼白な顔をしていた。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 ほとんどそれと同時に、いな、それと同日に、スチェパン氏とヴァルヴァーラ夫人の会見が、ついに事実となって現われた。これは夫人が前から考えていたことで、元の親友たるスチェパン氏へも、とうから通じておいたのだが、どういうわけか今まで延び延びになっていた。この会見はスクヴァレーシニキイで行なわれた。ヴァルヴァーラ夫人はのぼせあがって、せかせかしながら、郊外の持ち家へやって来た。今度の祭は貴族団長夫人の邸で催されることに、前日いよいよ決まってしまったので、夫人はすぐさま特別敏活な頭を働かして、今度の祭の後で改めて別な催しをスクヴァレーシニキイで開き、もう一ど町じゅうの者を呼び集めよう、これにはだれひとり異議を唱えるものはないはずだ、その時こそはだれの家が一番いいか、どちらが上手に客をもてなすか、どちらが趣味のある舞踏会を催す腕を持っているか、事実において確かめることができるのだ、こうはらの中ですっかり決めてしまった。全体に、夫人はまるで人が変わったようだった。以前の冒すべからざる威厳を備えた貴夫人(これはスチェパン氏の言い草なので)の面影はなくなって、ごくあり触れた、気まぐれな、社交界の婦人になり切っていた。しかし、それはただそんなふうに思われただけかもしれぬ。
 からっぽな家へ乗り込むと、夫人は昔から少しも変わらぬ忠僕のアレクセイ・エゴールイチと、装飾のほうの専門家でしかも相当苦労人のフォムシカを従えて、部屋部屋を一巡した。いろいろ相談やら評定やらが始まった。町の家からどんな家具を持って来ようかだの、道具や額はどんなのにしてどこへ置こうかだの、温室や花類はどんなにしたら一番都合がいいかだの、新しいカーテンはどこへ置こうかだの、酒場はどこへ設けようか、それも一つでいいだろうか、二つにしようかだの、そんなふうのことだった。ちょうどそうした面倒くさい相談の最中に、夫人はふと思いついて、スチェパン氏へ迎えの馬車を送った。
 こちらはもう以前から報らせを受けているので、ちゃんと覚悟を決めていた。そして、こうしたふいの招きを毎日のように待ちかまえていた。彼は馬車に乗りながら、十字を切った。今まさに自分の運命が決しられようとしているのだ。来てみると『親友』は、大広間の壁の窪みの中にすえてある小さな長いすに腰をかけて、小さな大理石のテーブルを前に控えながら、鉛筆と紙を持ってかまえていた。フォムシカは尺度《ものさし》を持って、壁の上の廻廊や窓の高さを計っていた。ヴァルヴァーラ夫人は数を書き留めては、紙のはじになにか覚え書きをしていた。そして、仕事の手を休めようともせず、横むきにスチェパン氏に会釈した。こちらが何か挨拶の言葉を口の中で述べた時、忙しげに手を差し伸べて、見向きもせずにかたえの椅子を指さした。
「わたしはじっと坐って、『心を搾めつけられるような思いをしながら』五分間ばかり待っていた」と彼は後になって話して聞かせた。「あの時の夫人は、二十年このかた見馴れた夫人と違っていた。もはやいっさいは終わったという一点疑惑の余地のない確信が、夫人をも驚かすほどの力をわたしに与えてくれた。実際、夫人はこの最後の会見で、わたしの断固たる態度に一驚を吃していたよ」
 ヴァルヴァーラ夫人はふいに鉛筆をテーブルの上に置いて、くるりとスチェパン氏のほうへ振り向いた。
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、わたしたちは一つ真面目に話さなくちゃなりません。きっとあなたは例の花々しい言い廻しや、いろんな警句を用意していらしったことと思いますが、もう一足飛びに用件に移ったほうがよかありませんか、ね、そうでしょう?」
 彼はぎょっとした。夫人はあまり性急に自分の態度を闡明しようとしたので、何をいいだすかということは、もうちゃんと見え透いていた。
「まあ、お待ちなさい、しばらく黙ってて、まずわたしにいわせてください。その後であなたもなんなりとおっしゃい。もっとも、あなたにどんな返事ができるか、ちょっと見当がつきませんがね」と彼女は早口に続けた。「千二百ルーブリというあなたの年金は、わたし、自分の神聖な義務だと思っています、ええ、あなたの生涯の終わりまで。もっとも、神聖な義務など持ち出すことはありゃしません。ただ契約の履行です。そのほうがずっと実際的ですよ、そうじゃありませんか? もしなんでしたら、一筆書いてもいいですよ。わたしの死んだときには、特別な処置を取ることにします。けれど、そのほかあなたは今わたしから、住まいと召使といっさいの生活費を受けておられます。これをお金に直して見ますと、千五百ルーブリになります。そうじゃありません? これにまた臨時費の三百ルーブリを加えますと、ちょうど三千ルーブリかっきりになります。あなたには一年分これだけで十分でしょう。少なくはないでしょうね? もっとも、ごくごく臨時の場合には、また増して上げますよ。ですから、お金を取って、わたしの召使どもを返してくだすって、ご自分で勝手に、どこでなりと暮らしてください。ペテルブルグでもよし、モスクワでもよし、それともまた、ここでもようござんすが、ただわたしの家はいけません、ようござんすか?」
