『おとなしい女』第一章

※このテキストの校正に協力してくださった、「いとうおちゃ」さんに感謝します。

おとなしい女
 ――空想的な物語――

   著者より

 わたしはまずもって読者諸君に、今度、いつもの形式をとった『日記』の代わりに、一編の小説のみを供することについて、お許しを願わねばならぬこととなった。しかしながら、事実一か月の大部分、わたしはこの小説にかかっていたのである。いずれにしても、わたしは読者の寛恕を乞う次第である。
 さて、これから、当の物語について一言する。わたし自身はこの物語を最高度に現実的なものと考えているくせに、「空想的」という傍題を冠した。しかし、この中にはまったく空想的なところがある。というのは、物語の形式自体なのであるが、この点、まえもって説明しておく必要があると思う。
 問題は、これが物語でもなければ、手記でもないという点にあるのである。まず一人の夫を想像していただきたい。その妻は数時間前に窓から身を投げて自殺し、遺骸がテーブルの上に安置されているのである。彼は動顚してしまって、まだ自分の考えをまとめる暇がない。彼は部屋の中を歩きまわりながら、この出来事の意味を発見しよう、「自分の考えを一点に集中しよう」と努めているのだ。おまけに彼は、自分で自分を相手にしゃべるといったふうの、病い膏肓に入ったヒポコンデリー患者である。現に彼は自分を相手に話をして、事件のいきさつを物語り、それを自分に闡明[#「闡明」に傍点]しているのである。その話は一見順序だっているようだが、それにもかかわらず、彼は論理においても、感情においても、しょっちゅう自己撞着をしているのである。いま自分を弁護して、彼女を責めているかと思えば、今度は無関係なよそごとの説明をはじめる。そこには思想と心情の粗野な面が現われたかと思うと、深遠な感情がうかがわれる。やがて次第次第に、彼は実際、事件を自分自身に闡明[#「闡明」に傍点]して、「思想を一点に」集中してくる。彼の幾多の追憶は、ついに否応なく彼を真実[#「真実」に傍点]へ導いてくる。と、真実は必然的に彼の理性と心情を高めていく。終わりに近づくにしたがって、物語の調子までが無秩序な冒頭と比較して変わってくる。真理は不幸な男の眼前にかなりはっきり、決定的に展開されるのだ、少なくとも彼自身にとっては。
 これが主題である。もちろん、物語の過程はちぐはぐな形式をとって、と切れたり、間をおいたりしながら、数時間にわたってつづく。いま彼は、自分自身に話しかけているかと思うと、今度はまた目に見えない聴き手や、何か裁判官のようなものに話しかける、かのようなあんばいである。しかし、これは現実でもよくあることだ。もし速記者がその場に居合わせ、彼の言葉を聞いて、後から後から残らず書きつけることができたとすれば、その物語がここに提供したものよりも、いくらかでこぼこした、荒削りなものになったろうが、わたしの想像するかぎりでは、心理的順序はおそらく同一のものであろう。このなにもかも書きつけた速記者という仮定(後でわたしがその書きつけたものを推敲したとして)、これこそわたしがこの物語において、空想的と名づけるものである。とはいえ、多少これに類したことは、芸術においてすでに一再ならず行なわれているのである。例えば、ヴィクトル・ユーゴーのごときはその傑作『死刑囚の最後の日』で、ほとんど同様の手法を用いている。そして、速記者こそ持ち出さなかったけれど、それ以上の荒唐無稽を許して、死刑の宣告を受けたものが最後の一日どころか、最後の一時間、やかましくいえば、最後の一瞬まで手記をつづけ得る(その時間を有する)ものと、仮定しているのである。しかし、かりに彼がこの空想をあえてしなかったら、作品そのもの、――彼によって書かれたものの中で最もリアリスチックな、最も真実味に富んだ作品は、おそらく存在しなかっただろう。

    第 1 章

  1 わたしは何ものであったか、彼女は何ものであったか

 ……こうして、彼女がここにいる間は、――なんといってもまだいい。そばへ行って、一分ごとに顔が見られる。ところが、明日かつがれて行ってしまったら、――わたしはどうして一人きり残っていられよう? 彼女はいま、広間のテーブルの上に安置されている。二脚のカルタつくえが並べておいてあるのだ。棺は明日来ることになっている。白い、白い、ナポリ織の絹の打敷き、だが、そんなことはどうでもいい……わたしはのべつ歩きまわりながら、この出来事を自分で自分にはっきりさせようとしている。ああ、もう六時だ、わたしははっきりさせたくてたまらないのだが、なんとしても考えを一点に集中することができない。要するに、わたしはのべつ歩いて、歩いて、歩きまわっている……それはこういう事情だったのだ。ひとつ簡単に順序を追って話すことにしよう。(この際、順序なんて!)諸君、わたしはおよそ文士とは縁の遠いものだ、それは諸君も見られるとおりである。が、そんなことはどうだってかまわない、わたしは自分で解釈しているとおりに話してしまおう。ところが、わたしがなにもかもちゃんと解釈しているということ、それがわたしの恐ろしいところなのだ?
 実は、もしそれを知りたいとお望みならば、つまりそもそもの初めから知りたいとお望みならば、彼女はあのときわたしのところへ、ただふらりと質をおきに来たのだ。『ゴーロス』紙上に出した広告料にあてるためである。その広告はしかじか、しかじかと紋切り型よろしくあって、家庭教師として雇われたし、地方行き、出稽古に応ず、等々、といったようなものである。これがそもそもの初めで、わたしはもちろん、彼女をほかの連中と区別などしなかった。なにしろ、ほかの連中と同じようにやって来て、いろいろ型のごとくあっただけなのだから。しかし、やがてそろそろ目につきだした。彼女は白っぽい髪をした、中背よりもやや高めの、いかにもなよなよとほっそりした女で、わたしと応対する時には、いつもきまり悪そうに固くなっていた(思うに、彼女は他人に対しては、だれにでもこんなふうだったに違いない、わたしなどはもちろん、彼女にとっては甲だろうと乙だろうと、少しも変わりはなかったに違いない。つまり、もしわたしを質屋としてでなく、一個の人間として見るならばである)。金を受け取るやいなや、彼女はすぐにくるりと身をひるがえして出て行った。それがみんな黙ったままなのである。ほかの連中は少しでもよけいに借りようと思って、争ったり、ねだったり、押し問答をしたりするものだが、この女は一風ちがって、出されたものだけ持って行く……わたしはなんだか脱線ばかりしているような気がする……そうだ、わたしはまず第一に、彼女の持って来る品物にあきれてしまった。金めっきをした銀の耳環、やくざな小さいロケット、高高二十コペイカぐらいの代物である。彼女は自分でも、それが十コペイカぐらいの値うちしかないことを承知していた。しかしわたしは彼女の顔つきで、それが彼女にとって貴重な品であることを見てとった。後で知ったことだが、はたしてそれらは両親から彼女に残されたすべてだったのである。ただ一度だけ、わたしは彼女の品物を見て、意識しながらにやりとしたことがある。つまり、お断わりしておくが、わたしはこういうことは決してしないことにしていたのである。客を相手にする場合、わたしの態度は紳士で、――口数すくなく、慇懃厳正なのである。「一にも厳正、二にも厳正、三にも厳正」である。しかし、彼女はあるときとつぜん、古い兎の毛皮で作った袖無短上着《クツアヴェイカ》の残り(つまり、文字通りに)を臆面もなく持って来たことがある。――で、わたしもついこらえかねて、思わず彼女になにかしら皮肉めいたことをいってしまった。いやはや、彼女がその時どんなに赤面したことか! 彼女は大きな空色のもの思わしげな目をしていたが、――それがなんと燃えるように輝いたことか! しかし、一言もいわないで、その「残り物」を持って、――出て行ってしまった。そのときわたしは初めて彼女を特別に[#「特別」に傍点]認め、そしてやはり同じような具合に彼女のことを何やら考えた。つまり、何か特別な具合に考えたのである。そうだ、わたしは今でもまだその時の印象を覚えている。お望みなら申しあげるが、それは最も主要な印象、いっさいのものの綜合なのである。つまり、あの女おそろしく若いな、十四ぐらいにしか見えない、若いな、といった感じである。ところが、彼女はその時もう三か月で十六になるのであった。だが、わたしがいおうとしたのは、そのことではない、全綜合は決してそんなところにあったのではない。あくる日、彼女はまたやって来た。後で知ったのだが、彼女はこの袖無短上着《クツアヴェイカ》を持って、ドブロヌラーヴォフのところへも、モーゼルのところへも行ったが、どちらも金製品よりほかには扱わないので、てんで話にならなかったわけである。ところが、わたしはいちど彼女から浮彫石《カメオ》(ごくお粗末な)をとったことがある、――後で気がついて、われながら驚いたのだが、わたしも金銀以外のものは決してとらなかったのに、彼女にだけ浮彫石《カメオ》をさし許したのである。これが当時、彼女に関する第二の想念であった、わたしはそれをよく覚えている。
 彼女は今度は、というのはつまり、モーゼルのところを出たその足で、琥珀の葉巻パイプを持って来た、――代物としては相当なもので、道楽向きの品だったが、われわれのところでは結局、一文の値うちもないのであった。なにぶん、われわれは金製品しか扱わないのだから。しかし、彼女は昨日の叛逆[#「叛逆」に傍点]のあとでやって来たのだから、わたしは厳かに彼女を迎えた。わたしの厳かというのは、そっけない態度のことである。そのくせ、彼女に二ルーブリの金をわたしながら、わたしはついこらえかねて、いくぶんいらだたしさを見せながら、「まったくあなただから[#「あなただから」に傍点]お貸しするんですよ。モーゼルなんか、こんなものは受けつけやしませんからね」といってしまった。「あなただから[#「あなただから」に傍点]」という言葉にわたしはとくに力を入れた。つまり、ある意味[#「ある意味」に傍点]を持たせたのである。わたしは意地が悪かった。この「あなただから[#「あなただから」に傍点]」を聞くと、彼女はまたかっとあかくなったが、黙りこくって、金もほうり出さずに受け取った、――貧乏の悲しさである! それにしても、なんて真っ赤になったことか! わたしはまんまと一本刺したなと悟った。彼女が出て行ってしまうと、急にわたしは自分にたずねた、――では、はたして彼女に対するこの勝利が、二ルーブリに値するだろうか? へ、へ、ヘ! 忘れもしない、わたしはほかならぬこの問いを、二度までも自分にかけてみた。「値するだろうか? 値するだろうか?」そして、笑いながら、腹の中でそれを肯定の意味に解決した。その時、わたしはもうやたらにうきうきしていた。しかし、これはよからぬ感情ではなかった。わたしは心あって、計画的にそうしたのである。わたしは彼女を試してみたかった、というのは、わたしの頭にはそのときふいに、彼女を目あてにある考えが湧いてきたからである。これが彼女についてわたしがいだいた第三の特別[#「特別」に傍点]な考えであった。
 ……さて、こうして、それ以来すべてが始まったのだ。もちろん、わたしは早速わきのほうからいっさいの事情を探り出そうと骨折った。そして、特別こらえきれぬ思いで彼女の来るのを待っていた。彼女が間もなくやって来るのを予感していたのだ。いよいよやって来た時、わたしは特別の慇懃さで、愛想のいい話をはじめた。なにしろ、わたしは相当の教育を受けているし、行儀作法も心得ている。ふむ! その時はじめて、これは心だての優しい、おとなしい女だな、とわたしは察した。心だての優しいおとなしいものは、長く突っ張ることをしない、決してむやみにうち明け話もしないけれど、話をそらしたりすることはどうしてもできないのである。口数こそ少ないけれど、答えることは答える。そして、さきへ行けば行くほど、だんだん言葉数が多くなる。もし何か知りたかったら、こちらに根気さえあればいいのである。もちろん、そのとき彼女は自分からは何もいわなかった。『ゴーロス』紙のことも、そのほかいっさいのことも、みんな後で知ったのである。彼女はその時なけなしの金をはたいて広告した。初めはもちろん、大風《おおふう》にかまえて、「家庭教師、地方行き可。条件は封書にて密送のこと」ところが、後には、「教授、夫人令嬢の話し相手、家政婦、病人の看護、裁縫、その他いっさい可」云々、云々、すべてみな様ご承知の文句なのだ! もちろん、こうしたことはみんな手を換え品を換えて、広告のたびごとにつけ加えられていったのだが、とどのつまり、いよいよ脈がないとなった時、「無給、食事のみにて」とまでやってのけたが、それでもだめ、口は見つからなかった! そのときわたしは最後に彼女を試してみようと決心した。だしぬけにその日の『ゴーロス』紙をとって、次のような広告を彼女に見せてやった。「若き婦人、まったくの孤児、主として年輩のやもめの宅に幼年子女の家庭教師の地位を求む、家政の労をとるも可」
「ね、ごらんなさい、これは今朝出た広告だが、この女はきっと夕方までに口を見つけますよ。広告ってものは、こういうふうにしなくちゃだめですよ!」
 彼女はまたもやかっと真っ赤になり、またもや双の目がぎらぎら輝きだした。彼女はくるりと踵を転じて、そのまま行ってしまった。それが非常にわたしの気に入った。もっとも、わたしはその時もう万事につけて確信を持っていたので、いっこうに恐れなかった。パイプを質にとるものはどこにもあるまい、というわけだ。しかも、彼女の手もとには、そうしたがらくたももう出払ってしまったのである。はたせるかな、三日目に彼女は真っ青な顔をして、わくわくしながら入って来た、――わたしは何か家で起こったのだなと悟ったが、実際そのとおりであった。何が起こったかはすぐ説明することとして、今はただこれだけのことをいっておこう。そのときわたしはとつぜん、自分の洒落た凡ならざるところを見せて、彼女にわたしという人間を見直させたのである。ふいにそういう計画が、わたしの心に浮かんだのである。実は、彼女が例の聖像を持って来たのだ(思いきって持って来たのだ)……ああ、聞いてくれ! 聞いてくれ! これから、いよいよはじまりなのだから、今までわたしはとりとめないことばかりいっていたのだ……要するに、わたしは今こうしたことを残らず思い出したのだ、こうした些細なことを一つ一つ、こまかい端の端まで。わたしは考えを一つの点に集中したくてたまらないのだが、それができない。つまり、こういった些細なことを、端から端まで……
 聖母像である。みどりごを抱いた聖母像、家伝来の古いもので、袈裟は銀台に金めっきがしてある、――値うちがある、――まあ、六ルーブリがとこの値うちはある。見受けたところ、彼女にとっては大事な聖像らしい。袈裟をはずさずに、聖像をそっくりそのまま質に入れようというのである。そこでわたしはいった。――袈裟だけはずしたらどんなものです、そして聖像は持ってお帰んなさい。だって、聖像はやっぱりどうも、その。
「まあ、聖像をとることはさし止めになっているんですの?」
「いや、さし止めというわけでもないが、ただ、もしかしたら、あなた自身に……」
「じゃ、はずしてください」
「ああ、いいことがある、はずすのをやめて、このままあのお厨子の中へ収めておきましょう」とわたしはちょっと考えてからいった。「ほかの聖像といっしょに、お燈明の下にね(わたしのところではいつも、帳場を開くと同時に、燈明に火を入れた)。そして、ただなんということなしに、十ルーブリ持っていらっしゃい」
「あたし十ルーブリなんていりませんの。五ルーブリだけちょうだいします、きっと受け出しますから」
「十ルーブリはいらないんですって? 聖像はそれだけの値うちがあるんですがなあ」またもや彼女の目が、きらきら光りだしたのを認めて、わたしはこうつけたした。
 彼女は口をつぐんだ。わたしは彼女に五ルーブリ出してやった。
「だれであろうと、人を軽蔑してはいけませんよ、わたしも自分で同じような苦労をしてきた人間なんです。いや、それよりもっとひどかったくらいです、今わたしはごらんのとおりこんな商売をしていますが……これというのも、みないろんな目にあってきたあげくのことなんです……」
「あなたは社会に復讐していらっしゃるんですのね? そうでしょう?」と彼女はふいにかなり辛辣な嘲笑を浮かべて、わたしの言葉をさえぎったが、その中にはしかし、たぶんの無邪気さがあった(つまり、一般的なものなのである。なぜなら、彼女はそのときわたしを全然ほかの人間と区別していず、ほとんどなんの毒気もない調子でいったからである)。
『ははあ!』とわたしは考えた。『お前はそういう女か、性根が出てきたぞ、新しい傾向の』
「実はね」とわたしはすぐ、半ば冗談らしく、半ば神秘めかしていった。「わたしは、――われは悪をなさんと欲して、善を行ないつつある大いなるものの一部の一部なり……」
 彼女は素早くなみなみならぬ好奇心(その中には、とはいえ、たぶんの子供らしさを含んでいた)をもって、わたしを眺めた。
「ちょっと待ってください……それはいったいどういう思想ですの? どこからそんな句をお引きになったんですの? あたしどこかで聞いたような……」
「頭をおひねりになることはいりません、このいいまわしで、メフィストフェレスが、ファウストに自己紹介をしているんです。『ファウスト』を読んだことがありますか?」
「いえ……いえ、走り読みに」
「つまり、ちっとも読まなかったでしょう。読まなくちゃいけませんな。しかし、お見受けするところ、またあなたの唇に嘲笑のかげが浮かんだようですね。お願いですから、わたしが質屋という自分の役目を粉飾するために、あなたの前でメフィストフェレスを気どろうとしたなんて、そんな無趣味な人間だなどと思わないでください。質屋は結局、質屋です。わかってますよ」
「あなたはなんだか妙な方ね……あたし、そんなことをあなたにいおうなんて、まるで考えてもいませんでしたわ……」
 彼女は、「あたしあなたが教育のある方だなんて、思いがけませんでしたわ」といいたかったのだが、口に出してはいわなかった。そのかわりわたしのほうで、彼女がそう思ったことを知っていた。わたしはひどく彼女の御意にかなったのである。
「そりゃあね」とわたしはいった。「どんな職場にいても、いいことをすることはできます。もちろん、わたしは自分のことをいっているのじゃありません。かりにわたしは悪いことよりほか何もしていないにしろ、しかし……」
「そりゃもう、どんなところにいたって、いいことはできますわ」と彼女は素早い、浸み入るようなまなざしで、わたしを見ながらいった。「まったくどんなところにいたってもね[#「いたってもね」はママ]」と唐突に彼女はいいたした。
 おお、わたしは覚えている。こういった一瞬一瞬をことごとく覚えている。それから、なおつけ加えておきたいのは、こういった若い人たちは、こういったふうの愛すべき若い人たちは、何かこれに類した、賢い、人の心に滲み入るようなことをいいたくなると、急にあまりにも誠実無邪気に、「そら、今わたしはお前にかしこい、心に滲み入るようなことをいうのだよ」といった気持ちを顔に出すものである、――もっとも、それはわれわれのように虚栄心からやるのではなく、彼ら自身ひどくそれを尊重し、信仰し尊敬して、相手も当人と同じように、それを尊敬してくれるものと思い込んでいることが、ありありと見えているのである。おお、誠実!これで[#「誠実!これで」はママ]彼らは相手を征服するのである。しかも、彼女にあっては、それがどんな魅力となったか!
 わたしは覚えている、なに一つ忘れはしなかった! 彼女が出て行くと、わたしはひと思いに肚をきめた。さっそくその日のうちに、わたしは最後の探索に出向いて、彼女について聞き残していた現在の真相を知った。過去の真相は、当時彼らのうちに勤めているルケリヤを数日前に買収して、すっかり知りつくしていたのである。ところが、現在の真相たるや、あまりにも恐ろしいものだったので、わたしは彼女がそれほどの恐怖のもとにおかれながら、よくもさきほどあんなに笑ったり、メフィストフェレスの言葉に好奇心を起こしたりすることができたものだと、ふつふつ合点がゆかないくらいであった。しかし、――若さの力である! そのときわたしは彼女のことを、誇りと喜びをもって、まさしくこう思ったのである。なぜなら、そこには寛大な心があったからである。滅亡の淵に瀕していながら、ゲーテの偉大なる言葉はその心に輝くのだ。若い人たちというものは、ほんの滴ほどでも、常に寛大な心をもっているものである。よしんば方向は歪んでいるにもせよ。つまり、わたしは彼女のことをいっているのだ、彼女一人だけのことをいっているのだ。要するに、そのときわたしはすでに彼女を自分のもの[#「自分のもの」に傍点]として眺め、自分の力を疑わなかったのである。もはやなんの疑いもなくなった時のこうした考え、その甘美さといったらないのである。
 しかし、わたしはどうしたということだ? こんな調子でいったら、いつすべてを一つの点に集中することができることやら! 早く、早く、――問題は全然こんなことにあるのではないのだ。ああ、やりきれない!

   2 結婚申込

 彼女について知った「真相」を一言で説明しよう。父と母とはもうずっと以前、三年も前に死んでしまって、彼女はだらしのない叔母たちの手に取り残された。もっとも、彼らのことをだらしがないというだけではたりない。一人の叔母はやもめだが、家族は大人数で、年のあまり違わない六人の子供をかかえていたし、もう一人は老嬢で根性の悪い女であった。どちらも根性がよくなかった。彼女の父親は官吏だったが、書記くらいのところで、身分はしがない一代貴族、――要するに、なにもかもわたしには手ごろであった。わたしなどはそこへ行くと、まるで掃き溜めへ鶴が降りたようなものであった。なんといっても、光輝ある連隊の退職二等大尉で、世襲貴族で、立派な一本立ちの人間、などと数え立てたらきりがない。質屋の店という点にいたっては、叔母たちはただ尊敬の目をもって見うるのみであった。彼女はこの叔母二人のところで、三年のあいだ奴隷のような境遇におかれていたが、にもかかわらず、その間にどこかの試験を受けた、――受けて首尾よく合格した。日雇かせぎのような情け容赦もない労働の中から暇をぬすんで合格したのである、――彼女がかように高いもの、上品なものにあこがれて突き進んで行ったということは、相当意味のある事実ではないか! わたしのほうとしては、なんのために結婚を思い立ったかというと……だが、自分のことなんかどうでもいい、それは後のことだ……第一、そんなことが問題だろうか!-彼女は叔母の子供を教えたり、肌着を縫ったりしていたが、しまいには肌着どころか、あの弱い胸をもちながら、床まで洗ったものである。手っとり早くいえば、叔母たちは彼女をうち打擲し、口にするパンの一切れ一切れをやかましくいったのである。そしてあげくのはては、彼女を売り飛ばそうと考えるまでにいたった。ぺっ! こんな穢らわしいことの仔細ははぶくとしよう。その後、彼女はなにもかも詳しくわたしに伝えてくれた。
 こうした一部始終を、まる一年間じっと見ていたのが隣りの肥った商人であったが、それはただの小商人でなく、食料雑貨店を二軒も持っていたのである。この男はもう女房を二人殺して、三人目をさがしているところだったので、彼女に目をつけたわけである。「静かな娘で、貧乏に育ったから、苦労も知っている。なにしろ、おれが女房をもらうのは、子供のためなんだからな」という気になった。実際、この男には子供があったのだ。そこで申込みという段取りとなり、叔母たちと談合をはじめた。おまけに、この男は年も五十からになるのである。彼女はぞっとしてしまった。つまりこの時から、彼女は『ゴーロス』へ広告を出すために、わたしのところへせっせと足を運びだしたのである。とどのつまり、彼女は叔母たちに向かって、ほんのちょっぴり考える暇をくれるようにと頼みはじめた。そのちょっぴりは許されたが、それもただ一度きりで、二度とは聞いてくれない、「よけいな口がなくてさえ、自分たちだけでも食うに困っているんじゃないか」と責めつけられるのであった。わたしはそういう事情をもうすっかり知っていたので、その日、朝のことがあってから、肚をきめてしまった。その晩、例の商人が、店から五十コペイカぐらいの菓子を一フント(四一〇グラム)持ってやって来た。彼女はそのそばにすわらされたわけである。わたしは台所からルケリヤを呼び出し、わたしが門のそばに待っていて、何か急な話があるといっていると、彼女にそっと耳打ちするようにいいつけた。わたしはそうした自分に満足であった。概してその日はいちんち、わたしはひどく満足な気持ちだった。
 わたしはいきなりその門のそばで、ルケリヤの聞いている前で、わたしに呼び出されたことだけでもいいかげん驚いている彼女に向かって、これこれしかじかで、もしご承諾ねがえれば幸福とも名誉とも考えている、云々と切り出した……第二に、――わたしの振舞いにびっくりせぬように願いたい、門のそばでこんな話はさぞ変に思われるだろうが、自分は「まっすぐな人間で、事情も十分に研究したうえなのだから」と説明した。わたしがまっすぐな人間だといったのは法螺ではない。まあ、こんなことはどうだっていい。だが、わたしの話し方はきちんとして作法にかなっていた。つまり、わたしが教養のある人間だということを示したのであるが、そればかりでなく、ぜんたいの持ちかけ方が奇抜なのであった。そして、これが最も有効だったのである。いったいこうしたことを告白するのは罪だろうか? わたしは自分を裁きたい。だから現に裁いているのだ。わたしはproかcontra(是か非)かをいわなければならない、だからそれをいっているのだ。わたしは後になっても、その時のことを思いだすといい気持ちであった。もっとも、こんなことはばかげた話であるが……わたしはそのとき率直に冷静な態度で、第一、自分はべつにこれといった才能もなく、取り立てて賢くもなく、あるいはまたあまり善良ですらなくて、かなり安価なエゴイストかもしれず(わたしはこの表現を記憶している、わたしはそのとき途々こいつを考え出して、自分でもそれに満足していたのである)、その他の点においても、いろいろ不快なところがあるかもしれない、それは大いにあり得ることだと言明した。しかも、これらすべてを一種特別な、誇りやかな[#「誇りやかな」はママ]調子でいってのけたのである、――普通こういうことがどんなふうに語られるかは、わかりきった話だ。もちろん、わたしは、自分の欠点を堂々と言明しておいて、そのあとで、「しかしそのかわり、これこれこういうことがある」などと、自分の長所をならべ立てるようなことをしないだけの趣味《このみ》のよさがあった。わたしは、彼女がまだ目下のところ、ひどくこわがっていることを見てとったが、その不安を解こうとしなかったばかりか、わざとそれを煽り立てるように、食うことに事は欠かせないが、さて衣裳とか、芝居とか、舞踏会などという贅沢はいっさいさせない、それは、まあ、将来、目的を達してから後の話だと、真正面からいっておいた。この厳粛な調子が気に入って、わたしはすっかり夢中になってしまったのである。なおわたしは、これもできるだけさりげない調子で、自分がこんな仕事を選んだのは、つまり質屋の店などを開いているのは、ただある目的を持っているためで、要するに、ある一つの事情がしからしめたからだとつけ加えた……しかし、わたしはそういうだけの権利は持っていたのだ。実際、わたしにはそういう目的、そういう事情があったのである。ちょっと待っていただきたい、諸君、わたしは生涯この質店を自分からさきに立って憎悪していたのである。しかし、実のところ、こんな神秘めかしい文句を使って話をするのは、われながら滑稽に聞こえるが、わたしは実際、「社会に復讐していた」のである、ほんとう、ほんとう、ほんとうなのだ! だから、その朝、わたしが「復讐している」とかいった彼女の皮肉は、心から出た言葉ではなかったのである。つまり、そのわけはお察しでもあろうが、もしわたしが「そうです、わたしは社会に復讐しているのです」と直接言葉をもっていおうものなら、彼女は朝のように笑ってしまって、事実、滑稽なものになったであろう。それを、遠まわしの暗示で、神秘めかしい文句を使っていたから、かえって相手の想像を籠絡することができるのである。そればかりでなく、そのときわたしはすでになにものをも恐れていなかった。なにしろわたしは、肥っちょの商人はいずれにしても、わたし以上彼女にきらわれているので、門のそばに立ったわたしは、解放者として現われたのだということを、ちゃんと承知していたからである。実際、わたしはそこを呑み込んでいた。おお、人間はことによく卑劣を理解するものである! だが、これははたして卑劣だろうか? どうしてこのような場合、人間を裁くことができよう? いったいその時でさえ、すでにわたしは彼女を愛していなかっただろうか?
 待っていただきたい。もちろん、わたしはそのとき彼女に向かって、恩がましいことなどはおくびにも出さなかった。それどころか、まったくその反対に「恩を受けるのはわたし[#「わたし」に傍点]で、あなた[#「あなた」に傍点]ではない」といったくらいである。しかも、それを口に出してしまった。つい自分を抑制することができなかったのである。で、結局、ばかげたことになってしまったらしい。その証拠には、彼女の顔にちらりと皮肉なかげが走るのを認めたからである。が、全体としては、断じてわたしの勝ちであった。まあ、待っていただきたい、こうした穢らわしいことを逐一回想する以上、最後の卑しい考えも白状してしまおう。わたしは立っていたが、頭の中には一つの想念がうごめいていた、――おれは背も高いし、恰好もすらりとして、教育もある、それから、――最後に、うぬぼれなしにいっても、男振りだって悪くない。こうした考えがわたしの頭の中をおどっていたのである。いうまでもなく、彼女は即座に門のそばでわたしにうん[#「うん」に傍点]といった。けれど……けれど、つけ加えなければならないが、彼女はその門のそばで、うん[#「うん」に傍点]というまえに、かなり長いこと考えていた。あまり考え込んでしまったので、わたしはとうとう、「さあ、どうですか?」とたずねた。――のみならず、つい我慢しきれないで、変に気どって、「さあ、どうですかね?」と、きざな「ね」までつけたくらいである。
「待ってください、あたし考えてるんですから」
 彼女の顔つきはいかにもまじめなものであった、そのまじめさといったら、そのときすでに読み取ることができたはずだと思われるほどであった! ところが、わたしは少しむっとして、『この女はおれと商人とを天秤《てんびん》にかけているのだろうか?』と考えた。おお、そのときわたしはまだ悟らなかったのである! そのときわたしはまだなんにも、なんにも悟らなかったのである! いや、今日が日まで悟らなかったのである! 忘れもしない、わたしがもう帰りかけた時に、ルケリヤがわたしのあとから駆け出して来て、路上にわたしを呼びとめ、息を切らせながら、こういった。「旦那様、うちのかわいいお嬢さんをもらってくだすって、ご奇特なことでございます。ほんとうに神様からお恵みをお授かりになりますよ。ただお嬢さまにこんなことをおっしゃらないでくださいまし、気位の高い方ですからね」
 なるほど、気位の高い女だ! わたしは自体、気位の高い人間が好きである。気位の高い女はことにいい、わけても……わけても、彼らに対する自己の優越のもはや疑いのない時には、なおさらである。え、どんなものだ? おお、下劣な、へまな男! ああ、わたしはじつに大満悦であった! ところで、もしかしたら、彼女はわたしにうんという返事をしようとして、あのとき門のそばで考え込んでいるし、わたしは返事が遅いのに驚いていた時、あるいは彼女の頭にこんな考えが浮かんでいたかもしれないのだ。『どうせどっちへ行っても不幸を見るくらいなら、いっそ初めから悪いほう、つまり肥っちょの商人のほうを選んで、一日も早く酔ったまぎれに打ち殺されるほうがよくはないかしら?』え! 諸君はどう思われるか、そういう考えが起こり得たであろうか。
 今でもわたしはわからない、今でもなに一つわからない。わたしはたった今、彼女はそうした考えを持っていたかもしれない、といった。つまり、二つの不幸のうち悪いほう、すなわち商人を選ぼうという考えを持ったかもしれないといったが、そのとき彼女にとって、わたしと商人とどちらがより大きな悪であったろう? 商人のほうか、それともゲーテを引用する質屋か? これはいまだに疑問である! なに、疑問だって? お前はそれすらまだわからない、答えは現に、テーブルの上に横たわっている。それだのに、お前は疑問だなどといっている! ちえっ、おれのことなんかどうでもいい! 問題はぜんぜんわたしなんかにあるのではない……だが、ついでに一言、いまわたしにとって――問題がわたしにあろうとなかろうと、それがいったいどうしたというのだ?いやはや[#「いうのだ?いやはや」はママ]、こうなるとまるで解決がつかない。いっそ横になって寝るとしよう。頭が痛い……

