『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP005-048(1回目の校正完了)

白痴

第一編

      1

 十一月下旬のこと、珍しく暖かい、とある朝の九時ごろ、ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車は、全速力を出してペテルブルグに近づきつつあった。空気は湿って霧深く、夜はかろうじて明けはなれたように思われた。汽車の窓からは、右も左も十歩の外は一物も見わけることができなかった。旅客の中には多少外国帰りの人もあったが、それよりもむしろあまり遠からぬ所から乗って来た小商人《こあきんど》連の多い三等車がいちばんこんでいた。こんな場合の常として、だれも彼も疲れきって、ひと晩のうちに重くなった目をどんよりさせ、からだのしんまで凍えきっていた。どの顔もどの顔も霧の色にまぎれて、青黄いろく見える。
 とある三等車の窓近く、夜明けごろからふたりの旅客がひざとひざを突きあわせて、腰かけていた。どちらも若い人で、どちらも身軽な、おごらぬ扮装《いでたち》、どちらもかなり特徴のある顔形をしていて、どちらもたがいに話でもはじめたいらしい様子であった。もしこのふたりが、なぜ自分たちの身の上がことにこの場合注目に価するかということを、両方からたがいに知りあったなら、彼らはかならずや自分たち両人をペテルブルグ・ワルシャワ線の三等車に向かいあってすわらせた運命の奇怪さに驚いたであろう。ひとりは背丈の高からぬ二十七歳ばかりの男で、渦を巻いた髪の毛はほとんど真っ黒といっていいくらい、灰色の目は小さいけれど火のように燃えている。鼻は低くて平ったく、顔は頬骨がとがって、薄手なくちびるは絶えずなんとなく高慢らしい、人を小ばかにしたような、毒々しくさえ思われるような薄笑いを含んでいた。けれど、その額は高く秀でて恰好よく整い、卑しげに発達した顔の下半分を補っているのであった。この顔の中で特に目立つのは死人のように青ざめた色つやで、それがこの若者に、がっしりした体格に似合わぬ、疲労|困憊《こんぱい》した人のような風貌を与えていたが、同時に、その思いあがったような粗暴な薄笑いや、自足したような鋭いまなざしとはまるで調和しない、悩ましいまでに熱情的なあるものがあった。彼は黒い布を表地にしたゆったりした毛皮外套にぬくぬくとくるまっているので、昨夜の夜寒もさほどに感じなかったが、向かいの席の相客は、思いもかけなかったらしい湿っぽいロシヤの十一月の夜のきびしさを、ふるえる背におしこたえねばならなかったのである。彼は大きな頭巾《ずきん》つきの、だぶだぶした、地の厚いマントを羽織っていたが、それはどこか遠い外国――スイスか北部イタリーあたりで、冬の旅行に使われるものにそっくりであった。ただし、それもオイドクーネン(ドイツの町、ロシヤとの国境)からペテルブルグまでというような、長道中を勘定に入れるわけには行かぬ。それに、いくらイタリーで役に立つ便利なものでも、ロシヤではあまりけっこうではなかった。頭巾つきマントの持ち主も同じく二十六か七かの青年で、中背というよりすこし高く、ふさふさとしてつやのある亜麻色の髪、こけた頬、ほとんど真っ白な楔形《くさびがた》をしたひとつまみほどのあご鬚を生やしている。大きな空色の目はじっとすわって、何かものを見るときは、静かではあるけれど重重しい奇怪な表情に充たされるのであった。ある種の人はこうした表情をひと目見ただけで、癲癇《てんかん》の兆候を発見するものである。青年の顔は、とはいえ、繊細で気持ちがよかった。けれども、なんとなくかわききって色がないうえに、今はちょうど寒さに凍えて紫色にさえ見える。彼は中身の貧しそうな、色のさめた、古い絹の風呂敷包みを手にぶらつかしていた。見たところ、その中には、仇の旅行中の手まわりがことごとく含まれているらしい。足には、踵の厚い靴の上にゲートルを付けていて、――何から何まで非ロシヤ式である。髪の黒い、布ばりの毛皮外套を着た隣りの男は、半分は退屈まぎれに、これらのものをすっかり見て取った。やがて、とうとう、他人の失敗を見て満足するときによく人が浮かべる無作法な嘲笑を浮かべながら、気のない無遠慮な調子で問いかけた。
「寒いかい?」
 と言って、ちょっと肩をすくめた。
「ええ、じつに」と相手は驚くばかり気さくに答えた。「どうでしょう、これでもまだ雪どけの日なんですからね。もしこれが凍《いて》の日だったらどうでしょう。ぼくはロシヤがこんなに寒いとは思わなかった。忘れちまってたんです」
「外国から来たんだね」
「ええ、スイスから」
「ふゅう!」と口を鳴らして、「ほんとにおまえさんはなんて!………」
 こういって、髪の黒いほうは、からからと笑いだした。
 話はこんな具合ではじまった。スイス式マントにくるまった亜麻色の髪をした青年が、頭の黒い相客の問いに答える態度は、奇異な感じのするほど気さくで、相手の質問がひどく無造作で、ぶしつけで、退屈半分なことなどには、いっこう気がつかないらしいふうであった。あれこれの問いに答えているうちに、彼はこんなことを話して聞かした。じっさい、彼は長く、四年あまりもロシヤにいなかった。病気のために外国へやられたのである。それはなんだか一種不思議な神経病で、からだがふるえて引っつる、いわば癲癇か、ウイット氏舞踏病のようなものであった。相手の物語を聞きながら、色の浅黒いほうは幾度かにやりと笑ったが、ことに彼が『どうだね、癒ったかね?』ときいたのに対して、亜麻色髪のほうが『いや、癒らなかったですよ』と答えたときなどは、手放しで笑いだした。
「へっ! おおかたつまらなく財布の底をはたいちまったんだろう。おれたちなんざあ、こっちで使ったほうがご利益《りえき》が多いと思ってらあ」と色の浅黒いほうは毒々しくいった。
「まったくほんとのこってすよ」年のころ四十ばかり、粗末ななりをしたひとりの男が隣りにすわっていたが、このとき不意に口を出した。書記どころで乾し固まったらしい小役人ともいうべき人相、頑丈な体格、赤鼻、にきび面をしている。「まったく、ほんとのこってすよ。ロシヤの力はみんなつまらなく、あいつらに取られてしまっているのでさあ!」
「いいえ、どういたしまして。わたしだけのことについていえば、あんたがたはとんだ感ちがいをしていらっしゃいますよ」とスイスの患者は、静かななだめるような声でさえぎった。「ぼくも事情を何かち何まで知ってるわけじゃありませんから、むろん、しいては争いませんが、ぼくの主治医はなけなしの金をさいて、こちらへ帰る旅費を出してくれました。それに、あちらにいるときも、二年間というもの自費でまかなってくれたのです」
「じゃあ、なにかね、だれも払ってくれ手がなかったとでもいうのかね?」と色の浅黒いほうがたずねた。
「ええ、もと仕送りしてくれたパヴリーシチェフさんが、二年前になくなったのです。それからぼくはここにいる人で遠縁にあたる、エパンチン将軍夫人に手紙を出しましたが、返事が貰えなかったのです。まあ、そういう事情で帰って来たようなわけです」
「いったいどこへ帰ってきなさったんですね?」
「つまり、どこへ泊まるつもりかとおっしゃるんでしょう?……さあ、まだわかりません、まったく……ただなんてことなしに……」
「まだ決まってないんですかい?」
 ふたりの聞き手はまたからからと笑いだした。
「そして、おおかたその風呂敷包みの中には、おまえさんの身上《しんしょう》ありったけ入ってるんだろうなあ」色の浅黒いほうがこうきいた。
「それはそうに違いない、わたしが首でも賭けまさあ」とおそろしく得意な顔つきをして、赤鼻の役人が口をはさんだ。「そうして手荷物車の中にも、そのほかべつに預けものはなさそうですよ。貧乏は罪にならんといいますが、それにしても、やはり目につきますでな」
 じじつ、これまたそれに相違ないことが判明した。亜麻色の毛をした青年はすぐさま、なみなみならず性急な調子でこんなことを白状した。
「いや、それにしても、あんたの風呂敷包みにはだいぶ意味がありますなあ」足りるだけ笑いつくしたとき、役人は言葉をつづけた。(おもしろいことには、風呂敷包みの持ち主も、ふたりの様子を見てとうとう笑いだしたが、それがまた相手の浮き浮きした気持ちをあおったのである)「むろん、その中にナポレオン・ドルとか、フリードリッヒ・ドルとか、くだってはオランダのアラブとかいうような、外国金貨の棒が入ってないのは、まちがいないところです。それはもう、あんたの外国ふうの靴にかぶさっているゲートルを見ただけで、察しがつきますがね。しかし……その風呂敷包みにですな、たとえばエパンチン将軍夫人のごときご親戚を加えると、あんたの風呂敷包みは、だいぶ違った意味を帯びてきますて。が、それは申すまでもなく、エパンチン将軍がほんとにあんたの親戚で、あんたがうっかり思い違いをしておられん場合に限りますがな……そういうことはよく、じっさいよくあることでしてな、その……想像の過剰というような原因でも」
「おお、あなたはまたいい当てましたね」と亜麻色の青年は受けて、「まったく、ほとんど思い違いをしているのです。そのつまり、ほとんど親戚でないといっていいくらいなんです。ですから、あちらにいるとき返事が届かなかったけれど、じっさい、すこしも驚かなかったのです。はじめからそんなことだろうと覚悟していましたから」
「つまり、無駄な金を切手代に使いなすったわけだね。ふーむ……が、とにかく、かけひきのない正直なおかただ。それだけでも感心ですよ! ふむ! エパンチン将軍はわたしどもも知っておりますよ、つまり、将軍が世間に聞こえた人だからです。それから、あんたがスイスにおられたとき仕送りしたという、パヴリーシチェフさんもやはり承知しておりますよ。ただしニコライ・アンドレエヴィチのほうならですよ。パヴリーシチェフさんは従兄弟《いとこ》同士でふたりありましたからな。ひとりのほうは今でもクリミヤにおられるが、故人のニコライ・アンドレエヴィチは交際の広い、人から尊敬されたかたで、一時は四千人の百姓をかかえておられたそうです……」
「そうに違いありません、あの人はニコライ・アンドレエヴィチ・パヴリーシチェフといいました」
 こう答えて青年は、じっと探るようにこの物知り先生の顔をながめた。
 こうした物知り先生はときどき、いな、むしろしばしば、社会のある階級で目撃することができる。彼らはなんでも知っている。彼らの才知の寸時も休むことなき探究心は挙げてことごとく、現代の思索家にいわせたら、比較的重要な人生上の興味や観察に欠けた一つの方面にのみ集中されるのである。とはいえ、『なんでも知っている』という言葉の意味は、かなり制限されたものとみなければならぬ、――だれそれはどこに勤めていて、だれだれと知り合いであるとか、いくら財産があって、どこの県知事をしていたとか、だれと結婚して、いくら持参金を取ったとか、だれと従兄弟に当たって、だれと又従兄弟に当たるとか、すべてこうしたたぐいである。これらの物知り先生の大部分は、ひじのぬけた服を着て歩き、月十七ルーブリの俸給をもらっている。自分の秘密をかぎ出された当の人々は、どんな興味がこの連中を支配しているのか、しょせん考えつくことはできないが、彼らの多くは堂々たる科学にも比肩すべきこの知識によって、慰安を発見し、自尊心を鼓舞し、はなはだしきは高い意味の精神的満足にさえ到達している。それになかなか趣味のある仕事でもある。自分は学者、文士、詩人、政治家のなかにさえ、この仕事のなかに高い意味の妥協と目的を求めえたばかりか、ただそれのみによって名をなした人をすらたびたび見受ける。
 この会話のあいだじゅう、色の浅黒い若者はあくびをしたり、あてもなく窓の外をながめたりしながら、旅行の終わりをもどかしげに待っていた。彼はなんとなくそわそわしていた、なにかしら心配ごとでもあるらしくひどくそわそわしていて、なんとなく様子が変に思われるくらいであった。ときには聞くことも耳に入らず、見ることも目に入らなかった。どうかした拍子に笑っても、すぐに何がおかしくて笑ったのか忘れてしまって、どうしても思い出せなかった。
「ところで、失礼ですが、あんたはどなたでございますかな……」にきび面の男はふいに亜麻色の毛をした風呂敷包みの青年にたずねた。
「レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン公爵」とこちらはいささかも猶予なく、気さくに答えた。
ムイシュキン公爵? レフ・ニコラエヴィチ? 知りませんなあ。聞いたこともないくらいです」と役人は思案顔に答えた。「ただし、お名前のことじゃありません。お名前はなかなか由来つきのもんで、カラムジンの歴史にも載っておるかもしれません、いや、きっと載っておりましょうよ。わたしのいうのは人のことです、ムイシュキン公爵というのは、なんだか今どこにもおられんようですぜ。もう、うわささえ消えてしまいましたよ」
「ええ、そりゃそうですとも!」と公爵はさっそく答えた。「ムイシュキン公爵はぼくのほか今どこにもいません。ぼくが最後のひとりだろうと思われます。先祖は郷士出の地主でした。もっとも、ぼくの父は軍隊に入って少尉になっていました。ユンケル(貴族の子弟で、ただちに見習士官となるもの)出のね。ところで、一つわからないのは、どういうわけでエパンチン将軍夫人がムイシュキン家の血を引いて、しかも同様に、一門中の最後の者となっているかってことです」
「へ、へ、ヘ! 一門中で最後の者(この言葉はある意味において「最も劣ったもの」というふうにもとれる)! へ、へ! あんたはなんといういいかたをなさるんで」役人はひひと笑いだした。
 色の浅黒い若者もやはりにたりと笑った。亜麻色の毛は白分のいったことが地口、それもかなりまずい地口になっているのに、いささか面くらった。
「どうでしょう、ぼくちっとも気がつかないでいったんです」とうとう彼は驚いたようにこういいわけした。
「もうわかっとります、わかっとります」と役人は愉快そうにうち消した。
「どうだね、公爵、おまえさん向こうで学問を習って来だのかね、先生のところで?」ふいに色の浅黒いほうがこう問いかけた。
「ええ……習いましたよ……」
「ところが、おれは今まで何も習ったことがないんだ」
「なに、ぼくだってほんのぽっちりかじったばかりなんですよ」と公爵はほとんどあやまらんばかりに言いたした。「ぼくは病気のせいで、系統的に教育を受ける力のない者とされてしまったんです」
「ラゴージンをごぞんじかね?」と色の浅黒いほうは早口にたずねた。
「いや、知りません、まったく。ぼくはロシヤに知人といってはいくらもないんですからね。で、きみがそのラゴージンですか?」
「うん、おれなんだよ、パルフェン」
パルフェン? それじゃ、あんたはあの例のラゴージン家の人では……」と、急におそろしくもったいらしい調子で役人はこういいかけた。
「ああ、あの例のだ、例のだ」色の浅黒い若者はぶっきらぼうな、いらだたしげな声で早口にさえぎった。彼は今まで一度もにきび面の役人のほうへ向いたことがなく、最初から公爵ひとりにだけ話しかけていたのである。
「へえ……こりゃいったいなんとしたこった?」と役人は棒立ちになって、目をむきださんばかりに驚いた。彼の顔は一瞬、卑屈なくらいうやうやしい、度胆を抜かれたような表情を帯びてきた。
「じゃ、あの、ひと月ばかり前に二百五十万ルーブリの遺産を残してなくなられた、世襲名誉市民セミョーン・パルフェノヴィチ・ラゴージンさんの?」
「おめえはそんなことをどこから聞きかじってきたんだい、おやじが二百五十万の財産を残したなんて」このたびも役人のほうには目もくれずに、色の浅黒い若者はさえぎった。「なあ、どうだい!(と彼は公爵に向かって、役人をあごでしゃくってみせた)ぜんたいこんなやつらはすぐにお世辞たらたらそばにやって来やがるが、それがやつらにどうだというんだろう? しかし、おやじが死んだってえのはほんとだよ、おれはプスコフから、ひと月もたった今時分、着のみ着のままで帰ってるところさ。弟の畜生もおふくろも、金もよこさなけりゃ知らせもしやあがらねえ! まるで、しと[#「しと」に傍点]を犬ころ扱いよ! おれはプスコフでまるひと月というもの熱病で寝とおしたんだ!」
「けれども、今にすぐ一時に百万ルーブリお手に入るじゃござんせんか。いくらすくなくともそれだけは確かです、おお、ま、なんという!」と役人は思わず両手をうった。
