ドストエーフスキー全集(1969年―1970年、河出書房新社版) 目次(書簡などを収録した17巻―23巻は記載していない)

ドストエーフスキイ全集』全20巻(1969年―1971年、筑摩書房米川正夫による翻訳) 目次
 
第1巻
貧しき人々 005
分身 133
プロハルチン氏 281
九通の手紙に盛られた小説 313
主婦 327
ポルズンコフ 401
解説 419

第2巻
スチェパンチコヴォ村とその住人 003
弱い心 225
人妻と寝台の下の夫 271
正直な泥棒 317
クリスマスと結婚式 337
白夜 347
解説 403

第3巻
虐げられし人々
第一編 005
第二編 095
第三編 182
第四篇 279
エピローグ 352
解説 381

第4巻
死の家の記録
第一部 010
第二部 163
ネートチカ・ネズヴァーノヴァ 293
解説 455

第5巻
地下生活者の手記
第一 地下の世界 005
第二 べた雪の連想から 037
初恋 115
伯父様の夢 153
いやな話 297
夏象冬記 349
鰐 415
解説 451

第6巻
罪と罰
第一編 005
第二編 085
第三編 188
第四編 272
第五編 353
第六編 431
エピローグ 529
罪と罰』創作ノート 545
解説 721
 
第7巻
白痴(上)
第一編 005
第二編 188
第三編 341
 
第8巻
白痴(下)
第四編 005
『白痴』創作ノート 167
賭博者 319
解説 469
 
第9巻
悪霊(上)
第一編 007
第二編 201
スタヴローギンの告白 443
 
第10巻
悪霊(下)
第一編 005
『悪霊』創作ノート 219
永遠の夫 327
解説 438
 
第11巻
未成年
第一編 005
第二編 210
第三編 367
『未成年』創作ノート 597
偉大なる罪人の生涯 623
解説 639
 
第12巻
カラマーゾフの兄弟(上)
著者より 007
第一編 ある家族の歴史 009
第二編 ある家族の歴史 009
第三編 淫蕩なる人々 105
第四編 破裂 188
第五編 Pro et Contra 250
第六編 ロシヤの僧侶 334
第七編 アリョーシャ 386
第八編 ミーチャ 430
 
第13巻
カラマーゾフの兄弟(下)
第九編 予審 005
第十編 少年の群れ 082
第十一編 兄イヴァン 139
第十二編 謝れる裁判 251
第十三編 エピローグ 361
カラマーゾフの兄弟』創作ノート 387
解説 517

第14巻
作家の日記(上)
一八七三年 005
一八七六年
一月 169
二月 211
三月 251
四月 285
五月 321
六月 349
七月・八月 377
九月 434
十月 466
十一月 おとなしい女――空想的な物語―― 497
十二月 538
 
第15巻
作家の日記(下)
一八七七年
一月 005
二月 038
三月 071
四月 106
おかしな人間の夢――空想的な物語―― 117
五月・六月 138
七月・八月 197
九月 260
十月 293
十一月 326
十二月 361
一八八〇
八月 405
一八八一年
一月 461
解説 505
総目次 521
 
第19巻
論文・記録(上)
第一部
ロシヤ文学について 006
アポロン・グリゴリエフについて 155
シチェドリン氏、一名ニヒリストの分裂 160
政治論 181
上小景 257
ペテルブルグ年代記 276
『ズボスカール』 304
ペテルブルグの夢 310
誠心誠意の見本 332
『口笛』と『ロシヤ報知』 350
『ヴレーミャ』編集部へあてたヴァシーリエフスキイ島住人の手紙に対する注 365
『ロシヤ報知』への答え 367
文学的ヒステリー 392
『ロシヤ報知』の哀歌的感想について 401

第20巻
論文・記録(下)
第一部
理論家の二つの陣営 010
スラヴ派、モンテネグロ、西欧派。ごく最近の論戦 030
尻くすぐったい問題 036
さまざまなパン的・非パン的問題に関する必要な文学的釈明 060
新しい文学機関と新しい理論について 071
誌上短評 085
再び『若いペン』 099
ミハイル・ドストエーフスキイについて数言 116
必要かくべからざる声明 120
片をつけるために 123
実生活と文学における地口 128
三月二十八日宗教教育同好者協会の会合 140
I・F・ニーリスキイへの回答 143
ニール神父の事件 145
編集者の感想二つ 152
生活の流れから 160
編集者の感想 161
編集局から 164
詩 166
第二部
土地主義宣言 170
文集『四月一日』の序 199
名誉心の夢にふけるのはいかに危険であるか 203
ジャック・カザノヴァの終章 ヴェニスのプロンプ脱走奇譚 222
エドガー・ポーの三つの短編 223
ラスネル事件 225
ストラーホフの『シルレルについて』への付記 226
ノートル・ダム・ド・パリ 227
希望 229
一八六〇―一八六一年度の美術アカデミー展覧会 230
N・V・ウスペンスキイの短編 250
第三部
シベリヤ・ノート 262
手帖より 273
L・ミリューコヴァのアルバムに 301
O・コズローヴァのアルバムに(下書) 303
O・コズローヴァのアルバムに 304
兵学校将校課長ガルトング大尉への報告(一) 305
兵学校将校課長ガルトング大尉への報告(二) 305
シベリヤ常備軍第七大隊ベレホフ中佐への報告 306
証明書 307
声明 308
契約書の項目 309
A・N・マイコフへの委任状 311
領収書 312
出版管理局への請願(一) 313
ペテルブルグ検閲委員会への弁明書 314
誓約書 315
出版管理局への請願(二) 315
契約書 316
出版管理局への請願(三) 317
出版管理局への請願(四) 318
ハリコフ報知編集局への申し込み 318
出版管理局への請願(五) 319
出版管理局への請願(六) 319
退職少尉フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエーフスキイの請願覚え書 320
出版管理局への請願(七) 321
皇帝アレクサンドル二世に対する『スラヴ慈善協会』の上奏文 321
解説 325
補遺
『作家の日記』補遺 349
『作家の日記』総目次補遺 357
『書簡』補遺 359
『書簡』総目次補遺 381
『論文・記録』補遺
ペテルブルグ年代記 384
F・G・ザグリャーエヴァのアルバムに 391
領収書 392
『補遺』あとがき 393

『ドストエーフスキイ全集10 悪霊 下』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP193-217

 全体として、彼はしじゅう勝ち誇ったような状態になっていた。彼女は山上の垂訓を通読した。
「Assez, assez, mon enfant(たくさんだ、たくさんだ、わが子よ)たくさんです……いったいあなたはこれだけ[#「これだけ」に傍点]でも不十分だと思うんですか?」
 彼はがっかりと、力抜けがしたように目を閉じた。非常に衰弱していたが、まだ意識を失うにはいたらなかった。ソフィヤは、彼が寝入ったものと思って、そっと立ちあがろうとしたが、彼はいきなり呼び止めた。
「|わが《マ》友《アミ》よ、わたしは一生涯うそばかりついていた、――本当をいってる時でさえ、そうなんだ。わたしは今まで一度も、真理のためにものをいったことがない、いつも自分のためばかりです。わたしはいつでもそれを承知していた。しかし、本当にそれを感じたのは、今がはじめてです……おお、わたしが一生のあいだ、自分の友情をもって侮辱した親友たちは、今、どこにいることだろう? みんなそうだ、だれもかれもそうなのだ! |でもねえ《サヴェーヴー》、わたしは今でも嘘をついてるかもしれませんよ。いや、きっと今も嘘をついてるに相違ない。何よりいけないのは、嘘をつきながら、自分からさきに立って、それを本当にすることです。人生で何よりもむずかしいのは、嘘をつかないで生きることだ……ことに、自分自身の嘘を本当にしないことだ。ええ、ええ、まったくそのとおり。が、まあ待ってください、それは後にしましょう……わたしたちはいっしょにいましょう、ね、いっしょにいましょうね!」と彼はうちょうてんになっていい足した。
「スチェパン様」とソフィヤはおずおずたずねた。「町へお医者さまを呼びにやったらどうでしょう?」
 彼は仰天してしまった。
「なんのために? Est-ce que je suis si malade? Mais rien de se'rieux.(いったいわたしはそんなに悪いんですか? なに大したことはないんです)それに、縁もない他人を呼んで、どうするのです? もし人に知れたら、――その時はどうします? いや、いや、他人なぞだれもいらない。わたしたちは二人きりでいましょう、二人きりで!」
「ところで」しばらく無言ののち、彼はまたいい出した。「も一つ何か読んで聞かしてください。でたらめに、なんでも目に入ったところを」
 ソフィヤは本を開いて、読み始めた。
「どこでも偶然あいたところを、偶然あいたところを」と彼はくり返した。
「『なんじラオデキヤの教会の使者に書きおくるべし……』」
「それはなんです? なんです? いったいどういうところです?」
「これは黙示録でございます」
「O, je m'en souviens, oui, l'Apocalypse. Lisez, lisez.(ああそうだ、思い出した、黙示録です、読んでください、読んでください)わたしはその本で、二人の未来を占ってるんですよ。だから、どんな占いが出たか知りたい。早く使者のところから読んでください。使者のところから……」
「『なんじラオデキヤの教会の使者に書きおくるべし、アーメンたるもの、忠信なるまことの証者、神の造化の初めなるもの、かくのごとくいうと、曰く、われなんじの行ないを知れり。なんじすでにぬるくして、冷ややかにも非ず熱くも非ず。われはむしろ汝が冷ややかならんか熱からんかを願う。かく熱きにも非ず冷ややかにも非ず、ただぬるきがゆえに、われなんじをわが口より吐き出《いだ》さんとす。なんじみずからわれは富みかつ豊かになり、乏しきところなしといいて、実は悩めるもの、憐むべきもの、また貧しく、めしい、裸なるを知らず』」
「それも……あなたの本にあるんですか!」枕から頭を持ち上げて両眼を輝かせながら、彼はこう叫んだ。「わたしは今までこの偉大な章を、少しも知らずにいましたよ! まったくですね、なま温《ぬる》いよりはむしろ冷たいほうがいい。単に[#「単に」に傍点]なま温いよりは、むしろ冷たいほうがいいです! ああ、わたしはそれを証明します! ただ見捨てないでください、わたしを一人きりおいて行かないでください! わたしたちはそれを証明しなきゃなりません、証明しなきゃ!」
「わたしはこのとおり、あなたを見捨ててやしないじゃありませんか、スチェパン様、それに、けっして見捨てはいたしません!」涙の目で彼を見つめながら、その手を取って握りしめると、自分の胸へ持っていった(その時は、あの方がおかわいそうでたまらなかったものですから、と彼女は後でこう語った)。
 彼の唇は引っ吊ったように慄えた。
「けれど、スチェパン様、それはそれとしても、いったいどうしたものでございましょう? だれがあなたのお知り合いかご親戚に、お知らせしなくてよろしいでしょうか?」
 しかし、彼の驚きようがあまり烈しかったので、またもやこんなことをいい出さなければよかったと、彼女は後悔したほどである。彼は戦々兢々たる面もちで、どうかだれも呼ばないように、何事も企てないようにしてくれと、祈らないばかりに頼んだ。彼女の誓いを聞いてからも、まだしつこくくり返した。
「だれも、だれも呼ばないで! わたしたちは二人きりでいましょうね、本当に二人きりで、nous partirons ensemble(二人でいっしょに出発しましょう)」
 またもう一つ都合の悪いことには、主人夫婦が同様に心配を始めて、ぶつぶついいながらソフィヤを責め出した。彼女は夫婦に払いをして、なるべく金を見せるように努めた。これが一時事態を緩和したが、しかし、亭主はスチェパン氏の『免状』を見せろといい出した。病人は傲慢な微笑を浮かべながら、自分の小さなカバンを指さした。ソフィヤはその中から彼の退職辞令か何か、そんなふうのものをさがし出した。彼は一生これで押し通してきたのである。亭主はそれでもなかなか得心しないで、『どこでもいいから、あの方を早く引き取ってもらいたい。ここは病院じゃないのだから。もし亡くなるようなことでもあったら、どんな面倒が起こらないともかぎらぬ。それこそ迷惑な話だから』というのであった。ソフィヤは亭主にも医者のことを相談してみたが、もし「町の」医者を迎えにやったら、それこそたいへんな金がかかるということなので、医者の件はいっさい断念しなければならなかった。彼女は愁然として病人のところへ帰った。スチェパン氏はしだいに衰弱するのみであった。
「今度はもう一度あの……豚のところを読んで聞かしてください」とつぜん彼はこういった。
「なんですって?」とソフィヤは恐ろしく面くらった。
「豚のところです……それはあの……|あの《セ》豚《コション》ですよ……わたしも覚えています、悪鬼が豚の中に入ってみんな溺れてしまったという話。ぜひそれを読んで聞かせてください。なんのためかってことは、後で話しますよ。わたしは一字一字おもい出したいのです。一字一字……」
 ソフィヤは福音書をよく知っていたので、すぐルカ伝の中からその場所をさがし出した。それは、この物語の題銘としてかかげた章である。わたしはもう一度ここへ引用しよう。
『ここに多くの豚のむれ山に草をはみいたりしが、彼らその豚に入らんことを許せと願いければ、これを許せり。悪鬼その人より出て、豚に入りしかば、そのむれ激しく馳せくだり、崖より湖に落ちて溺る。牧者《かうもの》どもそのありしことを見て逃げ行き、これを町また村々に告げたり。ひとびとそのありしことを見んとて、出《いで》てイエスのもとに来れば、悪鬼の離れし人|衣《きもの》を着け、たしかなる心にてイエスの足下に坐せるを見て、おそれあえり。悪鬼に憑かれたりし人の救われしさまを見たる者、このことを彼らに告げければ』
「|わが《マ》友《アミ》よ」スチェパン氏はなみなみならぬ興奮の体でいった。「|ねえ《サヴェー》、|あなた《ヴー》、この驚嘆すべき……非凡な一章は、わたしにとって一生の間、dans ce livre(この本における)つまずきの石だった……だから、わたしはもう子供の時分から、ここのところをおぼえ込んでいましたよ。ところが、今ある一つの思想が une comparaison(一つの比喩)が浮かんできました。いまわたしの頭には恐ろしくたくさんな思想が浮かんで来るのです。ねえ、これはちょうどわがロシヤの国そのままです。この病める者から出て豚に入った悪鬼どもは、何百年の間、わが偉大にして愛すべき病人、すなわち、わがロシヤの国に積もり積もったありとあらゆる疫病です、黴菌です、不潔物です。ありとあらゆる悪鬼です、悪鬼の子です! Oui, cette Russie, que j'aimais toujours(そうです、これはわたしの常に愛していたロシヤです)しかし、偉大な思想、偉大なる意志はちょうどその憑かれた男と同じように、わがロシヤをも高みから照らすに相違ない。すると、この悪鬼や悪鬼の子や、上っ皮に膿を持ったあらゆる不潔物は、すっかり外へ追い出されてしまって……豚の中へ入らしてくれと、自分のほうから願うのです。いや、ことによったら、もう入ってしまったかもしれません! それはつまりわれわれです。われわれと、そしてあの連中です。ペトルーシャもそうです、et les autres avec lui.(彼に従うほかの連中もそうです)或いはわたしなぞその親玉かもしれない。わたしたちはみんな悪鬼に憑かれて、狂い廻りながら崖から海へ飛び込んで、溺れ死んでしまうのです。それがわれわれの運命なのです。われわれはそれくらいの役にしか立たない人間ですからね。しかし、病人は癒されて、『イエスの足もとに坐る』でしょう。そして、人々は驚きの目をもって、彼を眺めるに 相違ありません…… 〔che`re, vous comprendrez apre`s.〕(親愛なるものよ、あなたも後でわかるでしょう)が、今こういう話はあまりにわたしを興奮させる…… 〔vous comprendrez apre`s …… nous comprendrons ensemble〕(あなたは後でだんだんわかってきます……わたしたちもいっしょにわかって来るでしょう)」
 彼はやがて譫言をいうようになり、ついに意識を失ってしまった。こういう状態が翌日も続いた。ソフィヤはその傍に坐って、泣くばかりであった。彼女はもうこれで三晩寝なかった。亭主たちに顔を合わすのも、なるべく避けるようにしていた。彼らがとうとう何やら方法を講じ始めたらしいのは、彼女も直感的に気づいていた。三日目になってようやく救いの手が現われた。その朝、スチェパン氏はふと正気づいて、彼女の姿が目に入ると、そのほうへ手をさし伸べた。彼女は一縷の希望をいだきながら、十字を切った。彼は窓のほうが見たいといい出した。
「Tiens, un lac.(おや、湖だ)」と彼はいった。「ああ、どうしたんだろう。わたしは今まであれに気がつかなかった……」
 この瞬間、車寄せのほうでだれかの馬車の轍《わだち》が轟いた。そして、家の中に、一通りならぬ混雑がもちあがった。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 それは二人の侍僕にダーリヤを伴れて、四人乗り、四頭だての馬車で乗りつけた、ヴァルヴァーラ夫人その人であった。奇蹟はきわめて簡単に行なわれたのである。好奇心に燃え立ったかのアニーシムは、町へ着くとすぐ翌日、ヴァルヴァーラ夫人の家へ立ち寄った。そして、召使の者をつかまえて、たった一人っきりのスチェパン氏に村で出会ったこと、百姓たちが街道を一人とぼとぼかちで行く氏の姿を見受けたこと、ソフィヤといっしょにスパーソフをさして、湖尻《ウスチエヴォ》へ出立したこと、などをしゃべった。一方、ヴァルヴァーラ夫人は恐ろしく心配して、できるだけ手をつくして、出奔した友をさがしていたところなので、召使は即座にアニーシムのことを夫人に注進した。彼の物語を聞き終わると(彼がどこの馬の骨とも知れぬソフィヤとかいう女と一つ馬車に乗って湖尻《ウスチエヴォ》へ出立したくだりは、ことにくわしく根掘り葉掘りした)、彼女はすぐさま支度を整えて、まだ足跡の消えない湖尻《ウスチエヴォ》へ自身かけつけたのである。病気などとは、まだ夢にも知らなかった。
 いかめしい命令するような夫人の声が響きわたった。それは主人夫婦さえ慄えあがるような勢いだった。夫人は、スチェパン氏がもうとうにスパーソフに着いていると思い込んでいたので、ここに車を留めたのも、ただいろいろなことを聞くだけの目的にすぎなかったのである。彼が病気してここに寝ていると聞くと、夫人は興奮のさまで家へ入った。
「さあ、あの人はどこにいるんです? ああ、お前さんがそうだね!」ちょうどこの時、奥の間の閾の上に現われたソフィヤを見つけると、夫人はいきなりこう叫んだ。「そのいけしゃあしゃあした顔つきで、お前さんだということがわかったよ。出て行け、淫乱もの! 今からこの家《うち》の中に、あの女の匂いがしても承知しないから! 追ん出しておしまい。ぐずぐずしてるとね、お前さん、一生、牢の中へぶち込んでしまうよ。しばらくこの女をほかの家へ入れて番をしておいで。あの女は前にも町の牢に入っていたが、もう一ど入れてやるのだ。それから、お前が亭主かい? お前さんに頼んでおくがね、わたしがここにいる間は、だれひとり入れても承知しないよ。わたしはスタヴローギン将軍夫人です。わたしはこの家をすっかり借り切ります。ところでね、お前さんは何もかもすっかり白状するんだよ」
 聞き馴れた夫人の声音《こわね》は、スチェパン氏を顛倒さしてしまった。彼はがたがた慄え出した。しかし、夫人は早くも仕切り板の中へ入ってきた。目をぎらぎらと光らせながら、彼女は足で椅子を引き寄せて、ぐっとその上にそり返り、ダーリヤにどなりつけた。
「しばらくあっちへ行って、亭主のところにでも坐っておいで。なんて好奇心の強い子だろう! そして、出たら、戸をしっかりと閉めておおき」
 ややしばらく夫人は無言のまま、兇猛な目つきで彼のおびえたような顔を見まもっていた。
「え、ご機嫌はいかがでございます、スチェパン様? ご遊山はいかがでございました?」烈しい皮肉が、夫人の唇をおし破って出てきた。
「|あなた《シエール》」とスチェパン氏はわれを忘れていった、「わたしはロシヤの実際生活を知りました…… 〔et je pre^cherai l'Evangile〕(わたしは福音を宣伝するつもりです……)」
「おお、なんという恥知らずの、下劣な人でしょう!」とつぜん夫人は両手を鳴らしながら、金切り声を上げた。「あなたは、わたしの顔に泥を塗っただけで足りないで、あんな女と……おお、この老いぼれた、恥知らずの淫乱男!」
「|あなた《シエール》……」
 彼はもう声が切れて、それ以上なにもいうことができなかった。ただ恐怖のあまり、目を見張りながら、じっと相手の顔を見つめるばかりであった。
「いったいあの女[#「あの女」に傍点]は何者です ?」
「C'est un ange …… 〔c'e'tait plus qu'un ange pour moi〕(あれは天使です……わたしにとっては天使以上の人でした)あのひとは一晩じゅう……ああ、どうかどならないでください、あの女を脅かさないでください、|あなた《シエール》、|あなた《シエール》……」
 ヴァルヴァーラ夫人は、ふいに椅子をがたがたいわせながら、跳びあがった。そして、「水を、水を」という夫人のおびえたような声が響きわたった。彼はすぐ正気に返ったけれど、夫人は恐怖のあまり依然わなわな慄えていた。そして、真っ青な顔をしながら、彼のひん曲ったような顔を見つめていた。このとき初めて夫人は、彼の病気が容易ならぬことを悟ったのである。
「ダーリヤ」夫人は出しぬけにダーシャにささやいた。「すぐ、お医者を迎いにやってちょうだい、ザリツフィッシュをね。さっそくエゴールイッチをやっておくれ。馬はここで雇って、町へ行ったら、もう一台馬車を引っ張って来るといい。なにがなんでも、晩までに帰って来なきゃならないんだからね」
 ダーシャは命を行なうべく飛んで行った。スチェパン氏は相変わらず、おびえたように目を見はりながら、じっと夫人を見つめていた。あおざめた唇はわなわな慄えていた。
「待ってちょうだい、スチェパン・トロフィーモヴィチ、待ってちょうだいね、いいでしょう!」夫人はまるで子供でもあやすようにいった。「ね、待ってちょうだい、今にダーリヤが戻って来たら……ああ、どうしたらいいんだろう、おかみさん、おかみさん、まあ、ちょっと、あんたでもいいから来てちょうだい、ねえ!」
 夫人はじりじりしながら、主婦のほうへ駆け出した。
「すぐ、今すぐあの女[#「あの女」に傍点]をもう一ど呼び返して。あの女を引き戻すんですよう!」
 幸いソフィヤはまだ家を出きらないで、例の袋と風呂敷包みを持って、ちょうど門を出かかっているところだった。人人は彼女を呼び返した。彼女は極度の驚愕のために、手足さえわなわな慄わしていた。ヴァルヴァーラ夫人は、鳶が雛っ子でもつかんだように彼女の手を取って、しゃにむにスチェパン氏のところへ引っ張って来た。
「さあ、このひとをあなたにお返ししますよ。ね、わたしだって、このひとを取って食やしなかったでしょう? あなたは本当に、わたしが取って食ってしまったと、考えてらしったんでしょう?」
 スチェパン氏はヴァルヴァーラ夫人の手を取って、自分の目へ押し当てると、そのままさめざめと泣き出した。病的な調子で発作でも起こったようにすすり上げながら。
「さあ、お落ちつきなさい、お落ちつきなさい。ね、いい子だから、ね、スチェパン・トロフィーモヴィチ! ああ、どうしたらいいのだろう、本当に気を落ちつけてちょうだいよう!」と、夫人はやけに叫んだ。「ああ、あなたはどこまでわたしを苦しめるんです。永久にわたしを苦しめるつもりなんですね!」
「ソフィヤさん」ようやくスチェパン氏はこうつぶやいた。「あなたお願いですから、ちょっとあっちへ行ってくれませんか、少し話があるんですから……」
 ソフィヤはすぐに大急ぎで座をはずした。
「|親愛な人《シェリー》……|親愛な人《シェリー》……」と彼は喘ぎ喘ぎいった。
「まあ、しばらく話をしないでいらっしゃい、スチェパン・トロフィーモヴィチ。少し待って。しばらくお休みなさいよ。さあ、水をあげましょう。あら、お待ちなさいというのに!」
 夫人はふたたび椅子に腰を下ろした。スチェパン氏はしっかりその手を握っていた。夫人は長いこと彼にものをいわせなかった。彼は夫人の手を唇へ押し当てて、続けさまに接吻を始めた。夫人はどこか隅のほうに目をそらしながら、じっと歯を食いしばっていた。
「Je vous aimais.(わたしはあなたを愛していた!)」という声が、ついに彼の唇を破って出た。夫人は今まで一度も彼の口から、こんな言葉が発しられたのを聞いたことがなかった。
「ふむ!」と夫人は返事の代わりに呻くような声を出した。
「Je vous aimais toute ma vie ……vingt ans!(わたしは一生涯あなたを愛していた……二十年間!)」
 夫人は依然として押し黙っていた――二分、三分。
「じゃ、どうしてダーシャと結婚する気になりました。香水なんかふりかけて……」とつぜん夫人はもの凄い声でこうささやいた。スチェパン氏はもうぼっとしてしまった。
「新しいネクタイまで締めて……」
 またもや二分ばかり沈黙がおそうた。
「シガーをおぼえてますか?」
「|あなた《シェル》」彼は恐怖のあまり、何やら口の中でいおうとした。
「シガーをあの晩、窓の傍でふかしたでしょう……月の照っている晩……あずまやで別れた後で……そら、スクヴァレーシニキイで……え、おぼえてますか、おぼえてますか?」彼の枕の両隅をつかんで、頭といっしょにゆすぶりながら、夫人は椅子から飛びあがった。「おぼえてますか、ああ、なんという内容《なかみ》のからっぽな、意気地のない、気の狭い人だろう! あなたは永久に、永久に空っぽな人なんです!」夫人はやっとのことで声を殺しながら、例の獰猛な調子でささやくのであった。やがてその手を放すと、ぐたりと椅子の上に倒れ、両手で顔をおおうた。「たくさん!」急にきっとなって、夫人は断ち切るようにいった。「二十年も過ぎてしまった。もう呼び返すわけにはいきゃしない。わたしも馬鹿なんです」
「|わたしはあなたを愛していた《ジュヴーゼーメー》」と彼はまた手を合わせた。
「まあ、なんだってあんたはわたしにのべつ|愛していた《エーメー》、|愛していた《エーメー》っていうんでしょう! たくさん!」と夫人はまたもや躍りあがった。「あんた、もし今すぐ寝てしまわなかったら、わたしはもう……あんたには休息が必要なんです。おすやみなさい[#「おすやみなさい」はママ]、今すぐおやすみなさい、目をつぶっておしまいなさいよ。ああ、どうしよう、この人は食事をしたいのかもしれない! あんた何をおあがりになるの? この人は何をあがるの? ああ、どうしよう、あの女はどこにいるんだろう? あの女はどこにいるの?」
 また一しきり混雑が始まった。けれど、スチェパン氏は弱弱しい声で、実際、自分はちょっと休んでから、その後で、〔un bouillon, un the' …… enfin il est si heureux〕(スープとお茶がほしい……要するに自分は実に幸福だ)と、つぶやくようにいった。彼は横になった。そして、本当に一寝入りしたように見えた(たぶん真似だけなのだろう)。ヴァルヴァーラ夫人はしばらくじっとしていたが、やがて爪立ちで仕切り板の外へ出た。
 夫人は亭主夫婦の部屋に陣取って、二人のものを追い出した後、ダーシャに向かって、あの女[#「あの女」に傍点]を連れて来るようにいいつけた。やがて、ものものしい訊問が始まった。
「さあ、お前、これから何もかも、すっかり詳しく話してお聞かせ。まあ、傍に坐るがいい、そう、そう。で?」
「わたくしがスチェパンさまにお目にかかったのは……」
「ちょっとお待ち、ちょっとおやめ、前もって断わっておくがね、もしお前が何か嘘をついたり、隠し立てをしたりすると、わたしは草を分けてもお前をさがし出して、きっとそれだけのことをするから。さあ、それから?」
「わたくしはスチェパンさまと……わたくしがハートヴォヘ着きますとすぐ……」ソフィヤは、はあはあ息を切らしていた。
「お待ち、ちょっとおやめ、黙っておいでというのに。何をぺちゃくちゃいい出すんだろう。まあ、第一に、お前はいったい何者だえ?」
 こちらはへどもどしながら(それでも要領よく、掻いつまんで)、例のセヴァストーポリを冒頭《まくら》にして、自分の身の上話を始めた。夫人は椅子の上に身をそらせて、いかつい目つきでじっと穴の明くほど相手の顔を見つめながら、無言のまま聞いていた。
「なんだってお前そんなにびくびくしてるの? なんだって下のほうばかり見てるの? わたしはね、わたしをまともに見つめて議論するような人間が好きなんだよ。さあ、つづけてお話し」
 彼女は二人の邂逅から聖書のこと、スチェパン氏が百姓の女房にウォートカを振る舞ったことまで、物語った。
「そうそう、どんなささいなことでも忘れないように」とヴァルヴァーラ夫人はその話し振りを賞した。ついに物語は、二人がハートヴォを立ったこと、スチェパン氏が『もうまるで病人のように』しゃべりつづけたこと、ここへ来て自分の一生をそもそもの初めから、数時間にわたって話したことに及んだ。
「その身の上話もいってごらん」
 ソフィヤは急に言葉につまって、すっかり窮してしまった。
「そのことにつきましては、何一つお話ができません」彼女はほとんど泣き出さないばかりで、こう答えた。「それに、なんにもわからなかったのでございます」
「馬鹿をおいいでない! なんだってわからないはずはないじゃないか」
「なんですか、ある一人の髪の黒い貴婦人のことを、長いあいだ話していらっしゃいました」ソフィヤは恐ろしく顔をあかくした。もっとも、ヴァルヴァーラ夫人が亜麻色の髪をしていることも、『あのブリュネット』と少しも似たところがないのにも、ちゃんと気がついたけれど……
「髪の黒い女? いったいなんのことだえ? まあ、話してごらん!」
「なんでもその貴婦人は一生、――まる二十年の間、あの方をたいへん恋していらっしったそうでございますが、自分があまり肥えているのを恥ずかしくお思いになって、あの方にうち明ける勇気がなかったとかいう……」
「馬鹿な人だ!」ヴァルヴァーラ夫人はもの思わしげな、とはいえ、きっぱりした調子で、断ち切るようにいった。
 ソフィヤはもう本当に泣いていた。
「わたくしもう何一つ、うまくお話することができません。だって、わたくしあの方のお身の上を、一生懸命に心配していましたので、それに、あの方はああいう賢い人でいらっしゃいますので、わたくしどうしても合点がまいりませんでした」
「あの人の知恵がどうこうということが、お前のような間抜けにわかってたまるものかね。お前にいい寄りはしなかったかえ」
 ソフィヤはがたがた慄え出した。
「お前に惚れ込みはしなかったかえ? 真っすぐにいっておしまい! お前にいい寄りはしなかった?」とヴァルヴァーラ夫人はどなりつけた。
「もう大方そのとおりと申して、よろしいくらいでございました」と彼女は泣き出した。「ですけれど、あの方はご病気なのでございますから、そんなことはなんの意味もないことだとぞんじました」きっと目を上げながら彼女はこうつけ足した。
「お前はなんというのだえ、名前と父称《ふしょう》は?」
「ソフィヤ・マトヴェーヴナでございます」
「なるほど、それでは教えてあげるがね、お前、ソフィヤ・マトヴェーヴナ、あの人は世界じゅうで一番やくざな、一番からっぽな人間なんだよ……ああ、どうしたらいいのだろう!……お前はわたしをやくざな女とお思いかえ?」
 こちらは目をまんまるくした。
「やくざな女だとお思いかえ? あの人の一生を台なしにした暴君だとお思いかえ?」
「まあ、あなたご自身泣いていらっしゃるのに、どうしてそんなことがございましょう!」
 ヴァルヴァーラ夫人の目には、実際、なみだが浮かんでいた。
「まあ、お坐り、お坐りってば。そうびくびくしなくってもいいよ。もう一度まともにわたしの目をごらん。なんだって真っ赤な顔をするの? ダーシャ、こっちへおいで。ちょっとこの女をごらん、お前どうお思いだえ、この女は心のきれいな人間だろう……」
 驚いたことには(たぶんソフィヤはなおさら無気味だったに相違ない)、夫人はとつぜん彼女の頬をやさしく叩いた。
「ただ惜しいことには馬鹿だよ、――年がいもない馬鹿だよ。いいよ、ご苦労さま。わたしお前の面倒を見てあげるよ。これでわかった。そんなことはみんなくだらない、馬鹿馬鹿しい話だよ。まあ、当分わたしの傍で暮らすがいい。家も借りてあげるし、食扶持も何も、みんなわたしがしてあげる……まあ、後で呼ぶから」
 ソフィヤはびっくりして、自分はさきを急ぐからといいかけた。
「お前どこも急いで行くところなんかありゃしない。お前の本はみんな買ってあげるから、お前はここに落ちついてるがいい。いいから黙っておいで、言いわけはいっさいぬきにするんです。だって、もしわたしが来なかったら、お前だってやはりあの人を捨てて行きゃしなかったろう?」
「どんなことがあっても、捨てはしなかったでしょう」ソフィヤは涙を拭いながら、静かなしっかりした声でこういった。
 医師のザルツフィッシュが連れられて来たのは、もうだいぶ夜が更けてからだった。この人はきわめて声望のある老人で、かなり経験に富んだ医師であった。最近、上官と大それた争論をした結果、勤務上の位置を失ったが、ヴァルヴァーラ夫人はその瞬間から、一生懸命に彼を『保護する』ようになった。彼は仔細に病人を診察して、いろいろ容体をたずねた後、ヴァルヴァーラ夫人に向かって、病人の状態は併発症などのために、『きわめて危険』な徴候を示しているから、『もっと症状が進む』ものと覚悟しなければならぬ由を慎重に告げた。もう二十年の間、スチェパン氏の身がらから生じたことで、何にもせよ重大だとか、非常だとかいうようなことを想像する習慣を、ぜんぜん失ってしまったヴァルヴァーラ夫人も、今は心の底まで震憾されたような気がして、顔色さえ急にあおざめた。
「もうまったく望みがないのでしょうか?」
「全然すこしも望みがないということは、あるべきはずがございません。けれども……」
 夫人は夜っぴて床に入らないで、夜の明けるのを今か今かと待ちかねた。ようやく病人が目を開けて、初めて意識を回復したとき(もっとも、彼はしだいに衰えていったが、意識はしじゅう失わなかったので)、夫人は決然たる面もちで彼のそばへ寄った。
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、どんな場合に対しても覚悟が必要ですよ。わたしは坊さんを呼びにやりました。あなたは人間の義務を果たさなけりゃなりませんよ……」
 彼の不断の主義を知っていたので、夫人は彼の拒絶を無性に気づかっていたのである。彼はびっくりしたように夫人を見つめた。
「馬鹿げたこってす、馬鹿げたこってす!」早くも彼が拒絶しようとしているのだと思って、夫人は癇高い声で叫んだ。「今は冗談なんかいってる時じゃありません。悪ふざけはもうたくさんです」
「しかし……わたしはもうそんなに悪いんでしょうか?」
 彼は考え深そうな様子で承諾した。概して、彼はいささかも死を恐れるふうがなかったとのことである。わたしは後日この話をヴァルヴァーラ夫人から聞いて、すっかり驚いてしまった。もしかしたら、彼は自分が重態だということを信じないで、やはりいつまでも、ちょっとしたつまらぬ患いのように思っていたのかもしれない。
 彼は懺悔もすれば、聖餐もよろこんで受けた。一同は、――ソフィヤや召使までが彼のところへやって来て、神秘の啓示を祝うのであった。彼のげっそり落ち込んで衰え果てた顔や、あおざめてぴくりぴくりと慄える唇を見て、人々はみんないい合わせたように、忍びやかに泣き出した。
「|ねえ《ウィ》、|皆さん《メザミ》、あなた方がそんなに……あわてていらっしゃるのが、なんだか不思議に思われますよ。もしかしたら、明日にも床上げして、みんなで……出発するかもしれないんですよ…… 〔toute cette ce're'monie〕(こういう儀式はみんな)……いや、もちろん、わたしもこういうものに対して、相当の敬意を払ってはいます……しかし……」
「長老さま、お願いでございますから、どうか病人の傍にいてやってくださいまし」もう法衣《ころも》を脱いでしまった僧侶を、ヴァルヴァーラ夫人は急いで押し止めた。「皆にお茶が廻りましたら、すぐ信仰のお話を始めてくださいまし。それはあの人の信仰を繋ぐのに、ぜひ必要なのですから」
 僧侶は説教を始めた。人々は病人のベッドのまわりに、或いは坐り、或いは立っていた。
「今の罪深い時世におきましては」と僧侶は茶碗を手にしたまま、滑らかな調子で語り出した。「全能のおん神に対する信仰のみが、正しきものに約束せられた永遠の幸福の希望の中にあっても、またこの生のありとあらゆる悲しみと試練の中にあっても、人間にとって唯一の避難所なのでございます……」
 スチェパン氏はとみに生き返ったようであった。微妙な薄笑いがその唇をすべった。
「〔Mon pe`re, je vous remercie, et vous e^tes bien bon, mais〕 ……(神父さま、ありがとうございます、あなたは実にいい人です、しかし……)」
「しかしなんて、まるでいらないことです、しかしなんていうことは、少しもありません!」思わず椅子から腰を浮かしながら、ヴァルヴァーラ夫人は叫んだ。「長老さま」と夫人は僧侶のほうへ向いた。「この人は、この人はこんな人間なんでございます……この人はいつもこうなんでございます……この人は一時間も経ったら、もう一ど懺悔をし直さなければなりません! 本当にこの人はそういう人間なのです!」
 スチェパン氏はつつましやかにほほ笑んだ。
「|皆さん《メザミ》」と彼はいい出した。「神は永久に愛し得る唯一の存在だというだけの理由でも、わたしにとってなくてかなわぬものです……」
 はたして彼は本当に信仰を得たのか、または荘厳な神秘啓示の儀式が、彼の芸術家的感受性を震憾し刺戟したのか、その辺の消息はわからないが、とにかく彼はしっかりした調子で、非常な感動を籠めながら、以前の主張とまったく相反する言葉を発したのである。
「神は不正をなすことを欲しない、一どわたしの胸に燃え立った神に対する愛を、ぜんぜん消してしまうようなことを欲しない。すでにそれだけの理由でも、わたしの不死は必要なのです。ああ、はたして愛より優れたものがあるでしょうか? 愛は生存より優れたものです、愛は生存の栄冠です。してみれば、生存が愛の前に跪伏しない、というようなことがあり得るでしょうか? もしわたしが神を愛し、かつ自分の愛によろこびを感じたら、神がわたしという人間も、またわたしの愛も消滅さして、無に帰せしめるというようなことが、あり得るでしょうか? もし神があるなら、わたしはすでに不死なのです! 〔Voila` ma profession de foi〕(これがわたしの信仰宣言です)」
「神はありますよ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、わたしが請け合っておきます、本当にあるんですよ」とヴァルヴァーラ夫人は祈らんばかりだった。「せめて一生に一度ぐらい、あんな馬鹿馬鹿しい考えを棄てておしまいなさい、否定しておしまいなさい!」(夫人は彼の信仰宣言《プロフェッシオンドフォア》が充分にわからなかったらしい)。
「あなた」と彼はしだいに活気づいてきた、もっとも、声は始終とぎれがちであったが。「あなた、わたしはあの左の頬を向けよという意味を悟った時、わたしは……すぐにまたほかのあるものを悟りました。J'ai menti toute ma vie(わたしは一生嘘をついてきた)まる一生涯の間! しかし、わたしはできることなら……明日……明日はみんなで出発しましょう」
 ヴァルヴァーラ夫人は泣き出した。彼はだれやらさがすような目つきをした。
「ああ、ここにいます。あのひとはここにいますよ!」と夫人はソフィヤの手を取って、彼の傍へ引っ張って来た。彼は感に迫ったようにほほ笑んだ。
「ああ、わたしはできることなら、もう一ど生活がしてみたい」と、彼は異常な精力の潮来を感じながら叫んだ。「この世における一分一秒といえども、すべて人間にとって法悦でなくてはならぬ……そうです、ぜひそうなくてはならないのです! そういうふうにするのが、人間の義務です。それは法則です。隠れてはいるけれど、厳として存在している法則です……おお、わたしは、ペトルーシャや……ほかの仲間の連中が見たい……そしてシャートフも!」
 ついでに断わっておくが、シャートフのことはダーリヤもヴァルヴァーラ夫人も、一番あとから町を出たザルツフィッシュさえ、まだ少しも知らないでいたのである。
 スチェパン氏はしだいに病的になり、彼の力に堪えられないほど興奮してきた。
「どこかこの宇宙に、自分よりも遙かに正しく、かつ幸福な何ものかが存在しているということを絶えず考えてみるだけでも、わたしの心は限りなき歓喜と、――そして光栄にみたされる。ああ、わたしがどんな人間であろうと、わたしがどんなことをしようと、そんなことはもう問題じゃない! 人間は自分一個の幸福よりも、どこかに完成された静かな幸福が万人万物のために存在する、とこう自覚するほうが遙かに必要なのです……人類存在の法則は、ことごとく一点に集中されています。ほかでもない、人間にとっては、常に何か無限に偉大なものの前にひざまずくことが必要なのです。人間から無限に偉大なものを奪ったなら、彼らは生きてゆくことができないで、絶望の中に死んでしまうに相違ない。無限にして永久なるものは、人間にとって、彼らが現に棲息しているこの微小な一個の遊星と同様に、必要かくべからざるものなのです……|皆さん《メザミ》、偉大なる思想の万歳を唱えようじゃありませんか! 永久にして無限な思想! どんな人間でも、人はすべて偉大な思想の表われにひざまずくことが必要なのです。きわめて愚昧な人間でさえ、何か偉大なものを必要とします。ペトルーシャ……ああ、わたしはあの連中にもう一ど会ってみたい。彼らは自分たちの中にもやはりこの永遠の、偉大な思想が蔵されていることを知らないのだ、ぜんぜん知らないのだ!」
 医師のザルツフィッシュは、儀式の席にいあわさなかったが、とつぜん外から入って来ると、思わず慄然とした。そして、病人を興奮させてはいけないといって、一座のものを追い散らしてしまった。
 スチェパン氏はそれから三日たって暝目したが、その時はもうすっかり意識を失っていた。彼は燃え尽きた蝋燭のように、静かに消えて行った。ヴァルヴァーラ夫人はその場で葬送の式をすますと、不幸なる友の亡骸《なきがら》をスクヴァレーシニキイヘ伴って帰った。墓は教会の墓地に設けられて、大理石の板でおおわれた。碑銘と格子とは、春まで延期することになった。
 ヴァルヴァーラ夫人が町を離れていたのは、八日間であった。夫人といっしょに馬車を並べて、ソフィヤも町へやって来た。おそらく永久に、夫人のもとへ落ちつくことになるのだろう。ただちょっと断わっておくが、スチェパン氏が意識を失うと同時に(それはあの朝の出来事だった)、ヴァルヴァーラ夫人はすぐにまたソフィヤを遠ざけて、今度はまるきり家の外へ追い出してしまった。そして、最後までひとりで病人の看護をしたが、スチェパン氏が息を引き取ると同時に、さっそく彼女を呼び寄せたのである。永久にスクヴァレーシニキイヘ越して来いという勧め(というよりむしろ命令)を聞いて、彼女は恐ろしくびっくりして、言葉を返そうとしたが、夫人はそんなことに耳をかそうともしなかった。
「何もかも馬鹿げている! わたしは自分でお前さんといっしょに、聖書でも売って歩くつもりだ。もう今となっては、わたしは、この世にだれひとり身寄りのものがないんだからね」
「けれど、あなたにはご子息がおありになるじゃありませんか」とザルツフィッシュが口を出した。
「わたしには息子もありません!」とヴァルヴァーラ夫人は断ち切るようにいった、――しかも、これが予言になったかのようであった。

[#3字下げ]第8章 終末[#「第8章 終末」は中見出し]

 こうしたすべての乱脈と犯罪とは、異常な速度をもって、――ピョートルが予想したよりも遙かに迅速に暴露されたのである。まずことの始まりは、かの不幸なるマリイが、夫の殺害された夜《よる》、明け方ちかく目をさまして手を延ばしてみたものの、傍に夫のいないのに気がつくと、いても立ってもいられないように騒ぎ出したというしだいであった。そのとき彼女のそばには、アリーナの雇った手伝い女が泊っていたが、どんなにしても産婦の気を静めることができないので、夜の明けるのを待ちかねて、アリーナのところへ駆けつけた。産婦には、アリーナが夫の居所も知っていれば、その帰宅の刻限も承知している、というふうに納得さしたのである。一方、アリーナも、その時ある程度まで不安を感じていた。彼女はもはや夫の口から、その夜スクヴァレーシニキイで行なわれた出来事を聞いていたのである。彼はその夜、十時過ぎに家へ帰って来たが、心身ともに恐ろしい状態に陥っていた。彼はわれとわが手を捻じ曲げながら、ベッドの上へ突っ伏しに身を投げて、引っ吊るような啜り泣きに、全身を慄わせ慄わせ、ひっきりなしにくり返すのであった。
「それは違う、それは違う、まるっきり違う!」
 もちろんとどのつまり、あくまでつきまとって離れない妻アリーナに、何もかもすっかりうち明けてしまった、――もっとも、それは家じゅうで彼女ひとりだった。彼女はいとおごそかに夫に向かって、『もし、めそつきたいのなら、人に聞かれないように、枕に顔を埋めて泣きなさい。あす何か妙なそぶりなんか見せたら、それこそあんたは本当に馬鹿ですよ』と諭した後、夫を床に就かせて出て行った。彼女はそれでもちょっと考え込んだが、やがてすぐ万一の用心に、片づけを始めた。余計な書類や、本や、檄文のようなものまで、すっかり隠すか焼くかしてしまった。こんなことをした後で、自分にしろ、姉にしろ、叔母にしろ、また義妹《いもうと》の女学生にしろ、進んでは耳の長い兄のシガリョフにしろ、何も大して恐れるには当たらない、と考えついた。翌朝、手伝い女が迎えに駆けつけたとき、彼女は躊躇することなしに、マリイのところへ出かけた。実は、ゆうべ夫がまるで譫言《うわごと》のような、もの狂おしい、おびえあがった調子でささやいて聞かせたピョートルの目算、――一同を保証するためにキリーロフを利用しようという目算が、本当かどうかを、一刻も早く突きとめたかったのである。
 けれど、彼女がマリイのところへ来たときは、もう遅かった。マリイは手伝い女を使いに出して、一人きりになると、このうえ我慢ができなくなって床から起きあがり、手当たりまかせの着物を引っかけて(それは季節に不似合いな、恐ろしく薄いものらしかった)、離れにいるキリーロフのところへ出かけた。多分この人なら、だれよりも一ばん正確に夫のことを知らせてくれるだろう、と考えたに相違ない。しかし、離れで目撃した光景が産婦にどういう影響を与えたかは、想像するに難くない。ここに注意すべきは、テーブルの上の目に立つ場所に置いてあったキリーロフの書置きを、彼女が読まなかったということである。もちろん、驚愕のあまり頭から見落としてしまったのだ。彼女は自分の部屋へ駆け戻ると、赤ん坊を引っかかえて、そのまま往来へ駆け出した。それは湿っぽい朝で、霧が立ちこめていた。このさびしい通りには、行き逢う往来の人とてもなかった。彼女は、冷たいぐじゃぐじゃしたぬかるみの中を、息を切らしながらひた走りに走った。やがて、彼女はよその戸をどんどん叩き始めた。一軒の家では、まるで開けようとしなかったし、いま一軒の家では開けるのに長いこと手間取った。彼女は待ち切れなくなって、それをうっちゃって、今度は三軒目の家を叩き始めた。それはチートフという商人の家だった。ここで彼女は恐ろしい混乱を惹き起こした。癇高い叫び声を上げながら、前後の連絡もなく、『夫が殺された』とくり返すのであった。チートフのところでも、シャートフとその経歴はいくらか承知していた。当人の言葉によってみると、産をしてからやっと一昼夜にしかならないのに、ろくろく着物も着せてない赤ん坊を抱いて、こんな寒さの中をこんななりで、町なかを駆け廻っているという事実は、人々をぞっとさせた。初めのうちは、熱に浮かされているのではないかと思った。しかも、いったいだれが殺されたのか、――キリーロフかシャートフか? この点がどうしても判然としないので、なおさら夢のように感じられた。
 人が自分の言葉を信じてくれないのに気づいて、彼女はまたもやさきへ駆け出そうとしたが、人々は無理やりに引き留めた。噂によると、このとき彼女は恐ろしい声で叫び、もがいたとのことである。人々はフィリッポフの持ち家へおもむいた。やがて二時間の後、キリーロフの自殺とその遺書とは、町じゅうに知れわたった。警官は、その時まだ正気でいた産婦の取調べにかかった。この際、彼女がキリーロフの遺書を読んでいないとわかったので、どうして夫が殺されたと決めてしまったのか、どうしても突きとめることができなかった。彼女はただこんなことを叫ぶのみであった。『あの人が殺された以上、うちの人も殺されたに相違ありません。二人はいつもいっしょにいたのです!』昼ごろ彼女は前後不覚に陥った。そして、ついに正気に復することなしに、三日ばかり経って死んでしまった。風邪を引き込んだ赤ん坊は、それよりさきに亡くなったのである。
 アリーナは、マリイも赤ん坊も部屋にいないのを見て、形勢面白からずと察して、わが家へ逃げて帰ろうとしたが、門口のところで立ちどまり、手伝いの女に向かって、『離れへ行って、旦那様にきいてごらん、マリヤさんはそちらにいらっしゃいませんか、そして、あの方のことを何かごぞんじありませんかって』といいつけた。やがて、手伝いの女は往来一ぱいに響くような、狂暴な声を立てながら帰って来た。アリーナは『疑いがかかるから』という便利な論法で、大きな声をしないように、だれにも知らさないように手伝いの女にいい含め、そのまま門外へすべり出てしまった。
 彼女がその朝さっそくマリイの産婆として、警察から呼び出されたのは、もちろんである。けれど、あまり多く引き出すことはできなかった。彼女は、シャートフのところで見聞きしたことを、落ちつき払った事務的な調子で、細大もらさず物語ったが、事件そのものについては、何も知らない、何もわからない、といい張った。
 市中に持ちあがった騒ぎは、想像するに困難でない。また新しい『事件』がもちあがったのだ、またしても人殺しが行なわれたのだ! しかし、今度はもはやまったく事情が違ってきた。つまり、暗殺者や放火者や、そういう革命党の謀反人の秘密結社が存在している、ということが明らかになったのである。恐ろしいリーザの最期、スタヴローギンの妻の殺害、当のスタヴローギン、放火、婦人家庭教師救済の舞踏会、ユリヤ夫人を中心とする放縦な一団、そればかりでなく、スチェパン氏の行方不明という事件の中にも、必ず何かの謎が隠されているに違いない、こう信じていた。ニコライ・スタヴローギンのことも人々はしきりにひそひそ噂した。その日の暮れ方になって、ピョートルの出発が市中へ知れわたったけれど、不思議にも彼のことはあまり噂にのぼらなかった。その日、何よりも人々の話題に上ったのは、『元老院議員』のことだった。フィリッポフの持ち家の前には、ほとんど朝じゅう人が黒山のように集まっていた。
 実際、警察はキリーロフの遺書のために、迷宮へ導かれてしまったのである。すべての人は、キリーロフのシャートフ殺害をも、『下手人』の自殺をも、信じ切っていた。もっとも、警察はとほうにくれたといい条、ぜんぜん手も足も出ないほどではなかった。たとえば、キリーロフの遺書に漠然と挿入されている『公園』という言葉は、ピョートルの期待したほど、その筋の人を迷わせはしなかった。警察はすぐスクヴァレーシニキイヘ飛んでいった。単にそこに公園があって、ほかには市中のどこにもないという理由のみでなく、ある一種の直感に導かれたのである。最近この町で起こったさまざまな戦慄すべき出来事は、直接間接スクヴァレーシニキイに関係しているからであった。少なくも、わたしはこう想像している(断わっておくが、ヴァルヴァーラ夫人は朝早くなんにも知らないで、スチェパン氏を取り抑えに出かけたので)。
 死体はその日の夕方、ちょっとした証跡を頼りに池の中から発見された。それは下手人どもがうっかり置き忘れたシャートフの帽子が、犯罪の場所で見つけられたのである。死屍を一見した印象といい、検屍の結果といい、二、三の推論の示すところといい、どうしてもキリーロフには共犯者があったに相違ない、という疑いがまず第一に生じた。続いて檄文に関係のある、シャートフ、キリーロフの加わっている秘密結社の存在も、同じく明らかとなった。が、その会員はどういう連中なのか? 『仲間』のことなど、その日はまだ夢にも考えるものがなかった。ただキリーロフが世捨て人のような暮らしをしていたので、遺書にも書いてあるとおり、あれほど手を尽くして捜索したフェージカが、幾日もいっしょにいたにもかかわらず、いっこうに知れなかったということは、警察のほうへもわかったのである。しかし、この混沌たる事件の中から、何ひとつ一般的な、連絡を明らかにするような事実をつかみ出すことができないので、それが何よりも一同を悩ました。もしリャームシンのおかげで、翌日とつぜんいっさいが暴露されなかったら、ほとんど恐慌状態に陥るほど威嚇された町の人々が、どんな途方もない結論に到達するか、まるで想像もつかなかったに相違ない。
 リャームシンは、ついに持ちこたえることができなかった。そして、最近ピョートルでさえ心配し始めたことが、事実となって彼の身に現われたのである。初めトルカチェンコに、続いてエルケリに監督されることとなった彼は、翌日いちんち床の中にふせっていた。見受けたところ至極おとなしく、壁のほうへ顔をそむけたまま、ほかから話しかけられても返事もせず、ほとんど一こともものをいわない。こういうわけで、彼は市中に起こったことを、終日少しも知らないで過ごした。ところが、いっさいの出来事を嗅ぎつけたトルカチェンコは、夕方になって、ピョートルから授けられたリャームシン監視の任をおっぽり出し、町から郡部へ去ろうという気を起こした。つまり、なんのことはない、逃げ出したのである。エルケリが、みんな血迷ってしまったと予言したのは、実際だったのである。ついでにいっておくが、リプーチンもその日まだ昼まえに、同じく町から姿を消した。けれど、このほうはどういうものか、やっと翌日の夕方になって、主人の家出にびっくりして恐怖のあまり固く沈黙を守っている家族の訊問にかかったとき、初めて警察のほうへ知れたのである。
 が、リャームシンのほうを続けよう。彼は一人きりになるやいなや(エルケリはトルカチェンコを当てにして、一足さきに家へ帰ったので)、すぐに家を飛び出してしまった。そして、もちろん、幾らもたたぬうちに事件の成行きを知ったのである。彼は家へも寄らないで、そのまま足の向いたほうへ駆け出した。が、あたりはまったく真の闇で、しかも彼の計画はあまりにも恐ろしく、困難なことだったので、彼は街を二つか三つ通り抜けると、すごすごわが家へ引っ返して、夜っぴて自分の部屋に閉じこもっていた。朝ごろまでに彼は自殺を試みたらしい。だが、成功はしなかった。しかしながら、翌日の昼ごろまで閉じこもった後、――とつぜん警察へ駆けつけたのである。人の噂によると、彼は膝を突いて床の上を這い廻ったり、泣いたり、わめいたり、床を接吻したりしながら、自分などは前に立っている高官たちの、靴を接吻する値うちもない人間だと、叫んだとのことである。人々は彼をなだめすかして、いろいろやさしくいたわった。訊問は長いこと続いた。なんでも三時間ぐらいかかったとのことである。彼はすっかり何もかも白状した。事件を底の底までうち明けて、ありとあらゆる事実を微細な点まで物語った。さきのほうへ飛んでいったり、何もかも白状してしまおうとあせって、きかれもしないのに、いらぬことまでしゃべったりした。きいてみると、彼はかなりたくさんいろんなことを知ってい、かなり巧みに事件の真相を展開して見せた。シャートフとキリーロフの悲劇、火事、レビャードキン兄妹の死などは、第二義的の位置に追いやられてしまい、ピョートル、秘密結社、革命運動の組織、五人組の網目、こういうものが前面へ現われ出たのである。いったいなんのために、あんな数え切れないほどの殺人や、醜悪卑劣を極めた事件を行なったかという問いに対して、彼は熱したせかせかした調子で、こう答えた。『それは、組織的に社会の根底を震憾さすためです。社会組織を初めとして、あらゆるものの基礎を、系統的に腐敗させるためです。すべての人の荒胆をひしいで、いっさいを混乱状態に化してしまうためです。こうして、根底を揺るがされた社会が、酸化し病的になって、廉恥心を失い信仰を奪われながら、何かしら指導的思想や自己防衛の手段を、無限の欲望をもって求めている隙に乗じて、ふいに叛旗を翻し、一挙にしてわが掌中に収めてしまうのです。この際、力となるものは、全国に網を張っている五人組です。彼らはその間に絶えず行動して、同志をふやし、すべて乗じ得る隙のある社会の弱点病所を、実際的に探求しているのです』
 結論として彼は次のようにいった。この町でピョートルは、こういうふうなシステマチックな攪乱の、ほんの最初の試みを行なったので、これがいわば、将来すべての五人組の行動のプログラムとなるべきものだ。しかし、これは彼自身、すなわちリャームシンの考えで、彼一個の想像にすぎない。『ですから、どうか、ぜひともこのことをご記憶くだすってお含みの上、わたくしがどれくらいあからさまに潔く、何もかもうち明けたかを、お察し願います。こういうわけですから、この後とても、ずいぶんおかみの役に立つかもしれないので』五人組はたくさんあるか、という真正面からの問いに対して、ほとんど数え切れぬくらいたくさんある、ロシヤ全国こうした五人組の網目でおおわれている、と答えた。彼はべつに証拠を提出しなかったけれども、徹頭徹尾、真剣に答えたものと想像する。彼が提出したのは、外国で印刷した会のプログラムと、ほんの下書きではあるけれど、ピョートルが自分の手でしたためた将来の行動計画書と、ただそれだけであった。これで見ると、リャームシンのいわゆる『社会の基礎震撼』云々は、一字一句たがわずこの紙きれの中から引いてきたのであった。読点や句点まで忘れていなかった。もっとも、彼は、みんな自分自身の想像だと主張してはいるけれど。
 ユリヤ夫人のこととなると、彼は驚くほどあわてて、聞かれもしないのにさきっ走りをしながら、『あのひとに罪はないのです、あのひとは目をくらまされてしまったのです』と述べた。しかし、ここに注意すべきは、彼がニコライ・スタヴローギンを除外してしまって、秘密結社になんの関係もない、ピョートルとなんの協定も結んでいない、と断定したことである(ピョートルがスタヴローギンに対していだいていた滑稽きわまる、命がけの希望については、リャームシンも何一つ知らなかったのである)。レビャードキン兄妹の死は、彼の言葉によると、ニコライにはなんの関係もなく、ただピョートル一人で企んだことで、ニコライを犯罪の巻添えにして、自分の自由にしようという目的だったのである。しかし、ピョートルが軽率にも深く期待していた感謝の代わりに、彼はただ非常な憤懣と絶望の情を、『高潔なニコライ』の心に呼びさましたにすぎなかった。
 スタヴローギンに関する結論も、同様、彼は聞かれもしないのに、恐ろしくせき込んで発表した。ほかでもない、スタヴローギンは非常に重要な職務を帯びた人だが、それには一種の秘密が含まれていて、この町へ逗留していたのも、いわば微行で、特別な任務を持って来たのである。或いはまた近いうちに、ペテルブルグからやって来るかもしれないが(リャームシンは、彼がいまペテルブルグにいることと信じ切っていた)、今度はまるで様子も違えば、事情も異なって、町の人が聞いたらびっくりするような人たちを、伴に連れて来るだろう。こういう話はすべて『ニコライの秘密の敵』たるピョートルから聞いたのだ、――というようなことを、リャームシンは、わざわざほのめかそうとするふうであった。
 ここでちょっと|注意書き《ノタ・ベネ》をしておくが、二か月たってリャームシンの白状したところによると、彼はスタヴローギンの保護を目あてに、わざと彼を弁護したとのことである。おそらくペテルブルグで運動して、刑二等くらい減じてくれた上、流刑の際にも金や紹介状を恵んでくれるだろうと、頼みにしていたのである。この自白によってみても、実際、かれがスタヴローギンについて、並みはずれて誇大な考えをいだいていたことが察しられる。
 もちろん、その日のうちにすぐ、ヴィルギンスキイも逮捕された。しかも、勢いにまかせて、家内じゅう拘引したのである(もっとも、今はアリーナと、その姉と、叔母と、おまけに例の女学生までが、青天白日の身となっている。噂によると、シガリョフも、刑法のどの条文にも当てはまらないため、近々放免されるに相違ないとのことである。もっとも、これは今のところ噂だけである)。ヴィルギンスキイはすぐさま何もかも肯定してしまった。彼は就縛すると発熱して、病いの床にふせってしまったが、むしろ非常に嬉しそうな様子で、『ああ、これでやっと胸が軽くなった』といったとのことである。彼については、こういう噂もある。彼はいま何ごともあからさまに申立てているが、常に一種の威厳を持して、自分の『輝かしい希望』を一つとして捨てようとしない。それと同時に、『積もり積もった事情の渦』に巻き込まれて、軽率にもうかうかと社会的手段と正反対な政治的進路に踏み込んだのを、心から呪っているとのことである。殺人遂行の際における彼の振舞いは、いくぶん彼のために有利な解釈をほどこされるらしい。で、彼もやはり自分の運命について、ある程度までの軽減を嘱望し得るわけである。少なくも、町の人はそう断言している。
 しかし、エルケリの運命にいたっては、ほとんど酌量の望みがないといっていいくらいである。この男は逮捕されたそもそもの瞬間から沈黙を守って、たまに口を開けば、できるだけ事実を曲げようとした。裁判官は今日にいたるまで、一言も彼の口から、悔悟の言葉を絞り出すことができなかった。にもかかわらず、彼は最も厳酷な裁判官にさえも、一種の同情を呼び起こさずにいなかった、――それは年の若いことや、境遇の頼りないことや、一見して政治的煽動者のファナチックな犠牲にすぎないと思われることも原因であったが、何よりも一番、母に対する孝養が知れ渡ったためである。彼は今までわずかな俸給のほとんど半ばを母に仕送っていたのである。母親は今この町にいる。彼女は弱い病身な婦人で、年の割に恐ろしく老《ふ》け込んでいる。彼女は泣きながら、息子の命乞いに、形容ではなく本当に、人々の足もとへ身を投げ出しているのであった。どうなるにせよ、町でも多くの人はエルケリを憐んでいる。
 リプーチンはペテルブルグで、二週間も滞在しているうちに捕縛された。彼は説明するのもむずかしいくらい奇妙なことを仕出かしたのである。人の話によると、彼は他人名義の旅券を持っていたので、うまく外国へすべり抜けることもできたはずなのである。おまけに、かなりまとまった金も身につけていた。それだのに、彼はペテルブルグでぐずぐずして、どこへも出かけなかった。しばらくスタヴローギンとピョートルをさがしていたが、とつぜん飲酒に耽り出した。そして、まるで常識を失ってしまって、自分の境遇に対する理解をなくした人のように、とてつもない耽溺を始めたのである。彼はペテルブルグのとある妓楼で、酔っぱらっているところを捕縛された。噂によると、今でも彼は少しも意気沮喪しないで、申立ての際にもとかく嘘をつきたがり、目前に控えている公判に対しても相当の希望(?)をいだきながら、堂々とその日を迎えようと意気込んでいるとのことである。法廷で一しゃべりするつもりでさえいるのだ。
 トルカチェンコは逃亡後、十日ばかり経って、どこか郡部のほうで逮捕されたが、その振舞いは比較にならぬほど慇懃で、嘘もつかなければごまかしもせず、知っているかぎりのことを残らず白状して、あえて弁解がましいことをいわず、おとなしく罪に服しているが、しかし、同様に駄弁を弄したがる傾向がある。彼は自分から進んで、いろいろなことを話すばかりでなく、談ひとたび民衆とその革命的(?)分子に関する知識に及ぶや、たちまち妙なポーズを取って、聴き手を感嘆させようとあせるのであった。聞き及ぶところでは、彼もやはり法廷で何かしゃべるつもりだそうである。総じて、彼とリプーチンとは、あまりびくびくしている様子がない。それはむしろ不思議なくらいだった。
 くり返していうが、この事件は全部かたがついたわけではない。もう三か月も経った今となっては、この町の社会も一息ついて身づくろいした形で、だいぶ余裕ができてきたので、自分自身の意見も持つようになった。はなはだしきにいたっては、当のピョートルを目して、天才呼ばわりするものさえある、少なくも、『天才的な能力を持った男』と評している。『あの組織はどうです!』とクラブなどで指を上のほうへ向けながら、こんなことをいい合っている。もっとも、そんなことはごく罪のない話で、しかも少数の人しか口にしない。多数の者は、彼の鋭い才能を否定しないけれど、現実に対する恐るべき無知、恐るべき抽象癖、一方に偏した不具的な鈍い発達のために、非常な軽佻に陥ったものと評している。彼の精神的方面では、衆説がことごとく一致している。そこにはもはや議論の要がない。
 さて、万《ばん》遺漏なきを期するためには、このうえだれのことをいったらいいのか、わたしにはまったくわからない。マヴリーキイはどこかへ行ってしまった。ドロズドヴァ老婦人は、すっかり赤ん坊のようになってしまった……ところで、もう一つ思い切り陰惨な出来事が語り残されているが、ただ事実を伝えるだけに止めておこう。
 ヴァルヴァーラ夫人は旅行から帰ると、町のほうへ落ちついた。と、留守のうちに積もり積もったさまざまな報知が、一時に夫人をおそうて、烈しくその全幅を震撼した。彼女は一人で居間に閉じこもってしまった。それはもう夜のことだったので、人々は疲れて、早く床に就いた。
 翌朝、小間使がさも秘密らしい様子をしながら、ダーリヤに一通の手紙を渡した。彼女の言葉によると、この手紙はもう前日とどいていたのだが、夜おそくみんな休んだ後のことだったので、彼女は遠慮して起こさなかったとのことである。それは郵便ではなくて、一人の見知らぬ男が、スクヴァレーシニキイなるエゴールイチのところへ持って来たので、エゴールイチは昨晩、すぐさま自分でやって来て小間使へ手渡しすると、そのまますぐにスクヴァレーシニキイヘ帰って行った、ということである。
 ダーリヤは胸をときめかしながら、長い間その手紙を見つめていた。思い切って封が切れなかったのである。彼女は、だれから来たものか、よく承知していた。それはニコライの手紙だった。彼女は封筒の名宛を読んだ。『アレクセイ・エゴールイチヘ、秘密にダーリヤ・パーヴロヴナにお手渡しありたし』
 この手紙は、立派にヨーロッパふうの教育を受けながら、ロシヤ語の読み書きを十分に習得しなかった、ロシヤ貴族の子弟の文体に特有の誤謬を、些細の点までも朱を入れないで、そのまま一字一句たがわず再録したものである。

[#ここから1字下げ]
『愛するダーリヤ・パーヴロヴナ。
『あなたはかつて私の「看護婦」を志望された。そして、必要の際には迎えをよこすようにと、言質を取ったことがある。わたしは二日後に出発する。もうここへ帰らない。わたしといっしょに行きませんか?
『去年、わたしはゲルツェンと同様に、スイス、ウリイ州の市民に帰化しておいた。それを知るものはだれもない。そこでわたしはすでに小さな家を買った。わたしにはまだ一万二千ルーブリの金がある。わたしといっしょに出かけて、そこで一生暮らそうではありませんか。わたしはもうけっしてどこへも出ようとは思わない。
『それは非常に淋しい場所だ。山の峡《はざま》なのだ。山が視野と思想をはばんでいる。恐ろしく陰気なところだ。それは小さな家が売り物に出たからだ。もしあなたの気に入らなかったら、わたしはそれを売って、また別な場所に別なのを買ってもいい。
『わたしは健康を害している。しかし、幻覚症は向こうの空気で癒るだろうと思う。それは肉体のほうだが、精神のほうはあなたもすっかり知っている。ただし、全部ではないかもしれない。
『わたしは自分の生涯について、ずいぶんいろいろとあなたに話して聞かせた。しかし、全部ではない。あなたにさえも全部は話さなかったのだ! ついでにいっておくが、わたしは妻の死について良心上の責任があるのだ。わたしはあの後あなたに会わないから、それでちょっと確かめておく。リザヴェータ・ニコラエヴナに対しても罪がある。しかし、このほうはあなた自身よくご承知だ。あなたはほとんどすっかり予言したのです。
『あなたはやって来ないほうがいいでしょう。わたしがあなたを呼ぶということは、恐ろしい卑劣な行為なのだ。それに、あなたはわたしなどといっしょに自分の一生を葬る必要は少しもないのです。わたしはあなたが懐かしい。気のふさぐ時、あなたの傍にいると楽だった。あなたにだけは自分のことを口に出していうことができた。しかし、そんなことはなんの理由にもならない。あなたは自分を「看護婦」に決めてしまった(これはあなたのいったことなんです)。いったいなんのためにそんな莫大な犠牲を払うのです? またこういうことも合点していただきたい、――わたしはあなたを招く以上、あなたを憐んでいないのだ。またあなたの承諾を期待する以上、あなたを尊敬していないわけだ。にもかかわらず、わたしは招きかつ期待する。いずれにもせよ、あなたの返事だけはぜひ必要だ、なぜといって、非常に出発を急ぐから。そういうふうになれば、わたしは一人で出発する。
『わたしはウリイの生活から何一つ当てにしていない。ただ行ってみるのだ。わたしは何もわざと陰気くさい場所を選んだわけではない。ロシヤではわたしは何ものにも束縛されていない。ほかのすべての場所と同じく、あらゆるものがわたしにとっては無縁なのだ、もっとも、ロシヤで暮らすのは、ほかのどこよりも一番きらいだったけれど。しかし、そのロシヤにおいてすら、わたしは何ものをも憎むことができなかった!
『わたしはいたるところで自分の力をためした。それは、あなたが「自分自身を知る」ようにといって、わたしにそうすすめたのだ。こうして以前、これまでの生涯では、自分自身のために、また人に見せるために試験する時、この力は限りなきものに見えた。わたしはあなたの目の前で、あなたの兄さんから頬打ちの侮辱を忍んだ。公然とあの結婚を自白した。が、いったい何にこの力を用いたらいいのだろう。これがついにわからなかった。あなたがスイスで是認してくれた言葉にもかかわらず、――またそれをわたしが本当にしたにもかかわらず、いまだに少しもわからないでいるのだ。わたしは今でも昔と同じように、善をしたいという希望をいだくことができ、またそれによって快感を味わうこともできる。それと同時に悪をも希望して、それからも同様快感を味わうことができる。しかし、その感じは両方とも依然として浅薄で、かつて非常であったためしがない。わたしの希望はあまりに強味が欠けていて、指導するだけの力がないのだ。丸太に乗って河を横切ることはできるが、木っぱでは駄目だ。これは万一あなたが、わたしのウリイ行きに何か希望があるのじゃないか、というような考えを起こさないために書くのだ。
『わたしは依然として、何人をも咎めようとしない。わたしは思い切った放蕩を試みた。そして、そのために力を消耗してしまった。けれど、わたしは放蕩をも好みはしないし、またあの当時も望んではいなかったのだ。あなたは最近、わたしに注意をそそいでいられたが、こういうことがわかりましたか、――わたしはいっさいを否定するあの仲間をも意地悪い目で眺めていた。あの連中の希望にみちているのが、うらやましかったのだ。しかし、あなたの心配は無用だった。わたしはあの連中の仲間入りもできなかった。なんら共通の点がなかったからだ。単に冷やかし半分にも、面あてのためにも、やはりできなかった、それも、自分が滑稽に見えるのを恐れたからじゃない、――わたしはそんなことをびくびくするはずがない、――ただなんといっても、わたしはジェントルマンの習慣を持っているので、そんなことがいまわしかったのだ。もしあの連中にもっと憎悪や羨望を感じたら、或いは彼らとともに進んだかもしれない。実際そうするほうが、わたしにとってどれだけ容易だったか、そして、どれくらいわたしが迷ったかは、よろしくお察しを乞う。
『いとしき友よ、わが発見したるやさしき寛大なる人よ! もしかしたら、あなたはわたしに豊かな愛を恵み、その美しい胸から無量の美をわたしに注ぎかけ、それによって最後にわたしの目の前に人生の目的を啓示しようと、空想しておられるかもしれぬ。それはいけない、あなたはもっと慎重な態度を取らなければならない。わたしの愛はわたし自身と同様に浅いものでしょう。そうすれば、あなたは不幸な身になるばかりだ。あなたの兄さんはわたしにこんなことをいった、――自分の郷土との連繋を失った者は、自分の神すなわち自分の目的をも失うと。とにかく、そんなことは議論すればきりがないけれど、ただわたしという人間からは、いっさい宏量も力もないただの否定だけが鋳出されたのだ。いや、否定すらも鋳あがってはいない。すべてがつねに浅薄で、だらけているのだ。宏量なキリーロフは、観念が持ち切れないで自殺してしまった。しかし、わたしの見るところでは、キリーロフは健全な判断力を失ったので、それがために宏量であり得たのだ。わたしはどうしても判断力を失うことができない。したがって、あの男のように、あれほどまで観念を信ずることが絶対にできない。あれほど観念に没頭することができないのだ。決して、けっしてわたしには自殺なぞできはしない!
『わたしはよく知っている。わたしのようなものは自殺しなければならない、けがらわしい虫けらのように、地球の表面から掃き捨ててしまわなければならないのだ。しかし、わたしは自殺を恐れる、宏量を示すのが恐ろしいからだ。わたしはよくわかっている、それはもう一つの虚偽なのだ、――無限な虚偽の連続における最後の虚偽なのだ。単に宏量の真似事をするためにみずから欺いて、どれだけの益がある? 憤懣とか羞恥とかいうものはけっしてわたしの内部に存在し得ない。したがって、絶望というものもあり得ない。
『こんなにたくさん書いたのを許してもらいたい。今ふと気がついた、これは知らずしらずしたことなんだ。こんなふうに書いたら、百ページでも足りないだろうし、十行だけでもたくさんだ。「看護婦」に来てほしいというのは、十行でたくさんなのだ。
『わたしはここを出発してから、六つ目の駅の駅長のところにいる。これは五年前、ペテルブルグで暴れたとき知り合いになった男だ。わたしがここに住んでることはだれも知らない。この男の宛名で返事をもらいたい。所書《ところがき》は別に封入してある。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]ニコライ・スタヴローギン』

 ダーリヤはすぐヴァルヴァーラ夫人のところへ行って、この手紙を出して見せた。夫人は一読した後、もう一どひとりで読み返してみたいから、しばらくあちらへ行ってくれと、ダーシャに頼んだ。が、なんだか妙に早く彼女を呼び寄せた。
「行くかい?」と夫人は、ほとんど臆病といっていいくらいな調子でたずねた。
「まいります」とダーシャは答えた。
「用意をおし! いっしょに行こう!」
 ダーシャはいぶかしげに、じっと夫人を見やった。
「わたしが今ここにいたって、何をすることがあります? 同じことじゃないの。わたしもやはりウリイ州へ転籍して、山の峡《はざま》で暮らしますよ………心配おしでない、邪魔をしやしないよ」
 二人は正午《ひる》の汽車に間に合うように、大急ぎで支度を始めた。けれど、三十分も経たないうちに、スクヴァレーシニキイからエゴールイチがやって来た。彼の報告するところによると、今朝『突然』ニコライが一番の汽車でやって来て、今スクヴァレーシニキイにいるが、しかし『その御様子がどうも変で、何かおききしてもお返事がなく、家《う》[#ルビの「う」はママ]じゅうの部屋をすっかり歩いてごらんになった後、お居間へ閉じこもっておしまいになりました……』というのである。
「わたしは旦那様のお指図に逆らって、こちらへお知らせにまいることに決めましたのでござります」とエゴールイチは恐ろしく注意ぶかい様子でつけ足した。
 ヴァルヴァーラ夫人は刺すような目で、じっと彼を見つめたが、うるさく根掘り葉掘りしなかった。すぐに馬車の用意ができた。夫人はダーシャといっしょに出かけた。途中、馬車の中で、幾度も十字を切ったとのことである。
『お居間』のほうの戸はすっかり開けっ放しで、ニコライの姿はどこにも見えなかった。
「もしや中二階ではござりますまいか?」とフォムシカが恐る恐るいった。
 ここに注意すべきは、幾たりかの召使がヴァルヴァーラ夫人の後から、『お居間』の中へ入って来たことである(もっとも、ほかの下男たちは広間のほうに残っていた)。彼らがこんなに邸の規律を破るようなことは、今までけっしてなかったのである。ヴァルヴァーラ夫人はこれに気がついたけれど、何もいわなかった。
 中二階へもあがって見た。そこには部屋が三つあったけれど、だれひとり見つからなかった。
「もしや、あすこへおあがりになったのではござりますまいか?」とだれかが屋根裏の戸を指さした。
 なるほど、いつも閉まっている屋根裏の戸が、今は開けっ放しのままになっていた。そこはほとんど屋根のすぐ下になっていて、非常に幅の狭い、恐ろしく急な、長い木の梯子段を登らなければならなかった。そこにもやはり、ちょっとした小部屋があったので。
「わたしはあんなところへ行きゃしない。なんの用があって、あれがあんなところへ登るものかね?」ヴァルヴァーラ夫人は召使を見廻しながら、さっと顔をあおくした。こちらは夫人を見つめながら、押し黙っていた。ダーシャはぶるぶる慄えていた。
 ヴァルヴァーラ夫人は飛ぶように梯子段を昇って行った。ダーシャもその後から続いた。けれど、夫人は屋根裏へあがるかあがらないかに、一声高く叫んで、そのまま悶絶してしまった。
 ウリイ州の市民は、すぐ戸の向こう側にぶらさがっていた。テーブルの上には、小さな紙きれがのっていて、
『何人をも罪するなかれ、余みずからのわざなり』と鉛筆で書いてあった。同じテーブルの上には、一梃の金鎚と、石鹸のかけと、あらかじめ予備として用意したらしい、大きな釘が置いてあった。ニコライが自殺に使った丈夫な絹の紐は、まえから選択して用意したものらしく、一面にべっとりと石鹸が塗ってあった。すべてが前々からの覚悟と、最後の瞬間まで保たれた明確な意識とを語っていた。
 町の医師たちは死体解剖の後、精神錯乱の疑いを絶対に否定した。



底本:「ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上」河出書房新社
   1970(昭和45)年3月30日初版第1刷発行
   「ドストエーフスキイ全集10 悪霊 下 永遠の夫」河出書房新社
   1970(昭和45)年8月30日初版第1刷発行
   1977(昭和52)年7月20日第12刷発行
入力:いとうおちゃ
校正:
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『ドストエーフスキイ全集10 悪霊 下』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP145-192

いては、きみはぜんぜん安心して可なりです、――密告などしやしません」
 彼はくるりとくびすを転じて、すたすた歩き出した。
「畜生、あいつ途中であの連中に会って、シャートフに告げ口をするに相違ない!」とピョートルは叫んで、いきなりピストルをつかみ出した。
 かちりと引金を上げる音が聞こえた。
「どうかご安心なさい」ふたたびシガリョフが振り返った。「ぼくは途中でシャートフに出会ったら、お辞儀ぐらいするかもしれないが、告げ口なんかしやしないです」
「きみ、わかってるだろうね。そんなことをしたら、それだけの報いを受けなきゃならないよ、フーリエ君」
「断わっておきますが、ぼくはフーリエじゃありません。ぼくをあんな甘ったるい、抽象的な、煮えきらない理論家と混同することによって、きみはただ一つの事実を証明するにすぎないです、――ほかじゃありませんが、きみはぼくの原稿を自分の手に握っていながら、内容は全然わかっていないんです。ところで、きみの報復については、ぼくこういっておきましょう。きみが引金を上げたのは拙いですね。この場合、きみのためにかえって不利じゃありませんか。ところで、明日とか明後日とかいってぼくを脅かすとすれば、きみはぼくを射ち殺すということによって、余計な手数のほか何物も得るところはありませんよ。ぼくを殺してみたところで、遅かれ早かれ、きみはぼくの主張に到達するわけですからね。じゃ、さよなら」
 ちょうどこの瞬間、二百歩ばかり隔てた公園の池のほうから、口笛の音が響きわたった。リプーチンは昨日の打合わせによって、さっそくおなじようにひゅう[#「ひゅう」に傍点]と一こえ合図を返した(彼は自分の乱杭歯の口が当てにならなかったので、このためにわざわざけさ市場で一コペイカ出して、土で焼いた玩具の笛を求めたのだ)。エルケリは途々前もってシャートフに、合図の口笛があることを知らせておいたので、彼はなんの懸念も起こさなかった。
「心配ご無用です。ぼくはあの連中を避けて通るから、向こうじゃ少しもぼくに気がつかないでしょう」シガリョフは諭すような調子でささやいた。
 それから、いっこう足を速める様子も急ぐふうもなく、彼は暗い公園を抜けて、きっぱりとわが家をさして歩き出した。
 今ではこの恐ろしい出来事が、どういうふうに起こったかということは、ごく細かい点までも一般に知れわたっている。最初リプーチンが洞のすぐ傍で、エルケリとシャートフを出迎えた。シャートフは彼に会釈もしなければ、手をさし出そうともせず、すぐせかせかと大きな声でいい出した。
「さあ、いったいシャベルはどこにあるんだね。そして、もう一つ角燈はないかしらん? いや、心配することはない、ここにはまるで人っ子一人いやしないから、ここからスクヴァレーシニキイまでは、大砲をぶっ放したって、大丈夫きこえやしないよ。あれはここにあるんだ。そら、ここのところだ、ちょうどこの下に……」
 彼は実際、洞のうしろ隅から森へ十歩寄ったところを、足でとんと踏んで見せた。この瞬間、木蔭からトルカチェンコが現われて、うしろから彼に飛びかかった。エルケリもおなじくうしろから彼の肘をつかまえた。リプーチンは前から躍りかかった。三人はすぐに彼の足をすくって、地べたに押しつけてしまった。そこヘピョートルが例のピストルを持って飛び出した。話によると、シャートフは彼のほうへ首を捩じ向けて、その顔を見分けるだけの暇があったとのことだ。三つの角燈がこの場面を照らし出した。シャートフはとつぜん短い絶望的な叫び声を発した。けれど、いつまでも声を立てさせてはいなかった。ピョートルは正確な手つきで、彼の額にしっかり強くピストルを押し当てると、――そのまま引金をおろした。発射の音はあまり大きくなかったらしい。少なくも、スクヴァレーシニキイでは、だれひとり耳にしたものがなかった。もちろん、シガリョフは聞きつけた。彼はやっと三百歩はなれるか離れないかだったので、叫び声もピストルの音も耳にしたが、後で彼自身申立てたところによると、後を振り向きもしなければ、立ちどまりさえしなかったとのことである。殺害はほとんど瞬間的に行なわれた。
 十分に実際的な能力、――冷静な落ちつきというわけにはいかぬ、――を保有していたのは、ただピョートル一人だけだった。彼はその場にしゃがみながら、忙しげな、とはいえしっかりした手つきで、死人のポケットをさがしにかかった。金はなかった(金入れはマリイの枕の下に置いて来たのである)。二、三枚のつまらない紙きれが出てきたが、一つは事務所から来た手紙で、一つは何かの本の目次、いま一つは古い外国の酒屋の勘定書だった。どうしてこんなものが二年間、ポケットの中で無事に残っていたのか、不思議なくらいである。この紙きれを、ピョートルは自分のポケットに収めたが、ふとみんな一つところに固まったまま、なんにもしないで、ぽかんと死骸を眺めているのを見ると、急に毒々しく不作法な調子で罵りながら、一同をせきたてはじめた。トルカチェンコとエルケリは、われに返って駆け出したが、たちまち洞窟の中から、もう今朝ほど用意しておいた石を、二つ持って来た。石はどちらも二十斤くらい重さがあって、もうちゃんと支度ができていた。つまり、固くしっかり繩が掛けてあったのだ。
 死骸は、手近の(第三の)池まで持って行って、その中へ沈めることに手筈が決まっていたので、人々は足と順に石を縛りつけ始めた。それを縛りつけるのはピョートルの役目で、トルカチェンコとエルケリは、ただ石をかかえていて、順々にそれをさし出すだけだった。エルケリが初めに石を渡した。ピョートルがぶつぶついったり、罵ったりしながら、死骸の足を繩で縛って、それに石を括りつけていると、トルカチェンコはこのかなり長い間、さあといえばすぐ渡されるように、うやうやしげに上半身をぐっと前へかがめながら、じっと石を両手にかかえたまま、ちょっとでもこの厄介ものを下へおろしておこうなどとは、一度も考えなかった。やっと二つの石が縛りつけられて、ピョートルが地べたから身を起こしながら、一同の顔を透かし見ようとしたとき、そのとき突然、まるで思いも寄らぬ一つの奇怪事が生じて、一同の胆をひしいだのである。
 前にもいったとおり、トルカチェンコとエルケリをのけたほか、一同はほとんど何もしないで、ぼんやり立っていた。ヴィルギンスキイは、みんながシャートフに飛びかかった時、同様に躍り出すには躍り出したが、シャートフには手を掛けないで、彼を取り抑える手伝いもしなかった。リャームシンは、もうピストルが鳴ってしまってから、一同の間に姿を現わした。やがて十分ばかり、死骸の始末でごたごたしている間、一同はさながら自意識を一部分とり落としたようであった。彼らは輪を作って、一ところに固まっていたが、不安とか心配とかいうよりも、今はただ驚愕の念のみに囚われているらしかった。リプーチンはだれよりも前に出て、死骸のすぐ傍に立っていた。ヴィルギンスキイは何か一種特別な、まるで人ごとのような好奇の色を浮かべながら、リプーチンの後から彼の肩ごしに覗き込んでいたばかりか、爪立ちにまでなって、よく見透かそうと努めていた。リャームシンはヴィルギンスキイのうしろに隠れて、時々おっかなびっくりで覗いて見ては、すぐにまた隠れてしまうのであった。ところが、死骸に石を括りつけて、ピョートルがやおら立ちあがったとき、ヴィルギンスキイは突然からだを小刻みにぶるぶる慄わせながら、両手をぱちりと鳴らし、喉一ぱいに声を張り上げて、悲しそうに叫んだ。
「これは違う、まるで違う。いけない、まるっきり違う!」
 彼はこの遅蒔きの叫び声に、まだ何かつけ足したかもしれなかったのだ。けれど、リャームシンはしまいまでいわせなかった。出しぬけにうしろからヴィルギンスキイをつかんで、力まかせに締めつけながら、何かとうてい想像もできないような声でわめき始めた。よく人が烈しく驚いた時には、突然いままで思いも染めなかったような、まるで借り物みたいな声を立てることがある、それがどうかすると、もの凄いほどに思われるものだ。リャームシンはまったく人間と思われない、獣のような声で叫び出したのである。痙攣的な発作に駆られてしだいに強く、両手でうしろからヴィルギンスキイを締めつけながら、彼は一同のほうへ向いて目を剥き出し、口をうんと大きく開けたまま、絶えずやみ間なしに黄いろい声を立てて叫んだ。そして、まるで太鼓で雨垂れ拍子でも打つように、両足を細かくばたばたと刻むのであった。ヴィルギンスキイはすっかり面くらって、自分でも気ちがいのようにわめき出した。そして、ヴィルギンスキイとしては思いがけない、思い切って意地の悪そうなもの凄い形相で、うしろへ手の届くかぎり、リャームシンを引掻いたり、叩いたりしながら、その手からのがれようともがき始めた。エルケリも傍から手伝って、やっとリャームシンをもぎ放した。
 けれど、ヴィルギンスキイが度胆を抜かれて、十歩ばかりわきのほうへ飛びのいた時、リャームシンはふいにピョートルに気がついて、ふたたび黄いろい叫び声をあげながら、こんどは彼を目ざして飛びかかった。思わず死骸に躓くと、彼はそのまま死骸を飛び越えて、ピョートルに倒れかかった。そして、相手の胸に頭を押し当てながら、しっかり両手にかかえ込んでしまったので、ピョートルも、トルカチェンコも、エルケリも、ちょっと最初どうもすることができなかった。ピョートルはどなりつけたり、罵ったり、拳固で頭を撲ったりしながら、とうとうやっとのことでもぎ放すと、いきなりピストルを取り出して、依然としてわめきつづけるリャームシンのあいた口ヘ向けて、まともに狙いを定めた。トルカチェンコとエルケリとリプーチンは、もうしっかりリャームシンの両手をつかまえていた。けれど、リャームシンはピストルをさし向けられているのに、いつまでも叫びつづけるのであった。とどのつまり、エルケリが自分のハンカチを丸めて、巧みに彼の口へ押し込んだ。こうして、やっと叫び声は途絶えたのである。トルカチェンコはその間に、残った繩の切れっぱしで、彼の両手を縛り上げてしまった。
「これは実に奇態だ」不安な驚愕に打たれて、この気ちがいを見廻しながら、ピョートルはこういった。
 彼は見受けたところ、だいぶ度胆を抜かれたらしい。
「ぼくはあの男のことを、まるで別なふうに考えていた」彼は考え深そうにつけ足した。
 一時この男の傍へ、エルケリを付けておくことにした。まず何よりも、死人の始末を急がなければならなかった。ずいぶん大きな声で長い間わめいたので、どこかで聞きつけた者があるかもしれない。トルカチェンコとピョートルは角燈を取り上げて、死骸の頭に手を添えた。リプーチンとヴィルギンスキイは足を持って、やがて一同は歩き出した。二つの石をつけたこの荷物はずいぶん重かった。それに、距離は二百歩以上あった。中で一ばん力持ちはトルカチェンコだった。彼は、歩調を揃えたらよかろうと注意したが、だれ一人それに答えるものはなかった。で、人々は出たらめに歩いた。ピョートルは右側から歩いて行った。そして、すっかり前へのめりながら、死人の頭を肩に担いで、右手で石を下から支えていた。トルカチェンコは道のり半分ばかりの間、その石を支える手助けをしようなどとは、まるで気がつかなかったので、ピョートルはとうとう罵声を交えながら、彼をどなりつけた。その叫び声はきわめて唐突で、さびしげに響いた。一同は無言のまま運びつづけた。ようやく池の傍まで来た時、ヴィルギンスキイは荷物の重みに疲れたように、妙に背中をかがめながら、前と同じ高い泣くような声で、出しぬけにこう叫んだ。
「これは違う、いけない、いけない、これはまるっきり違う!」
 彼らが死人を運んで来たこの第三の、かなり大きな、スクヴァレーシニキイの池は、公園の中でも一ばん荒寥とした場所で、ことにこの頃のような晩秋の頃になると、ほとんど訪れる人とてもなかった。池もこちらの端になると、岸に草が生い茂っていた。人々は角燈を置くと、死骸を二つ三つ振って、池の中へほうり込んだ。鈍い音が長く尾を曳いた。ピョートルは角燈を取り上げた。つづいて一同も身を乗り出しながら、死骸の沈んで行くさまを、もの珍しそうに見透かしたが、もうなんにも見えなかった。石を二つ付けた死体は、たちまち沈んでしまった。水の表面に起こった大きな波紋は、みるみるうちに消えていった。ことはすでに終わった。
「諸君」とピョートルは一同にいった。「これでもうわれわれは別れるのです。疑いもなく諸君は、自由な義務の遂行にともなう自由な誇りを、感じていられることと思います。もし遺憾にも、今この際、そういう感覚を味うべく、あまりに興奮していられるとすれば、明日は間違いなく感得されるに相違ありません。明日それを感得しないのは、もはや恥です。ところで、あの醜悪を極めたリャームシンの興奮にいたっては、ぼくは単に熱に浮かされたものと見なしておきます。まして本当にあの男は、今朝から病気だという話ですからね。それから、ヴィルギンスキイ君、きみはほんの一分間でも、自由な気持ちで省察してみたら、共同の事業のためには、誓いなど当てに行動するわけにはいかない、どうしてもぼくらのやったようにしなきゃならない、ということがわかって来るでしょう。実際、訴状があったということは、結果がきみに示してくれますよ。ぼくはきみの叫んだ言葉を忘れることにしましょう。危険なんかって、そんなものは断じてありません。だれにもせよ、ぼくらに嫌疑をかけようなどとは、思いも寄らないこってすよ。ことにきみがたが上手に立ち廻ったらなおさらです。なぜなら、大切な点は要するに、諸君および諸君の十分な信念にかかってるんだからね。きみがたはこの信念を、明日にもさっそく獲得されることと嘱望します。しかるに、きみがたは目下共同の事業のために、互いに精力を分ち合い、必要に応じては、互いに注意監督するの目的をもって、同志の自由結社たる独立の機関に入っておられる。したがって、きみがたは一人一人、最高の責任を帯びているわけなのです、停滞のために悪臭を発する古ぼけた事物を一新する使命を持っているのです。これは勇気を失わないために、いつも念頭においてもらいたい。目下のところきみがたの進むべき道は、ただいっさいの破壊、――国家とその道徳の破壊あるのみです。その破壊の後には、あらかじめ権力を継承しているわれわればかりが残ることになる。そうして、賢者は自分たちの仲間に加え、愚者はどんどん馬蹄にかける。それをきみがたは心苦しく思ってはいけない。自由を辱しめないようにするためには、一代の人間を鍛え直さなければならない。これからさきでも、まだ幾千人のシャートフが、進路に横たわっていることでしょう。われわれは、大体の方向をつかむために団結したのです。だから、のん気そうにねそべって、ぼんやり口を開けながら、ぼくらを見ているようなやつを、手で拾い上げないのは、むしろ恥辱なくらいです。これから、ぼくはキリーロフのところへ行きます。そして、明日の朝までに例の遺書ができるわけです。それはあの男が死に臨んで、政府に対する弁明書という意味で、いっさいを自分に引き受けてくれるのですが、なにしろこれくらいまことしやかなコンビネーションはほかにありゃしませんよ。第一に、あの男はシャートフと仲が悪かった。二人はアメリカで長くいっしょに住んでいたのだから、その間には喧嘩ぐらいしたに相違ない。またシャートフが変節したこともあまねく知れわたっている。してみると、主義上の敵視、密告を恐れての敵視というやつが、あるに違いない、――つまり、とうてい妥協の道のない敵視なのです。これがすっかり遺書の中に書き込まれるわけですよ。まだその上に、あの男の住んでいるフィリッポフの持ち家に、フェージカが寝起きしていたことも書かせます。こういうわけで、われわれに対する嫌疑はことごとく排除されるわけです。なぜって、世間の間抜けどもは、すっかり五里霧中に彷徨するに決まってるから。ところで、諸君、明日はもうぼくらは会うことができません。ぼくはほんのちょっとの間、郡部のほうへ出かけなければならないのです。明後日になれば、諸君に新しい報告を伝えることができます。なるべくなら、あす一日、きみがたは家にこもっているほうがいいですよ。さて、ここでぼくらは二人ずつ、違った道を行くことになりますね。トルカチェンコ君、きみはお願いだから、リャームシンの面倒をみて、家へ送り届けてくれたまえな。きみなら、あの男に勢力があるから。それに第一、あんな気の狭いことでは、どれだけ自分を害なうことになるかもしれないと、よくあの男にいい聞かしてもらいたいね。それから、ヴィルギンスキイ君、きみの親戚のシガリョフ君のことは、ぼくもきみ自身と同様に、少しも疑念を挟まないです。彼は密告などしやしない。ただ彼の行動を惜しむのみです。しかし、彼はまだ退会を宣言したわけでないから、彼を葬るのは尚早です。じゃ、諸君、少しも早く。いくら間抜けなやつらだといっても、やはり用心にしくはないです……」
 ヴィルギンスキイは、エルケリといっしょに帰ることになった。エルケリは、リャームシンをトルカチェンコに引きわたすとき、彼をピョートルのところへつれて来て、この男はもう正気に返って、自分の行為を後悔し、宥しを乞うている、あの時はどうしたのか、自分でもおぼえていないほどだ、と告げた。
 ピョートルはただひとり迂路を取って、公園の外に当たる池の向こう側を歩いて行った。驚いたことには、もうおおかた半分道も来た頃に、リプーチンが後から追いかけてきた。
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、リャームシンはきっと密告しますぜ!」
「いや、あの男は今に正気に返って、もし密告なぞしたら、自分で一番にシベリヤへ行かなきゃならない、ということに気がつくでしょうよ! もう今となっては、だれひとり密告するものはない。きみだってしやしません」
「じゃ、あなたは?」
「いうまでもない、もしきみらが裏切りしようと思って、こそとでも動くが早いか、ぼくはきみたちをみんな片づけてしまうから。きみだってそれはご承知だろう。しかし、きみは裏切りなんかしない。いったいきみはたったそれだけのことで、二露里もぼくの跡を追っかけて来たんですか!」
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、ねえ、ピョートル・スチェパーノヴィチ、ぼくらはもう永久に会われないかもしれませんね!」
「なんだってきみはそんなことをいい出したんです!」
「ねえ、ぼくはたった一つききたいことがあるんですが」
「いったいなんです? もっとも、ぼくは、きみにとっとと行ってもらいたいんだがなあ」
「たった一つ、けれど、正確な返事がききたいんです。ぼくらの五人組は、世界じゅうでたった一つきりでしょうか、それとも、こんな五人組が何百もある、というのが本当でしょうか! ぼくは一段高い見地からきいてるんですよ、ピョートル・スチェパーノヴィチ」
「それはきみの興奮した様子でわかるよ。きみはリャームシンより、もっと危険な人間だってことが、自分でもわかってますかね!」
「わかってます、わかってます、しかし、――返事は、あなたの返事は!」
「きみは馬鹿な男だねえ! もう今となったら、五人組なんか一つだろうが、千だろうが、きみにとっては同じことだろうに」
「じゃ、一つきりなんだ! ぼくもそうだろうと思ってた!」とリプーチンは叫んだ。「ぼくはもう始終、いまの今まで、一つきりだろうと思っていた……」
 こういい捨てて、彼はもはや次の返事を待たず、くるりと踵《くびす》を転じると、そのまま闇の中に消えてしまった。
 ピョートルはちょっと考え込んだ。
「いや、だれも密告しやしない」彼はきっぱりといった。「しかし、集団はやはりどこまでも集団として、命令に服従しなくちゃならない。それでなければ、おれはやつらを……しかし、なんというやくざな野郎どもだろう!」

