『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP385-P432

て、何がわかるものですか」
「なあに、われわれ自身でさえ、なんのことだかわからないんじゃないか」とだれかの声がつぶやいた。
「いいえね、わたしがいうのは、要心はいつでも大切だということです。万一、密偵なんかのあった場合を思いましてね」と、彼女はヴェルホーヴェンスキイにむかって、説明した。「往来から聞いても、なるほど命名日だから音楽をしてる、と思わしたほうがいいですよ」
「ちぇっ、馬鹿馬鹿しい!」と罵りながら、リャームシンはピアノに向かうと、まるで拳固で撲りつけないばかりの勢いで、出たらめに、鍵板を叩きながら、ワルツを弾き始めた。
「会議のほうがいいとお思いの方は、右の手を挙げていただきましょう」とヴィルギンスカヤ夫人が提議した。
 ある者は挙げたが、ある者は挙げなかった。中には一度あげて、また引っ込めるものもあった。引っ込めて、また出すものもあった。
「ふう、畜生! ぼくはなんにもわからなかった」と一人の将校が叫んだ。
「ぼくもわからない!」とまた一人叫んだ。
「ぼくはわかった!」いま一人はこう叫んだ。「もしイエスだったら手を挙げるんだよ」
「いったいイエスとは何がイエスなんだ?」
「つまり、会議賛成のことなのさ」
「いや、会議を開かないほうだよ」
「ぼくは会議のほうに投票したんです」と中学生はヴィルギンスカヤ夫人に向かっていった。
「じゃ、なぜ手を挙げなかったのです?」
「ぼくはしじゅうあなたを見てたんです。ところが、あなたが挙げなかったから、それでぼくも挙げなかったのです」
「なんて馬鹿な。わたしは自分で提議したから、それで挙げなかったのです。皆さん、もう一ど提議をし直します。会議に賛成する人は、坐ったまま手を挙げないでください。ところで、賛成しない人は、右の手を挙げていただきましよう」
「賛成しない人は?」中学生が問い返した。
「あんたはいったいわざとそんなことをいうんですか?」ヴィルギンスカヤ夫人は怒気心頭に発して、こう叫んだ。
「いいえ、そうじゃありません。賛成するものかしない者かときくのです。だって、これは正確に決める必要がありますよ」こういう二、三の声が聞こえた。
「賛成しないものは賛成しないさ」
「そりゃそうだよ。しかし、いったいどうすればいいんだ。もし賛成しなかったら、挙げるのか挙げないのか?」と将校がどなった。
「いやはや、われわれはまだ立憲政治には馴れていないでな!」と少佐が口を挟んだ。
「リャームシンさん、お願いだからやめてください、あなたががちゃがちゃやるものだから、まるで聞き取れないじゃありませんか」とびっこの教師が注意した。
「本当ですよ、アリーナさん、だれも立ち聴きなんかしやしませんよ」とリャームシンは飛びあがった。「それに弾きたくもない! ぼくはここへお客に来たので、ピアノを叩きに来たんじゃありませんからね」
「諸君」とヴィルギンスキイはつづけた。「会議のほうがいいかどうか、みんな口で答えてください」
「会議だ、会議だ!」という声が四方から起こった。
「じゃ、投票なんかする必要はない、たくさんです。諸君、いかがです、これで十分ですか、それともまだ投票の必要がありますか?」
「いらない、いらない、もうわかった!」
「が、ひょっとしたら、だれか会議に不賛成な人があるかもしれませんね」
「いや、いや、みんな賛成です!」
「いったい会議とはなんのことです!」と叫ぶ声が聞こえた。
 だれもそれに返事をしなかった。
「議長を選挙しなきゃ!」という声が四方から響いた。
「主人公だ、むろん主人公だ!」
「諸君、そういうわけでしたら」と議長に選挙されたヴィルギンスキイはこういった。「わたしはさっき初めて提議したことを、くり返さしていただきます、もしだれかより多くこの席にふさわしい話を始めたいとか、または何か発表したいと希望しておられるかたは、どうか時間を空費しないように、さっそくはじめていただきます」
 一座はしんとした。一同の視線はまたしても、スタヴローギンとヴェルホーヴェンスキイに向けられた。
「ヴェルホーヴェンスキイさん、あなた何も発表したいことはありませんか?」と主婦は真正面からたずねた。
「なんにもないです」彼は椅子の上で大あくびをしながら、そり返った。「ただコニャックを一杯もらいたいものですなあ」
「スタヴローギンさん、あなたはいかがです?」
「ありがとう、ぼくは飲みません」
「わたしはね、何かお話しになることはありませんかってきいてるんです、コニャックのことじゃありません!」
「話す、何を? いや、話なんかしたくないです」
「今コニャックを上げますよ」と彼女はヴェルホーヴェンスキイに答えた。
 女学生が立ちあがった。彼女は今までもう幾度か飛びあがろうとしたので。
「わたしは不幸なる大学生の苦痛を述べ、いたるところで彼らを刺戟して、抗議を起こさせる必要を説くために、この町へ来たのでございます……」
 ここまでいって、彼女は腰を折られた。テーブルの向こうの端に、今度は別な競争者が現われたのである。一同の視線はそのほうへ転じられた。耳の長いシガリョフは、陰気くさい気むずかしげな様子をして、やおら自分の席を立った。そして、メランコリックな身振りで、恐ろしく細かく書きつめた分厚なノートを、テーブルのほうへ置いた。彼は坐ろうともしないで、黙り込んでいた。多くの者は、面くらったような顔つきでノートを見やったが、リプーチンとヴィルギンスキイとびっこの教師は、何やら満足げなていに見受けられた。
「発言を請求します」気むずかしげな、とはいえ、断固たる調子で、シガリョフはこういった。
「よろしい」とヴィルギンスキイは裁可した。
 弁士は腰を下ろして、三十秒ばかり沈黙していたが、やがて、ものものしい声で切り出した。
「諸君!………」
「はい、コニャック!」茶の注ぎ手になっていた親戚の女は、コニャックを取ってきて、ぞんざいな、人を小馬鹿にした調子で、ぶっつけるようにこういうと、盆にも皿にものせないで指につまんで持ってきた杯を、びんといっしょにいきなりヴェルホーヴェンスキイの前に置いた。
 出ばなを叩かれた弁士はもったいらしく口をつぐんだ。
「かまいません、続けてやってください、ぼくは聞いてやしないから!」とヴェルホーヴェンスキイは、勝手に杯へ注ぎながらいった。
「諸君、いま諸君の注意を促そうとするに当たりまして」とシガリョフはやり直した。「第一義的に重大な意義を帯びた一つの事柄について、諸君のご助力を仰ぎます前に(その事柄がなんであるかは、後でおわかりになりますが)、その前にわたくしは序言を述べる必要を感じるのであります」
「アリーナさん、あなたのところに鋏がありませんか?」出しぬけにピョートルがたずねた。
「鋏をどうなさるの?」とこちらは目をまん丸にした。
「爪を切るのを忘れたのです。もう三日も、切ろう切ろうと思ってたんですがね」暢気そうに長い汚らしい爪を見つめながら、彼はこう説明した。
 アリーナは覚えずかっとなった。けれど、ヴィルギンスカヤ嬢は、何かしら御意に召したらしかった。
「わたしなんだかさっきここで、窓の上で見たような気がするわ」と彼女は椅子を立って、窓のほうへ行ったが、やがて鋏をさがし出して、すぐさま持ってきた。
 ピョートルは女学生の顔を見ようともしないで、鋏を受け取ると、さっそくそれをひねくり廻し始めた。アリーナは、なるほどこれはリアリスチックな態度だと悟って、自分の怒りっぽい性質を恥ずかしく思った。一座は無言のまま目を見合わした。びっこの教師は、毒々しい羨しそうな目つきで、ヴェルホーヴェンスキイを見つめていた。シガリョフは言葉を続けた。
「現在のものに取って代わるべき、未来の社会組織の問題研究に自己の精力を傾注して以来、わたくしは次のような信念に到達しました。すなわち、遠い古代よりわが一八七*年までにいたるすべての社会系統の建設者は、自然科学および人間と呼ばるる不可思議なる動物についてなんら知るところのなかった空想家、憧憬者、愚人、自己撞着家にすぎない、ということであります。プラトン、ルッソー、フーリエ、その他さまざまなユートピヤ説、――こういうものはすべて、雀の役にくらい立つかもしれませんが、人類社会のためにはなんら益するところもないのであります。しかし、われわれが役にも立たない瞑想を捨てて、だんぜん行動を開始しようとしている現代において、未来の社会の形式如何は、ことに必須な問題でありますので、わたくしはいま世界改造に関する自分自身のシステムを提供しようと思います。すなわちこれがそうなのです!」と彼はノートをぽんと叩いた。「わたくしはこの集会におきまして、この本の内容をできるだけかいつまんでお話しようと思いましたが、まだそのうえに多くの説明を、口述の際つけ加える必要がありますので、この本の紹介は、章の数からいっても、少なくとも、毎晩十日以上つづけなければなりません(くすくす笑いの声が聞こえた)。それに、あらかじめ、お断わりしておきますが、わたくしのシステムはまだ完成されていないのであります(ふたたび笑声が起こった)。わたくしは、自分の蒐集した材料にまごついてしまいました。わたくしの結論は、出発点となった最初の観念と、直角的に反対している。つまり、無限の自由から出発したわたくしは、無限の専制主義をもって論を結んでいるのです。しかし、一言申し添えておきますが、わたくしの到達した結論以外、断じて社会形式の解決法はありえないです」
 笑声はしだいに烈しくなった。しかし、笑うのは比較的若い人、つまり立ち入った事情を知らない人たちだった。主婦とリプーチンとびっこの教師の顔には、一種いまいましそうな表情が浮かんだ。
「あなた自身でさえ、自分のシステムをまとめることができないで、絶望に陥られたとすれば、われわれなどはなんともしようがないじゃないですか」と一人の将校が大事を取りながらたずねた。
「あなたのおっしゃるとおりです、将校殿」シガリョフは言葉鋭くそのほうへ振り向いた。「ことに絶望という言葉を使われたのは、さらに肯綮に当たっています。そうです、わたくしは絶望に陥りました。が、それにもかかわらず、このわたくしの本に述べてあることは、ことごとく万古不易の真理です。けっしてほかに方法はありません。それゆえ、無駄に時を失わないように、取り急いで一座の諸君におすすめして、十晩つづけてわたくしの本を聴いたうえ、ご自分の意見を述べていただこう、と思うのであります。もし会員諸君がわたくしの説を聴くことを欲しられないならば、もういっそ初めから別れたほうがいいです、男は官職に就くために、女は自分の厨房へ……なぜなら、もしわたくしの説を否定したら、もはや他の方法を発見できないからであります。けっしてありません! 時を逸するのは、おのれを害するのみです。なぜなれば、必ず後で同じ結果に戻って来るからであります」
 一座がざわつき始めた。『いったいあの男はなんだ、気でも狂ってるのか?』という声が聞こえた。
「してみると、すべてはシガリョフの絶望にかかっているんですな」とリャームシンが結論をくだした。「当面の問題は――彼は絶望すべきやいなや、ということですな」
「シガリョフ氏が絶望に近づいていることは、あの人一個の問題です」と中学生がいい出した。
「ぼくは投票を提議します。シガリョフ氏の絶望は、いかなる点まで共同の事業に関係を有しているか、また同時に彼の説を聴く価値があるかないか、ということをね」将校は愉快げにこう決めてしまった。
「いや、それはちょっと違います」とうとうびっこの教師が口をいれた。全体に、彼はなんとなく人を馬鹿にしたような薄笑いを浮かべながらものをいうので、真面目にいってるのか、ふざけてるのか、はっきり見当がつかなかった。「それはちょっと違いますよ。シガリョフ氏はあまり自分の問題に没頭していられるし、それにあまり謙譲に過ぎるのです。ぼくは同氏の著述を知っています。同氏はこの問題の最後の解決法として、人類を大小同一ならざる二つの部分に分割することを、主張しておられるのです。すなわち、十分の一だけの人が個性の自由をえて、残り十分の九に対する無限の権力を享有する。そして、これらの十分の九はことごとく個性を失って、一種羊の群のようなものに化してしまい、無限の服従裡に幾代かの改造を経たあとで、ついに原始的天真の心境に到達すべきだというのです。それは、いわば原始の楽園みたいなものです。もっとも、働きはしますがね。著者の主張している方法、すなわち人類の十分の九から意志を奪って、幾代かの改造を経てこれを畜群に化する方法は、なかなか立派なものであります。自然科学に根底を置いて、論理的にできています。個々の論点に対しては、異議があるかもしれませんが、著者の頭脳なり知識なりには、一点うたがいをさしはさむわけにいきません。ただ十晩という条件が、とうてい周囲の事情に相いれないのは残念しごくです。それでなかったら、いろいろと面白い話を聞くことができるんでしたが」
「あなたはいったいまじめなのですか?」ヴィルギンスカヤ夫人は、いくぶん不安の色さえ浮かべてびっこに向かってこういった。「この人は人間の処置に困って、十分の九まで奴隷にしてしまうといってるんですか? わたしとうからあの人を怪しいと思ってましたわ」
「つまり、あなたは、ご自分の兄弟のことをいっておいでなんですか?」とびっこの教師がたずねた。
「あなたは親族関係を云々なさるんですか? あなたは、わたしをからかっていらっしゃるんですか、え?」
「それに、貴族を養うために働いて、おまけに、神様かなんぞのように服従するのは――それは陋劣です!」女学生が猛然として口を入れた。
「わたしは陋劣をすすめるのではなくて、楽園をすすめているのです。この地上にそれ以外の楽園はありません」シガリョフは威を帯びた調子でいい切った。
「わたしなぞは、楽園なんかどうでもいい」とリャームシンは叫んだ。「その代わり、処置に困れば、その人類の十分の九を引っつかんで、あとかたも残らないように爆発させてしまいますよ。そして、教育のある少数者を残しておくと、そういう連中が科学的な生活を始めまさあね」
「まあ、道化かなんぞでなければ、あんなこといえやしないわ!」と女学生は真っ赤になった。
「あの人は道化よ、だけど役に立つ男なの」とヴィルギンスカヤ夫人は彼女にささやいた。
「いや、もしかしたら、これが一番いい解決法かもしれないて!」シガリョフは熱くなって、リャームシンのほうへ振り向いた。「きみはむろんわからないでしょうね、きみは今どれくらい深刻なことをいいえたか、自分でも知らないでしょうね、陽気なリャームシン君。しかし、きみの意見はほとんど実行できないから、やはり地上の楽園(そう命名されるなら、そうしてもいいです)くらいのところで、折合わなけりゃなりませんね」
「それにしても、ずいぶん馬鹿馬鹿しい話だなあ!」ふいに口からすべり出たように、ヴェルホーヴェンスキイはこういった。が、彼はどこまでも平然として、目も上げずに爪を切りつづけた。
「どこが馬鹿馬鹿しいのです?」まるで一口でも彼がものをいったらすぐ抑えてやろうと、待ちかまえてでもいたように、びっこの教師はさっそく口をいれた。「なぜ馬鹿馬鹿しいのですか? シガリョフ氏は、いくぶん愛人主義の狂信者という趣きがあります。しかし、ご記憶でもありましょうが、フーリエや、ことにカベーや、そしてプルードンのような人でさえ、思い切って専制的な、思い切ってとっぴな問題の解決法を試みている個所が、少なからずあります。シガリョフ氏などは、ひょっとしたら、彼らよりもずっと冷静に、問題を解決しようとしておられるかもしれません。わたしは忌憚なく申しますが、氏の著述を読了したら、その中のある論点に同意しないわけにいかないです。氏はだれより最もリアリズムを遠ざからなかった人かもしれません。氏の地上の楽園はほとんど本物です、現に人類がその喪失を嘆いている楽園です、もしそういうものがかつて存在したとすれば」
「どうも初めっから口をすべらしそうだと思ったっけ!」とヴェルホーヴェンスキイはまたつぶやいた。
「失礼ですが」とびっこの教師はいよいよ熱くなってきた。「未来の社会組織に関する談話や批判は、現代におけるすべての思索人にとって、ほとんどゆるがせにすべからざる喫緊事ではありませんか。ゲルツェンは生涯そのことのみに心を労しました。ベリンスキイも、ぼくの確かに聞き込んだところでは、未来の社会組織におけるきわめて微細なことまで、たとえば台所の細部な点まで、論じたり解決したりしながら、友だちといっしょに幾晩も過ごしたという話です」
「中には、気の狂う者さえあるくらいですよ」とふいに少佐がいった。
「それにしても、まるで独裁官かなんぞのように、黙り込んで坐っているよりは、何かあるものに到達するまで論じてみたらよさそうなもんですなあ」とうとう思い切って攻撃にかかる気になったらしく、リプーチンはいまいましそうにこういった。
「ぼくが馬鹿馬鹿しいといったのは、シガリョフのことじゃありませんよ」とヴェルホーヴェンスキイは大儀そうに口の中でいった。「ねえ、諸君」彼はほんの心もち瞳を上げた。
「ぼくの考えでは、フーリエだのカベーだの、その他なんとかかとかいう本や、また例の『労働の権利』や、シガリョフ式議論や、――そんなものはみんな小説みたいなものです。そんなものは千でも万でも書けます。美的時間つぶしです。そりゃぼくも察しますよ、なにぶん諸君はこのけちな町に暮らして、退屈なものだから、それで字を書いた紙に飛びつくのでしょう」
「ま、待ってください」とびっこの教師は椅子の上で体をしゃくった。「むろんわれわれは田舎者です、そして、それ一つだけでも同情に価するのはもちろんです。しかし、今のところ、見そこなったからといって泣きたいほど残念な珍事は世間に起こらない、ということも承知していますよ。ところが、ある人たちはさまざまな外国できのビラによって、一般的破壊を目的とする団体に加入し、かつ、そういう団体を新しく設立しないかと、われわれにすすめています。その口実とするところは、いかに世界を治療しても、とうてい全治の見込みはないから、それより荒療治で一億人ばかりの頭をちょん切って、そうして自分の体を軽くしておいたら、溝をより正確に飛び越すことができよう、とこういうのです。むろん立派な思想です。しかし、少なくとも、今あなたがああして侮蔑的に遇された、『シガリョフ式理論』と同じくらい、現実と相いれない思想なのです」
「なに、ぼくは理屈をいうために来たのじゃないです」とヴェルホーヴェンスキイは意味深長な言葉を、思わず口からすべらしたが、自分の不用意に気がつかない様子で、もっとよく見えるように蝋燭を引き寄せた。
「残念です。あなたが、理屈をいうために来られなかったのは、実に残念です。そして、あなたがいまご自分の身じまいに、夢中になっておられるのは、まったく残念です!」
「ぼくの身じまいが、きみにとってどうしたというんです?」
「一億の人間の頭というのも、宣伝で世界を改造するのと同様に、実現が困難なことでしょうなあ。ことにロシヤのような国においては、いっそう困難かもしれませんよ」とまたもやリプーチンが思い切って口を出した。
「そのロシヤの国状を当てにしてるんじゃないか」と将校がいった。
「当てにしているという話は、われわれも聞いたです」とびっこが引き取った。「われわれのうるわしい祖国が、この偉大なる目的の実行に最適の国として、神秘な手に指さされているということは、ぼくたちの耳にも入っています。ただこういう心配があります。宣伝の方法でそろそろと問題を解決する場合には、個人としてぼくらは何物かを獲得します。少なくとも、いい気持ちになってしゃべることができます。そして、おかみからは社会事業に貢献するところ少なからずとあって、官等ぐらい頂戴できようというわけです。ところが、第二の場合、すなわち一億人の首という方法で、急激に問題を解決しようとなると、いったいぼくはどういうご褒美にありつけるんでしょう? おそらく宣伝を始めるが早いか、さっそく舌をちょん切られてしまいましょうよ」
「きみなんか必ずちょん切られますね」とヴェルホーヴェンスキイがいった。
「ところがです、どんなに都合よくいったにしろ、そんな首切りの仕事は五十年、いや、まあ三十年より早く片づきゃしません。なぜなら、彼らも山羊や何かと違うから、むざむざと斬らせはしませんからなあ。それよりはむしろ世帯道具を引っからげて、どこか静かな海の平和な島にでも引っ越して、穏かに目を瞑ったほうがよかあないでしょうか? ぼくは確かにこう断言します」と彼は意味ありげに指でテーブルをぽんとはじいた。「あなた方はそういう宣伝によってただ移住を促すばかり、それっきりですよ!」
 彼は得意らしい様子で言葉を結んだ。この男は地方では珍しく頭がしっかりしていた。リプーチンは狡猾そうににやりとした。ヴィルギンスキイは、幾分しょげたらしい様子で聞いていた。その余の連中、ことに婦人と将校たちはなみなみならぬ注意をもって、論争に耳を傾けていた。一同は、これでいよいよ一億人の首の主唱者も、ぐうの音も出ないほどやり込められたものと思って、どうなることかと待ちかまえていた。
「それはなかなかうまいことをいいましたね」前よりもっと気のない調子で、いかにも退屈らしく、まるであくびでも噛み殺すように、ヴェルホーヴェンスキイは答えた。「移住する、――なかなかいい考えつきですな! しかし、それにしても、きみの予感していられるようなさまざまな不利益が、歴然と目に見えているにもかかわらず、共同の事業に馳せ参ずる戦士の数が、日一日とふえていくから、きみはいなくても、ことは足りますよ。今はね、きみ、新しい宗教が古いものに代わろうとしてるんです。だから、こんなに戦士が現われて来るんですよ。なにしろ大きな仕事ですからね。が、まあ、きみは移住したらいいでしょう! ねえ、きみ、ぼくおすすめしますがね、平和な島なんかより、ドレスデンへ行ったほうがいいですよ。あすこは第一に、今までかつて疫病というもののなかった所です。きみは理性の発達した人だから、さだめし死というやつは恐ろしいでしょう。第二に、ロシヤの国境に近いから、愛すべき祖国から収入を受け取るのにも、便利がいいわけですよ。第三には、いわゆる美術の宝庫があります。ところが、きみはかつて文学の教授をしておられたそうだから、美的感覚をもった人に相違ない。それから最後に、ポケット版スイスともいうべき小じんまりした山水もある。これは詩的感興のためにしごくけっこうなしろ物です。なぜって、きみは確かにちょくちょく詩でも書いておられるに相違ないから。まあ、手っとり早くいえば、手箱に納めた宝ものといった形ですよ!」
 一座に動揺が生じた。中でも将校連がざわつき始めた。もう一秒間うっちゃっておいたら、きっとみんな一時にしゃべり出したに相違ない。けれど、びっこの教師は癇性らしく、餌に躍りかかった。
「まあ、お待ちなさい、われわれはまだ共同の事業を離れて、他国へ去ってしまおうといったわけじゃありませんよ! それは理解してもらわなきゃ……」
「それはいったいどういうわけです? きみはぼくがすすめたら、五人組にでも入ろうというんですか?」出しぬけにヴェルホーヴェンスキイはこうきめつけて、やおら鋏をテーブルの上に置いた。
 一同はぎょっとした。謎の人はあまり唐突に正体を現わした。いきなり『五人組』のことなどいい出したではないか。
「どんな人でも自己の潔白を信じるものは、共同の事業を避けようとしやしません」とびっこの教師は口をひん曲げた。「しかし……」
「いや、目下の問題は『しかし』などじゃありません」とヴェルホーヴェンスキイは言葉するどく、威のある調子でさえぎった。「わたしは諸君に宣告します、――わたしに必要なのは直截な返答です。むろん、わたしもここへやって来て、自分で諸君を一団に糾合した以上、諸君に対して説明の義務を有していることは、わかり過ぎるくらいわかっています(これまた、意想外の告白である)。が、わたしは、諸君の持していられる思想のいかんを知るまでは、いかなる説明をも与えるわけにゆきません。むやくな問答を抜きにして(もう三十年間もいたずらにしゃべりつづけるような愚を、二度とふたたびくり返したくないですからね。ところが、今までは事実三十年間、ただしゃべりつづけていたのです)、――わたしは単刀直入におたずねします。いったい諸君はどちらが望ましいのです。社会小説を書いたり、お役所ふうに紙の上で、何千年さきの人類の運命を想像したりするような、悠長な方法がお望みですか? ただし、お断わりしておきますが、そんな呑気なことをしている間に、専制主義はうまく焼けた肉のきれを、遠慮なく呑みつくしてしまいますよ。その肉のきれは、自分から諸君の口へ飛び込んで来るのに、諸君は口のはたを素通りさしてるわけなんです。それとも、また方法はどうだろうと、とにかく人々の束縛を解き、人類が自由に社会組織を改造しうるような、急速な解決に味方をされますか? このほうは、もう紙の上の空想じゃありません、実行に基礎を置いてるんですよ。『一億人の首、一億人の首』といって喧しいことですが、それはまあ、一種の比喩にすぎないとしても、とにかく一億人の首だって、何もそう恐れるには当たりません。なぜなら、呑気な紙の上の空想を追っていたら、百年ばかりの間に専制主義が一億どころか、五億人の首でも食いつくしてしまいますからね。ねえ、そうでしょう、不治の病人は、どんな処方を紙に書いてもらったところで、やはり癒りっこありゃしません。かえってぐずぐずしていると、ますます腐りが廻って、ほかの者まですっかり感染してしまいます。今ならまだしも希望を繋ぎうる新鮮な力も、みんな駄目にされてしまって、われわれは、結局、破滅のほかなくなるのです。実際、雄弁をふるって過激なことをしゃべるのは、なかなか愉快なものです。それはわたしもぜんぜん同感です。しかし、いざ活動となると、――どうも少しおっくうなんでしょう、――いや、しかし、わたしはうまくいい廻すことが不得手でしてね。実のところ、いろいろ諸君に報告したいことがあって、この町へやって来たのですから、一つお集まりの諸君にお願いがあるのです。それは投票なんかじゃありません。今いった二つの方法のうち、どちらが諸君にとって望ましいか、忌憚なく明瞭に述べていただきたいのです。亀の子のように泥沼をのろのろ這って行くほうか、それとも、全速力でその上を跳び越えるほうか?」
「ぼくはだんぜん全速力で泥沼を跳び越えるほうに賛成です!」と中学生は有頂天になって叫んだ。
「ぼくも同様です」とリャームシンが相槌を打った。
「その選択には、もちろん疑惑の余地がないです」と将校の一人がつぶやいた。続いてもう一人、さらにもう一人。
 何より最も人々を驚ろかしたのは、ヴェルホーヴェンスキイが『報告』をたずさえてきて、しかも、それをいま話すと約束したことである。
「諸君、わたしの見受けるところでは、みんな檄文の主旨によって決心されたようですね」と彼は一座を見廻しながらいい出した。
「そうです、みんなそうです」という大多数の声が響いた。
「わしは、実のところ、もっと人道的な決議に賛成なんだが」と少佐がいった。「みんなああいわれるから、わしも皆さんに同意としときましょう」
「では、むろんきみも反対なさらんでしょうな?」とヴェルホーヴェンスキイはびっこの教師のほうへ向いた。
「ぼくはけっしてなに[#「なに」に傍点]するわけじゃありませんが……」こちらは心もち顔をあかくしながら、「ぼくが今みんなに賛成するのは、ただ一座の調和を破らないために……」
「本当にきみらはみんなそうなんです! 自由主義的な雄弁のためには、半年でも議論しかねない勢いでいながら、結局みんなと同じに投票してしまうんだ! 諸君、そうはいうものの、一つよく思案してみてください、諸君はみんな本当に覚悟ができてるんですか?」
(覚悟とは何をさすのだろう。なんだか漠然とした問いではあるが、恐ろしく誘惑に富んでいる)
「もちろん、みんなできています……」という宣言が響いた。
 もっとも、一同は互いにちらと顔を見合わせた。
「しかし、或いは後になって、あまり早く賛成し過ぎたと思って、腹を立てるかもしれませんね。諸君は大抵いつもそうなんだから」
 人々はさまざまな意味で動揺を始めた。動揺はかなり烈しかった。びっこの教師は、いきなりヴェルホーヴェンスキイに食ってかかった。
「失敬ですが、そういう質問に対する答えは、条件つきになってきます。われわれがああして決心を表明した以上、そんな妙な調子で発しられた質問は……」
「どうして妙な調子です?」
「そういう質問は、あんな調子で発しられるものじゃありません」
「じゃ、どうか教えてください。実はね、ぼくはきみが一番に腹を立てられるだろうと、固く信じていたんですよ」
「あなたは、猶予なく活動に着手する覚悟いかんについて、われわれから無理に答えを搾り取られましたが、そもそもどういう権能を授かっていられるのですか? そういう質問をするいったいどんな全権をお持ちなのですか?」
「そんなことは、きみ、もっとまえに気がついたらよかったのに! じゃ、きみはなぜ返答をしたのです? 賛成をしておいて、急に後から気がついたんですな」
「ところが、ぼくにいわせれば、ああいう重大な質問を発した時の、あなたの軽々しい露骨な調子は、こういうことをぼくに考えさしたのです、あなたは全然なんの委任も権能も持っていない、ただあなた個人として、ものずきにやってみただけのことだ、と」
「きみはいったいなにをいってるんです、何を?」恐ろしく心配になり出したように、ヴェルホーヴェンスキイはこう叫んだ。
「ほかじゃありません、入会の勧誘というものは、たとえいかなるものにもせよ、少なくとも二人さし向かいでするもので、知らない人の二十人も集まってるような場所で、あけっぴろげにするもんじゃありません!」とびっこの教師は真っこうから打ちおろした。
 彼は思ったことをすっかりぶちまけてしまった。けれど、彼はあまり興奮し過ぎていた。ヴェルホーヴェンスキイは巧みに不安の表情をつくりながら、一同のほうへ振り向いた。
「諸君、わたしは義務として言明せずにはおられません。こんなことはみんなくだらない馬鹿げた話です。わたしたちの会話はとんだ横道へそれてしまいました。わたしはまだけっしてだれも勧誘したことはありません。わたしが人を勧誘しようとしているなどとは、だれ一人だっていう権利を持っていないはずです。われわれは単に、自他の意見について談じたばかりです。そうじゃありませんか? まあ、それはどっちにもせよ、きみはすっかりぼくを脅しつけましたね」と彼はまたびっこのほうを振り向いた。「ここではこんな罪のない話でさえ、さし向かいでなきゃできないなんて、ぼくまるで思いがけなかったですよ。それとも、きみは密告を恐れるんですか! いったいいま、われわれの間に密告者が潜んでいるのでしょうか?」
 なみなみならぬ動揺が始まった。人々は一時に話し始めた。
「諸君、もしそういうわけでしたら」とヴェルホーヴェンスキイは言葉を続けた。「だれよりも一ばん自分に累を及ぼすようなことをいったのは、このわたしです。そこでわたしは、ある一つの質問に対して諸君のお答えがえたいと思います。むろん、答える答えないは諸君の任意です。絶対に諸君の自由にまかせます」
「どんな質問です、どんな質問です!」一同はがやがやとたずねた。
「ほかではありません。この質問を発した後、われわれは共に踏みとどまるべきか、それとも無言のまま自分の帽子を選り分けて、めいめい勝手な方角へ別れるべきか、その点が明瞭になるような性質のものです」
「その質問というのは、質問というのは?」
「もしわれわれのうちだれにもせよ、政治的意味を帯びた殺人が企てられていることを知ったら、その人はすべての結果を予想して密告するでしょうか、それとも、事件の遂行を期待しながら、わが家にじっと坐っているでしょうか? これに対する意見はまちまちでしょうが、質問に対する答えは明瞭です、われわれはこのまま思い思い別れたものか、それともいっしょに踏みとどまったものか、――むろん、踏みとどまるとすれば、けっして今夜一晩きりじゃありません。失礼ですが、きみに一番におたずねしましょう」と彼はびっこの教師のほうを振り向いた。
「なぜぼくが一番なのです?」
「それは、きみが何もかもみんな一人で始めたからです。どうかお願いだから、ごまかさないでください。この際、小細工を弄したって役に立ちませんよ。しかし、まあ、どうなりとご勝手に、きみのご随意ですよ」
「失敬ですが、そうした質問は、人を侮辱するというものです」
「駄目です。もっと正確にお願いできんものでしょうか」
「秘密探偵の手さきには、かつてなったことがありません」と、こちらはますます口を歪めた。
「後生だから、もっと、正確にいってください。そう手間を取らすのはごめんですよ」
 びっこの教師はもうすっかり腹を立てて、返事もしなくなった。彼は無言のまま眼鏡ごしに毒々しげな目つきで、じっと穴の開くほど、拷問者の顔を見つめていた。
「いなですか、応ですか? 密告しますか、密告しませんか?」とヴェルホーヴェンスキイはどなった。
「むろん密告しません!」びっこの教師は一倍猛烈な声でどなり返した。
「だれも密告するものはありゃしない。むろん密告なんかしない」という多数の声が聞こえた。
「失礼ですが、少佐、一つあなたに伺います。あなたは密告しますか、しませんか?」とヴェルホーヴェンスキイは語を続けた。「いいですか。ぼくはわざとあなたにおききするんですよ」
「しません」
「なるほど、しかし、もしだれか普通のなんでもない人間を殺して、金を剥ごうとする者があると知ったら、あなたはきっと密告されるでしょう、前もって注意を与えるに相違ないでしょう?」
「もちろんです。しかし、それは私人に関する場合で、いまいうのは政治的密告のことですからな。わしも秘密探偵の手さきに使われたことはないです」
「だれもここにそんなものはいやしない」という人々の声がまた聞こえた。「むやくな質問ですよ。だれの答えもみんな一つことです。ここに裏切り者なんかいやしない!」
「なんだってこの人は立つのでしょう?」と女学生が叫んだ。
「あれはシャートフだ。なんだってあなたはお立ちなさるの、シャートフさん?」と主婦が叫んだ。
 実際シャートフは立ちあがった。そして、自分の帽子を手にしながら、ヴェルホーヴェンスキイを見つめていた。彼は何かいおうと思いながら、迷っているようなふうであった。その顔はあおざめて毒々しかった。けれども、彼はついに自己を抑制して、ひと言をも発せず、無言のままぷいと部屋を出て行った。
「シャートフ君、そんなことをしては、かえってきみのためによくないですよ?」ヴェルホーヴェンスキイは彼のうしろから謎のように叫んだ。
「そのかわり、貴様にはためになるだろう、犬、畜生!」シャートフは戸口からわめいて、そのまま行ってしまった。
 ふたたび叫喚の声が起こった。
「なるほど、これで試験が必要なわけなんだね!」とだれかの声が聞こえた。
「役に立ったね!」といま一人が叫んだ。
「役に立ちようが遅すぎやしないかな」と第三の声が口をいれた。
「だれがあの男を呼んだのだ? だれが入れたのだ? いったい何者だ? シャートフというのはだれのことだ? 密告するだろうか、しないだろうか?」という問いが撒くように響いた。
「もし裏切り者だとしたら、猫をかぶっていそうなものじゃないか。ところが、あの男は唾でも吐きかけるようにして、出て行ったよ」とだれかが注意した。
「あらスタヴローギンさんも立ちましたよ。スタヴローギンさんもやっぱり返事をしなかったわ」と女学生が叫んだ。
 スタヴローギンは本当に立ちあがった。それに続いて、テーブルの向こうの端からキリーロフが身を起こした。
「失礼ですが、スタヴローギンさん」と主婦は言葉するどく彼のほうへ振り向いた。「わたしたちここにいるものはみんな、あの質問に答えをしたのに、あなただけは黙って帰っておしまいになるのですか?」
「わたしはあなた方にとって興味のある質問に、返答すべき必要を認めません」とスタヴローギンはつぶやいた。
「しかし、ぼくらはみんなあの答えで冒険をしたのに、あなただけはそうでないんですからね」と幾たりかの声が叫んだ。
「きみたちが冒険したからって、それをぼくの知ったことですか?」とスタヴローギンは笑い出したが、その目はぎらぎら輝いていた。
「どうしてきみの知ったことでないのです? どういうわけです?」という叫喚の声が起こった。
 多くのものは椅子から躍りあがった。
「待ってください、諸君、待ってください」とびっこの教師はわめいた。「ヴェルホーヴェンスキイ氏も、まだあの問いに答えていないじゃありませんか。ただ問いを発したきりですよ」
 この一言は雷電のごとき効果をひき起こした。一同は目と目を見合わせた。スタヴローギンは、びっこの教師の鼻さきでからからと笑って、いきなり部屋を出てしまった。キリーロフもそれに続いた。ヴェルホーヴェンスキイは二人の跡を追うて、控え室へ駆け出した。
「あなたはぼくをどうしようというんです?」と彼はスタヴローギンの手をとって、一生懸命に握りしめながら、舌もつれのする調子でこういった。
 こちらは無言に手をもぎ放した。
「今すぐキリーロフのところへ行ってらっしゃい、ぼくも後から……ぼくぜひ用があるんですから、のっぴきならん用があるんですから!」
「ぼくには用がない!」スタヴローギンは断ち切るようにいい放った。
「スタヴローギン君はやって来ますよ」とキリーロフが引き取った。「スタヴローギン君、きみにも用がありますよ。ぼくあっちへ行って教えてあげます」
 二人は出て行った。

[#3字下げ]第8章 イヴァン皇子[#「第8章 イヴァン皇子」は中見出し]

 二人は出て行った。ピョートルは会議の席へ引っ返して、混乱を揉み潰そうと思ったが、こんな連中を相手に騒ぎ廻るのは馬鹿馬鹿しい、とでも考え直したのだろう、すぐ何もかもうっちゃってしまった。二分の後、彼は立ち去った二人の跡を追って、同じ道を飛ぶように走っていた。走っているうちに、フィリッポフの家へ抜けて出られる少し近い横町がふと心に浮かんだので、泥濘はぎを没するような[#「泥濘はぎを没するような」はママ]抜け道へ駆け込んだ。果たせるかな、彼が目ざす家へ駆けつけたときは、スタヴローギンとキリーロフが門を潜っているところだった。
「きみもう来たのですか?」とキリーロフは気がついていった。「それはよかった。お入んなさい」
「どうしてきみは、一人きりで住んでるなどといったんです?」廊下にちゃんと用意されて、もうしゅんしゅん音を立てている湯沸《サモワール》の傍を通り過ぎようとして、スタヴローギンはこうたずねた。
「だれといっしょに住んでいるか、今におわかりになりますよ」とキリーロフはつぶやいた。「お入んなさい」
 やっと部屋へ入るか入らないかに、ヴェルホーヴェンスキイはさっそくかくしから、さきほどレムブケーのところから取ってきた無名の手紙を取り出して、スタヴローギンの前へ置いた。三人とも腰を下ろした。スタヴローギンは黙って読み終わった。
「それで?」と彼はきいた。
「このやくざ者はそこに書いてあるとおりにしますよ」とヴェルホーヴェンスキイは説明した。「ところで、あの男はあなたの掌中にあるんですから、どういう処置を取ったらいいか、教えてもらいたいんです。ぼくはあえて断言します、あの男は明日にもレムブケーのところへ行きかねませんよ」
「なに、勝手にさしとけばいい」
「どうして勝手に? ましてそれを避ける方法があるのに」
「きみは思い違いしていますよ。あの男は、ぼくの意志に左右されてはいないです。それに、ぼくはどうだってかまやしない。ぼくはあの男なぞに少しも危険を感じない。危険を感じるのはきみだけです」
「あなただってそうです」
「どうだかね」
「しかし、ほかのものがきみを容赦しないでしょうよ、それがわからないのですか? ねえ、スタヴローギン、それはただ言葉の遊戯にすぎないですよ。いったい金が惜しいんですか?」
「へえ、金なんかいるのかねえ?」
「ぜひいります、二千ルーブリか、ミニマム千五百ルーブリ。ねえ、明日といわず今日にもすぐ、ぼくにその金を渡してください。そうしたら、明日の晩までにはきみのために、あの男をペテルブルグへ送り出してしまいます。それがまたあの男の望みなんだから。もしお望みなら、マリヤさんもいっしょにね――これはとくにご注意を願います」
 彼の様子には、まるで常軌を逸したようなところがあった。彼は妙に不用意な口のきき方をした。いわば、よく腹の中で練れてない言葉が、ひとりでにすべり出るようなふうだった。スタヴローギンはあきれて、その顔をうち守っていた。
「マリヤをよそへやる必要なんかぼくにはありゃしない」
「或いはかえっておいやかもしれませんな」ピョートルは皮肉らしくにやりとした。
「或いはいやかもしれないね」
「まあ、手っ取り早いところが、金は出るのですか、出ないのですか?」毒々しげな焦慮の色を現わしながら、なんとなく威を含んだ調子で、彼はスタヴローギンに向かって叫んだ。
 こちらは真面目に相手をじろじろ見つめた。
「金は出ませんよ」
「えいっ、スタヴローギン、きみは何か知ってるんですね、それでなけりゃ、もう何かやったんですね? きみはごまかしていますね!」
 彼の顔はひん曲って、唇のはしはぴくりと慄えた。と、彼は出しぬけに、なんだかまるでわけのわからぬ、なんともつかぬ笑いをたて始めた。
「だって、きみはお父さんから領地の代金をもらったじゃありませんか」ニコライは落ちつき払って注意した。「母がスチェパン・トロフィーモヴィチに代わって、六千か八千の金をきみに渡したはずです。だから、きみのほうから千五百ルーブリ払っておおきなさい。もう人のために金を出すのは、いやになっちゃった。ぼくはそれでなくてさえ金を撒き過ぎたから、もう馬鹿馬鹿しくなっちまった……」と彼は自分で自分の言葉に薄笑いを洩らした。
「ああ、あなたはふざけだしたんですね……」
 スタヴローギンは椅子から立ちあがった。ヴェルホーヴェンスキイも同時にひょいと飛びあがって、出口をふさごうとでもするように、機械的に戸口へ背を向けて立った。ニコライは、今にも彼を戸口から突き退けて、出て行きそうな身振りをしたが、ふいにその手を止めた。
「ぼくはシャートフをきみに渡しゃしないよ」と彼はいった。
 ピョートルはぴくりとなった。二人は互いに睨み合っていた。
「きみがなんのためにシャートフの血を必要とするか、それはさっきぼくがきみにいったとおりです」スタヴローギンの目は輝き出した。「きみはそれを膏薬にして、あんな有象無象をくっつけ合わそうとしてるんです。いまきみは上手にシャートフを追い出しましたね。あの男が『ぼくは密告しない』というはずもなく、またきみの前で嘘なぞつくのは穢らわしいと思うに相違ない、それが、きみにはわかり過ぎるほどわかっていた。しかし、ぼくは、いったいぼくは今なんだってきみに必要なんです? きみはまだ外国にいる時分から、ぼくにつきまとってるじゃありませんか? きみがこれまでぼくに与えた説明などは、ありゃほんの寝言にすぎない。ところが、そんなことをいってる間に、きみはだんだんぼくを吊り出して、ぼくが千五百ルーブリの金をレビャードキンにやったうえ、それで、フェージカにあの男を殺す機会を作ってやるよう仕向けてるんです。ぼくにはちゃんとわかっている。きみはそのうえ、ぼくがついでに女房も殺したがっている、てなことを考えてるのです。こうして、犯罪でぼくを縛りつけたうえ、きみはもちろんぼくに対して権力を握ろうと思ってる、え、そうでしょう? いったいきみなんのために権力がいるのです? 馬鹿馬鹿しい、なんのためにぼくという人間が必要なんです? 一つとっくり傍へ寄って見て、いよいよぼくがきみのお仲間かどうか見定めたうえ、今後ぼくをかまわないようにしてくれたまえ」
「いったいフェージカが自分できみのところへ行ったんですか?」とヴェルホーヴェンスキイは息をつまらせながらたずねた。
「ああ、来ましたよ。あれのさし値もやっぱり千五百ルーブリ……ほら、あの男が自分で裏書きしてる。そら、あすこに立ってる……」とスタヴローギンは手を差し伸べた。
 ピョートルはくるりと振り返った。と、薄暗い閾の上に、新しい人影が浮かび出た、――フェージカである。半外套を着てはいるが、まるで自分の家にでもいるように、帽子なしの素頭であった。彼は白い揃った歯を剥き出し、にたにた笑いながら立っていた。黄いろい陰のさしたり引いたりする黒い目は、『旦那』たちをうち守りながら、用心ぶかそうに、部屋の中をきょろきょろ走り廻っていた。彼はどうも合点のゆかぬふしがあった。察するところ、たった今キリーロフに連れられて来たものらしく、その不審げな目は彼のほうへ向けられた。フェージカは、閾の上に立っていたが、部屋へ入って来ようとはしなかった。
「大方この男にぼくらの取引を聞かせるためか、それとも手に金でも握ってるところを見せるために、ちゃんときみのところに用意してあったと見えるね。そうでしょう?」とスタヴローギンはきくと、そのまま返事も待たないで、さっさと部屋を出てしまった。
 ヴェルホーヴェンスキイはほとんど狂気のようになって、門の傍で彼に追いついた。
「待て、一足も動くな!」彼は相手の肘をつかみながら、こうわめいた。
 スタヴローギンはその手をうんとしゃくったが、もぎ放すことができなかった。もの狂おしい憤怒の発作が彼の全幅を領した。いきなり左手でヴェルホーヴェンスキイの髪をつかむと、力まかせに地べたへ叩きつけて、門の外へ出て行った。けれど、まだ三十歩と行かないうちに、ヴェルホーヴェンスキイがまた追っかけて来た。
「仲直りをしましょう、仲直りを」と引っ吊ったような声で彼はささやいた。
 ニコライはひょいと肩をすくめたが、立ちどまりもしなければ、振り返ろうともしなかった。
「ねえ、明日リザヴェータさんをきみのところへ連れて行きますよ、どうです? いやですか? なんだって返事をしないんです? なんでもお望みをいってください、ぼくが必ずかなえてあげます。ねえ、お聞きなさい、ぼくはシャートフを譲りますよ、いやですか?」
「じゃ、きみがあの男を殺そうと決心したのは、ほんとなんだね?」とニコライは叫んだ。
「ああ、いったいあなたは、なんのためにシャートフなんかがいるんです? どうしようというんです?」絶えずちょこちょこと前のほうへ駆け出しては、スタヴローギンの肘をつかまえながら(しかも、自分でそれに気がつかないらしい)、極度の興奮に達したヴェルホーヴェンスキイは、息をつまらせながら、口早にこういった。「まあ、お聞きなさい、ぼくあの男をあなたにあげます。仲直りしようじゃありませんか。きみの要求は過大なものだけれど、しかし……とにかく仲直りしてください!」
 スタヴローギンはとうとう相手に視線を向けたが、その刹那おもわずはっとなった。それはいつものような、いな、さきほど部屋の中で見たような目つきではなかった。あんな声でもなかった。彼の目の前にはまるで別な顔があった。声の調子もがらりとちがっていた。ヴェルホーヴェンスキイは祈っていた、哀願していた。それは何よりも貴重なものを奪われて、もしくは奪われんとして、いまだに正気に返れないでいる人の表情だった。
「まあ、きみはいったいどうしたんです?」とスタヴローギンは叫んだ。
 こちらはそれに返事もせず、ただ彼の後を走りつづけた。依然として哀訴するような、同時に執拗な目つきで、相手の顔色をうかがうのであった。
「仲直りしましょう!」と彼はいま一どささやいた。「実はね、ぼくもフェージカと同じように、長靴の中にナイフを隠してるんです。けれど、ぼくは和睦します」
「本当にきみはなんだってぼくが必要なんだろう、いまいましい!」もう極度の憤怒と驚異に駆られて、スタヴローギンはこうどなりつけた。「いったいなにか秘密でもあるのかね。いったいぼくはきみにとって、どんなまじないになるんだろう?」
「まあ、お聞きなさい、ぼくらはまた新しい混乱時代([#割り注]十七世紀初頭の空位内訌時代[#割り注終わり])を現出するのです」こちらはほとんど熱に浮かされてでもいるように、早口にこうささやいた。「ぼくらが混乱時代を現出しうるということを、きみは本当にしないんですね。ぼくらは、それこそいっさいのものが根底からくつがえされるような、恐ろしい混乱時代を現出するのです。カルマジーノフが何一つ縋るべきものがないといったのは、正鵠に当たっています。カルマジーノフはとても利口な男です。なに、ロシヤ全国にあんな集団がたった十くらいあれば、それこそぼくはもう捕捉し難い存在です」
「あんな馬鹿者ばかりかね」こんな言葉が、スタヴローギンの口から気のなさそうな調子ですべり出た。
「ああ、スタヴローギン、きみ自身もう少し馬鹿におなんなさい、も少し馬鹿に! 実はね、きみはそんなことを望むほど、大して利口じゃありませんぜ。きみは恐れてるんです、きみは本当にしないんです、きみは仕事が大仕掛けなのでおじけづいたのです。それに、あの連中がどうして馬鹿なんです? あの連中はけっしてそれほど馬鹿じゃありませんよ。今の世の中で、正気なものはだれ一人ありゃしません。実際、今の世の中には、特殊な頭脳をもった人間が恐ろしく少ないですからね。ヴィルギンスキイはまことに純な男です。ぼくらのようなものから見ると、十層倍も純な男です。しかし、あんな男なんかどうだっていい。リプーチンは悪知恵の張ったやつです。けれど、ぼくはたった一つあいつの弱点を知っています。実際、どんな悪ごすい男だって、それぞれ弱点のないやつはありませんからね。ただリャームシンだけは少しもそんな弱点がない。その代わりあの男はぼく擒縦自在です。こういうふうな集団が、まだほかに二つ三つあるんですよ。それに、いたるところ通用する旅券と金、それだけでも大したもんでしょう。え、ただそれだけでもね? それから、取っときの隠れ家と来てるんですからね、まあ、いくらでもさがすがいいや。一つの集団を引っこ抜いても、別なのがすぐ鼻っさきにあることはごぞんじないのだから、ぼくらは混乱時代をおっ始めるんです……なに、ぼくら二人でたくさんです、いったいきみはそれを本当にしませんか?」
「シガリョフを相棒にしたまえ、そして、ぼくは呑気にさしといてもらいましょう……」
「シガリョフは天才的な男です。知ってますか、あの男はフーリエ型の天才ですよ。しかし、フーリエより大胆です、フーリエより強いです。ぼくはあの男を利用するつもりです。なにしろ、あの男は『平等案』を考え出したんですからね!」
『この男は熱に浮かされてるんだ。なにか非常に変わったことが、この男の心に起こったに違いない』とスタヴローギンはも一ど彼の顔を見つめた。二人は立ちどまろうともせずに、歩きつづけた。
「あの男の説は、手帳《ノート》ではなかなかよくできてるんです」とヴェルホーヴェンスキイは語を続けた。「あの男の説くのは、探偵説です。あの男にいわせると、社会の各員は、互いに他人を監視し合って、それを密告するの義務を有してるんです。個人は全社会に属し、全社会は個人に属して、すべてのものはことごとく奴隷なんです。その奴隷という点において、各人平等というわけです。極端な場合には、誹譏、讒謗、殺人という方法も応用されるが、まあ、おもなのは平等ですよ。第一着手として教育、科学、才能などの水準を引き下げます。科学や才能の高い水準は、一だん高級な能力を持ったものが到達しうるのみだが、そんな高級な能力なんか必要はない! 高級な能力は、常に権力を掌握した専制君主なのです。実際、高級な能力は専制君主たらざるをえない。そして、常に益をもたらすより以上に、人心を荼毒《とどく》していた。だから、彼らは迫害されるか、でなければ刑罰を受けています。シセロは舌を抜かれ、コペルニクスは目を抉り出され、シェイクスピアは石を投じられた、――というのがシガリョフ一派の主張なんです! 奴隷はみな平等でなければいけない。専制主義のないところに、自由も平等もあったためしがない。しかし、羊の群には平等がなくちゃならない、これがシガリョフ一派の主張なのです! ははは、あなた不思議ですか? ぼくはシガリョフ説賛成ですよ!」
 スタヴローギンは足を速めて、少しも早く家へ行き着こうと努めた。『もしこの男が酔っぱらってるとすれば、いったいどこで飲んで来たんだろう』という考えが、ふと彼の心に浮かんだ。『まさかあのコニャック一杯のせいでもなかろう』
「ねえ、スタヴローギン、山をならして平地にする、――これはいい思いつきですよ、滑稽じゃありません。ぼくは、シガリョフに賛成します! 教育もいらない、科学もたくさんだ! 科学なんか無くったって、千年くらいは材料に不自由しませんよ。ただ、服従というやつを、うまく完成しなきゃならない。この世にただ一つ不足してるのは、この服従です。教育欲というやつは、すでに貴族的な欲望ですからね。また、ちょっとでも家庭らしいものや、愛などというやつがきざすと、もうそこに所有欲が起こるんですからね。なに、ぼくらはこの欲望というやつを処分しますよ。飲酒、誹謗、密告などを道具に使うのです。かつて聞いたこともないような、淫蕩の風を起こす。あらゆる天才を二葉のうちに窒息させる。こうして、いっさいのものを一つに通分してしまうのです、――つまり、絶対の平等です。『われわれは一つの職業を習い覚えた、われわれは正直な人間だ、だから、ほかになんにもいりゃしない』つい近ごろ英国の労働者が、こういう答えをしたそうです。ただ必要なものが必要なだけだ。これが今日以後、全地球のモットーとなるのです。しかし、痙攣もまた必要です。このことは、われわれ支配者が面倒を見てやらねばなりません(奴隷には支配者がいりますからね)。絶対の服従、絶対の没人格ですが、三十年に一どくらい、シガリョフ氏も痙攣というやつを道具に使うんです。すると、だれもかれも突然たがいに食い合いをはじめる。が、これもある程度までで、まあ、退屈しないだけにすればいいんです。退屈というやつは、貴族的感覚ですからね。シガリョフ一派には希望というものがなくなるのです。希望や苦闘はわれわれのために必要なので、奴隷どものためにはシガリョフ説があります」
「きみは自分を除外するんですか?」とまたスタヴローギンがたずねた。
「そして、きみもやはり。実はね、ぼくは世界をローマ法王の手に渡そうと思ったんです。法王をはだしでモッブの前に歩み出させるんです。そして、『お前たちはわしをこれほどまでにしてしまった!』てなことをいわすと、すべての者が、わあっとそのほうへ帰順してしまいます。軍隊までその仲間です。法王が上段にいると、ぼくらはそのまわりを取り囲む。そして、ぼくらの下段にはシガリョフ一派が来るわけです。ただインターナショナルが、法王と妥協してくれなけりゃなりませんが、それも実現されるに相違ないです。法王の爺さんなどは二つ返事です。爺さんにとっては、ほかにしようがないんですからね。まあ、ぼくの言葉をおぼえておってください、ははは! どうです、馬鹿げていますか? さあ、馬鹿げているかいないか返答してください」
「たくさん」とスタヴローギンはいまいましそうにつぶやいた。
「まったくたくさんです! まあ、お聞きなさい、ぼくは法王をやめちゃったんですよ! シガリョフ一派なんか、くそ食らえだ! 法王なんかどこなと勝手にうせるがいい! まったくぼくらに必要なのはきわものなんで、シガリョフ説なんかじゃない。なぜって、シガリョフ説は宝石屋の店に飾るべきもんですからね。あれは理想です。あれは未来のものです。シガリョフ説は宝石屋で、そして、すべての愛他主義者と同様に、ごくおめでたくできてるんです。われわれにはもっと下等な労働が必要です。ところが、シガリョフは下等な労働を軽蔑してるんですからね。ねえ、きみ、法王は西欧のものです。ロシヤで立つべき人はきみです!」
「ぼくの傍をどいてくれ、この酔いどれめ!」とつぶやいて、スタヴローギンは足を早めた。
「スタヴローギン、きみは美丈夫です!」ほとんど有頂天になって、ピョートルはこう叫んだ。「きみは自分の美しいことを知っていますか? きみの持っているものの中で一ばん貴いのは、きみが少しもそれを知らずにいることです。ええ、ぼくはすっかりきみという人を究めつくしました! ぼくはしょっちゅう横のほうから、隅っこのほうからきみを眺めているんです! きみには単純なところさえあります、ナイーヴなところさえあります、きみはそれを知っていますか? まだ残っています、本当に残っています! きみはきっと苦しんでるでしょう、しかも真剣に苦しんでるに相違ありません。それもやはりこの単純な心のためです。ぼくは美を愛します! ぼくはニヒリストだが、しかし、美を愛します。全体、ニヒリストは美を愛さないものでしょうか? なに、彼らはただ偶像を愛さないだけです。ね、ところが、ぼくはある偶像を愛します! つまり、きみがぼくの偶像なのです! きみはだれひとり侮辱しない。そのくせ、みんなに憎まれている。きみは人を平等に見ていらっしゃる。そのくせ、みんなきみを恐れている、――これが何よりなんです。だれもきみの傍へやって来て、なれなれしげに肩を叩くようなことをしない。きみは恐ろしいアリストクラートです。アリストクラートが民主主義におもむくのは、実に崇高なものです! きみは自分のものにしろ、人のものにしろ、人間の命を犠牲にするくらいなんとも思ってやしない。きみはまったくうってつけの人なんです。ぼくはちょうどきみのような人が必要なんです。ぼくはきみのような人をほかにだれも知りません。きみは指揮官です。太陽です。ぼくなんかきみの自由になる虫けらです……」
 彼はふいにスタヴローギンの手を接吻した。ぞっとするような悪寒《おかん》がニコライの背筋を走った。彼はおびえたように、その手をもぎ放した。彼は立ちどまった。
「気ちがい!」思わずスタヴローギンはこういった。
「本当にぼくは譫語《うわごと》をいってるかもしれません、熱に浮かされてるかもしれませんよ!」と、こちらは早口に引き取った。「しかし、ぼくは第一歩を考え出しました。シガリョフなどいつまでたっても、この第一歩を考え出しっこありません。実際この世には、シガリョフみたいな人間が多いんですよ! ところが、たった一人、ロシヤじゅうでたった一人、この第一歩を考え出したものがある。きみはそれがだれかわかりますか。その人間はぼくなんです。なんだってそんなにぼくを見るんです? きみは、きみはぼくに必要なのです。きみがなかったら、ぼくはゼロです。きみがなかったら、ぼくは蠅同然です、びんづめの思想です、アメリカなしのコロンブスです」
 スタヴローギンはじっと立ちすくんで、相手のもの狂おしい目つきを見つめていた。
「ねえ、ぼくらは初め混乱時代を現出するんです」ひっきりなしにスタヴローギンの左の袖をつかまえながら、ヴェルホーヴェンスキイは恐ろしくせき込むのであった。「これはもうきみにはいったことだけど、われわれは人民のまっただ中に没入するのです。きみはおわかりにならんかもしれないが、ぼくらはもう今でもなかなか優勢なんですよ。ぼくらの味方は単に人を殺したり、家を焼いたり、古典的な方法でピストルを射ったり、または咬みついたりするような、そんな連中ばかりじゃありません。あんな連中は邪魔になるだけでさあ。ぼくは規律をほかにしては、何物も理解できないたちなんです。実のところ、ぼくは策士なんですよ、社会主義者じゃありません、はは! ねえ、ぼくはそういう連中を、すっかり勘定して見ましたよ。子供らといっしょになって、彼らの神や揺籃を笑う教師、これはもうこっちのものです。殺された者より、殺した者のほうがより多く発達している。また金を獲るため殺人を犯さざるをえなかったのだ、などといって教養ある犯人を弁護する弁護士、これも確かにこっちのものです。実際の感覚を経験するために百姓を殺す学生も、こっちのものです。なんでもかでも犯人を釈放しようとする陪審員、これもまったくこっちのものです。自分の自由主義がまだ不十分ではないかと、法廷でびくびくしている検事も、同様こっちのもの、ええ、こっちのものですとも。そのほか、行政官吏、文学者、なあに味方はたくさんあります、うんとたくさんあります。しかも、そういう連中は、自分でもそのことを知らないのです。また別な方面からいうと、学生や馬鹿者どもの柔順さ加減は、もう極度に達しました。教師連中は胆汁の入った袋を押し潰されてしまったのです。いたるところ名誉心が方図もなく発達して、野獣のような貪欲心のさかんなこと、今までかつて聞いたこともないくらいです……ねえ、ぼくらがほんのできあいの思想で、どのくらい成功を贏ちうるか、きみはとてもわからないでしょう? ぼくが立った頃には、リトレエ([#割り注]コントの弟子、実証派[#割り注終わり])の、犯罪は精神錯乱なりというテーゼが猖獗を極めていたが、こんど帰って来て見ると、もう犯罪は精神錯乱どころか、最も健全な常識なんです、ほとんど義務です、少なくとも潔白な反抗です。『だって、発達した人間じゃないか、もし金が必要だったら、どうして人を殺さずにいられるものか!』というふうですからね。しかし、これなんぞはまだ生やさしいほうなんです。ロシヤの神も安ウォートカの前にはもう尻ごみしていますよ。百姓も酔っぱらってる、母親も酔っぱらってる、子供も酔っぱらってる、教会はがらんとしてしまった、裁判所では『笞《むち》二百、それがいやなら一樽もって来い』といった調子です。ああ、この時代風潮をもっともっと発展させなきゃなりません。ただ残念なことには、そう安閑と待ってる暇がないけれど、そうでなかったら、あの連中をもっともっと酔っぱらわしてやるんだがなあ! それに、プロレタリヤがいないので実に残念だ! が、それも今にできます、きっとできます、そういう傾向で進んでるんだから……」
「われわれが少し馬鹿になったのも、やはり残念だね」とスタヴローギンはつぶやいて、もとの道を歩き出した。
「まあ、お聞きなさい。ぼくはね、自分でこんなのを見ましたよ。六つばかりの男の子が、酔っぱらった母親の手を引いて、うちへ連れて帰ってると、母親はその子を口汚く罵るのです。きみ、ぼくがそれをよろこんでると思いますか? なに、いっさいがぼくらの手に落ちた時には、ぼくらも或いはそんなことをすべて治療してしまうかもしれません……もし必要とあれば、四十年くらいどこかの荒野へ追いやって、難行さしてもいいです……しかし、今のところ一代か二代、放縦時代がぜひなくちゃならない。人間がいまわしい、臆病な、残酷な、我利我利一点ばりの蛆虫になってしまうような、前代未聞の陋劣な放縦の時代――これがわれわれに必要なんです! それから、そこにちょいと『新しい血』がいりますな、つまり、少しばかり馴れるためです。きみ、なにを笑ってるんです? ぼくは別に自己撞着なんかしてやしませんよ。ぼくは愛他主義者やシガリョフ一派に撞着するだけで、自己撞着なんかしやしません! ぼくは策士で、社会主義者じゃないんだから。ははは! ただ時日が少ないのが残念ですよ。ぼくはカルマジーノフに、五月に初めて聖母祭までに片をつけると約束したんですよ。早すぎますか? はは! ねえ、スタヴローギン、とっぴなことをいうようですがね、ロシヤの百姓は、口汚い悪口雑言こそするが、醜悪哲学《シニズム》というものはありませんよ。まったくあの土に繋がれた奴隷のほうが、カルマジーノフなんかより余計、自己を尊敬していました。だって、百姓はずいぶんひどい目に遭わされたけれど、それでも自分の神は立派に守りおおせた。ところが、カルマジーノフはそれができなかったんですからね」
「いや、ヴェルホーヴェンスキイ君、ぼくは初めてきみの告白を聞きました。聞いて驚いてしまった」とニコライはいい出した。「してみると、きみはまるっきり社会主義者じゃなくって、何か政治上の……野心家かなんぞですね?」
「策士ですよ、策士ですよ。きみはぼくの正体が気になるんですね。今に本性を現わしますよ。そのほうへ話を持っていってるんですもの。ぼくだって無意味にきみの手を接吻したんじゃありませんよ。が、まず何より人民に信じさせる必要があります――われわれは自分の望むところを知っているが、彼らは『棒ちぎりを振り廻して、同士打ちをしている』にすぎないってことをね。ああ、本当に時日があったらなあ、――時日がないのが唯一の難点です。われわれは破壊を宣伝するのです……それはなぜ? というやつが、また実に魅力に富んだ問いでね! が、それにしても、少々小手だめしをしておかなけりゃ、こいつは必要ですよ。われわれはまず火事を道具に使います……伝説を道具に使います……こうなると、どんなやくざな集団でも役に立ちますよ。ぼくはあなたにこういう集団の中から、いかなる砲火の中にも突進して行って、しかもそれを光栄とし、いつまでも感謝するような、殊勝な人間をさがし出してあげます。まあ、こうして混乱時代が始まるんです! この世界がかつて見たこともないような、大動揺が始まるんです……ロシヤは一めん濛気にとざされ、大地は古い神を慕うて号泣する……さあ、そこである人物を登場さすのです……だれだと思います?」
「だれだろう?」
「イヴァン皇子([#割り注]伝説の主人公[#割り注終わり])です」
「だーれだって?」
「イヴァン皇子です、きみです、きみなんです!」
 スタヴローギンはちょっと考えた。
「僣位者のイヴァンですか?」深い驚愕に打たれると、興奮の極に達した相手をじっと見つめながら、とつぜん彼はこうたずねた。「じゃ、つまり、なんですね、それがきみの計画なんですね!」
「ぼくらは『今あの人は潜伏してるのだ』といいます」何かまるで恋でもする人のような声で、ヴェルホーヴェンスキイは静かにささやいた。実際、彼は陶酔してでもいるようだった。「わかりますか、この『あの人は潜伏している』という短い一語が、どんな意味を有しているか? しかし、その人はついに出現するのです。姿を現わすのです。ぼくらはあの去勢宗徒の連中より、ずっと気の利いた伝説を放ちますよ。その人は実際に存在しているが、まだだれも見たことがない、――ああ、実に面白い伝説を放つことができるんですよ! つまり、一ばん大切なのは、新しい力が現われたという点なのです。これが万人に必要なんです、これを人々が憧憬してるんです。社会主義なんかなんです? 古い力は破壊したが、新しい力は注入しえないじゃありませんか。ところが、ぼくらのは力です。しかも、今まで聞いたこともないような、素晴らしい力なんです! ぼくらはほんの一度、うんと杆《てこ》をもって力を入れたら、もう地球が持ちあがるんですよ。何もかも持ち上るんですよ!」
「それじゃ、きみは真面目にぼくを当てにしてるんですか?」スタヴローギンは毒々しくにやりとした。
「何を笑ってるんです、しかも、そんなに意地悪そうに? ぼくをおどかさないでください。ぼくは今まるで子供みたいなんですから、そんな笑い方をされただけでも、死ぬほどおどしつけられてしまいますよ。いいですか、ぼくはだれにも……きみを見せないつもりです。ええ、だれにも……そうしなくちゃいけないんです。その人はいる、しかし、だれもまだ見たことがない、どこかへ姿を隠しているのだ、とこう思わせなきゃ駄目です。しかしね、十万人のうち一人くらいには見せてもいいです。すると、その男は、ロシヤの国じゅう駆け廻って、『見た、見た』とわめいて歩く。サヴァオスの神イヴァン・フィリップイチでさえ、戦車に乗って昇天するところを、群衆が『現在この目で』見たというではありませんか。が、きみはイヴァン・フィリップイチじゃない。きみは美丈夫です。神のごとく誇らかな、自分のためには何ものをも求めない、犠牲の円光を背負った『隠れたる』美丈夫です。まあ、何より有効なのは伝説です! きみはきっと彼らを征服します。一目見ただけで征服しますよ。なにしろ新しい真理をいだいて『隠れてる』人なんですからね。そこでぼくらは、ソロモンの咒文めいたものを二つ三つ道具に使う。それにいろんなグループや五人組があるんですものね、――新聞なんかいりゃしませんよ! 一万人くらいの中で、たった一人だけの請願をいれてやったら、それこそだれもかれも請願をもってやって来る。どんな田舎の、どんな百姓でも、どこかに一つの洞穴があって、そこへいろんな願書を差し入れるという話だ、ってなことを、ちゃんと承知するようになる。『新しく正しき掟は現われたり』という呻きの声で、地球がびりびり震え出す。海は波立って、仮普請の小屋掛けはばらばらに崩れ落ちてしまう。そのとき初めてぼくらは、石造建築を起こす方法を考えてもいいのです。それはまったく前後未曾有の事業です! しかし、建設するのはぼくらです、ええ、ぼくらだけです、ほかにだれもありゃしません」
「狂気の沙汰だ!」とスタヴローギンは口を入れた。
「なぜです、なぜきみはいやなんです? 恐ろしいのですか? ぼくがきみに目星をつけたのは、きみが何ものをも恐れない人だからですよ。どうです、筋が立ちませんかね? だって、ぼくはまだ今のところ、アメリカなしのコロンブスです。実際、アメリカなしのコロンブスに、筋道の立とうはずがないじゃありませんか?」
 スタヴローギンは押し黙っていた。やがてそのうちに、家のすぐ傍まで来た。二人は車寄せの傍に立ちどまった。
「ねえ」とヴェルホーヴェンスキイは相手の耳へかがみ込んだ。「ぼくは金をもらわずに、きみのために働きましょう。ぼくは明日にも、マリヤの片をつけてしまいます……金をもらわずにね。そして、明日にもさっそくリーザさんをきみのところへ連れて来ます。どうです、リーザさんがほしくはないですか、明日ですよ?」
『この男どうしたんだ、本当に気でも狂ったんだろうか?』と思って、スタヴローギンはにやりとした。玄関の戸が開かれた。
「スタヴローギン、ぼくらのアメリカになってくれますね」ヴェルホーヴェンスキイは、いま一ど最後に彼の手をつかんだ。
「なんのために?」とニコライは真面目な、いかつい調子で問い返した。
「気が進まないとでもいうんですか、ぼくもそんなことだろうと思ってた!」兇猛な憤怒の発作に駆られながら、彼はこう叫んだ。「そうはいきませんぜ、本当にしようのないやくざな、極道の、箸にも棒にもかからない若殿様だ。ぼくそんなことを本当にしやしない。きみは狼のような欲望を持っているのだ!………まあ、考えてもごらんなさい、きみの注文はあまり大き過ぎるんだが、それでもぼくは思い切れないんですよ! この世界にはきみのような人が他にないからです! ぼくはまだ外国にいる時分から、きみという人を考え出したのです。きみを見てるうちに思いついたのです。もしぼくが片隅から、きみという人を覗いて見なかったら、あんなことは夢にもぼくの心に浮かびやしなかったのです!………」
 スタヴローギンは返事もせずに、ずんずんと階段を昇って行った。
「スタヴローギン!」とヴェルホーヴェンスキイは、うしろからわめいた。「じゃ、一日……いや、二日……いや、まあ、三日だけの猶予を与えましょう。三日以上は駄目ですよ。三日すぎたら、返事を聞かしてもらいますよ!」

[#3字下げ]第9章 スチェパン氏の家宅捜索[#「第9章 スチェパン氏の家宅捜索」は中見出し]

 その間に、こちらでもまた一つ事件が持ちあがった。それはわたしを驚愕させ、スチェパン氏を震駭させるような事件であった。朝八時ごろ、同氏のところから、ナスターシヤがわたしの住まいへ駆けつけて『旦那様が書きつけられました』という報知をもたらした。わたしは初め何一つ合点がいかなかったが、だんだん聞いているうちに、役人どもがやって来て、書類を押収し、それを手帳に『書きつけ』た後、兵隊がそれを風呂敷に包み、手車にのせて持って帰った、ということだけやっと会得できた。それは奇怪千万な報知であった。わたしはすぐさまスチェパン氏のもとをさして急いだ。
 行ってみると、彼は驚くべき状態に陥っていた。すっかり心を取り乱して、無性に興奮しているくせに、それと同時に、紛うかたなく勝ち誇ったような顔つきをしているのであった。部屋の真ん中のテーブルには、湯沸《サモワール》がしゅんしゅん鳴っていて、一杯ついだまま手もつけずに忘れられた茶のコップが、一つぽつんと立っている。スチェパン氏は、自分で自分の動作に気もつかず、テーブルの廻りをうろうろしたり、部屋の隅から隅を歩き廻ったりしていた。彼はいつもの赤いジャケツを着ていたが、わたしの姿を見るが早いか、大急ぎでその上からチョッキと上衣を着込んだ。以前は、だれか親しい友だちにこのジャケツ姿を見られても、けっしてこんなことをしたことはなかったので。彼はすぐさま熱した様子でわたしの手をとった。
「Enfin un ami.(とうとう友だちが来てくれた)」と彼は胸一ぱいにため息をついた。
「|きみ《シェル》、わたしはきみ一人だけを呼びにやったんだよ。だれもほかにこのことを知るものはないのだ。ナスターシヤにいいつけて戸を閉めさして、だれも入れないようにしなければならない。もっともあの連中[#「あの連中」に傍点]は、むろん除外しなけりゃならないがね…… vous comprenez?(きみわかるだろうね)」
 彼は答えを待ち設けるように、不安げにわたしを見つめた。わたしはもちろんとびかかるような勢いで、いろんなことを根掘り葉掘りした。連絡のない、とぎれがちな、おまけに余計な入れごとの多い話の中から、わたしはやっとこれだけのことを知った、つまり、今朝七時頃に『とつぜん』県庁の役人が、彼のところへやって来たというのである。
「〔Pardon, j'ai oublie' son nom. Il n'est pas du pays.〕(失敬、わたしはその男の名前を忘れてしまった。しかしこの国の人ではない)なんでもレムブケーがつれて来たらしい。〔Quelque chose de be^te et d'allemand dans la physionomie. Il s'appelle Rosenthal.〕(なんだか間抜けらしい男で、顔つきから察すると、ドイツ人かと思われる。ローゼンタールという名前だ)」
「ブリュームじゃありませんか?」
「ブリュームだ、まったくそのとおりだった。Vous le connaissez?(きみあの男を知ってたんですか?)〔Quelque chose d'he'be'te' et de tre`s content dans la figure, pourtant tre`s seve`re, roide et se'rieux.〕(なんだか遅鈍らしい、満足しきったような所が態度に現われているが、そのくせ恐ろしくしかつめらしくって、固苦しい、糞真面目な男なんだよ)警察の役人で、しかも下廻りのほうに違いない、je m'y connais.(それはわかっている)。わたしはまだ寝てたんだよ。ところが、どうだろう、その男がわたしに蔵書と草稿を『覗かして』くれと頼むじゃないか。〔Oui, je m'en souviens, il a employe' ce mot.〕(ああわたしは覚えている。その男はこういう言葉を使ったのだ)やつはわたしを引っ張って行かなかった。ただ本だけだ…… 〔Il se tenait a` distance.〕(一定の間隔を保ったわけなんだね)そいつがわたしに来意を説明し始めた時の様子といったら、まるでわたしがその…… 〔enfin il avait l'air de croir que je tomberai sur lui immediatement et que je commencerai a` le battre comme pla^tre.〕(つまり、そいつは、わたしがいきなり飛びかかって、まるで石膏細工かなんぞのように、そいつを叩き毀す、とでも思ったようなふうつきだった)どうもああした下層階級の人間どもは、相当な身分のある人と接触した時、みんなそういうことを考えたがるもんでね。もちろん、わたしはたちまち、ことのなんたるやを悟ってしまった。〔Voila` vingt ans que je m'y pre'pare〕(二十年来、その覚悟をしていたんだからね)わたしはありたけの抽斗をすっかり開けて、鍵もみんな渡してしまった。自分で渡してやったんだ。何もかも渡してやったんだ。〔J'e'tais digne et calme.〕(わたしは威厳を保ちながら平然としていた)。やつは蔵書の中からゲルツェンの外国版と、『警鐘《コロコル》』の合本と、わたしの詩を書き抜いたものを四部もって行った。それっきりなんだ。それから、書類と手紙と 〔et quelque unes de mes e'bauches historiques, critiques et politiques〕(それから、わたしの歴史的、批評的、政治的原稿の中のある物)こういったものをすっかり持って行ったんだ。ナスターシヤの話によると、一人の兵隊が手車にのせて、曳いて行ったそうだよ。おまけに前掛けをその上からかぶせてね、oui, c'est cela(ああ、本当にそうなんだよ)前掛けをね」
 それはまるで譫語のようなものだった。だれにもせよ、こんな話から何か会得ができるだろうか? わたしはまたもや彼に質問の雨を浴せかけた。いったいブリュームが一人で来たのかどうか? だれを代表して来たのか? いかなる職権によって? どうしてあの男がそういう僭越な真似をしたのか? どんなふうにそれを説明したのか?
「〔Il e'tait seul, bien seul.〕(やつは一人きりだった、まったく一人きりだった)もっとも、まだだれやら dans l'antichambre(控室に)おったようだ、oui, je m'en souviens et puis ……(わたしはおぼえてる、それに……)だが、そのほかにまだだれかいたようだった。そして、玄関には番人が立っていたっけ。が、これはナスターシヤに聞かなくちゃならない。こんなことはあれのほうがよく知っている。〔J'e'tais surexcite', voyez-vous, il parlait, il parlait …… un tas de choses.〕(きみも察してくれるだろうが、わたしは恐ろしく興奮していたのだ。あの男はしゃべった、よくしゃべったよ……いろんなことをね)もっとも、あの男はあまり口をきかなかったっけ、それよりわたしのほうがかえってしゃべりつづけていたっけ……わたしは一生の歴史を話して聞かしたんだ。といっても、むろん、そういったふう の見地から見た一生なんだがね…… 〔j'e'tais surexcite', mais digne, je vous l'assure.〕(わたしは興奮してはいたけれど、しかし品位は保っていたよ。それはあえてきみに断言する)が、わたしはどうも泣き出したらしい、それが気になるんだ。手車はあの連中、隣りの店から借りて来たのだ」
「おお、なんというこった、どうしてそんなことができたんだろう? しかし、後生ですから、もっと正確に話してください、スチェパン・トロフィーモヴィチ。だってあなたのいってることは、まるで夢じゃありませんか!」
「|きみ《シェル》、わたし自身も、まるで夢を見てるような気持ちなんだよ…… 〔Savez vous! Il a prononcee' nom de Teliatnikoff.〕(ところでねえ! やつはチエリヤートニコフという名前をいい出したんだよ)そこでわたしはね、その男が玄関に隠れているような気がしたのさ。ああ、そうそう、思い出した。やつはわたしに検事を推薦してくれたっけ、確かドミートリイ・ミートリッチだったと思う…… qui me doit encore quinze roubles de eralache soit dit en passant. Enfin, je n'ai pas trop compris.(それはカルタの勝負で、わたしに十五ルーブリ負けて、それなり払わないでいる男なんだよ。これはついでにいっておくのだ。が、結局、わたしは何が何やら少しもわけがわからない)ところで、わたしはやつの裏を行ってやった。それに、検事なんかわたしの知ったことじゃない。しかし、わたしはやつに秘密を守ってもらいたいと、一生懸命に頼んだらしい。まったく一生懸命に頼んだような気がする。自分の威厳を傷つけやしなかったかと、それが心配になるぐらい…… comment croyez-vous? Enfin il a consenti ……(きみ、いったいこれが本当になるかね、しかし、結局やつも同意して……)ああ、そうだ、思い出した、これはあの男が自分から頼んだのだ。自分はただちょっと『覗きに』来ただけなので、et rien de plus.(それっきりだ)本当にそれだけなのだ。ほかに何もありゃしない……だから、隠しておいたほうがよくはないか、もしなんにも怪しい点を発見しなかったら、事件は何事もなしに終わるんだから、とこう頼んだのだ。そういうわけで、われわれは親友として別れたんだよ。〔je suis tout-a`-fait content〕(わたしもすっかり満足しているのだ)」
「冗談じゃありませんよ。あの男は自分からあなたに対して、こういう場合に必要な手続きと保証を提供したのに、あなたは自分でそれをしりぞけてしまったんじゃありませんか?」わたしは親友としての立場から、思わず憤怒の念に駆られてこう叫んだ。
「いや、保証なんかないほうがいいんだよ。何もすき好んで、世間を騒がすことはないじゃないか。まあ、当分のうち、親友として交渉を持続してゆこう……きみもごぞんじだろうが、もしもそんなことがぱっとしようものなら、この町には……|わたしの敵《メザンヌミ》がたくさんいるんだからね…… 〔et puis a` quoi bon ce procureur, ce cochon de notre procureur, qui deux fois m'a manque' de politesse et qu'on a rosse' a' plaisir l'autre anne'e chez cette charmante et belle Nathalia Pavlovna, quand il se cacha dans son boudoir.〕(それに、あんな検事なんかなんの役に立つものかね、あの検事の豚野郎め。あいつは二度もわたしに失礼な真似をしたのだ。それに、去年あの美人で愛嬌のあるナターリヤ・パーヴロヴナの家で、こっぴどく打ちのめされたことがある。その時やっこさん、夫人の化粧室へ逃げ込んだじゃないか)それにね、きみ、どうかわたしのいうことに反対して、わたしを悲観させないでくれたまえ。なぜって、人が不幸に陥っている時、はたから五十人も百人も親友が口を出して、お前はこんな馬鹿なことをしたぞと教えるくらい、いやなことはないからね。まあ、しかし、かけたまえ。そして、茶でも飲んでくれたまえ。実のところ、わたしは少し疲れたようだ……ちょっと横になって、頭に酢でもつけたほうがよくないかしらん。きみはどう思いますね?」
「ぜひそうしなくちゃなりません」とわたしは叫んだ。「それどころか、氷で冷やしたほうがいいくらいですよ。あなたすっかり頭をめちゃめちゃにしてるんだから! ほら、そんなあおい顔をして、手なんかぶるぶる震えてるじゃありませんか。まあ、横になってお休みなさい。そして、話はも少し後にしたほうがいいんですよ。ぼくは傍に坐って、待っていますから」
 彼は思いきって臥せりかねていたが、わたしは無理やりにそうしてしまった。ナスターシヤが茶碗に酢を入れて持って来た。で、わたしはそれを手拭につけて、スチェパン氏の頭へ当てがった。それから、ナスターシヤは椅子の上に立って、片隅の聖像の前に吊したお燈明をつけにかかった。わたしはびっくりしてそれを見つめていた。第一、お燈明など以前かつてなかったのが、こんど急にひょっこり出てきたのである。
「これはね、さっきあの連中が帰るとすぐ、わたしがいいつけて用意さしたのだ」ずるそうな目つきでわたしを見ながら、スチェパン氏はつぶやいた。「〔quand on a de ces choses-la` dans sa chambre et qu'on vient vous arre^ter〕(こういうものが部屋の中にあると、逮捕にやって来た時に)一種の観念を彼らの頭に吹き込むだろう。すると、帰ってから、こういうものを見ましたと、必ず報告するに違いない……」
 お燈明のほうがすむと、ナスターシヤは戸口に立って、右の掌を頬に押しつけながら、泣き出しそうな様子をして彼を見つめた。
「Eloignez-la.(あれをあっちへやってくれたまえ)なんとか口実を設けて」と彼は長いすから、わたしに顎をしゃくって見せた。「あのロシヤ式の同情が、わたしはいやでたまらないんだよ、〔et puis c,a m'embe^te.〕(それに、うるさいんだ)」
 しかし、彼女は自分で出て行った。わたしは彼がしじゅう戸口へ目を配って、玄関のほうに耳を澄ましているのに気がついた。
「〔Il faut e^tre pre^t, voyez-vous.〕(もう用意しておかなけりゃ、ねえ、きみ)」と彼は、意味ありげにわたしを見上げた。「chaque moment(いつなんどき)やつらが来て、捕まえるかもしれないからね。そうすると、はっと思うまに、人間ひとり消えてなくなってしまうんだ!」
「えっ! だれがやって来るんです? だれがあなたを捕まえるんです?」
「Voyez-vous, mon cher(実はねえ、きみ)、わたしはあの男が帰ろうとするとき、いったいわたしをどうするつもりだ、とこうぶっつけにきいてやったのさ」
「いっそ、どこへ流刑にするつもりだ、ときけばよかったんですよ!」わたしはやはり憤懣の念に堪えかねてこう叫んだ。
「いや、わたしもこの質問を発する時、そういう意味をも含ましたんだ。しかし、やつはなんとも返事しないで、ぷいと出てしまった。Voyez-vous(ところでねえ)、シャツだとか、着物だとか、ことに暖い着物だとかいうものは、いくらあの連中が乱暴なことをするたって、それだけは持って行かしてくれるだろうね。そりゃそうだよ。そうでなかったら兵隊外套で送り出されるんだからね。しかし、わたしは三十五ルーブリだけ(と、ナスターシヤの出て行った戸口を振り返りながら、急に声を落とした)、そっとチョッキのかくしの破れ目に捻じ込んでおいたが、そら、ここのところだ、ちょっといじって見たまえ……わたしの考えでは、やつらもまさかチョッキまで脱がそうとはしまいからね。しかし、ただ見せかけに、金入れの中に七ルーブリだけ残しておいたんだ。『これがありったけです』というわけなのさ。それはきみ、小銭や銅貨のつりなど、テーブルの上に置いてあるから、わたしが金を隠したとは気がつくまいよ。きっとこれがあり金ぜんぶだと思うに違いない。ああ、今日はどこで一夜を明かすやら、神様のほかに知る者はないのだ」
 わたしはあまりの馬鹿馬鹿しさに思わずこうべを垂れた。彼の物語ったような順序では、逮捕することも家宅捜査をすることもできないのは、一目瞭然たる話だった。むろん、彼は錯乱してしまっているのだ。もっとも、現行の新法令が制定されるまでは、そういうことも当時往々もちあがったのは事実である。しかし、彼の言葉によれば、彼はより合法的な手続きをすすめられたにもかかわらず、その裏を掻いて[#「その裏を掻いて」に傍点]断然それをしりぞけたというのも事実だった……もちろん、以前、しかもごく近頃まで、県知事は非常の場合、こういうことをする権限をもっていたけれど……しかし、この事件のどこがそうした非常な場合に相当するのだ? こう思うと、わたしは何が何やらわからなくなってしまった。
「これはきっとペテルブルグから電報が来たに相違ないよ」ふいにスチェパン氏はこういった。
「電報! あなたのことで? それはいったいゲルツェンの著書のためですか、あなたの作った劇詩のためですか、本当にあなたは気でも狂ったのですか? いったいどういう理由で捕縛されるんでしょう?」
 わたしはもういっそ腹が立ってきた。彼は渋い顔をして、何か侮辱でも感じたようなふうだった、――それは別に、わたしが大きな声でどなったからではなく、何も捕縛なぞされる理由がないという、その考え方が気に入らなかったらしい。
「今の世の中だもの、どんな理由で捕縛されるかわかりゃしないさ」と彼は謎めいた口調でつぶやいた。
 と、奇怪な思いきって馬鹿馬鹿しい考えが、わたしの頭にちらりと閃いた。
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、一つの親友としてぼくに聞かしてください」と、わたしは叫んだ。「本当の親友としてうち明けてください、けっしてあなたを陥れるようなことはしません。あなたは何か秘密結社にでも関係してるんじゃありませんか?」
 ところが、驚いたことには、彼はこの問題に対しても確たる自信がなかった。自分が何かの秘密結社に関係してるかどうか、自分でもわからなかったのである。
「そうだね、これをなんと解釈したらいいか、voyex-vous ……(ねえ、きみ……)」
「なんですって、なんと『解釈したらいいか』ですって?」
「もし心底から時代の進歩に同感して、それに関与しているとすれば……だれだってそんなことを明言するわけにゆかないじゃないか。自分じゃ関係がないと思っていても、あに図らんや、いつの間にやら何かに関係している、というようなことがあるからね」
「どうしてそんなことがありうるでしょう。この際、問題は諾か否だけですよ」
「〔Cela date de Pe'terbourg.〕(ペテルブルグ以来のことだよ)あのひとと、むこうで雑誌を出そうとしたとき以来のことだよ。そもそもの根ざしはここにあるんだ。あのときわれわれはうまく滑り抜けて、やつらもすっかり忘れていたのだが、今度それを思い出したのだ。|きみ《シェル》、|きみ《シェル》、いったいきみはわたしがどういう人間かわからないのかね!」と彼は病的に叫んだ。「わたしは逮捕されて、囚人馬車にほうり込まれ、そのままつうとシベリヤへ送られて、一生を過ごすか、それとも監獄の中で人から忘れられてしまうか、どっちかなんだ」
 と、彼はふいに熱い熱い涙を流して泣き始めた。涙はひっきりなしにほとばしり出るのであった。彼は例の赤いハンカチで目をおおいながら咽び泣いた。五分間ばかりというもの、痙攣でも起こしたように咽び泣いた。わたしは心の底を引っ掻き廻されたような気持ちになった。二十年の間、われわれにとって予言者であり、伝道者であり、教訓者であり、かつ族長であったこの人、――われわれ一同の前に昂然として、厳かに聳えていたこのクーコリニック([#割り注]第一編第一章五参照[#割り注終わり])、われわれが心から崇拝して、それを自分たちの光栄としていたスチェパン氏が、今だしぬけに泣き出したではないか。教師が鞭を取りに行った後で、恐怖の念に慄えているちっぽけな悪戯者の小学生よろしく、めそめそ泣いているではないか。わたしはかわいそうでたまらなくなってきた。『囚人馬車』が来るということは、わたしが彼の傍に坐っているという事実と同じくらい、心から信じて疑わないらしい。しかも、明日とはいわず今日すぐ、いや、こういってるうちにもやって来るものと、覚悟しているに相違ない。それがどんな理由かと思うと、ゲルツェンの著書なのである、妙な自作の詩なのである! こういうきわめてありふれた現実生活の知識が、全然かけているということは、尊くもまたいまわしく感じられた。
 彼はついに泣きやんで、長いすから立ちあがり、ふたたび部屋の中を歩み始めながら、わたしと話を続けたが、しかし、絶えず窓の外を見すかしたり、玄関のほうへ耳を傾けたりした。わたしたちの話は連絡もなく続いた。わたしがどんなに言葉をつくして立証しても、慰めても、まるで豆を壁へ叩きつけたように、むなしくはじき返されるばかりであった。彼はろくろく聞こうともしなかった。が、それでもやはり、わたしからいろいろ慰めてもらいたくてたまらないのだ。わたしはその意味でのべつしゃべりつづけた。いま彼はもうわたしというものなしには、どうすることもできなかった。で、どんなことがあっても、わたしを手放しそうにもなかった。こう見てとったので、わたしもそのまま居残った。二人は二時間以上も坐り込んでいた。いろんな話の中に、彼はブリュームが二枚の檄文を見つけて、家へ持って帰ったことを、ふと思い出した。
「え、檄文ですって!」わたしは愚かにも、びっくりしてこう叫んだ。「まあ、あなたは……」
「なあに、十枚ばかり家へほうり込んで行ったのさ」と彼はいまいましそうに答えた(彼はわたしと話をするのに、時にはいまいましそうな、時には高慢ちきな、時には哀れっぽい、卑下した調子になるのであった)。「しかし、八枚はわたしが処分したから、ブリュームが持って行ったのは、たった二枚なんだ……」
 と、彼はふいに憤懣のあまり真っ赤になった。
「〔Vous me mettez avec ces gens-la`!〕(きみはわたしをあんな連中といっしょにするんだね!)いったいきみは、わたしがあんな悪党といっしょになれると思うのかね? あんなビラ撒きと? 倅のピョートルと? 〔avec ces esprits-forts de la la^chete'〕(あの臆病な独りよがりの連中と?)ああ、なんということだ!」
「こりゃ大変だ、もしや何かの間違いで、あなたをあの連中といっしょにしたんじゃないかしらん……いや、馬鹿馬鹿しい、そんなことのあろう道理がない!」とわたしはいった。
「|ねえ、きみ《サヴェヴー》」と彼はわれともなしにいい出した。「わたしは時々、〔que je ferai la`-bas quelque esclandre〕(何か世間を騒がすような、下劣なことを仕出かしそうな)気持ちがしていけない。ねえ、きみ、帰らないでくれたまえ、わたしを一人でうっちゃらないでくれたまえ。ああ、〔ma carrie`re est finie aujourd'hui, je le sens.〕(わたしの世間的生活も今日で終わりを告げた。自分でもそれが感じられる)ねえ、きみ、ことによったら、わたしはあの少尉のように、その辺のだれかに飛びかかって、咬みつくようなことを仕出かすかもしれないよ……」
 彼は奇妙な目つきで、びっくりしたような、同時に自分でも人をびっくりさせたいような目つきで、じっとわたしを見つめるのであった。だんだん時が過ぎてゆくのに、いつまで経っても『囚人馬車』がやって来ないので、彼は本当にいらだたしい気持ちになって、しまいにはぷりぷり腹を立ててきた。そのくせだれに向かって、なんのために腹を立てているのか、自分でもわからないのであった。そのとき何かの用で台所から控え室へやって来たナスターシヤが、とつぜん外套かけにさわって、がたりと倒した。スチェパン氏はぴくりとなって、死んだようにじっと立ちすくんだ。しかし、事態がこうと判明すると、彼は黄いろい声を立てて、ほとんどナスターシヤに跳びかからんばかりの勢いだった。そして、地だんだを踏みながら、台所へ追いやってしまった。一分間ばかりたってから、彼は絶望したようにわたしの顔を眺めながら、いい出した。
「わたしはもう駄目になった! |きみ《シェル》」いきなりわたしの傍に腰を下ろし、悄然としてわたしの目をぴったりと見つめた。「|きみ《シェル》、わたしはけっしてシベリヤを恐れるんじゃない、それは立派にきみに誓っておく、o, je vous jure.(ああまったくだよ)」彼の目には涙さえにじみ出た。「わたしの恐れるのは、まるで別なことなんだよ」
 わたしはもうその様子を見ただけで、彼が何かしら非常に重大な、今まで我慢して隠していたことを、いよいようち明けようとしてるんだなと悟った。
「わたしは恥さらしを恐れるんだよ」と彼はさも秘密らしくささやいた。
「恥さらしってなんです? それはまるで反対じゃありませんか! ぼくうけ合っておきますよ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、この事件は今日にもすっかり明白になって、有利な解決がつきますよ……」
「じゃ、きみはわたしが赦免になるものと、固く信じてるんだね?」
「いったい『赦免』とはなんのことです? 本当になんという言葉でしょう! あなたは赦免されるのどうのというようなことを、全体いつ仕出かしたのです? ぼくは断じて明言しておきます。あなたはなんにもそんなことを仕出かしたことはありません!」
「Qu'en savez-vous(ところがね、きみ)わたしの一生は初めからしまいまで……|きみ《シェル》……あいつらは、あいつらは何もかも思い出すに相違ない……もしまた何一つ発見できないとしても、かえってそのほうがいけないのだ[#「そのほうがいけないのだ」に傍点]」とつぜん彼は思いがけなくこうつけ足した。
「どうしてそのほうがいけないのです?」
「かえって悪いんだよ」
「わかりませんなあ」
「実はねえ、きみ、実はねえ、わたしはシベリヤへやられようと、アルハンゲリスクへ流されようと、かまやしない。権利剥奪もいとわない――死ねとあれば死ぬまでだ! ただね……わたしはもっとほかのことが恐ろしいのだ」と彼はまたしても声を潜め、おびえたような顔つきをして、さも秘密らしくこういった。
「いったいなんです、なんです?」
「ぶん撲られることだ」といい、彼はとほうにくれた顔つきでわたしを見やった。
「だれがあなたをぶん撲るんです? どこでどういうわけで?」わたしは、気でも狂ったのではないかと、度胆を抜かれてこう叫んだ。
「どこって、そりゃきみ……そういうことをするところがあるさ」
「だから、どこでそういうことをしてるんです?」
「ええ、きみは本当に」わたしの耳に口を付けないばかりにしながら、彼はささやいた。「ほら、足もとの床が急にぱっと割れて、体が半分下へ落ち込むような仕掛けがあるだろう……これはだれでも知ってることだよ」
「昔話ですよ!」やっと合点がいって、わたしは叫んだ。「古い昔話ですよ。まあ、いったいあなたは今までそれを本当にしてたんですか?」わたしは声をはり上げて、からからと笑い出した。
「昔話だって! 昔話だって何か出所があろうじゃないか。笞刑に遭った者は、自分でそんなことをしゃべるものじゃないさ。わたしは何千べん、何万べんとなくこの光景を想像してみたよ!」
「しかし、あなたは、あなたはなんのためにそんな目に遭うのです? だって、あなたはなんにもしやしないじゃありませんか?」
「だから、なおいけないんだよ。わたしが何もしないということがわかると、やつらわたしをぶん撲るに相違ないからね」
「それから、あなたをペテルブルグへ引っ張って行く、とこう思い込んでるんでしょう!」
「きみ、わたしはもうさっきもいったとおり、今となって何も惜しいとは思わない。〔Ma carrie`re est finie〕(わたしの世間的生活は終わった)スクヴァレーシニキイであのひとと袂を別った瞬間から、わたしは自分の命も惜しいとは思わなくなった……けれど、恥さらし、見苦しい恥さらしをどうしよう。Que dira-t-elle?(彼女がなんというだろう?)もしこのことが知れたら……」
 彼は絶望したようにわたしを見上げた、不幸な友は顔を真っ赤にしていた。わたしも思わず目を伏せた。
「あのひとには何も知れやしません。あなたの身の上に何も起ころうはずがないんですもの。ぼくはまるで生まれて初めて、あなたと話をするような気がしますよ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、まったく今朝のあなたには面くらわされましたよ」
「きみ、わたしは何も恐怖のために、こんなことをいうのじゃないよ。ただかりにわたしが赦免されて、もう一度ここへ連れて帰られるとしても、わたしの身に何事も起こらないとしても、それでもわたしはやはり駄目になってしまうのだ。〔Elle me soupc,onnera toute sa vie.〕(あのひとは一生わたしを疑うだろう)わたしを、詩人であり思想家であり、二十二年間あのひとの崇拝の的だったこのわたしを!」
「そんなことあのひとは夢にも考えないでしょう」
「考えるよ」と彼は深い確信をもってささやいた。「わたしとあのひとはペテルブルグで、何度もこのことを話したものだ。四旬斎のとき、出発の前にね。そのとき二人ともびくびくしていたのだ。〔Elle me soupc,onnera toute sa vie〕(あのひとは一生わたしを疑うだろう)……そうして、その疑いをはらすことができるだろうか? とても本当とは思ってもらえまい。それに、この町の人が一人でもわたしを信じてくれるだろうか、c'est invraisemblable …… et puis les femmes(それは不可能だ……それに、女というものは)……あのひとなぞかえってよろこぶだろうよ。そりゃもちろん、本当の親友として、悲しんでくれるには相違ない、心底から一生懸命なげいてくれるに相違ない。けれど、心の内ではよろこぶに違いないよ……わたしは生涯自分を責められるような道具を、あのひとに授けることになるんだからね。ああ、わたしの一生は亡びた! 二十年間あのひとと二人で、完全な幸福を楽しんできたのに……今度こういうことになろうとは!」
 彼は両手で顔をおおうた。
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたは今すぐこのことを、ヴァルヴァーラ夫人に知らせたほうがよくはありませんか?」とわたしはすすめてみた。
「とんでもないことを!」と彼は身慄いして席を躍りあがった。「けっしてけっして、どんなことがあったっていえやしない。スクヴァレーシニキイで別れる時、あんなことをいわれた後だもの、どうしてどうしてそんなことが!」
 彼の目はぎらぎら輝き出した。
 わたしたちは絶えず何ものかを待ち受けながら、――もうそういう観念が頭へこびりついてしまったのだ、――たぶん一時間か、或いはそれ以上も坐っていたらしい。彼はふたたび横になって、目さえ閉じてしまった。こうして、二十分ばかり、一口もものをいわないで横になっていたので、彼は寝入ったのか、それでなければ、自己忘却に陥ったのかと思われるほどだった。と、彼は急に恐ろしい勢いで身を起こした。そして、いきなり額の手拭をもぎ取って、長いすから躍りあがると、姿見のほうへ飛んで行き、慄える手でネクタイを結び直すのであった。それから、雷霆のような声でナスターシヤを呼んで、外套と、新しい帽子と、ステッキを出すふうにいいつけた。
「わたしはもう我慢できない」と彼はとぎれとぎれの声でいい出した。「できない、とてもできない!………わたしは自分で行く」
「どこへ?」とわたしも同じく躍りあがった。
「レムブケーのところだ。|きみ《シェル》、それはわたしの義務だ、本務だ! わたしは公民だ、一個の人間だ、けっして木の切れっぱしじゃない。わたしは権利をもっている、自分の権利を要求するのだ……わたしは二十年間、自分の権利を要求しなかった、これまで罪深くもそれを忘れていたのだ……けれど、今こそそれを要求する。レムブケーはわたしに向かって、何もかも明言する義務があるのだ、本当に何もかも! あの男は電報を受け取ったに相違ない。あの男にこうわたしを苦しめる権利はない。それができなければ、捕縛するがいい、捕縛するがいい、捕縛するが!」
 彼は妙な金切り声を立ててわめきながら、地だんだを踏んだ。
「ぼくはあなたの考えに賛成です」わたしはだいぶ彼の身の上が気がかりだったけれど、わざとできるだけ落ちつき払っていった。「まったく、こんなに気を腐らせながら家にいるよりか、そのほうがずっと気が利いてますよ。しかし、あなたの今の気分には賛成しかねますね。まあ、ご覧なさい、いったいなんという顔色でしょう。それで、どうしてあすこへ行けますか? 〔Il faut e^tre digne et calme avec Lembke.〕(レムブケーに対しては、もう少し品位を持してゆったりと落ちついてなきゃいけませんよ)本当にあなたは今あすこへ行ったら、だれかに飛びかかって、食いつきもしかねない様子ですよ」
「わたしは自分で自身を危地に陥れるのだ。わたしは獅子のあぎとへ入って行くのだ……」
「じゃ、ぼくもいっしょに行きましょう」
「きみのその親切はわたしも予期していた。よろこんできみの犠牲を受納しよう。真の友人の犠牲だからね。けれど、向こうの家までだよ。ほんの家までだよ。きみはそれ以上わたしと行動をともにして、自分を不利に陥れるわけにはいかない、そんな権利を持ってないよ。O, croyez moi, je serai calme!(大丈夫、安心してくれたまえ、わたしは平静を持しているから!)わたしは今この瞬間、〔a` la hauteur de tout ce qu'ily a plus sacre'〕(まるでこの世にありとあらゆる最も神聖なものの、高い頂きに立っている)ような気がするのだ……」
「ぼくはことによったら、あなたといっしょに、あの家へ入るかもしれませんよ」とわたしは彼の言葉をさえぎった。
「昨日ヴイソーツキイを通じて、例の馬鹿げた委員会から知らせがあったのです、――みんな当てにしているから、ぜひあすは幹事、ではない、なんといいますか……つまり、赤と白のリボンで作った蝶結びを左の肩につけて、盆の監督をしたり、貴婦人がたのお世話を焼いたり、来客の席割をしたりする役目を仰せつかった六人の青年の仲間として、慈善会に出てくれというのです。ぼくは断わろうと思っていましたが、今の場合、ユリヤ夫人と直接相談したいという口実で、あの家へ入って行かないのは馬鹿な話です。こういうふうにして、いっしょに入って行こうじゃありませんか」
 彼はうなずきながら聞いていたが、なんにもわからなかったらしい。わたしたちは閾の上に立っていた。
「|きみ《シェル》」と彼は片隅の燈明のほうへ手を差し伸べた。「シェル、わたしは今まで、これを少しも信じていなかったが、しかし……ああしておこう、ああして!(彼は十字を切った)Allons!(行こう!)」
『いや、このほうがいい』彼といっしょに玄関口へ出ながら、わたしは考えた。『歩いてる途中で、新鮮な空気が気を鎮めてくれるだろう。そうして、落ちついてから家へ帰って、横になって休むという段取りだ……』
 けれど、これはわたしの自分勝手な一人ぎめだった。ちょうどこの『途中で』、また一つの事件が起こって、さらにスチェパン氏の心を震撼し、すっかり彼の気分を凝り固まらしてしまった……実際、正直なところ、この友が今朝とつぜん示したような思い切った行為は、わたしもまったく思いがけなかったほどである。不幸なる友よ、善良なる友よ!

[#3字下げ]第10章 海賊――運命の朝[#「第10章 海賊――運命の朝」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 途中わたしたちの出くわしたことも、やはり驚嘆に価するものだった。が、いっさいを順序だって話さなければならない。わたしとスチェパン氏がいっしょに表へ出るより、一時間ばかり前のこと、一団の群衆がぞろぞろ市中を練り歩くのを、多くの人々は好奇の目を見はりながら注視した。これはシュピグーリン工場の職工で、総数七十人ばかり、――或いはそれ以上だったかもしれない。彼らはほとんど口もきかないで、ことさら静粛を保ちながら、行儀よく歩いて行った。後で人の話を聞いてみると、この七十人は、全体で九百人ばかりあるシュピグーリン職工の代表として、県知事のもとへ押しかけ、工場主が不在なので、支配人に対する制裁を知事に求めようというのであった。それは支配人が工場を閉鎖して職工を解雇するに当たり、ずうずうしくも職工全部の計算をごまかしたのである。これは今日《こんにち》少しも疑う余地のない明白な事実である。
 ところが、一部の人は、今日までもこの選挙説を否定して、選挙にしては、七十人という人数があまり多すぎる、あれはただ一番ひどく憤慨した連中から自然成立した群衆で、てんでに自分のことを訴えに来たにすぎない、したがって、後であんなに喧しく囃し立てたような、工場全部の『騒擾』などはけっしてなかったのだ、とこう断言している。しかるに、またある一部の人は、あの七十人は単なる騒擾者ではなくて、純然たる政治的色彩を帯びている、つまり、元来がきわめて不逞な性質のうえにかてて加えて、さまざまな檄文に焚きつけられたものに相違ないと、やっきとなって主張するのであった。手短かにいえば、この件に関して、だれか外部からの影響が認められるか、何か陰謀らしいものが存在していたかということは、今日まで正確に知れていないのである。ところで、わたし一個の意見はこうである、職工たちはけっして檄文など読みはしなかった、たとえまた読んだとしたところで、ひと言もわからなかったに相違ない。それは、檄文の筆者がずいぶん無遠慮な文体を好んで使うにもかかわらず、全体としてすこぶる曖昧な書き方をしている、という理由だけでもたくさんである。しかし、実際、職工たちはひどい目に遭わされたうえ、警察に頼んでも、自分らの不平に同情してもらえないので、一塊りになって、『将軍さまのところへじきじき』出かけて、もしできることなら、先頭に嘆願書さえ振りかざして、玄関の前へ行儀よく整列し、将軍さまの姿が現われるやいなや、一同そろってその場にひざまずき、全知全能の神様にでも対するように哀訴しよう、――こう考えるより以上に自然なことがあるだろうか? わたしにいわせれば、騒擾だの、選挙だのと、むずかしく考える必要はない。なぜなら、それは古い歴史的方法だからである。ロシヤの人民は昔から、『将軍さまとじきじき』話をするのが好きだった。しかも、それはただ自己満足のためにすぎないので、結果がどうなろうとかまいはしないのだ。
 だから、わたしは断然こう確信している、――或いは、事実、ピョートルやリプーチン、それにまだだれかほかの人が、――フェージカのような者さえまじっていたかもしれない、――前もって職工たちの間をうろつき廻り、彼らに何か吹き込んだ、というようなことがあるとしても(この点については、実際、かなり正確な証拠があるのだ)、それでも、せいぜい二人か三人、まあ多くて五人ぐらいつかまえて、ほんの試験的にしゃべっただけのことで、それさえなんの効果もなかったに相違ない。反逆云々の噂にいたっては、たとえ職工たちに宣伝書の文句が少々ぐらいわかったにもせよ、愚にもつかないよそごとにしてしまって、さっそく耳をかすのをやめてしまうに違いない。もっとも、フェージカとなると大分わけが違う。この男はピョートルなどよりずっとうまくやったろうと思われる。この時から三日たって起こった町の火事騒ぎにも、二人の職工がフェージカの連累者になっていた。それはこんど、間違いない事実として暴露されたのである。それから、さらに一月たって後、またもや三人の職工あがりの男が、同様に放火強盗犯として郡部のほうでつかまった。しかし、フェージカがうまく煽動して、手っ取り早い直接行動にかからしたといっても、やはりそれは今あげた五人の者にすぎないらしい。というのは、その後ほかの者については、そんな話を少しも聞かないからである。
 それはとにかくとして、職工たちはやがて知事邸前の広場へ、どやどやと押しかけて、無言のまま行儀よく整列した。それから、玄関へ向けて口をぽかんと開けながら、知事の出現を待ち設けた。これは人から聞かされた話だが、彼らはそこに立ちどまるやいなや、さっそく帽子を脱《と》ったとのことである。知事はこの時、ちょうどわざとのように不在だったから、彼が姿を見せる三十分も前のことである。警察のほうからもすぐに駆けつけた。初めはぽつりぽつりであったが、後にはできるだけ勢揃いをしてやって来た。むろん、最初は恫喝的に解散を命じたが、職工たちは垣に行き当たった羊の群みたいに、てこでも動こうとしなかった。そして、どこまでも『将軍さまにじきじき会いに来た』の一点ばりだった。固い決心のさまがうかがわれた。不自然なわめき声がやんで、間もなくもの案じげな様子や、秘密めかしいひそひそ声の命令や、気むずかしげな、あわただしい心づかいの様子(それは上官連の八字に寄せた眉でわかった)などがそれに代わった。警察署長はレムブケーの帰来を待つことに決めた。
 レムブケーが三頭立馬車《トロイカ》を駆って、全速力で駆けつけるやいなや、まだ車を下りないうちから喧嘩を始めたというのは、まるっきり出たらめである。もっとも、彼はよく市中を飛び廻った。うしろを黄いろく塗った馬車に乗って、飛び廻るのが好きだった。そして、『めちゃめちゃに仕込まれてしまった』両方の脇馬が、だんだん夢中になって、勧工場の商人たちを有頂天にさせる頃に、彼は馬車の上に立ちあがり、わざわざそのために脇へ取りつけてある革紐につかまって、背一杯に伸びあがりながら、まるで記念碑のように、右手を空に差し伸べつつ、悠然と町を見渡すのであった。
 けれど、今度の場合はけっして喧嘩などしなかった。もっとも、馬車から下りた時、一こと荒い言葉を吐かずにいられなかったが、それとても、ただ人気を落とすまいがための手段だった。まだいっそうばかげた話がある。ほかでもないが、銃剣をつけた兵隊が召集されただの、どこかへ電報を打って、砲兵隊やコサックを至急派遣するように通達しただのという噂である。しかし、こんなことは今ではいい出した当人さえ、本当にしていないような作り話である。それからまた、ポンプを引っ張って来て、群衆に水を浴せたというのも出たらめである。それはただ警察署長が前後を忘れて、おれはだれひとりとして水の中から体を濡らさずに出るような([#割り注]うまくいい抜ける意[#割り注終わり])真似はさせないぞ、とどなったまでのことである。ポンプの話も、おそらくこれから出たことに相違ないが、こういう次第で、首都の新聞の通信欄にまで転々して行ったのである。まあ、わたしの考えでは、最も正確なヴァリエーションは、最初まず手もとにあり合わせた警官を狩り集め、群衆を囲んでおいて、それから第一課の警部を急使に仕立て、レムブケーのところへ走らしたというくらいのところであろう。警部は、三十分ばかり前にレムブケーが専用の幌馬車に乗って、スクヴァレーシニキイヘ出かけたことを知っていたので、署長の馬車を駆って、その方角を街道づたいに飛んで行った……
 が、実のところ、わたしにとっては、どうしても解釈のつかない疑問が一つ残っている。ほかでもない、どういうわけでこのつまらない、いや、ありふれた一団の訪問者を(もっとも、七十人という人数ではあったが)、いきなり初めっから会うと早々、国家組織の根底まで震撼させるおそれのある反逆運動などにしてしまったのだろう? なぜレムブケー自身までが、二十分ばかりたって、急使の後から姿を現わした時、この観念に飛びついたのだろう? わたしは、もしかしたら、こうではないかと想像している。――もっとも、これだって、やはり個人としての意見なのだけれど、――工場の支配人と昵懇の間がらになっている署長が、この群衆をこうした意味に解釈してしまって、本当に事件を糾明させないほうが有利だ、と考えたのではあるまいか。おまけに、レムブケー自身までが、そういうふうに仕向けたのである。最近この二日間にレムブケーは二度までも、彼と秘密に特別な打合わせを試みた。もっとも、その打合わせはかなり不得要領なものだったが、それでも署長は相手の言葉のはしばしから、シュピグーリンの職工連がだれかに煽動されて、社会革命的な反逆運動を起こすに違いないという考えや、檄文のことに関する心配などが、固く知事公の頭にこびりついているのを見て取った。またそのこびりつき方がなみ大抵でないので、もしそんな煽動云々が出たらめだとわかったら、知事公自身大いに落胆するだろう、と思われるほどであった。『どうかして、ペテルブルグの政府を驚かすような殊勲が立てたくてたまらないのだ』レムブケーのもとを退出しながら老獪な署長はこう考えた『まあ[#「考えた『まあ」はママ]、かまうことはない、こっちにとっては持って来いだ』
 けれど、わたしの固く信ずるところでは、不幸なるレムブケー氏は、たとえ自分の功名手柄のためであろうと、そんな反逆運動なぞ望んでいなかったに相違ない。彼はきわめて正直勤勉な官吏で、結婚の日まで純潔を保った人である。よし彼が罪のない官有薪材とか、同じくらい罪のないミンヘン([#割り注]ドイツ娘の名[#割り注終わり])とかいう空想を実現する代わりに、四十を越した公爵令嬢の虚栄心に巻き込まれたからといって、それがはたして彼自身の罪だろうか? わたしはほとんど確実に知っているが、いま彼がスイスのある特殊な病院へ入って、新たに英気を養わなければならぬような気の毒な心的状態に陥った最初の兆候は、つまり、この運命的な朝から現われたのである。が、もしこの朝から、何か[#「何か」に傍点]明瞭な事実が現われたのを承認するならば、その前の晩にもこれに似寄った事実が、さほど明瞭でないまでも、ある程度まで現われたといったところで、大して不都合なことはないと考える。
 わたしは、最も信頼すべき筋の報告によって、次の事実を知っている(それは当のユリヤ夫人が、その後、日の出の勢いを失って、ほとんど[#「ほとんど」に傍点]後悔の念を感じながら、――というのは、女はけっして真から[#「真から」に傍点]後悔するものではないから、――この出来事の一部を聞かしてくれた、とまあ、かりに想像していただこう)。ほかでもない、前の晩レムブケー氏は、もはやかなり夜も更けた午前二時すぎに、突然やって来て夫人を揺り起こし、『ぜひとも自分の最後通牒』を聞いてもらいたいといい張った。その要求があくまで強硬なので、夫人も仕方なしに、ぶつぶついいながら、髪にカール・ペーパーを巻いたまま寝床から起き出して、寝いすに腰を下ろした。そして、皮肉な侮蔑の色をおもてに浮かべてはいたが、とにかくしまいまで聞き終わった。このとき初めてユリヤ夫人は、夫がどんな気持ちになっているかを悟って、内心おもわず慄然としたのである。彼女は当然自分の非を悟って、我を折らなければならぬはずだった。けれども、夫人は恐怖を隠しながら、前よりいっそう我を張り出したのである。
 彼女はすべての女と同様に、夫に対する一種の戦術を心得ていた。これはもう一度や二度でなく、実地に応用されて、そのつどレムブケー氏を狂憤させたものである。ユリヤ夫人の戦術は、相手を軽蔑しきった無言の行で、それが一時間、二時間、一昼夜、時とすると、三昼夜ぐらい続きかねないことがある。たとえどんなことがあっても、夫がなんといおうと、何をしようと、三階から飛び下りるとて窓へよじ上ろうと、けっしてものをいわないのである。つまり、感じの鋭い男にとって、我慢のできない戦術なのである! ユリヤ夫人はこの数日間の夫の失敗や、また妻の行政的手腕を妬むようなそぶりに対して、県知事としての夫を懲らしめようと思ったのか、それとも、妻のデリケートな遠謀深慮のあるところを解しないで、若い人たちに対する態度を非難する夫に不満の念を抱いているためか、或いはピョートルに対する夫の鈍感な意味のない嫉妬に腹を立てているためか、――とまれ、夫人は、夜の三時という時刻にも、今までかつて見たこともないレムブケー氏の興奮にもいっさい頓着なしに、この時も折れて出ないことに決心したのである。彼は前後を忘れて、夫人の化粧室の絨毯の上を、あっちへ行ったりこっちへ来たり、縦横無尽に歩き廻りながら、『何もかもみんな、すっかり』吐き出してしまった。もっとも、まるっきり脈絡も何もなかったけれど、その代わり、胸の中で煮えくり返っていることを、すっかりぶちまけてしまった。『なぜといって、もうあまり言語道断に過ぎるからだ』といった。彼は劈頭第一に、みんなが自分を笑い草にして、『自分の鼻を抓んで自由に引き廻しているのだ』と切り出した。『言い廻し方なんかどうだってかまやしない!』夫人の薄笑いに気がつくと、彼はいきなり黄いろい声を立てて叫んだ。『鼻を抓むといったっていいじゃないか、それが本当なのだから仕方がない!………』『駄目ですよ、奥さん、いよいよ最後の瞬間が到来したのです。今は笑ったりなんかしてる時じゃありません。女の技巧なぞ弄してる時じゃありません。われわれは体をくねくねさして、しなを作りたがるどこかの貴婦人の化粧部屋なんかにいるのじゃない。まあ、いわば、真実を語るために気球の上に出くわした、二つの抽象的な存在物なのだ』(彼はもちろんまごついてしまって、自分の思想に正しい形式を発見することができなかったのである。もっとも、思想そのものは間違ってはいないのだ)。『それはあなたですよ、奥さん、わたしを以前の状態から引き出してしまったのは、あなたですよ。わたしがこの位置を引き受けたのは、ただあなたのためのみです。あなたの虚栄心のためのみです……あなたは皮肉な笑い方をしていますね? そう得意にならないでください、そう急がないほうがいい。よろしいかね、奥さん、断わっておきますが、わたしだってこの位置を自由にこなすことができます、それだけの腕はあります。なあに、こんな位置の一つくらいじゃない。十の位置だって立派にこなしてお目にかけます。わたしはそれだけの手腕があるんだ。しかし、奥さん、あなたといっしょにいると、あなたが傍にいると、到底こなすわけにいかないのです。あなたが傍にいると、わたしには手腕がなくなるからです。元来、中心が二つあるべきものでない。ところが、あなたはそれを二つこしらえたのだ、――一つはわたしのところにあるし、もう一つはあなたの化粧部屋にあるのだ、――権力の中心が二つできたのですよ、奥さん。しかし、わたしはそんなことを許すわけにいかん、到底ゆるすわけにいかん! 公務というものは、夫婦生活と同様で、中心は一つしかあるべきでない、二つの中心ということは不可能だ……いったいあなたはなんというお礼をわたしにしてくれたのです?』と彼は引き続きこう叫んだ。『わたしたちの夫婦生活には何もありゃしない、ただあなたがしじゅうのべつわたしに向かって、お前はつまらん男だ、馬鹿だ、いや、それどころか、卑劣漢だと証明すると、わたしはまたしじゅうのべつ意気地なく、おれはつまらん男じゃない、馬鹿じゃない、かえって高潔な性格で皆を駭かせているのだ、と反証しなければならん羽目に落とされる、――ただこれっきりだ、ほかに何もありゃしない。さあ、いったいこれがお互いに恥ずべきことじゃないでしょうか?』
 こういいながら、彼は両の足で素早く頻繁に、絨毯[#「絨毯」は底本では「絨毬」]の上で地だんだを踏み出した。で、ユリヤ夫人も仕方なく、峻烈な威厳を示しながら、やおら立ちあがらなければならなかった。彼はすぐおとなしくなった。が、その代わり、今度は感傷的な心持ちに移って、すすり泣き、――そうだ、本当にすすり泣きを始めた。ユリヤ夫人の深い沈黙に、もう我慢しきれなくなって、われとわが胸を叩きながら、まる五分間ばかり泣きつづけたのである。そのうちに、とうとう取り返しのつかぬ失策をしてしまった。つまり、ピョートルに嫉妬を感じていると、うっかり口をすべらしたのである。自分でも、方図のない馬鹿をいったと気がつくと、彼はもう気ちがいのように猛り立って、『神を否定するようなことは許しておけない。自分はお前のサロンに集まって来る信仰のない不都合きわまる連中を、すっかり追い散らしてやる。全体、知事なるものは神を信ずべきだ。したがって、知事夫人とても同じことだ。おれは若いやつらがたまらないほどいやなんだ、え、もし奥さん、あなたは自分の品位を保つうえからいって、夫のうえに心を使い、たとえ手腕のない男であっても(だが、わたしは手腕のない男じゃありませんよ)、その能力を弁護するのが当たりまえじゃありませんか! ところが、ここの者がわたしを軽蔑するようになったのも、つまり、もとはといえば、あなたのためですぞ。あなたが、あいつらをあんなふうにしてしまったんですぞ!』と彼は叫んだ。彼はまた続けてこうも叫んだ。婦人問題などというものは、揉み潰してしまってやる。そんなものは匂いもしないようにしてくれる。あの愚にもつかない婦人家庭教師の慈善会なぞは、明日にもきっぱり差し止めて、解散さしてしまう(家庭教師なぞは、勝手に、どうでもするがいい!)。さっそく、明日の朝にも、婦人家庭教師に出あい次第、『コサックをつけて、県外へ放逐してくれる! 意地にでもそうする、意地にでもきっとして見せる!』と彼は金切り声を立てた。『ねえ、奥さん、あなたは知っていますか、ここの工場では、あなたの好きな、やくざ連中が、職工どもを煽動してるんですよ。わたしはそれをよく知っています。いいですか、故意に、檄文を撒き散らしてるんですよ。故意に! いいですか、わたしはそのやくざ連の名前を、四人まで承知していますよ。ああ、わたしは気が狂いそうだ、もうすっかり気が狂いそうだ、すっかり※[#感嘆符二つ、1-8-75]……』
 しかし、この時、ユリヤ夫人はとつぜん沈黙を破り、いかめしい調子で宣言した、――そんな大それた陰謀のあることは、とうから知っている。が、それはみんなつまらないことで、あなたはあまり真面目に解《と》り過ぎたのだ。まあ、あの悪戯者のことなら、自分は四人ばかりではない、残らずみんな知っている(夫人は嘘をついたのだ)。けれども、そんなことで気など狂わすつもりはさらにない。それどころか、かえってますます自分の能力に信を措いて、万事円満に解決をつけるつもりでいる。つまり、青年たちを励まして、理性にめざめしめ、そのうえで、突然ふいに彼らの計画が暴露したことを証明して、合理的、光明的事業に貢献するような目的を彼らに啓示してやろう、というのである。
 ああ、この時、レムブケーの心持ちはどんなであったか――ピョートルはまたしても自分をだました、あの男は自分に話したよりずっと余計に、ずっと早く、夫人にいろんなことをうち明けているのだ、きっとあの男こそ、こうした不逞な計画の首唱者に相違ない、――こう思うと、彼はもう前後を忘れてしまった。
『おぼえていろ、このわからずやの意地悪女め!』一度にすべての制縛を断ち切って、彼はこう絶叫した。『おぼえていろ、おれは今すぐ貴様のけがらわしい色男を引っ捕まえて、足枷《あしかせ》を嵌めて監獄へぶち込んでしまうぞ。もしそれができなければ、――おれは自分でたったいま貴様の目の前で、この窓から身を投げて死んでやるから!』
 この長たらしい説法に対する答えとして、ユリヤ夫人は憤怒のあまり顔を真っ青にしながら、いきなり破裂したように高らかな笑い声を立てた。それは十万ルーブリの年俸で招聘されたパリの女優が、フランス劇場で婀娜者《あだもの》に扮して、無礼にも嫉妬など起こした夫を、面と向かって嘲笑う時にそっくりそのままな、時には低く揺れたり時には高く反響したりするような、長い長い笑いであった。レムブケーは窓に身を躍らせようとしたが、突然まるで釘づけにされたように立ちどまり、両手を胸に組んだまま死人のようにあおい顔をして、もの凄い目つきになると、笑いつづける夫人を見据えた。
『おぼえてろ、おぼえてろ、ユリヤ……』彼はせいせい息を切らしながら、哀願するような声でこういった。『おぼえてろ、おれだって何かして見せるから!』
 この言葉に続いて起こったさらに烈しい、新しい笑いの破裂を聞くとひとしく、彼は歯を食いしばり、呻き声を立てながら、出しぬけに猛然と躍りかかった――が、それは窓のほうではなく、夫人に拳を振り上げながら、飛びかかったのである! しかし、彼はそれを打ち下ろしはしなかった、――そんなことはない、大丈夫そんなことはない。が、その代わり、それきり彼は力が尽きてしまった。地を踏む足の感覚もなく、書斎へ駆け込んで、いきなり着のみ着のままで、用意の寝床へ突っ伏しに倒れた。そして、痙攣的な手つきでベッドカバーを頭から引っかぶると、そのまま二時間ばかり、じっとしていた、――寝るでもなく考えるでもなく、胸には石のような感覚を、心には鈍い、もそろとも動かぬ絶望をいだきながら……ときどき彼は全身を悩ましげに、熱病やみのようにぴくぴくと慄わせた。なんだかまるでとりとめのない、他愛もないものが、ひょいひょいと心に浮かんできた、――十五年も前ペテルブルグ時代に彼の家にあった長針の取れた古い掛け時計を思い出すかと思うと、今度は恐ろしく陽気なミリブアという役人のことだの、一度その男といっしょにアレクサンドロフスキイ公園で雀を捕まえたことだの、捕まえてはみたものの、二人のうち一人はもう六等官の身分であることを思い出して、公園の隅から隅まで響き渡るような声で笑ったこと、なども心に浮かんだ。
 思うに、彼は朝の七時頃、やっと寝入ったにちがいない。しかも、自分では気もつかず、快い夢の数々を見ながら、いい気持ちで寝入ったに相違ない。十時頃に目をさますと、やにわに騒々しく寝床から飛び起きた。一時にすべてが思い起こされた。彼は自分で自分の額をぴしゃりと平手で叩いた。朝飯もしたためず、ブリュームにも、警察署長にも、けさN会議の委員が閣下のご起床を待っていると知らせに来た官吏にも、だれにも面会しなかった。そして、なに一つ聞こうとも、理解しようともせず、彼はまるで気ちがいのように、ユリヤ夫人の居間へ駆け出した。そこにはソフィヤ・アントローボヴナという、とうからユリヤ夫人のところに寄食者《かかりうど》となっている生まれのいい老婦人が居合わして、奥様はもう十時ごろに大勢づれで三台の馬車に乗り、ヴァルヴァーラ夫人訪問にスクヴァレーシニキイヘ行かれた、それは二週間後に開催の計画になっている、次回の――第二回の慈善会会場に当てられるべき、スタヴローギン家の模様を検分するためで、三日前に当のヴァルヴァーラ夫人と約束したことなのだ、と説明した。この報らせに仰天したレムブケーは、書斎へ取って返すやいなや、性急に馬車を命じた。彼はおちおち待っていられないほどだった。彼の心はユリヤ夫人に憧れ渡っていたのである、――ただ一目彼女の顔を見て、五分間ほど傍にいたらいいのだ。そうしたら、或いは彼女も自分のほうを見て、その姿に心づき、前のようににっこり笑うかもしれぬ、ゆるしてくれるかもしれぬ、――おお!『いったい馬はどうしたのだ?』彼はテーブルにある厚い本を、機械的にめくって見た。彼は時々こんなふうに、本で占いをした。当てずっぽに本をめくって、右側のページの上から三行ばかり読むのである。出て来たのは次のような文句であった。“Tout est pour le mieux dans le meilleur des mondes possibles.”(いっさいのものはあらゆる世界において優れたるが中にも最も優れたるもののために存す)ヴォルテールの『カンディード』である。彼はぺっと唾を吐いて、急いで馬車のほうへ駆け出した。
『スクヴァレーシニキイだ!』
 馭者の話によると、『旦那さま』は途中ひっきりなしに急《せ》き立てていたが、馬車が『お邸』へ近づき始めた頃、とつぜん轅《ながえ》を転じてふたたび町へ引っ返せと命じた。『もっと早く、お願いだから、もっと早く』と彼はいった。ところが、町の城郭まで行きつかないうちに、『旦那さまはまたわたしにとめろとおっしゃって、馬車からお出ましになりますと、道を突っ切って、畑の方へいらっしゃるじゃありませんか。わたしはどこかお悪いのじゃないかと思っておりますと、旦那さまはじっと立ちどまって、一心に花を眺めておられるのでございますよ。こうして、ずいぶん長く立っておられますので、本当にわたしも妙だなあと思ったくらいでございます』という馭者の申立てだった。わたしはあの朝の天気を覚えている。ひいやりと晴れ渡っていたが、風立った九月の日であった。道の外へ踏み出したレムブケー氏の前には、早くも穀類を刈り取ってしまった素裸な野の荒寥たる景色が展開していた。風は唸り声を立てながら、しおれゆく黄いろい草花のみすぼらしい残骸を揺るがして行く……はたして彼は自分の身の上を、『秋』と霜に打ちひしがれた見る影もない野の花の運命に引きくらべたかったのであろうか? どうもそうは考えられぬ。いや、むしろ確かにそうではないと考える。例の馭者を初めとして、そのとき署長の馬車に乗ってやって来た第一課の警部の証言もさることながら、彼は花のことなぞまるでおぼえていなかったに相違ない。警部はその後になって、知事閣下が一たばの黄いろい花を手にしているのを、実際目撃したと断言した。この男は職務に至大な誇りを感じている行政官吏で、ヴァシーリイ・フリブスチエーロフと呼ばれ、町にとってはまだ新来の客だったが、職務執行にかけてはちょっと類のない熱心と、一種猛烈な野猪的なやり口と、いつもお決まりの一杯機嫌らしい様子で、すでに儕輩を擢んでて名を轟かしていた。彼は馬車から飛び下りると、知事閣下の奇妙な様子にべつだん不審をいだくでもなく、気ちがいじみた、とはいえ信念にみちた表情で、『市中が不穏でございます』と遠慮なく、ずばりとやってのけた。
「うん? なんだって?」とレムブケーは厳めしい顔つきでそのほうへ振り向いたが、いっこう驚いたふうもなければ、馬車や馭者のことをおぼえているらしいふうもなく、まるで書斎の中にでもいるような態度だった。
「第一課警部フリブスチエーロフでございます。閣下、市中に暴動が起こっております」
「フリブスチエール([#割り注]ドイツ語で海賊の意[#割り注終わり])?」とレムブケーはもの案じ顔に問い返した。
「さようでございます、閣下、シュピグーリンの職工どもが騒擾を起こしておりますので」
「シュピグーリンの職工どもが!………」
『シュピグーリン』という言葉を聞いた時、なにかあるものが彼の頭に浮かんだらしい。彼はぴくりと身慄いさえして、額に指を当てた。『シュピグーリン!』やがて無言のままではあったけれど、依然としてもの案じげな様子で、彼はやおら馬車の傍へ歩み寄り、その中に腰を下ろすと、町へ帰るように命じた。警部も同じく後から馬車を走らした。
 わたしの想像するところでは、道々レムブケーの心には、いろいろのテーマに関する奇抜な想念が浮かんできたに相違ない。しかし、彼が知事邸まえの広場へ乗り入れた時、何か確固たる想念なり一定の意図なりを抱いていたかどうか、すこぶる疑わしいが、きちんと行儀よく並んで、毅然たるおももちで立っている『暴徒』の群や、巡査の列や、とほうにくれたような顔をした(ことによったら、わざととほうにくれたような顔をしていたかもしれない)警察署長や、知事のほうに集中された一同の期待の色や、――こういうものが目に入るやいなや、彼は全身の血が一時に心臓へ押し寄せるのを覚えた。彼は真っ青な顔をして馬車を出た。
「帽子を脱がんか!」彼はせいせい息を切らしながら、やっと聞こえるか聞こえないかの声で、こういった。「膝をつけ!」今度は思いがけなく、――自分でも思いがけないくらい甲走った声でこう叫んだ。これに続いて起こった事件の結末も、つまり、この思いがけないという点に起因しているのである。それはちょうど謝肉祭の山遊([#割り注]雪の丘の頂きから手橇に乗ってすべり下りる遊び[#割り注終わり])みたいなものであった。高い頂きからすべり始めた橇が、坂の途中でとまるなどということがありえようか? それに、なおさら都合の悪いことには、レムブケーは今まで晴ればれした性質をもって知られた人で、一度も人をどなりつけたり、地だんだを踏んだりしたことがなかった。こういう人は、もし何かの拍子に橇が綱を切って坂をすべり出すようなことが起こったら、それこそ人一倍危険なのである。彼は、目の前のものが何もかも、ぐるぐる廻り出したような気がした。
「海賊《フリブスチエール》ども!」前よりもいっそう甲走った、いっそう馬鹿げた調子で彼はわめいた。と、その声は急にぷつりと切れた。彼はまだ自分が何を仕出かすかわからなかったが、今に必ず何か仕出かすに相違ないのはわかっていた。彼はそれを自分の全存在で直感しながら、ぼんやりそこに突っ立っていた。
『おお!』という声が群衆の中から聞こえた。一人の若い者は十字を切り始めた。三、四人の男は本当に膝をつこうとしたが、ほかの連中は海嘯《つなみ》の寄せるように、どっと三歩ばかり前へ出た。そして、いっせいにがやがやと叫び始めた。『将軍さま……わっしらは四十コペイカずつの約束でしたのに、支配人が……生意気いうなって……』とかなんとかいうのであったが、何一つはっきり聞き分けられなかった。
 悲しいかな、レムブケーはなんにも了解ができなかった。花はまだ彼の手中にあった。さきほどスチェパン氏が囚人馬車を信じて疑わなかったように、暴動は彼にとって明々白々の事実だった。しかも、目を皿のようにして彼を見つめている『暴徒』のあいだを、『煽動者』たるピョートルが、あちこちと奔走している。昨日から瞬時も忘れることのできないピョートル、憎んでも余りあるピョートル!
「笞《むち》だ!」もういっそう思いがけなく彼はこう絶叫した。
 死んだような沈黙がおそうた。
 最も正確な情報と、わたし自身の推測を綜合したところ、事件の前半はこういうふうにして起こったものらしい。しかし、これからさきはわたしの推測も情報も、だんだん怪しくなって来る。とはいえ、二つ三つ確かな事実がないでもない。
 第一としては、なんだかあまり早すぎると思われるくらい、笞《むち》がこの場面へ現われてきた。それは明察力に富んだ警察署長が、前もって待ちごころに用意していたものに相違ない。もっとも、実際しもとの罰を受けたのは、やっと二人くらいのもので、三人とはなかったろうと思う。このことは立派に断言しておく。群衆がことごとく、――少なくとも、半分から処罰されたなどというのは、真っ赤な嘘である。それから、傍を通りかかった一人の貧しい、とはいえ身分のある婦人が引っ捕えられて、即座になんのためだか笞を受けたというのも、同様に根もない馬鹿げた噂である。しかし、それからしばらくたって、この婦人のことがあるペテルブルグ新聞の通信欄に載っているのを、わたしはちゃんと自分で読んだのである。それから、町の墓地にある慈善院に勤めているアヴドーチャ・タラプイギナという婦人についても、次のような噂が伝わった。ほかでもない、この婦人がどこかへお客に行って、慈善院へ帰って来る途中、広場を通りかかったので、そういう場合きわめて自然な好奇心にそそのかされて、弥次馬連を押し分けて前へ出た。そして、その場の光景を見るが早いか、『まあ、なんという浅ましいこったろう!』と叫んで、ぺっと唾を吐いた。おかげでやはりつかまえられて、こっぴどくぶん撲られたとのことである。
 この出来事は新聞に載っただけでなく、町の人が憤慨のあまり、彼女に同情金を募ったほどである。わたしも二十コペイカ寄付した。ところが、どうだろう? タラプイギナなどという婦人は、この町に住んでいないということが後でわかった! わたしもわざわざ墓地の慈善院まで出かけて調べて見たけれど、それでもタラプイギナなんていう名前は、まるで聞いたこともないとのことだった。そればかりか、わたしが市中で行なわれている噂を話したところ、恐ろしく腹を立てたくらいである。わたしがこのタラプイギナなどという実在していない大物のことを述べたわけは、ほかでもない、スチェパン氏の身の上にも、この女と同じことがあやうく起こりかけたからである(もしこの女が実際いたものとしての話だ)。それどころか、このタラプイギナに関する馬鹿馬鹿しい噂も、どうやらスチェパン氏から出たものらしく思われる。つまり、噂がだんだんと広がってゆくうち、妙に脱線して、タラプイギナに早変わりしたのかもしれない。第一に、何よりも合点のゆかないのは、どうして彼がわたしの傍を通り抜けたか、である。わたしたち二人が広場へ入るが早いか、もうどこかへ行ってしまったのである。何かしら非常によくないことが持ちあがりそうな気がしてならなかったので、わたしは広場をぐるっと廻って、真っ直ぐに彼を知事邸の玄関へ連れて行こうと思ったが、彼は自分で勝手に好奇心を起こし、ちょっと一分だけ足を留めながら、だれか行き当たりばったりの男を捕まえて、いろいろ質問の矢を放ち始めた。ふと気がついてみると、スチェパン氏はもうわたしの傍にいないではないか。わたしは本能的にそれと悟って、一ばん危険な場所へ飛び込んで、彼をさがしにかかった。わたしはなぜということなしに、彼の橇が坂をすべり始めたなと直感したのである。果たせるかな、彼はすでに事件の真っただ中に入っていた。今でも覚えているが、わたしはいきなり彼の手をつかんだ。けれど、彼は限りなき威厳を示しながら、静かに傲然とわたしの顔を見つめた。
「|きみ《シェル》」といった彼の声には、何か張りきった絃の切れたような響きがあった。「ああ、もうあいつらが、ここで、この広場の中で、われわれの目の前で、ああ無作法に采配を振るんだもの、こんなやつ[#「こんなやつ」に傍点]なんか……もし自由に働く機会を与えられたら、どんなことを仕出かすか、たいてい知れたもんだ」
 そういって、彼は憤懣のあまり、全身をわなわな慄わせながら、量り知れない挑戦の欲望をおもてに浮かべつつ、二歩ばかり隔てて傍に立ったまま、目を皿にしてわたしたちを見つめているフリブスチエーロフのほうへ、もの凄い破邪の指を差し向けたのである。
「こんなやつ[#「こんなやつ」に傍点]!」もう目の前が真っ暗になってしまって、相手はこう叫んだ。「こんなやつとはだれのことだ? いったい貴様は何者だ?」と彼は拳を固めながら詰め寄った。「貴様は何者だ?」もの狂おしい病的な声で彼はやけにわめいた(断わっておくが、彼はスチェパン氏の顔をよく知っていたので)。
 もう一瞬間うっちゃっておいたら、彼はスチェパン氏の襟首を引っつかんだに相違ない。けれど、ちょうどいいあんばいに、レムブケーが声のするほうへ振り返り、何か思いめぐらすもののように、じっとスチェパン氏を見つめていたが、ふいに、じれったそうに片手を振った。フリブスチエーロフは腰を折られた。わたしはスチェパン氏を引っ張って、群衆の中から連れ出した。もっとも、彼自身もう退却したくなったのかもしれない。
「帰りましょう、帰りましょう」とわたしは押しつけるようにいった。「わたしたちが撲りつけられなかったのは、もちろん、レムブケーのおかげですよ」
「帰ってくれたまえ、きみ。きみまでをこんな危険に陥れようとしたのは、わたしが悪かった。きみには未来がある。きみに相応した野心も持ってるのだからね。ところが、わたしなんかは、―― 〔mon heure a sonne'.〕(わたしの時はもう終わったのだ)」
 彼は毅然たる足取りで知事邸の玄関口へ登って行った。玄関番はわたしを知っていたので、わたしは二人ともユリヤ夫人を訪ねて来たのだと触れ込んだ。やがて、わたしたちは客間に腰を下ろして待つことにした。この友を一人でうっちゃっておく気にはならなかったが、それでも、まだこのうえ何かと口をきくのは無駄だと悟った。彼はさながら祖国のために、決死の覚悟でもした人のような顔をしていた。わたしたちは並んで座を占めないで、めいめい別々に隅っこのほうへ坐った。わたしは入口のドアに近いところにいるし、彼はまただいぶ離れた真むかいの席を占めて、もの思わしげに首を一方にかしげながら、両手を軽くステッキにもたせていた。例の鍔広の帽子は左手に持っていた。こうして、わたしたちは十分間ばかり坐っていた。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 突然レムブケーが警察署長を従えて、足早につかつかと入って来た。そわそわした目つきでわたしたちを一瞥すると、格別の注意も払わないで、右手の書斎へ入って行こうとした。が、スチェパン氏は彼の前に立って、行く手をふさいだ。恐ろしく背の高い、ほかの人とまるで似たところのないスチェパン氏の姿は、彼に特別の印象を与えた。レムブケーは立ちどまった。「これはだれだ?」彼は合点がゆかないらしい様子で、署長に問いかけるようにつぶやいたが、いっこうにそちらへ顔を向けようともせず、いつまでもじろじろとスチェパン氏を見廻していた。
「退職五等官スチェパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキイです、閣下」ものものしげに頭を下げながら、スチェパン氏はこう答えた。
 閣下は依然として相手を見守っていたが、それはきわめて鈍い目つきだった。
「何用です?」といいながら、彼は長官らしいぞんざいな、気むずかしげな態度で、じれったそうにスチェパン氏のほうへ耳を向けた。たぶん、なにか願書でも持って来たただの請願者だろうと、やっとのことで合点したらしい。
「実は今日《こんにち》閣下の名で来訪したさる官吏のために、家宅捜索を受けたのでございます。それにつきまして……」
「名は、名は?」急にあることに想到したらしく、レムブケーはせき込んでたずねた。
 スチェパン氏はいっそうものものしい調子で、自分の名前をくり返した。
「あーあ! あれだ……あの例の養殖場だ……ねえ、きみ、きみが今までいったりしたりしたことは、みんなああいう方面から……きみは大学教授でしょう? 大学教授でしょう?」
「かつて以前N大学で、青年諸子に若干の講演を試みるの光栄を有しました」
「青年諸子に!」レムブケーは、ぴくりとしたふうである。もっとも、自分がなんの話をしているのか、だれと話をしているのか、いまだにはっきりわからなかったに相違ない。それはわたしが賭けをしてもいい。
「わたしはね、きみ、けっしてそういうことを許すわけにゆかんです!」と彼は急に恐ろしく腹を立てた。「わたしは青年諸子を許さん。それはみんな檄文です。それはきみ、社会に対する侵略です、海上侵略にひとしいです、海賊《フリブスチエール》的行為です……いったいなんのお頼みですか?」
「それは反対です。あなたの奥さんが明日の慈善会で、何か講演をしてくれとわたしに頼まれたので。わたしのほうは何もお頼みしてはいません。わたしはただ自分の権利を要求に来たのです……」
「慈善会で? 慈善会などやらせやしない。わたしはきみがたの慈善会など許さんです! 講演? 講演?」と彼は気でも狂ったように叫んだ。
「閣下、失礼ですが、わたしに対して、も少し丁寧なものの言い方をしていただきたいものですね。まるで子供にでもいうように、頭ごなしにどなりつけたり、地だんだを踏んだりしないように」
「きみはいまだれと話をしているか、たぶんわかっておいででしょうな?」とレムブケーは真っ赤になった。
「十分わかっています、閣下」
「わたしは身をもって社会を守っている。ところが、きみがたはそれを破壊しておるのだ!………きみは……だが、わたしはきみのことを思い出してきた。きみはスタヴローギン将軍夫人の家で、家庭教師をしておったのでしょう?」
「そうです、わたしはスタヴローギン将軍夫人の家で……家庭教師をしておりました」
「そして、二十年の間というもの、今日《こんにち》まで積もり積もったいっさいのものの養殖場となっておったのだ……いっさいの