   3 高潔無比の人、されどみずから信ぜず

 眠れなかった。それに眠るどころの話ではない。頭の中では、何か脈のようなものがずきんずきん打っている。わたしはこうしたことをすっかり納得のゆくように、頭の中で整理したいと思う。こうした穢らわしいことを、すっかり整理したいのだ。おお、穢らわしい! おお、そのときわたしはどんな穢らわしい世界から彼女を引きあげてやったと思う。彼女はそれを理解して、わたしのしたことをありがたく思わなくてはならなかったのだ! わたしはまたいろんなことを考えて喜んでいた。例えば、わたしは四十一だが、彼女はやっと十六だというようなことが気に入ったものである。このことはわたしを魅了しつくした。この不釣合いの感じ、それはじつに甘美なものである、なんともいえないほど甘美なものである。
 例えば、わたしはa` l'anglaise(イギリス式)で、つまり断然二人きりで、ただ二人の証人だけ立ち会ってもらって(その一人はルケリヤだ)、結婚式が挙げたかった。それから、すぐ汽車に乗って、例えばモスクワへでも行き(ちょうどそこには用事もできたので)、二週間ぐらい宿屋暮らしをしようと思った。が、彼女は反対して、そんなことを許さなかった。で、わたしはやむなく彼女をよこしてくれる里方として、叔母たちのところへ敬意を表しに行かなければならなかった。わたしはすべていうなりになって、叔母たちにも相当のことをしてやった。わたしはこの畜生どもに、百ルーブリずつもくれてやったうえ、まだその後からも色をつけると約束した。もちろん、彼女にはそのことを話さなかった。そんな卑しいいきさつで彼女を悲しませたくなかったからである。叔母たちはさっそく猫撫で声になった。支度のことでも議論が起こった。彼女はほとんど文字通りに無一物であったが、彼女は何もいらないといった。しかし、わたしは彼女に、まんざらの裸というわけにもゆかないと納得させて、支度はわたしが調えてやった。彼女にそんなことをしてくれる人は、ほかにだれもいなかったからである。しかし、まあ、わたしのことなどはどうでもかまやしない。とにかく、わたしはいろんな自分の考えをそのとき彼女に伝えるだけの余裕はあった。少なくとも彼女には知っておいてもらいたかったからである。しかし、ことによったら、わたしのは[#「わたしのは」はママ]急ぎすぎたかもしれない。が、何よりも特筆すべきは、彼女は気を強く持とうと思っていたにもかかわらず、初めからいきなり愛情をもってわたしのふところへ飛び込んで来たことである。よく晩にわたしが出かけて行くと、さもさもうれしそうに出迎えて、例の子供っぽい話しぶりで(魅力ある純真な子供っぽさ!)自分の少女時代のこと、幼年時代のこと、両親の家のこと、父親や母親のことなどを話して聞かせた。けれど、わたしはこうした感激に、いきなりその場で冷たい水をぶっかけるようなことをしてしまった。その中にこそわたしの思想があったのである。歓喜に対して、わたしは沈黙をもって答えた。もちろん、好意の沈黙ではあったが……しかし、彼女はいくばくもなくして、わたしたち二人の間には大きな差別があり、わたしが一つの謎であることを見てとった。ところがわたしは主としてこの謎を狙ったのである! ただ謎をかけるためのみに、わたしはこんなばかな真似をしたのかもしれないのだ! 第一、厳格、――この厳格のもとに彼女を家へ入れたのである。一口にいえば、そのときわたしは大満悦でありながら、一つのシステムを創りあげたのである。いやなに、それは別段なんの無理もなしに、自然とできてしまったのである。またそうよりほかにやりようがなかったのだ。わたしはのっぴきならぬ事情によって、このシステムを、創らざるを得なかったのだ、――だが、実際、わたしはなんだって自分をそしっているのか! システムは真摯なものであった。いや、まあ、聞いてもらおう、人を裁くなら、事柄を知ったうえで裁くべきだ……そこで、聞いてもらおう。
 さて、どんなふうに始めたものだろう、こいつは実にむずかしい。自己弁護をはじめると、――たちまち事がむずかしくなるものだ。さて若い人たちは、例えば、金を軽蔑する、――ところが、わたしはすぐ金をやかましくいいだした。一にも金、二にも金というふうにやった。あまりやかましくなったので、彼女はだんだん無口になってきた。大きな目をして、黙って人の顔を見て、そして口をつぐんでしまう。さて、若い人というものは寛大である。つまり、たちのいい若い人は寛大で、しかも衝動的なものである。ただ忍耐力がなくて、ちょっとでも気に染まぬことがあると、もうさっそく軽蔑をいだくのだ。ところが、わたしは博大さがほしかったのである。わたしは博大さを直接こころへ、こころの目へ接木《つぎき》したいと思った。それがほんとうではなかろうか? 卑近な例をとってみると、例えば、わたしはどんなふうにして、彼女のような性質をもった人間に質店を説明したらよいのだ? もちろん、わたしはまっすぐには切り出さなかった。でないと、わたしが質店のことでゆるしを乞うているような形になったからだ。で、わたしは、いわば矜持の態度で行動し、ほとんど沈黙によって語ったのである。元来、わたしは沈黙によって語る名人である。わたしは生涯、沈黙によって語り通してきた。われとわが身を相手に、数々の悲劇を黙って体験してきた。おお、わたし自身も不幸な人間だったのである! わたしはみんなから見棄てられた。見棄てられて、忘れられたのだ。しかも、だれ一人、まったくだれ一人これを知るものはない! ところが、急にこの十六の小娘が、その後、卑劣な人間どもから、わたしのことをこまごまと聞いて来て、自分はなにもかも知っていると考えた。しかし、最も貴重な真相は、ただわたしの胸の中にのみ依然として残っていたのである! わたしは相変わらず黙っていた。とくに、とくに彼女とは、つい昨日まで口をきかなかった、――なぜ口をきかなかったのか? 矜持を有する人間としてである。わたしがいわずとも、彼女が自分で知ることを望んだのである。ただし、卑劣な人間どもの話によらないで、自分で[#「自分で」に傍点]わたしという人間のことを洞察し[#「洞察し」に傍点]、理解することを望んだのである! 彼女をわが家へ迎え入れる際に、わたしは満腔の尊敬を欲した。彼女が、わたしの前にわたしの受けてきた苦悩のために祈念しながら立つ、それをわたしは望んだのである、――わたしにはそれだけの値うちがあったのだ。おお、わたしは常に驕慢であった、わたしは常に全か無かを望んだ! つまり、わたしは幸福において中途半端がきらいで、すべてを望んだからである、――つまり、それがために、わたしはその時、『自分から察して、尊重するがいい!』という態度をとらざるを得なかったのである。なぜなら、察してもらえることと思うが、――もしわたしが自分で彼女に説明したり、口を添えたり、機嫌をとったり、尊敬を求めたりすれば、――それこそ、わたしは施し物を乞うと同じことになるではないか……しかし、……しかし、なんだってわたしはこんなことをいってるのだろう!
 愚劣だ、愚劣だ、愚劣だ、愚劣だ! そのときわたしは真正面から容赦なく容赦なく(ということを、眼目にしていたのである)、彼女に向かって、若い人たちの寛大さは美しくはあるが、一文の値うちもないと、たった二ことで説明してやった。なぜに値うちがないか? なぜなら、それは安価に手に入るものだからである、生活をしないで得たもので、いわば「生存の最初の印象」だからである。まあ、ひとつきみたちが苦労して働いているところを見ようじゃないか! 安価な寛大さは、いつでも軽々しいもので、命を投げ出すことさえ、――それさえ安価なものだ。なぜなら、ただ血が沸き立ち、力があり余って、熱情的に美を欲しているにすぎないからだ! いや、ひとつ、じみで、困難な、世に聞こえない寛大の功業、光彩がなく、誹謗を伴う、犠牲のみ多くて、かけらほどの名誉もない寛大の功業をとってみたまえ、――自分は地上のだれより潔白であるにもかかわらず、その立派な人間である自分が、世人の前に卑劣漢あつかいされるような功業、――まあ、ひとつこんなのをためしにやってみたまえ、それこそきみはお辞儀をしてしまうだろう! ところが、わたしは、――わたしは生涯、ただそうした功業のみを担ってきたのだ。こういうと、彼女も初めは争った。いやはや、なかなか手ひどく争いもしたが、その後、だんだん口数が少なくなり、ついにはすっかり黙り込んでしまった、ただ注意ぶかい目だけを、恐ろしく大きく見はって聞いているばかり。そして……そしておまけに、わたしはあるときふいに、疑りぶかそうな、無言の、薄気味わるい微笑に気がついた。つまり、この微笑とともに、わたしは彼女をわが家へ迎え入れたのである。もっとも、彼女としては、もうどこへも行くさきがなかったのだけれど……

   4 なにもかも計画で持ちきり

 その時は、わたしたちのうちだれが口火をつけたか?
 だれでもない。第一歩から自然に始まったのである。わたしはまえに、自分は厳格を旨として、彼女をわが家へ迎え入れたといったが、しかし第一歩から早くも軟化してしまった。まだ許嫁《いいなずけ》の頃から、質をとって金を渡す係になるのだと、彼女にいいわたしておいた。が、彼女はその時はなんにもいわなかった(この点に注意してもらいたい)。のみならず、――彼女は熱心に仕事にとりかかったほどである。もちろん、住居、家具、――それらはすべてもとのとおりであった。住居は二間。一つは大きな広間で、そこに帳場がしきられてある。もう一つは同じように大きな部屋で、それはわたしたち共同の居間になっており、また同時に寝室ともなっていたのである。わたしの家の家具は貧弱なもので、叔母の家のほうがいいくらいだった。お厨子には燈明がついていて、それは帳場をしつらえた広間にある。が、わたしの部屋には戸棚があって、その中には数冊の書物が入っていた。行李も一つあって、鍵はすべてわたしが持っていた。なおそこには寝台、椅子、テーブルがある。彼女がまだ許嫁だった間に、わたしは日常の経費、つまりわたしと、彼女と、わたしがこちらへ横取りしたルケリヤと、この三人の食費は一日一ルーブリとして、それを超過してはならぬ、といいわたしておいた。「わたしは三年の間に、三万ルーブリこしらえなければならないが、そうでもしなければ、金は残りゃしないからね」彼女はべつに異議は申し立てなかったのだが、わたしのほうで経費を三十コペイカだけ増すことにした。芝居も同様である。婚約時代に、わたしはさきざき芝居など見ないといったくせに、月に一度は劇場へも行くことにして、しかも上品に平土間に席を取ったものである。わたしたちはいっしょに三度ばかり行った。たしか『幸福の追求』だの『歌う小鳥』だのを見たように思う。(おお、下らない、下らない!)黙って行って、黙って帰って来た。なぜ、いったいなぜわたしたちはそもそもの初めから、黙っている癖をつけてしまったのだろう? 初めはいさかいなどはなかったが、どこまでもだんまり[#「だんまり」に傍点]であった。覚えているが、彼女はその頃いつも何やらそっとわたしを盗み見していた。わたしはそれに気がつくと、さらに沈黙を強めた。もっとも、沈黙で押していこうとしたのはわたしであって、彼女ではなかった。彼女のほうからいえば、一度か二度、衝動にかられて、いきなりわたしに抱きついたことがある。しかし、その衝動は病的なヒステリックなもので、わたしの必要としたのは、彼女からの尊敬を伴った堅固な幸福だったから、わたしは冷やかにそれを受けた。またそれでよかったのだ、いつも衝動のあった翌日は、きっと喧嘩になったから。
 といって、この場合もやはり喧嘩はなかったのだが、沈黙があった。そして、――そして彼女のほうからますますふてぶてしい顔つきを見せるようになった。「叛逆と独立」――これなのであった。ただ彼女にはそれがうまくゆかなかった。さて、あのおとなしい顔がますますふてぶてしくなっていった。うち明けていうと、彼女はわたしが虫唾《むしず》が走るほどいやになってきたのである。わたしはちゃんとそれを研究したのだ。とにかく、彼女が衝動的に自制を失ったということは、なんの疑いもなかった。まあ、早い話が、あんな不潔と貧乏の中からぬけ出して来て、ついこの間まで床まで洗っていたくせに、急にわたしたちの貧乏をせせら笑うではないか! 断わっておくが、それは貧乏ではなくて節約だったのだ。もし必要とあれば贅沢もしたので、例えば肌着とか、清潔という点では、けちけちしなかった。わたしはいつも前から、夫が身のまわりを清潔にしていることは、妻にとってうれしいものだと空想していた。もっとも、彼女が不平だったのは、貧乏ではなくて、わたしの節約の中にある、一見吝嗇と思われる点なのである。「目的があって堅固な性格を持っているということを、見せびらかしたいのだ」と腹の中でせせら笑っていたのである。彼女は急に自分から芝居見物を辞退した。嘲りのかげはますます濃くなってゆくが――わたしのほうはいやがうえに沈黙を深める。
 弁解がましいことはすべきでないだろうか? ここでいちばんかんじんな問題は質店である。失礼ながら――女、ことに十六やそこいらの娘が、絶対に男に服従しないわけにいかないことを、わたしは承知していた。女には独自性がない。これは、――これは公理である。今でさえ、今でさえ、わたしにとっては公理である! なに、広間にあれが冷たく横たわっているからって、それがなんだ、――真理は真理である。この場合よしんばミル(ジョン・スチュアート・ミルのことか)が出て来たって、なんとも致し方がないのだ! ところで恋する女、おお、恋する女は、――愛するものの悪徳、悪行をすら、神のように崇めるものである。女が恋人の悪行のために見いだすような弁解は、男がどんなに苦心したって、自分でさがし出せないくらいである。これは寛大ではあるが、独自性ではない。女を滅ぼしたのは、ただ非独自性というやつだけである。あれがなんだ。わたしはくり返していう、きみがいくらあすこのテーブルの上をさして見せたって、びくともしやしない。いったいあのテーブルの上に横たわっているものが、はたして独自的なものだろうか? おお――おお!
 さてそこで、そのころわたしは彼女の愛を確信していた。なにしろその頃、彼女はわたしの首っ玉にかじりついていたではないか。してみると、愛していたのだ、いや、正確にいえば、愛そうと望んでいたのだ。そうだ、まさにそのとおり、愛そうと望んでいたのだ、愛そうと希求していたのだ。要するに、彼女がそのために弁解をさがさなければならないような悪行すらも、そこには微塵もなかったのである。諸君は質屋とひと口にいう、人もみんなそういう。だが、質屋がいったいどうしたというのだ? もし世にもまれな大きな心を持った人間が、質屋になったとすれば、そこにはなんらかの理由があるわけである。さて、諸君、世の中にはこういう思想がある……つまり、ある種の思想を口に出して言葉で発表すると、恐ろしく愚劣なものになることがある。われながら恥ずかしくなることがある。なぜだろう? なぜでもない。われわれがみなやくざもので、真実にたえ得ないからである。それでなければ、わたしにはもう何もわからない。わたしは今、「世にもまれな大きな、心を持った人間」といった。これは滑稽ではあるが、しかしまたそのとおりだったのである。なにしろ、それはほんとうのことだったのだ、つまり、最も真実味のこもった真実だったのだ! そうだ。そのときわたしは自分を保証するために、この質店を開こうと考える権利を持っていた[#「権利を持っていた」に傍点]のだ。「諸君はわたしを排斥した。諸君、つまり人々は、わたしを侮蔑に充ちた沈黙で追い払った。諸君に対するわたしの熱烈な衝動に対して、諸君はわたしの生涯わすれることのできない侮辱をもって答えたのだ。したがって、今のわたしは諸君と隔絶するために障壁を立てまわし、例の三万ルーブリという金を集めて、どこかクリミヤの南海岸の、山の中の葡萄園へでも行って、その三万ルーブリで領地を買い込み、生涯をおえる権利があったのだ。要は、諸君から遠ざかることなのだが、しかし諸君に恨みを持つようなことはなく、心に理想を持ち、愛する女と、神の授けがあったら家族といっしょに、――近くの村民たちを助けながら暮らすのだ」
 もちろん、いまわたしは独りでこれをいっているからいいようなものの、もしわたしがあの時口に出して、あれにこんなことをこまごまと吹聴したら、それ以上ばかげた話はなかろうではないか? つまり、これがゆえに傲慢な沈黙となったのであり、二人が黙々として暮らしていたわけである。こういった次第で、彼女にいったい何を理解することができよう? 十六という蕾の花、――それで、わたしの弁解や苦悩を聞いたところで、何を理解することができよう? そこにはただ直線的な一本気と、世間知らずと、幼い安価な信念と、「美しい心の」盲目しかない。そこへ持ってきて、何よりいけないのは、――質屋、それでもう万事休すなのだ!(いったいわたしは質屋で悪いことでもしただろうか、彼女にしたって、わたしがどんなふうにしていたか、見ていたはずではないか、いったい余分な利息でも取ったことがあるだろうか?)おお、地上の真実はなんと恐ろしいものであるか! あのかわいいおとなしい女、あの青空のように純な彼女が、暴君であったのだ。わたしの心にとってたえがたい暴君であり、迫害者であったのだ! もしこれをいわなければ、わたしは自分を誹謗することになる! いったい諸君は、わたしが彼女を愛していなかったと思うか? わたしが彼女を愛していなかったと、はたしてだれがいいうるか? ところが、そこに皮肉があったのだ、運命と自然の意地の悪い皮肉があったのだ! われわれは呪われている、総じて人間の生活はのろわれている!(わたしの生活はことにしかりである!)今ではわたしも、自分がこの問題で何か過ちを犯したのだ、ということがうなずかれる! とにかく、そのとき何やら見当違いなことができたのだ。わたしにしてみれば、なにもかも明瞭であった、わたしの計画は大空のごとく明らかだったのである。「厳しく、傲慢で、何|人《ぴと》からも精神的慰安など求めず、黙って苦しんでいるのだ」まったくそのとおりなので、うそはつかなかった、決してうそはつかなかった!「いずれ後になって、あれも自分で、そこに大きな心のあったことに気がつくだろうが、今のところ、それを認めることができないのだ。――そのかわり、いつか気がつけば、十倍もその価値を認め、手を合せて拝みながら、穴があったら入りたいくらいに思うだろう」これが計画であった。が、わたしはそこに何かを忘れていたか、さもなくば見落としていたのだ。そこには何か、うまくやりおおせないことがあったのだ。しかし、もうたくさん、たくさんだ! 今さらだれにゆるしを乞うのだ? すんだことはすんだことだ。人間よ、もっと勇敢であれ、傲慢であれ! お前が悪いのではない!………
 なに、かまうものか、わたしは真実をいおう、真実の前に面と向かって立つことを恐れまい。あれ[#「あれ」に傍点]が悪いのだ、あれ[#「あれ」に傍点]が悪いのだ!………