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 彼はまず自宅へ立ち寄って、悠々ときちょうめんにカバンを詰めにかかった。朝の六時には、急行列車が立つことになっていた。この急行は一週に一度しか出ない。それもごく最近、当分のあいだ、試験的に運転してみることになったばかりである。ピョートルは仲間のものに、ちょっとしばらく郡部のほうへ出かけると断わったが、事実あとで判明したところによると、彼の目算はぜんぜん別だった。カバンのほうの始末をつけると、もう前もって出立を知らせておいた主婦に払いをすまして、停車場ちかく住まっているエルケリのところへ、辻馬車を傭って出かけて行った。それから、ほぼ夜中の二時ちかい頃、キリーロフのところへ行った。やはり例のフェージカのこしらえた、秘密の抜け穴から忍び込んだのである。
 ピョートルは恐ろしい気分になっていた。彼にとって非常に重大な二、三の不満を別にして(彼はいまだにスタヴローギンのことを、何一つ探り出せなかったので)、彼はこの日のうちにどこからか(おそらくペテルブルグからだろう)、近い将来に自分を待ち受けているある種の危険に関して、秘密な通知を受けたらしいのである(こういう曖昧な言い方をするのは、わたし自身も明確にそうと断言できないからなので)。もちろん、この時分のことについては、今だに町でお伽噺めいた噂がいろいろと行なわれている。けれど、もし何か正確なことを知ってる人があるとすれば、それはただその筋の人くらいのものである。わたし一個の想像するところでは、ピョートルは実際この町以外、どこかにまだ連絡を保っていて、事実そういうところから情報を得たものらしい。それどころか、リプーチンの皮肉で絶望的な疑いに反して、彼は本当にこの町以外の土地、たとえば、両首都あたりで、二、三の五人組を組織していたものと、こうわたしは信じている。たとえ五人組といえないまでも、いろんな関係や連絡があったに相違ない、――しかも、非常にとっぴなものかもしれない。
 彼の出発後、三日と経たないうちに、即時かれを捕縛するようにという命令が、この町に達した。それはどういう事件のためか、――この町の出来事か、それともまたほかのことか、その点はわたしにもわからない。この命令は、ちょうどかの神秘的な意味深い大学生シャートフの惨殺(それはこの町に続けて起こった怪事件の頂点を示すものであった)と、この事件に伴うさまざまな謎めいた事情が発見されたため、町の官憲を初めとして、今まで頑なに軽佻な態度を持して来た社交界まで俄然わしづかみにしてしまった神秘的な恐怖の印象を、ひとしお強めたのである。しかし、命令の来ようが遅かった。ピョートルは、そのとき早くも名前を変えて、ペテルブルグに忍んでいたが、少し怪しいと嗅ぎつけると、たちまち外国へすべり抜けてしまった……が、わたしは恐ろしく先廻りをしたようだ。
 彼は意地悪そうな、喧嘩腰ともいうべき顔つきで、キリーロフの部屋へ入って行った。彼はおもな用むき以外に、また何やら個人的にキリーロフに癇癪を吐き出して、何かの敵討でもしたそうなふうだった。キリーロフは彼の来訪をよろこぶように見えた。明らかに彼は恐ろしく長いあいだ、病的な焦躁をいだきながら、彼を待ち設けていたらしいのである。その顔はいつもよりさらにあおざめて、暗い色の目は重々しく据わっていた。
「ぼくはもう来ないかと思ってた」と彼は重苦しくこういったが、長いすの隅に坐ったまま、出迎えに身を動かそうともしなかった。
 ピョートルはその前に立ちはだかって、何か口を切るよりさきに、じっと相手の顔に見入るのであった。
「つまり、万事きちんとなってるんですね。例の決心を翻すようなことはありませんね、いや、えらい!」彼は人を馬鹿にしたような、いかにも保護者気取りの微笑を浮かべた。「で、どうです」と彼は厭味な、ふざけた調子でつけ足した。「少しくらい遅れたって、何もきみが不足をいうわけはないじゃありませんか。ぼくはきみに三時間めぐんであげたんですからね」
「ぼくはそんな余計な時間なんぞ、きみから恵んでもらいたくない。それに、きみなんかぼくに恵むことができるものか……ばか!」
「なに!」とピョートルはいいかけたが、すぐに自分で自分を制止した。「なんという怒りっぽい人だろう! おやおや、ぼくらはいがみ合ってしまったじゃありませんか!」依然として人を馬鹿にしたような、高慢ちきな態度で、彼は一語一語きざむようにいった。「こういう場合には、どっちかといえば、落ちつきのほうが必要ですね。まあ、自分がコロンブスになった気で、ぼくなんかは鼠かなんぞのように思って、腹を立てないのが一番いいですよ。それはぼくきのうもおすすめしたんですがね」
「ぼくはきみを鼠かなんぞのように思いたくない」
「それはなんです、お世辞ですか? もっとも、お茶も冷たくなってる、――してみると、何もかもめちゃめちゃなんですね。いかん、どうも頼りなさそうなことが持ちあがってるようだ。おや! あの窓の上に何やらある。ほら、皿の中に(彼は窓に近寄った)。ほほう、米といっしょに煮た鶏肉《とり》ですな!………だが、どうして今まで手がつけてないんだろう! ははあ、なるほど、ぼくらはいま鶏肉も食べられないような気分になってるんですね……」
「ぼくは食べたよ。きみの知ったことじゃない、黙っていたまえ!」
「おお、もちろん、それに、どっちにしたって同じことですからね。しかし、ぼくにとっては、いま同じことじゃないんですよ。ねえ、ぼくはまだほとんど食事をしていないから、もしぼくの想像どおり、もうこの鶏肉《とり》がきみに不用だとすれば、ね!」
「もし食べられればやりたまえ」
「それはありがたい。それから後でお茶もね」
 彼はさっそく長いすの反対側に陣取って、恐ろしくがつがつした様子で、食物に飛びかかった。しかし、それと同時に、絶えず自分の犠牲《いけにえ》を観察していた。キリーロフは毒々しい嫌悪の色を浮かべて、さながら目を離すことができないかのように、じっと瞬きもせず彼を見つめるのであった。
「ときに」依然として貪りつづけながら、ピョートルはとつぜん身をそらした。「ときに、用件のほうは! ぼくらは決心を翻しゃしないですね、え! ところで、遺書は!」
「ぼくは今夜いよいよ、どうなったって同じことだと決めてしまった、書くよ。檄文のことだね?」
「ええ、檄文のことも。もっとも、ぼくがすっかり口授しますよ。だって、君にはどうだって同じことなんでしょ。いったいきみはこんな間際になっても、遺書の内容なぞ気になるんですか?」
「きみの知ったこっちゃないよ」
「むろん、ぼくの知ったことじゃない。もっとも、ただの二、三行でいいんですがね。まあ、いってみれば、きみがシャートフといっしょに檄文を撒き散らしたことや、また、それにはきみの宿に隠れていたフェージカの手を借りたことだの……この最後の点、つまり、フェージカと宿のことは、きわめて重要なんです。最も重大なといっていいくらい。ねえ、ご覧なさい、ぼくあなたにはぜんぜん開けっ放しでしょう」
「シャートフ! なんのためにシャートフのことなんか! ぼくはけっしてシャートフのことなんか……」
「ほうら、また、いったいきみにとってどうだというんです! もうあの男の害になることなんか、しようたってできないのですよ」
「あの男のところへは細君がやって来たんだ。さっき細君が目をさまして、あの男のいどころをぼくのところへききによこしたんだ」
「細君がきみのところへ、あの男のいどころをききによこしたんですって! ふん……それは拙いなあ。多分また使いをよこすだろう。ぼくがここにいることは、だれにも知らしちゃいけないんです……」
 ピョートルは気を揉み出した。
「細君は知りゃしない、また眠ってるんだから。あのひとのところには産婆がいる、アリーナ・ヴィルギンスカヤが」
「そ、そのとおり……しかし、聞きつけやしないでしょうね! 入口に鍵をかけなくってもいいでしょうか」
「けっして聞きつけやしない。もしシャートフが来たら、きみをあっちの部屋へ隠してあげる」
「シャートフは来やしません。そこで、きみは裏切りと密告のために……今夜あの男と喧嘩をして……それがあの男の死因となった、とこう書いてもらうんですよ」
「あの男が死んだ!」キリーロフは長いすから躍りあがりながら叫んだ。
「今夜の七時すぎ、というより、むしろ昨夜の七時すぎですな。今はもう十二時すぎてますからね」
「それは貴様が殺したんだ!………それはぼくも昨日から見抜いていた!」
「見抜かずにいられるものですか? ほら、このピストルでね(彼はいかにもちょっと見せるためらしくピストルを取り出したが、もうそれっきりしまおうとしないで、いつでも用意ができているように、引き続いて右手にじっと持っていた)。しかし、きみは奇妙な人ですね。キリーロフ君、あの馬鹿な男の最期がこうなるに決まっていたのは、きみも自分で承知してたんじゃありませんか。この場合、見抜くも何もあったものじゃない。ぼくはもう何べんとなく、きみに噛んで含めるようにいったんですよ。シャートフは密告を企てたので、あの男を監視していた。ところが、どうしてもうっちゃっておけなくなったのです。それに、きみだって監視の命令を受けたんですよ。現に三週間前、きみが自分でぼくに知らせてくれたじゃありませんか……」
「黙れ! 貴様があの男を殺したのは、あの男がジュネーブで、貴様の顔に唾を吐きかけたからなんだ!」
「それもあるし、またほかにもあるんです。いろいろほかの原因があるんですよ。しかし、いっさい私憤なしにやったことです。なんだってそう飛びあがるんです! なんのために芝居めいた所作をするんです! ほほう! なるほどきみはこんなことにまで!………」
 彼は跳ね起きて、ピストルを前へさし出した。それはこういうわけなのである。キリーロフが出しぬけに、もう今朝から用意して装填してあった自分のピストルを、窓の上から取り上げたのだ。ピョートルは身がまえをして、自分の武器をキリーロフにさし向けた。こちらは毒々しく笑い出した。
「白状しろ、悪党め、貴様がピストルを取り上げたのは、ぼくが貴様を射つかと思ったからだろう……ぼくは貴様なんか射ちやしない……もっとも……もっとも……」
 こういいながら、彼は自分が相手を射ち倒す光景を想像する、その快感をむざむざ棄てかねるように、狙いでも定めるような恰好で、ふたたびピョートルにピストルをさし向けた。ピョートルはやはり身がまえをしたまま、じっと待ちかまえていた。自分でさきに弾丸を額に受ける危険を冒しながら、引金をおろさず、最後の瞬間まで待ち設けていた。実際こんな『気ちがい』だから、そういうことがあるかもしれないのだ。けれど、『気ちがい』はついに手を下ろした。そして、せいせい息を切らして、身を慄わせながら、ものをいう気力もなかった。
「ちょっとふざけてみたんです。もうたくさん」とピョートルもピストルを下ろした。「きみがふざけてるってことは、ぼくもちゃんと承知してましたよ。ただね、きみは冒険したんですよ。ぼくは引金を下ろすこともできたんですからね」
 彼はかなり平然と長いすに腰を下ろし、自分でコップに茶をついだ。もっとも、その手はいくらか慄えていた。キリーロフはピストルをテーブルの上に置いて、部屋の中をあちこち歩き出した。
「ぼくはシャートフを殺したとは書かない。そして……今はもう何も書きゃしない、書置きなんかこしらえないよ!」
「こしらえない?」
「こしらえない」
「なんという卑怯なことだ、なんという馬鹿げたことだ!」ピョートルは憤怒のあまり真っ青になった。「もっとも、ぼくはこれを見抜いていた。ねえ、出しぬけにぼくの度胆を抜こうたって、そりゃ駄目ですよ。しかし、どうともご勝手に。もし無理にきみを強制できるものなら、そうもしたんだがなあ。だが、きみは卑怯者だ」ピョートルはだんだん我慢ができなくなってきた。「きみはあの時、われわれから金を無心して、むやみにいろんなことを約束したじゃないか……が、それにしても、ぼくは何か結果を握らなきゃ、出て行かないよ。少なくも、きみが自分で自分の額を、打ち割るところでも見なきゃね」
「ぼくは貴様に今すぐ出て行って、もらいたいのだ」とキリーロフはしっかりした足取りで、彼の真正面に立ちどまった。
「いや、それはどうしてもできませんよ」ピョートルはまたもやピストルに手をかけた。「おおかたきみは今つらあてと臆病のために、何もかも中止してしまってさ、また金でも握るつもりで、明日あたり密告に行く気になったんだろう。だって、そうするとお礼がもらえるものね。畜生、きみのような小人ふぜいは、どんなことでもしかねないからなあ! ただ、心配はご無用ですぜ。ぼくはあらゆる場合を予想してるんだから。もしきみが臆病風を吹かして、あの決心を翻すようなことがあったら、シャートフの畜生と同様に、このピストルできみの頭の鉢を打ち割らずにゃ帰らないんだ、いまいましい!」
「貴様はどうしてもぼくの血まで見たいんだな?」
「ぼくは意地でいってるんじゃありませんよ。考えてもごらんなさい、ぼくにとっちゃ同じことなんですぜ。ぼくはただ共同の事業について、安心がしたいからこそいうんですよ。人間てものは当てにならない、それはきみもご承知のとおりです。いったいきみの自殺の妄想はどういう点に存するのか、ぼくにはいっこうわからない。これは何も、ぼくがきみのために考え出したのじゃなくって、きみが自分で、ぼくに会う前から、思いついたんじゃありませんか。しかも、それを初めて聞かされたのはぼくじゃなくって、外国にいる会員連だったんですからね。それに、ご注意ねがいたいのは、だれも強制的にきみから聞き出したのでない、ということです。その会員連は、当時まるできみを知らなかったのに、きみが自分の感傷癖から勝手にやって来て、うち明けたんじゃありませんか。ねえ、当時きみ自身の提言によって(いいですか、きみ自身の提言によってですよ!)きみの承諾を経て、この町におけるわれわれの運動計画を、きみのこの決心の上に築き上げたんですからね、どうもしようがないじゃありませんか。今となって、それを変更するわけにゃいきませんよ。きみは今そういう地位に身をおいて、あまりたくさん余計なことを知り過ぎてるんです。だから、きみが馬鹿げた了簡を起こして、明日にも密告に出かけるようなことがあれば、それはわれわれにとって不利益じゃありませんか。この点をどうお考えになります? いけませんぜ、きみは義務に縛られてるんですよ。誓いを立てたんですよ、金を取ったんですよ。これはきみだって、どうしても否定するわけにいきませんぜ……」
 ピョートルは恐ろしく熱くなってしまった。けれどキリーロフは、もうだいぶ前から耳をかしていなかった。彼はふたたびもの思わしげに部屋の中を歩き廻っていた。
「ぼくはシャートフがかわいそうだ」ふたたびピョートルの前に足をとめながら、彼はこういい出した。
「そりゃぼくだってかわいそうですよ。いったい……」
「黙れ、悪党め!」もはや疑う余地もない恐ろしい身振りをしながら、キリーロフは咆えるようにこうわめいた。「打ち殺すぞ!」
「ま、ま、ま、それは嘘ですよ。そのとおり、少しもかわいそうなことはないです。さあ、もうたくさん、たくさんですよう!」ピョートルは手を前のほうへさし伸ばしながら、心配そうにちょっと腰を持ち上げた。
 キリーロフはとつぜん静かになった。そして、ふたたびこつこつと歩き出した。
「ぼくはもう延ばしゃしない。ぼくはどうしてもいまは自殺したいのだ。みんな卑劣漢ばかりだ!」
「いや、それは確かですね。もちろんだれもかれも卑劣漢ばかりで、立派な人間はこの世界で暮らすに堪えられないから……」
「ばか、ぼくもやはりきみと同じような、ほかの連中と同じような卑劣漢だ、立派な人間じゃない!」
「とうとう気がつきましたね。キリーロフ君、いったいきみはそれだけの理性を持っていながら、今まで気がつかなかったんですか? だれだってみんな同じようなものですよ。この世には、善人も悪人もありゃしない、ただ賢い者と馬鹿なものがあるだけです。もしみんな卑劣漢ばかりだとすれば(もっとも、そんなことはくだらない話ですがね)、当然、卑劣漢にならずにゃいられないじゃありませんか」
「ああ! きみは本当に冷やかしてるんじゃないのかい?」キリーロフはちょっと驚いた様子で、相手を見つめた。「きみは熱心に正直な態度で……いったいきみみたいな男でも信念を持ってるのかね?」
「キリーロフ君、ぼくはなぜきみが自殺しようというのか、どうしても合点がいかなかったです。ただ信念、堅い信念……から出たことだけはわかってますがね。が、もしきみがなんというか、その衷心を披瀝したいという要求を感じるなら、ぼくは喜んで聴きますよ……ただ時間の点に気をつけなくちゃ……」
「何時だね?」
「おお、ちょうど二時です」とピョートルは時計を眺めて、巻き煙草に火をつけた。
『まだ話をつけることができそうだて』と彼ははらの中で考えた。
「ぼくは何もきみなんぞにいうことはない」とキリーロフはつぶやいた。「ぼくは、なんでも、神の話があったように覚えてますよ……ねえ、いつかきみが説明してくれたことがあるじゃありませんか、確か二度までもね。もしきみが自殺したら、きみはそのまま神になる、といったようなことでしたねえ?」
「ああ、ぼくは神になるんだ」
 ピョートルはにこりともしないで、じっと待っていた。キリーロフは微妙な表情で、彼を見つめた。
「きみは政治詐欺師で陰謀家だ。きみはぼくを哲学と熱情の境へおびき出して、和睦を成立させ、そうしてぼくの怒りを紛らしてしまおうと思ってるのだ。和睦が成立したとき、ぼくがシャートフを殺したという遺書を、ねだり取る魂胆なのだ」
 ピョートルはいかにも自然らしい、素直な調子で答えた。
「まあ、ぼくがかりにそんな卑劣漢だとしても、最後の瞬間になったら、そんなことはどうでもいいじゃありませんか、キリーロフ君? ねえ、いったいぼくらはなんのために争論してるんでしょう、一つ伺いたいもんですね。きみはそういう人間だし、ぼくはまたこういう人間なんです。それがどうしたというんでしょう? それに二人ながらおまけに……」
「卑劣漢だ」
「そう、或いは卑劣漢かもしれない。きみだってそんなことは、ただの言葉だということを、承知してるじゃありませんか」
「ぼくは一生涯の間、これがただの言葉でないように願っていたのだ。ぼくはいつもいつもそうあらせたくないと思うからこそ、これまで生きていたのだ。今でも毎日のように、ただの言葉でないようにと願っているのだ」
「仕方がないですね、めいめいが、よりよい居場所をさがしてるんだから。魚は……いや、つまり、どんな人でも自分流に、それぞれ愉楽を求めてるんです。それだけのことでさあ。ずうっと昔から、知れ切ったことですよ」
「きみは愉楽というんだね?」
「まあ、言葉争いなんかしたって、仕方がないじゃありませんか」
「いや、きみはうまいことをいったよ。じゃ、愉楽としておこうよ。神は必要だ、だから存在すべきだ」
「ふん、それでけっこうじゃありませんか」
「けれど、神は存在しない、かつ存在し得ないということを、ぼくは知ってるんだ」
「そのほうがいっそう正確ですな」
「いったいきみにはわからないのか? こんな二重の思想を持っている人間は、とうてい生きてゆくわけに行かないのだ」
「自殺しなけりゃならん、とでもいうのですかい?」
「これ一つだけでも、じゅうぶん自殺に値するということが、いったいきみにわからないのか? 何十億というきみらのような人間の中で、たった一人だけ、そんな生活を欲しない、またそれに堪え得ないような人間がいることを、きみはまるで理解していないのだ」
「ぼくは、ただきみが迷っているらしいということだけは、理解していますよ……それは非常に悪いことですぜ」
「スタヴローギンもやはり思想に呑まれたのだ」キリーロフは、気むずかしげに部屋の中を歩き廻りながら、相手の言葉には気もつかないで、こういった。
「え?」とピョートルは耳をそばだてた。「どんな思想に? あの人はきみに何かいいましたか?」
「いや、ぼくが自分で想像したのさ。スタヴローギンは、たとえ信仰を持ってても、自分が信仰を持ってることを信じないし、またかりに信仰を持ってなかったら、その信仰を持ってないことを信じない男だ」
「ふむ、スタヴローギンにはもっと違ったものもありますよ、も少し気の利いたものがね……」不安げに会話の方向と、キリーロフのあおざめた顔つきを注視しながら、ピョートルは喧嘩腰でこうつぶやいた。
『畜生、こいつとても自殺しやしないぞ』と彼は考えた。『前から直感していたよ。要するに、頭脳の産物だ、それっきりだ。なんというやくざな連中だろう?』
「きみはぼくと席を共にする最後の人間だ。だから、厭な心持ちできみと別れたくない」突然キリーロフがいい出した。
 ピョートルはすぐには答えなかった。『この畜生、今度はまた何をいいだすんだろう?』と彼はふたたび考えた。
「キリーロフ君、まったくのところ、ぼくは個人としてきみに対して、別に悪意なぞ持ってやしないんですよ、いつも……」
「きみは卑劣漢だ、きみは偽りの知恵だ。しかし、ぼくもやはりきみと同じような卑劣漢だ。ところが、ぼくは自殺して、きみは生き残るんだ」
「つまり、きみがいうのは、ぼくが生存を望むほど卑屈なやつだ、という意味ですか?」
 彼はこういう場合、こういう会話を続けるのが、はたして有利か不利か決しかねたので、『なり行きにまかせよう』と決心した。しかし、キリーロフの優越の調子と、まるで隠そうともしないいつもながらの侮蔑の色が、以前からしじゅう彼をいらいらさせていたが、今はどういうわけか、前よりいっそうひどく感じられた。或いはこういうわけかもしれない、――もう一時間ばかり経ったら、死なねばならぬキリーロフが(彼は今でもやはりそれを念頭においていたので)、彼の目から見ると、何かこう半人[#「半人」に傍点]ともいうべきもののように思われて、とうてい傲慢な態度なぞ許さるべきでないような気がしたのである。
「きみはどうやらぼくに対して、自殺を自慢してるようですね?」
「ぼくはみんながのめのめ生き残っているのを、いつも不思議に思ってるんだよ」キリーロフは相手の言葉に耳もかさなかった。
「ふん、それも一つの観念だが、しかし……」
「猿、きみはぼくをまるめ込もうと思って、相槌ばかり打ってるじゃないか。黙ってろ、きみなんか何もわからないんだ。もし神がないとすれば、その時はぼくが神なのだ」
「それそれ、ぼくはきみの説の中で、その点がどうしてもはらに入らなかったのです。なぜきみが神なんでしょう?」
「もし神があれば、神の意志がすべてだ。したがって、ぼくも神の意志から一歩も出られないわけだ。ところが、神がないとすれば、もうぼくの意志がすべてだ、したがって、ぼくは我意を主張する義務があるわけだ」
「我意? しかし、なぜ義務があるんでしょう」
「なぜって、いっさいがぼくの意志だからだ。人間は神を滅ぼして、我意を信じておりながら、最も完全なる意味において、この我意を主張する勇気のあるものは、わが地球上に、はたして一人もいないのだろうか? それはちょうど、貧しいものが遺産を相続して、度胆を抜かれたため、自分でそれを領有する力がないと思い込んで、金の袋に近寄る勇気が出ないのと同じ理屈だ。ぼくは我意を主張したのだ。一人きりでもかまわない。ぼくはあえて断行する」
「断行したらいいでしょう」
「ぼくは自殺する義務があるのだ。なぜって、ぼくの我意の最も完全な点は、――ほかでもない、自分で自分を殺すことにあるからだ」
「だって、自殺するのはきみ一人っきりじゃありませんぜ。自殺するものはたくさんあります」
「しかし、みなそれぞれ理由がある。ところが、いっさい理由なしに、自分の我意のためのみに自殺するのは、ぼく一人きりなんだ」
『自殺しやしない』またしてもピョートルの頭に、こういう考えが閃めいた。
「ねえ、きみ」と彼はいらだたしげにいい出した。「ぼくがきみの位置に立ったら、自分の我意を示すために、自分を殺さないで、だれかほかの人を殺しますよ。そのほうがよっぽど役に立ちますぜ。もしびっくりなさらなけりゃ、だれを殺したらいいか、ぼくが教えてあげますがね。そうすれば、或いはきょう自殺しなくてもいいかもしれませんよ。相談のしようがありますぜ」
「他人を殺すのは、ぼくの我意の中で最も卑劣な点なのだ。その言葉のなかに、きみの全面目が現われてるよ。ぼくはきみとは違う。ぼくは最高の点を欲する、だから自殺するのだ」
『自分相当のところまで行きついたな』とピョートルは毒々しげにつぶやいた。
「ぼくは自分の不信を宣告する義務がある」キリーロフは部屋の中を歩き廻った。「ぼくにとっては、『神はなし』というより以上に高遠な思想は、ほかにないのだ。ぼくの味方は人類の歴史だ。人間は自殺しないで暮らすために、神を考え出すことばかりしてきたものだ。従来の世界史は、これだけのことだったのだ。ところが、ぼくは全世界史中のただ一人として、初めて神を考え出すことを拒否したのだ。人類はこれを知って、永久に記憶しなければならぬ」
『自殺しやしない』とピョートルは内心気を揉んだ。
「だれが知るもんですか?」彼は突っついた。「ここにはきみとぼくしかいないじゃありませんか。リプーチンのことでもいってるんですか?」
「みんな知らなきゃならない。みんな知るに相違ない……この世には、明るみへ出ないような秘密は一つもない。これは『彼』のいったことだ」
 こういいながら、彼は熱病やみのような興奮のていで、救世主の聖像をさした。その前には燈明が燃えていた。ピョートルはすっかり業を煮やしてしまった。
「じゃ、きみはやはり『彼』を信じて、お燈明なんか上げてるんですね。それはまさか、『万一の場合』のためじゃないでしょうね?」
 こちらはいつまでも黙っていた。
「ねえ、ぼくの目から見ると、きみはどうも坊さん以上に信仰してるらしいですよ」
「だれを? 『彼』を? まあ、聞きたまえ」じっと坐って動かぬ、激昂した目つきで、前方をじっと凝視しながら、キリーロフは急に歩みをとめた。「一つきみに偉大なる思想を聞かしてやろう。かつてこの地上に一つの日があった。そして、この地球の真ん中に、三つの十字架が立っていた。十字架の上にあった一人は、きわめて深い信仰を有していたので、いま一人の者に向かって『お前は今日わしといっしょに天国におもむくだろう』とまで断言した。やがてその日は終わって、二人とも死んでしまった。そして、ともに旅路に上ったけれど、天国も復活も発見できなかった。予見はついに適中しなかった。いいか、この人は全地球における最高の人で、地球の生活の目的となっていたのだ。この一個の遊星も、その上にあるいっさいのものも、この人がなかったら、ただの狂乱世界にすぎない。この人の前にも後にも、これくらいの人はかつて出て来なかった。それはじっさい奇蹟といっていいくらいだ。つまり、こういう人はこれまでにもなかったし、今後もけっして出て来そうにない、そこに奇蹟が含まれてるわけなのだ。もしそうとすれば、もし自然律がこの人[#「この人」に傍点]をも容赦しないで、――自分の奇蹟さえ容赦しないで、『彼』をして偽りの中に生き、偽りのために死なしめたとすれば、当然この遊星ぜんたいが虚偽の塊りで、愚かしい嘲笑と欺瞞の上に立ってるわけなのだ。してみると、この遊星の法則そのものが虚偽なのだ、悪魔の喜劇なのだ。いったいなんのために生きるのだ、もしきみが人間なら答えて見ろ」
「それは、話が別の方向へそれたんですよ。きみの頭の中では二つの異なった原因が、いっしょくたになっているらしいですね。これはどうもよくない徴候ですぜ。しかし、失礼ですがね、もしきみが神だとすれば、どうなんでしょう? もし虚偽が終わりを告げて、きみが忽然と『いっさいの虚偽は古き神があったからにすぎない』と悟ったとすれば、いったいどうなんでしょうね?」
「とうとうきみもわかったな!」とキリーロフは歓喜の声を上げた。「きみのような人間でさえわかったとすれば、つまり、だれでも理解できるわけなのだ。今こそわかったろう、万人のための救いの道は、すべての者にこの思想を証明するにあるんだ。ところで、だれがそれを証明するのだろう? ぼくなのだ! ぼくは合点がいかない、――どういうわけでこれまでの無神論者は、神がないということを知りながら、同時に自殺せずにいられたのだろう? また神がないと自覚しながら、同時に自分が神になったと自覚しないのは、もうまったく無意味だ。そうでなかったら、どうしても自殺せずにいられないはずだ。もしそれを自覚したら、――もうその人は帝王だ、もう自殺などしないで、最高の栄誉の中に生きていけるのだ。けれど、ただ一人だけ、つまり最初にそれを自覚した者は、必ず自殺しなければならぬ。でなけりゃ、だれがいったい始めるんだ、だれがいったい証明するんだ? ぼくはそれを始めるために、それを証明するために、必ず自殺をするつもりだ、ぼくはまだ仕方なしの神だから不幸だよ。なぜって、我意を主張する義務がある[#「義務がある」に傍点]からだ。すべての人は不幸だ。それは我意を主張することを恐れているからだ。今まで人間があんなに不幸でみじめだったのは、我意の最も肝要な点を主張することを恐れて、まるで小学生のように、そっと隅っこで我意をふるっていたからだ。ぼくは恐ろしく不幸だ、それは恐ろしく怖がってるからだ。恐怖という奴は人間の呪いだ……しかし、ぼくは我意を主張する。ぼくは自分の無信仰を信ずる義務がある。ぼくは開始して、そして終結する。ぼくは扉を開く、そうして救ってやる。すべての人間を救って、次の時代に、彼らを生理的に改造することのできる方法は、ただこれ一つしきゃないのだ。だって、ぼくの考えるかぎりでは、今のような生理的状態では、人間が古い神なしにやって行くことは、しょせん不可能だからね。ぼくは三年の間、自分の神の属性を求めて、やっとこの頃それを発見した。ぼくの神の属性は、――ほかでもない我意[#「我意」に傍点]だ! これこそぼくが最高の意味において自分の独立不羈と、新しい恐るべき自由を示し得る、唯一の方法なのだ。実際この自由は恐ろしいものなんだからね。ぼくは自分の独立不羈と、新しい恐るべき自由を示すために、自分で自分を殺すのだ」
 彼の顔は不自然にあおざめて、目つきは堪えがたいまでに重苦しそうだった。彼はさながら熱病やみのようだった。ピョートルは、今にも彼が倒れやしないかと思った。
「さあ、ペンを取ってくれ!」突然キリーロフは、感激の頂点に立ったかのように、思いがけなくこう叫んだ。「口授しろ、ぼくは何にでも署名してやる。シャートフを殺したことにも署名してやる。さあ、ぼくが滑稽に感じてるうちに、なんでも口授するがいい。ぼくは高慢ちきな奴隷どもの意見なぞ、少しも恐れやしないんだ! すべて秘密なものはやがて明るみへ出るものだということを、きみも自分で合点するだろうよ! きみなんかは押し潰されてしまうんだ……ぼくはそれを信じる、信じなくってさ!」
 ピョートルは座を躍りあがって、さっそくインキ壺と紙を持って来た。そして、適当な瞬間を狙いながら、成功を気づかって胸を躍らせつつ、口授し始めた。
『余アレクセイ・キリーロフは左の事実を宣言す……』
「ちょっと待ってくれ。ぼくはいやだ! いったいだれに宣言するのだ!」
 キリーロフはまるで熱病やみのように慄えていた。この宣言ということと、それに関する一種特別な思いがけない想念は、とつぜん彼の全身全霊を呑みつくしたらしかった。それは悩み疲れた彼の魂が、ほんの瞬間ではあるけれど、まっしぐらに飛びかかった一縷の光明であった。
「だれに宣言するのだ? ぼくはぜひそれを知りたい!」
「だれでもない、すべての者です、最初にこれを読む人間です。何もそんなことを決めてかかる必要は、ないじゃありませんか。つまり、全世界ですよ!」
「全世界! ブラーヴォ! そして、後悔めいたことは抜きだ。ぼくは後悔なんかするのはいやだ。官憲などに呼びかけるのはいやだ!」
「ええ、むろんですよ。そんな必要はありゃしない。官憲なんかくそ食らえだ! さあ、お書きなさいよ、もしきみが真面目にその気があるのなら!………」とピョートルはヒステリックに叫んだ。
「待ってくれ! ぼくは上のほうに、舌を吐き出したつらを描きたいんだ」
「ええ、くだらないことを?」ピョートルは業を煮やしてしまった。「画なんかなくたって、そんなことはみんな調子一つで出せるんですよ」
「調子で? そいつはいい、そうだ、調子だ、調子だ! 調子で口授してくれ!」
『余アレクセイ・キリーロフは』キリーロフの肩さきにかがみかかって、興奮のあまりぶるぶる慄える手で、しるしゆく文字を一つ一つ注視しながら、ピョートルはしっかりした命令的な語調で口授しはじめた。『余キリーロフは左の事実を宣言す。すなわち今十月×日午後七時すぐる頃、大学生シャートフを公園内にて殺害せり。その原因は彼が節を変じて、余ら両人の居住せるフィリッポフの持ち家に、十日間滞在宿泊したるフェージカ、並びに檄文の件に関して、密告を企てるがためなり。さわれ、余が今夜ピストルをもって自殺せんとするは、あえて後悔恐怖のゆえに非ず、すでに外国在留時代より、自己の生命を断たんとの意志を、有したるがためなり」
「たったそれだけかい?」驚きと不満の色を浮かべながら、キリーロフはこう叫んだ。
「もうひと言も書いちゃいけません!」隙もあらばこの証書を、彼の手からもぎ取ろうと狙いながら、ピョートルは手を振って見せた。
「待ってくれ!」キリーロフは手をしかと紙の上にのせた。
「待ってくれ、そんな馬鹿なことがあるものか! ぼくはだれといっしょにやったか書きたいのだ。それにフェージカのことなぞなんのために? そして、火事は? ぼくはみんな書きたいのだ、その調子というやつでもっと罵倒してやりたいんだ、調子というやつで!」
「たくさんですよ、キリーロフ君、本当にたくさんですよ!」今にも手紙を引き裂かれはしないかと、びくびくしながら、ピョートルはほとんど祈らないばかりにいった。「人を本当にさせるには、できるだけぼんやりさせとかなくちゃ。つまり、これでいいんです、ほんのちょっと匂わしただけでいいんです。事実というやつは、ほんの隅っこだけ見せなきゃ駄目です。つまり、みんなをからかうだけでたくさんです。人間てやつはいつでも人にだまされるよりは、自分で自分によけい嘘をつきたがるものです。そして、むろん人の嘘よりは自分の嘘のほうをよけい信じるんです。しかも、それが何より好都合なんですよ! 一ばん好都合なんですよ! さあ、およこしなさい、それでけっこう。さあ、およこしなさいというのに!」
 こういいながら、彼は紙をもぎ取ろうと努めた。キリーロフは目を剥き出して、耳を傾け、何やら一生懸命に理解しようと、骨折っているらしかった。彼はすでに理解力を失ったようなふうだった。
「ええ、畜生!」ふいにピョートルは怒り出した。「ああ、まだ署名してないんだ。なんだってきみはそう目を剥き出すんです? 署名をしなさいったら!」
「ぼくは罵倒したいんだ……」とキリーロフはつぶやいたが、それでもペンを取り上げて、署名した。「ぼくは罵倒したいんだ……」
「〔Vive la re'publique〕(共和国万歳)と書きたまえ、それでたくさんですよ」
「うまい!」キリーロフは嬉しさのあまり、咆えるように叫んだ。「〔Vive la re'publique de'mocratique, sociale et universelle ou la mort!〕(民主的、社会的、国際的共和国万歳、しからずんば死)いや、これでは違う。〔Liberte', e'galite, fraternite', ou la mort!〕(自由、平等、同胞愛、しからずんば死)あ、このほうがいい、このほうがいい」彼はさも心地よげに、自分の署名の下にこう書いた。
「たくさんです、たくさんです」とピョートルは相変わらずくり返した。
「待ってくれ、もう少し……ねえ、きみ、ぼくはも一どフランス語で署名するよ。de Kiriloff, gentilhomme russe et citoyen du monde.(ロシヤの貴族にして世界の市民キリーロフ)ははは!」と彼は笑い崩れた。「いや、いや、いや、待ってくれ、もっといいのを考えついたぞ、こいつは素敵だ。〔Gentilhomme-se'minariste russe et citoyen du monde civilise'!〕(ロシヤの貴族的神学生にして文明世界の市民!)これが何より一番だ……」彼はいきなり長いすから跳びあがって、ふいに素早い手つきで窓からピストルを取り上げると、そのまま次の間へ駆け込んで、しっかりとドアを閉めてしまった。
 ピョートルは一分間ばかりもの思わしげに、ドアを眺めながら立っていた。
『今すぐなら、或いはやっつけるかもしれないが、考え始めでもしようものなら、なんのこともなしにすんでしまうに相違ない』
 彼はこの間《ま》にと、紙を取って座に着くと、もう一度それを読み返した。宣言の書き方はいま読んでみても、やはり彼の気に入った。
『今のところ、どういうことが必要なのかなあ? しばらくの間、すっかり世間のやつらをまごつかせてしまって、注意をそらしてやらねばならない。公園……しかし、この町には公園がないから、いやでもスクヴァレーシニキイと気がつくだろう。こう気がつくまでに、だいぶ時日がかかる、それからさがしてるうちに、また時日が経つ。そのうちにやっと死骸が見つかって、なるほど本当が書いてあったと、合点がいくに相違ない。してみると、何もかも本当だ、フェージカのことも本当だということになる。ところで、フェージカとはいったい何者だろう? フェージカは火事の本体だ、レビャードキン事件の本体だ。したがって、何もかもあすこから、――フィリッポフの家から出たのだ。それだのに、自分たちはなんにも気がつかなかった。何もかも見落としていたのだ、とこういうことになるんだから、あいつらの目はすっかりくらんでしまうわけだ! 仲間[#「仲間」に傍点]のことなんぞは思いそめもしない。シャートフにキリーロフ、それにフェージカとレビャードキンだ。いったいこの連中がどういうわけで互いに殺し合ったのか、こいつがまだちょっとした疑問になると。ええ、こん畜生、まだピストルの音が聞こえないぞ!………』
 彼は遺書を読んで、その書き方に興味を持ってはいたが、それでも絶えず悩ましい不安の念をいだきながら、一心に耳を澄ましていた、――と、ふいにむらむらとなった。彼は不安げに時計を眺めた。もうだいぶ遅かった。キリーロフが去ってからもう十分ばかりになる……彼は蝋燭を取って、キリーロフの閉じこもった戸口へおもむいた。ちょうど戸口のところで、もう蝋燭はだいぶ残り少なになって、いま二十分も経ったら燃え尽きてしまう、しかも、ほかには一本もないのだ、――ということがふと頭に浮かんだ。彼はハンドルに手をかけて、用心ぶかく耳を澄ましたが、こそとの物音も聞こえなかった。彼はいきなり戸を開けて、蝋燭をかかげた。と、何ものかが呻き声を立てながら、彼のほうへ飛びかかって来た。彼は力まかせにドアをぴしゃんと叩きつけて、ふたたびそれを肩で強く抑えた。けれども、あたりはもうひっそりして、また死のような静寂に返った。
 長いこと彼は蝋燭を手にしたまま、決しかねたようにたたずんでいた。いまドアを開けた一瞬間に、彼はほんのちらりとしか中の様子を見分けることができなかったが、それでも部屋の奥の窓近く立っているキリーロフの顔と、ふいに自分のほうへ飛びかかって来た彼の野獣のような、獰猛な意気組とが目をかすめたのである。ピョートルはぎくりとなって、手早く蝋燭をテーブルの上に置くと、ピストルを用意して、反対側の隅へ爪立ちでひょいと飛びのいた。で、もしキリーロフがドアを開けて、ピストルを手にテーブルのほうへ飛び出したにしても、彼はキリーロフに先んじて狙いを定め、引金を下ろすことができるのだった。
 自殺などということは、ピョートルも今はまったく本当にしなかった。
『部屋の真ん中に立って、考え込んでいたっけ』こういう想念がまるで旋風のように、ピョートルの頭脳を走り過ぎた。『それに、真っ暗な恐ろしい部屋だ……あいつ恐ろしい呻き声を立てて飛びかかったが、あれには二つの可能性が含まれてるわけだ、――つまり、あいつが引金を下ろそうとした瞬間に、おれがかえって邪魔をしたのか、それとも……それとも、あすこにじっと立っていて、どうしておれを殺したものかと、考えてたのかもしれない。そうだ、それはそうに違いない、あいつ考えてたのだ……もしあいつが臆病風を吹かしたら、おれはあいつを殺さずに帰らないってことを、きゃつも自分で承知してるのだ、――つまり、あいつの身になったら、おれに殺されないさきに、自分のほうからおれを殺さなきゃならないわけだ……ああ、また、またしても向こうがひっそりした! 本当に恐ろしいくらいだ。出しぬけに戸を開けたらどうだろう……何よりもいまいましいのは、きゃつが坊主以上に神を信じてることだ……もうけっして自殺なんかしっこない!………あの『自分相当のところへ行き着いた』連中が、このごろ馬鹿に殖えて来やがった。やくざ者め! ふう、こん畜生、蝋燭が、蝋燭が! もう十五分たったら、きっとなくなってしまう……早く片づけてしまわなきゃ。どんなことがあったって、片づけなきゃならない……どうなるものか、こうなったら、もう殺したってかまわないのだ。この手紙があったら、どんなやつだって、おれが殺したなどと、考える気づかいはない。あいつの手に発射したピストルを握らせて、床の上に具合よくねかしておいたら、必ずやつが自分でやったものと思うに違いない……ええ、あん畜生、どうして殺してやろうかなあ? おれが戸を開けると、やつがまた飛びかかって来て、おれよりさきに火蓋を切ったら……ええ、畜生、きっとしくじるに相違ない!』
 彼は相手の心中を測りかねて、自分の不決断に身を慄わしながら、悩みつづけていたが、とうとう蝋燭を手に取り、ピストルをさし上げて身がまえしながら、戸口のほうへ近づいた。そして、蝋燭を持っている左の手で、錠前のハンドルをじっと抑えた。けれども、それがうまくいかなかった。ハンドルがかちりと鳴って、軋むような音を立てたのである。『もうきっと射つ!』という考えが、ピョートルの頭に閃めいた。彼は力まかせに足で戸を蹴放して、蝋燭を上げながらピストルをさしつけた。けれど、発射の音も叫び声も聞こえなかった……部屋の中にはだれ一人いないのだ。
 彼はびくっとした。それは通り抜けられない、がらんとした部屋で、逃げ出す道などはどこにもなかった、彼はなおも蝋燭をさし上げて、じっとあたりを見透かした。まったくだれ一人いなかった。彼は小声にキリーロフを呼んで見た。それからまた一度、やや大きな声で……が、だれも答えるものがなかった。
『まさか窓から逃げ出しゃしまいな?』
 実際、一つの窓の通風口が開いていた。『馬鹿な。通風口から逃げ出すはずはない』ピョートルは部屋を突っ切って、窓に近寄った。『けっしてそんなはずはない』と、ふいに彼はくるりと振り返った。何やら異常なあるものが、彼の全幅を震撼したのである。
 窓に向かった壁に沿うて、戸口から右手に戸棚が一つ立っていた。この戸棚の右側に当って、壁と戸棚の間にできた凹みの中に、キリーロフが立っていたのである。しかも、その様子が、恐ろしく奇怪千万なものだった、――じっと身動きもしないで、全身を反り返らせ、両手をズボンの縫い目に当てたまま、首をぐっと上げて、うしろ頭をぴったり壁の真隅に押しつけている様子は、まるで姿を掻き消して隠れてしまいたそうなふうだった。あらゆる点から推して、本当に隠れようとしたものに相違なかった。けれど、なんだか本当にできなかった。ピョートルはその隅から少し斜めに立っていたので、ただ相手の姿の飛び出ているところだけしか観察できなかった。彼はもっと左のほうへ歩を移して、キリーロフの全身を見すかした上、謎の意味を解こうという決心が、まだつかなかったのである。彼の心臓は烈しく打ち始めた……と、ふいに極度の狂憤が彼をおそった。彼は身を躍らして、叫び声を立てると、地だんだを踏みながら、猛然として、かの気味わるい場所へ飛びかかった。
 しかし、ぴたりと傍へ近寄ったとき、ふたたび前にも増した恐怖に打たれて、まるで釘付けにされたように立ちどまった。彼が心を打たれたおもな原因は、恐ろしい叫び声にも、気ちがいじみた飛びかかりようにもかかわらず、この立姿がまるで化石したものか、または蝋細工かなんぞのように、少しも身動きしないばかりか、手一本、足一本ぴくりともさせないことだった。あおざめた顔色も不自然だし、黒い両眼もきっと据わって、どこか空中の一点を凝視していた。ピョートルは蝋燭を上から下へ、それからさらに下から上へ移しながら、あらゆる点をも洩らさず照らし出して、この顔を見極めようとした。彼はふと気がついた。キリーロフはどこか前のほうを見つめてはいるけれど、横目でピョートルのほうを見ているばかりか、ことによったら、仔細に観察しているかもしれないのだ。この時ある考えが彼の心に浮かんだ、一つこの灯をいきなり、『あん畜生』の鼻先へ持って行って、やけどをさして、どうするか見てやろう。と、ふいにキリーロフの顎がぴくりと動いて、その唇の上には、まるでこっちのはらの中を察したかのように、冷笑的な薄笑いがすべって通ったような気がした。彼は思わず身震いしながら、われを忘れて、強くキリーロフの肩をつかんだ。
 これに続いて、何かしら思い切って醜悪なことが、電光石火のように起こったのである。ピョートルも後になって、この時の記憶を秩序だって整頓することが、どうしてもできなかった。彼がキリーロフにさわるかさわらないかに、こちらはすばやく首を前へかがめて、頭で蝋燭を彼の手から叩き落としてしまった。燭台はからりと音を立てて床へ飛び、あかりは消えてしまった。その瞬間、彼は自分の左手の小指に、恐ろしい疼痛を感じた。彼はきゃっと叫んだ。それからあとは、こっちにのしかかりながら指をかんだキリーロフの頭を、ただもう前後を忘れて三度ばかり、ピストルで力まかせに撲りつけたことを、おぼえているばかりだった。やっと彼は指をもぎ放すと、暗闇の中に道をさぐりながら、後をも見ずに家を駆け出した。その後から追いかけるように、恐ろしい叫び声が部屋の中から飛んで出た。
「すぐ、すぐ、すぐ、すぐ!………」
 これが十度ばかりくり返された。しかし、彼はひた走りに走って、やっと玄関口の廊下まで走り出た。と、ふいにピストルの音が高々と鳴りわたった。このとき彼は廊下の暗闇に足をとめて、五分ばかり想像をめぐらしていた。ついに彼はふたたび部屋へ引っ返した。まず蝋燭を手に入れねばならなかった。それには、戸棚の右手で床の上へ叩き落とされた燭台を、拾い上げさえすればよいわけだが、しかし、どうして燃えさしの蝋燭に火を点けたらよかろう? ふと彼の心に、一つのぼんやりした記憶が浮かんだ。きのう台所へ駆け下りて、フェージカに飛びかかったとき、片隅の棚の上にマッチの赤い大きな箱を、ちらと見たような気がするのであった。彼は手さぐりで、左手にある台所の戸をさして進んだ。戸はすぐ見つかった。彼は入口の間を抜けて階段を下りた。棚の上には、いま彼が思い浮かべたのとちょうど同じ場所に、まだ口を切ってない、大きなマッチの箱が置いてあるのを、彼は暗闇の中でさぐり当てた。そのまま火をつけないで、急いで上のほうへ引っ返した。やっと例の戸棚の傍、――さっき彼の指に咬みついたキリーロフを、ピストルで撲りつけた場所まで来ると、彼はとつぜん咬まれた指のことを思い出した。その瞬間、ほとんど堪えがたい痛みを覚え始めた。
 彼は歯を食いしばりながら、やっとのことで、蝋燭の燃え残りに火をつけると、それをまた燭台にさして、あたりを見廻した。通風口を開けた窓の傍ちかく、足を部屋の右隅へ向けながら、キリーロフの死体が横たわっていた。弾丸は右のこめかみから打ち込まれ、頭蓋骨を突き抜けて左側から上のほうへ出ていた。血や脳味噌のはねている痕が見えた。ピストルは床の上に投げ出された自殺者の手中に残っていた。死は瞬間的に遂げられたものらしい。すっかり綿密にすべての模様を検査すると、ピョートルは身を起こして、爪先立ちで部屋を出た。そして、後の戸を閉めて、蝋燭をもとの部屋のテーブルの上に立てた。彼はちょっと思案したが、火事など起こす心配はないと考えたので、消さずにおくことに決心した。テーブルの上にのせてある遺書に、もう一ど目を落とすと、彼は機械的ににたりと笑って、なぜか依然として爪先立ちで、足音を偸みながら、今度はいよいよこの家を出てしまった。彼はまたもやフェージカの抜け穴を潜って、ふたたびきちょうめんにその後をふさいでおいた。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 かっきり六時十分まえ、停車場のプラットフォームに、かなり長く続いている列車の傍を、ピョートルとエルケリが歩いていた。ピョートルがこれから出発するので、エルケリは別れを告げに来たのである。手荷物はすでに預けてしまったし、手カバンは二等車内に取っておいた自分の場所へ運んであった。第一鈴はもうとうに鳴って、人々は第二鈴を待ちかねているのであった。ピョートルは列車の中へ入って行く旅客を観察しながら、公然とあたりを見廻していた。親しい知人はほとんど見当たらなかった。ただ二度ほど軽く会釈したばかりである。一人は間接に知っている商人で、一人は二《ふた》停車場ほどさきにある自分の教区へ出かける若い田舎牧師だった。エルケリはこの最後の瞬間に、もっと重大なことを話したくてたまらないらしかった、――もっとも、はっきりどういうことなのかは、自分でもわかっていないのかもしれぬ、――けれど、自分のほうから切り出す勇気もなかった。彼はどうもピョートルが自分を邪魔にして、早く最後のベルが鳴ればいいと、じりじりしながら待っているような気がしてならなかった。
「あなたは思い切って公然と、みんなの顔を見ていますね」彼は相手を警戒しようとでもするように、何となく臆病げな調子で注意した。
「どうしていけないんだろう? ぼくはまだ隠れるわけにいかないよ。早すぎるからね。心配しないでくれたまえ。ぼくはただあのリプーチンの野郎が来やしないかと、それだけびくびくしているんだよ。嗅ぎつけて、やって来るかもしれないからね」
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、あの連中は望みがありませんよ」断固とした調子でエルケリ[#「エルケリ」は底本では「エリケリ」]がいった。
「リプーチンかい?」
「みんなですよ、ピョートル・スチェパーノヴィチ」
「くだらないことを。今あの連中は、みんな昨日のことで結びつけられてるのだ。一人だって裏切るものはありゃしない。理性というものを失わないかぎり、だれがみすみす滅亡の淵に飛び込むものかね?」
「ピョートル・スチェパーノヴィチ[#「スチェパーノヴィチ」は底本では「スチェパーノヴイチ」]、あの連中はみんな理性を失いますよ」
 こうした懸念はすでに一度ならず、ピョートルの心に忍び込んだものらしい。それでエルケリの意見は、いっそう彼をむらむらとさせたのである。
「エルケリ君、きみまで臆病風を吹かせ出したのじゃないかね? ぼくはあの連中をすっかり束にしたよりも、むしろきみ一人のほうに望みを嘱しているんだよ。ぼくは一人一人の仲間が、どれだけの価値を有しているか、今こそすっかりわかった。きみ、きょうにもさっそくあの連中に、口頭ですっかり報告してくれたまえ。ぼくはあの連中をぜんぜんきみに一任するから。ひとつ朝からみんなのところを廻ってくれたまえ。ぼくの訓令は明日か明後日、みんなに聞き分けるだけの落ちつきができた頃、どこかに集めて読んで聞かしたらいいよ……しかし、ぼくが請け合っておくがね、あの連中は明日にもそれだけの落ちつきができるよ。人間はおじけがつくと、まるで蝋のように従順になるものだからね……が、何よりも第一に、きみのほうから元気を落とさないようにしたまえ……」
「ああ、ピョートル・スチェパーノヴィチ[#「スチェパーノヴィチ」は底本では「スチェパーノヴイチ」]、あなた、いらっしゃらなきゃいいんですがねえ!」
「なに、ほんの二、三日の旅だよ。すぐ帰って来る」
「ピョートル・スチェパーノヴィチ」用心深い、けれども、しっかりした声で、エルケリはいい出した。「あなたがペテルブルグへ行かれたってかまやしません。ぼくはちゃんと承知していますよ、あなたは共同の事業のために、必要なことしかなさらないんですからね」
「ぼくは、それより少ない好意をきみから受けるようなことはないだろうと、いつも思っていたよ、エルケリ君。もしペテルブルグへ行くことを察したのなら、あの晩あの際、みなのものを驚かさないために、こんな長旅をするなんていえなかったわけは、きみも察してくれることと思う。あの連中がどんなふうだったか、きみも自分が見て知ってるんだからね。しかし、ぼくは仕事のために、――大切な重要な共同の仕事のために、――出かけるので、リプーチン輩の想像するように、すべり抜けたりなんかするのでないことは、きみも理解してくれるだろう」
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、よしんばあなたが外国へいらっしゃろうと、ぼくは十分理解しますよ。あなたは自分の一身を護る必要があります。なぜなら、あなたはすべてであって、われわれは無ですからね。ぼくはちゃんと理解していますよ、ピョートル・スチェパーノヴィチ」
 哀れな少年は声さえ慄わすのであった。
「ありがとう、エルケリ君……あっ、きみはぼくの痛い指にさわっちゃった(エルケリは無器用に彼の手を握りしめたのである。痛い指は体裁よく黒い絹のきれで縛ってあった)。しかし、ぼくはもう一度明確にいっとくがね、ぼくがペテルブルグに行くのは、ほんの匂いを嗅ぐだけの目的で、一昼夜もいたら、またここへ引っ返すつもりだ。帰って来たら、ぼくは世間の目をごまかすために、田舎のガガーノフのところへ落ちつこうと思っている。もしあの連中が何かで危険を感じたら、ぼくは第一番に出かけて行って、ともにそれを頒つ覚悟だ。もしペテルブルグで滞在が延びるようだったら、すぐ……例の方法できみにお知らせするよ。そして、きみからさらに連中へ伝えてもらうんだ」
 第二鈴が響き渡った。
「ああ、発車までもう五分きりだね。ぼくはね、きみ、ここの仲間がちりぢりになるのが、望ましくないのだ。ぼくは少しも恐れやしない。ぼくのことは心配しないでくれたまえ。結社の網の個々の結び目は、ぼくの掌中にかなりたくさんあるんだから、ここの五人組なんか、何も特別に大切がる必要はないけれど、結び目が一つくらい余計あっても、邪魔にはならないからね。もっとも、ぼくもきみのことは安心してるんだよ。あの片輪どもの傍へ、きみ一人だけ残して行くんだけれどね……心配することはないよ、あの連中はけっして密告しやしない、そんな勇気はありゃしない……ああ、あなたも今日?」ふいに彼は、嬉しげに挨拶に近寄って来るごく年若な男に向かって、まるっきり別なうきうきした声で叫んだ。「あなたもやはり急行で立たれるとは、いっこう知りませんでしたね。どちらへ、お母さんのところへ?」
 この青年は、『お母さん』が隣県で指折りの女地主だったが、ユリヤ夫人の遠縁の親戚に当たっていて、二週間ばかりこの町に滞在していたのである。
「いや、わたしはもっとさきまで、Rまで行きます。八時間ばかり汽車の中に坐ってなきゃなりませんよ。ペテルブルグですか?」と、青年は笑い出した。
「どうして、ぼくがペテルブルグへ行くものと、いきなり想像なすったのでしょう」いっそうあけっ放しな調子で、ピョートルも同じように笑い出した。
 青年は手袋を嵌めた指を立てて、脅かすような手つきをした。
「ええ、そう、お察しのとおりです」ピョートルはさも秘密らしくささやいた。「ぼくはユリヤ夫人の手紙を持って、三、四人ばかり歴訪しなきゃならんところがあるのです。それがどんな人たちでしょう、まったくのところ、馬鹿馬鹿しくなってしまいますよ。いやなお役目ったらありゃしない!」
「しかしねえ、いったいあのひとはなんだって、あんなにおじけてしまったんでしょう?」と青年も同様にささやいた。「昨日あのひとは、わたしさえも部屋へ通してくれないんですよ。わたしなどにいわせれば、あんなにつれあいのことを心配する必要はないのです。それどころか、あの人はまったく見事に火事場で倒れたんじゃありませんか、いわゆる、その、一身を捧げたというわけですからね」
「いや、まあお聞きなさい」とピョートルは笑い出した。「あのひとはね、もうここから……ある人たちが手紙を出してやしないかと、それを恐れてるんですよ。つまり、これについてはスタヴローギン、というより、むしろK公爵がおもな役者なんです……まあ、なにしろ、これには入り組んだわけがあるんです。ひょっとしたら、道々なにかのことをあなたにお話するかも知れませんよ。もちろん騎士道の許す範囲内にかぎりですがね……これはぼくの親類で、少尉補のエルケリです。郡部のほうから出て来たものです」
 今までエルケリのほうへ横目を使っていた青年は、ちょっと帽子に手を添えた。エルケリは挙手の礼をした。
「ねえ、ヴェルホーヴェンスキイさん、汽車の中の八時間は恐ろしい難行ですよ。実はわたしといっしょに、ペレストフという実に面白い大佐が、一等の車に乗ってるんです。隣り領の地主で、ガーリナ、―― 〔ne'e de Garine〕(ガーリン家に生まれた人)を細君にしてるんですがね、なかなかれっきとした人なんですよ。おまけに、自分自身の思想を持っています。この町にはわずか二昼夜しか逗留しなかったです。エララーシュの勝負が馬鹿に好きなんですがね、一つやってみませんか、え? も一人の相手はちゃんと物色しておきました、――プリプーフロフというT町の商人で、顎ひげをたくわえた百万長者です、いや、本当の百万長者です。これはわたしが請け合っておきます……一つあなたをご紹介しましょう。実に面白い金袋です。大いに笑おうじゃありませんか」
「エララーシュならぼくもけっこうですね。汽車の中でやるのはことに愉快ですが、しかし、ぼくは二等ですからね」
「ええ、馬鹿馬鹿しい、そりゃ断じていけません。わたしたちのほうへ越していらっしゃい。さっそくあなたを一等へ移すようにいいつけます。列車長は、わたしのいうことなら聞いてくれるんです。あなたの荷物は何々です、カバン? 膝かけ?」
「けっこう、行きましょう!」
 ピョートルはすぐさま自分のカバンと、膝かけと、書物を持って、恐ろしく気さくに一等車へ移った。エルケリもそれを手伝った。やがて第三鈴が鳴った。
「じゃ、エルケリ君」もう今度は汽車の窓から手をさし伸べながら、ピョートルは忙しそうな様子で、せかせかといい出した。「ぼくはあの連中と勝負を始めるんだよ」
「なんだってぼくに言いわけめいたことをおっしゃるんです、ピョートル・スチェパーノヴィチ。ぼくちゃんと心得てますよ。ぼくすっかり心得てますよ、ピョートル・スチェパーノヴィチ」
「じゃ、また会おう」と彼はいったが、このとき勝負仲間に紹介しようと呼んでいる青年のほうへ、くるりと振り向いてしまった。
 こうして、エルケリは、崇拝してやまぬピョートルを、もはやそれきり見なかったのである。
 彼はきわめて憂欝な様子で家へ帰った。それは何も、ピョートルがとつぜん彼らを棄てたことが心配なためではなかった、が……しかも、彼はあの若い洒落者が呼んだとき、あまりにも思い切りよく自分に背を向けてしまった……それに、『また会おう』などという言葉以外に、何かもっと言い方がありそうなものだ……せめて手なりと、も少し強く握り締めてくれたら……
 この最後の事実が最も重大なことだった。何かしら一種異様なものが、彼の哀れな胸を掻きむしり始めた。それがはたしてなんであるかは、彼自身にもまだわからなかったが、とにかく、昨夜の出来事に関連したものであった。

[#3字下げ]第7章 スチェパン氏の最後の放浪[#「第7章 スチェパン氏の最後の放浪」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 わたしは固く信じている、――スチェパン氏は、自分の気ちがいじみた計画を遂行すべき時期が迫って来るのを感じた時、非常な恐怖におそわれたに相違ない。わたしはまたこうも信じている、――彼はことにその前夜、かの恐ろしい出来事のあった夜などは、一方ならぬ恐怖に悩まされたに相違ない。ナスターシヤが後でいったところによると、彼はもうだいぶ遅くなって床について、それからぐっすり寝込んだとのことである。けれど、そんなことはなんの証明にもならない。死刑を宣告されたものは、刑の執行の前夜ですらも、ぐっすり深い眠りを貪るという話である。実際、彼が家出をしたのは、どんな神経質な人間でも少しは元気を回復する夜あけの後のことであったけれど(ヴィルギンスキイの親戚の少佐なぞは、夜が明けるが早いか、神に対する信仰さえ失うというではないか)、しかし、わたしの信ずるところでは、彼は今まで一度も恐怖の念をいだかずには、こんな状態でただひとり街道をさ迷う自分の姿を、想像することができなかったに相違ない。彼が二十年間すみ馴れた場所と Stasie([#割り注]ナスターシヤ[#割り注終わり])を見すてて、とつぜん踏み込んだ世界の孤独の恐ろしい感覚も、もちろんはじめしばらくの間は、彼の心に含まれている自暴自棄的なあるもののために、かなり力を弱められたことと思われる。しかし、それはどうでもよい。かりに彼が、自分を待ち設けているすべての恐怖を、どんなにはっきり意識していたとしても、それでもやはり街道へ踏み出して、どこまでも進んで行ったに相違ない! どんなことがあるにもせよ、この事実の中には、何かしら誇らしい、心を躍らせるようなところがあった。ああ、彼はヴァルヴァーラ夫人の豊かな条件を受納して、夫人のお情けのもとに『世間並みの居候として』終わることもできたのだ! しかし、彼はそのお情けをありがたく頂戴して、踏みとどまることをいさぎよしとしなかった。こうして、彼はみずから夫人を棄てて、『偉大なる理想の旗幟』を掲げ、その理想のために街道へ死にに行ったのだ! まさに彼はこういうふうに感じたに相違ない、こういうふうにこの行為は彼の目に映ったに相違ない。
 それから、また別な疑問が、一度ならずわたしの脳裡に浮かんだ。ほかでもない、どうして、彼はあんなふうに逃げ出したのだろう? つまり、なぜ字義どおりに自分の足で逃げ出して、馬車に乗らなかったのだろう? わたしは初めこの事実を、彼の五十年にわたる非実際的生活と、烈しい感動にもとづくとっぴな思想の昏迷だと説明していた。駅馬券だの、馬車だのということは(たとえベルがついているにもせよ)、彼にはあまり単純で、散文的に思われたに相違ない。ところが、その反対に巡礼旅行というやつは、たとえ蝙蝠《こうもり》傘など提げて行くにもせよ、遙かに美しく、そして復讐的な懐かしさを持っているように感じられる、――こうわたしは想像していたのである。しかし、いっさいが終わりを告げた今となってみると、こういうことはその当時、ずっと簡単に決行されたものらしく思われる。第一、彼は馬車を雇うことを恐れたに相違ない。そんなことをすれば、ヴァルヴァーラ夫人が嗅ぎつけて、無理やりに引き留めるおそれがあったからである。実際、夫人はそれを実行したろうし、彼も必ずそれに従ったに相違ない、――そうしたら、偉大なる理想も永久におじゃんになってしまう。
 第二の理由としては、駅馬券をもらうには、少なくとも、目的地を知っていなければならない。ところが、その目的地を知るということが、この際、彼にとって、最も大きな苦痛だったのである。彼はその土地を決めて名ざすことが、どうしてもできなかった。なぜといって、もしどこそこの町と決めてしまったら、もうその瞬間から彼の企ては、彼自身の目から見ても、馬鹿馬鹿しい不可能なものとなってしまうからである。彼はこの点を十分に感じていたのである。実際どこそこの町ときまったところで、彼は何をしようというのだろう? なぜどこかほかの町ではいけないのだ? 例の商人《マルシャン》でもさがそうというのか? しかし、いったいどんな商人《マルシャン》だろう。ここでまたしても、彼にとって何よりも恐ろしい、この第二の疑問が浮かび出たのである。事実、彼にとっては、この商人《マルシャン》ほど恐ろしいものはほかにないのだ。彼は今とつぜん向こう見ずに、この商人《マルシャン》をさがしに飛び出しはしたものの、もちろん、実地にそれをさがし当てるのが何より恐ろしかったのである。いや、もうむしろただの街道がいい、ただ飄然と街道へ踏み込んで、考えずにいられる間はなんにも考えないで、ただ歩けばいいのだ。街道、――それはまるで人生そのもののように、人間の空想のように、何かしら長い、長い、果ても見えないようなものだ。街道の中には思想が含まれている。ところが、駅馬券にどんな思想がある? 駅馬券は思想の終焉だ…… vive la grande route.(街道万歳)さきになったら、またさきのことだ。
 リーザとの思いがけない唐突な邂逅の後(このことはもう前に記しておいた)、彼はいっそう忘我の境に陥ちながら、さきへさきへと進んで行った。街道はスクヴァレーシニキイから、半露里ばかりのところをうねっていたが、――不思議なことには、――彼は初めどうして街道へ踏み込んだか、まるで気がつかなかったくらいである。物事を根本的に判断したり、はっきりと意識したりするのは、このとき彼にとって堪えがたいことであった。細かい雨はやんだり、また降ったりしていた。けれど、彼は雨などにはまるで気がつかなかった。またカバンを肩へ振りかけて、そのために歩きよくなったのにも、やはり気がつかないでいた。こういうふうにして一露里か、一露里半も歩いたろうと思う頃、彼はとつぜん足をとめて、あたりを見廻した。車の轍《わだち》で一面に抉られた、古い、黒々とした街道は、両側にお決まりの楊《やなぎ》をつらねながら、果てしもない糸のように眼前に延びていた。右側は、もうとっくの昔に刈入れのすんだ真っ裸の畑で、左側は灌木の繁みの向こうにちょっとした林が続いている。ずっと遙か向こうのほうには、鉄道線路が斜めに奥へ入り込んでいるのが、あるかなきかに眺められて、その上には何か列車の煙が見えているが、音はもう聞こえなかった。
 スチェパン氏は少しおじけがついて来た、が、それもほんの一瞬間だった。なんというわけもなく、ほっと溜め息をつきながら、彼はカバンを楊の傍に置いて、まず一休みと腰を下ろした。腰を下ろそうとして、身を動かした時、彼は身内にいやな悪寒を覚えて、膝かけに身をくるんだ。と、そのとき初めて雨に気がついて、蝙蝠傘を拡げた。彼はときおり唇をもぐもぐさせながら、しっかりと傘の柄を手に握りしめ、かなり長い間こうして坐っていた。さまざまな幻像が後から後からと、急速に変わりながら、奇怪な列をなして彼の目の前を通り過ぎた。
『リーズ、リーズ』と彼は考えた。『あの娘《こ》といっしょにモーリイスがいたっけ……奇妙な人たちだ……しかし、あの火事は、なんという不思議な火事だったろう。それに、あの娘はいったいなんのことをいったんだろう? いったいだれが殺されたんだろう? 大方スタシーはまだなんにも知らないで、コーヒーでも用意しておれを待ってるだろう……カルタ? いったいおれはカルタに負けて人を売ったかしら? ふむ! このロシヤでは、いわゆる農奴制時代に……あっ、そうだ、フェージカ!』
 彼は驚きのあまりびくりとなって、あたりを見廻した。
『ああ、もしどこかその辺の藪の蔭に、あのフェージカが隠れてたらどうだろう。なんでも、人の話では、あいつはどこか街道で追剥ぎの徒党を作ってるそうだからなあ! ああ、そのときおれは……その時こそおれはあの男に向かって、自分が悪かったと、正直にありのままをいってしまおう……そして、おれが十年間というもの[#「おれが十年間というもの」に傍点]、あの男が軍隊で苦労したより、ずっと余計あの男のために苦しんだことを聞かしてやろう、そして……そして、紙入れをくれてやってしまおう。ふむ! 〔J'ai en tout quarante roubles; il prendra les roubles et il me tuera tout de me^me.〕(おれはみんなで四十ルーブリ持っている。あいつはその金を取っても、やはりおれを殺すだろうなあ)』
 彼は恐怖のあまり、なんのためやら傘をつぼめて、自分の傍へ置いた。このとき遙か向こうの町のほうから、何か田舎馬車のようなものが街道に現われた。彼は不安げに見透しはじめた。
『〔Gra^ce a` Dieu.〕(ありがたい)あれは田舎馬車だ、そして、ゆっくりやって来るようだ。あれなら別に危険なはずがない。あれはへとへとにこき使われたこの辺のやくざ馬だ……おれはいつも馬種を論じていたものだが……いや、あれはピョートル・イリッチがクラブで馬種を論じたので、おれはあの男をカルタで負かしたんだっけ。そして……しかし、あのうしろにいるのはなんだろう? どうやら百姓の女房が馬車に乗っているらしい。百姓と女房―― 〔cela commence a` e^tre rassurant.〕(こりゃどうやら泰平無事になってきたようだ)女房が後について、百姓が前に立ってる―― 〔C'est tre`s rassurant.〕(これはしごく泰平無事だ)あの夫婦の後には牛が角に繩をつけられて、馬車に縛りつけられているのだ。〔C'est rassurant au plus haut degre'.〕(これはますますもって泰平無事だ)』
 馬車は傍までやって来た。それはかなりしっかりした、体裁の悪くない百姓馬車だった。女房は、何やらぎっしり詰めた袋の上に坐っているし、百姓は馭者台に腰かけて、スチェパン氏のほうへ、横向きに足をぶら下げていた。後には、本当に赤い牝牛が角を縛られて、のそりのそりと歩いている。百姓夫婦は目を丸くしながら、スチェパン氏を眺めた。スチェパン氏のほうでも、やはりそれと同様に、二人を見つめるのであった。けれど、二十歩ばかり傍をやり過ごしたとき、彼は突然そわそわと立ちあがって、馬車を追っかけ始めた。馬車とならんで歩いていたら、自然こころ丈夫なわけだ、と感じたのである。しかし、馬車に追いついた時には、もうそんなことをすっかり忘れて、またもや例のちぎれちぎれな想念や幻像に没頭してしまった。彼はてくてく歩いた。そして、この際、自分が百姓夫婦にとって、こんな街道では思いも寄らぬ謎めいた不思議な存在だということなどは、もちろん考えもしなかったのである。
「まことにはや失礼でござりますが、お前様はどなた様でごぜえますかね?」ふいにスチェパン氏がぼんやりと女房を見つめた時、彼女はとうとうこらえかねてこうたずねた。
 女房は年の頃二十七ばかり、肉づきのいい、眉の黒い、血色のいい女で、赤い唇はやさしげに笑みを含み、その陰から白く揃った歯が光っていた。
「あんたは……あんたは、わたしにいってるんですか?」愁わしげな驚きの色を浮かべながら、スチェパン氏はこうつぶやいた。
「きっと商売する方だべえ」と百姓は自信ありげにいった。
 それは背の高い四十恰好の男で、幅の広い利口そうな顔は、赤い髯でぐるりと取り巻かれていた。
「いや、わたしは商人というわけじゃない、わたしは……わたしは…… moi c'est autre chose. (わたしは少し別なものだ)」スチェパン氏はいい加減にごまかした。そして、万一の用意に心もち馬車の後へさがったので、彼は牛と並んで歩くようになった。
「おおかた旦那方だべえ」ロシヤ語とは違った言葉を聞きつけた百姓は、こう決めてしまって、ぐいと手綱をしゃくった。
「こうして、お前さまの様子を見てると、まるで散歩にでも出かけなすったようでごぜえますね!」と女房はまたしても不思議そうにこういった。
「それは……それはわたしのことをききなさるのかね?」
「よく外国の人が汽車に乗って来さっしゃるが、お前さまの靴も、なんだかここら辺のと違うようでごぜえますね……」
「軍人のはく靴だあ」いかにも得意そうに気取った調子で、百姓は口をいれた。
「いや、わたしは軍人というわけじゃない、わたしは……」
『なんというしつこい女だろう』スチェパン氏は、心の中でぷりぷりしていた。
『それに、あの二人がおれをじろじろ見ることはどうだ!………|しかし要するに《メ・ザンファン》……手短かにいえば、まるでおれはあの人たちに対して、何か悪いことでもしたような気がする、それがどうも不思議なのだ。おれはあの人たちに対して、何一つ悪いことをした覚えはないんだがなあ』
 女房は百姓とささやき合った。
「もしおいやでなかったら、お前さまを乗せてあげてもよろしゅうごぜえますが……もしそのほうが楽だと思いなされば……」
 スチェパン氏は急に気がついた。
「いや、これはどうも、わたしは大変うれしいですよ、ずいぶん疲れたからね。しかし、どうして上ったらいいだろう?」
『これはどうも驚いた』と彼ははらの中で考えた。『おれはこの牛と並んで、あんなに長く歩きながら、いっしょに乗せてもらおうという考えが、起こらなかったんだからなあ……この「現実」というやつは、何か恐ろしく特異な点を有しているものだ』
 しかし、百姓はそれでも馬を止めなかった。
「だが、お前さまはどこへ行かっしゃるだね?」と彼はいくぶん信用しかねたように、問いかけた。
 スチェパン氏はすぐには合点がいかなかった。
「きっと、ハートヴォまでだべえ?」
「ハートフのところへ? いや、ハートフのところというわけじゃない……それに、まるで知り合いじゃないから。もっとも、聞いたことはあるけれど」
「ハートヴォといって、村のこんだよ。ここから九露里ばかりある村だあ」
「村? C'est charmant(それは面白い)そういえば、なんだか聞いたことがある」
 スチェパン氏はやはり歩いていた。なぜか、いつまで経っても乗せてくれなかった。素晴らしい考えが彼の脳裡に閃めいた。
「あんたたちは、ことによったら、わたしを……わたしは旅券を持ってる。そして、わたしは大学教授なのだ。いや、なんなら先生といってもいいが、しかし、先生のかしらなんだ。わたしは先生のかしらだ。〔Oui, c'est comme c,a qu'on peut traduire〕(そうだ、こんなふうに翻訳することができるようだ)。わたしはぜひ乗せてもらいたいのだが、どうだろう……お礼に酒の小びんを買ってあげるが」
「五十コペイカもらわねえとね、旦那、悪い道だあもの」
「でないと、どうもはあ、実につまりましねえだ」と女房も口をいれた。
「五十コペイカ? いや、五十コペイカけっこう。C’est encore mieux, j'ai en tout quarante roubles, mais ……(それはなお都合がいい、おれはみんなで四十ルーブリ持ってる、しかし……)」
 百姓は馬を留めた。そして、二人がかりでスチェパン氏を馬車へ引っ張りあげ、女房とならんで袋の上に坐らせた。旋風のような想念は彼の脳裡を去らなかった。ときおり、彼は自分の心持ちに気がついた。そして、どうしたのかひどくぼんやりしてしまって、まるで必要のないことばかり考えているのに、われながら驚くのであった。こんなに頭が病的に衰弱しているのを意識すると、彼は時々たまらないほど心が重くなって、むしろ腹立たしいくらいであった。
「あれは……あれはいったいどういうわけで、うしろに牛なんか繋いだんだね?」と彼は出しぬけに女房に問いかけた。
「何をおっしゃりますね、旦那様、まるで今まで見たことがないみてえに」と女房は笑い出した。
「町で買ったのでござりますよ」と百姓が口をいれた。「うちの牛がね、お前さま、この春くたばってしまいましただ。はやり病《やまい》でね。近所の牛がみんなやられちまって、半分も残りゃしねえ。泣いたってわめいたって、追っつくことでねえだ」
 こういいながら、彼は轍の跡の凹みに落ちて、容易に動けないでいる馬に鞭をくれた。
「そう、それはロシヤの田舎でよくあるやつだ……それに、全体としてわれわれロシヤ人は……いや、まったくよくあるやつだ」スチェパン氏はいいさしにして、やめてしまった。
「もしお前さまが先生だとすると、ハートヴォなんかへ行って何しなさるだね? それとも、どこかさきのほうかね?」
「わたしは……いや、わたしはどこかさきのほうへ行くというわけでもないが…… 〔c'est a` dire〕(まあいってみると)、ある商人のところへ行くんだよ」
「きっとスパーソフだべえ?」
「そうだ、そのスパーソフなんだ。が、そんなことはどっちでもいいのだ」
「お前さまスパーソフさ行かっしゃるとすれば、そんな靴で歩いて行ったら、一週間もかかりますべ」と女房は笑い出した。
「そうだ、そうだ。しかし、そんなことはどうでもかまわない。我友《メザミ》よ、どうだってかまわないんだよ」スチェパン氏はじれったそうにさえぎった。
『恐ろしく好奇心の強い人たちだ。しかし、女房のほうが亭主より話がうまい。どうもおれの観察するところでは、二月の十九日([#割り注]一八六一年、農奴解放令公布の日[#割り注終わり])からこのかた、百姓の言葉づかいが違ってきたようだ。が、おれの行く先がスパーソフだろうと、スパーソフでなかろうと、この連中になんの係わりがあるんだろう? おれはちゃんと金を払ってやるのだ。そうすれば、何もこんなにしつこくきく必要はないじゃないか』
「スパーソフヘ行かっしゃるなら、蒸気に乗らにゃなりましねえだ」百姓はまたしても話しかけた。
「それはほんとのことでごぜえますよ」と女房は活気づきながら、言葉をはさんだ。「だによって、この岸を馬車で行かっしゃると、三十露里ばかり廻りになりますべ」
「四十露里よ」
「あした二時頃に、ちょうどウースチェヴォで蒸気に間に合いますだよ」と女房は決めてしまった。
 しかし、スチェパン氏はかたくなに黙っていた。二人の訊問者も口をつぐんだ。百姓は馬の手綱をしゃくりしゃくりした。女房はときどき簡単に、亭主と言葉を交わすばかりだった。スチェパン氏はうとうと眠りに落ちた。と、恐ろしく面くらってしまった、――女房に笑いながら揺すぶり起こされてみると、いつの間にやら、かなり大きな村に入って、窓の三つついた、とある田舎家の車寄せの傍まで、来ているのであった。
「旦那、休まっしゃりましたかね?」
「これはどうしたのだ? どこへ来たのだ? あっ、なるほど!………いや……どうだってかまやしない」とスチェパン氏は溜め息をつき、馬車から下りた。
 彼は沈んだ目つきであたりを見廻した。こうした村の光景が、彼の目には何となく奇妙な、恐ろしく縁遠いものに映ったのである。
「ああ、五十コペイカ、わたしは忘れていた!」なんだか並みはずれてせかせかした身振りで、彼は百姓のほうへ振り向いた。
 彼はもうこの人たちと別れるのを恐れているらしかった。
「どうか部屋ん中で勘定してもらいてえだね」と百姓がすすめた。
「あっちのほうがよろしゅうござりますべ」と女房も賛成した。
 スチェパン氏は、やにっこい階段を昇った。
『いったいどうしてこんなことになったのだろう?』彼は臆病な、とはいえ、痛切な怪訝の念にとらわれながら、こうつぶやいた。が、それでもとにかく家の中へ入った。Elle l'a voulue.(彼女はこれを望んでいたのだ)何やらぐさと彼の胸を突き刺したような気がした。
 と、彼はまたもや何もかも忘れてしまった、家へ入ったことさえ忘れたのである。
 それはかなり小綺麗な明るい百姓家で、窓が三つついて、二つの部屋に分かれていた。宿屋というほどではないが、昔からの習慣で知り合いの通行人が立ち寄るような、ちょっとした休み場所だった。スチェパン氏は別に鼻白むこともなく、正面の隅へ歩いて行った。そして、挨拶するのも忘れて腰を下ろすと、そのまま考え込んでしまった。そうしているうちに、街道の湿気のなかで三時間も過ごした後のこととて、なみなみならぬ快い温気《うんき》の感触が急に彼の全身にみなぎった。かくべつ神経質な人が熱病にかかった時にはいつもよくあることだが、寒いところからとつぜん暖いところへ移ったために、時々さっと背筋を流れる悪寒までが、なんだか急に快く感じられるようになった。彼は首を上げた。と、暖炉の傍で主婦《かみ》さんが一生懸命に焼いている熱い薄餅《ブリン》の甘い匂いが、彼の嗅覚をくすぐった。彼は子供らしい微笑を浮かべながら、かみさんのほうへ首を伸ばして、ふいに子供らしい調子でいい出した。
「それはいったいな んですか? ブリンですか? Mais c'est charmant.(これはけっこう)」
「旦那様、いかがでごぜえますね?」すぐに主婦さんが丁寧な調子で引き取った。
「ほしいよ。まったくほしいよ。そして……それから一つお茶もお願いしたいね」とスチェパン氏は元気づいてきた。
「湯沸《サモワール》をあげましょうか? はいはい、それならいつでもできますよ」
 大きな青い模様のついた皿にのせて、ブリンがそこへ運ばれた、――ふつう百姓の家で拵える薄っぺらな、半分小麦の入ったブリンで、熱い新しいバターのかかった、素敵にうまいやつだった。スチェパン氏はさもうまそうにそれを試みた。
「この油っ気の多いこと、このうまいこと! ただね、un doigt d'eau de vie(ブランデイがぽっちり)手に入ったらなあ」
「それは、旦那様、ウォートカがお望みなんじゃありませんか?」
「そ、そ、そのとおり、ほんの少しでいいんだ、un tout petit rien.(まったく少しでいいのだ)」
「じゃ、五コペイカもあったらよろしゅうござりますね?」
「五コペイカだ、――五コペイカ、――五コペイカ、――五コペイカ、un tout petit rien.(まったく少しでいいのだ)」さもおめでたそうな微笑を浮かべながら、スチェパン氏は相槌を打った。
 試みに、農民に何かしてくれと頼むと、そのものは、できることなら、そして、しようという気になったら、一生懸命に愛想よく世話を焼いてくれる。ところが、そのものにウォートカを買って来てくれと頼むと、ふだんの落ちついた愛想のいい態度が、急に何かしらせかせかした嬉しそうな親切に変わる。それは、親身のものに対する心づかいといってもいいくらいである。ウォートカを買いに行く当人は、それを飲むのが頼み主であって、自分ではないということを、前からちゃんと知っていても、やはり頼み主の未来の快感をいくぶん自分でも感じるような具合である。三、四分も経たぬうちに(酒屋はついそこにあった)、スチェパン氏のテーブルの上に、ウォートカの極小びんと、薄い緑色した大きな杯が現われた。
「これがみんなわたしのかね!」スチェパン氏は一方ならず驚いた。「うちにもしじゅうウォートカがあったが、五コペイカでこんなにたくさんくれるものとは、今まで少しも知らなかった」
 彼は杯になみなみとついで、立ちあがった。そして、幾分ものものしい顔つきをしながら、部屋を横切って、向こう側の隅へ行った。そこには、彼といっしょに袋の上に坐っていた女房、――途中うるさくいろんなことを問いかけた眉の黒い女房が陣取っている。女房はちょっと照れて、煮え切らない調子で辞退を始めたが、礼儀の要求するだけのことをいってしまうと、とうとう立ちあがって、ふつう女がするように、行儀よく三口に飲み乾した。そして、さも大仰な苦しみを顔に描いて見せながら、スチェパン氏に杯を返して会釈した。彼もものものしく会釈を返して、得意げな色さえ浮かべながら、テーブルのほうへ戻った。
 これは一種の感興によるものであった。彼自身ですら一秒前には、あの女房をもてなしに出かけようとは、夢にも考えてもいなかったのである。
『おれは民衆に応対するすべを完全に、完全に心得ている。それはおれがいつもあの連中にいったことだ』残りの酒をびんの中からつぎながら、彼は満足げにこう考えた。酒は盃一杯なかったけれど、それでも彼に元気をつけて、体を温めてくれた。少し頭にも上ったくらいである。
『〔Je suis malade tout a` fait, mais ce n'est pas trop mauvais d'e^tre malade.〕(おれはすっかり病気になってしまった、けれど病気になるということはそれほど悪いことじゃないよ)』
「これをお購《もと》めくださいませんか?」という低い女の声が傍でひびいた。
 彼はふと目を上げた。と、驚いたことには、自分の前に一人の婦人―― une dame et elle en avait l'air(一人の婦人、しかも相当の身なりをした婦人)が立っているではないか。年の頃はもう三十過ぎらしく、一見したところはなはだつつましやかな女で、じみな着物を町ふうに着こなして、大きな鼠色のきれを肩にかけている。その顔には、何か非常に愛想のいい所があって、それがすぐスチェパン氏の気に入ったのである。彼女はたったいま小屋へ帰って来たばかりなので、それまで自分の荷物を、スチェパン氏の占領している場所に近い床几の上に置いていたのである、――その中に折カバンが一つあったが、彼は入りしなに好奇心をおこして、それに目をつけたのを覚えている。それは恐ろしく大きな、模造皮でこしらえた袋だった。この袋の中から、彼女は美しく製本した二冊の本を取り出して、スチェパン氏の傍へ持って来た。表紙には十字架が捺してあった。
「Eh …… mais je crois que c'est l'Evangile.(ああ、これはきっと聖書ですね)ええ、ええ、よろこんで頂戴します……ああ、やっとわかった……あなたは、世間でいう聖書売りですね。わたしはたびたび新聞で見ましたよ……五十コペイカですか?」
「三十五コペイカずつでございます」と聖書売りは答えた。
「ええ、よろこんで頂戴します。Je n'ai rien contre l'Evangile.(わたしもけっして聖書には反対じゃありません)そして……もう前から読み直してみたいと思っていたのです……」
 この瞬間、自分はもはや、少なくとも三十年くらい福音書というものを読んだことがない、ただ七年ばかり前にルナンの『耶蘇伝』を読んだとき、ほんの少しばかり思い出したことがあるきりだ、という記憶がちらと彼の心をかすめた。
 小銭の持ち合わせがなかったので、彼は例の十ルーブリ札《さつ》を四枚(これが身上ありたけなのだ)取り出した。かみさんは両替の世話を焼いた。このとき彼はあたりを見廻して、初めて気がついた、――小屋の中にはかなり大勢の人が集まって、もう前から彼の様子をじろじろ眺めながら、どうやら彼の噂をしているらしかった。町の火事の話も出ていたが、例の牛を引っ張ってきた馬車の持ち主が、いま町から帰ったばかりなので、だれよりも一ばん熱心に話していた。つけ火とかシュピグーリンの職工とかいう声も聞こえた。
『あの男はおれを乗せて来る時に、いろんなことをやたらに話したくせに、火事の話はちっともしかけなかったっけ』何か妙な考えが、スチェパン氏の頭に浮かんできた。
「旦那様、ヴェルホーヴェンスキイの旦那様、まあ、これはあなた様でござりますか? どうもまるで思いも寄りませんことで!………それとも、お思い出しなさいませんか?」一人のかなりの年輩をした小柄な男が、出しぬけにこう叫んだ。見かけたところ、昔ふうの家僕らしい様子で、顎ひげを綺麗に剃り落とし、襟の折り返しになった長い外套を着ていた。スチェパン氏は自分の名を聞いてぎょっとした。
「どうも失礼」と彼はつぶやいた。「わたしはどうもはっきり思い出せないので」
「お忘れでございますか! わたくしはアニーシム、――アニーシム・イヴァノフでございますよ。亡くなられたガガーノフの旦那にご奉公しておりました。あなた様はよくスタヴローギンの奥様とごいっしょに、亡くなられたアヴドーチヤ様のところへお見えになりましたので、始終お目にかかっておりました。わたくしはよく奥様のお使いで、あなた様のところへ本を持ってまいりましたし、ペテルブルグのお菓子も、二度ばかり持参したことがございます……」
「ああ、そうだっけ、思い出したよ、アニーシム」とスチェパン氏はほほ笑んだ。「お前、ここに住んでるのかね」
「いえ、スパーソフの町はずれにある、B僧院におります。アヴドーチヤ様のお妹ごマルファ様のところでござります。お覚えでもございましょう。舞踏会へお出かけのとき、幌馬車から落ちて、足をお折りになったお方……いま僧院の近所に住まっておられますので、わたくしもそのお傍についております。ところで、ただ今はごらんのとおり、親類のところへ行こうと思って、町のほうへ出向きますところで……」
「ふん、なるほど、なるほど」
「あなた様にお目にかかって、まことに嬉しゅうございました。いつもやさしくしていただきましたので」とアニーシムはさも嬉しそうに微笑した。「いったい旦那様、どこへお出かけになるのでございます。お見受けしたところ、まるでお一人っきりのようでございますが……以前はけっして、一人でお出かけのことはございませんでしたに」
 スチェパン氏は臆病そうに相手を見やった。
「もしやわたしどものほうへ、スパーソフヘいらっしゃるのでは?」
「ああ、わたしはスパーソフヘ行くのだ。〔Il me semble que tout le monde va a` Spassoff.〕(なんだか世間の人たちが、みんなスパーソフヘ行くようだ)」
「もしや、フョードル・マトヴェーイチのところではございませんか? それは、さぞお喜びなさることでございましょう。むかし大層あなた様を尊敬していらっしゃいましたからね。今でも始終、あなた様のお噂をしておられますよ。……」
「そうだ、そうだ、そのフョードル・マトヴェーイチのところだ」
「そうでしょうとも、そうでしょうとも。この百姓どもはね、旦那様、なんだかあなた様がかちで街道を歩いていらっしゃるところをお見受けしたとかいって、不思議がっておるのでございますよ。どうも馬鹿なやつらでございまして」
「わたしは……わたしはその……わたしはね、アニーシム、イギリス人のように賭けをやってね、ぜひ歩いて行って見せるって、そして……」
 彼は額やこめかみに汗をにじましていた。
「そうでございましょうとも、そうでございましょうとも」アニーシムは容赦のない好奇の色を浮かべながら、耳を傾けるのであった。しかし、スチェパン氏は、その上おしこたえることができなかった。彼は当惑のあまり立ちあがって、小屋を出て行こうかと思った。けれど、そこへ湯沸《サモワール》が出た。その瞬間、今までどこかへ行っていた聖書売りが帰って来た。彼は、一生懸命にげ路をさがそうとする人のような身振りで、彼女のほうへ振り向いて、茶をすすめた。アニーシムは席を譲って、立ち去った。
 実際、百姓たちの間には疑念が起こっていたのである。『いったいどういう人なんだろう? 街道をてくてく歩いてるところを見つかって、自分では先生だとかいってるそうだが、みなりはまるで外国人みたいで、知恵といったら、小さな赤ん坊みたいだ。そして、辻褄の合わぬ返事ばかりしている。まるでだれかのところから逃げ出したようだ。しかも、金を持ってる!』警察へ届けようか、という考えも湧いたくらいである。『おまけに、町のほうもだいぶ物騒なんだから』
 けれども、これはアニーシムが即座にまるくおさめた。彼は表廊下へ出ると、様子を聞きたがっている人々に、スチェパン様は先生どころではなく、『大層もない偉い学者で、立派な学問を仕事にしておられる方だ。それに、以前はこの辺の地主で、もう二十二年の間スタヴローギン大将夫人のお邸に暮らして、一ばん大切な人に扱われておられる。また町でも皆の人から、並み大抵でない尊敬を受けておる方だ。貴族たちのクラブでは、よく一晩のうちに鼠色札(五十ルーブリ)や虹色札(百ルーブリ)をカルタの勝負に抛り出したものだ。位は高等官で、陸軍の中佐と同じわけだから、もう一段で大佐というところなんだ。金があるたって、金はスタヴローギン大将夫人から、幾らでも際限なしにもらえるんだよ』などとしゃべり立てるのであった。
『〔Mais c'est une dame et tre`s comme il faut〕(しかしこの女は立派な婦人だ、どこといって難のない婦人だ)』アニーシムの攻撃を免れてほっとしながら、スチェパン氏は快い好奇の念をもって、隣りに坐っている聖書売りを観察するのであった。もっとも、こちらは茶を皿に移して、砂糖を噛りながら飲んでいた。『Ce petit morceau de sucre, ce n'est rien(あの砂糖の塊り、ありゃ何でもない)……あの女には何かしら上品な、しっかりした、しかも同時にもの静かなところがある。Le comme il faut tout pur.(まったく難のない婦人だ)もっとも、普通のとは少し趣きを異にしているけれど』
 彼は間もなくこの女の口から、名はソフィヤ・マトヴェーエヴナ・ウリーチナということ、本当の住所はK町で、そこに後家ぐらしをしている姉があること、町人の生まれだということ、自分もやはり後家の身の上だということ、夫は軍曹あがりの少尉だったが、セヴァストーポリで戦死したこと、――などを知った。
「だが、あなたはずいぶん若い、vous n'avez pas trente ans.(まだ三十にならないでしょう)」
「三十四でございます」とソフィヤはほほ笑んだ。
「ええ、あなたはフランス語もわかるんですか?」
「ほんの少しばかり、わたしはそのあとで四年ばかり、立派なお邸に暮らしまして、お子さん方から習ったのでございます」
 彼女の物語ったところによると、わずか十八で夫に死なれた後、しばらくセヴァストーポリで「看護婦」をしていた。が、その後、諸所方々で暮らした挙句、今では福音書を売り歩くようになったとのことである。
「|ああ、そうだ《メモンディユ》、いつか町で奇怪な、きわめて奇怪な事件が起こったのは、あれはもしやあなたじゃありませんか?」
 彼女は顔をあかくした。はたして彼女であった。
「Ces vauriens, ces malheureux!(あのやくざ者めらが、あの情けない奴らが!)……」と彼は興奮のあまり慄える声でいい出した。病的な憎悪にみちた記憶が、彼の心中に、苦しいまでに呼びさまされたのである。彼は瞬間、前後を忘れるほどであった。
『おや、あの女はまた出て行ったぞ』彼女がまたしても部屋にいないのに気がついて、彼ははっとわれに返った。『あの女はしょっちゅう外へ出て行って、何やら忙しそうにしている、心配そうな様子さえしている…… 〔Bah, je deviens e'goi:ste.〕(やッ、おれは自我主義になってくぞ!)』
 彼は目を上げた。とふたたびアニーシムの姿が見えた。けれども、今度は周囲が非常に不気味な光景を呈していた。小屋の中は百姓で一杯になっていた。それは明らかに、アニーシムが連れて来たものらしい。そこにはこの家の亭主もいれば、牛を連れてきた百姓もいるし、そのほか二人の百姓と(これは馭者だということだった)、それからまだ小柄な半分酔っぱらった男などがいた。これは百姓ふうのなりをしてはいるけれども、酒で身を持ち崩した町人ともいうべき面がまえで、髯を綺麗に剃っていた。この男はだれよりも一番よくしゃべった。みんな彼のこと、――スチェパン氏のことを、話しているのであった。牛を連れた百姓は、どこまでも意見を曲げないで、岸づたいに四十露里も行くのは大まわりで、ぜひ蒸気に乗らなければならぬと主張していた。半分酔っぱらった町人と亭主は、熱くなって反対した。
「そりゃ、お前、いうまでもなく、旦那様は蒸気でお出でになったほうが近いに違いない。そりゃそのとおりさ。だけど、この頃のような天気じゃ、蒸気が向こうへ行くまいよ」
「行くよ、行くよ。まだ一週間ぐらいは通うよ」とアニーシムがだれよりも熱くなった。
「そりゃ、まあ、そんなものだ! だけど、出入りに決まりがなくってね。なにしろ、もうだいぶ寒くなって来たから、どうかすると湖尻《ウスチエヴォ》で、三日くらい泊ってることがあるよ」
「あした二時頃には間違いなく入って来るよ。旦那様、晩までにゃ大丈夫、スパーソフヘお着きになりますよ」とアニーシムはやっきとなっていった。
『Mais qu'est-ce qu'il a cet homme.(いったいこの男は何をしようというんだろう)』このさきどうなるのだろうと、スチェパン氏は恐ろしさに身を慄わしていた。
 やがて、馭者も前へしゃしゃり出で、賃金の押し問答を始めた。湖尻《ウスチエヴォ》まで三ルーブリというのであった。ほかの連中もそれならけっして無法ではない、それが当たり前の値だ、湖尻《ウスチエヴォ》までは夏じゅう、その値で行ってたのだとわめいた。
「だけど、ここも大変いい所だ……わたしは別に行きたくないのだ」とスチェパン氏はもぐもぐいい出した。
「ここがいいんですって、旦那様、それはまったくでございます。けれど、スパーソフのほうが今どれだけいいかわかりませんよ。それに、フョードル・マトヴェーイチも、どんなにおよろこびなさることやら」
「|ああ困った《モンディユ》、|皆の衆《メザミ》、これはどうもわたしにとって、あまり思いがけないことなので……」
 そこへやっと、ソフィヤが帰って来た。が、彼女はひどく当惑したらしく、さも悲しそうに床几へ腰を下ろした。
「わたしはとてもスパーソフヘ行かれない!」と彼女は主婦《かみ》さんにいった。
「え、じゃ、あなたも、スパーソフヘ行くんですか?」スチェパン氏は思わずぴくりとなった。
 話を聞いてみると、スヴェトリーツィナという一人の女地主が、もう昨日から彼女をスパーソフヘ連れて行くと約束して、このハートヴォで待つようにいいつけていたのに、当人がやって来ないというのだ。
「わたし、これからどうしたらいいのでしょう?」とソフィヤはくり返した。
「〔Mais, ma che`re et nouvelle amie〕(わたしの親愛な新しい友)、ねえ、わたしだってその女地主のように、その、なんとかいったっけなあ、あのわたしが馬車を傭った村へ、あなたを連れて行ってあげますよ。そして、明日、――そう、あす二人でスパーソフヘ行こうじゃありませんか」
「あら、あなたもやはりスパーソフヘいらっしゃるのでございますか?」
「〔Mais que faire, et je suis enchante'!〕(だって仕方がないんです、それにわたしは非常に嬉しいのです)わたしはしんからよろこんであなたをお連れしましょう。そら、あの連中がしきりに望むもんですから、わたしは馬車を傭ったのです……わたしが傭ったのは、きみたちのうちだれだったかねえ」スチェパン氏は急にスパーソフヘ行きたくなった。
 十五分ばかり後に、二人は蔽いの付いた二輪馬車に座を占めた。彼は恐ろしく活気づいて、さも満足そうな様子だった。彼女は例の袋を持って、感謝にみちた微笑を浮かべながら、その傍に坐った。アニーシムは二人を助け乗せた。
「ご機嫌よろしゅう、旦那様」彼は一生懸命に馬車のまわりを奔走した。「あなた様にお目にかかって、こんなうれしいことはございません!」
「さようなら、さようなら、ご機嫌よう」
「フョードル・マトヴェーイチにお会いになりますか、旦那様……」
「ああ、会うよ……フョードル・ペトローヴィチにね……じゃ、さようなら」

