『ドストエーフスキイ全集10 悪霊 下』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP145-192

いては、きみはぜんぜん安心して可なりです、――密告などしやしません」
 彼はくるりとくびすを転じて、すたすた歩き出した。
「畜生、あいつ途中であの連中に会って、シャートフに告げ口をするに相違ない!」とピョートルは叫んで、いきなりピストルをつかみ出した。
 かちりと引金を上げる音が聞こえた。
「どうかご安心なさい」ふたたびシガリョフが振り返った。「ぼくは途中でシャートフに出会ったら、お辞儀ぐらいするかもしれないが、告げ口なんかしやしないです」
「きみ、わかってるだろうね。そんなことをしたら、それだけの報いを受けなきゃならないよ、フーリエ君」
「断わっておきますが、ぼくはフーリエじゃありません。ぼくをあんな甘ったるい、抽象的な、煮えきらない理論家と混同することによって、きみはただ一つの事実を証明するにすぎないです、――ほかじゃありませんが、きみはぼくの原稿を自分の手に握っていながら、内容は全然わかっていないんです。ところで、きみの報復については、ぼくこういっておきましょう。きみが引金を上げたのは拙いですね。この場合、きみのためにかえって不利じゃありませんか。ところで、明日とか明後日とかいってぼくを脅かすとすれば、きみはぼくを射ち殺すということによって、余計な手数のほか何物も得るところはありませんよ。ぼくを殺してみたところで、遅かれ早かれ、きみはぼくの主張に到達するわけですからね。じゃ、さよなら」
 ちょうどこの瞬間、二百歩ばかり隔てた公園の池のほうから、口笛の音が響きわたった。リプーチンは昨日の打合わせによって、さっそくおなじようにひゅう[#「ひゅう」に傍点]と一こえ合図を返した(彼は自分の乱杭歯の口が当てにならなかったので、このためにわざわざけさ市場で一コペイカ出して、土で焼いた玩具の笛を求めたのだ)。エルケリは途々前もってシャートフに、合図の口笛があることを知らせておいたので、彼はなんの懸念も起こさなかった。
「心配ご無用です。ぼくはあの連中を避けて通るから、向こうじゃ少しもぼくに気がつかないでしょう」シガリョフは諭すような調子でささやいた。
 それから、いっこう足を速める様子も急ぐふうもなく、彼は暗い公園を抜けて、きっぱりとわが家をさして歩き出した。
 今ではこの恐ろしい出来事が、どういうふうに起こったかということは、ごく細かい点までも一般に知れわたっている。最初リプーチンが洞のすぐ傍で、エルケリとシャートフを出迎えた。シャートフは彼に会釈もしなければ、手をさし出そうともせず、すぐせかせかと大きな声でいい出した。
「さあ、いったいシャベルはどこにあるんだね。そして、もう一つ角燈はないかしらん? いや、心配することはない、ここにはまるで人っ子一人いやしないから、ここからスクヴァレーシニキイまでは、大砲をぶっ放したって、大丈夫きこえやしないよ。あれはここにあるんだ。そら、ここのところだ、ちょうどこの下に……」
 彼は実際、洞のうしろ隅から森へ十歩寄ったところを、足でとんと踏んで見せた。この瞬間、木蔭からトルカチェンコが現われて、うしろから彼に飛びかかった。エルケリもおなじくうしろから彼の肘をつかまえた。リプーチンは前から躍りかかった。三人はすぐに彼の足をすくって、地べたに押しつけてしまった。そこヘピョートルが例のピストルを持って飛び出した。話によると、シャートフは彼のほうへ首を捩じ向けて、その顔を見分けるだけの暇があったとのことだ。三つの角燈がこの場面を照らし出した。シャートフはとつぜん短い絶望的な叫び声を発した。けれど、いつまでも声を立てさせてはいなかった。ピョートルは正確な手つきで、彼の額にしっかり強くピストルを押し当てると、――そのまま引金をおろした。発射の音はあまり大きくなかったらしい。少なくも、スクヴァレーシニキイでは、だれひとり耳にしたものがなかった。もちろん、シガリョフは聞きつけた。彼はやっと三百歩はなれるか離れないかだったので、叫び声もピストルの音も耳にしたが、後で彼自身申立てたところによると、後を振り向きもしなければ、立ちどまりさえしなかったとのことである。殺害はほとんど瞬間的に行なわれた。
 十分に実際的な能力、――冷静な落ちつきというわけにはいかぬ、――を保有していたのは、ただピョートル一人だけだった。彼はその場にしゃがみながら、忙しげな、とはいえしっかりした手つきで、死人のポケットをさがしにかかった。金はなかった(金入れはマリイの枕の下に置いて来たのである)。二、三枚のつまらない紙きれが出てきたが、一つは事務所から来た手紙で、一つは何かの本の目次、いま一つは古い外国の酒屋の勘定書だった。どうしてこんなものが二年間、ポケットの中で無事に残っていたのか、不思議なくらいである。この紙きれを、ピョートルは自分のポケットに収めたが、ふとみんな一つところに固まったまま、なんにもしないで、ぽかんと死骸を眺めているのを見ると、急に毒々しく不作法な調子で罵りながら、一同をせきたてはじめた。トルカチェンコとエルケリは、われに返って駆け出したが、たちまち洞窟の中から、もう今朝ほど用意しておいた石を、二つ持って来た。石はどちらも二十斤くらい重さがあって、もうちゃんと支度ができていた。つまり、固くしっかり繩が掛けてあったのだ。
 死骸は、手近の(第三の)池まで持って行って、その中へ沈めることに手筈が決まっていたので、人々は足と順に石を縛りつけ始めた。それを縛りつけるのはピョートルの役目で、トルカチェンコとエルケリは、ただ石をかかえていて、順々にそれをさし出すだけだった。エルケリが初めに石を渡した。ピョートルがぶつぶついったり、罵ったりしながら、死骸の足を繩で縛って、それに石を括りつけていると、トルカチェンコはこのかなり長い間、さあといえばすぐ渡されるように、うやうやしげに上半身をぐっと前へかがめながら、じっと石を両手にかかえたまま、ちょっとでもこの厄介ものを下へおろしておこうなどとは、一度も考えなかった。やっと二つの石が縛りつけられて、ピョートルが地べたから身を起こしながら、一同の顔を透かし見ようとしたとき、そのとき突然、まるで思いも寄らぬ一つの奇怪事が生じて、一同の胆をひしいだのである。
 前にもいったとおり、トルカチェンコとエルケリをのけたほか、一同はほとんど何もしないで、ぼんやり立っていた。ヴィルギンスキイは、みんながシャートフに飛びかかった時、同様に躍り出すには躍り出したが、シャートフには手を掛けないで、彼を取り抑える手伝いもしなかった。リャームシンは、もうピストルが鳴ってしまってから、一同の間に姿を現わした。やがて十分ばかり、死骸の始末でごたごたしている間、一同はさながら自意識を一部分とり落としたようであった。彼らは輪を作って、一ところに固まっていたが、不安とか心配とかいうよりも、今はただ驚愕の念のみに囚われているらしかった。リプーチンはだれよりも前に出て、死骸のすぐ傍に立っていた。ヴィルギンスキイは何か一種特別な、まるで人ごとのような好奇の色を浮かべながら、リプーチンの後から彼の肩ごしに覗き込んでいたばかりか、爪立ちにまでなって、よく見透かそうと努めていた。リャームシンはヴィルギンスキイのうしろに隠れて、時々おっかなびっくりで覗いて見ては、すぐにまた隠れてしまうのであった。ところが、死骸に石を括りつけて、ピョートルがやおら立ちあがったとき、ヴィルギンスキイは突然からだを小刻みにぶるぶる慄わせながら、両手をぱちりと鳴らし、喉一ぱいに声を張り上げて、悲しそうに叫んだ。
「これは違う、まるで違う。いけない、まるっきり違う!」
 彼はこの遅蒔きの叫び声に、まだ何かつけ足したかもしれなかったのだ。けれど、リャームシンはしまいまでいわせなかった。出しぬけにうしろからヴィルギンスキイをつかんで、力まかせに締めつけながら、何かとうてい想像もできないような声でわめき始めた。よく人が烈しく驚いた時には、突然いままで思いも染めなかったような、まるで借り物みたいな声を立てることがある、それがどうかすると、もの凄いほどに思われるものだ。リャームシンはまったく人間と思われない、獣のような声で叫び出したのである。痙攣的な発作に駆られてしだいに強く、両手でうしろからヴィルギンスキイを締めつけながら、彼は一同のほうへ向いて目を剥き出し、口をうんと大きく開けたまま、絶えずやみ間なしに黄いろい声を立てて叫んだ。そして、まるで太鼓で雨垂れ拍子でも打つように、両足を細かくばたばたと刻むのであった。ヴィルギンスキイはすっかり面くらって、自分でも気ちがいのようにわめき出した。そして、ヴィルギンスキイとしては思いがけない、思い切って意地の悪そうなもの凄い形相で、うしろへ手の届くかぎり、リャームシンを引掻いたり、叩いたりしながら、その手からのがれようともがき始めた。エルケリも傍から手伝って、やっとリャームシンをもぎ放した。
 けれど、ヴィルギンスキイが度胆を抜かれて、十歩ばかりわきのほうへ飛びのいた時、リャームシンはふいにピョートルに気がついて、ふたたび黄いろい叫び声をあげながら、こんどは彼を目ざして飛びかかった。思わず死骸に躓くと、彼はそのまま死骸を飛び越えて、ピョートルに倒れかかった。そして、相手の胸に頭を押し当てながら、しっかり両手にかかえ込んでしまったので、ピョートルも、トルカチェンコも、エルケリも、ちょっと最初どうもすることができなかった。ピョートルはどなりつけたり、罵ったり、拳固で頭を撲ったりしながら、とうとうやっとのことでもぎ放すと、いきなりピストルを取り出して、依然としてわめきつづけるリャームシンのあいた口ヘ向けて、まともに狙いを定めた。トルカチェンコとエルケリとリプーチンは、もうしっかりリャームシンの両手をつかまえていた。けれど、リャームシンはピストルをさし向けられているのに、いつまでも叫びつづけるのであった。とどのつまり、エルケリが自分のハンカチを丸めて、巧みに彼の口へ押し込んだ。こうして、やっと叫び声は途絶えたのである。トルカチェンコはその間に、残った繩の切れっぱしで、彼の両手を縛り上げてしまった。
「これは実に奇態だ」不安な驚愕に打たれて、この気ちがいを見廻しながら、ピョートルはこういった。
 彼は見受けたところ、だいぶ度胆を抜かれたらしい。
「ぼくはあの男のことを、まるで別なふうに考えていた」彼は考え深そうにつけ足した。
 一時この男の傍へ、エルケリを付けておくことにした。まず何よりも、死人の始末を急がなければならなかった。ずいぶん大きな声で長い間わめいたので、どこかで聞きつけた者があるかもしれない。トルカチェンコとピョートルは角燈を取り上げて、死骸の頭に手を添えた。リプーチンとヴィルギンスキイは足を持って、やがて一同は歩き出した。二つの石をつけたこの荷物はずいぶん重かった。それに、距離は二百歩以上あった。中で一ばん力持ちはトルカチェンコだった。彼は、歩調を揃えたらよかろうと注意したが、だれ一人それに答えるものはなかった。で、人々は出たらめに歩いた。ピョートルは右側から歩いて行った。そして、すっかり前へのめりながら、死人の頭を肩に担いで、右手で石を下から支えていた。トルカチェンコは道のり半分ばかりの間、その石を支える手助けをしようなどとは、まるで気がつかなかったので、ピョートルはとうとう罵声を交えながら、彼をどなりつけた。その叫び声はきわめて唐突で、さびしげに響いた。一同は無言のまま運びつづけた。ようやく池の傍まで来た時、ヴィルギンスキイは荷物の重みに疲れたように、妙に背中をかがめながら、前と同じ高い泣くような声で、出しぬけにこう叫んだ。
「これは違う、いけない、いけない、これはまるっきり違う!」
 彼らが死人を運んで来たこの第三の、かなり大きな、スクヴァレーシニキイの池は、公園の中でも一ばん荒寥とした場所で、ことにこの頃のような晩秋の頃になると、ほとんど訪れる人とてもなかった。池もこちらの端になると、岸に草が生い茂っていた。人々は角燈を置くと、死骸を二つ三つ振って、池の中へほうり込んだ。鈍い音が長く尾を曳いた。ピョートルは角燈を取り上げた。つづいて一同も身を乗り出しながら、死骸の沈んで行くさまを、もの珍しそうに見透かしたが、もうなんにも見えなかった。石を二つ付けた死体は、たちまち沈んでしまった。水の表面に起こった大きな波紋は、みるみるうちに消えていった。ことはすでに終わった。
「諸君」とピョートルは一同にいった。「これでもうわれわれは別れるのです。疑いもなく諸君は、自由な義務の遂行にともなう自由な誇りを、感じていられることと思います。もし遺憾にも、今この際、そういう感覚を味うべく、あまりに興奮していられるとすれば、明日は間違いなく感得されるに相違ありません。明日それを感得しないのは、もはや恥です。ところで、あの醜悪を極めたリャームシンの興奮にいたっては、ぼくは単に熱に浮かされたものと見なしておきます。まして本当にあの男は、今朝から病気だという話ですからね。それから、ヴィルギンスキイ君、きみはほんの一分間でも、自由な気持ちで省察してみたら、共同の事業のためには、誓いなど当てに行動するわけにはいかない、どうしてもぼくらのやったようにしなきゃならない、ということがわかって来るでしょう。実際、訴状があったということは、結果がきみに示してくれますよ。ぼくはきみの叫んだ言葉を忘れることにしましょう。危険なんかって、そんなものは断じてありません。だれにもせよ、ぼくらに嫌疑をかけようなどとは、思いも寄らないこってすよ。ことにきみがたが上手に立ち廻ったらなおさらです。なぜなら、大切な点は要するに、諸君および諸君の十分な信念にかかってるんだからね。きみがたはこの信念を、明日にもさっそく獲得されることと嘱望します。しかるに、きみがたは目下共同の事業のために、互いに精力を分ち合い、必要に応じては、互いに注意監督するの目的をもって、同志の自由結社たる独立の機関に入っておられる。したがって、きみがたは一人一人、最高の責任を帯びているわけなのです、停滞のために悪臭を発する古ぼけた事物を一新する使命を持っているのです。これは勇気を失わないために、いつも念頭においてもらいたい。目下のところきみがたの進むべき道は、ただいっさいの破壊、――国家とその道徳の破壊あるのみです。その破壊の後には、あらかじめ権力を継承しているわれわればかりが残ることになる。そうして、賢者は自分たちの仲間に加え、愚者はどんどん馬蹄にかける。それをきみがたは心苦しく思ってはいけない。自由を辱しめないようにするためには、一代の人間を鍛え直さなければならない。これからさきでも、まだ幾千人のシャートフが、進路に横たわっていることでしょう。われわれは、大体の方向をつかむために団結したのです。だから、のん気そうにねそべって、ぼんやり口を開けながら、ぼくらを見ているようなやつを、手で拾い上げないのは、むしろ恥辱なくらいです。これから、ぼくはキリーロフのところへ行きます。そして、明日の朝までに例の遺書ができるわけです。それはあの男が死に臨んで、政府に対する弁明書という意味で、いっさいを自分に引き受けてくれるのですが、なにしろこれくらいまことしやかなコンビネーションはほかにありゃしませんよ。第一に、あの男はシャートフと仲が悪かった。二人はアメリカで長くいっしょに住んでいたのだから、その間には喧嘩ぐらいしたに相違ない。またシャートフが変節したこともあまねく知れわたっている。してみると、主義上の敵視、密告を恐れての敵視というやつが、あるに違いない、――つまり、とうてい妥協の道のない敵視なのです。これがすっかり遺書の中に書き込まれるわけですよ。まだその上に、あの男の住んでいるフィリッポフの持ち家に、フェージカが寝起きしていたことも書かせます。こういうわけで、われわれに対する嫌疑はことごとく排除されるわけです。なぜって、世間の間抜けどもは、すっかり五里霧中に彷徨するに決まってるから。ところで、諸君、明日はもうぼくらは会うことができません。ぼくはほんのちょっとの間、郡部のほうへ出かけなければならないのです。明後日になれば、諸君に新しい報告を伝えることができます。なるべくなら、あす一日、きみがたは家にこもっているほうがいいですよ。さて、ここでぼくらは二人ずつ、違った道を行くことになりますね。トルカチェンコ君、きみはお願いだから、リャームシンの面倒をみて、家へ送り届けてくれたまえな。きみなら、あの男に勢力があるから。それに第一、あんな気の狭いことでは、どれだけ自分を害なうことになるかもしれないと、よくあの男にいい聞かしてもらいたいね。それから、ヴィルギンスキイ君、きみの親戚のシガリョフ君のことは、ぼくもきみ自身と同様に、少しも疑念を挟まないです。彼は密告などしやしない。ただ彼の行動を惜しむのみです。しかし、彼はまだ退会を宣言したわけでないから、彼を葬るのは尚早です。じゃ、諸君、少しも早く。いくら間抜けなやつらだといっても、やはり用心にしくはないです……」
 ヴィルギンスキイは、エルケリといっしょに帰ることになった。エルケリは、リャームシンをトルカチェンコに引きわたすとき、彼をピョートルのところへつれて来て、この男はもう正気に返って、自分の行為を後悔し、宥しを乞うている、あの時はどうしたのか、自分でもおぼえていないほどだ、と告げた。
 ピョートルはただひとり迂路を取って、公園の外に当たる池の向こう側を歩いて行った。驚いたことには、もうおおかた半分道も来た頃に、リプーチンが後から追いかけてきた。
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、リャームシンはきっと密告しますぜ!」
「いや、あの男は今に正気に返って、もし密告なぞしたら、自分で一番にシベリヤへ行かなきゃならない、ということに気がつくでしょうよ! もう今となっては、だれひとり密告するものはない。きみだってしやしません」
「じゃ、あなたは?」
「いうまでもない、もしきみらが裏切りしようと思って、こそとでも動くが早いか、ぼくはきみたちをみんな片づけてしまうから。きみだってそれはご承知だろう。しかし、きみは裏切りなんかしない。いったいきみはたったそれだけのことで、二露里もぼくの跡を追っかけて来たんですか!」