「ついこのあいだ、同じあなたの口から、同じような執拗な性急な調子で、まるっきり別な要求が発しられました」愁わしげな、しかも明晰な調子でスチェパン氏はゆっくりといった。「で、わたしは諦めて……あなたのお気に入るようにと、コサック踊りを踊りました 〔Qui' la comparaison peut e^tre permise. C'e'tait comme un petit cozak du Don, qui sautait sur sa propre tombe.〕(そうです、もし比喩が許されるならば、ちょうど自分の墓の上で踊りを踊る、ドン・コサックのようなものです)ところが、今は……」
「お待ちなさい。スチェパン・トロフィーモヴィチ。あなたは恐ろしく口数が多うござんすね。あなたは踊りを踊ったどころか、かえって新しいネクタイをして、新しいシャツを着込み、新しい手袋を嵌めて、頭に油をつけたり、香水を匂わしたりしながら、わたしのところへ出ていらっしゃいました。ええ、わたし請け合ってもようござんすわ、あなたはあの結婚がしたくてたまらなかったのです。それはあなたの顔に描いてありました。そして、まったくのところ、思い切って下品な表情でしたよ。わたしがその時すぐにこのことをいわなかったのは、ただ思いやりのためだったんですよ。が、とにかく、あなたは結婚を望んでいました、ええ、望んでいましたとも、わたしのことだの、ご自分の花嫁さんのことなど、内証の手紙の中にさんざん聞き苦しい文句をお書きになったくせに……今度はあんなこととはまるで違います。そのなんとかの墓の上で踊るドン・コサックとやらは、いったいなんのために引合いにお出しになったんですの? なんの比喩だかちょっともわかりゃしない。それどころか、あなたはけっして死んだりなんかしないで、末長くお暮らしなさいますよ。できるだけ長くお生きなさい。わたしはそれを嬉しく思いますわ」
「養老院でね?」
「養老院で? 三千ルーブリの年収を持って養老院へ行く人は、あまりないようですね。あっ、思い出した」と夫人はにやりと笑った。「本当にいつだったか、ピョートル・スチェパーノヴィチが、養老院のことで冗談をいったことがありますよ。まあ、本当にそれは何か特別な養老院だったっけ。一ど考えてみる値打ちがあるようだ。なんでも、それはごく立派な人たちのために建てたもので、陸軍大佐くらいの人もいるそうだし、ある将軍も入るとかいってるそうですよ、もしあなたがご自分の財産をすっかり持ってそこへお入んなすったらいろんな人たちに仕えられて、十分気楽に満足に暮らしてゆけるでしょうよ。そこであなたは科学の研究に従うこともできれば、好きなときにカルタの仲間を見つけることもできましょうし……」
「Passons.(もうよしましょう)」
「Passons ですって?」ヴァルヴァーラ夫人の顔はぴくりと引っ吊った。「そういうわけなら、もうそれでおしまいですよ。わたしは通告をしてしまいましたから、今後わたしたちはまったく別々に暮らすことにしましょう」
「それでおしまいですって? あの二十年の生活から残ったのが、たったそれだけなんですか? それがあなたの最後の告別の辞なんですか?」
「あなたは恐ろしい咏嘆ずきですね、スチェパン・トロフィーモヴィチ。そんなことは今まるで流行りませんよ。あの人たちのいうのは下品ですが、その代わりざっくばらんですよ。あなたは何かといえば、すぐ二十年を持ち出すんですね。あれは互いに自尊心を煽り合った二十年です、それっきりの話です! あなたがわたしに下すった手紙はどれもこれも、わたしに宛てたものではなくって、子々孫々へ残すつもりで書いたのです。あなたは修辞学者で、親友じゃありません。友情などというものは体裁のいい飾り言葉で、本当は溝水《どぶみず》の打《ぶ》ちまけっこですよ」
「ああ、まるっきり他人の口真似だ……よくまあ、お稽古が固まったものですね! あいつらはもうあなたにまで、ちゃんと自分の制服を着せたんですね! あなたもやっぱり得意でいるんですか? あなたもやっぱり太陽の国の住人になったんですか? |あなた《シエール》、|あなた《シエール》、なんというつまらない菜っ葉汁のために、尊いご自分の自由を売ってしまったのです?」
「わたしは他人の口真似をする鸚鵡じゃありませんよ」とヴァルヴァーラ夫人はかっとなった。「ええ、まったくですよ、わたしにだって自分の言葉は、うんと溜まっていますからね。いったいこの二十年間に、あなたはわたしをどうしてくだすったのです? わたしがあなたのために取り寄せた本でさえ、あなたはいやがって見せなかったじゃありませんか。その本も、もし製本屋というものがいなかったら、ページも切らずにうっちゃられるはずだったんですよ。また初めの間わたしを指導するようにお願いした時、あなたはいったい何を読ましてくれました? いつもいつもカップフィッヒの一点張りじゃありませんか。あなたはわたしの進歩にまでやきもちを焼いて、手加減をしていたのです。ところが、あなたは皆の笑い草になっていますよ。実のところ、わたしはいつもそう思っていました、あなたはただの批評家、ほんの文学批評家にすぎません。わたしがペテルブルグへ行く途中、雑誌発行の計画を洩らして、それに一生を捧げるつもりだとお話したら、あなたはすぐに皮肉な目つきでわたしを見つめて、急に恐ろしく高慢におなんなすったじゃありませんか」