   5 おとなしい女の叛逆

 いさかいが始まった。彼女が急に自分勝手に金を貸そうという了見をおこし、品物を価格以上に値踏みして、二度もこの問題でわたしといい合いをはじめた、それがもとなのであった。わたしは応じなかった。ところが、そこへあの大尉夫人がからむこととなったのである。
 年とった大尉夫人がロケットを持って来た、――亡夫の贈物で、いわずと知れた記念《かたみ》である。わたしは三十ルーブリ貸してやった。老夫人はめそめそと愚痴をならべ、品物を大切に保存してくれるようにと頼みはじめた、――もちろん、ちゃんと保存しましょうといった。さて、まあ、手短かにいってしまうが、それから五日ばかりして、とつぜん八ルーブリもしないような腕環と取り換えに来た。わたしはもちろん、拒絶した。そのとき老女はきっと、妻の目つきで何事かを悟ったのだろう、とにかく、その後でわたしのいない時にやって来た。すると、妻は彼女にロケットを入れ換えてやった。
 その日のうちにこの始末を知ると、わたしは言葉おだやかに、毅然とした調子で、条理をつくしていって聞かせた。彼女は寝台に腰かけて、右の靴さきで絨毯を軽くこつこつやりながら(彼女の癖だ)、床を見つめていた。その唇には、たちのよくない微笑が浮かんでいる。そのときわたしは少しも声を高めず、おちつきはらって、金はわたし[#「わたし」に傍点]のものであること、わたしはわたし[#「わたし」に傍点]の目で人生を見る権利があることを声明し、彼女を家へ迎える時に、なに一つ隠さずに話したはずだが、といった。
 彼女はだしぬけにおどりあがって、急に全身をわなわなふるわせたかと思うと、――どうだろう、いきなりわたしに向かって地団太を踏みだした。それは野獣だった、発作だった、発作にかかった野獣だった。わたしは驚きのあまり茫然としてしまった。こんな所作はまったく思いもよらないことであった。しかし、わたしはわれを失うようなことはなく、身じろぎさえしなかった。そして、またもや前と同じおちついた声で、今後はわたしの仕事に手を出してもらうまい、と真正面から言明した。彼女はわたしの鼻さきでからからと笑って、ぷいと家を出て行った。
 ここで問題は、彼女は家を出る権利を持たない、ということであった。わたしといっしょでなければ、どこへも出ないというのが、まだ婚約時代からの約束であった。夕方になって、彼女は戻って来た。わたしはひとこともいわなかった。
 翌日もやはり朝から出て行った。翌々日も同様である。わたしは店を閉めて、叔母たちのところへ出向いた。彼らとは結婚の時以来、ぴったり関係を断っていた、――こちらへも呼ばなければ、こちらから出かけても行かなかった。さて、聞いてみると、彼女は叔母たちのところへは行っていなかった。二人は好奇の面もちで、わたしの言葉を聞きおわると、面と向かってわたしをせせら笑った。「あんたなんかには、それくらいのことがあたりまえですよ」とこういうのだ。しかし、わたしは彼らの冷笑を覚悟していた。そこで、老嬢の若いほうの叔母を百ルーブリで買収して、二十五ルーブリ先払いにしてやった。二日たって、彼女がわたしのところへやって来ていうことには、「これにはね、昔あなたの連隊仲間だったエフィーモヴィチとかいう中尉が、かかり合っていますよ」わたしはすっかりあきれてしまった。このエフィーモヴィチという男は、連隊時代にだれよりもわたしに悪いことを仕向けたくせに、ひと月ばかり前にあつかましくも二度ばかり、質入れするような顔をして店へやって来て、忘れもしない、その時さっそく妻を相手に笑ったりなどしたのである。わたしはいきなりやつのそばへ寄って、お互いの関係を思い出したら来られた義理ではあるまい、といってやった。しかし、別段これという考えは頭になく、あまりずうずうしい野郎だと思っただけの話である。ところが、いまとつぜん、叔母の口から、妻はその男と逢引きの約束をしていること、万事は叔母たちの古い知人であるユーリヤ・サムソーノヴナという後家さん、しかも大佐未亡人が計らっている、ということを聞かされたのである。「あなたの奥さんは、今そのひとのとこへ出入りしてるんですよ」というのだ。
 細かいいきさつは端折るとしよう。この一件は、わたしに三百ルーブリからの散財をさせたが、とにかく、二昼夜の間にわたしは手筈をきめて、隣室のぴったり閉まった扉の陰に立って、わたしの妻とエフィーモヴィチとの最初の|rendezvouse《ランデヴー》を立ち聴きすることになった。ところが、こうして手ぐすね引いて待っているその前夜に、わたしと妻との間に一場の短い、しかしわたしにとってあまりに意味深長な場面が演じられた。
 彼女は日暮れ前に帰って来て、寝台に腰をおろし、せせら笑うようにわたしを見ながら、片足で絨毯をこつこつやっている。それを見ているうちに、わたしの頭にはそのときふいに、つぎのような考えが閃いた。この一か月、あるいはもっと正確にいえば、最近の二週間ばかりというもの、彼女はまるで性格が変わっていた、いな、むしろ反対の性格になっていた、といってもいいくらいである。ともすれば、人にくってかかる、荒々しい、無恥とはいえないが混沌とした、みずから混乱を求めるような人間になっていた。好んで混乱の中へ飛び込んで行こうとするのだが、しかしつつましさが邪魔をしていた。こういう女が謀叛を起こすと、いきなり度はずれのことをしてはみるものの、それはわれとわが身に暴虐を加え、われとわが身を追い立てているのであって、自分の純潔と羞恥心とを、だれよりも彼女自身、処理しかねていることが見えすいている。だから、こういう女はときどき、あまり突拍子もないことをやりだすので、かえってはたの者が、自分の観察力を信じかねるくらいである。ところが、淫蕩に慣れた女となると、その反対に、いつもやり方を緩和して、ずっと汚くはあるが、むしろ相手よりも優越しているぞといわないばかりの秩序と、礼節の面を被って、うまくやってのけるのである。
「ねえ、ほんとうですの、あなたが決闘をこわがったので、それで連隊を追い出されたっていうのは?」と彼女はとつぜん、薮から棒に問いかけた。その目はぎらぎら光っていた。
「ほんとうだ。将校団の宣告によって、連隊を出てくれといわれたんだ。もっとも、自分のほうでもその前に、退官願いを出してはおいたがね?」
「臆病者として追ん出されたんでしょう?」
「そうだ。やつらは臆病者という宣告を下したのだ。しかし、わたしが決闘を拒んだのは、臆病者としてではない。彼らの横暴な宣告にしたがって、みずから侮辱を感じてもいないのに、決闘を申し込むのがいやだったからだ。このことは心得ておいてもらおう」と、ここでわたしはとうとう我慢しきれなくなって、「こういう横暴に反対の行動をとって、それから起こるいっさいの結果を甘んじて受けることは、どんな決闘よりもはるかに勇気を示すことになるのだ」
 わたしはついこらえきれなかったのだ。わたしとしては、こんなことをいったために、自己弁護をはじめたような形になってしまった。ところが、彼女はそれが思うつぼだったのだ、この新しいわたしの屈辱が必要だったのである。彼女は毒々しく笑った。
「それからあなたは、まるで宿無しのように、ペテルブルグの町々をうろついて、十コペイカずつの合力を乞ったり、撞球台の下に寝たりしたってのは、ほんとうですの?」
「わたしはセンナヤ(乾草)広場のヴァーゼムスキイの家にも泊まっていたことがある。そうだ、ほんとうだ。それからの、つまり連隊を出てからのわたしの生涯には、多くの恥と堕落とがあったが、しかし精神的の堕落ではない。なぜなら、その当時でもわたし自身が第一番に、自分の行為を憎んでいたんだから。それはただわたしの意志と理性の堕落で、それもただ自分の境遇に対する絶望から出たことなのだ。しかし、それも過ぎてしまった……」
「そりゃそうよ。今はあなたは名士ですものね、――金融家ですもの!」
 つまり、これは質店に対するあてこすりである。しかし、わたしは早くも自己を抑制してしまった。彼女がわたしにとって屈辱的な説明を渇望しているのを、わたしはちゃんと見てとったので、――その手に乗らなかった。折よくお客がベルを鳴らしたので、わたしは広間へ出て行った。それから、もう一時間ばかりたった頃、彼女は急に外出の身支度をし、わたしの前に立ちどまっていった。「でも、あなたは結婚するまでに、そのことをちっともおっしゃいませんでしたわね?」
 わたしは答えなかった。彼女は出て行った。
 さてそこで、翌日、わたしは例の部屋の扉の陰に立って、わたしの運命がいかに決せられるかに、耳をすましていた。わたしのポケットにはピストルが忍ばせてあった。彼女はよそ行きを着て、テーブルの前に腰をおろし、エフィーモヴィチは彼女の前でしきりに芝居をしていた。そして、どうだろう(わたしは自分の名誉にかけていうのだが)、わたしの予感し予想していたのと、寸分ちがわぬことが起こったのである。もっともわたしは、自分がそれを予感し、予想していることを意識してはならなかったのだ。こんないい方で通じるかどうか、わたしは知らない。
 ほかでもない、こういうわけなのである。わたしはまる一時間立ち聞きしていた。そしてこのうえなく純潔崇高な女性と、俗悪で淫蕩な、頭の鈍い、爬虫類のような魂をもった男との決闘に、まる一時間たち合ったのである。いったいどこから、とわたしは愕然として心に思った、――いったいどこからこの無邪気なおとなしい口数をきかぬ女が、こんないろいろのことを知ったのだろう? どんなに機知に富んだ上流社会むきの喜劇作者でも、こうした嘲笑と、純真無垢な哄笑と、悪徳に対する美徳の神聖なる軽蔑の場面を創造することは、不可能であろう。そして、彼女の片言隻句にいかばかりの輝きがあったことか、その敏活な答弁にはなんという鋭さがあり、彼女の非難にはいかに真実がこもっていたことか。しかも、同時に、ほとんど少女らしい単純さが縊れているのだ。彼女は相手の恋のうち明けや、身振りや、申立てを、面と向かって笑い飛ばしていたのである。単刀直入、いきなり仕事にかかるつもりでやって来て、抵抗があろうなどとは考えてもいなかったので、彼は急に腰を折られてしまった。はじめわたしは、それを彼女の単なる手管かと思ったほどである。「自分に箔をつけるためによくやる、淫乱なしかし機知に富んだ女の手管ではないか」しかし、あにはからんや、真実は太陽のごとく輝いているので、疑う余地もなかった。ただわたしに対する衝動的な気まぐれの憎しみから、初心《うぶ》な彼女が思いきって、こんな逢引きを企てたのであろうが、いざ事にあたるが早いか、たちまち目があいたに相違ない。ただ要するに、なんでもいい、わたしを侮辱しようと思ってもがいてみたのだが、こうした穢らわしいことを決行する段になると、そのふしだらにたえがたくなったのである。エフィーモヴィチにせよ、そのほかこうした上流社会のだれにせよ、彼女のように罪のない、純潔な、理想を持った女を誘惑することが、できるわけのものではない。どうしてどうして、ただ嘲笑を買うだけの話である。ありたけの真実が彼女の魂から頭を持ちあげ、憤怒はその心から冷嘲を呼び起こしたのである。くり返していうが、この道化者はしまいにすっかりてれてしまって、ろくすっぽ返事もせず、しかめっ面してすわっていたので、ひょっと卑しい復讐心から彼女を侮辱したりしはすまいかと、わたしは心配したくらいである。またもういちどくり返すが、わたしとして名誉なことに、わたしはほとんどなんの驚きもなしにこの場面を聞きおわった。なんだか、もう馴染みのある事柄に出会ったような気持ちであった。これに出会うためにやって来たような思いであった。わたしはポケットにピストルは忍ばせていたものの、なにものも信ぜず、いかなる非難をも信じないで来たのだ、――それが、真実である! 第一、わたしは彼女をこれ以上の女として想像することができたか? そもそも何がゆえにわたしは彼女を愛したか、何がゆえに彼女を尊重したか、何がゆえに彼女と結婚したか? おお、もちろん、わたしはそのとき彼女がわたしを憎んでいることを、あまり確信しすぎていたかもしれないが、彼女が清浄無垢であるということについても、確信を持っていた。わたしはだしぬけにさっと扉をあけて、この一幕をたち切った。エフィーモヴィチはおどりあがった。わたしは彼女の手をとって、いっしょに行こうといった。エフィーモヴィチはわれに返ると、とつぜん高らかにからからと笑いだした。
「いや、なに、神聖なる夫婦の権利にはぼくも反対はしないよ、帰りたまえ、帰りたまえ! ところで」と彼はわたしのうしろからどなった。「身分ある人間はきみなんかと決闘するわけにはゆかないが、しかしきみの奥さんに対する敬意から、いつでもお相手つかまつろう……もっとも、もしきみが自分から危険を冒して……」
「あれを聞いたかね!」とわたしは一瞬、彼女を閾の上で引きとめた。
 それからは家へ着くまで、途中ひとことも口をきかなかった。わたしは彼女の腕をとって連れて行ったが、彼女はさからいもしなかった。それどころか、彼女は、深い驚愕に打たれており、しかもそれは家へ着いてからもやまなかったのである。家へ着くと、彼女は椅子に腰をおろして、わたしの顔をじっと見すえた。彼女は真っ青な顔をしていた。唇はすぐさま冷笑の色を浮かべたけれど、彼女は早くも厳かな、きびしい挑戦の表情で、わたしを見つめていた。そして最初の瞬間どうやら真剣に、わたしにピストルで射ち殺されるものと思い込んでいたらしい。しかし、わたしは黙ってポケットからピストルをとり出して、テーブルの上においた! 彼女はわたしとピストルを見くらべた(ここで読者の注意をうながしておくが、このピストルはもう彼女に馴染みのものであった。質店を開いたそもそもの時から買い込んでおいたもので、ちゃんと装塡してあった。店を開くにあたってわたしは、例えばモーゼルあたりでやっているように、大きな犬や力の強い下男だのはおくまいと決心したのだ。わたしの店では、下婢が客のために扉をあけることにしている。しかし、われわれのような商売をしているものは、万一の場合、自衛の方法を講じないわけにはゆかないので、装塡したピストルをおくことにしたのである。彼女は家へ来た初めの頃、このピストルにいたく興味を持って、いろいろと質問したので、わたしは彼女にその構造やシステムを説明したうえ、一度などは無理に勧めて、的を射たせたことさえあるのである。これらのことに注意していただきたい)。わたしは彼女のびっくりしたようなまなざしにはなんの注意もはらわず、ろくすっぽ着物も着換えないで、床についた。わたしはぐったり力抜けがしていた。もうかれこれ十一時であった。彼女はなお一時間ばかり、同じ場所にすわりつづけていたが、やがて蠟燭を消して、同じく着のみ着のままで、壁際の長いすの上に横になった。彼女がわたしといっしょに寝なかったのは、これが初めてである、――これも同じく注意していただきたい……

   6 恐ろしい思い出

 今度はあの恐ろしい思い出だ……
 わたしは朝、たしか七時頃に目をさました。部屋の中はすっかり明るかった。わたしは完全な意識をもって一度にぱっと目をさまし、急に目をあけた。彼女はテーブルのそばに立って、手にピストルを握っていた。わたしが目をさまして見ていることは、気がつかなかったのである。ふと見ると、彼女はピストルを手にしたまま、じりじりとわたしのほうへ進みだした。わたしは素早く目を閉じて、ぐっすり眠っているふりをした。
 彼女は寝台のそばまで歩み寄って、わたしの枕もとに立ちどまった。わたしはなにもかも聞いて知っていた。死のごとき静寂がおそってきたが、わたしはその静寂を聞いていた。その時一つの痙攣的な動きが起こった。――わたしは急に我慢しきれなくなり、意志に反して目を開いてしまった。彼女はひたとわたしを、わたしの目を見つめている、ピストルはすでにわたしのこめかみのそばにあった。わたしたちの目はぴったり合った。しかし、わたしたちが互いに眺め合ったのは、ほんの一転瞬の間であった。わたしはもういちど無理に目を閉じた。それと同時に、よしどんなことが自分を待ち受けていようと、もう二度と身じろぎもせず、目もあくまいと、ありたけの精神力をふるって決心した。
 実際、ぐっすり眠っている人がふいに目を開いて、ほんの束の間、頭まで持ちあげて室内を見まわしたと思うと、また一瞬後に意識もなく頭を枕に落として、なに一つ覚えずに眠ってしまうということは、間々あるならいである。わたしが彼女と目を合わせ、こめかみにピストルを感じてから、急にふたたび目を閉じて、熟睡している人のように身じろぎもせずにいた時、――彼女もおそらく、わたしが実際ねむっていて、なんにも見なかったものと想像したのは、大き[#「大き」はママ]にありそうなことである。ましてわたしが見たようなことを見た以上、こんな[#「こんな」に傍点]瞬間にもういちど目を閉じるなんてことは、全然あり得べからざる話ではないか。
 しかし、あり得べからざる話である。しかし、彼女はそれにしても、事の真相をも察知し得たはずである、――この考えが突如としてわたしの脳裡に閃いた。すべて同じ一瞬間の出来事である。おお、思想と感覚のなんという恐ろしい旋風が、刹那に満たぬ間にわたしの脳裡をかすめたことか、まことに、人間の思想の電力性、万歳である! このような場合(とわたしには感ぜられた)、もしも彼女が事の真相を察して、わたしが眠っていないことを知ったとすれば、甘んじて死を受けようとするこの覚悟によって、わたしはすでに彼女を圧倒したので、彼女の手は当然ふるえなければならぬはずである。以前の決心は、新しい異常な印象にぶつかって、粉砕されるはずである。高いところに立っている人間は、なんとなく自然に下のほうへ、深淵の中へ引き込まれるという。思うに、多くの自殺や殺人は、単にピストルがすでに手に取られているというだけの理由で、遂行されるのであろう。そこにも同様深淵があるのだ、すべらずにいられないような三十五度の傾斜があるのだ。かくして、なにものかが否応なくその人間に撃鉄をひかせるのである。しかし、わたしがすべてを見、すべてを知りながら、黙って彼女から死を待っているのだという意識は、――彼女を傾斜の中途で引きとめることができたのかもしれない。
 静寂はつづいた。ふとわたしはこめかみのほとり、自分の髪の毛に、冷たい鉄の接触を感じた。諸君はきくだろう、お前は自分が助かるものと堅く期待していたか、と。わたしは神様の前に出たつもりで、諸君にお答えするが、百に一つのチャンス以外、なんの希望も持たなかった。それならば、なんのために死を受け入れようとしたのか? では、反問するが、自分の心から愛するものにピストルを向けられた後で、人生がわたしになんの価値があるか? のみならず、わたしは自分の全存在の力をもって、二人の間にはこの瞬間、闘争の行なわれていたことを知っていた。それは、生きるか死ぬかの恐ろしい果たし合いである、臆病のゆえに僚友から追われた、あの昨日の臆病者の決闘なのである。わたしはそれを知っていた。そして彼女も、もしわたしが眠っていないという真相を察していたとすれば、それを知っていたのである。
 あるいは、こんなことはなかったのかもしれない、そのときわたしはこんなことなど考えなかったのかもしれない。しかし、なんといっても、こうしたことは、よしんば考えなかったにもせよ、あるべきはずなのであった。なぜなら、わたしはその後の生活の一分一刻も、それについて考えることを仕事にしていたからである。
 しかし、諸君はさらに問題を提出されるであろう、――なぜお前は彼女を悪行から救わなかったか、と。おお、わたしはその後、千度もこの問いを自分に発した、――背筋に悪寒を覚えながら、その瞬間を思い出すたびごとに。しかし、そのときわたしの魂は、暗い絶望に沈んでいたのだ、わたしは滅びかかっていたのだ、わたし自身、滅亡に瀕していたのだ、それなのに、だれを救うことができたというのだ? 第一、そうなってもまだ、わたしに人を救いたい気があったかどうか、そんなことがどうして諸君にわかるものか? そのときわたしが何を感じ得たか、そんなことをどうして知ることができよう?
 とはいえ、意識は沸き立つばかり活動していた。時は刻一刻と過ぎ、静寂は死のようであった。彼女は依然としてわたしの頂上に立っていた、――とふいにわたしはある希望の衝動を感じた! わたしは素早く目を開いた。彼女の姿はもう部屋の中になかった。わたしは寝床から起きあがった。わたしは勝ったのだ、――彼女は永久に敗北したのだ!
 わたしは、サモワールの据えてあるテーブルのほうへ出て行った。うちではサモワールはいつも第一の部屋へ出され、お茶はいつも彼女が入れることになっていた。わたしは無言のままテーブルについて、彼女から茶のコップを受け取った。五分ばかりして、わたしはちらと彼女を見やった。彼女は恐ろしく真っ青な、昨日よりもさらに青い顔をして、わたしを見つめていた。とつぜん、――とつぜんわたしが自分を見ていると気づくや、彼女は青ざめた唇に、青ざめた薄笑いを浮かべた。その目には臆病な疑問が漂っているのだ。『してみると、あれはまだ疑いを持って、この人知ってるのかしら知らないのかしら、見たのかしら見なかったのかしら? と自問しているんだな』わたしは平然と目をそらした。お茶を飲んでから、店を閉めて、市場へ出かけ、鉄の寝台と衝立てを買った。家へ帰ると、わたしは寝台を広間に据えさせ、衝立てでそれを囲わせた。これは彼女のための寝台であったが、わたしは彼女にはひとこともいわなかった。また言葉に出していわなくても、彼女はこの寝台を通じて、わたしが「すべて見、すべてを知って」おり、もはやなんの疑いもないということを理解した。夜、寝る前に、わたしはいつものとおり、ピストルをテーブルの上にほうっておいた。その夜、彼女は黙ってこの新しい自分の寝台に身を横たえた、――婚姻は破棄されて、彼女は「打ち負かされたが、ゆるされなかった」のである。夜中に彼女は譫言《うわごと》をいいだし、翌朝になって、悪性の熱病とわかった。彼女は六週間、床についてしまった。

(底本:『ドストエーフスキイ全集14 作家の日記上』、1970年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十篇第七章 イリューシャ

[#3字下げ]第七 イリューシャ[#「第七 イリューシャ」は中見出し]

 医師はまた毛皮の外套にくるまり、帽子をかぶって出て来た。彼は腹だたしそうな気むずかしい顔つきをしていた。それは何か汚いものに触れるのを恐れているようであった。彼はちらりと玄関のほうへ視線を投げ、その拍子にいかつい目つきで、アリョーシャとコーリャを見た。アリョーシャは戸口から馭者を手招きした。と、医師を乗せて来た馬車は、入口に寄せられた。二等大尉は医師のあとからまっしぐらに飛び出して来て、謝罪でもするようにその前に腰をかがめながら、最後の宣告を聞こうと、引き止めた。哀れな大尉の額は死人の顔そのままで、その目は慴えたようであった。
「先生さま、先生さま……一たいもう?」彼はこう言いさしたが、まだ言い終らぬうちに、絶望のていで両手を拍った。彼は医師がもう一こと何とか言ってくれたら、不幸な子供の容態が実際もち直すとでも思っているもののように、最後の哀願の色をうかべて、医師を見つめるのであった。
「どうも仕方がないね! 私は神様じゃないから。」医師は馴れきった、さとすような声で、無造作にこう答えた。
「ドクトル……先生さま……それはもうすぐでございましょうか……すぐで?」
「万一の覚悟……をしておいたが、いいでしょう。」医師は一こと一こと、力を入れながらこう言うと、視線をわきへそらし、馬車のほうをさして、閾を跨ごうと身構えした。
「先生さま、お願いでございます!」二等大尉はびっくりしたように、医師を引き止めた。「先生さま!………では、どうしても、もうどうしても、今ではどうしても助からないのでございましょうか?………」
「もう私ではどうにも……ならん!」と医師はじれったそうに言った。「だが、ふむ、」彼は急に立ちどまった。「でも、もしお前さんが今すぐ、一刻も猶予せずに(医師は『今すぐ、一刻も猶予せずに』という言葉を、いかついところを通り越して、ほとんど腹立たしいばかりに言ったので、二等大尉はびくりと身ぶるいしたほどであった)……患者を………シ―ラ―ク―サヘ……連れて……行けば……温―暖な気―候―のために、ことによったら……あるいは―……」
シラクサですって!」言葉の意味を解しかねるらしく、二等大尉はこう叫んだ。
シラクサというと、――それはシシリイにあるのです。」コーリャは説明のために、とつぜん大きな声で投げつけるように言った。
 医師は彼を見やった。
「シシリイヘ! 旦那さま、先生さま、」二等大尉は茫然としてしまった。「まあ、ごらんのとおりでございます!」彼は自分の家財道具を指さしながら、両手で円を描いた。「あのおっ母さんや、家族のものはどうなるのでございましょう?」
「い、いや、家族はシシリイヘ行くんじゃない、お前さんの家族はコーカサスへ行くんだ、春早々にね……娘さんはコーカサスへやって、細君は……あの人もレウマチをなおすために、やはりコーカサスで規定の湯治をすますと……それから、すぐパリヘ―出かけて、精―神―病科専門のレペル―レティエの治療院へはいるんだねえ。私がその人へ添書を書いてもいい、そうすれば……あるいは……」
「先生、先生! でもこのとおりじゃありませんか!」何も貼ってない玄関の丸太壁を、絶望的に指さしながら、二等大尉はまたとつぜん両手を振った。
「いや、それはもう私の知ったことじゃないんだ。」医師は薄笑いをもらした。「私はただ、最後の方法をどうかというお前さんの質問に対して、科学の示し得るところを言ったにすぎん。だから、それ以外のことは……残念ながら……」
「ご心配はいりません、お医者さん、僕の犬はあなたに噛みつきゃしません。」
 医師が、閾の上に立っていたペレズヴォンにいくぶん不安げな目をそそいでいるのに気づいたので、コーリャは大声にこう遮った。
 コーリャの声には怒りの調子がこもっていた。彼は先生と言わずに、わざと『お医者さん』と言ったのである。それは、彼があとで白状したとおり、『侮辱のために言った』のである。
「な―ん―で―すって?」医者は驚いたようにコーリャの方へ目を据えて、ぐいと頭をしゃくった。「こ……この子は何ものだね?」医者は、アリョーシャに責任を求めようとでもするように、とうぜん彼のほうへふり向いた。
「この子はペレズヴォンの主人ですよ。お医者さん、僕の人物については心配ご無用ですよ。」コーリャはまたきっぱりこう言った。
「ズヴォン?」と医師は鸚鵡返しに言った。ペレズヴォンが何ものかわからなかったのである。
「やっこさん自分がどこにいるか知らないんだ。さようなら、お医者さん、またシラクサでお目にかかりましょう。」
「何ものです、こ……この子は? 何ものです、何ものです?」医師は、にわかにやっきとなってこう言った。
「先生、あれはここの学生です。やんちゃ者なんです。お気にとめないで下さい」とアリョーシャは眉をしかめながら、早口に言った。「コーリャ、もうおやめなさい!」と彼はクラソートキンに叫んだ。「先生、気におとめになっちゃいけませんよ」と今度はいくぶんいらいらしながら繰り返した。
「引っぱたいて……引っぱたいてやるぞっ……引っぱたいて!」なぜか度はずれにいきり立った医師は、どしんどしんと地団駄を踏んだ。
「だがね、お医者さん、僕のペレズヴォンは、ことによったら、本当に噛みつくかもしれませんよ!」コーリャは真っ蒼になって目を光らせながら、声をふるわしてこう言った。「Iic[#「Iic」はママ], ペレズヴォン!」
「コーリャ、もう一度そんなことを言ったら、私は永久に君と絶交しますよ!」とアリョーシャは威をおびた調子で叫んだ。
「お医者さん、ニコライ・クラソートキンに命令することのできるものが、世界じゅうにたった一人あるんです、それはこの人なんです(と、コーリャはアリョーシャを指さした)。僕はこの人にしたがいます、さようなら!」
 彼はいきなりそこを離れると、戸をあけて、急ぎ足に部屋へ入った。ペレズヴォンも彼のあとから駈け出した。医師はアリョーシャをうちまもりながら、化石したように五秒間ばかり立ちすくんでいたが、やがて突然ぺっと唾をして、「一たい、一たい、一たい、一たいこれは何事だ!」と大声に繰り返しながら、急ぎ足に馬車のほうへ行った。二等大尉は医師を馬車へ乗せるために、急いで駈けだした。アリョーシャはコーリャにつづいて部屋へ入った。コーリャはもうイリューシャの寝床のそばに立っていた。イリューシャは彼の手を握って、お父さんを呼んだ。やがて二等大尉も帰って来た。
「お父さん、お父さん、ここへ来てちょうだい……僕たちはね……」とイリューシャは非常な興奮のていで呟いたが、あとをつづけることができないらしく、とつぜん痩せた両手を前へさし伸べて、力のかぎり彼ら二人、コーリャと父親を一度に強く抱きしめ、彼らにぴったり身を寄せた。
 二等大尉はにわかにぶるぶると全身を慄わしながら、忍び音にすすり泣きをはじめた。コーリャの唇と顋が慄えだした。
「お父さん、お父さん! 僕お父さんが可哀そうでならないの!」とイリューシャは声高に、呻くように言った。
「イリューシャ……ね、これ……いま先生が言われたが……お前たっしゃになるよ……そして、私たちは仕合せになるよ……先生は……」と二等大尉が言いかけた。
「おお、お父さん! 僕こんどのお医者さんが何と言ったか知ってるの……僕見たんだもの!」と、イリューシャは叫んで、父の肩に顔を埋めつつ、二人をしっかりと抱きしめた。
「お父さん、泣かないでちょうだい……僕が死んだら、ほかのいい子をもらってちょうだい……あの人たちみんなの中から自分でいいのを選って、イリューシャという名をつけて、僕の代りに可愛がってちょうだい……」
「よせよ、お爺さん、なおるよ!」とクラソートキンは怒ったように叫んだ。
「でも、僕をね、お父さん、決して僕を忘れないでちょうだい」とイリューシャは言葉をつづけた。「僕のお墓に詣ってね……ああ、それからお父さん、いつも一緒に散歩してたあの大きな石のそばに葬ってちょうだい……そして、夕方になったら、クラソートキン君と一緒にお詣りに来てちょうだい……ペレズヴォンもね、僕待ってるから……お父さん、お父さん!」
 イリューシャの声はぷつりときれた。三人は抱き合ったまま黙ってしまった。ニーノチカは安楽椅子に腰かけたまま、忍び音に泣いていたが、『おっ母さん』もみんなが泣いているのを見ると、急にさめざめと涙を流しはじめた。
「イリューシャ、イリューシャ!」と彼女は叫んだ。
 クラソートキンは突然、イリューシャの手から身をもぎ放した。
「さようなら、お爺さん、ご飯時分だから、お母さんが僕を待ってるだろう」と彼は早口に言った。「お母さんに断わって来なくて、本当に残念だった! きっと心配するだろう……だが、ご飯をすましてからすぐ来るよ、一日じゅう来ているよ、一晩じゅう来てるよ、そしてうんと話すよ。うんと話すよ。ペレズヴォンも連れて来るよ、しかし、今は連れて帰ろう。だって、僕がいないと、こいつ吠えだして君の邪魔をするからさ。さようなら!」
 こう言って、彼は玄関へ走り出た。彼は泣きたくなかったが、玄関へ出ると、やはり泣いてしまった。こうしているところを、アリョーシャが見つけた。
「コーリャ、君はきっと約束どおり来てくれるでしょうね。でないと、イリューシャはひどく力を落しますよ」とアリョーシャは念を押した。
「きっと来ます! ああ、残念だ、どうしで[#「どうしで」はママ]僕はもっと前に来なかったんだろう。」
 コーリャは泣きながら、しかもその泣いていることを恥じようともせずに呟いた。
 ちょうどこの時、とつぜん部屋の中から、二等大尉が転げるように駈け出して、すぐにうしろの戸を閉めた。彼は気ちがいのような顔つきをして、唇を慄わせていた。そして、二人の若者の前に立って、ぐいと両手を上へあげた。
「どんないい子もほしくない! ほかの子なんか、ほしくない!」と彼は歯ぎしりしながら、気うとい声で囁いた。「もしわれなんじを忘れなば、エルサレム、われを罰せよ……」
 彼は涙にむせんだようなふうで、しまいまで言うことができなかった。ぐったりと木製のベンチの前に跪き、両の拳でわれとわが頭をしめつけて、たわいもなく泣きじゃくりをはじめた。が、自分の泣き声が部屋の中に聞えないようにと、懸命に声を抑えていた。コーリャは往来へ飛び出した。
「さようなら、カラマーゾフさん! あなたも来ますか?」彼は鋭い声で、腹立たしそうにアリョーシャに叫んだ。
「きっと晩に来ますよ。」
「あの人はエルサレムがどうとか言ったが……あれは一たい何でしょう?」
「あれは聖書の中にあるんです、『エルサレムよ、もしわれなんじを忘れなば』、つまり、私が自分の持っている一ばん尊いものを忘れたら、何かに見かえてしまったら、私を罰して下さい、というのです……」
「わかりました、たくさんです! じゃあ、あなたもおいでなさい! Ici, ペレズヴォン!」と彼はあらあらしい声で犬を呼び、大股にわが家をさして急いだ。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十篇第六章 早熟