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP337-P384

よ。ところが、それがかえっていけないんです。読者は依然としておめでたいんですから、賢明なる人士は彼らに衝動を与えてやるべきじゃありませんか。それだのに、あなたは……いや、しかし、もうたくさんです、失礼しました。これを根に持って怒らないようにしてください。ぼくはちょいと用件を申し上げようと思って、それでお邪魔にあがったのですが、あなたはなんだか妙に……」
 レムブケーはその間に、自分の小説を取り上げて、楢の書戸棚へしまい込んだうえ、ぴんと鍵をかけてしまった。同時にブリュームに目交ぜをして、そっと部屋の外へ消えるようにいいつけた。こちらは間伸びのした浮かぬ顔をして、姿を消した。
「わたしがなんだか妙だって、なに、わたしはただ……しじゅう不快なことが起こるのでね」と彼は眉をひそめていたが、もう別に怒ったらしいふうもなく、テーブルに向かって腰をかけながらつぶやいた。
「まあ、腰でもかけてから、きみのいわゆるちょっとした用件を聞かしてくれたまえ。だいぶしばらく会わなかったね、ピョートル君、しかし、今後、きみ一流のやり口で、断わりなしに飛び込むのだけはやめにしてもらいたいね……時として仕事でもある場合には、その……」
「ぼくのやり口はいつも同じです……」
「知ってるよ。きみになんの成心[#「成心」はママ]もないのはわたしも信じてるが、しかし、どうかすると取り込んでることがあるので……まあ、坐りたまえな」
 ピョートルは長いすに広々と座を占めると、いきなり足を膝の下へ敷き込んでしまった。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

「いったいどんな取り込みなんです? まさかこんなくだらないことじゃないでしょうね?」と彼は檄文を顎でしゃくった。「こんな紙っ切れならいくらでも持って来てあげますよ。X州でもお目にかかりましたよ」
「というと、それはきみがあちらにいた時分のことだね?」
「むろん、ぼくのいなかった時のこっちゃありませんさ。おまけに、そいつはカットつきでしたよ。上のほうに斧が描いてあるんです。ちょっと失礼(と彼は檄文を取り上げた)。なるほど、ここにも斧がある。これです、これです、寸分相違なし」
「あっ、斧だ。ねえ、見たまえ、――斧だろう」
「どうしたんです、斧にびっくりしたんですか?」
「わたしは何も斧なんぞ……それに、何もびっくりしやしないよ。が、この事件はそのなんだ、いろんな事情があってね」
「どういう事情です? なんですか、あの工場から持って来たってことですか? へへ。ときに、ご承知ですか、あの工場では、近々労働者自身が檄文を書く、とかいう話ですね?」
「なんだってそんなことが?」とレムブケーは怖い顔をしながら、驚きの色を浮かべた。
「ええ、そうなんですよ。だから、あなたもあの連中に気をおつけなさい。あなたはあまり優し過ぎるんですよ、知事公。なにしろ、小説なんか書いていられるんですからね。こういう場合に当たっては、昔ふうにやる必要がありますよ」
「昔ふうとはなんだね、いったいそれはなんの忠告だね? あの工場は消毒したよ。わたしが命令して、消毒さしたんだよ」
「ところが、職工の間に一揆が企てられてますぜ。あいつらは一人のこらず、ぶん撲ってやらなくちゃ駄目ですよ、そうすれば、けりがつくのです」
一揆? ばかなことを。わたしが命令したから、あいつらはちゃんと消毒したじゃないか」
「ちょっ、知事公、あなたは本当に優し過ぎるんですよ」
「きみ、第一、わたしは全然そんな優しい人間じゃありゃしないよ。また第二に……」とレムブケーはまたしてもむっとした。この若造が何か耳新しいことをいいはせぬかと、好奇心にそそのかされて、いやいやながら我慢して、話しているのであった。
「ああ、もう一つ古い馴染みがある?」卦算の下になっているもう一枚のピラに狙いをつけながら、ピョートルは相手をさえぎった。それもやはり一種の檄文で、どうやら外国で印刷したものらしい。が、それはぜんぶ詩の形になっていた。「ああ、これならぼくはそらで知ってますよ。『光輝ある人格』でしょう! ちょっと見ようかな。いや、やっぱりそうだ、『光輝ある人格』だ。この人格は、まだ外国にいた時分からの知り合いだ。どこで掘り出しました?」
「外国で見たって?」レムブケーはぴくりとした。
「もちろんですとも、四か月か五か月ばかり前です」
「それにしても、きみは外国でいろんなものを見たんだね」レムブケーは皮肉な目つきをした。
 ピョートルはそんなことに耳もかさず、紙きれを広げ、声を出して読み始めた。

[#ここから2字下げ]
   『光輝ある人格』

かれ名門の出《しゅつ》ならず
野《や》にありて人となりしが
ツァーの復讐《かえし》に虐げられつ
側臣の嫉みに迫われ
ありとあらゆる苦痛、刑罰、
はた拷問に身をゆだねつつ
四海同胞、自由平等の福音を
民に説かんと出で立ちぬ

かくして乱《らん》を惹き起し
牢獄、しもと、焼けたる火箸
首斬りの厄をのがれんと
ことなる国へ走りしが
反逆の覚悟なりたる人民は
きびしき運命《さだめ》を免れんと
スモレンスクタシケント
その隅々にいたるまで
大学生の帰来をば待ち佗びたりき

人みな彼を待ちこがれたり
――いかなることのあらんとも
貴族のやからに死を宣し
ツァーの族をも剿滅し
領地を民の有となし、教会、結婚
はた家族制、すべて往時の
あらゆる弊をとことわに
復讐の火に投げ入れんため
[#ここで字下げ終わり]

「きっとこれはあの将校から手に入れたんでしょう?」とピョートルはたずねた。
「きみはあの将校を知っているのかね?」
「当たり前ですよ。ぼくはあすこで二日間、いっしょに酒を飲んだんですもの。あの男がああした気ちがいになったのは、むしろ当然の結果なんですよ」
「しかも、ことによったら、気がちがったんじゃないかもしれんよ」
「それは、人に咬みつき出したからですか?」
「だが、ちょっと聞かしてもらおう。きみがこの詩を外国で見たというのに、その後、こちらであの将校が持っていたとすれば……」
「どうしたのです? 何か細工があるように思われるのですか! ねえ、知事公、見受けたところ、あなたはぼくをためしておられるようですね? いいですか」突然なみなみならぬ威を示しながら、彼はこういい出した。「ぼくが外国で見たことについては、帰国後もうだれかれの人に説明しておいたです。そして、ぼくの説明は、筋道の立ったものと認められました。そうでなかったら、ぼくはべんべんとここに滞在して、この町に光栄を与えるわけにいかないじゃありませんか。この意味において、ぼくのことはもう片がついたものと思っています。したがって、だれに対しても弁解の義務はもたないはずです。しかし、ぼくが密告者になりさがったために片づいたのじゃありません。ほかに仕方がなかったからにすぎません。奥さんに紹介状を書いてくれた人たちは、ちゃんと事情を知り抜いているから、ぼくのことを潔白な人間として認めてくれています。いや、しかし、そんなことはどうだってかまやしない。ぼくは真面目な話があって伺ったのです。ですから、あの煙突掃除にここを遠慮さしてくださったのは、ちょうどいい幸いでした。これはぼくにとって重大なことがらなんですよ。実は一つあなたに非常なお願いがあるのです」
「お願い? ふむ……さあ、ご遠慮なく、わたしも実のところ興味をもって聴きますよ。しかし、全体としていい添えとくが、きみはかなりわたしをびっくりさせるね、ピョートル君」
 レムブケーはいくらか胸を躍らしているようだった。ピョートルはやおら片足を膝の上へのせた。
「ペテルブルグでは」と彼は切り出した。「ぼくは多くの点で開放主義を持して来ました。しかし、何かその……つまり、こんなふうのことに関しては(彼は『光輝ある人格』を指でつっ突いた)。ぼくは沈黙を守っていました。それは第一、話すだけの価値がないからでもありますし、第二には、聞かれることよりほかしゃべらないようにしていますのでね。この意味で、お先っ走りは好まないですよ。ぼくはこういうところに卑劣漢と、単に周囲の状況で余儀なくされた潔白人と、この両者の区別を認めています……いや、まあ、そんなことはさておいてですね、つまり、目下……ああいう馬鹿者どもが……なに、ああいう事情が暴露されて、何もかもあなたの手中に握られた今日となっては、もう隠し立てしたって無駄だと思います――実際あなたは眼識のある人で、前もってあなたのはらを見透かすことは、とうていできませんからなあ。ところで、あの馬鹿者どもは今だに引き続いて……ぼくは……ぼくは……いや、まあ、手っとり早くいいますと、ぼくはある一人の男を助けていただこうと思って、こうしてお邪魔にあがったわけなのです。その男はやはり馬鹿なのです、いや、気ちがいかもしれません。しかし、その年の若さに免じて、不幸な境遇に免じて、またあなたの人道的なお心持ちに甘えて、しいてお願いにあがったのです……あなただってご自作の小説の中だけで、ああいう人道主義者を気取っておいでになるわけではないでしょう!」彼は露骨な皮肉の調子で、さもいらだたしげにとつぜん言葉を切った。
 要するに、この男は真正直な人間だが、人道的な感情があり余って、しかもそのうえ尻擽ったい立場に立っているために、下手にまごついてばかりいて、恐ろしく外交が拙い、それに何より知恵が少し足りないようだ、とレムブケーはさっそくきわめて鋭敏に鑑定を下してしまった。もっとも、このことはもう前から推測していたのだ。ことに最近の一週間は、毎晩、書斎にただ一人閉じこもって、どうしてあの男がああうまくユリヤ夫人にとり入ったものだろう、実にわけがわからんと、はらの中で一生懸命に彼を罵っていた時など、なおさらそう思い込んでいた。
「いったいきみはだれのことを頼んでいるんだね。それに、全体として、きみの言葉はどういう意味なんだね?」自分の好奇心を隠そうとつとめながら、彼はもったいぶった調子でこうたずねた。
「それは……それは……ちょっ、困ったなあ……実際、ぼくがあなたを信じてうち明けるというのは、何も悪いことじゃありませんからねえ! ぼくがあなたを潔白な、しかも、もののわかった、つまり、その……困ったなあ……なにを理解する能力のある人と考えるのが、いったいどこが悪いんでしょう……」
 かわいそうに、彼は自分で自分の始末に困っているらしかった。
「ねえ、いい加減あなたも察してくだすっていいでしょう」と彼は語を次いだ。「ねえ、ぼくがその男の名をいったら、結局その男をあなたに売ることになる、そういうわけじゃありませんか。ね、売ることになるでしょう、そうでしょう、そうでしょう?」
「きみが思い切っていい出さないのに、どうしてわたしにそんな察しがつくもんかね」
「そ、そ、それなんだ、あなたはいつもその論法で、挙げ足を取るんですもの。ちょっ、困ったなあ……ああ、困った……その『光輝ある人格』は、その『大学生』というのは――ほかでもない、シャートフですよ。さあ、いよいよいってしまいました!」
「シャートフ? というと、つまり、だれがシャートフなんだね?」
「シャートフです、ここに書いてある大学生です。現にここに住んでるのです。もとの農奴出身で、そら、ね、このあいだ頬桁を食らわした……」
「わかった、わかった!」とレムブケーは目を細めた。「しかし、失敬だが、その男がいったいどういう点で罪があるのかね? 第一、きみは何を請願しているのだね?」
「あの男を救ってくださいと、お願いしてるんじゃありませんか! ぼくは八年も前からあの男を知ってて、あの男の親友といってもいいくらいだったんですよ」ピョートルはやっきとなった。「いや、ぼくは何も昔の生活を、あなたに報告する義務なんぞ持ってやしないんです」と彼は手を振った。
「そんなのはみんなつまらないことです、そんなことはみんな、三人半ばかりの人間がやってることです。外国でやってる仕事だって、十人とは集まってやしませんよ。とにかく、ぼくはあなたの人道的な感情と、聡明な頭脳に希望を繋いでるのです。あなたは理解してくださいます。あなたはことの真相をありのままに示してくださいます。けっして、とんでもない妄想など起こさないで、気ちがいじみた男の愚かな夢にすぎないってことを、ちゃんと了解してくださいます――まったくその男は不幸のために……長年の不幸のために、頭が変になったのです。けっして何かとんでもない、国事犯だの陰謀だのなんのと、そんな大それたことじゃありません……」
 彼はほとんど息を切らしていた。
「ふむ……では、その男はどうやら斧のついた檄文に関して、何か罪があるらしいね」ほとんど荘重ともいうべき調子で、レムブケーは結論を下した。「しかし、待ってくれたまえ、もしその男が一人きりだとすると、どうしてそんなに方方へ撒き散らせたんだろう。この町や地方ばかりでなく、X県のほうへまで……それに、第一、どこから手に入れたんだろう?」
「先刻からそういってるじゃありませんか、あの連中は全体で五人くらいのもんですよ。まあ、十人もいますかね、そんなことはぼくの知ったこっちゃない」
「きみ、知らないって?」
「どうしてぼくが知ってるもんですか、馬鹿馬鹿しい!」
「でも、シャートフが共謀者の一人だということを、現に知っとったじゃないか?」
「ええ?」とピョートルはさながら、詰問者の圧倒的な洞察力を払い除けるように、手を振った。「まあ、お聴きなさい。ぼくは本当のことをすっかりいってしまいます。檄文のことはなんにも知りません、まったく正真正銘なんにも知らないです。馬鹿馬鹿しい、あなた『なんにも』という言葉の意味をごぞんじでしょう?………いや、あの中尉はむろんそうです。それから、まだこの町にもだれか一人……いや、まあ、シャートフかもしれません。そのほかにもまだだれかいるでしょうよ。それくらいのもんです。まったくやくざな、惨めなもんですよ。しかし、ぼくはこのシャートフのことをお願いに来たのです。あの男を救ってやらなきゃなりません。なぜって、この詩はあの男の自作だし、印刷もあの男の手を経て外国でやったものです。これだけのことはぼくも確かに知っています。が、檄文のことはまったく少しも知りませんよ」
「もしこの詩が当人の自作だとすれば、檄文も確かにそうだろう。しかし、どういう事実を根拠にシャートフ君を疑うんだね?」
 ピョートルはいよいよ勘忍袋の緒を切らしたような表情をして、かくしから紙入れを取り出した。そして、中から一通の手紙を抜き出した。
「これがその根拠です!」テーブルの上へ手紙をほうり出しながら、彼はこうどなった。
 レムブケーは広げて見た。見ると、手紙は半年ばかり前にここから外国のどこかへ宛てて書いたもので、二行ばかりのごく短いものだった。
『光輝ある人格の印刷当地にては不能、かつ余は何一つなす能わず、外国にて印刷せられたし。イヴァン・シャートフ』
 レムブケーはじっとピョートルを見据えた。ヴァルヴァーラ夫人がこの人のことを、山羊のような目をしていると評したのは、真を穿っていた。時とすると、しみじみその感が深かった。
「つまり、それはこういうわけなんですよ」とピョートルは勢い込んでいった。「つまり、この男は半年ばかり前にこの詩を書いたのです。ところが、ここで印刷することができなくなって、――つまり、何かの秘密出版所なんですよ、――それで、外国で印刷してくれと頼んでるのです……明瞭にわかるようですね?」
「そう、明瞭です。しかし、だれに頼んでるんだろう? それがまだ不明瞭だね」きわめて老獪な皮肉を持たせながら、レムブケーはこういった。
「キリーロフじゃありませんか、本当にじれったい。この手紙は外国にいるキリーロフに宛てたものです……いったいごぞんじなかったんですか? 本当にあなたは何かぼくに癪にさわることでもあるんですか? だって、あなたはそんな白っぱくれた振りをして、その実、とうの昔からこの詩のことでもなんでも、すっかり知っておられたのでしょう? どうしてあなたのテーブルの上なんかに、ひょっくりのっかってたんです? まさかひとりでのっかったわけでもありますまい? もしそうとすれば、なんだってあなたはぼくをそういじめるんです?」
 彼は痙攣的に額の汗をハンカチで押し拭った。
「わたしにも多少は知れてることがあるかもわからんさ……」とレムブケーは巧みにごまかした。「しかし、そのキリーロフというのは何者だね?」
「ええ、それはよそからやって来た技師で、例のスタヴローギンの介添人をした男です。夢中になってものに凝る、気ちがいみたいな人間ですよ。あの中尉が、本当に熱に浮かされた一時的の精神錯乱とすれば、まあ、この男なぞは正真正銘の立派な気ちがいです、その点はぼく十分に保証します。ねえ、知事公、政府のほうでも、この連中が実際どんな人間かってことを確かめたら、まさか手を下す気にはならなかったでしょう。あんなやつはみんな残らず、そのまま癲狂院へでも送ってやったらいいですよ。ぼくはスイスにいる時もいろんな集会で、あんな連中を飽き飽きするくらい見ましたよ」
「あちらで? ここの運動を支配してる本場で?」
「え、いったいだれが支配するんです? 三人半ばかりの人間ですか。実際あの連中を見てると、しみじみ情けなくなりますよ。それに、ここの運動って、全体どんな運動があるんです? 檄文のことでもいわれるんですか? それに、どんな人間が加入してるんでしょう? 熱に浮かされた中尉殿に、二人か三人の大学生ですかね? あなたは聡明なかたですから、一つ質問を提出しましょう。どうしてあの連中の仲間には、勝れた人物が加入しないんでしょう。なんだってだれもかれも大学生だの、二十二かそこらの小僧っ子ばかりなんでしょう? それにそんなに多いんですかね? 何百万という犬がさがし廻っているにもかかわらず、あまり挙がってこないじゃありませんか。七人かそこいらのもんでしょう。まったく情けなくなってきますよ」
 レムブケーは注意ぶかく聴いていたが、『昔話じゃ鶯は飼えないぞ』というような表情をしていた。
「しかし、失敬だが、きみの確信するところによると、この手紙は外国へ宛てて出したというのだね。けれど、ここに宛名がないじゃないか。この手紙がキリーロフ氏に宛てたもので、しかも外国へ向けて出したということが、どうしてきみにわかったんだろう。それに……それに、はたして本当にシャートフ氏が書いたということが……」
「じゃさっそく、シャートフの筆蹟をさがして、ご覧になったらいいでしょう。何かシャートフの署名が一つくらい、きっとあなたの事務所にあるはずですからね。またキリーロフに当てたということは、本人のキリーロフが当時ぼくに見せてくれたのでわかります」
「じゃ、きみが自分で……」
「ええ、ええ、もちろんぼくが自分で見たのです。ぼくにはいろんなものを見せてくれましたよ。ところで、この詩ですな、これは亡くなったゲルツェンが、まだ外国を放浪している時分に、邂逅の記念のためだか賞讃のためだか、それとも紹介のつもりだか、まあ、そんなことは知りませんが、なんでもシャートフに書いてやったんだそうです。それで、シャートフはこいつを若い連中の間に吹聴して廻ってるんです。これがゲルツェン自身のぼくに関する意見だ、とかいってね」
「な、な、な」やっとのことで、レムブケーはすっかり腑に落ちた。「それでわたしも変に思ったんだよ。檄文、――それだけならわかってるが、詩なんか、いったいなんのために刷ったんだろうと思ってね」
「まあ、あなたはどうして合点がゆかないんでしょう。ちぇっ、馬鹿馬鹿しい、いったいぼくはなんのために今まであなたにしゃべり立てたんだろう! いいですか、どうかぼくにシャートフを渡してください。もうこうなったら、ほかの連中なんかどうなろうとかまやしない。キリーロフだってどうなと勝手になさい。あの男は、シャートフの住まっているフィリッポフの持ち家に閉じこもって、じっと隠れ込んでるのです。あの男はぼくを好かないんですよ。なぜって、ぼくがこちらへ帰って……とにかく、シャートフのことだけはぼくに約束してください。その代わり、ほかの連中は一皿に盛り上げて、あなたの膳にすすめますよ。ぼくだって役に立ちますぜ、知事公! ぼくの考えでは、あのみじめな連中はみなで九人か、――十人くらいのものだと思います。ぼくはあの連中の様子を探ってるんです。個人としてね。今のところ、三人だけわかっています。シャートフと、キリーロフと、それからあの中尉さんです。後の連中はまだやっと見当をつけている[#「見当をつけている」に傍点]ところで……ぼくもまんざらの近眼じゃありませんよ。まあ、ちょうどあのX県と同じようなもんですよ。あそこで檄文事件でつかまったのは、大学生が二人に中学生が一人、はたちばかりの貴族が一人に小学教師が一人、それから酒のために耄碌した六十ばかりの退職少佐、これだけなんです。まったくのところ、これっきりなんですからね。しかし、六日の日数がいりますね。ぼくはもう算盤をはじいて見たが、六日はかかります。それより早くというわけにいきません。もし何かまとまった結果が見たかったら、六日の間はあの連中をそっとしておいてください。ぼくは一《ひと》網にすっかり挙げてしまいます。もしそれより以前に手を出したら、せっかくの巣を散らしてしまいますよ。しかし、シャートフはぼくにください。ぼくはシャートフのためになら……一番いい方法としては、秘密にあの男を呼び寄せて、親友的な態度でこの書斎なり、どこなりへ通してですね、彼らの内幕をさらけ出して見せて、一つ試験してやるんですな……そうすれば先生、きっとあなたの足もとに身を投じて、声をあげて泣き出すに相違ありません! あれは神経質で不幸な男なんです。あの男の細君は、スタヴローギンと勝手な真似をしているんですからね。実際すこし優しくしてやったら、あの男はすっかり自分のほうからぶちまけてしまいますよ。しかし、六日の猶予はどうしても必要です……ところで、何よりも、その、何よりも奥さんに一言半句も洩らさないことが、もっとも肝腎な点なのですよ。秘密が守れますか?」
「なんだって?」とレムブケーは目を剥き出した。「きみはユリヤにもまだ何も……うち明けていないのかね?」
「奥さんにですか? とんでもない! ねえ、知事公! 一つまあ聞いてください。ぼくは奥さんの友情を非常にありがたく思って、心から奥さんを尊敬しておりますし……その、すべてなんですが……しかし、けっして迂濶なことはしゃべりません。ぼくは奥さんに反対するわけじゃありません。なぜって、奥さんに楯つくのは、あなたもご承知のとおり、きわめて危険ですからね。もっとも、ちょっと一言くらい匂わしたかもしれません。それが奥さんの好物ですから。けれど、今あなたに申し上げたように、名前を洩らすとかなんとか、そんなことは、あなた、どうしてどうして! 実際、いまぼくがこうしてあなたにうち明けるのは、どういうわけでしょう? ほかじゃありません、なんといっても、あなたが男だからです。昔からしっかりした勤務上の経験をもった、真面目なお方だと思うからです。あなたは酸いも甘いも噛み分けた人です。あなたは例のペテルブルグ一件の例もあるから、こういうことにかけたら、ぴんからきりまでわかっていらっしゃるはずです。ところが、奥さんに今の二人の名でもいおうものなら、あの方はさっそく方々へ触れ廻しておしまいになります……奥さんはここからペテルブルグをあっといわしたくて、たまらないんですからね。いやまったく、あまりご熱心な質でしてね、実際!」
「そう、あれはまったくそうした癖が少々あってね」このぶしつけ者が自分の妻のことをあまり無遠慮に批評するのを、心のうちで大いにいまいましく感じながら、同時にいくぶん小気味がよいといったような顔つきで、レムブケーはこうつぶやいた。
 ピョートルは、これだけではまだ不十分だ、もっともっと馬力をかけてご機嫌を取ったうえ、十分に『レムブケー』を手のうちにまるめ込まなければならぬ、とこんなふうに考えたらしい。
「いや、まったく癖ですね」と彼は相槌を打った。「実際あの方は天才的な、文学趣味のある婦人かもしれませんが、せっかく集まった雀を追い散らしておしまいになりますよ。六日はさておき、六時間と辛抱ができないんですからね。まったくですよ、知事公、婦人に六日などという期限を押しつけるもんじゃありませんよ! ねえ、ぼくが多少の経験を持ってることを、あなたも認めてくださるでしょう、つまり、こういう方面に関してね。ぼくもちょいちょい知ってることがあります。ぼくがちょいちょいいろんなことを知っているはずだとは、あなたご自身も認めておられるでしょう。ぼくが六日の期限をお願いするのは、けっして彼らを容赦するからじゃありません、実際、必要があるからです」
「わたしも少しくらい聞いている……」レムブケーは確たる意見をいい渋った。「きみが外国から帰った時、その筋に対して……その懺悔というような意味で、何か申立てをしたということは聞いているがね」
「ええ、そんなことぐらいありましたさ」
「それは、もちろん、わたしもあえて立ち入ろうとは望まない……しかし、わたしの目から見ると、きみはここでぜんぜん別な性質の意見を今まで吐いているように想像していたんだがね。たとえば、キリスト教の信仰だとか、社会的施設のことだとか、ないしは政府のことだとか……」
「ぼくだっていろんなことをいいましたさ。今だってやはりいっていますよ。ただそういうふうの思想を、あんな馬鹿者たちと同じような具合に実行するのじゃない、そこが肝腎な点なのですよ。人の肩に咬みついたって何になるのです? あなただって、ぼくの意見に同意してくだすったでしょう、ただ時期が早すぎるということで」
「わたしはなにもそのことに同意したわけじゃない。その意味で、時期が早いといったんじゃないよ」
「しかし、あなたは一こと一こと穿鑿しながら、ものをいってらっしゃいますね、へ、へ! なかなか用心ぶかいかただ!」突然ピョートルが面白そうにいった。
「ねえ、あなた、とにかく、ぼくはあなたという人物を見極める必要があったのです。それだから、ぼくは自己一流の方法で話したんでさあ。これはあなた一人きりじゃない。いろんな人に対して、こんなふうの研究をするのです。ぼくは、まあ、あなたの性格を十分に知悉したかったのです」
「なんだってわたしの性格がきみに必要なんだね?」
「なんのために必要なのか、そんなことぼくが知るもんですか(と彼はまた大声で笑った)。ねえ、閣下、あなたはまったくずるいですよ、しかし、それ[#「それ」に傍点]までにはいたっていません、またきっとそういう時機は来ないでしょう、おわかりになりますか? たぶんおわかりになるでしょう? ぼくは外国から帰った時、その筋の人にある申立てはしましたが、しかし、ある信念をいだいている人間が、その誠実な信念のために行動するわけになぜいかないんでしょう、とんと合点がゆきませんねえ……とにかく、ぼくはあちら[#「あちら」に傍点]で、だれにもあなたの性格を注文されたこともなければ、またあちら[#「あちら」に傍点]からそんな注文を受け取った覚えも、かつてありません。一つとくと合点していただきたいのです。ぼくは今の二人の名前を、最初あなた一人にうち明けないで、いきなりあちら[#「あちら」に傍点]ヘ――つまり、ぼくが初めて申立てをしたところですな――あちら[#「あちら」に傍点]へ知らせてやることもできたのです。これがもし経済関係から、つまり利益を念頭において骨を折ってるとすれば、それはもちろん、ぼくの算用違いといわなきゃなりません。なぜって、今度は感謝を受けるのはあなたばかりで、けっしてぼくじゃないですからね。ぼくはただただシャートフのためにお願いするのです」とピョートルは潔くつけ足した。「ぼくは以前の友情を思って、シャートフのために、お願いするんです……ところでですな、あなたが筆をとって、あちら[#「あちら」に傍点]へ報告される場合、まあ、ぼくのことを賞めてくださるとする……そんな時にはぼくもけっして異存ありませんよ、へ、ヘ! ときに、もうさようならにしましょう、ずいぶん長座をしましたよ。それに、こんなおしゃべりをする必要はなかったのです!」と、いくぶん愛嬌を見せながらいい足して、彼は長いすから立ちあがった。
「それどころじゃない、わたしはかえって事件がだんだんはっきりして来るので、たいへん喜んでいたくらいだ」明らかに最後の一句が利いたらしく、レムブケーも愛想よげに立ちあがった。「わたしは感謝の意を表して、きみのお骨折りを受けるよ。きみの労に対するわたしの推薦という点に関しては、きみ、安心していてくれたまえ……」
「六日間ですよ、肝腎なのは六日間の期限ですよ。そのあいだ手を出さないようにしていただきたい、これがぼくにとって必要なんですよ」
「よかろう」
「もちろん、ぼくはあなたの手を縛ろうとするのじゃありません。あなただって探査せずにはいられないでしょうけれど、ただ期限以前にやつらの巣を脅かしちゃいけませんよ。この点に関して、ぼくはあなたの頭脳と経験に非常な期待をかけてるのです。ところで、あなたはずいぶんたくさん猟犬を飼っておいででしょうなあ、その、いろんな密偵をね、へ、へ!」とピョートルはうきうきした軽はずみな調子で(これは若い人の癖なのだ)、真正面からぶっつけた。
「まんざらそうでもないがね」とレムブケーは気持ちよさそうに相手の鉾先を避けた。「それは若い人の偏見だよ、そうたくさん飼っておくなんて……しかし、ついでにちょっと一つききたいことがあるんだがね。ほかじゃない、もしあのキリーロフが、スタヴローギンの介添人になったとすれば、スタヴローギン氏もやはり……」
「スタヴローギンがどうしたんですって?」
「つまり、二人がそんなに親しい仲だとすれば……」
「とんでもない、違います、違います、違います! あなたもなかなかずるい人だけれど、とうとうぼろを出しましたね。ぼく面くらっちまいましたよ。このことについては、あなたも相当事情に通じていられることと思ってましたよ……ふむ……スタヴローギン……あれはまったく正反対の位置に立ってるんですよ、つまり、全然…… avis au lecteur.(ちょっとご注意までに申し上げます)」
「どうだかね! まさか……」とレムブケーは疑わしげにいった。「わたしはユリヤから聴いたのだが、あれがペテルブルグから受け取った通知によると、あの男は一種の内命を授かってるとか……」
「ぼくはなにも知りません、すこしも知りません、まったく少しも。Adieu. Avis au lecteur.(さようなら、ちょっとご注意までに申し上げたのです)」ピョートルは急にありありと逃げを打ち始めた。
 彼は戸口のほうへ飛んで行った。
「ちょっと、きみ、ピョートル君。ちょっと!」レムブケーは叫んだ。「もう一つ、ちょっとした用事があるんだ。それでもうきみを引き留めはしないよ」
 彼はテーブルの抽斗から、一つの封筒をとり出した。
「やはり同じような種類に属するしろ物なんだ、これをきみに見せるんだから、わたしがどれくらいきみを信用しているか、察してくれたまえ。さあ、きみのご意見はどうだね?」
 封筒の中には一通の手紙が入っていた――それはレムブケーに宛てた怪しい無名の手紙で、つい、きのう受け取ったばかりなのである。ピョートルはいかにもいまいましそうな様子で、次のとおり読みくだした。

[#ここから1字下げ]
『閣下!
実際、官等からいえば、貴殿は閣下なのだから、こう呼んでおく。この手紙をもってぼくはすべての顕官ならびに祖国に対する陰謀を通報する。すでに事態は勢いそうなっていってるのだ。ぼくは自身で長年の間、絶えず檄文を撒き散らしてきた。同時にまた無神論も宣伝した。暴動の準備は着々進捗している。幾千という檄文が撒かれたが、もし政府が前もって没収しなければ、百人ばかりの人間が一枚一枚、舌を吐きだしながら追いかけている。つまり、彼らは莫大な報酬を約束されているからである。なにしろ一般人民は馬鹿なものだ。それにウォートカというやつもある。人民は罪人を尊敬して、罪人も官憲もどちらも搾っているのだ。ぼくはどっちを向いても恐ろしいので、おのれの関知しない事件に対して、慚愧の意を表している。なぜなら、ぼくの事情がそんなふうになってしまったからだ。もし祖国と教会と聖像を救うために、密告してほしいとならば、それをなしうるのはぼくを措いて他にだれもない。ただし、即刻第三課から電報で、ぼくをゆるすという命令を発することを条件にしてもらいたい。それはぼく一人だけでよろしい、ほかの連中は勝手に罪に問われるがいい。どうか毎晩七時になったら、玄関番の窓に合図の蝋燭を立ててもらいたい。それを見たら、ぼくも首都から差し伸べられた慈悲の手を信じて、それを接吻に来ることにする。しかし、年金下賜の条件付でなくてはならぬ。でなかったら、ぼくは生計の方法が立たないのだ。貴殿はけっして後悔などすることはない。貴殿は勲章を授かるに決まっている。が、とにかく機密を要する。でないと、首を捩じ取られる。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から4字上げ]閣下の足元に身を投じたる絶望の男
[#地から1字上げ]悔悟せる自由思想家(Incognito)』

 フォン・レムブケーの説明によると、手紙はきのう玄関番部屋へ、人のいない暇を見て投げ込まれたのである。
「で、あなたはどう思うんです?」ほとんど不作法といっていいくらいの調子で、ピョートルはこうたずねた。
「わたしの考えでは、これはからかい半分の落首にすぎないらしいよ」
「大方そんなところが落ちでしょう。あなたに一ぱいくわすわけにゃいきませんからなあ」
「なに、わたしはあんまり馬鹿げてるから、そう考えるんだ」
「あなたはここへ来てから、まだほかにこんな落首を受け取ったことがありますか?」
「二度ほど受け取ったよ、無名の手紙をね」
「そりゃ、もちろん、署名なんかしませんさ。みんな違った文体で? 手もまちまちで?」
「みんな違った文体で、手もまちまちだ」
「やはりこれと同じようなふざけたものですか?」
「そう、ふざけたものだ、そしてね、きみ……実に醜悪なんだよ」
「なるほど、もう今までもそういうことがあったとすれば、今度もやはり同じこってすよ」
「つまり、わたしはあまり馬鹿げてるもんだから……実際、あの連中は教育があるんだから、けっしてこんなことを書きゃしないものね」
「ええ、そりゃそうですとも」
「しかし、だれか本当に密告しようと思っているんだったらいったいどうしたもんだろう?」
「そんなことがあるもんですか」ピョートルはにべもなく打ち消した。「いったい第三課の電報とか、年金とかいうのは何事です! 見え透いた悪戯ですよ」
「そうだ、そうだ」とレムブケーは鼻白んだ。
「ねえ、知事公、この手紙をぼくに貸してください。ぼくきっとさがし出してあげます。例の連中よりさきにさがし出してあげますよ」
「持って行きたまえ」いくぶん躊躇の気味でレムブケーは承諾した。
「あなただれかにお見せになりましたか?」
「いや、どうしてそんなことを! だれにも見せやしない」
「というと、奥さんにも?」
「おお、とんでもない。きみもお願いだから、あれに見せないでくれたまえ?」とレムブケーはおびえあがって叫んだ。「そんなことをしたら、びっくりしてしまって……ひどくわたしにくってかかるに相違ない」
「そうですなあ、あなたは一番やっつけられますなあ。こんな手紙を受け取る以上、あなたはこんなことを書かれるだけの値打ちしかないのだ、てなことをいってね。婦人の論理は、ちゃんと先刻承知していますからね。じゃ、さようなら。ぼくはことによったら三日間位で、この手紙の筆者を突き出して見せるかもしれません。しかし、何よりも、例の約束を忘れないように願いますよ」

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 ピョートルは実際、目はしの利く男だったかもしれない。しかし懲役人のフェージカが、『あの人は自分で人のことをこうと決めてしまって、それで安心してるたちの人なんですよ』といったのは、真を穿っている。彼はレムブケーのもとを去る時に、少なくとも六日間は知事の心を落ちつけたと信じ切っていた。この六日という期限は、彼にとって是が非でも必要なのだった。しかし、その目算は間違っていた。何もかも、彼の独り合点がもとになっていたのである。彼はもうてんから、レムブケーを箸にも棒にもかからない間抜け者に、決めてかかっていた。
 レムブケーはすべて病的に疑り深い人の常として、何か未知の境から一歩ふみ出した瞬間には、いつも嬉しさのあまり、過度に信じやすくなる。何か局面が一転したような場合には、いろいろ面倒な事情が新たに持ちあがりはするものの、初めはちょいと具合よく運びそうに思われた。少なくも、以前の疑念は、跡形なく消え失せるのであった。そのうえこの数日間、彼ははなはだしく疲労を覚えてきた。まるでへとへとになって、気力も何も尽き果てたような心持ちがしはじめたので、彼の心は自然と安静を渇望するようになった。が、悲しいことに、彼はまたしてもその安静を失ったのである。長年のペテルブルグ生活は、彼の心に消え難い痕跡を残した。『新しき世代』の表面的な推移も、その秘密な運動も、彼にはかなりよくわかっておった。彼は好奇心のさかんな男だったから、檄文なぞもずいぶん蒐集した、――が、その運動の意味がどうしてもてん[#「てん」に傍点]からわからなかった。ところが、今度はまるで深い森に迷い込んだようなものである。彼はあらゆる直覚力を働かして、こういうことを感得した。ピョートルの言葉の中には、形式や約束を無視した、何かこう、ぜんぜん辻褄の合わないところがある。『もっとも、この新しき世の中からどんなものが飛び出すか、まるで見当がつかないんだからなあ。それに、どんなふうにそいつが生長してゆくのか、こんりんざいわかりっこありゃしない!』こう考えてるうちに、思想がめちゃめちゃにこぐらかってしまった。
 その時、ちょうど狙ったように、またもやブリュームが、彼の部屋へ顔を覗けた。ピョートルの来訪中、彼はほど遠からぬところで待っていたので。このブリュームは、レムブケーの遠い親戚に当たるのだが、それは一生涯、細心な注意をもって隠蔽されていた。わたしはこの取るに足らぬ人物のために、ここで、数言を費すのを読者に許してもらわねばならぬ。ブリュームは『不幸なドイツ人』という、奇妙な種族に属していた。が、けっして持ち前の極端な無能が原因ではなく、どういうわけか皆目わからないのであった。『不幸なドイツ人』は神話でもなんでもなく、現実界、いな、ロシヤにすら存在していて、自己独得の典型を有しているのだ。レムブケーは感心なほど彼に同情を寄せ、勤務上の成功を獲得するにしたがって、事情の許す限り、いたるところで部下の椅子に坐らすようにしていた。しかし、彼はどこへ行っても運が悪かった。時にはその椅子が定員外になったり、時には長官が変わったりした。一度なぞはほかの連中といっしょに、ほとんど裁判所へ突き出されないばかりの目に遭った。彼はきちょうめんだったが、しかし必要もないのにきちょうめんすぎるくらいだし、またあまり陰気な性分のために損ばかりしていた。髪の赤い、背の高い、猫背の沈んだ男で、非常に感傷的なたちだった。意気地のないくせに強情で、まるで牛のように頑固だったが、その力瘤の入れ方が、いつも見当ちがいなのである。彼は妻や大勢の子供らと同じように、長の年月レムブケーに対して敬虔な信服の情をいだいていた。彼を好く者は、レムブケーのほか一人もなかった。ユリヤ夫人はさっそく彼を排斥にかかったが、しかし、夫のかたくなな同情を征服することはできなかった。これが彼らの最初のいさかいだった。それは結婚後まもない蜜月の初め頃、突然ブリュームが夫人の前に現われた時に端を発したのだ。それまでは、夫人にとっていまわしい親戚関係とともに、小心翼々として夫人の目から隠されていたのである。レムブケーは、両手を合わせて拝みながら、感傷的な調子でブリュームの身の上と、ごく小さいときからの二人の友情を物語った。けれど、ユリヤ夫人は、自分が永久に穢されたもののように感じて、気絶という武器まで応用して見せた。が、それでもレムブケーは一歩も譲らなかった。そして、どんなことがあろうとも、ブリュームを見棄てたり、身辺から遠ざけたりしない、と宣言した。で、とうとう夫人もあきれ返って、ブリュームを置くことを許さざるをえなくなった。ただ親戚関係のあることは、今までよりも一段と気をつけて、できるだけ隠すことに決められた。ブリュームの名前と父称も変えることになった。どういうわけか、ブリュームも同じように、アンドレイ・アントーノヴィチと呼ばれていたからである。
 ブリュームはこの町へ来ても、あるドイツ人の薬剤師のほかには、だれひとり知己をこしらえようともしなければ、どこを訪問してみようともしなかった。ただこれまでの習慣で、けちけちと淋しい生活を送っていた。彼は久しい以前から、レムブケーの文学道楽を知っていた。彼はいつも決まって呼び出され、内証でさし向かいに、自作小説の朗読を聞かされるのであった。大抵ぶっ続けに六時間くらい、じっと棒のように坐りとおしていた。そして、居睡りをしないで微笑を浮かべるために、汗を滲ませながら渾身の力を緊張させた。家へ帰ると、足の長い痩せひょろけた細君とともに、ロシヤ文学に対する恩人の情けない弱点を、互いに嘆き合うのであった。
 レムブケーは苦痛の表情で、入り来るブリュームを見やった。
「プリューム、お願いだから、わたしにかまわんとおいてくれ」彼は不安げに早口でこういった。ピョートルの来訪によって妨げられたさきほどの会話を、ふたたび新たにするのを避けようと思っているらしい。
「けれども、それはまったく婉曲な方法で、少しも世間へ知れないように実行できるのです。あなたはあらゆる権能を授けられていらっしゃるのですから」背中をかがめて小刻みな足取りで、じりじりレムブケーのほうへ詰め寄りながら、うやうやしい調子ではあるが執拗な態度で、彼は何やらしきりに主張していた。
「ブリューム、きみはあくまでわたしに信服して、わたしのためにつくしてくれるので、わたしはいつもきみを見るたびに、恐ろしさに胆を冷やすじゃないか」
「あなたはいつも何か気の利いたことをおっしゃいます。そして、自分で自分の言葉に満足して、穏かな夢を結ばれるのです。ところが、それがあなたを毒しているのじゃありませんか」
「ブリューム、わたしはたったいま十分に確信をえた、そんなことはすっかり見当ちがいだよ、まるで見当ちがいだよ」
「それはあのいかさま者の、根性骨の曲った若造の言葉を本当にされたからでしょう。あなたご自身も、あの男を疑ぐっていられるじゃありませんか? やつはあなたの文学上の才能を、お世辞たらたら賞めちぎって、あなたを手のうちへまるめ込んだのです」
「ブリューム、きみは何もわからないのだ。きみの計画は愚の骨頂だと、そういってるじゃないか。そんなことをしたところで、何一つ見つけ出すことができないで、ただ恐ろしい騒ぎを持ち上げるばかりだ。それから続いて嘲笑、その後からユリヤ……」
「いえ、わたしたちが求めているものは、すっかり見つかるに相違ありません」右手を胸に当てながら、ブリュームは毅然たる足取りで、一歩知事のほうへ踏み出した。「家宅捜索はふいにやったほうがいいです、朝早く。そして、私人に対する礼儀も、法の厳格な形式も、十分に守るのはもちろんです。リャームシンとか、チェリャートニコフとかいう若い連中は、必ずわれわれの望むものをすべて発見できると、立派に断言しておりますよ。あの連中は、たびたびあすこへ出入りしていましたからね。ヴェルホーヴェンスキイ氏に同情をいだいてるのは、だれ一人ありゃしません。スタヴローギン将軍夫人も公然と、あの人の保護を断わってしまいました。潔白な心を持った人間は(この俗な町に、そんな人間があるとすればですよ)、不信と社会主義的伝道の源が、いつもあすこに隠れていたと信じます。あの人のところには、国禁の書物がすっかり保存されています。ルイレーエフ([#割り注]プーシキンの友、十二月党員、死刑に処せられる[#割り注終わり])の『想い』もゲルツェンの全集も……わたくしは万一の場合のために、概略の目録をこしらえておきました」
「おいおい、何をいってるんだ、そんな本はだれでも持ってるじゃないか、お前はどうも頭が単純だから困るよ、ブリューム!」
「それに檄文もたくさんあります」相手の言葉は耳にも入れず、ブリュームはつづけた。「そして最後に、この町の檄文の本当の出処を突き止めようじゃありませんか。あの小ヴェルホーヴェンスキイも、いたって怪しい人物ですからね」
「しかし、きみは、親父と息子をごっちゃにしているじゃないか。あの二人は折合いが悪いんだぜ。息子は公然と親父を笑い草にしてるじゃないか」
「それはただの仮面です」
「ブリューム、きみはわたしを苦しめようという誓いでも立てたのかい! 考えてもみたまえ、あの人はなんといってもここの名士だよ。もと大学の教授だったんだぜ。あれでなかなか世間に知られた人だから、あの人が公然と世論に訴えてみたまえ、すぐ町中の笑い草になって、ひどい味噌をつけてしまうじゃないか……それに、ユリヤがどんなにいうか、まあ、考えてみたまえ……」
 ブリュームはなおも前へ前へと乗り出して、ろくろく耳をかそうともしなかった。
「あの人はただの助教授だったのです。ほんの助教授に過ぎません。官等からいっても、退職の八等官です」彼は胸をとんと叩いた。「勲章一つ持ってるわけじゃありませんし、おまけに反政府的陰謀の嫌疑で免職されたんですよ。あの人は以前秘密監視を受けていました、今でもきっとそうに違いありません。それに、こんど暴露された不体裁な事件の関係からいっても、あなたはそれだけのことを実行する義務を持っておられます。それだのに、あなたはかえって真犯人に手ぬるい態度を取って、殊勲を現わす機会をわざわざ逸しておられるのです」
「ユリヤだ! 早く出て行きたまえ、ブリューム!」隣室で妻の声を聞きつけたレムブケーは、出しぬけにこう叫んだ。
 ブリュームはびくりとしたが、それでも容易に屈しなかった。
「さあ、許可を与えてください、許可を」いっそう強く両手を胸に当てながら、彼はまたもや前へ攻め寄せた。
「出て行かんか!」とレムブケーは歯咬みをした。「どうともしたいようにするがいい……あとで……ああ、なんということだ!」
 とばりがさっとあがって、ユリヤ夫人が姿を現わした。ブリュームの姿が目に入ると、彼女はものものしい様子で立ちあがりながら、まるでこの男がここにいるというだけのことが、彼女にとって侮辱ででもあるかのように、尊大な腹立たしげな目つきで、じろりと彼を見やった。ブリュームは無言のまま、うやうやしく腰を深くかがめて、夫人に一揖すると、尊敬の意を表するために体を二つに折りながら、ちょっと両手を左右に拡げ、爪立ちで戸口のほうへおもむいた。
 最後にレムブケーの発したヒステリックな叫び声を、本当にお前の請求どおりにしろという許可の意味に解したのか、それとも結果の成功を信じ過ぎたために、てもなく恩人の利益を図るつもりで、わざとこの言葉の意味を曲解したのか、とにかく後に説くとおり、この長官と部下の会話からして、多くの人に腹をかかえさせるような思いがけない出来事が始まったのである。この出来事は世間へぱっと知れ渡って、ユリヤ夫人の猛烈な憤怒を呼び起こしたばかりでなく、そうしたさまざまな結果を伴なったために、すっかりレムブケーをとほうにくれさせ、もっとも多事多端な時に、何より悲しむべき優柔不断な心持ちに陥れてしまったのである。

[#6字下げ]5[#「5」は小見出し

 それはピョートルにとって忙しい日であった。フォン・レムブケーのもとを辞すると、彼は大急ぎでボゴヤーヴレンスカヤ街さして駆け出した。しかし、牡牛街《ブイコーヴァヤ》を歩いているうちに、ふと、カルマジーノフの住んでいる家の前へさしかかった。彼はとつぜん足をとめて、にたりと笑うと、そのまま家の中へずかずか入って行った。『お待ちかねでございます』という取次の言葉は、彼になみなみならぬ好奇の情をいだかした。なぜなら、彼は自分の来訪を前もって知らせたことがなかったからである。
 しかし、大文豪は本当に彼を待ちかねていた。しかも、昨日、おとといあたりから待ち佗びていたのである。四日前、彼はピョートルに『感謝《メルシイ》』の原稿を渡した(それはユリヤ夫人の慰安会の文学の部で、朗読するつもりでいたものである)。自分の傑作を発表前に見せてやるということが、聞く人の自尊心に快い作用をもたらすに相違ないと信じ切って、特別の親切心からしたことなのである。ピョートルは前からこういうことを見抜いていた。ほかではない、この虚栄の塊ともいうべきわがままな駄々っ子、――『選ばれざる』階級の人に対しては、暴慢といってもいいくらい高くとまっている『国家的名士』が、正直なところ、まったくピョートルの鼻息をうかがっているのだ。しかも、一生懸命なのである。わたしの見るところでは、彼はこの青年を、全ロシヤにわたる秘密な革命運動の首魁と思っていないまでも、少なくとも、ロシヤ革命運動の秘密に最も密接な関係を持ち、新しき世代に絶対的勢力を有する人間の一人くらいに考えている。それをピョートルも悟ったに違いない。『ロシヤにおいて最も聡明なる名士』のこうした気分は、彼に非常な興味をいだかせたのである。しかし、彼はこれまである事情のために、ことの真相を明らかにするのを避けるようにしていた。
 文豪は自分の妹の家に逗留していた。これはさる侍従官の細君で、同時に女地主だった。夫婦とも天下の名士たるこの親戚を、崇拝しきっていたが、目下残念ながら、モスクワに滞在中なので、侍従官の遠縁に当たる貧しい老婦人が、接待役の光栄を担うこととなった。これは前から同家に暮らして、いっさいの家事を取りしきっていたので。カルマジーノフが到着してからこのかた、家じゅうの者は戦々兢々として、爪さき立ちで歩くようになった。老婦人はほとんど毎日のようにモスクワへ手紙を出し、どんなふうにやすまれて、何を召し上ったか、というようなことまで報らせてやった。一度なぞは電報で、客人が市長のもとへ食事に招待された後、一匙の健胃剤を用いるの余儀なきに立ちいたった旨を、報告したくらいである。老婦人に対する彼の応対は丁寧ではあったが、そっけないもので、何か用事がなければ口をきかなかったので、彼女はほんの時々しか文豪の部屋へ推参しえなかった。
 ピョートルが入って行ったとき、彼は赤葡萄酒をコップに半分ばかり注いで、朝飯のカツレツを食べていた。ピョートルは、もう前にもちょいちょい来たことがあるが、いつもこのカツレツに出くわすのであった。しかも、彼は客の面前でそいつを平らげて、一度も客にふるまったことがない。カツレツの後で、別にコーヒーを小さな茶碗に一杯もって来た。食事を持って来る侍僕は、燕尾服を着込んだうえに、柔かい音のしない靴をはいて、手袋をはめていた。
「ああ!」ナプキンで口を拭きながら、カルマジーノフは長いすから立ちあがり、心底から嬉しそうな表情を浮かべて、接吻を始めた、――これは特筆すべきロシヤ人の習慣であるが、ただし非常に有名な人に限るので。
 しかし、ピョートルは以前の経験から、この人は接吻するような振りをするだけで、その実ただ頬っぺたを差し出すにすぎないのをおぼえているので、今度はこちらからも同じことをした。この二つの頬かぴたりとぶっつかった。カルマジーノフは、それに気がついたようなふうを見せないで、やおら長いすに腰を下ろし、さも気持ちよさそうな顔つきで、ピョートルに向かいの肘掛けいすを示した。こちらはすぐその上にどさりと倒れ込んだ。
「きみその……飯はどうですな?」今日は従来の習慣を破ってこうたずねた。しかし、もちろん、慇懃な否定の答えを暗示するような調子だった。
 ピョートルはさっそく朝飯を所望した。侮辱されたような驚きの影が、主人の顔を曇らした。が、それは一瞬のことだった。彼は神経質らしくベルを鳴らして、下男を呼び、人格にも似合わぬ怒りっぽい調子で、声を高めながら、もう一人前べつに朝飯の支度を命じた。
「きみ、何がお好みです、カツレツですか、コーヒーですか?」彼はもう一どたずねた。
「カツレツもコーヒーも両方とも、それから葡萄酒を添えるようにいってくださいな。ぼくすっかり腹がへっちゃった」落ち着き払って、注意ぶかく主人のみなりを見つめながら、ピョートルは答えた。
 カルマジーノフ氏は貝ボタンの付いた、ちょっとジャケツふうな綿入れの短衣《カツアウエイカ》を着ていたが、あまり極端に短か過ぎるので、かなり膨らんだ腹や丸まっちい腿などと、少しも調子が取れていなかった。しかし、人の趣味はさまざまである。部屋の中はずいぶん暖いのに、膝の上には格子縞の毛織の膝掛けを広げていた。
「お加減でも悪いんですか?」とピョートルはきいた。
「いや、加減が悪いのじゃない。気候がこんなだから、加減が悪くなるのを恐れてるんです」と文豪は持ち前の甲高い声で答えた。もっとも、一語一語に優しく力を入れたり、地主式にしゅっしゅっというような音を発しながら。「わたしは昨日からきみを待っていましたよ」
「なぜです? ぼくなにも約束しなかったはずですが」
「そう、しかし、きみのところへわたしの原稿が行ってるもんだから。きみ……読みましたか?」
「原稿? どんな?」
 カルマジーノフはひどく仰天した。
「いや、きみ、冗談は別として、あれを持って来てくれましたか?」
 彼は俄然あわて出した。とうとう食事もそっちのけに、おびえたような顔つきで、ピョートルを見つめた。
「ああ、それはあの “Bonjour”(お早う)のことですね……」
「“Merci”(ありがとう)です」
「まあ、どうでもいいです。まるで忘れてしまっていましたよ。まだ読みません、暇がないものですから。いったいどうしたんだろう、かくしにもない……きっと家のテーブルの上にでもあるんでしょう。ご心配にゃ及びません、出て来ますよ」
「いや、それより、わたしはいまきみの家へ取りにやりましょう。なくなるおそれがあります、いや、或いは盗まれるかもしれません」
「へっ、そんなものがだれにいるもんですか! それに、なんだってあなたそう泡を食うんです。ユリヤ夫人の話では、あなたはいつも原稿を幾通りかこしらえて、一部は外国の公証人のところへ、一部はペテルブルグ、一部はモスクワ、そしていま一部は銀行か何かへ、送っていられるそうじゃありませんか」
「しかし、それでも、モスクワだって焼けないとも限りません。そうすれば、わたしの原稿もいっしょに焼けてしまいます。いや、すぐ取りにやったほうがいい」
「ちょっと待ってください、ああ、あったあった!」ピョートルはうしろかくしから、一束の書簡箋を取り出した。「少し皺になりましたよ。どうでしょう、あの時、あなたから受け取ったなり、ずっと鼻かみハンカチといっしょに、うしろかくしにしまいっ放しになってたんですよ。すっかり忘れてた」
 カルマジーノフは飛びつくようにして原稿を手に取って、一生懸命に点検して枚数をかぞえると、うやうやしげに傍にある特別な小机へちょっとかりにのせた。が、いつまでもそれが目に入るように位置を加減した。
「きみはどうもあまり多読しないようですね?」彼は我慢しきれないで、歯の間から押し出すようにこういった。
「ええ、あまり多読しませんよ」
「じゃ、ロシヤの純文学のほうは、――かいもく読みませんか?」
「ロシヤの純文学方面? 待ってください、ぼくなんだか読みましたよ……『途中』……だったか『途へ』……だったか『分れ路』だったか、何かよくおぼえていません、ずっと前に読んだのです、五年ばかりになりますかなあ。暇がないんです」
 ちょっと沈黙がおそうた。
「わたしはここへ来ると、皆の者をつかまえて、きみがずば抜けて聡明な人だということを、極力吹聴したものだが、今この町の人は、実際、きみのことでほとんど夢中になっているようじゃありませんか」
「ありがとうございます」とピョートルは落ち着き払って答えた。
 やがて朝餐が運ばれた。ピョートルは恐ろしい食欲を示しながら、カツレツに飛びついた。みるみるうちにそいつを平らげて、酒を呷り、コーヒーを啜った。
『この不作法ものめ』最後の一片を噛みしめ、最後の一滴を飲み干しながら、カルマジーノフはもの思わしげに相手を横目に見やった。『この不作法者め、たぶんいまおれのいった言葉の皮肉な意味を、十分さとったに相違ない……それに、原稿だって、もちろん夢中で読んだくせに、何か思わくがあって、嘘をついてるに違いないのだ。しかし、ことによったら、嘘をついてるんじゃなくて、本当に馬鹿なのかもしれないぞ。おれは少々間の抜けた天才が好きだ。まったくのところ、あの男は仲間うちでも一種の天才かもしれんて。いや、まあ、あんなやつなんかどうだってかまうもんか』
 彼は長いすから立ちあがって、運動のため部屋の中を隅から隅へと歩き廻りにかかった。これは朝飯後に欠かさずやることなので。
「もうじきお立ちですか?」と、ピョートルは巻煙草を吹かしながら、肘掛けいすの中から問いかけた。
「わたしがここへ来たのは、ほかでもない、領地を売るためだから、今のところ支配人のやり方一つなんですよ」
「しかし、あなたがここへ見えたのは、あちらで戦争後に、伝染病流行のおそれがあるからじゃありませんか?」
「いいや、あえてそうばかりでもない」気取った調子で、一語一語アクセントをつけながら、カルマジーノフ氏は言葉を続けた。彼は隅から隅へ向けて回転するたびに、見えるか見えないかくらいに、右足を元気よく跳ねるのであった。
「わたしは実際」彼は幾分あてこすりめいた調子で薄笑いを浮かべた。「できるだけ長生きしようと思っています。ロシヤの貴族社会は、すべての点において、何かこう妙に早く疲弊する癖がありますね。ところが、わたしはできるだけ長く疲弊したくないと思っています。だから、今度はすっかり外国へ移ってしまうつもりです。あちらは気候もいいし、建物も石造だし、万事につけて手固いですからね。わたしの一代ぐらい、西欧も無事でいるだろうと思いますよ。きみのお考えはどうです?」
「それがぼくの知ったことですか」
「ふむ……もしあちらでバビロン塔が崩壊して、その崩壊の度が甚大だとすれば(この点ではわたしもきみたちにぜんぜん同意です。もっとも、わたしの一代は無事だろうと思いますがね)、わがロシヤでは崩れようにも崩れるものがない。ただし比較的の話ですよ。ロシヤでは石が崩れるのじゃなくて、何もかも泥の中へもぐり込んでしまうんだね。神聖なるロシヤは、何物かに対する抵抗力としては、世界じゅうで一ばん役に立たないしろ物でね。それでも、一般民衆はまだどうにかこうにか、ロシヤの神で踏ん張っています。が、しかし、最近の情報によると、ロシヤの神も大して当てにならんようだね。農奴解放の改革に対してすら、ほとんど抗しえなかったんだからなあ、少なくとも一大動揺を来たしたのです。それに、鉄道ができたり、きみたちのような人が現われたり……いや、もうわたしはてんでロシヤの神を信じませんよ」
「じゃ、ヨーロッパの神は?」
「わたしはいかなる神も信じません。世間のやつらはわたしのことをロシヤの青年に讒誣したけれど、わたしはいつも若い人たちの運動にことごとく同感しているんですよ。わたしはこの町の檄文を見せてもらいました。みんな外形に脅かされて、一種の疑念をもって眺めているようだが、しかし、みんな一様にその威力を信じていますよ。もっとも、自分でそれを自覚してはいないがね。もうずいぶん前から、だれもかれもばたばた倒れています。しかも、縋りつくものが何もないということも、とうからちゃんと承知している。ロシヤはどんなことでも思う存分に、なんの抵抗も受けずにやることができるという意味で、今は全世界に唯一無二の国です。わたしもこの事実を基礎として、ああした秘密運動の成功を信じているのです。なぜ資産のあるロシヤ人がどんどん外国へ流れ出るのか、またどういうわけでそういう人がますますふえて来るか、わたしはそれがわかり過ぎるほどわかります。それはつまり、本能ですな。船が沈む時には、第一番に鼠が逃げ出して巣を変えます。神聖なるロシヤは木造のみじめな、そして……けんのんな国です。上流の階級には虚栄心の強い乞食が跋扈し、大多数の人民はひょろひょろのぼろ小屋に住んでいる。で、どんなふうにでも、その状態を抜け出せれば嬉しいのだから、ちょっといって聞かしてさえやればいいのだ。ただ政府だけはまだ抵抗したがって、やみくもに棒ちぎりを振り廻すもんだから、かえって同士打ちなぞしてるんですよ。もうここではすべてのものが、運命を決定され、宣告されています。現在あるがままのロシヤはもう未来がない。わたしはドイツ人になりました。そして、自分でそれを光栄としています」
「しかし、あなたはいま檄文の話を始められましたが、あれについてどういう意見を持っておいでです、ひとつすっかり聞かしてくださいませんか」
「みんなが恐れているところを見ると、檄文というやつは偉大な力を持ってるに相違ない。実際、すべての檄文は公然と偽の衣を剥いでくれます。ロシヤには何一つ縋りつくものもなければ、よりかかるものもない、ということを証明してくれます。一同が沈黙を守っている時に、檄文は声を高めて呼号してくれる。とりわけ何より力強いところは(もっとも、形式には感心しませんがね)、あの前代未聞の勇気です、真実のおもてを見つめうる勇気です。この真実の顔を見つめうる勇気は、ただただロシヤ人にのみ属している性質です。どうしてどうして、ヨーロッパではまだそれほど大胆でないですよ。あちらは石の王国だからまだ倚りかかるところがありますよ。わたしの見かつ判断しうる限りでは、ロシヤの革命思想の本質は、すべて名誉の否定ということに含まれている。わたしはこの点を大胆に、恐れげもなく表白しているのが気に入りましたよ。どうしてどうして、ヨーロッパじゃまだこれは理解できません。ところが、ここはほかならぬこの点に向かって突進してるんですからね。ロシヤの人間にとっては、名誉はよけいな重荷にすぎない。さよう、常に、歴史ぜんたいを通じて重荷だったのです。『不名誉に対する公然の権利』を餌《えさ》にロシヤ人を釣ることなぞは、易々《いい》たるものですよ。わたしは旧時代の人間だから、白状しますと、まだ名誉のほうに味方しますが、それはほんの習慣にすぎない。わたしが古い形式を愛するのは、まあ、いわば、了簡が狭いからですよ。とにかく、どんなにでもして余生を送らなきゃなりませんからな」
 彼はとつぜん口をつぐんだ。
『だが、おれがこうしてしゃべって、しゃべって、しゃべり抜いてるのに』と彼は考えた。『先生だまりこくって、様子を見てやがる。先生がやって来たのは、おれに真正面から質問をさせようという目算なんだな。よし、そんならしてやろう』
「実はユリヤ夫人から、ぼくに依頼があったんですがね、――あさっての舞踏会に、あなたがどんな surprise(思いがけない贈物)を用意していらっしゃるか、それをなんとかして策略で探り出して来い、とおっしゃるのでね」突然ピョートルがこうたずねた。
「そう、それは実際 surprise でしょうな。わたしは、実際、皆を駭目させるつもりなんでね……」とカルマジーノフはちょっとそり身になった。「しかし、秘密の存するところをいうわけにはいかんですよ」
 ピョートルも強いてとはいわなかった。
「ここにシャートフとかいう人物がいるでしょう」と文豪はたずねた。「どうでしょう、わたしはその男に会ったことがないのですよ」
「なかなか立派な人物ですよ。で、どうしました?」
「なに、その男が何やらいってるんです。それ、スタヴローギンの頬っぺたを撲ったとかね?」
「そうです」
「きみはスタヴローギンのことをなんと考えますね?」
「知りません。なんだか色魔とでもいいたいような人物ですなあ」
 カルマジーノフはスタヴローギンを憎んでいた。それは、彼がいつでもこの文豪を、まるで目にも入らないように振舞うからであった。
「あの色魔なんか」彼はひひひと笑いながらいった。「もしあの檄文に宣言してあるようなことがいつか実現されたら、あの男なんぞはおそらく真っさきに木の枝に突き刺されるね」
「或いはもっと早いかもしれませんよ」とふいにピョートルはいった。
「それが当然なんだ」もう笑おうともせずに、恐ろしく真面目な調子で、カルマジーノフは相槌を打った。
「あなたは一度そのことをいったことがありますよ。それでね、ぼくはあの男に聞かせてやりましたぜ」
「え、本当に聞かせたんですか?」カルマジーノフはまた笑った。
「すると、あの男のいうのにはね、もしぼくが木の枝に刺されるのなら、カルマジーノフ氏など笞刑くらいでたくさんだ。しかし、それは敬意を表しての処置ではない、ちょうど百姓を撲るようにやっつけるんだって」
 ピョートルは帽子を取って、席を立った。カルマジーノフは別れの挨拶に、両手を差し伸べた。
「どうでしょう」彼はふいに黄いろい甘ったるい声で、何か一種特別な抑揚をつけながらいい出した、相変わらず相手の両手を握ったまま。「どうでしょう、もしいま企てるような……陰謀が、すっかり実現するものとしたら、それはいつ突発するでしょうなあ?」
「ぼくがなんで知るもんですか」とピョートルはいけぞんざいにいった。
 両方ともじっと互いに睨み合っていた。
「でも、およそ、大体」今度はいっそうあまったるい声で、カルマジーノフがいった。
「あなたが領地を売って、逃げ出す暇はありますよ」とピョートルはいっそういけぞんざいにいった。
 両方ともさらに鋭く睨み合った。
 沈黙の一分が過ぎた。
「今年の五月はじめに起こって、聖母祭([#割り注]十月一日[#割り注終わり])までに片がつきます」出しぬけにピョートルがこういった。
「いや、どうもまことにありがとう」相手の両手を握りしめながら、カルマジーノフはしみじみといった。
『鼠野郎、大丈夫、船から逃げ出すひまはあるよ!』通りへ出ながら、ピョートルは考えた。『ふん、あの「ほとんど国家的名士」が、ああして一生懸命に、日にちや時間まできいたうえ、ああ丁寧に答えをもらった礼をいうところを見ると、もういよいよぼくらも自分の実力を疑うわけにはいかないわい(彼はにやりと笑った)。ふむ……しかし、あの男はああいう仲間としては利口だよ。が……要するに、火事の前に船を逃げ出す鼠にすぎない。あんなやつに密告なんかできるものか』
 彼はボゴヤーヴレンスカヤ街なるフィリッポフの持ち家[#「ボゴヤーヴレンスカヤ街なるフィリッポフの持ち家」はママ]さして駆け出した。

[#6字下げ]6[#「6」は小見出し

 ピョートルはまずキリーロフの部屋へ入って行った。こちらはいつものとおり独りだったが、今日は部屋の真ん中で体操をしていた。つまり、足を広げたまま、両手を一種特別の方法で頭上たかく振り廻しているのであった。床には毬が転がっていた。朝からの茶がまだ片づけられないで、テーブルの上に冷たくなっていた。ピョートルはちょっと閾の上に立ちどまった。
「しかし、きみは恐ろしく健康を気にしますね」彼は部屋の中へ入りながら、大きな声で愉快そうにいった。「だが、なんという見事な毬だろう。ほう、恐ろしくはずむなあ。これもやはり体操のためですか?」
 キリーロフはフロックを着た。
「ええ、やはり健康のため」と彼はそっけなくいった。「お坐んなさい」
「ぼくはちょっと寄っただけなんですよ。が、まあ、坐ろうかな。健康は健康として、とにかくぼくはあの約束のことで、注意に来たんですよ。『ある意味において』われわれの期限も近寄って来るのでね」と拙い逃げを張りながら、彼は言葉を結んだ。
「約束とは?」
「約束とは? とはなんのことです?」ピョートルは思わずぴくりとした。彼はもう度胆を抜かれてしまった。
「あれは約束でも義務でもない。ぼくは何一つ自分を縛るようなことを言やあしない。それはきみの思い違いです」
「でも、まあ、きみ、それでどうしようというんです?」ピョートルはとうとう跳びあがった。
「自分の意志どおりに」
「もともとどおり」
「というと、どんな意味に解したらいいんでしょう? つまり、きみが以前どおりの考えでいる、というわけですか!」
「つまり、そうです。しかし、約束などはいっさいありません、以前だってなかったです。ぼくは何一つ自分を縛るようなことを言やしなかった。ただぼく自身の意志があったきりです。そして、今でもやはりぼく自身の意志があるきりです」
 キリーロフはずばずばと、気むずかしそうな調子で応対した。
「いや、承知です、承知です、きみの意志けっこう、ただその意志が変わってさえくれなけりゃ」得心のいったような調子で、ピョートルはふたたび腰を下ろした。「きみは言葉づかいに腹を立てるもんだから。きみは近頃、なんだか大変おこりっぽくなりましたね。だから、ぼくも訪問を避けるようにしてたんですよ。しかし、けっして違背はされまいと、信じきってはいましたがね」
「ぼくはきみが嫌いでたまらないんですよ。けれど、信じきっていてよろしい! もっとも、違背だの履行だのと、そんなものは少しも認めませんがね」
「だがね、きみ」とピョートルはまたぎくっとした。「ようく話しておかなきゃいけない、間違いのないようにね。ことは正確を要しますよ。なにしろ、きみはひどくぼくを仰天させたよ。話してもいいですか?」
「お話しなさい」キリーロフは片隅を凝視しながら、ずばりといった。
「きみはとうから自殺しようと決心してたでしょう……つまり、そういう観念をいだいておったでしょう。どうです、ぼくの言い方は正しいですか? 何か間違いはありませんか?」
「ぼくは今でも同じ観念をいだいています」
「けっこう。ところで、一つ注意してもらいたいのは、きみはだれにもこの決心を強いられたわけじゃありませんよ」
「当たり前ですよ、なんて馬鹿なことを」
「いいです、いいです。ぼくは恐ろしい馬鹿な言い方をしました。もちろん、そんなことを強制するなんて、馬鹿げきったことです。で、続けていうと、きみはまだ旧組織時代の会の一員だった。そして、きみはこのことをすぐ会員の一人に告白した……」
「ぼくは告白なんかしやしない。ただいっただけです」
「よろしい。まったくそんなことを『告白』するなんて、滑稽でさあね。懺悔式か何かじゃあるまいし。きみはただいったんです、いや、けっこう」
「いや、けっこうなことはありません。だって、きみの言い方はまったく煮えきらないからね。ぼくはきみに対してなんら説明の義務を持っていない。それに、ぼくの思想はきみなんぞにわかりゃしない。ぼくが自殺したいのは、そういう思想がぼくにあるからです。死の恐怖がいやだからです、そして……そして、きみなぞにわかることじゃないからです……きみ、なんです! 茶が飲みたいんですか? 冷たいですよ。まあ、ぼくは別のコップを持って来てあげましょう」
 ピョートルはなるほど急須に手を掛けて、からの容器《いれもの》をさがしていた。キリーロフは戸棚まで行って、きれいなコップを持って来た。
「ぼくは今カルマジーノフのところで朝飯を食ってきたんですよ」と客はいった。「それから、あの男の話を聞いて汗が出ちゃったが、ここへ走って来たもんだから、また汗をかいてしまった、どうもやたらに喉が渇いてたまらない」
「お飲みなさい。冷たい茶はいいですよ」
 キリーロフはまた椅子に腰を下ろして、またもや片隅を凝視し始めた。
「そこで、会ではこういう考えを起こしたんです」と彼は前と同じ声で語りつづけた。「もしぼくが自殺すれば、或いはそれが何かの役に立つかもしれない。きみらがここで何か仕出かして、犯人の捜索が始まった時、とつぜんぼくがピストル自殺をして、何もかも自分の仕業だという書置きを残せば、まあ、一年くらいきみたちに嫌疑がかからないだろう、とこういう注文なんでしょう」
「せめて二、三日でもいいですよ。一日の日も貴重なんだから」
「よろしい。この意味で、もしぼくにその気があれば少し待ってくれ、とこうきみがいった。で、ぼくは会からその時期をいって来るまで、待つことにしようと答えたのです。ぼくにとっては、どっちだって同じことだから」
「そう。しかし、忘れちゃいけませんよ、きみが書置きを書く時には、必ずぼくとの立会のうえにする。そして、ロシヤヘ帰って来てからは、ぼくの……まあ、つまり、ぼくの自由にまかせると、約束しましたよ。といって、もちろんこの件に関する範囲内で、その他の点に関しては、むろんきみは自由なんですがね」ほとんど愛嬌を交ぜるようにして、ピョートルはこうつけ足した。
「ぼくは約束しやしない、ただ同意しただけです。ぼくにとっては、どっちだっておなじことだから」
「ええ、それでけっこうです、けっこうです。ぼくはきみの自尊心を傷つけようという気なんて少しもないです、しかし……」
「何もこのことで自尊心なんか関係はありゃしない」
「しかし、おぼえておってください、きみの旅費として百二十ターレルを醵金しましたぜ。つまり、きみは金を受け取ったわけですよ」
「まるで違う」キリーロフはかっとなった。「金はそんなつもりじゃありません。そんなことのために金を取るものなんかありゃしない」
「時には取ることもありますよ」
「ばかをいうもんじゃありません。ぼくはペテルブルグから出した手紙で、断わっておきました。そして、ペテルブルグで百二十ターレル返したじゃありませんか、きみに手渡ししたんですよ……もしきみが自分で着服しなかったら、あっちへ送られたはずだ」
「いいです、いいです。ぼくは何も違ってると言やしません、送りましたよ。とにかく要点は、きみが以前と同じ考えでいるか、どうかということなんだから」
「同じ考えでいますよ。きみがやって来て、『よし』といえば、ぼくはすっかりそれを実行します、どうです、もうすぐですか?」
「そう日数はありませんよ……が、おぼえておってください、手紙はぼくと二人でこしらえるんですよ、その晩にね」
「その日だっていい。きみの話では、檄文の責任を引き受けるんでしたね」
「それから、ほかにもちょっと」
「ぼくはなんでもかでも引き受けやしないよ」
「どんなことを引き受けないというんです?」ピョートルはまたもやびくっとした。
「気の向かないことは。もうたくさん。ぼくはもうこの話はしたくない」
 ピョートルはやっとのことで自分を抑えて、話題を変えた。
「じゃ、別の話にしましょう」と彼はあらかじめ断わっておいて、「今夜、きみは会へ出席しますか? ヴィルギンスキイの命名日だから、それをだしに使って集まるんです」
「いやです」
「お願いだから出てください。人数と顔とで脅かさなきゃ……きみの顔は……まあ、手っとり早く言やあ、きみは宿命的な顔をしていますからね」
「そう思いますか?」とキリーロフは笑った。「よろしい、出席しましょう、ただし、顔のためじゃないがね。何時?」
「ああ、少し早目に、六時半、それでね、きみはそこへ行っても、じっと坐ったきり、幾人そこに人がいようと、だれとも話をしなくたってかまわない。ただね、紙と鉛筆を持って来るのを忘れないように」
「それはなんのため?」
「だって、きみはどっちだって同じことでしょう。これはぼくの特別なお願いなんだから。きみはもう本当にだれとも話をしないで、じっと坐って聴いてりゃいいんです。ただ時々なにか控えるような恰好をしてください。なに、何か絵でも描いてりゃいいんですよ」
「なんて馬鹿げたことを、いったいなんのために?」
「ちぇっ、どっちだって同じことなら……だって、きみはしじゅう、どっちだって同じことだといってるじゃありませんか」
「いや、なんのためか聞かしてもらいたい」
「実はこういうわけなんですよ。会員の一人で監督官をしてる男が、モスクワに当分とどまることになったんですが、ぼくは今夜ことによったら、監督官が来るかもしれないと、こう二、三の者に話したんです。だから、連中はきみを監督官と考える、といったようなわけでさあ。それに、きみがここへ来て、もう三週間になるから、連中はいつそう[#「いつそう」はママ]面食らうに相違ない」
「手品だ。モスクワのサークルに、監督官なんてものはありゃしない」
「まあ、なければないで、いいじゃありませんか。そんなものなぞ、どうだってかまやしない。ねえ、きみには関係のないことじゃありませんか。それがいったいどれだけきみの迷惑になるというんです? きみ自身、会の一員じゃありませんか」
「じゃ、皆にぼくを監督官だとおいいなさい。ぼくは黙って坐ってますよ。しかし、紙と鉛筆はお断わりします」
「なぜ?」
「いやだ」
 ピョートルはむっとして、顔まで真っ青にしたが、またしても、自分を抑えつけて、帽子を取りながら、立ちあがった。
「あいつ[#「あいつ」に傍点]はきみのところですか?」ふいに彼は小声でこういった。
「ぼくのところにいますよ」
「それはいい。ぼくがすぐ引き摺り出してやります。心配しないでいらっしゃい」
「ぼくは心配なんかしやしない。あの男はただ夜とまるだけなんです。婆さんは病院にいるので(嫁が死んだんです)、この二日ばかりぼく一人きりなんですよ。ぼくが垣根の板が一枚はずれる場所をあの男に教えてやったところ、あの男そこから這い込むようになった。しかし、だれにも見つかりゃしない」
「ぼくは今にあの男を抑えてやるから」
「でも、あの男は、寝場所くらいいくらでもあるようにいってる」
「嘘です、あいつはお尋ね者だが、ここにいれば、当分目にかからないんですよ。いったいきみはあの男と話をしてるんですか?」
「ああ、一晩じゅう。きみのことをさんざん悪くいってますよ。ぼくがある晩、あの男に黙示録を読んで聞かして、お茶をご馳走してやると、あの男は一生懸命に聴いていたっけ。本当に一生懸命に、夜っぴて」
「へえ、馬鹿馬鹿しい。じゃ、きみはあの男をキリスト教に入れようというんですか!」
「あれはそんなことをしなくても、初めからキリスト信者ですよ。心配しなくてもいい、あの男は殺しますよ。いったいきみはだれを殺させたいんです?」
「いや、ぼくはそんなつもりで、あの男をなにしてるんじゃない。ほかに目的があるんでね……ところで、シャートフはあのフェージカのことを知ってますか?」
「ぼくシャートフとは何一つ話もしなければ、会いもしない」
「腹でも立ててるんですか?」
「いや、別に喧嘩をしてるわけじゃない、ただ背中を向け合ってるばかり。あまり長くアメリカでいっしょにごろごろしてたもんだから」
「ぼくは今すぐあの男のところへ寄るつもりです」
「ご勝手に」
「ぼくはまたスタヴローギンといっしょに、あすこの帰りにここへ寄るかもしれませんよ。まあ、十時頃に」
「おいでなさい」
「ぼくはあの男といっしょに、重大要件を相談しなくちゃ……ときに、きみの毬を譲ってくれませんか。今となって、きみになんの必要があるんです? ぼくも体操がしたいんですよ。なんなら、金を払いますよ」
「まあ、いいから持ってお行きなさい」
 ピョートルは毬をうしろのかくしにしまった。
「ぼく、スタヴローギンのためにならぬようなことは、何一つきみにさせやしませんよ」客を送り出しながら、キリーロフはこうつぶやいた。
 こちらはぎょっとして彼を眺めたが、別に返事をしなかった。
 キリーロフの最後の言葉は、なみなみならずピョートルをまごつかせた。が、彼がまだその意味をさとる暇もないうちに、早くもシャートフの部屋へ導く階段に立っていた。彼は自分の不満げな顔つきを、愛嬌のある表情に変えようと苦心した。シャートフは家にいたが、少し具合が悪かった。彼は寝床で横になっていたが、服はそのままだった。
「や、これはしまった!」とピョートルは閾の上から叫んだ。「ひどく悪いんですか?」
 彼の顔の愛嬌のある表情は、急に消えてしまった。何かしら毒々しいものがその目に閃いた。
「いや、ちっとも」シャートフは神経的に跳ね起きた。「ぼくはちっとも病気じゃない。少し頭が……」彼はうろたえたようにさえ見えた。こういう客人の思いがけない出現は、すっかり彼を面食らわしたらしい。
「ぼくが来たのも、まさに病気なぞしていられないような用件なんですよ」とピョートルは早口に、なんとなく威を帯びた調子できり出した。「まあ、坐らしてもらおう(彼は坐った)。ところで、きみもそのベッドに坐ってください。そうそう。今日はね、ヴィルギンスキイの誕生日というていで、仲間のものがあそこへ集まるんですよ。もっとも、別にどうという色彩を帯びるわけじゃけっしてない。そういう手配がしてあるんですよ。ぼくはニコライ・スタヴローギンといっしょに出かけます。ぼくも今のきみの思想を知ってるから、もちろん、そんなところへ引っ張って行くはずじゃなかったんだが…もっとも、それはきみにいやな思いをさせたくないという意味なんで、けっして、きみが密告するだろう、などと考えてのことじゃありませんよ。ところが、結局、きみに出席してもらわなけりゃならんことになったんです。あすこへ行ったら、きみは仲間のものに会って、どういうふうに脱会するか、だれにきみの預り物を渡すか、そういうことを綺麗に決めようじゃありませんか。それは目立たぬようにするんです。ぼくがきみをどこか隅のほうへ引っ張って行きますよ。なにしろ大勢いるんだから、皆が皆に知らす必要はない。実のところ、ぼくはきみのおかげで口を酸っぱくしましたよ。しかし、今じゃ皆も同意したようです。ただし、いうまでもなく、きみが印刷機械といっさいの書類を引き渡す、という条件つきでね。そうしたら、きみはもう勝手にどこへなと大手を振って行けるわけです」
 シャートフは眉をひそめて、腹立たしげに聞いていた。さきほどの神経的な驚愕は、もうすっかりどこへやらいっていた。
「ぼくはどこの何者か知れない奴に、弁白なんかする義務を少しも認めない」と彼はずばりといい切った。「だれにもせよ、ぼくを自由にする権利なんか持った者はないのだ」
「とばかりもいきませんよ。きみにはいろんな秘密をうち明けてあるんだからね。きみはそういきなり手を切ってしまうなんて、そんな権限を持ってなかった。それに、きみは今まで一度も、そのことを明白に申し出なかったから、みんな曖昧な位置に立たされるんでね」
「ぼくはここへ来るとすぐ、明瞭に書面で申し出たじゃありませんか」
「いや、明瞭じゃないです」とピョートルは駁した。「たとえば、ぼくがきみに『光輝ある人格』と、それから二種類の檄文を送って、ここで印刷に付したうえ、請求されるまでどこかきみのところへ隠しておくように頼んだ時、きみはなんの意味もなさない曖昧な手紙といっしょに、それを返送してきたじゃありませんか」
「ぼくは真正面から印刷を拒絶したのです」
「そう、しかし、真正面からじゃない。きみはただ『能わず』と書いたきりで、どういうわけか、原因を説明しなかったじゃありませんか。『能わず』は『欲せず』と違いますからね。きみは単に外部的原因のためにできなかったのだ、とこうも考えることができます。つまり、われわれはこういうふうに解釈したので、きみはやはり会との関係持続を同意したもの、と見做していたんです。だから、今後またきみに何かをうち明けて、したがって、みずから危うするおそれもあったわけです。ここの連中は、こんなことをいってるんですよ、――きみは何か重要な情報をえて、それを密告せんがために、われわれを欺こうとしてるのだ、とね。ぼくは極力きみを弁護しながら、きみにとって有利な証拠物件として、例の二行ばかりの書面の返事を見せた。しかし、いま読み返して見ると、この二行の文句は明瞭を欠いている、欺瞞に陥れるおそれがあることを、ぼく自身も認めざるをえなかったのです」
「きみはあの手紙を、そんなに大切に保存しといたんですか?」
「保存しといたって、そんなことはなんでもない。今でもぼくもってますよ」
「ちぇっ、勝手にするがいい、畜生………」とシャートフは凄まじい剣幕でどなった。「きみたち仲間の馬鹿者らは、ぼくが密告したとでもなんとでも勝手に考えるがいい。そんなことをぼくが知るものか! ただきみたちがぼくにどれだけのことをなしうるか、ぼくはそれが見たいと思うよ!」
「きみをちゃんとブラックリストにのせて、革命が成功するやいなや、一番に首を吊し上げてしまうさ」
「それはきみたちが最上権力を獲得して、全ロシヤを征服した場合のことかね?」
「きみ、わらうのはおよしなさい。くり返していうが、ぼくはきみを弁護したんですよ。なんにしても、とにかく、今日は出席するようにおすすめします。いかさまな自尊心のために、役にも立たない口をきいて何になるんです。それより、仲よく別れたほうがいいじゃありませんか。それに、なんといっても、例の印刷機と古い活字と、書類の引渡しをしなきゃならない。つまり、このことを話そうというんです」
「行きますよ」もの思わしげに首をたれながら、シャートフは唸るようにいった。
 ピョートルは自分の席からはすかいに、じろじろ彼を見つめていた。
「スタヴローギンも出ますか?」ふいに首を上げながら、シャートフは問いかけた。
「間違いなく来ます」
「へ、ヘ!」
 二人はまたちょっと黙り込んだ。シャートフは気むずかしげに、いらいらした様子で薄笑いを洩らした。
「あのぼくがここで印刷を断わったきみのけがらわしい『光輝ある人格』は、もう印刷になったんですか?」
「なりました」
「やはりあれは、ゲルツェンみずからきみのアルバムに書いたのだといって、中学生どもをだましてるんですか」
「ゲルツェンみずからですよ」
 またもや二人は、三分間ばかり押し黙っていた。とうとうシャートフは寝床から起きあがった。
「さあ、もうぼくの部屋を出てくれたまえ。ぼくはきみといっしょに坐っていたくない」
「行くよ」むしろなぜか愉快そうにこういって、ピョートルはさっそくたちあがった。「しかし、たったひと言たずねたいことがある。どうやらキリーロフは、あの離れにたった一人ぼっち、下女も置かずに暮らしているようだね?」
「一人ぼっちだ。さあ、行きたまえ。ぼくはきみと一つ部屋にいられない」
『ふん、貴様はいま本当にいい人間なんだよ!』ピョートルは往来へ出ると愉快そうに考えた。『そして、今夜もいい人間になるんだよ。おれはいま貴様に、ちょうどそういう人間でいてもらいたいんだ。実に申し分なしだ。まったく申し分なしだ。とりも直さず、ロシヤの神の加護によるのだ!』

[#6字下げ]7[#「7」は小見出し

 どうやら彼はこの日方々駆け廻って、だいぶ骨を折ったものらしい。しかも、その骨折りが成功したに相違ない、――それは、彼が晩の正六時に、ニコライ・フセーヴォロドヴィチの家へ来た時の、得意らしい顔つきにも現われていた。しかし、彼はすぐ通してもらえなかった。ニコライはたった今、マヴリーキイといっしょに書斎へ閉じこもったばかりであった。この報らせはたちまち彼を不安に駆り入れた。彼は客の帰りを待つために、戸口のすぐ傍に坐りこんだ。話は聞こえるには聞こえたけれど、言葉はどうしてもつかめなかった。この訪問はあまり長くつづかなかった。間もなく騒々しい物音が聞こえて、恐ろしく鋭い声が高く響き渡ったと思うと、続いて戸がさっと開いて、マヴリーキイが真っ青な顔をして出て来た。彼はピョートルには気もつかず、急ぎ足に傍を通り過ぎてしまった。ピョートルはすぐに書斎へ駆け込んだ。
 二人の『競争者』の異常な短い会見、――今までの行きがかり上、とうてい成立しそうもなく思われながら、実際に実現されたこの会見に関しては、詳細な説明を避けるわけにいかない。
 それはこういう具合だったのである。食後ニコライが書斎の寝いすでうとうとしていると、突然アレクセイが入って来て、思いがけない客人の来訪を告げた。取り次がれた名前を聞くと、彼は座を躍りあがって、ほとんど信ずることができないほどであった。けれど、間もなく微笑が彼の唇に輝いた。――それは傲慢な勝利の微笑だったが、同時になんだか鈍い、合点のいかないような、驚異の微笑でもあった。入って来たマヴリーキイ・ニコラエヴィチは、この微笑にはっとしたようなふうであった。少なくも、とつぜん部屋の真ん中に立ちどまって、前へすすんだものか引っ返したものか、決しかねるようなふうだった。あるじはすぐに顔の表情を改めて、真面目な怪訝の色を浮かべながら、相手のほうヘ一歩すすみ寄った。こちらは差し伸べられた手を握ろうともせず、無器用らしい手つきで椅子を引き寄せると、坐れともいわないのに、主人よりさきに腰をかけてしまった。ニコライは寝いすへはすかいに座を占めて、マヴリーキイの顔を見つめながら、言葉を発しないで待ちかまえていた。
「もしできることなら、リザヴェータ・ニコラエヴナと結婚してください」とつぜん客は叩きつけるようにこう切り出した。それに、何よりおかしいことには、声の調子だけでは、頼んでいるのやら、推薦しているのやら、譲歩しようというのやら、もしくは命令しているのやら、かいもく見当がつかなかった。
 ニコライは依然として黙っていた。が、客はもう来訪の目的である要件をすっかりいってしまったらしく、返事を待つようにじっと相手を見つめていた。
「しかし、わたしの思い違いでないとすれば(もっとも、これは正確すぎるくらいの話ですが)、リザヴェータ・ニコラエヴナとあなたは、もう婚約ができてるのじゃありませんか」とついにスタヴローギンは口を切った。
「婚約して、固めまでしたのです」マヴリーキイはきっぱりした明瞭な調子で、相手の言葉を確かめた。
「あなた方はいさかいでもなすったのですか?……失礼なことをおたずねするようですが」
「いや、あのひとはわたしを『愛しもし尊敬もし』ています、これはあのひと自身のいったことなのです。あのひとの言葉は何より確かですからね」
「それはまったくそれに相違ありません」
「ところが、あのひとは、よしんば結婚の式上で聖壇の前に立っていても、もしあなたが声をかけたら、わたしを捨て、すべての人を捨てて、あなたのところへ走ってしまいます」
「結婚の式上で?」
「結婚式の後でも」
「お考え違いじゃありませんか?」
「いや、あなたに対するやみ難い憎悪の陰から、――強い真剣な憎悪の陰から、絶え間なく愛がひらめいています……気ちがいめいた……心底からの深い深い愛、――つまり、気ちがいめいた愛です! それと反対に、あのひとがわたしにいだいている愛、やはり愛の陰から、絶え間なしに憎悪がひらめき出ています、――限りなき憎悪です! 以前だったら、わたしはこんな……メタモルフォーズを理解するようなことはなかったのですが」
「が、それにしても、どうしてあなたは、リザヴェータ・ニコラエヴナの一身について、指図がましいことをいいに来られたのか、それがわたしは不思議ですね。そういう権利を持っておられるんですか? それとも、あのひとが委任されたのですか?」
 マヴリーキイは顔をしかめて、ちょっと首をたれた。
「それはあなたとして、ただの辞令にすぎないです」とふいに彼はいった。「うまくやっつけてやったという、勝ち誇った言葉です。あなたは言外の意味を汲み取ることのできる人だと、こうわたしは信じています。いったいこの場合、ちっぽけな虚栄心など入り込む余地があるでしょうか? いったいあなたはこれでも満足できないのですか? いったいまだこのうえに、恥の上塗りをしなくちゃならないのですか、屋上屋を架する必要があるのですか? よろしい、それほどわたしの屈辱が見たければ、わたしは恥の上塗りをしましょう、――権利なぞもっていません、委任などもあるべきはずがない。リザヴェータ・ニコラエヴナはなにもごぞんじないのです。ところが、許婚《いいなずけ》の夫はもうすっかり性根を失くしてしまって、癲狂院にでも送られそうな有様になっています。おまけに、それでもまだ足りないで、あなたのところへそれを報告に来ているのです。世界じゅうで、あのひとを幸福になしうるのは、あなたをおいてほかにありません。そしてまた、あのひとを不幸になしうるのは、わたし一人なんです。あなたはあのひとを争い取ろうと、しきりにつけ廻しておられます。しかし、なぜだが知れませんが、結婚しようとはなさらない。もしそれが外国で始まった恋人同士の喧嘩で、その片をつけるためにわたしを犠牲に供しようというのなら、どうかそうしてください。あのひとがあまり不幸な身の上だから、わたしはそれを見るに堪えないのです。わたしの言葉は許可でもなければ命令でもありません。だから、あなたの自尊心も傷つけられるわけはありますまい。まああなたがわたしに代わって聖壇の傍に席を占めたければ、あなたはわたしの許可なぞ受けないでも、そのとおりにされてかまわないのです。そうすれば、わたしは何もこんな気ちがいじみたことをいうために、ここへ来る必要はもちろんなかったのです。ことに、わたしの結婚は今のわたしの行為によって、ぜんぜん不可能になってしまったのですからね。わたしは卑劣漢となってまでも、あのひとを祭壇へ導くことはできません。わたしがここでしていることは、わたしがあなたにあのひとを売るということは、あのひとにとって不倶戴天の仇に売るということは、わたしの目から見ると、いうも愚かですが、とうていゆるすべからざる卑劣な振舞いですからね」
「あなたはわたしたちの結婚のとき自殺しますか?」
「いや、ずっと後です。わたしの血であのひとの晴れの衣裳を汚して何にしましょう。もしかしたら、まるで自殺しないかもしれません、今も、また今後も」
「あなたはたぶんそういって、わたしを安心させようと思ってるのでしょう」
「あなたを? 余計な血が一しぶき飛んだからって、それでびくともするあなたでしょうか?」
 彼は真っ青になった。その目はぎらぎら輝いた。つかの間の沈黙が続いた。
「失礼なことをおたずねしてすみませんでした」とさらにスタヴローギンは口を切った。「中でも二、三の事柄は、全然おききする権利を持っていなかったのです。しかし、ただ一つのことだけは、十分おたずねする権利があるように思われます。ほかじゃありませんが、あなたはどういう根拠があって、リザヴェータ・ニコラエヴナにたいするわたしの感情を、ああいうふうに結論なすったのですか。つまり、わたしがいうのは、その感情の程度なんです。それについて、あなたに確信があったからこそ、こうしてわたしのところへやって来て……そして、ああいう勧告の冒険をあえてなすったのでしょう」
「なんですって?」マヴリーキイは心持ちぴくりとした。「いったいあなたは、あの人を獲ようとしていたんじゃないのですか? 獲ようと努めてるんですか? 獲たいと思ってるんじゃないのですか?」
「全体として、わたしは婦人に対する自分の感情を、その当人以外だれであろうとも、第三者に口外するわけにいきません。失礼ですが、それが人間機能の不思議な性質なんですから。その代わりほかのことなら、何もかもすっかり本当のことを申します。わたしは妻帯の身です。だから結婚したり、女を『獲ようとしたり』することは、不可能なんです」
 マヴリーキイはもうすっかり仰天してしまって、肘掛けいすの背によろめきかかった。そして、しばらくのあいだ身じろぎもせず、スタヴローギンの顔を眺めていた。
「これはどうだ。まるでそんなことは思ってもいなかった」と彼はつぶやいた。「あなたはあの時、あの朝、結婚してないといわれたので、わたしはそのとおり信じていました、結婚してはいられないんだと……」
 後は恐ろしくあおくなった[#「12381」はママ]。とつぜん彼は拳を固めて、力まかせにテーブルを撲りつけた。
「もしきみがこんな告白をした後までも、やはりリザヴェータ・ニコラエヴナにつきまとって、あのひとを不幸に落とすようなことがあったら、ぼくはきみを塀の下の犬のように、棒で撲り殺してしまうから!」
 こういうなり、彼は躍りあがって、足早に部屋を出てしまった。いきなり駆け込んだピョートルは、あるじがまるで思いがけない機嫌でいるのを発見した。
「ああ、きみですか!」とスタヴローギンはからからと高笑いした。それは、矢も楯もたまらぬ好奇心にかられて駆け込んだピョートルの恰好が、おかしくて笑ったにすぎないらしい。
「きみは戸口で立ち聴きしてたんでしょう? ちょっと待ってください、きみはなんの用事で来たんでしたっけね? なんだかきみに約束したはずなんだが……ああそう、思い出した、『仲間』の所へ行くんだっけ! 行きましょう、たいへんけっこう。今のところ、これより好都合なことは、きみも考えつくわけにはいかなかったろうよ」
 彼は帽子を取った。二人はさっそく家を出た。
「あなたは『仲間』が見られるからって、もう今から笑ってるんですね」愉快そうにちょこちょこしながら、ピョートルはこういった。後は、時には狭い煉瓦の歩道を、つれと並んで歩こうと骨折ったり、時には車道のほうへ駆けおりて、ぬかるみの真ん中へ踏み込んだりした。それはつれのニコライが、自分ひとり歩道の真ん中を歩きながら、自分の体でいっぱい幅をしているのに、まるで気がつかなかったからである。
「ちっとも笑ってやしない」とスタヴローギンは大きな声で、愉快そうに答えた。「それどころか、あすこに集まってるきみの仲間は、だれよりも一番まじめな人たちだと、信じてるんですよ」
「『気むずかしい鈍物ども』でしょう。これはいつかあなたのいった評言ですよ」
「でも、人によっては、『気むずかしい鈍物』ほど愉快なものはないね」
「それは、あのマヴリーキイのことをいってるんでしょう! あの人は今あなたに婚約の女を譲りに来たんでしょう、それに相違ない、ね? 実は、ぼくが間接に、あの男をけしかけたんですよ、驚いたでしょう。しかし、あの男が譲ってくれなけりゃ、ぼくらは自分であの男の手から取るだけでさあ、――ね?」
 こういう小細工を弄するのが、危険だということは、むろん百も承知しながら、ピョートルはいつも興奮に駆られると、いっそ何もかも犠牲にしたってかまわない、未知の境に立たされるよりはましだ、という気になるのであった。ニコライはただからからと笑った。
「じゃ、きみは今でもやはり、ぼくの手伝いをするつもりなんですか?」と彼はたずねた。
「もしあなたのお声がかりがあったら。しかしねえ、ここに一つ何よりうまい方法があるんですがね」
「きみの方法なんかちゃんとわかってる」
「へえ、しかし、これは当分秘密です。ただね、おぼえておってください。この秘密は金がかかるんですよ」
「いくらかかるかということまでわかってらあ」とスタヴローギンは口の中でつぶやいたが、やっと押しこたえて、黙ってしまった。
「いくらかかるか? あなたはなんといったのです?」とピョートルは躍りあがった。
「ぼくはね、きみなんかその秘密とやらを持ってどこなと行くがいい、とこういったのさ! それよりか、きみ、あすこへどういう人が来るんです? むろん、命名日に呼ばれて行くってことは、ぼくもちゃんと知ってますがね、いったいだれだれがやって来るんです?」
「ああ、それはもう思いきって有象無象の集まりなんでさあ! キリーロフもやって来ますよ」
「みんな各支部の会員ばかり?」
「ちょっ、馬鹿馬鹿しい、あなたもずいぶんせっかちですねえ! まだ支部なんてものは、一つも成立してやしませんよ」
「へえ、だって、きみはずいぶん檄文を撒き散らしたじゃありませんか?」
「いまぼくらが出かけているところには、皆で四人だけ会員がいます。あとの連中はみんなあるものを待ちかまえながら、互いに競争で探偵し合っては、そいつをぼくに報告するんですよ。なかなか有望な連中です。とにかく、みんなまだ材料にすぎないんだから、こいつを組織立てて、整理しなきゃならないんです。もっとも、あなたは自分で規約を書いたんだから、あなたに説明なんかする必要はありませんね」
「どうです、なかなかうまく進行しませんか? 一頓挫きたしたんですか?」
「進行? たやすいことこのうえなしでさあ。一つあなたを笑わしてあげましょうか。まず何より彼らにききめがあるのは、――ほかでもない官僚式です。官僚式以上に、よく利くものはありませんね。ぼくはわざと官等や職務を考え出してるんです。秘書官もあれば、秘密監視もあり、会計係もあれば、議長もあり、記録係もあれば、その助手もありというふうだ、――それが大変お気に召して、恐ろしく歓迎されたんですよ。それに次ぐ力は、もちろん感傷主義です。ねえ、ロシヤに社会主義がひろまったのは、主として感傷主義のためですからね。ただ困ったことには、例の咬みつき少尉みたいな連中が出て来ます。ちょいと油断してると、すぐもう鎖を切ってしまうんですからね。その次は本当の詐欺師連です。これはなかなかいいです。時によっては、大いに役に立ちます。が、その代わりこの連中には、ずいぶん時間が潰れるんです。ちょっとも油断なしに、監督しなくちゃなりませんからね。ところで、最後に最も重要なる力は、――ほかじゃありません、自分自身の意見に対する羞恥です、――これはいっさいを結合させるセメントです。実に素晴らしい力ですぜ! 実際、だれ一人の脳中にも、自己の思想というものが一つも残らなくなったとは、いったいまあだれが努力した結果なんでしょう? いったいどこの『感心な男』の仕業なんでしょう? まるで恥辱のように思ってるんですからねえ」
「そういうわけなら、きみはなんだってそんなにやきもきしてるんです?」
「でも、何をするでもなく暢気に寝そべって、人のすることをぽかんと口を開けて見てるようなやつは、引っかけて来ずにいられないじゃありませんか? どうもあなたは成功の可能を、真面目に信じていないようなふうですね。なに、信念はあるんです。ただ欲望が必要なんですよ。つまり、ああいう連中が相手だから、成功が可能なんです。ぼくはあえていいますがね、あの連中なら火の中でも潜らしてみせますよ。ただお前の自由思想はまだ不十分だ、とこうどなりつけさえすりゃいいんでさあ。馬鹿者どもはぼくが中央本部だの、『数限りない支部』だのと出たらめをいって、この町の連中をだましたと非難しています。現在あなたも、いつかそのことでぼくを責めたでしょう。しかし、それにいったいどんな嘘があるのです。中央本部はぼくとあなたです。支部なんかはいくらでもできまさあね」
「それがどれもこれも、あんなやくざ者ばかりだ!」
「材料ですよ。あれだって役に立つこともあります」
「で、きみはやはりぼくを当てにしてるんですか?」
「あなたは領袖です、力です。ぼくはただあなたの傍についてる一介の秘書官にすぎません。ねえ、ぼくらはあの小舟に乗り込むんですよ。かえでの櫂に絹の帆張りで、艫《とも》には麗《くわ》し乙女子の、リザヴェータのきみぞ坐したもう……とかなんとかいうんだったね、あの歌は……ええ、どうだっていいや」
「つまっちゃった」とスタヴローギンは高笑いした。「いや、それよりももっといいお話をしよう。きみはいま指を折って、会を成立させる力を数えましたね。その官僚式とか感傷主義とかいうものも、むろん立派な糊に相違ないだろうが、まだ一つもっともいいものがある。ほかではない、四人の会員をそそのかして、もう一人の会員を、密告のおそれがあるてなことをいって、殺さすんですよ、そうすると、きみはすぐさま、その流された血によって、四人の者を固く一つ絆《きずな》に繋ぐことができる。彼らはもうすっかりきみの奴隷になりきって、叛旗を翻すこともできなければ説明を要求することもできなくなってしまいますよ。ははは!」
『だが、貴様は……だが、貴様はその言葉を、おれから買い戻さなくちゃならないぞ』とピョートルは心の中で考えた。『今夜すぐにもそうさしてみせるから。貴様はあまり無遠慮すぎるぞ』
 こういうふうに、もしくはほとんどこういうふうに、ピョートルはこころの中で、考え込まざるをえなかった。とはいえ、二人はもうヴィルギンスキイの家に近づいていた。
「きみはもちろん、あの連中にぼくのことを、外国か何かからやって来た、インターナショナルと関係のあるメンバーのように触れ込んだね、監督官かなんぞのように?」ふいにスタヴローギンはこうたずねた。
「いや、監督官じゃありません。監督官になるのはあなたじゃありません。あなたは外国から来た創立委員で、いろいろ重大な機密を知ってる、――これがあなたの役廻りなんです。あなたはもちろん何か話すでしょうね?」
「それはきみどういうところから決めたんです?」
「もうこうなった以上、話すべき義務がありますよ」
 スタヴローギンは驚きのあまり、街燈からほど遠からぬ往来の真ん中に立ちどまった。ピョートルは大胆にも、平然と相手の視線をじっと受け止めた。スタヴローギンはぺっと唾を吐いて、またさっさと歩き出した。
「で、きみは何を話すんですか?」とつぜん彼はピョートルに問いかけた。
「いや、ぼくはまあ、あなたの話でも聞いてましょうよ」
「こん畜生! きみは本当にぼくに暗示を与えたよ!」
「どんな?」とピョートルは飛び出した。
「いや、たぶんあちらで話すでしょうよ。しかし、その代わり後できみに仕返しをしますよ。しかも、うんと仕返しするんですよ」
「ああ、それで思い出したが、ぼくはさっきカルマジーノフにこういったんですよ、――つまり、あなたがカルマジーノフのことを、あの男はぶん撲ってやらなけりゃならん、それも形式的なものじゃなくって、百姓かなんぞ撲るように、本当に痛い目を見せてやらなきゃならん、とこんなことをいってたってね」
「だって、ぼくは一度もそんなことを言やしませんよ、は、は!」
「なに、かまやしませんよ。〔Se non e` vero〕(本当でないにしても)……」
「いや、ありがとう、心から感謝します」
「ところでねえ、まだカルマジーノフがこんなことをいうんですよ。われわれの教義は、本質上、廉恥心の否定だ、そして破廉恥に対する公然の権利ほど、ロシヤ人を釣るいい餌はない、とこういうのです」
「名言だ! 金言だ!」とスタヴローギンは叫んだ。「すっかり図星だ! 破廉恥に対する権利、――なるほど、これじゃみんなわれわれのほうへ帰順しちゃって、一人も残るものはなくなってしまうだろう! ときに、ヴェルホーヴェンスキイ君、きみは高等警察の廻し者なんですか、え?」
「そんな疑問を心にいだいている人は、けっしてそれを口ヘ出しゃしません」
「そりゃそうだ。しかし、ぼくらは内輪同士じゃありませんか」
「いや、今のところ高等警察の廻し者じゃありません。もうたくさん、来ましたぜ。さあ、スタヴローギンさん、一つあなたの顔の造作をこしらえてください。ぼくはあの連中のところへ出る時、いつもやるんです。なるべく陰気らしい様子をすればいいのです。ほかになんにもいりゃしません。ごく簡単な細工でさあ」

