『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP005-P048

悪霊
Бесы
ドストエーフスキイ
米川正夫

                                                                                                            • -

【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)曠野《あらの》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二|節《せつ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)[#ページの左右中央]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔“On ma'a traite' comme un vieux bonnet de coton!”〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
https://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html

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[#ページの左右中央]


[#ここから7字下げ]
殺さるも痕は得わかじ
われらついに踏みぞ迷いぬ、いかがせん?
こは悪霊のわれらを曠野《あらの》に導きて
四面八面《よもやも》に引き廻すらし
………………………………
数や幾ばく、いずちへぞ追われ行くらん
かく哀しげに歌うは何ゆえ?
家に棲む魔性を野辺に送るか?
はたは妖女の嫁《とつ》ぎゆくらんか?
[#ここから22字下げ]―プーシキン
[#ここで字下げ終わり]


[#改ページ]
[#ページの左右中央]


[#ここから5字下げ]
ここに多くの豚のむれ山に草をはみいたりしが、彼らその豚に入らんことを許せと願いければ、これを許せり。悪鬼その人より出でて豚に入りしかば、そのむれ激しく馳せくだり、崖より湖に落ちて溺る。牧者《かうもの》どもそのありしことを見て逃げ行き、これを町また村々に告げたり。ひとびとそのありしことを見んとて、出でてイエスのもとに来れば、悪鬼の離れし人、着物を着け、たしかなる心にてイエスの足下に坐せるを見て、おそれあえり、悪鬼に憑かれたりし人の救われしさまを見たる者、このことを彼らに告げければ、ゲネセラ地方の多くのひとびとイエスにここを去らんことをねがえり。これ大いにおそれしがゆえなり。イエス舟にのりて返りぬ。
[#ここから27字下げ]
ルカ伝第八章第三二節――第三七節
[#ここで字下げ終わり]


[#改ページ]
[#1字下げ]第一編[#「第一編」は大見出し]




[#3字下げ]第1章 序に代えて[#「第1章 序に代えて」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 わたしは今この町、――べつにこれという特色もないこの町で、つい近頃もちあがった、奇怪な出来事の叙述にとりかかるに当たって、凡手の悲しさで、少し遠廻しに話を始めなければならぬ。つまり、スチェパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキイという、立派な才能もあれば、世間から尊敬も受けている人の、やや詳しい身の上話から始めようというのである。この身の上話は、一編の物語の序言がわりのようなもので、わたしの伝えようと思っている本当の事件は、ずっとさきのほうにあるのだ。
 ぶっつけにいってしまおう。スチェパン氏はいつもわたしの仲間で、一種特別な、公民的ともいうべき役廻りを勤めていたが、またその役廻りが大好きだった、――それどころではない、わたしなぞの目からは、それがなくては生きていかれないように思われたほどである。しかし、わたしはなにもこの人を芝居の役者にくらべるわけではない。とんでもない、わたし自身この人には尊敬をいだいているのだからなおさらのことだ。それはみんな習慣のしわざ、というよりむしろ、美しい公民としての地位を空想してみずから楽しむ、小さい時分からの、不断の君子的傾向のしわざ、といったほうが適切かもしれない。例を挙げていえば、彼は『迫害を受ける人』、『追放された人』としての自分の境遇が、恐ろしく好きなのであった。この二つの言葉のうちには、一種の古典的な輝きがあって、それがもう一遍で彼を魅惑のとりことし、やがては、彼の自己評価をだんだんと高めていって、長い年月の間には、とうとうその自尊心を満足させるような、思いきって高い、いごこちのいい台座の上へと彼を祭り上げてしまったのである。
 前世紀に出たイギリスのある諷刺小説の中で、ガリヴァーとかいう男が、だれもかれも背の高さ三寸ばかりしかない小人島から帰って来た時、自分を巨人だと考える習慣がすっかりしみ込んでしまって、ロンドンの街《まち》を歩きながらも、思わず通行人や馬車に向かって、さあ、どいた、どいた、用心しないか、うっかりしてると踏み潰すぞ、とどなりつけた。彼は今でも自分が大男で、ほかの連中が小っぽけな者のように思われたのだが、人々は彼を冷笑したり、罵倒したりするばかりでなく、無作法な馭者どもは、鞭でこの巨人を擲りつけさえした。しかし、いったいこれが正当の酬いだろうか? じっさい習慣というやつは、何をしでかすかわからない。習慣はスチェパン氏をも同じ結果に導いた。が、もっと無邪気な毒けのない(もしこんないい方ができるならば)形を取った。なぜならば、実に類のない善良な人だったからである。
 わたしはこんなふうにさえ考えている。晩年には彼もみなに忘れられてしまったが、以前からまるで知るものがなかったとは、けっしていうわけにいかない。それどころか、彼はしばらくのあいだ、前時代の名士たちの輝かしい星座の中に入っていて、一時ほんのわずかな間であったが、彼の名はチャアダーエフ、ベリンスキイ、グラノーフスキイ、それからその頃やっと外国で旗揚げしたばかりのゲルツェン、などという名前といっしょに、当時のあわただしい多数の人々の口にのぼされたことがあるのは、疑う余地のないところである。けれど、スチェパン氏の活動は、いわゆる『旋風』のために、――重なり重なった事情のために、ほとんど始まると同時に終わりを告げてしまった。ところが、どうだろう? 後になってから、『旋風』はおろか、そんな事情などは影もない、ということがわかってきた。少なくとも、この場合なにごともなかったのである。わたしは今度はじめてつい二、三日前、こういう話を聞いて非常にびっくりした。スチェパン氏がこの県下へ来て、わたしたちの間で暮らしていたのは、けっしてこの土地の人間が考えていたような、流刑者としてではない、いや、それどころか、監視を受けたことさえ一度もない、というのである。が、そのかわり、この話が十分信用に値することも確かなのである。こうなってみると、人間の空想の力に一驚を喫せざるをえない。彼は一生涯、心の底から、こんなことを信じ切っていた、――自分という人間はある階級でいつも危険視され、一挙一動ことごとく探知しつくされている、最近、二十年間に交代した三人の県知事も、県の行政を司るために赴任するにあたり、政務引継ぎの際、何よりもこの自分の人物に関して、何か特別やっかい至極な内意を上官から含められてやってきたものだ、――とこんなぐあいだったのだから、だれかもし正直この上ないスチェパン氏に向かって、お前はなにもそんなに恐れることはないじゃないかと、否みえない証拠を突きつけて説き伏せたとしたら、彼は必ずや腹を立てたに相違ない。にもかかわらず、彼は非常に聡明な、非常に才能のある人物で、学術の人といってもいいくらいだった。もっとも、学術のほうでは……まあ、つまり、学術のほうでも、あまり大して貢献するところはなかった。いや、まるでなかったのかもしれない。しかし、ロシヤの学術の人には、こんなのはざらにあることだ。
 彼は四十年代([#割り注]一八四〇年代[#割り注終わり])の終わり頃に外国から帰ってきて、大学の講壇に最初の輝きを放った。しかし、ここではほんの数えるほどしか講義する暇がなかった。その講義は、なんでもアラビヤ人か何かのことであった。それから、当時ようやく頭を持ち上げ始めた問題、――一四一三年から一四二八年の期間における、ハナウというドイツの一小都市の有していた民権的ならびに商業同盟的意義、及びこの意義の成立を妨げた一種特別なばくとした原因、――こういう問題に関して、花々しい議論を発表したことがある。この議論は巧みに手ひどく、時のスラブ主義者の急所を衝いたので、彼はたちまちこの連中の間に、多数の猛烈な敵を作ってしまった。
 その後、――もっとも、これは大学の講座を失った後のことで、――彼は(自分の敵に、彼らがどんな立派な人物を失ったか思い知らせてやろうと、いわば報復の意味で)ディッケンズを翻訳したり、ジョルジュ・サンドの思想を宣伝したりしている進歩派の月刊雑誌に、ある深遠な研究の前半を掲載した。なんでも、ある時代の騎士たちがきわめて廉直な精神を持っていた原因か何か、まあそんなテーマを取り扱ったもので、とにかく何やら非常に高尚な、立派な思想を披瀝したものだった。人の話によると、その研究の続きはさっそく禁止されて、例の進歩派の雑誌までが、前半を掲載したためにひどい目にあったとのことだ。それはあの時分のことだから、大きにありそうな話だが、この場合としては、そんなことはてんでなかった、それはただ筆者が不精をしたために、研究が完結されなかったのだと見たほうが本当らしい。
 また彼がアラビヤ人に関する講義を中止したのも、だれかが(といっても、彼の敵たる保守派の仲間には相違ない)、だれかに宛てた彼の手紙を横取りしたからである。その手紙には何かの『事情』が開陳してあったので、そのためにだれか彼に向かって何かの説明を要求した。それから嘘か本当か知らないけれど、それと同じ頃に、ペテルブルグでなにか恐ろしく大仕掛けで、反自然的な、反国家的結社が発見されたという話である。人数は十三人ばかりで、ほとんど社会組織の根本を震撼させるようなものだったそうだ。話によると、この連中は大胆にも、フーリエの翻訳を企てていたそうだが、スチェパン氏の叙事詩がモスクワで押収されたのも、運悪くちょうどその頃のことだった。それは六年前まだ若い盛りの頃、ベルリンで書き上げたもので、二人の文学好きと一人の大学生が写し取って、手から手に渡っていたのである。この叙事詩はいまわたしのテーブルの中にも所蔵されている。ついこのごろ作者自身が写し取ったのを、去年、当のスチェパン氏の手からもらい受けたもので、見事な題銘を打った、赤いモロッコ革の表紙がついていた。この叙事詩はちょっと詩味もあったし、いくぶん才気が認められないでもなかったが、かなり奇妙なものだった。もっとも、あの当時は(つまり、より正確にいえば、三十年代のことなので)、よくそんなふうの書き方をしたものだ。したがって、内容を話すのもなかなか骨が折れる。なぜといって、正直なところ、何がなんだかさっぱりわからないからである。これは劇詩の形を取った何かのアレゴリイで、『ファウスト』の第二部を連想させるようなものであった。
 舞台は大勢の女の合唱で幕があがる。それから男声合唱になって、その次は何かの妖精の合唱、それから一番しまいは、まだ生活したことはないけれども、しきりにそれを望んでいる霊魂の合唱になる。これらの合唱はすべて、何かしら恐ろしくとりとめのないことを歌う、――たいていはだれかの呪いなのだが、しかし、ことごとく高級なユーモアの陰を帯びている。ところが、舞台面は忽然と一変して、「生の饗宴」が始まる。ここでは虫までが歌い出すやら、亀が何かラテン語で感謝の辞を述べるやら、しまいにはある鉱石までが、つまり、まるで魂を持っていないものまでが、何かの歌をうたいだすのである(もしわたしの覚え違いでないとすれば)。とにかく、なんでもかでものべつ歌いまくるわけで、時たま会話があるかと思えば、なんだか雲をつかむようなことを罵り合うのだけれど、しかし、これもやはり高遠な意味を含んでいるのだ。最後に、舞台がもう一度がらりと変わって、荒涼たる場所が現われる。その岩石峨々たる間を、文明の空気の浸み込んだ一人の若い男がさ迷い歩きながら、何かの草をむしり取っては、その汁を吸っている。お前はなんのためにそんな草を吸うのだ、という魔女の問いに対して、彼の答えはこうであった。自分は心内に生の過剰を感じているので、いろいろ忘却の法を求めていたが、ついにこの草の汁にそれを発見した。しかし、自分の最も深い希望は、すこしも早く知恵を失いたいということだ(これは少々余計な望みかもしれない)。しばらくすると、とつぜん稀世の美男子が、黒馬に跨って走り出す、その後にはありとあらゆる民族が、うようよと数をつくしてついて来る、この青年は死の象徴で、すべての民族の渇仰を受けているのだ。やがて、一ばん最後の幕になると、だしぬけにバビロンの塔が現われる。大勢の勇士が新しい希望の歌をうたいながら、ようやくその建築の工を終わろうとしているのだ。ついに塔は頂きまでできあがった。と、もとの支配者であった人(まあ、オリンピアの主神としておいていい)が、滑稽な恰好をして逃げ出す。そこで、大悟した人類はその地を自己の有に帰し、徹底せる洞察によって、ただちに新しい生活を始める、というのである。
 ところが、この詩を当時では危険視したのだ。わたしも去年スチェパン氏に向かって、この詩は今の世でちょっと類のないほど、非常にナイーヴな趣のあるものだから、一つ印刷に付してはどうか、とすすめてみた。が、彼はよそ目にも不満げな様子をして、わたしの提言をしりぞけた。非常にナイーヴというこの評言が、気に入らなかったのだ。まる二か月の間というもの、ずっとわたしに対して多少冷淡な態度をとったのも、これに原因するものとわたしは思っている。ところが、どうだろう? わたしがその詩をここで印刷するようにすすめたのとほとんど同時に、あちらで[#「あちらで」に傍点]、――つまり外国で、ある革命雑誌が、スチェパン氏の知らぬ間に、その詩を印刷掲載したのである。初め彼は仰天して、県知事のところへ飛んで行ったり、ペテルブルグへ送るべき、公明正大な弁明書をしたためて、二度もわたしに読んで聞かせたりした。が、だれに宛てていいかわからないので、とうとう送らずにしまった。一口にいえば、まる一月のあいだ狼狽しきっていたのだ。しかし、わたしの信ずるところでは、彼も深い心の底のほうでは、ひとかたならず恐悦がっていたものに相違ない。彼は、送付してもらった雑誌を抱えたまま、夜もろくろく眠らなかった。そして、昼は蒲団の中へ秘めて、女中にも床を敷き変えることを許さず、毎日、どこからか、或る電報の来るのを待っていたが、外見は傲然とかまえていた。しかし、電報も何も来なかった。その時はじめて、彼はわたしに対しても我を折った。これなぞも、この人の穏かな、いつまでも一つのことを根に持たない、世にも珍しい善良な性質を、よく証明するものである。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 わたしはなにも、スチェパン氏が少しも苦しまなかったと、断言するわけではない。ただわたしは今になって、次のことを会得したというにすぎない。つまり、例のアラビヤ人に関する研究だって、ただ必要な解説だけ述べるというふうにしたら、いくらでも得心の行くだけ稿をつづけて行くこともできたのである。ところが、そこで、ちょっと妙な野心を起こして、自分の社会的生活は、『旋風のような外部の事情』のために永久に粉砕されたものと、恐ろしく気ばやに一人で決め込んだのだ。いっそ、すっかりあけすけにいってしまうと、彼の社会生活に変化を来たした真の原因は、ずっと以前ヴァルヴァーラ・ペトローヴナ・スタヴローギナが、一度ならず二度までも、彼に持ちかけた婉曲な依頼であった。この富裕な陸軍中将夫人の依頼というのは、その一人息子の教育と知能全体の啓発のために、高級な教育者兼友人の役目を勤めてほしいというのである。もちろん、報酬の十分なことはいうまでもない。この依頼は、ちょうど彼が初めて男やもめの生活に入った時分、ベルリンで持ち出されたものである。彼の最初の妻は、わたしたちの県から出たある浮気な娘で、彼がこの娘と結婚したのは、前後の分別もない、まだほんの若い盛りのことだったが、この女(もっとも、なかなか魅力に富んだ女ではあったが)といっしょになってから、その贅沢な生活費の不足やら、そのほか何かだいぶ微妙な原因のために、ずいぶんくるしい目にもあったらしい。彼女は晩年の三年間というもの夫と離れ離れに暮らしていたが、ついに五つになる男の子、――まだ曇りのない、よろこびにみちた初恋の結実を(これはスチェパン氏が懊悩のあまり、わたしの前でふと口をすべらした言葉だ)彼の手に残して、パリであの世の人となってしまった。雛鳥はもう最初からロシヤヘ送られて、そのままずっとどこか草深い田舎で、遠縁に当たる叔母さんか何かの手に育てられた。
 スチェパン氏はその時ヴァルヴァーラ夫人の依頼をしりぞけて、一年もたたないうちに、さっそく一人の無口なベルリン女と結婚した。しかも、その結婚は、べつにこれという必要もなかったのである。しかし、彼が教育者の任を辞したについては、このほかにまだいろいろ原因があった。当時一世に鳴り響いた不朽の名教授の声望が、彼の心をとりこ[#「とりこ」に傍点]にしたので、みずから進んで大学の講座を担当し、そこで荒鷲のごとき翼を試みる準備をしたのである。ところが、今ではその翼も破れてしまったため、自然の順序として、もう前にも彼の決心を揺るがしたヴァルヴァーラ夫人の依頼を心に浮かべ始めた。その上、第二の妻が一年もたたぬうちに、忽然として世を去ったということは、いっさいを決定したのである。わたしは直截にいってしまおう。ヴァルヴァーラ夫人の熱心な尽力と、彼に対する尊い古典的な友情(もし友情に関して、こんな形容詞が使えるものとすれば)のおかげで、万事きれいに解決がついた。彼はこの友情の抱擁に身を投じて、それから二十年以上もつづいた固い関係が結ばれたのである。わたしは『抱擁に身を投じる』という表現を用いたが、そのためにだれか役にも立たぬ、のんきな想像を逞しゅうする者があれば、それはとんでもないことである。この抱擁なる語は最も高尚な意味においてのみ、解釈さるべきものである。最も微妙な、最も繊細な関係が、この二つの特異な性格を、永久に結びつけたのである。養育者の任を引き受けたいま一つの理由は、スチェパン氏の先妻が遺して行ったごく小さな領地が、スタヴローギン家の領地スクヴァレーシニキイ(これはわたしたちの県にある立派な領地で、町の郊外に位置を占めていた)と隣り合っていたからでもある。そのうえ、大学の山のごとき事務に没頭することなく、いつも書斎の静寂裡に閉じこもっていれば、完全に自己を科学に捧げつくし、深遠なる研究によって祖国の文献を豊富にすることができる、という考えもあったのだ。もっとも、研究などというものは少しもできなかったが、そのかわり、その後一生を通じて二十年のあいだ、国民詩人([#割り注]ネクラーソフをさす[#割り注終わり])の表現をかりると、『譴責の権化』として、祖国の前に立ちつづけ得たのである。

