『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP241-P288

いのキリーロフの胸に、毒を注ぎ込んでいたのです……きみはあの男の心に虚偽と讒誣とを植えつけて、理知を狂わしてしまったのです……まあ、行って、今のあの男の様子をご覧なさい。あれがきみの創造物です……もっとも、きみはもう見たんでしょうね」
「ぼくは断わっておきますが、第一に、あのキリーロフはたったいま自分の口から、自分は幸福だ、美しい人間だ、とぼくにいいましたよ。あれがほとんど同時に行なわれたろうというきみの想像は、ほぼ正確に近いです。しかし、それがいったいどうしたのです? くり返していいますが、ぼくはきみたちのどちらにも嘘をつきはしなかった」
「きみは無神論者ですか? いま無神論者ですか?」
「そうです」
「じゃ、あの時は?」
「今もあの時も同じことです」
「ぼくは会話を始めるに当たって、尊敬を要求しましたね。あれはぼく自身に対するものじゃない。きみの頭脳でそれくらいのことがわからないはずはありません」とシャートフは憤懣の語気でいった。
「ぼくはきみの最初の一言とともに席を立って、この話に蓋をしなかった。そして、きみのところを去らないで、今までじっと坐ったまま、きみの質問……というより、むしろ怒号に対して、おとなしく答えをしてるじゃありませんか。してみると、まだきみに対する敬意を失ってないはずですよ」
 シャートフは手を振ってさえぎった。
「きみはこういうきみ自身の言葉をおぼえていますか。『無神論者はロシヤ人たりえない』『無神論者を奉ずるものはただちにロシヤ人でなくなる』とこういう言葉をおぼえていますか?」
「そう?」とニコライは問い返すようにいった。
「きみはぼくにきいてるんですか? 忘れたんですか? ところが、これはロシヤ精神の最も重要な特性を明示した、最も正確な意見の一つなのです。これはきみが自分で発見したんですよ。きみがそれを忘れるという法はない! ぼくはもっと思い出さしてあげますよ、――きみはあの時こうもいいました。『ギリシャ正教を奉じないものはロシヤ人たり得ない』」
「どうもそれはスラブ主義者の思想らしいですね」
「いや、今のスラブ主義者なら、こんな思想はごめんこうむるといいますよ。今の人はも少し利口になりましたからね。きみはもっと深入りしていたのです。ローマ・カトリックはもはやキリスト教ではない、こうきみは信じていました。きみの説によると、ローマは悪魔の第三の誘惑に陥ったキリストを宣伝したのです。地上の王国なしには、キリストも自己の地歩を保つことができない、とこういう思想を全世界に宣伝したカトリック教は、この宣伝によって反キリストを普及し、ひいては西欧全体を亡ぼしたことになるのです。いまフランスが苦しんでいるのは、ひとえにカトリック教の罪だ。なんとなれば、フランスは穢れたローマの神をしりぞけながら、新しい神を発見することができないからだ、――こう、きみは明瞭に指示してくれました。きみはあの時こういう言葉を吐くことができたのです! ぼくはあの時の二人の話をよく覚えています」
「もしぼくが信仰を持っていたら、きっと今でもそれをくり返したろう。ぼくがあのとき信あるもののように話したからって、けっして嘘をついたわけじゃない」とニコライは恐ろしく真面目にいった。「しかし、まったくのところ、自分の過去の思想をくり返すってことは、非常に不愉快な印象をぼくに与えるのです。もうやめてもらうわけにゆかないかしらん?」
「もし信仰を持っていたらですって※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」相手の乞いにはいささかの注意も払わないで、シャートフはこう叫んだ。「あのときぼくにこんなことをいったのは、きみじゃなかったでしょうか、たとえ真理はキリスト以外にあるということを、数学的に証明してくれるものであっても、自分は真理とともにあるより、むしろキリストとともにとどまるを潔しとする、――そういったですか、いわないですか?」
「しかし、ぼくも一つ質問を提出していい頃でしょう」とスタヴローギンは声を張り上げた。「このせっかちな、そして……意地の悪い試験は、いったいなんのためになるんです?」
「この試験は永久に消えてしまいます。そして、二度と再び思い出させるものはありません」
「きみはやっぱり、人間は時間と空間の外にある、という持論を主張してるんですか?」
「お黙んなさい!」とふいにシャートフはどなりつけた。
「ぼくは馬鹿で間抜けです。しかし、ぼくの名は滑稽なものとして、亡びてしまってもかまやしない! ぼくはいまきみの前で、当時のきみの主なる思想をくり返してみたいのです、許してくれますか……ええ、たった十行ばかり、ただ結論だけ……」
「やってごらんなさい、結論だけなら……」
 スタヴローギンは時計を見ようとしかけたが、我慢してやめた。
 シャートフはまたもや椅子に坐ったまま、前のほうへかがみ込んで、またちょっと指を上げようとした。
「いかなる国民といえども」まるで書いたものでも読むように、とはいえ相変わらず、もの凄い目つきで、じっと相手を見つめながら、彼はこう切り出した。「いかなる国民といえども、科学と理知を基礎として、国を建設しえたものは、今日まで一つもない。ただ、ほんの一時的な馬鹿馬鹿しい偶然によって成ったものは別として、そういう例は一つもない。社会主義はその本質上、無神論たるべきである。なぜならば、彼らは劈頭第一に、自分たちが無神論的組織によるものであって、絶対に科学と理知を基礎として社会建設を志すものだと、宣言しているからである。理知と科学は国民生活において、常に創世以来|今日《こんにち》にいたるまで第二義的な、ご用聞き程度の職務を司っているにすぎない。それは世界滅亡の日まで、そのままで終わるに相違ない。国民はまったく別な力によって生長し、運動している。それは命令したり、主宰したりする力だ。けれど、その発生はだれにもわからない。また説明することもできない。この力こそ最後の果てまで行き着こうとする、飽くことなき渇望の力であって、同時に最後の果てを否定する力だ。これこそ撓むことなく不断に自己存在を主張して、死を否定する力である。聖書にも説いてあるとおり、生活の精神は『生ける水のながれ』であって、黙示録はその涸渇の恐ろしさを極力警告している。それは哲学者のいわゆる美的原動力であって、また同じ哲学者の説く倫理的原動力と同一物なのだ。が、ぼくは最も簡単に『神を求める心』といっておく。民族運動の全目的は、いかなる国においても、またいかなる時代においても、ただただ神の探究のみに存していた。それは必ず自分の神なのだ。ぜひとも自分自身の神でなくちゃならない。唯一の正しき神として、それを信仰しなければならぬ。神は一民族の発生より終滅にいたるまでの全部を包含した綜合的人格なのである。すべての民族、もしくは多数の民族の間に、一つの共通な神があったという例は、これまで一度もなかった。いかなる時もすべての民族は、自分自身の神をもっておった。神々が共通なものになるということは、取りも直さず国民性消滅のしるしなのだ。神々が共通なものとなる時、神々も、またそれに対する信仰も、国民そのものとともに死滅していく。一国民が強盛であればあるほど、その神もまたますます特殊なものとなってゆく。宗教、すなわち善悪の観念を持たぬ国民は、かつて今まで存在したことがない。すべての国民は自己の善悪観念を有し、自己独自の善悪を有している。多くの民族間に、善悪観念が共通なものとなり始めた時は、その時は民族衰滅の時である。そして、善悪の差別感そのものまで、しだいにすりへらされ消えてゆくのだ、理性はかつて一度も善悪の定義を下すことができなかった。いな、善悪の区別を近似的にすら示すことができなかった。それどころか、つねに憫れにもまた見苦しく、この二つを混同していたのだ。科学にいたってはこれに対して、拳固でなぐるような解決を与えてきた。ことに、著しくこの特徴を備えているのは、半科学である。これは現代にいたるまで、人に知られていないけれど、人類にとって最も恐るべき鞭だ。疫病よりも、餓えよりも、戦争よりも、もっと悪い。半科学、――これは今まで人類のかつて迎えたことのない、残虐きわまりなき暴君だ。この暴君には祭司もあれば奴隷もある。そして、今まで夢想だもしなかったような愛と迷信とをもって、すべてのものがその前にひざまずいている。科学でさえその前へ出ると、戦々兢々として、意気地なくその跋扈にまかせている。スタヴローギン、これはみんなきみ自身の言葉です。しかし、半科学に関することは違います、あれはぼくの言葉です。ぼく自身が半科学そのものなんですからね、とりわけこいつを憎んでいるわけなのです。きみ自身の思想にいたっては、いい表わし方さえも何一つ変えていません、一語たりとも変えてはおりません」
「きみが変えていないとは考えられないね」とスタヴローギンは用心ぶかい調子でいった。「きみは熱烈な態度で受けいれたけれど、また同時に、熱烈な態度で改造してしまったのです。しかも、自分でそれと気がつかないでね。ただ単に、きみが神を国民の属性に引き下ろした、ということ一つだけ取ってみても……」
 とつぜん彼はとくに注意を緊張させて、シャートフを注視し始めた。それはその言葉というより、むしろその人物そのものに対してむけられた注意なのであった。
「神を国民の属性に引き下ろすって!」とシャートフは叫んだ。「まるで反対だ、国民を神へ引き上げたのです。第一、ただの一度でもこれに反した事実がありますか? 国民、――それは神の肉体です。どんな国民でも、自己独得の神をもっていて、世界におけるその他のすべての神を、少しの妥協もなく排除しようと努めている間だけが、本当の国民でありうるのです。自己の神をもって世界を征服し、その他の神をいっさいこの世から駆逐することができる、とこう信じている間のみが、本当の国民といえるのです。少なくも人類の先頭に立って、いくぶんたりとも頭角を現わしたすべての国民は、創世以来こう信じてきたのです。事実に逆らうわけにはゆかない。ユダヤ国民は、真の神の出現を見んがためのみに生存を続けた。そして、世界に真の神を遺していった。ギリシャ人は自然を神化して、世界に自己の宗教を遺した。哲学と芸術がそれである。ローマは帝国内の国民を神化して、多くの民族に帝国を遺した。フランスはその長い歴史の継続せるあいだ、単にローマの神の理想を体現し、発達させたにすぎなかった。彼がついにそのローマの神を深淵の中へなげうって、目下のところ、みずから社会主義と称している無神論に逢着したのは、無神論のほうがローマ・カトリック教よりまだしも健全だからにすぎないのだ。もし偉大なる民にして、おのれのうちにのみ真理ありと信じなかったら(実際そのうちにのみあるべきだ、断じてほかにあってはならない)。もしその偉大なる国民が、われこそ自己の真理をもって万人を蘇生させ、救済するの使命を有し、かつそれをなし遂げる力があるという信仰を欠いていたら、その国民は直ちに人類学の材料と化して、偉大なる国民ではなくなるのだ。真に偉大なる国民は人類中において第二流の役どころに甘んじることがどうしてもできない。いや、単に第一流というだけでは足りない。ぜひとも第一位を占めなくては承知しない。この信仰を失ったものは、もうすでに国民ではなくなってるのだ。しかし、真理に二つはない。したがって、たとえいくつもの国民が自己独得の、しかも偉大なる神を有するにせよ、真の神を有している国民はただ一つしかない。『神を孕める』唯一の国民――これはロシヤの国民なのだ、そして……そして……いったい、いったいまあ、きみはぼくをそんな馬鹿者と思ってるんですか、スタヴローギン?」とつぜん彼は兇暴な叫びを上げた。「今この瞬間、自分のいってることが、モスクワあたりのスラヴ主義者の水車小屋で、さんざん搗き潰された、古い黴の生えそうな世迷事《よまよいごと》か、それともぜんぜん新しい最後の言葉か、――更生と革新の唯一の言葉か、それさえ区別のつかないような、馬鹿者だと思ってるんですか? それに……それに、今の瞬間、ぼくにとって、きみのにたにた笑いなんか少しも用はありません! きみがぼくのいうことをまるっきり理解しないからといって、――たった一つの言葉、たった一つの響きさえ理解できないからといって、ぼくはまったく風馬牛です!………おお、ぼくは今この瞬間、きみのその高慢な笑顔と目つきを、心底から軽蔑する!」
 彼はついに席から躍りあがった。その唇には泡のような唾さえ見えていた。
「それどころじゃない、シャートフ、それどころじゃない」とスタヴローギンは席を立とうともせず、ごく真面目な抑えつけたような調子でこういった。「それどころじゃない、きみはその熱烈な言葉で、非常に強い多くの記憶を、ぼくの胸中に甦らせてくれた。ぼくはきみの言葉の中に、二年前のぼく自身の心持ちを認めることができます。今こそぼくもさっきのように、きみが当時のぼくの思想を誇張しているなどとは、もうけっして言やしませんよ。むしろ当時のぼくの思想はもう少し排他的で、もう少し専断的だったような気がするくらいです。もう一度、三度目にくり返していうが、ぼくはいまきみのいわれたことを、一言もらさず裏書きしたいのは山々だが、しかし……」
「しかし、きみには兎がいるんでしょう!」
「なあんですって?」
「これはきみのいった下劣な言葉なんですよ」再び席に着きながら、シャートフは意地悪い薄笑いを浮かべた。「『兎汁を作るためには兎がいる、神を信じるためには神がいる』これはきみがまだペテルブルグにいる時分にいったことだそうですね。ちょうど兎の後足をつかまえようとしたノズドリョフのように」
「いや、ノズドリョフはもうつかまえたといって自慢したね。ついでに失敬ですが、ちょっと一つきみにご返答を煩わしたいことがあるんですよ。ましてぼくは今そうする権利を、十分もっているように思われるんでね。ほかじゃないが、きみの兎はもうつかまりましたか、それともまだ走っていますか?」
「そんな言葉でぼくに質問する権利はありません、別な言葉でおききなさい。別な言葉で!」シャートフはふいに全身をがたがた慄わし始めた。
「いやどうも、じゃ、別な言葉にしよう」とニコライはきびしい目つきで相手を眺めた。「ぼくはただこうききたかったのです、きみ自身は神を信じていますか、どうです?」
「ぼくはロシヤを信じます、ぼくはロシヤの正教を信じます……ぼくはキリストの肉体を信じます……ぼくは新しい降臨がロシヤの国で行なわれると信じています……ぼくは信じています……」とシャートフは夢中になり、しどろもどろにいった。
「しかし、神は? 神は?」
「ぼくは……ぼくは神を信じるようになるでしょう」
 スタヴローギンは顔面筋肉の一本も動かさなかった。シャートフは燃ゆるがごとき眼ざしで、挑むように彼を眺めた。ちょうどその視線で相手を焼きつくそうとするかのように。
「ぼくはあえてぜんぜん信じないといったわけじゃありません!」ついに彼はこう叫んだ。「ぼくはただ自分が運の悪い、退屈な一冊の書物であって、当分の間それ以上の何ものでもないということを、ちょっと知らせたにすぎないのです。ええ、当分の間……しかし、ぼくの名は朽ち果てようとままだ! 肝腎なのはきみだ、ぼくじゃない……ぼくは才も何もない男だから、自分の血潮を捧げるほかに芸はありません。才も何もない十把ひとからげの仲間で、けっしてそれ以上なにもありません。ぼくの血潮も滅びようとままだ! ぼくはきみのことをいってるのです。ぼくは二年間ここできみを待っていたのです……ぼくはきみのために、いま三十分のあいだ裸踊りをしたのです。きみです、きみだけです、この旗印を挙げることができるのは!………」
 彼はしまいまでいわなかった。そして、絶望したもののように、テーブルの上へ肘突きし、両手で頭をかかえてしまった。
「ぼくはちょっとついでに、一つの奇妙な現象として、きみに注意しておきますがね」とふいにスタヴローギンはさえぎった。「どうしてみんなが、妙なえたいの知れぬ旗印をぼくに押しつけようとするんでしょう? ヴェルホーヴェンスキイも、ぼくが『彼らの旗印を掲げる』ことのできる男だと信じてるんです。少なくも、あの男の言葉として、人がこう取り次いでくれました。あの男はぼくが生来の『異常な犯罪能力』によって、彼らのためにスチェンカ・ラージン([#割り注]ロシヤ叛乱の巨魁、ドン・コサックを率いてヴォルガ中下流一帯を征服したが、後敗れて刑死す(一六七一年)[#割り注終わり])の役廻りを演るものと、固く信じ切っているんですからね。『異常な犯罪能力』というものも、やはりあの男の言葉です」
「なんですって?」とシャートフがきいた。「異常な犯罪能力?」
「そのとおり」
「うむ!………いったいあれは本当ですか?」と彼は毒々しくほくそ笑んだ。「きみがペテルブルグで畜生同様な秘密の好色会に入っていたというのは、本当ですか? マルキ・ド・サドでさえ、きみに教えを乞いかねないほどだった、というのは事実ですか? きみが多くの幼者を誘惑して、堕落の淵へ陥れたというのは事実ですか? さあ、返事をなさい、嘘なぞつくと承知しませんよ!」もうまるでわれを忘れてしまって、彼はどなった。「ニコライ・スタヴローギンは、その面をぶん撲ったシャートフの前で、嘘をつくことはできないはずです! さあ、みんないっておしまいなさい。そして、もし本当のことだったら、ぼくはすぐに今ここで、この場を去らずきみを殺してしまう!」
「そういうことはぼくもいいました。しかし、子供を辱しめたのは、ぼくじゃありません」とスタヴローギンは口を切った。が、それはだいぶ長い沈黙の後だった。
 彼の顔は蒼白になり、目はぱっと燃え立った。
「しかし、きみはいったんですね!」ぎらぎら光る目を相手からはなさないで、シャートフは威を帯びた調子で語を続けた。「それからまた、きみは何かその、淫蕩な獣のような行為も、何かこう非常に立派な働き、つまり人類のために生命を犠牲にするといったような行為も、美の見地から見ると、ほとんど差別を認め難いと断言したという話だが、それはまったく本当ですか? この両極において美の合致、快楽の均等を発見したというのは、事実ですか?」
「どうもそうきかれると、返事ができない……ぼくは答えたくありませんね」とスタヴローギンはつぶやいた。彼は、今すぐにも立ちあがって、帰って行くことができるにもかかわらず、立ちあがろうともしなければ、帰って行こうともしなかった。
「ぼく自身もなぜ悪が醜くて、善が美しいかってことが、よくわからない。しかし、どういうわけでこの差別感がスタヴローギンのような人においてとくに著しく磨滅され、消耗されてゆくかということを、ぼくは、ちゃんと知っています」シャートフは全身をわなわなと慄わせながら、どこまでも追求するのであった。「ねえ、きみはどうしてあの時、ああまで醜悪下劣な結婚をしたか、そのわけがわかっていますか? ほかじゃありません、あの場合、この醜悪な無意味というやつが、ほとんど天才的ともいうべき程度に達したからです! おお、あなたは端のほうをおっかなびっくりで歩いたりなんかしないで、真っさかさまに飛び込んでしまうんです。きみが結婚したのは、苦悶の欲望のためです、良心の呵責に対する愛のためです、精神的情欲のためです。あの場合、神経性の発作が働いたのです……つまり、常識に対する挑戦が、強くきみを誘惑したのです! スタヴローギンとびっこの女、醜い半きちがいの乞食女! あの県知事の耳を噛んだとき、きみは何か情欲を感じましたか? 感じたでしょう? え、感じたでしょう? こののらくらの極道若様!」
「きみは心理学者だ」いよいよ顔をあおくしながら、スタヴローギンはこういった。「もっとも、ぼくの結婚の原因については、きみもいくぶん思い違いをしていますがね……しかし、いったいだれがきみにそんなことを知らせたんだろう」と彼は苦しそうな薄笑いをした。「キリーロフかな? いや、あの男は仲間に入ってなかったっけ……」
「きみ、あおくなりましたね?」