[#3字下げ]第7章 仲間[#「第7章 仲間」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 ヴィルギンスキイはムラヴィーナヤ街にある自分の家、といって、つまり、細君の持ち家に暮らしていた。木造の平屋建てで、別に同居人というものはなかった。主人の誕生日というふれ込みで、十五人からの客が集まったが、ありふれた地方の誕生日の集まりらしいところはいっこうなかった。ヴィルギンスキイ夫婦は共同生活を始めたそもそもから、命名日に客を集めるのは馬鹿げている、それに『何も嬉しがることは少しもないじゃないか』ということに、ぴしっと決めてしまったのである。この二、三年に二人の者は自分のほうで、もうすっかり社会から遠ざかってしまった。彼は相当才能もあって、『気の毒なやくざ者』などというような人物ではなかったが、なぜか世間では彼のことを、孤独を好んで、『高慢ちきな』ものの言い方をする男のようにいっていた。マダム・ヴィルギンスカヤにいたっては、産婆を商売にしているのだから、夫が将校相当の官位を持っているにもかかわらず、すでにそれ一つだけでも社会の一段ひくい階級に立って、坊主の家内より下に見られているわけだが、彼女の態度にはその使命に相当した、へりくだった心持ちはもうとう見受けられなかった。ところが、例のまやかし者のレビャードキン大尉と、馬鹿馬鹿しい関係を結んだうえ、それをば主義から出たことだとかなんとかいって、ずうずうしくも露骨な振舞いをして以来、町の婦人連の中で一ばん気位の低い人たちでも、一方ならぬ軽蔑の目をもって顔をそむけてしまった。けれど、マダム・ヴィルギンスカヤはそういうふうのことをも、これこそ自分の願うところだというような態度であしらっていた。
 しかし、ここに注意すべきは、この厳格な貴婦人たちもただならぬ体になると、この町にいるほかの三人の産婆をさし措いて、なるべくアリーナ・プローホロヴナ(つまり、マダム・ヴィルギンスカヤ)にかかりたがるのであった。郡部のほうからでさえ、地主あたりが迎えに来るという有様で、異常な場合における彼女の知識と技術と、そして運強いことが、すっかり信じ込まれたのである。で、彼女もしまいには、一ばん金持ちの家でなければ、出入りしないようになってしまった。もちろん、金は強欲といっていいほど好きなのだった。十分わが力量に自信ができると、彼女はもう少しの遠慮もなく、わがまま一杯に振舞った。ことによったら、わざとかもしれないが、上流の立派な家に出入りしながら、まあなんだか聞いたこともないような、ニヒリスト流の無作法な振舞いや、『すべての神聖なるもの』に対する冷笑などで、神経の弱い産婦の荒胆をひしぐのであった。しかも、『神聖なるもの』のことさら必要な瞬間を選んでやっつけるのだ。町の医者のローザノフ(これも産科医)の証言によると、あるとき産婦が苦痛に堪えかねてさけびながら、全能の神の御名を呼んでいるとき、ヴィルギンスカヤは思いがけなく、まるで鉄砲の火蓋でも切ったように、そうしたふうな冒涜の言葉を吐いた。ところが、これが産婦に強い驚愕をひき起こして、かえって分娩を早めたという話である。
 もっとも、ニヒリストとはいいながら、ヴィルギンスカヤも必要に応じては、単なる上流社会の風習のみか、きわめて古い迷信的な習慣すらも、けっしておろそかにするようなことはなかった。が、それはこういう習慣によって、利益をうる場合に限るのであった。たとえば、自分の取り上げた赤ん坊の洗礼式などは、どんなことがあっても、のがしっこなかった。そういう時、彼女は尻尾のついた緑色の絹の服を着て、入毛をうねらしたりちぢらしたりしてやって来た。そのくせ、ふだんは自分のお引摺りを痛快に感じるほどの女であった。聖なる儀式の行なわれる間じゅう、いつも坊さんがまごつくほど、『高慢ちきな顔つき』をしているが、式がすんでしまうと、必ず自分でシャンパンを注いでまわる(つまり、そのためにお洒落をして来るのだ)。そして、もし彼女にご祝儀をやらないで杯を取ろうものなら、それこそ大変な騒ぎである。
 今夜ヴィルギンスキイのところに集まった客は(大抵みんな男だった)、偶然どこからか寄せ集めたような、一種異様な風体をしていた。摘物《ザクースカ》もなければ、カルタもなかった。恐ろしく古い空色の壁紙を張った客間の真ん中には、二つのテーブルがくっつけ合って据えられ、その上から大きくてたっぷりはしているが、あまりきれいでないクロースを掛けてあった。テーブルの上には湯沸《サモワール》が二つたぎっていた。二十五のコップをのせた大きな盆と、男女学生を置いた厳格な寄宿舎にでもありそうな、ありふれたフランスパンを薄く切ったのを山ほど盛った籠が、テーブルの一方のはじを占領している。三十恰好の老嬢が茶を注いでいた。これは、女あるじの姉に当たる、眉のない、白っぽい毛をした、無口な、ひねくれた女で、新しい思想にも共鳴していた。主人のヴィルギンスキイさえ家庭内の生活では、いたくこの女を恐れている。
 部屋の中には、つごう三人の女がいた。女あるじと、眉なしの姉と、ペテルブルグからやって来たばかりの、主人ヴィルギンスキイの親身の妹、――という顔触れだった。アリーナ・プローホロヴナは、顔だちもさして悪くない、二十七ばかりの押出しの立派な婦人だったが、いくぶん頭をばさばささして、かくべつ晴着でもないらしい、青みがかった毛織の服を着込んでいた。大胆な目つきで客を見廻しながら、かまえ込んでいる様子は、『見てください、わたし何も恐ろしいものはないんですから』ということを、知らせたくてたまらないらしかった。きょう着いたばかりのヴィルギンスカヤ嬢、――例のニヒリストの女学生は、やはり相当に美しい顔だちだったが、脂が廻って肉づきがよく、まるで毬みたいにころころしていた。恐ろしく赤い頬っぺたをして、背はあまり高くなかった。何やら書類を巻いたものを手にしながら、まだ道中着のまま、アリーナの傍に陣取って、さもじれったそうな、躍りあがるような眼ざしで、きょろきょろ一座を見廻していた。あるじのヴィルギンスキイは、今夜すこし気分がすぐれなかったが、それでもやはり客間へ出て来て、ティー・テーブルの前なる肘掛けいすに腰を下ろした。客一同も同様に座に着いていた。こうして一つのテーブルを囲み、きちんと行儀よく椅子に腰かけた一座の様子には、いかにも何かの会議らしい気分が感じられた。見受けたところ、一同は何やら待ち設けているらしかった。そして、待っている間に、声高な調子ではあるが、なんとなくよそごとらしい会話を続けていた。スタヴローギンとヴェルホーヴェンスキイが姿を現わした時、一座は急にぴったりと鳴りを静めた。
 ここでわたしは叙述の正確を期するために、ちょっとした説明を加えようと思う。
 わたしの考えでは、これらの人々は、実際なにか特別耳新しいことを聞き込むつもりで、それを楽しみに集まったものらしい。しかも、前もって予告を受けて、集まったものに相違ない。彼らはこの古い町でもことに濃厚な赤色を呈した、自由主義の代表者なのであった。そして、ことさらこの『集会』のために、きわめて慎重な態度をもって、ヴィルギンスキイが取捨選択したのである。もう一つ断わっておくが、この連中のある者は(もっとも、ごく少数な人たちである)、今まで一度もこうした集会に出席したことがなかった。もちろん大多数のものは、なんのためにこんな通知があったのか、はっきり知らないくらいだった。もっとも、彼らはすべてその当時ピョートルを、臨時に密使としてロシヤヘ帰って来た海外全権委員のように考えていた。この想像はどういうわけか、間もなく正確無比なものとされ、かつ自然の結果として、人々の気に入ったのである。
 とはいえ、誕生日の祝いを口実に集まったこの社会人のむれの中には、はっきりとある任務を依頼された人も幾たりかあった。ピョートルはもうこの町へ来てから、モスクワや郡部の将校仲間で、すでにできあがっているような、『五人組』を組織してしまったのである。ついでながら、この『五人組』はX県にもできていたそうである。五人組は今も大テーブルに向かって座を占めていたが、きわめて巧妙に、平々凡凡たる顔つきをとりつくろっているので、だれ一人そんなことに気のつくものはなかった。もはや今では、秘密でもなんでもないからいってしまうが、それは第一にリプーチン、次にあるじのヴィルギンスキイ、ヴィルギンスカヤ夫人の弟にあたる耳の長いシガリョフ、リャームシン、それから最後に、トルカチェンコという奇妙な男だった。もう四十を越した年輩で、ロシヤ民衆――主として悪党や泥棒――の偉大な研究者として知られていた。ことさら居酒屋ばかり巡歴して(もっとも、これは民衆研究のためばかりでない)、汚い服や、タールを塗りこくった兵隊靴や、妙に目に皺を寄せたずるそうな顔つきや、気取った俗語などを自慢にして、仲間にひけらかしている男だった。以前リャームシンは一度か二度ほど、この男をスチェパン氏のところの集まりに連れて行ったことがあるが、別に大した印象も残さなかった。この男が町へ姿をあらわすのは、特に職がない時で、普通は鉄道などに勤めていた。
 この五人組は、自分らこそロシヤ全国に散在している何百何千という同じような五人組の一つだ、そして自分たち一同はある偉大な、とはいえ、秘密の中央団体の意志で動き、その中央機関はさらに欧州におけるインターナショナルと有機的に連絡を保ってるのだ、というおめでたい信念をいだいた第一の集団であった。しかし、残念ながら、彼らの間にも内輪もめが現われ始めたことを、認めざるをえない。それはこういうわけである。彼らはすでに春ごろから、初めトルカチェンコによって、次によそから来たシガリョフによって、あらかじめ予告されていたピョートルの到着を、待ちくたびれていたので、彼から何か異常な奇蹟のようなものを期待して、いささかの批判も反省もなしに、二つ返事で即座に結社へ入ったのである。けれど、五人組が成立するやいなや、さっそく彼らは腹を立てたらしい様子である。しかも、その原因は、わたしの想像するところ、自分たちがあまり速く承知してしまったからである。もちろん、彼らは後で『意気地がなくて入らなかったのだ』などといわれたくないために、寛大な羞恥心から入会したわけなのだが、それにしても、いま少し自分たちの立派な勲功を、ピョートルに尊重してもらいたかった。少なくもお礼として、何か非常に重大な意義を帯びた、逸話でも話すのが当然である。が、ピョートルは、彼らの道理至極な好奇心をけっして満足させようとせず、余計なことは何一つしゃべらなかった。そして、目に見えて厳格な、おまけに人を馬鹿にしたような態度で、彼らを遇するのであった。これがすっかり五人の者に癇癪を起こさせてしまった。シガリョフなどはほかの五人組を焚きつけて、『説明を要求しよう』といきまいた。しかし、それはもちろん、今ここで、――はたの者の大勢あつまっている、ヴィルギンスキイの家でいうのではない。
 はたのものといえば、もう一つわたしの感じたことがある。前に述べた五人組の仲間は、この晩ヴィルギンスキイの家に集まった客の中に、何か自分たちの知らぬほかの団体に属したものがいはしないか、とこんなことを疑っているのであった。しかも、この団体はやはり秘密な性質のもので、同じくヴェルホーヴェンスキイの手によってこの町に組織されたものと信じていた。で、結局、この席に集まったすべての者は、互いに相手のはらを探り合って、互いに妙な気取った態度を持し合っていた。こういう事情は、この集合の席になんとなくちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]な、いくぶん小説じみた気分を与えたのである。もっとも、中には全然そういう疑惑の圏外に立っている人もあった。たとえば、ヴィルギンスキイの近い親戚に当たる現役少佐などがそうであった。彼はごくごくナイーヴな人間で、今夜も別に招待されたわけではないが、自分から命名日の祝いと称してやって来たので、どうしても断わるわけにいかなかったのである。しかし、夜会のあるじは平気だった。『なに、大丈夫、密告などするものか』と多寡をくくっていたからである。生まれつきのろまな性質にもかかわらず、これまでしじゅう、極端な自由主義者の出入する場所をうろつき廻るのが好きなのであった。自分では別に同感しているわけではないが、人の話を聴くのが大好きなので。それに、幾分うしろ暗いところもあった。というのは、若い時分『警鐘《コロコル》』([#割り注]ゲルツェンが英国で発行した雑誌[#割り注終わり])と幾種類かの檄文を、倉に入れても余るほど取り次いだことがあった。もっとも、自分ではページをめくって見るのも恐れたくせに、その取次を断わるのはこの上もない卑怯なことと思い込んだのである、――ロシヤにはこういう人間が、今でもたまには見つかる。
 その他の客は、いらだたしいほど圧迫された高潔な自尊心の所有者といったタイプでなければ、熱しやすい青春期の最初の高潔な発作を感じているタイプであった。中には、二、三人の学校教師もあった。一人はもう四十五ばかりのびっこの中学教師で、恐ろしく皮肉な、人並みはずれて虚栄心の強い男だった。二、三の将校もいたが、中の一人はごく若い砲兵将校だった。これはつい近頃、ある陸軍の学校を出て、この町へ来たばかりではあり、恐ろしく無口な少年なので、まだだれとも知己を結ぶ暇もなかったのに、今夜とつぜんヴィルギンスキイのところに現われて、鉛筆を手にかまえ込んでいる。そして、ほとんど話にも口を出さず、絶え間なく手帳に何やら書き留めているのであった。一同はむろんそれを見ていたが、なぜか気がつかない振りをしようと努めていた。そこにはまたリャームシンとぐるになって、聖書売りの女の籠に猥雑な写真を押し込んだのらくら者の神学生もいた。大柄な若いもので、磊落らしいと同時にうさん臭そうな素振りのうえに、いつも人のあらでもさがしているような微笑を浮かべ、自分ほどえらいものはないぞというような、得々たる落ちつき払った顔つきをしていた。それからまた、なんのためか知らないけれども、この町の市長の息子も出席していた。例の年に似合わずすれからした不良少年である。この男のことは、可憐な中尉夫人のできごとを話す時、すでに説明しておいた。彼は一晩じゅうだまり込んでいた。それから、最後に一人中学生がいた。並みはずれて熱しやすい、髪をくしゃくしゃに掻き乱した、十八ばかりの少年で、自己の尊厳を傷つけられた若者といったようなふうで、沈んだ顔つきをしながら腰かけていたが、見受けたところ、自分の十八という年が苦になってたまらないらしい。この小わっぱが、中学の上級に組織されていた、ある陰謀団の団長になっていることが後でわかって、一同をあっといわしたものである。
 わたしはシャートフのことをいわなかった。彼はテーブルのうしろのほうの隅に陣取り、椅子を人より少し前へ引き出して、じっと足もとを見つめながら、陰気くさく黙り込んでいた。茶もパンも辞退して、しじゅう手に帽子をつかんだまま控えている様子は、おれは客じゃなくて、用事で来ただけだから、気さえ向けばすぐ立って出てしまうぞ、ということを知らせるつもりらしかった。彼の傍からほど遠からぬところに、キリーロフも座を占めていた。同様に押し黙っていたが、足もとなど見つめてはいず、それどころか、例の光のない据わって動かぬ目で、話し手の顔を一人一人穴のあくほど見つめながら、いささかの興奮も驚異の色もなく傾聴していた。初めて彼を見る客の二、三は、もの案じ顔に盗むように、まじまじと彼をうち守っていた。
 ヴィルギンスカヤ夫人が五人組の存在を知ってるかどうか、確かなことはわからなかったが、わたしの想像では、何もかも知っているらしかった。つまり、夫の口から洩れたのである。女学生はもちろん、なんにも関係していなかった。彼女にはまた自分の心配があった。彼女はほんの二、三日ここに逗留して、それから、大学所在地を一つ一つ歴訪しながら、先へ先へと進んで行く計画だった。それは、『貧しい大学生の苦しみに参与して、彼らに抗議を提出させよう』というのである。彼女は石版刷の宣伝書を幾百枚か持っていたが、それはどうやら彼女自身の起草に係るものらしい。ここに注意すべきは、例の中学生が、一目この女学生を見るやいなや、さながら不倶戴天の仇のように憎み出した一事である。そのくせ、中学生が彼女を見るのは生まれて初めてだし、彼女とてもご同様なのであった。少佐は彼女の親身の叔父に当たっていた。きょう会ったのは十年振りなのである。スタヴローギンとヴェルホーヴェンスキイが入って来たとき、彼女の頬は苺のように真っ赤になっていた。たったいま叔父を相手に、婦人問題に関する主張の相違で一議論やったばかりなのである。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 ヴェルホーヴェンスキイはほとんどだれにも挨拶せず、目立って無作法な恰好で、上席の椅子にどかりと身を投げた。その顔つきは気むずかしげといおう[#「といおう」はママ]より、むしろ傲慢なくらいだった。スタヴローギンは丁寧に会釈したが、一同は二人が来るのばかり待ちかねていたくせに、みんな号令でもかかったように、二人の姿にほとんど気のつかない振りをしていた。スタヴローギンが席に着くやいなや、主婦は厳めしい態度でそのほうへ振り向いた。
「スタヴローギンさん、お茶をあがりますか?」
「いただきましょう」とこちらは答えた。
「スタヴローギンさんにお茶」と彼女は注ぎ手に号令をかけた。「あなた、あがりますか?」(これはヴェルホーヴェンスキイにいったので)
「むろんもらいますとも、そんなことをお客にきく人がありますか? それから、クリームもお出しなさい。いったいあなたのところではいつもお茶と称して、なんだかえたいの知れないものを出すんですからね。しかも、今日は命名日の祝いじゃありませんか」
「え、じゃ、あなたも命名日をお認めになるんですか?」と出しぬけに女学生が笑い出した。「たった今その話をしたばかりですのに」
「古くさい」と中学生がテーブルの向こうの端からつぶやいた。
「古くさいとはなんですか? どんなに無邪気なものであろうとも、偏見を忘れるってことは、けっして古くさかありません。それどころか、恥ずかしいことには、今日まで新しい意義のあることになってるのです」女学生は、しゃくるように椅子から乗り出しながら、さっそくこうやり返した。「それに無邪気な偏見なんてありゃしません」と彼女はやっきとなっていい足した。
「ぼくはただ、こういうことがいいたかったのです」中学生は恐ろしく興奮し出した。「偏見なるものは、もちろん古いしろもので、撲滅すべきものに相違ありません。しかし、命名日が馬鹿馬鹿しい黴の生えたしろものだってことは、もうだれでも承知しています。そんなもののために、貴重な時間をつぶす価値はありません。そうでなくってさえ、世界じゅうの人が空しく逸してしまった貴重な時間じゃありませんか。そんなことより、もっと必要の切迫した事柄に、あなたの機知を利用したほうがよかないでしょうか……」
「あんまり長ったらしくって、なんのこったかわかりゃしない」と女学生は叫んだ。
「ぼくは、どんな人でもほかの者と同じように、発言権を有していると思います。だから、ぼくがほかの人と同じように、自分の意見を発表しようと望んでいる以上……」
「だれもあなたの発言権を取りゃしませんよ」と今度はもう主婦が自分で口を出して、言葉するどくさえぎった。「ただね、口の中でむにゃむにゃいわないでくれと頼んでるのです。だって、あなたのいうことは、だれにもわからないじゃありませんか」
「しかし、もうひと言いわしてください。あなた方はぼくを尊敬してないんですね。ぼくが、かりに自分の考えをじゅうぶん表白しえなかったとしても、それはけっしてぼくに思想が欠乏しているからじゃない、むしろ思想があり余ってるからです……」と中学生はほとんど夢中になってつぶやいたが、すっかりまごついてしまった。
「話すことができなきゃ、黙ってらっしゃい」と女学生は、叩きつけるようにいった。
 中学生はもう椅子から躍りあがった。
「ぼくはただこういうことをいいたかっただけです」羞恥の念に体じゅう燃え立たせながら、あたりを見廻す勇気もなく、彼はこう叫んだ。「あなたがその利口さを見せびらかしに出しゃばったのは、ただスタヴローギン氏が入って来たからです、――それっきりです!」
「あなたの思想はけがれています。背徳の思想です。そして、あなたの発達の劣等さを暴露しています。もうわたしに話しかけてもらいますまい」と女学生はぷりぷりしながらいった。
「スタヴローギンさん」と主婦は口を切った。「あなたのいらっしゃる前、つい今までここで家庭の権利ということを、やかましく論じていましたの、――その将校なんですよ(と彼女は親戚に当たる少佐を顎でしゃくった)。むろんわたしは、とうの昔に解決されている古臭い無意味な問題で、あなたを煩わそうとは思いませんが、しかし、いったいどこからそんな家庭の権利だの、義務だのというものが生じたのでしょう? つまり、いま一般に考えられているような、偏見の意味を帯びた権利や義務のこと、それが問題なんですの。あなたのご意見は?」
「どこから生じたとは、なんのこってす?」とスタヴローギンは問い返した。
「それはこうですの。たとえば、神に関する偏見が雷鳴や電光から生じたのは、われわれ一般に知れきったことでしょう」まるでスタヴローギンに躍りかかるような目つきで、またもや女学生が出しぬけに口を開いた。「原始の人類が雷鳴や電光に驚いて、そういうものに対する自己の弱小を感じたために、この目に見えぬ敵を神化したということは、わかり過ぎるくらいわかっています。しかし、家庭に関する偏見はどこから生じたのでしょう? また家庭そのものはどうしてできたのでしょう?」
「それとこれとは、ちょっと違いますよ……」と主婦は押し止めようとした。
「そういう質問に答えるのは、少々ぶしつけじゃないかと思います」とスタヴローギンはいった。
「どうしてなんですの?」と女学生はしゃくるように前へ乗り出した。
 けれど教師仲間のサークルで、押し潰したような盗み笑いが聞こえた。すると、いま一方の隅から、リャームシンと中学生がすぐそれに声を合わせた。続いて、親戚の少佐のしゃがれた高い笑いが起こった。
「あなたは、ヴォードビルでもお作りになったらいいでしょうよ」主婦はスタヴローギンに向かってこういった。
「それはあなたの……お名前を知りませんが、あなたのお答えはあまりご名誉になることじゃありませんよ」と憤懣に堪えぬといった様子で、女学生は叩き切るようにいった。
「ところで、お前は出しゃばらんようにしなさい!」と少佐がどなりつけた。「お前は娘の身分だから、しとやかにしなけりゃならんはずだのに、まるで針の莚にでも坐っとるように、ちっともじっと落ち着いとらんじゃないか」
「お黙りなさい。そして、そんな馬鹿げた比喩なんか引っ張り出して、わたしになれなれしい口のきき方をしないでください。わたしは今度はじめてあなたに会ったきりです。わたしあなたなんかの親属[#「親属」はママ]関係は、認めやしませんから」
「これ、わしはお前の叔父さんだぞ。お前がまだ乳呑み児の時分に、この手に抱いて歩いたもんだぞ!」
「あなたが、何を抱いて歩こうと、わたしの知ったことですか。わたしは何もその時分だいてくださいって、頼んだことはありませんよ。してみると、あなた自身の楽しみにしたことじゃありませんか、本当に無作法な将校さんだわ。それに、ご注意しておきますがね、もし万民平等の主意から出たことでなければ、わたしのことをお前[#「お前」に傍点]なんかっていっていただきますまい。わたし断然おことわりしておきます」
「この頃の女はみんなもうあのとおりだ!」自分の正面に坐っているスタヴローギンに向かって、少佐は拳固でテーブルを叩きながらこういった。「いや、ごめんなさい、わしは自由主義や現代主義は、大いに好きです。賢明な人たちの談話を聞くのも大好きです。しかし、断わっておきますが、これは男のことをいっているんですぞ。女となったら、――ことに、こんな現代式なお転婆どもときたら、いや、もう真っ平だ。これはわしにとってなんともいえない苦痛です! お前そうばたばたするんじゃない!」椅子から跳ねあがろうとする女学生にむかって、彼はこうどなった。「ふん、わしだって発言権を要求する、わしは腹が立つ」
「あなたはほかの人の邪魔をするばかりじゃありませんか。ご自分では何一つ意見が吐けないくせに」と主婦は不平そうにつぶやいた。
「いや、こうなれば、わしもすっかりいってしまう」と少佐は熱くなって、スタヴローギンにいった。「スタヴローギンさん、わしはあなたを新来の客として、あなたに望みを嘱しておるです。もっとも、知己の光栄を有しませんがね。女なんてものは、男がなかったら、蠅かなんぞのようにくたばってしまう、――これがわしの意見なのです。あいつらのいう婦人問題なるものは、単に創意の欠乏にすぎん。わしはあえて断言します、――あんな婦人問題なんてものは、みんな男が考え出したものです。馬鹿な、自分から藪をつついて蛇を出したんです。まあ、仕合わせと、わしは女房がありませんがね! まるっきり変化というものがないんですからなあ。きわめて単純なあやさえ、考え出すことができないんですよ。婦人問題のあやは、みんな男が代わって考え出したものです! たとえば、この娘にしろ、わしが小さい時分だいても歩いたし、十くらいの頃には、いっしょにマズルカを踊ったこともある。ところで、きょう久し振りにやって来たものだから、自然の情として跳びついて、抱きしめてやろうとすると、この娘はいきなり二こと目から、神はないなどといい出すじゃありませんか。まあ、二こと目からでなくて、三こと目からだとしても、とにかくあまり急ぎ過ぎるじゃありませんか? そりゃ賢明な人たちは、信仰を持ってないかもしれないが、それは自分の頭のせいです。ところが、お前なんぞはあぶくだ。いったいお前なぞに神様のことが何がわかる? お前なんか大学生から教わったんだろう。もしお燈明を上げろと教わったら、本当にお燈明を上げるに相違ない」
「あなたは嘘をついてます、あなたは恐ろしい意地悪です。わたしはさっきあれほど論理的に、あなたの無資格を論証してあげたじゃありませんか」こんな男と長く議論するのは馬鹿馬鹿しいといいたげに、女学生はほうり出すような調子で答えた。「わたしさっき、あなたにいったばかりじゃありませんか、――わたしたちはみんなキリスト教初等講義によって、『おのれの祖先と両親を敬うものは、息災長命、富を授かるべし』と教えられたものです。これが十戒に載ってるんです。もし、神様が、愛に報酬を与える必要を認めたとすれば、それは取りも直さず、不道徳な神様です。こんなふうな言葉を使って、わたしはさっきあなたに論証して聞かせたのです。けっして二こと目じゃありません。だって、あなたがご自分の権利を声明なすったんですもの。いったいあなたが鈍感で、今までそれがわからないからって、そんなことだれが知るもんですか。あなたはそれが癪にさわるもんだから、勝手に腹を立ててるんですよ、――これがあなた方の世代の正体なんですよ」
「おたんちんめ!」と少佐はいった。
「あなたが馬鹿なのよ」
「そんな悪口をつくか!」
「しかし、カピトン・マクシームイチ、失礼ですが、さっきあなた自身そういわれたじゃありませんか、おれは神を信じていないって」テーブルの向こうの端から、リプーチンが黄いろい声でこう叫んだ。
「わしが何をいおうとかまやしません、――わしのことは別問題ですよ! 或いは、実際、わしは信仰を持っとるかもしれません。が、信じきっとるわけじゃありませんぞ。たとえ、ぜんぜん信仰を持っとらんにしても、それでも、神は銃刑にしてしまわねばならんなどと、そんなことはけっしていわんです。わしはまだ軽騎兵隊に勤めておる時分、よく神の問題で考え込んだものですて。大抵の詩では、軽騎兵というものを、酒を呑んだり、騒いだりしてばかりおるように書くのが、定式になっておりますなあ。そりゃわしも、酒ぐらい飲んだかもしれません。しかし、本当になさらんでしょうが、よく夜中に靴下ひとつで寝床から跳ね起きて、神が信仰を恵んでくださるようにと、十字を切ったりなぞしたものですぞ。その当時から、神はありやなしやという問題で、平然としておれんかったものでな。それほどわしはこのことについて、苦しい思いをしてきたものですよ! もっとも、朝になると、もちろん、また気が紛れて、信仰がなくなるような気味あいでしたがな。全体として、わしの観察によると、だれでも昼間はいくぶん信仰が薄らぐもんですな」
「あなたのところにカルタはありませんか?」無遠慮に大あくびをしながら、ヴェルホーヴェンスキイは主婦にたずねた。
「わたしはまったく、まったくあなたの質問に同感しますわ!」少佐の言葉に対する憤慨のあまり、真っ赤になって、女学生は吐き出すようにいった。「馬鹿な話を聞いてて、貴重な時間を無駄にするばかりですわ」と主婦は断ち切るようにいい、命令するように夫を見やった。
 女学生はきっとなった。
「わたしはこの集まりの皆さんに、大学生の苦痛と抗議に関して、一言したいと思っていました。ところが、不道徳な会話で時間が浪費されますから……」
「道徳的なものも不道徳なものも、そんなものは一つもありゃしません」女学生が話を始めるが早いか、さっそく中学生はこらえきれないでこういった。
「そんなことはね、中学生さん、あんたが習ったよりか、ずっとさきに知ってましたよ」
「じゃ、ぼくはこう確信します」とこちらは猛然と奮い立った。「あんたはね、こっちがもうちゃんと知ってることを、ぼくらに教えようと思って、はるばるペテルブルグからやって来た赤ん坊です。あなたがろくそっぽしまいまで読めなかった『汝の父母を崇めよ』の聖訓だって、あれが不道徳なものだということは、――もうベリンスキイ以来、ロシヤ全国に知れ渡っていますよ」
「まあ、これがいつかおしまいになるんでしょうか?」ヴィルギンスカヤ夫人は断固として、夫にこういった。
 彼女は主婦として、会話の馬鹿馬鹿しい調子に赤面してしまった。ことに幾たりかの笑顔や、新しく招いた人々の怪訝の表情を見ると、もう恥ずかしくてたまらなくなった。
「諸君」ヴィルギンスキイはとつぜん声を高めた。「もしだれでも、より以上この会合にふさわしい話を始めたいとか、或いは何か発表したいと望んでおられるかたは、どうか時を逸することなしに、始めていただきたいものです」
「では、失礼ながら、一つ質問を提出さしてもらいましょう」今までことに行儀よくきちんと坐って、しゅうねく押し黙っていたびっこの教師が、もの柔かな調子で口を切った。
「いったいぼくたちは今ここで、何かの会議に列してるのでしょうか、それともまた単に客として招待された、普通のつまらん人間の寄り合いでしょうか、それが一つ知りたいものですね。これはただより多く秩序的にやりたい、五里霧中でいたくない、という精神からおたずねするので」
 この『狡妙』な質問は一種の印象を与えた。一同は互いに答えを求めるように、目くばせした。と、ふいに号令でもかけられたように、ヴェルホーヴェンスキイとスタヴローギンに視線を向けた。
「わたしはいっそ、『われわれは会議の席にありやいなや』という質問に対する答えを、みんなで投票したらと思います」とヴィルギンスカヤ夫人がいい出した。
「わたしはまったくその動議に賛成します」とリプーチンが応じた。「もっとも、やや漠然とした動議ではありますが」
「ぼくも賛成します――わたしも」という人々の声が聞こえた。
「わたしも、そのほうが秩序が立ってよさそうに思われます」とヴィルギンスキイが断案をくだした。
「では、投票を始めます!」と、主婦が宣言した。「リャームシンさん、あなたピアノに向かってください。あなたも投票が始まったら、そこから声をかけられますよ」
「また!」とリャームシンは叫んだ。「ぼくはもういい加減あなた方のために、ばらんばらんやりましたね」
「でも、わたしはたってお願いするのです。さあ、あっちへ行って弾いてください。それとも、あなたは共同の事業に仕えるのがいやなのですか?」
「だって、アリーナさん、大丈夫だれも立ち聴きするものはありゃしません。それはあなたの杞憂ですよ。それに、窓もこんなに高いんですもの、よしんばだれか立ち聴きした

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP289-P336

ど、その花々しい政治的活動も、あまねく知れわたっていた。ところが、こんど急にニコライが、K伯爵令嬢の一人と婚約したという噂を、疑う余地もない事実のように世間でいい出した。そのくせ、こういう噂の起こった正確な動機は、だれひとり説明ができなかったのである。例のリザヴェータに関する奇怪なスイスの出来事にいたっては、婦人連もばったり話をしなくなった。ついでにいっておくが、ドロズドヴァ親子も、今まで怠っていた訪問を、この時すっかり果たしてしまった。で、リザヴェータのことなども、自分の病的な神経を『見得にしている』ごくありふれた娘としか見なくなった。ニコライが着いた日の卒倒騒ぎも、今ではただあの大学生の見苦しい振舞いにびっくりしたもの、というふうに解釈してしまった。前には一生懸命にファンタスチックな色彩をつけようとつとめたあの出来事さえ、今は強いて散文的なものとして取り扱うようになった。妙なびっこの女がいたことなどすっかり忘れてしまって、口に出すのさえ恥じるほどになった。
「たとえびっこの女が百人いるにもせよ、だれだって若い時分のことだもの!」と人々は思った。
 また母に対するニコライの敬虔な態度も担ぎ出された。そのほか、人々はいろいろと彼の美点をさがし出して、四年前ドイツの諸大学で獲得した彼の学識を、心から感服して語り合うのだった。ガガーノフの行為にいたっては、まるで『敵と味方の区別のつかない』拙いやり方ということになってしまった。ところで、ユリヤ夫人は、非常な洞察力をもった人という、断固たる定評を下されたのである。
 こういった具合で、いよいよ当のニコライが社交界へ姿を現わしたとき、一同はこの上もない無邪気な、真面目な態度で彼を迎えた。彼にそそがれた一同の目の中には、きわめて性急な期待が読まれたのである。しかし、ニコライはすぐさま、厳正な沈黙の中に閉じこもってしまった。もちろん、それはぺちゃぺちゃいろんなことをしゃべり散らすより、遙かに世人を満足さしたに相違ない。手短かにいえば、何もかもうまくいったのだ。彼は町の流行児となった。この県の社交界は、だれでもいったん顔を出した以上、もうどうしたって逃げ隠れするわけにはいかぬ。で、ニコライも以前どおり、洗練された技巧で県内のありとあらゆる習慣を遵奉し始めた。もっとも、人々はあまり彼を愉快な人とは思わなかったが、『なに、いろいろ苦労をしてきた人だもの、ほかの連中のようにはいかない。何か考えることもあるだろうさ』といった。四年前あれほど憎まれた高慢な態度も、傍へ近寄れないほど無愛想な様子も、今はかえって世間の気に入って尊敬を受けるようになった。
 だれより得意になったのは、ヴァルヴァーラ夫人である。リザヴェータに対していだいていた空想の崩れたために、夫人がひどく落胆したかどうかは、ちょっといいにくい。それにはもちろん家名という矜持も手伝っている。ただ一つ不思議なことに、ニコラスが本当にK伯爵の家で『選択』をしたということを、夫人は急にかたく信じ始めた。しかし、それよりさらに奇怪なのは、夫人のこれを信じるにいたった理由が、世人の耳にすると同じ途上風説にすぎないという一事である。直接、ニコライに聞くのは恐ろしかった。もっとも、二、三ど我慢し切れなくなって、彼が母親に十分うち解けてくれないのを遠まわしに責めてみたが、彼はにたりと笑ったのみで、依然沈黙を続けていた。沈黙は同意のしるしと解釈された。ところが、どうしたことか、こういう事情にもかかわらず、夫人は片時もあのびっこを忘れることができなかった。彼女のことは、まるで石ころか悪夢のように胸につかえて、奇怪な幻影が謎のように夫人を悩ました。しかも、これがK伯爵の令嬢に関する空想と、同時に隣り合って、夫人の心に宿っているのであった。しかし、このことは後で話すとしよう。いうまでもなく、社交界ではヴァルヴァーラ夫人に対して、ふたたびなみなみならぬ用心ぶかい尊敬を示し始めた。が、夫人はあまりそれを利用しようとしないで、ごくたまにしか外出しなかった。
 とはいえ、彼女は表向きに知事夫人を訪問した。もちろん、ユリヤ夫人が貴族団長の夜会でのべたかの意味深長な言葉に魅了され、とりこになった点では、彼女をもって第一に指を屈しなければならぬ。あの言葉は、夫人の胸から幾多の憂悶を去り、かのいまわしい日曜以来、彼女を苦しめていたさまざまな疑問を、一挙にして解決してくれた。
『わたしはあの女を誤解していた!』と夫人はいった。そして、持ち前の一本気な性質から、いきなりユリヤ夫人に面と向かって、『わたしはあなたにお礼をいいに[#「お礼をいいに」に傍点]来ました』といい放ったほどである。ユリヤ夫人はすっかり悦に入ったが、それでも、厳然たる態度を崩さなかった。彼女はそのころ大いに自分の価値を意識しはじめた。むしろ少々度を越すくらいだった。たとえば、彼女はさまざまな話の中で、自分はスチェパン氏の事業についても、また学者としての名声についても、今まで少しも聞くところがないといい切った。
「もっとも、わたし、ヴェルホーヴェンスキイの息子さんには、出入りもさせていますし、かわいがってもいます。あの方は無分別ではありますが、なにぶんまだお若いのでございますからね。けれど、なかなかしっかりした知識を持っていらっしゃいますよ。なんといっても、時代におくれた旧式の批評家などとは違いますからね」
 ヴァルヴァーラ夫人はすぐさま大急ぎで、スチェパン氏は、今までかつて批評家だったことはない、それどころか、一生を自分の家で過ごしたのだ、と弁解した。ただあの人が有名になったのは、社会的活動の第一歩を踏み出した時の、四囲の状況のためなので、『この状況は全世界に知れ過ぎるくらい知られて』いる。近頃になってからは、スペイン歴史のほうでも知られているし、今もドイツ大学の現状について何か書こうとしているし、それからまたドレスデンのマドンナのことも、何やら書くつもりらしい、などとのべた。手短かにいえば、ユリヤ夫人にスチェパン氏をこき下ろされたくなかったのだ。「ドレスデンのマドンナですって? それはシスティンのマドンナのことですか? ヴァルヴァーラ・ペトローヴナ、わたしあの画の前に二時間ばかり腰かけて見ましたが、とうとう失望して帰りました。わたしなんにもわかりませんでした。そして、すっかり驚いてしまったのでございますよ。カルマジーノフさんも、やっぱりわからないといってらっしゃいます。今ではみんな、――ロシヤ人でもイギリス人でも、なんの値打ちもない作だといっておりますわ。あんなやかましくどなり立てたのは、老人連ばかりでございますよ」
「つまり、流行が変わったのですね」
「ですけれど、わたしロシヤの若い人たちも軽蔑してはいけない、と思いますの。みんなが、あの連中は共産主義者だ、と申しておりますが、わたしの考えでは、あの人たちをもっと寛大に扱って、もっとあの人たちを尊重しなくちゃならない、と思います。わたし今なんでも読みますの、――どの雑誌でも、どの宣言文でも、自然科学の本でも、――なんでも取り寄せておりますの。なぜって、わたしたちだってもういい加減、自分がどこに住んでいて、だれを相手にしているかってことを、知ってもいい時分でございますからね。一生自分の空想の高嶺に住んでいるわけにはまいりません。こういう結論に到達しましたので、わたしは若い人たちを手なずけて、それでもって危い瀬戸際で引き留めよう、とこういう規則を立てましたの。ねえ、ヴァルヴァーラ・ペトローヴナ、わたしたち上流社会の人間だけが、善良な感化力と優しい態度でもって、性急な老人連に無限の淵へ追いやられている青年を、危い瀬戸際で引き留めることができるのでございます。ときに、あなたのおかげで、スチェパンさまのことを伺って、いいあんばいでした。あなたはいいことを思いつかしてくださいました。もしかしたら、あの人はわたしの文学会を後援してくださるかもしれませんね。実はね、わたし予約申込みの方法で、娯楽デーを計画しているのでございます。収入は県内の貧しい保姆に寄付するはずですの。そういった保姆は、ロシヤ全国に散らばっていますが、この一郡内だけでも六人からになります。そのほか電信技手をしてるのが二人に、大学へかよってるのが二人あります。ほかの者も勉強はしたいのでしょうが、学資がないのでございます。ヴァルヴァーラ・ペトローヴナ、ロシヤ婦人の運命は恐ろしいものでございますよ! これがいま大学制度問題にもなっていますし、国会の討議に付せられたことさえあります。まったくこの奇妙なロシヤという国では、なんでも勝手なことができるんですからねえ! こういうわけでして、やはり、いま申した上流社会の親切な態度と、人手を借りぬ直接な温みのある斡旋ひとつで、この偉大な事業に正しい方向を与えることもできるのでございます。ああ、ロシヤの国には光輝ある人格の所有者が少ないのでしょうか。いえ、そんなことはありません。ただそういう人が、てんでんばらばらになっているのでございます。ですから、一つみんなで力をあわせてもっともっと強い勢力になろうじゃありませんか。で、つまり、こんなふうに計画しているのでございます。初めは文学講演会のような催しにして、そのあとでちょっとした食事を出します。それから、しばらく休憩時間として、夜は舞踏会を開くつもりでございます。初め活人画で夜会の幕を開けようかと思ったのですけれど、あまり費用《かかり》が大きくなるようでしたから、まあ一般の公衆の得心がゆくように、カドリールを一つ二つ挟むことにしました。これはある二、三の文学上の流派を象《かた》どった特色のある面や衣裳を着けて踊るのでございます。この軽い味のある趣向は、カルマジーノフさんが貸してくだすったのです。わたしはいろいろとあの人に助けてもらっておりますの。ところでねえ、あの人はまだだれも知らない最近の作を、今度の会で朗読することになっているのでございます。向後あの人は筆を折って、もう何も書かないといっておられます。で、この最後の創作は公衆に対する告別の辞になるのでございます。このすぐれた作物は『メルシイ』という題ですの。ええ、フランス語の題ですの。けれど、あの人はそのほうが愛嬌がある、優美だとおっしゃいましてね……わたしもやっぱりそう思いますの、かえって、わたしのほうからすすめたくらいでございます。いかがでしょう、スチェパンさまも何か朗読してくださいましょうね……もっとも、あまり長くないものがよろしゅうございます。そして……あまりむずかしい議論めいたものでも困りますの。そのほかピョートル・スチェパーノヴィチと、もう一人だれやらが、何か朗読をしてくださるはずでございます。いずれピョートル・スチェパーノヴィチがお宅へお寄りして、プログラムを申し上げるでしょう。いえ、それよりも、いっそわたし自分でそれを持って、お宅へ伺うわけにはまいりませんでしょうかしら」
「ねえ、あなた、わたしにもその名簿に、寄付の申し込みを書かしてくださいまし。わたしスチェパン・トロフィーモヴィチにそういいまして、自分でも一生懸命に頼みましょう」
 ヴァルヴァーラ夫人はすっかり魅了されて、家へ帰った。彼女はもう押しも押されもせぬ、ユリヤ夫人の味方だった。そして、どういうわけか、おそろしくスチェパン氏に腹を立てていた。こちらはじっと家に引っ込んだまま、かわいそうに、なに一つ知らなかったのである。
「わたし、あのひとに惚れ込んでしまいました。本当にどうして今まで、あのひとのことを思い違いしていたのか、自分ながら合点がいかないくらいですよ」夕方せわしそうに立ち寄ったピョートルと、息子のニコライに向かって、夫人はこんなことをいい出した。
「それにしても、あなたはうちの親爺と仲直りしなくちゃいけませんよ」とピョートルはすすめた。「親爺はすっかり落胆していますよ。だって、あなたはあの爺さんを、まるで台所へ追っ払うようなことをしていらっしゃるんですもの。昨日なぞも、あなたの馬車に出会ったとき、丁寧にお辞儀をしたのに、あなたはぷいとそっぽを向いておしまいになったでしょう。実はね、ぼくらは親爺をひとつ担ぎ出そうと思ってるのです。ちょっと、当てにしてることがありましてね。親爺だって、また何か役に立つこともあるでしょうよ」
「ええ、あの人に何か朗読をさせなくちゃならないのです」
「ぼくはそのことばかりいってるわけじゃありません。ところで、きょうぼくは親爺のところへ寄って行こうと思ってたのですが、じゃ、そのことを話しておきましょうね?」
「それはお心まかせに。けれど、どんなふうにしようと思ってらっしゃいますの」と夫人は決しかねたようにいった。「わたし自分であの人と相談するつもりで、日と場所を決めようと思ってたんですがねえ」
 夫人は烈しく眉をひそめた。
「なんの、日を決める必要なんかありゃしませんさ。ぼくが手っ取り早くいっておきましょう」
「じゃあ、そういっていただきましょうか。まあ、それでもやっぱり、わたしが会見の日を決めるつもりでいると、一口いい添えてくださいな。忘れないでね」
 ピョートルは薄笑いを浮かべながら、駆け出した。いまわたしの思い出す限りでは、このごろ彼はだれに向かっても概してつっけんどんで、いらいらした無遠慮な口のきき方をしていた。が、妙なことに、みんなそれを大目に見ていたのである。それに、全体として、この男に対しては特別な見方をしなければならない、といったような意見が公認されていた。ここでちょいと断わっておくが、彼はニコライの決闘事件について、なみなみならぬ憤懣を示したのである。彼にしてみると、このことは寝耳に水だった。この話を聞いたとき、彼は真っ青になってしまった。或いはいくぶん、自尊心を傷つけられたように思ったのかもしれない。なぜなら、彼がこのことを初めて耳にしたのは、やっと翌日になってからで、もうその時は町じゅうに噂が広まっていたからである。
「あなたは決闘する権利など、少しもなかったんですよ」
 とうとう五日もたって、偶然クラブでスタヴローギンに出会った時、彼はささやくようにいった。
 なお一つ奇妙なのは、ほとんど毎日ヴァルヴァーラ夫人のところへ寄っていたピョートルが、その五日間、一度もスタヴローギンに会わなかったことである。
 ニコライは『まるでなんのことだかわからない』といったような気のない目つきで、じっと言葉もなく相手を見つめていたが、そのまま立ちどまろうともせず、歩みを運んだ。彼はクラブの大広間を横切って、酒場《ブフェー》のほうへ行こうとしていたのである。
「あなたはシャートフのところへも行きましたね……そして、マリヤさんのことも発表しようと思ってるんですね」と彼はその後を追って走りながら、妙に落ちつきのない手つきで相手の肩を抑えた。
 ニコライは、いきなり肩からその手を振り落として、もの凄く顔をしかめながら、くるりと後を振り向いた。ピョートルは奇妙な引き伸ばすような微笑を浮かべながら、じっとその顔を見守った。それはほんの一瞬間だった。ニコライはさっさと向こうへ行ってしまった。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 彼はさっそくヴァルヴァーラ夫人の家から、『親爺』のところへ駆け出した。彼がこんなに急いだのは、ただ以前うけたある侮辱の腹いせをするためであった。わたしはついその日まで、この侮辱一件を少しも知らなかったが、実はこの前ピョートルが訪ねて来た時(それは先週の木曜日だった)、スチェパン氏は、自分のほうから喧嘩の火蓋を切ったくせに、とうとう息子を棒切れで追い出してしまったのである。当時、彼はこのことをわたしに隠していた。しかし、今ピョートルがいつもの癖で、子供らしいくらい高慢な薄笑いを浮かべて、じろじろと隅から隅まで探り廻すような、気持ちの悪いほど好奇心の勝った目つきで、いきなり部屋の中へ駆け込むやいなや、スチェパン氏はこっそりとわたしに合図をして、この部屋を出て行くなという意を伝えた。こういうわけで、わたしは今度こそ二人の話を初めからしまいまで聴いてしまった。で、はじめてこの親子の本当の関係が目の前に暴露されたのである。
 スチェパン氏はソファーの上に長くなって坐っていた。例の木曜日以来だいぶ痩せて、顔色まで黄がかってきた。ピョートルは思い切ってなれなれしい様子で、父親の傍に腰を下ろした。しかも、子として父に対する礼儀の要求するより、ずっと余計に場所を取りながら、両足を尻の下に敷いて、ソファーの上に納まり返ったのだった。スチェパン氏は無言のまま威を示しながら、少しわきのほうへ片寄った。
 テーブルの上には、一冊の本が開いたまま置いてあった。それはチェルヌイシェーフスキイの小説『何をなすべきか』であった。悲しい哉、わたしはここでこの親友の奇怪な、狭量な態度を、是認しないわけにはいかない。ほかでもない、自分はこの隠遁生活を脱して、最後の一戦に勝負を決しなければならぬという空想が、彼の魅惑された脳裏にだんだん強く根を張ってきたのである。彼がこの小説を手に入れて研究[#「研究」に傍点]しているのは、ただただ『怒号叫喚せるやから』と衝突の避け難くなった時をおもんぱかって、あらかじめ敵の態度と論法を、敵自身の『経典《カテヒジス》』によって究めたうえ、この戦闘準備で彼ら烏合の衆を、みごと夫人の眼前に[#「夫人の眼前に」に傍点]くつがえしてくれようという作戦である。わたしはそれを見抜いていた。ああ、この本がどれくらい彼を苦しめたことだろう! 彼はときおり夢中になってそれをほうり出しながら、いきなり椅子を飛びあがって、前後を忘れたように部屋じゅう歩き廻るのだった。
「この著者の根本思想が間違ってないということは、それはわたしも是認する」と彼は熱に浮かされたような調子でわたしに言いいいした。「しかし、それだけになお恐ろしくなる! 思想は同じくわれわれのものだ。正真正銘、われわれのものだ。きみ、われわれが初めてこれを播《ま》いて、育てたのだ。われわれが準備したのだ、――そうさ、あいつらはわれわれの後から出て来たくせに、なんの自力で新しいことがいえるものか! しかし、まあ、これはなんという表現だろう。なんという曲解だろう、なんという冒涜だろう!」と彼は指で本をはじきながら叫んだ。「いったいわれわれはこういう結果を目ざして努力したんだろうか? 本来の思想は、まるで見分けも何もつきゃしない!」
「文化の空気を呼吸してるの?」テーブルから本を取って、標題をみながら、ピョートルはにやりと笑った。「とうからそうすべきはずだったんだよ。もしなんなら、ぼくもっと気の利いたのを持って来てあげよう」
 スチェパン氏はまたもや威を示しながら、無言を守っていた。わたしは片隅の長いすに腰をかけていた。
 ピョートルは早口に来訪の理由を説明した。もちろん、スチェパン氏は一方ならず驚いて、異常な憤懣を混じた驚愕の表情で聴いていた。
「いったいあのユリヤ・ミハイロヴナが、そんなことを当てにしてるのかい、わたしが出かけて行って、朗読するなんて?」
「といっても、あの人たちは何もそんなに、お父さんを必要としてるわけじゃないんだよ。それどころか、ほんのちょっと、あんたにお愛想を見せて、それで、ヴァルヴァーラ夫人のご機嫌をとろうというだけなのさ。しかし、もちろん、この朗読を断わるなどという、そんな失礼なことはできないよ。それに、ぼくなんか、自分でもやってみたいように思われるがなあ」彼はにやりと笑った。「お父さんみたいな老人連は、だれでも地獄の火みたいな野心が勃々としてるんだから。しかしね、とにかく退屈にならないように気をつけてください。たぶん、なんだね、スペイン史か何かだろうね。何にしても、三日ばかり前に一どぼくに読ませてください。でないと、きっと眠くなるようなものに相違ないから」
 あまりにも露骨で粗暴で、しかも、せっかちなこの皮肉の調子は、明らかに前もって企んだものだった。さながらスチェパン氏に対しては、これ以外もっと婉曲な表現や観念をもって話し合うことは、とうてい不可能だというようなふうだった。スチェパン氏は依然として、侮辱に気を留めないようにと努めていた。しかし、続いて報じられた出来事は、いよいよ出でていよいよ恐ろしい印象を与えたのである。
「え、あのひとまで、あのひとまで自分で[#「自分で」に傍点]このことを伝言するように……あなた[#「あなた」に傍点]に命じたのですか?」と彼はあおくなってたずねた。
「いや、本当は二人でよく打ち合わせるために、日にちと場所を決めようといってるのさ。あなたがた二人の感傷ごっこの名ごりだあね。なにしろ二十年間、あのひとのご機嫌をとってたものだから、思い切って滑稽な癖を教え込んでしまったんだ。が、心配しなくてもいいよ。今はもうまるで違ってしまった。あのひとも自分の口から、今では『ものを見透す』ようになったと、口癖のようにいってるからね。ぼくはいきなりあのひとにこういって聞かせてやった。あなた方の友情なんてものは、まるでなんのことはない、泥水の吐き合いっこだ、とね。あのひとはね、お父さん、いろんなことを話して聞かせましたぜ。ふう、本当にお父さんは長年の間、それこそ体《てい》のいい下男奉公をしてきたってわけなんだねえ。まったくおかげで顔を赤くしちゃった」
「わたしが下男奉公をしてたって?」スチェパン氏はとうとう我慢しきれなくなった。
「もっと悪いくらいだよ。お父さんは居候だったんだ、つまり、押しかけの下男だったんだ。働くのは大儀だし、金はだれしもほしいからね。今はあのひともそれをすっかり悟っちまったのさ。少なくも、お父さんのことであのひとの聞かせた話は、実に戦慄すべきものだった。ねえ、お父さん、あのひとに宛てたお父さんの手紙では、ぼくすっかり腹をかかえて笑っちゃったよ。きまりも悪いし、いやらしくもあるしさ。しかし、とにかく、あなた方は堕落してるんだ。極端に堕落してるんだ。恩恵というやつの中には、永久に人を堕落させるようなものが含まれてるが、お父さんの場合はその好適例だね!」
「あのひとがお前にわたしの手紙を見せたって?」
「一つ残らず。もっとも、そんなものを一々読んでる暇なんか、もちろん、ありゃしないけれどね。ふう、だがお父さんも恐ろしく手紙を書き潰したもんだなあ。おおかた二千通以上あるよ……ところでね、親爺《おやじ》さん、ぼくの考えでは、あのひとがあんたと結婚する気になった時が、ほんの一瞬間くらいあったらしいね。それをお父さんが間の抜けたことをやって、取り逃してしまったのさ! ぼくはもちろんお父さんの見地に立って話してるんだよ。しかし、それでもまだ今よりはよかった。今はほんの慰み者の道化かなんぞのように、『他人の罪業』と結婚させられようとしてるんだからね、しかも、金のためにさ」
「金のために? あのひとが、あのひとが金のためにといったのか!」とスチェパン氏は病的にわめいた。
「でなきゃ、どうだというの。いったいお父さんどうしたんだ、ぼくは、むしろ、あんたを弁護したんじゃないか。実際、それがお父さんにとって、唯一の弁明法だからね。あのひとは自分でもちゃんと飲み込んだよ、――あんただって、ほかの人と同様に金が必要だったし、また、その点はおそらく正当だろうからね。ぼくはね、あんた方が利益交換を基礎として暮らしていたのを、二二が四よりも明瞭に証明してやった。つまり、あのひとは資本家だし、お父さんはお傍つきのセンチメンタルな道化だったのさ。もっとも、金のことだったら、たとえお父さんがあのひとを牝山羊のように搾ったからって、けっしてあのひとは腹を立てやしない。ただ二十年もあんたを信用したのが、いまいましいんだ。あんたが高潔高潔であのひとをだまし込んで、あの長いあいだ嘘ばかりつかしたのが腹が立つんだ。あのひと自身で嘘をついたのは、けっして自覚しやしない。しかし、そのためにお父さんは、二重にひどい目に遭わなきゃならないのだ。だが、どうしてお父さんは、いつか総勘定をする時が来るってことに思い到らなかったんだろう。それがぼくには合点がいかない。なんてっても、あんたにだっていくらか知恵があったんだからなあ。ぼくはあんたを養老院へ入れるように、昨日あのひとにすすめたのさ。まあ、安心なさい。体裁のいい所へ入れるんだよ。腹の立つようなことはありゃしない。あのひともたぶんそうするだろうよ。お父さんが二週間まえX県あてで、ぼくによこした一番しまいの手紙を覚えてる?」
「まさかお前、あれを見せやしないだろうな?」スチェパン氏は慄然として躍りあがった。
「へ、どうして見せずにいるもんですか! まっさきに見せちゃったよ。つまり、あのひとがお父さんの才を羨んで、お父さんを利用しようとしてるだの、例の『他人の罪業』のことだのを知らせてよこした、あの分でさあ。しかし、お父さん、あんたの自惚れの強いのにも驚いてしまうね! ぼく腹をかかえて笑っちゃったよ。とにかく、全体お父さんの手紙は退屈千万なもんだ。あなたの句法ときたら、たまらないからね。ぼくはしょっちゅう読まないでうっちゃっとくのだ。一通なんぞは今だに封を切らないで、ごろごろしているくらいだよ。一つ明日お返ししよう。けれど、あの、あの一番しまいの手紙ときたら、もう完全の極致だ! 実に笑っちゃった、腹をかかえて笑っちゃった」
「悪党、悪党!」とスチェパン氏はわめいた。
「ちぇっ、あきれちゃったね、あんたとは話もできやしない。ねえ、あんたはまた前の木曜日みたいに怒り出すの?」
 スチェパン氏は気色《けしき》を変えて身を伸ばした。
「なんだってお前はおれに向かって、そんな言葉づかいができるんだ?」
「へえ、どんな言葉づかいなんだろう。簡単で明瞭な言葉づかいじゃないか?」
「やい、悪党、いったい貴様はおれの子なのかどうなのだ、まっすぐに白状しろ!」
「そんなことは、お父さんのほうがよく知ってるはずじゃないか。もっとも、父親というものはこんな場合、えて目が眩みやすいものだけれど……」
「黙れ、黙れ……」スチェパン氏は全身をわなわなと慄わした。
「そうら、お父さんはまたこの前の木曜日のように、どなったり悪態をついたりして、ステッキを振り廻さないばかりの勢いだが、ぼくはあんたのために、証拠書類をさがし出してあげたよ。もの珍しさに、ゆうベ一晩がかりでカバンの中を掻き廻したのさ。もっとも、別にどうといってとりとめもないことばかりだから、安心していいよ。例のポーランド人に宛てたお母さんの手紙だがね、お母さんの性質から判断してみると……」
「もうひと言いってみろ、おれは貴様に頬桁を食らわしてやるから!」
「ああいう人だ!」突然ピョートルはぼくのほうへ振り向いた。「ねえ、ぼくらはもう先週の木曜日からこんなふうになってるんですよ。今日はそれでも、あなたが立ち会ってくださるから、ぼくは大いに嬉しいんです。まあ、考えてみてください。まず最初の事実はこうなのです。親父は、ぼくが母のことをあんなふうにいうって、怒ってるんですが、ぼくがそうするようにと仕向けたのは、親父自身なんですよ。ぼくがまだ中学生時分に、親父はペテルブルグで一晩に二度くらいずつ、ぼくを揺すぶり起こして、一生懸命にだき締めるのです。そして、まるで女の腐ったみたいに泣きながら、毎晩毎晩どんなことを話して聞かせたか、まあ、あなた想像がつきますか。つまり、今のように無作法千万な、母の昔話じゃありませんか! ぼくは親爺の口から、初めて耳にしたような始末なのです」
「おお、おれはあの時もっと高遠な意味でそういう話をしたのだ! おお、貴様はおれの心持ちがちっともわからなかったのだ。貴様は少しも、てんで少しもわからなかったのだ」
「しかし、お父さんの話は、ぼくのよりかもっと下劣だったろう。実際、下劣だったろう、白状しなさい。実はね、ぼくそんなことどうだってかまやしないんだよ。ぼくはあなたの身になっていってるので、ぼく自身の見地に戻れば、ぼくはもうとう母を責めようと思わない。その点はご心配ないように。あなたはあなた、ポーランド人はポーランド人さ。どっちだって同じことさ。お父さんがベルリンでへまな目に遭ったからって、何もぼくの知ったことじゃないからね。それに、第一、あんたなぞに気のきいたことができっこないじゃないか。いったいこんなことばかりしていても、それでもあんた方は滑稽な人間でないというの! それに、ぼくがあなたの子だろうと、またそうでなかろうと、そんなことはどっちだって同じじゃないか? 実はね」彼はまたもや出しぬけにわたしのほうへ振り返った。「親爺は一生涯、ぼくのために一ルーブリの金も使わず、十六の年までまるっきりぼくを知らなかったばかりか、その後になってぼくの財産をすっかり横領してしまったくせに、今さらとなって、やれ一生ぼくのことで心を痛めたとかなんとかわめいて、ぼくの前で役者めいた所作をするじゃありませんか。ぼくはヴァルヴァーラ夫人と違うからね、とんでもないこった!」
 彼は立ちあがり、帽子を取った。
「おれは今後、おれの名をもって、貴様を呪ってやる!」スチェパン氏は死のごとく真っ青になって、わが子の頭上に手を差し伸べた。
「人間もまあどこまで馬鹿になるか方図が知れん!」とピョートルはあきれ返った。「じゃ、さようなら、古物先生、もう二度とあんたのところへ来やしないから。論文はなるべく早く届けるんだよ、忘れないようにね。そして、できることなら、馬鹿馬鹿しい理屈は抜きにして、事実、事実、事実と、こういうふうに頼みますよ。そして、何よりも簡単でなくちゃ困る。さようなら!」

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 もっとも、これにはまだ別な動機もあったのだ。実際、ピョートルは父親にすこし当てがあったのだ。わたしの考えるところでは、彼は老人を極度の絶望に導いて、そのうえである種の騒ぎを引き起こそうともくろんでいるらしかった。これは彼にとってゆくゆく別な目的に役立つのだった。しかし、このことはまた後で話そう。こういうふうの目論見や計画は、当時、彼の頭に山ほど積まれていた――が、もちろんそれはみんなとてつもない、夢のようなものばかりだった。彼の狙っている犠牲は、スチェパン氏のほかにもう一人あった。全体として、彼の犠牲は一人や二人でなかった、これは後日判明したことなので。しかし、この犠牲だけは彼も特別あてにしていた。ほかでもない、かのフォン・レムブケー氏その人である。
 アンドレイ・アントーノヴィチ・フォン・レムブケーは、自然の恩寵をほしいままにしている種族([#割り注]ドイツ人をさす[#割り注終わり])に属していた。この種族は、ロシヤでは年鑑を繰って見ると、何十万と数えるほどの人数を含んでいて、自覚こそしていないかもしれないが、その全人員をもって、厳正に組織化せられた一つの連盟を形づくっているのだ。もちろん、この同盟は、ことさら計画したものでもなければ、人為的に工夫したものでもなく、一つの種類全体がなんの契約も条文もなく、一種の精神的義務団体というような意味で、自然と結合している現存のものであって、時や場所や状況のいかんを問わず、常に連盟加入者の相互扶助を目的としている。レムブケーは幸いにして、比較的ひきや[#「ひきや」に傍点]財産の多い家の子弟でみたされた、ロシヤの高級な学校の一つで教育を受けることができた。この学校の生徒は卒業後ただちに、何か国務機関の一つに入って、かなり重要な職にありつくのだった。レムブケーは工兵中佐の叔父を一人と、パン屋の叔父を一人もっていたが、この貴族的な学校へもぐり込んでみると、自分に似たような境遇にいる同種族の者を少なからず発見した。
 彼は快活な学生だった。成績は少し鈍いほうだったが、みんなに好かれた。もう上のクラスは多数の青年が(それはおもにロシヤ人だった)、見よう見真似で、思い切り高遠な現代の諸問題を論じて、今に学校を出たら、いっさいの懸案を解決して見せるぞと、そればかり待ちかねてるようなふうでいるのに、レムブケーは依然として、のんき千万な悪戯を仕事にしていた。彼はいろんなとっぴなことを仕出かして皆を笑わした。もっとも、その冗談も大して奇才に富んでいるわけでなく、ただ猥雑なというだけのことだったが、彼はそれを自分の使命のように心得ていた。たとえば講義の席で、講師が彼に何かの質問を向けた時、何かこう奇てれつな音をさせて洟をかんで、友だちや講師を笑わしてみたり、または共同寝室で卑猥な活人画の真似をして、一同の喝采を買ったり、鼻ばかりでフラー・ディアボロ([#割り注]十九世紀におけるナポリの巨盗、オペラ「オーベル」の主人公[#割り注終わり])の開幕奏楽《ウーウェルチュール》をかなり上手に演奏したり、すべてこういったふうの類だった。また彼はわざわざ身汚い恰好をして、しかも、どういうわけか、それを一種の伊達のように考える癖があった。
 卒業の一年前あたりから、彼はちょいちょいロシヤ語の詩を書き始めた。肝腎な自分の種族の言葉は、ロシヤにおける同族の多数と同じように、ごく非文法的な知識しかもっていなかった。この詩作の傾向は、ある一人の陰欝な、何かにへしつけられたような級友を彼に接近せしめる動機となった。この級友はさる貧しいロシヤ将官の息子で、クラスでは未来の文豪視されていた。未来の大文豪はレムブケーに対して、保護者然たる態度を取った。ところが、学校卒業後三年ばかりたった時である。この陰気な級友はロシヤ文学のために勤めを抛って、ぼろぼろの靴を自慢そうにひけらかしながら、秋も更けた時候に夏外套を着て寒さにがちがちと歯を鳴らしていたが、偶然にも|馬の橋《アニーチコフ・モスト》([#割り注]ネーフスキイ通り中心[#割り注終わり])の袂で、以前の被保護者「レムブカー」に出あった(当時、学校で彼のことをそう呼んでいたのである)。ところが、どうだろう? 彼は一目みたとき、人違いではないかと思ったほどである。彼は呆気にとられて立ちどまった。目の前には、一点の隙もない身なりをした青年が立っているではないか。立派に手入れがゆきとどいて、赤みがかったつやを帯びた頬ひげ、鼻眼鏡、エナメルの靴、真新しい手袋、ゆったりしたシャルメル仕立ての外套、そうして折カバンまで小脇にかかえている。レムブケーは旧友に愛想のいい言葉をかけ、住所を知らせ、またいつか晩にでも訪ねるようにいった。聞いてみると、名前までがただの『レムブカー』ではなく、フォン・レムブケーだとのことであった。旧友はさっそくたずねて行った。しかし、それはただただ面当てのためかもしれない。どうしても正面玄関とはいえない美しからぬ階段には、それでも緋ラシャが敷いてあった。玄関番が彼を出迎えて名をたずねた。上のほうでベルが高々と鳴り響いた。客は贅を極めた住まいを想像していたが、入ってみると、わが『レムブカー』は、横のほうの小さな一間に陣取っていた。それはうす暗い古めかしい部屋で、くすんだ緑色の大きなカーテンで二つに仕切ってあった。椅子類は布張りではあるが、その布がくすんだ緑いろの思いきって古いものだった。細長い窓には、やっぱりくすんだ緑いろのカーテンがかかっていた。フォン・レムブケーは自分の保護者である、だいぶ遠縁の一将官のもとに寄寓しているのであった。彼は愛想よく客を迎えた。その態度はものものしく慇懃で、同時に垢抜けがしていた。文学の話も出たけれど、度を越えない範囲内に止められた。白いネクタイをした侍僕が、なんだか妙に薄いお茶に、小さなこつこつした丸い菓子を添えて持って来た。旧友はわざと意地悪くゼルツェル水を所望した。望みの品は出されたけれど少々手間どった。しかも、レムブケーはわざわざ侍僕を呼び寄せて、ものをいいつけるのが極りの悪いようなふうだった。彼は客に向かって、何かひと口食事をしてはどうかとすすめたが、客がそれを辞退して、とうとう帰って行った時は、いかにも嬉しそうな様子だった。手っとりばやくいえば、レムブケーは出世の第一歩を踏み出して、自分と同族とはいえ、地位のある将軍のもとに寄食者《かかりうど》となっていたのである。
 そのころ彼は、将軍の五番目の娘に、焦がれていた。そして、相手のほうでも、やはり彼を憎からず思っていたらしい。しかしそれでも、アマリヤは年頃になると、とどのつまり老将軍の昔馴染みの、年とった工場持ちのドイツ人にやられてしまった。レムブケーは大して悲観するでもなく、紙細工の劇場をこしらえた。幕があがると、役者が出て来て、手で身振りをする。桟敷には見物が坐っているし、オーケストラは機械仕掛けで、ヴァイオリンを弓でこするし、楽長は指揮棒を振り廻した。土間では伊達男や将校連が喝采する、――これがすべて紙でできていたのだ。すべて、レムブケー自身の考案であり、かつ仕事だった。彼はこの劇場の製作に六か月かかった。将軍はわざわざ内輪同士の夜会を開いて、この劇場を観覧に供した。新婚のアマリヤをまぜて五人の将軍令嬢、新郎の工場主、それに大勢の夫人令嬢が、めいめい相手のドイツ男を引き連れて出席したが、みな一生懸命に劇場を点検して、その出来ばえを褒めた。その後で舞踏が始まった。レムブケーはすっかり満足して、間もなく悲しみを忘れてしまった。
 幾年か過ぎて、官界における彼の地位も定まった。彼は相変わらず自分の同族を長官にいただいて、常に有利な位置で勤務をつづけ、ついに年の割にしては花々しい官等にまで漕ぎつけた。彼はもうだいぶ前から結婚を望んで、注意ぶかく目をくばっていた。一ど上官に内証で、自作の小説をある雑誌の編集局へ送ったことがある。ついに掲載はされなかったけれど、その代わり立派な汽車をこしらえて、またもや素敵なしろものができあがった。群集がカバンを持ったり、サックを持ったり、子供や犬をつれたりして、停車場から出たり、汽車へはいったりしている。車掌や駅夫があちこち歩き廻っているうちに、やがてベルが鳴り信号が与えられて、列車がそろそろと動き出す。この込み入った細工のために、彼はまる一年つぶした。
 しかし、それでもやっぱり、結婚しなければならなかった。彼の交友の範囲はかなり広かった。主としてドイツ人仲間だったが、ロシヤ人の交際社会にも出入していた。もちろん、上官の筋を伝って行くので。ついに彼が三十八の声を聞いた時、遺産まで譲り受けることができた。パン屋の叔父さんが死んで、彼に一万三千ルーブリの財産を、遺言で残してくれたのである。もはや問題は地位の点一つになった。もっとも、フォン・レムブケー氏は、勤務上かなり花々しい栄達をしたにもかかわらず、きわめて欲のないたちだった。彼は自分の権限にまかされた、官用薪材の受入れとかなんとか、そういったふうの小甘い汁の吸えそうな主任の地位で、一生満足していたかもしれない。ところが、忽然として、今まで予期していたミンナとかエルネスチーナ([#割り注]共にドイツ娘のありふれた名前[#割り注終わり])の代わりに、思いがけなくユリヤ・ミハイロヴナというしろものが引っかかったのである。彼の栄達はたちまちにして、いま一段の向上を見ることとなった。律義で欲のないレムブケーも、自分だって少し自尊心を持っていいわけだ、と感じるようになった。
 ユリヤ夫人は、昔ふうに勘定すると二百人の農奴のほかに、りゅうとした保護者をもっていた。一方から見ると、レムブケーは美男子で、ユリヤは四十を越している。注意すべきことには、自分がユリヤの未来の夫だと感じるにつれて、レムブケーはしだいに彼女を真剣に恋するようになった。結婚当日の朝、彼はユリヤに詩を贈った。こういうことがことごとく彼女の御意にかなったのである、その詩までが。実際、女の四十といえば冗談ではない。間もなく彼はお定まりの官等と、お定まりの勲章をもらって、それから、この県へ任命されて来たのである。
 この県へ赴任するとき、ユリヤ夫人は自分の夫について、一生懸命に策をめぐらしたのである。彼女の意見によると、彼もまんざら無能な人物ではなかった。客間へ入るすべも知ってるし、初対面の挨拶をする法も心得ている。深遠な思想でもありそうに、人のいうことを傾聴して、自分では何一ついわずに黙っていることも、きわめて慇懃に気取るすべも知っているばかりでなく、演説の一つもすることができ、いろんな思想の切れっぱしやかけらさえも蓄えていて、いまの世で必要欠くべからざる最新の自由思想のつやもかぶせおおせている。ただなんといっても心配なのは、なんだかあまり感受性の鈍いこと、長いあいだ絶えず立身出世の方法に汲々とした結果、無性に安息の要求を感じはじめたことである。夫人は自分の名誉心を、夫に注ぎ込みたくてたまらなかった。ところが、どうだろう、夫は思いがけなく紙細工の教会をこしらえ始めたではないか。牧師が出て来て説教をはじめると、人々はうやうやしく手を前に組んで、お祈りをしながら聴いている。一人の夫人はハンケチで目を拭いているし、老人は鼻をかんでいる。一番しまいにオルガンが鳴るという趣向だが、これは費用をいとわずに、わざわざスイスへ注文して取り寄せたのである。ユリヤ夫人はこのことを知るが早いか、一種の恐怖さえ感じながら、その細工をいっさい取り上げて、自分の箱の中へ鍵をかけてしまい込んだ。その代わり、彼女は小説を書くことを許したが、それも内証にという条件つきだった。それからというもの、夫人はただ自分一人のみを当てにするようになった。が、悲しいことに、それがかなり軽はずみで、おまけに度というものがなかった。運命はあまり長く彼女を老嬢の境遇にとどめていたので、今はいろんな考えが後から後からと、虚栄心の強い、しかも、幾分いらいらした彼女の脳中に浮かび出るのだった。彼女にはいろいろな思わくがあった。彼女は是が非でも、県の政治を切って廻したかった。いまにもすぐ多くの人に取り巻かれたいというのが、彼女の空想だった。彼女はさっそく方針を確定した。レムブケーは幾分ぎょっとしたが、しかし、すぐに官吏特有の直感で、自分は何も県知事の職を恐れるには当たらない、ということを悟ってしまった。初めのふた月み月はなかなかうまくいった。ところが、そこヘピョートルが割り込んで、何かこう奇妙な具合になってきたのである。
 ほかでもない、小ヴェルホーヴェンスキイは、そもそもの初めからレムブケーに対して不遜の態度を示したばかりでなく、なにか一種奇怪な優越権すら握ったかのようであった。それなのに、つねづね夫の権勢をひどく大切がっているユリヤ夫人は、まるでこのことが目に入らぬような具合だった。少なくも、これを重大視しなかったのである。ついにこの青年は夫人の寵児となって、飲み食いから起き臥しまで、この家でするようになった。レムブケーは予防線を張りはじめた。彼は他人の前でピョートルのことを『あの青年』といったふうの呼び方をしたり、いかにも保護者めかしく肩をぽんとたたいたりしたが、いっこうききめが見えなかった。ピョートルは相変わらず面とむかって、彼を冷笑するような態度をやめなかった(そのくせ、そういう時でも、ちょっと見たところは、いかにも真面目な話しっ振りだったけれど)。そして、他人のいる前で、思いきり無作法な言辞を弄するのであった。
 ある時、レムブケーが外から帰ってみると、『青年』は留守の間に自分の書斎へ入り込んで、断わりもなしに長いすに坐り込んでいた。彼の言いわけによると、ちょいと通りすがりに寄ってみたが留守だったので、『ついでに一寝入りした』とのことだった。レムブケーはむっとして、もう一ど夫人に愁訴した。けれど、こちらは夫の怒りっぽい性質を一笑に付して、皮肉な調子でこういった。どうもあなたは自分の地位に相当した態度が取れないようだ。少なくも、わたしに向かってはあの小僧っ子も、そんな狎れ狎れしい態度なんかあえて取ろうとしない。『とにかく、あの人は無邪気で清新なところがあります、社会の常軌にはずれていますけどね』レムブケーは面を膨らしたが、その場は夫人が二人の仲を取りなした。ピョートルは別に詫びをいおうともせず、何かぶしつけな洒落をいってごまかしてしまった。その洒落なども、普通の場合だったら、また別な侮辱に取られたかもしれないが、その時は後悔の意と解釈された。
 フォン・レムブケーは初《しょ》っぱなから大失策をやって、とんでもない弱点を握られてしまった。ほかでもない、例の小説のことをうち明けたのである。久しい前から、聴き手をほしがっていたレムブケーは、ピョートルを詩情に富んだ熱烈な青年のように解釈し、近づきになってからまだ幾日もたたぬうちに、ある夜、自作の一節を二章ばかり読んで聞かせた。こちらは退屈なのを隠そうとせず、無遠慮なあくびをしながら聞き終わった。そして、一度もお世辞などいわなかった。ただちょっと原稿を貸してもらいたい、暇な時に感想をまとめてみるからと、帰りしなに頼んだ。で、レムブケーは貸してやった。それ以来、彼は毎日ちょこちょこ寄って行くくせに、原稿はいっこう返しそうな模様がない。こちらからたずねても、笑いで答えるばかりだった。とうとう終いになって、あれはあの日すぐ往来でなくしたといい出した。このことを聞いたユリヤ夫人は真っ赤になって夫を怒りつけた。
「いったいあなたは教会のことも、あの人に話してしまったんじゃありませんか?」ほとんどおびえたように、夫人はこう叫んだ。
 フォン・レムブケーはひどく考え込むようになった。ところが、考え込むのは彼の体に悪いことなので、医者から固く禁じられていた。それに、県の行政上いろいろ面倒が起こるばかりでなく(このことは後で話すとしよう)、そこに一種特別の事情が介在していた。つまり、単に長官としての自尊心のみにとどまらず、夫としての感情すら傷つけられたのである。レムブケーは結婚生活に入るにあたって、将来家庭内に不和や衝突が起こりえようとは、想像さえしなかった。これまでもミンナやエルネスチーナを空想しながら、やはりそういうふうな考えを持ってきたのである。自分は家庭内の暴風雷雨に堪えられない、と彼は直感していた。ついにユリヤ夫人は、明けすけにぶちまけてしまった。
「あなた、そんなことで腹を立てるわけにいきませんよ」と、彼女はいった。「あなたのほうがあの人より二倍も三倍も分別があって、社会上の地位からいっても、比較にならないほど高い所に立ってらっしゃる、というだけの理由から見ましてもね。あの坊っちゃんには、以前の自由思想のとばっちりが、まだまだたくさん残っていますが、わたしにいわせれば、なに、ほんの子供じみた悪戯ですよ。なにしろ、急にということはできませんから、だんだん直していくんですね。ロシヤの新しき世代を尊重しなくてはなりませんよ。わたしは愛の力で感化を及ぼして、すわという瀬戸際で引き止めるつもりでいますの」
「しかし、本当にあいつは何をいい出すかわかりゃしない」とレムブケーは承知しなかった。「あいつは衆人擱座の中で、しかもわたしを目の前において、政府はことさら国民を暗愚にするためにウォートカなどを飲ませ、それで一揆を防止してる、などと断言するにいたっては、わたしもそうそう寛大な態度ばかり取ってもいられないじゃないか。他人の前でこんなことを聞かねばならぬわたしの役廻りの苦しさも、察してもらいたいよ」
 こういいながら、フォン・レムブケーは、つい近頃ピョートルと交わしたある会話を思い出した。一つ自由思想を道具に使って、相手の毒気を抜いてやろうという、罪のない目算から、彼は一八五九年以来、道楽というわけではないが、しごく有益な好奇心をもって、ロシヤはおろか外国まで手を伸ばして丹念に寄せ集めた、ありとあらゆる檄文の秘密なコレクションを出して見せた。ピョートルは彼の目的を見抜いたので、無作法な調子でこういってのけた。『新しい檄文のたった一行でも、そんじょそこらのお役所にある書類をみんな集めたより、ずっと多くの意義を含んでいますよ。おそらくあなたのお役所も、その例に洩れんかもしれませんね』
 レムブケーはぴりっとした。
「しかし、これはロシヤじゃ早過ぎる、あまり早過ぎる」と彼は檄文をさしながら、ほとんど哀願するような調子でいった。
「いや、早過ぎはしません。現にあなただって、そのとおり恐れていらっしゃるではありませんか。してみると、別に早過ぎはしないです」
「しかし、たとえば、ここにある教会破壊の煽動なぞは……」
「なぜそれがいけないんです? あなただって聡明なお方ですから、もちろん、信仰なぞ持ってはいらっしゃらないでしょう。信仰が必要なのは、単に人民を暗愚化するためにすぎないくらいのことは、自分でよくご承知のはずです。実際、真理は虚偽より美しいですからなあ」
「そのとおり、そのとおり、わたしはぜんぜんきみに同意だが、しかし、それはロシヤじゃ尚早だよ、尚早に過ぎるよ……」とレムブケーは顔をしかめた。
「へえ、あなたは本当に教会を打ち壊したうえ、棒ちぎりをもってペテルブルグへ押し寄せるのに同意する、ただ問題は時期の点にすぎないなどといいながら、よくまあ政府の公吏で澄ましていられますねえ!」
 レムブケーはこうまで無遠慮に尻尾をつかまえられて、もうすっかりのぼせてしまった。
「それは違う、それは違う」しだいに強く自尊心をいらだたせながら、彼は夢中になっていった。「きみは年も若いし、またわれわれの目的もよく了知していないので、そういう誤謬に陥るんだよ。ねえ、ピョートル君、きみはわれわれを政府の公吏と呼んだね? いかにもそうだ。それは独立不羈の公吏だろうか? いかにもそうだ。しかし、われわれがどんなふうに活動してるか、いったいきみはご承知かね? われわれには責任がある。が、結果においては、われわれもやはりきみたちと同じように、共同の事業に奉仕しているんだよ。ただわれわれは、きみたちが揺すぶるんでぐらぐらしているもの、――われわれがいなかったら、四方八方にけし飛んでしまうおそれのあるものを、抑制しているのだ。われわれだってきみたちの敵ではない、けっしてそうじゃない、われわれはあえてきみたちにそういうよ、――進みたまえ、進歩したまえ、揺すぶりたまえ、――といって、つまり、当然改造さるべき一切の古いもののことだがね……しかし、一たんその要を認めた場合には、必要な範囲内においてきみたちを制止し、それによってきみたちを自分自身から救ってあげねばならん。なぜといって、きみたちばかりでわれわれというものがなかったら、ロシヤの国をがたがたにしてしまって、しかるべき体面をなくしてしまうに相違ない。このしかるべき体面ということを心配するのが、すなわち、われわれの役目なのだ。いいかね、われわれときみたちとは、お互いに必要欠くべからざるものだ。それを腹に入れてくれたまえ。イギリスでも、進歩党と保守党とは、お互いに必要なもんだからね。そうじゃないか、われわれが保守党で、きみたちが進歩党なのさ。まあ、こんなふうにわたしは解釈してるんだ」
 フォン・レムブケーはもう熱くなってしまった。彼はペテルブルグ時代から気の利いた、自由思想めいた議論をするのが好きだったが、今は傍で聴くものがないので、なお調子に乗ってしまった。ピョートルは無言のまま、なんだかいつもに似合わず真面目な態度を持していた。これがいっそう弁士を煽ったのである。
「ねえ、きみ、わたしはこの『県の主人』だ」と書斎を歩き廻りながら、彼は語を次いだ。「ねえ、きみ、わたしはあまり任務が多いために、ほとんど何一つ実行ができないでいる。ところが、一方から見ると、わたしはここにいても何一つすることがない、これもまた正確な事実なのだ。というと、不思議なようだが、その実は政府の態度一つでどうともなるものさ。かりに政府が一種の政策のためとか、または熱烈な要求を鎮撫するために、共和国か何か、まあそんなものを建てながら、同時に一方では知事の権力を増したとする。そうすれば、われわれは県知事の席に着いたまま共和国を丸呑みにするよ。なあに、共和国がいったいどうしたというのだ! われわれはなんなりとお好み次第のものを鵜呑みにしてご覧に入れるよ。少なくともわたしは……それだけの用意があるように思う。要するに、もし政府がわたしに電報で、〔activite' de'vorante〕(献身的活動)を命令して来るとすれば、わたしは 〔activite' de'vorante〕 を開始するよ。わたしはこんど諸君の眼前で、直截にこういった。『諸君、すべて県政機関の均衡と隆興に必要なものは、たった一つしかありません、曰く、県知事の権力を拡張することであります』え、きみ、地方団体にしろ、裁判機関にしろ、すべてのこういう行政司法庁は、いわゆる二重生活の方法を取らなくちゃならん。つまり、これらの機関は存立すべきものであるが(まったくそれは必要だ)、また一方から観察すると、彼らの絶滅が必要でもある。何ごとも政府の態度一つさ。一たんこれら諸機関の必要を感ぜしめるような風潮が起これば、わたしはそれをちゃんと目の前に揃えてご覧に入れる。ところが、その必要が去ってしまえば、わたしの支配下をどんなにさがしたって、そんなものはけっしてみつかりっこなしさ。まあ、こういうふうに、〔activite' de'vorante〕 を解釈してるのだ。ところが、この活動は、県知事の権力拡張をほかにしては、けっして求めることができないのだ。わたしたちはこうして、二人きりさし向かいで話してるんだよ。わたしはね、きみ、県知事官舎の門前に、特別歩哨を一人おく必要があるということを、もうペテルブルグへ請求してやって、いま返事を待ってるところなんだ」
「あなたには二人くらいいりましょうよ」とピョートルがいった。
「なぜ二人だね?」フォン・レムブケーは彼の前に立ちどまった。
「あなたを尊敬せしむるには、おそらく一人じゃ不足でしょう。どうしても二人いなくちゃ」
 レムブケーは顔をひん曲げた。
「ピョートル君、きみは臆面もなしに、よく口から出まかせがいえるね。わたしが優しくするのにつけあがって、いろんな当てこすりをいうじゃないか。まるで bourru bienfaisant(気むずかしやの慈善家)の役廻りを演じてるのだ」
「まあ、なんとでもお考えなさい」とピョートルは言葉を濁した。「が、とにかく、あなたはぼくらのために道をひらいて、ぼくらの成功の下地を作ってくださるのですよ」
「ぼくらのためとは、いったいだれのためだね、そして、また成功とはなんのことだね」とレムブケーはびっくりして相手を見据えた。けれど、返事は聞かれなかった。
 ユリヤ夫人はこの話の顛末を聞いて、恐ろしく不満そうだった。
「しかし、そんなことをいったって」とフォン・レムブケーは弁解した。「あれはお前のお気に入りだからね、上官の権力を笠にきて、頭ごなしにやっつけるわけにいかないじゃないか。ことに差し向かいの時にね……わたしだって、ついうっかり口をすべらすこともあるさ……人がいいもんだから」
「あまり人が好すぎるもんですからね。あなたが檄文のコレクションを持っていらっしゃることなんか、わたしは少しも知りませんでしたわ。お願いだから、見せてちょうだいな」
「だが……だが、あの男がたった一日といって、無理に持って帰ってしまったんだよ」
「まあ、あなたはまたお貸しになったんですの!」とユリヤ夫人は怒ってしまった。「なんて拙いやり方でしょう!」
「すぐ取りにやるさ」
「よこしゃしませんよ」
「わたしは是が非でも要求する!」レムブケーはかっとなって、席を跳びあがった。「そんなにあいつを恐れねばならないなんて、いったいあいつは何者だ? またこっちから何一つ仕出かすことができないなんて、いったいおれは何者だ?」
「まあ、坐って気をお鎮めなさいな」とユリヤ夫人は押し止めた。「あなたの第一の問いに対して、わたしこうお答えしますわ。あの人については、わたし立派に紹介を受けていますの。なかなか才気のある人で、どうかすると、たいへん気の利いたことをいいますよ。カルマジーノフもわたしに断言しました。あの人はいたるところに関係を結んでいて、都の青年層では大した勢力をもってるんですとさ。もしわたしがあの人を通じて、すべての青年層を惹きつけたうえ、自分の周囲に一つのグループを作ったら、その人たちの功名心に新しい道を示して、滅亡の淵から救ってやれますわ。あの人は心からわたしに心服して、なんでもわたしのいうことを聞いてくれます」
「しかし、そうそう甘やかしていると、あいつらどんなことを仕出かすかわかりゃしないよ! むろんそれは立派な……考えだが……」とレムブケーは曖昧な調子で弁解するのであった。「しかし、……しかし、わたしの聞いたところでは、**郡に何か檄文が現われたとかいうことだよ」
「だって、それは夏頃の噂だったじゃありませんか、――やれ檄文、やれ贋造紙幣って、いろんなことをいい触らすんですわ。ところが、今まで一つとして手に入らないじゃありませんか。だれがあなたにそんなことをいいましたの!」
「わたしはフォン・ブリューメルから聞いたのだ」
「ああ、あんな人はまっぴらごめんですよ、あんな人のことをいったら、わたし承知しませんから!」
 ユリヤ夫人はかっとなって、しばらく口がきけないほどだった。フォン・ブリューメルは知事官房の吏員だったが、夫人はこの男をとくべつ憎んでいた。このことは後で話そう。
「どうかヴェルホーヴェンスキイのことは心配しないでください」と彼女は話の括りをつけた。「もしあの人が何かそんな悪戯に関係していたら、今あなたを初めとして、ほかのだれかれに話してるような具合に、いろんなおしゃべりができるものじゃありませんわ。多弁家はけっして恐ろしいものではありません。それどころか、わたしはかえってこう断言しておきます、――もし何かそんなふうなことが起こったら、わたし一番にあの人の口から聞き出しますわ。あの人は夢中になって、本当に夢中になって、わたしに心服してるんですの」
 事件の描写に移るにさき立って、わたしはちょっとここで断わっておく。もしユリヤ夫人の自負心と虚栄心が、あれほど烈しくなかったら、あの悪人ばら[#「悪人ばら」はママ]がこの町で仕出かしたようなことは、おそらく起こらなかったに相違ないのだ。これについては彼女に大部分責任があったのである!

[#3字下げ]第5章 祭の前[#「第5章 祭の前」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 ユリヤ夫人が県内の保姆たちのために、予約申し込みの方法で計画した祭の日取りは、幾度も変更され延期された。いつもお決まりで、夫人の周囲をちょこちょこしていたのはピョートルのほかに、走り使いの役を仰せつかっている小役人のリャームシン(これは、一時スチェパン氏の所へ出入りしていたが、急に例のピアノのおかげで、知事邸内のお気に入りとなったのである)、リプーチン(これは近く発行される県内の独立した新聞の編集係に当てようという、ユリヤ夫人の目論見だった)、幾たりかの夫人、令嬢、それからカルマジーノフ――などという顔触れだった。この文豪はべつにちょこちょこもしなかったけれど、文学カドリールで皆をあっといわせるのが愉快だと、公然とさも得意らしく吹聴していた。申し込み者や寄付者の数は大したものだった。町でも一流の錚々《そうそう》たるところは、ことごとくこれに加わった。しかし、金さえ持って来れば、あまり錚々たらざる連中も入場を許された。ユリヤ夫人の説によると、各階級の混合は、時として許さるべきことだった。
『でなかったら、だれもああいう人たちを教育する者がなくなるじゃありませんか』
 非公式な内輪の委員会も設けられた。その会議の結果、祭の催しは民主的ならざるべからず、ということに一致した。おびただしい申し込みの数は、自然いろいろな出費の原因となって、一同は何か素晴らしいものを作りあげたいと考え出した。こういうわけで、たびたび延期されたのである。また会場をどこにしようか、――この一日のために宏大な邸を提供しようという貴族団長の好意を無にしまいか、それともスクヴァレーシニキイなるヴァルヴァーラ夫人のところにしようか、この問題もまだ決まっていなかった。スクヴァレーシニキイは少し遠すぎるが、委員の多数は『あそこのほうが遠慮が少ないだろう』と主張した。当のヴァルヴァーラ夫人は自分の家に決めてもらいたくってたまらないのだ。なぜあの誇りの強い婦人が、あんなにユリヤ夫人の鼻息をうかがうのか、ほとんど合点がゆかなかったけれど、おそらく知事夫人のほうからも、ニコライに腰を低くして、ほかの人にはちょっと見せないくらいの愛嬌を振り撒くのが、ヴァルヴァーラ夫人の気に入ったからだろう。もう一度くり返していうが、ピョートルはこのあいだしじゅう知事邸内へ、目立たぬように一種の、すでに芽ざしていた観念を植えつけていた。つまり、ニコライはあるきわめて秘密な社会に極めて秘密な関係をもっていて、この町へも何か使命を帯びて来たに相違ない、とこういうのであった。
 当時この町の気分はなんだか妙になっていた。ことに婦人社会では、一種軽佻な気分が顕著になった。しかも、しだいにそうなったとはいいにくい。思い切って放縦ないろいろの思想が、さながら、とつぜん風にでも持って来られたような具合だった。何かしら馬鹿げて陽気な、軽々しい気分が町をおそった。が、それは、いつでも気持ちのよいものとは申しかねる。一種人心の惑乱ともいうべきものが流行し始めたのだ。あとで何もかも片がついてしまったとき、人々はユリヤ夫人に罪を帰し、夫人の周囲とその感化を責めた。けれど、何もユリヤ夫人一人から起こったとは、ちと受け取りにくい。それどころか、多くのものは初めのうちさきを争って、新知事夫人の社会を結合する腕を讃美し、急に町が陽気になったといって嬉しがったものだ。中には二、三|顰蹙《ひんしゅく》すべき出来事も起こったが(それもユリヤ夫人の全然あずかり知らぬところだ)、それでも、当時人々はただげらげら笑って、いい慰みのように心得ていた。それを防止しようというものは一人もなかった。もっとも、かなり多数の人々は当時の風潮にたいして、自家独得の見解を持し、傍観的態度を取っていた。けれど、この連中もべつだん不平を訴えるでもなく、かえって、にやにや笑っていたものである。
 今でも覚えているが、当時かなり大きな一つのグループが自然と形づくられた。その中心は、やはりどうも、ユリヤ夫人の客間にあったらしい。夫人の周囲に集まるこの水入らずのグループのなかでは(むろん、若い人たちに限られていたが)、さまざまな悪戯をすることが許されていた――というよりも、まるで憲法のようになっていた。そして、中には事実かなりだらしのない悪戯もあった。グループのうちには、なかなか綺麗な婦人がいた。こういう若い人たちは、野遊びを試みたり、夜会を催したり、どうかするとまるで騎馬行列よろしく、騎馬や馬車で町じゅう練り廻すことがあった。彼らは変わった出来事をさがして歩くばかりか、ただただ愉快な話の種をえたいばかりに、わざと自分たちで作り出したり、工夫したりするのだった。彼らはわたしたちの町を、まるで愚人町《グルーポフ》([#割り注]伝説の町[#割り注終わり])かなんぞのように扱っていた。人々は彼らを口悪だの、皮肉屋だのと呼んでいた。それは、彼らがなんでも平気でやってのけたからである。
 早い話が、こんなこともあった。土地のさる陸軍中尉の細君で、夫の俸給が少ないために、痩せこけてはいたけれど、まだごく若いブリュネットが、ある夜会でちょっとした軽はずみな心持ちから、賭けの大きいカルタの勝負に加わった。それはどうかして婦人外套を買う金だけでも勝ちたいという、ただそれだけの欲だったのである。ところが、勝つどころか、十五ルーブリも負けてしまった。彼女は夫が恐ろしいうえ、第一、払おうにも金がなかったので、もとの勇気を奮い起こして、さっそくその夜会の席で、この町の市長の息子にこっそりと借りる決心をした。市長の息子は、年に似合わぬ摺れっからしの、しようのない不良少年だったので、その頼みを撥ねつけたばかりで足りないで、おまけにげらげらと大声で笑いながら、夫のところへ告げ口に行った。実際、俸給だけで世知がらい暮らしをしていた夫の中尉は、細君を家へ連れ帰ると、泣いたりわめいたり膝を突いて詫びたりするのに耳もかさず、腹さんざん油を絞った。この苦々しい顛末は、町じゅういたるところでただ一場の笑いぐさにされてしまった。しかも、この不幸な中尉夫人は、ユリヤ夫人をとり巻くグループに入っていたわけでなく、ただこの騎馬隊に属する一人の夫人、――とっぴで元気なたちの女――が、何かでこの中尉夫人を知っていたので、彼女の家へ出かけて行って、自分のところへお客に来いと、てもなくひっ張り出したのである。このときすかさずわが悪戯小僧の面々は中尉夫人をとり巻いて、優しい言葉を浴せたり、いろいろ贈り物の雨を降らせたりして、四日ばかり夫の手へ返さずに引き留めた。彼女は元気のいい夫人の家に暮らして、毎日のようにその夫人を初めとして、人はしゃぎの連中といっしょに町じゅう散歩に練り歩いたり、いろんな陽気な催しや舞踏などに加わった。一同はこの間しじゅう彼女をけしかけて、夫を法廷へ引き出して、一騒動もち上げるようにすすめた。そして、みんな彼女の味方をして、証人になってやると誓うのだった。夫はあえて争いを挑もうともせず、口を緘して黙っていた。ついに、哀れな中尉夫人は、とんでもない災難に落ち込んだのを悟って、恐ろしさに生きた心地もなく、四日目の晩たそがれに乗じて、保護者たちの手から夫のもとへ逃げ帰った。夫婦の間にどういうことが起こったか、くわしいことはわからないけれど、中尉の借りて住んでいた低い木造の小家の窓は二つとも、二週間ばかり鎧戸を閉めたきり開かなかった。ユリヤ夫人はこの出来事をすっかり聞いた時、いたずら小僧たちの仕打ちにひどく腹を立てた。元気のいい夫人が、中尉の細君をぬすみ出した初めての日、ユリヤ夫人に引き合わせたとき、彼女はそのやり口にだいぶ不満らしかったが、このことはすぐに忘れられてしまった。
 またその次には、他郡からやって来た青年で、低いところに勤めている官吏が、これまたつまらない小役人ではあるけれど、見たところなかなか品のいい一家の主といったような人から、十七になる娘をもらい受けて結婚した。それは町でもだれ知らぬ者のない美人だった。ところが、突然、こんなことが人々の耳に入った。ほかでもない、結婚の第一夜に新郎は、その美人に対して、自分の名誉を傷つけられた復讐だとかいって、穏かならぬ振舞いをしたとのことである。祝い酒に酔いつぶれてその家に泊ったため、ほとんど全部その出来事の目撃者となったリャームシンは、さっそく夜が明けるか明けないかに、この愉快な報知を携えて、みんなのところを駆け廻った。たちまちに十人ばかりの一隊が組織され、一人の除外例もなく騎馬で出かけた。ある者、たとえばピョートルとかリプーチンなどのごときは、借りもののコサック馬に跨った。リプーチンは白髪の見え初める年をしながら、町の軽はずみな青年の企てる苦々しい馬鹿騒ぎを、ほとんど一つとしてはずしたことがなかった。町の習慣で、結婚の翌日はどんなことがあろうとも、必ず知人訪問をしなければならないので、若夫婦が二頭立ての馬車に乗って往来に現われた時、この騎馬隊はいきなり陽気な笑い声を上げて、若夫婦の馬車をとり囲み、朝の間じゅう町をぞろぞろついて歩いた。もっとも、家の中までは入らなかったけれど、馬に乗って門の傍で待っていた。新郎新婦に格別どうというほどの侮辱を加えることは慎んだものの、とにかく見苦しい光景を呈したのは確かである。町じゅうがこの噂をした。いうまでもなく、みんなげらげらと笑ったのである。しかし、この時、フォン・レムブケーが恐ろしく腹を立てて、ユリヤ夫人と一場の活劇を演じた。夫人も一通りならず立腹して、以後この悪戯小僧どもの出入りを断わろうと考えた。が、翌日ピョートルの弁解とカルマジーノフの数言によって、ついに一同をゆるすことにした。カルマジーノフがかなり機知に富んだ『洒落』をいってのけたのである。
「あれはここの気風なんですよ」と彼はいった。「少なくも奇抜ですよ、そして……痛快です。ご覧なさい、みんな笑ってるじゃありませんか、ぶつぶついってるのはあなた一人だけですよ」
 しかし、続いてかのいまわしい性質を帯びた、もはやとうてい我慢のできない悪ふざけが起こった。
 わたしたちの町に福音書を売り歩く行商の女が現われた。それは町人の生まれだったが、立派な尊敬すべき婦人であった。そのころ首都の新聞でも、こうした行商の女について、面白い批評が現われはじめたばかりだったので、それはすぐ人々の話題に上った。ところが、今度もまたやくざ者のリャームシンが、小学教師の口を求めてのらくらしている神学生と協力で、この婦人の本を買うような振りをして、外国製の猥雑な写真を一束、そっと袋の中へ忍ばせたのである。後で聞けばこの写真は、首に立派な勲章の一つも掛けていようというさる身分ある老人が(名前はいわずにおく)、この計画のためにわざわざ寄付したとのことである。老人は彼自身の言い草によると『健全なる笑いと愉快な冗談』が好きなのだった。で、哀れな婦人が町の勧工場で聖書を出そうとしたとき、例の写真がばらばらと落ち散った。群衆の哄笑、つづいて憤慨の声が起こった。一同はひしひしと詰めかけて罵り始めた。もし折よく警官が駆けつけなかったら、殴打さわぎにもなりかねないところだった。聖書売りの女は留置場に押しこめられた。ようやく夕方になって、このいまわしい事件の内幕をくわしく聞き知ったマヴリーキイが、非常に憤慨していろいろ尽力した結果、やっと釈放されて、市外へ送り出された。今度こそはユリヤ夫人も、断然リャームシンを放逐しようとしたが、その晩、連中が一同うち揃って、彼を夫人のところへつれて来た。そして、彼が一種特別なピアノの曲弾きを工夫したことを報告して、ちょっと聞くだけ聞いてくれと懇願した。それは『普仏戦争』という曲目で、まったく愛嬌のあるものだった。曲はいかめしいマルセイエーズの響きで始まった。

[#ここから2字下げ]
Qu' un sang impur abreuve nos sillons!
   (敵の鮮血わが野を浸せ)
[#ここで字下げ終わり]

 花々しい挑むような音律、未来の勝利に陶酔したような譜調がひびき出した。しかし、思いがけなく、巧みにつくり変えられた国歌の拍子と同時に、どこか隅っこの、脇のほうで、Mein lieber Augustin([#割り注]わしの愛しいアウグスチン――ドイツの俗歌[#割り注終わり])の野卑な響きが聞こえてきた。それは深い底のほうから響いていたけれど、また恐ろしく近いところに聞こえるのだった。が、マルセイエーズはそれに気づかないで、自分の雄壮な調子に酔いきったもののよう。しかし、アウグスチンはそれに屈せず、いよいよ粗暴な調子を発揮していった。と、ふいにアウグスチンの拍子はどうしたものか、マルセイエーズの拍子といっしょになり始めた。こちらは腹を立て始めたようなふうである。今になって、やっとアウグスチンの存在に気がついたので、ちょうど取るに足らぬうるさい蠅でも払いのけるように、一生懸命ふり落とそうと試みたが、『わしの愛《いと》しいアウグスチン』はしっかり食いさがってしまった。彼女は浮き浮きとして、大得意で、さも嬉しそうに、しかも暴慢だった。マルセイエーズはどうしたものか、急にひどく間が抜けてきた。もう癇癪を起こしてぷりぷりしていることを隠そうともしなくなった。それは憤慨の悲鳴だった。神に両手をさし伸べて、一生懸命に押し揉みながら発する、呪いの言葉であり涙であった。

[#ここから2字下げ]
Pas un pouce de notre terrain,
Pas une pierre de nos forteresses.
[#ここから4字下げ]
(われらの土地の一寸も
 われらの城の一石も)
[#ここで字下げ終わり]