[#ここから2字下げ]
自由主義者なる理想家よ
なれは譴責の権化として
……………………………
祖国の前に立ちしかな
[#ここで字下げ終わり]

 もっとも、わが国民詩人の歌った理想家は、自分さえその気になれば、一生涯でも、そういう意味の態度をとる権利があったかもしれないが(実際、退屈なことには相違ないけれど)、スチェパン氏にいたっては、こういう人物にくらべると、実のところ、ほんの模倣者にすぎないので、しょっちゅう立ち疲れては、横になることが多かった。しかし、横になっている時でも、譴責の権化たる資質はやはり保たれていた。この点は大いに認めてやらなければならぬ。いわんや地方としては、このくらいのところで十分なのである。ためしに、彼が土地のクラブでカルタに向かったところを見るがいい。彼の全身は、こんなことをいっているように見える。『カルタ? おれが貴様たちのエララーシュ([#割り注]カルタ勝負の一種で、同時に「無意味」の語義をもっている[#割り注終わり])の相手になる? いったいこんなことが考え得られるだろうか? いったいこれの責任者はだれだ? おれの事業を粉微塵にして、エララーシュにしてしまったのは何者だ? ええ、ロシヤなんぞ亡びてしまうがいい?』こういったふうつきで、彼はものものしい様子をしながら、さてハートから切り始める。
 実際、彼は恐ろしくカルタの勝負を挑むのが好きだった。そのため、しょっちゅうヴァルヴァーラ夫人と、不快な衝突を起こすのであったが、別して後にはそれがしだいに昂じてきた。それも年がら年じゅう負けつづけなのだからなおさらである。しかし、このことは後廻しにしよう。ただ一ついっておきたいのは、彼は良心の働きの強い人であったから(もっとも、これはときどき起こることなので)、したがってよくふさぎ込む。二十年もつづいたヴァルヴァーラ夫人との交遊のあいだ、彼はきまって年三回か四回、われわれ仲間でいういわゆる『公民的憂愁』というやつにかかる。つまり、ただの気欝症にすぎないのだが、この言葉が尊敬すべきヴァルヴァーラ夫人の気に入ったのである。
 後になって、彼は『公民的憂愁』のほかに、シャンパン病にもかかった。けれど、敏感なヴァルヴァーラ夫人は、彼がすべて凡俗な傾向に陥らないように、しじゅう気をつかっていた。それに、実際、彼にはお守りが必要であった。なぜというに、彼はどうかすると、恐ろしく奇妙なふうになるからである。きわめて高潔な悲哀に沈んでいるかと思うと、ひょっこり出しぬけに、朴訥な農民でなければ聞かれないような開けっ拡げな笑い声を立てる。またどうかすると、自分で自分のことを、諧謔的な調子で話しだすこともあった。けれど、ヴァルヴァーラ夫人にとって何が恐ろしいといって、この諧謔的な調子ほど恐ろしいものはなかった。最高の思索のためでなければ、けっして何事もしないという夫人は、女の古典派であり、女の芸術保護者であった。この高潔なる貴婦人が、その哀れな友だちに与えた二十年間の感化は、けっして僅少なものではないから、この人については別に語っておく必要がある。で、わたしは実際そうしようと思う。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 世の中には妙な友情がある。二人の友だちが、互いに取って食いそうにしていながら、そのくせ別れることができないで、一生そのまま暮らしている。いや、別れるのはぜんぜん不可能なくらいである。もし絶交などということになれば、気まぐれを起こして絶交したほうの友だちが、まず第一に病気して死んでしまうだろう。わたしは確かにこういうことを知っている。スチェパン氏はヴァルヴァーラ夫人を相手に額に額をつき合わせ、思いきって隔てのないうち明け話をしておきながら、夫人が帰ってしまうと、急に長いすから躍りあがり、両の拳を固めて壁を叩き出す、というようなことも一度や二度ではなかった。
 しかも、これには少しも比喩的な意味は含まれていないので、一度などは壁の漆喰《しっくい》を叩き落としたことさえある。ことによったら、どうしてお前はこんな機微な点まで知っているのか、と尋ねる人があるかもしれない。しかし、わたしは実際、そういうところを目撃したのだから仕方がない。事実、スチェパン氏がわたしの肩に顔を埋めてすすり泣きしながら、心の奥底を色濃く描き出したことも、一度や二度でないのだから仕方がない。(またそういう時には、ずいぶん思いきったことまで口走るものだ!)しかし、こうしたすすり泣きの後で起こることは、たいていいつもお定りであった。その翌日になると、彼はそうした忘恩な態度を悔いて、われとわが身を磔刑《はりつけ》にでもしたいような気になる。そして、ただただヴァルヴァーラ夫人が『潔白な優しい天使であるのに、自分はまるで正反対だ』ということを知らせたいばかりに、わたしを自分のところへ呼びつけるか、自分でわたしのところへ駆けつけるのだ。彼は単にわたしのところへ駆けつけるばかりでなく、夫人自身に宛てて流麗な手紙をしたため、立派に自署をして、すっかり洗いざらい白状するような場合も幾度となくあった。その手紙の文言はたいていおきまりで、つい昨日よその人にこんなことをいった、――夫人が自分の世話をしているのは、ただ虚栄心のためで、実際は自分の学識と才能を羨んでいるのだ、夫人は自分を憎んでいるけれども、それを明らさまに素振りに出して見せないのは、自分が夫人のもとを去ってしまうようなことがあったら、夫人が文学者仲間にかちえた評判を傷つけるおそれがあるからだ、こう考えると、自分という人間が馬鹿馬鹿しくなったので、ひと思いに自殺しようと決心したが、夫人の最後の言葉を待って、それでいっさいを決めることにする、云々といったような調子である。世間には五十になっても赤ん坊のような人が少なくないが、その中でもことに罪のないわがスチェパン氏の神経的発作が、時にどれくらい極端なところまで昂じたかは、これでもって想像がつくだろう? わたしも一度二人の間の諍いのあげくに書かれた、この種の手紙を一つ読んだことがある。それは原因こそ馬鹿馬鹿しいけれど、結果はなかなか毒々しいものであった。わたしはぎょっとして、その手紙を出さないように懇願した。
『いけない……公明正大にやらなくちゃ……義務だ……何もかも……すっかり奥さんにうち明けてしまわないくらいなら、わたしはもう死んでしまう!』と彼は熱に浮かされたような調子で答えた。そして、とうとう手紙は出してしまった。
 もしヴァルヴァーラ夫人だったら、こんな場合、けっして手紙など書きはしなかったろう、これが二人の違うところなのである。もっとも、彼は気ちがいじみるくらい手紙を書くのが好きで、夫人と一つ家に暮らしていながら、絶えず手紙を送っていた。少しヒステリックになった時などは、日に二通も書いてやることさえあった。わたしの確かに聞いたところでは、夫人は非常な注意をもってこれらの手紙を読んだうえ(日に二ど送ってくる場合でも)、読んでしまうとしるしをつけて、部類わけをしたうえ、特別な小箱の中へしまって置くばかりでなく、自分の胸にもしっかりたたみ込んでおくのであった。
 それから、まる一日返事をせずにうっちゃっておいて、翌日はけろりとした顔つきで、平然として顔を合わす。そして少しずつじりじりと責めつけて、しまいには、昨日のことなどおくびにも出せないように仕向けるので、スチェパン氏もややしばらくは夫人の顔を見つめるばかりであった。しかし、夫人のほうで何一つ忘れることがないのに反して、彼はどうかすると、あまり早く忘れすぎるほど忘れっぽかった。相手の落ちつきすましているのに元気づいて、もし友だちなぞ来ようものなら、その日のうちからシャンパンなど傾けながら、笑ったりふざけたりすることも珍しくなかった。そういう時、夫人がどんなに毒々しい目つきで彼を眺めたか、想像するにもあまりあるくらいだが、彼はいっこうお気がつかなかった! やっと一週間か、一月、時には半年くらい経ってから、何かの時にひょっとしたはずみで、自分の手紙の文言が頭に浮かび、つづいてその全文と、当時のいきさつがすっかり思い出される。と、恥ずかしさに全身燃えるような心持ちがして、ついには持ち前の疑似コレラめいた発作を起こすほど煩悶する。この疑似コレラめいた一種特別な発作は、ある種の場合、彼の神経錯乱のお定りの幕切れで、その体質の奇怪にして独自な点である。
 事実、ヴァルヴァーラ夫人は疑いもなく、たびたび彼に憎しみを感じたに相違ない。けれど、彼が最後まで、たった一つ見破りえないことがあった。それはほかでもない、彼がしまいには夫人の息子同様になったことである。彼は夫人の創造物、いや、夫人の発明品といってもいいくらいになりすました。実際、彼は夫人の肉から生まれ出た肉である。夫人が現に彼の世話をし、また今後もつづけて世話をするつもりでいるのは、けっして『彼の才能に対する羨望』のためのみではない。もし夫人がこんな推測を聞いたら、どんなに侮辱を感じることか! 夫人の心中には、彼に対する絶え間なき憎悪と嫉妬と侮蔑に交って、一種堪え難い愛情が潜んでいるのであった。夫人は二十二年のあいだ、彼を荒い風にも当てないようにして、乳母かなんぞのように面倒を見てやった。もし何か彼の詩人、学者、国士としての名誉にかかわることでもあったら、夫人は心配のあまり、夜もおちおち眠れなかったに相違ない。つまり、夫人は彼を自分の頭の中で生み出して、その空想の産物を、まず自分から一番に信じたのである。彼は夫人にとって、いわば一種の空想であった……しかしそのかわり、夫人は彼のほうからもずいぶん多くのものを望んだ。時としては奴隷のような服従すら必要だった。しかも、夫人はほとんど信じられないくらい、意地悪くものを覚えていた。ついでに、もう二つばかりエピソードを話しておこう。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 まだ農奴解放の噂が、初めて広がりだしたばかりの頃だった。ロシヤ全土がよろこびにみちて、面目一新の気勢を示していたとき、ヴァルヴァーラ・ペトローヴナは、ペテルブルグから来たある男爵の訪問を受けた。それは、最高の階級に多くの縁故を持った人で、農奴解放の事件にもきわめて密接な関係があった。夫人は夫の死後、上流社会との関係がだんだん薄らいで、ついにはまったく絶えてしまったので、こういう人の来訪を一かたならずありがたく思った。男爵は夫人のところに、一時間ばかりも腰を据えて、お茶を飲んで行った。ほかにはだれもいなかったが、スチェパン氏だけは夫人に招かれて、客人の前へ突き出された。男爵はもとから彼について、ちょいちょい小耳に挾んだこともあるが(もっとも、そんな様子をして見せただけかもしれぬ)、お茶のあいだにもあまり彼に話しかけなかった。もちろんスチェパン氏とても、自分の顔に泥を塗るようなことをするはずがないし、またそのものごしもなかなかみやびやかなものだった。彼はあまりいい家の生まれではなかったらしいが、妙な廻り合わせでごく幼い頃から、モスクワのある名家で育てられることになったので、したがって、非の打ちどころは何一つなかった。フランス語なぞはパリジャンのようにうまかった。こういうわけだから、男爵は一目見たばかりで、夫人がこんな田舎へ引っ込んでいても、なかなか立派な人たちに取り巻かれていることを会得すべきはずであった。ところが、実際はそうはゆかなかった。
 男爵が断固とした調子で、当時、ひろがり始めたばかりの大改革の噂が、完全に信頼すべきものだ、と保証した時、スチェパン氏は我慢しきれなくなって、突然『ウラー』と叫んだうえ、おまけに片手を振って、何か歓喜の情を現わすような身振りまでした。もっとも、その叫び声はあまり高くなく、むしろ優美なくらいだった。ことによったら、それは前から企んだ歓喜の声で、身振りもお茶の三十分ばかり前、鏡に向かってわざわざ練習したものかもしれない。しかし、どこかこう仕損じたところがあったに相違ない。男爵はにったりと、あるかないかの微笑を洩らした。が、すぐに恐ろしく慇懃な調子で、この偉大な事件を眼前に控えた露国民ぜんたいの喜悦の声が、この際いかにも当然のものだ、というようなことをちょっとのべて、それから間もなく辞し去った。しかし、帰る時スチェパン氏にも、二本の指を差し伸べることを忘れなかった。ヴァルヴァーラ夫人は客間へ帰って来ると、何かテーブルの上で捜し物でもするようなふうで、初め三分間ばかり黙って立っていたが、突然スチェパン氏のほうを振り返って、あおざめた顔に両眼を輝かせながら、歯と歯の間から押し出すような低い声で、
「わたくしこのことはけっして忘れませんよ!」といった。
 翌日、夫人はなんのこともなかったようなふうで、友だちと顔を合わした。昨日のことはおくびにも出さなかった。しかし、十三年後に、また悲劇的な衝突が起こったとき、夫人はだしぬけにこのことをいいだして、彼を責め、十三年前、初めて彼を責めた時と同じように、真っ青な顔をした。夫人が彼に向かって、『わたくしこのことはけっして忘れやしませんよ!』といったのは、生涯でたった二度きりである。この男爵事件の時はもう二度目だった。しかし、最初の場合にも、やはり夫人の性格が明らかに出ているうえに、スチェパン氏の運命に重大な意義を帯びているように思えるので、わたしはこの出来事もついでに話しておこうと思う。
 それは一八五五年の春五月、ちょうど故スタヴローギン中将死去の報知が、スクヴァレーシニキイヘ届いた後のことだった。この浮気者の老人は、クリミヤの隊へ転任を命ぜられて、急いでそこへ出かけて行く途中、胃病でなくなったのである。ヴァルヴァーラ夫人は未亡人となって、全身をすっかり喪服に包んでいた。もっとも、夫人はあまり悲嘆に暮れてもいなかった。なぜなら、夫人は性格の相違のため、もうこの四年間というもの、ぜんぜん別居の暮らしをして、夫に年年仕送りをしていたからである(主人の中将には声望と知己のほか、百五十人の農奴と俸給しかなかったので、財産の全部もスクヴァレーシニキイも、富裕な商人のひとり娘であるヴァルヴァーラ夫人のものであった)。が、それでも夫人は意外な報知に顛倒して、じっと家に閉じこもりながら、孤独を守っていた。スチェパン氏がしじゅうそばにつききりだったのは、いうまでもない。
 それは五月も春たけなわ頃で、夜ごと夜ごとの風情はえもいわれなかった。ちょうど野桜が咲き始めていた。二人の友は毎晩庭に落ち合って、夜更けるまで四阿《あずまや》に坐り込んだまま、互いに感慨や思想を披瀝し合うのであった。どうかすると、恐ろしく詩的になることもあった。ヴァルヴァーラ夫人は運命の変化に影響されて、不断よりよく話した。そして、まるで友だちの胸にぴったりと寄り添うているような具合であった。こういう状態が幾晩もつづいた。そのうちに突然ある奇怪な想念が、スチェパン氏の心に影を投げた。『もしや頼りのない寡婦《やもめ》としてあのひとは、ほかでもないこの自分に望みをかけているのじゃなかろうか? そして、一年の喪が明けると同時に、こちらから結婚を申し込むのを、待ち設けているのではなかろうか?』ずいぶん鉄面皮な考えではあったが、高潔な素質は時とすると、かえって鉄面皮なものの考え方を助長させるものでもあるし、そのうえ修養の多方面ということ一つだけでも、優に説明のできることである。彼はいろいろ考えてみたあげく、どうもそれらしいところがあると、決めてしまった。彼は思い煩った。『財産は大したものだ、それは事実だが、しかし……』実際、ヴァルヴァーラ夫人はあまり美人とはいわれなかった。背の高い骨立った女で、黄いろい顔は馬かなんぞのように、やたらに長かった。しだいしだいに、スチェパン氏の迷いは烈しくなった。彼はさまざまな疑惑に苦しめられて、二度ばかりわれとわが不決断に泣いたことさえある(彼はかなりよく泣いたものだ)。晩になると、つまり、四阿《あずまや》へやって来ると、彼の顔は自然と一種気まぐれな、人を馬鹿にしたような表情を浮かべるようになった。その表情は媚びるようでもあったが、また同時に高慢なところもあった。これは何かの拍子で自然そうなっていくので、その人が正直であればあるほど、よけい目に立つものである。この場合、事実をどう判断したらいいか、それはだれにもわからない。しかし、スチェパン氏の推察に符合するようなことは、ヴァルヴァーラ夫人の心に芽ざしていなかった、とこう解釈したほうが真に近そうである。それに、夫人は自分のスタヴローギンという姓を、たとえ劣らず世に聞こえていようとも、ヴェルホーヴェンスキイの姓に変えるようなことはしなかったに相違ない。おそらく夫人の側《がわ》としては、ただ女らしい戯れがあったにすぎないらしい。つまり、少し変わった境遇にいる女にはきわめてありがちな、無意識な女らしい要求のあらわれなのである。しかし、わたしはあえて確言しようとは思わない。女というものは、今日の時代になっても、まだ究めつくせない深淵なのだから! しかし、もうさきへ移ろう。
 とにかく、夫人は彼の奇妙な表情を、はらの中で看破していたものと考えねばならぬ。なぜなら、夫人が非常に物事にさとく、よく気がつくのに反して、彼のほうは時とすると、あまりおめでたすぎると思われるくらいだったからである。しかし、二人は依然たる調子で夜な夜なを過ごし、その会話は同じように詩的で興味があった。ところが、ある晩、夜も更けてきたので、とりわけ活気と詩趣にみちた会話を交した後、スチェパン氏の住まいとなっている離れの入口で、互いに固く手を握り合って、親しく別れを告げた。毎年夏になると、彼はスクヴァレーシニキイの大きな地主邸を出て、ほとんど庭の真ん中に立っているこの離れへ引っ越して来るのであった。彼は自分の居間へ入って、せわしないもの思いに耽りながらシガーを取ったが、まだそれを吸いつけないうちに、がっかりした心持ちで開け放した窓の前にじっとたたずみながら、皎々たる月をかすめる和毛《にこげ》のような、ふわふわした白雲に見入っていた。と、ふいに聞こえる軽い衣摺れの音に、ぴくりとして振り返った。彼の目の前には、つい四分ほど前に別れたばかりのヴァルヴァーラ夫人が、再び突っ立っている。その黄いろい顔はほとんど紫色になって、きっと食いしばった唇は、両はじをわなわな慄わしていた。まる十秒間、彼女は断固とした容赦のない目つきで、じっと無言に相手を見つめていたが、やがてだしぬけに、早口にこうささやいた。
「わたくしこのことはけっして忘れませんよ!」
 スチェパン氏はもう十年もたった後で、わたしにこの佗しい物語を伝えたが(まず入口の戸を閉めておいて、声を潜めながら話したのだ)、彼の誓っていうところによると、そのとき彼は石のようにその場へ立ちすくんでしまったので、ヴァルヴァーラ夫人が姿をかき消したのは、目にも耳にも入らなかったほどである。その後、夫人はこの出来事をおくびにも出さず、まるでなんのこともなかったように、澄ましこんでいたので、彼は死ぬまでもこのことを病気前の幻覚にすぎないと考えていた。実際、彼はその晩から発病して、二週間ばかりずうっと床についたのである。ついでにいっておくが、四阿《あずまや》の逢いびきもそのために自然中止になった。
 しかし、幻覚にしてしまおうという考えもありながら、彼は毎日、死ぬまでも、この事件の後日譚、いわばこの事件の解決を、待ち佗びるような気持ちになっていた。このことがあのままですんでしまったとは、どうしても信じられなかった。もしあのままですんでしまったとすれば、彼はときどき自分の親友の顔を眺めて、妙な心持ちを抱かざるをえないではないか。