「ところで、きみはいったいどうしようというんです?」とうとうニコライは声を励ました。「ぼくは三十分間、きみの鞭の下に坐ってたんだから、せめてきみも礼をもっていいかげんにぼくを釈放してくれてもいい時でしょう……もしそういうふうにぼくを扱うについて、別に合理的な目的がないならば」
「合理的な目的?」
「当たり前ですよ。もういい加減にして、自分の目的を話すということは、少なくもきみの義務じゃありませんか。ぼく、きみがそうしてくれることと思って待ってたんだが、要するにただ興奮した憎悪を見いだしたばかりだ。じゃ、一つ門を開けてください」
 彼は椅子を立った。シャートフは兇猛な態度で、そのうしろから躍りかかった。
「土を接吻なさい、涙でお濡らしなさい、ゆるしをお求めなさい!」相手の肩をつかまえながら、彼はこう叫んだ。
「しかし、ぼくはあの朝……きみを殺さないで……両手をひいてしまいましたよ……」ほとんど痛みを忍ぶような調子で、スタヴローギンは目を伏せながらいった。
「しまいまでおいいなさい、しまいまで! きみはぼくに危険を知らせに来て、ぼくにいいたいことをいわしてくれたじゃありませんか。きみはあす自分の結婚のことを、世間へ発表しようと思ってるんでしょう!………いったいぼくにわからないと思いますか? きみが何かしら新しい、しかも恐ろしい思想に征服されているのは、きみの顔でちゃんとわかっています……スタヴローギン、なんのためにぼくは永劫、きみという人を信じなきゃならない運命を持って生まれたんでしょう? いったいぼくが、ほかの人をつかまえて、今のようなことがいえたでしょうか? ぼくだって童貞の心は持っているけれど、ぼくは自身の裸を恐れなかった。なぜって、相手がスタヴローギンだからです。ぼくは偉大な思想に手を触れて、それを戯画化するのを恐れなかった。なぜって、聴き手がスタヴローギンだからです。……きみが帰った後で、ぼくがきみの足あとに接吻しないと思いますか? ぼくは自分の胸からきみという人を、どうしてももぎはなすことができないのです。ニコライ・スタヴローギン!」
「ぼくはどうも残念ながら、きみを愛することができないのですよ、シャートフ」と、ニコライは冷ややかにいった。
「きみにできないのはわかっています。きみが嘘をついてないのもわかっています。ねえ、ぼくはいっさいを正すことができますよ。ぼくきみのために、兎を手に入れてあげましょう!」
 スタヴローギンは黙っていた。
「きみが無神論者なのは、きみが貴族の若様だからです、屑の屑の若様だからです。きみが善悪の差別感を失ったのは、自国の民衆を見分けることができなくなったからです……新しい時代は直接人民の胸から流れ出ている。けれど、それはきみにも、ヴェルホーヴェンスキイ親子にも、またぼく自身にもわからない。なぜって、ぼくもやっぱり貴族の若様ですからね、きみの家で奴隷づとめをしていた、下男パーシカの息子ですからね……ねえ、きみ、労働で神を獲得なさい、要はすべてこれ一つにあるのです。でなければ、醜劣な黴のように消えてしまいますよ。労働で獲得するんです」
「神を労働で? どんな労働です?」
「百姓の労働です。断然出ておしまいなさい、きみの富をなげうっておしまいなさい……ああ! きみは笑ってるんですね、きみは手品に終わるのを恐れてるんですね?」
 けれども、スタヴローギンは笑わなかった。
「きみは労働によって、しかも、百姓の労働によってのみ、初めて神をうることができると思ってるんですか?」実際なにか相当に思慮を費す価値のある、新しい重大なものでも発見したように、ちょっと考えてから、彼はこう問い返した。「ついでにいっときますがね」出しぬけに彼は別な想念に移ってしまった。「いまきみの言葉で思い出したんだが、実はね、ぼくはまるで富も何もないんです。したがって、なげうとうにもなげうつ物がない。ぼくはマリヤの将来さえほとんどもう保証するだけの力がないんです……そこで、いま一ついっておくことがある――ぼくがここへ来たのは、もしできることなら、今後ともマリヤの面倒をお頼みするためなんです。そのわけはきみだけがあの女の憫れな心に、ある種の感化力を持っていられたからですよ。ぼくは万一の場合を予想していうのです」
「いいです、いいです、きみはマリヤ・チモフェーヴナのことをいってるんでしょう?」とシャートフは片手に蝋燭を持ったまま、いま一方の手を振った。「いいです、それは後で自然と……ねえ、きみ、チーホンのところへ行きませんか」
「だれのところへ」
「チーホンのところへ。元の僧正のチーホンですよ。いま病気のために静養かたがた、この町に住んでいます。あのエフィーミエフの聖母寺院に」
「いったいそれはなんのために?」
「なんでもありません。みんなその人のところに出かけてますからね。まあ、行ってごらんなさい。きみにとってなんでもないことじゃありませんか?」
「はじめて聞いた、それに……今まで一度もそういう種類の人を見たことがないから……いや、ありがとう、行ってみましょう」
「こっちです」とシャートフは階段を照らした。「まあ、お出でなさい」彼はくぐりを往来へさっと開け放した。
「ぼくはもうきみのところへ来ませんよ、シャートフ」くぐりを跨ぎながら、スタヴローギンは小声でいった。
 闇と雨は依然として変わらなかった。

[#3字下げ]第2章 夜(つづき)[#「第2章 夜(つづき)」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 彼はボゴヤーヴレンスカヤ街を通り抜けて、とうとう坂道を下り始めた。足は泥の中をひとりでにすべって行った。と、急に広々として靄のかかった原っぱのようなものが眼界に展けた、――河だ。家並はまるで掘立小屋のようなものに変わって、往来は秩序のない無数の路地の中に隠れてしまった。ニコライは河岸から遠く離れないようにしながら、長いあいだ垣の傍を辿って行った。しかし、道に迷う気色がないばかりか、そんなことはろくろく考えもしないようなふうだった。彼はまったく別なことに心を奪われていた。で、ふと深いもの思いからさめて、あたりを見廻したとき、雨に濡れた長い船橋の、ほとんど真ん中に立っているのに気がついて、思わず愕然としたくらいである。まわりには人けとてさらになかったので、とつぜん肘の下あたりから、思いがけなく慇懃な、なれなれしい声が聞こえたとき、彼はなんだか奇妙な感じがした。それはかなり気持ちのいい声だったが、この町でもいやにハイカラがった町人や、髪を渦巻かした勧工場あたりの若い手代が伊達に使うような、例のわざとらしく甘ったるい、いや味なアクセントを帯びていた。
「ええ、旦那、失礼でござんすが、一つその傘ん中へごいっしょにお願いできませんかねえ」
 実際、だれかの影が彼の傘の下へ潜り込んだ(或いは潜り込むような真似をしただけかもしれない)。浮浪人は彼とおし並んで、『肘で相手を探りながら』、――これは兵隊のいうことなので、――ついて来た。ニコライは歩調をゆるめながら、暗闇の中でできる限りこの男を見分けようとした。男はあまり背の高いほうでなく、ちょっとその辺で遊んで来た町人者、というようなところがあった。みなりはうそ寒そうで、さっぱりしていなかった。ぼうぼうと渦を巻いた頭には、庇《ひさし》の半分はなれかかった、びしょ濡れのラシャ帽が、ちょこなんとしている。見たところ、この男は痩せた、色の浅黒い、極度なブリュネットらしい。目は大きかったが、きっとジプシイのように真っ黒で、ぎらぎらと光って、黄がかった底つやがあるに相違ない。闇の中ながら、これだけは想像がついた。年はどうやら四十前後らしく、別に酔ってはいなかった。
「お前はおれを知ってるのか?」とニコライはきいた。
「スタヴローギンさま、――ニコライ・フセーヴォロドヴィチでございましょう。わっしは前の日曜日に停車場でね、汽車が着くとすぐ教えてもらいましたんで。そればかりじゃありません、前からお噂は承知しておりましたよ」
「ピョートル・ヴェルホーヴェンスキイからだろう? お前……お前かね、懲役人のフェージカは?」
「洗礼の時にゃ、フョードル・フョードロヴィチという名をもらいましたがね。生みの母親は今でもやっぱりこの近在におりますんで。神様と仲よしのお婆さんでしてね、腰が曲っていく一方でござんすよ。毎日、昼となく夜となく、わっしどものことを神様に祈っております。そういうわけでござんすから、何も煖炉《ペーチカ》の上で、ぼんやり閑を潰してばかりいるわけじゃありませんので」
「お前は懲役から逃げ出したんだろう?」
「へえ、少々運勢を変えました。聖書も鐘も教会のお勤めも、すっかりほうり出してしまいました。なぜって、わっしはずっと一生涯、懲役の宣告を受けてたんですが、それじゃどうもあまり待ち遠しすぎますんで」
「ここで何をしてる?」
「朝から晩まで何ということなしに、一日ぶらぶらしております。伯父のやつが贋金のことで、やっぱりここの監獄に食らい込んでましたが、先週とうとう亡くなりましたのでね、わっしもその供養を営むために、石を二十ばかり犬にくらわしてやりましたが……まあ、わっしらのすることといっちゃ、今のところ、それくらいなものでございますよ。そのほかにピョートルの旦那が、ロシヤ全国を渡って歩くことのできる商人《あきんど》の旅行免状を手に入れてやるとおっしゃったので、かたがたそのご親切を待っていますんで。『実際うちの親爺はイギリス・クラブでカルタに負けて、それでお前をたたき売ったんだからなあ。どうもこれは不公平な、人情を欠いた仕打ちだよ』とこうおっしゃいましてね。いかがでしょう、旦那、お茶の一杯も飲んで、暖まりたいのでござんすが、あなたもどうか三ルーブリばかり恵んでやってくださいませんか」
「じゃ、貴様はここで待ち伏せしていたんだな。おれはそんなこと嫌いだ。いったいだれの言いつけなのだ?」
「言いつけなんかとおっしゃいましても、そんなことはけっしてありゃいたしません。わっしはただ、世間に知れ渡った旦那様のお情け深さを、承知でまいりましたんで。わっしらの収入《みいり》と申しちゃ、旦那もご承知のとおり、ほんの蚊の涙くらいなものでございますからねえ。ついこのあいだ金曜日にゃ、饅頭にありつきましてね、まるでマルティンが石鹸でも食べるように、うんと腹一杯つめ込みましたよ。ところが、それ以来なんにも食べない始末なんで。次の日は辛抱しました。その次の日もまた食べずじまいでございました。で、川の水をもうたらふく飲みましたから、まるで腹の中に魚でも飼ってるようで、こういうわけでござんすから、一つ旦那様のお情けでいかがでしょう。実はついちょうどそこのところで、仲よしの小母さんが待っておりますが、そこへは金を持たずに行くわけにゃまいりませんでねえ」
「いったいピョートルの旦那はおれに代わって、何を貴様に約束したんだい?」
「別に約束なすったというわけじゃありませんが、もしかしたら、その時の都合次第で、何か旦那のお役に立つことがあるかもしれんと、これだけのお話があったので。どういう仕事か、そりゃ明らさまに聞かしてくださいませんでしたよ。なぜって、ピョートルの旦那は、わっしにコサックみたいなつらい辛抱ができるかどうか、ためしてごらんなさるきりで、ちっともわっしという人間を信用してくださらないんで」
「なぜだい?」
「ピョートルの旦那はえらい天文学者で、空をめぐる星を一つ一つそらで知っておられますが、あの方でも難をいえばあるんでございますよ。ところが、わっしは旦那の前へ出ると、まるで神様の前へ出たような気がいたしますんで。なぜって、旦那、あなたのことはいろいろ伺っておりますものね。ピョートルの旦那はああいう人、旦那は旦那でまた別な人でござんすからね。あの方は人のことでも、あれは極道だといったら、もう極道者よりほかなんにもわかりゃしません。また、あいつは馬鹿だといったら、もう馬鹿のほかにゃその男の呼び方を知らない、といったふうでございます。しかし、わっしも火曜水曜は、ただの馬鹿かもしれないが、木曜日にゃあの方より利口になるかもわかりませんからね。ところで、いまあの方は、わっしが一生懸命に旅行免状をほしがってることだけ知って(まったくロシヤではこの免状なしじゃ、どうにもしようがありませんからね)、まるでわっしの魂でも生け捕ったように思ってらっしゃる。旦那、わっしは遠慮なく申しますがね、ピョートルの旦那なんざあ、世渡りは楽なもんでございますよ。なぜってあの方は、人間を自分一人でこうと決めてしまって、そういうものとして暮らしておられるんですからねえ。そのうえに、どうも恐ろしいしみったれでございますよ。あの方はよもや自分を出し抜いて、わっしが旦那とお話をしようとは、夢にも思っていらっしゃらないが、わっしはねえ、旦那、旦那の前へ出たら神様の前へ出たのも同じような気でいますんで。もうこれで四晩もこの橋に立って、旦那のおいでを待ってるんでございますよ。あの方の力を借りなくったって、こっそり自分のすべきことをしようと思いましてね。考えてみると、同じことでも、草鞋《わらじ》より靴に頭を下げるほうが、よっぽど気が利いてますからね」
「おれが夜中にこの橋を通るなんて、いったいだれがお前にいったんだ」
「それは白状いたしますが、わきのほうからひょっくり小耳に挟みましたんで。つまり、レビャードキン大尉の迂闊から出たことなんで。なにしろあの人は、はらの中にものをしまっておくってことが、どうしてもできない性分でござんしてね……で、三日三晩つらい目をした駄賃に三ルーブリだけ、旦那様のお情けに預るわけにゃまいりませんでしょうか。着物の濡れたことなぞは、もう諦めて何も申しませんよ」
「おれは左だ。貴様右へ行くんだろう。橋はもうおしまいだ。いいか、フョードル、おれは自分のいったことを、一度ですっかり呑み込んでもらうのが好きなたちなんだ。おれは一コペイカだって貴様にやりゃしない。今後、橋の上だろうがどこだろうが、おれの目にかかったら承知しないぞ、おれは貴様なんかに用はない、また今後だってありゃしないんだ。もしいうことを聞かなけりゃ、ふん縛って警察へ突き出すぞ、とっとと行っちまえ!」
「ええまあ、せめてお伴の駄賃でも投げてくださいませんか、少しはお気晴らしになりましたろうに」
「行かんか!」
「ですが、旦那はここの道をごぞんじでございますか? あそこら辺はまったくひどい路地つづきでござんしてね……なんならご案内いたしましょうか。本当にこの町は、もうまるで悪魔が籠の中へ入れて、振り廻したようなところでございますよ」
「ええっ、ふん縛っちまうぞ!」ニコライは恐ろしい剣幕で振り返った。
「まあ、旦那、考えてもくださいまし。頼りのない人間をいじめるくらい、造作もないことじゃございませんか?」
「いや、貴様はなかなか自信が強いらしいな!」
「なに、旦那、わっしはあなたを信じているので、けっして自分を信じてるわけじゃござんせん」
「おれは貴様なんぞにまるで用はありゃしない、一どいったらわかるだろう!」
「ところが、わっしのほうはあなたに用があるんで、へえ。じゃ、旦那、お帰り道を待っておりますよ、もうしようがない」
「おれはちゃんといっとくぞ、今度あったらふん縛ってやるから」
「それじゃ一つ繩でも用意しておきましょう。では、旦那、ご機嫌よろしゅう。お傘の中へ入れていただきまして、どうもありがとうござんした。これ一つだけでも、旦那のことは棺へ入るまで忘れはいたしません」
 彼はやっと傍を離れた。ニコライは不安げな様子で、目ざすところまで辿りついた。まるで天から降ったようなこの男は、自分がニコライになくてはならぬ人間だと信じ切って、どこまでもずうずうしくこのことを知らせようとあせっている。それに全体として、この男は彼を恐れはばかる様子がなかった。しかし、この浮浪漢もずぶ出たらめをいったのではないらしい。実際、彼はピョートルに内証で自分の一量見で、ニコライのご用を勤めさしてもらおうとねだったのかもしれない。これは何より注目すべき事実だった。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 ニコライの辿りついた家は、両側から垣根に挟まれた、淋しい横町にあった。垣根の向こうには菜園が続いて、まったく字義どおりに町はずれだった。それはぜんぜん孤立した、小さな木造の家で、まだほんの建てたばかりらしく、羽目板も打ってなかった。一つの窓はわざと鎧戸を開け放して、窓じきりには蝋燭が立ててあった、――それは今夜おそく来るはずになっている客人のため、燭台の代わりにしようというつもりらしい。まだ三十歩ばかり手前の辺から、入口に立っている背の高い男の姿を見わけることができた。たぶんこれはこの家のあるじが待ち遠しさのあまり、往来の様子を見に出たものであろう。そればかりか、その男のじれったそうな、そのくせおずおずしたような声さえ聞こえた。
「そこにいらっしゃるのは、あなたですか? あなたですか?」
「ぼくです」家の入口まで辿りついて傘をすぼめた時、ニコライは初めてこう答えた。
「まあ、やっとのことで!」とレビャードキン大尉は(これが男の正体だった)急に足踏みして、騒ぎ出した。「さあ、お傘をこっちへください。おや、大変ぬれておりますなあ。一つ、この隅の床に広げときましょう。さあ、どうぞ、さあ」
 廊下から、二本の蝋燭で照らされた部屋に通ずる戸口は、一ぱいに開け広げてあった。
「ぜひ来るというあなたのお言葉がなかったら、とても本当にはしなかったかもしれませんよ」
「十二時四十五分だね」ニコライは部屋へ入りながら、ちょっと時計を眺めた。
「しかも、おまけに雨まで降っておりますし、――それに、なかなか道のりがありますでなあ……わたしは時計を持っておりません。ところで、窓の外を見ても野菜畑ばかりで、まったくその……うき世から遠ざかってしまいますな……しかし、何もあえて不平をいうわけじゃありません。どうして、どうして、そんな僭越なことを……ただ一週間というもの、ひたすら待ち佗びておったものですから……それに、すっかり解決をつけてしまいたいと思いましてね」
「なんだって?」
「自分の運命《なりゆき》が聞きたいのでございますよ。さあ、どうぞ」
 彼はテーブルの傍らなる長いすを示しつつ、小腰をかがめてこういった。
 ニコライはあたりを見廻した。部屋は狭苦しくて、天井が低く、道具類もほんのなくてかなわぬものばかりだった、――いくつかの椅子と一脚の長いす(これはみな木造りで、やはりこしらえたばかりらしく、皮も布《きれ》もなんにも張ってなく、肘もついていなかった)、二脚の菩提樹のテーブル(一脚のほうは長いすの傍に据えてあり、いま一脚は隅のほうに置いて、クロースを掛けてあったが、何やら一杯ごたごたとのっけた上から、素晴らしく綺麗なナプキンがかぶせてある)、――これだけがすべてだった。しかし、全体として部屋の中は、驚くばかり清潔に手入れがしてあるらしかった。レビャードキン大尉は、もう八日ばかり酒を飲まなかった。彼の顔はなんだかげっそりして、黄いろみを帯び、目つきはきょときょとして好奇の色を浮かべ、いかにも何か腑に落ちないような表情を呈していた。彼はどんな調子でニコライに話しかけたものか、またいきなりどういう調子をつかんだらより多く有利なのか、それがまだ自分にもはっきりわかっていなかった。これはもうありありとおもてに現われていた。
「ご覧のとおり」と彼はあたりを指さした。「まるでゾシマ長老のような暮らしをしております。禁欲、孤独、欠乏、――ちょうど昔の騎士が誓いでも立てたようですよ」
「昔の騎士がそんな誓いを立てたと思いますか?」
「いや、或いは出たらめをいったかもしれません。どうも悲しいことに、わたしは十分の教育を受けておりませんのでね! ああ、わたしはいっさいを亡ぼしてしまいました! 実はね、ニコライ・フセーヴォロドヴィチ、わたしはここで初めて覚醒して、愧ずべき[#「愧ずべき」はママ]欲望をなげうちました。盃一杯はおろか、一ったらしも飲みません。この一隅に蟄居して、この六日間、良心の安らかになったのを感じます。部屋の壁さえも、ちょうど自然を連想させるように、松脂の香りがしておりますよ。ああ、わたしはなんという人間だったのでしょう、何をしておったのでしょう?