「いったいあいつ何がほしいんだろうなあ、おまえさんわかるかね!」ふたたびラゴージンはいらいらした様子で、毒々しく役人をあごでしゃくってみせた。「いくらてめえがおれの前でさかさになって歩いたって、一コペイカだってくれて、やるんじゃねえ」
「歩きます、さかさになって歩きますとも」
「ちょっ! よしんばまる一週間踊ってみせたって、おらあこれっからさきもくれてやるんじゃねえから!」
「いりませんよ、それがわたしに相当していまさあ、いりませんよ! わたしはあんたの前で踊るんだ。女房や子供を棄てても、わたしはあんたの前で踊ったほうがいい。お世辞三昧といかなくちゃ」
「ちょっ、てめえは!」と色の浅黒いほうはぺっと唾を吐いた。
「五週間ばかり前」と彼はあらためて公爵に向かって話しだした。「おれもちょうどおまえさんと同じように風呂敷包み一つかかえて、プスコフの伯母をたよっておやじの家を飛び出したんだ。ところが、熱で床についたもんだから、そのあいだにおやじはとうとう死んじゃった、卒中にどかっとやられたのさ。なき人に後世安楽を授けたまえ――ところで、おやじはおれをあのとき半死半生の目にあわせやがったよ! 公爵、おまえさんはほんとうにゃしなさるまいが、まったくのこったよ! あのときおれが逃げ出さなかったら、きっと殺《や》られていたにちがいない」
「そりゃなにかでおとうさんを怒らしたのでしょう?」一種特別の好奇心をもって毛皮外套の百万長者をながめながら、公爵はこう答えた。
 それは百万ルーブリという金高にも、また遺産相続ということにも、特に興味をそそるようなものがあったかもしれないが、まだそのほかになにか公爵を驚かし、興味を感じさせるようなものがあった。それに当のラゴージンも、なぜか好んで公爵を話相手に選んだ。もっとも、話相手がほしくなったのも、精神的というよりむしろ機械的の要求にすぎないらしい。気さくなためというより、むしろそわそわした心持ちや、不安や興奮にたえきれなくなって、ただもうだれでもいいからながめていたい、なんでもかまわぬ、舌を動かしていたい、――そういう欲求のほうがかっていた。彼は今まで熱病、すくなくとも悪寒かなにかに苦しめられていたらしい。例の役人はどうかというと、彼はラゴージンのほうにかがみこんで、吐く息引く息すらはばかりながら、まるでダイヤモンドでも探すようにひとことひとこと拾い上げては、仔細にそれを点検するのであった。
「おやじのやつ怒るには怒ったよ、それは怒られるのもあたりまえだったかもしれない」とラゴージンは答えた。「ただ弟の野郎がだれよりいちばん、ひとをひでえ目にあわしやがった。おふくろのことあ、なにもいうことはねえ。あれはしようのない旧弊で、聖僧伝でも読みながら、婆さん連とぼんやりすわっているよりほか能のない人間で、弟のセンカ(セミョーンの愛称、やや軽蔑の気持ちを含む)のいいなりしだいになってるんだ。しかし、なんだってあいつ、しかるべき時におれに知らせてよこさねえんだ? わけはちゃんとわかってまさあ! そりゃあ、おれがそのとき熱に浮かされていたのはほんとうだ。電報も打ったって話だ。電報が伯母さんのとこへ着いたんだそうだが、伯母さんてえのはもう三十年も後家を通して、いつも朝から晩まで信心きちがいのようなやつとばかりいっしょにいる。別段に尼さんというわけじゃねえが、それよりもっと上手《うわて》なのよ。伯母さん電報に度胆を抜かれて、封も切らずに警察署へ届けたとかで、今までそこでごろごろしてたやつさ。ようやっとカニョフが――ヴァシーリイ・ヴァシーリチがなにもかも知らせてくれたんで、やっとまあ助かったって始末よ。聞きゃ、弟のやつめ、ある晩、おやじの棺に掛けてある金襴の打敷から、金糸の房を切り取って、『こんなことにどれだけ金がかかるかしれやしない』とぬかしやがったそうだ。これ一つだけでも、もしおれがその気になったら、あの野郎をシベリアにでも追いやることができるんだ。まったく涜神罪だからな。おい、やっこ、えんどう畑のかかし野郎!」と彼は役人のほうを向いた。「法律だとどうなるかい、涜神罪かい?」
「涜神罪ですとも! 涜神罪ですとも!」と役人はすぐ相づちを打った。
「それでシベリア行きかい?」
「シベリア行きですとも! シベリア行きですとも! さっそくシベリア行きです!」
「やつらはまだおれが病気だと思っている」とラゴージンは公爵に向かって言葉をつづけた。「ところが、おれは黙ってこっそり汽車に乗って、まだからだの具合は悪いんだけれど、こうしてやって来たのさ。『やい弟、セミョーン・セミョーヌイチ、戸をあけろ!』と出かけるんだあね。あいつがおやじにおれのことを讒訴《ざんそ》しやあがったなあ、ちゃんとわかってるんだから。もっとも、おれがナスターシヤ・フィリッポヴナのことで、おやじさんのご機嫌を損じたのは、うそも隠しもねえ、ほんとのこった。それはもうおれひとり悪いに相違なしだ」
「ナスターシヤ・フィリッポヴナのことで?」役人は何ごとか思い当たったように、さも卑屈らしい調子でこういった。
「てめえなんかの知ったこってねえ!」とラゴージンはたまりかねて一喝くらわした。
「ところが、どっこい、知っとりますよ!」と役人は勝ち誇ったように答えた。
「こいつはどうだ! しかし、ナスターシヤ・フィリッポヴナという名前は世間にいくらでもあらあな! ほんとにてめえはいけずうずうしい野郎だなあ! いずれこんな野郎がすぐにうるさく付きまとって来やがるに相違ねえと思ってたよ」と彼は公爵のほうに向いて言葉をついだ。
「ところが、ひょっとしたら、知ってるかもしれませんぜ」と役人はせわしげに口をはさんだ。「レーベジェフはなんでも知っとるですよ! 旦那、あんたはわたしを責めつけなさるが、もしわたしがちゃんと証明したらどうなりますね? わたしがいうのは、あんたがおやじさまに杖をもって追っかけられるもとになった、正真正銘のナスターシヤ・フィリッポヴナ、姓はバラシュコヴァ、ずいぶん身分のいい人で、やはり公爵令嬢といってもいいくらいのかたでしてな、トーツキイとかいう人の思いものでしょう、大地主で財産家で、いろいろな会社や商会の関係者で、この方面のことからエパンチン将軍とも非常に心安くしているアファナーシイ・イヴァーノヴィチの……」
「ちょっ、なんてやつだ!」と、とうとうラゴージンはほんとうに驚いた。「こんちくしょう、ほんとに知ってやあがる」
「なにもかも知っとりますよ。レーベジェフはなんでも知っとりますよ! わたしはね、あんた、まるふた月というものリハチョフ・アレクサーシカといっしょに、やはりおやじさんのなくなったあとですがね、所々方々を歩きまわったんで、今じゃ、その、どんな隅々|隈々《くまぐま》でも、のこらずそらで知ってるんで。だからもう、レーベジェフがいないと来た日にゃあ、何ごともひと足だって先へ出っこなしですよ。今でこそアレクサーシカも債務監獄にぶち込まれておりますが、その当時はアルマンスとか、カラーリヤとか、パーツカヤ公爵夫人とか、あるいはナスターシヤ・フィリッポヴナとかいうような人たちを、見知るだけのおりがあったんです。まあ、そのほかいろいろのことを知るおりがありましたね」
「ナスターシヤを! まさかあれがリハチョフと……」ラゴージンは毒々しく相手をながめた。くちびるまでが青くなってふるえはじめた。
「いや、な、なに、なんでもありません! けっしてなんでもないんです!」役人は気がついて急にあわてだした。「ど、どうして、リハチョフがどんなに金を積んだって追っつきゃあしません! どうして、あの人はアルマンスなんかとはわけが違いまさあね。トーツキイひとりだけですよ。よく晩に「大劇場」か、フランス劇場でいつも買切りの桟敷にすわっておられると、若い士官たちがてんでんに自分勝手なご託《たく》を並べたもんでさあ。『おい、あれが例のナスターシヤ・フィリッポヴナだぜ』なんていってるけれど、ただそれっきりのことで、それからさきは、なんともできないんです。なぜといって、つまり、なんにもないからなんで」
「あれはみんなほんとのことなんだ」ラゴージンが眉をひそめながら、陰欝な調子でいいだした。「あのときザリョージェフがやっぱり同じようにいって聞かせたよ。おれはね、公爵、そのとき、おやじの着古した外套を着て、ネーフスキイ通りを突っきっていたのさ。すると彼女が店から出て来て馬車に乗っているじゃねえか。そんときおれはからだじゅう焼かれたような気がしたよ。ちょうどそこヘザリョージェフが来あわせたが、先生はなかなかどうしておれなんかのお仲間じゃねえ。まるで床屋の手代みてえな歩きっぷりで、片眼鏡なんかはめてるじゃねえか。ところが、おれなんか部屋住みで、くさい墨をぬりこくった靴をはいて、食べ物は精進汁というしつけかたなんだからな。先生のいうにゃ、ありゃおまえなんぞの相手じゃない、ありゃおまえ、公爵家の奥方だ、ナスターシヤ・フィリッポヴナってんで、苗字《みょうじ》はバラシュコヴァ、今トーツキイといっしょになっている。ところが、トーツキイはあの女から離れようとしてもがいてるんだ。そのわけは、やっこさんもういい年をしていながら(もう五十五になるそうだ)、ペテルブルグいちばんの美人を貰おうともくろんでやがるって、こういいやがるじゃねえか。先生おれをたきつけて、きょう「大劇場」へ行きゃあナスターシヤが見られる、いつも買切りの一等桟敷でバレエを見てるはずだと、こういうのだ。家なんかじゃ、バレエ見物などしようものなら、折檻されるだけのこと――殺されっちまわあ! だが、おれはそれでもこっそり一時間ばかり抜け出して、もう一度ナスターシヤを見て来たが、その晩はまんじりともしなかったよ。あくる朝、おやじは五分利つき五千ルーブリの債券を二枚わたしていうのには、ひとつ行ってこいつを売って来い、そして七千五百ルーブリをアンドレーエフさんの事務所へ持ってって、支払いをすませ、残りは、どこへも寄らずにわしのところへ持って帰れ、待ってるからって、こうだ。おれは債券を売って金を受け取ったが、アンドレーエフのところへなんか寄りゃしねえ、わき目も振らずイギリス屋へ行って、ありったけほうり出して耳飾りを選り出した。両方にダイヤが一つずつ付いてるんだ。ちょっとまあ、こんな胡桃《くるみ》くらいの大きさはあったよ。まだ四百ルーブリ足りなかったが、名前をいったら信用してくれた。耳飾りをもってザリョージェフんとこへかけつけて、こうこういうわけだ、いっしょにナスターシヤのところへ行ってくれといって、ふたりして出かけたわけなんさ。おれはそのとき、足の下に何があったやら、目の前や両側に何があったやら、ちっとも知らん、覚えがないんだ。向こうへ行くと、まっすぐに広間へ通った、すると、女は自分でふたりのとこへ出て来た。おれはそのとき自分が本人だてえことをうち明けないで、『パルフェン・ラゴージンからの使いだ』ってことにしておいたのさ。そこでザリョージェフがいったね、『きのうお目にかかったおしるしですから、どうぞお納めくださいまし』あけて中をのぞいてみると、にたりと笑って、『ご親切なお心づかい、まことにありがとうございますと、お友達のラゴージンさんにお伝え願います』こういって、お辞儀をしたなり行っちまった。ちぇっ、なぜおれはその時その場で死んじまわなかったんだ! こうして出かけて行ったのも、『ええ、ままよ、生きちゃ帰らねえんだ!』とこう思ったからなんだ。しかし、何よりしゃくにさわってたまらなかったのは、あのザリョージェフの畜生、なにもかも自分のことのようにしちまったことさ。おれは背が低いうえに、身なりときたら下司のようだし、ぼんやり突っ立ったまま、穴のあくほど女の顔を見てるってふうだから、恥ずかしくてたまらねえ。ところが、あん畜生、なにもかも流行ずくめで、頭はポマードをなすりつけるやら、こてをあてて縮らせるやら、それにほんのりいい血色をして、格子《こうし》のネクタイという恰好で、お世辞を振りまいたり、足をすったりしやあがるじゃねえか。あいつきっとあのとき、ザリョージェフをおれかと思ったに相違ない! おれは外へ出たときいってやった、『おい、おめえこれから妙なことを考えたら承知しねえぞ!』すると、やっこさん笑って、『だが、おまえはおやじさんになんといいわけするつもりだい?』とぬかしやがった。おれはまったくそのとき家へ帰らねえで、水ん中に飛びこんじまいたかった。が、また、『ええ、どうだって同じこった』と考えなおして、ふてくされた様子で家へ帰った」
「エーフ! ウーフ!」とうめくようにいって、役人は妙なしかめ面をし、思わずぶるぶるっと身震いしながら、「まったく故人《ほとけ》は一万ルーブリどころか十ルーブリのことでさえ、人間ひとりあの世へ送りかねない人でしたからな」と彼は公爵にうなずいてみせた。
 公爵は好奇の色を浮かべながらラゴージンをながめた。ラゴージンはその瞬間、ひとしお青くなったように思われた。
「あの世へ送る!」とラゴージンはおうむがえしにいった。「てめえが何を知るもんかい」彼はさらに公爵に向かって話しつづけた。「すぐとなにもかも知れちまった。それに、ザリョージェフの野郎が会う人ごとにおしゃべりをはじめたのさ。おやじはおれをつかまえて二階に押し込め、まる一時間のべつお説教だ。『いいか、これはほんの小手調べだぞ。また今夜やって来て引導を渡してやるから』ところが、まあどうだ! このごま塩おやじがナスターシヤのところへ行って、地べたに頭をすりつけながら、泣き泣き頼んだってじゃねえか。とうとう女は箱を持ち出してたたきつけたもんだ。『さあ、ひげじいさん、これがおまえさんの耳飾りですよ。パルフェンさんがそんなこわい目をして手に入れたもんだと聞いたら、この耳飾りが十倍もありがたくなってきた。どうかパルフェンさんによろしくお礼をいってちょうだい』てなことをいったそうだ。さあ、ちょうどその間に、お袋の胆煎りでセリョージュカ・プロトゥーシンから二十ルーブリ借りて、鉄道でプスコフへ向けてたったが、着いたときはいやに寒気がした。お婆さん連がお経を読んでくれたもんだが、おれは酔っぱらってぐでんぐでんになっていたよ。それから、なけなしのお金を握って酒屋から酒屋を飲みまわり、その晩は正体なしに往来にぶっ倒れたまんまで明かしちゃったのよ。おかげで朝になってみると熱さ。おまけに夜中に犬が来て噛み散らしやがって、むりやり目をさまさせられたようなわけさ」
「なあに、なあに! 今度はナスターシヤ・フィリッポヴナも違った歌を唄いだしますぜ!」役人はもみ手をしながら、ひひひと気味の悪い笑いかたをした。「今じゃ、旦那、耳飾りくらいなんでもござんせん! 今じゃそれこそ、どえらい耳飾りをくれてやりまさあね……」
「いいか、もしもきさまがただの一度でも、ナスターシヤのことをなんとかいったら、それこそほんとに、見てるがいい、おれはてめえをぶんなぐるぞ。いくらてめえがリハチョフといっしょに歩きまわったからって、容赦しやあしねえから!」ラゴージンはむずと相手の手を握ってどなりつけた。
「ぶんなぐる、そんならつまり、追っ立てはなさらんのですね! ぶんなぐってください! そうすればそれだけとくになります!………ぶんなぐられれば、それだけ縁が結ばれようというものです……ときに、もう着きましたよ!」
 なるほど、汽車は停車場に入っていた。ラゴージンはこっそりたってきたようにいったが、それにもかかわらず、もういくたりかの人が彼を待ち受けて、わめいたり帽子を振ったりしていた。
「ちょっ、ザリョージェフのやつもいやがる!」とラゴージンは勝ち誇ったような、というよりむしろ毒々しい微笑を浮かべて、そのほうをながめながらつぶやいた。と、ふいに公爵のほうをふり向いて、「公爵、なぜかわからんが、おれはおまえにほれこんじゃった。もしかしたら、場合が場合だったからかもしれねえ。だがしかし、おれはこいつにも(といいながらレーベジェフをさして)出会ったけれど、こいつにはけっしてほれこまなかったからなあ。公爵、おれんところへやってきな、そのゲートルをぬがして、すてきな貂《てん》の外套を着せてやるぜ。燕尾服もとびきりなやつを縫わせようし、チョッキも白いのなりなんなり、気に入ったのをこさえさせ、どのかくしもみんないっぱい金を詰めてやらあ……そして……いっしょにナスターシヤ・フィリッポヴナのところへ行こう! 来る! 来ない?」
「さあ、ムイシュキン公爵」けしかけるような大ぎょうな調子で、レーベジェフが口を入れた。「いいですか、おりをのがしちゃいけませんぜ! いいですか、おりをのがしちゃいけませんぜ!………」
 公爵は腰を上げて、慇懃《いんぎん》に手をラゴージンにさし伸ばし、愛想よく答えた。
