『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP145-192

くのことを悪く思うだろう。あるいは通してくれるにしても、面と向かってぼくを笑いぐさにするに違いない……えい、かまうもんか!』じっさい、彼はまだこんなことにはたいしてびくつきはしなかった。しかし、『中へ通されたときにはどうしたらよかろう、そしてぼくはいったい何用であの人を訪ねようというのだ?』この問いに対しては、どうしても得心の行くような答えが見つからなかった。がりに、なんとかおりをうかがって、ナスターシヤに『あの男と結婚しちゃいけません、それはわれとわが身を滅ぼすようなものです。あの男はあなたを愛しているのでなく、あなたの金を愛しているのです。これはあの男が自分でもいいましたし、アグラーヤさんもぼくに申されました。ぼくはそれをお伝えに来たのです』ということができたとしても、それがあらゆる点において正当な結果をうるだろうか? そのほかにも一つ解決のつかない問題があった。それは考えるのさえ恐ろしいほど重大な問題である。公爵は、あえてこれを自問するだけの勇気がなかった。またそれにいかなる形を与えていいかわからなかった。ただ意識がその問題に触れるごとに、赤くなってふるえていた。しかし結局、かかる不安や疑惑にもかかわらず、彼はやはり奥へはいって行って、ナスターシヤに面会をこうた。
 ナスターシヤ・フィリッポヴナはあまり大きくはないが、じっさいりっぱに飾られた住居を借りていた。彼女のペテルブルグ生活の五年間に、最初、トーツキイが彼女にとくに金を惜しまなかった時代があった。彼はまだそのころ彼女の愛に希望をいだいていたので、主として逸楽と奢侈で誘惑しようと考えた。それは奢侈の習慣は植付けやすく、その奢侈が少しずつ必要に変わったとき、それを離れるのが困難なことを心得ていたからである。このさい彼は、肉体が精神におよぼす影響の打ち勝ちがたい力を、無限に尊重していたので、そうした古いのんきな伝統を頭から信じきって、その内容はなんらの改訂を施そうともせず、そのまま踏襲したのである。ナスターシヤはそのぜいたくを拒まず、むしろ歓迎したくらいであったが、――不思議にも、けっしてそれにおぼれようとしなかった。いつでも敝履のごとくなげうつことができるかのごとく、トーツキイに不快な驚愕をいだかせるようなことを、幾度もわざとほのめかそうとさえ努めるのであった。とはいえ、トーツキイにこの不快な驚愕(のちにはかえって侮蔑)をいだかせるような点が、ナスターシヤにはずいぶんたくさんあった。彼女がときどき身辺に近づける人たち、したがって今後も近づける傾向をもっていた人たちの薄ぎたないことはいうもさらなりであるが、まだまだじつに奇妙な傾向が顔をのぞけた。つねに相反する二つの趣味が、一種の粗野な混合をなしているうえ、デリケートに発育した紳士にとっては、単なる存在さえも許しがたいような事物を大目に見、それに満足するという性質もあった。じっさい、もしナスターシヤが、思いがけなくなにかしら無邪気で上品な無知、――たとえば、百姓女は彼女の着ているような精麻布の肌着をつけることはできない、といったふうの無知を示すとしようか、そのときはトーツキイも大いに満足したことであろう。こうした結果に導くように、トーツキイは、初手からナスターシヤの教育を計画した。彼は、この辺の消息にはなかなかくわしい男なのである。けれども、悲しいかな! その結果はきわめて奇怪なものとなって現われた。にもかかわらず、ナスターシヤの性格の中にはなにかあるものが残っていて、それがときおりなみはずれて魅惑的な、一種奇抜な力となって、トーツキイ自身をさえ驚かし、どうかすると、ナスターシヤに対する以前の望みという望みがことごとく失われつくした今にいたるまで、彼を喜ばすのであった。
 公爵を迎えに出たのはひとりの小娘であった(ナスターシヤの家の召使は、いつでも女ばかりであった)。そして、驚いたことには、いっこうあやしむふうもなく、取り次いでほしいという客の頼みを聞き終わった。泥だらけの靴もつばの広い帽子も、袖なしマントも、当惑したような顔つきも、この娘にはなんの疑念もひきおこさなかった。彼女は客のマントを脱がせて、応接室に導き、さっそく取り次ぎに行った。
 ナスターシヤのもとに集まった一座は、ごくごく普通のもので、この家での定連みたいな人々から成り立っていて、以前のこうした夜会にくらべると、はるかに人数が少ないくらいであった。第一におもだった人としてトーツキイとエパンチン将軍が席につらなっていた。両人ともに愛想がよかったが、ふたりともいくぶん人知れぬ不安に悩まされていた。それは、ガーニャに関する約束の決答を待つ隠しきれぬ心持ちからであった。ふたりのほかには、いうまでもなくガーニャがいたが、――これも同じくふさぎこんで、『愛想』というものがほとんどひとかけもなく、やや離れたわきのほうに立って、黙りこんでいた。彼はヴァーリャを連れて来る決心がつかなかったが、ナスターシヤも彼女のことはおくびにも出さなかった。そのかわりガーニャに挨拶が済むと早々、きょう彼と公爵とのあいだにおこった一件をいいだした。まだその一件を知らぬ将軍は仔旧をたずねた。そのときガーニャはそっけない進まぬ調子で、とはいえ、すっかりあけっ放しにきょうのできごとを、――彼がすでに公爵のところへ謝罪に行ったことまで物語った。そのさい、彼は熱心に自分の意見を開陳して、人が公爵のことを『白痴』というのは不思議でわけがわからぬ、自分は公爵のことをまるで正反対に考えている、『あれはもちろん油断のできない人である』などといった。ナスターシヤは多大な注意を払ってこの人物評を聞き終わり、もの珍しそうにガーニャを見まもった。けれど、話題は間もなく、けさはどの事件に甚大な閃係のあるラゴージンのほうへ移っていった。これについてもトーツキイとエパンチン将軍は、非常な好奇心をもって仔細をただしはじめた。その結果、この男に関して最も特異な情報をもたらしうるものは、今夜の九時ごろまでも彼と種々の交渉をつづけたプチーツィンであることがわかった。ラゴージンはきょうじゅうに十万ルーブリ調達しろと、極力いい張ったのである。
「彼はむろん、酔っぱらっていました」とプチーツィンはいった。「しかし、十万の金は、たとえどんな困難があろうとも、たぶん調達するでしょう。ただし、はたしてきょうじゅうに、十万すっかり耳をそろえてくるか、それはわかりません。が、とにかくキンデルとか、トレパーロフとか、ビスクープという連中が、大勢がかりで奔走してます。利息はいくらでも出すってのですが、これももちろん、酔ったまぎれと嬉しさに目がくらんでのことです……」とプチーツィンは結んだ。
 これらの情報は興味をもって迎えられたが、その興味はいくぶん陰欝なものであった。ナスターシヤは、見うけたところ、自分の心中を外へもらしたくないといったふうで、どこまでもおし黙っていた。ガーニャもそれと同様であった。エパンチン将軍の心中はおそらくだれよりも不安に騒いでいた。もう朝のうちに贈った真珠が、あまりにそっけないお愛想と、なんとく奇妙なお世辞笑いで受納されたからである。
 ただフェルディシチェンコだけは一座の中にあって、のんきなにぎやかな気分を失わず、なんのためかわけもわからぬのに、いな、みずから進んで道化の役割を引き受けたばっかりに、ときどき大声で笑った。洗練された優雅な話し手として通っており、以前からこうした夜会ではおおむね会話の主導者となっていたトーツキイ自身も、明らかに機嫌がよくないらしく、この人には不似合いなまごつきかたをしている。他の客人たちにいたっては、といっても、その数はあまり多くなかったが、(なんのために呼ばれたのかわけのわからぬ、見すぼらしいよぼよぼの教師がひとり、むやみに臆してしまって、いっかな口を開かぬ得体の知れぬ青年、女優あがりの四十恰好の元気のいい女、そしてもうひとり非常に美しい。非常にりっぱなぜいたくななりをした、人なみはずれて黙りやの若い女などは)会話を活気づけることができないばかりか、ときとすると何を話していいやらそれさえわからないのであった。
 こういう具合だったので、公爵の来訪はかえって好都合であった。とはいえ、取次の言葉は人々のあいだに疑惑の念を呼びおこした。そして、ナスターシヤのびっくりしたような顔つきで、彼女が公爵を招待しようという考えのまったくないのを知ったとき、だれ彼のものは奇態な微笑を浮かべた。しかし、驚きののちにナスターシヤは、ふいに非常な満足の色を現わした。で、多くの人々はこの思いがけない客を、大浮かれに笑って迎えようと、すぐさまその心構えをした。
「これは察するところ、あの無邪気な性質から出たらしい」と将軍は結論をくだした。「しかし、なんにしても、こんな傾向を奨励するのはかなり危険ですが、今のところあの男が、よしんばこんな奇抜な方法を選んだにしても、ここへやって来ようと思いついたのは、じっさいわるくありませんな。おそらく座をにぎわしてくれるでしょう。すくなくとも、わたしの判断するところでは……」
「ましていわんや、自分から無理おしかけに来たんですからね?」とすかさずフェルディシチェンコが口をはさんだ。
「それがいったいどうしたんだね?」フェルディシチェンコを憎んでいる将軍は、そっけなくこうきいた。
「木戸銭を払わにゃならんからです」とこちらは説明した。
「ふん、ムイシュキン公爵はフェルディシチェンコとは違いますよ、なんていったってね」と、こらえかねて将軍はやり返した。彼は今まで、フェルディシチェンコと対等のつき合いで同席していると考えると、なんとしてもがまんができなかったのである。
「これはこれは、将軍、ちとお手柔らかに願います」と相手はにやりと笑いながら答えた。「だって、ぼくは特別の権利を持ってるんですからね」
「へえ、それはどんな権利かね?」
「このことはせんだって詳細に公衆に訴える光栄を有しました。が、閣下のために今一度くりかえすといたしましょう。すべての人は機知というものがあるのに、ぼくはその機知を持っていません。その代償として、ぼくは真実を口にしていいという許可を得ました。なぜかというに、だれでも知ってることですが、『真実を語るはただ機知なきものなり』ですからね。それに、ぼくは怨みの深い男ですが、それも同じく機知がないからです。ぼくはどんな侮辱でも甘んじて受けますが、それはただし侮辱するやつのやりそこなうときまでです。一度相手がやりそこなうやいなや、すぐに昔の無礼を思い出して、なんとかして敵討してやります。けっ飛ばしてやります。これは、今までむしろけっ飛ばしたことのないプチーツイン氏のぼくに対する評言です。閣下、あのクルイロフの寓意詩をご存じですか、『獅子と驢馬』? これはちょうどあなたとぼくのことをいったもんです」
「きみはまたしてもでたらめをいいだしたようだね。フェルゲイシチェンコ君」と将軍はかっとしていった。
「まあ、どうしたとおっしゃるんですか、閣下?」とフェルデイシチェンコはおさえた。彼はこんなふうに相手の言葉じりをおさえて、いっそうひっかきまわせることと待ち構えていたのだ。「ご心配にゃおよびません、閣下。ぼくはおのれの分を、ちゃんと心得てますよ。ぼくとあなたが、クルイロフの寓意詩の獅子と驢馬だと申す以上、驢馬の役はもうむろんのこと、ぼくが引き受けます。そして、閣下は獅子。ね、クルイロフの寓意詩にもいってあるじゃありませんか。

  『たけき獅子、森の中なる雷《いかずち》も
  年おいて、その力をば失いぬ』

そこでぼくは、閣下、驢馬でさあ」
「そのいちばんしまいにいったことは、至極わたしも同感だね」と将軍も不用意に口をすべらした。
 これらのことはもちろんすべて無作法で、あらかじめ細工されたことなのだが、フェルディシチェンコに道化の役割を勤めさせるということは、もはや一つの習慣になっていた。
「ぼくを追っぱらわないでここへ入れてくれるのは」と、あるときフェルディシチェンコはこう叫んだ。「ただただぼくにこんな調子でしゃべらせようがためなんです。じっさい、ぼくみたいな人間をこういう席に入れるなんて、ありうべきことですか? いいや、ぼくだって、そのくらいのことはわかりますよ。またぼくを、こんなフェルディシチェンコ風情を、トーツキイさんのような洗練された紳士と、列を同じゅうしてすわらせることができますか? やむなくして残る説明がただ一つあります。すなわち、それが想像もつかぬことだからです」
 しかし、粗暴なだけならまだしも、いくらなんでも、いやになるほどしつこいこともよくあった。ときとすると、それが極度にまで発揮される。それがナスターシヤの気に入ったらしいのである。で、どうしてもナスターシヤのところにいたいと望むものは、このフェルディシチェンコをがまんする覚悟でかがらねばならない。彼自身も、ナスターシヤが自分を招いてくれるようになったのは、はじめて会う早々からトーツキイにむしずが走るほどいやがられたからだ、と想像した。しかも、それは事実を底まで洞察したのかもしれぬ。ガーニヤはまたガーニヤで、彼のため千万無量の苦患を押しこらえねばならなかった。この点においてフェルディシチェンコは、大いにナスターシヤのお役に立つものといわなければならぬ。
「わたしは手はじめとして、まず公爵に流行の恋愛歌をうたわしてごらんに入れます」ナスターシヤが何をいいだすかに気をつけながら、フェルディシチェンコはこういって口を閉じた。
「どうですかねえ、フェルディシチェンコさん、そして後生ですから、そう熱くならないでちょうだい」と彼女はそっけなく注意した。
「ははあ?………あの人がそんな特別保護のもとにあるのなら、ぼくも少々手加減しなくちゃ……」
 しかし、ナスターシヤはろくすっぽ聞かずに立ちあがり、みずから公爵を迎えに行った。
「わたしね」ふいに公爵の前へ立ち現われながら、彼女はこうきり出した。「さっきあまり泡をくったものですから、あなたをご招待するのを忘れて、たいへん残念に存じていました。けれども、あなたがご自分のほうからわたしのために、あなたのご決断をおほめもしお礼も申しあげる機会を作ってくだすったので、ほんとに嬉しいんですのよ」
 こういいながら、彼女はじっと公爵を見つめた。いくぶんなりとも彼の行動の意味を解こうと努めながら。
 公爵はこの優しい言葉に対して、なにか返事をしようと思ったらしかったが、ひとことも口をきくことができないほど、彼女の美に目をくらまされ、心を打たれた。ナスターシヤは満足そうにそのさまをながめた。この晩、彼女はできるだけの粧《よそお》いをこらしていたので、なみなみならぬ印象を人に与えるのであった。彼女は公爵の手を取って、客人たちのほうへ導いた。今すぐ客間へ入ろうというまぎわに、公爵はふいに立ちどまり、激しく胸を躍らせながら、せきこんだ調予でささやいた。
「あなたの中にあるものは、何もかも完成されています………やせて色の青いところまでが……それよりほかのあなたを想像したくないくらい……ぼくどうしてもあなたのところへ来たくなって……失礼ですが……」
「あやまったりなんかなさんなよ」とナスターシヤは笑いだした。「それじゃ、せっかくの不思議なところも、奇抜なところも、すっかりふいになっちまうじゃありませんか。してみると、人があなたのことを奇妙なかただっていうのは、ほんとうなんですね。それじゃあなたは、なんですの、わたしを『完成』されたものとお考えなさるんですね、え?」
「ええ」
「あなたはなかなかあてごとがお上手でいらっしゃいますが、それはお考え違いですよ。わたしあすといわず今夜のうちに、そのことを思い当たらしてさしあげますわ……」
 彼女は公爵を客人たちに引き合わせたが、その過半はすでに彼と知り合いの間柄であった。トーツキイはさっそくなんとかお愛想をいった。一同はいくらか元気づいた様子で、一時に話したり笑ったりしはじめた。ナスターシヤは公爵を自分のそばへすわらせた。
「いや、しかし公爵がお見えになったのに、なにも驚くことはない」とだれよりも声高にフェルディシチェンコがどなった。「しごく明瞭な話です。事柄そのものがちゃんと理由を説明しています」
「事柄はあまりに明瞭で、あまりそれみずから理由を説明しすぎていますよ」今まで黙っていたガーニヤがそのあとを受けた。「わたしはきょう公爵がはじめてエパンチン将軍のテーブルの上で、ナスターシヤさんの写真を見た胯間から、ほとんど絶え間なしに公爵を観察していました。わたしはそのときちらと考えたことをよく覚えていますが、それをここですっかり確信してしまいました。ついでに申しますが、それは公爵自身もわたしに白状されたことなんです」
 これだけのことをガーニヤはおそろしくきまじめに、すこしの冗談げもなく、むしろ沈んだ調子で述べ終わったが、あまりまじめすぎて奇妙な感じがするくらいであった。
「ぼくは何も白状なんかしませんよ」と公爵はやや顔を赤らめて答えた。「ぼくはただあなたの問いに答えたばかりです」
「ブラヴォ、ブラヴォ」とフェルディシチェンコが叫んだ。「すくなくとも誠実ですね、そして狡猾ですね、そして誠実ですよ!」
 一同はどっと笑った。
「ほんとにどなるのはよしたまえ、フェルディシチェンコ」とプチーツィンが、いまいましそうに小声で注意した。
「あんたにこんな思いきったことができようとは、わたしも思いもよらんかったですよ、公爵」とエパンチン将軍がいいだした。「まったく、だれだって、あんまり感心したことでもないですからなあ。わたしはあんたを哲学者だと思っておりましたよ。このおとなしい坊っちゃん、なかなか味をやるわい」
「公爵がまるで罪のない娘さんのように、罪のない冗談を聞いて赤くなられるとこから見ると、公爵も世間の潔白な若い人たちのように、大いに賞賛すべき意回を心にいだいておられるかもしれませんな」とふいに、まったく思いがけなく、今まですこしも口をきかなかった七十歳の老教師が、歯のない口をもぐもぐさせながらいいだした。
 この人が今晩なにか口をきこうなどとは、だれひとり思いもよらなかったので、一同はまたさらに声高に笑いだした。自分の皮肉のために人が笑うのだと思ったらしく、老人は一同の顔を見まわしつつ、またひとしきり笑いにかかったが、その拍子に痛々しいほどせき入るのであった。なぜか、こうした風変わりな老人老女、おまけに信心きちがいのようなものまでかわいがっていたナスターシヤは、すぐさま彼の背をなでて接吻してやり、もう一杯お茶を出してやるように命じた。彼女は入って来た女中にケープを取り寄せさせ、その中       に身をくるみ、壁炉《カミン》に薪を足すようにいいつけた。いま何時かという問いに答えて、女中は、もう十時半と告げた。
「皆さん、シャンパンはいかがでございます?」と、にわかにナスターシヤがたずねた。「わたし用意しておきましたの。たぶんもっとおにぎやかになるでしょう。どうぞご遠慮なく」
 酒を飲めというこのすすめは、ことにこうした率直な言い現わしかたは、ナスターシヤとしてはなはだ奇怪なことであった。これまで彼女が催していた夜会の席が、ひとかたならず整然として一糸みだれなかったのを、だれもがよく承知していたからである。とにかく、夜会はしだいに陽気になっていったが、しかしいつものような具合ではなかった。酒を辞退しなかった者は、第一に将軍、第二に元気のいい奥さん、老先生、フェルディシチェンコ、そして一同がそれにつづいた。トーツキイは一座を訪れようとしている新しい調子に、できるだけ無邪気な冗談らしい性質を帯びさせようというつもりで、これも自分の杯を挙げた。ただガーニャばかりは、なにひとつのどへ通さなかった。ナスターシヤは同じく杯を取って、今夜は三ばい飲みほすといったが、その奇妙な、ときとするとおそろしく鋭い早口な皮肉や、たった今なぜともわからないヒステリイ性の笑いをあげるかと思うと、すぐにふと、おし黙って、気むずかしそうに考えこむ変わりやすい態度の中に、いかなる意味がかくされているのか、おし量ることができなかった。熱に冒されていたのではないかと想像する者もあったが、そのうちに人々もやっと気がついた。彼女自身も、なにかあるものを待ちうけているらしく、幾度も幾度も時計を見やって、もどかしげにそわそわしはじめた。
「あなた、なんだかすこし熱でもおあんなさる様子ねえ」と元気のいい奥さんがたずねた。
「いいえ、大熱ですの、すこしどころじゃありません、だからケープにくるまったんですのよ」とナスターシヤが答えた。じじつ、彼女は顔色がますます青ざめて、ときどき身うちの激しい胴ぶるいをおし隠そうとしているらしい。
 人々は心配してざわつきはじめた。
「女主人に休んでいただきましょうかねえ?」エパンチン将軍の様子をうかがいながら、トーツキイは意見を述べた。
「けっしてそのご心配にはおよびません、皆さん! わたしぜひ皆さんにいていただきたいのでございます。皆さまのご同席は、ことに今晩、わたしのために必要なんでございますから」とふいにナスターシヤは念を押すように、意味ありげにいいだした。
 すでにほとんどすべての人が、今夜重大な決答を与えるという約束のあることを知っていたので、これらの数語は千|鈞《きん》の重みをもって響いた。将軍とトーツキイは今一度目くばせした。ガーニヤは痙攣的にぴくりとからだを動かした。
「なにかプチジョー(遊戯の名)でもして遊ぶと、よござんすね」と元気のいい奥さんがいった。
「ぼくは一つ、ふるった新奇なプチジョーを知っています」とフェルディシチェンコが口をはさんだ。「すくなくとも、それは開闢《かいびゃく》以来たった一度やって見ただけで、それさえうまく行かなかったプチジョーです」
「いったいなんですの?」と元気な奥さんはたずねた。
「あるとき、ぼくたちの仲間が集まったところ、もっとも、やはりこいつを飲んでましたがね、ふと、こんな提議をする者がありました、――めいめいひとりがテーブルを立たずに、なにか自分に関連したことを大きな声で話そう、しかし話は、自分が誠心誠意、一生涯中に犯した悪い行為の中でも、いちばん悪いと思ったことでなければならぬ、とこういやつのです。ただし卜その条件としては真実でなければならん、たによりもまず真実でなければならん、うそをついてはいかん」
「奇態な思いつきだね」と将軍がいった。
「でも、奇態なほど、なおおもしろいんですよ、閣下」
「こっけいな思いつきですよ」とトーツキイがいった。「だが、よくわかっています、一種変態の自慢ですよ」
「ことによったら、それが必要なのかもしれませんよ、アファナーシイ・イヴァーノヴィチ」
「ほんとにそんなプチジョーなら、笑うより泣きだすほうが勝ちでしょうよ」と元気のいい奥さんが注意した。
「まるで問題にならないばかげた話だ」とプチーツィンが応じた。「で、うまく行きました?」とナスターシヤがたずねた。「そ、そこが残念なんですよ。変ちきりんな具合になっちまったんです。めいめいがじっさいに何か彼か話しました。まあ、ほんとうのことをいったものもずいぶんありました。それにどうでしょう、中には得意になって話したものもあったくらいですよ。ところが、しばらくたって、だれも彼も恥ずかしくなりました。持ちこたえられなかったんですな! とはいっても、全体としては、じつにおもしろかったです。むろん、一種特別のおもしろさですがね」
「あ、それはほんとうにおもしろいでしょうよ!」とナスターシヤは急に元気づいていいだした。「ほんとうにやってみようじゃありませんか、皆さん! まったくのところ、なんだか座が白けたようですわ。わたしたちがひとりずつ、てんでになにか話したらどうでしょう……いま説明のあったようなことを……もちろん、皆さんの同意を得てからですわ、意志の自由は許さなくちゃなりません、いかが? わたしたち、たいてい持ちこたえられるでしょう? とにかく、とても奇抜ですわね」
「奇想天外ですよ!」とフェルディシチェンコが口をはさんだ。「もっとも、婦人がたは除外例です、男連からはじめます。順番は以前のように籖《くじ》で決めましょう。ぜひとも、ぜひともやりましょう! もっとも、あまり進まぬ人は、もちろん、話さなくっていいですが、非常な失礼に当たるのは覚悟していただきます。皆さん、籖をこちらへ、ぼくの帽子の中へ入れてください、公爵がひいてくださるから。なに、わけのないこってす。自分の生涯でいちばん悪い行為を話して聞かせるのです、――じっさいわけのないこってすよ、皆さん! まあ、やってみればすぐわかりますよ! もしだれかお忘れになったかたがあれば、ぼくがさっそくおもい出させてあげます!」
 このなみはずれて奇怪な思いつきは、ほとんどだれの気にも入らなかった。あるものは眉をしかめ、あるものは狡猾な薄笑いをした。中には反対したものもあるが、それもあまり手ごわくではなかった。たとえばエパンチン将軍のごとき、ナスターシヤがこの奇怪な思いつきに夢中になっているのを見て、その意に逆らっては悪いと考えた。彼女が夢中になったのは、ほかでもない、つまりこの思いつきが奇怪で、ほとんど不可能だったかららしい。ナスターシヤはいったん自分の欲望を言明すると、よしそれが思いきって気まぐれな、しかも彼女自身にとって不利なことであろうとも、その欲望を貫徹するためには、つねに頑固で容赦というものがなかった。今も彼女はまるでヒステリーに襲われたように気をもんで、痙攣的に笑うのであった。気が気でなくなった。トーツキイが言葉を返すとき、特にそれが激しかった。暗色の目はぎらぎらと輝き、青白い双の頬にはふたつの赤い点がにじみ出た。客人たちのしょげたような、むっつりしたような顔つきは、彼女の冷笑的な欲望にひとしお油をそそいだらしい。つまり、彼女の気に入ったのは、ほかでもないこの思いつきの皮肉で、残酷なところであるらしい。中には、彼女の胸中になにかもくろみがあるに相違ない、と信じきっているものさえあった。けれども、そのうちに人々は同意しはじめた。なんといってももの珍しい、それに多くのものは強く好奇心をそそられたのである。フェルディシチェンコはだれよりも気をもんだ。
「もしも、その……婦人がたのまえで……話すこともできないような事件でしたら……」今まで無言でいた青年は、こうおずおずとたずねた。
「じゃ、そんなこと話さなきゃいいじゃありませんか、それよりほかに悪いことをした覚えがないじゃあるまいし」とフェルディシチェンコが答えた。「ほんとに若い人には困りますなあ」
「ところで、自分のしたことの中で、どれがいちばん悪いか、わたしはわかりませんわ」と元気のいい奥さんは横槍を入れた。
「婦人がたは義務を免除されています」とフェルディシチェンコはくりかえした。
「しかし単に免除されてるというだけですから、自分から感興をわかして告白しようというかたは、むろん、さしつかえありません。男のかたでもあまりいやがる人は免除していいです」
「しかし、ぼくがうそをつかないってことは、どうして証明するんだね」とガーニヤがきいた。「もしうそをついたら、せっかくの趣向も台なしだからね。ところで、だれがうそをつかずに済ますだろう? きっと皆が皆うそをつくに決まってる」
「なに、どんな具合にうそをつくか、それ一つだけでも大いにおもしろいじゃないか。もっともね、ガーニャ、きみはうそをつくつかないで心配することはないよ。なぜって、きみのいちばん悪い行為はもうとっくに知れわたってるからね。そこでですね、皆さん、まあ渮えてごらんなさい」フェルディシチェンコはまるで夢中になったように叫んだ。「われわれはどんな顔をして、あす、すなわち話をした翌日、おたがい同士、顔を合わすでしょう。まあ考えてもごらんなさい!」
「いったいこれができることだとお思いですか? じっさいこれはまじめな話なんですか、ナスターシヤさん?」とトーツキイは声に重みを持たしてたずねた。
「狼がこわけりゃ森に入らないがようござんす」とあざけるようにナスターシヤがいった。
「しかし、失礼ですが、フェルディシチェンコ君、いったいそんな方法でプチジョーができるもんでしょうか?」しだいしだいに心配しながら、トーツキイは言葉をつづけた。「わたしは誓っていいます、そんなこと社けっしてうまく行くもんじゃありません。きみもいったでしょう、もう一度失敗したって」「失敗したんですって? ぼくはこのまえ、りっぱに話しましたよ、三ルーブリ盗んだいきさつを、いきなりぶちまけて話してしまいましたよ!」
「あるいはそうかもしれんです。しかしきみだって、いかにもほんとうらしく人を信じさせるように話すことは不可能でしたろう? ガヴリーラ君のいわれたのは、まったくじっさいです。ほんのすこしでもうそらしいところがあったら、この趣向のやまがすっかりくずれてしまいます。この場合、人がほんとうをいうってことは、ただ偶然に、その、一種特別な、粗野な調子を帯びた自負心をもったときに、はじめて可能なことなんですからね。しかもその心持ちは、この席上では夢にも考えることのできない、無作法しごくなものです」
「けれど、トーツキイさん、あなたは、なんて繊細な神経を持ったかたでしょう。まったく驚いてしまいました!」とフェルディシチェンコが叫んだ。「どうです、皆さん、トーツキイさんはぼくが自分の泥棒談をほんとうらしく話すことができんという理由でもって、ぼくにじっさい盗みができないと(なぜなら、大きな声で話すのも無作法なくらいですからね)、きわめて婉曲にほのめかされました。もっとも、心の中じゃ、フェルディシチェンコめ、盗みぐらい平気でしそうだと、考えていらっしゃるかもしれませんがね! しかし、もう仕事にかかりましょう、皆さん、仕事にかかりましょう。籤も集まりました。それにあなたも、――トーツキイさんもお入れになったんですね。してみると、だれも反対なしですか。じゃ、公爵ひいてください!」
 公爵は無言に手を帽子へ突っこんで、籖をひき出した。一番フェルディシチェンコ、二番プチーツィン、三番将軍、四番トーツキイ、五番公爵自身、六番ガーニャ等々であった。婦人たちは籖を入れなかった。
「おやおや、なんたる不仕合わせだ!」とフェルディシチェンコが叫んだ。「ぼくは一番が公爵で、二番が将軍かと思ってました。しかし、まあ、ありがたいことには、プチーツィン君がぼくのしんがりに控えてるから、とにかく満足ですよ。ところで、皆さん、ぼくは義務として、りっぱなお手本を示さねばならんのですが、ただ今のところぼくにとってなにより残念なのは、ぼくがまことにつまらん人間で、なんらの特色も持っていないということであります。官等のほうからいっても、ぼくはじつに哀れなぺいぺいですから、こんな男が悪いことをしたからって、じっさいどこに面白味がありましょう。それに、ぼくのいちばん悪い行為というのはどれでしょう。まったくembarras de richesse(富める人の困惑)ですね。それとも、また例の泥棒談をやりますかな、泥棒でなくても、物を盗むことができるもんだってことを、トーツキイさんの腑に落ちるようにね」「いや、フェルディシチェンコ君、おかげで腑に落ちましたよ、人間てものは、頼まれもしないのに、自分のさもしい行為の話をして、夢中になるほど満足を感じるものだってことがね……いや、しかし、ごめんなさい、フェルディシチェンコ君」
「フェルディシチェンコさん、おはじめなさいよ。あなたはおそろしく無駄口ばかりきいて、そのくせいつもしっぽがないのよ!」といらだたしげに、もどかしげにナスターシヤが命令した。
 さきほどの発作的な笑いが過ぎたあとで、彼女がにわかに気むずかしく、怒りっぽく、いらだたしげになったのは、人人の気づいたところである。何はともあれ、彼女は執拗に専制的に、自分の突拍子もない欲望を主張してやまなかった。トーツキイはひとかたならず苦しんだ。それに、将軍までが彼の憤懣に油をそそいだ。将軍は平然とシャンパンに向かっているばかりか、ことによったら順番の来るのを待って、なにか話すつもりらしく見受けられたからである。