[#ここから2字下げ]
夜は吐息す、泊りさえなく
昼は昼とて舌を吐きつつ……
[#ここで字下げ終わり]

 天才詩人の言葉をかりると、まったくこのとおりですよ! しかし……まあ、大変ぬれておしまいになりましたなあ……お茶を一杯いかがですか?」
「かまわないでください」
「湯沸《サモワール》は七時すぎから煮立っておりましたが、しかし……消えてしまったのです……この世におけるすべての物のごとく。太陽でさえ、そのうちに順が廻って来れば、自然に消えてしまうといいますからなあ……もっとも、お入用でしたらまたこしらえますよ。アガーフィヤはまだ寝ておりませんから」
「ときに、きみ、マリヤは……」
「ここです、ここです」とレビャードキンはすぐに小声で引き取った。「ちょっと覗いてごらんになりますか?」彼は次の部屋との境になっている、閉めきった戸を指さした。
「寝てやしないかね?」
「おお、どうしてどうして、そんなことがあってよいものですか! それどころか、もう夕方から待ちかねております。そして、さっきおいでになったことが知れると、さっそくお化粧をしたくらいですからなあ」と彼は口を歪めて、ふざけた薄笑いを浮かべようとしたが、すぐにまた引っ込めてしまった。
「全体として? どんなふうだね?」ニコライは顔をしかめながらきいた。
「全体として? それはご自分でご承知のとおりです(と彼は気の毒そうに肩をすくめた)。ところで、今は……今はじっと坐って、カルタの占いをしております……」
「よろしい、後にしよう。まずきみのほうから片づけなきゃならない」
 ニコライは椅子に腰を据えた。
 大尉はもう長いすに坐る勇気がなくて、すぐに自分も別な椅子を引き寄せた。そして、びくびくもので、相手の言葉を待ち設けながら、体《たい》をかがめて謹聴の態度を取った。
「あの隅っこのほうにクロースがかぶせてあるのは、いったいなんです?」突然ニコライは気がついて、こうたずねた。
「あれでございますか?」レビャードキンも同じく振り向いた。「あれはあなたご自身のお恵みでできたものでございます。いわばまあ、引っ越し祝いといったようなわけで……それに、遠路のところをわざわざお運びくださることですし、また自然それに伴うお疲れなども考えましてな」と彼は恐悦げにひひひと笑った。それから席を立って、爪立ちで片隅のテーブルに近寄り、そうっとうやうやしげにクロースを取りのけた。
 その下からは用意の夜食が現われた。ハム、犢肉、鰯、チーズ、緑色がかった小さなウォートカのびん、長いボルドー酒のびん、――こういうものがすべて小綺麗に、順序をわきまえて、手際よく配列してあった。
「これはきみのお骨折りかね?」
「わたしでございます。もう昨日からかかって、できるだけのことをしましたので……あなたに敬意を表しようと思って……マリヤはこういうことになると、ご承知のとおり無頓着でございますからなあ。まあ、とにかく、あなたご自身のお恵みでできたもので、あなたご自身のものでございます。なぜといって、この家《や》のあるじはあなたでして、わたしじゃありませんからね。わたしなんぞはまあ、あなたの番頭といったような格でございます。しかし、なんと申しても、なんと申しても、ニコライさま、なんといっても、わたしは精神的独立をもっております。どうか、たった一つ残ったわたしのこの財産を取り上げないでください!」彼は一人で悦《えつ》に入りながら言葉を結んだ。
「ふむ……きみはまた坐ったらどうだね」
「いや、どうもありがとうございます。ありがとうはございますが、それでも独立性をもった人間です! (彼は坐った)おお、ニコライさま、わたしのこの胸は煮えくり返るようで、とてもご光来が待ちきれないだろう、と思われるくらいでございました! さあ、今こそ運命を決してください、わたしの運命と、そして……あの不幸な女の運命を……そのうえで……そのうえで昔よくやったように、あなたの前にすべてを吐露してしまいます、ちょうど四年以前と同じようにね。あの時分あなたは、わたしのような者のいうことでも聞いてくださったし、また詩も読んで聞かしてくださいましたよ……あのころ、人がわたしのことをあなたのファルスタッフ、――沙翁の書いたファルスタッフだといっておりましたが、それはいわれてもかまわんです。あなたはわたしの運命に甚大なる影響を与えた人ですからなあ!………わたしはいま非常な恐怖をいだいております。そして、ただただあなた一人から助言と光明を待っているのです。ピョートル・スチェパーノヴィチがわたしに恐ろしい仕向けをされるので!」
 ニコライはもの珍しげに耳を傾けながら、じっと相手を見つめるのであった。見たところ、レビャードキン大尉は、酒に食らい酔うことだけはやめたが、しかし、なかなか均衡のとれた状態に戻っている様子はなかった。こういうふうな病い膏肓に入った酒飲みは、結局、どことなくがたぴし[#「がたぴし」に傍点]した、ぼうっと煙のかかったようなところができて、何かしら損なわれたような感じのする、気ちがいじみた傾向が、しだいに明瞭になってゆくものである。もっとも、必要な場合には人並みに嘘もつくし、狡知も弄するし、悪企みもするには相違ないけれど。
「大尉、ぼくの見たところでは、きみはこの四年間少しも変わらないね」前よりいくぶん優しい調子で、ニコライはこういい出した。「ふつう人間の後半生は、ただ前半生に蓄積した習慣のみで成り立つというが、どうやら本当のことらしいね」
「なんという高遠な言葉でしょう! あなたは人生の謎をお解きになりましたよ!」なかば悪くふざけながら、なかばわざとならぬ感激に打たれて(彼はこうした警句が大好物だったので)、大尉は叫んだ。
「ニコライさま、あなたのおっしゃったお言葉の中で、後にもさきにもたった一つ覚えておるのがあります。これはあなたがまだペテルブルグにいらっしゃる時分のことで、『常識にすら反抗して立つためには、真の偉人となるを要す』とこういうのでございます!」
「ふん、それと同じように『或いは馬鹿者たるを要す』ともいえるね」
「さよう、また馬鹿者でもいいでしょう。とにかく、あなたは一生を警句で埋めていらっしゃる。ところが、あの連中はどうでしょう? リプーチンにしろ、ピョートル・スチェパーノヴィチにしろ、せめて何か似たようなことでもいえますか? ああ、ピョートル・スチェパーノヴィチは実に残酷な仕向けをなさいますよ……」
「しかし、きみはどうだね。大尉、きみはなんという行為をしたのだ?」
「酒の上でございます。それに、わたしは無限に敵をもっておりますのでね! しかし、今はもうすっかり、何もかもすんでしまいました。で、わたしも蛇のように更新しているところでございます。ニコライさま、実はわたしは遺言状を書いております。いや、もう書いてしまったので」
「それは珍聞だね。いったい何を遺そうというんだね、そしてだれに?」
「祖国と、人類と、大学生に。ニコライさま、わたしは新聞であるアメリカ人の伝記を読みましたが、その男は、莫大な財産を工業と積極的科学に、また自分の遺骨を学生に、――つまり、むこうの大学へ寄付した上、皮を太鼓に張らしたのです。ただし、夜昼なしにその太鼓で、アメリカの国歌を奏するという条件でね。ああ、悲しい哉、北米合衆国の奔放な思想にくらべたら、われわれはまったく一寸法師も同然ですなあ! ロシヤは自然の戯れです、理性の戯れじゃありません。まあ、かりにわたしが自分の皮を初めて軍務に服したアクモーリンスキイ連隊へ、太鼓の張代《はりしろ》に寄付して、毎日隊の前でロシヤの国歌を奏してくれと申し出てごらんなさい、たちまちこれは自由思想だといって、皮は差し止めになってしまいますから……それで、まあ、大学生のほうだけにしておいたのです。わたしは自分の骨を大学へ遺すつもりでございます。ただし、その額へ永久に『悔悟せる自由思想家』という文字を入れた札を、立派に貼りつけるという条件つきでございます。まあ、こういうわけなんで!」
 大尉は熱くなってしゃべり立てた。もちろん、今はすっかり、アメリカ人の遺言の美しさを信じきっていたが、しかし、彼はなんといっても、ずるい根性の男だから、もう長いあいだ道化役に廻って、仕えているニコライを笑わそうという了簡も大いにあったのである。しかし、こちらはにこりともしなかった。それどころか、妙にうさん臭そうな調子でたずねた。
「してみると、きみは生きてるうちに遺言を発表して、褒美にありつこうと思ってるんだね?」
「まあ、そうしといてもよろしゅうございます、ニコライさま、そうとしてもかまいませんなあ?」とレビャードキンは大事を取りながら、顔色をうかがった。「実際、わたしの運命はどうでしょう! 今では詩を書くことさえやめてしまいました。むかしは、あなたもわたしの詩を興がって聞いてくだすったものですがねえ。ニコライさま、おおぼえですか、ほら、酒の席などでね? しかし、わたしの筆にも終わりが来ました。ところで、たった一つ詩を作りました。ちょうどゴーゴリが『最後の物語』を書いたようにね。おぼえておいでですか、ゴーゴリはロシヤの国に向かって、この物語は自分の胸から『絞り出された』ものだ、とこう宣言したじゃありませんか。わたしもそれと同じで、こんど書いたのが絶筆でございます」
「どんな詩だね?」
「『もしも彼女が足を折りなば』というので!」
「なあんだって?」
 大尉はただこれのみ待ち受けていたのである。彼は自分の詩を無限に尊重して、高い評価をいだいていたが、それと同時に、一種狡猾な心の分裂作用のために、以前ニコライがよく彼の詩に興がって、時とすると腹をかかえて笑うのを、ないないよろこんでいたのである。かような次第で、同時に二つの目的、――自分の詩的満足とご機嫌とりが達せられるわけだった。けれども、今日は第三の目的も潜んでいた。これは一種特別な、しかもきわめて尻こそばゆい目的だった。ほかでもない、大尉は自分の詩を舞台へ持ち出して、自分が何よりも剣呑に感じ、かつ何よりも失策を自覚している一つの点に関して、自己弁護を企てたのである。
「『もしも彼女が足を折りなば』、つまり、馬から落ちた場合なので。いや、夢ですよ、ニコライさま、うわごとですよ。しかし、詩人のうわごとです。実はあるとき通りすがりに、一人の騎馬の美人に出会って、その美に打たれた。そして、この実際的な疑問を起こしました。『いったいその時はどうだろう?』つまり、その今のような場合ですな。なあに、わかり切ったことです。崇拝者どもはみんな尻ごみして、花婿の候補者もどこかへ行ってしまう。急に朝寒《あさざむ》がきて、水っ涕を啜らぬばかり、その時ただ一人の詩人のみが圧しひしがれた心臓を胸にいだきながら、変わらぬ愛を捧げていると、こういうわけなんです。ねえ、ニコライさま、たとえ虱のような虫けらでも、恋することはできますよ。けっして法律で禁《と》められてはおりません。ところが、それ、令嬢はわたしの手紙や詩を読んで、腹を立てられたのでございます。あなたまで憤慨なすったということですが、いったい本当なのでしょうか? 実に悲しむべきことです。わたしはほとんど信じかねたくらいでございますよ! ねえ、ただほんの想像ばかりで、人に迷惑のかけようがないじゃありませんか? おまけに、正直なところ、これにはリプーチンが関係してるのでございます。『送るがいい、送るがいい、人間という者は、だれでも通信の権利を持ってるんだ』などというものですから、それでわたしも出してみたようなわけで」
「きみは、確か自分で自分をあのひとの花婿に推薦したはずだね?」
「敵です、敵です、敵の企みです!」
「その詩をいってみたまえ!」とニコライは厳しい調子でさえぎった。
「うわごとです、もうまるっきりうわごとです」
 けれども、やはり彼は身をそらして、片手を差し伸ばしながら吟じ始めた。

[#ここから2字下げ]
美しき人の中にも美しき
君は図らず足折りて
前にも倍して魅力を増しぬ
前にも倍して想いを増しぬ
すでに烈しく恋える男は
[#ここで字下げ終わり]

「もうたくさんだ!」とニコライは手を振った。
「わたしは、ピーテル([#割り注]ペテルブルグの俗称[#割り注終わり])を空想しておるのです」とレビャードキンは、まるで詩なんか読んだことは、夢にもないような口調で、大急ぎで話頭を転じた。「わたしは更生を夢みておるのです……恩人! ニコライさま、あなたはわたしに路銀を恵むのをいやだとはおっしゃらんでしょうね。あなたに望みをつないでかまわんでしょうなあ? わたしはこの一週間、まるで太陽かなんぞのように、あなたを待ち焦れておったのです」
「いや、駄目だよ。もうまっぴらごめんこうむる。ぼくは金なんかほとんど失くなってしまった。それに、どうしてそうそうきみに金をあげなくちゃならないのだ?」
 ニコライは急に腹を立てたらしい。彼は言葉みじかにそっけない調子で、大尉の不行跡、――乱酔、放言、マリヤに宛てられた金の浪費、それから妹を僧院から奪い出したこと、秘密を発表するという脅し文句を並べた手紙を送ったこと、ダーリヤに不正な行動をあえてしたことなどを、一つ一つ数え立てた。大尉は体を揺すぶったり、手真似をしたりして、言いわけを試みようとしたが、ニコライはそのたびに高圧的な態度で押し止めるのであった。
「まあ、聞きたまえ」と彼は最後にいった。「きみはしじゅう『一家の恥辱』てなことを書いているが、きみの妹がスタヴローギンと正当の結婚をしているということに、いったいどんな恥辱があるんだい?」
「しかし、秘密の結婚ですからなあ、ニコライ・フセーヴォロドヴィチ、秘密の結婚、永久に秘密の結婚ですからなあ。わたしはあなたから金をいただいておりますが、もし人から出しぬけに『それはどうした金だ?』ときかれたら、なんと返答します。わたしは束縛を受けておりますから、それに返答ができないじゃありませんか。それが妹のためにも、また一家の名誉のためにも、非常な損害を来たしますので」
 大尉は声を高めた。これは彼の十八番で、彼はこれにかたく望みをつないでいた。しかし、悲しい哉! 彼はそのとき、どんな恐ろしい報知が待ち設けているか、夢にも予想できなかったのである。ニコライは、きわめて些細な日常茶飯事でも語るように、近いうちに、ことによったら明日か明後日あたり、自分の結婚を一般に公表しようと思っている、『警察へも社会全体へも知らせるつもりだ』、したがって、一家の恥辱という問題も、また同時に補助金という問題も、自然消滅すべきだと告げた。大尉は目を剥くのみで、相手のいうことが合点できなかった。で、ニコライはもう一度、よくわかるように説明を余儀なくされた。
「でも、あれは……気ちがいじゃありませんか?」
「それはまた相当の方法を講じるさ」
「けれど……お母様はなんとおっしゃいますかしらん?」
「なあに、そりゃどうとも勝手にするだろうよ」
「しかし、奥さんをお宅へお入れになるのでしょう?」
「或いはそうするかもしれん。しかし、それはまったくきみの知ったことじゃないのだ。きみにはまるっきり関係のないことだよ」
「どうして関係のないことですか?」と大尉は叫んだ。「わたしがどういうわけで……?」。
「ふん、あたりまえじゃないか。きみなんかぼくの家へ入れやしないよ」
「でも、わたしは親戚じゃありませんか」
「そんな親戚はだれだってまっぴらだよ。ね、そうなってしまえば、きみに金をあげる必要がどこにあるだろう、考えてもみたまえ」
「ニコライさま、ニコライさま、そんなことがあってよいものですか。まあ、よく考えてごらんなさいまし。まさかあなただって、その……われとわが身を亡ぼすようなことをなさりたくはありますまい……第一、世間がなんと思うでしょう、なんというでしょう?」
「きみの世間ならさぞ恐ろしいだろうよ。ぼくはあのとき酒もりの後で、ふいと気が向いたものだから、酒の飲みくらをして、それに負けてきみの妹と結婚したんだ。だから、今度はこのことを公然と披露するのだ……それが今のぼくにとって慰みにでもなるかと思ってね」
 こういった彼の調子はことにいらいらしていたので、レビャードキンはぞっとしながら、その言葉を信じ始めた。
「しかし、それにしてもわたしは、わたしはいったいどうなるんです。この場合、わたしのことが一ばん肝腎じゃありませんか!………大方それはご冗談でしょう、ニコライ・フセーヴォロドヴィチ?」
「いや、冗談じゃない」
「じゃ、どうともご勝手に。しかし、わたしはおっしゃることを本当にしませんよ……わたしは訴訟でも起こしますから」
「大尉、きみはずいぶん馬鹿だねえ」
「かまいませんよ。わたしとして、それよりほかにしようがないんです!」と大尉はすっかり脱線してしまった。「以前はなんといっても、あれがいろんな手伝いなどしていたので、隅っこのほうに寝る所だけでも当てがってもらえましたが、今あなたに捨てられたら、いったいどうなるとお思いです?」