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、ねえ、ピョートル・スチェパーノヴィチ、ぼくらはもう永久に会われないかもしれませんね!」
「なんだってきみはそんなことをいい出したんです!」
「ねえ、ぼくはたった一つききたいことがあるんですが」
「いったいなんです? もっとも、ぼくは、きみにとっとと行ってもらいたいんだがなあ」
「たった一つ、けれど、正確な返事がききたいんです。ぼくらの五人組は、世界じゅうでたった一つきりでしょうか、それとも、こんな五人組が何百もある、というのが本当でしょうか! ぼくは一段高い見地からきいてるんですよ、ピョートル・スチェパーノヴィチ」
「それはきみの興奮した様子でわかるよ。きみはリャームシンより、もっと危険な人間だってことが、自分でもわかってますかね!」
「わかってます、わかってます、しかし、――返事は、あなたの返事は!」
「きみは馬鹿な男だねえ! もう今となったら、五人組なんか一つだろうが、千だろうが、きみにとっては同じことだろうに」
「じゃ、一つきりなんだ! ぼくもそうだろうと思ってた!」とリプーチンは叫んだ。「ぼくはもう始終、いまの今まで、一つきりだろうと思っていた……」
 こういい捨てて、彼はもはや次の返事を待たず、くるりと踵《くびす》を転じると、そのまま闇の中に消えてしまった。
 ピョートルはちょっと考え込んだ。
「いや、だれも密告しやしない」彼はきっぱりといった。「しかし、集団はやはりどこまでも集団として、命令に服従しなくちゃならない。それでなければ、おれはやつらを……しかし、なんというやくざな野郎どもだろう!」

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 彼はまず自宅へ立ち寄って、悠々ときちょうめんにカバンを詰めにかかった。朝の六時には、急行列車が立つことになっていた。この急行は一週に一度しか出ない。それもごく最近、当分のあいだ、試験的に運転してみることになったばかりである。ピョートルは仲間のものに、ちょっとしばらく郡部のほうへ出かけると断わったが、事実あとで判明したところによると、彼の目算はぜんぜん別だった。カバンのほうの始末をつけると、もう前もって出立を知らせておいた主婦に払いをすまして、停車場ちかく住まっているエルケリのところへ、辻馬車を傭って出かけて行った。それから、ほぼ夜中の二時ちかい頃、キリーロフのところへ行った。やはり例のフェージカのこしらえた、秘密の抜け穴から忍び込んだのである。
 ピョートルは恐ろしい気分になっていた。彼にとって非常に重大な二、三の不満を別にして(彼はいまだにスタヴローギンのことを、何一つ探り出せなかったので)、彼はこの日のうちにどこからか(おそらくペテルブルグからだろう)、近い将来に自分を待ち受けているある種の危険に関して、秘密な通知を受けたらしいのである(こういう曖昧な言い方をするのは、わたし自身も明確にそうと断言できないからなので)。もちろん、この時分のことについては、今だに町でお伽噺めいた噂がいろいろと行なわれている。けれど、もし何か正確なことを知ってる人があるとすれば、それはただその筋の人くらいのものである。わたし一個の想像するところでは、ピョートルは実際この町以外、どこかにまだ連絡を保っていて、事実そういうところから情報を得たものらしい。それどころか、リプーチンの皮肉で絶望的な疑いに反して、彼は本当にこの町以外の土地、たとえば、両首都あたりで、二、三の五人組を組織していたものと、こうわたしは信じている。たとえ五人組といえないまでも、いろんな関係や連絡があったに相違ない、――しかも、非常にとっぴなものかもしれない。
 彼の出発後、三日と経たないうちに、即時かれを捕縛するようにという命令が、この町に達した。それはどういう事件のためか、――この町の出来事か、それともまたほかのことか、その点はわたしにもわからない。この命令は、ちょうどかの神秘的な意味深い大学生シャートフの惨殺(それはこの町に続けて起こった怪事件の頂点を示すものであった)と、この事件に伴うさまざまな謎めいた事情が発見されたため、町の官憲を初めとして、今まで頑なに軽佻な態度を持して来た社交界まで俄然わしづかみにしてしまった神秘的な恐怖の印象を、ひとしお強めたのである。しかし、命令の来ようが遅かった。ピョートルは、そのとき早くも名前を変えて、ペテルブルグに忍んでいたが、少し怪しいと嗅ぎつけると、たちまち外国へすべり抜けてしまった……が、わたしは恐ろしく先廻りをしたようだ。
 彼は意地悪そうな、喧嘩腰ともいうべき顔つきで、キリーロフの部屋へ入って行った。彼はおもな用むき以外に、また何やら個人的にキリーロフに癇癪を吐き出して、何かの敵討でもしたそうなふうだった。キリーロフは彼の来訪をよろこぶように見えた。明らかに彼は恐ろしく長いあいだ、病的な焦躁をいだきながら、彼を待ち設けていたらしいのである。その顔はいつもよりさらにあおざめて、暗い色の目は重々しく据わっていた。
「ぼくはもう来ないかと思ってた」と彼は重苦しくこういったが、長いすの隅に坐ったまま、出迎えに身を動かそうともしなかった。
 ピョートルはその前に立ちはだかって、何か口を切るよりさきに、じっと相手の顔に見入るのであった。
「つまり、万事きちんとなってるんですね。例の決心を翻すようなことはありませんね、いや、えらい!」彼は人を馬鹿にしたような、いかにも保護者気取りの微笑を浮かべた。「で、どうです」と彼は厭味な、ふざけた調子でつけ足した。「少しくらい遅れたって、何もきみが不足をいうわけはないじゃありませんか。ぼくはきみに三時間めぐんであげたんですからね」
「ぼくはそんな余計な時間なんぞ、きみから恵んでもらいたくない。それに、きみなんかぼくに恵むことができるものか……ばか!」
「なに!」とピョートルはいいかけたが、すぐに自分で自分を制止した。「なんという怒りっぽい人だろう! おやおや、ぼくらはいがみ合ってしまったじゃありませんか!」依然として人を馬鹿にしたような、高慢ちきな態度で、彼は一語一語きざむようにいった。「こういう場合には、どっちかといえば、落ちつきのほうが必要ですね。まあ、自分がコロンブスになった気で、ぼくなんかは鼠かなんぞのように思って、腹を立てないのが一番いいですよ。それはぼくきのうもおすすめしたんですがね」
「ぼくはきみを鼠かなんぞのように思いたくない」
「それはなんです、お世辞ですか? もっとも、お茶も冷たくなってる、――してみると、何もかもめちゃめちゃなんですね。いかん、どうも頼りなさそうなことが持ちあがってるようだ。おや! あの窓の上に何やらある。ほら、皿の中に(彼は窓に近寄った)。ほほう、米といっしょに煮た鶏肉《とり》ですな!………だが、どうして今まで手がつけてないんだろう! ははあ、なるほど、ぼくらはいま鶏肉も食べられないような気分になってるんですね……」
「ぼくは食べたよ。きみの知ったことじゃない、黙っていたまえ!」
「おお、もちろん、それに、どっちにしたって同じことですからね。しかし、ぼくにとっては、いま同じことじゃないんですよ。ねえ、ぼくはまだほとんど食事をしていないから、もしぼくの想像どおり、もうこの鶏肉《とり》がきみに不用だとすれば、ね!」
「もし食べられればやりたまえ」
「それはありがたい。それから後でお茶もね」
 彼はさっそく長いすの反対側に陣取って、恐ろしくがつがつした様子で、食物に飛びかかった。しかし、それと同時に、絶えず自分の犠牲《いけにえ》を観察していた。キリーロフは毒々しい嫌悪の色を浮かべて、さながら目を離すことができないかのように、じっと瞬きもせず彼を見つめるのであった。
「ときに」依然として貪りつづけながら、ピョートルはとつぜん身をそらした。「ときに、用件のほうは! ぼくらは決心を翻しゃしないですね、え! ところで、遺書は!」
「ぼくは今夜いよいよ、どうなったって同じことだと決めてしまった、書くよ。檄文のことだね?」
「ええ、檄文のことも。もっとも、ぼくがすっかり口授しますよ。だって、君にはどうだって同じことなんでしょ。いったいきみはこんな間際になっても、遺書の内容なぞ気になるんですか?」
「きみの知ったこっちゃないよ」
「むろん、ぼくの知ったことじゃない。もっとも、ただの二、三行でいいんですがね。まあ、いってみれば、きみがシャートフといっしょに檄文を撒き散らしたことや、また、それにはきみの宿に隠れていたフェージカの手を借りたことだの……この最後の点、つまり、フェージカと宿のことは、きわめて重要なんです。最も重大なといっていいくらい。ねえ、ご覧なさい、ぼくあなたにはぜんぜん開けっ放しでしょう」
「シャートフ! なんのためにシャートフのことなんか! ぼくはけっしてシャートフのことなんか……」
「ほうら、また、いったいきみにとってどうだというんです! もうあの男の害になることなんか、しようたってできないのですよ」
「あの男のところへは細君がやって来たんだ。さっき細君が目をさまして、あの男のいどころをぼくのところへききによこしたんだ」
「細君がきみのところへ、あの男のいどころをききによこしたんですって! ふん……それは拙いなあ。多分また使いをよこすだろう。ぼくがここにいることは、だれにも知らしちゃいけないんです……」
 ピョートルは気を揉み出した。
「細君は知りゃしない、また眠ってるんだから。あのひとのところには産婆がいる、アリーナ・ヴィルギンスカヤが」
「そ、そのとおり……しかし、聞きつけやしないでしょうね! 入口に鍵をかけなくってもいいでしょうか」
「けっして聞きつけやしない。もしシャートフが来たら、きみをあっちの部屋へ隠してあげる」
「シャートフは来やしません。そこで、きみは裏切りと密告のために……今夜あの男と喧嘩をして……それがあの男の死因となった、とこう書いてもらうんですよ」
「あの男が死んだ!」キリーロフは長いすから躍りあがりながら叫んだ。
「今夜の七時すぎ、というより、むしろ昨夜の七時すぎですな。今はもう十二時すぎてますからね」
「それは貴様が殺したんだ!………それはぼくも昨日から見抜いていた!」
「見抜かずにいられるものですか? ほら、このピストルでね(彼はいかにもちょっと見せるためらしくピストルを取り出したが、もうそれっきりしまおうとしないで、いつでも用意ができているように、引き続いて右手にじっと持っていた)。しかし、きみは奇妙な人ですね。キリーロフ君、あの馬鹿な男の最期がこうなるに決まっていたのは、きみも自分で承知してたんじゃありませんか。この場合、見抜くも何もあったものじゃない。ぼくはもう何べんとなく、きみに噛んで含めるようにいったんですよ。シャートフは密告を企てたので、あの男を監視していた。ところが、どうしてもうっちゃっておけなくなったのです。それに、きみだって監視の命令を受けたんですよ。現に三週間前、きみが自分でぼくに知らせてくれたじゃありませんか……」
「黙れ! 貴様があの男を殺したのは、あの男がジュネーブで、貴様の顔に唾を吐きかけたからなんだ!」
「それもあるし、またほかにもあるんです。いろいろほかの原因があるんですよ。しかし、いっさい私憤なしにやったことです。なんだってそう飛びあがるんです! なんのために芝居めいた所作をするんです! ほほう! なるほどきみはこんなことにまで!………」
 彼は跳ね起きて、ピストルを前へさし出した。それはこういうわけなのである。キリーロフが出しぬけに、もう今朝から用意して装填してあった自分のピストルを、窓の上から取り上げたのだ。ピョートルは身がまえをして、自分の武器をキリーロフにさし向けた。こちらは毒々しく笑い出した。
「白状しろ、悪党め、貴様がピストルを取り上げたのは、ぼくが貴様を射つかと思ったからだろう……ぼくは貴様なんか射ちやしない……もっとも……もっとも……」
 こういいながら、彼は自分が相手を射ち倒す光景を想像する、その快感をむざむざ棄てかねるように、狙いでも定めるような恰好で、ふたたびピョートルにピストルをさし向けた。ピョートルはやはり身がまえをしたまま、じっと待ちかまえていた。自分でさきに弾丸を額に受ける危険を冒しながら、引金をおろさず、最後の瞬間まで待ち設けていた。実際こんな『気ちがい』だから、そういうことがあるかもしれないのだ。けれど、『気ちがい』はついに手を下ろした。そして、せいせい息を切らして、身を慄わせながら、ものをいう気力もなかった。
「ちょっとふざけてみたんです。もうたくさん」とピョートルもピストルを下ろした。「きみがふざけてるってことは、ぼくもちゃんと承知してましたよ。ただね、きみは冒険したんですよ。ぼくは引金を下ろすこともできたんですからね」
 彼はかなり平然と長いすに腰を下ろし、自分でコップに茶をついだ。もっとも、その手はいくらか慄えていた。キリーロフはピストルをテーブルの上に置いて、部屋の中をあちこち歩き出した。
「ぼくはシャートフを殺したとは書かない。そして……今はもう何も書きゃしない、書置きなんかこしらえないよ!」
「こしらえない?」
「こしらえない」
「なんという卑怯なことだ、なんという馬鹿げたことだ!」ピョートルは憤怒のあまり真っ青になった。「もっとも、ぼくはこれを見抜いていた。ねえ、出しぬけにぼくの度胆を抜こうたって、そりゃ駄目ですよ。しかし、どうともご勝手に。もし無理にきみを強制できるものなら、そうもしたんだがなあ。だが、きみは卑怯者だ」ピョートルはだんだん我慢ができなくなってきた。「きみはあの時、われわれから金を無心して、むやみにいろんなことを約束したじゃないか……が、それにしても、ぼくは何か結果を握らなきゃ、出て行かないよ。少なくも、きみが自分で自分の額を、打ち割るところでも見なきゃね」
「ぼくは貴様に今すぐ出て行って、もらいたいのだ」とキリーロフはしっかりした足取りで、彼の真正面に立ちどまった。
「いや、それはどうしてもできませんよ」ピョートルはまたもやピストルに手をかけた。「おおかたきみは今つらあてと臆病のために、何もかも中止してしまってさ、また金でも握るつもりで、明日あたり密告に行く気になったんだろう。だって、そうするとお礼がもらえるものね。畜生、きみのような小人ふぜいは、どんなことでもしかねないからなあ! ただ、心配はご無用ですぜ。ぼくはあらゆる場合を予想してるんだから。もしきみが臆病風を吹かして、あの決心を翻すようなことがあったら、シャートフの畜生と同様に、このピストルできみの頭の鉢を打ち割らずにゃ帰らないんだ、いまいましい!」
「貴様はどうしてもぼくの血まで見たいんだな?」
「ぼくは意地でいってるんじゃありませんよ。考えてもごらんなさい、ぼくにとっちゃ同じことなんですぜ。ぼくはただ共同の事業について、安心がしたいからこそいうんですよ。人間てものは当てにならない、それはきみもご承知のとおりです。いったいきみの自殺の妄想はどういう点に存するのか、ぼくにはいっこうわからない。これは何も、ぼくがきみのために考え出したのじゃなくって、きみが自分で、ぼくに会う前から、思いついたんじゃありませんか。しかも、それを初めて聞かされたのはぼくじゃなくって、外国にいる会員連だったんですからね。それに、ご注意ねがいたいのは、だれも強制的にきみから聞き出したのでない、ということです。その会員連は、当時まるできみを知らなかったのに、きみが自分の感傷癖から勝手にやって来て、うち明けたんじゃありませんか。ねえ、当時きみ自身の提言によって(いいですか、きみ自身の提言によってですよ!)きみの承諾を経て、この町におけるわれわれの運動計画を、きみのこの決心の上に築き上げたんですからね、どうもしようがないじゃありませんか。今となって、それを変更するわけにゃいきませんよ。きみは今そういう地位に身をおいて、あまりたくさん余計なことを知り過ぎてるんです。だから、きみが馬鹿げた了簡を起こして、明日にも密告に出かけるようなことがあれば、それはわれわれにとって不利益じゃありませんか。この点をどうお考えになります? いけませんぜ、きみは義務に縛られてるんですよ。誓いを立てたんですよ、金を取ったんですよ。これはきみだって、どうしても否定するわけにいきませんぜ……」
 ピョートルは恐ろしく熱くなってしまった。けれどキリーロフは、もうだいぶ前から耳をかしていなかった。彼はふたたびもの思わしげに部屋の中を歩き廻っていた。
「ぼくはシャートフがかわいそうだ」ふたたびピョートルの前に足をとめながら、彼はこういい出した。
「そりゃぼくだってかわいそうですよ。いったい……」
「黙れ、悪党め!」もはや疑う余地もない恐ろしい身振りをしながら、キリーロフは咆えるようにこうわめいた。「打ち殺すぞ!」
「ま、ま、ま、それは嘘ですよ。そのとおり、少しもかわいそうなことはないです。さあ、もうたくさん、たくさんですよう!」ピョートルは手を前のほうへさし伸ばしながら、心配そうにちょっと腰を持ち上げた。
 キリーロフはとつぜん静かになった。そして、ふたたびこつこつと歩き出した。
「ぼくはもう延ばしゃしない。ぼくはどうしてもいまは自殺したいのだ。みんな卑劣漢ばかりだ!」
「いや、それは確かですね。もちろんだれもかれも卑劣漢ばかりで、立派な人間はこの世界で暮らすに堪えられないから……」
「ばか、ぼくもやはりきみと同じような、ほかの連中と同じような卑劣漢だ、立派な人間じゃない!」
「とうとう気がつきましたね。キリーロフ君、いったいきみはそれだけの理性を持っていながら、今まで気がつかなかったんですか? だれだってみんな同じようなものですよ。この世には、善人も悪人もありゃしない、ただ賢い者と馬鹿なものがあるだけです。もしみんな卑劣漢ばかりだとすれば(もっとも、そんなことはくだらない話ですがね)、当然、卑劣漢にならずにゃいられないじゃありませんか」
「ああ! きみは本当に冷やかしてるんじゃないのかい?」キリーロフはちょっと驚いた様子で、相手を見つめた。「きみは熱心に正直な態度で……いったいきみみたいな男でも信念を持ってるのかね?」