「それは思い違いです、それは思い違いです……わたしたちはあのとき当局の注視を恐れたのです……」
「いいえ、本当にそのとおりでした。ペテルブルグでは当局の注視なんか、恐れるはずがなかったのですよ。その後あの二月になって、解放令の報知が伝わった時、あなたはとつぜんあおくなって、わたしのところへ飛んで来て、さっそく証明書の代わりになる手紙を書いてくれと、わたしにねだり出したのです。で、こんど計画している雑誌は全然あなたに無関係だ、遊びに来る若い人たちはわたしのお客で、あなたを訪ねて来るのじゃない。あなたはただの家庭教師で、俸給のもらい残りがあるので、わたしの家に暮らしているのだ、とこんなふうに書いてあげました。おぼえていらっしゃるでしょう! あなたは一生涯、立派な行ないばかりしていらしったのですよ、スチェパン・トロフィーモヴィチ」
「それはちょっとした気の迷いです。面と向き合った時だけのことです」と彼は悲しげに叫んだ。「しかし、いったいそんな些細な感情のために、何もかも破り棄ててしまわなくちゃならないのですか? いったいあの長い間の二人の関係から何一つ残ったものはないのでしょうか?」
「あなたは恐ろしく勘定高いこと。あなたはまだわたしに、何か貸しを押っつけようとなさるんですね。あなたは外国から帰った当座、わたしを一段高いところから見おろして、わたしにろくろくものもいわせなかったじゃありませんか、その後わたしが自分で出かけて行って、システィンのマドンナの印象を話し出したら、あなたはろくすっぽ聞きもしないで、ご自分のネクタイを見ながら、高慢そうににたりと笑いました。まるでわたしなぞはあなたと同じ感情をいだくことができないものかなんぞのように……」
「それは違います 、たぶん違うはずです…… 〔j'ai oublie'〕(わたしは忘れました)」
「いいえ、そのとおりでした。それに、わたしにご自慢なさるわけは少しもありませんよ。なぜって、そんなことはつまらない寝言ですもの。あなたの考え出した出たらめにすぎないんですもの。今どきの人はだれだって、まったくだれ一人だって、マドンナに夢中になるものはありません。そんなことに暇をつぶすのは、手のつけられないような老人連ばかりです。それはもう立派に証明されています」
「もう証明されてますって?」
「あんなマドンナなぞなんの役にも立ちゃしません。このコップは有益なものです。だって、水を注ぐことができますものね。この鉛筆は有益なものです。なぜって、なんでも書きとめることができるじゃありませんか。ところが、あの絵の女なんぞは、実際にいる女の中でも一番まずい顔ですよ。まあ、かりに林檎を一つ描いて、すぐその傍へ本物の林檎を並べてごらんなさい……いったいあなたはどちらを取ります? 必ず間違いっこないでしょう。まあ、今どきの論理は、すべてこういうふうに帰納されるんですよ。自由研究の曙光が理論のうえをも照らしたのです」
「そうです、そうです」
「あなたは皮肉な笑い方をなさるんですね、もう一つたとえていってみましょう。いったいあなたは慈善ということについて、わたしになんとおっしゃいました? ところが、本当はね、慈善の愉しみというものは、傲慢な背徳の愉しみなのです。金持ちが自分の富や権力や、自分と貧者との価値の比較、こういうものによって感じる愉しみなのです。慈善は、与えるものをも、また受けるものをも堕落させます。しかも、貧困を助長させることになりますから、目的を達することもできないのです。ちょうど博奕打ちが一攫千金を夢みながら、カルタづくえのまわりに集まるように、働くことの嫌いななまけ者が慈善家のまわりにうようよたかるんですからね。ところが、慈善家のなげうってやるいささかの小銭なんか、全財産の百分の一にも足りないじゃありませんか。あなたは一生涯のあいだ、たくさんの施しをしてやったことがありますか。八十コペイカより大きいことはありますまい、よく考えて思い出してごらんなさい。あなたが一番おしまいに施しをなすったのは、二年ばかり前でしたね、いいえ、四年くらいたってるかもしれない。あなたはただ大きな声で怒号して、仕事の邪魔をなさるばかりですよ。慈善などということは、今日の社会でも法律で禁止すべきなんです。新しい社会組織では、てんで貧乏人なんかなくなってしまいます」
「ああ、まるで他人の言葉を鵜呑みにしたのだ? じゃ、もう新しい社会組織にまで行ってしまったのですか? ああ、神様、この不幸な婦人をお助けください!」
「ええ、そこまで行ってしまったんですよ、スチェパン・トロフィーモヴィチ。あなたはいま、だれ一人知らぬ者もないようなすべての新思想を、精出してわたしの目から隠すようにしていらっしゃいました。しかも、それはわたしの心を支配したさのやきもち根性から出たことなのです。今ではあのユリヤでさえ、わたしより百歩もさきへ出ています。けれど、今こそわたしもすっかり見抜きました。わたしはね、スチェパン・トロフィーモヴィチ、できるだけあなたを弁護したんですよ。あなたはまったくみんなから攻撃されていますよ」