「そりゃもう喜んで行きますとも。そしてぼくを好きになってくださったことに対して、心からあなたに感謝します。間にさえ合ったら、きょうにも早速いくかもしれません。じつはうち明けていいますと、ぼくもあなたがたいへん気に入ったのです。とりわけダイヤモンドの耳飾りの話をなすったとき……いや、もう耳飾りの前から、陰気な顔をしておられるなと思いながらも、やはり気に入ったのです。それから、約束してくださった服や、外套も、ありがたく頂戴します、じっさい、服も外套もすぐにいるものなんですから。金はまた今のところ、ほとんど一コペイカの持ち合わせもありません」
「金はすぐできる、晩までにできる。やってきな!」
「できますよ、できますよ」と役人は口をはさんだ。「夕方、日の入る前にできますよ!」
「だが、公爵、おめえ女はよっぽど好きなのかね? さきにちょっと聞かせとくんな!」
「ぼく、い、いいえ! ぼくは、だって……きみはご存知ないかもしりませんが、ぼくはその、生まれつきの病気で、まったく女というものさえ知らないのです」
「へえ、そんならおまえは」とラゴージンは叫んだ。「おまえはまったく信心きちがいみてえなもんじゃねえか。公爵、神さまはおまえのような人をかわいがってくださるんだよ」
「まったくそんなふうの人を、神さまはかわいがってくださいますよ」と役人は引き取った。
「おい、てめえはおれのあとからついて来るんだ」とラゴージンはレーベジェフにいった。
 一同は車を出た。
 とどレーベジェフは自分の目的を達した。間もなく騒々しい一群は、ヴォズネセンスキイ通りのほうへと遠ざかった。公爵はリテイナヤ街へ曲がらなければならなかった。じめじめと湿っぽい朝であった。公爵は通行の人をつかまえてきいてみたが、めざすところまで三露里もあるとのことだった。彼は辻馬車を雇うことに決めた。

      2

 エパンチン将軍は、リテイナヤ街からすこし『変容救世主寺院』のほうへ寄った自分の持ち家に住んでいた。六分の五は人に貸しているこの(りっぱな)家のほかにエパンチン将軍はサドーヴァヤ街にも大きな家を持っていて、これがやはり非常な収入になった。この二軒の家のほか、ペテルブルグのすぐそばに、いたって収入の多いりっぱな領地があるし、また郡部にはなにかの工場もあった。むかしエパンチン将軍は、人も知るように、一手販売事業に関係していたが、今はいくつかの基礎強固な株式会社に関係して、なかなか勢力をもっている。彼はたくさん金のある人、たくさん仕事のある人、たくさん縁故のある人としてとおっていた。所によっては、――勤め向きのほうもむろんのこと、――どうしてもなくてかなわぬ人といわれるだけに仕上げたのであるが、同時に、イヴァン・フョードロヴィチ・エパンチンは無教育で、兵隊のせがれから成りあがったものだということも世間に知れわたっていた。兵隊のせがれの一件は、疑いもなく、将軍にとって名誉ともなるべきことであったが、エパンチン将軍は利口な人であったけれど、やはり、多少の(十分|寛恕《かんじょ》に価するものとはいい条)弱点を持っていて、ちょっとでもそんなことを匂わされるのがいやでたまらなかった。がとにかく、利口で敏腕家であることは、争うべからざる事実であった。たとえば、彼は自分の出る幕でないと思った場合には、けっしてでしゃばらないという原則を守っている。で、多くの人はほかでもない、その淡泊な点、すなわちおのれを知るという点に彼の価値を認めた。しかしこのおのれを知るエパンチン将軍の心中にときおりいかなる現象がおこるか、こんな批評をくだす人たちに見せてやりたいくらいなものである。じっさい、彼は世渡りの道にかけては修練もあれば経験もあり、またなにかにつけいちじるしい才能もあるが、彼は自分の頭の中に命令者を持った人としてよりも、他人の思想の実行者、『お世辞でなく信服しきった』ロシヤ式に正直な人物というふうに見せかけるのが好きであった。――時世の変化というものは恐ろしいものである! これについてはずいぶんこっけいな逸話さえ伝えられている。しかし、どんなにこっけいなしくじりをしても、彼はけっしてしょげなかったし、それにカルタをやっても運がよかった。彼はいつでも大ぎょうな、思わくさえありそうな賭けかたをしたが、この「ちょいとした」道楽――そのじつこれは切っても切れぬもので、しかも多くの場合、彼の役に立つのであった――を、ことさら隠そうとしないばかりか、むしろそれをひけらかすのであった。彼の交わる社会はいろいろな種類の人の混合であったが、むろんどんな場合にも『第一流』の人ばかりであった。しかし、今まではすべてが行手のほうにあった。いつも気長に待っていた、いつもいつも気長に待ってきた。だから、これからはおいおい万事につけて彼の番が回ってこなければならぬはずだ。じじつ、エパンチン将軍は年からいえば、いわゆるいちばんあぶらののった時代である。つまり、ことし五十六といえば、どうして男盛り、これから本式に真の[#「真の」に傍点]人生がはじまろうという年で、けっしてそれ以上ふけてはいない。健康、顔の色合い、黒いがしっかりした歯なみ、頑丈な肉付きのいい体格、朝つとめに出たときの心配そうな顔つき、夜カルタに向かったときか、さもなくば閣下のご前に伺候したときなどの愉快な表情――いっさいのものがなにもかも現在未来の成功を助け、この君の生涯をばらの花で飾っている。
 将軍にはまた花の咲いたような家庭がある。じつをいえば、すべてがばらの花のようではなかったが、そのかわり、将軍の主なる希望や目的をよほど前から集中させているものもずいぶんある。まったくこの世に両親のいだく希望より重大神聖なものがほかにまたとあろうか? 家庭をほかにして、人間の結びつけられるべきところがどこにあろう? 将軍の家庭は夫人と年ごろの娘からなっていた。将軍の結婚したのはずっと以前で、まだ中尉時代であった。花嫁はほとんど同い年の娘で、かくべつ器量がいいというでもなければ、教育があるというでもなし、ただ持参金として、みんなで五十人の農奴が付いているきりであった。――もっとも、それが彼の未来の幸運の基礎となったのだ。けれど、将軍はのちのちまでも、けっして自分の早婚を悔いることもなく、またそれをば若気の過ちだなどとも考えず、夫人を尊敬し、また時としては恐れ、ついにはほれこんでしまったくらいである。夫人はムイシュキン公爵家の生まれであった。家柄はさしてはなばなしいほうではないがいたって旧家なので、その生まれのために夫人はなかなか自尊心が強かった。その時分の勢力家で、保護者ともいうべき大物のひとりが(保護するといっても、かくべつ身銭を切ったわけではない)若い公爵令嬢の結婚に面倒をみることを承知してくれた。この人が手引きして若い士官のために門を開き、うしろから押しこんでくれたような具合である。しかし、若い士官のほうからいえば、わざわざ押してもらうまでもなく、ただちょっと目くばせくらいしてもらえばたくさんなのであった、――けっして無駄になるようなことはないから! ごくわずかな例外を除いたら、夫妻は長い年月を平和に過ごした。まだずっと若かったときには、夫人は公爵家の令嬢としてまた一門ちゅうただひとり生き残った人として、――ことによったら、生まれつきの性情の徳かもしれないが、非常に名門の貴婦人をいくたりか保護者に持っていた。しかし、後年、財産もでき、夫の勤務上の地位も進んでからは、そうした高貴な人たちの中にまじっても、いくぶんなれなれしくふるまうようになった。
 この最近数年間に、三人の将軍令嬢もすっかり発育し、成熟してしまった、――アレクサンドラとアデライーダとアグラーヤである。じじつ、三人とも単に、――エパンチンの娘にすぎないが、母方の側からいえば公爵家の筋をひいており、持参金もたっぷりあるし、父親はやがて顕位高官にも昇ろうという勢いであるうえに、三人とも珍しい美人であった。これはかなり肝要なことであって、ことしもう二十五になる長女のアレクサンドラも、その数にもれなかった。次は二十三で、末娘のアグラーヤは、ようやく二十になったばかりである。このアグラーヤにいたっては、もう人なみすぐれた美人で、社交界でも非常に注目されはじめたほどである。が、これだけですべてを尽くしたとはいわれない。そのうえに三人が三人そろって教育、知識、才能の諸点において卓越していた。また彼らがたがいに愛しあいたすけあっていることも、よく人に知られていた。ふたりの姉が一家の偶像たる妹のために、なにかの事情で一種の犠牲になっている、――こうした話まで世間に伝わっているくらいだ。社交界へは三人ともあまり顔出しするのは好まないばかりか、少々つつしみぶかすぎるほどであった。もちろん、だれひとり傲慢不遜というかどで姉妹《きょうだい》をとがめるものはなかったが、それでも彼らが自分自身の価値をわきまえて、誇りの高いたちであることはあまねく知れわたっていた。長女は音楽家で、次はすぐれた画家であるが、そのことは長いあいだだれも知るものがなく、ごくごく最近に、それも偶然の機会であらわれたような始末である。ひと口にいえば、彼女らについては、賞賛すべきことが数かぎりなく喧伝されていた。しかし、また同時に反感をいだく者もあって、姉妹の読破した書物の量のおびただしさを、さも恐ろしいことのように語りあった。また彼女らは結婚を急ごうともしなかったし、社交界のあるサークルをばかにしていないまでも、たいしてありがたがってはいなかった。そんなこともうわさの種となった。それはだれもが姉妹の父親の趣味、性行、目的、希望などを熟知しているだけに、ひとしお目につくのであった。
 公爵が将軍の住居に着いてベルを鳴らしたのは、もう十一時ごろであった。将軍は建物の二階に、できるだけつつましやかな、とはいえ自分の地位に釣合うような住居を区ぎっていた。公爵のために玄関を開いたのはおしきせを着た下男であったが、うさんくさい様子をして、客の姿やその手に持っている風呂敷包みをながめまわした。公爵はこの男との押し問答にかなり時間をつぶした。なんべんきいてもはっきりと、自分は正真正銘のムイシュキン公爵であって、のっぴきならぬ用のためどうしても将軍にお目にかがらなければならぬと返答するので、男は不承不承に応接室の手前、書斎のすぐそばにある控室へ公爵を案内し、毎朝この控室の当番をつとめ来客の取次を役目にしている男に、手から手へと引き渡した。それは燕尾服を着込んだ四十過ぎの男で、いつも仕事のことが気にかかるような顔つきをしており、閣下の私室専任の召使と取次を兼ねているので、なかなか気位が高い。
「どうか応接室のほうでお待ちを願います。包みはこれにお置きなすって」ゆうゆうともったいらしく自分の安楽いすに腰をおろしにかかった取次は、公爵が包みを手に持ったまま、すぐ自分の隣りに座をしめたのを見て、いかめしい驚きを顔に浮かべながら、こう注意した。
「もしかまわなかったら」と公爵はいった。「ぼく、きみといっしょにここで待ってるほうが勝手なんです。だって、あんなところにひとりいたって始まらないからね」
「でも、控室においでになるべきじゃありません。あなたは訪問の人、つまりお客さまですからね。あなたは将軍閣下にじきじきご用がおありになるんですか」
 召使はどう思っても、こんな客を通す考えにならぬらしく、もう一度思いきってきいてみた。
「ええ、ぼくはすこし用事が……」と公爵はいいだした。
「わたしはご用のことなんかきいてはいません、――わたしはただあなたをご案内するのが役目ですから。しかし、ただいまも申したとおり、秘書のかたがいらっしゃらないと、どうもお取り次ぎするわけにまいりませんが」
 この従僕の疑念はしだいしだいにつのってゆくようであった。この公爵は、彼が日ごとに接する訪問客の種類に、あまりといえば似ているところが少なすぎた。もちろん、将軍とてもしばしば、いな、ほとんど毎日のように一定の時刻になると、ずいぶん思いきって毛色の変わった客を引見している。ことにこの用事[#「用事」に傍点]と称して来る連中にこれが多い。しかしそうした習慣や、かなり寛大な主《あるじ》の訓令にもかかわらず、従僕は大いに疑いをいだいた。彼はどうしてもあらかじめ、秘書に相談しなければならないと思った。
「ですが、あなたはまったく……外国からお帰りになったのですね?」とうとう彼は思わずひとりでにこうきいたが、いったあとでへどもどしてしまった。
 おそらく彼は『ですが、あなたはまったくムイシュキン公爵ですね?』ときこうとしたのであろう。
「ええ、たったいま汽車からおりたばかりです。しかし、なんだかきみは、ほんとにぼくがムイシュキン公爵かどうかきこうとしたのを、遠慮してやめたように思われますね」
「む!………」と従僕はびっくりしてうなった。
「大丈夫ですよ、ぼくはきみにうそなんかいいやしないから、きみがぼくのことで責任を負うようなことはありませんよ。ぼくがこんな服装《なり》をして、こんな包みなどをさげてるのも、べつに驚くことはないんです。目下、ぼくの財政はあまりかんばしくないんですからね」
「むむ! わたしはなにも、そんなことを心配してるんじゃありません。わたしは取り次ぎするのが役目なんだし、それに今に秘書のかたがここへ来られますから、それに、もしあなたが……ええ、まったく、その、なんですよ、それに……失礼ですが、あなたが閣下のところへおいでになったのは、もしやお金の無心じゃございませんか!」
「おお、どういたしまして、そのことなら心配は断じてご無用ですよ。ぼくはまるっきり別な用事でやって来たんだから」
「どうぞごめんなすって、わたしはあなたのご様子を見て、ついそう申したのです。まあ、秘書のかたがお見えになるまでお待ちを願います。閣下は今ちょっと大佐殿とご用談中ですから。やがて秘書のかたもおいでになりましょう……会社のほうの人なんで」
「ははあ、もし長く待たなければならないようなら、ひとつきみにお願いがあるんですがね。どうでしょう、ここにはどこか、たばこを吸うところがないでしょうか、ぼくはパイプもたばこもちゃんと持っているんですが」
「たーばーこ?」まるで自分の耳を信じかねるもののごとく、従僕はさげすむような不審な表情で、ちらと相手に視線を投げた。「たばこ? いいえ、ここでたばこをおあがりになることはできません。それにまあ、かりにもそんなことをお考えになるだけでも、あなたの恥じゃあございませんか。へっ……なんて珍しいこった!」
「おお! ぼくはなにもこの部屋でと頼んだわけじゃない。そりゃぼくだって知ってます。ぼくはただきみの教えてくれるところへ出るつもりだったのです。すっかり癖になっちゃって……もうかれこれ三時間すわないんですからね。しかし、まあ、どうともご都合に。ねえ、こんなたとえがあるじゃありませんか、郷に入れば……」
「まあ、あなたのような人、なんといって取り次ぎましょう!」と従僕は思わずつぶやいた。「だいいち、あなたがこんなところにおいでになるって法がないじゃありませんか。応接間にすわってらっしゃるのがほんとうです。だって、あなたは訪問の人、つまり、お客さまの身分じゃありませんか。それにわたしも責任を問われますからね……いったいあなたは当家へご逗留のつもりでいらしたのですか?」もう一度公爵の包みを尻目にかけて、彼はこうつけたした。この包みがよくよく気にかかるらしい。
「いや、考えもしませんよ。よし勧められても、ご厄介にならないつもりです。ぼくはただ、お近づきを願いにあがったのです、それっきりです」
「なんですって? お近づきを!」ますますうさんくさい様子をして、従僕はびっくりしたようにきいた。「じゃ、なんだってはじめに、用事があって来たとおっしゃったんですね?」
「いや、ほとんど用事といわれないくらいなんです! といって、もしなんなら、用事があるといってもいいです。ちょっとご相談を願いにね。しかし、まあ、おもな目的は挨拶にあがったんです。そのわけは、ぼくがムイシュキン公爵だし、エパンチン将軍夫人もやはりムイシュキン家の公女で、ぼくと夫人とのほかにはだれも一族の者がないからなんですよ」
「そんなら、あなたはおまけに親類のかたですか」すっかりおどしつけられた従僕は、ふるえあがらんばかりであった。