[#3字下げ]第六 早熟[#「第六 早熟」は中見出し]

「あなたは、医者がイリューシャのことを、どう言うと思います?」とコーリャは口早に言った。「それにしても、なんていやな面でしょう、僕は医者ってものが癪にさわってたまりませんよ!」
「イリューシャはもう駄目でしょう。私にはどうもそう思われます」とアリョーシャは沈んだ声で答えた。
「詐欺師! 医者ってやつは詐欺師ですよ! だけど、カラマーゾフさん、僕はあなたにお目にかかったことを喜んでいます。僕はとうからあなたと近づきになりたかったんです。ただ残念なのは、僕たちがこんな悲しむべき時に出会ったことです……」
 コーリャは何かもっと熱烈で、もっと大袈裟なことを言いたくてたまらなかったが、何かが彼を押えているようであった。アリョーシャもこれに気がついたので、にっこりとして彼の手を握りしめた。
「僕はもうとっくからあなたを、世にも珍らしい人として尊敬していました。」コーリャはせきこんで、しどろもどろの調子でまたこう呟いた。「僕はあなたが神秘派で、修道院におられたことを聞きました。僕はあなたが神秘派だってことを知っていますが……それでも、あなたに接近したいという希望を捨てなかったんです。現実との接触がそれを癒やしてくれるでしょう……あなたのようなたちの人はそうなるのがあたりまえなんです。」
「一たい何を君は神秘派と呼ぶんです? そして、何を癒やしてくれるんです?」と、アリョーシャはいささか驚いて反問した。
「まあ、その、神だの何だのってものです。」
「何ですって、一たい君は神様を信じないのですか?」
「それどころじゃありません。僕も神には少しも異存ありません。むろん神は仮定にすぎないです……けれど……秩序のために……世界の秩序といったようなもののために、神が必要なことは認めています……だから、もし神がなければ、神を考え出す必要があったでしょう。」コーリャはだんだん顔を赤くしながら、こうつけたした。
 彼は突然こんな気持がしてきたのである、――今にもアリョーシャが、お前は自分の知識をひけらかして、自分が『大人』だってことを相手に示そうとしているのだ、とこう思うに違いない。『だが、僕はちっともこの人に、自分の知識なんかひけらかしたくはないんだ。』コーリャは憤然としてこう考えた。と、彼は急に恐ろしくいまいましくなった。
「僕は正直に言うと、こんな議論を始めるのがいやでたまらないんです」と彼は断ち切るように言った。「神を信じないでも、人類を愛することはできます、あなたはどうお考えですか? ヴォルテールは神を信じなかったけれど、人類を愛していました!」(また! また! と、彼は心の中で考えた。)
ヴォルテールは神を信じていました。が、その信仰はごく僅かだったようです。したがって人類に対する愛も僅かだったようです。」アリョーシャは静かに、控え目に、そしてきわめて自然にこう言った。それはいかにも自分と同年輩のものか、あるいは自分より年上のものとでも話すようなふうであった。
 アリョーシャがヴォルテールに関する自説に確信がなく、かえって小さいコーリャにこの問題の解決を求めるようなふうなので、コーリャはひどく驚かされた。
「が、君はヴォルテールを読みましたか?」とアリョーシャは言った。
「いえ、読んだというわけじゃありません……が、『カンディーダ』なら、ロシヤ語訳で読みました……古い怪しげな訳で、滑稽な訳で……」(また、また! と、彼は心の中で叫んだ。)
「で、わかりましたか?」
「ええ、そりゃあもうすっかり……つまり……しかし、なぜあなたは僕にわからなかったかもしれないと思うんです? むろん、あの本には俗なところがたくさんありました……僕もむろんあれが哲学的な小説で、思想を現わすために書いたものだってことはわかりました……」コーリャはもうすっかり、しどろもどろになってしまった。「僕は社会主義者です、カラマーゾフさん、僕は曲げることのできない社会主義者なんです。」彼は何の連絡もなくだしぬけにこう言って、ぶつりと言葉を切った。
社会主義者ですって?」とアリョーシャは笑いだした。「一たい君はいつの間に、そんなことができたんです? だって、君はまだやっと十三くらいでしょう?」
 コーリャはやっきとなった。
「僕は十三じゃない、十四です。二週間たつと十四になるんです。」彼は真っ赤になった。「それに僕の年なんか、この問題にどんな関係があります? 問題はただ僕の信念いかんということで、年が幾つかってことじゃないのです。そうじゃありませんか?」
「君がもっと年をとったら、年齢が信念に対してどんな意味をもつかということが、ひとりでにわかってきますよ。それに、私は、君の言われることが、自分の言葉でないような気がしましたよ」とアリョーシャは謙遜な、落ちついた調子で答えた。が、コーリャはやっきとなって、彼の言葉を遮った。
「冗談じゃない、あなたは服従神秘主義を望んでいらっしゃるんですね。たとえば、キリスト教が下層民を奴隷とするために、富貴な階級にのみ仕えていたということは、お認めになるでしょう。そうでしょう?」
「ああ、君が何でそんなことを読んだか、私にはちゃんとわかっています。きっと誰かが君に教えたんでしょう!」とアリョーシャは叫んだ。
「冗談じゃない、なぜ読んだものときまってるんです。僕は決して誰からも教わりゃしません。僕自分ひとりだってわかります……それに、もしお望みとあれば、僕はキリストに反対しません。キリストはまったく人道的な人格者だったのです。もし彼が現代に生きていたら、それこそ必ず革命家の仲間に入っていて、あるいは華々しい役目を演じたかもしれません……きっとそうですとも。」
「まあ、一たい、一たい君はどこからそんな説を、しこたま仕入れて来たんです? 一たいどんな馬鹿とかかり合ったんです!」とアリョーシャは叫んだ。
「冗談じゃない。では、しようがない、隠さずに言いますがね。僕はある機会からラキーチン君とよく話をするんです。しかし……そんなことは、もうベリンスキイ老人も言ってるそうじゃありませんか。」
「ベリンスキイが? 覚えがありませんね。あの人はどこにもそんなことを書いていませんよ。」
「書いてなけりゃ言ったんでしょう、何でもそういう話です。僕はある人から聞いたんですがね……だが、ばかばかしい、どうだっていいや……」
「では、君ベリンスキイを読みましたか?」
「それはですね……いや……僕ちっとも読まなかったんです。けれど……なぜタチヤーナがオネーギンと一緒に行かなかったか、ということを書いたところだけ読みました。」
「どうしてオネーギンと一緒に行かなかったか? 一たい君にはそんなことまで……わかるんですか?」
「冗談じゃない、あなたは僕のことを、スムーロフと同じような子供と思ってるようですね」とコーリャはいらだたしげに歯を剥いた。「けれど、どうか僕をそんな極端な革命家だとは思わないで下さい。僕はしょっちゅうラキーチンと意見の合わないことが多いんです。ところで、タチヤーナのことを言ったのは、決して婦人解放論のためじゃありません。実際、女は服従すべきもので、従順でなければなりません。Les femmes tricottent[#割り注](女は編物でもしておればいい[#割り注終わり])とナポレオンが言ったとおり」とコーリャはなぜかにやりと笑った。「少くとも、僕はこの点において、まったくこのえせ[#「えせ」に傍点]偉人と信念を同じゅうしています。たとえば、僕もやはり、祖国を棄てて、アメリカへ走るなんてことは、下劣なことだと思っています、下劣どころか無知なことだと思っています。ロシヤにいても十分人類を利することができるのに、なぜアメリカなんかへ行くんです? しかも今日のような場合、有益な活動の領域がいくらでもあるんですからね。僕はこう答えてやりました。」
「え、答えたんですって? 誰に? 誰かが君にアメリカへ行けとでも行ったんですか?」
「実のところ、僕はけしかけられたけれども、拒絶したんです。これはね、カラマーゾフさん、むろんここだけの話ですよ。いいですか、誰にも言わないようにして下さい。あなただけに言うんですからね。僕は第三課([#割り注]帝政時代のロシヤ政府に設けられた保安課[#割り注終わり])へぶち込まれて、ツェプノイ橋のそばで勉強するなんか真っ平です。

[#ここから2字下げ]
ツェプノイ橋の袂なる
かの建物を記憶せん!
[#ここで字下げ終わり]

 ご存じですか? 立派なものでしょう! なぜあなたは笑ってらっしゃるんです? まさか、僕がでたらめを並べてるとは、思ってらっしゃらないでしょうね?」(だが、もしカラマーゾフが、お父さんの書棚にこの『警鐘』([#割り注]ヘルツェンがロンドンで発行した雑誌[#割り注終わり])がたった一冊しかないことや、僕がそれよりほかこの種類のものを何にも読んでないことを知ったらどうだろう? コーリャはふとこう考えついて、思わずぞっとした。)
「どうしてどうして、そんなことはありません。私は笑ってやしません。君が嘘を言われるなんてまったく考えてもいません。それこそ本当に、そんなこと考えてやしませんよ。なぜって、悲しいことには、それがみんな本当のことなんですものね! ときに、君はプーシュキンを読みましたか、『オネーギン』を……いま君は、タチヤーナのことを言ったじゃありませんか?」
「いいえ、まだ読みませんが、読みたいとは思っています。カラマーゾフさん、ぼくは偏見を持っていませんから、両方の意見を聞きたいと思っているのです。なぜそんなことを訊くんですか?」
「なに、ただちょっと。」
「ねえ、カラマーゾフさん、あなたは僕をひどく軽蔑していらっしゃいますね?」とコーリャは投げつけるように言い、喧嘩腰といったような恰好で、アリョーシャの前にぐいと身を伸ばした。「どうかぴしぴしやって下さい、あてこすりでなしに。」
「あなたを軽蔑しているって?」アリョーシャはびっくりしてコーリャを見た。「そりゃどうしてです? 私はただ、あなたのようなまだ生活を知らない美しい天性が、そういうがさつな愚論のために片輪にされてるのが、淋しいんですよ。」
「僕の天性なんか心配しないで下さい」とコーリャは少々得意げな調子で遮った。「しかし、僕が疑りぶかい人間だってことは、そりゃまったくそのとおりです。ばかばかしく疑りぶかいんです。もう下司っぽいほど疑りぶかいんです。あなたは今お笑いになりましたが、僕はもう何だか……」
「ああ、私が笑ったのは、まるでほかのことですよ。私が笑ったのは、こういうわけなんです。以前ロシヤに住んでいたあるドイツ人が、現代ロシヤの青年学生について述べた意見を、私は近ごろ読んでみましたが、その中に『もしロシヤの学生にむかって、彼らが今日までぜんぜん何の観念も持っていなかった天体図を示したなら、彼らはすぐ翌日その天体図を訂正して返すであろう』とこう書いてありました。このドイツ人はロシヤの学生が何らの知識も持たないくせに、放縦な自信家だということを指摘したんです。」
「ええ、そうです、それはまったくそのとおりですよ!」コーリャは急にきゃっきゃっと笑いだした。「最上級に正確です、寸分相違なし! ドイツ人、えらい! けれど、やっこさん、いい方面を見落しやがった、あなたはどうお思いですか? 自信、――それはかまわないじゃありませんか。これはいわば若気のいたりで、もし直す必要があるとすれば、やがて自然に直りますよ。けれども、そのかわりドイツっぽのように、権威の前に盲従する妥協的精神と違って、ほとんど生来からの不羈の精神、思想と信念の大胆さがあります……だが、とにかくドイツ人はうまいことを言ったものですね! ドイツ人、えらい! が、それにしても、ドイツ人は締め殺してやらなけりゃなりません、彼らは科学にこそ長じていますが、それにしても締め殺さなけりゃなりません……」
「何のために締め殺すんです?」とアリョーシャは微笑した。
「ええ、僕はでたらめを言ったかもしれません。それは同意します。僕はどうかすると、途方もない赤ん坊になるんです。何か嬉しくなってくると、たまらなくなって、恐ろしいでたらめを言いかねないんです。だけど、僕らはここでくだらないことを喋っていますが、あの医者はあそこで何やら、長いことぐずついていますね。もっとも、『おっ母さん』だの、あの脚の立たないニーノチカだのを診察してるのかもしれません。ねえ、あのニーノチカは僕気に入りましたよ。僕が出て来る時に、『なぜあなた、もっと早くいらっしゃらなかったの?』って、だしぬけに小さい声で言うじゃありませんか。何ともいえない責めるような声でね! あのひとはとても気だての優しい、可哀そうな娘さんのように思われます。」
「そうです、そうです! 君もこれからここへ来ているうちに、あのひとがどんな娘さんかってことがわかりますよ。ああいうひとを知って、ああいうひとから多くの価値ある点を見いだすのは、あなたにとって非常に有益なことです」とアリョーシャは熱心に言った。「それが何よりも工合よく君を改造してくれるでしょう。」
「ええ、実に残念ですよ。どうしてもっと早く来なかったろうと思って、自分で自分を責めているんです」とコーリャは悲痛な調子で叫んだ。
「そうです、実に残念です。君があの哀れな子供に、どんな喜ばしい印象を与えたか、君自身ごらんになったでしょう。あの子は君を待ちこがれながら、どれくらい煩悶したかしれません。」
「それを言わないで下さい! あなたは僕をお苦しめになるんです。しかし、それも仕方がありません。僕が来なかったのは自愛心のためです、利己的自愛心と下劣な自尊心のためです。僕はたとえ一生涯くるしんでも、とうていこの自尊心からのがれることはできません。僕は今からちゃんとそれを見抜いています。カラマーゾフさん、僕はいろんな点から見てやくざ者ですよ!」
「いや、君の天性は曲げ傷つけられてこそいるが、美しい立派なものです。なぜ君があの病的に敏感な高潔な子供に対して、あれだけの感化を与えることができたか、私にはちゃんとわかっています!」とアリョーシャは熱心に答えた。
「あなたは僕にそう言って下さいますが」とコーリャは叫んだ。「僕はまあ、どうでしょう、僕はこう考えたんです、――現に今ここでも、あなたが僕を軽蔑していらっしゃるように考えていました! ああ、僕がどれくらいあなたのご意見を尊重してるか、それがあなたにわかったらなあ!」
「だが、君は本当にそれほど疑りぶかいんですか? そんな年ごろで! ねえ、どうでしょう、私はあそこの部屋で、君の話を聞きながらじっと君を見て、この人はきっと、むしょうに疑りぶかい人に違いない、とこう思いましたよ!」
「もうそう思ったんですか? それにしても、あなたの目はなんて目でしょう。ごらんなさい、ごらんなさい! 僕、賭けでもしますが、それは僕が鵞鳥の話をしていた時でしょう。僕もちょうどその時、あんまり自分をえらい者に見せかけようとあせるので、かえってすっかりあなたに軽蔑されてるような気がしました。そして、それがために急にあなたが憎くなって、くだらない話の連発をはじめたんです。それから(これはもう今ここでのことですが)、『もし神がないものなら、考え出す必要がある』と言った時にも、自分の教養をひけらかそうとあせったのだ、というような気がしました。ことにこの句はある本を読んで覚えたんですからね。けれど僕、誓って言いますが、あんなに急いで自分の教養をひけらかそうとしたのは、決して虚栄のためじゃないんです。何のためだか知りませんが、たぶん嬉しまぎれでしょう……もっとも、嬉しまぎれに有頂天になって、人の頸っ玉に噛りつくような真似をするのは、深く恥ずべきことですけれど、確かに嬉しまぎれのようでした。それは僕わかっています。けれど今はそのかわり、あなたが僕を軽蔑していらっしゃらないってことを信じています。そんなことはみんな僕自分[#「僕自分」はママ]で考え出した妄想です。ああ、カラマーゾフさん、僕は実に不幸な人間ですね。僕はどうかすると、みんなが、世界じゅうのものが僕を笑ってるんじゃないかというような、とんでもないことを考えだすんです。僕はそういう時に、そういう時に、僕は一切の秩序をぶち壊してやりたくなるんです。」
「そして、周囲のものを苦しめるんでしょう」とアリョーシャは微笑した。
「そうです、周囲のものを苦しめるんです、ことにお母さんをね。カラマーゾフさん、僕はいまとても滑稽でしょう?」
「まあ、そんなことを考えないほうがいいですよ、そんなことは、ぜんぜん考えないがいいです!」とアリョーシャは叫んだ。「滑稽が何です? 人間が滑稽なものになったり、あるいはそういうふうに見えたりすることは、いくらあるかしれません。今日ではみんな才能のあるひとたちが、滑稽なものになることをひどく恐れて、そのために不幸になってるんですよ。ただ私が驚くのは、君がそんなに早く、これを感じはじめたことです?[#「ことです?」はママ] もっとも、私はもうとっくから、ただ君ばかりでなく、多くの人にそれを認めていたのですがね。今日ではほとんど子供までが、これに苦しむようになっています。それはほとんど狂気の沙汰です。この自愛心の中に悪魔が乗り移って、時代ぜんたいを荒らし廻ってるんです、まったく悪魔ですよ。」じっと熱心に相手を見つめていたコーリャの予期に反して、アリョーシャは冷笑の影もうかべずに言いたした。「あなたもすべての人たちと同じです」とアリョーシャは語を結んだ。「つまり、大多数の人たちと同じですが、ただみんなのような人間になってはいけません、ほんとに。」
「みんながそうなのに?」
「そうです、たとえみんながそうであっても、君ひとりだけそんな人間にならなけりゃいいんです。それに、実際、君はみんなと同じような人じゃありません。現に君は今も、自分の悪い滑稽な点さえ認めることを、恥じなかったじゃありませんか。まったく、こんにち誰がそういうことを自覚してるでしょう? 誰もありゃしません。その上、自分を責めようという要求さえも起きないんです。どうかみんなのような人間にならないで下さい。たとえそういう人間でないものが、ただ君ひとりだけになっても、君はそういう人間にならないで下さい。」
「実に立派だ! 僕はあなたを見そこなわなかった。あなたは、人を慰める力を持っていらっしゃる。ああ、カラマーゾフさん、僕はどんなにあなたを慕っていたでしょう。どんなに以前から、あなたに会う機会を待っていたでしょう。じゃ、あなたもやはり、僕のことを考えていられたんですか? さっきそうおっしゃったでしょう、あなたも僕のことを考えてたって?」
「そうです、私は君のことを聞いて、やはり君のことを考えていました……もっとも、君はいくぶん、自愛心からそんなことを訊いたのでしょうが、そりゃ、なに、かまいませんよ。」
「ねえ、カラマーゾフさん、僕たちの告白はちょうど恋の打ち明けに似ていますね」とコーリャは妙に弱々しい羞恥をふくんだ声で言った。「それは滑稽じゃないでしょうか、滑稽じゃないでしょうか?」
「ちっとも滑稽じゃありませんよ。それに、よしんば滑稽でもかまやしませんよ。それはいいことですものね」とアリョーシャははればれしく微笑した。
「ですがねえ、カラマーゾフさん、あなたはいま僕と一緒にいるのを、恥しがってらっしゃるようですね……それはあなたの目つきでわかっています。そうでしょう?」コーリャは妙に狡猾な、しかし一種の幸福を感じたようなふうで、にたりと笑った。
「何が恥しいんです?」
「じゃ、なぜあなたは顔を赤くしたんです?」
「それは、君が赤くなるようにしむけたんです!」アリョーシャは笑いだした。実際、彼は顔じゅう真っ赤にしていた。「だが、そうですね、少しは恥しいようですね、なぜかわからないんですがね、なぜか知らないんですがね……」彼はほとんどどぎまぎしたようにこう呟いた。
「ああ、僕はどんなにかあなたを愛してるでしょう。どんなにこの瞬間あなたを尊重してるでしょう! それはつまり、あなたが僕と一緒にいるのを、恥しがっていらっしゃるためです。なぜって、あなたはちょうど僕と同じだからですよ!」コーリャはすっかり夢中になってこう叫んだ。彼の頬は燃え、目は輝いた。
「ねえ、コーリャ、君は将来非常に不幸な人間になりますよ。」アリョーシャはなぜか突然こう言った。
「知っています、知っています。本当にあなたは何でも先のことがおわかりになりますね!」とコーリャはすぐ承認した。
「だが、ぜんたいとしては、やはり人生を祝福なさいよ。」
「そうですとも! 万歳! あなたは予言者です! ああ、カラマーゾフさん、僕らは大いに意気相投合しますね。ねえ、いま僕を一ばん感心させたのは、あなたが僕をまったく同等の扱いになさることです。だけど、僕らは同等じゃありません。そうです、同等じゃありません、あなたのほうがはるかに上です! けれども、僕らは一致しますよ。実はねえ、先月のことでした、『僕とカラマーゾフさんは、親友としてただちに永久に一致するか、あるいは最初から敵となって、墓に入るまで別れるかだ!』とこうひとりで言ったんですよ。」
「あなたがそう言った時には、むろんもう私を愛していたんです!」とアリョーシャは愉快そうに笑った。
「愛していました、非常に愛していました、愛すればこそ、あなたのことを、いろいろと空想していたのです! どうしてあなたは何でも前からわかるんでしょうね? ああ、医者が来ました。ああ、一たい何と言うんだろう。どうです、あの顔つきは!」
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十篇第五章 イリューシャの寝床のそばで

[#3字下げ]第五 イリューシャの寝床のそばで[#「第五 イリューシャの寝床のそばで」は中見出し]