 しかし、すでに彼女は『わしの愛《いと》しいアウグスチン』と拍子を揃えて歌わねばならなくなった。その音はどうしたことか、ばかばかしくもアウグスチンの調に移っていって、しだいに力を弱めつつ、消ゆるになんなんとしている。ただ時時、突発的に、qu' un sang impur(敵の鮮血)という響きが聞こえるが、すぐにいまわしいワルツに飛び移るのだった。彼はもうすっかり諦めてしまった。それはちょうどビスマルクの胸にだかれて慟哭しながら、なにもかも投げ出してしまったジュール・ファーヴル([#割り注]ビスマルク講和条約を結んだ仏の外相[#割り注終わり])のようだった。こうなると、アウグスチンはますます猛威を揮った。しわがれた声が聞こえ、めちゃめちゃにビールを呷りつけたようなもの狂おしい自己喝采や、幾十億の償金、細巻きのシガー、シャンパン、人質――こういうものの要求が音響の中に感じられた。やがて、アウグスチンは猛烈な叫喚に移ってゆく……こうして普仏戦争は終わりを告げた。
 仲間の連中は喝采した。ユリヤ夫人は、ほほえみながら、『まあ、どうしたらこの人を追い出せるでしょう』といった。これで講和は締結された。この卑劣漢は、実際ちょっとした才能を持っていた。スチェパン氏は一度わたしたちに向かって、最も芸術的な天才でも、同時に最も戦慄すべき卑劣漢でありうる、この二つはけっして互いに反撥するものでないと、口を極めて主張したことがある。その後、人の噂によると、この曲は、リャームシンがある一人のきわめて謙抑な、才能ある青年の作を剽窃したとのことである。それは彼の知人で、通りすがりにしばらくこの町で逗留したのだが、そのまま人に知られないで終わった。それはさておき、今まで幾年かの間スチェパン氏の家の集まりで、おのぞみ次第に、いろんなユダヤ人の真似をしたり、聾のお婆さんの懴悔や、赤ん坊の生まれるところなどを写して見せたりして、いろいろご機嫌を伺っていたこのやくざ者が、今は時々ユリヤ夫人のところで、当のスチェパン氏をつかまえて、『四十年代の自由思想家』という名称のもとに、悪どい戯画にして見せるのであった。一同はそのたびに笑い転げた。かような次第で、しまいには全然おっ払うということができなくなった。そんなことをするには、あまりにもう必要な人物となったのである。そのうえに、彼はいやらしいくらいピョートルのご機嫌を取った。ピョートルはまたピョートルで、最近にいたって不思議なくらい、ユリヤ夫人に一方ならぬ勢力を振るうようになった。
 わたしはけっしてこんな卑劣漢のことを、とり立ててかれこれいうつもりではなかった。こんな男のために時間をつぶす値打ちはない。ところが、この時、一つのいまいましい事件が起こった。人の話によると、彼もそれに係り合っていたとのことである。そうして、またこの出来事はわたしの記録から、どうしても逸することができないのである。
 ある朝、いまいましく、醜い、冒涜的な出来事に関する噂が、町じゅうに広がった。町の大きな広場の入口に、この古い町でもことに珍しい古蹟とされている聖母誕生寺という古びた教会があった。この教会の塀の門際に、古くから聖母マリヤの大きな聖像が金網をかぶせて塀の中へ嵌め込んであった。ところで、この聖像が一夜の中に盗難に遭ったのだ。厨子のガラスは叩き毀され、金網は引き破られて、冠や袈裟につけてあった宝石や真珠が、非常に高価なものかどうか知らないが、とにかくいくつか抜き取られたのである。しかし、なによりひどいのは、単に盗みをしたばかりでなく、おまけに人を馬鹿にしたような、わけのわからぬ涜神の振舞いをした点だった。ほかでもない、厨子の毀れたガラスの中に、生きた二十日鼠が入っているのを朝になって発見した、というのだ。四か月を経過した今日《こんにち》では、この犯罪を行なったのは懲役人のフェージカであると確かめられてきたけれど、同時にまたどういうわけか、リャームシンもこれに係り合いがあると、つけたりにいい出すようになった。当時はだれ一人、リャームシンのことなぞ口にする者もなかったのに、今ではみんなが口を揃えて、あのとき二十日鼠を入れたのはリャームシンに相違ない、と断言している。
 忘れもしない、当時官憲も大分ショックを受けたふうである。群衆は、朝から犯罪の現場に押しかけた。どんな種類の人か知らないけれど、いつでも百人くらいの群衆が集まっていた。一人去ればまた一人、というふうなのである。近寄って来る人々は、十字を切って、聖像に接吻するのだった。やがて喜捨する人もぼつぼつ出て来たので、教会では賽銭受けの皿を出して、その傍に坊主を一人立たした。やっと三時近くなって、警察のほうでも、町民が一つところに立って、押し合いへし合いしないように、お祈りをし接吻して喜捨をすましたら、さっさと通り過ぎるように、命令することもできるわけだと気づいた。この不幸な出来事は、フォン・レムブケーにきわめて暗い印象を与えた。わたしが人からまた聞きしたところによると、ユリヤ夫人は後でこんなことをいったそうである。彼女はこの不吉な変の起こった朝以来、妙に意気銷沈した心持ちが夫の顔に現われ始めたのに、心づいたとのことである。この表情はつい二月まえ、病気のゆえをもって町を去るまで、ずっと引き続いて彼の顔を離れなかった。いま彼はこの県における短い行政官生活の後、スイスで休養を続けているのだが、この表情はおそらくあちらでも、やっぱり付きまとっていることだろう。
 今でも覚えているが、わたしも昼の十二時すぎ、その広場へ行ってみた。群衆は多く無言がちで、人々の顔はなんとなくとげとげしく気むずかしそうだった。脂ぎって黄いろい顔をした一人の商人が、田舎ふうの馬車に乗って近づいたが、傍まで来ると乗り物から下りて、額が地につくほどうやうやしく礼拝すると、聖像《みぞう》に接吻して一ルーブリの喜捨をし、嘆息しながら馬車に乗って、ふたたび向こうへ行ってしまった。また一台の幌馬車がやって来た。それには町の貴婦人が二人、例の悪戯仲間を二人お伴にして乗り込んでいた。青年たちは(ただし、一人のほうはもう青年といえなかった)、同様に馬車から下りて、かなり無遠慮に群衆を掻き分けながら、聖像のほうへ押しかけた。二人とも帽子を取らなかったばかりか、一人のほうはわざわざ鼻眼鏡を掛けた。群衆の中でぶつぶついう声が聞こえた。もっとも、低い調子ではあったが、かなり反感をいだいているらしかった。鼻眼鏡の青年は、紙幣《さつ》のぎっちり詰まった金入れから、一コペイカの銅銭を取り出して、ぽんと皿の上へほうり出した。二人は声高に笑ったり、話したりしながら、馬車のほうへ取って返した。ちょうどこの時、リザヴェータがマヴリーキイと同道で駆けつけた。彼女は馬から飛び下りると、マヴリーキイには馬上のまま、そこへじっとしているようにいいつけて、手綱をその手に投げつけるなり、聖像の傍へ近寄った。それは銅銭のほうり出された瞬間だった。憤怒のくれないが彼女の頬にさっと漲った。彼女は円い帽子と手袋を脱ぐやいなや、いきなり聖像に向かって汚い歩道にひざまずき、うやうやしく三度まで額を土につけた。それから、自分の金入れを取り出したが、その中には十コペイカの銀貨が二、三枚しかなかったので、さっそくダイヤの耳環をはずして、皿の上にのせた。
「かまいませんか、かまいませんか? お袈裟の飾りにね?」全身をわくわくさせながら、彼女は僧にこうたずねた。
「よろしゅうございます」とこちらは答えた。「喜捨はすべて功徳になりますで」
 群衆は非難の声も立てねば、賞讃の意も表わさないで、無言のまま控えていた。リーザは汚れた着物のまま馬に跨って、まっしぐらに駆け去った。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 いま話した事件から二日たったのち、騎馬の人々にとり巻かれた三台の幌馬車に分乗し、どこかへ出かけて行く大人数の団体の中に、わたしはリザヴェータを見つけたのである。彼女は手でわたしを差し招いて、馬車を止め、わたしもこの団体に加わるように、一生懸命に頼み始めた。馬車の中にはわたしが坐るだけの場所があった。彼女は、けばけばしい作りをした同乗の婦人たちに、笑い笑いわたしを紹介した後で、これから素敵に面白い遠征に出かけるところだと説明した。彼女はからからと声高に笑って、何か度はずれに幸福らしく見受けられた。ちかごろ彼女はなんだか蓮っ葉なくらい浮き浮きしてきた。
 実際、この遠征はとっぴなものだった。一同は川向こうの商人セヴァスチャーノフの家へ押しかけて行くところである。その家の離れにはもう十年近く、セミョーン・ヤーコヴレヴィチといって、単にこの町ばかりでなく、近県はおろか両首都まで知れ渡っている予言の聖者が、穏かに何不自由なく、ちんまりとその日その日を送っていた。人々、――とりわけよそから来た旅人は、彼の奇矯な一言をうるために、わざわざ訪ねて来て、拝んだり、喜捨をしたりするのであった。喜捨の金は時とすると、かなり莫大な高にのぼることがあったが、その場でセミョーン聖者が使いみちを指定しないかぎり、うやうやしく神のみ寺へ送られることになっていた。寺は町の聖母誕生寺がおもだった。で、寺からはこの目的のために僧が一人来て、絶えずセミョーン聖者の張り番をしていた。一行は図抜けて愉快な出来事を予期していた。一行中には、セミョーン聖者を見たものが一人もなかった。ただリャームシンだけは、いつか一ど行ったことがあるとかで、いま一生懸命にその話をするのだった。なんでも聖者は、彼を箒で叩き出せといいつけたうえ、大きな馬鈴薯の煮たのを二つ、自分の手で後から投げつけたとのことである。騎馬の連中のうちには、またしても借り物のコサック馬に乗ったピョートルと(彼は恐ろしく落ちつき悪そうに跨っていた)、同じく騎馬のニコライが見受けられた。彼はどうかすると、こうして一同うち揃っての騒ぎに加わることがあった。そういう場合にはいつでも人の感情を傷つけないような、愉快そうな顔を作っていたが、それでも依然として、あまり口数をきかなかった。
 この遠征隊が橋のほうへ下りて行って、町の宿屋の傍まで来たとき、たった今この宿の一室で、ピストル自殺を遂げた旅人を見つけて、警察の臨検を待っているところだと、突然だれかいうものがあった。すぐさまその自殺者を見ようじゃないか、という動議が提出せられた。この説はたちまち賛成者をえた。一行の婦人たちは、まだ一度も自殺人を見たことがなかったので。なんでも一人の婦人が、さっそく大きな声で、『もう何もかもすっかり飽き飽きしてしまったから、気の紛れることなら、ちっとも遠慮する必要ないわ、面白くさえあればいいじゃないの』といったのを覚えている。ただ幾たりか少数のものが玄関の前で待っていたばかりで、ほかのものは一同揃ってどやどやと、汚い廊下へ雪崩れ込んだ。その中には、驚いたことに、リザヴェータの姿も見受けられた。自殺人の部屋は開け放してあって、むろん、われわれに留め立てなどするものはなかった。彼はまだやっと十九になったばかりで、けっしてそれより上ではあるまいと思われるくらいな、ずぶ若い青年だった。きっと美しい容貌の持ち主だったに相違なく、白っぽい髪の毛は房々と伸び、輪郭の正しい顔は卵なりをして、額は清らかに美しかった。もう体が硬直して、白い顔は大理石のように見えた。テーブルの上には遺書がのっていて、自分の死についてはだれをも咎めてくれるな、この自殺の原因は四百ルーブリの金を『飲んでしまった』からだと書いてあった。『飲んでしまった』という言葉は、ちゃんと手紙に載っていたのである。そして、四行ばかりの間に、文法の誤りが三つまであった。そこに居合わした一人の肥った地主ふうの男が、ことに同情してため息をついていた。見たところ、用事があって同じ宿に泊っている近所同士の人らしい。この男のいうところによると、少年は家族の者、――後家でいる母親や、姉、叔母たちの命を受けて、町の親戚の婦人のもとへおもむき、その指図を受けて、一ばん上の姉の嫁入支度に必要な品をいろいろと買い調え、それを家に持って帰るつもりで村を出たのであった。幾十年間の辛抱で貯えられた四百ルーブリの金は、このとき彼に託されたのである。親たちは心配のあまり吐息をつきながら、くどくどと果てしのない教訓や、お祈りや、十字のまじないで彼を見送った。彼はこれまでごくおとなしい、末頼もしい少年だった。
 三日前に当市へ着くと、彼は親戚の婦人のところへ顔を出さないで、この宿につくやいなや、いきなりクラブへ出かけた。どこか裏のほうの部屋に、旅の銀行師か、それともストック師([#割り注]共にカルタの勝負[#割り注終わり])くらいいるだろうと、当てにしたのである。ところが、その晩はちょうどストック師も銀行師もいなかった。もはや夜なか過ぎて宿へ帰ると、シャンパンとハバナのシガーを取り寄せ、六皿か七皿の晩食を注文した。しかし、シャンパンに酔ったうえ、シガーで胸を悪くしたので、運んで来た食べ物には手も触れず、ほとんど前後不覚で床に就いた。その翌朝は、林檎のようにさばさばした心持ちで目をさました。そしてさっそく、ゆうベクラブで聞いたジプシイの部落をさして、河向こうの村へ出かけたまま、二日間宿へ帰って来なかった。ようやく昨日の夕方五時ごろ、ぐでんぐでんになって帰って来るなり、いきなりぶっ倒れてしまって、晩の十時までぐっすり寝込んだ。目がさめると、彼はカツレツにシャトー・ディケームを一びん、そして葡萄一皿を誂えて、紙とインクと勘定書を持って来さした。だれひとり彼の様子に、変わったところがあるとも気づかなかった。彼は落ちついて、静かで、もの優しかった。自殺したのはまだ十二時前後らしいが、不思議にも、だれもピストルの音を聞いたものがなかった。やっと午後の一時頃に気がついて戸を叩いたが、いくら叩いても返事がないので、戸を毀して中へ入ったのである。シャトー・ディケームのびんはなかば空しくなり、葡萄もやはり半分ばかり皿に残っていた。自殺は三連発の小型ピストルでやったもので、弾丸《たま》はまっ直ぐに心臓に打ち込まれていた。血はごくぽっちりしか出ていなかった。ピストルは手からすべって、絨毯の上に落ち、当の少年は片隅の長いすの上になかば横たわっていた。ほんの刹那に、縡《こと》切れてしまったものと見えて、知死|期《ご》の苦悶の痕はいささかも顔に見えなかった。その表情は穏かで、ほとんど幸福らしく、さながら生けるもののようであった。
 わたしたち一行は貪るような好奇心をもって、一心に見守っていた。一般に、すべて他人の不幸というものは、いかなる場合でも、傍観者の目をたのしませるようなものを含んでいる、その傍観者がだれであろうと例外にはならぬ。婦人連は無言でじろじろ見廻しているし、つれの男たちは元より皮肉の鋭さと、図抜けて胆玉が据わったので聞こえた連中だった。なるほど、これは一ばん気のきいたやり口だ、この少年もこれ以上賢い分別はつかなかったろう、と一人がいえば、ほんのちょっとの間ではあるが、生き甲斐のある暮らしをしたものだ、ともう一人が結論した。すると、第三の男が出しぬけに、どうしてロシヤではこうやたらに首をくくったり、ピストル自殺をしたりするものが多くなったのだろう、まるでみんな根が切れてしまったか、足もとの床がわきへすべり抜けてしまったかなんぞのようだ! とやっつけた。人人はこの理屈屋の顔を無愛想にちらと見た。その代わり、仲間のために道化役を勤めるのを、ほとんど名誉のように心得ているリャームシンが、皿の上から葡萄を一房ひっ張り出した。続いてもう一人が笑いながらその真似をすると、三番目のものはシャトー・ディケームのびんに手を伸ばそうとしたが、ちょうどそこへやって来た警察署長が押し留めた。のみならず、『この部屋を引き上げる』ように頼んだ。もうみんな飽きるほど見てしまったので、争おうともせずにすぐ出て行った。もっとも、リャームシンは何かいいながら、署長に付きまとっていた。一行の浮き浮きした気分と、笑声と、奔放な会話とは、そのあとの半分道を行く間じゅう、ほとんど前に倍して元気づいた。
 ちょうど午後一時、わたしたちはセミョーン聖者のところへ着いた。かなり大きな商人の家の門は開け放しになっていて、離れのほうの出入りは自由だった。行くとすぐセミョーン聖者はお食事中だけれど、面会なさるということがわかった。わたしたちの一行は一時にどやどやと中へ入った。聖者が食事をとり、来訪者に接する部屋は、三つ窓のついた、かなりゆっくりしたものだったが、高さ腰までの木格子で横に壁から壁まで、ちょうど真半分に仕切られてあった。普通の来訪者は、格子の向こうに残っていたが、特別のあやかり者だけ聖者の指定で、格子にしつらえた戸を潜って、奥へ入れられることになっていた。そのうえ、彼は気さえ向けば、自分の古い革張りの肘掛けいすや、長いすに坐らすのであった。聖者自身は必ず、ヴォルテール式の耗《す》れた古い肘掛けいすに坐るのが決まりだった。彼は年の頃五十五ばかり、かなり大柄な、ぶよぶよむくんだような、黄いろい顔をした男で、禿げた頭には白っぽい薄い髪が生え残り、顎ひげは剃り落とされていた。右の頬がはれて、口は心もち歪んだように見え、左の鼻の孔の傍に大きな疣があった。目は小さくて、顔は落ちつき払った、ものものしい、そのくせ眠そうな表情をしていた。服装はドイツふうの黒いフロックコートだが、チョッキもなければネクタイもなかった。フロックの陰からは、かなり地は粗いけれど汚れのない白いシャツが覗いていた。見たところ病気持ちらしい足には、スリッパをはいている。わたしの聞いたところでは、彼はもと官吏を勤めたこともあって、官等さえ持っているとのことである。彼はたったいま軽い魚汁《ウハー》を食べ終わって、二つ目の皿、――皮つきの馬鈴薯と塩、――に手をつけたところだった。これ以外の食べ物はけっして口に入れなかった。ただその代わり、お茶はたくさんのんだ。これが大の好物なのである。まわりには三人の給仕があちこちしていた。これはあるじの商人が給料を出しているので。一人は燕尾服を着込んだ侍僕だし、いま一人は職工組合あたりから来たものらしく、もう一人は寺の番僧かなんぞのようだった。そのほか、いたって腕白らしい、十六ばかりの小僧っ子がいた。給仕たちのほかには、少し肥え過ぎてはいるけど、相当地位のありそうな胡麻塩の僧が、賽銭受けの壺を捧げて控えていた。いくつかあるテーブルの一つには、図抜けて大きな湯沸《サモワール》が煮立っていて、その傍にはほとんど二ダースもありそうなコップをのせた盆が置いてある。反対側にあるテーブルには寄進の品々、――幾つかの砂糖の大塊や、一斤ずつ袋に入れた砂糖や、二斤ばかりの茶や、刺繍をしたスリッパや、絹のハンカチや、ラシャの切れっ端や、麻のきれや、そんなものがのせてある。金の喜捨は大抵、僧の持っている壺の中へ入ってゆくのだった。
 部屋の中は大変な人ごみで、少なくも一ダースくらいの来訪者があった。そのうち二人だけは格子の向こうへ入って、セミョーン聖者の傍に坐っていた。それは、白髪頭をした『平民出』の年寄った巡礼で、もう一人は小柄な、乾からびた、よそものの僧だったが、ちんと畏まって、伏目がちに控えていた。その余の来訪者は格子のこちら側に立っていた。大抵は平民階級の者が多かったが、中に他郡から来た顎ひげの長い、純ロシヤふうのなりをした、丸持ち長者という評判の高い肥えた商人と、年とった見すぼらしい士族出の婦人と、一人の地主がまじっていた。一同は幸運が廻って来るのを待っていたが、口に出してはいわなかった。四人ばかりのものは膝を突いていたが、中でもだれより目に立つのは、年頃四十五ばかりの肥満した地主だった。彼は格子のすぐ傍の一ばん目立つところに膝をついて、セミョーン聖者のやさしい視線か言葉のかかるのを、悲しげに待ちかまえていた。彼はもうかれこれ小一時間もそうしていたが、こちらは相変わらず少しも彼に目をくれなかった。
 われわれ一行の婦人は楽しそうな、嘲るような声でひそひそささやきかわしながら、格子のすぐ傍へ押し寄せた。膝をついていた者も、その他すべての来訪者も、ことごとく押し狭められたり、前に垣をされたりしてしまった。ただ例の地主ばかりは、根気よく目に立つ場所に居残ったまま、両手で格子をつかまえていた。貪るような好奇心に輝く楽しそうな目は、いっせいにセミョーン聖者の上にそそがれた。中には柄付眼鏡や、鼻眼鏡や、双眼鏡まで光った。少なくも、リャームシンは双眼鏡で、ためつすがめつしていた。セミョーン聖者は小さな目で一同を、落ちつき払って大儀そうにじっと見廻した。
「色目をこととするやからじゃ! 色目をこととする!」と軽く嘆息するように、彼はしゃがれたバスでいった。
 みないっせいに笑い出した。『いろめってなんのこと!』しかし、セミョーン聖者はまた沈黙に返って、馬鈴薯を平らげにかかった。ついにナプキンで口を拭きおわると、給仕が茶を出した。
 彼が茶を飲むのは、たいてい一人ではなくて、来訪の者にも注いで飲ませた。けれど、なかなか一同に残らず配ってやるようなことはしなかった。ふつう自分で中のだれかを指さして、この光栄を与えるのが常だった。その指図の仕方が思い切りとっぴなので、いつも人々を驚かした。時には富豪や高官を出し抜いて、苔の生えそうな老婆や百姓にやれといいつけることもあれば、また時には貧しい人々を素通りして、何か脂肥りのしたような金持ちの商人に飲ますこともあった。茶の注ぎ方もやはりまちまちで、砂糖をコップに入れてやったり、添えてかじらせたり、まるで砂糖なしで飲ませたりした。今日この光栄を受けた人々は、よそものの僧――これはコップの中へ砂糖を入れてもらった、――と年寄りの巡礼で、これは砂糖なしだった。町の修道院から来ている、例の壺を持った太り肉《じし》の僧は、これまで毎日一杯ずつもらっていたにもかかわらず、なぜか今日はまるで持って来てもらえなかった。
セミョーン長老さま、なにかお言葉をかけてくださいませんか。わたしはずうっと以前から、あなた様とお近づきになりたいとぞんじまして」一行中の華美《はで》づくりな婦人が笑みを浮かべ、目を細くしながら、唱うような調子でこういった。これは、さきほど『気の紛れることなら、ちっとも遠慮する必要ないわ、面白くさえあればいいじゃないの』といった当人である。
 セミョーン聖者は、そのほうに目をくれようともしなかった。例の膝を突いていた地主は、まるで大きな鞴《ふいご》を上げてまた下げたように、すうっと深いため息をついた。
「あの人に砂糖を入れたのをな!」丸持ち長者の商人を指さしつつ、セミョーン聖者は出しぬけにそういった。
 丸持ち長者は前へ進み出て、地主と押し並んで、立ちどまった。
「あれにもっと砂糖を入れてやれ!」もうコップに茶を注ぎ終わった時、セミョーン聖者はいいつけた。また一人前の砂糖が投じられた。「もっと、もっと入れるのだ!」でまた一ど、さらにまた一ど砂糖が加えられた。
 商人はさもうやうやしげに、シロップのような茶を啜り始めた。
「ああ、神様!」とささやきながら、群衆は十字を切った。
 地主はまたしても深いため息を音高く洩らした。
「長老さま、セミョーン上人さま!」悲しそうではあるが、それこそ思いがけないほど甲走った声が、ふいに高く響き渡った。それはわれわれ一行に壁へ押しつけられていた見すぼらしい老女の声だった。「もうまる一時間お情けを待っておりまする。わたくしにお言葉をかけてくださりませ。頼りのない年寄りに知恵を授けてくださりませ」
「聞いてみい」とセミョーン聖者は給仕の番僧にいいつけた。
 彼は格子の傍へ近づいた。
「あなたは、この前セミョーン上人さまのおっしゃったことを、ちゃんとそのとおりなさいましたかね?」と彼は低いなだらかな声でやもめに問いかけた。
「おお、長老さま、セミョーン上人さま、何ができるものでござりますか、あいつらを相手に何ができるものでございましょう!」とやもめは泣くように叫んだ。「あの人呑鬼《にんどんき》めら、わたくしを裁判所へ訴えるの、元老院へ突き出すのといって、脅しているのでござります。まあ、現在の母親を!」
「あれにやれ!………」セミョーン聖者は砂糖の大塊を指さした。
 小僧は飛び出して、砂糖の塊りをつかむと、それをやもめのほうへだいて行った。
「おお、まあ、長老さま! なんというありがたいことでございましょう。まあ、こんなにいただいてどういたしましょう!」とやもめは泣くような声でいった。
「もっと、もっと!」とセミョーン聖者はまだ施し物を指図するのであった。
 砂糖の塊りがもう一つ運ばれた。『もっと、もっと』聖者はまだやめなかった。三つ目の塊りに続いて、また四つ目が運んで来られた。やもめは四方から砂糖に取り囲まれてしまった。聖母寺院から派遣された僧侶は、ほっとため息を吐いた。これだけの砂糖は、これまでの例にしたがえば、今日にも僧院へ入って来るべきものであった。
「まあ、こんなにいただいて、どうしたらよろしゅうございましょう!」やもめはつつましやかに吐息をついた。「わたし一人でこんなに頂戴して……おなかを悪くしてしまいますよ! これは何かのお告げでもございましょうか、長老さま!」
「そうに違いない、きっとお告げなのだ」と群衆のなかでだれかがいった。
「あれにもう一斤やれ、もう一斤!」セミョーン[#「セミョーン」は底本では「セミヨーン」]聖者はなかなか承知しなかった。
 テーブルの上には、もう一つ大きな塊りが残っていたが、聖者は一斤だけやれといいつけた。で、やもめはまた一斤もらった。
「神様、神様!」と群衆はため息をついたり、十字を切ったりした。「たしかにお告げに違いない!」
「それはまず自分の心を愛と恵みで甘くして、それから現在自分の血を分けた生みの子を訴えに来るがいい、というような喩《たと》えでもあろうかな」先刻、茶のもてなしを受け損ねた肥えた僧侶は、意地悪い自尊心の発作にかられて、われと説明の役を引き受けながら、低いけれど、得意そうな声でいった。
「まあ、方丈さま、何をおっしゃるのでござります」とやもめはふいに腹を立て出した。「だって、あいつらはヴェルヒーシンの家が焼けた時、わたくしの頸に繩をかけて、火の中へ引きずり込もうとしたではありませんか。あいつらはわたくしの箱の中に、死んだ猫を押し込んだではございませんか。そういうふうで、どんな乱暴でもしかねまじいのでござります……
「追い出せ、追い出してしまえ!」突然セミョーン聖者は両手を振った。
 番僧と小僧は格子の向こうへ飛び出した。番僧がやもめの手を取ると、こちらは急におとなしくなって、もらった砂糖の塊りを振り返り、振り返り、戸口のほうへ進んだ。砂糖は小僧が後からかかえて行った。
「一つ取り戻せ、取り上げて来い!」傍に残っている職人体の男に向かって、セミョーン聖者はこういいつけた。
 彼は一散に駆け出して、立って行った人々の後を追った。やがてしばらくたってから、三人の給仕は、一度やっておきながら、またやもめの手から取り戻した砂糖の塊りを一つ持って引っ返した。それでもやもめは大きなのを三つ持って行ったのである。
セミョーン長老さま」うしろの戸のすぐ傍で、だれかの声が響き渡った。「わたくしは夢に鳥を見ました。鴉が水の中から飛び出して、火の中へ入ったのでございます。いったいこの夢はどういうことでございましょう?」
「寒さに向かうということだ」とセミョーン聖者は答えた。
セミョーン長老さま、どうしてあなたはわたしに、なんともご返事くださらないのでございます。わたしはもうずうっと前から、あなたに興味を持っていたのでございます」とまた一行の婦人がいい出した。
「聞いてみい!」その言葉には耳もかさず、膝を突いている地主を指さしながら、セミョーン聖者は出しぬけにいった。
 聞き役を仰せつかった僧侶は、容体ぶって地主に近づいた。
「どんな悪いことをせられましたな? 何かしろといいつかったことでもありますかな?」
「諍《いさか》いをしてはならぬ、わが手に自由をさすな、ということでございました」かすれた声で地主が答えた。
「そのとおり守りましたか?」
「まもれません、自分で自分の力に負かされるのでございます」
「追い出せ、追い出せ、箒で追い出せ、箒で!」セミョーン聖者は両手を振り始めた。
 地主は刑罰の下るのを待たないで、ぱっと跳ね起きると、そのまま外へ飛び出した。
「ここに金貨を残して行きました」床の上から五ルーブリ金貨を拾い上げながら、僧侶は披露した。
「ほら、あれにやれ!」セミョーン聖者は指で丸持ち長者をさし示した。
 丸持ち長者は辞退する勇気もなく、そのまま受け取った。
「金に金を加えるとは」僧侶はこらえ切れないでこういった。
「それから、この男に砂糖入りの茶をやれ」突然セミョーン聖者はマヴリーキイを指さした。給仕は茶を注いだが、間違えて鼻眼鏡の洒落男に持って行こうとした。
「高いほうだ、高いほうだ」とセミョーン聖者が口を出した。
 マヴリーキイはコップを受け取ると、軍人ふうの軽い会釈をして、飲みにかかった。なぜか知らないが、わたしたち一行は、きゃっきゃっと笑い転げた。
「マヴリーキイ・ニコラエヴィチ」と出しぬけにリーザがいい出した。「あの今まで膝を突いてた人が行ってしまったから、あなた代わりに膝を突いてくださいな」
 マヴリーキイはけげんそうに彼女を眺めた。
「お願いよ、後生だから、わたしのいうとおりにしてちょうだいな。ねえ、マヴリーキイ・ニコラエヴィチ」とつぜん彼女は執拗で、片意地な、熱した調子で、早口にいい始めた。「是が非でも膝をついてちょうだい、わたしぜひとも、あなたの膝をついた様子が見たいんだから。もしそれがおいやなら、もうわたしのところへ来ないでちょうだい。どうしても見たいの、どうしても!………」
 どういうつもりで彼女がこんなことをいったのか、それはわたしにもわからない。しかし、とにかく、まるで発作でも起こったように、頑固一徹な調子でいい張るのだった。これは後でまた話すつもりだが、このごろことに烈しくなったリーザのこうした気まぐれな要求を、マヴリーキイは自分に対する盲目な憎悪の突発と解釈していた。とはいえ、けっして腹立ちまぎれや何かではない。それどころか、彼女は常に彼を尊敬し、愛慕しているくらいで、それは彼自身も承知していた。つまり、何か一種特別の無意識的な憎悪で、彼女自身もどうかした拍子には、抑制することができないらしかった。
 彼は自分の持っていたコップを、うしろに立っているどこかの老婆に無言のまま手渡しして、格子の扉を開けると、許しも受けないで、セミョーン聖者の居場所となっている仕切りの中へ入って行った。そして、一同の眼前に姿を曝しながら、部屋のまん中にいきなり膝を突いた。察するところ、満座の中でリーザから無作法な、人を馬鹿にした態度を示されたために、その純な優しい心は極度にまで震撼されたのだろう。或いは自分から強《た》っていい張ってはみたものの、実際こうした見すぼらしい男の姿を見たら、リーザも自分で恥ずかしくなるだろう、とこんなふうに考えたかもしれない。もちろん、こんな正直な危い方法で女を匡正しようなどと決心しうるのは、彼を措いておそらくほかに二人となかろう。彼は持ち前の泰然自若としたしかつめらしい表情を顔に浮かべながら、細長い無恰好なおかしい体つきで、じっと膝をついていた。が、われわれ一行もさすがに笑わなかった。こうしたとっぴな行為が、ほとんど病的な効果を与えたのである。一同はリーザを見守っていた。
「膏《あぶら》を、膏《あぶら》を!」とセミョーン聖者はつぶやいた。
 リーザは急にさっと顔をあおくして、あっという叫びを発しながら、格子の向こうに飛んで行った。このときとっさの間に、奇怪なヒステリイじみた一場の光景が演出された。彼女は一生懸命にマヴリーキイを起こそうとして、両手でその肘を引き立てるのであった。
「お起きなさい、お起きなさい!」と彼女は夢中になって叫んだ。「起きてください、さあ、今すぐ! まあ、よく膝なんか突けたもんだわ!」
 マヴリーキイは膝を起こした。彼女は両手で肘の少し上をじっとつかんで、穴の明くほど相手の顔を見つめていた。恐怖の色がありありとその目に読まれた。
「色目をこととするやからじゃ、色目をこととするやからじゃ!」もう一度セミョーン聖者はくり返した。
 彼女はとうとうマヴリーキイを格子の向こうへ引き戻した。一行中に烈しい動揺が生じた。例の婦人は、こうした不穏の気分を揉み消そうとでも思ったらしく、依然わざとらしい微笑を浮かべながら、黄いろい甲走った声でセミョーン聖者に向かい、三たびくり返してこういった。
「どうしたのでございます、セミョーン上人さま、わたしに何か、『ご託宣』を聞かしてくださいませんの? わたしすっかり当てにしておりましたのに」
「ええ、この阿魔め、云々……」ふいにセミョーン聖者はこの婦人に向かって、思い切り猥雑な罵詈を投げつけた。しかし、その言葉は恐ろしいほど明瞭に、獰猛な勢いで発しられたのである。一行の婦人たちは黄いろい声を上げながら、一目散に外へ飛び出した。男たちはきゃっきゃっと笑い興じた。それで、わたしたちのセミョーン聖者訪問も終わりを告げたのである。
 ところが、ここにもう一つ、きわめて奇怪な、謎のような出来事が起こったとのことである。白状するが、わたしがこの遠征をああ詳しく書いたのも実はそのためなので。
 人の話によると、一同がどやどや入り乱れて駆け出したとき、マヴリーキイに助けられたリーザが、群衆の押し合う狭い戸口のところで、思いがけなくニコライにばったり行き会ったのである。断わっておくが、例の日曜の朝の卒倒さわぎ以来、二人はたびたび顔を合わせはしたけれど、まだ一度も傍へ寄って口をきき合ったことはない。わたしは二人が戸口で落ち合ったのを見た。二人はその時ちょっと立ちどまって、なんだか奇妙な目つきで互いに顔を見合わせた、――ように感じられた。しかし、混雑の中で見誤ったかもしれない。しかし、人々の主張、しかも恐ろしく真面目に主張するところによると、リーザはじっとニコライの顔を見つめると、急に片手を振り上げて、相手の顔と平行する辺まで持って行った。もしニコライが身をかわさなかったら、確かに顔をぶたれたに相違ない。とこういうのである。ことによったら、彼の顔の表情が気に入らなかったのかもしれないし、またつい今しがたマヴリーキイとああした挿話を演じた後だから、何か冷笑のようなものでも目にとまったのかもしれない。白状するが、わたしはなんにも見なかった。が、その代わりだれもかれもが見たと主張した。もっとも、あの混雑のなかで、一同がそんなことを見るはずはない、ただ二、三の者にすぎなかったろう。しかし、当時わたしはその話を本当にしなかった。ただ、今でも覚えているが、帰途ニコライは初めからしまいまで、やや蒼白な顔をしていた。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 ほとんどそれと同時に、いな、それと同日に、スチェパン氏とヴァルヴァーラ夫人の会見が、ついに事実となって現われた。これは夫人が前から考えていたことで、元の親友たるスチェパン氏へも、とうから通じておいたのだが、どういうわけか今まで延び延びになっていた。この会見はスクヴァレーシニキイで行なわれた。ヴァルヴァーラ夫人はのぼせあがって、せかせかしながら、郊外の持ち家へやって来た。今度の祭は貴族団長夫人の邸で催されることに、前日いよいよ決まってしまったので、夫人はすぐさま特別敏活な頭を働かして、今度の祭の後で改めて別な催しをスクヴァレーシニキイで開き、もう一ど町じゅうの者を呼び集めよう、これにはだれひとり異議を唱えるものはないはずだ、その時こそはだれの家が一番いいか、どちらが上手に客をもてなすか、どちらが趣味のある舞踏会を催す腕を持っているか、事実において確かめることができるのだ、こうはらの中ですっかり決めてしまった。全体に、夫人はまるで人が変わったようだった。以前の冒すべからざる威厳を備えた貴夫人(これはスチェパン氏の言い草なので)の面影はなくなって、ごくあり触れた、気まぐれな、社交界の婦人になり切っていた。しかし、それはただそんなふうに思われただけかもしれぬ。
 からっぽな家へ乗り込むと、夫人は昔から少しも変わらぬ忠僕のアレクセイ・エゴールイチと、装飾のほうの専門家でしかも相当苦労人のフォムシカを従えて、部屋部屋を一巡した。いろいろ相談やら評定やらが始まった。町の家からどんな家具を持って来ようかだの、道具や額はどんなのにしてどこへ置こうかだの、温室や花類はどんなにしたら一番都合がいいかだの、新しいカーテンはどこへ置こうかだの、酒場はどこへ設けようか、それも一つでいいだろうか、二つにしようかだの、そんなふうのことだった。ちょうどそうした面倒くさい相談の最中に、夫人はふと思いついて、スチェパン氏へ迎えの馬車を送った。
 こちらはもう以前から報らせを受けているので、ちゃんと覚悟を決めていた。そして、こうしたふいの招きを毎日のように待ちかまえていた。彼は馬車に乗りながら、十字を切った。今まさに自分の運命が決しられようとしているのだ。来てみると『親友』は、大広間の壁の窪みの中にすえてある小さな長いすに腰をかけて、小さな大理石のテーブルを前に控えながら、鉛筆と紙を持ってかまえていた。フォムシカは尺度《ものさし》を持って、壁の上の廻廊や窓の高さを計っていた。ヴァルヴァーラ夫人は数を書き留めては、紙のはじになにか覚え書きをしていた。そして、仕事の手を休めようともせず、横むきにスチェパン氏に会釈した。こちらが何か挨拶の言葉を口の中で述べた時、忙しげに手を差し伸べて、見向きもせずにかたえの椅子を指さした。
「わたしはじっと坐って、『心を搾めつけられるような思いをしながら』五分間ばかり待っていた」と彼は後になって話して聞かせた。「あの時の夫人は、二十年このかた見馴れた夫人と違っていた。もはやいっさいは終わったという一点疑惑の余地のない確信が、夫人をも驚かすほどの力をわたしに与えてくれた。実際、夫人はこの最後の会見で、わたしの断固たる態度に一驚を吃していたよ」
 ヴァルヴァーラ夫人はふいに鉛筆をテーブルの上に置いて、くるりとスチェパン氏のほうへ振り向いた。
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、わたしたちは一つ真面目に話さなくちゃなりません。きっとあなたは例の花々しい言い廻しや、いろんな警句を用意していらしったことと思いますが、もう一足飛びに用件に移ったほうがよかありませんか、ね、そうでしょう?」
 彼はぎょっとした。夫人はあまり性急に自分の態度を闡明しようとしたので、何をいいだすかということは、もうちゃんと見え透いていた。
「まあ、お待ちなさい、しばらく黙ってて、まずわたしにいわせてください。その後であなたもなんなりとおっしゃい。もっとも、あなたにどんな返事ができるか、ちょっと見当がつきませんがね」と彼女は早口に続けた。「千二百ルーブリというあなたの年金は、わたし、自分の神聖な義務だと思っています、ええ、あなたの生涯の終わりまで。もっとも、神聖な義務など持ち出すことはありゃしません。ただ契約の履行です。そのほうがずっと実際的ですよ、そうじゃありませんか? もしなんでしたら、一筆書いてもいいですよ。わたしの死んだときには、特別な処置を取ることにします。けれど、そのほかあなたは今わたしから、住まいと召使といっさいの生活費を受けておられます。これをお金に直して見ますと、千五百ルーブリになります。そうじゃありません? これにまた臨時費の三百ルーブリを加えますと、ちょうど三千ルーブリかっきりになります。あなたには一年分これだけで十分でしょう。少なくはないでしょうね? もっとも、ごくごく臨時の場合には、また増して上げますよ。ですから、お金を取って、わたしの召使どもを返してくだすって、ご自分で勝手に、どこでなりと暮らしてください。ペテルブルグでもよし、モスクワでもよし、それともまた、ここでもようござんすが、ただわたしの家はいけません、ようござんすか?」
「ついこのあいだ、同じあなたの口から、同じような執拗な性急な調子で、まるっきり別な要求が発しられました」愁わしげな、しかも明晰な調子でスチェパン氏はゆっくりといった。「で、わたしは諦めて……あなたのお気に入るようにと、コサック踊りを踊りました 〔Qui' la comparaison peut e^tre permise. C'e'tait comme un petit cozak du Don, qui sautait sur sa propre tombe.〕(そうです、もし比喩が許されるならば、ちょうど自分の墓の上で踊りを踊る、ドン・コサックのようなものです)ところが、今は……」
「お待ちなさい。スチェパン・トロフィーモヴィチ。あなたは恐ろしく口数が多うござんすね。あなたは踊りを踊ったどころか、かえって新しいネクタイをして、新しいシャツを着込み、新しい手袋を嵌めて、頭に油をつけたり、香水を匂わしたりしながら、わたしのところへ出ていらっしゃいました。ええ、わたし請け合ってもようござんすわ、あなたはあの結婚がしたくてたまらなかったのです。それはあなたの顔に描いてありました。そして、まったくのところ、思い切って下品な表情でしたよ。わたしがその時すぐにこのことをいわなかったのは、ただ思いやりのためだったんですよ。が、とにかく、あなたは結婚を望んでいました、ええ、望んでいましたとも、わたしのことだの、ご自分の花嫁さんのことなど、内証の手紙の中にさんざん聞き苦しい文句をお書きになったくせに……今度はあんなこととはまるで違います。そのなんとかの墓の上で踊るドン・コサックとやらは、いったいなんのために引合いにお出しになったんですの? なんの比喩だかちょっともわかりゃしない。それどころか、あなたはけっして死んだりなんかしないで、末長くお暮らしなさいますよ。できるだけ長くお生きなさい。わたしはそれを嬉しく思いますわ」
「養老院でね?」
「養老院で? 三千ルーブリの年収を持って養老院へ行く人は、あまりないようですね。あっ、思い出した」と夫人はにやりと笑った。「本当にいつだったか、ピョートル・スチェパーノヴィチが、養老院のことで冗談をいったことがありますよ。まあ、本当にそれは何か特別な養老院だったっけ。一ど考えてみる値打ちがあるようだ。なんでも、それはごく立派な人たちのために建てたもので、陸軍大佐くらいの人もいるそうだし、ある将軍も入るとかいってるそうですよ、もしあなたがご自分の財産をすっかり持ってそこへお入んなすったらいろんな人たちに仕えられて、十分気楽に満足に暮らしてゆけるでしょうよ。そこであなたは科学の研究に従うこともできれば、好きなときにカルタの仲間を見つけることもできましょうし……」
「Passons.(もうよしましょう)」
「Passons ですって?」ヴァルヴァーラ夫人の顔はぴくりと引っ吊った。「そういうわけなら、もうそれでおしまいですよ。わたしは通告をしてしまいましたから、今後わたしたちはまったく別々に暮らすことにしましょう」
「それでおしまいですって? あの二十年の生活から残ったのが、たったそれだけなんですか? それがあなたの最後の告別の辞なんですか?」
「あなたは恐ろしい咏嘆ずきですね、スチェパン・トロフィーモヴィチ。そんなことは今まるで流行りませんよ。あの人たちのいうのは下品ですが、その代わりざっくばらんですよ。あなたは何かといえば、すぐ二十年を持ち出すんですね。あれは互いに自尊心を煽り合った二十年です、それっきりの話です! あなたがわたしに下すった手紙はどれもこれも、わたしに宛てたものではなくって、子々孫々へ残すつもりで書いたのです。あなたは修辞学者で、親友じゃありません。友情などというものは体裁のいい飾り言葉で、本当は溝水《どぶみず》の打《ぶ》ちまけっこですよ」
「ああ、まるっきり他人の口真似だ……よくまあ、お稽古が固まったものですね! あいつらはもうあなたにまで、ちゃんと自分の制服を着せたんですね! あなたもやっぱり得意でいるんですか? あなたもやっぱり太陽の国の住人になったんですか? |あなた《シエール》、|あなた《シエール》、なんというつまらない菜っ葉汁のために、尊いご自分の自由を売ってしまったのです?」
「わたしは他人の口真似をする鸚鵡じゃありませんよ」とヴァルヴァーラ夫人はかっとなった。「ええ、まったくですよ、わたしにだって自分の言葉は、うんと溜まっていますからね。いったいこの二十年間に、あなたはわたしをどうしてくだすったのです? わたしがあなたのために取り寄せた本でさえ、あなたはいやがって見せなかったじゃありませんか。その本も、もし製本屋というものがいなかったら、ページも切らずにうっちゃられるはずだったんですよ。また初めの間わたしを指導するようにお願いした時、あなたはいったい何を読ましてくれました? いつもいつもカップフィッヒの一点張りじゃありませんか。あなたはわたしの進歩にまでやきもちを焼いて、手加減をしていたのです。ところが、あなたは皆の笑い草になっていますよ。実のところ、わたしはいつもそう思っていました、あなたはただの批評家、ほんの文学批評家にすぎません。わたしがペテルブルグへ行く途中、雑誌発行の計画を洩らして、それに一生を捧げるつもりだとお話したら、あなたはすぐに皮肉な目つきでわたしを見つめて、急に恐ろしく高慢におなんなすったじゃありませんか」
「それは思い違いです、それは思い違いです……わたしたちはあのとき当局の注視を恐れたのです……」
「いいえ、本当にそのとおりでした。ペテルブルグでは当局の注視なんか、恐れるはずがなかったのですよ。その後あの二月になって、解放令の報知が伝わった時、あなたはとつぜんあおくなって、わたしのところへ飛んで来て、さっそく証明書の代わりになる手紙を書いてくれと、わたしにねだり出したのです。で、こんど計画している雑誌は全然あなたに無関係だ、遊びに来る若い人たちはわたしのお客で、あなたを訪ねて来るのじゃない。あなたはただの家庭教師で、俸給のもらい残りがあるので、わたしの家に暮らしているのだ、とこんなふうに書いてあげました。おぼえていらっしゃるでしょう! あなたは一生涯、立派な行ないばかりしていらしったのですよ、スチェパン・トロフィーモヴィチ」
「それはちょっとした気の迷いです。面と向き合った時だけのことです」と彼は悲しげに叫んだ。「しかし、いったいそんな些細な感情のために、何もかも破り棄ててしまわなくちゃならないのですか? いったいあの長い間の二人の関係から何一つ残ったものはないのでしょうか?」
「あなたは恐ろしく勘定高いこと。あなたはまだわたしに、何か貸しを押っつけようとなさるんですね。あなたは外国から帰った当座、わたしを一段高いところから見おろして、わたしにろくろくものもいわせなかったじゃありませんか、その後わたしが自分で出かけて行って、システィンのマドンナの印象を話し出したら、あなたはろくすっぽ聞きもしないで、ご自分のネクタイを見ながら、高慢そうににたりと笑いました。まるでわたしなぞはあなたと同じ感情をいだくことができないものかなんぞのように……」
「それは違います 、たぶん違うはずです…… 〔j'ai oublie'〕(わたしは忘れました)」
「いいえ、そのとおりでした。それに、わたしにご自慢なさるわけは少しもありませんよ。なぜって、そんなことはつまらない寝言ですもの。あなたの考え出した出たらめにすぎないんですもの。今どきの人はだれだって、まったくだれ一人だって、マドンナに夢中になるものはありません。そんなことに暇をつぶすのは、手のつけられないような老人連ばかりです。それはもう立派に証明されています」
「もう証明されてますって?」
「あんなマドンナなぞなんの役にも立ちゃしません。このコップは有益なものです。だって、水を注ぐことができますものね。この鉛筆は有益なものです。なぜって、なんでも書きとめることができるじゃありませんか。ところが、あの絵の女なんぞは、実際にいる女の中でも一番まずい顔ですよ。まあ、かりに林檎を一つ描いて、すぐその傍へ本物の林檎を並べてごらんなさい……いったいあなたはどちらを取ります? 必ず間違いっこないでしょう。まあ、今どきの論理は、すべてこういうふうに帰納されるんですよ。自由研究の曙光が理論のうえをも照らしたのです」
「そうです、そうです」
「あなたは皮肉な笑い方をなさるんですね、もう一つたとえていってみましょう。いったいあなたは慈善ということについて、わたしになんとおっしゃいました? ところが、本当はね、慈善の愉しみというものは、傲慢な背徳の愉しみなのです。金持ちが自分の富や権力や、自分と貧者との価値の比較、こういうものによって感じる愉しみなのです。慈善は、与えるものをも、また受けるものをも堕落させます。しかも、貧困を助長させることになりますから、目的を達することもできないのです。ちょうど博奕打ちが一攫千金を夢みながら、カルタづくえのまわりに集まるように、働くことの嫌いななまけ者が慈善家のまわりにうようよたかるんですからね。ところが、慈善家のなげうってやるいささかの小銭なんか、全財産の百分の一にも足りないじゃありませんか。あなたは一生涯のあいだ、たくさんの施しをしてやったことがありますか。八十コペイカより大きいことはありますまい、よく考えて思い出してごらんなさい。あなたが一番おしまいに施しをなすったのは、二年ばかり前でしたね、いいえ、四年くらいたってるかもしれない。あなたはただ大きな声で怒号して、仕事の邪魔をなさるばかりですよ。慈善などということは、今日の社会でも法律で禁止すべきなんです。新しい社会組織では、てんで貧乏人なんかなくなってしまいます」
「ああ、まるで他人の言葉を鵜呑みにしたのだ? じゃ、もう新しい社会組織にまで行ってしまったのですか? ああ、神様、この不幸な婦人をお助けください!」
「ええ、そこまで行ってしまったんですよ、スチェパン・トロフィーモヴィチ。あなたはいま、だれ一人知らぬ者もないようなすべての新思想を、精出してわたしの目から隠すようにしていらっしゃいました。しかも、それはわたしの心を支配したさのやきもち根性から出たことなのです。今ではあのユリヤでさえ、わたしより百歩もさきへ出ています。けれど、今こそわたしもすっかり見抜きました。わたしはね、スチェパン・トロフィーモヴィチ、できるだけあなたを弁護したんですよ。あなたはまったくみんなから攻撃されていますよ」
「たくさんです!」と彼は席を立とうとした。「たくさんです! で、わたしは今これ以上あなたに何を祈ったらいいのでしょう? 悔悟でしょうか?」
「まあ、ちょっとお坐んなさい、スチェパン・トロフィーモヴィチ、わたし、まだあなたにおたずねすることがあるんですの。あなたは今度の文学会で、何か講演を依頼されていらっしゃるでしょう。これはわたしの骨折りでそういうふうになったのですよ。いったい何を講演なさるおつもりですの?」
「いうまでもありません、あの女王の中の女王です、あの人類の理想です。あなたのお説ではコップや鉛筆ほどの値打ちもないシスティンのマドンナです」
「じゃ、あなたは歴史の話をなさるんじゃないんですか?」とヴァルヴァーラ夫人は悲しそうな驚きを浮かべた。「そんなことを聴く人はありゃしませんよ。本当にあなたはマドンナの一点ばりですね! 聴く人をみんな居眠りさしてしまうなんて、ずいぶんいいものずきじゃありませんか。ねえ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、本当にわたしはあなたの身になって心配しているのですよ。もしあなたがスペイン歴史の中から、何か短くて気の利いた、中世紀の宮廷生活の物語を講演なすったら、どんなにいいでしょう。物語というより、ちょっとした逸話ですね、それにまたほかの逸話で色をつけたうえ、ご自分で工夫した警句でも添えてごらんなさい。あの時分には宮廷生活が華やかで、いろんな面白い貴婦人がいたり、毒殺事件があったりしたりしたのですからね。カルマジーノフもそういってましたよ。スペイン歴史の中から何か気の利いた講演ができないというのは、よっぽど変な話だって」
「カルマジーノフ? あの書きつくして筆の涸れた馬鹿者が、わたしのためにテーマをさがしてくれるって!」
「カルマジーノフ、あの人はほとんど国家的人物といってもいいくらいです! あなたはあまり口がすぎますよ、スチェパン・トロフィーモヴィチ」
「あなたのカルマジーノフなんか、あんなやつは時代おくれの、書きつくして種切れのした、意地悪の女の腐ったようなやつです! |あなた《シエール》、|あなた《シエール》、あなたはもうとうからあんな連中の奴隷になっていたのですか、おお、なんということだ!」
「わたしは今だって、あの男の尊大振りがいやでたまらないんですけれどね、それでもあの人の頭脳には、当然敬意を払わないわけにゆきません。くり返していいますが、わたしは一生懸命に、できるだけあなたを弁護してきたんですよ。そんなに是が非でも自分を滑稽な、面白くない人だと思わして、いったい何になるんです! そんなことはやめて、一つ過去の時代の代表者らしく、品位のある微笑を浮かべながら、悠然と演壇へ登って、三つばかり逸話をお話しなさいな。時々、あなたでなくてはというような話し方をなさる。あんなふうな独得の皮肉を縦横に発揮してね。あなたは老人でもかまいません、前世紀の遺物でもかまいません。またあの人たちにとり残されてるとしてもかまいません。ただこのことを前置きでちょっと自認しておいたら、あなたが愛嬌のある、人の好い、機知に富んだ老人だということを、みんなが知ってくれますから……つまり、あなたは旧時代の人物には相違ないけれど、第一流の人物であるだけに、今まで追随していたある種の思想の醜悪な点を、相当に認識するだけの頭脳を持ってらっしゃるのです。さあ、どうかわたしのいうことをきいてください。お願いですから」
「〔Che`re〕 たくさんですよ! 拝み倒すのはよしてください。わたしにはできません。わたしはマドンナの話をするのです。一つ大嵐を呼び起こします。その嵐で、やつらをすっかり打ち破るか、それとも、自分一人が斃されるかです!」
「確かにあなた一人斃されるんですよ。スチェパン・トロフィーモヴィチ」
「それがわたしの運命なのです。わたしはあの卑しい奴隷の話をするのです。手に鋏を持って第一番に梯子を攀じ登り、平等と羨望と、そして……消化の名をもって、偉大なる理想の神々しいおもわを掻き裂こうとする、あの鼻持ちならぬ放埒な下司男の話をするのです。わたしは自分の呪いを天下に轟かせなければやみません。その時こそ、その時こそ……」
癲狂院おくりですか?」
「或いはそうかもしれません。しかし、どっちにしても、わたしが負けるか、勝利者となるかです。わたしはその晩さっそく袋を取って……あの乞食のような袋を取って、わたしの財産をすっかり置いて行きます。あなたの贈り物も、年金も、未来の幸福のお約束も、すっかり遺したまま、かちでとぼとぼ出て行きます。そして、どこか商人の家のおかかえ教師で一生を終わるか、でなければ、どこかの垣の下で飢え死にします。わたしはもうそういったのです…… Alea jacta est!(骸子は投げられたり!)」
 彼はふたたび立ちあがった。
「わたしそう信じていました」目をぎらぎら輝かせながら、ヴァルヴァーラ夫人も同様に立ちあがった。「わたしもうずっと前からそう信じていました……あなたはとどのつまり、わたしとわたしの一家を讒誣して泥を塗るために、ただそれのみを目的に生きてらしったんです! あなたのおっしゃる商人のおかかえ教師とか、垣の下ののたれ死にとかは、いったいなんの意味ですの? 面当てです、讒誣です、ええ、それっきりです」
「あなたはいつもわたしを軽蔑していらしった。けれども、わたしは自分の姫に対する騎士のように、美しく生涯を終わるつもりです、なぜといって、わたしはいつもあなたのご意見を、何より最も尊重していたからです、もう今後なんにも頂戴しないで、利欲を離れて崇拝します」
「なんて馬鹿なことを!」
「あなたは一度もわたしを尊敬してくださらなかった。わたしには数限りない弱点があったかもしれません。そうです、わたしはあなたを食い潰しました(これは虚無主義の言葉を使っていってるんですよ)。しかし、食い潰すということは、けっしてわたしの行為の最高のモットーじゃなかったのです。これは自然とそんなふうになったのです。なぜだかわたしにもわかりません……わたしはいつもそう思っていました。二人の間には、何かしらん食物より以上に、高尚なものが残るだろうと。そして、一度も、まったく一度も卑劣な考えをいだいたことはありません。さあ、そこで事態を匡正するために、いよいよ旅の道に上るのだ! 晩い旅路に上るのだ! 外は秋が更けて、霧が野の上に垂れ、凍った老人のような霜がわたしの行く手をおおっている。そして、風は墓の近いことを呻き訴える……しかし、旅路に上らねばならぬ、新しい旅路へ。

[#ここから2字下げ]
心は清き愛に充ち
甘きおもいに身は浸り ([#割り注]プーシキン「貧しき騎士」[#割り注終わり])
[#ここで字下げ終わり]

 おお、さらば、わが空想よ! 二十年よ! Alea jacta est.(骸子は投げられたり)」
 彼の顔は、急に、はふり落つる涙に濡れた。彼は自分の帽子を取った。
「わたしラテン語は少しも知りませんよ」一生懸命に心を強く持ちながら、ヴァルヴァーラ夫人はそういった。
 実際、夫人自身も泣き出したかったのかもしれない。けれども、腹立たしさと気まぐれがもう一ど勝ちを占めた。
「わたしはね、たった一つだけ知ってることがありますの。ほかではありません、そんなことはみんな子供らしい駄々ですわ。あなたはそんなエゴイズムにみちた脅し文句を、とても実行するような気力はありゃしません。あなたはけっしてどこの商人のところへもいらっしゃりゃしませんよ。やっぱりわたしから年金を受け取って、あのやくざな友だちを火曜日ごとに家へ集めながら、安気にわたしの手に抱かれて死ぬんですよ。さようなら、スチェパン・トロフィーモヴィチ」
「Alea jacta est!(骸子は投げられたり!)」うやうやしく夫人に一揖して、彼は興奮のあまり生きた心地もなく、わが家へ帰って行った。

[#3字下げ]第6章 ピョートルの東奔西走[#「第6章 ピョートルの東奔西走」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 祭の日取りは、いよいよしっかり定められた。ところが、フォン・レムブケーはだんだん沈みがちに、だんだんもの案じ顔になっていった。彼の心は奇妙ないまわしい予感で一杯になっていた。これが一方ならず、ユリヤ夫人を不安に思わしたのである。もっとも、万事が泰平無事というわけにはゆかなかった。気のやさしい前知事が、県の行政事務をかなり乱雑にしていったうえに、目下コレラが襲いかかっているし、ある所なぞでは獣疫が頭をもたげはじめた。また夏の間じゅう、方々の町や村で祝融氏《しゅくゆうし》が猖獗を極めた。しかも、民間では、放火云々の愚かしい不満の声が、かたく根を張り出したのである。強盗も以前にくらべると、二倍に数を増してきた。もっとも、こんなことはきわめてあり触れた出来事に相違ないが、ただこのほかにもっと重大な原因があって、今まで幸福に過ごしてきたレムブケーの平安を破ったのである。
 何よりもユリヤ夫人に怪訝の念をいだかしたのは、彼が一日一日と口数が少なくなり、隠し立てさえするようになった一事である。いったい何を隠し立てする必要があるのだろう? もっとも、彼はあまり妻に言葉を返さないで、大抵の場合すっかりいわれるままになっていた。たとえば、夫人の主張にしたがって、県知事の権力を拡張するために、思い切って冒険的な、ほとんど反則にならないばかりの施策も、二、三おこなわれた。また同じ目的のために、二、三の忌むべき放漫な処置も講ぜられた。例を挙げていえば、当然裁判に付せられシベリヤに流さるべきたぐいの人たちまで、ただただ夫人がたって主張したばかりに、かえって授賞者として報告された。ある種の請願や質問に対しては、徹底してなんの答弁もしないことに決せられた。それらはすべて後に発覚したことである。レムブケーは、なんでもかでも署名したばかりでなく、自分の職務の履行にどれだけ妻が関係したかという問題さえも、講究しようとしなかった。その代わり、時時『まるっきりくだらないこと』のために血相を変えて怒り出しては、ユリヤ夫人を驚かすようになった。もちろん、服従の幾日かが続くと、ちょっとした一揆を起こしてみて、それでみずから慰めようという要求を感じるのであった。悲しいかな、ユリヤ夫人はその偉大な明察力にも似合わず、この高潔な性格の蔵している、かような高潔にしてデリケートな変化を理解することができなかったのである。彼女はそれどころでなかったのだ。これがために、多くの誤りが生じたものといわねばならない。
 ある種の事柄については、わたしなどが話すべき筋合もないし、またとてもうまく話し切れるものでもない。行政上の過失を穿鑿するのも、またわたしの任でないから、こういう行政的の方面は、いっそすっかり抜きにしようと思う。この記録を始めたについては、また別に目的とするところがあったのだ。それに、とくにこのために任命された予審委員の手によって、いろいろたくさんな事実が暴露されることだろうから、もう少し待っていればいいわけだ。とはいえ、それにしても二、三の説明は、どうしても抜いてしまうわけにいかない。
 しかし、いま少しユリヤ夫人のことを述べるとしよう。不幸な婦人は(実際、わたしはこのひとをたいへん気の毒に思っている)、この県へ転任のそもそもから覚悟していたような烈しいとっぴな運動をするまでもなく、あれほど長いあいだ牽引と魅惑を感じていたすべてのもの(名誉その他のもの)を、ことごとく獲得することができたのである。ところで、詩的空想があまり多すぎたせいか、それとも処女時代の佗しい失敗が長く続きすぎたためか、とにかく彼女は運命の急変と同時に、とつぜん自分を何か特別な選ばれたる人のように感じ出したのである。まるで『焔の舌が頭上に燃え上る』膏《あぶら》ぬられたる人のような気がしたのだ。この焔の舌が禍のもとなのである。なんといっても、こいつは付け髷のようなものと違うから、どんな女の頭にも自由にくっつけるわけにいかない。しかし、この理を婦人に説得するのは何よりむずかしい。ところが、その反対に、女に相槌ばかり打つものは常に成功疑いなしである。人々は争って婦人に相槌を打った。不幸な夫人はたちまちにして、種々雑多な影響の翻弄物となった。が、それと同時に、当人はどこまでも自分を独創性に富んだものと、自惚れているのであった。
 夫人の短い在任期の間に、狡猾な連中が彼女の周囲にうようよと集まって、その人のいいところを利用して懐ろを温めた。しかも、独立不羈という美名のもとに、どんな乱脈が演じられたことか! 大農制度も、貴族的分子も、県知事の権力拡張も、民主的分子も、新施設も新秩序も、自由思想も、社会的理想も、貴族のサロンにおける厳正な調子も、自分をとり巻く若い連中の居酒屋式の磊落な態度も、ことごとく夫人の気に入ったのである。彼女は人間に幸福を与え[#「幸福を与え」に傍点]、和し難きものを和せしめようとした、というより、むしろ夫人自身の人格崇拝というものの中に、ありとあらゆるものを結合しようと空想したのである。夫人にはまた特別のお気に入りもあった。なかでもピョートルは思い切って露骨な、そうぞうしい阿諛を弄して、すっかり夫人の心をとりこにしてしまった。けれども、彼はまたほかの原因もあって、彼女のお気に入りとなったのである。それはきわめて奇怪な点ではあるが、同時にこの不幸な夫人の性格をまざまざと描いて見せるようなものであった。ほかでもない、彼女は絶えず心の中で、ピョートルがなにか国家的の一大陰謀を自分に密告してくれるに相違ないと、深く信じていたのである! 実に想像もむずかしいくらいの話だが、これが本当なのだから仕方がない。どういうわけか夫人はこの県内に、必ず国家的陰謀が潜んでいるに相違ない、というような気がしてならなかった。
 ピョートルは時に沈黙をもって、時にほのめかすような口吻をもって、夫人の奇怪な想像の助長に努めた。彼女の想像によると、ピョートルはロシヤにおけるすべての革命分子と関係を有しながら、それと同時に、崇拝といっていいくらい夫人に信服している青年なのであった。陰謀の暴露、中央政府からの讃辞、昇進、いざという瀬戸際で引きとめるために、愛をもって新しき世代に感化を与える方法、――こういうものが夫人の幻想的な頭の中に、すっかりこびりついてしまったのである。実際、自分はピョートルを救ったではないか、彼を征服したではないか(夫人はこのことをなぜか固く信じ切っていた)。それだのに、どうしてほかの者をも救えないわけがあろう? 彼らはだれ一人、まったくだれ一人として堕落はしない、みんな自分が救ってみせる。自分は彼らを一々種類わけして、それをすっかり報告してやる。自分は最高正義の標準によって行動するのだ、もしかしたら、ロシヤの歴史、ロシヤの自由思想界が挙げてことごとく、自分の名を祝福するようになるかもしれぬ、とにかくそれにしても陰謀は暴露されるのだ。一挙にしてあらゆる利が獲られるわけである。が、それにしてもせめて祭の前だけでも、夫のアンドレイ・アントーノヴィチに、もう少し晴ればれしてほしかった。是が非でも彼を浮き立たして、安心させなければならなかった。この目的をもって、夫人は夫のもとヘピョートルを差し向けた。何か彼独得の鎮静剤的な効能を持った方法で、夫の気欝症を紛らしてもらおうと、当てにしていたのだ。ことによったら、直接、本家本元から取ってきた何か珍しい報知でもあるかもしれぬ。とにかく、夫人は彼の腕を飽くまで信じ切っていた。ピョートルはもうだいぶ久しく、フォン・レムブケー氏の書斎に入らないでいた。彼が知事の部屋へ飛び込んだのは、ちょうど自分の患者レムブケー氏が、とくに屈託した気分になっている時だった。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 実はフォン・レムブケー氏にとって、どうしても解決することのできない、こぐらかった事情が持ちあがったのである。ある郡内で(それはついこの間ピョートルが、将校連と酒宴を催したところである)、一人の少尉が直属長官から口頭の譴責を受けた。それはたまたま中隊ぜんぶの集まった席で起こった出来事である。少尉はつい近頃ペテルブルグから来たばかりの、まだいたって年若な青年で、いつも無口で気むずかしそうな顔をしているから、ちょっと見は、なかなか気取った風采だった。けれど、それと同時に、がらの小さい肥った男で、頬なぞは赤々としていた。彼はこの譴責を我慢できないで、中隊じゅうがはっと思うような奇妙な甲走った叫び声とともに、まるで何か野獣のように首をかしげながら、いきなり中隊長に躍りかかった。そして、いやというほど撲りつけておいて、力まかせに肩へ咬みついた。人々はやっとのことで彼をもぎ放した。疑いもなく、まさに気がちがったに相違ない。少なくとも最近にいたって、ほとんどありうべからざるほど奇怪千万な振舞いを見受けた、というものが続続と現われた。たとえば、自分の住まいから、家つきの聖像を二つまでほうり出して、一つは斧で叩き割ったとのことだし、また、自分の部屋に読経台のような台を三つこしらえて、その上にフォヒト([#割り注]一八一七―九五年、ドイツのダーウィン主義者[#割り注終わり])、モレショット([#割り注]一八二二―九三年、ドイツの生理学者唯物論者[#割り注終わり])、ビュヒネル([#割り注]一八二四―九九年、医学者、自然哲学者、「力と物質」の著者、唯物論者[#割り注終わり])の著書を並べ、その上に一つずつ教会用の蝋燭をともしたものである。彼のところで発見されたおびただしい書物の数は、非常な読書家だということを想像させた。もし彼に五万フランの金があったら、ちょうどゲルツェンの愉快なユーモアにみちた作に書いてある士官候補生のように、凛然としてマルキーズ島へでも去ったかもしれない。彼が捕まった時には、ポケットからも居間からも、思い切って乱暴な檄文がうんと出てきたとのことである。
 檄文そのものは要するにつまらないことで、わたしなどにいわせれば、てんで少しも面倒なことはないのだ。そんなものを見つけるのはあえて珍しいことではない。おまけに、それは新たにできた檄文ではなく、噂によれば、全然それと同じものがついこのあいだX州でも撒き散らされたということだし、一月半ばかり前、隣りのN県へ出張したリプーチンも、向こうで同じような刷り物を見たと断言している。ただ何よりレムブケーの心胆を寒からしめたのは、ちょうどそれと同時にシュピグーリン工場の支配人が、夜中に工場へ投げ込まれたのだといって、少尉のところで見つけたのとそっくり同じ刷り物を、二束か三束、警察へ届けたという一事である。しかし、その束はまだ封が切ってなかったから、職工はだれ一人として、一枚も読んで見る暇がなかった。とにかく、馬鹿馬鹿しい事実なのだが、レムブケーはひどく考え込んでしまった。なんだかこの事件が不愉快な、こぐらかったもののように思われたのである。
 この工場では、当時いわゆる『シュピグーリン問題』なるものが、持ちあがりかけたばかりだった。このことは町でも喧しく騒ぎ廻るし、首都の新聞まで尾鰭をつけて書き立てたものである。三週間ばかり前に一人の職工が、アジヤ・コレラを患って死んだ。と、続いてまた幾人かの患者が出た。ちょうどその時、隣県からコレラが襲来していたので、町民は急におじけづいた。事実、この押しかけの珍客を迎えるためには、町でもできうる限り完全な衛生施設を講じたのだが、シュピグーリンの工場だけは、持ち主が巨万の資産家で、いろいろ有力な知人縁者があったため、ついずるずるに見のがしてしまったのである。ところが、こんど急に一同口を揃えて、この中にこそ病源が潜んでいる、あれこそ黴菌の繁殖場だ、あの工場、――ことに職工の寄宿舎は、まるで手のつけられないほど不潔を極めていて、よしコレラなぞぜんぜん流行していなくとも、きっとここから発生せずにはおかない、とこんな叫び声を挙げ始めた。もちろん応急の処置が講じられた。レムブケーはさっそくすこしの猶予もなく実施するよう、夢中になって主張した。工場は、三週間ばかりかかって消毒された。が、シュピグーリンはどういうわけか知らないが、工場を閉鎖してしまった。シュピグーリン兄弟のうち、一人はいつもペテルブルグで暮らしているし、いま一人は県庁から消毒の命令を受けたのち、モスクワへたってしまった。支配人は職工の賃銀計算にとりかかったが、大胆至極なごまかしをやっていたのが、今になってはっきりしてきた。職工たちはまともな計算を要求して、だいぶ不平の声が起こった。中には馬鹿なことをいって警察へ出頭するものもあった。もっとも、大して怒号叫喚するわけでもなく、またけっして噂ほどの騒ぎもなかった。ちょうどこの時レムブケーは支配人の手から、例の檄文を受け取ったのである。
 ピョートルはごく親しい友だちか内輪の者のように、知事の書斎へ飛び込んだ。今日はおまけに、ユリヤ夫人の依頼を受けてるのだから、大威張りである。彼の姿を見ると、レムブケーは気むずかしげに顔をしかめながら、不愛想にテーブルの傍に立ちどまった。それまで彼は書斎を歩き廻って、官房役人のブリュームとさし向かいで、なにやら相談していたのである。ブリュームは、夫人の猛烈な反対にもかかわらず、わざわざペテルブルグからつれて来たドイツ人で、恐ろしくぶ骨な、むっつり屋だった。彼はピョートルが入って来ると同時に、戸口のほうへしさったが、それでも出て行こうとはしなかった。そればかりか長官と意味ありげに目くばせさえしたように、ピョートルの目には映ったので。
「おお、やっとつかまえましたよ、あなたは隠れんぼの好きな知事公ですからなあ!」とピョートルは笑いながらわめいて、掌をテーブルの檄文の上に置いた。「これでまた、あなたのコレクションがふえるわけですね、え?」
 レムブケーはかっとなった。彼の顔面筋肉は、なんだかふいにぴくりと引っ吊ったようであった。
「おいてくれたまえ、今すぐおいてくれたまえ!」憤怒のあまり身を震わせながら、彼はこうどなった。「それは失敬じゃないか……きみ……」
「なんだってあなたそんなに? 怒っておいでのようですな?」
「わたしはきみに断わっておくがね、わたしは今後、きみの 〔sans fac,on〕(非礼)を、黙って辛抱する気は少しもないんだからね。お願いだから、おぼえといてくれたまえ……」
「ちぇっ、くそ、この人は本気なんだよ!」
「黙りたまえ、黙りたまえというに!」レムブケーは絨毯の上でじだんだふんだ。「じたい生意気じゃないか……」
 いったいこのさきどうなることかと、気づかわれるほどだった。ああ、これには一つまた別な事情があるのだ。しかも、ピョートルはいうまでもなく、ユリヤ夫人でさえまだ知らないでいたことなのだ。ほかでもない、不幸なレムブケーは、すっかり頭をめちゃめちゃにしてしまって、この二、三日、こころの中でピョートルとユリヤ夫人の間を疑い、嫉妬を起こしているのであった。一人きりになった時、――とりわけ夜中などは、ずいぶん不快な感情を忍ばねばならなかった。
「ぼくはまたこう思っていました、――人が二日も続けて、真夜中すぎに自作の小説を読んで聞かせたうえ、それに関する意見まで求めている以上、少なくともその人自身からして、そんな四角ばった儀礼を超絶したものと、解釈していましたよ……それに、奥さんはぼくに対して、ごく隔てのないつきあいをしてくださる。こうなると、まるであなた方のお心持ちがわかりませんよ」と一種の威厳さえ示しながら、ピョートルはいった。「ああ、ついでにあなたの小説を持って来ました」くるくると筒形に巻いたうえ、青い紙でしっかりと包んだ、大きなどっしりしたノートをテーブルの上へ置いた。レムブケーはあかくなって、口をもぐもぐさせながら、
「きみどこで見つけたんです?」抑え切れないよろこびのこみ上げるのを、一生懸命に押しこらえながら、彼は用心ぶかい調子でこうたずねた。
「まあ、どうでしょう、こんなふうに筒形になってたもんですから、そのまま箪笥の向こうへ転がり落ちてしまったんですよ。あのときぼくは、きっと部屋へ入るなり、不注意に箪笥の上へほうり出したものと見えます。やっと一昨日、床を洗うといって見つけ出したんです。しかし、あなたは大変な仕事をぼくに授けてくれましたね!」
 レムブケーはきつい表情をして目を伏せた。
「おかげさまで、二晩つづけて寝ませんでしたよ。実はおととい見つけたんですが、お返しするのを見合わせて、すっかり読んでしまいました。昼は暇がないもんですから、夜だけね。ところでと、――不感服でしたよ。ぼくなどは思想がまるで違います。しかし、まあ、どうだっていいや、今まで批評家なんて役目は、一度も勤めたことがありませんからね。けれど、不感服ながらも、巻を措くに忍びなかったですよ! 第四、第五章あたりなんぞは、その……その……いや、もうなんといっていいかわかりませんなあ! そして、あなたもずいぶんユーモアを詰め込んだもんですね、噴き出しちまいましたよ、しかし、それにしても、あなたは sans que cela paraisse(目立たないように)茶化してしまうことがうまいですねえ! それから、あの第九章、第十章はすっかり恋物語ですな。これはぼくなどの関知しないところですが、なかなか効果がありましたよ。イグレーネフの手紙のくだりでは、ほとんど泣き出しかけたほどです。もっとも、あなたはこの男をきわめて皮肉に描出していらっしゃいますがね……いや、実際あれには感動させられます。しかし、それと同時にあなたはこの男を、偽りの側面から写し出そうと試みていられるようですね。そうでしょう? 当たりましたかどうです? ところで、大団円にいたっては、本当にあなたをぶん撲ってやりたいような気がしましたぜ。いったいあなたはなんという結論に導くつもりなんです? あれは実際のところ、お定まりの結婚の幸福に対する讃美じゃありませんか。子宝をふやして、お金を蓄めて、無事息災に暮らして、功徳を積みましたとさ、まるでこういった調子ですよ、やり切れたもんじゃない! あなたは読者を魅了する技《わざ》をもっていらっしゃる。で、ぼくも一読巻をおおうに忍びなかったんです

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP241-P288

いのキリーロフの胸に、毒を注ぎ込んでいたのです……きみはあの男の心に虚偽と讒誣とを植えつけて、理知を狂わしてしまったのです……まあ、行って、今のあの男の様子をご覧なさい。あれがきみの創造物です……もっとも、きみはもう見たんでしょうね」
「ぼくは断わっておきますが、第一に、あのキリーロフはたったいま自分の口から、自分は幸福だ、美しい人間だ、とぼくにいいましたよ。あれがほとんど同時に行なわれたろうというきみの想像は、ほぼ正確に近いです。しかし、それがいったいどうしたのです? くり返していいますが、ぼくはきみたちのどちらにも嘘をつきはしなかった」
「きみは無神論者ですか? いま無神論者ですか?」
「そうです」
「じゃ、あの時は?」
「今もあの時も同じことです」
「ぼくは会話を始めるに当たって、尊敬を要求しましたね。あれはぼく自身に対するものじゃない。きみの頭脳でそれくらいのことがわからないはずはありません」とシャートフは憤懣の語気でいった。
「ぼくはきみの最初の一言とともに席を立って、この話に蓋をしなかった。そして、きみのところを去らないで、今までじっと坐ったまま、きみの質問……というより、むしろ怒号に対して、おとなしく答えをしてるじゃありませんか。してみると、まだきみに対する敬意を失ってないはずですよ」
 シャートフは手を振ってさえぎった。
「きみはこういうきみ自身の言葉をおぼえていますか。『無神論者はロシヤ人たりえない』『無神論者を奉ずるものはただちにロシヤ人でなくなる』とこういう言葉をおぼえていますか?」
「そう?」とニコライは問い返すようにいった。
「きみはぼくにきいてるんですか? 忘れたんですか? ところが、これはロシヤ精神の最も重要な特性を明示した、最も正確な意見の一つなのです。これはきみが自分で発見したんですよ。きみがそれを忘れるという法はない! ぼくはもっと思い出さしてあげますよ、――きみはあの時こうもいいました。『ギリシャ正教を奉じないものはロシヤ人たり得ない』」
「どうもそれはスラブ主義者の思想らしいですね」
「いや、今のスラブ主義者なら、こんな思想はごめんこうむるといいますよ。今の人はも少し利口になりましたからね。きみはもっと深入りしていたのです。ローマ・カトリックはもはやキリスト教ではない、こうきみは信じていました。きみの説によると、ローマは悪魔の第三の誘惑に陥ったキリストを宣伝したのです。地上の王国なしには、キリストも自己の地歩を保つことができない、とこういう思想を全世界に宣伝したカトリック教は、この宣伝によって反キリストを普及し、ひいては西欧全体を亡ぼしたことになるのです。いまフランスが苦しんでいるのは、ひとえにカトリック教の罪だ。なんとなれば、フランスは穢れたローマの神をしりぞけながら、新しい神を発見することができないからだ、――こう、きみは明瞭に指示してくれました。きみはあの時こういう言葉を吐くことができたのです! ぼくはあの時の二人の話をよく覚えています」
「もしぼくが信仰を持っていたら、きっと今でもそれをくり返したろう。ぼくがあのとき信あるもののように話したからって、けっして嘘をついたわけじゃない」とニコライは恐ろしく真面目にいった。「しかし、まったくのところ、自分の過去の思想をくり返すってことは、非常に不愉快な印象をぼくに与えるのです。もうやめてもらうわけにゆかないかしらん?」
「もし信仰を持っていたらですって※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」相手の乞いにはいささかの注意も払わないで、シャートフはこう叫んだ。「あのときぼくにこんなことをいったのは、きみじゃなかったでしょうか、たとえ真理はキリスト以外にあるということを、数学的に証明してくれるものであっても、自分は真理とともにあるより、むしろキリストとともにとどまるを潔しとする、――そういったですか、いわないですか?」
「しかし、ぼくも一つ質問を提出していい頃でしょう」とスタヴローギンは声を張り上げた。「このせっかちな、そして……意地の悪い試験は、いったいなんのためになるんです?」
「この試験は永久に消えてしまいます。そして、二度と再び思い出させるものはありません」
「きみはやっぱり、人間は時間と空間の外にある、という持論を主張してるんですか?」
「お黙んなさい!」とふいにシャートフはどなりつけた。
「ぼくは馬鹿で間抜けです。しかし、ぼくの名は滑稽なものとして、亡びてしまってもかまやしない! ぼくはいまきみの前で、当時のきみの主なる思想をくり返してみたいのです、許してくれますか……ええ、たった十行ばかり、ただ結論だけ……」
「やってごらんなさい、結論だけなら……」
 スタヴローギンは時計を見ようとしかけたが、我慢してやめた。
 シャートフはまたもや椅子に坐ったまま、前のほうへかがみ込んで、またちょっと指を上げようとした。
「いかなる国民といえども」まるで書いたものでも読むように、とはいえ相変わらず、もの凄い目つきで、じっと相手を見つめながら、彼はこう切り出した。「いかなる国民といえども、科学と理知を基礎として、国を建設しえたものは、今日まで一つもない。ただ、ほんの一時的な馬鹿馬鹿しい偶然によって成ったものは別として、そういう例は一つもない。社会主義はその本質上、無神論たるべきである。なぜならば、彼らは劈頭第一に、自分たちが無神論的組織によるものであって、絶対に科学と理知を基礎として社会建設を志すものだと、宣言しているからである。理知と科学は国民生活において、常に創世以来|今日《こんにち》にいたるまで第二義的な、ご用聞き程度の職務を司っているにすぎない。それは世界滅亡の日まで、そのままで終わるに相違ない。国民はまったく別な力によって生長し、運動している。それは命令したり、主宰したりする力だ。けれど、その発生はだれにもわからない。また説明することもできない。この力こそ最後の果てまで行き着こうとする、飽くことなき渇望の力であって、同時に最後の果てを否定する力だ。これこそ撓むことなく不断に自己存在を主張して、死を否定する力である。聖書にも説いてあるとおり、生活の精神は『生ける水のながれ』であって、黙示録はその涸渇の恐ろしさを極力警告している。それは哲学者のいわゆる美的原動力であって、また同じ哲学者の説く倫理的原動力と同一物なのだ。が、ぼくは最も簡単に『神を求める心』といっておく。民族運動の全目的は、いかなる国においても、またいかなる時代においても、ただただ神の探究のみに存していた。それは必ず自分の神なのだ。ぜひとも自分自身の神でなくちゃならない。唯一の正しき神として、それを信仰しなければならぬ。神は一民族の発生より終滅にいたるまでの全部を包含した綜合的人格なのである。すべての民族、もしくは多数の民族の間に、一つの共通な神があったという例は、これまで一度もなかった。いかなる時もすべての民族は、自分自身の神をもっておった。神々が共通なものになるということは、取りも直さず国民性消滅のしるしなのだ。神々が共通なものとなる時、神々も、またそれに対する信仰も、国民そのものとともに死滅していく。一国民が強盛であればあるほど、その神もまたますます特殊なものとなってゆく。宗教、すなわち善悪の観念を持たぬ国民は、かつて今まで存在したことがない。すべての国民は自己の善悪観念を有し、自己独自の善悪を有している。多くの民族間に、善悪観念が共通なものとなり始めた時は、その時は民族衰滅の時である。そして、善悪の差別感そのものまで、しだいにすりへらされ消えてゆくのだ、理性はかつて一度も善悪の定義を下すことができなかった。いな、善悪の区別を近似的にすら示すことができなかった。それどころか、つねに憫れにもまた見苦しく、この二つを混同していたのだ。科学にいたってはこれに対して、拳固でなぐるような解決を与えてきた。ことに、著しくこの特徴を備えているのは、半科学である。これは現代にいたるまで、人に知られていないけれど、人類にとって最も恐るべき鞭だ。疫病よりも、餓えよりも、戦争よりも、もっと悪い。半科学、――これは今まで人類のかつて迎えたことのない、残虐きわまりなき暴君だ。この暴君には祭司もあれば奴隷もある。そして、今まで夢想だもしなかったような愛と迷信とをもって、すべてのものがその前にひざまずいている。科学でさえその前へ出ると、戦々兢々として、意気地なくその跋扈にまかせている。スタヴローギン、これはみんなきみ自身の言葉です。しかし、半科学に関することは違います、あれはぼくの言葉です。ぼく自身が半科学そのものなんですからね、とりわけこいつを憎んでいるわけなのです。きみ自身の思想にいたっては、いい表わし方さえも何一つ変えていません、一語たりとも変えてはおりません」
「きみが変えていないとは考えられないね」とスタヴローギンは用心ぶかい調子でいった。「きみは熱烈な態度で受けいれたけれど、また同時に、熱烈な態度で改造してしまったのです。しかも、自分でそれと気がつかないでね。ただ単に、きみが神を国民の属性に引き下ろした、ということ一つだけ取ってみても……」
 とつぜん彼はとくに注意を緊張させて、シャートフを注視し始めた。それはその言葉というより、むしろその人物そのものに対してむけられた注意なのであった。
「神を国民の属性に引き下ろすって!」とシャートフは叫んだ。「まるで反対だ、国民を神へ引き上げたのです。第一、ただの一度でもこれに反した事実がありますか? 国民、――それは神の肉体です。どんな国民でも、自己独得の神をもっていて、世界におけるその他のすべての神を、少しの妥協もなく排除しようと努めている間だけが、本当の国民でありうるのです。自己の神をもって世界を征服し、その他の神をいっさいこの世から駆逐することができる、とこう信じている間のみが、本当の国民といえるのです。少なくも人類の先頭に立って、いくぶんたりとも頭角を現わしたすべての国民は、創世以来こう信じてきたのです。事実に逆らうわけにはゆかない。ユダヤ国民は、真の神の出現を見んがためのみに生存を続けた。そして、世界に真の神を遺していった。ギリシャ人は自然を神化して、世界に自己の宗教を遺した。哲学と芸術がそれである。ローマは帝国内の国民を神化して、多くの民族に帝国を遺した。フランスはその長い歴史の継続せるあいだ、単にローマの神の理想を体現し、発達させたにすぎなかった。彼がついにそのローマの神を深淵の中へなげうって、目下のところ、みずから社会主義と称している無神論に逢着したのは、無神論のほうがローマ・カトリック教よりまだしも健全だからにすぎないのだ。もし偉大なる民にして、おのれのうちにのみ真理ありと信じなかったら(実際そのうちにのみあるべきだ、断じてほかにあってはならない)。もしその偉大なる国民が、われこそ自己の真理をもって万人を蘇生させ、救済するの使命を有し、かつそれをなし遂げる力があるという信仰を欠いていたら、その国民は直ちに人類学の材料と化して、偉大なる国民ではなくなるのだ。真に偉大なる国民は人類中において第二流の役どころに甘んじることがどうしてもできない。いや、単に第一流というだけでは足りない。ぜひとも第一位を占めなくては承知しない。この信仰を失ったものは、もうすでに国民ではなくなってるのだ。しかし、真理に二つはない。したがって、たとえいくつもの国民が自己独得の、しかも偉大なる神を有するにせよ、真の神を有している国民はただ一つしかない。『神を孕める』唯一の国民――これはロシヤの国民なのだ、そして……そして……いったい、いったいまあ、きみはぼくをそんな馬鹿者と思ってるんですか、スタヴローギン?」とつぜん彼は兇暴な叫びを上げた。「今この瞬間、自分のいってることが、モスクワあたりのスラヴ主義者の水車小屋で、さんざん搗き潰された、古い黴の生えそうな世迷事《よまよいごと》か、それともぜんぜん新しい最後の言葉か、――更生と革新の唯一の言葉か、それさえ区別のつかないような、馬鹿者だと思ってるんですか? それに……それに、今の瞬間、ぼくにとって、きみのにたにた笑いなんか少しも用はありません! きみがぼくのいうことをまるっきり理解しないからといって、――たった一つの言葉、たった一つの響きさえ理解できないからといって、ぼくはまったく風馬牛です!………おお、ぼくは今この瞬間、きみのその高慢な笑顔と目つきを、心底から軽蔑する!」
 彼はついに席から躍りあがった。その唇には泡のような唾さえ見えていた。
「それどころじゃない、シャートフ、それどころじゃない」とスタヴローギンは席を立とうともせず、ごく真面目な抑えつけたような調子でこういった。「それどころじゃない、きみはその熱烈な言葉で、非常に強い多くの記憶を、ぼくの胸中に甦らせてくれた。ぼくはきみの言葉の中に、二年前のぼく自身の心持ちを認めることができます。今こそぼくもさっきのように、きみが当時のぼくの思想を誇張しているなどとは、もうけっして言やしませんよ。むしろ当時のぼくの思想はもう少し排他的で、もう少し専断的だったような気がするくらいです。もう一度、三度目にくり返していうが、ぼくはいまきみのいわれたことを、一言もらさず裏書きしたいのは山々だが、しかし……」
「しかし、きみには兎がいるんでしょう!」
「なあんですって?」
「これはきみのいった下劣な言葉なんですよ」再び席に着きながら、シャートフは意地悪い薄笑いを浮かべた。「『兎汁を作るためには兎がいる、神を信じるためには神がいる』これはきみがまだペテルブルグにいる時分にいったことだそうですね。ちょうど兎の後足をつかまえようとしたノズドリョフのように」
「いや、ノズドリョフはもうつかまえたといって自慢したね。ついでに失敬ですが、ちょっと一つきみにご返答を煩わしたいことがあるんですよ。ましてぼくは今そうする権利を、十分もっているように思われるんでね。ほかじゃないが、きみの兎はもうつかまりましたか、それともまだ走っていますか?」
「そんな言葉でぼくに質問する権利はありません、別な言葉でおききなさい。別な言葉で!」シャートフはふいに全身をがたがた慄わし始めた。
「いやどうも、じゃ、別な言葉にしよう」とニコライはきびしい目つきで相手を眺めた。「ぼくはただこうききたかったのです、きみ自身は神を信じていますか、どうです?」
「ぼくはロシヤを信じます、ぼくはロシヤの正教を信じます……ぼくはキリストの肉体を信じます……ぼくは新しい降臨がロシヤの国で行なわれると信じています……ぼくは信じています……」とシャートフは夢中になり、しどろもどろにいった。
「しかし、神は? 神は?」
「ぼくは……ぼくは神を信じるようになるでしょう」
 スタヴローギンは顔面筋肉の一本も動かさなかった。シャートフは燃ゆるがごとき眼ざしで、挑むように彼を眺めた。ちょうどその視線で相手を焼きつくそうとするかのように。
「ぼくはあえてぜんぜん信じないといったわけじゃありません!」ついに彼はこう叫んだ。「ぼくはただ自分が運の悪い、退屈な一冊の書物であって、当分の間それ以上の何ものでもないということを、ちょっと知らせたにすぎないのです。ええ、当分の間……しかし、ぼくの名は朽ち果てようとままだ! 肝腎なのはきみだ、ぼくじゃない……ぼくは才も何もない男だから、自分の血潮を捧げるほかに芸はありません。才も何もない十把ひとからげの仲間で、けっしてそれ以上なにもありません。ぼくの血潮も滅びようとままだ! ぼくはきみのことをいってるのです。ぼくは二年間ここできみを待っていたのです……ぼくはきみのために、いま三十分のあいだ裸踊りをしたのです。きみです、きみだけです、この旗印を挙げることができるのは!………」
 彼はしまいまでいわなかった。そして、絶望したもののように、テーブルの上へ肘突きし、両手で頭をかかえてしまった。
「ぼくはちょっとついでに、一つの奇妙な現象として、きみに注意しておきますがね」とふいにスタヴローギンはさえぎった。「どうしてみんなが、妙なえたいの知れぬ旗印をぼくに押しつけようとするんでしょう? ヴェルホーヴェンスキイも、ぼくが『彼らの旗印を掲げる』ことのできる男だと信じてるんです。少なくも、あの男の言葉として、人がこう取り次いでくれました。あの男はぼくが生来の『異常な犯罪能力』によって、彼らのためにスチェンカ・ラージン([#割り注]ロシヤ叛乱の巨魁、ドン・コサックを率いてヴォルガ中下流一帯を征服したが、後敗れて刑死す(一六七一年)[#割り注終わり])の役廻りを演るものと、固く信じ切っているんですからね。『異常な犯罪能力』というものも、やはりあの男の言葉です」
「なんですって?」とシャートフがきいた。「異常な犯罪能力?」
「そのとおり」
「うむ!………いったいあれは本当ですか?」と彼は毒々しくほくそ笑んだ。「きみがペテルブルグで畜生同様な秘密の好色会に入っていたというのは、本当ですか? マルキ・ド・サドでさえ、きみに教えを乞いかねないほどだった、というのは事実ですか? きみが多くの幼者を誘惑して、堕落の淵へ陥れたというのは事実ですか? さあ、返事をなさい、嘘なぞつくと承知しませんよ!」もうまるでわれを忘れてしまって、彼はどなった。「ニコライ・スタヴローギンは、その面をぶん撲ったシャートフの前で、嘘をつくことはできないはずです! さあ、みんないっておしまいなさい。そして、もし本当のことだったら、ぼくはすぐに今ここで、この場を去らずきみを殺してしまう!」
「そういうことはぼくもいいました。しかし、子供を辱しめたのは、ぼくじゃありません」とスタヴローギンは口を切った。が、それはだいぶ長い沈黙の後だった。
 彼の顔は蒼白になり、目はぱっと燃え立った。
「しかし、きみはいったんですね!」ぎらぎら光る目を相手からはなさないで、シャートフは威を帯びた調子で語を続けた。「それからまた、きみは何かその、淫蕩な獣のような行為も、何かこう非常に立派な働き、つまり人類のために生命を犠牲にするといったような行為も、美の見地から見ると、ほとんど差別を認め難いと断言したという話だが、それはまったく本当ですか? この両極において美の合致、快楽の均等を発見したというのは、事実ですか?」
「どうもそうきかれると、返事ができない……ぼくは答えたくありませんね」とスタヴローギンはつぶやいた。彼は、今すぐにも立ちあがって、帰って行くことができるにもかかわらず、立ちあがろうともしなければ、帰って行こうともしなかった。
「ぼく自身もなぜ悪が醜くて、善が美しいかってことが、よくわからない。しかし、どういうわけでこの差別感がスタヴローギンのような人においてとくに著しく磨滅され、消耗されてゆくかということを、ぼくは、ちゃんと知っています」シャートフは全身をわなわなと慄わせながら、どこまでも追求するのであった。「ねえ、きみはどうしてあの時、ああまで醜悪下劣な結婚をしたか、そのわけがわかっていますか? ほかじゃありません、あの場合、この醜悪な無意味というやつが、ほとんど天才的ともいうべき程度に達したからです! おお、あなたは端のほうをおっかなびっくりで歩いたりなんかしないで、真っさかさまに飛び込んでしまうんです。きみが結婚したのは、苦悶の欲望のためです、良心の呵責に対する愛のためです、精神的情欲のためです。あの場合、神経性の発作が働いたのです……つまり、常識に対する挑戦が、強くきみを誘惑したのです! スタヴローギンとびっこの女、醜い半きちがいの乞食女! あの県知事の耳を噛んだとき、きみは何か情欲を感じましたか? 感じたでしょう? え、感じたでしょう? こののらくらの極道若様!」
「きみは心理学者だ」いよいよ顔をあおくしながら、スタヴローギンはこういった。「もっとも、ぼくの結婚の原因については、きみもいくぶん思い違いをしていますがね……しかし、いったいだれがきみにそんなことを知らせたんだろう」と彼は苦しそうな薄笑いをした。「キリーロフかな? いや、あの男は仲間に入ってなかったっけ……」
「きみ、あおくなりましたね?」
「ところで、きみはいったいどうしようというんです?」とうとうニコライは声を励ました。「ぼくは三十分間、きみの鞭の下に坐ってたんだから、せめてきみも礼をもっていいかげんにぼくを釈放してくれてもいい時でしょう……もしそういうふうにぼくを扱うについて、別に合理的な目的がないならば」
「合理的な目的?」
「当たり前ですよ。もういい加減にして、自分の目的を話すということは、少なくもきみの義務じゃありませんか。ぼく、きみがそうしてくれることと思って待ってたんだが、要するにただ興奮した憎悪を見いだしたばかりだ。じゃ、一つ門を開けてください」
 彼は椅子を立った。シャートフは兇猛な態度で、そのうしろから躍りかかった。
「土を接吻なさい、涙でお濡らしなさい、ゆるしをお求めなさい!」相手の肩をつかまえながら、彼はこう叫んだ。
「しかし、ぼくはあの朝……きみを殺さないで……両手をひいてしまいましたよ……」ほとんど痛みを忍ぶような調子で、スタヴローギンは目を伏せながらいった。
「しまいまでおいいなさい、しまいまで! きみはぼくに危険を知らせに来て、ぼくにいいたいことをいわしてくれたじゃありませんか。きみはあす自分の結婚のことを、世間へ発表しようと思ってるんでしょう!………いったいぼくにわからないと思いますか? きみが何かしら新しい、しかも恐ろしい思想に征服されているのは、きみの顔でちゃんとわかっています……スタヴローギン、なんのためにぼくは永劫、きみという人を信じなきゃならない運命を持って生まれたんでしょう? いったいぼくが、ほかの人をつかまえて、今のようなことがいえたでしょうか? ぼくだって童貞の心は持っているけれど、ぼくは自身の裸を恐れなかった。なぜって、相手がスタヴローギンだからです。ぼくは偉大な思想に手を触れて、それを戯画化するのを恐れなかった。なぜって、聴き手がスタヴローギンだからです。……きみが帰った後で、ぼくがきみの足あとに接吻しないと思いますか? ぼくは自分の胸からきみという人を、どうしてももぎはなすことができないのです。ニコライ・スタヴローギン!」
「ぼくはどうも残念ながら、きみを愛することができないのですよ、シャートフ」と、ニコライは冷ややかにいった。
「きみにできないのはわかっています。きみが嘘をついてないのもわかっています。ねえ、ぼくはいっさいを正すことができますよ。ぼくきみのために、兎を手に入れてあげましょう!」
 スタヴローギンは黙っていた。
「きみが無神論者なのは、きみが貴族の若様だからです、屑の屑の若様だからです。きみが善悪の差別感を失ったのは、自国の民衆を見分けることができなくなったからです……新しい時代は直接人民の胸から流れ出ている。けれど、それはきみにも、ヴェルホーヴェンスキイ親子にも、またぼく自身にもわからない。なぜって、ぼくもやっぱり貴族の若様ですからね、きみの家で奴隷づとめをしていた、下男パーシカの息子ですからね……ねえ、きみ、労働で神を獲得なさい、要はすべてこれ一つにあるのです。でなければ、醜劣な黴のように消えてしまいますよ。労働で獲得するんです」
「神を労働で? どんな労働です?」
「百姓の労働です。断然出ておしまいなさい、きみの富をなげうっておしまいなさい……ああ! きみは笑ってるんですね、きみは手品に終わるのを恐れてるんですね?」
 けれども、スタヴローギンは笑わなかった。
「きみは労働によって、しかも、百姓の労働によってのみ、初めて神をうることができると思ってるんですか?」実際なにか相当に思慮を費す価値のある、新しい重大なものでも発見したように、ちょっと考えてから、彼はこう問い返した。「ついでにいっときますがね」出しぬけに彼は別な想念に移ってしまった。「いまきみの言葉で思い出したんだが、実はね、ぼくはまるで富も何もないんです。したがって、なげうとうにもなげうつ物がない。ぼくはマリヤの将来さえほとんどもう保証するだけの力がないんです……そこで、いま一ついっておくことがある――ぼくがここへ来たのは、もしできることなら、今後ともマリヤの面倒をお頼みするためなんです。そのわけはきみだけがあの女の憫れな心に、ある種の感化力を持っていられたからですよ。ぼくは万一の場合を予想していうのです」
「いいです、いいです、きみはマリヤ・チモフェーヴナのことをいってるんでしょう?」とシャートフは片手に蝋燭を持ったまま、いま一方の手を振った。「いいです、それは後で自然と……ねえ、きみ、チーホンのところへ行きませんか」
「だれのところへ」
「チーホンのところへ。元の僧正のチーホンですよ。いま病気のために静養かたがた、この町に住んでいます。あのエフィーミエフの聖母寺院に」
「いったいそれはなんのために?」
「なんでもありません。みんなその人のところに出かけてますからね。まあ、行ってごらんなさい。きみにとってなんでもないことじゃありませんか?」
「はじめて聞いた、それに……今まで一度もそういう種類の人を見たことがないから……いや、ありがとう、行ってみましょう」
「こっちです」とシャートフは階段を照らした。「まあ、お出でなさい」彼はくぐりを往来へさっと開け放した。
「ぼくはもうきみのところへ来ませんよ、シャートフ」くぐりを跨ぎながら、スタヴローギンは小声でいった。
 闇と雨は依然として変わらなかった。

[#3字下げ]第2章 夜(つづき)[#「第2章 夜(つづき)」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 彼はボゴヤーヴレンスカヤ街を通り抜けて、とうとう坂道を下り始めた。足は泥の中をひとりでにすべって行った。と、急に広々として靄のかかった原っぱのようなものが眼界に展けた、――河だ。家並はまるで掘立小屋のようなものに変わって、往来は秩序のない無数の路地の中に隠れてしまった。ニコライは河岸から遠く離れないようにしながら、長いあいだ垣の傍を辿って行った。しかし、道に迷う気色がないばかりか、そんなことはろくろく考えもしないようなふうだった。彼はまったく別なことに心を奪われていた。で、ふと深いもの思いからさめて、あたりを見廻したとき、雨に濡れた長い船橋の、ほとんど真ん中に立っているのに気がついて、思わず愕然としたくらいである。まわりには人けとてさらになかったので、とつぜん肘の下あたりから、思いがけなく慇懃な、なれなれしい声が聞こえたとき、彼はなんだか奇妙な感じがした。それはかなり気持ちのいい声だったが、この町でもいやにハイカラがった町人や、髪を渦巻かした勧工場あたりの若い手代が伊達に使うような、例のわざとらしく甘ったるい、いや味なアクセントを帯びていた。
「ええ、旦那、失礼でござんすが、一つその傘ん中へごいっしょにお願いできませんかねえ」
 実際、だれかの影が彼の傘の下へ潜り込んだ(或いは潜り込むような真似をしただけかもしれない)。浮浪人は彼とおし並んで、『肘で相手を探りながら』、――これは兵隊のいうことなので、――ついて来た。ニコライは歩調をゆるめながら、暗闇の中でできる限りこの男を見分けようとした。男はあまり背の高いほうでなく、ちょっとその辺で遊んで来た町人者、というようなところがあった。みなりはうそ寒そうで、さっぱりしていなかった。ぼうぼうと渦を巻いた頭には、庇《ひさし》の半分はなれかかった、びしょ濡れのラシャ帽が、ちょこなんとしている。見たところ、この男は痩せた、色の浅黒い、極度なブリュネットらしい。目は大きかったが、きっとジプシイのように真っ黒で、ぎらぎらと光って、黄がかった底つやがあるに相違ない。闇の中ながら、これだけは想像がついた。年はどうやら四十前後らしく、別に酔ってはいなかった。
「お前はおれを知ってるのか?」とニコライはきいた。
「スタヴローギンさま、――ニコライ・フセーヴォロドヴィチでございましょう。わっしは前の日曜日に停車場でね、汽車が着くとすぐ教えてもらいましたんで。そればかりじゃありません、前からお噂は承知しておりましたよ」
「ピョートル・ヴェルホーヴェンスキイからだろう? お前……お前かね、懲役人のフェージカは?」
「洗礼の時にゃ、フョードル・フョードロヴィチという名をもらいましたがね。生みの母親は今でもやっぱりこの近在におりますんで。神様と仲よしのお婆さんでしてね、腰が曲っていく一方でござんすよ。毎日、昼となく夜となく、わっしどものことを神様に祈っております。そういうわけでござんすから、何も煖炉《ペーチカ》の上で、ぼんやり閑を潰してばかりいるわけじゃありませんので」
「お前は懲役から逃げ出したんだろう?」
「へえ、少々運勢を変えました。聖書も鐘も教会のお勤めも、すっかりほうり出してしまいました。なぜって、わっしはずっと一生涯、懲役の宣告を受けてたんですが、それじゃどうもあまり待ち遠しすぎますんで」
「ここで何をしてる?」
「朝から晩まで何ということなしに、一日ぶらぶらしております。伯父のやつが贋金のことで、やっぱりここの監獄に食らい込んでましたが、先週とうとう亡くなりましたのでね、わっしもその供養を営むために、石を二十ばかり犬にくらわしてやりましたが……まあ、わっしらのすることといっちゃ、今のところ、それくらいなものでございますよ。そのほかにピョートルの旦那が、ロシヤ全国を渡って歩くことのできる商人《あきんど》の旅行免状を手に入れてやるとおっしゃったので、かたがたそのご親切を待っていますんで。『実際うちの親爺はイギリス・クラブでカルタに負けて、それでお前をたたき売ったんだからなあ。どうもこれは不公平な、人情を欠いた仕打ちだよ』とこうおっしゃいましてね。いかがでしょう、旦那、お茶の一杯も飲んで、暖まりたいのでござんすが、あなたもどうか三ルーブリばかり恵んでやってくださいませんか」
「じゃ、貴様はここで待ち伏せしていたんだな。おれはそんなこと嫌いだ。いったいだれの言いつけなのだ?」
「言いつけなんかとおっしゃいましても、そんなことはけっしてありゃいたしません。わっしはただ、世間に知れ渡った旦那様のお情け深さを、承知でまいりましたんで。わっしらの収入《みいり》と申しちゃ、旦那もご承知のとおり、ほんの蚊の涙くらいなものでございますからねえ。ついこのあいだ金曜日にゃ、饅頭にありつきましてね、まるでマルティンが石鹸でも食べるように、うんと腹一杯つめ込みましたよ。ところが、それ以来なんにも食べない始末なんで。次の日は辛抱しました。その次の日もまた食べずじまいでございました。で、川の水をもうたらふく飲みましたから、まるで腹の中に魚でも飼ってるようで、こういうわけでござんすから、一つ旦那様のお情けでいかがでしょう。実はついちょうどそこのところで、仲よしの小母さんが待っておりますが、そこへは金を持たずに行くわけにゃまいりませんでねえ」
「いったいピョートルの旦那はおれに代わって、何を貴様に約束したんだい?」
「別に約束なすったというわけじゃありませんが、もしかしたら、その時の都合次第で、何か旦那のお役に立つことがあるかもしれんと、これだけのお話があったので。どういう仕事か、そりゃ明らさまに聞かしてくださいませんでしたよ。なぜって、ピョートルの旦那は、わっしにコサックみたいなつらい辛抱ができるかどうか、ためしてごらんなさるきりで、ちっともわっしという人間を信用してくださらないんで」
「なぜだい?」
「ピョートルの旦那はえらい天文学者で、空をめぐる星を一つ一つそらで知っておられますが、あの方でも難をいえばあるんでございますよ。ところが、わっしは旦那の前へ出ると、まるで神様の前へ出たような気がいたしますんで。なぜって、旦那、あなたのことはいろいろ伺っておりますものね。ピョートルの旦那はああいう人、旦那は旦那でまた別な人でござんすからね。あの方は人のことでも、あれは極道だといったら、もう極道者よりほかなんにもわかりゃしません。また、あいつは馬鹿だといったら、もう馬鹿のほかにゃその男の呼び方を知らない、といったふうでございます。しかし、わっしも火曜水曜は、ただの馬鹿かもしれないが、木曜日にゃあの方より利口になるかもわかりませんからね。ところで、いまあの方は、わっしが一生懸命に旅行免状をほしがってることだけ知って(まったくロシヤではこの免状なしじゃ、どうにもしようがありませんからね)、まるでわっしの魂でも生け捕ったように思ってらっしゃる。旦那、わっしは遠慮なく申しますがね、ピョートルの旦那なんざあ、世渡りは楽なもんでございますよ。なぜってあの方は、人間を自分一人でこうと決めてしまって、そういうものとして暮らしておられるんですからねえ。そのうえに、どうも恐ろしいしみったれでございますよ。あの方はよもや自分を出し抜いて、わっしが旦那とお話をしようとは、夢にも思っていらっしゃらないが、わっしはねえ、旦那、旦那の前へ出たら神様の前へ出たのも同じような気でいますんで。もうこれで四晩もこの橋に立って、旦那のおいでを待ってるんでございますよ。あの方の力を借りなくったって、こっそり自分のすべきことをしようと思いましてね。考えてみると、同じことでも、草鞋《わらじ》より靴に頭を下げるほうが、よっぽど気が利いてますからね」
「おれが夜中にこの橋を通るなんて、いったいだれがお前にいったんだ」
「それは白状いたしますが、わきのほうからひょっくり小耳に挟みましたんで。つまり、レビャードキン大尉の迂闊から出たことなんで。なにしろあの人は、はらの中にものをしまっておくってことが、どうしてもできない性分でござんしてね……で、三日三晩つらい目をした駄賃に三ルーブリだけ、旦那様のお情けに預るわけにゃまいりませんでしょうか。着物の濡れたことなぞは、もう諦めて何も申しませんよ」
「おれは左だ。貴様右へ行くんだろう。橋はもうおしまいだ。いいか、フョードル、おれは自分のいったことを、一度ですっかり呑み込んでもらうのが好きなたちなんだ。おれは一コペイカだって貴様にやりゃしない。今後、橋の上だろうがどこだろうが、おれの目にかかったら承知しないぞ、おれは貴様なんかに用はない、また今後だってありゃしないんだ。もしいうことを聞かなけりゃ、ふん縛って警察へ突き出すぞ、とっとと行っちまえ!」
「ええまあ、せめてお伴の駄賃でも投げてくださいませんか、少しはお気晴らしになりましたろうに」
「行かんか!」
「ですが、旦那はここの道をごぞんじでございますか? あそこら辺はまったくひどい路地つづきでござんしてね……なんならご案内いたしましょうか。本当にこの町は、もうまるで悪魔が籠の中へ入れて、振り廻したようなところでございますよ」
「ええっ、ふん縛っちまうぞ!」ニコライは恐ろしい剣幕で振り返った。
「まあ、旦那、考えてもくださいまし。頼りのない人間をいじめるくらい、造作もないことじゃございませんか?」
「いや、貴様はなかなか自信が強いらしいな!」
「なに、旦那、わっしはあなたを信じているので、けっして自分を信じてるわけじゃござんせん」
「おれは貴様なんぞにまるで用はありゃしない、一どいったらわかるだろう!」
「ところが、わっしのほうはあなたに用があるんで、へえ。じゃ、旦那、お帰り道を待っておりますよ、もうしようがない」
「おれはちゃんといっとくぞ、今度あったらふん縛ってやるから」
「それじゃ一つ繩でも用意しておきましょう。では、旦那、ご機嫌よろしゅう。お傘の中へ入れていただきまして、どうもありがとうござんした。これ一つだけでも、旦那のことは棺へ入るまで忘れはいたしません」
 彼はやっと傍を離れた。ニコライは不安げな様子で、目ざすところまで辿りついた。まるで天から降ったようなこの男は、自分がニコライになくてはならぬ人間だと信じ切って、どこまでもずうずうしくこのことを知らせようとあせっている。それに全体として、この男は彼を恐れはばかる様子がなかった。しかし、この浮浪漢もずぶ出たらめをいったのではないらしい。実際、彼はピョートルに内証で自分の一量見で、ニコライのご用を勤めさしてもらおうとねだったのかもしれない。これは何より注目すべき事実だった。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 ニコライの辿りついた家は、両側から垣根に挟まれた、淋しい横町にあった。垣根の向こうには菜園が続いて、まったく字義どおりに町はずれだった。それはぜんぜん孤立した、小さな木造の家で、まだほんの建てたばかりらしく、羽目板も打ってなかった。一つの窓はわざと鎧戸を開け放して、窓じきりには蝋燭が立ててあった、――それは今夜おそく来るはずになっている客人のため、燭台の代わりにしようというつもりらしい。まだ三十歩ばかり手前の辺から、入口に立っている背の高い男の姿を見わけることができた。たぶんこれはこの家のあるじが待ち遠しさのあまり、往来の様子を見に出たものであろう。そればかりか、その男のじれったそうな、そのくせおずおずしたような声さえ聞こえた。
「そこにいらっしゃるのは、あなたですか? あなたですか?」
「ぼくです」家の入口まで辿りついて傘をすぼめた時、ニコライは初めてこう答えた。
「まあ、やっとのことで!」とレビャードキン大尉は(これが男の正体だった)急に足踏みして、騒ぎ出した。「さあ、お傘をこっちへください。おや、大変ぬれておりますなあ。一つ、この隅の床に広げときましょう。さあ、どうぞ、さあ」
 廊下から、二本の蝋燭で照らされた部屋に通ずる戸口は、一ぱいに開け広げてあった。
「ぜひ来るというあなたのお言葉がなかったら、とても本当にはしなかったかもしれませんよ」
「十二時四十五分だね」ニコライは部屋へ入りながら、ちょっと時計を眺めた。
「しかも、おまけに雨まで降っておりますし、――それに、なかなか道のりがありますでなあ……わたしは時計を持っておりません。ところで、窓の外を見ても野菜畑ばかりで、まったくその……うき世から遠ざかってしまいますな……しかし、何もあえて不平をいうわけじゃありません。どうして、どうして、そんな僭越なことを……ただ一週間というもの、ひたすら待ち佗びておったものですから……それに、すっかり解決をつけてしまいたいと思いましてね」
「なんだって?」
「自分の運命《なりゆき》が聞きたいのでございますよ。さあ、どうぞ」
 彼はテーブルの傍らなる長いすを示しつつ、小腰をかがめてこういった。
 ニコライはあたりを見廻した。部屋は狭苦しくて、天井が低く、道具類もほんのなくてかなわぬものばかりだった、――いくつかの椅子と一脚の長いす(これはみな木造りで、やはりこしらえたばかりらしく、皮も布《きれ》もなんにも張ってなく、肘もついていなかった)、二脚の菩提樹のテーブル(一脚のほうは長いすの傍に据えてあり、いま一脚は隅のほうに置いて、クロースを掛けてあったが、何やら一杯ごたごたとのっけた上から、素晴らしく綺麗なナプキンがかぶせてある)、――これだけがすべてだった。しかし、全体として部屋の中は、驚くばかり清潔に手入れがしてあるらしかった。レビャードキン大尉は、もう八日ばかり酒を飲まなかった。彼の顔はなんだかげっそりして、黄いろみを帯び、目つきはきょときょとして好奇の色を浮かべ、いかにも何か腑に落ちないような表情を呈していた。彼はどんな調子でニコライに話しかけたものか、またいきなりどういう調子をつかんだらより多く有利なのか、それがまだ自分にもはっきりわかっていなかった。これはもうありありとおもてに現われていた。
「ご覧のとおり」と彼はあたりを指さした。「まるでゾシマ長老のような暮らしをしております。禁欲、孤独、欠乏、――ちょうど昔の騎士が誓いでも立てたようですよ」
「昔の騎士がそんな誓いを立てたと思いますか?」
「いや、或いは出たらめをいったかもしれません。どうも悲しいことに、わたしは十分の教育を受けておりませんのでね! ああ、わたしはいっさいを亡ぼしてしまいました! 実はね、ニコライ・フセーヴォロドヴィチ、わたしはここで初めて覚醒して、愧ずべき[#「愧ずべき」はママ]欲望をなげうちました。盃一杯はおろか、一ったらしも飲みません。この一隅に蟄居して、この六日間、良心の安らかになったのを感じます。部屋の壁さえも、ちょうど自然を連想させるように、松脂の香りがしておりますよ。ああ、わたしはなんという人間だったのでしょう、何をしておったのでしょう?

[#ここから2字下げ]
夜は吐息す、泊りさえなく
昼は昼とて舌を吐きつつ……
[#ここで字下げ終わり]

 天才詩人の言葉をかりると、まったくこのとおりですよ! しかし……まあ、大変ぬれておしまいになりましたなあ……お茶を一杯いかがですか?」
「かまわないでください」
「湯沸《サモワール》は七時すぎから煮立っておりましたが、しかし……消えてしまったのです……この世におけるすべての物のごとく。太陽でさえ、そのうちに順が廻って来れば、自然に消えてしまうといいますからなあ……もっとも、お入用でしたらまたこしらえますよ。アガーフィヤはまだ寝ておりませんから」
「ときに、きみ、マリヤは……」
「ここです、ここです」とレビャードキンはすぐに小声で引き取った。「ちょっと覗いてごらんになりますか?」彼は次の部屋との境になっている、閉めきった戸を指さした。
「寝てやしないかね?」
「おお、どうしてどうして、そんなことがあってよいものですか! それどころか、もう夕方から待ちかねております。そして、さっきおいでになったことが知れると、さっそくお化粧をしたくらいですからなあ」と彼は口を歪めて、ふざけた薄笑いを浮かべようとしたが、すぐにまた引っ込めてしまった。
「全体として? どんなふうだね?」ニコライは顔をしかめながらきいた。
「全体として? それはご自分でご承知のとおりです(と彼は気の毒そうに肩をすくめた)。ところで、今は……今はじっと坐って、カルタの占いをしております……」
「よろしい、後にしよう。まずきみのほうから片づけなきゃならない」
 ニコライは椅子に腰を据えた。
 大尉はもう長いすに坐る勇気がなくて、すぐに自分も別な椅子を引き寄せた。そして、びくびくもので、相手の言葉を待ち設けながら、体《たい》をかがめて謹聴の態度を取った。
「あの隅っこのほうにクロースがかぶせてあるのは、いったいなんです?」突然ニコライは気がついて、こうたずねた。
「あれでございますか?」レビャードキンも同じく振り向いた。「あれはあなたご自身のお恵みでできたものでございます。いわばまあ、引っ越し祝いといったようなわけで……それに、遠路のところをわざわざお運びくださることですし、また自然それに伴うお疲れなども考えましてな」と彼は恐悦げにひひひと笑った。それから席を立って、爪立ちで片隅のテーブルに近寄り、そうっとうやうやしげにクロースを取りのけた。
 その下からは用意の夜食が現われた。ハム、犢肉、鰯、チーズ、緑色がかった小さなウォートカのびん、長いボルドー酒のびん、――こういうものがすべて小綺麗に、順序をわきまえて、手際よく配列してあった。
「これはきみのお骨折りかね?」
「わたしでございます。もう昨日からかかって、できるだけのことをしましたので……あなたに敬意を表しようと思って……マリヤはこういうことになると、ご承知のとおり無頓着でございますからなあ。まあ、とにかく、あなたご自身のお恵みでできたもので、あなたご自身のものでございます。なぜといって、この家《や》のあるじはあなたでして、わたしじゃありませんからね。わたしなんぞはまあ、あなたの番頭といったような格でございます。しかし、なんと申しても、なんと申しても、ニコライさま、なんといっても、わたしは精神的独立をもっております。どうか、たった一つ残ったわたしのこの財産を取り上げないでください!」彼は一人で悦《えつ》に入りながら言葉を結んだ。
「ふむ……きみはまた坐ったらどうだね」
「いや、どうもありがとうございます。ありがとうはございますが、それでも独立性をもった人間です! (彼は坐った)おお、ニコライさま、わたしのこの胸は煮えくり返るようで、とてもご光来が待ちきれないだろう、と思われるくらいでございました! さあ、今こそ運命を決してください、わたしの運命と、そして……あの不幸な女の運命を……そのうえで……そのうえで昔よくやったように、あなたの前にすべてを吐露してしまいます、ちょうど四年以前と同じようにね。あの時分あなたは、わたしのような者のいうことでも聞いてくださったし、また詩も読んで聞かしてくださいましたよ……あのころ、人がわたしのことをあなたのファルスタッフ、――沙翁の書いたファルスタッフだといっておりましたが、それはいわれてもかまわんです。あなたはわたしの運命に甚大なる影響を与えた人ですからなあ!………わたしはいま非常な恐怖をいだいております。そして、ただただあなた一人から助言と光明を待っているのです。ピョートル・スチェパーノヴィチがわたしに恐ろしい仕向けをされるので!」
 ニコライはもの珍しげに耳を傾けながら、じっと相手を見つめるのであった。見たところ、レビャードキン大尉は、酒に食らい酔うことだけはやめたが、しかし、なかなか均衡のとれた状態に戻っている様子はなかった。こういうふうな病い膏肓に入った酒飲みは、結局、どことなくがたぴし[#「がたぴし」に傍点]した、ぼうっと煙のかかったようなところができて、何かしら損なわれたような感じのする、気ちがいじみた傾向が、しだいに明瞭になってゆくものである。もっとも、必要な場合には人並みに嘘もつくし、狡知も弄するし、悪企みもするには相違ないけれど。
「大尉、ぼくの見たところでは、きみはこの四年間少しも変わらないね」前よりいくぶん優しい調子で、ニコライはこういい出した。「ふつう人間の後半生は、ただ前半生に蓄積した習慣のみで成り立つというが、どうやら本当のことらしいね」
「なんという高遠な言葉でしょう! あなたは人生の謎をお解きになりましたよ!」なかば悪くふざけながら、なかばわざとならぬ感激に打たれて(彼はこうした警句が大好物だったので)、大尉は叫んだ。
「ニコライさま、あなたのおっしゃったお言葉の中で、後にもさきにもたった一つ覚えておるのがあります。これはあなたがまだペテルブルグにいらっしゃる時分のことで、『常識にすら反抗して立つためには、真の偉人となるを要す』とこういうのでございます!」
「ふん、それと同じように『或いは馬鹿者たるを要す』ともいえるね」
「さよう、また馬鹿者でもいいでしょう。とにかく、あなたは一生を警句で埋めていらっしゃる。ところが、あの連中はどうでしょう? リプーチンにしろ、ピョートル・スチェパーノヴィチにしろ、せめて何か似たようなことでもいえますか? ああ、ピョートル・スチェパーノヴィチは実に残酷な仕向けをなさいますよ……」
「しかし、きみはどうだね。大尉、きみはなんという行為をしたのだ?」
「酒の上でございます。それに、わたしは無限に敵をもっておりますのでね! しかし、今はもうすっかり、何もかもすんでしまいました。で、わたしも蛇のように更新しているところでございます。ニコライさま、実はわたしは遺言状を書いております。いや、もう書いてしまったので」
「それは珍聞だね。いったい何を遺そうというんだね、そしてだれに?」
「祖国と、人類と、大学生に。ニコライさま、わたしは新聞であるアメリカ人の伝記を読みましたが、その男は、莫大な財産を工業と積極的科学に、また自分の遺骨を学生に、――つまり、むこうの大学へ寄付した上、皮を太鼓に張らしたのです。ただし、夜昼なしにその太鼓で、アメリカの国歌を奏するという条件でね。ああ、悲しい哉、北米合衆国の奔放な思想にくらべたら、われわれはまったく一寸法師も同然ですなあ! ロシヤは自然の戯れです、理性の戯れじゃありません。まあ、かりにわたしが自分の皮を初めて軍務に服したアクモーリンスキイ連隊へ、太鼓の張代《はりしろ》に寄付して、毎日隊の前でロシヤの国歌を奏してくれと申し出てごらんなさい、たちまちこれは自由思想だといって、皮は差し止めになってしまいますから……それで、まあ、大学生のほうだけにしておいたのです。わたしは自分の骨を大学へ遺すつもりでございます。ただし、その額へ永久に『悔悟せる自由思想家』という文字を入れた札を、立派に貼りつけるという条件つきでございます。まあ、こういうわけなんで!」
 大尉は熱くなってしゃべり立てた。もちろん、今はすっかり、アメリカ人の遺言の美しさを信じきっていたが、しかし、彼はなんといっても、ずるい根性の男だから、もう長いあいだ道化役に廻って、仕えているニコライを笑わそうという了簡も大いにあったのである。しかし、こちらはにこりともしなかった。それどころか、妙にうさん臭そうな調子でたずねた。
「してみると、きみは生きてるうちに遺言を発表して、褒美にありつこうと思ってるんだね?」
「まあ、そうしといてもよろしゅうございます、ニコライさま、そうとしてもかまいませんなあ?」とレビャードキンは大事を取りながら、顔色をうかがった。「実際、わたしの運命はどうでしょう! 今では詩を書くことさえやめてしまいました。むかしは、あなたもわたしの詩を興がって聞いてくだすったものですがねえ。ニコライさま、おおぼえですか、ほら、酒の席などでね? しかし、わたしの筆にも終わりが来ました。ところで、たった一つ詩を作りました。ちょうどゴーゴリが『最後の物語』を書いたようにね。おぼえておいでですか、ゴーゴリはロシヤの国に向かって、この物語は自分の胸から『絞り出された』ものだ、とこう宣言したじゃありませんか。わたしもそれと同じで、こんど書いたのが絶筆でございます」
「どんな詩だね?」
「『もしも彼女が足を折りなば』というので!」
「なあんだって?」
 大尉はただこれのみ待ち受けていたのである。彼は自分の詩を無限に尊重して、高い評価をいだいていたが、それと同時に、一種狡猾な心の分裂作用のために、以前ニコライがよく彼の詩に興がって、時とすると腹をかかえて笑うのを、ないないよろこんでいたのである。かような次第で、同時に二つの目的、――自分の詩的満足とご機嫌とりが達せられるわけだった。けれども、今日は第三の目的も潜んでいた。これは一種特別な、しかもきわめて尻こそばゆい目的だった。ほかでもない、大尉は自分の詩を舞台へ持ち出して、自分が何よりも剣呑に感じ、かつ何よりも失策を自覚している一つの点に関して、自己弁護を企てたのである。
「『もしも彼女が足を折りなば』、つまり、馬から落ちた場合なので。いや、夢ですよ、ニコライさま、うわごとですよ。しかし、詩人のうわごとです。実はあるとき通りすがりに、一人の騎馬の美人に出会って、その美に打たれた。そして、この実際的な疑問を起こしました。『いったいその時はどうだろう?』つまり、その今のような場合ですな。なあに、わかり切ったことです。崇拝者どもはみんな尻ごみして、花婿の候補者もどこかへ行ってしまう。急に朝寒《あさざむ》がきて、水っ涕を啜らぬばかり、その時ただ一人の詩人のみが圧しひしがれた心臓を胸にいだきながら、変わらぬ愛を捧げていると、こういうわけなんです。ねえ、ニコライさま、たとえ虱のような虫けらでも、恋することはできますよ。けっして法律で禁《と》められてはおりません。ところが、それ、令嬢はわたしの手紙や詩を読んで、腹を立てられたのでございます。あなたまで憤慨なすったということですが、いったい本当なのでしょうか? 実に悲しむべきことです。わたしはほとんど信じかねたくらいでございますよ! ねえ、ただほんの想像ばかりで、人に迷惑のかけようがないじゃありませんか? おまけに、正直なところ、これにはリプーチンが関係してるのでございます。『送るがいい、送るがいい、人間という者は、だれでも通信の権利を持ってるんだ』などというものですから、それでわたしも出してみたようなわけで」
「きみは、確か自分で自分をあのひとの花婿に推薦したはずだね?」
「敵です、敵です、敵の企みです!」
「その詩をいってみたまえ!」とニコライは厳しい調子でさえぎった。
「うわごとです、もうまるっきりうわごとです」
 けれども、やはり彼は身をそらして、片手を差し伸ばしながら吟じ始めた。

[#ここから2字下げ]
美しき人の中にも美しき
君は図らず足折りて
前にも倍して魅力を増しぬ
前にも倍して想いを増しぬ
すでに烈しく恋える男は
[#ここで字下げ終わり]