「キリーロフ君、ぼくはなぜきみが自殺しようというのか、どうしても合点がいかなかったです。ただ信念、堅い信念……から出たことだけはわかってますがね。が、もしきみがなんというか、その衷心を披瀝したいという要求を感じるなら、ぼくは喜んで聴きますよ……ただ時間の点に気をつけなくちゃ……」
「何時だね?」
「おお、ちょうど二時です」とピョートルは時計を眺めて、巻き煙草に火をつけた。
『まだ話をつけることができそうだて』と彼ははらの中で考えた。
「ぼくは何もきみなんぞにいうことはない」とキリーロフはつぶやいた。「ぼくは、なんでも、神の話があったように覚えてますよ……ねえ、いつかきみが説明してくれたことがあるじゃありませんか、確か二度までもね。もしきみが自殺したら、きみはそのまま神になる、といったようなことでしたねえ?」
「ああ、ぼくは神になるんだ」
 ピョートルはにこりともしないで、じっと待っていた。キリーロフは微妙な表情で、彼を見つめた。
「きみは政治詐欺師で陰謀家だ。きみはぼくを哲学と熱情の境へおびき出して、和睦を成立させ、そうしてぼくの怒りを紛らしてしまおうと思ってるのだ。和睦が成立したとき、ぼくがシャートフを殺したという遺書を、ねだり取る魂胆なのだ」
 ピョートルはいかにも自然らしい、素直な調子で答えた。
「まあ、ぼくがかりにそんな卑劣漢だとしても、最後の瞬間になったら、そんなことはどうでもいいじゃありませんか、キリーロフ君? ねえ、いったいぼくらはなんのために争論してるんでしょう、一つ伺いたいもんですね。きみはそういう人間だし、ぼくはまたこういう人間なんです。それがどうしたというんでしょう? それに二人ながらおまけに……」
「卑劣漢だ」
「そう、或いは卑劣漢かもしれない。きみだってそんなことは、ただの言葉だということを、承知してるじゃありませんか」
「ぼくは一生涯の間、これがただの言葉でないように願っていたのだ。ぼくはいつもいつもそうあらせたくないと思うからこそ、これまで生きていたのだ。今でも毎日のように、ただの言葉でないようにと願っているのだ」
「仕方がないですね、めいめいが、よりよい居場所をさがしてるんだから。魚は……いや、つまり、どんな人でも自分流に、それぞれ愉楽を求めてるんです。それだけのことでさあ。ずうっと昔から、知れ切ったことですよ」
「きみは愉楽というんだね?」
「まあ、言葉争いなんかしたって、仕方がないじゃありませんか」
「いや、きみはうまいことをいったよ。じゃ、愉楽としておこうよ。神は必要だ、だから存在すべきだ」
「ふん、それでけっこうじゃありませんか」
「けれど、神は存在しない、かつ存在し得ないということを、ぼくは知ってるんだ」
「そのほうがいっそう正確ですな」
「いったいきみにはわからないのか? こんな二重の思想を持っている人間は、とうてい生きてゆくわけに行かないのだ」
「自殺しなけりゃならん、とでもいうのですかい?」
「これ一つだけでも、じゅうぶん自殺に値するということが、いったいきみにわからないのか? 何十億というきみらのような人間の中で、たった一人だけ、そんな生活を欲しない、またそれに堪え得ないような人間がいることを、きみはまるで理解していないのだ」
「ぼくは、ただきみが迷っているらしいということだけは、理解していますよ……それは非常に悪いことですぜ」
「スタヴローギンもやはり思想に呑まれたのだ」キリーロフは、気むずかしげに部屋の中を歩き廻りながら、相手の言葉には気もつかないで、こういった。
「え?」とピョートルは耳をそばだてた。「どんな思想に? あの人はきみに何かいいましたか?」
「いや、ぼくが自分で想像したのさ。スタヴローギンは、たとえ信仰を持ってても、自分が信仰を持ってることを信じないし、またかりに信仰を持ってなかったら、その信仰を持ってないことを信じない男だ」
「ふむ、スタヴローギンにはもっと違ったものもありますよ、も少し気の利いたものがね……」不安げに会話の方向と、キリーロフのあおざめた顔つきを注視しながら、ピョートルは喧嘩腰でこうつぶやいた。
『畜生、こいつとても自殺しやしないぞ』と彼は考えた。『前から直感していたよ。要するに、頭脳の産物だ、それっきりだ。なんというやくざな連中だろう?』
「きみはぼくと席を共にする最後の人間だ。だから、厭な心持ちできみと別れたくない」突然キリーロフがいい出した。
 ピョートルはすぐには答えなかった。『この畜生、今度はまた何をいいだすんだろう?』と彼はふたたび考えた。
「キリーロフ君、まったくのところ、ぼくは個人としてきみに対して、別に悪意なぞ持ってやしないんですよ、いつも……」
「きみは卑劣漢だ、きみは偽りの知恵だ。しかし、ぼくもやはりきみと同じような卑劣漢だ。ところが、ぼくは自殺して、きみは生き残るんだ」
「つまり、きみがいうのは、ぼくが生存を望むほど卑屈なやつだ、という意味ですか?」
 彼はこういう場合、こういう会話を続けるのが、はたして有利か不利か決しかねたので、『なり行きにまかせよう』と決心した。しかし、キリーロフの優越の調子と、まるで隠そうともしないいつもながらの侮蔑の色が、以前からしじゅう彼をいらいらさせていたが、今はどういうわけか、前よりいっそうひどく感じられた。或いはこういうわけかもしれない、――もう一時間ばかり経ったら、死なねばならぬキリーロフが(彼は今でもやはりそれを念頭においていたので)、彼の目から見ると、何かこう半人[#「半人」に傍点]ともいうべきもののように思われて、とうてい傲慢な態度なぞ許さるべきでないような気がしたのである。
「きみはどうやらぼくに対して、自殺を自慢してるようですね?」
「ぼくはみんながのめのめ生き残っているのを、いつも不思議に思ってるんだよ」キリーロフは相手の言葉に耳もかさなかった。
「ふん、それも一つの観念だが、しかし……」
「猿、きみはぼくをまるめ込もうと思って、相槌ばかり打ってるじゃないか。黙ってろ、きみなんか何もわからないんだ。もし神がないとすれば、その時はぼくが神なのだ」
「それそれ、ぼくはきみの説の中で、その点がどうしてもはらに入らなかったのです。なぜきみが神なんでしょう?」
「もし神があれば、神の意志がすべてだ。したがって、ぼくも神の意志から一歩も出られないわけだ。ところが、神がないとすれば、もうぼくの意志がすべてだ、したがって、ぼくは我意を主張する義務があるわけだ」
「我意? しかし、なぜ義務があるんでしょう」
「なぜって、いっさいがぼくの意志だからだ。人間は神を滅ぼして、我意を信じておりながら、最も完全なる意味において、この我意を主張する勇気のあるものは、わが地球上に、はたして一人もいないのだろうか? それはちょうど、貧しいものが遺産を相続して、度胆を抜かれたため、自分でそれを領有する力がないと思い込んで、金の袋に近寄る勇気が出ないのと同じ理屈だ。ぼくは我意を主張したのだ。一人きりでもかまわない。ぼくはあえて断行する」
「断行したらいいでしょう」
「ぼくは自殺する義務があるのだ。なぜって、ぼくの我意の最も完全な点は、――ほかでもない、自分で自分を殺すことにあるからだ」
「だって、自殺するのはきみ一人っきりじゃありませんぜ。自殺するものはたくさんあります」
「しかし、みなそれぞれ理由がある。ところが、いっさい理由なしに、自分の我意のためのみに自殺するのは、ぼく一人きりなんだ」
『自殺しやしない』またしてもピョートルの頭に、こういう考えが閃めいた。
「ねえ、きみ」と彼はいらだたしげにいい出した。「ぼくがきみの位置に立ったら、自分の我意を示すために、自分を殺さないで、だれかほかの人を殺しますよ。そのほうがよっぽど役に立ちますぜ。もしびっくりなさらなけりゃ、だれを殺したらいいか、ぼくが教えてあげますがね。そうすれば、或いはきょう自殺しなくてもいいかもしれませんよ。相談のしようがありますぜ」
「他人を殺すのは、ぼくの我意の中で最も卑劣な点なのだ。その言葉のなかに、きみの全面目が現われてるよ。ぼくはきみとは違う。ぼくは最高の点を欲する、だから自殺するのだ」
『自分相当のところまで行きついたな』とピョートルは毒々しげにつぶやいた。
「ぼくは自分の不信を宣告する義務がある」キリーロフは部屋の中を歩き廻った。「ぼくにとっては、『神はなし』というより以上に高遠な思想は、ほかにないのだ。ぼくの味方は人類の歴史だ。人間は自殺しないで暮らすために、神を考え出すことばかりしてきたものだ。従来の世界史は、これだけのことだったのだ。ところが、ぼくは全世界史中のただ一人として、初めて神を考え出すことを拒否したのだ。人類はこれを知って、永久に記憶しなければならぬ」
『自殺しやしない』とピョートルは内心気を揉んだ。
「だれが知るもんですか?」彼は突っついた。「ここにはきみとぼくしかいないじゃありませんか。リプーチンのことでもいってるんですか?」
「みんな知らなきゃならない。みんな知るに相違ない……この世には、明るみへ出ないような秘密は一つもない。これは『彼』のいったことだ」
 こういいながら、彼は熱病やみのような興奮のていで、救世主の聖像をさした。その前には燈明が燃えていた。ピョートルはすっかり業を煮やしてしまった。
「じゃ、きみはやはり『彼』を信じて、お燈明なんか上げてるんですね。それはまさか、『万一の場合』のためじゃないでしょうね?」
 こちらはいつまでも黙っていた。
「ねえ、ぼくの目から見ると、きみはどうも坊さん以上に信仰してるらしいですよ」
「だれを? 『彼』を? まあ、聞きたまえ」じっと坐って動かぬ、激昂した目つきで、前方をじっと凝視しながら、キリーロフは急に歩みをとめた。「一つきみに偉大なる思想を聞かしてやろう。かつてこの地上に一つの日があった。そして、この地球の真ん中に、三つの十字架が立っていた。十字架の上にあった一人は、きわめて深い信仰を有していたので、いま一人の者に向かって『お前は今日わしといっしょに天国におもむくだろう』とまで断言した。やがてその日は終わって、二人とも死んでしまった。そして、ともに旅路に上ったけれど、天国も復活も発見できなかった。予見はついに適中しなかった。いいか、この人は全地球における最高の人で、地球の生活の目的となっていたのだ。この一個の遊星も、その上にあるいっさいのものも、この人がなかったら、ただの狂乱世界にすぎない。この人の前にも後にも、これくらいの人はかつて出て来なかった。それはじっさい奇蹟といっていいくらいだ。つまり、こういう人はこれまでにもなかったし、今後もけっして出て来そうにない、そこに奇蹟が含まれてるわけなのだ。もしそうとすれば、もし自然律がこの人[#「この人」に傍点]をも容赦しないで、――自分の奇蹟さえ容赦しないで、『彼』をして偽りの中に生き、偽りのために死なしめたとすれば、当然この遊星ぜんたいが虚偽の塊りで、愚かしい嘲笑と欺瞞の上に立ってるわけなのだ。してみると、この遊星の法則そのものが虚偽なのだ、悪魔の喜劇なのだ。いったいなんのために生きるのだ、もしきみが人間なら答えて見ろ」
「それは、話が別の方向へそれたんですよ。きみの頭の中では二つの異なった原因が、いっしょくたになっているらしいですね。これはどうもよくない徴候ですぜ。しかし、失礼ですがね、もしきみが神だとすれば、どうなんでしょう? もし虚偽が終わりを告げて、きみが忽然と『いっさいの虚偽は古き神があったからにすぎない』と悟ったとすれば、いったいどうなんでしょうね?」
「とうとうきみもわかったな!」とキリーロフは歓喜の声を上げた。「きみのような人間でさえわかったとすれば、つまり、だれでも理解できるわけなのだ。今こそわかったろう、万人のための救いの道は、すべての者にこの思想を証明するにあるんだ。ところで、だれがそれを証明するのだろう? ぼくなのだ! ぼくは合点がいかない、――どういうわけでこれまでの無神論者は、神がないということを知りながら、同時に自殺せずにいられたのだろう? また神がないと自覚しながら、同時に自分が神になったと自覚しないのは、もうまったく無意味だ。そうでなかったら、どうしても自殺せずにいられないはずだ。もしそれを自覚したら、――もうその人は帝王だ、もう自殺などしないで、最高の栄誉の中に生きていけるのだ。けれど、ただ一人だけ、つまり最初にそれを自覚した者は、必ず自殺しなければならぬ。でなけりゃ、だれがいったい始めるんだ、だれがいったい証明するんだ? ぼくはそれを始めるために、それを証明するために、必ず自殺をするつもりだ、ぼくはまだ仕方なしの神だから不幸だよ。なぜって、我意を主張する義務がある[#「義務がある」に傍点]からだ。すべての人は不幸だ。それは我意を主張することを恐れているからだ。今まで人間があんなに不幸でみじめだったのは、我意の最も肝要な点を主張することを恐れて、まるで小学生のように、そっと隅っこで我意をふるっていたからだ。ぼくは恐ろしく不幸だ、それは恐ろしく怖がってるからだ。恐怖という奴は人間の呪いだ……しかし、ぼくは我意を主張する。ぼくは自分の無信仰を信ずる義務がある。ぼくは開始して、そして終結する。ぼくは扉を開く、そうして救ってやる。すべての人間を救って、次の時代に、彼らを生理的に改造することのできる方法は、ただこれ一つしきゃないのだ。だって、ぼくの考えるかぎりでは、今のような生理的状態では、人間が古い神なしにやって行くことは、しょせん不可能だからね。ぼくは三年の間、自分の神の属性を求めて、やっとこの頃それを発見した。ぼくの神の属性は、――ほかでもない我意[#「我意」に傍点]だ! これこそぼくが最高の意味において自分の独立不羈と、新しい恐るべき自由を示し得る、唯一の方法なのだ。実際この自由は恐ろしいものなんだからね。ぼくは自分の独立不羈と、新しい恐るべき自由を示すために、自分で自分を殺すのだ」
 彼の顔は不自然にあおざめて、目つきは堪えがたいまでに重苦しそうだった。彼はさながら熱病やみのようだった。ピョートルは、今にも彼が倒れやしないかと思った。
「さあ、ペンを取ってくれ!」突然キリーロフは、感激の頂点に立ったかのように、思いがけなくこう叫んだ。「口授しろ、ぼくは何にでも署名してやる。シャートフを殺したことにも署名してやる。さあ、ぼくが滑稽に感じてるうちに、なんでも口授するがいい。ぼくは高慢ちきな奴隷どもの意見なぞ、少しも恐れやしないんだ! すべて秘密なものはやがて明るみへ出るものだということを、きみも自分で合点するだろうよ! きみなんかは押し潰されてしまうんだ……ぼくはそれを信じる、信じなくってさ!」
 ピョートルは座を躍りあがって、さっそくインキ壺と紙を持って来た。そして、適当な瞬間を狙いながら、成功を気づかって胸を躍らせつつ、口授し始めた。
『余アレクセイ・キリーロフは左の事実を宣言す……』
「ちょっと待ってくれ。ぼくはいやだ! いったいだれに宣言するのだ!」
 キリーロフはまるで熱病やみのように慄えていた。この宣言ということと、それに関する一種特別な思いがけない想念は、とつぜん彼の全身全霊を呑みつくしたらしかった。それは悩み疲れた彼の魂が、ほんの瞬間ではあるけれど、まっしぐらに飛びかかった一縷の光明であった。
「だれに宣言するのだ? ぼくはぜひそれを知りたい!」
「だれでもない、すべての者です、最初にこれを読む人間です。何もそんなことを決めてかかる必要は、ないじゃありませんか。つまり、全世界ですよ!」
「全世界! ブラーヴォ! そして、後悔めいたことは抜きだ。ぼくは後悔なんかするのはいやだ。官憲などに呼びかけるのはいやだ!」
「ええ、むろんですよ。そんな必要はありゃしない。官憲なんかくそ食らえだ! さあ、お書きなさいよ、もしきみが真面目にその気があるのなら!………」とピョートルはヒステリックに叫んだ。
「待ってくれ! ぼくは上のほうに、舌を吐き出したつらを描きたいんだ」
「ええ、くだらないことを?」ピョートルは業を煮やしてしまった。「画なんかなくたって、そんなことはみんな調子一つで出せるんですよ」
「調子で? そいつはいい、そうだ、調子だ、調子だ! 調子で口授してくれ!」
『余アレクセイ・キリーロフは』キリーロフの肩さきにかがみかかって、興奮のあまりぶるぶる慄える手で、しるしゆく文字を一つ一つ注視しながら、ピョートルはしっかりした命令的な語調で口授しはじめた。『余キリーロフは左の事実を宣言す。すなわち今十月×日午後七時すぐる頃、大学生シャートフを公園内にて殺害せり。その原因は彼が節を変じて、余ら両人の居住せるフィリッポフの持ち家に、十日間滞在宿泊したるフェージカ、並びに檄文の件に関して、密告を企てるがためなり。さわれ、余が今夜ピストルをもって自殺せんとするは、あえて後悔恐怖のゆえに非ず、すでに外国在留時代より、自己の生命を断たんとの意志を、有したるがためなり」
「たったそれだけかい?」驚きと不満の色を浮かべながら、キリーロフはこう叫んだ。
「もうひと言も書いちゃいけません!」隙もあらばこの証書を、彼の手からもぎ取ろうと狙いながら、ピョートルは手を振って見せた。
「待ってくれ!」キリーロフは手をしかと紙の上にのせた。
「待ってくれ、そんな馬鹿なことがあるものか! ぼくはだれといっしょにやったか書きたいのだ。それにフェージカのことなぞなんのために? そして、火事は? ぼくはみんな書きたいのだ、その調子というやつでもっと罵倒してやりたいんだ、調子というやつで!」
「たくさんですよ、キリーロフ君、本当にたくさんですよ!」今にも手紙を引き裂かれはしないかと、びくびくしながら、ピョートルはほとんど祈らないばかりにいった。「人を本当にさせるには、できるだけぼんやりさせとかなくちゃ。つまり、これでいいんです、ほんのちょっと匂わしただけでいいんです。事実というやつは、ほんの隅っこだけ見せなきゃ駄目です。つまり、みんなをからかうだけでたくさんです。人間てやつはいつでも人にだまされるよりは、自分で自分によけい嘘をつきたがるものです。そして、むろん人の嘘よりは自分の嘘のほうをよけい信じるんです。しかも、それが何より好都合なんですよ! 一ばん好都合なんですよ! さあ、およこしなさい、それでけっこう。さあ、およこしなさいというのに!」
 こういいながら、彼は紙をもぎ取ろうと努めた。キリーロフは目を剥き出して、耳を傾け、何やら一生懸命に理解しようと、骨折っているらしかった。彼はすでに理解力を失ったようなふうだった。