[#6字下げ]5[#「5」は小見出し

 夫人は彼のために、自分で着物まで工夫してやった。で、彼も一生涯それを着通したが、その着物は優美で、一風かわっていた。裾の長い、ほとんど上までボタンのついた、すこぶるハイカラな落ちつきのよい黒のフロック、鍔の広い柔かい帽子(夏は麦藁帽に変わった)、結び目の大きい両端の垂れた白い精麻《バチスト》のネクタイ、銀の金具のついたステッキ、そして、髪は肩まで垂れていなければならぬ。スチェパン氏は黒味がかった亜麻色の髪をしていて、それもこの頃やっといくらか白くなり始めたばかりである。鼻ひげも顎ひげも綺麗に剃り上げていた。噂によると、若い時は非常な好男子だったそうだが、わたしにいわせると、年をとってからも、なかなか押し出しが堂々としていた。それに、五十三やそこらでは年をとったというほどでもない。しかし、彼は一種の公民としての見得のために、けっして若がえろうとしなかったばかりでなく、かつは押しも押されもせぬ不惑の年輩に入ったことを、得意にしているようであった。で、くだんの着物をきて、髪を肩まで垂らした、痩せぎすのすらりとした彼の姿は、僧正か何かに似ていた。というよりは、三十年代の頃にどこかの本屋から出版された石版画の詩人クーコリニックに似ている、といったほうが適評だろう。ことに夏、庭の中で、咲き満ちたライラックの木陰に置かれたベンチに腰を下ろし、ステッキに両手を掛けてもたれながら、ページを開いた本を傍に置いて、伏目がちに落日に向かって詩的な瞑想に耽っている時などは、まるでそっくりそのままであった。
 本といえば、晩年になって、彼はどうやら読書から遠ざかったようである。もっとも、それはずっと後のことで、ヴァルヴァーラ夫人が取り寄せてくれる数多くの新聞雑誌には絶えず目を通して、ロシヤの文壇で評判になった物語などにも、しじゅう気をつけていた。もっとも、自分の見識だけはけっして落とさなかった。一どロシヤ現代の高級な内政外交の研究に没頭しかけたこともあるが、間もなくこの計画も諦めて、ほうり出してしまった。また時々トクヴィールを庭へ持ち出して読んだり、ポール・ド・コックをかくしの中へひそまして、持ち歩いたりすることもあった。しかし、これなどは問題にもならぬつまらないことだ。
 余計なことだが、ついでにクーコリニックの肖像のこともいっておこう。この絵が初めてヴァルヴァーラ夫人の目に入ったのは、まだモスクワの名門の寄宿学校にいた娘時分のことである。寄宿舎にいる若い娘というものは、何にでも手当たり次第に恋をするものだが(学校の先生たちも彼らの恋の対象になる、それも主として、習字と絵の先生である)、ヴァルヴァーラ夫人もその例にたがわず、さっそくこの肖像に恋してしまったのだ。しかし、面白いのは、こうした若い娘の特質ではなくて、夫人が五十からになる今日の日まで、この絵を自分の最も懐かしい秘蔵品の一つとして、大切に保存していることである。こういうわけであるから、夫人がスチェパン氏に作ってやった服装も、幾分この絵に描いてある着物に似せたのかもしれない。が、これももちろん、つまらぬことだ。
 最初の数年間、というよりも、むしろヴァルヴァーラ夫人のもとに暮らした期間の前半は、スチェパン氏もしじゅう何か著作のことを考えて、毎日のように真面目な心持ちで書き始めるのであったが、その後半期になると、もはや前のほうは忘れてしまったようなふうつきだった。『もうすっかり仕事にとりかかる用意もでき、材料も集めてあると思うのだが、どうも働く気持ちになれない! なんにもできない!』暗然と首を垂れながら、われわれに向かってこんな愚痴をこぼす度数が、だんだんと多くなっていった。こういう事実もわれわれの目から見て、科学の殉教者たる彼の偉大さを増す所以となったに相違ないが、しかし、彼自身は何か別なことを望んでいたらしい。『おれはみんなに忘れられてしまった。もうおれはだれにも用のない人間なのだ!』こんな言葉が思わず口を突いて出ることも、一再にとどまらなかった。この仰々しい憂欝のしるしは、五十年代の終わり頃に、とくに烈しく彼を領したのである。とうとうヴァルヴァーラ夫人も、これは冗談事でないと思った。それに、自分の友が世間から忘れられて、無用人になりはてたなどと考えるのは、夫人にとって、とうてい堪えうるところでなかった。で、彼の気を紛らし、かたがたその名声を回復するために、夫人は彼をモスクワへ連れて行くことにした。そこには文士や学者の仲間に、幾人か優雅な知人があったので。しかし、行ってみると、モスクワもあまり感心しなかった。
 それは一種特別な時代であった。以前の静けさとは似ても似つかぬ。まるで新しい、しかも妙に恐ろしいあるものがやって来たのである。このあるものはいたる処で、――スクヴァレーシニキイのような田舎でさえも、それとなく感じられた。さまざまな噂も伝わってきた。いろいろな事実も、精粗の差こそあれ、全体としてわかってきた。けれど、疑いもなく、事実のほかに、まだ何かそれに伴う思想がある。しかも、その数がまた大変なものだ。つまり、これが頭を混乱させるのであった。どうしてもそれに順応することができず、またその思想が何を意味するかを正確に突き留めることもできなかったのである。ヴァルヴァーラ夫人は女性特有の性質で、必ずその中に秘密があるものとしなければ、承知できなかった。彼女は新聞雑誌を初め、外国の出版物や、当時もう出はじめた檄文(こんなものまで夫人の手に入ったのだ)にいたるまで、自分で読んでみたけれど、ただ目の廻るような気持ちを覚えたばかりである。で、今度は手紙を書きにかかった。しかし、あまり返事が来なかったうえに、せっかく来た返事もだんだんわからなくなっていった。スチェパン氏は、『こんなふうの思想をすっかり』一度できっぱりわかるように説明してほしいと、改まって夫人のところへ呼ばれて行った。が、その説明には夫人は恐ろしく不満足だった。この世間一般の運動に対するスチェパン氏の見解は、思いきって尊大なものであった。そして、彼のいうことはことごとく、自分は世間から忘れられた、自分はだれにも用のない人間だ、という一点に帰着してしまった。
 しかし、ついに彼も人の口に上るようになった。はじめ二、三の外国で出る刊行物が、彼のことを流謫の受難者と評し、また次に間もなくペテルブルグで、かつて輝かしい星座に加わっていた一つの遊星として、噂をしだした。中には、どういうわけだか、ラジーシチェフ([#割り注]ロシヤの文学者(一七四九―一八二〇年)『ペテルブルグよりモスクワへの旅』で農奴制を公然と非難したため筆禍を買った[#割り注終わり])に比較するものさえあった。それからまただれかが彼の訃報を伝えて、近いうちにその小伝を掲載すると予告した。スチェパン氏はたちまちよみがえった。そして、恐ろしく気取り始めた。現代の人々に対する高慢な態度は、ことごとく一時に姿を消したばかりか、かえって現代の運動に加わって、力量を世に示したいという空想が、彼の心中に燃え始めた。ヴァルヴァーラ夫人は、再びいっさいを信用してしまって、恐ろしく騒ぎだした。で、一刻の猶予もなくペテルブルグへ出かけて、いっさいを実地に調査し、親しくその空気を呼吸してみたうえで、もしできるならば、直接あたらしい事業に全身を捧げようと、決心したのである。そのとき夫人は自身で一つ雑誌を発行して、それに一生をささげるつもりだといいだした。事がこれほどに進行したのを見たスチェパン氏は、ますます高慢になってきた。そして、ペテルブルグへ行く途中などでは、ほとんど保護者然たる態度で、ヴァルヴァーラ夫人に向かうようになった。このことも夫人は胸の奥深くたたみ込んだ。もっとも、この旅行については、夫人にしてみると、きわめて重大な原因がほかにあった。つまり、上流の社交界における地位の復興である。できるだけ社交界で、自分のことを思い出させなければならない、少なくとも、試みをしてみる必要がある。しかし、まず第一の口実は、当時ペテルブルグ大学の業を卒えんとしていた、一人息子に会いに行くということであった。