      4

「機知がないのですよ、ナスターシヤさん、それだから無駄口ばかりたたくんです」と叫んで、フェルディシチェンコは自分の物語をはじめた。「もしトーツキイさんやエパンチン将軍と同じくらい機知があったら、ぼくはきょう、はじめからしまいまで、トーツキイさんやエパンチン将軍と同じように、黙ってすわってたでしょうよ。公爵、ひとつうかがいたいことがあります。きみ、どうお考えですか、ぼくはこの世に泥棒のほうが非泥棒よりずっと多い、いや、それどころか、生涯に一度も盗みをしないなんて、そんなりっぱな潔白な人はひとりもないと思うのです、これがぼくの思想ですが、それかといって、だれも彼もひとりのこらず泥棒だと、結論するつもりではさらさらありません。もっともどうかすると、おそろしくこの結論がくだしたくなるんですが、どう考えますか」
「ふう、なんてばかなことをおっしゃるんでしょう」とダーリヤ・アレクセーエヴナ(元気のいい奥さん)が口をはさんだ。「なんてくだらないことを! 皆がみななにか盗むなんて、そんなことがあるはずはないじゃありませんか。わたしなんかけっして何も盗んだことありませんよ」
「あなたは一度も盗みをなすったことなどありませんよ、ダーリヤさん。しかし、にわかにまっかになった公爵はなんとおっしゃるかしらんて」
「ぼくはあなたのおっしゃることがほんとうだと思いますが、でも、あまり誇張しすぎます」じっさいなぜか顔を赤くして公爵は答えた。
「で、公爵、きみなにか自分で盗んだ覚えはありませんか?」
「ふう、なんというこっけいなこった! 気をつけたまえ、フェルディシチェンコ君」と将軍が割って入った。
「えーえ、わかりきってますわ。いよいよとなると話すのが恥ずかしくなったもんだから、ああして公爵を仲間に引きずりこもうとしているんでしょう。公爵がおとなしいのをいいことにして」とダーリヤは、きっぱりいった。
「フェルディシチェンコさん、お話しするか黙ってるか、どっちかに決めてちょうだい。人のことなんかどうだってよござんすよ。もうあなたにはがまんできなくなりました」とナスターシヤは鋭く、いまいましそうにいいだした。
「ただ今、ナスターシヤさん。しかしですね、もし公爵が自白されたとして、ぼくはどうしても公爵が自白されたものと主張します、だれかほかの人が(べつにだれとさすわけでもありませんよ)、いつかほんとうのことをいおうという気になったら、まあ、どんなことを聞かしてくれるでしょう。ぼくのことにいたっては、もうこのうえ話すことなんかありません。しごく簡単で、ばかばかしくって、そして卑劣なことです。が、ぼくは皆さんに誓います。ぼくはけっして泥棒じゃありません。盗みはしたが、自分ながらなぜあんなことをしたか、不思議でなりません。これは一昨年のある日曜目に、セミョーン・イヴァーノヴィチ・イシチェンコ氏の別荘であったことです。この人のところへ客が集まって、食事のご馳走になりました。食事が済んで、男連中は酒を飲むために席に残りました。ぼくはふとマリヤ・セミョーノヴナ、この家の娘さんに、なにかピアノでも弾いて聞かせてもらうつもりで、わきの方の部屋を通り抜けて行くと、マリヤ・イヴァーノヴナの仕事づくえの上に、三ルーブリの青い紙幣《さつ》がのってるじゃありませんか、なにか家事の払いでもするつもりで。出してあったものとみえます。部屋の中には猫の子一匹いないのです。ぼくは紙幣を取ってポケットへしまいました、なんのためやらわからない。なんであんな気持ちになったのか合点が行かないです。ただぼくは大急ぎで元の座へもどって、腰を掛けました。じっとすわったまま、かなり強い不安を感じながら、のべつしゃべったり笑話をしたり、笑ったりしていました。それから婦人たちのほうへ行ってすわってもみました。三十分もたったころ気がついたと見えて、女中たちにききはじめましたが、そのうちダーリヤという女に嫌疑がかかったのです。そこでぼくはなみなみならぬ好奇心と同情を表わして、今でも覚えていますが、ダーリヤがすっかりとほうにくれてしまったとき、マリヤ・イヴァーノヴナは優しい人だからだいじょうぶだと、首をかけて請け合いながら、ダーリヤに自白をすすめました、しかも皆のいる前で声高にいったのです。みんなぼくのほうを見ていました。ぼくは自分がこうしてお説教しているのに、紙幣はちゃんとポケットに潜んでいるということが、嬉しくて嬉しくてたまらなかったです。この三ルーブリはその晩すぐ、料理屋で飲んでしまいました。入って行くと、いきなりラフィートをひと壜命じたものです。ぼくはそれまで肴なしに、酒ばかりあつらえたことはなかったんですが、そのときはすこしも早くつかってしまいたかったんです。特に良心の呵責《かしゃく》といっては、そのときもその後もべつに感じませんでしたね。しかし、もう二度とそんなことはしません。皆さんがほんとうになさるかどうか、そんなことは気にもかけませんがね。さあ、これでおしまいです」
「ただし、むろん、それがあなたのいちばん悪い行ないじゃござんすまいよ」といとわしげにダーリヤがいった。
「これは心理的の偶然で、行為とは言われない」とトーツキイが口をはさんだ。
「それで女中は?」なんともいえぬ気むずかしげな嫌悪の情を隠そうともせずに、ナスターシヤはこうたずねた。
「女中は翌日おん出されました、むろん! やかましい家ですからね」
「あなたはそれを知らん顔して見てたんですか?」
「こりゃ驚いた! だって、ぼくがのこのこ出かけて行って、白状しなきゃならなかったのでしょうか?」とフェルディシチェンコはひひと笑ったが、それでも、自分の物語がすべての人にあまりに不愉快な印象を与えたのに、いくぶん驚かされた様子であった。「なんてけがらわしい話でしょう!」とナスターシヤは叫んだ。
「ナスターシヤさん、あなたは人のいちばん悪い行ないを聞きたがってらっしゃるくせに、そのうえに光彩を要求なさるんですね! いちばん悪い行為はいつも非常にきたないものです。これは今にプチーツィン君の話を聞けばわかります。それに、世間には上べから見ると光彩陸離として、りっぱに見えるものがずいぶん多いですよ、それってのが、おかかえの馬車を乗りまわしてるからでさあ。ところで、おかかえの馬車を乗りまわす手合はざらにありますよ。それに、どういうわけで……」
 てっとり早くいえば、フェルディシチェンコはまったくがまんしきれなくなって、ふいにわれを忘れるほど腹を立てたのである。その腹立ちも度を越えて、顔までがすっかり歪んだほどである。ずいぶん不思議なことだが、じっさいよくあるやつで、彼は自分の物語が当然別種の成功をもたらすことと予期していたのである。こうした低級気取りの失敗や、『変態の自負』、――これはトーツキイのいったことで、――などは、しばしばフェルディシチェンコの経験するところであって、いかにも彼の性情にふさわしかった。
 ナスターシヤは憤怒の情にからだまでふるわせ、穴のあくほどフェルディシチェンコを見つめた。こちらはたちまちおじけづいて口をつぐんだ、びっくりしてからだじゅうが冷たくなるくらいであった。あんまり口がすべりすぎたのである。
「もういっそやめてしまったらどうです」とトーツキイは抜け目なくたずねた。
「今度はわたしの番ですが、わたしは特権を利用して、ごめんをこうむります」きっぱりとプチーツィンがいった。
「あなたおいやなんですの?」
「できないのです、ナスターシヤさん。それに、全体からいうても、こんなプチジョーは不可能だと思います」
「将軍、今度はあなたの番のようですが」ナスターシヤが将軍に向かっていった。「もしあなたまでがいやだとおっしゃれば、せっかくの催しがめちゃめちゃになってしまいます、それではわたしたいへん残念でございますわ。なぜって、わたしもいちばんおしまいに、『自分自身の生涯の中から』一つの行為をお話ししようと思ってたんですもの。ただし、それはあなたとトーツキイさんのあとと、こう思っていましたの。と申すのは、おふた方に元気をつけていただきたいからですわ」といい終わってナスターシヤは笑った。
「おお、もしあなたが約束なさるんでしたら」と将軍は熱心に叫んだ。「わたしはあなたに自分の全生涯をお聞かせしてもいいです。しかしじっさいのところ、わたしは順番を待つうちに、一つの逸話を準備しましたよ……」
「いや、もう閣下のご様子を見ただけで、閣下がどんな優れた文学的興味をもって、その逸話とやらを推敲《すいこう》なすったかがわかります」やはりまだいくぶんまの惡そうなフェルディシチェンコは、毒々しく笑いながら思いきって口をはさんだ。
 ナスターシヤはちらと将軍をながめて、同じく心の中でほほえんだ。けれども、彼女の憂愁と焦慮とは、いやましにつのって行く様子であった。彼女が物語をするとの約束を聞いて、トーツキイは二度びっくりした。
「皆さん、わたしもすべての人と同じように、一生のうちにはあまり床しからぬ行為をしたことがあります」と将軍がはじめた。「しかし、なによりも奇妙なのは、わたしがこれからお話しする逸話を、全生涯中もっとも悪い行為と考えていることです。が、それはもう三十五年も昔の話ですよ。わたしはそれを追懐するごとに、一種の、なんといったらいいか、胸をかきむしられるような心持ちを、どうすることもできないのであります。とはいうものの、じっさいはばかげた話なのです。そのときやっと少尉補になったばかりだから、地方の隊でこつこつやっていたものです。ご承知のとおり、少尉補といえば血は煮えくり返っているが、ふところはぴいぴいです。そのときニキーフォルという従卒がついていましたが、克明にわたしの世帯むきの世話を焼いてくれて、縫い物から拭き掃除、おまけにいたるところで盗めるものならなんでも、泥棒までしてきて、ただ家のものが多くなりさえすればいいというふうでした。忠実で、正直なこと無類の男でした。わたしはもちろん、厳格で曲がったことが大嫌いでした。あるときしばらくのあいだ、とある小さな町に駐屯したことがありました。町はずれに住んでいる退職中尉夫人、しかも後家さんのところへ、宿舎を割り当てられました。年は八十か、すくなくともそれに近いお婆さんでした。家といったら、古ぼけてぼろぼろの木造で、おまけに貧乏で女中もおけないというありさまでした。しかし、なによりも変わっているのは、このお婆さんかつては大人数の家族や、親族を持っていたということです。ところが、長い生涯の中に、あるものは死に、あるものは行きがた知れず、あるものはお婆さんのことなど忘れてしまったのです。それに、亭主を見送ったのはもう四十五年前のことでした。その四十五年くらい前まで、この女の家に姪が住んでいたそうです。せむしで、鬼婆のような意地悪で、一度なぞはお婆さんの指を噛んだほどだといいますが、それさえ死んでしまったので、お婆さんはもうかれこれ三年ばかりまったくのひとりぼっちで、その日その日を過ごしていたのです。わたしはその家にいるのが退屈でたまらなかった。まるでからっぽのようなお婆さんで、気をまぎらすことがすこしもないんです。やがてとうとう、この女がわたしの鶏を一羽盜みました。これはいまだによくわからないのですが、なにぶんこの女よりほかに盗むものがないのですからね。鶏のことからわれわれは喧嘩しました、それもずいぶんひどかったのです。ところが、ちょうどそのとき、たった一度出願したばかりだのに、わたしは別の宿舎へ移転を命ぜられました。それは町の反対に当たる郊外で、おそろしく大人数の家族を持った商人の家でした。その商人は、今でも覚えておりますが、髯の大きな男でした。わたしとニキーフォルは大喜びで引っ越しました。お婆さんをひとりぼっちにしてやるのがいい気味だったのです。三日ばかりたって教練から帰って来ると、ニキーフォルが報告するのに、『少尉補殿、家の皿を前のお婆さんのとこへ置いて来て、つまらんことをなさいました。スープを入れてさしあげるものがありません』わたしはもちろんびっくりして、『なに、どうして家の皿があのお婆さんのとこへ残っとるのか?』ときくと、ニキーフォルは驚いたような顔をして、報告をつづけるのです。それによってみると、引っ越しのときにお婆さんが家の皿を渡さなかったのは、わたしがお婆さんの壺をこわしたので、そのかわりわれわれの皿をさし押えている、つまりお婆さんのいい分によると、わたしが自分からそれを申し出たんだそうです。こんな卑劣千万な仕打を聞いて、わたしはむらむらっとなりました。少尉補の血は一度に沸き立って、いすを飛びあがるやかけだしました。もう、その、夢中になってお婆さんのとこへ来てみると、お婆さんは玄関の片隅にしょんぼりすわって、まるで太陽に見つけられまいと、小さくなってるような具合です。片手で頬杖ついていました。わたしはその、恐ろしい雷さまのようなやつを、頭から浴びせかけたものです。『じつにきさまはああだ、こうだ』って、すっかりロシヤ式にやっつけたのです。しかし、見てると、様子がどうも変なんですね。お婆さんはじっとすわって顔をわたしのほうへ向けたまま、目をむき出して、ひとことも返事しないじゃありませんか、その目つきがじつになんとも変で、おまけにからだがふらふらと揺れてるようなんです。とうとうわたしは気が落ちついて、じっと見つめながら問いかけたが、やはりひとことの返事もない。わたしは狐疑逡巡のていで立っていました。その辺を蝿がぶんぶんうなって、日はまさに没せんとし、ただひっそりと静まりかえっているのです。わたしはすっかりきまりが悪くなって、そこを立ち去りました。まだ家まで行き着かないうちに、少佐のところへ召喚されました。それから、また中隊まで行かねばならぬこととなり、家へ帰ったのは日がとっぷり暮れたころでした。すると、ニキーフォルの最初の言葉として、『少尉補殿、あのお婆さんが死にましたよ』『いつ?』『きょう晩がた 一時間半ばかり前でありました』してみると、ちょうどわたしがあの女をぎゅうぎゅうやっつけている時分に、往生をとげつつあったのです。わたしはじつにぎょうてんしてしまって、うそじゃありません、あやうく気を失わんばかりでした。それからはこのことばかりが思い出されて。夜は夢にまで見るようになりました。わたしはむろん、迷信などにとらえられたわけではありませんが、三日目に葬送に列するために教会へ行きました。ひと口にいえば、時がたつに従って、思い出すことが多くなって行く。べつにとりとめてどうというのではないが、ときどき考えていると、気分が悪くなるんです。とうとうわたしは考えつきましたが、この事件のおもなる意味ははたしてなんであるか? 第一に、ひとりの女が、――今の人道的になった時代が人間的存在と呼ぶところの女がですね、長い長い生活をつづけて、結局、長生きしすぎたということなんです。かつては子供も夫も親戚もあって、彼女を取り巻きながら、おし合いへし合いしていた、その笑顔がみんな一時にばたばたと消えてなくなって、彼女ひとりがまるで……生まれ落ちるとともに与えられたのろいを背負っている蠅かなんぞのように、たったひとりとり残された。そして、あげくの果てに、神さまのところへ呼び寄せられたわけなんです。静かな夏の夕方、落日とともに、わがお婆さんの魂も飛び去ってしまった、そこにはいくぶん、教訓的な意味がないでもありません。その瞬間にですね、若い向こう見ずの少尉補が、名ごりを惜しむ涙のかわりに、両手を腰へ当ててさも偉そうな恰好をしながら、ロシヤ人気質の一要素たる乱暴な罵詈の言葉で、この老婆を地球の表面から追っぱらったのです、それもたった一枚の且がなくなったというだけのことですからね! じっさい、疑いもなくわたしが悪かったのです。もう違い以前のことでもあるし、またわたしの性格も変わってきたので、とっくの昔にこの行為を人ごとのように考えてはおりますが、それでもやはり気の毒と思う心は失せません。そこで、くりかえして申しますが、むしろ不思議なくらいなんです。なぜといってごらんなさい、よしんばわたしが悪いにもせよ、ぜんぜん悪いとはいえないからです。だって、なぜお婆さんはちょうどそのとき死のうなぞと思いついたのでしょう。むろん、そこには一ついいわけの道があります、すなわち、この行為はいくぶん心理的なものである、ということです。しかし、それでもやはり気が済まないので、十五年ばかり前に、自費でもって、ふたりの病身な老婆を養老院へ入れてやりました。というのは、人なみの暮らしをもって彼らの地上における最後の日を、すこしなりとも穏かにしてやりたいがためでした。今でも一部の財をさいて永遠のことに捧げたいと思っています。これでおしまいです、全部です。くりかえして申しますが、わたしはおそらくいろいろな点において過ちを犯しているかもしれない。しかし、誠心誠意、この事件をもってわたしの全生涯中、最も卑劣なものと考えます」
「閣下は最も卑劣なもののかわりに、ご自分の生涯中でりっぱな行為の一つをお話しになりました。フェルディシチェンコに一杯お食わせなすった!」とフェルディシチェンコが結論をくだした。「まったくのところ、あなたにそんな親切な心持ちがあろうとは、わたしもぞんじませんでしたわ。少々残念なくらいですわ」ナスターシヤが投げやりな調子でいいだした。
「残念ですって? なぜですか?」将軍は愛想のいい笑いをもってたずねたが、やや誇らしげなさまで、ぐいとシャンパンを飲みほした。
 が順番は、同じく用意のできていたトーツキイに当たった。彼がエパンチン将軍と同様に、話を拒まないだろうとは、人々も察していた。のみならず、彼の物語も、一種の好奇心をもって待ちもうけられていたので、人々は同時にナスターシヤの様子をもそっとうかがった。トーツキイはその押出しのりっぱな外貌にふさわしい、なみなみならぬ威厳を保たせながら、静かな愛想のいい声で、自分の『愛すべき秘話』の一つをはじめた。(ついでにいっておくが、彼は人の目をひくほど押出しがりっぱで、丈が高かった。すこしばかり頭がはげて、すこしばかりごま塩で、かなりでっぷり肥えたほうである。頬は柔らかそうに紅みがかって、いくぶん垂れ気味で、口には入歯をはめている。ゆったりした優美な服装で、驚くばかり見事なシャツをつけている。彼のふっくらした白い手を見ると、いつまでもじっと見つめていたくなるほどである。右手の人差指には高価なダイヤ入りの指輪がはめてあった)。ナスターシヤはその話のあいだじゅう、自分の袖口に付いているレース飾りを、いっしょうけんめいに見つめながら、左手の二本指でいじりまわして、一度も話し于の顔を見なかった。「何がこの場合もっともわたしの務めを軽くしてくれるかというと」こうトーツキイは口をきった。「ほかではない、わたしの全生涯中もっとも悪い行ないを皆さんにお話しするという義務です。こうなってみると、もはやためらうことはない。わたしの良心と記憶とが、何を話すべきかを助言してくれます。悲痛の情をもって自白しなければなりませんが、数限りないわたしの軽率……浮薄な行為の中で、わたしの胸にあまりにも重苦しい印象を残した一つのできごとがあります。それはかれこれ二十年前におこったことです。わたしはそのとき田舎にいたプラトンーオルディンツェフのところへ立ちよりました。彼はそのとき、地方貴族団長に選挙せられたばかりなので、若い細君といっしょに冬の祭日を過ごすつもりで、田舎へ来ていたのです。それに、ちょうどアンフィーサ・アレクセーエヴナ(細君の名)の誕生日も近づいたので、舞踏会がふたつ催されることになっていました。その時分、小デュマの美しい小説La dame aux camelias(椿姫)がおそろしく流行して、上流社会にその名がとどろきわたったばかりのころでした。この叙事詩は、わたしにいわせると、不老不死のものですが、地方の婦人たちはみんな夢中になってしまいました――すくなくとも一度読んだ人はですね。物語の美しさ、主人公の境遇の奇警なこと、微細な点まで研究されたあの魅力に富める世界、それから巻中に満ちみちた魅惑的な部分的描写(たとえば、白とばら色の椿の花束をかわるがわる使う、というくだりです)、ひと言にしてつくせば、これらの美しいデテールがいっしょになって、ほとんど天下を震撼したものです。椿の花は、めちゃめちゃに流行しけじめました。だれも彼もが椿を要求し、だれも彼もが椿をさがしました。こころみにおたずねしますが、ある地方で、あらゆる人が舞踏会用に椿を求めているとき、たやすくそれを手に入れることができますか? もっとも、舞踏会は、そう多くありませんでしたがね。ペーチャ・ヴォルホフスコイはそのときかわいそうに、アンフィーサ夫人を慕って、身もやせるばかり苦しんでいました。じっさい、わたしはふたりのあいだに何かあったか、――その、つまり男のほうに何か確かな希望があったか、そのへんはどうか知りませんが、とにかくペーチャはアンフィーサ夫人のために、舞踏会の晩までに椿を手に入れようと、気も狂わんばかりでした。それというのが、ペテルブルグから県知事夫人のところへお客に来る伯爵夫人のソーツカヤだの、ソフィヤ・ベスパーロヴァだのという人たちが、白の花束を持ってやって来ることが確実にわかっていたのです。ところで、アンフィーサ夫人は、ある特殊の効果をあげようと思って、赤い椿をほしがっていました。そして、かわいそうに、プラトン氏を追っ立てんばかりにして頼むのです。しかし、そこはなんといっても犬ですから、きっと花束は子に入れてやると請け合ったわけたんです。ところが、どうでしょう。その前の晩になって、ムイチーシチェヴァ(カチェリーナ・アレタサンドロヴナ)という、万事につけてアンフィーサ夫人にとって恐るべき競争者になっている女が、すっかり一手に買い占めてしまったのです。なにしろこのふたりの女は、おたがいに斬合いもしかねまじい間柄だったのですからね。アンフィーサ夫人のほうはヒステリーをおこすやら、気絶するやら大騒ぎ。プラトン氏は面目玉をつぶしてしまいました。申すまでもなく、このきわどい瞬間に、ペーチャがどこからでも、花束を手に入れて来ることができたら、彼の心願も大いに歩を進めたかもしれません。こんな場合、女の感謝の情というものはほとんど無際限ですからね。ペーチャはきちがいのようにほうぼうかけずりまわったが、もともとできない相談なんだからなんともしようがありません。誕生日の前の晩、あすは舞踏会があるという夜の十一時ごろ、オルディンツェフ氏の隣人のマリヤ・ペトローヴナーズブコーヴァのところでぱったりペーチャに出くわしました。見ると、にこにこものなんです。『きみ、どうしたんだね?』『見つけたよ! エヴリカ(ギリシャ語、私は見つけた)』!』『まあ、きみ、いきなりびっくりするじゃないか! どこで?どうして?』『エクシャイスクに(そういう町があるんです、二十露里ばかり離れていて、郡は別になっています)、トレパーロフという商人がいるんだ。髯むくじゃらな金持ちのお爺さんで、お婆さんとふたり暮らし、子供のかわりにカナリヤがうんといる。ふたりとも花きちがいで、椿を持ってるんだ』『とんでもない、そんなことは不確かな話だ。それに、もしくれなかったらどうする?』『両ひざついて、くれるまで地べたをはいまわるさ、それまではけっして帰らん』『いつ出かけるかね?』『あす、夜の引き明け、五時にたつ』『じゃ、成功を!』そこでわたしはペーチャのために喜びながら、オルディンツェフの家へ帰りました。しかし、どうもそのことがしきりに胸に浮かんで、とうとう一時ごろまで起きていました。もう寝ようと思って床に入りかけると、すばらしい奇抜な考えが浮かんだのです! そうっと台所へ忍びこんで、馭者のサヴェーリイをたたきおこし、『三十分のうちに馬車の支度をしてくれ!』といって、十五ルーブリくれてやりました。三十分後、馬車はむろん門のそばに立ってました。なんでもその晩、アンフィーサ夫人は頭痛がするやら、熱が出るやら、うわごとをいうやら、たいへんだったそうです、――わたしは馬車に乗りこんで出かけました。四時過ぎには早くもエクシャイスクの宿屋に着いて、夜明けを待っていました。しかし、待っていたのは本当の夜明けまでで、六時過ぎにはもう、トレパーロフの家にいました。『かようかようのわけですが、椿はございませんか。どうぞあなた、命の親とも思います、助けてください、救ってください。おみ足に頭をすりつけでもいたします!』てなことをいいながら見ると、老人は背の高い、ごま塩頭の、むずかしい顔をした、――つまり恐ろしいお爺さんでした。『ど、ど、どうして! お聞きするわけにはまいらん!』わたしはいきなり、がばとその足もとに身を投げだしました。まったくこんなふうに長くなったのです。『どうです、あなた、どうです、お爺さん?』という調子にやったのです。先方じゃ度胆を抜かれたらしい。『だって、人間ひとりの命にかかわることじゃありませんか』とどなってやったら、『じゃ、あげましょう、そんなわけならなんともいたしかたがない』と出ました。そこで、わたしはすぐさま赤い椿をうんとこさきり取りました。その家の小さい温室いっぱいに咲き満ちて、じつに美妙絶妙とでもいいたいくらいでした。お爺さんはほっと溜息をついている。わたしが百ルーブリをさし出すと、『いいや、あんた、そんな真似をして、このうえ年寄りに恥をかかせるものじゃない』そこでわたしは、『そういうことなら、この百ルーブリを、土地の病院へ食料施設改善費として寄付してください』『ははあ、それなら話がまったく別で、美しいりっぱなことだ。神さまのみ旨にもかなっている。あなたの息災を祈って寄付しましょうわい』ということでけりがつきました。わたしはこのロシヤ式老人が気に入ってしまいました。なんといいますか、純粋のロシヤ気質de la vraie souche(本当に朴直な人)ですね。わたしは成功のため有頂天になって、すぐさまもと来た道へ引っ返しました。それも途中ペーチャと行き会わないように、わざわざまわり道をして帰ったのです。家へ着くやいなや、アンフィーサ夫人のお目ざに花束を贈りました。夫人の歓喜、感謝、感激の涙は、よろしくご賢察に任せます。プラトン氏は、-昨夜いじめられ抜いて死人のようになっていたプラトン氏は、わたしの胸に顔を埋めて、感泣するじゃありませんか。哀れむべし、世の夫なるものは、開闢以来、……正式の結婚以来、みんなこうしたものです! これ以上、あえて何もつけくわえますまい。かわいそうに、ペーチャの恋は、このエピソードとともに画餅に帰してしまいました。わたしははじめのうち、ペーチャがこの件を聞きつけるやいなやわたしを殺すに相違ないと思って、ちゃんとその用意までしていました。ところが、とてもほんとうにしかねるようなことが持ちあがりました。彼は卒倒したのです。夕方には譫語《うわごと》、朝になると熱、そしてからだじゅうぴくぴく引っつらせながら、子供のようにしゃくりあげて泣くのです。ひと月ばかりたって健康を回復すると同時に、無理に願ってコーカサスへやってもらいました。とんでもない小説ができあかってしまったのです。そして、とどのつまりは、クリミヤで戦死しました。そのころはまだ兄のスチェパン・ヴォルホフスコイが連隊の指揮をして、殊勲を立てたものです。白状しますが、わたしはそれから長いこと良心の呵責を受けました。なぜ、なんの目的があって、わたしは彼をそんなひどい目にあわせたんでしょう。そのときわたしがアンフィーサ夫人に恋していたとでもいうなら、まだしもですが、ただほんのふざけ半分に、くだらんいたずらをしただけ、ただそれだけなのです。もしわたしがこの男の花束を横取りしなかったら、彼も今まで幸福に暮らして、はなばなしい成功をして、トルコ人の刃にたおれようなどとは、夢にも思わなかったでしょうに」
 トーツキイは、話に取りかかったときと同じ物々しい、気取った様子で口をつぐんだ。人々はナスータシヤの目が怪しく輝いて、くちびるまでがぴりぴりとふるえるのに気がついた。一同は好奇心をあおられながらふたりをながめた。
「フェルディシチェンコをおだましなすった! ああいうだましようをなさる! いいえ、あれはもうだましたというよりほかはありません!」もう口を入れてもいい、いや、入れねばならぬと悟って、フェルディシチェンコは泣くような声でどなった
「あなたは、いったいだれにいいつかってそう悟りが悪いんです。すこし賢い人を見習いなさいよ!」とほとんど勝ち誇ったような調子でダーリヤ(トーツキイの古い友達で、その一味である)がさえぎった。
「トーツキイさん、あなたのおっしゃるとおりでした。プチジョーはまったく退屈なばかりですわ、早く切りあげてしまいましょう」とナスターシヤが無造作にいいだした。「さっきお約束したことを自分で話しますわ。それからみんなでカルタでもして遊びましょう」
「しかし、お約束の逸話はぜひとも一番に!」と将軍は熱心に賛成の意を表した。
「公爵」とふいに鋭く、思いがけずナスターシヤは呼びかけた。「ここにおいでの将軍とトーツキイさんは、わたしの古いお友達ですが、しきりに結婚しろ、結婚しろとおすすめなさるんですの。ねえ、公爵、なんとお考えなさいます。わたし結婚したものでしょうか、どうでしょう。わたし、あなたのおっしゃるとおりにいたしますわ」
 トーツキイはまっさおになり、将軍は棒立ちになった。一同は目をすえ、首を前へ突き出した。ガーニャは固くなってすわっていた。
「だ……だれと?」今にも消えそうな声で、公爵はたずねた。
「ガヴリーラ・アルダリオーノヴィチ・イヴォルギン」いぜんとして鋭く強くはっきりと、ナスターシヤは答えた。
 沈黙の幾秒かが過ぎた。あたかも恐ろしい重荷がその胸を圧しているかのごとく、公爵はなにかいいだそうと努めたけれど、だめだった。「い、いけません……結婚しちゃいけません!」かろうじてこれだけささやくと、彼は苦しげに息をついた。
「じゃ、そうしましょう! ガヴリーラさん!」と彼女はおごそかに、勝ち誇ったもののように呼びかけた。「あなた、公爵のおっしゃったのをお聞きなすって、え? ではあれがわたしのご返事です。これでこの話もきっぱりとおしまいにしたいものですわね!」
「ナスターシヤ・フィリッポヴナ!」ふるえ声でトーツキイがいいだした。「ナスターシヤ・フィリッポヴナ!」さとすような、しかし不安げな声で将軍が呼びかけた。
 一同は心配してざわざわ動きはじめた。
「まあ、皆さん、いったいどうなすったのです?」と、びっくりしたように客の顔に見入りながら、彼女は言葉をついだ。「何をそんなにびっくりなさいますの? それにみなさん、なんて顔つきをしてらっしゃるんでしょう」
「しかし………覚えておいでですか……ナスターシヤ・フィリッポヴナ」と、どもりどもりトーツキイがつぶやいた。「あなたは非常に好意のある……約束をしてくだすったじゃありませんか。それに、いくぶんは気の毒くらいに思ってくだすってもいいはずです……わたしは困っています……そしてもちろん、当惑しています。しかし……まあ、つまり今、こんな場合に、そのうえ……お客さまの前でこの事件を……この潔白と誠意とを要すべきまじめな事件を、こんなプチジョーで決めてしまうなんて……この事件の結果いかんでもって……」
「わかりませんね、トーツキイさん。あなたはほんとうにすっかりうろたえておしまいなさいましたのね。だいいち、『お客さまの前で』とはなんです? わたしたちは隔てのない親密なお友達同士じゃありませんか。そして、なぜプチジョーなどとおっしゃるの? わたしほんとうに自分の逸話を話したいと思ったから、こうしてお話ししたんですよ。ほんとに、おもしろくなくって? それから、なぜ『まじめでない』んでしょう? あれがまじめでないんでしょうか? あなた、わたしが公爵にいったことをお聞きになって?『わたしはあなたのおっしゃるとおりにいたします』と申したんですよ。あの人が『イエス』といったら、わたしもすぐに承諾したでしょう。けれども、あの人は『ノー』とおっしゃったから、わたしもおことわり申しあげたんですわ。これでもまじめでないとおっしゃるんですの? わたしの生涯は一筋の髪の毛にかかっていたんじゃありませんか。これより真剣な話がありますか?」
「しかし、公爵公爵って、なぜこの場合公爵がそんなにありがたいんですか? いったい公爵ってなんです?」しゃくにさわる公爵の権威に対する不平をこらえかねて、将軍はとうとうこうつぶやいた。「公爵は心からわたしに服した人として、わたしが生まれてはじめて信用したたったひとりのかたです。あのかたはひと目見ただけで、わたしを信じてくださいました。それで、わかしもあのかたを信じるんですの」
「わたしはただ、ナスターシヤさんの……なみなみならぬ優しい心づかいを、あつくお礼申しさえすればいいのです」くちびるを歪めて青い顔をしたガーニャが、とうとうこういいだした。「それはもちろん、そうあるべきはずだったのです。が、公爵は……公爵はこの事件について……」
「七万五千ルーブリをねらっているとでもおっしゃるんですか」とふいにナスターシヤがさえぎった。「あなたはそういおうとしてらしたんでしょう? ごまかさなくたっていいじゃありませんか、あなたはきっとそういおうとしてらしたんですわ! トーツキイさん、わたし申し忘れていました。あの七万五千ルーブリはあなたお持ちください、わたしはただであなたを自由なからだにしてあげますから、そう思ってくださいな。もうたくさん! あなただって、息をつかなくちゃなりませんからねえ! 九年と三か月ですもの! あすからすっかり新規まき直しですが、きょうはまだわたし誕生日の主人公ですから、思う存分のことをしますよ。一生にたった一度ですわ! 将軍、あなたもきょうの真珠を持って帰って、奥さんにあげてちょうだい、これがそうです。あす、わたしもこの家を出て行きますから、もう夜会というものはありませんよ、皆さん!」
 こういい終わったナスターシヤは、早くも出て行きそうに立ちあがった。
「ナスターシヤさん! ナスターシヤ・フィリッポヴナ!」という声が四方からおこった。
 一同は胸を躍らせながら窩を立って、彼女を取り囲んだ。一同は不安の念をいだきながら、このとぎれとぎれの、熱に浮かされたような、興奮した言葉を聞いた、一同はなにかしら混乱したあるものを感じたけれど、だれもその意味をつかむことができなかった、だれも、何が何やらわけがわからなかった。この瞬間、ふいにけたたましく、激しくベルを打つ音が響きわたった。それはきょうガーネチカのまで聞いたのと、寸分たがわぬ響きであった。
「あ! あ! これで大団円だ! とうとう来た! ちょうど十一時半だ!」とナスターシヤが叫んだ。「皆さん、どうぞおすわりください、これで大団円ですから!」
 そういって、彼女は自分から席に着いた。怪しい微笑がそのくちびるの上におののいていた。彼女は病的な期待のうちに、言葉もなくすわったまま戸口のほうをながめていた。
「ラゴージンだ、十万ルーブリだ、違いない」とプチーツィンはひとりごとのようにつぶやいた。