「ええ、畜生!」ふいにピョートルは怒り出した。「ああ、まだ署名してないんだ。なんだってきみはそう目を剥き出すんです? 署名をしなさいったら!」
「ぼくは罵倒したいんだ……」とキリーロフはつぶやいたが、それでもペンを取り上げて、署名した。「ぼくは罵倒したいんだ……」
「〔Vive la re'publique〕(共和国万歳)と書きたまえ、それでたくさんですよ」
「うまい!」キリーロフは嬉しさのあまり、咆えるように叫んだ。「〔Vive la re'publique de'mocratique, sociale et universelle ou la mort!〕(民主的、社会的、国際的共和国万歳、しからずんば死)いや、これでは違う。〔Liberte', e'galite, fraternite', ou la mort!〕(自由、平等、同胞愛、しからずんば死)あ、このほうがいい、このほうがいい」彼はさも心地よげに、自分の署名の下にこう書いた。
「たくさんです、たくさんです」とピョートルは相変わらずくり返した。
「待ってくれ、もう少し……ねえ、きみ、ぼくはも一どフランス語で署名するよ。de Kiriloff, gentilhomme russe et citoyen du monde.(ロシヤの貴族にして世界の市民キリーロフ)ははは!」と彼は笑い崩れた。「いや、いや、いや、待ってくれ、もっといいのを考えついたぞ、こいつは素敵だ。〔Gentilhomme-se'minariste russe et citoyen du monde civilise'!〕(ロシヤの貴族的神学生にして文明世界の市民!)これが何より一番だ……」彼はいきなり長いすから跳びあがって、ふいに素早い手つきで窓からピストルを取り上げると、そのまま次の間へ駆け込んで、しっかりとドアを閉めてしまった。
 ピョートルは一分間ばかりもの思わしげに、ドアを眺めながら立っていた。
『今すぐなら、或いはやっつけるかもしれないが、考え始めでもしようものなら、なんのこともなしにすんでしまうに相違ない』
 彼はこの間《ま》にと、紙を取って座に着くと、もう一度それを読み返した。宣言の書き方はいま読んでみても、やはり彼の気に入った。
『今のところ、どういうことが必要なのかなあ? しばらくの間、すっかり世間のやつらをまごつかせてしまって、注意をそらしてやらねばならない。公園……しかし、この町には公園がないから、いやでもスクヴァレーシニキイと気がつくだろう。こう気がつくまでに、だいぶ時日がかかる、それからさがしてるうちに、また時日が経つ。そのうちにやっと死骸が見つかって、なるほど本当が書いてあったと、合点がいくに相違ない。してみると、何もかも本当だ、フェージカのことも本当だということになる。ところで、フェージカとはいったい何者だろう? フェージカは火事の本体だ、レビャードキン事件の本体だ。したがって、何もかもあすこから、――フィリッポフの家から出たのだ。それだのに、自分たちはなんにも気がつかなかった。何もかも見落としていたのだ、とこういうことになるんだから、あいつらの目はすっかりくらんでしまうわけだ! 仲間[#「仲間」に傍点]のことなんぞは思いそめもしない。シャートフにキリーロフ、それにフェージカとレビャードキンだ。いったいこの連中がどういうわけで互いに殺し合ったのか、こいつがまだちょっとした疑問になると。ええ、こん畜生、まだピストルの音が聞こえないぞ!………』
 彼は遺書を読んで、その書き方に興味を持ってはいたが、それでも絶えず悩ましい不安の念をいだきながら、一心に耳を澄ましていた、――と、ふいにむらむらとなった。彼は不安げに時計を眺めた。もうだいぶ遅かった。キリーロフが去ってからもう十分ばかりになる……彼は蝋燭を取って、キリーロフの閉じこもった戸口へおもむいた。ちょうど戸口のところで、もう蝋燭はだいぶ残り少なになって、いま二十分も経ったら燃え尽きてしまう、しかも、ほかには一本もないのだ、――ということがふと頭に浮かんだ。彼はハンドルに手をかけて、用心ぶかく耳を澄ましたが、こそとの物音も聞こえなかった。彼はいきなり戸を開けて、蝋燭をかかげた。と、何ものかが呻き声を立てながら、彼のほうへ飛びかかって来た。彼は力まかせにドアをぴしゃんと叩きつけて、ふたたびそれを肩で強く抑えた。けれども、あたりはもうひっそりして、また死のような静寂に返った。
 長いこと彼は蝋燭を手にしたまま、決しかねたようにたたずんでいた。いまドアを開けた一瞬間に、彼はほんのちらりとしか中の様子を見分けることができなかったが、それでも部屋の奥の窓近く立っているキリーロフの顔と、ふいに自分のほうへ飛びかかって来た彼の野獣のような、獰猛な意気組とが目をかすめたのである。ピョートルはぎくりとなって、手早く蝋燭をテーブルの上に置くと、ピストルを用意して、反対側の隅へ爪立ちでひょいと飛びのいた。で、もしキリーロフがドアを開けて、ピストルを手にテーブルのほうへ飛び出したにしても、彼はキリーロフに先んじて狙いを定め、引金を下ろすことができるのだった。
 自殺などということは、ピョートルも今はまったく本当にしなかった。
『部屋の真ん中に立って、考え込んでいたっけ』こういう想念がまるで旋風のように、ピョートルの頭脳を走り過ぎた。『それに、真っ暗な恐ろしい部屋だ……あいつ恐ろしい呻き声を立てて飛びかかったが、あれには二つの可能性が含まれてるわけだ、――つまり、あいつが引金を下ろそうとした瞬間に、おれがかえって邪魔をしたのか、それとも……それとも、あすこにじっと立っていて、どうしておれを殺したものかと、考えてたのかもしれない。そうだ、それはそうに違いない、あいつ考えてたのだ……もしあいつが臆病風を吹かしたら、おれはあいつを殺さずに帰らないってことを、きゃつも自分で承知してるのだ、――つまり、あいつの身になったら、おれに殺されないさきに、自分のほうからおれを殺さなきゃならないわけだ……ああ、また、またしても向こうがひっそりした! 本当に恐ろしいくらいだ。出しぬけに戸を開けたらどうだろう……何よりもいまいましいのは、きゃつが坊主以上に神を信じてることだ……もうけっして自殺なんかしっこない!………あの『自分相当のところへ行き着いた』連中が、このごろ馬鹿に殖えて来やがった。やくざ者め! ふう、こん畜生、蝋燭が、蝋燭が! もう十五分たったら、きっとなくなってしまう……早く片づけてしまわなきゃ。どんなことがあったって、片づけなきゃならない……どうなるものか、こうなったら、もう殺したってかまわないのだ。この手紙があったら、どんなやつだって、おれが殺したなどと、考える気づかいはない。あいつの手に発射したピストルを握らせて、床の上に具合よくねかしておいたら、必ずやつが自分でやったものと思うに違いない……ええ、あん畜生、どうして殺してやろうかなあ? おれが戸を開けると、やつがまた飛びかかって来て、おれよりさきに火蓋を切ったら……ええ、畜生、きっとしくじるに相違ない!』
 彼は相手の心中を測りかねて、自分の不決断に身を慄わしながら、悩みつづけていたが、とうとう蝋燭を手に取り、ピストルをさし上げて身がまえしながら、戸口のほうへ近づいた。そして、蝋燭を持っている左の手で、錠前のハンドルをじっと抑えた。けれども、それがうまくいかなかった。ハンドルがかちりと鳴って、軋むような音を立てたのである。『もうきっと射つ!』という考えが、ピョートルの頭に閃めいた。彼は力まかせに足で戸を蹴放して、蝋燭を上げながらピストルをさしつけた。けれど、発射の音も叫び声も聞こえなかった……部屋の中にはだれ一人いないのだ。
 彼はびくっとした。それは通り抜けられない、がらんとした部屋で、逃げ出す道などはどこにもなかった、彼はなおも蝋燭をさし上げて、じっとあたりを見透かした。まったくだれ一人いなかった。彼は小声にキリーロフを呼んで見た。それからまた一度、やや大きな声で……が、だれも答えるものがなかった。
『まさか窓から逃げ出しゃしまいな?』
 実際、一つの窓の通風口が開いていた。『馬鹿な。通風口から逃げ出すはずはない』ピョートルは部屋を突っ切って、窓に近寄った。『けっしてそんなはずはない』と、ふいに彼はくるりと振り返った。何やら異常なあるものが、彼の全幅を震撼したのである。
 窓に向かった壁に沿うて、戸口から右手に戸棚が一つ立っていた。この戸棚の右側に当って、壁と戸棚の間にできた凹みの中に、キリーロフが立っていたのである。しかも、その様子が、恐ろしく奇怪千万なものだった、――じっと身動きもしないで、全身を反り返らせ、両手をズボンの縫い目に当てたまま、首をぐっと上げて、うしろ頭をぴったり壁の真隅に押しつけている様子は、まるで姿を掻き消して隠れてしまいたそうなふうだった。あらゆる点から推して、本当に隠れようとしたものに相違なかった。けれど、なんだか本当にできなかった。ピョートルはその隅から少し斜めに立っていたので、ただ相手の姿の飛び出ているところだけしか観察できなかった。彼はもっと左のほうへ歩を移して、キリーロフの全身を見すかした上、謎の意味を解こうという決心が、まだつかなかったのである。彼の心臓は烈しく打ち始めた……と、ふいに極度の狂憤が彼をおそった。彼は身を躍らして、叫び声を立てると、地だんだを踏みながら、猛然として、かの気味わるい場所へ飛びかかった。
 しかし、ぴたりと傍へ近寄ったとき、ふたたび前にも増した恐怖に打たれて、まるで釘付けにされたように立ちどまった。彼が心を打たれたおもな原因は、恐ろしい叫び声にも、気ちがいじみた飛びかかりようにもかかわらず、この立姿がまるで化石したものか、または蝋細工かなんぞのように、少しも身動きしないばかりか、手一本、足一本ぴくりともさせないことだった。あおざめた顔色も不自然だし、黒い両眼もきっと据わって、どこか空中の一点を凝視していた。ピョートルは蝋燭を上から下へ、それからさらに下から上へ移しながら、あらゆる点をも洩らさず照らし出して、この顔を見極めようとした。彼はふと気がついた。キリーロフはどこか前のほうを見つめてはいるけれど、横目でピョートルのほうを見ているばかりか、ことによったら、仔細に観察しているかもしれないのだ。この時ある考えが彼の心に浮かんだ、一つこの灯をいきなり、『あん畜生』の鼻先へ持って行って、やけどをさして、どうするか見てやろう。と、ふいにキリーロフの顎がぴくりと動いて、その唇の上には、まるでこっちのはらの中を察したかのように、冷笑的な薄笑いがすべって通ったような気がした。彼は思わず身震いしながら、われを忘れて、強くキリーロフの肩をつかんだ。
 これに続いて、何かしら思い切って醜悪なことが、電光石火のように起こったのである。ピョートルも後になって、この時の記憶を秩序だって整頓することが、どうしてもできなかった。彼がキリーロフにさわるかさわらないかに、こちらはすばやく首を前へかがめて、頭で蝋燭を彼の手から叩き落としてしまった。燭台はからりと音を立てて床へ飛び、あかりは消えてしまった。その瞬間、彼は自分の左手の小指に、恐ろしい疼痛を感じた。彼はきゃっと叫んだ。それからあとは、こっちにのしかかりながら指をかんだキリーロフの頭を、ただもう前後を忘れて三度ばかり、ピストルで力まかせに撲りつけたことを、おぼえているばかりだった。やっと彼は指をもぎ放すと、暗闇の中に道をさぐりながら、後をも見ずに家を駆け出した。その後から追いかけるように、恐ろしい叫び声が部屋の中から飛んで出た。
「すぐ、すぐ、すぐ、すぐ!………」
 これが十度ばかりくり返された。しかし、彼はひた走りに走って、やっと玄関口の廊下まで走り出た。と、ふいにピストルの音が高々と鳴りわたった。このとき彼は廊下の暗闇に足をとめて、五分ばかり想像をめぐらしていた。ついに彼はふたたび部屋へ引っ返した。まず蝋燭を手に入れねばならなかった。それには、戸棚の右手で床の上へ叩き落とされた燭台を、拾い上げさえすればよいわけだが、しかし、どうして燃えさしの蝋燭に火を点けたらよかろう? ふと彼の心に、一つのぼんやりした記憶が浮かんだ。きのう台所へ駆け下りて、フェージカに飛びかかったとき、片隅の棚の上にマッチの赤い大きな箱を、ちらと見たような気がするのであった。彼は手さぐりで、左手にある台所の戸をさして進んだ。戸はすぐ見つかった。彼は入口の間を抜けて階段を下りた。棚の上には、いま彼が思い浮かべたのとちょうど同じ場所に、まだ口を切ってない、大きなマッチの箱が置いてあるのを、彼は暗闇の中でさぐり当てた。そのまま火をつけないで、急いで上のほうへ引っ返した。やっと例の戸棚の傍、――さっき彼の指に咬みついたキリーロフを、ピストルで撲りつけた場所まで来ると、彼はとつぜん咬まれた指のことを思い出した。その瞬間、ほとんど堪えがたい痛みを覚え始めた。
 彼は歯を食いしばりながら、やっとのことで、蝋燭の燃え残りに火をつけると、それをまた燭台にさして、あたりを見廻した。通風口を開けた窓の傍ちかく、足を部屋の右隅へ向けながら、キリーロフの死体が横たわっていた。弾丸は右のこめかみから打ち込まれ、頭蓋骨を突き抜けて左側から上のほうへ出ていた。血や脳味噌のはねている痕が見えた。ピストルは床の上に投げ出された自殺者の手中に残っていた。死は瞬間的に遂げられたものらしい。すっかり綿密にすべての模様を検査すると、ピョートルは身を起こして、爪先立ちで部屋を出た。そして、後の戸を閉めて、蝋燭をもとの部屋のテーブルの上に立てた。彼はちょっと思案したが、火事など起こす心配はないと考えたので、消さずにおくことに決心した。テーブルの上にのせてある遺書に、もう一ど目を落とすと、彼は機械的ににたりと笑って、なぜか依然として爪先立ちで、足音を偸みながら、今度はいよいよこの家を出てしまった。彼はまたもやフェージカの抜け穴を潜って、ふたたびきちょうめんにその後をふさいでおいた。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 かっきり六時十分まえ、停車場のプラットフォームに、かなり長く続いている列車の傍を、ピョートルとエルケリが歩いていた。ピョートルがこれから出発するので、エルケリは別れを告げに来たのである。手荷物はすでに預けてしまったし、手カバンは二等車内に取っておいた自分の場所へ運んであった。第一鈴はもうとうに鳴って、人々は第二鈴を待ちかねているのであった。ピョートルは列車の中へ入って行く旅客を観察しながら、公然とあたりを見廻していた。親しい知人はほとんど見当たらなかった。ただ二度ほど軽く会釈したばかりである。一人は間接に知っている商人で、一人は二《ふた》停車場ほどさきにある自分の教区へ出かける若い田舎牧師だった。エルケリはこの最後の瞬間に、もっと重大なことを話したくてたまらないらしかった、――もっとも、はっきりどういうことなのかは、自分でもわかっていないのかもしれぬ、――けれど、自分のほうから切り出す勇気もなかった。彼はどうもピョートルが自分を邪魔にして、早く最後のベルが鳴ればいいと、じりじりしながら待っているような気がしてならなかった。
「あなたは思い切って公然と、みんなの顔を見ていますね」彼は相手を警戒しようとでもするように、何となく臆病げな調子で注意した。
「どうしていけないんだろう? ぼくはまだ隠れるわけにいかないよ。早すぎるからね。心配しないでくれたまえ。ぼくはただあのリプーチンの野郎が来やしないかと、それだけびくびくしているんだよ。嗅ぎつけて、やって来るかもしれないからね」
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、あの連中は望みがありませんよ」断固とした調子でエルケリ[#「エルケリ」は底本では「エリケリ」]がいった。
「リプーチンかい?」
「みんなですよ、ピョートル・スチェパーノヴィチ」
「くだらないことを。今あの連中は、みんな昨日のことで結びつけられてるのだ。一人だって裏切るものはありゃしない。理性というものを失わないかぎり、だれがみすみす滅亡の淵に飛び込むものかね?」
「ピョートル・スチェパーノヴィチ[#「スチェパーノヴィチ」は底本では「スチェパーノヴイチ」]、あの連中はみんな理性を失いますよ」
 こうした懸念はすでに一度ならず、ピョートルの心に忍び込んだものらしい。それでエルケリの意見は、いっそう彼をむらむらとさせたのである。
「エルケリ君、きみまで臆病風を吹かせ出したのじゃないかね? ぼくはあの連中をすっかり束にしたよりも、むしろきみ一人のほうに望みを嘱しているんだよ。ぼくは一人一人の仲間が、どれだけの価値を有しているか、今こそすっかりわかった。きみ、きょうにもさっそくあの連中に、口頭ですっかり報告してくれたまえ。ぼくはあの連中をぜんぜんきみに一任するから。ひとつ朝からみんなのところを廻ってくれたまえ。ぼくの訓令は明日か明後日、みんなに聞き分けるだけの落ちつきができた頃、どこかに集めて読んで聞かしたらいいよ……しかし、ぼくが請け合っておくがね、あの連中は明日にもそれだけの落ちつきができるよ。人間はおじけがつくと、まるで蝋のように従順になるものだからね……が、何よりも第一に、きみのほうから元気を落とさないようにしたまえ……」
「ああ、ピョートル・スチェパーノヴィチ[#「スチェパーノヴィチ」は底本では「スチェパーノヴイチ」]、あなた、いらっしゃらなきゃいいんですがねえ!」
「なに、ほんの二、三日の旅だよ。すぐ帰って来る」
「ピョートル・スチェパーノヴィチ」用心深い、けれども、しっかりした声で、エルケリはいい出した。「あなたがペテルブルグへ行かれたってかまやしません。ぼくはちゃんと承知していますよ、あなたは共同の事業のために、必要なことしかなさらないんですからね」
「ぼくは、それより少ない好意をきみから受けるようなことはないだろうと、いつも思っていたよ、エルケリ君。もしペテルブルグへ行くことを察したのなら、あの晩あの際、みなのものを驚かさないために、こんな長旅をするなんていえなかったわけは、きみも察してくれることと思う。あの連中がどんなふうだったか、きみも自分が見て知ってるんだからね。しかし、ぼくは仕事のために、――大切な重要な共同の仕事のために、――出かけるので、リプーチン輩の想像するように、すべり抜けたりなんかするのでないことは、きみも理解してくれるだろう」