「たくさんです!」と彼は席を立とうとした。「たくさんです! で、わたしは今これ以上あなたに何を祈ったらいいのでしょう? 悔悟でしょうか?」
「まあ、ちょっとお坐んなさい、スチェパン・トロフィーモヴィチ、わたし、まだあなたにおたずねすることがあるんですの。あなたは今度の文学会で、何か講演を依頼されていらっしゃるでしょう。これはわたしの骨折りでそういうふうになったのですよ。いったい何を講演なさるおつもりですの?」
「いうまでもありません、あの女王の中の女王です、あの人類の理想です。あなたのお説ではコップや鉛筆ほどの値打ちもないシスティンのマドンナです」
「じゃ、あなたは歴史の話をなさるんじゃないんですか?」とヴァルヴァーラ夫人は悲しそうな驚きを浮かべた。「そんなことを聴く人はありゃしませんよ。本当にあなたはマドンナの一点ばりですね! 聴く人をみんな居眠りさしてしまうなんて、ずいぶんいいものずきじゃありませんか。ねえ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、本当にわたしはあなたの身になって心配しているのですよ。もしあなたがスペイン歴史の中から、何か短くて気の利いた、中世紀の宮廷生活の物語を講演なすったら、どんなにいいでしょう。物語というより、ちょっとした逸話ですね、それにまたほかの逸話で色をつけたうえ、ご自分で工夫した警句でも添えてごらんなさい。あの時分には宮廷生活が華やかで、いろんな面白い貴婦人がいたり、毒殺事件があったりしたりしたのですからね。カルマジーノフもそういってましたよ。スペイン歴史の中から何か気の利いた講演ができないというのは、よっぽど変な話だって」
「カルマジーノフ? あの書きつくして筆の涸れた馬鹿者が、わたしのためにテーマをさがしてくれるって!」
「カルマジーノフ、あの人はほとんど国家的人物といってもいいくらいです! あなたはあまり口がすぎますよ、スチェパン・トロフィーモヴィチ」
「あなたのカルマジーノフなんか、あんなやつは時代おくれの、書きつくして種切れのした、意地悪の女の腐ったようなやつです! |あなた《シエール》、|あなた《シエール》、あなたはもうとうからあんな連中の奴隷になっていたのですか、おお、なんということだ!」
「わたしは今だって、あの男の尊大振りがいやでたまらないんですけれどね、それでもあの人の頭脳には、当然敬意を払わないわけにゆきません。くり返していいますが、わたしは一生懸命に、できるだけあなたを弁護してきたんですよ。そんなに是が非でも自分を滑稽な、面白くない人だと思わして、いったい何になるんです! そんなことはやめて、一つ過去の時代の代表者らしく、品位のある微笑を浮かべながら、悠然と演壇へ登って、三つばかり逸話をお話しなさいな。時々、あなたでなくてはというような話し方をなさる。あんなふうな独得の皮肉を縦横に発揮してね。あなたは老人でもかまいません、前世紀の遺物でもかまいません。またあの人たちにとり残されてるとしてもかまいません。ただこのことを前置きでちょっと自認しておいたら、あなたが愛嬌のある、人の好い、機知に富んだ老人だということを、みんなが知ってくれますから……つまり、あなたは旧時代の人物には相違ないけれど、第一流の人物であるだけに、今まで追随していたある種の思想の醜悪な点を、相当に認識するだけの頭脳を持ってらっしゃるのです。さあ、どうかわたしのいうことをきいてください。お願いですから」
「〔Che`re〕 たくさんですよ! 拝み倒すのはよしてください。わたしにはできません。わたしはマドンナの話をするのです。一つ大嵐を呼び起こします。その嵐で、やつらをすっかり打ち破るか、それとも、自分一人が斃されるかです!」
「確かにあなた一人斃されるんですよ。スチェパン・トロフィーモヴィチ」
「それがわたしの運命なのです。わたしはあの卑しい奴隷の話をするのです。手に鋏を持って第一番に梯子を攀じ登り、平等と羨望と、そして……消化の名をもって、偉大なる理想の神々しいおもわを掻き裂こうとする、あの鼻持ちならぬ放埒な下司男の話をするのです。わたしは自分の呪いを天下に轟かせなければやみません。その時こそ、その時こそ……」
癲狂院おくりですか?」
「或いはそうかもしれません。しかし、どっちにしても、わたしが負けるか、勝利者となるかです。わたしはその晩さっそく袋を取って……あの乞食のような袋を取って、わたしの財産をすっかり置いて行きます。あなたの贈り物も、年金も、未来の幸福のお約束も、すっかり遺したまま、かちでとぼとぼ出て行きます。そして、どこか商人の家のおかかえ教師で一生を終わるか、でなければ、どこかの垣の下で飢え死にします。わたしはもうそういったのです…… Alea jacta est!(骸子は投げられたり!)」
 彼はふたたび立ちあがった。
「わたしそう信じていました」目をぎらぎら輝かせながら、ヴァルヴァーラ夫人も同様に立ちあがった。「わたしもうずっと前からそう信じていました……あなたはとどのつまり、わたしとわたしの一家を讒誣して泥を塗るために、ただそれのみを目的に生きてらしったんです! あなたのおっしゃる商人のおかかえ教師とか、垣の下ののたれ死にとかは、いったいなんの意味ですの? 面当てです、讒誣です、ええ、それっきりです」