[#6字下げ]6[#「6」は小見出し

 ペテルブルグへ着いた彼らは、そこで冬のシーズンをだいたい過ごした。けれど、四旬斎近くなる頃には、何もかも虹の色をしたシャボン玉のように、脆くも消えてしまった。空想はむなしく散り失せた。しかも、わけのわからぬ何物かは、少しもはっきりしないばかりか、かえってますますいまわしくなってゆくのであった。第一、上流社会における地位の回復は、ほとんど不成功に終わって、恥ずかしい無理な運動をしたあげく、やっと一縷の関係を取り留めたにすぎない。これに侮辱を感じたヴァルヴァーラ夫人は、もう遮二無二『新しい思想』を目ざして飛びかかった。そして、自分の住まいで夜の小集会を催しては文学者などを招き寄せたのである。こういう連中は、うようよするほどやって来て、はては招待もなしに自分でのこのこ押しかけて来るようになった。そして、だれもかれも新たに自分の友だちを引っ張って来る。夫人は今までこんな文学者を見たことがなかった。鼻持ちがならぬほど見栄坊で、しかも、そうするのが自分の義務であるかのように、全然おおっぴらなのである。中には(けっして皆が皆とはいわぬ)、酔っぱらってやって来ながら、つい昨日あたり発見された特殊な美でも自覚したような顔つきをしている者もあった。みな揃いも揃って不思議なほどなにやかやと誇りばかり高く、その顔には『われわれはたった今、ある非常に重大な秘密を発見したばかりなんです』とでも書いてあるように見える。彼らは絶えず罵り合って、しかも、それを名誉のように心得ている。いったいどんなことを書いているのかわからないが、その中には批評家もいれば、小説家もいるし、脚本家も諷刺家も、あらさがしの専門家もいた。
 スチェパン氏は、一代の運動を支配しているこの連中の、一流株のサークルへも首を入れてみた。こういう支配者の階級は、ちょっと信じかねるくらい高いところにあったが、それでも彼らは愛想よく氏を迎えた。もっとも、彼らはスチェパン氏について、『ある思想を代表する人』とよりほかには、何一つ知ることも聞くところもなかったのはもちろんである。彼はこの人たちの周囲で大いに活動して、彼らがオリンピアの神々にもたとうべき高い位置に納まっているにもかかわらず、ヴァルヴァーラ夫人の客間へ、二度ばかり招待したことさえあった。この連中は恐ろしく真面目で、丁寧で、立ち居振舞いも尋常だった。ほかの連中は、見受けたところ、彼らを恐れているらしかった。しかし、見るから暇がないというようなふうだった。また、ヴァルヴァーラ夫人が久しい前から、みやびやかな交際をつづけていた前時代の著名な文学者で、当時ペテルブルグに居合わせた人たちも、二、三顔を見せた。けれど、驚いたことには、こうした本当の大家、疑う余地のない大家が、水よりも静かに、草の葉よりもつつましやかなのであった。中には明らかに、今のわいわい連に付和雷同して、意気地なくその鼻息をうかがっているようなのもあった。
 初めのうち、スチェパン氏は廻り合わせがよかった。彼は方々から引張り凧になって、いろいろな文学会の席へ引き出されるようになった。初めてある公開の朗読会で、朗読者の一人として演壇に現われたとき、割れるような拍手が起こって、ものの五分間ばかり鳴りもやまなかった。彼は九年後に涙とともにこのことを思い出した、――もっとも、それは感謝の涙というより、むしろ持ち前の芸術的性情から出たことである。『本当だよ、誓ってもいい、賭でもするよ』と彼はわたしにいった(これはわたし一人にだけ秘密でうち明けたのである)。『この聴衆の中で、わたしのことを少しでも知っているものは、まるっきりいなかったんだからねえ!』これはなかなか意味深い告白である。もし彼が当時演壇に立った刹那、感激に溢れた心をいだきながら、そのくらい明確に自己の地位を意識しえたとすれば、つまり犀利な機知を持っているということになる。が、同時に、九年もたった後、侮辱の感なしにこれを回想することができなかったとすれば、彼には犀利な機知がないということになる。
 彼はまた二、三の連名抗議文に署名をしいられて(何に対する抗議やら、彼自身も知らない)、署名をした。ヴァルヴァーラ夫人も、何かしら『けがらわしい仕事』に署名をしいられて、これも同様に署名した。もっとも、これらの新しい人たちの大多数は、ヴァルヴァーラ夫人を訪問には来るけれど、なぜか隠しきれない嘲りと軽蔑の念をもって、夫人を見おろすのを義務と心得ていた。その後スチェパン氏が心安からぬ折々に、わたしにほのめかすところによると、夫人はこの時から彼を羨み始めたのだそうである。もちろん、夫人もこんな連中を相手にすべきでないことは、自分でよく承知していたけれど、それでも婦人特有のヒステリックな焦躁をもって、夢中になってこの連中を迎えた。何よりも、しじゅう何ものかを待ち設けるような心持ちが、強かったのである。こうした夜の集会では、夫人はあまり多く話さなかった。むろん、その気にさえなれば、話すこともできたのだが、どちらかといえば人の話を傾聴するほうが多かった。その連中の話題といえば、検閲の撤廃、硬音符([#割り注]子音に終わる語の後に付ける無音の記号[#割り注終わり])の廃止、ロシヤ文字を廃してラテン文字を代用すること、きのうだれやらが追放されたという話、勧工場で見苦しい騒ぎが始まったという噂、自由な連邦組織の下にロシヤを民族別で分立さしたほうが有益だという説、陸海軍を廃止すること、ドネープル流域のポーランドの土地復興、農民改革と檄文の配付、相続制度、家族制度、親子関係、僧侶制度などを全廃すること、婦権を高唱すること、万人が異口同音にその非を鳴らしているクラーエフスキイ氏([#割り注]当時の一流雑誌『祖国雑誌』の発行者[#割り注終わり])の邸宅のこと、――こんなものであった。
 こうした新人のわいわい連の中に、ずいぶんいかさま者が混っているのは明白だったが、正直なごく人好きのする人たちも大勢いたのは、疑いをいれない。もっとも、どこか奇態なところが少なからずあったのは、仕方のないことだ……しかも、正直な人たちは、不正直で無作法な連中より、余計わけのわからない点が多かったが、それにしても、いったいだれがだれの牛耳を取っているのか、さっぱり見当がつかなかった。ヴァルヴァーラ夫人が雑誌発行の意志を発表した時、またもや以前に増して多くの人が押しかけて来るようになった。やがて間もなく夫人に面と向かって、お前は資本家だ、労力を搾取しているのだなどと、さまざまな非難を浴びせ始めた。こうした種類の非難は、だしぬけであると同じ程度に無作法であった。
 イヴァン・イヴァーノヴィチ・ドロズドフという、ずいぶん年をとった将軍があった。これは亡きスタヴローギン将軍の同僚であり、また親友でもあって、ごくごく立派な(といっても、それは一種特別の立派さなので)人物であった。わたしたちはみんなこの人をよく知っていたが、思いきって頑固な癇癪持ちで、非常な大食と非常な無神論きらいで知られていた。これがある晩ヴァルヴァーラ夫人のところで、一人の有名な青年文学者と争論を始めたことがある。青年文学者は開口一番、『もしそんなことをおっしゃるなら、あなたは将軍といわれても仕方がありませんよ』つまり、将軍という言葉以上の、ひどい罵詈の言を見いだしえない、という意味なのであった。ドロズドフ将軍は烈火のごとく怒った。『そうじゃ、わしは将軍じゃ、陸軍中将じゃ、わが皇帝陛下にお仕え申した男じゃ。それになんじゃ、貴公はただの小僧じゃないか、神様を持たん人間じゃないか』で、とうとう許すべからざる醜態が演出された。翌日この出来事が新聞にあばかれたけれど、この将軍をすぐにその場から追い出そうとしなかったヴァルヴァーラ夫人の『醜行』に対しては、連名の抗議が準備された。また絵入雑誌は一つの漫画を掲げて、ヴァルヴァーラ夫人と老将軍とスチェパン氏を、保守党仲間の三幅対として画中に並べたうえ、この事件のためにわざわざある国民詩人を煩わした一編の詩を添えたほどである。わたし一個の意見を述べてみようなら、実際、将軍の位にある多数の名士は、滑稽なものの言い方をする癖がある。『わしはわが皇帝陛下にお仕え申した』……などと、まるでこういう人たちの皇帝陛下は、われわれ平民のとは同一人でない、別な皇帝陛下ででもあるような具合である。
 もうこのうえペテルブルグに止まることは、とうていできなかった。それにまだスチェパン氏は、取り返しのつかぬ失態を演じたのである。ほかでもない、彼はついに我慢ができなくなって、芸術の権威を主張しはじめたので、世間ではなおさら彼を馬鹿にするようになった。最後に出席した朗読会で、彼はあっぱれ公民として恥ずかしからぬ雄弁を揮って、聴衆の胸の琴線に触れ、自分の受けている『迫害』に対して尊敬を喚び起こすつもりだったのである。彼は『祖国』なる言葉の無益で滑稽なことには異論なく同意し、宗教の有害という思想にも賛成したけれども、ただ長靴はプーシキンより価値の低いものだ、比較にならぬほど低いものだと、臆面もなく断固としていいきった。聴衆はいっせいに容赦なく、口笛を吹いて騒ぎだしたので、彼は演壇をおりもやらず、そのままそこで手放しで泣きだした。ヴァルヴァーラ夫人は、ほとんど生きた心地もない彼を引っ張って、家へ連れて帰ったのである。〔“On ma'a traite' comme un vieux bonnet de coton!”〕(あの連中は、わたしをまるで木綿の部屋帽子かなんぞのように扱いおった)と彼は意味もなくこうくり返した。夫人は夜っぴてその傍につききりで、ベーラムの雫をたらしてやりながら、夜の明けるまでくり返しくり返しこういった。『あなたはまだまだなすところのある人です。あなたはまた世に出る時がきます。また人に認められる時がきます……ほかの土地へ行けばね……』
 翌日の早朝、ヴァルヴァーラ夫人のもとへ、五人の文学者が訪ねて来た。そのうち三人は、今までまるで見たこともない、まったく縁もゆかりもない男だった。彼らはしかつめらしい顔つきをして、自分たちは夫人の雑誌発行の件を商議して、これに関する決議をもたらしたのだと切り出した。ヴァルヴァーラ夫人は、今までだれにも雑誌のことについて、商議をしてくれとも、決議をしてくれとも、依頼したことはなかったのだ。決議というのはほかでもない。夫人は雑誌の基礎を定めたら、これを自由組合の組織にして、資本も何もそっくり自分たちに引き渡したうえ、スクヴァレーシニキイヘ帰ってもらいたい、そしてついでに『頭の古くなった』スチェパン氏をも、連れて帰ることを忘れないでほしい、しかし、夫人の所有権を認めて、毎年収入の六分の一を送ることだけは、彼らも礼儀上承諾する、というのであった。何より感に堪えないのは、この五人の連中のうち確かに四人までは、少しも利己的な目的なしに、ただただ『公共の事業』のために尽力している、という点であった。
『わたしたちは、まるで腑抜けのようになってペテルブルグを出ましたよ』とスチェパン氏はよくこう話した。『わたしはもうなんにも考えることができなかった。ただ今でもおぼえているのは汽車のわだちの音に合わせて、
[#ここから2字下げ]
ヴェーク イ ヴェーク、イ レフ カムベーク
レフ カムベーク、イ ヴェーク イ ヴェーク……
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]([#割り注]「ヴェーク」は「世紀」或いは「時代」、「イ」は「および」、「そして」の意、レフ・カムベークは人名、いかなる人なるや不明[#割り注終わり])
とまあ、こんなわけのわからないことを、モスクワへ着くまで、のべつ口の中で、念仏のようにくり返していたものさ。モスクワへ着いて、やっと初めて人心地に返った、――実際、ここで何かしらまるで違ったものを、見つけたような気がしたよ、諸君』と彼は時おりわたしたちに向かって、感激に打たれながら叫ぶのであった。『ああ、きみたちにはとても想像できんだろう、自分が久しい前から、神聖なものと崇めていた偉大な思想を、わけのわからない連中が手づかみにすると、自分たちと同じような馬鹿者に見せるために、往来へ引き摺り出してさ、馬鹿な子供の玩具《おもちゃ》か何かにするつもりで、均斉も調和もなく片隅のほうへ、古道具市の泥の中へ、もう見わけもなにもつかないくらいなありさまにして、浅ましくほうり出しているのを、通りすがりにふと見つけたような時、いったいどんな憂愁と憤懣に胸を掻きむしられることか! なんの、なんの! われわれの時代はこんなふうじゃなかった、われわれの努力の目的はそんなものじゃなかった。どうしてどうして、まるっきり違っていた。わたしには少しも見わけがつかん……そのうちに、またわれわれの時代がやってきて、現代のふらついているいっさいの事物を、堅実な道へ引き戻してくれるに相違ない。そうでもなければ、いったいどうなることかわかりゃしない……』

[#6字下げ]7[#「7」は小見出し

 ペテルブルグから帰るとすぐ、ヴァルヴァーラ夫人は自分の親友を外国へ『休息』にやった。それに、二人はしばらく別れている必要があるということを、夫人も心に悟ったのである。スチェパン氏は歓喜の情に燃えながら旅立った。『向こうへ行ったら、わたしは復活します!』と彼は叫んだ。『向こうへ行ったら、わたしも今度こそ学術の研究にとりかかります!』ところが、ベルリンへ着くと早々送って来た手紙には、またもやお定りの文句が並べてあった。『老生の心はすでに疲れはて申し候』こう彼はヴァルヴァーラ夫人に宛てて書いた。『老生はいっさいのことを微塵も忘れ申さず候。このベルリンにありては、すべてが老生の古き過去を思い起こさせ申し候。わが最初のよろこびとわが最初の悩みとを、思い起こさするをいかにすべき! ああ、彼女は今いずこにかある? かの二人の女《もの》はそもいずこにかある? ああ、汝《いまし》らは今いずこにか去りつる? いましらは腑甲斐なきわれの妻たるには、もったいなきばかり美しく、天使にも似たる女なりしよ! ああ、またわがいとし子はいずこをかさ迷える? しかして、われみずからは今いずこにかある、――鋼《はがね》のごとき力を持し、大磐石をも欺く毅然たる精神を有したる、昔のわれはそもいずこにかある! おお、今は正教を奉ずる一介の道化にすぎざるアンドレエフとやらんいえる髭むさき老爺すらも peut briser mon existence en deux(わが存在を真二つに打ち割り得るに非ずや)』というような類であった。
 ついでに、スチェパン氏の息子のことをいっておくが、氏が自分の息子を見たのは、後にも先にもたった二度しかない。一度は子供が生まれた時で、二度目は、さきごろ、もう一人前の青年となった息子が、大学へ入ろうというとき、ペテルブルグで会ったのである。それまでは、前にもちょっといっておいたとおり、ずっとO県の叔母さんの手もとで人となったのである。それはスクヴァレーシニキイから七百露里ほど離れた所で、費用はヴァルヴァーラ夫人が引き受けていた。アンドレエフとは何者かというに、これはただなんでもない、わたしたちの町の小商人だが、独学で考古学を修めたという変わり者で、ロシヤ古代の遺品を熱心に蒐集して、スチェパン氏とも時おり知識というより、むしろ主義上の鞘当をすることがあった。この胡麻塩ひげを生やして銀縁眼鏡をかけた相当地位のある商人が、スクヴァレーシニキイに隣り合ったスチェパン氏の小さな領内にある幾町歩かの森の採伐権を買い取りながら、その代金四百ルーブリを払わないのであった。もっとも、ヴァルヴァーラ夫人は自分の友人をベルリンへ送り出す際、十分の手当をしてやったのだが、スチェパン氏は出立前に、この四百ルーブリをたぶん内証の小遣いにとでも思ったのであろう、とくべつ当てにしていたので、アンドレエフがもう一月待ってくれと頼んだときには、泣きださないばかりであった。しかし、商人はこの延期に対しては、立派に権利をもっていたのだ。なぜというに、半年ばかり前スチェパン氏が非常に困っているとき、まとまった金を前払いで渡しておいたからである。
 ヴァルヴァーラ夫人は貪るように、この最初の手紙を読んだ。そして『かの二人の女《もの》はそもいずこにかある?』という叫びに鉛筆でアンダーラインを引いて、年月日をつけ、手箱の中へ入れ鍵をかけた。もちろん彼は亡くなった自分の二人の妻のことを思い出したのである。
 二度目にベルリンから届いた手紙では、歌の調子が少々違っていた。
『老生は日ごとに十二時間ずつ働きおり候(せめて十一時間くらいに遠慮しとけばいいのに、とヴァルヴァーラ夫人はつぶやいた)。図書館をあさり校合をなし、書抜きを作り、ここかしこと馳せ廻り、もろもろの教授たちを訪《おとな》うこと、これらが老生の仕事にこれ有り候。ドゥンダーソヴァ一家とも旧交を温め候が、ナジェージダ・ニコラエヴナの今にいたりても艶色を失わざるは、驚かるるばかりに候。貴女へよろしくとのことにござ候。その年若き夫を初め甥三人も、みなベルリン住まいにて、夜ごと夜ごと若き人々と共にしののめ近きまで語り明かし、アテネの夜な夜なもかくやと思わるるばかりに候。ただし、その似通いたるところは、優美にして洗練せられたる趣味の点のみなることを、ご承知くだされたく候。すべては気品にみち候いて、楽の音(主としてスペインふうの節奏)に耳を傾け、全人類の更生を夢み、永久の美にあくがれ、システィンのマドンナを語り、闇をつん裂く光明を空想いたし候。とは申せ、月に叢雲のたとえをいかにいたし候べき! おお、わが友よ、高潔にして信篤きわが友よ! 老生は常に貴女と心をともにし、老生の心身は貴女のものにこれ有り候。貴女とはいつ en tout pays(いかなる国にありても)離るることはこれなく候。かのペテルブルグ出発の際、身内の戦慄をとどめえずして、貴女とともに語りたる、dans le pays de Makar et de ses veaux(マカールとその子牛の国)にても厭いはこれなく候。老生はいま当時のことどもを、微笑とともに追憶いたしおり候。ああ、国境を越えてこの方、老生はいま幾十年来はじめて身の安泰と、あやしくも新たなる気分を味わい申し候……云々』
「ふん、みんな寝ごとだ!」とヴァルヴァーラ夫人は手紙をたたみながら、こう決めてしまった。「アテネの夜な夜なが、しののめまでも続くとしたら、一日に十二時間ずつも机に向かっているはずがない。いったい酔っぱらったあげくにでも書いたのかしら? それに、あのドゥンダーソヴァ、よくもまあずうずうしく、わたしによろしくなどといえたものだ。だけどまあ、あの人にもちっとは気保養さしたほうがいいのだ……」
 “Dans le pays de Makar et de ses veaux” の句は、『マカールの子牛を追うて来ぬところ』([#割り注]鳥も通わぬ国の意[#割り注終わり])というロシヤの諺を直訳したものである。スチェパン氏はロシヤの格言や固有の諺を、わざと間の抜けたフランス語に訳すことが時々あった。そのくせ、自分でははるか巧みに解釈することもできれば、翻訳する腕もあるのはもちろんだが、彼がこんなことをするのは、一種特別な見栄のためで、これを何か非常に気の利いたことのように思っているのであった。
 しかし、彼の気保養はほんの少しばかりの間だった。彼は四か月と辛抱しきれないで、尻に帆を上げるようにして、スクヴァレーシニキイヘ帰って来た。最後に届いた幾通かの彼の手紙は、遠く離れた友に対する感傷的な愛の訴えのみに埋められ、まったく形容でなく別離の涙に濡れていた。世の中にはまるで狆かなんぞのように、非常によく家に馴れつく性質の人がある。二人の親友の再会は歓喜にみちたものであった。が、二日の後すべてはもとのごとくに、いや、もとよりもなお単調に流れ始めた。
『ねえ、きみ』二週間たった時、スチェパン氏はわたしに向かって、ごく内証でこういった。『ねえ、わたしは自分にとって恐ろしい……新事実をきみにうち明けよう。Je suis un(わたしはただ一介の)居候にすぎないのだよ、et rien de plus! Mais r-r-rien de plus!(それっきりの者だよ! ま、まったくそれっきりの者なんだよ!)』