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、よしんばあなたが外国へいらっしゃろうと、ぼくは十分理解しますよ。あなたは自分の一身を護る必要があります。なぜなら、あなたはすべてであって、われわれは無ですからね。ぼくはちゃんと理解していますよ、ピョートル・スチェパーノヴィチ」
 哀れな少年は声さえ慄わすのであった。
「ありがとう、エルケリ君……あっ、きみはぼくの痛い指にさわっちゃった(エルケリは無器用に彼の手を握りしめたのである。痛い指は体裁よく黒い絹のきれで縛ってあった)。しかし、ぼくはもう一度明確にいっとくがね、ぼくがペテルブルグに行くのは、ほんの匂いを嗅ぐだけの目的で、一昼夜もいたら、またここへ引っ返すつもりだ。帰って来たら、ぼくは世間の目をごまかすために、田舎のガガーノフのところへ落ちつこうと思っている。もしあの連中が何かで危険を感じたら、ぼくは第一番に出かけて行って、ともにそれを頒つ覚悟だ。もしペテルブルグで滞在が延びるようだったら、すぐ……例の方法できみにお知らせするよ。そして、きみからさらに連中へ伝えてもらうんだ」
 第二鈴が響き渡った。
「ああ、発車までもう五分きりだね。ぼくはね、きみ、ここの仲間がちりぢりになるのが、望ましくないのだ。ぼくは少しも恐れやしない。ぼくのことは心配しないでくれたまえ。結社の網の個々の結び目は、ぼくの掌中にかなりたくさんあるんだから、ここの五人組なんか、何も特別に大切がる必要はないけれど、結び目が一つくらい余計あっても、邪魔にはならないからね。もっとも、ぼくもきみのことは安心してるんだよ。あの片輪どもの傍へ、きみ一人だけ残して行くんだけれどね……心配することはないよ、あの連中はけっして密告しやしない、そんな勇気はありゃしない……ああ、あなたも今日?」ふいに彼は、嬉しげに挨拶に近寄って来るごく年若な男に向かって、まるっきり別なうきうきした声で叫んだ。「あなたもやはり急行で立たれるとは、いっこう知りませんでしたね。どちらへ、お母さんのところへ?」
 この青年は、『お母さん』が隣県で指折りの女地主だったが、ユリヤ夫人の遠縁の親戚に当たっていて、二週間ばかりこの町に滞在していたのである。
「いや、わたしはもっとさきまで、Rまで行きます。八時間ばかり汽車の中に坐ってなきゃなりませんよ。ペテルブルグですか?」と、青年は笑い出した。
「どうして、ぼくがペテルブルグへ行くものと、いきなり想像なすったのでしょう」いっそうあけっ放しな調子で、ピョートルも同じように笑い出した。
 青年は手袋を嵌めた指を立てて、脅かすような手つきをした。
「ええ、そう、お察しのとおりです」ピョートルはさも秘密らしくささやいた。「ぼくはユリヤ夫人の手紙を持って、三、四人ばかり歴訪しなきゃならんところがあるのです。それがどんな人たちでしょう、まったくのところ、馬鹿馬鹿しくなってしまいますよ。いやなお役目ったらありゃしない!」
「しかしねえ、いったいあのひとはなんだって、あんなにおじけてしまったんでしょう?」と青年も同様にささやいた。「昨日あのひとは、わたしさえも部屋へ通してくれないんですよ。わたしなどにいわせれば、あんなにつれあいのことを心配する必要はないのです。それどころか、あの人はまったく見事に火事場で倒れたんじゃありませんか、いわゆる、その、一身を捧げたというわけですからね」
「いや、まあお聞きなさい」とピョートルは笑い出した。「あのひとはね、もうここから……ある人たちが手紙を出してやしないかと、それを恐れてるんですよ。つまり、これについてはスタヴローギン、というより、むしろK公爵がおもな役者なんです……まあ、なにしろ、これには入り組んだわけがあるんです。ひょっとしたら、道々なにかのことをあなたにお話するかも知れませんよ。もちろん騎士道の許す範囲内にかぎりですがね……これはぼくの親類で、少尉補のエルケリです。郡部のほうから出て来たものです」
 今までエルケリのほうへ横目を使っていた青年は、ちょっと帽子に手を添えた。エルケリは挙手の礼をした。
「ねえ、ヴェルホーヴェンスキイさん、汽車の中の八時間は恐ろしい難行ですよ。実はわたしといっしょに、ペレストフという実に面白い大佐が、一等の車に乗ってるんです。隣り領の地主で、ガーリナ、―― 〔ne'e de Garine〕(ガーリン家に生まれた人)を細君にしてるんですがね、なかなかれっきとした人なんですよ。おまけに、自分自身の思想を持っています。この町にはわずか二昼夜しか逗留しなかったです。エララーシュの勝負が馬鹿に好きなんですがね、一つやってみませんか、え? も一人の相手はちゃんと物色しておきました、――プリプーフロフというT町の商人で、顎ひげをたくわえた百万長者です、いや、本当の百万長者です。これはわたしが請け合っておきます……一つあなたをご紹介しましょう。実に面白い金袋です。大いに笑おうじゃありませんか」
「エララーシュならぼくもけっこうですね。汽車の中でやるのはことに愉快ですが、しかし、ぼくは二等ですからね」
「ええ、馬鹿馬鹿しい、そりゃ断じていけません。わたしたちのほうへ越していらっしゃい。さっそくあなたを一等へ移すようにいいつけます。列車長は、わたしのいうことなら聞いてくれるんです。あなたの荷物は何々です、カバン? 膝かけ?」
「けっこう、行きましょう!」
 ピョートルはすぐさま自分のカバンと、膝かけと、書物を持って、恐ろしく気さくに一等車へ移った。エルケリもそれを手伝った。やがて第三鈴が鳴った。
「じゃ、エルケリ君」もう今度は汽車の窓から手をさし伸べながら、ピョートルは忙しそうな様子で、せかせかといい出した。「ぼくはあの連中と勝負を始めるんだよ」
「なんだってぼくに言いわけめいたことをおっしゃるんです、ピョートル・スチェパーノヴィチ。ぼくちゃんと心得てますよ。ぼくすっかり心得てますよ、ピョートル・スチェパーノヴィチ」
「じゃ、また会おう」と彼はいったが、このとき勝負仲間に紹介しようと呼んでいる青年のほうへ、くるりと振り向いてしまった。
 こうして、エルケリは、崇拝してやまぬピョートルを、もはやそれきり見なかったのである。
 彼はきわめて憂欝な様子で家へ帰った。それは何も、ピョートルがとつぜん彼らを棄てたことが心配なためではなかった、が……しかも、彼はあの若い洒落者が呼んだとき、あまりにも思い切りよく自分に背を向けてしまった……それに、『また会おう』などという言葉以外に、何かもっと言い方がありそうなものだ……せめて手なりと、も少し強く握り締めてくれたら……
 この最後の事実が最も重大なことだった。何かしら一種異様なものが、彼の哀れな胸を掻きむしり始めた。それがはたしてなんであるかは、彼自身にもまだわからなかったが、とにかく、昨夜の出来事に関連したものであった。

[#3字下げ]第7章 スチェパン氏の最後の放浪[#「第7章 スチェパン氏の最後の放浪」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 わたしは固く信じている、――スチェパン氏は、自分の気ちがいじみた計画を遂行すべき時期が迫って来るのを感じた時、非常な恐怖におそわれたに相違ない。わたしはまたこうも信じている、――彼はことにその前夜、かの恐ろしい出来事のあった夜などは、一方ならぬ恐怖に悩まされたに相違ない。ナスターシヤが後でいったところによると、彼はもうだいぶ遅くなって床について、それからぐっすり寝込んだとのことである。けれど、そんなことはなんの証明にもならない。死刑を宣告されたものは、刑の執行の前夜ですらも、ぐっすり深い眠りを貪るという話である。実際、彼が家出をしたのは、どんな神経質な人間でも少しは元気を回復する夜あけの後のことであったけれど(ヴィルギンスキイの親戚の少佐なぞは、夜が明けるが早いか、神に対する信仰さえ失うというではないか)、しかし、わたしの信ずるところでは、彼は今まで一度も恐怖の念をいだかずには、こんな状態でただひとり街道をさ迷う自分の姿を、想像することができなかったに相違ない。彼が二十年間すみ馴れた場所と Stasie([#割り注]ナスターシヤ[#割り注終わり])を見すてて、とつぜん踏み込んだ世界の孤独の恐ろしい感覚も、もちろんはじめしばらくの間は、彼の心に含まれている自暴自棄的なあるもののために、かなり力を弱められたことと思われる。しかし、それはどうでもよい。かりに彼が、自分を待ち設けているすべての恐怖を、どんなにはっきり意識していたとしても、それでもやはり街道へ踏み出して、どこまでも進んで行ったに相違ない! どんなことがあるにもせよ、この事実の中には、何かしら誇らしい、心を躍らせるようなところがあった。ああ、彼はヴァルヴァーラ夫人の豊かな条件を受納して、夫人のお情けのもとに『世間並みの居候として』終わることもできたのだ! しかし、彼はそのお情けをありがたく頂戴して、踏みとどまることをいさぎよしとしなかった。こうして、彼はみずから夫人を棄てて、『偉大なる理想の旗幟』を掲げ、その理想のために街道へ死にに行ったのだ! まさに彼はこういうふうに感じたに相違ない、こういうふうにこの行為は彼の目に映ったに相違ない。
 それから、また別な疑問が、一度ならずわたしの脳裡に浮かんだ。ほかでもない、どうして、彼はあんなふうに逃げ出したのだろう? つまり、なぜ字義どおりに自分の足で逃げ出して、馬車に乗らなかったのだろう? わたしは初めこの事実を、彼の五十年にわたる非実際的生活と、烈しい感動にもとづくとっぴな思想の昏迷だと説明していた。駅馬券だの、馬車だのということは(たとえベルがついているにもせよ)、彼にはあまり単純で、散文的に思われたに相違ない。ところが、その反対に巡礼旅行というやつは、たとえ蝙蝠《こうもり》傘など提げて行くにもせよ、遙かに美しく、そして復讐的な懐かしさを持っているように感じられる、――こうわたしは想像していたのである。しかし、いっさいが終わりを告げた今となってみると、こういうことはその当時、ずっと簡単に決行されたものらしく思われる。第一、彼は馬車を雇うことを恐れたに相違ない。そんなことをすれば、ヴァルヴァーラ夫人が嗅ぎつけて、無理やりに引き留めるおそれがあったからである。実際、夫人はそれを実行したろうし、彼も必ずそれに従ったに相違ない、――そうしたら、偉大なる理想も永久におじゃんになってしまう。
 第二の理由としては、駅馬券をもらうには、少なくとも、目的地を知っていなければならない。ところが、その目的地を知るということが、この際、彼にとって、最も大きな苦痛だったのである。彼はその土地を決めて名ざすことが、どうしてもできなかった。なぜといって、もしどこそこの町と決めてしまったら、もうその瞬間から彼の企ては、彼自身の目から見ても、馬鹿馬鹿しい不可能なものとなってしまうからである。彼はこの点を十分に感じていたのである。実際どこそこの町ときまったところで、彼は何をしようというのだろう? なぜどこかほかの町ではいけないのだ? 例の商人《マルシャン》でもさがそうというのか? しかし、いったいどんな商人《マルシャン》だろう。ここでまたしても、彼にとって何よりも恐ろしい、この第二の疑問が浮かび出たのである。事実、彼にとっては、この商人《マルシャン》ほど恐ろしいものはほかにないのだ。彼は今とつぜん向こう見ずに、この商人《マルシャン》をさがしに飛び出しはしたものの、もちろん、実地にそれをさがし当てるのが何より恐ろしかったのである。いや、もうむしろただの街道がいい、ただ飄然と街道へ踏み込んで、考えずにいられる間はなんにも考えないで、ただ歩けばいいのだ。街道、――それはまるで人生そのもののように、人間の空想のように、何かしら長い、長い、果ても見えないようなものだ。街道の中には思想が含まれている。ところが、駅馬券にどんな思想がある? 駅馬券は思想の終焉だ…… vive la grande route.(街道万歳)さきになったら、またさきのことだ。
 リーザとの思いがけない唐突な邂逅の後(このことはもう前に記しておいた)、彼はいっそう忘我の境に陥ちながら、さきへさきへと進んで行った。街道はスクヴァレーシニキイから、半露里ばかりのところをうねっていたが、――不思議なことには、――彼は初めどうして街道へ踏み込んだか、まるで気がつかなかったくらいである。物事を根本的に判断したり、はっきりと意識したりするのは、このとき彼にとって堪えがたいことであった。細かい雨はやんだり、また降ったりしていた。けれど、彼は雨などにはまるで気がつかなかった。またカバンを肩へ振りかけて、そのために歩きよくなったのにも、やはり気がつかないでいた。こういうふうにして一露里か、一露里半も歩いたろうと思う頃、彼はとつぜん足をとめて、あたりを見廻した。車の轍《わだち》で一面に抉られた、古い、黒々とした街道は、両側にお決まりの楊《やなぎ》をつらねながら、果てしもない糸のように眼前に延びていた。右側は、もうとっくの昔に刈入れのすんだ真っ裸の畑で、左側は灌木の繁みの向こうにちょっとした林が続いている。ずっと遙か向こうのほうには、鉄道線路が斜めに奥へ入り込んでいるのが、あるかなきかに眺められて、その上には何か列車の煙が見えているが、音はもう聞こえなかった。
 スチェパン氏は少しおじけがついて来た、が、それもほんの一瞬間だった。なんというわけもなく、ほっと溜め息をつきながら、彼はカバンを楊の傍に置いて、まず一休みと腰を下ろした。腰を下ろそうとして、身を動かした時、彼は身内にいやな悪寒を覚えて、膝かけに身をくるんだ。と、そのとき初めて雨に気がついて、蝙蝠傘を拡げた。彼はときおり唇をもぐもぐさせながら、しっかりと傘の柄を手に握りしめ、かなり長い間こうして坐っていた。さまざまな幻像が後から後からと、急速に変わりながら、奇怪な列をなして彼の目の前を通り過ぎた。
『リーズ、リーズ』と彼は考えた。『あの娘《こ》といっしょにモーリイスがいたっけ……奇妙な人たちだ……しかし、あの火事は、なんという不思議な火事だったろう。それに、あの娘はいったいなんのことをいったんだろう? いったいだれが殺されたんだろう? 大方スタシーはまだなんにも知らないで、コーヒーでも用意しておれを待ってるだろう……カルタ? いったいおれはカルタに負けて人を売ったかしら? ふむ! このロシヤでは、いわゆる農奴制時代に……あっ、そうだ、フェージカ!』
 彼は驚きのあまりびくりとなって、あたりを見廻した。
『ああ、もしどこかその辺の藪の蔭に、あのフェージカが隠れてたらどうだろう。なんでも、人の話では、あいつはどこか街道で追剥ぎの徒党を作ってるそうだからなあ! ああ、そのときおれは……その時こそおれはあの男に向かって、自分が悪かったと、正直にありのままをいってしまおう……そして、おれが十年間というもの[#「おれが十年間というもの」に傍点]、あの男が軍隊で苦労したより、ずっと余計あの男のために苦しんだことを聞かしてやろう、そして……そして、紙入れをくれてやってしまおう。ふむ! 〔J'ai en tout quarante roubles; il prendra les roubles et il me tuera tout de me^me.〕(おれはみんなで四十ルーブリ持っている。あいつはその金を取っても、やはりおれを殺すだろうなあ)』
 彼は恐怖のあまり、なんのためやら傘をつぼめて、自分の傍へ置いた。このとき遙か向こうの町のほうから、何か田舎馬車のようなものが街道に現われた。彼は不安げに見透しはじめた。
『〔Gra^ce a` Dieu.〕(ありがたい)あれは田舎馬車だ、そして、ゆっくりやって来るようだ。あれなら別に危険なはずがない。あれはへとへとにこき使われたこの辺のやくざ馬だ……おれはいつも馬種を論じていたものだが……いや、あれはピョートル・イリッチがクラブで馬種を論じたので、おれはあの男をカルタで負かしたんだっけ。そして……しかし、あのうしろにいるのはなんだろう? どうやら百姓の女房が馬車に乗っているらしい。百姓と女房―― 〔cela commence a` e^tre rassurant.〕(こりゃどうやら泰平無事になってきたようだ)女房が後について、百姓が前に立ってる―― 〔C'est tre`s rassurant.〕(これはしごく泰平無事だ)あの夫婦の後には牛が角に繩をつけられて、馬車に縛りつけられているのだ。〔C'est rassurant au plus haut degre'.〕(これはますますもって泰平無事だ)』
 馬車は傍までやって来た。それはかなりしっかりした、体裁の悪くない百姓馬車だった。女房は、何やらぎっしり詰めた袋の上に坐っているし、百姓は馭者台に腰かけて、スチェパン氏のほうへ、横向きに足をぶら下げていた。後には、本当に赤い牝牛が角を縛られて、のそりのそりと歩いている。百姓夫婦は目を丸くしながら、スチェパン氏を眺めた。スチェパン氏のほうでも、やはりそれと同様に、二人を見つめるのであった。けれど、二十歩ばかり傍をやり過ごしたとき、彼は突然そわそわと立ちあがって、馬車を追っかけ始めた。馬車とならんで歩いていたら、自然こころ丈夫なわけだ、と感じたのである。しかし、馬車に追いついた時には、もうそんなことをすっかり忘れて、またもや例のちぎれちぎれな想念や幻像に没頭してしまった。彼はてくてく歩いた。そして、この際、自分が百姓夫婦にとって、こんな街道では思いも寄らぬ謎めいた不思議な存在だということなどは、もちろん考えもしなかったのである。
「まことにはや失礼でござりますが、お前様はどなた様でごぜえますかね?」ふいにスチェパン氏がぼんやりと女房を見つめた時、彼女はとうとうこらえかねてこうたずねた。
 女房は年の頃二十七ばかり、肉づきのいい、眉の黒い、血色のいい女で、赤い唇はやさしげに笑みを含み、その陰から白く揃った歯が光っていた。
「あんたは……あんたは、わたしにいってるんですか?」愁わしげな驚きの色を浮かべながら、スチェパン氏はこうつぶやいた。