「もうたくさんだ!」とニコライは手を振った。
「わたしは、ピーテル([#割り注]ペテルブルグの俗称[#割り注終わり])を空想しておるのです」とレビャードキンは、まるで詩なんか読んだことは、夢にもないような口調で、大急ぎで話頭を転じた。「わたしは更生を夢みておるのです……恩人! ニコライさま、あなたはわたしに路銀を恵むのをいやだとはおっしゃらんでしょうね。あなたに望みをつないでかまわんでしょうなあ? わたしはこの一週間、まるで太陽かなんぞのように、あなたを待ち焦れておったのです」
「いや、駄目だよ。もうまっぴらごめんこうむる。ぼくは金なんかほとんど失くなってしまった。それに、どうしてそうそうきみに金をあげなくちゃならないのだ?」
 ニコライは急に腹を立てたらしい。彼は言葉みじかにそっけない調子で、大尉の不行跡、――乱酔、放言、マリヤに宛てられた金の浪費、それから妹を僧院から奪い出したこと、秘密を発表するという脅し文句を並べた手紙を送ったこと、ダーリヤに不正な行動をあえてしたことなどを、一つ一つ数え立てた。大尉は体を揺すぶったり、手真似をしたりして、言いわけを試みようとしたが、ニコライはそのたびに高圧的な態度で押し止めるのであった。
「まあ、聞きたまえ」と彼は最後にいった。「きみはしじゅう『一家の恥辱』てなことを書いているが、きみの妹がスタヴローギンと正当の結婚をしているということに、いったいどんな恥辱があるんだい?」
「しかし、秘密の結婚ですからなあ、ニコライ・フセーヴォロドヴィチ、秘密の結婚、永久に秘密の結婚ですからなあ。わたしはあなたから金をいただいておりますが、もし人から出しぬけに『それはどうした金だ?』ときかれたら、なんと返答します。わたしは束縛を受けておりますから、それに返答ができないじゃありませんか。それが妹のためにも、また一家の名誉のためにも、非常な損害を来たしますので」
 大尉は声を高めた。これは彼の十八番で、彼はこれにかたく望みをつないでいた。しかし、悲しい哉! 彼はそのとき、どんな恐ろしい報知が待ち設けているか、夢にも予想できなかったのである。ニコライは、きわめて些細な日常茶飯事でも語るように、近いうちに、ことによったら明日か明後日あたり、自分の結婚を一般に公表しようと思っている、『警察へも社会全体へも知らせるつもりだ』、したがって、一家の恥辱という問題も、また同時に補助金という問題も、自然消滅すべきだと告げた。大尉は目を剥くのみで、相手のいうことが合点できなかった。で、ニコライはもう一度、よくわかるように説明を余儀なくされた。
「でも、あれは……気ちがいじゃありませんか?」
「それはまた相当の方法を講じるさ」
「けれど……お母様はなんとおっしゃいますかしらん?」
「なあに、そりゃどうとも勝手にするだろうよ」
「しかし、奥さんをお宅へお入れになるのでしょう?」
「或いはそうするかもしれん。しかし、それはまったくきみの知ったことじゃないのだ。きみにはまるっきり関係のないことだよ」
「どうして関係のないことですか?」と大尉は叫んだ。「わたしがどういうわけで……?」。
「ふん、あたりまえじゃないか。きみなんかぼくの家へ入れやしないよ」
「でも、わたしは親戚じゃありませんか」
「そんな親戚はだれだってまっぴらだよ。ね、そうなってしまえば、きみに金をあげる必要がどこにあるだろう、考えてもみたまえ」
「ニコライさま、ニコライさま、そんなことがあってよいものですか。まあ、よく考えてごらんなさいまし。まさかあなただって、その……われとわが身を亡ぼすようなことをなさりたくはありますまい……第一、世間がなんと思うでしょう、なんというでしょう?」
「きみの世間ならさぞ恐ろしいだろうよ。ぼくはあのとき酒もりの後で、ふいと気が向いたものだから、酒の飲みくらをして、それに負けてきみの妹と結婚したんだ。だから、今度はこのことを公然と披露するのだ……それが今のぼくにとって慰みにでもなるかと思ってね」
 こういった彼の調子はことにいらいらしていたので、レビャードキンはぞっとしながら、その言葉を信じ始めた。
「しかし、それにしてもわたしは、わたしはいったいどうなるんです。この場合、わたしのことが一ばん肝腎じゃありませんか!………大方それはご冗談でしょう、ニコライ・フセーヴォロドヴィチ?」
「いや、冗談じゃない」
「じゃ、どうともご勝手に。しかし、わたしはおっしゃることを本当にしませんよ……わたしは訴訟でも起こしますから」
「大尉、きみはずいぶん馬鹿だねえ」
「かまいませんよ。わたしとして、それよりほかにしようがないんです!」と大尉はすっかり脱線してしまった。「以前はなんといっても、あれがいろんな手伝いなどしていたので、隅っこのほうに寝る所だけでも当てがってもらえましたが、今あなたに捨てられたら、いったいどうなるとお思いです?」
「だって、きみはペテルブルグへ出かけて、なんとか自分の進む道を変えるといってるじゃないか。ああ、そうだ、ついでにきいておくが、きみがペテルブルグへ行くのは、密訴のためだとか聞いたが、それはいったい本当なのかね? つまり、ほかのものを売った褒美に、おゆるしをいただこうというつもりかね」
 大尉は口をぱっくり開けて、目を剥き出したまま、とみに答えも出なかった。
「ねえ、大尉」急に恐ろしく真面目な調子になって、テーブルの上へかがみながら、スタヴローギンはこういった。
 これまで彼は妙にどっちつかずな調子で話していたので、道化の役廻りではかなり経験を積んだレビャードキンも、今の今まで、はたして主人公が怒っているのか、それともちょっと冗談をいっているのか、本当に結婚発表などという奇怪な考えをいだいているのか、或いはただ自分をからかっているのか、その辺がちょっと怪しく感じられた。しかし、今という今は、スタヴローギンのなみなみならぬいかつい顔つきが、相手を説き伏せねばやまぬ強い力を持っていたので、大尉は背筋に冷水を浴びせられたような気がした。
「ねえ、大尉、よく聞いてまっすぐに返事をしたまえ。きみはもう何か密告したのか、それとも、まだなのか? 本当に何もかもやっつけてしまったのかい? まっすぐに返事したまえ。何かくだらんことで、妙な手紙を出しゃしなかったかい?」
「いいえ、まだ何もいたしま……そんなことは考えもしませんでした」と大尉は身じろぎもせずに相手を見つめた。
「ふん、考えもしなかったなんて、そりゃ、きみ、嘘だよ。きみがペテルブルグへ行きたがるのも、つまり、それがためなんだ。もし手紙を出さなかったとすれば、この町のだれかに口をすべらしはしなかったかね? まっすぐに返事したまえ、ぼくもちょっと聞き込んだことがあるんだから」
「酔った勢いでリプーチンにその……リプーチンの裏切り者め、おれは自分の心臓を明けて見せてやったのに……」と哀れな大尉はつぶやいた。
「心臓は心臓としておいてさ、そんな馬鹿な真似をする必要はないじゃないか。きみは何か思案があったら、ちゃんとはらの中にしまっとくがいいじゃないか。いま時の利口な人は、そんなにぺらぺらしゃべらないで、じっと黙ってるよ」
「ニコライさま」と大尉はぶるぶる慄え出した。「だといって、あなたご自身、何一つかかり合っていらっしゃらないじゃありませんか。わたしは何もあなたのことを……」
「まさかきみだって、自分の米櫃を訴える勇気はなかったろうよ」
「ニコライさま、まあ、お察しを願います、お察しを……」
 大尉は自暴自棄になって、涙ながらに、この四年間の身の上を早口に語り始めた。それは柄にもない仕事に引き摺り込まれながら、しかも、淫酒放埒に気をとられて、つい今の今まで、その仕事の重大な意義を悟りえなかった馬鹿者の、思い切って間の抜けた物語だった。彼の話によると、まだペテルブルグにいた頃から、『最初はただほんの友だちに対するお付き合いとして、大学生ではないけれど、思想は忠実な大学生という心持ちで、夢中になってその運動に没頭』した。そして、何がなんだかわけはわからず、ただ『なんの罪もなく』いろんな紙きれを、よその階段へ撒き散らしたり、一時に何十枚と固めて、戸口のベルの傍へ置いて来たり、新聞の代わりに捩じ込んだり、芝居へ持って行ったり、帽子の中へ突っ込んだり、かくしの中へ落としたりした。その後、こういう仲間から金さえもらうようになった。『だといって、わたしの収入がどんなものか、大抵ご承知でしょうからなあ!』こうして二県にわたって各郡各郡へ、『ありとあらゆる紙くず』を撒いたのである。
「おお、ニコライ・フセーヴォロドヴィチ」と彼は叫んだ。「何より一ばん気がさしたのは、それがぜんぜん民法に、というより、むしろ国法に背いている点でした? 何が刷ってあるかと思うと、まるで薮から棒に、股木([#割り注]乾草の取り入れに用う[#割り注終わり])を持って出て来いだの、朝すかんぴんで家を出ても、晩には金持ちで帰れることを記憶せよだのと、――じつに驚くじゃありませんか! わたしはもう身慄いがつくようでしたが、それでもやっぱり撒き散らしておりました。かと思うと、また出しぬけに、これというわけもないのに、ロシヤ全国の人に向かって、五行か六行印刷したものですよ。『速かに教会を鎖し、神を撲滅せよ。結婚制度を破壊し、相続権を撲滅し、すべからく刃をもって立つべし』と、こんなことばかり並べたものです。そのあとはどうだったか、てんで覚えてもおりませんよ。ところが、この五行ばかりの紙っ切れのために、すんでのことにやっつけられるところでした。ある連隊で、将校連にさんざんぶちのめされましたが、まあ、ありがたいことにゆるしてくれました。また去年カラヴァーエフに、フランスでこしらえた贋の五十ルーブリ札《さつ》を渡した時なぞは、あやうくふん捕まらないばかりでした。まあ、いいあんばいに、ちょうどその時分カラヴァーエフが酔っぱらって、池で溺れ死んだので、わたしの仕業を見抜く暇がなかったのですよ。ここではヴィルギンスキイのところで、婦人共有の自由を宣言しました。六月にはまた**郡でビラ撒きをしました。なんでもまたやらされるそうでございます……ピョートル・スチェパーノヴィチが出しぬけにわたしをつかまえて、お前はなんでもいうことを聞かなくちゃならんぞと、いい聞かしてくださいましたのでね。もう前から脅かしていらっしゃいますよ。ねえ、あの日曜日のいじめようといったら、本当にどうでしょう! ニコライさま、わたしは奴隷です、虫けらです。が、ただし神ではありません。そこが詩人ジェルジャーヴィンと違うところです。しかし、わたしの収入といったら、実際ごぞんじのとおりでございますからなあ!」
 ニコライはしじゅう好奇の色を浮かべながら聞いていた。
「ぼくのまるで知らないことがあった」と彼はいった。「もっとも、きみならどんなことだってしかねないよ……ねえ、きみ」彼はちょっと考えて、こういい出した。「もしなんなら、あの連中に、――どの連中かわかるだろう、――あの連中にそういったらいいだろう。つまり、リプーチンは出たらめをいったのだ。実はスタヴローギンにもうしろ暗いことがあるかと思ったので、密告といって脅かして、もっと金を絞ろうと考えただけなんだ、とこんなふうにね……わかったかい!」
「ニコライさま、若旦那、いったいわたしの身にはそんな危険が迫ってるのでしょうか? わたしはそれをおたずねしようと思って、一生懸命、ご光来を待っておりましたので」
 ニコライはにたりと笑った。
「ペテルブルグなぞへは、たとえぼくが路用をあげたにしろ、けっして行かしてくれやしないよ……あ、もうマリヤのところへ行かねばならん時刻だ」
 彼は椅子を立った。
「ニコライさま、マリヤのことはどうなりますので?」
「今まで幾度もいったとおりさ」
「いったいあれは本当でございますか?」
「きみはまだ本当にしないのかい?」
「じゃ、あなたははき古した靴のように、わたしをほうり出しておしまいになるのですか?」
「さあ、どうするか」とニコライは笑った。「さあ、放したまえ」
「一ついかがでございましょう。わたしがしばらく入口に立っておりましょう……ひょっと立ち聴きするものがないとも限りませんからね……なにぶんちっぽけな部屋でございますから」
「それは思いつきだ。一つ入口に立ってくれたまえ。その傘をさすといい」
「あなたのお傘……わたしにそれだけの値打ちがありましょうか?」と大尉は甘ったるい口調でいった。
「だれだって傘ぐらいの値打ちはあるさ」
「一句でもって人間の権利のミニマムを喝破なさいましたな……」
 しかし、彼は機械的に口を動かしているにすぎなかった。彼は今夜の報告にすっかり圧し潰されたようになって、まるでとほうにくれてしまったのである。けれど、入口へ出て傘を広げるやいなや、彼の変わりやすい狡猾な頭には、再びいつもの気休めがそろそろ動き出した。あの男ずるいことをしておれをだましてるのだ、もしそうだとすれば、おれは何も恐れることはない、かえって向こうがこっちを恐れているのだ。
『もし狡いことをして、おれをだましてるとすれば、その魂胆はどういうところにあるのだろう?』という疑問が、彼の頭を掻きむしるのであった。結婚の発表などは馬鹿げた話に思われた。『もっとも、あんなとっぴな変人だから、何を仕出かすかわかりゃしない。人を苦しめるために生きてるんだからな。いや、しかし、あの日曜日の恥さらしな一件から、先生自身びくびくしてるとすれば、――しかも、これまでに覚えがないほどびくびくしてるとすればどうだろう? そうだ、だから、わざわざこんなところまで駆けつけてさ、自分でご披露に及ぶなんて、人をごまかそうとしている。つまり、おれがしゃべりゃしないかと思って、おっかないのさ。おい、しっかりしなくちゃいかんぜ、レビャードキン! 自分で披露する気でいるくせに、なんのためにわざわざよる夜中、こそこそと隠れて来るんだろう。もし恐れておるとすれば、それはほかじゃない今だ、この今という時なのだ。この三、四日の間が恐ろしいのだ。おい、しくじっちゃいけないぜ、レビャードキン!』
『ふん、ピョートルをだし[#「だし」に傍点]に使って脅かしやがる。おお、油断がならんぞ。おお、油断がならんぞ。いや、まったくどうも油断がならんぞ。ついふらふらと、リプーチンの奴にしゃべってしまったもんだからな。本当にあの連中、いったい何を企らんでやがるんだろう。今まで一度だってわかったことがない。また五年前のようにこそこそ始めやがった。いったいおれがだれに密告したというんだ? 「うかうかとだれかに手紙を出しはしなかったか?」だってよ。ふむ! してみると、ついうかうかといったような体裁で、手紙を出してもかまわんと見える。ことによったら、入れ知恵をつけてるのかもしれんぞ? 「きみがペテルブルグへ行こうというのも、つまりそのためなんだろう」ときた。こん畜生、おれはひょいとそんな夢を見ただけなんだが、あいつはもうその夢を解いてくれた! まるで、自分から行け行けとけしかけてるようだ。こいつは確かに二つに一つだ。あんまり悪くふざけたので、少々こわくなったか、それとも自分では少しも恐れないで、ただおれにみんなを密告しろとそそのかしてるか、どっちか一つなんだ! おお、油断がならんぞ、レビャードキン、どうかどじを踏まんようにしてくれ!』
 彼は夢中になって考え込んだので、立ち聴きすることも忘れてしまった。もっとも、立ち聴きするのはむずかしいことだった。境は分の厚い一枚扉になっているうえ、話し声も非常に低くって、ただ不明瞭な音《おん》が洩れて来るにすぎなかった。大尉はぺっと唾を吐いて、またもの案じ顔に外へ出、口笛を吹きにかかった。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 マリヤの部屋は大尉の占領しているほうにくらべると、二倍くらい大きかった。しかし、道具類は同様に荒削りの粗末なものだった。けれども、長いすの前にあるテーブルには、けばけばしい色をしたクロースを掛けて、その上には火をともしたランプが置いてあった。床には一面に立派な絨毯を敷きつめ、寝台は部屋の端から端まである長い緑いろのカーテンで仕切ってあった。そのほかテーブルの傍には、大きなふっくらした肘掛けいすが据えてあったが、マリヤはそれに腰を掛けなかった。片隅には、前《ぜん》の住まいと同じように聖像が安置され、その前には燈明《みあかし》がともっていた。テーブルの上には依然として、必要欠くべからざる品々が並べてあった――カルタ、小鏡、唱歌本、おまけに味つきパンまで揃っている。そのほか、べたべたと色をつけた絵入りの本が二冊あった。一つは通俗むきの旅行記の抜萃で、少年の読物に編纂されたものだし、もう一つは軽い教訓的な、主として古武士の物語を集めた、降誕祭《ヨルカ》や学校むきにできたものである。それからまだ、いろんな写真を貼ったアルバムもあった。なるほど大尉のいったように、マリヤは客の来訪を待っていたが、ニコライが入って行った時には、長いすの羽根枕にもたれながら、半ば横になって眠っていた。客は音のせぬように入って、戸を閉めると、そのまま動かないで、眠れる女を見廻し始めた。
 マリヤがお洒落をしてるといったのは、大尉がちょっと嘘をついたのである。彼女はあの日曜にヴァルヴァーラ夫人のところへ行った時と同じ、黒っぽい着物をつけ、髪もやっぱりちっぽけな髷に束《つか》ねて、うしろ頭にのっけているし、長いかさかさした頬も、やはりあの時と同様に剥き出しだった。ヴァルヴァーラ夫人から贈られた黒のショールは、丁寧にたたんで長いすの上に置いてあった。相変わらず彼女は毒々しく白粉を塗り、紅をつけていた。ニコライが入ってからまる一分もたたないうちに、マリヤは自分の体にそそがれた男の視線を感じたように、ふいに目をさまして、瞳を見開き、大急ぎで身をそらした。しかし、客の心にも、何か奇怪なあるものが起こったに相違ない。彼は依然として、一つところに、戸の傍に突っ立ったまま、身動きもせず、突き刺すような目つきで、言葉もなくしゅうねく女の顔を見つめるのだった。或いはこの目つきがあまりにも度を越えていかめしかったのかもしれず、或いはまたその中に嫌悪の色、――というより、むしろ女の驚きを楽しむような、意地悪い表情が浮かんだのかもしれないが(しかし、これはマリヤの寝起きの目に、そう映ったばかりかもしれぬ)、とにかく、何やら期待するような一分間が過ぎたとき、哀れな女の顔には、とつぜん極度の恐怖が現われた。そして、一脈の痙攣がその上を走り過ぎると、彼女は両手をわなわなと顫わせながら差し上げた。と、まるでものに驚いた子供のように、ふいにわっと泣き出した。もうちょっと棄てておいたら、彼女は大声にわめき出したかもしれぬ。しかし、客はわれに返った。一瞬にして、彼の顔つきは一変した。彼はいかにも愛想のいい、優しい笑みを浮かべつつテーブルへ近寄った。
「失礼しました。出しぬけにやって来て、お目ざめを驚かせましたね、マリヤさん」と彼女のほうへ手を差し出しながら、彼はこういい出した。
 優しい声の響きは、相当の効果をもたらした。彼女は何やら思い出そうと努力するようなふうで、やはりおずおずと男を眺めていたが、それでも、驚愕の色は消えてしまった。おずおずと手も差し伸べた。ついに臆病げなほほえみがその唇に動き始めた。
「いらっしゃいまし、公爵」なんとなく奇妙な目つきで相手を見つめながら、彼女はささやいた。
「たぶんわるい夢でも見たんでしょう?」と彼は愛想よく、いよいよ優しくほほえみかけながら、言葉を続けた。
「わたしがあのこと[#「あのこと」に傍点]を夢に見たのを、どうしてごぞんじなのでございます?………」
 こういって、彼女はふいにまた身慄いしながら、一あしうしろへよろめいた。そして、わが身を守ろうとでもするように、片手を前へ突き出しつつ、またもや泣き出しそうな顔つきになった。
「気をとり直しなさい、もうたくさんですよ。何を恐れることがあるもんですか。いったいあなたはぼくに気がつかなかったのですか?」とニコライはなだめにかかったが、今度は長いあいだ気を落ちつかせることができなかった。
 彼女はその哀れな頭の中に、依然として悩ましい疑惑と、重苦しい想念をいだいたまま、なにものかに想到しようと努めつつ、無言に相手を見つめていた。じっと目を伏せているかと思うと、急にすべてを捕えるような視線をちらりと男に投げかけるのだった。が、とうとう気を落ちつけたというよりも、むしろ、何か決心したらしい様子で、
「どうぞお願いですから、わたしの傍にお坐りください。後でよくお顔が見せていただきたいのですから」明らかに、何か新しい目的を思いついたらしく、彼女はかなりしっかりした調子でこういった。「ですけれど、今はもうかまわないでくださいまし。わたしあなたのお顔を見はいたしません。下のほうを向いております。ですから、あなたも、わたしが自分でお願いするまでは、わたしを見ないでくださいまし。さあ、お坐りくださいませんか」と彼女はむしろじれったそうにつけ足した。
 見たところ、新しい感覚がしだいに烈しく、彼女の心を領してゆくらしかった。
 ニコライは腰を下ろして、待ち受けていた。かなり長い沈黙がおそった。
「ふむ! わたしはどうもこういうことが、何もかも不思議に思われてなりません」と腹立たしげにさえ聞こえる調子で、彼女は出しぬけにつぶやいた。「わたし本当に悪い夢にうなされてたのですけれど、どうしてあなたがあんな恰好をして、わたしの夢に出ていらしったのでしょう?」
「ええ、もう夢の話なんかやめましょう」と彼は、女が止めたのもかまわず、くるりとそのほうへ振り向きながら、もどかしそうにこういった。またしてもさきほどと同じ表情が、その目をかすめたように思われた。彼の目に映ったところでは、彼女はいく度も男の顔を見ようと思ったけれど、一生懸命、強情を張って、じっと下を向いているらしかった。
「ねえ、公爵」彼女はとつぜん声を高めた。「ねえ、公爵……」
「なぜあなたはそっちを向いてしまったのです。なぜぼくを見ないのです。こんな喜劇めいた真似をして、どうするつもりなんです?」とたまりかねて彼は叫んだ。
 しかし、彼女はまるで耳に入らぬ様子で、
「ねえ、公爵」としっかりした声で三度目にまたこうくり返した、不愉快な心配らしい渋面を作りながら。「あなたがあのとき車の上で、結婚を披露するとおっしゃったとき、わたしもうこれで秘密がおしまいになるのかと思って、本当にびっくりしてしまいました。今はもうまるでわかりませんけれど、わたししじゅうそう考えもしましたし、また自分の目でもはっきり見えます、――わたしはてんで不向きな女でございます。お化粧《つくり》をするくらいはできましょう。お客をお招きすることもやっぱりできるでしょう。なんの、お茶に人を呼ぶくらい、大してむずかしいことじゃありませんからねえ。ことに召使の者もいることですもの。けれども、やっぱりわきのほうから、妙な目つきでじろじろ見ることでしょうよ。わたしは日曜の日にあの家で、朝のうちからいろんなことを見抜いてまいりました。あの綺麗なお嬢さんは、しじゅうわたしのほうばかりじろじろ見ていられました。とりわけ、あなたが入っていらしった時なぞ、なおさらでしたわ。だって、あのとき入っていらしったのはあなたでございましょう、ねえ? またあのひとのお母さんなどは、ただもう滑稽な上流の老婦人ですよ。うちのレビャードキンも、なかなかやりましたね。わたし噴き出すまいと思って、いつも天井ばかり見ておりました。あすこの天井は模様入りだから、いいあんばいでしたわ。あの人[#「あの人」に傍点]のお母さんは、修道院の院長さまにでもなるよりほかしようのないひとです。わたしあのかたが怖うございますの。黒いショールなどくれましたけれどね。きっとあの時、あのひとたちはみんながかりで、思いもよらぬほうからわたしを試験したのです。わたしべつに怒りはしませんけれど、あの時じっと坐ったまま、とてもこのひとたちの親類にはなれないと考えました。そりゃ伯爵夫人に必要なのは、ただ精神的な資格だけでございます、――なぜって家事むきのほうには、召使がたくさんおりますからねえ。それから、また外国の旅人をもてなすために、なにか社交的な愛嬌もいりましょう。けれど、それにしても日曜の日に、あのひとたちはみんな愛想をつかしたように、わたしの顔を見ていました。ただ一人ダーシャだけは、天使のような人です。わたしね、もしひょっとあのひとたちが、わたしのことを何かうっかり悪くいって、あの人[#「あの人」に傍点]を悲しませはしないかと、それを心配しているのでございます」
「なにも怖がることはありません、心配しちゃいけません」とニコライは口を歪めた。
「もっとも、あの人がわたしのことを、少しくらい恥ずかしく思ったって、それはわたしなんともありません。だって、こういう場合はいつでも恥ずかしいというより、気の毒な心持ちのほうが勝ちますものね、もっとも、それはむろん、人によりますけど、まったくわたしのほうが、あの人たちを気の毒がるべきで、あの人たちがわたしを気の毒がる筋のないことは、あの人がちゃんとごぞんじでございますもの」
「あなたは、恐ろしくあの人たちに腹を立ててるようですね、マリヤさん?」
「だれ、わたし? いいえ」彼女は率直な微笑を浮かべた。
「けっしてそんなことありません。わたしはあの時、皆さんの様子を見ておりましたが、あなた方はみんなてんでに腹を立てて、みんながやがやいい合っていらっしゃる。仲直りはなさるけれど、心底からうち明けて笑い合えないんですもの。あれだけお金がありながら、楽しみといったらいくらもない、――わたしこう思うといやになってしまいました。けれども、わたしはいま自分よりほかだれも気の毒でなくなりました」
「ちょっと人から聞きましたが、あなたはぼくの不在中、兄さんと二人っきりで、ずいぶんいやな思いをして暮らしたそうですね?」
「いったいまあ、だれがあなたにそんなことをいったのでしょう? でたらめばかり、今のほうがずっといやですよ。今はよくない夢ばかり見ております。よくない夢ばかり見るようになったわけは、あなたがここへいらしったからでございます。本当にまあ、あなたはなんのために、姿をお見せになったのでしょう。お願いですから、聞かせてくださいな」
「あなたはもう一ど僧院《おてら》へ行きたかありませんか?」
「ほうら、あの人たちがまた僧院《おてら》をすすめるだろうと、わたしは前から虫が知らせていた! あなたの僧院なんか別に珍しかありませんよ! それに、なんだってそんなところへ行くのです、なんのために今さら入って行くのです? 今はもうほんの一人ぼっちなんですの! 三度目の生活を始めようなんて、わたしにはもうおそ過ぎます」
「あなたはどうしたのか、ひどく腹を立てていますね。もしやぼくの愛がさめやしないかと思って、そんなことを心配してるんじゃありませんか?」
「あなたのことなんか、わたしちっとも心配しちゃいません。わたしかえって自分のほうから、だれかに愛想をつかしはしないかと、それを心配してるくらいなんですよ」
 彼女はさも軽蔑したように薄笑いを洩らした。
「わたしはあの人[#「あの人」に傍点]に対して、きっと何か大変な間違いをしたに相違ない」出しぬけに彼女は独り言のようにいい足した。「ただ、どんな間違いなのか、それ一つだけわからない。これがいつまでも心がかりなのです。いつもいつもこの五年間、夜昼なしに、何かあの人に間違いをしたのではないかと、そればっかり心配していました。わたしはもうしょっちゅう祈って祈って祈り抜きながら、あの人に対する自分の大きな過ちを、じっと考えておりましたが、案の定、それが本当だとわかりました」
「いったいどうわかったんです?」
「ただあの人[#「あの人」に傍点]のほうになにかありはしまいかと、それが気づかいなのでございます」相手の問いには答えようともせず(まるで聞かなかったのかもしれぬ)、彼女は語りつづけた。「それにしても、あの人があんな連中の仲間になるはずはありません。伯爵夫人は、わたしを馬車に乗せてくれましたけれど、わたしを取って食いたいくらいに思っています。だれもかれもみんな、ぐるになっているのです。けれど、いったいあの人までがそうなのでしょうか? あの人まで心変わりしたのでしょうか? (彼女の下顎と唇はぶるぶる慄え出した)ねえ、あなた、あなたは七つの寺で呪われた、グリーシカ・オトゥレーピエフ([#割り注]偽王子を名乗って王位を奪った僧侶上りの青年、歴史上の人物[#割り注終わり])の話をお読みなさいましたか?」
 ニコライは押し黙っていた。
「だけど、わたしもうあなたのほうへ向いて、あなたの顔を見ますよ」とふいに決心したらしくいった。「あなたもわたしのほうを向いて、わたしの顔を見てくださいな。じっと一生懸命にね。わたしもう一ペんたしかめて見たいんですから」
「ぼくはもうずっと前から、あなたのほうを見ていますよ」
「ふむ!」マリヤは一心に見入りながらいった。「あなたはずいぶんお肥りになりましたねえ……」
 彼女はまだ何かいおうとしたが、ふいにまた(もうこれで三度目である)さきほどと同じような驚愕が、彼女の顔をへし曲げた。彼女はふたたび手を目の前に突き出しながら、一あしあとへよろめいた。
「いったいどうしたのです?」ほとんど憤怒の発作を感じながら、ニコライはこう叫んだ。
 けれど、この驚愕はほんの一瞬だった。彼女の顔は何かしら疑り深そうな、気持ちの悪い、奇妙な微笑に歪められた。
「公爵、お願いですから、ちょっと立って、入ってみてくださいませんか」と彼女は突然きっとした、思い込んだような声でいった。
「入ってみるってどうするんです? どこへ入るんです?」
「わたしはこの五年間、あの人[#「あの人」に傍点]がどうして入ってらっしゃるだろうと、そればかり心に描いておりましたの。さあ、すぐに立ってあちらの部屋へ行って、戸の陰へ隠れていてくださいまし。わたしはまるでなんにも当てにしてないようなふうをして、本を手に持って、坐っております。そこへあなたが五年の旅をすまして、思いがけなく入ってらっしゃる……それがどんなふうか見とうございますの」
 ニコライはひとり心の中で歯咬みしながら、何かわけのわからないことをぶつぶつつぶやいた。
「たくさんだ」と、彼は掌でテーブルを叩きながらいった。「マリヤさん、お願いだから、ぼくのいうことを聞いてください。後生だから、ありったけの注意を集中してください。もしできることなら……なんといっても、あなたはずぶの気ちがいじゃないんだから!」彼はこらえかねてこう口走った。「ぼくはあす二人の結婚を発表しようと思っています。あなたはけっして立派な邸で暮らすのじゃありません。そんな考えは捨てておしまいなさい。あなたは一生、ぼくといっしょに暮らす気がありますか、しかし、ここからずうっと遠いところなんですよ。それはスイスの山の中です。そこにちょっとした場所がありましてね………心配することはありません、ぼくはけっしてあなたを捨てもしなければ、気ちがい病院へも入れやしません。ぼくも無心をしないで暮らすだけの金はありますから。あなたの傍には女中が一人つくはずです。だから、あなたは何一つ仕事をしなくもいいのです。あなたの望みはなんであろうと、できることでさえあれば、かなえてあげます。お祈りするのもいいでしょう。どこなと好きなところへ出てみるのもいいでしょう。とにかく、なんでもしたいことはさしてあげます。ぼくはあなたにさわらないことにしますから。ぼくもやはりその場所から、一生うごかないつもりです。もしお望みなら、一生涯あなたと口をきかないでいましょうし、またお望みによっては、あの当時ペテルブルグの裏長屋でしたように、毎晩あなたの身の上話を聞かせてもらってもいいです。またお好みとあれば、本を読んで聞かせてもあげましょう。しかし、その代わり、一生ひとつところにいなければなりませんよ。それも淋しい場所なんです。行きたいですか。決心がつきますか? 後悔しやしませんか? 涙や呪いでぼくを悩ましはしませんか?」
 彼女は異常な好奇の色を浮かべて聞き終わり、長いこと黙って考えていた。
「そんなことはみんなありそうもない話よ」とうとう彼女は馬鹿にしたような、気むずかしげな調子でいい出した。「そんなことをしたら、わたし四十年もその山の中で暮らすようになるかもしれないもの」
 彼女は笑い出した。
「仕方がない、四十年も暮らそうじゃありませんか」ニコライは恐ろしく顔をしかめた。
「ふむ!………わたしどうしたって行きゃしない」
「ぼくといっしょでも?」
「わたしがあなたといっしょに行く気になるなんて、いったいあなたは何者です? こんな人といっしょに四十年も山の中に坐ってるなんて、――よくもずうずうしくやって来たもんだ! 本当にこの頃はどうしてみんなそう呑気になったもんだろう! いや、いや、鷹が梟になってしまうなんて、そんなことのあろうはずがない。わたしの公爵はこんな人じゃない!」彼女は得々と勝ち誇ったように頭《こうべ》をそらした。
 彼の顔にはさっと曇りがかかったように見えた。
 「なんだってあなたはぼくを公爵などと呼ぶんです、いったい……だれだと思ってるんです?」と彼は早口にきいた。
「え? まあ、あなたは公爵じゃないんですか?」
「一度もそんな身分になったことはありません」
「じゃ、あなたはいきなりわたしに向かって臆面もなく、公爵でないってことを白状なさるんですか!」
「一度もそんな身分になったことがないって、ちゃんといってるじゃありませんか」
「おお、どうしよう!」と彼女は両手を鳴らした。「あの人[#「あの人」に傍点]の敵はどんなことでもしかねないと覚悟はしていたけれど、こんなずうずうしい仕打ちは思いも寄らなかった! いったいあの人は生きてらっしゃるのかしら?」と、彼女はもはや前後を忘れて、ニコライに詰め寄りながら叫んだ。「お前はあの人を殺したのか殺さないのか、白状しておしまい!」
「お前はぼくをだれと間違えてるんだ?」と彼は顔を歪めながら、跳びあがって席を離れた。
 けれど、もはや彼女を威嚇することはできなかった。彼女は勝ち誇ったような態度で、
「いったいお前は何者だ、どこから飛び出したのだ! わたしの胸は、わたしの胸はこの五年間、悪だくみを底まで感づいていた! わたしはさっきここに坐っていたが、いったいこの目くら梟がどうして入って来たやら、本当にびっくりしてしまった。駄目だよ、お前さん、お前さんは芝居が下手で、レビャードキンよりもっと拙い。どうか伯爵夫人に、わたしからよろしくといっておくれ。そして、これからはお前なんかより、少し気の利いたものをよこすようにいっておくれ。お前はあのひとに傭われたんだろう、白状おし。あのひとのお情けで、台所においてもらってるんだろう? お前の小細工なんぞは、ちゃんと見え透いている。お前の仲間なんか、一人残らず承知している!」
 彼は女の二の腕を、肘の少し上の辺をしっかりつかんだ。彼女は面と向かってからからと高笑いした。
「似てるよ、お前は、恐ろしく似てるよ。ことによったら、あの人の親類かもしれないね、――油断のならない人たちだ! ただわたしの恋人は、輝くばかり立派な鷹なのだ、公爵なのだ。ところが、お前は梟だ、小|商人《あきんど》だ! わたしの恋人は気さえ向けば、神様を拝むこともできるけれど、気が向かなければ見向きもしない人なのだ。ところが、お前なんぞはシャートゥシカに(あの人はかわいい人だ、わたしの好きな懐かしい人だ)、頬っぺたを撲りつけられるくらいの人間だ。うちのレビャードキンが聞かしてくれたよ。それに、お前はあの時、どうしてあんなにびくびくしながら入って来たんだえ? だれに脅かされたんだえ? わたしが床の上に倒れた時、お前はわたしを支えてくれた。その時、お前の下卑た顔が目に入ると、まるで虫けらが胸へ這い込んだような気がした。違う、あの人[#「あの人」に傍点]じゃない、と思った。あの人[#「あの人」に傍点]じゃない! とね。わたしの鷹は、あんな貴族の令嬢の前だって、わたしのことを恥ずかしいなどと思やしない! ああ、どうしよう! わたしは五年の間というもの、『どこか山の向こうのほうにわたしの鷹が暮らしている、空高く飛びながら陽を仰いでいる……』こう考えたばかりで仕合わせだった。白状おし、贋公爵、たくさんもらったんだろう? 大金に目がくれて、承知したんだろう? わたしなんか、びた一文だってお前にやりゃしない。ははは! ははは!」
「うーん、この馬鹿女め!」なおもつよく女の手を押えながら、ニコライは歯をぎりぎり鳴らした。
「おどき、贋公爵!」と彼女は命令口調で叫んだ。「わたしは公爵の妻です、お前の刀なんぞ恐れはしない!」
「刀!」
「ああ、刀だよ! お前のかくしの中に刀がある。お前はわたしが寝ているとお思いだろうが、わたしはちゃんと見ていた。さっき入って来た時に、お前は刀を引き出したのだ!」
「お前は何をいうのだ、かわいそうに、なんという夢をお前は見ているのだ!」と、こうわめいて、彼は力まかせに女を突き放した。女は肩と頭をうんと長いすに打ちつけた。
 彼は一目散に駆け出した。けれども、マリヤはすぐさま起きあがって、びっこを引きながらその後から駆け出した。早くも入口まで飛び出した彼女は、仰天して度胆をぬかれたレビャードキンに力いっぱい抱き止められたまま、高らかな笑いを交えた甲高い声で、彼のうしろから外の闇に向けてわめいた。
「グリーシカ・オトゥレーピエフ! あーくーま!」

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

『刀、刀!』道も選ばず、ぬかるみや水溜りの中を大股に歩きながら、彼は癒し難き憎悪の念をもってくり返した。ときどき大声に笑いたくてたまらなくなったが、なぜか一生懸命に笑いを抑えつけた。さきほどフェージカに出会った橋の上、しかもちょうど同じところまで来て、彼は初めてわれに返った。やはり同じフェージカがここで彼を待っていて、今度も彼の姿を見ると、帽子を取り、愉快そうに歯を剥きながら、すぐ何やら早口に、面白そうにまくし立て始めた。ニコライは初めのうち、立ちどまろうともしないで歩きつづけた。またしても後からまとわりつく浮浪漢の言葉に、しばらくはまるで耳をかそうともしなかった。
 とつぜん彼は、ある想念に打たれて、ぎょっとした。ほかでもない、彼はまるでこの男のことを忘れていた。しかも、ちょうど『刀、刀』と絶え間なく心にくり返しているとき、まるで思い出さなかったのである。彼はいきなり浮浪漢の襟髪を取って、今までこらえこらえた癇癪を一度に破裂さしたような勢いで、力まかせに彼を橋板に叩きつけた。こちらは初めちょっと手向かいしようとしたが、ほとんどそれと同時に、ニコライが自分を襲ったのはただ一時の出来心にすぎないけれど、その腕力にくらべると、自分なぞはほんの藁しべのようなものだと悟ったので、少しも手向かいしないでおとなしく、じっと押し黙っていた。目先の利いたこの浮浪漢は両膝を突いて、地べたへぐいと押しつけられ、両手をうしろざまに捩じ上げられながら、自分の身の上に何か危険が迫っているなどとは、てんから考えてもいないらしいふうで、平然と大団円を待っていた。
 彼の睨んだ目は狂わなかった。ニコライは自分の巻いている襟巻を左手ではずして、俘《とりこ》をうしろ手に縛り上げようとしたが、急になぜかその手を放して、向こうへ突き飛ばした。こちらはくるりと跳ね起きて振り返った。短い幅の広い靴屋の使う小刀が、どこから出したのか、突然その手中に閃いた。
「小刀なんか棄ててしまえ。隠さんか、早く隠さんか!」とニコライはいらだたしげな手つきをしながら命令[#「命令」に傍点]した。と、小刀は取り出された時とおなじ速さで、ふたたび影を消してしまった。
 ニコライはまたもやもとの無言に返って、後をも見ずにさっさと歩き出した。しかし、執拗な浮浪漢は、それでも彼の傍を離れなかった。もっとも、今度は前のようにしゃべらないで、うやうやしげに一歩の間隔さえ保ちながら、後からついて来るのだった。こうして、二人は橋を渡り終わって向こう岸へ出、今度は左へ曲って、やはり細長いがらんとした裏通りへ出た。これを通って行くと、さっきのボゴヤーヴレンスカヤ街よりも、町の中心へ出るのに近道だった。
「おい、貴様はこのあいだどこか郡部のほうの教会へ泥棒に入ったそうだが、あれはいったいほんとなのか?」と出しぬけにニコライは問いかけた。
「実のところ、わっしは初めお祈りするつもりで寄ったので」まるで何事もなかったような口調で、浮浪漢はものものしく慇懃にこう答えた。いや、ものものしいというより、ほとんどもったいぶった調子だった。
 さきほどの『なれなれしい』砕けたところは跡形もなくなって、理由もなく侮辱されながらその侮辱を忘れるだけの度量を持った、真面目な事務家らしい態度がうかがわれるのであった。
「まったく神様のお導きであそこへ入った時には」と彼は言葉を続けた。「まあ、ありがたい、まるで天国のようだ、とこう思いました! いったいあの一件も、わっしの頼りない境涯から起こったことなのでございます。この世の中では、他人の助けがなくちゃ、本当にどうすることもできませんからねえ。ところが、正直のところ、あれは骨折り損でございました。悪いことをして、神様の罰が当たりましたんで。助祭の帯だとか、振り香炉だとか、なんだかだといって、みんなでわずか十二ルーブリしか儲からなかったのでございます。ニコライ行者の下顎が純銀だということでしたが、これが一文にもなりません。メッキなんだそうで」
「番人を殺したろう?」
「といって、つまりその番人とぐるでやったところ、それからもう夜明けに近い頃、河の傍で二人の間に口論がおっ始まったのでございます。どちらが袋を背負って行くか、という論なので。その時つい罪なことをしてしまいました。ちょっくらこの世の重荷を軽くしてやりました」
「もっと殺すがいい、もっと泥棒するがいい」
「ピョートル・スチェパーノヴィチも、ちょうどそれと同じことをおっしゃいました。まるでそっくり同じ言い方でわっしにすすめてくださいましたよ。まったく人を助けるということにかけちゃ、けちで不人情な方でございますからねえ。それに、わっしどもを土から創ってくだすった天の神様を、これっからさきも信じようとしないで、何もかも獣一匹の末にいたるまで、自然が造り出したものだ、などとおっしゃる。そればかりか、この世の中で情け深い人の助けがなかったら、どうにもこうにも仕方がないってことを、とんと会得していらっしゃらないんですからね。あの方にこんな講釈をすると、まるで羊が水でも見たようなふうつきでしてね、本当にもうあきれるほかはありませんよ。ところがねえ、旦那、今お訪ねになりましたレビャードキン大尉ですが、あの人はまだ、フィリッポフの家に住まっている時分から、どうかすると、一晩じゅう戸を開けっ放しにしておいて、自分はまるで死人みたいに酔っぱらってるじゃありませんか。そして、どのかくしからも、どのかくしからも、金がばらばら床へ転がり出しておりますんで。この目で見ることもちょいちょいありますよ。なにぶんわっしどものような身の上じゃ、人様の助けなしには、どうにもしようがございませんので……」
「え、この目で見た? じゃ、夜中に入りでもしたのかい?」
「入ったかもわかりませんが、それはだれも知らないことなんで」
「どうして殺さなかったのだ!」
「なに、胸の中で算盤をはじいて見て、気を長く持つことに決めたのでございます。なぜって、百や百五十の金はいつでも取れるということが、しっかりわかった以上、もう少し待って、千か千五百の金を引き出したほうがいい、とこういう気にならずにゃいられないじゃありませんか。わっしは確かにこの耳で聞いたのですが、いつでもレビャードキン大尉は酔っぱらった紛れに、恐ろしくあなたを当てにしてるようなことを申しておりました。こういうわけで、どんな料理屋だって、どんな下等な酒屋だって、あの男がこのことを大っぴらでしゃべらないところは、町じゅうに一軒もないくらいでございます。で、わっしもこの話をいろんな人の口から聞きまして、やっぱり旦那さまに深い望みをかけるようになりましたので、わっしは旦那さまのことを、親身の父親《てておや》か兄貴のように思って、お話したのでございます。ピョートル・スチェパーノヴィチなぞの耳には、けっして入れることじゃありません。いいえ、だれ一人にだって知らせやしませんよ。そこで、旦那さま、三ルーブリばかりお恵みくださいますでしょうか、いかがなもので? 本当にもうわっしの心の謎を解いて、心底のところを知らせてくだすっても、よさそうなもんじゃございませんか。なにぶんわっしどもは人様の助けがなくちゃ、どうにもやってゆけませんのでねえ……」
 ニコライは大きな声でからからと笑い出した。そして、細かい札で五十ルーブリばかり入った金入れをかくしから取り出すと、束の中から一枚ぬき取って、浮浪漢に投げ出してやった。それから一枚、また一枚……フェージカは宙にそれを受け留めようと、飛び廻った。札はひらひらと泥の中に飛び散った。彼は『ええっ、ええっ!』と叫びながら、札の後を追うのだった。ニコライは、とうとう一束すっかりなげつけてしまうと、やはりからからと笑いつづけながら、今度はもう一人きりで、裏通りをすたすたと歩き出した。浮浪漢は後に残って、ぬかるみの中を四つん這いに這い廻りながら、風に吹き散らされて水溜りの中に浮かぶ札をさがしていた。そして、まる一時間ばかりも闇の中で、『ええっ、ええっ!』と叫ぶ、引きちぎったような声が聞こえるのだった。

[#3字下げ]第3章 決闘[#「第3章 決闘」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 翌日午後二時、予想されていた決闘は成立した。ことがこうまで速かに決せられたのは、是が非でも闘わねばならぬという、ガガーノフの一徹な要求に基づくものであった。彼は敵の行為が納得できなかったので、今は前後を忘れるほど狂憤してしまった。もう一月ばかり敵を侮辱しつづけてきたのに、さらになんの手ごたえもない。どうしても相手の勘忍袋の緒を切らすことができなかった。しかし、決闘の申し込みはどうしても、ニコライのほうからさせなければならなかった。彼自身のほうで決闘を申し込もうにも直接の口実をもたなかったからである。心の奥底に潜めている実際の動機、すなわち四年前、父に加えられた侮辱のために、スタヴローギンに対していだいている病的な憎悪は、どういうわけか自分でも肯定するのがはばかられた。ことにニコライが二度までも率直な謝罪の手紙をよこしている以上、こういうことはしょせん口実とするわけにいかないのを自認していた。彼は心の中で、ニコライを恥知らず、臆病者と決めてしまった。事実、シャートフからあれほどの無礼を加えられながら、どうして平然と忍んでいられるかと、不思議でたまらなかったのである。とうとう彼は、暴慢比類なき例の手紙を送ることに決心し、これがついに相手のニコライをして決闘を申し込ませる動機となったのである。
 前日この手紙を出した後、ガガーノフは熱病やみのようないらいらした心持ちで、決闘の申し込みを待ち設けながら、時には望みをいだき、時には絶望したりして、希望実現の可能の程度を考量してみるのだった。彼は万一の場合に備えるため、前の晩から介添人を用意して待っていた。それはほかでもない、学校時分から無二の親友として、つねづね敬愛してやまぬマヴリーキイ・ドロズドフだった。こういうわけで、翌朝九時頃にキリーロフが、依頼を受けて訪れた時には、もうすべての準備は整っていた。ニコライのあらゆる謝罪の言葉も、かつて類のないような譲歩も、すぐさま一言の下に恐ろしい憤激をもってしりぞけられた。マヴリーキイは、前の晩はじめてことのいきさつを聞いたばかりなので、こうした前代未聞の条件を耳にすると、驚きのあまり口を開いて、さっそく和睦を主張しようとした。けれど、彼の心を悟ったガガーノフが、椅子に腰かけたまま、ぶるぶる身を慄わせ始めたのを見て、急に口をつぐみ、何もいわないことにした。実際、親友としてあんなことを約束しなかったら、彼は即座に身をひいてしまったはずなのである。しかし、事件の終わりに当たって、何か方法が立つかもしれぬという望みに繋がれて、彼はとにかくその場に居残った。
 キリーロフは決闘の申し込みを伝えた。スタヴローギンの提出したいっさいの条件は、いささかの異議もなくそのまま即座に受納された。もっとも、ただ一つ補足が加えられた。しかも、非常に残忍なものだった。ほかでもない、もし第一発でなんら決定的な結果が生じなかったら、さらにもう一ど手合わせをしよう、二度目にもこれという結果を見なかったら、三度目の手合わせをしようというのだった。キリーロフは顔をしかめて、三度目という点について談合をこころみたが、なんの効果もなかった。で、とうとう『三度まではかまわないが、四度目はどうあっても駄目』という条件つきで賛成した。これには、先方も譲歩した。こういうふうで、その日の午後二時、ブルイコーフで決闘が成立した。それは一方からはスクヴァレーシニキイ、いま一方からはシュピグーリンの工場で挟まれた、郊外の小さな森の中である。昨夜の雨はすっかりあがっていたが、じめじめと湿っぽい風の吹く日だった。低い濁ったちぎれちぎれの雲が、冷たい空を忙しげに流れ、木々の梢は時に強く時に弱く、ごうっと深みのある音を立てて騒ぎ、根のほうはぎしぎし軋んでいた。なんともいえぬ佗しい日だった。
 ガガーノフとマヴリーキイとは、洒落た散歩馬車に乗って、指定の場所へ到着した。二頭立の馬はガガーノフがみずから馭していた。そのほか一人の下男がついて来た。それとほとんど同時に、ニコライとキリーロフもやって来た。しかし、この二人は馬車でなく、馬に乗って来たのである。やはり一人の下男が騎馬で供をしている。キリーロフは今まで、一度も馬に乗ったことがないのだが、右手にピストルの入った重い箱をかかえながら、大胆な態度で昂然と鞍に跨っていた。この箱を下男に持たすのがいやだったのである。で、左手だけで手綱を支えていたが、不馴れなために絶えず巻いたり、引っ張ったりするので、馬はぶるぶると首を振りながら、今にも棒立ちになりそうな様子を示したが、乗り手は少しも驚くふうがなかった。生来うたぐり深いたちで、すぐに烈しい侮辱を感じるガガーノフは、彼らが騎馬でやって来たのを、また一つの新しい侮辱と解釈した。それは敵が負傷の場合、乗せられて帰るべき馬車の必要を感じていないとすれば、早くも自分の勝利を信じ切っているのだ、という意味なのであった。彼は憤怒のあまり、顔を黄いろくしながら馬車を出たが、われながら両手がわなわなと慄えるのを感じ、このことをマヴリーキイに話した。ニコライの会釈には返しもしないで、そっぽを向いてしまった。二人の介添人は籖を抽いた。ピストルはキリーロフのが当たった。やがて、境界線が引かれて、闘手は両方に立たされた。そして、馬車や馬や従僕は、三百歩ばかり後のほうへ追いやってしまった。ついに武器は装填され、二人の闘手に渡された。
 わたしは物語のさきを急がなければならないので、詳しく描写している暇がないのを悲しむが、それでも要所要所の叙述をまったく抜きにしてしまうわけにはいかない。マヴリーキイは妙に沈み込んで、心配そうなふうだった。が、その代わりキリーロフはどこまでも落ちつき払って、どこを風が吹くかというような顔つきだった。そして、いったんひき受けた義務の履行に関しては、細かいところまで正確を守っていたが、もう目の前に迫っている運命的な事件の成行きについて、すこしもあわてたようなふうがないばかりか、ほとんど好奇心らしいものさえ見えなかった。ニコライはいつもより少しあおい顔をして、外套に白い毛皮の帽子という、かなり軽い服装をしていた。彼はだいぶ疲れているらしく、ときどき眉をひそめながら、自分の不愉快な気持ちを、少しも隠そうとしなかった。しかし、この瞬間ガガーノフは、だれよりも一ばん目立っていた。したがって、彼のことだけ全然べつに一言しないわけにいかないのである。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 わたしは今まで一度も、彼の外貌を述べる機会がなかった。彼は色白で背の高い、平民仲間でいわゆる『脂ぶとりのした』いかにも満ち足りたらしい紳士で、年のころは三十三、四、うすい亜麻色の髪の毛をした、かなり美しい輪郭の顔だちだった。彼は大佐で軍務を退《ひ》いたが、もし将官になるまで勤務を続けたら、将官という背景の下に、いっそう堂々たる感じを与えたろうし、また立派な戦場の指揮官となることができたかもしれない。
 この人物の性格の描写上、逸することのできないのは、彼の軍務を退いた動機である。それはほかでもない、四年前ニコライのために、父がクラブで恥辱を受けて以来、長い間しゅうねく彼を悩ました家門の名折れという一念だった。このうえ勤務を続けるのは、良心に対しても恥ずかしい破廉恥なことに思われた。自分が職にとどまるのは、連隊はじめ同僚の顔に泥を塗るに均しい、とこう信じて疑わなかった。そのくせ同僚仲間ではだれ一人として、この出来事を知る者はなかったのである。もっとも、彼はずっと以前、この侮辱事件の起こらないさきから、まったく別な理由で軍務を退こうと思ったこともあるが、この時まできっぱりと決しかねていた。奇妙な話だけれど、彼が軍務を退こうとした最初の原因、というよりむしろ動機は、一八六一年二月十九日の農奴解放だった。ガガーノフは、県内でも屈指の富裕な地主で、しかも、解放令の発布の後も、大した損害はこうむらなかったのだし、彼自身もこの処置の人道的意義を承認し、改革によって生ずる経済的利益をも、了解するだけの頭脳はあったのだが、それでも解放令の発布後、急に自分自身が個人的侮辱を受けたように感じ出した。それは何かこう無意識的な感情だったが、はっきりしないだけ、かえって痛烈に感じられた。もっとも、父親の死ぬるまでは、どうとも断固たる処置を取る決心がつかなかった。しかし、ペテルブルグでは、その『高潔な』思想のために、諸名士の間にも名を知られるようになってきた。彼はこういう人たちと、なるべく、関係を絶たないように努めていた。彼は自分というものの中に入り込んで、そこにじっと閉じこもっているような人だった。いま一つの特質ともいうべきは、自分の家柄の古いのと血統の正しいのを、やたらに自慢することだった。彼はそんなことに真面目な興味をいだいている奇妙なロシヤ貴族の仲間に属していた。こういう貴族は、今でもロシヤに生き残っている。が、それと同時に、彼はロシヤ歴史が大嫌いで、全体にロシヤの習慣を醜悪なものと考えていた。主として、富裕な名門の子弟のみのために設けられた、特別な軍事学校に籍をおいている少年時代に(彼はこの学校で教育を終始するの光栄を有していた)、一種詩的な人生観が彼の心に根を張ったのである。彼は城とか、中世紀の生活とかいうものがむやみと好きになった。もっとも、それはただオペラ式の方面ばかりで、騎士|気質《かたぎ》といったようなものだった。彼はモスクワ帝国時代の皇帝が、貴族に体刑を課する権利をもっていた事実を、西欧の歴史に比較して顔をあからめ、恥ずかしさのあまりに泣き出さんばかりであった。
 自己の勤務については、なみなみならぬ知識を有し、義務の遂行上はなはだしく厳格な、いくぶん鈍重な気味のあるこの男も、内心なかなかの空想家だった。ある人の確言するところによると、彼は弁舌の才をもっていて、集会の席で演説するくらいは平気だということだった。しかし、この三十三年間というもの、彼はとうとう沈黙を貫き通した。近ごろ出入りし始めたペテルブルグの社交界でも、彼は並みはずれて倨傲な態度を持していた。外国旅行から帰ったニコライと初めてペテルブルグで出会ったとき、彼はほとんど気も狂わんばかりだった。
 いま決闘の場に立ちながらも、彼は恐ろしく不安な心持ちにおそわれていた。ひょっとしたら、ことが不成立に終わりはしまいか、というような気が始終してたまらないので、わずかばかりの猶予も、彼を惑乱の渦巻へ投げ込むのだった。キリーロフが決闘開始の合図を与える代わりに、とつぜん口を切ってしゃべり出したとき、病的な印象がその顔にありありと浮かんだ。もっとも、彼の言葉は当人が公然といっているとおり、ただの形式にすぎなかったのである。
「ぼくは単に形式上一言しておきます。もうピストルも手に握られて、いよいよ合図をしなければならぬ今この瞬間に、いかがでしょう、最後にもう一度いいますが、和解することは不可能でしょうか? これは介添人の義務ですから」
 今まで無言でいたマヴリーキイさえ、思わず申し合わせでもしたように、突然キリーロフの考えに賛成して同じようなことをいい出した。彼は昨日以来、自分があまり意気地なく、緩慢な態度をとったのを、苦に病んでいたのである。
「ぼくも全然キリーロフ君の説に賛成します……決闘の場所で和解できないという思想は、単にフランス式の偏見にすぎません……それに、ぼくは侮辱がどこにあるか、それが第一わからないです。きみはなんと思うか知らないが、ぼくは前からこのことがいいたかったのです。……なんといっても、言葉をつくして謝罪の意を申し入れてるんですからね、そうじゃありませんか?」
 彼は顔じゅう真っ赤にした。今までこんなに言葉数多く、こんなに興奮して口をきいたことは、めったにないのであった。
「ぼくはあらゆる方法をつくして、謝意を表するという自分の提言を、もう一度ここで確めておきます」ニコライも大急ぎで口を入れた。
「いったいそんなことができるもんですか?」憤怒のあまり足を踏み鳴らしながら、ガガーノフはマヴリーキイに向かって、兇猛な声で叫んだ。「マヴリーキイ君、もしきみがぼくの敵でなくて、介添人だとすれば、ひとつあの男にいって聞かしてください(と彼はピストルでニコライのほうをさして見せた)。そんな譲歩はただ侮辱を増すばかりです! あの男は、ぼくに腹を立てるなんて、不可能だと思ってやがる!……あの男はぼくを相手にした場合には、決闘の場所を去ることくらい、てんで恥辱と思っていないんだ! いったいあいつはぼくをだれだと思ってるんだろう。きみたちの見ている目の前で……きみはそれでもぼくの介添人ですか! きみはぼくの弾丸《たま》があたらないようにと思って、ぼくに癇癪を立てさせてばかりいるんです」
 彼はまたもや足を踏み鳴らした。唇からは唾が飛んでいた。
「交渉は終わりました。さあ、号令を聴いてください!」とキリーロフはありたけの声を出して叫んだ。「一! 二! 三!」『三』の声とともに、闘手は互いに敵を目ざして進み始めた。ガガーノフはすぐピストルを上げて、五足目か六足目に火蓋を切った。そして、ちょいと歩みをとめたが、しくじったなと見定めると、また早足に境界線のほうへ近寄った。ニコライも同じく歩み寄ってピストルを上げたが、なんだか恐ろしく高いところへ筒先を向け、ろくろく狙いもしないで引き金を下ろした。それからハンカチを取り出して、右手の小指を繃帯した。その時はじめて、ガガーノフも全然しくじったわけでない、ということがわかったのである。弾丸《たま》は小指の関節の肉をかすめただけで、骨には少しもさわらず、ただちょいとした擦り傷ができたばかりである。キリーロフは、もし敵手同士がこれで満足しなければ、決闘はまだ続行すると宣言した。
「ぼくは次の事実を明言する」ふたたびマヴリーキイのほうを向きながら、ガガーノフはしゃがれ声でどなった(もう喉がすっかり乾いてしまったので)。「この男は(と、またしてもスタヴローギンのほうを指さして)、この男はわざと空を向けて射ったのです……故意にやったのです……これは実に重ね重ねの侮辱だ! あいつは決闘を成立させまいとしてるのだ!」
「ぼくは規則にさえそむかなければ、どうなと勝手な射ち方をする権利を持っています」ニコライはきっぱりといった。
「いいや、持っていない! よく説明してやってください、よく説明して!」とガガーノフはわめいた。
「ぼくは全然スタヴローギン君の意見に同意です」とキリーロフは宣告した。
「なんのためにあいつはぼくに容赦するのだ?」人の言葉は耳にもかけず、ガガーノフは猛り立った。「ぼくはあいつのお情けなんかに預りたくない……唾でも引っかけてやりたいくらいだ……ぼくは……」
「ぼくは立派に誓います。ぼくはけっしてあなたを侮辱するつもりじゃなかったのです」とニコライはいらだたしげにいい出した。「ぼくが上を向けて射ったわけは、もう今後、人を殺したくないからです。相手があなたであろうと、またほかのだれかであろうと、対人的差別は持っていません。実際、ぼくは侮辱を受けたものと思っていないのに、それがあなたのお気にさわるのを残念に思います。しかし、自分の権利に干渉することは、だれにもゆるすわけにゆきません」
「それほど血を見るのが恐ろしいなら、どういうわけでぼくに決闘を申し込んだのだ、それをきいてください」依然としてマヴリーキイに向かって、ガガーノフはわめき立てた。
「どうしてきみに申し込みをせずにいられます?」とキリーロフが口を入れた。「きみは何一つ耳をかそうとしないんですもの、ほかにきみを振りほどく方法がないじゃありませんか?」
「ただ一つきみの注意を促しておきますが」努力し苦悶と戦いつつ、ことの成行きを考察していたマヴリーキイが、やっとこう口を切った。「敵手が前もって、空へ向けて発射すると明言している以上、事実、決闘を続行することはできないじゃありませんか……微妙な……しかも明瞭な理由によって……」
「ぼくはいつもいつも空へ向けて発射するとは、けっして明言しやしなかったです!」と、もうすっかり我慢ができなくなって、スタヴローギンは叫んだ。「あなたはぼくが何を考えてるか、ぼくがこの次どういうふうに発射するか、少しもごぞんじないのです……ぼく決闘を制限するようなことは、何一つ言やしなかった」
「そういうことなら、手合わせはまだつづけてもよろしい」とマヴリーキイはガガーノフに向かっていった。
「諸君、めいめい自分の位置に立ってください!」とキリーロフが号令した。
 ふたたび両敵手は近づいた。ガガーノフはまたもや失敗をくり返し、スタヴローギン[#「スタヴローギン」は底本では「スロヴローギン」]はまたもや上へ向けて射った。はたして空中へ発射したかどうか、それについては議論の余地もありえたのである。もし、わざと仕損じたのだと、当人が白状しなかったら、ニコライは正当に発射をしたと、断言することができたかもしれない。彼は露骨にピストルを空中へ向けたり、立木を狙ったりしたわけではない、とにかく敵を狙ったようには見受けられた。が、実際はやはり、帽子のうえ二尺ばかりの辺を狙ったのである。ことに今度の二回目はまだ下のほうを狙って、前よりさらに真実らしく見せた。けれど、もうガガーノフの疑いを解くことは、とうていできなかった。
「またか!」と彼は歯咬みをした。「なに、どうだってかまうもんか! ぼくは申し込みを受けてるんだから、当然の権利を行使する。ぼくはもう一度うつつもりです……ええ、どうあっても」
「きみは十分その権利をもっておられます」とキリーロフは断ち切るようにいった。
 マヴリーキイはなんにもいわなかった。介添人たちはこれでもう三ど双方を引き分けると、号令をかけた。ガガーノフは今度は仕切りのすぐ傍まで行って、線の上から十二歩へだてて、狙い始めた。しかし、彼の手は正確な発射に成功するべく、あまり烈しく慄えていた。スタヴローギンはピストルを下ろしたまま、身じろぎもせずに相手の発射を待っていた。
「あまり長すぎる、あまり狙いが長すぎる!」とキリーロフは烈しい語調でいった。「お射ちなさい! お射ちなさい!」
 しかし、発射の音は響き渡った。そして、今度は白い帽子が、ニコライの頭からけし飛んだ。狙いはかなり正確で、帽子の山のだいぶ低いところが打ち抜かれていた。もしいま二分ほど低かったら、もう万事了しているところだった。キリーロフは帽子を拾って、ニコライに渡した。
「お射ちなさい、敵を引き留めちゃいけません!」マヴリーキイは極度の興奮にこう叫んだ。スタヴローギンは発射のことを忘れたように、キリーロフといっしょに帽子を調べていたのである。
 スタヴローギンはぎくりとして、ちらとガガーノフを見やった。そして、いきなりそっぽを向くと、今度はいささかの遠慮もなく、わきのほうの森へ向けて射ち放した。決闘は終わった。ガガーノフはうちひしがれたように棒立ちになっていた。マヴリーキイが傍へ寄って、何か話しかけたが、こちらはまるで何もわからないようだった。キリーロフは帰りしなに帽子を取って、マヴリーキイにちょっと会釈した。しかし、スタヴローギンはさきほどの礼節を忘れてしまった。森へ向けて一発放すと、仕切りのほうを向いて見ようともせず、キリーロフの手ヘピストルを押し込んで、さっさと馬のほうへ歩き出した。その顔は憤怒の色を現わしていた。彼はおし黙っていた。キリーロフも無言であった。二人は馬に乗って、駆足で走り出した。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

「なんだってきみは黙ってるんです?」もう家の近くまで来た時、彼はじれったそうにキリーロフに声をかけた。
「何用です?」と、こちらはあやうく馬からすべり落ちそうになって答えた。馬がふいに後足で突っ立ったのである。
 スタヴローギンはじっと心を押し静めた。
「ぼくはあの……馬鹿を侮辱したくないと思ったんだが、やっぱり侮辱するようになってしまった」と、彼は低い声でいった。
「ええ、あなたはまた侮辱しました」キリーロフはずばりといい切った。「それに、あの男は馬鹿じゃありませんよ」
「しかし、ぼくはできるだけのことをした」
「そうじゃありません」
「じゃ、どうすればよかったのです?」
「決闘を申し込まなければよかったのです」
「もう一ペん頬っぺたを打たせるんですか?」
「ええ、打たせるんです」
「まるでわけがわからなくなってきた!」とスタヴローギンは毒々しげにいった。「なんだってみんなぼくに対して、ほかの者からはとうてい望めないようなことを期待しているんだろう? なんのためにぼくはほかの者が忍びえないようなことを忍び、ほかの者が負い切れないような重荷を、好んで引き受けなくちゃならないんだろう?」
「ぼくはあなたが自分で重荷を求めているものと思っていました」
「ぼくが重荷を求めているって?」
「そうです」
「きみ……それを見たんですか?」
「そうです」
「それがそんなに目立ちますか?」
「そうです」
 二人は少しのあいだ黙っていた。スタヴローギンは何か気がかりらしい顔つきをしていた。彼は何かのショックを受けたようなふうだった。
「ぼくが狙わなかったのは、人を殺したくなかったからにすぎない。ほかにわけはありません、まったく」まるで弁解でもするように、彼はせかせかと心配そうにいった。
「じゃ、人を侮辱する必要はなかったのです」
「いったいどうすればよかったんです?」
「殺したらよかったのです」
「きみはぼくがあの男を殺さなかったのを、残念に思ってるんですか?」
「ぼくは残念なことなんか一つもありません。ぼくはあなたが、本当に殺すつもりだとばかり思っていました。あなたは自分で何を求めてるかわからないのです」
「重荷を求めてるんですよ」スタヴローギンは笑い出した。
「あなたは自分で血を流すのがいやなくせに、どうしてあの男に殺人的行為を許したのです?」
「もし、ぼくが申し込まなかったら、あの男は決闘の方法によらないで、ただいきなりぼくを殺したでしょうよ」
「それはきみの知ったことじゃありません。それに、或いは殺さなかったかもしれませんよ」
「ただちょっと撲りつけるだけで?」
「それはあなたの知ったことじゃありません。重荷を背負ってお行きなさい。でないと、あなたの功業がなくなってしまいます」
「そんな功業なんかぺっぺっだ。そんなものをだれからも求めようと思いません!」
「ぼくは求めておいでかと思っていましたよ」キリーロフは恐ろしく冷然といい放った。
 二人は邸の中へ馬を乗り入れた。
「寄りませんか?」とスタヴローギンはすすめた。
「いや、ぼくはうちで……さようなら」
 彼は馬から下りて、自分の箱を小脇にかかえた。
「少なくも、きみだけはぼくに腹を立てていないでしょうね?」とスタヴローギンは手を差し伸べた。
「どういたしまして!」キリーロフはわざわざ引っ返して、手を握った。「ぼくの重荷が楽なのは生まれつきのためだとすれば、あなたの重荷はなかなか骨が折れるでしょう。そうした生まれつきだから。が、何もそうひどく恥じることはありません、ただ少しばかり……」
「ぼくは自分がつまらん男だということを知っています。だから、あえて強者を気取ろうともしない」
「まったく気取らないほうがいいです。あなたは強者じゃありません。お茶でも飲みにいらっしゃい」
 ニコライははげしい困惑を感じながら、自分の居間へ入って行った。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 入るとさっそく、侍僕のアレクセイから、ヴァルヴァーラ夫人が馬車に馬をつけさせて、ただひとり出かけたことを聞いた。夫人はニコライがはじめて、――八日間の病気の後、はじめて、――馬上の散策に出たのを非常に満足に思って、長年のしきたりどおり、『新しい空気を吸いに』出かけたのである。『なぜと申して、奥様はこの八日間、新しい空気を吸うということが、どんなにききめのあるものか、すっかり忘れていらっしゃいましたので』
「一人で出かけられたのか、それともダーリヤ・パーヴロヴナといっしょなのか?」とニコライは忙しげに老僕をさえぎったが、『ダーリヤさまはお加減が悪いとかで、お供をことわって、今お居間のほうにいらっしゃいます』という答えを聞いて、ひどく顔をしかめた。
「おい、爺や」突然こころを決したもののごとく、ニコライはこういい出した。「きょう一日、あのひとを見張っててくれないか。そして、もしあのひとがおれのところへ来るようなふうがあったら、さっそくひき留めて、こういっておくれ、――少なくもこの三、四日、あのひとに会うことができないってね……おれがあのひとに頼むのだ……そのうちに時が来たら、おれのほうで呼ぶからってね、――いいかい?」
「さよう申しますで」とアレクセイは目を伏せながら、声に憂いの響きを帯びさせて、いった。
「しかし、あのひとが自分から、おれのところへ来ようとしているのが、はっきりわかった時でなくちゃいけないよ」
「ご心配あそばしますな。けっして間違いはございません。今までここへお見えになる時には、いつもわたくしが仲に立っておりました。いつもわたくしに世話をしてくれというお頼みでございましたので」
「知ってるよ。しかし、とにかく、自分でやって来る時だけだよ。ひとつお茶を持って来てくれ。できることなら、少しも早く」
 老僕が出て行くと均しく、その瞬間に、ふたたび同じ戸が開いて、閾の上にダーリヤが姿を現わした。彼女の眼ざしは落ちついていたが、その顔はあお白かった。
「お前どこから来たの?」と、スタヴローギンは思わず叫んだ。
「わたしはすぐそこに立っていましたの。あれが出るのを待って、こちらへ入ろうと思いまして。わたし、あなたがあれにいいつけてらしったことも、ちゃんと聞いてしまいました。あれがいま出て行った時、わたしは右手の壁の突き出たかげに身を隠したので、あれも気がつかなかったのでございます」
「ぼくはずっと前から、お前と手を切ろうと思ってたんだよ、ダーシャ……当分……しばらくの間ね。ぼくはお前から手紙をもらったけれど、ゆうべお前を呼ぶことができなかった。ぼくは自分でも、お前に手紙が書きたかったんだが、まるでものを書くことができないのだ」と彼はじれったそうに、というより、むしろ、いまわしげにこうつけ足した。
「わたしもやっぱり、手を切らなくちゃいけないと思いましたの。奥様が二人の関係を、たいへん疑ぐってらっしゃいますので」
「なあに、勝手に疑らしとくさ」
「だって、奥様にご心配かけてはすみません。じゃ、今度はおしまいまで?」
「お前はどうしてもおしまいまで待つ気なの?」
「ええ、わたしそう信じています」
「世の中に終わりのあるものは一つもないよ」
「でも、これには終わりがあります。その時は、わたしを呼んでくださいまし。わたしすぐにまいります。では、さようなら」
「いったいどんな終わりがあるんだね?」ニコライはにっと笑った。
「あなたお怪我をなさいませんでしたね、そして……血なぞ流しはなさいませんでしたか?」
 終わりに関する問いには答えないで、彼女はこうたずねた。
「馬鹿なことさ。ぼくはだれも殺しはしなかった、心配しなくていいよ。明日といわずに今日のうちに、万事みなから聞かされるだろうよ。ぼくは少々加減が悪いのだ」
「わたしもう行きますわ。ときに、あの結婚披露は今日でございますか?」と彼女は思い切りの悪い調子でいい足した。
「今日じゃない、また明日でもない。明後日もどうかわからない。みんな死んでしまうかもしれないんだからね。結局、そのほうがいいのさ。さ、行ってくれ、いい加減にして行っとくれ」
「あなたは、あのもう一人の……気のちがった娘さんの一生を、亡ぼしはなさらないでしょうね?」
「気ちがい娘どもの一生はどちらも亡ぼしはしない。が、正気な女の一生は亡ぼしてしまうらしい。それほどぼくは卑劣で醜悪な男なのだ。ダーシャ、本当にぼくはお前のいわゆる『いよいよおしまい』に、お前を呼ぶかもしれないよ。そうすると、お前は正気な女だけど、やって来てくれるだろうね。いったいお前はどうして自分の一生を亡ぼそうとするのだ?」
「結局、わたし一人が、あなたのおそばに残るんでございますわ、わたしちゃんとわかっています。そして……それを待っていますわ」
「ところで、もし結局お前を呼ばないで、お前から逃げを打ったら?」
「そんなことのあろうはずがございません。きっと呼んでくださいます」
「そういう言葉には、ぼくに対する軽蔑が多分に含まれてるよ」
「軽蔑ばかりでないってことは、おわかりでいらっしゃるくせに」
「じゃ、とにかく軽蔑は含まれてるんだね?」
「そんなつもりで申したのじゃありません。神様が証人でございます。わたしは、あなたがいつになっても、わたしに必要をお感じなさらないようにと、祈っているのですけれど」
「その言葉に対して、酬ゆるところなかるべからずだ。ぼくもやっぱりお前の一生を、亡ぼしたくないのは山々なんだがなあ」
「どういたしまして、あなたはどうしたって、わたしの一生を亡ぼすことなぞ、おできにならないはずでございます。それはご自分でだれよりもよくごぞんじのくせに」とダーシャは早口に、きっぱりいい放った。「もしあなたといっしょになれなければ、わたしは看護婦になって、病人の世話でもするか、本屋になって福音書でも売って歩くかしますわ。わたし心を決めてしまいました。わたしはだれにもせよ、人の妻になることなどできません。わたしはこういう家にも住むことができません。そうしたくないのです……あなたすっかりごぞんじのくせに……」
「いや、ぼくはお前が何を望んでるか、今まで一度も察しることができなかったよ。ぼくはどうもね、お前がぼくに持ってる興味は、ちょうど年功を経た看護婦が、なぜかほかの病人と比較して、ある一人の病人に特殊の興味をいだく、あれに似ていると思う。もっといい比喩をかりていえば、よその葬式につき歩く巡礼のお婆さんが、ほかのものより少し小綺麗な死骸を好く心持ち、まあ、それくらいのものだろうと思われるよ。なんだってお前はそんな妙な目をして、ぼくを睨むんだね?」
「あなたは大変からだがお悪いのでしょう?」一種特別な表情で相手の顔に見入りながら、彼女は同情のこもった調子でこうきいた。「まあ、本当に! こんな体でありながら、わたしが傍にいなくてもいいなんて!」
「まあ、お聞きよ、ダーシャ、ぼくはこのごろ幻覚ばかり見てるんだよ。ある小《こ》悪魔がきのう橋の上で、ぼくの戸籍上の結婚の束縛を取りのけて、下手なぼろを出さないようにするために、レビャードキン大尉とマリヤを殺せといって、ぼくにさんざんすすめるじゃないか。その手つけとして、三ルーブリ請求したけれど、この荒療治の儲けは、少なくとも千五百ルーブリを下らないってことを、明らさまに匂わしていたよ。どうだ、なかなか勘定の達者な悪魔じゃないか! まるで帳づけ番頭みたいだ! はは!」
「ですが、それは幻覚に相違ないと、かたく信じていらっしゃいますの?」
「おお、違うよ、それは幻覚でもなんでもありゃしない! それはなに、懲役人のフェージカだ、懲役から逃げ出した強盗だよ。しかし、それはどうだってかまわない。え、お前はそれからぼくがどうしたと思う? ぼくは紙入れにありったけの金を、すっかりその男にくれてしまったのだ。だから、今その男はぼくが手つけ金を渡したものと、思い込んでいるだろうよ!」
「あなた夜中にその男にお会いになって、そんなことをすすめられたのですって? まあ、あなたはすっかりあの連中の網に巻き込まれていらっしゃるのが、おわかりにならないのでございますか!」
「なあに、勝手にさせておくさ。ときにね、ダーシャ、お前の舌のさきにはある一つの問いが引っかかって、もぞもぞしてるじゃないか。お前の目つきでちゃんとわかるよ」毒々しいいらだたしげな薄笑いを浮かべつつ、彼はつけ足した。
 ダーシャはぎょっとした。
「問いなんか一つもありません、疑いなんかまるで持っておりません。まあ、黙っていらっしゃいまし!」まるで質問を払い落とそうとでもするように、彼女は心配らしく叫んだ。
「つまり、お前はぼくがフェージカと会いに、居酒屋かどこかへ出かけないと信じ切ってるかい?」
「あら、あんなことを!」彼女は手をぱちりと鳴らした。「どうしてそんなにわたしをお苦しめなさるんですの?」
「いや、ばかな洒落をいって悪かった。ゆるしておくれ。ぼくはきっとあの連中から悪い癖がうつったんだね。実は、ぼくゆうべからやたらに笑いたくてたまらないんだ。しじゅうひっ切りなしに、長い間むやみに笑うんだ。まるで笑いの発作でも起こったように……やっ! お母さんが帰って来たぞ。ぼくはお母さんの馬車が玄関でとまると、音を聞いただけですぐわかる」
 ダーシャは彼の手を取った。
「神様、どうぞこの人の悪魔をこの人から防いでくださいまし……ね、呼んでくださいな、少しも早く呼んでくださいな!」
「ふん、ぼくの悪魔がなんだ! ただ、ちっぽけな、汚ならしい、瘰癧《るいれき》やみの小悪魔にすぎないんだよ。おまけに、鼻っ風邪まで引いてさ、とにかく出来損いのお仲間なのさ。ところが、ダーシャ、お前はまだなんだかいい出しかねてるんだろう?」
 彼女は苦痛と詰責の表情で男を見つめた後、くるりと向きを変えて、戸口のほうへ進んだ。
「おい」と彼は毒々しいひん曲ったような微笑を浮かべながら、彼女のうしろから声をかけた。「もし……まあ、その……手っ取り早くいえば、もし[#「もし」に傍点]……お前わかるだろう……つまり、もしぼくがかりに居酒屋へ出かけてだね、その後でお前を呼んだとすれば、――お前はそれでも来てくれるかね、居酒屋の後でも?」
 彼女は振り返りもしなければ、返事もしないで、両手で顔を隠しながら出てしまった。
「居酒屋の後でもやって来る!」ちょっと考えた後、彼はこうつぶやいた。と、気むずかしげな軽蔑の色がその顔に現われた。
「看護婦! ふん……もっとも、おれにもそうしたものがいるかもしれんて」

[#3字下げ]第4章 一同の期待[#「第4章 一同の期待」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 決闘の顛末は、早くも社交界に伝わった。しかし、とくに注意すべきは、この事件が人々に与えた印象だった。一同はまるで、申し合わせたように、一も二もなくニコライに対する同情を表わそうと努めた。もと彼の敵だった多くの人も、思い切りよく、われこそニコライの親友であると名乗りを上げた。社交界の意見が、こんなに思いがけなく変化したおもな原因は、これまでかつて意見を述べたことのない一貴婦人が公然と表白した、正鵠を穿った数語である。このひとがたちまち、町の上流社交界に異常な興味をいだかせるような、深い解釈を下したのである。それはこんな風にして起こったのだ、――ちょうどあの出来事の翌日は、県の貴族団長夫人の命名日というので、町じゅうの人が同家へ集まった。ユリヤ夫人も席に列なっていた。というより、一座の采配を振っていた。夫人といっしょに、リザヴェータも来ていたが、彼女は目ざめるような美しさと、度はずれに浮き浮きした表情に、輝くばかりであった。しかし、今夜は、これがかえって貴婦人たちのだれかれに胡散くさく思われたのである。ついでにいっておくが、彼女とマヴリーキイとの婚約は、もはや疑う余地もなかった。退役にはなっているが、極めて勢力のある一人の将軍が(この人のことは後に話す)その晩、冗談半分にたずねたとき、当のリザヴェータは、自分が許婚《いいなずけ》の女だということを、まっすぐに肯定したくらいである。ところがどうだろう? 町の貴婦人のうちで、この婚約を本当にするものは一人もなかった。一同は相変わらず執拗に、何かのローマンスを想像していた。スイスで行なわれたという一種運命的な、内輪の秘密の存在を想像し、またなぜかユリヤ夫人が、それに関係しているものと信じていた。なぜだれもかれもがこうまで執念ぶかくあんな風説、というよりむしろ空想に固執しているのか、またどういうわけで、ぜひともこの事件にユリヤ夫人を結びつけたがるのか、それはちょっと説明しにくいことである。夫人が入って来ると同時に、人々は期待にみちた奇妙な目つきで、彼女のほうを振り向いた。断わっておくが、出来事があまり新し過ぎるのと、それに付随したある事情のために、その晩、人々はいくぶん大事を取りながら、高声をはばかるように話し合った。それに、官憲の措置についても、まだ何ら知るところがなかった。しかし、世間に知れている限りでは、決闘の当事者は両方とも警察の手を煩わすようなことはなかった。たとえば、ガガーノフがいささかも妨害を受けないで、早朝ドゥホヴォの領地へ向けて立ったということは、みんなに知れ渡っていた。とはいえ、むろん一同の者は、だれかまっさきに公然と口を切って、社会一般の焦躁を満足させるものはないかと、それのみを待ち焦れていたが、あてにされていたのは前に述べた将軍だった。はたしてそれは謬りでなかった。
 この将軍は町のクラブでも元老株だった。地主としては金持ちのほうではなかったが、ちょっと類のないものの考え方をする人で、旧式な処女崇拝家だった。この人は皆がまだ大事を取って小さな声でひそひそ話しているようなことを、将軍らしい重味を持たせながら、人の大勢あつまった席で、公然といってのけるのがとりわけ好きだった。つまり、この点が、社交界におけるこの人の、いわば、特殊な役廻りのようになっていた。今度も彼はことさら言葉尻を引きながら、甘ったるい調子でいい出した。この習慣は、おそらく外国を旅行するロシヤ人か、さもなくば、農奴解放後一番ひどく零落した、以前の地主あたりから借用したものだろう。スチェパン氏などは、地主の零落の度がひどければひどいほど、舌っ足らずみたいな発音をしたり、甘ったるく言葉尻を引き伸ばしたりする、といったことさえある。もっとも、彼自身も甘ったるく言葉を引き伸ばしたり、舌っ足らずみたいな発音をしていたが、自分のあらには気がつかないのだった。
 将軍はいかにも一見識ありそうなものの言い方をした。そのうえ、彼がガガーノフとは、何か遠い親族関係になっているばかりか(もっとも仲たがいして、訴訟騒ぎまで起こしている)、かつて自分でも二度ばかり決闘して、一度なぞは奪官のうえ、コーカサスへ左遷されたことさえあった。だれかふと、ヴァルヴァーラ夫人が『病後』二度までも外出を始めた、といった。もっとも、直接夫人のことをいったのではなくて、スタヴローギン家の養馬場で仕立てられた灰色の四頭立についている、見事な馬具の噂をしたのである。そのとき将軍はとつぜん口を開いてぃ自分は今日、『若いスタヴローギン』が馬で行くのに出会ったといった。一同はぴったり口をつぐんだ。将軍は一つ舌を鳴らして、下賜になった黄金《きん》の煙草入を指の先でくるくる廻しながら、急にこういい出した。
「わしは二、三年ここにいなかったのが残念です!………いや、じつはその、カルルスバードに行っとりましたのでな、ふん……わしはこの青年に非常な興味を感じておるのですよ。あの当時いろんな噂がありましたからなあ。ふん……いったいあの男が気ちがいだというのは、事実ですかな? 当時、だれかそんなことをいっとりましたろう。ところが、出しぬけに、妙なことが耳に入るじゃありませんか。ある大学生がここであの男を、従妹たちの目の前で侮蔑した、すると、あの男はテーブルの下へ逃げ込んだ、とかいう噂でしたよ。ところが、また昨日ヴイソーツキイから聞けば、スタヴローギンはあの……ガガーノフと決闘した、しかも、ただ相手を振り放したいがために、気ちがい同然な男の筒先へ額をさしだしたという。ふん……それは二十年代の近衛|気質《かたぎ》にありそうなことですな。あの男はこの町のどこかへ出入りしておりますか?」
 将軍は答えを待ちかまえるように口をつぐんだ。社会の焦躁はついに捌《は》け口を与えられた。
「これより以上、簡単明瞭なことはありませんね」一同がまるで号令でもかけられたように、いっせいに自分のほうへ視線を向けたので、ユリヤ夫人はいらいらしながら、とつぜん声を励ました。「スタヴローギンがガガーノフと決闘して、大学生の侮辱にむくいなかったのが、そんなに不思議な話でしょうか? だって、自分の家の奴隷だった男に、決闘を申し込むわけにいかないじゃありませんか!」
 それは意味ぶかい言葉だった。実際、簡単明瞭な考えではあったけれども、それが今までだれの頭にも浮かばなかったのである。この言葉は、なみなみならぬ結果を呼び起こした。すべての醜い話、すべての陰口めいた噂、すべての瑣末な世間話めいた方面は、どこか隅のほうヘー気に押しやられてしまって、別様な意義が高く掲げられた。今まで一同から誤解されていた人物の、新しい一面が照し出されたのだ。それはほとんど理想的に厳正な理解を持った人物である。一人の大学生、もう今は奴隷でもなんでもない教育ある人間から、死にも価する侮辱を受けながら、彼はこの侮蔑を蔑視した。それは侮辱を与えた当人が、わが家のもとの奴隷だからである。世間では大騒ぎして、陰口を叩いている。軽率な世間は生面《いきづら》を打たれた男を侮辱の目をもって眺めている。けれど、彼は真正な理解をもちうるまでの発達を遂げずに、しかも、それを喋々する世間の輿論を蔑視しているのだ。
「それだのに、イヴァン・アレクサンドロヴィチ、わたしらはお互いに真正な理解を説いたり、論じたりしてるんですよ」と、一人の年とったクラブ員は、高潔な自己譴責の発作に駆られて、相手のものにこういった。
「そうですよ、ピョートル・ミハイロヴィチ」と相手のものは愉快そうに相槌を打った。「それで、若い連中のことを云云してるんですからなあ」
「この場合、若い連中が問題じゃないんですよ、イヴァン・アレクサンドロヴィチ」別な一人が横合から口を挟んだ。「この場合、若い連中が問題じゃない。一個の明星です。けっしてそんじょそこらの若い連中の仲間じゃありません。この事実はこういうふうに解釈すべきです」
「またああいう人が必要なんですよ。人材が乏しくなってしまいましたからねえ」
 しかし、何より肝腎なのは、この『新人』がなおそのほかに、『正真正銘の貴族』であって、おまけに県内一番の富裕な地主という事実だった。こういう人がどうして一世の支柱となり、国士としての活動をせずにいられよう、というのだ。もっとも、わたしは前にちょっとことのついでに、わが国の地主の心持ちを語っておいたはずである。
 一同は夢中になってしまった。
「あの男はその大学生に決闘を申し込まなかったばかりか、かえって手をうしろに引っ込めましたよ。これをとくにご注意ください、閣下」ともう一人が指摘した。
「また新法律で改正された裁判所へ、突き出そうともしなかった」と別な一人がつけ足した。
「改正裁判所が貴族たるあの人の個人的[#「個人的」に傍点]侮辱に対して、金十五ルーブリ也の科料を、相手に宣告してくれるにもかかわらずですかね、ヘヘヘ!」
「いや、それなら、わたしが改正裁判所の秘密を教えましょう」とある一人はのぼせあがって、「もしだれか泥棒なり詐欺なりをして、それを明白に突き留めて見あらわされたら、隙のあるうちに大急ぎで家へ駆け出して、母親を殺すに限りますよ。さっそくなにもかも弁明してくれて、傍聴席の貴婦人たちは絹麻《バチスト》のハンカチを振り立てますから、――いや、まったくの真理ですよ!」
「真理、真理!」
 同時にまたさまざまな噂の種も出ずにはすまなかった。ニコライとK伯爵との関係も、人々の記憶に蘇った。今度の改革に対する伯爵の非公式な、とはいえ峻厳な意見は、世間に知れていた。また最近にいたって、いくぶん弛緩したけれ

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP193-P240

リーザの世話を焼きながら、自分でもその傍へ並んで腰をかけた。ちょうどからだの明いたピョートルはすぐさまそのほうへ飛んで行って、早口に面白そうにしゃべり出した。この時ニコライは例のゆったりした足どりで、とうとうダーリヤの傍へ近寄った。ダーシャは彼が近づくのを見ると、急に坐ったままもじもじし始めたが、見るからばつの悪そうな様子で、顔を真っ赤にしながら、いきなり飛びあがった。
「あなたにはもうお祝いをいってもいいと思ったが……それともまだですかね?」と彼は一種特別な表情を浮かべながらいい出した。
 ダーシャは何かそれに答えたが、ほとんど聞き取ることができなかった。
「失礼をいったらゆるしてください」彼は声を高めた。「しかし、あなたもご承知でしょうが、ぼくは知らせをもらったもんだから……あなたそれをご承知なんでしょう?」
「ええ、あなたがわざわざ知らせをお受けになったのは、わたしもぞんじております」
「けれど、あんなお祝いをいって、かえって何かお邪魔をしやしなかったでしょうね?」と彼は笑った。「もしスチェパン・トロフィーモヴィチが……」
「なんの、なんのお祝いです?」出しぬけにピョートルがそばへ飛んで来た。
「なんのお祝いです、ダーリヤさん? あっ! 例の件じゃありませんか? お顔の紅葉《もみじ》が証拠ですよ、当たったでしょう。まったく美しい、淑徳の高い処女が祝いを受けるわけはなんでしょう? そして、その処女が一番よけい顔をあかくする原因はなんでしょう? いや、本当に当たったのなら、ぼくからもお祝いを受けてください。そして、賭けを払ってくださいな。覚えてらっしゃるでしょう、あなたが結婚なんかしないとおっしゃったので、スイスで賭けをしたじゃありませんか……ああ、そうだ、スイスといえば、――本当にぼくはどうしたんだろう? まあ、どうでしょう、半分はそのためにこちらへ上ったくせに、もうあやうく忘れかけるところでしたよ。ねえ、お父さん」と彼はくるりとスチェパン氏のほうへ振り返った。「お父さんはいつスイスへ行くの?」
「わたしが……スイスへ?」とスチェパン氏はびっくりして、まごまごした。
「え、じゃ、行かないの? だって、お父さんもやっぱり結婚する人じゃないの……自分で手紙にそう書いてたくせに?」
「ピエール!」とスチェパン氏は叫んだ。
「いったいピエールがどうしたの……もしこの縁談が、お父さんに会心なものだとすれば、ぼくはこれに少しも異存がないことを知らせるために、こうして取るものも取りあえず飛んで来たんだよ。だって、一刻も早くぼくの考えが聞きたいと書いてあったからね。ところで、もし(と彼は早口でしゃべった)同じ手紙の中で、お父さんが祈るように書いているとおり、本当に『救って』あげる必要があるとしても、やっぱりぼくはできるだけのことはしてあげるつもりだよ。ヴァルヴァーラ・ペトローヴナ、親父が結婚するというのは本当ですか?」彼はくるりと夫人のほうを振り向いた。「ぼくはけっして出しゃばってないつもりですがね。だって、お父さんはあの手紙の中で、自分からそういってるんですもの。もうこのことは町じゅうみんな知っていて、だれもかれもお祝いをいって仕方がないから、その不快を避けるために、夜でなければ外へ出ないようにしてるって。その手紙は現にぼくのかくしにありますよ。が、どうでしょう、奥さん、ぼくはその手紙がてんでわからないんです! ねえ、お父さん、たった一言だけいってくださいよ、いったいお父さんは祝ったらいいのか、それとも『救わ』なくちゃならないのか、――どっちなの? 奥さん、あなたとても本当にはなさらんでしょうが、親父の手紙には、まるで幸福の絶頂に立ったような文句の間に、絶望のどん底に落ちたような言葉がまじってるんです。第一、親父はぼくに詫びをいっています。まあ、これなぞはああいう人たちの性分としておきましょうが……しかし、どうしてもいわずにいられないことがあります。考えてみてください、一生の間にたった二度、それもほんの偶然の機会でぼくを見たばかりの人が、こんど三度目の結婚をしようという間際になって、急に『そんなことをしては、あの子に対する親の義務を犯すことになる』てなことを考え出して、千露里も離れたところから『怒らないでくれ、許してくれ』といって、哀願してるじゃありませんか? お父さん、怒っちゃいけないよ、これも時代の特徴だから、ぼくは広い見地から見て、けっして非難しようとは思わない。かえってそれをお父さんの美点と見なしてもいいくらいだ。それはさておいて、肝腎なところは、その肝腎なところがてんでぼくにわからない、という点なのだ。あの手紙には何かしら『スイスにおける罪業』とかなんとか書かれていた。罪業によってだったか、他人の罪業のためだったか、とにかく結婚するというようなことで、どう書いてあったか、はっきり覚えてないけれど、――手っとり早くいえば『罪業』だ。まあ、そんなふうなことが書いてあるんですよ。『少女《とめ》は真珠にも夜光の玉にも譬うべく』だから、もちろん親父は『そを受くべき価値なきもの』に決まってますよ。ああいう人たちの一流の言い廻しです。ところが、何かの罪業とか、事情とかのために『余儀なく結婚を迫られ、スイスへおもむくべき運命と相成』ったわけなんです。こういう次第だから、『万事をなげうち、急ぎ来りてわれを救え』……ねえ、こんなふうですもの、どうしたって、少しでも合点のゆくはずがないじゃありませんか?………しかし……しかし、皆さんのお顔つきで見ると(彼は罪のない微笑を浮かべて、一同の顔を見つめながら、手紙を持ったまま、あちこちと体を捩じ向けた)、どうやらぼくはいつもどおり、明けっ放しな性分のために……というより、ニコライ君のいわゆるせっかちな性分のために、何か失敗をやったようですね。ぼくはここにいらっしゃる皆さんを自分の友だち……ではない、お父さん、あなたの友だちだと思っていたが、実際のところ、ぼくはほんの飛び入り者だったんですね。見たところ……見たところ、皆さんは何やらご承知のようですが、ぼくはその『何やら』を知らないんですよ」
 彼は絶えずじろじろ見廻すのをやめなかった。
「じゃ、スチェパン・トロフィーモヴィチが、あなたにそういう手紙をおよこしになったんですね。『スイスで行なわれた他人の罪業』と結婚するって、そして一刻も早く『救い』に来てくれって、そのとおりの言い廻しなんですね?」と、ふいにヴァルヴァーラ夫人が近寄った。顔は黄いろく歪み、唇はぴりぴりと慄えていた。
「つまり、その、なんですよ、もしこの事件について、何かぼくに合点のゆかないことがあるとすれば」ピョートルはすっかり面くらった様子で、いっそうあわて始めた。「それはもちろん、親爺がこんな書き方をしたから悪いんですよ。これがその手紙です。ごぞんじでもありましょうが、奥さん、こんな手紙が際限なしに、後から後からやって来るんですからね。ことに最近二、三か月というものは、ほとんどのべつ幕なしなんですよ。で、実のところ、ぼくもどうかすると、しまいまで読み切れないことがあるくらいです。お父さん勘忍してください、つい馬鹿なことを白状してしまって、しかし、考えてみれば、ぼくの宛名にはなっているけれど、まあ、どちらかといえば、子々孫々へ伝えるために書いたんだろうから、ぼくが読んだって読まなくたって同じこってさあね……ま、ま、そう怒っちゃいけない、なんといっても、二人は内輪同士だからね? しかし、この手紙はね、奥さん、この手紙はしまいまで読みましたよ。この『罪業』ですな、――この『他人の罪業』というやつは、大方なにか詰まらない先生自身の罪業なんでしょうよ。ぼく、賭けでもしますが、ごく無邪気な罪業なんですよ。そいつを枷《かせ》に使って、高潔なるニュアンスを帯びた恐ろしい騒ぎを持ち上げる気に、ふいとなったに相違ありません、――しかも、ただその高潔なる陰影のためのみにおっ始めたのです。ご承知でもありましょうが、ぼくらはちょっと金銭問題でゆき悩んでることがあるのです、――これはどうしても白状しなけりゃなりません。先生はご承知のとおり、カルタにはごく慎みの悪いほうで……しかし、これは余計なことですね。ぜんぜん余計なことですね、悪いことをいいました。ぼくはどうもおしゃべり過ぎてね。けれど、実際のところ、奥さん、ぼくはすっかり親父に嚇しつけられましてね、ほんとうに親父を『救う』気になったんですが、これじゃぼく自身のほうできまりが悪くなりますよ。いったい、ぼくが親父の喉もとへ、短刀でも突きつけようとしてるんでしょうか? そんなにぼくが没義道《もぎどう》な債権者に見えるでしょうか? 親父は持参金がどうとか書いてるんですが……それはそうと、お父さん、いったい本当に結婚するの? どうなの? もういい加減にして聞かせたらどうだね。まったくそんなふうになるかもしれないんだもの。いったいぼくらはいつもしゃべって、しゃべって、しゃべりまくるけれど、まったくただ言葉のためにすぎないんだよ……ああ、奥さん、今こそぼくは覚悟しています。大方あなたはぼくを悪く思ってらっしゃるでしょう、つまり、その言葉のために……」
「それどころですか、あなたのほうで勘忍袋の緒をお切らしなすったのは、わたしにもちゃんとわかります。そして、それもまったくごもっともだと思いますよ」とヴァルヴァーラ夫人は毒々しく受けた。
 彼女はピョートルの『正直な』饒舌を、意地悪いよろこびをもって聞き終わった(ピョートルが何か芝居を打ってるのは明瞭であったが、どんな芝居であるかは当時のわたしにはわからなかった。しかし、そのやり方が思い切って無遠慮なのは、争う余地もないくらいである)。
「それどころか」と夫人は語を次いだ。「あなたがそうして切り出してくだすったのを、わたしはかえってありがたく思っていますの。あなたが聞かしてくださらなかったら、このまま知らずに過ごすところだったのです。わたしは二十年の間に、今はじめて目が開きました。ニコライ、あなたは今さきわざわざ知らせを受けたとおいいだったが、あなたのところへもスチェパン・トロフィーモヴィチが、何かそんなふうの手紙をよこしたのじゃありませんか」
「ぼくはあの人からきわめて無邪気な、そして……そして……非常に高潔な手紙をもらったのです……」
「あなたは困ってますね、言葉につかえてますね――たくさんです! スチェパン・トロフィーモヴィチ、わたしはあなたに改まったお願いがありますの」と夫人は目をぎらぎら輝かせながら、そのほうへ振り向いた。「後生ですから、さっそくここを出てください。そして、今後うちの敷居を跨いではいけません」
 読者諸君、今でもなおスチェパン氏の胸に名ごりの消えやらぬ、さきほどの『感激』を想起していただきたい。もちろん、スチェパン氏自身が悪かったには相違ない! しかし、その時すっかりわたしを驚かせてしまったことがある。ほかでもない、ペトルーシャの『すっぱ抜き』に対しても、ヴァルヴァーラ夫人の『呪い』に対しても、ひと言もそれをさえぎろうとせず、驚くばかりの威厳を保って、毅然と立っていた一事である。いったいどこからこれだけの気力が出て来たのだろう? とにかく、さきほどのペトルーシャとの邂逅(つまり、さきほどの抱擁をさすのだ)によって、ふかい侮辱を感じたのは疑いのないところだ。それだけはわたしにもわかった。これは少なくとも彼の目から見て、本当の[#「本当の」に傍点]深い心の痛手だった。しかし、彼はその瞬間、また別な悲しみをいだいていた。それは自分が卑劣な真似をしたという、刺すような自覚であった。このことは後で例の開けっ放しの気性から、彼がわたしに白状したところである。けれど、この本当の間違いなしという悲しみは、その独特の徴候として、どうかするとほんの僅かな間だけでも、ふらふらした人間にしっかりと手応えのある態度をとらせるものだ。のみならず、真の心からなる悲しみのためには、馬鹿も時に賢くなることがある。もちろん、ちょっとの間だけではあるが、これが真の悲しみの特徴である。もしそうだとすれば、スチェパン氏のような人の心中に生ずるものはなんだろう? もちろん偉大なる転換だ、――が、これもやっぱりちょっとの間にすぎない。
 彼は威を帯びた態度で、ヴァルヴァーラ夫人に会釈したが、ひと言も口をきかなかった(もっとも、それ以上なにもすることはなかったのだ)。彼はそのまま出て行こうとしたが、とうとうこらえきれなくなって、ダーリヤのほうへ近寄った。こちらは相手の心持ちを感づいたらしく、大急ぎで先手を打とうとするように、ぎょっとしたふうで、さっそく自分のほうからいい出した。
「どうか、スチェパンさま、後生ですから、なんにもおっしゃらないでくださいまし」彼女は顔に病的な表情を浮かべつつ、あわてて、手を差し伸べながら、熱した早口な調子でいい出した。「わたしは、今でもやっぱり同じようにあなたを尊敬して……そして、同じように、あなたの価値を理解しています、まったくでございますの。ですから……わたしのこともやっぱり善く思ってくださいましな、スチェパンさま。そうすると、わたしもそのことを、大変大変ありがたくぞんじますわ……」
 スチェパン氏はうやうやしく彼女に会釈した。
「お前さんの考え一つですよ、ダーリヤ、このことについては、もうすっかりお前さんの考えにまかせてあるのだから! もともとそうだったし、今もそうです、またさきになってもやっぱりそうです」とヴァルヴァーラ夫人は重々しくいい切った。
「へえ! なるほど、今はじめてすっかりわかった!」ピョートルはぽんと額を叩いた。「しかし……しかし、そうしてみると、ぼくはなんという立場におかれたのでしょう? ダーリヤさん、どうかゆるしてください!………いったいお父さんはぼくをなんという目にあわせたんだい、え?」と彼は父のほうへ振り向いた。
「ピエール、お前はわたしに対して、なんとか、ほかにもののいいようがありそうなもんじゃないか、え、おい?」とスチェパン氏は非常に小さな声でいった。
「後生だからどならないでください」とピエールは両手を振った。「なに、それは年寄りの弱った神経なんでさあ。どなったってなんにもなりゃしない。それよりぼくが聞きたいのは、お父さんだって、ぼくが来るといきなりしゃべり出すってことは、たいてい想像がつきそうなはずだったのに、どうして口止めしておかなかったの?」
 スチェパン氏は穴のあくほど、わが子を見つめた。
「ピエール、お前はここの様子をそんなによく知っていながら、このことについてはなんにも知らなかったのか、なんにも聞かなかったのか?」
「なあんだって! あきれた人たちだ! 年をとった子供というだけでまだ足りないで、おまけに意地悪な子供ときた。ヴァルヴァーラ・ペトローヴナ、親父のいうことをお聞きになりましたか?」
 一座がざわついてきた。と、ふいに、だれしも思いがけないような騒動がもちあがったのである。

[#6字下げ]8[#「8」は小見出し

 まず何よりさきにいっておかねばならぬのは、しまい頃になってリザヴェータが、何か新しい惑乱におそわれたことである。彼女は母夫人と何か早口にささやき合ったり、自分のほうへかがみ込んで来るマヴリーキイに耳打ちしたりした。その顔は不安そうであったけれど、同時に断固たる色を浮かべていた。やがて帰りを急ぐもののように席を立って、母夫人をもせき立て始めた。マヴリーキイはその手を取って肘掛けいすから助け起こそうとした。しかし、彼らはこの場の様子を最後まで見なければ、立ち去ることのできない廻り合わせになっていたらしい。
 リザヴェータからほど遠からぬ片隅に、ぽつねんと皆に取りのこされていたシャートフは、なぜここを去ろうともせず、いつまでも坐り込んでいるのか、自分ながらわからないふうだったが、とつぜん椅子から立ちあがって、あわてず騒がず、しっかりした足どりで部屋を横切り、ニコライのほうへ進んで行った、まともに相手の顔を見つめながら。こちらは、まだ遠いところからその動作に気づいて、心持ちにっと笑った。けれど、シャートフがぴったり傍まで寄った時には、もう笑うのをやめてしまった。
 シャートフがじっと目をはなさずに、無言のまま彼の前に立ちどまった時、みんなは突然これに気がついて、急に鳴りを静めた。しかし、だれよりもおくれて気がついたのは、ピョートルであった。リーザと母夫人とは部屋の真ん中に立ちすくんだ。こうして五秒ほど過ぎた。ニコライの顔に浮かんでいた不敵な侮蔑の表情は、やがて憤怒の色に変わっていった。彼は眉をひそめた、とふいに……
 ふいにシャートフは、長い重たそうな手を振り上げて、力まかせにその頬っぺたを撲りつけた。ニコライはその場ではげしくよろめいた。
 シャートフの撲り方は一種特別であった。普通、頬打ちをくらわすのには、平手を使うものだが(こんなことがいえるかどうか知らないけれど)、彼は拳固を使った。ところが、彼の拳固は大きくて、どっしりと骨張っているうえに赤毛がもじゃもじゃして、そばかすだらけだった。もし鼻にでも当たったら、鼻筋を打ち砕いてしまったかもしれぬ。けれど、拳固は唇と上歯の左端をかすめて、頬へ当たったので、みるみる口から血が流れ出した。
 その時ほんの一瞬間、あっという叫び声が起こったような気がする。おそらくヴァルヴァーラ夫人であろう。しかし、すぐにまた静まり返ったので、はっきり覚えていない。しかし、この出来事は、ものの十秒と続かなかったのである。
 とはいえ、この十秒ばかりの間に、非常に多くのことが持ちあがった。
 ここでもう一ど読者に断わっておく。ニコライは恐れを知らぬ人の範疇に属すべき素質を持っていた。決闘などでも敵の発射のもとに、泰然自若として立つこともできれば、また野獣のように残酷な落ちつきをもってみずから狙いを定め、相手を殺すこともできた。もしだれか彼の頬っぺたを撲りでもしようものなら、彼は決闘を申し込むなどということをせず、すぐにその場で無礼者を屠ってしまったに相違ない。実際、彼はそういう質《たち》の人間だから、殺すにも完全な意識を持ったままで、けっして前後を忘れるということはない。思慮をめぐらす余裕もない、目くるめくような憤怒の発作など、彼は一度も経験したことがなかろうと思われる。時として彼の全幅を領することのある底知れぬ憎悪を感じた場合にでも、同じく自分自身に対する支配力をつねに失わずにいることができる。したがって、決闘以外の場所で人を殺せば、徒刑に処せられるということは立派にわきまえうるのだが、それでもやはりなんら躊躇することなく、その無礼者を殺してしまったに相違ない。
 わたしは最近絶え間なくニコライの人物を研究していたから、今これを書くに当たっても、いろいろな特別な事情でずいぶんたくさんの事実を知ることができた。そこで、わたしはいま世間にさまざまな伝奇的な追憶を残している過去の人人のある者と、このニコライを比較してみたらどうかと思う。たとえば十二月党員のLについてもいろいろの話がある。ほかでもない、彼は生涯の間わざわざ危険を求めて、その感覚を貪り味わい、それをば自然の要求に化してしまったという。若い時には理由もないのに決闘を始め、シベリヤへ行ってからは、ナイフ一梃で熊狩に出かけたり、森の中で脱獄囚に出会ったりするのを好んだ。ついでにいっておくが、脱獄囚は熊よりもまだ恐ろしいのである。疑いもなく、こうした伝奇小説の主人公のような人々も、恐怖の感情をいだきえたに相違ない。或いは非常に強くそれを感じたかもしれぬ。そうでなかったら、彼らはもっと遙かに穏かな暮らしをして、危険の感覚を自己性来の要求にする、というようなこともなかったはずである。ただ自己心内の怯懦を征服するということ、これが、いうまでもなく、この人たちを魅惑し去ったものである。絶えず勝利の快感に酔い、もはや自己を征服しうる者はないと意識すること、これが彼らを誘惑したのである。このLは流刑前にもしばらく饑餓と戦って、苦しい労働でおのれのパンをえたことがある。それは、ただただ富める父親の要求が間違っているといって、どうしてもそれに従おうとしなかったからである。こういうわけだから、彼は闘争の意味をすこぶる多方面に理解していたので、けっして単に熊や決闘ばかりで、おのれの人格の力や抵抗力を誇っていたわけではない。
 しかし、その時代から見ると多くの年数がたった。そして、へとへとに疲れ果てて神経質になり、かつ二重にも三重にも分裂した現代人の性格にとって、のん気な昔の世に波乱多き生活を送った人たちが求めていたような、直接純一な感覚の要求はとうてい望まるべくもない。ニコライなぞはこのLに対して、高みから見おろすような態度を取り、ことによったら、牡鶏かなんぞのようにから威張りばかりする臆病者くらいにいいかねなかったかもしれない(もっとも、口に出してはいわなかったかもしれないが)。彼は決闘で相手を打ち殺しもしたろう、必要があれば熊退治にも出かけたろう、森の中で追剥ぎの成敗もしたろう、――しかも、Lに劣らないくらいの手並を現わしたに相違ない。しかし、その代わり少しも快感を覚えることなしに、ただただ不愉快な必要に迫られて、張り合いのない、面倒臭そうな態度でやるのだ。もしかしたら、なまあくびさえ噛み殺すかもしれない。しかし、憎悪の点においては、もちろんLにくらべても、またレールモントフにくらべても、進歩の跡が認められる。ニコライはこの二人をいっしょにしたよりも、もっと多くの憎悪を蓄えていたかもしれない。しかし、それは冷ややかに落ちつきはらった憎悪で、妙な言い方だが理知的な[#「理知的な」に傍点]ものである。したがって、この世で最もいまわしく最も恐ろしい憎悪だった。もう一どくり返していうが、わたしは当時こう信じていた(もはやいっさいが終わりを告げた今となっても、やっぱりそう信じている)。つまり、彼は人から生面《いきづら》を叩かれるとか、またはそれと同じくらいの烈しい侮辱を受けたら、決闘などを申し込まないで、即座に相手を殺してしまうような性質の人間なのである。
 とはいえ、いま起こったことはなんだか一種異様な、奇怪なものであった。
 彼が頬を撲りつけられて、見苦しくも横ざまによろめきながら、ほとんど上半身をすっかり傾けてしまった後で、やっと体を持ち直すか持ち直さないかという瞬間だった。たったいま顔の真ん中を撲りつけた、水気でも含んだような拳の音が、まだ室内に消えもやらず漂っているかと思われるその瞬間、彼はふいに両手でシャートフの肩をつかんだ。しかし、すぐほとんどそれと同じ瞬間に、また両手を、つと後へ引きのけて、背中にしっかり組み合わした。彼は無言のまま、シャートフを見つめたが、その顔はシャツのように真っ青だった。しかし、不思議にも彼の眸の輝きは、急速に消えていくようだった。十秒の後、彼の目つきは元の冷静に返って、そして(わたしは嘘をいっているのではないと確信する)まったく穏かであったが、ただ恐ろしいほどあおい顔をしていた。もちろんわたしは内心のいかんは知らない。ただ外から見たところを話すのである。もし人が自分の意力を試すために、真っ赤に灼けた鉄の棒を取って、それをば手の中に握り締め、十秒間たえ難い痛みと戦って、ついにそれに打ち勝ったとすれば、その男は今ニコライが十秒間に経験したものと、ほぼ同じような心持ちを味わうだろうと、こうわたしには感じられた。
 二人のうちまず目を伏せたのはシャートフである。どうもそうせずにいられなかったためらしい。それから、ゆっくりと向きを変えて、ぷいと部屋を出て行った。けれど、その足どりは、さっきニコライの傍へ寄った時とはまるで違っていた。彼はなんだかとくべつ不恰好に肩をうしろへ突き上げ、首を深く前へ垂れ、何やら自問自答するようなふうで、そっと静かに出て行った。何か小さな声で独り言をいったようにすら思われた。戸口のところまでは用心ぶかい足どりで、なんにも突っかからず、なんにもひっくり返さないで、無事に行き着いたが、戸はほんのぽっちり隙間ほどしか開けないで、ほとんど体を横にしながら、すり抜けた。戸をすり抜ける時に、いつもうしろ頭にぴんと突っ立っている一つかみの髪の毛が、とくべつ目立って見えた。
 続いて起こった一同の叫び声にさき立って、だれかの恐ろしい叫びが響き渡った。ほかでもない、リザヴェータは母夫人の肩を捕え、マヴリーキイの手を引っつかんで、二人を部屋の外へ連れ出そうと二、三度ぐんぐんしょびいたが、ふいに一声たかく叫んで、横倒しに床の上へ気を失って倒れたのである。彼女が後頭部を絨毯の上にこつりとぶっつけた音を、わたしは今でもまざまざと聞く思いがする。
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[#1字下げ]第二編[#「第二編」は大見出し]