「だって、きみはペテルブルグへ出かけて、なんとか自分の進む道を変えるといってるじゃないか。ああ、そうだ、ついでにきいておくが、きみがペテルブルグへ行くのは、密訴のためだとか聞いたが、それはいったい本当なのかね? つまり、ほかのものを売った褒美に、おゆるしをいただこうというつもりかね」
 大尉は口をぱっくり開けて、目を剥き出したまま、とみに答えも出なかった。
「ねえ、大尉」急に恐ろしく真面目な調子になって、テーブルの上へかがみながら、スタヴローギンはこういった。
 これまで彼は妙にどっちつかずな調子で話していたので、道化の役廻りではかなり経験を積んだレビャードキンも、今の今まで、はたして主人公が怒っているのか、それともちょっと冗談をいっているのか、本当に結婚発表などという奇怪な考えをいだいているのか、或いはただ自分をからかっているのか、その辺がちょっと怪しく感じられた。しかし、今という今は、スタヴローギンのなみなみならぬいかつい顔つきが、相手を説き伏せねばやまぬ強い力を持っていたので、大尉は背筋に冷水を浴びせられたような気がした。
「ねえ、大尉、よく聞いてまっすぐに返事をしたまえ。きみはもう何か密告したのか、それとも、まだなのか? 本当に何もかもやっつけてしまったのかい? まっすぐに返事したまえ。何かくだらんことで、妙な手紙を出しゃしなかったかい?」
「いいえ、まだ何もいたしま……そんなことは考えもしませんでした」と大尉は身じろぎもせずに相手を見つめた。
「ふん、考えもしなかったなんて、そりゃ、きみ、嘘だよ。きみがペテルブルグへ行きたがるのも、つまり、それがためなんだ。もし手紙を出さなかったとすれば、この町のだれかに口をすべらしはしなかったかね? まっすぐに返事したまえ、ぼくもちょっと聞き込んだことがあるんだから」
「酔った勢いでリプーチンにその……リプーチンの裏切り者め、おれは自分の心臓を明けて見せてやったのに……」と哀れな大尉はつぶやいた。
「心臓は心臓としておいてさ、そんな馬鹿な真似をする必要はないじゃないか。きみは何か思案があったら、ちゃんとはらの中にしまっとくがいいじゃないか。いま時の利口な人は、そんなにぺらぺらしゃべらないで、じっと黙ってるよ」
「ニコライさま」と大尉はぶるぶる慄え出した。「だといって、あなたご自身、何一つかかり合っていらっしゃらないじゃありませんか。わたしは何もあなたのことを……」
「まさかきみだって、自分の米櫃を訴える勇気はなかったろうよ」
「ニコライさま、まあ、お察しを願います、お察しを……」
 大尉は自暴自棄になって、涙ながらに、この四年間の身の上を早口に語り始めた。それは柄にもない仕事に引き摺り込まれながら、しかも、淫酒放埒に気をとられて、つい今の今まで、その仕事の重大な意義を悟りえなかった馬鹿者の、思い切って間の抜けた物語だった。彼の話によると、まだペテルブルグにいた頃から、『最初はただほんの友だちに対するお付き合いとして、大学生ではないけれど、思想は忠実な大学生という心持ちで、夢中になってその運動に没頭』した。そして、何がなんだかわけはわからず、ただ『なんの罪もなく』いろんな紙きれを、よその階段へ撒き散らしたり、一時に何十枚と固めて、戸口のベルの傍へ置いて来たり、新聞の代わりに捩じ込んだり、芝居へ持って行ったり、帽子の中へ突っ込んだり、かくしの中へ落としたりした。その後、こういう仲間から金さえもらうようになった。『だといって、わたしの収入がどんなものか、大抵ご承知でしょうからなあ!』こうして二県にわたって各郡各郡へ、『ありとあらゆる紙くず』を撒いたのである。
「おお、ニコライ・フセーヴォロドヴィチ」と彼は叫んだ。「何より一ばん気がさしたのは、それがぜんぜん民法に、というより、むしろ国法に背いている点でした? 何が刷ってあるかと思うと、まるで薮から棒に、股木([#割り注]乾草の取り入れに用う[#割り注終わり])を持って出て来いだの、朝すかんぴんで家を出ても、晩には金持ちで帰れることを記憶せよだのと、――じつに驚くじゃありませんか! わたしはもう身慄いがつくようでしたが、それでもやっぱり撒き散らしておりました。かと思うと、また出しぬけに、これというわけもないのに、ロシヤ全国の人に向かって、五行か六行印刷したものですよ。『速かに教会を鎖し、神を撲滅せよ。結婚制度を破壊し、相続権を撲滅し、すべからく刃をもって立つべし』と、こんなことばかり並べたものです。そのあとはどうだったか、てんで覚えてもおりませんよ。ところが、この五行ばかりの紙っ切れのために、すんでのことにやっつけられるところでした。ある連隊で、将校連にさんざんぶちのめされましたが、まあ、ありがたいことにゆるしてくれました。また去年カラヴァーエフに、フランスでこしらえた贋の五十ルーブリ札《さつ》を渡した時なぞは、あやうくふん捕まらないばかりでした。まあ、いいあんばいに、ちょうどその時分カラヴァーエフが酔っぱらって、池で溺れ死んだので、わたしの仕業を見抜く暇がなかったのですよ。ここではヴィルギンスキイのところで、婦人共有の自由を宣言しました。六月にはまた**郡でビラ撒きをしました。なんでもまたやらされるそうでございます……ピョートル・スチェパーノヴィチが出しぬけにわたしをつかまえて、お前はなんでもいうことを聞かなくちゃならんぞと、いい聞かしてくださいましたのでね。もう前から脅かしていらっしゃいますよ。ねえ、あの日曜日のいじめようといったら、本当にどうでしょう! ニコライさま、わたしは奴隷です、虫けらです。が、ただし神ではありません。そこが詩人ジェルジャーヴィンと違うところです。しかし、わたしの収入といったら、実際ごぞんじのとおりでございますからなあ!」
 ニコライはしじゅう好奇の色を浮かべながら聞いていた。
「ぼくのまるで知らないことがあった」と彼はいった。「もっとも、きみならどんなことだってしかねないよ……ねえ、きみ」彼はちょっと考えて、こういい出した。「もしなんなら、あの連中に、――どの連中かわかるだろう、――あの連中にそういったらいいだろう。つまり、リプーチンは出たらめをいったのだ。実はスタヴローギンにもうしろ暗いことがあるかと思ったので、密告といって脅かして、もっと金を絞ろうと考えただけなんだ、とこんなふうにね……わかったかい!」
「ニコライさま、若旦那、いったいわたしの身にはそんな危険が迫ってるのでしょうか? わたしはそれをおたずねしようと思って、一生懸命、ご光来を待っておりましたので」
 ニコライはにたりと笑った。
「ペテルブルグなぞへは、たとえぼくが路用をあげたにしろ、けっして行かしてくれやしないよ……あ、もうマリヤのところへ行かねばならん時刻だ」
 彼は椅子を立った。
「ニコライさま、マリヤのことはどうなりますので?」
「今まで幾度もいったとおりさ」
「いったいあれは本当でございますか?」
「きみはまだ本当にしないのかい?」
「じゃ、あなたははき古した靴のように、わたしをほうり出しておしまいになるのですか?」
「さあ、どうするか」とニコライは笑った。「さあ、放したまえ」
「一ついかがでございましょう。わたしがしばらく入口に立っておりましょう……ひょっと立ち聴きするものがないとも限りませんからね……なにぶんちっぽけな部屋でございますから」
「それは思いつきだ。一つ入口に立ってくれたまえ。その傘をさすといい」
「あなたのお傘……わたしにそれだけの値打ちがありましょうか?」と大尉は甘ったるい口調でいった。
「だれだって傘ぐらいの値打ちはあるさ」
「一句でもって人間の権利のミニマムを喝破なさいましたな……」
 しかし、彼は機械的に口を動かしているにすぎなかった。彼は今夜の報告にすっかり圧し潰されたようになって、まるでとほうにくれてしまったのである。けれど、入口へ出て傘を広げるやいなや、彼の変わりやすい狡猾な頭には、再びいつもの気休めがそろそろ動き出した。あの男ずるいことをしておれをだましてるのだ、もしそうだとすれば、おれは何も恐れることはない、かえって向こうがこっちを恐れているのだ。
『もし狡いことをして、おれをだましてるとすれば、その魂胆はどういうところにあるのだろう?』という疑問が、彼の頭を掻きむしるのであった。結婚の発表などは馬鹿げた話に思われた。『もっとも、あんなとっぴな変人だから、何を仕出かすかわかりゃしない。人を苦しめるために生きてるんだからな。いや、しかし、あの日曜日の恥さらしな一件から、先生自身びくびくしてるとすれば、――しかも、これまでに覚えがないほどびくびくしてるとすればどうだろう? そうだ、だから、わざわざこんなところまで駆けつけてさ、自分でご披露に及ぶなんて、人をごまかそうとしている。つまり、おれがしゃべりゃしないかと思って、おっかないのさ。おい、しっかりしなくちゃいかんぜ、レビャードキン! 自分で披露する気でいるくせに、なんのためにわざわざよる夜中、こそこそと隠れて来るんだろう。もし恐れておるとすれば、それはほかじゃない今だ、この今という時なのだ。この三、四日の間が恐ろしいのだ。おい、しくじっちゃいけないぜ、レビャードキン!』
『ふん、ピョートルをだし[#「だし」に傍点]に使って脅かしやがる。おお、油断がならんぞ。おお、油断がならんぞ。いや、まったくどうも油断がならんぞ。ついふらふらと、リプーチンの奴にしゃべってしまったもんだからな。本当にあの連中、いったい何を企らんでやがるんだろう。今まで一度だってわかったことがない。また五年前のようにこそこそ始めやがった。いったいおれがだれに密告したというんだ? 「うかうかとだれかに手紙を出しはしなかったか?」だってよ。ふむ! してみると、ついうかうかといったような体裁で、手紙を出してもかまわんと見える。ことによったら、入れ知恵をつけてるのかもしれんぞ? 「きみがペテルブルグへ行こうというのも、つまりそのためなんだろう」ときた。こん畜生、おれはひょいとそんな夢を見ただけなんだが、あいつはもうその夢を解いてくれた! まるで、自分から行け行けとけしかけてるようだ。こいつは確かに二つに一つだ。あんまり悪くふざけたので、少々こわくなったか、それとも自分では少しも恐れないで、ただおれにみんなを密告しろとそそのかしてるか、どっちか一つなんだ! おお、油断がならんぞ、レビャードキン、どうかどじを踏まんようにしてくれ!』
 彼は夢中になって考え込んだので、立ち聴きすることも忘れてしまった。もっとも、立ち聴きするのはむずかしいことだった。境は分の厚い一枚扉になっているうえ、話し声も非常に低くって、ただ不明瞭な音《おん》が洩れて来るにすぎなかった。大尉はぺっと唾を吐いて、またもの案じ顔に外へ出、口笛を吹きにかかった。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 マリヤの部屋は大尉の占領しているほうにくらべると、二倍くらい大きかった。しかし、道具類は同様に荒削りの粗末なものだった。けれども、長いすの前にあるテーブルには、けばけばしい色をしたクロースを掛けて、その上には火をともしたランプが置いてあった。床には一面に立派な絨毯を敷きつめ、寝台は部屋の端から端まである長い緑いろのカーテンで仕切ってあった。そのほかテーブルの傍には、大きなふっくらした肘掛けいすが据えてあったが、マリヤはそれに腰を掛けなかった。片隅には、前《ぜん》の住まいと同じように聖像が安置され、その前には燈明《みあかし》がともっていた。テーブルの上には依然として、必要欠くべからざる品々が並べてあった――カルタ、小鏡、唱歌本、おまけに味つきパンまで揃っている。そのほか、べたべたと色をつけた絵入りの本が二冊あった。一つは通俗むきの旅行記の抜萃で、少年の読物に編纂されたものだし、もう一つは軽い教訓的な、主として古武士の物語を集めた、降誕祭《ヨルカ》や学校むきにできたものである。それからまだ、いろんな写真を貼ったアルバムもあった。なるほど大尉のいったように、マリヤは客の来訪を待っていたが、ニコライが入って行った時には、長いすの羽根枕にもたれながら、半ば横になって眠っていた。客は音のせぬように入って、戸を閉めると、そのまま動かないで、眠れる女を見廻し始めた。
 マリヤがお洒落をしてるといったのは、大尉がちょっと嘘をついたのである。彼女はあの日曜にヴァルヴァーラ夫人のところへ行った時と同じ、黒っぽい着物をつけ、髪もやっぱりちっぽけな髷に束《つか》ねて、うしろ頭にのっけているし、長いかさかさした頬も、やはりあの時と同様に剥き出しだった。ヴァルヴァーラ夫人から贈られた黒のショールは、丁寧にたたんで長いすの上に置いてあった。相変わらず彼女は毒々しく白粉を塗り、紅をつけていた。ニコライが入ってからまる一分もたたないうちに、マリヤは自分の体にそそがれた男の視線を感じたように、ふいに目をさまして、瞳を見開き、大急ぎで身をそらした。しかし、客の心にも、何か奇怪なあるものが起こったに相違ない。彼は依然として、一つところに、戸の傍に突っ立ったまま、身動きもせず、突き刺すような目つきで、言葉もなくしゅうねく女の顔を見つめるのだった。或いはこの目つきがあまりにも度を越えていかめしかったのかもしれず、或いはまたその中に嫌悪の色、――というより、むしろ女の驚きを楽しむような、意地悪い表情が浮かんだのかもしれないが(しかし、これはマリヤの寝起きの目に、そう映ったばかりかもしれぬ)、とにかく、何やら期待するような一分間が過ぎたとき、哀れな女の顔には、とつぜん極度の恐怖が現われた。そして、一脈の痙攣がその上を走り過ぎると、彼女は両手をわなわなと顫わせながら差し上げた。と、まるでものに驚いた子供のように、ふいにわっと泣き出した。もうちょっと棄てておいたら、彼女は大声にわめき出したかもしれぬ。しかし、客はわれに返った。一瞬にして、彼の顔つきは一変した。彼はいかにも愛想のいい、優しい笑みを浮かべつつテーブルへ近寄った。
「失礼しました。出しぬけにやって来て、お目ざめを驚かせましたね、マリヤさん」と彼女のほうへ手を差し出しながら、彼はこういい出した。
 優しい声の響きは、相当の効果をもたらした。彼女は何やら思い出そうと努力するようなふうで、やはりおずおずと男を眺めていたが、それでも、驚愕の色は消えてしまった。おずおずと手も差し伸べた。ついに臆病げなほほえみがその唇に動き始めた。
「いらっしゃいまし、公爵」なんとなく奇妙な目つきで相手を見つめながら、彼女はささやいた。
「たぶんわるい夢でも見たんでしょう?」と彼は愛想よく、いよいよ優しくほほえみかけながら、言葉を続けた。
「わたしがあのこと[#「あのこと」に傍点]を夢に見たのを、どうしてごぞんじなのでございます?………」
 こういって、彼女はふいにまた身慄いしながら、一あしうしろへよろめいた。そして、わが身を守ろうとでもするように、片手を前へ突き出しつつ、またもや泣き出しそうな顔つきになった。
「気をとり直しなさい、もうたくさんですよ。何を恐れることがあるもんですか。いったいあなたはぼくに気がつかなかったのですか?」とニコライはなだめにかかったが、今度は長いあいだ気を落ちつかせることができなかった。
 彼女はその哀れな頭の中に、依然として悩ましい疑惑と、重苦しい想念をいだいたまま、なにものかに想到しようと努めつつ、無言に相手を見つめていた。じっと目を伏せているかと思うと、急にすべてを捕えるような視線をちらりと男に投げかけるのだった。が、とうとう気を落ちつけたというよりも、むしろ、何か決心したらしい様子で、
「どうぞお願いですから、わたしの傍にお坐りください。後でよくお顔が見せていただきたいのですから」明らかに、何か新しい目的を思いついたらしく、彼女はかなりしっかりした調子でこういった。「ですけれど、今はもうかまわないでくださいまし。わたしあなたのお顔を見はいたしません。下のほうを向いております。ですから、あなたも、わたしが自分でお願いするまでは、わたしを見ないでくださいまし。さあ、お坐りくださいませんか」と彼女はむしろじれったそうにつけ足した。
 見たところ、新しい感覚がしだいに烈しく、彼女の心を領してゆくらしかった。
 ニコライは腰を下ろして、待ち受けていた。かなり長い沈黙がおそった。
「ふむ! わたしはどうもこういうことが、何もかも不思議に思われてなりません」と腹立たしげにさえ聞こえる調子で、彼女は出しぬけにつぶやいた。「わたし本当に悪い夢にうなされてたのですけれど、どうしてあなたがあんな恰好をして、わたしの夢に出ていらしったのでしょう?」
「ええ、もう夢の話なんかやめましょう」と彼は、女が止めたのもかまわず、くるりとそのほうへ振り向きながら、もどかしそうにこういった。またしてもさきほどと同じ表情が、その目をかすめたように思われた。彼の目に映ったところでは、彼女はいく度も男の顔を見ようと思ったけれど、一生懸命、強情を張って、じっと下を向いているらしかった。