「なに、これとてもほとんどそうでないといっていいくらいです。もちろん、無理にこじつけると親類には相違ないが、ずいぶん遠い縁で、ほんとうのところは、突きとめるわけにも行きません。ぼくは一度外国から奥さんに手紙をさしあげたけれど、返事がなかった。が、それにしても、帰ったらぜひとも交際を願おうと思っていました。こんなことをきみにうち明けるのは、きみがいつまでも心配しているのが、ありありと見えすいているから、疑惑のないようにと思ってのことなんですよ。ね、ムイシュキン公爵が来たと通じてください。それだけでぼくの来訪の原因もおのずとわかるから。会ってもらえれば結構だし、会ってもらえなかったら、なお結構かもしれない。しかし、たぶん会わないなんていうわけには行かないでしょう。将軍夫人も自分の一門中たったひとりの代表者を、見てみたいと思いなさるに相違ない。ぼくがたしかに聞いたところによると、夫人は家柄のことをたいへん自慢していられるそうですからね」
 公爵の話はきわめて平々凡々たるものであったかもしれない。しかし、平凡であればあるだけ、この場合いよいよばかくさく思われた。下男同士のあいだならあたりまえだが、客と下男[#「下男」に傍点]とのあいだではきわめて不似合な何ものかがあるのを、世なれた従僕は感じないわけに行かなかった。召使[#「召使」に傍点]などというものは、概してその主人たちが考えているよりはるかに賢いものであるから、この従僕の頭にも、ふとこんな考えが浮かんできた。公爵なるものは金の無心に来た一種の浮浪人か、さもなくば、そんな野心なぞ蓄えていないただのばか者か、二つに一つである。なぜなら、賢いしかも野心のある公爵ならば、控室などにすわりこんで、下男風情を相手に用向きなど話しはすまい。してみると、どちらにしても自分に責任のかかりっこはない。
「ですが、なににいたせ、あなた、応接間のほうへおいでを願いたいもので」と彼はできるだけしつこい調子で注意した。
「だって、ぼくがあっちですわってたら、きみにこうしてすっかりうち明けるわけに行かなかったでしょう」と公爵はおもしろそうに笑った。「したがって、きみはいつまでもぼくのマントと包みを見て、心配しなくちゃならなかったでしょう。しかし、もう秘書の人を待ってなくてもいいでしょう、きみ自身で知らせに行ったらどうです」
「いいえ、わたしはあなたのようなお客さまを、秘書に相談なしでお通しするわけにはまいりません。それに、ついさきほども、大佐殿のおいでになるうちは、どなたがお見えになってもじゃまをしてはならぬと、閣下がご自分でおいいつけになりましたんですから。まあ、取り次ぎをしませんでも、ガヴリーラさまはもうじきお見えになりましょうし」
「官に勤めているかたですか?」
「ガヴリーラさまですか? いいえ、会社のほうへ出ていらっしゃいます。まあ、その包みをせめてここへお置きなさいませ」
「ぼくも前からそう思っていたんですよ。もしかまわなければね。それからどうでしょう、このマントも脱ぎましょうかね?」
「あたりまえじゃありませんか。マントを着たまんまで閣下のところへ行かれもしますまい」
 公爵は立ちあがり、いそがしげにマントを脱ぎにかかった。そして、相応にきちんとした、気のきいた仕立ての、しかし、もういいかげんにくたびれた背広姿になった。チョッキには鋼鉄の鎖がさがって、ジュネーブ製の銀時計がつけてあった。
 公爵はこんなばかの三太郎ではあるが――従僕はもうそれに決めてしまった――しかし、彼は召使の分際として、これ以上主人の客と話をつづけるわけにゆかぬと考えた。もっとも、彼はなぜか公爵が好きになったのである(むろん、それも一種特別の好きさなのであった)。そのくせ、別の側から観ると、ずいぶん思いきった、無作法な不平をいだかないわけにもゆかなかった。
「だが、夫人はいつ面会なさるんでしょう?」公爵はまた以前の席に腰をおろしながらこうたずねた。
「そんなこと、わたしの知ったこっちゃありませんよ。人によっていろいろでさあ。帽子屋の女はいつも十一時です。またガヴリーラさまもやはりだれよりさきにお通しなさいますよ。朝ご飯のとき、お通しになることもございます」
「ロシヤでは冬、部屋の中が外国よりかずっと暖かいですよ」と公爵がいいだした。「そのかわり、外はあちらのほうがだいぶ暖かい。しかし、冬のうちは、――ロシヤ人なんかなれたいから、とてもやりきれませんね」
「ストーブをたかないのですか?」
「そう、それにゃ家の建てかたが違うんでね、つまり、暖炉や窓の造りが」
「ふむ! ですが、あなたは長いことご旅行をなさいましたか?」
「ええ、四年ばかり。しかし、ぼくはおおかたひとつとこにばかりじっとしていたですよ、田舎に」
「こちらへお帰りになったら、さぞ勝手が違うでしょうね?」
「それもそのとおりです。まったく、ぼくはよくロシヤ語を忘れなかったと思って、われながらびっくりするくらいですよ。こうしてきみと話していても、『おれはなかなかうまく話すな』と心の中で思ってるんです。ぼくがこんなにしゃべるのも、そのせいかもしれませんよ。いや、まったく、きのうあたりからしきりにロシヤ語を使ってみたくってたまらなかった」
「ふむ! ヘえ! ペテルブルグには以前お住まいになったことがございますか!」(従僕はどんなにがまんしてみても、こうしたふうの上品で丁寧な会話をつづけないではいられなかった)
「ペテルブルグに? ほとんどないです。ほんの通りがかりに寄ったばかりですから。以前もまるっきりここの事情は知らなかったけど、聞けばこのごろやたらに新しいことができたので、前に知った人でも、もういっぺん勉強しなおしているというくらいじゃありませんか。このごろこちらでは裁判の問題がやかましいようですね」
「ふむ!………裁判。裁判といえば、さよう、まったく、その、裁判でございますね。いかがですね、あちらのほうが裁判はまっとうでございますかね?」
「知りませんなあ。しかし、こちらのほうのことでも、しょっちゅういい話を聞きますよ。それにだいいち、ロシヤには死刑ってものがないでしょう」
「あちらではございますかね?」
「あります。ぼくはフランスで見ましたよ。リヨンで。シュナイデルさんに連れてってもらったんです」
「首を絞めるのですかね?」
「いや、フランスではなんでもかでも首を斬るんですよ」
「どうです、わめきますかい?」
「どうして! ほんの一秒間のことですもの。罪人をすえると、こんな大きな庖丁が機械仕掛で落ちてくるんです。ギロチンといってますがね、重いどっしりしたものですよ……すると、目をぱちりとさせるすきもなく、首がけし飛んでしまうんですからね。しかし、それまでが辛いでしょうよ。宣告が読みあげられて、いろいろ支度があって、それからふん縛られて死刑台に上げられる、これが恐ろしいんですよ! 人が集まる、女までやって来るんですからね。もっとも、あちらでは、女が見物するのをいやがるけど」
「女なんかの知ったこっちゃありませんからね」
「もちろんです! もちろんです! あんなむごたらしいことを!………罪人は利口そうな、胆のすわった、力のありそうな中年の男でした。レグロというのが苗字です。ところがねえ、ほんとうにするともしないともきみの勝手だが、その男、死刑台にのぼると泣き出したですよ、紙のように白い顔をして。まあ、そんなことがあっていいもんですか、じつに恐ろしいじゃありませんか。ねえ、きみ、だれがこわいからって泣くやつがあるもんですか。子供じゃあるまいし、四十五にもなる大人が、今まで泣いたことのない大人が、恐ろしさに泣き出すなんて、ぼくはそれまで夢にも思いませんでしたよ。しかし、その瞬間、当人の魂はどんなだったでしょう。きっと恐ろしい痙攣をおこしたに相違ありません。魂の侮辱です、それっきりです! 『殺すべからず』とは聖書にもちゃんと書いてあります。それだのに、人が人を殺したからって、その人まで殺すって法はない。いいや、そういうことはなりません。現にぼくはひと月前にそれを見たんだけど、今でもありありと目の前に浮かんでくる。もう五度ばかり夢に見たくらいです」。
 こう話しているうちに、公爵は活気づいてきた。ほんのりと薄くれないが青白い顔にさしてきた。もっとも、言葉つきは前々どおりに静かであった。従僕は同情に満ちた興味をもって彼の言葉に聞きほれながら、いかにも離れたくなさそうな様子であった。どうかしたら、彼は想像力もあり、思想的なことにも要求を感じている男かもしれない。
「まあ、それでも」と彼は口をきいた。「首が飛ぶときに苦しみの少ないだけがまだしもですね」
「これはどうだ!」と公爵は熱のある調子で押えた。「きみもそれに気がつきましたね。まったくだれでもそう思ってるのです。つまり、それがために、ギロチンなんて機械を発明したんですからね。ところが、ぼくはふとそう思いました――もしかしたら、それがかえって悪いのじゃないかしら、とね。きみ、おかしいでしょう。きみには乱暴に思えるでしょう。しかし、よく考えてみると。こういう気もしてくるんですよ。まあ、考えてごらんなさい、たとえば拷問ってやつを。こいつを受けるものは、からだに傷をつけられたりなんかして、苦しいでしょう。けれど、それは肉体の苦しみだから、かえって心の苦しみをまぎらしてくれます。だから、死んでしまうまで、ただ傷で苦しむばかりです。ところが、いちばん強い痛みは、おそらく傷じゃありますまい。もう一時間たったら、十分たったら、三十秒したら、今すぐに魂がからだから飛び出して、もう人間ではなくなるんだということを、確実に知るその気持ちです。この確実に[#「確実に」に傍点]というのが大切な点です。ね、頭を刀のすぐ下にすえて、その刀が頭の上をするすると滑ってくるのを聞く、この四分の一秒間が何より恐ろしいのです。いや、これはぼくの空想じゃありません。じっさい、いろんな人からそういって聞かされたんです。ぼくはこの話をすっかり信じていたのだから、隠さずきみにぼくの意見をぶちまけてしまいますが、殺人の罪で人を殺すのは、当の犯罪に比べて釣合いのとれないほどの刑罰です。宣告を読み上げて人を殺すのは、強盗の人殺しなどとは比較にならぬほど恐ろしいことです。夜、森の中かどこかで強盗に斬り殺される人は、かならず最後の瞬間まで救いの望みをもっています。そういうためしがよくあるんですよ。もうのどを断ち切られていながら、当人はまだ希望をいだいて、逃げ走るか助けを呼ぶかします。この最後の希望があれば十層倍も気安く死ねるものを、そいつを確実に[#「確実に」に傍点]奪ってしまうのじゃありませんか。宣告を読み上げる、すると、金輪際のがれっこはないと思う、そこに恐ろしい苦痛があるんです。これ以上つよい苦痛は世界にありません。戦場に兵士をひっぱって来て、大砲のまん前に立たして、それからそいつらをねらって撃ってごらんなさい。兵士はいつまでも一縷《いちる》の希望をつないでいます。ところが、この兵士に対して死刑の宣告を確実に[#「確実に」に傍点]読み上げたらどうです。半狂乱になって泣き出しますよ。人間の本性は発狂せずにそれを堪え忍ぶことができるなんて、そんなことをいったのはいったいだれでしょう? なんだってそんな見苦しい、不必要な、そして不正な嘲罵を発するのでしょう? ことによったら、宣告を読み上げられて、さんざん苦しまされたあげく『さあ、出て行け、もう許してやる』といわれた人があるかもしれない。こういう人にきいたら、話して聞かしてくれるでしょうよ。この苦しみ、この恐ろしさについては、キリストもいっていられます。いや、人間をそんなふうに扱うという法はない!」
 従僕はこれらのことを、公爵と同じように自分でこそいうことはできなかったが、しかし全部でないまでも、だいたいの要点が腹に入ったらしいのは、その感じ入ったような顔つきにも現われていた。
「あなたそんなにたばこが召しあがりたかったら」と彼は言いだした。「よろしゅうございます、おやんなさいまし。けれど、お早く願いますよ。でないと、もしかお呼びになったとき、あなたがいらっしゃいませんと具合が悪うござんすから。そら、そこの階段の下に戸がありましょう。その戸をお入りになると、ちょいとした部屋がござんすから、そこならかまいません。ただ通風口をあけてくださいまし、そうしませんと、だらしのうございますからね」
 しかし、公爵はたばこを吸いに行くひまがなかった。そのときとつぜん手に書類をかかえた若い男が、控室へ入って来たのである。従僕はその毛皮外套を脱がせにかかった。若い男は公爵のほうを尻目にかけた。
「ガヴリーラ・アルダリオーヌイチ」と従僕は相手を信頼しきったように、ほとんどなれなれしく話しかけた。「このかたはムイシュキン公爵とか申されまして、奥さまのご親戚だそうにございます。今しがた汽車で外国からお帰りになったばかりだそうでして、風呂敷包みをおかかえになって、ただ……」
 それからさきは声を落としてしまったので、公爵には聞こえなかった。ガヴリーラは注意ぶかく耳を傾けつつ、強い好奇の表情で公爵をながめたが、とうとう従僕の話を聞き捨てにして、がまんしきれないように公爵のほうへよって来た。
「あなたがムイシュキン公爵でいらっしゃいますか?」と彼はひどく愛想よくていねいにきいた。
 彼もやはり二十八くらいの好男子であった。中肉中背のすらりとしたブロンドで、ナポレオン式の小さなあご鬚を蓄え、利口そうな、しかもすばらしく美しい顔をしていた。ただ笑顔が、なかなか愛嬌はあるのだけれど、なんだかあまりに繊細にすぎるし、それに笑うときにのぞく歯なみが真珠かなんぞのようにあまり美しく並びすぎている。そして、その目つき――ずいぶん快活ですばらしく見えはするが、なんだかあまりじっとすわりすぎ、あまり探りを入れようとしすぎるかに思われる。
『この人はひとりでいるときには、もっと違った顔つきになるに相違ない。ひょっとしたら、笑うことなんかてんでないかもしれない』なぜか公爵はこんな感じがした。
 公爵はすべてできるだけの説明(前に従僕と、さらにそれ以前ラゴージンにしたのとほとんど同じこと)を手短かにして聞かせた。ガヴリーラはその間なにやら思い出した様子で、「あなたじゃありませんか」とたずねた。「一年ばかり前、あるいはそんなにならないかもしれませんが、たしかスイスから奥さんに手紙をおよこしになったのは?」
「たしかにそうです」
「じゃ、こちらではあなたのことをごぞんじですから、きっと覚えておいでになるでしょう。あなたは閣下のところへ?さっそくお知らせして来ます……閣下はすぐお手すきになりますから。しかし、あなた……そのあいだ応接間のほうへいらっしゃればいいのに……なんだってこんなところにいらっしゃるのだ?」と彼はこわい顔をして従僕のほうをふり向いた。
「そう申したのですが、いやだとおっしゃるものですから……」
 ちょうどこのとき書斎の戸があいて、手提げ鞄をかかえた軍人が声高にしゃべりながら、会釈をして出て来た。
「ガーニャ(ガヴリーラの愛称)、きみ、そこにいたのか」と書斎の中から、だれかがどなった。「ちょっとここへ来てくれんか!」
 ガヴリーラは公爵にひとつ首を振って見せ、忙しげに書斎へ入って行った。
 二分ばかりたってまた戸があいて、ガヴリーラのよく通る愛想のいい声が聞こえた。
「公爵、お通りください!」

      3

 イヴァン・フョードロヴィチ・エパンチン将軍は書斎の真ん中に立って、なみなみならぬ好奇心をいだきながら、入ってくる公爵をながめた。のみならず、こらえきれないように二歩ばかりそのほうへ踏み出した。公爵は進み寄って名前を名乗った。
「ははあ、なるほど」と将軍はうけて、「いったいどんなご用ですかね?」
「かくべつ急用というほどのものでもありません。ぼくの目的はただあなたとご昵懇《じっこん》に願いたいのです。むろん、ご面会日も、またあなたのご都合も知らないものですから、ご迷惑とは存じましたが……なにしろ汽車をおりたばかりなんでして……スイスからやって来たばかりなんですから」
 将軍はあやうくほほえみそうにしたが、気がついてやめた。それから、さらにもう一度気がついて顔をしかめ、さて改めて客を頭から足の爪先までながめた。やがて、手早くいすを客に指さして、自分はややはすかいに腰をおろしながら、もどかしげな期待をもって公爵のほうへふり向いた。ガーニャは書斎の隅の事務テーブルに向かって書類を選り分けていた。
「さよう、わたしは全体としてお近づきなぞということには、あまり時間の余裕のないほうでしてな」と将軍はいいだした。「しかし、あなたはもちろん、なにか特別な目的をもっておいででしょうからして……」
「ぼくも前からそう感じていました」と公爵はさえぎった。「ぼくの訪問になにか特別な目的があるように思われるだろうって。けれど、まったく、ご昵懇にしてさえいただいたら満足なんでして、ほかに私用などないのです」
「満足、いや、もちろん、それはわたしもご同様ですがね。しかし、いつも慰みばかりじゃ済まない、ときには用事もできますからね。それに、わたしはどうしてもまだ今のところ、おたがいのあいだに、共通な点……つまり、その、因縁を発見することができないのでして……」