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

「ねえ、|あなた《マアミ》、あなたを友《アミ》と呼ぶことを許してくださるでしょう、|そうでしょう《ネスパ》?」二輪馬車が動き出すやいなや、スチェパン氏はせかせかと口を切った。「ねえ、わたしは…… 〔j'aime le peuple, c'est indispensable, mais il me semble que je ne l'avais jamais vu de pre`s, Stasie …… cela va sans dire qu'elle est aussi du people …… mais le vrai peuple〕(わたしは民衆を愛します。それは避くべからざる心持ちです。けれど、わたしは今まで民衆に接近したことがないような気がする、ナスターシヤ……あの女がやはり民衆から出たのはいうまでもないことです。が、しかし本当の民衆)つまり、街道に立っているような、本当の民衆のことをいうのです。どうもあの連中は、わたしのゆくえばかり気にしてるようだ……が、こんないやな話はやめましょう。わたしはどうも少ししゃべり過ぎるようだが、それはたぶんせっかちのためでしょう」
「あなたはお気分がすぐれないようでございますね」鋭い、けれども、うやうやしい目つきで、ソフィヤはじっと彼を見入った。
「いや、なに、ちょっと何かにくるまったら、それでいいんです。全体として、なんだかせいせいした風が吹きますね、なんだか少しせいせいしすぎる。しかし……まあ、そんなことは忘れましょう。わたしがおもにいおうとしたのは、そんなことじゃないのです。〔Che`re et incomparable amie〕(親愛な比類なき友)、わたしはほとんど幸福になったような気がする。しかも、その原因はあなたなんですよ。しかし、わたしにとって、幸福は不利益なんです。だって、わたしはすぐに自分のほうから、すべての敵をゆるしてしまうからです……」
「だって、それはたいへんけっこうじゃございませんか」
「いつもそうとは限りませんよ、〔che`re innocente. L'Evangile …… voyez vous, de'sormais nous le pre^cherons ensemble.〕(無垢な友よ、福音書というものは……ねえ、これから二人で伝道して歩こうじゃありませんか)わたしもよろこんであなたの美しい本を売りますよ。これはいい思いつきかもしれない、そんな気がする、〔quelque chose de tre`s nouveau dans ce genre〕(そういうふうなことの中では何か非常に新しいもののようだ)ロシヤの人民は宗教心に富んでいます。C'est admis(それはもう認められている)けれど、まだ福音書を知らない。わたしはそれを彼らに説いて聞かせよう……口ずからの説明によって、或いはこの驚くべき書物の誤りを正すことができるかもしれません。もっともわたしはこの書物に対して非常な尊敬を払うことを惜しまないのですがね。わたしは街道においても有用な材となります。わたしは常に有用の材でした。わたしはいつもあの連中[#「あの連中」に傍点]にそういってたのです、〔et a` cette che`re ingrate〕(そしてあの愛すべき恩知らずの女にも)おお、ゆるしましょう、ゆるしましょう。なによりも第一に、いつでも、あらゆる人をゆるしてやりましょう。そして、自分も人からゆるしてもらえるという希望を持とうじゃありませんか。だって、あらゆる人はお互いに罪を犯し合っているんですからね! ええ、みんな罪があるんです!………」
「それは大変よくおっしゃいました。わたしもなんだかそう思われます」
「そう、そう……わたしも大変よくいったような気がします。わたしは世間の人たちにも非常にうまく話すつもりです。しかし、わたしは何をおもに話すつもりだったのかしらん? わたしはしじゅう話が脇へそれて、はっきり覚えられないんですよ……ねえ、あなたは許してくださるでしょうか、わたしはあなたと別れたくない。わたしはこう感じるのです。あなたの目と、そして……わたしはあなたの身のこなしにも驚嘆してるんです。あなたは本当に率直です。あなたの言葉にもなんだか賤しいところがあるし、お茶を茶碗から皿へ移して、あのひどい砂糖の塊りを噛ったりされるけれど、しかし、あなたには何かしら美しいところがある、それは顔つきでもわかります……ああ、あかい顔をしないでください、わたしを男として恐れないでください、〔che`re et incomparable, pour moi une femme c'est tout.〕(親しく類いなき友よ、わたしにとって女というものは生活の全部なのです)わたしは女の傍に暮らさずにはいられない。けれど、ただ傍にいるだけです……わたしは恐ろしく、まったく恐ろしく脇へそれてしまいましたね……わたしは何をいおうと思ったのかどうしても思い出せない。ああ、常に神によって女を送らるる者は幸いなりです、そして……わたしは一種の歓喜さえ覚えるような気がしますよ。街道にも高遠な思想があります! そうだ、――わたしが思想のことをいおうとしたのは、このことだったのです。やっといま思い出した。今まではいうことが壺に嵌まらなかったのです。が、なんだってあの連中は、わたしをこんなにさきのほうへ連れて来たんだろう? あすこもなかなかよかったんですがねえ。ここは―― 〔cela devient trop froid. A propos, j'ai en tout quarante roubles et voila` cet argent〕(なんだか寒くなってくる。ところで、わたしはここにみんなで四十ルーブリもっています。これがその金です)さあ、取ってください。わたしはどうも扱い方が下手です。落としたり取られたりしてしまいます。それに……わたしはなんだか眠くなってきたような気がする。なんだか頭の中がくるくる廻るようだ。ああ、廻る、廻る、廻る。おお、あなたはなんという親切な人でしょう。それは何を掛けてくだすったのです?」
「あなたはきっとひどい熱病にかかっていらっしゃるんですよ。わたし毛布を掛けてあげましたの。ただお金のことはわたし……」
「おお、お願いだから、n'en parlons plus, parce que cela me fait mal(もうそんな話は止めましょう、なんだか気持が悪くなるから)おお、あなたはなんて親切なんでしょう!」
 彼はなんだか、急にぱったり言葉を切った。と、思いがけないほど早く、熱病やみらしい悪寒に苦しめられながら、寝入ってしまった。十七露里も続いた村道は、あまり平坦なほうでなかったので、馬車は容赦なくがたぴし揺れるのであった。スチェパン氏はたびたび目をさました。そして、ソフィヤがそっと当てがってくれた枕からちょっと頭を持ち上げて、彼女の手を取りながらきくのであった。
「あなたはここにいますね?」
 それは彼女が自分の傍を去りはせぬかと、恐れるかのようであった。彼はソフィヤに向かって、何かの獣が歯を剥き出しながら大きな口を開けているのを夢に見て、それがいやでたまらなかったとも話した。ソフィヤは彼の身が無性に心配になってきた。
 馭者は二人の客をいきなり一軒の大きな田舎家へ連れて行った。それは窓の四つもついた家で、庭の中にはいくつかの離れもあった。目をさましたスチェパン氏は、大急ぎで中へ入って、家じゅうで一ばん広く、一ばん綺麗な二つ目の部屋へ通った。寝ぼけたような彼の顔は、ひどく忙しげな表情に変わった。彼はさっそくおかみをつかまえて(それは四十恰好の、真っ黒な髪をした、まるで鼻ひげでもたくわえたように見える、背の高いしっかりした女房だった)、自分は一人でこの部屋を借り切ってしまう。『そして、ちゃんと閉め切って、だれもここへ入れることはならん。〔parce que nous avons a` parler. Oui, j'ai beaucoup a` vous dire, che`re amie.〕(わたしたちは話があるんだから。そうですよ、ソフィヤさん、わたしはたくさんあなたに話したいことがあるんです)わたしはそれだけのことをする、きっとするよ!』と彼はおかみに手を振って見せた。
 彼は恐ろしく急き込んでいたけれど、なんだか舌がよく廻らなかった。おかみは無愛想な様子で聞いていたが、承諾のしるしに沈黙を守っていた。とはいえ、その沈黙には何かしら無気味なところが感じられた。彼はそんなことにはいっさい頓着なしに、せかせかした調子で(彼は恐ろしくせき込んでいた)、すぐあちらへ行って、さっそくできるだけ早く、『一刻も猶予しないで』何か食べるものをこしらえてくれと、おかみに命じた。
 このとき口ひげの女房はこらえかねた様子で、
「ここはあなた宿屋じゃありませんよ。わたしたちはお客さんに食事の用意はいたしません。まあ、蝦でも煮て湯沸《サモワール》を立てるぐらいのことで、そのほかには何もできませんよ。新しい魚は、明日でなければできませんからね」
 けれども、スチェパン氏は両手を振りながら、『それだけのことはするよ、早く、早く』と腹立たしげな、じれったそうな声でくり返すのであった。とうとう魚汁《ウハー》に烙鶏《やきとり》ということに決まったが、おかみは村中さがしても鶏は手に入らぬといった。が、とにかくさがしに行くのを承知したが、まるで大変なお慈悲でもかけてやるような顔つきだった。
 おかみが出て行くやいなや、スチェパン氏はすぐさま長いすに腰を下ろし、ソフィヤも自分の傍にかけさせた。部屋の中には長いすや肱掛けいすがあったけれど、恐ろしい姿になったものばかりであった。概して部屋はかなり広く、一部分は板で仕切られて、その向こうに寝台など置いてあった。黄いろいぼろぼろの古い紙を張った壁には、神話か何かを描いた恐ろしい石版画が掛けてあるし、正面の隅には額のようになったのや、折屏風のようになった銅《あか》の聖像が、長い列をなしてかかっている。全体に、道具類は奇妙な寄せ集めものだった。何か都会ふうなところと、太古の俤を持った百姓ふうのところが、見苦しくいっしょくたになったような部屋である。しかし、彼はそんなことにはいささかの注意も払わなかった。それどころか、家から十間ばかりのところから展けている大きな湖を、窓ごしに覗いてみようともしなかった。
「やっとわたしたちは二人きりになりましたね。もうだれも入《い》れることじゃない! わたしはあなたに何もかもすっかり、そもそもの初まりから聞いてもらいたいのです」
 ソフィヤは烈しい不安の色を浮かべながら、彼を押し止めた。
「あなた、ごぞんじでございますかしら、スチェパン様……」
「〔Comment, vous savez de'ja` mon nom?〕(えっ、あなたはもうわたしの名を知ってるんですか?)」彼はよろこばしそうに微笑した。
「さっきアニーシムさんと話をしていらしった時、ちょっと傍《はた》から伺ったんですの。ところで、生意気なようでございますが、わたしのほうから一つご注意申したいことがありますので……」
 こういって彼女は、だれか立ち聴きでもしてはいないかと、閉め切った戸口のほうを振り返りながら、早口にこうささやいた。ほかでもない、ここに、――この村にいるのは、とんでもない災難だ。ここの百姓はみんな漁師で、それを生計《なりわい》にしているけれど、毎年夏になると、旅客の懐ろから思う存分の金を絞り取るのである。この村は通りぬけができないで行きどまりになっているので、汽船が入って来て泊ることになってはいるものの、よく船の来ないことがある、ちょっと少し天気模様が悪くなると、どんなことがあってもやって来ない。すると、二、三日のうちに旅客がうんとたて込んで、村じゅうの家が一杯になってしまう。村の者はそればかり待ちかまえているので、すべての値段を三倍ぐらい高く絞り取る。それに、この家の亭主は土地でも一番の金持ちなので、恐ろしく高慢な無作法な男である。なにしろ網だけでも千ルーブリからのものを持っている、とこういうのであった。
 スチェパン氏はソフィヤのひどく元気づいた顔を、ほとんどなじるような目つきで見つめながら、幾度か押し止めるような手つきをした。けれども、彼女は少しもそれにひるまず、いいたいだけのことをいってしまった。彼女の言葉によると、ソフィヤはすでにこの夏、ある一人の『ごく立派な婦人』と町からここへ来て、やはり汽船の着く間、まる二日泊ったことがあるが、その時のつらかったことは、いま思い出しても恐ろしいくらいだ、というのであった。
「ところが、スチェパン様、あなたはこの部屋を一人で借り切ってしまうとおっしゃいましたね……わたしはただ前もってお知らせしたいと思って……あの向こうの部屋にもやはりお客さんがあるのです。一人はだいぶ年輩の人で、一人はまだ若い方でございます。それから、子供をつれた奥さんのような方もいらっしゃいます。ところで、明日の二時頃までには、この家が一杯になるほど人が集まります。もう二日ばかり汽船が入りませんでしたから、明日は必ず来るに相違ないのでございます。こういうわけで、部屋を借切りにしたり、食事をご注文になったり、ほかの客を断わらせたりなすった、そんなことでうんと取られるに違いありません。都会《まち》でも聞かないような値段を吹っかけるに違いありません……」
 しかし、彼は苦しかった、しんから苦しかったのである。
「Assez, mon enfant(やめてください、あなた)、お願いだから、やめてください。〔Nous avons no^tre argent et apre`s ―― et apre`s le bon Dieu.〕(わたしたちにはあの金がある。そして後は、その後は神様のお心にまかせましょう)わたしは不思議なくらいです。あなたのような高尚な考えを持った人が、どうして…… assez, assez, vous me tourmentez.(たくさんです、たくさんです、あなたはわたしを苦しめるんです)」と彼はヒステリックな声で叫んだ。「わたしたちの前には未来がある。それだのに、あなたは、あなたはその未来のことでわたしを脅しつけるんだ……」
 彼はさっそく自分の経歴を語り始めた。けれど、あまりせき込んでいたので、初めのうちはよくわかりかねるほどであった。物語はかなり長く続いた。魚汁《ウハー》が出、鶏が出て、ついにサモワールが出たが、彼はいつまでもいつまでも語りつづけた……物語はいくぶん奇妙な病的な感じを与えたが、しかし、彼自身すでに病気だったのである。それはとつぜんおそってきたはげしい知力の緊張だった。こういう状態はもちろんすぐ後で、彼自身の組織内における異常な力の沮喪となって、反動を来たすに相違なかった。ソフィヤも彼の物語を聞いているうちにこれを予感して、憂慮の念を禁じ得なかった。彼は『まだ若々しい胸をいだきつつ、野を駆け廻った』幼年時代から話を始めた。一時間も経って、やっと二回の結婚と、ベルリンの生活まで進んだのである。もっとも、わたしはこうした彼を嘲笑しようとは思わない。そこには実際、彼にとって最も崇高なある物があった。新しい言葉でいえば、生の争闘が含まれているのであった。彼は将来の行路の友として選んだ女を、自分の目の前においているので、少しも早くいっさいのことを、いわばまあ、彼女に頒とうと思ったのである。彼の天才は、今後、生涯を共にする女にとって、秘密として埋めらるべきでない……もしかしたら、彼はソフィヤのことを無上に誇張して考えていたかもしれぬ。けれど、彼はもはや選択を終えたのである。彼は女なしに生きていられなかった。彼女が彼の言葉をほとんど少しも理解していない、最も肝腎な点さえ会得できないでいるということは、彼も自分で相手の顔つきによって、はっきり見てとった。
『Ce n'est rien, nous attendrons(こんなことはなんでもない、も少し待ってみよう)、まあ、当分の間は、直感によってでも悟ってくれるだろう……』
「|わが《マ》友《アミ》よ、わたしはただ、あなたの心がほしいだけなんです!」物語をやめて、彼はこう叫んだ。「それから、今わたしを見つめていらっしゃる、そのやさしい魅力に富んだ目つきと。ああ、どうか顔をあかくしないでください! もうお断わりしたじゃありませんか……」
 やがて物語が進行して、今まで一度もだれ一人として、スチェパン氏を理解し得るものがなかったことや、『わがロシヤにおいては、多くの才あるものが空しく滅びてゆく』ことや、そういうほとんど天下の大議論といっていいようなくだりに移った時、この憐れなとりこの女にとっては、ますます雲をつかむようなところが多くなってきた。
『どうもあまり高尚なことばかりで』と彼女は後で、しおしおとした声でいった。
 彼女は少し目を丸くしながら、いかにも骨の折れるらしい様子で、耳を傾けていた。スチェパン氏が『現代第一流の先覚者連中』に対して、諧謔や皮肉を弄し始めたとき、彼女はもう心細くなってしまった。二度ばかり彼の笑いに対する答えとして、にっこりほほ笑もうと試みたが、その結果は泣くよりも悪かった。で、スチェパン氏のほうでも、とうとうばつが悪くなって、いっそう猛烈な毒々しい調子でニヒリストや『新しい人々』の攻撃にかかった。彼女はもう、てもなくおびえあがってしまった。彼女が初めていくぶんほっと息をついたのは(もっとも、それはきわめて皮相な安心であった)、彼の恋物語が始まってからである。女というものは、たとえ尼であろうとも、やはり常に女である。彼女は微笑を浮かべたり、首を振ったりしたが、すぐその後から顔を真っ赤にして伏目になった。それがすっかりスチェパン氏をうちょうてんにしてしまった。彼は感興にかられて、ずいぶんたくさん嘘をついた。彼の話によると、ヴァルヴァーラ夫人は世にも美しいブリュネットであった(『ペテルブルグばかりでなく、ヨーロッパの多くの首都を熱狂せしめたことさえある』)。夫は『セヴァストーポリの戦いで弾丸に貫かれて』斃れたが、その原因は自分が夫人の愛に価しないことを感じて、妻を競争者(といって、つまりスチェパン氏のことなので)に譲るためであった。
「そうきまり悪がらないでください、|わが《マ》|淑やかな《トランキール》友よ、|わが《マ》|キリスト教徒《クレスチエンヌ》よ!」自分で自分の物語をほとんどぜんぶ信じながら、彼はソフィヤに向かってこう叫んだ。「それは一種きわめて高尚な感情でした。実際あまりに微妙な感情だったものだから、わたしたちは二人とも一生の間、一度も口に出していわなかったくらいです」
 こういう状態になった原因は、彼の引続いて話したところによると、一人のブロンドであった(このブロンドはダーリヤとでも仮定しなければ、スチェパン氏がだれのことをいったのか、わたしには見当がつかない)。このブロンドはいろいろとブリュネットの恩になっていて、遠い親類として、恩人の家に生長したのである。ついにブリュネットはスチェパン氏に対するブロンドの恋に気がついて、自分の中に閉じこもるようになった。ブロンドのほうはブロンドのほうでスチェパン氏に対するブリュネットの恋に気がついて、やはり自分自身の中に閉じこもるようになってしまった。こうして、三人のものは互いに義理をたて合って、悩ましい心をいだきながら、めいめい自分の中に閉じこもったまま、二十年の沈黙を守り通したのである。『おお、それはなんという熱情だったろう、本当になんという烈しい熱情だったろう!』偽りならぬ歓喜の情にすすり泣きながら、彼はこう叫んだ。『わたしは彼女の(つまりブリュネットの)美の真っ盛りを見た。わたしは毎日彼女が自分の傍を、まるでわれとわが美しさを恥じるような風情で通り過ぎるのを(一度などわたしは『充実した自分の肉体を恥じるように』といったものだ)、胸を掻きむしられるような思いで眺めた』
 ついに彼はこの熱に浮かされたような、二十年の夢を棄てて逃れた。
「|二十年《ヴァンタン》! そして、いまこの街道に立ったのです……」
 それから彼は、何かまるで脳に炎症でも起こしたような調子で、今日の『この思いがけない運命的な二人の邂逅、――永遠に続くべきこの邂逅が』、はたして何を意味しているかを、ソフィヤに説明して聞かせた。ついにソフィヤは恐ろしく当惑した様子で、長いすから立ちあがった。女の前にひざまずこうとするようなそぶりさえ見せたからである。彼女はほとんど泣き出さないばかりだった。たそがれの色はしだいに濃くなりまさった。二人はこの閉め切った部屋の中に、もう幾時間もこもっているのである……
「いえ、もうあちらの部屋へやってくださいまし」と彼女はよどみよどみいい出した。「でないと、人がなんとか思いますから」
 彼女はとうとう振り切って出て行った。彼は、すぐ横になって休むと約束して、彼女を外へ出してやったが、別れ際に恐ろしく頭が痛いと訴えた。ソフィヤは入って来た時から、自分のカバンやほかの荷物を取っつきの部屋へ残しておいた。それは、おかみなどといっしょに寝るつもりだったので。けれども、彼女は体を休めることができなかった。
 夜ふけになって、スチェパン氏は疑似コレラの発作を起こした。それはわたしを初めとして、友人一同に熟知されているいつもの病気で、ふつう神経的興奮や精神的動揺の結果として現われるものであった。哀れなソフィヤは、一晩じゅう寝ることができなかった。彼女は病人を看護する必要上、たびたびおかみの部屋を通って、小屋を出たり入ったりしなければならなかったので、そこに眠っている旅客やおかみがぶつぶついい出して、夜明けごろ彼女がサモワールを立てようと思い立った時などは、とうとう口汚く罵り始めたほどである。スチェパン氏は発作の間じゅう、半意識の状態にあった。時々、夢うつつのように、サモワールの用意がされていることや、自分が何か飲ましてもらっていることや(それは木苺入りの茶なので)、何かで腹や胸を暖めてもらっていることなどが感じられた。しかし、彼は絶えず彼女[#「彼女」に傍点]を自分の傍に感じていた。これは彼女が来たのだな、彼女が行ったのだな、彼女が自分を寝台から起こしたのだな、彼女がまた寝さしてくれたのだな、と感じた。夜中の三時頃から、少し楽になった。彼は身を起こして、寝台から足を下ろし、ほとんどなんにも考えないで、いきなり彼女の足もとへ身を投げた。これは、さっき膝を突いた時の気取った態度とは、ぜんぜん別なものだった。彼は他愛なく女の足もとに倒れ伏して、着物の裾を接吻するのであった。
「たくさんですよ、わたしは、まるでそんなことをしていただく値打ちのない女です」彼を寝台へあがらせようと努めながら、彼女はしどろもどろにつぶやいた。
「あなたはわたしの救い主です」彼はうやうやしく女の前に両手を合わせた。「〔Vous e^tes noble comme une marquise!〕(あなたはまるで侯爵夫人のように、気高い方です!)わたしは、やくざ者です! おお、わたしは一生涯、破廉恥漢で通しました……」
「どうか心を落ちつけてください」とソフィヤは祈るようにいった。
「わたしはさっき嘘をついた、――それは単に虚飾のためです、役にも立たない贅沢心から出たことです。ええ、みんな、みんな嘘っぱちです、初めからしまいまで……ああ、なんというやくざ者だ!」
 こうして発作は一転して、ヒステリックな自己譴責へ移っていった。わたしは以前、ヴァルヴァーラ夫人に宛てた彼の手紙を紹介するに当たって、もはやこの種の発作について一言しておいた。彼は突然リーザのことや、昨日の朝の邂逅のことを思い出した。
「あれは実に恐ろしいことだった、――きっと何か不幸が起こったに違いない。それだのにわたしは何もきかなかった、なんにもつき留めないで来た! わたしは自分のことばかり考えていたのだ! あのひとはどうしたのだろう? あなた、いったいあのひとがどうしたのか知りませんか?」と彼はソフィヤに縋るようにしてたずねた。
 それから、彼は、『自分の心はけっして変わらない』、必ずあのひと[#「あのひと」に傍点]のところへ帰る、と誓うのであった(それはヴァルヴァーラ夫人のことなので)。
「わたしたちは(つまりソフィヤといっしょに)毎日あのひとの玄関口へ行って、あのひとが馬車で朝の散歩に出るところを、そっと見ましょう……ああ、わたしはあのひとにいま一方の頬を打ってもらいたい。わたしはよろこんで打たれます。わたしは、comme dans votre livre(あなたの持ってる本に書いてあるように)いま一方の頬をあのひとにさし出します! 今こそわかりました。いま一方の……『頬』を向けるという意味が、今やっと合点がいきました。今まではどうしてもわからなかったのです!」
 こうして、ソフィヤの生涯で最も恐ろしい二日間の日が到来した。彼女は今でも、この二日間のことを思い出すと、胸のおののきを禁じ得ないのである。スチェパン氏の病状はしだいに険悪になって、汽船は今度こそかっきり午後二時に入港したものの、彼はそれで出発することができなかった。ソフィヤも彼ひとり見残して行く気力がなかったので、やはりスパーソフ行きを延ばすことにした。彼女の話によると、スチェパン氏は汽船が出てしまったと聞くと、ひどく喜んだとのことである。
「いや、ありがたい、いや、けっこうだ」と彼は寝床の中からいった。「わたしは、スパーソフヘ行かなきゃならないかと、心配でたまらなかったのですよ。ここは実にいい、ここはどこよりも一番いい……あなたはわたしをおいて行きゃしないでしょう? ああ、行かないでいてくれたんですね!」
 しかし、『ここ』はけっしてそんなに好くはなかった。彼はいささかも女の苦労を察しようとしなかった。彼の頭はいろんな空想ばかりで一ぱいになっていた。彼は自分の病気を何か一時的な、ささいなことのように思って、そんなことはてんで気にかけなかった。ただ二人で『あの本』を売りに行くことばかり考えていた。彼はソフィヤに、少し福音書を読んでくれと頼んだ。
「わたしはもう前から読んだことがない……原本でね。だから、だれかにきかれたら、間違ったことをいうかもしれない。なんといっても、やはり準備しておかなきゃなりませんよ」
 彼女は彼の傍へ腰を下ろして、書物をひろげた。
「あなたは読み方がうまいですね」一行も読み終わらないうちから、彼は口をいれた。「わたしにはわかる、ちゃんとわかる。わたしの眼鏡ちがいじゃなかった!」曖昧な、けれども、勝ち誇ったような調子で、彼はこうつけ足した。

『ドストエーフスキイ全集10 悪霊 下』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP097-144

の思いに沈めるのであった。リプーチンはとうとう彼が憎くてたまらなくなって、どうしてもその顔から目が放せないほどだった。それは一種の神経的発作ともいうべきものであった。彼は相手の口ヘほうり込むビフテキのきれを、一つ一つ数えながら、その口がぱくっと開いて、脂ぎった肉のきれをさもうまそうにむしゃむしゃ噛んだり、汁を吸ったりするのが、憎くてならなかった。ビフテキその物までが憎らしかった。しまいには彼はなんだか目がちらちらするように思われてきた。頭が心持ちふらふらして、背中は急に熱くなったり、寒くなったりするのであった。
「きみは何もしていないんだから、一つこれを読んで見たまえ」出しぬけにピョートルが、一葉の紙きれを彼にむかってほうり投げた。
 リプーチンは蝋燭のほうへ近寄った。紙切れは拙い字で一杯に細かく書きつめられ、一行ごとに消しがあった。やっと彼が読み終えた時、ピョートルはもう勘定をすまして、出かけようとしているところだった。歩道へ出ると、リプーチンはその紙きれを彼に突き出した。
「まあ、きみ持っていたまえ、後で話すから。ところで、きみはどう思うね」
 リプーチンは全身をわなわなと震わした。
「ぼくにいわせれば……こんな檄文なんか……ただ馬鹿げたお笑い草に過ぎないですよ」
 憤怒は堰を破って出た。彼はだれかに体をわしづかみにされて、どこかへ連れて行かれるような気がした。
「もしわれわれが」彼は全身をびりびりと小刻みに震わせながら、「こんな檄文の撒布を決心したら、それこそ馬鹿な物事をわきまえない人間として、人の軽蔑を招くばかりですよ」
「ふむ! ぼくはそうは考えないね」ピョートルはしっかりした足どりで歩いた。
「ぼくこそそうは考えない。いったいこれはあなたが自分で作ったんですか?」
「それはきみの知ったことじゃないよ」
「ぼくは『光輝ある人格』、――あの想像することもできないほど愚劣きわまる詩も、やはりゲルツェンの作だとはどうしても思われませんよ」
「ばかいっちゃいけない。あれは立派な詩だよ」
「ぼくはまだまだ不思議なことがあるんです」リプーチンは勢いにかられながらどんどんまくし立てた。「どうして連中はわれわれに、いっさいの破壊を目的とする行動をとらせようとするんでしょう? ヨーロッパでこそプロレタリヤが存在してるから、いっさいの破壊を望むのは自然だけれど、ロシヤにはわれわれのようなアマチュアしかいないんだから、ただ埃を立てるばかりでさあね」
「ぼくはきみをフーリエ派かと思ってたよ」
フーリエ説は違います、まるで違います」
「まるでノンセンスだってことは、ぼくも承知してるさ」
「いや、フーリエ説はノンセンスじゃありません……失敬ですが、ぼくは五月に叛乱が起ころうとは、どうしても信じることができませんよ」
 リプーチンは上衣のボタンまではずした、それほど熱かったので。
「いや、たくさん。ところで、今ちょっと忘れないようにいっとくがね」とピョートルは恐ろしく冷静な調子で、いきなり話題を変えてしまった。「きみはこの檄文を自分の手で文選して、印刷しなくちゃならないんだよ。シャートフに預けた印刷機械を、あすぼくらが掘り出すから、きみはその日から保管を引き受けることになるんだ。そして、できるだけ急いで活字を拾って、一枚でも余計に刷ってくれたまえ。この冬じゅうかかって、それを撒き散らすんだからね。資金の出所については指令があるはずだ。とにかく、できるだけ余計に刷ってもらわなきゃ。ほかの地方からも注文があるんだから」
「いやです、それは真っぴらごめんこうむりますよ。ぼくはそんな……ことを引き受けるわけにゆきません……お断わりします」
「それでも、やはり引き受けるようになるよ。ぼくは中央委員会の命令で行動してるんだから、きみはそれに服従する義務があるんだよ」
「ところが、ぼくの考えでは、外国にあるロシヤの中央委員会は、現実のロシヤを忘れて、いっさいの連絡をこわしてしまったのです。彼らは夢を見てるにすぎない……いや、それどころか、ロシヤに何百という五人組があるというのは嘘で、ぼくらの組がたった一つしかないのじゃないか、連絡網なんてものはまるでないのじゃないか、と思われるくらいですよ」もうしまいには、リプーチンは息をつまらせてきた。
「事実の真偽さえ弁別しないで、軽率に雷同したきみたちこそ、かえって軽蔑に価するじゃないか……今だってまるで野良犬みたいに、ぼくの後から走って来るじゃないか」
「いや、走って行きゃしませんよ。ぼくらもあなたの傍を離れて、新しい結社を組織する権利を、十分にもってるんですからね」
「ばかッ!」突然ピョートルは目を輝かしながら、凄まじい勢いでどなりつけた。
 二人はしばらく相対して突っ立っていた。ピョートルはくるりとくびすを返して、たのむところありげな足どりで、元の方角へ進んで行った。
『このままくるりと向きを変えて、帰ってしまおうかしら。いま引っ返さなかったら、永久に後戻りはできないだろう』こういう考えがリプーチンの頭の中を、まるで稲妻のように閃めいた。
 彼はちょうど十歩だけ歩く間、こういうことを考えていたが、十一歩めにまた新しい自暴自棄的な想念が、彼の頭の中にぱっと燃えあがった。彼は引っ返しもしなければ、あとへ戻ろうともしなくなった。
 やがて、二人はフィリッポフの持ち家へ近づいたけれど、そこまで行き着かないうちに、横町、――というより、むしろ垣根に沿うた人目に立たない径へそれた。しばらくのあいだ、二人は溝っぷちの、急な傾斜を伝って行かねばならなかった。足がずるずる辷るので、垣根につかまって歩いた。曲りくねった垣根の一ばん暗い角のところで、ピョートルは板を一枚ぬき取った。そして、そこへ開いた穴の中へ、すぐさま潜り込んだ。リプーチンはちょっと面くらったが、やがて自分も後から這い込んだ。それから、板は元のように嵌められた。これは、フェージカがキリーロフのところへ忍び込む、例の秘密な通路《かよいじ》だった。
「ぼくらがここへ来たことを、シャートフに知らせちゃいけないんだよ」とピョートルはリプーチンに向かって、いかつい調子でささやいた。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 キリーロフはいつもこの時刻にするように、例の革張りの長いすに坐って、茶を飲んでいた。彼は腰をあげて、出迎えようとしなかったが、なんだか妙に全身をぴくりと躍らして、入り来る人々を不安げに見上げた。
「まさにご想像のとおり」とピョートルはいった。「ぼくは例の用事で来たんです」
「今日ですか?」
「いや、いや、明日ですよ……これくらいの時刻にね」
 彼は、急に落ちつかなくなったキリーロフの様子を、いくぶん不安げな表情で覗き込みながら、忙しげにテーブルの傍へ腰を下ろした。とはいえ、こちらはもうすっかり落ちついて、前と同じような顔つきをしていた。
「どうも仲間の連中が本当にしないのでね……ぼくがリプーチンを連れて来たからって、きみ、別に怒りゃしないでしょうね?」
「今夜は怒りゃしないが、明日は一人きりでいたいもんですなあ」
「しかし、ぼくが来る前にやっちゃいけませんよ。ぼくが立会いの上でね」
「きみの立会いは望ましくないんだがなあ」
「きみおぼえてるでしょう。ぼくが口授することをそっくり書いて、それに署名すると約束したじゃありませんか」
「ぼくはどっちだっていいのだ。ときに、今夜は長くいますか?」
「ぼくある男に会わなくちゃならないから、三十分ばかりお邪魔したいんですよ。その後はどうなとご勝手ですが、三十分だけは坐ってますよ」
 キリーロフは押し黙っていた。その間にリプーチンはわきのほうの、主教の肖像の下に陣取った。先ほどの自暴自棄な想念は、しだいしだいに彼の頭脳を領していった。キリーロフはほとんど彼に目もくれなかった。リプーチンは前から彼の人生観を知っていて、いつもただそれを冷笑していたが、今はむっつりと押し黙って、陰気らしい顔つきであたりを見廻していた。
「お茶をいただいても悪くないですな」とピョートルは椅子を摺り寄せた。「たった今ビフテキを食べたんですがね、お茶はたぶんあなたのところに出てるだろうと思って、当てにして来たんですよ」
「お飲みなさい、ほしかったら」
「もとは、きみのほうからもてなしてくれたじゃありませんか」ピョートルは酸っぱそうな顔をしてこういった。
「そんなことはどっちだって同じだ。リプーチン君にも飲ましたらいいでしょう」
「いや、ぼくは……飲めません」
「飲めないのか、それともほしくないのか、どっちだろう?」いきなりピョートルがくるりと振り向いた。
「ぼくはこの人のところでは飲まないです」思い入れたっぷりな調子で、リプーチンは断わった。
 ピョートルは眉をひそめた。
「神秘くさい匂いがするというわけかね。本当にきみらはわけのわからない人たちだ。なんという連中だろう!」
 だれも返事をする者がなかった。まる一分、沈黙がつづいた。
「しかし、ぼくはたった一つ知ってることがある」とつぜん彼は言葉するどくいい足した。「いかなる偏見といえども、人が自分の義務を果たすのを、妨げるわけにはいかないですよ」
「スタヴローギンは行ってしまったんですか?」とキリーロフはたずねた。
「行ってしまいましたよ」
「それはいいことをした」
 ピョートルはちょっと目を光らしたが、すぐに自制した。
「ぼくは、きみがなんと思おうと、平気ですよ。ただ、めいめいが約束を守りさえすればいいんです」
「ぼくは約束を守りますよ」
「もっとも、ぼくは不断から信じてましたよ。きみは独立不羈の進歩的な人だから、自分の義務は履行されるだろうとね」
「きみは滑稽な人だ」
「じゃ、そういうことにしときましょう。ぼくは人を笑わすのが愉快でたまらないんです。ぼくは、人様のお気に入れば、いつでもそれを愉快に思うのです」
「きみはぼくに自殺させたくてたまらないので、ひょっと急にいやだなんていい出しゃしないかと、びくびくしてるんじゃありませんかね?」
「しかし、考えてごらんなさい、きみは自分から進んで、われわれの行動と自分の計画を結び合わしたんじゃありませんか。ぼくらはもうきみの計画をあてにして、いろいろと方法を立てたんだから、きみはもう今さらいやだというわけにいかないはずですよ。きみのほうがぼくらをおびき出したんですからね」
「そんなことをしいる権利は少しもない」
「わかってます、わかってます。むろんそれは全然あなたの自由意志で、ぼくらはなんの意義もない人間です。ただ、そのきみの自由意志が、実行されさえすりゃいいんです」
「で、ぼくはきみらの醜行をすっかり引き受けなきゃならない?」
「ねえ、キリーロフ君、きみはおじけがついたんじゃありませんか? もし断わりたいなら、今すぐそういってください」
「ぼくはおじけなんかつきゃしない」
「実はきみがあまりいろんなことをきくから、それでちょっといってみたんですよ」
「きみはもうすぐ帰りますか?」
「またききますね?」
 キリーロフは卑しむように相手を眺めた。
「ねえ」しだいに腹を立てて落ちつきを失いながら、どういう語調をとったものかわからないで、ピョートルは言葉を続けた。「きみは一人になって、思想を集中するために、ぼくの去るのを望んでおられるが、しかしそれはきみにとって、――だれよりも一番にきみにとって、危険な兆候ですよ。きみはたくさん考えたがっておられるが、ぼくにいわせれば、考えたりなんかしないで、ただ簡単にやってしまったほうがいいですよ。きみはまったくぼくを心配させますぜ」
「ぼくがただ一ついやなのは、その瞬間に、きみみたいなけがらわしい虫けらが、ぼくの傍にいるということなんだ」
「ふん、そんなことはどうだって同じじゃありませんか。そんなら、ぼくそのとき外へ出て、玄関口に立っててもいい。きみが死を覚悟しながら、そんなに虚心坦懐でいられないのは……それは非常に危険なことですよ。ぼくは玄関口に立っていますよ。そして、ぼくはなんにもわからない男で、きみより無限に低い人間だと、こう仮定したらいいじゃありませんか」
「いや、きみは無限というわけじゃない。きみには才能があるんだが、非常に多くの事物に理解を欠いてるのだ。それは、きみが下劣な人間だから」
「けっこうです、実にけっこうです。ぼくは今もいったとおり、人に気ばらしをさせるのが、非常に愉快なんです……こんな瞬間にね」
「きみはなんにもわからないのだ」
「といっても、ぼくは……なんにしても、ぼくは敬意を表して謹聴しますよ」
「きみはなんにもできない。今でさえ、その浅はかな怒りを隠すことができないのだ。そんなものを顔に出すのは、きみにとって不利益なんだがなあ。もしきみがぼくに癇癪を起こさせたら、ぼくは急に半年くらいさきと、いい出すかも知れませんよ」
 ピョートルは時計を眺めた。
「ぼくは今まで一度も、きみの理論を理解しなかったが、しかし、きみがその理論を考え出したのは、われわれのためじゃないのだから、ぼくらがいなくっても、実行されるに相違ない、それだけはわかっています。それからまた、きみが思想を呑んだのでなく、思想がきみを呑んでしまったのだから、延期するわけにゆかない、ということもやはり承知していますよ」
「なんだって? 思想がぼくを呑んでしまったって?」
「そう」
「ぼくが思想を呑んだのじゃないって? それは面白い。きみにはちっぽけな知性があるんだね。ただきみがいくらからかっ[#「からかっ」に傍点]ても、ぼくは誇りを感ずるだけだ」
「けっこうですよ、けっこうですよ。まったくそうなくちゃならない。きみは誇りを感じなくちゃならないはずです」
「もうたくさん。きみも茶を飲んでしまったから、もう帰ってくれたまえ」
「畜生、本当に帰らなきゃなるまいて」とピョートルは腰を上げた。「しかし、それにしても、やはり早過ぎるなあ。ねえ、キリーロフ君、たぶんミャスニチーハ([#割り注]淫売婦の名[#割り注終わり])のところへ行ったら、あの男に会えるでしょうね、だれのことかわかるでしょう? それとも、あの女も嘘をついたかしらん」
「会えやしませんよ。あの男はここにいるので、あっちじゃないからね」
「え、ここだって、あん畜生、いったいどこにいるんです?」
「台所に坐り込んで、飲んだり食ったりしてる」
「なんて生意気なやつだ!」ピョートルは赤くなって怒り出した。「きゃつはあすこで待ってなきゃならないはずだったのに……いや、そんな馬鹿なことはない! あいつ、旅券もなければ、金もないんじゃないか!」
「どうだかね。あの男は暇乞いに来たんですよ。ちゃんと着替えをして、用意ができてたっけ。もう行きっきりで、帰って来ないんだそうだ。なんでも、きみは悪党だから、きみの金なんか待っていない、とかいってた」
「ははあ! あいつぼくがなに[#「なに」に傍点]するのが怖いんだな……もしそんなことがあったら、ぼくは今だってあいつを……どこにいるんです、台所?」
 キリーロフは、小さな暗い部屋へ通じる脇戸を開けた。この部屋から三つ段々を下りると、まっすぐに台所へ下りられるようになっていた。ここにはささやかな穴みたいな部屋が仕切ってあって、いつも下女の寝台が据えつけてあった。今この部屋の片隅にある聖像の下に、荒削りのままでクロースのかかっていないテーブルを控えて、フェージカが陣取っていた。テーブルの上にはウォートカの小びんが据えてあって、皿の中にはパン、素焼の器には一きれの冷肉と馬鈴薯が入っていた。彼は悠々と摘物《さかな》を平らげていた。もう半分酔っぱらっていたが、それでも毛皮の半外套を着込んで、もうすっかり旅支度ができているらしかった。仕切りの向こう側では湯沸《サモワール》が煮立っていたが、それはフェージカのためではない。フェージカはかえってその火を起こしたり加減を見たりして、もうこれで一週間ばかり、『アレクセイ・ニールイチ』のために、毎晩世話をやいているのだった。『どうも毎晩お茶を飲むのが、すっかり癖になってらっしゃるのでね』と彼はいった。冷肉と馬鈴薯は下女がいないところから見ると、あるじのキリーロフがフェージカのために、朝から炊いて待っていたものに相違ない、――こうわたしは固く信じている。
「いったい貴様は何を考え出したんだ?」とピョートルは下へ飛びおりた。「どうしていいつけた場所で待ってないんだ?」
 こういいながら、彼はいきおい込んで拳を固めながら、テーブルを撲りつけた。
 フェージカはぐっとそり身になった。
「お前さん、ちょっと待ちなせえ、ピョートルさん、ちょっと待っておくんなせえ」一語一語気取って刻み刻み発音しながら、彼はこういい出した。「お前さんはまず第一に、これだけのことをはらに入れなきゃならないんだ。お前さんは今キリーロフさんのところへ、お客に来てるんだよ。お前さんなぞは、始終あの人の靴を磨いてもいいくらいだ。なぜったって、あの人はお前さんなんぞに較べたら教育のある賢いお方だからな。ところが、お前さんなぞときたら、――ちょっ!」
 彼は気取った様子で、出もしない唾を、わきのほうへぺっと吐いた。彼の態度には傲慢な決然たる様子と、取ってつけたような落ちつき払った、理屈っぽいところがうかがわれた。もっとも、これは破裂の前の静けさで、きわめて危険な性質を帯びたものなのだ。けれど、ピョートルはそんな危険に気のつく余裕もなかったし、またそんなことは彼の人間観にふさわしくなかった。この日に生じたさまざまな出来事や失敗は、すっかり彼の頭脳を昏迷させてしまったのである……リプーチンは三段うえの薄暗い小部屋から、好奇の目を光らせながら、見おろしていた。
「いったい貴様は確かな旅券と、おれのいったところへ高飛びするたんまり[#「たんまり」に傍点]した旅費がほしくはないのか、いやか応か?」
「まあ、聞きなせえ、ピョートルさん、お前さんはそもそもの初めから、わっしをだましにかかったんだ。なぜって、お前さんは正真正銘の悪党だからね。わっしの目には見通しだよ。お前さんはまるで人間の体にくっつく、けがらわしい虱も同じこった、――まあ、こんなふうに、わっしゃお前さんのことを考えてるのさ。お前さんは罪もない人間の血に、大枚の金をわっしに約束した上、スタヴローギンさんに代わって誓いまで立てた。ところが、本当はお前さんのずうずうしい出たらめだったんだ、それっきりだ。わっしゃ一しずくだって、あの血に関係はないんだからね。千五百ルーブリどころの騒ぎじゃありゃしない。ところで、スタヴローギンさんは、この間お前さんの頬っぺたを食らわしたそうじゃないか。わっしはもうちゃんと知ってるからね。今度またお前さんはわっしを脅かして、金をやろうと約束しなさるが、どういう仕事かってきくと、お前さんも返事をしないじゃないか。わっしははらの中でこう疑ってるんだ――お前さんがわっしをペテルブルグヘやろうというのは、わっしの早呑込みをあてにして、手だてはどうだってかまわない、とにかくスタヴローギンさんに恨みをはらすためじゃないか。してみると、お前さんが一番の下手人だ、ということになるのさ。それにね、お前さんがその腐った心のために本当の神様を、――真の創造主《つくりぬし》を信じなくなったということだけで、どういうものになりさがったかわかってるかい? お前さんは偶像崇拝者《でくおがみ》だ、だから、ダッタン人やモルドヴァ人と同列なんだ。キリーロフさんは哲学者だから、お前さんに本当の神様、――つくりぬし様のことや、この世の始まりや、来世の運命や、黙示録に出て来る獣や、そのほかさまざまな生物《いきもの》の造り変えのことなどを、幾度となくお前さんにして聞かしなすったのだ。ところが、お前さんはわけのわからないでくの坊だから、唖聾みてえに頑張って、あの無神論者という極悪非道の誘惑者みてえに、少尉補のエルテレフ([#割り注]エルケリのこと、エルケリはドイツの姓だが、フェージカはそれをロシヤふうに作り変えたのである[#割り注終わり])を、同じ道へ引き込んでしまったのだ……」
「ええ、この酔っぱらいの畜生め! 自分で聖像を剥いで歩いてるくせに、まだ神様の説教なんかしてやがる!」
「そりゃね、ピョートルさん、なるほどお前さんのいうとおりわっしは剥いで廻ったよ。だが、ありゃただ真珠を剥がしただけなんだよ。それに、お前さんにゃわかるまいが、ひょっとしたら、わっしの涙がその瞬間に、神様の炉にかかって、真珠になったのかもしれないぜ。神様がわっしの受けた苦しみを憐れんでくだすってね。なぜって、わっしゃこれという決まった隠れ家のない三界に寄る辺のない身なしごだからね。お前さんは本を読んで知ってるだろうが、昔あるところに一人の商人《あきんど》が、やはりわっしと同じように、涙を流して溜め息をつきながら、お祈りを上げ上げ、聖母マリヤ様の後光についた、真珠を盗んだもんでさあ。それから後、大勢の目の前で膝を突いて、盗んだ金をすっかりマリヤ様の台の下へお返しした。ところが、マリヤ様は多くの人の目の前で、その商人《あきんど》を被衣《かつぎ》の下へお匿しなされた。こういう奇蹟《ふしぎ》がそのとき現われたので、お役人が政府《おかみ》の本へも、そのとおり書き込むようにと、お言いつけになったくらいだ。ところが、お前さんは二十日鼠を放すような真似をする。つまり、神様の思召しにたいして、悪口をついたことになるのだ。もしお前さんがわっしにとって、生まれながらのご主人でなかったら、――わっしが餓鬼のとき、この子に抱いて歩いた人でなかったら、わっしは今この場を去らずに、お前さんをばらして[#「ばらして」に傍点]しまうところなんだよ」
 ピョートルは名状し難い憤怒に襲われた。
「白状しろ、貴様は今日スタヴローギンに会ったな?」
「そんなことは、お前さんわっしにきく権利はないぜ。スタヴローギンさんはまるっきし、お前さんにあきれ返っていらっしゃる、あのかたは命令するの、金を出すのというどころか、あの事件についちゃあ、どうしたいという考えさえ、持っていらっしゃりゃしなかったんだ。あれは、お前さんがわっしを引っかけたのさ」
「金はやるよ、二千ルーブリのほうも、ペテルブルグへ着いたら、すぐにその場で、そっくり耳を揃えて渡してやる。まだその上にもっと出してやるよ」
「おいおい、大将、出たらめいうもんじゃないよ。わっしゃお前さんを見るのもおかしくってならねえ。ほんにお前さんは、なんてえ浅はかな考えを持った人だろう。スタヴローギンの旦那なぞは、お前さんから見ると、高い階段の上に立っていらっしゃるみたいなもんだ。お前さんが下のほうで、間の抜けた犬ころみてえに、心細い声できゃんきゃん吠えてるとな、あの人は上からお前さんを見おろして、唾をひっかけるのさえ、お情けのように思っていらっしゃらあね」
「やい、覚えてろ」とピョートルは形相《ぎょうそう》を変えながらどなった。「貴様のような畜生は、ここからひと足も外へ出さないで、いきなり警察へ突き出してくれるんだ」
 フェージカは、いきなり飛びあがって、もの凄く両眼を輝かした。ピョートルはピストルを取り出した。と、その瞬間、とっさのあいだに、いまわしい光景が演出された。ピョートルがピストルを向ける暇のないうちに、フェージカはたちまち身を翻して、力まかせに彼の横面を撲りつけた。と、同じ瞬間に、また一つ恐ろしい拳の音が聞こえた、続いてまた一つ、またまた一つ……みんな頬の上だった。ピョートルはぽかんとしてしまって、目を剥き出しながら、何やらぶつぶついったと思うと、突然ぱたりと枯木倒しに床の上へ倒れた。
「さあ、こいつを進上しまさあ、勝手に連れて行きなさい!」勝ち誇ったように身をかえして、フェージカはたちまち帽子を取った。そして、床几の下から包みを取り出すと、そのまま姿を消した。
 ピョートルは正気を失って、喉をごろごろ鳴らしていた。リプーチンは、本当に殺されてしまったのかと思った。キリーロフは一散に台所へ駆け下りた。
「水をかけろ!」と彼は叫んだ。
 バケツの中から、ブリキの柄杓で一杯くみ出して、頭へさっとかけた。ピョートルはびくりと身を動かして、頭を持ち上げると、やがて身を起こして坐りながら、無意味に前のほうを見つめるのであった。
「え、どんなだね?」とキリーロフはたずねた。
 こちらはまだやはり気がつかないで、じっと穴のあくほど、彼の顔を見入っていたが、ふと台所から顔を突き出しているリプーチンが目に入ると、例のいやらしい笑い方でにたりとして、とつぜん床からピストルを拾い上げながら、飛び起きた。
「きみがあのスタヴローギンの畜生のように、明日にもここを逃げ出そうなんて了簡を起こしたら」彼はふいに真っ青になって、言葉さえはっきり発音ができないで吃りながら、夢中になってキリーロフに食ってかかった。「ぼくは世界の果てまで追っかけて行って……蠅のように吊るし上げて……押し潰してしまってやるから……わかったか!」
 そういって、彼はキリーロフの額にぴたりとピストルを押しつけた。しかし、ほとんどそれと同じ瞬間に、やっとすっかりわれに返って、その手を引っ込め、ピストルをかくしへ突っ込んだ。そして、もうひと言もものをいわないで、そのまま外へ駆け出してしまった。リプーチンもそれに続いた。二人は以前の潜り穴を抜けて、またもや垣根につかまりながら、溝っぷちの傾斜を伝って行った。ピョートルはリプーチンがついて行くのに骨が折れるほど、足早に路地をどんどん歩いて行った。初めての四辻へ来たとき、彼はとつぜん立ちどまった。
「おい?」と彼は挑むように、リプーチンのほうへ振り向いた。
 リプーチンはまだピストルのことをおぼえていて、さっきの活劇を思い出しては、ぶるぶる慄えていたが、答えはなんだかこう自然《ひとりで》に、抵抗し難い力をもって、舌をすべり出てしまった。
「ぼくの考えでは……ぼくの考えでは、『スモレンスクからタシケントまで』それほど一生懸命に学生を待ち焦れてもいないようですな」
「きみはフェージカが台所で、何を飲んでたか見たろうね?」
「何を飲んでたって? ウォートカを飲んでたんでさあ」
「ところで、いいかね、あれはあの男のこの世における、ウォートカの飲み納めなんだよ。これからさきのご参考までに、ちょっと知らせとくよ。さあ、もうどこなと勝手に行きたまえ、明日まできみは用のない人間だ……だが、気をつけたまえ、馬鹿な真似をしちゃいけないぜ!」
 リプーチンは一目散に、わが家をさして駆け出した。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 彼はもうだいぶ前から、人の名義で旅券を用意していた。このきちょうめんな俗物で、家庭内の小さな暴君で、官吏で(フーリエ派の社会主義者とはいえ、やはり官吏に相違ない)、しかも資本家で、金貸しのリプーチンが、万一の場合[#「万一の場合」に傍点]いつでも外国へ逃げ出せるように、この旅券を用意しておこうなどというとっぴな考えを、ずっと前から起こしているとは、思ったばかりでも奇怪千万であった。けれど、彼はこの万一[#「万一」に傍点]の可能を認容していたのである! もっとも、この万一[#「万一」に傍点]が何を意味するか、もちろん彼自身もはっきりわからなかったのだ……
 ところが、いま突然、しかもきわめて意想外な形をとって、この万一[#「万一」に傍点]が実現されたではないか。さきほど、歩道でピョートルから、例の「馬鹿!」を聞かされた後、キリーロフのところへ入るまでいだきつづけていたかの自暴自棄的な想念は、ほかでもない、つまり明日にもさっそく夜の引き明けに、何もかもおっぽり出して、外国へ突っ走るということだった。そんなとっぴな話が、今のロシヤの日常生活にやたらに起こるはずがないと疑いをいだく人があったら、外国にいる本物のロシヤの亡命客の伝記を調べてみるがいい、一人として、これより以上に気の利いた実際的な逃げ方をしたものはないのだ。どれを見ても、とてつもない空想の世界である。それっきりなのである。
 うちへ駆けつけると、彼はまず第一番に部屋の戸を閉めて、カバンを取り出し、痙攣でも起こしたような手つきで、荷造りを始めた。彼のおもな心づかいは、金のことだった。どんなにして、どれくらい助け出せるだろう、ということだった。実際、助け出すのである。なぜなら、彼の考えでは、もはや一刻の猶予もできない。夜明けまでには、ぜひ街道へ出ていなければならないからである。それからまた、どうして汽車に乗ったものか、これもまだよくわかっていなかった。けれど、どこか町から二つ目か三つ目あたりの停車場で、乗らなければならぬ、そこまでは歩いてなりとも行き着けないことはない、――こうはらの中で漠然と決心していた。こういうふうに、本能的に、機械的に、まるで旋風のような想念を頭の中に感じながら、彼は一生懸命にカバンの始末をしていたが……急にふと手を止めた。そして、何もかもほうり出したまま、深い呻き声を立てながら、長いすの上にどうと倒れてしまった。
 彼は突然はっきりと感じた、――自分はおそらく逃げるに相違ない。しかし、シャートフを片づける前に[#「前に」に傍点]したものか、それとも後に[#「後に」に傍点]したものか、この問題を解決することは、もはや今の自分にはとうてい不可能だ、こう自覚したのである。今の彼はただ粗雑な、感覚のない体、惰力で動いている肉の塊りにすぎない。彼はいま恐ろしい外部の力に操られているのだ。たとえ外国行きの旅券があるにもせよ、またシャートフ事件から逃げ出す自由があるにもせよ(それでなかったら、こんなに急ぐ必要はないはずだ)、それでも彼が逃げ出すのは、シャートフの事件の前でもなければ、その中途でもなく、どうしてもシャートフ事件の後に[#「後に」に傍点]相違ない。それはすでに決定され、署名されて、ちゃんと判がしてあると同じことなのだ。堪え難い悒悶に、絶え間なく身を慄わせたり、自分で自分にあきれたり、呻き声を上げたり、麻痺したように静まり返ったりしながら、彼は戸を閉めきって、長いすの上に倒れたまま、翌朝の十一時まで、どうにかこうにか時を過ごした。と、ふいに、それとなく期待していた一つの事件が持ちあがって、それが彼の決心をかためさす動機となった。
 十一時に彼が部屋の戸を開けて、家族の居間へ出て行くやいなや、彼はとつぜん家の者の口から、意外な事実を聞き込んだ。ほかでもない、今まで人々におぞ毛を慄わせていた教会強盗、懲役人のフェージカ、――これまで警察が一生懸命に追跡していたけれど、どうしても捕まえることのできなかった、ついこの間の殺人放火事件の犯人が、けさ未明に、町から七露里ほど離れた県道から、ザハーリノヘ出る村道の分岐点で、何者かに殺されているのを発見されて、すでに町じゅうその噂で大騒ぎだ、というのである。彼はさっそくあとをも見ずに家を飛び出して、詳しい話を聞こうと努めた。第一にさぐり出したのは、フェージカは頭を割られて倒れていたが、あらゆる点から見て、金を剥がれたものらしいということと、それから、警察側ではこの犯人を、元シュピグーリン工場にいたフォームカらしい、という強い嫌疑をいだいているばかりか、そう断定するにたる確かな証拠さえ握っている、ということだった。フォームカというのは、レビャードキン兄弟を殺して、火を放った共犯者と推測される男で、きっとレビャードキンのところで盗み、フェージカが隠し持っていた大金のことで、途中二人の間に争論が起こったに相違ない……
 リプーチンはピョートルの住まいへも駆けつけてみた。そして、ピョートルは昨日かれこれ夜中の一時頃に帰宅したが、それからずっと朝の八時頃まで、穏かに自分の部屋でお休みになったということを、裏口から内証で聞きこんだ。もちろん、強盗フェージカの横死には、少しも不思議な点はない、こうした大団円は、ああいう場合ありがちのことだ、それは疑う余地もない。しかし、『フェージカは今夜がウォートカの飲み納めだ』という恐ろしい予言の言葉が、即座に事実となって適中したのが、いかにも意味ふかく思い合わされるので、リプーチンは急に迷うのを、やめてしまった。衝動はついに与えられた。それはちょうど大きな石が上から落ちかかって、永久に彼を圧しくじいたようなあんばいだった。家へ帰ると、彼は無言のままカバンを寝台の下に蹴込んでしまった。そして、晩に定めの時刻が来ると、第一番に約束の場所へ出かけて、シャートフを待ち合わした。もっとも、例の旅券[#「族券」は底本では「族券」]は相変わらずポケットに潜んでいたけれど。

[#3字下げ]第5章 旅の女[#「第5章 旅の女」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 リーザの横死とマリヤの惨殺は、シャートフに圧倒的な印象を与えた。わたしが前にもいったとおり、その朝ちょっと彼に会ったが、まるで正気を失っているように見えた。しかし、それでも、ゆうべ九時頃に(つまり火事の三時間まえに)、マリヤを訪問したことを話した。その朝、彼は死体を見に行ったが、わたしの知っている限りでは、その朝はどこでもなんの申立てもしなかったはずである。が、その日も暮れ方になって、彼の心に恐ろしい嵐が吹き起こった。そして……そして、わたしはきっぱりと断言することができる、――たそがれ時のある瞬間には、彼はすぐにも立ちあがって外へ出かけ、そして何もかも知らせてしまおう、と思ったほどである。何もかも[#「何もかも」に傍点]とは、いったいなんだろう、それは彼自身のみ知ったことである、しかし、もちろん、なんの結果をも得ることができないで、かえって、自分で自分を売ることになるに相違ない。なぜなら、今度の兇行を暴露しようにも、なんの証拠をも握っていないからである。ただ彼の心中には、この事件に関する漠とした推測があるばかりなのだ。もっとも、この推測は彼自身にとって、十分な確信にも均しいけれど……しかし、彼は自分の身の破滅など、あえて恐れはしなかった。ただどうかして、あの『悪党どもを踏み潰す』ことさえできればいいのだ(これは彼自身のいった言葉である)。
 ピョートルはこうした彼の心的発作を、ほぼ正確に見抜いていた。で、新たに立てた恐ろしい計画の実行を、明日まで延ばしたのは、彼として、はなはだしい冒険を試みたわけなのである。それにはいつもの自負心と、あの『けちな有象無象』に対する軽侮、――ことにシャートフに対する軽侮の念が原因となっていたのである。彼は前から、シャートフをば『泣き虫の馬鹿』といって軽蔑していた(これはずっと以前、外国にいる時分からの言い草である)。で、こんな単純な男を操縦するのは、易々たることだと固く信じ切っていた。つまり、きょう一日だけ彼の見張りをしていて、もし危険な様子が見えたら、さっそくそれを未然に防ごう、というのであった。ところが、実際ある一つの思いがけない、まるで想像もしていなかった出来事が、しばらくあの『悪党ども』を助けることになった……
 晩の七時頃(それはちょうど仲間[#「仲間」に傍点]の者がエルケリのところへ集まって、ピョートルが来るのを待ちかねながら憤慨したり、興奮したりしていた時であった)、シャートフは頭痛の上に、軽い悪寒《おかん》を感じながら、暗闇の中を蝋燭もなく、寝台の上に長くなって倒れていた。彼は疑惑に悩まされつつ幾度か憤然と決心しかけたが、どうしてもいよいよという腹が据わらなかった。結局、なんの結果も見ずに終わるだろうと感じると、われとわが身が呪わしくなるのであった。しだいに彼は、うつらうつらと忘我の境に落ちて行った。と、何かしら悪夢のようなものにおそわれた。全身を細引で寝台にぐるぐる縛りつけられて身動きもできないでいると、垣根を、門を、戸を、キリーロフの住まっている離れを叩く恐ろしい音が、家も震えるばかり響き渡るのであった。それとともに、どこか遠くのほうで耳に覚えのある、彼にとって悩ましい人声が、さもあわれげに彼の名を呼ぶのであった。彼はふと目をさまして、ベッドの上に起き直った。驚いたことには、門を叩く音は依然として続いていたが、それは夢に聞こえたような烈しい音ではなかったけれど、しゅうねく頻繁に響いて来る。そして、奇妙な『悩ましい』声は、けっしてあわれっぽいどころでなく、かえってじれったい、いらだたしげな調子で、絶えず下の門の辺で聞こえていた。そして、いま一人いくぶん控え目な、普通の人声もまじっていた。彼は飛びあがって、窓の通風口を開き、そこから首を突き出した。
「そこにいるのはだれだ?」驚愕のあまり全身を石のようにしながら、彼はこう声をかけた。
「もしあなたがシャートフさんでしたら」鋭いしっかりした声で、下から答えた。「どうか男らしく、きっぱりといってください、――わたしを家へ入れてくださいますか、どうです?」
 はたしてそうである。彼はその声を聞きわけた。
「マリイ!………お前なんだね?」
「わたしです、マリヤ・シャートヴァです。まったくのところ、わたしはもう、このうえ一分間も、馬車を待たしとくわけにはまいりませんの」
「今すぐ……ぼくちょっと蝋燭を……」とシャートフは弱々しく叫んだ。それから、マッチをさがしに飛んで行った。こういう場合の常として、マッチは容易に見つからなかった。蝋燭をばたりと床へ取り落とした拍子に、下のほうでまたじれったそうな声が聞こえたので、彼は何もかもうっちゃらかして、急な階段をまっしぐらに駆け下り、木戸を開けに行った。
「すみませんが、ちょっとこのカバンを持っててくださいな、わたしこの間抜け野郎の片をつけっちまいますから」とマリヤ・シャートヴァは、いきなり下から声をかけて、青銅の鋲を打ったドレスデン製の、かなり軽い安物のズックの手提カバンを彼に押しつけると、自分はさもいらいらした様子で、馭者に食ってかかった。
「ねえ、重ねて申しますが、あんたはちと欲張ってるんですよ。あんたがここの泥だらけの町を、まる一時間あちこち引っ張り廻したからって、それはあんた、自分が悪いんじゃありませんか。だって、この馬鹿げた通りと、この間の抜けた家がどこにあるか、あんたが知らなかったんだものね。さあ、どうか約束の三十コペイカをお取りください。そして、もうこれ以上もらえないってことを、ご承知ねがいます」
「なんですね、奥さん、あんたが自分で、ヴォズネセンスキイといったんじゃありませんか。ここはボゴヤーヴレンスカヤですぜ。ヴォズネセンスキイ横町は、ここからずっとあっちのほうでさあ。かわいそうに、この去勢馬《きんぬき》を汗だらけにしちゃってさ」
「ヴォズネセンスカヤだってボゴヤーヴレンスカヤだって、そんな馬鹿馬鹿しい名前は、みんなお前さんのほうが、わたしよりよく知ってるはずじゃないか。お前さんはここに住まってる人だものね。それにお前さんのいうことは間違ってるよ。わたしがまず一番にフィリッポフの持ち家だといったら、お前さんは知ってるといったじゃないか。とにかく、お前さんは明日にも治安裁判所へ行って、わたしを訴えてもかまやしないが、今夜はお願いだから、ここで放免しておくれな」
「さ、さ、もう五コペイカあげるよ」シャートフは大急ぎで、かくしから五コペイカ玉をつかみ出し、それを馭者に突き出した。
「後生だから、そんなさし出たことをしないでちょうだい!」とマダム・シャートヴァは猛り出したが、馭者はもう「去勢馬《きんぬき》」を叱《しっ》して、行ってしまった。シャートフは女の手を取って、門の中へ連れ込んだ。
「早く、マリヤ、早く……そんなことはくだらない話だ、――そして、――まあ、お前はずぶ濡れじゃないか。静かに、ここから上らなきゃならないんだよ。どうもあかりがないのが残念だ、――急な梯子段だから、しっかりつかまっておいでよ、しっかり。さあ、これがぼくの巣だ。ごめんよ、あかりもつけないで……今すぐ!」
 彼は蝋燭を拾い上げたが、マッチは長いこと見つからなかった。シャートヴァは無言のまま身動きもしないで、部屋の真ん中に立って待っていた。
「ありがたい、やっとのことで!」部屋を灯で照らし出しながら、彼は嬉しそうにこう叫んだ。
 マリヤはちらっと室内を見廻した。
「ひどい暮らしをしてるとは聞いていたけれど、でもこれほどとは思わなかった」と彼女は気むずかしげにつぶやいて、寝室のほうへ歩き出した。「ああ疲れちゃった」彼女は力なげな様子で、ごつごつしたベッドに腰を下ろした。「どうかカバンを下に置いて、あなたも椅子におかけなさいな。もっとも、どうなとご勝手に。なんだか、あなたが目ざわりになって仕方がないんですの。わたしがあなたのところへ来たのは、何か仕事を見つける間、ほんのちょっとのつもりなんですの。だって、ここの様子ったら少しも知らないし、それにお金も持ってないんですからね。けれど、もしご迷惑のようでしたら、やはりお願いですから、今すぐこの場でそういってください。それは潔白な人間として、ぜひしなければならないことだわ。それでも、明日になったら何か売って、宿を取ることもできますが、しかし、その宿屋へは、あなたにご案内ねがわなけりゃなりませんわ……ああ、だけどわたし疲れちゃった!」
 シャートフは全身をがたがた慄わした。
「そんなことはいらないよ、マリイ、宿屋なんぞいりゃしない! 宿屋なんかどうするのだ? いったいなんのためだ?」
 彼は祈るように手を合わした。
「まあ、かりに宿屋へ行かずにすむとしても、やはり事情を明らかにしておかなきゃなりませんわ。ねえ、シャートフさん、おぼえてらっしゃるでしょう。わたしとあなたとは二週間と幾日かの間、ジュネーブで結婚生活をしました。ところが、別にこうといういさかいもなく、夫婦別れをしてしまってから、もうこれで三年ばかりになります。けど、わたしが帰って来たのは、以前の馬鹿馬鹿しい関係を復活させるためだろう、なんかって考えを起こさないでください。わたしはただ仕事をさがしに帰って来たのです。この町へ真っすぐにやって来たのも、なんだって同じことだからですの、わたしは何も後悔して、あやまりに来たわけじゃありません。後生だから、どうかそんな馬鹿馬鹿しいことを考えないでください」
「何をマリイ! そんなこと、けっしてそんなこと!」とシャートフはわけのわからぬことをつぶやいた。
「もしそうなら、もしそういうことさえわかるほど開けていらっしゃるなら、もう一つつけ足さしていただきます。今わたしがいきなりあなたのところへ来て、あなたの住まいへ入って来たのは、ほかにもわけがありますけれど、わたしいつもあなたのことを、『あの人はけっして人非人じゃない。もしかしたら、ほかの悪党どもより、ずっと立派な人かもしれない』とこう信じていたからですの」
 彼女の目はぎらぎらと光った。察するところ、彼女はどこかの『悪党』どものために、いろいろつらい目にあったに相違ない。
「どうかお願いですから、わたしのいうことを信じてください。今わたしがあなたをいい人だといったのは、けっして冷やかしたのじゃありません。わたしはいっさい飾りけなしに、ざっくばらんにいったんですの。それに、飾りけなんて大嫌いですからね。だけど、こんなことばかばかしい。わたしね、あなただけは人をうるさがらせないだけの知恵があるだろう、とこういつも思ってましたの……ああ、ずいぶん疲れた!」
 彼女は疲れ果てた悩ましげな目つきで、じいっと男を見つめるのであった。シャートフは、五歩ばかり離れた部屋のこちら側に立って、何やらなみなみならぬ輝きを顔にみなぎらせながら、臆病そうではあるけれど、何となく生まれ変わった人のような様子で、彼女の言葉に耳を傾けていた。この頑固な、がさがさした、いつも逆毛を立てているような男が、急にすっかり柔らいでしまって、晴ればれしくなってきたのである。彼の心の中には、何かしら容易ならぬ、まるで思いがけないあるものの戦慄が感じられた。別離の三年、ふみにじられた結婚生活の三年も、彼の心から何一つ追い出すことができなかった。彼はこの三年間、毎日のように彼女のことを、――かつて自分に『愛する』という一語をささやいた貴い存在のことを、空想しつづけていたかもしれないのだ。わたしはシャートフの人物を知っていたから、正確にこう断言できる、――彼は、だれにもせよほかの女が、自分に愛するといってくれるようなことがあろうとは、夢にも考えられなかった。彼は滑稽なほど童貞心、羞恥心が強く、自分を恐ろしく醜い片輪もののように思っていた。そして、自分の容貌や性質を心から憎悪して、自分は市場から市場へ引き廻して、見世物にしてもいいような怪物だと、心ひそかに思い込んでいた。こういうわけで、彼は潔白ということを何よりも重く考え、ファナチズムに近いほど自分の信念に没頭し、常に陰欝で傲慢で、腹立ちやすく無口だった。
 ところが、二週間のあいだ自分を愛してくれた(彼は常に、常にこれを信じていた)この唯一の女性が、――その過失をはっきり冷静に理解しているくせに、それでも彼自身より遙かに勝れたものと信じている女性が、――彼として何事も[#「何事も」に傍点]綺麗にゆるすことのできる女性が(それはもう問題にならぬくらい明瞭なことだった。いや、それよりむしろ反対に、自分のほうこそすべての点で、彼女に罪を犯しているとさえ、彼は考えていたのである)、この女性が、このマリヤ・シャートヴァが、突然ふたたび自分の家に坐っている、自分の前に坐っているではないか……これはほとんど理解することさえ不可能である! 彼はすっかり仰天してしまった。この出来事には、はかり知れぬ恐ろしさと、同時にはかり知れぬ幸福が含まれていた。彼はどうしても正気に返れなかった。いな、返りたくなかった、むしろ、それを恐れたくらいである。それはまるで夢だった。
 しかし、彼女があの悩ましげな目つきで彼を見つめた時、自分の限りなく愛しているこの女性が、苦しみ悶えているばかりか、もしかしたら、辱しめられているかもしれないということを、とっさの間に悟ったのである。彼の胸は萎えしびれた。彼は痛々しげに女の顔に見入った。この疲れたような顔はもうとっくに、若々しい青春の輝きを失っていた。もっとも、彼女は今でも相変わらず美しかった。彼の目から見ると、前と少しも変わりのない美人だった(実際、彼女は今年まだ二十五で、かなりしっかりした体格の上に、背も中背以上で、――シャートフより高かった、――髪は暗色《あんしょく》で豊かに波打ち、顔は卵なりをしてあお白く、大きな目は黒みがかって、熱病やみのような光を放っていた)。けれど、以前かれの見馴れた、軽はずみで、無邪気な、率直で、エネルギッシュなところは失くなって、気むずかしそうな癇性らしいところと、幻滅的な心持ちと、無恥とでもいいたいような感情が、それに代わっていた。けれども、彼女はまだこの新しい心持ちに馴れないで、自分でもそれを重荷のように感じているらしかった。が、何より気がかりなのは、彼女が病んでいることである。それは彼も明らかに見て取った。彼は、彼女に烈しい恐怖を感じているにもかかわらず、ふいにずかずかと傍へ寄って、その両手を取った。
「マリイ……あのね……お前はたいへん疲れているようだね、後生だから、怒らないでおくれ……せめてまあ、茶でも飲むのを承知してくれるといいんだけれど、え? 茶はたいへん元気をつけるものだがね、え? 本当に承知してくれるといいんだがなあ!………」
「そんなこと、承知してくれるも何もありゃしないわ、むろん承知してよ。まあ、あんたはやっぱりもとと同じような坊っちゃんね。あるのなら出してちょうだい。本当にあんたのところはなんて狭いんでしょう! なんてまあ寒いんでしょう!」
「ああ、ぼくが今すぐ薪を、薪を……薪はぼくのところにあるんだよ!」彼はあわてて、そわそわし始めた。「薪は……いや、しかし……なに、お茶も今すぐできる」自暴自棄的な決心の色を浮かべて、片手を振りながら、彼は帽子を取った。
「まあ、あんたどこへ行くの? じゃ、うちにお茶がないんですね?」
「できる、できる、今にすっかりできる……ぼくは……」と彼は棚からピストルを下ろした。「ぼくいまこのピストルを、売るかそれとも質におくかするんだ」
「なんて馬鹿馬鹿しい、それに、長くかかってたまりゃしないわ! さあ、あんたのとこに何もないのなら、わたしのお金を持ってらっしゃい。ここに十コペイカ玉が八つあるらしいわ。それでみんなよ。あんたのとこは、まるで癲狂院みたいね」
「いらない、お前の金なんぞはいらない。ぼくいますぐ、ほんの一分間で……ピストルなんかなくてもできるよ……」
 彼はいきなりキリーロフのところへ飛んで行った。それはおそらく、ピョートルとリプーチンがキリーロフを訪問する、二時間ばかり前のことらしい。シャートフとキリーロフとは、同じ地内に暮らしながらほとんど互いに顔を合わすことがなかった。途中で出あっても、会釈一つしなければ、口を一つきこうともしなかった。彼らは『アメリカであまりに長いこといっしょにごろごろしていた』のである。
「キリーロフ君、きみのところにはいつもお茶があるね。今お茶と湯沸《サモワール》があるかしら?」
 キリーロフは、部屋の中をことこと歩き廻っていたが(たいてい一晩じゅう、隅から隅へと歩きつづけるのが常であった)、ふいに立ちどまってじっと穴の明くほど、――もっとも、大して驚いた様子もなく、――駆け込んで来るシャートフを打ちまもった。
「茶はある、砂糖もある、サモワールもある。しかし、サモワールはいらないよ、お茶が熱いから。まあ、腰を下ろして飲んだらいいじゃないか」
「キリーロフ君、ぼくらはアメリカでいっしょに長いことごろごろしてたもんだっけねえ……ぼくのとこへ家内がやって来たんだ……ぼくは……お茶をくれたまえ……サモワールもいるんだ」
「細君が来たとすれば、そりゃサモワールもいるね。しかし、湯沸《サモワール》は後だ。ぼくのとこには二つあるから。まあ、いまテーブルの上から急須を取って行きたまえ。熱いんだ、思い切り熱いんだ。みんな持って行きたまえ。砂糖も持って行きたまえ、そっくりみんな。パン………パンはたくさんある。そっくり、みんな持って行きたまえ。犢肉《こうしにく》もあるよ。金も一ルーブリ」
「貸してくれたまえ、きみ、明日は返すから! ああ、キリーロフ君!」
「それは、あのスイスでなにした細君かね? それはいい、それから、きみがあんなに駆け込んだのも、あれもやはりいいよ」
「キリーロフ」とシャートフは叫んだ、急須を肘で抑えて、両手に砂糖とパンをつかみながら。「キリーロフ! もし……もしきみがあの恐ろしい空想をなげうつことができたら……あの無神論の悪夢を捨てることができたら……ああ、それこそきみはどんなに美しい人間になるか、わからないんだがなあ、キリーロフ君!」
「きみはスイス事件の後でも、やはり細君を愛してるようだね。スイス事件の後までとすれば、それは本当にいいことだよ。茶が入り用になったらまた来たまえ。夜っぴて来たってかまわないよ、ぼくはまるで寝ないんだから。サモワールは用意しとくよ。この一ルーブリを持って行きたまえ、さあ。もう細君のところへ行ってやるがいいよ。ぼくはここにいて、きみと細君のことを考えてるから」
 マリヤ・シャートヴァは、ことが迅速に運んだのに満足らしく、まるで貪るように茶を飲みにかかったが、しかし、サモワールなど取りに行く必要はなかった。彼女は茶碗に半分ほど飲んだばかり、パンも小さなきれを一つ食べただけである。犢肉などは気むずかしい、いらだたしげな様子でしりぞけてしまった。
「お前は病気なんだね、マリイ。お前の様子はいかにも病的だものね……」臆病げに、傍でかれこれ世話を焼きながら、シャートフはおずおずとこういった。
「むろん病気ですよ。どうか坐ってちょうだいな。いったいあんたはどこからお茶を取って来たの、もしあんたのところになかったとすれば?」
 シャートフはキリーロフのことを、ちょっと掻い摘んで話した。彼女もこの男のことは、何かと耳に挾んでいた。
「知ってますわ。気ちがいだってんでしょう。ありがとう、もうたくさん。馬鹿な人間なら、世間に珍しくもないわ。で、あんたはアメリカヘいらしったの? なんでも、わたしに手紙を下すったそうね」
「ああ、ぼくは………パリーヘ向けて出したのだ」
「もうたくさん、どうか、ほかの話をしてちょうだいな。あんたは心からのスラブ主義者?」
「ぼくは……ぼくは別にそういうわけじゃない……ロシヤ人になることができないから、それでスラヴ主義になったのさ」場所がらにはまらない無理な警句をいった人のように、苦しそうにひん曲った薄笑いを浮かべた。
「じゃ、あんたはロシヤ人でないの?」
「ああ、ロシヤ人じゃない」
「ふん、そんなことみんな馬鹿げてるわ。さ、お坐んなさいな。わたし頼んでるじゃないの。なんだってあんたは始終あっちへ行ったり、こっちへ行ったりするの? わたしが譫言《うわごと》をいってると思って? だけど、本当に譫言をいい出すかもしれないわ。あんたは、二人きりでこの家に住んでるといったわね?」
「二人きり……下に……」
「しかも、こんな賢い人ばかり。下になんですって? あんた下にといいましたね?」
「いや、なんでもない」
「何がなんでもないの? わたし知りたいわ」
「ぼくがいおうと思ったのはね、いまぼくらはこの家に二人きりしかいないが、もとは下にレビャードキンとその妹が住んでた……ということなんだ」
「それはゆうべ殺されたあの女?」彼女は突然おどりあがった。「わたし聞いたわ。着くとすぐ聞いたわ。この町で火事があったんですってね?」
「ああ、マリイ、そうだよ。ことによったら、ぼくは今この瞬間に、あの悪党どもをゆるすということによって、恐ろしい卑劣な真似をしてるかもしれないのだ……」彼は出しぬけに立ちあがって、前後を忘れたように両手を振り上げながら、部屋の中を歩き廻り始めた。
 けれど、マリヤは彼の言葉がはっきりわからなかった。彼女はうっかり彼の返事を聞いていた。自分のほうからいろんなことをたずねながら、ろくろく耳をかしていなかったのである。
「あんた方は、いろいろけっこうなことをしてらっしゃるのね。ああ、何もかも卑劣なことばかりだ! だれもかれも卑劣なやつらばかりだ! さあ、いい加減にしてお坐んなさいよう、お願いしてるんじゃありませんか。ああ、本当にあんたにはじりじりさせられちゃうわ!」
 こういって彼女はぐったりと、枕に頭を埋めるのであった。
「マリイ、もうしないよ……お前ちょっと横になったらどうだね、マリイ?」
 彼女は返事をしないで、力なげに目を閉じた。そのあお白い顔は、まるで死人のようになった。彼女は、ほとんど見てる間に寝入ってしまった。シャートフはあたりを見廻して、蝋燭の火を直し、もう一ど女の顔を心配そうに見やると、両手をかたく胸の上に組みながら、そっと爪立ちで廊下へ出た。梯子段の上で、顔を隅っこの壁に押し当てたまま、十分ばかりじっと身動きもせず立ちつくしていた。彼はもっと長く、そうしていたかもしれなかったが、ふいに下のほうから、静かな用心ぶかい跫足が聞こえた。だれか登って来る様子である。シャートフは木戸を閉め忘れたのを思い出した。
「そこにいるのはだれだ?」と彼は小声でたずねた。
 未知の客は悠々と急がずに、返事もしないで上って来た。すっかり昇り切った時、彼は立ちどまった。まっ暗闇なので、何者とも見分けがつかなかった。とつぜん用心ぶかい質問が聞こえた。
「イヴァン・シャートフですか?」
 シャートフは名を名のったが、すぐに相手を押し止めるように、手をさし伸べた。と、男はいきなり彼の両手をつかんだ。シャートフは、まるで恐ろしい毒虫にでもさわったように、思わず身を慄わせた。
「ここに立っていたまえ」と彼は早口にささやいた。「入っちゃいけない。ぼくはいまきみを通すわけにいかないんだ。家内が帰って来たんだから。ぼくすぐに蝋燭を持って来るよ」
 彼が蝋燭を持って引っ返してみると、だれやらまだ生若い将校が立っていた。名前は知らないけれど、どこかで見たことがあるような気がする。
「エルケリ」とこちらは名のりを上げた。「ヴィルギンスキイのところで会ったはずです」
「おぼえてる。きみはじっと腰をかけて、何か書いてたっけ。ねえ」ふいに前後を忘れたように、相手のほうへつめ寄ったが、声は依然としてささやくような調子で、シャートフは熱くなってこういった。「きみはいまぼくの手をつかみながら、手で合図をしたね。しかし、覚えていてくれたまえ、ぼくはそんな合図なんか、弊履のごとく棄てることもできるんだからね! ぼくはそんなものを認めやしない……ぼくはいやだ……ぼくは今すぐに、きみをこの梯子段から突きおとすこともできるんだよ。きみはそれを承知しているかね?………」
「いや、ぼくはそんなこと、少しも知りません。それに、どうしてあなたがそんなに腹を立てられるのか、いっさいわけがわからないです」少しも毒けのないほとんど子供らしい調子で客は答えた。「ぼくはちょっとお伝えしたいことがあるので、一刻も時間を無駄にしまいと思って、そのためにわざわざやって来たのです。ほかじゃありませんが、あなたはご自分の所有に属していない印刷機械をもっておられるはずです。そして、ご自分でご承知のとおり、それについて報告の義務を帯びていられるのです。ぼくは、明日の午後正七時に、その機械をリプーチンに引き渡してしまうよう、あなたに要求しろと命ぜられたのです。なおそのほかに、今後あなたはもうなんらの要求をも受けられない、とこう伝えるように命じられました」
「もう何一つ?」
「ええ、けっして。あなたの請求は会のほうで容れられて、あなたは永久に除名されたのです。このことは間違いなく、あなたに伝えるようにとの命令でした」
「だれが命令したのです?」
「それはぼくに合図を教えてくれた人たちです」
「きみは外国から来た人ですか?」
「それは……それはあなたにとって、なんの関係もないことだろうと、ぼくは考えますがね」
「ええ、ばかばかしい! ときに、きみはそんな命令を受けながら、どうして早くやって来なかったんだね?」
「ぼくはある訓令に従って行動していたし、それに、一人きりでなかったものですから」
「わかってます。きみが一人きりでないことは、わかっています。ええ、ばかばかしい! いったいどういうわけで、リプーチン自身来なかったんだろう?」
「そういうわけで、ぼくは明晩、正六時に迎えに来ますから、いっしょにあすこへ歩いて行きましょう。われわれ三人のほかにはだれも来やしません」
「ヴェルホーヴェンスキイは来るかね?」
「いや、あの人は来ません。ヴェルホーヴェンスキイは明日の朝十一時に、この町を出発することになっています」
「そうだろうと思った」とシャートフは気ちがいのように叫びながら、拳を固めてわれとわが股を打った。「逃げやがった、悪党め!」
 彼は興奮のていで考え込んだ。エルケリはじっとその様子を見つめながら、無言のまま控えていた。
「きみたちはどうして受け取るつもりなんだね? あんなものを一ペんに、手で提げて持ってくわけにいかないじゃないか」
「そんなことをする必要はないです。ぼくらはあなたに場所を教えてもらって、本当にそこへ埋めてあるかどうか、確かめさえすればいいんですから。ぼくらはその場所がどの方面にあるか知ってるだけで、場所そのものは知らないのです。あなたはその場所をだれかに教えたことがありますか?」
 シャートフはじっと彼を見つめていた。
「きみは、きみはそんな小僧っ子のくせに、――やはり羊かなんぞのように、あんな仕事に頭を突っ込んでしまったのかね! ああ、やつらはつまり、こういうふうな甘い汁が吸いたいんだ! さあ、行きたまえ! ああ、あの悪党め、きみらをみんなだましておいて、そのままどろんを決めやがったんだ」
 エルケリは明るい落ちついた目で、相手を眺めていたが、なんのことかわからないらしかった。
「ヴェルホーヴェンスキイが逃げた、ヴェルホーヴェンスキイが!」シャートフはもの凄く歯を鳴らした。
「いや、あの人はまだここにいます、どこへも行きゃしませんよ。あの人は明日たつのです」ものやわらかな諭すような調子で、エルケリは口を挟んだ。「ぼくはとくにあの人に立会いを頼んだのです。ぼくの受け取った訓令は、全部あの人から出たもんですからね(と彼は、無経験な青年の常として何もかもぺらぺらいってしまった)。けれど、残念ながら、あの人は出発を口実として、承知してくれませんでした。それに、まったく何やら馬鹿に急いでるのです」
 シャートフはもう一ど憫むように、この正直者に視線を投げたが、急に『ふん、憫んでやる価値があるかい』とでも考えたように、片手を振った。
「よろしい行きましょう」とつぜん彼は断ち切るようにこういった。「だから、もう行ってくれたまえ、さあ、早く!」
「じゃ、ぼくは正六時に来ますよ」とエルケリは丁寧に会釈して、悠々と梯子段を下りて行った。
「ばか!」こらえ切れないで、シャートフは梯子段の上からどなった。
「なんですか?」こちらは下からきき返した。
「なんでもない、行きたまえ」
「ぼくは何かいわれたのかと思いましたよ」