「あなたはいつもわたしを軽蔑していらしった。けれども、わたしは自分の姫に対する騎士のように、美しく生涯を終わるつもりです、なぜといって、わたしはいつもあなたのご意見を、何より最も尊重していたからです、もう今後なんにも頂戴しないで、利欲を離れて崇拝します」
「なんて馬鹿なことを!」
「あなたは一度もわたしを尊敬してくださらなかった。わたしには数限りない弱点があったかもしれません。そうです、わたしはあなたを食い潰しました(これは虚無主義の言葉を使っていってるんですよ)。しかし、食い潰すということは、けっしてわたしの行為の最高のモットーじゃなかったのです。これは自然とそんなふうになったのです。なぜだかわたしにもわかりません……わたしはいつもそう思っていました。二人の間には、何かしらん食物より以上に、高尚なものが残るだろうと。そして、一度も、まったく一度も卑劣な考えをいだいたことはありません。さあ、そこで事態を匡正するために、いよいよ旅の道に上るのだ! 晩い旅路に上るのだ! 外は秋が更けて、霧が野の上に垂れ、凍った老人のような霜がわたしの行く手をおおっている。そして、風は墓の近いことを呻き訴える……しかし、旅路に上らねばならぬ、新しい旅路へ。

[#ここから2字下げ]
心は清き愛に充ち
甘きおもいに身は浸り ([#割り注]プーシキン「貧しき騎士」[#割り注終わり])
[#ここで字下げ終わり]

 おお、さらば、わが空想よ! 二十年よ! Alea jacta est.(骸子は投げられたり)」
 彼の顔は、急に、はふり落つる涙に濡れた。彼は自分の帽子を取った。
「わたしラテン語は少しも知りませんよ」一生懸命に心を強く持ちながら、ヴァルヴァーラ夫人はそういった。
 実際、夫人自身も泣き出したかったのかもしれない。けれども、腹立たしさと気まぐれがもう一ど勝ちを占めた。
「わたしはね、たった一つだけ知ってることがありますの。ほかではありません、そんなことはみんな子供らしい駄々ですわ。あなたはそんなエゴイズムにみちた脅し文句を、とても実行するような気力はありゃしません。あなたはけっしてどこの商人のところへもいらっしゃりゃしませんよ。やっぱりわたしから年金を受け取って、あのやくざな友だちを火曜日ごとに家へ集めながら、安気にわたしの手に抱かれて死ぬんですよ。さようなら、スチェパン・トロフィーモヴィチ」
「Alea jacta est!(骸子は投げられたり!)」うやうやしく夫人に一揖して、彼は興奮のあまり生きた心地もなく、わが家へ帰って行った。

[#3字下げ]第6章 ピョートルの東奔西走[#「第6章 ピョートルの東奔西走」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 祭の日取りは、いよいよしっかり定められた。ところが、フォン・レムブケーはだんだん沈みがちに、だんだんもの案じ顔になっていった。彼の心は奇妙ないまわしい予感で一杯になっていた。これが一方ならず、ユリヤ夫人を不安に思わしたのである。もっとも、万事が泰平無事というわけにはゆかなかった。気のやさしい前知事が、県の行政事務をかなり乱雑にしていったうえに、目下コレラが襲いかかっているし、ある所なぞでは獣疫が頭をもたげはじめた。また夏の間じゅう、方々の町や村で祝融氏《しゅくゆうし》が猖獗を極めた。しかも、民間では、放火云々の愚かしい不満の声が、かたく根を張り出したのである。強盗も以前にくらべると、二倍に数を増してきた。もっとも、こんなことはきわめてあり触れた出来事に相違ないが、ただこのほかにもっと重大な原因があって、今まで幸福に過ごしてきたレムブケーの平安を破ったのである。
 何よりもユリヤ夫人に怪訝の念をいだかしたのは、彼が一日一日と口数が少なくなり、隠し立てさえするようになった一事である。いったい何を隠し立てする必要があるのだろう? もっとも、彼はあまり妻に言葉を返さないで、大抵の場合すっかりいわれるままになっていた。たとえば、夫人の主張にしたがって、県知事の権力を拡張するために、思い切って冒険的な、ほとんど反則にならないばかりの施策も、二、三おこなわれた。また同じ目的のために、二、三の忌むべき放漫な処置も講ぜられた。例を挙げていえば、当然裁判に付せられシベリヤに流さるべきたぐいの人たちまで、ただただ夫人がたって主張したばかりに、かえって授賞者として報告された。ある種の請願や質問に対しては、徹底してなんの答弁もしないことに決せられた。それらはすべて後に発覚したことである。レムブケーは、なんでもかでも署名したばかりでなく、自分の職務の履行にどれだけ妻が関係したかという問題さえも、講究しようとしなかった。その代わり、時時『まるっきりくだらないこと』のために血相を変えて怒り出しては、ユリヤ夫人を驚かすようになった。もちろん、服従の幾日かが続くと、ちょっとした一揆を起こしてみて、それでみずから慰めようという要求を感じるのであった。悲しいかな、ユリヤ夫人はその偉大な明察力にも似合わず、この高潔な性格の蔵している、かような高潔にしてデリケートな変化を理解することができなかったのである。彼女はそれどころでなかったのだ。これがために、多くの誤りが生じたものといわねばならない。