[#6字下げ]8[#「8」は小見出し

 それから、この町の気分にも凪《なぎ》が生じて、その後ずうっと今日まで九年間つづいた。規則正しくくり返されるヒステリックの発作も、わたしの肩にもたれかかってのすすりなきも、いっこうわれわれ仲間の泰平な生活を妨げなかった。それどころか、むしろスチェパン氏がこの間にぶくぶく肥えていかないのが不思議なくらいであった。ただ変わったのは、彼の鼻が少し赤くなって、ますますお人好しの特色が著しくなったくらいのものである。
 だんだんと彼の周囲には、一つのサークルが形作られていったが、しかし、いつも人数は多くなかった。ヴァルヴァーラ夫人はあまりそのサークルに関係しなかったが、わたしたちは夫人を保護者に決めていた。ペテルブルグでこりごりした夫人は、すっかりこの町に腰を据えてしまって、冬は町の持家を住居とし、夏は郊外の領地に引き移ることに決めていた。最近七年間、つまり、今の県知事が赴任して来るまで、彼女はこの町の交際社会に素晴らしい勢力をもっていた。前県知事のイヴァン・オシッポヴィチは今でも町の人が忘れかねているほど優しい良二千石《りょうにせんせき》であったが、これがヴァルヴァーラ夫人の近い親戚に当たるうえ、むかし夫人の世話になったこともあるので、知事夫人などはヴァルヴァーラ夫人の機嫌でもそこねたら大変と、しじゅうびくびくものであった。夫人に対する県ぜんたいの崇拝は、苦々しく思われるくらい極度に達した。したがって、スチェパン氏にとっても万事都合がよかった。で、彼はクラブの一員となって、もったいぶった様子をしながら、カルタに負けてばかりいた。しかし、世間の人は単に『学者』として彼を見ていたけれど、とにかく一般の尊敬を受けていたのである。その後、ヴァルヴァーラ夫人が彼に別居を許すようになって以来、われわれはなおのこと自由になった。われわれは週に三度ずつ彼のところに集まったが、彼が惜気もなくシャンパンを振舞う時なぞは、とくに賑かであった。酒は例のアンドレエフの店で取ってきて、年に二度ずつヴァルヴァーラ夫人が勘定を取り寄せ、払いをすることになっていたが、その勘定日はたいていいつもスチェパン氏のヒステリイを起こす日であった。
 われわれのサークルで一ばん古いのは、リプーチンであった。これはもう中年の県庁役人だったが、大の自由主義者で、町でも無神論者で通っていた。二度目の細君は若い綺麗な女で、彼はこの女の持参金に目をつけてもらったのである。そのほか、彼は三人のだいぶ大きな娘を持っていた。家族の者は彼の前に慴伏してしまって、まるで押籠めも同様な暮らしをしていた。彼は恐ろしい吝嗇家《しまつや》で、ために俸給で小さな家も買い込めば、ちょっとした財産もこしらえていた。落ちつきのない男であるうえに、官位もごく低いところなので、町でもあまり人に尊敬せられず、上流ではてんで相手にされなかった。そのうえ、彼はあまねく知れ渡った中傷家で、一再ならずひどい目にあったことがある。なんでも一度はある将校、二度目はれっきとした一家の主人であるさる地主にやられたのである。しかし、わたしたちは彼の鋭い機知と、好奇心の強い性質と、一種特別な毒々しい快活な態度が好きだった。ヴァルヴァーラ夫人は彼を毛嫌いしていたにもかかわらず、彼はいつも巧みに夫人に取り入るのであった。
 夫人はまた、つい去年仲間に入ったばかりのシャートフも嫌いだった。シャートフは以前大学生だったが、ある学生騒動のために除名された。子供の時分は、スチェパン氏の教え子だった。もともと彼は、ヴァルヴァーラ夫人のかかえ百姓で同家の侍僕をしていたパーヴェル・フョードロフの子で、夫人には一方ならぬ世話になったのである。ところが、大学を逐《お》われたのち、真っ直ぐに夫人の手もとへ帰って来ないばかりか、当時夫人がわざわざ送った手紙に返事も出さないで、どこかの開けた商人の家へかかえられ、子供の教育を引き受けたために、夫人はその高慢な忘恩の振舞いを憤慨して、それ以来彼をゆるすことができないのである。彼はこの商人の家族とともに、家庭教師というよりも、むしろ書生という資格で外国へ乗り出した。彼は当時、矢も楯もたまらず、外国へ行きたかったのだ。彼のほかにも、ひとり女の家庭教師がついていた。これは出発直前に、値段の安いのが気に入って雇われたおてんばなロシヤ娘であったが、二た月ばかりたってから、商人は『女にあるまじき放縦な思想』をいだいているといって、この女を追ん出してしまった。すると、シャートフも女の跡を追って家を飛び出し、間もなくジュネーブでこの女と結婚した。二人は三月ばかりいっしょに暮らしたが、そののち互いになんの拘束も受けない自由の人として、別れ話になってしまった。原因はむろん貧のためである。それから長い間、どこということもなくヨーロッパじゅうさ迷い歩いた。人の話では、往来で靴磨きをしていたとか、ある港で担夫《かるこ》までしたとかいうことである。とうとう一年ばかり前に、もとの古巣へ立ち戻って、年とった伯母さんのところで暮らしたが、その伯母さんも一月たった後に、もう葬らなければならなかった。
 やはりヴァルヴァーラ夫人に養われながら、その寵児としてごく上品に育て上げられた妹のダーシャ([#割り注]ダーリヤ[#割り注終わり])とも、彼はきわめて遠々しくしていた。仲間のあいだでも、彼はむっつりとして口数が少なかったが、たまに自分の信念にさわられた時なぞは、病的にいらだってきて、恐ろしく不謹慎な口のきき方をする。『シャートフという男はまず縛りつけておいて、それから議論にかからなくちゃ駄目だよ』よくスチェパン氏はこういって戯れたが、しかし、彼はシャートフを愛していた。外国へ行っている間に、彼は以前の社会主義的な思想を根本から変えてしまって、一躍、正反対の極へ飛び移ったのである。彼はとつぜん何かある強い思想に心を射られると、もうすっかりそれに圧伏されてしまい、どうかすると、永久にその思想の威力を免れられないような、典型的ロシヤ人の一人であった。こうした連中はその思想の是非を判別できないで、ただ無性に信じてしまう。で、彼らの生活は、まるで上から落ちかかった石の下に敷かれて、半分押しひしがれながら、虫の息でぴくぴくしているような、そういう有様で過ぎてしまうのである。
 外貌からいっても、シャートフはよくその信念に相当していた。彼は無骨で、髪は白っぽい光沢《つや》を帯び、毛深くて、背が低く、肩幅が広くて、唇が厚く、白っぽい眉は欝陶しく垂れさがり、額にはいつも皺を寄せ、無愛想な何か恥じるような目は、しぶとそうに伏せられていた。彼の頭には、いつも一束の髪がぴんと突っ立っていて、どうしてもおとなしく臥《ね》ようとしなかった。年は二十七か八であった。
『あの男の家内が逃げ出したというのも、ちっとも不思議はありゃしません』ある時ヴァルヴァーラ夫人は、じっと彼の様子を見つめた後に、こんな批評を下したくらいである。
 彼はひどく貧乏だったけれど、みなりだけは、小綺麗にしようと苦心していた。今度もヴァルヴァーラ夫人の助力を求めようとしないで、本当にその時その時の出たとこ勝負で、口すぎをしていた。商人たちの家庭教師も勤めてみた。一度などは、小店の店番をしたこともあるし、その後ある手代の助手という資格で、汽船《ふね》に乗って行商に出ようとまでしたこともあった。けれど、出立の間際に病気したため沙汰やみとなった。実際、彼がどのくらいまで貧困に堪えていき、かつそれをいささかも意に介せずにいられるか、想像もむずかしいくらいであった。
 ヴァルヴァーラ夫人は彼の病後、そっと無名で百ルーブリの金を送った。しかし、彼はその秘密を察してしまったので、しばらく考えた後、その金を納め、夫人のもとへ礼におもむいた。夫人は夢中になってよろこんで彼を迎えた。が、ここでもまたあつかましく、夫人の期待を裏切った。鈍い目を伏せて床を眺めながら、馬鹿げた微笑を浮かべつつ、僅か五分ばかり坐っていたかと思うと、とつぜん夫人の話の最も佳境に入ったところを聞きさしに、つと立ちあがって、横向きに不器用なお辞儀をした。そして、きまり悪さにすっかりあがってしまい、行きがけの駄賃に、高価な飾りつきの仕事づくえを轟然と床の上に倒してばらばらに毀したまま、面目なさに生きた心地もなく逃げ出した。リプーチンは、そのとき彼がもとの暴君たる地主の手から出た百ルーブリの金を傲然と突き返さず、のめのめと受け取ったばかりか、おまけに、お礼にまで出かけたといって、後でひどく彼を責めた。彼は町はずれに孤独な生活を送って、仲間のものが行ってもよろこばなかった。スチェパン氏の家の集まりには絶えず顔を出して、新聞や書物を借りて行くのであった。
 スチェパン氏の家の集まりには、もう一人ヴィルギンスキイとやらいう若い男が出席した。土地の官吏で、いくらかシャートフに似たところがある。もっとも見かけは、すべての点においてまるで正反対の人間のように思われる。しかし、これもやはり『世帯持ち』であった。見ても気の毒になるほどおとなしい青年で(とはいえ、もう三十恰好の年輩である)、なかなか教育もあるけれど、どちらかといえば独学のほうである。彼は貧しい身の上で、おまけに女房持ちなので、役所で勤めながら細君の伯母や妹を養っている。細君をはじめその家の婦人連は、みんなきわめて最新の思想をいだいているが、それが少々下品に外へ現われるので、問題は別だが、まさにかつてスチェパン氏の用いた『巷に落ちたる理想』という評語に、似たようなものが感じられるのであった。この婦人連はいっさいのものを書物から取ってくるので、ペテルブルグあたりでわが進歩主義者の立てこもっている巣窟から出た漠然とした噂を耳にするが早いか、たとえその噂が『何もかもみんな窓の外へほうり出してしまえ』というような意味のものであっても、さっそくそれを実行しかねまじい勢いであった。madame ヴィルギンスキイはこの町で産婆をしていた。娘時分には、長いあいだペテルブルグに住んでいたのである。当のヴィルギンスキイはまれに見る心情潔白な人間で、わたしもあれ以上無垢な心的情熱を見たことがない。
『ぼくはけっして、けっしてこの明るい希望をなげうつようなことをしやしない』と彼はよく目を輝かしながらわたしにいった。この『明るい希望』のことをいいだす時には、彼はいつも秘密めかしく、半分ささやくような小さな声で、さも楽しげな表情を浮かべるのであった。彼はかなり背の高いほうであったが、恐ろしく痩せこけて、肩の辺なぞは見すぼらしいほど狭かった。髪は赤みがかった色合いを帯び、それが並みはずれて疎《うす》かった。彼のいだいているある種の意見に対するスチェパン氏の傲慢な嘲笑をも、すべて彼は素直にとって、ときどきひどく真面目な調子で反駁を始めるので、スチェパン氏もよく面くらうことがあった。氏は彼に優しく応対していた。もっとも、氏は彼ばかりでなくわれわれ一同に対しても、全体に父親らしい態度をとっていたのである。
「きみたちはみんな『月足らず』連中なんだよ」と彼はヴィルギンスキイに向かって、ふざけた調子でいった。「きみのような人たちはみんな……もっともね、ヴィルギンスキイ君、わたしはよくペテルブルグの 〔chez ces se'minaristes〕(神学生の間に)見受けるような視野の狭《せまあ》い物の見方を、きみがいだいているとは思わないが、それでもやはり『月足らず』の仲間だよ。シャートフは、月満ちて生まれた仲間に入りたくてたまらないのだが、あの男もやはり月足らずだよ」
「じゃ、わたしは?」リプーチンがきいた。
「きみはまあ、なんだね、黄金《おうごん》のごとき中庸をえたる人だ。どこへ行っても、うまく生活に適応することができる……ただし自分一流の方法でね」
 リプーチンは怒ってしまった。
 ヴィルギンスキイについてはこんな噂がある。そして、残念なことには、それがすこぶる確かなのだ。ほかでもない、彼の妻が正式な結婚をしてから一年もたたないうちに、だしぬけに彼に向かって、あなたはもう棄てられた人だ、わたしはレビャードキンに乗り換えます、と宣告した。このレビャードキンというのは、どこかよそからやって来たものであるが、後になって、どうも素姓の怪しい人間で、自分で吹聴しているような退職二等大尉でもなんでもない、ということがわかった。彼はただ髭を捻り廻して、酒を飲み、自分の頭で考え出しうる限りの、思いきって下品な馬鹿話をしゃべり立てるよりほか能のない男であった。この男はずうずうしくも、すぐに彼ら夫婦のところへ移って来て、ただほどうまいものはないというので、夫婦のところで食ったり寝たりした。そして、しまいには家の主人さえ上から見おろすような態度を取った。一説によると、ヴィルギンスキイは妻が彼に向かって、『あなたはもう棄てられた人だ』と宣告したとき、『ああ、ぼくは今まできみをただ愛していたにすぎないが、今は進んで尊敬する』といったそうだが、本当にこんな古代ローマ式な言葉が発しられたかどうか、すこぶる疑わしいものである。かえってそれどころか、しゃくり上げて泣いたという説さえあるくらいだ。二週間ばかりたったある時のこと、彼らは一家をあげて郊外の森へ、知人とともに茶を飲みに出かけた。ヴィルギンスキイはまるで熱病やみのようにはしゃいで、踊りの仲間にさえ加わったが、ふいに(その前に喧嘩などするようなこともなく)、カンカンのソロを踊っている巨人のようなレビャードキンの髪をいきなり引っつかんで、下のほうへ抑えつけながら、甲走った叫び声を上げたり、泣いたりしながら、めちゃめちゃに引き摺り廻した。巨人はふいをくらって、すっかり怯えあがってしまったので、引かれるままに身をまかせながら、初めからしまいまで少しも声を立てなかった。しかし、引き廻しがすんでから、彼は潔白な男子の熱烈な憤激を示して、かんかんに怒りだしたのである。ヴィルギンスキイは、その晩、夜っぴて、妻の前にひざまずいてゆるしを乞うたが、ついにゆるしをうることができなかった。それはなんといっても、レビャードキンのところへ謝罪に行くことを、がえんじなかったからである。おまけに、彼は妻に信念の微弱と、愚鈍を指摘された。ほかではない、彼が女と話をするとき、膝を突いたというのである。二等大尉は間もなく姿を隠してしまったが、最近にいたって、また妹を連れてこの町へ現われた。それには新たな目的があったのだが、そのことはまた後で話そう。
 こういうわけであるから、この哀れな『世帯持ち』が、われわれの仲間で息を継ぐために、われわれとの交遊を必要としたのも、けっして不思議はない。自分の家のことは、一度も口に出したことがない。ただ一度、わたしといっしょにスチェパン氏のところから帰る途中、遠廻しに自分の境遇を話しだしたが、すぐにわたしの手を取って、燃えるような調子で叫んだ。
「しかし、こんなことは大したことではない。これはただ一個人に関する出来事にすぎない。こんなことはけっして、けっして『共同の事業』の妨げにはならない!」
 わたしたちのサークルへは、また飛入りの客人もやって来た。リャームシンというユダヤ人も来たし、カルトゥゾフという大尉も出入りした。しばらくのあいだ、好奇心の盛んなある老人もよく出て来たが、これは死んでしまった。それから、リプーチンが、スウォンツェフスキという流刑のポーランド僧を連れて来たこともある。で、しばらくの間、われわれの主義にそむかないために、出入りを許していたが、やがてそれもやめてしまった。

[#6字下げ]9[#「9」は小見出し

 一ころ町でわたしたちのことを、放縦な思想と、淫蕩と、無神論の養成場のようにいい伝えたことがある。そうして、この噂はもういつか確固不易のものとなってしまった。ところが、われわれの間ではきわめて無邪気な、面白い、ぜんぜんロシヤ式な、陽気な、自由思想的饒舌が交換されるにすぎなかった。
『高級自由主義』と『高級自由主義者』、すなわちいっさいの目的を持たぬ自由主義者は、ロシヤにおいてのみ初めて見うるところである。スチェパン氏は、すべて機知に富んだ人の常として、聴き手を必要とした。そしてまた、自分は理想の宣伝という最上の義務をはたしているという、自意識が必要なのであった。そのほか、だれかといっしょにシャンパン酒を乾す必要もあったし、また酒の間にロシヤとか、『ロシヤ精神』とか、一般に神とか、また特殊のものとしてはロシヤの神とか、そういうものに関するある種の快活な思想を交換し合ったり、または一同に知れ渡ってだれでも暗記しているロシヤ式の猥雑な小話を、五十ぺんでも百ぺんでもくり返す必要があったのである。わたしたちはまた市井のかげ口めいた噂を、口にすることもあえて辞さなかった。そして、どうかすると、恐ろしくやかましい高尚な、道徳的宣告を下すこともあった。また時には、一般人類に関する話にも落ちていって、欧州や人類の未来の運命などを論ずることもあった。たとえば、あの大帝国主義を終わった後のフランスは、二等帝国の範疇に堕するに相違ない、しかも恐ろしく急にたやすく実現されるに相違ないと、きわめて教権的な態度で予言するような類《たぐい》である。法皇なんてものは、統一されたイタリアにおける単なる大僧正にすぎないということは、わたしたちの仲間でとっくの昔に決定されていた。そして、こうした千有余年の大問題も、この人道主義と工業と鉄道の時代にあって、一顧だに値せぬことと信じ込んだものである。しかし、『高級なるロシヤの自由主義者』は、これ以外に採るべき態度がないではないか。
 スチェパン氏はまた時に芸術を談じた。なかなか巧妙なものではあったが、やや抽象的に流れる憾《うら》みがあった。また時には、青年時代の友だちの話もしたが、それはすべて露国発達史上に名をとどめている人物であった。こういう人たちの話をする彼の態度は、感激と敬虔の調子を帯びていたが、いくぶん羨望の色がないでもなかった。退屈でたまらないような場合には、ピアノの名人のユダヤ人リャームシンが(これは郵便局の事務員で)、何か弾いて聞かせた。そして、その幕間《アントラクト》には豚の鳴き声だの、夕立の音だの、陣痛の後で赤ん坊の第一声の響き渡るところなど、真似て聞かせた。こんなことのためにだけ招かれている男なのである。またあまり飲み過ぎた時には(こんなことは、しょっちゅうでもないけれど、やはり時々あった)、リャームシンの伴奏で『マルセイエーズ』を合唱した。ただし出来のところはなんともいわれない。
 かの偉大なる二月十九日([#割り注]一八六一年、アレクサンドル二世の農奴解放令発布の日[#割り注終わり])は、歓喜に酔いながら迎えたばかりでなく、だいぶ前からこの日を祝うために、乾杯を重ねていたのである。それはもうずっと前のことで、その時分はまだシャートフも、ヴィルギンスキイもいなくって、スチェパン氏もヴァルヴァーラ夫人と一つ家に暮らしていた。この偉大なる日の四、五日前から、スチェパン氏は、例の少々不自然ではあるが、きわめて人口に膾炙した詩を、口癖のように口ずさんでいた。これはなんでも自由思想家の旧地主が作ったものである。