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 エルケリは、肝腎な統治者としての分別こそなかったけれど、こせこせした被統治者としての分別は、狡猾といっていいくらい、かなり多分に持ち合わした『馬鹿者』だった。ファナティックか赤ん坊のように、『共同の事業』、といっても、その実ピョートルに信服し切った彼は、今もピョートルの命令にしたがって行動したのである。この命令はさっき仲間[#「仲間」に傍点]のものが集まって、いろいろあすの手はずや役割を決めた時、ピョートルが彼に授けたのである。ピョートルはあの間に彼を小わきへ呼んで、十分ばかり話をしたのち、彼に使者の役目を授けてしまったのだ。こういう分別の欠けた、他人の意志に隷属することばかり望んでいる浅薄な人間にとっては、実行方面の仕事が本性の要求だった、――むろん『共同の事業』のためとか、『偉大な事業』のためとかいう口実が、いつでも付き物ではあるけれど……しかし、それさえどうでもかまわないのだ。というのは、エルケリのような年若のファナティックは、理想に対する奉仕ということを、自分が心から信じきって理想の代弁者とする人物に結びつけなければ、どうしても了解できないからである。
 感じやすくて、善良で、優しいエルケリは、ことによったら、シャートフ目がけて飛びかかった仲間の中で、最も冷酷な下手人だったかもしれない。自分ではなんの私怨もないくせに、目一つぱちりともさせないで、惨殺の場所に立会ったに相違ない。たとえていおうなら、彼は使命を実行するに当たって、目下のシャートフの事情をよく見て来るように、という命令をも授けられていたが、シャートフが階段の上で彼に応対しながら、つい夢中になって自分でもそれと気がつかず、妻が帰って来たと口をすべらした時も、エルケリは、この、妻が帰って来たという事実は、自分の計画遂行に重大な意味をもってるな、という考えが、電光のように脳裡にひらめいたにもかかわらず[#「かかわらず」は底本では「かかわからず」]、少しもさきを聞きたそうな様子を見せないだけの、本能的な狡知を持っていたのである。
 まったくそのとおりであった。この出来事一つが『悪党ども』を、シャートフの決心から救ったと同時に、彼を『片づける』助けとなったのである。第一に、この出来事はシャートフを興奮させ、心の軌道から叩き出してしまって、いつもの明敏な透察力と、慎重な態度を奪い取ったのである。自己の安全などという考えは、ぜんぜん別なことがらにみたされている彼の頭に、浮かんで来ようはずがなかった。それどころか、明日ヴェルホーヴェンスキイが逃げ出すということを、彼は一も二もなく本当にしてしまった。この話はあまりにぴったりと、彼の想像に符合するからである。自分の部屋へ帰って来ると、彼はふたたび隅っこに腰を下ろして、膝に両肘を突きながら、手で顔をおおった。苦しい想念が彼を悩ますのであった……
 やがて彼はまた首を上げて、そっと爪さきで立ちあがると、静かに妻の顔を覗きに行った。
『ああ、どうしよう! 明日の朝は熱を起こすに相違ない、いや、ひょっとしたら、もう起こってるかもしれん! むろん風邪を引いたのだ。こんな恐ろしい気候に馴れてないし、それに三等の汽車旅、あらし、雨……おまけに、こんな冷たい外套一つで、別に暖い着物一枚ないんだ……こんな場合にうっちゃらかすなんて、たよりのない境遇に捨てておくなんて……そして、このカバンはどうだろう、なんだか小っぽけな軽そうなしわの寄ったカバンで、十斤ばかりしか重みがなさそうだ! かわいそうに、なんというやつれ方だろう。ずいぶん苦労したんだろうなあ! あれは誇りの強い女だから、それで口に出して訴えないのだ。しかし、あの癇の強いことは! なにしろこの病気だからなあ。どんな天使だって、病気にかかれば癇が強くなるさ。あの額はきっと乾き切って、火のように熱いことだろう。そして、あの目の下の暗いこと……しかし、あの卵なりの顔の美しいことはどうだ。そして、あの髪の房々としていること、実に……』
 彼は急いで目を転じた。彼はこの女性の中に、他人の扶助を要する疲れ悩む不幸な人間というよりほかに、何か別なものを見出しはしないか、とそう考えただけでも、ぎょっとしたかのように、あわてて目をそらした。
『いったいこんな場合にどんな希望[#「希望」に傍点]があるものか! ああ、おれはなんという下司な、なんという陋劣な人間だろう!』
 彼はふたたび元の片隅へ引っ込んで、腰をおろすと、両手で顔を隠してしまった。そして、ふたたび空想に耽りながら、さまざまなことを思い起こすのであった……すると、またしても同じ希望が頭をかすめた。
『ああ、疲れちゃった、ああ、疲れちゃった!』という妻の呻きが思いおこされた。それは弱々しい、ひっちぎれたような声であった。『ああ! 今あれをうっちゃってしまったらどうだろう。あれは八十コペイカしか持っていないのだ。古いちっぽけな金入れを突き出したっけ! 仕事をさがしにやって来たって、ふん、あれに仕事のほうなんかわかってたまるものか。あの連中にロシヤのことなんか何がわかるものか。あんな連中は、まるで罪のない子供みたいなものだ。あの連中のすることは、みんな自分で考え出した空想なんだ。かわいそうに、あれもここへ来てみて、どうして本当のロシヤは、外国で空想したのと違うのだろうと思って、腹を立ててるのだ! なんという不幸な人たちだろう、なんという罪のない人たちだろう!……しかし、本当にここは寒いなあ……』
 彼は妻が寒さを訴えたことや、自分が暖炉を焚くと約束したことを、思い出した。
『薪はあすこにあるから、持って来ることはできるが、ただ起こさないようにしなければ……だが、大丈夫だ。ところで、犢肉のことはどうしたもんだろう? 目をさましたら、食べたいというかもしれないからなあ……が、まあ、それは後でいい、キリーロフは一晩じゅう寝ないんだから……何か掛けてやるといいなあ。ぐっすり寝入ってるけれど、きっと寒いに違いない。ああ、寒そうだなあ!』
 彼はもう一ど妻の様子を見に行った。と、着物が少しまくれて、右の足が半分ばかり、膝の辺まであらわになっていた。彼はほとんどおびえたように、つと顔をそむけた。そして、自分の厚い外套を脱いで、古いフロック一枚になると、なるべくそのほうへ目を向けないようにしながら、剥き出しになったところを隠してしまった。
 薪を焚きつけたり、爪立ちで歩き廻ったり、寝ている妻の様子を見たり、部屋の隅で空想にふけったり、また寝ている妻の様子を見たりするのに、だいぶ時間が潰れた。こうして、二、三時間たってしまった。この間にキリーロフのところへ、ヴェルホーヴェンスキイとリプーチンがやって来たのである。やがて彼も隅のほうで、うとうと眠りに落ちてしまった。ふいに、女の呻き声が聞こえた。マリヤは目をさまして彼を呼んだ。彼はまるで罪人《つみびと》のように躍りあがった。
「マリイ! ぼくはついうとうとしかけたよ……ああ、マリイ、ぼくはなんて陋劣な人間だろう!」
 彼女は自分がどこにいるかわからないように、びっくりしてあたりを見廻しながら、起きあがった。と、急に憤怒のあまり躍りあがった。
「わたしあんたの寝床を占領してたのね。わたしは疲れちゃって、つい夢中で寝てしまったんだ。まあ、どうしてあんたは起こしてくれなかったんです! わたしがあんたの厄介になるつもりだなどと、よくもそんな失礼なことが考えられたわね!」
「どうしてぼくが起こせるものか、マリイ?」
「起こせますとも、起こさなきゃならなかったんですよ! もうほかにあんたの寝るところもないのに、わたし、あんたの寝床を占領してたんじゃありませんか。あんたとしては、わたしをうしろめたい立場に落としちゃならなかったはずなんです。それとも、わたしがあんたのお情けにあずかりに来た、とでも思ってるんですか? さあ、今すぐご自分の寝床に入ってください。わたしは隅っこのほうへ椅子を並べて寝ますから……」
「マリイ、そんなに椅子はありゃしないよ。それに敷くものもないんだよ」
「じゃ、床の上へじかに寝るわ。だって、あんたが床へ寝るようになるじゃないの。わたし床の上に寝たいんですの、すぐ、今すぐよ!」
 彼女は立ちあがって、一あし踏み出そうとしたが、ふいに烈しい引っ吊るような痛みが、一どきに力と決断を奪いつくしたように、彼女は高い呻き声とともに、ふたたび寝床の上に倒れてしまった。シャートフは思わず傍へ駆け寄った。けれど、マリヤは顔を枕の中に埋めながら、いきなり彼の手を取って、力まかせに握りしめたり、捩じ廻したりし始めた。これが一分間ばかり続いた。
「マリイ、お前、もしなんだったら、ここにフレンツェルという医者があるんだがね。ぼくの知人で、大変……ぼく一走り行って来ようか」
「ばかなことを!」
「何がばかなことだ? ねえ、マリイ、いったいどこが痛むんだい? なんなら湿布をして……腹か何かに……そんなことなら、医者はいなくっても、ぼくにできるが……でなければ、芥子泥《からしでい》でも……」
「それはいったいなんですの?」彼女は頭を持ち上げて、おびえたように男の顔を見つめながら、奇妙な調子でこうたずねた。
「といって、つまり、なんのことだね、マリイ?」シャートフは合点がゆかなかった。「お前なにをきいてるんだい? ああ、どうしよう、ぼくはまるでとほうにくれてしまった。マリイ、堪忍しておくれ、ぼくはなんにもわからないんだ」
「ええ、やめてちょうだい、あんたなぞの知ったことじゃないわ。それに、おかしいじゃないの……」と彼女は苦しそうに笑った。「何か話してちょうだい。部屋の中を歩き廻りながら、話をしてちょうだいな。そんなに傍に立って、わたしの顔を見ないでちょうだい。これはわたし特別に折り入ってお願いするわ!」
 シャートフは彼女のほうを見ないようにして、一生懸命に床を見つめながら、部屋の中を歩き始めた。
「実はね、――マリイ、後生だから怒らないでおくれ、――実はね、すぐ手近な所に犢肉と茶があるんだが……さっきお前の食べようがあんまり少なかったもんだから……」
 彼女は、ぞんざいな意地悪げな様子で手を振った。シャートフは絶望したように言葉を呑んだ。
「ねえ、わたしは合理的な協力主義を基礎として、ここで製本屋を始めようと思ってるんですの。あんたはここに住んでる人だからおわかりでしょうが、いったいどうお思いになって、うまく行くでしょうかねえ?」
「とんでもない、マリイ、この町の人は本なんか読みやしないよ。それに、本もまるでありゃしないさ。それに、あいつが製本なんかするものかね?」
「あいつとはだれ?」
「この町の読者や、この町の住民ぜんたいをさしたんだよ、マリイ」
「それならそれと、はっきりおっしゃいよ。あいつ[#「あいつ」に傍点]だなんて、だれがあいつかわかりゃしないわ。いったい文法をごぞんじないの?」
「それは言葉の調子だよ、マリイ」とシャートフはつぶやいた。
「ああ、そんな調子なんか、どこかへほうっちまってちょうだい、飽き飽きしちゃったわ。なぜここの住民とか読者とかは、製本ということをしないのでしょう」
「つまり、読書と製本は、人知発達の異なった二つの時代、しかも、大きな時代を表わしてるからさ。初めのうち、人間は少しずつ本を読むことを習うわけだ、むろん、それには何百年という時日を要する。けれど、要するにくだらないものとして、ばらばらに読み崩したままうっちゃってしまう。ところが、製本ということは、もう書物に対する尊敬を示している。単に読むのが好きになったばかりでなく、真面目な仕事と認めるようになったしるしなんだ。ロシヤ全体がまだこの時期までにいたってないのだね。ヨーロッパはもうだいぶ前から製本してるよ」
「それは少々ペダントくさいところがあるけれど、でもちょっと気の利いた言い廻しねえ。なんだか三年前が思い出されるわ。あんた三年前には、かなりウイットがあったのね」
 これだけのことをいうのにも、以前の気まぐれな言い草と同じように、やはり投げやりな調子だった。
「マリイ、マリイ」シャートフは感激の色をおもてに浮かべながら、妻に向かってこういった。「おお、マリイ! この三年間にどれだけの変化が起こったか、それをお前が知ってたらなあ! これは後で聞いたことだが、お前はぼくが変節したといって、ひどくぼくを軽蔑してたそうだね。しかし、ぼくが見棄てたのはいったいだれだろう? 生きた生命の敵だ、自分自身の独立独歩を恐れる時代おくれの自由主義者だ、思想の下男だ、個性と自由の敵だ、死屍と腐肉の老いぼれた宣伝者だ! 彼らの持っているのはなんだろう? 耄碌だ、黄金の中庸主義だ、思いきり下司で卑屈な凡庸主義だ、嫉妬にみちた平等主義だ、自己の尊厳を持たぬ平等主義だ……下男の意識するような平等主義だ、一七九三年代のフランス人が意識したような平和主義だ……が、何より癪にさわるのは、どこへ行っても陋劣漢の揃ってることだ、陋劣漢だ、陋劣漢だ!」
「ええ、陋劣漢の多いことだわ」マリヤは病的な調子で切れぎれにこういった。
 彼女は疲れたような、しかし燃えるような目で、天井を見つめながら、ちょっとはすかいに頭を枕の上に投げ出したまま、身動きするのも恐れるように、じっと長くなって横になっていた。その顔はあおざめ、唇はすっかり乾いてがさがさに荒れていた。
「お前もそう思うかね、マリイ、そう思うかね!」とシャートフは叫んだ。
 彼女は首を振って、否定のしるしをして見せようとしたが、とつぜん前と同じ痙攣が起こった。彼女はふたたび顔を枕に埋めて、まる一分ばかり一生懸命な力で、恐怖のあまり夢中に駆け寄ったシャートフの手を、痛いほど握りしめるのであった。
「マリイ、マリイ! これはことによったら、なかなか重態かもしれないよ、え、マリイ!」
「黙っててちょうだい……わたしいやです、いやです、いやです」ふたたび仰向けに向き変わりながら、彼女は恐ろしい勢いで叫んだ。「そんな同情めいた様子をして、わたしの顔を見ないでちょうだい! さあ、部屋を歩きながら、何か話をしてちょうだい、話を……」
 シャートフはまるでとほうにくれたように、また何やらいい出した。
「あんた、ここで何をしてらっしゃるの?」気むずかしげな焦躁のさまで相手をさえぎりながら、彼女は突然こうたずねた。
「ある商人の店へかよってるのだ。ぼくはね、マリイ、その気にさえなれば、ここでいい金儲けもできるんだがね」
「そりゃおめでとう……」
「ああ、マリイ、そんなふうなことを考えないでおくれ。ぼくがいったのはただ……」
「それから、まだ何かしてらして? 何を宣伝してらっしゃるの? だって、あんたは何か宣伝しずにいられない人なんですもの。そういう性質なんですものね!」
「神を宣伝してるよ、マリイ」
「自分でも信じてない神をね。わたし、その思想がどうしても合点がいかなかった」
「やめとこう、マリイ、それは後にしよう」
「じゃ、ここにいたあのマリヤ・チモフェーヴナというのは、いったい何者なんですの?」
「それもやはり後にしよう、マリイ」
「わたしにそんな忠告はやめにしてちょうだい! あの人殺しは……あの連中の兇行だということですが、いったい本当なんでしょうか?」
「間違いなくそうなんだ」シャートフは歯をきりきりと鳴らした。
 マリヤは急に頭を上げて、病的な声で叫び出した。
「もうそのことをわたしにいわないでちょうだい、けっしていっちゃいけません。二度といったら承知しませんよ!」
 こういいながら、彼女は以前と同じひっ吊るような痛みに、ふたたびベッドの上へ倒れてしまった。もうこれで三度目だった。しかも、今度は呻き声が前より高くなって、ほとんど叫び声に変わってしまった。
「おお、あんたはなんてたまらない人だろう! おお、なんてやり切れない人だろう!」彼女は上からかがみかかるシャートフを突きのけながら、自分をいたわることも忘れ、夢中になって身をもがくのであった。
「マリイ、ぼくはなんでもお前の好きなようにしてあげる……歩いて……話をしてもいい」
「まあ、いったいあんたは、何が始まったのか、わからないんですか!」
「何が始まったかって、マリイ?」
「ああ、わたしの知ったことですか? いったいこれがわたしの知ったことだろうか?……ああ、呪われた女! おお、初めっから、何もかも呪ってやる!」
「マリイ、本当に何が始まってるのか、お前がいってくれたらなあ……そうしたら、ぼくは……そんなふうでは、ぼくに何がわかるものかね」
「あんたは抽象的なおしゃべりばかりしてる役立たずだわ。おお、世の中のものを何もかも呪ってやる!」
「マリイ! マリイ!」
 この女は気がちがいかかっているのだと、真面目にそう考えた。
「いったいあんたもいい加減、わかりそうなもんじゃないの。お産の陣痛よ!」恐ろしい病的な憤怒に顔を歪めて、じっと男を見つめながら、彼女は半ば身を起こした。「もう今から呪われるがいい、こんな子供なんか!」
「マリイ」ようやくことの真相を悟って、シャートフはこう叫んだ。「マリイ……どうして初めからそういってくれなかったのだ?」彼は急にわれに返った。そして、断固たる決心を示しながら、帽子を取り上げた。
「ここへ入って来る時に、そんなこととは知らなかったんだわ。でなかったら、あんたのところへ来るはずがないじゃないの。まだ十日ぐらいあるということだったんですもの! どこへ、あんたどこへ行くの、そんなことだめよ!」
「産婆を呼びに! ぼくはピストルを売るのだ。今は何よりも一番に金だからね」
「なんにもしちゃいけない。産婆など呼んだら聞きませんよ。ほんの手伝い女でいい、どこかの婆さんでいいの、わたしの蟇口に八十コペイカあるから……田舎の女なんか、産婆なしでお産をするじゃないの……かたわになったら、結句そのほうがいいわ……」
「産婆も来る、婆さんも来るよ。だが、ぼくは、ぼくはお前を一人ぼっちでおいて行かれない、マリイ!」
 しかし、後でこの頼りのない女を一人ぽっち[#「一人ぽっち」はママ]にするよりは、今おいて行ったほうがまだましだと考えたので、彼はマリヤの烈しい憤怒にもかかわらず、その呻き声も、腹立たしげな叫びも聞かないで、自分の早い足に望みをかけながら、まっしぐらに梯子段を駆け下りた。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 まず一番にキリーロフのところへ駆けつけた。もう夜中の一時頃だった。キリーロフは部屋の真ん中に突っ立っていた。
「キリーロフ君、家内が産をしてるんだ!」
「といって、なんのこと?」
「産をしてるんだ、子供を生んでるんだ!」
「きみ……思い違いじゃない?」
「いや、そうじゃない、いま陣痛が始まってるんだ……産婆がいるんだ、何か婆さんのようなものが、――ぜひ今すぐいるんだ……いま呼んで来られるかしらん? きみのところには婆さんが大勢いたがなあ……」
「どうもたいへん気の毒だが、ぼくは産をすることが下手でね」とキリーロフは考え深そうに答えた。「いや、つまり、ぼくが産が下手なのじゃなくって、産の上手なようにすることができない……いや……駄目だ、ぼくにはうまくいえない」
「つまり、きみが自分でお産の手伝いができない、ということなんだろう。しかし、ぼくのいうのはそのことじゃない。婆さんがいるんだ、婆さんが。ぼくは女を頼んでるんだ。看護婦だ、女中だ!」
「婆さんは呼べるが、しかし、今すぐというわけにはいかない。もしなんなら、ぼくが代わりに……」
「ああ、それは駄目だ。ぼくはこれからヴィルギンスカヤのとこへ、あの産婆のところへ行くんだから」
「あの毒婦か!」
「ああ、そうだよ、キリーロフ。しかし、あの女が一番うまいんだからね! ああ、それにああいう偉大な神秘、――新しい生命の出現が、敬虔の念もなければ歓喜もなく、嫌悪と嘲罵と冒涜をもって行なわれるんだからね……きみ、あれはもう今から赤ん坊を呪ってるんだよ……」
「もしなんならぼくが……」
「いけない、いけない。ぼくが駆け廻ってるうちに(大丈夫、ぼくはヴィルギンスカヤを引っ張って来る)、きみはときどきぼくの梯子段のところへ行って、そっと中の様子に耳を澄ましてくれたまえ。ただ、けっして中へ入っちゃいけないよ、あれがびっくりするから。どんなことがあっても、入っちゃいけない。ただ聞いてるだけなんだよ……万一、どんな恐ろしいことがないとも限らないからね。で、もし何か非常のことが起こったら、その時はかまわず入ってくれたまえ」
「わかった。金はまだ一ルーブリある。さあ、ぼくはあす鶏《とり》を買おうと思ったんだが、今はもうほしくなくなった。早く走って行きたまえ。一生懸命に走って行きたまえ。サモワールは一晩じゅうあるよ」
 キリーロフは、シャートフに関する仲間[#「仲間」に傍点]の計画を、少しも知らなかった。それに、前からシャートフの身に迫る危険の程度を、まるで知らずにいたのである。ただシャートフと『あの連中』の間に、古くから何やら義務関係がある、ということだけしか知らなかった。もっとも、彼自身も外国にいる時分、ある命令を授けられたため、いくぶんこの仕事に関係していたが(彼は何ごとも、あまり深く立ち入って仕事をしたことがないので、この命令というのもごく表面的なものだった)、しかし、最近なにもかもいっさいの委託を投げうって、あらゆる仕事(ことに『共同の事業』)からすっかり身をひいて、瞑想生活に没頭してしまったのである。
 ピョートル・ヴェルホーヴェンスキイは会議の席で、キリーロフが与えられた時機に、『シャートフの事件』を引き受けるかどうかを確かめるため、リプーチンを同道して行ったけれど、キリーロフとの問答中シャートフのことは、一言もほのめかそうとしなかった。多分、そんなことをいうのは拙いと考えたのでもあろうし、キリーロフを当てにならぬ人間とも思ったので、あす何もかもすんでしまって、キリーロフが『どうだって同じだ』と考えるまで待とう、――少なくも、ピョートルはキリーロフのことを、こんなふうに判断したに相違ない。リプーチンもやはり同じように、ああした約束があったにもかかわらず、シャートフの話が少しも出なかったのに、十分気がついていたけれど、抗議を提出するには、あまり興奮しすぎていたのである。
 シャートフはまるでつむじ風のように、蟻街《ムラウィーヤナ》をさして駆け出した、果てしもないように思われるわずかな道のりを呪いながら。
 ヴィルギンスキイのところでは、長いあいだ戸を叩かねばならなかった。もうだいぶ前に寝てしまったのである。しかし、シャートフはなんの遠慮もなく、力まかせに鎧戸を叩きつづけた。庭に鎖で繋いである犬が飛びかかろうともがきながら、意地悪そうな声で吠え立てると、町内の犬がその声に応じて、恐ろしい犬のコーラスが始まった。
「なんだってそんなに叩くのです、いったいなんの用です?」とうとう窓の中から、主人のヴィルギンスキイの声、――こうした『侮辱』にふさわしからぬ、もの柔かな声が響いた。
 と、鎧戸が開かれ、続いて通風口もあいた。
「そこにいるのはだれ、どこのやくざ者なの?」今度はもうすっかり『侮辱』に相応した声、――ヴィルギンスキイの親戚に当たるオールドミスの、意地悪そうなきいきい声が響いた。
「ぼくはシャートフです。家内がぼくのところへ帰って来て、いま産をするところなんですよ……」
「ええ、勝手に産でもなんでもするがいい、早く行っておしまいなさい!」
「ぼくはアリーナさんを迎えに来たんです。アリーナさんを連れないでは帰りませんよ!」
「アリーナさんはね、だれのところへでも行く人じゃありません。夜ふけに出るのは、専門の人がありますよ……さっさとマクシェーヴアのところへでも行くがいい。騒々しくしないでちょうだい、失礼な!」意地くね悪そうな[#「意地くね悪そうな」はママ]女の声が、はぜるようにこういった。
 ヴィルギンスキイの押し止める声が聞こえた。けれど、老嬢は彼を突きのけながら、なかなか折れて出ようとしなかった。
「ぼく帰りゃしないから!」とシャートフはまたどなった。
「待ってくれたまえ、ね、待ってくれたまえってば!」やっと老嬢をなだめて、ヴィルギンスキイはこうわめいた。「シャートフ君、お願いだから、五分ばかり待ってくれたまえ。ぼくアリーナを起こすから、どうか叩いたりどなったりしないでくれたまえ……ああ、なんという恐ろしいことになったもんだ!」
 果てしのない五分という時が経ってから、やっとアリーナが姿を現わした。
「あなたのところへ奥さんが帰って来たんですって?」という彼女の声が通風口から聞こえた。驚いたことに、その声は少しも意地悪そうでなく、ただいつもの癖で、ちょっと命令的に聞こえるばかりだった。アリーナはそれよりほかに、口のきき方を知らなかったので。
「ええ、家内が、――そして産をしてるんです」
「マリヤ・イグナーチエヴナが?」
「ええ、マリヤ・イグナーチエヴナです。もちろん、マリヤ・イグナーチエヴナです!」
 ちょっと沈黙がおそうた。シャートフはじっと待ち設けていた。家の中では、人々が何やらささやき交していた。
「奥さんはもう前から来てらっしゃるの?」またマダム・ヴィルギンスカヤがこうたずねた。
「今夜八時に来たのです。どうか早くしてください」
 ふたたび囁きが聞こえて、どうやら相談してるらしいふうだった。
「ねえ、思い違いをしてらっしゃるんじゃありませんか? あのひとが自分でわたしを迎えによこしたんですか?」
「いや、あれが自分でよこしたんじゃありません。あれはぼくにいろんな費用を負担させまいと思って、ただの婆さんをといったのです。しかし、心配しないでください、ぼくちゃんとお礼をしますから」
「よろしい、お礼はなさろうとなさるまいと、わたし行ってあげますわ。わたしはマリヤさんの独立不羇な気性に、いつも感心していましたの。もっとも、あのひとはわたしをおぼえてらっしゃらないかもしれませんがね。それから、あなたのところには、どうしてもなくてはならないものが揃ってますか?」
「なんにもありません。が、みんな揃えます、みんなすっかり……」
『あんな連中にもやはり侠気《おとこぎ》があるんだなあ!』リャームシンのところへ急ぎながら、シャートフはこう考えた。『主義と人間性、――これは多くの点において、全然ことなった二つのものらしい。おれはあの人たちに対しても、ずいぶん悪いことをしてるかもしれない!………みんな悪いのだ、みんな罪があるのだ、そして、みんなこれに気がつきさえすればいいんだがなあ!………」
 リャームシンのところでは、そう長く叩かなくてもよかった。驚いたことには、彼はすぐ寝床から跳ね起きて、鼻風邪の危険さえ忘れ、シャツ一枚で跣足《はだし》のまま通風口を開けた。彼はふだん恐ろしく神経家で、自分の健康をひどく気にするたちだった。しかし、こんなに目ざとくさっそくに出て来たのには、また特別な理由があったのだ。リャームシンは今夜の『仲間』の会議の結果、一晩じゅう戦々兢々として、いまだに寝つけなかったのである。なんだかはなはだ望ましくない押しかけ客が、四、五人もやって来そうな気がしてならなかった。シャートフの密告という情報は、何よりも彼を苦しめたのである……ところが、突然わざと狙ったように、恐ろしく猛烈に窓を叩く音が聞こえるではないか……
 彼はシャートフを見ると、すっかりおびえあがって、すぐに通風口をぱったり閉め、寝台のほうへ逃げ出してしまった。シャートフはすさまじい勢いで、叩いたりわめいたりし始めた。
「なんだってきみは夜中にどんどん叩くんだね!」やっとシャートフが一人きりで来たのを確かめたので、二分ばかり経ってから、もう一ど通風口を開けることに決心したリャームシンは、恐ろしさに胸をしびらせながら、いかめしい声でこう叫んだ。
「さあ、ここにきみのピストルがある。これをもとへ引き取って、十五ルーブリ出してくれたまえ」
「それはいったいなんのこったね、きみは酔っぱらってるのかい? そりゃ強盗じゃないか。ぼくが風邪を引くばかりだ。ちょっと待ちたまえ、ぼくは夜着を羽織ってくるから」
「今すぐ十五ルーブリ貸してくれたまえ。もし出してくれなきゃ、ぼくは夜明けまでどんどん叩いて、わめきつづけるよ。ぼくはこの窓を毀してしまうから」
「そんなことをすりゃ、ぼくは巡査を呼んで、きみを留置場へ引っ張って行かせるさ」
「きみはぼくを唖とでも思ってるのか? ぼくにも巡査が呼べないと思ってるのか。いったいだれが巡査を恐れなきゃならんのだ、きみかぼくか?」
「きみはそんな卑劣な信念をいだき得る人なんだね……きみが何をほのめかしてるのか、ぼくは承知してるよ……待ちたまえ、待ちたまえ、お願いだから、叩かないでくれたまえ! まあ、考えてみるがいい、だれが夜中に金を持ってるものかね。いったいなんだって金がいるんだね、もしきみが酔っぱらっているのでなけりゃ……」
「家内が戻って来たんだ。ぼくはきみに十ルーブリひいてやるんだよ。まだ一度も射ってみたことはないんだけれど、さあ、このピストルを引き取ってくれ、すぐ引き取ってくれたまえ」
 リャームシンは機械的に通風口から手を伸ばして、ピストルを受け取った。彼はしばらくじっとしていたが、とつぜんすばやく通風口から首をつき出して、まるで背中に悪寒でも感じるように、前後を忘れてこうささやいた。
「きみは嘘をついてるんだ。細君が帰って来たなんて、まるででたらめだ……それは……それはただどこかへ逃げ出そうという魂胆なのだ」
「ばか、ぼくがどこへ逃げるんだ? それはきみたちのヴェルホーヴェンスキイが逃げ出すんで、ぼくのことじゃあないよ。ぼくはつい今しがた産婆のヴィルギンスカヤのところへ行って来た。すると、あの女もすぐ承知してくれたよ。なんなら聞き合わせて見たまえ。家内は非常に苦しんでるのだ。まったく金が必要なんだ、さあ、出してくれ!」
 さまざまな想念がまるで花火のように、リャームシンのすばやい頭の中でひらめいた。局面がすっかり一変してしまったのだ。けれど、恐怖の念が冷静な判断を許さなかった。
「だが、どういうわけで……だって、きみは細君と同棲していないじゃないか?」
「そんなことをきくと、ぼくはきみの頭をぶち割ってしまうぞ」
「あっ、こりゃどうも、失敬した。いや、わかってるよ。なにしろ、ぼくはすっかり仰天してしまったのでね……いや、わかってるよ、わかってるよ、しかし……しかし、――いったいアリーナさんがきみのところへ行くだろうか? きみは今あのひとが出かけたっていったね? きみ、そりゃ嘘だよ。見たまえ、そら見たまえ、きみは一こと一こと嘘をついてるじゃないか」
「あのひとはきっと今ごろ、家内の傍に坐ってるに相違ないのだ。もういい加減にしてくれ。きみが間抜けだからって、ぼくの知ったことじゃないよ」
「嘘だ、ぼくは間抜けじゃないよ。失礼だが、ぼくはどうしても……」
 彼はもう何が何やらわからなくなって、三たび戸を閉めようとしたが、シャートフが恐ろしい勢いで、わめき出したので、彼はまたもや大急ぎで首を突き出した。
「こりゃ、きみ、純然たる人権侵害だよ。いったいきみは何をぼくに要求するんだね、え、何を、何を、はっきりいいたまえ。それに、考えても見たまえ、考えても、――こんな真夜中にさ!」
「十五ルーブリの金を要求してるんじゃないか、なんてばか頭だ!」
「しかし、ぼくは全然ピストルを買い戻したくないかもしれないんだぜ。きみにはなんの権利もないのだ。きみは品物を買っただけだ、――それで話はおしまいじゃないか。きみにそんなことを要求する権利はない。ぼくはどうしても、夜中にそんな金をこしらえるわけにいかない。どうしてそんな金が手に入るもんかね?」
「きみはいつでも金を持ってるよ。ぼくは十ルーブリひくといったじゃないか。なんだ、折紙つきのユダヤ人のくせに」
「あさって来たまえ、――いいかね、あさっての朝、正十二時に来たまえ。すっかり耳を揃えてあげるよ、いいだろう?」
 シャートフは三ど兇暴な勢いで窓を叩いた。
「じゃ、十ルーブリよこしたまえ。そして、明日の朝ひきあけに五ルーブリ」
「いかん、明後日の朝五ルーブリだ。明日はどうあっても駄目だ。まあ、来ないほうがいいよ、まるで来ないほうが」
「十ルーブリよこしやがれ、こん畜生!」
「なんだってきみはそんなに悪口をつくんだい? まあ、待ちたまえ、あかりをつけなきゃ。ほら、こんなにガラスを毀しちゃったじゃないか……よる夜中、こんなにどんどん叩くやつが、どこにあるものかね? さあ!」と彼は窓から紙幣《さつ》をさしのぞけた。
 シャートフは引っつかんだ、――紙幣は五ルーブリだった。
「どうしても駄目だ。たとえ殺されたってできやしない。明後日は都合できるが、今はどうしても駄目だ」
「帰りゃしないぞ!」とシャートフはわめいた。
「さあ、これを取ってくれたまえ。もう一枚。いいかね、もう一枚あるだろう。もうそれより駄目だ。きみが喉の張り裂けるほどどなったって、ぼくは出しゃしないから。どんなことがあったって出しゃしないから。出さない、出しゃしない!」
 彼は前後を忘れて夢中になって、汗をたらたら流していた。彼が後からさし出した紙幣は、一ルーブリ二枚だった。こうして、シャートフの手には合計七ルーブリできた。
「じゃ、勝手にしやがれ、明日はまた来るから。リャームシン、八ルーブリ用意しておかなかったら、ぼくはきみをのしちゃうから」
『ふん、おれは家にいやしないんだから、ばか野郎!』とリャームシンははらの中ですばやく考えた。
「待ちたまえ、待ちたまえ!」もう駆け出したシャートフの後から、彼は気ちがいのようにわめいた。
「待ちたまえ、引っ返して来たまえ。ねえ、きみ、いま細君が帰って来たといったのは、ありゃ本当なのかい?」
「ばか!」シャートフはぺっと唾を吐いて、一目散にわが家をさして駆け出した。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 断わっておくが、アリーナは、ゆうべ会議を通過した決議のことを、少しも知らずにいたのである。帰宅した時、ヴィルギンスキイはすっかり顛倒してしまって、まるで力抜けしたようになっていたので、今夜の決議を妻に告げる勇気がなかった。けれど、やはり持ちこたえることができないで、事実の半分だけうち明けた、――つまり、必ずシャートフが密告するに相違ないという、ヴェルホーヴェンスキイのもたらした報知である。しかし、彼はすぐその場で、どうもこの報知は十分信用できかねるとつけ足した。アリーナは恐ろしく仰天してしまった。こういうわけなので、シャートフが迎えに駆けつけた時、ゆうべ夜っぴて一人の産婦を相手に、さんざん骨を折らされたにもかかわらず、さっそく出かけようと決心したのである。彼女はふだん常々、『あんなシャートフのようなやくざ者は、きっと社会的に卑劣なことを仕出かすに相違ない』と信じ切っていたが、しかし、マリヤ・イグナーチエヴナの到着は、事件に新しい光を投げた。シャートフの動転した態度や、助けを乞うときの絶望的な哀願の調子などは、明らかにこの裏切り者の感情の転化を示していた。単に他人を亡さんがためのみに裏切りまでしようと決心した人間なら、いま実際に見受けられたのとは、ぜんぜん別な様子をしているはずだ。とにかくアリーナは、万事自分の目ですっかり見きわめようと、決心したのである。ヴィルギンスキイは妻の決断に大恐悦だった、――まるで五プード([#割り注]約二十貫[#割り注終わり])の重荷を、肩からおろしてもらったような気持ちがした! それどころか、一種の希望さえ彼の心に生じた。実際、シャートフの様子は、ヴェルホーヴェンスキイの想像と、少しも一致するところがないように思われたのである。
 はたしてシャートフの想像は誤らなかった。彼が家へ帰ったとき、アリーナはもうマリイの傍に坐っていた。彼女はここへ来るとすぐ、階段の下にぽかんと立っているキリーロフを、ばかにしきった態度で追い出してしまった。そして、どうしても彼女を旧知と受け取らないマリイと、手早く初対面の挨拶をすました。産婦は『恐ろしく険悪な徴候』を示していた。つまり、取り乱して、意地悪げで、おまけに『気の狭い絶望』に陥っているのであった。アリーナはわずか五分ばかりの間に、産婦のさまざまな反抗を、すっかり抑えつけてしまった。
「あなた上等の産婆がいやだなんて、なんだってそう駄々をこねるんですの?」シャートフが入って来た瞬間に、彼女はこんなことをいっていた。「ばかげきった話ですよ。あなたのアブノーマルな状態から起こった不正直な考えですよ。ただのちょっとした婆さん、――教育のない取上げ婆さんの手にかかったら、十中の五までは悪い結果をみるものと、覚悟しなきゃなりません。そうすると、上等の産婆にかかるよりもよけい騒ぎが大きくなって、余計お金を費わなきゃなりませんからね。それに、どうしてわたしを上等の産婆に決めておしまいになるの? なに、払いは後でいいんですよ。あなたから余計なお銭《あし》はいただきゃしませんから。そして、お産のほうは請合いますよ。わたしにかかったら、死ぬようなことはありません。これどころか、まだまだひどいのを手がけましたからね。ところで、生まれた子供は明日にも養育所へ送って、それからしばらく経ったら、田舎へ里子にやってあげますよ。そしたら、もうことはおしまいですよ。そのうちに、あなたもよくおなんなすって、何か恥ずかしくないだけの仕事についたら、いいじゃありませんか。そうすれば、ごく僅かな間にシャートフさんへ、部屋代だの諸がかりだのを返せるわけですよ。諸がかりだって、ほんの知れたもんですからね……」
「わたしのいうのはそんなことじゃありません……わたし、あの人にそんな迷惑をかける権利がないんですの……」
「そりゃ筋の立った、立派な公民らしい感情です。でも、わたしのいうことをお聴きなさい。もしシャートフさんが気ちがいめいた空想家を廃業して、ほんの少しでも正しい思想の人となったら、ほとんど何一つ失わないですむんですよ。ただ馬鹿な真似をしなきゃいいんです。仰山に太鼓を叩いて、はあはあ舌を吐き出しながら、町じゅう駆け廻るような真似をしなけりゃいいんです。あの人は傍《はた》から両手を抑えていなかったら、夜明けまでにはこの町の医者を、大方みんな叩き起こしてしまうでしょうよ、まったく。さっき家《うち》の通りの犬という犬を、すっかり起こしてしまったんですもの。医者なんかいりゃしません。今もいったとおり、わたしがいっさい引き受けますよ。しかし、婆さんくらいは、手廻りの用に傭ってもいいでしょう。いくらもかかりゃしませんから。もっとも、あの人だって、馬鹿な真似しかできないわけじゃない、たまには何かの役に立つかもしれませんわ。手もあれば、足もあるんですもの。薬屋へ駆け出すぐらいは、してくれるでしょう。それっぽちのことを恩に着せて、あなたの感情を侮辱するようなことはないでしょうよ。それに、なにが恩なものですか! だって、あなたをこんな境遇に落としたのは、あの人じゃありませんか。あなたがよその家庭教師をしてらっしゃるとき、あなたと結婚しようという利己的な目的で、家の人と喧嘩をさしたのは、あの人じゃありませんか。わたしたちも少しは聞いています……もっとも、あの人は今も自分から、まるで気ちがいみたいに飛んで来て、往来一杯に響くほどどなりたてましたがね。わたしはだれのところへも押しつけがましく出かけはしないんですが、わたしたちはみんな同じように、連帯の責任があると信じてればこそ、あなたのためを思って来たんですの。わたしはまだ家を出ないうちから、このことをあの人に宣言したくらいですからね。もしあなたがわたしに用がないとお考えなら、これでごめんこうむりますよ。ただ何か不幸が起こらなければよござんすがね。しかも、そんなものは、わけなく避けることができるのに」
 彼女は椅子を立ってまで見せた。
 マリイはこうした頼りない身の上ではあり、またずいぶん苦しんでもいたし、それに実際のところ、間近に迫った産を思う恐れがあまり強かったので、彼女を帰してしまう勇気がなかった。とはいえ、マリイはこの女がとつぜん憎くてたまらなくなった。いうことが見当ちがいだ。マリイの胸にあることとまるで違っている! しかし、無経験な取上げ婆さんの手にかかって、命を落とすかもしれないという予言は、ついに嫌悪の念を征服してしまった。けれど、その代わりシャートフに対しては、この瞬間からいっそうわがままになり、いっそう容赦がなくなった。ついには自分のほうを見るばかりでなく、自分のほうを向くことさえ禁じてしまった。陣痛はまたつのって来た。呪詛の声、罵詈の声は、だんだん狂暴になっていった。
「ええッ、もうあの人をよそへやってしまいましょう」とアリーナは断ち切るようにいった。「あの顔色ったらありゃしない。ただあなたをびっくりさせるだけですよ。まるで死人みたいにあおい顔をしてるわ! いったいあんたなんの用があるの、どうか聞かしていただきたいもんですねえ、なんておかしな変人さんだろう! まるで喜劇だわ!」
 シャートフは返事しなかった。もういっさい返事をしまいと決心したのである。
「わたしもこういう場合に、よく馬鹿げた父親《てておや》を見ましたよ、やはり気が狂ったようになるんですがね、しかし、そんなのはなんといっても………」
「やめてちょうだい、それでなければ、わたしをうっちゃっといて、勝手に片輪にしてしまってちょうだい! 一口もものをいっちゃいけない! いやです、いやです!」とマリイは叫び立てた。
「もしあなた自身が、分別をなくしていらっしゃらないなら、一口もものをいわずにいられないぐらいのことは、おわかりになりそうなはずですがねえ。と、まあ、わたしはこの場合、あなた方のことを考えますのさ。なんにしても、用事だけはいわなきゃなりません。ねえ、何か用意がしてありますか? シャートフさん、あなた返事してちょうだい。あのひとはそれどころでないんだから」
「つまり、何がいるのかいってください」
「じゃ、なんにも用意してないんだ」
 彼女はぜひ欠かすことのできない品を、すっかり並べて聞かせた。しかし、彼女の察しのよさも認めてやらなければならぬ。彼女はこの際、まったく裏長屋のお産同然な、ほんのなくてならぬ物だけですましたのである。二、三のものはシャートフのところに見つかった。マリイは鍵を取り出して、彼のほうへさし出しながら、自分のカバンの中をさがしてくれと頼んだ。彼は手がわなわなと慄えるので、馴れないカバンを開けるのに、普通より少し長くごそごそしていた。マリイは前後を忘れるほどいらいらしたが、アリーナが飛んで行って鍵を引ったくろうとすると、彼女はどうしてもアリーナにカバンを覗かれるのをいやがった。そして、恐ろしい声を立てて泣き叫びながら、カバンはシャートフ一人にしか開けさせないといい張った。
 ある品は、キリーロフのところへ取りに行かねばならなかった。シャートフが身を転じて、外へ出ようとするやいなや、彼女はすぐに兇猛な声を立てて彼を呼び返した。シャートフが一目散に引っ返して、自分はちょっとの間、ぜひなくてはならぬものを取りに行くだけで、すぐに帰って来ると説明した時、はじめてやっと安心したのである。
「まあ、まあ、奥さん、あなたのご機嫌をとるのはむずかしいことですね」とアリーナはからからと笑い出した。「じっと壁のほうを向いて、顔を見てもくれるなというかと思うと、今度は急に、ちょっとの間も傍を離れてはいやだなんていって、泣き出しなさるんですもの。そんなことをすると、あの人がまた何か考えるかもしれませんよ。さあ、さあ、そんなにだだをこねたり、むずかったりするのはおよしなさい。わたしなんか笑ってるじゃありませんか」
「あの人はけっしてそんなことを考えやしませんよ」
「おっとっと、もしあの人が羊みたいに、あなたに惚れ込んでいなかったら、あんなにはあはあ舌を吐きながら、通りから通りを駆け廻って、町じゅうの犬を起こすような真似はしなかったでしょうよ。あの人はうちの窓を叩きこわしてしまいましたよ」

[#6字下げ]5[#「5」は小見出し

 シャートフが入って行った時、キリーロフは依然として部屋の中を、隅から隅へと歩き廻っていたが、すっかり放心状態になって、マリイの到着のことなど忘れてしまったように、相手の言葉を聞きながらも、なんのことか合点がゆかないふうであった。
「ああ、そう」今まで没頭していた何かの想念から、やっとのことでちょっとの間、心をもぎ放したように、彼はとつぜん思い出してこういった。「そう……婆さん……細君だったかね、婆さんだったかね? いや、ちょっと待ちたまえ、細君と婆さんと両方だっけね、そうだ。おもい出した、――行って来たよ。婆さんはやって来るには来るけれど、今すぐというわけにゆかない。枕、持って行きたまえ。それから、なんだね? ああ……ちょっと待ちたまえ、シャートフ君、きみはときどき永久調和の瞬間を経験することがあるかね?」
「ねえ、キリーロフ君、きみはこれから、よる寝ない習慣をやめなきゃ駄目だよ」
 キリーロフはようやくわれに返った。そして(不思議なことには)、いつもよりずっと滑らかに、調子よく話し出した。察するところ、彼はもうずっと前から、この思想をすっかりまとめ上げていたらしい。或いは何かに書きつけていたかもしれない。
「ある数秒間があるのだ、――それは一度に五秒か、六秒しか続かないが、そのとき忽然として、完全に獲得されたる永久調和の存在を、直感するのだ。これはもはや地上のものではない。といって、何も天上のものだというわけじゃない。つまり、現在のままの人間には、とうていもちきれないという意味なんだ。どうしても生理的に変化するか、それとも死んでしまうか、二つに一つだ。それは論駁の余地のないほど明白な心持ちなんだ。まるで、とつぜん全宇宙を直感して、『しかり、そは正し』といったような心持ちなんだ。神は、世界を創造したとき、その創造の一日の終わるごとに、『しかり、そは正し、そはよし』といった。それは……それはけっしてうちょうてんの歓喜ではなく、ただ何とはない静かな喜悦なのだ。人はもはやゆるすなどということをしない。なぜなら、何もゆるすべきことがないからだ。愛するという感情とも違う、――おお、それはもう愛以上だ! 何よりも恐ろしいのは、それが素敵にはっきりしていて、なんともいえないよろこびが溢れていることなんだ。もし十秒以上つづいたら、魂はもう持ち切れなくて、消滅してしまわなければならない。ぼくはこの五秒間に一つの生《せい》を生きるのだ。そのためには、一生を投げ出しても惜しくない。それだけの価値があるんだからね! ところで、十秒以上もちこたえるためには、生理的に変化しなくちゃあ駄目だ。ぼくはね、人間は生むことをやめなきゃならんと思う。目的が達しられた以上、子供なぞなんになる、発達なぞなんになる? 福音書にもいってあるじゃないか、復活の日には人々生むことをせずして、ことごとく天使のごとくなるべしって。面白い暗示じゃないか。きみの細君は生んでるんだね?」
「キリーロフ、それはしょっちゅうあるのかね?」
「三日に一度あったり、一週間に一度あったり」
「きみ、癲癇の持病はないのかい?」
「ない」
「じゃ、今に起きるよ。気をつけたまえ、キリーロフ、癲癇はちょうどそんな具合に始まっていくって、ぼく、人から聞いたことがあるよ。ぼくはある癇癪持ちから、発作の前の感覚を詳しく話してもらったが、いまきみのいったのと寸分ちがわない。その男もやはり五秒間と、はっきり区切ったよ。そして、それ以上は持ち切れないといったっけ。きみ、マホメットが甕から水の流れ出てしまわないうちに馬に乗って天国を一周した話を思い出して見たまえ。甕、――これがつまりその五秒間なんだ。きみの永久調和にそっくりじゃないか。しかも、マホメットは癲癇持ちだったんだからね。気をつけたまえ、キリーロフ、癲癇だよ!」
「もう間に合わないよ」キリーロフは静かに薄笑いをもらした。

[#6字下げ]6[#「6」は小見出し

 夜はすでに明けようとしていた。シャートフは使いにやられたり、ののしられたり、また呼びつけられたりした。マリイの生を気づかう恐怖の念は、もう極度に達していた。彼女は生きたい、『どうしても、どうしても生きたい』、死ぬのは恐ろしいと叫んだ。『もういい、もういい!』ともくり返した。もしアリーナがいなかったら、どうしようもなかったに相違ない。しだいしだいに、彼女はすっかり産婦を征服してしまった。産婦はまるで赤ん坊のように、彼女の一語一語にしたがうようになった。アリーナは、やさしく機嫌をとるというより、むしろ怖《こわ》もてで脅しつけたのだが、その代わり働くことにかけたら、手に入ったものだった。やがて夜も白み始めた。ふとアリーナは、シャートフが梯子段のところへ駆け出して、祈りを捧げているのではないか、と考えついて、面白そうに笑い出した。マリイもやはり意地悪げに、毒々しく笑い出した。しかし、この笑いのおかげでなんだか気分が軽くなったらしかった。とうとうシャートフは、すっかり部屋を追い出されてしまった。湿っぽい冷々した朝が訪れた。彼は、ちょうどゆうべエルケリが入って来た時と同じように、隅っこの壁に顔を押しつけた。まるで木《こ》の葉のように慄えながら、一生懸命に恐ろしい想念を抑えつけようとした。けれども、彼の心はよく夢の中で経験するように、ただひたむきにその想念につかみかかろうとする。さまざまな空想は、絶え間なく彼をあらぬほうへ誘って行っては、絶え間なく腐った糸のように、ぷつりぷつりと切れるのであった。やがて部屋の中からは、もう呻吟の声というよりも、むしろもの凄い、純然たる野獣のような叫びが、どうにも我慢のならぬ恐ろしい叫びが洩れてきた。彼は耳に蓋をしたかったが、それもできなかった。そして、いきなり床に膝をつきながら、無意識にくり返すのであった。
「マリイ、マリイ!」
 と、ふいにまた叫び声が聞こえた。が、それは新しい叫び声だった。シャートフはぴくりとして、躍りあがった。それは弱々しいひびの入ったような、赤ん坊の泣き声なのである。彼は十字を切って、部屋の中へ飛び込んだ。
 アリーナの手の中には、小さな、赤い、皺だらけな生物が、大きな声で泣き立てながら、小さな手足をもぞもぞ動かしていた。まるで一片のちり芥のように、ひと吹きの風にも得堪えぬ、恐ろしいほど頼りなげな存在ながら、やはり生の絶対権でも持っているように、大きな声で自己を主張するのであった……マリイは意識を失ったように、じっと横になっていたが、やがて、一分ばかり経って、目を開《あ》けた。そして、奇妙な、実に奇妙な目つきでシャートフを見つめた。それはまったく別な目つきだった。けれど、どんなふうかときかれても、シャートフはまだ答えができなかったろう。しかし、彼女がこんな目つきをしたのは、今まで一度もおぼえがない。
「男の子? 男の子?」彼女は病的な声でアリーナにたずねた。
「腕白さんですよ!」赤ん坊をきれに包みながら、こちらはどなるようにこう答えた。
 彼女がすっかり子供を包み終え、寝台に枕を二つ並べた間へ、横向きにねさせる支度をするから、ちょっと抱いてくれと、シャートフに子供を渡した。マリイはアリーナを恐れるように、そっと内証で彼に合図をした。こちらはすぐにその意を悟って、赤ん坊を傍へ持って行って見せた。
「なんて……かわいい子だろう……」彼女は微笑を浮かべながら、弱々しくつぶやいた。
「ふっ、この人の顔つきはどうでしょう!」シャートフの顔を覗き込みながら、得意のアリーナは愉快そうに笑い出した。
「なんて顔をしてるんでしょう!」
「お浮かれなさい、お浮かれなさい、アリーナさん……これはまったく、偉大なよろこびですからね……」子供のことをいったマリイのひと言で、よろこびに輝き渡ったシャートフは、間の抜けたおめでたそうな顔つきでこういった。
「まあ、あなた、偉大なよろこびなんて、いったいなんのことですの?」アリーナはまるで懲役人のように、なりもふりもかまわず、忙しそうに後片づけをしながら、本当に浮かれ出してしまった。
「新しき生の出現の秘密です。説明のできない偉大な神秘ですよ、アリーナさん。あなたにそれがおわかりにならないのは、どうも実に残念ですね!」
 シャートフはうちょうてんになって、とりとめもないことを、むせ返るような調子でいった。ちょうど頭の中で何かがぐらつき出し、それがひとりでに胸から流れ出るような具合だった。
「今まで二人しかなかったところへ、急に第三の人間が、――新しい霊魂が生まれる。それは人間の手ではとうていできない、渾一、完成したものです。新しい思想、新しい愛、本当に恐ろしいくらいだ……これより立派なものは、この世にまたとありゃしません!」
「ええ、くだらないことをしゃべり立てたものだ! なあに、ただ有機体の発展ですよ、それっきりですよ。なんにも神秘なんかありゃしません」アリーナは心から面白そうに、からからと笑った。「そんなことをいったら、一匹の蠅だって神秘になってしまいまさあね。ただね、あなた、余計な人間は産まれる必要がありませんよ。まず初めいっさいのものを鍛え直して、そういう人間を有用な材にしておかなきゃなりません。子を産むのは、それからの話ですよ。でないと、この子にしてからが、明後日は育児院へ連れて行って……もっとも、これはぜひそうしなきゃ駄目ですがね」
「ぼくはけっしてこの子を育児院なんかへやりゃしない!」じっと床を見つめながら、シャートフはきっぱりといいきった。
「養子になさるの?」
「この子は初めっからぼくの子です」
「むろん、この子はシャートフです、法律上シャートフに相違ありませんがね、何もあなた、そんなに人類の恩人を気取ることは、ないじゃありませんか。この節の人はみんなだれでも、立派そうな文句を並べずにいられないんだからねえ。まあ、まあ、ようござんすよ。ところでね」彼女はやっと片づけをすました。「わたしもうお暇しなきゃなりません。また朝のうちに一ど来ます。もし用があったら、晩もまいりますがね、今のところ万事めでたくすんだから、ほかのほうへも行ってみなきゃなりません。もうとうから待ってるんですから。シャートフさん、どこかあちらのほうに婆さんが来てますよ。しかし、婆さんは婆さんとして、あんたもここを離れないようになさいね、旦那さん。傍についていておあげなさい。何か役に立つこともあるでしょう。マリヤさんも追っぱらいやしないでしょうよ……ま、ま、わたし冗談にいってるんですよ……」
 シャートフが門まで送り出した時、こんどは彼一人だけに向かって、彼女はこうつけ足した。
「あなたはほんとに笑わしたわね。わたし一生わすれませんよ。お金はあなたからもらおうと思ってやしません。本当に夢にまで笑わされそうだ。今夜のあなたほどおかしな人は、今まで見たことがない」
 彼女はすっかり満足のていで帰って行った。シャートフの様子やその話から察したところ、この男が『親父の仲間入りをしたがっている、意気地なしの中の意気地なし』だということは、火をみるよりも明らかだった。彼女は、そのままほかの産婦を見舞うのが、ついででもあれば近道でもあったけれど、ヴィルギンスキイにこのことを知らせたかったので、わざわざわが家へ駆け戻った。
「マリイ、あの女は、しばらく寝ないでいるほうがいいといったよ。もっとも、そんなことはずいぶんむずかしそうだがね……」とシャートフは臆病そうにいい出した。「ぼくはあの窓のところに坐って、お前を見ていてあげよう、ね?」
 こういって、彼は長いすのうしろ側の、窓際に腰を下ろした。で、彼の姿は産婦の目に入らなくなったわけだ。けれど、一分と経たぬうちに、彼女は彼を呼び寄せて、枕の具合を直してくれと、気むずかしげな声で頼んだ。彼は直しにかかった。こちらは腹立たしそうに壁を見つめていた。
「そうじゃない、ああ、そうじゃない……なんて無器用な手でしょうねえ!」
 シャートフはまたやり直した。
「わたしのほうへかがんでちょうだい」できるだけ相手の顔を見ないようにしながら、彼女は出しぬけに奇妙な声でこういった。
 彼はぎくっとしたが、いわれるままにかがみ込んだ。
「もっと……そうじゃない……もっとこっちへ」というかと思うと、ふいにその左の手が、つと男の首にかかった。彼は自分の額に力のこもった、しっとりした接吻《くちづけ》を感じた。
「マリイ!」
 彼女の唇は慄えた。彼女はじっと押しこたえていたが、ふいに身を起こして、目を輝かしながら、こういった。
「ニコライ・スタヴローギンは悪党です!」
 こういうと、彼女はなぎ倒されでもしたように、力なく顔を枕にうずめながら、くず折れてしまった。ヒステリックなすすり泣きの声をあげて、じっとシャートフの手を握りしめたまま。
 この瞬間から、彼女はもう一刻も、男を傍から離さなかった。彼女はシャートフに向かって、枕もとへ坐ってくれと、どこまでもいい張るのであった。自分ではあまり話ができなかったけれど、絶えず男の顔を見つめながら、さも幸福そうにほほ笑んでいた。彼女は突然ばかな小娘になってしまって、何もかもすっかり生まれ変わったようだった。シャートフは、時には子供のように泣くかと思うと、時には思い切って突拍子もないことを、奇妙な、むせ返るような、うちょうてんな調子でしゃべり立てた。時には、マリイの手に接吻することもあった。彼女は嬉しそうに聞いていたが、言葉の意味はよくわからなかったかもしれぬ。けれど、力の抜けた手で、男の髪をやさしくいじったり、撫でおろしたり、じっと眺めたりするのであった。彼はキリーロフのことや、また二人でこれから『新しく永久に』生活を始めようということや、神の存在していることや、すべての人が善良だということなどを話した。彼は歓喜のあまり、またしても赤ん坊を引き出して、眺めるのであった。
「マリイ」両手に赤ん坊を支えながら、彼はこう叫んだ。「古いうわごとも、屈辱も、死屍も、そんなことはみんなすんでしまった。これから新しい道に向かって、三人で働こうじゃないか、ね、ね!………ああ、そうそう、この子になんと名をつけたらいいだろう、マリイ?」
「この子になんという名を?」と彼女はびっくりしたように問い返したが、突然その顔に恐ろしい悲しみの色が浮かんだ。
 彼女は両手を鳴らして、ちらと責めるような目つきでシャートフを見やると、そのまま枕に顔を埋めた。
「マリイ、お前どうしたんだね?」悲しげな驚きを現わしながら、彼は叫んだ。
「あんたまでも、よくもよくもそんな……ああ、なんて不人情な人でしょう?」
「マリイ、堪忍しておくれ、マリイ……ぼくはただ、どんな名にしようかときいただけなんだよ。ぼく、どうもわけがわからない……」
「イヴァン([#割り注]シャートフ[#「シャートフ」は底本では「シヤートフ」]の名[#割り注終わり])ですよ、イヴァンとつけるんですよ」と彼女は火のように燃える、涙に濡れた顔を振り上げた。
「いったいまあ、あなたは、何かほかの恐ろしい[#「恐ろしい」に傍点]名がつけられると、思ってらしったの?」
「マリイ、気をお落ちつけよ! ああ、お前はだいぶ取り乱してるんだよ!」
「またそんな失礼なことを、――取り乱したせいにするなんて、わたし請け合っておくわ、――もしわたしがこの子に……あの恐ろしい名前をつけようといったら、あなたはすぐ賛成なさるに相違ないわ。それどころか、まるで気がつかなかったかもしれないわ! ああ、なんて、不人情な下劣な人たちだろう、ええ、みんなみんなそうよ!」
 一分の後には、二人はむろん仲直りした。シャートフは彼女にひと寝入りしろとすすめた。マリイはやがて眠りに落ちたが、それでも男の手を放そうとしなかった。そして、たびたび目をさましては、もしや行ってしまいはせぬかと心配するように、じっと彼の顔を見入りながら、やがてまたすやすやと眠りに落ちるのであった。
 キリーロフは、一人の老婆を『お祝い』によこした。またそのほかに熱いお茶と、たったいま焼いたばかりのカツレツと、それに『マリヤさんに』といって、スープを白パンといっしょに届けてくれた。産婦は貪るようにスープを飲み干した。老婆は赤ん坊の襁褓《おもつ》をかえた。マリイは、シャートフにもカツレツを食べさせた。
 こうして時は過ぎていった。シャートフはぐったりしてしまい、椅子に腰を掛けたまま、マリイの枕に頭を埋めながら、寝入ってしまった。約束どおりやってきたアリーナは、こうした二人の様子を見つけて、愉快そうに彼らを呼び起こした。そして、マリイに必要なことを何かと話して、赤ん坊をちょっと検査してみた。彼女はまたしてもシャートフに、傍を離れるなといいつけた。それから、いくぶん軽蔑したような高慢な色を浮かべながら、『夫婦』をからかった後、さっきと同じように、満足のていで帰って行った。
 シャートフが目をさました時は、もうすっかり暗かった。彼は大急ぎで蝋燭をともして、老婆を呼びに駆け出した。彼がようやく梯子段を一足おりかけた時、自分のほうへ向けて登って来る、だれかの静かな悠々とした足音が、思わず彼をぎょっとさせた。エルケリが入って来た。
「入っちゃいけない!」とシャートフはささやいた。そして、だしぬけにむずと彼の手をつかんで、門の傍へ引き戻した。「ここで待ってくれたまえ、すぐ出て来るから。ぼくはまるできみのことを忘れてたよ! ああ、なんだってきみは思い出させてくれたんだ!」
 彼は恐ろしく急いでいたので、キリーロフのところへも寄らず、ただ老婆だけを呼び出して来た。マリイは『わたしを一人でうっちゃって行くなんて、よくもそんなことが考えられたもんだ!』と憤怒のあまり絶望の色さえ浮かべた。
「しかしね」彼は揚々として叫んだ。「これはもう本当に最後の一歩なんだ! それからさきには、新しい道がひらけてるんだよ。そしたら、もうけっして、けっして古い恐怖のことなぞは、おくびにも出しゃしない!」
 やっとのことで彼はマリイを納得させて、正九時には必ず帰って来ると約束した。そして、強く彼女に接吻し、赤ん坊に接吻した後、彼は急ぎ足でエルケリのほうへ駆けおりた。
 二人はスクヴァレーシニキイなる、スタヴローギン公園をさして出かけた。それは一年半ばかり前、彼が委託された印刷機械を埋めたところである。公園の中でも一番はじに当たる、松林に接したさびしい荒れた場所で、スタヴローギン家からだいぶ離れているから、ほとんど人目にかかる心配はなかった。フィリッポフの持ち家からは、三露里半ないし四露里([#割り注]約一里強[#割り注終わり])歩かなければならなかった。
「まさか、すっかり歩きどおしじゃないだろう! ぼくは辻馬車を雇おう!」
「いや、お願いだから雇わないでください」とエルケリは答えた。「この点をくれぐれも注意されたんです……馭者もやはり証人になり得るわけですからね」
「ちぇっ……馬鹿馬鹿しい! どうだっていいや、ただもう早く片づけちゃえばいいんだ、片づけちゃえば!」
 二人は恐ろしく早足に歩き出した。
「エルケリ君、可憐なる好少年!」とシャートフは叫んだ。「きみはいつか幸福だったことがあるかね!」
「ところで、あなたは今たいへん幸福でいられるようですね」好奇の念を声に響かせながら、エルケリはこういった。

[#3字下げ]第6章 多労なる一夜[#「第6章 多労なる一夜」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 ヴィルギンスキイはこの日二時間ばかり無駄にして、『仲間』のものをいちいち訪ね廻り、昨夜の出来事を報告しようと思い立った。つまり、シャートフのところへ細君が帰って来て、子供を生んだので、彼は確かに密告なぞする気づかいはない。『いやしくも人情をわきまえているものは』、この瞬間かれを危険なものとは、とうてい想像ができないというのであった。しかし、リャームシンとエルケリのほか、どこへ行ってみても不在なので、彼ははたと当惑した。エルケリは晴れやかに彼の目を見つめながら、無言のままこの知らせを聞き終わった。『きみは六時に出かけるかどうか!』という真っ正面からの質問に対して、彼は明るい微笑を浮かべながら、『むろん行きますとも』と答えた。
 リャームシンは見受けたところ、だいぶ重い病気にでもかかったらしい様子で、頭から毛布を引っかぶって、ねていた。ヴィルギンスキイの入って来る姿を見て、彼はぎょっとした様子だった。そして、客が口を切るやいなや、いきなり毛布の下で両手を振りながら、どうか自分にかまわないでくれ、と頼んだ。が、それでもシャートフの一件は、黙って聞き終わった。だれを訪ねても留守だと聞いた時、彼はどういうわけか、なみなみならず驚いた様子であった。彼はもうリプーチンを通して、フェージカの惨死を知っていた。彼は自分からこのことを、忙しそうなとりとめのない調子で、ヴィルギンスキイに話して聞かせた。この事実は今度あべこべに、客のほうを驚かせたのである。『今夜、出かけなきゃならないかしら、どうだろう!』という真正面からの質問に対して、リャームシンはまたとつぜん両手を振って、『ぼくはぜんぜん路傍の人だよ、ぼくは何も知りゃしない。どうかかまわずにおいてくれたまえ』と哀願するのであった。
 ヴィルギンスキイは烈しい不安に悩まされながら、疲憊しきった体を家へ運んだ。家庭に隠さなければならないのも、彼にとって苦しいことの一つだった。彼は、何もかも妻にうち明けるのが癖になっていた。もし彼の焼けただれたような頭脳に、その瞬間あたらしい想念が照らし出さなかったら、――将来の行動に関する一つの新しい、妥協的な計画が浮かんで来なかったら、彼も或いはリャームシンと同様に、床についてしまったかもしれない。けれど、この新しい想念は彼に力を与えた。いな、それどころか、彼はじりじりするような思いで、約束の刻限を待ちかねた。そして、少し早目に、打ち合わせた場所へ出かけたのである。
 それは広いスタヴローギン公園の端にある、恐ろしく陰惨な場所だった。わたしは後でわざわざそこへ行ってみたが、この暗澹たる秋の夜には、ここがどれくらいもの凄く見えたことだろう、と想像された。この辺から古い禁伐林になっているので、幾百年と経った巨大な松の木が、陰欝な糢糊とした斑点をなして、闇の中に見透かされた。それはまったく真の闇で、二歩はなれても、互いに見分けがつかないほどだった。しかし、ピョートルとリプーチン、それから後れて来たエルケリは、めいめい角燈を携えていた。なんのためにいつできたものかわからないが、ここには鑿の加わらない自然石で組み立てた、何かかなりへんてこな洞窟が、世人の記憶を絶した昔からあった。洞《ほら》の中にあるテーブルや床几は、すでにとうから朽ちてばらばらに崩れていた。二百歩ばかり隔てた右手には、公園の第三の池がつきなんとしている。この三つの池は、邸のすぐ傍から始まって、互いに繋り合うようにしながら、公園の一番はずれまで、一露里以上にわたって続いているのだ。
 ここから何かのもの音や叫び声が(よしや鉄砲の音であろうとも)あるじのいないスタヴローギン邸の、召使かなんぞの耳まで届こうとは、とうてい想像できなかった。昨日スタヴローギンが出立して、老僕アレクセイが引き払って以来、大きな邸の中には、五、六人しか住んでいるものがなかったし、おまけに、それも廃物同様の連中ばかりだった。いずれにせよ、こうして淋しく引きこもっている人たちが、たとえ人間の悲鳴や救助の叫びを聞きつけたとしても、それは恐怖の念を引き起こすのみで、だれひとり暖炉の傍や、ぬくみの廻った寝床を離れて、救助に出かけようとするものはあるまいと、十分の確信をもって断定ができる。
 六時二十分には、シャートフを迎いにやられたエルケリを除《の》けて、もうみんなすっかり顔が揃った。ピョートルも今度はぐずぐずしていなかった。彼はトルカチェンコといっしょにやって来た。トルカチェンコは眉をひそめて、心配らしい顔をしていた。いつもの取ってつけたような、高慢らしい断固たる様子は、もはやすっかり彼の顔から消えていた。彼はほとんど少しも、ピョートルの傍を離れなかった。察するところ、突然ピョートルに対して、限りなき信服を感じ出したものらしく、しょっちゅうこそこそと傍へ寄り添うて、何やらささやきかけるのであった。けれど、こちらはほとんど何一つ答えずにすましたが、時々いい加減にして追っ払うために、何やらいらだたしげにつぶやくぐらいのものだった。
 シガリョフとヴィルギンスキイは、ピョートルより少し早目にやって来た。彼が姿を現わすやいなや、二人は明らかに前から企んでいたらしく、深い沈黙を守りながら、少し脇のほうへどいてしまった。ピョートルは角燈を掲げながら、人を馬鹿にした無遠慮な態度で、じっと穴のあくほど二人を見廻した。『何かいおうとしてるのだな』という考えが、ちらと彼の頭をかすめた。
「リャームシンはいないんですか?」と彼はヴィルギンスキイにたずねた。「あの男が病気だといったのは、だれです?」
「ぼくはここにいますよ」ふいに、木の陰から立ち現われながら、リャームシンが答えた。
 彼は暖かそうな外套を着て、その上からしっかり毛布にくるまっていたので、角燈を持っていながらも、その顔がはっきり見分けられないほどだった。
「じゃ、リプーチンがいないだけですね!」
 ところが、リプーチンも、のっそり洞の中から出て来た。ピョートルはふたたび角燈をさし上げた。
「なんだってきみはあんなところへもぐり込んだのだ。どうして出て来なかったんだね!」
「ぼくはね、われわれはすべて自分の……行動の自由を保有してると思う」とリプーチンはつぶやいたが、自分でも何をいおうとしたのか、はっきり意識していないらしい。
「諸君」いままでの半ばささやくような会話の調子を破って、ピョートルは初めて声を張った。それがかなりの効果を奏したのである。「今となって、何もぐずぐずいう必要のないことは、諸君もよくご承知のことと思います。もうきのう何もかもすっかり、直截明確に討議し、咀嚼したじゃありませんか。しかし、諸君の顔つきから察するところ、この中にだれか意見の発表を望む人があるように思われます。もしそうだったら、早く願います。冗談じゃない、時間はいくらもありゃあしない。エルケリが今すぐにもあの男を連れて来るかもしれないんですよ……」
「先生きっとあの男を連れて来るよ」なんのためかトルカチェンコが口をいれた。
「もしぼくの思い違いでないとすれば、まず初めに印刷機械の授受をやるのでしょう?」またしても、なんのためにこんな質問を発するのやら、自分でもはっきりわからないような調子で、リプーチンはこう問いかけた。
「ああ、もちろんむだに棄ててしまう必要はないさね」とピョートルは彼の鼻さきに角燈を突きつけた。「しかし、実際に授受をやる必要はないって、昨日みんなで決めたじゃないか。あの男が自分で埋めた地点を、きみに教えておきさえすれば、後でわれわれが自分で掘り出すさね。それはなんでも、この洞の隅から十歩離れたところだ、ということだけはぼくも聞いてるよ……が、そんなことはどうでもいいが、きみはなんだってそれを忘れたんだね、リプーチン君! あの時のうち合わせによると、まずきみが一人であの男を出迎えて、それからぼくらが出て行くことになってるんじゃないか……きみが今更そんなことをきくのは変だね。それとも、ただちょっといってみただけなのかね!」
 リプーチンは陰欝な様子をして、押し黙っていた。一同も口をつぐんだ。風は松の梢を揺すぶっていた。
「しかし、諸君、ぼくは諸君のおのおのが、自己の義務を履行されることと信じています」ピョートルはじれったそうに沈黙を破った。
「ぼくはシャートフのところへ細君が帰って来て、子供を生んだことを正確に知ってるです」突然ヴィルギンスキイがこう切り出した。興奮してせかせかしながら、言葉もはっきりと発音できないで、しきりに身振り手真似をするのであった。「いやしくも人情をわきまえているものは……いま彼が密告するはずのないことを、固く信じていいわけです……なぜって、彼はいま幸福に包まれてるんですからね……そういう事情で、ぼくはさきほどみんなのところを廻ったけれど、だれもかれも不在だったのです。こういうわけで、今となっては、全然なにもする必要がないかもしれん、と思うのです……」
 彼は言葉を切った。息がつまったのである。
「ヴィルギンスキイ君、もしきみがとつぜん幸福な身になったとすれば」ピョートルは彼のほうヘ一歩つめ寄った。「そのとききみは密告なんてことは別としても、何か公民としての冒険的な行為を延期しますか。それは幸福になる以前に企てたもので、危険とか幸福の喪失とかにかかわらず、自己の義務と考えているような行為です」
「いや、延期しない! どんなことがあっても延期しないです!」なんだか恐ろしく馬鹿げた熱心を表しつつ、ヴィルギンスキイは全身をむずむずさせながら、こういった。
「きみは陋劣漢たらんよりも、むしろふたたび不幸の人たらんことを望むでしょうね?」
「そうですとも、そうですとも……ぼくはそれどころか正反対に……ぜんぜん陋劣漢たらんことを……いや、そうじゃない……けっして陋劣漢じゃない。つまり、陋劣漢たらんよりも、むしろぜんぜん不幸の人たらんことを望みますよ」
「ね、ところで、いいですか、シャートフはこの密告を、公民としての義務と考えている。自己の最も高遠な信念と思ってるのです。その証拠には、自分でもいくらか政府に対して、危険を冒すことさえいとわないじゃありませんか。もっとも、あの男は密告のために、十分情状酌量をしてもらえるのはもちろんだけれど……ああいう男はけっして意を翻しはしない。いかなる幸福もこれにうち勝つことはできない。一日も経ったら、はっと目がさめて、自分で自分を叱咤しながら、だんぜん素志を果たすに相違ない。それに、あの男の細君が三年間の別居の後、スタヴローギンの子を生みに帰って来たということに、ぼくはなんの幸福をも見出すことができない」
「しかし、だれひとり訴状を見た者がないじゃありませんか」突然シガリョフが、一徹な調子でいい出した。
「訴状はぼくが見た」とピョートルはどなった。「ちゃんとできてるのだ。しかし、諸君、こんなことは馬鹿げきってるじゃないか!」
「が、ぼくは」急にヴィルギンスキイが熱くなり出した。「ぼくは抗議します……全力をつくして抗議します……ぼくは……ぼくはこうしたいのです……あの男が来たら、ぼくらはみんな揃って出て行って、みんなであの男を詰問する。もし事実だったら懺悔さして、あの男に立派に将来を誓わしたうえ、放免してやる、とこういうふうにしたいのです。とにかく、裁判ということは必要だ。万事、裁判によって決しなきゃならない。みんなが陰に隠れていて、ふいに飛びかかっていくなんて……」
「誓いぐらいで共同の事業を危険にさらすのは、それこそ愚の骨頂だ! ばかばかしい、諸君、今となってそんなことをいうのは、実に馬鹿げてるじゃないか! いったい諸君はこの危急存亡の時に当たって、どんな役廻りが勤めたいのです?」
「ぼくは抗議する、抗議する」とヴィルギンスキイは同じことをくり返すのであった。
「せめてそうどなるのだけでも、やめてくれたまえ。信号が聞こえないじゃないか。諸君、シャートフは……(ちょっ、いまいましい、今となってなんという馬鹿げた話だ!)ぼくがもう前にいったとおり、シャートフはスラヴ主義者なのです。つまり、この世で最も馬鹿な人間の一人なのです……いや、しかし、馬鹿馬鹿しい、そんなことはどうだってかまやしない、勝手にするがいい! 本当にきみたちのおかげで、ぼくも何がなんだかわからなくなってしまった……諸君、シャートフは世をすねた人間なんです。しかし、当人が望んでいるいないは別としても、やはりわが党に属しているのだから、ぼくは最後の瞬間まで共同の事業のために、あの男をすね者として利用できる、うまく使いこなすことができると当てにしていたので、本部から厳密な命令を受けていたにもかかわらず、あの男を容赦して守っていたのです……ぼくはあの男の実際の価値よりも、百倍ぐらいよけいに容赦してやった! けれども、あの男は結局、密告なんか企てることになった。しかし、こんなことは馬鹿馬鹿しい、勝手にするがいい……ところで、いまだれでもここを抜け出してみるがいい! きみたちはだれ一人だって、この仕事を抛擲する権利を持ってやしないんだ! そりゃお望みならば、今あの男と接吻したってかまやしないけれど、共同の事業を一片の誓言などにゆだねるなんて、そんなことをする権利はきみたちにないのだ! そんな真似をするのは豚だけだ、政府に買収された間諜《いぬ》だけだ!」
「ここにだれか政府に買収された者がいるんですか?」と歯の間から押し出すような声で、またリプーチンがいった。
「きみかもしれないよ。リプーチン君、きみはいっそ黙ってたほうがいいだろう。きみはただそんなことをいってみるだけなんだよ、いつもの癖でね。諸君、政府に買収された間諜というのは、つまり、危険に際して臆病風を吹かす連中さ。恐怖というやつは、いつでも馬鹿者を作り出すものです。こんな連中は最後の瞬間になると、いきなり警察へ駆けつけて、『ああ、どうかわたしだけはお助けください、仲間をみんな売ってしまいますから!』とわめくんだ。しかし、諸君、いいですか、きみたちはもうこうなってしまったら、いくら密告したってゆるしてもらえませんぞ。たとえ刑二等を減じられるとしても、それでもやはり、めいめいシベリヤぐらい覚悟しなきゃなりません。それにね、諸君は、いま一つの剣《つるぎ》をも免れることはできない。この剣は政府のよりも少し鋭いからね」
 ピョートルは憤りに駆られて、無駄なことまで、しゃべり立ててしまったのである。シガリョフは決然として、三歩ばかり彼のほうへ踏み出した。
「昨日の晩から、ぼくはとくと事態を熟考してみました」と彼は例の信ずるところありげな、秩序だった語調で切り出した(見受けたところ、彼はたとえ足下の大地が崩れ落ちても、やはり声を張り上げたり、秩序だった叙述の調子を変えたりしなかったに相違ない)。「とくと事態を熟考した末、ぼくは次の結論に到達しました。いま企てられている殺人は、単に貴重な時間の浪費であるばかりでなく(実際この時間はも少し本質的な、直接的な方法で使用できるのです)、そればかりでなく、ノーマルな道を逸した恐るべき彷徨であります。これは常に何より最も事業を荼《と》毒し、数十年間その成功を遅らせていました。なんとなれば、純粋の社会主義者でなく、政治的色彩の勝った軽率な人々の勢力に、屈服するからであります。ぼくがここへやって来たのは、現に企てられている仕事に反対を唱えて、一同を覚醒せしむるためにすぎません。そうして、どういうわけかきみが危急のときと呼んでいられる今の瞬間から、自分を除外するつもりなのです。ぼくが去るのは、この危険を恐れるからでもなければ、シャートフに対するセンチメンタリズムのためでもありません。ぼくはけっして、あの男と接吻なんかしたくないです。ただただこの仕事が終始一貫して、ぼく自身のプログラムに文字どおり矛盾するからです。しかし、密告とか政府の買収とかいう点につ

『ドストエーフスキイ全集10 悪霊 下』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP049-096