 ある種の事柄については、わたしなどが話すべき筋合もないし、またとてもうまく話し切れるものでもない。行政上の過失を穿鑿するのも、またわたしの任でないから、こういう行政的の方面は、いっそすっかり抜きにしようと思う。この記録を始めたについては、また別に目的とするところがあったのだ。それに、とくにこのために任命された予審委員の手によって、いろいろたくさんな事実が暴露されることだろうから、もう少し待っていればいいわけだ。とはいえ、それにしても二、三の説明は、どうしても抜いてしまうわけにいかない。
 しかし、いま少しユリヤ夫人のことを述べるとしよう。不幸な婦人は(実際、わたしはこのひとをたいへん気の毒に思っている)、この県へ転任のそもそもから覚悟していたような烈しいとっぴな運動をするまでもなく、あれほど長いあいだ牽引と魅惑を感じていたすべてのもの(名誉その他のもの)を、ことごとく獲得することができたのである。ところで、詩的空想があまり多すぎたせいか、それとも処女時代の佗しい失敗が長く続きすぎたためか、とにかく彼女は運命の急変と同時に、とつぜん自分を何か特別な選ばれたる人のように感じ出したのである。まるで『焔の舌が頭上に燃え上る』膏《あぶら》ぬられたる人のような気がしたのだ。この焔の舌が禍のもとなのである。なんといっても、こいつは付け髷のようなものと違うから、どんな女の頭にも自由にくっつけるわけにいかない。しかし、この理を婦人に説得するのは何よりむずかしい。ところが、その反対に、女に相槌ばかり打つものは常に成功疑いなしである。人々は争って婦人に相槌を打った。不幸な夫人はたちまちにして、種々雑多な影響の翻弄物となった。が、それと同時に、当人はどこまでも自分を独創性に富んだものと、自惚れているのであった。
 夫人の短い在任期の間に、狡猾な連中が彼女の周囲にうようよと集まって、その人のいいところを利用して懐ろを温めた。しかも、独立不羈という美名のもとに、どんな乱脈が演じられたことか! 大農制度も、貴族的分子も、県知事の権力拡張も、民主的分子も、新施設も新秩序も、自由思想も、社会的理想も、貴族のサロンにおける厳正な調子も、自分をとり巻く若い連中の居酒屋式の磊落な態度も、ことごとく夫人の気に入ったのである。彼女は人間に幸福を与え[#「幸福を与え」に傍点]、和し難きものを和せしめようとした、というより、むしろ夫人自身の人格崇拝というものの中に、ありとあらゆるものを結合しようと空想したのである。夫人にはまた特別のお気に入りもあった。なかでもピョートルは思い切って露骨な、そうぞうしい阿諛を弄して、すっかり夫人の心をとりこにしてしまった。けれども、彼はまたほかの原因もあって、彼女のお気に入りとなったのである。それはきわめて奇怪な点ではあるが、同時にこの不幸な夫人の性格をまざまざと描いて見せるようなものであった。ほかでもない、彼女は絶えず心の中で、ピョートルがなにか国家的の一大陰謀を自分に密告してくれるに相違ないと、深く信じていたのである! 実に想像もむずかしいくらいの話だが、これが本当なのだから仕方がない。どういうわけか夫人はこの県内に、必ず国家的陰謀が潜んでいるに相違ない、というような気がしてならなかった。
 ピョートルは時に沈黙をもって、時にほのめかすような口吻をもって、夫人の奇怪な想像の助長に努めた。彼女の想像によると、ピョートルはロシヤにおけるすべての革命分子と関係を有しながら、それと同時に、崇拝といっていいくらい夫人に信服している青年なのであった。陰謀の暴露、中央政府からの讃辞、昇進、いざという瀬戸際で引きとめるために、愛をもって新しき世代に感化を与える方法、――こういうものが夫人の幻想的な頭の中に、すっかりこびりついてしまったのである。実際、自分はピョートルを救ったではないか、彼を征服したではないか(夫人はこのことをなぜか固く信じ切っていた)。それだのに、どうしてほかの者をも救えないわけがあろう? 彼らはだれ一人、まったくだれ一人として堕落はしない、みんな自分が救ってみせる。自分は彼らを一々種類わけして、それをすっかり報告してやる。自分は最高正義の標準によって行動するのだ、もしかしたら、ロシヤの歴史、ロシヤの自由思想界が挙げてことごとく、自分の名を祝福するようになるかもしれぬ、とにかくそれにしても陰謀は暴露されるのだ。一挙にしてあらゆる利が獲られるわけである。が、それにしてもせめて祭の前だけでも、夫のアンドレイ・アントーノヴィチに、もう少し晴ればれしてほしかった。是が非でも彼を浮き立たして、安心させなければならなかった。この目的をもって、夫人は夫のもとヘピョートルを差し向けた。何か彼独得の鎮静剤的な効能を持った方法で、夫の気欝症を紛らしてもらおうと、当てにしていたのだ。ことによったら、直接、本家本元から取ってきた何か珍しい報知でもあるかもしれぬ。とにかく、夫人は彼の腕を飽くまで信じ切っていた。ピョートルはもうだいぶ久しく、フォン・レムブケー氏の書斎に入らないでいた。彼が知事の部屋へ飛び込んだのは、ちょうど自分の患者レムブケー氏が、とくに屈託した気分になっている時だった。