 もはやわれらにとって馴染みの深いその部屋には、同じく馴染みの深い休職二等大尉スネギリョフの家族が住まっていたが、このとき狭い部屋の中は大勢の人で一ぱいになって、息苦しいほどであった。幾たりかの子供たちも、イリューシャのそばに腰かけていた。彼らはみんなスムーロフと同じように、アリョーシャに曳きずられてイリューシャと仲直りしたことを、否定したいような心持でいたが、事実はやはりそうであった。この場合、アリョーシャの腕前は、『仔牛の愛情』をぬきにして、わざとらしくないように偶然をよそおいながら、子供たちを一人一人、イリューシャと和解させたことである。で、これはイリューシャの苦悶をやわらげるのに、あずかって力があった。以前敵であったこれらの子供たちが、自分に対して優しい友誼と同情を表してくれるのを見ると、イリューシャはひどく感動した、ただ一人クラソートキンのいないことが、彼の心中に恐ろしい重石となって横たわっていた。もしイリューシャの苦い追憶の中に、最も苦いものがあるとすれば、それは例のクラソートキンとの挿話であった。クラソートキンは彼にとって、唯一の親友でもあれば保護者でもあったのに、彼はあのとき、ナイフをふるってその人に飛びかかったのである。賢い少年スムーロフ(一ばん先にイリューシャと仲直りに来た)も、そう思っていた。けれど、スムーロフが遠廻しに彼に向って、アリョーシャが、『ある用事のために』訪ねて来ようと思っていると伝えた時、クラソートキンはすぐ、取りつく島もないように、きっぱりそれを拒絶して、自分がどんな行動をとるべきかは、自分でちゃんと知っているから、誰からも忠告などしてもらいたくない。もし病人のところへ行く必要があれば、自分には『自分の考え』があるから、いつ見舞いに行くか自分で決める、――とさっそく、こんなふうに『カラマーゾフ』に伝えるよう、スムーロフに依頼したのである。それは、まだこの日曜から二週間も前のことであった。こういうわけで、アリョーシャは自分でクラソートキンのところへ行く計画を断念してしまったが、しかしなお一両度、スムーロフをクラソートキンのところへ使いにやった。が、二度ながら、クラソートキンは恐ろしくいらいらした烈しい言葉で、断然その要求を拒絶してしまった。そして、もしアリョーシャが自分で来たら、決してイリューシャのところへ行かないから、この上うるさくしないでくれ、とアリョーシャに答えさせた。で、スムーロフさえこの最後の日まで、コーリャが今朝イリューシャ訪問を決したことを知らなかった。ところが、コーリャは前の晩スムーロフと別れる時、一緒にスネギリョフのところへ行くから、あす家で待っていてくれ、しかし、自分はだしぬけに行きたいのだから、決して誰にも知らせてはいけない、とこう突然に言いだしたのである。スムーロフは承知した。彼はある時クラソートキンが、『ジューチカがもし生きているとしたら、それを捜しだすことができなけりゃ、やつらはみんな驢馬だ』と何げなく言った言葉を根にもって、きっとクラソートキンは行方不明になったジューチカを連れて来るに違いない、と想像していた。けれど、スムーロフが折を見て、その犬に関する推察をおずおずとほのめかした時、クラソートキンは急にかんかんになって怒りだした。「僕にはペレズヴォンというものがあるのに、人の犬なんか町じゅう捜し廻るような馬鹿だと思うのかい、それにピンを呑み込んだ犬が生きてるなんて、そんなことがどうして考えられるものか。それは仔牛の愛情だよ、それっきりさ!」
 ところが、イリューシャはもうほとんど二週間も、片隅の聖像のそばにある小さな寝床から離れなかった。アリョーシャに逢って指に噛みついて以来、学校へも行かないでいた。彼はその日から発病したのである。もっとも、当座一カ月ばかりはときどき寝床から起きて、部屋の中や玄関などをぶらつくこともできたが、今はすっかり弱ってしまって、もう父親に手つだってもらわなければ、身動きさえもできなかった。父親は心配しておどおどしていた。酒もすっかり断って、愛児が死にはしないかという懸念のために、ほとんど気ちがいのようになっていた。ことに、彼の腕をとって部屋の中を歩かせてから、寝床へ寝かしつけたあとなど、いきなり玄関の暗い片隅へ走り出て、額を壁に押しつけたまま、イリューシャに聞えぬように声を忍ばせ、身を慄わして、さめざめと啜り泣くこともたびたびあった。
 部屋へ帰ると、彼は愛児を楽しませ慰めるために、昔噺や滑稽談を聞かせたり、あるいは自分が見たおかしな人たちの真似をしたり、動物の滑稽な吠え声や啼き声まで真似てみせた。けれども、イリューシャは父親がそうした滑稽な、道化めいたことをするのをひどくいやがった。少年はその不快さを現わさないように努めたが、しかし、父親が世間から馬鹿にされているということを、心臓の痛いほど意識しては、しじゅう『糸瓜』のことや、例の『恐ろしい日』のことなどを、たえまなく思いうかべていた。しとやかで、つつましい、脚の悪い姉のニーノチカも、やはり父のおどけを好まなかった(ヴァルヴァーラ・ニコラエヴナはもうとっくにペテルブルグへ勉強に行っていた)。しかし、半気ちがいの母親はひどくそれを面白かって、自分の夫がもの真似をしたり、何か滑稽な身振りを始めたりすると、心底から笑いだすのであった。彼女を慰めるものはただこれだけなので、そのほかのときは、もうみんなに忘れられてしまったとか、誰も自分を尊敬してくれないとか、みんなに馬鹿にされてばかりいるとか言って、ひっきりなしにぼやいたり泣いたりしていた。が、近来彼女も急に何となく変ってきたように見える。そして、部屋の隅に寝ているイリューシャを見ては、ふかいもの思いに沈むのが常であった。ひどく沈んで無口になり、よしんば泣きだすにしても、聞かれないように低い声で泣いた。二等大尉は彼女のこの変化に気づいて苦しい疑惑を感じた。子供たちの訪問は、最初あまり彼女の気に入らず、ただ腹を立てさせるだけであったが、やがて、その快活な叫びや話し声は彼女の気をまぎらすようになり、とどのつまりは、すっかり気に入ってしまった。もし子供たちが来なくなったら、彼女はひどくふさぎ込んだに違いない。子供たちが何か話をしたり、遊戯でも始めたりすると、彼女はきゃっきゃっと笑って、手を拍つのであった。時には自分のそばへ呼び寄せて、接吻さえした。とりわけ少年スムーロフを愛した。
 二等大尉にいたっては、イリューシャを慰めに来る子供たちの来訪を、最初から満身の歓喜をもって迎えていた。そのために、イリューシャがくよくよしなくなり、はやく回復に向うだろうという希望さえいだくのであった。彼はイリューシャの病状に不安を持っていたが、最後の瞬間まで、愛児が急によくなるに相違ないということを、つかの間も疑わないのであった。で、彼は小さい客たちをうやうやしく迎えて、そのそばを歩き廻ったり、世話をやいたりするばかりか、彼らを抱いて歩かないばかりであった。実際、一ど抱こうとしたことさえある。けれど、こんな冗談はイリューシャの気に入らなかったので、彼もすぐやめてしまった。彼は子供たちのために薑餅《しょうがもち》や、胡桃などを買って来たり、お茶をわかしたり、サンドイッチを作ったりした。ここで言っておかなければならぬのは、彼はその時分、金廻りがよくなっていたことである。彼ははたしてアリョーシャの予言どおり、カチェリーナ・イヴァーノヴナからの二百ルーブリを受け取った。やがて、カチェリーナは彼らの事情や、イリューシャの病気などをくわしく知ったので、自分から彼らの住まいを訪れて、家族のもの全部と知合いになったうえ、巧みに半気ちがいの二等大尉夫人を魅惑してしまった。それ以来、彼女は金を惜しまなかった。息子が死にはしまいかという恐ろしい想念に圧倒された二等大尉は、以前の誇りを忘れて、おとなしくその施しを受けていた。そのころ医師のヘルツェンシュトゥベは、カチェリーナの依頼によって隔日に規則ただしく病人を見舞ったが、その診療の効果は、はかばかしく見えなかった。彼はただやたらに薬を病人につぎ込むばかりであった。が、そのかわり、この日、すなわち日曜日の朝、二等大尉の家では、モスクワから来たある一人の医師を待っていた。それはモスクワで非常に評判の医師で、カチェリーナがわざわざ手紙をやって招いたのである。それはイリューシャのためではなく、ほかにある目的があったのだけれど、それはあとで話すことにして、とにかく、せっかく医師が着いたので、彼女はイリューシャの診察をも依頼した。このことは二等大尉もあらかじめ知らせを受けていた。
 愛児イリューシャが、絶えず苦にしているコーリャの見舞いを、彼はとうから待ち望んでいたのだが、今だしぬけにやって来ようとは夢にも思わなかった。コーリャが戸を開けて部屋の中へ現われた瞬間、二等大尉も子供たちもみんな病人の寝床のそばに集って、たった今つれて来た小さなマスチフ種の仔犬を見ていた。それは昨日生れたばかりなのだが、行方不明になってむろんもう死んだはずのジューチカのことをしじゅう苦に病んでいるイリューシャを慰めて気をまぎらすために、一週間も前から二等大尉がもらう約束をしていたものである。で、もう三日も前から小さい仔犬、それもありふれたものでなく、純粋のマスチフ種(これがむろん非常に重要な点であった)の仔犬を持って来てくれるということを、ちゃんと聞いて知っていたイリューシャは、微妙な優しい心づかいのために、この贈物を喜ぶようなふりをして見せていたが、その新しい仔犬がかえって彼の心に、かつて苦しめた不幸なジューチカの思い出を一そう強めるかもしれぬということは、父親にも子供たちにもはっきりわかっていたのである。仔犬は彼のそばに横たわってうごめいていた。彼は病的な微笑をうかべながら、痩せ細った青白い手で仔犬を撫でた。仔犬は確かに彼の気に入ったらしかったが……しかし、それでもやはりジューチカではなかった。やはりジューチカはいなかった。もしジューチカと仔犬が一緒にそこにいたなら、それこそ完全な幸福を感じたことであろうに!
「クラソートキンだ!」一番にコーリャの入って来るのを見つけた一人の子供が、突然こう叫んだ。と、室内には明らかに動揺が起った。子供たちはさっと道を開いて、寝床の両側に並んだので、途端に病床のイリューシャがすっかり見えた。二等大尉はまっしぐらにコーリャのほうへ駈け寄った。
「どうぞお入り下さい、どうぞお入り下さい……大事なお客さん!」と彼はコーリャに呟いた。「イリューシャ、クラソートキンさんがお前を見舞いに来て下すったよ……」
 しかし、クラソートキンは、まず彼に手を与えて、社交上の礼儀作法に関する驚くべき知識を示した。彼はまっさきに、安楽椅子に腰かけている二等大尉夫人のほうへ向いて(彼女はちょうどこの時ひどく不機嫌であった。そして子供たちがイリューシャの寝床を遮った、自分に新しい仔犬を見せてくれないと、ぶつぶつ小言をいっていた)、きわめて慇懃に足摺りをし、次にニーノチカのほうへ向きを換えて、一個の婦人として同様に会釈をした。この慇懃なふるまいは、病める夫人にきわめて快い印象を与えた。
「この人はお若いけれど、立派な教育のおあんなさることがすぐわかりますわ」と彼女は両手をひろげながら、大きな声で言った。「ところが、ここにいるほかのお客さんたちときたら、まあ、何ということでしょう、お互いに乗っかりっこなんかして入って来てさ。」
「何だよ、おっ母さん、お互いに乗っかりっこするなんて、一たいそれは何のことだね?」と二等大尉は愛想よく囁いたが、いくらか『おっ母さん』を心配しているふうであった。
「玄関のところで、お互いに肩に乗っかって入って来るんですよ。れっきとした家へ、肩車で入って来るなんて、何というお客さんでしょう?」
「では、誰が、誰がそんなことをして入って来たんだね、おっ母さん、誰が?」
「今日は、ほら、あの子はこの子の肩に乗ってるし、またこの子はあの子の上に乗ってさ……」
 けれど、コーリャはもうイリューシャの寝床のそばに立っていた。病人は見る見るさっと蒼くなった。彼は寝台の上に身を起して、じっとコーリャを見つめた。こちらはもう二カ月も、以前の小さい親友を見なかったので、愕然としてその前に立ちどまった。こんなやつれて黄いろくなった顔や、熱に燃えて何だかひどく大きくなったような目や、こんな痩せ細った手などを見ようとは、想像することもできなかったのである。彼はイリューシャがおそろしく深い、せわしそうな息づかいをしているのや、唇がすっかり乾ききっている様子などを、悲痛な驚きをもってうちまもった。彼はイリューシャのほうへ一歩あゆみ寄って手をさし伸べると、ほとんど喪心したような様子でこう言った。
「え、お爺さん……どうしたね?」
 けれども、その声は途切れて、磊落な調子が持ちきれなかった。彼の顔は突然ぴくりと痙攣し、唇のあたりで何かがわなわなと慄えた。イリューシャは病的ににこっとしたが、やはり言葉を出すことができなかった。コーリャは急に手を上げて、何のためかイリューシャの髪を掌で撫でた。
「なに……大……丈夫……だよ!」と彼は静かにイリューシャに囁いた。それは相手に力をつけるためというわけでもなく、自分でもなぜかわからずにそう言ったのである。二人はまたしばらくだまっていた。
「それは何だね、新しい仔犬かね?」コーリャはおそろしく無表情な声で、突然こう訊いた。
「そう……で……す」とイリューシャは息を切らせながら、囁くように長く声を曳いた。
「鼻が黒いから、こりゃ猛犬だよ、鎖に繋いでおくやつなんだよ。」いかにも仔犬とその黒い鼻だけが刻下の大問題であるかのように、コーリャはもったいらしく、きっぱりと言った。が、その実、彼は『ちっちゃな子供』のように泣きだすまいと、内部に起ってくる感情を抑えるため、しきりに努力しているのであったが、やはりどうしても抑えきれなかった。「大きくなったら、鎖に繋いでおかなきゃならないようになるよ。僕ちゃんとわかってる。」
「この犬は大きくなるよ!」むらがっている子供の一人がこう叫んだ。
「そりゃ、マスチフ種だもの、大きくなるにきまってるさ。こんなに、牛の仔くらいになるよ。」ふいに幾たりかの声が響き渡った。
「牛の仔くらいになりますとも、本当に牛の仔くらいになりますとも」と二等大尉はそばへ飛んで来た。「私はわざとそういう素敵な猛犬を捜したんです。そいつのふた親もやはり大きな猛犬でね、背の高さが床からこのくらいもありましたよ……どうかおかけ下さい、イリューシャの寝台の上か、でなければ、こちらのベンチへ。どうぞおかけ下さい、大事なお客さま、長いあいだ待ちこがれていたお客さま……アレクセイさんと一緒においで下さったんですな?」
 コーリャは、イリューシャの寝台の脚の辺に腰をおろした。彼はざっくばらんに話を始めようと思って、みちみち用意して来たのだけれど、今はすっかり糸口を失ってしまった。
「いいえ、僕ペレズヴォンと一緒に……僕は今ペレズヴォンという犬を飼っています。スラヴ流の名前なんです。あそこに待っていますが……僕が一つ口笛を鳴らすと、すぐ飛び込んで来ます。僕も犬を連れて来たんだよ。」彼はふいにイリューシャのほうに向った。「お爺さん、ジューチカを覚えてるかね?」彼はだしぬけにこう訊いて、イリューシャをぎょっとさせた。
 イリューシャの顔は歪んだ。彼は悩ましげにコーリャを見やった。戸口に立っていたアリョーシャは顔をしかめながら、ジューチカの名を口に出すなという意味を、そっと頭で合図したが、コーリャはそれに気がつかなかった、あるいは気がつこうとしなかったのかもしれない。
「ジューチカはどこにいるの?」とイリューシャは引っちぎったような声で訊いた。
「ちょっ、君のジューチカなんか、――駄目だよ! 君のジューチカは行方不明じゃないか!」
 イリューシャは口をつぐんだが、もう一度じいっとコーリャを見た。アリョーシャはコーリャの視線を捕えて、またしきりと頭を振って合図したが、コーリャはつと目をそむけて、今度もやはり気がつかないようなふりをした。
「どこかへ駈け出して、行方不明になったんだ。あんなご馳走を食ったんだもの、いなくなるにきまってるじゃないか」とコーリャはなさけ容赦もなく、切って捨てるように言ってのけたが、自分もひどく息をはずませているらしかった。「そのかわり、僕にはペレズヴォンという犬がある……スラヴ流の名前でね……君のところへ連れて来たんだ……」
「いらない!」とイリューシャはいきなりそう言った。
「いや、いや、いるよ、ぜひ見たまえ……君も喜ぶよ。僕わざと連れて来たんだ……あの犬みたいに、やはり尨毛なんだよ……奥さん、ここへ僕の犬を呼んでいいですか?」彼は不思議にも極度の興奮を感じながら、突然スネギリョーヴァ夫人に向ってこう言った。
「いらない、いらない!」とイリューシャは悲しげな、引っちぎったような声で叫んだ。彼の目には非難の色が燃えていた。
「もしあなた………」二等大尉は、壁のそばにおいてある大箱に腰をかけようとしたが、急につと立ちあがった。「あなた……一つまた今度……」と彼は呟いたが、コーリャは無理ひたいに大尉の言葉を遮りながら、突然、「スムーロフ、戸を開けてくれっ!」と叫んだ。そして、スムーロフが戸を開けると同時に、ぴっと呼子を鳴らした。と、ペレズヴォンが一散に部屋の中へ駈け込んだ。
「跳ねるんだ、ペレズヴォン、芸だ! 芸だ!」とコーリャはいきなり席を立ちあがって叫んだ。犬は後脚で立って、イリューシャの寝床の前でちんちんをした。と、思いがけないことが起った。イリューシャはぶるぶると身ぶるいをして、急に力一ぱい体を前へ突き出し、ペレズヴォンのほうへかがみ込んで、茫然感覚を失ったようにその犬を見た。
「これは……ジューチカだ!」彼は苦痛と幸福にひび割れたような声で叫んだ。
「じゃ、君は何だと思ったんだね?」とコーリャはかん高い嬉しそうな声で、力一ぱいに叫んだ。そして、犬のほうへかがみ込んで掴まえると、イリューシャのほうへ抱き上げた。
「見たまえ、お爺さん、ね、目が片っ方ないだろう、左の耳が裂けてるだろう、君が話して聞かせた目印と、寸分ちがわないよ。僕はその目じるしでこの犬を捜したんだ。しかも、あの時すぐに捜し出したんだ。この犬は誰のものでもなかったんでしょう。この犬は誰のものでもなかったんでしょう!」彼は二等大尉や、その細君や、アリョーシャや、それからまたイリューシャを見まわしながら、早口に説明した。「この犬はフェドートフの家の裏庭にいたんだ。そこに垂れ込もうとしたんだけど、あすこで食べものをやらなかったんだよ。ところが、先生、田舎から逃げ出した犬でね……僕はそれを捜し出したんだ……ね、お爺さん、この犬はあの時、君のパンを呑み込まなかったんだよ。もし、呑み込んでれば、むろんもう死んでいるはずだ、むろんそうだとも! いいあんばいに、早く吐き出したんだよ、――こうして、まだ生きてるところを見るとね。ところが、君は吐き出したのに気がつかなかったんだよ。吐き出しはしたが、やはり舌を突かれたんで、あの時きゃんきゃん鳴いたんだ。そして、鳴きながら駈け出したもんだから、君はすっかり呑み込んだものと思ったんだ。そりゃ鳴いたのも無理ないよ。だって、犬の口ん中の皮はとても華奢なんだもの……人間のより柔かいんだ、ずっと柔かいんだ!」とコーリャは猛烈な勢いで叫んだ。彼の顔は喜びのために燃えるように輝いていた。
 イリューシャは口をきくこともできなかった。彼は口をぽかんと開けて、布ぎれのように青ざめた顔をしながら、何だかひどく飛び出たような大きな目で、じっとコーリャを見つめていた。コーリャもこういう瞬間の病人に与える影響が、どれほどまでに恐ろしく、致命的なものであるかを知っていたら、決してこんなとっぴなことをしなかっただろう。が、そこにいるものでこれに気がついたのは、ただアリョーシャ一人だけだったかもしれない。二等大尉はというと、まるで小さな子供になりきったようであった。
「ジューチカ! では、これがジューチカですかい?」と彼は有頂天な声で叫んだ。「イリューシャ、これがジューチカだよ、お前のジューチカだよ! おっ母さん、これがジューチカだよ!」
 彼はもう泣きださないばかりであった。
「ああ、僕はこれに気がつかなかったんだからなあ」とスムーロフは悲しそうに叫んだ。「やっぱり、クラソートキンはえらいや! 僕はこの人がジューチカを捜し出すに相違ないって言ったが、本当に捜し出したよ。」
「本当に捜し出した!」とまた誰かが嬉しそうに応じた。
「クラソートキンはえらい!」ともう一人の声が響いた。
「えらい、えらい!」と子供たち一同は叫んで、拍手を始めた。
「まあ、待ちたまえ、待ちたまえ。」コーリャは一同を呶鳴り負かそうとやっきになった。
「僕は君らに事情を話そう、その事情が一番の山なんだよ、ほかのことなんかつまらないや! 僕はこの犬を捜し出すと、家へ連れてかえって、すぐに隠してしまったのさ。家の中へ、錠で閉じ籠めてしまったんだ。こうして、つい近頃まで、誰にも見せなかった、ただスムーロフ一人だけは、二週間ばかり前に知ったけれど、僕がこれはペレズヴォンだと言ってだましたので、スムーロフも気がつかなかったんだ。ところが、僕は合いの手にこのジューチカにいろんな芸当を教えた。いま君らに見せるがね、こいつがどんな芸当を覚えてるか見てくれたまえ! それはね、お爺さん、よく教え込まれて馴れきった時に、君んとこへ連れて来ようと思ったからだよ。『ほら、お爺さん、君のジューチカはこんな犬になったよ!』って、君に自慢しようってわけなんだ。ところで、あなたのところに何か牛肉の切れでもありませんかね、こいつが今あなた方に一つ芸当をやってお目にかけます。あなた方が腹をかかえて笑うようなやつをね。牛肉の切れ、一たいお宅にないんですか?」
 二等大尉は玄関を通り抜けて、自分たちの賄いをしてもらっている家主の住まいへ、一目散に駈け込んだ。コーリャは貴重な時間を失うまいと、むやみにせき込んで、『死ね!』とペレズヴォンに叫んだ。すると、犬は途端にくるくる廻ると、仰向けに寝ころんで、四つ足を上にしたまま、じっと死んだふりをしていた。子供たちは笑った。イリューシャは依然として、悩ましげな微笑をうかべながら眺めていた。しかし、ペレズヴォンの死んだ真似は、誰よりも一ばん『おっ母さん』の気に入った。彼女は犬を見て大声に笑いながら、指をぱちぱちと鳴らして呼んだ。
「ペレズヴォン、ペレズヴォン!」
「どんなにしたって起きやしませんよ、どんなにしたって。」コーリャは得意になって、勝ち誇ったように叫んだ。(もっとも、その自慢は正当なものであった)。「たとえ世界じゅうの人が呶鳴ったって、起きやしませんよ。ところが、僕が呼びさえすれば、すぐに飛び起きます! Ici, ペレズヴォン!」
 犬は飛び起きて、くんくん鳴きながら、嬉しそうに跳ねだした。二等大尉は煮た牛肉を一きれ持って駈けつけた。
「熱くはありませんか?」コーリャは肉を受け取りながら、事務的な調子で訊いた。「いや、熱くはない。犬は熱いものを好きませんからね。さあ、みなさん、ごらんなさい……イリューシャ、見たまえ、さあ、見たまえったら、お爺さん、見たまえ、どうして君は見ないんだね? 僕がわざわざ連れて来たのに、イリューシャは見てくれないんだからなあ!」
 新しい芸当というのはこうである。じっと立って顔を突き出している犬の鼻の真上に、うまそうな肉の切れをのせると、可哀そうに、犬は鼻の上に肉の切れをのせたまま、主人の命令がないかぎり、三十分間でも一時間でも身動き一つせず、じっと立っていなければならないのであった。
「それっ!」と、コーリャは叫んだ。すると、肉はたちまちペレズヴォンの鼻から口の中へ飛び込んだ。
 見物の人たちはもちろん、みな感嘆の声をもらした。
「じゃ、君はただ犬を教え込んでいたために、今まで来なかったんですか?」アリョーシャは思わず、なじるような調子になってこう叫んだ。
「むろんそうです!」とコーリャは思いきって平気な声で言った。「僕はこの犬の立派に仕あがったところを見せたかったんです。」
「ペレズヴォン! ペレズヴォン!」イリューシャは犬を招きながら、急にその痩せ細った指をぱちぱちと鳴らした。
「どうするんだね! それよか、こつい[#「こつい」はママ]を君の蒲団の上へ飛びあがらせたらいいじゃないか。Ici, ペレズヴォン!」コーリャは掌で蒲団の上をぽんと叩いた。
 すると、ペレズヴォンは矢のようにイリューシャのそばへ飛びあがった。イリューシャはやにわに犬の頭を両手で抱いた。と、ペレズヴォンはすぐそのお礼に彼の頬を舐めまわした。イリューシャは犬を抱きしめて、寝床の上に身を横たえ、その房房とした毛の中に頭を埋めてしまった。
「おお、おお!」と二等大尉は叫んだ。
 コーリャはまたイリューシャの寝床の上に腰をおろした。
「イリューシャ、僕はもう一つ君に見せるものがあるんだ。僕は君に大砲を持って来たんだよ。君、憶えてるだろう! あのとき君にこの大砲のことを話したら、君は『ああ、僕にもそれを見せてもらいたいなあ!』と言ったろう。だから、きょう僕が持って来たんだ。」
 この言って[#「この言って」はママ]、コーリャはせき込みながら、自分の鞄の中から銅の大砲を取り出した。彼がせき込んだのは、自分でも非常な幸福を感じていたからである。ほかの時なら、彼はきっと、ペレズヴォンによって惹起された効果が鎮まるのを、じっと待っていたであろうが、しかし、このときは、『それだけでもお前は幸福なんだが、まだその上に、ほら、もっと幸福を授けてやるよ!』とでもいうような気持で、一切の自己制御を無視しながら、ひどくせき込んでしまったのである。彼自身もすっかり酔ったようになっていた。
「僕はこの大砲をね、もうずっと前からモローゾフという官吏の家で見ておいたんだ、――君のためにさ、お爺さん、君のものだよ。これはあの人の家にあったって、何にもなりゃしないんだ。あの人はこれを兄弟からもらったんだからね。そこで、僕は親父の戸棚から、『マホメットの親戚、一名馬鹿霊験記』という本を引き出して、この大砲と取っ換えっこしたんだ。それは、百年からたったものなんだ、とても大変な本でね、まだ検閲がなかった時分、モスクワで発行されたものさ。ところが、モローゾフはそういうものが大好きなんでね。その上お礼まで言ったよ……」
 コーリャは、みんなで見て楽しまれるように、大砲を手にのせて、一同の前へさし出した。イリューシャも身を起した。そして、やはり右手でペレズヴォンを抱いたまま、狂喜の色をうかべてこの玩具を眺めた。コーリャが自分は火薬を持っているから、『もしご婦人がたを驚かせるようなことがなければ』今ここで撃つこともできると説明した時、一同の興味は極度に達した。『おっ母さん』はすぐに、もっと近くでその玩具を見せてもらいたいと頼んだ。その願いはすぐにいれられた。彼女は車のついた青銅の大砲がむしょうに気に入って、それを自分の膝の上で転がしはじめた。大砲を発射させてもらいたいという乞いを、彼女は喜んで承諾したが、そのくせ何のことか、まるっきりわからないのであった。コーリャは火薬と散弾を出して見せた。もと軍人であった二等大尉は、自分で指図して、ごく少量の火薬を填めたが、散弾は次の時まで延期するように頼んだ。大砲は筒口を人のいないほうへ向けて、床の上におかれた。人々は三本の導火線を火門へさし込んで、マッチで火をつけた。すると、この上なく見事に発射した。『おっ母さん』はぶるっと身慄いしたが、すぐ愉快そうに笑いだした。子供たちは無言の荘重を保って見物していたが、誰よりも一ばん面白がったのは、イリューシャをうちまもっていた二等大尉である。コーリャは大砲を取り上げ、散弾や火薬を添えて、すぐさまイリューシャに渡した。
「これは君のためにもらったんだよ、君のためなんだよ! もう、とうから用意していたんだ。」彼は幸福感に満ち溢れながら、また繰り返した。
「あら、わたしにちょうだいよ! ねえ、その大砲はわたしにくれたほうがいいわ!」と『おっ母さん』は小さい子供のように、ねだり始めた。
 彼女の顔は、もしもらえなかったらという危惧のために、悲しげな不安の表情をたたえた。コーリャはどぎまぎした。二等大尉は不安らしく騒ぎだした。
「おっ母さん、おっ母さん!」と彼は妻のほうへ駈け寄った。「大砲はお前のものだよ、お前のものだよ、お前のものだよ。けれど、イリューシャに持たせておこうね。なぜって、これはイリューシャがいただいたんだものな。でも、やはりこの大砲はお前のものだよ。イリューシャはいつでもお前にもって遊ばしてくれる。つまり、お前とイリューシャとおもあいにするんだ、おもあいに……」
「いやです、おもあいにするのはいやです。イリューシャのじゃない、すっかりわたしのものになってしまわなけりゃいやです。」今にも本当に泣きだしそうな調子で、『おっ母さん』は言いつづけた。
「おっ母さん、お取んなさい、さあ、お取んなさい!」とにわかにイリューシャは叫んだ。「クラソートキン、これをおっ母さんにやってもいいでしょう?」彼は哀願するような表情で、クラソートキンのほうへ向いた。それはせっかくの贈物を人にやるのを、コーリャに怒られはしないかと、心配するようなふうつきであった。
「いいとも!」とコーリャはすぐに同意し、大砲をイリューシャの手から取って、きわめて慇懃に会釈しながら『おっ母さん』に渡した。
 おっ母さんは感きわまって泣きだした。
「可愛いイリューシャ、お前のようにおっ母さんを大切にするものはないよ!」と彼女は感激して叫んだ。そして、さっそくまた膝の上で大砲を転がしはじめた。
「おっ母さん、お前の手を接吻させておくれ。」こう言って夫は彼女のそばへ駈け寄ると、さっそく自分の計画を実行した。
「それからもう一人、本当に優しい若い人は誰かと言ったら、ほら、このいい子供さんよ!」感謝の念に満ちた夫人は、クラソートキンを指さしながらこう言った。
「でね、イリューシャ、火薬はこれからいくらでも持って来てやるよ。僕らは今じゃ自分で火薬を造ってるんだ。ボロヴィコフが分量を知ったんだよ。硝石二十四分に、硫黄十分と、白樺の炭六分、それを一緒に搗きまぜて、水で柔かく捏ね合せてから、太鼓の皮で瀘《こ》すのさ……それでちゃんと火薬ができるんだよ。」
「僕はスムーロフから君の火薬のことを聞いたけれど、お父さんはそれは本当の火薬じゃないって言っていますよ」とイリューシャは答えた。
「どうして本当でないんだって?」とコーリャは顔を赤らめた。「僕らが造るものだって、ちゃんと発火するよ。だが、僕も知らない……」
「いいえ、そうじゃないんです。」二等大尉はすまないような様子をして、あわてて飛び出した。「いや、本当の火薬はそんな造り方じゃない、とまあ言うには言いましたがね、しかし、そうでもかまわないんで。」
「僕知らないんです。あなたのほうがよく知ってらっしゃるでしょう。僕らは瀬戸で作ったポマードの罎に入れて火をつけたんですが、よく発火しましたよ。すっかり燃えてしまって、ほんのぽっちり煤が残っただけです。けれど、これは柔かく混ぜた塊りで、もし皮で濾《こ》したら……だけど、あなたのほうがよく知っていらっしゃるでしょう。僕じっさい知らないんですから……だが、ブールキンはこの火薬のためにお父さんに撲られたそうだが、君聞いた?」彼は突然イリューシャのほうへ向いた。
「聞きました」とイリューシャは答えた。彼は限りない興味と享楽を感じながら、コーリャの話を聞いていた。
「みんなで罎に一ぱい火薬を造って、それをブールキンが寝台の下に隠しておいたのを、親父に見つけられたんだ。爆発でもしたらどうすると言って、その場でひっぱたいたのさ、そのうえ僕のことを学校へ訴えようとしたんだ。今じゃブールキンは、僕と一緒に遊ぶのを禁《と》められてる。ブールキンばかりじゃない、誰もみんな僕と遊ぶことを禁められてね、スムーロフもやはり、僕のところへ来さしてもらえないんだ。僕はもう評判者になっちまったよ、――何でも『向う見ず』なんだそうだ。」コーリャは軽蔑するように、にたりと笑った。「これはみんなあの鉄道事件から始まったのさ。」
「ああ、私たちもあなたのその冒険談を聞きましたよ!」と二等大尉は叫んだ。「あなたはそこに寝ていて、どんな気持がしました? 汽車の下になった時も、あなたは本当にちっともびっくりしなかったんですか。恐ろしかったでしょうな?」
 二等大尉はしきりにコーリャの機嫌をとった。
「な……なに、それほどでもありませんでしたね!」とコーリャは無造作に答えた。「だが、ここで一ばん僕の名声をとどろかしたのは、あのいまいましい鵞鳥だったよ」と彼はふたたびイリューシャのほうへ向いた。彼は話に無頓着の態度をよそおうていたが、やはり十分もちきれないで、ときどき調子をとりはずすのであった。
「ああ、僕は鵞鳥のことも聞いた!」イリューシャは満面を輝かしながら笑いだした。「僕、話を聞いたけど、よくわからなかった。君、ほんとに裁判官に裁判されたんですか?」
「ごくばかばかしい、つまらないことなんだよ。それをここの人たちの癖で、針小棒大に言いふらしたんだ」とコーリャは磊落に言いはじめた。「僕ある時、あの広場を通っていたんだよ。ところが、ちょうどそこへ、鵞鳥が追われて来たんだ。僕は立ちどまって鵞鳥を見ていると、そこに一人、土地の若い者がいた。そいつはヴィシニャコフと言って、いまプロートニコフの店で配達をやっているんだが、僕を見て『お前は何だって鵞鳥を見てるんだ?』と言やがるじゃないか。僕はそいつを見てやった。丸いばかばかしい面をした、二十歳ばかりの若い者なんだ。僕はご存じのとおり、決して民衆をしりぞけない、僕は民衆との接触を愛しているんだからね……僕らは全体から離れてしまってる、――これは明白な原理だ、――カラマーゾフさん、あなたはお笑いになったようですね?」
「いや、とんでもない、私は謹聴していますよ。」アリョーシャは、この上ない無邪気な態度で答えた。で、疑い深いコーリャもたちまち元気づいた。
カラマーゾフさん、僕の議論は明白単純なんです」と彼は嬉しそうに口早に言いだした。
「僕は民衆を信じていて、いつも喜んで彼らの長所を認めます、が、決して彼らを甘やかすようなことはしない。これは sine qua non([#割り注]必須条件[#割り注終わり])です……だけど、いま鵞鳥の話をしてたんですね。そこで、僕はその馬鹿野郎のほうへ向いて、『実は鵞鳥が何を考えているだろうと、僕は今それを考えてるんだ』と答えた。ところが、やっこさん、馬鹿げきった顔つきをして僕を見ながら、『鵞鳥が何を考えてるかって?』と言いやがるんだ。で、僕は『まあ、見ろ、そこに燕麦を積んだ馬車があるだろう。袋から燕麦がこぼれている。ところが、鵞鳥が一羽、車の真下に頸を伸ばして麦粒を食ってるだろう、――え、そうだろう?』と言った。『そりゃおれだってよく知ってらあ』とやつが言うんだ。でね、僕はこう言ったのさ。『じゃ、今もしこの馬車をちょっと前へ押せば、車で鵞鳥の頸を轢き切るかどうだ?』するとやつ、『そりゃきっと轢くよ』と言って、顔じゅう口にして笑いながら大恐悦なんだ。『じゃ、君一つ押してみようじゃないか』と僕が言うと、『押してみよう』ときた。僕らは長いこと苦心する必要なんかなかったよ。やつはそっと轡のそばに立つし、僕は鵞鳥を車の下へやるように脇へ行った。が、ちょうどその時、百姓がぼんやりして、誰かと話を始めたので、何も僕がわざわざ車の下へ追うことはいらなかった。つまり、鵞鳥が自分で燕麦を食うために、ちょうど車の下へ頸を伸ばしたんだ。僕が若い者に目まぜをすると、やつは馬を引いた。そして、クワッといったかと思うと、もうちゃんと車は鵞鳥の頸を真っ二つに轢き切ってしまってるんだ! ところがね、ちょうど折わるくその瞬間に、百姓たちが僕らを見つけて、『お前わざとしたんだろう!』と言って、たちまちわいわい騒ぎだすんだ。『いいや、わざとじゃない。』『いや、わざとだ!』そして『判事のところへ連れて行け!』と言って騒ぎだす。とうとう僕もつかまってしまった。『お前も、あそこにおったから、きっと手つだったんだろう。市場じゅうのものがみなお前を知っている』と言うんだ。実際なぜか市場のものはみんな僕を知ってるんだよ」とコーリャは得意らしくつけ加えた。「僕らはぞろぞろ治安判事のところへ押しかけて行った、鵞鳥も持ってね。見ると、例の若い者は怖がって泣きだすじゃないか。まるで女のように喚くんだ。だが、鳥屋は『あんな真似をされちゃたまらねえ、鵞鳥はいくらでも殺されっちまう!』と言って呶鳴る。むろん、証人も呼ばれたさ。ところが、判事は立ちどころに片づけてしまった。つまり、若い者に鵞鳥の代として鳥屋へ一ルーブリ払わせ、鵞鳥は若い者がもらうことにして、将来必ずこんないたずらしちゃいかんというわけなんだ。若い者はやはり、『そりゃわっしじゃない、あいつがわっしをそそのかしたんだ』と言って、女のように喚きながら、僕をさすじゃないか。僕はすっかり冷静にかまえこんで、決してそそのかしなんかしない、ただ根本思想を話して、計画として述べたまでだと答えた。判事のネフェードフはにたりと笑ったが、すぐ自分で自分の笑ったのに腹を立てて、『私はあなたが将来こんな計画をやめて、家にひっこんで本を読んだり、学課を勉強したりするように、今すぐ学校当事者に訴える』と言うんだ。しかし、やっこさん訴えはしなかった、それは冗談だったが、この事件はすぐ評判になって、とうとう学校当事者の耳に入ってしまった。学校のものは耳が早いからね! ことにやっきとなったのは、古典語教師のコルバースニコフさ。だが、ダルダネーロフがまた弁護してくれた。コルバースニコフはまるで緑いろの驢馬みたいに、誰にでも意地わるく食ってかかるんだよ。イリューシャ、君、聞いたかい、あいつは結婚したよ。ミハイロフのところから、千ルーブリの持参金つきでもらったんだが、花嫁は古今未曾有の化物なんだ。で、三年級の連中はすぐにこういう諷詩を作ったんだ。