へ投げかけた。その露骨な刺すような光は、これらの人々のびくびくした様子にあまりにも不調和な感じを与えるのであった。
「その様子がわたしの胸へぐっと来ましたの。そのとき初めて、わたしもレムブケーのことを感づくようになりました」とユリヤ夫人は後でわたし自身にこう自白した。
 そうだ、夫人はこの点についても責任があるのだ。さきほどわたしの逃げ出した後で、夫人はピョートルと相談のうえ、舞踏会を開くことにしよう、そうして自分も舞踏会に出席しようと決めた時、今朝の朗読会で『理性を震撼されてしまった』レムブケーの書斎へ入って行って、ふたたびありとあらゆる秘術を尽くして夫を誘惑し、いっしょに引っ張り出したものに相違ない。しかし、いま夫人の苦しみはいかばかりかしれないのだ! が、それでもここを去ろうとしなかった! 矜持の悩みか、それとも単に分別を失くしてしまったのか、――それはわたしにはわからない。彼女は不断の傲岸な性質にも似ず、卑屈な微笑を浮かべながら、二、三の婦人に話しかけようとした。が、こちらは妙にてれ[#「てれ」に傍点]てしまって、『は』とか『いえ』とかいううさん臭そうな、簡単な返事でごまかしながら、なるべく夫人を避けようとするふうだった。
 この町で金箔つきの名士とされている人で、舞踏会に出席していたのは、前にちょっと話したことのある勢力家の退職将官一人きりだった。ほかでもない、スタヴローギンとガガーノフの決闘後、貴族団長夫人のところで初めて、『社会の焦躁のために扉を開けた』人だ。彼はものものしげに部屋部屋を歩き廻りながら、耳を澄ましたり、目をそばだてたりしていたが、その様子はいかにも『おれが来たのは、単なる気晴らしのためでなく、むしろ人心研究のためなのだ』ということを、見せたくてたまらないらしかった。彼はとうとうユリヤ夫人のかたえに陣取って、その傍を一足も離れようとしなかった。察するところ、夫人を励まし安心させようというつもりらしかった。疑いもなく彼はごく好人物で、なかなか地位のある人だし、それにもうよほどの老齢だったから、この人の口から出た同情なら、黙って聞いていても差支えはないのだったが、この老耄れたおしゃべりが僭越にも自分に同情して、『おれが同席してやるのは名誉だぞ』というような了簡で、保護者気取りでいるかと思うと、夫人はいまいましくてたまらなかった。しかし、老人は寸時も傍を離れないで、やみ間なしにしゃべりつづけるのであった。
『なんでも、町は七人の義人がなくてはもたぬというが……確か七人でしたな、正確な数はおぼえておらんですが。ところで、この七人の……正真正銘な義人の中で……この舞踏会を訪うの光栄を有した者は、はたして幾人あるかは知りませんが、しかし、そういう人の出席があるにもかかわらず、わたしは少しここが剣呑に思われ出しましたよ。Vous me pardonnerez, charmante dame, n'est-ce pas?(ごめんなさい、奥さん、そうじゃありませんか?)わたしはアレゴリックにいっとるのですが、先刻、食堂へ行って、無事に戻れたのをよろこんどりますよ……あの大事なプローホルイチは、自分の席にじっと坐っておられないのです。きっと朝までには、店ごと持って行かれてしまいますよ。いや、これは冗談ですよ。わたしはただあの『文学カドリール』というのはどんなものかと待ちかねとるのです。それがすんだら、寝床の中ですよ。まあ、リュウマチ病みの年寄りのことだから、どうかゆるしてやってください。わたしは早く寝る習慣でしてな。あなたも帰って、『ねんね』なすったらいかがです、子供にいう言い草じゃありませんが……実は、わたしは若い美人を見に来たんですて……もちろん、そういうのが豊富に揃ってるのは、ここよりほかには見られませんからなあ……みんな川向こうから来るのですが、わたしはあちらのほうへ出かけませんのでな。ある将校の……どうも猟兵隊のらしい……細君なぞはなかなか悪くないですなあ、実際。そして……そして、自分でもそれを心得とりますよ。わたしはそのおてんばさんと話してみましたが、なかなか活溌なもんですよ。そして……いや、ところで、娘さん方もやはり生き生きしとりますなあ。しかし、それだけのことで、生き生きしとるというほか、なんにもありません。もっとも、わたしはいやじゃないですがな。まったく蕾のようなのがありますて、ただ唇が少し厚いですがな。全体としてロシヤ美人の顔には、整ったのが少ないですなあ、そして……そして、幾分|薄餅《ブリン》みたいにぺちゃんこになっとりますよ…… Vous me pardonnerez, n'est-ce pas?(ごめんなさい、しかし、そうじゃありませんか?)ただし、いい目をしとります……笑ったような目つきでね。こういう蕾のような娘さんたちも、若い盛りの二年……いや、三年ぐらいは実に素っばらしいものだが、それからはもうだんだんぶくぶく脹れて来て……夫の心にかの悲しむべき無関心《インデファランチズム》を起こさせるのです。こいつがまたずいぶん婦人問題の発達を助長するものでしてな……もっとも、わたしの婦人問題のとり方が違っとれば、この限りに非ずですよ……ふむ! なかなかいい広間だ。部屋部屋の飾りも悪くない。もっと悪くたってよかったのだ。楽隊などは、ずっと悪くてもかまわなんだのだ……しかし、もっと悪くなくちゃいかんとはいいませんよ。が、全体として婦人たちの少ないのは、よくない感じを与えますなあ。衣裳のことは申しますまい。あの鼠色のズボンをはいた男が、ああ臆面もなしに、公然とカンカン踊りをやっとるのは怪しからん。もしあの男が嬉しくて夢中になっとるなら、それならわたしも免じてやる、あれは町の薬剤師だから……しかし十時過ぎには、いくら薬剤師だって早過ぎる……さっき食堂で、二人のやつが喧嘩をおっ始めたが、それでも引き摺り出されはしなかった。まだ十時頃だったら、たとえ町の風《ふう》がどうだろうと、あんな馬鹿者は引き摺り出さなくちゃいかんです……しかし、二時すぎたら、わたしもあえていいませんよ。この時刻には、もう世論が譲歩せにゃなりませんからなあ、――ただし、この舞踏会の命が二時頃まであるとすれば、の話ですよ。ヴァルヴァーラ夫人はとうとう約束に背いて、花をよこしませんでしたなあ。ふむ! あの人も花どころの騒ぎじゃないでしょう、〔pauvre me`re!〕(惘れな母よ!)ときに、リーザはかわいそうなことをしましたなあ、お聞きでしたか? なんでも秘密ないきさつがあるそうだが……役者はまたしてもスタヴローギンだということですな……ふむ! わたしはもう帰って休みたいような気がしますよ……船ばかり漕いどりますからなあ。いったいあの『文学カドリール』はいつなんです?」
 ついに『文学カドリール』が始まった。近ごろでは、来たるべき舞踏会の噂がどこかで始まると、必ず話題はすぐさまこの『文学カドリール』に落ちていくのであった。実際どんなものか、だれひとり想像がつかないので、異常な好奇心を唆ったのである。こういうわけで、成功は疑いないはずだのに、まあ、なんという幻滅だったろう!
 今まで閉まっていた白い広間の両わきの戸がさっと開いて、突然いくたりか仮装の人が現われた。一同は夢中になってそれを取り巻いた。食堂にいた連中も、一人のこさず一ときに広間へなだれ込んだ。仮装の人は舞踏の用意にそれぞれ位置を定めた。わたしはうまく前へ潜り出て、ちょうどユリヤ夫人と、フォン・レムブケーと、例の将軍の後に陣取った。そのとき今まで姿を見せなかったピョートルが、ひょいとユリヤ夫人の傍へ飛び出した。
「ぼくは今まで食堂にいて、観察していたのです」ちょうど悪いことをした小学生みたいな顔つきをして、彼は低い声でこうささやいた。もっともその表情はさらに夫人をいら立たすために、わざとこしらえたものだった。
 こちらは憤怒のあまりかっと赤くなった。
「せめてこうなってしまったら、もう嘘をつかないようにすればいいのに、なんというずうずうしい人だろう!」夫人はこらえかねて、思わず声高にこういったので、はたの人にも聞こえたくらいである。
 ピョートルは自分の成功にしごく満足な体《てい》で、傍を飛びのいてしまった。
 この『文学カドリール』なるもの以上に、みじめで、俗な、愚にもつかぬ、味もそっけもない譬喩は、ちょっと想像するのも難かしいくらいであった。これより以上、町の人に不向きなものは、とても考えつくことができない。ところで、噂によると、これを考えついたのはカルマジーノフだとのことである。もっとも、これを実際に組み立てたのはリプーチンで、ヴィルギンスキイの家の会議に出ていた例のびっこの教師も相談に乗ったのだ。しかし、カルマジーノフはなんといっても、その立案者であるばかりでなく、人の話では、自分でも何かある特別な役を引き受けて仮装しようと思ったほどだとのことである。カドリールは、六組のみじめな仮装者から出来ていた、――もっとも、本当の仮装ということもできないくらいだ。なぜなら、みんなほとんどほかの者と変わりのない服装をしているからである。たとえば、一人の背の高くない中年紳士は、燕尾服、――つまり、ほかの者と同じようななりをして、分別くさい胡麻塩の顎ひげを生やし(これは頸へ括りつけたもので、仮装といえるものはこれ一つだった)、ほとんど少しもほかへ歩かないで、せかせかと細かく足を刻みながら、ものものしい表情を顔に浮かべて、足踏みをしいしい踊っていた。彼は控えめな調子で、しゃがれたバスを立てていたが、この声のしゃがれたところが、ある有名な新聞を象徴するはずになっていた。この人に向かい合ってXとZの大入道が二つ踊っていた。この文字は、二人の燕尾服にピンで止めてあったが、いったいこのXとZが何を意味しているのやら、とうとうわからずにすんでしまった。
『潔白なるロシヤの思想』は、燕尾服に手袋と眼鏡、それに、――枷《かせ》(本当の枷なのだ!)を嵌められた中年紳士によって表わされていた。この紳士は、何か『一件書類』の入った折カバンを、小脇に抱えていた。ポケットからは外国から来たらしい封を切った手紙が覗いていたが、これは疑いをさし挾むすべての人に対して、『ロシヤ思想の潔白』を証明する証書だとのことである。これは幹事が口頭で説明したので、実際ポケットから覗いてる手紙を読んで見ることはできないわけだ。潔白なる『ロシヤの思想』はトストの音頭でも取りたそうに、差し上げた右手に杯を持っていた。両側にはこの『ロシヤの思想』と並んで、髪を短く切った『虚無主義女《ニヒリストカ》』が二人、これもちょこちょこと足を刻んでいる。ところが、相手にはやはり燕尾服を着た中年紳士が踊っていたが、これは重い樫の棍棒を手にしている。それがある新聞、――ペテルブルグのではないが、なかなか脅しの利く新聞を表わしたもので、『こいつで一つ見舞ったら、大分きき目があるぞ!』というような顔をしていた。しかし、棍棒など持っているくせに、この紳士は『潔白なるロシヤの思想』が、眼鏡ごしに自分のほうへ注ぐ視線を正視することができないで、なるべくわきを見るように務めていたが Pas de deux(踊の手)の段になると、まるで身の置き場がないように、体をひねったり曲げたりした。きっと良心の苛責に堪えなかったのだろう……しかし、こんな馬鹿馬鹿しい趣向を、みんな数え上げるのはよそう。どれもこれも似たり寄ったりなので、しまいにはわたしも恥ずかしくてたまらなくなった。ところが、ちょうどこれと同様な羞恥ともいうべき心持ちが、ほかの人たちの心にも反射されたのである。食堂から現われた、とりわけむずかしげな顔つきの人たちにさえ、同じ表情が読まれた。しばらく一同はむっつり押し黙って、腹立たしげな怪訝の目で眺めていた。人間は羞恥を感じると、よく腹を立てて皮肉を弄したくなって来るものだ。わが公衆もだんだんとざわついて来た。
「いったいあれは何事だ?」とある一団の中で、食堂の給仕がつぶやいた。
「いずれ何か馬鹿げたことさ」
「何か文学のことなんだ。『声《ゴーロス》』新聞を批評してるのさ」
「それがおれにとってどうしたというんだ?」
 また別な一団では、
「馬鹿なやつらだ!」
「いや、あの連中は馬鹿じゃない。馬鹿なのはわれわれだ」
「なぜきみが馬鹿なんだい?」
「何もぼくが馬鹿だとはいやしないよ」
「きみが馬鹿でなけりゃあ、ぼくはなおさらのことじゃないか」
 第三のサークルでは、
「あいつらみんな蹴っ飛ばしてやるといい。いや、しかし、勝手にさしとけばいいのさ!」
「広間ごとゆすぶってやりたいなあ!」
 第四のサークルでは、
「レムブケー夫婦は恥ずかしくもなくよく見ていられるなあ!」
「なぜあの二人が恥ずかしがるんだい? きみだって別に恥ずかしいことはないだろう?」
「いや、ぼくも恥ずかしい。第一、あいつは県知事じゃないか」
「きみなんか豚だよ」
「こんな思い切って平凡な舞踏会は、わたし今まで一度も見たことがない」ユリヤ夫人のすぐ傍にいた一人の婦人が、さも聞こえよがしに毒々しくこういった。
 それは、四十ばかりのでっぷり肥った婦人で、けばけばしい絹の着物をきて、頬に紅を塗りこくっていた。彼女は、町でもほとんどだれ一人知らぬものがなかったけれど、交際するものは一人もなかった。さる五等官の未亡人で、夫の遺産としては木造の家一軒と僅かな年金ばかりだったが、相当の暮らしをして馬車までかかえていた。二か月ばかり前、彼女は第一番にユリヤ夫人を訪問したが、玄関払いを食わされてしまったのである。
「こんなこととは、前から察しがついてたんだけれど」ずうずうしくユリヤ夫人の顔をまともに見据えながら、彼女はこうつけ足した。
「そんなにお察しがついてたのなら、なぜ出かけていらしったのです?」とユリヤ夫人はこらえかねていった。
「ええ、元来が正直なもんですからね」と元気のいい婦人は断ち切るようにこう答えて、むやみにそわそわと体を動かし始めた(どうかして突っかかって行きたくてたまらないらしい)。しかし、例の将軍が中へ割り込んだ。
「|奥さん《シェールダーム》」と、彼はユリヤ夫人の耳に口を寄せた。「本当にお帰りになったほうがいいですよ。わたしたちはあの連中に窮屈な思いをさせるばかりだ。わたしたちがいなくなったら、みんな思う存分浮かれましょうて。あなたは何もかもするだけのことをされたのです。あの連中のために、舞踏会を開いておやりになったのだから、もう、それから後は勝手にさしといたらいいです……それに、知事公もどうやら本当にお気分がよくないようだし……何か厄介なことが持ちあがらんうちに……」
 けれど、もうおそかった。
 カドリールの間じゅう、憤ろしげな怪訝の表情で、踊り手を眺めていたレムブケーは、見物の間で下馬評がはじまった時、不安そうにあたりを見廻しはじめた。このとき初めて、食堂で騒いでいた連中の顔が目に映ったのである。彼の目は極度の驚愕を浮かべた。とつぜん声高な笑いが、カドリールの一手《ひとて》とともに見物の中に起こった。例の棍棒を持って踊っていた『脅しの利く地方新聞』の発行者はとうとう『潔白なるロシヤの思想』の眼鏡ごしの視線に堪えかねて、体の隠し場がなくなり、出しぬけに逆立ちで眼鏡のほうへ歩き出した。それはつまり、『脅しの利く地方新聞』の常用手段たる常識の逆立ち的曲解を象徴するはずなのであった。ところで、逆立ちで歩けるのは、リャームシンよりほかにないから、彼がこの棍棒を持った新聞の役を引き受けたのである。ユリヤ夫人も、逆立ちで歩くなんてことは、夢にも知らなかったのである。『あれはわたしに隠してたのです、隠してたのです』と彼女は後でわたしに向かって、絶望と憤懣に悶えなからくり返した。もちろん群衆の哄笑は、だれになんの必要もない諷刺の意味を喝采したのではなく、単に裾のぺらぺらした燕尾服を着て、逆立ちするのを興がったにすぎない。レムブケーはかっとなって、体をぶるぶる慄わせ始めた。
「やくざ者め!」リャームシンを指さしながら彼は叫んだ。
「あの悪党をつかまえてひっくり返せ……足をひっくり返せ……頭を……頭を上に向けるんだ……上へ!」
 リャームシンはくるりと立ちあがった。笑いはさらに高まった。
「あの笑ってる悪党どもを、みんな追い出してしまえ!」と出しぬけにレムブケーは命令した。
 群衆は急にざわざわどよめき始めた。
「それはいけませんよ、閣下」
「公衆を悪罵することはできません」
「自分が馬鹿なんだ!」という声が、どこか隅のほうから響いた。
「海賊《フリブスチエール》!」また別な隅から、だれかがこうどなった。
 レムブケーは声のするほうへくるりと振り返って、顔を真っ青にした。と、鈍い微笑がその唇に浮かんだ、――ふいに何か思い出して、合点がいったような具合だった。
「皆さん」とユリヤ夫人は、詰め寄せて来る群衆に向かっていった、同時に夫の手を引き立てながら。「皆さん、アンドレイを容赦してやってください、アンドレイは病気なのです……容赦してください、ゆるしてやってください、皆さん!」
 夫人が『ゆるしてやってください』といったのを、わたしは本当に自分の耳で聞いたのである。場面の変化は驚くばかり急激だった。しかし、わたしははっきりおぼえているが、ちょうどこのユリヤ夫人の言葉と共に、見物の一部がものにおびえたように、急いで広間の外へのがれ出したのである。だれかヒステリイらしい女の声で、
「ああまた今朝と同じことになった!」と涙を含んだ調子で叫んだのさえ、思い出すことができる。ほとんどおし合いへし合いといっていいくらいなこの混雑のただ中へ、まったく『今朝と同じ』ように、また一つの爆弾が投じられたのである。
「火事だ! 川向こう一面の火事だ!」
 この恐ろしい叫びは、どこで真っ先に起こったのだろう、――広間の中か、それともだれか控え室の階段から駆け込んだのか、確かなことは記憶していないが、それに続いて起こった恐慌は、とても話にできるものでない。舞踏会に集まった群衆の半分以上は、川向こうからやって来た、あの辺の木造の家の持主でなければ、その借家人であった。人々は窓のほうへ飛んで行って、たちまちのうちに窓かけを押し開き、カーテンを引きちぎった。川向こうは一面の火焔であった。もっとも、火事はまだ始まったばかりだが、まるで方角ちがいの場所が三ところも焔に包まれていた、――それが人々を戦慄さしたのである。
「つけ火だ! シュピグーリンの職工だ!」と叫ぶ声が、群衆の中に起こった。
 中でも、きわめて特色のある二、三の叫び声を、今でもよくおぼえている。
「ああ、おれはこんなことだろうと胸に感じていた、つけ火があるだろうと、この二、三日虫が知らせていた!」
「シュピグーリンの職工だ、シュピグーリンの職工だ、ほかにだれがするものか!」
「きっと留守の間につけ火をしようと思って、わざとわたしたちをここへ集めたんだ!」
 この最後の最も驚くべき叫びは、女の声であった。それは自分の家を焼かれた『小箱夫人《カローボチカ》』([#割り注]ここではプラスコーヴィヤ夫人でなく、一般に自分の世帯の小さな世界以外に何物もない女をさしている[#割り注終わり])の、企まざる自然の叫びに相違ない。すべてのものは出口へ雪崩れよせた。毛皮外套や頭巾や婦人外套を選り分ける時の控え室の雑沓、おびえあがった婦人たちの金切り声、令嬢たちの悲鳴、こんなことはもはや今さら書くまでもない。盗賊的行為などがあったろうとは信じられないが、なにしろこういう混雑の際だから、自分の外套が見つからないで、そのまますごすご帰る人が出て来たのも、別に不思議なことではない。これはその後長いあいだ、市中で途轍もない馬鹿げた誇張や、いろんなおまけをつけていい伝えられたことである。レムブケーとユリヤ夫人は群衆のために戸口の所で、ほとんど圧し潰されそうになった。
「みんな引っつかまえろ! 一人も出しちゃいかんぞ!」ひしひしと押しかけて来る群衆の上に、厳めしく手をさしのべながら、レムブケーは絶叫した。「みんな一人一人厳重に身体検査をするのだ、今すぐ!」
 広間の中から乱暴な罵詈の声が聞こえた。
アンドレイ! アンドレイ!」もう極度の絶望に陥ってしまって、ユリヤ夫人はこう叫んだ。
「この女を一番に捕縛しろ!」こちらは大人のほうへ、ものすごく指をさし向けながら、またわめいた。
「この女から真っ先に身体検査をするんだ! この舞踏会は、明らかに放火の目的をもって開かれたのだ……」
 夫人はあっと叫んで悶絶した(おお、これはむろん、本当の気絶なのである!)わたしと将軍は救助に駆け寄った。そのほかにもこの難関に当たって、わたしたちを助けてくれた人があった。その中には、幾たりかの婦人さえ交っていた。わたしたちは不幸な夫人を、この焦熱地獄から救い出して、馬車の中へ担ぎ込んだ。けれど、彼女が正気に復したのは、やっと馬車が家へ近づいた時であった。そして、彼女の最初の叫び声は、またしてもアンドレイのことだった。いっさいの幻がくずれ落ちるとともに、夫人の前に残ったのは、ただアンドレイ一人のみとなった。人々は医師を迎えにやった。わたしは夫人の傍に一時間から付いていた。公爵もやはり同様だった。将軍は寛大心の発作に駆られて(もっとも、自分でもだいぶ面くらっていたが)、夜っぴて『不幸な夫人の病牀』を離れないといっていたが、十分ばかり経つと、まだ医者の来ないうちに、肘掛けいすの上で寝込んでしまった。で、わたしたちはそのままうっちゃっておいた。
 舞踏会から火事場へ駆けつけた警察署長は、わたしたちの後からうまくレムブケーを連れ出して、一生懸命、閣下に向かって『お休みにならなければなりません』とすすめながら、ユリヤ夫人の馬車へ乗せようとした。どうして、たってもそうさせなかったのか、わたしは合点がいかない。むろん、レムブケーは休息などということなどには耳をかそうともせず、ただ火事のほうへ飛んで行こうとするのであった。が、そんなことは署長にとって理由にならない。が、とどのつまり、彼は自分の馬車に乗せて、火事場へ連れて行ってしまった。あとで彼の話したところによると、レムブケーは途中のべつ何やら身振り手真似をしながら、『とうてい実行のできないようなとっぴなことを』いい出したとのことである。その後になって、閣下は『思いがけない驚愕のために』、その時早くも精神錯乱に陥っておられた、というふうに報告されたのである。
 舞踏会がどんなふうに終わったか? そんなことなどは、今さららしくいうまでもない。幾十人かののらくら者と、それに幾たりかの婦人たちさえいっしょになって、会場にい残ったのである。警察の監督などは少しもなかった。音楽隊は帰さなかった。帰ろうとしかけた楽手は、こっぴどく撲りつけられた。夜明けごろまでには、ほとんど『プローホルイチの屋台ごと』さらっていって、人々はめちゃめちゃに飲みまくった。そして、だれはばかることもなく、カマリンスキイ([#割り注]卑俗なロシヤの民衆舞踏[#割り注終わり])を踊ったり、広間を汚したりして、ようやく明方に近い頃、泥酔したこの連中の一部は燃え残っている火事場のほうへ、また新しく一騒ぎに出かけたのである……ほかの連中はそのまま広間に泊り込んで、死人のように酔い潰れたなり(そのほかの結果は推して知るべしである)、ビロードの長いすや床の上に倒れてしまった。朝になって、人々はさっそくこの連中を、手取り足取り往来へ引き摺り出した。県内の婦人家庭教師扶助を目的とする慈善会も、こうして終を告げたのである。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 火事は放火ということが明瞭なために、ひとしお川向こうの住民を驚かしたのである。ここに注意すべきは、まず『家が焼けてる』という最初の叫びとともに、すぐ後から『シュピグーリンの職工どもがつけたのだ』という叫びが起こったことである。しかし、今では実際、もとのシュピグーリンの職工が三人だけ放火に関係していたけれど、ほんのただそれだけで、ほかの連中は世論にも官憲にも、まったく無罪と認められている。この三人のやくざ者のほかに(そのうち一人は捕縛されて自白したが、後の二人は今だに姿を晦ましている)、懲役人のフェージカも放火に関係していたのは、疑いもない事実である。目下のところ、火事の原因について分明しているのは、まあ、これくらいのことである。もっとも、いろいろな臆測となると、これはもう別な話だ。いったいこの三人のやくざ者は、どういうわけでこんなことをしたのか、だれに使嗾されたのか? この問いに答えることは、今でもしごく困難である。
 火事は烈しい風と、川向こう一帯がほとんどぜんぶ木造家屋なのと、おまけに三方から火を放ったのとで、みるみる急激に広がって、ほとんど信じられないような力で、一区画全体を嘗めつくした(もっとも、放火はむしろ二方からといったほうが正確なくらいだ。第三の火の手は燃えあがると同時に、すばやく消し止めてしまったからである。このことはまた後で書こう)。しかし、首都の新聞では、それでもこの町の災厄をかなり誇張して書いたようである。実際、焼けたのは、ざっとした勘定で、川向こう全体の四分の一を出なかった(或いはそれより少ないかもしれぬ)。消防隊は町の面積と人口に比較して、割に微力なものであったが、きわめて精確な犠牲的な働き振りを示した。けれど、もし朝方、風が変わって、夜明けすこし前にばったり落ちてしまわなかったら、住民と協力して活動した消防隊も、さしたる効果をもたらすことはできなかったに相違ない。
 舞踏会を逃げ出してから一時間ほどたって、わたしが川向こうへ駆けつけたときには、火はすでにその威力の頂上だった。川に沿った通りは、一面に焔の海となって、昼のように明るかった。火事の光景を詳しく描くのはやめにしよう。ロシヤで、そんなことを知らないものはないのだから。燃えさかっている町に近い横町横町は、名状すべからざる混乱と雑沓の巷と化していた。そこではもう火の襲来を覚悟して、住民は家財を引き出していた。が、それでも住まいの傍を離れないで、みんな引っ張り出したトランクや羽蒲団の上に坐ったまま、わが家の窓下で様子を見ていた。男連の一部は、苦しい労働に一生懸命だった。容赦なしに塀を叩き毀したり、火に近い風下の、ぼろ小屋みたいなものさえどんどん倒しているのであった。目をさましたばかりの子供が泣き出すやら、早くも道具を引き出した女どもが、歌うような調子で訴えながらわめくやらしていた。けれど、まだ運び出しきれなかった女たちは、今のところ黙り込んで、せっせと働いている。火花や火の粉が遠くまで飛んで行った。人々はできるだけそれを消し止めていた。火事場の傍には、町の隅々から駆けつけた見物人が、うようよするほどごった返していた。中には、消すほうの手伝いをするものもあったが、ほかのものは面白そうに見物していた。
 夜の大火はいつでも人をいらだたすような、同時に浮き立たすような印象を与えるものである、花火はこの理を応用したのだ。しかし、花火のほうは優美な、規則正しい一定の形を保って広がる上に、まったく危険のおそれがないから、シャンペンを一杯かたむけた後のような、遊戯的な軽い印象しか起こさない。ところが、本当の火事となると、まるで別である。ここでは恐怖と個人的危険の感じとが(なんといっても、そういう感じはいくぶんある)、夜の火事に特有の浮き立たすような印象の陰から、見ている人に(もちろん、焼けた家の人ではない)一種脳髄の震盪ともいうべきものと、自分自身の破壊的本能を呼び起こすのである。しかも、この本能はいかなる人の心にでも、――どんなに意気地のない、大勢の家族をかかえた下級官吏の心の底にも、潜んでいるのだ、――こうした陰惨な感触には、いかなる場合でも、人を酔わすようなところがある。
『わたしは火事というものを、一種の満足感なしにじっと見ていられるかどうか、まったく自分でもわからないような気がするよ』
 これは、スチェパン氏が偶然ある火事に行き会って、その第一印象に支配されながら帰って来た後、わたしにいったのを、一言一句たがえずに引用したものだ。とはいえ、こうした夜の火事の讃美者でも、自分から火の中へ飛び込んで、焼け死のうとしている子供や老婆を助け出すこともあるのは、むろんいうまでもない話だ。が、それはぜんぜん別問題である。
 弥次馬連の後から人波に揉まれながら、わたしはいろんなことをぐずぐず聞いていないで、最も重大な、最も危険な場所へ辿りついた。そうして、ユリヤ夫人の依頼でさがしていたレムブケーを、とうとうそこで見つけたのである。彼の位置は常軌を逸した、驚くべきものであった。彼は塀の毀れた上に立っていた。三十歩ばかり隔てた左のほうには、ほとんど燃えつくした木造の二階家が、黒い骸骨のように立っていて、上も下も、窓の代わりに穴がぽかんとあいて、屋根はすっかり焼け落ちていた。そして、ところどころ炭になった梁を伝って、いまだに焔の蛇がちょろちょろ這っている。庭の奥のほうでは、焼けつくした家から二十歩ばかりの辺に、同じく二階造りの離れが燃え出して、それに消防隊は一生懸命だった。右のほうでは消防隊と住民とが、かなり大きな木造の建物を守っていた。まだ燃えはじめはしないけれど、すでに幾度か火がついたのである。いずれ、全焼の運命をまぬかれまい[#「まぬかれまい」はママ]。
 レムブケーは離れのほうへ顔を向けて、わめき立てたり、手真似をしたりしながら、だれひとり実行するもののない命令を発していた。わたしは初め、皆の者が彼をここへうっちゃって、傍を退却してしまったのではないかと思った。少なくとも、ぎっしり彼を取り巻いた恐ろしく種類のまちまちな群衆が(その中には、平民どもと交って紳士連も立っていた、教会の助祭さえいた)、もの珍しげにあきれ顔をして彼の言葉を聞いてるくせに、だれひとり声をかけようとする者も、つれて帰ろうとするものもなかった。レムブケーは真っ青な顔をして、目を光らせながら、思い切りとっぴなことを口走っていた。おまけに帽子なしである、もう疾うに失くしてしまったのだ。
「何もかもみんな放火だ! これはニヒリズムだ。もし何か燃えてるとすれば、それはつまりニヒリズムなんだ!」こういう言葉を聞いた時、わたしは覚えず慄然とした。もちろん、何も今さら驚くには当たらないことなのだが、しかし、あまりに赤裸々な現実は、いつでも何かこう人の心を震撼させるようなところを持っている。
「閣下」彼の傍ヘ一人の巡査が現われた。「お宅へお帰りになって、おやすみ遊ばしたらいかがでございます……こんな所に閣下が立っていらっしゃいましては、まことに危険でございますから……」
 後で聞いたところでは、この巡査は絶えずレムブケーの傍へ付き添って彼を保護し、なるべく家へ連れて帰るように努力した上で、何か危険が生じた場合には、腕力にすら訴えなければならないという、明らかにこの巡査には及びそうもない訓令を、警察署長から授かっていたのだそうである。
「家を焼かれたものの涙は拭いてももらえるだろう。しかし、町はすっかり焼き払われるに相違ない。これはみんなあの四人の悪党、――四人半の悪党の仕業だ。あの悪党の張本人を逮捕してしまえ! 目ざす相手は一人だ、四人半のやつはそいつの泥をかぶっているんだ。あいつめときたら、よその家庭へ忍び込んで、その名誉を蹂躪するようなやつだ。そして、家を焼くために、家庭教師なんかをだしに使ったのだ。卑劣だ、実に卑劣だ? あっ、あの男は何をしてるんだ?」ふと燃えさかる離れの屋根に一人の消防手を見つけて、彼はこう叫んだ。火は、その消防手の踏んでいる屋根を突き抜けて、あたり一面に焔を吐いていた。「あの男を引き摺り下ろせ。引き摺り下ろせ。落ちてしまう、焼けてしまう。あれを消してやれ……いったいあれはあすこで何をしてるんだ?」
「消しておるのでございます、閣下」
「いや、そんなはずはない。火事は心の中にあるのだ、家の屋根の上じゃない。あの男を引き摺り下ろせ。そして、何もかもうっちゃってしまえ! うっちゃったほうがいい、うっちゃってしまったほうがいい! 勝手にどうなとなるがいいのだ! あっ、まだだれやら泣いている! 婆さんだ! 婆さんがわめいているのだ、どうして婆さんを忘れて来たんだ?」
 なるほど、燃えさかる離れの階下《した》のほうで、置き忘れられた老婆が声をかぎりに叫んでいた。これは家主の商人の親戚にあたる八十の老婆だった。もっとも、彼女は置き忘れられたのではなく、まだ火のついてない隅っこの小部屋から、自分の羽蒲団を引き出そうというむやみな考えを起こして、焼けている家の中へわれと引っ返したのである。その時はまだ入れた。が、すぐにその小部屋へも火がついたので、老婆は煙にむせ、火気にあぶられて、わめき叫びながら、それでも毀れた窓ガラスの間から、よぼよぼした手で一生懸命に、羽蒲団を押し出そうともがいているのであった。レムブケーはそのほうへ救助に飛びかかった。彼が窓の傍へ駆け寄って、羽蒲団の隅に手をかけると、力まかせに窓から引っ張り出しにかかったのは、一同の目にも映った。と、運悪くもこの瞬間に、毀れた板が一枚屋根から落ちてきて、不幸なレムブケーに当たったのである。板は落ちる拍子に、ちょっとはじが頸へ触っただけで、別に命を取るようなことはなかったが、レムブケーの公生涯は(少なくもこの町では)終わりを告げてしまった。この打撃に足をとられて、彼はそのまま知覚を失って倒れたのである。
 ついに暗澹とした気むずかしげな朝がきた。火事はその勢いを減じた。夜来の風の後でふいに凪《なぎ》がきて、やがて細かい雨が篩からおろすように、しずかに降り出した。その時、わたしはレムブケーの倒れた所からだいぶ離れた、同じ川向こうでも区の違った場所に立っていたが、ふと、そこの群衆の中で奇怪な話を耳にした。一つの不思議な事実が発見されたのである。ほかでもない、この区の一番はずれに当たって、ほかの建物からは少なくも五十歩ばかり離れたがらんとした野菜畑の傍に、ついこのあいだできたばかりの木造の小家が立っていたが、この一軒家にひとしい家が、火事の初めごろ、ほとんど第一番に焼け出したのである。もしこの家が焼き払われたとしても、あれだけの距離があることだから、火はほかの家ヘ一軒でも移るはずはなかったし、またその反対に川向こう全体が灰燼に帰したにせよ、どんな風の強い日でも、この家ばかりは助かったに相違ないのだ。したがって、この家は独立して燃え出したのであり、自然の理として無意味に焼けたのではない、とこういうことになる。しかし、何より不思議なのは、家は焼けないですんだけれども、夜が明けてからその家の中で、驚くべき事実が発見されたのである。
 この新しい家の持ち主は、市外の村に住んでいる町人だったが、新築の家が火事と見るより、さっそく飛んで来て、横手の壁際に積んだ薪に火がついたのを、近所の者と力を合わせて投げ散らし、無事に消し止めたのであるが、この家には、借家人が住んでいた、――それは町でも知らぬ人のない大尉とその妹、それにかなり年増の女中だった。この借家人が三人ながら、その夜のうちに斬り殺された上、明らかに掠奪されていたのである(レムブケーが羽蒲団を助けようとしたとき、警察署長が傍にいなかったのは、つまりここへ来ていたからである)。朝になると、この出来事はぱっと四方に広がって、ありとあらゆる種類の人間が恐ろしい群をなして、この原っぱの新しい家をさして、潮のように押しかけて来た。家を焼かれた川向こうの人さえ交っていた。その辺は、通り抜けができないほどの人だかりであった。
 わたしはすぐさまいろいろな人から話を聞いた。初めて見つけ出した時、大尉は昼着のまま床几の上に倒れて、咽喉を切られていた。たぶん死人のように酔い潰れているところをやられたので、何一つ知らずに死んでしまったに相違ない。血は、まるで『牛が殺されたように』流れていたとのことである。妹のマリヤは体じゅうナイフの『突き傷だらけ』で、戸口に近い床の上に倒れていた、これはきっとかなり苦しんで、うつつに兇賊と闘ったに相違ない。女中も目をさましたものらしく、綺麗に頭を割られていたということである。家主の話によると、大尉は前日の朝、へべれけで彼の所へやって来て、だいぶたくさんの金、――かれこれ二百ルーブリ近くの金をひけらかして、大得意でいたとのことである。古いぼろぼろになった大尉の緑色の紙入れは、からっぽになって床の上に転がっていたが、マリヤのトランクには手もつけてないし、聖像に嵌めている銀の袈裟もやはり手つかずであった。大尉の衣類もそっくり無事で残っていた。察するところ、賊は大分いそいだものらしい。それに、家内の事情をよく心得た人間と見えて、ただ金ばかりに目をつけて来た様子だし、そのありかもよく承知していたに相違ない。もし家人が駆けつけなかったら、薪が一面の火となって、必ず家を焼いてしまったに違いない。『そうしたら、黒焦げの屍体ばかりでは、事実の推定もむずかしかったろう』
 こんなふうにこの出来事は伝えられた。またおまけとして、こういう話も聞かされた。つまり、この家を大尉兄妹のために借り受けたのはほかでもないスタヴローギン、――スタヴローギン将軍夫人の愛子ニコライ・フセーヴォロドヴィチで、彼自身、家主を訪れたうえ懇々と説いて、やっと承知させたとのことである。家主はこの家を酒屋にするつもりだったので、なかなか貸そうといわなかったが、スタヴローギンは金に糸目をつけないで、とうとう半年分さき払いということで話を決めたのである。
「これはただの火事じゃないぞ」という声が群衆の中で聞こえた。
 しかし、大多数は黙っていた。人々の顔は暗く沈んでいたが、大して目に立つほどの興奮は見受けられなかった。とはいえ、あたりではスタヴローギンの噂が絶えなかった。殺された女は彼の妻だということ、彼が昨日この町で、一番の金持ちドロズドフ将軍夫人の家から、『不正な手段』で令嬢をおびき出したについて、同家ではペテルブルグへ訴状を出すといっていること、彼の妻が殺害されたのは、どうもドロズドヴァ嬢と結婚したいがためらしい、というようなことを話しつづけるのであった。スクヴァレーシニキイはここから二露里半ほどしかないので、わたしは今でも覚えているが、あすこへ知らせてやったものかどうか、という考えが頭に浮かんだ。もっとも、特にだれか群衆を煽動するものがあるようには見受けなかった。実は、さっき食堂で騒いでいた連中の仲間が二、三人、目の前をうろうろしているのにわたしはすぐ気がついたけれど、そんな罪な臆側[#「臆側」はママ]を下したくはない。しかし、一人の痩せた背の高い町人らしい若者だけは、今でも思い出すことができる。まるで煤を塗ったように真っ黒な顔をした、髪の渦を捲いた、痩せひょろけた男で、後で聞いたところによると、錠前屋だとのことである。べつに酔ってはいなかったが、沈んだ様子をして立っている群衆と反対に、まるで前後を忘れたようなふうであった。彼はしょっちゅう皆に何やらいっていたが、その言葉はよくおぼえていない。ただ、彼のいった言葉の中で、多少まとまりのあるのは、
『おい、皆の衆、これはいったいどうしたってんだ? いったいこれからさきもこうなんだろうか?』というくらいのことで、それより長くはなかった。こういいながら、彼は両手を振り廻した。

[#3字下げ]第3章 破れたるロマンス[#「第3章 破れたるロマンス」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 スクヴァレーシニキイの大広間からは(これはヴァルヴァーラ夫人とスチェパン氏との最後の会見の行なわれた部屋である)、火事は手に取るように眺められた。明け方の五時ごろ、右の端の窓にリーザが立っていて、薄れゆく空明りを眺めていた。彼女はこの部屋にたった一人きりだった。彼女の身につけているのは、きのう朗読会に着て出た晴着で、一面にレースの付いた薄い緑色の華やかなものながら、もうすっかり皺くたになっていて、おまけに急いだらしいぞんざいな着方だった。ふと胸のフックがよくかかってないのを見ると、彼女は顔を真っ赤にして、忙しげに着物を直した。そして、きのう入りしなにほうり出しておいた赤いきれを肘掛けいすから取り上げると、それを頸にひっかけた。房々とした髪は乱れ解けて、きれの下から右の肩へはらりとこぼれた。顔はさも疲れてでもいるらしく不安げだったが、目はひそめた眉の陰から燃えるように光っている。彼女はふたたび窓に近寄って、熱い額を冷たいガラスに押し当てた。と、扉が開いて、ニコライが入って来た。
「ぼくはいま、使いを馬に乗せてやりました」と彼はいった。「十分も経ったら、何もかもわかります。今のところ召使どもの話では、河岸に近い、川向こうの一部が焼けたんだそうです、橋の右側がね。十一時すぎに火が出たんですが、今ではもう下火になっています」
 彼は窓に近寄らないで、リーザから三歩ばかり後にとまった。彼女は振り向こうともしなかった。
「暦では、もう一時間も前に明けるはずなのに、まだやっぱり夜みたいだわ」と彼女はいまいましそうにいった。
「暦なんてみんな出たらめですよ」彼は愛想笑いをしながら、こういいかけたが、急に恥ずかしくなってつけ足した。「暦で暮らすのは退屈なもんですよ、リーザ」
 けれど、またもや新しく口にした卑屈な言葉を、自分ながらいまいましく思ったので、彼はもうすっかり口をつぐんでしまった。リーザは歪んだような薄笑いを浮かべた。
「あなたは、あたしと向かい合っても、話に困るほど沈んだ気分になってらっしゃるのねえ。だけど、安心してください。あなたは本当にうまいことをおっしゃったわ。あたしいつも暦で暮らしてるんですの。あたしの生活は、一歩一歩、みんな暦でくってありますのよ。あなた、びっくりなすって?」
 彼女は急にくるりと窓から身を転じて、肘掛けいすの上に腰を下ろした。
「あなたもどうか坐ってくださいな。あたしたちはもう長くいっしょにいられるわけではないから、なんでも思う存分いいたいんですの……あなただって、なんでも思う存分のことをいってならないって法はないわ」
 ニコライは傍に並んで座を占めると、ほとんど恐る恐る、そっと彼女の手を取った。
「それはなんて言い方なんです、リーザ? なんだって急にそんなことをいい出したんです?『あたしたちは長くいっしょにいられるわけでない』というのは、いったいそりゃなんのことです? あなたがけさ起きてから、謎めいたことをいうのも、これでもう二度目ですよ」
「まあ、あなたは、あたしの謎めいた言葉の勘定をお始めなすったんですの?」と、彼女は笑い出した。「覚えてらしって? 昨日こちらへ入って来る時、あたし自分のことを死人《しびと》だっていったじゃありませんか。あれは忘れたほうがいいとお考えになったんでしょう。忘れるか、それでなければ、気がつかないようなふりをしたほうがね」
「おぼえていませんね、リーザ、なんだって死人だなんて? なんでも生きなきゃあ……」
「また、いいさしてやめておしまいになりましたのね。あなたのいつもの雄弁は、まるでどこへやら行ってしまったじゃありませんか。あたしはもう、この世の生涯を終わってしまったんだから、それでもうたくさんですわ。あなた、フリストーフォル・イヴァーノヴィチをおぼえてらしって?」
「いや、おぼえがありませんなあ」と彼は眉をひそめた。
「フリストーフォル・イヴァーノヴィチですよ、そら、ロザンヌ([#割り注]スイス[#割り注終わり])で会った? あの人は恐ろしくあなたを悩ましたものですわね。いつでも戸を開けて、『ほんの一分間だけ』といいながら、必ずいちんち坐り込んだものですわ。あたし、あのフリストーフォル・イヴァーノヴィチの真似をして、いちんち坐り込もうとは思いませんの」
 病的な表情が男の顔に映った。
「そのひねこじれた言い方が、ぼくは痛ましくってたまらないんです。そんな皮肉はあなた自身にとっては、ずいぶん高価なものにつくでしょうにねえ。そんなことをしてどうなるのです? いったいなんのためです?」
 彼の目は、燃えるように輝き出した。
「リーザ」と彼は叫んだ。「ぼくは誓ってもいい、昨日あんたがここへ入って来た時よりも、今のほうが余計あんたを愛しているんだよ」
「なんて妙な告白でしょう! なんだって昨日だの今日だのと、そんな比較がいるんでしょう?」
「あんたはぼくを棄てて行きゃしないだろうね」ほとんど絶望したような調子で、彼は語を続けた。「ぼくらはいっしょにここを立つのだろう、今日すぐにも、ね、そうだろう? そうだろう?」
「あっ、そんなに握ったら、手が痛いじゃありませんか! いったいきょうすぐどこへ向けて行くんですの? どこかへまた、『甦り』に行くんですか? いいえ、もう試験はたくさんです……それに、そんなまどろっこしいことは、あたしには向きませんの。そんなことあたしにはできません。それはあたしには少し高尚すぎます。もし行くなら、モスクワですわ。あすこで、人を訪問したり、自分も人から訪問されたりね、――これがあたしの理想ですの。ごぞんじ? あたしもうスイス時分から、自分がどんな女かってことを、あなたに隠し立てしなかったでしょう。けれど、あなたは奥さんがおありになるんだから、モスクワへ行って人を訪問するわけにいかない。だから、そんなことは話すがものもありませんわ」
「リーザ! 昨夜はどんなことがあったんだろう?」
「あったことがあったんですわ」
「それはひどい! それは残酷だ!」
「残酷ならどうしたんでしょう? 残酷なら、じっとこらえてるよか仕方がないわ」
「あなたは昨日の妄想のことで、ぼくに復讐してるんですね……」と毒々しげに微笑しながら、彼はつぶやいた。
 リーザはかっとあかくなった。
「なんて卑劣な考えでしょう!」
「じゃ、なぜあなたは……『あんなに大きな幸福』をぼくに授けてくれたんです? それをおたずねする権利があるでしょうか?」
「いやですねえ、なんとかして権利ぬきで話をしてくださいな。あなたの想像の卑劣さに、愚かさを加えるようなことをしないでちょうだい。今日は、あなたにとって悪日なのね。ときに、あなたは世間の口を恐れてらっしゃるんじゃありませんか。その『大きな幸福』のために非難を受けやしないかと、心配してらっしゃるんじゃありません? もしそうだったら、後生ですから、心配しないでください。あなたは何も仕出かしゃしないのです。だれに対しても責任はありません。昨日、あたしがあなたの部屋の戸を開けた時でさえ、だれが入って来るか、ごぞんじなかったくらいですもの。それはつまり、今あなたのおっしゃったあたしの妄想です。それっきりですよ。あなたは大胆に、傲然と、みんなの顔を見返していいんですわ!」
「その言葉、その笑い、もう一時間ばかりというもの、ぼくは恐ろしさに冷水を浴せられるような気がする。あんたがあれほど憎々しそうにいう『幸福』は……ぼくのためにいっさいに価してるのだ。いったいぼくは、あんたを失ってもいいのだろうか? ちかっていうが、ぼくは、昨日は、あんたにたいする愛が足りなかった。なぜあんたは今日になって、何もかもぼくから奪ってしまおうとするのだ? あれが、この新しい希望が、ぼくにとってどれだけ高い価を要したか、あんたは、とてもわからないでしょう? ぼくは、いのちの犠牲を払ったのだ」
「ご自分の、それとも、人の?」
 彼はすばやく身を起こした。
「それはいったいなんのことです?」じっと相手を見つめながら、彼はこういい出した。
「あなたのお払いになった犠牲はご自分の命ですか、それとも、あたしの命ですか、とこうおたずねしたかったのです。それとも、あなたは今すっかり、理解力をなくしておしまいになったんですの?」リーザは、かっとなった。「なんだってあなたは、急に飛びあがったんです? なんだってそんな顔をしてあたしを睨むんですの? 本当にびっくりするじゃありませんか。何をそう、びくびくしてらっしゃるんです? あたしもう前から気がついてましたが、あなたは、何か恐れてますね、今、ええ、本当に今……あら、まあ、なんてあおい顔でしょう!」
「リーザ、もしあんたが何か知ってるのなら、それなら、ぼくちかっていうが、ぼくは[#「ぼくは」に傍点]何も知らないのだ……そして、いま命の犠牲を払ったといったのは、けっしてあの[#「あの」に傍点]ことじゃないのだ……」
「あたし、あなたのおっしゃることがまるでわからないわ」おずおず吃るような調子で、彼女はこういった。
 やがて、緩やかな、もの思わしげな微笑が、彼の唇に浮かんだ。彼は静かに腰を下ろして、肘を膝の上に突きながら、両手で顔をおおうた。
「悪い夢だ、うわごとだ……ぼくらはめいめい別なことを話し合っていたのだ」
「あたし、あなたが何を話してらしったのか、まるでわかりませんでしたわ……ねえ、今日あたしがここから行ってしまうってことを、きのう本当に知らなかったんですの? さあ、知ってたんですの、知らなかったんですの、嘘をつかないで、真っ直ぐに返事をしてちょうだい」
「知ってましたよ……」と彼は静かに答えた。
「じゃ、何もいうことはないじゃありませんか。前から承知して、一つの『瞬間』を自分の心に残しておいたんですから、そのうえ何も算盤をはじくことはないはずじゃなくって?」
「さあ、本当のところを、正直にいってください」深い苦悶の声で、彼はこう叫んだ。「いったいあんたはきのう、ぼくの部屋の戸を開ける時、ほんの一時だけだってことを、自分でも承知してたんですか?」
 彼女は憎悪にみちた目で、男を見つめた。
「ごく真面目な人でも、思い切ってとっぴな問いを持ち出すものだというのは、本当のことなのねえ。それに、何をそんなにびくびくしてらっしゃるの? それとも、女のほうからさきに捨てられて、自分からさきに捨てなかったという、その自尊心のためなんですか? ねえ、ニコライさん、あたし、お宅にいる間にいろんなことを考えましたが、その中でこういう確信を得ましたの。ほかじゃありませんが、あなたはあたしに恐ろしく寛大なんですね。それがあたしいやでたまらないんですの」
 彼は席を立って、部屋の中を幾足か歩いた。
「よろしい。じゃ、こういうふうに終わるべきものとしておこう……が、どうしてこんなことになってしまったんだろう?」
「まあ、ご心配なこってすねえ! それに第一、こんなことはみんなあなたご自身で、五本の指を数えるように、知りぬいてらっしゃるんですよ。世界じゅうのだれよりも一番よく合点して、しかもご自分でそれを望んでらしったんじゃありませんか。あたしはお嬢さんです。あたしの心はオペラで養われて来たんですからね、それがつまりことの起こりなんですわ。それですっかり謎が解けるわけよ」
「違う」
「だって、あなたの自尊心を傷つけるようなことは、何もないじゃありませんか。何もかも、正真正銘の事実ですわ。まず最初、美しい瞬間から始まったのです。それをあたし、持ちこたえることができなかったんですの。おととい、あたしが皆の目の前であなたを『侮辱した』とき、あなたは立派な騎士のような態度でお答えなすった、あの後であたしは家へ帰って来ると、すぐなるほどと合点がいきました。あなたがあたしを避けるようになすったのは、あなたに奥さんがおありになるからで、けっしてあたしに対する軽蔑のためじゃない、と、こう思ったんですの。なにしろ社交界の令嬢となってみると、この軽蔑ってものが何より一等おそろしいんですからね。あなたはその時、あなたのほうがかえって、あたしみたいな無分別な女を、逃げ廻りながら守ってくだすったのだ、ということを合点しましたの。ね、あたしずいぶんあなたの心の広さを高く買ってるでしょう。そこヘピョートルさんが横合いから飛び出して、何もかもすっかり説明してくれました。あの人はあたしに向かって、あなたはある偉大な思想のために動揺を感じていらっしゃる、その思想といったら、あたしでもあの人でも、その前へ出るとまるで一文の値打ちもないほど立派なものだが、それでもやはり、あたしがあなたの行く手の邪魔になるって、こううち明けてくれたんですの。あの人は自分もその仲間に入れてるんですよ。あの人は是が非でも三人いっしょになりたがってね、思い切りとっぴなことをいうんですの、――何かロシヤの歌の中にある小舟だの、楓《かえで》の櫂だのってね。あたしはあの人を賞めて、詩人だっていってあげたの。そうするとあの人は、それをまに受けてしまったんですよ。あたしはもうずっと前から、自分はほんの刹那だけで満足することを承知してたから、それで思い切って決心しちゃったんです。ね、これっきりですの、だから、もうたくさん、どうかもう、この上の説明はやめにしましょうよ。また喧嘩をおっぱじめないとも限りませんからね。だれも怖がることはありません、何もかもあたし一人で責任を負いますわ。あたしはやくざな気まぐれ女ですからね、オペラの小舟に誘惑されたんですの。あたしどうせお嬢さんですもの……でもねえ、それでもやはりあたしはね、あなたが恐ろしく愛してくださる、とこんなことを考えていましたの。どうかこの馬鹿な女を軽蔑しないでください。いま落ちた一しずくの涙を冷笑しないで。あたしは『われとわが身のいとおしさに』泣くのが無性に好きなんですから。まあ、たくさん、たくさん。あたしもなんの役にも立たない女だし、あなたもなんの役にも立たない男、つまり、両方ともつまらない同士が二人ぶっ突かったのだから、それをせめてもの慰めにしましょうよ。少なくとも、自尊心の悩みだけはありませんからね」
「悪夢だ、うわごとだ!」スタヴローギンは折れよとばかり両手を揉み、部屋のなかを歩きまわりながらこう叫んだ。
「リーザ、あんたは不幸なひとだ! いったいあんたは自分で自分に、なんということをしたのだ?」
「蝋燭の火で焼けどをしたの、それだけのことよ。まあ、あなたまで泣いてらっしゃるじゃありませんか? もっと紳士らしくなさい、もっと無神経におなんなさい……」
「なぜ、いったいなぜ、あんたはぼくの所へ来たんだ?」
「まあ、本当にあなた、そんな質問を口になされば、社交界の目から見てどれくらい滑稽な位置に立つかってことが、おわかりにならないんですの?」
「なぜあんたは、自分を破滅させるようなことをしたんだ、しかもそんなに醜く馬鹿馬鹿しく……いったいこれからどうするつもりなの?」
「ああ、それが、スタヴローギンでしょうか? あなたに焦れ切っているこの町のある婦人がいった、『吸血鬼のスタヴローギン』でしょうか! ねえ、あたしはもうさっきもいったとおり、一生をたった一時間に換算してしまったから、落ちついたもんですよ。だから、あなたも、ご自分の生涯を換算しておしまいなさい……もっとも、あなたには、なんのためという当てもありませんわねえ。あなたなぞはこれからさき、まだいろいろの『時間』や、『瞬間』がたくさんできるでしょうからねえ」
「あんたと同じだけしかできやしない。それはぼく、立派に誓っておく、あんたより一つだって余計な『時間』はできやしない!」
 彼は絶えず歩きつづけていたので、とつぜん希望に照らし出されたかのように見える、電光のごとく早い刺すような女の視線に気がつかなかった。けれどその光は、同時に消えてしまった。
「ああ、今のぼくの不可能[#「不可能」に傍点]な誠実の値《あたい》を、あんたが知ってくれたらなあ! リーザ、あんたにうち明けて見せることができたらなあ……」
「うち明けて? 何かあたしにうち明けようと思ってらっしゃるの? あなたのうち明け話は真っ平ですわ!」と彼女はほとんどおびえたようにさえぎった。
 彼は言葉を止めて、不安げに待ち設けていた。
「あたし、白状しなくちゃならない。まだあのスイスにいた時分から、あなたの心の中には、何か恐ろしい、けがらわしい、血なまぐさいものがある、しかも……そのくせ、おそろしく滑稽に見せるようなものも隠れている、――こういう考えが、あたしの頭にこびりついてしまったんですの。だから、もし本当なら、あたしにうち明けるのは気をおつけなさいな。あたし、笑い草にしてしまうから。一生涯、あなたを笑ってあげますわ……あら、またあおい顔をなさるのね。もういいません、もういいません、あたしすぐ行きますわ」と彼女は、いまわしげな、さげすむような身振りで、急に椅子から飛びあがった。
「ぼくを苦しめてくれ、ぼくを罰してくれ、ぼくにその胸の欝憤を晴らしてくれ」と彼は夢中になって叫んだ。「あんたは十分にその権利をもっているのだ! ぼくは自分があんたを愛していないことも、あんたを破滅さしたことも承知してる。そうだ、ぼくは『刹那を保留した』のだ。ぼくには希望があったのだ……もうずっと以前から……最後の希望があったのだ……あんたがきのう自分からさきに、たった一人でぼくの部屋へ入って来た時、ぼくは自分の胸を照らし出した一道《いちどう》の光明を、どうしてもしりぞけることができなかったのだ。ふいにその希望を信じてしまったのだ……いや、ことによったら、今でも信じてるかもしれない」
「そういういさぎよい告白に対しては、あたしも同じもので報いなくちゃなりませんわね。あたしあなたの看護婦になりたくありません。もし今日うまく死ぬことができなかったら、本当に看護婦になるかもしれません。けれど、よしなるにしても、あなたのところへは行きゃしない、あなたなんぞはもちろん、足なしや手んぼうぐらいのところでしょうがね。あたしはね、何かまるで、人間ぐらいの背丈をした大きな性悪な蜘蛛の住んでいる恐ろしいところへあなたに連れて行かれて、そこで二人は一生涯その蜘蛛を見つめながら、始終びくびくして暮らしていく、そいった[#「そいった」はママ]気持ちがいつもしていましたの。そうして、あたしたち二人の恋も終わりを告げてしまうんですわ。まあ、ダーシェンカに相談してごらんなさいまし。あのひとなら、あなたのお伴をしてどこまででも行きましょうよ」
「ああ、あんたはこんな時にも、あれのことを思い出さずにいられないんですね?」
「まったくかわいそうな犬ころだ! どうかあのひとに、よろしくいってください。あなたが、老後のおもり役として、もうスイス時分からあのひとを選んでらっしゃるのを、あのひとは自分で承知してらっしゃるんでしょうか? 本当にあなたはなんて用意周到な方でしょう! なんて先見の明に富んだ方でしょう! あら、あれはだれでしょう?」
 広間の奥のほうでほんの心もち戸が開いて、だれかの頭が覗いたかと思うと、すぐ慌しげに隠れてしまった。
「アレクセイかい?」とスタヴローギンがたずねた。
「なに、ぼくがちょっと」またピョートルが、半分ばかり頭を覗けた。「お早う、リザヴェータさん、なんにせ、けっこうな朝と申さなくちゃなりませんね。きっとこの広間にお二人がおられることと思ってましたよ。ニコライ君、ぼくはまったくほんの一分間だけ、お邪魔にあがったんですがね、――ぜひともたったひと言お話したいことがあって、飛んで来たんですよ……ほんのほんのちょっとだけ!」
 スタヴローギンは立って行ったが、三足ほど引っ返して、リーザの傍へ寄った。
「リーザ、いま何か変わったことが耳に入ったら、それはぼくの責任だと承知してください!」
 彼女はぴくりとして、怯えたように男を見上げた。が、彼は急ぎ足に出てしまった。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 ピョートルの首を覗けた部屋は、大きな楕円形の控え室だった。そこには前にアレクセイがいたのを、彼が使いに出してしまったのである。ニコライは広間に通じる戸をうしろ手に閉めて、待ち設けるように立ちどまった。ピョートルは試験するように、ちらと相手を見やった。
「で?」
「つまり、あなたがもう知っていられるなら」まるで、目で魂まで刺し通そうとするように、ピョートルはせき込んでこういい出した。「もちろん、ぼくら二人は毫も責任[#「責任」は底本では「責仕」]はないんです。ことにあなたはそうですよ。なぜって、これはつまり……偶然の一致……偶然の暗合なんですからね……手っ取り早くいえば、法律的にはあなたに関係するはずがない、それを知らせに飛んで来たんですよ」
「焼けた! 殺された?」
「殺されたが、焼けはしなかった。こいつがちょいと具合が悪いけれど、しかし、ぼくは立派に誓っておきますよ、――あなたがどんなにぼくを疑っても、ぼくはけっしてこの事件に罪はないんですよ。だって、実際あなたはぼくを疑っているらしいんだものね、そうでしょう? お望みなら、ありのままの事実をいいますがね、こうなんですよ。まったくのところ、ぼくの頭にそうした考えが浮かんだのです(それは、あなたが自分でぼくに暗示したんですよ。もっとも、真面目にじゃなくて、からかい半分にいわれたんです。だって、あなたが真面目でぼくにそんなことをいうはずがありませんものね)。しかし、ぼくは決心がつかなかった。どうしてどうして、百ルーブリもらったって、決行するはずじゃなかったんですよ、――それに、有利な点は少しもないんだから。いや、これはこっちの話ですよ、ぼく一人の話ですよ……(彼は恐ろしくせき込んで、南京花火のようにしゃべり立てた)。ところが、そこへ素晴らしい偶然の暗合が出て来たんですよ。ぼくは自分の金をね(いいですか、自分の金ですよ、あなたの金は一ルーブリだってなかったんですからね。第一、それはあなた自身よくご承知です)、自分の金を二百三十ルーブリ、あの酔っぱらいの馬鹿者のレビャードキンに、一昨日の晩くれてやったんです、――いいですか、一昨日ですよ、昨日の朗読会の後じゃありませんよ、この点にご注意を願います。これはきわめて重大な偶然ですよ。だって、その時あなたは、リザヴェータさんが来られるかどうか確かなところは知らなかったんですからね。ところで、ぼくが自分の金を出したわけは、ほかじゃありません、一昨日あなたがどえらいことを仕出かしたからです、皆に秘密を暴露しようなんて、とんでもない気になったからです。いや、まあ、あなたの……私生活に立入るのはやめましょう……なにしろ、騎士の考えは別ですからね……が、正直、驚きましたね、まるで棒で眉間《みけん》をがんとやられたような気がした。けれど、ぼくはああした悲劇がいと興ざめだったので、――ちょっとお断わりしますが、ぼくはスラブ言葉なんか使っていますが、本当は大まじめなんですよ、――ああいうことは、どうもぼくの計画を毀すようになるから、どんなことがあってもレビャードキン兄妹を、あなたに知らせないでペテルブルグへ送ろうと、固く決心したわけなんです。ことにあの男、自身でもしきりに行きたがってるんですからね。たった一つ、失策をやったのです。ほかでもない、あなたの名で金をやったんですが、失策ですかどうです? ひょっとしたら、失策じゃないかもしれませんね、え? ところで、どうでしょう。ね、どうでしょう、それが今度、ああいうふうに展開したんですからね……」
 彼は話に夢中になって、ぴたりとスタヴローギンに寄り添いながら、フロックの胸をつかもうとした(実際、わざとしたことかもしれない)。スタヴローギンは力一杯にその手を撲りつけた。
「おや、いったいどうしたんですよ……いい加減におしなさい……そんなにしたら、手が折れてしまうじゃありませんか……つまり、肝腎なのは、どうしてああいうふうに展開したかという点なので」撲られたのにはいささかも驚く色なく、彼はふたたびさえずり始めた。「ぼくは、晩方あいつに金をくれてやったんです、妹といっしょにあす夜の引明けに出立する、という条件つきでね。ぼくはこの仕事を、リプーチンの悪党に頼んだのです。で、あの男が自分で汽車に乗せて、出立させるという段取りになった。ところが、あのリプーチンの畜生、なんの必要もないのに、聴衆相手に悪くふざけようなんて了簡を起こしゃがった、――多分お聞きになったでしょうね? 朗読会の席で。ね、どうでしょう、本当に……二人とも酔っぱらって、詩なんか作ったんですよ。しかも、半分はリプーチンの作なんですからね。あん畜生、大尉に燕尾服なんか着込ましておきながら、ぼくに向いては『けさ出立させた』としらを切って、この間に大尉をどこか裏の小部屋へ隠したもんです。出しぬけに演壇へ飛び出させようという寸法でね。ところが、大尉先生、思いがけなくすこぶる機敏に、一杯きこしめしてしまったものだから、その後でごぞんじの醜体を演じて、結局、半分死んだような有様で家へ送り帰されるという始末。ところで、リプーチンはそっとあいつのポケットから二百ルーブリ抜き取って、はした銭だけ残しておいたんでさあ。けれど、運の悪いことに、大尉がもう朝のうちに、その二百ルーブリをポケットから引っ張り出して、場所がらもわきまえず大自慢で見せびらかしたんですよ。ところが、フェージカはキリーロフのところで、ちょっくら小耳に挾んだことがあるので(ほらね、あなたがちょいと匂わしたでしょう)、そればっかり待ちかまえていたもんだから、この機乗ぜざるべからずと決心したわけです。まあ、これが事実の全部なんですよ。しかし、フェージカが金を見つけなかったのを、少なくもぼくは大いによろこんでいますよ。なにしろあん畜生、千ルーブリぐらいは当てにしてたんですからね! どうやら恐ろしくあわててしまって、自分でも火事に面くらったらしいですよ……本当になさるかどうか知りませんが、ぼくもあの火事には、薪で頭をどやしつけられたほどびっくりしましたぜ。実になんといっていいか、まったく僭越な振舞いですよ……ねえ、ぼくはあなたにあれだけ大きな期待をいだいてるので、何一つあなたに隠そうとしないです。そこでですね、ぼくの頭の中では、その火事という考えがずっと前から熟していたんですよ。この火事というやつは、実に国民的な、通俗的なものですからね。しかし、こいつはいざという時までとっておいたんですよ、ぼくら一同が蹶起する貴重な瞬間まで……ところが、やつらは、とつぜん僭越にも、なんの命令もないのに、今のような手で口を押えて息を潜めるべき時に当たって、ああいうことを仕出かすじゃありませんか! いや、実に言語道断な僭越ですよ! しかし、要するに、ぼくはまだ何も知らないのです。いま町で、シュピグーリンの職工が二人どうとかしたっていってますがね……あの事件に仲間の連中[#「仲間の連中」に傍点]が交ってるとすれば、――仲間の連中[#「仲間の連中」に傍点]が一人でも手を染めてるとすれば、そいつは禍なるかなですよ! ねえ、ごらんなさい、わずかでも手を緩めると、こういう有様ですよ! いや、まったく、あんな五人組なんかをかしらにしてる民主主義の有象無象は、あまり頼みがいがありませんね。われわれにとって必要なのは、たった一人の堂々とした、偶像のような魅力を持った専制君主です。片片たる偶像でなしに衆俗を超越したものを足場にしてる人です……その時こそは五人組も服従の尻尾を捲いて、いざという場合に、欣然と相当の役目を果たすようになるでしょうよ。が、とにかく、いま町じゅうで、スタヴローギンは自分の女房を焼き殺すために町を焼き払ったのだと、大げさに吹聴しているけれど、しかし……」
「もうそんな大げさに吹聴してますかね?」
「いや、実はそんなことはちっともないのです。正直なところ、ぼくはまだ何も聞いたわけじゃない。けれど、世間のやつって仕方のないもんでね、ことに火事にあった連中ときたら…… Vox populi vox Dei(民の声は神の声)ですからな。馬鹿げた噂を蒔くのに、手間はいりませんや……が、実際のところ、あなたはけっして何も恐れることはないですよ。法律的に見れば、ぜんぜん潔白なんですものね。良心のほうからいったって、同じことでさあ。だって、あなたはいやだといってたんですからね。いやだったんでしょう? 証跡といっては少しもありません、ただ暗合があるだけです……例のフェージカが、あの時キリーロフのところで洩らされた、あなたの不用意な言葉を思い出しゃしないか、という懸念もありますが(いったい、なぜあなたはあの時あんなことをいったのです?)、それとて、まるでなんの証拠にもなりゃしない。それに、フェージカはぼくが片づけますよ、今日にも片づけてしまいますよ……」
「死骸は焼けなかったんですか?」
「ちっとも。本当にあん畜生、まるで何一つ気の利いた仕事ができないんだ。けれど、ぼくは何にしても、あなたがそうして落ちついていられるのがうれしいですよ、だって、あなたはこの事件にまるで責任がない、――そんな意志さえなかったとはいうものの、それでもやはりねえ……それにまあ、考えてごらんなさい、今度の成行きで、あなたのほうは都合よく運んでゆくじゃありませんか。あなたは突然やもめとして自由な体になったので、素晴らしい財産を持った美しいお嬢さんと、今すぐにも結婚ができるんですからね。しかも、その人はもう、あなたの掌中にある。ねえ、くだらない事情の巧まざる暗合が、こういう結果を作り出し得るんですからね、え?」
「きみはぼくを脅かそうというんだね、なんて間抜けな男だろう?」
「まあ、何をいうんです。たくさんですよ。ぼくはいま実際間抜けなんですが、しかし、なんという調子でしょう! こんどのことなどはよろこんでもいいくらいだのに、あなたは……ぼくは少しも早く知らせようと思って、わざわざ飛んで来たんじゃありませんか……それに、ぼくなぞ、どうしてあなたを脅かせるものですか? 脅しであなたを納得さしたって、しようがないじゃありませんか! ぼくはあなたの自由意志が必要なのです。恐ろしさにいやいや承知してもらいたくはないですよ。あなたは光です、太陽です……ぼくこそ、心の底から、一生懸命にあなたを恐れてるんです、けっしてあなたがぼくを恐れてるんじゃありません! だって、ぼくはマヴリーキイじゃありませんからね……実際どうでしょう、ぼくがいま軽車《ドロシキイ》に乗ってここへ駆けつけると、マヴリーキイが庭の後の隅っこで、鉄柵にもたれてるじゃありませんか……外套がぐしょぐしょになってるところを見ると、きっと、夜っぴてそこでじっとしてたに相違ない! 実に奇蹟ですなあ! 人間て、どのくらい性根を失くすものか、まったく方図が知れませんね!」
「マヴリーキイ! 本当?」
「本当ですとも、本当ですとも。庭の鉄柵の傍にしゃがんでるんです。ここから、――ここから三百歩くらいしかないと思いますね。ぼくは大急ぎで傍を通り抜けたんだが、やはり見つかっちゃった。じゃあなたは知らなかったんですか? そういうことなら、忘れずにお知らせしていいあんばいだった。まったくああいう男が一ばん危険ですよ。ことにピストルでも持ってるような場合にはね。それに、夜ではあり、霙は降る、そのうえ、当然、癇はたかぶってる、――実際、あの男の境遇は惨澹たるものですからね、はは! あなたどう思います、あの男はなんのためにあんなところにいるんでしょう?」
「もちろん、リザヴェータさんを待ってるのさ」
「ヘーえ! しかし、あのひとが先生のところへなんぞ、出て行くはずがないじゃありませんか? それに……こんな雨の降る中を……本当に馬鹿なやつですなあ!」
「あのひとはいま、先生のとこへ出て行こうとしてるんだよ」
「へえ! そりゃ珍聞ですね! してみると……けれど、まあお聞きなさい、今度あのひとの状況は、すっかり変わったじゃありませんか。今さらマヴリーキイになんの用があるんでしょう? ねえ、あなたはもう自由な独り者だから、明日にもさっそくあのひとと結婚できるじゃありませんか。あのひとはまだ知らないんでしょう、――万事ぼくにまかせてください、ぼくがあなたの代わりに、うまく繕ってあげますから。どこにいるんです? あのひとだって早くよろこばしてあげなくちゃ」
「よろこばせる?」
「当たり前ですよ。さあ行きましょう」
「いったいきみは、あのひとが二人の死骸のことを、悟らないでいると思うんですか?」スタヴローギンは何かこう特別に眉をひそめた。
「むろんさとりゃしないですよ」ピョートルは思い切り白っぱくれた調子で引き取った。「だって、法律的には……おやっ、あなたどうしたんです! それに、よし悟ったからってなんでしょう! 女てものは、そんなことうまくごまかしてしまいますよ。あなたはまだ女の心を知らないんですね! それにあのひとは、あなたと結婚するのが一番とくなんです。だって、あのひとはなんといってもやはり自分の顔に泥を塗ってしまったんですからね。そのうえ、ぼくはあのひとに『小舟』式の話を、うんとして聞かせたんですよ。まったく、あのひとには『小舟』式の話が何より利きめがあるんだから、どれくらいの娘さんかってことも、大抵わかってまさあね。ご心配はいりませんよ、あのひとは平気で鼻歌を唱いながら、二人の死骸を跨ぎますよ――それに、あなたはまるで、まったく清浄潔白なんですもの、ねえ、そうじゃありませんか? ただあのひとは結婚後二年目ぐらいから、あなたをちくりちくりいじめるために、あの死骸を大切にとっとくぐらいのもんでさあ。どんな女でも、結婚する時には、夫の過去からこういうふうなものをさがし出して、それをとっときにするのが普通ですからね。しかし、その頃にはまた……実際、一年たったらすっかり具合が違いますよ、ははは!」
「きみ、馬車に乗って来たのなら、今すぐあのひとをマヴリーキイのとこまで連れてってくれませんか。あのひとはぼくがいやでたまらないから、もうぼくの傍を離れてしまうって、たった今、そういったんですよ。だから、むろんうちの馬車なんかに乗って行きゃしない」
「ヘーえ! じゃ、本当に帰ってしまうんですか? どうしてそんなことになったのでしょう?」ピョートルは馬鹿げた顔つきをした。
「ぼくがあのひとを少しも愛してないってことを、ゆうべなんとかして察したんだろうよ……もっとも、そのことは前から承知してたんだがね」
「へえ、いったいあなたはあのひとを愛してないんですか?」ピョートルは仰天したような顔色を作りながら引き取った。「そういうわけなら、どうして、昨日あのひとがやって来た時、そのまま自分のとこへ置いたんです? どうして潔白な紳士のするように、自分はお前を愛していないって、まっすぐに告白しなかったんです。それはあなたとして恐ろしく卑劣なやり方じゃありませんか。それに、あなたのおかげで、ぼくはあのひとに対して、陋劣きわまる人間にされてしまいますよ」
 スタヴローギンは突然からからと笑い出した。
「ぼくは自分の猿を笑ったんだ」と彼はすぐ、こう説明した。
「ああ! ぼくがちょっと道化の真似をしたのに、気がつきましたね」とピョートルもすぐに高笑いした。「ぼくはちょっとあなたを笑わそうと思って! 実はねえ、ぼくはあなたが出て来るやいなや、顔つきでもって、何か『不幸』があったな、と察しましたよ。ひょっとしたら、ぜんぜん失敗だったかもしれませんね、え? ああそうだ、間違いない」ほとんど満足のあまりむせ返らないばかりに、彼はこう叫んだ。「あなた方は一晩じゅう広間の椅子に行儀よく並んで坐ったまま、何かしら高遠な品性論でもしながら、貴重な時間を消費してしまったんでしょう……いや、失礼、失礼、何もぼくの知ったことじゃない。ぼくはもう昨日から、きっとあなたはこの一件を馬鹿馬鹿しくおじゃんにしてしまうに相違ないと、ちゃんと見当をつけてましたよ。ぼくがあのひとを連れて来たのは、ただ、あなたを楽しませようと思ってのことです。ぼくがついてたら退屈しないってことを、証明しようがためなのです。こんなふうなことなら、何百ぺんでもお役に立ちますよ。ぼくは全体として、人によくするのが好きなんでね。もしぼくの予想どおり、あのひとがあなたに不要だとすると(ぼくも実はそのつもりでやって来たんですが)、そうすると……」
「それじゃ、きみはただぼくを楽しませたいばかりに、あのひとを連れて来たんですか?」
「でなくって、なんのためでしょう?」
「ぼくに女房を殺させるためじゃないんですか?」
「ヘーえ、いったいあなたが殺したんですか? なんという悲劇好きな人だろう!」
「同じことだよ、きみが殺したんだから」
「へえ、ぼくが殺したんですって? ぼくはこれっぱかりも関係がないって、さっきからいってるじゃありませんか。しかし、あなたのおかげで、ぼくはそろそろ心配になって来た……」
「さっきの続きをいって見たまえ。きみは『もしあのひとが不要だとすれば』といったね」
「むろん、それならぼくにまかせておしまいなさい! うまくあのひとをマヴリーキイにくっつけますよ。もっとも、あの男を棚の傍へ立たしたのは、けっしてぼくじゃありませんよ。そんなことまで考えてもらっちゃ困りますからね。ぼくは今あの男が怖いんです。ところで、あなたはいま馬車に乗って来たかといいましたね。ぼくはちょうどそばを駆け抜けて来たんだが……本当にもしあの男がピストルを持ってたら、どうでしょう? ……いいあんばいに、ぼくも自分で一梃もって来ましたがね。ほら(彼はかくしからピストルを出して見せ、すぐにまたしまった)少し遠方だからと思って、持って来たんですよ……もっとも、こんなことはすぐにまるくおさめてあげます。あのひとはいま少しばかりマヴリーキイが恋しくなってるんです……少なくも、恋しくなるべきはずですからね……まったくのところ、ぼくは少々あのひとがかわいそうなんですよ! ぼくあのひとをマヴリーキイといっしょにしてやります。そうすると、あのひとはすぐにあなたのことを思い出して、あの男の目の前であなたを褒めちぎり、当人のことは面と向かってけなすようになります、――それが女心でね! ほう、あなたはまた笑いますね? あなたがそんなにうきうきして来たのが、ぼく嬉しくってたまらない。じゃ、どうです、行こうじゃありませんか。ぼくはまずマヴリーキイから始めましょう。ところであの……殺された連中のことは……ねえ、いま黙ってたほうがよかありませんか? 遅かれ早かれ知れるんだから」
「何が知れるんですって? だれが殺されたんですの? あなたは今、マヴリーキイさんのことを、なんとおっしゃったんですの!」突然リーザが戸を開けた。
「ああ! あなたは立ち聴きしたんですか?」
「あなた、マヴリーキイさんのことをなんとおっしゃったの? あの人が殺されたんですか?」
「ああ! それじゃよく聞こえなかったんだ! ご安心なさい、マヴリーキイさんは生きて、ぴんぴんしています。それはあなたご自身で、今すぐ確かめられますよ。あの人はいま庭の鉄柵に近い、路ばたに立っておられますからね……どうやら、夜っぴてそこで明かされたらしいんです。外套を着て、体じゅうぐっしょりになってね……ぼくがここへ来る時、あの人はぼくを見たんですよ」
「そりゃ嘘です。あなたは『殺された』とおっしゃいました……だれが殺されたんです?」胸をかきむしるような疑いの調子で彼女はしゅうねくたずねた。
「殺されたのは、ただぼくの家内と、その兄のレビャードキンと、二人の使ってた女中っきりです」とスタヴローギンはきっぱりいいきった。
 リーザはぴくりとなって、みるみる顔をあおくした。
「奇怪な、残忍な事件です、リザヴェータさん、馬鹿げきった強盗殺人の事件です」とピョートルはすぐさま豆のはぜるように、口を入れた。「火事のどさくさまぎれにやった強盗、それだけのことです。それは懲役人のフェージカの仕事です。つまり、みんなに金を見せびらかしたレビャードキンの馬鹿が悪いのです……ぼくはそのために飛んで来たんです……まるで、石で額をがんとやられたような気がしましたよ。スタヴローギンさんは、ぼくがこの事件を知らせると、あやうく卒倒しないばかりでした。ぼくらはあなたにお知らせしたものかどうかと、ここでいま相談したところなんですよ」
「ニコライさん、この方のいったことは本当ですか?」リーザはやっとの思いでこれだけいった。
「いや、嘘です」
「どうして嘘です?」ピョートルはぴくりとした。「それはまたなんのことです?」
「ああ、あたし気が狂いそうだ!」とリーザは叫んだ。
「まあ、あなた少しは察しなくっちゃいけませんよ、この人はいま気が狂ってるんですよ!」とピョートルは一生懸命に叫んだ。「なんといっても、妻となった人が殺されたんですからね! ごらんなさい、なんてあおい顔をしてるんでしょう……実際、この人は一晩じゅうあなたといっしょにいて、少しも傍を離れなかったじゃありませんか。どうしてこの人を疑うことができます?」
「ニコライさん、どうか、神様の前へ出たつもりで、あなたに罪があるのかないのか、本当のことをいってください。そしたら、あたしはあなたのおっしゃったことを、神様の言葉として信じます。ええ、誓ってもいいわ、あたしは世界の果てでもあなたについて行きますわ、ええ、行きますとも! 犬っころのようについて行きます……」
「なんだってあなたはそうこの人を苦しめるんです、本当になんてとっぴなことを考える人だろう!」ピョートルは憤然として叫んだ。「リザヴェータさん、ぼく誓っていいますよ、もし嘘だったら、ぼくを臼の中へ入れてついてもいいです。ニコライさんは潔白です。かえって自分が殺されたようになって、ごらんのとおり、うわごとばかりいってるんです。けっしてなに一つ、――心の中でさえ、罪を犯してはいません!………何もかもまったく強盗どもの仕業です。きっと一週間も経ったらさがし出されて、鞭でぶん撲られるに相違ありません……あれは懲役人のフェージカと、シュピグーリンの職工どものしたことです。このことは、町じゅう大騒ぎして噂をしています。だから、ぼくもいってるんです!」
「そうですか? そうですか?」全身をわなわな慄わせながら、リーザは最後の宣告を待っていた。
「ぼくは自分で手を下しもしなかったし、そんな企てに反対もしてたんですが、しかし、あの人たちが殺されると知っていながら、下手人を止めようとしなかったのです。さあ、リーザ、ぼくから離れてください」といって、スタヴローギンは広間へ歩み去った。
 リーザは両手で顔をおおうと、そのまま家を出てしまった。ピョートルは後を追おうとしたが、すぐまた広間へ引っ返した。
「あなたはそういう気なんですか? 本当にそういう気なんですか? じゃ、あなたは何ものも恐れないんですね?」ほとんどいうべき言葉も知らないで、口のほとりに泡を吹かせつつ、憤怒のあまりスタヴローギンに躍りかからないばかりの勢いで、彼は脈絡もない言葉を口走るのであった。
 スタヴローギンは広間の真ん中に立ったまま、ひと言も返事をしなかった。彼は左手でちょっと一房の髪を握りながら、自失したような微笑を浮かべていた。ピョートルは、ぐいとその袖を引っ張った。
「いったいあなたは駄目になってしまったんですか? あんなことを始める気になったんですか? 大方あなたはみんなを密告して、自分は修道院か何かへ行ってしまうんでしょう……しかし、ぼくはどっちにしたってあなたを殺してしまいますよ、いかにあなたがぼくを恐れないたって駄目だ!」
「ああ、きみだね、騒々しくしゃべってるのは?」やっと、スタヴローギンは相手の顔を見分けた。
「あ、早く駆け出してくれたまえ」とつぜん彼はわれに返った。「あのひとの後を追っかけてくれたまえ、馬車をいいつけて。あのひとをうっちゃっといちゃいけない……早く、早く追っかけて! だれにも見つからないように、家まで送ってやってくれたまえ。あのひとがあすこへ……死骸を……死骸を見に行かないように……力ずくで馬車へ乗せてくれたまえ……アレクセイ! アレクセイ!」
「まあ、お待ちなさい、どならないで! あのひとは、今もうマヴリーキイに抱かれてますよ……大丈夫、マヴリーキイがあなたの馬車に乗せやしないから……お待ちなさいっていうのに、今は馬車より大切なことがあるんですよ!」
 彼はふたたびピストルを取り出した。スタヴローギンは真面目な表情でそれを見やった。
「仕方がない、殺したまえ」静かな、ほとんど諦めたような調子で、彼はこういった。
「ふう、馬鹿馬鹿しい、人間はどこまで偽りの仮面《めん》をかぶっていられるんだろう!」ピョートルは本当にぶるぶると体を慄わした。「まったく、殺してしまいたいほどだ! 実際、あのひとも、きみには唾を吐きかけずにはいられなかったろう!………きみは本当になんという『小舟』だ! もう毀すより仕方のない、古い穴だらけの薪舟だ!……ちぇっ、せめて面当てにでも、まったく面当てにでも、目をさましたらよさそうなもんだがなあ! ええっ! 自分から額へ弾丸をぶち込んでくれと頼むくらいなら、今はもうどっちにしたって同じでありそうなもんだ!」
 スタヴローギンは奇妙な薄笑いを洩らした。
「もしきみがそんな道化でなかったら、ぼくも今は諾《うん》といったかもしれないんだ……ほんの少しばかりでも利口だったら……」
「ぼくは道化です。しかし、あなたが、ぼくのおもな半身たるあなたが、道化になってしまうのはいやです! ぼくのいうことがわかりますか?」
 スタヴローギンはその言葉の意味を悟った。それはおそらく彼一人だけだろう。かつてスタヴローギンがシャートフに向かって、ピョートルには感激《エンスージアズム》があるといったとき、相手はすっかり呆気に取られたものである。
「さあ、もうぼくの傍を離れて、どこなと勝手に行きたまえ。明日までには、ぼく何か自分の中から搾り出すかもしれないさ。あす来たまえ」
「本当に? 本当に?」
「そんなことがわかるものか!……さあ、早く、とっとと行きたまえ!」
 こういって、彼はホールを出てしまった。
「ふん、或いはいいほうに向くかもしれないぞ」とピョートルはピストルを隠しながら、口の中でつぶやいた。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 彼はリザヴェータの跡を追って駆け出した。彼女はまだあまり遠くまで行かないで、家からわずか十歩ばかりの所にいた。跡をつけて行った老僕のアレクセイが、今はうやうやしげに燕尾服の小腰をかがめ、帽子もかぶらないで、一歩あとからついて歩きながら、しきりに彼女を引き止めようとしていた。馬車のできるまで少し待ってくれと、根気よく頼むのであった。老人はすっかりおびえてしまって、ほとんど泣き出さないばかりだった。
「お前早く行かないか。旦那様がお茶をくれといってらっしゃるのに、だれもあげる人がないんだよ」
 とピョートルは老人をはねのけ、いきなりリザヴェータの手を取って、小脇にかい込んだ。
 こちらは、その手を振りほどこうとしなかったが、まだすっかり正気に返ってはいなかった。
「第一、あなたの歩いてらっしゃるのは道が違いますよ」とピョートルが猫撫で声でいい出した。「こちらへ行かなくちゃならないんですよ。そんなに庭について行くんじゃありません。それに、どうしたって歩いて行かれやしませんよ。お宅まで三露里からあるうえに、あなたは雨着も持ってらっしゃらないじゃありませんか。ほんのちょっと待ってくださるといいんですがなあ。実はぼく軽車《ドロシキイ》に乗って来たので、馬はそこの裏庭に立ってるんですよ。今すぐここへ廻して、あなたをお乗せしましょう、お宅までお送りしましょう。そうしたら、だれも見る人はありゃしません」
「あなた本当にご親切ねえ……」とリーザはやさしくいった。
「とんでもない、こういう場合には、だれだって、少し人情のある者は、ぼくみたいな立場におかれたら……」
 リーザはじっと彼の顔を見て、思わずびっくりした。
「あらまあ、わたしやっぱりあのお爺さんだと思ってたわ」
「ねえ、ぼくはあなたがそういう態度でこの事件に接してくださるのが実に嬉しい。なぜって、こんなことはみな実際ばかげ切った偏見ですからね。まあ、こういうことになってしまった以上、すぐあのお爺さんにいいつけて、馬車の用意をさしたほうがよかないでしょうか。ほんの十分ばかりです。その間ちょっと引っ返して、玄関の軒下で待ってようじゃありませんか、え?」
「あたしはまず何よりも……あの死骸が見たいんですの、どこにあるんでしょう?」
「おやおや、まあ、なんて馬鹿げた考えでしょう! それをぼくは心配していたんだ……いけません、あんなやくざなものはうっちゃっときましょうよ。それに、何もあなたなぞ見るがものはありませんやね」
「あたし、どこにあるか知ってます、あの家も知ってます」
「知ってらっしゃればどうしたのです! 冗談じゃない、この雨に霧じゃありませんか(ちぇっ、なんて神聖な義務を背負い込んだもんだ!………)。まあ、お聞きなさい、リザヴェータさん、二つに一つですよ。もしぼくといっしょに軽車《ドロシキイ》に乗ってらっしゃるなら、しばらくここで待っててください。ひと足も前へ出ちゃいけませんよ。いま二十歩も前へ出ると、どうしたってマヴリーキイ氏に見つかるんですから」
「マヴリーキイさん! どこに? どこに?」
「ふん。もしあの人といっしょに行きたいんでしたら、もう少しあなたをお送りして、あの人のいるところを教えてあげましょう。ぼくはもう従順なしもべですからね。ただぼくは今あの人の傍へは寄りたくないんです」
「あの人はあたしを待ってるんだ、ああ、どうしよう!」とつぜん彼女は足をとめた。くれないがさっとその顔にみなぎった。
「しかし、まあ、考えてもごらんなさい、あれがくだらない偏見のない人ならとにかく……ねえ、リザヴェータさん、こんなことはまるで、ぼくの知ったことじゃないですからね。ぼくはぜんぜん路傍の人です。それはあなた自身でもよくご承知のはずでしょう。が、それでもやはり、ぼくはあなたのためによかれと祈っています……よしわれわれの『小舟』が失敗に終わったとしても、よしそれがぶっ毀すより仕方のない、古い、腐った団平船にすぎなかったとしても……」
「まあ、痛快だこと!」リーザは叫んだ。
「痛快だなんていいながら、ご自分は涙を流してらっしゃるじゃありませんか。気をしっかり持たなきゃ駄目ですよ。どんなことでも、男に負けんようにしなきゃいけません、現代の世界では婦人といえども……ちぇっ、馬鹿馬鹿しい(ピョートルは本当に唾を吐きかけかねない様子だった)。第一、くやしがることは少しもありませんよ。かえってああなったのが、もっけの幸いだったかもしれないのです。マヴリーキイ氏はああいう……つまり、その、感情的な人ですからね。もっとも、口数は少ないが……しかし、あの人にくだらない偏見がなかったら、という条件つきで、それもかえっていいことではありますがね……」
「痛快だこと、痛快だこと!」と、リーザはヒステリックに高笑いした。
「ああ、どうもしようがないなあ……リザヴェータさん」ふいにピョートルは改まってこういい出した。「ぼくは今あなたのために……いや、何もぼくの知ったことじゃない……ぼくは、昨日あなたがご自分で望まれた時、あなたのためにつくしましたが、今日は……ほら、ここからマヴリーキイ氏が見えますよ。ね、あすこに坐ってるでしょう。ぼくらに気がつかないで。ときに、リザヴェータさん、あなた、『ポーリンカ・サックス』を読みましたか?』
「なんですって?」
「『ポーリンカ・サックス』という小説があるんですよ。ぼくはまだ学生時分に読みましたがね、サックスという財産家の官吏が、不義をした細君を別荘で捕まえたんです……ちぇっ、馬鹿馬鹿しい、こんなことなんかしようがあるもんか! まあ、見てらっしゃい、マヴリーキイ氏はまだ家まで行きつかないうちに、あなたに結婚を申し込みますよ。あの人はまだぼくらに気がつかないんだ」
「ああ、気がつかないほうがいいんですよ!」ふいにリーザが、まるで気ちがいのようにこう叫んだ。「行きましょう、行きましょう! 森の中へ、野原のほうへ!」
 こういい捨てて、彼女はもと来たほうへ駆け出した。
「リザヴェータさん、それはあまり気が狭すぎますよ!」ピョートルはその後を追って行った。「どうしてあなたは、あの人に見られるのがいやなんです? それどころか、大威張りでまともに見ておやんなさい……もしあなたが何かその……処女の純……なんてことを気にしていらっしゃるのなら……それはまったく古くさい偏見ですよ……いったいどこへ行くんです、どこへ? どうも、あの走りようはどうだ! ねえ、いっそスタヴローギンのとこへ引っ返そうじゃありませんか、ぼくの軽車《ドロシキイ》に乗りましょうよ……いったいどこへ行くんです? そっちは野っ原ですよ、あっ、転んじまった!……」
 彼は立ちどまった。リーザは自分で自分の行く手も知らず、鳥のように飛んで行くので、ピョートルはもう五十歩ばかり遅れてしまった。と、彼女は苔の生えた短い切り株につまずいて、ばたりと倒れた。その瞬間、うしろのほうから恐ろしい叫び声が聞こえた。それは、彼女の走ってゆく姿と、続いて地びた[#「地びた」はママ]に倒れた様子を見て、野原を横切って駆け寄るマヴリーキイの叫び声だった。ピョートルはたちまち踵《きびす》を転じて、スタヴローギン家の門内へ引っ返し、大急ぎで自分の軽車《ドロシキイ》に乗ってしまった。
 マヴリーキイは恐ろしい驚愕におそわれながら、リーザの傍に立った。こちらは、す早く身を起こしていた。彼は上からかがみ込むようにして、女の手を両の掌に包むのであった。この邂逅の奇怪きわまる情景は、彼の頭脳を震盪させてしまった。涙は彼の顔を伝って流れた。今まで自分の崇拝していた女がこんな時刻に、こんな天気に、外套もなく、昨日の華やかな衣裳を着けたまま(それも今は揉みくたになって、しかも倒れたために泥まみれだった)、原中を狂ったように走っている姿を、目の前に見せられたのである……彼はひと言も口をきけないで、無言のまま自分の外套を脱ぎ、震える手で女の肩に着せ始めた。ふいに彼は、思わずあっと叫んだ。彼女の唇が自分の手にさわったのに気がついたのである。
「リーザ」と彼は叫んだ。「ぼくはなに一つ能のない男ですが、どうかあなたの傍を追っぱらわないでください!」
「ええ、ええ。さあ、早くここを出てしまいましょう。どうか、あたしをうっちゃらないでね!」彼女は自分のほうから男の手を取って、さきに立ってぐんぐんしょ引く[#「しょ引く」はママ]のであった。
「マヴリーキイさん」彼女はふいに声をひそめた。「あたし、あすこでは、始終、から元気を出してたけれど、ここへ来たら、死ぬのが怖くなった。あたし死ぬの、もうすぐ死んじまうの、だけど恐ろしい、死ぬのが恐ろしい……」固く男の手を握りしめながら、彼女はこうつぶやいた。
「ああ、だれでもいいから来てくれるといいのになあ!」彼は絶望したように、あたりを見廻した。「せめてだれか通り合わせの人でもあればなあ! あなた、足を濡らしてしまいますよ、あなたは……気がちがってしまいますよ!」
「大丈夫、大丈夫よ」と彼女は相手をはげました。「これでいいの。あなたが傍についててくださると、あたしそれほど怖くはないわ。じっと手を握って、あたしを連れてってくださいな……そして、今あたしたちはどこへ行くんでしょう、家へ? いいえ、あたし殺された人たちをさきに見たいの。あの人の奥さんが殺されたんですとさ。そして、あの人のいうには、あの人が自分で殺したんですって。そんなことは嘘だ。嘘だわねえ? あたし殺された人たちを自分で見たいの……あたしのためなんですもの……あの人はね、あの人たちが殺されたために、一晩であたしが嫌いになったんですって……あたし自分で見にいって、何もかも見抜いてしまうわ。さ、早く、早く、あたしあの家を知ってるんだから……あの火事のあった所よ……マヴリーキイさん、ねえ、あたしをゆるしちゃいけませんよ、あたしは穢れた女なんですから! ええ、あたしみたいなものがゆるされるはずはないわ! なんだって、お泣きになるんですの? さあ、あたしの頬っぺたを打ってください、この原中で、野良犬みたいに殺してちょうだい!」
「今、あなたを裁くものは、だれもありません」マヴリーキイはきっぱりといい切った。「神様はゆるしてくださるでしょう。ぼくなぞは、だれよりも一番、あなたを裁く資格のない者です!」
 しかし、二人の会話を書きつづけたら、ずいぶん奇妙なものができたろう。その間に二人は手に手をとって、まるで気ちがいのようにせき込みながら、足早に歩いた。彼らは真っ直ぐに火事場をさして進んだ。マヴリーキイは、なにか百姓馬車にでも出会いそうなものだと、しじゅう一縷の希望をいだきつづけたが、だれひとり出会う人もなかった。小粒な細かい雨足はあたりを一面に包んで、あらゆる光と陰を呑みつくし、何もかも、ただ一色の煙のような、鉛色のいっさい無差別なマッスに化してしまっていた。もうだいぶ前から昼の時刻になっているのに、まだ夜が明けないように思われた。突然この煙のような冷たい靄の中から奇妙な間のぬけた人影が浮かび出て、こちらへ進んで来る。今その当時を想像してみると、もしわたしがリザヴェータの位置に立ったら、とても自分の目を信じられなかったろう。やがて彼女は歓喜の声を上げた。すぐに近づいて来る人がだれかわかったのである。それはスチェパン氏であった。どんなにして彼が家を去ったのか? どんなふうにして家出という気ちがいじみた机上の空想が実現されたのか?――それは後で話すことにしよう。ここでは、ただこれだけいっておこう。この朝、彼はすでに熱病にかかっていたが、病いも彼を引き止めることはできなかった。彼はしっかりした足どりで、濡れた土の上を歩いた。察するところ、彼はこの計画を、無経験な書斎生活の許す限り、相談相手もなしにただ一人、できるだけ一生懸命に考え抜いたらしい。
 彼は『旅装』を調えていた。旅装といっても袖つきマントに、金具のついた漆塗りの幅の広いバンドを締め、それに新しい長靴をはいて、ズボンをその中へたくし込んでいた。おそらく彼はずっと前から、旅行者というのはこんなものと想像していたのだろう。歩きにくいてらてら光る軽騎兵式の深い長靴や、バンドは、四、五日前から用意していたに相違ない。鍔の広い帽子と、しっかり頸筋を包んだ毛糸の襟巻と、右手に持ったステッキと、左手に提げた思い切り小さな、そのくせ思い切りぎっしり詰まったカバンとが、彼の旅装の点睛となっていた。そのうえ、同じく右の手には傘を広げてさしていたが、この三つの物、――傘とステッキとカバンとは、初めの一露里は持ちにくくて窮屈だったし、二露里めからは重くなって来た。
「まあ、本当にあなたなんでしょうか?」と彼女は相手を見廻しながら叫んだ。初めの無意識なよろこびの突発は、すぐさま愁わしげな驚きに変わった。
「リーズ!」これもほとんど夢中で飛びかかりながら、スチェパン氏は叫んだ。「|あなた《シエール》、|あなた《シエール》、あなたもやはり……こんな霧の中を? まあ、ごらんなさい、あの空あかりを! 〔Vous e^tes malheureuse, n'est-ce pas?〕(あなたは不仕合わせなんでしょう、そうでしょう?)いや、わかります、わかります、お話には及びませんが、わたしのことも聞かずにおいてください。Nous sommes tous malheureux, mais il faut les pardonner tous. Pardonnons, Lise.(わたしたちはみんな不仕合わせだ、けれど、あの連中をみんなゆるしてやらなきゃなりません。ゆるしてやりましょうね、リーズ)そして、永久に自由になりましょうよ。この世間の煩いを振り棄てて、完全に自由の身となるためには、il faut pardonner, pardonner et pardonner!(ゆるさなければなりません、ゆるすことです、ゆるすことです!)」
「まあ、あなたはなぜ膝なんかお突きになるんですの?」
「それはこの世間と別れるに当たって、あなたの中にこめられたわたしの過去ぜんたいに別れを告げるためなんです!」彼は急に泣き出しながら、リーザの両手をとって自分の泣き腫らした目に押し当てた。「わたしは、自分の生涯中で美しかったすべてのものの前にひざまずくのです、接吻するのです。感謝するのです! いまわたしは自分を二つに裂いてしまいました。あちらのほうには二十二年間、空へ飛びあがることばかり空想しつづけた一個の狂人が残っているし、ここには打ちのめされて寒さに凍えはてた商人《あきうど》の家の老いぼれた家庭教師がさまよっています。s'll existe pourtant ce marchand(もしどこかにそんな商人があるとすれば……)、しかし、あなたはなんという濡れ方でしょう、リーズ!」自分の膝も湿った土でぐしょぐしょになったのに気がついて、急に身を起こしながら彼は叫んだ。「まあ、どうしたというんです、そんな着物をきて……しかも、歩いて、こんな原中を……あなた泣いてるんですか? 〔Vous e^tes malheureuse?〕(あなたは不仕合わせなんですね?)ああ、わたしもちょっと聞いたことがある……しかし、いったいあなたは今、どこからいらしったんです?」深い疑惑の念にマヴリーキイを見つめながら、臆病げな様子で、彼はたたみかけてこうたずねた。「mais savez-vous l'heure qu'il est?(が、いま何時でしょう、ごぞんじですか?)」
「スチェパンさま、あなたはあの人殺しのことを、何かお聞きになって?……あれはいったい本当なんでしょうか? 本当なんでしょうか?」
「あの連中! わたしはあの連中の仕業が空に映るのを、一晩じゅう眺めていました。あの連中は、ああでもするよりほかに仕方がなかったのです! (彼の目はふたたび輝き出した)。わたしは熱病やみの悪夢からのがれ出るのです、ロシヤをさがしに行くのです、existe-t-elle la Russie?(ああ、はたしてロシヤは存在しているのだろうか?)Bah, c'est vous, cher capitaine!(おや、大尉、あなたですか!)わたしはいつも固く信じていましたよ、どこかで立派な善行をなさるところへ、いつかは必ず行き会うに相違ないと思っていましたよ……だが、わたしの傘を持っていらっしゃい、それに、――ぜひとも歩かなきゃならないわけはないのです。ねえ、後生だから、この傘を持ってらっしゃい。わたしはどうせどこかで馬車を雇いますよ。実は、わたしが歩いて出たのはね、もし Stasie《スタシイ》([#割り注]つまりナスターシヤ[#割り注終わり])が、わたしの出て行くことを知ったら、往来一杯にわめき散らすに相違ない、とこう思ったからです。それで、わたしはできるだけ内証に、こっそり家をぬけ出したんですよ。この頃どこへ行っても、強盗が横行してるとかって、『声《ゴーロス》』などで書き立ててるのは承知してますが、しかし、わたしの考えでは、街道へ出るとさっそく強盗が現われるなんてことは、まさかありゃしないでしょうよ? 〔Che`re Lise,〕 今あなたは、だれかが殺されたとかいったようですね? O, mon Dieu(おやおや)、あなた、顔色が悪いですね!」
「行きましょう、行きましょう!」またもやさきに立って、マヴリーキイを引っ立てながら、リーザはヒステリイのように叫んだ。「待ってちょうだい、スチェパンさま」出しぬけに彼女は後へ引っ返した。「待ってちょうだい、あなたは本当にお気の毒な人ね、さあ、あたしが十字を切ってあげましょう。本当はあなたをお留めしたほうがいいのかもしれませんけど、まあ、やはり十字を切ってあげますわ。だから、あなたも『不仕合わせな』リーザのために、お祈りをしてちょうだいな、――だけど、ほんのちょっとでいいんですの。あまり一生懸命にならなくってよござんすわ。マヴリーキイさん、この赤ちゃんに傘を返しておあげなさい、ぜひ返してあげなくちゃいけないわ。ええ、そうよ――さあ、行きましょう! さあ、行きましょうってば!」
 彼らがかの運命的な家へたどり着いた時には、その前へ群がった黒山のような群衆が、スタヴローギンのことや、彼にとって妻を殺すのがいかに有利であったかなどということを、もうさんざん聞かされた後だった。しかし、くり返していうが、大多数の人間は依然として無言のまま、なんの動揺も示さずに聞いていた。前後を忘れて騒いでいるのは、ただ口やかましい酔っぱらい連中と、例の手を振り廻している職人に類した、「すぐに激しやすい」手合いぐらいなものだった。この職人は不断おとなしい男で知られていたが、もし何かに刺激を受けると、まるで綱でも切れたように、盲滅法飛んで行くたちであった。わたしはリーザとマヴリーキイがやって来たのに気がつかなかった。初めて、あまり遠からぬ群衆の中にリーザの姿を見つけた時、わたしは驚きのあまり棒立ちになってしまった。マヴリーキイには、はじめは気がつかなかった。たぶん雑沓がひどいので、どうかした拍子に一、二歩おくれたのか、それとも群衆に隔てられるかしたのだろう。リーザは自分のまわりへは目もふれず、またなに一つ気もつかないで、群集を押し分け押し分け進んだ。さながら病院から抜け出した熱病やみのようなその姿は、もちろんすぐに人々の注意をひいた。とつぜん人々は声高に話したりわめいたりし始めた。と、だれやらが大きな声で、
「あれがスタヴローギンの情婦《いろ》だ!」と叫んだ。
 するとまた一方から、
「殺したばかりじゃ足りないで、のこのこ見物に来やがった!」
 と、見ると、――うしろからだれかの手が、リーザの頭上《ずじょう》に振り上げられたと思うと、さっと打ち下ろされた。リーザは倒れた。その瞬間、マヴリーキイの恐ろしい叫び声が聞こえた。彼は助けに行こうと身をもがきながら、リーザと自分を隔てる一人の男を力まかせに撲りつけた。しかし、その瞬間、例の職人が両手でうしろから彼を抱きしめた。しばらくの間はあたり一面がやがやと入り乱れて、何が何やら見分けがつかなかった、リーザはそれから、いま一ど起きあがったようにおぼえている。けれど、すぐにまた新しい打撃にばたりと倒れた。とつぜん群衆はさっと分かれて、倒れたリーザのまわりにささやかな空地ができた。狂気のようになった血みどろのマヴリーキイは、泣いたり、わめいたり、われとわが手を捻じたりしながら、彼女の上に立ちはだかっていた。それからさきどうなったか、精確なことはわたしもおぼえていない。ただ、突然、人々がリーザをどんどん担ぎ出したことだけは記憶している。わたしもその後から駆け出した。彼女はまだ生きていた。もしかしたら、まだ意識があったかもしれない。
 後で、この群集の中から例の職人と、別に三人のものが検挙された。この三人は今日《こんにち》まで、自分らはあの兇行になんの関係もない、自分らが捕まったのは誤解にすぎない、といい張っている。或いは彼らのいうとおりかもしれない。職人などは、明らかな証跡を握られているにもかかわらず、元来わけのわからない男のことだから、いまだに秩序だって事件の説明ができないでいる。わたしも少々離れてはいたが、目撃者の一人として、予審で申立てをしなければならなかった。わたしの申立てはこうだった、――この事件はきわめて偶発的のものだし、それに関係者はみんな酔っぱらって、事件の糸筋などはまるで見失ってしまった連中だから、或いは前から狂暴な気分になっていたかもしれないが、ほとんど自分の行為を意識していなかったに相違ない。今でもわたしはこういう意見を持している。