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 実はフォン・レムブケー氏にとって、どうしても解決することのできない、こぐらかった事情が持ちあがったのである。ある郡内で(それはついこの間ピョートルが、将校連と酒宴を催したところである)、一人の少尉が直属長官から口頭の譴責を受けた。それはたまたま中隊ぜんぶの集まった席で起こった出来事である。少尉はつい近頃ペテルブルグから来たばかりの、まだいたって年若な青年で、いつも無口で気むずかしそうな顔をしているから、ちょっと見は、なかなか気取った風采だった。けれど、それと同時に、がらの小さい肥った男で、頬なぞは赤々としていた。彼はこの譴責を我慢できないで、中隊じゅうがはっと思うような奇妙な甲走った叫び声とともに、まるで何か野獣のように首をかしげながら、いきなり中隊長に躍りかかった。そして、いやというほど撲りつけておいて、力まかせに肩へ咬みついた。人々はやっとのことで彼をもぎ放した。疑いもなく、まさに気がちがったに相違ない。少なくとも最近にいたって、ほとんどありうべからざるほど奇怪千万な振舞いを見受けた、というものが続続と現われた。たとえば、自分の住まいから、家つきの聖像を二つまでほうり出して、一つは斧で叩き割ったとのことだし、また、自分の部屋に読経台のような台を三つこしらえて、その上にフォヒト([#割り注]一八一七―九五年、ドイツのダーウィン主義者[#割り注終わり])、モレショット([#割り注]一八二二―九三年、ドイツの生理学者唯物論者[#割り注終わり])、ビュヒネル([#割り注]一八二四―九九年、医学者、自然哲学者、「力と物質」の著者、唯物論者[#割り注終わり])の著書を並べ、その上に一つずつ教会用の蝋燭をともしたものである。彼のところで発見されたおびただしい書物の数は、非常な読書家だということを想像させた。もし彼に五万フランの金があったら、ちょうどゲルツェンの愉快なユーモアにみちた作に書いてある士官候補生のように、凛然としてマルキーズ島へでも去ったかもしれない。彼が捕まった時には、ポケットからも居間からも、思い切って乱暴な檄文がうんと出てきたとのことである。
 檄文そのものは要するにつまらないことで、わたしなどにいわせれば、てんで少しも面倒なことはないのだ。そんなものを見つけるのはあえて珍しいことではない。おまけに、それは新たにできた檄文ではなく、噂によれば、全然それと同じものがついこのあいだX州でも撒き散らされたということだし、一月半ばかり前、隣りのN県へ出張したリプーチンも、向こうで同じような刷り物を見たと断言している。ただ何よりレムブケーの心胆を寒からしめたのは、ちょうどそれと同時にシュピグーリン工場の支配人が、夜中に工場へ投げ込まれたのだといって、少尉のところで見つけたのとそっくり同じ刷り物を、二束か三束、警察へ届けたという一事である。しかし、その束はまだ封が切ってなかったから、職工はだれ一人として、一枚も読んで見る暇がなかった。とにかく、馬鹿馬鹿しい事実なのだが、レムブケーはひどく考え込んでしまった。なんだかこの事件が不愉快な、こぐらかったもののように思われたのである。
 この工場では、当時いわゆる『シュピグーリン問題』なるものが、持ちあがりかけたばかりだった。このことは町でも喧しく騒ぎ廻るし、首都の新聞まで尾鰭をつけて書き立てたものである。三週間ばかり前に一人の職工が、アジヤ・コレラを患って死んだ。と、続いてまた幾人かの患者が出た。ちょうどその時、隣県からコレラが襲来していたので、町民は急におじけづいた。事実、この押しかけの珍客を迎えるためには、町でもできうる限り完全な衛生施設を講じたのだが、シュピグーリンの工場だけは、持ち主が巨万の資産家で、いろいろ有力な知人縁者があったため、ついずるずるに見のがしてしまったのである。ところが、こんど急に一同口を揃えて、この中にこそ病源が潜んでいる、あれこそ黴菌の繁殖場だ、あの工場、――ことに職工の寄宿舎は、まるで手のつけられないほど不潔を極めていて、よしコレラなぞぜんぜん流行していなくとも、きっとここから発生せずにはおかない、とこんな叫び声を挙げ始めた。もちろん応急の処置が講じられた。レムブケーはさっそくすこしの猶予もなく実施するよう、夢中になって主張した。工場は、三週間ばかりかかって消毒された。が、シュピグーリンはどういうわけか知らないが、工場を閉鎖してしまった。シュピグーリン兄弟のうち、一人はいつもペテルブルグで暮らしているし、いま一人は県庁から消毒の命令を受けたのち、モスクワへたってしまった。支配人は職工の賃銀計算にとりかかったが、大胆至極なごまかしをやっていたのが、今になってはっきりしてきた。職工たちはまともな計算を要求して、だいぶ不平の声が起こった。中には馬鹿なことをいって警察へ出頭するものもあった。もっとも、大して怒号叫喚するわけでもなく、またけっして噂ほどの騒ぎもなかった。ちょうどこの時レムブケーは支配人の手から、例の檄文を受け取ったのである。