      15

 小間使のカーチャが入って来た。ひどくおびえている。
「ナスターシヤさま、あそこになんだかぞんじませんが、十人ばかりの男がどやどやと入りまして、こちらへ来ようとしているのでございます。みんなそろって酔っぱらっております。ラゴージンとかで、あなたがよくごぞんじだと申すのでございます」
「そうなんだよ、カーチャ、すぐみんな通しておくれ」
「まあ!………みんなでございますって、ナスターシヤさま?だって、ほんとにだらしのない人たちでございますよ。なんともいえない!」
「みんなだよ、みんな通しておくれ、カーチャ、こわがることはありません。みんなひとり残さず。それに、おまえが案内しなくたって、勝手に入って来るよ。あ、けさと同じように騒々しい物音がする。皆さん、わたしがあんな人たちを、皆さんのいらっしゃるところへ通したりなんかするので、お気にさわるかもしれませんねえ」と彼女は客人たちのほうへ振り向いた。「わたしもそれはまことに残念で、いく重にもおわびいたしますが、どうもそうしなければならないんですの。それから皆さんにぜひぜひお願いしなければなりませんのは、皆さんご一同わたしのために大団円の証人になっていただきたいのですが、それはあなたがたのご都合次第でございます……」
 客人たちはいつまでも驚いたり、ひそひそ話をしたり、目まぜをしたりしていた。が、これらのことはすべて前から用意し、組み立てられてあるので、ナスターシヤを説き伏せることは(もちろん、彼女は気が狂ってはいるのだが)、しょせん不可能だということが、いよいよ明瞭になってきた。一同はいても立ってもいられぬ好奇心に悩まされた。それに、格別おどろきそうな人はいなかった。婦人客はたったふたりしかいなかった。ひとりはダーリヤ、これは酸いも廿いも噛み分けた、たやすくものに動じない元気のいい女であり、いまひとりは顔なじみのない黙りがちの女、このなじみのない婦人は、ほとんど何もわかりそうなはずがなかった。これは近ごろやって来たドイツ女でロシヤ語をちっとも知らなかったし、そのうえ見受けたところ器量のいいのと同じ程度に知恵が足りないらしかった。この女はまだ来たばかりで珍しいので、ショウにでも出すようなけばけばしい着物をきて、旻を美しくなでつけたところを、ほうぼうの夜会へ招待し、ただほんの席を飾るだけのために、見事な絵かなんぞのようにすえつけておくのが慣わしになっていた。ちょうどある種の人が自分の夜会に使うために、ただひと晩だけ知人から絵や、花瓶や、彫像や、衝立などを借りるのと同じ具合であった。
 男連中にいたっては、たとえばプチーツィンのごとき、ラゴージンとはもともと知り合いの間柄であるし、フェルディシチェンコはまるで魚が水に放されたようなものである。ガーネチカはまだ容易に人ごこちはつかなかったが、それでもやはり、自分にとって曝《さら》し台のようなこの場所に最後まで立ち通さなければならぬというおさえがたい要求を、ぼんやりながらも心に感じていた。老先生はまた何ごとがおこったやらよくわからぬので、ただもう泣き出さないというばかり、日ごろ親身の孫のように敬愛するナスターシヤをはじめ、あたり全体にみなぎっている容易ならぬ不安の色を見て、恐ろしさのあまり文字どおりふるえていた。しかし、この場合彼女を見捨てることは、彼にとって死ぬよりもつらかったのである。またトーツキイはどうかというに、もちろん、彼としてはこんな事件にかかずらって自分の体面をけがすわけに行かなかったけれど、このきちがいじみた調子を帯びて来た事件の成り行きが、立ち去るにはあまりに興味深かった。それにナスターシヤも、彼に当てつけてふたことみこと皮肉をいったので、すっかり事件の見きわめをつけずにはどうにも帰れなかった。で、まったくひとことも口をきかず、単なる傍観者としてしまいまですわっていようと決心した。それはむろん、彼の威厳の要求するところだったのである。しかしただひとり、たったいま自分の贈り物を無作法に、喜劇じみたやりかたでつき返されて、はなはだしく侮辱を感じたエパンチン将軍は、またさらにラゴージンとの対面といったふうな、突飛をきわめたできごとによって、いっそうの屈辱を感じないではいられないはずである。それに、彼のような人間にとっては、プチーツィンや、フェルディシチェンコなどと同席するということが、すでにすでになみなみならぬ忍辱であった。いかなる欲情の力といえども、ついには義務の感情、官位職分の観念、および自尊の心によって克服されるものである。したがって、閣下の面前ヘラゴージンの徒党が現われるということは、いずれにしてもあるまじき話であった。
「あら、将軍」彼がそのことをいいだそうとして向き直ったとき、ナスターシヤはすぐにそれをさえぎった。「わたしも気がつきませんでした! けれど、まったくのところ、あなたのことはわたし、前から心配していましたの。もしそんなにお腹立ちでしたら、わたしもたっておとめはいたしません。それはもうこの場合あなたに、特にあなたにいていただきたいのは山々でございますけれど。とにかく、これまで、あなたがご交際してくだすったうえ、いろいろご親切に気をおつけくださいましたのは、まことにありがとうぞんじます。けれど、もしひどくご心配でしたら……」
「どういたしまして、ナスターシヤ・フィリポヴナ」と将軍は騎士的な寛仁大度のこみあげるままに叫んだ。「あなたはだれにそんなことをおっしゃるんです。よろしい、わたしはただただあなたにたいする心服の念を示すために、この場に残っていましょう。そしてまた、なにか危険なことがおこったら……それに、じつのところ、わたしは非常な好奇心を感じていますから。ただわたしが心配したのは、あいつらが絨毯《じゅうたん》をよごしたり、なにか物をこわしたりしやせんかと思いましてな……しかし、あんな連中なぞぜんぜん入れないほうがいいと、わたしは考えますがなあ、ナスターシヤ・フィリッポヴナ!」
「やあ、ラゴージンだ!」とフェルディシチェンコが呼ばわった。
「あなたなんとお思いです、トーツキイさん」と将軍はすきをみて急いでささやいた。「あの女は気がちがったのじゃないでしょうか。つまり、その、譬喩《ひゆ》でなしに、本当の医学的の意味で、え?」
「だから、わたしもそういったじゃありませんか、あの女はいつもその傾向があったんですよ」トーツキイはこすい調子でこうささやき返した。
「それに、熱に浮かされてる……」
 ラゴージンの徒党はほとんどけさと同じ顔ぶれであった。ただ新たに加わったのはなんだかだらしのない老人で、かつてある猥雑なゆすり新聞の編集者をつとめたことがあり、金の入歯を質に入れて飲んだという奇談を持っている男と、それにひとりの退職少尉とである。この男は職分からいっても仕事からいっても、けさほどの拳固先生の恐ろしい競争者であった。党の中でだれもこの男を知ったものはなかったのだが、ネーフスキイの大通りで、日向ぼっこをしながら通行人の袖をひき、マルリンスキイ(詩人、本名ベストゥージェフ)の一句を引いて、喜捨をこうているところを拾い上げられたものである。その袖ごいの言いぐさは、『わたしだって得意の時代には、無心者に十五ルーブリずつくれてやったもんですよ』という、人を食ったものであった。ふたりの競争者はさっそくたがいに敵視しはじめた。例の拳固先生は『無心者』が党に入って以来、侮辱されたようにすら感じたが、生来無口のほうなので、彼はただときおり熊のようにうなるばかりであった。そして、深い軽蔑の目をもって『無心者』がおべっかを使った。り、ふざけまわったりするのをながめていた。ところが、少尉は案外世なれた政略家で、腕力よりも主として円転滑脱な手口で、『ことに当たろう』としているらしかったし、それに背丈も拳固先生よりだいぶひくかった。あまり露骨な喧嘩をさけて婉曲に、もういくどとなくイギリス式拳闘の特徴を、おそろしく得意そうにほのめかした。要するに、この男は純粋の西欧派であることがわかった。この拳闘という貢栞を聞くたびに、拳固先生はただばかにしたような腹立たしげな微笑を浮かべ、自分のほうからは開き直って口論する価値がないといわんばかりに、ときどき無言のまま不意にぜんぜん国民的な一物、――筋の浮いた、節だらけな、なんだか赤毛のいっぱいはえた大きな拳固を見せた、というよりは、これ見よがしに突き出したので、このおそろしく国民的な一物が、あやまたず対象に一下したならば、いいかげんまいってしまうだろうということが、一同のものにはっきりわかった。
 最上級の意味で『覚悟』をきめたものは、今度も彼らの中にひとりもいなかった。というのは、きょういちんちナスターシヤ訪問を心にかけていた御大ラゴージンの努力のおかげである。彼自身も、今はほとんど正気に返っていたが、そのかわり、このけがらわしい、彼の一生を通じて何ものにも譬えようのない一日のあいだに受けたさまざまな印象のために、ほとんど腑抜け同然になっていた。しかし、たった一つのことだけが一分ごと、一瞬間ごとに彼の胸、記憶、心の中で勁いていた。この一事[#「一事」に傍点]のために、彼は五時から十一時までを無限の痛苦憂悶のうちに、キンデルだのビスタープなどという連中を相手に過ごした。またこれらの連中もやはりきちがいのようになって、ラゴージンの要求をみたすために、まるで火がついたように飛びまわったのである。こうして、ナスターシヤが話のついでにぼんやりと、あざけるようにほのめかした十万ルーブリの現金がようやく調達されたが、その利息は、ビスクープ自身さえ恥ずかしさに大きな声ではいいかねて、キンデルとこそこそ話し合ったほどの歩合であった。
 前と同じようにラゴージンがまっさきに進んだ。その他の連中はいくらかびくびくものながらも、自分たちのえらさを十分に自覚してそのあとにつづいた。しかし、ここに注意すべきは、どうしたわけかナスターシヤを恐れたことである。中には、仲間の者が今にもみんな『階段から突き落とされ』はしたいかと、心配したものさえある。そういった連中には、例のしゃれもので女殺しのザリョージェフがいた。が、またあるものは、ことに拳固先生などは、口にこそ出さぬが、心の中では深い軽侮と憎悪の念さえいだいてナスターシヤをながめ、さながら包囲攻撃でもするように彼女のほうへ進んだ。とはいえ、殼初のふた部屋の華麗な装飾や、聞いたことも見たこともない品々や、珍奇な家具調度や、絵や、大きなヴィーナスの彫像や、――これらのすべてのものは、彼らにいかんともしがたい尊敬と、ほとんど恐怖ともいうべき印象を与えたのである。が、それにもかかわらず、しだいしだいに図々しい好奇心が恐怖を圧倒して、彼らはラゴージンのあとから押し合いへし合い客間に入った。しかし拳固先生、。『無心者』、その他の数名が、客間にエパンチン将軍の姿を見つけたとき、最初の一瞬間すっかり度胆を抜かれてしまって、じりじりとすこしずつあとずさりしながら、次の間へ退却したほどである。ただレーベジェフばかりは、だれよりか胆力も碩信もあったので、ほとんどラゴージンと肩をならべながら進み出た。現金百四十万と現在手にある十万の金が、じじついかなる意味を有するかを心得ていたのである。しかし、これだけのことはいっておかねばならぬが、このもの知り先生のレーベジェフさえひっくるめて、一同は自分たちの優越権がどのへんで制限され、境界線をおかるべきかについて、いささか迷わざるを得なかった。じっさい自分たちにはいっさいが許されているかどうか? レーベジェフもある瞬問には、許されていると誓いかけたが、またある瞬間には、万一の用心に、主として自分を励まし安心させるような条項を「法規大全」の中から思い出すべき痛切なる要求を感じた。
 本人のラゴージンはナスターシヤの客問から、その徒党のものとは正反対の印象を与えられた。彼がとばりを上げてナスターシヤを認めると同時に、――そのほかのものは彼にとって存在しなくなった。それはけさも同じことであるが、けさよりもいっそう激しかった。彼は青くなって、ちょっと立ちどまった。彼の心臓が激しく鼓動しだしたのは、たやすく察することができた。おずおずと気抜けしたように、彼は幾秒かのあいだ目をそらさずにナスターシヤをながめた。とふいにぜんぜん理性の判断を失ったかのごとく、よろよろした足どりでテーブルに近寄った。途中プチーツィンのいすに突き当たり、黙りこんだドイツ美人の見事な水色の服につけたレースを、大きな泥靴で踏んづけたりしたが、あやまりもせねば気もつかなかった。テーブルに近寄ると、客間に入るときから両手に捧げていた奇妙な一物をその上に置いた。それは高さ五インチ長さ七インチばかりの大きな紙包みで、かたくぴったりと『取引報知』にくるみ、砂糖の塊りをしばるのに使うような紐で、ひしひしと二重に四方から十文字にしばり上げてある。それから彼はひと言も発せず、宣告の読み上げを待つ罪人よろしく、両手を垂れてたたずんでいた。彼の服装は、ただ、濃い緑に赤のまじった真新しい絹の襟巻と、甲虫を形どった大きなダイヤのピンと、右手のきたない指にはめたすばらしいダイヤの指輪を除くと、何から何までけさと同じであった。レーベジェフはテーブルから三歩手前までしか進みえなかった。ほかの連中は前に述べたごとく、しだいしだいに客間へ入って来た。小間使のカーチャとパーシャとは同じくこの場へかけつけて、深い驚きと恐れをもって、もたげられた牲のかげからのぞいていた。
「これはいったいなんなの?」もの珍しげにじっとラゴージンを見つめて、『一物』をさしながら、ナスターシヤがたずねた。「十万ルーブリ!」と、こちらはほとんどささやくように答えた。「まあ、やっぱり約束をたがえなかったわね、感心だこと! おかけなさいよ、どうぞ、ほらそこへ、このいすへ。わたしあとであなたになんとかいいますよ。だれ、ごいっしょのかたは? みんなさっきと同じ連中? じゃ、入ってすわったらいいわ。そら、あそこんとこの長いすにかけてよござんすよ。それから、まだ一つここにあります。それから、あすこにひじいすが二つ……あの人たちどうしたの、いやなのがしまったく中にはひどく泡を食って次の問へひっこみ、そこに尻を落ちつけて待っているものもあった。しかし、また中には居残って、いわれるままに腰をおろしたものもあるが、なるべくテーブルから遠のくようにして、多くは隅っこのほうに陣取った。その連中のうちにもふたとおりあって、あるものはやはりまだ、多少かくれるようにしているし、あるものは遠くなるにしたがって、なんだか不自然なほど早く元気づいた。ラゴージンは同じく示されたいすにすわったが、それも長くはなかった。間もなく立ちあがって、もうそれきり腰をおろさなかった。だんだんと彼は、客の見わけがつくようになった。ガーニャを見つけると、毒々しく微笑して『ちぇっ!』とひとりごとのようにつぶやいた。将軍やトーツキイなどを見ても、彼はかくべつ狼狽もせず、また特に珍しそうな様子もなくながめた。けれど、ナスターシヤのそばに公爵の姿を認めた時、彼はひとかたならず驚愕して、長いあいだ目を放すことができず、このめぐりあいをなんと解釈していいかわからぬふうであった。ときどき、まったく前後がわからなくなるのではないか、とも疑われた。心神を震撼させるようなこの一日のできごとを別としても、彼はゆうべ夜どおし汽車に揺られたし、それにもうほとんど二昼夜というもの、まんじりともしていなかった。
「皆さん、これが十万ルーブリです」とナスターシヤはなんだか熱に浮かされたような、戦いをいどむような、もどかしげな様子をして、一同に向かいこういった。「ほら、このきたならしい包みの中に入ってます。きょうこの人がきちがいのようになって、晩までにわたしのところへ十万ルーブリ持って来るといったので、わたしはこの人を心待ちにしていたのです。つまり、わたしをせり落としたんです。一万八千ルーブリからはじまって、急に四万ルーブリにせり上げ、そうしてとうとうこの十万ルーブリということになりました。でも、やはり約束をたがえずに持って来ましたよ。まあ、この人はなんて青い顔をしてるんでしょう!………じつはね、これはけさガーニャさんのところでおこったことなんですの。わたしがあの人のおかあさんのところへ、つまり、わたしの未来の家庭へ訪問に行きますと、妹さんが、わたしの目の前で、『だれもこの恥知らずをここから追い出す人はないんですか!』とわめくじゃありませんか。そして、おまけにガーニャさんの、自分の兄さんの顔へ唾をひっかけるんですよ。なかなかしっかりした娘さんですことねえ!」
 「ナスターシヤ・フィリッポヴナ」と将軍はなじるようにいった。彼はいくらか事の真相を理解しはじめた、ただし、自分一流の考えかたで。
「なんですの将軍? 無作法だとでもおっしゃるんですの?いえ、もう気取るのはたくさんですわ! わたしがフランス芝居の特等|桟敷《さじき》に、まるでそばへも寄りつけないほど徳操の高い貴婦人顔をしてすわっていたり、五年のあいだわたしを追いまわす人たちから野育ちの娘のように逃げまわって、わたしは清浄無垢な女ですといったふうな、傲慢な顔をしてその人たちを見おろしていたのは、みんな魔がさしたからです。ところが、清浄無垢の五年が過ぎたきょう、この人がやって来て、あなたの目の前で十万ルーブリの金をテーブルの上に載せました。きっと外には三頭立橇《トロイカ》が立って、わたしを待ってるんでしょう。ああ、わたしを十万ルーブリに値ぶみしてくれたんですね! ガーネチカ、どうやらあなたは今でもわたしに腹を立ててる様子ね? いったいあなたはわたしを自分の家へ入れる気だったんですの? わたしを? ラゴージンの思いものを? 公爵がさっきなんといいました?」
「ぼくはあなたのことをラゴージンの思いものだとはいいませんでした、あなたはラゴージンのものじゃありません!」と公爵はふるえ声でいいだした。
「ナスターシヤさん、たくさんですよ、あなた、たくさんですってば」ふいにダーリヤはこらえかねて、こういった。「そんなにあの人たちといっしょにいるのがいやなら、ただあの人たちを見さえしなければいいじゃありませんか! そしてあなた、いくら十万ルーブリほしいたって、ほんとうにあの男について行くつもりなの? そりゃもうねえ、――十万ルーブリといえば! じゃね、あなた十万ルーブリを取り上げてから、あいつを追っぱらってやんなさいよ。えーえ、あんなやつらにはそれくらいのところでたくさんだわ。わたしがあんただったら、あいつらを……ああ、ほんとうにどうしたっていうんだろう!」
 ダーリヤは、ついに憤怒をさえ感じた。彼女は人のよい、そして非常に感じやすい女であった。
「ダーリヤさん、そんなに怒ることないわ」とナスターシヤはにっこりしながら受けた。「わたしだってあの男に怒らないで口をきいたじゃなくって? それとも、責めつけるようにでもいったかしら。なんだってりっぱな家庭に入ろうなんて、ばかな考えがわいてでたのやら、わたし自分ながらまるっきりわからないの。わたしあの人のおかあさんを見て、手に接吻しましたわ。さっきわたしがあんたのとこで皆さんをからかったのはね、ガーネチカ、あれはね、あんたにどれくらいの辛抱ができるか、ひとつお名ごりにためしてみたかったんですの。ところが、わたしあんたという人に驚きましたよ、まったく。ずいぶんひどいことも覚悟していたけれど、あれまでとは思いがけなかったわ! ほら、あのあすこにいる人が、あんたの結婚の前日といってもいいような日に、こんな真珠をわたしに贈って、しかもそれをわたしが受け取ったということを知りながら、あなたはわたしを引き取るつもりでいたんですの? それからまたラゴージンはラゴージンで、あんたの家の中で、あんたのおかあさんや妹のいる前で、わたしを商品あつかいにしたじゃありませんか。それでもあんたはやはりわたしと縁組みするつもりで、のこのこやってくるんですからね、しかも妹までつれて来ようという意気ぐみで! ラゴージンがあんたのことを、三ルーブリのためには、ヴァシーリエフスキイ島まで四つんばいにはって行くっていったのは、ありやほんとうなんでしょうか?」
「はって行くとも」とふいにラゴージンが低い声でいったが、その顔つきには深い確信が現われていた。
「それもあんたが飢え死にしかけているとでもいうのならまだしも、うわさによると、あんたはだいぶいい月給をとってるそうじゃありませんか! それにかてて加えて、その厚かましさが足りないで、自分の憎んでいる女を家へ入れようというんですの!(だって、あんたはわたしを憎んでいます。わたしよく知っていますわ!)そうですとも、わたし今こそ信じます。こんな男は金のためなら人殺しでもします。ごらんなさい、今どきの人はみんな欲に渇《かわ》いて、金に心を奪われ、まるでばかみたいになってしまってるじゃありませんか。あんな小僧っ子同然の人までが、もう高利貸の真似をしてるんですからね。それでなければ剃刀を絹でくるんで、しっかりしばったうえで、そうっとうしろから自分の友達を羊かなんぞのように斬り殺すんです。わたしこんな話をこのあいだ、読みました。ええ、あんたは恥知らずです! わたしも恥知らずだけど、あんたはもっとたちが悪いんです! あの花束屋さんのことは、わたしはもう今さらなんにもいわな
いけれど……」
「それはあなたの口にすることですか、それはあなたのおっしゃることですか、ナスターシヤ・フィリッポヴナ!」将軍は衷心から悲しみにうたれて、両手を打ち鳴らした。「あなたのように優美な、あなたのようにデリケートな思想を持っていられるかたが、今のような!………なんという口でしょう! なんという言葉づかいでしょう!」
「わたしいま酔ってるんですの、将軍」とにわかにナスターシヤは笑いだした。「わたし少々浮かれたいんですの! きょうはわたしのかき入れ日ですの、わたしの休日ですの、わたしは長いあいだこれを待ちかねていましたわ。ダーリヤさん、ちょっとこの花束屋をごらんなさい、このMonsieuraux camelias(椿紳士)をごらんなさい。ほら、あすこにすわって、わたしたちを笑っています……」
「わたしは笑っちゃいませんよ、ナスターシヤ・フィリッポヴナ、わだしはただ非常に注意して聞いているだけです」とトーツキイはものものしく答えた。
「さてと、いったいなぜわたしはまる五年というものあの人をいじめて、自分のそばから放さなかったのでしょう、ダーリヤさん? あの人はそうされるだけの値うちがあると思って? たに、あの人は当然もつべき性質を持った人なんですよ……それどころかあの人は、わたしのほうがあの人に悪いことでもしたように思うでしょうよ。だってね、教育も授けてくれたでしょう、暮らし向きも伯爵夫人そこのけにしてくれて、お金もずいぶんかけましたからね。おまけに、まだ田舎にいるときからりっぱな夫をさがしてくれました。ここではガーネチカをね。それで、あなたはどう思うか知らないけれど、わたしはこの五年間あの人と同棲もしないで、お金だけあの人から取ったでしょう、そしてちっとも間違っていないと思ってたんですからね、まったくわたし分別ってものをなくしていたんだわ! あなたは、いやなら十万ルーブリだけ取って、あいつを追っぱらっちまえといいましたね。ええ、それはまったくいやに相違ないわ……わたしたって、とうの昔に結婚くらいできたんだけど(ただしガーネチカとじゃありません)、それはもう、なおのこといやなの。まあ、なんのためにわたしはこの五年の月日を、そんなひねくれた心持ちで過ごしたんでしょう! ところでねえ、ほんとうにするもしないもあんたの勝手だけれど、四年ばかりまえ時おりわたしは、いっそ家のトーツキイさんのとこへお嫁入りしようかしら、てなことを考えました。それはただ、つらあて半分に考えただけなの。まあ、なんだかかだか、いろんなことをその時分考えたわ。だって、無理やりにもそうさせることができたんですからね。もっともね、ダーリヤさん、あなたはほんとうにしないかもしれませんが、あの人も自分のほうからそのことをずいぶん頼んだものなの。もっとも、それはうそでした、なにぶん意地のきたない人ですから、辛抱ができなかったんですよ。その後ありがたいことには、『あの人にはそれほどの面当てをする値うちがあるかしら?と考えつきました。するとふいに、あの人が虫唾《むしず》の走るほどいやで、よしんばあの人が本気に頼んでも結婚しまいと思ったの。そして、まる五年というもの、わたしはああして虚勢を張って来たんです! もういやだ、いっそ往来でのたれ死にしたほうがましだ、わたしはそのほうがほんとうなんだ! ラゴージンといっしょに騒ぎまわるか、でなければあすにも洗濯屋に雇われるか! なぜって、わたしのものといっては一つもないじゃないの。行くとなれば、なにもかもあの人にたたき返してやります、ぼろきれ一枚だって持って行きゃしないわ。そうして一文なしになったわたしを、いったいだれがもらい手がありましょう。まあ、このガーニャにきいてごらんなさい、引き取ってくれるかくれないか? ええ、わたしなんかフェルディシチェンコだって引き取ってくれやしません!………」
「フェルディシチェンコは、もしかしたら引き取らないかもしれません、ナスターシヤさん」とフェルディシチェンコがさえぎった。「ぼくはむき出しの人間ですからね。そのかわり公爵が引き取ってくれます! あなたはそうしてじっとすわったまま、泣いてばかりいらっしゃるが、まあ、ちょっと公爵をごらんなさい! ぼくはさっきから観察してるんです」
 ナスターシヤは好奇の目を向けて公爵をながめた。
「ほんとう?」と彼女はたずねた。
「ほんとうです」と公爵はつぶやいた。
「このまま、一文なしで引き取って?」
「引き取ります、ナスターシヤさん……」
「そら、またとんでもないことが持ちあがった!」と将軍はつぶやいた。「まんざら思いがけないでもなかったが!」
 公爵はなおも自分をながめつづけているナスターシヤを、悲しげな、刺し通すような、きびしい目つきで見つめた。
「またもうひとり出て来た!」ダーリヤのほうへ向きながら、ふいに彼女はこういいだした。「あれはまったく正直な心の底からいってるのよ。わたしにはよくあの人がわかってるわ。まあ、とんだ慈善家をめっけたもんだ! けれど、あの人のことを……なんだっていうのは……ほんとうかもしれないわねえ。公爵、あんたがラゴージンの思いものを引き取ろうというほどほれこんじまったのはいいとしても、いったいどうして暮らしてゆくおつもり? それに、あんたはわたしをご自分の、公爵の奥さんにする気なの?」
「ぼくは純潔なあなたを引き取るので、ラゴージンの思いものじゃありません、ナスターシヤさん」と公爵はいった。
「まあ、わたしが純潔ですって?」
「ええ」
「なんの、そんなことは、ほら……小説のお話ですよ、それはね、公爵、坊っちゃん、昔の寝ごとよ、今じゃ世間が利口になってきたから、そんなことはいっさいお取り上げになりませんよ! それにまだご自分からして乳母さんがいるくせに、結婚なんかしてどうするの?」
 公爵は立ちあがり、臆病そうなふるえ声ではあるが、深い信念を持った人のような表情で口をきった。
「ぼくはなにも知りません、ナスターシヤさん、ぼくはなんにも見ませんでした、おっしゃるとおりです、しかしぼくは
……ぼくはそう考えます、この結婚によってぼくがあなたに対してでなく、あなたがぼくに光栄を与えてくださるのです。ぼくはなんの価値もない男です。が、あなたは艱難辛苦して、その地獄の中から清い人間として出て来られました、これだけでたくさんです。それなのに、あなたは何を恥ずかしがって、ラゴージンといっしょに行こうなどとお考えなさるんでしょう? それはただ熱のせいです……あなたは、トーツキイに七万ルーブリを突き返して、ここにあるものをすっかり棄てて行くとおっしゃいましたが、ここにそういうことのできる人はだれもいません。ぼくは……ナスターシヤさん……あなたを愛します。あなたのためなら死んでもいいです、ナスターシヤさん。ぼくはだれにもひとことだってあなたの陰口はきかせません、ナスターシヤさん……もしぼくらが貧乏したら、ぼく自分で稼ぎます、ナスターシヤさん……」
 この最後の言葉とともに、フェルディシチェンコとレーベジェフのくすくす笑いが聞こえた。将軍までがだいぶにがにがしそうに、あひるのような声を立てた。プチーツィンとトーツキイも、微笑せずにはいられなかったが、やっとのことで押しこらえた、その他の人々はびっくりして、ただもうあいた口がふさがらなかった。
「……でも、ぼくたちは貧乏しないで、かえって大金持ちになるかもしれませんよ、ナスターシヤさん」と例のふるえ声で公爵はつづけた。「でも、確かなことはぼくにもわかりません、そしてきょういちんち、なにひとつ知ることができないでしまったのは残念です。しかし、ぼくはスイスでサラーズキンとかいうモスクワの人から手紙を受け取りましたが、それでみると、なんだかぼくはたいへん大きな遺産を受け取る様子なんです。これがその手紙です……」
 公爵はじじつポケットから手紙を取り出した。
「あの男、夢でも見てるんじゃないか?」と将軍がつぶやいた。「まるでほんとうの気ちがいだ!」
 ちょっとの間、一種の沈黙が襲った。
「公爵、あなた今サラーズキンから手紙が来たとおっしゃったようですね」とプチーツィンがきいた。「この男は仲間内ではずいぶん有名な男です。いろいろな事件の周旋をして歩く有名な男ですから、――もしじっさいこの男が知らせて来たのなら、ぜんぜん信用していいです。いいあんばいにわたしが手蹟を知っていますから、――というのは、ついこのあいだある事件で手紙の往復をしたのです……わたしにひと目見さしてくだされば、何かあなたにお知らせできるかもしれません」
 公爵は無言のまま、ふるえる手で手紙をさし出した。
「いったいなにごとです、なにごとです?」将軍は失心したもののように人々をながめていたが、ふと気がついてこういった。「ほんとうに遺産ですか?」
 一同は手紙を読んでいるプチーツィンに視線をそそいだ。一座の好奇心はさらに新しく異常な衝動を与えられた。フェルディシチェンコはもうじっとしていられなかった。ラゴージンは恐ろしい不安と疑惑に包まれながら、公爵とプチーツィンの上にかわるがわる視線を転じた。ダーリヤは針のむしろにすわっているような期待の情に苦しめられた。レーベジェフがこらえきれずに片隅から出て来て、プチーツィンの肩ごしに腰をまっ二つに折って手紙をのぞきこんだが、その様子は今にもどやしつけられはしないかと、心配しているもののようであった。

      16

「間違いありません」手紙をたたんで、公爵に渡しながら、とうとうプチーツィンはこういいきった。「あなたは伯母さんの確かな遺言によって、すこしも骨折らずに莫大な遺産を譲り受けることができますよ」
「そんなことがあろうはずはない!」と将軍は鉄砲の火蓋でもきったように叫んだ。
 人々はまたしてもあいた口がふさがらなかった。
 プチーツィンは、主としてエパンチン将軍に向かって説明した、――公爵の今までかつて知らなかった伯母というのが、五か月前になくなったが、それは公爵の母の姉で、破産して貧困の中に死んだパプーシンというモスクワの三等組合の商人の娘である。ところで、同じくつい近ごろなくなったこのパプーシンの実兄が、人に知られた富裕な商人であった。一年ばかり前、たったふたりしかないこの男の息子が、ほとんど同じ月にばたばたと淀ってしまった・老人の落胆は非常なもので、しばらくたってから自分もわずらいついて、世を去った。男やもめであったこの男には、かの公爵の伯母よりほかだれひとり相続人がなかったが、このパプーシンの肉親の姪はいたって貧しい女で、他人の家に居候をしており、遺産を譲り受けたころは、水腫のためにほとんど死にかかっていた。しかし、彼女はさっそくサラーズキンに依頼して、公爵の捜索をはじめ、遺言状も作成しておいた。察するところ、公爵もその世話をしたスイスの医師も、正式の報知を待つなり照会をするなりという方法も採らずに、公爵自身サラーズキンの手紙を携えて、出発することに決めたらしい……
「しかし、これだけはあなたに申しておくことができます」とプチーツィンは公爵に向かって、言葉を結んだ。「この事件はぜんぜん争う余地のないほど正碓なものに相違ありませんから、サラーズキンがこの件を法律上確実なものと保証している以上、あなたはポケットに現金が入った気でいらしてもいいのです。ほんとにおめでとう、公爵! もしかしたら、あなたもやはり百五十万、あるいはそれ以上の金が手に入るかもしれませんよ。パプーシンはなかなかの金持ちでしたからね」
「ようよう、一門中の最後の人ムイシュキン公爵!」とフェルディシチェンコが泣くような声を出した。
「ウラー!」とレーベジェフが酔いどれ声でどなった。
「ところが、わたしはさっきこの人に二十五ルーブリ貸したんですよ、かわいそうに、ははは! まるで回り燈籠だ、ほかにいいようがない!」驚きのあまりぼっとしてしまった将軍はこういった。「いや、おめでたい、おめでたい!」
 こういいながら席を立って、公爵を抱きに行った。それにつづいてだれ彼のものが立ちあがり、公爵のそばへ寄って行った。とばりのかげへ隠れたものまでが、のこのこ客間へ出て来た。がやがやと話し合ったり、叫んだりする声が聞こえ、シャンパンを呼ぶ声さえ響きわたった。すべてのものがぶっつかったり、ざわついたりしはじめた。人々はしばしのあいだナスターシヤのことを、――なんといってもナスターシヤがこの夜会のあるじであることを、ほとんど忘れかけていた。しかし、そのうちに一同はほとんど同時に、たったいま公爵が彼女に申し込みをしたばかりだということを思い出した。してみると、事件は前よりも二倍も三倍も、きちがいじみた突飛な性質を帯びてきたのだ。深い驚愕に打たれたトーツキイは、ただ肩をすくめすくめしていた。こうして、じっと席に着いていたのはこの人ひとりくらいのもので、その他の人々はみな入り乱れてテーブルのまわりをひしめき合った。ナスターシヤの気が狂ったのはこの瞬間からだと、一同はのちになってはっきりいいきった。彼女はいぜんとして腰を掛けたまま、なんとなく奇妙な、びっくりしたような目つきで人々を見まわしながら、何ごとがおこったのやらわからないので、とくと思い合わそうと努めているかのようであった。やがて彼女はふいと公爵のほうへ向いて、眉をものすごくしかめながら、ひたと彼をながめた。しかし、これはただのひとときであった。おそらく彼女にはこれらすべてのことが、冗談か嘲笑のように思われたのであろう。けれども、公爵の顔つきはただちにこの疑いを解いた。彼女はちょっと考えこんだが、またすぐにっこりと笑った。自分でもなぜ笑ったかという意識はないらしい様子で……
「じゃ、いよいよ公爵夫人だ!」とあざ笑うように彼女はひとりごちたが、ふとダーリヤが目に入ると、いきなり笑いだした。『思いがけない大団円だったこと……わたし……こんなふうになろうとは思いも寄らなかった……どうなすったの、皆さん、ぼんやり突ったって。後生ですからすわってください、そして公爵夫人のお祝いをいってちょうだいな!だれやらシャンパンといってらしたようですね。フェルディシチェンコさん、行っていいつけてちょうだい。カーチャ、パーシャ」にわかに彼女は戸口に立っている小間使を見つけた。「こっちへおいで、わたしはお嫁入りするよ、聞いたかえ? 公爵のところへ、あの人には百五十万の財産があるって、あの人はムイシュキンという公爵でね、わたしを引き取ってくださるとさ!」
「そうしたがいいわ、もういいかげん見きりどきよ、運をのがしちゃいけませんよ!」と、このできごとに深く心を掻き乱されたダーリヤが叫んだ。
「さあ、わたしのそばへすわってちょうだい、公爵」とナスターシヤは言葉をついだ。「ええ、そう。おお、お酒が来ました、皆さん祝ってください!」
「ウラー!」と大勢が声を合わして叫んだ。
 多くのものは酒のほうへ集まったが、その中にはラゴージンの連中がほとんど残らず入っていた。こうしてわいわい騒ぎながら、もしくは騒ごうと心組みながらも、多くのものは奇怪な状態にもかかわらず、この場の背景が一変したのを感じた。中には当惑して、疑わしげに控えているものもあったが、しかしたいていのものは、こんなことなどきわめてありふれたもので、公爵などといわれる人がとんでもない女と結婚したり、ジプシイの女を引き取ったりするのは、珍しくないなどとささやき合った。当のラゴージンは、凍ったような腑に落ちかねるような微笑に顔をゆがめながら、じっと突っ立ってながめていた。
「公爵、ねえきみ、しっかりしたまえ!」と将軍は恐怖のあまりわきのほうからそばへ寄って、公爵の袖を引きながらささやいた。
 ナスターシヤは目ざとく見つけて、からからと笑いだした。
「いいえ、将軍! わたしはもう公爵夫人ですよ、わかりましたか、――公爵はわたしに恥なんかかかせやしません! トーツキイさん、あなたこそわたしを祝ってちょうだい。わたしはもうどこへ行っても、あなたの奥さんと並んで腰をかけられるんですよ。いかがです、こういう夫を持つのは得じゃありませんか。百五十万ルーブリ、そのうえに公爵、そのうえに白痴だそうですからね、このうえなしだわ! 今からほんとうの生活が始まるんです! 遅れたわね、ラゴージンさん! その包みをおしまいなさい、わたしは公爵にお嫁入りして、おまえさんよりかもっと金持ちになるんだから!」
 ラゴージンは事のなんたるやを悟った。なんともいいようのない苦悶がその顔に印せられた。彼は両手をはたと打って、胸の底からのうめきをもらした。
「どけ!」と彼は公爵に叫んだ。
 あたりでどっと笑い声がくずれた。
「どくのはおまえさんのことじゃないか?」と勝ち誇ったようにダーリヤが言葉じりを押えた。「なんだろう、おあしをテーブルの上へほうり出して、まるで百姓だ! 公爵はりっぱに奥さまとして引き取りなさるのだけれど、おまえさんは乱暴を働きに来たのだ!」
「おれだって引き取る! いま引き取る、今すぐ! 何もかもやっちまう!………
「あれまあ、居酒屋から来た酔っぱらいだわ、おまえなんか追い出してしまわなくちゃならないんだよ!」とダーリヤは憤然としてくりかえした。
 笑い声はいっそう高くなった。
「あれを聞いて、公爵」とナスターシヤは問いかけた。「ああして土百姓があんたの許嫁をせってますよ」
「あの人は酔ってるんですよ」と公爵がいった。「あの人はたいへんあなたを愛してるんです」
「あんたはあとで恥ずかしくなりゃしない? あんたの許嫁がよっぽどラゴージンと駆落ちしようとしたんですよ」
「それはあなたが熱に浮かされたからです、今でもあなたは熱に浮かされています、まるでうなされてるようなものです」
「けれど、あとになって、おまえの女房はトーツキイの妾だったといわれたとき、あんた恥ずかしいとは思わなくって?」
「いえ、恥ずかしいなんて思いません……あなたは自分の意志でトーツキイさんのとこにいたのじゃないから」
「じゃ、けっして責めませんね!」
「責めません」
「でもよくって、一生涯の請け合いはできないことよ!」
「ナスターシヤさん!」と公爵は静かに、あたかもあわれむがごとく呼びかけた。「さっきもいったとおり、ぼくはあなたの承諾を名誉に思います、名誉を与えるのはぼくじゃなくて、あなたです。あなたはこの言葉に対して冷笑をもらしました、そしてまわりの人も笑ったようです。もしかしたら、ぼくの言いかたがこっけいだったかも、いや、ぼく自身がこっけいなのかもしれません、けれど、ぼくは……名誉が何に存するかを知ってるような気がします、ぼくは自分のいったことが真理だと信じています。あなたは今、とりかえしのつかぬように自分の身を滅ぼそうとしました。なぜって、あなたは後日そんなことをした自分をけっしてゆるす気づかいがないからです。あなたはなんの罪もないのです。あなたの生涯がもうすっかりだめになったなんて、そんなことがあってよいものですか。あなたのとこヘラゴージンが来たことや、あなたをガヴリーラ君がだまそうとしたことがそもそもなんだというのでしょう? なんだってあなたはひっきりなしに、そのことばかり気になさるんです! あなたのなすったことは、だれでも容易にできることじゃありません、これはぼくくりかえしていいます。またあなたがラゴージンといっしょに行こうとなすったのは、あなたの病的な発作が決めさせたことです。あなたは今もやはり発作に襲われています、だから早く寝床へ入ったほうがいいのです。あなたはあすにも洗濯女におなんなさるかもしれない。けれど、ラゴージンと同棲なんかけっしてなさらないです。あなたには誇りがあります、ナスターシヤさん、けれどあなたは不幸のあまり、じっさい、自分が悪いと思っていらっしゃるかもしれません。あなたは、よほど親切に介抱する人がなくちゃなりません、ナスターシヤさん、ぼくがその介抱をします。ぼくはけさあなたの写真を見て、まるで昔なじみの顔に出会ったような気がしました。ぼくはすぐにそのとき、あなたがぼくを呼んでるように感じました……ぼくは……ぼくは、生涯あなたを尊敬します、ナスターシヤさん」自分がどんな人たちの前でしゃべっているかに心づくと、われに返って赤くなり、公爵はふいに口をつぐんだ。
 初心なプチーツィンは思わず首をたれて、下のほうをながめた。トーツキイは心の中で『白痴《ばか》だ、しかしお世辞が何よりききめのあることだけは知ってる、生まれつきかなあ!』と考えた。公爵はまた片隅にぎらぎら光るガーニャの目に気づいた。彼はその目で公爵を焼きつくそうとしているようであった。
「ほんとになんていい人なんでしょう!」とダーリヤは感動して叫んだ。
「教育はあるんだが、とうてい見込みのない男だ!」と将軍は小声でささやいた。
 トーツキイは帽子を取って、そっと抜け出すように席を立つ身構えをしていた。彼はいっしょに出て行こうと、将軍に目まぜをした。
「ありがとう、公爵、今までだれもわたしにそういってくれるものはなかったわ」とナスターシヤがいいだした。「わたしはいつも売り買いされるばかりで、まだだれひとり身分のある人から、結婚の世話をしてもらったことはありません。あなたお聞きなすって、トーツキイさん? いま公爵のおっしゃったことを、あなたはなんとお思いになって? ずいぶん無作法だと思ったでしょう……ラゴージン、おまえさん行くのをしばらく見合わせておいで。もっとも、行っちまうなんてことは、おまえさんにできそうもないがね。ひょっとしたら、わたしおまえさんといっしょに出かけるかもしれないよ。おまえさんいったいどこへ連れてくつもりなの?」
「エカチェリンゴフですよ」とレーベジェフが片隅から得々としていった。が、ラゴージンは自分の耳を信じかねるように、ただぶるっと身震いして、目をいっぱいに見ひらきながらながめていた。彼はあたかも恐ろしい打撃を頭に受けたもののように、まるきり感覚を失ってしまった。
「まあ、どうしたの、あなた、どうしたの、あなた! ほんとに発作でもおこったのじゃなくって? あなたは気でもちがったの?」とダーリヤはぎょうてんして叫んだ。
「まあ、あなたは今までまじめに取ってたの?」声高に笑いながら、ナスターシヤは長いすから飛びあがった。「こんな坊っちゃんの一生を台なしにするなんて? それはトーツキイさんにゃ恰好な仕事だわ、あの人は赤ん坊が大好きなんだから! ラゴージン、出かけましょう! その包みをお片づけなさい! なあに、おまえさんがわたしと夫婦になる気だつてかまやしない、お金だけはとにかくおよこしなさい。まだおまえさんと夫婦にならないかもしれないんだから。おまえさんは自分が夫婦になりたいと思ったら、すぐにお金の束も自分の手にもどると考えてたの?ご冗談でしょうよ! わたしは恥知らずですからね! トーツキイの妾だったんだからね……公爵! 今あんたに入り用なのはアグラーヤ・エパンチナさんで、ナスターシヤ・フィリッポヴナじゃありません。でないと、ほら、――フェルディシチェンコにうしろ指をさされるわ! あんたはすこしも恐れないけれど、わたしはあんたの一生を廃れ者にして、あとであんたに責められるのがこわいの! あんたはわたしのほうが、あんたに名誉を授けるというけれど、それがうそかほんとうか、トーツキイさんがよく知ってます。ガーネチカ、あんたはアグラーヤさんを見そこなったのね、あんたそれを知ってて? あんたがかけ引きなんかしなかったら、あのひとはきっといっしょになったのにねえ! あんたたちはみんなそういうふうな人なのよ。浮いた女だろうと地道の女だろうと、女を杓手にするには、いつでも同じ気持ちでかからなくちゃだめ! でなかったら、きっと迷ってしまうわ……おや、将軍の顔つきったらどうでしょう、口をぽかんとあけて……」
「こりゃもうソドム(淫縦のため天火に焼かれた町)だ、ソドムだ!」将軍は両肩を突き上げ突き上げしながら、こうくりかえした。
 彼も同じく長いすから立ちあがった。一同はふたたびいつの間にか総立ちになっていた。ナスターシヤは前後を忘れているらしかった。
「まさかそんなこと!」ねじきるようにわれとわが手を握りしめつつ、公爵はうめくようにいった。
「こんなことにならないと思ってたの? わたしはたぶん高慢ちきな女でしょう、むろん恥知らずよ! さっきあんたはわたしのことを、『完成』されたものだっていったわね。結構な完成だこと、ただのからいばりのために、百万ルーブリと爵位を踏みにじって、路地うらへ入って行くのだからね! さ、これじゃあんたの奥さまなぞになれっこないわ。トーツキイさん、さあ、わたしほんとに百万ルーブリを窓のそとへほうり出しましたよ! ガーネチカと結婚するのを、――いえさ、あなたの七万五千ルーブリと結婚するのを、わたしが幸福と思うなんて、あなたはよくもそんなことが考えられたもんねえ。七万五千ルーブリはどうぞひっこめてちょうだい、トーツキイさん(十万とまでは思いきれなかったと見えるわね、ラゴージンのほうがだいぶ気前を見せたわけね!)ところで、ガーネチカはわたしが自分で慰めてあげます。――ついい思案が浮かんだから。やれやれ、すこしぶらつきたくなった。どうせわたしは街の女ですからね。十年牢屋にすわっていたが、今こそわたしの仕合わせがまわってきたんだ!おまえさんどうしたの、ラゴージン、支度おしよ、出かけるんだから!」
「出かけよう!」嬉しさのあまり、ほとんど夢中になって、ラゴージンはほえるようにいった。「おい、てめえたち……みんな……酒だ! ウーフ!」
「酒を用意してお置き、わたしも飲む。そして、楽隊はあるの?」
「あるとも、あるとも! 寄っちゃいけねえ!」ふとダーリヤがナスターシヤのほうへ近よろうとするのを見ると、彼は夢中になって叫んだ。「おれのもんだ! みんなおれのもんだ! 女王さまだ! おしまいだあ!」
 彼は狂喜のあまり息をはずましていた。そして、ナスターシヤのまわりをぐるぐるまわりながら、だれ彼の容赦なく、『寄っちゃいけねえ!』とどなった。彼の仲間は、もうすっかり客間へつめ寄せて、あるいは飲み、あるいは叫び、あるいは笑って、すっかり興奮しきった無礼講気分になっていた。フェルディシチェンコは、彼らの仲間に入ろうと策をめぐらしはじめた。将軍とトーツキイはすこしも早く姿をくらまそうと、またしても、もじもじ動きだした。ガーニャも同じく帽子を手にしていたが、それでも黙ったまま、限前に展開する怪しい絵巻物から、どうしても目を離すことができぬというような具合であった。
「寄っちゃいけねえ!」とラゴージンは叫ぶ。
「何をおまえさんはどなってるんだえ!」とナスターシヤは、彼の頭に哄笑を浴びせかけた。「わたしはまだこの家のあるじだからね、もしその気になったら、おまえさんを突き出すこともできるんですよ。ああ、わたしはまだおまえさんからお金を受け取らなかった、あすこにある、あれを取ってちょうだい、包みごとすっかり! この中に十万ルーブリ入ってるんだね? ふう、なんていやらしい! あなたどうしたの、ダーリヤさん、いったいわたしはこの人を廃《すた》れ者にれすばよかったの?(彼女は公爵を指さした)この人に、どうして結婚なんかできるもんかね、ご自分にまだ乳母《おんば》さんがいるようなからだじゃないの? ほら、あそこにいる将軍がこの人の乳母さんをなさるでしょうよ! ね、いっしょうけんめいに公爵をすかしてるでしょう! 公爵、ごらんなさい、あんたの花嫁ごはあばずれ女だから、このとおり金を取りましたよ。それだのに、あんたはそんな女を奥さんにしようとしたわねえ! まあ、どうしたって泣くの? 悲しいとでもいうの?くだらない、お笑いなさいよ、わたしみたいに(と語りつづけるナスターシヤ自身の両頬にも、大きなふたしずくの涙が輝いた)。時というものをお信じなさい、――なんでもなくなってしまうわ! あとになってよりか、いま考え直しとくほうがいいのよ……まあ、なんだってみんな泣きだすんだろうねえ、――あら、カーチャまで泣いてるよ! カーチャ、いい子、何が悲しいんだえ。わたしはね、おまえとパーシャにどっさりいろんなものを残しておいたよ、ちゃんと指図してあるからね。でも、今はこれでお別れよ! おまえのような正直な子に、こんなあばずれ女の世話をよくさせたわねえ……公爵、こうなるほうがいいのよ、まったくいいの。いっしょになったところで、あんたはすぐわたしをさげすみだして、幸福になんかなれやしなくってよ! いいえ、誓ったってだめ、わたしほんとうにしないから! きっとばかばかしい目を見るに相違ないわ!………ねえ、いっそきれいに別れましょう。でないと、わたしも空想家だから、どんな業《ごう》をさらさないともかぎらないわ! じつをいえば、わたしだってあんたのことを空想しなかったわけでもないの。それはあんたのいうとおりなの。わたしがまだあの男に養われて、五年のあいだほんとのひとりぼっちで田舎で暮らしていたころ、わたしよくあんたのことを空想したわ。考えて考えて考え抜き、空想して空想し抜くことがあるでしょう。すると、正直で、人のいい、親切な、そしてやっぱり少々のろまな人を想像するの。そんな人がやって来て『ナスターシヤさん、あなたには罪なんかない、ぼくはあなたを尊敬します』といいそうな気がしてならなかった。よくそうした空想に苦しめられて、気がちがいそうになることもあったわ……ところへこの男がやって来て、年にふた月ずつ泊っていって、けがらわしい、恥ずかしい、腹の立つ、みだらなことをして帰って行くんです、――わたしはなんべんか池へ身を投げようと思ったけれど、未練なために思いきれなかったの。さあ、もう……ラゴージン、用意はできた?」
「できた! 寄っちゃいけねえ!」
「用意はできた!」といくたりかの声が響いた。
「三頭立箍が待っています、鈴のついたのが」
 ナスターシヤは金包みを手に取った。
「ガーンカ、わたしはいいことを考えついたわ。わたしあんたにご褒美をあげようと思うの。なんぼなんでも、みんななくしてしまっちゃかわいそうだものね。ラゴージン、あの男は三ルーブリのためにヴァシーリエフスキイ島まではって行くんだね?」
「はって行くとも!」
「そう、じゃあね、ガーニャさん、わたしはお名ごりにもう一度、あんたの根性が見たくなったの。あんたはまる三月のあいだわたしをいじめたんだもの、今度はわたしの番よ。この包みをごらんなさい。この中に十万ルーブリ入ってるんですよ! 今わたし皆さんの前でこれを暖炉の火ん中へほうりこみます。みんな証人です! この包みぜんたいに火がまわるとすぐ、暖炉の中へ手をお突っこみなさい。ただし手袋なしで、そして袖をたくしあげとくんですよ。それから素手でこの包みを火の中から引き出しなさい。うまくいったらあんたのものよ。十万ルーブリすっかりあんたのものになるのよ。ちっとばかり指を火傷《やけど》もしましょうが、-なにしろ十万ルーブリですからね、よくお考えなさい! つかみ出すのにそう手間ひまかかりゃしません! わたしそうしてあんたの根性を見るんだから。あんがわたしのお金を取りに、火の中へ手を突っこむ様子が見たいの。みんなが証人だわ、包みはあんたのものになります! もし取り出さなかったら、それっきり燃えてしまってよ、ほかの人はだれにも許しません。どいてちょうだい! みんなどいてちょうだい! わたしの金だから。わたしがひと晩でラゴージンから取ったお金だ。わたしのお金だね、ラゴージン?」
「おまえさんのだ、女王さん、おまえさんのだ!」
「じゃ、みんな、どいてちょうだい、わたしはしたいようにするんだ! じゃまをすることはなりません! フェルディシチェンコ、火を直してちょうだい!」
「ナスターシヤさん、手が動きません!」と度胆を抜かれた
フェルディシチェンコは答えた。
「えいっ!」とナスターシヤは叫んで炉火箸を取り、二つばかり、とろとろ燃えている薪をかきおこした。そして、やっと火が燃えだすやいなや、その上に金包みを投げこんだ。
 一時に叫び声がおこった。多くのものは十字さえ切った。
「気がちがった! 気がちがった!」という叫びが四方からおこった。
「あの……あの……あの女をしばらなくていいだろうか?」と将軍がプチーツィンにささやいた。「でなければ気ちがい病院へ……だって気がちがったんじゃないか、だって気がちがったんじゃないか、気が?」
「い、いや、これは本当の発狂じゃないかもしれません」ちょろちょろ燃えていく包みから目を放すことができないで、プチーツィンはハンカチのように青ざめふるえながら、将軍にささやいた。
「気ちがいだね? ねえ、気ちがいだね?」と将軍はトーツキイに迫った。
「わたしはそういったじゃありませんか、多彩な女だって」と同様にいくぶん青ざめたトーツキイがつぶやいた。
「しかし、なにしろ十万ルーブリだからね……」
「大変だ、大変だ!」などと叫ぶ声も聞こえた。一同は暖炉のまわりに押しひしめき、恐怖の叫びを上げた……中には人の頭ごしに見ようと、いすに飛びあがるものさえあった。ダーリヤは次の間へかけだし、カーチャとパーシャとなにやら恐ろしげにささやき合った。ドイツ美人は逃げだしてしまった。
「奥さん! 女王! 万能の女神さま!」とレーペジェフは、ナスターシヤの前をひざ立ちになってはいまわりながら、暖炉のほうへ両手をさし伸べ、泣くような声を出していった。「十万ルーブリ! 十万ルーブリ! わたしが自分で見ました! わたしの目の前で包んだんです、奥さま! お慈悲ぶかい奥さま! わたしにいいつけてくださいまし。からだごと暖炉の中へもぐりこみます、このごま塩頭をすっかり火の中へ突っこみます!………足なえの女房に子供が十三人、――みんなみなし児でございます、前週に親父を埋葬したばかりでございます、かつえ死にせんばかりでございます、ナスターシャさま!」こうわめきながら暖炉へはいこもうとした。
「おどき!」とナスターシヤは叫んで、彼を突き飛ばした。「みんなうしろへ引いてください! ガーニャ、あんた何をぼんやり突っ立ってるの。恥ずかしがることはありません、手をお突っこみなさい! あんたの福徳よ!」
 けれども、この一日このひと晩、あまりに多くの苦痛を堪え忍んだガーニャも、思いがけないこの最後の拷問にたいしては、心の準備ができていなかった。群集はふたりを前にして両方へ引き別れたので、彼はナスターシヤと顔を突き合わして立つことになり、ふたりのあいだには三歩しかへだたりがなかった。彼女は暖炉のすぐそばに立って、火のような凝視をつづけながら待ちかまえていた。ガーニャは燕尾服を着て手に帽子と手袋を持ち、両手を組み合わせて、火の方を見まもりつつ、答えもなく黙然として女の前に立っていた。気ちがいじみた微笑が、そのハンカチのように白い顔にただよった。じっさい、彼はその目を焰から、ちょろちょろと燃えていく包みから、放すことができなかったのである。しかし、なにかしら新しいあるものが、彼の心にわきあがってくるように思われた。まるでこの拷問を忍受しようと誓ったかのごとく、彼はその場を動こうともしなかった。幾瞬間か過ぎたとき、彼が包みを取りに行かぬということが、一同にはっきりわかった。
「ええ、焼けちまうじゃないの。あとで人に笑われてよ」とナスターシヤが彼に叫んだ。「あとで首をくくらなくちゃならなくってよ、冗談じゃない!」
 くすぶっていた二本の新のあいだにはじめぱっと燃えあがった火は、包みが落ちかかって蓋をしたとき、ちょっと消えそうになった。しかし、小さな青い焰は裾のほうから、下積みになった薪の一角にまたからみついた。ついに細長い焙の舌は包みをもなめ、火はさらに四隅の紙にからんで上のほうへ走った。と、不意に包みぜんたいが暖炉の中でぱっと燃え立ち、明るい焰が上へ向かって流れだした。一同はあっと叫んだ。
「奥さま!」とレーベジェフは、まだやはり泣き声を出しながら、前のほうへ潜り出ようとするのを、またぞろラゴージンが引きもどし突き飛ばした。
 ラゴージン自身はただ一つの動かざる凝視に変じた。彼はナスターシヤから目を放すことができなかった。彼は夢中であった、彼は九天の高みに登ったようなありさまであった。
「これがほんとうの女王さまだ!」と彼はだれ彼の差別なく手当たりしだいにつかまえては、ひっきりなしにこうくりかえした。「これがおれたちのやり口だ!」と彼はわれを忘れて叫ぶのであった。「やいうじ虫めら、てめえたちにこれだけの芸当ができるかい、うん?」
 公爵は愁わしげに黙ってながめていた。
「ぼくはたった千ルーブリでもいいから歯でもってくわえ出して見せる!」とフェルディシチェンコがいいかけた。
「歯でくわえ出すくらいわが輩でもできるぞ!」恐ろしい絶望の発作に襲われた拳固先生は、いちばんうしろのほうから歯ぎしりした。「こ、こんちくしょう! 焼ける、みんな焼ける!」と彼は焙を見てどなった。
「焼ける、焼ける!」と一同はおなじく暖炉のほうへ身を乗り出しながら、異口同音に叫んだ。
「ガーニャ、気取るのはおよしなさい。わたしもういっぺんだけいうわ!」
「やれ、やれ!」フェルディシチェンコはまったく夢中になってガーニャにとびかかり、その袖をしょびきながらうなった。「やれってば、から威張り野郎! 焼けちまうじゃないか! ええ、ばか野郎!」
 ガーニャは力の限りフェルディシチェンコを突き放し、くるりと身を転じて戸口のほうへ歩みだした。が、二足と歩かぬうちに、よろよろとよろめいて、床にどうと倒れた。
「気絶だ!」と叫ぶ声があたりにおこった。
「奥さま! 燃えてしまいます!」とレーベジェフが悲鳴をあげた。
「くだらなく燃えてしまうんだ!」人々は四方からうなった。
「カーチャ、パーシャ、あのひとに水を、そしてアルコールを!」とナスターシヤは声高に命じて、炉火箸を取り、金包みをつかみ出した。
 ほとんど紙包みの全部は焼けただれていたが、中身はすこしもさわりのないことがすぐにわかった。金は新聞紙で三重にくるんであったので、なんの傷もつかなかった。人々はやっと自由に息をついた。
「わずか千ルーブリくらいは、ひょっとしたら、少々いたんだかもしれないが、そのほかはみんな無事だ!」とレーベジェフは歓喜の声を上げた。
「みんなあの人のものです! この包みはすっかりあの人のものです? よござんすか、皆さん!」とナスターシヤは、包みをガーニャのそばへ置きながら宣告した。「取りに行かなかった、こらえおおせた! してみると、まだ自尊心が金の欲より強いのかしら? なに、かまいません、今に息を吹き返しますよ! もし気絶しなかったら、たぶんわたしに斬ってかかったでしょう……ほら、もう気がつきかかった。将軍、プチーツィンさん、ダーリヤさん、カーチャ、パーシャ、ラゴージン、よござんすか? 包みはあの人のものですよ、ガーニャのものですよ。わたしはあの人にご褒美として、完全な所有権を提供するんです……ええ、それからさきはどうなったってかまやしないわ! あの人にそういってちょうだい。包みはあの人のそばへ置いとくのよ……ラゴージン、出かけましょう! さようなら、公爵、生まれてはじめて人間を見ました!さようなら、トーツキイさん、mercii! ラゴージンの徒党は、ラゴージンとナスターシヤにつづいて、騒々しい叫び声を立てながら、いくつかの部屋を抜けて出口のほうへどやどやと駆け出した。ホールで小間使たちが主人に毛皮外套を渡した。下女のマルファも台所から馳せつけた。ナスターシヤは彼ら一同をかわるがわる接吻した。
「まあ、奥さま、ほんとうにわたくしどもを捨ててしまうおつもりでございますか。そして、どこへおいでなさいますの? しかもお誕生日というおめでたい日に!」とさんざん泣いた娘たちは、彼女の手を接吻しながらたずねた。
「往来へ行きます、カーチャ、おまえも聞いたろう、往来がわたしのいるべき場所なんです。さもなければ、洗濯女にでも雇われます! もうトーツキイさんといっしょにいるのはたくさん! あの人によろしくいっておくれ。まあ、わたしのことを悪くいわないでね……」
 公爵はまっしぐらに車寄せに向かって突進した。そこでは一同が鈴のついた四台の三頭立橇《トロイカ》にそれぞれ分乗していた。将軍はまだ階段の上で公爵に追いつくことができた。
「ねえ、公爵、しっかりしたまえ!」彼は相手の片手を握ってこういった。「うっちゃってしまうさ! あんな女じゃないか! わたしはきみの父親としていうのだよ……」
 公爵はちらとその顔を見たが、ひとことも口をきかず、とられた手を振りきって、下へかけおりた。
 たったいま三頭立橇《トロイカ》がすべり出したあとの車寄せへ出た将軍は、公爵が行き当たりばったり辻待ち罐をつかまえて、「エカチェリンゴフ、あの三頭立橇《トロイカ》の跡を追っかけるんだ」と叫んでいる姿を見わけた。やがて、灰色の駿馬をつけた将軍の馬車が走りだして、新しい希望と、もくろみと、さっきの真珠(将軍はそれでも、この真珠を取って来ることを忘れなかった)とともに、彼をわが家のほうへ運んで行った。そのさまざまなもくろみのあいだに、二度ばかり、ナスターシヤの魅するような姿が目の前をかすめて通ったのである。将軍は溜息をついた。
「残念だ! じっさい、残念だ! 滅びたる女だ! 気の狂った女だ!………しかし、もう今となっては、公爵に必要なのはナスターシヤではない……かえって、あんなふうに局面一変したのは好都合だったよ」
 これに類似した教訓的なはなむけの言葉が、ナスターシヤの客のふたりによって取りかわされた。このふたりはすこしのあいだ徒歩で行くことに相談したのである。
「ねえ、トーツキイさん、これはちょうど、日本人のあいだによくあるという話に似ていますね」とプチーツィンがいった。「恥辱を受けたものが当の相手のところへ行って、いうじゃありませんか。『おまえはおれに恥辱を与えた、だからおれはおまえの目のまえで腹を切って見せる』こういうといっしょに、ほんとうに相手の目の前で自分の腹をかっさばいて、それでほんとうに仇討ができたような気がして、非常な満足を感じるらしいんですね。世の中には奇態な性質もあればあるものですねえ、アファナーシイ・イヴァーノヴィチ!」
「じゃ、きみはこの事件にそんなところがあったとお思いなんですか?」と微笑を含んでトーツキイが答えた。「ふむ! しかし、きみはなかなか皮肉な……おもしろい比較を引いて来ましたよ。ですがね、プチーツィン君、わたしができるだけのことをしたのは、察してくださるでしょうね。わたしだって可能以上のことはできませんからね、そうでしょう? しかし、いま一つご同感を願いたいのは、あの女になかなかりっぱな美点が……目ざましい特質があるということなんです。もしあの乱脈《ソドム》の仲間入りする気になったら、わたしはあの女に声をかけたかもしれない。あの女がわたしに浴びせかけたいろいろな非難にたいするいちばんいい弁明は、あの女自身なんですからね。そうでしょう、だれだってどうかした拍子に、理性の判断も……なにもかも失うほど、あの女のとりこになろうじゃありませんか! その証拠にはごらんなさい、あの百姓のラゴージンが、十万ルーブリという金を持って来たじゃありませんか! よしんばかりに、きょうあすこでおこったことがことごとく夢のようにはかない、ロマンチックな、ぶしつけなものであるとしても、そのかわり多彩です、そのかわり独創的です、ね、そうでしょう。あーあ、あれだけの気性と、あれだけの美貌があったら、どんなことでもできたものを! あれほど骨を折って教育まで施したのも、――すっかり水の泡になっちまった! 磨かれざるダイヤモンド、――わたしは幾度そういったかしれませんよ……」
 トーツキイは深い溜息をついた。