[#3字下げ]第4章 最後の決議[#「第4章 最後の決議」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 この朝いろんな人がピョートルの姿を見た。そういう人はみんな同じように、彼がやたらに興奮していたことを後で思い出した。午後の二時頃に、彼はガガーノフのところへ寄った。彼はついその前日、田舎から出て来たばかりで、その家は訪問客で一ぱいになっていた。彼らは今度あらたに出来《しゅったい》した椿事を、一生懸命に熱くなって論じ合っていた。ピョートルはだれよりも一番にしゃべって、他人に自分の説を傾聴さした。彼はいつもこの町で『頭に穴の明いたおしゃべりの書生さん』ということになっていたが、いま彼はユリヤ夫人のことをいい出したので、町じゅう大騒ぎをしている場合だから、この話題はたちまち一座の注意を集めた。彼はつい近頃まで、夫人にとってごく親しい隔てのない相談相手であった立場から、いろいろと珍しい意想外な報道をもたらした。その中に彼は何げなく(もちろん不注意に)、町でも名を知られた多くの人に関するユリヤ夫人の意見も少々もらして聞かせたが、むろんそれはすぐに一座の人の自尊心を傷つけた。彼の話は全体に曖昧で、ちぐはぐだった。それは悪気のない正直な人間が、一度に山のような誤解を解かねばならぬ苦しい羽目になって、単純な駆け引きのない性分のために、何かいい出してどう締め括りをつけたものか、自分でもわからないでいるように見受けられた。
 彼はかなり不注意に、ユリヤ夫人はスタヴローギンの秘密をすっかり承知していて、あの陰謀を操ったのは、つまり、あのひとなのだ、――という意味のことをうっかり口からすべらした。つまり、夫人が、彼ピョートルに、あんなことをさせるように仕向けたのだ。なぜなら、彼自身あの『薄命なリーザ』に恋していたから、彼はほとんど[#「ほとんど」に傍点]自分でリーザを馬車に乗せて、スタヴローギンの家へ連れて行くように、うまく『持ちかけられ』てしまった、とこういうのである。
「ええ、ええ、あなた方はいくらでも笑ってください。ああ、ぼくも前からわかってたらなあ! これがどういう結果になるかってことが、ちゃんと前からわかってたらなあ!」と彼は語を結んだ。
 スタヴローギンに関するさまざまな不安げな問いに対して、彼はきっぱりと答えた。レビャードキンの横死は彼の考えによると、本当に純然たる偶然の出来事で、金を見せびらかした当のレビャードキンが徹頭徹尾わるいのだ、――こういうふうのことを、彼は格別あざやかに説明した。聴き手の一人が何げなく、きみは「そんなえらそうなことをいったって」駄目だ、きみはユリヤ夫人の家で飲み食いして、ほとんど寝泊りしないばかりの関係だったくせに、今となって自分から音頭を取って、夫人の顔に泥を塗っている、そんなやり方はけっしてきみの考えてるほど見っともいいものではない、と注意した。しかし、ピョートルはすぐに抗弁した。
「ぼくがあすこで飲み食いしたのは、何も金がなかったからじゃありません。あすこの人がぼくを招待したからって、それはぼくの知ったことじゃないでしょう。あれだけのことに対して、どのくらい感謝したらいいか、それはぼく自身の判断にまかせていただきたいもんですね」
 結局、全体として一座の受けた印象は、彼にとって有利なものであった。『まあ、あの男が無邪気な、間が抜けた、そして、もちろんからっぽな人間だとしても、ユリヤ夫人の愚かな真似に対しては、あの男に責任のありようがないじゃないか? それどころか、かえってあの男が夫人を引き止めるようにしていたんだもの……』
 その日の二時ごろ、とつぜん新しい報知が伝わった。ほかでもない。あれほど喧しい噂のあったスタヴローギンが、ふいに正午の汽車でペテルブルグへ立ってしまった、というのである。この報知は多大の興味を惹き起こした。多くの人は眉をひそめた。ピョートルは極度の驚きに顔色まで変えて、『だれがあの男を逃がしてしまったんだ?』と奇妙な叫びを発したとのことである。彼はすぐさまガガーノフの家を駆け出した。とはいえ、彼はそれから二、三軒の家で姿を見せた。
 日暮れごろ、彼は非常な困難を排して、ユリヤ夫人の家へも首尾よく入り込んだ。夫人は断じて彼に会わないといっていたのだ。このことは、三週間後、夫人がペテルブルグへ出発する前に、当の夫人の口から初めて聞いたのである。夫人は詳しいことはいわなかったが、『あの時はもう、お話にならないほど脅しつけられましたの』と彼女は胸を慄わせながら語った、察するところ彼は、もし夫人が何か『口をすべらそう』などという気を起こしたら、夫人をも連類者にしてしまうぞ、と脅しつけたものらしい。夫人威嚇の必要は、もちろん当の夫人などにはうかがい知れぬ、当時の彼の陰謀と密接な関係を持っていたが、どういうわけで彼が夫人の沈黙いかんをああ気づかったか、またどうして夫人の新しい憤激の爆発をああ恐れたか? それを夫人自身が知ったのは、それから五日ばかり経った後のことである。
 もうすっかり暗くなったその晩の七時すぎに、町はずれのフォマア横町の歪みかかった小家、――少尉補エルケリの住まいに、五人組の『仲間』がぜんぶ顔を揃えて集まった。この総会は、当のピョートルが決めたのだが、彼は不都合千万にもすっかり遅刻してしまった。会員の連中は、もう一時間から待ち呆けを食わされた。この少尉補エルケリは、ヴィルギンスキイの命名日に、鉛筆を手にし手帳を前に控えて、しじゅう無言のまま坐り込んでいた、例のよそ者の若い将校だった。彼はつい近頃この町へやって来て、町人うまれの老姉妹の住んでいるさびしい横町の家に間借りしていたが、もう近いうちに転任しなければならなかった。こういうわけで、彼の家は仲間の集まりに一ばん目立たない安全な場所であった。この奇妙な少年は、並みはずれて無口な性質で知られていた。どんなに一座が騒ぎたっていようと、どんなに異常な事柄が話題に上っていようと、自分からはひと言も口をきかないで、一生懸命に注意を緊張させ、子供らしい目つきで話し手を注視して耳を傾けながら、十晩でもぶっつづけに坐りとおすことができる。彼はきわめて愛くるしい、ほとんど利口そうに見えるくらいな顔だちをしていた。彼は五人組に入っていなかったが、ほかの連中はたぶんなにか実行的の方面で特別な任務を帯びているのだろうと想像していた。しかし、今では特別任務を帯びているどころか、自分の位置さえろくろくわきまえていなかったことが明瞭になった。ただ彼は、ついさき頃はじめて会ったピョートルに深く心酔していたにすぎないのである。もし彼が、時を過って堕落した社会主義かぶれの怪物《モンスタア》に出会って、何か社会的かつロマンチックな口実のもとに強盗の寄り合いのような徒党を作り、まず試験のために、だれでも出会い次第の百姓を殺して有り金を強奪しろと焚きつけられたら、彼は必ずのこのこ出かけて行って、いわれたとおりをするに相違ない。彼はどこかに病身な母親を持っていて、月々貧しい俸給の半ばを割いて送っていた、――ああ、彼女はこの亜麻色をしたかわいい頭に、どんなに熱い接吻をしたことだろう、どんなにわが子の上を思って慄えたことだろう、どんなにわが子の上を神に祈ったことだろう! わたしがこの男のことをこんなに長々と書いたのは、この少年がかわいそうでたまらないからである。
『仲間』は興奮していた。昨夜の出来事は彼らを顛倒さした。一同はどうやらおじけづいているらしかった。彼らが今まで熱心に加担していた単純な、とはいえ一定の系統のある醜悪事件は、ついに彼らにとって意想外な結果を来たしたのである。夜の火事、レビャードキン兄妹の惨殺、リーザに対する群衆の暴行、――こういうことはすべて彼らがプログラムの中で、夢にも予想しなかった意外事であった。彼らは専制と専横をもって自分たちを操る人間を、熱くなって非難した。手短かにいうと、彼らはピョートルを待っている間に、互いに調子を合わせて、もう一ど彼にはっきりした説明を求めよう、もし彼がもう一度この前のように、曖昧なことをいってごまかそうとするなら、もはやだんぜん五人組をぶち毀してしまって、その代わり『理想宣伝』の新しい秘密結社を創立しよう。が、それはもう自分たちの発意に係るもので、同等の権利に立つ民主的なものでなくてはならない、ということに決心したのである。
 リプーチンとシガリョフと民情通とは、ことにこの説を主張した。リャームシンは同意らしい顔つきをしながら、沈黙を守っていた。ヴィルギンスキイはなんとも決しかねて、まずピョートルの言い分を聞こうとした。で、一応ピョートルの説明を聴くことに決まった。しかし、彼はいつまで経ってもやって来なかった。こうした、人を眼中におかぬやり方は、いっそう彼らの心に毒をそそいだのである。エルケリはぜんぜん沈黙を守って、ただ茶を出すほうばかり一生懸命に斡旋していた。彼は湯沸《サモワール》も持ち込まなければ、女中も入れないで、コップに注いだのを盆にのせて、主婦のところから自分で運んで来るのであった。
 ピョートルはやっと八時半に顔を出した。彼は、一同の座をかまえている長いすの前の円テーブルへ、ずかずかと早足で近寄った。手には帽子を持ったままで、茶も辞退して飲まなかった。彼は毒々しい、いかつい、高慢げな顔をしていた。きっと人々の顔つきで、皆が『謀反』を起こしているな、と悟ったに相違ない。
「ぼくが口を開く前に、一つきみたちの思っていることをぶちまけてくれたまえ。きみたちはなんだか妙に取りすましているじゃないか」一同の顔をじろりと見廻しながら、意地悪げな冷笑を浮かべて、彼はこう切り出した。
 リプーチンは『一同を代表して』口を切った。憤慨のあまり声を慄わせながら、「こんな調子で続けていったら、かえって自分の脳天をぶち割るようなことになるかもしれない」といい放った。むろん、自分たちは脳天をぶち割ろうとどうしようと、少しも恐ろしいとは思っていない、いな、むしろそれを覚悟しているくらいだが、しかし、それはただただ共同の事業のためのみである(一座に動揺と賛成の気配が感じられた)。だから、どうか自分たちに対して、赤裸々にやってもらいたい、いつでも前もって知らせてもらいたい、そうしなかったら、どんなことになるかわかったものじゃない(またもや一座が動揺して、幾たりかの喉を鳴らす声が聞こえた)、あんなふうに仕事をするのは、自分たちにとって屈辱でもあれば、危険でもある……こんなことをいうのは、けっしておじけがついたためではない、ただ一人の人間が自分だけの一了簡で働いて、ほかの者が将棋の歩の役廻りをしていたのでは、その一人がやり損ったら、ほかの者までみんな引っかからなきゃならない(しかり、しかりという叫び、一座の声援)。
「ちょっ、馬鹿馬鹿しい、いったいどうしろというんだろう?」
「いったいあのスタヴローギン氏のくだらない陰謀が」リプーチンはかっとなった。「共同の事業にどういう関係を持ってるんです? あの人が中央本部と何か秘密の関係を結んでいるのは勝手です。ただしそのお伽噺めいた中央本部なるものが、実際に存在しているとすればだが、そんなことは別に知りたくもありませんよ。ところで、今度あの殺人が遂行されて、警察が騒ぎ出した。糸を手繰って行けば、しまいにゃ糸巻まで探り当てる道理ですからね」
「あなたがスタヴローギンといっしょに捕まえられたら、われわれも同様にやられることになるんですよ」と民情通がいい添えた。
「そして、共同の事業のためには、ぜんぜん無益なことですからね」とヴィルギンスキイが大儀そうに語を結んだ。
「なんてくだらないことを! あの人殺しはまったくの偶発事件だよ。フェージカが強盗の目的でやったことじゃないか」
「ふん! しかし、妙な暗合ですね」とリプーチンは体をもじもじさせた。
「お望みとあればいってしまおう、あれはみんなきみの手を通して行なわれたことなんだよ」
「どうしてぼくの手を通して?」
「第一にね、リプーチン君、きみ自身この陰謀に加担してたじゃないか。また第二には、レビャードキンを送り出すように命令を受けて、金を渡されたのはきみじゃないか。ところが、きみはなんということを仕出かしたのだ? もしきみがあの男を出発させたら、何も起こらないですんだんだよ」
「しかし、あの男を演壇に出して、詩を読ませたら面白かろう、という暗示を与えたのは、あれはあなたじゃありませんか?」
「暗示は命令じゃありません。命令は出発させろということでした」
「命令? ずいぶん奇妙な言葉ですねえ……それどころか、あなたは出発を中止するように命令したのです」
「きみは思い違いをしたのです。そして自己の愚劣と僭越を暴露したのです。ところで、あの殺人事件はフェージカの仕業で、下手人はあの男一人、つまり強盗の目的でやったことだ。きみは世間の噂を聞き込んで、それを信じてしまったんだ。きみはおじけがついたんだ。スタヴローギンはそんな馬鹿じゃない。その証拠には、あの人はきょう昼の十二時に、副知事と会見した後で、ペテルブルグへ立ってしまった。もし何かきみのいうようなことがあったとすれば、昼の日中、あの人をペテルブルグへ立たすはずがないじゃないか」
「そりゃぼくだって、スタヴローギン氏がみずから手を下したと、断言しやしませんよ」毒を含んだ無遠慮な調子で、リプーチンはこう引き取った。「スタヴローギン氏はぼくと同様に、なんにも知らなかったかもわかりませんさ。ねえ、ぼくは羊肉が鍋へぶち込まれるように、この事件に引き込まれたかもしれないが、わけは少しも知らなかった。それはあなたにも、わかり過ぎるほどわかっているはずです」
「じゃ、きみはだれが悪いというんです?」ピョートルは沈んだ目つきで相手を見つめた。
「つまり、町を焼く必要を感じた連中ですよ」
「しかし、きみがたがごまかそうとするのが、何より最も悪いんだよ。だが、一つこれを読んでみて、ほかの人にも見せたらどうです。ただ参考までにね」
 彼はレムブケーに宛てたレビャードキンの無名の手紙を、ポケットから取り出して、リプーチンに渡した。こちらはそれを読んで見て、だいぶびっくりしたらしく、何やら考え込みながら、隣りへ廻した。手紙は迅速に一座を一廻りした。
「これは本当にレビャードキンの手ですか?」とシガリョフがたずねた。
「あの男の手です」リプーチンとトルカチェンコ(例の民情通)が断言した。
「ぼくはきみがたがレビャードキンのことで、だいぶ後生気を起こしたのを承知してるから、それでちょっとご参考までに」手紙を受け取りながら、ピョートルはいった。「そういうわけでね、諸君、フェージカなんてどこの馬の骨とも知れぬやつが、まったく偶然にわれわれから、危険な人物を除いてくれたわけなんです。偶然てやつはこういう仕事をするからねえ! まったくいい教訓じゃないか!」
 会員連はちらりと顔を見合わせた。
「ところで、諸君、今度はぼくのほうから、きみがたにおたずねする番が廻って来ましたよ」とピョートルは開き直った。「ほかじゃないが、どういうわけで諸君は許可も受けずに、町を焼くようなことをあえてしたのです?」
「そりゃまたなんのことです! ぼくらが、ぼくらが町を焼いたって? そりゃ自分の罪を人に塗りつけるというもんだ!」と人々の叫び声が起こった。
「なに、ぼくにはよくわかってる、きみがたはあまり図に乗りすぎたんだ」とピョートルは頑強に語を次いだ。「しかし、これはユリヤ夫人相手の悪戯とは、ことが違いますからね。ぼくがここへ諸君のお集まりを願ったのは、つまり、諸君が愚かしくも自分からつつき出した危険の程度を、説明するためなんです。実際、それはきみがたばかりでなく、いろんなことに対して、重大な脅威となるんですからね」
「とんでもない、それどころか、たったいまわれわれのほうから、会員に一言の相談もなく、あれほど重大な、同時に奇怪な手段を採られたその専横と不公平の程度を、きみに指示しようと思ってたんですよ」
 今まで沈黙を守っていたヴィルギンスキイが、憤然としてこう切り出した。
「じゃ、諸君は否定するんですね? ところが、ぼくはこう断言する、町を焼いたのは諸君です、諸君ばかりです、ほかにだれもありゃしない。諸君、嘘をついちゃいけない。ぼくには正確な報知が手に入ってるんだから。ああいう専横な行為によって、諸君は共同の事業さえ危殆に陥れたのです。諸君は無限な結社の網の、わずか一つの結び目にすぎない。そして、中央本部に絶対盲従の義務を有してるんです。ところが、諸君のうち三人まで、なんの通牒も受けないで、シュピグーリンの職工に放火を煽動した。こうして火事が起こったのです」
「三人とはだれです? ぼくらのうち三人とはだれのことです?」
「おとといの夜三時すぎに、きみは、――トルカチェンコ君は『忘れな草』で、フォームカ・ザヴィヤーロフを焚きつけたじゃないか」
「冗談じゃない」とこちらは躍りあがった。「ぼくはほんのひと言をいったかいわないかだし、おまけに、それもなんの気なしだったのです。ただあの朝、やつがぶん撲られたからですよ。ところが、やつがあんまり酔っぱらってるのに気がついたので、そのままうっちゃってしまったんです。今あなたがそういわれなかったら、ぼくはまるで忘れてしまったくらいでさあね。たったひと言のために、町が焼けるなんてことがあるもんですか」
「きみは一つぶの火の粉のために、大きな火薬庫がすっかり爆破してしまったのを、びっくりする人間によく似ているよ」
「ぼくは隅のほうで、小さな声であいつに耳打ちしたのに、どうしてそれがあなたに知れたんです?」トルカチェンコはふいに気がついて、こうたずねた。
「ぼくはあすこのテーブルの下に隠れてたのさ。ご心配にゃ及びませんよ、諸君、ぼくは諸君の一挙一動ことごとく承知していますからね。リプーチン君、きみは毒々しそうな笑い方をしてるね。ところが、ぼくはね、さきおとといの夜中、きみが寝室でふせりながら、細君を抓ったことまで知ってるからね」
 リプーチンはぽかんと口を開けたまま、真っ青になった。
(このリプーチンの手柄話は、彼の使っているアガーフィヤという女中がしゃべったことが、後になってやっと判明した。ピョートルはそもそもの初めから、この女に金を握らして間諜の役を命じていたのである)
「ぼくは事実を証明していいですか?」とつぜんシガリョフが席を立った。
「証明したまえ」
 シガリョフは腰を下ろして、身づくろいした。
「ぼくの了解したところによると(それに了解しないわけにゆかない)、あなたは最初に一度と、それから後にもう一度、きわめて雄弁に、――もっとも、あまり理論的ではありましたが、――いかに無限の結社の網でロシヤがおおいつくされているかを、われわれに説明してくだすった。ところで、一方からいうと、現に活動しつつあるこれらの結社は、おのおの絶えず新しい党員をつくって、さまざまな支社によって、無限に広がっていきながら、絶え間なく地方官憲の権威を失墜さして、住民の間に懐疑の念を呼び起こし、シニズムと醜行と、いっさいのものに対する絶対の不信と、よりよき状態に対する渇望をかもし出し、ついには火事という国民的性質を帯びた方法をもって、もし必要と認められたら、予定されたある瞬間に、一国を挙げて絶望の淵に沈めてしまうという、系統的な破邪の宣伝を目的とすべきである、とこういうふうなお話でした。ぼくはあなた自身の言葉を、一語一語違わないように努めながらくり返したのですが、どうです、違っていますかしらん? これは確かあなたが、中央本部から送られた代表者として、ぼくらに報告された予定の行動なのです、そうじゃありませんか? もっとも、その中央本部とやらも、今日までまるでえたいの知れない、われわれにとってほとんど夢みたいな存在物なんですがね」
「そのとおりです。もっとも、きみの言い方は少し冗漫だがね」
「人はだれでも自由な発言権を持っています。ところで、あなたの言葉から推測するところ、ロシヤ全国を網目のごとくおおっている結社の数は、いますでに百という数に上っているそうです。そうして、あなたの仮定を敷衍すると、もし各人が自分の仕事を完全にやり遂げたら、ロシヤ全国は与えられたる時期までには、一発の信号を合図に……」
「ええっ、面倒くさい、そうでなくってさえ仕事はたくさんあるんだ!」ピョートルは肘掛けいすに坐ったまま、くるりと向きを変えた。
「よろしい、じゃぼくは簡略して、単なる質問をもって結びましょう。われわれはすでにさまざまな醜行を見ました、住民の不満を見ました、この地の行政官の没落を目前に見たばかりか、みずからそれに手を下しました。そして、最後に、この目で火事さえ見たのです。そのうえ、あなたは何が不満なのでしょう? これはあなたの予期したプログラムじゃありませんか? いかなる点において、われわれを譴責しようとするんですか?」
「きみらの専横を責めるんだ!」ピョートルは猛然として叫んだ。「ぼくがここにいる間は、ぼくの許可なしに行動はできないはずだ。もうたくさん。もう密告の用意はできてるんだから、明日といわず今夜にも、きみらはみんなふん捕まってしまうんだ。これがきみらの受ける報いだ。これは確かな情報なんだよ」
 これにはもうみんな、開いた口がふさがらなかった。
「しかも、単に放火使嗾の件ばかりでなく、五人組として捕まるんだ。密告者には結社の秘密な連絡がよくわかってるんだからね。さあ、きみたちの悪戯がこういうことになったんだよ!」
「きっと、スタヴローギンだ!」とリプーチンが叫んだ。
「なんだって……なぜスタヴローギンだ?」ふいにピョートルはへどもどしたようなふうだった。
「ちょっ馬鹿馬鹿しい」彼はすぐわれに返った。「それはシャートフだよ! おそらく諸君も今はご承知だろうけれど、シャートフは一時われわれの仕事に加わってたことがあるんです。ぼくは何もかもうち明けなきゃならない。ぼくは、あの男の信用し切っている二、三の人を通じ、絶えずあの男を監視しているうちに、驚いたことには、あの男が、各結社連絡の秘密もその組織も……つまり、何もかも知り抜いているということを発見したのです。以前、自分が加担していた罪を免れるために、あの男はわれわれ一同を密告しようと決心した。が、今まで躊躇していたので、ぼくもあの男を大目に見ていた。ところが、こんどきみがたはあの火事でもって、やつの心の綱を切って放したのだ。彼はあのために極度の震撼を受けて、もう躊躇の念を棄ててしまった。だから、明日にもわれわれは放火犯および国事犯として、捕縛されなきゃならないのだ」
「本当だろうか? どうしてシャートフが知ってるんだ?」
 一座の動揺は名状すべからざるものがあった。
「いまいったことはすっかり本当です。ぼくは自分の足跡を諸君に啓示して、発見の道筋を説明する権利を持たないけれど、さし当たりこれだけのことは、諸君のためにすることができるのです。ほかじゃない、ぼくはある人間を通して、シャートフに影響を及ぼす。すると、あの男は自身そんなことを夢にも悟らないで、密告を延ばすことになる。しかし、それもわずか一昼夜きりで、一昼夜以上の猶予はもうぼくの力に及ばない。そういうわけで、きみがたも、明後日の朝までは、自分の安全を保障されたものと思ってさしつかえないのだ」
 一同は押し黙っていた。
「もういよいよあいつをやっつけなきゃいかんぞ!」最初にトルカチェンコがどなった。
「とっくにやってしまわなきゃならなかったんだ!」リャームシンが拳固でテーブルをとんと叩きながら、毒々しい声でこういった。
「しかし、どういうふうにやるんだ?」とリプーチンがつぶやいた。
 ピョートルはすぐこの問いの尻を押えて、自分の計画を述べた。それはこうである。シャートフの保管している秘密の印刷機械を引き渡すという口実の下に、明日の晩、日が暮れてから間もなく、機械の埋めてある寂しい場所へおびき出し、『そこで片づけてしまおう』というのである。彼はいろいろ必要なデテールに立ち入って説明し(それはいま略しておこう)、シャートフの中央部に対する曖昧な態度を詳しく話した。が、これもやはり読者にはもうわかっていることだ。
「それはまったくそうに違いないけれど」リプーチンが思い切りの悪い調子でいい出した。「しかし、また……同じような性質の異変が重なるわけだから……あまり人心を脅かし過ぎやしないかしらん」
「むろん」とピョートルは相槌を打った。「しかし、それもちゃんと見抜いてあるんだ。完全に嫌疑を避ける方法が講じてあるんだよ」
 彼は依然として正確な語調で、キリーロフのことを話して聞かせた。彼が自殺を決心したこと、合図を待つと約したこと、死ぬ前に書置きを遺して、口授されることを全部わが身に引き受けるといったこと、――つまり、読者のすでに知悉していることばかりである。
「自殺しようという彼の決心、――哲学的な、というより(ぼくの見るところでは)むしろ気ちがいめいた決心が、――あちら[#「あちら」に傍点]の本部の知るところとなったのです」とピョートルは説明を続けた。「なにしろ、あちら[#「あちら」に傍点]では髪の毛一筋も、塵っぱ一本も見失わないで、それをみんな共同の事業のために利用するんだからね。本部ではこの決心のもたらす利益を見抜き、かつ彼の覚悟の徹頭徹尾まじめなことを確かめたので、ロシヤまで帰る旅費をあの男に送って(あの男はなぜかぜひともロシヤで死にたいというのだ)、ある一つの任務を託したところ、彼はその遂行を誓った(そして、実際、遂行したのだ)。その上に、本部から命令のあるまでは、けっして自殺を決行しないという、すでに諸君もご承知の誓いを、あの男に立てさしたのだ。すると、彼はすべてを約束した。ここでちょっとご注意を願いたいのは、彼がある特別な事情で結社に入っていて、事業のためになることをしたいと、望んでいることです。しかし、これ以上、うち明けるわけにいかない。そこで明日シャートフの後で[#「シャートフの後で」に傍点]、ぼくはあの男に口授して、シャートフの死因は自分にあるという手紙を書かせるつもりだ。これは非常にもっともらしく思われるんだ。なぜって、あの二人は初めごく仲がよくって、いっしょにアメリカへも行ったんだが、後に喧嘩をおっ始めたんだからね。こういうことはすっかり遺書の中に書き込むつもりだ……それに……それに場合によっては、まだほかにも何か、キリーロフに背負わしてやってもいい。たとえば檄文のことだとか、放火の責任の一部分だとか……もっとも、このことはぼくももっとよく考えてみるがね。ご心配にゃ及びませんよ。あの男はくだらない偏見を持っていないから、なんでも承知してくれますよ」
 一座に疑惑の声が起こった。話があまりとっぴで、小説じみているように思われたのである。もっとも、キリーロフのことはみんな多少とも耳にしていた。ことにリプーチンなぞは、一ばん深く知っていたのである。
「もしあの男がとつぜん考えを変えて、いやだといい出したらどうです」とシガリョフがいった。「その話が本当としたところで、あの男はやはりまったく気ちがいなんだから、その希望は不確かなものといわなきゃなりませんよ」
「ご心配はいりませんよ、諸君、あの男はいやだなんて言やしない」とピョートルは断ち切るようにいった。「契約によると、ぼくは前日、つまり今日ですな、あの男に予告しなきゃならないのです。そこで、ぼくはリプーチン君を誘って、今すぐいっしょにあの男のところへ出かけよう。そうするとリプーチン君は、ぼくのいったことが嘘か本当か確かめた上で、必要とあれば、今夜すぐにでもとってかえして諸君に報告するでしょう。もっとも」こんな人間どもを相手にして、こうまで一生懸命に説いて聞かせるのは、光栄すぎて罰が当たるとでも感じたらしく、急に凄まじい憤懣の色を浮かべて、ぷつりと言葉を切った。「もっとも、諸君のご随意に行動したまえ。もし諸君が決心しなかったら、この結社はこなごなに粉砕されてしまうのだ。それもただ諸君の反抗と、裏切りが原因なのですぞ。そうすれば、われわれはこの瞬間から、めいめい自由行動を取ることになる。しかし、前もって承知してもらいたいことがあります。もしそういうふうになれば、シャートフの密告と、それに関連する不快事のほかに、もう一つちょっとした不快事を背負わなくちゃなりませんよ。それは結社組織の際に固く宣言したことだからね。ところで、ぼく自身にいたっては、ぼくはね、諸君、あまり諸君を恐れちゃいませんよ……どうかぼくが諸君にしっかり結びつけられてる、などと思わないでくれたまえ……もっとも、そんなことはどうでもいいや」
「いや、ぼくらは決心します」とリャームシンは言明した。
「ほかに仕方がないからね」とトルカチェンコがつぶやいた。「もしリプーチンがキリーロフの件の事実を確かめたら……」
「ぼくは反対です。ぼくはそんな残忍な決議には極力反対します!」突然ヴィルギンスキイが席を立った。
「しかし?」とピョートルはきき返した。
「しかし[#「しかし」に傍点]とはなんです?」
「きみがしかしといったので、ぼくはその次を待ってるのさ」
「ぼくはしかし[#「しかし」に傍点]などといわなかったはずです……ただぼくがいいたかったのは、もし皆がそんな決議をすれば……」
「その時は?」
 ヴィルギンスキイは口をつぐんだ。
「ぼくの考えでは、自己の生命の安全を等閑に付するのはかまわないが」出しぬけにエルケリが口を開いた。「もし、共同の事業を傷つけるような場合には、自己の生命の安全を等閑にすることはできないと思います……」
 彼はまごついて顔をあかくした。一同は自分の想念に没頭していたが、それでも、みんなびっくりしたように彼を見つめた。この男が同じように口を開こうなどとは、まるで思いがけなかったのである。
「ぼくも共同の事業に与《くみ》するものです」ふいにヴィルギンスキイがこういった。
 一同は席を立った。明日はもう一ところに集まらないで、昼までにいま一ど一同の情報を総合した上、いよいよ最後の打ち合わせをしようと決定した。そして、印刷機械の埋めてある場所が指示せられ、めいめいの役割が決められた。リプーチンとピョートルとは相ともなって、さっそくキリーロフのもとへおもむいた。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 シャートフが密告するということは、『仲間』のもの一同かたく信じ切っていた。しかし、ピョートルが自分らを、まるで将棋の歩《ふ》のように翻弄しているということも、やはり信じ切っていた。それから、明日はなんといっても、一同が揃って指定の場所へ集まり、シャートフの運命を決してしまうのだということも、また覚悟していた。とにかく、彼らはまるで蠅のように、大きな蜘蛛の巣にかかったのを感じて口惜しがったけれど、それでも恐怖に震えあがっていた。
 ピョートルは疑いもなく、彼らに対して拙いことをしたに相違ない。彼がほんの心もち現実に色どりをほどこしたら、万事はもっと穏かに、もっとやさしく[#「やさしく」に傍点]運んだはずなのである。ところが、彼は事実を穏かな光に包んで、古代ローマの市民らしい行為とかなんとか、そんなふうに説明しようとしないで、単に粗野な恐怖と、自己の生命に関する威嚇のみに力点を置いた。これなぞは、すでにぜんぜん礼儀を蹂躪した仕方である。もちろん万事が生存競争の世の中で、ほかになんの自然律もないのはわかりきっているが、しかしなんといっても……
 けれど、ピョートルは彼らの『ローマ市民』らしい心に触れる暇がなかったのだ。彼自身からして、常軌を逸したような心持ちになっていた。ほかでもない、スタヴローギンの逃亡は彼を仰天させ、圧倒してしまったのである。スタヴローギンが副知事に面会したというのは、彼のでたらめである。それどころか、彼はだれ一人、母親にさえ会わないで出発したのだ。実際、だれも彼を止めるもののなかったのが、不思議なくらいである(その後、地方長官はこの点について、特別な弁明書を徴された)。ピョートルはいちんち探り廻ったけれど、さし当たりこれという手蔓もなかった。彼がこんなに心配したのは、これまでにないことである。実際そう急に綺麗さっぱりと、スタヴローギンを諦めるわけにいかないではないか! それがために彼は仲間に対しても、あまり優しくできなかったのである。それに、彼はいま自由な体ではなかった、――猶予なくスタヴローギンの後を追おうと、決心したのである。ところが、シャートフの一件が彼の足を止めた。万一の場合のため、五人組をしっかり固めておかなければならない。『あれだって、ただうっちゃってしまうわけはない。或いはまた何かの役に立つかもしれないからなあ』こういうふうに考えたものとわたしは想像する。
 シャートフのほうはどうかというと、ピョートルは彼の密告を固く信じて疑わなかった。もっとも、『仲間』に話した密告書などということは、みんなでたらめなのである。彼はそんな密告書などかつて見たことも聞いたこともなかったが、それがこしらえてあることは、二二が四というほど確かなものと信じていた。シャートフはどんなことがあっても、今度の事件、――リーザの死、マリヤの惨殺を、我慢することはできない、今この瞬間にこそ、密告の計画を断行するに相違ない、と信じ切っていたのである。ことによったら、案外かれはこの想像に確かな根拠を持っていたかもしれない。また彼が個人的にシャートフを憎んでいたのも、やはりわれわれの間に知れわたった事実である。かつて彼ら二人の間にはいさかいがあったが、彼はけっして侮辱を忘れるような男ではない。これこそおもな理由ではないか、とさえわたしは信じているのである。
 町の歩道は煉瓦畳の狭くるしいもので、通りによると板張りの所さえあった。ピョートルはその歩道を一ぱいに占領しながら、真ん中を無遠慮に歩いて行った。そして、リプーチンが並んで歩く場所がなくて、時には一歩うしろからついて来たり、時には並んで話しながら歩くために、往来のぬかるみへ駆け下りたりしているのに、彼は一顧の注意さえ払おうとしなかった。ピョートルはふと思い出した、――ついこのあいだ彼自身も、スタヴローギンの後からついて行くために、これと同様にぬかるみの中をちょこちょこ駆け出したものだ。すると、スタヴローギンはちょうどいまの自分のように、歩道いっぱいに幅をしながら真ん中を歩いて行ったのだ。あの時の光景をまざまざと思い浮かべると、彼は狂暴な憤怒に息がつまるような気がした。
 けれど、リプーチンも憤懣に息をつまらせていた。たとえピョートルが『仲間』のものを、思う存分に扱うとしても、自分に対しては……なぜといって、自分は仲間の中のだれよりも一番よく事情を知って[#「知って」に傍点]いて、この事件についても一ばん密接な関係をもっており、だれよりも一ばん深く立ち入っている。そして、今まで間接とはいいながら、絶え間なくこの事件に力を添えていたのだ。ああ、彼は立派にわかっている、――ピョートルは今でさえ絶体絶命の場合[#「さえ絶体絶命の場合」に傍点]には、彼リプーチンを亡きものにするに相違ないのだ。しかし、彼はもうとうから、ピョートルを憎んでいた。それは何も、いっしょに仕事をするのが危険だからではなく、その傲慢な態度のためだった。今度こういう残虐を決行せねばならぬ羽目になったので、彼は仲間をみんないっしょにしたより以上に業を煮やしたのである。けれど、悲しいことには、明日の晩かれは間違いなく『奴隷のように』、第一番に約束の場所へ出かけて行くばかりか、ほかの者さえ引き立てて連れて来るに相違ない。それは彼自身にもわかっていた。が、もし明日までにどうかして、わが身を滅ばさずにピョートルを殺すことができたら、彼は必ず殺してしまうに違いないのだ。
 こうした想念に没頭してしまって、彼は無言のまま暴君のうしろから、ちょこちょこと小刻みに歩いて行った。こちらは彼のことなど忘れ果てた様子で、ときどき不注意に、肘で彼を突っつくばかりだった。突然ピョートルは、町でも一ばん賑かな通りに立ちどまって、ある料理屋へ入って行った。
「いったいどこへ行くんです?」リプーチンはかっとなった。「ここは料理屋じゃありませんか」
「ぼくはビフテキが食いたいのさ」
「冗談じゃない、ここはいつも人で一ぱいですよ」
「いいじゃないか」
「しかし……遅れるじゃありませんか。もう十時ですからね」
「あすこへ行くのに、遅れる遅れないのってわけはないさ」
「しかし、ぼくは遅くなっちゃ困りますよ! 仲間がぼくの帰りを待ってるじゃありませんか」
「かまうもんかね。きみ、あんな連中のところへ行くのは、馬鹿馬鹿しいじゃないか。今日はきみたちが騒ぐもんだから、ぼくまだ食事をしてないんだよ。キリーロフのところなら、遅ければ遅いだけ確かなんだから」
 ピョートルは別室に陣取った。リプーチンは腹立たしげな、侮辱されたような顔つきで、わきのほうの肘掛けいすに腰を下ろしながら、相手の食事をじっと見つめていた。こうして三十分以上も経った。ピョートルは泰然と落ちつき払って、さもうまそうに舌を鳴らしながら食べ始めた。そして二度も芥子を取り寄せたり、その後でビールを注文したりして、そのあいだひと言も口をきかなかった。彼は深いもの思いに沈んでいた。彼は一どきに二つの仕事をすることができた、――つまり、物を味わいながら食べると同時に、深いも

『ドストエーフスキイ全集10 悪霊 下』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP005-048

[#1字下げ]第三編[#「第三編」は大見出し]




[#3字下げ]第1章 祭――第一部[#「第1章 祭――第一部」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 祭はシュピグーリン騒ぎの日の、さまざまな奇怪な出来事にも妨げられず、いよいよ開催されることになった。わたしなどの見るところでは、よしやレムブケーがつい前の晩に死んでしまっても、祭はやはりその朝、催されたに相違ない、――それくらいユリヤ夫人はこの催しになみなみならぬ意義を認めているのであった。悲しいかな、彼女は最後の瞬間まで目がくらんでしまって、社会の気分が少しもわからなかったのである。しまいには、この祭の日に、何か恐ろしい大事件が起こらないですもうとは、だれひとり信じるものがないほどになった。一部の人などは、何か『カタストロフ』が起こるに相違ないと、前から揉み手をして待ちながら、話し合っていた。もっとも、大抵の人は気難かしげな、外交的な様子をつくろおうと努めていたが。だいたいロシヤ人というものは、全社会を引っくり返すような見苦しい騒動を、夢中になってよろこぶ癖がある。とはいえ、この町には、単なる醜聞を待ち設ける渇望以上に、もっともっと真面目な何ものかがあった。それは世間一般の焦躁である。何かしら医《いや》し難い毒心である。だれもかれも、すべてのものに飽き飽きしているような具合だった。なんだか世間一般に妙にぐらつきやすい皮肉、――やっと無理に持ちこたえているような皮肉が弥漫していた。ぐらつかないのは婦人連ばかりだった。ただし、それもユリヤ夫人に対する容赦のない憎悪という、ただ一つの点のみである。この点で、婦人社交界の各派が、ことごとく結束したのである。ところが、こちらは夢にもそんなことを知らなかった。彼女は最後の瞬間まで、自分は全社会に『取り巻かれて』いる、すべてのものが自分に『狂信的に信服している』と思い込んでいたのである。
 この町にいろいろなやくざな連中が姿を現わしたことは、もはや前にちょっとほのめかしておいた。総じて、混乱した動揺時代、過渡時代には、常にどこでもいろんなやくざものが現われるものだ。わたしがいうのは、いわゆる『先達《せんだつ》』連中のことではない。いつでも、人よりさきへ駆け抜けようと急いで(それが彼らの第一の苦心である)、いつも大抵ばかげ切ってはいるが、その代わり多少とも一定した目的を有する連中のことをいうのではない。わたしはただほんのやくざ者のことをいってるのだ。すべて過渡期には、どんな社会でもこのやくざ者がいる。彼らはなんの目的も持っていないばかりか、思想の兆候らしいものの持ち合わせさえなく、ただ、一生懸命に不安と焦躁を体現するのみである。そのくせ、これらのやくざ者は知らず識らずのうちに、一定の目的をもって行動している少数の『先達』の指揮下に落ちてしまう。そして、この少数の一団は、よくよくの馬鹿でない限り(もっとも、そういうこともよくあるのだ)、このごみごみした有象無象を、勝手放題に操るのである。
 で、この町でもいっさいが終わった今日《こんにち》では、みんなこういうふうなことをいっている。つまり、ピョートルを操っていたのはインターナショナルであるが、そのピョートルはユリヤ夫人を操り、ユリヤ夫人はまたピョートルのさし金で、いろんなやくざ者を踊らしていたというのである。町でも一ばん頭のしっかりした人たちは、どうしてあの当時ぼんやりしていたのだろうと、今さら自分で自分にあきれている。いったいこの地方の混乱時代というのは何をさすのか? また過渡時代とは、何から何への過渡なのか?――それはわたしにもわからないが、まただれ一人わかるものはないと思う。もしわかれば、それはよそからやって来た、縁も何もない少数の人ぐらいなものだろう。とにかく、思い切りやくざな連中が急に幅を利かし出して、もとは口もろくに開き得なかったものが、だれはばからぬ大声ですべて神聖なものを評価し始めたのである。しかも、今までこともなく勢力を維持していた第一流の人々が、とつぜん彼らの言に耳を傾けて、自分たちはてんでものをいわなかったではないか。中には、おぞましくも調子を合わせて、お世辞笑いをする者さえあった。
 リャームシンとか、チェリャートニコフとか、地主のチェンチェートニコフとか、洟《はな》ったらしの自称ラジーシチェフ([#割り注]第一編第一章五(二〇頁)の注参照[#割り注終わり])とか、愁わしそうな、そのくせ高慢ちきな薄笑いを浮かべていたユダヤ人だとか、よそからやって来た笑い上戸の旅客だとか、都から来た主義主張のある詩人だとか、主義や才能の代わりに百姓外套を着込み、タールを塗りこくった長靴をはいた詩人だとか、自分の職務の無意味を嘲笑して一ルーブリでも余計な儲けがあれば、さっそく剣を棄てて、鉄道書記かなんぞの椅子へすべりこもうとする少佐や大佐だとか、弁護士に鞍替えする将軍だとか、発達した仲買人だとか、発達しかけている商人だとか、数限りない神学生だとか、婦人問題の権化でございといいそうな女だとか、こういうものがみんな急にこの町で威張り出した。しかも、だれに向かって威張るのかというと、クラブとか、名誉ある政治家とか、義足を曳いて歩く将軍とか、傍へ寄りつくこともできないほど厳正な貴婦人社会に向かってなのである。ヴァルヴァーラ夫人さえ、息子に恐ろしい不幸の破裂するまで、このやくざ連の走り使いまでしかねないほどであったから、当時その他のわが貴婦人《ミネルヴァ》たちがことごとく血迷ってしまったのも、いくぶんゆるすべき点があるのだ。
 もう前にいったとおり、今では何もかもインターナショナルのせいにしてしまって、よそから来た無関係の人にさえ、この意味で話して聞かせるほどこの考えが深く根を張っている。ついこの間のことだが、クーブリコフといって、スタニスラーフ勲章を頸にかけた六十二歳の老官吏が、だれに呼ばれもしないのに、のこのこやって来て、自分はまる三か月間、うたがいもなくインターナショナルの影響を受けていたと、さも仔細ありげな声でいい出した。人々は、彼の年齢や功績に深い尊敬を払ってはいたものの、もっとよく得心のゆくように話してもらおうと、わざわざ招待したところ、彼は『自分の全感覚で直感した』というほか、なんの証拠も提出することができなかったが、とにかく、だんぜん最初の宣言を変えないので、人々もそれ以上たって追求しようとしなかった。
 くり返していうが、初めからこの騒ぎを遠ざかって、まるで錠でも下ろしたように家へ閉じこもっている、少数の用心深い一団の人々が残っていた。しかし、どんな錠前だって、自然律に抵抗のできようはずがない。どんなに用心ぶかい家庭の中でも、やはり同じように女の子が大きくなって、舞踏の一つもしなければならなくなる。で、とうとうこういう人たちもみな、結局、婦人家庭教師のために寄付することになった。しかも、舞踏会は思い切って華々しい、世にも類のないものと予想されていた。まるで奇蹟のような噂が行なわれた。柄付眼鏡を持った来遊の公爵、左の肩にリボンを付けた十人の幹事(みんな若い踊り手なのである)、ペテルブルグにいてすべてを操っていた幾たりかの人、こういうことが人々の話題にのぼった。そればかりか、カルマジーノフがあがり高をふやすために、この県独得の婦人家庭教師の服装をして『メルシイ』を読むことに同意しただの、ぜんぶ仮装ずくめの文学カドリールというものがあって、一つ一つの仮装がそれぞれ文学上の流派を現わすだの、まだその上に何かしら『ロシヤの高潔な思想』とかいうものが、同じく仮装で踊るのだという噂があった。これなどはまったく珍といわざるを得ない。どうして申し込まずにいられよう。人々は争って申し込んだ。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 祭の一日は、プログラムによると、二部にわかれていた。つまり、正午から四時までが文学の部で、九時から以後は、夜通し舞踏会ということになっていた。しかし、この手配りそのものの中に、混乱の原因が蔵されていたのである。第一に文学の部が終わるやいなや、午餐会が開かれるという噂が、最初から公衆の間に固く根を張ってしまったのである。それどころか、文学の部の終わらないうちに、とくにこれがために定められた休憩時間に午餐会は開かれる……もちろん、それはプログラムの一部となっていて、料金不要、しかもシャンペンさえつくという噂が立ったのである。三ルーブリという高価な切符代も、余計にこの噂を助長したのだ。『でなかったら、ただで寄付することになってしまうじゃないか? 会は一昼夜ぶっ通しの予定なんだから、食わしてくれるのが当たりまえだ。でなけりゃ、みんな腹をへらしてしまわあ』とこんなふうに町の人は考えた。
 実のところ、これは当のユリヤ夫人が、例の軽はずみな性質のために、自分からこういう不利な噂のもとを作ったのである。ひと月ばかり前、まだこの偉大な計画を思いついたばかりのころ、嬉しさのあまり夢中になってしまって、会う人ごとに慈善会のことをしゃべった。そして、当日はいろいろな意味のトストが挙げられる、というようなことまでしゃべり散らしたばかりか、ある首都の新聞にさえそれを報道したのである。当時、夫人は何よりもこのトストが嬉しくて、自分でその音頭が取りたくてたまらなかったので、慈善会の日を待ち設けている間に、いろいろなトストの数を考え出したものである。これらのトストは同志の旗幟を鮮明にして(いったいどんな旗幟だろう? わたしは請け合っておくが、この哀れな婦人は何一つ考えつけなかったに相違ない)、首都の各新聞の通信欄に掲載され、中央政府の人々を歓喜、讃嘆させ、驚異と模倣を呼び起こしつつ、ほかの各県へも広がっていくはずであった。しかし、トストのためにはシャンペンが必要である。ところで、シャンペンはすき腹で飲むわけにゆかないから、したがって、食卓と午餐の必要が生じるのであった。その後、夫人の運動で委員会が組織され、真面目に仕事に着手したとき、もし宴会など空想していたら、たとえ上上のあがり高が得られるとしても、家庭教師に贈る金はいくらも残らないということが、さっそく明白に証明されたのである。こういうわけで、この問題の解決法は二つとなった。盛んな饗宴を張ってトストを挙げ、家庭教師連には九十ルーブリかそこいらの金を贈るか、それとも莫大な寄付金を募って、会のほうはいわばほんの型ばかりのものにするか? もっとも、これは委員会のほうでちょっと夫人を脅やかしてみただけで、さらに第三の折衷的な賢い方法を工夫した。つまり、饗宴はすべての点において相当なものにして、ただシャンペンだけ抜きにすれば、九十ルーブリどころでなく、かなりまとまった金が残ることになる、とこういうのであった。しかし、ユリヤ夫人は賛成しなかった。彼女は生まれつき町人根性から出た中庸を卑しんでいた。で、彼女は即座にこう決めてしまった、――もし原案を実現することができなければ、直ちに全力を挙げて反対の極に投じなければならぬ。つまり、他県でも羨むくらい莫大な金を集めなければならぬ――
『世間の人だって、それくらいなことは理解してくれなくちゃなりません』と彼女は委員会の席上で、熱烈火のごとき調子で論結した。『一般人類の目的を達するということは、刹那の肉体的快楽よりも、遙かに高尚なものでございます。今度の催しも、事実、偉大な理想の宣伝にすぎないのですから、もしあんな馬鹿馬鹿しい舞踏会なんてものが、なくてすまされないということでしたら、ただほんの申しわけに、思い切ってつましいドイツ式の舞踏会で、辛抱しなくちゃなりません!』といったような勢いで、急に夫人は舞踏会を不倶戴天の仇のように憎み始めた。
 しかし、人々はやっとのことで夫人をなだめた。例の『文学カドリール』や、その他の芸術的な催しも、そのとき考えついて、これをもって肉体的快楽に代えるよう、夫人にすすめたのである。カルマジーノフがいよいよ『メルシイ』の朗読を承諾したのも、やはりその時なのである(それまではなんとかかとか、煮え切らぬことをいってじらしていた)。そうすれば、たしなみのない町の人たちの頭に巣くっている食物うんぬんの考えも、自然消滅する道理である。こういったわけで、この催しはとにもかくにも、ふたたび堂々たる華々しいものとなった。もっとも、以前とは少し意味が違っては来た。しかし、あまり浮き世ばなれがしてしまってはというので、舞踏会の初めにレモン入りの茶と円い菓子を出し、それから巴旦杏水とレモン水、そうして、最後にアイスクリームさえ出そうということに決めた。が、それきりなのである。
 ところで、いついかなる場所でも、必ず空腹、――ことに喉の渇きを感じるような連中のためには、一番はじのほうに食堂を設けて、プローホルイチ(クラブのコック頭)を、そのかかりにすることとした。彼は委員会の厳重な監視の下に、何品でも注文のものをすすめてかまわないけれど、ただ別に代金を払わねばならない。そのため、とくに広間の戸口に『食堂はプログラムの中に含まず』という張り札をしておくことに決めた。けれど、食堂は、カルマジーノフが『メルシイ』朗読を承諾した白い広間から、五つ間へだてて置くはずになっていたにもかかわらず、第一部のあいだは朗読の邪魔にならないように、ぜんぜん食堂を開かないことにした。この事件、即ち『メルシイ』の朗読を、委員会の人々がむやみに重大視したようにみえるのは、まったく不思議なくらいである。しかも、きわめて実際的な人たちすら、その例にもれなかった。少し詩的趣味を持つ人々にいたってはもう論外である。たとえば、貴族団長夫人などはカルマジーノフに向かって、自分は朗読がすむとすぐ、白い広間の壁に大理石の板を嵌めるようにいいつける。その板には金文字で『何年何月何日この所において、ロシヤおよび欧州の文豪が一代の筆をおくに際して「メルシイ」を朗読し、これによって、当市の名士を代表とするロシヤ公衆に、第一回の告別を行ないたり』と記すつもりだ。すると、この文句はすぐ舞踏会の席で、つまり、朗読が終わって五時間の後に、一同の目に触れるのだと予告した。わたしは確実に知っているが、カルマジーノフがだれよりもさきに立って、自分の朗読中はどんなことがあろうとも、食堂を開かないようにと主張した、――もっとも、二、三の委員から、そういうことは土地の風習に合わぬと、注意が出たには出たのである。
 こういう事情になっていたにもかかわらず、町じゅうのものはみんな依然として、ヴァルタザール式の饗宴、つまり無料で委員会から提供する食堂を信じていた。まったく最後の一時間まで、信じきっていたのである。若い令嬢たちまで菓子やジャムや、それから何かしら、聞いたこともないようなものが、山ほど出るように空想していた。人々は集金が素晴らしい高にのぼったことも、町じゅう大騒ぎをしていることも、郡部のほうからさえ出かけるものがあって、切符が足りないくらいだということも、よく承知していた。それから、また一定の入場料のほかに相当な寄付があったことも、一般に知れ渡っていた。たとえば、ヴァルヴァーラ夫人などは、切符代として三百ルーブリ払った上に、広間の装飾用にといって、邸内の温室にある花をすっかり寄付してしまった。貴族団長夫人(委員会のメンバー)は会場として自分の家と、それに要するあかりを提供するし、クラブは楽隊と召使を融通した上、いちんちプローホルイチを譲ることにした。
 まだそのほかに、金額はさまで大きくないが、さまざまな寄付があったので、三ルーブリの切符をニルーブリに減じよう、という考えさえ浮かんだほどである。実際、委員会のほうでも初めのうちは、三ルーブリの入場料では令嬢たちがやって来まいと心配して、何か家族切符とでもいうようなものをこしらえようではないか、という提案が生じたくらいであった。つまり、一つの家族は、その中の令嬢一人だけの分を払えば、その家庭に属するほかの令嬢たちは、たとえ十人いても無料で入場できるようにしよう、というのである。しかし、すべての心配は杞憂に終わって、かえって令嬢たちがおもな入場者であった。ごくごく貧乏な小役人でさえ、娘を連れてやって来た。もし娘がいなかったら、彼ら自身この催しに申込みをしようなどとは、夢にも考えなかったに相違ない、それは火を見るよりも明らかなことだった。ごくつまらない一人の書記などは、七人の娘をみんなつれて来た(もちろん細君は勘定に入れない)。しかも、その上に、姪までいっしょに引っ張って来たが、この連中が一人一人、三ルーブリの入場券を手にしていたものである。
 こういう有様であるから、町じゅうがどんな騒ぎだったか、想像するに難くない。祭が二部に分かれていたから、婦人たちの着物も、朗読の時のモーニングドレスと、舞踏の時の夜会服と、二通り必要になって来る。この一つだけでもたいてい見当がつく。これは後でわかったことだが、中流階級の多数はこの日の用意に、家庭の肌衣から、敷布、蒲団の類にいたるまで、何もかも町のユダヤ人どもに質入れしかねない勢いであった。またこのユダヤ人の連中が、まるでわざと狙ったように、三年ばかり前から市中に地盤を固めていって、なおも時と共にいよいよ盛んに入り込んで来るのであった。役人どもは大抵みんな月給を前借りするし、地主の中には、なくてならない家畜を売り飛ばすものもあった。それもこれも、娘をお姫様のように仕立てていって、だれにもひけを取らせまいがためだった。今度の衣裳の派手さは、ここらあたりで今までに例のないようなものであった。
 もう二週間も前から、町は家庭内の悶着ばなしにみたされてしまった。しかも、そういう噂話はすぐさま町の金棒引きによって、ユリヤ夫人の邸へ伝わっていくのであった。それから、家庭内の紛擾を描いたカリカチュアも、人々の間を転転し始めた。現にわたしもユリヤ夫人のアルバムの中で、こういったふうの画を何枚か見たくらいである。こういうことがすっかり何もかも、逸話の出処のほうへ知れてしまったので、近ごろ町の各家庭内につのって来たユリヤ夫人に対する烈しい憎悪も、案外こんなところに起因しているのではないかと思われる。今ではみんなが夫人をさんざんに罵倒して、当時を思い出しては歯噛みしている。とはいえ、もし委員会が何か公衆の気に入らぬことをしたり、舞踏会をおろそかにするようなことがあったら、それこそ未曾有の不平が爆発するに相違ない、それは前からちゃんと見え透いていた。こういうわけで、だれもかれもが心の中で、何かの騒ぎを期待していた。まったくの話、それほど期待されていたのだとすれば、騒ぎは実際おこらずにすむわけがないではないか?
 正十二時にオーケストラが轟き出した。わたしは幹事の一人だったので、つまり、『リボンを付けた十二人の青年』の一人だったので、この汚らわしい記憶すべき日が、どういう具合に始まったかということを、自分の目でちゃんと見たのである。まず尋常一様でない入り口の混雑から始まった。どういうわけで、警察を初めとして皆の者が、こんな点をうっかりしていたのだろう? わたしは何も本当の意味の公衆を非難するのではない。一家の父たる人々は、相当の官位を持っているにもかかわらず、横柄ずくで入口に押し寄せたり、ほかの者を圧しつけたりしなかったばかりか、かえって往来に立ったまま、この町に珍しい群衆のひしめきを眺めて、当惑したようなふうだったという話である。実際、群衆はぎっしりと車寄せをとり囲んで、ただ入るというのでなく、まるで突貫でもするような勢いで、飛びかかるのであった。その間に、馬車は絶え間なく寄せて来て、ついにはまったく道をふさいでしまった。
 この記録を綴っている今日では、わたしも正確な材料を握っているから、あえて断言するけれど、町で屑の屑とされているやくざ者が幾人となく、リャームシンやリプーチンの手引きで、切符なしに入り込んだのである。もしかしたら、わたしと同じ幹事役を勤めている連中の中にも、こういう手引きをしたものがあるかもしれない。少なくも、郡部のほうやなにかからやって来た、まるで見覚えも何もないような手合いまで顔を出した。こういう野蛮人どもは広間へ入るやいなや、いっせいに(まるで教えられでもしたように)、食堂はどこだときくのであった。食堂はないと聞くと、少しも遠慮なしに、この町で聞いたこともないような無作法千万な調子で、悪口雑言を放ち始めた。もっとも、そうした手合いの中には、酔っぱらったものもあった。中にはまるで野蛮人のように、今までかつて見たことのない貴族団長夫人の邸宅の華美な広間に驚嘆して、入って来る瞬間に鳴りを静め、ぽかんと口をあけたまま、あたりを見廻すものもあったのである。
 この宏大な白い広間は、古い建築ながらまったく壮麗なものであった。まず素晴らしい大きさで、窓は上下二列になっており、昔ふうにさまざまな模様を描いて、それに黄金《きん》をちりばめた天井を頂き、コーラス席の設けもあり、窓と窓の間には鏡を張り、白地に赤のカーテンを垂れ、大理石の彫像を並べ(どんな作りにもせよ、とにかく彫像である)、白地に金を施した枠《わく》に赤のビロードを張った、古いナポレオン時代のどっしりした家具類を配置してある。この日は広間の一端に、朗読を行なうべき文学者たちのために、ちゃんと高い演壇がしつらえてあった。そして、広間ぜんたいには、まるで劇場の平土間のように、椅子が一面に並べてあり、その間あいだには聴衆のために、いくつかの幅広い通路が設けてあった。しかし、最初、しばしが間《ま》の驚嘆の後、思い切って意味のない質問や意見が聞こえ始めた。
『われわれは朗読なんか聞きたくないというかもしれないぞ……われわれは金を払ったんだ……世間の者をずうずうしくごまかしやがったのだ……主人役はわれわれなんだ、レムブケーや何かじゃありゃしないぞ!………』
 手みじかにいえば、この連中を会場へ入れたのは、ただこんなぶしつけな言葉を吐かせるためではないか、と思われるくらいであった。とくに今でもおぼえているが、このとき一場の衝突が起こって、昨日の朝ユリヤ夫人の客間に来ていた、例の高いカラーをつけた、木造りの人形みたいな来遊の公爵が、ぐっと器量を上げた。この人もユリヤ夫人の切なる乞いによって、左の肩にリボンを付けて、幹事補佐の役を勤めることを承諾したのだが、この唖のように口数の少ない、バネじかけの蝋人形然とした男がしゃべるほうはとにかくとして、一種独得の働きをする能力を持っていることがわかった。ほかでもない、一人のあばた面をした、見上げるように大きい退職大尉が、後から続く一群の有象無象をたのんで、食堂へはどう行ったらいいかとしつこくたずねた時、公爵は鷹揚に巡査のほうへ目くばせした。この合図は猶予なく実行された。酔っぱらった大尉の悪口雑言に耳もかさず、巡査は彼を広間の外へ引き摺り出してしまった。そうこうしている間《ま》に、やっと『本当の』聴衆が顔を見せはじめた。彼らは長い三条の列を作って、椅子の間に作られた三つの通路を、ぞろぞろと動いて行った。不穏な分子はだんだん静まり始めたが、しかし、群衆の顔には、一番『とり澄ました』連中の間にさえ、不満げな意外らしい表情が現われていた。婦人たちの中には、もうすっかり仰天しているものもあった。
 ついに一同は席に着いた。奏楽の音もやんだ。人々は鼻をかんだり、あたりを見廻したりしながら、あまりなと思われるくらい仰々しい顔つきで待ち設け始めた――これはどんな場合でも、よくない兆候なのである。しかし、『レムブケー一家の者』はまだ来なかった。絹、ビロード、ダイヤモンドなどが四方から燃え輝いて、あたりにはえならぬ香りが漂っていた。男はありったけの勲章を付けているし、老人たちは大礼服さえ着込んでいる。やっと貴族団長夫人が、リーザといっしょにやって来た。この朝ほどリーザが目ばゆいばかりあでやかに見えたことは、今まで覚えがないほどである。またこれほど華美《はで》な衣裳を着飾って来たのも、これまでについぞないことだ。髪は豊かな房をなしてうねり、目はきらきらと輝き、顔には微笑が照りはえていた。彼女は疑いもなく一同を驚嘆させたらしい。人々は彼女を見廻したり、ささやき合ったりした。そして、『あれは目でスタヴローギンをさがしているのだ』といい合ったが、スタヴローギンもヴァルヴァーラ夫人も、姿を見せなかった。わたしはそのとき、彼女の顔の表情がわからなかった。どういうわけであんなに幸福と、よろこびと、エネルギーとがこの顔に溢れているのだろう? わたしは昨日の出来事を思い合わせて、何が何やらわからなくなってしまった。
 とはいえ、『レムブケー一家の者』は依然として顔を出さなかった。これからしてすでに失策なのである。これは後で聞いたことだが、ユリヤ夫人はいよいよという間際まで、ピョートルを待ち通したのだそうである。自分で自覚こそしていなかったものの、もうこの頃、夫人はこの人なしでは一歩も足を踏み出せなくなったのである。ちょうどついでにいっておくが、ピョートルは前日、最後の委員会があった時、幹事のリボンを辞退して、ひどく、涙の出るほど夫人を失望させた。そして、驚いたことには、この夫人の驚きは後に狼狽と変わった。彼はこの朝すっかり姿をくらましてしまって、文学会の間じゅう顔を出さなかった。そういうわけで、この日の晩までだれひとり彼の姿を見た者がないのである(このことをさき廻りして断わっておく)。ついに公衆は明らかに焦躁の色を見せはじめた。演壇のほうへもやはり登って来る人はなかった。うしろの列では、まるで芝居へでも来たように拍手を始めた。老人や夫人たちは眉をひそめて、『レムブケー一家の者はあまりもったいぶり過ぎる』とつぶやいた。聴衆の中でも、人柄な連中の集まっている方面でさえ、ことによったら、本当にこの催しは立ち消えになるのかもしれない、もしかしたら、レムブケーは本当に気がどうかしたのではないか、といったような馬鹿げきったひそひそ話が始まった。しかし、仕合わせと、ついにレムブケーが姿を現わした。彼は妻の手を引いていた。実のところ、わたし自身も、非常に彼らの到着を気づかっていたのである。が、これで馬鹿馬鹿しい想像は自然に消滅して、事実が勝ちを占めたわけである。群衆はほっと一息ついたような具合だった。
 レムブケー自身は、健康この上なしに見受けられた。わたしの覚えているかぎりでは、みなもそう確信したらしい。多くの視線が、降るように彼のほうへそそがれた。事態を闡明する便宜上、一言いい添えておくが、ぜんたいとして町の上流社会には、レムブケーが何か特殊な病気にかかっていると考えている人は、きわめて少数だった。人々は彼の行為を、全然ノーマルなものと認めていたので、昨日の朝の広場の出来事なども、かえって賞讃の声をもって迎えたほどである。
『いや、実際はじめから、あんなふうにやったほうがいいのだ』と上級官吏の連中はいった。『普通はたいてい赴任の時には恐ろしい人道主義だが、結局、あんなふうなやり方で終わるんだ。しかも、それが人道主義そのもののためにも必要なのを、ご自分で気のつかない人が多いんだからなあ』少なくも、クラブではこういうふうに批評したのである。ただあのとき彼が興奮し過ぎたのを非難して、『あれはもう少し冷静な態度でやる必要があった。しかし、まだ着任早々のことだからね』と事情に通じた人たちは、こういった。
 それと同じくらい烈しい好奇の目が、ユリヤ夫人のほうへも向けられた。もちろん、ある一つの点に関しては、何人といえども説話者たるわたしに向かって、あまり精確な説明を要求する権利を持っていないはずだ。それは秘密である。女性の一身に関したことである。しかし、ただ一つわたしの知っていることがある。ほかでもない、ゆうべ夫人はレムブケーの書斎へ入って行って、十二時すぎるまで坐り込んでいた。つまり、レムブケーはゆるされ、慰められたのである。夫婦はすべての点で一致した、何もかも忘れられた。そして、話の終わりにレムブケーが、突然おとといの晩の幕切れの一段を思い出し、慄然として妻の前にひざまずいたとき、夫人の美しい手と、それに続いて美しい口が、古《いにしえ》の騎士のようにデリケートな、とはいえ、感激に心弱った男の熱した懺悔を、押し止めてしまった。
 人々は彼女の顔に幸福の色をみとめた。彼女は見事な衣裳をつけ、晴ればれしい面もちで、しずしずと進んだ。今や夫人は、希望の頂上に立っているかのようであった。自分の政策の目的であり栄冠である慈善会が、ついに実現されたではないか。演壇のすぐ手前にある自席まで辿りつくと、レムブケー夫妻は小腰をかがめて答礼した。二人はたちまち人垣に囲まれた。貴族団長夫人は立ちあがって、彼らを出迎えようとした…が、その時一ついやな手違いが生じた。オーケストラが出しぬけに祝賀のための吹奏曲を轟かし始めた。それはけっしてマーチや何かでなく、まったく食堂向きの吹奏であった。よく町のクラブで、一同が晴れの食卓に向かって、だれかの健康を祝しながら、乾杯を唱えるときなどに使うやつである。わたしも今ではよく知っているが、これはリャームシンが幹事という資格で、入り来る『レムブケー』夫妻に敬意を表するため、余計な骨折りをしたとのことである。もちろん、彼はよく知らなかったからとか、またあまり一生懸命になり過ぎたからとかいって、弁解する余地があったのだ……ところが、悲しいかな、わたしは当時すこしも知らずにいたが、彼らはもう弁解のことなど、てんで心配していなかった。この一日で何もかも片をつけようと、考えていたのである。
 けれど、吹奏曲ばかりではすまなかった。聴衆のいまいましそうな怪訝の色と薄笑いにつれて、突然ホールの端のほうとコーラス席で万歳《ウラー》の声が響き渡った。やはりレムブケーに敬意を表するものらしい。それはあまり多人数の声ではなかったが、正直にいうと、ややしばし鳴りも止まなかった。ユリヤ夫人はかっとなって、その目はぎらぎら輝き出した。レムブケーは自席に近く立ちどまって、声のするほうへ振り向きながら、ものものしく厳めしい態度で広間を見廻した……が、人々は急いで彼を席に着かせた。彼の顔にはまたしても昨日の朝、夫人の客間でスチェパン氏の傍へ近寄る前に、じっと相手の顔を見つめていた時と同じような、例の危険性を帯びた微笑が浮かんでいた。わたしはそれに気がついて心もとなく思った。実際、いま彼の顔は、何かしら不吉な表情があるように思われた。何よりもいけないのは、その表情がいくぶん滑稽じみていたことである。――つまり、ひたすら妻の高尚な目的にそわんがために、一身を犠牲に捧げようとしている人の表情なのであった……ユリヤ夫人は手早くわたしを傍へさし招いて、これからすぐカルマジーノフのところへ走って行き、早く始めるように頼んでくれとささやいた。で、わたしがやっと体を転じようとする間もなく、またもや新しい醜事件が始まった。しかも、前よりもっともっと醜いのである。
 演壇の上に、――今まで一同の視線と、一同の期待が集中されていた空しい演壇の上に、――今まではただ小さいテーブルと、その前に置かれた椅子と、テーブルにのせられた銀盆の上の水呑みコップのほかには、何一つ目に入るもののなかった空しい演壇の上に、とつぜん燕尾服に白いネクタイを締めた、レビャードキン大尉の魁偉な姿が、ちらと映った。わたしはもう仰天してしまって、われとわが目を信ずることができないほどだった。大尉はちょっと鼻白んだらしく、演壇の奥深いところに立ちどまった。とつぜん聴衆の中から『レビャードキン! きみはいったい?』という叫び声が聞こえた。
 大尉の愚かしい真っ赤な顔には(彼はすっかり酔いくらっていた)、この叫びを聞くとひとしく、鈍そうな薄笑いがぱっと広がったように思われた。彼は手を挙げて額を押し拭うと、もしゃもしゃした頭を一振りした。そして、もうどんなことだってやって見せるぞ、と決心したように、ずかずかと二歩まえへ踏み出した、――が、急にぷっと噴き出してしまった。あまり大きくないが、引き伸ばしたような、高く低く揺れるような、さも幸福げな笑い声を立てながら、肥満した体をゆり立てて、目を細めるのであった。このありさまを見て、ほとんど聴衆の大半が笑い出した。二十人ばかりの者は、手さえ叩いた。聴衆の中でも真面目な人々は、浮かぬ顔つきで互いに目と目を見合わせていた。もっともこれはほんの三十秒たらずの間だった。突然、例の幹事のリボンを付けたリプーチンが、二人の小使を連れて演壇へ駆け登った。小使が用心深く大尉の両手を取ると、リプーチンは何やらその耳にささやいた。大尉は眉をひそめながら、「ふん、そういうわけならどうも」とつぶやいて片手を振ると、幅の広い背中を聴衆のほうへ向け、三人のものに伴われて姿を隠した。しかし、すぐにまたリプーチンは、演壇へ飛びあがった。彼の唇には思い切って甘ったるい微笑が浮かんでいた(いったい、いつもの彼の笑い方は、ふつう砂糖酢みたいな感じのするものだった)。手には一葉の書簡紙を持っていた。小刻みな忙しい足どりで、彼は演壇の端へ進み出た。
「諸君」と彼は聴衆に呼びかけた。「ちょっとした不注意のために、滑稽な手違いが生じましたが、それもすでに片づいてしまいました。ところで、わたしはこの土地における詩作家の一人から、きわめて懇切鄭重なる依頼を受けまして、成功の希望をいだきながら、その任を引き受けたのであります……それは外形こそなん[#「なん」に傍点]でありますけれど……人道的な高尚な目的……つまり、本県における教育のある、貧しい乙女たちの涙を拭うてやろうという、われわれ一同をここに結束さしたと同じ目的を、深く心にひめたこの紳士は、いや、その……土地の詩人は……なるべく名を出したくないという、平素の希望にもかかわらず……この舞踏会の初めに……いや、その、朗読会の初めに当たって、自作の詩が朗読されるのを見たいと、熱望しておる次第であります。もっとも、この詩は番外で、プログラムに入ってはおりませんが……なぜといって、手に入ってから、まだやっと三十分ぐらいしかならんからで……しかし、われわれ[#「われわれ」に傍点]は(いったいわれわれとはだれのことだろう? とにかく、わたしはこの途ぎれ途ぎれな、覚束ない演説を、一語一語そのままに記しておこう)、驚くべき快活と、同様に驚くべき無邪気な感情を結合した点において、この詩の朗読も或いは妙かもしれんと思ったのであります。もちろん真面目な作品としてでなく、ただこの盛会にふさわしいあるものとしてであります……手短かにいえば、会の精神にふさわしいあるものとして……ことに中の数行にいたりましては……かような次第で、敬愛すべき公衆諸君のお許しを乞おう、と思った次第なのであります」
「読みたまえ!」広間の向こうの端で、一人の声がこうどなった。
「では、読むのでございますか?」
「読みたまえ、読みたまえ!」という大勢の声が響いた。
「それでは、公衆諸賢のお許しを得て、読み上げることといたしましょう」相変わらず例の甘ったるい微笑を浮かべたまま、リプーチンはまたもや口をひん曲げた。
 彼はそれでも、なんとなく決しかねたふうであった。わたしの見たところでは、わくわくしているようにさえ思われた。こういう連中は、思い切って傍若無人な振舞いをするくせに、やはりどうかすると、何かにつまずくことがあるものだ。もっとも、神学生だったらつまずくことはないだろうが、リプーチンはなんといっても、旧社会に属する人間だった。
「わたしはちょっと断わっておきますが、いや、ちょっとお断わりをしときますが、これはよく祝祭などに当てて書かれておった、以前の頌歌のようなものではありません。これはほとんどまあ、狂歌といったようなものであります。しかし、遊び好きな心持ちと結び合った真摯なる精神もあれば、最も現実的な真理も含まれておるのであります」
「読め、読め!」
 彼は紙きれを広げた。むろん、だれひとり彼を止める暇がなかった。それに、彼は幹事の徽章を付けて現われたのである。彼は声高らかに朗読を始めた。

[#ここから2字下げ]
 祖国なる婦人家庭教師へ、祭の庭にて、詩人より。

ご機嫌よろしゅう家庭教師さん
うんと騒いでお祝いなされ
退歩主義者かジョルジュ・サンド
なんでもかまわぬお浮かれなされ!
[#ここで字下げ終わり]

「ああ、これはレビャードキンだ! レビャードキンの仕事に相違ない!」という幾たりかの声が聞こえた。
 どっと笑い声が起こった。人数は少なかったけれど、拍手の音さえ聞こえた。

[#ここから2字下げ]
洟《はな》ったらしの子供らに
フランスのいろはを教えちゃおれど
誘う水ありゃ寺男にさえも
色目つかうも厭やせぬ
[#ここで字下げ終わり]

「ウラー、ウラー!」

[#ここから2字下げ]
とはいうものの、大改革の今の世にゃ
寺男でさえもろうちゃくれぬ
銭がいります、お嬢さん、それが駄目なら
やはりいろはと首っ引き
[#ここで字下げ終わり]

「そのとおり、そのとおり、なるほどこれは現実的だ、金がなくちゃ二進《にっち》も三進《さっち》も行きゃしない!」

[#ここから2字下げ]
ところが今日は酒もり半分
わしらがお金を集めて上げた
ダンスしながら持参の金を
ここの広間で贈りましょう
退歩主義者かジョルジュ・サンド
なんでもかまわぬお浮かれなされ!
お前は持参金つきの
家庭教師じゃないかいな
何に遠慮があるものか
さあさ祝うた祝うた!
[#ここで字下げ終わり]

 正直にいうと、わたしは自分の耳を信じることができなかった。そこにはたとえ無知をもって弁明するとも、とうていリプーチンをゆるすことのできないような、見え透いたずうずうしい企みがあった。それに、本来、リプーチンは馬鹿ではない。目的とするところは、少なくもわたしにとってきわめて明白だった。まるでだれもかれもがわれさきにと、混乱をかもし出そうとしているようであった。この馬鹿げきった詩の幾連かは(たとえば、一番しまいの一連のごとき)、どんな無知の輩《やから》といえども、黙過し難いような性質のものだった。リプーチン自身も、こういう殊勲はたててみたものの、自分一人であんまり責任を負い過ぎたなと感じたらしく、自分で自分の無鉄砲におじけづいて、演壇を去ることもできず、まだ何かいい足したそうに立ちすくんでいた。きっと、何かもっと違った結果を予想していたのだろう。ところが、朗読の間じゅう喝采していた一団の無頼漢でさえ、やはり同様におじけづいたものらしく、急にしんと静まり返ってしまった。何よりも馬鹿馬鹿しいのは、彼らの多数がこの朗読を夢中になって歓迎したことである。つまり、くだらない落首だなどとはもうとう考えず、婦人家庭教師に関する正真正銘の現実的真理、語を変えていえば、立派な傾向詩と合点したのである。けれど、あまりといえばあまりなこの詩のぶしつけな調子は、ついにこういう連中をさえひやりとさせた。
 一般聴衆はどうかというに、彼らは気色《きしょく》を悪くするのを通り越して、目に見えて侮辱を感じたらしかった。わたしはこの時の印象を伝えるのに、けっしてあやまたないつもりである。ユリヤ夫人は後になって、もう一分間あのままで過ぎたら、気絶して倒れたに相違ないと語った。中でも、とりわけ地位の高い一人の老人は、老夫人をたすけ起こして、人々の不安げな視線に送られながら、二人ともさっさと広間を出てしまった。或いは、ほかに幾たりかの人が、この例にならったかもしれないが、ちょうどおりよく、この瞬間に当のカルマジーノフが、燕尾服に白い頸飾りをしめ、ノートを手にして、演壇へ姿を現わした。ユリヤ夫人は、まるで救い主かなんぞのように、歓喜に溢れた目をそのほうへ向けた……けれど、わたしはもう楽屋のほうへ入っていた。リプーチンに話がしたかったのである。
「きみ、あれはわざとしたんでしょう?」憤懣のあまり彼の手をつかみながら、わたしはいきなりこういった。
「どうして、どうして! 思いもそめないこってすよ」彼はさっそく嘘をつき出した。そして、さも不仕合わせな人間らしい表情をしながら、体をくねくねさせるのであった。「あの詩は、たった今もって来たばかりなので、ぼくはただほんの座興によかろうと思って……」
「きみはまるでそんなことを思やしなかったのです。いったいきみはこの愚にもつかないやくざな詩《もの》を、罪のない座興と思うんですか?」
「ええ、ええ、そう思いますよ」
「きみはなんのことはない、ただ嘘を吐いてるんです。それに、この詩は、けっしてたった今もって来たばかりじゃありません。これはきみが自分で、レビャードキンといっしょに作ったのですよ。ひょっとしたら、もう昨日あたりできてたのかもしれない。つまり、見苦しい騒ぎが起こしたかったんだ。最後の一連は確かにきみの作です。寺男のくだりもやはりそうです。いったいあの男はどういうわけで、燕尾服なぞ着込んで出たんです? つまり、あの男に朗読させようという、きみたちの狂言なのです。ただあの男がぐでんぐでんに酔っぱらったもんだから……」
 リプーチンは冷たい毒のある目つきでわたしを見つめた。
「いったいそれがきみにどういう関係があるんです?」妙に落ちつき払って、彼は突然こうきいた。
「どういう関係がある? きみだってやはりこのリボンを付けてるんでしょう……ピョートル君はどこにいるんです?」
「知りません。どこかその辺にいるでしょうよ。いったい何用です?」
「ほかじゃありませんよ、ぼくは今こそ何もかも、すっかり見え透いて来ました。これは、つまり、みんなが申し合わせて、今日の催しにけち[#「けち」に傍点]をつけるために、ユリヤ夫人を陥れる陰謀に相違ないです……」
 リプーチンはいま一度わたしを尻目にかけた。
「それがきみにとって、どうだというんです?」彼はにたりと笑って、肩をすくめると、そのままわきのほうへ行ってしまった。
 わたしはまるでひや水でも浴せられたような気がした。わたしの疑惑はことごとく事実となって現われたのである。ああ、それだのに、わたしはどうか思い違いであれかしと祈っていたのだ! いったいどうしたらいいのだ? スチェパン氏に相談しようかと思ったが、彼は姿見の前に立っていろいろな笑い方の研究をしながら、ノートのしてある紙きれを、ひっきりなしに覗き込んでいた。彼は今すぐカルマジーノフの後で、演壇に登らなければならないので、もうわたしと話などしている余裕がなかった。では、ユリヤ夫人のところへ駆けつけたものだろうか? しかし、夫人に告げるには、まだ時期が早かった、彼女の病気をなおすには、――自分はみんなの者に『取り巻かれて』いる、みんな自分に対して『ファナチックな信服を示して』いるという迷いをさますには、もっともっとひどい目に遭わなくてはならないのだ。彼女は到底わたしの言葉を信じないで、わたしを妄想狂だと思うに違いない。それに、夫人だって、どうともしようがないではないか?『ええ、ままよ』とわたしは考えた。『まったくのところ、おれにどういう関係があるんだ。いよいよおっ始まったら[#「いよいよおっ始まったら」に傍点]、リボンをはずして家へ帰るまでだ』わたしはこのとき本当に『いよいよおっ始まったら』といった。わたしはそれを覚えている。
 が、とにかく、カルマジーノフの朗読を聞きに行かなければならない。最後に楽屋を振り返って見たとき、用もない人たちがかなり大勢、出たり入ったり、うろうろしているのに気がついた。中には女さえ交っている。この『楽屋』というのは、幕で厳重に仕切れたかなり狭くるしい場所で、うしろのほうは一筋の廊下によってほかの部屋部屋へ通じている。そこで講演者が番を待つことになっていた。
 しかし、このときとくにわたしの注意を惹いたのは、スチェパン氏の次に講演するはずになっている人だった。それはやはり大学教授といったような人で(わたしは今だにこの人がどういう人物なのか、はっきり知らない)、かつて学生間に騒擾のあった時、進んである学校を退いたが、こんど何用があったか、つい二、三日前この町へやって来たのである。この人も同じくユリヤ夫人に紹介されたが、夫人はまるで神様のように彼を迎えた。今ではわたしもよく知っているが、彼は朗読会の前にたった一晩、夫人のところへ出かけたばかりである。しかも、一晩じゅうむっつりと黙り込んで、ユリヤ夫人を取り巻く一座の諧謔や、全体の調子に対して、うさん臭い薄笑いを洩らしていた。その高慢げな、と同時に臆病なほど自尊心の強そうな様子は、人々に不快な印象を与えた。こんど彼に朗読を依頼したのは、ユリヤ夫人自身の所望なのであった。
 いま彼はスチェパン氏と同様に、部屋の中を隅から隅へと歩き廻りながら、何やら口の中でぼそぼそつぶやいては、鏡は見ないで、じっと足もとを見つめていた。彼はしょっちゅう貪婪な薄笑いを浮かべていたが、笑い方の研究などはしなかった。この男にも話ができないのは、一見して明瞭だった。見たところ四十恰好の年輩で、背は低いほう、頭は禿げて、頤には灰色がかった鬚をたくわえ、みなりはきちんとしていた。しかし、何よりも面白いのは、くるりと一廻りするたびに、右の拳を振り上げて、頭の上で空《くう》に一振りすると、だれか目に見えぬ敵を粉砕するように、いきおい込んでその手を打ち下ろす。この芸当をのべつ幕なしにくり返すのであった。わたしは妙に息づまるような気がしたので、急いでカルマジーノフの講演を聴きに飛び出した。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 広間のほうでも、何やら不穏な空気が漲っていた。前もってお断わりしておくが、わたしは、むろん、天才の威光に跪拝するものである。しかし、どういうわけでわがロシヤの天才諸氏は、その光栄ある生涯の終わりに際して、時々ちっぽけな子供みたいな真似をするのだろう? むろん、彼が文豪カルマジーノフとして、五人の侍従をたばにしたような気取り方で出たからって、そんなことは別にどうこういうものはない。しかし、たった一つの文章で、この町のような聴衆を一時間以上も惹きつけることが、どうしてできるものか! 全体として、わたしの観察するところでは、たとえどんな素晴らしい天才にもせよ、こういう肩の凝らない公けの朗読会では、二十分以上無事に聴衆の注意を惹きつけることは、まあまあ不可能である。もっとも、この大天才の登壇が、きわめて敬虔な態度で迎えられたのは事実である。ごくごくやかまし屋の老人連さえ、好意と興味の色を現わした。婦人たちにいたっては、ある程度、歓喜の情さえ浮かべたほどである。とはいえ、拍手はあっさりしたもので、なんだか不揃いな、ちぐはぐな感じがした。しかし、カルマジーノフ氏が口をきくまでは、うしろのほうでも別にとっぴな半畳を入れるものは一人もなかった。とにかく、どこがどうというほど不都合なことは起こらなかった。ただまあ、なんとなく得心のいきかねるような色が見えただけである。わたしはもう前にもちょっといっておいたが、彼の声はあまりきいきいしていて、いくぶん女じみた感じさえする上に、生粋な貴族特有のしゅっしゅっというような、洒落た発音がついて廻るのであった。
 彼が、やっとふた言かみ言しかいわないうちに、とつぜんだれか後列のほうで、無遠慮にも大きな声で笑い出した。たぶんそれは今まで上流社会の端くれも覗いたことのない、おまけに、元来おかしがりに生まれついた、立派な社交界を知らぬ馬鹿者に相違ない。しかし、示威などの意味は、これっからさきもなかった。それどころか、かえってこの馬鹿者は、ほかの人からしっしっと制止されて、それきりぐうの音《ね》もたて得なかった。ところが、カルマジーノフ氏は、気取った身振り、声音《こわね》でやり出した。『自分は初めどうしても朗読したくないといったのだ』(そんなことを広告する必要がどこにある!)『中でもある数行のごときは、真に肺腑を衝いてほとばしり出たもので、ほとんど言葉で形容できないほどである。それゆえ、こういう神聖なものを公衆にさらすに忍びない。(それでは、なんのために哂したのだ?)しかし、人々の乞いもだし難く、ついに断然さらすことにした。その上、自分は永久に筆をおいて、今後いかなることがあっても書かないと決心したから、つまり、これら自分にとって絶筆となるわけである。また自分は今後どんなことがあろうとも、公衆の面前で朗読しないように誓ったから、即ちこの一文が公衆に向かう最後の朗読なのである』というようなことを、くどくどと述べ立てた。
 けれど、こんなことは、まあ、どうでもいいのだ。だれだって、作者の前置きがどんなものかってことは、百も承知している。もっとも、ついでにちょっといっておくが、町の聴衆の教養の不十分なことや、後列の人々の気短かな点などを考えたら、こういうこともやはり影響しないとはいえない。実際、何か短い物語でも読んでおいたほうがよくはなかったろうか? もと彼がよく書いていたような小短編などは、よしんばあまり磨き過ぎて厭味になっているとはいえ、それでも時には機知に富んだものがあった。そうしたら、何もかも埋め合わせがついたに相違ないのだ。ところが、そうでない、まるでそんなことじゃないのだ! 長たらしいお説教が始まったのだ! おまけにその中には、一切合切みんな詰め込まれているのだ! わたしはきっぱり断言するが、この町の人ばかりでなく、首都の聴衆だってうんざりしてしまうに相違ない。まあ、かりに気取った役にも立たない世迷いごとが、印刷で三十ページも続くような文章を想像してみるがよい。おまけに、この人はまるで同情のあまりお慈悲でもって、高い所から見おろすような態度で読んだのだから、聴衆に対してほとんど侮辱に当たるくらいだった……
 ところでテーマは?………こいつがまただれにだってわかりっこないのだ! それはまあ、いわば、いろんな印象や追憶の総締めのようなものであった。しかし、なんの印象だろう? なんの追憶だろう? 一同は朗読の半ばごろまで、額に皺を寄せて、一生懸命に意味をつかもうとしたけれど、田舎者の悲しさで何一つ呑み込めず、後の半分はほんのお義理で聞いているだけであった。もっとも、恋のことがしこたま書いてあった。それはある婦人に対する天才の恋だが、正直なところ少々落ちつきが悪かった。わたしの見るところでは、この文豪の小柄なずんぐりした姿に対して、最初の接吻の物語はどうもうつりが悪かった……それにまた癪にさわるのは、この接吻の仕方が、一般人類のそれと違っていることである。まずあたりには必ず一面に、えにしだが生えていなければならぬ(ぜひともえにしだか、或いは植物学の本でも調べねばならぬような草であることを要する)。それから、空にはぜひ紫色の陰影が必要である。これなどはもちろん、凡人どものかつて気づかなかったものだ。つまり、見てはいたけれど、気をつけることができなかったのである。ところで、文豪は『そら見ろ、おれは一目でちゃんと見てとった、お前たち馬鹿者のために、ごくごくありふれたものとして、描いて見せてるのだ』といったふうである。この興味ある一対の男女が、根もとに座を占めた木は、必ずオレンジか何かの色をしていなければならぬ。二人坐っているのは、ドイツのどこかである。とつぜん彼らは、闘いの前夜のポンペイウスかカッシウスを見て、歓喜の冷感が骨髄に滲み入るような気がした。何かニンフみたいなものが藪の中で啼き出すと、突然グリュックが、葦の茂みでヴァイオリンを弾き始める。彼の奏した曲は en toutes lettres(すっかり完全に)名を呼びあげられたのだが、だれ一人知ったものはない。音楽辞典でも調べてみなければならない。やがて霧が渦巻きはじめた。その舞うこと舞うこと、まるで霧というよりは、数百万の枕といったほうが適切なくらいである。と、ふいに何もかも消えてしまって、こんどは、冬の暖い上溶けの日に、文豪はヴォルガの河を橇で渡っている。この渡河に二ページ半ついやしてあるが、それでもとうとう氷に明いた穴へ落っこちてしまう。天才は沈んで行く、――そしてついに溺死してしまう、と読者諸君は思われるかもしれないが、どうして、どうして、そんなことは夢にも考えていないのだ。それはただ、彼が水の底へ沈んでしまって、あぶあぶもがいている時、ふいに目の前ヘ一|塊《かい》の氷を浮かばせるためなのである。それはきわめて小さな、豌豆くらいな大きさだが、まるで『凍れる涙』とでもいいたいほど、清らかに透き通っている。この一塊の氷の中にドイツ、――というより、むしろドイツの空が映っているのだ。この映像の虹のような閃きが、ある一滴の涙を思い起こさせたのである。それは、――
『お前はおぼえているか、わたしたちがエメラルド色をした木の下に坐っていると、お前はよろこばしげな声で、「罪なんてものはありません!」と叫んだ。「そうだ。しかし、もしそうだとすれば、この世に正しき者もなくなるわけだ」とわたしは涙のひまから答えた。と、この時、お前の目からまろび出た涙なのだ。二人は烈しく慟哭して、そのまま永久に別れてしまった』
 つまり、女はどこかの海岸へ、彼はある洞窟の中へと、別れて行ったのだ。で、いま彼は洞窟の下を一生懸命に下りて行く。モスクワのスハレヴァ塔の下あたりを、三年の間ひたすら下りつづけている。すると、ふいに土の懐のただ中とおぼしきあたりで、彼は一つのともし火を見いだした。ともし火の前には一人の隠者がいる。隠者は祈祷を捧げている。天才はささやかな格子窓へ近づいた。と、思いがけなく吐息の声が聞こえた。読者諸君はこれを隠者の吐息と思われるか? なんの、彼はそんな隠者などに少しも用はないのだ! ただただこの吐息が、三十七年前の彼女の最初の吐息を、思い出させたばかりなのだ。
『お前はおぼえているか、わたしたちがドイツで、瑪瑙色の木の下に坐っていると、お前はわたしにこういった。「いったいなんのために愛するのでしょう? ごらんなさい、あたりにはあかい色の花が咲いています。あの花が咲いてる間は、わたしもあなたを愛します。けれど、あの花が咲かなくなったら、わたしの愛もさめるのです」このときふたたび霧が渦巻いて、ホフマンが現われた。ニンフが、ショパンの何かを笛に吹き始めると、霧の中から忽然としてアンクス・マルチュウス([#割り注]紀元前六三八―六一四年、ローマ四世の帝王と伝えられる[#割り注終わり])が月桂冠を戴いて、ローマの空高く立ち現われた。歓喜の冷感がわたしたちの背筋を走って、二人は永久に別れた』云々、云々。
 手っとり早くいうと、わたしの話が間違っているかもしれないし、またわたしにこういう話をする能がないのかもしれないが、このおしゃべりの意味はこんなふうのものだった。それに、全体として、ロシヤの天才の有する高等|地口《じぐち》を弄びたがる性癖は、なんという浅ましいことだろう! ヨーロッパの大哲学者も、碩学も、発明家も、奮闘家も、殉教者も、――すべてこういう重荷を背負って努力している人々も、わがロシヤの大天才にとっては、まったくわが家の台所にうようよしている料理人同様である。つまり、彼が旦那様なのだ。彼らは手に白頭巾を持って、彼のもとへ伺候し、その命を待っているようなあんばいである。もちろん、彼はロシヤそのものをも、高慢ちきに冷笑している。そして、ヨーロッパの天才の面前で、あらゆる点におけるロシヤの破産を宣言するのが、何より愉快なことに相違ないのだが、しかし彼自身にいたっては、もはやこれらヨーロッパの天才さえ、眼下に見おろしているのだ。そんなものはすべて彼の地口の材料にすぎない。彼が何か他人の思想を取って、それに対するアンチテーゼをくっつければ、もうちゃんと地口ができるわけなので。犯罪は存す、――犯罪は存せず、真理は存せず、正しきものは存せず、そのほか無神論、ダーヴィニズム、モスクワの鐘……(しかし、悲しいかな、彼はすでにモスクワの鐘を信じていないのだ)、ローマ、月桂冠……(しかし、彼は月桂冠さえ信じていないのだ)……それから、お定まりのバイロン式憂愁、ハイネから借用して来た渋面、ペチョーリン式の味などを、ちょいと添える、――と、もう文豪の機械はしゅっしゅっと、風を切って動き出すのだ……
『しかし、とにかく褒めたまえ、褒めたまえ、ぼくはそれが大の好物なんだから。なに、一代の筆をおくというのは、ただちょっとそういってみるだけさ。待っていたまえ。ぼくはまだ三百編くらい書いて、きみたちを悩まして上げるよ。読むのに飽き飽きするくらいね……』とでもいいたそうであった。
 もちろん、あまり無事にはすまなかった。が、何よりもいけないのは、彼自身から騒ぎを起こした点である。もうだいぶ前から足をごそごそいわせたり、鼻をかんだり、咳をしたりする声が聞こえ出した。つまり、どんな文学者にもせよ、朗読会で二十分以上、聴衆を引き止めた時に起こる現象が、ここでも始まったのである、しかし、天才はそんなことにはいっこうお気がつかなかった。彼は聴衆のほうなぞいっさいおかまいなしに、相変わらずしゅっしゅっという音を立てたり、口の中でむにゃむにゃいったりしているので、とうとうみんなは呆気にとられてしまった。その時、とつぜん後列のほうで、たった一人きりではあるが、大きな声でこういうのが聞こえた。
「まあ、なんという馬鹿げた話だ!」
 これは自然に口をすべり出た言葉で、そこになんら示威の意味を含んでいないことは、わたしの固く信ずるところである。ただもうがっかりしたのだ。けれど、カルマジーノフ氏は朗読をやめて、嘲るように聴衆を一瞥した。そして、威厳を傷つけられた侍従官といった態度で、突然しゅっしゅっという音を立てながら、口を切った。
「諸君、諸君は大分わたしの朗読に退屈されたようですね?」
 つまり、こうして、彼のほうからさきに口を切ったのが悪かったのだ。こうして答えを求めるような言葉を発したために、かえっていろんなごろつきどもに大威張りで口を出す機会を与えたからである。もし彼がじっと押しこたえていたら、みんな無性に洟をかんだかもしれないけれど、とにかくなんとか無事にすんだはずなのである……ことによったら、彼は自分の問いに対して、拍手を期待していたのかもしれない。ところが、拍手の音は響かず、あべこべにみんなびっくりしたように、小さくなって静まり返ってしまった。
「あなたはアンクス・マルチュウスなんか、まるで見たこともないのだ。そんなのはみんな美文ですよ」一人のいらいらした悩ましげな声が、出しぬけにこう響き渡った。
「そのとおり」ともう一人の声がすぐに引き取った。「今の世の中に幻なんかありゃしない。今は自然科学の時代だ。少し自然科学でも調べてごらん」
「諸君、わたしはそんな抗議を受けようとは、夢にも思わなかったですよ」カルマジーノフは恐ろしく面くらってしまった。
 大天才はカルルスルーエにいる間に、すっかり祖国のことにうとくなってしまったのである。
「今の時代に、世界が三匹の魚で支えられてるなんて、本で読むのも恥ずかしいくらいですわ」とふいに一人の娘が甲高い声でいい出した。「カルマジーノフさん、あなたは洞窟の中へ入って隠者に出会ったりなんか、できないはずじゃありませんか。それに、今の世の中で、隠者の話なんかするものはありゃしませんよ」
「諸君、諸君がそう真面目にとられるということは、わたしの何よりも驚愕に堪えないところであります。もっとも……もっとも……まったく無理はありません。何人といえども、わたし以上にリアリスチックな真実を尊ぶものはないのですから……」
 彼は皮肉な微笑を浮かべてはいたが、それでもひどく狼狽していた。その顔の表情はまるで、『わたしは、諸君の思っておられるような人間じゃありません。わたしは諸君の味方です。ただわたしを讃めてください、もっと讃めてください、できるだけ讃めてください。わたしはそれが大好きなんですから……』とでもいってるようだった。
「諸君」とうとうすっかり自尊心を毒されてしまって、彼はこう叫んだ。「見受けたところ、わたしの詩は不幸にも発表の場所を誤ったようですな。それにわたし自身も出るべき場所を誤ったようです」
「からすを狙って、かますを打ったのかね」とだれか馬鹿なやつが大きな声を一ぱいに張り上げてどなった。きっと酔っぱらいに相違ない。したがって、こんなやつにはぜんぜん注意を払う必要はなかったのだ。
 もっとも、ぶしつけな笑い声が響いたのは事実だ。
かますですって?」とカルマジーノフはすぐに抑えた。彼の声はだんだんきいきいしてきた。「からす[#「からす」に傍点]とかます[#「かます」に傍点]のことについては、わたしはわざと口をつぐむことにします。たとえ無邪気なものとはいいながら、そんな比較を口にするべく、あまりに聴衆を尊敬しています。よしやどのような種類の聴衆でも……しかし、わたしはこう思っていました……」
「しかし、きみはあまり口が過ぎやしないかね」とだれやら後列のほうからわめいた。
「けれど、わたしは一代の筆をおくに際して、読者に別れを告げようとしているのですから、とにかく聴いていただけることと思っていました……」
「聴きます、聴きます、わたしたちは聴きたいのです」思い切って勇を鼓したような二、三の声が、やっと前列のほうから響いて来た。
「読んでください、読んでください」と、幾たりかのうちょうてんになった婦人連の声が、それに相槌を打った。ついに拍手の音も起こったが、しかし、あっさりした勢いのないものだった。
 カルマジーノフはひん曲ったような微笑を浮かべて、椅子から体を持ち上げた。
「まったくでございますよ、カルマジーノフさん、わたしたちはみんな名誉と思ってるくらいなのですから……」とうとう貴族団長夫人も、我慢し切れなくなっていった。
「カルマジーノフさん」広間の奥まったほうから、出しぬけに若々しい声でこう呼びかけるものがあった。それは郡部の小学校の若い教員で、この地へはつい近ごろ来たばかりの、おとなしい人柄な青年だった。彼は堂々と自席から立ちあがった。「カルマジーノフさん、もしわたしが、今あなたの朗読されたような愛の幸福を恵まれたとしても、まったくのところ、朗読会の席上で読み上げる文章の中へ、自分の恋物語をおさめようとは思いませんね……」
 彼は顔を真っ赤にしていた。
「諸君、わたしはもう朗読を終えたのです。もうこれでおしまいとして、退席します。しかし、ただ最後の六行だけ読ましていただきます」
「さらばわが友よ、読者よ、さらば!」彼はさっそく原稿を手にして読み始めた。が、もう肘掛けいすには腰をおろさなかった。「さらば、読者よ。とはいえ、余はしいて友として袂を別たんことを主張するものではない、事実、このうえ諸君を煩わす必要がどこにあろう。もし幾分たりとも諸君の慰みになることなら、余は罵られてもいとわない、おお、余は甘んじて罵られよう。けれど、もしわれわれが永久に忘れ合うことができれば、それが何より一番である。そして、かりに読者諸君が突然やさしい心になって、余の前にひざまずき、涙をこぼしながら、『書け、カルマジーノフよ、おお、われらのために書け、祖国のために書け、子孫のために書け、月桂冠のために書け』と乞うにしても、余は礼節を守ってその好意を謝しながら、なおも諸君に答えるだろう。『いや、愛すべき祖国の同胞よ、われわれはもう互いに十分面倒をかけ合った。メルシイ、今はめいめい思い思いの道をとるべき時だ! メルシイ、メルシイ、メルシイ!』と」
 カルマジーノフはうやうやしく一揖すると、まるでうだったように真っ赤になって、楽屋の中へ入ってしまった。
「ふん、だれが膝を突いたりなんかするものか。なんという馬鹿げた想像だろう」
「実にどうもえらい自惚れだね!」
「あれはただのユーモアだよ」だれやら少しもののわかるのが、こう訂正した。
「ちょっ、そんなユーモアなんぞ真っ平ご免だよ」
「だが、それにしてもあれは生意気だよ、諸君」
「けれど、まあ、とにかくやっとすんだよ」
「ほんとに睡くなっちゃったあ!」
 しかし、こうした無作法な後列の(もっとも、後列ばかりではなかった)高ごえは、別な方面の聴衆の拍手に消された。それはカルマジーノフを呼び出したのである。ユリヤ夫人と貴族団長夫人をかしらにした幾たりかの婦人が、演壇の傍へ押し寄せた。ユリヤ夫人の手には、白いビロードの台にのせた見事な月桂冠と、もう一つ薔薇の生花で作った花環があった。
月桂冠!」とカルマジーノフは微妙な、やや毒を含んだ薄笑いを浮かべながらいった。「わたしはもちろん感謝の情に堪えません。あらかじめ用意されたものではありますが、まだ凋れる暇のない、生きた感情のこもったこの花環を受納いたしましょう。しかし、淑女方《メーダーム》、まったくのところ、わたしはこんど急にリアリストになりましたので、今の世の中では、月桂冠もわたしの手にあるよりは、熟練した料理人の手にあるほうが、遙かにところを得たものと思われます……」
「そうとも、料理人のほうがずっと役に立たあ」ヴィルギンスキイの家で『会議』に列した、例の神学生がこう叫んだ。
 会場の秩序は少なからず破られた。月桂冠の贈呈式を見ようとして、方々の席から跳びあがるものが大分あった。
「ぼくはこれから、料理人に三ルーブリ増してやってもいい」も一人が大きな声で相槌を打った。その声は、あまりだと思われるくらい大きかった、これでもかというような大きな声だった。
「ぼくもそうだ」
「ぼくも」
「いったいここに食堂はないのか?」
「諸君、つまりわれわれは詐欺にかかったのだ……」
 しかし、ついでに断わっておくが、こういう無作法な連中も、まだやはり町の上級官吏や、同じく広間にい合わした警部などを、ひどく恐れていたのである。十分ばかり経ってから、ようやく人々は元の席に着いたが、以前の秩序はもはや回復できなかった。かわいそうにスチェパン氏の講演は、ちょうどこうした混乱がそろそろ萌し始めた時に当たったのである。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 けれど、わたしはも一ど楽屋へ駆け込んで、もう前後を忘れながら彼に忠告した。わたしの考えでは、すでに何もかもぶっ毀れてしまったのだから、この際ぜんぜん演壇に登らないで、腹痛か何かを口実にさっそく家へ帰ったほうがよかろう、そうすれば、わたしもやはりリボンを捨てて、いっしょに出かけてもかまわない、といった。彼はこの瞬間、演壇のほうへ向かっていたが、急にその足をとめて、傲然たる目つきでわたしを頭から足の爪先まで見おろすと、勝ち誇ったようにいい放った。
「きみ、きみはいったいどういうわけで、わたしをそんな卑怯なことのできる人間だと思うのです?」
 わたしはそのまま引きさがってしまった。この人が何か恐ろしい騒動を起こさないで、無事にあすこから帰って来るはずはないと、わたしは信じて疑わなかった。それは二二が四というくらい明瞭だった。わたしはすっかりしょげてしまって、ぼんやり立っていると、スチェパン氏の後で登壇する順序になっている、来遊の教授の姿がちらと目に映った。例の、拳をたえず上へ振りあげては力まかせに打ち下ろしていた、さっきの人である。彼は相変わらず自分の仕事に夢中になって、意地悪げなしかも勝ち誇ったような薄笑いを浮かべ、何やら口の中でぼそぼそいいながら、あちこち歩き廻っている。わたしはほとんど無意識に彼の傍へ寄った。ここでも余計なおせっかいをしたものである。
「あなたごぞんじですか」とわたしはいった。「いろんな例から推してみるのに、講演のとき二十分以上も聴衆を引き止めると、もうそれからさきはてんで聴いてもらえませんよ。どんな名家でも、三十分と持ちこたえることはできないです……」
 彼はとつぜん立ちどまって、憤怒のあまり全身を慄わしたかと思われるほどであった。はかり知れない傲慢な表情が彼の顔に浮かんだ。
「ご念には及びません」と彼は吐き出すようにつぶやいて、わたしの傍を歩み去った。
 このとき広間で、スチェパン氏の声が響き出した。
『ええっ、お前たちはみんなどうともなるがいい……』と考えながら、わたしは広間へ駆けだした。
 スチェパン氏は、さきほどの混乱の名ごりの収まらぬうちに、肘掛けいすに腰を下ろしたのである。前列の人々は、あまり同情のない目つきで彼を迎えたらしい(最近、クラブではどうしたものか彼を嫌い出して、前のように尊敬しなくなった)。しかし、それでも叱々《ヒス》の声がかからなかったのが、まだしもなのである。わたしの頭の中には昨日あたりから妙な考えがこびりついていた。ほかでもない、彼が壇に登るやいなや、いっせいに口笛が響き出すに相違ない、という気がしてならなかったのだ。ところが、先刻の混乱の名ごりで、聴衆もすぐには彼の登壇に気づかなかった。実際、カルマジーノフでさえあんな目に遭ったのに、いったいこの人は何を当てにしようというのだ? 彼はあお白い顔をしていた。なにしろ、もう十年も公衆の前に現われたことがないのだ。その興奮した態度といい、またわたしにとって馴染みの深いすべてのそぶりといい、彼自身この登壇をもって自己の運命の解決とか、またはそれに類した行為とみなしているのは、もはや明々白々のことであった。つまり、これをわたしは恐れていたのだ。この人はわたしにとって大切な人なのである。それゆえ、彼がまず口を開いたとき、彼の最初の一句を聞いた時、わたしの心持ちはそもそもどんなであったか!
「諸君!」もう何もかも決心したという調子で、とつぜん彼はこう口を切った。が、それでも声は大分かすれていた。
「諸君! つい今朝ほどわたしの前には、近頃この地に撒布された無法な刷りものが一枚おかれていました。わたしは幾度となく、自分で自分にこういう問いを発しました、この紙片の有する秘密ははたしてなんであるか?」
 大きな広間はたちまち闃《げき》として、一同の目は彼のほうへ向けられた。その中にはおびえたような目つきもまじっていた。けっこうなことだ、一語にして興味を惹きつける腕があるのだ。楽屋のほうからも、首を突き出すものがあった。リプーチンやリャームシンは、貪るように耳を澄ましていた。ユリヤ夫人はふたたびわたしを小手招きして、
「やめさしてください、どうしてもやめさしてください!」と不安げにささやいた。
 わたしはただ肩をすくめるのみであった。決心してしまった[#「決心してしまった」に傍点]男を留めるなんて、はたしてできることだろうか? 悲しいかな、わたしにはスチェパン氏の気性が、あまりにわかり過ぎていた。
「へえ、檄文のことだぞ!」とつぶやく声が聴衆の中で聞こえた。広間がざわざわし始めた。
「諸君、わたしは秘密の存するところをことごとく明らかにしました。彼らの奏しつつある効果の秘密は、要するに、彼らの愚という点に帰するのであります!(彼の目はぎらぎら輝き出した)それでですね、諸君、もしそれがわざと企らんだ偽の愚なら、それこそ実に、天才のわざといってもいいくらいです! ところが、彼らの長所をも十分に認めてやらなければなりません。彼らは別にいささかも企んだものではありません。それは思い切って剥き出しの、思い切って正直な、思い切って単純な愚であります―― 〔c'est la be^tise dans son essence la plus pure, quelque chose comme un simple chimique〕(それは最も純粋な愚のエッセンスであります、化学的元素のようなものであります)、これがもしほんの滴ほどでも利口な言い方がしてあったら、だれだってこの単純な愚のやくざ加減に、たちまち気がつくに相違ありません。ところが、いま人々はけげんに思いながら躊躇しているのです。つまり、それほどまで原始的に愚なものだとは、しょせん信じられないからです。『この中に、これ以上の意味が全然ないはずはない』とこう思って、だれでも秘密を探り出そうとする、言葉の裏を読もうとするのです、――こうして、効果は奏せられたのであります! ああ、これほどに愚昧が華々しい報酬を受けたことは、今までかつてないのであります。もっとも、ちょいちょいした報いはしばしば受けておりました……つまり 〔en parenthe`se〕(ついでに申しますが)、愚昧は大天才と同様、人類の運命にとって均しく有益なものだからであります」
「四十年代の地口だ!」というだれかの声が聞こえた。が、ごくおとなしい調子だった。
 しかし、それに続いて、すべてが堰を破ったようになった。烈しい喧囂と騒音が起こった。
「諸君、ウラー! わたしは愚のために祝杯を提議したいと思います!」もうすっかり激昂してしまって、ホール全体を呑んでかかりながら、スチェパン氏はこう絶叫した。
 わたしは水を注ぎ添えるのを口実に、彼の傍へ走り寄った。
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、うっちゃっておしまいなさい、ユリヤ夫人の頼みですから……」
「いや、きみこそわたしをうっちゃっといてくれたまえ、本当にこの軽薄才子が!」と彼は一ぱいに声を張り上げて、わたしに食ってかかった。
 わたしはそうそうに逃げ出した。
「|諸君《メッシゥ》」と彼は語をついだ。「その興奮はなんのためです? わたしの耳にする憤慨の叫びはなんのためです。わたしは橄欖の枝をもって来たのであります。わたしは最後の言葉をもたらしたのであります。実際わたしはこの問題については、最後の言葉を握っているのであります、――そうして、お互いに和睦しようではありませんか」
「そんなものはいらない!」と一方で叫ぶと、
「しっ、いわしてみろ、しまいまでいわしてみろ」と、また一方で金切り声を立てた。
 とりわけ興奮しているのは、すでに一ど口を切った若い教員だった。彼はもうじっとしていられないようなふうであった。
「諸君《メッシゥ》、この問題に対する最後の言葉は、――いっさいをゆるすことであります。わたしはすでに生活を終えた老人として、はばかるところなく堂々と断言しますが、生命の霊気は依然躍動しています。生の力は若き世代の中にも涸渇しておりません。現代の青年の感激は、わたしたちの時代と同様、清浄にして光明にみちています。変わったのはただ一つだけです。すなわち、目的の移動、美の転換であります! すべての疑惑は、ただ一つの問に含まれています。つまり、どちらがより多く美であるか、――シェイクスピアか靴か、ラファエルか石油か?」
「それは誣告だ!」ある一群がわめいた。
「そんな質問は、人に鎌をかけるというものだ!」
「その筋の回し者だ、煽動者だ!」
「ところで、わたしはこう断言する」もはや憤激の極に達して、スチェパン氏は癇走った声をふりしぼった。「わたしはこう断言する、シェイクスピアやラファエルは農奴の解放より尊い、国民性より尊い社会主義より尊い、若き世代より尊い、化学より尊い、ほとんど全人類より尊いのだ。なぜなれば、彼らはすでに全人類の得た果実、真実の果実だからである。いな、或いはこの世に存在し得る最高の果実かもしれないのだ! 彼らはすでに獲得されたる美の形体だ。この美の獲得をよそにしたら、わたしは生きることすら潔しとしないのだ……おお、なんということだ!」彼は両手をぱちりと鳴らした。「十年前ペテルブルグで、わたしはちょうど今と同様に演壇に立って、ちょうどこれと同じ言葉をもって叫んだことがある。が、ちょうどこれと同じように、彼らはわたしの言葉を解しないで、笑ったり叱声を発したりした。ああ、単純なる人々よ、諸君は何が不足しているために、この言葉の意味を解しないのか。しかし、記憶しておくがいい、記憶しておくがいい、イギリス人はなくても、なお人類は存在し得る、ドイツ人がなくとも、大丈夫だ、ロシヤ人がなくともなおさら大丈夫だ、科学がなくともかまいはせぬ、パンがなくともなお可なりだ。ただ一つ美がなくては、絶対に不可能だ。なぜなれば、人々はこの世でなんらなすべきことがなくなるからだ! いっさいの秘密はここにある、いっさいの歴史はここにあるのだ! 科学すらも美がなかったなら、一刻も存在することができないのだ、――笑うものよ、きみたちははたしてこれを知っているか、――美がなかったら、科学は一介の奴隷と化して、釘一本も発明することができないのだ! なんの譲るものか!」最後に彼は愚かしくこうわめきながら、拳を固めて力まかせにテーブルを叩いた。
 しかし、彼が意味も順序もなくわめき立てているうちに、広間の秩序もしだいに乱れて来た。多くのものは席を飛びあがった。中には、演壇へじりじり押し寄せて来るものがあった。全体として、こういうふうの出来事は、わたしがここに描写しているよりも、ずっと迅速に進行していったので、対応策を講ずる暇がないくらいであった。いや、もしかしたら、だれもそんなことをしようとしなかったのかもしれない。
「ふん、何もかも据え膳で暮らしているきみたちは、それでけっこうだろうよ、呑気なものさ!」例の神学生が演壇のすぐ傍に立って、さも快げにスチェパン氏に歯を剥いて見せながら、こうどなった。
 こちらはそれに気がついて、一番はじのほうへ飛び出した。
「いったいあれはわたしじゃないのか? 若き世代の感激も以前と同じように清浄で光明にみちているが、ただ美の形式を誤ったために堕落してるといったのは、あれはわたしじゃないか? きみたちはあれでまだ不足なのか? それに、これを叫んだのが、打たれ辱められた一個の父親《てておや》であることを考えたら、これ以上公平冷静な意見を求めることはできないはずではないか!………ああ、なんという恩を知らない……非道なやつらだろう……どうして、まあ、どうしてきみらは和解がいやなのだ……」
 というやいなや、彼は出しぬけにヒステリックな声で泣き出した。彼はせぐり来る涙を指で払い払いした。肩と胸は歔欷に慄えた……彼はもう何もかも忘れてしまったのである。
 たとえようのない驚愕が広間をおそった。ほとんどみんな総立ちになった。ユリヤ夫人も、夫の手を取って、肘掛けいすから引き立てながら急に立ちあがった。容易ならぬ騒ぎが始まった。
「スチェパン氏!」と神学生がさもうれしそうにどなった。「今この町から近在へかけて脱獄囚のフェージカというやつがうろついています。こいつは方々で強盗を働いていますが、ついこの間も、また新しく殺人を遂行しました。ところが、一つおたずねしますが、もしあなたが十五年以前、カルタの負債を償却するために、あの男を兵隊にやってしまわれなかったら、いや、わかりよくいえば、もしあなたがカルタに負けなかったら、あの男が懲役にやられるようなことになったでしょうか? え、今のように生存のための争闘に、人を斬ったりするようなことが起こったでしょうか? え、ご返答はどうです、もし、耽美派先生?」
 わたしはもはや、次に起こった情景を描くことができない。まず第一に兇猛な拍手の音が響いた。もっとも、皆がみな拍手したわけではなく、せいぜい聴衆席の五分の一ぐらいにすぎなかったが、とにかく、その拍手は兇猛なものだった。その余の聴衆は、どっと出口のほうへ押し寄せたが、拍手をした一部の聴衆がしきりに演壇のほうへ押して来るので、ついに広間ぜんたいの大混乱となった。婦人連は金切り声を立てるし、娘たちの中には家へ帰ろうと泣き出すものもあった。レムブケーはけげんな目つきで、きょろきょろあたりを見廻しながら、自席の傍に立った。ユリヤ夫人は、もうすっかりとほうにくれてしまった。それは夫人が町の交際場裏に立ってから初めてであった。スチェパン氏はどうかというに、彼は初め文字どおりに、神学生の言葉に打ち挫がれたようなふうであった。が、とつぜん彼は聴衆の上にさしかざそうとでもするように、両手を高くさし上げながら叫び出した。
「わたしは足の砂を払って、呪ってやる……もう駄目だ……もう駄目だ……」
 こういって、くるりと向きを変えると、威嚇するように両手を振り廻しながら、そのまま楽屋へ駆け込んでしまった。
「あれは社会を侮辱した!………ヴェルホーヴェンスキイを捕まえろ!」と兇猛な声が咆哮し始めた。
 実際、楽屋へ追っかけても行きかねない勢いだった。少なくもその瞬間には、会場をとり鎮めるなどということは、てんで不可能だった。と、――ふいに最後のカタストロフが、まるで爆弾のように会衆の頭上に落ちかかって、そのただ中で破裂した。三番目の講演者――楽屋でしじゅう拳固を振り廻していた例のマニヤークが、とつぜん舞台へ駆け出したのである。
 彼の顔つきはまったく気ちがいじみていた。底知れぬ自信をたたえた勝ち誇ったような微笑を、顔一面に浮かべながら、湧き立つ広間を見廻していたが、自分でもその混乱をよろこんでいるようであった。彼は、こんな騒動の中で演説するようになったのに、毫も当惑したふうはなく、かえってこれ幸いと思っているらしかった。これがあまりにもありありと見え透いていたので、すぐに一同の注意を惹いた。
「あれはまた何者だ?」ときく声が聞こえた。「あれはまただれだい! しっ! いったい何をいおうというんだい?」
「諸君!」ほとんど演壇のとっぱなに立ちはだかりながら、カルマジーノフと同じ女のような黄いろい声で(ただし、貴族的なしゅっしゅっという音は出さなかった)、マニヤークは力の限りにこうどなった。「諸君! 二十年以前、ヨーロッパの半ばを敵とする戦いの前夜に当たって、ロシヤはすべての官僚派の目に、立派な理想的国家と映りました! 文学は検閲局のご奉公をし、大学では調練が教えられ、軍隊は舞踏団と化し、人民は農奴制度のしもとの下に、年貢を納めて無言の行をしていた。愛国主義は生きた者からも死んだ者からも、遠慮なく賄賂を取るということになってしまって、賄賂を取らないものは、かえって反逆者と見られていた。つまり、一般の調和を破るからであります。白樺の森は、秩序維持という名目のために倒された。かくして、ヨーロッパは慄然と恐れをなしていたのであります。しかし、ロシヤはわけのわからぬ過去一千年の存在の間にも、かかる恥ずべき状態に陥ったことはかつてなかった……」
 彼は拳を振り上げ、うちょうてんになって、もの凄い勢いで頭上《ずじょう》に一振りすると、まるで敵を粉砕しようとするかのように、いきなり猛然と打ちおろした。兇猛な叫喚が四方から起こって、耳を聾するような拍手の音が降りかかった。もうほとんど広間半分まで拍手したのである。まるで子供のように罪もなく、夢中になってしまったのだ。ロシヤが公衆の面前でおおっぴらに侮辱されたのだもの、うちょうてんになってどならずにいられるはずがない。
「ふん、そりゃ、そのとおりだ! まったく、そのとおりだ! 万歳! いや、これはもう美学や何かじゃない!」
 マニヤークはうちょうてんになって叫びつづけた。
「それ以来、二十年の星霜を経ました。大学は諸所に開設せられて、その数を増し、調練は変じて伝説と化し、将校の定員は幾千となく不足を生じ、鉄道はすべての資金をくらい尽して、ロシヤ全国に蜘蛛の巣とかかり、いま十五年も経ったら、まあ、どこへでも旅行できるようになろうか、と予想されています。橋はごく時たまにしか焼けることがないが、町は一定の順序によって、火事のシーズンに規則ただしく焼けていっています。また裁判所では、ソロモンも三舎を避けるような判決が下され、陪審員は自分が餓え死しそうな時でなければ、つまり、生存競争に余儀なくされた場合でなければ、けっして賄賂を取らぬ、と誇称しております。そして、農奴は自由になりながら、以前の地主に代わって、今はお互い同士を撲り合っている。ウォートカは政府の予算を不足させないために、大海の水もただならぬほど消費され、ノヴゴロドでは、古い役にも立たないソフィア寺院の向かいに、過去の動乱と混沌との一千年記念として、厖大な青銅の地球儀が据えられた。かくして、ヨーロッパは眉をひそめながら、ふたたび心配を始めたのであります……ああ、改革に着手して十五年! しかもロシヤは、完全に鳥羽絵めいた混沌の時代においてすら、いまだかつてかくのごとき……」
 最後の言葉は聴衆の咆哮で、聞き取ることができないくらいだった。ただ彼がふたたび手を振り上げていま一ど勝ち誇ったように、打ち下ろすのが見えたばかりである。聴衆の歓喜は、もう常軌を逸してしまった。人々はわめいたり拍手したりした。中には『もうたくさん! もうなんにもいわないでください!』と叫ぶ婦人もあった。みな酔心地であった。弁士は一同をじろり見廻したが、自分の大成功にとろけそうだった。レムブケーがいいようのない興奮のさまで、何かだれやらに指さしているのが、ちらとわたしの目に入った。ユリヤ夫人は真っ青になって、傍へ駆け寄った公爵に、何やら急《せわ》しげな口調でいった……けれど、この瞬間、一群の人が、――多少とも公職の意味を有する人々が、六人ばかり、楽屋からどやどやと演壇へなだれ込むと、いきなり弁士を引っつかんで、楽屋へ引き摺って行った。どうしてこの人たちを振り放したのか、わたしはいまだに合点がゆかないが、とにかく彼はうまくすべり抜けて、ふたたび演壇のとっぱなへ躍り出た。そして、例の拳を振り廻しながら、あらん限りの声をふりしぼって、やっとこれだけどなった。
「しかし、ロシヤはいまだかつてかくのごとき……」
 けれど、彼はまたもや引き摺られて行った。わたしは、十五人ばかりの者が彼を救うために、楽屋へ押しかけたのを見た。しかし、それは演壇を通らずに、ちょっとした仕切りのある横手へ抜けようとしたので、仕切りはめりめりと破れて倒れてしまった……続いて、ヴィルギンスキイの妹の女学生が、例の巻いた書類を小脇に抱え、あの時と同じ服装で、あの時と同じ赤い顔をして、あの時と同じむっちり肥った体で、二、三の男女に取り巻かれながら、ふいにどこからか演壇へ飛びあがった時には、わたしはほとんどわれとわが目を疑った。うしろからは、かの不倶戴天の仇なる中学生が随っている。わたしは次のような言葉さえ耳にしたほどである。
『皆さん、わたしは不幸なる大学生の苦痛を訴えて、いたるところ彼らに抗議を提出させるために、ここへ来たものであります』
 が、わたしはもうそのとき駆け出していた。リボンはポケットの中へ隠して、勝手を知った裏口から往来へ抜け出した。もちろんまず第一にスチェパン氏のところへ志した。