「因縁、もちろんありません。また共通点の少ないことも争われません。なぜといって、よしやぼくがムイシュキン公爵であり、あなたの奥さまがわたしどもの家からお出になったとしても、これは申すまでもなく因縁じゃございません。しかし、ぼくがこちらへお訪ねした理由は、全部それにかかっているのです。ぼくはもう四年以上もロシヤにいませんでした。それに、出て行ったときのぼくの有様は、まあ、ほとんど白痴同様でしたから、そのときだってなんにもわからなかったのです。だから、今ではなおさらのことです。それで、今はただ、いい人を近づきにほしいと思っています。それに、ひとつ用件さえあるんですが、どこへ相談に行っていいやら、それもわからないんですからね。まだベルリンにいるときから、『あの人たちはほとんど親類みたいなものだから、あの人たちからはじめよう。もしかしたら、あの人たちは自分のために、自分はまたあの人たちのために、おたがい役に立ちあうかもしれない、――ただし、あの人たちがいい人間だったら』とこんなふうに考えたのです。ところが、あなたがたはいい人だとお聞きしましたので……」
「いや、まことになんともありがとう」と将軍は度胆を抜かれた。「失礼ですが、どこへ宿をおとりになりました?」
「ぼくはまだどこにも宿をとりません」
「それじゃ、汽車からまっすぐにわたしのところへ? で……荷物もごいっしょに?」
「ええ、ぼくの荷物は肌着類の入った小さな包みが一つきりで、ほかには何もありません。ぼくはいつでもそいつをさげて歩くんです。宿は晩にでもとれますからね」
「では、やっぱり宿をおとりになるつもりですか?」
「おお! それはむろんそうです」
「あなたのお話ぶりでは、わたしどもをたよって見えたのかと思いましたよ」
「それはそうなるかもしれません。けれど、あなたからそうしろとおっしゃった場合に限ります。が、正直なところを申しますと、よしんばそうおっしゃられても、ご厄介にはならなかったでしょう。べつになぜというわけもありませんが、その……生まれつきなんですね」
「ははあ、してみると、わたしがあなたにそう申さなかったのは、また申してもいないのは非常に好都合でしたな。失礼ですが、公爵、いっぺんに埓を明けてしまうために、遠慮なくいわしていただきましょう。今も申したとおり、親戚関係につきましては、もちろん、それは自分にとって非常に愉快ですが、もう今さら何もいう必要はありますまい。してみると……」
「してみると、立っておいとましますか?」といい、公爵は腰を上げた。そして、自分の立場が厄介なことになっているにもかかわらず、むしろおもしろそうにからからと笑った。「じつは、閣下、ぼくはこの土地のしきたりについても、じっさい、なにひとつ知らないのですが、ぼくは初めっからきっとこんな始末になるだろうと思っていました。いたしかたございません、たぶんこれがほんとうなのでしょう……それに、あの時も、ぼくの手紙に返事をくださらなかったんですから……では、さようなら、とんだおじゃまをして申しわけありません……」
 公爵のまなざしはこの瞬間きわめてもの柔らかで、その微笑には隠れたる不快感など影すらなかった。将軍はふいに立ちどまって、とっさの間になんとなく違った目つきで客の様子をながめた。この見かたの変化はほんの刹那に生じたのである。
「いや、もし公爵」と彼はまるで別人のような声でいった。「わたしはやはりあなたという人を知らないけれど、しかし、ひょっとしたら、エリザヴェータが同じ血筋のあなたに会いたいというかもしれないから……少々お待ちになりませんか、もし時間に余裕がおありでしたら」
「おお、時間に余裕はありますとも。いま時間はすっかりぼくのものですから(公爵はすぐに自分のソフトハットをテーブルに置いた)。白状しますが、じつのところ、奥さんがあの手紙を思い出してくださるかもしれないと、それをぼくもあてにしていたのです。さっきあちらで待っていたときも、お宅の下男がぼくのことを、なにか無心にでも来たように疑っていましたが、ぼくもそれに気がつきました。きっとお宅ではこの点やかましい内規がおあんなさるのでしょう。しかし、ぼくはまったくそんなことで参ったのじゃありません。じっさい、ただ世間の人と近づきになりたいばかりなんです。ただ、その、少々あなたのおじゃまをしたと思うと、それがどうも心にとがめて」
「ねえ、公爵」と将軍は愉快な微笑をふくみながらいった。「もしあなたがじっさいお見かけのとおりの人でしたら、きっとお近づきになって愉快なかたでしょう。しかし、ただわたしはごらんのとおり忙しい人間ですから、すぐまたこれからテーブルの前にすわって、なにかに目を通して、署名して、それから閣下のところへ出かけて、そのあとで今度は役所へ行かんけりゃならんのです。だから、むろん、人と……いい人とお話でもするのは大好きなんだが……その……しかし、たぶんあなたはりっぱな教育をお受けになったことと信じますが……ときに、公爵、あなたはおいくつでしたかな?」
「二十六」
「うーふ! わたしはもっともっとお若いと思っておりましたよ」
「ええ、まったくぼくの顔は若く見えるって人が申します。ですが、今後あなたのじゃまにならぬように気をつけましょう、そのうちほどなく会得します。まったく、ぼくは人のじゃまするのがとても嫌いなんですから……それから、ついでに申しますが、あなたとぼくとは、うわべから見るとまるで種類が違った人間です……その、いろいろな点から見てですね。だから、とても共通点などはたいしてなさそうに思われます。けれど、ぼく一個としては、こういう考えかたは信用していないんです。なぜって、われわれが共通点なんかないと思っている場合にも、案外それがあるもんですからね……これは人間の無精からおこることなんです。人間というものはうわべばかりでいろいろに分類されちゃって、その奥に隠れているものを認めることができないのです……あ、ですが、こんなことご退屈でしょうね? あなたはなんだか……」
「ちょっとひとこといわしてください、あなたはいくらか財産がおありなんですか? あるいはなにか職につこうとでもいうご希望ですか。失礼、わたしはただちょっと……」
「どういたしまして、ぼくはあなたのご質問を尊重しかつ了解しています。財産は今のところなんにもないし、また職業というものもいっさいもっていません、もっとも、必要だとは思っていますが、金は今まで人のものがありました。ぼくを治療して教育してくだすったスイスのシュナイデル教授から、旅費としていただいたものですが、それがちょうどきちきちなんで、今のところ何コペイカだか残ってるきりです。もっとも、ひとつ用事がございまして、ご相談にあずかりたいと思っているのですが……」
「しかし、どうですか、さし向きなにをやって過ごそうと思 っておいでです、なにか計画でもありますか?」と将軍はさえぎった。
「なにかして働くつもりでした」
「おお、まったくあなたは哲学者だ、がそれにしても……なにか技能がおありですか、つまり、その日のパンを与えてくれるような才能ですね? どうも失礼なことばかりうかがって……」
「おお、おことわりにはおよびません。いや、ぼくには才能もなければ、格別こうという技量もないようです、むしろあべこべでしょう、なにぶん、ぼくは病身な男でして、正則な教育を受けていませんから。しかし、パンのことに関しては、ぼくおもうに……」
 将軍はふたたびさえぎって、根掘り葉掘りききはじめた。公爵は前《ぜん》に話したと同じことを、さらにもう一度物語った。その結果、将軍は故人パヴリーシチェフのうわさを聞いたこともあり、面識さえもあることがわかった。なぜパヴリーシチェフが彼の教育に力を入れたかは、公爵自身も説明ができなかった。が、あるいは、単に公爵の亡父との旧誼のためであったかもしれぬ。公爵は両親の死後、頑是ない孤児《みなしご》としてこの世に取り残され、それからずっとほうぼうの村に住んで大きくなってきた。彼の健康状態が田園の空気を要したからである。パヴリーシチェフはこの幼児を自分の親類に当たる年寄った女地主にゆだねた。この子のためにはじめ女教師、つぎに男の教師が雇われた。公爵の言葉によると、彼はすべてのことを記憶してはいるけれど、そのころは深く物事を理解できなかったので、十分に理由を説明することができないとのことである。彼は持病の発作が頻繁なため、ほとんど白痴同然になってしまった(公爵も自分でそう言った、白痴と)。あるときパヴリーシチェフがベルリンでスイスのシュナイデル教授に邂逅したところ、こういう病気を専門に研究している教授は、スイスのヴァレス州に病院を持っていて、自家独特の冷水療法、体操療法によって、白痴、瘋癲、精神錯乱を治療し、なおそれと同時に教育を施して、一般に精神発育の方法をも講じていたので、パヴリーシチェフはおよそ五年間、公爵をこの人のもとへ送ったが、二年前に急病で遺言も何もせずに死んでしまった。シュナイデルはそれからなお二年ばかり、彼を養って治療につとめ、すっかり全治こそしなかったものの大変よくなったので、今度とうとう彼自身の希望もあり、またある事情にも遭遇したので、教授は彼をロシヤに帰すことにした、その顛末を公爵はもれなく語った。
 将軍はすっかり驚いてしまった。
「じゃ、ロシヤにあなたのお知り合いといってはだれもないのですか、ただのひとりも?」と彼はたずねた。
「今のところだれもありません……しかし、おっつけできると思います……それにぼく、手紙を一通受け取ったので……」
「が、それにしても」と将軍は手紙の話はろくすっぽ聞かずにさえぎった。「なにかご修業なすったでしょう。たとえばその、あまりむずかしくない地位をお求めになるのに、なにか役にでもおつきになるのに、病気がじゃまになりませんかな?」
「おお、けっしてじゃまになんかならないでしょう。職のことでしたら、ぼくも大変のぞんでるくらいなんです。自分もどんな方面に才能があるか、知りたいと思っているのですから。四年の間というもの、ぼくは絶えず勉強しました。もっとも、先生一流のシステムによったのですから、正則的とはいえませんけど、ロシヤの書物もだいぶ読むことができました」
「ロシヤの書物を? それじゃ読み書きの心得もおありなんですな、誤謬なしに文章が作れますか?」
「おお、大丈夫できます」
「それはなによりです。そんなら手蹟は?」
「手蹟はりっぱなものです。おそらくぼくの才能はこれにあるのでしょう。この点にかけてはぼくは能書家です。なんなら試験のためになにか書いて見ましょう」と公爵は勢いこんでいった。
「どうぞお願いします、それはむしろ必要なことです……しかし、わたしはあなたの気さくなのが気に入りました、公爵、あなたはまったくかわいいかたですよ」
「お宅の文房具はなんてりっぱなんでしょう、そして、なんというペンや鉛筆の数でしょう、それに、しっかりした、じつにりっぱな紙ですね。それに、まったく、すばらしいお書斎ですねえ! ああ、この風景画はぼく知ってます。これはスイスの景色です。これはきっと画家がほんものを写生したんだと思います。それに、ぼくこの場所を見たことがあるに違いない、これはウリイ州の……」
「大きにそうかもしれません。もっとも、ここで求めたのではありますが。ガーニャ、公爵に紙をさしあげてくれ。さ、ペンと紙、このテーブルへおいでください。なんだそれは?」と将軍はガーニャのほうへふり向いた。ガーニャはこのとき自分の折鞄から大形の写真を取り出して、将軍にさし出したのである。
「や、ナスターシヤ! これは自分で、自分できみに送ってよこしたのかね、自分で?」彼は急に元気づいて、激しい好奇の色を浮かべながらガーニャにたずねた。
「いまわたしがお祝いに行ったら、これを寄越したのです。前から頼んでたもんですから。なんですか、これはことによったら、わたしがきょうのような日に贈り物も持たず空手で行ったという、あてこすりかもしれませんよ」とガーニャは不快げに薄笑いしながらいい足した。
「なんの、そんなこと」と将軍は確信ありげにさえぎった。「ほんとにきみの頭はどうかしてるよ! あの人があてこすりなんかするものかね……それに、けっしてそんな欲っぱりじゃない。だいいち、きみはあれに何を贈ろうというんだ? どうしたって千や二千のものはいるじゃないか、それとも写真でもやるつもりなのかね? ああ、写真といえば、あれのほうからもきみにくれといわなかったかい?」
「いいえ、まだいいません。いや、ひょっとしたら、いつまでたってもいわないかもしれません。ときに、閣下、あなたはむろん、今夜の会のことを覚えてらっしゃるでしょうね。あなたは特別に招待された人なんですから」
「覚えてるよ、覚えてるよ、むろん、そして出席もする。当然だよ、二十五の誕生日だもの! ふむ!………ところで、ガーニャ、おれは――ええ、ままよ、きみにすっかりうち明けてしまうが、きみ、その心構えをしておきたまえ。今夜こそ否か応かの返答をすると、あれがおれとトーツキイさんにいったんだからな。ほんとにしっかりしなくちゃいけないよ」
 ガーニャはやや顔色の青ざめるほどどぎまぎした。
「あの人がたしかにそういったんですか」とたずねた声はなんとなくふるえを帯びていた。
「おととい約束したのだ。おれたちふたりがうるさく付きまとって、とうとう無理やりにいわしてしまったのさ。しかし、きみにだけはしばらくいわずにおいてくれとのことだった」
 将軍はじっとガーニャを見つめた、彼の困ったような様子は、明らかに将軍の気に入らぬらしい。
「ですが、閣下、あなた覚えていらっしゃいますか」とガーニャは不安そうに思いきり悪くいいだした。「あの人は自分で決めるまでに、わたしに決定の絶対的自由を与えるといいました。それに、あの人が決めたって、最後の決心はわたしの意志次第ですから……」
「じゃ、きみは……じゃ、きみはもしや……」ふいに将軍はおびえたようにこういった。
「わたしはなんでもありません」
「ほんとに冗談じゃあない、きみはおれたちをどうしようというのだ」
「わたしはべつにおことわりなどしてはいないじゃありませんか。もしかしたら、わたしのいいかたがわるかったかもしれませんが……」
「もちろん、きみがことわったりなんかしてたまるものか!」と将軍はいまいましそうに、またそのいまいましさを隠そうともせずに、答えた。「よいか、きみ、もう今はきみがことわらんなどというのが問題じゃない。問題はきみがあの人の承諾を聞くときの、用意とか、満足とか、ないしは喜びとかいうものにあるんだ。それで、いったい家のほうはどうなんだね?」
「家のほうはどうもこうもありません。家のほうはただわたしの意見ひとつです。ただおやじが例によって阿呆ばかりしているのです。しかし、おやじはもうまったくの恥知らずになりきったんですから、わたしはあんな人と口もききゃしません。もっとも、手綱はちゃんと控えていますがね。いや、じっさいもし母がなかったら、出て行ってもらうところなんですよ。もちろん、母はいつも泣き通しですし、妹はぷりぷりふくれてばかりいます。で、わたしはとうとうあの人たちにいってやりましたよ。おれは自分の運命の支配者だから、家でもみんなおれの……いうことを聞いてもらいたいって。あの人たちにといって語弊があれば、すくなくとも妹には、母のいる前でしっかり念を押しておきました」
「ところで、きみ、おれがいまだにわからないのは」将軍はこころもち肩をすくめ、ちょいと両手を広げながらもの思わしげにいいだした。「ニーナ(ガーニャの母)さんがこのあいだやって来たね、ほら、覚えておるだろう? あのときしきりに溜息をついたりうなったりしておられるじゃないか。『どうなすったんですか?』ときいてみると、どうやらニーナさんは不名誉なことででもあるように思っておられるらしい。いったいなにが不名誉なんだ、わけがわからんよ。だれがどういう点でナスターシヤ・フィリッポヴナの悪口をいったり、うしろ指をさしたりなんぞするものかね。あるいは、トーツキイさんといっしょにいたのが悪い、というのかもしれんが、そんなことなど、一顧にも価しないたわごとだ。ましてああした特別な事情があるんだもの!『あなた、ほんとにあの女をお嬢さんがたのそばへお寄せつけにならないほうがよろしゅうございますよ』だと。ちぇっ! なんたることだ! いやはや、ニーナさんも困ったものさ! いったいどうしてわからんのかなあ、どうしてわからんのかなあ……」