[#ここから2字下げ]
百姓が行く、斧を担いで
何かしら、恐ろしいことがありそうだ
[#ここで字下げ終わり]

 一々文句は覚えていないが、なんでもこんなふうだったと思う。これをヴァルヴァーラ夫人が小耳に挿んで、『馬鹿馬鹿しい、なんて馬鹿馬鹿しいことでしょう!』とどなりつけ、真っ赤になって出て行った。ちょうどこの場に居合わせたリプーチンが、皮肉な調子でスチェパン氏にいった。
「もし本当にもとのおかかえの百姓どもが、嬉しまぎれに地主の旦那様がたに対して、何か面白くないことでもしでかしたら、困りますなあ」
 こういって、彼は人差指で、自分の頸の廻りを一撫でした。
「友《シェラミ》よ」と、スチェパン氏は人のいい調子で答えた。「実際のところ、これは[#「これは」に傍点](と、人差指で頸の廻りの手真似をくり返しながら)、地主にとっても、またわれわれ全体に対しても、少しも益をもたらしゃしないよ。われわれの頭というやつは、むしろ理解の邪魔をしているくらいだが、それかといって、頭がなくなっては、何一つしでかせないからね」
 ついでにいっておくが、多くの人は勅令発布の日に、何かリプーチンの予言したような、異常な出来事が突発しやしないかと考えた。それがみんないわゆるロシヤ通、ロシヤ国民通なる連中だった。スチェパン氏もどうやらこの意見と同じらしかった。で、偉大なる日の前日には、突然ヴァルヴァーラ夫人に向かって、外国へやってもらいたいといいだしたほどである。つまり、心配になってきたのである。しかし、偉大なる日も過ぎて、その後またしばらくたったとき、再びスチェパン氏の唇には傲慢な微笑が浮かんだ。彼はわれわれをつかまえて、ロシヤ人ぜんたい、とくにロシヤの百姓の特性について、卓絶した意見を吐露して聞かせた。
「われわれはせっかちの癖として、百姓に対しても早まったことをしたのだ」と彼はその卓越した意見を結んだ。「われわれは彼らを一代の流行児としてしまった。文学のほうでも二、三年この方、彼らをまるで新しく発見した貴重品のように扱って、立派な一つの流派をこしらえ上げたくらいだ。われわれは虱だらけの頭に月桂冠をのっけたんだよ。ロシヤの村がまる千年の間に与えたものは、ただカマリンスキイ([#割り注]卑俗な農村の踊り[#割り注終わり])だけだ。優れた、純ロシヤ的な、しかも機知にも乏しくないある一人の優れた詩人が、初めてかの偉大なるラシェール([#割り注]有名なフランスの女優[#割り注終わり])を舞台に見た時、『わたしはこのラシェールを、一人の百姓と取り替えるのもいやだ!』と叫んだ。しかし、わたしはさらに進んで、『一人のラシェールと取っ替えっこなら、ロシヤの百姓をみんなやってしまう』という勇気があるね。もういいかげん冷静に物事を観察して、ロシヤ固有の粗野なタールの臭いと 〔Bouquet de l'impe'ratrice〕([#割り注]皇后の花束、香水の名[#割り注終わり])をいっしょにしないように気をつけてもいい頃だよ」
 リプーチンはさっそく同意したが、それでも一世の風潮に順行するためには、おのれの本意を曲げても、百姓を賞めなければならぬ、今では上流の婦人たちでさえ、『アントン・ゴレムイカ』([#割り注]グリゴローヴィチの農民小説[#割り注終わり])を読んで涙を流す有様であって、中にはパリからはるばると自分の支配人のところへ手紙を寄せ、今からさっそく百姓にできるだけ人道的な取り扱いをするようにと、いって来るものさえある由を述べた。
 一度こういうことがあった。しかも、まるでわざと誂えたように、アントン・ゴレムイカに関する噂が広がってからすぐ後のことだった。わたしたちの県内で、スクヴァレーシニキイから僅か十五露里ばかりしかない所で、ある奇怪な出来事が起こったので、当路者はあわてて軍隊まで派遣したものである。この時のスチェパン氏の心配は大変なもので、わたしたちさえもびっくりするほどだった。彼はもっともっと兵隊を送らなければならぬ、隣郡から電報で呼び寄せるがいい、などとクラブで呼号したり、県知事のところへ駆けつけて、自分はこの事件になんの関係もないと誓ったうえ、どうか古い記憶のために自分を巻き添えにしないでくれと頼んだり、自分のこの申告をペテルブルグのしかるべき筋へすぐさま報告するように、といいだしたりした。まあ、仕合わせと、この事件は無事にすんで、なんの結果をも見ずに落着したからいいようなものの、当時のスチェパン氏には、わたしもすっかり面くらってしまった。
 三年ばかりたって、人も知るごとく、みないっせいに国民性を口にするようになり、いわゆる『世論』なるものが生まれた。その時スチェパン氏はさんざんにこれを冷笑した。
「諸君《メザミ》よ」と彼はわたしたちに説いて聞かせた。「わが国民性なんてものは、かりにいま新聞などで喧しくいってるとおり、本当に生まれ出たものとしても、まだやっと小学校時代だよ。ドイツ学を基礎としたペテルシュール([#割り注]ピョートル大帝の起こした学校[#割り注終わり])あたりで、ドイツ語の本をかかえながら一生懸命に、いつもいつも変わりのないドイツ語の学課を暗記してるといったとこさ。そして、ドイツ人の教師は必要な場合、罰として膝をつかすこともあるんだよ。わたしはドイツ人の教師を賞めてやるよ。しかし、何事も起こらなかったというのが、一ばん確かなところさね。何ものも生まれなかったんだよ。そして、すべては旧態依然たりさ、つまり神の守護の下に生活してるのさ! わたしの意見では、ロシヤにとっては、pour notre sainte Russie(わが神聖なるロシヤにとっては)それでたくさんなんだよ。それに、このスラブ主義や国民性なんてものは、新しきものとなるべくあまりに[#「なるべくあまりに」はママ]古すぎるよ。もし強いて国民性がお望みなら、それは地主たち、しかもモスクワの地主たちのクラブの思いつき、というような形を取って現われたくらいのもので、ほかにはけっしてない現象だからね。もちろん、わたしはイーゴリ公時代([#割り注]十二世紀[#割り注終わり])のことをいってるんじゃないよ。そして、最後に注意すべきは、すべては安逸から生じるということだ。ロシヤではすべてが、善きにつけ、悪しきにつけ、すべて安逸から生まれるんだよ。何もかもロシヤ独特の地主的な、教養のある、愛すべき、気まぐれな安逸から生じるんだ。わたしは三万年間でも、このことを断言してはばからないね。いったいロシヤ人は、自分の労力で生活できない国民なんだ。ぜんたいなんだってあの連中は、ふいに天から降ってでも来たように、だしぬけに『生まれて来た』社会的意向なんてものを担いで、騒ぎ廻っているんだろう? 一つの意見を獲得するためには、何よりもまず第一に労力、自分自身の労力と、事業に対する自己の創意と、自分自身の実践が必要だということを、いったいあの連中は会得しないのかね? なんだって、ただで得られるものは一つもありゃしない。なんでも努力するんだね。そしたら、自分の意見をも持つことができる。ところが、われわれはけっして努力しないから、われわれに代わって今まで努力したものが、われわれに代わって自己の意見をも持ってくれる。それは依然として、例の西欧だ。例のドイツ人だ。つまり、二百年来のわれわれのお師範役なのだ。おまけにロシヤという国は、ドイツ人の力を借りずして、彼らの努力を待たずして、われわれの自力で解決するにはあまりに大きな謎なのだ。わたしももうこれで二十年間、警鐘を鳴らして働けと叫んでいる! この警報のために自分の一生を捧げて、馬鹿馬鹿しくもその効果を信じていたのだ。今ではもうそんなことを信じないけれど、警鐘は今でも鳴らしている。死ぬまで鳴らしつづけるつもりだ。人がわたしの法会《ほうえ》に鐘を鳴らしてくれるまで、縄が切れても鳴らしつづけるつもりだ!」
 悲しいかな! われわれはただ合槌を打つばかりであった。われわれはこの指導者の言にわけもなく喝采した、しかも夢中になって喝采した! 今でもこうした『愛すべき、機知に富んだ、自由主義的な』、古いロシヤ式のでたらめが、のべつその辺に響いていないだろうか、諸君もっていかんとなす?
 わが指導者は神を信じていた。「どうしてここの人がみな、わたしのことを不信心者と銘打ってしまったのか、とんと合点がいかないよ」ときどき彼はこう言いいいした。「わたしは神を信ずる。Mais distinguons(しかし断わっておくが)わたしはただわたしの中にあって自己を意識する存在物としてのみ、神を信じているのだ。実際うちのナスターシヤ(女中)や、どこかの地主などのように、『万一の用心のため』に、神を信ずるわけにはゆかないからね。それから、それからまた、かの親愛なるシャートフのような信じ方もできない、――いや、しかし、シャートフは勘定に入れまい。シャートフはモスクワのスラブ主義者のように、強制的[#「強制的」に傍点]に信じてるんだからね。そこでキリスト教はどうかというに、わたしは衷心からこれに尊敬をいだいてはいるけれど、しかし、キリスト教徒じゃない、わたしはどちらかというと、大ゲーテかまたは古代ギリシャ人のような古い異教徒なんだ。それは、キリスト教が女を解しなかったという、この一つだけでも立派な理由になるよ、このことは、――ジョルジュ・サンドがその天才的な作品の一つで、立派に指摘しているとおりだ。また礼拝だの、精進だの、その他なんだのかだのということにいたっては、どういうわけで人からそんなことを干渉されるのか、いっこうに合点がいかないよ。ここの告げ口屋どもがどんなに騒いだって、ジェスイット教徒なんかにはけっしてなろうと思わない。一八四七年のことだ。外国におったベリンスキイが、ゴーゴリにかの有名な手紙を寄せて、ゴーゴリが『なんだか妙な神なんてもの』を信じているといって、手きびしく非難したものだ。Entre nous soit dit(ここっきりの話だが)ゴーゴリが(当時のゴーゴリだよ!)この一節を読み……この手紙の全文を読み終わった瞬間以上に滑稽なものを、わたしはちょっと想像することができないよ! しかし、滑稽などいう感じは棄ててしまって(実際、わたしはことの本質には同感なんだからね)、直截に断言するが、こういう人たちこそ本当の人間だったのだ。彼らは自国民を愛することができた、自国民のために苦しむことができた、自国民のためにいっさいを犠牲にすることができた、しかもそれと同時に、必要な場合には、自国民に接近しないでいることができた、ある種の観念に対してはけっして仮借しない、という態度を取ることができた。まったくベリンスキイも、精進バターや、豌豆と大根の煮つけなどの中に、救いを求めることはできなかろうじゃないか!………」
 が、ここでシャートフが口をいれた。
「いや、あんな連中はけっして国民を愛したことはないです、国民のために苦しんだこともないです、何一つ犠牲にしたこともないです。いくらあの連中が自分の気休めに、そんなことを考えたって駄目です!」と彼は目を伏せたまま、じれったそうに椅子の上で体を捻じ向けながら、気むずかしげに唸るようにいった。
「え、それはあの人たちが、国民を愛しなかったというのかね!」とスチェパン氏が叫んだ。「おお、あの人たちがどんなにロシヤを愛していたか!」
「いや、ロシヤを愛したこともなけりゃ、国民を愛したこともありません」シャートフは目を光らせながら、負けずにわめいた。「自分の知らないものを、愛するわけにいきゃしません。ところが、あの連中はロシヤの国民について、てんで理解を持ってないのです! あの連中はみんな(そして、あなたもその仲間です)、ロシヤの国民というものを、指の間から覗いていたのです。ベリンスキイにいたってはことにそうです。それは、ゴーゴリに与えた彼の手紙でよくわかります。ベリンスキイはちょうどあのクルイロフの『もの好きや』と同じように、動物園に行っても象を見落とす組で、ただもう虫けら同然なフランスの社会主義者にばかり気を取られていたのです。で、結局、フランスの社会主義者を担いだだけで終わっています。しかも、ベリンスキイはあなた方のだれよりも、利口だったかもしれませんが、それでいて、やはりこんなものです! あなた方は人民を見落としたばかりでなく、陋劣きわまる侮蔑の態度で彼らに向かったのです、それはもうあなた方が人民なる言葉を、単にフランスの国民、それもただパリの市民だけと解釈して、ロシヤの人民がパリジャンのようでないのを恥じていられた、この事実のみに徴しても明らかです。ええ、それは赤裸々の事実です! 実際、人民を持たぬものは、神をも持たぬ人です! ぼくは正確に断言しますが、自国民を本当に理解することができなくって、これと連絡を失って行く者は、それと同時に国民的信仰をも失って、無神論者になるか、またはまるで無関心の人間になってしまいます。ええ、まったくですとも! これは、やがて実地に証明さるべき事実なのです。だからして、あなた方一同ならびにぼくら一同は、現在、いまわしい無神論者でないとすれば、すべての事物に無関心な、放埒なやくざ者にすぎないのです。スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたもやはりそうですよ。ぼくは少しもあなたを除外しません。いや、むしろあなたを目安に置いていったくらいです、いいですか!」
 たいていいつもこんなふうの独白をいった後で(彼はよくこんなことをやった)、シャートフはいきなり粗末な帽子を引っつかむと、そのまま戸口を目ざして飛び出したものである。彼はもう万事了した、自分とスチェパン氏との交遊は、これで永久に終わりを告げたのだと、固く信じきっていた。しかし、こちらはいつも機敏に彼を引き止めた。
「もういいかげんで和解しようじゃないか、シャートフ、きみもその面白い意見を吐いてしまったんだから、もういいじゃないか」さも人の好さそうな様子で、肘掛けいすから手を差し伸べながら、彼はこういった。
 無骨なくせに恥ずかしがりのシャートフは、優しい情愛めいた言語挙動が大嫌いだった。彼は外から見たところは、粗暴な男のようであったが、はらの中は非常にデリケートなところがあったらしい。しょっちゅう常軌を逸したことばかりしていたけれど、そのくせ、まずそれがために苦しむのは当人だった。スチェパン氏の言葉に対して、何か口の中でもぐもぐいいながら、一つところで熊かなんぞのように足踏みしているが、やがて突然、思いがけなくにたりと笑って、帽子をどこかわきのほうへ置く。そして、執念ぶかく地べたを見つめながら、元の椅子へ腰をおろすのであった。もちろん、すぐに酒が運ばれて、スチェパン氏は過去に活動した名士の記念とかなんとかいって、いい加減な祝杯の音頭を取る。