第二編

      1

 われらがこの物語第一編の終結とした、ナスターシヤ・フィリッポヴナの夜会における奇怪なできごとののち二日たって、ムイシュキン公爵は例の思いがけない遺産譲り受けのため急きょモスクワへ向けて出発した。こうしたあわただしい出発には、なにかまだほかに原因がなければならぬ。といううわさもそのころあった。しかし、このことについても、また公爵がペテルブルグを離れてモスクワに暮らしているあいだにとった行動についても、われわれはあまり多くの情報を伝えることができない。公爵はかっきり六か月、都を離れていたが、そのあいだに彼におこったことは、彼の運命に興味を持つべき多少のいわれのある人さえも、知りうるところはきわめて少なかった。もっとも、中にはごくたまであったが、たにかのうわさを小耳にはさまぬでもなかったけれど、それとても大部分は奇怪なもので、概してたがいに矛盾しがちであった。だれよりも公爵に対して興味をいだいていたのは、いうまでもなく、彼が出立の前に暇ごいにも行きえなかったエパンチン家の人々である。もっとも、将軍はそのとき一度ならず二度三度まで彼に会って、なにやら重大な事柄について相談した。しかし、将軍が彼に会ったとしても、家族の者にはそのことをおくびにも出さなかった。というのは、はじめのあいだ、つまり、公爵の出発後一が月ばかりのあいだ、彼の話をすることはエパンチン家で禁制同様のありさまだったからである。ただひとり将軍夫人のリザヴェータ・プロコーフィエヴナは、いちばんはじめに『公爵という人について大変な考え違いをしていた』といったが、やがて二、三日たってから、今度はもう公爵と名ざさずに、だれということもなく、『わたしの生涯でいちばん目に立つ特徴は、ひっきりなしに眼鏡違いをしていることだ』とつけ足した。そして、最後に十日ばかりもたったとき、なにか娘たちにかんしゃく玉を破裂さして、『もう考え違いはたくさんだ! もうそんなことがあったら承知しない』と宣言めいた口調で結論をくだした。この一家にもうだいぶまえから、なんとなく不快な気分の存在していることは、このさい気づかずにいられなかった。なにかしら重苦しい、緊張した、腹にわだかまりのあるような、いさかいの種になるようなあるものがあって、みんなそろってむっつりとしていた。将軍は昼も夜も忙しそうにして、仕事にかかっていた。彼がこれほど忙しそうに、事務家らしくせかせかしているのは、――ことに勤め向きのことで、――あまり見られない図であった。家の人さえ、彼の姿を見る機会は少ないくらいであった。令嬢たちはどうかというと、もちろんこの人たちが口に出してなにかいうことは、ほとんどなかった。ことによったら、自分たちおたがい同士だけのあいだでも、少なすぎるくらい口数は少なかったかもしれない。この令嬢たちは誇りが強くて、高慢なくらいであるから、おたがい同士のあいだでも、どうかすると恥ずかしがり合うことさえあった。しかし最初のひと言どころか、最初のひと目でたがいの胸の中まで了解し合うという間柄であって見れば、あまり多弁を費やすのは無用のことかもしれぬ。
 しかし、もしここに局外の観察者があったとすれば、ただ一つ次のようにいうことができたであろう、――以上述べた僅少の材料から察するところ、公爵はたった一度、ほんのちょっと顔出しをしたにすぎないけれど、なんといってもエパンチン家に特殊な印象を残して行った。あるいはこれとても、公爵の突飛な行動をもって説明のできる、単なる好奇心にもとづく印象であったかもしれないが、それはなんであろうとも、とにかく印象は残された。 市中へ広がったさまざまなうわさもしだいしだいに不明の闇に包まれてしまった。もっとも、一時こんなこともうわさにのぼった。ある薄のろの公爵が(だれも正確にその名前を知ってるものはなかった)思いがけなく莫大な遺産を譲り受けて、パリの花屋敷《シャトー・ド・フルール》に出ていた有名な踊子と結婚した、とあるものがいうと、またあるものは、いや、遺産を譲り受けたのはどこかの将軍で、目下来朝中のフランスの有名なカンカン踊りの踊子と結婚したのは、ロシヤのおそろしい物持もの商人で、結婚の席上でつまらない見得のために、酒の勢いを借りて、最近の割増金付き債券でかっきり七十万ルーブリの金を、ろうそくにかざして焼いてしまった、などと語るのであった。これらすべての風説はたちまち消え失せたが、それは事情のしからしむるところもあった。たとえば、この事件について何かのことを知ったものの多いラゴージンの徒党は、エカチェリンゴフの停車場で恐ろしいばか騒ぎがあってからちょうど一週間目に、ラゴージン自身を頭に大挙してモスクワへ発足した。エカチェリンゴフのばか騒ぎには、ナスターシヤも同席していた。事件に関心をもっている少数のだれ彼は、いろいろのうわさによって、ナスターシヤがエカチェリンゴフでできごとのあった翌日、逃げ出して姿をくらましたこと、その後彼女がモスクワへたった事実を突きとめたこと、などを確かめた。ラゴージンがモスクワへ出発したという事実には、この風説と符合するところがあった。
 仲間うちにかなり顔を知られている、ガヴリーラ・アルダリオーノヴィチ・イヴォルギンに関しても、また風説が行なわれかけたが、そこに一つの事情が生じて、それがために彼に関するすべての悪評は熱を冷まされ、しばらくたつうちに、すっかり跡かたもなくなった。彼は重い病気にかかって、社交界はもちろん、勤めのほうへも出ることができなくなったのである。ひと月ばかり病み通して、ようやく全快はしたものの、彼はなぜか株式会社の勤め口をことわったので、ほかの人が代わって彼のいすをしめることになった。エパンチン家へも彼は一度も顔出ししなかった。で、将軍のところへも別の官吏が出入りしはじめた。ガヴリーラを憎む人たちは、なに、あの男は例のできごとのためにおそろしくしょげこんで、往来へ出るのさえ恥ずかしいのだ、と想像をたくましゅうしたかもしれぬ。しかし、彼はじっさい、なにかわずらって、ヒポコンデリイにさえかかり、じっとふさぎこんではかんしゃくをおこすのであった。ヴァルヴァーラ・アルダリオーノヴナは、この冬プチーツィンのもとへ嫁した。彼らを知っている連中はみなこの結婚の原因を説明して、ガーニャが旧職に復したがらず、家族を養うことをよしてしまったのみか、かえって他人の助力や看護を必要とするようになったという事実に帰着させた。
 ちょっとついでに言っておくが、エパンチン家ではかつて一度も、ガヴリーラのことを口にのぼしたことがない。まるでそんな人間はエパンチン家のみならず、この世にいなかったかのような具合である。けれど、この家の人一同は彼について(しかもきわめて早く)一つの興味あるできごとを聞きだした。というのはほかでもない、彼にとってのるかそるかというあの夜、ナスターシヤの夜会でいまわしいできごとがおこったあと、ガーニャは家へ帰っても床につかず、熱病やみのようないらいらした心持ちで、公爵の帰宅を待っていた。エカチェリンゴフヘ赴いた公爵は、朝の五時過ぎにそこから帰って来た。そのときガーニャは彼の部屋へ入って、その前のテーブルに半焼けの紙包みを置いた。彼が気絶して倒れているとき、ナスターシヤが贈り物にした十万ルーブリの金である。彼は、この贈り物を機会のあり次第ナスターシヤに返してくれとうるさいほど公爵に頼んだ。ガーニャは公爵のところへ入ったとき、仇敵にたいするような自暴自棄の心持ちをいだいていたが、ふたりのあいだに何かある種の言葉が交わされてから、ガーニャは公爵の部屋に二時間もすわりこんで、そのあいだたえず激しく慟哭した。別れるときには、ふたりはすでに友達同士のような間柄になっていたとかである。
 エパンチン家の耳へ入ったこの風説は、のちになってぜんぜん確実だということに決まった。こんな性質の報知がかくまで早く人の耳に入って知れわたるのは、もちろんふしぎなことに相違ない。たとえば、かのナスターシヤのもとでおこったことの一部始終は、ほとんどその翌日しかもかなり詳細に、エパンチン家の人々に知られてしまった。ガヴリーラに関する報告は、ヴァルヴァーラがエパンチン家へもたらしたものと想像することができる。彼女はなぜか急にエパンチン家の令嬢たちのもとへ出入りを始めたのみか、ほどなくリザヴェータ夫人と驚くほど、親密な間柄になったのである。とはいえヴァルヴァーラは、なぜかエパンチン家の人たちと交わるのを必要なことと考えはしたものの、自分の兄のことは金輪際話そうとしなかった。彼女は、兄をほとんど追い出さんばかりにした家と交際はしているが、これも同様にかなり誇りの高い(ただし一種特別なものである)女であった。その以前、彼女はエパンチン家の令嬢たちと知り合いではあったけれど、顔を合わす機会はあまりなかった。もっとも、今でも彼女は公然と客間の人になるのではなく、まるで逃げこむようにして裏口から入って来た。リザヴェータ夫人は、ヴァルヴァーラの母親のニーナ夫人を非常に尊敬してはいたけれど、ヴァルヴァーラを招待したことはかつてなかった。彼女は驚きもし怒りもして、ヴァーリャとの交際を娘たちの気まぐれと権勢欲のせいにし、『あの子らはもうわたしに逆らう方法が尽きたもんだから……』と言っていた。しかし、ヴァルヴァーラはいぜんとして、結婚前もまたその後も、令嬢たちを訪問することをやめなかった。
 しかし、公爵の出発後ひと月ばかりたったとき、将軍夫人はベロコンスカヤ老公爵夫人から手紙を受け取った。このひとはこの手紙より二週間ばかり前、某家に嫁入りしている長女を訪ねに、モスクワへ行ったのである。この手紙は将軍夫人に強い印象を与えたらしい。彼女はこの手紙のことを娘たちにも、またイヴァン将軍にもなにひとつ知らせなかったが、彼女がひどく激して興奮していることは、多くの兆候に照らして家内のものも気がついた。彼女は娘たちをつかまえて、奇妙な調子でとんでもないことを話すようになった。察するところ、彼女は何かうち明けたくてたまらないのを、どうしたわけか押しこたえているらしかった。手紙を受け取った当日、彼女は三人の娘をいたわって、アグラーヤとアデライーダには接吻までしてやった。娘らにたいして後悔するところがあるらしかったが、それがはたしてなんであるかは、令嬢たちにもわからなかった。まるひと月のあいだ、つんけん当たり散らしてばかりいたイヴァン将軍にさえも、夫人は急に大まかな態度をとった。しかしもちろんすぐ翌日、夫人は自分がきのうあまり感情的だったのに向かっ腹を立てて、昼食前にはもうみなといいあいをしたが、夕方にはまた天気模様がよくなってきた。とにかく、概してこの一週間ばかり、彼女は珍しく晴ればれした気分で過ごしたのである。
 ところが、一週間たって、ベロコンスカヤ夫人から第二の手紙が着いた。今度は将軍夫人もみんなにうち明けることに決心した。彼女は勝ち誇ったような調子で、『ペロコンスカヤのお婆さん』が(彼女はかげで話すときに、公爵夫人のことをこうよりほかに呼ばなかった)あの……『恋人さん、ほら、例の公爵のこと』について、たいへん安心させるような事実を報告してきた、と披露した。お婆さんはモスクワで彼をさがし出し、彼のことを取り調べて、なにか非常にいいことを聞きこんだそうである。そして最後に、公爵も自分から老夫人のもとへ出かけて行って、なみなみならぬ印象を与えた。これは老犬人が、彼に毎日一時から二時までの間に訪問を許し、かつ彼も『毎日ご機嫌うかがいに出かけているけれども、いまだに飽かれないでいる』ということからして推測される、こう結論をくだしておいて、将軍夫人はさらにつけくわえた。公爵は『お婆さん』の紹介で二、三のりっぱな邸へ出入りするようになっている。『それに、いつまでも長っちりをすえもせず、ばかにありがちの恥ずかしがりもないからいい』これらの報告を聞いた令嬢たちは、母親がまだまだこの手紙について、いろいろ隠していることがあるに違いない、と気がついた。もしかしたら、令嬢たちはこのことをヴナルヴァーラから聞き出したのかもしれない。彼女は公爵のことや、公爵のモスクワ滞在中のできごとについて、プチーツィンの知ってるだけは残らず知ることができるし、むろん、じっさい知ってもいたからである。しかも、プチーツィンはだれよりも詳しく知っていなければならぬはずである。もっとも、彼は実際的な方面では、おそろしく口数の少ない男であったが、ヴァーリャにはもちろん知らせたに相違ない。将軍夫人はこれに気づくと、とたんに以前に倍してヴァルヴァーラを嫌うようになった。
 しかし、なんといっても、沈黙の氷は破れてしまったので、急に大きな声で公爵の話をしてもかまわなくなった。のみならず、彼がエパンチン家へ残して行った異常な印象となみはずれて激しい好奇心とが、いまひときわはっきりとその本体を現わしたのである。将軍夫人は、モスクワからの報告が娘たちに与えた印象のあまり大きいのに、一驚を喫したくらいである。ところで、令嬢たちもまた母の態度にびっくりさせられた。というのは、将軍夫人は、『わたしの生涯でいちばん目に立つのは、人のことでひっきりなしに思い違いをしていることだ』などとしかつめらしくいっておきながら、同時にモスクワで公爵のことに気をつけてくれるようにと『勢力家』のベロコンスカヤのお婆さんに依頼している、しかもこの『お婆さん』は、場合によっては、ずいぶん尻の重い人であるから、この人に気をつけてもらうには、いっしょうけんめいおがむようにして頼まなければならないのである。
 さて、沈黙の氷が破れて、新しい風が吹きはじめるやいなや、将軍も急にうち明けた話をした。聞いてみると、彼も非