「ねえ、公爵」彼女はとつぜん声を高めた。「ねえ、公爵……」
「なぜあなたはそっちを向いてしまったのです。なぜぼくを見ないのです。こんな喜劇めいた真似をして、どうするつもりなんです?」とたまりかねて彼は叫んだ。
 しかし、彼女はまるで耳に入らぬ様子で、
「ねえ、公爵」としっかりした声で三度目にまたこうくり返した、不愉快な心配らしい渋面を作りながら。「あなたがあのとき車の上で、結婚を披露するとおっしゃったとき、わたしもうこれで秘密がおしまいになるのかと思って、本当にびっくりしてしまいました。今はもうまるでわかりませんけれど、わたししじゅうそう考えもしましたし、また自分の目でもはっきり見えます、――わたしはてんで不向きな女でございます。お化粧《つくり》をするくらいはできましょう。お客をお招きすることもやっぱりできるでしょう。なんの、お茶に人を呼ぶくらい、大してむずかしいことじゃありませんからねえ。ことに召使の者もいることですもの。けれども、やっぱりわきのほうから、妙な目つきでじろじろ見ることでしょうよ。わたしは日曜の日にあの家で、朝のうちからいろんなことを見抜いてまいりました。あの綺麗なお嬢さんは、しじゅうわたしのほうばかりじろじろ見ていられました。とりわけ、あなたが入っていらしった時なぞ、なおさらでしたわ。だって、あのとき入っていらしったのはあなたでございましょう、ねえ? またあのひとのお母さんなどは、ただもう滑稽な上流の老婦人ですよ。うちのレビャードキンも、なかなかやりましたね。わたし噴き出すまいと思って、いつも天井ばかり見ておりました。あすこの天井は模様入りだから、いいあんばいでしたわ。あの人[#「あの人」に傍点]のお母さんは、修道院の院長さまにでもなるよりほかしようのないひとです。わたしあのかたが怖うございますの。黒いショールなどくれましたけれどね。きっとあの時、あのひとたちはみんながかりで、思いもよらぬほうからわたしを試験したのです。わたしべつに怒りはしませんけれど、あの時じっと坐ったまま、とてもこのひとたちの親類にはなれないと考えました。そりゃ伯爵夫人に必要なのは、ただ精神的な資格だけでございます、――なぜって家事むきのほうには、召使がたくさんおりますからねえ。それから、また外国の旅人をもてなすために、なにか社交的な愛嬌もいりましょう。けれど、それにしても日曜の日に、あのひとたちはみんな愛想をつかしたように、わたしの顔を見ていました。ただ一人ダーシャだけは、天使のような人です。わたしね、もしひょっとあのひとたちが、わたしのことを何かうっかり悪くいって、あの人[#「あの人」に傍点]を悲しませはしないかと、それを心配しているのでございます」
「なにも怖がることはありません、心配しちゃいけません」とニコライは口を歪めた。
「もっとも、あの人がわたしのことを、少しくらい恥ずかしく思ったって、それはわたしなんともありません。だって、こういう場合はいつでも恥ずかしいというより、気の毒な心持ちのほうが勝ちますものね、もっとも、それはむろん、人によりますけど、まったくわたしのほうが、あの人たちを気の毒がるべきで、あの人たちがわたしを気の毒がる筋のないことは、あの人がちゃんとごぞんじでございますもの」
「あなたは、恐ろしくあの人たちに腹を立ててるようですね、マリヤさん?」
「だれ、わたし? いいえ」彼女は率直な微笑を浮かべた。
「けっしてそんなことありません。わたしはあの時、皆さんの様子を見ておりましたが、あなた方はみんなてんでに腹を立てて、みんながやがやいい合っていらっしゃる。仲直りはなさるけれど、心底からうち明けて笑い合えないんですもの。あれだけお金がありながら、楽しみといったらいくらもない、――わたしこう思うといやになってしまいました。けれども、わたしはいま自分よりほかだれも気の毒でなくなりました」
「ちょっと人から聞きましたが、あなたはぼくの不在中、兄さんと二人っきりで、ずいぶんいやな思いをして暮らしたそうですね?」
「いったいまあ、だれがあなたにそんなことをいったのでしょう? でたらめばかり、今のほうがずっといやですよ。今はよくない夢ばかり見ております。よくない夢ばかり見るようになったわけは、あなたがここへいらしったからでございます。本当にまあ、あなたはなんのために、姿をお見せになったのでしょう。お願いですから、聞かせてくださいな」
「あなたはもう一ど僧院《おてら》へ行きたかありませんか?」
「ほうら、あの人たちがまた僧院《おてら》をすすめるだろうと、わたしは前から虫が知らせていた! あなたの僧院なんか別に珍しかありませんよ! それに、なんだってそんなところへ行くのです、なんのために今さら入って行くのです? 今はもうほんの一人ぼっちなんですの! 三度目の生活を始めようなんて、わたしにはもうおそ過ぎます」
「あなたはどうしたのか、ひどく腹を立てていますね。もしやぼくの愛がさめやしないかと思って、そんなことを心配してるんじゃありませんか?」
「あなたのことなんか、わたしちっとも心配しちゃいません。わたしかえって自分のほうから、だれかに愛想をつかしはしないかと、それを心配してるくらいなんですよ」
 彼女はさも軽蔑したように薄笑いを洩らした。
「わたしはあの人[#「あの人」に傍点]に対して、きっと何か大変な間違いをしたに相違ない」出しぬけに彼女は独り言のようにいい足した。「ただ、どんな間違いなのか、それ一つだけわからない。これがいつまでも心がかりなのです。いつもいつもこの五年間、夜昼なしに、何かあの人に間違いをしたのではないかと、そればっかり心配していました。わたしはもうしょっちゅう祈って祈って祈り抜きながら、あの人に対する自分の大きな過ちを、じっと考えておりましたが、案の定、それが本当だとわかりました」
「いったいどうわかったんです?」
「ただあの人[#「あの人」に傍点]のほうになにかありはしまいかと、それが気づかいなのでございます」相手の問いには答えようともせず(まるで聞かなかったのかもしれぬ)、彼女は語りつづけた。「それにしても、あの人があんな連中の仲間になるはずはありません。伯爵夫人は、わたしを馬車に乗せてくれましたけれど、わたしを取って食いたいくらいに思っています。だれもかれもみんな、ぐるになっているのです。けれど、いったいあの人までがそうなのでしょうか? あの人まで心変わりしたのでしょうか? (彼女の下顎と唇はぶるぶる慄え出した)ねえ、あなた、あなたは七つの寺で呪われた、グリーシカ・オトゥレーピエフ([#割り注]偽王子を名乗って王位を奪った僧侶上りの青年、歴史上の人物[#割り注終わり])の話をお読みなさいましたか?」
 ニコライは押し黙っていた。
「だけど、わたしもうあなたのほうへ向いて、あなたの顔を見ますよ」とふいに決心したらしくいった。「あなたもわたしのほうを向いて、わたしの顔を見てくださいな。じっと一生懸命にね。わたしもう一ペんたしかめて見たいんですから」
「ぼくはもうずっと前から、あなたのほうを見ていますよ」
「ふむ!」マリヤは一心に見入りながらいった。「あなたはずいぶんお肥りになりましたねえ……」
 彼女はまだ何かいおうとしたが、ふいにまた(もうこれで三度目である)さきほどと同じような驚愕が、彼女の顔をへし曲げた。彼女はふたたび手を目の前に突き出しながら、一あしあとへよろめいた。
「いったいどうしたのです?」ほとんど憤怒の発作を感じながら、ニコライはこう叫んだ。
 けれど、この驚愕はほんの一瞬だった。彼女の顔は何かしら疑り深そうな、気持ちの悪い、奇妙な微笑に歪められた。
「公爵、お願いですから、ちょっと立って、入ってみてくださいませんか」と彼女は突然きっとした、思い込んだような声でいった。
「入ってみるってどうするんです? どこへ入るんです?」
「わたしはこの五年間、あの人[#「あの人」に傍点]がどうして入ってらっしゃるだろうと、そればかり心に描いておりましたの。さあ、すぐに立ってあちらの部屋へ行って、戸の陰へ隠れていてくださいまし。わたしはまるでなんにも当てにしてないようなふうをして、本を手に持って、坐っております。そこへあなたが五年の旅をすまして、思いがけなく入ってらっしゃる……それがどんなふうか見とうございますの」
 ニコライはひとり心の中で歯咬みしながら、何かわけのわからないことをぶつぶつつぶやいた。
「たくさんだ」と、彼は掌でテーブルを叩きながらいった。「マリヤさん、お願いだから、ぼくのいうことを聞いてください。後生だから、ありったけの注意を集中してください。もしできることなら……なんといっても、あなたはずぶの気ちがいじゃないんだから!」彼はこらえかねてこう口走った。「ぼくはあす二人の結婚を発表しようと思っています。あなたはけっして立派な邸で暮らすのじゃありません。そんな考えは捨てておしまいなさい。あなたは一生、ぼくといっしょに暮らす気がありますか、しかし、ここからずうっと遠いところなんですよ。それはスイスの山の中です。そこにちょっとした場所がありましてね………心配することはありません、ぼくはけっしてあなたを捨てもしなければ、気ちがい病院へも入れやしません。ぼくも無心をしないで暮らすだけの金はありますから。あなたの傍には女中が一人つくはずです。だから、あなたは何一つ仕事をしなくもいいのです。あなたの望みはなんであろうと、できることでさえあれば、かなえてあげます。お祈りするのもいいでしょう。どこなと好きなところへ出てみるのもいいでしょう。とにかく、なんでもしたいことはさしてあげます。ぼくはあなたにさわらないことにしますから。ぼくもやはりその場所から、一生うごかないつもりです。もしお望みなら、一生涯あなたと口をきかないでいましょうし、またお望みによっては、あの当時ペテルブルグの裏長屋でしたように、毎晩あなたの身の上話を聞かせてもらってもいいです。またお好みとあれば、本を読んで聞かせてもあげましょう。しかし、その代わり、一生ひとつところにいなければなりませんよ。それも淋しい場所なんです。行きたいですか。決心がつきますか? 後悔しやしませんか? 涙や呪いでぼくを悩ましはしませんか?」
 彼女は異常な好奇の色を浮かべて聞き終わり、長いこと黙って考えていた。
「そんなことはみんなありそうもない話よ」とうとう彼女は馬鹿にしたような、気むずかしげな調子でいい出した。「そんなことをしたら、わたし四十年もその山の中で暮らすようになるかもしれないもの」
 彼女は笑い出した。
「仕方がない、四十年も暮らそうじゃありませんか」ニコライは恐ろしく顔をしかめた。
「ふむ!………わたしどうしたって行きゃしない」
「ぼくといっしょでも?」
「わたしがあなたといっしょに行く気になるなんて、いったいあなたは何者です? こんな人といっしょに四十年も山の中に坐ってるなんて、――よくもずうずうしくやって来たもんだ! 本当にこの頃はどうしてみんなそう呑気になったもんだろう! いや、いや、鷹が梟になってしまうなんて、そんなことのあろうはずがない。わたしの公爵はこんな人じゃない!」彼女は得々と勝ち誇ったように頭《こうべ》をそらした。
 彼の顔にはさっと曇りがかかったように見えた。
 「なんだってあなたはぼくを公爵などと呼ぶんです、いったい……だれだと思ってるんです?」と彼は早口にきいた。
「え? まあ、あなたは公爵じゃないんですか?」
「一度もそんな身分になったことはありません」
「じゃ、あなたはいきなりわたしに向かって臆面もなく、公爵でないってことを白状なさるんですか!」
「一度もそんな身分になったことがないって、ちゃんといってるじゃありませんか」
「おお、どうしよう!」と彼女は両手を鳴らした。「あの人[#「あの人」に傍点]の敵はどんなことでもしかねないと覚悟はしていたけれど、こんなずうずうしい仕打ちは思いも寄らなかった! いったいあの人は生きてらっしゃるのかしら?」と、彼女はもはや前後を忘れて、ニコライに詰め寄りながら叫んだ。「お前はあの人を殺したのか殺さないのか、白状しておしまい!」
「お前はぼくをだれと間違えてるんだ?」と彼は顔を歪めながら、跳びあがって席を離れた。
 けれど、もはや彼女を威嚇することはできなかった。彼女は勝ち誇ったような態度で、
「いったいお前は何者だ、どこから飛び出したのだ! わたしの胸は、わたしの胸はこの五年間、悪だくみを底まで感づいていた! わたしはさっきここに坐っていたが、いったいこの目くら梟がどうして入って来たやら、本当にびっくりしてしまった。駄目だよ、お前さん、お前さんは芝居が下手で、レビャードキンよりもっと拙い。どうか伯爵夫人に、わたしからよろしくといっておくれ。そして、これからはお前なんかより、少し気の利いたものをよこすようにいっておくれ。お前はあのひとに傭われたんだろう、白状おし。あのひとのお情けで、台所においてもらってるんだろう? お前の小細工なんぞは、ちゃんと見え透いている。お前の仲間なんか、一人残らず承知している!」
 彼は女の二の腕を、肘の少し上の辺をしっかりつかんだ。彼女は面と向かってからからと高笑いした。
「似てるよ、お前は、恐ろしく似てるよ。ことによったら、あの人の親類かもしれないね、――油断のならない人たちだ! ただわたしの恋人は、輝くばかり立派な鷹なのだ、公爵なのだ。ところが、お前は梟だ、小|商人《あきんど》だ! わたしの恋人は気さえ向けば、神様を拝むこともできるけれど、気が向かなければ見向きもしない人なのだ。ところが、お前なんぞはシャートゥシカに(あの人はかわいい人だ、わたしの好きな懐かしい人だ)、頬っぺたを撲りつけられるくらいの人間だ。うちのレビャードキンが聞かしてくれたよ。それに、お前はあの時、どうしてあんなにびくびくしながら入って来たんだえ? だれに脅かされたんだえ? わたしが床の上に倒れた時、お前はわたしを支えてくれた。その時、お前の下卑た顔が目に入ると、まるで虫けらが胸へ這い込んだような気がした。違う、あの人[#「あの人」に傍点]じゃない、と思った。あの人[#「あの人」に傍点]じゃない! とね。わたしの鷹は、あんな貴族の令嬢の前だって、わたしのことを恥ずかしいなどと思やしない! ああ、どうしよう! わたしは五年の間というもの、『どこか山の向こうのほうにわたしの鷹が暮らしている、空高く飛びながら陽を仰いでいる……』こう考えたばかりで仕合わせだった。白状おし、贋公爵、たくさんもらったんだろう? 大金に目がくれて、承知したんだろう? わたしなんか、びた一文だってお前にやりゃしない。ははは! ははは!」
「うーん、この馬鹿女め!」なおもつよく女の手を押えながら、ニコライは歯をぎりぎり鳴らした。
「おどき、贋公爵!」と彼女は命令口調で叫んだ。「わたしは公爵の妻です、お前の刀なんぞ恐れはしない!」
「刀!」
「ああ、刀だよ! お前のかくしの中に刀がある。お前はわたしが寝ているとお思いだろうが、わたしはちゃんと見ていた。さっき入って来た時に、お前は刀を引き出したのだ!」
「お前は何をいうのだ、かわいそうに、なんという夢をお前は見ているのだ!」と、こうわめいて、彼は力まかせに女を突き放した。女は肩と頭をうんと長いすに打ちつけた。
 彼は一目散に駆け出した。けれども、マリヤはすぐさま起きあがって、びっこを引きながらその後から駆け出した。早くも入口まで飛び出した彼女は、仰天して度胆をぬかれたレビャードキンに力いっぱい抱き止められたまま、高らかな笑いを交えた甲高い声で、彼のうしろから外の闇に向けてわめいた。
「グリーシカ・オトゥレーピエフ! あーくーま!」

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

『刀、刀!』道も選ばず、ぬかるみや水溜りの中を大股に歩きながら、彼は癒し難き憎悪の念をもってくり返した。ときどき大声に笑いたくてたまらなくなったが、なぜか一生懸命に笑いを抑えつけた。さきほどフェージカに出会った橋の上、しかもちょうど同じところまで来て、彼は初めてわれに返った。やはり同じフェージカがここで彼を待っていて、今度も彼の姿を見ると、帽子を取り、愉快そうに歯を剥きながら、すぐ何やら早口に、面白そうにまくし立て始めた。ニコライは初めのうち、立ちどまろうともしないで歩きつづけた。またしても後からまとわりつく浮浪漢の言葉に、しばらくはまるで耳をかそうともしなかった。