[#3字下げ]第2章 王子ハーリイ 縁談[#「第2章 王子ハーリイ 縁談」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 スチェパン氏のほかに、ヴァルヴァーラ夫人が心から傾倒している人物が、この地上にもう一人あった。それは夫人の一人息子、ニコライ・フセーヴォロドヴィチ・スタヴローギンである。この子のためにスチェパン氏も、養育者として招聘されたのである。少年はその時八つかそこらであったが、無分別な父親《てておや》スタヴローギン将軍は、当時すでにヴァルヴァーラ夫人と別居していたので、少年は母の保護一つの下に成長してきた。ここでスチェパン氏の長所として認めてやらなければならぬことがある。ほかではない、彼はこの少年をすっかり懐《なつ》けてしまう腕があったのである。しかも、そのいっさいの秘伝は、ただ彼自身子供だということにすぎない。当時わたしもまだいなかったので、彼は常に真実な友だちを要求していた。で、彼は少年がほんの僅かばかり成長するやいなや、すぐさま少しの顧慮もなく、この幼いものを自分の友だちにしてしまったのである。そして、自然と二人の間には、いささかの隔てもないようになった。彼はよく十か十一にしかならない友だちを、よる夜中わざわざ揺り起こして、辱しめられた自分の感情を涙ながらに披瀝したり、家庭内の秘密をうち明けたりして、それが実に許すべからざる行為だということには、いっこう気がつかないのであった。二人は両方から飛びかかって、だき合いながら泣いたものである。
 少年は、母が自分を非常に愛していることを知ってはいたけれど、彼自身のほうでそれほど母を愛していたかどうか、しごく疑わしいものであった。母はあまり彼を相手に話をしなかったし、また何事につけてもあまり干渉しなかったが、じっとうしろから見つめているような母の視線を、彼はいつも何かしら病的なほど自分の体に感ずるのであった。もっとも、夫人はわが子の教育や精神修養については、いっさいスチェパン氏にまかせきりであった。その頃は夫人も彼を絶対に信じていたので。しかし、この養育者は自分の生徒の神経を、いくらか弱くしたものと見なければなるまい。数え年十六になってから学習院《リセイ》へ入ったニコライは、ひなひなした体にあお白い顔をして、不思議なくらいもの静かで、ともすれば考え込みやすい青年であった(その後、彼はなみなみならぬ腕力で人を驚かすようになった)。またこの二人の友だちが、夜中に両方から飛びかかって、だき合いながら泣いたのも、つまらない家庭内の秘密談に関係したことばかりではない、というような想像も許されうるのであった。スチェパン氏は、少年の心の深い深い奥底に潜んでいる琴線に触れて、まだ漠としたものではあるけれど、かの神聖な永遠の憂悶の最初の感覚を、呼びさましたのである。選ばれたる霊魂の所有者は、ひと度この永遠の憂悶を味わい知ると、もはやその後けっして安価な満足に換えることを欲しなくなるものである(それどころか、たとえ根本的な満足がありうるとしても、むしろこの永遠の憂悶のほうをより多く尊重する、というような熱愛者もあるほどである)。が、何にしてもこの少年と教師とを、少し遅蒔きの嫌いはあったが、別々に引き離したのはいいことであった。
 学習院へ入ってから最初二年間は、この少年も休暇に田舎へやって来た。ヴァルヴァーラ夫人とスチェパン氏のペテルブルグ行きの時にも、彼はおりおり母夫人のところで催される文学会へ出席して、じっと耳を傾けながら、観察していた。口数は少ないほうで、依然としてもの静かな、遠慮ぶかい青年であった。スチェパン氏には以前同様な優しい注意をもって対したが、いくぶん控えめがちになって、高尚な話題や過去の追懐などは、なるべく避けるようにしていた。学校を卒業してから、彼は夫人の希望で軍務に従った。そして、間もなく、青年子弟の憧憬の的になっているさる近衛の騎兵連隊へ入った。しかし、軍服姿を母夫人に見せに来るようなことはなかった。そのうちペテルブルグからも、あまり手紙をよこさなくなった。ヴァルヴァーラ夫人は農奴解放の改革以来、領地の収入がどっと減って、最初のうちは、以前の半分にも足らぬほどであったが、それでも息子のところへは惜気もなく金を送ってやった。もっとも夫人は長い間の経済な生活で、少なからぬ金を蓄えてはいたのである。彼女は、ペテルブルグの上流社会におけるわが子の成功を、ひどく心にかけていた。自分の成功しえなかったものも、この将来有望な若い富裕な将校は、必ず獲得するに相違ない。事実、彼は、夫人などがもう夢にも見られないような人々と交遊を始め、いたるところで非常な歓迎を受けたのである。
 が、それから間もなくヴァルヴァーラ夫人の耳に、かなり奇怪な噂が入るようになった。急にこの青年が、どうしたことか気ちがいじみた放蕩を始めたのである。何もべつに博奕を打つとか、大酒を飲むとかいうわけではないが、もうまるで野獣のような放縦であった。競馬馬《けいばうま》に乗って人を踏み倒すとか、自分の関係している上流の貴婦人を衆人環視の間で侮辱するとか、そういう畜生同然の振舞いがしきりに噂された。とにかく、あまりに醜悪なあるものが、この事件の中に感じられた。そればかりでなく、おまけに、彼はひどい暴れ者で、喧嘩の押売りをしては、単に侮辱の快感を味わうために、他人を侮辱するとのことであった。ヴァルヴァーラ夫人は心配もすれば、悲しみもした。スチェパン氏は夫人を慰めて、これはあまりに豊富な肉体組織の最初の兇暴な発現にすぎぬ、そのうちに荒れ狂う海も鎮まるに相違ない、そして、この事件は沙翁の書いたハーリイ王子が、ファルスタッフやポインスやクイクリイ夫人と、遊蕩に耽った物語によく似ている、と述べた。ヴァルヴァーラ夫人はこの頃ともすれば、スチェパン氏に向かって、『馬鹿馬鹿しい、馬鹿な話です!』と一言できめつけるのがきまりになっていたが、今度ばかりはそんなことをいうどころか、かえって一心に耳を傾けて聞いていたが、後でもっと詳しく説明してほしいと、いいだした。そして、自分でも沙翁を取り出して、非常な注意を払いながら、この不朽の物語を通読した。けれど、この物語も、さして夫人の心を鎮めてはくれなかった。大して似寄ったところもなかったのである。夫人は自分の幾通かの問合わせの手紙に対する返事を熱病やみのように待っていた。返事はすぐに届いた。間もなく恐ろしい報知が伝えられたのである。ほかでもない、ハーリイ王子はほとんど一時に二つの決闘をした。しかも両方とも、罪はことごとく彼のほうにあった。そして、相手の一人はその場で即死させ、いま一人は不具者《かたわ》にしてしまって、その結果、とうとう裁判に付せられたとのことであった。ついに彼は官位特権剥奪のうえ、一兵卒の勤務を命ぜられ、ある普通師団の歩兵連隊へ左遷せられ、ようやく事件は落着したが、それも特別の思召しによる取り計らいであった。
 一八六三年([#割り注]コーカサス征伐戦[#割り注終わり])、彼は殊勲を現わす機会をえて、十字章を授けられたうえ、下士官に任ぜられ、その後、不思議なほど早く将校に復官した。そのあいだしじゅうヴァルヴァーラ夫人は都のほうへ、数百通の哀願の手紙を送ったのである。彼女はこういう非常な場合であるから、いくぶん自分の威厳を落とすのもあえて意としなかった。復官してから間もなく、ニコライはとつぜん辞表を出した。その時も彼はスクヴァレーシニキイヘ帰って来ないばかりか、母へ手紙さえよこさなくなった。とうとうわきのほうから手を廻して、彼がまた[#「また」はママ]ペテルブルグにいることを突き止めた。しかし、以前の社会にはまったく顔を出さないで、どこかへ身を隠したような具合であった。その後、彼がなんだか奇妙な仲間に入り込んで、ペテルブルグの屑の屑ともいうべき人たちとかかりあっている、ということを探り当てた。それは哀れな腰弁連中や、公然と人の袖に縋って歩く退職軍人や、酔っぱらいなどの仲間である。彼はこういう連中の薄汚い家庭を訪問したり、暗い洞穴のようなところに日泊り夜泊りしたり、なんともえたい[#「えたい」に傍点]の知れぬ路地の奥に沈湎《ちんめん》したり、ぼろぼろの着物を引き摺ってみたりした。しかも、そんなことをする以上、これが気に入ったものと見るより仕方がなかった。金のことでは母に無心をいわなかった。彼は、父スタヴローギン将軍の持村であった小さな領地を自分のものとしていて、いくらかの収入があったからである。もっとも、噂によると、彼はこの領地をサクソンあたりのドイツ人に貸してやったとのことである。とうとう母の切なる乞いによって、ハーリイ王子もこの町へ姿を現わすこととなった。このとき初めてわたしも彼の顔を見た。それまで一度も会ったことがなかったのである。
 それは年の頃二十五ばかりの、きわめて美しい青年であった。そして、白状するが、わたしはその美に打たれてしまった。わたしの予想していたところでは、放蕩のために腐蝕されつくして、傍へ寄るとぷんとウォートカの匂いでもしそうな、なんだか汚らしいごろつきに相違ないと思ったが、どうしてそれどころか、わたしの今まで見ただれよりも立ちまさって、優美な紳士なのであった。みなりは飛び切り立派で、ものごしは最も洗練された礼容に馴れた人でなければ、とても真似のできないほど垢抜けていた。びっくりしたのはわたし一人ではない。町じゅうの者がすべて面くらったのである。彼らも、もちろん、スタヴローギン氏の経歴をちゃんと承知していた。むしろ、どうしてそんなに、と思われるほど詳しく承知していた。しかも、何より驚くべきことには、彼らの伝えている噂が、半分くらい真実だったのである。
 町の貴婦人連は、この新来の客にすっかり正気を失ってしまった。彼らはかっきりと二派に別れたが、一方は神様のように彼を崇拝し、一方はさながら仇敵のように憎んだ。けれど、両方とも、彼のために正気を失っているのは同じであった。あの人の心にはおそらく、何か非常な秘密が潜んでいるのだろう、といって嬉しがる女もあれば、またある女は、彼が人殺しだというところがすっかり御意に召した。彼がきわめてしっかりした教育を受けてい、立派な知識を持っているということも、みんなにわかってきた。しかし、この町の人を驚かすには、あまり大した知識の必要がないのはもちろんである。けれど、彼はきわめて興味ある生活の根本問題を論議することもできた。そして、何より尊いのは、その論調がはなはだ周到なことである。ここに一つの不思議として述べておくが、ほとんど到着の第一日から、人々は彼を非常に頭の緻密な人と考えるようになった。彼はあまり口数が多くなく、きざなところなど微塵もないみやびやかな態度を備え、驚くばかりつつましやかであったが、同時にこの町のだれにも見られないほど大胆で、自信があった。町のハイカラ連は羨望の目をもって彼を眺めた。この貴公子の前へ出ると、彼らはまるで存在が認められなくなるのであった。
 彼の顔もわたしを驚かした。髪はなんだかあまりに黒々とし、薄色の目はなんだかあまりに落ちつきすまして明るく、顔色はなんだかあまりに白くしなやかで、頬のくれないはなんだかあまり鮮やかに澄んでいて、歯は真珠、唇は珊瑚のよう、一口にいえば、画に描いた美男子のようであるべきはずなのだが、それと同時に、なんとなく嫌悪を感じさせるようなところがある。人は彼の顔が仮面《めん》に似ているといった。が、また多くの人は、彼が恐ろしい腕力を持っているともいい伝えた。背はまあ高いというほうであろう。ヴァルヴァーラ夫人は、さも誇らしげに彼を眺めていたが、その表情にはいつも不安の色が見えた。彼はこの町で半年ばかり、ものうげにひっそりと、かなり気むずかしそうな日を送っていた。しかし、社交界へは顔を出して、この地方の町の儀礼を一生懸命に気をつけて守っていた。県知事とは父方の筋で親類に当たっているので、知事の家では近しい親戚として遇せられていた。けれど、何か月かたったとき、とつぜん野獣は爪をあらわしたのである。
 ここでちょっと括弧という体裁でいっておくが、わが愛すべきもの柔かな前県知事イヴァン・オシッポヴィチは、いくぶん女に似たところがあった(もっとも、女といっても良家の生まれで、立派な親類縁者を持っているほうなのだ)。彼がいつも仕事らしい仕事を少しもしないで、あの長いあいだ本県で知事の椅子を占めていたのも、右の性質で説明できると思う。客のもてなし振りのいいところからいっても、昔の暢気な時代の貴族団長くらいが相当しているので、今どきの厄介な時代における県知事などという柄ではない。市中ではいつも、県の支配をしているのはこの人でなく、ヴァルヴァーラ夫人だといい囃していた。もちろんこれは毒々しいほどうまい皮肉ではあるが、まるっきり根も葉もないことなのである。このことについて町の人は、もっともっと皮肉を撒き散らしているけれど、事実はそれと反対で、最近ヴァルヴァーラ夫人は、社会ぜんたいから深い尊敬を受けているにもかかわらず、とくに気をつけていっさいの高尚な仕事から遠ざかり、自分で決めた縄張りの中へ好んで閉じこもっていた。夫人は高尚な社会事業の代わりに、急に家政のほうへ身を入れ始めた。そして、二、三年間に自分の家の収入を、ほとんど以前と同じくらいの程度に持ち直したのである。以前の詩的な衝動(ペテルブルグ行き、雑誌発行のたぐい)は跡形もなく消えて、夫人はけちけちと溜めにかかった。スチェパン氏さえも別の家に住まいを借りることを許して、傍から遠ざけてしまった。もっとも、このことは当のスチェパン氏も望むところで、とうからいろんな口実の下に、夫人に許可を迫っていたのである。だんだんと彼は夫人のことを散文的な女、もしくはいっそうふざけた調子で、『わが散文的な友』と呼ぶようになった。もっとも、こんな冗談は、しばらく適当の折を見計らって、ごくていねいな調子を使わなければ、うっかり口には出さなかった。
 いま夫人にとって、わが子の帰来はまるで新しい希望か、または何か新しい空想の出現のごとく感じられるので、それはわれわれ友人一同もよく了解した。スチェパン氏はだれよりも一番に、これを感傷的に考えたのである。わが子に対する夫人の熱烈な愛情は、彼がペテルブルグの交際界で成功した頃からはじまり、奪官されて兵卒に成りさがったという報告を受け取った瞬間から、さらに強まったのである。けれども、見受けたところ、夫人は明らかに彼を恐れているらしく、その前へ出ると、まるで奴隷のようであった。そして、自分でもこうといい現わすことのできない、何かしら漠とした神秘めいたあるものを恐れている様子がありありと見えた。夫人は何やら思いめぐらしながら、謎でも解こうとするように、幾度となく目立たぬようにじっとニコラス([#割り注]ニコライのフランス風の呼び方[#割り注終わり])を見つめる……とふいに……野獣が思いがけなくその爪を現わしたのである。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 わが王子はふいになんの原因もなく、土地の人に対して、二、三のゆるすべからざる暴行を働いた。しかも、その方法が、今までまるで聞いたこともない、なんともかともいいようのない、普通こういう場合に用いられるものと似ても似つかぬ、馬鹿馬鹿しい子供めいたもので、おまけになんのためにしたことやら、まるで理由がわからなかったのである。町のクラブでも、人の尊敬を受けている年寄り株の一人に、ピョートル・パーヴロヴィチ・ガガーノフという、もう相当の年輩で、なかなか功労のある人があったが、二こと目には、『いや、どうしてどうして、わしの鼻面を取って引き廻すことなんかできるものじゃない!』と、むきになっていい添える罪のない癖を持っていた。まあ、そんなことは少しも差支えないわけだが、あるときクラブで何か喧しい問題を論じているうち、彼はまた傍に集まっている一団のクラブ員(しかも相当に地位のある人たち)に向かって、このきまり文句を持ち出した。そのとき、少しわき寄りに立っていて、だれから話しかけられたというでもないニコライが、ふいにガガーノフの傍へよって、思いがけなく、二本指でしっかりと彼の鼻を抓み、広間の中を二、三歩ばかり引き廻したのである。彼がこのガガーノフ氏に憤懣を感じるなどということは、けっしてあろうはずがないから、これは純然たる子供じみた悪戯とでも解《と》らねばならぬが、それにしてもとうてい許すべからざる悪戯である。しかし、後での噂によるとその荒療治の瞬間、彼は妙に考え込んだらしい顔つきをして、『まるで気でもちがったよう』であった。これはずっと後に、いろんなことを照らし合わせて思い出したことである。初めはみんな憤激のあまり、第二の瞬間だけしか思い出さなかった。この時は彼も確かにいっさいのことを、ありのままに理解していたに相違ない。けれど、きまりの悪そうな顔でもするどころか、かえって意地悪い愉快げな微笑を浮かべて、『いささかも悔悟の色が見えなかった』。恐ろしい騒動が持ちあがった。人々は彼を取り囲んだ。ニコライはだれにも返事をせず、大声をあげてわめく連中の顔を、もの珍しげに見つめながら、あちらこちらと身を転じて、あたりを見廻すのであった。が、とうとう急にまた考え込むようなふうをして(少なくとも、そういい伝えている)、眉をひそめた。そして、辱しめられたガガーノフのほうへ、しっかりした足取りで歩み寄り、さもじれったそうに早口でこういった。
「あなたゆるしてください……どうして急にあんな気になったか、自分ながらまるでわからない……馬鹿げたことです……」
 謝罪の無造作な調子は、さらに新しい侮辱となった。叫び声はいっそう強く周囲に高まった。ニコライはひょいと肩をすくめて、出て行った。
 これらすべては、思いきり馬鹿げたことであった。その醜怪さにいたっては、言葉を用いるまでもない、――しかも、それはちょっと見には、初めから企んだ醜行のように思われた。したがって、それはまたこの町の社交界ぜんたいに対して企まれた、言語に絶した暴慢な侮辱でなければならぬ、こう人々はこの事件を解釈したのである。まず第一着手として、一同はすぐに満場一致でスタヴローギン氏をクラブから除名してしまった。それから、クラブ全会員の名で県知事に対して、『その委任せられたる行政上の権限をもって、さっそく猶予なしに(公式に裁判に付せられるのを待たず)、この有害な暴れ者、――都育ちのならずものを制縛し、それによってこの種の暴行を未然に防ぎ、町の身分ある階級の平安を守ってほしい』と申請することに決議した。このとき子供らしい憤りを発して、『実際スタヴローギン氏は、何か法の適用を受けるかもしれない』とつけ足すものもあった。まったく一同は、ヴァルヴァーラ夫人のことで、知事に皮肉るつもりで、このとおりの文句を準備した。そして、一種の快感を覚えながら、まだいろいろな文句をひねくり廻したものである。県知事はその時、ちょうど狙ったように町にいなかった。彼はあまりほど遠からぬ所に住んでいて、ついこの頃やもめになったばかりのある面白い女の家へ、子供の洗礼に出かけたのである(この女は妊娠ちゅう夫に死に別れたので)。しかし、彼がほどなく帰って来るのはわかっていた。知事の帰りを待っている暇に、辱しめられたる名士ガガーノフ氏のために、まるで凱旋式のような騒ぎをした。みんなでだきついて接吻するやら、町じゅうのものが彼の家を訪問するやら、はては賛成者を募集して、彼の名誉のために宴会を催す計画まで成立したが、これだけは彼の熱心な乞いによって、沙汰やみとなった、――おそらく生きた人が鼻面を取って引き廻されたのに、なにもお祝いなどする必要もなかろうということを、やっと悟ったのかもしれない。
 しかし、どうしてこんなことが起こったのだろう? どうしてこんなことが起こりえたのだろう? 注意すべきは、町じゅうのものがだれ一人として、この奇怪な振舞いを精神錯乱に帰するものがなかったことである。してみると、ニコライのような利発な人間から、かかる行為を期待する気持ちが、皆の心にあったものと見なければならぬ。わたしもこの事件をなんと説明してよいのか、いまだにわからないでいる。もっとも、その後まもなくまた別な事件が起こって、いっさいの事情を説明し、一同の心を落ちつかせたように思われたのは事実である。それから、もう一つつけ足しておこう、四年ばかりたった時、このクラブ事件に関するわたしの慎重な問いに対して、ニコライは眉をひそめながら、こう答えた。『ええ、ぼくもあの時はあまり健康でなかったものだから』しかし、そう先っ走りすることはいらない。
 けれど、あの当時、みんなでこの『暴れ者で都育ちのならずもの』に食ってかかったあの凄じい全般的な憎悪の爆発も、わたしにとっては不思議なくらいである。一同はあの事件の中に、町の社交界ぜんたいを一挙にして侮辱しようという高慢な企みと、どこまでも考え抜いたもくろみとを、発見せずにはおくまいと意気込んだ。実際、彼はだれに向いても、気に入りそうなことをいわなかった。いや、それどころか、むしろ自分に対して武器をとらすように仕向けたのである、――が、いったい、どういう方法を用いたのだろう? この事件が起こるまで、彼はかつて、だれとも諍《いさか》いをしたことがない。だれひとり侮辱したことがない。そして、その慇懃なことといったら、流行の絵から抜け出したナイト(もしそれが口でもきけるものとしたら)のようであった。たぶんその誇りの強い態度に、憎しみを感じたのだろう。初め夢中になって崇拝した町の婦人連でさえ、今は男子連以上に猛烈な叫びを発するようになった。
 ヴァルヴァーラ夫人は恐ろしく仰天してしまった。これは、夫人が後でスチェパン氏に告白したところだが、彼女はずっと前からこういうことを予想していた。もう半年も前から毎日のように、ちょうどこれと同じようなことを想像していた。これは生みの母の告白として、注目すべきものである。『始まった!』と彼女は身に戦慄を覚えながら考えた。クラブで恐ろしい出来事のあった翌朝、夫人は用心ぶかい、とはいえ決然たる態度で、わが子の詰問にかかった。けれど、その決心にも似ず、真っ青な顔をして、体じゅうわなわな慄わせていた。夫人は夜っぴてまんじりともせず、朝早くスチェパン氏のところへ相談に出かけて、そこでさめざめと泣きだしたほどである。彼女は今まで、人前で泣いたことなどなかったのである。夫人は、ニコラスが自分になんとかいってほしかった、せめてこうこうだとうち明けてくれても、罰は当たるまいにと悲しかった。いつも母に対して慇懃でうやうやしいニコラスは、しばらくのあいだ眉をひそめながら、ひどく真面目な様子をして聞いていたが、突然ひとことも返事しないで、母の手に接吻したまま、ぷいと出て行ってしまった。ところが、ちょうどその晩、またわざと狙ったように、新しい醜悪な事件が持ちあがった。これは前のにくらべるとだいぶ効果の弱い、やや平凡なものであったが、それでも一般の気分に促進されて、さらに市中の叫喚を高めたのである。
 ほかでもない、われわれの友だちのリプーチンが、貧乏籤を抽いたのである。彼はニコライが母夫人との対談を終えた直後にやって来て、今日は妻の誕生日だから、晩にぜひおいでを願いたいと、一心になって頼むのであった。ヴァルヴァーラ夫人は、わが子の交遊の方向が、こんな低いほうへさして行くのを、以前から胸をわななかせながら眺めていたが、このことについては、一言も注意する気力がなかった。彼はもうそれでなくとも、この町の第三流、――或いはもっとひどい階級と交際を始めていたが、もともとそういう傾向があるのだから仕方がない。彼は当のリプーチンとはよく会うけれど、その家へはまだ一度も行ったことがなかった。スタヴローギンは、今リプーチンが自分を招待するのは、昨夜のクラブ事件のためだなと見抜いてしまった。彼は土地の自由主義者として、この騒ぎで有頂天になっていた。そして、クラブの古老たちにはああいう待遇をするのが当然だ、これは実際いいことだと、心底から考えているのであった。ニコライは笑って、出席を約した。
 客は大勢あつまった。その顔ぶれは、華かなものではないが、賑かな連中であった。自尊心と羨望心の強いリプーチンは、年に僅か二度しか客を呼ばなかったが、その二回の招待日には金を惜しまなかった。最も上客のスチェパン氏は、病気で顔を見せなかった。茶が出、豊富な前菜《ザクースカ》が出、ウォートカが出た。三か所のテーブルでカルタが始まって、若い人たちは夜食を待つ間に、ピアノの伴奏で舞踏を始めた。ニコライはリプーチン夫人を招じて(非常にかわいい顔をした小柄な婦人だが、彼の前へ出ると、すっかりおどおどしていた)二|節《せつ》ばかり踊った後、並び合って坐りながら、いろんな話をして相手を笑わせた。やがて彼女の笑顔がいかにもかわいいのに気がつくと、とつぜん大勢の客のいる前で彼女の細腰を抱き寄せ、つづけざまに三どほど唇の真ん中へ、十分あまみを吸い取るように、遠慮なく接吻したのである。哀れな婦人は、驚きのあまり気絶してしまった。ニコライは帽子を取って、一座の動揺の中に呆然と突っ立っているリプーチンに近寄り、じっとその顔を見つめて、ちょっと自分でもどぎまぎしながら、早口に『怒らないでください』とつぶやいて、そのまま部屋を出てしまった。リプーチンはつづいて控え室から駆け出した。そして、手ずから外套を彼の手へ渡したりして、階段から会釈しながら見送ったものである。けれど、翌日この罪のない(比較的の話であるが)挿話の本体へ、かなり面白い後日譚がついたために、リプーチンは世間から一種の尊敬さえ受けるようになった。そして、彼はその尊敬を十分たくみに利用したのである。
 翌朝十時頃、スタヴローギン夫人の家へ、リプーチンの下女アガーフィヤが姿を現わした。これは年恰好三十ばかり、ざっくばらんな、元気のいい、赤い頬っぺたをした女であった。彼女はニコライに対して用事を頼まれて来たので、どうしても『旦那様にじきじきお目にかかりたい』といった。ニコライは頭痛がしてたまらなかったが、押して出て見た。ヴァルヴァーラ夫人はこの伝言披露の席に、うまく割り込んだ。
「セルゲイ・ヴァシーリッチ(つまりリプーチン)が」とアガーフィヤは元気のいい調子で切り出した。「まず第一に、旦那様へよろしく申し上げるように、とこうお言いつけでございました。そして、ご機嫌はいかがでいらっしゃいますか、昨日あの後どんなふうにお休みになりましたか、また今お気分はいかがでございますか、それをよく伺って来るように、とのことでございました、昨日あのことがあった後でね」
 ニコライはにやりと笑った。
「ああそうか、よくお礼をいってくれ。それからね、アガーフィヤ、帰ったら旦那様に、おれがあの人は町じゅうで一番かしこい人だといってたって、そう取り次いでおくれな」
「それについて、旦那様はこうお答えしろとおっしゃりました」とアガーフィヤはいっそう元気な調子で受け止めた。「そのことはあなた様から伺わなくとも、自分でよく承知しております。そして、あなたさまもご同様でいらっしゃるように望んでおります、とこうおっしゃってでございました」
「へえ! どうしてあの人はおれがお前にいうことを、ちゃんと見抜いてしまったんだろう?」
「どうして見抜かれましたか、そのへんはとんとわかりませんが、なんでもわたくしが外へ出て、横町をすっかり出きった時、うしろから旦那様がシャッポを冠らないで、わたくしを追っかけていらっしゃるのでございます。そして、『おい、アガーフィヤ、もし先方でやけ半分に、お前の旦那様は町じゅうで一番かしこい人だ、とこういうふうなことづけがあったら、お前すぐ忘れないでね、それは自分でよく承知しております、そしてあなたさまもご同様でいらっしゃるように望んでおります、とこう返答しろ』とおっしゃいましたので……」