『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP097-144

20240329
60分、ざっと校正、097-130、全部は校正なかった。


みなりはきわめて質素で、なにかしら黒っぽい、まるで年寄じみたこしらえであるが、その物腰から話しぶり、すべての身のこなしは、この人がかつては上流の社交界をも見て来た婦人であることを思わせた。
 ヴァルヴァーラは、二十三かそこらの娘で、丈は中背、ずいぶんやせぎすのほうである。顔はごく美しいというたちではないが、器量をほかにして男の心をひき、夢中になるほど迷わせる秘密を隠していた。彼女はおそろしく母親に似ていて、おめかしをしようという気のみじんもないところから、みなりまでほとんど母親と同じであった。その灰色をした目の表情は、どうかすると非常に快活で優しくもなれるのであったが、たいていはきまじめでもの思わしげなときのほうが多く、どうかすると、あんまりだと思われることさえあった。このごろことにそれがひどい。堅固さと決断力は彼女の顔にも見られたが、この堅固さは母親のそれよりもはるかに猛烈で、勇邁かもしれぬという感じがした。ヴァルヴァーラはかなり怒りっぽい女で、兄もときどきそれには恐れをなすほどであった。今ここに腰かけている客のプチーツィンも、彼女の怒りっぽいのに恐れをなしていた。これはまだ若い三十恰好の男で、質素ではあるがしゃれたなりをしている。挙動はなかなか気持ちがいいけれど、なんだかあまりもったいぶっている。黒味がかったあごひげは、この男が勤めをもった人でないことを示していた。彼は気のきいた気持ちのいい会話をすることもできたが、多くは黙りがちであった。全体としてこころよい印象を人に与える男である。彼は明らかにヴァルヴァーラに無関心でないらしく、また自分でもその感情を隠そうともしなかった。ヴァルヴァーラのほうでは単に親友として交際していたが、ある種の問いに対しては、まだまだ返事を渋って、むしろいやがるくらいであった。しかし、プチーツィンはそれしきのことでなかなか落胆しなかった。それに、ニーナ夫人が彼に愛想よくするばかりでなく、最近いろいろなことで彼をたよりにするようになった。とはいえ、彼が多少とも確かな抵当のもとに高利の金を貸し付け、どしどしそれを殖やして行くのを専門の仕事としているのは、あまねく知れわたっている。ガーニャとはなみなみならぬ親友であった。
 行き届いてはいるが、とぎれとぎれなガーニャの紹介に対して(ガーニャは母にきわめてそっけない挨拶をしただけで、妹にはまるっきりひとことの挨拶もなしに、そのままプチーツィンをつれて部屋を出てしまったのである)、ニーナ夫人は公爵にふたことみこと優しい言葉をかけたのち、おりふし戸口からのぞきこんだコーリャにいいつけて、公爵を真ん中の部屋へ案内さした。コーリャはかなり美しく快活な顔つきをした、信じやすそうな単純な心持ちを物腰に現わしている少年であった。
「あなたの荷物はどこにあるんです?」と彼は公爵を部屋に導きながらたずねた。
「ちょいとした包みが一つあるんですが、玄関へ置いときました」
「じゃ、ぼくが取って来てあげます。うちで使ってるのは、下働きとマトリョーナきりだもんだから、ぼくもそれでお手伝いをするんですよ。ねえさんがみんなの取締りをしてるんだけど、怒ってばかりいるんですよ。あなたきょうスイスからいらしたって、にいさんがいいましたが、ほんとうですか?」
「そうです」
「スイスはいいでしょうねえ?」
「そりゃあ」
「山があるんでしょう?」
「ええ」
「ぼくすぐあなたの荷物を持って来ますからね」
 そのあとヘヴァルヴァーラが入ってきた。
「ただ今すぐにマトリョーナが、シーツを敷きに参りますから。あなたトランクをお持ちでいらっしゃいますか?」
「いえ、小さな包みが一つきりです。いま弟さんが取りに行ってくださいました。玄関に置いてあるんです」
「このちっぽけな包みのほかには、なんにもありませんでしたよ、あなた、どこへお置きになったんです?」ふたたび部屋へ帰って来たコーリャがこうきいた。
「ええ、このほかにはじっさいなんにもないんですよ」と包みを受け取りながら公爵は答えた。
「あーあ! ぼくフェルディシチェンコが持ってったかと思っちゃった」
「ばかなこというものじゃありません」とヴァーリャ(ヴァルヴァーラの愛称)はいかつい声でたしなめた。彼女の調子は公爵に対するときでさえきわめてそっけなく、ただ慇懃なというばかりであった。
「Chere Bebette(親愛なるおばかさんというのが直訳)ぼくにはもちっと優しくしてくれたっていいじゃないか、ぼくとプチーツィンさんとは違うよ」
「それどころか、おまえなんかぶってやってもいいくらいだ、コーリャ、それぐらいおまえはばかなんだよ。あの、なんでもお入り用でしたら、マトリョーナにそうおっしゃってくださいまし。食事は四時半ですが、わたくしどもとごいっしょでも、お部屋でおひとりでも、どちらでもご都合のおよろしいように。コーリャ、行きましょう、公爵のおじゃまをしてはいけません」
「行きましょうよ、怒りんぼさん!」
 出て行こうとして、ふたりはガーニャにばったりと行き会った。
「おとうさん家かい?」とガーニャはコーリャにたずね、コーリャがうんと返事をすると、なにやらひそひそ耳打ちをした。
 コーリャは一つうなずいて、ヴァーリャにつづいて出て行った。
「公爵、たったひとことお話ししたいことがあるのです。わたしもじつは例の事件にまぎれて、いい忘れていました。ちょっとお願いがあるんです。たいしてご迷惑になりませんでしたら、恐れ入りますが、わたしとアグラーヤさんとのあいだにおこったことを、どうかここでもおもらしのないように、また今後わたしどもで見聞きなさることを、あすこ[#「あすこ」に傍点]の人たちにもお話しなさらないようにお願いします。ここにもまたずいぶん外聞の悪いことが多いのですから。ええ、しかし、どうともなるがいい……が、ともかく、せめてきょう一日だけでも控えてください」
「ぼく、誓っていいます、ぼくはあなたの考えていらっしゃるほど、いろんなことをしゃべりはしなかったですよ」
 公爵はガーニャの小言にいくらかじりじりしながら答えた。ふたりのあいだの関係は目に見えてしだいしだいに険悪になってきた。
「ええ、ですが、わたしはきょうあなたのおかげで、ずいぶんひどい目にあいましたからね。まあ、要するに、お願いしているのです」
「それは、ガヴリーラ・アルダリオーノヴィチ、ぼくはあのときどういう束縛を受けなけりゃならなかったんです、なぜ写真のことを口にしてはならなかったのです? あなたからはべつになんとも依頼がなかったじゃありませんか」
「ふう、なんていやな部屋だ」さげすむようにあたりを見まわしながら、ガーニャはいった。「暗いうえに窓が裏庭のほうへ向いてる。あなたがいらしったのは、いろいろな点から見ておりが悪かったですね……だが、それはわたしの知ったことじゃない、下宿屋をやってるのはわたしじゃないのだか そこヘプチーツィンが顔をのぞけて、ガーニャを呼んだ。と、こちらは忙しげに公爵を捨てて出て行った。そのくせ、ガーニャはまだなにかしらいいたいことがあるのに、切り出しにくいと見えて、もじもじしている様子であった。部屋の悪口もなんだか、ただてれ隠しのためらしかった。
 公爵がやっと手水を使って、いくぶん身じまいもできたばかりのところへ、またもや戸が開いて、新しい人物が現われた。
 それは年のころ三十歳ばかり、背丈の低くない、肩のそびえた男であった。大きな頭には赤毛がうねり、肉づきのいい顔は赤みを帯び、くちびるは厚く、鼻は広くて低く、小さなどんよりした目は嘲笑の色を浮かべて、なんだかひっきりなしにまたたきしているように見えた。全体として見ると、これらのものすべてが、かなり厚かましく人の目に映るのであった。みなりは薄ぎたなかった。
 彼ははじめ首が突っこめるだけ戸をあけた。そして、突き出した首が五秒ばかり部屋の中を見まわしていたが、やがて戸がだんだん広く開いて来て、しきいの上にすっかり全身が現われた。しかし、客はまだ入ろうとしないで、しきいの上から目を細めながら、じろじろといつまでも公爵を見まわすのであった。やっとうしろ手に戸をしめて、のそのそそばへ近づくと、いすの上に腰をおろして、かたく公爵の手を握り、はすかいに長いすにすわらした。
「ぼくはフェルディシチェンコというものです」問いでもかけるように、じっと公爵の顔を見つめながら、男はこう口をきった。「それで、どうなんです?」と公爵は吹き出しそうにしながら答えた。
「下宿人です」とふたたびフェルディシチェンコがぶっきらぼうにいった、やはりじろじろ相手をながめながら。
「近づきになりたいとおっしゃるのですか?」
「どういたしまして!」客は髪をかきむしって、溜息をつきながらこういって、真向かいの片隅をながめはじめるのであった。
「きみ、金をお持ちですか?」と彼はふいに公爵のほうを向いてたずねた。
「すこしばかり」
「つまり、どれだけ?」
「二十五ルーブリ」
「見せてください」
 公爵はチョッキのかくしから二十五ルーブリの紙幣を取り出し、フェルディシチェンコに渡した。こちらはそれを広げて、と見こう見していたが、やがて裏返しにして光にかざした。
「ずいぶんへんですなあ」と彼はもの思わしげな風情でいいだした。「なんだってこんなに赤っ茶けてくるんでしょう? この二十五ルーブリ札は、ときによるとおそろしく赤くなります。ところが、中にはまるっきり色のさめてしまうのがあります。さあ、しまってください」
 公爵は紙幣を受け取った。フェルディシチェンコはいすから立って、
「ぼくはあらかじめきみにご注意にあがったのです。第一に、以後けっしてぼくに金を貸してはいけませんよ。なぜって、ぼくかならず無心をいうに相違ないから」
「承知しました」
「きみはここへ払いをなさるおつもりですか?」
「そのつもりです」
「しかし、ぼくはそのつもりがないんです、ありがとう。ぼくはきみの部屋から右手に当たる最初の部屋にいます。見たでしょう? ぼくのところへあまりたびたびおいでくださらんように願います。ぼくはきみのところへときどき来ますからね、ご心配なく。将軍を見ましたか」
「いいえ」
「そして、うわさもお聞きなさらん?」
「むろん、聞きません」
「じゃ、今に見たり聞いたりされますよ。おまけに、将軍はぼくのところへまで無心に来るんですからね? Avis aulecteur(これが前置きです)さようなら。しかし、いったいフェルディシチェンコなんて苗字を名乗って生きて行かれますかね、え?」
「なぜ行かれないのです?」
「さようなら」
 こういって、彼は戸口のほうへおもむいた。この男はまるで自分の義務かなんぞのように、奇警と快活で人を驚かすのを仕事にしているのだということを、公爵もあとで知ったが、彼のこうした試みはけっしてうまく行ったためしがない。ある人々にはかえって不快な印象を与える。そのために彼はすっかりしょげてしまうのであったが、それでも依然として自分の使命をなげうとうとはしなかった。戸口のところで、外から入って来るひとりの男に突き当たって、彼ははじめて態度を改めたらしかった。公爵にとって未知の新しい客をやり過ごすと、彼は幾度か警戒するように、うしろから公爵に目まぜをして見せた。こんなことをしながら、やはり泰然たる態度は失わないで立ち去った。
 新しく入って来た人は背の高い、年のころ五十五か、あるいはそれ以上かと思われる、かなり肥え太った老人で、肉づきのいいだぶだぶした顔は紫がかった赤味を帯び、そのまわりを灰色の厚い頬髯と膵髭がぐるりと縁どっている。目は大きくて、かなりとび出したほうである。押出しはずいぶんりっぱなほうらしいが、惜しいことにはからだにつきまとう落ちぶれたような、ぐったりした、おまけに薄よごれたようなあるものがじゃまをしている。もうほとんどひじが抜けそうな古いフロックコート、シャツも同じく油じみて、――すべてが内着といういでたちである。そばへ寄ると少々ばかりウォートカの匂いがするが、身のこなしはおどしの利くほうで、多少わざとらしいところもあるけれど、当人の望んでいるらしい威風堂々たる趣きはたしかにある。客は悠々と公爵に近寄って、愛想のいい微笑を浮かべながら、無言でその手を取り、そのまま放さずに、やっと見覚えのある輪郭をたしかめるという様子で、しばらくじっと相手の顔を見つめていた。
「あの男だ! あの男だ!」と低いながら重味のある声でいいだした。「そっくり生き写しだ! じつはさっきから家のものが、しきりにわたしにとって親しい懐しい名を、くり返しくり返し話してるじゃありませんか、それでふと永劫去って返らぬ昔を思い出しました……ムイシュキン公爵ですな?」
「ええ、そうです」
「わしはイヴォルギン将軍、哀れな退職の老将です。あなたのお名と父称は、失礼ですが?」
「レフ・ニコラエヴィチ」
「なるほど、なるほど! 竹馬の友といってさしつかえない ニコライ・ペトローヴィチのご子息ですな?」
「ぼくのおやじはニコライ・リヴォーヴィチと申しましたが……」
「リヴォーヴィチ」と将軍はいい直したが、すこしもあわてず騒がず、自分はけっして忘れたのではない、ただ思わず言い間違えたのだ、とでもいうような落ちつきがあった。彼は、自分で座につくと、公爵の手をとって、そばへすわらした。「わしはあんたを抱いて歩いたもんですよ」
「ほんとうですか?」と公爵はたずねた。「でも、ぼくの父が死んでからもう二十年になりますが」
「さよう、二十年と三か月です。いっしょに学校へ通ったもんだが、わしはすぐに軍隊へ入るし……」
「ええ、父もやはり軍務に服していました。ヴァシリコーフスキイ連隊の少尉でした」
「いや、ベロミールスキイです。ペロミールスキイヘ転任ということになったのは、ほとんど死なれるすぐ前でしたなあ。わしはその場に居合わせて、おとうさんを永遠の世界へ祝福してあげましたよ。あんたのおかあさんは……」
 将軍はあたかも悲しい追憶に誘われたかのごとく言葉を切った。
「ええ、母もやはり半年ばかりたって、かぜひきのために死んでしまったのです」と公爵はいった。
「かぜじゃない、かぜじゃない、年寄はうそをいいませんて。わしはその場に立ち会って葬送の式を営んだですよ。なき夫を思うかなしみのためで、かぜなどじゃありません。さよう、公爵夫人のこともわしはよう覚えておりますよ。ああ、若かったなあ! あの人のためにわしと公爵が、竹馬の友が、あやうく殺し合おうとしたことがある」
 公爵はいくぶんか疑いをはさんで聞きはじめた。
「あんたのおかあさんがまだ娘の時分、――わしの親友の許嫁《いいなずけ》の時分、わしは激しくおかあさんに思いをかけましたよ。それに気がついて、公爵は唖然としてしまったのです。ある朝早く六時ごろにやって来て、わしをおこされるじゃありませんか。わしはびっくりして着替えをしたが、両方とも沈黙です。わしはみんなさとってしまった。すると、公爵はポケットから拳銃を二梃とり出して、ハンカチの下から射ち合おう、介添人はなしだ、とこういうことでしたよ。なんの、もう五分たったらおたがいに友達を永遠の世界へ送ろうというさいに、証人もなにもいったものじゃない。それから、弾丸をこめハンカチを広げて、拳銃をたがいの胸に押し当てながら、たがいに顔をながめ合ったです。ふいにふたりとも目からあられのように涙がほとばしり、手はぶるぶるふるえるじゃありませんか。ふたりともです、ふたりとも同時にですよ! で、すぐに自然の情として、ふたりは抱き合って、両方から寛大の競争をはじめたです。公爵は、『きみのものだ』と叫ぶ、わしも『きみのものだ』と叫ぶ。一言につくせば…一言にしてつくせば……あんた家へ寄宿しなさる……寄宿を?」
「ええ、たぶんしばらくのあいだ」と公爵はなんとなくどもり気味に答えた。
「公爵、おかあさんがちょっと来てくださいって」とコーリャが戸口からのぞきこんで叫んだ。
 公爵が立って行きそうにすると、将軍はその肩に右の掌を載せて、なれなれしく元の長いすに彼を引きすえてしまった。
「なくなったおとうさんの誠実なる友として、わしはあらかじめあんたにご注意しておきたいことがあります」と将軍がいいだした。「わしはごらんのとおり、ある悲劇的な災難のためにひどい目にあいましたよ、それも無理非道に! 無理非道に! ニーナは世にも珍しい女です。ヴァルヴァーラ――これはわしの娘だが、また類の少ない娘です! 事情やむをえず下宿をはじめたが、じつに情けない零落のしようじゃありませんか! わしはこれでも総督くらいになれるはずでしたからな!………しかし、あんたが見えたのはわれわれ一同じつに嬉しい。ところが、この家に一つの悲劇がありましてな!」
 公爵はひとかたならぬ好奇心をもって、問い返すように相手をながめた。
「いま縁談がはじまっているが、それがすこぶる珍しい話なんですて。まやかしものの女と、ことによったら侍従武官にもなれようという青年との結婚ですよ。わしや妻や娘のいる家へ、あんな女を引きずり込もうというのだ! なんの、わしが息をしとるあいだは、あんなものを入れることじゃない!………わしは玄関のしきいに寝てやるから、入りたけりゃわしをまたいで行くがいい!………ガーニャとはほとんど口をききません。顔を合わせるのさえ避けるようにしております。わしはこうして、ことさらあんたにご注意しておきます。もちろんわたしどもへ寄宿されれば、ご注意しようがしまいが、どうせ見聞きされるわけだが、あんたはわしの親友のご子息だから、わしはあんたにお願いする権利があると!……」
「公爵、恐れ入りますが、ちょっと客間までいらしてくださいませんか」今度は自分で戸口までやって来たニーナ夫人が、こう呼んだ。
「まあ、どうだ、ニーナ」と将軍が叫んだ。「いろいろ話してみたところ、公爵はわしがこの手に抱いておもりをしたことがあるんだよ!」
 ニーナ夫人は夫にはたしなめるような、公爵には探り出すような注意ぶかい視線を向けたが、ひとことも口をきかなかった。公爵は夫人のあとについて部屋を出た。しかし、ふたりがやっと客間に入って、ニーナ夫人がなにやら早口に小声で話しはじめるやいなや、思いがけず将軍が自身ぶらりとやって来た。ニーナ夫人はいかにも口惜しげな様子で、編物に向かって屈みこんでしまった。将軍も夫人の表情に気がついたらしかったが、相変わらずの上機嫌で、「親友の子息!」と将軍はニーナ夫人に向かって叫んだ。「じっさい思いがけない! わしはもうとっくの昔から考えることさえよしてしまった。だが、おまえ、なくなったニコライ・リヴォーヴィチを覚えているかね。おまえもお目にかかったろう……トヴェーリで?」
「わたしニコライ・リヴォーヴィチなんてかた覚えておりません。あなたのおとうさまですか?」と夫人は公爵にたずねた。
「ええ。しかし、死んだのはたぶんトヴェーリじゃなくて、エリザヴェトグラードでしょう」と、公爵はおずおずと将軍に注意した。「ぼくはパヴリーシチェフさんに聞いたのですが……」
「いや、トヴェーリです」と将軍は断言した。「トヴェーリヘ転任の話が決定したのは、なくなるすぐ前、というより病気のあらたまる前のことでしたよ。あなたはただほんの赤ん坊だったから、転任も旅のことも覚えておられんだろう。パヴリーシチェフさんだって間違いということがありますよ。もっとも、じつにいい人だったけれど」
「では、パヴリーシチェフさんまでごぞんじですか?」
「まったく珍しい人だった。しかし、わしはちゃんとその場に居合わせたんですからな。わしは臨終の床でおとうさんを祝福してあげたんですよ」
「だって、ぼくの父は裁判中に死んだはずなんですが」と公爵はさらに注意した。「もっとも、どうしてそういうことになったのか、ぼくすこしもわからないのですが」
「おお、それはコルパコフという兵卒に関連した事件だ。それも公爵の身の明しは立つところだったのになあ」
「そうですか? あなた蘋かなことをごぞんじですね」と公爵はなみなみならぬ好奇心をもってたずねた。
「もちろんですとも!」と将軍は叫ぶようにいった。「裁判はなにひとつ決定せずに解散してしまったのですがね、じつにありうべからざる事件だ! いや、むしろ神秘的といっていいくらいだ。中隊長のラリオーノフ二等大尉が死んだので、公爵は一時かわってその職務をとるように命ぜられたと思いなさい。それは、もちろん、結構だ。兵卒のコルパコフなるものが窃盗を働いて、――友達の靴を盗んだのですな、――そいつを飲んでしまったです。これも結構。公爵は、――ここにちょっとご注意を願いたいのは、これが軍曹と伍長の立会いのもとに行なわれたことです、――公爵はこのコルパコフにさんざん譴責をくわしたうえ、笞刑にするといっておどかされた。これまたじつに結構なこった。コルパコフは兵舎に帰って寝板に横になった。すると、十五分ばかりたってから死んでしまったのですよ。これもよしと。しかし、まことに思いがけない、ほとんどありうべからざる出来ごとでした。ともかく、コルパコフの葬送がすんで、公爵は報告を書く、やがて兵卒コルパコフは名簿から削られたというわけですな。もうそれで何も申し分はないようだが、しかしそれから半年ばかりたって、旅団検閲のさい、ノヴォゼムリャンスキイ連隊第二大隊第三中隊へ、兵卒コルパコフが何くわぬ顔をして現われたんですよ。しかも、同じ旅団、同じ師団でですな!」
「なんですって!」驚きのあまりわれを忘れて公爵は叫んだ。
「それはそうじゃありません、間違いですよ」ほとんど悩ましげに公爵の顔をながめつつ、ニーナ夫人は彼に向かってそういった。「Mon mari se trompe(うちの人の思い違いです)」
「しかし、おまえ、se trompsといってしまうのはわけもないことだ。しかし、おまえ、こんな事件を自分で解決してみるがいい! みんな五里霧中に彷徨したね。わしだって人から聞いたら第一番に、qu'on se trompe(みんな思い違いをしている)といったかもしれん。しかし、不幸なるかな、わしは自分で親しく臨検し、また委員会にも列したんだからな。だれと対決さしてもみんなが口をそろえて、これは半年以前、通常礼式にしたがって、太鼓の響きの中に埋葬した、あの兵卒コルパコフに相違ありません、とこう証明するんだから仕方がない。じっさいそれは珍しい、ほとんどありうべからざることだ、それにはわしも同意する。けれども……」
「おとうさん、お食事の仕度ができましたよ」とヴァルヴァーラが部屋に入りながら知らせた。
「ああ、それは結構、ありがたい! ちょうどわしは腹をすかせていたところだ……しかし、これは心理的とさえいうことのできる事件ですよ……」
「またスープが冷めてしまうじゃありませんか」ヴァーリャはじれったそうにいった。
「すぐ行くよ、すぐ行くよ」と将軍は答え、部屋を出て行った。「どんなに調べてみても」まだこういう声が廊下から聞こえた。
「あなた、もし長くわたくしどもにおいでくださるのでしたら、いろいろなことでアルダリオンを大目に見ていただかねばなりません」こうニーナ夫人は公爵にいいだした。「でも、あの人もたいしてご迷惑をかけはいたしますまい。食事もひとりきりでいたしますから。申すまでもございませんけれど、どんな人にでも持ち前の欠点……持ち前の癖というものがありますからねえ。ことによったら、人にうしろ指をさされる人よりか、さす当人のほうにかえって欠点が多いかもしれません。ただ一つおり入ってのお願いは、ひょっとすると、夫が宿料のことで、あなたになにか申し上げるかもしれませんが、そういうときには、もうわたくしに渡したとおっしゃってくださいまし。それは、もちろん、アルダリオンにお渡しくだすっても、同様計算には入りますけれど、ただわたくし乱雑に流れないためにお願いいたすのでございます。なんです、それは、ヴァーリャ?」
 ちょうど部屋へ帰って来たヴァーリャは、無言のまま母の手ヘナスターシヤの写真を渡した。ニーナ夫人はぶるっと身をふるわせた。はじめはただ驚きの目を見はるのみであったが、やがて圧しつけられるような苦しさを覚えながら、しばらくじっと写真をながめていた。最後に大人は問いを発するような目つきでヴァーリャのほうを見た。
「きょうこの人が自分からにいさんへ贈り物としてよこしたんですって」ヴァーリャがいった。「そして、今夜、いっさいきまってしまうそうですの」
「今夜!」と夫人は絶望したように小さな声でくりかえした。「どうもしようがない? もうなんにも疑うこともなければ、希望というものもいっさいなくなりました。ナスターシヤはこの写真で自分の意向を知らせたんです……あれが自分でおまえに見せたのかえ?」と彼女は驚いたようにつけ足した。
「わたしたちがもうまるひと月口もきかないのは、ごぞんじじゃありませんか。プチーツィンさんがすっかりわたしに知らせてくだすったんですわ。写真はにいさんのテーブルのそばのぶに転がってたから、それを拾ってきたんですの」
「公爵」とふいにニーナ夫人が問いかけた。「わたくしあなたにおうかがいしたいことがございますの。(ここへご足労を願ったのもそのためですが)あなた、ずっと以前から宅のせがれをごぞんじでしょうか? あれの話では、あなたはさようはじめてどちらからかお着きになったばかりだそうですが?」
 公爵は半分以上はしょって自分の身の上話をした。ニーナ夫人とヴァーリャとは注意ぶかく聞き終わった。
「わたくしはけっして、あなたにいろんなことをおたずねして、ガーニャのことをなにか探り出そうなどという考えはございません」とニーナ夫人がいいだした。「この点はどうぞお考え違いのないように願います。もしあれになにか自分の口からいわれぬようなことがあれば、わたくしもあれをさしおいてそれを探り出そうなどとはぞんじません。わたくしがこんなことを申すのはほかでもありません。じつは先刻ガーニャがあなたのおうわさをいたしましてね、それからあなたがあちらへおたちになったあとで、わたくしがなにかあなたのことをたずねますと、『公爵はみんなそっくりごぞんじだから、今さら上品ぶったってしようがない!』とこう申すではありませんか。いったいこれはなんのことでございましょう? いえ、つまり、わたくしのおうかがいしたいのは、どれくらいの程度まで……」
 ちょうどこのとき、ガーニャとプチーツィンが入って来たので、ニーナ夫人はすぐに口をつぐんでしまった。公爵はそのそばのいすに腰をかけたままでいたが、ヴァーリャはぷいと脇のほうへ離れて行った。ナスターシヤの写真は、ニーナ夫人の前にすえてある仕事机の、いちばん目に立つ場所に載っていた。ガーニャはそれを見ると眉をしかめ、いまいましそうに机から取り上げて、部屋の反対側の隅に立っている自分の事務机の上へほうり出した。
「きょうだね、ガーニャ?」とふいにニーナ夫人が問いかけた。
「なんです、――きょうって?」とガーニャはぴくりとしたが、いきなり公爵にくってかかった。「ああ、わかった。またあなたはここへ来てまで!………まあ、まったくあなたは、なにか病気なんですかね? 黙って辛抱できないんですか? ほんとにちっとは考えてくださいよ、あなた……」
「これはだれでもない、ぼくが悪いんだよ」とプチーツィンがさえぎった。
 ガーニャは不審そうに彼をながめた。「しかし、きみ、そのほうがかえっていいじゃないか。それに一方からいえば、事はすでに決着しているんだからね」とつぶやき、プチーツィンは脇のほうへどいてテーブルの前に腰をおろし、ポケットから鉛筆でいっぱいなにか書いた紙きれを取り出し、いっしんにそれをにらみはじめた。
 ガーニャは仏頂面をしながら、不安げに家庭悲劇のひと幕を待ちもうけていた。公爵にわびをしようなどとは思いもよらなかった。
「事が決着したとすれば、そりゃ、もちろん、プチーツィンさんのおっしゃるとおりです」とニーナ夫人はいった。「どうかそんなむずかしい顔をおしでない、ね、腹を立てないでおくれ。わたしはなにもおまえのいいたくないことを、根掘り葉掘りして聞こうとはしません。ああ、もうもうわたしはすっかりあきらめました。後生だから心配しないでおくれ」
 彼女はこれだけのことを、仕事から目を離さずにいったが、じじつおだやからしい口調であった。ガーニャはちょっと面くらったが、用心ぶかく黙りこんだまま、もうすこしはっきりいってくれるのを待ち受けながら、母の様子をじっと見つめた。じっさい、この家庭悲劇には彼も今まで高い価いを払ったのである。ニーナ夫人はわが子の大事をとっている様子を見てとると、苦い微笑を浮かべてつけ足した。
「おまえはまだわたしを疑って信用しないんですね。心配おしでない。もうこれからは以前のように、泣いたり頼んだりしやしないから。すくなくともわたしだけはね。わたしはただおまえが仕合わせでいてくれるようにと願うばかりです。それはおまえだって知っておいでのはずだ。わたしは運命というものに身を任せてしまいました。けれど、わたしの心ばかりは、一つ家に住まおうと別居しようと、いつでもおまえといっしょにいます。もちろん、わたしのいうのは自分ひとりだけのことですよ。それと同じことを妹からも要求するわけには行きません……」
「ああ、またあいつが!」とガーニャは叫んで、あざけるように憎々しげに妹をながめた。「おかあさん! もう前に約束したことですが、わたしはもう一度あなたに誓います、ぼくがついているあいだは、ぼくが生きているあいだは、けっして何者にもあなたに無礼な真似はさせません。だれが問題になろうとも、わたしはあなたに対する礼儀は失いません。だれが家のしきいをまたいで入っても……」
 ガーニャはすっかり嬉しくなって、和を求めるような優しい目つきで母をながめるのであった。
「わたしはね、自分のためには何も恐れはしなかったんですよ、ガーニャ、それはおまえにもわかるだろうね。わたしがあの長いあいだ心配したり、苦しんだりしてきたのは、自分のためじゃありません。なんだかきょうすっかり片がつくそうですが、いったいなんの片なの?」
「今晩あの人が自分の家で、承知か不承知かはっきり返事をするって約束したんです」とガーニャが答えた。
「わたしたちはかれこれ三週間というもの、この話を避けていましたが、まったくそれがよかったんです。けれど、今は何もかも決着したのだから、たった一つきかしてもらいたいと思います、――どうしてあの人はおまえに承諾の返事をしたうえ、おまけに写真まで贈ることができたのかしら? だって、おまえあの人を愛してはいないんでしょう。それともおまえはあんな……あんな……」
「ふ、男を知った女を、とでもおっしゃるんですか?」
「わたしはそんなふうにいおうと思ったのじゃありません。だけど、ほんとにおまえそれほどまでにあの人の目をくらますことができたのかえ?」
 恐ろしいいらだたしさが突如この問に響いた。ガーニャはじっと突っ立ったまま、一分間ほど考えていたが、やがて冷笑の色を隠そうともせずにいいだした。
「おかあさん、あなたはまた引きこまれてがまんしきれなくなりましたね。われわれの話はいつでもこんなふうに始まって、しだいに火の手が大きくなってゆくんです。あなたはたった今、もううるさく問いもしまいし、責めもしないとおっしゃったのに、もうそいつが始まったじゃありませんか? もうよしましょう、じっさいよしましょう、そのほうがいい。すくなくも、おかあさんにはそういう意志があったんですからね……わたしはどんなことがあろうとも、けっしてあなたを見捨てはしません。これがほかの者だったら、すくなくもこんな妹のところから逃げ出してしまいますよ、ほら、あんな目をしてぼくのほうをにらんでいる! いやこれでもうよしましょう! まったくわたしは大いに嬉しく思ってたんですがね……わたしがナスターシヤさんをだますなんて、なんだってそんなことをお考えなさるんでしょう。ヴァーリャのことにいたっては、どうともあれの勝手です、それでたくさんだ。いや、もうこれで、まったくたくさんです!」
 ガーニャはおのれのひとことごとに興奮して、あてもなく部屋の中を歩きまわった。こうした会話はすぐに家族一同の痛いところへさわったのである。
「わたしもそういったじゃなくって、もしあの女がここへ入るなら、わたしこの家から出て行きますわ。わたしだっていっただけのことは実行するわ」とヴァーリャがいった。
「強情なんだ! 強情のため結婚もしないのだ! おい、なにが『ふん』だ。おれはそんなことなんか屁でもないんだ、ヴァルヴァーラ・アルダリオーノヴナ。なんなら、――今すぐでもご計画を実行なすったらいいでしょう。あなたにはほんとうにあきあきしすぎるくらいだ。なんです! 公爵、いよいよあなたはわたしたちをうっちゃって行こうとおっしゃるんですか」公爵が座を立ったのを見て、ガーニャはこう叫んだ。
 人は、憤激がある程度まで達すると、自分でもほとんどその憤激が愉快になって、どうなろうとままよというやけ気味からしだいにつのり行く快感を楽しみながら、なんの抑制もなく憤懣の情におぼれてしまう。ガーニャの声にはそういった調子が響いていた。公爵はなにか答えようとして戸口のところでふりかえったが、暴慢な相手の病的な表情によって、コップの水はいま一滴にしてあふれんとしているのを見て取ると、そのままきびすを返して無言のまま出て行った。幾分かののち、彼は客間からもれる声によって、自分がいなくなると同時に、会話はいっそう騒々しく、いっそう露骨になったことを知った。
 彼は廊下を横切って自分の部屋へ帰るつもりで、広間から玄関へ出た。出入り口の階段へ導くドアのそばを通り抜けようとしたとき、だれかが戸の外でいっしょうけんめいベルを鳴らそうとしているのに気がついた。おそらくベルのどこかがこわれたのであろう、ただちょっと震えるばかりで音がしなかった。公爵は掛金をはずして戸をあけた。と、――愕然としてたじたじとなり、仝身ぶるっとふるえたほどであった。彼の目の前にはナスターシヤ・フィリッポヴナが立っていた。彼は写真ですぐに見わけがついた。彼女が公爵に気づいたとき、その両眼は一時に爆発したいまいましさに燃え立つようであった。彼女は公爵を肩で突き飛ばし、つかつかと控室へ通ると、毛皮外套をかなぐり捨てて、腹立たしげに言った。
「もしベルを直すのがおっくうだったら、せめて人が戸をたたくとき控室にでもすわってればいいに。おや、今度は外套を落っことしたよ、まぬけ!」
 なるほど、外套は床の上に横たわっていた。ナスターシヤは公爵が脱がせるのを待ちきれずに、自分で外套を脱ぎ、ろくろく見もしないで、うしろ向きに彼の手へほうったのを、公爵は受けとめる暇がなかったのである。
「おまえみたいなやつは追ん出してしまわなくちゃ。さあ、取り次ぎをおし」
 公爵はなにかいいたかったのであるが、すっかりまごついてしまって、ひとことも口へ出なかった。で、外套を床から拾い上げると、それを手にもったまま客間へおもむいた。
「まあ、今度は外套を持って歩いてるよ! 外套をなぜ持って歩くんだえ? は、は、は! ほんとにおまえは気でもちがってるんじゃないか?」
 公爵は引っ返し、彫像のように彼女を見つめた。相手が大きな声で笑いだすと、彼もつられて微笑したが、舌を動かすことはどうしてもできなかった。はじめ彼女のために扉をあけたとき、彼の顔は青ざめていたのに、それがいま急に真っかになったのである。
「ほんとになんて白痴なんだろう!」とナスターシヤはいまいましげに足踏みしながらどなりつけた。「あら、おまえどこへ行くんだえ? まあ、いったいだれが来たって取り次ぐつもりなの?」
「ナスターシヤ・フィリッポヴナ」と公爵はつぶやくようにいった。
「おまえどうしてわたしを知ってるの?」彼女は早口にたずねた。「わたし、おまえを見たことなんかありゃしない!いいや、行ってお取り次ぎ……おや、あれはどうしたって騒ぎなの?」
「喧嘩してるんです」と答え、公爵は、客間へおもむいた。
 公爵が入ったのは、かなりきわどい瞬間であった。ニーナ夫人はたった今『何もかもあきらめた』といったのを、もはや忘れかけていた。彼女はどうしてもヴァーリャの肩を持たずにはいられなかった。ヴァーリャのそばにはプチーツィンも、いつの間にやら、例の鉛筆でいっぱい書きこんだ紙をうっちゃって立っていた。当のヴァーリャもけっして臆しなどはしなかった。またそんなたちの娘ではない。しかし、兄の悪口雑言はひとことひとことに聞いていられないほど無作法になっていく。通常こういう場合、彼女は口をきくのをやめて、ただ黙つてわき目もふらずに、皮肉な目つきで兄の顔を見つめるのであった。この方略が兄の堪忍袋の緒を切らすに有効なのは、ヴァーリャ自身がよく心得ていた。この瞬間、公爵が部屋へ入って来て。
「ナスターシヤ・フィリッポヴナがお見えになりました」と披露した。

      9

 一座は急にひっそりとしてしまった。人々は公爵のいうことがわからないかのように、またわかりたくないかのように、彼の顔を見つめるのであった。ガーニャは驚きのあまりからだが麻痺したようになった。
 ナスターシヤの来訪は、ことにこの場合一同にとって、じつに奇怪で、厄介な、思いもかけぬできごとであった。すくなくとも、ナスターシヤがはじめてやって来たということ、それ一つだけでもそう思うのに十分であった。これまで彼女はいやに高くとまって、ガーニャと話すときにも、彼の肉親の人たちと近づきになりたいという希望すら、ほのめかしたことがないくらいであった。しかも、最近にいたっては、まるでそんな人たちはこの世にいないもののように、おくびにも出さなくなった。ガーニャは自分にとって厄介な話が遠のくのを内々喜んではいたものの、それでも内心、女の高慢さをちゃんと胸に畳みこんでいた。なにはともあれ、彼はナスターシヤから、むしろ自分の家族に対する冷笑や皮肉こそ期待していたけれど、来訪などは夢にも思いそめなかった。今度の結婚談について彼の家庭にどんなことが起こっているか、また彼の家族がナスターシヤはどんなふうに見ているか、こういうことがすべて彼女の耳に入っているのは、ガーニャもたしかに知っていた。彼女の訪問は今の場合[#「今の場合」に傍点]、――写真を男に贈ったのちでもあり、また自分の誕生日、すなわち彼の運命を決するという約束をした日でもあるから、ほとんどその決定それ自身を意味しているとも言えた。
 公爵を見つめる人々の顔にあらわれた疑惑は、さほど長くつづかなかった。ナスターシヤはもう自分で客間の戸口に姿を現わして、部屋の中へ入りながら、またしても公爵を軽く突きとばした。
「やっとのことで入れた……あなたなんだってベルを辯えつけておきなさるの?」あたふたと馳せ寄るガーニャに手をさし伸べつつ、ナスターシヤは愉快そうにいった。「なんだってそんな泡くった顔をしてらっしゃるの。紹介してちょうだいな、どうぞ……」
 ガーニャはまったく転倒しきって、最初にヴァーリャを紹介した。すると、ふたりの女はたがいに手をさし出す前に、まず奇妙な視線を交わした。ナスターシヤは、とはいえ、にっこり笑って愉快そうなふりをして見せたが、ヴァーリャのほうは仮面をかぶろうともせず、陰欝な目つきでじっと相手をながめたまま、簡単な礼譲の要求する微笑の影すら浮かべなかった。ガーニャは胆を冷やした。もう嘆願するわけもないし、また暇もないので、彼は威嚇するような視線をヴァーリャに投げつけた。ヴァーリャはこの目つきからして、今の一分間が兄のためにいかなる意味をもっているかをさとった。そこで、彼女は兄に一歩ゆずろうと決心したらしく、ナスターシヤに向かってほんの心持ちほほえんだ(家庭内では彼らもまだまだおたがいに愛し合っていた)。いくぶんこの場をとりつくろったのはニーナ夫人であった。ガーニャはすっかりまごついてしまって、妹のあとで母を引き合わせ、しかも母からさきに、ナスターシヤのそばへ進ませたのである。けれども、ニーナ夫人がやっと自分の『非常な喜び』を話しださないうちに、ナスターシヤはしまいまで聞こうともせず、くるりとガーニャのほうへふり向いて、(なんともいわれぬさきから)片隅の窓下にすえてあるふ形の長いすに腰をおろしながら、大ぎょうな声で言いだした。
「あなたの書斎はどこ? そして……そして、下宿人は? だって、あなた下宿人を置いていらっしゃるんでしょう?」
 ガーニャはおそろしく赤面して、なにやらどもりどもり答えようとしたが、ナスターシヤはすぐにこうつけ足した。
「いったいどこに下宿人をお置きになるの? あなたのとこには書斎もないじゃありませんか。ですが、もうかりますか?」ふいに彼女はニーナ夫人に向かってこういった。
「ずいぶん面倒でございます」と、こちらは答えはじめた。「それは申すまでもなく、利益もありませんでは……ですけれど、わたくしどもはほんの……」
 しかし、ナスターシヤは今度も、もう聞いていなかった。彼女はじっとガーニャを見すえていたが、やがて笑いながら叫びだした。
「まあ、あなたの顔はなんでしょう。ああ、ほんとに、こんなときになんて顔をなさるんでしょう……」
 この笑いがいっときつづいた。と、ガーニャの顔はほんとうにものすごく歪んで来た。棒のように固くなった態度や、こっけいな臆病そうなうろたえた表情がふいに消えて、気味の悪いほど真っ青な顔になり、くちびるは痙攣的にひん曲がった。彼は無言のまま気味の悪い目つきで、じっと瞬きもせずに、絶え間なく笑いつづける客の顔を見つめるのであった。
 そこにはもうひとり傍観者があった。最初ナスターシヤを見た瞬間から、麻痺したような状態に陥ったまま、じっと戸口のところで「棒立ち」になっていたが、それでもガーニャの顔が青ざめてものすごい変化をおこしたのに気づいた。この傍観者は公爵であった。彼はほとんど仰天したもののごとく、いきなり機械的に二、三歩前へ踏み出した。
「水をお飲みなさい」と彼はガーニャにささやいた。「そうして、そんな目つきをしちゃいけません」
 公爵はこれだけのことをなんの考えも目算もなく、ただほんの衝動的にいったものらしかった。けれど、この言葉のもたらした働きは異常のものであった。ガーニャの憤怒は挙げてことごとく、一時に公爵へ浴びせかけられたように思われた。彼はいきなり相手の肩をつかんで、無言のまま復讐の念にもえてさも憎々しげに、さながら一語も発することができぬといった様子で、じっとねめつけるのであった。一座はざわざわと動揺しはじめた。ニーナ夫人は低い叫び声を上げたほどである。プチーツィンは気づかわしげに一歩前へ踏み出した。おりから戸口に現われたコーリャとフェルディシチェンコは、びっくりして立ちどまった。ただヴァーリヤのみはいぜんとして額ごしに注意ぶかくできごとを観察していた。彼女は席に着きもせず母のそばへ寄って、両手を胸に組み合わしたまま立っていた。
 けれども、ガーニャはすぐ、ほとんどこの動作をはじめると同時に心づいて、神経的にからからと高笑いした。彼はすっかりわれに返ったのである。
「何をおっしゃるんです。公爵、お医者さまででもあるんですか?」と彼はできるだけ快活に磊落な調子でいった。「びっくりしたじゃありませんか。ナスターシヤさん、ご紹介いたします、このかたはじつに珍しい掘出し物なんです。もっともぼくもけさはじめて近づきになったばかりですが」
 ナスターシヤは不審そうに公爵をながめた。
「公爵ですって? この人が公爵ですの? まあ、どうしましょう、わたしさっき控室でこのかたを下男だと思って、ここへ取り次ぎによこしたんですよ、ははは!」
「大丈夫です、大丈夫です!」つかつかとそばへ寄って来たフェルディシチェンコは、彼女が笑いだしたのが嬉しくなって、こう口を入れた。「大丈夫です。Se non e vero(もし本当でなければ イタリー語)……」
「ほんとに、あなたを叱りつけんばかりでしたねえ、公爵。ごめんなさい、どうぞ。フェルディシチェンコさん。どうしてこんなときにここへ来てらっしゃるの。わたしね、せめてあんただけにでも、ぶつかりたくないと思ってましたの。どなたですって? 公爵ってどんな? ムイシュキン?」と彼女はガーニャに問いかえした。こちらはまだ公爵の肩をつかんだまま、どうかこうか紹介の役目を済ました。
「わたしどもへ下宿していなさるかたです」とガーニャはくりかえした。
 明らかに公爵をば、なにか珍しい(そうしてこのばつの悪い状態から一同を救い出してくれるような)ものとして取り扱った。人々は彼をナスターシヤのほうへ押しつけんばかりであった。公爵はうしろのほうでだれやら、――たぶんフェルディシチェンコであろう、――小さな声で『白痴』といってナスターシヤに説明しているのを、はっきり耳にした。
「ねえ、公爵、さっきわたしがあなたのことであんなにひどい……思い違いをしたときに、なぜ注意してくださらなかったんですの?」とナスターシヤは無作法きわまる態度で、公爵を頭から爪先までじろじろ見まわしながら言葉をついだ。彼女は公爵の返答が、吹きださずにはいられないほどばかげていることを、すっかり信じきって疑わないふうで、もどかしげに待ちもうけていた。
「あんまりふいにお目にかかったものですから、びっくりしてしまったのです……」と公爵はつぶやいた。
「ですが、どうしてわたしだってことがわかりました? 以前どこでわたしをごらんになったんですの? どういうわけかしら、わたしもなんだかほんとにこの人をどこかで見たような気がするわ。失礼ですが、なぜあなたはさっきいきなり棒のように突っ立っておしまいなすったの? わたしにはなにか人を棒立ちにさせるようなものがあるんでしょうか?」
「さあ、しっかり、しっかり!」とフェルディシチェンコはいつまでも道化面をしながらつづけた。「さあ、しっかり!もしぼくがこんなことをきかれたら、うんといってやることがあるんだがなあ! さあ、しっかり……公爵、そんな具合じゃ、きみはこれからまぬけにされちまうぜ!」
「そうですね、ぼくだってきみの立場にあったら、いうことはいくらでもありますよ」と公爵はフェルディシチェンコに笑いかけておいて、「じつはさっき、あなたの写真を見て、じつに強いショックを受けたものですから」と今度はナスターシヤのほうへ向いて言葉をつづけた。「そのうえ、エパンチン家の人たちともあなたのおうわさをしましたし……けさ早く、まだペテルブルグへ入らぬさきに、汽車のなかでパルプェン・ラゴージンがあなたのことをいろいろ話してくれたものですから……それにさっき玄関の戸をあけたときも、やはりあなたのことを考えていたところへ、いきなりあなたが人うていらっしゃるじゃありませんか」
「でも、どうしてわたしだってことがわかりました?」
「写真と、それから……」
「それから、ほかに?」
「それから、ほかにわけというのは、ぼくあなたという人をそんなふうに想像していましたから……ぼくもなんだかどこかであなたを見たような気がします」
「どこで? どこで?」
「ぼくはなんだかあなたの目を、どこかで見たような気がするんですが……しかし、そんなことのあろうはずがありません! これはぼくがただ……ぼくはだいいち、一度もここへ来たことがなかったんですもの。もしかしたら夢にでも……」
「ようよう、公爵!」とフェルディシチェンコがどなった。「だめだ、ぼくはさっきいったse non e veroを撤回します。もっとも……もっとも、これはみんなこの人の無邪気な性格から出ることなんですからね!」と彼は残念そうにつけ足した。
 公爵は以上の言葉をとぎれとぎれに、幾度か息をつぎながら、落ちつきのない声で話したのである。激しい動揺は、そのからだ全体に現われていた。ナスターシヤは好奇の表情で相手をながめていたが、もはや笑おうとはしなかった。ちょうどこの瞬間、別な新しい太い声が、公爵とナスターシヤをとり巻く大勢の人々のかげから聞こえた。その声が人々を一時にさっと左右へ引き分けたような具合であった。ナスターシヤの前には、一家の主たるイヴォルギン将軍が立っていた。彼はさっぱりとした胸あての上に燕尾服をつけ、鼻下の髭は美しく染めてあった。
 これはもうガーニャにとってがまんできないことだった。
 ほとんど猜疑と、神経過敏に陥るほど自尊心と虚栄心の強い彼、このふた月のあいだずっと自分を一段と高尚で上品に見せかけてくれるような足場をせめて一点なりともと、さがしまわっていた彼、しかしこの道にかけて自分はほんの新参者で、とても最後まで待ちこたえられそうもないと感じて、とうとうやけ半分に、もともと専制君主だった家庭内で、できるだけ横暴にふるまってやろうと決心したものの、それでもむごたらしいほど高飛車に出て、この期に及んでまで彼をまごつかしてばかりいるナスターシヤの目の前で決行する気になれなかった彼、ナスターシヤの評言をかりれば、『かんしゃくもちの物貰い』であり、しかもこの評言を聞きこんで以来、今にこの仕返しをせずにはおかぬぞと、ありとあらゆるものにかけて誓ったが、またそれと同時に万事をうまくまるめてしまって、いっさいの対立を妥協させようなどと、ときどき子供のような空想をたくましゅうする彼、――こういう彼が、今またさらにこの苦杯を飲みほさねばならなくなった。しかも、それがよりによってこんなときなのである! まだ一つ予期されなかったが、虚栄心の強い人間にとってなによりも恐ろしい拷問、――自分の肉親に対する羞恥の苦痛が、おまけに自分の家で、彼の頭上に落ちてきたのである。『いったいあの報酬が、これだけの値うちをもっているのだろうか?』という想念がこの瞬間、ちらとガーニャの頭にひらめいた。
 ふた月のあいだ毎夜毎夜、悪夢となって彼をおびやかし、恐怖となって胆を凍らせ、羞恥となって顔を燃やしたことが、この瞬間、事実となって現われた。すなわち、彼の父親とナスターシヤの会見が、ついに実現したのである。彼はときどき自分で自分をからかったり、いらだたせたりするような気持ちで、結婚式上の父将軍を描いてみようとしたが、いつもそのつらい光景を完成させるだけの力がなく、中途でほうり出してしまうのであった。ことによったら、彼はとほうもなく不幸を誇大していたかもしれぬが、虚栄心の勝った人はいつでもこうなのである。とにかくこのふた月のあいだに彼はいろいろと考えたあげく、どんなことがあっても、よしほんの一時でも、父将軍を押しこめるか、それともできることならペテルブルグから外へ追ん出してしまおう、母夫人の諾否などかまうことでない、とこう決心したのである。十分前にナスターシヤが入って来たとき、彼はびっくりして気が転倒したために、アルダリオン将軍がここへ現われるかもしれぬということなど、とんと度忘れして、それに対するなんの方法も講じないでいた。ところが、将軍は、早くもここへ一同の目の前に出て来たのだ。しかも、ナスターシヤが『ただただガーニャや家族のものに嘲笑を浴びせる機会をさがしている』(それは彼もちゃんと確信していた)ちょうどその瞬間に、ものものしく燕尾服など用意して現われたのである……じっさい、ナスターシヤの来訪はこの目的以外に、はたして何を意味しているだろう? 母や妹と親善を計りに来たのか、それとも彼らを侮辱に来たのか? しかし、双方の陣どっている形勢から見ても、そこになんの疑問も存在しない。母と妹は唾でもひっかけられたように、脇のほうに小さくなってすわっているし、ナスターシヤはそれに引きかえて、そんな人たちが自分と一つ部屋にいることなどは、とっくに忘れたような有様である……彼女がこのようなふるまいをする以上、もちろん、ちゃんとした目的があるのだ! フェルディシチェンコは将軍をつかまえて、しょびいて来た。
「アルダリオン・アレクサンドロヴィチ・イヴォルギン」ちょっと小腰をかがめてほほえみながら、将軍はしかつめらしく口をきった。「不幸なる老兵で、またかような美しい……かたを迎えうるという希望によって無限の幸福を感じつつある家庭のあるじでございます」
 彼がまだいい終わらないうちに、フェルディシチェンコが手早くうしろからいすを進めたので、ちょうど昼食後で足の定まらない将軍は、べたりといすの上へくずおれた、というよりむしろしり餅をついたのである。けれど、彼は、すこしもひるまず、ナスターシヤの真向かいにすわって、こころよく顔の筋肉を動かしながら、ゆっくりと気どった身ぶりで女の指をくちびるへ持って行った。総じて将軍をひるませるめは、ずいぶんむずかしいことであった。彼の外貌は、いくぶんかだらしのない点をのけたら、かなりまだ上品で、将軍自身もよくそれを心得ていた。彼も以前はごくりっぱな社交界にも出入りするおりがあったけれども、つい二、三年ばかり前から完全にのけ者にされてしまった。このときから、彼はもうとめどもなしに、ある種の弱みにおぼれるようになったのである。それでも、巧者な気持ちのいい身のこなしは、まだ今に残っていた。ナスターシヤはアルダリオン将軍が出て来たのを、心から喜んだ様子であった。この人のことはもちろん彼女もうわさに聞いていた。
「承りますれば、宅のせがれが」と将軍は話しかけた。
「ええ、お宅のご子息! それにあなたも、おとうさんも結構なかたでございますこと! なぜあなたすこしも宅へいらっしゃらないんですの? なんですか、あなたご自分でお隠れなさるんですの、それともご子息があなたを隠すんですの? あなたならもうだれにも迷惑をかけずに、ご自分でいらっしゃれそうなものじゃございませんか」
「十九世紀の子供とその親たち……」と将軍はまたしてもなにやらいいかけた。
「ナスターシヤ・フィリッポヴナ! どうぞちょっとのあいだアルダリオンにごめんをこうむらしてくださいませんか。なにかあちらで用事があるそうでございますから」とニーナ夫人が大きな声でそういった。
「ごめんこうむらして? それはひどうござんすわ、わたしいろいろおうわさをうかがっていましたから、もう前からお目にかかりたいとぞんじていたのですもの! それに将軍にどんなご用がおあんなさるんでしょう? だって、いま退職してらっしゃるじゃありませんか。ねえ、将軍、あなたわたしを置いてきぼりになさりはしますまいねえ、あちらへいらっしゃりはしないでしょう?」
「わたくしお約束いたします。そのうちきっと自分で伺わせますが、今はちょっと休息いたさねばなりませんので」
「将軍、あなたご休息なさらなくちゃならないんですって!」気むずかしく不満げに顔をしかめながら、ナスターシヤは叫んだ。その調子はまるで玩具を取られかかったお転婆娘のようであった。
 将軍は将軍で、まるで自分のほうから、自分の立場をいっそうばかばかしいものにしようと、あせっているかのようであった。
「これ、おまえ! これこれ!」彼はものものしく妻に向かってとがめるようにこういって、片手で心臓の上をおさえた。
「おかあさん、あちらへいらっしゃらなくって?」と声高にヴァーリャが問いかけた。
「いいえ、ヴァーリャ、わたしはしまいまでいます」
 ナスターシヤはこの問答を聞かないはずはなかったのであるが、彼女のはしゃぎかたはそのためによけいひどくなったように思われた。彼女はすぐにふたたびさまざまな質問を将軍に浴びせかけた。やがて五分もたつうちに、将軍は最も得意な気持ちになって、はたのものが無遠慮に笑うのにもお構いなく、とうとうと弁じ立てていた。
 コーリャは公爵の上着の裾をひっぱった。
「ねえ、せめてあなたでも、どうかしておとうさんを連れて、つてくださいな! あれをうっちゃってはおけない! 後生ですから!」あわれな少年の目には、憤りの涙が輝いていた。「ガンカの極道!」と彼は口の中でつけ足した。
「じっさい、エパンチン将軍とは非常な親友でしたよ」将軍はナスターシヤの問いに対して、際阻なくまくし立てた。「わたしと、エパンチン将軍と、なくなったムイシュキン公爵、この人の忘れがたみを、きょうわたしは二十年ぶりにこの手で抱きましたが、この三人は離れることのできぬ騎士組でした、アトス、ポルトス、アラミス、といった具合にね。しかし、悲しいかな。その中のひとりは誹謗《ひぼう》と弾丸に打ち倒されて墓の中に眠り、いまひとりはあなたの前にいて、今なお誹謗と弾丸と戦っています……」
「弾丸とですって?」とナスターシヤは叫んだ。
「さよう、それはここにあります、わたしの胸の中にあります。カルスの役に受けた傷ですが、天気の悪い日にはしくしく痛むのです。しかし、ほかのあらゆる点において、わたしは哲学者として生きています。仕事から遠ざかったブルジョアみたいに散歩したり、行きつけのカフェーで将棋をさしたり、『アンデパンダンス』(仏字新聞)を読んだりしています。ところで、わがポルトス、――つまり、エパンチン将軍ですな、この人とは三年前におこった汽車の中の狆事件以来、永久に絶交してしまいましたよ」
「狆事件! それはいったいなんのことですの?』一種特別の好奇心をもって、ナスターシヤがたずねた。「狆ですって!ちょっと待ってください、そして汽車の中で!………」彼女はなにやら思いだした様子であった。
「いやいや、ばかばかしい話なんです。今さらお聞かせする値うちもありません。ベロコンスカヤ公爵夫人の家庭教師、ミセス・シュミットがもとなんです、しかし……お聞かせする値うちもありません」
「いいえ、ぜひお話しくださいまし!」と愉快げにナスターシヤが叫んだ。
「ぼくもまだ聞かなかった」とフェルディシチェンコが口を出して、「C'est du nouveau(これは珍聞だ)」
「アルダリオン!」ふたたびニーナ夫人の哀願するような声が響いた。
「おとうさん、ちょっと来てくださいって!」コーリヤは叫んだ。
「なに、ばかばかしい話で、たったひとことで済んでしまいます」と将軍は得々と語りはじめた。「さよう、二年前のことでしたよ! 二年にちょっと足りませんでしたか。新しい××鉄道が開通したばかりのとき、わたしは(そのころもう軍服を着ていなかったです)自分にとって非常に重大な用向き、事務の引渡しに関することで一等の切符を求め、汽車に入って席を取り、たばこを吹かしていました。つまり、その、引きつづき吹かしていたんです。もう前から吹かしていたわけなんで。わたしは車室の中にひとりきりでした。喫煙は禁じられてもいないが、許可されてもいず、まあ、習慣
上半許可といった形です、つまり、その人柄によってね。窓はあけてありました。すると、汽笛が鳴るまぎわに、とつぜんふたりの婦人客が、狆をつれて入って来て、わたしの真向かいに席を占めたじゃありませんか。あやうく乗り遅れるところだったのです。ひとりはけばけばしい明るい水色の着物を着ていましたが、ひとりはすこしじみな黒い絹の着物に、ショールを首に巻いていました。どちらも悪い器量ではありませんが、高慢ちきな顔つきをして、英語をぺらぺらしゃべるのです。わたしはもちろん平気です、ぷかぷか吹かしていました。いや、まんざら気がつかんでもなかったんですが、窓があいてるもんだから、窓のほうを向いて相変わらず、吹かしつづけたわけなんです。狆は明るい水色の奥さんのひざでおとなしくしていました。わたしの片手に入りそうな小さなやつで、全身真っ黒、ただ足の先だけ白い、じつに珍しいものでした。銀の首輪にはなにかの文句が彫ってありました。わたしはあくまで平気です。しかし、ちょいちょい見ると、婦人たちは腹を立てているらしい、もちろん、シガーのことです。ひとりのほうが鼈甲の柄付き眼鏡を取り出して、じっと人をにらみつけるじゃありませんか。わたしはそれでもまだ平気です。だって、何もいわないんですからね! ちょっとなんとかいって注意するとか、または頼むとかすればよさそうなもんじゃありませんか、ちゃんと人なみの舌を持ってるんですもの! ところが、やはり黙りこんでいる……するとふいに――しかも予告なしに、いいですか、それこそひと言の予告なしに、まるで気でもちがったように、――明るい水色の婦人がわたしの手からシガーをひったくって、窓の外へほうり出しました。汽車はどんどん走る、わたしはばかみたいな顔をしてぼんやりしていました。野蛮な女ですな、じつに野蛮な女です、まったく野蛮な階級から出たものに相違ありません。しかし大柄の女で、肥った背の高いブロンドで、ほっぺたは赤く(じっさいあんまりだと思われるくらいでした)、目はわたしのほうを向いて、ぎらぎら光っていました。こっちはひとことも物をいわずに、驚くべき慇懃、完成されたる慇懃、いわゆる洗練されたる慇懃さをもって、二本指を出して狆に近寄り、優しくその首筋をつかんで、シガーを投げたばかりの窓からほうり出しました。ただひとこときゃっと鳴いたばかり! 汽車は遠慮なく走りつづける……」
「まあ、あなたもひどいかたね!」とナスターシヤは大声に笑いながら、子供のように手をうって叫んだ。
「ブラヴォ、ブラヴォー」とフェルディシチェンコがどなった。
 将軍の出現がひどく不快であったプチーツィンも、思わず微笑を浮かべた。コーリャまで笑いながら、同じくブラヴォを叫んだ。
「そして、わたしは公明正大です、まったく公明正大です、徹頭徹尾、公明正大です!」と得意満面で、将軍は熱心に語をついだ。「なぜといって、ごらんなさい、もし汽車の中で葉巻が禁じられているなら、犬はなおさらのこと禁じられているはずですからな」
「ブラヴォ、おとうさん!」とコーリャは有頂天になって叫んだ。「まったくです、ぼくだってきっと、きっとそうしますよ!」
「ですが、その婦人はどうしました?」と、もどかしげにナスターシヤが追究した。
「女ですか? いや、そこなんですよ、じつにいやなのは」と眉をひそめつつ将軍は語りつづけた。「ひとことの挨拶もなく、いきなりわたしにびんたを一つ食らわしたのです! 野蛮な女だ、まったく野蛮な階級から出た女です!」
「そして、あなたは?」
 将軍は伏目になって眉を上げ、肩をそびやかし、くちびるを引きしめて両手をひろげたまま、しばらく無言でいたが、ふいに口をきった。
「つい前後を忘れました!」
「そして、ひどく? ひどく?」
「いいえ、けっしてひどくじゃありません。ひと騒動おこったんですが、ひどくではなかったのです。わたしはただ一度その手を払いのけました、それもただ払いのけるばかりでした。しかし、やはり悪魔に見込まれたんですね。明るい水色の女はベロコンスカヤ公爵夫人の家庭教師、というよりむしろその親友ともいうべきイギリス人であることがわかりました。また黒い着物のほうは公爵家の長女で、三十五歳のオールドミスだったのです。エパンチン将軍夫人がベロコンスキイ家と、どんな関係になっているかということも、よく知れわたっている話です。令嬢たちは気絶するやら、泣きだすやら、最愛の狆の喪に服するやら大騒ぎ、六人の令嬢が泣く、イギリス女が泣く、――まるで世界破滅です! で、わたしはもちろん、慚愧の意を表しておわびにも行くし、手紙も書きましたが、会ってももらえなければ手紙も受け付けてもらえない。したがって、エパンチン将軍とも仲たがいして、仲間はずれにされる、玄関払いをくうという始末でな!」
「しかし、失礼ですが、どうしたわけでしょう?」とにわかにナスターシヤが問いかけた。「五、六日前の『アンデパンダンス』で、――わたしもしじゅう『アンデパンダンス』を読んでますが、――ちょうどそれと同じ話を読みましたわ。まるでそっくりそのままなんですの! それはなんでも、ライン地方の鉄道で、あるイギリスの女とフランス人のあいだにおこったことでした。シガーをひったくったのもそっくりそのまま、狆をほうり出したのもそのまま、そうして事の決着もお話のとおりでした。おまけに、明るい水色の着物までが同じたんですものね!」
 将軍はおそろしく赤面した。コーリヤも同様まっ赤になって、両手で自分の頭をかかえた。プチーツィンはすばやくそっぽを向いてしまった。ただフェルディシチェンコのみがいぜんとして高笑いをしていた。ガーニャのことはいうもさらである。彼ははじめから、声に立てぬ堪えがたい苦痛を押しこらえながら、じっと突っ立っていた。
「いや、まったくです」と将軍はへどもどしながらいいだした。「わたしにもそれと同じことがあったのです……」
「おとうさんとペロコンスキイ家の家庭教師シュミットさんとのあいだには、まったくいやなことがあったんです」とコーリャが叫んだ。「ぼく覚えています」
「へえ! そっくりそのままにですか? ヨーロッパの端と端で細かなところで寸分ちがいのない、――明るい水色の着物まで符合した事件がおきたんですかねえ!」とナスターシヤは情け容赦もなくいい張った。「わたし、あなたに『アンデパンダンス・ベルジュ』をお送りしましょう!」
「しかし、お聞きなさい」まだそれでも将軍は負けようとはしなかった。「わたしの話は二年前でしたよ」
「へえ、たったそれだけ!」
 とナスターシヤはヒステリックに高笑いした。
「おとうさん、ちょっとひと言いいたいことがありますから、ちょっと外へ出てくださいませんか」ガーニャは機械的に、父親の肩をつかみながら、ふるえ声を絞ってきり出した。
 はかりしれない憎悪がその目の中に沸き立っていた。
 ちょうどこの瞬聞、なみはずれて高いペルの音が玄関に響きわたった、まるでベルがこわれてしまいそうな綱の引きようである。なみなみならぬ来訪であることはすぐ感じられた。コーリャはドアをあけにかけだした。