 とつぜん彼は、ある想念に打たれて、ぎょっとした。ほかでもない、彼はまるでこの男のことを忘れていた。しかも、ちょうど『刀、刀』と絶え間なく心にくり返しているとき、まるで思い出さなかったのである。彼はいきなり浮浪漢の襟髪を取って、今までこらえこらえた癇癪を一度に破裂さしたような勢いで、力まかせに彼を橋板に叩きつけた。こちらは初めちょっと手向かいしようとしたが、ほとんどそれと同時に、ニコライが自分を襲ったのはただ一時の出来心にすぎないけれど、その腕力にくらべると、自分なぞはほんの藁しべのようなものだと悟ったので、少しも手向かいしないでおとなしく、じっと押し黙っていた。目先の利いたこの浮浪漢は両膝を突いて、地べたへぐいと押しつけられ、両手をうしろざまに捩じ上げられながら、自分の身の上に何か危険が迫っているなどとは、てんから考えてもいないらしいふうで、平然と大団円を待っていた。
 彼の睨んだ目は狂わなかった。ニコライは自分の巻いている襟巻を左手ではずして、俘《とりこ》をうしろ手に縛り上げようとしたが、急になぜかその手を放して、向こうへ突き飛ばした。こちらはくるりと跳ね起きて振り返った。短い幅の広い靴屋の使う小刀が、どこから出したのか、突然その手中に閃いた。
「小刀なんか棄ててしまえ。隠さんか、早く隠さんか!」とニコライはいらだたしげな手つきをしながら命令[#「命令」に傍点]した。と、小刀は取り出された時とおなじ速さで、ふたたび影を消してしまった。
 ニコライはまたもやもとの無言に返って、後をも見ずにさっさと歩き出した。しかし、執拗な浮浪漢は、それでも彼の傍を離れなかった。もっとも、今度は前のようにしゃべらないで、うやうやしげに一歩の間隔さえ保ちながら、後からついて来るのだった。こうして、二人は橋を渡り終わって向こう岸へ出、今度は左へ曲って、やはり細長いがらんとした裏通りへ出た。これを通って行くと、さっきのボゴヤーヴレンスカヤ街よりも、町の中心へ出るのに近道だった。
「おい、貴様はこのあいだどこか郡部のほうの教会へ泥棒に入ったそうだが、あれはいったいほんとなのか?」と出しぬけにニコライは問いかけた。
「実のところ、わっしは初めお祈りするつもりで寄ったので」まるで何事もなかったような口調で、浮浪漢はものものしく慇懃にこう答えた。いや、ものものしいというより、ほとんどもったいぶった調子だった。
 さきほどの『なれなれしい』砕けたところは跡形もなくなって、理由もなく侮辱されながらその侮辱を忘れるだけの度量を持った、真面目な事務家らしい態度がうかがわれるのであった。
「まったく神様のお導きであそこへ入った時には」と彼は言葉を続けた。「まあ、ありがたい、まるで天国のようだ、とこう思いました! いったいあの一件も、わっしの頼りない境涯から起こったことなのでございます。この世の中では、他人の助けがなくちゃ、本当にどうすることもできませんからねえ。ところが、正直のところ、あれは骨折り損でございました。悪いことをして、神様の罰が当たりましたんで。助祭の帯だとか、振り香炉だとか、なんだかだといって、みんなでわずか十二ルーブリしか儲からなかったのでございます。ニコライ行者の下顎が純銀だということでしたが、これが一文にもなりません。メッキなんだそうで」
「番人を殺したろう?」
「といって、つまりその番人とぐるでやったところ、それからもう夜明けに近い頃、河の傍で二人の間に口論がおっ始まったのでございます。どちらが袋を背負って行くか、という論なので。その時つい罪なことをしてしまいました。ちょっくらこの世の重荷を軽くしてやりました」
「もっと殺すがいい、もっと泥棒するがいい」
「ピョートル・スチェパーノヴィチも、ちょうどそれと同じことをおっしゃいました。まるでそっくり同じ言い方でわっしにすすめてくださいましたよ。まったく人を助けるということにかけちゃ、けちで不人情な方でございますからねえ。それに、わっしどもを土から創ってくだすった天の神様を、これっからさきも信じようとしないで、何もかも獣一匹の末にいたるまで、自然が造り出したものだ、などとおっしゃる。そればかりか、この世の中で情け深い人の助けがなかったら、どうにもこうにも仕方がないってことを、とんと会得していらっしゃらないんですからね。あの方にこんな講釈をすると、まるで羊が水でも見たようなふうつきでしてね、本当にもうあきれるほかはありませんよ。ところがねえ、旦那、今お訪ねになりましたレビャードキン大尉ですが、あの人はまだ、フィリッポフの家に住まっている時分から、どうかすると、一晩じゅう戸を開けっ放しにしておいて、自分はまるで死人みたいに酔っぱらってるじゃありませんか。そして、どのかくしからも、どのかくしからも、金がばらばら床へ転がり出しておりますんで。この目で見ることもちょいちょいありますよ。なにぶんわっしどものような身の上じゃ、人様の助けなしには、どうにもしようがございませんので……」
「え、この目で見た? じゃ、夜中に入りでもしたのかい?」
「入ったかもわかりませんが、それはだれも知らないことなんで」
「どうして殺さなかったのだ!」
「なに、胸の中で算盤をはじいて見て、気を長く持つことに決めたのでございます。なぜって、百や百五十の金はいつでも取れるということが、しっかりわかった以上、もう少し待って、千か千五百の金を引き出したほうがいい、とこういう気にならずにゃいられないじゃありませんか。わっしは確かにこの耳で聞いたのですが、いつでもレビャードキン大尉は酔っぱらった紛れに、恐ろしくあなたを当てにしてるようなことを申しておりました。こういうわけで、どんな料理屋だって、どんな下等な酒屋だって、あの男がこのことを大っぴらでしゃべらないところは、町じゅうに一軒もないくらいでございます。で、わっしもこの話をいろんな人の口から聞きまして、やっぱり旦那さまに深い望みをかけるようになりましたので、わっしは旦那さまのことを、親身の父親《てておや》か兄貴のように思って、お話したのでございます。ピョートル・スチェパーノヴィチなぞの耳には、けっして入れることじゃありません。いいえ、だれ一人にだって知らせやしませんよ。そこで、旦那さま、三ルーブリばかりお恵みくださいますでしょうか、いかがなもので? 本当にもうわっしの心の謎を解いて、心底のところを知らせてくだすっても、よさそうなもんじゃございませんか。なにぶんわっしどもは人様の助けがなくちゃ、どうにもやってゆけませんのでねえ……」
 ニコライは大きな声でからからと笑い出した。そして、細かい札で五十ルーブリばかり入った金入れをかくしから取り出すと、束の中から一枚ぬき取って、浮浪漢に投げ出してやった。それから一枚、また一枚……フェージカは宙にそれを受け留めようと、飛び廻った。札はひらひらと泥の中に飛び散った。彼は『ええっ、ええっ!』と叫びながら、札の後を追うのだった。ニコライは、とうとう一束すっかりなげつけてしまうと、やはりからからと笑いつづけながら、今度はもう一人きりで、裏通りをすたすたと歩き出した。浮浪漢は後に残って、ぬかるみの中を四つん這いに這い廻りながら、風に吹き散らされて水溜りの中に浮かぶ札をさがしていた。そして、まる一時間ばかりも闇の中で、『ええっ、ええっ!』と叫ぶ、引きちぎったような声が聞こえるのだった。

[#3字下げ]第3章 決闘[#「第3章 決闘」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 翌日午後二時、予想されていた決闘は成立した。ことがこうまで速かに決せられたのは、是が非でも闘わねばならぬという、ガガーノフの一徹な要求に基づくものであった。彼は敵の行為が納得できなかったので、今は前後を忘れるほど狂憤してしまった。もう一月ばかり敵を侮辱しつづけてきたのに、さらになんの手ごたえもない。どうしても相手の勘忍袋の緒を切らすことができなかった。しかし、決闘の申し込みはどうしても、ニコライのほうからさせなければならなかった。彼自身のほうで決闘を申し込もうにも直接の口実をもたなかったからである。心の奥底に潜めている実際の動機、すなわち四年前、父に加えられた侮辱のために、スタヴローギンに対していだいている病的な憎悪は、どういうわけか自分でも肯定するのがはばかられた。ことにニコライが二度までも率直な謝罪の手紙をよこしている以上、こういうことはしょせん口実とするわけにいかないのを自認していた。彼は心の中で、ニコライを恥知らず、臆病者と決めてしまった。事実、シャートフからあれほどの無礼を加えられながら、どうして平然と忍んでいられるかと、不思議でたまらなかったのである。とうとう彼は、暴慢比類なき例の手紙を送ることに決心し、これがついに相手のニコライをして決闘を申し込ませる動機となったのである。
 前日この手紙を出した後、ガガーノフは熱病やみのようないらいらした心持ちで、決闘の申し込みを待ち設けながら、時には望みをいだき、時には絶望したりして、希望実現の可能の程度を考量してみるのだった。彼は万一の場合に備えるため、前の晩から介添人を用意して待っていた。それはほかでもない、学校時分から無二の親友として、つねづね敬愛してやまぬマヴリーキイ・ドロズドフだった。こういうわけで、翌朝九時頃にキリーロフが、依頼を受けて訪れた時には、もうすべての準備は整っていた。ニコライのあらゆる謝罪の言葉も、かつて類のないような譲歩も、すぐさま一言の下に恐ろしい憤激をもってしりぞけられた。マヴリーキイは、前の晩はじめてことのいきさつを聞いたばかりなので、こうした前代未聞の条件を耳にすると、驚きのあまり口を開いて、さっそく和睦を主張しようとした。けれど、彼の心を悟ったガガーノフが、椅子に腰かけたまま、ぶるぶる身を慄わせ始めたのを見て、急に口をつぐみ、何もいわないことにした。実際、親友としてあんなことを約束しなかったら、彼は即座に身をひいてしまったはずなのである。しかし、事件の終わりに当たって、何か方法が立つかもしれぬという望みに繋がれて、彼はとにかくその場に居残った。
 キリーロフは決闘の申し込みを伝えた。スタヴローギンの提出したいっさいの条件は、いささかの異議もなくそのまま即座に受納された。もっとも、ただ一つ補足が加えられた。しかも、非常に残忍なものだった。ほかでもない、もし第一発でなんら決定的な結果が生じなかったら、さらにもう一ど手合わせをしよう、二度目にもこれという結果を見なかったら、三度目の手合わせをしようというのだった。キリーロフは顔をしかめて、三度目という点について談合をこころみたが、なんの効果もなかった。で、とうとう『三度まではかまわないが、四度目はどうあっても駄目』という条件つきで賛成した。これには、先方も譲歩した。こういうふうで、その日の午後二時、ブルイコーフで決闘が成立した。それは一方からはスクヴァレーシニキイ、いま一方からはシュピグーリンの工場で挟まれた、郊外の小さな森の中である。昨夜の雨はすっかりあがっていたが、じめじめと湿っぽい風の吹く日だった。低い濁ったちぎれちぎれの雲が、冷たい空を忙しげに流れ、木々の梢は時に強く時に弱く、ごうっと深みのある音を立てて騒ぎ、根のほうはぎしぎし軋んでいた。なんともいえぬ佗しい日だった。
 ガガーノフとマヴリーキイとは、洒落た散歩馬車に乗って、指定の場所へ到着した。二頭立の馬はガガーノフがみずから馭していた。そのほか一人の下男がついて来た。それとほとんど同時に、ニコライとキリーロフもやって来た。しかし、この二人は馬車でなく、馬に乗って来たのである。やはり一人の下男が騎馬で供をしている。キリーロフは今まで、一度も馬に乗ったことがないのだが、右手にピストルの入った重い箱をかかえながら、大胆な態度で昂然と鞍に跨っていた。この箱を下男に持たすのがいやだったのである。で、左手だけで手綱を支えていたが、不馴れなために絶えず巻いたり、引っ張ったりするので、馬はぶるぶると首を振りながら、今にも棒立ちになりそうな様子を示したが、乗り手は少しも驚くふうがなかった。生来うたぐり深いたちで、すぐに烈しい侮辱を感じるガガーノフは、彼らが騎馬でやって来たのを、また一つの新しい侮辱と解釈した。それは敵が負傷の場合、乗せられて帰るべき馬車の必要を感じていないとすれば、早くも自分の勝利を信じ切っているのだ、という意味なのであった。彼は憤怒のあまり、顔を黄いろくしながら馬車を出たが、われながら両手がわなわなと慄えるのを感じ、このことをマヴリーキイに話した。ニコライの会釈には返しもしないで、そっぽを向いてしまった。二人の介添人は籖を抽いた。ピストルはキリーロフのが当たった。やがて、境界線が引かれて、闘手は両方に立たされた。そして、馬車や馬や従僕は、三百歩ばかり後のほうへ追いやってしまった。ついに武器は装填され、二人の闘手に渡された。
 わたしは物語のさきを急がなければならないので、詳しく描写している暇がないのを悲しむが、それでも要所要所の叙述をまったく抜きにしてしまうわけにはいかない。マヴリーキイは妙に沈み込んで、心配そうなふうだった。が、その代わりキリーロフはどこまでも落ちつき払って、どこを風が吹くかというような顔つきだった。そして、いったんひき受けた義務の履行に関しては、細かいところまで正確を守っていたが、もう目の前に迫っている運命的な事件の成行きについて、すこしもあわてたようなふうがないばかりか、ほとんど好奇心らしいものさえ見えなかった。ニコライはいつもより少しあおい顔をして、外套に白い毛皮の帽子という、かなり軽い服装をしていた。彼はだいぶ疲れているらしく、ときどき眉をひそめながら、自分の不愉快な気持ちを、少しも隠そうとしなかった。しかし、この瞬間ガガーノフは、だれよりも一ばん目立っていた。したがって、彼のことだけ全然べつに一言しないわけにいかないのである。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 わたしは今まで一度も、彼の外貌を述べる機会がなかった。彼は色白で背の高い、平民仲間でいわゆる『脂ぶとりのした』いかにも満ち足りたらしい紳士で、年のころは三十三、四、うすい亜麻色の髪の毛をした、かなり美しい輪郭の顔だちだった。彼は大佐で軍務を退《ひ》いたが、もし将官になるまで勤務を続けたら、将官という背景の下に、いっそう堂々たる感じを与えたろうし、また立派な戦場の指揮官となることができたかもしれない。
 この人物の性格の描写上、逸することのできないのは、彼の軍務を退いた動機である。それはほかでもない、四年前ニコライのために、父がクラブで恥辱を受けて以来、長い間しゅうねく彼を悩ました家門の名折れという一念だった。このうえ勤務を続けるのは、良心に対しても恥ずかしい破廉恥なことに思われた。自分が職にとどまるのは、連隊はじめ同僚の顔に泥を塗るに均しい、とこう信じて疑わなかった。そのくせ同僚仲間ではだれ一人として、この出来事を知る者はなかったのである。もっとも、彼はずっと以前、この侮辱事件の起こらないさきから、まったく別な理由で軍務を退こうと思ったこともあるが、この時まできっぱりと決しかねていた。奇妙な話だけれど、彼が軍務を退こうとした最初の原因、というよりむしろ動機は、一八六一年二月十九日の農奴解放だった。ガガーノフは、県内でも屈指の富裕な地主で、しかも、解放令の発布の後も、大した損害はこうむらなかったのだし、彼自身もこの処置の人道的意義を承認し、改革によって生ずる経済的利益をも、了解するだけの頭脳はあったのだが、それでも解放令の発布後、急に自分自身が個人的侮辱を受けたように感じ出した。それは何かこう無意識的な感情だったが、はっきりしないだけ、かえって痛烈に感じられた。もっとも、父親の死ぬるまでは、どうとも断固たる処置を取る決心がつかなかった。しかし、ペテルブルグでは、その『高潔な』思想のために、諸名士の間にも名を知られるようになってきた。彼はこういう人たちと、なるべく、関係を絶たないように努めていた。彼は自分というものの中に入り込んで、そこにじっと閉じこもっているような人だった。いま一つの特質ともいうべきは、自分の家柄の古いのと血統の正しいのを、やたらに自慢することだった。彼はそんなことに真面目な興味をいだいている奇妙なロシヤ貴族の仲間に属していた。こういう貴族は、今でもロシヤに生き残っている。が、それと同時に、彼はロシヤ歴史が大嫌いで、全体にロシヤの習慣を醜悪なものと考えていた。主として、富裕な名門の子弟のみのために設けられた、特別な軍事学校に籍をおいている少年時代に(彼はこの学校で教育を終始するの光栄を有していた)、一種詩的な人生観が彼の心に根を張ったのである。彼は城とか、中世紀の生活とかいうものがむやみと好きになった。もっとも、それはただオペラ式の方面ばかりで、騎士|気質《かたぎ》といったようなものだった。彼はモスクワ帝国時代の皇帝が、貴族に体刑を課する権利をもっていた事実を、西欧の歴史に比較して顔をあからめ、恥ずかしさのあまりに泣き出さんばかりであった。