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引きったれのコルバースニコフさえ嫁をとる
これにはさすがの三年級もびっくり仰天驚いた
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 こういう調子でまだそのさきがあるが、素敵に滑稽なんだ。あとで持って来て見せるよ。ダルダネーロフのことは僕なにも言わない。学識のある、――立派な学識のある人だよ。僕はああいう人を尊敬するね。しかし、決して自分が弁護してもらったからじゃない……」
「でも、君はトロイの創建者のことで、あの人をやりこめたことがありますね!」この時スムーロフは、クラソートキンを自分のことのように、心から自慢しながら口を入れた。鵞鳥の話がすっかり彼の気に入ったのであった。
「へえ、そんなにやりこめたんですかね!」と二等大尉は媚びるように調子を合せた。「それは、誰がトロイを創建したかということでしょう? もう私たちも、そのやりこめなすった話を聞きましたよ。イリューシャがその時さっそく話して聞かせたんで……」
「お父さん、あの人は何でも知ってるんです、誰よりかも一等よく知ってるんですよ!」イリューシャも相槌を打った。「あんなふりをしてるけど、その実なんの学課にかけても、僕たちの仲間で一等よくできるんですよ……」
 イリューシャは無限の幸福を感じながらコーリャを見た。
「なに、トロイのことなんかばかばかしい、つまらない話ですよ。僕自身その問題を空虚なものだと思っていますよ」とコーリャは謙遜しながらも、誇らしげに答えた。
 彼はもうすっかり調子づいていたが、しかしまだいくらか不安を感じていた。彼は自分が非常に興奮していて、たとえば鵞鳥の話などもあまり熱心にやりすぎたと感じていた。しかも、アリョーシャがその話の間じゅう黙りこんで、きまじめな様子をしていたので、自尊心の強い少年は、『先生が黙ってるのは、僕を軽蔑してるからじゃなかろうか。僕が先生の賞讃を求めてると思ってるからじゃあるまいか? もし、そんな生意気なことを考えてるなら、僕は……』こう考えると、だんだんと心を掻きむしられるような気がしはじめた。
「僕は、あの問題をごくつまらないものと思ってるんだ。」彼はふたたび誇らしげに、断ち切るようにこう言った。
「だけど、誰がトロイを建てたか、僕、知ってますよ。」その時までほとんど一ことも口をきかなかった一人の子供が、だしぬけにこう言った。それはだんまりやで、非常なはにかみやの、ごく可愛い顔をした十一になる少年で、姓をカルタショフと言った。
 彼は戸のすぐそばに腰かけていた。コーリャはびっくりしたような、ものものしい様子をして彼を見やった。ほかでもない、『誰がトロイを建てたか?』という問題は、まったくクラス全体にとって秘密になっていて、その問題を解くには、スマラーグドフの本を読まなければならなかったのである。けれど、コーリャのほかには、誰もスマラーグドフを持っているものがなかった。ところが、ちょうどあるとき少年カルタショフは、コーリャがよそを向いたすきに、ほかの書物の間にまじっていたスマラーグドフを、そっと手ばやく開いた。すると、トロイの創建者のことを書いたところにぴたりと出くわした。これはもうずっと前のことであったが、彼はやはり何かしらきまりがわるく、自分もそれを知っていると公表するのを躊躇していた。もしひょっと何かことが起りはしないか、どうかしてコーリャが恥をかかせはしないか、とこう懸念していたからである。けれど、今は我慢しきれなくなって、とうとう口をすべらしてしまった。彼はさっきから、言いたくて言いたくてたまらなかったのである。
「じゃ、誰が建てたんだ?」コーリャは傲然と、見おろすように彼のほうへ振り向いた。そして、カルタショフの顔いろで、これは本当に知っているなと見抜いたので、すぐその結果に対する心構えをしていた。人々の気分の中には、何かしら不調和《ディスソナンス》ともいうべきものが生じた。
「トロイを建てたのは、テウクルとダルダンとイルリュスとトロスです」と彼は一息に言ったが、その瞬間、顔を真っ赤にしてしまった。あまり真っ赤になったので、見るのも気の毒なくらいであった。けれど、子供たちはみんなじっと、穴のあくほど彼を見つめた。まる一分間見つづけていたが、やがてその目は一せいにコーリャのほうへ向けられた。こちらは冷静な軽蔑の色をうかべながら、この不敵な少年をじろじろうちまもっていた。
「じゃ、その人たちがどういう工合にして建てたんだ?」彼はやっとお情けでこういう問いを与えた。「町とか国とかを建てるということは、一たいどういう意味なんだね? その人たちはどうしたんだね、そこへやって来て煉瓦でも一枚ずつおいたのかい?」
 どっと笑い声が起った。悪いことをした少年の顔は、ばら色からさらに火のようになった。彼はおしだまってしまい、もう今にも泣きだしそうな顔をした。コーリャはまだしばらくの間、彼をそのままにして試験した。
「国民の基礎というような歴史上の事件を説明するには、まずそれがどんな意義をもっているか理解しなけりゃ駄目だよ」と彼はさとすような調子で厳めしく言った。「もっとも、僕はそういうことなんか、女の作り話なんか、重大視していないのだ。それに、一たい僕は世界歴史なんてものをあまり尊敬していないんだ。」彼はみんなに向いて、とつぜん無造作にこうつけたした。
「え、世界歴史を?」と急に二等大尉はびっくりしたように訊いた。
「そうです、世界歴史です。それは滔々たる人間どもの、無知な所業を研究するにすぎないですからね。僕の尊敬するのはただ数学と自然科学だけです」とコーリャはきっぱり言い切って、ちらとアリョーシャを見やった。彼はこの場で、ただアリョーシャ一人の意見を恐れていたのである。
 が、アリョーシャは依然としておしだまったまま、真面目な顔をしていた。もしアリョーシャが何か一口言えば、それでことはすんだのであろうが、アリョーシャは何も言わなかった。彼の『沈黙は軽蔑の沈黙かもしれない』と思って、コーリャはもうすっかりいらいらしてしまった。
「僕らの学校では、このごろまた古典語を始めましたがね、まるで狂気の沙汰です、それっきりです……カラマーゾフさん、あなたは僕の考えに反対ですか?」
「同意しませんね。」アリョーシャは控え目ににっこりした。
「古典語はですね、もしお望みとあれば、僕の意見を述べますが、あれば秩序取締りの政策なんですよ。ただそのために始めたんです」とコーリャは急にまた息をはずませた。「古典語を入れたのは退屈させるためです。才能を鈍らせるためです。すでに退屈であるが、それをさらにより退屈させるためにはどうしたらいいか? すではノンセンスであるが、それをさらにより以上ノンセンスにするにはどうしたらいいか? こういうわけでこの古典語を考えついたんです。これが古典語に関する僕のありのままの意見です。そして、僕はこの意見を決して変えないことを希望しています」とコーリャは鋭く言葉を結んだ。
 彼の両頬には赤いしみが現われた。
「それはまったくそうだ。」熱心に聞いていたスムーロフは、確信したように、かん走った声で同意を表した。
「そのくせ、コーリャはラテン語じゃ一番なんですよ!」群の中の一人がふいにこう叫んだ。
「そうなのよ、お父さん、自分であんなことを言ってるけど、ラテン語じゃ僕たちのうちで一番できるのよ」とイリューシャも相槌を打った。
「それがどうだって?」コーリャは賞められたのも非常に愉快であったが、それでもやはり弁解の必要を感じた。「そりゃ僕もラテン語をこつこつ暗記しています。つまりそうしなけりゃならないからですよ。なぜって、無事に学校を卒業するように、お母さんと約束したからです。僕の考えじゃ、一たんはじめた以上、立派にやり遂げたほうがいいと思うんです。けれど内心、僕はふかく古典主義なんて下劣なものを軽蔑しています……カラマーゾフさん、あなたはいかがですか?」
「でも、どうして『下劣なもの』なんです?」とアリョーシャはふたたび微笑した。
「だって、そうじゃありませんか、古典は残らず各国語に翻訳されてるから、古典研究のためにはラテン語なんかちっとも必要ありません。ただ政策として、人の才能を鈍らせるために必要とされたのです。どうしてこれが下劣でないと言えますか?」
「まあ、誰が君にそんなことを教えたんです?」とうとうアリョーシャはびっくりしたように叫んだ。
「第一に教わらなくたって、僕は自分でちゃんとわかります。それから第二として、僕がいま古典はぜんぶ翻訳されてると言ったのは、コルバースニコフ教授が三年級ぜんたいに向って、公然と言ったことなんです」
「お医者さんがいらしてよ!」それまで黙っていたニーノチカは、突然こう叫んだ。
 実際その時、ホフラコーヴァ夫人の箱馬車が門へ近づいた。朝から待ちかねていた二等大尉は、一目散に門のほうへ、出迎えに駈け出した。『おっ母さん』は身づくろいして、もったいらしい様子をした。アリョーシャはイリューシャのそばへ寄って、枕を直しはじめた。ニーノチカは自分の安楽椅子に腰かけたまま、気づかわしそうにそのほうを見やるのであった。少年たちはあわててさよならをしはじめた。中には晩にまた来ると約束するものもあった。コーリャはペレズヴォンを呼んだ。すると、犬は寝床の上から飛びおりた。
「僕、帰りゃしないよ、帰りゃしないよ!」とコーリャはあわててイリューシャに言った。「僕は玄関で待ってて、医者が帰ったらまたすぐ来るよ、ペレズヴォンを連れて来るよ。」
 しかし、医師はもう入って来た。熊の毛皮の外套を着、長い暗黒色の頬髯を生やし、顎をつやつやと剃ったその姿は、いかにもものものしかった。閾を跨ぐと、彼は度胆を抜かれたようにぴったり立ちどまった。入るところを間違えたような気がしたのである。で、彼は外套も脱がなければ、ラッコ皮の廂のついた同じものの帽子を取ろうともしないで、『これはどうしたことだ? ここはどこだ?』と呟いた。人ががやがやしていることや、部屋の粗末なことや、片隅の繩に洗濯物のかけ並べてあることなどが、彼を面くらわせたのである。二等大尉は彼に向って、丁寧に低く腰をかがめた。
「ここでございます、ここでございます」と彼はすっかり恐縮しながら呟いた。「ここでございます。わたくしのところでございます。あなたさまはわたくしのところへ……」
「スネ……ギ……リョフですか?」と医師はもったいらしく大声で言った。「スネギリョフさんは、あなたですか?」
「わたくしでございます!」
「ああ!」
 医師はもう一ど気むずかしそうに部屋を見まわし、外套を投げ出した。頸にかかっている厳めしい勲章が、一同の目にぎらりと光った。二等大尉は外套を宙で受けとめた。医師は帽子を脱いで、「患者はどこです?」と大きな声で催促するように訊いた。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十篇第四章 ジューチカ

[#3字下げ]第四 ジューチカ[#「第四 ジューチカ」は中見出し]