[#3字下げ]第2章 祭の終わり[#「第2章 祭の終わり」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 彼はわたしに会わなかった。彼は閉じこもって、何か書いていた。わたしが幾度も続けざまに戸を叩いたり、呼んだりすると、戸の向こうから、ただこう答えた。
「きみ、わたしはもう何もかも片づけてしまったのだ。もうだれだって、このうえわたしに用のあるはずはないじゃないか?」
「あなたは何も片づけやしません、ただ何もかもめちゃめちゃになるように、し向けただけですよ。スチェパン・トロフィーモヴィチ、後生だから地口は抜きにして、開けてください。なんとか方法を講じなきゃならないじゃありませんか。ひょっとしたら、またここへぞろぞろ押しかけて、あなたを侮辱するかもしれませんからね……」
 わたしはこの際、とくにやかましく、命令的に出る権利があると思った。彼が何かもっと気ちがいじみたことを仕出かしはしないか、と心配したのである。けれど、驚いたことに、わたしはなみなみならぬ断固とした返答にぶっ突かった。
「どうかきみからさきに立って、わたしを侮辱しないでくれたまえ。これまでのことに対しては、厚くきみにお礼をいう。しかし、くり返していうが、わたしはもう人間と縁を切ったのだ、善い人間とも、悪い人間とも。今ダーリヤさんに手紙を書いてるところだ。わたしは今まであのひとのことをすっかり忘れてしまって、実に申しわけのないことをしていた。もし好意があったら、明日にもこの手紙を届けてくれたまえ。が、今は『メルシイ』だ」
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、本当のところ、これはあなたの考えておられるより、ずっと重大なことですよ。あなたは、だれかをめちゃめちゃに粉砕したつもりでいるんでしょう? ところが、あなたはだれも粉砕しやしない、かえってあなたのほうが、からのガラスびんみたいに砕けてしまったんですよ(おお、わたしはなんという粗暴な、失礼なことをいったのだろう。思い出すたびに慚愧の念を禁じ得ない!)ダーリヤさんのところなぞへ、あなたが手紙を出すことは少しもありゃしません……それに、わたしというものがなかったら、あなたは二進《にっち》も三進《さっち》もいかないじゃありませんか? あなたに世間のことが何がわかります? あなたはきっと何か企んでいますね? 本当に、あなたがこのうえ何か企んだら、それこそ失敗をくり返すだけですよ……」
 彼は立ちあがって、戸のすぐ傍へ近づいた。
「きみはあの連中と付き合ってそう長くないが、言葉も調子もすっかりかぶれてしまったね。Dieu vous pardonne, mon ami, et Dieu vous garde(どうか神がきみを赦しきみを護りたまわんことを)。しかし、わたしは常にきみの中に、紳士的素質の萌芽を認めていたから、またそのうちに悟ることもあるだろう、――ただし、すべてわれわれロシヤ人の癖として、もちろん、〔apre`s le temps〕(遅れ馳せに)だね。ところで、わたしの非実際的性質に関するきみのご注意に対しては、わたしが前からいだいていた一つの思想をきみにご紹介しよう。ほかじゃない、わがロシヤの国では、ほとんど数え切れぬほどの人たちが、実にどうも恐ろしい剣幕で、しかも夏の蠅ほどうるさく執拗に、人の非実際的性質の攻撃を唯一の仕事にしている。そして、自分以外の人間をだれかれの差別なく、手当たり次第に『非実際的だ』といって非難するんだからねえ。きみ《シェル》、わたしはいま興奮してるんだから、そのことを頭において、わたしを苦しめないでくれたまえ。いろいろきみにはお世話になった。もう一度メルシイをいうよ。そして、カルマジーノフが公衆と別れたように、別れようじゃないか。つまり、できるだけ寛大な心をもって、お互いに忘れようじゃないか。もっとも、ああしつこく昔の読者に忘れてくれと頼んだのは、あれはあの男の細工なんだが 〔quant a` moi〕(わたしにいたっては)、あんなに見得坊じゃないから、何よりもまずきみの心の若さに、――まだ誘惑に毒されない心に、望みを嘱してるんだよ。実際、きみなぞが、こんな老人を永くおぼえてる必要がないものね。きみ、『永く永く生きてください』だ。これは前の命名日に、ナスターシヤがわたしにいってくれた言葉だ。Ces pauvres gens ont quelque fois des mots charmants et pleins de philosophie.(ああいう詰まらない人間が、どうかすると、哲理に富んだ美しい言葉を持っているものだね)。きみにはあまり多くの幸福を望むまい。飽き飽きして来るからね。しかし、不幸をも望みやしない。ただ平民哲学の真似をして『永く永くお生きなさい』とだけくり返しておこう。そして、どうかあまり退屈しないように努めたまえ。この空しい希望は、わたしのものとしてつけ足しておくのだよ。じゃ、さよなら、本当にさよなら。もう戸の傍に立つのをよしたまえ、わたしは開けやしないから」
 彼は向こうへ行ってしまった。で、わたしは結局なんら獲るところなしに終わった。彼のいわゆる興奮にもかかわらず、そのいうことは滑らかで、悠々として重味があり、明らかに人の肺腑を貫こうと努めているらしかった。もちろん、彼はわたしに少し憤るところがあって、間接に復讐したものに相違ない。もしかしたら、昨日の『囚人馬車』や、『ぱっと両方へ割れる床』に対する復讐かもしれない。ことにきょう公衆の前で流した涙は、ある勝利を獲得させたとはいいながら、やはりいくぶん滑稽な立場に彼を陥れたのである。彼もこれを承知していた。ところが、スチェパン氏のように、友人同士の関係で形式の美と厳正を気にかける人は、またとほかに類がなかった。ああ、わたしは彼を責めることができない! しかし、ああした惑乱にもかかわらず、あの細かい心づかいや皮肉が残っているという事実は、わたしをそのとき安心させてしまったのである。不断とあまり変わりのない人間が、その瞬間に何か悲劇的な、思い切ったことを仕出かすような気分になっていないのは、もちろんわかり切った話である。こうわたしはそのとき考えたのだが、ああ、なんという考え違いだろう! わたしはあまりに多くのものを見のがしていたのである……
 続いて起こった出来事をしるすに当たって、翌日ダーリヤが本当に受け取った手紙の最初の数行を、ここに引いておこうと思う。
『|わが子よ《モナンファン》、わが手はおののきつつあり。されど余はいっさいを破棄せり。きみは世人を敵とする余の最後の白兵戦に、姿を示したまわざりき。きみはかの『朗読会』に出席したまわざりしが、まことによくぞせられたり。されど、剛直の士に乏しきわがロシヤの国に、ただ一人の勇士毅然として立ち、四方より起こる威嚇の声にも動ずることなく、これらの衆愚に向いて彼らの真相、即ち彼らの愚人なることを喝破せし次第を、きみは後に聞きたもうなるべし。おお、彼らは憫むべき小無頼漢、小愚人にすぎず ―― 〔voila` le mot!〕(ああいかにこの語の適切なることよ)かくして籖は抽かれたり。余は永久にこの町を去らんとす。しかも、そのいずくへ行くやを知らず。かつて余の愛したるものは、ことごとく余に背を向けたり。さわれ、きみよ、きみは清浄無垢の人なり、謙抑なる人なり。かつて心変わりやすく我意つよき女のこころによりて、ほとんど余と生涯を共にせんとしたる人なり。ついに成就せざりし二人の結婚の前に当たりて、余が心狭き涙を流したるとき、きみは侮蔑のまなこをもって余を見たまいしなるべし。きみはその美しき心根をもってしても、なおかつ笑うべき人物とよりほかには、余を眺め得ざりしことなるべし。されど、きみにこそ、余はわが心の最後の叫びを送らん。きみにこそわが最後の務めを果たさん。おお、そはただきみ一人のみ! 余は恩を知らざる痴呆漢《うつけもの》、下司なる利己主義者と、余をさげすみたまえるきみを後にして、永久に別れ去るに忍びざるなり。おもうに、かの忘恩のつれなき女《ひと》は、日ごとにこれらの言葉をきみの耳にささやけるなるべし。さわれ、悲しい哉、余はこのひとを忘るるを得ざるものなり……』云々、云々。
 こういうふうなことが、大判四ページも書き連ねてあるのだ。
 彼の『開けやしないから』の答えに、三ど拳で戸を叩いて、その後から、あなたは今日のうちに三度ぐらい、ナスターシヤを使いによこすだろうが、こっちからはけっしてもう来やしないから、とどなっておいて、わたしはそのまま彼を見棄てると、ユリヤ夫人のところへ駆けつけた。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 そこでわたしは一つの苦々しい場面の実見者となった。不幸な婦人はみすみす皆にだまされているのであった。しかも、わたしはなんとも手の出しようがなかったのだ。それに実際、わたしは夫人に向かって何がいえたろう? 落ちついてよく考えてみると、わたしの心にはただ一種の感覚、疑わしい予感のほか、なんにもありはしないのだ。わたしが入った時、夫人はほとんどヒステリイのようになって泣きながら、オーデコロンで額をしめしたり、コップの水を呑ましてもらったりしていた。彼女の前には、のべつしゃべりたてるピョートルと、まるで口に錠でも下ろされたように押し黙った公爵が立っていた。彼女は泣いたりわめいたりしながら、ピョートルの『裏切』を責めていた。夫人はこの日の失敗と恥辱とが、すべてピョートルの不在のみに起因したと考えている。それがすぐわたしの注意を惹いた。
 ピョートルについては、或る一つの重大な変化が目についた。ほかでもない、彼はなんだか恐ろしく心配そうな、ほとんど真面目くさった様子をしているのであった。ふだん彼が真面目な様子をしていることはけっしてない。いつでも笑っている、怒った時でさえ笑っているのだ。ところで、彼はよく怒った。実際、今も機嫌が悪く、乱暴で無作法な口をききながら、なんともいまいましくじれったそうだった。彼は今朝早く、偶然ガガーノフの家へ出かけたところ、そこで頭痛がして嘔気を催して来たのだと、一生懸命に弁解していた。ああ、不幸な婦人はまだこのうえだまされたかったのだ! わたしが入ったとき、一座を占めていたおもな問題は、舞踏会、――即ち、慈善会の第二部を開いたものか、どうかということだった。ユリヤ夫人は『さっきのような侮辱』を受けた後で、舞踏会に出席するのは、どうしても厭だといった。別の言葉でいえば、夫人は無理やり出席させられたかったのである。しかも、ぜひとも、ピョートルにそう仕向けてもらいたかったのだ。夫人はまるで予言者《オラクル》かなんぞのように彼を見上げていた。もし彼がすぐこの場を去ったら、夫人は病の床に就いてしまうだろう、と思われるくらいだった。しかし、彼は立ち去ろうなどと考えもしなかった。彼自身、是が非でも今日の舞踏会が成立して、どうしてもユリヤ夫人に出席してもらわなければならなかったのである。
「ちぇっ、なんだって泣くんです? あなたはどうあっても不体裁な場面を演じたいのですか? だれかに欝憤がはらしたいのですか? じゃ、ぼくにそれをはらしてください。ただお早く願いますよ。なにしろ時間はどんどん経って、なんとか決めなきゃならないんですからね。朗読会で味噌をつけたら、舞踏会で取り返すんですよ。そら、あの公爵もご同意です。ああ、公爵がおられなかったら、まあ、どんなことになったかわかりゃしない!」
 公爵は舞踏会に反対だったが(というより、ユリヤ夫人が舞踏会に出席するのに反対だった。なぜなら、舞踏会はいずれにしても開かなければならないからである)、しかし、二、三ど自分の意見なるものが引用されたとき、彼もだんだん同意のしるしに、ふんふんというようになった。それからまた、ピョートルの一通りならぬ無作法な調子にも、わたしは一驚を吃したのである。これは大分のちの話だが、ユリヤ夫人がピョートルと何か妙な関係があるなどという下劣な誹謗も行なわれたが、わたしは憤然としてこれをしりぞけた。そんなことはけっしてない、またあり得べきはずがないのだ。彼はただそもそもの初めから、社会と本省に対して勢力を得ようという夫人の空想に一生懸命で相槌を打ったり、夫人の計画に立ち入って世話をやいたり、自分から夫人のためにいろんな計画を立ててやったり、下劣なおべっかで取り入ったりして勢力を占め、ついには頭から足の爪先までまるめ込んで、夫人にとってまるで空気と同じくらいなくてはならぬものとなりおおせたのである。わたしの姿を見るとひとしく、夫人は目を輝かせながら叫んだ。
「ああ、あの方に聞いてごらんなさい。あの人もやはり公爵と同じように、始終わたしの傍を離れずにいてくだすったんですから。ねえ、あなた、これが企みだということは、ちゃんと見え透いてるじゃありませんか。ええ、わたしやアンドレイに、できるだけ悪いことを仕向けようという、いやしい狡猾な企みなんです。ええ、みんなが申し合わせたんです! ちゃんと計画が立っていたんです。みんなぐるなんです、立派にぐるなんです!」
「ああ、またいつもの癖で、仰山に考え過ぎてるんですよ。あなたの頭には、永久に詩がこびりついてるんですね。しかし……なに[#「なに」に傍点]のお見えになったのは好都合です……(彼はわたしの名を忘れたような振りをした)。この方に一つご意見を伺いましょう」
「わたしの意見は」とわたしは急き込みながら、「わたしは万事ユリヤ夫人と同意見です。企みだということは、見え透き過ぎるほどです。奥さん、わたしはこのリボンをお返しに来ました。舞踏会を開いたものかどうかという問題は、もちろんわたしの容嘴すべきことでありません。わたしにそんな権限がないのですからね。しかし、幹部としてのわたしの役目はもうすみました。短気な点はどうぞおゆるしを願いますが、どうも自分の常識と信念を傷つけるような行為をするわけにまいりません」
「お聞きになって、お聞きになって?」と夫人は両手を拍った。
「聞きましたよ。ついては、あなたに申し上げることがあります」と彼はわたしのほうへ振り向いた。「察するところ、あなた方はみんな何か変なものを食べたんですね。それで、みんなうわごとのようなことをいってるんでしょう。ぼくにいわせれば、何事も起こりゃしなかったんですよ。この町で今までになかったようなことは、またこの町で起こり得ないようなことは、けっして持ちあがりゃしなかったのです。企みとはなんです? もちろん見苦しい、いうに堪えない、馬鹿馬鹿しいことになってしまった。けれど、企みがどこにあります? それはいったいユリヤ夫人を苦しめようという企みですか? あの連中のいたずらを寛大にゆるして甘やかしておられた、彼らにとって大切な保護者を、苦しめようという企みですか? ねえ、奥さん! いったいわたしが一か月間、口を酸っぱくしていったのはなんでしょう。何をご注意したのでしょう? まあ、本当に、本当にあんな連中がなんのために必要だったのです? あんな有象無象にかかり合う必要がどこにあったのです? なぜです、なんのためです? 社会を結合するためですか? なんの、あんな連中が結合してたまるものですか、冗談じゃない!」
「いつあなたがわたしに注意してくだすって? いいえ、あなたはかえって賛成なすったのです、いいえ、要求なすったのです……わたし正直なところ、すっかり面くらってしまいました……だって、あなたが自分で奇妙な人たちを、大勢つれて来たんじゃありませんか」
「とんでもない、ぼくはあなたと争ったのです。賛成などしやしません。ところで、連れて来たには、――なるほど連れて来たに相違ありませんが、しかし、あの連中が自分のほうから、一ダースぐらい押しかけて来たからですよ。それもごく近頃のことで、『文学カドリール』をするのに、ああいうがらくたがぜひ必要だったからです。けれど、ぼくうけ合っておきますが、今日はああいうふうながらくたを十人か二十人、切符なしで引っ張り込んだものがあるのです!」
「間違いなしです!」とわたしは相槌を打った。
「そら、ごらんなさい、あなたは、もうぼくに同意してるじゃありませんか。それに一つ思い出してごらんなさい、近頃のここの風儀はどんなものです、つまり、この町ぜんたいのことですよ。ねえ、何もかも鉄面皮と、破廉恥に化してしまったじゃありませんか。あれはまったく見苦しい馬鹿騒ぎを、のべつ楽隊で囃し立ててるようなものです。あれは、そもそもだれが奨励したのです? 自分のオーソリティで擁護したのはだれでしょう? 世間の者をまごつかせたのはだれでしょう? 町のわいわい連中を怒らしたのはだれでしょう? ねえ、あなたの家のアルバムには、この町のあらゆる家庭の秘密が詩や画になって載っているじゃありませんか。その詩人や画家の頭を撫でてやったのは、あれは、あなたじゃなかったでしょうか? リャームシンに手を接吻させておやりになったのは、あれはあなたじゃなかったでしょうか? 一介の神学生が堂々たる四等官を罵倒して、その令嬢の着物をタール塗りの靴で汚したのは、あなたの目の前で起こったことじゃありませんか。ですもの、町の人があなたに反抗的な気勢を示したからって、お驚きなさることは少しもありませんさ」
「だって、それはみんなあなたが自分でなすったことですよ? ああ、なんということだろう!」
「いいえ、ぼくはあなたに注意したのです。あなたと議論までしました。おぼえていらっしゃいますか、議論までしたのですよ!」
「まあ、あなたは面と向かって嘘をつくんですか?」
「ええ、まあ、なんとでもおっしゃい。あなたはそんなことをいっても平気なんですから。あなたはいま犠牲がいるんです。だれにでもいいから欝憤がはらしたいのです。さあ、ぼくにそれをはらしてください、さっきもそういったじゃありませんか。しかし、ぼくはきみにお話したほうがいいようだ、あの……(彼はいまだにわたしの名を思い出せないようなふうをした)一つ指を折って、勘定してみようじゃありませんか。ぼくは断言しておきますが、リプーチン以外には、企みなんてものは少しもありません、けっしてありません! それはぼくが証明してお目にかけますが、まずリプーチンを解剖してみましょう。あの男は、レビャードキンの馬鹿者の作った詩をひっさげて登壇しました、――ところで、どうでしょう、きみのご意見ではこれが企みなんですか? しかしねえ、リプーチンにしてみれば、あれが単に気の利いた洒落のように思われたのかもしれませんよ。真面目に、まったく真面目にそう思ったのかもしれません。あの男は、みんなを笑わせてやろうという目的で、登壇したばかりです。第一に、自分の保護者たるユリヤ夫人を、慰めて上げようと思ったのです。それっきりですよ。きみ、本当にしませんか? だって、この一月ばかりの間、ここでやっていたことを考えると、これなぞも同じ調子のものじゃありませんか? それに、なんなら、すっかりいってしまいますがね、まったくのところ、ほかの場合だったら、或いは問題にならずにすんだかもしれないくらいですよ! もちろん無作法な洒落です、いや、むしろ薬の利き過ぎた洒落です。が、まったく滑稽な洒落じゃありませんか?」
「え? じゃあなたはリプーチンの行為を、気の利いた洒落だと思ってるんですか?」恐ろしい憤懣のさまで、ユリヤ夫人はこう叫んだ。「まあ、あんな馬鹿な、あんなへまな、あんな下劣な、卑怯な、――あれはわざとしたことです、ええ、あなた方がわざと仕組んだことです、――そんなことをおっしゃる以上、あなたもやはりその仲間です!」
「そうでしょうとも、うしろのほうに隠れていて、あのからくりをすっかり操っていたのでしょうよ。しかし、もしぼくがその企みに加担していたとすれば、――ねえ、いいですか、――到底リプーチン一人ですみやしなかったはずですよ! こういえばあなたは、ぼくが親父としめし合わしてわざとあんな醜体を演じさした、とでもおっしゃるでしょう。ところが、親父に演説なんかさしたのは、いったいまあだれの責任なんでしょう? 昨日あなたを止めたのはだれでしょう、ついほんの昨日のことですよ!」
「Oh, hier il avait tant d'esprit.(ああ、昨日あの人はあれほどの才気をお見せになったのに)わたし、それを当てにしていたんですの。それに、あの人の態度も立派ですから、わたしもよもやあの人とカルマジーノフに限って……ところが、あのとおりの始末です!」
「ええ、あのとおりの始末です。しかし、その tant d'esprit(あれほどの才気)にもかかわらず、親父は会をめちゃめちゃにしてしまいました。ところで、もし親父が会をめちゃめちゃにするってことを、ぼくが初めから知っていたとすれば、ぼくはあなたのご意見によると、明らかにこの催しをぶっ毀す企みに加担してるんだから、山羊を畠へ放つようなことをしてはいけないなどと、昨日あなたを留めるはずがないに決まってるじゃありませんか、ね、そうでしょう? ところが、ぼくは昨日あなたを留めました、――つまり、虫が知らせたから留めたのです。もっとも、何もかも見抜くなんてことは、不可能でした。おそらく親父も一分まえまでは、何をいい出すか自分でもわからなかったのでしょう、全体あんな神経過敏な老人連に、人間らしいところでもありますか? しかし、まだ応急の方法があります。明日にも公衆の憤慨を満足させるために、法定の手続きを踏んで、あらゆる礼儀を失わないように、親父の所へ二名の医師をやって、健康診断をさせたらいいですよ。なんなら、今日でもかまいません。すぐに病院へやって、冷湿布でもさせるんですな。そうすれば、少なくとも、みんなお笑い草にしてしまって、何もむきになって怒ることはない、と悟りますよ。ぼくは今日さっそく舞踏会でこのことを披露しましょう。だって、ぼくは親父の子ですからね。しかし、カルマジーノフのほうは違います。あの男はまったく馬鹿げきった様子で登壇して、まる一時間あの文章を読みつづけたんですからなあ、――これなどはもう明白に、ぼくとぐるになったのです! さあ、一つユリヤ夫人をへこますために、一騒ぎ起こしてやろうかなというはらで!」
「おお、カルマジーノフ、Quelle honte! (なんて恥さらしだろう!)わたしは顔から火が出るようでした。聴き手の心を想像すると恥ずかしくって、まるで顔から火が出るようでした!」
「ふん、ぼくは顔から火を出すどころじゃない、自分であいつを烙き殺してやりたいくらいでしたよ。まったく聴き手のほうがもっともなんです。ところで、しつこいようですが、カルマジーノフの一件はだれの責任なんでしょう? ぼくがあの男をあなたに押しつけたのでしょうか? あの男の崇拝に、ぼくもお仲間入りをしたのでしょうか? いや、まあ、あんなやつなんかどうでもいい。さて、今度は三番目に出た変人、あの政治気ちがいですが、これはちょっと種が違います。あれは皆が揃って失敗したのです。何もぼくの企みばかりのせいじゃありません!」
「ああ、もういわないでください、恐ろしい、恐ろしい! それはもうわたし一人の責任です」
「もちろんです。が、ここでぼくはあなたの弁護をしましょう。まったくああいう無作法な連中の監督は、だれにだってし切れるものじゃありません! ペテルブルグの会だって、ああいう連中を防ぎきれやしませんよ。それに、あの男は紹介状を持って来たんでしょう、しかも立派な紹介状を! そこで、あなたも合点がいったでしょう。あなたはどうしても今夜の舞踏会に出席する義務があります。ね、ここが肝腎なとこなんですよ。だって、あなたが自分であの男を、演壇へ引き出したも同じわけなんですからね。だから、あなたは今夜、公衆に向かって、自分はあの男と共同で仕事をしてるわけじゃない、あの乱暴者はもう警察の手に渡されている、自分はいつともなしにだまされていたのだ、とこういっておく義務があります。あなたは自分が気ちがいの犠牲になったということを、憤慨の語気をもって告げなければなりません。だって、あの男は気ちがいじゃありませんか、それっきりですよ。あの男のことは、そんなふうにいっておく必要があります。ぼくはああいう咬みつき屋がいやでたまらないんだ。もっとも、ぼくのほうがより以上ひどいことをいってるかもしれません。しかし、演壇に立ってるのと違いますからね。それに、この頃ちょうど元老院議員の噂が喧しいおりですから……」
元老院議員てだれのこと? だれがそんなことをいってますの?」
「実は、ぼく自身なんにも知らないんですが、奥さん、あなたは元老院議員とかいうような噂を、少しもごぞんじないのですか?」
元老院議員?」
「まあ、お聞きなさい、世間ではね、ある元老院議員がここの知事に任命されることになった、つまり、本省のほうであなた方を更迭させようとしている、とこんなふうに信じきってるんですよ。ぼくはいろんな人から聞きましたよ」
「ぼくも聞きました」とわたしは裏書きした。
「だれがそんなことをいってました?」ユリヤ夫人は顔をかっとあかくした。
「つまり、だれが一番にいい出したか、とおっしゃるんですね?……そんなことぼくが知るはずはありませんさ。ただみんながそういってるんです。世間でそういってるんです。ことに、昨日などは盛んなものでした。どうもみんなが恐ろしく真面目なんです。そのくせ、ちっともとりとめたところはないんですがね。むろん、すこし考えのある、もののわかった人は黙っていますけれど、それでも中には、世間の話に耳を傾ける人もあります」
「なんという卑劣な! そして……なんという馬鹿馬鹿しいこったろう!」
「ね、だから、こういう馬鹿者どもに思い知らせてやるために、あなたは今夜どうしても出席しなくちゃなりません」
「わたしも実のところ、そうする義務があると感じてはいるのですけれど、でも……もしまた新しい恥をみるようなことがあったら、どうしましょう? もし人が集まらなかったら、どうしましょう? だって、だれも来やしません、だれ一人、だれ一人……」
「どうしてあなたはそう熱くなるんです! それは、あの連中が来ないということですか? じゃ、新しく縫った着物はどうするんです? 令嬢方の衣裳はどうなるんです? そんなことをおっしゃるようじゃ、ぼくは婦人としてのあなたの資格を否定しますよ。人情通というものは、そんなもんじゃありませんよ!」
「貴族団長の奥さんはお見えになりません、ええ、お見えになりません!」
「だが、いったい何事が起こったというんです! なぜ人が出て来ないんです?」とうとう意地悪げな、いら立たしい調子で、彼はこうどなった。
「不名誉です、恥辱です、――こういうことが起こったのです。わたしも何がなんだかはっきりはわかりませんが、とにかく、わたしとして出席できないようなことがあったのです」
「なぜです? まあ、いったいあなたがどうして悪いのです? なんだって自分ひとり悪者にしておしまいになるのです? むしろ聴衆のほうが悪いのじゃありませんか。あなたから見れば年長者であり、一家のあるじたる人たちは、ああしたやくざなごろつきどもを制止すべきじゃなかったのでしょうか。実際、あいつらはやくざなごろつきで、少しも真面目な分子はなかったのですからね。いかなる社会にあっても、単に警察の力ばかりでは、けっして制御しきれるものじゃありません。ところが、ロシヤではだれでもかれでも社会へ入って来ると、自分に巡査を一人特別に付けて保護してくれと要求しています。なにしろ、社会はみずから保護するものだということがわからないんですからね。今度のような場合、一家のあるじとか、高官とか、妻とか、娘とかいう人たちは、どういう態度をとるでしょう? 黙ってふくれるだけです。まったくいたずら者を取り締るというだけの範囲ですら、社会の自発的精神が欠けてるんです」
「まあ、なんといううがった言葉でしょう! 黙って脹れて……そして、あたりを見廻してるんですわ」
「それがうがった言葉だとすれば、あなたはこの際、それを口に出していわなきゃなりません、傲然と厳めしく……実際あなた、自分が敗北したのでないってことを、示してやる必要がありますよ。あの老人連や、主婦たちに示してやらねばなりません。ええ、あなたならできますとも。あなたは頭のはっきりしている時には、天賦の才能があるんですもの。ああいう連中をひとまとめにしといて、大きな声でやるんですよ、大きな声で。それから後で、『声《ゴーロス》』や『取引所報知』の通信欄へ寄稿するんですね。いや、お待ちなさい、ぼくが自分で仕事にかかりましょう。ぼくがすっかりうまくこしらえて上げましょう。もちろん、いっそうの注意を要しますがね。食堂の監督もしなけりゃなりません。それには、公爵もお願いしなきゃならないし、あの……なに[#「なに」に傍点]にもお願いしなきゃならないですねえ、|きみ《ムッシゥ》、こうして何もかも、初めからやり直さなければならないって時に、われわれを見棄てたりなんかできませんよ。ね、奥さん、こうして最後にあなたが、知事公に手をひかれて出るという段取りです。ときに、知事公のご容体はいかがですか?」
「ああ、あなたはいつでもあの天使のような人に、なんという不公平な間違った批判を加えていらしったでしょう!」とつぜん思いがけない発作に駆られて、ほとんど涙をこぼさないばかりに、ハンカチを目へ持ってゆきながら、ユリヤ夫人は叫んだ。
 ピョートルもちょっと毒気を抜かれた。
「とんでもない、ぼくは、――まあ、いったいどうしたというんです!………ぼくはいつも……」
「いいえ、あなたは一度も、一度もあの人を本当に認めなすったことがありません!」
「女というものは、とてもわかりっこありゃしない!」ひん曲ったような苦笑を浮かべつつ、ピョートルはこうつぶやいた。
「たくは類のないほど正直な、優しい、天使みたいな人です! 類のないほどいい人です!」
「とんでもない、知事公がいい人だってことは、ぼくらにも……知事公がいい人だってことは、ぼくも始終みとめて……」
「いいえ、一度だってそんなことはありゃしません! だけど、もうその話はやめましょう。わたしの口の出し方もずいぶんまずかったのですから。さっきあの貴族団長の細君がね、本当に憎らしい、昨日のことで二こと三こと皮肉をいったんですのよ」
「おお、あのひとは今きのうの皮肉どころじゃありません。あのひとには今日の心配が別にあるんです。それに、あのひとが舞踏会に来ないからって、どうしてそんなに気をお揉みになるんでしょう? むろん、あんな醜事件にかかりあった以上、けっして来られやしませんさ、或いはあのひとに罪はないかもしれない。けれど、世間が承知しませんよ。もう手が汚れてるんですからね」
「なんですって、わたしよくわかりません。なぜ手が汚れてるんですの?」とユリヤ夫人は不審げに相手を見つめた。
「いや、ぼくは何も保証するわけじゃありませんがね、しかし、町じゅうのものが、あのひとの手引きだといってはやし立てていますよ」
「なんですって? だれを手引きしたんですの?」
「へえ、いったいあなた方はまだごぞんじないのですか?」彼は巧みに驚愕の表情を示しながら叫んだ。
「スタヴローギンとリザヴェータさんをですよ!」
「えっ? なんですって?」とわたしたちは口を揃えて叫んだ。
「じゃ、本当にごぞんじないのですか? ふゅう!(と彼は口笛を吹いた)とんでもない悲劇小説が持ち上ったのですよ。リザヴェータさんがいきなり貴族団長夫人の馬車から飛び出して、スタヴローギンの馬車へ乗り移ると、そのまま『相手の男』といっしょに、スクヴァレーシニキイヘ突っ走ってしまったんです、しかも昼の日中にね。つい一時間ばかり前です。いや、一時間にもならぬくらいです」
 わたしたちは化石のようになってしまった。が、もちろん、すぐに先を争って、くわしい様子をたずねた。けれど、驚いたことには、自分で偶然その場にい合わせたといってるくせに、彼は何一つ順序だった話ができなかった。とにかく、事件は次のようにして起こったらしい。貴族団長夫人が『朗読会』から、リーザとマヴリーキイを連れて、馬車でリーザの母(彼女は依然として足を病んでいた)の家へ着いたとき、車寄せから二十五歩ばかり隔てた小わきのほうに、だれかの馬車が待ちかまえていた。リーザは車寄せへ飛び下りるやいなや、いきなりこの馬車のほうへかけ寄った。馬車の戸は開いて、またばたりと閉まった。リーザがマヴリーキイに向かって、『勘忍してちょうだい!』といったかと思うと、――馬車はまっしぐらにスクヴァレーシニキイヘ馳せ去った。いったいそれには前もって打ち合わせがあったのか? 馬車の中にはだれがいたか? というようなわたしたちの性急な問いに対して、ピョートルは何も知らないと答えた。ただむろん前から打ち合わせはあったものに相違ない、また馬車の中には当のスタヴローギンの姿は見分けられなかったが、たぶん老僕のアレクセイでもいたのだろう、というくらいのことだった。『どうしてあなたはその場にい合わせたのです? また、確かにスクヴァレーシニキイヘ行ったということを、どうしてご承知なのです?』という問いに対して、彼はただ偶然そばを通りかかったために、い合わしたのだと答えた。彼はその時リーザの姿を見つけたので、馬車の傍へ駆け寄りさえした、とのことである。(それだのに、あの好奇心のさかんな男が、馬車の中にだれがいるのか、見きわめなかったというのだ!)マヴリーキイは、跡を追おうとしなかったばかりか、リーザを引き止めようとさえ試みなかった。そして、一ぱいの声を張り上げて、『あの子はスタヴローギンの所へ行くんです! スタヴローギンの所へ!』と叫ぶ貴族団長夫人を、自分の手で押し止めたほどである。この時、わたしは我慢しきれなくなって、憤然とピョートルをどなりつけた。
「このやくざ者め、それはみんな貴様の仕組んだことだ! 貴様はそのために今朝一ぱいつぶしてしまったのだ。貴様がスタヴローギンの手伝いをしたんだ、貴様がその馬車に乗って来て、貴様が自分で乗せたんだ……貴様だ、貴様だ、貴様だ! 奥さん、こいつはあなたの敵ですよ、こいつはあなたの一生も台なしにしてしまいます! 気をおつけなさい」
 こういうと、わたしは一さんに家を駆け出した。
 どうしてあの時あんなことをどなったのか、今にいたるまで合点がいかない。自分でも驚いているくらいである。しかし、わたしの想像はことごとく的中した。ほとんどわたしのいったとおりであったことが後日判明した。何よりも、彼がこの出来事を語った時のうさん臭い態度が、あまりにもまざまざと見え透いていたからである。彼はこの家へ来たとき、非常な出来事として第一番にこれを報告すべきはずなのに、お前たちはもう自分の来ないさきに知ってるだろう、というような顔つきをしていた、――そんなことがあれだけの短時間のうちにできるはずがないではないか。よしんば知っていたとしても、彼が口を切るまで黙っているわけがないのだ。また、町で貴族団長夫人のことを『囃し立ててる』ことなど、やはりあの短時間のうちに聞き込めるものでない。そればかりか、彼はあの話をしているうちに二度までも、なんだか妙に卑しげな軽はずみな笑いをにたりと洩らした。おそらくわたしたち馬鹿者をすっかりだましおおせた、とでも思ったのだろう。しかし、わたしはこんな男にかまっている暇がなかった。大体の事実だけは信じたので、われを忘れてユリヤ夫人の家を駆け出したのである。
 このカタストロフはわたしの心臓を刺し貫いた。わたしは涙の出るほど苦しかった。いや、或いは本当に泣いたかもしれない。もう、どうしたらいいかまるでわからなかった。まずスチェパン氏のところへ飛んで行ってみたが、なんといういまいましい人間だろう、また開けてくれなかった。ナスターシヤはうやうやしげな声で、いま横になって休んでおられますとささやいたが、わたしは本当にしなかった。リーザの家では、召使のものにいろいろと聞くことができた。彼らも家出のことは肯定したが、それ以外のことは、自分たちでもまるで知らなかった。家の中はごたごた混雑していた。病める老夫人が気絶したのである。マヴリーキイはその傍に付き添っていたので、彼を呼び出すことはできないと感じられた。ピョートルのことについては、召使もわたしの執拗な問いに対して、あの人はこの二、三日しきりに出入りして、ときによると日に二度も来たことがあると答えた。召使たちは沈み勝ちな様子をしていて、リーザのことは特別うやうやしげな調子で語った。みんな彼女を好いていたのである。彼女が自滅したことは、――すっかり自滅してしまったということは、もはやわたしにとって疑う余地がなかった。けれど、この事件の心理的方面にいたっては、わたしにはかいもく見当が立たなかった。ことに、きのう彼女とスタヴローギンの間にああいう場面があったばかりだから、なおさらである。町じゅう駆けずり廻りながら、もう疾くにこの噂を聞き込んで、意地悪いよろこびを感じてるに相違ない知己の家々で様子をただすのは不快であったし、第一リーザにとって恥辱になることだった。しかし、不思議なことに、わたしはダーリヤのもとへ立ち寄ったのである。もっとも会ってはくれなかった(スタヴローギン家では昨日のことがあって以来、だれにも面会しないのだ)。わたしはなんのためにここへ寄ったのか、何を彼女に話そうと思ったのか、今だにわれながら合点がいかない。彼女のもとを辞すると、わたしはその兄の家へおもむいた。シャートフは気難かしそうな様子をして、無言のまま聞き終わった。ついでにいっておくが、彼はこれまでにない沈んだ心持ちでいるらしかった。なんだかひどく考え込みながら、わたしのいうことなども、やっと努力して聞いている様子だった。彼はほとんど一言も発しないで、いつもより余計に大きく靴音を立てながら、部屋の中を隅から隅へ絶え間なく歩き廻った。もうわたしが階段を下りかけていると、彼はうしろから声をかけて、リプーチンのところへ寄ってみろとどなった。
「あすこへ行ったらみんなわかるよ」
 が、わたしはリプーチンのところへ寄らないで、もうだいぶ離れていたのに、途中からまたもやシャートフのところへ引っ返した。そして、戸を半分開けたまま中へは入らず、少しの説明もなく言葉少なに、
「きみ、今日マリヤさんのところへ行ってみませんか?」と命令するようにいった。
 この返答に、シャートフはさんざんわたしを罵倒した。が、わたしはそのまま立ち去った。忘れないように、ちょっとここへ書いておくが、彼はその晩わざわざ町はずれまで出かけて、だいぶしばらく会わなかったマリヤを訪れたのである。行ってみると、マリヤはこの上なく丈夫で機嫌がよかったが、レビャードキンは取っ付きの部屋の長いすの上で、死人のように酔っぱらって寝ていた。それは正九時だったとのことである。翌日、往来でわたしに出会った時、彼は自分の口から忙しげにこのことを報告した。
 わたしはもう夜九時すぎになって、舞踏会へ出かけようと決心した。しかし、それは『幹事たる青年』という資格ではなく(それに、リボンもユリヤ夫人のところに残して来た)、ただ制し難い好奇心のためである。つまり、ああした出来事を町の人はどう噂してるか、それを自分の口からきかないで、黙って観察したかったからである。それに、遠くのほうからでもいいから、一目ユリヤ夫人の顔が見たくもあったのだ。さきほどあんなふうに夫人のもとを駆け出したのが、恐ろしく心に咎めてならなかったのである。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 ほとんど馬鹿馬鹿しいくらいの出来事にみちたこの晩と、恐ろしい『大団円』をもたらしたその明け方とは、いまだにまるで醜い悪夢かなんぞのようにわたしの脳裡にちらついて、この記録の最も苦しい部分、――少なくもわたしにとっては、――を成しているのだ。わたしは舞踏会にそれほど遅れたわけでもなかったが、それでも行きついた時には、すでに終わりに近かった(実際この舞踏会は、そんなにも早く終わるべき運命を担っていたのである)。わたしが貴族団長夫人の家の車寄せに駆けつけた時は、もはや十時すぎていた。今朝ほど朗読会の行なわれた例の白い広間は、僅かの間にもうすっかり飾りつけができて、町じゅうの人の(という予想だったので)おもな舞踏場として準備が整っていた。わたしは今朝ほどずいぶんこの舞踏会の成功を危んではいたものの、それでも事実に現われたようなことは予期していなかった。上流の家庭からだれひとり姿を見せなかったのはもちろん、官吏仲間でもちょっと地位のある者はみな背を向けた、――これなどはきわめて重大な徴候である。夫人令嬢などはどうかというに、さきほどのピョートルの予想は、まるで間違いだということがわかった(今になってみれば、それも狡猾なごまかしだったに相違ない)。集まって来たのはごく小人数で、男四人あたりに婦人が一人あるかなしの有様だった。しかも、その婦人というのが大変なしろ物なのだ!『どこの馬の骨か知れないような』連隊つき尉官の細君や、郵便局員や小役人の家内といったようなごみごみした連中のほかに、娘をつれた三人の医者の細君、二、三人の貧乏地主の妻、前にもちょっと紹介しておいた書記の姪と七人の娘、商家の内儀連、――これがまあ、ユリヤ夫人の期待していたものだろうか? 商人連でさえ半分もやって来なかった。
 男のほうはどうかというに、町の名士は揃って顔を見せなかったが、それでも人数だけは、うようよするほど集まっていた。しかし、全体の印象は、なんだか妙なうさん臭いものだった。もちろん、幾人かのもの静かな将校たちも、細君同道で来ていたし、例の七人の娘をつれた書記のように、相当身分のある一家のあるじといったような人もだいぶ見えていたが、こうしたおとなしいごみごみした連中でさえ、いわば『やむを得ず』顔を出したにすぎない。現にこの連中の一人がそういったのである。ところが、いま一方から見ると、わいわいの弥次馬連や、今朝わたしやピョートルが切符なしに入れてもらったのではないかと疑ったような連中は、今朝よりずっと増えていた。彼らはまずしばらく食堂に坐り込んでいた。それどころか、やって来るといきなり、まるで前からしめし合わせた場所かなんぞのように、ずっと食堂へ通って行くのだ。少なくもわたしにはそう思われた。食堂は一番はじの広い室に設けてあった。そこではプローホルイチが、クラブの庖厨のありとあらゆる誘惑を移して、摘物《ザクースカ》や飲物をこれ見よがしに並べ立てながら、陣取っていた。
 わたしはここでただ穴が開いてないというだけのフロックや、思い切って舞踏会らしくない怪しげな服を着た連中が幾人かいるのに気がついた。彼らは幹事の恐ろしい骨折りで、ほんのちょっとの間だけ酔っぱらい騒ぎを我慢しているに相違ない。中にはどこからやって来たのか、よその町の人間も少し交っていた。もちろん、ユリヤ夫人の発議で、舞踏会は思いきり民主的なものにする予定だったのは、わたしも承知していた。『もしただの平民でも、切符代を払いさえすれば、入場を拒絶しないことにしよう』夫人は委員会の席上で、こういう言葉を大胆にいい放った。しかし、それはこの貧しい町の平民がただの一人だって、切符を買おうという気を起こすはずがないのを、十分信じ切っているからである。が、いかに委員会が民主的傾向を持っているにもせよ、こんな破れフロックを着た怪しげな連中を入れようとは、思いも寄らなかった。いったいだれがどんな目的で入れたのだろう? リプーチンとリャームシンは、もう幹事のリボンを剥がれてしまった(もっとも『文学カドリール』に加わっているので、広間の中にい合わせたけれど)。しかし、リプーチンの跡をおそったのは、意外千万にもスチェパン氏との争いによってだれよりも一ばん朗読会をけがした例の神学生だし、リャームシンの後任は当のピョートルだった。こういう有様だもの、万事はおよそ想像がつくではないか!
 わたしは努めて、人々の会話に耳を澄ましたが、中には奇怪さにあきれ返るような意見もあった。たとえばある一団では、スタヴローギンとリーザの一件を仕組んだのはユリヤ夫人で、夫人はその礼として、スタヴローギンから金を取ったと断言したばかりか、その金額さえ明らかに名指すのであった。彼らの話によると、この会もその目的で開かれたので、町の人もことの真相を悟ったために、半分以上顔を出さないのだ、ところで亭主のレムブケーは、あんまり小っぴどくやられたので、『頭の調子を変にしてしまった』、そこでユリヤ夫人は気のちがった亭主を自由に操っているのだ、――この言葉と共に粗野な、しゃがれた、はらに一物ありげな笑声が、どっと起こった。舞踏会のことも同様おそろしくこき下ろしていたが、ユリヤ夫人にいたっては、もう頭から無遠慮に罵倒するのであった。全体として、これらの会話はだらしのない、途切れ勝ちな、ざわざわした、一杯機嫌の饒舌なので、よく咀嚼して何かの意味をつかもうなどということは不可能だった。
 この食堂には、ただなんという意味もなく陽気にはしゃいでいるような連中も陣取っていた。その間には幾たりかの婦人すら交っていたが、それはどんなことがあってもびくともしないしたたか者らしかった。おもに夫君同道の将校夫人で、恐ろしく愛嬌がよくて、陽気そうにしている。彼らは組を作って別のテーブルに向かいながら、ひどく愉快そうに茶を飲んでいた。こうして食堂は、集まって来た人々の半数のための暖い避難所という形になってしまった。けれど、いま少し経ったらこの群衆が、どやどやと広間へ押しかけて行くに相違ない、こう思ったばかりでも恐ろしい気がした。
 その間に、白い広間では例の公爵も加わって、三度ばかり貧弱なカドリールがあった。娘たちが踊ると親はそれを見てよろこんでいた。しかし、ここでもちょっと身分のある人々の中には、いいかげん娘をよろこばせたら、『おっ始まらないうちに』うまく逃げ出したいものだ、と考えている連中が大分あった。だれでもかれでも差別なしに、必ず『おっ始まる』に相違ないと固く信じていた。当のユリヤ夫人の心持ちを描き出すことは、わたしにとってほとんど不可能である。わたしはかなり間近く夫人の傍を通り過ぎたが、別に話はしなかった。入りしなに会釈をしたが、夫人はわたしに気がつかないで、それに答えようとしなかった(実際、気がつかなかったのだ)。その顔は病的な表情を呈して、目には嘲るような傲慢な色が浮かんでいたけれど、きょときょとと落ちつきがなく不安そうであった。見受けたところ、夫人は自分で自分を抑制しようと苦しんでいるらしい。いったいそれはなんのため、だれのためだろう? 彼女はぜひこの場を去って、夫を(これが最も大切なことである)連れて行かなければならなかったのだ。けれども、彼女は踏みとどまった! もはや顔を見ただけでも、夫人の『目はすっかりあいて』しまって、このうえ何物をも期待できないと覚悟しているのは、ちゃんと見えているのであった。夫人はもうピョートルを傍へ呼び寄せようともしなかった。こちらでもみずから夫人を避けているらしい(わたしは食堂で彼を見かけたが、恐ろしく陽気らしいふうであった)。が、それでも夫人は舞踏会に踏みとどまって、レムブケーをちょっとの間も放さないようにした。ああ、彼女は最後の瞬間までも、偽りならぬ心からの憤激をもって、夫の健康を云々する当てこすりをしりぞけたかったのである、今朝ほどでさえそうだったのだ。しかし、いま彼女の目は、この点に関しても、開かれなくてはならなかったのである。
 わたしはどうかというに、一目見るなりレムブケーの様子が、今朝よりずっと悪くなっているように思われた。まるで茫としてしまって、自分が今どこにいるかということすら、はっきりわかっていないらしかった。ときどき彼は思いがけない厳めしい顔をして、傍らを振り返ってみるのであった。わたしなども二度ばかり睨まれた。一度は何やら話そうとして、大きな声で口を切ったが、しまいまでいわずにやめたので、ちょうど傍にい合わせた一人のおとなしい老官吏などは、ほとんどおびえあがらないばかりだった。しかし、白い広間にい合わした公衆の中でも、このおとなしい部類に属する人たちでさえ、沈んだ様子でこそこそと、ユリヤ夫人をよけて通ったが、それと同時に、ひどく奇妙な視線を知事公のほう

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP433-P474

結果の……どうやらわたしはいま広場できみを見受けたようですな。しかし、恐れたまえ。きみ、恐れたまえ。きみの思想の傾向はちゃんとわかっている。よろしいか、わたしはこのことを含んでおくから。わたしはね、きみ、きみの講演なぞさし許すわけにはいかん、断じていかんです。そんな請願なんか、わたしのところへ持って来ないでくれたまえ」
 彼はふたたび通り抜けようとした。
「閣下、くり返して申しますが、閣下は思い違いをしておられるのです。それは、奥さんがわたしに依頼されたのです、――しかも、講演じゃありません。明日の慈善会で、何か文学上の話をと頼まれたのです。しかし、今となっては、わたし自身からそんなご依頼は辞退します。ただ折り入ってお願いしたいのは、ほかじゃありません。いったいどういう具合で、なんのために、いかなる理由で、わたしは今日のような捜索を受けたか、それを説明していただきたいのです。わたしは幾冊かの本と、書類と、自分にとって貴重な私信を没収されて、手車に積まれて町中を引き廻されたのです……」
「だれが捜索したって?」思わずぴくりとなって、レムブケーはすっかりわれに返ると、急に顔を真っ赤にした。
 彼はちらりと、署長のほうを振り向いた。その瞬間、戸口に背中のかがんだ、ひょろ長い無恰好なブリュームの姿が現われた。
「ああ、この役人です」とスチェパン氏は彼をさした。
 ブリュームはいかにも悪かったというような、とはいえ、容易に閉口しそうもない顔つきで進み出た。
「〔Vous ne faites que des be^tises.〕(きみはこんな馬鹿なことしかしないのだ)」と、いまいましさと腹立たしさに、レムブケーは彼にほうりつけるようにいった。レムブケーはなんだか急に様子が一変して、一時に正気に返ったかのようであった。
「失礼しました……」彼は恐ろしくまごつきながら、こんかぎり顔をあかくして吃り吃りいった。「あれはみんな……あれはどうも、みんな失策にすぎないらしいです、誤解です……ほんの誤解です……」
「閣下」とスチェパン氏は口を出した。「わたしは若い時分、ある一つの興味ある出来事を目撃しました。あるとき、劇場の廊下でだれか一人の男が、足早にいま一人の男の傍へ近づいて、大勢いる前で横っ面をぴしゃりと食らわしたのです。ところが、すぐに気がついてみると、被害者は本当に撲ってやろうと思った人とは、まるで違っていて、ちょっと顔が似ているだけだ、ということがわかったのです。すると、その撲ったほうは、まるで貴重な時間を潰してる暇がないといったように、せかせかしながら、腹立たしそうな調子で、ちょうどいま閣下のおっしゃったのと寸分たがわず、『間違いました……失礼しました、これは誤解です、ほんの誤解です』といったものです。それでも侮辱を受けたほうの男が、いつまでも腹を立ててわめいているものだから、さもいまいましそうな調子で、こういったものです。『ぼくはほんの誤解だといってるじゃありませんか。なんだってあなたはいつまでも大きな声を出してるんです!』」
「それは……それはもちろん、非常に滑稽な話だが……」とレムブケーはひん曲ったような微笑を浮かべた。「しかし……しかし、わたし自身どんなに不幸な人間か、それがあなたにはわからないんですか?」
 彼はほとんど叫ばないばかりにこういった。そして……そして、あやうく両手で顔をおおいそうになった。この思いがけない病的な絶叫、いや、むしろすすり泣きの声は、聞くに堪えないほどであった。それは、おそらく昨日から今日へかけて、初めて完全に明瞭にいっさいの出来事を自覚した瞬間だったに相違ない。が、たちまちその自覚に続いて、自分を裏切るような、なんともいえぬ情けない絶望がおそうた。もう一瞬の間があったら、あるいは広間一杯に響き渡るような声で、泣き始めたかもしれぬ。スチェパン氏は、初めきょとんとした目つきで、相手の様子を眺めていたが、やがてとつぜん頭を下げ、情のこもった声でしんみりと口を切った。
「閣下、もうわたしのくだらない不平などに心を痛めないで、どうかわたしの本と手紙を戻すように命じてください……」
 彼は途中で話の腰を折られた。ちょうどこの時ユリヤ夫人が、大勢の取り巻き連をつれて、どやどや帰って来たのである。ここのところを、わたしはできるだけ詳しく書きたいと思う。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 まず第一にいっておくが、三台の馬車から下りた一同の者は、いきなりどやどやと客間へ入ったのである。ユリヤ夫人の居間へ入る口は別になっていて、玄関からすぐ左手についていたが、今はみんな広間を通って行った、――そのわけは、わたしの想像するところ、この広間にスチェパン氏が居合わしたからに相違ない。なぜなら、同氏の身に起こったことも、シュピグーリン職工のことも、みんな町へ入ると同時に、ユリヤ夫人の耳に入ったからである。これを今の間に注進したのは、リャームシンである。彼は何か失策を仕出かしたため、置いてきぼりを食わされて、今日の訪問に加えてもらえなかったが、おかげでだれよりも早くあの出来事を知ったのである。彼は意地の悪いよろこびを感じながら、愉快な報知を伝えようとコサックのやくざ馬を借りて、帰って来る一行を迎えに、スクヴァレーシニキイヘと街道づたいに飛ばして行った。わたしの考えるところでは、ユリヤ夫人は元来、男勝りの気性ではあるけれども、こうした意想外の報知に接した時は、やはり幾分まごついたに違いない。が、それとてもほんの一瞬のことらしい。たとえば、この問題の政治的方面にしたところで、そんなことは夫人の心を煩わすはずがなかった。もうピョートルが四度ばかり、シュピグーリンの暴れ者どもは一人残らずぶん撲ってやらなければならぬと、夫人の頭へ吹き込んだからである。実際、もうだいぶ前から、ピョートルは夫人にとって絶対的なオーソリティとなっているのであった。
『けれども……わたしあの人にこのお礼をしてあげるんだから』夫人はきっとこう独りごちたに違いない。ただし、あの人[#「あの人」に傍点]というのは、もちろん夫をさしているのだ。
 ついでにちょっと断わっておくが、ピョートルもやはりわざと狙ったように、今日の訪問に加わっていなかった。そればかりか、朝からだれひとり彼の姿を見たものがないのである。もう一ついっておかねばならぬことがある、ヴァルヴァーラ夫人も自宅に客人たちを迎えた後、ユリヤ夫人と一つ馬車に乗って、一同とともに町へ帰って来た。それは明日の慈善会のことで、最後の打合わせに列席するためであった。リャームシンのもたらしたスチェパン氏に関する報知は、彼女にも同じく興味をいだかせたに相違ない、いや、ひょっとしたら、胸騒ぎを感じさせたかもしれない。
 レムブケーに対する返報がえしは、すぐに始まった。ああ! 彼は自分の美しい妻を一目見るなり、早くもそれと悟ったのである。晴ればれしい顔に魅するがごときほほえみを浮かべながら、彼女は足早にスチェパン氏に近づいて、華奢な手袋をはめた手を差し伸べた。そして、まるで朝の間じゅう、一刻も早くスチェパン氏の傍へ駆け寄って、やっと来訪を受けたお礼に、できるだけ優しくもてなしたいという一念のほか、なんにも考えていなかったようなふうつきで、むやみと愛嬌のいい言葉を振り撒くのであった。今朝の家宅捜索のことは夢にも知らないように、ひと言も口に出さなかった。夫には一口もものをいわないし、またそのほうをちらと振り向いて見ようともせず、まるでそんな人は広間にいないように振舞った。そればかりか、さっそくスチェパン氏を独占して、客間のほうへ連れて行ってしまった、――それは、彼とレムブケーの間になんの相談もなかったか、或いはまたあったにしたところで、そんな話を続ける必要はない、とでもいうような具合だった。
 くり返していうが、わたしの目に映じたところでは、ユリヤ夫人は一生懸命に、高尚な調子を持しているにもかかわらず、こんどもまた一大失策を演じたのである。とくにこの際、夫人の失策を手伝ったのは、例のカルマジーノフである(彼はユリヤ夫人の特別な頼みによって、今朝の遠乗りに加わった。したがって間接ではあるけれど、いよいよヴァルヴァーラ夫人を訪問したわけである。それをヴァルヴァーラ夫人は浅はかな心から、夢中になってよろこんだ)。まだ戸口を入ってしまわないうちから(彼は一行の一ばん後から入って来たので)、スチェパン氏の姿を見るやいなや、彼は大きな声で呼びかけた。そして、ユリヤ夫人と話し中なのもかまわず、傍へやって来て抱きついた。
「ああ、何年目だろう……幾星霜を経たことだろう! やっとのことで……|優れたる友《エクセランタミ》よ」
 彼は接吻にかかった。もちろん、頬っぺたを突きつけたのである。スチェパン氏はすっかり面くらって、その頬に接吻を余儀なくされた。
『|きみ《シェル》』彼はその晩、一日の出来事を追想しながら、わたしに向かってこういったものである。『わたしはその瞬間、心の中で考えたよ。われわれ二人の中でどちらがよけい卑劣だろう? その場でわたしを辱かしめるために抱きしめたあの男か、それとも、あの男を蔑視し、あの男の頬を卑しんでいるくせに、顔をそむけることもできないで、のめのめと接吻したわたしだろうか……ちぇっ!』
「さあ、聞かしてください、すっかり聞かしてください」まるで二十五年間の生活を一時に、すっかり話しつくせるかのように、カルマジーノフはしゅっしゅっという舌ったるい声で切り出した。
 こんな馬鹿馬鹿しい軽薄なものの言い方が、『高尚な』調子なのであった。
「あなたおぼえていますか、わたしが最後にあなたとモスクワで会ったのは、グラノーフスキイ教授祝宴の席上でしたね。あれから二十四年たちましたが……」スチェパン氏は恐ろしく四角ばって理に落ちたことを、したがって、『高尚な』調子にはひどく縁遠いことをいい出した。
「Ce cher homme.(本当に懐かしい人だ)」もうあまりだと思われるくらい親しげに相手の肩をつかみながら、カルマジーノフはきいきいする声でなれなれしげにさえぎった。「ねえ、ユリヤ・ミハイロヴナ、どうか早くわたしたちをあなたの居間へ案内してくださいな、この人があちらに落ちついて、すっかり話して聞かせてくれますから」
『ところが、わたしはあの癇癪もちの女の腐ったみたいな男と、一度も親しくしていたことはないんだ』憤激のあまり体をわなわな慄わせながら、やはりその晩スチェパン氏は訴えつづけた。『わたしは、まだほとんど子供といっていいくらいの時分から、あの男が憎くてたまらなかったのだ……もちろん、あの男のほうでも、わたしに対して同じ心持ちをもっていたがね……』
 ユリヤ夫人の客間は、たちまち一杯になった。ヴァルヴァーラ夫人は、冷静を装おうと努めてはいたものの、とくべつ興奮した心持ちになっていた。わたしは、夫人が二、三度カルマジーノフのほうへ憎悪にみちた視線を投げ、スチェパン氏に憤怒の視線をそそいだのに気がついた、――それは取越し苦労の憤怒であり、心づかいと愛情から出た憤怒であった。もしスチェパン氏がいま何かの拍子で間の抜けたことをいって、一同の面前でカルマジーノフにやり込められたら、彼女はすぐに躍りあがって、彼を撲りつけもしかねまじい様子だった。わたしはいい落としていたが、そこにはリーザも居合わした。彼女がこんなに嬉しそうに、なんの心配もなくうきうきと、幸福らしい様子をしているのを、わたしはついぞ見たことがなかった。むろん、マヴリーキイもいた。それから、いつも決まってユリヤ夫人の取り巻きを勤める若い婦人連や、だいぶ放埒になった青年たちの仲間には(この仲間では、放埒が快活とされ、安価な皮肉が才知と思われているのだ)、二、三の新しい顔も見受けられた。どこかよそから来た、恐ろしくちょこまかするポーランド人と、ひっきりなしに自分で自分のウィットにさも愉快そうに大きな声で笑い興じていた頑丈なドイツ人の老医師と、ペテルブルグから来た恐ろしく年の若い公爵などであった。公爵はまるで自動人形みたいな恰好で、馬鹿馬鹿しく高いカラーをつけ、さも国家の大人物だぞというように澄まし込んでいた。しかし、見受けたところ、ユリヤ夫人は非常にこの客を大切に扱って、自分の客間がこの人に与える印象をかなり気にしている様子であった。
「|親愛な《シェル》カルマジーノフ」絵に描いたように恰好よく長いすに座を占めながら、スチェパン氏は急に、カルマジーノフにひけを取らないほど、しゅっしゅっというような声を立てて、こういい出した。「|親愛な《シェル》カルマジーノフ、わが前時代に属して一定の信念をいだいている人間の生活は、たとえ二十五年の間隔が生じたとはいいながら、ずいぶん単調に見えるに相違ありません……」
 大方、スチェパン氏が何か恐ろしく滑稽なことをいったように思ったのだろう、ドイツ人は馬の嘶くような声で、高々と引っちぎったように笑い出した。こちらはわざとびっくりした顔つきをして、じっとドイツ人を見つめたが、それはなんの効果も奏しなかった。公爵も例の高いカラーごとドイツ人のほうへ首を捩じて、鼻眼鏡を差し向けたが、しかし、好奇の色は少しも浮かんでいなかった。
「……単調に見えるに相違ありません」できるだけ長く無作法に、一語一語引き伸ばしながらスチェパン氏はわざとこうくり返した。「この四半世紀間のわたしの生活も、ちょうどそのとおりでした。et comme on trouve partout plus de moines que de raison.(実際どこでも、道理より坊主の多い世の中ですよ)わたしも全然この諺に同感ですから、したがって、この四半世紀間におけるわたしの生活は……」
「C'est charmant, les moines.(まあ坊主とは面白うございますこと)」傍に坐っているヴァルヴァーラ夫人のほうへ振り向いて、ユリヤ夫人はこうささやいた。
 ヴァルヴァーラ夫人は得意げな目つきでこれに答えた。しかし、カルマジーノフはこのフランス語の成功を、黙って見ていることができなかったので、あわてて例のきいきい声でスチェパン氏をさえぎった。
「わたしなんぞ、もうその点は平気ですよ。そして、今年で足かけ七年、カルルスルーエに落ちついています。現に去年、町会で水道施設が決議された時も、わたしはこのカルルスルーエの水道問題のほうが、ロシヤのいわゆる改造時代に生じたわが愛すべき祖国の諸問題よりも、遙かに親しみのある貴重なものだということを、心の底から感じたような次第です」
「ご同情に堪えませんね。もっとも、わたしの真情にはそむきますがね」と意味深そうに頭を下げながら、スチェパン氏は吐息をついた。
 ユリヤ夫人は得意満面だった。一座の会話が深みのある、思想的なものになってきたからである。
「それは下水道ですか?」と医者が大きな声でたずねた。
「水道ですよ、ドクトル、上水道ですよ。わたしはそのとき設計案を書くのに、一臂の力を貸したくらいです」
 医師は爆発したように笑い出した。続いて、だれかれのものが笑い声を立てたが、今度はもう無遠慮に医師に向きつけて笑った。けれど、こちらはそれに気もつかず、ただみんながいっしょに笑うので大恐悦だった。
「失礼ですが、カルマジーノフさん、わたしはあなたに賛成するわけにまいりません」とユリヤ夫人が急いで口をいれた。「カルルスルーエはまあ後廻しとして、あなたはぜんたい物事をごまかしてしまうのがお好きですが、今度はあなたのお言葉を本当にできませんわ。まあ、ロシヤ人の中でロシヤの文学者の中で、あれほど豊富に現代人の典型を啓示し、あれほど多くの現代的問題を提出し、現代的活動家のタイプを形作るべき主要な現代的要素を指示したのは、いったいだれでしょう? あなたです、あなた一人きりです、ほかにだれもありゃしません。それを今さら祖国に対して冷淡になったの、カルルスルーエの水道に恐ろしく興味を感じてるのと、そんなことを人に信じさせようとなさるんですもの! はは!」
「さよう、わたしはもちろん」とカルマジーノフはまたしゅっしゅっという声で、「パゴージェフのタイプによって、スラヴ主義者のあらゆる欠点を指摘し、ニコジーモフのタイプによって西欧主義者のあらゆる欠点を暴露しましたよ……」
「ふん、あらゆる[#「あらゆる」に傍点]ときた」とリャームシンは小さな声でささやいた。
「が、それはほんのちょっと、ただそのなんとかして、うるさい時を潰すためにやったのですよ、――そして、同胞のうるさい要求を満足さすためにね……」
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたはたぶんご承知でもございましょうが」ユリヤ夫人はしかつめらしく言葉を次いだ。「明日わたくしどもは、立派な詩を聴かしていただけるのでございますよ……それはカルマジーノフさんの最近のお作の一つで、美しい芸術的感興の結晶でございますの、――題は『メルシイ』と申すのですが、その中でもう今後けっして何も書かぬ、どうあっても社会へ顔を出さぬ、たとえ天からエンゼルが降って来ても、――というより、上流社会の人がみんながかりで頼んでも、この決心は翻さない、という宣言をなさるのでございます。つまり、カルマジーノフさんは永久に筆を折られるので、この美しい『メルシイ』は、これまで幾十年かの間、絶えずロシヤの高潔な思想のためにつくされた努力に対して、社会が常に歓喜の念を払ってくれたのを、感謝する意味で書かれたのだそうでございます」
 ユリヤ夫人はもう幸福の絶頂に立っていた。
「さよう、わたしは別れを告げるつもりです。わたしは自分の『メルシイ』を述べて去るつもりです。そして……あの……カルルスルーエで目をつむろうと思っています」カルマジーノフはしだいに感傷的になってきた。
 わが国の文豪は多くそうであるが(またロシヤには、文豪がやたらにたくさんある)、彼は賞讃の辞を平気で聞いていることができなかったので、いつもの機知にも似合わず、たちまち意気地なくなりかけた。しかし、わたしの考えでは、これなどはまだ罪の浅い方である。噂によると、わが国のシェイクスピアの一人は、公けの席ではないが、いろんな話の中に、『われわれのような偉人[#「われわれのような偉人」に傍点]は、それよりほかに仕方がないのだ』と剥き出しにやっつけておきながら、自分ではそれにお気がつかないのだそうである。
「わたしはあちらで、カルルスルーエで目をつむるつもりです。われわれ偉人は、おのれの業を成し遂げたら、酬いを求めないで少しも早く目をつむるよりほか、なすべきことはないからね。わたしもそのとおりにするのです」
「どうか所を知らせてください。そしたら、わたしもあなたの墓へ詣りに、カルルスルーエヘ出かけますから」とドイツ人は突拍子もない声でからからと笑った。
「今は死人も鉄道で運びますからね」だれやら、あまり目に立つほうでない青年の一人が、出しぬけにそんなことをいった。
 リャームシンは有頂天になって、きゃっきゃっと笑い出した。ユリヤ夫人は眉をひそめた。そこヘニコライ・スタヴローギンが入ってきた。
「おや、あなたが警察[#「警察」に傍点]へ引っ張られたという話を聞きましたが?」一番にスチェパン氏のほうに向かいながら、彼はこう問いかけた。
「いや、あれはちょっとしたけいそつ[#「けいそつ」に傍点]な出来事なんですよ」とスチェパン氏は地口をいった。
「けれども、わたくしはその出来事が、あのご依頼に少しも影響しないことと、楽しんでおりますの」またもやユリヤ夫人が引き取った。「わたしは今だに、なんのことやら合点がゆきませんけれど、とにかく、あんな不快な出来事に気をお留めにならないで、わたしたちのせっかくの期待を裏切らないでくださいましね。明日の会の文学の部で、あなたの講演を拝聴する楽しみを、わたしたちから奪っておしまいになるようなことはありませんでしょうね?」
「さあ、どうしますか。わたしも今さら……」
「まったくねえ、ヴァルヴァーラ・ペトローヴナ、わたしほど不仕合わせなものはありませんわ……本当にどうでしょう、ロシヤの国でもとりわけ傑出した独創的な思想家の一人とじきじきお知合いになる日が、少しも早く来ればいいと待ち焦れている矢さきに、まあ、思いがけなく、スチェパン・トロフィーモヴィチは、わたしたちの傍を離れたいような口ぶりをお洩らしになるじゃございませんか」
「どうも賞讃のお言葉があまり大仰なので、わたしとしてはもちろん、聞かない振りをするのが当然かもしれませんが」とスチェパン氏は一語一語おし出すようにいった。「しかし、わたしのような憫れな人間が、明日のお催しにとってそれほど必要だろうとは、信じられません。けれど、わたしは……」
「おやおや、あなた方は親父を増長さしておしまいになりますよ!」疾風《はやて》のように部屋へ飛び込みながら、ピョートルがいきなりこう叫んだ。「ぼくはね、やっと親父を自分の手で押えつけたと思う間もなく、とつぜん家宅捜索、逮捕という始末になって、巡査が親父の襟首を引っつかまえたという噂でしょう。ところが、いま見ればどうでしょう、知事公のサロンで、貴婦人がたにちやほやしてもらってるじゃありませんか。きっと親父はいま嬉しさのあまり、体じゅうの骨が一本一本うずいてるこってしょうよ。こんな果報は夢にも見なかったでしょう。見ていらっしゃい、今に社会主義者の密告を始めますから!」
「そんなことがあってよいものですか、ピョートル・スチェパーノヴィチ。社会主義は実に偉大な思想ですもの、スチェパン・トロフィーモヴィチだって、それをお認めにならぬわけにゆきませんわ」ユリヤ夫人は勢い込んで弁護した。
「偉大な思想には相違ありませんが、その宣伝者がだれでも偉人だとはいえませんよ。〔et brisons-la`, mon cher.〕(なあ、お前、もうこの辺でやめておこう)」わが子のほうに向かってこう言葉を結びながら、スチェパン氏は美しいポーズを見せて席を立った。
 しかし、この時、まるで思いも寄らぬことが持ちあがった。フォン・レムブケーは、もうかなり前から客間に坐っていたが、だれもそれに気のつかないようなあんばいだった。もっとも、彼の入って来るところは、みんなちゃんと見てはいたのだ。ユリヤ夫人はその時の気分で、前々からの決心に引き込まれ、相変わらず夫をあるがなしにあしらっていた。彼は戸口の辺に席を占め、いかつい沈んだ顔つきで、一座の会話に耳を傾けていた。今朝の出来事を匂わすような言葉を聞くと、彼はなんとなく不安げにもじもじし始めた。そして、例のうんと糊がきいて前のほうへ突き出たカラーに驚いたらしく、じっと公爵に目を据えるのであった。それから、とつぜん部屋へ駆け込んだピョートルの声を聞き、姿を見ると、ぴくりと身を慄わせたように見えたが、スチェパン氏が社会主義者に関して、例の荘重な一句をいい終わるやいなや、途中に居合わしたリャームシンを突き飛ばして、彼の傍へつかつかと近寄った。リャームシンはわざとらしい様子で、びっくりしたようにすぐ飛びのいて、肩をさすりながら、いかにもひどくやっつけられたというような身振りをした。
「もうたくさんです!」レムブケーは、呆気にとられたスチェパン氏の手をいきおい猛に引っつかんで、力限り握りしめながらいい出した。「たくさんです。現代の海賊《フリブスチエール》どもはちゃんとわかっています、もう少しも言葉を加える必要はない。すでに相当の方法は講じてあるのです……」
 彼は部屋じゅうへ響き渡るような声でこういいながら、いきおい込んで最後の一句を結んだ。一座の受けた印象は病的なものであった。一同はなんとなく穏かならぬ心持ちを感じた。わたしは、ユリヤ夫人の顔があおくなったのに気づいた。しかも、そのうえに一つの馬鹿げた偶然が、さらに効果を強めたのである。相当の方法を講じた旨を宣告すると、レムブケーはくるりと向きを変えて、足早に部屋を出て行った。が、二足ばかりで絨毯の端に突っかかって思わず前へのめり、あやうくその場へ投げ出されそうになった。その瞬間、彼はちょっと立ちどまって、突っかかった場所を見つめていたが、やがて『取り替えなくちゃならん』と口に出していうと、そのまま戸の外へ消えてしまった。ユリヤ夫人は後から続いて駆け出した。
 彼女の出た後で、急にがやがやという話し声が始まったが、何が何やら少しも聞き分けることはできなかった。ただ『少し加減が悪いのだ』とか、または『ちょっといかれてるのだ』とかいう声が聞こえた。中には、指で額をさす([#割り注]気が変だという意味[#割り注終わり])ものもあった。リャームシンは隅っこのほうで、二本指を額のちょっと上へ当てがった。何かしら、家庭内の出来事をほのめかす者もあったが、それらはもちろん、すべてひそひそ声だった。だれひとり帽子に手をかけようとする者もなく、だれもがじっと待ち設けていた。ユリヤ夫人は、あの間に何をしたのか知らないが、五分ばかりたった時、懸命に平静を装いながら、引っ返して来た。彼女は曖昧な調子で、レムブケーは少し興奮しているけれど、大したことではない、子供の頃からあった病気だ、それは自分のほうが『ずっとよく』知っている、もちろん、あすの慈善会に出たら、気がうきうきして来るに相違ない、と答えた。それから、また二こと三ことスチェパン氏にお愛想をいった後(しかし、それはほんの社交上の礼儀にすぎなかった)、準備委員会の人々に向かって大きな声で、今すぐ評議会を開いていただきたい、といい出した。そこで委員会に関係のない人たちは、別れて家へ帰ろうと身支度を始めた。けれど、この運命的な朝の病的な出来事は、まだ終わりを告げていなかったのである……
 さきほどスタヴローギンが入って来た瞬間、リーザが素早くそのほうへ視線を向けて、穴のあくほど一心に見つめたのに、わたしは気がついた。彼女はその後も長い間、目を離そうとしなかったので、しまいには人の注意を惹くようになった。見ると、マヴリーキイはうしろから彼女のほうへかがみ込んで、何やら小声でいおうと思ったらしかった。が、急にまた思い直したと見え、罪人《つみびと》のような目つきで一同を見廻しながら、大急ぎで身を伸ばしてしまった。しかし、ニコライも人々の好奇心を呼び起こしたのである。彼の顔はいつもより余計にあおざめて、目は恐ろしくそわそわしていた。入りしなにスチェパン氏に向かって例の質問を放つと、彼は即座にその問いを忘れてしまったらしい。それどころか、わたしの目には、女主人のところへ挨拶に行くのさえ忘れているのではないかと、思われるほどであった。リーザのほうもまるで見ようとしなかった。それは、けっして見たくなかったからではなく、やはり彼女にまるで気がつかなかったからである。それはわたしが断言してもいい。ユリヤ夫人が一刻も時間を無駄にしないで、最後の評議会を開こうと提議した後で、ややしばらく一座を沈黙が領したが、そのとき突然リーザの甲高い、わざと大きく張り上げた声が響いた。彼女はスタヴローギンに呼びかけたのだ。
「ニコライ・フセーヴォロドヴィチ、あなたの親類だと名乗る一人の大尉が、しじゅうわたしのところへぶしつけな手紙をよこしますの。なんでも、あなたの奥さんの兄弟だそうでして、レビャードキンとかいう苗字ですが、あなたのことをいろいろ讒訴して、何かしらあなたに関係した秘密を知らせてやる、というのでございます。もしその男が本当にあなたのご親族でしたら、どうかその人にわたしを侮辱するのをやめさせてください。そして、そんないやな目をしなくても済むようにさせてくださいな」
 この言葉には恐ろしい挑戦が響いていた。一同はそれを悟った。非難は赤裸々なものであった。もっとも、彼女自身さえ思い設けなかったのかもしれない。それは、人が目をつぶって屋根から飛び下りるような趣きだった。
 しかし、ニコライの答えはさらに思いがけないものだった。
 第一、彼がいささかもたじろがず、あくまで冷静な注意をもって、リーザの言葉を聞き終わったのからして奇怪であった。彼の顔には狼狽の色も、憤怒の陰も映らなかった。彼はこの命がけの質問に対して、率直にきっぱりと、思い切った態度で即座に答えた。
「ええ、わたしは不幸にしてあの男と親類関係になっています。わたしはあの男の妹、旧姓レビャードキナの夫となって、もう追っつけ五年になります。ご安心なさい、あなたの要求は、時を移さず伝えておきます。そして、今後あの男があなたにご迷惑をかけないように、わたしが自分で責任を引き受けます」
 わたしはヴァルヴァーラ夫人の顔に描かれた恐怖の表情を、永久に忘れることができない。夫人はもの狂おしい顔つきで椅子から体を持ち上げながら、まるで防禦でもするように、右手を前へ差し伸べた。ニコライは、母と、リーザと、一座の人々をちらと見やったが、とつぜん量り知れぬ傲慢な微笑を浮かべつつ、悠々と部屋を出てしまった。ニコライが部屋を去ろうとして、向きを変えるとひとしく、リーザはふいに長いすから躍りあがって、明らかに、その跡を追って駆け出そうとするような身のこなしをしたが、すぐまたわれに返って、駆け出すのをやめた。そして、同じくだれにも別れを告げず、だれひとり見向きもしないで、そのまま静かに部屋を出て行った、――もちろん、あとからすぐ飛び出したマヴリーキイに伴なわれて……
 この晩、町に起こった騒ぎや噂話は、最早くだくだしく書かぬこととする。ヴァルヴァーラ夫人は町の家へ閉じこもってしまった。ニコライは母親にも会わないで、真っすぐにスクヴァレーシニキイヘ行ったとのことである。スチェパン氏はその晩わたしを|あの《セット》|親しい《シエール》|女友だち《アミ》のところへ使いにやって、面会の許しを乞うたが、夫人はわたしに会ってくれなかった。彼はことの意外さに打たれて泣いていた。
『なんという結婚だ! なんという結婚だ! なんということが純潔な家庭に起こったものだろう!』彼はのべつくり返していた。しかし、それでも、カルマジーノフのことを思い出しては、恐ろしい剣幕で罵倒するのであった。それから、明日の講演の用意にも一生懸命だった。しかも、――なんという芸術的な生まれつきだろう! 鏡の前で練習までするのであった。そして、明日の講演の中へ挟むために、別な手帳に書き留めてあるこれまで自分の吐いた警句や洒落などを、すっかり引っ張り出した。
「ねえ、きみ! これは偉大な理想のためにするんだよ」明らかに言いわけのためらしく、彼はわたしにこういった。「|親しき友《シェラミ》、わたしは二十五年間すみ馴れたところを去って、出しぬけにどこかへ行ってしまうのだ。どこへ? それはわたしも知らない。けれど、わたしはもう行ってしまうのだ……」
[#改ページ]