 ピョートルはごく親しい友だちか内輪の者のように、知事の書斎へ飛び込んだ。今日はおまけに、ユリヤ夫人の依頼を受けてるのだから、大威張りである。彼の姿を見ると、レムブケーは気むずかしげに顔をしかめながら、不愛想にテーブルの傍に立ちどまった。それまで彼は書斎を歩き廻って、官房役人のブリュームとさし向かいで、なにやら相談していたのである。ブリュームは、夫人の猛烈な反対にもかかわらず、わざわざペテルブルグからつれて来たドイツ人で、恐ろしくぶ骨な、むっつり屋だった。彼はピョートルが入って来ると同時に、戸口のほうへしさったが、それでも出て行こうとはしなかった。そればかりか長官と意味ありげに目くばせさえしたように、ピョートルの目には映ったので。
「おお、やっとつかまえましたよ、あなたは隠れんぼの好きな知事公ですからなあ!」とピョートルは笑いながらわめいて、掌をテーブルの檄文の上に置いた。「これでまた、あなたのコレクションがふえるわけですね、え?」
 レムブケーはかっとなった。彼の顔面筋肉は、なんだかふいにぴくりと引っ吊ったようであった。
「おいてくれたまえ、今すぐおいてくれたまえ!」憤怒のあまり身を震わせながら、彼はこうどなった。「それは失敬じゃないか……きみ……」
「なんだってあなたそんなに? 怒っておいでのようですな?」
「わたしはきみに断わっておくがね、わたしは今後、きみの 〔sans fac,on〕(非礼)を、黙って辛抱する気は少しもないんだからね。お願いだから、おぼえといてくれたまえ……」
「ちぇっ、くそ、この人は本気なんだよ!」
「黙りたまえ、黙りたまえというに!」レムブケーは絨毯の上でじだんだふんだ。「じたい生意気じゃないか……」
 いったいこのさきどうなることかと、気づかわれるほどだった。ああ、これには一つまた別な事情があるのだ。しかも、ピョートルはいうまでもなく、ユリヤ夫人でさえまだ知らないでいたことなのだ。ほかでもない、不幸なレムブケーは、すっかり頭をめちゃめちゃにしてしまって、この二、三日、こころの中でピョートルとユリヤ夫人の間を疑い、嫉妬を起こしているのであった。一人きりになった時、――とりわけ夜中などは、ずいぶん不快な感情を忍ばねばならなかった。
「ぼくはまたこう思っていました、――人が二日も続けて、真夜中すぎに自作の小説を読んで聞かせたうえ、それに関する意見まで求めている以上、少なくともその人自身からして、そんな四角ばった儀礼を超絶したものと、解釈していましたよ……それに、奥さんはぼくに対して、ごく隔てのないつきあいをしてくださる。こうなると、まるであなた方のお心持ちがわかりませんよ」と一種の威厳さえ示しながら、ピョートルはいった。「ああ、ついでにあなたの小説を持って来ました」くるくると筒形に巻いたうえ、青い紙でしっかりと包んだ、大きなどっしりしたノートをテーブルの上へ置いた。レムブケーはあかくなって、口をもぐもぐさせながら、
「きみどこで見つけたんです?」抑え切れないよろこびのこみ上げるのを、一生懸命に押しこらえながら、彼は用心ぶかい調子でこうたずねた。
「まあ、どうでしょう、こんなふうに筒形になってたもんですから、そのまま箪笥の向こうへ転がり落ちてしまったんですよ。あのときぼくは、きっと部屋へ入るなり、不注意に箪笥の上へほうり出したものと見えます。やっと一昨日、床を洗うといって見つけ出したんです。しかし、あなたは大変な仕事をぼくに授けてくれましたね!」
 レムブケーはきつい表情をして目を伏せた。
「おかげさまで、二晩つづけて寝ませんでしたよ。実はおととい見つけたんですが、お返しするのを見合わせて、すっかり読んでしまいました。昼は暇がないもんですから、夜だけね。ところでと、――不感服でしたよ。ぼくなどは思想がまるで違います。しかし、まあ、どうだっていいや、今まで批評家なんて役目は、一度も勤めたことがありませんからね。けれど、不感服ながらも、巻を措くに忍びなかったですよ! 第四、第五章あたりなんぞは、その……その……いや、もうなんといっていいかわかりませんなあ! そして、あなたもずいぶんユーモアを詰め込んだもんですね、噴き出しちまいましたよ、しかし、それにしても、あなたは sans que cela paraisse(目立たないように)茶化してしまうことがうまいですねえ! それから、あの第九章、第十章はすっかり恋物語ですな。これはぼくなどの関知しないところですが、なかなか効果がありましたよ。イグレーネフの手紙のくだりでは、ほとんど泣き出しかけたほどです。もっとも、あなたはこの男をきわめて皮肉に描出していらっしゃいますがね……いや、実際あれには感動させられます。しかし、それと同時にあなたはこの男を、偽りの側面から写し出そうと試みていられるようですね。そうでしょう? 当たりましたかどうです? ところで、大団円にいたっては、本当にあなたをぶん撲ってやりたいような気がしましたぜ。いったいあなたはなんという結論に導くつもりなんです? あれは実際のところ、お定まりの結婚の幸福に対する讃美じゃありませんか。子宝をふやして、お金を蓄めて、無事息災に暮らして、功徳を積みましたとさ、まるでこういった調子ですよ、やり切れたもんじゃない! あなたは読者を魅了する技《わざ》をもっていらっしゃる。で、ぼくも一読巻をおおうに忍びなかったんです