[#3字下げ]第1章 夜[#「第1章 夜」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 それから八日たった。もういっさいが終わりをつげて、わたしがこうして記録を書いている今となっては、ことの真相もよくわかってしまったけれど、当時わたしたちはなんにも知らなかったので、自然の数として、いろんなことが不思議に思われた。少なくもわたしとスチェパン氏とは、はじめのうち、家にばかり閉じこもって、遠方からびくびくしながら観察していたものである。ただわたしだけは、ちょいちょい方々へ出かけて、前のとおりいろいろの報知をもたらしていた。実際、そうしなくては、一日もたちゆかなかったのである。
 町じゅうに区々まちまちな風説が広がったのは、もちろんいうまでもないことである。つまり、例の『平手打ち』だの、リザヴェータの卒倒だの、そのほか、かの日曜日の出来事に関する風説である。ただどういうわけであの出来事が、こうまで迅速正確に表沙汰になってしまったか、これだけはまったく驚くほかはなかった。当時あの場に居合わせた人の中で、事件の秘密を破る必要を感じそうな者もなければ、そんなことをしてとくのゆきそうな者もいない。召使は一人も居合わさなかった。ただ一人レビャードキンだけはなにかしゃべったかもしれない。しかし、腹立ち紛れではない。それはあの時すっかりおびえあがって、出て行ったのに徴しても明らかである(敵に対する恐怖は、憎悪の念を消すものである)。だから、ただ本当に我慢できなくてしゃべったかもしれない。レビャードキン兄妹はその翌日、行きがた知れずになってしまった。彼らはフィリッポフの持ち家に見えなくなって、まるで消えてしまったように、どことも知れず姿をくらましたのである。わたしはシャートフに会って、マリヤのことを聞いてみようと思ったが、彼は部屋の戸を閉め切ってしまい、この八日間、町のほうの仕事もほうり出して、うちにばかりこもっていたものらしい。彼はわたしに会ってくれなかった。わたしは火曜日に彼のところへ寄って、戸をノックしてみたが、返事をしてもらえなかった。けれど、ある正確な報知によって、その在宅を信じ切っていたわたしは、もう一ど戸を叩いてみた。そのとき彼は寝台から飛び下りたらしい様子で、大股に戸口のほうへ近寄ると、ありたけの声を張り上げてどなった。『シャートフは留守です』で、わたしはそのまま立ち去った。
 わたしとスチェパン氏とは、いくらか自分たちの想像の大胆さに恐れを感じながらも、互いに相手を励ますようにして、ある一つの考えを是認せざるをえなかった。つまり、この風説を触れ廻した責任者は、ピョートルをおいてほかにないと決めたのである。もっとも、彼はしばらくたって父と談話をまじえたとき、事件後はじめて会った人々は、だれもかれもみんなその噂をしていた、ことにクラブではそれがいっそうひどくって、知事夫人も知事公自身も、いろいろこまかな点までも、すっかり知り抜いていたのだ、などといって一生懸命に弁解はしていた。なおまだ驚くべきことには、その翌日、すなわち月曜日の晩方、わたしがリプーチンに会ったとき、彼はもう何もかも残るところなく知っていた。とにかくこの男なぞは、第一番に嗅ぎつけたほうといわなければならぬ。
 婦人連も(ごく上流の人まで)かの『謎のびっこ』、つまりマリヤの身の上に、好奇心をいだき始めるものが多かった。そして、ぜひ会って親しく識り合ってみたいなどといい出すものさえ出てきた。こういうわけだから、急いでレビャードキン兄妹《きょうだい》を隠してしまった人たちの行動は、すこぶる機敏といわなければならぬ。しかし、なんといっても、いちばん問題になったのは、リザヴェータの気絶だった。とにかくことが、親戚であり、かつ保護者である知事夫人ユリヤ・ミハイロヴナに関係している、という点から見ただけでも、『全社交界』の注意を惹くに十分であった。人々はありとあらゆる饒舌を逞しゅうした。この饒舌を助長したのは、いかにも秘密ありげな状態である。両家の戸はぴったりとざされてしまった。話によると、リザヴェータは熱病で倒れているとのことだし、ニコライについてもそれと同様な噂が伝わった。しかも、歯を一本たたき抜かれたとか、頬が腫れあがったとか、いやらしいほどこまごました話が付けたりになっていた。また隅のほうでこそこそと、こんな話もあった――ことによったら、この町で殺人があるかもしれぬ。スタヴローギンはけっして侮辱を忍んでいるような男でないから、きっとシャートフを殺してしまうに相違ない。しかし、公然にではなく、ちょうどコルシカ島の vendetta(仇討)のように、秘密のうちに行なわれるに違いない――この思いつきは町の人の気に入ったが、社交界若い人たちは大部分、われ関せず焉《えん》といったような無関心のていを装って(むろん付焼刃ではあるが)、さも軽蔑したような態度で聞いていた。
 ひっ括めていえば、この町の人のニコライに対する旧い敵意が、再び、明らかに現われてきたのである。身分のある立派な人たちでさえ、自分自身、ことのなんたるやを解しないくせに、無性に彼を攻撃し始めた。そして、陰のほうでこそこそと、リザヴェータの節操は彼のために穢されているだの、二人はスイスで怪しい関係があっただのと、そんなことをささやき合っていた。もちろん用心深い人たちは、慎んで控えていたけれど、しかし、みんなよろこんでそんな噂をむさぼり聞くのであった。そのほかまた別な噂もあった。それは一般にわたったものでなく、部分的な風説で、ごく時たま内証のように伝えられていたが、その内容は恐ろしく奇怪なものだった。わたしがこんな風説の存在をわざわざここへ持ち出すのは、ただ物語のさきのほうで起こる事件の予備知識として、読者の注意を促すにすぎない。それはこうである。何を根拠にいうのかしれないけれど、ニコライは何か特別な用向きがあって、この県へ来ているのだ、彼はK伯爵を通じて、ペテルブルグでもごく上流の社会へ入りこんでいるから、もしかしたら、政府に使われてるかもしれぬ、そして、だれかにある特別な任務を授けられてここへ来たのだ、とこんなことを、眉をひそめながら話し合う人もあった。ごく手堅い控え目な人たちが、この噂を聞いてにやりと笑いながら、しじゅういかがわしい騒ぎを身上《しんしょう》にして、この町へ来てからも、さっそく頬を腫らしたりなぞする男だ、あまりお役人らしくないじゃないかと、至極もっともな意見を吐いたとき、また一方は小さな声で、ニコライは表向きに勤めているのでなく、いわば内密な任務をしているのだから、したがって、なるべくお役人らしくないのが、都合がいいのではないかと答えた。この答えはかなり効果を奏した。なぜというに、この県の自治団が中央で一種特別の注意を受けているということは、土地の人に知れ渡っていたからである。しかし、くり返していうが、この噂はニコライのやって来た当時、ちょっと燃えあがったきりで、すぐに跡形もなく消えてしまった。ただ断わっておきたいのは、こういういろいろな風説のもととなったのは、先頃ペテルブルグから帰って来た近衛の予備大尉、アルチェーミイ・ガガーノフが、クラブで洩らした不明瞭で、簡単で、断片的な、しかし意地悪い二、三の言葉だった。この人は県内でも、郡内でも、うんと大きな地主で、しかも都育ちの世馴れた交際家だったが、これこそニコライが四年前、粗暴かつ奇矯な点において類のない衝突をした、町の長老ともいうべき故パーヴェル・ガガーノフの息子だった。この衝突のことは、物語の初めに述べておいた。
 また次の事実も、さっそく世間一般へ知れ渡った。ほかでもない、ユリヤ・レムブケー夫人が、ヴァルヴァーラ夫人のもとへ何か特別の用向きで馳せつけたところ、『気分が勝れぬからお会いするわけにいかぬ』といって、玄関払いを食ったのである。この訪問から二日たった後、ユリヤ夫人はわざわざ使いをやって、ヴァルヴァーラ夫人の容体をたずねさした。こうして、彼女は、しまいにはいたるところで、ヴァルヴァーラ夫人を弁護するようになった。もっとも、それは一ばん高尚な意味、すなわちきわめて漠然とした意味における弁護なのであった。つまり、あの日曜の出来事について、まず最初につたえられた気の早い当てこすりを、彼女はことごとくいかつい冷ややかな様子をして聞き流したので、二、三日たつうちには、もう彼女のいる前でそんな話をもち出すものもなくなってしまった。こういう具合なので、ユリヤ夫人はこの神秘的な事件をぜんぶ承知しているばかりでなく、その裏面の神秘的な意味すらも、微細な点まで了解している、――夫人はけっしてただの局外者ではなく、事件の直接関係者に相違ないという考えが、いたるところで確固不易なものとなってしまった。ついでにいっておくが、彼女は以前、一生懸命に追求、渇望していた上流社会における勢力を、しだいに獲得しはじめた。そして、だんだんと多くの人々に『取り巻かれた』自分を見いだすようになった。社会の一部は、彼女の実際的な才知と手腕を是認してきた……が、このことは後廻しにしよう。しかし、当時父スチェパン氏すら驚倒させたほどの、ピョートルのわが社交界における目ざましいもて方は、いくぶんレムブケー夫人の引き立てによったのである。
 或いはわたしもスチェパン氏も、大仰に考え過ぎたかもしれないが、それにしても、ピョートルは、第一に、来てから四日ばかりしかたたぬうちに、たちまちほとんど町中の者と知り合いになってしまった。彼が姿を現わしたのは日曜日であるが、火曜日にはもうアルチェーミイ・ガガーノフと、一つの馬車に乗っているところを見受けた。このガガーノフは世馴れた人物ではあるけれど、尊大で、癇癪もちで、しかも高慢なたちであるから、この人と親しく付き合うのは、いたって困難なことだった。ピョートルはまた県知事の家でもなかなかいい扱いを受けて、たちまちのうちに近しい知人、というよりは、お気に入りの青年ともいうべき位置を獲得してしまった。そして、毎日のようにユリヤ夫人のもとで食事をするのであった。彼はもとスイスで夫人と知り合いになったのだが、それにしても、閣下のもとにおける彼のこうした破天荒なもて方は、まったく何か謎のように思われるくらいだった。
 そのくせ、彼はまた、以前外国で活動していた革命家として、通り者になっていた。嘘か本当か知らないけれど、何か海外における秘密出版事業や、会議のようなものに携わっていたという噂もあった。『それは新聞を持ってきて証明することもできる』とアリョーシャ・チェリャートニコフが、かつてわたしに出会ったとき、さも憎らしそうにいったことがある。これはもと旧知事の家でお気に入りの青年だったが、無慚や今は一個の退職官吏にすぎない。しかし、ここに一つの事実が厳として控えている。ほかでもない、かつて革命運動にたずさわっていた男が、今この「もてなしのいい」祖国へ姿を現わしたのに、少しもうるさい目に会わないばかりか、むしろ歓迎されているほどであった。してみると、或いは何もなかったのかもしれない。ある時、リプーチンがわたしにこんなことを内証で聞かしてくれた、――噂によると、ピョートルはどこかで何もかもすっかり懺悔をした上に、二、三の仲間の名前をうち明けて、やっと放免されたとかいうことである。つまり、向後[#「向後」はママ]は国家有用の人物たるべきことを約して、罪亡し[#「罪亡し」はママ]をしてしまったらしい、というのだ。わたしはこの毒を含んだ言葉をスチェパン氏に伝えた。彼はとうてい考えごとなどできない状態だったけれど、これを聞くとひどく考えこんでしまった。
 これは後でわかったことだが、ピョートルは非常に立派な紹介状を幾通も持って、この町へやって来たとのことである。少なくとも、その中の一通は、なみなみならぬ勢力を持ったペテルブルグのさる老貴婦人から知事夫人へあてたものだった。ペテルブルグでも指折りの名士たる元老を夫にもったこの貴婦人は、ユリヤ・レムブケーの名づけ親になっていたが、その紹介状の中にこんなことが書いてあった。『T伯爵もニコライ殿の紹介にてピョートル殿に接し、一方ならず愛《め》でいつくしまれ、かつて邪路に迷い入りたることこそあれ、将来有望の青年と申しおられ候』ユリヤ夫人は、つねづね非常な苦心を払って繋ぎ止めている『雲上人の世界』との覚束ない関係を、一方ならず大事がっていたので、むろんこの勢力家の老婦人の手紙に有頂天になってしまったのだ。しかしそれでも、やはり何かちょっと妙なところがあった。彼女は自分の夫までも強いて、ピョートルとなれなれしい関係にしてしまったのである。フォン・レムブケー氏もだいぶこぼしていたが……しかし、これもやっぱり後廻しにしよう。
 もう一つ忘れないためにいっておくが、かの大文豪もきわめて好意ある態度でピョートルに接し、さっそく自分のところへ招待した。あの高慢ちきな男のこうしたさっそくなやり方は、何よりも一番スチェパン氏の胸にちくりとこたえた。しかし、わたしは心の中で別様に解釈した。つまり、カルマジーノフがこの虚無主義者をおびき寄せたのは、もちろん両首都における進歩党の青年たちとピョートルとの交渉を、ちゃんと頭においていたのである。彼は戦々兢々として最近の革命青年の鼻息をうかがっている。彼は愚かにも、ロシヤの未来の鍵は、彼らの手中に握られているものと考えて、卑屈な媚を呈しているのだ。しかし、おもな原因は、彼らが自分にいささかの注意も払ってくれないからである。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 ピョートルは二度ばかり、父親のところへちらと顔を出したが、不幸にも、二度ともわたしのいない時だった。はじめて彼が来訪したのは水曜日、すなわち最初の会見から四日めのことで、それもおまけに何か用事のためだった。ついでに断わっておくが、領地のほうの勘定は妙にこっそりと、目立たぬように片づいてしまった。ヴァルヴァーラ夫人がいっさい自分に引き受けて、そのささやかな領地を買い取った上、全部の支払いをすましてくれたのである。けれど、スチェパン氏にはただ、いっさいかたがついたと知らせたにすぎない。従僕アレクセイ・エゴールイチが夫人の代理として、何やら書類を持って来て署名してくれといったとき、彼は無言のままなみなみならぬ品位を見せて、いわれるままに署名した。品位といえば、彼はこの三、四日の間、これが以前のお爺さんだとは思えないくらいだった。態度が前とはがらりと変わって、びっくりするほど口数がすくなくなった。そして、あの日曜以来、ヴァルヴァーラ夫人にあてて、ふっつり手紙を書かなくなった(これなどは、奇蹟といってもいいくらいだ)。まあ、何より落ち着いてきた。彼が何か最後の異常な想念に固く根をおろして、そのために平静をえたのは、明瞭だった。彼はこの想念を探り当てると、じっと坐り込んだまま、何やら待ち受けていた。もっとも初めのうち、ことに月曜日は体が悪かった。例の疑似コレラである。それでも、外からの注進を聞かずにはいられなかったが、ちょっとわたしが事実の報告をやめて本体論に移り、何か自分の推察でも述べ始めると、すぐに手を振って、やめさせてしまうのであった。しかし、わが子との二度にわたる会見は、彼に病的な影響を与えた、もっとも、決心を動揺さすほどのことはなかった。その時は、二日とも、話がすんだ後で、酢を浸したハンカチを頭に巻き、長いすの上に臥せっていた。とはいえ、第一義的の意味では、依然として落ち着いていた。
 しかし、どうかすると、彼もわたしに手を振らないことがあった。どうかすると、胸の中へおさめた秘密の決心も、どうやら忘れたような具合になって、また何か新しい誘惑をおびた想念の奔流と戦いはじめたのではないか、と思われることがあった。それはほんの瞬間の現象だが、わたしはとくにここに記しておく。まったく、彼は再びこの隠棲の境を脱して、自己の存在を表明し、争闘を挑みたくなったのではないか、最後の決戦を試みたくなったのではないか、こうもわたしは疑ってみた。
「|きみ《シェル》、わたしはあの連中をこっぱ微塵にしてやりたい!」彼は覚えず口走った。それは金曜日、つまりピョートルとの二度目の会見後で、彼は頭を手拭で巻いて、長いすの上にねそべっていた。
 この瞬間まで、彼はいちんちひと言も、わたしに口をきかなかったのである。
「〔Fils, fils che'ri〕(わが子よ、いとしきわが子よ)とかなんとかいう表現は、そりゃまったく馬鹿げてる、飯炊婆さんの語彙《ヴォキャブラリイ》だ、そりゃわたしも同意する。だが、あんなやつら、なんとでも勝手にさしとくさ。わたしもいま自分で目が開いた。わたしはあれを養わなかった、ミルクも飲ませなかった。まだ乳呑児の時分にベルリンからN県へ『郵便』で送った。いや、何もかもそのとおり、わたしも同意だ。『お父さんはぼくにミルク一つ飲ませてくれないで、郵便でていよく送り出しておきながら、おまけにここでは僕《ひと》のものを、すっかり横領してしまったじゃないか』だとさ。そこで、わたしもどなってやった。お前は不仕合わせな子だ、しかし、わたしは一生お前のことで胸を痛めていたんだよ、やはりそれも郵便で送ったんだがね! ところが Il rit.(あいつは笑いやがるんだ)しかし、わたしも同意だ、そのとおり郵便……ということにしとくさ」彼はまるでうなされてでもいるような調子で言葉を結んだ。
「Passons.(それはまあいいとして)」五分ばかりたった後、彼はさらにこういい出した。「わたしはどうもツルゲーネフが腑に落ちない。彼の書いたバザーロフは、なんだかまるで実際にいない架空の人物みたいだ。今の若い連中も、当時自分たちの口から、ぜんぜん成ってないもののようにいって、その価値を否定してしまったくらいだ。あのバザーロフという人物は、なんだかノズドリョーフ([#割り注]ゴーゴリ『死せる魂』の中の一人物、えせ快男子の典型[#割り注終わり])とバイロンをいっしょにしたような、わけのわからないしろ物だという評判があったが、c'est le mot!(けだし名言だね)しかし、あの連中を注意して観察して見たまえ。あの連中は、まるで犬の子が日向ぼっこでもするように、嬉しそうに転げ廻って、きゃっきゃっといっている。実に幸福そうだ。まったく勝利者だ。ね、いったいどこがバイロンに似てるのだろう? おまけに、まあ、なんという月並みさ加減だろう? まるで下女かなんぞのように、みえ坊の怒りん坊で、そして fair du bruit autour de son nom(自分の名を担いで騒がれたいという)下劣な欲ばかり張ってるんだ。しかも|自分の名《ソンノム》が……その、なん[#「なん」に傍点]だということにはお気がつかないのだから、もう実にぽんち絵だよ! わたしはあいつにいって、どなってやった――おいおい冗談じゃないぜ、いったいお前は現在のままの自分を、キリストの代わりに人類へ薦《すす》めようと思ってるのか、ってね。Il rit. Il rit beaucoup, il rit trop.(あいつは笑う。あいつはやたらに笑う、笑いすぎるほど笑う)あいつは、なんだか奇妙な笑い方をする。あれの母親はあんな笑い方をしなかった。Il rit toujours.(あいつはいつでも笑っている)」
 また沈黙が続いた。
「あいつらはずるいよ、日曜日には二人で企んで、あんなことをしたんだよ……」と彼はとつぜん正面から切り出した。
「おお、そりゃそうですとも」とわたしは耳をそばだてながら叫んだ。「あれはみんな細工ですよ、しかし、その細工が白い糸で縫ってあるもんだから、実にやり方が拙かったですよ」
「わたしはそのことをいってるんじゃない。ねえ、きみ、あれはわざと見透かされるように、白い糸で縫ったんだよ……もっとも、必要のある人だけに見透かしてもらいたいんだがね。きみ、それがわかるかね?」
「いや、わかりませんよ」
「Trant mieux. Passons(その方がいいのだろう。まあこの話は止めにしよう)わたしは今日むやみに癇がたかぶってるんだよ」
「スチェパン・トロフィーモヴィチ。どうしてあなたはあの人と口論なんかしたのです?」とわたしは責めるようにいった。
「Je voulais convertir.(わたしはあいつを改心させようと思ったんだ)まあ、きみ、勝手に笑ってくれたまえ、|あの哀れな《セットポーブル》小母さんは elle entendra de belles choses!(もっといろいろ好い話を聞くだろうよ!)ねえ、きみ、まったくの話だがね、わたしはさっき、自分で自分が愛国者のような気がしたよ! もっとも、わたしはいつも、おれはロシヤ人だと自覚していたがね……いや、まったく正真のロシヤ人というものは、わたしやきみのような人間でなくちゃならないはずだ。〔Il y a la` dedans quelque choses d'aveugle et de louche.〕(実際、ロシヤ人の中にもめくらや藪睨みがずいぶんあるからね)」
「そりゃそれに違いありませんよ」とわたしは答えた。
「きみ、本当の真実はいつも本当らしくないもんだよ、きみそれがわかってるかね? 真実をより以上本当らしくするためには、どうしても嘘をまぜなけりゃならない。だから、人はいつでもそうしてきたものだ。大方そこには、われわれの理解できないような点があるのだろうよ。きみはいったいどう思うね、あの勝ち誇ったような絶叫の中に、われわれの理解できないようなものがあるだろうか? わたしはあってほしいと思うんだがね。あってくれるといいがなあ」
 わたしは押し黙っていた。彼もやはりだいぶ長いあいだ無言でいたが、
「よく人は、フランス式の知恵だと、一口にいってしまうが……」とふいに熱にでも浮かされたように、呂律の廻らぬ調子でいい出した。「それは嘘だ、それは今までもずうっと続けてそうだった。なんだってフランス式の知恵に言いがかりをするのだ? それはただロシヤ人のなまけ癖なのだ。理想の獲得に対する恥ずべき無力なのだ。各国民の間に介在している、ロシヤ人のいまわしい寄生虫的状態なのだ。Ils sont tout simplement des paresseux.(彼らはみんな、単なる怠け者なので)けっしてフランス式の知恵じゃない。そうだ、ロシヤ人は全人類の幸福のために、有害な寄生虫と同じく撲滅さるべきなのだ! われわれはけっして、けっしてそんな結果に向かって努力したのじゃない。わたしは何が何やらわからない。まるでわからなくなってしまった! わたしは息子《あいつ》にこうどなってやった――いいかい、こら、いいかい、もしお前たちが断頭台《ギロチン》を一番の眼目において、しかも夢中で得意になっているとすれば、それはけっしてほかに理由はない、ただただ首を切るのが一ばん容易で、理想をもつのがなによりむずかしいからにすぎないのだ! 〔Vous e^tes des paresseux! Votre drapeau est une guenille, une impuissance.〕(貴様たちは怠け者だ、貴様たちの旗印はぼろで役に立たないヤクザなものだ)例の荷車……ではない、なんとかいったっけ。『人類にパンを運ぶ荷車の響』とやらが、システィンのマドンナよりも有益だとか、まあ、なんだか、〔une be^tise dans ce genre.〕(そんなふうなばかげたことだったよ)しかし、とこうわたしはあいつにどなってやった――いったい貴様はわかってるかね、人間には幸福のほかに、全然それと同じくらいの程度に、不幸もまた必要欠くべからざるものだ! というと、Il rit.(あいつは笑ってるんだよ)そして、いうことがいいじゃないか、お父さんはここで、『ビロードの長いすに楽々と手足を伸ばしながら』警句《ボンモー》をはき散らしてるんだとさ(あれはもっと汚い言い方をしたんだよ)……ねえきみ、親子が敬語ぬきで話し合うロシヤの習慣は、二人が仲のいい時はけっこうだけれど、さあ、いったん喧嘩でもした時にはどんなもんだろう?」
 ちょっとの間、彼は言葉を休めた。
「|きみ《シェル》」とつぜん腰を浮かしながら、彼はこう結んだ。「ねえ、きみ、これはとどのつまり、必ず何か事件を惹き起こすね?」
「そりゃもちろんですよ」とわたしはいった。
「Vous ne comprenez pas. Passons.(きみにはわからないよ。まあこんな話はよしにしよう)しかし……普通なら、世間のことはどうということもなしに片がつくが、今度は何か結末があるよ、必ず、間違いなしに!」
 彼は立ちあがった。そして、恐ろしい興奮のていで部屋の中を一廻りしたが、また長いすの傍まで来ると、力抜けがしたようにその上へぐたりと倒れた。
 金曜日の朝、ピョートルはどこか郡部のほうへ出かけて、月曜日まで滞在した。その出立のことはリプーチンから聞いたのだが、その時、何かの話のついでに、レビャードキン兄妹《きょうだい》がどこか川向こうの、壺村《ゴルショーチナヤ》辺にいるということを知った。
「しかも、ぼくが引っ越しさせたんだよ」とリプーチンはつけ足したが、急にレビャードキンの話をぶつりと切ってしまって、今度は突然こんなことを知らせてくれた。リザヴェータはマヴリーキイと結婚することになった。まだ公けに披露こそしないけれど、婚約はもうちゃんと成立してしまったとのことである。翌日、わたしはリザヴェータがマヴリーキイと騎馬で通るのに行き会った。病後はじめての散歩である。彼女は遠くのほうから、目を光らせながらわたしを見たが、急にからからと笑いだして、非常になれなれしくうなずいて見せた。わたしはこれをすっかりスチェパン氏に伝えたが、彼はただレビャードキンに関する報告に、いくぶんの注意を払ったばかりである。
 今この八日間の謎のような状態を、まだ何も知れなかった時分の心持ちで説明したから、今度はそれに続いて起こったさまざまな出来事を、もう事情を知りつくしたものの心持ちで、――つまり、何もかも明らかに暴露されてしまった時の心持ちで、描きはじめることにしよう。まず例の日曜から数えて八日目、すなわち月曜日の晩からはじめようと思う。なぜといって、実際のところ、この晩が『新しい事件』の発端となったからである。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 晩の七時だった。ニコライはただひとり、前から気に入りの書斎に坐っていた、――それはさまざまの絨毯を敷きつめた、いくぶん重苦しい昔ふうの椅子テーブルを並べた、天井の高い部屋だった。外出でもするらしい服装《なり》をして、片隅の長いすに掛けていたが、どこへも出かけそうなふうは見えなかった。すぐ前のテーブルには笠をかぶったランプが置いてあったが、大きな部屋は両わきも四すみも闇の中に没していた。彼の眼ざしは一つところに集中されたように考え深そうだったが、なんとなく落ち着かぬ様子であった。その顔は倦怠の色を帯び、いくらか痩せて見えた。彼は、実際、頬腫れに悩んでいたけれど、歯を叩き折られたという噂には誇張があった。ただ、ちょいとぐらぐらしたのは事実であるが、今ではまた元のとおりにしっかりしてきた。上唇もやはり内側のほうが切れたけれど、これも癒ってしまった。頬腫れが一週間もひかなかったのは、病人がすぐに医者を招いて、腫れを切らすということをしないで、自然に口が開くのを待ったからにすぎない。
 彼は単に医者ばかりでなく、ほとんど母夫人さえ傍へ寄せつけなかった。まあ、一日に一度か二度、それも、もう大ぶん暗くなったけれど、まだ灯はついていないというたそがれどきに、ほんのちょっとのま入れるばかりだった。ピョートルもまだこの町にいる間、一日に二度も三度もヴァルヴァーラ夫人のところへ駆けつけたが、これにもやっぱり会おうとしなかった。ところが、この月曜日の朝、ピョートルは三日ばかりの旅行から帰って来ると、もうさっそく町を一まわり駆け廻って、知事夫人ユリヤ・ミハイロヴナのところでご馳走になった後、じりじりしながら待ちこがれているヴァルヴァーラ夫人のところへ、日暮れがたようよう姿を現わした。久し振りに禁止が解けて、ニコライが会うとのことだった。ヴァルヴァーラ夫人は、自分で客を書斎の戸口まで案内した。彼女は久しい以前から、二人の面談を待ちこがれていた。しかも、ピョートルは、ニコライのところからすぐ夫人のもとへ駆けつけて、様子を伝えると約束したのである。夫人はおずおずと戸を叩いてみたが、返事がないので、思い切って戸を二寸ばかり開けてみた。「ニコラス、ピョートル・スチェパーノヴィチをご案内していいかえ?」ランプの陰からニコライの顔を見透かそうと努めながら、夫人は小さな声で控え目にこうきいた。
「いいですとも、いいですとも、むろんいいですよ!」とピョートルはこちらから声高に愉快そうに叫びながら、自分の手で戸を開けて、中へ入ってしまった。
 ニコライはノックの音を聞かないで、母夫人のおずおずした問いを、初めて聞きつけたばかりであるが、それに対して返事をする暇がなかった。ちょうどこのとき彼の前には、たったいま読み終わったばかりの手紙が置いてあった。彼はこの手紙のことで、ひどく考え込んでいたのである。思いがけないピョートルの叫び声を聞きつけると、ぎっくりして、大急ぎで手紙を文鎮の下へ隠したが、うまくいかなかった。手紙の端と封筒のほとんど全部が、まざまざと顔をのぞけていたのである。
「ぼくはあなたに準備の余裕を与えようと思って、わざと一生懸命に大きな声をしたんですよ」ピョートルはテーブルの傍へ駆け寄りながら、驚くばかり罪のない調子で、早口にこうささやいた。彼はいきなり文鎮と手紙の端に目をつけた。
「そして、ぼくがたったいま受け取った手紙を、文鎮の下へ隠したのも、むろん見て取ったでしょうね」とニコライはその場を動こうともせずに、落ちつき払ってこういった。
「手紙? あなたが何をしようと、どんな手紙を受け取ろうと、ぼくの知ったことですか?」客は叫んだ。「しかし……肝要な点はですね……」と、今はもう閉まっている戸のほうへ体をねじ向け、そのほうを顎でしゃくりながらささやいた。
「母はけっして盗み聴きなどしないよ」とニコライは冷ややかに注意した。
「が、もし盗み聴きなすったら!」ピョートルは肘掛けいすに座を占めながら、愉快そうに声を高めて、さっそくこう抑えた。「が、ぼくはそんなこと別になんとも思いやしません。ぼくはただ二人きりで話がしたくてやって来たんですからね。いや、やっとのことであなたに会えましたよ! まず何よりもお体はいかがですか? お見受けしたところ、申し分ないようですね。もしそうだったら、明日はたいてい出席してくださるでしょう、え?」
「ことによったら」
「もういい加減にして、皆を安心さしてやってください、そしてぼくも安心さしてください!」と彼はおどけた気持ちのいい顔つきで、盛んに身振り手真似をしながら、「まあ、どんなことをあの連中にしゃべって聞かせなきゃならなかったか、少しでも察してくだすったらなあ。しかし、あなたはごぞんじでしょうね」
 彼は笑い出した。
「すっかりは知りませんよ。ただきみが大いに……活動したということだけは、母から聞いていましたがね」
「といっても、別にぼくが何かはっきりしたことを、しゃべったわけじゃないんですがね」まるで恐ろしい攻撃を防ぎ止めようとでもするように、ピョートルは急に躍りあがった。「実はね、ぼくはあのシャートフの細君を道具に使ったんですよ。つまり、あなたがパリであの女に関係したという風説を利用してね、それで、むろん、あの日曜日の出来事を説明したんですよ……あなた怒りゃしないでしょうね?」
「だいぶお骨折りだったとは察しています」
「いや、ぼくはただそればかり恐れていたんですよ。しかし、その『だいぶお骨折りだった』とは、いったいなんのこってしょう? それはつまり、非難の言葉になるじゃありませんか。しかし、あなたは真正面からぶっつかってくださる。ぼくはここへ来るみちすがら、あなたが真正面からぶっつかるのをいやがりはなさらんかと、それを一ばん心配してたんですよ」
「ぼくは何事も真正面からぶっつかるのはいやだね」ニコライはちょいといらだたしそうなふうでこういったが、すぐにたりと笑った。
「ぼくがいうのはそのことじゃありません、そのことじゃありません、誤解しないでください、そのことじゃありません!」さっそくあるじのいらだたしさを見て取って、悦に入りながら、まるで豆でもまき散らすように、ピョートルは両手を振って、浴びせかけるのだった。「ぼくは仲間[#「仲間」に傍点]の問題で、あなたに癇癪を起こさせなぞはしませんよ、ことに目下のような状態におられる場合ですからね。ぼくはただ日曜日の事件について、お話しようと思って飛んで来たのですが、それも、ほんの必要な程度だけにとどめておきます。だって、実際こまりますからね。ぼくは思い切ってうち明けた相談に来たんですが、それはあなたより、むしろぼくにとって必要な事件なんです、――あなたの自尊心を傷つけまいためにいうのですが、同時に事実でもあるんですよ。ぼくは今日から常に開放的にしたいと思って、わざわざやって来たのです」
「してみると、従来は非開放的だったんですね」
「それもあなた自身ご承知のはずですがね。ぼくは幾度か狡知を弄しましたよ……あなた笑いましたね。ぼくはあなたの微笑を事実闡明のいとぐちとして、非常に嬉しく思いますよ。ぼくはね、わざと『狡知を弄した』なぞという自慢そうな言葉を使って、その微笑を引き出したんです。ただし、あなたがすぐその後で、腹を立てるだろうと予想してね。『あんなやつが狡知を弄するなんて、よく生意気なことが考えられたもんだ』というわけでさあ。ところが、ぼくは今すぐ相談にかかりたいためにいったんですよ。ね、ね、ご覧なさい、今日はぼくずいぶん開放的になったでしょう。どうです、ぼくの話を聞いてくれますか?」
 いかにも前から準備して来たらしい、何かためにするところありげな、無礼なほど罪のない、しかも思い切ってずうずうしい言葉づかいで、相手の心をいらだたせようとする、客の見え透いた計略にもかかわらず、ニコライは依然として、馬鹿にしたような落ち着きと嘲りを見せていたが、ついにいくぶん好奇の色を浮かべてきた。
「まあ、聞いてください」とピョートルは前よりいっそう烈しく活動しながらいった。「ここへ来る途中、ここといっても、全体にこの町をさすんですよ、――十日前にここへ来る途中、ぼくはもちろん、一役演じる決心でした。しかし、何よりいいのはいっさい役なしに、素のままの自分でいくに限ります。そうじゃありませんか。素のままの自分より以上、ずるいものはありませんよ。だれも本当にするものがないですからね。ぼくは実際のところ、のろまの役廻りが引き受けてみたかったんですよ。なぜって、のろまのほうが、素の自分より楽ですからね。しかし、なんといっても、のろまは少し極端でしょう。ところが、極端という奴は、とかく好奇心をひきやすいものだから、とうとうぼくは素のままの自分に決めちゃったんです。さあ、ところが、ぼくの『素の自分』はなんでしょう? いわゆる黄金のごとき中庸です。馬鹿でもなければ利口でもなく、かなり凡くらでもあるし、おまけにここの賢い人たちのいうところによると、まるで天から降ったような人間だそうですからね、じゃありませんか?」
「そうさねえ、或いはそうかもしれない」とニコライは心もち微笑した。
「あっ、あなたもご同意なんですね――大いに愉快です。ぼくもこれはあなた自身の考えだと、初めから承知してたんですよ……ああ、ご心配はいりません、ご心配は。ぼく、怒ってやしませんよ。それに、ぼくが自分自身にあんな定義を下したのは、けっしてあなたから、『いや、きみは凡くらじゃない、それどころか大いに賢いよ』といったふうな、お返しを頂戴したいからじゃありません……おや、あなたはまたにたっと笑いましたね!………またしくじったぞ。いや、あなたは『きみは利口だ』なんかいわないでしょう、まあ、そうしておきましょう、ぼくは何にでも同意しますよ。親爺の言葉じゃないが、passons(やめにしよう)です。しかし、ちょいとお断わりしておきますが、ぼくの口数の多いのに腹を立てないでください。ところで、これがまたちょうど都合のいい例になるんですよ。ぼくはいつも余分なことをいうでしょう。つまり言葉数が多いでしょう。ぼくはあまりせき込むもんだから、いつもまとまったことがいえないんです。いったいどうしてぼくは言葉数が多くて、そのくせまとまったことがいえないんでしょう? ほかではない、話が下手だからです。話上手な人は、なんでも簡単にいってのける。してみると、実際、ぼくは凡くらに相違ない、――そうじゃありませんか? しかし、この凡くらが、ぼくにとっては自然の賜物なんですから、それを人工的に利用してならないって法はないじゃありませんか。だから、ぼくもそいつを利用するんでさあ。実のところ、ここへ来る前に、ぼくはいっそ沈黙を守ろうかと思ったのですが、沈黙というやつは非常な才能だから、ぼくとしては僭越でしょう。それに、第二として、黙ってばかりいるのは、なんといっても危険ですからなあ。で、とうとうぼくはしゃべるのが一番いいときめました。ただ、凡くら式にやるのです。つまり、しゃべってしゃべってしゃべり抜くのです。やたらにせき込んで論証しようとするのです。そうして、しまいには自分でも自分の論証にまごついちまえば、聴き手のほうでも不得要領で、ただあきれて両手を広げながら(もしぺっと唾でも吐いてくれれば何よりですがね)、ぼくの傍を離れて行ってしまいますよ。こうすれば、第一、自分の人の好さ加減を吹聴し、相手をすっかりいやがらせ、しかも自分の真相を晦ませるんだから、――一挙三得ってわけじゃありませんか! どうです、これでも秘密の企みを持ってるなどと、疑う人があるでしょうか? もしぼくが秘密の企みをいだいてる、などというものがあれば、世間の人はだれでもそのものに腹を立てまさあ。おまけに、ぼくはときどき滑稽なことをいって人を笑わすでしょう、――これなぞは実にまたと得がたい武器なんですよ。だから、今じゃ世間の人も、『以前外国で宣伝《アジ》ビラなんぞ出版した賢人は、自分たちよりも馬鹿だったのか』と思って、この理由一つだけでも、すっかりぼくをゆるすに決まってますよ。そうじゃありませんか? あなたの笑顔でもって、ご同意だってことがわかりますよ」
 けれど、ニコライはまるで笑顔など見せなかった。それどころか、顔をしかめながら、幾分じれったそうに聞いていた。
「え? なんですって? あなたは今『どうでもいい』とおっしゃったようですね?」とピョートルは炒り豆のはぜるような調子でしゃべり出した(ニコライはけっして何もいいはしなかったので)。「むろんですとも、むろんですとも、ぼくは何もあなたを自分の仲間扱いにして、迷惑をかけるためにいったんじゃありません。しかしねえ、今日あなたは恐ろしく癇が立っていますよ。ぼくはうち開いた、快活な心をいだいて駆けつけたのに、あなたは一々ぼくの言葉尻をつかまえるんですもの。誓っておきますが、今日は断じて尻擽ったいようなことはいいません。あらかじめ断わっておきますよ。そして、あなたの提出なさるいっさいの条件に、前もって同意を表明しておきます!」
 ニコライはしゅうねく押し黙っていた。
「え? なんですって? あなた何かいいましたか? ああ、わかった、わかった、ぼくは一人合点をしていたようですね。あなたは何も条件など提出されはしなかったんです、そして、また提出される気色もない、そうですとも、そうですとも。いや、まあ、安心してください。ぼくだって自分でわかっていますよ。つまり、ぼくなぞを相手に、そんなものを提出する価値がない、そうでしょう? ぼくはあなたの代わりに、さき廻りして答えておきます。それは、――もちろん、例の凡くらのせいです。凡くらです、凡くらです……あなた笑ってますね? え? どうしたのです!」
「なんでもありません」ニコライはとうとうにやりと笑った。「ぼくは今はじめて思い出したが、実際、ぼくはいつだったかきみのことを凡くらだといったことがある。しかし、そのとききみはいなかったはずだから、きっとだれかきみの耳へ入れた者があるんだろう……とにかく、手っ取り早く用件にとりかかってもらいたいね」
「いや、もう用件にとりかかろうとしてるんですよ。ぼくは、つまり、日曜日のことでやって来たんです!」とピョートルはさえずり出した。「いったいあの日曜日のぼくは何者だったのでしょう、どういう役どころだったのでしょう、あなたなんとお考えです? ほかじゃありません、例のせっかちな凡くらだったのです。ぼくはきわめて凡くらなやり方で、無理に一座の会話をあやつったのです。けれど、人はぼくに何もかもゆるしてくれました。なぜって、第一に、ぼくは天から降った人間でしょう。これは今この町でみんなが勝手に決めてしまったようです。第二には、あの可憐な話をして、あなたがた一同を救い出してあげたからです、違いますか、違いますか?」
「ところが、きみの話し方は、みんなの心に疑いを残して、ぼくらの狂言や細工をぶちまけてしまうような話し方でしたよ。しかも、ぼくらの間には狂言も何もなかったし、またぼくのほうから何一つ、きみにお願いしたこともなかったんですがね」
「そうです、そうです!」まるでよろこばしさに有頂天になったような調子で、ピョートルは引き取った。「ぼくはつまり、あなたにそういう細工を、すっかり気取《けど》ってもらおうと思ってしたんですよ。ぼくは何よりもまず第一に、あなたを目やすにして、ああして一生懸命に狂言を書いたんですよ。なぜって、ぼくはあなたを釣って、あなたと妥協したかったからなんです。まず何よりもね、あなたがどのくらいまで恐れているか、それをぼくは知りたかったんですよ」
「不思議ですね、どうしてきょうきみはそんなに露骨になったんだろう?」
「怒っちゃいけません、怒っちゃ、そんなに目を光らせないでください……もっとも、あなたは別に目を光らせてるわけじゃない。ところで、どうしてぼくがこんなに露骨なのか、それが不思議だというんですね? ほかじゃありません、今ではすべてが一変したからです、終わりを告げたからです。もうすべてが過ぎ去って、砂をかぶってしまったからです。ぼくは一挙にあなたに対する考えを変えましたよ。旧い手はもうすっかりおしまいです。ぼくはもう今さら旧い手であなたを煩わしなどけっしてしません、今度は新しい手です」
「戦法を変えたんですか?」
「戦法などありゃしません。今は万事あなたの自由意志があるのみです。つまり『諾《イエス》』といいたければ『諾《イエス》』、『否《ノー》』といいたければ『否《ノー》』といってください。それがぼくの新しい戦法です。われわれ仲間[#「われわれ仲間」に傍点]の事件なぞは、あなた自身の命令があるまで、おくびにも出しゃしません。あなた笑ってるんですか? どうかご随意に、ぼくも笑いますよ。しかし、ぼくは今まじめです。まじめもまじめ大まじめです。もっとも、こんなせっかちは凡くらにきまってますがね、そうでしょう? なあに、凡くらだってなんだっていいです、ぼくはまじめ、本当にまじめですからね」
 彼は実際まじめくさった、以前とはまるで別人のような調子になって、一種特別な興奮を示しながら、こういったので、ニコライは好奇の色を浮かべて、相手を見つめた。
「きみはぼくに対する考えを変えたといいましたね?」と彼はたずねた。
「あなたがシャートフに打たれた後で、手をうしろへ引っ込めたあの瞬間から、すっかり考えを変えてしまったのです。いや、それでたくさんです、たくさんです、どうかなんにもきかないでください。これより以上、今は何もいいませんから」
 彼はまるで質問をふるい落とそうとでもするように、両手を振り廻しながら跳びあがったが、べつだん質問も受けなかったし、それかといって、自分のほうから出て行く理由もなかったので、いくぶん落ち着きながら、また肘掛けいすに腰を下ろした。
「ついでにちょっといっておきますが」と彼はすぐしゃべり出した。「この町ではね、あなたがあの男を殺すだろうなぞといって、賭けまでしている連中があるんですよ。だもんだから、レムブケーなぞは、よっぽど警察に注意しようとかかったんですが、ユリヤ夫人がとめたのです……いや、たくさん、こんなことはたくさんです、ぼくはただちょっとお知らせしようと思って。もう一つついでにいっときますが、ぼくはあの日すぐレビャードキン兄妹を、河向こうへ越させておきましたよ。ご承知でしょう。所書のついたぼくの手紙は受け取りましたが?」
「あの時すぐ受け取りましたよ」
「あれなどはもう『凡くら』のせいじゃありません、あれはぼくしんからあなたのためにしたことなんですよ。よし手際は凡くらであろうとも、その代わり誠意がこもっています」
「いや、けっこう、或いはああする必要があったかもしれない……」と、ニコライはうち案じ顔にいった。「ただね、お願いだから、もうこれからぼくに手紙をよこさないでください」
「仕方なかったのです、もうあれ一度きりです」
「じゃ、リプーチンは知ってるんですね?」
「仕方なかったのです。しかし、リプーチンはご承知のとおり、そんな大胆なことのできる男じゃありません……ちょっと断わっておきますが、ひとつ仲間のところへ出かけなきゃなりませんよ。いや、仲間[#「仲間」に傍点]じゃありません、あの連中のところです。こういっておかないと、またあなたに尻尾をつかまえられますからね。しかし、心配しないでください、今じゃありません、いつかのことです。今は雨が降ってますからね。ぼくがみんなに知らせておくと、連中あつまって来ますよ。そのとき二人で晩がた出かけましょう。ある連中は、まるで巣の中の鴉の子みたいに、大きな口を開けて待ってまさあ、いったいどんなお土産を持って来てくれたかと思ってね。どうして、熱心なもんですよ。めいめい何か本を持ち出して、一争論しようとかまえています。ヴィルギンスキイは四海同胞論者で、リプーチンフーリエ派なんです。ただし、恐ろしく刑事探偵的傾向に富んだ男ですがね。ぼくにいわせれば、あの男はある一つの点においては非常に貴重な人間ですが、その他の点においては厳重な監視を要しますよ。それから、最後にひかえているのは、あの耳の長い先生で、あれが自家独得の主義系統をのべるはずです。ところが、どうでしょう、あの連中はぼくがみんなに冷淡で、かえって水をさすようなことをするといって、憤慨しているんですよ、へへ! しかし、ぜひ出かけなきゃなりません」
「きみはあの連中に、ぼくを首領かなんぞのように吹聴したんでしょう?」できるだけ無造作な調子で、ニコライはこうぶっつけた。
 ピョートルは素早く相手を見やった。
「ときに」まるで聞こえないふうをして、急いでもみ消そうとするように、彼はこう引き取った。「ぼくはヴァルヴァーラ夫人のところへも二、三度顔を出したが、やはりいろんなことをいわなくちゃならない始末になりましてね」
「察しています」
「いや、あまり察しないでください。ぼくはただあなたがあの男を殺す気づかいはない、といったような甘いことを、少しばかりいったきりでさあ。ところが、どうでしょう、お母さんはぼくがマリヤ嬢を河向こうへ越さしたことを、翌日さっそく知ってしまわれましたよ。いったいあなたが話したのですか?」
「思いも寄らないね」
「そうでしょう、あなたじゃないと思ってました。あなたでなけりゃ、いったいだれでしょう? おかしいなあ」
「むろん、リプーチンですよ」
「ど、どうして、リプーチンじゃありません」とピョートルは顔をしかめながら口ごもった。「それは今にぼくが洗い上げますよ。なんだかシャートフらしいとこもあるな……が、馬鹿馬鹿しい、もうこんなことはよそう! しかし、これでなかなか大切なこったからなあ……ときに、ぼくはいつも待ちかまえてたんですよ、――ほかじゃありませんが、いきなりお母さんがぼくに面と向かって、一ばん肝腎な質問を切り出されはしないかと思いましてね……ああ、そうそう、お母さんは初めのうち毎日毎日、恐ろしく気むずかしそうな様子をしておられましたが、きょう来てみると、まるでにこにこものでいらっしゃる。これはいったいどうしたわけなんでしょう?」
「それはね、もう四、五日たったらリザヴェータ・ニコラエヴナに結婚の申し込みをすると、きょうぼくが母に約束したからです」突然おもいがけない剥き出しな調子で、ニコライはこういい切った。
「ああ、なるほど……そりゃもちろん……」とピョートルはへどもどした様子で口ごもった。「いま町でマヴリーキイ氏とあのひとと婚約の噂があるのを、あなた知っていますか? まったく確かな話なんです。いや、しかし、あなたのいうとおりです。あのひとは式の間際にでも、あなたが一口声をかけさえすれば、さっそく逃げ出して来ますからね。ときに、あなたはぼくに腹を立てちゃいませんね、ぼくがこんな口のきき方をするので?」
「いや、腹なんか立てちゃいません」
「ぼくもさっきから気がついているんですが、今日はあなたを怒らすのが、恐ろしくむずかしいようですね。ぼくはなんだか気味が悪くなってきましたよ。しかし、明日あなたがどんなふうにして、顔出しをされるだろうかと、それを楽しんでるんですよ。きっと、いろんなことを準備してらっしゃるでしょう。ときに、あなたはぼくに腹を立てちゃいませんね、ぼくがこんな口のきき方をするので?」
 ニコライはまるで返事をしなかった。で、ピョートルはすっかりいらいらしてしまった。
「ときに、あなたはリザヴェータさんのことを、真面目でお母さんにそういったのですか?」
 ニコライはじっと冷ややかに相手を見据えた。
「ははあ、なるほど、ただちょっと気休めにね、そうでしょう?」
「もし真面目だったら?」とニコライはしっかりした調子できき返した。
「どうもしませんさ。こういう場合よくいうことですが、どうなとご随意に。仕事の邪魔にはなりませんさ。(いいですか、ぼくは今われわれの仕事といわなかったんですよ、あなたはわれわれという言葉がお嫌いですからね)ところで、ぼくは……ぼくはどうだっていいです。ぼくはあなたのためには犬馬の労をいといません、それは自分でもご承知のはずです」
「そう考えますか?」
「ぼくは何も、けっして何も考えてやしません」とピョートルは笑いながら大急ぎでいった。「だって、ぼくはちゃんと承知していますもの――あなたは自分のことはすべて前もって熟考を重ねたうえ、はっきりした思案がつけてあるに相違ないんですからね。ただぼくがいいたかったのは、いついかなる場所においても、またいかなる場合に当たっても、ぼくは真面目にあなたのために、犬馬の労をつくそうと覚悟してるってことなんです。いいですか、いかなる場合に当たってもですよ、わかりますか?」
 ニコライはあくびをした。
「だいぶ倦きられましたな」ふいにピョートルはまだ真新しいソフトを取って、さも出て行きそうな恰好をしながら立ちあがったが、それでもやはりじっと踏みとどまって、立ち身のままひっきりなしにしゃべりつづけた。そして、時々部屋の中を歩き廻りながら、興に乗じると、帽子で膝を叩くのだった。
「ぼくはまたあのレムブケー夫婦のことで、ちとあなたを笑わしてあげようと思ったんですよ!」と彼は愉快げに叫んだ。
「いやもう、たくさん、後でまた。しかし、ユリヤ夫人のご機嫌はどうです?」
「あなた方はだれでも実に如才ないですねえ。あのひとのご機嫌なんぞは、あなたにとって、灰色の猫の子のご機嫌くらいにしか思われないはずなんだけれど、それでもちゃんとおききになるところが感心ですね。達者ですよ、そして、まるで迷信じみるほどあなたを崇めています。迷信じみるほど多くのものをあなたから期待しています。例の日曜日の一件については口をとざしていますが、あなたがちょっと姿を現わしただけで、すべてがあなたの足下に慴伏するものと、固く信じています。まったくのところ、あのひとは、あなたのことをどんなことでもできる人のように想像していますよ。けれど、今あなたはこれまでにも増して、謎めいた小説的な人物になっているのです。――実にきわめて有利な立場といわなきゃなりませんよ。だれも本当になりかねるほど、あなたの出現を翹望しています。ぼくはこんど旅行したでしょう、――その前もやはり熱心なことは熱心なものでしたが、今はまだまだ盛んです。ときに、もう一ど手紙のお礼をいっときます。あの連中はみんなK伯爵を怖がってるのです。どうでしょう、あの連中はどうもあなたを間諜扱いにしてるらしいですよ! ぼくはそれに相槌を打つようにしてるんですが、あなた怒りませんか?」
「かまいません」
「かまわないんですよ。これがさきで非常に役に立つんですからね。ここの連中には一種特別な方式があるんですよ。ぼくはもちろんそれに賛成でさあ。ユリヤ夫人を初めとして、ガガーノフもやっぱりそれです……あなた笑っていますね? 実際、ぼくには術《て》があるんですよ。さんざ法螺を吹き散らしておいて、ちょうどみんなが求めている頃を見計らって、出しぬけに一つ気の利いたことをいってやる。と、奴さんたち、四方からぼくを取り巻くんです。そこで、ぼくはまた法螺を吹き始める。で、とうとうみんながぼくに愛想をつかして、『才能はあるんだが、どうも天から降ったような男でね』てなことをいう。レムブケーはぼくを匡正しようと思って、勤めにつくようにすすめていますよ。ところがね、ぼくあの男をひどい目に遭《あ》わすもんだから、つまり、うんと恥を掻かせてやるもんだから、奴さん目ばかりぱちくりさせてますよ。ユリヤ夫人はかえってそれを奨励してるんです。ああ、ついでにいっときますが、ガガーノフは恐ろしくあなたに腹を立てていますよ。昨日、ドゥホヴォ村でぼくに向かって、あなたのことを思いきり悪くいってましたっけ。ぼくはすぐに事実ありのままをいってやりました。といっても、むろん、本当の事実ありのままじゃないんですよ。ぼくは一日ドゥホヴォ村のあの男のまで暮らしましたが、なかなか立派な領地ですね、いい家ですよ」
「じゃ、あの男は今でもドゥホヴォ村にいるんですね?」突然ニコライは躍りあがって、烈しく前のほうへ乗り出すようにした。
「いや、今朝ほどぼくをこちらへ送って来てくれました。ぼくらはいっしょに帰ったのです」ニコライの刹那の惑乱にはいっこう気もつかぬ様子で、ピョートルはこういった。「おや、ぼくは本を落っことした」彼は自分がさわって落とした本を、かがみ込んで拾い上げた。「バルザックの女たち、挿絵入りだな」とふいに彼はページを繰って見た。「読んだことがない。レムブケーもやっぱり小説を書いてますよ」
「へえ?」とニコライは興味を感じたもののようにきき返した。
「ロシヤ語でね、もちろん内証です。ユリヤ夫人は知っていながら、大目に見てるのです。先生のろまではあるが、態度だけはなかなか立派ですよ。なかなかよく練りあげたもんでさあ。あのいかめしい形式、あのどっしりと控え目なこと! われわれにも何かああいうふうなものが必要じゃないかしら」
「きみは行政官を讃美しますか?」
「どうして讃美せずにいられます? ロシヤにおいて唯一の自然なもの、完成されたものじゃありませんか……もうやめます、やめます」と彼は急に泡を食った「ぼくは[#「食った「ぼくは」はママ]あのことをいってるんじゃありません。もうこんなデリケートな問題は、ひと言も口にしないことにしますよ。じゃ、失敬します。しかし、あなたはなんて顔色が悪いんでしょう」
「ぼくは熱があるんです」
「そりゃそうでしょう。お休みなさいよ。ときに、この県には去勢宗派がいるそうですね、面白い連中ですよ……が、まあ、後にしましょう。しかし、もう一つ奇談があるんです。やはりこの郡内に歩兵連隊がありましてね、金曜日の晩、ぼくはBで将校連といっしょに一杯やったのです。そこにはわれわれの友だち、――|わかるでしょう《コムプルネー》?――が三人いるんですよ。やがて無神論の話になりましてね、だんだんに神様をこき下ろしてしまったもんでさあ。みんなよろこんで、きゃっきゃっという騒ぎなんです。話のついでで思い出したが、シャートフの説くところによると、ロシヤで叛乱を起こそうと思ったら、ぜひとも無神論から切り出さなきゃならないそうです。或いは真を穿ってるかもしれませんよ。ところが、一人ごましおの特進大尉が、いつまでもいつまでもじっと坐ったまま、しじゅうだんまりで一口もものをいわないでいたが、出しぬけに部屋の真ん中へ突っ立って、まあ、どうでしょう、恐ろしい大きな声をしてさ、しかも、まるで独り言のような調子で『もし神様がないとすれば、ぼくだってもう大尉でもなんでもありゃせん』といったかと思うと、いきなり帽子をとって両手を広げると、そのままぷいと部屋を出てしまったじゃありませんか」
「かなりまとまった思想を表白しているね」ニコライはまた三度目のあくびをした。
「そうかしら? ぼくは合点がゆかなかったから、あなたにきこうと思ってたんですよ。ところで、まだ何か話すことはなかったかしらん。あのシュピグーリンの工場は面白いところですね。あすこにはご承知のとおり、五百人の職工がいますが、まるでコレラ菌の繁殖場でさあ。なにしろ十五年間、まるで掃除ということをしないんですからなあ。あすこじゃ職工の工賃をかするんですよ。工場主の商人連はみんな揃って百万長者でさあ。ところで、ぼくまじめでいいますが、職工の中にはインターナショナルの何たるやを解したものもいるんですよ。おや、にたっと笑いましたね? いや、今にわかりますよ、まあ、もう少し、ほんのもう少し待ってください! ぼくは前にも一とき待ってくださいといいましたが、今また改めて頼みますよ。その時になったら……いや、失礼、もういいません、ぼくは何もあのことをいったわけじゃありませんよ。そう顔をしかめないでください。じゃ、失礼します。おや、ぼくはどうしたんだろう?」とふいに彼は途中から引っ返した。
「まるっきり忘れていた、しかも、一ばん大切なことだ。ぼくたったいま聞いたんですが、ぼくらのトランクがペテルブルグから着いたそうですね」
「というと?」ニコライは合点がゆかないで、じっと相手を見つめた。
「つまり、あなたのトランクです。あなたの荷物です。燕尾服や、ズボンや、肌衣が、着いたそうじゃありませんか? 本当ですか?」
「そう、なんだかそんなことをいってたっけ」
「では、今すぐ、いけないですか」
「アレクセイに聞いてみたまえ」
「いや、明日にしましょうね、明日に? あの中にはあなたの物といっしょに、ぼくの背広と、燕尾服と、それからズボンが三着はいってるはずです。ほら、あなたの紹介で、シャルメルで作った分ですよ、おぼえていますか?」
「噂によると、きみはここでだいぶん紳士ぶってるってね?」ニコライはにやりと笑った「調馬師[#「笑った「調馬師」はママ]について馬の稽古をするというのは本当のことですかね?」
 ピョートルはひん曲ったような薄笑いを浮かべた。
「ねえ」と彼は妙に慄えを帯びた、とぎれとぎれな声で、突然せき込みながら、こういった。「え、ニコライ・フセーヴォロドヴィチ、お互いに個人的にわたる話はやめようじゃありませんか、え、今後永久にね? もちろん、あなたがおかしいと思ったら、いくらぼくを軽蔑なすってもかまわんですが、しかし、しばらくの間は個人的にわたる話をしないようにしたほうがよかありませんか、え?」
「よろしい、じゃぼくはもういいますまい」とニコライは答えた。
 ピョートルはにこりと笑って、帽子でぽんと膝をたたき、足をちょっと踏み変えて、以前と同じ姿勢をとった。
「だって、今ここの人はぼくのことを、リザヴェータ・ニコラエヴナに対するあなたの競争者のようにいってるんですからね、ぼくだってちっとは様子をかまわんわけにゆかないじゃありませんか」と彼は声を立てて笑った。「しかし、だれがそんなことをあなたに密告するんだろう。ふむ! ちょうど八時だ。さあ、そろそろ出かけましょう。ぼくはヴァルヴァーラ夫人のところへ寄る約束をしたけれど、すっぽかすことにしましょう。あなたもお休みなさい。そうすれば、明日はもっと元気が出ますよ。そとは雨が降って真っ暗だけれど、なに大丈夫、ぼくには馬車があります。だって、ここは夜になると往来が物騒ですからね……ああ、それはそうと、ちか頃この町の近辺を、囚人のフェージカというのがうろうろしてるんですよ。シベリヤから逃げ出したんですがね。十五年まえ、うちの親父が兵隊にたたき売って金にした下男なんですよ。なかなか面白いしろ物でしてね」
「きみは……その男と話してみましたか?」ニコライは急に視線を上げた。
「話しましたよ。ぼくが目をつけたら、隠れっこはありませんよ。なんでも平気といったしろ物です、まったくなんでもね。もちろん、ぜに金ずくですが、それも一種の信念を持ってるんですよ、むろん、人物相当のものですがね。ああ、そうそう、もう一つついでにいっときますが、もしあなたがさっきおっしゃった計画、あのリザヴェータさんに関する計画が真面目な話でしたら、ぼくもやはり何事をも辞せずというところです。もう一ど念のためにいっときます。どんな性質の仕事だろうと、あなたのためにはよろこんで引き受けますよ……え、どうしたのです? あなたステッキでも引っつかもうとなさるんですか、ああ違った、ステッキじゃなかった……まあ、どうでしょう、ぼくはあなたがステッキをさがしていられるのかと思いましたよ」
 ニコライはべつに何もさがしもせず、何一ついいもしなかったが、実際、一種奇怪な痙攣を顔に浮かべながら、突然ひょいと腰をあげたのである。
「それから、もしガガーノフについても、何かあなたに必要なことがあったら」今度はもう露骨に文鎮を顎でしゃくりながら、ピョートルはたたきつけるようにいった。「その時はぼくがいっさいひき受けていいです。大丈夫、ぼくを出し抜くようなことはなさらんでしょうね」
 彼は返事を待たないで、出しぬけにぷいと出て行った。が、またもう一ど隙間から頭を突き出した。
「ぼくがこんなことをいうのは」と彼は早口にいった。「たとえば、例のシャートフですね、あの男だってこの間の日曜のように、あなたの傍へのこのこやって来て、命賭けの危い仕事をする権利なんか、けっして持っていないと思うからです、そうじゃありませんか? ぼくはこれをあなたに承認してもらいたいんですよ」
 彼はふたたび答えを待たないで、消えてしまった。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 ことによったら、彼は自分の姿を消す時に、『きっとニコライは一人きりになったとき、両の拳を固めて、壁をどんどん撲り始めるに相違ない』とこんなことを考えて、できることなら、ちょいとその様子をのぞいて見たい、くらいに思ったかもしれない。もしそう思ったとしたら、彼は非常な失望を感じたに違いない、ニコライは依然として落ち着き払っていた。二分間ばかり、彼は元のままの姿勢で、テーブルの傍に立っていた。見たところ、非常に考え込んでいるらしい。が、間もなく弛緩した冷たい微笑が、その口辺におし出された。彼は元の席、――片隅の長いすへ腰を下ろすと、疲れ切ったように目を閉じた。手紙の端は相変わらず文鎮の下からのぞいていたが、彼はそれを直すために、身じろぎさえしなかった。
 間もなく、まったく彼は忘我の境へ落ちてしまった。
 ヴァルヴァーラ夫人は、この数日来心配のあまり、身も細るような思いをしていたが、もうとうとう我慢がしきれなくなった。ピョートルが寄って行くと約束しながら、その約束を守らないで去ってしまった後、指定されている時間とは違うけれど、勇を鼓して、自分からニコラスの様子を見に行こうと決心した。もういい加減にして、何かきっぱりしたことをいってくれそうなものだ、こういう心持ちが絶えず夫人の頭に浮かぶのであった。彼女はさきほどと同じように、ほとほと静かに戸をたたいたが、今度もやはり返事がなかったので、自分で戸を開けた。ニコラスがなんだかあまり静かに坐っているので、夫人は胸を轟かしながら、そうっと長いすへ近づいて見た。ニコラスがこんなに早く寝入ったうえ、こうして身動きもせずにきちんと坐ったまま寝ていられるのが、なんだか妙に感じられた。そればかりか、寝息さえほとんどわからないくらいだった。彼の顔はあおざめて険しい表情を帯び、凍りついたようにぴくりともしなかった。少し眉根を寄せて、八の字にひそめているところなど、まるで息のかよってない蝋細工にそっくりだった。夫人は呼吸さえもはばかりながら、三分ばかりわが子の傍に立ちつくしていたが、とつぜん恐怖の情が彼女の全身をおそうた。彼女は爪立ちで部屋を出ながら、戸口のところで立ちどまって、手早くわが子に十字を切ると、だれの目にも触れずにその場を去ってしまった、また新たな重苦しい感触と、異なった憂愁をいだきながら。
 彼は長いこと、一時間以上も眠りとおした。しかも、初めから、しまいまで、この麻痺したような状態がつづいた。顔面筋肉一本うごくでもなければ、体じゅうどこ一つぴくりとする様子もなかった。眉は依然として気むずかしげに、八の字に寄せられたままだった。もしかりにヴァルヴァーラ夫人が、もう三分間ここに残っていたら、必ずやこの昏睡病的《レタルジック》な不動のもたらす、おしつけられるような印象に堪え切れないで、わが子を呼びさましたに相違ない。けれども、彼はふいに自分でぱっと目を開けた。そして、やはり身じろぎもしないで、さももの珍しげにまじまじと部屋の一隅を見つめながら、十分間ばかりじっと坐っていた。その様子は、何か非常に変わったものが目にとまったかなんぞのようだったが、そこには格別これという珍しいものも、変わったものもなかったのである。
 とうとう大きな掛時計が静かな、厚みのある音を立てて一つ鳴った。彼はいくぶん不安げなおももちで、首をねじ向けて文字盤を見ようとしたが、ちょうどそのとき廊下へ通ずるうしろ側の戸が開いて、侍僕のアレクセイが姿を現わした。彼は片手に冬の外套と、襟巻と、帽子を持ち、いま一方の手に手紙をのせた銀盆を捧げていた。
「九時半でございます」と彼は静かな声でいって、持って来た衣類を片隅の椅子の上にのせ、手紙ののった盆を差し出した。それは、鉛筆で二行ばかり走り書きしたまま、封もしてない小さな紙きれだった。
 この手紙にざっと目をとおすと、ニコライもやはりテーブルから鉛筆を取り、手紙の端にふた言ばかり書き添えて、また元の盆へ戻した。
「ぼくが出たらすぐ渡すんだよ。さあ、着せてくれ」長いすを離れながら、彼はこういった。
 ふと軽いビロードの背広を着ているのに気がつくと、彼はちょっと考えた後、別なラシャのフロックを出すようにいいつけた。それは、少し改まった夜分の訪問に用いるものだった。ようやくすっかり着替えを終わって帽子をかぶると、彼は母夫人の入って来た戸口を閉ざして、文鎮の下に隠してあった手紙を引き出し、アレクセイを従えて、無言のまま廊下へ出た。そうして、そこの狭い石の裏梯子から真っすぐに庭に面している出入口へ下りた。その隅には、角燈と大きな蝙蝠《こうもり》傘が用意してあった。
「どうも恐ろしい大雨で、どの町もどの町も、大変なぬかるみでございますが」主人の夜歩きを、遠廻しに思いとまらせようとする、最後の試みといった体裁で、アレクセイはこう注意した。
 けれど、主人は傘を拡げて、穴蔵のように暗い、底まで湿りけの浸み込んだ、ぐしょぐしょの古い庭へ、言葉もなく出て行った。風はごうごうと鳴って、半分裸にされた立木の梢を揺すぶっていた。細い砂利路はふわふわして、すべりそうだった。アレクセイは今まで着ていた燕尾服のままで、帽子もかぶらず、角燈をかざして三歩ばかり前を照らしながらついて行った。
「見つかりゃしないかね?」突然ニコライは問いかけた。
「窓からは見えはいたしません、それに、もう前からよっく見ておきましたで」と下僕《しもべ》は小さな声で、正確に間をおきながら答えた。
「お母さんはお休みかね?」
「二、三日この方のしきたりで、正九時に部屋の戸をかけておしまいになりました。でございますから、奥様に知れる気づかいはけっしてございません。いく時ころにお待ち申したらよろしゅうございましょう?」彼は思い切って、つけたりにこうきいた。
「一時か一時半だ、二時より遅くはならない」
「承知いたしました」
 二人ともそらで覚えている庭を、うねりくねった細径づたいにぐるりと廻って、石塀の傍まで辿り着いた。そして、塀の一番はじのところに、小さなくぐりをさがし出した。これは狭い淋しい横町へ通じる出口で、ほとんどいつも閉めきりになっていたが、その鍵は今アレクセイの手にあった。
「戸が軋みはしないだろうね?」と再びニコライがきいた。
 けれど、アレクセイの報告するところによると、戸にはきのう油をさしたばかりだし、『今日もやっぱりさしておいた』とのことだった。彼はもう今の間にぐっしょり濡れていた。戸を開き終わると、アレクセイは鍵をニコライに渡した。
「もしあまり遠方へお越しになるのでございましたら、ちょっとご注意申し上げておきますが、ここの人間どもはなかなか油断がなりませんでな、ことに淋しい横町をお通りになる時は、一段とご用心が肝要でございます。それに河向こうときたら、なおさらでございますよ」彼は我慢し切れなくなって、も一度こういった。彼は昔、ニコライのおもり役として、だき歩きしたことのある老僕だった、人間が真面目で厳格なたちなので、好んで聖書の類を人に読んで聞かせてもらったり、自分でも読んだりしていた。
「大丈夫だよ、アレクセイ」
「どうか神様が、あなたにお恵みを垂れてくださいますように……と申しても、ただあなたが善いことをなさる時だけの話でございますよ」
「なんだって?」もう横町ヘ一歩ふみ出しながら、ニコライはこういって、足を止めた。
 アレクセイはきっぱりと今の言葉をくり返した。彼は今までけっして自分の主人に向かって、こんな言葉づかいをする男ではなかったのである。
 ニコライは戸を閉めて、鍵をポケットへ入れ、一歩ごとに三、四寸ずつもぬかるみへ踏み込みながら、横町を向こうのほうへ歩き出した。やがて石をたたんだ、長いがらんとした通りへ出た。町の案内はたなごころをさすように明らかだった。けれども、ボゴヤーヴレンスカヤ街はまだまだ遠かった。やっとのことで、彼が黒く古びたフィリッポフの持ち家の、閉め切った門の外へ立ち止った時は、すでに十時を過ぎていた。階下《した》の部屋は、レビャードキン兄妹の引っ越しとともに空家になって、窓はすっかり釘づけになっていたが、シャートフの住んでいる中二階には、灯影がさしていた。門にベルがなかったので、彼は手で門の戸をたたき始めた。と、窓が開いて、シャートフが往来へ首を出した。しかし、恐ろしい闇なので、あやめもわかぬほどだった。シャートフは長いあいだ、一分間ぐらいじっと見透かしていた。
「ああ、あなたですか?」とふいに彼はたずねた。
「ぼくです」と待ち設けぬ客が答えた。
 シャートフはぱたりと窓を閉じて、下へおり、門の鍵をはずした。ニコライは高い閾を跨ぐと、ひと言もものをいわないで、その傍を通り抜け、真っすぐにキリーロフの住まっている離れのほうへ通って行った。

[#6字下げ]5[#「5」は小見出し

 離れのほうは、どこもかしこも鍵がかかっていないばかりか、ろくろく閉めてもなかった。玄関もその次のふた間も真っ暗だったが、キリーロフの借りている一ばん奥の部屋には(そこで彼はいつも茶を飲んでいた)、あかりがさしていた。そして、なんだか奇妙な叫びや笑い声が洩れて来る。
 ニコライはあかりのするほうへ歩いて行ったが、中へ入らないで、閾の上に立ちどまった。茶の道具がテーブルの上に置いてあった。部屋の真ん中には家主の親類にあたる老婆が立っていた。頭には帽子も頭巾もかぶらないで、着物もただちょっとしたスカートの上に、兎のジャケツを着込んでいるばかり、靴も素足にひっかけていた。老婆の手には、シャツ一枚きりで、小さな足を剥き出しにした生後一年半ばかりの赤ん坊がだかれていた。たったいま揺り籠から下ろしたばかりらしく、頬がかっかと赤く火照って、白っぽい髪がくしゃくしゃに乱れている。つい今しがた大泣きに泣いたと見えて、まだ涙が目の下に溜まっていたが、ちょうどこの瞬間、小さな両手を伸ばして、ぱちりと鳴らしながら、幼い子供がだれでもするように、しゃくり上げて笑っていた。その前でキリーロフが大きな赤いゴム毬を、床へほうりなげているのだった。毬が天井まで跳ねあがって、また下へ落ちて来ると、子供は『まい、まい』と叫んだ。キリーロフは『まい』をつかまえて、子供へ渡した。すると、こちらは覚束ない小さな手で、今度は自分で投げるのであった。キリーロフはまた駆け出して、それを拾ってやった。そのうちにとうとう、『まい』は戸棚の下へ転がり込んだ。
「まい、まい!」と子供は叫んだ。
 キリーロフは床へ坐って、腹這いになりながら、戸棚の下から手で毬を取り出そうと努めた。ニコライは部屋の中へ入った。子供は彼の姿を見ると、老婆にひしとしがみつきながら、いきなり子供らしい長い泣き声を立て始めた。老婆はさっそく部屋の外へ連れ出してしまった。
「スタヴローギン君?」手に毬を持って、床から起きあがりながら、ふいの来訪にいささかも驚く色なくキリーロフはこういった。「お茶を飲みますか?」
 彼はすっかり体を起こした。
「けっこうですね、もし冷たくなかったら」とニコライはいった。「ぼくすっかりびしょ濡れだ」
「温いです、いや、熱いくらいです」とキリーロフは得意そうに引き取った。「まあ、おかけなさい。きみ、泥だらけですね。いや、かまわない。ぼくあとで床を濡れ雑巾で」
 ニコライは席に着いた。なみなみと注いだ茶碗を、ほとんど一息に飲み干した。
「まだ?」とキリーロフがきいた。
「ありがとう」
 今まで坐っていなかったキリーロフは、さっそくむかい合わせに座を占めると、問いを発した。
「きみは何用で来たのです?」
「ちょっと用事があって。きみこの手紙を読んでみてくれたまえ、ガガーノフから来たんです。覚えていますか。いつかペテルブルグできみに話したことがあったでしょう」
 キリーロフは手紙を取って読み終わると、また元のテーブルヘのせて、待ち設けるように相手を見つめた。
「このガガーノフという男には」とニコライは説明にかかった。「きみもご承知のとおり、一月ばかり前に、生まれて初めてペテルブルグで会ったんです。ぼくらは二、三ど集まりの席で、顔を合わしたばかりなんですがね、紹介もされなければ、言葉を交わしたこともないくせに、なんと思ったか、ぼくに思いきり失敬な真似をするんです。このことは当時きみに話したけれども、ただ一つきみの知らないことがある。あの男はぼくよりさきにペテルブルグを立ったが、その時だしぬけに一通の手紙をよこした。もっとも、この手紙のようなことはないけれど、やはり思いきって無作法きわまるものなんです。第一、そんな手紙を書く気になった動機がまるで説明してない。それが何より奇妙なんですよ。ぼくはその時、さっそく返事をやった。やっぱり手紙でね。そして、きわめて腹蔵のない調子で、こういってやった、――あなたはおそらく四年前、ここのクラブで起こったご尊父に関する出来事を根にもって、わたしに腹を立ててるんでしょう。そのことならば、できるかぎり謝罪の方法を講ずる覚悟です。もっとも、ぼくの行為がべつに悪意あってのことではなく、単に病気のさせた業にすぎない、ということを前提にしたのです。どうか自分の謝罪を聞いたうえで、思案をしてくれと頼んでやりました。けれど、あの男は返事もよこさないで立ってしまったのです。ところが、今ここであの男の噂を聞いてみると、まるで気ちがいのようになってるそうです。あの男が衆人|稠座《ちゅうざ》の前で発したぼくに対する評言を三つ四つ耳にしたが、もう純然たる悪罵で、おまけにびっくりするような言いがかりなんですからね。ところが、とうとう今日の手紙が来ました。こんな手紙をもらった者は、今までかつて一人もないだろう、罵詈雑言をつくしたうえに、『貴様の撲られたしゃっ[#「しゃっ」に傍点]面』といったような文句まで使ってあるんだからね。ぼくは、きみが介添人たるの労をいとわれないだろうと思って、やって来たんですよ」
「きみは、こんな手紙をもらったものは一人もないといいましたが」とキリーロフがいった。「だれでも夢中になったらやりかねませんよ。こんなことを書いたのは、二人や三人じゃない。プーシキンもへッケルン([#割り注]プーシキンを決闘で倒したフランス生まれの将校[#割り注終わり])にあてて書きました。よろしい、行きましょう。で、どうするんです?」
 ニコライの説明によると、彼は明日にもさっそく決行したいと望んでいるが、その前にぜひもう一どあらためて謝罪を申し込もうと思う。いや、もう一ど謝罪の手紙を約束してもかまわない。ただし、ガガーノフのほうからも、今後二度と手紙をよこさない、という約束をしなければならぬ。今まで受け取った手紙は全然なかったものと見なしておこう、とこういうのであった。
「それじゃ、譲歩し過ぎる。あの男が承知しないでしょう」とキリーロフがいった。
「ぼくがここへ来たのは、何よりも第一に、きみがこういう条件を先方へ伝えてくれるかどうか、それを聞きたいがためなんですよ」
「ぼくは伝えます、人のことですもの。しかし、あの男が承知しません」
「承知しない、それはぼくも知っています」
「あの男は決闘したいのです。で、どうして闘うんです?」
「つまり、そこなんですよ。ぼくはぜひあすじゅうに、すっかり片をつけてしまいたい。朝の九時ごろ、きみあすこへ行ってくれたまえ。あの男はきみのいうことを聞いて、不同意を唱える。そして、自分のほうの介添人にきみを引き合わせる、――それがまあ、十一時になるでしょう。きみはその男と万端の手筈を決めてください。それから、一時か二時には、双方指定の場所へ出合わなくちゃならない。きみお願いだから、そういうふうにしてくれたまえ。武器はむろんピストル。そして、とくにお願いがあるんです。二つの発射線の間は十歩として、われわれ二人をその線からおのおの十歩の距離に立たしてください。われわれは一定の合図で近づくことにしましょう。もちろん、どちらも発射線に行き着かなくちゃならないけれど、発射はその前に、歩きながらやってもかまわない。まあ、これくらいなもんですね、ぼくの考えてるのは」
「発射線間十歩の距離は近すぎます」とキリーロフがいった。
「じゃ、十二歩、それ以上だめです。きみにもわかるでしょうが。あの男は真面目に決闘を望んでるんですよ。きみ、装填ができますか?」
「できます。ぼくピストルを持っています。ぼくは、きみが一度もぼくのピストルを使ったことがないということを、先方へ誓っておきます。先方の介添人にも、やはり自分のピストルのことをね、――そう誓わせます。そこで、この二組のピストルの中から、丁半《ちょうはん》をやってみて、先方のかこっちのか決める」
「けっこう」
「ピストルを見ますか?」
「そうですね」
 キリーロフはまだ片づけないで、片隅に置いてあるカバンの前へしゃがんで(彼は必要にしたがってこの中から、いろんな物を引っ張り出すのだった)、内側に紅いビロードを張った棕櫚の箱を、底のほうから引き出した。中からは洒落た、恐ろしく上等のピストルが一対でてきた。
「すっかり揃ってる。火薬も、弾丸《たま》も、弾薬筒もね。ぼくはまだ連発拳銃《レヴォルヴァ》を持ってますよ。ちょっと待ってください」
 彼はまたもやカバンの中へ手を突っ込んで、アメリカ製の六連発拳銃の入った箱を引き出した。
「きみはずいぶんピストルを持ってますね、しかも、立派なのばかり」
「まったく。非常に」
 ほとんど乞食のような貧しい境涯にいるキリーロフが(もっとも、自分の貧しさに一度も気がつかないでいたけれど)、今夜はさも自慢そうに、高価な武器を持ち出して見せるのだった。それはいうまでもなく、非常な犠牲を払って手に入れたものに相違ない。
「きみは今でもやはり、あのとおりな考えでいるんですね?」つかの間の沈黙の後、スタヴローギンはいくぶん大事を取るような調子で、こうきいた。
「あのとおりです」とキリーロフはすぐに声の調子で、問いの意味を察してしまったので、言葉みじかに答えながら、テーブルから、拳銃を片づけにかかった。
「いつ?」再び幾分かの間《ま》をおいて、前よりもさらに大事を取りながら、スタヴローギンはたずねた。
 キリーロフはその間に箱を両方ともカバンヘしまっておいて、もとの席へ腰を下ろした。
「それはご承知のとおり、ぼくの意志できまるわけじゃない。人がきめてくれます」いくぶん問いを持てあますようなふうだったが、同時に、このさきどんなことを問いかけられても、躊躇なしに答えそうな様子を示しながら、彼はこうつぶやいた。
 彼はなんとなく穏かな、人のいい、やさしい感情をこめながら、光のない黒い目で、あからめもせずスタヴローギンを見つめるのであった。
「ぼくにもむろんわかります、――ピストル自殺」長いこと三分ばかり、もの思わしげに黙り込んでいた後、ニコライは心もち眉をひそめながら、再びきり出した。「こいつはぼくもときどき自分で考えてみましたよ。するとね、いつも何かこう、新しい考えが湧いて来るんですよ。つまり、非常に兇悪なこと、でなければ非常に恥ずかしいこと……といって、非常な恥辱になることね、しかも、思いきって陋劣な、そして滑稽なことをやっつける、――そこで……人がそのために千年万年も覚えていて、千年万年も爪はじきする、と仮定しましょう。そのとき忽然として『こめかみにどんと一つ打ち込んだら、もう何一つ残りゃしないじゃないか』とこういう想念が浮かんだらどうでしょう。そうしたら、人がなんと思おうと、千年万年つまはじきしようと、いっこうかけかまいはないじゃありませんか、そうでしょう?」
「きみはそれを新しい思想というんですか?」ちょっと考えた後、キリーロフはこうたずねた。
「ぼくは……あえてそういうわけじゃない……ただかつてこのことを考えた時に、まったく新しい思想だと感じたのです」
「新しい思想だと感じた?」キリーロフは鸚鵡返しにいった。「それはいいことです。そういう思想はたくさんあります、――いつでもある、それがとつぜん新しくなる、それは本当です。ぼくもこの頃いろんなことがまるで初めて見るように目に入りますよ」
「かりにきみが月の世界に住んでいて」相手のいうことには耳をかさず、自分の思想の糸を手繰りながら、スタヴローギンはさえぎった。「まあ、かりにきみが月の世界で、ありとあらゆる滑稽醜悪なことをしつくしたとする……ところが、きみはこの地球に居を移しながら、月の世界できみの名を千年も万年も、永久に月の存在のつづく限り、笑ったり爪はじきしたりしてるのを、ちゃんと百も承知してると仮定しよう。しかし、きみはもうここにいて、ここから月の世界を眺めてるんだからね、きみが向こうで何をしたにしろ、また向こうの人間が千年万年つまはじきするにしろ、そんなことはここにいる以上、なんのかけかまいがあるものですか、そうじゃありませんか?」
「知りません」とキリーロフは答えた。「ぼくは月の世界にいたことがないから」いささかの皮肉もなく、ただ単なる事実表白のために、彼はこうつけ足した。
「あのさっきのはだれの子です?」
「あの婆さんの姑がよそから来たんです。いや姑じゃない、嫁だ……まあ、どっちでもいい、三日まえにね。ところが、子供といっしょに病気して臥《ね》てるんです。子供は夜になると無性に泣くんですよ、腹痛《はらいた》でね。母親は寝てる、しょうことなしに婆さんが連れて来るんです。で、ぼくは毬をもってね……毬はハンブルグから持って来ましたよ。ハンブルグで買ったんです、投げたり、つかまえたりしようと思ってね……背中を丈夫にしますから……女の子です」
「きみ、子供は好きですか?」
「好きです」とキリーロフは答えたが、それはかなり気のない調子だった。
「じゃ、きみは生活も愛してますね?」
「ええ、生活も愛してます、それがどうしたのです?」
「でも、自殺を決心してるとすれば」
「それがどうしたんです? なぜそれをいっしょにするんです? 生活は生活、あれはまたあれです。生活はあります。しかし、死というものはまるでありゃしない」
「きみは未来の永世を信じるようになったんですか?」
「いや、未来の永世じゃない、この世の永世です、一つの瞬間がある、その瞬間へ到達すると、時は忽然ととまってしまう、それでもう永世になってしまうのです」 
「きみはそういう瞬間へ到達しうると思いますか?」
「ええ」
「それはどうも現代じゃ不可能らしいね」と同じくいささかの皮肉もなく、ニコライは答えた。「黙示録の中で、一人の天使が、時はもはやなかるべし、と誓っていますがね」
「知っています。あれはまったく非常に正確な言葉です。明晰で的確です。完全な一個の人間が幸福を獲得した場合、時はもはやなくなってしまいます。必要がないですものね。非常に正確な思想です」
「いったいどこへ隠すんでしょう?」
「どこへも隠しゃしない。時は物件じゃなくて、思念ですからね。心の中で消えてしまう」
「古い哲学のきまり文句だ、開闢以来、相も変わらないもんだね」なんだか気むずかしげな憐憫の色を浮かべながら、スタヴローギンはつぶやいた。
「相も変わらない! 開闢以来、相も変わらない、ほかにけっしてありようがないです!」と、まるでこの観念の中に、立派な勝利でも含まれているように、キリーロフは目を輝かせつつさえぎった。
「キリーロフ君、きみは非常に幸福らしいですね?」
「ええ、非常に幸福です」と、彼はまるで平凡な日常茶飯事かなんぞのように答えた。
「しかし、きみはつい近ごろ非常に悲観して、リプーチンのことで腹をたててたじゃありませんか?」
「ふむ!………しかし、今は人を罵倒したりなんかしませんよ。あの時はまだ自分が幸福なことを知らなかったんです。きみは葉を見たことがありますか、木の葉を?」
「ありますよ」
「ぼくはついこのあいだ黄いろのを見ましたよ。もう青いところは少なくなって、ぐるりが枯れかかってるんです。風に飛ばされたんですね。ぼくは十ばかりの頃、冬わざと目をふさいで、葉脈の青々とくっきりした木の葉を想像してみた。陽がきらきら照ってるんです。それから目をあけて見たとき、なんだか本当にならないようでした。だって、実にいいんですものね。で、ぼくはまた目をふさぐ」
「それはなんです、比喩ででもあるんですか?」
「い……いや、なぜ? ぼく比喩なんか。ぼくはただ木の葉……ほんの木の葉のことをいっただけです。木の葉はいいもんです。何もかもいいです」
「何もかも?」
「何もかも。人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです。それだけのこと、断じてそれだけです、断じて! それを自覚した者は、すぐ幸福になる、一瞬の間に。あの姑が死んで、女の子がたった一人取り残される、――それもすべていいことです。ぼくは忽然としてそれを発見した」
「人が飢死しても? 女の子を辱しめたり、けがしたりしても、――それでもやっぱりいいことなんですか?」
「いいことです。人が子供の敵討《かたきうち》に脳味噌をたたき潰しても、それでもやっぱりいい。また脳味噌をたたき潰さなくても、それもやはりいいことです。すべてがいい、すべてが! すべてがいいということを知ってる者は、すべてがいいのです。もし世の中の人が、自分たちにとってすべてがいいということを知ったら、すべてがよくなるんだけれど、彼らがすべて善なりということを知らないうちは、彼らにとってもいいことはないでしょう。それが全部の思想です。もうそのうえほかの思想なんかありゃしない!」
「きみは、いつ自分がそんなに幸福だってことに気がつきました?」
「先週の火曜日、いや、水曜日です。あの時はもう水曜になってたっけ。夜中だったから」
「どういう動機で?」
「おぼえていませんね。ただひょっこり、なんでも部屋の中を歩き廻っていたっけ……まあ、そんなことはどうでもいい。ぼくは時計をとめちゃった。なんでも二時三十七分のところでしたっけ」
「時はとどまらざるべからず、という象徴ですか?」
 キリーロフは黙っていた。
「世間の人は好くない」とつぜん彼はまたこういい出した。「それは、自分たちのいいことを知らないからです。もしそれを悟ったら、小さな女の子を辱しめなどしなくなるでしょう。みんな自分のいいことを知らなくちゃならない。そうすれば、みんなよくなるです、みんな一人残らず」
「ところが、きみはそれを悟ったから、きみはいい人なんですね?」
「ぼくはいいですよ」
「もっとも、それはぼくも同感ですね」とスタヴローギンは眉をひそめながらつぶやいた。
「すべて善しということを教える人は、この世界を完成する人です」
「それを教えた人は磔刑《はりつけ》にされたっけね」
「その人は必ずやって来る。その名は人神」
「神人?」
「人神、そこに区別がありますよ」
「ときにこの燈明をつけるのは、きみじゃありませんか?」
「そう、これはぼくがつけたんです」
「信心してるんですか?」
「あの婆さん、燈明をあげるのが好きで……ところが、今日ひまがなかったもんだから」とキリーロフはつぶやいた。
「きみは自身で祈祷しませんか?」
「ぼくはすべてのものに祈祷します。ほら、蜘蛛が壁を這ってるでしょう。ぼくはじっと見てるうちに、その這ってるのがありがたくなる……」
 彼の目は再び燃えてきた。彼はしじゅうしっかりした撓《たゆ》みない目つきで、じっとスタヴローギンを見つめていた。スタヴローギンは眉をひそめながら、気むずかしそうに相手を注視していたが、その眼ざしにはいささかの冷笑も見えなかった。
「ぼく誓ってもいいですよ、今度ぼくが来る時には、きみはもう神を信じるようになってるから」立ちあがって帽子を取りながら、彼はこういった。
「なぜ?」キリーロフも腰を浮かした。
「もしきみがね、自分で神を信じてるということを悟ったら、きみは実際信じたでしょうよ。しかし、きみはまだ神を信じてるということを悟らないから、つまり信じていない」とスタヴローギンはにやりと笑った。
「それは違う」じっと考え込んだ後、キリーロフはこう答えた。「それはぼくの思想を逆にしたのです。才子流の駄洒落です。スタヴローギン、きみがぼくの生涯にどんな意義をもっていたか、それを思い出してください」
「失敬、キリーロフ」
「夜分にまた来てください。いつ?」
「いったいきみは明日のことを忘れてやしませんか?」
「ああ、忘れてた。大丈夫、寝すごしゃしません。九時ですね。ぼくはいつでも、自分の起きたい時に起きられます。寝る時に、七時だぞといっておくと、七時に目がさめる。十時というと、十時に目がさめる」
「きみはふう変わりな特色をもってますね」スタヴローギンは相手のあおざめた顔を見つめた。
「ぼく行って門を開けましょう」
「それには及びません。シャートフが開けてくれます」
「ああ、シャートフ。じゃ、さようなら」

[#6字下げ]6[#「6」は小見出し

 シャートフの住んでいるがらんとした家のあがり口は、鍵がかけてなかった。けれど、廊下へ入ってみると、まるで真の闇だった。スタヴローギンは手探りで、中二階へ登る階段をさがし始めた。と、急に上のほうの戸が開いて、あかりがさした。シャートフは自分では出て来ないで、部屋の戸だけ開けたのである。ニコライが部屋の閾に立ったとき、片隅のテーブルの傍に、待ち心で立っているあるじを見つけた。
「用事があって来たんですが、会ってくれますか?」と彼は閾の上からきいた。
「入ってお坐んなさい」とシャートフは答えた。「まあ、戸を閉めてください。いや、ぼく、自分でしましょう」
 彼は戸に鍵をかけて、テーブルの傍へ引っ返すと、ニコライの真正面に腰を下ろした。彼はこの一週間にだいぶ痩せが見えた。そして、今は熱でもありそうなふうであった。
「きみはぼくを苦しめましたね」と彼は伏目がちで、なかばささやくように口をきった。「どうして来なかったんです?」
「じゃ、きみは、ぼくがここへ来るものと確信してたんですか?」
「いや、ちょっと、ぼくは譫《うわ》ごとをいったんです……ひょっとしたら、今も譫ごとをいってるのかもしれない……ちょっと待ってください」
 彼は立ちあがり、三段になっている本棚の中で、一ばん上の端にのせてある一物を取りおろした。それはピストルだった。
「ある晩、ぼくは熱に浮かされましてね、きみが殺しに来そうに思われて仕方がないんです。で、翌朝はやく、例ののらくら先生のリャームシンを訪ねて、なけなしの金をほうり出して、このピストルを買ったんですよ。ぼくはきみにおくれを取りたくなかった。ところが、後で気がついてみると……火薬も弾丸も持ってないじゃありませんか。それ以来、そのまま棚の上にうっちゃらかしたままなんです。ちょっと待ってください……」
 彼は立ちあがって、窓の通風口を開けようとした。
「ほうるのはおよしなさい、なんだってそんなことを?」ニコライは押し止めた。「それだって売れば金になる。それに、明日になったら、人がいろんなことをいい出しますよ、シャートフの窓の下にピストルが転がっているって。さ、もとのところへのっけておきたまえ。そうそう。ところで、さっそくおたずねしますが、いまきみは、ぼくが殺しに来るだろうと考えたのを、なんとなくすまないと思っていられるようだが、いったいそれはどういうわけです? ぼくは今だって何も和睦に来たのじゃない。ただ必要なことを話しに来ただけですからね。まず第一にはっきりしてほしいのは、あのとききみがぼくを撲った原因ですよ。まさかきみの奥さんとぼくとの関係じゃないでしょう?」
「そのためでないということは、きみ自身も知ってるでしょう!」とシャートフは再び目を伏せた。
「じゃ、ダーリヤさんのことに関した馬鹿馬鹿しい流言を、信じたためでもないでしょうね?」
「違います、違います、むろん違います! ばかなことを! 妹は最初からぼくにうち明けていますよ……」とシャートフはほとんど地だんだふまないばかりの勢いで、じれったそうに声を尖らせた。
「じゃ、ぼくの想像は当たっていた。そして、きみの想像も当たっていたのです」とスタヴローギンは落ち着き払った調子でいった。「きみの想像のとおりです。マリヤ・レビャードキナは、ぼくの正妻です。四年半ばかり前に、ペテルブルグで立派にぼくと結婚式を挙げたのです。ねえ、きみはあれのためにぼくを撲ったんでしょう?」
 シャートフはまるで雷《らい》にでも打たれたように、一言も発せずに聴いていた。
「ぼく想像はしていたけれど、本当にできなかった」奇妙な目つきでスタヴローギンを見つめながら、ついにシャートフはつぶやいた。
「それで撲ったんですか?」
 シャートフは急にかっとなった。そして、ほとんど脈絡もなく、しどろもどろにつぶやき始めた。
「ぼくは、きみの堕落のために……きみの虚偽のために撲ったのです。しかし、ぼくがきみの傍へ近寄ったのは、あえてきみを罰しようというつもりじゃなかった。出て行った時には、撲ろうなどと、考えてもいなかった……ぼくがあんなことをしたのは、きみがぼくの生涯において実に意味ぶかい人だったからなんです……ぼくは……」
「わかった、わかった。どうか言葉を節してもらいたいですな。きみが熱に浮かされてるのは残念だ。実はごく大切な用件があるんですがね」
「ぼくはずいぶん長くきみを待ったですよ」まるで全身を慄わさないばかりにしながら、シャートフはこういって、また腰を浮かせかけた。「早くきみの用件を話してください。ぼくもやはりいいますから……後で……」
「その用件はまるで範疇が違うんですよ」とニコライは好奇の色を浮かべて、相手の顔をのぞき込むようにしながらいい出した。「ぼくはやむを得ない事情のために、今こういう時を選んできみのところへやって来て、ぜひとも注意しておかねばならなくなったのです。ねえ、きみはもしかしたら殺されるかもしれませんよ」
 シャートフはけうとい目をして、彼を見つめた。
「そういう危険がぼくを威嚇するおそれがあるのは、ぼくも知っています」と彼はなだらかにいった。「しかし、――きみがどうしてそれを知りえたのです?」
「それは、ぼくもやっぱりきみと同様に、あの連中に加わっているからさ。きみと同様に、あの会の会員だから」
「きみが……きみがあの会の会員だって?」
「ぼくはきみの目つきでちゃんとわかります。きみはぼくをどんなことでもしかねない人間と思っていたけれど、こればかりは思いもかけなかったのでしょう」とニコライはあるかないかの薄笑いを洩らした。「しかし、ちょっとききますが、じゃ、なんですね、きみは自分が狙われていることをもう知ってたんですね?」
「考えたこともありません。今だって、現在きみにそういわれても、やっぱり本当と考えられません。しかし……しかし、あの馬鹿者どもにかかったら、どんなことにでもなりかねない!」拳固でテーブルを撲りつけながら、ふいに凄まじい勢いで彼はこう叫んだ。「ぼくはあんなやつら恐ろしくない! ぼくはあいつらと縁を切ったんだ! もっとも、あの男が四へんもぼくのところへ駆けつけて、大いに……」と彼はスタヴローギンを見やった。「あり得ることだとはいってたけれど。で、いったいこのことについて、きみはどういうことを知ってるんです?」
「心配ご無用、ぼくはきみをだましたりなんかしやしません」単に自分の義務のみ果たそうとする人のように、かなり冷淡な調子で、スタヴローギンは言葉をつづけた。「きみはぼくがどういうことを知ってるか、それを試験しようとするんですね? ぼくはこれだけのことを知っています、きみは二年前、外国であの会へ入ったでしょう、それはあの会の組織が変わらないさきのことでした。ちょうどきみのアメリカ行きの前、例のぼくら二人が話し合ってから間もなくのことらしいですね。あの話のことは、きみがアメリカからよこした手紙にも、ずいぶん書いてありましたっけ。ああ、手紙といえば、悪かったですね、ぼくはあのとき同じように手紙で答えないで、ただ単に……」
「送金だけですましたんですか。お待ちなさい」とシャートフは相手をおし止め、忙しげにテーブルの抽斗をあけて、書類の間から一枚の虹色|紙幣《さつ》([#割り注]百ルーブリ[#割り注終わり])を取り出した。「さあ、受け取ってください。きみの送ってくれた百ルーブリです。きみという人がなかったら、ぼくはもう駄目になるところでした。この金はまだ近いうちに返せるはずじゃなかったけれど、幸いきみのお母さんのおかげでね。九か月まえぼくの病後に、困るだろうといって恵んでくだすったのです。しかし、どうか次を話してください……」
アメリカできみは思想を一変して、スイスへ帰って来ると、退会を申し込んだのです。ところが、会のほうではうんともすんとも答えないで、かえって、ロシヤヘ帰ったらこの町である人からある活版の機械を受け取って、会から人が引き取りに来るまで預っているように命ぜられた。ぼくはすべてを完全、正確に知ってるわけじゃないが、大体こんなふうだったのでしょう? きみはこれが彼らの最後の要求で、これがすんだら綺麗に放してくれるだろうと当てにして(或いはそういう条件だったかもしれない)、とにかく引き受けたのです。今いったことは、みんな本当か嘘か知らないが、それをぼくが知ったのは、あの連中の口からではなく、まったく偶然なことだったのです。しかし、たった一つだけ、きみも今まで知らないことがあるらしい、――あの先生たちはまるできみと別れる気なんかないのです」
「それは馬鹿げた話だ!」とシャートフは叫んだ。「ぼくはすべての点で彼らと見解を異にしていると、立派に宣告したじゃないか! これはぼくの権利だ、良心と思想の権利だ……ぼくはもう我慢ができない! もうこのうえ…」
「ねえ、きみ、そんなにどなるもんじゃありませんよ」とニコライは大真面目で彼を押し止めた。「ヴェルホーヴェンスキイはああいうたちの人間だから、自分で来るか人の耳を借りるかして、今もぼくらの話を立ち聴きしてるかもしれませんよ。ことによったら、きみの家の廊下でね。あの飲んだくれのレビャードキンでさえ、きみに対する監視の義務をもっていたといってもいいくらいなんですからね。しかし、きみもあの男に対して、そういう地位に立ったんじゃありませんか、そうでしょう! それよりまあ伺いましょう、ヴェルホーヴェンスキイはいまきみの論点に同意してるんですか、どうです?」
「同意してるんです。あの男はそれはできる、きみには権利がある……とそういっていました」
「ふん、それはただそういって、きみをだましてるんです。ぼくの知ってるところでは、ほとんどこのことに無関係なキリーロフでさえ、きみに関する報告を提供してるんですからね。あの連中には手先がたくさんあります。中には、あの会のご用を勤めていることを、自分で知らないような廻し者さえあるんですよ。きみはいつも監視を受けてたんです。ヴェルホーヴェンスキイがここへ来たのは、いろいろ用事のあるうちでも、きみの事件をすっかり片づけるのが主なのです。そして、それに対する全権を帯びているのです。つまり、ほかじゃありませんが、都合のいい時機を見計らって、きみを、あまりに多くのことを知り、かつ密告のおそれある人物として、殺してしまおうというのです。くり返していいますが、これは確かな事実ですよ。それから、もう一つつけ足さしてもらいましょう。あの連中はなぜだか、きみが廻し者で、たとえ今まで密告しなかったにせよ、将来かならず密告するものと、堅く信じきっています。いったいそれは本当ですか?」
 こういう平気な調子で発しられたこの問いを聞いて、シャートフは口を曲げた。
「もしぼくが廻し者だとすれば、いったいだれに密告するんだ?」直接問いには答えないで、彼は憎々しげにこういった。「いや、もうかまわないでください、ぼくのことなんかどうだっていいです!」と、ふいにまた最初の想念に躍りかかりながら、彼は叫んだ。あらゆる徴候から察するところ、この想念は自分自身の危険に関する報知よりも、さらに烈しく彼の心を震撼したものらしい。「きみ、きみ、スタヴローギン、いったいきみはどうしてあんな破廉恥で無能な、下司ばった、ばかばかしい仕事にかかり合う気になったんです! きみが、あの会の会員ですって! それがまあ、ニコライ・スタヴローギンの仕事ですか?」と彼はほとんど絶望したように叫んだ。
 彼は手さえぱちりと鳴らした、まるで自分にとってこれ以上悲しい、いたましい発見はないかのように。
「いや、ごめんください」と実際ニコライは面くらってしまった。「しかし、きみはまるでぼくを太陽かなんぞのように考えて、きみ自身という人をぼくに比較すると、ほとんど虫けら扱いにしてるようじゃありませんか。この事実は、きみがアメリカからよこした手紙によっても、明らかに見てとることができましたよ」
「きみ……きみはご承知でしょうか……いや、もうぼくのことなんかすっかり、すっかりやめてしまったほうがいい!」と、ふいにシャートフは語をきった。「もしきみが、きみ自身について何か説明ができるなら、早く説明してください……ぼくの問いに答えてください!」と彼は熱に浮かされながらくり返した。
「いいですとも。まずどうしてぼくがあんな穢らわしい仲間にかかり合ったか、とこういう質問なんですね? ぼくもああいう事実をきみに通告したうえは、多少ともこの件についてうち明けたお話をするのが、義務だとさえ考えてるんですよ。いいですか、ぼくは厳正な意味において、全然あの会に属していないんです。また以前とても属してはいなかった。だから、きみより以上に脱会の権利を持っています。なぜって、初めから入会しなかったんだから。それどころか、ぼくは初めからちゃんと宣言してあるんです、ぼくはあの連中の仲間じゃないってね。たまたま手を貸したことがあるとすれば、それはただ閑人としての仕事だったのです。ぼくは、あの会が新しい計画によって組織の変更をしたとき、ちょっとそれに関係しただけなんです、それっきりです。ところが、今あの連中は考えを変えて、ぼくという人間もやはり手放しては危険だと、内々決議した。だから、ぼくも同じ宣告を受けているらしいんです」
「おお、やつらはなんでもかでも死刑です、なんでもかでも指令で決まるんです。何かの紙切れに印を捺して、三人半ばかりの人間が署名するんだ! で、きみはやつらにそんなことができるとお思いですか?」
「きみのいうことはなかば正しく、なかば違っていますね」スタヴローギンは相変わらず気のない調子で、むしろ大儀そうに言葉を次いだ。「そりゃ、いつでもこういう場合に見受けられるように、愚にもつかない空想がたぶんに含まれてるのはもちろんです。一塊りぐらいの人間が、その発達や勢力を誇張して考えてるんですよ。遠慮なくいわしてもらうと、あの連中の仲間は、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキイ一人きりなんです。ところが、当のあの男さえ、自分はある会の代表者にすぎないと、こんなことを考えてるほどのお人好しなんですからね。しかし、根本の理想は、他の同種類のものに比較すると、いくぶん気が利いているようです。あの連中は、インターナショナルと連絡を保って、ロシヤ各地へ巧みに代表者を置いたものです。しかも、ずいぶん奇抜な方法を考えついたようですが……しかし、もちろん、理論のみにとどまっている。ところで、この土地における彼らの計画はどうかというと、わがロシヤではそうした結社運動が実に曖眛で、人の意表外に出るから、まったくのところ、ロシヤではなんでもやってみることができますよ。きみも気がついたでしょうが、ヴェルホーヴェンスキイは執念ぶかい男ですからね」
「あいつは南京虫だ、下司だ、ロシヤのことをなに一つ知らない馬鹿者だ!」とシャートフは毒々しく叫んだ。
「きみはあの男をよく知らないのです。そりゃ全体として、あの連中がロシヤについて知るところが少ないのは事実だが、しかし、きみやぼくよりほんの少しばかり、知り方が少ないというだけのこってすよ。それに、ヴェルホーヴェンスキイは熱情家ですよ」
「ヴェルホーヴェンスキイが熱情家ですって?」
「ええ、そうですとも。ある一つの点があって、それを踏み越えると、もうあの男は道化じゃなくなって、その……半きちがいになるのです。『一人の力がいかに偉大なるかをきみは知りたもうや?』といったきみ自身の言葉を思い出したらいいでしょう。どうか、笑わないでくれたまえ。あの男はいざとなったら、引き金を下ろす力をもってるんだから。あの連中はぼくを廻し者と信じ切っています。あの連中はだれもかれも、自分でうまく仕事を運ぶ腕がないものだから、人を間諜よばわりするのが、恐ろしく好きなんですよ」
「しかし、きみは恐ろしくないですか?」
「い、いや……ぼくは大して恐ろしくないです……しかし、きみの場合は全然べつです。とにかく、ぼくはきみがこのことを頭におくように、前もって注意しておきますよ。ぼくにいわせれば、馬鹿者どものために危険が迫ったからって、憤慨する必要は少しもありません。問題は彼らの賢愚いかんにあるのじゃないですからね。きみやぼくどころじゃない、まだまだ立派な人たちにも、彼らは謀計をめぐらしてるんですよ。あっ、もう十一時十五分だ」彼は時計を眺めて立ちあがった。「しかし、ぼくは一つきみに、まるっきり筋の違った質問を提出したいんですがね」
「どうかお願いです!」と叫んでシャートフは凄まじい勢いで躍りあがった。
「というと?」ニコライはけげんそうに見やった。
「提出してください、きみの質問を提出してください、お願いです」名状し難い興奮の体で、シャートフはくり返した。「ただし、ぼくもきみに別な質問を提出する、という条件つきですよ。お願いだから、そいつを許してください……ああ、ぼくは駄目だ……早くきみの質問をしてください!」
 スタヴローギンはいっとき控えていたが、やがて口をきった。
「ぼくの聞いたところでは、ここできみはあのマリヤ・チモフェーヴナに一種の感化力を持っていて、あれもきみに会って話を聞くのを楽しんでいたそうですね。本当ですか?」
「ええ、聞いていましたよ……」とシャートフはちょっとまごついた。
「ぼくは二、三日のうちに、あれとぼくとの結婚を、この町で公けに披露しようというつもりなんです」
「いったいそんなことができるものですか?」シャートフはぎょっとしたようにこうつぶやいた。
「というと、どういう意味で? 何もむずかしいことはないでしょう。結婚の証人はここにいるじゃありませんか。それはあのときペテルブルグでゆっくり落ち着いて、完全に公定の手続きを踏んでやったことですからね。今までそれが世間へ知れなかったのは、この結婚のたった二人の証人、つまりキリーロフとヴェルホーヴェンスキイ、そしていま一人、当のレビャードキン(これがいまありがたいことには、ぼくの親戚ということになってるのです)、この三人が当時沈黙を守ると、約束したためにすぎないのです」
「ぼくがいうのはそれじゃない……きみはよくそんなに落ち着き払って話せますね……しかし、次をおっしゃい! いや、ちょっと、きみは何もこの結婚を、力ずくで強制されたんじゃないでしょう、ね、そうじゃないでしょう?」
「違います、だれもぼくを力ずくで強制したものはありません」シャートフの突っかかるようなせき込み方を見て、ニコライはにやりと笑った。
「じゃ、どういうわけであのひとは、自分の生んだ赤ん坊のことなんかいってるんです?」熱に浮かされて脈絡もなく、シャートフはせき込んでこうたずねた。
「自分の生んだ赤ん坊のことをいってる? へえ! 知らなかった。初耳ですねえ。あれには赤ん坊なぞなかった、またあるべきはずがない。マリヤは処女ですからね」
「ああ! ぼくもそうだろうと思った。まあ、聞いてください!」
「シャートフ、きみはいったいどうしたんです?」
 シャートフは両手で顔をおおいながら、くるりと横を向いたが、出しぬけにしっかりとスタヴローギンの肩をつかんだ。
「ねえ、きみ、ねえ、なんといっても、きみ自身にはわかってるでしょう」と彼は叫んだ「なんの[#「叫んだ「なんの」はママ]ためにきみはこんなことを仕出かしたんです。そして、なんのために今そんな刑罰を受けようと、決心したのです?」
「きみの質問は気が利いて、皮肉だね。しかし、ぼくもやはりきみをびっくりさしてあげるつもりですよ。ええ、なんのためにぼくがあのとき結婚したか、またなんのためにいまきみのいわゆる『そんな刑罰』を受けようと決心したか、ぼくには大抵わかっています」
「いや、このことはやめましょう……このことは後にしましょう。ちょっと話すのを控えてください。それより肝腎のことを話しましょう、肝腎のことを。ぼくは二年のあいだきみを待っていました」
「そうですか?」
「ぼくはもうずっと前からきみを待っていました、絶えずきみのことを考えていました。きみはその……あれを成し遂げうる唯一の人です。ぼくはまだアメリカにいた頃、このことをきみに書いてあげました」
「ぼくもきみのあの長い手紙のことは、よく覚えています」
「しまいまで読み通すのに長すぎる? もっともです。書簡紙六枚ありましたからね。黙ってらっしゃい。黙ってらっしゃい! 一つおたずねしますが、きみはもう十分だけぼくのために時をさくことができますか、今、今すぐに……ぼくはあまりに長くきみを待ってたのです!」
「さあ、どうぞ。もう三十分割愛しましょう。しかし、それ以上は駄目ですよ。もしそれでお間に合えば」
「ただし」シャートフは猛然として引き取った。「きみのその調子を変えていただきたいのです。いいですか、ぼくは、実際、哀願しなくちゃならない地位にありながら、これを要求するのです……え、わかりますか、哀願しなくちゃならないのに、要求するということは、そもそも何を意味するのでしょう?」
「わかりますよ。そういうふうにして、きみはいっさいの日常茶飯事から超絶しようというんでしょう。より高遠な目的のためにね」ほんの心もちニコライは微笑した。「同時に、きみが熱に浮かされているのを見て、ぼくははなはだ悲しく思いますよ」
「ぼくは自分に対して尊敬を求めます、いや、強要します!」とシャートフは叫んだ。「しかし、それはぼくの人格に対してじゃありません、――そんなものはどうだっていい、――まるで別なものです。今こうしている間だけでいいです、ぼくのある言葉に対してね……われわれは二つの存在です、それが無限の中に相会したのです……宇宙あって以来、最後の会見です。さあ、きみのその調子を捨てて、人間らしい調子でお話しなさい! せめて一生に一度でも、人間らしい声でものをおいいなさい。ぼくはけっして自分のためじゃない、きみのためにいってるんですよ。いいですか、ぼくがきみの頬を打ったとき、自分の無限な力を感ずる機会をきみに与えた、この一つの理由だけでも、きみはぼくをゆるしてくれるべきです……またきみは例の気むずかしそうな、社交紳士的な笑い方をしてますね。おお、いつになったらぼくを了解してくれるんです! 若様根性は断然すてておしまいなさい。ぼくがこれを要求してるという心持を了解してください。でなくちゃ、ぼくはもう話すのもいやだ、どんなことがあったっていいやしない!」
 彼は激昂のあまり、ほとんどうなされてでもいるような有様だった。ニコライは眉をひそめて、いくぶん大事をとり始めたふうだった。
「ねえ、いまぼくにとって非常な大切な時を割いて」と彼はいい含めるような、真面目な調子で切り出した。「もう三十分ほどきみのところに居残ろうと決心したのは、実際、少なくも、興味をもってきみの話を聞く意志があるからですよ。そして……いろいろきみから珍しいことが聞けると、信じているからですよ」
 彼は椅子に腰を下ろした。
「お坐んなさい!」とシャートフはどなって、妙に出しぬけに自分でも腰を下ろした。
「失礼ですが、ちょっと注意しますよ」とスタヴローギンはまた急に思い出していった。「ぼくはマリヤのことについて、きみに一つ依頼を持ち出しかけたんですがね。少なくとも、あの女にとって非常に重大なことです……」
「で?」とシャートフはふいに顔をしかめた。一ばん肝腎なところで話の腰を折られたので、相手を眺めてはいるけれど、まだその間《かん》の意味を会得する暇がない、といったような顔つきをしていた。
「ところが、きみはそれをしまいまでいわしてくれなかったのです」とニコライは微笑を浮かべながらつけ足した。
「ええ、つまらんことを、後でいい!」やっとのことで相手の要求を了解すると、シャートフは気むずかしそうに片手を振って、さっそく自分の話の眼目に移った。

[#6字下げ]7[#「7」は小見出し

「あなたわかりますか」目をぎらぎらと輝かしながら、右手の人差指を目の前にさし上げて(自分でもこれに気がつかないらしい)、椅子に腰かけたまま前へ乗り出しつつ、彼はほとんど威嚇するような調子でいい出した。「あなたわかりますか、今この地上において、新しき神の名によって世界を更新し救済すべき、唯一の『神を孕める』国民はだれでしょう? いのちと新しき言葉の鍵を与えられた唯一の国民はだれでしょう……きみはこの国民が何者かわかりますか、そして、その名をなんというかわかりますか?」
「きみの態度から察しると、ぼくはぜひとも、そして、できるだけ迅速に、それはロシヤ国民だと、結論しなくちゃならないようですね……」
「きみはもう茶化してるんですね、おお、なんという情けない人たちだ!」とシャートフは猛り始めた。
「まあ、落ち着いてください、後生だから。それどころか、ぼくは初めから、そんなふうの話を期待してたんですよ」
「そんなふうの話を期待してた? いったいきみ自身この言葉におぼえはないのですか?」
「大いにあります。きみが何をいおうと思ってるかは、ぼくには明瞭すぎるくらい見え透いています。きみの文句は『神を孕める』国民という表現にいたるまで、二年あまり前、きみがアメリカヘたつ間際に、外国で交換した二人の議論の、単なる結論にすぎないのですよ。少なくも、いまぼくの思い起こしうる限りではね」
「これはきみのいった言葉そっくりそのままなんです。ぼくのいったことじゃありません。みんなきみ一人のいったことで、二人の話の結論じゃありません。『二人』の話なぞはてんでなかった。偉大な言葉を告げる師匠と、死から甦った弟子があったばかりです。ぼくがその弟子、きみがその師匠だったのです」
「しかし、今おもい出せる限りでは、きみがあの会へ入ったのは、ぼくの話を聞いてからで、アメリカへ渡ったのはその後でしょう」
「そうです。だが、ぼくもそのことはアメリカから、手紙できみに知らせましたよ。何もかも書きましたよ。まったく子供の時分から根を下ろして育った地盤を、血の滲むような思いをしてまで、すぐさまもぎ放すことが容易にできなかったのです。なにしろぼくの希望の歓びもぼくの憎悪の涙も、それ一つにかかってたんですからね……神を取り替えるのはむずかしいことですよ。ぼくはあのとききみの言葉を信じなかった。信じたくなかったからです。そして、ここを最後とばかり、あの腐った溝《どぶ》にしがみついたのです……しかし、種は残って生長しました。真面目に、本当に真面目にいってください、――きみはアメリカから送ったぼくの手紙を、しまいまで読まなかったのですか? ひょっとしたら、まるっきり読まなかったかもしれませんね?」
「ぼくはあのうち三ページだけ読みましたよ。初めの二ページと終わりの一ページと……それに、中のほうもざっと目をとおしたっけ。もっとも、ぼくはしじゅう読もうとは思って……」
「ええ、どっちだって同じこってす、やめてください、勝手になさい!」とシャートフは手を振った。「もしきみが今になって、あの時の国民に関する言葉を否定してるとすれば、どうしてあの時あんな言葉を発することができたのでしょう、それがいまぼくの心を圧してやまない問題なのです」
「ぼくはけっしてあのとききみをつかまえて、冗談をいったのじゃない。きみを説伏しようとすると同時に、ぼくはむしろ自分のことを心配したかもしれませんよ」とスタヴローギンは謎めいた調子でいった。
「冗談をいったのじゃないって! ぼくはアメリカで三か月間ある一人の……不幸な男と枕を並べて、藁の上に寝てたのです。その男の口から聞いたのですが、きみはぼくの心に神と故郷《ふるさと》を植えつけたのと同じ頃、いや、もしかしたら、まったく同じ時かもしれない、――その男の、つまり、あの気ちが

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP145-P192

た。「シャートフ、おい兄弟!

[#ここから2字下げ]
われは来りぬ汝《な》がもとに
日の昇りしを告げんため
もーゆーるがごときかがやきの
木々に……慄うを語るため
わが目ざめしを(こん畜生!)小枝の下に
わが目ーざーめしを語るため
[#ここで字下げ終わり]

 いや、本当は笞《むち》の下だったかもしれんぞ、はは!

[#ここから2字下げ]
鳥はみな……渇きをば告ぐ
されどもわれは何を飲む
わが飲むは何……われは知らずも
[#ここで字下げ終わり]

いやさ、馬鹿げた好奇心などわしに用はないわ! シャートフ、貴公にはわかるかい、この世に生きるということは、なんといいもんじゃないか!」
「返事しちゃいけないよ」シャートフはまたわたしにささやいた。
「開けろというに。いったい貴公知っとるか、人間同士の間には……何かその、喧嘩などよりもっと高尚なものがあるんだぞ。これでも立派な紳士のようになる時もあるんだからな………シャートフ、おれはいい人間なんだ。だから、貴公をゆるしてやるぞ、シャートフ、檄文なんぞよしちゃえよ、うん?」
 沈黙。
「おい、のろま先生、わかるかい、おれは恋をしてるんだ、おれは燕尾服を買ったんだ。いいかい、愛の燕尾服だ、十五ルーブリだぜ。大尉の恋は社交上の礼儀を要するからな……開けないか?」
 彼は急に粗野な咆哮を発して、またもや拳で猛烈に扉を叩き始めた。
「とっとと失せやがれ!」ふいにシャートフもどなった。
「どど、奴隷め! 奴隷百姓め、貴様の妹も奴隷女だ、女奴隷だ……泥棒女だ!」
「貴様は自分の妹を売りやがったくせに!」
「でたらめをつくな! おれはこうして、人の言いがかりをじっとこらえているがな、ただひと言……その、おれがいってみろ……貴様あれがどんな女か知ってるか?」
「どんな女だい?」急にシャートフは好奇の色を浮かべながら、戸口のほうへ近寄った。
「いったい貴様にわかるか?」
「わかるよ、早くだれかいってみな」
「おれは立派にいってみせる? おれはいつでも大勢の前でもいう元気があるぞ!………」
「どうだか至極あやしいものだ」シャートフはちょっとからかっておいて、わたしに聞いてみろというようにうなずいて見せた。
「怪しいって?」
「おれの考えでは怪しいよ」
「怪しいか?」
「ええ、早くいっちまえ、もしご主人の鞭が怖くないのならだよ……貴様のような臆病者が大尉でござるなんて!」
「おれは……おれは……彼女《あれ》は……あれというのは……」大尉は興奮した慄え声で、吃り吃りいいだした。
「ふん?」シャートフは耳を突き出した。
 少なくとも三十秒ばかり沈黙がつづいた。
「ひーとーでなし!」とうとう、こういう声が戸の外で響くと、大尉は素早く階下《した》のほうへ引き退ってしまった、まるでサモワールのようにふうふうと息をつきつき、一段ごとに足を踏み外して、騒々しい音を立てながら。
「駄目だ、あいつはずるいよ。酔っぱらってもうっかり口はすべらさないや」とシャートフは戸の傍を離れた。
「あれはいったいどうしたんだね?」とわたしはたずねた。
 シャートフは面倒くさそうに片手を振って、戸を開けながら、また梯子段のほうへ耳を澄まし始めた。長いことじっと聞き耳を立てて、幾段かそっと降りてまでみた。が、とうとう引っ返して来て、
「なんにも聞こえない、喧嘩もしていない。大方いきなりぶっ倒れて、往生しやがったんだろう。きみももう出かける時刻だよ」
「ねえ、シャートフ君、いったい今夜のことはどう結論すればいいのだろう?」
「ええ、どうでも勝手に結論したらいいさ!」と彼は疲れた気むずかしそうな声で答えると、そのまま自分のテーブルの前に腰をおろした。
 わたしはここを辞し去った。一つのほとんどありうべからざる想念が、しだいにわたしの心中に根を張って行った。わたしは明日の日を思って心を曇らした。

[#6字下げ]7[#「7」は小見出し

 この『明日の日』、つまりスチェパン氏の運命が永久に決せらるべき日曜日は、本記録において特筆大書すべき日であった。それは意想外な出来事の重畳した日である、古き疑惑が解けて、さらに新しき疑惑が結ばれた日である。思いがけない事実の暴露された日である、なおいっそう不可解な疑惑を生んだ日である。読者もすでに知らるるとおり、朝はヴァルヴァーラ夫人のもとへ、夫人自身の名ざしで、スチェパン氏を同道して行かねばならないし、午後の三時にはリザヴェータ嬢のところへ行って話をしたうえ(なんの話をするのか自分でもわからないが、彼女に力を貸さなければならなかった(何事で力を貸すのか)、これも自分自身わからないのである)[#「(何事で力を貸すのか)、これも自分自身わからないのである)」はママ]。ところが、すべてはだれひとり想像もしなかったような解決を告げた。てっとり早くいうと、それは不思議なほどいろいろな偶然の重なり合った日である。
 まずこの日の幕あきとして、わたしがスチェパン氏同道で、指定どおり正十二時に、ヴァルヴァーラ夫人のもとへ出かけたところ、夫人はうちにいなかった。まだ礼拝式から帰らないのであった。哀れな友はこれだけのことにも、もうどきりとするような気分になっていた、というより、むしろそれほど心が乱れていたのである。彼はほとんど力抜けがしたように、べたりと客間の肘掛けいすに腰をおろした。わたしは水を一杯飲むようにすすめたが、彼は顔色があおざめて、手がぶるぶる顫えるにもかかわらず、毅然としてそれをしりぞけた。ついでにいっておくが、この日の彼のいでたちは、すっきりと垢抜けがしていた。舞踏会にでも着て出そうな繍いのある精麻《バチスト》のワイシャツ、白いネクタイ、手に持った新しい帽子、麦藁色をした新しい手袋、おまけにあるかないかほど香水をつけている。わたしたちが座につくやいなや、シャートフが侍僕に導かれて入って来た。公式の招待を受けて来たのは、いわずと知れている。スチェパン氏は立ちあがって、手を差し伸べようとしたが、シャートフはわたしたち二人を注意深く眺めた末、くるりと体をそらして、片隅に腰を下ろしたまま、わたしたちには首を振って会釈しようともしなかった。スチェパン氏はまたおびえたように、わたしに目交ぜした。
 こうしてわたしたちはまた幾分かの間、ぜんぜん沈黙のうちに過ごした。突然スチェパン氏は恐ろしく早口に何やらささやき始めたが、はっきり聞き分けることができなかった。それに、当人も興奮のあまり、しまいまでいいきらないうちにやめてしまった。もう一ど侍僕頭が入って来て、何やらテーブルの上のものを直し始めた。きっとわたしたちの様子を見に来たのであろう。シャートフは、ふいに大きな声でこの男に話しかけた。
「アレクセイ・エゴールイチ、お前知らないかね、ダーリヤは奥さんといっしょに出かけたろうか?」
「奥さまはお一人で教会へお出かけでございまして、ダーリヤさまは二階のお居間に残っていらっしゃいます。どうもお気分が勝れないとか申されまして」とアレクセイはうやうやしくもったいぶった調子で報告した。
 哀れな友は、またもや落ちつかぬ心配らしい様子で目くばせをした。で、わたしはとうとうそっぽを向いてしまった。と、ふいに車寄せで馬車の轟きが聞こえ、家の中のどこか遠いところで、ざわざわと騒ぎ始める気配がするのは、明らかに女主人が帰って来たに相違ない。わたしたち一同は肘掛けいすから躍りあがった。しかし、ここでもまた思いがけないことが起こった。部屋の外に聞こえる大勢の足音は、夫人が一人きりで帰ったのではないことを語っていた。けれど、この時刻をわたしたちに指定したのは当の夫人であるから、この場合いくぶん奇妙に感じられた。とうとうだれやら不思議なほど足早に、ほとんど駆け出さないばかりに入って来る足音が聞こえた。しかし、ヴァルヴァーラ夫人があんな入り方をするはずがない。と思っているうちに、夫人ははあはあと息を切らしながら、恐ろしい興奮のていで部屋の中へ飛び込んだのである。その後から少し後れて(ずっと静かな足取りで)、リザヴェータが入って来た。しかも、そのリザヴェータと手を取り合って、マリヤ・レビャードキナが入って来るではないか! わたしは、たとえこんな光景を夢で見ようとも、しょせんほんとうにはできなかったろう。
 この意想外きわまる出来事を説明するためには、どうしても一時間前へ逆戻りをして、教会でヴァルヴァーラ夫人の身の上に起こった、なみなみならぬ事件を詳しく物語らねばならない。
 第一番にいっておくが、礼拝式の始まる前に、ほとんど町じゅうのもの、――といっても、町の上流社会をさすのはむろんである、――が教会に集まっていた。一同は、新知事夫人が町へ到着後、きょう初めて顔を出すことを知っていた。ついでに断わっておくが、彼女が『新しい主義』をいだいた自由思想家だという噂もすでにあまねく市中へ広まっていたのである。また彼女がなみなみならぬ趣味をもって、見事な装いを凝らして来るということも、婦人仲間へ知れ渡っていたので、この日の婦人たちの服装は一際すぐれて華美《はで》やかに、優雅なものであった。ただヴァルヴァーラ夫人のみは、いつものとおり黒ずくめの、つつましやかななりだった。夫人は最近四年間どこへ出るにも、つねにこのいでたちであった。教会へ着くと、夫人は左手の第一列に当たる、いつもの自分の場所に腰を掛けた。しきせを着た従僕は、夫人が膝をついて礼拝する時に使うビロードのクッションを足もとに置いた。つまり、万事がいつものとおりに運んだのである。けれど、この日夫人が式の間じゅう、なんだか恐ろしく熱心に祈念を凝らしているのに、一同気がついたのは事実である。後でこのことを思い出した時、涙が夫人の目に浮かんでいたというものさえあった。やがて祈祷式がすんでから、わがパーヴェル神父が、いつものとおり荘重な説教を試みるために、しずしずと教壇へ進み出た。町の人は彼の説教を愛し、また非常にそれを尊重していた。中には刊行をすすめるものさえあったが、それでも、彼はそれを実行する決心がつかなかった。この日の説教は、なんだかとりわけて長かった。
 ところが、この説教の間に一人の婦人が、辻待ちの軽車《ドロシキー》を飛ばして、会堂へ乗りつけた。それは旧式な型の馬車で、婦人なぞは、横のほうにちょこんと坐って、馭者の帯につかまりながら、車台の動揺のため、風に弄ばれる野草のように、揺られていなければならない。そういったような種類のものであった。こういうふうな百姓馬車が、いまだに市中をうろうろしている。会堂の角へ車を止めると、――門のところにはたくさん車が待っているうえに、憲兵まで立っていたから、――婦人は車から飛び降りて、馭者に四コペイカの銀貨を渡した。
「どうしたの、少ないとでもいうのかね、ヴァーニャ」馭者のしかめ面を見て、彼女はこう叫んだ、「それがわたしのありったけなんだよ」と憫れっぽい調子でつけ足した。
「仕方がない、勝手にするがいいや、相場を決めずに乗せたもんなあ」と馭者は片手を振った。そして『お前のような女に恥を掻かすのは罪だあね』とでも考えるようなふうで、じっと彼女を見つめた。
 それから革の財布を懐ろへ押し込むと、近くに待っている馭者連の嘲笑に送られながら、馬に鞭うって駆け去った。婦人が、たくさんな馬車や、あるじの帰りを待ち受けている従僕の間を縫って、会堂の門へ進んでゆく間、嘲笑や驚異の声すらも彼女のうしろから送られた。実際、どこからともなく突然、往来の人混みに立ったこの婦人の出現には、すべての人にとって思いがけない、異常なあるものが感じられたのである。彼女は病的に痩せこけて、足はびっこを引いている上に、思い切って白粉や頬紅をつけている。そして、晴れてこそいるけれど風のある寒いこの九月の日に、古いじみな着物一枚っきりで、頭巾《プラトーク》も巻かなければ羽織《ブルヌース》も引っ掛けず、長い頸をまるでむき出しにしている。そして、帽子も何もかぶらない頭には、小さな髷を後のほうにくっつけて、柳祭([#割り注]復活祭の前の日曜日、キリストがエルサレムに入った時、柳の枝を撒いて迎えられたのを記念する祭である[#割り注終わり])のとき天使の飾りに使うような、造花の薔薇が挿してあった。ゆうベマリヤを訪問した時、この柳祭の天使、――紙の薔薇の冠を被った天使が、片隅の聖像の下にあったのをわたしは覚えている。おまけに、この婦人はつつましげに目を伏せてはいたが、それと同時に楽しげな、狡猾らしい薄笑いを浮かべながら、歩いて行った。もし彼女がいまちょっとぐずぐずしていたら、とても中へ入れてもらえなかったろう……しかし、彼女は運よく会堂の中へすり抜けて、気づかぬように前へ進み出たのである。
 説教はまだ半分くらいのところで、会堂いっぱいにぎっちり詰まった群衆は、張り切った注意を傾けながら、ひっそりと静まり返って聞いていた。しかしそれでも、いくつかの目は好奇と怪訝の色を浮かべながら、入り来る女のほうへ向けられた。彼女は会堂の床に倒れ伏して、白く塗った顔を低く垂れたまま、長い間じっとしていた。どうやら泣いていたものらしい。が、ふたたび顔を上げて、膝を起こすと、とつぜん急に気を持ち直して、あたりのものに興味を持ち始めた。そして、さもさも面白そうな様子で、楽しげに人々の顔や会堂の壁に視線をすべらすのであった。中でも二、三の婦人の顔には非常な興味を感じたらしく、一生懸命に見入ったばかりでなく、わざわざ爪立ちまでするのであった。また二度ばかりひひひと、奇妙な声さえ立てて笑いだした。
 そのうち説教もすんで、十字架が持ち出された。県知事夫人は第一番に十字架のほうへ進んで行ったが、ヴァルヴァーラ夫人に道を譲る考えらしく、いま二足というところで急に足をとめた。ヴァルヴァーラ夫人は、まるで自分の前に人がいるのに気づかないように、ぐんぐんと真っ直ぐに、同じく十字架のほうへ近寄った。こうした知事夫人のなみなみならぬへりくだった態度が、一種皮肉な、見え透いたあてこすりを蔵しているのは、疑う余地もないくらいであった。ともあれ、一同はこういうふうに解釈したし、またヴァルヴァーラ夫人も同様にとった筈である。けれど、依然として何者にも目をくれず、すこしも動ずることのない威厳を示しながら、彼女は十字架に接吻して、そのまま入口のほうへ足を向けた。しきせを着た従僕が夫人の行く手を清めたが、そうしなくとも群衆は自分のほうから道を開いた。ちょうど入口の傍らなる玄関には、ぎっちりと一塊りになった群衆が、ちょっとのま道をさえぎったので、ヴァルヴァーラ夫人は足をとめた。と、ふいに奇怪な、異常な一人の人間が、――紙の薔薇を頭につけた一人の女が、群衆の間をすり抜けて、夫人の前にひざまずいた。容易なことでものに動じないヴァルヴァーラ夫人は(人前ではことにそうであった)、ものものしくいかつい目つきでそのほうを見据えた。
 ここでできるだけ簡単にいっておくが、近頃ヴァルヴァーラ夫人は度はずれに勘定だかくなって、すこしけち臭いくらいになってしまったが、時としては、慈善事業などに金を惜しまないこともあった。彼女は都のさる慈善会の会員になっていて、せんだっての饑饉年に、ペテルブルグの罹災民救助委員会へ五百ルーブリ送った時など、町でもだいぶ噂に上ったくらいである。ごく最近、新知事の任命前に、町内ばかりでなく、全県内における貧しい産婦の扶助を目的とする一つの地方婦人会を設立しようとして、ほとんどその運びまでつけていた。町の人たちは彼女の虚栄心が強いのをはげしく攻撃したが、何事も最後まで押し通さねばやまぬ夫人の執拗な性格は、ほとんどすべての障碍に打ち勝ちそうな勢いを示した。会はもう九分どおり設立の運びにいたった。そして、最初の計画は、発起者の感奮にみちた空想の中で、しだいに規模を広げてゆくのであった。彼女は同様な会をモスクワへ設立するだの、会の事業をだんだんと各県に広めてゆくだの、そんなことまで空想したのである。ところが、知事の更迭とともに、すべてはちょっと中止の形となった。しかも、新知事夫人は、こうした委員会に対する根本思想が非実際的だといって、皮肉ではあるけれども肯綮に当たった、実際的な意見を社交界で述べたとのことである。もちろんこれは尾に尾をつけて、ヴァルヴァーラ夫人へ伝えられた。人の心の深みを知るものは神様ひとりだけであるが、今ヴァルヴァーラ夫人は一種の満足すら覚えながら、会堂の入口に立ちどまった。それは今すぐ自分の傍を、新知事夫人を先頭に、一同のものが通り過ぎるのを承知していたからである。『あの女がなんと思おうと、またわたしの慈善事業についてどんな皮肉をいおうと、わたしにとっては、痛くも痒くもないってことを、よく見せておいてやらなくちゃ。さあ、みんな見物するがいい!』
「どうしたの、お前さん、どんなお願いなの?」とヴァルヴァーラ夫人は自分の前にひざまずいている無心ものをじっと注意ぶかく見つめた。
 こちらは恐ろしくおびえた恥ずかしそうな、とはいえ、うやうやしげな目つきで夫人を見上げたが、とつぜん例の奇怪な声を立てて、ひひひと笑い出した。
「この女は何者です。この女はだれです?」
 ヴァルヴァーラ夫人は命令するような、不審げな目つきで、あたりに居合わす人々を見廻したが、一同は黙然としていた。
「あなたは不仕合わせなの? お前さん合力がいるの?」
「わたしは困っているのでございます……わたしは……」と『不仕合わせな女』は興奮に途切れがちな声でいった。「わたしはただあなた様のお手が接吻したさにまいりました……」彼女はまたひひと笑った。
 そして、まるで子供が何かねだりながら甘える時に見せるような、思い切って無邪気な目つきをして、彼女は体を伸ばしながら、夫人の手を取ろうとした。が、急に何かぎょっとしたようなふうで、いきなり両手をうしろへ引いてしまった。
「ただそのためにここへ来たの?」ヴァルヴァーラ夫人は、痛ましそうな微笑を浮かべたが、すぐに手早くかくしから玉虫貝の色をした金入れを取り出して、中から十ルーブリ紙幣《さつ》を抜き取ると、それをこの見知らぬ女に渡した。
 こちらはそれを受け取った。ヴァルヴァーラ夫人はただならぬ好奇心を呼びさまされたらしい。この女がただの賤しい無心ものとは思われなかったので。
「見ろ、十ルーブリやったぜ」とだれか群衆の中でこういうものがあった。
「どうぞお手を貸してくださりませ」と『不仕合わせな女』は覚束ない口調でいった。その手には、受け取ったばかりの十ルーブリ紙幣の端っこが、指の間にしっかり挟まったまま、風にひらひら躍っている。
 ヴァルヴァーラ夫人はなぜかちょっと眉をひそめたが、真面目な、ほとんど厳めしいくらいな顔をして、片手を差し出した。と、こちらは、敬虔の色を顔に浮かべながら、それに接吻した。感謝にみちた双の目は、一種歓喜の光に輝いていた。ちょうどこのとき知事夫人が近づいた。すると、それに続いて町の貴婦人連や、高官たちの一隊がどやどやと流れ出た。知事夫人はしばらくの間、いやでも狭苦しいところに立っていなければならなかった。多くの人々は立ちどまった。
「あなた、寒いんですか、慄えてますね」ふいにヴァルヴァーラ夫人は気がついて、こういった。
 彼女は身にまとっている外套をするりと脱いでほうり出すと(これは従僕が宙にひらりと受け止めた)、なかなか安くないらしい黒のショールを肩から外して、やはり膝を突いたままでいる無心もののあらわな頸に手ずから巻きつけてやった。
「ねえ、お立ちなさいよ、膝を立ててくださいったら、後生ですから!」
 こちらは立ちあがった。
「あなたどこに住まってるの? 本当にいったいだれもこの女の住まいを知らないのかねえ?」ヴァルヴァーラ夫人はじれったそうに、もう一度あたりを見廻した。
 が、以前の群衆は最早いなかった。そこに見えるのはすべて見覚えのある、上流の人の顔ばかりであった。ある者はいかめしい驚きの色を浮かべ、ある者はずるそうな好奇の表情とともに、金棒引きらしい無邪気な熱心を示しながら、この光景を見まもっていた。中にはもう、くすくす笑い出すものさえあった。
「これはどうやら、レビャードキンの家の者らしゅうございますな」やっと一人の男が夫人の問いに対して、進んでこう答えた。これは町でも多くの人から尊敬を受けている、アンドレーエフという立派な商人で、胡麻塩の顎ひげをたくわえ、眼鏡を掛け、ロシヤふうの長い服を着て、ふだん円いシルクハット式の帽子を被っていたが、今はそれを手に持っていた。「あの兄妹《きょうだい》はボゴヤーヴレンスカヤ街の、フィリッポフの家に住まっております」
「レビャードキン? フィリッポフの家? わたしなんだか聞いたことがあるようだ……ありがとう、ニーコン・セミョーヌイッチ、だけど、そのレビャードキンというのは何者ですの?」
「ふつう大尉大尉といっておりますが、どうも乱暴な男と申さなければなりませんな。ところで、これはきっとその妹でござりましょうが、おおかたいま監督の目を盗んで、脱け出したものに相違ありませんて」アンドレーエフは声を落としながらこういって、意味ありげにヴァルヴァーラ夫人の顔を見つめた。 
「わかりました、ニーコン・セミョーヌイッチ、ありがとう。では、なんですね、あなたはレビャードキナさんですね?」
「いいえ、わたしはレビャードキナではございません」
「じゃ、兄さんがレビャードキンなのでしょう?」
「兄はレビャードキンでございます」
「じゃ、こうしましょう。わたしこれから、あなたをいっしょに家へ連れてってあげましょう。そして、家からあなたのところへ送らせますからね。あなたわたしといっしょに行きたくはありませんか?」
「ああ、行きとうございますとも!」レビャードキナ嬢は、両手をぱちりと鳴らした。
「小母さま、小母さま! あたしもいっしょに連れてってくださいまし」ふいにこういうリザヴェータの声が響いた。
 ちょっとついでにいっておくが、リザヴェータは知事夫人といっしょに礼拝式へやって来たので、母のプラスコーヴィヤは医者の指図にしたがって、その間に馬車で一廻りして来ることにした。そして、気を紛らすために、マヴリーキイを連れて行ったのである。ところが、リーザはとつぜん知事夫人を棄てて、ヴァルヴァーラ夫人のほうへ駆け寄った。
「ああ、リーザ、わたしはいつでもあんたに来てもらいたいんだけれど、お母さんがなんというだろうねえ?」とヴァルヴァーラ夫人はもったいぶった調子でいいかけたが、一通りでないリーザの興奮に気がつくと、急にまごついてしまった。
「小母さま、小母さま、あたし今日はぜひごいっしょにまいりますわ」リーザはヴァルヴァーラ夫人を接吻しながら、哀願するようにこういった。
「Mais qu'avez vous donc, Lise(それはまあ、どうしたというのです。リーザ)」と知事夫人は表情たっぷりの驚きを示しながらいった。
「あら、失礼しましたわね、あなた、〔che`re cousine〕(親愛な従姉)あたしお母さまのところへまいりますの」不快な驚きの色を見せている|親愛な従姉《シエールクジーヌ》のほうへ、あわてて振り向きながら、リーザは、二度まで接吻した。「そして、お母様にもそういってくださいましな、すぐ小母さまのところへ迎えに来てくださいってね。お母さんもぜひぜひお訪ねしたいって、つい先刻も自分で話したくらいですの。あたしついお断わりしておくのを忘れましたけれど」リーザは夢中になって弁じた。「ほんとに失礼しましたわね、怒らないでくださいね、ジュリー([#割り注]ユリヤのフランス式な呼び方[#割り注終わり])|親愛な《シエール》……従姉《クジーヌ》……小母さま、あたしいつでもよろしゅうございますよ!」
「小母さま、もしあたしを連れてってくださらなければ、あたしあなたの馬車のうしろを追っかけて、走りながらどなりますわ」ほとんどヴァルヴァーラ夫人の耳もとへ口を寄せるようにしながら、リーザは前後を忘れた調子で、早口にささやいた。
 いいあんばいに、だれもこれを聞いたものはなかったけれど、ヴァルヴァーラ夫人はたじたじと後へすさりながら、刺すような目つきでこの気ちがいじみた娘を見つめた。この一暼がいっさいを決したのである。彼女はぜひともリーザを連れて行こうとはらを決めた。
「こんなことはもういい加減に片をつけてしまわなくちゃならない」と夫人は思わず口をすべらしたが、すぐまたこうつけ足した。「よござんす。わたしよろこんであなたを連れてってあげましょうよ、リーザ。だけど、ユリヤ・ミハイロヴナが行ってもいいとおっしゃるならばですよ」と夫人は公明な態度で、真っ正直な威厳を示しながら、知事夫人のほうへぴたりと向き直った。
「ええ、よろしゅうございますとも、わたしはリーザの満足を奪おうとは思いません。それに、わたし自身でも……」驚くばかり愛想のいい調子で、ユリヤ夫人がいい出した。「わたし自身もよく……ぞんじています。お互いにとっぴなわがまま嬢さんの監督を引き受けてるのでございますからね」(ユリヤ夫人はあでやかにほほえんだ)……
「まことにありがとうございます」ヴァルヴァーラ夫人はうやうやしい、もったいぶった会釈をもって謝辞を述べた。
「それに、ことさらわたしが快く思いますのは」とユリヤ夫人は心地よい興奮に顔を真っ赤にしながら、夢中になっておしゃべりを続けた。「リーザはお宅へ伺うという喜びのほかに、美しい高尚なといってもいいくらいな感情、――つまり、同情の念に前後を忘れてしまったのでございます――(夫人はちらと『不仕合わせな女』を尻目にかけた)……しかも……しかも、会堂の戸口でございますからね……」
「あなたが美しい心を持っていらっしゃることは、そのお言葉でわかりますよ」とヴァルヴァーラ夫人は見事な態度で讃辞を述べた。
 ユリヤ夫人は大急ぎで手を差し伸べた。すると、ヴァルヴァーラ夫人もきさくに、指でちょっとその手に触った。全体の印象は申し分なかった。その場に居合わした二、三の人々の顔は満足に輝いて、中には甘ったるい媚びるような微笑も、そこここに見受けられた。
 手短かにいうと、町じゅうのものが忽然として、ある一つの事実を発見したのである。つまり、今までユリヤ夫人のほうがヴァルヴァーラ夫人をないがしろにして、訪問を怠っていたのでなく、かえってヴァルヴァーラ夫人が知事夫人に対して、城壁をかまえているのであった。知事夫人などは、もしヴァルヴァーラ夫人がけっして玄関払いをくわさないということさえわかったら、馬車にも乗らないで訪問に駆け出したに相違ない。こういうことが明瞭になって、ヴァルヴァーラ夫人の権威は、九天の高みに上げられたのである。
「さあ、お入んなさいな、あなた」ヴァルヴァーラ夫人は、近寄って来る箱馬車を指さしつつ、レビャードキナ嬢に向いてこういった。
『不仕合わせな女』は嬉しげに戸口へ駆け寄った。と、その傍に立っていた従僕が、彼女の体を支えてやった。
「えっ! あんたびっこを引いてるの!」ヴァルヴァーラ夫人はぎっくりしたようにこう叫ぶと、そのまま真っ青になってしまった(一同はその時これに気がついたけれど、なぜともわからなかった)。
 馬車は軋り始めた。ヴァルヴァーラ夫人の住家は会堂から近かったが、リーザが後で話したところによると、レビャードキナはこの馬車中の三分間ばかりというもの、ヒステリイの発作でも起こしたように笑い通していた。ところが、ヴァルヴァーラ夫人は、『催眠術にでもかかったみたいに』(これはリーザ自身の言葉なので)、じっと腰を掛けていたとのことである。

[#3字下げ]第5章 賢《さか》しき蛇[#「第5章 賢《さか》しき蛇」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 ヴァルヴァーラ夫人はベルを鳴らして、窓際の肘掛けいすへ身を投げだした。
「ここへお坐んなさい、さあ」と夫人はマリヤ・レビャードキナに、部屋の真ん中にある大きな円卓《テーブル》の傍の席を指さした。「スチェパン・トロフィーモヴィチ、これはいったいなんですの? ほら、ほら、あの女をご覧なさい、これはいったいなんですの?」
「わたしは……わたしは……」とスチェパン氏は吃り吃り何かいいかけた。
 が、そこへ従僕が入って来た。
「コーヒーを一杯、今すぐ、少しでも早いほうがいいんだからね! 馬はまだ車から放さないでおおき」
「〔Mais, che`re et excellente amie, dans quelle inquie'tude!〕……(しかし、親愛にして優れたる友よ、こんな心配ごとの最中に)」とスチェパン氏は消えも入りそうな声で叫んだ。
「ああ、フランス語だ、フランス語だ! 上流の社会だってことがすぐ知れる!」マリヤは両手を鳴らしながら、感に堪えたようなふうで、フランス語の会話を聴く身がまえをするのであった。
 ヴァルヴァーラ夫人はほとんど怯えたように、じっと彼女の顔を見据えた。
 一同はこの縺れがどんなふうに解けるかと、無言に待ちかまえていた。シャートフは依然として首を上げないし、スチェパン氏は何もかも自分ひとり悪いかなんぞのように、妙にへどもどしてしまって、こめかみに汗を滲ませている。わたしはそっとリーザを見やった(彼女はほとんどシャートフと押し並ぶようにして、隅っこのほうに坐っていた)。彼女の目はヴァルヴァーラ夫人からびっこの女へ、びっこの女から夫人のほうへと鋭く動きつづけるのであった。その唇には歪んだような微笑が浮かんでいたが、それはたちの悪い微笑だった。ヴァルヴァーラ夫人もこれに目を留めていた。その間、マリヤはすっかり夢中になっていた。彼女はさも愉快そうに、ヴァルヴァーラ夫人の見事な客間、――さまざまな室内家具、絨毯、四壁の額、模様つきの古風な天井、片隅にある大きな青銅のキリスト磔刑像、陶器《せと》のランプ、アルバム、卓上の小道具などを、臆面もなくじろじろ見廻すのであった。
「おや、お前さんもここにいたの、シャートゥシカ!」と、彼女はとつぜん叫んだ。「まあ、どうだろう、わたし前からお前さんの顔を見ていながら、いやいや、あの人じゃないと思ってたんだよ! どうしてここへ来たの?」
 こういって陽気に笑い出した。
「あなたこの女を知ってるんですの?」さっそくヴァルヴァーラ夫人が彼のほうへ振り向いた。
「知っています」とシャートフは口の中でつぶやいて、椅子を離れようとしかけたが、またそのまま落ちついた。
「何を知ってらっしゃるの! どうか早くいってちょうだい」
「何をって……」彼はにやりと要もない薄笑いを洩らすとまた口ごもった。「ご自分でご承知でしょう……」
「何を承知してるんです? さあ、何かお話しなさいよう?」
「ぼくと同じ家に住まってるのです……兄貴といっしょに……ある将校ですがね」
「それで?」
 シャートフはまた口ごもった。
「お話する価値がないです……」口の中でこうつぶやくと、もう断然口をつぐんでしまった。そして、自分の決然たる調子のために、顔を真っ赤にしたほどである。
「むろん、あなたなんぞそれ以上あてになりませんさ!」とヴァルヴァーラ夫人はぷりぷりしながら、断ち切るようにいった。
 みんなが何やら知っているくせに、妙にびくびくして自分の質問を避けようと努め、何か自分に隠そうとしているのは、もはや夫人にとって明瞭なことだった。
 従僕が入って来て、小形の銀盆にのせた特別注文のコーヒーを夫人の前へすすめたが、すぐに夫人の仕方を見て取って、マリヤのほうへ進んで行った。
「あんた、さっき大そう慄えておいでだったから、早くそれを飲んでお温まりなさいよ」
「|ありがとう《メルシイ》」といって、マリヤは茶碗を取った。
 が、召使にメルシイといったのに気がついて、いきなりぷっと噴き出した。けれども、ヴァルヴァーラ夫人の恐ろしい目つきに出あうと、急にしおしおとなって、茶碗をテーブルの上へ置いた。
「小母さん、あなた怒っていらっしゃるのじゃありませんか?」なんだか妙に軽はずみなふざけた調子で、彼女はこういった。
「なあんだって?」とヴァルヴァーラ夫人は、覚えず躍りあがらぬばかりに、肘掛けいすの上で身をそらした。「どうしてわたしがあんたの小母さんになるの? どういうつもりであんなことをいったの?」
 マリヤは、こう怒られようとは思いも寄らなかったので、まるで発作でも起こしたように、小刻みにぴくりぴくり慄えながら、よろよろと肘掛けいすの背に倒れかかった。
「わたし……わたしはそういったほうがいいかと思いましたので」といっぱいに目を見はって、ヴァルヴァーラ夫人を見つめながら、彼女は吃り吃りつぶやいた。「リーザもそうお呼びになりましたもの……」
「おまけに、またリーザなんて、だれのこと?」
「このお嬢さまでございます」と彼女はリーザを指さした。
「じゃ、このひとはもうお前さんにとって、ただのリーザになってしまったの?」
「だって、あなたご自分で、さきほどそうお呼びになりましたもの」マリヤはいくぶん元気づいて来た。「わたしちょうどこういうふうな美しい方を、夢に見たことがございます」と彼女はわれともなしに笑みを洩らした。
 ヴァルヴァーラ夫人は何やら思いめぐらしていたが、いくぶん心が落ちついて来た。マリヤの最後の言葉を聞いた時には、ちょっとかすかにほほえんだほどである。こちらはその微笑に気がつくと、肘掛けいすから立ちあがり、びっこを引きながら、おずおずとその傍へ寄った。
「どうぞこれを。お返しするのを忘れておりました。無作法ものにお腹立ちのないように」先ほど夫人に着せてもらった黒いショールを、ふいに彼女は肩からはずした。
「いえ、それはすぐまた巻いてちょうだい、もうしじゅうもっててかまわないんだから。さあ、行ってお坐んなさい、そして、コーヒーでもお飲みなさいよ。ね、どうかわたしを恐れないで、落ちついてちょうだい。わたしだんだんあんたがわかって来ましたよ」
「〔Che`re amie〕(親愛な友よ)……」とスチェパン氏はまた口を出しかけた。
「ああ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、このことはあなたがいなくってさえ、何が何やらわからないんですよ。せめてあなただけでも遠慮してくださいな……それよりも、どうぞあなたの傍にある、女中部屋のベルを鳴らしてくださいませんか」
 沈黙がおそった。夫人の視線は、うさん臭そうにいらいらとわたしたち一同の顔をすべって行った。アガーシャ、――夫人の気に入りの小間使が姿を現わした。
「わたしの格子縞の肩掛けを頂戴、あのジュネーヴで買ったのさ。ダーリヤは何をしてるの?」
「あまりお気分がお勝れにならないようで」
「お前、行ってね、ここへ来るようにいっておくれ。そして、加減が悪いかもしれないが、ぜひ来てほしいと念を押すんだよ」
 この瞬間、次の間でまたしてもさきほどと同じような、なみなみならぬ足音や人声が騒々しく聞こえた。とふいに『取り乱した』プラスコーヴィヤ夫人が、はあはあと息を切らしながら、閾の上に現われた。マヴリーキイがその手を支えていた。
「やれやれまあ、やっとここへ着いた。リーザ、お前はお母さんをどうする気だえ、本当に気ちがいだ!」と彼女は叫んだが、すべて弱いくせに癇の強い人の常として、積もり積もった癇癪を、この金切り声ですっかり吐き出そうとするのであった。
「ねえ、あんた、ヴァルヴァーラさん、わたしは娘をもらいに来ましたよ!」
 ヴァルヴァーラ夫人は額ごしにちらとそのほうを見ると、出迎えのしるしに半ば腰を持ち上げながら、いまいましさを隠そうともせずにいった。
「ご機嫌よう、プラスコーヴィヤさん、後生だから、まあお坐んなさいよ。いずれお見えになるだろうと思ってましたよ」