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 ついに県知事との応対が実現せられた。もの柔かな愛すべきわがイヴァン・オシッポヴィチは、帰って来ると早々、クラブの人たちの火のように憤激した訴えを聞かされたのである。まったく、なんとか方法を講ずる必要があるのは疑いをいれないところだけれど、彼は少々当惑した。この客あしらいのいい老人も、やはりこの親戚の青年を幾分おそれていたのである。が、彼はニコライを説き伏せて、クラブに対しても、また侮辱を受けた当人に対しても、十分得心のゆくような謝罪をさせよう、場合によっては詫び証文でも入れさせようと決心した。それから、じっくりとすすめてこの地を出発させ、イタリアなりどこなり、見物にやろうと思ったのである。このとき彼が、スタヴローギンを待たせてある客間へ出て見ると(いつもなら親類というので、勝手に家じゅう歩き廻るのだが)、そこには子飼から育て上げたアリョーシャ・チェリャートニコフといって、官吏であると同時に知事の家族同様になっている男が、片隅のテーブルで小包の封を切っているし、次の間では広間に通じる扉に一番近い窓際で、主人の親友でもあれば元の同僚でもある、どこかよそからやって来た肥った丈夫そうな大佐が、『声《ゴーロス》』紙を読んでいた。もちろん、客間の出来事などにはいささかも注意を払わず、こちらへ背中を向けて坐っていた。知事は遠廻しに、ほとんどささやくような声でいいだしたが、いくぶんまごつき気味だった。ニコラスは恐ろしく無愛想な、いっこう親類らしくうち解けたところのない様子で、あおざめた顔をしながら、伏目がちに坐って、まるで烈しい痛みでもこらえているように、眉根を寄せて聞いていた。
「ニコラス、きみは優しい高潔な心情を持っている人だ」と老人はしまいにこういった。「きみは立派な教育を受けた人で、しじゅう上流の社会に出入りしていたんだし、またここでも模範的な挙動を示して、お母さん、――われわれ一同にとって大切な人、――を安心させていたのじゃないか……それが急にこんな奇怪な、世間から見て危険な色彩を帯びてくるというのは……ねえ、きみ、わたしはきみの家の親友として、また心からきみを愛する親類の老人としていうのだから、腹なぞ立てるべきじゃないよ……え、きみ、あんふう[#「あんふうに」はママ]社会上の約束や習慣をいっさい無視して、思いきり乱暴な行為を決行させた原因は、いったいなんだろう? あんな熱病に浮かされたようなとっぴな行為には、どんな意味があるんだろう?」
 ニコラスはいまいましい、じれったそうな表情で聞いていた。と、突然その目に何かしら狡猾な、人を馬鹿にしたような色がちらと浮かんだ。
「それじゃ、その原因というのをお話しましょう」と気むずかしそうな調子でこういって、彼はあたりを見廻しながら、知事の耳の傍ちかく身をかがめた。
 子飼のアリョーシャは、また三歩ばかり窓のほうへ遠のいたし、大佐は『声《ゴーロス》』を読みながら、咳払いしていた。憫むべし、老知事は正直に急いで耳を差し出した、――彼は極端に好奇心が強かったので。と、突然この瞬間、とうていあり得べからざる出来事が生じたのである。しかし、それも一方から見れば、ある点においてあまりに明瞭なことであった。ふいに老人は、ニコラスが何か面白い秘密でもささやくと思いのほか、こともあろうにだしぬけにかれの耳の上のほうを歯で咬えて、かなり強く締めつけるのを感じた。老人はびくりとして、思わず息を引いた。
「ニコラス、なんという悪洒落だ!」まるで自分のものと思われないような声で、彼は機械的にこう呻いた。
 アリョーシャと大佐は、まだなんにも気がつかなかった。それに、二人とも何も見えなかったので、主客は本当に何か耳打ちしているものと、最後まで信じていたのである。しかし、老人の恐ろしい顔つきは、二人に不安の念をいだかした。彼らはかねてうち合わせのとおり、飛んで行って力を貸したものか、それともいま少し待ったものか、どちらとも決しかねて、目をぱちくりさせながら、互いに顔を見合わせていた。ニコラスはそれに気がついたものか、前よりももっとひどくぎゅっと噛んだ。
「ニコラス、ニコラス!」と哀れな犠牲はまた呻いた。「さあ……冗談はもういいかげんにしてくれ……」
 もう一秒間もつづいたら、哀れな老人は驚きのあまり死んでしまったかもしれない。けれど、この無頼漢もさすがかわいそう[#「さすがかわいそう」はママ]になって、咬えた耳を放した。この死ぬような恐ろしい思いがものの一分間もつづいたので、老人はその後なにかの発作を起こしたほどである。けれど、三十分の後、ニコラスは捕縛されて、当分かりに営倉へ送られた。そして、独房へ閉じこめられ、戸口に特別歩哨を付せられた。これはなかなか思いきった処置であったが、もの柔かなわが長官も、すっかり腹を立ててしまって、いっさいの責任、――ヴァルヴァーラ夫人に対する責任すらも、一身に引き受けようと決心したのである。夫人が火急の用談のため、取るものも取りあえず、恐ろしく気をいら立たせながら、県知事のところへ駆けつけた時、彼は玄関口で面会を断わってしまった。これは町ぜんたいにとっての驚異であった。夫人は馬車から出ないでほとんどわれとわが身を疑いながら、そのまますごすごわが家へ引っ返した。
 けれど、ついにいっさいは解決された! それは夜中の二時であった。今まで驚くばかり静かに寝ていた囚人が、急に騒がしい物音を立て、拳で兇暴に扉を叩き始め、人間業と思われないような力をもって、扉の端から鉄の格子をもぎ放し、われとわが手を傷つけて、ガラスを打ち毀した。見張りの将校が部下を引きつれ、鍵を持って現場へ駆けつけ、乱暴者を取り抑えて縛り上げさせるため、監房の扉を開けるように命令したとき、彼が烈しい精神性の熱病に罹っていることを、初めて確かめたのである。で、彼は母夫人の手もとへ移された。すべては一度に明瞭となった。町の医者は三人とも、この病人が三日以前も同様に、熱に浮かされたような状態に落ちていたのは、容易に想像しうることだと意見を述べた。うち見たところ自意識もあれば、狡知も持っているようであるが、もはや理性も意志も健全なものでないということは、事実によって裏書きされたのである。こういうわけで、つまりリプーチンが真っ先に、ことの原因を洞察したことに