      10

 玄関がにわかに騒々しく雑踏しはじめた。客間から聞いていると、いくたりかの人が外から入って来て、なおまだ入りきらない様子であった。いくたりかの声が一時にものをいったり、どなったりしている。階段の上でもなにかしゃべったり、どなったりしており、階段から玄関へ通ずる戸もしまったようなふうはなかった。とにかく、この来訪はきわめて奇怪なものに相違なかった。人々は顔を見合わせた。ガーニャは広間のほうへ飛び出したが、もう広間にもいくたりかの人が入って来た。
「ああ、あいつがユダだ!」公爵にとって聞き覚えのある声がこうどなった。「ご機嫌よう、ガンカ(ガーニャ)のちくしょう!」
「こいつだ、こいつに違いない!」と別の声が相づちを打った。
 公爵はもはや疑う余地がなかった。一つの声はラゴージンであり、もう一つはレーベジェフである。
 ガーニャはさながら感覚を失ったもののように、しきいの上に突っ立ったまま、十人か十二人の総勢がパルフェン・ラゴージンにつづいてあとから広間へ繰りこんで来るのを、とめようともせず黙ってながめていた。この連中はおたがいにおそろしく毛色が違っていた。ただ外貌がまちまちなばかりでなく、不体裁なことも大変なものであった。中には往来と同じような気で、オーバーや毛皮外套のままで入って来るものもあった。しかし、それでも酔っぱらいはいなかったが、そのかわりみんなそろって一杯機嫌であった。だれも彼もお互い同士たより合いながら入って来たので、ひとりで乗りこむだけの勇気はなく、まるでたがいに人を前へ押し出しているような具合であった。同勢の頭領であるラゴージンさえも大事をとりながら進み出たが、さすがになにか胸に一物あるらしく、陰欝ないらいらした心配そうな風つきであった。その他の者にいたってはただ一種の景気づけ、というより、むしろ尻押しに馳せ参じた烏合の衆にすぎなかった。その中にはレーベジェフのほか、髪の毛を意気にうねらしたザリョージェフがいた。彼は控室に毛皮外套を脱ぎ捨てて、気どった鷹揚な歩きっぷりで入って来た。これに似寄ったので、一目見て小商人だとわかる男も二、三人いた。なかば軍隊式の外套を着たのもあれば、絶え間なしに笑っている、背の低い、おそろしく肥ったのもおり、身のたけ六尺近くもありそうな、人なみはずれて肥満した大男で、大いに自分の拳固に恃《たの》むところありげな、おそろしくむっつりと口数の少ないのも交じっている。医学生もいるかと思えば、いやにしなしなしたポーランド人もひとりいた。入りかねて階段のところから玄関をのぞきこむ女がふたりいたが、コーリャはその鼻のさきへたたきつけるようにぴしゃりと戸をしめて、掛け金までかけてしまった。
「ご機嫌よう、ガンカの畜生! なにかね、パルフェン・ラゴージンとは思いもかけなかったかい?」ラゴージンは客間の入口まで進んで、そこに立っているガーニャの前に来ると、またくりかえした。しかし、彼はこの瞬間、客間で自分の真向かいにすわっているナスターシヤにふと気がついた。彼女の姿がラゴージンにひとかたならぬ驚きをひきおこしたところをみると、ここで彼女に出くわそうなどとは、夢にも思いもうけなかったらしい。彼はくちびるが紫色に変わるほど青ざめてきた。「してみると、やはりほんとうなんだな!」と彼はまるでひとり言のように、まったくとほうにくれた様子でいった。「だめだ!………さあ……もうこうなったうえはきさまがおれの相手だ!」彼はすさまじい憤怒の形相でガーニャをにらみつけながら、いきなり歯をきりきりと鳴らした。「さあ……くそっ!」
 彼ははあはあ息をきらして、ものをいうのさえやっとであった。機械的に客間へ入りかけたが、敷居をまたいだところでふとニーナ夫人とヴァーリャが目に入ると、あれほど興奮していたものが、いくぶん鼻白んで立ちどまった。彼につづいて、いつも影の形に添うごとく離れたことのないレーベジェフが通った。彼はもうすっかり酔っぱらっていた。そのうしろから医学生、拳固先生、ザリョージェフ(これは入るとき、左右に向かってぺこぺこお辞儀した)、それから最後に人々を押し分けながら、背の低い肥っちょが入って来た。席に婦人たちのいるということは、まだいくらか彼らを遠慮させ、ひどくじゃまになるらしかった。しかしむろん、それとても皮切り[#「皮切り」に傍点]まで、なにか一つどなりつけて皮切りをするまでの話で……そうなれば、もうどんな婦人であろうと、彼らのじゃまをするわけには行かない。
「や! 公爵、おまえさんもここにいるのか!」公爵との邂逅《かいこう》に面くらったラゴージンは、そわそわした調子でこういった。「おまけに、やっぱりゲートルのままか、ちぇっ!」彼はもう公爵のことを忘れてしまって溜息をつき、ふたたびナスターシヤのほうへ目を転じながら、あたかも磁石に吸い寄せられるように、じりじりとそのほうへ近寄るのであった。
 ナスターシヤもやはり不安らしい好奇の目をもって、新しい客人たちをながめた。
 ガーニャはようやくわれに返った。
「しかし、これはいったいどうしたっていうんです?」いかつい顔をして新米の客を見まわしながら、主としてラゴージンに向かって大声にきり出した。「きみがたもまさか馬小屋のつもりで入ったんじゃないでしょう。ここにはぼくの母と妹がいますよ」
「母と妹のいることくらいわかってらあ」と歯のあいだから押し出すようにラゴージンがいった。
「母と妹だってことは見えすいてまさあ」とただの重みをつけるために、レーペジェフが相づちを打った。
 拳固先生は時こそ来たれと思ったらしく、なにやらぶつぶつうなりはじめた。
「しかし、とにかく!」にわかに突拍子もなく調子を張って、ガーニャがいいだした。「まずここから広間へ引き取ってくれたまえ、そのうえでお話を……」
「へん、空っとぼけやがって!」とラゴージンは動きそうな様子もなく、毒々しげに歯をむいた。「ラゴージンにお見知りがねえのかね?」
「まあ、かりにどこかでお目にかかったことがあるとするさ、しかし……」
「へえ、どこかでお目にかかった! ばかにするない、三月前にてめえはカルタの勝負で、おれからおやじの金を二百ルーブリまき上げたじゃねえか、それがために爺は死んじゃったあ。それを知らねえとはなんだ。てめえがおれをひっぱりこんでクニッフの野郎がいかさまにかけやがったんだ。おい、まだ知らねえのか? プチーツィンが証人だよ! ほんとにてめえはルーブリ銀貨を三枚ポケットから出して見せたら、それがほしさにヴァシーリエフスキイ(ネヴァ河上の島、ペテルブルグ市内)で四つんばいになって行かあ、――てめえはそれくらいのやつよ! てめえの根性骨はそれくらいのものよ! おれは今もてめえをすっかり金で買いに来たんだぜ。おれがこんな靴をはいて来たからって、心配しなくてもいいよ。おれんとこにはな、やっこさん、金はいくらでもあるんだから、てめえも、てめえの屋台骨もすっかり買ってやらあ……買いたいと思ったら、てめえたちすっかりひっくるめて買ってみせらあ! 何もかもありったけ買ってみせらあ!」とラゴージンは夢中になった。まるでしだいに酒の酔いがまわってくるような具合である。「おい!」と彼は叫んだ。「ナスターシヤさん! 追っ立てないでくれ、そしてひとこと返答しておくんなさい、いったいおまえさんこの男と夫婦になるつもりなのかね、え?」
 ラゴージンのこの問いを発した様子は、まるでとほうにくれたものが神さまにでも向かっていうようであったが、同時に、もはや失うべき何ものをも持たぬ死刑囚の大胆さがその中にあった。彼は死ぬばかりな苦悩のうちに答えを待っていた。
 ナスターシヤはあざ笑うような高慢なまなざしで、じろじろ男を見まわしていたが、ふとヴァーリャとニーナ夫人を見やり、ガーニャをちらりとひと目見ると、にわかに調子をがらりと変えた。
「けっしてそんなことはありませんよ、いったいあなたどうなすったの? どういうわけでそんなことをきこうと思いつきなすったの?」静かにしんみりと、いくぶん驚いたような風つきで、彼女は答えた。
「ない? ないって!」と嬉しさのあまり気も狂わんばかりにラゴージンは叫んだ。「じゃ、ほんとうにないんだね?あいつらおれに……ああ……ねえ! ナスターシヤさん! おまえさんがガンカと約束しなすったって、みんながぬかすんですよ! あの男と? ほんとにそんなことがあってもいいもんですか!(だから、おれのいわねえこっちゃねえ!)おれはこいつに手をひかせるために、百ルーブリでこいつをすっかり買ってやる。千ルーブリくれてやろうか、いや、三千ルーブリやる。そして、こいつが婚礼の晩、花嫁をおれの手に残して逃げ出すようにしてやるんだ。おい、そうじゃねえか、ガンカ、ちくしょう! なあ、いっそ三千ルーブリ取ったほうがいいだろう! ほら、これがそれだ、ほら! おれはてめえからその受取りをもらおうと思ってやって来たんだ。いったん買うといったら、買わずにゃおかねえんだ!」
「とっとと出て行け、きさまは酔っぱらってるんだ!」とガーニャは赤くなったり、青くなったりしながらどなった。
 この叫び声と同時に、にわかにいくたりかの声が、爆発するようにおこった。前からこの一瞬を待っていたラゴージンの一隊である。レーベジェフはなにやらいっしょうけんめいで、ラゴージンに耳打ちした。
「うまい、腰弁!」とラゴージンは応じた。「うまいぞ、へべれけ! なんのくそ、かまうことあねえ! ナスターシヤさん!」なかば気ちがいじみた目つきでどなった。彼はいじけてびくびくしているかと思うと、たちまち急に不敵なほど気負ってくるのであった。「ここに一万八千ルーブリある!」彼は紐で十文字にしばって白い紙に包んだ束をナスターシヤの前のテーブルへほうり出した。「これだ! そして……まだできるよ!」
 彼もさすがに、いいたいことをしまいまでいいきる勇気がなかった……
「いけない、いけない!」とまたしてもレーベジェフが、びっくりぎょうてんしたような顔をしてささやいた。察するところ、彼はその莫大な額に驚いて、比較にならぬほど小なところからためしてみるように勧めたのであろう。
「いいや、こういうことにかけちゃてめえはばかだ、まるで。畑違いだあ……いや、しかしおれもおたがいにばかかもしれないよ」ナスターシヤのぎらぎら光るまなざしに射すくめられ、彼は急にわれに返って身震いした。「ええっ、おれはばかなことをいったぞ、てめえのいうことなんぞ聞いたもんだから」と彼は深く後悔したようにいいたした。
 ラゴージンのとほうにくれたような顔を見ると、ナスターシヤはいきなり笑いだした。
「一万八千ルーブリ、わたしに? とうとう百姓のお里が現われたわね!」と傲慢ななれなれしい調子でこういうと、そのまま長いすから立ちあがり、出て行きそうにした。
 ガーニャは心臓の鼓動のとまるような苦悩を覚えながら、始終の様子をながめていた。
「じゃ、四万ルーブリ、四万ルーブリだ、一万八千は取消しだ!」とラゴージンは叫んだ。「ヴァーニカ・プチーツィンとビスクープが七時までに、四万こさえてやると約束した。四万ルーブリ! すっかり一時にテーブルの上にそろえてみせる!」
 一座の光景は常軌を逸して醜悪なものとなった。けれども、ナスターシヤはことさらそれを長くつっておこうとするかのように、立ち去ろうともせず笑いつづけていた。ニーナ夫人とヴァーリャとは、ともに同じく席を立って、どこまで行ったら果てることかと、おびえたように言葉もなく待ちもうけていた。ヴァーリャの目はぎらぎら輝いていたが、ニーナ夫人にはこの事件がおそろしく病的に働いて。彼女は今にも悶絶して倒れそうに、わなわなふるえていた。
「ええ、そんなら十万ルーブリだ! きょうすぐ耳をそろえてお目にかける! プチーツィン、助けてくれ。おまえだって、うんと暖まるぜ!」
「きみ、気でもちがったのか!」プチーツィンは急につかつかと彼のそばへ寄って、手首をつかみながらささやいた。「きみは酔っぱらってるんだ、交番へ突き出されるぞ。きみは自分がどこにいるのか知ってるか?」
「酔った勢いででたらめをいってるんだわ」とナスターシヤはからかうようにいった。
「いんや、でたらめじゃない。こしらえる、夕方までにこしらえる………プチーツィン、助けてくれ、高利貸野郎、利息はいくらでも取るがいい、十万ルーブリ夕方までに調達してくれ。こんなことでへこまねえってところを見せてやるんだから!」とラゴージンは夢中になるほど気負ってきた。
「だが、しかしこれは全体どうしたというのだ?」思いも寄らぬアルダリオン将軍が、怒り心頭に発してラゴージンのほうへつめ寄りながら、すさまじい剣幕でこうわめいた。今まで黙って控えていた老人のこうした突飛な言葉は、多分のコミズムを含んでいた。だれかのくすくす笑う声が聞こえた。
「こいつ、またどこから飛び出したんだ?」とラゴージンは笑いだした。「おい、爺さん、行こう、一杯飲ますぜ!」
「これはもうあんまりだ!」コーリャは恥ずかしいやらくやしいやらで、ほんとうに泣きながら叫んだ。
「ほんとにこの恥知らずの女をここから引きずり出す人が、あなたがたの中にだれもいないんですか!」と憤怒に全身を打ちわななかせながら、ヴァーリャがにわかにこう叫んだ。
「恥知らずの女というのは、わたしのことですの」と相手のいうことなど気にもとめないような浮きうきした調子で、ナスターシヤが受けながした。「わたしはまた皆さんを晩餐に招待に来たりなんかして、なんてばかだったんでしょう! ねえ、ガヴリーラさん、あなたのお妹さんはあんなふうにわたしを扱いなさるんですよ!」
 思いがけない妹の言葉に、ガーニャは雷にでも打たれたように、しばらくじっと立ちすくんでいた。けれど、今度こそほんとうにナスターシヤが出て行こうとするのを見ると、彼は夢中で妹に飛びかかり、怒りに任せてむずとその手をつかんだ。
「きさま何してくれたんだ!」と彼はいきなりどなりつけた、まるでこの場で灰にしてしまいたいと望むかのように、妹をにらみつけながら。彼はもはやまったく前後を忘れて、ほとんど分別を失ってしまった。
「わたしが何をしたかですって? どこへわたしをひっぱって行くんです? いったい、あの女が来てあなたのおかあさんに恥をかかせ、あなたの家をけがしたことに対して、あの女におわびでもしなくちゃならないんですの? あんたは卑劣な男です」勝ち誇ったような調子で、挑戦的に兄の顔をながめながら、ヴァーリャはふたたび叫んだ。
 幾瞬かのあいだ、ふたりは顔と顔を突き合わして立っていた。ガーニャはいつまでも妹の手をつかんだままでいた。ヴァーリャは力いっぱい自分の手をひっぱった、――また一度、――しかし力が足りなかった。と、ふいにわれを忘れて彼女は兄の顔に唾を吐きかけた。
「おやおや、大変なお嬢さまだこと!」とナスターシヤが叫んだ。「おめでとう、プチーツィンさん、わたし、あなたにお祝い申し上げます!」
 ガーニャは目の前が暗くなってきた。彼はまったく前後を忘れ、ありたけの力をこめて、妹めがけて手を振り上げた。拳はかならず妹の顔に当たるに相違ないと思われた。と、ふいに今一つの手が、あわや打ちおろさんとするガーニャの手を支えたのである。
 ふたりのあいだに公爵が立っていた。
「およしなさい、たくさんですよ!」と彼は押しつけるようにいったが、そのからだは恐ろしい心内の動乱にわなわなとふるえていた。「おお、きさまどこまでもおれのじゃまをしようというんだな!」ヴァーリャの手を棄てたガーニャは、ほえるようにこういって、極度まで達した怒りに任せて、力かぎり公爵の横つらをなぐりつけた。
「あっ!」とコーリャは思わず手を打ち鳴らした。「あっ、大変!」
 驚愕の声が四方からおこった。公爵の顔は一度にさっと青ざめた。不思議な詰問するようなまなざしで、彼はひたとガーニャの目に見入った。そのくちびるはふるえつつ、なにやらいいだそうとあせったが、ただ取ってつけたような奇妙な微笑に怪しく歪むのであった。
「ええ、ぼくならどんなにされてもかまいません……けれど、あの人には……けっして手出しをさせませんよ!」とようやく彼は小さな声でいった。しかし、彼はついに堪えかねたか、もうガーニャにかまうことをやめて、両手で顔をおおいながら、片隅へ退き、壁に面したまま、とぎれとぎれな声でいいだした。
「おお、きみはどんなに自分のしたことを後悔されるでしょう!」
 ガーニャはしんじつ穴へでも入りたいようなふうで、茫然と立っていた。コーリャは馳け寄って公爵に抱きつき接吻をした。つづいてラゴージン、ヴァーリャ、プチーツィン、ニーナ夫人、――ことにアルダリオン将軍まで、一同あらそってそのまわりにひしひしと集まった。
「なんでもありません、なんでもありません!」公爵はやはり取ってつけたような微笑を浮かべたまま、左右へふり向いてつぶやいた。
「そうとも、後悔しなくってさ!」とラゴージンがどなった。「ガンカ、てめえよくまあ恥ずかしくもねえ、こんな……羊っ子を(彼はこれ以外の言葉を考えつくことができなかったのである)いじめやがったな! 公爵、おめえはいい子だ。あんなやつらはうっちゃっておきな。唾でもひっかけといて、おれといっしょに行こうじゃねえか。ラゴージンがどれくらいおめえにほれこんでるか、今にわかるだろう」
 ナスターシヤも同じくガーニャのふるまいと、公爵の答えに心を打たれた。さきほどのわざとらしい空笑いとはすこしも調和しないいつも青白い彼女の顔が、今や明らかに、ある新しい感情にかき乱されたようであった。けれど、彼女はやはりそれを表に現わしたくないと見えて、あざけりの調子が顔の上にありありともがいているかのようであった。
「ほんとだ! わたしどこかで、この人の顔を見たことがある!」またふいにさっきの疑問を思い浮かべたように、彼女は思いもよらぬまじめな声でこういった。「あなたもまたそれでちっとも恥ずかしくないんですか! あなたはもとからそんなかたなんですか。いいえ、そんなはずはありません!」いきなり公爵は深い心の底から、責めなじるような調子で叫んだ。
 ナスターシヤは面くらってにたりと笑った。しかし、その笑いの中になにかを隠してでもいるように、いくぶんへどもどして、ちょっとガーニャを尻目にかけると、そのままぷいと客間を出てしまった。が、まだ控室までも行かぬうちに、彼女はにわかに引っ返してニーナ夫人に近寄り、その手を取って自分のくちびるに押し当てた。「わたしはね、まったくのところこんな女ではありません、あの人のいったとおりですの」と早口に熱した調子でささやいたが、ふいにかっとなって顔をまっかにすると、いきなり身をひるがえして客間を出て行った。その動作の素早さは、ほんの一瞬のあいだであったから、なんのために彼女が引っ返したのか、だれひとり想像する暇もなかった。ただなにかニーナ夫人にささやいて、その手に接吻したらしい、それだけのことに気がついたばかりである。しかし、ヴァーリャのみは、それをすっかり見もし聞きもしたので、びっくりして彼女を目送するのであった。
 ガーニャはふとわれに返って、ナスターシヤを見送りにかけだしたが、彼女は早くも外へ出てしまっていた。彼がやっと階段の上で追いついたとき、
「お見送りにはおよびません!」とナスターシヤが叫んだ。「さようなら、また晩にね! きっとですよ、よござんすか!」
 彼はとほうにくれて、もの思わしげに部屋のほうへ引っ返した。苦しい謎、さきほどよりもっともっと苦しい謎が、彼の心を圧するのであった。公爵のこともちらと頭をかすめた……ちょうどそのときラゴージンを先頭にした一隊が、われがちに外へ出ようと押し合いへし合い走り過ぎた。戸口のところで彼を突き飛ばすものさえあった。もの思いに沈んだガーニャは、それさえはっきり見分けることができなかった。彼らはみんななにやら声高に論じている。当のラゴージンはプチーツィンと肩を並べて歩きながら、重大なさし迫った用件があるらしく、しつこく念をおしている。
「負けたな、ガンガ!」すれ違いざま彼はこう浴びせかけた。
 ガーニャは不安げにそのあとを見送るのであった。