[#3字下げ]スタヴローギンの告白[#「スタヴローギンの告白」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 ニコライ・フセーヴォロドヴィチは、この夜まんじりともしないで、夜っぴて長いすに坐ったまま、箪笥の置いてある片隅の一点に、じっと据わって動かぬ視線をたえずそそいでいた。ランプは夜どおし彼の部屋についていた。朝の七時ごろ、坐ったままうとうとと眠りに落ちた。もうちゃんと型に入った習慣に従って、かっきり九時半に、アレクセイが朝のコーヒーを持って部屋へ入って来ながら、その物音で主人の目をさました時、彼はぱっちり目を開いたが、思いのほか長く寝てしまって、こんなに遅くなっているのに、不快な驚きを感じたらしかった。彼は大急ぎでコーヒーを飲み、手早く着替えをして、忙しげに家を出て行った。『何かお言いつけはございませんでしょうか?』というアレクセイの用心ぶかい問いに対して、なんにも返事をしなかった。彼は深いもの思いに沈んだ様子で、地面ばかり見つめながら往来を歩いて行った。ただときおり、瞬間的に顔を上げて、急に漠とした、とはいえ、烈しい不安のさまを示すばかりであった。まだ家から遠くない、とある四つ角で、通りすがりの百姓の群が彼の行手をさえぎった。五十人か、それ以上もあろうと思われるほどの数だったが、ことさららしく秩序を守って、ほとんど声ひとつ立てず、行儀よく歩いていた。彼はものの一分ばかり、一軒の店先で待っていなければならなかったが、だれか傍で、『あれはシュピグーリンの職工だ』といった。彼はそれにほとんど注意を払わなかった。
 ようやく十時半ごろに、彼は町の修道院スパソ・エフィーミエフスキイ・ボゴロードスキイの門前に着いた。修道院は町はずれの川岸にあった。その時はじめて何か厄介な、気にかかることを思い出したらしく、急いでポケットの中をごそごそ探って見て、――にたりと笑った。境内へ入ると、初めて出会った寺男を捕まえて、この修道院で行ないすましているチーホン僧正のところへは、どう行ったらよいかとたずねた。寺男はしきりにお辞儀をしながら、すぐ案内してくれた。二階建てになっている長い僧院の端にしつらえた小さなあがり段の傍で、向こうからやって来た胡麻塩頭の肥った僧が、すばやくいや応なしに寺男からニコライを引ったくって、細長い廊下づたいに導いた。やはりのべつお辞儀をしながら(もっとも、よく肥っているために低い会釈は出来ないで、ただしょっちゅうしゃくる[#「しゃくる」に傍点]ように頭を振るばかりだった)、ニコライがうしろからついて行っているのに、絶えず『どうぞこちらへ』といいつづけるのであった。肥えた僧は、何か問いを持ちかけては、修道院長のことで何やらくどくど話していた。そして、返事をしてもらえないために、かえっていっそううやうやしい態度になっていった。スタヴローギンは、いま覚えているところでは、子供の時分にしかここへ来たことがないにもかかわらず、この僧がよく自分のことを知っているのに気がついた。廊下の一番はじにある戸口までたどりつくと、僧は権威あるもののごとき手つきで扉を開け、馳《は》せ寄った庵室当番に、さもなれなれしい調子で、入ってもよいかとたずねた。そして、返事も待たずに扉をさっと一杯に開け放し、うやうやしく腰をかがめながら、『貴い賓客』を中へ通し、お礼の言葉を聞くと、まるで逃げるようにちょろりと姿を隠した。
 ニコライは大きからぬ部屋の中ヘ一歩ふみ入れた。すると、ほとんど同時に次の間の戸口に、背の高い痩せぎすの人が姿を現わした。年の頃五十ばかり、質素な内着らしい半長衣をつけていたが、一見したところ、なんとなく病身らしく思われる。なんともつかぬ曖昧な微笑を浮かべて、妙な内気らしい目つきをしている。これこそ即ち、ニコライが初めてシャートフから話を聞いて、それ以来なにかのついでに二、三の参考材料を集めておいた、チーホン僧正その人であった。
 その参考資料というのはまちまちで、矛盾したところもあったけれど、何かしら共通した点があった。というのは、チーホンを好いている人も嫌いな人も(嫌いな人もやはりあった)、みんな妙に緘黙の態度をとっていたことである、――嫌いな人はおそらく蔑視の意味だろうし、帰依者のほうは、熱心な人でさえも、――一種の遠慮のためらしかった。何かしら僧正の弱点というか、畸癖というか、そうしたものを隠したいがためのように思われる。ニコライの聞いたところによると、僧正はもう六年もこの修道院に暮らしているが、彼のところへ訪ねて来る人々の中には、ごく下層の民衆もあれば、きわめて地位の高い名流の人も交っている、そればかりか、遙かペテルブルグにも熱心な崇拝者があって、それも主として婦人が多いとのことだった。そうかと思えば、町の名士で、クラブの年寄り株であり、同時に信心家の老人から聞いた話では、『あのチーホンは、まあほとんど気ちがいといってもいいくらいの人間で、しかし、間違いのない話、酒もなかなかいける』ということであった。さき廻りしてちょっといい添えておくが、これはまったくの出たらめで、ただ久しく持病のリューマチで足を病み、ときどき何か神経性の痙攣が起こるくらいなものである。これもやはりニコライの聞いたことだが、この修道の僧正は、性格の弱さのためというより、『その位階にふさわしからぬ、またゆるすべからざる放心癖のために』、修道院の内部で特別の尊敬をかち得ることができなかった。噂によると、修道院長はその職務に対して峻酷厳正な人であり、そのうえ学殖をもって聞こえた人であるために、チーホンに対して敵意めいたものすらいだき、その無頓着な生活ぶりを指摘するのみならず、ほとんど異端思想さえも発見して、面と向かってではないけれど、間接に彼を非難しているとかいうことだった。同宿の僧たちも、病身な僧正に無頓着な、というより、あまりにもなれなれしい態度を取っていた。
 チーホンの庵室になっている二つの部屋も、なんだか妙な飾りつけになっていた。すれた革張りの古い樫の木づくりの椅子テーブルと並んで、三つ四つ優雅な品々が見受けられた。それは恐ろしく贅沢な安楽いす、見事な作りの、大きいライティング・テーブル、木彫装飾のついた上品な書籍棚、そのほか洒落た小テーブルや隅棚、すべていうまでもなくもらいものばかりである。高価なブハラ織の絨毯があるかと思えば、すぐ傍に莚があったりした。『俗世間的』な内容や、神話時代を取り扱った版画があるかと思えば、金銀燦爛たる聖像を収めた大きな龕が、すぐこの片隅に据えてある。しかも、聖像の一つなどは、遺骨入のごく古いものである。蔵書の内容も思い切って種々雑多な、矛盾だらけなもので、キリスト教の偉大な導師や苦行者の著述と並んで、『芝居の本や小説や、或いはそれよりずっとひどいもの』さえ交っている、というような噂だった。
 双方ともなぜかばつの悪い様子で、せかせかと曖昧な初対面の挨拶をすませた後、チーホンは自分の居間へ客を案内した。そして、相変わらずせかせかしたふうで、テーブルの前の長いすに坐らせると、自分は傍の籐いすに腰を下ろした。その時、驚いたことに、ニコライはすっかりまごついてしまった。それはまるで何か異常な、争う余地のない、それと同時に、彼として不可能なことを決行しようと、必死になっているような具合だった。彼はややしばらく居間の中を見廻していたが、明らかに、見ているものが何かわからないらしかった。彼は考え込んだが、何を考えているのやら、自分でもわからなかったかもしれない。あたりの静寂が彼をわれに返らした。ふと見ると、チーホンがまるで要もない微笑を浮かべながら、きまり悪げに目を伏せているような気がした。それが一瞬、彼の心に嫌悪の念と反抗心を呼びさました。彼は立上がって出て行こうと思った。彼の目には、チーホンがまるで酔っぱらっているように見えたのである。けれど、チーホンは急に瞳を上げて、思念に溢れたしっかりした目つきで彼を眺めた。しかも、同時に、ニコライがあやうく身慄いをこらえたほどの、思いがけない、謎のような表情がうかがわれたのである。すると、ふいに今度はまるで別な想念が浮かんだ、――チーホンはもう自分が何しに来たか知っている、すでに前もって予告を受けている(もっとも、世界じゅうだれ一人として、その原因を知り得るものはないのだが)、彼がまず自分から口をきかないのは、客の屈辱を恐れて、容赦しようという気があるからにすぎない。
「あなたぼくをごぞんじですか?」と彼は出しぬけに、ぶっきら棒な調子でたずねた。「入ったときに名前を申し上げましたか、どうですか? すみません、ぼくは実にぼんやりでして……」
「名前はおっしゃらなかったけれども、わたしは四年ほど前にここで、この修道院で、一度お目にかかったことがありますて……偶然のことでな」
 チーホンははっきり明瞭に一語一語を発しながら、柔かみのある声で、ごくゆっくりと、なだらかにいった。
「ぼくは四年前にこの修道院へ来たことはありません」何か不必要にあらあらしい口調で、ニコライはいい返した。「ぼくはほんの小さな子供の時に、ここへ来たことがあるきりです、まだあなたなどまるでいらっしゃらなかった時分に」
「では、お忘れになりましたかな?」しいて主張しようとせず、用心ぶかい調子で、チーホンは注意を促した。
「いや、忘れなどしません。もしそんなことを覚えていないとしたら、少々滑稽じゃありませんか」なにやら極度に主張するような態度で、スタヴローギンはいい切った。「あなたはもしかしたら、ぼくの噂をお聞きになったばかりで、何かある観念を頭の中でおこしらえになって、そのために自分で会ったように、思い違えていらっしゃるのじゃありませんか」
 チーホンは口をつぐんだ。そのときニコライは、ときどき神経的な痙攣がチーホンの顔をかすめて走るのに気づいた。それは久しい神経衰弱の兆候であった。
「お見うけしたところ、あなたはきょうご気分がすぐれないようですね」と彼はいった。「お暇したほうがいいんじゃないでしょうか?」
 彼はちょっと席から腰を上げようとさえした。
「さよう、わたしは昨日から今日へかけて、足がひどく痛みましてな、ゆうべもよく眠れなかったようなわけで……」
 チーホンは言葉を休めた。客がとつぜん何かとりとめのないもの思いに落ちたのである。沈黙はかなり長く、二分ばかりも続いた。
「あなたはぼくを観察していらっしゃいましたか?」出しぬけに彼は不安げな、うさん臭そうな調子でたずねた。
「わたしはあなたを見ているうちに、お母さまの顔だちを思い出しましたので、外面的には似たところがないようでいながら、内面的、精神的には大変よく似ておられますよ」
「似たところなど少しもありません。ことに精神的の類似など、これっからさきもないといっていいくらいです!」なぜか自分でもわからないのに、極度に固執するような態度で、またもや必要以上にいらだちながら、ニコライはいった。「あなたがそうおっしゃるのは……ぼくの現状に同情してでしょう」彼はふいにいきなりこうぶっつけた。「へえ! いったい母があなたのところへ、ちょくちょく伺うんですか?」
「お見えになります」
「知りませんでしたなあ。一度も母の口から聞いたことがありません。しょっちゅうですか?」
「たいてい毎月、いや、もっと多いですかな」
「一度も、一度も聞いたことがありません、――聞いたことがありませんなあ」彼はこの事実に恐ろしく不安を感じ始めたらしい。「あなたは、むろん、母からお聞きになったでしょう、ぼくが気ちがいだってことを?」と彼はまたぶっつけるようにいった。
「いや、気ちがいというわけでもありませんて。もっとも、そういうことを聞くには聞きました。しかし、ほかの人の口からですよ」
「では、あなたは非常に記憶力がおよろしいのですね、そういうつまらないことを覚えていられるところを見ると。頬打ち事件をお聞きになりましたか?」
「何やら聞いたようですな」
「つまり、何から何まででしょう。あなたはずいぶんそんな噂話を聞く暇がおありなんですね。じゃ、決闘のことも?」
「さよう、決闘のことも」
「へえ、ここは新聞のいらない所ですね。シャートフが先を越して、ぼくのことをしゃべったんでしょう?」
「いや。もっとも、わたしはシャートフ氏を承知しておりますが、もうだいぶ前からあの人に会いませんよ」
「ふむ……あすこにあるのは、いったいなんの地図です? おや、最近の戦争地図だ! なぜこんなものが?」
「この地図を本文と対照して調べたので。なかなか面白い記録ですて」
「見せてください。そう、この戦史は悪い出来じゃない。しかし、あなたとしては奇妙な読物ですね」
 彼は本を引きよせて、ちらと目を走らせた。それは最近の戦役に関する事情を巧みに叙述した浩瀚な書物で、軍事的というよりも、むしろ文学的に優れた労作だった。彼はちょっと本を引っくり返して見ると、急にじれったそうにぽんとほうり出した。
「ぼくはなんのためにここへ来たのか、てんでわけがわからない」相手の答えを期待するように、ひたとチーホンの目を見つめながら、彼は気難かしそうな調子でこういった。
「あなたもどうやら、あまり健康ではなさそうですな」
「ええ、そうかもしれません」
 彼は出しぬけに話し出した。それが思い切り簡単な、引っちぎったような言葉なので、どうかすると、よく聞き取れないくらいだった。その話によると、彼は一種の幻覚症にかかって、ことに夜になると、よく自分のそばに何かしら意地の悪い、皮肉な、しかも『理性のしっかりした』生き物を感じるばかりか、時によると目に見ることさえある、というのであった。
『いろんな変わった顔をして、いろいろさまざまな性格に化けて来るけれど、その正体はいつも同じものなんです。で、ぼくはいつもじりじりして来るんです!………』
 この告白は奇怪千万で、ちぐはぐで、まったく狂人の口から出たもののように思われた。けれど、この時のニコライの語調は、今までかつて見たことのないくらい、不思議なほど開けっ放しで、彼にはまるで不似合な率直さを示していたので、彼の内部に潜んでいた以前の人間が、いつの間にか忽然と消えてしまったような気がするほどだった。彼は自分の幻覚を語る時に、恐怖の色をあけすけに曝け出して、それを少しも恥じるふうがなかった。しかし、それもみなほんの束の間のことで、現われた時と同様に、たちまちすっと消えてしまった。
「だが、みんなくだらないことです」彼はふとわれに返って、ばつの悪そうないらだたしさを声に響かせながら、早口にこういった。「ぼく、医者のところへ行ってみますよ」
「ぜひお行きになるがよろしい」とチーホンは相槌を打った。
「あなたはさも当たり前のようにおっしゃいますね……いったいぼくのような人間をご覧になったことがあるんですか、こんな幻覚に憑《つ》かれた人間を?」
「見たことがありますよ。しかし、ごくたまですな。今までの経験では、たった一人だけ覚えております。将校でしてな、かけ換えのない生涯の伴侶《とも》を、つれあいを失くしてからそうなったので、もう一人は話にだけ聞いたものです。両方ともその後、外国で療治を受けたそうですよ……あなたは前からそれにかかっておられますかな?」
「一年ばかり、しかし、これはみんなくだらないことですよ。医者に見てもらいます。みんな馬鹿げたことです。恐ろしく馬鹿げたことです。それはいろんな姿をしたぼく自身にすぎないんです。いまぼくがこの一句をつけ足したので、あなたはきっとそう思っていらっしゃるでしょう、――これはまったくぼく自身であって、けっして悪霊《あくりょう》じゃないってことを、十分に確信しきっていない、いまだにやはり疑ってるだろうと」
 チーホンは不審げに彼を見つめた。
「で……あなたは、本当にそれをご覧なさるのかな?」と彼はたずねたが、それはニコライの話が確かに馬鹿馬鹿しい、病的な幻覚に過ぎないと言うことについて、いっさいの疑いを押しのけてしまおうとするような語調だった。「あなたは本当に何かの姿を見られるのかな?」
「ぼくがもうちゃんと見えるといってるのに、そう念をお押しになるのは妙ですね」とスタヴローギンはまた一語一語にいらいらし始めた。「むろん見えるのです、今あなたを見ているのと同じように。どうかすると、現に見ていながら、その見ているということに確信が持てないんです……またどうかすると、ぼくとあいつと、どちらが本当なのやらわからなくなる……が、こんなことみんなくだらない話です。いったいあなたはどうしても想像がおできになりませんか、これが本当の悪霊だとは!」あまりにも急激に冷笑の調子に移りながら、彼はからからと笑って、こうつけ足した。「だって、そのほうがあなたのご商売がらにふさわしいじゃありませんか」
「おそらく病気と見るのが適当でしょう、もっとも……」
「もっとも何です!」
「悪霊は疑いもなく存在しておる。けれど、その解釈はきわめて区々まちまちのはずですて」
「あなたがまた目をお伏せになったのは」スタヴローギンはいら立たしげな嘲笑を浮かべながら、相手の言葉を抑えた。「ぼくが悪霊を信じてるので、人ごとながら恥ずかしいからでしょう。しかし、ぼくそれを信じてないというていで、一つあなたにずるい質問を提出しましょう、やつは本当にいるんですか、いないんですか?」
 チーホンはなんともつかぬ微笑を洩らした。
「いや、それじゃ、ご承知おき願いますが、ぼくは少しもあなたの思わくを恥じちゃいませんよ。で、今の失礼の代わりとして、あなたにご満足を与えるために、ぼくまじめに、かつずうずうしく声明しますが、ぼくは悪霊を信じます。比喩や何かでなく、個体としての悪霊を合法的に信じます。ぼくはだれからも何一つ探り出す必要がないのです、それっきりです」
 彼は神経的に、不自然な笑い声を上げた。チーホンは好奇の色を浮かべながら、彼を見つめていた。その目つきはもの柔らかではあったが、いくぶん臆病そうでもあった。
「あなたは神を信じますか?」出しぬけにニコライはこうぶっつけた。
「信じます!」
「でも、聖書にそう書いてあるでしょう、もし信ありて、山よ動けといわば、山すなわち動くべしって、――だが、馬鹿なことをいって失礼しました。しかし、それでも、ちょっとものずきに聞かせてください、あなたは山を動かしますか、どうです?」
「神様のお言いつけがあれば、そりゃ動かします」と低い控えめな声でチーホンはいった、またしても目を伏せながら。
「いや、それは神様が自分で動かすのと、結局、おなじことですよ。そうじゃなくって、あなたが、あなたが神に対する信仰の報いとしてです」
「動かせないかもしれませんな」
「『かもしれません?』いや、これも悪くないな。もっとも、あなたはやはり疑っていらっしゃいますね?」
「信仰が足りぬために、疑っておりますて」
「えっ、あなたまで信仰が足りないんですって?」
「さよう……信仰の仕方が足りぬかもしれません」とチーホンは答えた。
「どうもあなたを見ていると、こればかりは予想できかねましたね!」いくぶん驚いたふうで、彼は急に相手をちらりと見直した。それは、今までの質問の嘲笑的な調子とはまるっきり相応《うつ》らないほど、それこそ思い切って率直な驚きであった。
「ま、それにしても、神様の助けを借りるにしても、やはり動かせると信じてるんでしょう。いや、それだけでも不足はいえない。少なくとも信じたいという気持ちはあるんですからね。山ということも文字どおりに解釈してるんでしょう? 原則として悪くないですよ。ぼく、気がついたことですが、ロシヤのレビの子たちで最も急進的な分子は、だいぶルーテル派に傾いているようです。これはなんといっても、わずか一人やそこいらの僧正さまより、少しは大きな意味を持っていますからね。あなたはむろんクリスチャンでしょうね」スタヴローギンは早口にいった。ときに真面目な、ときに嘲るような言葉が、ばら撒くように飛び出した。
「主よ、汝の十字架をわれ恥ずまじ」とチーホンはほとんどささやくようにいった。それは一種熱烈なささやきであった。頭はいよいよ低く垂れた。
「神を信じないで、悪魔を信じることができるものですかね?」とスタヴローギンは笑い出した。
「それはもうできるだんじゃない、ざらにあることですとも」チーホンは目を上げて、にっこり笑った。
「じゃ、あなたはそうした信仰のほうが、なんといっても完全な無信仰より尊敬に価すると、思ってらっしゃるんでしょう……賭けでもしますよ」とスタヴローギンはからからと笑った。
「それどころか、完全な無神論のほうが、俗世間の無関心な態度より、ずっと尊敬に価しますよ」とチーホンは答えた。
「へえ、そんなことをお考えなのですか!」
「完全な無神論者は完全な信仰に達する、最後の一つ手前の段に立っておる(それを踏み越す越さないは別として)。ところが、無関心な人間はなんの信仰も持っておらぬ。まあ、悪い意味の恐怖くらいなものですて。しかし、それもほんの時たまで、感じの強い人にかぎりますよ」
「ふむ……あなたは黙示録をお読みになりましたか」
「読みました」
「覚えていらっしゃいますか、『なんじラオデキヤの教会の使者に書おくるべし』ってのを……」
「覚えております」
「あの本はどこにあります?」なんだか妙にせき込んで、目でテーブルの上の本をさがしながら、スタヴローギンはそわそわ落ちつかない身振りをした。「ぼくはあなたに読んで聞かせて上げたいのです……ロシヤ語訳がありますか?」
「わたしはあの場所を知っておる、覚えております」とチーホンはいった。
「そらで覚えていらっしゃる? では、読んでください……」
 彼は急に目を伏せて、両の肘を膝の上につき、こらえ性《しょう》のない様子で謹聴の身がまえをした。チーホンは一こと一こと思い起こしながら暗誦した。
『なんじ、ラオデキヤの教会の使者に書おくるべし、アーメンたる者、忠信なる真の証者、神の造化の初めなるもの、かくの如く言うと。曰く、なんじ冷やかにもあらず、熱くもあらざることを、なんじのわざによりて知れり。われなんじが冷やかなるか、或いは熱からんことを願う。汝すでにぬるくして、冷やかにもあらず熱くもあらず、このゆえに、われなんじをわが口より吐き出ださんとす。なんじみずから、われは富みかつ豊かになり、乏しきところなしと言いて、まことは悩めるもの、憐むべきもの、また貧しく目しい、裸かなるを知らざれば……』
「たくさんです」とスタヴローギンはぷつりと断ちきった。「実はねえ、ぼくあなたが大好きですよ」
「わたしもあなたが」とチーホンは小声で応じた。
 スタヴローギンは口をつぐんだ。そして、ふいにまた、さきほどと同じもの思いに沈んでしまった。それはまるで発作的に起こるらしく、もうこれで三度めだった。それに、チーホンに向かって『大好きです』といったのも、ほとんど発作的といっていいくらいだった。少なくも、われながら思いがけなかったに違いない。一分以上たった。
「腹を立てなさんな」ほとんど指をニコライの肘にふれないばかりにしながら、なんとなく気おくれのする様子で、チーホンはこうささやいた。
 こちらはぎっくりして、腹立たしげに眉をひそめた。
「どうしてあなたは、ぼくが腹を立てたのに気がついたんです?」と彼は早口にきいた。チーホンが何かいおうとしたとき、彼はふいに名状しがたい不安の色を示しながら、相手をさえぎった。
「なぜあなたは、ぼくがきっと癇癪を起こすに相違ないと、そんな想像をしたんです? そうです、ぼくは意地悪な気持ちになっていました。お察しのとおりです。それも、ほかにわけがあるからじゃない、つまり、あなたに『大好きです』なんていったからです。お察しのとおりです。しかし、あなたは下品な皮肉屋です。人間の本性というものについて、卑しい考えを持っていらっしゃるんだから。これがもしぼくでなくてほかの人間だったら、腹を立てるなんて、あり得べからざることです……もっとも、問題は人間じゃなくてぼくのこってした。が、それにしても、あなたは畸人で、そして神様きちがいですよ……」
 彼はしだいしだいにいら立って来た……そして、不思議にも、言葉づかいを遠慮しなくなった。
「いいですか、ぼくは間諜だの心理学者なんてものを好かないんです。少なくとも、ぼくの魂を覗いて見ようとするような、そうした連中を好かない。ぼくは自分の魂の中へは、だれ一人お招きしません。ぼくはだれをも必要としません。自分で自分の始末をつけますよ。あなた、ぼくがあなたを恐れてるとお思いですか?」彼はいちだん声を張って、挑むように顔を上げた。「あなたはきっとこう確信していられるのでしょう、ぼくがここへ来たのはある『恐ろしい』秘密をうち明けるためだと思って、あなた相応の庵室的好奇心を緊張させながら、今か今かと待ってらっしゃるんでしょう。なら、お断わりしますがね、ぼくはなんにも、なんの秘密もうち明けませんよ。あなたなんかのご厄介にならなくたって、けっこうやっていけますからね……」
 チーホンはしかと相手を見据えた。
「あなたは、主がただの生ぬるいものより冷たいものを愛されるのに、驚かれたようですな」と彼はいった。
「あなたもただの生ぬるいものになりたくないのでしょう。わたしはそういう予感がします、あなたはなみなみならぬ覚悟をいだいておられる。ことによったら、恐ろしい覚悟かもしれませんて。お願いだから、われとわが身を苦しめずと、すっかりいっておしまいなさい」
「ぼくが何かつもりがあって来たと、あなたは確かに見抜いてましたか?」
「わたしは……見抜いておりました」とチーホンは目を伏せながらつぶやいた。
 ニコライはややあおざめて、手がかすかに慄えていた。幾秒か、彼は最後の決心をつけようとするらしく、じっと無言のまま目を据えていた。とうとう、上着のポケットから何やら印刷した紙を取り出して、テーブルの上へ置いた。
「これは公表の予定になっている印刷物です」と彼はかすれ勝ちの声でいい出した。「もし、たった一人でもこれを読んだら、ぼくはもう隠しゃしません。みんなに読ましてやりますよ。そう決めてあるんです。ぼくはあなたなぞいっこう必要としない。すっかり決心したんだから。しかし、まあ、読んでください……読んでいる間は、なんにもいわないで、読み終わったら、すっかり聞かしてください……」
「読みますかな?」とチーホンは思い切り悪くたずねた。
「読んでください。ぼくは平気です」
「だめです、眼鏡なしじゃ字体もわかりませんて。細かい印刷なので、外国出来なので」
「さあ、眼鏡」スタヴローギンはテーブルの上から取って渡しながら、長いすの背に身をもたせた。チーホンはそのほうに目もくれないで、刷り物に没頭してしまった。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 印刷は本当に外国のもので、ありふれた小判の書簡紙三枚に刷ったものを仮綴じにしたものだった。きっとどこか外国のロシヤ活版所で、秘密に印刷したに相違ない。一見して、不穏文書といった体裁をしていた。題は『スタヴローギンより』となっていた。
 わたしは本当にこの記録を一語も洩らさず入れようと思う。ただ正字法上の誤りはあえて訂正した。こうした綴字の誤りはかなりたくさんあって、いくらかわたしを驚かしたほどである。なんといっても、筆者は教養のある人物で、むろん比較的の話ではあるけれど、博覧といってもいいくらいだったからである。文章のほうは、不正確な点もあるが、いっさい改変を加えなかった。いずれにせよ、まず第一に、筆者が文学者でないことは明瞭である。
 ちょっとさき廻りになるけれど、もう一つ断わっておく。この記録は、わたしにいわせれば病気のさせた業、というより、この人に憑いた悪霊の仕業である。たとえていえば、鋭い痛みに悩む人間が、わずかの間でも苦痛を軽くしようと思って、いや、軽くするのでもなく、ほんの瞬間的にでも、現在の苦痛を別の苦痛に変えようと思って、床《とこ》の上でもがき廻っているような具合だった。こうなってしまえば、体裁とか、理性的だとかいうことを、かまっている暇がないのはもちろんである。この記録の根本思想は、偽りならぬ恐ろしい自己刑罰の要求である。民衆ぜんたいを前にしての刑罰、生涯負わねばならぬ十字架の要求である。しかも、この十字架に対する要求が、なんといっても十字架を信じない人間に生ずるのである。したがって、これ一つだけでも優に立派な『思想』を形づくる(これはある別の機会にスチェパン氏がいったことなので)。また他の一面から見ると、この記録ぜんたいは、明らかに別な目的で書かれているにもかかわらず、それと同時に嵐のごとく狂暴なものであった。筆者の声明するところによると、彼はこれを書かずにいられなかった、即ち『強制された』とのことである。それはかなりもっともらしいことで、彼はできることなら、この苦杯を避けたかったに相違ない。けれども、実際、書かずにいられなくなって、新しく狂暴性を発揮する好機につかみかかったのである。そうだ、病人は床の中でもがき廻りながら、一つの苦痛を別の苦痛に変えようとする。ところが、対世間の闘争が最も凌ぎいい状態のように思われたので、彼はこの世間に挑戦を投げかけたのだ。
 まったく、こういう記録が書かれたという事実そのものに、社会に対する新しい、思いがけない、ゆるすべからざる挑戦が予感される。だれでもいい、ただ少しも早く敵手に出あいさえすればよいのだ。
 が、もしかしたら、この事件ぜんたいは、つまり、刷り物もその発表の計画も、やはり知事の耳を咬んだ一件の変形にすぎないのかもしれない。もうだいぶ真相が明らかにされた今日でも、なぜこの考えがわたしの頭に浮かんで来るのか、とんと合点がいかない。この記録がいかさまものだ、つまり、そっくり頭から捻り出したこしらえものだなどと、そんなことを断言しようという気もないし、証拠を引いて来ようとも思わない。何よりも確かなのは、真相をその中間に求めることだろう。もっとも、わたしはあまりさき走りしすぎた。とにかく、記録そのものについて見るのが一番である。チーホンが読んだのは、次のごときものだった。

[#4字下げ]『スタヴローギンより』

 余、すなわち退役将校ニコライ・スタヴローギンは、一八六…年、淫蕩に身をゆだねつつ、しかもそれに満足を感ずることなく、ペテルブルグに生活していた。当時、しばらくの間、余は三軒の住まいを持っていた。一軒には余自身世帯をかまえ、女中をおき、食事を調えさせていた。現在余の正妻たるマリヤ・レビャードキナも、その頃このアパートにいた。その他の二軒は恋愛遊戯のために、月ぎめで借りていたのである。一軒の住まいでは余に恋していた某貴婦人に接し、いま一軒のほうではその小間使と密会していたが、しばらくの間はこの二人、すなわち女主人と小間使が、余の家で顔を合わすように、うまく筋書を作ろうと、その計画に専念していた。余は二人の性格を承知していたので、このトリックに非常な満足を期待していた。
 ひそかにこの顔合わせを準備していた余は、その二軒のうちの一つ、ゴローホヴァヤ街の大家屋内にある住まいへ、やや頻繁に足を向けねばならなかった。この住まいが小間使との密会場所だったからである。それは四階に住んでいる町人からまた借りした、たった一つきりの部屋であった。町人の家族は隣り合った別の一間に入っていたが、さらに小さい窮屈な部屋なので、境の扉がいつも開けっ放しになっていたほどである。もっとも、余自身もそれを希望していたのであった。亭主はどこかの事務所へ勤めに出て、朝から夜まで留守だった。女房は四十がらみの年増で、古ものの仕立直しを内職にして、裁ったり縫い合わせたりしては、これもかなり頻繁に、できたものを問屋へ届けに家を明けた。余は娘と二人きりで、よく留守をした。見たところ、まるでねんねえで、名はマトリョーシャといった。母はこの娘をかわいがっていたが、かなりよく折檻をして、彼らの社会ではありがちだが、裏店女房らしくがみがみどなりつけていた。この娘が余の世話をして、屏風の陰を片づけるのであった。断わっておくが、余はこの家屋の番号を忘れた。こんど調べて見た結果、この古い家は取り毀されて、以前二、三軒あった場所に、恐ろしく大きな新しい家屋が一軒立っている。町人夫婦の苗字もやはり忘れてしまった(或いは、その時から知らなかったのかもわからぬ。思い起こせば、女房の名はスチェパニーダ、父称はミハイロヴナといったらしい。亭主のほうは覚えがない)。余の考えでは、真剣にさがす気になって、ペテルブルグの警察でできるだけの調査をしてもらったら、行方を突き留めることができるだろう。その住まいは裏庭の角にあった。いっさいの事件は七月に持ちあがった。家は薄水色に塗ってあった。
 あるとき余のテーブルからナイフが見えなくなった。まるで用のない品で、ただごろごろしていたのである。余はまさか娘が折檻されようなどとは、夢にも想像しなかったので、このことを内儀《かみ》さんに話した。ところが、内儀さんはついその前に、何かの布《きれ》っ端がなくなった時、娘が盗んだのだといって、髪をつかんで引っぱったばかりのところだった。この布っ端がテーブルかけの下から出て来たとき、娘は不平がましいことを一口もいおうとせず、黙ってじっと目を据えていた。余はそれに気がついた。その時はじめてこの娘の顔を気をつけて見たので、それまではただ目の前をちらちらしている、というだけの印象しかなかった。彼女は眉や睫《まつげ》の白っぽいたちで、そばかすのあるありふれた顔をしていたが、非常にあどけない、もの静かな感じにみちていた。度はずれに静かなくらいだった。母親は、娘が無実で打たれたのに一口もとがめ立てしないのが癪にさわって、また拳固を振り上げたけれど、さすがに撲りはしなかった。そこへちょうど、ナイフ紛失という事件が持ちあがったのである。事実、余ら三人のほかだれもいなかったし、余の部屋の屏風の陰へは、娘が入ったばかりである。女房は初めの折檻が無実の罪だったので、今度こそすっかりかんかんになってしまった。いきなり箒に飛びかかって、その中から小枝を一つかみ引き抜くと、娘はもう十二になっているのに、余の見ている前で、臀部に赤いみみず脹れが出来るほど打ちのめした。マトリョーシャは折檻では泣かなかった。おそらく余が傍にいたからだろう。けれど、一打ちごとに何か奇妙なしゃくり声を立てた。それから後でまる一時間も、烈しくしゃくり泣きを続けた。
 けれど、その前にこういうことがあったのだ。女房が箒のほうへ飛んで行って、小枝を一つかみ引き抜こうとしたとき、余はナイフを寝台の上に発見した。何かの拍子に、テーブルからそこへ落ちたのである。余はその時すぐさま、娘を打たせるために、発表しないでおこうと思いついた。瞬間的に決心がついたのだ。こういうとき余はいつも息切れがする。しかし、一つとして秘密が残らないように、すべてをいっそうはっきりした形で叙述しようと思うのだ。
 余がこれまでの生涯に経験したところによれば、なみなみならぬ恥辱にみちた、卑屈な、陋劣な、しかも何より滑稽な立場に置かれると、無限の憤怒とならんで、たとえようもない快感が湧き起こるのが常であった。犯罪の瞬間も、生命に危険を感じた時も、やはり同様である。もし何か盗むようなことがあったら、余は窃盗を行なうに当たって、わが陋劣の深刻さを意識して、酔えるがごとき快感を覚えたに相違ない。余の愛したのは陋劣そのものではない(さような場合、余の理性は完全に働いていた)。ただおのが卑しさを意識する悩ましさに、ある酔い心地を愉しむのであった。またこれと同じく、余は決闘場の境界線に立って、敵の発射を待ち設ける瞬間にも、同じく屈辱にみちた、しかも狂暴な感触を経験した。一度なぞは、それが並みはずれて烈しかった。白状するが、余はしばしばこれを追求した。なぜならば、これこそ余にとって、この種の感覚中もっとも強烈なものだからである。余は平手打ちを受けた時(今までこれを二ど受けた)、恐ろしい憤怒にもかかわらず、やはりこの感覚を味わった。もしこの憤怒を抑制するならば、快感はあらゆる想像を超ゆるものがある。余はこのことをかつてだれにも話さなかった。ほのめかすことさえしなかった。むしろ恥辱とし、汚辱として隠すようにしていた。しかし、ある時ペテルブルグの居酒屋で、さんざんに打ちのめされ、髪をつかんで引き摺られた時、あいにく酔っていなかったためにこの感触を味わわず、ただ量り知れぬ憤怒を覚えたばかりで、喧嘩しただけに終わった。けれど、これがフランスの子爵だったら、――余の頬を打ったために、余は下顎を射落とされたあの子爵が、外国で余の髪を引っつかみ、首をぐんぐん押しつけたなら、余は酔うばかりの歓喜を覚えて、怒りなど感じなかったかもしれない。当時こんなふうな気持ちがしたものである。
 余がこんなことをくわしく書くのは、この感情に全幅を領し尽くされたことがかつてなく、常に完全な意識が残っていた、――いな、むしろすべてが意識の上に基礎をおいていることを、万人に知ってもらいたいからである。余は理性を失うまで、というより、意地っ張りに近くなるほど、この感情に捕えられるけれども、けっしてわれを忘れつくすまでにはいたらなかった。それは猛火の勢に達したが、同時に余はそれを完全に征服することができたばかりか、最頂上に達した時に、消し止めることさえできた。ただ、消し止めようと自らけっして思わなかっただけである。余は生来野獣的な情欲を賦与されているにもかかわらず、またその情欲を常にみずから挑発して来たにもかかわらず、僧侶のような生涯を過ごすこともできたに相違ない、とこう確信している。余はいつでもその気にさえなれば、自分自身を支配することができる。こういうわけで、ここできっぱり断わっておくが、環境の力とか病気とかいうものに、余の犯罪に対する責任免除の理由は求めたくないのである。
 娘の仕置きがすんだとき、余はナイフをチョッキのかくしに入れて、ひと言もいわずに外へ出ると、だれにもけっして見つからないように、ずっと遠く離れたところで往来へほうり出してしまった。それから、余は二日間、様子をうかがっていた。娘は泣くだけ泣いてしまうと、前よりいっそうだまり込んでしまった。余に対しては別に悪感情を持っていなかった、とひそかに信じている。しかし、そうはいうものの、余の面前でああいうていたらくで折檻されたということに、多少の羞恥は感じていたに相違ない。が、この羞恥についても、彼女は子供の常として、おそらく自分一人だけを責めていたらしく思う。
 ちょうどこの時、この二日間に、余は自分の企てた計画を抛擲して、引きさがってしまえるかどうかと、一ど自分で自分に問いを発したことがある。そのとき余はすぐに猶予なく、「できる、いつでもさっそく手を引くことができる」と感じた。余はその当時、無関心病のために自殺しようと思ったことがある(もっとも、なんの原因か自分でもよくわからない)。つまり、この二、三日の間に(というのは、娘が何もかも忘れてしまうのを、ぜひとも待たなければならなかったからである)、余は絶えずつきまとう妄想から心をそらすために(或いはただのお笑い草のためだったか)、自分のアパートで盗みをやった。それは余の生涯における唯一の盗犯である。
 この建物の中には、大勢の人間がうようよ巣をつくっていた。その中に一人の役人が家族づれで、調度つきの部屋を二間かりて住んでいた。年は四十ばかり、そして、馬鹿でもなく、かなりいい恰幅をしていたが、内証は苦しかったのだ。余はこの男と親しくしていなかった。余をとり巻いている連中に、先方が恐れをなしたのである。彼はちょうどその時、三十五ルーブリの月給をもらって来たばかりだった。余にそういう出来心を起こさせたおもな動機は、そのとき自分に金が少しもなかったことである(もっとも、四日後にはちゃんと郵便局で受け取ったのだけれども)。とにかく、余の盗みは悪ふざけのためでなく、必要に迫られたためということになる。しかも、そのやり方はこれ見よがしの、ずうずうしいものであった。余はいきなりずっと、彼のアパートへ入って行ったのだ。役人は細君や子供といっしょに、次の小さな部屋で食事をしていた。戸口のすぐ傍の椅子の上に、脱ぎ棄てた制服がたたんでのせてあった。この案はまだ廊下を歩いている時から、余の脳中に閃いたものである。余はかくしに手を突っ込んで、金入れを抜き出した。けれど、役人はかさこそという物音を聞きつけて、小部屋から顔をつき出した。少なくとも、何か変なそぶりを見たらしかったが、むろん全部すっかり見たわけではないので、自分で自分の目を信じなかったのである。余は廊下を通りすがりに、いま何時か、彼の掛け時計を覗きに寄ったのだといった。「とまっております」と彼は答えた。で、余はそのまま出て行った。
 そのとき余はめちゃくちゃに飲んでいた。余の部屋に、一小隊ほどの取巻き連がいたのである。その中には、レビャードキンも交っていた。余は金入れを小銭といっしょに棄ててしまって、さつだけ残して置いた。いっさいで三十二ルーブリ、赤さつが三枚、黄さつが二枚だった。余はすぐに赤さつを細かくしてシャンパンを買いにやった。それから、もう一枚赤さつを出して、更にまた最後の一枚も費ってしまった。四時間ばかりたってから、もう夕方に、例の役人が余を廊下で待ち受けていた。
「もし、あなた、ニコライ・フセーヴォロドヴィチ、さっきわたしどもの部屋へお寄りになったとき、何かの拍子で、制服を椅子の上からお落としになりはしませんでしたか? 戸口のところにあったのですが……」
「いや、覚えていませんな。いったいあすこに制服があったのですか?」
「はあ、ありましたんで」
「床の上に?」
「はじめ椅子の上に、それから床の上に」
「それで、あなたはそれをお拾いになりましたか?」
「拾いました」
「ははあ、それでまだ何か御用がおありになるんですか?」
「いや、そういうことでしたら、別になんでもございませんので……」
 彼は思ったことをすっかりいってしまう勇気がなかった。それどころか、アパート内のだれ一人にも、この出来事を話すことさえはばかったほどである、――こういう連中はこれほどまで臆病なものである。もっとも、アパートの中ではみんなむやみに余を恐れ、尊敬していた。その後、余は二度ばかり、彼と廊下ですれ違いざま目と目を見合わせて面白がったものだが、それにもやがて飽き飽きしてしまった。
 三日ばかりたって、余はゴローホヴァヤ街へ帰った。母親は包みをかかえて、どこかへ出かけるところだった。亭主はもちろん留守で、余とマトリョーシャだけが残ることになった。窓はみんな開け放しになっていた。その家に住んでいるのは、おおむね職人ばかりだったので、どの階からも終日《いちにち》金鎚の音や歌の声が聞こえていた。余と娘はもう小一時間じっとしていた。マトリョーシャは自分の小部屋にこもって、余に背を向けて、床几に腰かけたまま、針を持って何やらいじくり廻していた。と、そのうちにふと恐ろしく小さな声で歌い出した。こんなことは、この娘にかつて見られないことであった。余は時計を取り出して、何時か見た。二時だった。心臓がどきどき打ち出した。余は立ちあがって、娘のほうへそっと忍び寄り始めた。親子の部屋には、窓の上に銭葵の鉢がたくさんおいてあった。太陽がまぶしいほど明るく照らしていた。余は静かに彼女の傍ちかく、床《ゆか》の上に腰を下ろした。娘はぴくりと身を慄わせた。初めまず烈しい驚愕を感じたらしく、いきなり床几から躍りあがった。余はその手を取ってそっと接吻し、娘の体をまた床几のほうへ引き寄せながら、じっとその目を見つめにかかった。余が娘の手を接吻したということは、彼女を小さな子供のように興がらせたが、それはほんの瞬間のことだった。彼女はまたもや躍りあがった、今度はもう顔に痙攣が走るほどの、烈しい驚愕に打たれたのである。彼女はぞっとするほど据わって動かぬ目で、ひたと余を見つめていた。唇は今にも泣き出しそうに、ぴくぴく引っ吊りはじめた。が、それでも声は立てない。余はふたたびその手を接吻して、彼女を膝の上に抱きあげた。そのときふいに娘は全身をぐいと引いて、恥ずかしそうににっと笑ったが、それはなんだかひん曲ったような微笑だった。顔は一面ぱっと羞恥の火に燃え立った。余はまるで酔いどれのように、絶えず彼女の耳に何やらささやきつづけていた。やがてそのうちに思いがけなく、驚くばかり不思議なことが起こった。余はそれを永久に忘れることができないだろう。娘はふいに両手で余の頸を抱きしめると、いきなり自分のほうから烈しい勢いで接吻を始めた。その顔は極度の歓喜を現わしているのであった。余は今にもそのまま立ちあがって、出て行ってしまおうとしたほどである、――この幼いものの内部に潜んでいる情熱が、それほど不愉快に感じられたのである。しかも、それは突然おそって来た憐愍のためなのであった。
 いっさいが終わったとき、娘はきまり悪そうにもじもじしていた。余は彼女を安心させようとも、愛撫を示そうともしなかった。娘は臆病げにほほ笑みながら、じっと余の顔を見つめていた。余は急にその顔が愚かしく思われてきた。当惑の表情は一刻ごとに、見る見る彼女の顔にひろがっていった。ついに彼女は両手で顔をかくしたと思うと、片隅に引っ込んで、うしろ向きにじっと立ちすくんだ。またさっきのように、彼女がおびえはしないかと気づかわれたので、余は無言のまま家を出てしまった。
 思うに、この出来事はかぎりなく醜い行為として、死ぬばかりの恐怖を呼び起こしながら、彼女の心に取り返しのつかぬ烙印を捺してしまったに相違ない。まだおしめの中にいる頃から聞きなれたろうと思われるロシヤ式の口汚い罵詈雑言や、その他あらゆる猥雑な会話にもかかわらず、彼女はまだなんにも知らなかったに相違ない、と余は確信して疑わない。そして、とどのつまり、彼女は言葉に尽くされぬほど大きな、死に価すべき罪を犯して、『神様を殺してしまった』というふうな感じをいだいたに違いない。
 その晩、余は前にもちょっと述べたとおり、酒場へ行って喧嘩をした。けれど、翌朝目をさましたのは自分の下宿だった。レビャードキンが運んで来てくれたのである。目をさましてからまず頭に浮かんだのは、娘が告げたろうかどうだろう? という想念であった。それは、程度こそまださほど強くなかったが、真剣な恐怖の瞬間だった。余はその朝おそろしく陽気で、だれにでも優しくしてやったので、取り巻き連中はしごく大恐悦であった。余はかれら一同をすてて、ゴローホヴァヤ街へおもむいた。余はまだ下の入口の所で、彼女にぱったり行き会った。近所の店へ菊ぢさ[#「菊ぢさ」はママ]を買いにやられた、その帰りなのである。余の姿を見ると、彼女はたとえようのない恐怖を現わして、矢のように階段を駆け昇った。余が入って行った時、母親は『気ちがい猫みたいに』家へ駆け込んだといって、さっそく娘に拳固を一つ見舞ったところで、娘の驚愕の真因はそれでおおわれた。こういうふうで、まずさし当たり万事平穏であった。娘はどこかへ引っ込んでしまって、余のそこにいる間じゅう、ちっとも出て来なかった。余は一時間ばかりいて、帰ってしまった。
 夕方になって、余はまたぞろ恐怖を感じたが、今度はもう比較にならぬほど烈しかった。むろん、余はどこまでも突っぱることができたけれど、真相を暴露される恐れもあった。余の頭には流刑などという考えも閃いた。余はかつて恐怖というものを知らなかった。この時を除いては、一生涯あとにもさきにも、何一つ恐ろしいと思ったことがない。だから、シベリヤなどを恐れるわけはなおさらなかった。もっとも、そこへ流されてもいいようなことは、一度や二度でなく仕出かしたものだけれど。が、その時は余もすっかり臆病になり切って、なぜか知らないが、本当に恐怖を感じた。それは生まれて初めてのことで、――実に悩ましい感じだった。のみならず、その晩、余は自分の宿にいて、彼女に烈しい憎悪をいだき始めた。余は憎しみのあまり、殺してしまおうと決心したほどである。憎悪のおもなる原因は、彼女の微笑を思い起こしたことに潜んでいた。それから、彼女がすべて終わった後に片隅へ飛んで行って、両手で顔を隠したことを考えると、なんともいえない嫌悪を伴なった侮蔑感が余の心中に湧き起こって、名状しがたい狂憤がこみ上げて来る。と、それにつづいて悪感《おかん》が襲って来、とうとう夜明け頃には熱を出してしまった。余はまたもや恐怖のとりこになったが、もはやこれ以上の苦しみはなかろう、と思われるほどの烈しさであった。しかし、余はもう娘を憎まなかった、――少なくとも、宵に経験したような病的な発作に達するほどではなかった。烈しい恐怖は、完全に憎悪と復讐の念を駆逐するものだ。これは余の観察である。
 余は正午頃、健全な体で目をさました。それは、昨夜来の苦悩の烈しさが妙に思われるほどであった。――もっとも機嫌はよくなかった。余はいやでたまらないのを我慢して、またもやゴローホヴァヤ街へ出かけなければならなかった。今でも覚えているが、そのとき途中でだれかと喧嘩がしたくてたまらなかった。ただし、真剣な喧嘩でなくてはならない。ゴローホヴァヤヘ来て見ると、余の部屋にニーナ・サヴェーリエヴナが来ていた。これは例の小間使で、もう一時間ちかく余を待っていたのである。余はこの女をまるで愛していなかったので、彼女は呼ばれもしないのに訪れて来て、余に怒られはしないかと、ややびくびくものでやって来たのである。けれど、余はにわかに彼女の来訪を喜んだ。このニーナはちょっと渋皮のむけた女だったが、つつましやかなたちで、町人社会で喜ばれそうなものごしや話し振りなので、下宿の女房はもう前から余に向かって、さんざんこの女のことを褒めちぎっていたものである。余が入ったとき、二人はさし向かいでコーヒーを飲んでいた。かみさんは愉快な話し相手をつかまえ大恐悦だった。その小部屋の隅に、余はマトリョーシャの姿を認めた。彼女はそこにたたずみながら、母親と女客をじっと見つめていた。余が入って行っても、彼女は前のように隠れようとも、逃げようともしなかった。ただげっそり痩せて、熱でもありそうなふうに思われた。余はニーナに優しくしてやって、かみさんの部屋との境の戸を閉めたりした(こんなことは、もう久しい前からなかったことなので)。ニーナはすっかりうちょうてんになって帰って行った。余は自分で彼女の手を取って送り出し、それきり二日間ゴローホヴァヤ街へ帰って来なかった。もう飽き飽きしてしまったのである。余は何もかも片づけて、下宿のほうも引き払い、ペテルブルグから立ってしまおうと決心した。
 しかし、下宿を断わりに行って見ると、かみさんは不安と悲しみに包まれていた。マトリョーシャはもう三日前から病人で、毎晩熱に悩まされ、夜になると譫言《うわごと》をいうとのことであった。むろん余はどんな譫言かたずねた(二人は余の部屋でひそひそ話したのである)。すると、母親が余の耳にささやくには、『恐ろしい』『神様を殺してしまった』というのが、娘の譫言なのだそうである。余は自分で金を出すから、医者を呼んで来るように提議したが、女房は承知しなかった。「まあ、神様のお助けで、このままでもよくなるでございましょう。のべつ臥《ね》通しというわけでもありません、昼間は外へも出るのでございますよ。たった今もそこの店までお使いに行ったくらいなので」余はマトリョーシャ一人だけの時に来ようとはらを決めた。幸い女房が、五時頃に川向こうへ行って来なければならぬと口をすべらしたので、晩方にまた帰って来ることにした。
 余は小料理屋で食事をして、ちょうど五時十五分にゴローホヴァヤ街へ引っ返した。余はいつも自分の鍵で中へ入るのであった。マトリョーシャのほかにはだれもいなかった。彼女は小部屋の屏風の陰で、母親の寝台に臥ていた。余は彼女がちらと覗いたのを見たが、気がつかないようなふりをしていた。窓という窓はみんな開いていた。空気は暖いというより、むしろ暑いくらいであった。余は少し部屋の中を歩いた後、長いすに腰をかけた。余はいっさいのことを最後の瞬間まで覚えている。マトリョーシャに話しかけないでじらすのが、余はたまらなく嬉しかった。なぜかわからない。余はまる一時間待っていた。と、ふいに彼女は自分で屏風の陰から飛び出した。彼女が寝台から飛びおりた時、両足が床にぶつかってどんといったのも、それに続いて、かなり早めな足音がしたのも聞いた。と、彼女はもう余の部屋の閾の上に立っていた。立って、無言のままじっと見ていた。余は卑劣千万にも、うれしさに心臓の躍るのを覚えた。つまり、余が意地を立て通して、彼女のほうから出て来るまで待ちおおせたからである。この数日来、一度も間近く見なかったが、まったくその間に彼女は恐ろしく痩せた。顔はかさかさになって、頭はきっと燃えるようだったに相違ない。大きくなった目はじっと据わって、ひたと余を見つめている。初めはそれが鈍い好奇の表情のように思われた。余はじっと坐ったままそれを見返して、身動きもしなかった。と、その時またふいに憎悪の念を感じた。しかし、間もなく、彼女がまるで余を恐れていない、それよりむしろ熱に浮かされているのだ、と見て取った。が、熱に浮かされているわけでもなかった。とつぜん彼女は余のほうへ向けて、顎をしゃくり始めた。それはゼスチュアを知らぬ単純な人間が、人を責める時にやるような、そうした顎のしゃくり方であった。と、ふいに、彼女は余に小さな握り拳をふり上げて、その場を動かずに威嚇をはじめた。最初の瞬間、余はこの動作が滑稽に感じられたが、だんだんたまらなくなって来た。彼女の顔には、とうてい子供などに見られないような絶望が浮かんでいたのである。彼女は絶えず余を嚇かすように、小さな拳を振っては、例の譴責の顎をしゃくるのであった。余は恐怖を覚えながら立ちあがって、彼女の傍へ寄り、そっと用心ぶかく、穏かに、優しく話しかけたが、その言葉が彼女の耳に入らないのを見て取った。やがて彼女は、あの時と同じように、いきなりぱっと両手で顔を隠して、余の傍を離れると、こちらへ背を向けて窓ぎわに立った。なぜ余はそのとき立ち去らないで、あることを待つもののごとくい残ったのか、ふつふつ合点がいかない。間もなく、余はふたたびせかせかした足の響きを聞いた。彼女は木の廻廊に通ずる戸口へ出て行った。そこから階段づたいに下へおりる口があった。余はすぐに自分の部屋のドアヘ駆け寄り、そっと細目にあけて見ると、マトリョーシャが小っぽけな物置きへ入るのが目についた。便所と隣りあった鶏小屋みたいなものである。きわめて興味のある想念が余の頭に閃いた。なぜこの想念がまず第一に余の心に浮かんだのか、いまだに合点がいかない。つまり、そうなるべき運命だったと見える。余は扉をしめて、また窓ぎわに腰をおろした。もちろん、いま閃いた想念をまだ信ずるわけにはいかない、――『しかしそれでも……』(今でもすっかり覚えているが、余の心臓は烈しく鼓動した)。
 一分ほどたって、余は時計を眺めた。そして、できるだけ正確に時刻を見さだめた。なんのために正確な時刻が必要だったのか知らない。けれど、余はそれをするだけの余裕があった。全体に、余はその時すべてのことを見のがすまいとした。で、そのとき観察したことを今でも覚えているばかりでなく、現に目の前に見るような思いさえする。夕闇がせまって来た。余の頭の上で蠅が一匹うなって、のべつ顔にとまった。余はそれをつかまえて、しばらく指で抑えていたが、やがて窓のそとへ放してやった。下のほうで一台の荷馬車が、やけに大きな音を立てながら、門内へ入って来た。一人の仕立職人が、裏庭の片隅に当たる窓のなかで、もうずっと前から、思い切り大きな声で歌をうたっている。仕事をしていたのだけれど、姿は見えない。ふと、こんな考えが頭に浮かんで来た。余が門内へ入って、階段を昇って来るときにも、だれひとり行き会ったものがないのだから、これから下へおりる時にも、もちろん、だれにも行き合わないほうがいい。そう思って、余はほかの下宿人どもが見つけないように、用心ぶかく椅子を窓の傍から離した。本を手に取り上げたが、すぐにほうり出して、銭葵の葉にのっかっている小っちゃな赤い蜘蛛を見まもっているうちに、忘我の境に落ちてしまった。余はいっさいのことを最後の瞬間まで覚えている。
 余はふいに時計を取り出した。マトリョーシャが出て行ってから、ちょうど二十分たっている。想像はどうやら適中したらしい。しかし、余はもう十五分かっきり待ってみることに決めた。ひょっとしたら、彼女は引っ返したのに、こちらでそれを聞き洩らしたのかもしれない、――こういう考えも余の頭に浮かんで来た。しかし、それはあり得ないことだった。死のごとき静寂があたりを領して、一匹一匹の蠅のうなり声さえ聞き分けられるくらいであった。ふいに余の心臓はまた烈しく鼓動を始めた。時計を取り出して見ると、まだ三分残っていた。心臓は痛いほど動悸していたが、余はその三分間じっと坐り通した。それから、やっと立ちあがって、帽子を目ぶかにかぶり、外套のボタンをかけた後、余のここへ来たことを示す痕跡はないかと、部屋の中を見廻した。椅子はもとのように窓ぎわ近く寄せて置いた。最後に、余はそっと扉をあけて、自分の鍵で戸締りをし、さて物置のほうへ足を向けた。物置きの戸は締めてあったけれど、鍵をかけてなかった。この戸にいつも鍵をかけたことがないのを、余はちゃんと承知していたが、それでも開けて見たくなかった。ただ爪立ちをして、隙見をはじめた。この瞬間、爪立ちをしながら、余はふと思い出した、さきほど窓ぎわに坐って、赤い蜘蛛を見つめながら、いつしか忘我の境に陥ったとき、自分が爪先立ちをしながら、この隙穴まで片目を持って行く姿を心に描いたものである。このデテールをここへ挿入するのは、余がどの程度まで自分の知性をはっきり掌中に把握していて、すべてに責任を持ちうるかということを、是が非でも証明したいからである。余は長いこと隙穴を覗いていた。中が暗かったからである。しかし、まっ暗闇でもなかったので、ついに見分けることができた、余にとって必要なものを……
最後にここを立ち去る決心をした。階段ではだれにも出会わなかった。三時間の後、余は宿でいつもの連中といっしょに、上着を脱ぎすてて茶を飲みながら、古いカルタを弄んでいた。レビャードキンは詩を朗読していた。いろんな話がたくさん出たが、まるでわざと誂えたように、みんな上手に面白おかしく話してくれて、いつものように馬鹿馬鹿しくなかった。そのときキリーロフも一座にいた。ラムのびんはそこにあったけれど、だれも飲むものはなかった。ただ時々レビャードキンが一人で、ちょいちょい口をつけるくらいなものであった。
 ブローホル・マーロフは、「ニコライ・フセーヴォロドヴィチ、あなたが機嫌をよくして、くさくさしていらっしゃらないと、われわれまでがみんな陽気になって、気の利いたことをいいますぜ」と言った。余はこれをすぐその場で記憶にたたんだ。してみると、余は愉快で、機嫌がよくて、くさくさしていなかったわけである。が、それは表面だけのことである。忘れもしない、余はおのれの解放を喜んでいる自分が、卑屈で陋劣な臆病者だ、しかも、一生、この世でも、死んだ後でも、けっして潔白な人間にはなれないということを、自分でもちゃんと承知していた。それから、まだこういうこともある。余はその時、『自分の臭いものは匂わない』というユダヤの諺を、おのれの身に実現したのだ。というのは、余が心の中で卑劣だと感じていながら、それを恥とも思わず、全体にあまり良心の苛責を感じなかったからである。
 そのとき余は茶を飲みながら、取り巻き連としゃべっているうちに、生まれてはじめて厳粛に自己定義をした、――ほかでもない、自分は善悪の区別を知りもしなければ、感じもしない。いや、自分がその感覚を失ったばかりでなく、もともと善悪などというものは存在しない(それも余にとっては気持ちがよかった)、ただ偏見あるのみだ、自分はあらゆる偏見から自由になることができるが、しかし、この自由を獲得したら身は破滅だ、――とこういうふうのことだった。それは生まれてはじめて定義の形で意識したもの、しかも取り巻き連と茶を飲みながら、わけのわからないでたらめをしゃべったり、笑ったりしているうちに、偶然うかんで来た意識なのである。しかし、それでも余はいっさいを覚えている。だれでも知っている古い思想が、突然なにか新しいもののように心に映ずることがよくある。それは人生五十年の坂を越した後でも、起こり得るものである。
 その代わり、余は始終なにごとか期待していた。と、はたして案のとおりであった。もうかれこれ十一時ごろに、ゴローホヴァヤの家の庭番の娘が、かみさんの使いで駆けつけた。マトリョーシャが首をくくったという急報を、余にもたらしたのである。余はその小娘といっしょに出かけた。行って見ると、かみさんはなぜ余を迎えによこしたのか、自分でもわからないのであった。彼女はわめいたり、もがいたりしていた。人が大勢あつまって、警察の人も来ていた。余はしばらくそこに突っ立っていたが、やがて引き上げてしまった。余はその後もずっと別に迷惑を受けなかった。ただ必要な訊問に答えたばかりであった。余は、娘が病気して、うわごとをいっているので、自費で医者を呼びにやろうと申し出た、ということ以外には何もいわなかった。それから、ナイフのことでも何やら訊問を受けた。余はそれに対して母親が折檻したけれど、別になんのこともなかったと答えた。余があの晩行ったことは、だれも知らなかった。
 余は一週間ばかり、そこへ足を向けなかった。もう葬式もすんでしまってから、余は部屋を明けに出かけて行った。内儀さんはもう前々どおりに、ぼろ切れや縫い物をごそごそ始めていたけれど、それでもやはり泣きつづけていた。「あれはなんでございますよ。あなたのナイフのために、あの子をひどい目に遭わしたのでございます」と彼女はいったが、大して余を責めるような調子でもなかった。余はもはやああいうことがあった以上、この部屋でニーナに逢うわけにゆかないというのを口実にして、かみさんとの勘定をすましてしまった。彼女はお別れにもう一度ニーナを褒めてくれた。帰りしなに、余は決まりの部屋代のほかに、五ルーブリ心づけをしておいた。
 しかし、何よりいやなのは、頭がぼうっとするほど、生活に飽き飽きしたことである。もし自分が気おくれしたことを思い出して、いまいましさを感じることさえなかったら、ゴローホヴァヤ街の事件も、当時のあらゆる出来事と同様、危険が過ぎ去ると同時に、すっかり忘れてしまったかもしれないのである。余は、だれであろうと相手かまわず、機会さえあれば欝憤を晴らしていた。その当時、まったくなんの理由もないのに、余はだれかの生活をぶち毀してやろうという考えを起こした。ただできるだけ醜悪な方法でやりたかったのである。もう一年も前から自殺を考えていたが、それよりもっとうまいことが現われた。
 あるとき、余は跛のマリヤ・レビャードキナを見ているうちに(彼女はその当時まだ気ちがいでなく、ただ感激性の強い白痴というだけであった。ときおりこの貸部屋で余の身のまわりの用を足していたが、心ひそかに夢中になるほど余に恋していることを、取り巻き連中が嗅ぎ出したのである)、余は突然この女と結婚しようと決心した。スタヴローギンがこうした人間の屑の屑と結婚するという考えが、余の神経を刺戟したのである。これより以上の醜悪事は、想像もできないほどである。いずれにしても、余が彼女と結婚したのは、ただ『乱宴の後の酒杯の賭』ばかりのためではない。この結婚の証人は、当時ペテルブルグにい合わせたキリーロフと、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキイと、それから兄のレビャードキンと、プローホル・マーロフ(今は死んでいない)であった。それ以外のものはだれもこんりんざい知らなかったし、立ち会った連中も沈黙を約束した。余はいつもこの沈黙がいまわしい行為のように思われたが、しかし、今日までその約束は破られなかった。もっとも、余は公表の意図を持っていたが……今こそ何もかもいっしょに発表してしまう。
 結婚後、余は母のもとに帰省するためN村へ向けて出発した。この旅行は気ばらしが目的だった。故郷の町に余は気ちがいという印象を残した、――この印象は今だにしっかり根を張っていて、疑いもなく余に害をなしている。そのことは後で説明するつもりである。それから余は外国へ旅立ち、そこで四年を過ごした。
 余は東洋へも行った。アトスでは八時間の終夜祷を立ち通しても見た。エジプトへも足を踏み入れたし、スイスで暮らしたこともある。氷島アイスランド》へさえも渡った。ゲッチンゲンでは一年間の講義を完全に聴講した。最後の一年間に、余はパリであるロシヤの上流の家庭ときわめて近しい間がらになり、スイスでは二人のロシヤ令嬢と知合いになった。
 二年前フランクフルトで、ある紙屋の店先を通りかかった時、余はたくさんの売物の写真の中で、優美な子供服を着た娘の小さな写真に目をつけた。それが恐ろしくマトリョーシャに似ているのであった。余はすぐさまその写真を買って、ホテルへ帰ると、マントルピースに飾って置いた。そこで写真は一週間ばかり手つかずにのっかっていた。余はちらとも振り返って見なかった。そして、フランクフルトを立つとき、持って行くのを忘れてしまった。
 こんなことをここへ書き入れるのは、ほかでもない。どれだけ余が自分の追憶を支配して、無感覚になり得たかということを証明するためなのである。余はそれらの追憶を一まとめにして、一どきにほうり出してしまう。すると一群の追憶が、いつも余の欲するがままに、おとなしく消えていくのであった。余はいつも過去を追憶するのが退屈で、ほとんどすべての人がやるように、昔話を喋々することができなかった。ことに余の過去は、余に関するいっさいのものと同様に、憎悪すべきものばかりだから、なおさらである。マトリョーシャのことにいたっては、写真をマントルの上に置き忘れたほどである。
 一年ばかり前の春のこと、ドイツの国を通過中に、ぼんやりして乗換え駅を通り過ごし、ほかの線へ入ってしまった。余は次の駅で降ろされた。それは午後の二時すぎで、晴ればれとした日であった。場所はドイツの小さな田舎町である。余はある旅館を教えてもらった。次の列車は夜の十一時に通るので、かなり待たなければならなかった。余は別にどこへも急ぐわけでなかったので、むしろこの出来事を喜んだくらいである。旅館は小さくやくざなものだったけれど、すっかり緑に包まれ、四方から花壇に取り囲まれていた。余は狭い部屋を当てがわれた。気持ちよく食事をすますと、徹夜で乗り通して来たので、午後四時ごろにぐっすり寝入ってしまった。
 そのとき余は実に思いがけない夢を見た。こんな夢はかつて見たことがなかったのである。ドレスデンの画廊に、クロード・ローレンの画が陳列されている。カタログには『アシスとガラテヤ』となっているが、余はいつも『黄金時代』と呼んでいた。自分でもなぜか知らない。余は前にもこの画を見たことがあるけれど、その時も三日前に、また通りすがりに気をつけて見た。というより、この画を見るために、わざわざ画廊へ出かけて行ったのである。ドレスデンへ寄ったのも、ひっきょうそのためかもしれない。で、この画を夢に見たのだが、しかし、画としてでなく、さながら現実の出来事のように現われたのである。
 それはギリシャ多島海の一角で、愛撫するような青い波、大小の島々、岩、花咲き満ちた岸辺、魔法のパノラマに似た遠方《おちかた》、呼び招くような落日、――とうてい言葉で現わすことはできない。ここで欧州の人類は、自分の揺籃を記憶に刻みつけたのである。ここで神話の最初の情景が演じられ、ここに地上の楽園が存在していたのである……ここには美しい人人が住んでいた。彼らは幸福な穢れのない心持ちで、眠りから目ざめていた。森は彼らの楽しい歌声にみたされ、新鮮な力の余剰は、単純な喜びと愛に向けられていた。太陽は自分の美しい子供たちを喜ばしげに眺めながら、島々や海に光を浴びせかけていた! これは人類のすばらしい夢であり、偉大な迷いである! 黄金時代、――これこそかつてこの地上に存在した空想の中で、最も荒唐無稽なものであるけれど、全人類はそのために生涯、全精力を捧げつくし、そのためにすべてを犠牲にした。そのために予言者も十字架の上で死んだり、殺されたりした。あらゆる民族は、これがなければ生きることを望まないばかりか、死んでいくことさえできないくらいである。余はこういうような感じを、すっかりこの夢の中で体験した。余は本当のところ、なんの夢を見たのか知らないけれど、眠りがさめて、生まれてこの方初めて文字どおりに泣き濡れた目を明けた時、岩も、海も、落日の斜な光線も、まざまざと目のあたり見るような心地がした。かつて知らぬ幸福感が痛いほど心臓にしみ込んで来る。もう暮近い頃で、余の小さな部屋の窓からは、そこにならべた植木鉢の緑を通して、落日の斜な光線が太い束になって流れ込み、余に明るい光を浴びせていた。余は過ぎ去った夢を呼び返そうとあせるように、急いでまた両眼を閉じた。けれど、ふいに、さんさんたる日光の中から、何かしら小さな一点が浮き出すのを見つけた。この点はふいに何かの形になっていき、突然まざまざと小さな赤い蜘蛛が余の眼前に現われた。余は忽然と思い起こした、それは同じように落日の光線がさんさんと注いでいるとき、銭葵の葉の上に止っていたものだ。余は何ものかが、ぐさと体を刺し貫いたような気がして、身を起こしてベッドの上に坐った……
(これがそのとき生じたことの全部である!)
 余が目の前に見たものは! (おお、それは、うつつではない! もしそれが本当の映像であったら!)余が目前に見たのは、痩せて熱病やみのような目つきをしたマトリョーシャ、――いつか余の部屋の閾の上に立って、顎をしゃくりながら、余に向かって、小っぽけな拳を振り上げたのと、そっくりそのままなマトリョーシャである。余はこれまでかつて、これほど悩ましい体験を覚えたことがない! 余を威嚇しながらも(しかし、なんで威嚇しようとしたのだろう? いったい余に対して何をすることができたのだろう? ああ!)、結局、わが身ひとりを責めた、理性の固まっていない、頼りない少女のみじめな絶望! こういうものは後にもさきにも覚えがない。余は夜になるまで、じっと身動きもせずに坐ったまま、時の移るのも忘れていた。これが良心の苛責とか、悔恨とか呼ばれているものだろうか、余にはわからない。今でさえなんともいえないに相違ない。しかし、余はただこの姿のみがたまらないのである。つまり、閾の上に立って、余を威嚇するように、小さな拳を振り上げている姿、ただこの姿、ただこの瞬間、ただこの顎をしゃくる身振り、これがどうしてもたまらないのだ。その証拠には、今でもほとんど毎日のように、これが余の心を訪れる。いや、映像のほうから訪れるのではなくて、余が自分で呼び出すのである。そういうふうでは生きて行くことができないくせに、呼び出さずにいられないのである。たとい幻覚でもよい、いつかうつつにそれを見るのだったら、まだしも忍びやすいに相違ない!
 なぜ生涯を通じての追憶中、どれ一つとしてこういう悩ましさを、余の心に呼び起こすものがほかにないのだろう? 実際、人間の裁きの標準からいえば、それよりはるかにひどい追憶が、いくらでもあるはずではないか。それらの追憶によって感じるものは、ようやくわずかに憎悪の念くらいにすぎない。それも現在こんな状態だから現われるので、以前はそんなものなど冷ややかに忘れるか、わきのほうへ押しのけるかしたものである。
 それ以来、余はその年いっぱい放浪を続けて、気を紛らそうと努めた。今でもその気になれば、マトリョーシャさえ脇へ押しのけることができる、と信じている。余は前と変わらず、おのれの意志を完全に支配することができる。ところが、困ったことには、けっしてそうしようという気持ちを起こさないのである。自分でそうしたくないのだ。これから後も、そういう気にはなるまい。こういう状態が余の発狂するまで続くことだろう。
 スイスへ行って二月ほど経ったとき、余は烈しい情欲の発作を感じた。それはかつて初期の頃に経験したのと同じような、狂暴きわまる性質のものであった。余は新しい犯罪への恐ろしい誘惑を感じた。ほかでもない、二重結婚を決行するところだったのである(なぜなら、余はすでに妻帯者だから)。けれども、ある娘の忠言にしたがって、そこから逃げ出した。この娘に余は何もかもうち明けてしまった。自分のあれほど望んだ女さえまるで愛していないし、全体に、かつて一度もだれひとり愛したことがない、ということまで告白したのである。――けれど、この新しい犯罪も、いっこうマトリョーシャからのがれる役には立たなかった。
 こういうわけで、余はこの手記を印行して、三百部だけロシヤヘ携行することに決心した。時いたったならば、余はこれを警察と土地の官憲へ送るつもりである。と、同時に、すべての新聞社へ送付して公表を乞い、ペテルブルグとロシヤの国土に住む多数の知人にも配付しようと思う。これと並行して、外国でも訳文が現われるはずである。法律的には、余は別に責任を問われないかもしれない。少なくとも、大問題を惹起することはなかろうと思う。余一人が、自分自身を起訴するだけで、ほかに起訴者がないからである。それに証拠が全然ない、或いはきわめて少ない。また最後に、余の精神錯乱に関する疑いは、牢固として世間に根を張っているので、必ずや肉親の人々はこの風説を利用して、余に対する法の追求を揉み消すことに努力するだろう。余がかかる声明をするのは、わけても、自分が現在完全な理知を有していて、おのれの状態を理解していることを証明せんがためである。しかし、余の身になって見れば、いっさいのことを知るべき世上の人々が残るのである。彼らは余の顔を見るだろうが、余も彼らの顔を見返してやるのだ。余はみんなに顔を見られたい。これが余の心を軽くするかどうか、余自身にもわからない。が、とにかく最後の方法に訴えるのである。
 なお一つ、――もしペテルブルグ警察が極力捜索したならば、或いは事件を発見できるかもしれない。あの職人夫婦は今でもペテルブルグに住んでいるかもわからぬのである。家はむろん思い出されるに相違ない。薄水色に塗った家だった。余はどこへも行かないで、当分のあいだ(一年もしくは二年)母の領地スグヴァレーシニキイに滞在するつもりである。もし呼ばれたら、どこへでも出頭する。
[#地から1字上げ]ニコライ・スタヴローギン

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 告白の黙読は約一時間つづいた。チーホンはゆっくりゆっくり読んで、所によると二度ずつ読み返したらしかった。スタヴローギンはそのあいだ始終じっと身動きもせず、無言のまま坐っていた。不思議なことに、この朝ずっと彼の顔に浮かんでいた焦躁と、放心と、熱に浮かされたような表情は、ほとんど消えてしまって、平静の色に変わっていた。そこには真摯の影さえもうかがわれて、ほとんど気品の高い感じを与えるほどであった。チーホンは眼鏡をはずして、しばらくためらっていたが、やがて相手の顔へ目を上げて、やや用心ぶかい調子で最初に口を切った。
「この書きものに、多少の訂正を加えるわけにいきませんかな」
「なんのために? ぼくは誠心誠意で書いたんですよ」とスタヴローギンは答えた。
「少しばかり文章を……」
「ぼくはあらかじめお断わりしておくのを忘れましたが」と彼は全身をぐっと前へ乗り出しながら、早口に鋭くいった。「あなたが何をおっしゃろうと、それはいっさいむだですよ。ぼくは自分の意図を撤回しゃしません。どうか留めだてしないでください。ぼくは必ず公表します」
「あなたはさきほどこれをお渡しになるときも、その予告をお忘れにならなかった」
「同じことです」とスタヴローギンはきっぱりとさえぎった。「もう一どくり返して申しますが、あなたの抗議の力がどんなに強くても、ぼくは自分の意図を変更しやしません。断わっておきますが、ぼくはこの拙い言葉で(或いは巧妙な言葉かもしれません、それはご判断にまかせます)、あなたが少しも早くぼくに反対し、意見をなさるように仕向けようなんて、そんなつもりはもうとうないんですからね」
「わたしはあなたのお考えに反対したり、ことに、計画を抛擲するようにご意見したりなど、そのようなことはしようとてできませんよ。これは実に偉大な思想で、キリスト教思想をこれ以上完全に表白することはできません。それに、あなたの計画しておられるような驚くべき苦行は、人間の悔悟が達し得られる最大限度です。ただもし……」
「ただもしなんです?」
「ただもしこれが本当に悔悟であり、本当にキリスト教思想であったならばです」
「ぼくは誠意をもって書いたのです」
「あなたは心に望んでいられたよりも、なんだかわざと余計に、自分自身を粗野なものに見せかけておられるように思われますな……」チーホンはだんだん無遠慮になってきた。明らかにこの『書きもの』は、彼に強烈な印象を与えたらしい。
「見せかける? くり返して申しますが、ぼくは『見せかけ』たことなどありません。ことに芝居など打ったことは」
 チーホンはつと目を伏せた。
「この告白はとりもなおさず、死ぬばかり傷つけられた心の、やむにやまれぬ要求から出たものと思いますが、そうでしょうな?」と彼はなみなみならぬ熱心な調子で、しゅうねく言葉をつづけた。「さよう、これは懺悔です。あなたはこの懺悔の自然な要求に打ち負かされた。そして、前代未聞の偉大な道に踏み込まれたのです。しかし、あなたはもう今から、ここに書かれたことを読む人々すべてを憎悪し侮蔑して、彼らに戦いを挑んでおられるように見えますな。罪業を告白するのを恥じぬあなたが、なぜ懺悔を恥じなさるのです?」
「恥じてるんですって?」
「恥じ恐れておられます!」
「恐れてるんですって?」
「身も世もあらぬほど。みんな自分の顔を見るがよい、とこうあなたは書いておられる。ところで、あなたご自身は、どうして世間の人の顔をご覧になるつもりですな? あなたの告白には、ところどころ、強い表現が使ってあります。あなたはどうやら、ご自分の心理に見とれて、一つ一つ細かい気持ちを取り上げておいでになる。ただもう自分の無神経さをひけらかして、読者を驚かしてやりたい、といったふうに見えますよ。ところが、そんな無神経などというものは、あなたにお持ち合わせがない。どうです、これでも挑戦ではありませんか、罪人の判官に対する傲慢不遜な挑戦では?」
「どこがいったい挑戦なんです? ぼくは自分自身の批判をいっさい排除したつもりです?」
 チーホンは口をつぐんだ。くれないの色がそのあおざめた頬をさっと刷《は》いた。
「その話はやめましょう」とスタヴローギンは鋭くさえぎった。「では、今度はぼくのほうから一つ質問さしていただきましょう。もうこれが(と彼は刷り物を顎でしゃくった)すんでから、かれこれ五分間も話をしていますが、あなたのお顔にいやらしそうな表情も、恥ずかしそうな様子も見受けられません。あなたは別に気むずかしそうな顔もしていらっしゃらないように……」
 彼はしまいまでいい終わらなかった。
「あなたにはもう何一つ隠し立てをしますまい。わたしは慄然として恐れたのです、無為のためにわざわざ穢らわしい所業に浪費された偉大な力を。罪業そのものにいたっては、同じような罪を犯したものは大勢あるけれど、みんな若気の過ちぐらいに考えて、安らかな良心をいだいて、平穏無事に暮らしておる。同様な罪を犯しながら、慰安と愉楽を味わっておる老人たちさえある。世の中はこうした恐ろしいことで、一ぱいになっておるくらいです。ところが、あなたはその罪の深さを底の底まで感じなさった。それまでに達するのは、ざらにないことですて」
「その刷り物を読んでから、ぼくをにわかに尊敬するようになったんじゃありませんか?」スタヴローギンはひん曲ったような苦笑を洩らした。
「それに対して直接のお答えは、せぬことにしましょう。しかし、あなたがその少女にされたような行為より以上に大きな恐ろしい犯罪は、むろん、ありませんし、またあり得ません」
「そんなに一々|尺《ものさし》で量るようなことはよしましょう。ぼくはここに書いたほど苦しんじゃいないかもしれません。また、実際、いろいろ自己讒謗をやっているかもしれませんよ」と彼は出しぬけにこうつけ足した。
 チーホンはふたたび口をつぐんだ。
「ところで」とチーホンはまた口を開いた。「あなたがスイスで手を切ったという娘さんは、ぶしつけなおたずねですが、いま……どこにおられますかな?」
「ここです」
 またもや沈黙がおそうた。
「ぼくはあなたに対して、大いに自己讒謗をやったかもしれませんよ」また執拗な調子でスタヴローギンはくり返した。「もっとも、仕方がない。ぼくはこの告白の粗暴な調子で、世間の人に挑戦したってかまやしませんよ、もしあなたがこの中に挑戦をお認めになるとすればね。ぼくはいっそうみんなに憎まれるばかり、それっきりです。なに、そのほうがぼくは楽なくらいです」
「それは、つまり、あなたの中の毒念が、それに応ずる毒念を呼び起こすのです。そうして憎んでおるほうが、人から憐愍を受けるよりも、かえって気が楽になるというわけですて」
「おっしゃるとおりです」とスタヴローギンは出しぬけに笑い出した。「この告白を発表したら、ぼくはジェスイット教徒と呼ばれるかもしれませんね。でなければ、しんの怪しい狂信者とでも。そうじゃありませんか、は、は、は」
「もちろん、そういう批評は必ずありましょうとも。ときに、その決心はちかぢかに実行なさるおつもりですかな?」
「今日か、あすか、あさってか、そんなことはわかりません。とにかく、近いうちのことです。いや、あなたのおっしゃるとおりです。多分そのとおりになるでしょう。ぼくはこれを出しぬけに発表するでしょう。つまり、世間の連中が憎くてたまらない、悩ましいほど復讐心の燃え立ったような瞬間に」
「わたしの問いに答えてください。ただ真実に、わたしだけに、わたし一人だけに」とチーホンはまるで別な声でいい出した。「もしだれかがこのことをゆるしたら(とチーホンは刷り物を指さした)、――それもあなたが尊敬しているとか恐れているとか、そういう種類の人でなくて、あなたの一生を知るおりのないような未知の人が、この恐ろしい告白を読んで、心中無言にあなたをゆるすとしたら、それを考えただけでも心が楽になりますか? それとも、どうでもいいようなことでしょうか?」
「楽になります」とスタヴローギンは小声に答えた。「もしもあなたがゆるしてくだすったら、ぼくはずっと楽になるでしょうに」と彼は目を伏せながらつけ足した。
「あなたも同様、わたしをゆるしてくださるという条件で」しんみりした声でチーホンはこういった。
「いやな謙抑ぶりですね。ねえ、そういう坊さんにお定まりの公式は、まったく醜態といっていいくらいですよ。ぼくはほんとのことをすっかりいってしまいましょう。ぼくはあなたがゆるしてくださればいいと望みます。あなたといっしょに、もう一人か二人の人間が。しかし、世間の人は、世間ぜんたいの人は、憎んでくれたほうがいい。しかし、それは謙抑な気持ちで迫害に耐えるためなんです……」
「世間一般の憐愍をも、同じ謙抑な気持ちで耐え忍ぶことはできませんかな?」
「できないかもしれません。なぜそんなことを……」
「あなたの誠実さの度合を信じますよ。そして、わたしが人間の心に近寄っていくことの下手なのを、もちろんすまなく思っております。わたしはいつも自分でこの点に大きな欠陥を感じております」スタヴローギンの目をまともに見つめながら、チーホンは魂のこもった真率な声でいった。「わたしがこういうことをいうのも、あなたの身の上が恐ろしいからなので」と彼はつけ足した。「あなたの前には、ほとんど量り知れぬ深淵がひらけておりますぞ」
「持ち切れませんか? 世間の憎悪が耐えきれませんか?」スタヴローギンはぴくりとした。
「ただ憎悪ばかりじゃありません」
「ほかにまだ何があります?」
「世間の人の笑い」やっとの思いでいったように、チーホンは半ばささやくような声でこれだけのことを洩らした。
 スタヴローギンはどぎまぎした。不安な色が彼の顔にあらわれた。
「ぼくはそれを予感していました」と彼はいった。「してみると、ぼくはその『刷り物』を読んでいただいた後で、ひどく滑稽な人物に見えたわけですね。どうぞご心配なく、そう間を悪がらないでください。ぼくはそれを期待していたのですから」
「恐怖はすべての人が洩れなく感じるでしょう。しかし、真摯な恐怖より、上っつらのものがむしろ多いと思います。人間というものは、直接自分の利害を脅かすものに対してのみ恐怖を感じるものでしてな。わたしがいうのは純真な魂のことではありません。純真な魂の所有者は心の中で慄然として、自分みずからを責めるでしょうが、それは黙っておるから、目には立ちますまい。ところが、笑いはそれこそ世間ぜんたいに響き渡ることでしょう」
「あなたは人間というものを、ずいぶん悪く、ずいぶん穢らわしく考えていらっしゃいますね、驚いてしまいますよ」と、いくぶん憤激のさまでスタヴローギンはいった。
「誓っていいますが、それは他人よりも、むしろ自分をもとにした判断ですよ!」とチーホンは叫んだ。
「本当ですか? いったいあなたの心に、ぼくの不幸を見て面白がるような、そうしたふうなところがあるんですか?」
「それはあるかもしれません。いや、大きにあるかもしれませんて!」
「たくさんです。ねえ、いってください、いったいぼくの手記のどこがそう滑稽なんです? ぼくは自分でもどこが滑稽なのか知っていますが、それでも、あなたの指でさしてもらいたいのです。どうかなるべく露骨にいってください。あなたとしてできるだけ無遠慮にいってください。くり返して申しますが、あなたは恐ろしくふう変わりな人ですね」
「どのように偉大な告白でも、その外形には何か滑稽なところが含まれておるものです。いや、あなたが人の心を征服し得ないなどと、そのようなことを信じてはなりません!」と彼はほとんど感激のていで叫んだ。「この形式でさえ(と彼は刷り物を指さした)征服しますよ――ただ、あなたがどんな侮辱でも悪罵でも真摯な態度で受けいれさえなさればな。謙抑な苦行の態度が真摯であったら、どのように見苦しく恥ずかしい十字架でも、ついには偉大な光栄、偉大な力となるのが常ですて。あなたの生存中にさえ、慰安を得られるかもしれません」
「では、あなたはただ形式の中にだけ、滑稽な点を発見なさるんですね?」とスタヴローギンは追求した。
「まったくそのとおりです。醜さが致命傷を与えますでな」とチーホンは目を伏せながらつぶやいた。
「醜さ! 醜さとはなんです?」
「犯罪の醜さです。世の中にはしんじつ醜い犯罪があるものですぞ。犯罪はどんな性質のものであろうとも、血が多ければ多いほど、恐怖が多ければ多いほど、それだけ効果が強まる。つまり、絵画的になるものです。ところが、また醜悪な、恥ずべき犯罪があります。いっさいの恐怖を別にして、なんというか、あまりにも美しからぬ犯罪が……」
 チーホンはしまいまでいい切らなかった。
「では、つまり」とスタヴローギンは興奮して引き取った。「あなたは薄ぎたない小娘の手を接吻するぼくの姿が、きわめて滑稽だとお思いになるんですね……ぼくはよくわかります。あなたがぼくのためにやっきとなってくださるのは、つまり、美しくない、いまわしい、――いや、いまわしいじゃなくて、恥ずかしい、滑稽なという点なんですね。これがぼくにはきっと耐えきれまいとお思いになるんでしょう」
 チーホンは無言のままでいた。
「わかりました。スイスの女がここにいるかどうかと、ぼくにおたずねになったわけが」
「あなたはまだ用意ができていなさらん、鍛錬が足らぬ」とチーホンは目を伏せながら、臆病らしくつぶやいた。「大地からもぎ離されておられる、信仰がない」
「ねえ、チーホン僧正、ぼくは自分で自分をゆるしたいのです。それがぼくのおもな目的なのです。それがぼくの目的の全部なのです?」暗い感激の色を目にたたえながら、スタヴローギンは出しぬけにこういった。「もうわかっています。そうした時に初めて映像が消えるのです。だからこそ、ぼくは無量の苦痛を求めているのです。自分でわざわざ求めているのです。どうかぼくを脅やかさないでください。でないと、ぼくは毒念をいだいたまま滅びてしまいます」
 この真剣さはあまりにも思いがけなかったので、チーホンはわれともなく席を立った。
「もしあなたがみずからゆるせると信じておられるなら、そして、その赦免をこの世で苦しみによって獲得できると信じておられるなら、――断固たる信念をもってこの目的をみずから課されるなら、――その時こそあなたはいっさいを信じておられるのです!」とチーホンは感激の調子で叫んだ。「神を信じておらぬなどと、どうしてあなたは、そのようなことがいえたのです!」
 スタヴローギンは答えなかった。
「神はあなたの不信をゆるしてくださいます。なぜといって、あなたは知らず識らず神を崇めておられるのだからな」
「ついでに、キリストもゆるしてくれるでしょうか?」スタヴローギンはひん曲った微笑を浮かべ、急に声の調子を変えながら、こうたずねた。その質問の調子には、軽い皮肉のかげが感じられた。
「聖書にもそういってあるではありませんか、――『この小さきものの一人をつまずかするものは』覚えておいでですかな? 聖書の教えでは、これより大きな罪はないのですぞ……」
「あなたは、ただただ見苦しい騒動を起こしたくはないので、ぼくを罠にかけようとしておられるのでしょう、チーホン僧正」そのまま席を離れそうな気組を示しながら、スタヴローギンは無造作にいまいましそうな声でいった。「一口にいえば、あなたはぼくがどっしりと落ちついて、なんならまあ、結婚でもした上、ここのクラブ員にでもなり、祭日ごとにこの修道院に参詣しながら、一生無事で終わるようにと望んでいらっしゃるんでしょう。まあ、いわば贖罪の難行ですな! そうじゃありませんか! もっとも、あなたは人間の魂の透視者だから、きっとそうなるに違いないと、予感していられるのかしれませんね。肝腎なのは、いま見せしめに、よおっくぼくにお灸を据えておくことなんですよ。なにしろ、ぼく自身もただそれだけを渇望してるんですからね。そうじゃありませんか!」
 彼は毀れたような薄笑いを洩らした。
「いや、その難行ではない、別なものを考えておるのです!」スタヴローギンの冷笑や皮肉にはいささかの注意も払わず、チーホンは熱のこもった声でいった。「わたしは一人の長老を知っております。この土地ではない、ここからほど遠からぬところに住んでおる隠者だが、あなたやわたしなどには考えも及ばぬような、キリスト教の叡智にみちたお方です。その方はわたしの願いを聞いてくださるだろうから、わたしはその方にあなたのことをすっかり話しましょう。一つその方のところへ修行に出かけて、五年でも七年でも、必要と思われるだけ、その方の戒《かい》を守ってごらんなさい。必ず掟どおりに暮らすという誓いを立ててごらんなさい。すれば、その偉大な犠牲によって、あなたの渇しておられるもの、いや、あなたの期待しておられぬものまでも、あがない得ることができましょうぞ。まったくどのような結果を得られるか、今のところ想像することもできぬくらいですて」
 スタヴローギンはまじめに聞き終わった。
「あなたはその修道院へ行って僧侶になれと、ぼくにおすすめなさるんですか?」
「あなたは修道院へ入ってしまうこともいらなければ、僧侶になることもいりません。ただ聴法者になればよいのです。それも表面には現われぬ秘密の聴法者なのですよ。或いは初めから世間で暮らしながら、戒を守ることもできるので」
「よしてください、チーホン僧正」とスタヴローギンは気むずかしげに相手をさえぎって、椅子から立ちあがった。チーホンも同じく席を離れた。
「あなたどうしたのです?」ほとんど驚愕の表情でチーホンの顔を見入りながら、彼はふいにこう叫んだ。こちらは掌を前にして両手を組みながら、客の前に立っていたが、あたかも異常な驚愕に打たれたような病的な痙攣が、稲妻のごとくその顔を走ったようにみえた。
「どうしたのです? どうしたのです?」僧を支えようとして、その傍へ馳せ寄りつつ、スタヴローギンはくり返した。チーホンが倒れそうに思われたのである。
「わたしには見える……まるでうつつのように見える」チーホンは深い悲痛な表情を浮かべ、魂へ滲み入るような声で叫んだ。「ああ、気の毒な破滅した青年、あなたは今のこの瞬間ほど、新しく大きな犯罪に近づいたことは、これまでかつてなかったくらいですぞ」
「落ちついてください!」僧正の身に心からの不安を感じたスタヴローギンは、しきりにこういってなだめた。「ぼくはまださきに延ばすかもしれませんよ……あなたのおっしゃったとおりです……」
「いや、この告白の発表前に、それどころか、偉大な決心を断行する一日前、一時間前に、あなたは窮境を脱する出口として、新しい犯罪を決行します。それもこの刷り物の公表を遁れたいがために、ただただそのためにのみ」
 スタヴローギンは憤怒とほとんど驚愕のあまり、身慄いさえはじめた。
「いまいましい心理学者め!」彼はとつぜん狂憤におそわれたていで、ぷつりと断ち切るようにこういい棄てると、そのまま後をも見ずに庵室を出て行った。
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