「きっと商売する方だべえ」と百姓は自信ありげにいった。
 それは背の高い四十恰好の男で、幅の広い利口そうな顔は、赤い髯でぐるりと取り巻かれていた。
「いや、わたしは商人というわけじゃない、わたしは……わたしは…… moi c'est autre chose. (わたしは少し別なものだ)」スチェパン氏はいい加減にごまかした。そして、万一の用意に心もち馬車の後へさがったので、彼は牛と並んで歩くようになった。
「おおかた旦那方だべえ」ロシヤ語とは違った言葉を聞きつけた百姓は、こう決めてしまって、ぐいと手綱をしゃくった。
「こうして、お前さまの様子を見てると、まるで散歩にでも出かけなすったようでごぜえますね!」と女房はまたしても不思議そうにこういった。
「それは……それはわたしのことをききなさるのかね?」
「よく外国の人が汽車に乗って来さっしゃるが、お前さまの靴も、なんだかここら辺のと違うようでごぜえますね……」
「軍人のはく靴だあ」いかにも得意そうに気取った調子で、百姓は口をいれた。
「いや、わたしは軍人というわけじゃない、わたしは……」
『なんというしつこい女だろう』スチェパン氏は、心の中でぷりぷりしていた。
『それに、あの二人がおれをじろじろ見ることはどうだ!………|しかし要するに《メ・ザンファン》……手短かにいえば、まるでおれはあの人たちに対して、何か悪いことでもしたような気がする、それがどうも不思議なのだ。おれはあの人たちに対して、何一つ悪いことをした覚えはないんだがなあ』
 女房は百姓とささやき合った。
「もしおいやでなかったら、お前さまを乗せてあげてもよろしゅうごぜえますが……もしそのほうが楽だと思いなされば……」
 スチェパン氏は急に気がついた。
「いや、これはどうも、わたしは大変うれしいですよ、ずいぶん疲れたからね。しかし、どうして上ったらいいだろう?」
『これはどうも驚いた』と彼ははらの中で考えた。『おれはこの牛と並んで、あんなに長く歩きながら、いっしょに乗せてもらおうという考えが、起こらなかったんだからなあ……この「現実」というやつは、何か恐ろしく特異な点を有しているものだ』
 しかし、百姓はそれでも馬を止めなかった。
「だが、お前さまはどこへ行かっしゃるだね?」と彼はいくぶん信用しかねたように、問いかけた。
 スチェパン氏はすぐには合点がいかなかった。
「きっと、ハートヴォまでだべえ?」
「ハートフのところへ? いや、ハートフのところというわけじゃない……それに、まるで知り合いじゃないから。もっとも、聞いたことはあるけれど」
「ハートヴォといって、村のこんだよ。ここから九露里ばかりある村だあ」
「村? C'est charmant(それは面白い)そういえば、なんだか聞いたことがある」
 スチェパン氏はやはり歩いていた。なぜか、いつまで経っても乗せてくれなかった。素晴らしい考えが彼の脳裡に閃めいた。
「あんたたちは、ことによったら、わたしを……わたしは旅券を持ってる。そして、わたしは大学教授なのだ。いや、なんなら先生といってもいいが、しかし、先生のかしらなんだ。わたしは先生のかしらだ。〔Oui, c'est comme c,a qu'on peut traduire〕(そうだ、こんなふうに翻訳することができるようだ)。わたしはぜひ乗せてもらいたいのだが、どうだろう……お礼に酒の小びんを買ってあげるが」
「五十コペイカもらわねえとね、旦那、悪い道だあもの」
「でないと、どうもはあ、実につまりましねえだ」と女房も口をいれた。
「五十コペイカ? いや、五十コペイカけっこう。C’est encore mieux, j'ai en tout quarante roubles, mais ……(それはなお都合がいい、おれはみんなで四十ルーブリ持ってる、しかし……)」
 百姓は馬を留めた。そして、二人がかりでスチェパン氏を馬車へ引っ張りあげ、女房とならんで袋の上に坐らせた。旋風のような想念は彼の脳裡を去らなかった。ときおり、彼は自分の心持ちに気がついた。そして、どうしたのかひどくぼんやりしてしまって、まるで必要のないことばかり考えているのに、われながら驚くのであった。こんなに頭が病的に衰弱しているのを意識すると、彼は時々たまらないほど心が重くなって、むしろ腹立たしいくらいであった。
「あれは……あれはいったいどういうわけで、うしろに牛なんか繋いだんだね?」と彼は出しぬけに女房に問いかけた。
「何をおっしゃりますね、旦那様、まるで今まで見たことがないみてえに」と女房は笑い出した。
「町で買ったのでござりますよ」と百姓が口をいれた。「うちの牛がね、お前さま、この春くたばってしまいましただ。はやり病《やまい》でね。近所の牛がみんなやられちまって、半分も残りゃしねえ。泣いたってわめいたって、追っつくことでねえだ」
 こういいながら、彼は轍の跡の凹みに落ちて、容易に動けないでいる馬に鞭をくれた。
「そう、それはロシヤの田舎でよくあるやつだ……それに、全体としてわれわれロシヤ人は……いや、まったくよくあるやつだ」スチェパン氏はいいさしにして、やめてしまった。
「もしお前さまが先生だとすると、ハートヴォなんかへ行って何しなさるだね? それとも、どこかさきのほうかね?」
「わたしは……いや、わたしはどこかさきのほうへ行くというわけでもないが…… 〔c'est a` dire〕(まあいってみると)、ある商人のところへ行くんだよ」
「きっとスパーソフだべえ?」
「そうだ、そのスパーソフなんだ。が、そんなことはどっちでもいいのだ」
「お前さまスパーソフさ行かっしゃるとすれば、そんな靴で歩いて行ったら、一週間もかかりますべ」と女房は笑い出した。
「そうだ、そうだ。しかし、そんなことはどうでもかまわない。我友《メザミ》よ、どうだってかまわないんだよ」スチェパン氏はじれったそうにさえぎった。
『恐ろしく好奇心の強い人たちだ。しかし、女房のほうが亭主より話がうまい。どうもおれの観察するところでは、二月の十九日([#割り注]一八六一年、農奴解放令公布の日[#割り注終わり])からこのかた、百姓の言葉づかいが違ってきたようだ。が、おれの行く先がスパーソフだろうと、スパーソフでなかろうと、この連中になんの係わりがあるんだろう? おれはちゃんと金を払ってやるのだ。そうすれば、何もこんなにしつこくきく必要はないじゃないか』
「スパーソフヘ行かっしゃるなら、蒸気に乗らにゃなりましねえだ」百姓はまたしても話しかけた。
「それはほんとのことでごぜえますよ」と女房は活気づきながら、言葉をはさんだ。「だによって、この岸を馬車で行かっしゃると、三十露里ばかり廻りになりますべ」
「四十露里よ」
「あした二時頃に、ちょうどウースチェヴォで蒸気に間に合いますだよ」と女房は決めてしまった。
 しかし、スチェパン氏はかたくなに黙っていた。二人の訊問者も口をつぐんだ。百姓は馬の手綱をしゃくりしゃくりした。女房はときどき簡単に、亭主と言葉を交わすばかりだった。スチェパン氏はうとうと眠りに落ちた。と、恐ろしく面くらってしまった、――女房に笑いながら揺すぶり起こされてみると、いつの間にやら、かなり大きな村に入って、窓の三つついた、とある田舎家の車寄せの傍まで、来ているのであった。
「旦那、休まっしゃりましたかね?」
「これはどうしたのだ? どこへ来たのだ? あっ、なるほど!………いや……どうだってかまやしない」とスチェパン氏は溜め息をつき、馬車から下りた。
 彼は沈んだ目つきであたりを見廻した。こうした村の光景が、彼の目には何となく奇妙な、恐ろしく縁遠いものに映ったのである。
「ああ、五十コペイカ、わたしは忘れていた!」なんだか並みはずれてせかせかした身振りで、彼は百姓のほうへ振り向いた。
 彼はもうこの人たちと別れるのを恐れているらしかった。
「どうか部屋ん中で勘定してもらいてえだね」と百姓がすすめた。
「あっちのほうがよろしゅうござりますべ」と女房も賛成した。
 スチェパン氏は、やにっこい階段を昇った。
『いったいどうしてこんなことになったのだろう?』彼は臆病な、とはいえ、痛切な怪訝の念にとらわれながら、こうつぶやいた。が、それでもとにかく家の中へ入った。Elle l'a voulue.(彼女はこれを望んでいたのだ)何やらぐさと彼の胸を突き刺したような気がした。
 と、彼はまたもや何もかも忘れてしまった、家へ入ったことさえ忘れたのである。
 それはかなり小綺麗な明るい百姓家で、窓が三つついて、二つの部屋に分かれていた。宿屋というほどではないが、昔からの習慣で知り合いの通行人が立ち寄るような、ちょっとした休み場所だった。スチェパン氏は別に鼻白むこともなく、正面の隅へ歩いて行った。そして、挨拶するのも忘れて腰を下ろすと、そのまま考え込んでしまった。そうしているうちに、街道の湿気のなかで三時間も過ごした後のこととて、なみなみならぬ快い温気《うんき》の感触が急に彼の全身にみなぎった。かくべつ神経質な人が熱病にかかった時にはいつもよくあることだが、寒いところからとつぜん暖いところへ移ったために、時々さっと背筋を流れる悪寒までが、なんだか急に快く感じられるようになった。彼は首を上げた。と、暖炉の傍で主婦《かみ》さんが一生懸命に焼いている熱い薄餅《ブリン》の甘い匂いが、彼の嗅覚をくすぐった。彼は子供らしい微笑を浮かべながら、かみさんのほうへ首を伸ばして、ふいに子供らしい調子でいい出した。
「それはいったいな んですか? ブリンですか? Mais c'est charmant.(これはけっこう)」
「旦那様、いかがでごぜえますね?」すぐに主婦さんが丁寧な調子で引き取った。
「ほしいよ。まったくほしいよ。そして……それから一つお茶もお願いしたいね」とスチェパン氏は元気づいてきた。
「湯沸《サモワール》をあげましょうか? はいはい、それならいつでもできますよ」
 大きな青い模様のついた皿にのせて、ブリンがそこへ運ばれた、――ふつう百姓の家で拵える薄っぺらな、半分小麦の入ったブリンで、熱い新しいバターのかかった、素敵にうまいやつだった。スチェパン氏はさもうまそうにそれを試みた。
「この油っ気の多いこと、このうまいこと! ただね、un doigt d'eau de vie(ブランデイがぽっちり)手に入ったらなあ」
「それは、旦那様、ウォートカがお望みなんじゃありませんか?」
「そ、そ、そのとおり、ほんの少しでいいんだ、un tout petit rien.(まったく少しでいいのだ)」
「じゃ、五コペイカもあったらよろしゅうござりますね?」
「五コペイカだ、――五コペイカ、――五コペイカ、――五コペイカ、un tout petit rien.(まったく少しでいいのだ)」さもおめでたそうな微笑を浮かべながら、スチェパン氏は相槌を打った。
 試みに、農民に何かしてくれと頼むと、そのものは、できることなら、そして、しようという気になったら、一生懸命に愛想よく世話を焼いてくれる。ところが、そのものにウォートカを買って来てくれと頼むと、ふだんの落ちついた愛想のいい態度が、急に何かしらせかせかした嬉しそうな親切に変わる。それは、親身のものに対する心づかいといってもいいくらいである。ウォートカを買いに行く当人は、それを飲むのが頼み主であって、自分ではないということを、前からちゃんと知っていても、やはり頼み主の未来の快感をいくぶん自分でも感じるような具合である。三、四分も経たぬうちに(酒屋はついそこにあった)、スチェパン氏のテーブルの上に、ウォートカの極小びんと、薄い緑色した大きな杯が現われた。
「これがみんなわたしのかね!」スチェパン氏は一方ならず驚いた。「うちにもしじゅうウォートカがあったが、五コペイカでこんなにたくさんくれるものとは、今まで少しも知らなかった」
 彼は杯になみなみとついで、立ちあがった。そして、幾分ものものしい顔つきをしながら、部屋を横切って、向こう側の隅へ行った。そこには、彼といっしょに袋の上に坐っていた女房、――途中うるさくいろんなことを問いかけた眉の黒い女房が陣取っている。女房はちょっと照れて、煮え切らない調子で辞退を始めたが、礼儀の要求するだけのことをいってしまうと、とうとう立ちあがって、ふつう女がするように、行儀よく三口に飲み乾した。そして、さも大仰な苦しみを顔に描いて見せながら、スチェパン氏に杯を返して会釈した。彼もものものしく会釈を返して、得意げな色さえ浮かべながら、テーブルのほうへ戻った。
 これは一種の感興によるものであった。彼自身ですら一秒前には、あの女房をもてなしに出かけようとは、夢にも考えてもいなかったのである。
『おれは民衆に応対するすべを完全に、完全に心得ている。それはおれがいつもあの連中にいったことだ』残りの酒をびんの中からつぎながら、彼は満足げにこう考えた。酒は盃一杯なかったけれど、それでも彼に元気をつけて、体を温めてくれた。少し頭にも上ったくらいである。
『〔Je suis malade tout a` fait, mais ce n'est pas trop mauvais d'e^tre malade.〕(おれはすっかり病気になってしまった、けれど病気になるということはそれほど悪いことじゃないよ)』
「これをお購《もと》めくださいませんか?」という低い女の声が傍でひびいた。
 彼はふと目を上げた。と、驚いたことには、自分の前に一人の婦人―― une dame et elle en avait l'air(一人の婦人、しかも相当の身なりをした婦人)が立っているではないか。年の頃はもう三十過ぎらしく、一見したところはなはだつつましやかな女で、じみな着物を町ふうに着こなして、大きな鼠色のきれを肩にかけている。その顔には、何か非常に愛想のいい所があって、それがすぐスチェパン氏の気に入ったのである。彼女はたったいま小屋へ帰って来たばかりなので、それまで自分の荷物を、スチェパン氏の占領している場所に近い床几の上に置いていたのである、――その中に折カバンが一つあったが、彼は入りしなに好奇心をおこして、それに目をつけたのを覚えている。それは恐ろしく大きな、模造皮でこしらえた袋だった。この袋の中から、彼女は美しく製本した二冊の本を取り出して、スチェパン氏の傍へ持って来た。表紙には十字架が捺してあった。
「Eh …… mais je crois que c'est l'Evangile.(ああ、これはきっと聖書ですね)ええ、ええ、よろこんで頂戴します……ああ、やっとわかった……あなたは、世間でいう聖書売りですね。わたしはたびたび新聞で見ましたよ……五十コペイカですか?」
「三十五コペイカずつでございます」と聖書売りは答えた。
「ええ、よろこんで頂戴します。Je n'ai rien contre l'Evangile.(わたしもけっして聖書には反対じゃありません)そして……もう前から読み直してみたいと思っていたのです……」
 この瞬間、自分はもはや、少なくとも三十年くらい福音書というものを読んだことがない、ただ七年ばかり前にルナンの『耶蘇伝』を読んだとき、ほんの少しばかり思い出したことがあるきりだ、という記憶がちらと彼の心をかすめた。
 小銭の持ち合わせがなかったので、彼は例の十ルーブリ札《さつ》を四枚(これが身上ありたけなのだ)取り出した。かみさんは両替の世話を焼いた。このとき彼はあたりを見廻して、初めて気がついた、――小屋の中にはかなり大勢の人が集まって、もう前から彼の様子をじろじろ眺めながら、どうやら彼の噂をしているらしかった。町の火事の話も出ていたが、例の牛を引っ張ってきた馬車の持ち主が、いま町から帰ったばかりなので、だれよりも一ばん熱心に話していた。つけ火とかシュピグーリンの職工とかいう声も聞こえた。
『あの男はおれを乗せて来る時に、いろんなことをやたらに話したくせに、火事の話はちっともしかけなかったっけ』何か妙な考えが、スチェパン氏の頭に浮かんできた。
「旦那様、ヴェルホーヴェンスキイの旦那様、まあ、これはあなた様でござりますか? どうもまるで思いも寄りませんことで!………それとも、お思い出しなさいませんか?」一人のかなりの年輩をした小柄な男が、出しぬけにこう叫んだ。見かけたところ、昔ふうの家僕らしい様子で、顎ひげを綺麗に剃り落とし、襟の折り返しになった長い外套を着ていた。スチェパン氏は自分の名を聞いてぎょっとした。
「どうも失礼」と彼はつぶやいた。「わたしはどうもはっきり思い出せないので」
「お忘れでございますか! わたくしはアニーシム、――アニーシム・イヴァノフでございますよ。亡くなられたガガーノフの旦那にご奉公しておりました。あなた様はよくスタヴローギンの奥様とごいっしょに、亡くなられたアヴドーチヤ様のところへお見えになりましたので、始終お目にかかっておりました。わたくしはよく奥様のお使いで、あなた様のところへ本を持ってまいりましたし、ペテルブルグのお菓子も、二度ばかり持参したことがございます……」
「ああ、そうだっけ、思い出したよ、アニーシム」とスチェパン氏はほほ笑んだ。「お前、ここに住んでるのかね」
「いえ、スパーソフの町はずれにある、B僧院におります。アヴドーチヤ様のお妹ごマルファ様のところでござります。お覚えでもございましょう。舞踏会へお出かけのとき、幌馬車から落ちて、足をお折りになったお方……いま僧院の近所に住まっておられますので、わたくしもそのお傍についております。ところで、ただ今はごらんのとおり、親類のところへ行こうと思って、町のほうへ出向きますところで……」
「ふん、なるほど、なるほど」
「あなた様にお目にかかって、まことに嬉しゅうございました。いつもやさしくしていただきましたので」とアニーシムはさも嬉しそうに微笑した。「いったい旦那様、どこへお出かけになるのでございます。お見受けしたところ、まるでお一人っきりのようでございますが……以前はけっして、一人でお出かけのことはございませんでしたに」
 スチェパン氏は臆病そうに相手を見やった。
「もしやわたしどものほうへ、スパーソフヘいらっしゃるのでは?」
「ああ、わたしはスパーソフヘ行くのだ。〔Il me semble que tout le monde va a` Spassoff.〕(なんだか世間の人たちが、みんなスパーソフヘ行くようだ)」