 自己の勤務については、なみなみならぬ知識を有し、義務の遂行上はなはだしく厳格な、いくぶん鈍重な気味のあるこの男も、内心なかなかの空想家だった。ある人の確言するところによると、彼は弁舌の才をもっていて、集会の席で演説するくらいは平気だということだった。しかし、この三十三年間というもの、彼はとうとう沈黙を貫き通した。近ごろ出入りし始めたペテルブルグの社交界でも、彼は並みはずれて倨傲な態度を持していた。外国旅行から帰ったニコライと初めてペテルブルグで出会ったとき、彼はほとんど気も狂わんばかりだった。
 いま決闘の場に立ちながらも、彼は恐ろしく不安な心持ちにおそわれていた。ひょっとしたら、ことが不成立に終わりはしまいか、というような気が始終してたまらないので、わずかばかりの猶予も、彼を惑乱の渦巻へ投げ込むのだった。キリーロフが決闘開始の合図を与える代わりに、とつぜん口を切ってしゃべり出したとき、病的な印象がその顔にありありと浮かんだ。もっとも、彼の言葉は当人が公然といっているとおり、ただの形式にすぎなかったのである。
「ぼくは単に形式上一言しておきます。もうピストルも手に握られて、いよいよ合図をしなければならぬ今この瞬間に、いかがでしょう、最後にもう一度いいますが、和解することは不可能でしょうか? これは介添人の義務ですから」
 今まで無言でいたマヴリーキイさえ、思わず申し合わせでもしたように、突然キリーロフの考えに賛成して同じようなことをいい出した。彼は昨日以来、自分があまり意気地なく、緩慢な態度をとったのを、苦に病んでいたのである。
「ぼくも全然キリーロフ君の説に賛成します……決闘の場所で和解できないという思想は、単にフランス式の偏見にすぎません……それに、ぼくは侮辱がどこにあるか、それが第一わからないです。きみはなんと思うか知らないが、ぼくは前からこのことがいいたかったのです。……なんといっても、言葉をつくして謝罪の意を申し入れてるんですからね、そうじゃありませんか?」
 彼は顔じゅう真っ赤にした。今までこんなに言葉数多く、こんなに興奮して口をきいたことは、めったにないのであった。
「ぼくはあらゆる方法をつくして、謝意を表するという自分の提言を、もう一度ここで確めておきます」ニコライも大急ぎで口を入れた。
「いったいそんなことができるもんですか?」憤怒のあまり足を踏み鳴らしながら、ガガーノフはマヴリーキイに向かって、兇猛な声で叫んだ。「マヴリーキイ君、もしきみがぼくの敵でなくて、介添人だとすれば、ひとつあの男にいって聞かしてください(と彼はピストルでニコライのほうをさして見せた)。そんな譲歩はただ侮辱を増すばかりです! あの男は、ぼくに腹を立てるなんて、不可能だと思ってやがる!……あの男はぼくを相手にした場合には、決闘の場所を去ることくらい、てんで恥辱と思っていないんだ! いったいあいつはぼくをだれだと思ってるんだろう。きみたちの見ている目の前で……きみはそれでもぼくの介添人ですか! きみはぼくの弾丸《たま》があたらないようにと思って、ぼくに癇癪を立てさせてばかりいるんです」
 彼はまたもや足を踏み鳴らした。唇からは唾が飛んでいた。
「交渉は終わりました。さあ、号令を聴いてください!」とキリーロフはありたけの声を出して叫んだ。「一! 二! 三!」『三』の声とともに、闘手は互いに敵を目ざして進み始めた。ガガーノフはすぐピストルを上げて、五足目か六足目に火蓋を切った。そして、ちょいと歩みをとめたが、しくじったなと見定めると、また早足に境界線のほうへ近寄った。ニコライも同じく歩み寄ってピストルを上げたが、なんだか恐ろしく高いところへ筒先を向け、ろくろく狙いもしないで引き金を下ろした。それからハンカチを取り出して、右手の小指を繃帯した。その時はじめて、ガガーノフも全然しくじったわけでない、ということがわかったのである。弾丸《たま》は小指の関節の肉をかすめただけで、骨には少しもさわらず、ただちょいとした擦り傷ができたばかりである。キリーロフは、もし敵手同士がこれで満足しなければ、決闘はまだ続行すると宣言した。
「ぼくは次の事実を明言する」ふたたびマヴリーキイのほうを向きながら、ガガーノフはしゃがれ声でどなった(もう喉がすっかり乾いてしまったので)。「この男は(と、またしてもスタヴローギンのほうを指さして)、この男はわざと空を向けて射ったのです……故意にやったのです……これは実に重ね重ねの侮辱だ! あいつは決闘を成立させまいとしてるのだ!」
「ぼくは規則にさえそむかなければ、どうなと勝手な射ち方をする権利を持っています」ニコライはきっぱりといった。
「いいや、持っていない! よく説明してやってください、よく説明して!」とガガーノフはわめいた。
「ぼくは全然スタヴローギン君の意見に同意です」とキリーロフは宣告した。
「なんのためにあいつはぼくに容赦するのだ?」人の言葉は耳にもかけず、ガガーノフは猛り立った。「ぼくはあいつのお情けなんかに預りたくない……唾でも引っかけてやりたいくらいだ……ぼくは……」
「ぼくは立派に誓います。ぼくはけっしてあなたを侮辱するつもりじゃなかったのです」とニコライはいらだたしげにいい出した。「ぼくが上を向けて射ったわけは、もう今後、人を殺したくないからです。相手があなたであろうと、またほかのだれかであろうと、対人的差別は持っていません。実際、ぼくは侮辱を受けたものと思っていないのに、それがあなたのお気にさわるのを残念に思います。しかし、自分の権利に干渉することは、だれにもゆるすわけにゆきません」
「それほど血を見るのが恐ろしいなら、どういうわけでぼくに決闘を申し込んだのだ、それをきいてください」依然としてマヴリーキイに向かって、ガガーノフはわめき立てた。
「どうしてきみに申し込みをせずにいられます?」とキリーロフが口を入れた。「きみは何一つ耳をかそうとしないんですもの、ほかにきみを振りほどく方法がないじゃありませんか?」
「ただ一つきみの注意を促しておきますが」努力し苦悶と戦いつつ、ことの成行きを考察していたマヴリーキイが、やっとこう口を切った。「敵手が前もって、空へ向けて発射すると明言している以上、事実、決闘を続行することはできないじゃありませんか……微妙な……しかも明瞭な理由によって……」
「ぼくはいつもいつも空へ向けて発射するとは、けっして明言しやしなかったです!」と、もうすっかり我慢ができなくなって、スタヴローギンは叫んだ。「あなたはぼくが何を考えてるか、ぼくがこの次どういうふうに発射するか、少しもごぞんじないのです……ぼく決闘を制限するようなことは、何一つ言やしなかった」
「そういうことなら、手合わせはまだつづけてもよろしい」とマヴリーキイはガガーノフに向かっていった。
「諸君、めいめい自分の位置に立ってください!」とキリーロフが号令した。
 ふたたび両敵手は近づいた。ガガーノフはまたもや失敗をくり返し、スタヴローギン[#「スタヴローギン」は底本では「スロヴローギン」]はまたもや上へ向けて射った。はたして空中へ発射したかどうか、それについては議論の余地もありえたのである。もし、わざと仕損じたのだと、当人が白状しなかったら、ニコライは正当に発射をしたと、断言することができたかもしれない。彼は露骨にピストルを空中へ向けたり、立木を狙ったりしたわけではない、とにかく敵を狙ったようには見受けられた。が、実際はやはり、帽子のうえ二尺ばかりの辺を狙ったのである。ことに今度の二回目はまだ下のほうを狙って、前よりさらに真実らしく見せた。けれど、もうガガーノフの疑いを解くことは、とうていできなかった。
「またか!」と彼は歯咬みをした。「なに、どうだってかまうもんか! ぼくは申し込みを受けてるんだから、当然の権利を行使する。ぼくはもう一度うつつもりです……ええ、どうあっても」
「きみは十分その権利をもっておられます」とキリーロフは断ち切るようにいった。
 マヴリーキイはなんにもいわなかった。介添人たちはこれでもう三ど双方を引き分けると、号令をかけた。ガガーノフは今度は仕切りのすぐ傍まで行って、線の上から十二歩へだてて、狙い始めた。しかし、彼の手は正確な発射に成功するべく、あまり烈しく慄えていた。スタヴローギンはピストルを下ろしたまま、身じろぎもせずに相手の発射を待っていた。
「あまり長すぎる、あまり狙いが長すぎる!」とキリーロフは烈しい語調でいった。「お射ちなさい! お射ちなさい!」
 しかし、発射の音は響き渡った。そして、今度は白い帽子が、ニコライの頭からけし飛んだ。狙いはかなり正確で、帽子の山のだいぶ低いところが打ち抜かれていた。もしいま二分ほど低かったら、もう万事了しているところだった。キリーロフは帽子を拾って、ニコライに渡した。
「お射ちなさい、敵を引き留めちゃいけません!」マヴリーキイは極度の興奮にこう叫んだ。スタヴローギンは発射のことを忘れたように、キリーロフといっしょに帽子を調べていたのである。
 スタヴローギンはぎくりとして、ちらとガガーノフを見やった。そして、いきなりそっぽを向くと、今度はいささかの遠慮もなく、わきのほうの森へ向けて射ち放した。決闘は終わった。ガガーノフはうちひしがれたように棒立ちになっていた。マヴリーキイが傍へ寄って、何か話しかけたが、こちらはまるで何もわからないようだった。キリーロフは帰りしなに帽子を取って、マヴリーキイにちょっと会釈した。しかし、スタヴローギンはさきほどの礼節を忘れてしまった。森へ向けて一発放すと、仕切りのほうを向いて見ようともせず、キリーロフの手ヘピストルを押し込んで、さっさと馬のほうへ歩き出した。その顔は憤怒の色を現わしていた。彼はおし黙っていた。キリーロフも無言であった。二人は馬に乗って、駆足で走り出した。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

「なんだってきみは黙ってるんです?」もう家の近くまで来た時、彼はじれったそうにキリーロフに声をかけた。
「何用です?」と、こちらはあやうく馬からすべり落ちそうになって答えた。馬がふいに後足で突っ立ったのである。
 スタヴローギンはじっと心を押し静めた。
「ぼくはあの……馬鹿を侮辱したくないと思ったんだが、やっぱり侮辱するようになってしまった」と、彼は低い声でいった。
「ええ、あなたはまた侮辱しました」キリーロフはずばりといい切った。「それに、あの男は馬鹿じゃありませんよ」
「しかし、ぼくはできるだけのことをした」
「そうじゃありません」
「じゃ、どうすればよかったのです?」
「決闘を申し込まなければよかったのです」
「もう一ペん頬っぺたを打たせるんですか?」
「ええ、打たせるんです」
「まるでわけがわからなくなってきた!」とスタヴローギンは毒々しげにいった。「なんだってみんなぼくに対して、ほかの者からはとうてい望めないようなことを期待しているんだろう? なんのためにぼくはほかの者が忍びえないようなことを忍び、ほかの者が負い切れないような重荷を、好んで引き受けなくちゃならないんだろう?」
「ぼくはあなたが自分で重荷を求めているものと思っていました」
「ぼくが重荷を求めているって?」
「そうです」
「きみ……それを見たんですか?」
「そうです」
「それがそんなに目立ちますか?」
「そうです」
 二人は少しのあいだ黙っていた。スタヴローギンは何か気がかりらしい顔つきをしていた。彼は何かのショックを受けたようなふうだった。
「ぼくが狙わなかったのは、人を殺したくなかったからにすぎない。ほかにわけはありません、まったく」まるで弁解でもするように、彼はせかせかと心配そうにいった。
「じゃ、人を侮辱する必要はなかったのです」
「いったいどうすればよかったんです?」
「殺したらよかったのです」
「きみはぼくがあの男を殺さなかったのを、残念に思ってるんですか?」
「ぼくは残念なことなんか一つもありません。ぼくはあなたが、本当に殺すつもりだとばかり思っていました。あなたは自分で何を求めてるかわからないのです」
「重荷を求めてるんですよ」スタヴローギンは笑い出した。
「あなたは自分で血を流すのがいやなくせに、どうしてあの男に殺人的行為を許したのです?」
「もし、ぼくが申し込まなかったら、あの男は決闘の方法によらないで、ただいきなりぼくを殺したでしょうよ」
「それはきみの知ったことじゃありません。それに、或いは殺さなかったかもしれませんよ」
「ただちょっと撲りつけるだけで?」
「それはあなたの知ったことじゃありません。重荷を背負ってお行きなさい。でないと、あなたの功業がなくなってしまいます」
「そんな功業なんかぺっぺっだ。そんなものをだれからも求めようと思いません!」
「ぼくは求めておいでかと思っていましたよ」キリーロフは恐ろしく冷然といい放った。
 二人は邸の中へ馬を乗り入れた。
「寄りませんか?」とスタヴローギンはすすめた。
「いや、ぼくはうちで……さようなら」
 彼は馬から下りて、自分の箱を小脇にかかえた。
「少なくも、きみだけはぼくに腹を立てていないでしょうね?」とスタヴローギンは手を差し伸べた。
「どういたしまして!」キリーロフはわざわざ引っ返して、手を握った。「ぼくの重荷が楽なのは生まれつきのためだとすれば、あなたの重荷はなかなか骨が折れるでしょう。そうした生まれつきだから。が、何もそうひどく恥じることはありません、ただ少しばかり……」
「ぼくは自分がつまらん男だということを知っています。だから、あえて強者を気取ろうともしない」
「まったく気取らないほうがいいです。あなたは強者じゃありません。お茶でも飲みにいらっしゃい」
 ニコライははげしい困惑を感じながら、自分の居間へ入って行った。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 入るとさっそく、侍僕のアレクセイから、ヴァルヴァーラ夫人が馬車に馬をつけさせて、ただひとり出かけたことを聞いた。夫人はニコライがはじめて、――八日間の病気の後、はじめて、――馬上の散策に出たのを非常に満足に思って、長年のしきたりどおり、『新しい空気を吸いに』出かけたのである。『なぜと申して、奥様はこの八日間、新しい空気を吸うということが、どんなにききめのあるものか、すっかり忘れていらっしゃいましたので』
「一人で出かけられたのか、それともダーリヤ・パーヴロヴナといっしょなのか?」とニコライは忙しげに老僕をさえぎったが、『ダーリヤさまはお加減が悪いとかで、お供をことわって、今お居間のほうにいらっしゃいます』という答えを聞いて、ひどく顔をしかめた。
「おい、爺や」突然こころを決したもののごとく、ニコライはこういい出した。「きょう一日、あのひとを見張っててくれないか。そして、もしあのひとがおれのところへ来るようなふうがあったら、さっそくひき留めて、こういっておくれ、――少なくもこの三、四日、あのひとに会うことができないってね……おれがあのひとに頼むのだ……そのうちに時が来たら、おれのほうで呼ぶからってね、――いいかい?」
「さよう申しますで」とアレクセイは目を伏せながら、声に憂いの響きを帯びさせて、いった。
「しかし、あのひとが自分から、おれのところへ来ようとしているのが、はっきりわかった時でなくちゃいけないよ」
「ご心配あそばしますな。けっして間違いはございません。今までここへお見えになる時には、いつもわたくしが仲に立っておりました。いつもわたくしに世話をしてくれというお頼みでございましたので」
「知ってるよ。しかし、とにかく、自分でやって来る時だけだよ。ひとつお茶を持って来てくれ。できることなら、少しも早く」
 老僕が出て行くと均しく、その瞬間に、ふたたび同じ戸が開いて、閾の上にダーリヤが姿を現わした。彼女の眼ざしは落ちついていたが、その顔はあお白かった。
「お前どこから来たの?」と、スタヴローギンは思わず叫んだ。
「わたしはすぐそこに立っていましたの。あれが出るのを待って、こちらへ入ろうと思いまして。わたし、あなたがあれにいいつけてらしったことも、ちゃんと聞いてしまいました。あれがいま出て行った時、わたしは右手の壁の突き出たかげに身を隠したので、あれも気がつかなかったのでございます」
「ぼくはずっと前から、お前と手を切ろうと思ってたんだよ、ダーシャ……当分……しばらくの間ね。ぼくはお前から手紙をもらったけれど、ゆうべお前を呼ぶことができなかった。ぼくは自分でも、お前に手紙が書きたかったんだが、まるでものを書くことができないのだ」と彼はじれったそうに、というより、むしろ、いまわしげにこうつけ足した。
「わたしもやっぱり、手を切らなくちゃいけないと思いましたの。奥様が二人の関係を、たいへん疑ぐってらっしゃいますので」
「なあに、勝手に疑らしとくさ」
「だって、奥様にご心配かけてはすみません。じゃ、今度はおしまいまで?」
「お前はどうしてもおしまいまで待つ気なの?」
「ええ、わたしそう信じています」
「世の中に終わりのあるものは一つもないよ」