       11

 公爵は客間を去って自分の部屋に閉じこもった。そこへすぐにコーリャが慰めに来た。あわれな少年は、もう彼を離れることができぬというふうであった。
「あなた、出ておしまいなすってよかったですよ」と彼はいった。「あすこの騒ぎは、まだまだもっとひどくなるところだったのですから。うちじゃもう毎日こうなんです。それもこれもみんなあのナスターシヤのおかげなんですからね」
「お宅ではいろんなたくさんの病いが高じて、ひどくなったんですね、コーリャさん」と公爵がいった。「ええ、病いが高《こう》じたんです。ぼくたちのことなんか何もいうことはありません。みんな自分たちが悪いんですから。ああ、そうそう、ぼくにひとり非常な親友があるんですが、それはもっともっと不仕合わせなんですよ。なんならお引き合わせしますけれど」
「ええ、ぜひとも。きみの友達ですか?」
「ええ、ほとんど友達といっていいくらいです。このことはあとですっかりお話ししましょう……あのナスターシヤさんは美人ですね、あなたどうお思いです? ぼく、今まで一度もあの人を見たことがなかったので、ずいぶん苦心したものですよ。まったく目がくらむようでした。もしにいさんが愛のために結婚するというのなら、ぼく何もかもゆるしてやるんだけど……ほんとになんだってにいさん金なんかもらうんだろう、それが困るんですよ!」
「そうですね、わたしもきみのにいさんあまり好きじゃありませんねえ」
「そりゃもうあたりまえですよ! ことにあなたはさっきあんな……あのね、ぼくもなんだかんだってえらそうなことを並べるのが大嫌いなんです。たとえば、どこかのきちがいか、でなければばか、でなければ気ちがいのように見せかけた悪党が、人の顔をぶつとしますね。すると、その人はもう一生涯名誉を傷つけられて、血で洗い落とすか、相手が膝をついて謝罪するかしなければ、ゆるすことができないってわけでしょう。ぼく考えるのに、こんなことはじつにばかげた専制主義です。『仮面舞踏会《マスカラード》』ってレールモントフの戯曲は、そこをねらって書いたつまらない、――とぼく思うんです、――ものですね。いや、ぼくは不自然だというつもりだったんですよ。もっとも、あれはレールモントフがほんの子供のときに書いたんだけど」
「ぼくはきみのねえさんがたいへん気に入りました」
「ほんとに痛快なほどガンカの顔へ唾をひっかけたもんだなあ。ヴァーリャはえらいや! でも、あなたは唾なんかかけませんでしたね。あれはぼく信じていますよ、けっして勇気が足りないからじゃありません。おや、ねえさんがやって来た、うわさをすれば影か。ぼくも今にやって来るだろうと思ってました。それはいろいろ欠点もありますが、潔白な人ですからね」
「おまえなんかここに用事はありません」とヴァーリャは、まず弟に食ってかかった。「おとうさんのとこへおいでなさい。さぞおうるさいでしょうね、公爵?」
「いいえ、どういたしまして、それどころじゃありません」
「また姉さん風を吹かせだした。これがこの人の悪いところなんですよ。あ、そうそう、ぼくはね、おとうさんがラゴージンといっしょに行っちまうかと思ってました。今ごろきっと後悔してますよ。ほんとうにどうしていなさるか見てこよう」とコーリャは出しなにつけ足した。
「まあ、いいあんばいにわたしがおかあさんを連れてって、寝かしてあげましたからね、もうあれっきりぶり返さないで済んでしまいましたの。にいさんすっかりしょげて考えこんでいます。もっとも、それはあたりまえなんですけれど。ほんとにいい見せしめでしたわ!………わたし、あなたにお礼かたがた、ちょっとおうかがいしようと思って、またぞろおじゃまにまいりましたの。公爵、あなた今まで、ナスターシヤさんをごぞんじありませんでしたの?」
「いえ、知りませんでしたよ」
「じゃ、どういうわけであの人に面と向かって、『そんな人じゃない』とおっしゃったんでしょう。しかも、それが当たったようでしたものね。もしかしたら、ほんとうにあんな女じゃないのかもしれませんわ。だけど、なにがなんだかわかりません。それは申すまでもなく、恥をかかせようという目的で来たものに相違ありません。それはもう目に見えています。わたしは前からあの人について、いろいろな奇妙な話を聞いていましたけれど、もしあの人がわたしたちを招待に来たものとすれば、なぜはじめおかあさんに対してあんな真似をしたんでしょう? プチーツィンさんはあの人をよく知ってるけど、さっきのことばかりはわからないって、そういってますの。それから、あのラゴージンとの話し合ったらどうでしょう? もし自分を尊重する気持ちがあったら、とてもあんなふうの話っぷりはできません、しかも自分の……なんの……家ですからねえ。おかあさんもやはりあなたのことを、たいへん気づかっていますの」
「もうけっして!」と言って、公爵は手をひと振りした。
「けども、なぜあの人はあなたの言うことを聞いたんしょう……」
「言うことを聞くって?」
「だって、あなたがあの人、よくまあ恥ずかしくないこったとおっしゃったら、ふいにあの人がすっかり別人になりましたもの。あなたはあの人に感化力を持っていらっしゃるんですわ」くすぐったいような笑いかたをして、ヴァーリャはこうつけ足した。
 戸があいた。そしてまったく思いがけないガーニャが入って来た。
 彼はヴァーリャを見てもびくともしなかった。いっとき、しきいの上に立っていたが、にわかに決然たる態度で公爵に近寄った。
「公爵、わたしはじつに陋劣な行為をしました。ゆるしてください、お願いですから」といきなり強い情をこめてきり出した。彼の顔面筋肉の一つひとつが激しい苦悩を現わしていた。公爵はびっくりしてその顔を見つめたまま、すぐには返事もしなかった。
「ね、ゆるしてください、ね、ゆるしてください!」といらだたしげにガーニャはくりかえした。「ね、もしお望みでしたら、わたしは今すぐにでもあなたの手に接吻します!」
 公爵は深く心を打たれたさまで、無言に両手を広げてガーニャを抱きしめた。ふたりはともに真心こめて接吻した。
「ぼくはどうしても、あなたがこんな人だとは思えなかったんですよ」公爵はやっと息をつきながら、とうとう口をきった。「ぼく、思ってました、あなたは……とても……」
「謝罪なんかすることのできない男だって? わたしはまたさっきなんだって考えついたんでしょう、あなたが白痴《ばか》だなんて! あなたはほかの者にけっして気のつかないようなことをちゃんと気づくことのできる人です。あなたはともに語るに足りる人です。話したいことがあります、が……かえってお話ししないほうがいいでしょう!」
「ここにもうひとり、あなたの謝罪しなければならぬ人がおります」ヴァーリャを指さしつつ、公爵はこういった。
「いいや、それはみんな、わたしの敵です。いや、まったくですよ、公爵、いろんな手だても採ってみたんですが、この家では真心から人をゆるすことはしません!」と思わず熱してガーニャは叫び、ヴァーリャから顔をそむけた。
「いいえ、わたしゆるしますわ!」とふいにヴァーリャがいった。
「じゃ、今夜ナスターシヤさんのとこへ行くかい?」
「行けというなら行きますわ。だけど、にいさん、自分でよく考えてごらんなさいよ。今となってわたしがあの人のところへ行けるものだと思って?」
「しかし、あれはあんなふうの人間じゃないのだからね。あの人は、つまり、いろんな謎をかけてるんだよ! 手品なのさ!」ガーニャは毒々しく笑いだした。
「そりゃ、あんなふうの人間でないことも、謎や手品を道具に使ってるってことも、自分でよく知ってますわ。だけど、にいさん、考えてもごらんなさいよ、あの人はにいさんをどんなふうに見てるんでしょう。ええ、あの人はおかあさんの手に接吻しました。それはなにかの手品だとしても、それでもあの人はにいさんを笑いぐさにしたじゃありませんか。これじゃ七万五千ルーブリの値うちがありませんわ、えーえ、そうですとも! にいさんなどはもっと高尚な感情の所有者になる資格があります、だからこそこんなこともいうんですわ。ね、にいさんも今夜ゆくのをおよしなさいよ! ね、用心しなくちゃだめよ! こんな話はけっしてうまくまとまりっこないんですもの」
 これだけのことをいうと、ヴァーリャはむやみに興奮しながら、ぷいと部屋を出て行った。
「いつでもあの調子なんですからね!」とガーニャは苦笑いしながらいった。「いったいあの人たちは、わたしにそれしきのことがわからないと思ってるのかしらん? わたしはあの人たちよりかずっと余計に知ってまさあ」
 こういってガーニャは長いすに腰をおろした、まだまだゆっくりして行きそうな様子で。
「もしそのことをごぞんじならば」と公爵はかなりおずおずとたずねた。「なぜあなたはそんな苦痛を自分から進んで背負おうとなさるんでしょう。その苦痛が七万五千ルーブリくらいでは引き合わないということを、じっさいにご存じなのに」
「わたしはそのことをいってるんじゃありません」とガーニャはつぶやいたが、「それはそうと、ひとつおたずねしたいことがある、あなたはどうお考えです、つまりその、あなたのご意見がうかがいたいのです、いったいこの『苦痛』は七万五千ルーブリで帳消しになりますか、なりませんか?」
「ぼくの考えでは、なりませんねえ」
「なるほど、そんなことだろうと思ってました。そして、なんですか、この結婚も恥ずべきことですか?」
「じつに恥ずべきことです」
「じゃ、ご承知を願いましょう、ぼくは結婚します、今はもう是が非でもします。ついさきほどまでは心がまだぐらついていましたが、今はもうそんなことは断じてない! いや、たくさん! あなたが何をいおうとしてらっしゃるか、わたしはちゃんと知ってます……」
「いえ、ぼくのいいたいことは、あなたの考えていらっしゃるのと違います。ぼくはあなたの過度な自信に驚かざるをえません……」
「何にたいして? どんな自信です?」
「つまり、ナスターシヤさんがかならずあなたと結婚するもの、いっさいのことはもうすでに片がついたものと、決めてらっしゃるでしょう。また第二には、かりにあの人が結婚を承諾したにもせよ、例の七万五千ルーブリの金が右から左へあなたのポケットに入るものと、すっかり信じきっていらっしゃる。もっとも、ぼくはまだいろいろ事情を知らないのですから……」
 ガーニャはじりじりと公爵のほうへつめ寄った。
「もちろん、あなたはすべての事情に通じていられないのです。それに、わたしだってなにか当てがなくちゃ、こんな重荷を背負いこみはしませんよ」
「でも、なんだかぼくは……じっさい、世間によくあるやつですからね。金を目当てに結婚したところが、金は細君のふところに入ってしまうなんてね」
「い、いいえ、われわれのあいだにはそんなことけっしてありません……そこには……そこには、いろいろ事情が伏在してるんですから……」とガーニャが不安げなもの思いに引き込まれつつつぶやいた。「また、あの人の返答に関しては、もうなんの疑いもありません」と彼は口早にこういい足した。「いったいあなたはどういう点からして、あの人が拒絶するなどとおっしゃるんです?」
「ぼくは自分で見た以外なんにも知りません。しかし、たった今ヴァルヴァーラさんのおっしゃったとおり……」
「なんの! あの人たちはただその、もう言うことが尽きたからですよ。ところが、あれはラゴージンをさんざん愚弄していました。ええ、それは確かな事実です、それはわたしがちゃんとにらんでおきました。それはひと目見て知れますよ。以前はいささか心配でしたが、きょうこそすっかり見抜いてしまいました。それとも父や母、それからヴァーリャにあんな牡度をとったからですか?」
「そして、あなたにも」
「大きにそうかもしれません。しかし、それは紋切りがたの女の復讐というやつです、それっきりでさあね。あれはおそろしくかんしゃくもちの、疑いぶかい、しかも自尊心の強い女なんです。いわば昇給もれになった役人のようなものですね! 意地のあるところを見せたいんです、うちの人たちに対して……いや、わたしに対してもそうでしょう……軽蔑の情をひけらかしたくてたまらないんですからね。これはじっさいです、わたしも否定しません……が、それでもやはりわたしのとこへ来るに相違ないです。人間の自尊心がどんな手品をして見せるか、あなたなんか夢にもご存じないでしょう。あの女はね、わたしがおおっぴらで金のために人の思いものと結婚するのを楯にとって、わたしを卑劣溟よばわりしてますが、ほかの者だったらまだまだ卑劣な手で、あれをだましたかもしれないということには、いっこうお気がつかんのですよ。だれかがあれにうるさく付きまとって、自由進歩的思想を頭から浴びせかけ、おまけに婦人問題の一つ二つもひっぱり出したら、あの女はすぐその男の思うつぼにはまってしまいますよ。『自分があなたと結婚するのは、その高潔なる心情と不幸な境遇のためのみだ』などと、自尊心の強いばか女をいいくるめて(それはじつにやすやすたるものです!)そのくせ、自分はやはり金が目あてで結婚するんですからね。わたしがあの人の気に入らないのは、そういうごまかしが嫌いだからです。ところで、そいつが必要なんですよ。それに、あの女自身だってどんなことをしています?同じようなものじゃありませんか。いったいなんだってわたしを侮蔑して、あんな芝居をおっぱじめるんでしょう? それはわたしが降参しないで、プライドを持しているからです。まあまあ、今にわかりますよ!」
「いったいあなたはこれまで、あの人を愛したことがあるんですか?」
「はじめのうちは愛しました。しかも、かなり熱烈に……ねえ、世間にはよく恋人たるにのみ適して、それ以外なんの役にも立たない女があるでしょう。わたしはなにも、あれが自分の恋人だったというのじゃありません。が、とにかく、向こうでおとなしく暮らそうというなら、わたしもおとなしく暮らしますさ。しかし、謀叛でもおこそうものなら、すぐにほうり出して、金はこっちへ捲き上げてしまいます。わたしは人の笑いぐさになるのがいやです。なによりも人の笑いぐさになりたくないんです」
「しかし、どうもぼくにはそう思われますね」と公爵は大事をとりながら注意した。「ナスターシヤさんは利口な人です。そんな苦痛を感づいていながら、わざわざわなへかかりに来るでしょうか? だって、ほかの人とでも結婚できるんですからね。こいつがぼくには合点ゆきません」
「そ、そこにつまり成算があるんです! あなたはまだご存じないことが多いから……そこに……またそればかりでなく、あの人はわたしがきちがいになるほどあれを恋しているものと、かたく信じて疑わないんです、それはわたしが誓ってもよろしい。そしてね、あの人はわたしを愛しているに相違ないと思います。むろん、それは一流の愛しかたなんですが……ほら、ごぞんじでしょう。『ほれた男をたたいてみたい』という諺を? あの人は生涯わたしをダイヤのジャックと同じように見るでしょう(ことによったら、ほかならぬそれがあの女に必要なのかもしれません)、がそれでもやはり、自己一流の愛しかたで愛してくれるでしょう。あの人は今その準備をしてるんです、もうしようがないですね、性分ですから。あの人は極度にロシヤ型の女です、これはあなたに断言しておきます。わたしはまたわたしで、贈り物の方法はちゃんと用意していますよ。さっきのヴァーリャの一件はほんの偶然におこったんですが、わたしのためにかえって好都合でした。あの人はあれを見てから、わたしがあの人のためには肉親の関係さえ打ち破ってしまう、つまり、献身的にあの人を愛している、ということを信じきったでしょう。ひと言にして尽くせば、こっちだってそんなにばかじゃありませんからね、ご安心を願います。ときに、公爵、あなたはわたしのことをしようのないおしゃべりだと思ってらっしゃるんじゃありませんか。ねえ、公爵、もしかしたら、じっさいあなたにこんなうち明け話をするのは、あんまりよくないことかもしれませんが、しかしこれというのも、あなたのような高潔なおかたに今までかつて会ったことがないので、いきなりあなたに飛びかかったのです。いえ、『飛びかかった』というのを地口に取ってくだすっては困ります。もうあなたはさっきのことで、怒ってなどいらっしゃらないでしょう、ね?わたしはこの二年間こころの底から話をするのははじめてなのです。ここには潔白な人があまりにも少ないですからね。プチーツィンより以上に潔白な人がないんですよ。おや、あなたは笑っていらっしゃるようですね、違いますか? 卑劣なものは潔白な人間を好むって事実を、あなたはごぞんじなかったんですか? わたしなんかもう……いや、しかしいかなる点でわたしは卑劣漢なんでしょう、公爵、どうか正直にいって聞かせてください。あの女をはじめ、みんながわたしのことを卑劣漢と呼ぶのはなぜでしょう? しかも、みんなのあとについてわたしまでが、自分で自分を卑劣漢と呼んでるんですよ! これこそじつに卑劣です、卑劣きわまることです!」
「ぼくはもうこれから決してあなたのことを、卑劣漢だなどと思いません」と公爵がいった。「さっきぼくはあなたを悪党だとさえ思いましたが、今あなたは思いがけなくわたしを喜ばせてくださいました、――まったくいい教訓でした。物事は試さないさきに判断すべきものじゃありませんね。今こそわかりました、あなたは単に悪党でないばかりか、あんまりひねくれた人とさえいうことができません。ぼくの考えでは、あなたはごくありふれた平凡な人で、ただ非常に弱いというだけ、すこしも独自なところがありません」
 ガーニャは毒々しく胸の中で薄笑いしたが、口に出しては何もいわなかった。公爵は自分の評言が相手の気に入らないのを見ると妙にてれて、同じように口をつぐんだ。
「おとうさんがあなたに金の無心をいいましたか?」とふいにガーニャがたずねた。
「いいえ」
「今にします。けっして貸しちゃいけませんよ。あれでも昔はなかなか品格のある人間でしてね。身分のある人とも交際ができてたんですよ。ところが、ああいう昔ふうのりっぱな人間がみんなあとからあとからと滅びてゆくことはどうでしょう! ほんのすこしばかり世間の事情が変わってくると、もう以前の面影など見ることもできないんですからね、まるで火薬に火がついたと同じことです。おやじも元はああまでうそなどつく人じゃありませんでした。以前はただ過度に感激しやすい人間だったのですが、――それが今はあのありさまですからね! もちろん、酒がさせるわざです。ごぞんじですか、おやじが妾をおいているのを。今じゃもう罪のないうそつきだけじゃなくなったのです。おかあさんの辛抱づよいのが不思議なくらいです。おやじはあなたにカルス包囲の話をしましたか? でなければ、葦毛の脇馬が物をいいだしたって話を? じっさいそんなにまでひどくなってるんですからね」と言い、ガーニャはにわかに腹をかかえて笑いだした。
「なんだってわたしの顔ばかり見ていらっしゃるのです?」ふいにガーニャは公爵にきいた。
「ぼくはね、あなたが真底から笑いなすったのが、不思議なんです。まったくあなたはまだ子供らしい笑いが残っています。さっきも仲直りに入って来られたとき、『なんなら、ぼくあなたの手に接吻します』といわれたでしょう。あれはちょうど、子供同士が仲直りのときにいうような調子でした。してみると、あなたはまだそうした言葉や挙動を、口にしたり実行したりすることができるんです。ところが、そうかと思うと、だしぬけにあんな暗欝な思想や、七万五千ルーブリがどうのこうのと、とうとうと講釈なさる。まったくのところ、あんなのはなんだかいやにばかげていて、ほんとうと思えません」
「それで、あなたはいったいなにを論結しようとおっしゃるんです?」
「ほかではありません、あなたがあまり軽率に身を処していられはしないかということです。もっとよく周囲を見まわさねばならないのじゃないかしら。ヴァルヴァーラ・アルダリオーノヴナのおっしゃったのはほんとうかもしれませんよ」
「ああ、精神修養ですか! そりゃ、わたしがまだほんの小僧っ子だってことは、自分でも知っています」と熱くなってガーニャはさえぎった。「すくなくとも、あなたにこんな話をしたということだけでもね。わたしはね、公爵、利害の打算のみでこの結婚をしようというのじゃありませんよ」自尊心を毒された青年の常として、余計なことまで口をすべらしながら、彼は言葉をついだ。「利害の打算では、きっと失敗するに違いありません。なぜなら、頭脳からいっても人格からいっても、わたしはまだ十分堅固でないから、わたしは熱情によって、執着に導かれて進んでるのです。というのは、わたしには大きな目的があるのです。たぶんあなたは、わたしが七万五千ルーブリ受け取ると、すぐ箱馬車でも買いこむ、と思っていられるのでしょう。大違い、わたしはそのときでも三年ごしの古いフロックを着ます、クラブの遊び友達などはみんな棄ててしまいますよ。いったいロシヤには辛抱づよい人ってのが少ないです。そのくせ、だれも彼も高利貸ばかりですがね。そこでわたしは辛抱しぬいてみたいんです。この場合、しまいまで持ちこたえるということが肝要なのです、――問題はことごとくそこにかかっています。プチーツィンは十七年間往来に寝ながら、ナイフなんか売って一コペイカから積んでいったのです。目下あの男は六万ルーブリの財産家ですが、それはずいぶん激しい体操をやってからのことです。で、わたしはこの体操のほうはすっかりぬきにして、いっきょに資本から活動を始めます。十五年もたったら、『あれがユダヤ王のイヴォルギン』だと、人からいわれるようになってお目にかけましょう。あなたはいまわたしのことを独創のない人間だとおっしゃいましたね。ねえ、公爵、考えてみてください。現代の人間にとって、おまえは独創もなければ、性格も弱い、これという才能もない、平凡な人間だといわれるくらい、腹の立つことはありません。あなたはわたしをれっきとした悪者の数にも入れてくださらなかった。うち明けていうと、さっきあなたを取って食いたいほどでしたよ。あなたはエパンチン将軍以上にわたしを侮辱しました。エパンチン将軍はわたしを目して(べつに深い考えも悪い企みもない、ただ単純な心持ちからですがね)、自分の妻をすらあの人に売ることのできる男だ、などと考えてるんです。こいつが以前からしゃくにさわってたまらないから、わたしはいっそ金でも取ってやれという気になったのです。金でももうけたら、わたしはうんと思いきって独創的な人間になりましょうよ。金というものがなによりも卑劣でいまわしいゆえんは、人間に才能まで与えてくれるからです。ええ、そうですとも、世界の終わりまで与えてくれます。あなたはすべてそんなことは子供じみた、一種の詩にすぎないとおっしゃるかもしれないが、仕方がありません。それならそれで、わたしはいっそう愉快なんですから。理屈はどうだろうと、ことはとにかく成就されますよ。しまいまで持ちこたえて辛抱します。Rira bien qui rira le dernier(最後に笑うものがいちばんよく笑う)ですよ! なぜエパンチン将軍がわたしを侮辱するか、あなたご存じですか? 意地悪のためだとお思いですか? けっして! 単にわたしがあまりやくざだからにすぎません。ところでと、そのときは――いや、もうよしましょう、それに食事時分です。コーリャがさっきから、もう二度ばかり顔をのぞけました。あなたに飯を知らせてるんです。わたしはちょっと出かけます。またときどきおじゃまにあがりますからね。あなたもわたしどもへ見えて、あまりいやな気持ちはなさらんでしょう、――これからは皆、あなたを親身として取り扱いますから。いいですか、背負投げを食わしちゃいけませんよ。なんだか、わたしとあなたは親友でなければ、敵同士になるような気がしてなりません。もしさっきわたしが手を接吻したら(あのとき真底からいいだしたんですが)、そのためにあとであなたの敵となったでしょうか、どうお考えです、公爵!」
「きっとなりましたね、しかし永久にではありません、やがてそのうちにたまらなくなって、ゆるしてくだすったでしょう」しばらく考えてから笑いながら、公爵はこう断定した。「おやおや! あなたはよっぽど警戒しなくちゃならんぞ。こんなところにまで毒を注ぎこむんだもの。だが、じっさいわかりませんよ、あなたはわたしにとって仇敵かもしれないですからね。結局、好都合でしょうよ、ははは! あ、忘れてた、あのナスターシヤさんですね、ずいぶんお気に召したように見えましたが、違いますか、え?」
「ええ……気に入りました」
「ほれこみましたか?」
「い、いいえ」
「でも、まっかになって、もがいていられるところを見ると……いや、なんでもありません、なんでもありません。もう笑いませんよ。さようなら。ああ、そうだ、あの人はねえ、あの人はねえ、あれでなかなか品行方正の婦人ですよ。あなたほんとうにしませんか? あの人がトーツキイといっしょに暮らしていると思いますか? けっして、けっして! それもずいぶんまえからです。お気がついたでしょうが、あの人はおそろしく間が悪いというふうで、どうかするとすっかりまごついてたじゃありませんか! ほんとうです。こんなふうの女がえていばりたがるもんです。では、失礼!」
 ガーニャは入ったときよりもだいぶうち解けて、上機嫌で出て行った。公爵は十分間ばかり身動きもせずに、じっと考えこんでいた。 コーリャがふたたび戸のあいだから頭をのぞけた。
「コーリャ君、ぼくは今なんにもほしかありません。さっきエパンチン将軍のとこでうんと食べて来たんです」
 コーリャはすっかり戸の中へ入って来て、公爵に紙きれを渡した。それは将軍からの手紙で、きちんと畳んで封がしてあった。この紙きれを渡すのが、コーリャにとって非常に苦しい役目だということは、その顔つきからありありと読まれた。公爵は読み終わるや、立ちあがって帽子をとった。
「じきそこなんですよ」とコーリャはもじもじしながらいいだした。「おとうさんは今お酒を飲んでるんですが、どうして信用借りなんかできたか、――ほんとに不思議ですね。ねえ、公爵、後生ですから、ぼくが手紙をあなたに取り次いだなんて、うちの人にいわないでくださいよ。もうこんな手紙は取り次がないって、いくど約束したかしれないんですけど、でもやっぱりかわいそうなんですもの。ああ、それからねえ、どうぞおとうさんに遠慮しないでください。いくらか申しわけほどやってくだすったら、それで片がつくんですから」
「コーリャ君、ぼくも自分で考えることがあったんです。その……ちょっとした用事で……おとうさんにお目にかかりたかったんです……さあ、出かけましょう……」

      12

 コーリャは公爵を、ほど遠からぬリテイナヤ街のカフェー兼ビリヤードへ案内した。それは、とある建物の階下を占めて、往来からすぐ入れるようになっている。その家の右手の隅に小さく仕切られた部屋の中で、古くからのお得意といった様子で、イヴォルギン将軍が陣取っていた。酒壜の載っかった小テーブルを前に控え、手にははたして『アンデパンダンス・ベルジュ』を持っていた。彼は公爵を待ちもうけていたのである。公爵の姿を見つけるやいなや、彼はすぐ新聞をわきへ押しやって、熱心にくどくどと言いわけをはじめたが、公爵にはなにひとつ腑に落ちなかった。というのは、将軍がもういい加減きこしめしていたからで。
「十ルーブリといってはちょうど持ち合わせがありません」と公爵はさえぎった。「ここに二十五ルーブリ紙幣《さつ》が一枚だけあります。これをくずして十五ルーブリおつりをください。でないと、ぼくまで一文なしになっちまいますから」
「ええ、そりゃそうでしょうとも。ご安心なさい、もう即刻……」
「ぼくはそれにひとつお頼みがあるんですがね、将軍。あなたは今まで一度も、ナスターシヤさんのとこへいらしったことがありませんか?」
「わしがですか? わしがまだ行ったことがないかって? あなたはわしに向かってそんなことをおっしゃるんですかね? どうして、なんべんも行きましたよ、あなた、なんべんも?」勝ち誇ったような得意げな皮肉の発作に襲われて、将軍は叫んだ。「だが、わしは結局、自分のほうから関係を断ちました。なぜといってごらん、不都合な結婚に賛成するわけには行きませんでな。あなたごらんでしたろう、けさのていたらくを自分で目撃しなすったろう。あのとおりに、わしは父親としてできるだけのことをしました。父親といっても温良にして謙抑な父親でした。しかし、もうこうなっては、ぜんぜん別種な父親が舞台へ現われなくちゃならん。まあ、そのときはどうするか見てるがいい、名誉ある老将が奸計を粉砕するか、破廉恥な売笑婦《カメリヤ》が高潔なる家庭へ乗りこむか」
「お頼みというのはほかでもありません。あなたは古い知人として、ぼくを今晩ナスターシヤさんのとこへ連れてってくださいませんか。どうしても今晩でなくちゃならないんです。用事があるのです。ところが、どんな具合にして入ったらいいか、まるでわからないで困っています。ぼくさっき紹介はされましたが、でもやはり招待されたわけじゃありません。なにしろ今夜は夜会があるんですからね。けれども、ぼくすこしくらいの礼節は飛び越える覚悟でいます。笑われたってかまいませんから、どうにかして入りこみたいのです」
「あんたはぜんぜん、ぜんぜんわしの考えに一致しましたよ、公爵」と将軍は、有頂天になって叫んだ。「わしは、こんなくだらん用事であなたをお呼びしたのじゃない」といいながら、やはり金をつかんで、ポケットヘ納めた。「わしがあんたをお呼びしたのは、ナスターシヤに向かう遠征隊、というよりむしろナスターシヤを襲う遠征隊の仲間入りをしていただこうと思ってですよ! イヴォルギン将軍、ムイシュキン公爵! こう出たら、あの女どんな気がするだろう! わしは誕生日のお祝いというふうに見せかけて、きょうこそ自分の考えを存分に吐露する。それも横のほうからそおっと持ってまわるので、まっこうからじゃないがね。でも、まっこうからいうのと同じようにやりますよ。そうしたらガーニャも、いかに自分の処置をつけるべきかがわかる。名誉ある父親が……その……なんですなあ……それともまた……しかし、おこるべきことはどうしてもおこるんだ! あんたの考えはかならず効果を奏しますな。九時ごろに出かけましょう。まだ時間はあるから」
「あの人はどこに住んでいます?」
「ここから遠いですよ。『大劇場』のそばでね、ムイトフツォーヴァの持ち家です。二階《ベルエタージュ》にいます、ほとんど広場のすぐ前です……誕生日といっても、きょうはたいしてりっぱな夜会じゃありますまいよ、客は早く帰ってしまいます……」
 もう日はとっくに暮れていた。公爵はやはり腰をかけたまま、将軍の話を聞きながら待っていた。将軍は数えきれないほどのアネクドートをはじめたが、一つとしてけりをつけたのはなかった。公爵が来てから、彼はあらたにひと壜注文したが、一時間もたってやっと飲み終わると、さらにまた一本命じた。やがてそれも飲みほした。将軍はその間に、ほとんど自分の全生涯を語りつくしたかとさえ思われた。ついに公爵は立ちあがり、このうえ待つわけに行かぬ由を告げた。将軍は最後の残滓《おり》まで飲みほして腰を上げ、はなはだ危なっかしい足どりで部屋を出た。公爵はすっかり絶望してしまった。こうまで愚かしくこんな人を信用した自分の心持ちがわからなかった。じつのところ、彼はけっして信用したわけではない。ただ、どうかしてナスターシヤのところへ入りこむためには、すこしくらい不体裁をしでかしてもかまわぬつもりで、将軍を当てにしたのである。しかし、あまりひどい不体裁は当てにするわけに行かなかった。将軍はぐでんぐでんに酔っぱらって、おそろしく雄弁になり、胸中暗涙うかぶといったような情のこもった調子で、やみまなしに語りつづける。そのやみまない話のテーマは、すべて家族のよがらぬ行ないのために何もかも崩壊してしまったこと、こういう状態もいいかげんにきりをつけるときが来た、などということであった。ふたりはとうとうリテイナヤ街へ出た。いぜん雪解けがつづいて、うっとうしい、腐ったような、なま暖かい風が街をひゅうひゅう吹きすさんだ。馬車はぬかるみにはねを上げ、駿馬もやくざ馬も、音高く蹄鉄を敷石に鳴らした。徒歩の人はうっとうしいじめじめした群をなして歩道をさ迷っていた。酔漢もその中に見受けられた。
「ごらんなさい、この明りのついた二階《ベルエタージュ》を」と将軍がいいだした。「この中にはみんなわしの仲間の連中が住んでいるのですぞ。ところがわしは、-だれよりもいちばん長く勤め、だれよりもいちばん余計に苦労したわしは、こうして徒歩で『大劇場』さして、どこの馬の骨ともしれぬ女のところへとぼとぼ歩いて行く。胸の中に弾丸を十三もった男……といってもほんとうになさるまい。ところが、かつてピロゴーフ(有名なロシヤの外科医、軍医)が、ただただわしのためにパリヘ電報を打って、包囲されたセヴァストーポリを一時放棄したです。すると、ネラトンというパリの侍医が、科学のためという理由で自由通過の運動をして、包囲されたセヴァストーポリヘわしを診断に来たですよ。このことはずっと上のほうにも知られていましてな、『ああ、それは弾丸を十三、胸に持っている、あのイヴォルギンか!………』と、こんなふうにいいますて! 公爵、ちょっとこの家をごらんなさい。ここの二階にわしの古い友達で、ソコローヴィチという将軍が住んでいる。人数が多いが、なかなか上品な家庭ですよ。この家のほかネーフスキイ(ペテルブルグの目抜き通り)に三軒、モルスカヤ街に二軒、これが目下におけるわしの知人の全サークル、というのはわし一個の知人をさすのですぞ。ニーナはもうとうからあきらめているけれど、わしは今だにやはり思い出す……いや、その、今でもわしを尊敬してくれる旧友や部下などの、教養ある社会で休息しているようなわけですよ。このソコローヴィチ将軍は(しかし、わしはだいぶ長くご無沙汰している、アンナ・フョードロヴナにもしばらくお目にかからん)……なあ、公爵、どうも自分で来訪の客に接しないと、なんだか自然とよそへ行かなくなるものでしてな。それはそうと……ふむ! あんたはなんだかほんとうになさらんようですね……しかし親友の、竹馬の友の忘れがたみを、この美しい家庭へ紹介しないわけに行かん。イヴォルギン将軍とムイシュキン公爵か! それにあなた、りっぱなお嬢さんを見られますよ。ひとりきりじゃない、ふたり、いや三人、みんな首都の花、社交界の花ですぞ。器量、教育、傾向……婦人問題、詩、――これらが色とりどりに美しくまじり合ってるんだからね。また婦人問題、社会問題がどうあろうと、けっしてじゃまにならぬ持参金のことは言わずもがな。これがひとりずつに現なまで八万ルーブリ……つまり、わたしはどうしても、是が非でもあんたを紹介する義務がある。イヴォルギン将軍、ムイシュキン公爵! こいつあ……ききめがあるぞ!」
「今? すぐにですか? でも、あなたお忘れになりは……」公爵がいいだした。
「いいですて、いいですて、忘れやしません、行きましょう! ここです、この壮麗なる階段がそうなんです。や、こいつは驚いた、どうして門番がおらんのだろう、しかし……祭日だから、門番もどこかへ行ったと見える。まだ、あの酔っぱらいを追ん出さないで使っているのだ。このソコローヴィチというのは家庭の幸福、勤め向きの好運、ことごとくわしのおかげで手に入れたんですぞ。わしひとり、ほかにだれもおりゃしません。ところで……もうここがそうです」
 公爵はもうこの訪問に対して言果を返そうともせず、ただ将軍の心をいらだたせぬよう、おとなしくあとからついて行った。彼は心の中で、今にソコローヴィチ将軍もその家庭も、しだいに蜃気楼のごとく蒸発してしまい、実在のものでないことがわかり、自分たちもゆうゆうと階段をおりて、引っ返すことができるに相違ないと確信していた。けれど、恐ろしいことに、彼はしだいにこの確信を失いかけたのである。将軍はじっさいここに知人を持っている人のような態度で、階段を上へ上へと公爵を導いた。そして、数学的な正確さにみたされた、伝記的、地誌的の詳細をたえず話しつづけるのであった。ついにふたりは二階《ベルエタージュ》へ登り着いて、向かって右側にあるぜいたくな住まいの戸口に立ちどまった。将軍が呼鈴の手を握ったとき、公爵はとうとう逃げ出しにかかった。が、とある一つの奇妙な事柄が、いっとき彼の足をとめた。
「将軍、あなた間違っていらっしゃいますよ」と、彼は注意した。「戸の上にはクラコフと書いてあります。だって、あなたはソコローヴィチさんを訪問なさるんでしょう」
「クラコフ?………クラコフなんて、なんでもありゃしません。ここはソコローヴィチの住まいです。わしはソコローヴィチを訪ねていますとも。グラコフなんか唾でもひっかけてやるがいい、……ほら、あけました」
 じじつこのとき戸が開いた。そうして、侍僕が首をのぞけて、「だんながたはお留守でございます」と告げた。
「残念だ、じつに残念だ、まるでわざとのようだ」遺憾に琺えないといったふうに、アルダリオン将軍は幾度となくくりかえした。「おい、きみ、よくいっといてくれたまえ、イヴォルギン将軍とムイシュキン公爵が、心からの敬意を表明しようと思ってまいりましたが、じつにじつに残念でしたとな……」
 このとき戸の隙間からもう一つ顔がのぞいた。この家の女執事か、あるいは家庭教師かとさえ思われる黒い服を着た四十恰好の女である。イヴォルギン将軍とムイシュキン公爵の名を小耳にはさんで、好奇心と疑惑の念にかられて出たのである。
「マリヤ・アレタサンドロヴナはお留守でございます」特に将軍の様子をじろじろ見まわしながら彼女はいった。「お嬢さま……アレクサンドラ・ミハイロヴナとごいっしょに、おばあさまのところへお出かけになりました」
「じゃ、アレクサンドラ・ミハイロヴナもご同道で、いやはや、なんたる不運でしょう! お察しください、あなた、いつでもわたしのうかがうときはこうなんですよ! どうかくれぐれもよろしくお伝えください。またアレクサンドラ・ミハイロヴナには、その……つまり、木曜日の晩ショパンのバラードが響いているところで、わたしに申してくだすったと同じことを、真底から望んでいたとおっしゃってください。きっと思い出しなさる……わしが真底から望んでいたと! イヴォルギン将軍にムイシュキン公爵です!」
「さよう申しますで」ようやく疑いをはらしかけた女は、こういって会釈した。
 階段をおりながら将軍は、まださめきらぬ熱をもって、留守のために公爵がりっぱな知人を失ったことを、かえすがえすも残念がった。
「いったいわしはいくぶん詩人の性情をもってるほうだが、あんたお気がつかれなかったですか。しかし……しかし、どうもわれわれは違ったとこへ入ったらしい」将軍はふいに思いがけなく、こんなことをいいだした。「わしは今おもい出したが、ソコローヴィチは目下ぜんぜんべつの家に住んでおりますよ。そうだ、モスクワにいるらしい。そう、わしは少少おもい違いをしていましたよ。が、そんなことは……どうでもよい」
「ぼくはただ一つうかがいたいのですが」と公爵は元気のない声で注意した。「ぼくはもうあなたを当てにするのはさっぱりとあきらめて、ひとりで出かけなくちゃならんのでしょうか?」
「あきらめて? 当てにするのを? ひとりで? だが、なんだってそんなことを? これはわしの全家族の運命が大部分かかっている大きな仕事じゃありませんか。いや、公爵、あんたはイヴォルギンをよくごぞんじないんだ。イヴォルギンというのは、『鉄壁』というのと同じことだ、イヴォルギンに依頼したら、鉄壁によりかかったようなものだと、はじめ奉職した中隊時代から、わしはこういわれたもんですぞ。ところで、わしはちょっと一分間ばかり、ある家へ寄り道をして行きたいんですがね。それはもう何年かのあいだ、心配ごとや苦労のあったとき、わしのこころが休息するところでね……」
「あなた家へお帰りになりたいのですか?」
「いいや! わしは……チェレンチェフ大尉夫人のとこへちょっと……もとわしの部下というよりむしろ親友だったチェレンチエフ大尉の未亡人でな……この大尉夫人のところでわしは精神的に復活するんです、ここへ生活上や家庭内の苦しみを捨てにくるんです……そこで、きょうわしは堪えがたい心の重荷を背負っておるので、つまりその……」
「ぼくはそれでなくてさえ、先刻あなたにご迷惑をかけたりなんかして、たいへんばかなことをしたような気がします。それに今あなたは……じゃ、ごめんなさい!」と公爵はつぶやくようにいった。
「だが、わしはどうも、どうも今あんたを手放すことができんですよ、公爵」と将軍は叫んだ。「その未亡人は子供もだいぶあるけれど、わしの全存在に響きわたるような微妙な琴線を、その心の中からくり出してくれるんです。訪問といったって、わずか五分間ばかり、わしはそこにいるときはちょっとも遠慮がなくて、ほとんどわが家のようなもんです。顔でも洗って、ぜひ必要な身じまいをして、それから辻馬車で『大劇場』へ向けて出かけるとしましょう。いや、ほんとのことです。わしは今夜じゅう、あんたに付き添うていただかんけりゃならんのです……そら、その家です。もう着きました。おや、コーリャ、おまえはもうここへ来てるのか? どうだ、マルファ・ボリーソヴナは家かな、それともおまえもいま来たばかりか?」
「いいえ、違います」ちょうど家の門前で、ふたりにばったり行き会ったコーリヤは答えた。「ぼく、ずうっと前からここへ来て、イッポリートと話してたんです。きょうはだいぶわるくって、朝から寝たっきりなんですよ。ぼくはいまそこの店までカルタを買いにおりて来たところです。マルファおばさんが待ってますよ。だけど、おとうさん、あなたはまあなんてふうでしょう!………」と、将軍の歩きぶり、立ちぶりをじっとながめながら、コーリヤはいった。「まあ、仕方がありません、行きましょう!」
 コーリヤにめぐりあったことは公爵をして、このマルファ・ボリーソヴナのもとへも将軍に同道しようという気にならせた。ただし、それもほんのちょっとである。公爵はコーリヤに用があったのである。将軍だけはどんなことがあっても思いきらねばならぬ、と彼は心に思い、先刻この人に望みをかけたことを、われながらゆるしがたいと思った。三人は裏階段を伝って、えっちらおっちらと四階をさして登って行った。「公爵を紹介するつもりなんですか?」とみちみちコーリャがたずねた。
「ああ、そうだよ、紹介してあげようと思ってね。イヴォルギン将軍にムイシュキン公爵さ。しかし、なには……どうだね……マルファおばさんは……」
「ねえ、おとうさん、あなたまったくいらっしゃらないほうがいいですよ! 取って食われますよ! きょうでもう三日も顔出しなさらないでしょう、ところが、おばさんはお金ばかり待ちかねてるんです。なんだっておとうさん、お金なんか約束するんです? いつもいつもそうなんですもの! 今度こそ、のがれっこなしですよ」
 四階に登り着くと、彼らは、とある低い戸の前に立ちどまった。将軍は見るから気おくれがしたらしく、公爵を前のほうへ押しやるのであった。
「わしはここへ残っておりますよ」と彼はへどもどした声でいった。「わしはふいの贈り物を一つ用意したいから……」
 コーリャが先頭に立って入った。とほうもなく白く塗り立てて頬紅までさし、短上着を着て上靴をはいた妙な女が、戸口から首をのぞけた。年のころ四十ばかり、頭を小さなさげがみに結っている。これで将軍の『贈り物』も水泡に帰した。女は彼の姿を見つけるが早いか、いきなりどなりだした。
「ああ、この卑怯者の意地悪め、どうも虫が知らせたと思?だ!」
「さあ、入りましょう。こりゃあただ、その……」将軍はいぜんとして、罪のない笑いかたをしながらつぶやいた。 しかし『ただその』ではなかった。天井の低い薄暗い控室を抜けて、半ダースばかりの籘いすと二脚のカルタづくえの並べてある狹い客間に入るやいなや、女主人はなんだか取って付けたような、泣きだしそうな、癖になった調子でののしりつづけるのであった。
「よくもまあ、あんたは恥ずかしくないもんだ。野蛮人、ひとの家を荒らす極道者! 野蛮人、きちがい! 汁も残さずかっさらって、それでもまだ承知しないのだ。どれだけあんたのために苦労したらいいのですよう? ほんとにずうずうしい恥知らず!」
「マルファ、マルファ! これは……ムイシュキン公爵だ。イヴォルギン将軍にムイシュキン公爵」度を失ってびくびくしながら将軍はつぶやいた。
「まあ、あなた、聞いてくださいな」とふいに大尉夫人は公爵のほうへ向いた。「まあ、あなた聞いてくださいな、この恥知らずは、頼りないわたしの子供たちさえかわいそうと思わないで、ありったけかっさらって、ありったけ持ち出して、洗いざらい売ったり質においたりしてしまったんですよ。なにひとつ残っちゃおりません! ねえ、あんたの借用証文がなんの役に立ちます、ほんにあんたはずるい不人情な人だ! 返事をしなさい、意地悪、返事しなさいってば、ごうつくばり、どうして、いったいどうしてわたしはたよりない子供たちを養って行くんですかよう? ほうら、ぐでんぐでんに酔って足も立ちゃしない……いったいわたしは何をして神さまのお腹立ちに触れたんだろう? 見るのもけがらわしい意地悪、返事しなさいってば!」
 しかし、将軍はそれどころの騒ぎでなかった。
「マルファ、さ、ここに二十五ルーブリある……この高潔なる親友のご助力でもって……それ以上はとても手に合わぬ。公爵、わしはおそろしい思い違いをしとりましたよ! 人生とは……かくのごときものなり……がもう……ごめんなさい、わしはどうも弱くてな」部屋の真ん中に立って、四方八方へお辞儀をしながら、将軍はいいつづけた。「わしはどうも弱くて、ごめんなさい! レーノチカ! まくらを……な、いい子だ!」
 今年八つになるレーノチカという女の子は、さっそくまくらを取りに駆け出したが、それを持って来ると、ぼろぼろに破れた油布張りの固い長いすの上に置いた。将軍はまだまだうんと話す気ですわったが、長いすに届くか届かないうちに、すぐさま横になり、壁のほうへくるりと向いたなり、正直者にしかできないような寝かたで寝入ってしまった。マルファ・ボリーソヴナは慇懃に悲しげに、カルタづくえのそばのいすを公爵に指さして、自分もその向かいに腰をおろし、片手で右の頬を支え、じっと公爵をながめながら、言葉もなく溜息をついた。三人の子供たちは(ふたりは女、ひとりは男の子で、レーノチカがいちばん年上である)テーブルに近づいて、三人一様に手をその上に載せ、同じく三人一様に瞬きもせず公爵をながめまわしていた。次の間からコーリャが出て来た。
「ぼくはね、コーリャ君、ここできみと会ったのをとても喜んでいるんですよ」と公爵は彼に声をかけた。「ぼくを助けてくれませんか? ぼくはどうあっても、ナスターシヤさんのとこへ行かなけりゃならないんです。さっきおとうさんにお願いしたんですが、このとおり休んでおしまいなすったから、きみひとつ案内してくれませんか。ぼくは街も知らなければ道も不案内です。もっとも、ところはわかっています。『大劇場』のそばで、ムイタフツォ・ヴァの持ち家です」
「ナスターシヤさんが? いいえ、あの人は一度も『大劇場』のそばなんかにいたことありませんよ。それにおとうさんは、もしなんなら申しあげますが、まだナスターシヤさんのとこへ行ったこともないんです。いったいあなたがおとうさんをなにかの頼りになさるって、不思議なこってすねえ。あの人はヴラジーミルスカヤ街に近い、ピャチ・ウグロフ(五つ辻)の辺にいますが、このほうがずっと近いです。今すぐにですか? いま九時半、じゃ、ご案内しましょう」
 公爵とコーリャはさっそくそとへ出た。が悲しいかな? 公爵は辻馬車を雇おうにも、一コペイカの持ち合わせもなかったので、ふたりは徒歩で行かなければならなかった。
「ぼく、あなたをイッポリートに紹介したいと思ってたんです」とコーリャがいった。「というのは、あの短上着のおばさんの長男です。いま次の間にいました。からだのあんばいが悪いもんだから、きょうは一日寝てたんです。だけど、ずいぶん奇妙な男で、やたらに怒りっぽいんですよ。今もなんだか、あなたがあんな時にいらしったもんだから、あなたにたいして気まり悪がるでしょう……ぼくなんか、そうたいして気まりが悪くもありませんよ。なぜって、ぼくのほうはおとうさん、イッポリートのほうはおかあさんですからね、どうしてもどこかに相違がありましょう。だって、男性にとってはあんな場合、不名誉ってものがないんですもの。でも、この両性の見解については、偏見があるかもしれません。イッポリートなどはほんとうにいい男なんだけど、やっぱりなにかと偏見の奴隷になっているところがあります」
「きみ、その人は肺病だと言いましたね?」
「ええ、いっそ早く死んじまったほうがいいんです。ぼくがあんな具合になったら、きっと死ぬことを望みますよ。ただ、イッポリートは弟や妹たちがかわいそうなんですって、ほら、あの小さな人たち、ね、もしできることなら、もし金が手に入ったら、ぼくらは別に家を借りて、家庭なんてものをごめんこうむりたいや。これがぼくたちの空想なんですよ。ああ、そうそう、さっきぼくがあなたのことを話したらねえ、イッポリートがひどくかんしゃくをおこしていうんですよ、――横面をぶたれたのをそのまま許して決闘を申し込まないのは卑劣なやつだって。もっとも、べらぼうに怒りっぽいんで、ぼくもあの男と議論するのはもうよしちゃいました。ああ、そうだ、じゃ、なんですね、ナスターシヤさんがさっそくあなたを招待したんですね?」
「それなんですよ、招待したんじゃないんです」
「えっ、それだのに、どうしていらっしゃるんです?」とコーリャは叫び、歩道の真ん中で歩みをとめた。「それに……そんな着物で、きょうは招待された人だけの夜会なんでしょう?」
「いや、じっさいどうしてはいっていいか自分でもわからないんです。通してくれれば結構だし、でなければ、――つまり、無視されたというまでのことです。また着物の点にいたっては、なんとも仕方がありませんよ」
「あなたなにか用がおありになるんですか。それともただ『上品な人たち』のあいたでpour passer le temps(時を過ごすため)なんですか?」
「いいえ、ぼくはつまり……その、ぼくは用事で行くんで……どうもなんといっていいかむずかしいけれども、しかし……」
「まあ、どんな用事でいらっしゃろうとご勝手ですが、ぼくとしては、あなたが、ただ単純に娼婦だの、将軍だの、高利貸だのの華やかな夜会へ、むりやりに押しかけて行くのではない、ということを確かめたいんです。もしそうだったら、失礼ですが、ぼく、あなたの愚を笑います、そしてあなたを軽蔑します。だって、ここには潔白な人がおそろしく少なくって、だれひとり尊敬するに足るものさえないんですからね。で、しようがないから、こちらがいきおい尊大になるでしょう。するとまた彼らは尊敬を強請するのです。ヴァーリャがその随一です。公爵、あなたもお気がついたかしれませんが、現代の人間はみんな山師ですね! しかも、それが、ロシヤにおいてです、わが愛すべき祖国においてです、どういうわけでそんなことになったか、それはわかりません。もとはしっかりした足場に立っていると思ったのに、今のありさまはどうでしょう? これはじっさいみんなが口をそろえていってることです。いたるところで書いたり、摘発したりしてることです。ロシヤ人はだれでもみな摘発するのが好きなんですよ。だいいち、親たちがさきに退歩的になって、自分たちが前に説いた道徳を恥じてる始末ですもの。現にモスクワのある人が息子に向かって、金儲けのためには何ものにも譲歩してはならぬと教えたって、新聞に書いてありましたよ。うちの将軍だってごらんなさい。まあ、なんて人間になったものでしょう! だけどもねえ、公爵、うちのおとうさんは潔白な人だと思います。ええ、ほんとうですよ! あれはただ不規律な生活と酒がわざわいしてるんです。ええ、ほんとうですとも! ぼく、むしろ気の毒なんです。でも、笑われるのがいやだからだれにもいいやしません。けれど、ほんとうに気の毒なんです。ところで、あの利口な人たちの正体はなんでしょう! 高利貸です、みんなひとりのこらず。イッポリートは、高利貸もいいと言うんですよ。――それも仕方がない、経済界の激動だの、なんとかの潮の満干だの、なんだのかだのって、ばかげたことばかり。ぼくあの男のことでは、これだけがしゃくにさわってしようがないんだけど、向こうでも意地になっているんですね。それはそうと公爵、イッポリートのおかあさん、あの大尉夫人ときたら、おとうさんから金をもらっては、それをまたおとうさんに高利で貸し付けるんですよ。なんて恥ずかしい欲張り根性でしょう!ところがねえ、おかあさん、――その、うちのおかあさんです、将軍夫人は、――イッポリートに金やら、着物やら、肌着類やら、いろんなものを贈ってるうえに、イッポリートを通じて子供たちまで補助してやっているんです。なぜって、あの家ではだれも子供なんかかまってやらないんですもの。姉さんもやっぱりそれをしています」
「ほらごらんなさい。きみは潔白な人も強い人もない、人間はみな高利貸だっていうけれど、現にきみのおかあさんにヴァーリャさんという、強い人がいるじゃありませんか。ここで、こんな事情のもとにいて他人を助けるのは、精神的な力のしるしじゃないでしょうか?」
「ねえさんは見栄からやってるんですよ。おかあさんに負けまいという慢心からです。ええ、おかあさんはまったく……ぼく尊敬しています。尊敬もすれば、いいことだとも思っています。イッポリートさえもそれを感じてる様子です。でも、これについてははじめずいぶん憤慨したもんですよ。おかあさんのやり口が卑劣だって、冷笑していました。しかし、このごろになって、ときどき感じだしたらしいんです。ふむ! じゃ、あなたはこれを力とおっしゃるんですね? ぼくもそう思います。ガーニャはまだ知らないけれど、もし知ったら偽善だって言うでしょうよ」
「ああ、ガーニャさんは知らないんですか? ガーニャさんはまだまだ知らないことが多いらしい」思い沈んでいた公爵はわれともなしにこういった。
「ねえ、公爵、ぼくあなたが大好きですよ。さっきのできごとをぼくどうしても忘れることができない」
「ぼくもきみが大好きですよ、コーリャ君」
「あなたはここでどんなふうに暮らすおつもりですか? ぼくは今に自分で仕事を見つけて、いくらか稼ぎますからね。ぼくとあなたとイッポリートと三人で家を借りて、いっしょに暮らそうじゃありませんか。おとうさんもこっちへ引き取ってね」
「ぼくは大賛成ですとも。しかし、どうなりますかねえ。ぼくは今おそろしく……おっそろしく頭が乱れてるから……え? もう着いたんですか? この家に……なんというりっぱな車寄せでしょう! そして玄関番も。だけど、コーリャ君、いったいどうなることやら見当がつきませんよ」
 公爵はとほうにくれたようにたたずんだ。
「まあ、あしたお話を聞かせてください! あんまりびくびくしちゃいけませんよ! どうかうまくやってくださいな。ぼくはすべての点であなたと信念を同じゅうしてるんですから。さようなら。ぼくはまたあすこへ引っ返して、イ″ポリートにすっかり聞かしてやります。それから、通してくれるかどうかってことなら、けっして心配はいりません。通してくれるに決まってます! あの人はとっても奇抜な女ですから。この階段を上がってはじめての層《エタージ》です、玄関番が案内してくれますよ」