「もしや、フョードル・マトヴェーイチのところではございませんか? それは、さぞお喜びなさることでございましょう。むかし大層あなた様を尊敬していらっしゃいましたからね。今でも始終、あなた様のお噂をしておられますよ。……」
「そうだ、そうだ、そのフョードル・マトヴェーイチのところだ」
「そうでしょうとも、そうでしょうとも。この百姓どもはね、旦那様、なんだかあなた様がかちで街道を歩いていらっしゃるところをお見受けしたとかいって、不思議がっておるのでございますよ。どうも馬鹿なやつらでございまして」
「わたしは……わたしはその……わたしはね、アニーシム、イギリス人のように賭けをやってね、ぜひ歩いて行って見せるって、そして……」
 彼は額やこめかみに汗をにじましていた。
「そうでございましょうとも、そうでございましょうとも」アニーシムは容赦のない好奇の色を浮かべながら、耳を傾けるのであった。しかし、スチェパン氏は、その上おしこたえることができなかった。彼は当惑のあまり立ちあがって、小屋を出て行こうかと思った。けれど、そこへ湯沸《サモワール》が出た。その瞬間、今までどこかへ行っていた聖書売りが帰って来た。彼は、一生懸命にげ路をさがそうとする人のような身振りで、彼女のほうへ振り向いて、茶をすすめた。アニーシムは席を譲って、立ち去った。
 実際、百姓たちの間には疑念が起こっていたのである。『いったいどういう人なんだろう? 街道をてくてく歩いてるところを見つかって、自分では先生だとかいってるそうだが、みなりはまるで外国人みたいで、知恵といったら、小さな赤ん坊みたいだ。そして、辻褄の合わぬ返事ばかりしている。まるでだれかのところから逃げ出したようだ。しかも、金を持ってる!』警察へ届けようか、という考えも湧いたくらいである。『おまけに、町のほうもだいぶ物騒なんだから』
 けれども、これはアニーシムが即座にまるくおさめた。彼は表廊下へ出ると、様子を聞きたがっている人々に、スチェパン様は先生どころではなく、『大層もない偉い学者で、立派な学問を仕事にしておられる方だ。それに、以前はこの辺の地主で、もう二十二年の間スタヴローギン大将夫人のお邸に暮らして、一ばん大切な人に扱われておられる。また町でも皆の人から、並み大抵でない尊敬を受けておる方だ。貴族たちのクラブでは、よく一晩のうちに鼠色札(五十ルーブリ)や虹色札(百ルーブリ)をカルタの勝負に抛り出したものだ。位は高等官で、陸軍の中佐と同じわけだから、もう一段で大佐というところなんだ。金があるたって、金はスタヴローギン大将夫人から、幾らでも際限なしにもらえるんだよ』などとしゃべり立てるのであった。
『〔Mais c'est une dame et tre`s comme il faut〕(しかしこの女は立派な婦人だ、どこといって難のない婦人だ)』アニーシムの攻撃を免れてほっとしながら、スチェパン氏は快い好奇の念をもって、隣りに坐っている聖書売りを観察するのであった。もっとも、こちらは茶を皿に移して、砂糖を噛りながら飲んでいた。『Ce petit morceau de sucre, ce n'est rien(あの砂糖の塊り、ありゃ何でもない)……あの女には何かしら上品な、しっかりした、しかも同時にもの静かなところがある。Le comme il faut tout pur.(まったく難のない婦人だ)もっとも、普通のとは少し趣きを異にしているけれど』
 彼は間もなくこの女の口から、名はソフィヤ・マトヴェーエヴナ・ウリーチナということ、本当の住所はK町で、そこに後家ぐらしをしている姉があること、町人の生まれだということ、自分もやはり後家の身の上だということ、夫は軍曹あがりの少尉だったが、セヴァストーポリで戦死したこと、――などを知った。
「だが、あなたはずいぶん若い、vous n'avez pas trente ans.(まだ三十にならないでしょう)」
「三十四でございます」とソフィヤはほほ笑んだ。
「ええ、あなたはフランス語もわかるんですか?」
「ほんの少しばかり、わたしはそのあとで四年ばかり、立派なお邸に暮らしまして、お子さん方から習ったのでございます」
 彼女の物語ったところによると、わずか十八で夫に死なれた後、しばらくセヴァストーポリで「看護婦」をしていた。が、その後、諸所方々で暮らした挙句、今では福音書を売り歩くようになったとのことである。
「|ああ、そうだ《メモンディユ》、いつか町で奇怪な、きわめて奇怪な事件が起こったのは、あれはもしやあなたじゃありませんか?」
 彼女は顔をあかくした。はたして彼女であった。
「Ces vauriens, ces malheureux!(あのやくざ者めらが、あの情けない奴らが!)……」と彼は興奮のあまり慄える声でいい出した。病的な憎悪にみちた記憶が、彼の心中に、苦しいまでに呼びさまされたのである。彼は瞬間、前後を忘れるほどであった。
『おや、あの女はまた出て行ったぞ』彼女がまたしても部屋にいないのに気がついて、彼ははっとわれに返った。『あの女はしょっちゅう外へ出て行って、何やら忙しそうにしている、心配そうな様子さえしている…… 〔Bah, je deviens e'goi:ste.〕(やッ、おれは自我主義になってくぞ!)』
 彼は目を上げた。とふたたびアニーシムの姿が見えた。けれども、今度は周囲が非常に不気味な光景を呈していた。小屋の中は百姓で一杯になっていた。それは明らかに、アニーシムが連れて来たものらしい。そこにはこの家の亭主もいれば、牛を連れてきた百姓もいるし、そのほか二人の百姓と(これは馭者だということだった)、それからまだ小柄な半分酔っぱらった男などがいた。これは百姓ふうのなりをしてはいるけれども、酒で身を持ち崩した町人ともいうべき面がまえで、髯を綺麗に剃っていた。この男はだれよりも一番よくしゃべった。みんな彼のこと、――スチェパン氏のことを、話しているのであった。牛を連れた百姓は、どこまでも意見を曲げないで、岸づたいに四十露里も行くのは大まわりで、ぜひ蒸気に乗らなければならぬと主張していた。半分酔っぱらった町人と亭主は、熱くなって反対した。
「そりゃ、お前、いうまでもなく、旦那様は蒸気でお出でになったほうが近いに違いない。そりゃそのとおりさ。だけど、この頃のような天気じゃ、蒸気が向こうへ行くまいよ」
「行くよ、行くよ。まだ一週間ぐらいは通うよ」とアニーシムがだれよりも熱くなった。
「そりゃ、まあ、そんなものだ! だけど、出入りに決まりがなくってね。なにしろ、もうだいぶ寒くなって来たから、どうかすると湖尻《ウスチエヴォ》で、三日くらい泊ってることがあるよ」
「あした二時頃には間違いなく入って来るよ。旦那様、晩までにゃ大丈夫、スパーソフヘお着きになりますよ」とアニーシムはやっきとなっていった。
『Mais qu'est-ce qu'il a cet homme.(いったいこの男は何をしようというんだろう)』このさきどうなるのだろうと、スチェパン氏は恐ろしさに身を慄わしていた。
 やがて、馭者も前へしゃしゃり出で、賃金の押し問答を始めた。湖尻《ウスチエヴォ》まで三ルーブリというのであった。ほかの連中もそれならけっして無法ではない、それが当たり前の値だ、湖尻《ウスチエヴォ》までは夏じゅう、その値で行ってたのだとわめいた。
「だけど、ここも大変いい所だ……わたしは別に行きたくないのだ」とスチェパン氏はもぐもぐいい出した。
「ここがいいんですって、旦那様、それはまったくでございます。けれど、スパーソフのほうが今どれだけいいかわかりませんよ。それに、フョードル・マトヴェーイチも、どんなにおよろこびなさることやら」
「|ああ困った《モンディユ》、|皆の衆《メザミ》、これはどうもわたしにとって、あまり思いがけないことなので……」
 そこへやっと、ソフィヤが帰って来た。が、彼女はひどく当惑したらしく、さも悲しそうに床几へ腰を下ろした。
「わたしはとてもスパーソフヘ行かれない!」と彼女は主婦《かみ》さんにいった。
「え、じゃ、あなたも、スパーソフヘ行くんですか?」スチェパン氏は思わずぴくりとなった。
 話を聞いてみると、スヴェトリーツィナという一人の女地主が、もう昨日から彼女をスパーソフヘ連れて行くと約束して、このハートヴォで待つようにいいつけていたのに、当人がやって来ないというのだ。
「わたし、これからどうしたらいいのでしょう?」とソフィヤはくり返した。
「〔Mais, ma che`re et nouvelle amie〕(わたしの親愛な新しい友)、ねえ、わたしだってその女地主のように、その、なんとかいったっけなあ、あのわたしが馬車を傭った村へ、あなたを連れて行ってあげますよ。そして、明日、――そう、あす二人でスパーソフヘ行こうじゃありませんか」
「あら、あなたもやはりスパーソフヘいらっしゃるのでございますか?」
「〔Mais que faire, et je suis enchante'!〕(だって仕方がないんです、それにわたしは非常に嬉しいのです)わたしはしんからよろこんであなたをお連れしましょう。そら、あの連中がしきりに望むもんですから、わたしは馬車を傭ったのです……わたしが傭ったのは、きみたちのうちだれだったかねえ」スチェパン氏は急にスパーソフヘ行きたくなった。
 十五分ばかり後に、二人は蔽いの付いた二輪馬車に座を占めた。彼は恐ろしく活気づいて、さも満足そうな様子だった。彼女は例の袋を持って、感謝にみちた微笑を浮かべながら、その傍に坐った。アニーシムは二人を助け乗せた。
「ご機嫌よろしゅう、旦那様」彼は一生懸命に馬車のまわりを奔走した。「あなた様にお目にかかって、こんなうれしいことはございません!」
「さようなら、さようなら、ご機嫌よう」
「フョードル・マトヴェーイチにお会いになりますか、旦那様……」
「ああ、会うよ……フョードル・ペトローヴィチにね……じゃ、さようなら」

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

「ねえ、|あなた《マアミ》、あなたを友《アミ》と呼ぶことを許してくださるでしょう、|そうでしょう《ネスパ》?」二輪馬車が動き出すやいなや、スチェパン氏はせかせかと口を切った。「ねえ、わたしは…… 〔j'aime le peuple, c'est indispensable, mais il me semble que je ne l'avais jamais vu de pre`s, Stasie …… cela va sans dire qu'elle est aussi du people …… mais le vrai peuple〕(わたしは民衆を愛します。それは避くべからざる心持ちです。けれど、わたしは今まで民衆に接近したことがないような気がする、ナスターシヤ……あの女がやはり民衆から出たのはいうまでもないことです。が、しかし本当の民衆)つまり、街道に立っているような、本当の民衆のことをいうのです。どうもあの連中は、わたしのゆくえばかり気にしてるようだ……が、こんないやな話はやめましょう。わたしはどうも少ししゃべり過ぎるようだが、それはたぶんせっかちのためでしょう」
「あなたはお気分がすぐれないようでございますね」鋭い、けれども、うやうやしい目つきで、ソフィヤはじっと彼を見入った。
「いや、なに、ちょっと何かにくるまったら、それでいいんです。全体として、なんだかせいせいした風が吹きますね、なんだか少しせいせいしすぎる。しかし……まあ、そんなことは忘れましょう。わたしがおもにいおうとしたのは、そんなことじゃないのです。〔Che`re et incomparable amie〕(親愛な比類なき友)、わたしはほとんど幸福になったような気がする。しかも、その原因はあなたなんですよ。しかし、わたしにとって、幸福は不利益なんです。だって、わたしはすぐに自分のほうから、すべての敵をゆるしてしまうからです……」
「だって、それはたいへんけっこうじゃございませんか」
「いつもそうとは限りませんよ、〔che`re innocente. L'Evangile …… voyez vous, de'sormais nous le pre^cherons ensemble.〕(無垢な友よ、福音書というものは……ねえ、これから二人で伝道して歩こうじゃありませんか)わたしもよろこんであなたの美しい本を売りますよ。これはいい思いつきかもしれない、そんな気がする、〔quelque chose de tre`s nouveau dans ce genre〕(そういうふうなことの中では何か非常に新しいもののようだ)ロシヤの人民は宗教心に富んでいます。C'est admis(それはもう認められている)けれど、まだ福音書を知らない。わたしはそれを彼らに説いて聞かせよう……口ずからの説明によって、或いはこの驚くべき書物の誤りを正すことができるかもしれません。もっともわたしはこの書物に対して非常な尊敬を払うことを惜しまないのですがね。わたしは街道においても有用な材となります。わたしは常に有用の材でした。わたしはいつもあの連中[#「あの連中」に傍点]にそういってたのです、〔et a` cette che`re ingrate〕(そしてあの愛すべき恩知らずの女にも)おお、ゆるしましょう、ゆるしましょう。なによりも第一に、いつでも、あらゆる人をゆるしてやりましょう。そして、自分も人からゆるしてもらえるという希望を持とうじゃありませんか。だって、あらゆる人はお互いに罪を犯し合っているんですからね! ええ、みんな罪があるんです!………」
「それは大変よくおっしゃいました。わたしもなんだかそう思われます」
「そう、そう……わたしも大変よくいったような気がします。わたしは世間の人たちにも非常にうまく話すつもりです。しかし、わたしは何をおもに話すつもりだったのかしらん? わたしはしじゅう話が脇へそれて、はっきり覚えられないんですよ……ねえ、あなたは許してくださるでしょうか、わたしはあなたと別れたくない。わたしはこう感じるのです。あなたの目と、そして……わたしはあなたの身のこなしにも驚嘆してるんです。あなたは本当に率直です。あなたの言葉にもなんだか賤しいところがあるし、お茶を茶碗から皿へ移して、あのひどい砂糖の塊りを噛ったりされるけれど、しかし、あなたには何かしら美しいところがある、それは顔つきでもわかります……ああ、あかい顔をしないでください、わたしを男として恐れないでください、〔che`re et incomparable, pour moi une femme c'est tout.〕(親しく類いなき友よ、わたしにとって女というものは生活の全部なのです)わたしは女の傍に暮らさずにはいられない。けれど、ただ傍にいるだけです……わたしは恐ろしく、まったく恐ろしく脇へそれてしまいましたね……わたしは何をいおうと思ったのかどうしても思い出せない。ああ、常に神によって女を送らるる者は幸いなりです、そして……わたしは一種の歓喜さえ覚えるような気がしますよ。街道にも高遠な思想があります! そうだ、――わたしが思想のことをいおうとしたのは、このことだったのです。やっといま思い出した。今まではいうことが壺に嵌まらなかったのです。が、なんだってあの連中は、わたしをこんなにさきのほうへ連れて来たんだろう? あすこもなかなかよかったんですがねえ。ここは―― 〔cela devient trop froid. A propos, j'ai en tout quarante roubles et voila` cet argent〕(なんだか寒くなってくる。ところで、わたしはここにみんなで四十ルーブリもっています。これがその金です)さあ、取ってください。わたしはどうも扱い方が下手です。落としたり取られたりしてしまいます。それに……わたしはなんだか眠くなってきたような気がする。なんだか頭の中がくるくる廻るようだ。ああ、廻る、廻る、廻る。おお、あなたはなんという親切な人でしょう。それは何を掛けてくだすったのです?」
「あなたはきっとひどい熱病にかかっていらっしゃるんですよ。わたし毛布を掛けてあげましたの。ただお金のことはわたし……」
「おお、お願いだから、n'en parlons plus, parce que cela me fait mal(もうそんな話は止めましょう、なんだか気持が悪くなるから)おお、あなたはなんて親切なんでしょう!」
 彼はなんだか、急にぱったり言葉を切った。と、思いがけないほど早く、熱病やみらしい悪寒に苦しめられながら、寝入ってしまった。十七露里も続いた村道は、あまり平坦なほうでなかったので、馬車は容赦なくがたぴし揺れるのであった。スチェパン氏はたびたび目をさました。そして、ソフィヤがそっと当てがってくれた枕からちょっと頭を持ち上げて、彼女の手を取りながらきくのであった。
「あなたはここにいますね?」
 それは彼女が自分の傍を去りはせぬかと、恐れるかのようであった。彼はソフィヤに向かって、何かの獣が歯を剥き出しながら大きな口を開けているのを夢に見て、それがいやでたまらなかったとも話した。ソフィヤは彼の身が無性に心配になってきた。
 馭者は二人の客をいきなり一軒の大きな田舎家へ連れて行った。それは窓の四つもついた家で、庭の中にはいくつかの離れもあった。目をさましたスチェパン氏は、大急ぎで中へ入って、家じゅうで一ばん広く、一ばん綺麗な二つ目の部屋へ通った。寝ぼけたような彼の顔は、ひどく忙しげな表情に変わった。彼はさっそくおかみをつかまえて(それは四十恰好の、真っ黒な髪をした、まるで鼻ひげでもたくわえたように見える、背の高いしっかりした女房だった)、自分は一人でこの部屋を借り切ってしまう。『そして、ちゃんと閉め切って、だれもここへ入れることはならん。〔parce que nous avons a` parler. Oui, j'ai beaucoup a` vous dire, che`re amie.〕(わたしたちは話があるんだから。そうですよ、ソフィヤさん、わたしはたくさんあなたに話したいことがあるんです)わたしはそれだけのことをする、きっとするよ!』と彼はおかみに手を振って見せた。