 コーリャはもったいらしい顔つきをして塀にもたれ、アリョーシャが来るのを待っていた。実際のところ、彼はもうずっと以前から、アリョーシャに会いたかったのである。彼は子供だちから、アリョーシャのことをいろいろ聞いていたが、今まではその都度、いつも冷やかな軽蔑の色を浮べるばかりでなく、話を聞き終ったあとで「批評」を下すことさえあった。が、内心ではアリョーシャと知合いになりたくてたまらなかったのである。アリョーシャの話には、いつ聞いても彼の同感を呼びさまし、その心をひきつけるような、何ものかがあった。といったわけで、今は彼にとってすこぶる重大な瞬間であった。第一、自分の面目を損うことなしに、独立した対等の人間だということを相手に示さねばならない。『でないと、僕を十三の小僧っ子だと思って、あんな連中と同じに見るかもしれない。アリョーシャは一たいあの子供らを何と思ってるだろう? 今度ちかづきになったら、一つ訊いてみてやろう。だが、どうも都合が悪いのは、僕の背が低いことだ。トゥジコフは僕より年が下だが、背は僕より二三寸高い。でも、僕の顔は利口そうだ。もちろん、綺麗じゃない、僕は自分の顔のまずいことを知っている。が、利口そうなことは利口そうだ。それからまた、あまりべらべら喋らないようにしなくちゃならない。でないと、アリョーシャはすぐ抱きついたりなんかして、ひとを子供あつかいにするかもしれない……ちぇ、子供あつかいになんぞされたら、とんでもない恥っさらしだ!………」
 コーリャは胸を躍らしながら、一生懸命に独立不羈の態度を保とうと努めていた。何より彼を苦しめたのは、背の低いことであった。顔の『まずい』よりも、背の低いことであった。彼の家の片隅の壁には、もう去年から鉛筆で線が引かれていたが、それは彼の背の高さをしるしづけたもので、それ以来は二月めごとにどのくらい伸びたかと、胸を躍らしながらその壁へ丈くらべに行くのであった。が、残念ながら、ほんの僅かしか伸びなかった。これがために、彼は時によると、もうほとほと絶望してしまうことがあった。顔は決して『まずい』ほうではなく、少し蒼ざめていて、そばかすはあるが、色の白い、かなり愛らしい顔だちであった。灰色の目はあまり大きくないが、生き生きと大胆な表情をしていて、よく強い感情に燃えたった。頬骨はいくらか広かった。唇は小さくてあまり厚くはなかったが、まっ赤な色をしていた。鼻は小さく、そして思いきり上を向いていた。『まったく獅子っ鼻だ、まったく獅子っ鼻だ!』とコーリャは鏡に向ったとき、口の中でこう呟いて、いつも憤然と鏡のそばを去るのであった。『顔つきだってあまり利口そうでもないようだ。』彼はどうかすると、そんなことまで疑うのであった。しかし、顔や背丈の心配が、彼の全心を奪い去ったと思ってはならない。むしろその反対で、鐘の前に立った瞬間、どれほど毒々しい気持になっても、あとからすぐ忘れてしまって(ながく忘れていることもあった)、彼がみずから自分の活動を定義した言葉によると、『思想問題と実際生活にすっかり没頭して』いたのである。
 間もなく出て来たアリョーシャは、急いでコーリャのそばへ近よった。まだよほど離れているうちから、アリョーシャがひどく嬉しそうな顔つきをしているのに、コーリャも気がついた。『僕に会うのがそんなに嬉しいのかしら?』とコーリャは満足らしく考えた。ここでついでに言っておくが、筆者《わたし》が彼の物語を中絶して以来、アリョーシャはすっかり様子が変ってしまったのである。彼は法衣を脱ぎ捨てて、今では見事に仕立てたフロックを着け、短く刈り込んだ頭にはソフトを被っていた。これが非常に彼の風采を上げて、立派な美男子にして見せた。彼の愛らしい顔は、いつも快活そうな色をおびていたが、この快活は一種の静かな落ちつきをおびていた。コーリャが驚いたのは、アリョーシャが部屋にいる時のままで、外套も羽織らずに出て来たことであった。確かに急いで来たらしかった。彼はすぐさまコーリャに手をさし伸べた。
「とうとう君も来ましたね。私たちはみんなでどんなに君を待ったでしょう。」
「ちょっとわけがあったものですからね。それは今すぐお話ししますが、とにかく、お近づきになって嬉しいです。とうから折を待っていたんですし、またいろいろとあなたのことを聞いてもいました」とコーリャは少し息をはずませながら呟いた。
「私たちはそれでなくても、もうずっと前から、知合いになっていなきゃならないはずだったのですよ。私もいろいろあなたのことを聞いていました。ですが、ここへ来るのがちと遅かったですね。」
「ねえ、ここの様子はどうなんです?」
「イリューシャの容態がひどく悪くなったんですよ。あれはきっと死にます。」
「え、何ですって! いや、カラマーゾフさん、医術なんてまったく陋劣なもんですよ」とコーリャは熱くなって言った。
「イリューシャはしょっちゅう、本当にしょっちゅう君のことを言っていました。眠ってて譫言にまで言うんですよ、確かに君はあの子にとって以前……あのことがあるまで……ナイフ事件の起るまで、非常に、非常に大切な人だったんですね。それに、またもう一つ原因があるんですよ……ねえ、これは君の犬ですか?」
「僕の犬です。ペレズヴォンです。」
「ジューチカじゃないんですか?」アリョーシャは残念そうにコーリャの目を眺めた。「じゃ、あの犬はもういよいよいなくなったんですか?」
「僕はあなた方がみんな揃って、ひどくジューチカをほしがってることを知っていますよ。僕すっかり聞いたんです」とコーリャは謎のように、にたりと笑った。「ねえ、カラマーゾフさん、僕はあなたに事情を残らず説明します。僕がここへ来たのも、おもにそのためなんですからね。僕は中へ入って行く前に、すっかりいきさつを話してしまおうと思って、それであなたを呼び出したんです」と彼は活気づいて話しだした。「こうなんですよ、カラマーゾフさん、イリューシャはこの春、予備科へ入ったでしょう。ところが、あの予備科の生徒はご存じのとおり、みんな子供連なんです、小僧っ子なんです。で、みんなはすぐにイリューシャをいじめだしたんです。僕は二級も上ですから、むろん遠く局外から見ていました。すると、イリューシャはあのとおり小さくって弱い子のくせに、勝気だもんですから、負けていないで、よくみんなと喧嘩をするんです。傲然とした態度でね、目はぎらぎら燃え立っています。僕はそうした人間が好きなんです。ところが、みんなはよけいあの子をいじめるじゃありませんか。ことにあの時分、イリューシャは汚い外套を着て、ズボンといったら上のほうへ吊りあがってるし、靴は進水式をしてるんでしょう。そのために、やつらはあの子を侮辱したんです。ところが、僕はそういうことが嫌いだから、すぐ中へ入ってやつらを撲りつけました。でも、やつらは僕を尊敬してるんです。カラマーゾフさん、本当ですよ」とコーリャは得意になってながながと自慢した。「だけど、だいたい、僕は子供連が好きなんです。今でも家で、ちびさん二人の面倒を見てるんですが、今日もそれにひっかかって遅れたんですよ。こういう工合で、みんなイリューシャを撲るのをやめました。僕あの子を保護してやったわけです。実際あれは権高な子供ですよ、これはあなたにも言っておきますが、確かに権高な子供ですよ。けれど、あの子は僕にだけは奴隷のように心服して、僕の言いつけは何でもきくんです。まるで僕を神様みたいに思って、何でも僕を真似ようとするじゃありませんか。放課時間になるたびに、僕んとこへやって来るので、僕はしじゅうあの子と一緒に歩きました。日曜日もやはりそうなんです。僕の中学校では、上級生が下級生とこんなに仲よくすると、みんなが笑いますが、それは偏見です。これが僕の意見なんです。それっきりです。ね、そうじゃありませんか? 僕はあの子を教えもすれば、開発もしました。そうでしょう、あの子が僕の気に入った以上、どうして開発するのが悪いんでしょう? カラマーゾフさん、あなたもあんな雛っ子さんたちと仲よくしていらっしゃるが、それもやはり、若い世代に影響を与えて、彼らを益し、開発してやろうと思うからでしょう? あなたのそうした性格を噂で聞いて、その点が僕に非常に興味を与えたんです。けれど、本題に入りましょう。実際、子供の中に一種の感傷的な心持が、一種のセンチメンタルな心持が成長していることも、僕は認めます。僕は生来そういう『仔牛の愛情』の敵なんです。それに、もう一つ矛盾があるんですよ。あの子は傲慢だけど、僕には奴隷みたいに心服していました、――まったく奴隷みたいに心服していたんです。それで、よくだしぬけに目をぎらぎら光らしながら、僕に食ってかかって、横車を押すじゃありませんか。僕がときどきいろんな思想を吹き込むと、あの子はその思想に同意しないってわけじゃないけれど、僕に対して個人的の反抗心を起す、――それが僕にはちゃんとわかるんです。なぜって、僕はあの子の仔牛みたいな愛情に対して、きわめて冷静な態度で答えるからです。そこで、あの子を鍛えるために、あの子が優しくすればするだけ、僕はよけい冷静になる、つまりわざとそうするんです、それが僕の信念なんです。僕はむらのないように性格を陶冶して、人間を作ることを目的としていたんですからね……まあ、そういったわけですよ……むろん、あなたはすっかりお話ししないでも、僕の言おうとする心持がおわかりになるでしょう。ある時ふと気がついてみると、あの子は一日も二日も三日も煩悶して、悲しんでいる様子じゃありませんか、しかも、それは仔牛の愛情のためじゃなくって、何かもっと強い、もっと高尚な別のものなんです。何という悲劇だろう、と僕は思いましたね。僕はあの子を詰問して事情を知りました。あの子は何かの拍子で、あなたの亡くなられたお父さん(その時はまだ生きていられましたが)の下男をしてるスメルジャコフと知合いになったんです。すると、スメルジャコフはあの子に、馬鹿げた冗談、いや野卑な冗談、憎むべき冗談を教え込んだのです。それは、柔かいパンの中にピンを突っ込んで、どこかの番犬に投げてやる、すると犬はひもじいまぎれに丸呑みにするから、そのあとがどうなるか見物しろというんです。二人はそういうパンの切れを拵えて、いま問題になってるあの縮れ毛のジューチカ、――誰も食べさせてやり手がなくて、一日から吠えばかりしてる屋敷の番犬に投げてやったんです(カラマーゾフさん、あなたはあの馬鹿げた吠え声がお好きですか? 僕、あれがとても我慢できないんですよ)。すると、先生いきなり飛びかかって、呑み込んだからたまらない。きゃんきゃん悲鳴をあげたり、くるくる廻ったりして、やたらに駈け出したものです。きゃんきゃん啼きながら駈け出して、とうとうどこかへ見えなくなってしまいました。イリューシャが、こう話して聞かせたんです。白状しながら、自分でもしくしく泣いて身慄いするんです。『駈けながら啼いてるんだ、駈けながら啼いてるんだ』と、こればかり繰り返し繰り返し言っていました。この光景があの子を動かしたんですね。こいつは良心の呵責だな、と思ったもんだから、僕は真面目に聞きました。実は前のことについても、あの子を仕込んでやりたかったので、心にもない、不満らしい様子をしながら、『君は下劣なことをしたものだ、君はやくざな人間だ。むろん僕は誰にも吹聴しやしないが、当分、君とは今までのような関係を断つことにする。僕は一つよくこのことを考えてみて、スムーロフ(それは僕と一緒に来たあの子供で、いつも僕に心服してるんです)を中に立てて、また君と交際をつづけるか、それともやくざ者として永久に棄ててしまうか、どっちか君に知らせよう』とこう言ったんです。これがあの子にひどくこたえたんですね。僕はすぐそのとき、あまり厳格すぎやしないかと感じましたが、仕方がありません、それがあの時の僕の信念だったんですからね。一日たって、スムーロフをあの子のとこへやって、自分はもうあの子と『話をしないつもりだ』と言わせました。これは、僕らの仲間で、絶交する時にいう言葉なんです。僕の肚では、あの子を幾日かのあいだ懲らしめてやって、悔悟の色を見た上で、また握手をしよう、というのでした。これは僕が固く決心した計画なんです。ところが、どうでしょう、あの子はスムーロフからそのことを聞くと、やにわに目を光らせて、『クラソートキンにそう言ってくれ。僕はどの犬にも、みんなピンを入れたパンを投げてやるからって』とそう叫んだそうです。で、僕も、『ふん、わがままが始まったな、あんなやつは排斥してやらなきゃならん』と思って、それからすっかりあの子を軽蔑するようになったんです。逢うたびに顔をそっぽへ向けたり、皮肉ににたりと笑ったりしました。そのうちに、あの子のお父さんの事件が起ったんです、ご存じですか、あの『糸瓜』ですよ? でねえ、こんなわけであの子の恐ろしい癇癪は、前から下地ができていたんですよ。子供たちは、僕があの子と絶交したのを見てとると、よってたかって、『糸瓜糸瓜』と言ってからかいだしました。ちょうどそのころ喧嘩がはじまったのですが、僕はそれを非常に残念に思います。なぜって、そのとき一度あの子がこっぴどく撲られたからです。で、ある時、あの子は教場から外へ出るが早いか、みんなに飛びかかってゆきました。僕はちょうど十歩ばかり離れたところで見ていました。誓って言いますが、そのとき僕は確かに笑わなかったはずです。いや、かえって僕はその時、あの子が可哀そうで、可哀そうでたまらなかったくらいです。すんでのことで、駈け出して、あの子を援けようと思いました。が、あの子はふと僕と目を見合せると、何と思ったか、だしぬけにナイフをとって僕に飛びかかり、太股を突き刺したんです、ほら、右足のここんとこですよ。僕は身動きもしませんでした。カラマーゾフさん。僕はどうかするとなかなか勇敢なんです。僕は目つきでもって、『君、僕のつくしたいろんな友誼に酬いるために、もっともっとやらないかね、僕はいつまでも君のご用を待ってるから』とでも言うように、軽蔑の色を浮べて眺めました。すると、あの子も二度と刺そうとしませんでした、持ちきれなかったんですね。びっくりしたようにナイフを投げ出して、声をたてて泣きながら駈け出しました。むろん僕は、言いつけもしなければ、教師の耳に入れないために、みんなに黙っているように命令しました。お母さんにさえすっかり癒ってしまった時、はじめて言っただけなんです。それに、ほんのちょっとした擦り傷だったんですもの。あとで聞いたんですが、その日にあの子は石を投げ合って、あなたの指まで咬んだそうですね、――しかし、まあ、考えてごらんなさい、あの子の心持はどんなだったでしょう! どうもしようがありません、僕はほんとに馬鹿なことをしたんです。あの子が病気になった時、なぜ行って赦してやらなかったんでしょう、つまり仲直りですね。今になって後悔してるんです。だけど、そこには特別の目的があったんです。あなたにお話ししたいと思ったのはこれだけです……ただ、どうも僕は馬鹿なことをしたようです……」
「ああ、実に残念です」とアリョーシャは興奮のていで叫んだ。「君とあの子の関係を前から知らなかったのが、私は実に残念です。それを知っておれば、とっくに君の家へ行って、一緒にあの子のとこへ来てもらうようにお願いするはずだったのに。本当にあの子は熱がひどい時など、君のことを譫言にまで言っていましたよ。私は君があの子にとって、どのくらい大事な人か知らなかったんで! 一たい君は結局、あのジューチカを捜し出せなかったんですか? 親父さんも子供たちも、みんな町じゅう捜し歩いたんですよ。本当にあの子は病気しながら、『お父さん、僕が病気になったのはね、あの時ジューチカを殺したからよ、それで、神様が僕に罰をお当てになったのよ』と言って、涙を流しながら、私の知っているだけでも、三度も繰り返したじゃありませんか。あの子の頭から、とてもこの考えを追い出すことができないんです! もし今あのジューチカを連れて来て、ジューチカが生きてるところを見せたら、あの子は嬉しまぎれに生き返るだろう、と思われるくらいです。私たちはみんな君を当てにしているんですよ。」
「でも、一たいどういうわけで、僕がジューチカを捜し出すだろうなんて、そんなことを当てにしてたんです。つまり、なぜ僕にかぎるんです?」コーリャは非常な好奇心をもって、こう訊いた。「なぜほかの人でなしに、僕を当てにしたんです?」
「君があの犬を捜していられるとか、捜し出したら連れて来て下さるとか、そういう噂があったんですよ。スムーロフ君も何かそんなふうなことを言っていました。とにかく、私たちはどうかして、ジューチカはちゃんと生きていて、どこかで見た人があるというように、あの子を信じさせようと骨を折ってるんです。このあいだ子供たちがどこからか、生きた兎を持って来ましたが、あの子はその兎を見ると、ほんの心持にっこりして、野原へ逃してくれと言って頼みました。で私たちはそうしてやりましたよ。たったいま親父さんが帰って来ました。やはり、どこからかマスチフ種の仔犬をもらって来て、それであの子を慰めようとしましたが、かえって結果がよくないようでした……」
「じゃ、もう一つお訊きしますが、カラマーゾフさん、一たいそのお父さんというのは、どんな人です? 僕はその人を知っていますが、あなたの定義では何者です、道化ですか、ピエロですか?」
「いや、とんでもない。世の中には深く感じながらも、ひどく抑えつけられているような人があるものですが、そういう人の道化じみた行為は、他人に対する憎悪に満ちた一種の皮肉なんです。長いこと虐げられた結果、臆病になってしまって、人の前では面と向って本当のことが言えないのです。ですからね、クラソートキン、そうした種類の道化は、時によると非常に悲観的なものなんです、今あの親父さんは、この世の望みを、すっかりイリューシャ一人にかけているんです。だからもし、イリューシャが死にでもしてごらんなさい、親父さんは悲しみのあまり気ちがいになるか、それとも自殺でもするでしょう。私は今あの人を見てると、ほとんどそう信ぜざるを得ません!」
「僕にはあなたの心持がわかりました。カラマーゾフさん、あなたはなかなか人間をよく知っていらっしゃるようですね。」コーリャはしみじみとこう言った。
「ですが、私は君が犬を連れて来られたので、あのジューチカだとばかり思いましたよ。」
「まあ、待って下さい。カラマーゾフさん、僕たちはことによったら、ジューチカを捜し出すかもしれませんよ。だけど、これは、これはペレズヴォンです。僕は今この犬を部屋の中へ入れましょう。たぶんイリューシャはマスチフ種の仔犬よりも喜ぶでしょう。まあ、待ってごらんなさい、カラマーゾフさん、今にいろんなことがわかりますから。だけど、まあ、どうして僕はあなたをこんなに引き止めてるんでしょう!」とコーリャはだしぬけに勢いよく叫んだ。「あなたはこの寒さに、フロックだけしか着ていらっしゃらないのに、僕こうしてあなたを外に立たせておいて。ほんとうに僕は、なんてエゴイストでしょう! ええ、僕たちはみんなエゴイストですよ、カラマーゾフさん!」
「心配しなくってもいいですよ。寒いことは寒いですが、私は風邪なんかひかないほうですから。が、とにかく行きましょう。ついでにお訊ねしておきますが、君の名前は何というんです? コーリャだけは知っていますが、それから先は?」
「ニコライです、ニコライ・イヴァノフ・クラソートキンです。お役所風に言えば息子のクラソートキン。」コーリャはなぜか笑いだしたが、急につけたした。
「むろん、僕はニコライという自分の名前が嫌いなんです。」
「なぜ?」
「平凡で、お役所じみた名前だから……」
「君の年は十三ですか?」とアリョーシャは訊いた。
「つまり、数え年十四です。二週間たつと満十四になります。もうすぐです。カラマーゾフさん、僕は前もってあなたに一つ自分の弱点を自白しておきます。それはつまり、僕の性質をいきなりあなたに見抜いてもらうために、お近づきのしるしとして打ち明けるんです。僕は自分の年を訊かれるのが厭なんです……厭なんていうよりもっと以上です……それにまた……たとえば、僕のことでこんなふうな、ありもしない評判がたってるんです。それはね、僕が先週、予科の生徒と盗賊ごっこをして遊んだ、って言うんですよ。僕がそういう遊戯をしたのは実際ですが、ただ自分のために、自分の楽しみのためにそんな遊戯をしたっていうのは、ぜんぜん中傷です。僕はこのことがあなたの耳にも入ってると思う相当の根拠を持っていますが、しかし、僕は自分のためにそんなことをしたんじゃありません。子供連のためにしたんです。なぜって、あの連中は僕がいなけりゃ、何にも考えだすことができないからです。この町ではいつもつまらない噂をひろげていますからね。この町は中傷の町ですよ、本当に。」
「だって、自分のためだって、べつにどうということはないじゃありませんか?」
「え、自分のために……あなただって、まさか馬ごっこをしないでしょう?」
「じゃ、こういうふうに考えてごらんなさい」とアリョーシャは微笑した。「たとえば、大人は芝居を見に行きますね。だが、芝居でもやはりいろんな人物の冒険が演ぜられるんです。どうかすると、強盗や戦争さえ出て来ます。これだって、やはり一種の遊戯じゃありませんか! 若い人たちが気ばらしに盗賊ごっこをするのは、やはり芸術欲の発展なんです。若い心に芸術欲が芽生えるからです。そして、こういう遊戯はどうかすると、芝居よりももっと手ぎわよく仕組まれることさえあります。ただ違うところは、芝居へ行くのは役者を見るためですが、遊戯のほうでは子供たち自身が役者だってことでしょう。しかも、それは自然なことです。」
「あなたはそうお考えですか? それがあなたの信念なんですね?」コーリャはじっと彼を見た。「あなたのおっしゃったことは非常に面白い思想です。僕もきょう家へ帰ったら、この問題について、少し頭を働かしてみましょう。実際あなたからは何か教えられるだろうと、僕も予期してたんですよ。カラマーゾフさん、僕はあなたから教えを受けようと思って、やって来たんですよ。」コーリャは感動の充ち溢れるような声で、しみじみと言葉を結んだ。
「私も君からね。」アリョーシャは彼の手を握って、にっこりした。
 コーリャはひどくアリョーシャに満足した。ことにコーリャを感動させたのは、アリョーシャがまったく同等な態度で彼を遇し、まるで『大人』と話しをするようにものを言うことであった。
カラマーゾフさん、僕は今あなたに一つ手品をお目にかけますよ。これもやはり一つの芝居なんですよ。」彼は神経的に笑った。「僕はそのために来たんです。」
「はじめまず左へ曲って、家主のところへ行きましょう。そこでみんな外套を脱いで行くんです。なぜって、部屋の中は狭くってむし暑いんですから。」
「なあに、僕はただちょっと入って、外套のままでいますよ、ペレズヴォンはここの玄関に残って死んでいますよ。『ペレズヴォン、|お寝《クーシュ》、そして死ぬんだ!』どうです、死んだでしょう。ところで、僕がさきに入って中の様子を見て、それからちょうどいい時に口笛を鳴らして、『|来い《イシ》、ペレズヴォン』と呼ぶと、見ててごらんなさい。すぐ、気ちがいのように飛び込んで来ますよ。ただ、スムーロフ君が、その瞬間、戸を開けることを忘れさえしなければいいです。まあ、僕がいいように手くばりして、その手品をお目にかけますよ……」
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十篇第三章 生徒たち

[#3字下げ]第三 生徒たち[#「第三 生徒たち」は中見出し]

 けれど、コーリャにはもうこの言葉は聞えなかった。彼はやっと出かけることができた。門の外へ出ると彼はあたりを見まわし、肩をすぼめ、『ひどい寒さだ!』とひとりごちて、通りをまっすぐに歩いて行ったが、とある横町を右へ折れて、市《いち》の広場をさして行った。広場へ出る一軒てまえの家まで来ると、彼は門のそばに立ちどまり、かくしから呼び子を取り出して、約束の合図でもするように、力一ぱい吹き鳴らした。一分間も待つか待たないうちに、木戸口から血色のいい男の子が飛び出して来た。年は十一くらいで、さっぱりとした暖かそうな、ほとんど贅沢といっていいくらいな外套を着ていた。この子供は予科にいる(コーリャより二級下の)スムーロフで、ある富裕な官吏の子であった。彼の両親は自分の息子に、危険性をおびた名うての腕白者であるコーリャと遊ぶことを許さないらしく、スムーロフはそっと抜け出して来た模様である。おそらく読者は記憶しているだろうが、このスムーロフは、二カ月まえ溝の向うからイリューシャに石を投げつけた少年群にまじっていた一人で、その時イリューシャのことを、アリョーシャに話して聞かせた子であった。
「クラソートキン君、僕はもう一時間も、君を待ったんですよ」とスムーロフは断乎たる色を見せながら言った。子供ふたりは広場のほうへ向けて歩きだした。
「遅れたんだ」とコーリャは答えた。「ある事情があってね。君、僕と一緒に歩いて折檻されやしないかい?」
「ああ、もうよして下さい、折檻なんかされるもんですか。ペレズヴォンも連れて来ましたか?」
「つれて来たよ!」
「それで、やはりあそこへ?」
「ああ、やはりあそこへ。」
「ああ、もしジューチカがいたらなあ!」
「ジューチカのことは言いっこなし、ジューチカはもういないんだ。ジューチカは未知の闇の中に葬られちゃったんだ。」
「ああ、こういうふうにしちゃいけないかしら。」スムーロフは急に立ちどまった。「ねえ、イリューシャが言うには、ジューチカもやはり縮れ毛で、青味がかった灰色の犬だったそうだから、これがそのジューチカだって言っちゃいけないかしら。ことによったら、本当にするかもしれませんよ。」
「君、学生が嘘をつくのはよくないよ。これが第一で、たとえいいことのためだって、決して嘘をつくもんじゃない、これが第二だ。が、それよりも君はあそこで、僕が行くってことを喋りゃしなかったろうね。」
「とんでもない、そりゃ僕もわかってますよ。だけど、ペレズヴォンじゃあいつが承知しませんよ。」スムーロフはほっとため息をついた。「こうなんですよ、あの親父ね、『糸瓜』の大尉ね、あれがこう言うんです、――きょう鼻の黒い本当のマスチフ種の仔犬をもらって来てやるって。あいつはその犬でイリューシャの機嫌を直すつもりなんだけど、とてもむずかしいでしょう。」
「だが、一たい先生はどうだい、イリューシャは?」
「ああ、どうもいけないんですよ、いけないんですよ! 僕あれはきっと肺病だと思うなあ。気は確かなんだけど、変な息の仕方でね、その息づかいが悪いんです。この間も少し歩かせてくれって頼むから、靴をはかせてやると、一足ゆきかけて、ぶっ倒れてしまうじゃありませんか。そのくせ、『ああ、お父さん、これはもとの悪い靴で、もう前っから歩きにくくっていけないって、僕しじゅうそう言ってるじゃありませんか』なんて言うんです。あいつは倒れるのを靴のせいにしてるんだけど、なに、ただ体が弱ってるからですよ。もう一週間ももちゃしない。ヘルツェンシュトゥベが診察に来てるんですよ。今あすこの家は金ができてるんですからね。たくさんもってますよ。」
「かたりだよ。」
「誰が?」
「医者だとか医術を種にしている有象無象さ。これは一般的に言っての話だが、個別的に言ったって、もちろんのことだよ。僕は医術というものを認めないんだ。無駄なことだよ。しかし、僕そのうちにすっかり調べ上げるよ、だが、君らはなんてセンチメンタルなことを始めたんだ? 君らは全級こぞってあそこへ行ってるらしいじゃないか?」
「全級こぞって行くわけじゃないんです。十人ばかりの仲間がいつも毎日ゆくんです。そんなこと何でもないじゃありませんか。」
「しかし、この件について不思議なのは、アレクセイ・カラマーゾフの役廻りだよ。あいつの兄は明日か明後日あたり、ああいう犯罪のために裁判されようとしてるのに、どうしてあの男は子供たちと、そんなセンチメンタルな真似をしてる余裕があるんだろう?」
「それは、センチメンタルなことでも何でもないんですよ。だって、そういう君だって、イリューシャと仲直りに行ってるじゃありませんか。」
「仲直り! 滑稽な言葉だね。もっとも、僕は誰にも自分の行為を解剖することを許さないよ。」
「だが、イリューシャは君に会ったら、どんなに喜ぶかしれませんよ! 君が来ようとは、夢にも思ってないんですからね。なぜ君は、なぜ君はあんなに長いこと行こうとしなかったんです?」とスムーロフは熱くなって叫んだ。
「ねえ、君、それは僕の知ったことで、君のことじゃないんだ。僕は自分で勝手に行くんだ。それが僕の意志なんだから。君たちはみんな、アレクセイ・カラマーゾフに引っ張られて行ったんだろう、そこに違いがあるんだよ。それに、僕が行くのは、決して仲直りのためじゃないかもしれないんだよ、仲直りなんてばかばかしいじゃないか。」
「いいえ、アレクセイに引っ張られて行ったんじゃないんです、決して、そうじゃありません。僕らは自分で勝手に行ったんですよ。むろん、初めはアレクセイと一緒に行ったけど、決して何もそんな馬鹿なことをしやしないんですよ。最初に一人、次にもう一人といったふうにね、僕らが行ったら、親父はひどく喜びましたよ。ねえ、君、もしイリューシャが死にでもしたら、親父は本当に気ちがいになりますよ。親父はイリューシャが死ぬことを見抜いているんです。だから、僕らがイリューシャと仲直りしたとき、喜んだの喜ばないのって。イリューシャはちょっと君のことを訊いただけで、ほかに何も言やしませんでした。訊いてしまうと、それっきり黙り込むんですよ。だが、親父さんはきっと気ちがいになるか、それとも頸をくくるかどっちかに違いないんです。あの人は前も気ちがいのようだったんですからね。ねえ、あの人は潔白な人なんですよ、あの時はただ間違いが起ったんですよ。あの親殺しがあの時あの人をあんなにぶったのは、やはりあの親殺しが悪かったんです。」
「だが、どっちにしても、カラマーゾフは僕にとって謎だね。僕はとうからあの男と知合いになれたんだけれど、僕は場合によると傲慢にするのが好きでね。それにあの男については、僕もある意見を纏め上げたんだが、しかしそれはも少し研究して、闡明しなきゃならない。」
 コーリャはもったいらしく口をつぐんだ。スムーロフも口をつぐんだ。むろん、スムーロフはコーリャを崇拝しきっているので、彼と同等になろうなどとは、考えさえしなかった。今も彼はコーリャにひどく興味をもちはじめた。それは、コーリャが『自分の勝手で』行くのだと説明したからである。してみると、コーリャがきょう突然、行こうと思い立ったについては、きっと何かわけがなければならぬと考えたのである。二人は市《いち》の広場を歩いていた。広場には、近在から来た荷車がたくさん置いてあって、追われて来た鵞鳥ががやがや集っていた。町の女連はテントの中で、輪形のパンや糸などを売っていた。日曜日のこうした集りを、この町では無邪気にも定期市と呼んでいた。この定期市は一年間に幾度もあった。ペレズヴォンはどこかで何かの匂いを嗅ごうとして、ひっきりなしに右左へそれながら、極上の機嫌で走っていた。ほかの犬に出くわすと大乗り気のていで、犬のあらゆる法則にしたがって、互いに嗅ぎ廻すのであった。
「スムーロフ君、僕はリアリズムを観察することが好きでね。」コーリャは突然こう言いはじめた。「君は犬が出くわした時、お互いに匂いを嗅ぎ合うのに気がついたろう? それにはある共通な天性の法則があるんだよ。」
「そう、何だかおかしな法則がね。」
「ちっともおかしかないよ。そりゃ君が間違ってるよ。たとえ偏見に充ちた人間の目からどう見えたって、自然の中にはおかしいものなんか少しもないんだよ。もし君、犬が考えたり、批評したりできるものとしてみたまえ、彼らもその命令者たる人間相互の社会関係に、ほとんどこれと同じくらい、いや、かえってもっとよけいに、滑稽な点を見いだすに違いないよ、――ああ、かえってもっとよけいあるよ。僕がこんなに繰り返して言うのは、われわれ人間のほうがずっとよけいに、馬鹿らしい癖を持っているのを、かたく信じているからだよ。これはラキーチンの意見だが、実際ずぬけた思想だ。スムーロフ君、僕は社会主義者なんだよ。」
社会主義者って何?」とスムーロフは訊いた。
「それはね、もしすべての人が平等で、一つの共通な意見を持っているとすれば、結婚なんてものはなくなってしまって、宗教や法律などは誰でも勝手ということになるんだ。まあ、万事そういった調子さ。だが、君はまだこれがわかるほど、十分大きくなっていない、君にはまだ早い……だが、寒いね。」
「そうですね。十二度ですもの。さっきお父さんが寒暖計を見たんです。」
「スムーロフ君、君は十五度、十八度という冬のまっ最中よりも、たとえばこの頃みたいに、とつぜん十二度の寒さがどかっと来る冬の初め、まだ雪も降ってない冬の初めのほうが、かえって寒いってことに気がついたかい。それはつまり、僕らがまだ寒さに慣れないからだよ。人はとかく慣れやすいものだ。国家的、政治的関係でも何でもそうだ。習慣がおもなる原動力なんだ。だが、あいつは滑稽な百姓だねえ。」
 コーリャは、毛裏の外套を着た背の高い一人の百姓を指さした。彼は人のよさそうな顔つきをして、寒さを防ぐために自分の荷車のそばで、手袋をはめた手をぱたぱたと打ち合せていた。長い亜麻色の顎鬚は、すっかり霜におおわれていた。
「この百姓の顎鬚は凍ってらあ!」コーリャはそのそばを通り過ぎながら、大きな声で意味ありげに叫んだ。
「誰のでも凍ってるだよ。」百姓は落ちつきはらって、ものものしく呟くように答えた。
「からかうのはおよしなさい」とスムーロフは注意した。
「なに、怒りゃしない。あいつはいい男だから、さようなら、マトヴェイ。」
「さようなら。」
「おや、お前は一たいマトヴェイなのかい?」
「マトヴェイだよ。お前さん知らなかっただかね?」
「知らなかった。僕はあてずっぽに言ってみたんだ。」
「へえ、なんて子供だ。おめえ学校生徒かね?」
「生徒だよ。」
「じゃ、先生にぶたれるかね?」
「ぶたれるというわけでもないが、ちょっとその。」
「痛いかね?」
「痛くないこともないさ!」
「おお、可哀そうに!」百姓は心の底からため息をついた。
「さようなら、マトヴェイ。」
「さようなら、おめえは可愛らしい若え衆だのう、ほんに。」
 二人の少年はさらに歩みつづけた。
「あいつはいい百姓だよ」とコーリャはスムーロフに話しかけた。
「僕は民衆と話をするのが好きでね、いつでも喜んで彼らの美点を認めてやるんだよ。」
「なぜ君は僕らがぶたれてるなんて、あの男に嘘をついたんです?」とスムーロフは訊いた。
「だって、あいつも少しは慰めてやらなきゃならないじゃないか!」
「なぜ?」
「スムーロフ、僕は一ことですぐわからないで、訊き返されるのが嫌いなんだ、なかにはどんなにしても、合点させることのできないようなやつがいるからね。百姓たちの考えによれば、生徒はぶたれるものなんだ、ぶたれなきゃならないものなんだ。もし、生徒がぶたれなきゃ、そりゃ生徒じゃありゃしない。だから、僕がぶたれないと言ってみたまえ。あいつ悲観しちゃうに違いないよ。だが、君にゃそんなことわからない。民衆と話をするには呼吸がいるよ。」
「だけど、後生だから、突っかかるのをよして下さい。でないと、またあの鵞鳥の時みたいなことがもちあがるから。」
「じゃ、君はこわいんだね?」
「笑っちゃいけませんよ、コーリャ、僕まったくこわいんです。お父さんがひどく怒りつけるに相違ないんだもの。僕は君と一緒に歩いちゃいけないって、厳しく止められてるんですよ。」
「心配することはないよ。こんどは何にも起りゃしない。やあ、こんにちは! ナターシャ。」彼は掛小屋の中の物売り女の一人にこう声をかけた。
「わたしはナターシャじゃない、マリヤだよ」と物売り女は、呶鳴るように言った。彼女はまだ年よりというほどでなかった。
「マリヤというのかい、そりゃいいね、さようなら。」
「ええ、この生意気小僧め、どこにいるか目にも入らないちびのくせに、人並みのことを言やがる。」
「そんな暇あないよ、お前なんかと話をする暇は。この次の日曜日にでも話をしようよ。」まるでこっちからではなく、先方から話しかけでもしたように、コーリャは手を振った。
「日曜日にお前と何の話をするんだい? 自分で突っかかって来やがったくせに、ごろつき!」とマリヤは呶鳴りたてた。「ぶん撲ってやるぞ、本当に、人を馬鹿にしくさって!」
 マリヤと並んで、てんでに屋台で商いをしていた物売りの女の間には、どっと笑い声が鳴り渡った。と、いきなり今までの話に腹をたてた一人の男が、町のアーケードの中から跳び出して来た。彼は番頭風をしていたが、この町の商人ではなく渡り者であった。青い裾長の上衣《カフタン》を着て、廂のついた帽子をかぶり、濃い亜麻色の縮れ毛に、長い蒼ざめたあばた面をした、まだ若そうなその男は、ばかばかしく興奮しながら、拳を振ってコーリャを嚇しはじめた。
「おれは手前を知ってるぞ」と彼はいらだたしげに叫んだ。
「おれは手前を知ってるぞ?」
 コーリャはじっと彼を見つめた。が、その男といつどんな喧嘩をしたのか、どうも思い出すことができなかった。往来で喧嘩をしたことは一度や二度でないので、それを一々思い出すことはできなかった。
「知ってる?」と彼は皮肉に訊いた。
「おれは手前を知ってるんだ! おれは手前を知ってるんだ!」若い男は馬鹿の一つ覚えに、同じことばかり繰り返した。
「そりゃ結構だね。だが、僕は今いそがしいんだ、失敬するよ!」
「何だって生意気なことを言うんだ?」と町人は叫んだ。「またしても生意気なことを言やがって! おれは貴様を知ってるぞっ! しじゅう生意気なことばかり言やがって!」
「おい君、僕が生意気なことを言おうと言うまいと、この場合、君の関係したことじゃないよ。」コーリャは依然として彼を見つめながら、立ちどまってこう言った。
「どうしておれの関係したことでないんだ?」
「なに、ただ君の関係したことでないんだよ!」
「じゃ、誰の関係したことだ? 誰のことだ? え、誰のことだ?」
「そりゃね、今のところ、トリーフォン・ニキーチッチに関係したことで、君のことじゃないよ。」
「トリーフォン・ニキーチッチたあ、誰のことだ?」やはり熱してはいたが、馬鹿のような驚き方をして、若者はコーリャに詰め寄った。コーリャは、もったいらしく、じろじろ彼を見まわした。
「昇天祭に行ったかね?」突然きっとした調子で熱心に訊いた。
「昇天祭たあ何だ? 何のために? いや、行かなかった。」若者はいささか毒気を抜かれた。
「君はサバネーエフを知ってるかね?」とコーリヤは一そう熱心に、一そうきっとした調子でつづけた。
「サバネーエフたあ誰だ? いや、知んない。」
「ふん、それじゃお話になりゃしない!」コーリャはいきなり言葉を切って、くるりと右のほうへ向きを変えた。そしてサバネーエフさえ知らないようなたわけとは、話をするのもばかばかしいといったふうに、すたすた歩きだした。
「おい、こら、待てっ! サバネーエフって誰のことだ?」若者はわれに返って、また興奮しながらこう言った。
「あいつは一たい何を言ったんだ?」彼はにわかに物売り女たちのほうへ振り向いて、愚かしい顔つきをしながら、一同を見た。
 女房たちは笑いだした。
「変った子だよ」と一人が言った。
「誰のことだい、一たい誰のことだい、あいつがサバネーエフと言ったのは!」若者は右の手を振りながら、いきおい猛に繰り返した。
「ああ、そりゃきっと、クジミーチェフのとこで使われていた、あのサバネーエフのことだよ。きっとそうだよ。」だしぬけに一人の女が推察を下した。
 若者はきょとんとした目をじっとその女に据えた。
「クジ……ミー……チェフ?」もう一人の女が鸚鵡返しにこう言った。「じゃ、なんのトリーフォンなものか? あれはクジマーで、トリーフォンじゃありゃしないよ。ところが、あの子はトリーフォン・ニキーチッチと言ってたから、つまりあの男たあ違うんだよ。」
「なあに、そりゃトリーフォンでもサバネーエフでもなくって、チジョフっていうんだよ。」それまで黙って真面目に聞いていたもう一人の女が、とつぜん口を入れた。「あの人は、アレクセイ・イヴァーヌイチていうんだよ。チジョフさ、アレクセイ・イヴァーヌイチさ。」
「そうそう、本当にチジョフって言ったよ。」さらにいま一人の女が熱心にこう言った。
 若者は呆気にとられて、女たちの顔をかわるがわる見まわした。
「じゃ、あいつ何だってあんなことを訊いたんだ、おい、なぜ訊いたんだ?」と彼はほとんどやけに叫んだ。「『サバネーエフを知ってるかい?』だってさ。馬鹿にしてやがらあ、一たいそのサバネーエフていうなあ、誰のことなんだ?」
「お前さんも血のめぐりの悪い人だね。それはサバネーエフじゃない、チジョフだって言ってるじゃないか、アレクセイ・イヴァーヌイチ・チジョフだよ、そうなんだよ!」と一人の物売り女が噛んで含めるように言った。
「チジョフってどんな男だね? どんな男だね? 知ってるなら聞かせてくれ。」
「何でも背のひょろ長い、鼻っ垂らしの、夏分市場にいた男だよ。」
「だが、そのチジョフがおれに何だって言うんだ、え、みなの衆?」
「チジョフがお前さんに何だろうと、そんなことわたしが知るものかね。」
「誰が知るものかね」ともう一人の女が口を入れた。「お前さんこそ、そんなに騒ぎたてるくらいなら、自分で知ってそうなもんじゃないか。あの子はお前さんに言ったんで、わたしたちに言ったんじゃないからね。お前さんもよっぽど阿呆だよ。でも、本当に知らないのかね!」
「誰を?」
「チジョフをさ。」
「チジョフなんかくそ食らえだ、ついでに手前も一緒によ! 見ろ、あいつぶち殺してやるから! おれを馬鹿にしやがったんだ。」
「チジョフをぶち殺すって? あべこべにお前のほうがやられらあ! お前は馬鹿だよ、本当に!」
「チジョフじゃない、チジョフじゃないってば、ろくでなしの悪党婆め、餓鬼をぶち殺してやると言ってるんだよう! あいつをつれて来てくれ、あいつをここへつれて来てくれ。あいつしと[#「しと」に傍点]をなぶりゃがったんだ!」
 女たちは大声を上げて笑った。が、コーリャはそのとき勝ち誇ったような顔つきで、もうずっと向うのほうを歩いていた。スムーロフは、うしろに叫ぶ人々の群を顧みながら、コーリャについて歩いた。彼はコーリャの巻き添えになりはせぬかと危ぶみながらも、やはり大いに愉快なのであった。
「君があの男に訊いたサバネーエフっていうのは、一たいどんな男なの?」彼はもう答えを予感しながら、コーリャに訊いた。
「どんな男か僕が知るものかい! あいつらはああして晩まで呶鳴り合ってるだろう。僕はね、こうして社会の各階級の馬鹿者どもを、揺ぶってやるのが好きなんだよ。そら、またのろま野郎が立ってる。ほら、あの百姓だよ。ねえ君、『馬鹿なフランス人より馬鹿なものはない』とよく言うが、しかしロシヤ人のご面相は、すっかり本性を現わしているよ。ねえ、あいつの顔には、この男は馬鹿なり、と書いてあるだろう、あの百姓の顔にさ、え?」
「よしなさい、コーリャ、かまわずに行きましょうよ。」
「どうしてかまわずにいられるものか。さあ、僕は始めるよ。おい! 百姓、こんにちは!」
 頑丈な百姓がすぐそばをのろのろと歩いていた、一杯ひっかけたものらしい。丸っこい、おめでたそうな顔で、顎鬚は胡麻塩になっていた。彼は頭を持ちあげて少年を見た。
「やあ、もしふざけるんでなけりゃ、こんにちは!」彼はゆるゆるとした調子でこう答えた。
「じゃ、もしふざけてるんだと?」コーリャは笑いだした。
「なあに、ふざけるならふざけるがええ、そりゃおめえの勝手だあ。そんなこたあちっともかまやしねえ。いつでも勝手にふざけるがええだ。」
「君どうも失敬、ちょっとふざけたんだよ。」
「なら、神様が赦して下さるだ。」
「お前も赦してくれるかね?」
「そりゃあ赦すとも。まあ、行きなせえ。」
「ほんとにお前は! だが、お前は利口な百姓かもしれないね。」
「お前よりちっとんべえ利口だよ。」百姓は思いがけなく、依然としてもったいらしい調子で、こう答えた。
「まさか」とコーリャは、ちょっと度胆を抜かれた。
「本当の話だよ。」
「いや、そうかもしれないな。」
「そうだとも、お前。」
「さようなら、百姓。」
「さようなら。」
「百姓もいろいろあるもんだね。」しばらく黙っていたあとで、コーリャはスムーロフに言った。「僕もまさか、こんな利口なやつにぶっ突かろうとは思わなかったよ。僕はどんな場合でも、民衆の知恵を認めるに躊躇しないね。」
 遠い会堂の時計は十一時半を打った。二人の少年に急ぎだした。そして、二等大尉スネギリョフの家までだいぶ遠い路を、ほとんど話もせずにぐんぐん歩いて行った。もう家まで二十歩ばかりというとき、コーリャはぴったり足をとめ、一あし先に行って、カラマーゾフを呼び出すように、とスムーロフに言いつけた。
「まず当ってみる必要があるんだ」と彼はスムーロフに言った。
「だって、なぜ呼び出すの」とスムーロフは言葉を返した。
「このまま入っても、みんな君が来たのをひどく喜ぶよ。それに、なぜこんな寒い外なんかで、近づきになるんだろう?」
「あの男をこの寒いところへ呼び出さなけりゃならないわけは、僕もう自分でちゃんと心得てるんだ。」コーリャは高圧的に遮った(これはこの『小さい子供たち』に対して、彼がとくに好んでやる癖であった)。スムーロフは命令をはたすべく駈けだした。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十篇第二章 幼きもの