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 プラスコーヴィヤ夫人にとっては、こういうもてなし振りも、べつだん意外なことではなかった。ヴァルヴァーラ夫人はごく小さな娘時分から、この同窓の友を横暴に取り扱っていた。そして、仲がいいというのを見せかけにして、ほとんど馬鹿にしないばかりの有様であった。しかし、今の場合は、ある特別な事情が潜んでいた。前にもちょっといっておいたとおり、この二軒の家の間には、恐ろしいひび割れが生じ始めたのである。この不和の原因はまだ今のところ、ヴァルヴァーラ夫人には合点がゆかなかったが、それだけ余計にいまいましく感じられた。が、何よりいまいましいのは、プラスコーヴィヤが急に恐ろしく大ふうな態度を取り出したことである。ヴァルヴァーラ夫人はもちろん感情を害してしまった。その間にまたいろいろな風説が耳に入って来たが、それがみな茫としてとりとめのないために、ますます夫人の心をいらだたした。ヴァルヴァーラ夫人は一本気で、勝気で、開けっ広げな生まれつきで、万事につけてがむしゃらなところがあった(もしこんな言い方が許されるならば)。陰に隠れて人の悪口をいうようなことは何よりも嫌いなので、常に正々堂々の戦いを好んだ。が、何にもせよ、両夫人はもう五日ばかり顔を合わさなかったのである。最後に訪問したのはヴァルヴァーラ夫人のほうであったが、夫人はそのとき当惑げな立腹の様子で、『ドロズジーハ』([#割り注]ドロズドヴァを侮蔑した呼び方[#割り注終わり])のもとを立ち去った。
 わたしは間違いなくこう断言しておく。今プラスコーヴィヤ夫人はなぜか知らないけれど、ヴァルヴァーラ夫人が自分に対してびくびくしなければならぬはずだと、単純に信じきってやって来たのである。これはもう夫人の顔の表情でわかっていた。しかし、ヴァルヴァーラ夫人は、自分が人から踏みつけにされたという疑いが、いささかでも心の中に生じると、たちまちむらむらと倨傲な憤怒に、全幅を領せられるような性質の婦人であった。ところが、プラスコーヴィヤ夫人は、弱い人間の常として、長いあいだ一言の抗議も試みないで、他人の侮蔑に身をまかせているくせに、いったん自分にとって有利な局面展開を見るやいなや、突然いきおい猛に敵に躍りかかるという特性を持っていた。それに、彼女はいま健康を害していたが、病気の時にはいつもよけい癇が昂ぶるのも事実であった。
 最後に一ついい添えておくが、たとえこの二人の幼な友だちの間にいさかいが持ちあがるとしても、わたしたちが客間に居合わせたために遠慮して控え目にする、などということはあり得なかった。わたしたちは二人の夫人にとって内輪同士、というより、むしろ手下のように思われていたからである。わたしはその時すぐこの事実を想起して、いくぶん危惧の念すら覚えた。スチェパン氏は、ヴァルヴァーラ夫人の帰宅以来、ずっと立ったままであったが、プラスコーヴィヤ夫人の甲走った声を耳にすると同時に、ぐったりと力抜けがしたように、椅子へ腰を下ろしながら、とほうにくれて、わたしの視線を捕えようとするのであった。シャートフは椅子に坐ったままくるりと向きを変えて、口の中でぶつぶつ小言さえ洩らし始めた。彼は立ちあがって出て行こうとしているのではないかと、わたしには感じられた。リーザはちょいと心もち腰を浮かしたが、すぐ元の席に落ちついてしまった。そして、母親の叫び声に相当の注意を払おうともしなかった。しかし、それはけっして『意地悪根性』のためではなく、何かべつな力強い観念の威力に圧伏されているためらしかった。彼女はいま放心したような目つきで、どこか当てもない空を見つめながら、マリヤのほうさえも前ほど注意して見ようとはしなかった。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

「やれやれ、ここにしよう」とプラスコーヴィヤ夫人はテーブルの傍の肘掛けいすを指さしながら、マヴリーキイの助けを借りて、重々しくその上に腰を下ろした。「ねえ、ヴァルヴァーラさん、わたしはこの足さえ悪くなかったら、あんたのところに腰なんか掛けはしないんだけれど!」と、うわずった声でつけ足した。
 ヴァルヴァーラ夫人は心もち首を上げて、病的な表情をしながら、右手の指を右のこめかみに押し当てた。見受けたところ、烈しい痛み(tic douloureux)を感じているらしい。
「どういうわけなの、プラスコーヴィヤさん? どうしてわたしのところへ坐りたくないの? わたしは亡くなったあんたのご主人とは、一生涯こころ安くしていただいたし、あんたとわたしとは寄宿舎で、いっしょにお人形を持って遊んだ仲じゃないの」
 プラスコーヴィヤ夫人は両手を振った。
「またそんなことだろうと思ってた! あんたはわたしをやり込めようと思う時には、いつでも寄宿舎を持ち出しますね、――あんたの奥の手なんですよ。わたしにいわせれば、ただ口先ばかりです。わたしもうあんたの寄宿舎は我慢できません」
「あんたはどうも大層ご機嫌の悪い時にいらしったようね。足はどんなふうですの? さあ、コーヒーを持って来ました。お願いですから、一つそれでも飲んで、腹を立てるのはやめてちょうだい!」
「まあ、ヴァルヴァーラさん、あんたはわたしをまるで小さな娘っ子扱いになさるのね。わたしコーヒーなんかいやです、はい!」
 と、彼女はコーヒーを持って来た従僕にむかって、いどむような身ぶりで手を振った(もっとも、コーヒーはわたしとマヴリーキイを除《の》けて、ほかの者はみんな辞退した。スチェパン氏はいったん茶碗を手に取りかけたが、またテーブルの上に置いてしまった。マリヤはもう一杯ほしくてたまらない様子で、ほとんど手を差し伸べようとしたが、考え直して、行儀よく辞退した。そして、それがいかにも得意そうな様子だった)。
 ヴァルヴァーラ夫人は渋い薄笑いを浮かべた。
「ねえ、プラスコーヴィヤさん、あなたはきっと何かまたとんでもない妄想を起こして、それでここへやって来たんでしょう。あんたは一生涯、妄想ひとつで生きてたんですからね。現にあんたはいま、寄宿舎のことで向かっ腹を立てなすったが、ほら、覚えていますか、いつかあんたが学校へやって来て、シャブルイキンという軽騎兵があんたに結婚を申し込んだって、クラスじゅうへ吹聴したところが、マダム・ルフビュールにさっそく化の皮を剥がされたじゃありませんか。だけど、本当は、あなたが嘘をついたんじゃなくって、ただ慰み半分の妄想がつのったばかりなんですよ。さあ、いってごらんなさい、今日は何用で来たんですの? どんな妄想を起こしたの? 何がいったい不平なんですの?」
「ところが、あんたは寄宿舎時分、宗教初歩の講義をしていた牧師さんに恋したじゃありませんか。あんたが意地悪くいつまでも、あんなことを覚えてらっしゃるなら、これがわたしのご返報よ! ははは!」
 彼女は癇性らしく笑ったが、そのままはげしく咳き入った。
「へえ、あんたはまだあの牧師さんのことを忘れないでいたの……」ヴァルヴァーラ夫人は憎々しげに相手を見つめた。
 彼女の顔は真っ青になった。プラスコーヴィヤ夫人は急に威猛高になった。
「わたしはいま笑ってるどころのだんじゃありません。なぜあんたはわたしの娘を、町じゅうの人が見ている前で、あんたの穢らわしい騒ぎの中へ捲き込んでくだすったんです。わたしはそのご返答を聞きに来たんですの」
「わたしの穢らわしい騒ぎですって?」突然、ヴァルヴァーラ夫人は、恐ろしい顔つきでそり身になった。
「お母さん、あたしもやはりお願いしますから、も少し控え目にしてくださいな」とふいにリザヴェータが口を出した。
「お前なにをおいいだえ?」母夫人はまた甲走った声を立てようとしたが、ぎらぎらと光る娘の視線に射すくめられてしまった。
「どうしてお母さんは、穢らわしい騒ぎなどとおっしゃるんでしょう?」とリーザはかっとなっていった。「あたしはマリヤ様のお許しをもらって、自分でこちらへお邪魔にあがったんですわ。だって、あたし、この不仕合わせな方の身の上を聞いたうえで、なんとかしてあげたいと思ったからですの」
「『この不仕合わせな方の身の上』だって?」意地わるい笑い声とともに、プラスコーヴィヤ夫人は言葉尻を引きながらそういった。「いったいお前がそんな『身の上』にかかずらってよいものですか? ねえ、ヴァルヴァーラさん、もうあんたの専制主義はたくさんです!」と彼女は急に凄まじい勢いで、ヴァルヴァーラ夫人のほうへ振り向いた。「本当か嘘か知らないけれど、人の噂では、この町をあんたの手一つで自由に引き廻していらしったそうですが、今度はあんたも年貢の納め時が来たようですね?」
 ヴァルヴァーラ夫人はまさに弓弦《ゆづる》を放れようとする矢のように、張り切った様子をして坐っていた。そして十秒間ばかりいかつい顔をして、じっとプラスコーヴィヤ夫人を見まもっていた。
「まあ、神様にお礼をおっしゃいな、プラスコーヴィヤさん、仕合わせと、ここにいらっしゃるのは内輪の人ばかりでしたよ」ついに彼女は気味悪いくらい落ちつき払って、やっと口を切った。「あなたはずいぶん余計なことをいいましたものね」
「わたしはね、あなた、だれやらさんのように、世間体なんてものをそれほど恐れはしませんよ。高慢の仮面《めん》をかぶって、世間体ばかりびくびく気にしてるのは、そりゃあんたのこってすよ。ここにいらっしゃるのが、内輪の人ばかりだってことは、あんたにとってこそ都合がいいでしょうよ。なんといったって、赤の他人に聞かれるよりかね」
「あんたはこの一週間のうちに、だいぶん利口におなんなすったのね?」
「わたしがこの一週間で利口になったのじゃなくって、この一週間のうちに、ことの真相が暴露されたらしいんですよ」
「いったいどんな真相が暴露されたの? まあ、お聞きなさい、プラスコーヴィヤさん、どうかわたしをじらさないで、今すぐわけを話してくださいよ、わたし真面目に頼みますから。いったいどんな真相が暴露されたんですの? その言葉の裏はどういうんですの?」
「その真相は、ちゃんとそこに坐ってますよ!」とプラスコーヴィヤ夫人は突然マリヤを指さした。その様子には、もはや結果なぞ考えていられない、ただもう今すぐ相手をやり込めることができさえすればよいという、無鉄砲な決心が現われていた。
 マリヤは浮き浮きした好奇の目で、始終の様子を眺めていたが、憤怒の形相すさまじい客人が、自分に指先を突きつけた時、さも嬉しそうに笑いながら、楽しげに肘掛けいすの上で身動きし始めた。
「おお、神様、この人たちは、いったい気がちがったのでしょうか!」とヴァルヴァーラ夫人は叫んで、顔を真っ青にしながら、肘掛けいすの背へ倒れるように身をもたせた。
 夫人の顔色の変わり方があまり烈しいので、ちょっとした混乱が一座に起こったほどである。第一番にスチェパン氏が飛んで行くし、わたしも傍へ近寄った。リーザまでちょいと身を起こしたが、やっぱりそのまま坐っていた。しかし、だれよりも一番びっくりしたのは、プラスコーヴィヤ夫人である。ありったけの声を出して叫びながら、椅子から身を起こして、ほとんど泣き出しそうな声でこういった。
「ねえ、ヴァルヴァーラさん、わたしが意地の悪い馬鹿なことをいったのは勘弁してちょうだい! まあ、だれかこの人に水でもあげてくださいな!」
「後生だから、泣き声を出さないでちょうだい、プラスコーヴィヤさん、お願いよ。そして、皆さんもお願いですからひいてください。水なんかいりません!」とヴァルヴァーラ夫人は、高くはないがしっかりした声で、紫色の唇を動かしながらいった。
「あなた!」プラスコーヴィヤ夫人は心もやや落ちついてこういった。「ねえ、あなた、ヴァルヴァーラさん、あんな無考えなことをいったのは、もちろんわたしが悪かったけれど、わたしもどこかのうようよ連から無名の手紙の砲撃にあって、もういいかげん気がいらいらしてたもんですからねえ。本当に、あんたのことを書いてるんだから、あんたのとこへよこせばよさそうなもんだのに、わたしには娘があるもんですから……」
 ヴァルヴァーラ夫人はつぶらな目を見はって、言葉もなく相手の顔を見つめながら、驚きの表情をもって聞いていた。
 この瞬間、片隅の脇戸が音もなく開いてダーリヤが姿を現わした。彼女はちょっと立ちどまって、あたりを見廻した、一座の動揺にびっくりしたらしい。彼女はまだだれからも話を聞いていなかったので、すぐにはマリヤの姿に気づかなかったものと見える。スチェパン氏はまず第一に、彼女が入ったのに気がついて、もぞもぞ身を動かしながら、顔を真っ赤にした。そして、なんのためやら「ダーリヤ・パーヴロヴナ」と声高に呼びかけたので、すべての目が一時に彼女のほうへ向けられた。
「え、じゃ、この人が、お宅のダーリヤ・パーヴロヴナでいらっしゃいますか!」とマリヤは叫んだ。「ねえ、シャートゥシカ、お前さんの妹さんはあまりお前さんに似てないねえ! どうしてうちのやつはこんな美しい人を、奴隷女のダーシカなんていうんだろう?」
 ダーリヤは、もう大分ヴァルヴァーラ夫人の傍へ近寄っていたが、マリヤの叫び声にぎょっとして、つとそのほうへ振り向いた。そして、吸いつけられたような目つきで、じいっとこの気ちがい女を見つめながら、テーブルの前に立ちすくんでしまった。
「お坐り、ダーシャ」気味の悪いほど落ちついた声で、ヴァルヴァーラ夫人はいった。「もそっと近く、そうそう、坐っててもこの女は見られるだろう。お前この女を知っておいでかえ?」
「わたし一度も見たことがございません」とダーシャは低い声で答えたが、しばらく無言の後いい足した。「きっとレビャードキンとかいう人の妹で、病身の方なんでございましょう」
「あなた、わたしは今はじめて、あなたにお目にかかったばかりでございます。けれども、ずっと以前から、お近づきになりたいと思っていました。まったくあなたの立居振舞いには、立派な教育が見えております!」とマリヤは前後を忘れて叫んだ。「うちの下男は悪口をついておりますが、あなたみたいなそんな教育のある美しい方が、あれら風情の金をとるなんて、そんなことがあってよいものですか? だって、あなたは美しい方、本当に美しい美しい方ですものね、それはわたしが請け合っておきます!」と彼女は目の前で手を振り立てながら、夢中になって言葉を結んだ。
「お前このひとのいうことが少しはわかりますか?」倨傲な品位を見せながら、ヴァルヴァーラ夫人はこうたずねた。
「すっかりわかります……」
「お金のことを聞いたかえ?」
「それはまだスイスにいた頃、ニコライさまに頼まれまして、このひとの兄さんのレビャードキンに渡したお金のことでございましょう」
 沈黙がそれに続いた。
「ニコライが自分でお前に頼んだんだね?」
「ニコライさまは大変そのお金を、――みんなで三百ルーブリでございましたが、レビャードキン大尉に渡したがっていらっしゃいました。ところが、大尉の住所をごぞんじなくて、ただ大尉がこの町へ来るということだけ知っていらしったものですから、もしレビャードキンが来たら渡してくれといって、わたしにおことづけになったのでございます」
「どういう金なんだろう……失くなりでもしたのかしら? 今この女がいったのはなんのこと?」
「それはわたしにもわかりかねますが、なんでもレビャードキンは、わたしがお金をすっかり渡さなかったといって、公然ふれ歩いているという噂が、わたしの耳へも入りました。けれど、これはなんのことだか少しもわかりません。三百ルーブリ受け取ったから、三百ルーブリ送ったまででございます」
 ダーリヤはもうすっかり落ちついていたといってもよかった。それに概してこの娘は、はらの中でどう感じているにもせよ、長く彼女を苦しめたり、まごつかせたりするのは、非常にむずかしいことであった。今もあわてず騒がずいちいち答弁を述べ、すべての質問に対して、静かに、なだらかに、しかも猶予なく、正確な答えを与えるのであった。そして、何にもせよ、わが罪を自認したと解《と》られるような、ふいを打たれた惑乱や困惑は、陰すら見せなかった。彼女の話している間じゅう、ヴァルヴァーラ夫人の視線は寸時もその顔を離れなかった。ヴァルヴァーラ夫人はしばらく考えていた。
「もしも」夫人は断固たる調子でとうとうこういい出した。その目はダーシャ一人を見ているだけであったが、明らかに一同を対象においているらしかった。「もしニコライがその用事をわたしにさえ相談しないで、お前に頼んだというのなら、それにはそうするだけのわけがあったんでしょう。またそれをわたしに隠したいというのなら、わたしもそれを詮索する権利を持っていません。けれど、お前がそれに関係しているということ一つだけで、わたしはまったく安心することができます。これは何より一番に承知してもらいたいことなの。けれどもね、たとえお前は清い心を持っているとしても、まだ世間というものを知らないから、何かとんでもない不用意をしでかさないとも限らないよ。現にどこの馬の骨だか知れぬ男とかかりあいをつけたのは、まったく一つの不用意です。あのやくざ者が触れ廻している噂は、お前の失策を裏書きしてるじゃないか。けれど、あの男のことはわたしが調べ上げる。わたしはお前の保護者だから、わたしが立派にお前の加勢をしてあげるよ。けれども、さし向きこんなことは、みんな片づけてしまわなくちゃなりません」
「一番いいのは、あいつがお宅へまいりましたら」出しぬけにマリヤが、肘掛けいすから身を乗り出しながら、引き取った。「さっそく下男部屋へ迫いやっておしまいなさいまし、そこで床几に腰を掛けて、勝手に下男どもとカルタでもさしておいて、わたしたちはここでコーヒーを飲みましょう。そりゃコーヒーの一杯ぐらいは、くれてやってもよろしゅうございますけれど、わたしはしんからあの男を軽蔑しているのでございます」と彼女は思い入れたっぷりで、頭をひと振りした。
「もうこれは片をつけてしまわなきゃならない」マリヤの言葉を一心に聞いていたヴァルヴァーラ夫人は、もう一度くり返した。「スチェパン・トロフィーモヴィチ、お願いですから、ベルを鳴らしてくださいな」
 スチェパン氏はベルを鳴らしたが、とつぜん恐ろしい興奮のていで前へ進み出た。
「もし……もしわたしが……」と彼は熱に浮かされたように赤くなって、息を切らしたり、吃ったりしながらいい出した。
「もしわたしも同じようにこのいまわしい話、というより、むしろ言いがかりを耳にしたとしたら、その……非常な憤激を感じたに相違ないです…… 〔enfin c'est un homme perdu et quelque chose comme un forc,at e'vade'〕(つまり、あれは一種の亡びたる人間で、いわば脱獄囚のようなものです)」
 彼は途中で言葉を切って、しまいまでいいえなかった。ヴァルヴァーラ夫人が顔をしかめながら、彼の頭のてっぺんから足の爪先まで、じろじろ見廻したからである。そこへきちんととり澄ましたアレタセイ・エゴールイチが入って来た。
「馬車を用意するんだよ」とヴァルヴァーラ夫人は命じた。
「それからね、アレクセイ、お前このレビャードキンのお嬢さんを、家まで送ってあげておくれ。道はこの方が自分で教えてくださるだろうから」
「レビャードキンさまはもうご自分でお見えになって、もうしばらく下でお待ちでございます。そしてぜひお取次してくれとおっしゃりますので」
「それはとうてい駄目です、奥さん」今まで無言のまま泰然と控えていたマヴリーキイが、とつぜん心配そうに割って出た。「差し出がましいようですが、あれはこういう席へ出られるような人間じゃありません。あれは……あれは……あれは鼻持ちのならん男ですよ、奥さん」
「ちょいと見合わせておくれ」とヴァルヴァーラ夫人はアレクセイにいった。こちらはすぐに引きさがった。
「〔C'est un homme malhonne^te et je crois me^me, que c'est un forc,at e'vade' ou quelque chose dans ce genre〕(あれは悪党です、そしてわたしの信ずるところでは脱獄囚か、でなければ何かそんなふうな人間です)」とスチェパン氏はまたいいかけたが、また顔をあかくして、言葉を途切らしてしまった。
「リーザ、もう出かけていい頃だよ」と気づかわしげな調子で言いながら、プラスコーヴィヤ夫人は椅子から立ちあがった。夫人はさっき面くらって、自分で自分を馬鹿などといったのが口惜しくてたまらぬらしい。ダーリヤが答弁している間にも、夫人は唇に高慢そうな陰を漂わしながら聞いていた。しかし、何よりもわたしを驚かしたのは、ダーリヤが入ってからの後のリーザの顔つきである。彼女の目には隠すことのできない憎悪と侮蔑の色が輝いていた。
「ちょいと待ってちょうだい、プラスコーヴィヤさん、後生だから」依然として落ちつき払った声で、ヴァルヴァーラ夫人が呼び止めた。「後生だから、腰をかけてちょうだい。わたし何もかもすっかりいってしまおうと思ってるんですが、なにぶんあなたは足が悪いんですからね。ええ、そうそう、ありがとう。さきほどはわたしもついあとさきを忘れて、なにかと無考えなことをいいました。どうか堪忍してちょうだい。わたしが馬鹿だったのです。だから、こうして、自分のほうから悔悟の意を表しておきます。わたしは何につけても、公平ということが好きなんですからね。そりゃ、あんたもつい夢中になって、あんな無名の手紙のことなんぞいい出しました。けれど、すべて無名の手紙なんてものは、署名がしてないということ一つだけでも、侮蔑してやるべき理由が立派にあるんです。もしあんたが変わった考えを持ってらっしゃるとしても、わたしはそれを羨しいとは思いませんよ。とにかく、わたしがあんたの位置にあったら、そんなくだらないもののために、懐ろへ手を突っ込むような真似はしません。自分の体まで穢すようなことはしませんよ。ところが、あんたはすっかり自分の体を穢してしまいました。もうあんたのほうからさきに切り出したことですから、わたしもすっかりうち明けてしまいますがね、実はわたしも六日ばかり前、同じようにふざけきった、無名の手紙を受け取ったんですの。その手紙にはね、どこのやくざ者か知らないけれど、ニコライが発狂しただの、『あなたはあるびっこの女を恐れなければならぬ。その女はあなたの運命に重大な役目を演じている』だの書いてあるじゃありませんか。わたし文句まで覚えていますよ。わたしは、ニコライにたくさん敵があることを知っていますので、いろいろと勘考した末、ここに住んでいるある一人の男を呼びにやりました。それは、ニコライの敵の中でも一ばん卑劣な、一ばん復讐心の強い秘密の敵なんですの。そして、その男との話によって、わたしはすぐに馬鹿馬鹿しい無名の手紙の出所を悟りました。で、もしね、プラスコーヴィヤさん、あなたがわたしのために[#「わたしのために」に傍点]、そんな馬鹿馬鹿しい手紙のことで心配なすったとすれば、――今あんたのおっしゃった『砲撃』をお受けになったとすれば、わたしはもちろん罪もないのにそんなことの原因になったのを、だれよりも一ばん残念に思います。さあ、わたしがあんたにお話したいと思ったのはこれっきりですが、どうも残念なことには、お見受けしたところ、あんたはだいぶ疲れて、夢中になっていらっしゃるようね。そればかりでなく、わたしはそのうさん臭い男を通して[#「通して」に傍点]やろうと決心しましたの。今マヴリーキイさんは会って[#「会って」に傍点]やるわけにいかないとおっしゃいましたが、そんな言葉はあの男の分に過ぎていますよ。けれど、リーザはここにいたって仕方がないでしょうね。リーザ、さあ、お別れにも一ど接吻さしてちょうだい」
 リーザは部屋を横切って、無言のままヴァルヴァーラ夫人の前に立ちどまった。夫人は彼女に接吻して、その手を取り、少し自分の傍から離しながら、情をこめてじっと見つめていたが、やがて十字を切って、も一ど接吻してやった。
「じゃ、さようなら、リーザ(ヴァルヴァーラ夫人はほとんど涙声であった)、どうぞ忘れないでちょうだい、今後あんたがどういうことになろうとも、わたしはいつまでも変わらないで、あんたを愛します……神様があんたの傍についていてくださいますからね……わたしはいつも、神様のみこころを祝福していましたの……」
 夫人はまだ何かつけ足そうとしたが、じっとこらえて口をつぐんだ。リーザは依然として無言のまま、もの思わしげなさまで、自分の席へ帰って行こうとしたが、ふいに母夫人の前に立ちどまった。
「お母さん、わたし家へ帰らないで、もうしばらく小母さまのところにいさしていただきますわ」と彼女は静かな声でいったが、この静かな言葉のうちに鉄のような決心が響いていた。
「まあ、お前はどうしたというの!」とプラスコーヴィヤ夫人は力なげに、ぱちりと両手を組み合わせながら叫んだ。
 けれど、リーザはなに一つ耳に入らなかったもののように返事をしなかった。彼女は元のとおり隅のほうへ引っ込んで、またしてもどこか空中の一点を見つめ始めた。
 何かしら勝ち誇ったような色が、ヴァルヴァーラ夫人の顔に輝き出した。
「マヴリーキイさん、まことにすみませんが、どうぞお願いですから階下《した》へ行って、あの男の様子を見てくださいませんか。そして、もし通して[#「通して」に傍点]差支えのないようなふうが少しでも見えましたら、そのレビャードキンを連れて来てくださいましな」
 マヴリーキイは一揖して出て行った。一分の後、彼はレビャードキン大尉を連れて来た。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 わたしは一度この男の風貌を述べたことがある。背の高い、髪の渦を巻いた、肉づきのいい四十恰好の男で、真っ赤な顔はいくぶん腫れ気味でだぶだぶしているし、頬は頭を動かすたびにびりびり顫える。小さな目は血走って、かなり狡猾そうに見えた。口ひげや頬ひげをたくわえているけれど、顎の下にはこのごろできはじめたらしい肉団子がぶらさがって、かなり不愉快な風体をしていた。しかし、何よりも目立つのは、彼がきょう燕尾服にきれいなワイシャツを着けて来たことである。かつてリプーチンがスチェパン氏から冗談半分に、みなりがだらしないといって攻撃された時、『世の中にはきれいなワイシャツを着るのが、かえって無作法になるような人間がありますからね』と答えたことがある。いま大尉は黒の手袋を持っていたが、右のほうは嵌めないで手に握っていた。左の分は無理やりに嵌め込んだらしく、ボタンも掛けてないのが、肉づきのいい左手を半分どころまで隠している。その手の中には、明らかに初めてご用を勤めるらしい、つやつやした真新しい山高帽を持っていた。してみると、きのう彼がシャートフにどなっていた『恋の礼服』なるものは本当にあったのである。これは後で知ったことだが、この燕尾服も、ワイシャツも何もかも、リプーチンのすすめによって、ある秘密な目的のために用意したのである。それに、いま彼がここへやって来たのも(むろん辻馬車に乗って)、やっぱりはたから焚きつけられて、だれかの助けを借りたということは疑う余地もなかった。たとえ会堂の入口であったことがすぐ彼に知れたと仮定しても、三十分や四十分の間にいっさいの事情を悟って、着物を着替え身支度をし、最後の決心をつけるということは、彼ひとりきりの業としてはでき過ぎる。彼は酔っぱらってこそいなかったけれど、幾日も幾日もぶっ通しに飲みつづけた後で、ふいと正気づいた人にありがちの重苦しい、ぼやっとした心持ちでいるらしかった。見たところ、ちょいと肩をつかまえて二度ばかり揺すぶったら、すぐまた酔が出て来そうに思われた。
 彼は非常な勢いで客間へ飛び込みかけたが、たちまち戸口の辺で絨毯につまずいた。マリヤはさもおかしそうに笑いこけた。彼は獰猛な目つきで妹を睨んだが、急に二足三足ヴァルヴァーラ夫人のほうへ近寄った。
「奥さん、わたしは……」と彼はまるでラッパのような声でどなった。
「あなた、お願いですから」ヴァルヴァーラ夫人はきっとなった。「どうぞ、あそこの、あの椅子にご着席ねがいます。そこからでもお話は聞こえますし、あなたのお顔も、ここから一番よく見えるのですから」
 大尉は鈍い目つきで前のほうを見つめながら、立ちどまったが、それでもくるりと向きを変えて、戸口の傍らなる指定の席に腰を下ろした。彼の顔には自分自身に対する烈しい危惧の念と、また同時に不断の焦躁と、傲慢不遜の表情が浮かんでいた。彼が恐ろしくおじけづいているのは見え透いていたが、また自尊心にも苦しめられているらしかった。そこで、彼は臆病風こそ吹いているけれど、何か機会があったら、このいらいらした自尊心の発作に駆られて、どんな暴慢なことをしでかさないとも限らぬ、これはきわめて考えうべきことであった。見たところ、彼は自分の無骨な体の一挙手一投足に、戦々兢々としているらしかった。だれでも知るとおり、こういう連中が何か不思議な機会で、立派な人の中へ出たとき、何より苦しい思いをするのはその手である。自分の手を礼儀にかなった正しい位置に置くのは、とうてい不可能だということを、絶え間なしに意識するのが彼らの常である。大尉は両手に帽子と手袋を持ったまま、無意味な視線をヴァルヴァーラ夫人の厳めしい顔から離さないで、固くなって椅子の上に坐っていた。おそらく彼はもっと注意ぶかく辺りを見廻したかったのだろうが、まだ今のところそれをするだけの勇気がなかった。マリヤはまたしても、彼の恰好がおかしく見えたのだろう、再びからからと笑い出したが、彼はもう身動きもしなかった。ヴァルヴァーラ夫人は残酷にも長い間、まる一分間ばかり、容赦なくじろじろ見廻しながら、そのままの姿勢でうっちゃっておいた。
「まず第一にあなたのお名を、あなたご自身の口から承りましょう」意味ありげな規則ただしい調子で、夫人は切り出した。
「レビャードキン大尉です」と大尉は轟くばかりの声でいった。「奥さん、わたしがまいりましたのは……」彼はまたもぞもぞ身動きしかけた。
「失礼ですが!」とヴァルヴァーラ夫人は再び相手を押し止めた。「今日わたしの好奇心を呼び起こしたこのお気の毒な婦人は、本当にあなたのお妹ごですか?」
「そうです、奥さん、監督の網を潜り抜けた妹です。なぜというに、あれはこういう状態になっていますので……」
 彼は急に口ごもって真っ赤になった。
「奥さん、どうか妙なふうに解《と》らないでください」彼はもうすっかりまごついてしまった。「わたしは兄の身として、妹の恥になるようなことは申しません……こんな状態といったのは、けっしてその……わが家の名誉を汚すような意味での『こんな状態』ではないんです……最近において……」
 彼は突然ぷつりと語を切った。
「あなた!」とヴァルヴァーラ夫人はきっと首をそらした。
「つまり、こんな状態なのです!」指で自分の額の真ん中を突っつきながら、出しぬけにこう言葉を結んだ。
 しばらく沈黙が続いた。
「もうこのひとは長くこの病気を患ってるんですか?」ヴァルヴァーラ夫人は心もち言葉尻を引いた。
「奥さん、わたしは妹が会堂の入口でいただいたご親切に対して、ロシヤふうに……兄弟ふうに打ち解けた方法で、お礼をしようと思ってやって来たのです」
「え、兄弟ふうですって?」
「いや、なに、兄弟ふうじゃありません。つまり、それは、わたしがこの妹に対して兄に当たるから、それで兄弟ふうにといったのですよ、奥さん、ねえ、奥さん」また真っ赤になってせき込みながら、彼はいった。「わたしはお宅の客間における第一印象で感じられるほど、無教育な人間じゃないです。ここに見受けられるけばけばしさにくらべたら、わたしや妹などは埃《ごみ》くず同然ですし、それにまた、さまざまなことをいい触らすやからもたくさんあります。しかし、レビャードキンは自分の名誉に対しては非常な誇りを持ってるです、奥さん。で……で……わたしはお礼返しに来ました……さあ、奥さんこれが金です!」
 こういいながら、彼はかくしから紙入れを取り出して、一束の紙幣《さつ》を抜き取った。そして、烈しい焦躁の発作におそわれつつ、慄える手でそれをめくりにかかった。彼は一刻も早く何やら説明したい様子だった。実際、ぜひそうしなければならなかった。けれども、紙幣を持ってまごまごするのは、ますます馬鹿馬鹿しく見えるに相違ないと感じると、彼はついに最後の自制力を失ってしまった。指もつれがして、紙幣はどうしても数えられなかった。おまけに恥の上塗りといおうか、緑色の紙幣《さつ》が一枚紙入れからすべり出て、稲妻形の線を描きながら、ひらひらと絨毯の上に落ちた。
「二十ルーブリ」大尉は苦心のあまり顔に汗を滲ませながら、紙幣の束を片手に持って、ふいに椅子から立ちあがった。床の上に落ち散っている紙幣に気がつくと、かがみ込んで拾おうとしたが、なぜか急に恥ずかしそうにして手を振った。
「お宅の召使にやってください、奥さん、一番に拾ったボーイにやってください。妹レビャードキナの記念のために!」
「そんなことけっして許すわけにゆきません」ヴァルヴァーラ夫人はいくぶん面くらったらしく、あわててそういった。
「そういうことなら……」
 彼は身をかがめて拾いながら、真っ赤になった。と、ふいにヴァルヴァーラ夫人に近づいて、勘定して別にした紙幣を突き出した。
「それはなんです?」夫人も今度は本当に驚いて、椅子に坐ったまま尻込みさえした。
 マヴリーキイ、わたし、それにスチェパン氏は、おのおの一歩前へ踏み出した。
「静かに、静かに、わたしは気ちがいじゃないから、まったく気ちがいじゃありません!」と大尉はあわてて四方へ首を向けながら言いわけした。
「いいえ、あなたは気がちがってるのです」
「奥さん、あなたが考えておいでなさるのは、まるで間違っております! わたしはもちろん、つまらん塵あくた同然の男です……ああ、奥さん、あなたのお館《やかた》は綺羅を極めておりますが、マリヤ・ネイズヴェーストナヤ([#割り注]見知らぬ怪しい女という意味を含ませている[#割り注終わり])は貧しい茅屋に住まっております。もちろん、これはわたしの妹で、立派にレビャードキン家の娘ですが、当分ネイズヴェーストナヤと呼んでおきます。しかし、奥さん、当分ですよ、ほんの当分[#「当分」に傍点]の間だけですよ。永久にそうすることは、神様がお許しくださらんです! 奥さん、あなたはこれに十ルーブリおやりになって、これも黙って受け取りましたが、それはあなただから[#「あなただから」に傍点]ですよ、奥さん! いいですか、奥さん! このマリヤ・ネイズヴェーストナヤは世界じゅうのだれからも、そんな恵みを受けはしないです。もしそんなことをすれば、エルモーロフ将軍のご馬前で、コーカサス役に佐官として戦死を遂げた祖父《じい》が、棺の中で慄え出しますよ。しかし、あなたからはね、奥さん、あなたからはなんでも受け取ります。が、一方の手で受け取りながら、いま一方の手で二十ルーブリをあなたに差し伸べて、首都のある慈善会へ寄付金として提供します。それはね、奥さん、あなたも会員になっていらっしゃる慈善会ですよ……なぜといって、あなたご自身『モスクワ報知』に広告なさったでしょう。当市にあるその慈善会の寄付帳は、あなたのところへ備えつけになっておって、だれでもそれに記入することができるって……」
 大尉は急に言葉を切った。彼は何か困難な仕事でもした後のように、重々しく息をついていた。この慈善会云々は、やっぱりリプーチンの仕組んだ筋書によって、あらかじめ用意して来たものらしい。彼はまたいっそうひどく汗をかいた。文字どおりに玉の汗がこめかみに滲み出ていた。ヴァルヴァーラ夫人は刺すような目で見入っていたが、
「その寄付帳は」と厳かな調子で切り出した。「いつも階下《した》の玄関番のところにありますから、もしお望みなら、そこで寄付額を書き込んでくださればよろしいのです。だから、どうぞそのお金をやたらに振り廻さないで、早くしまってくださいまし。ええ、そうそう。それから、どうぞ元のお席に着いてくださいませんか。ええ、そうそう。そこで、あなた、わたしはお妹ごさんのことで大変な思い違いをして、これほど裕福でいらっしゃるのも知らず、めぐみ金などして、まことに失礼でございました。ただ一つ合点がゆかないのは、なぜお妹ごはわたしからなら受け取って、ほかの人からはどうしてもお取りにならないのでしょう。あなたはこの点に力をお入れなさいましたから、わたしも十分正確なご説明を願いたいのです」
「奥さん、それは棺の中にのみ葬りうる秘密です!」と大尉は答えた。
「なぜですか?」とたずねたヴァルヴァーラ夫人の声は、もう前ほどきっぱりしていなかった。
「奥さん、奥さん……」
 彼は足もとを見つめて、右手を胸に当てながら、暗然たる表情で口をつぐんだ。
「奥さん!」彼は突然またどなり出した。「失礼ですが、一つ質問を提出さしていただきます。たった一つですが、その代わり露骨で直截で、ロシヤふうな、心の底からの質問です」
「さあ、どうぞ」
「奥さん、あなたはこれまでお苦しみになったことがありますか?」
「つまり、あなたがおっしゃりたいのは、あなたがだれかに苦しめられたことがあるとか、またはいま苦しめられているとか、そういうふうのことなんでしょう?」
「奥さん、奥さん!」自分で自分が何をしているかわからないようなふうで、彼は自分の胸をとんと叩きながら、またもや椅子を飛びあがった。「ここが、この胸の中が、実に、実に煮え返るようなのです。もし最後の審判《さばき》の日に、これをすっかりぶちまけてしまったら、神様でさえびっくりされるくらいですよ!」
「へえ、ずいぶん猛烈な言い方ですね」
「奥さん、ことによったら、わたしはいらいらした言葉づかいをするかもしれませんが……」
「ご心配はいりません、いつあなたの口を止めたらいいかってことは、自分でよく承知していますから」
「もう一つ質問を提出してよろしゅうございますか?」
「もう一つくらいいいでしょう」
「ただただ自分の高潔な心情のためのみに、死ぬことができるものでしょうか?」
「知りません、そんなことは考えたことがありませんから」
「お知りにならない? そんなことは考えたこともおありにならん!」と彼は悲痛な皮肉の調子で叫んだ。「そういうわけなら、そういうわけなら――

[#2字下げ]口を噤みね、望みなき胸!

だ!」と彼はもう一度いきおい猛に胸を叩いた。
 彼はまたぞろ部屋を歩き出した。こういう連中の特徴は、心の中に欲望を抑えつけておくことが、まるっきりできないという点であった。それどころか、彼らは何か欲望が生じるやいなや、だらしなくぶちまけてしまいたいという、やみ難い要求さえ感じるのであった。こういう連中は、少し自分より毛色の変わった社会へ入って来ると、まず最初馬鹿におどおどしているのが普通である。けれど、ちょっとでもこちらから下手に出ようものなら、もうさっそく一足飛びに、思い切り暴慢な態度を取るものである。大尉は今やすっかりのぼせあがって、歩き廻ったり手を振ったりして、人のたずねる言葉なぞ耳にも入れず、自分のことばかり早口にまくし立てた。どうかすると、舌縺れがして、一つの言葉をいい終わらないうちに、次の言葉に移ってしまう。もっとも、全然しらふでいたわけでもないのだ。一座の中にはリザヴェータが坐っていたが、彼はその方を一度も見なかった。しかし、この令嬢がいるために、恐ろしく動顛していたらしいが、これは単なる臆測にすぎない。とにかく、こう考えて来ると、ヴァルヴァーラ夫人が嫌悪の念を抑えて、こんな男のいうことをしまいまで聞こうと決心したには、何か特別な原因がなくてはならぬ。
 プラスコーヴィヤ夫人は、ただもう恐ろしさに顫えていた。もっとも、ことの真相ははっきりわかっていないらしかったけれど……スチェパン氏も同様に慄えていたが、この人はいつもの癖として、余計に気を廻し過ぎるためなのである。マヴリーキイは、一同の護衛者といったポーズで立っていた。リーザは真っ青な顔をしながら、大きな目をいっぱいに開けて、瞬きもせずにこの奇怪な大尉を見守っていた。シャートフはもとのままの姿勢だった。が、何より不思議なのは、マリヤが笑いやめたばかりでなく、恐ろしく沈み込んでしまったことである。彼女はテーブルの上に右手を肘突して、滔々と弁じ立てる兄の様子を、じっと食い入るような、愁わしげな目つきで注視していた。ただ一人ダーリヤのみが、平然と落ちついているように思われた。
「それはみんな一文にもならない諷喩《アレゴリ》です」ヴァルヴァーラ夫人はとうとう腹を立ててしまった。「あなたは『なぜ』というわたしの問いに答えませんでした。わたしは、あくまでそのお答えを待ってるんですよ」
「『なぜ』に対して答えなかったとおっしゃるんですか? 『なぜ』に対する答えを待っておられるんですって?」と大尉は目をしばたたきながらいった。「この『なぜ』という小さな言葉が、世界創造の第一日からして、全宇宙に漲り渡っているのですよ、奥さん。そして、自然界ぜんたいは創造主に向かって、一刻も絶え間なくこの『なぜ』を叫んでおりますが、もう七千年間というもの、答えをえないでいるのです。はたしてレビャードキン一人が、この答えを与えなきゃならんでしょうか? これがはたして公平といわれるでしょうか、奥さん?」
「それはみんな寝言です、見当ちがいです」とヴァルヴァーラ夫人は本当に怒ってしまった。もう我慢しきれなくなったのである。「それはアレゴリです。おまけに、あなたのものの言い方はあんまり飾りが多過ぎて、もうきざに思われるくらいですよ」
「奥さん」と大尉はそれには耳もかさないで、「わたしはエルネストと呼ばれたいくらいに思っているのですが、実際においては、イグナートなどという下品な名を持って歩かねばならぬ仕儀になっております、――それはいったいなぜでしょう、あなたなんとお考えになります? またわたしはド・モンバール公爵と呼ばれたいくらいに思っているのに、実際はただのレビャードキンです。白鳥《レーベジ》から取った名前です、――いったいなぜでしょう? 全体わたしは心からの詩人で、出版者から千ルーブリぐらいの金が取れるはずなんですが、実際はいぶせき茅屋《あばらや》に住まねばならぬ仕儀になっている。なぜでしょう、いったいなぜでしょう? 奥さん! わたしにいわせれば、ロシヤは運命の悪戯です、――それっきりです!」
「あなたはどうしても、ちゃんとまとまったことが何一ついえないのですか?」
「わたしは『油虫』という詩を朗読してお聞かせすることができます、奥さん!」
「なあんですって?」
「奥さん、わたしはまだ発狂してはおりませんよ! いずれ発狂するでしょう、いや、きっと発狂するでしょうけれど、まだ発狂しておらんです! 奥さん、ある一人の友だちが、――立派な一人の紳士が、『油虫』という題で、一つクルイロフ式の寓意詩を書いたのです――そいつを朗読してよろしいですか?」
「あなたは何かしら、クルイロフの寓意詩を朗読するつもりなんですか?」
「いいや、クルイロフの寓意詩を朗読しようというのではありません。わたしの詩です、わたしが自分で作ったものです! いいですか、奥さん、腹を立てられては困りますが、わたしはロシヤがクルイロフという偉大なる寓意詩人を所有してるのを知らないような、そんな無教育な、堕落した人間じゃありませんよ。クルイロフのためには文部大臣が、『|夏の園《レートニイ・サード》』に銅像を建てて、幼年者の遊び場にしてあります。ところで、奥さん、あなたは『なぜ』とおたずねになりますが、それに対する答えはこの寓意詩の裏に、焔のごとき文字で書かれてあるです!」
「じゃ、その寓意詩を読んでごらんなさい」

[#ここから2字下げ]
昔々一匹の
油虫めがおりました
子供の時から正真の
間違いなしの油虫
あるときふっと蠅捕りの
薬を入れたコップヘと
のこのこ入って行きました……
[#ここで字下げ終わり]

「ええまあ、それはいったいなにごとです?」とヴァルヴァーラ夫人は叫んだ。
「それはつまり夏にですな」朗読の邪魔をされた作者らしい、いらだたしそうな焦躁の表情で、やたらに手を振り廻しながら、大尉はせき込んでこういった。「夏、蠅がコップに集まると、それ、蠅が薬に酔ってふらふらになる。こんなことはどんな馬鹿でもわかります。まあ、口を出さんでください、口を出さんで。今にわかりますよ、今にわかりますよ……(彼はのべつ両手を振っていた)

[#ここから2字下げ]
油虫めの場所ふさぎ
おいらのコップが恐ろしく
狭うなったと蠅どもは
不平たらたらしまいには
ジュピター様にと大声で
喚き出したが、がやがやと
騒ぎの中にニキーフォルの
偉い老爺《じじい》が罷り出て……
[#ここで字下げ終わり]

 これからさきはまだ仕上げができていませんが、まあ、同じことでさあ、口でいいましょうよ!」大尉はせき込んで、じりじりしながらこういった。「ニキーフォルはコップを取って、がやがや騒ぎ立てるのもかまわず、その喜劇をそっくりそのまま、蠅も油虫もいっしょに、豚小屋へぶちまけてしまいました。実際、もう疾うにそうしてやるべきはずだったんですよ! ところが、いいですか、いいですか、奥さん、油虫は不平をいわなかったです! これがあなたの『なぜ』という問いに対する答えです!」と彼は大得意でどなった。「『あーぶら虫は黙々と、ちっとも不平をいわなんだ』そこで、ニキーフォルはどうかというと、これは自然を象徴したものなんです」と口早にこうつけ足して、さも満足そうに部屋の中を歩き出した。
 ヴァルヴァーラ夫人はもうすっかり腹を立ててしまった。
「それじゃおたずねしますが、あなたはニコライが送ってきた金を、すっかりあなたに渡さなかったといって、家にいるある一人の人物を責めたそうですが、いったいそれはどういう金なんですか!」
「そりゃ言いがかりです!」悲劇じみた恰好で右手を差し上げながら、レビャードキンは咆えるようにいった。
「いいえ、言いがかりじゃありません」
「しかし、奥さん、時としては、万やむを得ざる事情のために、無遠慮に真実を高唱するよりもですな、むしろ一家の屈辱に甘んじなくちゃならんことがあるもんですよ、奥さん。レビャードキンはけっして口外しませんよ」
 彼はもう有頂天になって、目が眩んでしまったらしい。彼は急に偉くなったような気がした。きっと何か妙なことを心に浮かべたに相違ない。彼はどうかして人を侮辱したり、醜態を演じたりして、それでもって自分の威力を見せたくてたまらなかった。
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、どうかベルを鳴らしてくださいな」とヴァルヴァーラ夫人が頼んだ。
「レビャードキンはずるいですよ。奥さん」彼はいやらしい薄笑いとともに、目をぱちりとさせた。「ずるいですが、やっぱり弱味を持っております、情熱の入口を持っています! この情熱の入口は、かのジェニス・ダヴィドフ([#割り注]一七八一―一八三九年、ナポレオン侵略の際、遊撃隊として活躍した詩人[#割り注終わり])の唱ったお馴染みの軽騎兵の酒びんです。この入口に立ったとき、素晴らしい韻文の手紙を送るようなことをしでかすですよ、――しかし、後になると、ありったけの涙を流して、その手紙を取り戻したいと思うのです、実際、美の感情が崩されますからな、けれど、鳥が立ってしまった後で、尻尾を抑えることはできません! この入口に立った時にですな、奥さん、レビャードキンは侮辱に掻き乱された魂の、高潔なる憤激といったような意味合で、名誉ある令嬢のことについても、口をすべらすことがある。そこを敵に利用されたのです。しかし、レビャードキンはずるいですよ、奥さん! 意地の悪い狼が盃に酒を注《つ》ぎ込んでは、今か今かとその結果を待ち受けながら、じっと傍で見張っていますが、とても駄目なことです。レビャードキンはうっかり口をすべらす男じゃありません。いつもびんの底に残るのは、当てにしていた甘い汁でなくって、このレビャードキンの抜け目のないところばかりでさあ! しかし、たくさんです、もうたくさんです! 奥さん、あなたの立派なお館は、ある立派なご仁のものになるかもしれなかったのですが、しかし、油虫は不平をいいません! いいですか、まったくいいですか、けっして不平をいいませんからね。どうか偉大なる精神を認識してください!」
 ちょうどこの瞬間、下の玄関でベルの音が響きわたった。そして、スチェパン氏の鳴らしたベルに対して、少し顔を出し遅れたアレクセイが、ほとんど同時に姿を現わした。不断きちんととり澄ましたこの老僕が、今はなんだか恐ろしく狼狽している様子であった。
「若旦那さまがただ今お着きになりまして、さっそくこちらへおいでのところでございます」ヴァルヴァーラ夫人の不審そうな目つきに答えるように、彼はこう披露した。
 わたしは今でもこの瞬間の夫人を、はっきりと思い出すことができる。はじめ彼女はさっと顔をあおくしたが、とつぜん目がぎらぎら光り出したと思うと、なみなみならぬ決心をおもてに見せて、肘掛けいすの上できっと身を正した。それに、一同の者も実際びっくりしたのである。まだ一月たたなければこの町へ帰らないものと想像されていたニコライの、この意想外な到着は、単に思いがけないというばかりでなく、ちょうどこの運命的な瞬間に遭遇した点において、なんともいえない奇怪な感じを与えた。さすがの大尉も部屋の真ん中へ棒立ちになって、大きな口をぽかんと開けたまま、馬鹿げきった様子をして、戸口のほうを見やるのであった。
 と、隣室の大きな長いホールから、しだいに近づいて来るいそがしげな足音が聞こえてきた。だれか恐ろしく小刻みな足音で、まるで転がってでも来るようであった、――と、いきなり客間へ飛び込んで来たのは、ニコライとはまるで違った、だれひとり見覚えのない青年だった。

[#6字下げ]5[#「5」は小見出し

 わたしはちょっとここで物語の進行を止めて、とつぜん現われてきたこの人物の輪郭を、ざっと描いておくことにする。
 これは年の頃二十七かそこいらの若者で、中背よりも少し高く、かなり長い髪は薄くて白っぽく、ちょぼちょぼとした口ひげや顎ひげは、やっと見えるか見えないかであった。みなりはさっぱりとして流行ふうだったが、さりとて伊達男というほどでもない。ちょっと見には、ずんぐりむっくりして不恰好のようだが、けっしてずんぐりむっくりどころでなく、かえってとりなしは捌けたほうである。なんだか変人らしくも思われるが、その後、町の人たちの噂によると、彼の言語挙動は作法にかなって、話しぶりも場所がらにはまっていた。
 容貌にしても、けっして醜いという者はなかろうが、その顔はだれにも好かれなかった。後頭が少し長めになって、まるで両わきから押し潰されたような具合なので、顔までが妙にとがって見えた。彼の額は高くて狭く、顔の輪郭はこせこせしている。目は鋭く、鼻は小さく尖って、唇は長くて薄かった。全体の顔の表情は病的なようであったが、それはただそう思われるというまでのことだ。頬から顴骨のほうへかけて、なんだかかさかさしたような線が浮かんで、そのために重病の回復期にある人らしく見えるが、実際はまったく健康で体力も強く、今までまるで病気したこともないくらいだった。
 彼はやたらに忙しそうに歩いたり、動きまわったりする。が、別段どこといって急いでいるわけでもない。彼は見たところ、どんなことがあってもへこまされそうにない。どんな事情の下におかれても、どんな人の中へ出ても、平然としていそうである。非常に自己満足の性質を持っているけれど、自分ではそれに気もつかない。
 彼の話は早口で忙しそうであったが、同時に恐ろしく自信に富んでいて、まごついて言葉をさがし廻るようなことはなかった。その急がしそうな様子にも似ず、彼の思想は平静で、明瞭で、きっぱりしている、――これがとくに目立つのであった。発音は驚くばかり明晰だった。まるでちゃんと拾い分けて、いつでも役に立つように用意してある、綺麗に揃った大振りな豆粒みたいに、言葉が後から後からと撒き出されるのだ。だれも初めはこれが気に入るけれど、後にはだんだんいや気がさして来る。それはただあまりに明晰なこの発音のためである、ちゃんと用意のできた南京玉のような言葉のためなのである。彼の口の中に隠れている舌は、きっと一種特別な恰好をしているに相違ない、恐ろしく細長くて、やたらに赤く、しかも、さきがむやみに尖って、ひとりでに絶え間なく動きつづけているに相違ない、こういったような感じがしだいに強くなって来る。
 で、この青年がいま客間へ飛び込んで来たのである。実際のところ、わたしは今でもやっぱり、この青年が次の間あたりから話しかけて、そのまましゃべりながら入って来たように思われて仕方がない。彼はたちまちヴァルヴァーラ夫人の目の前に現われた。
「……まあ、どうでしょう、奥さん」と彼は南京玉を撒き散らすような調子でいった。「ぼくはもうあの人が十五分くらい前に、ここへ来ているものと思って入って来たんですよ。あの人が着いてから、もう一時間半になりますよ。ぼくらはキリーロフのところで落ち合ったのです。あの人は三十分前に、真っ直ぐにこちらへ向けて出かけましてね、ぼくにも十五分ばかりたったら、やっぱりこちらへ出向くようにと、いいつけて行ったんですがね……」
「え、まあ、だれのことですの? だれがこちらへ来いといいつけたんですの!」とヴァルヴァーラ夫人はたずねた。
「だれって、ニコライ君にきまってるじゃありませんか! じゃ、あなたは本当に今はじめてお聞きになるんですか? しかし、それにしても、荷物がとっくに届いていそうなもんですが、どうしてあなたに知らせなかったんでしょう? じゃ、つまり、ぼくが第一番にお知らせしたわけなんですね。どこかへあの人を迎えにやってみてもいいですが、きっと間もなくお見えになるでしょう。あの人のいだいてるある期待に符合する時刻にね。少なくも、ぼくの判断するところでは、あの人のいだいているある目算に符合する刻限にね」と、ここで彼は部屋の中を一巡ぐるりと見廻したが、その目はとくに大尉のうえに注意深く据えられた。「ああ、リザヴェータさん、来るとさっそくあなたとお目にかかれるなんて、実に愉快ですな。こうしてあなたのお手を握るのは実に嬉しいです」と彼は素早く飛んで行って、愉しげにほほえみつつ、差し伸べられたリーザの手を握った。「それから、お見受けしたところプラスコーヴィヤさんも、この『先生』を忘れていらっしゃらないようですね。スイスではいつも怒ってばかりいらっしゃいましたが、今はべつにご立腹の模様もありませんね。ときに、ここへいらしってからおみ足はいかがですか? そして、故国の気候の効能を説いたスイスの医者の言葉は本当でしたろうか? え? 湿布ですって? きっと、ききめがあるに相違ないでしょう。しかし、奥さん(と彼はまた素早くヴァルヴァーラ夫人のほうへ振り向いた)、ぼくはあのとき外国でお目にかかって、新しく敬意を表することができなかったのを、どんなに残念に思ったでしょう。それに、いろいろとお知らせしたいこともあったんですからね。ぼくがここへ来るってことは、うちの爺さんに知らせといたんですが、この人は大方、例によって例のごとく……」
ペトルーシャ!」([#割り注]ピョートルの愛称[#割り注終わり])忽然として茫然自失の状態から醒めたスチェパン氏は、ふいにこう叫んで両手を鳴らしながらわが子のほうへ飛びついた「Pierre!([#割り注]ピョートルのフランス読み[#割り注終わり])倅《モナンファン》! わたしはお前を見それていたよ!」彼はわが子をじっとだき締めた。涙はその目からはふり落ちた。
「ちえっ、冗談はおよしよ、冗談は。身振りは抜きにしてもらいたいな、さあ、たくさんたくさん、後生だから」父の抱擁を免れようと努めながら、ペトルーシャは忙しそうにこういった。
「わたしはいつもお前にすまんことばかりしていた!」
「もうたくさんだってば、その話は後にしましょうよ。きっとふざけた真似をはじめなさるだろうと思っていたが、はたせるかなだ。さあ、少し真面目になってくださいな、後生だから」
「だといって、わたしはもう十年からお前を見なかったんだよ!」
「それだから、なおさらそんな芝居めいたせりふを並べるわけはないじゃないか……」
「倅《モナンファン》!」
「いや、わかってるよ、お父さんがぼくを愛してくれることは、よくわかってるよ。さ、その手をどけてください。だって、ほかの人の邪魔になるじゃないか……おや、ニコライ君が見えた。ね、冗談はよしにしよう、お願いだから!」
 実際、ニコライはもう部屋の中に入っていた。彼は静かに入って来ると、戸口のところでちょっと立ちどまって、じいっと一座を見廻した。
 四年前はじめて見た時と同じように、今度もわたしは一瞥してすぐ彼の容貌に打たれた。けっして彼の顔を見忘れたわけではないが、よく世間にはいつでも会うたびに何か新しいあるもの、――よしんば今まで百ぺんくらい会ったことがあるにせよ、以前少しも気のつかなかったようなあるもの、――を表わして見せる容貌の所有者があるものだ。もっとも、一見したところ、彼は四年前と同じようだった。同じように優美で、同じように尊大で、同じように若々しく、そして、入って来た時の態度もあの時のままに尊大であった。軽い微笑は同じように礼儀ばった愛嬌を帯びて、また同じように自足の色を表わしているし、眼ざしは同じように厳めしく考え深そうで、しかも何となく放心したようであった。要するに、われわれは昨日別れたばかりのような気がしたほどだ。が、ただ一つわたしを驚かしたことがある。ほかでもない、以前は美男子の定評はあったけれども、社交界の口悪な婦人仲間で噂したとおり、彼の顔は実際『仮面《めん》に似て』いた。ところが、今はどうだろう、――今はなぜだか知らないけれど、わたしは彼を一目見るなり、何一つ非の打ちどころもない立派な美男子だと感じた。もはや彼の顔が仮面《めん》に似ているなどとは、どうしてもいうことができなかった。それは以前より心もちあおざめて、いくぶん痩せて見えるせいだろうか? それとも、何か新しい観念が、いま彼の目に輝いているためだろうか?
「ニコライ!」ヴァルヴァーラ夫人は、肘掛けいすから下りようともせず、ぐっと身をそらして、高圧的な身振りでわが子を押し止めながら叫んだ。「ちょっとそこに待っててちょうだい!」
 しかし、この身振りと叫びに続いて発せられた恐ろしい質問、――ヴァルヴァーラ夫人のような性質の人からさえも、とうてい予想することのできないような、あの質問を明らかにするために、わたしは読者諸君に対して、ヴァルヴァーラ夫人の性質が常にどんなものであったか、想起せられんことを望んでおく。実際、夫人は何か異常な瞬間に遭遇すると、まるで前後を忘れてしまって、思い切ったことを平気で断行するというふうであった。それから、もう一つ頭に入れといてもらいたいのは、夫人は意志が鞏固で、相当の分別もあれば、実際的(家政的といってもいいくらい)の手腕にも長けているにかかわらず、その生涯の間には、突然なにもかも忘れてしまって、こらえじょうなしに(もしこんな言い方が許されれば)、自分の感情に没頭してしまう瞬間が、ほとんど絶え間なしに続いていたことである。それから最後に、もう一つ注意を払っておいてもらいたいことがある。ほかではない、今のこの瞬間は彼女にとってまったく重大な意義を帯びたもので、この一瞬間のうちには、ちょうどレンズの焦点のように、生活の本質、――過去、現在、もしかしたら、未来の真髄までがことごとく圧搾され、封じ込められていたかもしれないのである。それから、なお一ついっておかねばならぬのは、夫人の受け取った無名の手紙である。さきほど夫人はプラスコーヴィヤに向かって、いらいらした調子でこの手紙のことをいい出したが、どうやら立ち入った内容にいたっては口を緘していたらしい。どうして夫人がわが子に向かって、あんな恐ろしい問いを発することができたか、という不思議な謎を解く秘|鑰《やく》も、もしかしたら、この手紙の中に潜んでいるのかもしれない。
「ニコライ」と夫人は一句一句明確に句ぎりながら、しっかりした調子でくり返した。その声には、恐ろしい挑むような意気込みが響いていた。「あなた後生だから今すぐ、この場を動かないで返答をしてください。いったいあの不仕合わせなびっこの婦人、――ほら、あのひとです、ごらんなさい、あそこにいます! いったいあのひとが……あなたの正当な妻だというのは、本当のことですか?」
 わたしはこの時のことをはっきりおぼえている。彼は目ばたきもしないで、じっと母親を見つめた。そして顔色を微塵も変えなかった。やがて、妙にへりくだったような微笑を浮かべながら静かににやりとしたかと思うと、ひと言も答えないで、おもむろに母に近寄ってその手を取り、うやうやしく唇へ持って行って接吻した。彼がいつも母親に与える打ち克ち難い力が、ここでもまた強くヴァルヴァーラ夫人に働いたので、夫人はすぐその手を振り払う勇気がなかった。夫人は全身一つの質問に化したかと思われるほど、じっとわが子の顔を見つめていた。この様子を見ただけで、もう一瞬間このままで続いたら、夫人はとうてい未知の苦悶に耐えきれないだろう、と察しられた。
 しかし、彼は依然として無言のままであった。母の手を接吻すると、いま一ど部屋の中をぐるりと見廻した。そして、やっぱり悠々たる足取りで、マリヤのほうへ向けて歩き出した。ある瞬間における人間の表情を描写するのは、非常にむずかしいものである。たとえば、わたしの記憶している範囲では、マリヤは驚きのあまり麻痺したような表情をしながら、彼を出迎えるつもりらしく立ちあがり、まるで哀願でもするように両手を組み合わせた。が、同時に、歓喜の色がその眼ざしに浮かんだのを、わたしは確かにおぼえている。それは、彼女の輪郭まで曲げてしまうようなもの狂おしい歓喜、――人間の心には堪え難いほどの烈しい歓喜だった。或いは驚愕も歓喜も、両方ともあったかもしれない。けれど、わたしは自分があわてて彼女の傍へ摺り寄ったのを今だに覚えている(わたしはほとんど彼女のすぐ傍に坐っていた)、彼女が今にも卒倒しそうに思われたからである。
「あなたはここにいらっしゃるわけにまいりません」と彼は優しいメロディックな声でマリヤにいった。その目にはなみなみならぬ優しさが輝いていた。
 彼は非常なうやうやしい態度で彼女の前に立っていたが、その一挙一動にも、偽りならぬ尊敬の色が表われていた。『不仕合わせな女』はせき込んで息を切らしながら、ささやくような声で呟いた。
「わたし……今……あなたの前に、膝をついてよろしゅうございますか?」
「いいえ、それはどうしてもいけません」と彼は鮮やかにほほえんで見せた。すると、彼女もそれに釣られて、嬉しそうににっと笑った。
 彼は例のメロディックな声で、まるで子供かなんぞのように言葉やさしくすかしながら、ものものしい調子でこういい足した。
「まあ、考えてごらんなさい。あなたは娘さんのお身の上でしょう。それに、わたしはあなたにとって、真実なお友だちではありますけれど、それだってやっぱり赤の他人です。夫でもなければ、お父さんでもなく、また許婚《いいなずけ》というわけでもありません。さあ、お手を貸してください。お伴しましょう。わたしが馬車までお見送りしますから。しかし、お望みでしたら、お宅まで送って差し上げましょう」
 彼女は男の言葉を聴き終わると、何か思案げに小首をかしげた。
「まいりましょう」と彼女は吐息をつき、手を差し出しながら、こういった。
 けれど、ちょうどこの時、小さな不幸が彼女の身に生じた。きっと不注意に身を転じて、病んでいる短いほうの足から踏み出したためだろう、彼女は横ざまにどっと肘掛けいすの上に倒れた。もしこの肘掛けいすがなかったら、彼女は床の上へほうり出されたかもしれない。ニコライはたちまち手を伸べて彼女を抱き留め、しっかりと腕を組み合わせながら、情けをこめてそろそろと戸口へ連れて行った。彼女は明らかに、自分の失策を悲しんでいるらしく、どぎまぎしながら真っ赤になって、恐ろしく恥じ入った様子であった。無言のまま足下に目を落とし、烈しくびっこを引きながら、ほとんど男の手にぶらさがるようにして、その後にしたがった。こうして、二人は出て行った。リーザは(わたしはちゃんと見ていた)、とつぜんなんのためやら肘掛けいすから躍りあがって、二人が戸の陰に見えなくなるまで瞬きもせずに見送った。やがて無言のまま再び腰を下ろしたが、その顔にはまるで何やら毒虫にでもさわったような、痙攣的な顫動が見られた。
 ニコライとマリヤとの間にこの場面が続いているうちは、みんな呆っ気に取られて鳴りを潜めていた。それこそ蠅の羽音まで聞こえそうなほどだった。が、二人が出て行くと同時に、一座は急にがやがやと話し出した。

[#6字下げ]6[#「6」は小見出し

 もっとも、それは話というより叫びに近かった。その時の細かい順序は、わたしももはやはっきり覚えていない。なにしろ、何もかもめちゃめちゃになってしまったのである。スチェパン氏はフランス語で何か叫んで、両手をぱちりと鳴らした。が、ヴァルヴァーラ夫人はそれどころでなかった。マヴリーキイさえも何やら早口に、きれぎれな調子でつぶやいた。けれど、だれよりも一番あつくなったのはピョートルだった。彼は盛んな身振りをしながら、何やら一生懸命にヴァルヴァーラ夫人を説いていたが、わたしは長い間なんのことだか会得できなかった。彼はまたプラスコーヴィヤ夫人や、リザヴェータにもときどき言葉をかけたが、その間にはつい夢中になって、――父親にも何やらどなりつけていた、――手短かにいえば、彼は部屋じゅうをくるくる飛び廻っているのだった。ヴァルヴァーラ夫人は真っ赤になって、思わず席を飛びあがりかけると、プラスコーヴィヤ夫人に向かって、『あんた聞いて? あれが今ここであの女にいったことを聞いて?』と叫んだ。けれど、こちらはもう返事ができず、ただ手を振って、何やらもぐもぐいうばかりだった。哀れなプラスコーヴィヤは自身に心配を持っていたのだ。彼女はひっきりなしにリーザのほうへ首を向けて、ゆえのない恐怖に慄えながら、娘を眺めるのであった。娘が席を立たないうちに、立ちあがって出て行くなどとは、思いも寄らぬことであった。大尉はこのどさくさ紛れに、すべり抜けようと思ったらしい。それはわたしも気がついた。ニコライが入って来た瞬間から、すっかりいじけ込んでしまったのは、ありありと見え透いていた。しかし、ピョートルはその手をつかまえて逃さなかった。
「そりゃ、ぜひともそうしなくちゃなりません、ぜひともそうしなくちゃ」と彼は例の南京玉を撒き散らすような調子で、相変わらずヴァルヴァーラ夫人を説きつづけた。
 彼は夫人の前に突っ立っていた。夫人はもう肘掛けいすに腰を下ろして、わたしの覚えている限りでは、貪るように相手の言葉に耳を澄ましていた。ところが、これがこちらの思う壺だった。彼は首尾よく夫人の注意を奪ってしまったのである。
「そりゃ、ぜひともそうしなくちゃなりません。奥さんもご覧のとおり、これには誤解があるのです。そして、ちょっと見には、いかにも奇怪千万なことだらけのようですが、事実、この出来事は蝋燭のごとく明瞭で、手の指のごとく単純なものなんです。ぼくは別にだれからも一部始終の顛末を話してくれと依頼されたわけではないです。かえって自分から差し出がましいことをするのは、あるいは滑稽に属するかもしれませんが、しかし、まず第一に、ニコライ君自身はこの事件に、なんの意味も認めていられないし、また世間には往往、自分であえて説明するのが具合が悪いために、ぜひともそれをよりたやすく述べられる第三者の労を必要とするような、デリケートな事柄を含んだ場合もまたありがちのことですからね。まったくですよ。奥さん、ニコライ君はさっきあなたの問いに対して、すぐ端的に明瞭に返事をされなかったですが、けっしてあの人が悪いのじゃありません。なにしろ馬鹿馬鹿しい話なんですからね。ぼくはもうペテルブルグ時分からこの話を知ってるんですよ。それにこのエピソードはかえってニコライ君のために、名誉を増すことになるくらいですよ、もしぜひともこの『名誉』というような曖昧な言葉を使わねばならんとすればですね……」
「では、つまり、あなたはこの……誤解の原因となったある事件の、実見者だったとおっしゃるのですか?」とヴァルヴァーラ夫人がたずねた。
「実見者でもあり、関係者でもあったのです」とピョートルはさっそくひき取った。
「もしあなたが、わたしに対するニコライの優しい感情をけっして侮辱しない、と誓ってくださるならば……あれは何一つわたしに隠し立てしないのですから……それからまた、ニコライがかえってよろこんでくれる、という自信があなたにおありでしたら……」
「そう、そりゃもうよろこぶに相違ありません。それだからこそぼくは自分でもこれを非常なよろこびとしているのです。ぼくはむしろ、あの人のほうから進んで頼むだろう、と信じてるくらいです」
 まるで天から降って来たようなこの紳士が、自分のほうから押しつけがましく、他人の身の上を話そうなぞといい出すのは、ずいぶん奇怪なことでもあり、また普通のやり方とも違っていた。しかし、彼はヴァルヴァーラ夫人の一ばん痛いところへ触れて、まんまと思う壺へはめてしまったのである。当時わたしは、まだこの男の性質もまったく知らないくらいだったから、その目論見なぞはなおさらわかろうはずがなかった。
「では、お聴きしましょう」自分の譲歩をいくぶん心苦しく感じながら、ヴァルヴァーラ夫人は控え目な用心ぶかい調子でこういった。
「話はごく簡単なんです。あるいは厳密な意味において、事件ということはできないかもしれません」と彼は南京玉を撒き散らし始めた。「もっとも、小説家に聞かせたら、退屈まぎれに一編の物語にでっち上げるかもしれません。かなり面白い話ですからね、プラスコーヴィヤさん、それにリーザさんも、興味をもって聴いてくださることと思います。なぜって、これには不思議とまではゆかないでしょうが、なかなかふう変わりな点がたくさんあるんですから。五年ばかり前ニコライ君はペテルブルグで、初めてこの先生と知り合いになられました。――そら、このレビャードキン先生です。先生、口をぽかんと開けて立ってるが、今にも抜け出そうと身がまえてるようですね。いや、奥さん、ごめんください。ねえ、きみは今ここを逃げ出さないほうがよかろうぜ、糧秣局の退職官吏さん(どうだね、よく覚えてるだろう)。きみがここでやった小細工は、ぼくにもニコライ君にも、わかり過ぎるくらいわかってるんだから、きみはその責任を明らかにする義務があるんだよ、忘れちゃいけないぜ。いや、奥さん、失礼しました、もう一度お詫びいたします。ニコライ君は当時この先生のことを、ファルスタッフといっておられましたが、それはきっと(彼はとつぜん説明を始めた)、それは以前どこかにいた burlesque(滑稽)な人物で、人もこの男を笑い草にしていたし、また自分でも平気で笑い草にされて、ただ金さえもらえばいい、というふうだったんでしょう。ニコライ君は当時ペテルブルグで、なんといいますか、嘲笑的生活を送っておられました。ぼくはこれ以外、当時のあの人の生活を形容すべき適当な言葉を発見することができません。なぜって、あの人はけっして幻滅などに陥る人じゃありませんし、また仕事などというものは当時すっかり馬鹿にしきって、少しも手を出さなかったんですからね。奥さん、ぼくはただあの時のことだけをいってるんですよ。ところで、このレビャードキンには妹がありました。そら、たった今までここに坐ってた女ですよ。この兄貴と妹は、自分の棲家というものを持っていなかったので、人の家ばかりごろつき廻っていました。先生のほうは勧工場の廊下をうろうろして(きっと以前の制服を着てたに相違ありません)、小綺麗ななりをした通行人の袖を引いたものです。そして、もらい集めた金は、みんな飲みしろにしてしまうのです。妹のほうはまるで空の鳥と同じような口すぎをしていました。つまり、方方の貧乏長屋の手伝いをしたり、忙しい時の使い走りなどしていた。いやはや、なんともいえない恐ろしい乱脈でしたが、まあ、こんなどん底生活の描写はぬきにしましょう。とにかく、ニコライ君もその偏屈な性癖のために、この生活に没入してしまわれたのです。奥さん、ぼくはただ当時のことだけをいってるんですよ。ところが、この『偏屈』というのは、ニコライ君自身いったことなんです。あの人はいろんなことをぼくにうち明けてくれますのでね。あの人は一頃マドモアゼル・レビャードキナにしょっちゅう出あう機会がありましたが、嬢はあの人の美貌に打たれてしまったのです。なにしろ、あの人は嬢の生活のむさくるしい背景に、一点かがやきだしたダイヤモンドみたいなものなんですからね。ぼくは微妙な感情の描出などということにかけては、しごく不得手なほうですから、いい加減にして先へ行きましょう。しかし、うるさい木っ葉連どもが、さっそくあの女をいい笑い草にしてしまったので、あの女はひどくふさぎ込むようになりました。なに、あの女はいい加減みんなの笑い草にされていたのですが、それまでは自分でも気がつかなかったので。もうその頃から頭が変でしたが、しかしそれでも、今ほどじゃありませんでしたよ。子供の時分には、だれか世話になった奥さんのおかげで、ちょっと教育も受けたらしい形跡があるんでね。ニコライ君はあの女なぞには一顧も与えないで、たいていいつも小役人どもを相手に、古い脂じみたカルタを握って、二厘五毛賭けのプレフェランス([#割り注]勝負の名[#割り注終わり])をやっておられました。ところが、ある時またあの女をからかったものがあった。その時ニコライ君はわけもたださないで、いきなりその小役人の襟髪を引っつかむが早いか、二階の窓から外へほうり出してしまったのです。しかし、これは虐げられたる無辜に対するナイト式感憤、などというようなものではけっしてありません。この荒療治はみなのきゃっきゃっという笑い声の中で行なわれたのです。そして、当のニコライ君などは、だれよりも一ばん余計に笑っていましたよ。で、万事おだやかに落着してしまった時、双方が揃ってポンス酒を飲み出したくらいです。けれど、その『虐げられた無辜』どののほうで、このことをいつまでも忘れなかった。で、結局、あの女の知的能力が根本から震撼されたのは申すまでもありません。ぼくは微妙な感情の描写は不得手です。これはくり返しお断わりしておきますが、しかし、ここでおもな働きをしているのは空想です。しかも、ニコライ君はまるでわざとのように、この空想を突っつくようなことを仕向けたのです。てんで頭から笑ってしまえばいいものを、なんと思ったか、突然思いがけないうやうやしい態度で、レビャードキナ嬢を遇し始めたのです。当時あちらのほうにいたキリーロフも(恐ろしいふう変わりな男ですよ、奥さん。そして、恐ろしいぶっきら棒な男なんですがね、たぶんどっかでお逢いになるでしょう。今こちらへ来ていますから)。で、このキリーロフが不断むっつりしているたちにも似ず、急に憤慨しだして、今でも覚えていますが、ニコライ君に忠告したものです、――あなたはあの婦人を、まるで侯爵夫人のようにあしらっておられるが、そんなことをすると、もう取り返しのつかないほど、あの女の運命を粉砕することになる、とこうです。念のために申しておきますが、ニコライ君も幾分このキリーロフを尊敬してましたよ。ところで、あの人がどう答えたとお思いになります。『キリーロフ君、きみはぼくがあの女をからかってると思ってるようだが、それは考え違いだ。ぼくは本当にあの女を尊敬してるんだ。だって、あの女はわれわれのだれよりも優れてるからさ』しかもね、奥さん、それが実に真面目な調子なんですよ。ところが、あの人はこの二、三か月の間あの女に向かって、ただ『今日は』と『さよなら』のほか、まったく一言も口をきかなかったんです。ぼくはその場にいた人間だからよくおぼえていますが、しまいにはあの女がニコライ君を、自分の許婚みたいに考えるようになった。この許婚の夫が自分を「盗み出して」くれないのは、ただ彼に大勢の敵がいたり、家庭上の障碍があったりするためだ、とかなんとか、そんなことを信じるまでにいたったのです。まあ、とにかくみんな笑わされたもんですよ! そうこうしているうち、ニコライ君はこちらへ来ることになったが、出発する前に、あの女に補助金を出してやるように手続きされました。しかも、かなりまとまった年金で、おそらく三百ルーブリより少なくはないと思います。手っとり早くいえば、このことはニコライ君のがわから見ると、時ならずして疲労を感じ始めた男の妄想、――出来心ともいい得るでしょう。ことによったら、キリーロフのいったように、すべてに飽満を感じている男が、気の狂った片輪ものをどのくらい夢中にすることができるか、一つためしてやれというような目的で、書いた狂言にすぎないかもしれません。『きみはわざわざ屑の屑ともいうべき女を選り出した、永劫に消えない汚辱と、打擲《ちょうちゃく》の痕におおわれた片輪ものを選び出したのだ、――しかも、その女がきみ自身に喜劇めいた恋をいだいて、焦れ死に死にそうなのを百も承知でいるくせに、きみはわざとそれを惑わすようなことをするじゃないか。しかも、その目的は、ただただこうすればどうなるだろう? という好奇心にすぎないんだからね!』とこうキリーロフはいっていました。しかし、いつも二こと以上言葉をかけたことのない、気ちがい女の妄想に対して、特別どういう責任があるんでしょう? ねえ、奥さん、世間には気の利いた体裁で話せないばかりでなく、第一、話し出すのさえ間が抜けて見えるようなことが、ままあるものです。まあ、やっぱり『偏屈』くらいのところでしょうね、――それ以外なんともいいようがありませんもの。ところが、それだけのことから大騒ぎが持ちあがったんですよ……奥さん、ぼくはここでどういうことが起こってるか、たいてい承知してますよ」
 話し手はふいに言葉を切って、レビャードキンのほうへ向こうとしたが、ヴァルヴァーラ夫人が急に彼を押しとめた。夫人はもうすっかり感動してしまったのである。
「もうしまいまでお話しになりまして?」と彼女はたずねた。
「いや、まだです。ぼくは自分の説明を完全にするために、もしお許しくださるなら、ちょいとこの先生に訊問したいことがあるんです……今にすっかり真相がおわかりになりますよ、奥さん」
「たくさんです、それは後にして、ちょいと待ってください、お願いですから。ああ、あなたの話をとめないで、本当にいいことをしました!」
「それにねえ、奥さん」とピョートルは跳ねあがるような調子で、「実際、ニコライ君だって、さっきあなたの質問に対して自分で返答ができたとお思いになりますか、――あの質問はどうも、あまり思い切りがよすぎましたからね」
「ああ、まったくあんまりでした」
「それに、ぼくがああいったのは実際でしたろう、――つまり、――ある場合には、当事者自身より、第三者のほうがずっと説明しやすいってことです!」
「ええ、ええ……だけど、ただ一つあなたは考え違いをしていらっしゃいました。そして、残念ながら、今でも引き続いて考え違いしていらっしゃるようでございます」
「そうですか? なんでしょう?」
「ほかではありません……ですが、ピョートル・スチェパーノヴィチ、あなたお坐りになってはいかがです」
「ああ、それはどうともお気に召したように。ぼくも少々疲れましたから、ありがたくお請けしましょう」
 彼はたちまち肘掛けいすを前へ引き出した。そして、ちょうど一方にヴァルヴァーラ夫人、いま一方にはテーブルに対坐したプラスコーヴィヤ夫人を控え、しかも、レビャードキン氏を真正面に見据えるような位置へ、うまく肘掛けいすを落ちつけてしまった。彼はちょっとの間も大尉から目をはなさなかった。
「つまり、あなたがこの事件を、一概にあれの『偏屈』といいきっておしまいになるのを、わたしお考え違いだと申すのでございます……」
「ああ、もしそれがただ……」
「まあ、まあ、まあ、ちょっと待ってください」とヴァルヴァーラ夫人は夢中になって、滔々と弁じ出しそうな気がまえを見せながら、相手を押し止めた。
 ピョートルはそれに気がつくやいなや、さっそくからだ全体を注意そのものにした。
「違います、あれには何か『偏屈』以上のものがあります、神聖なといっていいくらいのものがあります! 誇りが強くて、しかも、あまりに早く侮辱を感じ、それがために恐ろしく『冷笑的』な態度を取るようになった、一個の人間なのです。あなたがお下しになったこの評言は、まったく正鵠を穿っております。つまり、あの当時スチェパン・トロフィーモヴィチのおっしゃった、ハーリイ王子という立派な比較につきていますよ。この比較はぜんぜん正確といっていいくらいですけれど、少なくもわたしの見たところでは、どちらかというと、ハムレットのほうに余計似ているようでございます」
「Et vous avez raison(あなたのお言葉も一理あります)」情をこめた重々しい調子で、スチェパン氏はこういった。
「ありがとうございます。スチェパン・トロフィーモヴィチ。いつもあなたがニコラスを信じてくだすったのを、あれの心情と使命の気高さを信じてくだすったのを、とりわけありがたく思っているのですよ。わたしがすっかり落胆しそうになった時でさえ、あなたは、わたしの心にこの信仰を維持さしてくださいました」
「|あなた《シエール》、|あなた《シエール》……」
 スチェパン氏はもう一ど踏み出しかけたが、いま話をさえぎるのは危いと考え直して、足を止めた。
「もしいつもあれの傍に」と夫人はもう半ば歌でもうたうように続けた。「ホレーショのように、落ちついた、偉大な隠忍の友がついていたら(スチェパン・トロフィーモヴィチ、これもあなたのおっしゃった美しい表現ですよ)、あれは疾うにあのいつもいつもあれを苦しめてきた『思いがけない憂欝な冷笑の悪魔から』救われていたに相違ありません(この冷笑の悪魔というのも、やっぱりあなたのおっしゃったことなんですよ、スチェパン・トロフィーモヴィチ)。けれど、ニコラスにはホレーショもなければ、オフェリヤもなかったのです。もっとも、あれには一人の母親がありましたが、ああいう場合、母親一人きりでどれほどのことができましょう。ねえ、ピョートル・スチェパーノヴィチ、わたしはどういうわけで、ニコラスみたいな人間が、今あなたのお話なすったような穢らわしい、洞穴みたいなところへ出入りする気になったか、その心持ちがだんだんよくわかって来るように思われます。今こそわたしは、その人生に対する『冷笑的な態度』も(本当に驚き入った正確な評言です!)飽くことを知らぬコントラストの渇望も、あれが『ダイヤモンドのように』輝き出でた暗澹たる背景も(『このダイヤモンド』もあなたのお言葉ですよ、ピョートル・スチェパーノヴィチ)、何もかもはっきり想像することができます。ところが、ちょうどそういう場所で、あれは世間から虐げられた一人の哀れな人間に出くわしたのです。その女は半分気ちがいみたいな片輪ものかもしれませんが、あるいは同時に、高潔な感情をいだいていたかもしれません!………」
「さよう……あるいはまあ……」
「ところが、これから後がまるであなたにわからないのです。あれはけっして皆と同じように、あの女を冷笑しておりません! まったく世間の人はねえ! あなた方はおわかりにならないでしょうが、あれは迫害者の手からあの女をかばっているのです。『侯爵夫人に対するような』尊敬をもって、あの女を包んでいるのです(そのキリーロフとかいう人は、非常に深く人間を知っておられるに相違ありません、もっとも、ニコラスを理解することはできなかったのですけれど!)。まあ、それはとにかく、つまり、そのコントラストのために悲劇が起こったのです。もしもあの不仕合わせな女が別な境遇にいたら、あれほど頭を晦ましてしまうような、烈しい空想をいだくにはいたらなかったでしょうにねえ。女です、女です。女でなければ、とてもその心持ちはわかりません。ピョートル・スチェパーノヴィチ、あなたが……いえ、何もあなたが女でないのを悲しむわけではありませんが、せめて今ちょっとの間だけでも、この心持ちを理解するためにね!」
「それはつまり、悪ければ悪いほどますますよくなるという、その意味合でおっしゃるのでしょう。わかりますよ、奥さん、ぼくだってわかりますよ。それはつまり、宗教などで見受けるのと、同じ性質のものでしょう。人間の生活が苦しければ苦しいだけ、一国民の状態が貧しく虐げられていればいるだけ、いよいよ天国の酬いを空想する念が執拗になって来る。しかも、かてて加えて、十万人からの坊主どもが一生懸命に骨折って、その空想に油をかけ、薪《たきぎ》を添えるようなことをすれば、それはもう……ぼくはよくあなたの心持ちがわかりますよ、奥さん、どうぞご安心ください」
「それはどうやら十分あたっていないようですが、まあ、あなたはどうお思いになります。いったい、ニコラスはあの不仕合わせなオルガニズム(どうして夫人がオルガニズムなどという言葉をつかったのか、わたしはかいもくわからなかった)の中に燃えている空想を消すために、自分でもはたの小役人どもと同じように、あの女を冷笑したり、侮辱したりせねばならなかったのでしょうか? いったい、ニコラスが突然きっとした調子でキリーロフに『ぼくはあの女をからかってやしないんだ』といった時のあの気高い同情や、腹の底から出るような高潔な戦慄を、いったいあなたは否定しようとなさるのですか。なんという高潔な尊い答えでしょう!」
「崇厳《シュブリーム》です」とスチェパン氏はつぶやいた。
「それにご承知ねがいたいのは、あれはお考えになるほど、けっして富裕な身の上ではないのです。富裕なのはわたしで、ニコラスじゃありません。当時あれは少しもわたしの仕送りを受けていませんでした」
「わかりました、すっかりわかりました、奥さん」とピョートルはもうじれったそうに、体をもじもじさせ始めた。
「ああ、まったくわたしの性質そっくりです! わたしはニコラスの中に、自分自身を見ることができます。わたしにはあの若さが感じられます。烈しくもの凄い情の激発が感じられます……ねえ、ピョートル・スチェパーノヴィチ、もしわたしたちがいつか近しくお付き合いするようになれば(もっとも、これはわたしのほうで心底からお願いすることなんですよ。まして、いろいろお世話になったんですもの)――その時はあなたもおわかりになることと思います……」
「おお、もうそれはぼくのほうから、お願いすることですよ」とピョートルは素っけない調子でつぶやいた。
「その時はあなたも、そうした感情の激発を会得なさいますよ。そういう時は、盲目な高潔心にかられて、あらゆる点から見て自分より劣った人間を選び出すのです。まるでこちらを理解することができないで、機会さえあれば恩人を苦しめようとする人間を選び出して、あらゆる矛盾をも省みずに、いきなり自分の生きた理想、生きた空想として崇めまつり、その人の中にあらゆる希望を封じ込め、その前にひざまずき、生涯その人を愛するのです。しかも、なんのためやら、まるでわからないんですからね、――まあ大方、相手がそうしてもらう価値のない人だからでしょうよ……ああ、どんなにわたしは生涯くるしんだことでしょう、ピョートル・スチェパーノヴィチ!」
 スチェパン氏は病的な表情をして、わたしの視線を捕えようとかかった。けれど、わたしは素早くそらしてしまった。
「……しかも、つい近頃のことです。近頃のことですの、――おお、わたしはニコラスにすまないことをしました!………本当にしてはくださらないでしょうけれど、みんなが四方八方から、わたしを苦しめるんですの。ええ、だれもかれも、その辺のうようよした連中も、敵も、味方も、ひょっとしたら、敵よりも味方のほうが、余計くるしめたかもしれません。初めてわたしのところへあの賤しい無名の手紙をよこした時、まあ、ピョートル・スチェパーノヴィチ、どうでしょう、わたしはあの悪企みに対して、十分の侮蔑をもって酬いるだけの力がなかったのです……わたしはわれながら、ああ量見の狭かったのを、到底ゆるすことができないと思っています!」
「ええ、全体としてここの無名の手紙のことは、ぼくも今までだいぶ聞き込んでいますよ」ピョートルは急に元気づいた。「そのことはぼくがすっかり探り出してあげますから、どうかご安心なすってください」
「ですけれど、ここでどんな陰謀が始まってるか、あなたとても想像がつきますまい! その連中はかわいそうに、プラスコーヴィヤさんまでを苛め出したんですからね、――この人なんぞは、そんなことをされるわけがないじゃありませんか! わたし今日あんたに向かって、あまり失礼なことをいい過ぎたかもしれませんね」と夫人は寛大な感動の発作に駆られてつけ足したが、いくぶん得意そうな反語の調子がないでもなかった。
「もうたくさんですよ、あなた」とこっちは気が進まぬらしくつぶやいた。「それよりもいい加減に片づけたほうがいいと思いますよ。ずいぶん口数は多かったんですものね……」
 プラスコーヴィヤ夫人は、またもや臆病げにリーザを見やったが、彼女はじっとピョートルを見つめていた。
「ところで、あの不仕合わせな女、何もかも失いつくして、ただハートばかりを守っている気の狂った女ですね、あれをこれから、自分の娘分にしようと思っています!」とふいにヴァルヴァーラ夫人が叫んだ。「それはわたしの義務です。わたしはそれを神聖な態度で履行するつもりです。今日からさっそくあの女を保護してやります!」
「それはある意味で、大いにけっこうなことですよ!」とピョートルはすっかり元気づいた。「失礼ですが、ぼくはさっきしまいまでいい切らなかったのです。ぼくは、つまり、その保護のことを、お話しようと思ったのです。まあ、こういうわけなんですよ。当時ニコライ君がよそへ立って行かれると(ぼくはさっきやめたところから始めることにしますよ、奥さん)、さっそくこの先生が、このレビャードキン先生自身ですよ、妹のものと指定されている補助金を、一文残らず自由勝手に処分する権利があるように考えて、それを実行したわけなんですよ。当時ニコライ君がどんなふうにしていたか、確かなところは知りませんが、一年ばかりたった時、外国を旅行中のニコライ君はこの事情を聞きつけて、余儀なく別な方法をとることとなった。この点についても、ぼくはやっぱり詳しいことは知りません。いずれニコライ君からお話があるでしょうが、ただ一つ、あのふう変わりなお嬢さんをどこか遠い修道院へ入れた、ということだけは承知しています。そこでは非常に安楽にしておられたようですが、ただ友だち仲間の監視は受けていたのです。え、どうです? このレビャードキン氏がどんなことをやっつける人間か、あなた想像がおできになりますか? 先生はまず全力をつくして自分の米櫃、すなわち妹の隠れ家をさがしていましたが、この頃になって、やっと目的を達したのです。そして、自分はこの女に対して権利がある、とかなんとかいって、修道院から引っ張り出して、真っ直ぐにここへ連れて来たものです。ここへ来てから、先生は妹に食べ物もやらないで、打ったり叩いたりひどい目にあわせ、とうとうどう手を廻したものか、ニコライ君から莫大な金をもらって、さっそく酒に酔い食らってるんです。しかし、それをありがたいと思わないで、ついに生意気千万にもニコライ君に向かって、真っ直ぐに自分の手へ補助金を渡せばよし、さもなくば裁判所へ訴えるぞと、わけのわからん要求を提出して、ニコライ君を脅かそうとするじゃありませんか。こういうわけで、ニコライ君の好意上の贈り物を、先生は貢物かなんぞのように思っている、実にあきれてしまうじゃありませんか? レビャードキン君、ぼくが今ここでいったことはみんな[#「みんな」に傍点]本当だろう?」
 今まで無言のまま伏目で立っていた大尉は、急に二あし前へ出て、顔を真っ赤にした。
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、あなたはこのわたしに対して、残酷な仕打ちをなさいますなあ」と彼は引っちぎったような調子でいった。
「どうして残酷なんだね、どういうわけで? 失礼だが、残酷だの親切だのという話は後にして、ぼくはいま第一の問いに答えてもらいたいんだ、いまぼくのいったことはみんな[#「みんな」に傍点]本当かね、どうだね? もし間違ってると思ったら、すぐに異議の申立てをしたらいいだろう」
「わたしは……あなたご自分で知っておられるじゃありませんか、ピョートル・スチェパーノヴィチ……」と大尉はいいかけたが、急にぷつりと言葉を切って、黙ってしまった。
 ちょっと断わっておくが、ピョートルが足を組み合わせながら、肘掛けいすに腰をかけているに反して、大尉はすっかり恐れ入った姿勢で、その前に立っているのであった。
 レビャードキンの不決断は、大いにピョートルの気に入らなかったらしい。彼の顔は腹立たしげにぴりりと引っ吊った。
「本当にきみは何かいいたいことがあるのかね?」と彼は微妙な眼ざしで大尉を見つめた。「もしそうなら、遠慮なくいいたまえ、みんな待ってるんだから」
「わたしが何もいえないのは、ピョートル・スチェパーノヴィチ、あなたのほうでよくご承知じゃありませんか」
「いや、ぼくはそんなこと知りませんよ、はじめて承るんだから。どうしてきみは申立てができないんだね?」
 大尉は目を伏せたまま黙っていた。
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、わたしは帰らせていただきます」と彼はきっぱりいった。
「しかし、ぼくの第一の問いに対して、なんとか返事しなくちゃいけません、ぼくのいったことがすっかり[#「すっかり」に傍点]本当かどうか」
「本当です」とレビャードキンは響きのない声でいって、暴虐なぬしに目を上げた。
 彼の額には汗さえにじみ出ていた。
「みんな[#「みんな」に傍点]本当だね?」
「みんな[#「みんな」に傍点]本当です」
「もう何かいい足すことはありませんか、何か申し立てることは? もしぼくが不公平だと思ったら、遠慮なくいってくれたまえ、抗議を申し込んでくれたまえ、公然と不満を申し立ててくれたまえ」
「いえ、何もありません」
「きみは最近、ニコライ・フセーヴォロドヴィチを脅迫したかね?」
「それは……それはおもに酒のさせたわざなんで、ピョートル・スチェパーノヴィチ(彼はふいに首を上げた)――ピョートル・スチェパーノヴィチ、もし一家の名誉を思う心と、身に覚えない侮辱とが、世間に向かって訴えの叫びを上げるとしても、それでも、――いったいそれでもその男が悪いのでしょうか?」また前と同じく前後を忘れて、彼は突然こうわめいた。
「きみは今しらふなのかね、レビャードキン君?」ピョートルは刺し通すように相手を見つめた。
「わたしは……しらふです」
「一家の名誉と、身に覚えない侮辱とはなんのこってす?」
「それはだれのことでもありません、だれをどうしようというのじゃありません。わたしはただ自分のことをいったので」大尉はまたへたへたとなった。
「きみはどうやら、きみやきみの行為についてぼくのいった言葉が、非常に癪に触ったらしいね。きみは恐ろしい癇癪持ちだからね、レビャードキン君。しかし、いいかね、ぼくはまだきみの行為をありのままにはいわなかったよ。ところが、ぼくはきみの行為をありのままにいうつもりだよ。ああ、いうとも、それはいつのことかわからないがね。しかし、まだありのまま[#「ありのまま」に傍点]にはいってないんだよ」
 レビャードキンはぎくっとして、けうとい目つきでピョートルを見据えた。
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、わたしは今やっと目がさめて来ました!」
「ふむ! それはぼくがさましてあげたのかね!」
「ええ、あなたがさましてくだすったので、ピョートル・スチェパーノヴィチ。わたしは四年間というもの、上からおっかぶさった黒雲の下で眠ってたんですよ。もうこれでいよいよ帰ってよろしいですか?」
「もういいです。ただし、奥さんに何かご用がおあんなされば……」
 けれど、夫人は両手を振った。
 大尉は一揖して、二あしばかり戸口のほうへ踏み出したが、ふいに立ちどまって、手で心臓を抑えながら、何やらいおうとした。が、結局それも口に出さず、すたすた駆け出した。と、ちょうど戸口のところで、ぱったりニコライに行き会った。彼はちょっと身を避けた。大尉は急に縮みあがったようなふうで、まるで大蛇に見込まれた野兎のように、じっと相手を見つめたまま、その場へ立ちすくんでしまった。ニコライはしばらく間をおいた後、軽く片手でわきへ押し退けるようにしながら、ずっと客間へ入って来た。

[#6字下げ]7[#「7」は小見出し

 彼は楽しげに落ちつき払っていた。もしかしたら、わたしたちこそ知らないけれど、たったいま何か非常に嬉しいことが彼の身に起こったのかもしれない。とにかく、彼は何やら恐ろしく満足そうな様子をしていた。
「ニコラス、お前はわたしをゆるしてくれるでしょうね?」とヴァルヴァーラ夫人はもうこらえきれないで、いそいそとわが子を出迎えるように立ちあがった。
 しかし、ニコラスは思い切って大きな声でからからと笑った。
「果たせるかなだ!」彼は人の好さそうなふざけた調子で叫んだ。「見たところ、何もかもすっかりご承知のようですね。ぼくはここを出て、馬車に乗ってから考えましたよ。『それにしても、あの逸話だけでも、話したほうがよかったのじゃないかしらん。あんなふうにぷいと出て行くなんて、だれにしたってしやしない』けれど、ヴェルホーヴェンスキイ君がここに残ったのを思い出したので、そんな心配なぞはどこかへけし飛んでしまいました」
 こういいながら彼は、ちらと一座を見廻した。
「ピョートル・スチェパーノヴィチはある畸人の生涯中、とりわけ面白いペテルブルグの逸話を聞かしてくだすったんだよ」ヴァルヴァーラ夫人は有頂天になって引き取った。「その人は気まぐれで、気ちがいじみているけれど、その感情はいつも高尚で、いつも古武士のように潔白なんです……」
「古武士のように? おやおや、そんな騒ぎになってしまったのですか?」とニコラスは笑った。「しかし、今度はぼくもヴェルホーヴェンスキイ君のせっかちを感謝します」(このとき彼ら二人は、ちらと素早く目交ぜをした)「お母さん、あなたにもご承知を願っておきますが、この人はどこへ行っても、調停者の役廻りなんです。これがこの人の病気で、そして得手なんです。ぼくはとくにこの点でこの人を推薦しますよ。この人がここでどんなことをしゃべりまくったか、たいてい見当がつきます。いや、この人が何かの話をするのは、まったくしゃべりまくるんですからね。この人の頭の中は、まるで事務所かなんぞのようになってるんですよ。ところが、この人はリアリストの立場からして、嘘をつくことができない。自分の成功いかんより、真実のほうが大切なんですからね……もちろん、成功のほうが真実より尊いという、特別な場合を除いてですよ(といいながら、彼はしじゅうあたりを見廻した)。こういうわけですからね、お母さん、あなたのほうからお謝りになる必要がないのは、明白なことじゃありませんか。もしこの際、気ちがいめいた行為があったとすれば、それはむろん、ぼくのせいなのです。したがって、結局、ぼくは気ちがいだということになるんです――だって、土地の評判を裏書きしなくちゃなりませんものね」
 ここで彼は優しく母をかきいだいた。
「とにかく、この事件は終わったのです、話しつくされたのです。だから、もうこの話はやめにしてもいいわけでしょう」と彼はいい足したが、その声にはなんとなく素っけない、こつこつしたような響きがあった。
 ヴァルヴァーラ夫人はこの響きを聞き分けたが、彼女の感激はまだ静まるどころか、むしろその反対だった。
「わたしはね、お前が帰って来るのはまだ一月あとのことで、それより早くなろうとは思いも寄りませんでしたよ、ニコラス?」
「そりゃもうすっかりわけをお話しますが、今は……」
 こういって、彼はプラスコーヴィヤ夫人のほうへ進んだ。
 夫人は、三十分前に初めて彼が姿を現わしたとき、仰天しないばかり驚いたにもかかわらず、今度はほとんど顔を向けようともしなかった。いま夫人には新しい心配が生まれたのである。大尉が部屋を出ようとして、戸口のところでニコライに行き当たった瞬間から、リーザは急に笑いだした、――初めは低くきれぎれだったが、しだいに笑いがつのっていって、声高にありありと聞こえるようになった。彼女は顔を真っ赤にしていた。さきほどの沈み切った様子にくらべると、その対照があまりに烈しかった。ニコライがヴァルヴァーラ夫人と話している間に、彼女は何やら耳打ちでもしたいらしいふうで、二度までもマヴリーキイを招き寄せた。けれど、相手が彼女のほうへ身をかがめるやいなや、リーザはすぐにからからと笑いだした。で、結局、彼女は憐れなマヴリーキイをからかっているものと想像するより仕方がなかった。とはいえ、彼女は一生懸命に我慢しているらしく、ハンカチを顔に押し当てていた。ニコライはきわめて無邪気な砕けた顔つきで、彼女に挨拶をのべた。
「あなた、どうぞごめんなすって」と彼女は早口にいった。「あなたは……あなたは、むろん、マヴリーキイさんとお会いになったことがあるでしょう……まあ、本当にマヴリーキイさん、あなたはなんてそう方図もなく背が高いんでしょう!」
 こういってまた笑いだした。マヴリーキイは背の高いほうだったけれど、けっしてそんなに方図もなく高くはなかった。
「あなたは……もうとうにお着きでございましたか?」と彼女はまた自分を制しながら、なんだか間の悪そうな様子でつぶやいたが、その目はぎらぎら光っていた。
「二時間あまり前でした」じっと相手に見入りながら、ニコライは答えた。ついでにいっておくが、彼はなみなみならず慇懃で控え目だったけれども、その慇懃という点をのけてしまうと、まるで気のないだらけた顔つきになるのであった。
「どこにお住まいなさいます?」
「ここで」
 ヴァルヴァーラ夫人も同様リーザを注視していたが、突然ある考えが彼女の頭に浮かんだ。
「ニコラス、お前はこの二時間あまりというもの、どこにいました?」と夫人は傍へやって来た。「汽車は十時に着くはずですが」
「ぼくはじめヴェルホーヴェンスキイ君をキリーロフのところへ連れて行ったのです。そのヴェルホーヴェンスキイ君とは、マトヴェーエヴォ駅(三つさきの停車場)で一つ箱に乗り合わせ、いっしょにここまでやって来たのです」
「ぼくは夜明け頃から、マトヴェーエヴォで待ってたんです」とピョートルが口をいれた。「ぼくの乗った列車のうしろの箱がゆうべ脱線して、あやうく足を折るところでした」
「足を折るところでしたって!」とリーザが叫んだ。「お母さん、お母さん、先週いっしょにマトヴェーエヴォヘ行こうっていいましたが、やっぱり足を折るところだったのねえ!」
「まあ、縁起でもない!」とプラスコーヴィヤ夫人は十字を切った。
「お母さん、お母さん、ねえ、お母さん、もしあたし本当に両足折ってしまっても、びっくりしちゃいやですよ。あたしにはありそうなことなんですもの。お母さん、自分でいってらっしゃるじゃありませんか、あたしが毎日めちゃくちゃに馬を飛ばしてるって。マヴリーキイさん、あたしがびっこになったら、あなた手を引いてくだすって!」彼女はまたしてもからからと笑った。「もし本当にそんなことになったら、あたしあなたのほかには、けっしてだれにも手を引かせやしないわ、大威張りで当てにしててちょうだい。まあかりにあたしが片足だけでも折ったとすれば……ねえ、後生ですから、それを幸福に思うといってちょうだい」
「片足になって何が幸福なんです?」とマヴリーキイは真面目に眉をひそめた。
「その代わりあなた手が引けますよ、あなた一人っきり、だれにも引かせやしないわ!」
「あなたはその時だって、ぼくを引き廻しなさるでしょう、リザヴェータさん」いっそうまじめな調子でマヴリーキイはつぶやいた。
「あら、どうしましょう、この人は地口をいおうとしてるんですよ!」まるで恐ろしいことでも聞いたかのように、リーザは叫んだ。「マヴリーキイさん、もうけっしてそんな野心を起こさないでちょうだい! だけど、あなたはどこまで利己主義だか、底が知れませんわ! あなたの名誉のために誓って申しますが、あなたはいま自分で自分を誹謗してらっしゃるのよ。それどころか、あなたは朝から晩まで、『あんたは片足なくして、かえって面白い人になった』と、あたしにお説教なさるに相違ないわ! ただ一つどうにもならないことは、あなたはそんなに方図もなく背が高いでしょう、ところで、あたしは足を失くすとずっと低くなるから、あなたじゃあたしの手の引きようがないわ。あたしたちどうも一対になれなくってよ!」
 こういって、彼女は病的に笑った。皮肉も当てこすりも平板な拙いものだったが、彼女は人の思惑などかまっていられなかったらしい。
「ヒステリイだ!」とピョートルはわたしにささやいた。「早くコップに水を持って来さしてください」
 彼の想像は当たった。一分の後、人々はあわてだした。水も運んできた。リーザは母をだいて、熱い熱い接吻をすると、急にその肩に顔を埋めて、泣き出した。が、すぐそれと同時に身をそらして、母の顔を見つめながら、いきなりからからと笑い出すのであった。とうとう母夫人もしくしく泣き出した。ヴァルヴァーラ夫人は、親子二人を急いで自分の部屋へ、さきほどダーリヤの出て来た戸口から連れて行った。しかし、二人がここにいたのは長いことではなかった。まあ、四分かそこいらで、それより以上ではない……
 今わたしはこの記憶すべき朝の最後の幾分間かを、一点一画も遁さないように、努めて思い出したいと思う。わたしの記憶しているところによると、婦人たちがいなくなって(ただしダーリヤだけは席を動こうともしなかった)、わたしたち男連中ばかり残った時、ニコライは部屋を一巡して、シャートフを除く一同と挨拶を交わした。シャートフは、依然として隅っこに坐ったまま、前よりよけい下のほうへかがみ込んでしまった。スチェパン氏はニコライに向かって、何か非常に気の利いたことをいおうとしかけたが、こちらは急に身をそらして、ダーリヤのほうへ歩き出した。すると、その途中でピョートルが、ほとんど無理やりに捕まえて窓ぎわへ連れて行き、そこで何やら早口にささやき出した。そのささやきに伴う顔の表情や身振りなどから察するところ、何か非常に重大な話らしい。しかし、ニコライは恐ろしく気のなさそうな、ぼんやりした様子で、持ち前のよそ行きの微笑を浮かべながら聞いていたが、しまいにはもうじれったそうな顔つきで、しきりにあちらへ行きたそうな素振りを見せ始めた。彼が窓の傍を離れた時、婦人たちは客間へ帰って来た。
 ヴァルヴァーラ夫人は、リーザを元の席に坐らせながら、せめて十分くらいは、ぜひ休みながら待っていなければならぬ、いますぐ新鮮な空気に当たるのは、疲れた神経によくあるまい、などとしきりに説いていた。夫人はなんだか無性に

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP097-P144

「きみの話があんまり意外なもんだから……」とスチェパン氏はへどもどした調子でいった。「わたしはどうも本当にならんよ……」
「まあ、待ってください、待ってください」と、まるで相手の言葉も耳に入らないようなふうで、リプーチンはさえぎった。「まあ、これで奥さんの心配も不安も、たいてい見当がつくでしょう。なにしろああいう高いところから、そんな重大問題をひっさげて、わたしみたいな人間に相談を持ちかけられるんですからな。それに、ご自分のほうから内密に頼むなどと、それほど卑下した態度に出るなんて、実になんといったらいいのでしょう? あなた、何かニコライ・フセーヴォロドウィチについて、意外な報知でもお聞きになりませんでしたか?」
「わたしは……そんな報知なんかまるで知らないよ……もう二、三日あわないから。しかし、きみにちょっと注意するが……」かろうじて思想を整頓しているようなふうつきで、スチェパン氏は吃り吃りこういった。「しかし、リプーチン君、きみにちょっと注意するが、――きみは内密にといってうち明けられた話を、今みんなの前で……」
「まったく内密にうち明けられたのです!………もしそんな……そんなことをすれば、神罰が立ちどころに当たりますよ……しかし、今ここで話したのが、それがいったい、どうだとおっしゃるんです? わたしたちはそんな水臭い仲ではないじゃありませんか。キリーロフ氏にしたって同じことですよ」
「わたしはその意見に賛成するわけにはいかないね。むろん、わたしたち三人は秘密を守るに相違ないが、第四人めのきみが心配だよ。わたしは何一つきみを信用することができないんだ!」
「それは全体なんのことです? わたしはだれよりも一ばん関係が深いんですよ。わたしは永久の感謝を約束されてるんですよ! ところで、わたしはこの問題について、一つ奇怪きわまる事実を指摘しようと思ってたんです。いや、奇怪というより、むしろ心理的な事実なんです。ほかじゃありませんが、ゆうべわたしは、ヴァルヴァーラ夫人の話から受けた感激に駆られて(わたしがどんな印象を受けたか、あなた方もお察しくださるでしょう)、キリーロフ氏のところへ行って、遠廻しに問いかけたもんです。つまり、『あなたは外国にいらっしゃる頃といい、またその前のペテルブルグ時代も、ニコライ・フセーヴォロドヴィチをごぞんじだったのですが、あの人の頭脳や能力について、どういう考えをお持ちですか?』とこうきいてみました。すると、この方のご返事は、例によって簡単です。曰く、『非常に細緻な頭脳と、判断力を持った人だ』とのことです。『あなたは長い年月の間に、何かその、思想の偏向というか、特殊な思想の形態というか、さもなくば、その、いわば精神錯乱の徴候に、お気がつかれましたか?』となんのことはない、ヴァルヴァーラ夫人の質問を、そのままこの方に持ち出してみたのですよ。すると、どうでしょう、キリーロフ氏はふいにじっと考え込んで、ちょうどいまと同じように顔を顰めるじゃありませんか。『そうだねえ、ぼくにもときどき思われることがあるよ』とこういわれるのですが、ねえ、考えてもごらんなさい、キリーロフ氏までなんだか変に思われるとすれば、本当はまあどうなんでしょう、え?」
「それは本当のことですか?」とスチェパン氏はキリーロフのほうを振り向いた。
「ぼくはこのことについて、口をききたくないのです」とキリーロフは急に首を上げて、目を光らしながら答えた。「リプーチン君、ぼくはきみの権利を否認するよ。きみはこの場合そんなことをしゃべる権利なんか持ってやしないんだから。ぼくはけっして自分の意見を、ぜんぶきみに洩らしたわけじゃない。もちろん、ぼくもスタヴローギンとはペテルブルグで知り合いになったが、それはもうずうっと前のことだからね。今度も会ったにゃ会ったけれど、ぼくがあの男について知るところははなはだ少ないのです。だから、どうかぼくだけは、この話の圏外に置いていただきたい、それに……こういう話はなんだかくだらない陰口めいてね」
 リプーチンは『罪なくして迫害される人』という表情で、両手を広げて見せた。
「告げ口屋ですかね! いっそのこと、間諜《いぬ》といってしまったらどうです? アレクセイ・ニールイチ、あなたなぞはいっさいの圏外に立って、冷静な批評をされるんだからけっこうなもんですよ。ところで、スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたはとても本当になさるまいけれど、あのレビャードキン大尉ですね、あれはその、なんです……馬鹿ですよ、馬鹿というのも恥ずかしいくらいな馬鹿なんです。ほら、こういう意味の程度を現わすロシヤ式の比較法があるでしょう。ところがですね、あの男はニコライ・フセーヴォロドヴィチから、侮辱を受けたように考えてるんですよ。そのくせ、あの方の機知には兜を脱いでしまって、『あの人にはまったく度胆を抜かれちゃった。まるで賢《さかし》き蛇だよ』(これはあの男の言葉そのままです)といってました。そこで、わたしは彼奴に向いて(その時もやはり昨日の感激の名ごりがあったし、それにキリーロフ氏と話した後のことでもあったのでね)、『どうだね、大尉、きみは自分の立場上どう考える、きみのいわゆる賢き蛇は気がちがってるだろうかね?』とたずねると、まあ、どうでしょう、まるでうしろから断わりなしに鞭でどやしつけられでもしたように、いきなり椅子から飛びあがるじゃありませんか。『そうだ……そうだ、しかし、それがためになんの影響もないだろう……』というのです。が、何に対する影響やら、そこのところははっきりいいませんでしたがね。それから、急に悲しそうな恰好をして、酒の酔いも一時に醒めはてた様子でしたよ。わたしたちは、フィリッポフの酒場に陣取っていたんですが、三十分ばかりもたったとき、先生、急に拳固でテーブルを叩いて『そうだ、或いは気がちがってるかもしれん。しかし、それがためになんの影響もないだろう……』といいだしたが、何に対する影響なのか、それはまたいわずにしまいました。もちろん、わたしは肝腎なところだけ取り次いでるんですが、いわんと欲するところはおわかりでしょう。だれに聞いてごらんになったって、頭に浮かぶ考えはこれ一つきりですよ。もっとも、以前はだれだって、そんなことを考えるものもなかったんですがね。『そうだ、気ちがいだ、非常に利口な人だが、しかし、まったく気ちがいかもしれん』とこうだれでも思いますよ」
 スチェパン氏はもの思う風情で、じっと坐ったまま、かれこれと一生懸命に思い合わせていた。
「ところで、レビャードキンは、どうして知ってるんだろう?」
「そのことなら、いまわたしに間諜《いぬ》よばわりをされたキリーロフ氏におたずねになったらいかがです。わたしは間諜《いぬ》でありながら何も知らないけれど、キリーロフ氏は底まで知りながら、黙り込んでいらっしゃる」
「ぼくはなんにも知りません、知ってるにしても、ごく僅かです」依然としていらだたしげな声で、技師は答えた。「きみは一つ何か嗅ぎ出すつもりで、レビャードキンを盛り潰そうとかかっているが、ぼくをここへ引っ張って来たのも、何か嗅ぎ出そうというつもりだったんだろう。ぼくに白状させるもくろみだったんだろう。してみれば、つまり間諜《いぬ》じゃないか」
「わたしはやつを盛り潰そうとしたことはありません。第一、あの男の秘密なんか、そんなお金をかける値打ちがありませんや。あなたはどうお思いか知らないけれど、わたしはあの男の秘密なんか、それくらいのものだと思ってますよ。それどころじゃない、あの男、十二日ばかり前には、わたしのところへやって来て、十五コペイカの無心をいったもんだが、今じゃ札びらを切ってるんですよ。シャンパンを奢ったのもわたしじゃありません、あの男なんですよ。しかし、あなたはいい思案を貸してくだすった。まったく必要に応じては、一つあの男を盛り潰してやりましょう、つまり、嗅ぎ出すためにね。そして、本当に嗅ぎ出してお目にかけましょう……あなたの秘密とかいうやつをね」とリプーチンは毒々しげに食ってかかった。
 スチェパン氏は相争える二人の者を、不審げに見まもっていた。二人とも自分の本音を吐きながら、少しも遠慮しようとしなかった。わたしの見るところでは、リプーチンがこのキリーロフを引っ張って来たのは、つまり第三者を介して、自分の狙っている話の中へ技師を引き摺り込む計略らしく思われた、――これは常に彼の好んで用いる兵法であった。
「キリーロフ氏は知りすぎるほど、ニコライ・フセーヴォロドヴィチを知っていられるくせに」と彼はいらいらした調子でつづけた。「ただ隠してばかりいられるのです。ところで、あなたはレビャードキン大尉のことをおたずねになりましたが、あの男はわれわれ仲間のだれよりも早く、もう五、六年も前から、ペテルブルグでニコライ・フセーヴォロドヴィチと近づきになったのです。つまり、あの方の生涯中でも不明の闇に包まれた(もしそんな言い方ができればですよ)時分のことです。その時分あの方はわざわざ来訪して、われわれに光栄を垂れようなどとは、考えてもいられなかったのですよ。こういうわけですから、わが王子はあの当時、ずいぶん奇妙な交友の選択をしていられたものと、こう結論を下さざるをえんですなあ。このキリーロフ氏と近づきになられたのも、やっぱりこの時分のことらしい」
「気をつけたまえ、リプーチン君、ニコライ君は近いうちにここへ来るつもりだったんだよ。あの男は自分の名誉を守るすべを知ってるからね」
「わたしはなにも、あの方に憎まれる覚えはありませんよ。わたしは自分から音頭取りになって、デリケートな洗練された頭脳を持った方だ、と吹聴してるじゃありませんか。昨日もヴァルヴァーラ夫人にこのことをいって、とっくりと気を落ちつかしてあげたのです。ただ『あの方の気性については、なんともお請合いができません』と、これだけは申しあげておきました。ところが、昨日レビャードキンも、まるで申し合わせたようにこういいましたよ。『あの気性のおかげで、どれだけひどい目にあったかわからない』って。ねえ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたはけっこうなもんですよ。人のことを告げ口屋だの間諜《いぬ》だのいっておきながら、ご自分ではすっかり、わたしから聞き出してしまったじゃありませんか。しかも、ずいぶん恐ろしい好奇心をむき出しにしてね。ところが、ヴァルヴァーラ夫人のいわれるには(夫人は昨日ちゃんと急所を刺しておしまいになりましたよ)、『あなたは直接事件に関係していらっしたのですから、それであなたにご相談申しあげるのです』と、こうなんです。もっとも至極の話じゃありませんか! え、わたしが衆人|稠座《ちゅうざ》の中で、あの方から侮辱を嘗めてるのに、目的も何もあったもんですか? わたしだって、ただの誹譏、讒謗以外、この事件に興味を持つ仔細がありそうなもんですよ。なにしろ、今日親しそうに握手するかと思えば、もう明日は数数の心づくしのお礼に、ただちょっとした気の向き方一つで、多くの人の面前で、その男の頬桁をお見舞い申すというふうなんですからね。つまり、不自由がなさすぎるからですよ! あの方の事件というのは、まあ主に女性ですな。なにしろ軽きこと春蝶のごとく、猛きこと雄鶏《ゆうけい》のごとしだからたまりませんや! 古《いにしえ》の愛神《アモル》みたいに翼を持った地主で、なんのことはないペチョーリン([#割り注]レールモントフ作『現代の英雄』の主人公[#割り注終わり])式の女殺しですな? ねえ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたは気随気ままの独身者だから、そんな暢気なことをいって、あの方のためにわたしを告げ口屋よばわりなさるのもいいでしょう。が、もしこれで綺麗な若い娘さんと結婚でもされれば(だって、あなたはまだ今でもなかなかの好男子でいらっしゃるから)、その時はあなたもわが王子の来襲を恐れて、戸に鍵を掛けるばかりでなく、自分の家に防塁《バリケード》でもおこしらえなさるでしょうよ! 実際これはなんという事情でしょう。もしあの鞭で毎日ひっぱたかれているレビャードキナ嬢が、気ちがいでびっこでなかったら、まったくのところ、あの女がわが王子の情欲の犠牲だったのじゃないか、そして、レビャードキン大尉のいわゆる『家系の傷』なるものも、ここに潜んでいるのじゃないか、と考えるとこだったんですよ。ただあの方の洗練されたる趣味に矛盾したところがあるんだけれど、それも大したことじゃないかもしれませんさ。どんなしろ物だろうと、うまくあの人の気分にぴたりと合えば、立派に役を勤めることができるんですからね。ところが、あなたはすぐ讒謗よばわりをなさる。わたしはもう町じゅうが大騒ぎしているから、それで初めてわめきだしたんです。わたしはただ人の噂を聞いて、相槌を打ってるだけなんです。だって、相槌を打つのは法度《はっと》になっていませんからなあ」
「町じゅうが大騒ぎしている? 何を大騒ぎしてるんだね!」
「なに、つまりレビャードキン大尉が酔った勢いで、町じゅう響けとわめいてるんです。だからもう、広場一杯の群衆がわめいてるのも同じことじゃありませんか! いったいわたしのどこが悪いんです? わたしはただ親友同士の間で、ちょっと好奇心を動かしてるだけです。実際、これでもわたしはいま親友の間にいるものと考えてるんですからね」と彼は罪のない顔つきでわたしたちを見廻した。「ところが、ここに一つ事件があるんですよ。いいですか。あの男の話によると、わが王子はまだスイスにいられる時に、淑徳ならびなき一人の令嬢を介して(この方はわたしも拝顔の栄を担いましたが、きわめて柔和な孤児といってもいいくらいなものです)、レビャードキン大尉に渡すようにといって、三百ルーブリの金を送られたんだそうです。ところがレビャードキンは、間もなくある人から精密な報知をえたのですが、それによってみると送った金は三百ルーブリでなくて、まる千ルーブリだったとのことです(わたしはだれからその報知をえたかいいませんが、やっぱりれっきとした身分ある人なんですよ)。そこでレビャードキンは、あのお嬢さんがおれの金を七百ルーブリくすねおったとわめきだして、もうあやうく警察沙汰にまでしようという騒ぎなんです。少なくも町じゅう触れ廻して、示威運動をやってるんで……」
「それは卑劣だ、それは、きみ、卑劣だ!」とふいに技師は椅子から躍りあがった。
「だって、そのれっきとした身分のある人というのは、ほかじゃない、あなたのことなんですぜ。ニコライ・フセーヴォロドヴィチがスイスから送ったのは、三百ルーブリではない千ルーブリだ、とあなたが断言なすったんでしょう。当のレビャードキンが酔っぱらって教えてくれましたよ」
「それは……それは不幸な誤謬だ。だれか思い違いをしてそんなことになったのだ……それはでたらめだ、そして、きみは卑劣な人だ!………」
「ええ、わたしもでたらめだってことを信じたいのですが、悲しいかな、耳に入る噂をいかんせんですよ。なぜって(あなたはどうお思いになろうとご勝手ですが)、あの淑徳ならびなき令嬢が、第一にその七百ルーブリ事件、第二にニコライ・フセーヴォロドヴィチとの艶聞にも、関係があるんですからなあ。実際、わが王子にとって、無垢な処女を傷つけたり、他人の妻をけがしたりするのは、朝飯前の仕事ですよ。ちょうどいつかのわたしに関した事件と同じようにね。不幸にして、寛厚の心にみちた人物が、あの方の行く手に出くわそうなものなら、すぐ自分の潔白な名前をもって、他人の罪業をおおうような目にあわされますよ。ちょうどわたしがあったような目にね。わたしは自分のことをいってるんですよ……」
「気をつけたまえ、リプーチン!」とスチェパン氏は、肘掛けいすから身を起こしながら、顔の色を真っ青にした。
「本気にしちゃいけません、本当にしちゃ! それはだれかが間違って……それにリプーチンは酔っぱらってるんですから……」たとえようもない興奮のさまを示しながら、技師はこう叫んだ。「今にすっかりわかります。が、ぼくはもうたまりません……それは、卑劣なことだと思いますから、いや、たくさんです、たくさんです!」と彼は部屋を駆け出した。
「おや、あなたはどうしたんです? じゃ、わたしもいっしょに!」リプーチンは急に泡を食って飛びあがると、そのままキリーロフの後を追って駆け出した。