 彼は恐ろしく急き込んでいたけれど、なんだか舌がよく廻らなかった。おかみは無愛想な様子で聞いていたが、承諾のしるしに沈黙を守っていた。とはいえ、その沈黙には何かしら無気味なところが感じられた。彼はそんなことにはいっさい頓着なしに、せかせかした調子で(彼は恐ろしくせき込んでいた)、すぐあちらへ行って、さっそくできるだけ早く、『一刻も猶予しないで』何か食べるものをこしらえてくれと、おかみに命じた。
 このとき口ひげの女房はこらえかねた様子で、
「ここはあなた宿屋じゃありませんよ。わたしたちはお客さんに食事の用意はいたしません。まあ、蝦でも煮て湯沸《サモワール》を立てるぐらいのことで、そのほかには何もできませんよ。新しい魚は、明日でなければできませんからね」
 けれども、スチェパン氏は両手を振りながら、『それだけのことはするよ、早く、早く』と腹立たしげな、じれったそうな声でくり返すのであった。とうとう魚汁《ウハー》に烙鶏《やきとり》ということに決まったが、おかみは村中さがしても鶏は手に入らぬといった。が、とにかくさがしに行くのを承知したが、まるで大変なお慈悲でもかけてやるような顔つきだった。
 おかみが出て行くやいなや、スチェパン氏はすぐさま長いすに腰を下ろし、ソフィヤも自分の傍にかけさせた。部屋の中には長いすや肱掛けいすがあったけれど、恐ろしい姿になったものばかりであった。概して部屋はかなり広く、一部分は板で仕切られて、その向こうに寝台など置いてあった。黄いろいぼろぼろの古い紙を張った壁には、神話か何かを描いた恐ろしい石版画が掛けてあるし、正面の隅には額のようになったのや、折屏風のようになった銅《あか》の聖像が、長い列をなしてかかっている。全体に、道具類は奇妙な寄せ集めものだった。何か都会ふうなところと、太古の俤を持った百姓ふうのところが、見苦しくいっしょくたになったような部屋である。しかし、彼はそんなことにはいささかの注意も払わなかった。それどころか、家から十間ばかりのところから展けている大きな湖を、窓ごしに覗いてみようともしなかった。
「やっとわたしたちは二人きりになりましたね。もうだれも入《い》れることじゃない! わたしはあなたに何もかもすっかり、そもそもの初まりから聞いてもらいたいのです」
 ソフィヤは烈しい不安の色を浮かべながら、彼を押し止めた。
「あなた、ごぞんじでございますかしら、スチェパン様……」
「〔Comment, vous savez de'ja` mon nom?〕(えっ、あなたはもうわたしの名を知ってるんですか?)」彼はよろこばしそうに微笑した。
「さっきアニーシムさんと話をしていらしった時、ちょっと傍《はた》から伺ったんですの。ところで、生意気なようでございますが、わたしのほうから一つご注意申したいことがありますので……」
 こういって彼女は、だれか立ち聴きでもしてはいないかと、閉め切った戸口のほうを振り返りながら、早口にこうささやいた。ほかでもない、ここに、――この村にいるのは、とんでもない災難だ。ここの百姓はみんな漁師で、それを生計《なりわい》にしているけれど、毎年夏になると、旅客の懐ろから思う存分の金を絞り取るのである。この村は通りぬけができないで行きどまりになっているので、汽船が入って来て泊ることになってはいるものの、よく船の来ないことがある、ちょっと少し天気模様が悪くなると、どんなことがあってもやって来ない。すると、二、三日のうちに旅客がうんとたて込んで、村じゅうの家が一杯になってしまう。村の者はそればかり待ちかまえているので、すべての値段を三倍ぐらい高く絞り取る。それに、この家の亭主は土地でも一番の金持ちなので、恐ろしく高慢な無作法な男である。なにしろ網だけでも千ルーブリからのものを持っている、とこういうのであった。
 スチェパン氏はソフィヤのひどく元気づいた顔を、ほとんどなじるような目つきで見つめながら、幾度か押し止めるような手つきをした。けれども、彼女は少しもそれにひるまず、いいたいだけのことをいってしまった。彼女の言葉によると、ソフィヤはすでにこの夏、ある一人の『ごく立派な婦人』と町からここへ来て、やはり汽船の着く間、まる二日泊ったことがあるが、その時のつらかったことは、いま思い出しても恐ろしいくらいだ、というのであった。
「ところが、スチェパン様、あなたはこの部屋を一人で借り切ってしまうとおっしゃいましたね……わたしはただ前もってお知らせしたいと思って……あの向こうの部屋にもやはりお客さんがあるのです。一人はだいぶ年輩の人で、一人はまだ若い方でございます。それから、子供をつれた奥さんのような方もいらっしゃいます。ところで、明日の二時頃までには、この家が一杯になるほど人が集まります。もう二日ばかり汽船が入りませんでしたから、明日は必ず来るに相違ないのでございます。こういうわけで、部屋を借切りにしたり、食事をご注文になったり、ほかの客を断わらせたりなすった、そんなことでうんと取られるに違いありません。都会《まち》でも聞かないような値段を吹っかけるに違いありません……」
 しかし、彼は苦しかった、しんから苦しかったのである。
「Assez, mon enfant(やめてください、あなた)、お願いだから、やめてください。〔Nous avons no^tre argent et apre`s ―― et apre`s le bon Dieu.〕(わたしたちにはあの金がある。そして後は、その後は神様のお心にまかせましょう)わたしは不思議なくらいです。あなたのような高尚な考えを持った人が、どうして…… assez, assez, vous me tourmentez.(たくさんです、たくさんです、あなたはわたしを苦しめるんです)」と彼はヒステリックな声で叫んだ。「わたしたちの前には未来がある。それだのに、あなたは、あなたはその未来のことでわたしを脅しつけるんだ……」
 彼はさっそく自分の経歴を語り始めた。けれど、あまりせき込んでいたので、初めのうちはよくわかりかねるほどであった。物語はかなり長く続いた。魚汁《ウハー》が出、鶏が出て、ついにサモワールが出たが、彼はいつまでもいつまでも語りつづけた……物語はいくぶん奇妙な病的な感じを与えたが、しかし、彼自身すでに病気だったのである。それはとつぜんおそってきたはげしい知力の緊張だった。こういう状態はもちろんすぐ後で、彼自身の組織内における異常な力の沮喪となって、反動を来たすに相違なかった。ソフィヤも彼の物語を聞いているうちにこれを予感して、憂慮の念を禁じ得なかった。彼は『まだ若々しい胸をいだきつつ、野を駆け廻った』幼年時代から話を始めた。一時間も経って、やっと二回の結婚と、ベルリンの生活まで進んだのである。もっとも、わたしはこうした彼を嘲笑しようとは思わない。そこには実際、彼にとって最も崇高なある物があった。新しい言葉でいえば、生の争闘が含まれているのであった。彼は将来の行路の友として選んだ女を、自分の目の前においているので、少しも早くいっさいのことを、いわばまあ、彼女に頒とうと思ったのである。彼の天才は、今後、生涯を共にする女にとって、秘密として埋めらるべきでない……もしかしたら、彼はソフィヤのことを無上に誇張して考えていたかもしれぬ。けれど、彼はもはや選択を終えたのである。彼は女なしに生きていられなかった。彼女が彼の言葉をほとんど少しも理解していない、最も肝腎な点さえ会得できないでいるということは、彼も自分で相手の顔つきによって、はっきり見てとった。
『Ce n'est rien, nous attendrons(こんなことはなんでもない、も少し待ってみよう)、まあ、当分の間は、直感によってでも悟ってくれるだろう……』
「|わが《マ》友《アミ》よ、わたしはただ、あなたの心がほしいだけなんです!」物語をやめて、彼はこう叫んだ。「それから、今わたしを見つめていらっしゃる、そのやさしい魅力に富んだ目つきと。ああ、どうか顔をあかくしないでください! もうお断わりしたじゃありませんか……」
 やがて物語が進行して、今まで一度もだれ一人として、スチェパン氏を理解し得るものがなかったことや、『わがロシヤにおいては、多くの才あるものが空しく滅びてゆく』ことや、そういうほとんど天下の大議論といっていいようなくだりに移った時、この憐れなとりこの女にとっては、ますます雲をつかむようなところが多くなってきた。
『どうもあまり高尚なことばかりで』と彼女は後で、しおしおとした声でいった。
 彼女は少し目を丸くしながら、いかにも骨の折れるらしい様子で、耳を傾けていた。スチェパン氏が『現代第一流の先覚者連中』に対して、諧謔や皮肉を弄し始めたとき、彼女はもう心細くなってしまった。二度ばかり彼の笑いに対する答えとして、にっこりほほ笑もうと試みたが、その結果は泣くよりも悪かった。で、スチェパン氏のほうでも、とうとうばつが悪くなって、いっそう猛烈な毒々しい調子でニヒリストや『新しい人々』の攻撃にかかった。彼女はもう、てもなくおびえあがってしまった。彼女が初めていくぶんほっと息をついたのは(もっとも、それはきわめて皮相な安心であった)、彼の恋物語が始まってからである。女というものは、たとえ尼であろうとも、やはり常に女である。彼女は微笑を浮かべたり、首を振ったりしたが、すぐその後から顔を真っ赤にして伏目になった。それがすっかりスチェパン氏をうちょうてんにしてしまった。彼は感興にかられて、ずいぶんたくさん嘘をついた。彼の話によると、ヴァルヴァーラ夫人は世にも美しいブリュネットであった(『ペテルブルグばかりでなく、ヨーロッパの多くの首都を熱狂せしめたことさえある』)。夫は『セヴァストーポリの戦いで弾丸に貫かれて』斃れたが、その原因は自分が夫人の愛に価しないことを感じて、妻を競争者(といって、つまりスチェパン氏のことなので)に譲るためであった。
「そうきまり悪がらないでください、|わが《マ》|淑やかな《トランキール》友よ、|わが《マ》|キリスト教徒《クレスチエンヌ》よ!」自分で自分の物語をほとんどぜんぶ信じながら、彼はソフィヤに向かってこう叫んだ。「それは一種きわめて高尚な感情でした。実際あまりに微妙な感情だったものだから、わたしたちは二人とも一生の間、一度も口に出していわなかったくらいです」
 こういう状態になった原因は、彼の引続いて話したところによると、一人のブロンドであった(このブロンドはダーリヤとでも仮定しなければ、スチェパン氏がだれのことをいったのか、わたしには見当がつかない)。このブロンドはいろいろとブリュネットの恩になっていて、遠い親類として、恩人の家に生長したのである。ついにブリュネットはスチェパン氏に対するブロンドの恋に気がついて、自分の中に閉じこもるようになった。ブロンドのほうはブロンドのほうでスチェパン氏に対するブリュネットの恋に気がついて、やはり自分自身の中に閉じこもるようになってしまった。こうして、三人のものは互いに義理をたて合って、悩ましい心をいだきながら、めいめい自分の中に閉じこもったまま、二十年の沈黙を守り通したのである。『おお、それはなんという熱情だったろう、本当になんという烈しい熱情だったろう!』偽りならぬ歓喜の情にすすり泣きながら、彼はこう叫んだ。『わたしは彼女の(つまりブリュネットの)美の真っ盛りを見た。わたしは毎日彼女が自分の傍を、まるでわれとわが美しさを恥じるような風情で通り過ぎるのを(一度などわたしは『充実した自分の肉体を恥じるように』といったものだ)、胸を掻きむしられるような思いで眺めた』
 ついに彼はこの熱に浮かされたような、二十年の夢を棄てて逃れた。
「|二十年《ヴァンタン》! そして、いまこの街道に立ったのです……」
 それから彼は、何かまるで脳に炎症でも起こしたような調子で、今日の『この思いがけない運命的な二人の邂逅、――永遠に続くべきこの邂逅が』、はたして何を意味しているかを、ソフィヤに説明して聞かせた。ついにソフィヤは恐ろしく当惑した様子で、長いすから立ちあがった。女の前にひざまずこうとするようなそぶりさえ見せたからである。彼女はほとんど泣き出さないばかりだった。たそがれの色はしだいに濃くなりまさった。二人はこの閉め切った部屋の中に、もう幾時間もこもっているのである……
「いえ、もうあちらの部屋へやってくださいまし」と彼女はよどみよどみいい出した。「でないと、人がなんとか思いますから」
 彼女はとうとう振り切って出て行った。彼は、すぐ横になって休むと約束して、彼女を外へ出してやったが、別れ際に恐ろしく頭が痛いと訴えた。ソフィヤは入って来た時から、自分のカバンやほかの荷物を取っつきの部屋へ残しておいた。それは、おかみなどといっしょに寝るつもりだったので。けれども、彼女は体を休めることができなかった。
 夜ふけになって、スチェパン氏は疑似コレラの発作を起こした。それはわたしを初めとして、友人一同に熟知されているいつもの病気で、ふつう神経的興奮や精神的動揺の結果として現われるものであった。哀れなソフィヤは、一晩じゅう寝ることができなかった。彼女は病人を看護する必要上、たびたびおかみの部屋を通って、小屋を出たり入ったりしなければならなかったので、そこに眠っている旅客やおかみがぶつぶついい出して、夜明けごろ彼女がサモワールを立てようと思い立った時などは、とうとう口汚く罵り始めたほどである。スチェパン氏は発作の間じゅう、半意識の状態にあった。時々、夢うつつのように、サモワールの用意がされていることや、自分が何か飲ましてもらっていることや(それは木苺入りの茶なので)、何かで腹や胸を暖めてもらっていることなどが感じられた。しかし、彼は絶えず彼女[#「彼女」に傍点]を自分の傍に感じていた。これは彼女が来たのだな、彼女が行ったのだな、彼女が自分を寝台から起こしたのだな、彼女がまた寝さしてくれたのだな、と感じた。夜中の三時頃から、少し楽になった。彼は身を起こして、寝台から足を下ろし、ほとんどなんにも考えないで、いきなり彼女の足もとへ身を投げた。これは、さっき膝を突いた時の気取った態度とは、ぜんぜん別なものだった。彼は他愛なく女の足もとに倒れ伏して、着物の裾を接吻するのであった。
「たくさんですよ、わたしは、まるでそんなことをしていただく値打ちのない女です」彼を寝台へあがらせようと努めながら、彼女はしどろもどろにつぶやいた。
「あなたはわたしの救い主です」彼はうやうやしく女の前に両手を合わせた。「〔Vous e^tes noble comme une marquise!〕(あなたはまるで侯爵夫人のように、気高い方です!)わたしは、やくざ者です! おお、わたしは一生涯、破廉恥漢で通しました……」
「どうか心を落ちつけてください」とソフィヤは祈るようにいった。
「わたしはさっき嘘をついた、――それは単に虚飾のためです、役にも立たない贅沢心から出たことです。ええ、みんな、みんな嘘っぱちです、初めからしまいまで……ああ、なんというやくざ者だ!」
 こうして発作は一転して、ヒステリックな自己譴責へ移っていった。わたしは以前、ヴァルヴァーラ夫人に宛てた彼の手紙を紹介するに当たって、もはやこの種の発作について一言しておいた。彼は突然リーザのことや、昨日の朝の邂逅のことを思い出した。
「あれは実に恐ろしいことだった、――きっと何か不幸が起こったに違いない。それだのにわたしは何もきかなかった、なんにもつき留めないで来た! わたしは自分のことばかり考えていたのだ! あのひとはどうしたのだろう? あなた、いったいあのひとがどうしたのか知りませんか?」と彼はソフィヤに縋るようにしてたずねた。
 それから、彼は、『自分の心はけっして変わらない』、必ずあのひと[#「あのひと」に傍点]のところへ帰る、と誓うのであった(それはヴァルヴァーラ夫人のことなので)。
「わたしたちは(つまりソフィヤといっしょに)毎日あのひとの玄関口へ行って、あのひとが馬車で朝の散歩に出るところを、そっと見ましょう……ああ、わたしはあのひとにいま一方の頬を打ってもらいたい。わたしはよろこんで打たれます。わたしは、comme dans votre livre(あなたの持ってる本に書いてあるように)いま一方の頬をあのひとにさし出します! 今こそわかりました。いま一方の……『頬』を向けるという意味が、今やっと合点がいきました。今まではどうしてもわからなかったのです!」
 こうして、ソフィヤの生涯で最も恐ろしい二日間の日が到来した。彼女は今でも、この二日間のことを思い出すと、胸のおののきを禁じ得ないのである。スチェパン氏の病状はしだいに険悪になって、汽船は今度こそかっきり午後二時に入港したものの、彼はそれで出発することができなかった。ソフィヤも彼ひとり見残して行く気力がなかったので、やはりスパーソフ行きを延ばすことにした。彼女の話によると、スチェパン氏は汽船が出てしまったと聞くと、ひどく喜んだとのことである。
「いや、ありがたい、いや、けっこうだ」と彼は寝床の中からいった。「わたしは、スパーソフヘ行かなきゃならないかと、心配でたまらなかったのですよ。ここは実にいい、ここはどこよりも一番いい……あなたはわたしをおいて行きゃしないでしょう? ああ、行かないでいてくれたんですね!」
 しかし、『ここ』はけっしてそんなに好くはなかった。彼はいささかも女の苦労を察しようとしなかった。彼の頭はいろんな空想ばかりで一ぱいになっていた。彼は自分の病気を何か一時的な、ささいなことのように思って、そんなことはてんで気にかけなかった。ただ二人で『あの本』を売りに行くことばかり考えていた。彼はソフィヤに、少し福音書を読んでくれと頼んだ。
「わたしはもう前から読んだことがない……原本でね。だから、だれかにきかれたら、間違ったことをいうかもしれない。なんといっても、やはり準備しておかなきゃなりませんよ」
 彼女は彼の傍へ腰を下ろして、書物をひろげた。
「あなたは読み方がうまいですね」一行も読み終わらないうちから、彼は口をいれた。「わたしにはわかる、ちゃんとわかる。わたしの眼鏡ちがいじゃなかった!」曖昧な、けれども、勝ち誇ったような調子で、彼はこうつけ足した。