「自分の身のほどがですか?」とガーニャは後句《あとく》に苦しんでいる将軍に口添えした。「いいえ、わかってるんですよ。どうか母にそうお腹を立てないでくださいまし。しかし、とにかく、わたしはあのときよく釘をさしておきました、人の事にあまり干渉しないでくださいって。ですが、今まではまだ最後のひとことをいわずにいるので、それで家の中がもててるんですが、嵐はかならずやって来ますよ。ですから、きょうにもその最後のひとことをいってしまうと、自然あらいざらいいってしまうことになるでしょうよ」
 公爵は片隅によって筆蹟試験の字を書きながら、ふたりの会話をすっかり聞いていた。やがて書き終えてテーブルに近寄り、書いた紙をさし出した。
「なるほど、これがナスターシヤ・フィリッポヴナですか?」彼は一心に好奇の目を光らせつつ、写真をながめてつぶやいた。「すばらしい美人ですね!」と彼はただちに熱心な調子でつけ足した。
 写真には事実おどろくばかり美しい女の姿が写し出されていた。彼女は思いきって単純な、しかも優美な型の黒い絹服をつけている。見たところ髪は暗色らしく、無造作に内輪らしく束ねてあった。目は暗く奥深く、額はもの思わしげに、顔の表情は熱情的で、そしてなんとなく人を見くだすようであった。いくぶんやせの見える顔立ちで、どうやら色も青そうである……ガーニャと将軍はびっくりして公爵をながめた。
「え、ナスターシヤ・フィリッポヴナ! あなたはもうナスターシヤをごぞんじなんですか?」と将軍は問いかけた。
「ええ、ロシヤヘ来てたった一昼夜にしかならないのに、もうこんな稀世の美人を知っていますよ」と公爵は答えた。
 そこで彼はラゴージンとのめぐり逢いを語り、彼の話したことをくわしく受け売りした。
「そうら、また厄介なことができた!」注意ぶかく公爵の話に不安を傾けていた将軍は、ふたたび不安そうな表情を浮かべて、探るようにガーニャのほうを見やった。
「おおかたただの恥っさらしでしょうよ」同様にいくぶんうろたえ気味のガーニャがつぶやいた。「町人の小せがれが道楽を尽くしてるんでさあ。わたしもその男のことをちょいと聞きこんだことがあります」
「ああ、おれも聞いたよ」将軍が受けた。「あの耳飾り騒ぎのあとで、ナスターシヤが自分でそのいきさつをすっかり話してくれたのだ。しかし、今はもう問題が別のようだぞ。今度はじっさい、百万ルーブリというやつが控えているかもしれんからな……それに、なんだか執着が強そうだよ。よしかりに下等な執着であるとしても、とにかく執着の匂いがしてるよ。まったくこういう先生が酔っぱらったら、どんなことをやり出すかわからんからな!………ふむ!………またなにかひと騒動もちあがらにゃいいが!」と将軍はもの案じ顔にこう結んだ。
「あなたは百万ルーブリがこわいのですか?」とガーニャはにやりと笑った。
「きみはもちろんそうじゃないだろうな!」
「ねえ、公爵、あなたにはどう思われました?」とガーニャはふいに公爵のほうへふり向いた。「その男はなにかまじめな人間ですか、それともただの道楽者ですか? あなたのご意見はいかがです?」
 この問いを発したとき、ガーニャの心中に一種特別なものが生じた。いわば新しい特殊な想念が脳裡に燃えあがって、いらいらと両の目に輝き出たかのようであった。正直に心から心配している将軍も、同じく流し目に公爵を見やったが、その答えに多く期待しているのでもないらしい。
「さあ、なんてったらいいのでしょう」と公爵は答えた。「ただぼくはあの男にはありあまる情欲が、むしろ病的な情欲が潜んでいるように思われました。それにあの男自身からして病的な人間らしいのです。ことによったら、ペテルブルグへ着くと早々、二、三日でまた寝つくかもしれません。無茶酒でも飲んだらなおさらですね」
「そうですか? そう思われましたか?」と将軍はこの評言に取りすがるようにした。
「ええ、そう思われました」
「しかし、そんなふうの騒ぎは二、三日のうちどころか、きょう晩までにおこるかもしれません、きっとなにか変わったことが降ってわくに相違ありませんよ」とガーニャは将軍に薄笑いをして見せた。
「ふむ!………むろん……そんなことがあるかもしれん、そうなったらこの話の成否は、あの人にどんな心持ちがひらめくかということにかかるんだな」と将軍はいった。
「しかし、あなたはあの人がときどきどんなふうになるかごぞんじでしょう?」
「といって、つまりどんなふうなんだ?」将軍はすっかり気を悪くして、ほとんど飛びあがらんばかりにいった。「いいかね、ガーニャ、きみは今夜あんまりあの人に逆らっちゃいかんぞ、そしてなるべく、その、なにさ……つまり、機嫌をよくするんだぞ……ふむ!………なんだってきみは妙に口を歪めるんだ? まあ聞きたまえ、ガヴリーラ君、いいついでだ、じっさい、いいついでだから、いまいっておこう。全体われわれはなんのためにこうして忙しがってるか知ってるかね? いいか、この事件に含まれたおれ一個の利益は、もうとっくに保証されてるんだよ。おれは方法はともあれ、どんなにでもしておれ自身の都合のいいように事が決められるんだからな。トーツキイさんもすでに固く決心していられるんだから、したがっておれはいささかの疑いをもいだいておらん。それだによって、いまおれがなにか望んでいるとしたら、それはほかのことじゃない、ただきみの利益のみだ。まあ、すこしは自分でも考えてみたまえ、それともきみはこのおれに信用ができんというのかね? そればかりじゃない、きみはその……その……利口な人間だから、おれもきみに望みをかけたのだ……で、それが、今の場合……その、なんだ……」
「それが肝要なことなんでしょう」またしても後句につまっている将軍に代わってこういうと、ガーニャは口をすぼめて、毒々しい皮肉な微笑をもらし、もはやそれを隠そうとさえしなかった。
 彼は熱した瞳をまともに将軍のほうに向けたが、まるで『この瞳の中からわたしの思ってることを、すっかり読み取ってもらいましょう』といわんばかりであった。将軍はかっとのぼせて顔を紫色にした。
「ふん、さよう、分別というやつは肝要なものさ!」と将軍は鋭くガーニャを見つめながら相づちを打った。「が、きみはまったくおかしな男だなあ、ガヴリーラ君! きみはまるであの町人の小せがれが出て来たのを、いい逃げ道のように思って喜んでるのじゃないか。いいや、おれにゃわかるよ。いや、じっさい、このことについては、そもそもの始まりから分別を基にして行かんけりゃならなかったのだ。すなわちよくことを理解して……双方から公明正大に行動しあって……そのなんだ、他人に迷惑をかけんように、前もって断わっておくべきだ。ましてそれには、時日も十分あったのだからな。いや、今でもまだ十分余裕がある(と将軍は意味ありげに眉を立てた)。といっても、晩までにたった五、六時間しかないがな……きみ、わかったかね? わかった? いやなのか、いやでないのか、じっさいのところ? もしいやなら、そういいたまえ、ご遠慮には及びませんよ。だれもきみに強制してるんじゃないからな。だれも無理にきみをわなにかけようというものはありゃしない――もしきみがなにかわなでもしかけてあるように思ってるならばだ」
「いえ、わたしは望みなのです」小声ではあったがきっぱりいって、ガーニャは目を伏せ、暗い沈黙に入った。
 将軍は大いに満足した。彼はいささか激昂したが、あまり言いすぎたのを後悔しているらしい様子であった。彼は何気なく公爵のほうへふり向いたが、不安な影がさっとその顔をかすめた。公爵がそこにいる以上、いくらこの人でも聞いたに違いないと思ったからである。しかし、彼は即座に安心してしまった。ただひと目公爵を見ただけで、すっかり安心することができたのである。
「おお!」公爵のさし出した手蹟見本を見ながら、将軍は大きくこう叫んだ。「こりゃまるでお手本だ! おまけにりっぱなお手本だ! ガーニャ、ちょっと見たまえ、りっぱなお腕前じゃないか!」
 公爵は厚い模造犢皮紙に、中世ロシヤの書体で左の一句をしたためていた。
『僧院の長《おさ》パフヌーチイ手ずからこれに名を署したり』
「つまりこれは」異常な喜びと活気を声に響かしつつ、公爵は説明した。「これは僧院長パフヌーチイの自筆の署名を、十四世紀ごろの写しからかりてきたのです。ロシヤの昔の僧院長とか府主教とかいう人たちの署名は、どれでもみんな見事なものでしたねえ。しかも、なんともいえない趣味や苦心が十分あらわれているのです! 将軍、お宅にせめてポゴージン版のものでもありませんか? それから、ほら、ここんとこに、ぼく、べつな書体で書いてみました。これは十八世紀のフランスふうで、ふっくりした大まかな書体なんです。ある字などはまるで変わった書きかたをしたものです。つまり、俗向きの書体で、民間の書家の癖なんですが、ぼくのところに一冊手本があったからまねてみました。ね、そうでしょう、まんざらうまみがなくもないでしょう。このふっくらしたo、aなどを見てください。ぼくはフランス式の書体をロシヤ文字に移したのです。なかなかむずかしい仕事でしたが、どうやらうまくゆきました。ああ、それから、こいつもまた奇抜な書体ですな。こういう句なんです。『努力はすべてを征服す』ってのですが、この書体はロシヤの書記ふう、でなければ陸軍書記ふうとでもいうべきものでしょう。一般にえらい人たちのところへ送る公文書類がこんなふうです。これもやはりふっくらした、美しい、そして墨色の[#「墨色の」に傍点]濃い書体ですが、じつに趣味が横溢していますね。書家などにいわしたら、この変体、というより、むしろ変体がろうとした試みは、法にないというかもしれません。ほら、この尻のはねを半分でよしたところなんかね、――しかし全体から見ると、ね、ごらんなさい、これが一特色をなしてるじゃありませんか。この中に陸軍書記の魂がりっぱに現われてるんです。才気が一気呵成を欲してむずむずしているのですが、軍服の襟が窮屈にしめつけてる形です。軍規というやつが書体にも出て来たんです。つい近ごろある手本を目っけて、すっかり感心させられちまったんです。しかも、それがどこだとお思いです?――スイスなんですよ!――ところで、これは平凡なありふれた純イギリスふうの書体ですが、美もこれより先へは行くところがないでしょう。どれを取ってみてもみなすばらしい。水晶玉です、真珠です。すっかり完成されています。ここにその変種があります。これも、フランスふうに換えたものです。これはぼくが地方まわりのフランスの commi (手代)の手を借用しました。前のと同じイギリス式ですが、黒い線がほんの心もちイギリスのよりも黒くて太いでしょう。だもんだから、光線のプロポーションがこわれてしまいました。それにごらんなさい、この楕円形が変わってますから。ほんのぽっちり丸みが強くって、おまけに変体まで応用してあります。ところが、この変体がいちばん剣呑なやつなんです! ひととおりならぬ趣味がいりますよ。そのかわりうまく行って釣合いがとれると、その字はもうなんとも比べるものがありませんね、じっさいほれぼれするくらいです
「ほう! あなたはおそろしく微細な研究をとげておいでですな」と将軍は笑った。「あなたはもう能書家でなくって芸術家ですなあ。どうだい、ガーニャ?」
「驚き入りますね」とガーニャが言った。「それに、ちゃんと自己の天職を自覚してらっしゃる」とあざけるように笑いながらつけ足した。
「まあ、いくらでも笑うがいい、これはりっぱな出世の方法なんだから」と将軍はいった。「ねえ、公爵、今度はすばらしい人にあてた書類をあなたに書いてもらいますよ。まったくあなたはのっけから月三十五ルーブリくらい取れます。だが、もう十二時半だ」と彼は時計をのぞいて見てつぶやいた。「公爵、それじゃ用件にかかりましょう、ことによったら、きょうはもうお目にかかれないかもしれないから! しかし、ま、ちょっとおすわりなさい。先刻も申したとおり、あまりたびたび会ってお話しする暇はないが、ほんのわずかでもできるだけのご助力をしたいとは、真底から希望しておるのです。じっさいのところほんのわずかで、露骨にいえば、暮らしにお困りにならん程度のものですから、それ以上のことはあなたのお考えに任せます。どこか役所の口を探してみましょう、あまり窮屈じゃないが、時間が厳重だからそのおつもりで。さてと、それからですね。ガヴリーラ・アルダリオーノヴィチ・イヴォルギン君の、――というのは、このわたしのいちばん若い友ですが、あなたもぜひお近づきを願っておきます、この人のまでお母さんと妹さんが道具付きの部屋を二つ三つあけて、確かな紹介者のある人に、まかないと召使をつけて貸しておられるのです。ニーナさんもわたしの紹介を拒絶はなさるまい。まったくこの家はあなたのために願ったりかなったりですよ。なぜというに、第一にこの家へおいでになれば、あなたはもうひとり住まいでなくって、いわゆる家庭の暖かいふところの中に入るというものです。それに、わたしの見たところでは、あなたがペテルブルグのような都会にのっけからひとりで飛びこまれるのは、どうもよくないようですからな。ニーナ・アレクサンドロヴナ、――これはガヴリーラ君のおかあさん。それからヴァルヴァーラ・アルダリオーノヴナ、――これは妹さん、――このふたりのかたはわたしが非常に尊敬している婦人です。ニーナさんは、いま退職されているが、アルダリオン・アレクサンドロヴィチーイヴォルギン将軍の夫人です。将軍はわたしが隊に入った当時からの友人で、今はちとわけがあって交際をやめていますが、しかしわたしは今でもこの人に対して、ある意味において尊敬の念をいだいています。こんなことをくどくお話しするのは、つまり、わたしがじきじきあなたのために紹介の労をとっている、したがってあなたの身の上をいわば保証しているということを、あらかじめご承知ねがっておくためなのです。払いのほうはごく低廉ですから、近いうちにあなたの月給だけで、十分間に合うようになるだろうと思います。もっとも、人はたとえいくらかでも、小遣銭がなくてはすまされんものですが、あなた怒ってはいけませんよ。ぶしつけにいうと、あなたはなるべく小遣銭というものを、いや、一般に金をポケットに入れて歩くのを、避けるようになすったほうがいい。まあ、一見したところそんな気がする。しかし、さしむきあなたの金入れはまったく無一物だとおっしゃるから、失礼ですが、ご用のためにこの二十五ルーブリをお納めください。むろん、ご都合のときに返済してくださればよろしい。じっさいあなたがそうしたような、お言葉どおりのまじめな、誠実なおかたでしたら、われわれのあいだにけっして面倒なことなぞおこる心配はありません。わたしがこんなにあなたのお世話を焼くのは、あなたに関してある目あてとさえいうべきものがあるからなんですが、それは今におわかりになります。ね、公爵、わたしはあなたに対してざっくばらんにお話ししてるんですよ。ガーニヤ、公爵がきみの家へ下宿されるについては、べつに異存ないだろうね」
「ええ、異存どころではありません! 母もたいへんよろこぶことと思います……」丁寧な調子で先まわりするようにガーニャは言った。
「きみのところでふさがってる部屋は一間きりだろう。あの、ええと、なんとかいったなあ、フェルド……フェル……」
「フェルディシチェンコ」
「ああそう、おれはあのフェルディシチェンコが嫌いだ、いやにふざけたしつっこい男だ。なぜナスターシヤさんがあいつをあんなにはげますのか、おれにはわけがわからん。いったいほんとにあの人の親類に当たるのかね?」
「いいえ、ちがいますよ、みんな冗談ですよ! それに、あんまり親類くさくもないじゃありませんか」
「ふん、あんなやつのことなんかどうだっていい! で、公爵あなたはいかがです、ご満足ですか、それとも……」
「ありがとうございます、将軍。まったくあなたのしてくだすったことは、このうえなく親切な人でなければできないことです。それもぼくのほうからお願いしたわけでもないのですから、なおさら恐れいります。いえ、ぼくは自尊心から割り出してこんなことを申すのではありません。ぼくはまったくどこへ身を寄せていいのやら、とほうに暮れていたのですから。もっとも、さっきラゴージンが来いとはいってくれましたが」
「ラゴージンが? いや、いけない。わたしは親身の親として、というのが悪ければきみの親友として、ラゴージン君のことはすっぱり忘れてしまうように忠告します。それに全体として、きみは今度お入りになる家庭をたよりになさるようにおすすめしますよ」
「あなたがそれほどご親切にいってくださるのでしたら」と公爵はきり出した。「ぼくひとつご依頼があるのです。じつはこういう通知を受け取ったのですが……」