[#6字下げ]7[#「7」は小見出し

 スチェパン氏はもの思わしげに、じっと一分間ばかり突っ立ったまま、何を見ているのかわからないような目つきで、わたしの顔を見つめていたが、とつぜん帽子とステッキを取って、静かに部屋を出て行った。わたしは先ほどと同じように、また後からついて行った。彼は門を出るとき、わたしがついて来るのに気がついてこういった。
「ああ、そうだ、きみは証人になるかもしれない…… de l'accident(この事件の)。Vous m'accompagnerez n'est-ce pas?(きみ、わたしについて来てくれるでしょうね)」
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたはまたあすこへいらっしゃるんですか? まあ、考えてごらんなさい。そんなことをしたら、いったいどんな騒ぎになるでしょう?」
 悄然ととほうにくれたような微笑を浮かべながら、――やるせない絶望と羞恥の色を帯びてはいるが、同時に何やら奇怪な歓喜を含んだ微笑を浮かべながら、彼はちょっと立ちどまってささやいた。
「しかし、わたしは『他人の罪業』と結婚するわけにいかないからね!」
 わたしは実にこの一言を期待していたのである。長い間わたしに隠していた秘密の一言は、一週間のごまかしと弥縫の後、ついに彼の口から発しられた。わたしはすっかり憤慨してしまった。
「そんな醜悪な、そんな……卑劣な考えがよくまあ、あなたの、スチェパン・ヴェルホーヴェンスキイ氏の心中に湧き出たものですね。あなたの明快な頭の中に、あなたの善良な心の中に……しかもリプーチンの話を聞かない先から!………」
 彼はわたしの顔を見まもったが、返事もしないでぐんぐん歩きつづけた。わたしは遅れまいとした。ヴァルヴァーラ夫人のために証人になりたかったのである。もしこれが持ち前の女々しい狭い心から、ただリプーチンの言葉だけを彼が信じたものならば、わたしもそれを諒としたに相違ない。けれど、彼はリプーチンの話を聞かないうちから、このことをなにもかも自分で考えついたので、リプーチンはただ彼の猜疑に裏書きし、燃ゆる火に油をそそいだにすぎない。それはもはや疑いをいれなかった。彼はもうそもそもの初めから、なんの根拠もないのに、まったくリプーチンほどの根拠もないのに、ダーリヤの純潔を疑い始めたのである。彼はヴァルヴァーラ夫人の横暴な処置に対して、ほかに解釈の方法を見出しえなかった。つまり、夫人は自分の限りなく愛しているニコラスの貴族にありがちな罪業を、名誉ある人との結婚によって少しも早く塗り潰そうと、夢中になっているのだ! わたしは彼がこの卑劣な疑いに対して、ぜひとも罰を受けるようにと心に願った。
「O! Dieu, qui est si grand et si bon!(おお、偉大にして善良なる神よ!)おお、だれがわたしを慰めてくれるのだろう?」また百歩ばかり歩くと、ふいにぴたりと足を止めて、彼はこう叫んだ。
「すぐ家へ帰りましょう、わたしがすっかり説明してあげます!」とわたしは無理に家のほうへ引き戻しながらいった。
「おや、まあ! スチェパンさま、あなたでございましたか? まあ?」とつぜん音楽かなんぞのように新鮮な、若々しい、蓮葉な声が、二人の傍で響いた。
 わたしたちは少しも気がつかないでいたが、ふいにかの騎馬令嬢リザヴェータ・ニコラエヴナが、いつものつれといっしょに二人の傍へ現われたのである。彼女は馬を止めた。
「いらっしゃい、早くいらっしゃい!」と彼女は高い声で愉快げに叫んだ。「あたしもう十二年もお目にかからなかったけれど、すぐわかりましたわ、スチェパンさま……あなた、あたしがおわかりになりません?」
 スチェパン氏は、差し伸べられた女の手をとって、うやうやしく接吻した。彼はまるで祈りでもするように、女の顔を見つめたまま、とみに言葉さえ出なかった。
「まあ、気がついてよろこんでらっしゃる! マヴリーキイ・ニコラエヴィチ、この方はあたしに会ったのが嬉しいって、夢中になっていらっしゃるのよ! どうしてあなたまる二週間というもの、訪ねて来てくださいませんでしたの? ヴァルヴァーラ小母さんたらね、あなたはご病気だから、うっちゃっておくほうがいいっておっしゃるけど、あたしだって、小母さんが嘘ついていらっしゃるくらい知ってますわ。あたしね、いつもじだんだふんで、あなたの悪口ついていたんですけど、でも、ぜひあなたのほうから先に来ていただきたかったので、わざとお迎えをあげませんでしたの。あら、まあ、ちっともお変わりにならないのねえ!」と彼女は鞍の上からかがみ込むようにして、彼の顔をと見こう見するのであった。「本当におかしいほど変わってらっしゃらない! あっ、そうじゃない、小皺がある、目のまわりや頬の辺にたくさん小皺がある、それに、白髪も交ってるわ。だけど、目はもとのままよ! ですが、あたし変わったでしょう? ね、変わったでしょう? まあ、なんだってあなた黙り込んでらっしゃるんですの?」
 わたしはこの瞬間、彼女の昔話を思い出した。十一の年にペテルブルグヘ連れて行かれた時は、ほとんど病人といっていいくらい体が弱かったが、病気などした時には、泣いてスチェパン氏に会いたがったということである。
「あなた……わたしは……」今はよろこびのあまり途切れがちな声で、彼は舌を縺らせながらこういった。「わたしはたった今『だれがわたしを慰めてくれるのだろう!』と叫んだばかりなんですよ。ところへ、あなたの声が聞こえたじゃありませんか。それこそ奇蹟だと思います。〔et je commence a` croire〕(わたしはまた信仰を回復しそうです)」
「En Dieu? 〔En Dieu, qui est la`-haut et qui est grand et si bon?〕(神に対する信仰でしょう、高き所にあり、偉大にしてかつ善良なる神に対する信仰でしょう?)ねえ、あたしあなたの講義をすっかり暗記していますの。マヴリーキイさん、この方はね、その頃あたしに偉大にして善良なる神に対する信仰を、熱心に説いてくだすったものよ! あなた覚えていらっしゃって、コロンブスアメリカを発見した時、みんなが陸地陸地と叫んだ話をしてくだすったのを? あたしは後でその晩夢中になって、うわごとに陸地、陸地といったって、乳母のアリョーナ・フローロヴナが話して聞かせましたの。それから、王子ハムレットの話を聞かせてくだすったのを、覚えていらっしゃいます? ああ、そしてまた哀れな移民たちが、ヨーロッパからアメリカへ輸送される光景を、くわしく目に見えるように教えてくださいましたわねえ、だけど、あれはみんな嘘でしたわ。あたしその後、ほんとの輸送の模様を見ましたもの。けれどね、マヴリーキイさん、この方はその時どんなに上手に嘘をおつきになったでしょう。本当よりもいいくらいですわ。スチェパンさま、なんだってそんなにマヴリーキイさんを一生懸命に見ていらっしゃいますの? この方は地球全体の人間の中で、一等すぐれた、一等誠実な方ですから、あなたもぜひあたし同様に、かわいがってあげてくださいな! il fait tout ce que je veux(この人はあたしの望むことを何でもしてくださいますの)ときにスチェパンさま、あなた往来の真ん中で『だれがわたしを慰めてくれるのだ』などとわめいていらっしゃるところを見ると、まだやっぱり不仕合わせでいらっしゃると見えますね? 不仕合わせなんでしょう、ね、そうでしょう? そうでしょう?」
「今はもう仕合わせになりました……」
「小母さまが失礼なことをなさるんですの?」と彼女は相手の言葉に耳を藉さないで、勝手に話しつづけるのであった。「いつもいつもあのとおり意地の悪い、勝手な人ですけれど、いつまでたってもあたしたちにとって大切な人は、あの小母さまですわねえ! 覚えていらしって? あなたがよく庭の中でいきなり飛びかかって、あたしを抱きしめてくださると、あたしは泣きながら、あなたを慰めたものですわねえ。ああ、マヴリーキイさんを怖がらないでくださいな。この人はあなたのことを、とうの昔からすっかり知ってらっしゃるんですもの。あなたこの人の肩にもたれかかって、いくらでも足りるほどお泣きになってよござんすの。この人は幾時間でもじっと立ってますから!………まあ、帽子を少し持ち上げて、いえ、ちょっとの間すっかり脱いでくださいな。そして、首を伸ばして爪立ちをしてくださいな。あたしすぐにあなたの額を接吻しますから。ちょうど最後のお別れにしたようにね。ご覧なさい、あのお嬢さんが窓の中から、あたしたちを不思議そうに眺めていますわ。さあ、もっと、もっと寄ってちょうだい! あらまあ、なんて白髪におなんなすったのでしょう!」
 彼女は鞍の上から身をかがめて、スチェパン氏の額を接吻した。
「さあ、今度はお宅へまいりましょう! あたしあなたのお宅をぞんじてますわ。あたしすぐに、本当に今すぐお宅へあがりますわ。あなたが頑固屋さんだから、こちらから先にまず訪問しておいて、それから一日あなたを宅へ引きつけてしまいますよ。さあ、いらっしゃい。そして、もてなしの用意をしといてくださいな」
 こういって、彼女は自分の守護者《ナイト》マヴリーキイとともにかなたへ駆け去った。で、わたしたちも引っ返した。スチェパン氏は長いすに身を投げて、さめざめと泣き出した。
「Dieu, Diue!」と彼は叫んだ。「Enfin une minute de bonheur!(ああ、ああ、ついに幸福の瞬間が来た!)」
 十分もたたないうちに、彼女は約束どおり、マヴリーキイを連れてやって来た。
「〔Vous et le bonheur, vous arrivez en me^me temps!〕(あなたと幸福が同時に到着しました!)」と彼は入り来るリーザを迎えに立ちあがった。
「さあ、花束を差しあげます。あたし今マダム・シュヴァリエのところへ行ってまいりましたの。あの店には冬の間だって、命名日の主人公に贈る花束がありますの。さ、この方がマヴリーキイさんです、どうぞお心安く願います。あたし、花束のかわりにお菓子っていったんですけれど、マヴリーキイさんがそれはロシヤ式でないとおっしゃるものですから」
 このマヴリーキイは砲兵大尉で、年は三十三、四、背の高い、美しい、申し分のない気品のある容貌を持った紳士である。表情は幾分ものものしく、ちょっと見はいかついくらいであったが、実際はどんな人でも、彼と近づきになった最初の瞬間から、すぐ気づかずにいられないような、驚くばかり優しい善良な人なのであった。けれども、彼は非常に無口で、見たところいかにも冷淡な性質らしく、しいて交遊を求めようとしないらしかった。その後、この町で多くのものがあれは少し鈍い人間だなどといったが、それはぜんぜん正鵠を穿っているとはいえない。
 わたしはリザヴェータの美貌を描き立てるのはやめようと思う。もう町じゅうで彼女の美しさを囃し立てているのだから。もっとも夫人連や令嬢たちの中には、大いに憤慨してこの評判を否定するものもあった。中にはリザヴェータを憎むものすらあった。その理由は、第一に高慢だというのである。ドロズドヴァ母子は、まだ町の名士連の訪問を始めなかったので、それが生意気に思われたのだ。しかし、この訪問延引の原因は、実際のところ、プラスコーヴィヤ夫人の患いがちなためだった。また第二の原因は、彼女が知事夫人の親戚に当たるということであり、第三は彼女が毎日馬に乗って散歩するということだった。この町では、それまで女の馬乗りが一人もなかったので、まだ訪問も始めないうちに、馬で散歩などするリザヴェータの出現が、わが社交界を憤慨さしたのはもっともな次第である。とはいえ、彼女が馬上で散歩するのは、医師の命令によるものだということを、人々はもう承知していたのである。そのうえ彼女の病身な生まれつきを、皮肉な調子で噂し合っていた。
 実際、彼女は病身のほうだった。彼女に会ってまず第一に気がつくのは、病的な神経質らしい、絶えず落ちつく暇のないような表情であった。哀れにもこの薄命な処女は、非常な苦しみを経験していたのだ。それは後ですっかりわかった。しかし、今こうして過去を追懐するに当たって、わたしは彼女が当時自分の目に映ったほど、素晴らしい美人だとはあえていうまい。ことによったら、まるで美人でなかったかもしれない。背が高くてほっそりしていながら、同時に強靭な体を持った彼女は、その顔面の不規則な輪郭によって、奇異の感じをいだかせるほどであった。彼女の目はカルムイク人([#割り注]南部シベリヤ土民、蒙古族[#割り注終わり])のように、なんだか少し斜《はす》に吊っていた。顔立ちは痩せて、頬骨が出て、あお白い色つやをしていたが、その中には何か相手の心を征服しなければやまぬ、魅力に富んだあるものが感じられた。何か非常に力強いあるものが、その暗い色をした、燃えるような眼ざしの中に感じられた。彼女は『征服せんがために、征服者として』出現したのである。実際、彼女は傲岸[#「傲岸」はママ]に見えるばかりでなく、どうかすると暴慢に感じられることさえあった。彼女が善良な人間になりえたかどうかは知らぬが、しかし、強制的に自分を善良な人間にしたくてたまらないので、そのために煩悶しているのは、わたしにも察しられた。もちろんこの人の内部《うち》には美しい翹望も、正しい試みも十分にあったが、しかし、彼女の持っているすべてのものは、常に正しい標準点をえようとして、しかも、永久にそれを見出しえないために、何もかも混沌と、擾乱と、不安の渦中に投じられている、といったふうな様子だった。彼女はあまり厳格すぎるほどの要求をもって、自分自身に対しているのかもしれぬ。けれど、その要求を満足させるだけの力は、どうしても発見できないらしい。
 彼女は長いすに坐って、部屋を見廻した。
「どうしてあたしはこういう時に、いつも妙にもの悲しくなるんでしょう、あなた学者だから一つ解いてくださいな。あたしね、今までずうっと考えてましたの、もしあなたに会って昔のことを話したら、まあどんなにか嬉しいだろうって。ところが、今はなんだかまるで嬉しくないような気がするじゃありませんか。それでいて、あたしあなたが大好きなんですの……あらまあ、ここにあたしの肖像がかかってるわ! ちょっと見せてくださいな、あたし覚えててよ、覚えててよ!」
 十二のリーザを描いたこの見事な小品の水彩画は、かつて九年ほど前にドロズドフ家の人が、ペテルブルグからスチェパン氏へ送ったものである。それ以来この肖像画は、いつも書斎の壁にかかっていた。
「まあ、本当にあたしこんなかわいい子だったのかしら? 本当にこれがあたしの顔でしょうか?」と彼女は立ちあがって、肖像を片手に持ちながら、鏡を見つめた。
「早く取ってください!」肖像を手渡しながら、彼女はこう叫んだ。「今かけないでちょうだい、あとで。あたしもう見るのもいや」彼女はふたたび長いすに腰を下ろした。「一つの生活が終わって、新しい生活が始まり、それがすんでしまうと、今度はまた別な生活が始まる、――こうして際限なしに続くんですわね。鋏でちょんちょん切ったようにね。ねえ、あたしとても古い話を持ち出すでしょう、けれど、この中にはずいぶん真理がありますわ!」
 彼女は薄笑いを浮かべながら、わたしを見た。もう彼女は幾度となくわたしに目をつけたが、スチェパン氏はすっかりのぼせてしまって、わたしを引きあわせるという約束を忘れているのであった。
「ですが、なんだってあたしの肖像は、匕首《あいくち》の下にかかってるんでしょう? まあ、なんだってあなたは匕首や刀を、あんなにたくさんもってらっしゃるの?」
 実際、なんのためだか知らないが、壁には二ふりの|トルコ剣《ヤタガン》が、十字形に組み合わせてかかっている上に、本物のチェルケス刀まで飾ってあった。こんなことを聞きながら、彼女はひたとわたしのほうを見つめるので、わたしも何か返事しようとしたが、口ごもってしまった。スチェパン氏はやっと気がついて、わたしを紹介した。
「知ってます、知ってます」と彼女はいった。「まったく嬉しゅうございますわ。母もやっぱりあなたのことを、いろいろ伺って承知していますの。マヴリーキイさんとも近づきになってあげてくださいな、それはいい人なんですから。あたしね、あなたという人のことで、おかしな概念を作り上げてしまってるんですの。だって、あなたはスチェパンさまの相談柱でしょう?」
 わたしはあかくなった。
「ああ、どうか堪忍してくださいましね、あたし妙な言葉づかいをしてしまいまして。何もけっしておかしいことはないんですの、ただその……」彼女は顔をあかくし、どぎまぎしてしまった。「もっとも、あなたが立派な方だからって、何も恥ずかしがることはありませんわねえ。それはそうと、マヴリーキイさん、そろそろお暇しましょう! スチェパンさま、もう三十分たったら宅へいらっしゃらなくちゃいけませんよ。ねえ、うんと話しましょうよ! もう今度はあたしが相談柱ですよ、すっかり話しましょうね。すっかり[#「すっかり」に傍点]。よござんすか?」
 スチェパン氏はたちまちもう泡をくった。
「おお、マヴリーキイさんはみんな知ってらっしゃるんですの。この方にご遠慮はいりませんわ!」
「何を知ってらっしゃるんです?」
「まあ、あなた何をおっしゃるんですの!」と彼女は驚いて叫んだ。「なるほど、みんなが隠してるっていうのは、まったくなんですわね。あたし本当にできなかったわ。ダーシャまで隠そうとしてるのよ。小母さんたら、さっきあたしを、ダーシャに会わしてくださらないんですもの。あの娘《こ》は頭が痛いとかいってね」
「しかし……どうしてあなたそんなことを知ったのです?」
「まあ、何をおっしゃるの、皆と同じように知っただけですわ。なにも大して知恵なんか、いりゃしませんよ!」
「え、皆が……」
「そうですわ、なぜ? もっとも、最初はお母さんが、乳母のアリョーナから聞きましたの。そして乳母にはね、お宅のナスターシヤが駆けつけて知らせてくれましたの。だって、あなたナスターシヤにお話しなすったんでしょう? あれがそういってましたもの、あなたご自身の口から聞いたんだって」
「わたしは……わたしはたった一ど話したきりです……」とスチェパン氏は真っ赤になって、吃り吃りこういった。「しかし……ただちょっと匂わしたばかりなんで…… 〔j'e'tais si nerveux et malade et puis〕(わたしはあのとき非 常に神経が昂ぶって病的になってたんです。それに)……」
 彼女はからからと笑った。
「それに、手近なところに相談柱が居合わさなかった、そこへ折よくナスターシヤが来合わせたんでしょう、――それだけでもうたくさんなのよ。あの女にかかったら、町じゅうが親類同士みたいなもんですからね。まあ、そんなことどうでもいいわ! 知ったなら知ったで好きにさせとけばいいのよ。かえってそのほうがいいくらい。どうぞ、早く来てくださいな。うちじゃ正餐《ごはん》が早いんですから……ああ、忘れてた」と彼女はふたたび腰をおろした。「ねえ、いったいシャートフってどういう人ですの?」
「シャートフですか? あれはダーリヤさんの兄さんです!……」
「兄さんてことは知ってますわ、本当にあなたはなんて人でしょうねえ」と彼女はじりじりしながらさえぎった。「あたしその人物が知りたいんですの、いったいどんな人でしょう?」
「C'est une pense-creux d'ici. C'est le meilleur et le plus irascible homme du monde(あの男はこの土地での空想家ですが、世界じゅうで一ばん人のいい、そして一ばん怒りっぽい男なんです)」
「あの方が妙な変人だってことは、あたしも聞いてましたわ。だけど、そのことじゃありませんの。なんでもあたしの聞いたところでは、シャートフさんは三か国の言葉を知っていて、英語にも詳しく、文学的の仕事にも携わることができるそうですね。そうすると、あたしその人に向きそうな仕事をいくらでも持ってるんですの。あたし助手が入用なんですの、そして早いだけけっこうなのよ。その人はそういう仕事を引き受けてくださるでしょうか。ちょっと推薦する人がありましてね」
「そりゃもちろんですよ。et vous fairex un bienfait……(そして、あなたは功徳を施すことになりますよ)」
「あたしけっして功徳のためじゃありませんわ。あたし自身に助手がいるんですの」
「ぼくはかなりよくシャートフを知っています」とわたしがいった。「で、もしその伝言をぼくに託してくだすったら、すぐにこれから出かけますが」
「じゃ、明日十二時に来るようにいってくださいな。まあ、いい都合だこと! ありがとうございます。マヴリーキイさん、お支度はよくって?」
 二人は立ち去った。わたしはむろんすぐさまシャートフの家をさして駆け出した。
「|きみ《モナミ》」とスチェパン氏は、玄関の出口でわたしに追いついて、「ぜひお願いだから、十時か十一時頃、わたしの帰って来る時分に、うちへ来てくれたまえな。おお、わたしは実に、実にすまない。きみに対しても……またみんなに対しても、まったくすまない」

[#6字下げ]8[#「8」は小見出し

 シャートフは家にいなかった。二時間ばかりたって、もう一ど駆けつけてみたが、やっぱり留守だった。とうとう七時過ぎにわたしは会って話をするか、さもなくば置き手紙をして行こうという決心で、彼のもとへ出かけた。と、はたしてまた留守だった。その住まいには鍵がかかっていた。しかも、彼はまるで召使をおかずに、たった一人で暮らしているのだ。わたしは階下《した》のレビャードキン大尉にぶっつかって、シャートフのことを聞いてみようかと考えついたが、ここもやっぱり戸が閉まって、こそとのもの音もしない。まるで空家のよう。わたしはさきほどの話の印象を忘れかねて、好奇の念を覚えながら、大尉の住まいの戸口を通り抜けた。結局、わたしは明日の朝、早目に寄ってみることにした。置き手紙もあまり当てにならなかったからである。シャートフはしぶとくて人ずきの悪い男だから、そんなものなぞ大して気にかけそうもない。わたしは自分の失敗を呪いながら、門を潜って出ようとすると、偶然にもキリーロフ氏に行き会った。彼は家へ入ろうとするところだったが、まず第一番にわたしの顔を見分けた。向こうからいろいろと問いかけるので、わたしも事の始末をかいつまんで話したうえ、手紙を持っていることを告げた。
「まあ、おはいんなさい」と彼はいった。「ぼくがすっかりよくしてあげます」
 わたしはふと思い出した。リプーチンの言葉によると、彼は今朝から裏庭に建っている木造の離れを借りているはずである。独り者には少し広すぎるこの離れには、年とった聾の女房が住んでいて、これが彼の世話をやくことになっていた。この家の持ち主は別の通りにある別の新しい家で、料理屋を経営していたが、その親類に当たるとかいうこの老婆は、古い家ぜんたいの監督にここへ残っているのであった。離れの部屋はいずれも小ざっぱりしているが、壁紙が汚かった。わたしたちのはいって行った部屋を飾る道具は、寄せ集めの大小不揃いなもので、まったくのがらくたであった。まずカルタ卓が二つ、榛《はん》の木造りの箪笥一棹、どこかの百姓小屋か、台所からでも引っ張り出したような、大形の荒削りのテーブル一つ、いくつかのいす、格子のよっかかりと固い革枕のついた長いす一脚、といったふうなものである。片隅には時代ものの聖像が飾ってあって、その前には、わたしたちのはいって来ないうちにお婆さんのともした燈明が吊るしてあった。傍の壁には、朦朧とした二枚の大きな油絵の肖像がかかっていたが、一つは先帝ニコライ一世を描いたもので、見受けたところ、二十年代に写し取ったものらしい。いま一つは何か僧正の姿を現わしたものであった。
 キリーロフ氏は部屋へはいると蝋燭をともし、まだ片づけもせず、隅のほうにほうり出してあるカバンの中から、封筒と封蝋と水晶の封印とを取り出した。
「その手紙に封をして、封筒に宛名をお書きなさい」
 わたしはそんな必要はないといってみたが、彼はどうしても聞かなかった。封筒に宛名を書くと、わたしは帽子を取り上げた。
「ぼくは茶でもなにされるかと思っていました」と彼はいった。「ぼく、茶を買ったです。おいや?」
 わたしは辞退しなかった。間もなく婆さんが茶を持って来た。というのは、熱い湯の入った素晴らしく大きな土瓶と、ふんだんに茶を入れた急須と、俗な模様のついた無骨な茶碗二つと、大きな丸パンと、深皿いっぱいに盛った割り砂糖とであった。
「ぼくは茶が好きです」と彼がいった。「夜ね、やたらに歩いては飲むんです。夜が明けるまで。外国にいると、夜の茶は都合が悪いですね」
「あなたは夜明けにお休みになるんですか?」
「ええ、いつも――ずっと以前から。ぼくはあまり物を食べないで、茶ばかり飲むんです。リプーチンは狡猾だけれど、せっかちですね」
 この人が何をいおうとするのかわからないで、わたしは面くらってしまった。わたしはこの機を利用しようと決心して、
「さっきはちょっといやな行き違いが起こりましたね」といってみた。
 彼は恐ろしく顔をしかめた。
「あれは馬鹿げたことです。あれはまったく下らんことです。あれはもう一から十まで下らんことばかりです。なぜって、レビャードキンは酔っぱらいじゃありませんか。ぼくはリプーチンに話をしたんじゃありません。ちょっと下らんことを説明しただけなんです。それをあの男がまた尾鰭をつけたのです。リプーチンはやたらに想像が強いから、針小棒大にやってるんです。ぼくは昨日までリプーチンを信じていました」
「ところで、今日はぼくを信じるんですか?」とわたしは笑った。
「さっきの一件でたいていもうおわかりでしょう。リプーチンは弱い男か、でなければせっかちか、でなければ有害な男か、でなければ……やっかみ屋なんです」
 わたしはこの最後の言葉に一驚を喫した。
「しかし、あなたはずいぶんたくさん形容詞をおならべになりましたね。それだけいえば、どれか一つくらい当てはまるでしょうよ」
「ところが、どれにもすっかり当てはまるかもしれません」
「ええ、それもそうですね。リプーチンはまるで一つの混沌ですからねえ? ときに、あなたが何か著述をなさるように、先ほどあの男がいったのは、でたらめですか?」
「なぜでたらめなんです?」じっと足もとを見据えながら、彼はまたも眉をひそめた。
 わたしは失言を謝して、何か探り出そうなどというはらでないことを誓った。彼は顔をあかくした。
「あの男のいったのは本当です。ぼく、書いています。けれど、そんなことはどうだっていいじゃありませんか」
 しばらく二人は黙っていた。とふいに、彼は先ほどと同じ子供らしい笑い方でほほえんだ。
「が、あの首の話はあの男が、本の中から引っ張り出したのです。初め自分でぼくに話して聞かせましたが、その解釈が成ってないです。ぼくはただね、どういうわけで人間は自殺する勇気を持たないか、その原因を求めているのです。それっきりです。が、これもどうだっていいです」
「なぜ勇気がないのです! 自殺の数が少ないとでもおっしゃるのですか?」
「非常に少ないです?」
「え、あなたはそうお考えですか?」
 彼は答えなかった。そして、ふいと立ちあがり、物思いに沈んであちこちと歩き始めた。
「あなたのお考えによると、人間の自殺を妨げるものはなんでしょう?」とわたしはたずねた。
 彼はたったいま二人が話し合ったことを、思い出そうとでもするように、ぼんやり視線を向けた。
「ぼくは……ぼくはまだよくわかりませんがね……二つの偏見が邪魔をしてるんですよ。二つのもの、たった二つのものです。一つは非常に小さいけれど、いま一つはたいへん大きいのです。しかし、小さいほうだって、やはり非常に大きいですね」
「小さいほうってなんです?」
「痛みです」
「痛み? いったい、それがそんな大した問題なのでしょうか……この場合?」
「最も重要な問題です。これにも二種類ありますがね。非常な憂愁とか、また憤懣のために自殺する者、気ちがい、それから……まあ、なんだっていい、そんな連中はいきなりやっつけます。こんな連中はあまり痛みのことなど考えないで、いきなりやっつける。ところが、思索の結果やる連中は、非常に考えるんです」
「思索の結果やる者があるでしょうか?」
「非常にたくさんあります。もし偏見がなかったら、もっとたくさんあるんです。非常にたくさんあるんです、みんなそうです」
「へえ、みんなになっちまいましたね」
 彼はいっとき口をつぐんだ。
「けれど、痛みなしに死ぬ方法がないと思いますか?」
「いいですか」と彼はわたしの前に立ち止まった。「かりに大きな家ほどもある大磐石を想像してごらんなさい。そいつが宙にぶら下って、あなたがその下にいるんです。ところで、もしそれがあなたの頭の上へ落ちて来たら――痛いでしょうか?」
「家くらいの石? むろん、恐ろしいですよ」
「ぼくは恐ろしいかどうか聞いてるんじゃない。痛いでしょうかというんです」
「山のような石ですね、百万貫もある? もちろん、少しも痛かありませんさ」
「ところが、実際その下へ立ってみたら、そいつがぶら下っている間じゅう、あなたはさぞ痛いだろうと思って、非常に恐れるに相違ない。どんな第一流の学者だって、第一流の医者だって、みんなだれでも非常に恐れるに相違ない。だれでも痛くないと承知しながら、だれでも痛いだろうと思って、非常に恐れるに相違ない」
「なるほど、じゃ第二の原因は、大きいほうは?」
「来世です」
「というのは、神罰ですか?」
「そんなことはどうだっていいです。来世です、ただ来世だけ」 
「しかし、ぜんぜん来世を信じない無神論者もあるでしょう?」
 ふたたび彼は言葉を切った。
「あなたはおそらく自分を基にして判断してるんでしょう」
「だれだって自分を基にして判断するより、仕方がないじゃありませんか」と彼は顔を染めながらいった。「完全な自由というものは、生きても生きなくても同じになった時、初めてえられるのです。これがいっさいの目的です」
「目的? それじゃだれ一人、生を欲するものがなくなるんですね?」
「ええ、だれ一人」彼はきっぱりといいきった。
「人間は生を愛するがゆえに死を恐れます。これがぼくの見解です」とわたしはいった。「そして、これが自然の命令です」
「それは陋劣です。その中にいっさいの欺瞞があるのです!」彼の目はぎらぎら光ってきた。「生は苦痛です。生は恐怖です。ゆえに人間は不幸なのです。現代はすべてが苦痛と恐怖です。いま人間は生を愛している、それは苦痛と恐怖とを愛するからです。そして、実際そのとおりにしてきたのです。いま生活は苦痛と恐怖の代償として与えられている、しかも、その中にいっさいの欺瞞が含まれているのです。今の人間は本当の人間じゃありません。今に幸福と誇りとに満ちた新人が出現する。生きても生きなくても同じになった人が、すなわち新人なのです。苦痛と恐怖とを征服した人はみずから神となる。そうすると、今までの神はなくなってしまう」
「してみると、今までの神はあるとお考えなんですね?」
「神はない、けれど、神はある。石の中に苦痛はないけれど、石に対する恐怖には苦痛がある。神は死に対する恐怖の苦痛です。苦痛と恐怖とを征服したものはみずから神となるのです。その時こそ新生活がはじまる、新人が生まれる。いっさいが新しくなる……その時こそ、歴史は二つの部分に分けられるようになる――ゴリラから神の撲滅までと、神の撲滅から……」
「ゴリラまで?」
「地球と人類の物理的変化まで。人間が神になると、肉体的にも変化します。そして世界も変化し、事物も変化します、思想も感情もすべて変化します。あなたどう思います。その時は人間が肉体的に変化しますか?」
「もし生きても生きなくても同じになったら、みんな自殺してしまいますよ。まあ、それくらいの変化でしょうかねえ」
「そんなことはどうだっていい。欺瞞が殺されるのです。だれにもせよ最高の自由を欲するものは、必ず自殺する勇気を持ってなくちゃならない。自殺する勇気のある者は、欺瞞の秘密を見破ったのです。もうそれ以上の自由はない。その中にすべてがあるのです。それより先には何もありません。自殺する勇気のある者は、もう神になったのです。神もなければ何物もないという状態には、現在だれでもすることができる。しかし、まだだれも今までやったものがない」
「自殺したものは、何百万あったかわかりませんよ」
「しかし、みんな目的が違います。みんな恐怖をいだきながらやってるので、まるで目的が違います。けっして恐怖を殺すためじゃない。ただただ恐怖を殺さんがために自殺するものだけが、初めて神になるのです」
「たぶん間に合わんでしょう」とわたしがいった。
「それはどうだっていいです」彼は侮蔑といっていいくらい平静な誇りの色を浮かべて、小さな声でこう答えた。「あなたは冷やかしていられるようですね、ぼくはそれが残念ですよ」としばらくたって彼はいい足した。
「ぼくはまた、さっきあんなにいらいらしておられたあなたが、そんなに落ちついて話をなさるのが不思議なんです。もっとも、だいぶ熱心な様子ではありますがね」
「さっき? さっきはおかしかったのです」と彼は微笑を浮かべながら答えた。「ぼくは口論するのが嫌いなんです。そして、どんなことがあっても、冷やかしなどしません」と彼は沈んだ調子でいい添えた。
「けれど、あなたが茶を飲みながら送られる夜な夜なは、あまり愉快なものじゃありませんね」
 わたしは立ちあがって、帽子を取った。
「そうお思いですか?」いくらか驚きの色を見せて、彼は微笑した。「なぜ、いや、ぼく……ぼくわからんです」と彼は急にまごついて、「ほかの人はどうか知らんが、ぼくはそう感じられるのです、――ぼくはほかの人のようにはできない。ほかの人は何か考えると、すぐにまたほかのことを考える。ぼくほかのことは駄目だ。ぼくは一生ひとつことばかり考えてきたです。ぼくは一生、神に苦しめられました」と彼は急に驚くばかり多弁になって、こう言葉を結んだ。
「失礼ですが、ちょっと伺います。あなたはどうしてそんな不正確なロシヤ語をお話しなさるんです? 外国に五年もいる間に、お忘れになったのですか?」
「へえ、ぼく、不正確ですか? わかりません。いや、外国のせいじゃない。ぼくはずっとこんなふうに話してきたのです……ぼくどうでもいいです」
「もう一つ伺います、しかも、より以上デリケートな質問ですよ。あなたは人に会うのがあまりお好きでないでしょう。そして、あまり人とお話しにならんでしょう。ぼくは固くそう信じます。ところで、今はどうしてぼくに向かってそう多弁になられたんでしょう?」
「あなたに向かって? さっきじっと坐っていられた様子が、気に入ったのです。それに、あなたは……もっとも、こんなことはどうだっていいけれど……あなたはぼくの兄弟に似ていらっしゃる、非常に、大変」と彼は真っ赤になっていった。「七年前に死にました、兄貴です。非常に、非常によく似てらっしゃる」
「きっとあなたの思想に影響を与えたんでしょうね」
「い、いいえ、兄は口数が少なかったです。兄はまるで口をきかなかったです、ぼくあなたの手紙をお渡ししましょう」
 彼はわたしの出た後で戸締りをするために、角燈を持って門まで送って来た。『むろん、気ちがいだ』とわたしは心の中で決めてしまった。と、門の下でまた別の男に行き当たった。

[#6字下げ]9[#「9」は小見出し

 わたしがくぐりの高い閾を跨ごうとして片足ふみ出した時、とつぜんだれかの強い手が、むんずとわたしの胸倉を抑えた。
「こいつあ何者だ!」とだれかの声が咆えるようにいった。「敵か味方か? 白状せえ!」
「味方だ、味方だ!」リプーチンの黄いろい声がすぐ傍から起こった。「これはGさんだ、古典教育を受けて、上流の社交界に知己の多い青年紳士だよ」
社交界、そいつあ気に入った、古典……じゃあ深い教養があるんだな……わしは退職大尉イグナート・レビャードキン、世のため親友のためには、いつでも一肌ぬごうという男だ……もしきゃつらに誠があればだ、もし誠があればだよ、こん畜生!」
 レビャードキンは六尺ゆたかの大男で、体は肥えて肉が盛りあがり、髪は渦を巻いて、顔はすっかり酔っぱらって真っ赤だったが、わたしの前に立っているのもやっとの思いで、むずかしそうに舌を廻していた。もっとも、わたしは以前遠くのほうからこの男を見たことがある。
「やあ、こいつもか!」まだ角燈を持ったまま、去りもやらずにいるキリーロフを見ると、彼はまた咆えるようにこういった。拳を振り上げようとしたが、すぐに下ろしてしまった。
「学問に免じてゆるしてやろう! イグナート・レビャードキン、――ふかあい教養のある男だ……」

[#ここから2字下げ]
燃え上る愛の榴弾、破裂しぬ
イグナーチイの胸の中にて
さらにまた苦《にが》き悩みに
腕なしは泣き出《いだ》すなり
セヴァストーポリを思い出《いだ》して
[#ここで字下げ終わり]

「セヴァストーポリの役に参加したこともなければ、また腕なしでもないけれど、まあ素敵なリズムじゃないか!」と彼は熟柿臭い顔をわたしのほうへ突き出した。
「この人はお忙しいんだよ、まったくお忙しいんだよ、家へお帰りになるんだ」とリプーチンがなだめた。「明日リザヴェータさんに、すっかりいいつけられてしまうぜ」
「リザヴェータさんに!」と彼はまたわめき出した。「待て、行っちゃいかん! かえ歌だ」

[#ここから2字下げ]
数多きアマゾンの円舞の中を
馬を駆り飛びちがうなり星のアマゾン
われを見て駒の上よりほほえみぬ
ああなれこそは貴族の子なれ
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]『星のアマゾンへ』

「おい、いいか、これは頌歌だぞ! これは頌歌だぞ、貴様が驢馬でなけりゃわかるだろう! ああ、本当に能なし野郎め、わかるもんか! 待て!」わたしが一生懸命くぐりのほうへ逃げようとすると、彼はひしとわたしの外套にしがみついた。「おい、わしは潔白なナイトだと、そういってくれ。ダーシュカ([#割り注]ダーリヤのこと、ダーシャ、ダーシェンカは愛撫を表わすが、このダーシュカは侮蔑の感じを示す[#割り注終わり])なんぞ……ダーシュカなんぞ、二本指で抓み出してくれる……地主に縛られた女奴隷の分際で生意気な……」
 こういって、彼はばったり倒れてしまった。わたしが無理にその手をもぎ放して、通りを駆け出したからである。リプーチンはまた後からつきまとって来た。
「あの男はキリーロフさんが始末をつけてくれますよ。実はね、ぼくあいつから面白いことを聞いたんですよ」と彼はせわしない調子でしゃべり出した。「あの詩を聞きましたか? あいつはあの『星のアマゾンへ』という詩を封筒の中へ入れて、明日リザヴェータさんのとこへ送ろうとしてるんですよ。しかも、立派に自分の署名をしてね。まあ、どうです!」
「ぼくは賭でもします。それはきみが自分で入れ知恵をしたんでしょう」
「そりゃきみの負けですよ!」とリプーチンはからからと笑った。「惚れ込んでるんです、まるで猫の仔のように惚れ込んでるんです。ところがね、実際は憎い憎いから始まったことですよ。あいつはこれまでリザヴェータさんを憎んでいたのです。あのひとが馬に乗って歩くからといってね、ほとんど往来で悪口つかないばかりでしたよ。いや、実際罵倒したものです。つい一昨日もあのひとが馬で通った時、悪口雑言したんですが、いいあんばいに、あのひとに聞こえなかったです。ところが、今度はだしぬけに詩と来るじゃありませんか! まあ、どうです。あいつは大胆にも、結婚を申し込もうとしてるんですぜ。まったく、まったくですよ!」
「きみにもあきれてしまいますね、リプーチン君、ちょっとでもこうしたいまわしい話が持ちあがると、もうきみはさっそくそこで采配を振ってるじゃありませんか!」とわたしは憤然としていった。
「しかし、きみ、きみは少しいい過ぎやしませんか、G君。いったい競争者が現われたのにびっくりして、心の臓が縮みあがりでもしたのですか? え?」
「なあんだって?」わたしは歩みを止めて、こうどなった。
「いや、もう罰としてなんにもいいませんよ? きみはさぞ聞きたいでしょうね! ただ一つだけ教えてあげますが、今あの馬鹿者はもうただの大尉じゃなくって、この郡の地主さまですぜ。地主もかなり大きなほうでさあ。というのは、ニコライさんが以前もっていた二百人という農奴つきの領地を、ついこの間あいつに譲ったんですからね。ぼくは誓ってもいい、――嘘なんかつきゃしません。たったいま聞いたばかりですがね、その代わり出所は確かですよ。さあ、もうこれから先は一人で探り出しなさい。もうなんにもいわないから。さよなら!」

[#6字下げ]10[#「10」は小見出し

 スチェパン氏は、ヒステリイじみたいらだたしい心持ちで、わたしを待っていた。彼はもう一時間から前に帰っていたのだ。わたしが部屋へ入ったとき、彼はまるで酔っぱらいのようであった。少なくとも最初五分ばかり、わたしは酔ってるものとばかり思っていた。悲しいかな、ドロズドフ家の訪問はかえって彼の頭をすっかり混乱させてしまったのである。
「Mon ami わたしはすっかり手蔓を失くしてしまった…… Lise ……わたしは依然として、そうだ、まったく依然としてあの天使を敬愛しているが、しかし、どうやらあの人たちは二人とも、ただもうわたしから何か探り出して……つまり、てもなくわたしからいるだけのものを引き抜いてさ、あとはどうとも勝手になさい……といったふうな目的で、わたしを呼んだのじゃないかと思われる。いや、まったくそのとおりなんだよ」
「あなたはよくまあ、恥ずかしくないこってすねえ!」とわたしはこらえかねてこう叫んだ。
「ねえ、きみ、わたしはいま本当に一人っきりだ。enfin c'est ridicule(要するに、滑稽な話だがね)まあ、考えてもみたまえ、あの家まですっかり秘密に包まれてるじゃないか。母娘《おやこ》はいきなりわたしに飛びかかって、例の鼻だの耳だの、それにペテルブルグ時代の秘密だの、そんなことを聞き出そうとするのさ。母娘《ふたり》は四年前ここでニコラスのしたことを、今度はじめて知ったんだからね。『あなたはここにいて、ご自分でご覧になったのですもの。いったい、あの人が気ちがいだってのは本当ですか!』だとさ。全体そんな考えがどこから飛び出したんだろうね、合点がいかないよ。どうしてプラスコーヴィヤさんはなんでもかでも、ニコラスを気ちがいにしてしまいたいんだろう? あのひとはそうしたくてたまらないんだよ。本当に! あのモーリイス、じゃない。なんとかいったっけなあ、あのマヴリーキイ・ニコラエヴィチは、〔brave homme tout de me^me〕(とにかくいい男だよ)、しかし、それが当人のためになるかなあ。しかも、あのひとがわざわざパリから〔cette che`re amie〕(うちの気の毒な友だち([#割り注]ヴァルヴァーラ夫人をさす[#割り注終わり]))へ宛てて、あんな手紙をよこした後で……enfin(要するに)〔cette che`re amie〕(うちの親愛なる友だち)のいわゆるプラスコーヴィヤは、一つの立派なタイプだね。ゴーゴリが不朽にした小箱夫人《カローボチカ》([#割り注]『死せる魂』の一人物、わからずやの典型[#割り注終わり])だ。ただこの小箱《カローボチカ》は意地悪で、喧嘩買いだ、無限に誇大される小箱だよ」
「それじゃ、大箱になってしまうじゃありませんか、もし無限に誇大すればですね」
「じゃ、縮小されたものでもいいよ、どっちも同じこった。ただ横槍を入れないでくれたまえ。わたしはなんだかごっちゃになってしまったんだから。あの連中はすっかり喧嘩わかれになってしまったらしいよ。もっとも Lise だけは別だ。あれは今でもやっぱり『小母さん、小母さん』といってる。しかし、Lise はずるいから、そこにはなにか底意があるようだ。秘密さ。しかし、お婆さん同士は喧嘩したんだ。|あの気の毒《セットポーヴル》な小母さんはまったく皆に対して、暴虐をふるいすぎるからね……なにしろ県知事夫人が現われたり、社会全体の尊敬が薄らいだり、カルマジーノフが『不遜の態度』を示したり、いろんなことが重なってるところへ、かてて加えて、ニコラスの発狂などという疑いが湧いて出たり、ce Lipoutin, ce que je ne comprends pas ……(それにあのリプーチンの件、あれはどうしてもわからない)なんでも話によると、頭を酢でしめしたり、大騒ぎだったそうだ。そこへ持ってきて、われわれ二人がいろんなことを訴えたり、手紙を送ったりするんだろう……ああ、わたしはあのひとを苦しめたのだ、しかもよりによってこういう時にさ! Je suis un ingrat!(わたしは恩知らずだ!)まあ、どうだろう、わたしが帰ってみると、あのひとから手紙が来てるじゃないか、読んでみたまえ、読んでみたまえ! 実にわたしは忘恩の振舞いをしていたよ」
 彼はたった今うけ取ったばかりの、ヴァルヴァーラ夫人の手紙を差し出した。夫人は今朝ほどの『家にじっとしていらっしゃい』を後悔しているらしい。今度の手紙は慇懃な書き方だったが、それでもやっぱり言葉少なく、断固たるものであった。ほかではない、明後日日曜正十二時に、ぜひとも家へ来てほしい、そしてなるべくだれか一人、友だちをつれて来るように、とのことであった(括弧の中にわたしの名前が入っていた)。同時に夫人は自分のほうからも、ダーリヤの兄として、シャートフを招待する旨を約していた。『あなたは彼女《あれ》の口から、最後の決答を聞くことができるのです。それでご満足ですか! この形式的な手続きがご入用だったのですか?』
「このしまいに書いてある形式的云々の、いらいらした文句に注意してくれたまえ。気の毒だ。本当に気の毒な人だ、わたしの生涯を通じてたった一人の友だちなんだがなあ! しかし、まったくのところ、わたしの運命はこの思いがけない[#「思いがけない」に傍点]決定のために、まるで圧しひしがれてしまったようなものだ……わたしは白状するが、今まではまだやっぱり一縷の希望をいだいていた。が、今は tout est dit(すべては語られたりだ)もうわかってる、万事了したんだ。C'est terrible(恐ろしい)ああ、今度の日曜というものがなくて万事いままでどおりだったらなあ。きみも毎日来てくれるし、わたしもここにいて……」
「あなたはさっきリプーチンのいった穢らわしい作りごとに、すっかり迷わされてしまいましたね」
「ねえ、きみ、きみは今その友情に富んだ指で、また別な傷口に触ったね。そうした、友情の指というやつは、えて残酷なもんだよ、時には条理を没却することもあるくらいだ。pardon(失敬)しかし、きみは信じてくれるかどうか知らないが、わたしはもうそうした穢らわしい話を、おおかた忘れてしまってた。いや、けっして忘れたわけではないが、例のおめでたい性分だから、Lise のところにいる間じゅう、幸福になろうと努めた。そして、おれは幸福なのだと、自分で自分に思わせようとしたものだ。しかし、今は、……いまわたしはあの度量の大きい、人道的な婦人のことを考えてるのだ。わたしの醜い欠点に対して辛抱づよい婦人のことをね、――もっとも、非常に辛抱づよいというわけにはゆかないが、しかし、わたし自身がどんな人間で、どんなに空虚な、いとわしい性格を持ってるかってことを考えたら、こんなことなぞいわれた道理ではないのだ! 実際、わたしはおめでたい子供だ。そのくせ、子供特有の利己心ばかりは、そっくり全部もち合わせているが、その無邪気さはまるでないんだよ。あのひとは二十年間、乳母かなんぞのようにわたしの世話をしてくれた、|あの気の毒《セットポーヴル》な小母さん――これは Lise の考え出した優雅な呼び方なんだよ……ところが、二十年もたった後に、この子供が急に結婚しようといいだした、早く嫁を取ってくれ、早く嫁をといった調子で、後から後から手紙を書き始めたじゃないか。で、あのひとは、つむりを酢でしめすという始末さ、ところが……ところが、とうとう無理にねだりつけて、今度の日曜日には立派な女房持ちだ、冗談じゃないねえ……しかし、わたしは自分のほうから何をいい張ったんだろう、まあ、なんだって自分のほうから手紙なぞ書いたんだろう? ああ、忘れていたが、Lise はダーリヤを神様のように崇めているよ、少なくともそんなふうにいってるね。あの女はダーリヤのことを C'est un ange(あの人は天使です)、ただ少し引っ込み思案すぎるけれど』といっているのさ。とにかく、母娘《おやこ》ともわたしにすすめてくれたよ、プラスコーヴィヤでさえ……いや、プラスコーヴィヤはすすめてくれたんじゃない。まったくあの『小箱《カローボチカ》』の中にはずいぶん毒が隠れてるからねえ! それにリーザだって、本当にすすめたわけじゃないんだ。曰く『なんだってあなた、結婚の必要なんかあるんでしょう。知識の楽しみだけで十分じゃありませんか』といって大きな声で笑うのだ。わたしはその哄笑をゆるしてやった。あのひと自身も胸を掻きむしられるようなんだからね。それから、母娘《おやこ》でいうことには、『でも、あなたはやっぱり女なしじゃいられない。だんだんと老衰していらっしゃるんだから、その時にはあの女がよく世話をしてくれるでしょうよ、でなければまた……』ma foi(実際のところ)わたし自身もこうしてきみと話している間じゅう、心の中でそう考えていたよ、――これは荒れに荒れたわたしの生涯の終わりに当たって、神様があのひとを授けてくだすったのだ、あのひとはわたしをよく世話してくれるに相違ない、でなければ…… enfin(つまり)、また家政を見てくれるものが必要なんだ。そら、わたしの家はあんなに埃《ごみ》だらけだ、見たまえ、あのとおりごちゃごちゃなんだ、ついさっき掃除をいいつけたんだがね。それに、本まで床にごろごろしている。la pauvre amie(あの不幸な女友だち)はわたしのところが埃《ごみ》だらけだといって、始終おこり通していたっけが……ああ、もうこれからはあのひとの声も響くことはないのだ! 二十年《ヴァンタン》! ところが、あの母娘《おやこ》の者は、無名の手紙を幾本も持ってるらしい、実に驚いてしまうじゃないか。ニコラスがレビャードキンに領地を売ってしまったなんて。C'est un monstre(まったくどえらいことだよ)|つまり《アンファン》、レビャードキンとは何者かという問題なんだ。Lise は一生懸命に聴いてるんだ! 夢中になって聴いてるんだ。わたしがあの哄笑をゆるしたのも、つまり、その聴いてる顔つきが真剣だったからさ。ところが、ce Maurice(あのモーリス)……わたしは今のあの男の役には廻りたくないよ。〔brave homme tout de me^me〕(とにかく正直な男だが)、少し内気すぎるよ。だが、あんな男のことなぞどうだってかまわないさ……」
 彼は口をつぐんだ。彼は疲れて、しどろもどろになり、ぐったりしたように、じっと床を見つめながら、力なくかしらを垂れて坐っていた。わたしは言葉の切れ目を幸いに、例のフィリッポフの持ち家訪問を物語った。そのついでに、ぶっきら棒なそっけない調子で、自分の考えを話してみた。ほかでもない、あのレビャードキンの妹は(もっとも、自分で会ったことはないけれど)、ニコラスがリプーチンのいわゆる謎の生活を送っていた時代に、実際、彼の犠牲になったのかもしれない。そして、レビャードキンがなぜかニコラスから金をもらっているというのも、大いにありうることだ。しかし、ほんのそれだけのことらしい。ダーリヤに関する讒謗にいたっては、もうまったく馬鹿馬鹿しい話で、リプーチンの畜生のこじつけにすぎない。少なくも、キリーロフがむきになって、その噂を否定している以上、われわれはその言葉を信じないわけにいかない。
 スチェパン氏はまるで、自分にはなんのさし触りもないような、ぼんやりしたふうでわたしの説明を聞いていた。わたしは話のついでに、キリーロフとの対話を物語って、あの男はことによったら気ちがいかもしれぬ、といい足した。
「あの男は気ちがいじゃなくて、お手軽な思想を持った連中の仲間なのさ」と彼はさも大儀そうなだらけた調子で、口の中でもぐもぐいった。「〔Ces gens-la` supposent la nature et la socie'te' humaine autres que Dieu ne les a faites et qu' elles ne sont re'ellement〕(ああいう連中は自然や人間社会を、神が造ったものとも、また実際におけるものとも、別なふうに想像している)よく人はああいう連中と遊びたがるものだが、少なくともスチェパン・ヴェルホーヴェンスキイはそんなことをしない。わたしは〔avec cett che`re amie〕(わが親愛なる女友だちといっしょに)、ペテルブルグであの手合いに会ったが(当時、わたしは実際あのひとを侮辱したものだ!)、わたしはあの手合いの罵倒ばかりでなく、賞讃の言葉にさえ驚かなかった。今でも驚きゃしないよ。mais parlons d'autre chose(しかし、もうほかの話をしよう)……わたしはどうも恐ろしいことをしでかしたような気がする。まあ、どうだろう、わたしは昨日ダーリヤに手紙を出したんだ。そして……わたしは今となって、そんなことをした自分を自分で呪っている!」
「何を書いたんです?」
「ねえ、きみ、それもこれもみんな高潔な心持ちでしたことなんだ。わたしはあのひとにね、五日ばかり前ニコラスに手紙を出したと書いてやったのさ。これもやっぱり高潔な心持ちでしたことなんだよ」
「今こそわかった!」とわたしは熱くなって叫んだ。「どんな権利があって、あなたはそういうふうにあの二人を対照させるんです?」
「しかし、きみ、どうか最後の一撃を与えないでくれたまえ、そうどならないでくれたまえ、それでなくてもまるで……まるで油虫のように踏み潰されてしまってるんだから。それに、わたしはむしろ高潔なことと思ってるんだよ。まあ、かりに何か実際…… en Suisse(スイスで)何か起こった……いや、まあ、起こりかかったと仮定したまえ。わたしはあらかじめ、二人の心中を聞いておく義務があるじゃないか。|つまり《アンファン》、二人の心の邪魔にならないように、二人の行く手をふさがないようにさ……わたしはつまり高潔な心持ちからして……」
「まあ、本当に、なんて馬鹿なことをしたんでしょう!」わたしは思わず声を筒抜けさした。
「馬鹿なことだ、馬鹿なことだ」と彼は貪るような調子で引き取った。「きみの今までいった言葉の中で、一ばん気が利いてるよ。〔c'e'tait be^te, mais que faire, tout est dit〕(まったく馬鹿なことだ、が、仕方がない、してしまったことだもの)どうせ結婚するんだ。『他人の罪業』とだってかまやしない。してみると、手紙なぞ書く必要はなかったんだね? そうじゃないか?」
「あなたはまたそんなことを!」
「おお、今はもういくらどなっても、わたしをへこますわけにはいかない。いまきみの前にいるのは、依然たるスチェパン・ヴェルホーヴェンスキイじゃないよ。あれは、もう葬り去られたのだ。Enfin tout est dit(つまり、すべてが終わったのだ)。それに、いったいなんのためにどなるんだね? ほかでもない、要するに、結婚する当人がきみでないからだ、お定まりの飾りを頭へのせるのがきみでないからだ。それできみは気が気でないんだろう? きみはかわいそうなものだよ、きみはまだ女をしらないんだ。ところが、わたしはその研究を仕事にしているのだ。『もし全世界を征服せんとせば、まず汝みずからを征服せよ』これは義兄シャートフの、――きみと同じようなロマン派の言として、たった一つ成功したモットーなのだ。わたしはあの男の言を好んでここに引用するよ。そこで、わたしはみずからを征服するつもりだが、さてかちうるものはなんだろう、全世界はさておいてさ。ねえ、きみ、結婚というやつは、すべて誇り高き魂、独立不羈の心にとって、精神上の死なんだよ。結婚生活はわたしを淫佚にし、事業に奉仕すべき精力と勇気とを奪ってしまう。そして、子供でもできたら……それも或いは自分のものでないかもしれぬ――いいや、もちろん、自分のものではないのだ。賢者は真実を直視することを恐れないからね……リプーチンはさっき、バリケードでニコラスを防げとすすめたが、あれは馬鹿なのだ、リプーチンは。女というやつは、最も透徹した眼光すら欺くからね。もちろん、le bon Dieu(かの善良なる神様)は女を造るとき、相手の何者たるやを自分でもよくごぞんじだったが、わたしの信ずるところでは、女が自分から神様の邪魔をして、自分というものを今のようなふうに……今のような属性をつけて造られてしまったのだ。さもなければ、だれがただでそんな面倒な仕事をするものかね。ナスターシヤはわたしの放埒無慚な考えを聞いたら、さぞ腹を立てることだろうね。……だが、enfin tout est dit (しかし万事了したのだ)」
 もし彼が一時流行した安価な地口式自由思想を捻り出さなかったら、彼はもう前後も忘れてしまったに相違ない。が、少なくとも、今はこのちょっとした地口でみずから慰めた。とはいえ、それも長くはつづかないのだ。
「おお、どうしてこの明後日が、この日曜日がなくちゃならんのだろう?」ふいに彼はすっかり絶望しきったように叫んだ。「どういうわけで、せめてこの一週間だけでも、日曜なしですまされないのだろう、 ――si miracle existe(もし奇蹟があるならば)、せめて無神論者どもに威力を示して、et que tout soit dit(何もかもいってしまう)ためだけにでも、たった一度の日曜日を暦から抹殺するくらい、神様にとってどれだけの労でもないじゃないか! ああ、わたしはあのひとを愛していた。二十年間、まる二十年間、しかも、あのひとは一度もわたしの心を知ってくれなかった!」
「だれのことをいってるんです? ぼくはあなたのいうことがわかりませんよ!」とわたしはびっくりしてたずねた。
「二十年《ヴァンタン》! しかも、あのひとは一度もわたしの心を知ってくれなかった、おお、なんという残酷なことだ! いったいあのひとはわたしが恐怖や必要のために、結婚すると思ってるのか! おお、汚らわしいことだ!『小母さん』『小母さん』、みんなあなたのためですよ! ああ、あのひとに、あの『小母さん』に、ぜひこのことを知ってもらわなきゃならん。わたしは二十年間、あのひと一人だけを崇めてきたのだ! あのひとはぜひそれを知らなけりゃならん、そうしなきゃ駄目だ。そうでなかったら、むりやりにわたしを ce qu' on appelle le(いわゆる)華燭の典へ引っ張って行くも同じだ!」
 わたしは初めてこの告白、かくまで力強く表現された告白を聞いた。しかも、隠さずに白状するが、わたしは噴き出したくてたまらなかった。が、それは間違っていた。
「そうだ、あれが一人きりだ、あれがいまわたしに残された唯一のものだ、わたしの唯一の希望だ!」とつぜん思いもよらぬ想念に打たれたように、彼はふいに両手を拍った。「もう今はあれ一人きりだ。あの不仕合わせな子がわたしを救ってくれるだけだ。そして、――ああ、なぜ帰って来ないのだろう? おお、わが子よ、おお、ペトルーシャよ……わたしは父の名に値しないけれど、むしろ虎といったほうがいいくらいだけれど、しかし……laissez moi, mon ami(きみ、もうわたしをうっちゃっといてくれたまえ)わたしは少し休んで頭をまとめよう。すっかり疲れちゃった、すっかり疲れちゃった。それに、きみももう寝る時刻だろう、voyez vous(見たまえ)、十二時だよ……」

[#3字下げ]第4章 跛の女[#「第4章 跛の女」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 シャートフは別に強情も張らず、わたしの手紙に応じて、正午にリザヴェータのところへやって来た。わたしたちはほとんどいっしょに入った。わたしもやっぱり最初の訪問に出かけたのである。一同、――といっても、リーザと、母夫人と、マヴリーキイは、大広間に坐って言いあいをしていた。母夫人はリーザに向かって、何かワルツをピアノで弾くようにといいだしたが、こちらがいわれるままの曲を弾き出すと、それは別なワルツだといい張った。マヴリーキイが持ち前の正直な性質から、リーザの肩を持って、ワルツは注文どおりのものだと主張したので、老婦人は面当てがましく、手放しで泣きだしてしまった。彼女は病気して、歩くのもやっとだった。両方の足をすっかり腫らしているので、この三、四日気まぐればかり起こしては、だれにでもかれにでも食ってかかるのを仕事にしていた。もっとも、リーザにはいつも一目おいていたけれど。一同はわたしたちの訪問を心からよろこんだ。リーザは、嬉しさのあまり顔をあかくしながら、わたしに|ありがとう《メルシイ》といって(むろんシャートフを連れてきたお礼なので)、彼のほうへ近寄り、もの珍しそうに、じろじろ見廻すのであった。
 シャートフは入口のところで、不恰好に立ちどまった。リーザは彼に来訪の礼を述べたうえ、母夫人の傍へ連れて行った。
「この方がいつかお話したシャートフさん、この方はGさんといって、あたしにとっても、スチェパンさまにとっても、ごくごく親しいお友だちなんですの。マヴリーキイさんも昨日お近づきになられましたわ」
「どちらが先生なの?」
「先生なんか、てんでいらっしゃりゃしないわ」
「いいえ、いらっしゃるよ。お前自分で、先生がお見えになるといったじゃないか。きっとこの人だろう」と彼女は気むずかしい顔つきで、シャートフをさした。
「あたしお母さんに先生がいらっしゃるなんて、一度もいったことはありゃしなくってよ。Gさんはお勤めですし、シャートフさんは以前、大学の学生でいらしったんですもの」
「学生だって先生だって、やっぱり大学の人じゃないか。お前さんはただもう口返答さえすればいいんだからねえ。あのスイスの先生は口ひげもあったし、顎ひげも生やしていたね」
「母はスチェパンさまのご子息のことを、先生先生って仕方がないんですの」リーザはこういいながら、シャートフを連れて、広間の向こう側に据えてある、長いすのほうへ行ってしまった。「お母さんは足が腫れると、いつもあんなふうなんですの。おわかりでしょうけれど、病身なものですからねえ」と彼女はシャートフにささやいたが、相変わらず恐ろしい好奇の心を浮かべながら、相手の全身、――ことに頭の上にぴんと突っ立っている一房の髪毛を、じろじろ見廻すのであった。
「あなた軍人ですか?」老婦人はわたしに問いかけた。リーザは無慈悲にも、この老婦人の傍へわたしを置き去りにしてしまったのである。
「いいえ、わたしは勤めに出ていますので……」
「Gさんはスチェパンさまの大の親友でいらっしゃるのよ」とすぐにリーザが応じた。
「スチェパン・トロフィーモヴィチのところで勤めていらっしゃるんですか? だって、あの人先生でしょう?」
「まあ、お母さん、あなたはきっと夜寝てまで、先生の夢を見てらっしゃるんでしょう」とリーザがじれったそうに叫んだ。
「夢どころじゃない、本物だって見すぎるくらい見ていますよ。いったいお前はいつもいつも、お母さんに楯ついてばかりいるじゃないかえ。あなたは、四年前ニコライ・フセーヴォロドヴィチが見えたとき、ここにいらっしゃいましたか?」
 わたしはそうだと答えた。
「その時あなた方の仲間に、だれかイギリス人がおりましたか?」
「いいえ、おりませんでしたよ」
「ほらご覧、イギリス人なんか、まるでいなかったそうじゃないか、してみるとでたらめなんだね。ヴァルヴァーラさんもスチェパン・トロフィーモヴィチも、二人ともでたらめをいってるんだよ。ああ、みんなでたらめばかりいってるんだよ」
「あれはね、小母さまのせいなんですの。スチェパンさまも昨日こうおっしゃったんですの……ニコライ・フセーヴォロドヴィチは、沙翁の『へンリイ四世』に出て来る、ハーリイ王子と似たところがあるって。お母さんがイギリス人というのは、このことなんですよ」とリーザが説明してくれた。
「ハーリイがいなければ、つまり、イギリス人がいなかったことになるじゃないか。ニコライ・フセーヴォロドヴィチ一人だけが馬鹿な真似をしたのさね」
「あれはね、まったくのところ、お母さんわざとああいってるんですの」リーザはシャートフに弁解の労をとる必要を認めて、こういった。「お母さんは沙翁をよく知っていますのよ。『オセロ』の序幕なんか、あたし自分で読んで聞かせてあげたくらいですわ。だけど、いま病気が悪いもんですから……ねえ、お母さん、十二時が打ちますよ。もうお薬を召しあがる時刻ですわ」
「お医者さまが見えました」小間使が戸口に姿を現わした。
 老婦人が立ちあがって、犬を呼び始めた。
「ゼミルカ、ゼミルカ、せめてお前でも、わたしといっしょに行っておくれ」
 みすぼらしい小さな老いぼれ犬のゼミルカは、いうことを聞かないで、リーザの坐っている長いすの下へ潜り込んでしまった。
「いやかえ? じゃ、わたしもお前なんかいやだよ。さよなら、あなた、わたしはあなたのお名前を知りませんが」と彼女はわたしにいった。
「アントン・ラヴレンチッチ……」
「いえ、同じこってすよ。わたしなんか伺ったって、すぐ耳から耳へ抜けてしまうのですから。マヴリーキイさん、どうか送らないでちょうだい、わたしはゼミルカを呼んだだけですよ。仕合わせと、まだ一人で歩けますからね。明日は馬車で散歩に出かけます」
 彼女は腹立たしげに広間を出て行った。
「アントン・ラヴレンチッチ、あなたはちょっとの間、マヴリーキイさんと話してくださいな。あたし請け合っておきますわ。あなた方がお互いにもっと親しくおなんなすったら、お二人ともいいことをしたとお思いになりますよ」
 リーザはそういって、マヴリーキイにさも親しげな微笑を見せた。こちらはその一瞥で、満面よろこびに輝き渡った。
 わたしは仕方なしにそこへ居残って、マヴリーキイと話にかかった。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 驚いたことに、シャートフに対するリザヴェータの用事というのは、まったく文学上のものにすぎないことがわかった。わたしはなぜか知らないが、彼女がシャートフを呼んだのは、何か別なことだとばかり思っていた。われわれ、といって、つまりわたしとマヴリーキイは、二人がべつに隠し立てをするふうもなく、かなり大きな声で話をするので、しだいにそのほうへ耳を傾けはじめた。しまいには、かえって向こうからわたしたちに相談をしかけてきた。話というのはほかでもない、リザヴェータはもうとうから、彼女の意見によると非常に有益な、ある書物の出版を思いついていたが、まるでそのほうの経験がないので、協力者を必要とするというのであった。シャートフに自分の計画を説明する彼女の真面目な態度は、むしろわたしを驚かしたくらいである。
『きっと新しい女の仲間に相違ない』とわたしは考えた。『なるほどスイスにいただけのことはある』
 シャートフは、視線を地べたへ突き刺すようにしながら、注意ぶかく聴いていた。そして、軽はずみな上流の令嬢が、こうした柄にもない仕事に手を出すのを、いっこう不思議がるふうはなかった。
 その文学的な仕事というのは次のようなものであった。いまロシヤには中央・地方ひっくるめて、無数の新聞雑誌が出版されている。その中には、毎日無数の出来事が報道されているが、一年もたつと新聞はどこの家でも、戸棚の中に積み込まれるか、埃だらけになるか、破けるか、それでなければ包み紙や、上被いに使われてしまうかである。で、いったん発表された多くの事実は、一時読者に印象を与えて記憶に残るけれど、年とともにだんだんと忘れられてゆく。多くのものは、後で何か調べてみたいと思っても、その出来事の起こった日も、場所も、月もわからないことが多いのだから、無尽蔵な紙の山からさがし出すのは、容易ならぬ努力である。ところで、こうしたふうの出来事を、一年ごとに一冊の書物にまとめてみたらどうだろう。一定の立案により、一定の思想を基として、目次や索引をつけ、月日順に配列したらどうだろう。新聞雑誌に発表される事実は、実際に起こるそれにくらべたら、ほとんどいうに足らぬ一小部分にすぎないけれど、こうして一まとめになった出来事は、過去一年間におけるロシヤ生活の真髄を、明瞭に描き出すに相違ない。
「それじゃ無数の新聞紙の代わりに、幾冊かの厖大な本ができあがるばかりですよ」とシャートフがいった。
 しかし、リザヴェータは説明が困難で、うまくゆかないのにも屈しないで、熱心に自分の思いつきを弁護するのだった。彼女の主張によると、本は一冊で、しかもあまり厚くないものにする必要がある。まあかりに厚くなるとしても、明瞭でなくてはならない。なぜというに、要は事実の配列方法と、その性質にあるからである。もちろんすべてを蒐集して、印刷に付するのは不可能だ。政府の布告や政治的処置や、地方令や、法規や、そんなものは非常に重大な事実ではあるけれど、予定されている出版ではこの種の事実はぜんぜん逸してしまってもかまわない。まだいろいろのものを芟除《せんじょ》して、多少なりその時代の国民の精神的個人的生活、ロシヤ国民の個性を表示するような出来事を、選び出すだけでかまわない。もちろん、その本にはなんでも入れることができる。滑稽な出来事、火事、寄付、すべての善行悪行、すべての意見や演説、洪水の報知、あるいは進んで、ある種の法令さえも登載することができる。しかし、何にもせよ、時代を描いて見せるようなものばかりを選択する必要がある。すべての出来事は、一定の解釈と、一定の意図と、一定の思想とによって編入され、その思想に全体が照らし出されていなければならぬ。また最後にこの書物は、調べ物の参考として必要なばかりでなく、軽い読物として興味がなくてはならない! つまり、この書物は、一年間におけるロシヤの精神的、倫理的内部生活の絵巻物でなくてはならぬ。
「みんなに買ってもらわなくちゃなりません。あたしこの本を机上必備のものにしなくちゃいやですわ」とリーザは主張した。「あたし、この仕事の成否は、ただ工夫一つにあるのを知っていますから、それであなたにお願いするんですよ」と彼女は言葉を結んだ。その様子があまり熱心なので、その説明が模糊として不十分なのにもかかわらず、シャートフもだんだん合点がいってきた。
「つまり、何か傾向を帯びたものができるわけですね。ある一定の傾向の下に、事実を取捨するんでしょうね」まだやっぱり首を上げないで、彼はこうつぶやいた。
「けっしてそうじゃありません。そんな特定の傾向の下に取捨する必要はありませんわ。それに、傾向なんてものはいっさい必要がありません。公平無私、これが傾向なんですの」
「傾向もあながち悪くはありません」とシャートフはごそごそ体を動かしながら、「それに、少しでも取捨が加わる以上、ぜんぜん傾向を避けることはできません。事実の取捨の中に、解釈の方向がうかがわれますからね。が、あなたの思いつきはけっこうですな」
「じゃ、そういう本もできるとおっしゃるんですね?」とリーザはほくほくものだった。
「しかし、よく落ちついて考量しなければなりません。これはなかなか大事業ですからね。ちょっと急には考えがつきませんよ。経験が必要です。それに、いよいよ本を出す段になっても、出版についていかなる方法を取るか、こいつが容易に及び難い問題ですよ。まあ、いろいろ経験を積んだ後に、やっと合点がゆくんでしょう。けれど、その思想はまとまりますね。思いつきはなかなか有益ですよ」
 彼はやっと目を上げたが、その瞳は満足の色に輝いていた。彼はすっかり引きこまれたのである。
「これはあなたご自分でお考えつきになったのですか?」と彼は優しい恥じを含んだような調子で、リーザに問いかけた。
「だって、考えつくのは、大した骨折りじゃないんですもの、骨の折れるのは立案ですわ」とリーザはにっこり笑った。「あたしは大してもののわかる女でもなければ、あまり賢いほうでもありませんから、ただ自分ではっきりわかってることばかり追求するんですの……」
「追求なさる?」
「もしかしたら、間違った言葉づかいをしたかもしれませんね?」とリーザは早口にきいた。
「その言葉でもいいのかもしれません。ぼくなにもべつに」
「あたし外国にいるあいだから、自分だって何か有益なことができそうなものだ、という気がしていましたの。あたし自分のおあし[#「おあし」に傍点]を持っていながら、それをただつまらなく寝かしてるんですもの。あたしだって公共の事業のために、働けないわけがありませんわねえ。それにこの考えはまるで自然《ひとりで》に、頭に浮かんだような具合なんですの。あたしべつに考えだそうとしたわけでもなかったものですから、この考えが浮かんだ時とても嬉しゅうございましたわ。ですけど、すぐに『これは手伝っていただく人がなくちゃ駄目だ』と悟りましたの。だって、自分じゃ何一つできないんですもの。その協力者は、もちろん、また本の共同出版者にもなるわけですの。あたしたちすっかり半々持ちでやりましょう。あなたの立案と労力、そして、あたしの思いつきと資本、――ねえ、算盤が取れるでしょう」
「もし正しい案を掘り当てたら、確かにこの本は成功しますよ」
「前もってお断わりしておきますが、あたしけっして営利のためにするわけじゃありませんけれど、うんと本の売れるのを望んでいます。そして、儲けがあるのを誇りとしますわ」
「なるほど、しかし、ぼくはどういう位置に立つのです?」
「あたしの協力者になってくださいと、そう申してるじゃありませんか……半分半分ですわ。あなたが案を考えだしてくださるんですの」
「どうしてあなたは、ぼくにそれを案出する力があるとお考えです?」
「人の噂でも聞いてましたし、ここへ来てからも、いろいろ耳に入りましたもの……あなたがたいへん賢い方で……真面目な仕事をしていらしって、そして……ずいぶん思索もしていらっしってるってことは、あたしよく承知していますの。あたしピョートル・スチェパーノヴィチ([#割り注]ヴェルホーヴェンスキイの息子[#割り注終わり])からもスイスであなたのことを伺いましたわ」と彼女は早口にいい足した。「あの人はたいへん賢い方ですわね、そうじゃありません?」
 シャートフは瞬間ちらとかすめるような目つきで、ちょっと相手の顔を見上げたが、すぐにまた目を伏せてしまった。
「ニコライ・フセーヴォロドヴィチも、あなたのことをいろいろ聞かしてくださいました」
 シャートフはとつぜん真っ赤になった。
「まあ、とにかくここに新聞がありますが」とリーザは前から用意して括ってある新聞の束を、忙しそうな手つきで椅子から取り上げた。「あたし選び出す時の参考に、いろんな事実にしるしをつけたり、取捨をしたり、番号を打ったりしてみましたの……あなたご覧なすってください」
 シャートフは束を受け取った。
「お家へ持って帰って見てくださいましな。あなたお住まいはどこでございますの?」
「ボゴヤーヴレンスカヤ街で、フィリッポフの持ち家です」
「あたし知ってますわ。あそこにはなんとかいう大尉が、あなたのお傍に住んでるそうですね、レビャードキンとかいう人が?」相変わらずせき込みながらリーザはたずねた。
 シャートフは新聞の束を受け取ると、片手にぶらりとぶら下げたまま、じっと床を見つめながら、一分間ばかり返事もせずに坐っていた。
「そんな仕事には、だれかほかの人をお選びになったらいいでしょう。ぼくはまるでお役に立ちません」なんだか恐ろしく調子を下げて、ほとんどささやくような声で、とうとう彼は口をきった。
 リーザはかっとあかくなった。
「そんな仕事とは何をおっしゃるんですの? マヴリーキイさん!」と彼女は叫んだ。「どうかさっきの手紙をここへ貸してくださいな」
 わたしもマヴリーキイの後からテーブルのほうへ近づいた。
「まあ、これを見てください」と彼女は恐ろしく興奮して、手紙を広げながら、だしぬけにわたしのほうへ振り向いた。「まあ、こんなものをいつかご覧になったことがありますか? どうか声を出して読んでみてくださいましな。あたしシャートフさんにも聞いていただきたいのですから」
 わたしは少なからぬ驚きを覚えながら、声高に次の手紙を読み上げた。

[#4字下げ]『完璧の処女トゥシン嬢へ呈す』

[#地から2字上げ]エリザヴェータ・ニコラエヴナの君よ!

[#ここから3字下げ]
おお美しきかの君よ
トゥシン嬢の美しさ
身うちの男《もの》と連れ立ちて
女鞍《めぐら》に乗りてかけるとき
房なす髪のはらはらと
風に戯れ遊ぶとき
或《ある》は母|御《ご》と打ち連れて
み堂の床にぬかを垂れ
うやうやしかるかんばせ
薔薇《そうび》の色の散れるとき
その時われは正当の
結婚の夢にあくがれつ
母|御《ご》とともに帰り行く
君が跡より涙贈るも
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]―無学者のいさかいなかばにものせる詩―
[#ここから1字下げ]
『一筆啓上つかまつり候!
 小生何よりも遺憾に存じ候は、足一度もセヴァストーポリの土を踏まず、したがって、かしこにて隻腕を喪わざりしことにご座候。当時小生はかの戦役の初めより終わりまで、小生のいさぎよしとせざる賤しき糧食供給に関する勤務に没頭つかまつり候。貴嬢は女神にして、小生は一顧の価値なき奴輩に候えども、無限ちょうことに想到つかまつり候。何とぞ詩としてご覧くだされたく、それ以外なんらの意味をも付与なされまじく候。なんとなれば詩は詮ずるところ、取るに足らざる譫言《たわごと》にして、散文にて非礼と見做さるることをも、是認しくるるものにこれあり候。たとえ滴虫類が水滴をもて何物かを作り出したればとて、太陽がこれに対して怒りを発するごときことこれあるべきや(もし顕微鏡をもて見れば、一滴の水中にも、無数の滴虫類を見出し得るものにこれあり候)。ペテルブルグにおける上流の家畜愛護会すらも、犬馬の権利のために同情の涙をそそぎながら、滴虫類のことにいたっては、彼らがある程度の生長に到達せずとの理由により、全然これを口にのぼすものなく、蔑視しおり候。小生も一定の生長に到達せざるものにご座候えば、貴嬢と結婚を望むがごときは、さぞかし滑稽に感ぜらるることと存じ候えども、貴嬢の軽蔑せらるるかの嫌人主義者を通じて、近々二百の農夫を有する領地の持ち主と相成るべく候。なお種々お耳に入れたきこともこれあり、小生は証書を提出して、もし必要あらば、シベリヤへ赴くをさえ辞せざるものにご座候。希くば、小生が申込みを一笑に付したもうことなかれ。詩もてしたためたる方を、滴虫類の手紙と思召し下さるべく候。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から7字上げ]貴嬢の柔順なる友にして閑人なる
[#地から1字上げ]レビャードキン大尉』

「この手紙は、しようのないやくざ者が、酔っぱらった勢いで書いたものです!」とわたしは憤懣のあまり叫んだ。「わたしはこいつを知っています」
「あたし昨日この手紙を受け取ったんですの」とリーザは真っ赤な顔をして、せき込みながら説明を始めた。「あたしはすぐに、これはどこかの馬鹿者がよこしたのだと察しましたの。ですから、まだお母さんに見せないんですよ。またこのうえ心配さしては大変ですからね。だけど、今後やっぱりこんなことをつづけられたら、あたしもうどうしていいかわかりませんわ。マヴリーキイさんは出かけて行って、とめて来るとおっしゃるんですけれど、あたしあなたを」と彼女はシャートフのほうを向いて、「自分の協力者のように思っていましたし、同じ家に住まってもいらっしゃるものですから、あなたのご判断に照らして、あの男がこの上まだどんなことをするか、それを伺いたいと思いましてね」
「酔っぱらいのやくざものです」とシャートフは進まぬ調子でつぶやいた。
「どうでしょう、いつもこんな馬鹿な男なのでしょうか?」
「いいえ、あの男が酔っぱらってない時は、けっして馬鹿どころじゃありません」
「わたしはちょうどこいつにそっくりの詩を作った、ある将軍を知っていますよ」とわたしは笑いながらいった。
「この手紙で見ても、ちゃんとはらに一物あることがわかりますよ」無口なマヴリーキイが突然こう口をはさんだ。
「この男はなんだか妹といっしょにいるそうですね」とリーザがたずねた。
「ええ、妹といっしょです」
「その妹をいじめるっていうのは、本当ですの?」
 シャートフはまたちらりと見上げたが、眉をひそめながら、「それはぼくの知ったことじゃありませんよ!」とつぶやいて、そのまま戸口のほうへ歩き出した。
「あら、待ってくださいな」とリーザは心配そうに叫んだ。「あなたどこへいらっしゃいますの? あたしまだいろいろお話したいことがあるんですから……」
「何を話すんです? あすぼくがお知らせしますよ……」
「いえ、あの一等肝腎なこと、活版のことですの! まったくですよ、あたし冗談でなく真面目にこの仕事をしたいと思ってるんですから」しだいに不安がつのっていく様子で、リーザは一生懸命にいった。「もし本当に出すとしたら、どこで印刷したものでしょう? これが一番大切な問題なんですよ。だって、あたしたちはそのためにわざわざモスクワへ行くわけにもいきませんし、ここの活版屋でそれだけの印刷はとてもできやしませんもの。あたし前から自分で活版所を起こそうかと思ってましたの、あなたのお名前でも拝借しましてね。母もあなたのお名前でしたら許してくれますわ、ええ、きっと……」
「どうして、あなたは、わたしが活版屋になれるとお思いですか?」とシャートフは気むずかしそうに問い返した。
「それはね、まだスイスにいる頃から、ピョートル・スチェパーノヴィチが、あたしにあなたを名ざしてくださいましたの。そして、あなたは活版事業を経営することがおできになる、事務に精通していらっしゃると、こうおっしゃったものですから。それに、ご自分からあなたに宛てて、手紙を書いてやるとまでおっしゃったんですの。あたしお願いするのを忘れてしまいましたけれど」
 今おもい出してみると、シャートフは急に顔色を変えた。彼は二、三秒間じっと立っていたが、突然ぷいと部屋を出てしまった。
 リーザは恐ろしく腹を立てた。
「あの人はいつもあんな帰り方をなさるんですの?」とわたしのほうを振り向いた。
 わたしは肩をすくめた。と、ふいにシャートフが帰って来た。そして、いきなりテーブルへ近寄って、いったん受け取った新聞の束をその上へ置いた。
「ぼくあなたの協力者になるのはやめにしましょう、暇がないから……」
「なぜですの、なぜですの? あなた腹をお立てになったようですね?」とリーザは絶望したような哀願の調子でたずねた。
 その声の響きは彼の心を打ったようであった。幾分かの間、まるで相手の心を見抜こうとするかのように、じっと穴のあくほどリーザの顔を見つめていたが、
「そんなことはどうだっていいです」と彼は小さな声でつぶやいた。「ぼくはいやなんです……」
 こういって、彼はいよいよ本当に帰ってしまった。リーザはもうあきれ返って、開いた口がふさがらなかった。少なくとも、わたしにはそう思われた。
「あきれ返った変人だ!」とマヴリーキイは大きな声でいった。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 もちろん『変人』である。しかし、この出来事ぜんたいの中には、まだまだわからないところがたくさんある。この出来事の裏には、何か隠れた意味があるに相違ない。わたしはあの出版の話には頭から信をおかなかった。それから、例の手紙、――ずいぶんばかげてはいるが、あの中には明らかに、何やら『証拠書類』を持って出るところへ出る、というようなことが書いてあるにもかかわらず、皆この点を不問に付して、よそごとをいっている。それから、またあの活版所の話、そして、最後に活版所の話を持ち出したがために、シャートフがとつぜん帰ってしまったこと、――かれこれ綜合してみると、どうもわたしの来る前に何かあって、それをわたしが少しも知らずにいるのではないか、というふうに考えられる。そうだとすれば、自分は余計な人間で、こんなことはいっさいわたしの知ったことでない。それに、もうそろそろ出かけてもいい時分である。初めての訪問にしてはこれでたくさんだ。そう思って、わたしは挨拶のためにリザヴェータの傍へ近づいた。
 彼女は、わたしが同じ部屋の中にいたことも忘れたらしく、首を垂れて絨毯の上の一点をじっと見つめながら、何やら思いに沈んだ体で、依然として元のテーブルの傍に立っていた。
「ああ、あなたも、じゃ、さようなら」と彼女は習慣になった優しい声でいった。「どうかスチェパンさまによろしく、そして、なるべく早く遊びに来てくださるように、あなたから勧めてくださいましね。マヴリーキイさん、Gさんがお帰りになりますよ。失礼ですが、母はご挨拶に出られませんですから……」
 わたしが外へ出て、もう階段を下りてしまったとき、ふいに下男が出口で追いついた。
「奥さまがぜひお帰りくださるようにとのことで……」
「奥さんですか、お嬢さんですか?」
「お嬢さまで」
 わたしがリーザを見つけたのは、以前の大広間ではなく、一ばん手前の応接室であった。今マヴリーキイが一人きり残っているその大広間へ通ずる戸口は、ぴったり閉めてあった。
 リーザはわたしにほほえみかけたが、その顔は真っ青だった。彼女はいかにも決しかねたらしい、心中の闘争に苦しんでいるようなふうで、部屋の真ん中に立っていたが、いきなりわたしの手を取って、無言のまま早足に窓のほうへ引っ張って行った。
「あたしすぐにあの女[#「あの女」に傍点]が見たいんですの」いささかの抗言すら許さぬ、熱した、強い、こらえ性《しょう》のない視線をわたしの顔へ注ぎながら、彼女は小声にささやくのであった。「あたし自分の目で、あの女を見なくちゃならないんです、どうかあなた助けてくださいませんか」
 彼女はもうすっかり前後を忘れて、自暴自棄の状態に陥っていた。
「あなただれが見たいとおっしゃるんです?」とわたしは面くらってこうたずねた。
「あのレビャードキナです、あのびっこです……あの女がびっこだっていうのは本当ですか?」
 わたしは胸がどきんとした。
「わたしはまだ一度も会ったことはありませんが、あの女がびっこだってことは聞きました。ついきのう聞いたばかりです」とわたしも同様にささやくような声で、なんの躊躇もなく忙しそうにこう答えた。
「あたしぜひあの女を見なくちゃなりませんの。あなた今日にもなんとか運びをつけていただけませんでしょうか?」
 わたしは彼女が気の毒でたまらなくなった。
「これはとうてい不可能です。それに、わたしもどういうふうに運びをつけたものか、まるでわからないんですもの」とわたしは彼女を納得させにかかった。「まずシャートフのところへ行って……」
「もしあなたが明日までに、運びをつけてくださらなければ、あたし自分であの女のところへ出かけます。だって、マヴリーキイさんは承知してくださらないんですもの。あたしは今あなただけを当てにしているんですもの、もうほかにだれも頼る人がありません。あたしさっきシャートフさんに馬鹿なことをいいましたわねえ……あたしはあなたが潔白な方で、ことによったら、あたしのために一臂の労を惜しまないほうかもしれない、とこういうふうに信じていますのよ。ですから、どうぞ運びをつけてくださいませんか」
 わたしの心にはなんであろうと、ぜひ彼女を助けてやりたいという、烈しい望みが湧き起こった。
「じゃ、こうしましょう」ちょっと心もち考えてからわたしはこういった。「わたしが自分で出かけます。そして、きょう必ず、必ず[#「必ず」に傍点]あの女に会って来ます! わたしはなんとでもして会って来ます。これはあなたに誓っておきます。ただシャートフにうち明けるのだけ許してください」
「では、あの人にそういってください、あたしの望みは一通りのものでないのですから、もうどうしても待つわけにいきません。けども、さっきはけっしてあの人をだましたわけじゃありません、とね。あの人が帰って行ったのも、あの人があまり潔白なものですから、あたしがあの人をだましでもするような態度をとったのがお気に入らなかったせいかもしれません。けれど、あたしだまそうとしたのじゃありません。あたし本当にあの本を発行して、活版所を起こそうと思っているのでございます……」
「あれは潔白な男です、まったく潔白な男です」とわたしは熱心に相槌を打った。
「もっとも、明日までに話がまとまらなかったら、あたしどんなことがあろうと自分で出かけます。人が知ったってかまいません」
「わたしは明日三時より早くこちらへあがれません」わたしは幾分おちついた気持ちになってから、こう断わった。
「じゃ、三時ですね? してみると、昨日あたしがスチェパンさまのところで想像したのは、本当のことだったんですわね。あたしはね、あなたがあたしのために尽くしてくださる人だと思いましたの」彼女は忙しげにわたしに最後の握手をして、一人とり残されたマヴリーキイのところへ急ぎながら、にっこりと笑って見せた。
 わたしは自分のした約束のために、圧しつけられるような心持ちを覚えながら外へ出た。いったい何事が起こったのやらわけがわからなかった。ただほとんど未知の男に大事をうち明けて、自分を危くするのもあえていとわないくらい、絶望の極に陥った一個の女を見たのみである。ああした苦しい瞬間に洩らした彼女の女らしいほほえみと、もう昨日からわたしの心持ちに気がついていたという意味ありげな彼女の言葉とは、さながらわたしの心臓を突き通したように思われた。しかし、とにかくかわいそうだ、まったくかわいそうだ、――それだけのことなのだ! すると、急に彼女の秘密が、何か神聖犯すべからざるものに思えてきた。で、今その秘密を開いて見せようとする者があっても、わたしは耳に蓋をして何一つ聞かなかったに相違ない。ただわたしは何かあるものを予感した……しかし、どういうふうにして、少しなりとも運びをつけるつもりなのか、もうまるっきりわからなかった。そればかりでない、つまりどういう行動をとればいいのか、いまだにさっぱりわからないのであった。会見だろうか! 会見とすれば、どういう会見なのだろう? それに、どうしてあの両女《ふたり》を引き合わせようというのだ? 希望は挙げてことごとくシャートフにかかっていたが、しかし、彼がどれだけの助けにもならないのは、初めからたいてい見当がついている。が、とにかくわたしは彼のもとへ走って行った。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 やっと晩の七時すぎに、わたしは彼をその住まいに発見した。驚いたことには、彼のところに来客があった。一人はキリーロフで、一人はわたしにとって半面識しかない人、――ヴィルギンスキイの細君の弟に当たる、シガリョフという男であった。
 このシガリョフはもうこの町に二か月ばかりも逗留しているはずだが、いったいどこから来たのか、それもわからぬ。わたしがこの男について知っているのは、彼がペテルブルグのある進歩派の雑誌に、何か論文を載せたということばかりだ。一度ヴィルギンスキイが偶然往来で、わたしにこの男を引きあわせてくれたことがある。わたしは今まで人間の顔でこれほど陰気な、燻り返った不景気な表情を見たことがない。彼の顔つきはまるで世界の破滅を待っているようだ。しかも、それは場合によって外れることのある漠然とした予言などを信じたためでなく、まるで明後日の十時二十五分かっきりといったような具合に、あくまで正確に予知しているようなふうつきであった。もっとも、わたしたちはそのときひと言もいわないで、悪事の連判人かなんぞのように、互いに握手をしたのみで別れてしまった。何より驚いたのはその耳であった。不自然なほどの大きさで、長くて広く、おまけに厚みがあって、なんだか特別不揃いに突っ立っているようだった。その動作は無器用で、のろのろしている。もしかりにリプーチンなどが、わが県内で共産団の実現を夢みているとすれば、この男はきっとその実現の時日を正確に知っているに違いない。彼はいつもわたしに薄気味の悪い印象を与えた。今シャートフの家でこの男に出あって、わたしは一驚を吃した。ことに、シャートフは一般に来客をよろこばないから、なおさら不思議であった。
 もう階段のあたりから三人が一時に口を開いて、何か大きな声で話し合っている、というより、むしろ論じ合っているのが聞こえた。が、わたしが姿を現わすと同時に、一同はぴたりと口をつぐんだ。彼らは立ったまま論争していたが、急に三人とも一時に腰を下ろしたので、わたしも腰を掛けねばならなかった。間の抜けた沈黙は、まる三分ほどもすこしも破れなかった。シガリョフはわたしがだれかということに気がついたが、わざと知らん顔をしていた。それも敵意があってのことではなく、なんというわけなしなのである。キリーロフとは互いに軽く会釈をしたが、それも無言のままで、なぜか両方とも握手をしなかった。とうとうシガリョフはいかつい顔をして、眉をひそめながらわたしを睨み始めた、そうすれば、わたしが急に立ちあがって出て行くだろうという、きわめて無邪気な信念をいだきながら。やがてシャートフも椅子を立った。すると、一同はとつぜん同じように立ちあがって、挨拶もせずに外へ出た。ただシガリョフばかりは、もう戸口まで出たとき、見送って来たシャートフに向かって、
「覚えていてくれたまえ、きみは報告の義務があるんだぜ」
「そんな報告なんか糞くらえだ! ぼくはどこのどいつにも義務は負ってないから」といって、シャートフは戸口に鍵をかけた。
「馬鹿者らめ!」彼はじろりとわたしを見、妙に口を曲げて笑いながら、こういった。
 彼の顔はいかにも腹立たしそうであった。しかしわたしは、彼が自分から口をきったのがなんとなく奇妙に感じられた。以前わたしがここへやって来たときは(もっとも、そんなことは時たまだったが)、たいていは彼は眉をひそめながら隅っこに坐って、腹立たしそうに受け答えをしているが、しばらくたつとすっかり元気づいて、しまいには愉快そうに話しだす。が、その代わり別れる時には、いつもまた必ず眉をひそめて、まるで仇敵でも追ん出すように、送り出すのが常であった。
「ぼくはあのキリーロフ君のところで、ゆうべ茶を飲んで来たよ」とわたしはいった。「あの男は無神論で気が触れてるようだね」
「ロシヤの無神論は、地口より先へ進んだことがないよ」古い蝋燭の燃えさしを新しいのに取り替えながら、シャートフは不満らしげにいった。
「いや、あの男は、ぼくの見るところでは地口じゃない。あの男は話ができないんだよ、地口どころじゃない」
「紙でこしらえた人間だよ。そんなことはみんな、思想的下男根性のために起こるんだ」シャートフは椅子の片隅に腰を乗っけて、膝の上に両肘を突きながら、落ちつきはらっていった。「そこにはまだ憎悪も手伝っているんだ」ちょっとのま黙っていたが、やがてこういいだした。「もしロシヤの国が、あの連中の夢想しているように改造されて、とつぜん無際限に豊富にかつ幸福になったら、あの連中はだれよりも真っ先に、恐ろしく不仕合わせなものになるだろうよ。そうなると、憎むべき対象がなくなるからだ、侮蔑と嘲笑の対象がなくなるからだ! あの連中の持ってるのは、ロシヤに対する憎悪ばかりだ。肉体組織の内部まで食い入った、飽くことなき動物的憎悪ばかりだ……表面の笑いの陰に秘められた、世の人に見えない涙なんて、けっしてありゃしないんだよ! 今までロシヤで発しられた言葉の中でも、この見えざる涙なんて言い草ほど、そらぞらしい言葉はありゃしない!」と彼は猛烈な勢いで叫んだ。
「きみはいったい何をいってるんだい!」とわたしは笑った。
「きみは『穏健な自由主義者』さ」とシャートフはにやりと笑った。「ところでだね」と彼は急に気がついたように、「ことによったら、『思想的下男根性云々』は、ぼくのいい過ぎだったかもしれないね。おそらくきみはすぐにこういいたかったんだろう。『それは自分が下男の子に生まれたんで、ぼくは下男じゃないよ』ってね」
「ぼくはまるでそんなことをいう気はなかったよ……きみは何をいいだすんだろう!」
「まあ、きみ、言いわけなんかしないでいいよ。ぼくはきみを恐れてやしないから。あのときぼくはただ下男の子に生まれたきりだったが、今はぼく自身、きみたちと同じような下男になっちゃった。わがロシヤの自由主義者はまず何より下男なのさ。そして、だれか靴を磨かしてくれる人はないかしらんと、きょろきょろあたりを見廻しているのだ」
「靴だって? それはなんの比喩なんだい?」
「比喩も何もありゃしない? きみは冷やかしているようだね……スチェパン氏がいったのは本当だよ、ぼくは石の下に敷かれてるんだ。そして、圧し潰されながら死にきれないで、ただぴくりぴくりやってるのさ。これはあの人にしてはうまい比喩だったね」
「スチェパン氏はきみのことを、ドイツ人崇拝で気が触れたんだといってるよ」とわたしは笑った。「しかし、なんといっても、われわれはドイツ人から何かしら引き出して、ポケットの中へしまい込んだね」
「二十コペイカ玉一つもらって、自分のほうから百ルーブリくれてやったようなもんさ」
 わたしたちはちょっとのま黙っていた。
「あれは先生、アメリカで寝すぎたために背負い込んだのさ」
「だれが? 背負い込んだとは何を?」
「ぼくはキリーロフのことをいってるんだ。ぼくは向こうにいる時、あの男と四月の間一つ小屋の中で、床《ゆか》の上にごろごろしてたんだからね」
「え、きみはいったいアメリカへ行ったのかい?」とわたしはびっくりして、「きみはちっとも話さなかったじゃないか」
「何も話すことはないさ。おととしぼくはキリーロフといっしょになけなしの金を出して、移民船でアメリカへ渡ったのだ。それは『自分の体でアメリカの労働者の生活を経験して、この社会で最も苦しい階級に属する人間の状態を、個人的[#「個人的」に傍点]経験によって検覈《けんかく》しよう』とこういう目的で二人は出かけたんだ」
「へえ!」とわたしは笑いだした。「そんな目的なら農繁期に、この県内のどこかへ行ったほうが、もっとよく『個人的経験で味わう』ことができたろうに、アメリカ三界まで飛んで行くなんて!」
「ぼくらはある開墾業者のところへ、労働者として傭われて行った。そこにはわれわれロシヤ人仲間が六人いた、――大学生もいれば、自分の領地を持った地主もいるし、将校までいるじゃないか。それがみんな同じように、崇高なる目的を持って来てるのだ。で、まあ、働いたよ、汗みどろになって、苦しい思いをして、疲れるほど働いた。が、とうとうぼくとキリーロフは逃げ出してしまった、病気にかかって、辛抱できなかったのだ。農園の主人は、勘定のとき算盤をごまかして、約束の三十ドルの代わりに、ぼくには八ドル、キリーロフには十五ドルきゃよこさないのだ。ぼくらもずいぶん撲られたものさ。ところが、こうして仕事がなくなったもんだから、ぼくらはある小さな町で四か月の間、床《ゆか》の上に並んで臥《ね》ていたんだ。あの男が一つのことを考えると、ぼくはまた別なことを考えるというふうでね」
「いったい主人がきみらを撲ったのかい、それがアメリカでの話なんだね? それでどうしたい、きっときみらはうんと罵倒したろうね?」
「どうして、少しも! それどころか、ぼくとキリーロフは、さっそくこういうことに決めたのさ。『われわれロシヤ人はアメリカ人の前へ出ると、まるで子供だ。やつらと同じ水準線へ立つためには、アメリカで生まれるか、それとも長いあいだアメリカ人の中で生活しなくちゃ駄目だ』それでまあ、どうだろう。僅か一コペイカか二コペイカのしろ物に一ドルも二ドルもぼられながら、ぼくらは大恐悦でそれを払ったばかりでなく、まるで夢中になってしまったものだ。ぼくらはなんでもかでも讃美した。降神術も、私刑《リンチ》も、ピストルも、放浪者までもね。あるとき汽車に乗ってると、一人の男がぼくのかくしへ手を突っ込んで、ぼくの髪ブラシを取り出しながら、そいつで頭を梳かし始めたんだ。ぼくとキリーロフとは、ただ目と目を見交すばかりだった。そして、『これはいい、大いに気に入った』と、二人で決めてしまったよ……」
「しかし、ロシヤ人はすべて思いつくだけでなく、それを実行するから妙だね」とわたしはいった。
「紙でこしらえた人間なんだ」とシャートフはくり返した。
「けれども『個人的経験で体得するため』とはいいながら、移民船で大洋を乗り切って、知らぬ他国へ渡って行くというのは、――まったく何か一種悠暢たる堅固さがあるようだね……ところで、きみはどうしてそこから抜け出したの?」
「ぼくは欧州にいる一人の男に手紙を書いたんだ。すると、その男が百ルーブリ送ってくれたのさ」
 シャートフはいつもの癖で、熱した時にさえ首を上げないで、始終しゅうねく足もとを見つめながら話していたが、この時とつぜん顔を上げた。
「きみ、その男の名を教えようか?」
「だれだね、いったい?」
「ニコライ・スタヴローギン」
 彼はとつぜん立ちあがって、菩提樹のテーブルに近寄り、その上で何やらさがし始めた。われわれの間では漠然としたものではあるが、正確な一つの噂が伝わっている、ほかではない、彼の妻がしばらくの間ニコライとパリで関係をつづけたというのである。しかも、それがちょうど二年ほど前だから、つまりシャートフがアメリカにいた頃に当たる、――もっとも、ジュネーブで棄てて行ってから、だいぶ時はたっていたけれど。『もしそうだとすれば、なんだって今頃そんな名前を担ぎ出して、くだらんことを捏ね廻す気になったんだろう?』とわたしは考えた。
「ぼくはいまだにそれを返さないでいるんだ」とつぜん彼はまたこちらを振り向いて、じっとわたしを見据えると、片隅に引っ込んで元の座に坐った。そして、今度はすっかり別な声で、引きちぎったような調子で問いかけた。
「きみはもちろんなにかの用で来たんだろう、なに用なんだい?」
 わたしはすぐにいっさいの顛末を、正確な歴史的順序を立てて物語ったうえ、こうつけ足した。いま自分は先はどの興奮から落ちついて、少し考え直すこともできたけれど、それでもいっそう頭がごたごたになってしまった。これにはリザヴェータ嬢にとって、何か非常に重大な事柄が含まれているのは確かだ、そして、ぜひとも助力したいという望みは固いけれど、ただ困ったことには、どんなにしたら、あのひととの約束を守ることができるかわからない。のみならず、はたして何を約束したのか、それさえ今はあやふやになってきた、――こういった後で、さらにわたしはしみじみした調子で、あのひとはきみをだます気ではなかったのだ、そんなことは考えてもいなかった、だからあのとき妙な誤解が生じて、きみがさっき突然な帰り方をしたのを、たいへん苦にしている、と断言した。
 彼は注意ぶかく聞き終わった。
「もしかしたらぼくは例の癖で、さっき本当に馬鹿なことをしたかもしれない……しかし、あのひと自身も、どうしてぼくがあんな帰り方をしたか知らないとすれば、それなら……あのひとにとっては、結局、仕合わせだ」
 彼は立ちあがって戸口に近寄り、ちょっとドアを開けて、階段の下へ聞き耳を立てた。
「きみは自分であの婦人を見たいというのかね?」
「それがぼくに必要なんだ、しかし、どうしたらいいんだろう」とわたしはよろこんで飛びあがった。
「なんでもないさ、あの女が一人きりでいる間にいっしょに行こう。あいつが帰って来て、ぼくらが来たってことを知ったら、またぶん撲るよ。ぼくはよく内証で行ってやるんだよ。ぼくはさっきも、やつが妹を打とうとした時、やつを撲りつけてやった」
「どうしてきみそんなことを?」
「つまり、ぼくがやつの髪をつかんで、妹から引き放してやったのさ。すると、やつめ、怒ってぼくを撲ろうとするから、ぼく、脅しつけといてやった、それでおしまいさ。ただ酔っぱらって帰りゃしないかと心配してる。あれを思い出したら、またこっぴどく妹を撲りつけるからね」
 わたしたちはすぐに降りて行った。

[#6字下げ]5[#「5」は小見出し

 レビャードキンの戸口は閉めてあるばかりで、鍵が掛けてなかった。で、わたしたちは自由に入ることができた。兄妹《きょうだい》の住まいというのは、薄汚い小さな部屋二つきりで、煤けた壁には汚い壁紙が、文字通りに房をなして下っていた。ここは幾年まえかに、家主のフィリッポフが新しい家へ引っ越すまで居酒屋を開いていたのだが、当時店に使っていた部屋はみんな閉め切りになって、この二つだけがレビャードキンの手に入ったのだ。家具は幾脚かの粗末な床几と、荒削りのテーブルばかりで、手の取れた古い肘掛けいすが唯一の例外だった。次の部屋の隅のほうには、更紗の夜具を掛けた寝台があったが、これはマドモアゼル・レビャードキナのものである。当の大尉は夜寝るとき、たいてい着のみ着のままで、床の上にごろりとひっくり返るのがきまりだった。家の中はどこもかしこも傷だらけ埃《ごみ》だらけで、おまけにべとべとしていた。ぐちょぐちょに濡れた、どっしりと大ぶりな雑巾が、とっつきの部屋の床《ゆか》の真ん中にほうり出されてあると、すぐ傍の水溜りの中には、はきへらした古靴が転がっている。見受けたところ、ここではだれも仕事なぞしないらしい。煖炉も焚かなければ、食事の支度もしない。シャートフが進んで説明したところによると、サモワールさえ持っていないとのことだ。大尉が妹を連れて来た時は、まるで乞食同然で、実際、リプーチンのいうように、方々の家を歩き廻って無心したものだ。ところが、急に思いがけない金を手に入れると、きっそくもう飲みにかかった。そして、酒にうつつを抜かして、家政も糞もなくなったのである。
 わたしが会おうと思ったレビャードキナ嬢は、次の間の隅っこで、荒削りの台所机を前にして、床几の上におとなしく、ひっそりと坐っていた。わたしたちが戸を開けても、別に声をかけようともせず、その座を動こうともしなかった。シャートフの話によると、この家ではいつも戸を閉めないそうで、一度なぞは一晩じゅう、玄関の戸が明けっ放しになっていたとのことである。鉄の燭台に立ててある細い蝋燭の朦朧たる光の中に、わたしは年の頃三十ばかりの、病的に痩せた女を見分けることができた。何かじみな古い更紗の着物をきていたが、細長い頸は何物にもおおわれることなく、うすい暗色《あんしょく》の髪はうしろ頭のほうで、二つ三つの子供の拳固くらいな小さな髷に束ねてあった。女はかなり愉快そうにわたしたちを眺めた。燭台のほか、彼女の前のテーブルには、木の枠をつけた小さな鏡と、一組の古いカルタと、ぼろぼろになった何かの唄本と、もう一口二口くい欠いたドイツ風の白パンが置いてあった。明らかにレビャードキナ嬢は、白粉をつけたり、頬紅をつけたりしたうえ、唇にも何か塗っているらしい。そうしなくともほっそりと長い黒い眉にまで、眉墨をつけている。狭くて高い額には、白粉にも隠されぬ三本の長い皺が、かなりはっきりと刻まれている。わたしは、この女がびっこだと知っていたけれども、このとき彼女は初めからしまいまで立ちも歩きもしなかった。いつかまだ青春の花の開き始める頃には、この痩せこけた顔も、さして悪くなかったかもしれない。その静かな優しい灰色の目は、今でも水際立っていた。静かな、ほとんど嬉しげに見える眼ざしには、何かしら空想的で真摯なあるものが輝いているように思われた。彼女のほほえみにも表われるこの静かな落ちついたよろこびは、例のコサックの鞭を手はじめに、いろいろ兄の乱行を聞かされていた後のこととて、驚異の念をわたしに与えたほどである。すべてこういうふうに神の罰を受けた人たちの前にいる時、普通感じられる重苦しい、恐怖に近い嫌悪の情を覚えるかわりに、不思議にもわたしは最初の瞬間から、この女を眺めるのが愉快なほどであった。その後つづいてわたしの心をみたしたものは憐愍の情くらいのもので、けっして嫌悪の念ではない。
「ほら、あんなふうに坐ってるんだ。文字どおりに毎日ぶっ通し、たった一人ぼっちで、身動きもせずにカルタの占いをしたり、鏡を見つめたりしてるんだ」とシャートフは閾のところからわたしに指さして見せた。「あいつ、ちっとも食べ物を当てがわないんだよ。離れの婆さんが、ときどきお情けに何か持って来るくらいなものさ。どうして蝋燭を持たせたまま一人きりでうっちゃっとくんだろう!」
 驚いたことに、シャートフはまるで女が部屋にいないもののように、大きな声でこんなことをいうのであった。
「ご機嫌よう、シャートゥシカ!」とレビャードキナ嬢は愛想よく声をかけた。
「ぼくはね、マリヤ・チモフェーヴナ。お客様を連れて来たよ」とシャートフはいった。
「それはよくいらっしゃいました。いったいお前さん、だれを連れて来たの、こんな人、なんだか覚えがないよ」と彼女は蝋燭の陰からじっとわたしを見つめたが、すぐにまたシャートフのほうへ向いてしまった(それからはもうずっとしまいまで、わたしの相手をしようとしなかった、まるでわたしという人間が傍にいないように)。
「お前さん、一人きりで部屋の中を歩き廻るのが、退屈になってきたの?」と彼女は笑ったが、そのとき二列の見事な歯が現われた。
「ああ、退屈になった。だから、お前をたずねてみる気になったんだ」
 シャートフは床几をテーブルのほうへ引き寄せて、わたしを傍へ並んで坐らした。
「わたし、話はいつでも好きだよ。だけど、お前さんはいつもおかしな恰好をしてるね、シャートゥシカ、まるでお坊さんみたいだよ。お前さんはいつ頭を梳かしたの? さあ、わたしがまた梳かしてあげましょう」と彼女はかくしから小さな櫛を取りだした。「たぶんこの前わたしが梳かしてあげた時から、まるで梳かないんでしょう?」
「それに、ぼくは櫛を持ってないんだよ」とシャートフも笑いだした。
「本当? じゃ、わたし自分のをお前さんにあげるよ。だけど、これじゃない、別の。ただそういってくれなくちゃ駄目だよ」
 彼女は思いきり真面目な様子をして、男の髪を梳かしにかかった。そして、横のほうに分け目までこしらえると少し体をうしろへそらして、よくできたかどうかちょいと眺めたうえ、また元のかくしへ櫛をしまった。
「ねえ、シャートゥシカ」と彼女は首を振りながら、「お前さんは、たぶん分別のある人だろうけれど、いつもぼんやりふさいでるね。わたしだれでも、お前さんみたいな人を見てると、不思議でならないよ。どうして人はあんなにふさぐんだろう、合点がゆかない。悲しいのとふさぐのとは別だよ。わたしは面白い」
「あんな兄貴といっしょにいて面白いかい?」
「お前さんはレビャードキンのことをいってるの? あれはわたしの下男《しもおとこ》だよ。あれがいようといまいと、わたしはまるで同じことだ。わたしが、『レビャードキン、水を持って来い、レビャードキン、靴を持って来い』というと、あれはあわてて駆け出すんだよ。どうかすると、あまりひどいと思うこともあるくらいなの。あれを見てるとおかしくなるよ」
「あれはまったく寸分たがわずあのとおりなんだよ」シャートフはまたしてもわたしのほうを向いて、大きな声で無遠慮にいいだした。「この女は兄貴をまるで下男同様に扱ってるんだ。この女が『レビャードキン、水を持って来い』といって、からからと笑うのをぼく自分で聞いたことがある。ただ違っているのは、レビャードキンが駆け出して水を取りに行かないで、かえってそういわれたために、この女をぶつという点なのさ。しかし、この女はいっこう兄貴を恐れていない。なんだか神経的な発作が毎日のように起こってね、すっかり記憶を奪ってしまうんだ。それで発作が起こった後は、たった今あったことをみんな忘れてしまって、いつも時をごっちゃにするんだよ。きみはぼくらの入って来た時のことを、この女がおぼえてると思うかね? 事実あるいはおぼえてるかもしれないが、しかし、きっと何もかも、自己流に作り変えてしまってるよ。そして、ぼくがシャートゥシカだってことは覚えているけれど、ぼくらを実際とは違った別な人間のように考えているに相違ない。ぼくが大きな声で話すって? なに、平気だよ。この女はすぐに相手の者のいうことを聞きやめて、自分の空想に飛びかかるんだからね。まったく飛びかかるんだよ。恐ろしい空想家だからなあ。毎日いちんち八時間くらいずつ、ひと所にじいっと坐ってるんだ。ここにパンがあるだろう。これなぞもたぶん、朝からたった一度くらいしか噛らないんだろう。すっかり片づけてしまうのは明日のことだよ。そら、今度はカルタで占いを始めた……」
「占ってるには、占ってるけれどね、シャートゥシカ、どうも妙なことばかり出て来るんだよ」相手の最後の言葉を小耳に挿んで、ふいにマリヤはこう引き取った。そして、べつに視線を転じないで、パンのほうへ手を伸ばした(やはりパンという言葉も耳に挿んだのだろう)。
 彼女はとうとうパンを取って、しばらく左手で持っていたが、新しく湧いてきた話題に気を取られ、一口も噛まないで、いつの間にか元のテーブルへ置いてしまった。
「いつも同じことばかりよ、道だの、悪党だの、だれかの悪企みだの、臨終の床だの、どこからか来た手紙だの、思いがけない知らせだの、――わたしはみんなでたらめだと思うよ。シャートゥシカ、お前さんはどう考える? 人間が嘘をつくくらいなら、カルタだって嘘をつかぬはずがないからね」と彼女はカルタをいっしょくたに交ぜてしまった。「わたしはこれと同じことを、プラスコーヴィヤの尼さんにも一ど話したことがあるよ。立派なひとだったがね、いつも院主の尼さんの目をぬすんで、わたしの房《へや》へ走って来て、カルタ占いをしたものだ。それも、このひと一人きりじゃなかった。みんなため息をついたり首を振ったりして、一生懸命に並べてるのさ。で、わたしは笑ってやった。『まあ、どうしてお前さん、プラスコーヴィヤさん、手紙なんか来るもんかね、もう十二年も来なかったんじゃないか』このひとはご亭主に娘をどこかトルコのほうへ連れて行かれて、十二年のあいだ音も沙汰もないんだよ。ところが、そのあくる日の晩、わたしは院主の尼さんのところで、お茶をご馳走になっていた(院主は公爵家のお生まれなんだよ)。そこには、どこかよそから来た奥さまと(これが大変な空想家なの)、それからアトスから来た坊様とが坐ってたっけ。この坊様はわたしにいわせれば、ずいぶんおかしな人だったよ。ところが、どうでしょう、シャートゥシカ、この坊様がちょうどその朝、プラスコーヴィヤ尼に宛てた娘の手紙を、トルコから持って来てくれたの。――ダイヤのジャックが出ただけのことはあったよ、――まったく思いがけない便りだったからね! わたしたちがお茶を飲んでいると、このアトスの坊様は院主の尼さんにこういうんだよ。『院主さま、この僧院《おてら》が神様から受けている祝福のなかで何よりもありがたいのは、この中に世にも稀な宝ものをおさめておられることでござりましょうな。』『その宝ものというのはなんでござりますな?』と院主の尼さんがきかれると、『あの奇特なリザヴェータ尼でござります』この奇特なリザヴェータ尼は、僧院《おてら》のまわりの塀に嵌め込んだ長さ一間、高さ二尺ほどの檻の中に坐ったまま、鉄格子の陰で十七年くらしてきた人なんだよ。身には麻の襦袢を一枚つけたきりで、しかもしじゅう藁だの、小枝だの、手当たりまかせのもので、その麻の襦袢ごしにちくちく体をつっ突いてるのさ。十七年のあいだ何一つものもいわず、髪も梳かず、顔も洗わない。冬になると、毛皮の外套を差し込んでやるくらいのものでね、毎日の食べ物は小箱に入れたパンと、コップ一杯の水っきりなんだよ。順礼の女たちはそれを見ると、あれまあと感心して、ため息をつきながら、お金を入れて行くよ。『とんだ宝ものを見つけたものですね』と院主の尼さんは返答せられたが、すっかり腹を立ててしまわれた。リザヴェータが恐ろしく嫌いだったのでね。『あの女は面当てに強情を張って、あんなところに坐っているのだ。あれはみんな見せかけだ』とこういわれるが、わたしはこれが気に入らなかったよ。だって、わたしもその当時、自分でそういうふうに閉じこもってみたかったんだもの。『わたしの考えますには、神様と自然は一つのものでござります』とこういったところ、みんな一時に口を揃えて、『これは、これは!』というではないかね。院主の尼さんは笑いだして、何やら奥様とひそひそ話をされたうえ、わたしを傍へ呼んで撫でてくだされたよ。それから、奥様はわたしに薔薇色のリボンをくだされたが、なんなら見せてあげてもいいよ。ところが、坊様はすぐわたしにお説教をしてくれたが、その言い方が優しくて穏かで、きっと立派な知識のお話に相違ないと思うよ。わたしはじっと坐って聴いていたが、『わかったかな』と聞かれたとき、『いいえ、ちっともわかりませんでした。どうかわたしにはかまわずにおいてください』といったものだから、その時から、わたしはいつも一人ぼっちで、だれひとりかまってくれるものがなくなったよ、シャートゥシカ。ところが、その僧院《おてら》の中には、予言をするとて懲らしめを受けているお婆さんが一人あったが、この人が礼拝堂を出る時に、耳の傍へ口を持ってきて、こういうんだよ。『聖母とはなんだと思いなさる?』『えらいお母さん、すべての人間が頼りに思うお方』とこうわたしは返答した。『そうだよ、聖母は偉大なる毋。うるおえる母なる大地なんだよ。そしてこの中に人間の大きなよろこびが含まれてるのだからね。あらゆる地上の悲しみ、あらゆる地上の涙は、わたしたちにとってのよろこびなんだよ。自分の涙で足もとの土を五寸、一尺と、だんだん深く濡らしていくうちに、すべてのことをよろこばしく思うようになる。そうすると、けっして悲しみなんてものはなくなってしまう。これがわたしの予言なんだよ』この言葉が当時わたしの心に深くしみ込んでね、それからというもの、お祈りで額を地びたにつけてお辞儀をする時、きっといつも大地に接吻をするようになったの。自分で接吻をしては泣くんだよ。まあ、聞いてちょうだい、シャートゥシカ、この涙の中にはちっとも悪いところはないよ。だって、自分には少しも悲しいことがなくなって、ただ嬉しいばかりに涙の出ることがあるんだもの。涙がひとりでに出る、それは本当だよ。わたしはよく湖の岸へ行った。一方はわたしたちの僧院《おてら》で、一方は尖った山なの。それで、その山を本当に皆とんがり山といってたよ。わたしはこの山に登ると、東のほうを向いて地びたに倒れたまま、泣いて泣いて泣きつくすの。何時間泣いてたかしれないくらい。それに、その時はなんにも知らなければ、覚えてもいなかった。それから起きあがって、後を振り返って見ると、お日さまが沈みかかってるんだよ。そのまあ大きくて、華々しくって、見事なこと、――お前さんお日さまを見るのは好き、シャートゥシカ[#「シャートゥシカ」は底本では「シャートシカ」]? いいもんだね、だけど淋しい。それからまた東のほうを振り返ると、影、――その山の影が矢のように狭く長く、湖の上を遠く走って、一里も先にある湖の上の島まで届いてるの。この石だらけの島がちょうどまっ二つに、山影を切ってしまうんだよ。ちょうどまっ二つに切れたと思うと、お日さまはすっかり沈んでしまって、まわりは急に火が消えたようになる。そこで、わたしはふいに恐ろしく悲しくなって気がつくと、闇が怖いような気がしてくるんだよ、シャートゥシカ。だけど、わたしは何よりも一番、自分の子供のことを思って泣いたっけ……」
「いったい子供があったのかい?」初めからなみなみならぬ注意を払って聞いていたシャートフは、このとき肘でわたしをとんと突いた。
「あったともね、かわいい薔薇色をした子で、こんな小っちゃな爪をしてたの。ただわたしのつらいことには、それが男の子だったか、女の子だったか、まるで覚えていないんだよ。どうかすると、男の子のようにも思われたり、また女の子のようにも思われたりするんだもの。当時わたしはその子を生むと、すぐ精麻《バチスト》やレースにくるんで、薔薇色のリボンで帯をしめ、体じゅう花で飾って、お祈りを唱えると、まだ洗礼もしない子を抱いて行った、森を越して抱いて行ったの。ところが、わたしは森が怖いから、気味が悪くてならなかった。ところがね、わたしはその子を産んだけれど、亭主がだれかわからないのが何よりつらくて泣いたんだよ」
「しかし、亭主があったんだろうか?」とシャートフは大事を取りながらたずねた。
「お前さんはおかしな考え方をする人だねえ、シャートゥシカ。あったんだよ。きっとあったんだよ。けれど、あったって仕方がないじゃないか、まるでないのも同じことなんだもの。さあ、この謎は、あまりむずかしくないから、解いてごらんよ!」と彼女はにたりと笑った。
「赤ん坊はどこへ抱いて行ったの?」
「池の中へ連れて行ったよ」と彼女は吐息をついた。
 シャートフはまたわたしを肘で突いた。
「もし赤ん坊もなにも、てんでなくって、そんなことはみんな夢だとしたら、どうするんだい、え?」
「むずかしい問いをかけたね、シャートゥシカ」こうした問いに驚く色もなく、彼女はもの思わしげに答えた。「このことは、わたしなんにもいわないことにしよう。もしかしたら、なかったのかもしれない。だけど、わたしにいわせれば、それはお前さんのもの好きな詮索だてだよ。わたしはどっちにしたって、あの子のために泣くのをやめやしないから、夢なんかで見たんじゃないからね」大粒な涙が彼女の目に光った。「シャートゥシカ、シャートゥシカ、お前さんの奥さんが逃げ出したというのは本当?」ふいに彼女は両手を男の肩に掛けて、憫れげにその顔を見入った。「ねえ、お前さん腹を立てないでちょうだい。だって、わたし自分でも情けなくなるんだもの。実はねえ、シャートゥシカ。わたしこんな夢を見たのよ、――あの人がまたわたしのところへ来て手招きしながら、『仔猫さん、うちの仔猫さん、わたしのほうへ出ておいで!』と声をかけるの。わたしこの『仔猫さん』が何よりも嬉しかった。かわいがってくれてるのだ、とこう思ったから」
「もしかしたら、本当にやって来るかもしれんさ」とシャートフは小声でつぶやいた。
「いいえ、シャートゥシカ、それはもう夢だよ……あの人が本当に来るはずがないもの。お前さんこういう唄を知ってる?

[#ここから2字下げ]
新しき高きうてなも
われは欲りせずこのいおりこそ
とどまりてあらんところぞ
世を捨てて住みや果てなん
君が上《え》を神にいのりつ
[#ここで字下げ終わり]

おお、シャートゥシカ、わたしの大事なシャートゥシカ、どうしてお前さんはちっともわたしにきかないの?」
「とても言やしないだろうと思って、それでぼくもきかないのさ」
「いわないとも、いわないとも、殺したって言やしない」と彼女は早口に受けた。「烙き殺したって言やしない。どんなに苦しい目にあったって、わたしはなんにも言やしないから。人に知らせることじゃない!」
「そら、ごらん、だれだって自分の秘密を持っているからなあ」しだいに低くかしらを垂れながら、シャートフは一段小さい声でそういった。
「だけど、お前さんがきいたら、わたしいうかもしれないよ、本当に、いったかもしれないよ?」と彼女は有頂天になってくり返した。「なぜきいてくれないの? きいてちょうだい、よっくきいてちょうだい、シャートゥシカ、わたし本当にいうかもしれないよ。一生懸命たのんでごらん、シャートゥシカ、わたし承知するかもしれないんだよ………シャートゥシカ、シャートゥシカ!」
 けれど、シャートフは黙っていた。一分間ばかり沈黙が一座を領した。涙は、白粉を塗った彼女の頬を伝って、静かに流れた。彼女は両手をシャートフの肩におき忘れたまま、じっと坐っていたが、もうその顔を見てはいなかった。
「ええ、お前なんぞにかまっていられない、それに罪なこった」ふいにシャートフは床几から立ちあがった。「おい、立たないか!」と彼は腹立たしげに、わたしの腰かけている床几をひったくって、元の場所へ戻した。
「もうやって来るよ、けどられないようにしなけりゃあ。ぼくももう行かなくちゃ」
「ああ、お前さんはやっぱりうちの下男《しもおとこ》のことをいってるんだね!」とマリヤは急に笑いだした。「怖いの! じゃ、さよなら、ねえ、ちょっとの間でいいから、わたしの話を聞いてちょうだい。あのね、さっきキリーロフさんが、あの赤ひげの家主のフィリッポフといっしょにやって来たの。ちょうどそのときうちの男がわたしに飛びかかったものだから、家主があいつをつかまえて、部屋じゅう引き摺り廻すんだよ。するとあいつは『おれが悪いんじゃない、人の罪で苦しんでるのだ!』とわめくものだから、お前さん本当にゃなるまいけれど、わたしたちその場に居合わせたものは、みんなおなかをかかえて笑ったよ……」
「なんの、マリヤ、それは赤ひげじゃなくって、ぼくだったんだよ。ぼくがさっきあいつの髪をつかまえて、お前から引き放してやったじゃないか。あの家主は一昨日やって来て、お前たちと喧嘩をして行ったんだ。それを、お前がいっしょにしたんだあね」
「待ってちょうだい、本当にわたしはいっしょにしてた。お前さんだったかもしれないよ。だけど、くだらないことでいい合うことはない。あの男から見れば、だれに引き放されたって同じじゃないの」と彼女は笑いだした。
「出かけよう」ふいにシャートフはわたしを引っ張った。「門がぎいといったから。もしぼくらを見つけたら、また妹を撲りつけるよ」
 しかし、わたしたちが階段のところまで出る暇のないうちに、早くも門の辺で酔っぱらいらしいどなり声が響きわたり、乱暴な罵詈雑言が、豆を撒き散らすように聞こえてきた。シャートフはわたしを自分の部屋へ入れて、戸にぴんと鍵をかけた。
「きみ、ちょっとここで待ってなきゃならないよ、もし悶着がいやだったらね。そら、まるで豚の子みたいにわめいてるだろう。きっとまた門の閾につまずいたんだよ。いつでも長くなってぶっ倒れるんだから」
 しかし、悶着なしではすまなかった。

[#6字下げ]6[#「6」は小見出し

 シャートフは鍵をかけた戸の傍へ立って、階段のほうへ聞き耳を立てていたが、ふいにさっと飛びのいた。
「こっちへ来てる、そうだろうと思った!」もの凄い調子で彼はこうささやいた。「ひょっとしたら、夜なかまでつきまとって、離れないかもしれないよ」
 と、急にどんどん拳で強く扉を乱打する音が、続けざまに響いた。
「シャートフ、シャートフ、開けてくれ!」と大尉がどなっ