「でも、これには終わりがあります。その時は、わたしを呼んでくださいまし。わたしすぐにまいります。では、さようなら」
「いったいどんな終わりがあるんだね?」ニコライはにっと笑った。
「あなたお怪我をなさいませんでしたね、そして……血なぞ流しはなさいませんでしたか?」
 終わりに関する問いには答えないで、彼女はこうたずねた。
「馬鹿なことさ。ぼくはだれも殺しはしなかった、心配しなくていいよ。明日といわずに今日のうちに、万事みなから聞かされるだろうよ。ぼくは少々加減が悪いのだ」
「わたしもう行きますわ。ときに、あの結婚披露は今日でございますか?」と彼女は思い切りの悪い調子でいい足した。
「今日じゃない、また明日でもない。明後日もどうかわからない。みんな死んでしまうかもしれないんだからね。結局、そのほうがいいのさ。さ、行ってくれ、いい加減にして行っとくれ」
「あなたは、あのもう一人の……気のちがった娘さんの一生を、亡ぼしはなさらないでしょうね?」
「気ちがい娘どもの一生はどちらも亡ぼしはしない。が、正気な女の一生は亡ぼしてしまうらしい。それほどぼくは卑劣で醜悪な男なのだ。ダーシャ、本当にぼくはお前のいわゆる『いよいよおしまい』に、お前を呼ぶかもしれないよ。そうすると、お前は正気な女だけど、やって来てくれるだろうね。いったいお前はどうして自分の一生を亡ぼそうとするのだ?」
「結局、わたし一人が、あなたのおそばに残るんでございますわ、わたしちゃんとわかっています。そして……それを待っていますわ」
「ところで、もし結局お前を呼ばないで、お前から逃げを打ったら?」
「そんなことのあろうはずがございません。きっと呼んでくださいます」
「そういう言葉には、ぼくに対する軽蔑が多分に含まれてるよ」
「軽蔑ばかりでないってことは、おわかりでいらっしゃるくせに」
「じゃ、とにかく軽蔑は含まれてるんだね?」
「そんなつもりで申したのじゃありません。神様が証人でございます。わたしは、あなたがいつになっても、わたしに必要をお感じなさらないようにと、祈っているのですけれど」
「その言葉に対して、酬ゆるところなかるべからずだ。ぼくもやっぱりお前の一生を、亡ぼしたくないのは山々なんだがなあ」
「どういたしまして、あなたはどうしたって、わたしの一生を亡ぼすことなぞ、おできにならないはずでございます。それはご自分でだれよりもよくごぞんじのくせに」とダーシャは早口に、きっぱりいい放った。「もしあなたといっしょになれなければ、わたしは看護婦になって、病人の世話でもするか、本屋になって福音書でも売って歩くかしますわ。わたし心を決めてしまいました。わたしはだれにもせよ、人の妻になることなどできません。わたしはこういう家にも住むことができません。そうしたくないのです……あなたすっかりごぞんじのくせに……」
「いや、ぼくはお前が何を望んでるか、今まで一度も察しることができなかったよ。ぼくはどうもね、お前がぼくに持ってる興味は、ちょうど年功を経た看護婦が、なぜかほかの病人と比較して、ある一人の病人に特殊の興味をいだく、あれに似ていると思う。もっといい比喩をかりていえば、よその葬式につき歩く巡礼のお婆さんが、ほかのものより少し小綺麗な死骸を好く心持ち、まあ、それくらいのものだろうと思われるよ。なんだってお前はそんな妙な目をして、ぼくを睨むんだね?」
「あなたは大変からだがお悪いのでしょう?」一種特別な表情で相手の顔に見入りながら、彼女は同情のこもった調子でこうきいた。「まあ、本当に! こんな体でありながら、わたしが傍にいなくてもいいなんて!」
「まあ、お聞きよ、ダーシャ、ぼくはこのごろ幻覚ばかり見てるんだよ。ある小《こ》悪魔がきのう橋の上で、ぼくの戸籍上の結婚の束縛を取りのけて、下手なぼろを出さないようにするために、レビャードキン大尉とマリヤを殺せといって、ぼくにさんざんすすめるじゃないか。その手つけとして、三ルーブリ請求したけれど、この荒療治の儲けは、少なくとも千五百ルーブリを下らないってことを、明らさまに匂わしていたよ。どうだ、なかなか勘定の達者な悪魔じゃないか! まるで帳づけ番頭みたいだ! はは!」
「ですが、それは幻覚に相違ないと、かたく信じていらっしゃいますの?」
「おお、違うよ、それは幻覚でもなんでもありゃしない! それはなに、懲役人のフェージカだ、懲役から逃げ出した強盗だよ。しかし、それはどうだってかまわない。え、お前はそれからぼくがどうしたと思う? ぼくは紙入れにありったけの金を、すっかりその男にくれてしまったのだ。だから、今その男はぼくが手つけ金を渡したものと、思い込んでいるだろうよ!」
「あなた夜中にその男にお会いになって、そんなことをすすめられたのですって? まあ、あなたはすっかりあの連中の網に巻き込まれていらっしゃるのが、おわかりにならないのでございますか!」
「なあに、勝手にさせておくさ。ときにね、ダーシャ、お前の舌のさきにはある一つの問いが引っかかって、もぞもぞしてるじゃないか。お前の目つきでちゃんとわかるよ」毒々しいいらだたしげな薄笑いを浮かべつつ、彼はつけ足した。
 ダーシャはぎょっとした。
「問いなんか一つもありません、疑いなんかまるで持っておりません。まあ、黙っていらっしゃいまし!」まるで質問を払い落とそうとでもするように、彼女は心配らしく叫んだ。
「つまり、お前はぼくがフェージカと会いに、居酒屋かどこかへ出かけないと信じ切ってるかい?」
「あら、あんなことを!」彼女は手をぱちりと鳴らした。「どうしてそんなにわたしをお苦しめなさるんですの?」
「いや、ばかな洒落をいって悪かった。ゆるしておくれ。ぼくはきっとあの連中から悪い癖がうつったんだね。実は、ぼくゆうべからやたらに笑いたくてたまらないんだ。しじゅうひっ切りなしに、長い間むやみに笑うんだ。まるで笑いの発作でも起こったように……やっ! お母さんが帰って来たぞ。ぼくはお母さんの馬車が玄関でとまると、音を聞いただけですぐわかる」
 ダーシャは彼の手を取った。
「神様、どうぞこの人の悪魔をこの人から防いでくださいまし……ね、呼んでくださいな、少しも早く呼んでくださいな!」
「ふん、ぼくの悪魔がなんだ! ただ、ちっぽけな、汚ならしい、瘰癧《るいれき》やみの小悪魔にすぎないんだよ。おまけに、鼻っ風邪まで引いてさ、とにかく出来損いのお仲間なのさ。ところが、ダーシャ、お前はまだなんだかいい出しかねてるんだろう?」
 彼女は苦痛と詰責の表情で男を見つめた後、くるりと向きを変えて、戸口のほうへ進んだ。
「おい」と彼は毒々しいひん曲ったような微笑を浮かべながら、彼女のうしろから声をかけた。「もし……まあ、その……手っ取り早くいえば、もし[#「もし」に傍点]……お前わかるだろう……つまり、もしぼくがかりに居酒屋へ出かけてだね、その後でお前を呼んだとすれば、――お前はそれでも来てくれるかね、居酒屋の後でも?」
 彼女は振り返りもしなければ、返事もしないで、両手で顔を隠しながら出てしまった。
「居酒屋の後でもやって来る!」ちょっと考えた後、彼はこうつぶやいた。と、気むずかしげな軽蔑の色がその顔に現われた。
「看護婦! ふん……もっとも、おれにもそうしたものがいるかもしれんて」

[#3字下げ]第4章 一同の期待[#「第4章 一同の期待」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 決闘の顛末は、早くも社交界に伝わった。しかし、とくに注意すべきは、この事件が人々に与えた印象だった。一同はまるで、申し合わせたように、一も二もなくニコライに対する同情を表わそうと努めた。もと彼の敵だった多くの人も、思い切りよく、われこそニコライの親友であると名乗りを上げた。社交界の意見が、こんなに思いがけなく変化したおもな原因は、これまでかつて意見を述べたことのない一貴婦人が公然と表白した、正鵠を穿った数語である。このひとがたちまち、町の上流社交界に異常な興味をいだかせるような、深い解釈を下したのである。それはこんな風にして起こったのだ、――ちょうどあの出来事の翌日は、県の貴族団長夫人の命名日というので、町じゅうの人が同家へ集まった。ユリヤ夫人も席に列なっていた。というより、一座の采配を振っていた。夫人といっしょに、リザヴェータも来ていたが、彼女は目ざめるような美しさと、度はずれに浮き浮きした表情に、輝くばかりであった。しかし、今夜は、これがかえって貴婦人たちのだれかれに胡散くさく思われたのである。ついでにいっておくが、彼女とマヴリーキイとの婚約は、もはや疑う余地もなかった。退役にはなっているが、極めて勢力のある一人の将軍が(この人のことは後に話す)その晩、冗談半分にたずねたとき、当のリザヴェータは、自分が許婚《いいなずけ》の女だということを、まっすぐに肯定したくらいである。ところがどうだろう? 町の貴婦人のうちで、この婚約を本当にするものは一人もなかった。一同は相変わらず執拗に、何かのローマンスを想像していた。スイスで行なわれたという一種運命的な、内輪の秘密の存在を想像し、またなぜかユリヤ夫人が、それに関係しているものと信じていた。なぜだれもかれもがこうまで執念ぶかくあんな風説、というよりむしろ空想に固執しているのか、またどういうわけで、ぜひともこの事件にユリヤ夫人を結びつけたがるのか、それはちょっと説明しにくいことである。夫人が入って来ると同時に、人々は期待にみちた奇妙な目つきで、彼女のほうを振り向いた。断わっておくが、出来事があまり新し過ぎるのと、それに付随したある事情のために、その晩、人々はいくぶん大事を取りながら、高声をはばかるように話し合った。それに、官憲の措置についても、まだ何ら知るところがなかった。しかし、世間に知れている限りでは、決闘の当事者は両方とも警察の手を煩わすようなことはなかった。たとえば、ガガーノフがいささかも妨害を受けないで、早朝ドゥホヴォの領地へ向けて立ったということは、みんなに知れ渡っていた。とはいえ、むろん一同の者は、だれかまっさきに公然と口を切って、社会一般の焦躁を満足させるものはないかと、それのみを待ち焦れていたが、あてにされていたのは前に述べた将軍だった。はたしてそれは謬りでなかった。
 この将軍は町のクラブでも元老株だった。地主としては金持ちのほうではなかったが、ちょっと類のないものの考え方をする人で、旧式な処女崇拝家だった。この人は皆がまだ大事を取って小さな声でひそひそ話しているようなことを、将軍らしい重味を持たせながら、人の大勢あつまった席で、公然といってのけるのがとりわけ好きだった。つまり、この点が、社交界におけるこの人の、いわば、特殊な役廻りのようになっていた。今度も彼はことさら言葉尻を引きながら、甘ったるい調子でいい出した。この習慣は、おそらく外国を旅行するロシヤ人か、さもなくば、農奴解放後一番ひどく零落した、以前の地主あたりから借用したものだろう。スチェパン氏などは、地主の零落の度がひどければひどいほど、舌っ足らずみたいな発音をしたり、甘ったるく言葉尻を引き伸ばしたりする、といったことさえある。もっとも、彼自身も甘ったるく言葉を引き伸ばしたり、舌っ足らずみたいな発音をしていたが、自分のあらには気がつかないのだった。
 将軍はいかにも一見識ありそうなものの言い方をした。そのうえ、彼がガガーノフとは、何か遠い親族関係になっているばかりか(もっとも仲たがいして、訴訟騒ぎまで起こしている)、かつて自分でも二度ばかり決闘して、一度なぞは奪官のうえ、コーカサスへ左遷されたことさえあった。だれかふと、ヴァルヴァーラ夫人が『病後』二度までも外出を始めた、といった。もっとも、直接夫人のことをいったのではなくて、スタヴローギン家の養馬場で仕立てられた灰色の四頭立についている、見事な馬具の噂をしたのである。そのとき将軍はとつぜん口を開いてぃ自分は今日、『若いスタヴローギン』が馬で行くのに出会ったといった。一同はぴったり口をつぐんだ。将軍は一つ舌を鳴らして、下賜になった黄金《きん》の煙草入を指の先でくるくる廻しながら、急にこういい出した。
「わしは二、三年ここにいなかったのが残念です!………いや、じつはその、カルルスバードに行っとりましたのでな、ふん……わしはこの青年に非常な興味を感じておるのですよ。あの当時いろんな噂がありましたからなあ。ふん……いったいあの男が気ちがいだというのは、事実ですかな? 当時、だれかそんなことをいっとりましたろう。ところが、出しぬけに、妙なことが耳に入るじゃありませんか。ある大学生がここであの男を、従妹たちの目の前で侮蔑した、すると、あの男はテーブルの下へ逃げ込んだ、とかいう噂でしたよ。ところが、また昨日ヴイソーツキイから聞けば、スタヴローギンはあの……ガガーノフと決闘した、しかも、ただ相手を振り放したいがために、気ちがい同然な男の筒先へ額をさしだしたという。ふん……それは二十年代の近衛|気質《かたぎ》にありそうなことですな。あの男はこの町のどこかへ出入りしておりますか?」
 将軍は答えを待ちかまえるように口をつぐんだ。社会の焦躁はついに捌《は》け口を与えられた。
「これより以上、簡単明瞭なことはありませんね」一同がまるで号令でもかけられたように、いっせいに自分のほうへ視線を向けたので、ユリヤ夫人はいらいらしながら、とつぜん声を励ました。「スタヴローギンがガガーノフと決闘して、大学生の侮辱にむくいなかったのが、そんなに不思議な話でしょうか? だって、自分の家の奴隷だった男に、決闘を申し込むわけにいかないじゃありませんか!」
 それは意味ぶかい言葉だった。実際、簡単明瞭な考えではあったけれども、それが今までだれの頭にも浮かばなかったのである。この言葉は、なみなみならぬ結果を呼び起こした。すべての醜い話、すべての陰口めいた噂、すべての瑣末な世間話めいた方面は、どこか隅のほうヘー気に押しやられてしまって、別様な意義が高く掲げられた。今まで一同から誤解されていた人物の、新しい一面が照し出されたのだ。それはほとんど理想的に厳正な理解を持った人物である。一人の大学生、もう今は奴隷でもなんでもない教育ある人間から、死にも価する侮辱を受けながら、彼はこの侮蔑を蔑視した。それは侮辱を与えた当人が、わが家のもとの奴隷だからである。世間では大騒ぎして、陰口を叩いている。軽率な世間は生面《いきづら》を打たれた男を侮辱の目をもって眺めている。けれど、彼は真正な理解をもちうるまでの発達を遂げずに、しかも、それを喋々する世間の輿論を蔑視しているのだ。
「それだのに、イヴァン・アレクサンドロヴィチ、わたしらはお互いに真正な理解を説いたり、論じたりしてるんですよ」と、一人の年とったクラブ員は、高潔な自己譴責の発作に駆られて、相手のものにこういった。
「そうですよ、ピョートル・ミハイロヴィチ」と相手のものは愉快そうに相槌を打った。「それで、若い連中のことを云云してるんですからなあ」
「この場合、若い連中が問題じゃないんですよ、イヴァン・アレクサンドロヴィチ」別な一人が横合から口を挟んだ。「この場合、若い連中が問題じゃない。一個の明星です。けっしてそんじょそこらの若い連中の仲間じゃありません。この事実はこういうふうに解釈すべきです」
「またああいう人が必要なんですよ。人材が乏しくなってしまいましたからねえ」
 しかし、何より肝腎なのは、この『新人』がなおそのほかに、『正真正銘の貴族』であって、おまけに県内一番の富裕な地主という事実だった。こういう人がどうして一世の支柱となり、国士としての活動をせずにいられよう、というのだ。もっとも、わたしは前にちょっとことのついでに、わが国の地主の心持ちを語っておいたはずである。
 一同は夢中になってしまった。
「あの男はその大学生に決闘を申し込まなかったばかりか、かえって手をうしろに引っ込めましたよ。これをとくにご注意ください、閣下」ともう一人が指摘した。
「また新法律で改正された裁判所へ、突き出そうともしなかった」と別な一人がつけ足した。
「改正裁判所が貴族たるあの人の個人的[#「個人的」に傍点]侮辱に対して、金十五ルーブリ也の科料を、相手に宣告してくれるにもかかわらずですかね、ヘヘヘ!」
「いや、それなら、わたしが改正裁判所の秘密を教えましょう」とある一人はのぼせあがって、「もしだれか泥棒なり詐欺なりをして、それを明白に突き留めて見あらわされたら、隙のあるうちに大急ぎで家へ駆け出して、母親を殺すに限りますよ。さっそくなにもかも弁明してくれて、傍聴席の貴婦人たちは絹麻《バチスト》のハンカチを振り立てますから、――いや、まったくの真理ですよ!」
「真理、真理!」
 同時にまたさまざまな噂の種も出ずにはすまなかった。ニコライとK伯爵との関係も、人々の記憶に蘇った。今度の改革に対する伯爵の非公式な、とはいえ峻厳な意見は、世間に知れていた。また最近にいたって、いくぶん弛緩したけれ