「失礼ですが」と将軍は押し止めて、「もう一分間の余裕もなくなりました。今すぐあなたのことをリザヴェータにそういってきます。もしあれが今あなたにお目にかかりたいといったら(今度はもうなるべく、そうするようにあなたを紹介します)、そしたら大いにその機会を利用して、せいぜい気に入るようにおやんなさい。リザヴェータも、うんとあなたのお力になるかもしれません。なにしろ同族のよしみですからな、もしいやだといったら無理にとおっしゃらんで、また今度の時になさい。それからきみ、ガーニャ、ちょっとこの計算を見てくれたまえ。さっきフェドセーエフとふたりでさんざん苦労したよ。これも忘れずに書きこんでおいてくれ」
 将軍は出て行った。こうして、公爵はもうほとんど四度もいいかけた用事を、とうとう話さずにすましてしまった。ガーニャは巻きたばこに火をつけ、いま一本を公爵にすすめた。公爵はそれを受け取ったが、邪魔になってはいけないと、話もせずに書斎を見まわしはじめた。けれど、ガーニャは将軍からいいつかった数字をこまごまとしるした紙きれに、ほとんど目もふり向けなかった。彼はなんだかそわそわしていた。こうしてふたりきりになってみると、ガーニャの薄笑いや、目つきや、もの案じ顔な様子などが、いっそう公爵にとって堪えがたくなってきた。と、ふいに彼は公爵のほうへ近寄った。公爵はそのときまたしてもナスターシヤの写真のそばに立って、しみじみそれに見とれていたのである。
「じゃ、あなたそんな女が好きなんですね、公爵?」突き刺すように鋭く相手をながめながら、ガーニャはこうたずねた。それはあたかも異常な目的をいだいているような調子であった。
「すばらしい顔ですよ!」と公爵は答えた。「この人の運命はなみはずれたものだとぼくは信じますね。顔はなんだか楽しそうに見えますが、じっさいは非常に苦労したんでしょう、え? それは目がちゃんと物をいっています。それからこの二つの小さな骨、――目の下、頬の上に見えるこの二つの点でもわかります。この顔はプライドに満ちた顔ですね、おそろしくプライドに満ちてますね。しかし、いい人でしょうか? ああ、もしいい人だったらなあ! それなら救われるんだけど!」
「ですがあなた[#「あなた」に傍点]だったらこの女と結婚しますか?」ガーニャは相手の顔から燃えるような目を離さず問いをつづけた。
「ぼくはだれとも結婚するわけにはゆかないのです。病身な生まれですから」と公爵は答えた。
「では、ラゴージンは結婚するでしょうか、どうお考えです?」
「そうですね、結婚するだけなら、あすにもやるかもしれませんね、ぼくそう思いますよ。しかし、結婚したら、たぶん一週間たたないうちに殺してしまうでしょう」
 公爵がこう言いきるかきらないかに、ガーニャはいきなり激しく身震いした。公爵はあやうく叫び声を立てんばかりであった。
「まあ、どうしたんです?」と彼は相手の片腕を支えながらいった。
「もし、お客さま! あなた奥さまのところへいらっしゃるようにと、閣下のお言葉でございます」と従僕が戸口に現われてこう案内した。公爵は従僕のあとについて行った。

      4

 エパンチン家の令嬢は三人とも健康で、見事に発育して、いわば盛りの花をみるようであった。肉づきのいい肩、張り切った胸、そして手はまるで男のようにしっかりしている。こうした体力や健康の結果として、時には腹いっぱい食べるのが好きだったが、しかもまるでそれを隠そうとしなかった。母夫人のリザヴェータ・プロコーフィエヴナは、ときおり娘たちの露骨な食欲を責めるように、尻目にかけることもあったが、娘たちは上べばかりいかにもうやうやしげにしていたけれど、じっさいにおいては夫人の意見はともすると、以前のような絶対の権威を娘たちのあいたに失ったのみならず、三人の娘が共同で組織している秘密会議《コンクラーヴェ》の力が、容赦なくぐんぐん勢力を増してゆくので、ついに大人はおのれの威信を保持するために、しいて争わずに譲歩したほうが、かえって得策であると悟ってしまった。とはいえ、本来の性質はいかに理づめの決心でも圧服することのできない場合がしばしばある。リザヴェータ夫人も年を追ってだんだんむら気が激しくなり、こらえ性《しょう》がなくなって、今ではほとんど一種の偏屈ものになりおおせている。しかしそれでも、素直によくならしつけられた将軍が手ぢかにいるので、積もりつもった胸のもだもだは、たいていこの人の頭に浴びせかけられる。すると、また家庭の調和が旧に復して、なにもかもこのうえなしというほどうまく納まって行く。
 夫人も、そうはいうものの食欲を失ってはいなかった。たいてい十二時半ごろ娘たちといっしょに、ほとんど晩食と同じように豊かな昼食のテーブルにつく。もっとも、令嬢たちはその前、正十時に目をさますと、床の中でコーヒーを一杯ずつ飲む。それが令嬢たちのお好みなので、永久にそう決まってしまったのである。さて、十二時半になると、母大人の部屋に近い小食堂にテーブルが設けられる。もし時間が許せば、将軍自身もこの家庭的な内輪の昼食に加わった。茶、コーヒー、チーズ、蜂蜜、バタ、夫人の好物である一種特別なホット・ケーキ、カツレツなどのほか、濃く熱い肉汁まで並ぶのであった。われらの物語がはじまった朝、一家うちそろって食堂に集まり、十二時半までに来ると約束した将軍を待ちかねていた。で、もし将軍が一分でも遅れたら、すぐにも迎えにやりかねまじい意気ぐみでいるところへ、彼はきっちり時刻をたがえず入って来た。挨拶かたがた手に接吻するために夫人のほうへ近寄りながら、彼は早くも妻の顔にいつもと違った、なみなみならぬあるものを見とめた。もっとも、彼は前の晩からあのアネクドート(それはこの人の口癖なので)によってかくあるべしと予感して、床に入ってからもそればかり心配したのではあるが、いざとなるとやはり気おくれがした。令嬢たちは彼のところへやって来て接吻した。これはべつに怒っている様子もないが、どうもなにかしらひと通りならぬものが潜んでいる。もっとも、将軍はいろいろな事情のために、余計なことにまで疑り深くなっていた。しかし、彼は要領のいい経験ある父でもあり夫でもあった。彼はとっさの間におのれのとるべき方法を講じた。
 ここでちょっと筆を休めて、われわれの物語のはじめにエパンチン将軍一家がおかれている状況や関係について、直截正確な説明を試みても、物語の如実な印象をさまで傷つけはしまいと考える。前にも述べたが、将軍はあまり教育のある人ではなく、むしろ反対に一介の『独学者』――将軍も自分でそういっている――にすぎないのである。しかし、そうはいうものの、彼は経験ある夫、要領のいい父に相違なかった。彼は娘たちの嫁入りを急ぐまい、すなわち、その心の中まで干渉すまい、また娘たちの幸福を思う親心で、かえっていやな思いをさせるようなことはすまい、とこういう方針をとった。これは年ごろの娘が目白押しをしている世間の、しかも分別ある家庭でおのずと生ずる弊害なのである。彼はついにリザヴェータ夫人すら自分の方針に同意させた。もっとも、それは困難な仕事であった――もともと不自然なことだからである。しかし、将軍の議論は卑近な例に基づいて、一理も二理もあった。それに令嬢たちも、自分の自由な意志判断に任されたならば、そうそう気まぐれに余計な選り好みをしているわけにいかないから、仕方なしに理知を頼って慎重に事に対するであろう。すればもうこちらのものである。両親はただ油断なく、そしてなるべく目につかぬように監督して、あまり奇怪な選択や不自然な迷いなどの生じないように注意し、さておりを見てありたけの力をそそいで助力を与え、ありたけの感化力を尽くして方向を正してやりさえすればいいわけである。最後にもう一つ好都合なのは、年を追って一家の財産および社会的地位が、幾何級数的に生長してゆくことである。つまり、時がたてばたつほど、令嬢たちも花嫁候補者として、ますます有利な地歩を占める道理である。
 しかし、これらの厳として犯すべからざる事実の間に、いま一つの事実が現われた。いつの間にやらほとんどまったく思いがけなく(よくあることだが)、長女のアレクサンドラが二十五を越してしまった。これと同時に、アファナーシイ・イヴァーノヴィチ・トーツキイという、非常な金持ちで、りっぱな縁故を持っている上流の一紳士が、妻をめとりたいというかねてからの望みを、またまたあらたに表明した。この人は当年五十五歳、すっきりした伊達男で、人なみすぐれて洗練された趣味を持っていた。彼はひと通りならぬ器量好みなので、結婚の条件もやかましかった。いつごろからか彼はエパンチン将軍と、ひとかたならぬ親密な間柄となったが、その後さまざまな事業に共同で携わるようになってから、その親しみはますます深くなっていった。で、あるときトーツキイはエパンチン将軍に向かって、将軍の令嬢のうちだれかと自分との結婚を想像するということは、はたしてなしうべきことかどうかとたずねて、親友としての意見と指導を求めた。エパンチン将軍の家庭生活の穏かな美しい流れは、ここにおいて、明らかに一つの曲折を描いた。
 三人の中で争う余地のない美人は、前に述べたとおり末子のアグラーヤであった。しかし、おそらく利己的なトーツキイですら、アグラーヤは自分の求める範囲外である、アグラーヤは自分の妻となるべき人でないということを心得ていた。ことによったら、姉たちのいくぶん盲目的な愛情や、あまりに熱烈な友愛の念が、事態を誇大していたかもしれないが、アグラーヤの運命はけっして単なる運命ではなく、十分に実現の可能性を帯びたこの世の楽園の理想として、彼らのあいだに真底から予定されていたのである。アグラーヤの未来の夫は、ありとあらゆる完全、円満、成功の領有者でなくてはならぬ。莫大な富、――そんなことはいうまでもない。ふたりの姉は、ことごとしく吹聴こそしないけれど、もし必要に迫られたなら、アグラーヤのためには自分の身を犠牲にしてもいい、と決心していた。アグラーヤの持参金には莫大な額が割り当てられて、遠く世間なみから飛び離れていた。両親もふたりの姉の心持ちを知っているので、トーツキイから相談を受けたときも、ふたりのうちのどちらかが、両親の望みをむなしくしないということについては、ほとんどいささかの疑いもなかった。ましてトーツキイは持参金のことでかれこれいう気づかいはない。トーツキイの申し込みは、将軍自身も彼一流の処世観によって、なみなみならずありがたいことに思った。しかし、トーツキイ自身あれやこれや特別の事情のために、一歩一歩用心に用心を重ねて探りを入れているので、将軍夫妻も思いきってかけ離れた想像のような体裁で、娘たちに相談したのである。これに対する返事として、娘たちのほうからもやはり漠とした、とはいえすくなくとも親たちを安心させるだけの意向をもらした。それは長女のアレクサンドラが、おそらくいやとはいうまいとのことであった。彼女はなかなか気立てのしっかりした娘であったが、人が好くて、分別があって、しかも非常に素直であったから、トーツキイのところへも喜んで行きそうであった。それにいったん約束したことはりっぱに履行するに相違なかった。あまりけばけばしたことは嫌いで、また面倒なことを持ち出したり、急に心持ちを変えたりする心配もなく、むしろ与えられた生活をなめらかにし穏かにする力さえあった。容貌は、ずばぬけた魅力こそないが、きわめて美しかった。トーツキイにとってこれ以上なにを望むことがあろう。
 しかし、この縁談はいぜん、手探りのような有様で進行していた。将軍とトーツキイは双方から心安だてに申し合わせて、一定の時が来るまでは、すべてあとから取り返しのつかぬような形式的なことはいっさいすまいと約束したので、将軍夫妻もまるっきりあけひろげには娘たちにはいわないでいた。なんとなく全体として一種の破調が感じられてきた。家庭の母たる将軍夫人も、なぜかひどく不機嫌になった。これは軽々に見過ごすことのできない点である。その原因はほかでもない、ここにいっさいを妨げるひとつの事情が生じたのだ。これがためには、なにもかもがらがらとくずれるかもしれぬという、やっかいな始末におえぬ偶然のできごとが現われたのである。
 このやっかいな始末におえぬ『偶然のできごと』(というのはトーツキイ自身の言葉である)は、もうずっと以前、かれこれ十八年も前にはじまった。中部地方にあるトーツキイの裕福な領地と隣り合わせに、あるきわめて貧しい小地主が住んでいたが、重なる不幸に疲弊しつくしていた。それは絶え間なしに人の語りぐさになるような失敗をつづけているので有名な男であったが、もとはさる由緒ある貴族出の退職士官で、この点からみれば、トーツキイなどより、よほどれっきとしていた。フィリップ・アレクサンドロヴィチ・バラシュコフというのがその名である。彼はありったけの物を抵当に入れつくして、首も回らぬほど借金に苦しめられていたが、幾年か囚人百姓同様の労働をつづけて、ようやくそのささやかな財政をどうにか息のつけるだけ整理した。このわずかな成功にも彼はひとかたならず元気づいた。元気づいて希望に満ちた彼は、おもだった債権者のひとりと面談して、あわよくばきれいに話をつけてしまうくらいのつもりで、二、三日の予定で郡役所のある町へ出かけた。彼が町へ着いてから三日目、頬は焼けただれ、髯は黒く焦げた村の百姓頭が、馬を飛ばしてかけつけた。そして、きのうの正午『代々伝わったお家が焼けて』しまって、そのさい『奥さまもお焼け死になされ、お子供衆ばかりは息災でおいでなされまする』との報告をもたらした。この異変ばかりは、さすがに残酷な『運命の笞』にならされたバラシュコフも堪えきれなかった。彼は気が変になり、一か月後に熱病で死んでしまった。焼け荒らされた領地は、路頭に迷っている百姓どもをつけて、借財の抵当に取られてしまった。六つと七つになるふたりの女の子は、トーツキイが持ち前の義侠心から、引き取って養育してやることにした。孤児は退職官吏で家族の多いトーツキイ家の支配人、しかもドイツ人の子供らといっしょに育てられるようになった。間もなく幼いほうの子は百日ぜきでなくなって、ナスチャという娘がひとりだけ生き残った。トーツキイは主として外国で暮らしているので、五年もたつうちにふたりの女の子などすっかり忘れてしまった。あるとき、彼は所用でどこかへ行くついでに、ふと自分の領地をのぞいてみようと思い立った。そして村の持ち家で、思いもよらずひとりの美しい子供が、ドイツ人の支配人の家族にまじっているのに気がついた。年のころ十二ばかり、活発で発明で愛くるしい、成人してからのなみなみならぬ美しさが思われるような女の子であった。この道にかけたらトーツキイは、けっして眼鏡違いなどのない大家であった。その時は四、五日しか領地に滞在しなかったけれど、さまざまの指図をもれなくしておいた。かくして、この女の子の養育上に著しい変化が生じたのである。教育があって人からも尊敬されている、かなり年寄ったスイス生まれの婦人が、家庭教師として招聘された。この婦人は、これまで女子の高等教育に経験があるので、フランス語のほかいろいろの学課を授けた。家庭教師が田舎の家に住まうようになってから、幼いナスターシヤの教育は大がかりになった。満四年でこの教育が終わりを告げ、家庭教師は出て行った。そのあとへやはりトーツキイと領地を隣り合わしている(ただしそれは別な遠方の県であった)女地主がやって来て、トーツキイの指図と委任に基づき、ナスチャを自分の手もとへ連れて帰った。この小さな領地にも、小さなものではあるが、同じくあらたに建ったばかりの木造の家があった。その家はかくべつ優美に飾られてあり、村の名もまるでわざと付けたように慰楽村と呼ばれていた。女地主はまっすぐにナスチャをこの閑静な小家に連れて来たが、自分も一露里ばかり離れた所に、夫も子供もなくやもめ暮らしをしていたので、ナスチャと同じ家に住まうこととした。ナスチャの身のまわりの用を足すものには、取締りの老婆と気の利いた小間使が出来た。そうして、家の中にはさまざまな楽器、優美な少女図書室、絵画、木版、鉛筆、画筆、絵具、すばらしい狆《ちん》、などが取りそろえられた。二週間たって、トーツキイが自分でそこへやって来た……それ以来、彼は妙にこの辺ぴな荒野の小村を愛して、毎年夏になるとここを訪れては、ふた月、多きは三《み》月くらいずつ滞在するようになった。こうしてかなり多くの月日がたった。四年間ばかりというものは、穏かで、幸福で、趣味もあり、優美な生活が流れ去った。