[#3字下げ]第二 幼きもの[#「第二 幼きもの」は中見出し]

 ちょうど、この寒さの激しい、北風の吹きすさぶ十一月の朝、コーリャはじっと家に坐っていた。日曜日で学校は休みであった。しかし、もう十一時も打ったので、彼はぜひとも『ある非常に重大な用事のために』外へ出かけなければならなかった。しかし、家の中には、彼が一人で留守番に残っていた。というのは、この家に住まっている年上の人たちが、ある特別な一風変った事情のために、みんな外出していたからである。クラソートキナの家には、彼女が自分で使っている住まいから玄関を境に、たった一つだけ区切りをした別な住まいがあった。それは小さな部屋二間きりで、二人の幼い子供をつれた医者の細君が間借りしていた。この細君はクラソートキナと同じくらいの年輩で、彼女とは非常な仲よしであった。主人の医者はもう一年も前にどこかへ旅に出かけた。何でも最初はオレンブルグ、次にタシケントへ行ったとのことであるが、もう半年このかた音も沙汰もない。で、もしクラソートキナ夫人という親友が、幾分でも悲しみをやわらげてくれなかったら、留守をまもる細君は悲しみのあまり、泣き死んでしまったかもしれない。ところが、運命はあらゆる残虐をまっとうするためか、ちょうどその夜、土曜から日曜へかけて、細君にとってかけ替えのない女中のカチェリーナが、突然だしぬけに、朝までに赤ん坊を生むつもりだと言いだした。どういうわけで以前たれ一人[#「たれ一人」はママ]気のつくものがなかったのか、これはみんなにとってほとんど奇蹟であった。びっくりした医者の細君は、まだ間があるうちに、町のある産婆がこういう場合のために建てた産院へ、カチェリーナをつれて行こうと思案した。彼女はこの女中をひどく大事にしていたので、時を移さず自分の計画を実行し、彼女を産院へ連れて行ったのみならず、そこに残って看護することにした。それから、朝になると、どうしたわけか、クラソートキナ夫人までが親しく手を下して、医者の細君に手つだってやらねばならなかった。夫人はこの場合、誰かに物事を頼んだり、何かと面倒を見てやったりすることのできる人であった。こうしたわけで、二人の夫人は外出していた。おまけに、クラソートキナ夫人の女中アガフィヤは市場へ出かけた。
 で、コーリャは一時『ちびさん』、つまり家に残されている細君の男の子と女の子との、保護者兼看視者となったのである。コーリャは家の留守番だけなら少しも怖いと思わなかった。それに、ペレズヴォンもついている。ペレズヴォンは控え室にある床几の下で『じいっ』とうつ伏せに寝ておれと言いつけられていたので、家じゅう歩き廻っているコーリャが控え室へ入って来るたびに、ぶるぶるっと頭を慄わせ、機嫌をとるように、尻尾で強く二度ばかり床を叩くのであった。けれども、悲しいかな、来いという口笛は鳴らなかった。コーリャが嚇すようにじっと睨むと、犬は可哀そうに、またおとなしく痺れたように身を縮めるのであった。もし何かコーリャを当惑させるものがあるとすれば、それはただ『ちびさん』だけであった。もちろん、彼はカチェリーナに関する思いがけない出来事を、深い深い軽蔑の念をもって眺めていたが、孤児になっている『ちびさん』を可愛がることは非常なものだったから、だいぶ前に何か少年用の本を持って来てやったほどである。九つになる姉娘のナスチャはもう本が読めた。そして、弟の『ちびさん』、七つになる少年コスチャは、ナスチャに読んで聞かせてもらうのが大好きだった。もちろん、クラソートキンは二人の子供を、もっと面白く遊ばせることもできたはずである。つまり、二人を立たせて兵隊ごっこをしたり、家じゅう駈け廻って隠れん坊をしたり、そんな遊びをすることもできたはずなのである。こんなことは以前たびたびしたこともあるし、またそれをいやがりもしなかった。だから、一度などは学校で、クラソートキンは自分の家で借家人の子供らとお馬ごっこをして遊んでいる、脇馬の真似をして跳びあがったり、頭を突き曲げたりする、という噂がひろまったことさえある。しかし、クラソートキンは傲然とこの攻撃を弁駁して、もし自分が同年輩のもの、つまり、十三の子供を相手にしてお馬ごっこをして遊ぶのなら、『現代において』実際恥ずべきことであるが、自分がそんなことをするのは『ちびさん』のためであって、自分が彼らを愛しているからである、ところが、自分の情愛については誰の干渉をも許さない、というような論法であった。その代り『ちびさん』のほうでも、二人ながら彼を崇拝していた。しかし、今日は遊んでなどいられなかった。彼は非常に重大な、一見したところ、ほとんど秘密に近いある用件を控えていたからである。しかも、時は遠慮なく過ぎて行く。子供たちを頼んで行こうと思うがアガフィヤは、まだ市場から帰って来ようとしなかった。彼はもう幾度となく玄関を通り抜けて、ドクトル夫人の部屋の戸を開けながら、心配そうに『ちびさん』を見た。『ちびさん』はコーリャの言いつけどおり本を読んでいたが、彼が戸を開けるたびに、無言でそのほうをふり向いて、大きく口をあけながらにこにこと笑った。それは、今にも彼が入って来て、何か愉快な面白いことをしてくれそうなものだ、と思ったからである。けれど、コーリャは心に不安を感じているので、部屋の中へ入ろうともしなかった。十一時を打った。とうとう彼は肚を決めて、もしもう十分たっても、あの『いまいましい』アガフィヤが帰って来なかったら、彼女の帰りを待たないで、だんぜん出かけることにした。もっとも、その前に『ちびさん』からは、自分がいないからといってびくびくしたり、いたずらをしたり、怖がって泣いたりしないという、言質をとっておくのはもちろんである。こう考えながら、彼はラッコか何かの襟をつけた綿入れの冬外套を着て、肩から筋かいに鞄をかけた。そして、『こういう寒い日に』外出する時は、必ずオーヴァシューズを履いて行くようにと、母親が前から幾度となく頼んでいるにもかかわらず、控え室を通り抜ける時、そのオーヴァシューズを軽蔑するように見やっただけで、長靴を履いたまま出て行った。ペレズヴォンは彼が身支度をととのえているのを見ると、神経的に全身を慄わして、尻尾で激しく床を叩きながら、悲しげに呻き声さえもらした。しかし、コーリャは自分の犬が、こんなに熱くなって飛んで来たがるのを見ると、それはたとえ一分間でも規律を乱す行為だと思ったので、やはり床几の下に臥さしておいた。そして、玄関へ通ずる戸口を開けた時、初めてだしぬけに口笛を吹いた。犬は気ちがいのように飛び起きて、嬉しそうに先に立って駈け出した。コーリャは玄関を通るときに、『ちびさん』の部屋の戸を開けた。二人は前のとおりテーブルに向って腰かけていたが、もう本を読まないで、やっきとなって何やら言い争っていた。この子供たちはさまざまな世の中の問題について、お互いに言い争うことがよくあった。そういう時には年上の姉として、いつもナスチャのほうが勝を占めた。けれど、コスチャはもし姉の言葉に同意できない時には、大ていコーリャのところへ行って上訴するのが常だった。そして、コーリャが決定したことは、原被両告にとって絶対不易の宣告となるのであった。今度の『ちびさん』の口論は、いくらかコーリャの興味をそそったので、彼は戸口に立ちどまって聞いていた。子供たちは、彼が聞いているのを見つけると、ますます熱してその争いをつづけた。
「そんなことないわ、あたしそんなことどうしても本当にしないわ」とナスチャはやっきとなって呟いた。「産婆さんがちっちゃな赤ん坊を、キャベツ畑の畦の間から見つけて来るなんて。それに、今はもう冬ですもの、どこにも畦なんかありゃしないわ。だから、産婆さんだって、カチェリーナのとこへ女の子をつれてくわけにはゆかないじゃないの。」
「ひゅう」とコーリャはこっそり口笛を鳴らした。
「でなかったら、こうかもしれなくってよ。産婆さんはどこからか赤ん坊をつれて来るんだけど、お嫁に行った人にしかやらないんだわ。」
 コスチャはじっとナスチャを見つめながら、考えぶかそうに耳を傾けて、何やら思いめぐらしていた。
「ナスチャ姉さんはほんとうに馬鹿だね。」とうとうしっかりした落ちついた調子で、彼はこう言った。「カチェリーナはお嫁に行かないのに、赤ん坊が生れるはずがないじゃないの?」
 ナスチャは恐ろしく熱してきた。
「あんたは何にもわからないんだわ」と彼女はいらだたしげに遮った。「あれには旦那があったんだけど、いま牢に入ってるのかもしれないわ。だから、あれは赤ん坊を生んだのよ。」
「一たいあれの旦那が牢に入ってるの?」実証派のコスチャはものものしくこう訊いた。
「それとも、こうかもしれないわ。」ナスチャは自分の最初の仮定を、すっかり忘れたようにうっちゃってしまって、大急ぎで遮った。「あれには旦那がないのよ。それはあんたの言うとおりよ。だけど、あれはお嫁に行きたくなったものだから、お嫁に行くことばかり考えるようになったのよ。そして、考えて、考えて、考え抜いた挙句、とうとうお婿さんの代りに赤ん坊ができたんだわ。」
「ああ、そうかもしれないね。」コスチャはすっかり言い伏せられて同意した。「姉さんが初めっからそう言わないんだもの、僕わかりっこないじゃないか。」
「おい、ちびさん、」部屋の中に一足踏み込みながら、コーリャはこう言った。「どうも君たちは危険人物らしいなあ!」
「ペレズヴォンもそこにいるの?」コスチャはにこっとして、ぱちぱち指を鳴らしながら、ペレズヴォンを呼びはじめた。
「ちびさん、僕こまったことがあってね」とコーリャは、もったいらしく言いはじめた。「一つ君たちに手つだってもらいたいんだ。アガフィヤはきっと脚を折ったに相違ないよ。なぜって、今まで帰って来ないんだもの、確かにそうにちがいない。ところが、僕はぜひ外へ出かけなけりゃならないんだ。君たちは僕を出してくれるかい、どうだい?」
 子供たちは心配らしく、互いに目と目を見かわした。微笑をおびた顔は不安の色をあらわしはじめた。けれども、二人は何を要求されるのか、まだはっきりわからなかった。
「僕がいなくってもふざけない? 戸棚へあがって、足を折ったりしない? 二人きりでいるのが怖くって、泣きだしゃしない?」
 子供たちの顔には、いかにも情けなさそうな色がうかんだ。
「その代り、僕はいいものを見せてやるよ。銅の大砲なんだ、本当の火薬で撃てるんだよ。」
 子供たちの顔ははればれとした。
「大砲見せてちょうだい。」満面を輝かしながら、コスチャはこう言った。
 コーリャは自分の鞄の中へ片手を突っ込んで、その中から小さな青銅の大砲を取り出し、それをテーブルの上にのせた。
「さあ、これだ! 見てごらん、車がついてるよ。」彼は玩具をテーブルの上で転がした。「撃つこともできるんだ。ばら弾を填めて撃てるんだよ。」
「そして、殺せるの?」
「誰でも殺せるよ。ただ狙いさえすりゃいいんだ。」
 コーリャはそう言って、どこへ火薬を入れ、どこへ散弾を填めたらよいか説明したり、火孔の形をした穴を見せたり、反動があるものだという話をしたりした。子供たちは、非常な好奇心をいだきながら聞いていた。ことに、彼らを驚かしたのは、反動があるという話であった。
「では、あなた火薬をもってるの?」とナスチャは訊いた。
「もってるよ。」
「火薬を見せてちょうだいな。」哀願するような微笑をうかべながら、彼女は言葉じりを引いた。
 コーリャはまた鞄の中へ手を突っ込んで、小さな罎を一つ取り出した。その中には、本当の火薬が少々入っていた。紙包みの中からは幾つかの散弾が出て来た。彼は小罎の栓を開け、少しばかり火薬を掌へ出してまで見せた。
「ほらね、しかしどこにも火はないだろうね。でないと、どんと爆発して、僕らはみんな殺されてしまうからね。」コーリャは効果《エフェクト》を強めるためにこう注意した。
 子供たちは、敬虔の念をまじえた恐怖の色をうかべつつ火薬を見た。しかし、その恐怖の念は、かえって彼らの興味を増すのであった。とはいえ、コスチャはどっちかといえば散弾のほうが気に入った。
「ばら弾は燃えない?」と彼はたずねた。
「ばら弾は燃えやしないよ。」
「少しばら弾をちょうだいな」と彼は哀願するような声で言った。
「少し上げよう。さあ、だけど、僕が帰って来るまで、お母さんに見せちゃいけないよ。でないと、お母さんはこれを火薬だと思って、びっくりして死んじゃうから、そして君らはひどい目にぶん撲られるよ。」
「お母さんはあたしたちを鞭でぶったことなんか、一度もないわよ」とナスチャはすぐにそう言った。
「それは知ってるよ、ただ話の調子をつけるためにそう言ったまでさ。決してお母さんをだましちゃいけないよ。だけど、今度だけ、――僕が帰って来るまでね。じゃ、ちびさん、僕行ってもいいかい、どうだい? 僕がいないからって、怖がって泣きゃしないかい?」
「ううん、泣くよう」とコスチャは、もう今にも泣きだしそうに言葉じりを引いた。
「泣くわ、きっと泣くわ!」ナスチャもおびえたように口早に相槌を打った。
「ああ、厄介な子だなあ、本当に危険なる年齢だよ。どうもしようがない、雛っ子さん、しばらく君たちのそばにいなきゃならないだろう。だが、いつまでいればいいんだ? ああ、時間が、時間が、ああ!」
「ね、ペレズヴォンに死んだ真似をさせてちょうだい」とコスチャが頼んだ。
「そうだ、もう仕方がない、いよいよペレズヴォンでもだしに使わなきゃ。Ici,([#割り注]こっちへ来い[#割り注終わり])ペレズヴォン!」
 やがてコーリャは犬に命令をくだし始めた。犬は知ってるだけの芸当を残らずやって見せた。これは毛のくしゃくしゃに縮れた犬で、大きさは普通の番犬くらい、毛は青味がかった灰色であったが、右の目はつぶれて、左の耳はなぜか裂けていた。ペレズヴォンはきゃんきゃん鳴いたり、跳ねだり、お使いをしたり、後足で歩いたり、四足を上へ向けて仰むけに倒れたり、死んだようにじっと臥ていたりした。この最後の芸当をやっている最中に戸が開いて、クラソートキナ夫人の女中がアガフィヤが[#「女中がアガフィヤが」はママ]、閾の上にあらわれた。それはあばたのある、でぶでぶに肥った四十ばかりの女房で、うんと買い込んだ食糧品を入れた籠を手に、市場から帰って来たのである。彼女はそこにじっと立ちどまって、左手に籠をぶらさげたまま、犬を見物しはじめた。コーリャはあれほどアガフィヤを待っていたのに、途中で芸当をやめさせなかった。やがて定めの時間だけ、ペレズヴォンに死んだ真似をさせた後、やっと犬に向って口笛を鳴らした。犬は跳ね起きて、自分の義務をはたした喜びに、くるくる跳ね廻り始めた。
「これ、畜生っ!」とアガフィヤはさとすように言った。
「おい女性、お前は何をぐずぐずしてたんだ?」と、コーリャは嚇すような調子で訊いた。
「女性だって、へ、ちびのくせにして!」
「ちびだ?」
「ああ、ちびだとも、一たいわたしが遅れたからって、お前さんにどうだというんだね。遅れたのにゃそれだけのわけがあるんだよ」とアガフィヤは、暖炉のそばを歩き廻りながら呟いた。が、その声はすこしも不平らしくも、腹立たしそうにもなかった。それどころか、かえって快活な坊っちゃんと無駄口をたたき合う機会を得たのを喜ぶように、恐ろしく満足らしい声であった。
「時にね、おい、そそっかしやの婆さん。」コーリャは長椅子から立ちあがりながら、口をきった。「お前は僕のいない間、このちびさんたちを油断なく見ていてくれるかい。この世にありとあらゆる神聖なものにかけて[#「この世にありとあらゆる神聖なものにかけて」はママ]、誓ってくれるかい? いや、そればかりじゃない、もっと何かほかのもので誓ってくれるかい? 僕は外へ出かけるんだから。」
「何だってお前さんに誓うんだね?」とアガフィヤは笑いだした。「そんなことをしなくたって、見ているよ。」
「いや、いけない、お前の魂の永遠の救いにかけて誓わなきゃ。でなけりゃ行かないよ。」
「そんなら行きなさんなよ。わたしの知ったことじゃないんだから、外は寒いに、家でじっとしてござれよ。」
「ちびさん」とコーリャは子供たちのほうへ向いた。「僕が帰って来るか、それとも、君たちのお母さんが帰って来るかするまで、この女が君たちのそばにいるからね。お母さんはもうとうに帰ってもいい時分だがなあ。それに、この女は君たちにお昼も食べさせてくれるよ。あのちびさんたちに何か食べさせてくれるだろう、アガフィヤ?」
「そりゃ食べさせてもいいよ。」
「じゃあ、さようなら、雛っ子さん、僕は行くよ。だが、おい、婆さん。」彼はアガフィヤのそばを通るときに、小声でもったいらしくこう言った。「また例の女一流の癖を出して、カチェリーナのことで、この子たちに馬鹿な話をして聞かせないようにしてくれ。子供の年ということも考えて、容赦しなきゃいけないよ。Ici, ペレズヴォン!」
「ええ、勝手に行ってしまうがいい!」とアガフィヤは腹立たしげに言った。「おかしな子だ! そんなことを言う自分こそ引っぱたかれるんだ、本当に。」

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社