 ところが、あるときこんなことがおこった。トーツキイが慰楽村へ来て、わずか二週間そこそこで帰ってから、およそ四《よ》月ばかりたった冬のはじめごろであった。トーツキイがペテルブルグで、ある財産家で家柄のいい美人と結婚しようとしている、つまり、堂々とした華々しい結婚を企てている、とこういううわさが広まった、――というよりは、このうわさがふとナスターシヤの耳に入ったのである。のちになって、このうわさもこまごました点では不正確なところの多いことがわかった。結婚はほんの目算にすぎなかったので、すべてのことがまったく漠然たる状態にあったが、ナスターシヤの運命はこのときから一大変化をきたした。ふいに彼女は非凡な決断力と、まことに思いがけない性格を暴露したのである。長く考えようともせず、彼女は自分の田舎の家を捨てて、突如、ペテルブルグのトーツキイのもとへ、単身おしかけて行った。こちらは驚いてなにやらいいかけたが、たちまち気がついてぎょっとした。今まできわめて有効に使用することのできたいいまわし、声の調子、愉快で優美な会話の題目、以前のような論理、――もう何から何までいっさい変改《へんがえ》しなければならなかった。彼の前にはまるっきり別な女がすわっている。彼が今まで熟知しており、そしてついこの七月に慰楽村《オトラードノエ》で別れたものとは、まるで似ても似つかぬ女がすわっていたのである。
 この新しい女は、いま見れば、驚くばかり多くのことを知り、かつ解していた、――どこからこのような知識を得てきたか、またどうしてこんな正確な理解力を養ったのかと、ただただ驚かれるばかりであった。(まさか、あの少女図書室の中からではあるまい!)そればかりか、彼女は法律上のことをもおびただしく心得ており、世間それ自体とはいわれないかもしれぬが、すくなくとも世の中においてある種の事柄がいかに行なわれているかについて、よりどころのある知識を持っていた。それから、第二に性格の相違である。以前はなんとなくおどおどして、女学生式に取りとめがなく、どうかすると飛び放れたお転婆をしたり、罪のないことをいったりして、なんともいわれず愛くるしい、かと思うともの思わしげにふさぎこんで、疑りぶかくて涙っぽい、落ちつきのない女になってしまう、というようなふうであったが、今はその面影もない。
 そうだ、いま彼の前には、夢にも思いもよらなかった異常な一人物が、からからと傍若無人に笑いながら、毒に満ちた皮肉で、彼の心をさいなんでいるのであった。この新しい女は、彼に向かって、今まで自分の心中に深い深い侮蔑の念、――最初の驚きにつづいてすぐあとからわきおこった侮蔑、吐き気を催すような侮蔑の念のほか、いかなる感情をも彼に対していだいたことがないということを、無遠慮にぶちまけた。そうして、うそも隠しもないところ、男がいまだれと結婚しようと平気だが、彼女はただ男に結婚させない、意地でも結婚させないつもりでやって来た、そのわけはただそうしたいからなんで、そうしたいというのは、つまり、そうしなければならぬということになるからだ、とこうも宣告した。『まあそれでも不足ならばね、ただ腹さんざんあなたのことを笑ってあげにきたんですよ。なぜって、わたしだっていい加減なときには、自分で人のことを笑ってやりたくもなりましょうさ』
 すくなくも彼女はこれだけのことをいった。あるいはこれだけでは胸の中にあることを残らずいってしまったことにはならなかったかもしれぬ。しかし、新しいナスターシヤが大声に笑いながら、こういうふうのことをいっている間に、トーツキイは腹の中でこの事件をさまざまに思いめぐらしつつ、いくぶん調子の狂ってきた自分の思想をできるだけ整頓した。この沈思熟考は、だいぶ長いことつづいたのである。彼は全心この問題に没頭して、二週間ちかく最後の断案を得ようと苦心した。ついに二週間たって、この断案が得られた。それはこうである、トーツキイは当時もう五十前後で、このうえなく手固い、すっかり価値の決定した人物である。一般世間および社交界における地位も、強固な基礎の上に築かれている。それゆえ、すべて上流の紳士として当然のことではあるが、彼は自己ならびに自己の安寧と慰楽をなによりも愛しかつ尊重した。今までの全生涯を費して完成させ、こうした美しい形式にまとめあげたすべてのものが、たとえすこしでもぐらついたり、こわされたりするのは、とうてい堪ええないことであった。また一方、年来の経験と深刻な物の見かたなどが、きわめて迅速に、驚くべく正確に、さまざまなことをトーツキイに助言してくれた。ほかでもない、いま自分が相手にしているのはなみたいていの女ではない、この女はただ口でおどかすばかりでなく、かならず実行するに相違ない、そしてなにより恐ろしいのは、何ものに対してもけっして狐疑逡巡しないという気性である、ましてこの女は世界じゅうの何ものをも尊しとしないから、したがって、利をもって誘うなどということは断じて不可能である。
 どうもそこには明らかに今までとぜんぜんちがったものがある、精神情緒の中に欝結したにごり水のようなものが感じられる。すなわちある種の小説的な憤懣の情と(ただし、だれに対するなんのうらみやらわけがわからぬ)、それから、もうまったく常軌を逸してしまった、何ものをもっても癒すことのできない侮蔑の念、――てっとり早くいえば、秩序ある社会では許すべからざるこっけいなもので、そんなものに取っつかれるのは、身分ある人にとって神罰とよりいいようのないものがある。むろん、トーツキイほどの富と門閥があれば、この不愉快を避けるために、ちょっとした罪のない陰謀をめぐらすのは、造作もないことである。いま一方からいえば、ナスターシヤも、なにか、たとえば、法律的な意味で彼に危害を加えることはできまいし、またたいして外聞の悪いこともしおおせられまい。なぜなら、彼女の行動を掣肘《せいちゅう》することくらい、じじつ、なんでもないからである。しかし、これとても、ナスターシヤが、一般に人がこんな場合ふるまうように、あまり法外な常軌を逸した行動をとらなかったら、という仮定をした場合にすぎない。こう考えたトーツキイは、またしても自分の正確な見かたのおかげで、あまりありがたくない結論に到着した。彼の推定によると、ナスクーシヤ自身も、法律の方面からはなんらの危害をも男に加ええないことを心得ているが、彼女の考えているのは、まるっきり別のことである……あの、ぎらぎら光る両眼を見ても知れる。何ものをも、とりわけ自分自身さえ尊重しないナスターシヤは(彼女がとっくの昔から自分自身を尊重しなくなったということをこの場合に洞察して、その心持ちの真剣さを信じるのは、トーツキイのような懐疑派でかつ社交界のシニ″夕にとっては至難のわざであって、それには少なからぬ知力と透察力を必要とする)、シベリア行きであろうと、懲役であろうと、どんな醜い方法でもいとわず、ひと思いに自分を破滅さしてしまう覚悟である。ただただ限りなく残忍な嫌悪を感じている男を、思うさま辱しめてやればそれでいいのだ。トーツキイは自分が少々臆病、というよりむしろ極端に保守的なことを、けっして包み隠しはしなかった。たとえば、だれかが自分を婚姻の席上で殺すとかなんとか、それに類したきわめて無作法な、滑稽な、社交上とうていゆるすべからざるできごとが生ずるのを、もしあらかじめ知っていたとすれば、彼はむろん驚くにきまっている。しかし、それは自分が血みどろになって傷つけ殺されるとか、あるいは衆人環視の前で面《かお》に唾《される》されるとか、そのようなことが恐ろしいのではない。彼が恐れるのは、それらの事件が世間に類のない不自然な形式をとって現われるということであった。ナスターシヤも口にこそ出さね、つまりこの点を予告したものではないか。この女は彼の人物を完全に了解し研究しているので、したがって虚に乗ずべき弱点をもそらんじている。それはトーツキイも自分でよく知っていた。また、じっさい、結婚というのは単に意向にとどまっていたので、トーツキイはナスターシヤに譲歩し和睦した。
 彼がこう決心したのには別に一つの事情がある。新しいナスターシヤの容貌が古いナスターシヤに比べて、どれくらい違っているか、想像もできないほどであった。以前はただもう無性にかわいいというだけであったが、今はどうだろう……トーツキイは四年間も見ていながら、ついにその真相に激しえなかった自分を、長いことみずから責めていた。もっとも、この変化が双方の側から内面的に、突如として生じたということも、大きな原因にはなっている。とはいえ、思いだせば、以前もときどき、あの二つの目をながめているうちに、なにかしら奇怪な考えの浮かぶ瞬間があった。いわば、この目の中に深い得体のしれぬ闇が予覚されたような具合である。この眸に見られると――まるで謎でもかけられているような気持ちがした。最近二年間というもの、彼はしょっちゅうナスターシヤの顔色の変化に驚かされた。ときどき恐ろしいほど青くなって――不思議にもそれが一段と美しさを増すのであった。若いときに道楽をした紳士連はだれでもそうだが、トーツキイもはじめのうちは、本当の生活をしなかったこの魂が、どんな安い値段で手に入ったかと思うたびに、侮蔑の念を禁じえなかったが、のちになっていくらか自分の見解に疑念をはさむようになった。いずれにしても、彼は去年の春ごろから腹の中で一つ決心を固めていたことがある。それは才知もあり社会上相当の地位もある他県の官吏に、近近ナスターシヤを持参金つきでりっぱに嫁入らせようというのである(今このことをナスターシヤはどんなに恐ろしく、どんなに毒々しく冷笑したことか!)。ところが、今になって新物食いのトーツキイは、も一度この女を利用し享楽することができるかもしれぬ、と考えついた。彼はナスターシヤをペテルブルグに住まわして、栄耀栄華をさせてやろうと決心した。つまり、一方がだめなら、いま一方をというわけなのである。ナスターシヤくらいの女ならけっして人前に出てはずかしくない、それどころか、ある仲間のあいだでは大いに名声をかちうるに相違ない。じっさい、トーツキイはこの方面での名誉をかなり尊重していたのである。
 ペテルブルグ生活もそれからもう五年たった。むろん、そのうちにはいろいろの関係も決まって来た。なかでもトーツキイの位置はあまりかんばしくなかった。なにより困るのは、一度気おくれがして以来、どうしても心が落ちつかぬことである、――彼は自分でもわけがわからずに、ただナスターシヤを恐れた。彼もはじめ二年ばかりのあいだ、ナスターシヤは自分と結婚したいと思っているくせに、極端な自尊心の結果かたく口をつぐんで、男のほうから申し込むのを片意地に待っているのではないか、とも疑っていた。いくぶん奇妙な自惚《うぬぼれ》ではあるが、トーツキイはおそろしく気がまわるようになったのである。彼は顔をしかめて考えこんでしまった。ところが、思いもよらずふとした機会で、よし彼のほうから結婚を申し込んでも、けっしてナスターシヤが受け付けはしないということを確かめて、大いに驚きもし、またいくぶんいやな気持ちもした(人間の心はこうしたものだ!)。彼は長いあいだその解釈に苦しんだが、結局『凌辱されたファンタスチックな女』の誇りが極端な興奮状態に達して、永久に自分の地位を固め常人の及びがたい栄達を手に入れるよりも、むしろただひと言の拒絶によっておのれの侮蔑を吐き出すほうに、むしろ快感を覚えるまでにいたった、というのが唯一の可能なる説明らしく思われた。なにより不都合なのは、ナスターシヤがおそろしく上手に出ることであった。利益などというものには、かなり莫大なものであっても、けっしてつられようとしない。提供されるがままに気楽な生活はしているが、あまりたいしてはでなこともせず、この五年間ほとんどなにひとつ蓄えなかった。トーツキイはまた自分の桎梏を破るためにはなはだ狡猾な手段を弄した。彼はいろいろと理想的な誘惑の助けをかりて、たくみに気づかれぬように女をおびきはじめた。しかし、これらの理想を具体化したような公爵とか、軽騎兵とか、大使付き秘書官とか、詩人、小説家とか、おまけに社会主義者のような者でさえ、ナスターシヤにはなんの感銘をも与えることができなかった。あたかも彼女の胸には心臓のかわりに石が横たわっており、感情はひあがって永久に枯死してしまったかのようであった。
 彼女はどっちかといえば、世問から遠ざかっているほうが多く、勉強という言葉を使わねばならぬくらい書物を読み、音楽を好んだ。知り合いはあまり多くなかったが、いつも奇態な貧乏官吏の細君などと親しくしていた。そのほかなんとかいう女優がふたり、お婆さんが幾人か、すべてこういう連中が友達であった。またあるりっぱな教師の大人数な家庭も、ナスターシヤの気に入っていた。その家でも彼女を愛して喜び迎えるのが常であった。晩になるとよく知り合いの連中が五、六人あつまるが、それより多いことはない。トーツキイは足しげくきちんきちんとやって来た。最近エパンチン将軍もかなり面倒な思いをして、ナスターシヤと近づきになった。それと同時に、フェルディシチェンコというひとりの若い官吏が、なんの苦もなしに楽々と彼女に近づいてしまった。それはきわめて無作法な、いやにふざけたしつこい男で、みずから陽気者をもって任じている酒飲みである。それから、姓をプチーツィンという不思議な青年も、やはり彼女と近づきであった。おとなしくきちょうめんであか抜けのした男だが、乞食同様の境界から出て、今では高利貸をしている。最後にガヴリーラも紹介せられた……が、とどのつまり、ナスターシヤに関して奇妙な評判がすっかり広がってしまった。ほかでもない、彼女の美しいことはみんな知っているが、しかしただそれっきりで、なにも彼女を種に自慢することもできなければ、なにも変わった話の種にするようなこともないのであった。こういう評判にかてて加えて、彼女の教育とか、才知とか、または優雅な物腰などがいっしょになって、トーツキイにかねての計画を実行しようという決心を固めさせた。エパンチン将軍が自分であれほどいっしょうけんめいにこのいきさつにたずさわるようになったのは、まさにこの時からである。
 トーツキイは将軍の令嬢を所望するについて、父将軍に如才なく親友としての意見を求めたとき、その場で高潔なる態度をもっていっさいの事情を露骨にうち明けてしまった。おのれの自由を得るためにはいかなる[#「いかなる」に傍点]方法をも躊躇しないこと、よしやナスターシヤが今後かれの安寧を妨げないと自分から申し立てても、彼はけっして安心せぬ、口先の誓いなどでは十分でない、もっとも完全な保証が必要である、とこういうようなことをうち明けた。さまざまに談合した末、共同一致ことに従うということに決まった。まず最初はなるべく穏便な手段をとって、いわば、『胸の琴線』に触れるくらいのところにとどめようと決議した。ふたりはナスターシヤのもとへ出かけて行った。トーツキイはいきなりぶっつけに、自分の境遇の堪えがたい恐ろしさを女に訴え、万事につけおのれ一身を責めた。ただナスターシヤに対する最初の行為については、どうも後悔するわけには行かぬ、なぜなら彼は病|膏肓《こうこう》に入ったすき者で、自分で自分を制することができないからである。ところで、いま結婚したいと思っているが、世間体のわるくない上流紳士らしいこの結婚の運命は、一にかかって彼女の双手にある。ひと言にしてつくせば、彼はナスターシヤの高潔なる心情に、すべての望みをつないでいる、――というふうなことを、トーツキイは包まず隠さず女にうち明けた。その次に、エパンチン将軍が父親の資格でこんこんと説きはじめた。その説きかたは道理を主として、感情的な言句をさけ、ただ彼女が、トーツキイの運命を決する権利の所有者であることを完全に承認する由をのべ、また娘の運命が(ことによったら、あとふたりの娘の運命も)彼女の決心一つにかかっているうんぬんの言葉で、自分もある点ではおとなしくあきらめているということを上手にほのめかした。『つまり、わたしにどうしろとおっしゃるのですか?』というナスターシヤの問いに対して、トーツキイは以前と同じくあけっぴろげにまっすぐに白状した、――彼は五年前にひどくびっくりさせられたので、ナスターシヤがだれかに嫁入りせぬうちはとても安心できない、こういってトーツキイはすぐつけ足した、――こんな依頼はなにかそれについて確かな根拠がなかったなら、じつにばかばかしいことに相違ない。が、自分はこんなことを知っている、――りっぱな家柄の出で、今も尊敬すべき家族とともに暮らしている青年、というのはじつは彼女も承知しているばかりでなく、自分の家へ出入りを許しているガヴリーラ・アルダリオーノヴィチ・