      13

 公爵は階段を登りながらも不安でたまらず、ありたけの力を出して、自分で自分を励ました。『十のうち九分までは』と彼は考えた。『通してくれないだろう。そして、なにかぼ

『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP049-096

イヴォルギンのことだが、これが全身の熱情を傾けてナスターシヤを愛し、彼女の好感を得るという単なる希望のためでも、命を半分なげ出しても惜しくないと思っている。これはずっと以前ガヴリーラが自分でトーツキイに、純なる青年の心から隠さず白状したことで、この青年の面倒を見てやっているエパンチン将軍も、すでに前から承知している。そして、トーツキイの観察にして誤りがなければ、青年の愛はずっと前から当のナスターシヤに知れているのみならず、彼女もそれをかなりへりくだった心持ちでながめているらしい。もちろん、こんな話をするのはだれよりもトーツキイにとって、最も苦しいことなのである。けれど、もしナスターシヤが彼の心中に利己主義とか、自分の生涯を幸福にしようとかいう希望以外、いくぶんたりとも彼女の幸福にたいする憂慮の念を発見することができたならば、彼女の淋しい生活をながめるトーツキイの心持ちが、どんなに奇妙でありどんなに苦しいものであるかを、彼女もさとることができるだろう。トーツキイにいわせると、ナスターシヤの生活の中には、ただ漠然として取りとめのない暗黒と、愛と家庭の中にりっぱによみがえって新しい目的を与えてくれるかもしれない生活の更新に対する深い懐疑と、それに伴うおそらくはまばゆいばかりの才能の枯死と、われとわが苦悶を好きこのんで愛《め》でる心持ちと、――つまりひと口にいえばナスターシヤほどの健全な才知や高潔な情操に価しない、一種のロマンチズムが、潜在している。『こんなことをいうのは、だれよりも自分にとっていちばんつらいのだが』をもう一度くりかえして、彼はこう結んだ、――自分はナスターシヤの将来の運命を安全にしたいという希望から、彼女に七万五千ルーブリの金額を提供しようと思うが、ナスターシヤもおそらく冷笑をもってそれに答えはしまいと信ずる。それからまたつけ足して、この金額は、もうどうせ遺言状の中に指定してあるのだから、つまりけっしてお礼とかなんとかいう意味ではない……じっさいどうかして良心の呵責を軽くしよう、という願いなのだから、それをいれぬ許さぬといわれては困るうんぬん、と説明した。つまり、こんな場合にだれしもいいそうなことばかしである。トーツキイは長々と弁舌さわやかに述べ立てたが、そのさいこの七万五千ルーブリのことは今はじめて口外したばかりで、ついそこにすわっている将軍すらそのことを知らなかったのだ。つまり、まだだれも[#「だれも」に傍点]知るものがないというきわめておもしろい事実を、話のついでにちょっとほのめかした。
 ナスターシヤの返答はふたりの親友を驚かした。
 彼女の態度には以前の冷笑、以前の敵意、それから思い出しただけでもトーツキイが背中に冷水を浴びせられるような心持ちになる以前の傍若無人な高笑い、そんなものがすこしも見られなかったばかりでなく、むしろ反対に、相手はだれにもあれ、とうとううち明けて話をする機会が来たのを、喜んでいるようにさえ思われた。彼女は、自分のほうからもとっくに隔てのない意見が聞きたいと思っていたが、ただプライドがそれを妨げていた。しかし、いったんこうして皮切りがすんだ以上、それより結構なことはないと白状した。はじめのうちは沈んだ微笑を帯びていたが、のちには楽しそうにはしゃいだ笑いかたをしながら、彼女はいうのであった、――もう以前のような嵐はけっしておこるべきはずがない、自分はもう前から物にたいする見かたを改めた、もっとも、胸の中はちっとも変わっていないかもしれないが、たいてい’のことは既往の事実として許さねばならぬはめになってしまった。できたことはできたこと、過ぎたことは過ぎたこと、こう思っているから、トーツキイがいつまでもびくびくしてばかりいたのが、かえって不思議なくらいだ。それから彼女はエパンチン将軍のほうを向いて、深い深い尊敬のさまを示しながら、三人の令嬢のうわさはとうからいろいろ聞いているので、心の底からゆかしい人たちだと敬いつづけている。それゆえ、自分がその人たちのためになにか役に立つ、とただそう思ったばかりで、自分は仕合わせであり、かつそれを誇りとする旨を述べた。彼女は目下非常に苦しく淋しい、じつに淋しい、それは真実である、トーツキイは彼女の胸に描いている空想を見抜いてしまった。彼女はなにか新しい目的を自覚して、愛というものに望みがないならば、せめて家庭の人として復活したいと考えているのだ。
 けれども、ガヴリーラのことについては、彼女もほとんど返事のしようがなかった。彼がナスターシヤを恋しているのは事実らしい。また彼女にしても男の恋の真実さを確かめたならば、自分のほうからもいとしいという心にならぬものでもない。しかし、彼はよしんば誠意誠情を持っているとしても、あんまり年が若すぎる、それが決心を面倒にする。とはいえ、彼が自分で働いて一家を支えているという事実は、なにより彼女の頼もしく思うところである。彼が精力と矜持《きょうじ》の人で、立身出世をして苦境を切り抜けようと努めることも、聞き知っている。またニーナ・アレタサンドロヴナ・イヴォルギナ、――ガヴリーラの母親というのは、りっぱな敬うべき婦人であることも、妹のヴァルヴァ-ラが人なみすぐれた精力家だということも、彼女はプチーツィンから聞いてよく知っている。それから、彼女はこのふたりの女が、男々しくも重なる不幸を堪え忍んでいる由をも聞き伝えて、衷心《ちゅうしん》から近しく交わりたいと思っているが、ただ向こうのほうで喜んで家庭に迎えいれてくれるかどうかが疑問である。とにかく彼女は、この結婚が頭から不可能だとはけっしていわないが、まだもっともっと考えなければならぬから、あまり返事をせき立ててくれぬように、と頼んだ。七万五千ルーブリの件にいたっては、トーツキイもそれを切り出すのに、あれほどびくびくすることはなかった、彼女も金の値うちは水知しているから、もちろん、受納する由を答えて、このことをガヴリーラばかりか将軍にさえも知らさなかったトーツキイの周到な用意を感謝した。が同時に、なぜあらかじめガヴリーラに知らしては悪いのか、彼女がもし彼と一つ家庭の人となるならば、なにもそんな金を恥ずかしがる必要はないのだから、とこうもいった。しかし、いずれにしても、自分はだれにも謝罪しようというつもりはないから、それは前から心得ていてほしい、こういって彼女はふたりに頼んだ。なにはともあれ、ガヴリーラにもまたその家族にも、ナスターシヤにういて隠れた思わくがないことを見きわめるまでは、けっして彼と結婚はせぬと断言した。なににもせよ、彼女はけっして自分が悪いと思っていないのだから、自分がどういう条件のもとにこの五年をペテルブルグに過ごしたか、トーツキイとはいかなる関係にあるか、また財産は十分ためているかどうか、こんなことをよくガヴリーラに知ってもらいたい。それから最後に、自分が金を受けとるのは、自分自身すこしも罪のない、けがされたる処女の純潔のためなどではなく、ただただゆがめられた運命に対する賠償とするにすぎない由を述べた。
 彼女はこれだけのことをうち明けるに当たって、おそろしく興奮していらだたしい様子を示したので(それはきわめて自然な道理である)、将軍はすっかり安心して、もう話がまとまったような気がした。しかし、一度おどしつけられたトーツキイは、今度もまるごと信じきることができず、もしや花のかげに蛇が隠れていはしないかと、長いあいだびくびくしていた。いよいよ交渉がはじまった。ふたりの親友の魂胆となっているかんじんの点、つまり、ナスターシヤの心をガーニャのほうになびかせうるや否やが、だんだんはっきりわかってくるようになり、トーツキイさえもどうかすると成功を信ずるような心持ちになった。その間にナスターシヤはガーニャとじか談判をした。もっとも、あまり口数はきかなかったので、なんだか彼女の処女らしい羞恥心が、そのさい、一種の苦痛を感じたのかとも思われた。彼女は男の愛を認め許したが、しかしなににもせよ、自分の自由を制限されるのはいやだと念を押して、結婚のまぎわまで(もし結婚が成立するとしたら)、最後の一時間までも、否という権利を保有することを約し、ガーニャにもそれと同じ権利を与えた。間もなく偶然の機会からガーニヤの耳にすっかり入ったことだが、彼の家族一同がこの結婚に対し、またナスターシヤという人物に対して、こころよからぬ感情をいだいているために、家の中でしょっちゅう、いざこざのおこるということが、はや細大もらさずナスターシヤに知れていたのである。で、彼は今にもそのことをいいだされるかと、毎日毎日待ちうけていたが、彼女は自分の口からはおくびにも出さなかった。
 こんな具合で、この結婚談に関連して生じたさまざまの事情やできごとを話せばきりがないが、しかしわれわれはあまりにさきを急ぎすぎたきらいがあるし、それに以上記述した事実のあるものは、単に漠とした風説にすぎないものさえある。たとえば、ナスターシヤがエパンチン家の令嬢たちと、人に隠してある不可解な交際をはじめたのを、トーツキイがどこからかかぎだしたなどというにいたっては、ぜんぜん信をおくにたらぬうわさである。そのかわり、彼トーツキイも今ひとつの風評には、心ならずも信をおかないわけに行かず、悪い夢でも見せられたように恐れていた。それはこうである。ガーニャの結婚はただ金が欲しさの策略だということも、ガーニャは腹黒で欲っぱりで、かんしゃく持ちのうらやましがりで、おまけに、何ものともつり合いのとれぬほど自尊心が強いということも、ナスターシヤは知りすぎるほど知り抜いているのであった。ガーニャはじっさい、はじめのうちこそ夢中になって、ナスターシヤをわがものにしようとあせっていたが、ふたりの親友が、この両方からちょろちょろ燃え出した情火を利用して、ナスターシヤを正妻に売りつける手段でガーニャを買収しようとかかったとき、今度はガーニャが、ナスターシヤを悪夢のように憎みはじめた。彼の心中には恋と憎しみとが、怪しくからみ合っているかのようであった。で、いろいろ煩悶動揺の末、とうとうこの『けがらわしい女』と結婚するように承諾は与えたが、心の中では、そのかわりあとであいつを『とっちめてやるぞ』(これは彼白身のいった言葉だそうである)と誓った。こういういきさつをことごとくナスターシヤは承知していて、なにかしら秘密に準備している様子であった。トーツキイはすっかり気おくれがしてしまい、エパンチン将軍にさえも心中の不安を伝えなくなった。しかし、気の弱いものの常として、また急に気負って勢いづくことがあった。たとえば、最後にナスターシヤがふたりの親友に向かって、今度いよいよ誕生日の晩に、否か応かの返答を与えるといったとき、彼はなみなみならず元気づいた。しかし、尊敬すべきエパンチン将軍に関す名きわめて奇怪な、ほとんど信ずべからざる風説は、悲しいかな! しだいしだいにほんとうらしくなってきた。
 それは一見したところ、まったくばかげきったことのように思われた。エパンチン将軍のような、人から敬われる年配’になって、りっぱな分別もあれば、世の中の酸いも甘いも噛みわけたといったような人でありながら、自分からナスターシヤの色香に迷い、それもまあ度を越して、一時の出来心が真の情欲に近くなったというにいたっては、ほとんど信ずることができないくらいであった。この場合、彼が何を目あてにしているか見当もつかなかった。ことによったら、ガーニャ自身の手伝いまで当てにしていたのかもしれない。トーツキイの目から見ると、すくなくもなにかそうしたふうの事情があって、将軍とガーニャのあいだに一種の黙契《もっけい》が成立しているらしく思われた。けれども、すっかり迷いこんでしまった人間は、ことにそれが年とってからでもあると、まるで盲になってしまい、けっしてありうるはずのないところに希望を認めたがるし、それに理性というものを失って、たとえソロモンほどの知恵があっても、愚かな子供じみた真似をするものである。将軍はナスターシヤの誕生祝いに、莫大な価格にのぼるりっぱな真珠をととのえて、ナスターシヤが欲のない女なのは百も承知しているくせに、その結果を予想して楽しみにしていたが、これまた一同の知るところであった。誕生日の前日、たくみにおし隠してはいたが、彼はまるで熱病にでもかかったようであった。ほかでもない、この真珠の一件が将軍夫人の耳に入った。じじつ、リザヴェータ夫人はかなり前から夫の移り気に気づいていたから、いくぶんなれっこになったくらいであるが、今度のことばかりは見て見ぬふりをするわけにゆかない。真珠のうわさはいたく夫人の好奇心をそそった。将軍はまた将軍で、いち早くそれをかぎつけたのである。前の日にもふたこと三こと当てつけがましいことを聞かされたので、きっとうるさく口説かれるものと感づいて、それがこわくてならなかった。これがためにわれらの物語がはじまった朝、将軍は家庭のふところに入って食事をするのが、ひどく進まなかったのである。彼はもう公爵が来るまでに、仕事にかこつけ避けようと腹をきめていた。将軍の避けるというのは、どうかすると、てもなく逃げ出すことになるのであった。彼はせめてきょう一日だけでも、ことに今夜ひと晩だけでも不快なことなしに、うまくやりおおせたかった。ところが、いい都合に公爵がひょっこりやって来た。『まるで神さまがよこしてくだすったようなものだ!』と将軍は夫人のところへ行きながら、心の中で考えた。

      5

 将軍夫人は自分の家柄を大切に思う人であった。それゆえ、自分でもうすうす聞き知っている、一門の中で最後にひとり生き残ったこのムイシュキン公爵が、ほとんど一種の哀れむべき白痴で、乞食同様の人間で、人のあわれみを受けんばかりだとなんの心の用意もなくいきなり聞かされたとき、彼女の心持ちはどんなであったか、想像するに難くない。将軍は一挙にして夫人の興味を呼びさまし、夫人の注意をどこかあらぬかたへ誘っておいて、どさくさまぎれに真珠の問題をのがれようとして、首尾よく図星に当たったのである。
 夫人はいつも非常に驚いた場合には、思いきって目を大きくむきだし、こころもち上半身をうしろへ引いて、ひと口もものをいわずに、どこともなく前のほうをながめるのが癖であった。夫人は背丈の大きな女で、年は夫とおない年、暗色《あんしょく》の毛はだいぶ白髪がひどいけれど房々としている。全体に痩せぎすのほうで、鼻はかぎ鼻、黄色い頬はこけて、薄い唇《くち》もとが落ち込んでいる。額は高いがやや迫って、かなり大きな灰色の目は、ときとすると、まことに思いがけない表情を示すことがある。昔、彼女は、自分のまなざしは非常に魅力に富んでいる、と信じたがる弱点があったが、この自信は今でも消されずに残っている。
「会えですって? あなたはそんなものに会えとおっしゃるんですか、今、すぐ?」こういって、夫人はこんかぎり目を大きく見張り、前でもじもじしている将軍のほうへ向けた。
「なんの、そのことについてはなんの遠慮もいらないよ、ただお前が会いたかったら、というのさ」と、将軍はせかせかと弁解した。「まったくの子供で、おまけにみじめな子供なのさ。なんでも病気の発作があるそうだ。今スイスから帰って汽車からおりたばかりでな、奇妙なドイツふうの身なりをしている。それに、金は正真正銘の一文なし、もう泣きださんばかりのていたらくだ。わしは二十五ルーブリやっといたが、なにか書記の口でも、役所のほうでさがしてやろうと思っているMesaames《メダーム》(お嬢さんがた)おまえさんがた、ひとつあれにごちそうしてやってくれ、だいぶかつえてもいるようだから……」
「あなたったら、わたしをびっくりおさせなさる」と夫人は前と同じ調子でつづけた。「かつえてるだの、発作だのって! いったいどんな発作ですの?」
「おお、発作といってもそうたびたびあるわけではない。それにまだほんの子供なんだから……もっとも、子供といっても教育のある子供だがな。わしはね、mesdames」と彼はふたたび娘たちのほうを向いて、「おまえさんがたにひとつあれを試験してもらおうと思ってたんだ。どんな方面に才があるか、なんといってもよく知っておく必要があるからな」
「し、け、ん、を?」と夫人は一句一句引き伸ばすようにいい、またもや驚き入ったというふうに目をむきだして、娘たちから夫のほうへ、夫から娘たちのほうへと、かわるがわる視線を転ずるのであった。
「ああ、これ、そんなにぎょうさんに考えちゃ困る。しかし、どうともおまえの都合のいいように。わしはただあれをいたわって、われわれの仲間に入れてやろうと思っただけなのさ。じっさいそれはいいことだからな」
「わたしたちの仲間に入れるんですって? わざわざスイスから?」
「スイスだってべつにさしつかえないじゃないか。しかし、かさねていうが、どうともおまえのいいように。わしが思うには、第一、同姓の人で、ことによったら、親類に当たるかもしれないんだし、第二には、どこへ落ちついていいやらとほうに暮れてるところだからさ。なにせ同族ということだけでも、おまえにとっていくぶん興味があろうと、こうわしは考えていたよ」
「そうですとも、おかあさま、もし遠慮のいらない人でしたらね。それに、旅行あげくでなにか食べたがってらっしゃるんでしょう。どこに落ちついていいかわからないといってるような人に、ごちそうしてあげないって法はないわ」と長女のアレクサンドラがいった。
「おまけに、まったくの赤ん坊なんだからな、いっしょに目隠しをして遊んでもいいくらいだ」
「目隠しをして遊ぶんですって? まあ、どんなにして」
「まあ、おかあさま、お願いですから、わざとらしい真似はよしてちょうだい」とアグラーヤがいまいましそうにさえぎった。
 中のアデライーダはよく笑うたちなので、たまりかねて笑いだした。
「おとうさま、呼んでちょうだい、おかあさまはいいっていってらっしゃるんですよ」とアグラーヤがきめてしまった。
 将軍は呼鈴を鳴らし、公爵を呼んでくるように命じた。
「けれど、ことわっておきますが、食卓についたとき、どうしても首にナプキンを結えつけさせるんですよ」と夫人はひとりできめてしまった。「それから、フョードルか……それとも、マーブルでもいいから呼んで来て、食事のときその人のうしろに立って気をつけさせましょう。それはそうと、発作がおこったとき、おとなしくしてるでしょうか。なにかへんな手振りでもしませんかねえ?」
「それどころか、なかなかかわいくしつけがついてるよ。立ち居ふるまいも鮮かなもんだ。ただどうかすると、あんまり単純すぎるようだがな……ああ、あれがそうだ! さあ、紹介しよう、ムイシュキン公爵、一門の中でたったひとり残っていられるかた、同姓の人で、ことによったら、親戚に当たられるかもしれない。隔てなくいたわってかわいがってあげておくれ。公爵、今すぐ朝飯を食べに行くから、どうぞなにぶんよろしく……わたしはだいぶ遅れたから、失礼ですが、急がなきゃなりません」
「どこへお急ぎになるか、ちゃんとぞんじています」と夫人はものものしくいいだした。
「いや、急ぐんだよ、急ぐんだよ。すっかり遅れちゃった!ああ、mesdmes おまえさんたちはアルバムを出して、公爵になにか書いてもらうといい、じつに能書家だよ、まったく珍しい! うまいもんだ! 先刻あちらで、『僧院の長パフヌーチイ手ずからこれに名を署したり』と昔ふうの書体で書いてくだすったよ……じゃ、さようなら」
「パフヌーチイ? 僧院の長? まあ、お待ちなさい、あなたどこへいらっしゃるの、そしていったいパフヌーチイってなんですか?」夫人は執念ぶかいくやしさの色を現わして、逃げ出して行く夫のあとがらほとんど心配そうにたずねた。
「いや、なに、おまえ、それは昔、そんな坊さまがあったんだよ……だが、わしは伯爵のところへ行かなけりゃならん、もうとうから待っておられるから……それに、だいいち、先方から時間を決めてくださったんだからな……公爵、またこんど!」
 と将軍は急ぎ足に出て行った。
「どんな伯爵のところだかちゃんとわかってます!」とリザヴェータ夫人は言葉鋭くいい放ち、いらいらした目を公爵のほうへ向けた。「ええと、なんでしたっけね!」急に思いついたように、不機嫌な腹立たしげな調子でたずねた。「え、なんとかいいましたね! ええと、そうそう、僧院の長《おさ》っていったいなんですか?」
「おかあさま」とアレクサントラがたまりかねて口を出した。アグラーヤはとんと床さえ踏み鳴らした。
「アレクサンドラ・イヴァーノヴナ(娘に父称をつけたのは、わざと改まって言ったのである)、わたしの話すじゃまをしないでちょうだい」と夫人は切り口上でいった。「わたしだって知りたいじゃありませんか。公爵、そこへすわってください、それそのひじ掛けいす、わたしの真向かいにある。いいえ、もっとこちらへ、陽のさしてるほうへ、わたしのよく見えるように、なるべく明るいほうへ寄ってください。それで、いったいどんな僧院の長ですの?」
「僧院長パフヌーチイです」と公爵はまじめに、注意ぶかく答えた。
「パフヌーチイ? それはおもしろそうですこと、で、その人がどうしました?」
 夫人は公爵の顔からすこしも目をそらさず、せかせかと忙しそうに鋭い調子できいた。そして公爵が答えはじめると、そのひとことひとことにうなずくのであった。
「僧院長パフヌーチイは、十四世紀の人で」と公爵は説明をはじめた。「今のコストロマ県に当たる、ヴォルガ河畔の修道院の管理をしていました。崇高な生活をもって知られた人でして、金帳汗国《きんちょうかんこく》へも出かけて行ったり、いろいろな仕事の整理を助けたりなんかしています。この人が教令に署名したのを写真で見たのですが、手蹟がたいへん気に入ったものですから、覚えこんでしまったんです。さっきも将軍がなにか仕事を世話してやるから、どれくらい書けるか手を見せてくれといわれましたので、ぼくはいくつかの文句をいろいろな書体で書いてみましたが、その中に『僧院の長パフヌーチイ手ずからこれに名を署したり』というのを、パフヌーチイの筆蹟そのままで書いたのです。それがたいへん将軍のお気に入って、今も思い出しなすったんです」
「アグラーヤ」と夫人が言った。「覚えてておくれ、パフヌーチイですよ。それとも、いっそ書き留めといてもらおうかしら、そのほうがいい。わたしはなんでも忘れてしようがないから。だけど、わたし、もっとおもしろいことかと思った。どこにその署名はあるんでしょう?」
「将軍の書斎のテーブルに残ってるはずです」
「じゃ、今すぐ取りにやりましょう」
「ですが、なんなら、ぼくもう一度書いてさしあげましょう」
「そりゃそれがいいわ、おかあさま」とアレクサンドラが口をはさんだ。「今はご飯にしたほうがいいじゃありませんか。わたしたちおなかがすいてるんですもの」
「それもそうだね」と夫人は賛成した。「参りましょう、公爵。あなたずいぶんおなかがすいてらっしゃいますか?」
「ええ、今ごろ大分、まったくありがとうございます」
「あなたはほんとうにていねいでいらっしゃるから結構ですね。それに、お見受けしたところ、皆のいうような、そんな……変人じゃけっしておあんなさらない。さあ、参りましょう。どうぞそこへおすわりください。わたしの真向かいへ」一同が食堂へ来たとき、彼女は公爵を席に着かせなどして、小まめに世話を焼いた。「わたしあなたの顔が見ていたいんですから。アレクサンドラ、アデライーダ、おまえたちふたりして公爵をもてなしてあげておくれ。ねえ、そうだろう、公爵はまったくそんな……病身なかたじゃないねえ。おおかたナプキンなんかもいるまいよ……ねえ、公爵、あなた食事のときにナプキンを結えてもらいなさいますか?」
「以前、七つくらいのときには結えてもらいましたが、このごろは食事のときたいていナプキンをひざに載せています」
「そうあるべきです。それで、発作は?」
「発作?」と公爵はいささか驚いて、「発作はごくたまにしかありません。けれど、よくはわかりません。ここの気候はぼくのからだに惡いっていいますから」
「この人のおっしゃることはなかなかりっぱだね」たえず公爵のひとことひとことにうなずいてみせながら、夫人は娘たちのほうを向いてこういった。「思いもかけないくらいだ。してみると、例によっていいかげんなでたらめだったんだ。公爵おあがんなさい。そして、どこで生まれて、どこで大きくおなんなすったか聞かしてください。わたし、すっかり知りたいんですよ。あなたはほんとうにおもしろいかたですねえ」
 公爵は謝辞を述べて、さもうまそうに食事しながら、けさから幾度となく話したことをさらに物語りはじめた。夫人はしだいしだいに満足のさまを示してきた。令嬢たちもかなり注意ぶかく耳を傾けた。親族の関係も調べてみた。その結果、公爵がかなり詳しく自分の系図を知っていることはわかったが、どんなに引き比べてみても、彼と夫人とのあいだには、ほとんどなんの親族関係も出て来なかった。ただ両方の祖父母のあいだに、いくぶん遠縁の関係があるくらいのものであった。この無味乾燥な研究はことに将軍夫人の心にかなった。というのは、夫人はどうかして自分の系図の話をしたいと、かねがね望んでいるにもかかわらず、今までかつてそういう機会がこなかったからである。彼女は興奮した心の状態で食卓から立ちあがった。
「さあ、みんなそろって家の集まり部屋へ行きましょう。コーヒーはそこへ持って来させますから。あのね」と夫人は公爵を案内しながらいった。「わたしのとこには、皆で使ってるちょっとした部屋がありますの。まあ、つまりわたしの小さな客間のようなものでしてね、たくが留守のときなど、いつもこの人たちといっしょにそこへ集まって、てんでに自分勝手なことをするんですよ。アレクサンドラ、ってのはこの人です、わたしのいちばん上の娘ですが、この人がピアノをひいたり、本を読んだり、刺繍をしたりすると、アデライーダは景色だの人物だのを描きます(そのくせ、なんにも仕上げたことはありませんの)。そして、アグラーヤはすわってばかりいてなんにもいたしません。わたしもとかく仕事が手につかなくって、いっこうなにもできあがらないんですの。さあ、参りました。公爵、もっとこちらの壁炉《カミン》に近いほうへおすわんなさい、そしてお話を聞かしてくださいね。あなたがどんなふうにお話しなさるか、わたし聞きたいんです。そして、すっかりあなたのことを知りぬいて、今度ベロコンスカヤ公爵のお婆さんに会ったとき、あなたのことをみんな聞かしてあげたいのですから。わたしはね、あなたがあの人たちをみんな感心さしておやりになればいいと思いますの。さ、お話しなさいよう」
「おかあさま、だってそんなにおっしゃっては、公爵がお話しなさるのに、なんだか変じゃありませんか」とアデライーダは注意した。彼女はさきほどから自分の画架を直して画筆とパレットを取り、久しい以前からいじくりまわしている風景画を、版画から模写しはじめたのである。
 アレクサンドラとアグラーヤはいっしょに小さな長いすへすわって、両手を組みながら話を聞く身構えをした。公爵は、四方から自分のほうヘー種とくべつな注意を向けられているのを感じた。
「あたしなんかあんなにいわれたら、なんにも話しゃしないわ」とアグラーヤはいった。
「なぜ? なにが変なの? なんだってあのかたにお話ができないんです? 舌がおあんなさるじゃないか。わたしは公爵がどれくらいお話ができるか知りたいんです。さあ、なにか聞かしてください。スイスはお気に召しましたか、第一印象はいかがでした? おまえたち見ててごらん、公爵は今におはじめなさるから、りっぱにお話をはじめなさるから」
「印象は強烈なものでした……」と公爵は口を開いた。
「そらごらん」とせっかちなリザヴェータ夫人は、娘たちのほうを向いて、すかさず口を入れた。
「おはじめなすったろ「まあ、おかあさま、お話のじゃまじゃありませんか」とアレクサンドラがさえぎった。そして、アグラーヤに向かって、「公爵はことによったら、まるっきりばかじゃなくって、ひどい悪党かも知れなくってよ」とささやいた。
「きっとそうよ、あたしさっきからそう思ってたの」とアグラーヤも答えた。「こんな芝居を打つなんて、あの人もずいぶん卑劣だわ。そして、いったいどうしようってんでしょうね、なにか当てにしてることがあるのかしら?」
「最初の印象は、じつに強烈なものでした」と公爵はくりかえした。「ロシヤを出ていろいろなドイツの町を通りすぎたとき、ぼくはただ黙って見てばかりいました。今でも覚えてますが、なにひとつたずねてみようともしませんでした。それは持病がつのって、激しい苦しい発作が引きつづきおこったあとでした。ぼくは病気がひどくなって、発作が引きつづいていくどもおこると、いつも脳の働きがまるっきり鈍くなって、記憶がすっかりなくなってしまったものです。それでも頭はどうにか働いていますが、思想の論理的流れというものが跡絶えがちなのでした。二つか三つ以上の観念を順序を追って結び合わすってことが、ぼくにはできなかったのです。まあ、そんな具合だったと思います。しかし、発作がしずまると、また健康も回復すれば元気も出て、今と変わりはありませんでした。今でも覚えていますが、そのときぼくの心の憂欝はやりきれないほどでした。もう泣き出したいくらいでした。ぼくはしじゅうびっくりしたり、心配したりしてばかりいました。それは見なれぬ異国のもの[#「異国のもの」に傍点]が、おそろしくぼくの神経に作用したのです。それはわかりました。見なれぬものがぼくを苦しめたのです。その暗黒状態からはっきり目がさめたのは、ある夕方、スイスの入口にあるバーゼルの町に入ったときでした。町の市場にいる一匹の驢馬がぼくを呼びさましてくれたのです。この驢馬がひどくショックを与えて、ぼくはそれがすっかり気に入ってしまいました。それと同時に、ぼくの頭の中も一時にからりとなったような気持ちがしました」
「驢馬? それは不思議ですね」と夫人がいった。「けれど。べつに不思議もありませんねえ、だれやらさんなどは駿馬にほれこんでさえいらっしゃるから」と彼女は、きゅっきゅっ笑っている娘たちを腹立たしげににらんだ。「それはまだ神話時分のことだったのねえ。それから次は、公爵?」
「そのときからぼくは無性に驢馬が好きになってしまいました。それはぼくにとって特殊な愛情なんです。ぼくはそれまで驢馬ってもの見たことがありませんでしたから、いろいろ根掘り葉掘りしてききましてね、すぐに固く思いこんでしまいました。これはよく働いて力があり、辛抱が強くて安い、じつに有益な動物だと感じたのです。この驢馬のためにスイス全体が気に入って、以前のふさぎの虫は、にわかにどこへやらいってしまいました」
「どうも不思議なお話ばかりですね。けれども、驢馬のお話は抜きにしたって結構ですから、なにかほかのことに移りましょう。おまえは何をそう笑ってばかりいるんだえ、アグラーヤ? おまえもですよ、アデライーダ。公爵は驢馬のお話をりっぱになすったじゃありませんか。公爵は自分でちゃんとごらんなすったんですよ。おまえはいったい何を見ました? 外国へなんか行ったこともないじゃありませんか」
「おかあさま、わたし驢馬を見てよ」とアデライーダが言った。
「あたし声だって聞いたことがあるわ」とアグラーヤが引きとった。
 三人はまたそろって笑いだした。公爵もいっしょになって笑った。
「おまえたちはほんとにいけないよ。公爵、あなた堪忍してやってくださいましね」と夫人が言った。「あれでも心はいい人間なんですから。あたし、あの子たちと喧嘩ぽかりしどおしていますけれど、かわいいにはまったくかわいいんですの。ただあの人たちは軽はずみで、そそかしくて、おまけにきちがいなんです」
「なぜですか?」と公爵は笑って、「ぼくだってお嬢さんたちの位置にあったら、やっぱり笑わずにいられなかったでしょう。ですが、ぼくはあくまで驢馬の味方です。驢馬は善良で有益な人間です」
「じゃ公爵、あなたは善良な人間ですか? いえ、わたしはただ物好きにきいてみるだけなんですよ」と夫人がたずねた。
 一同はまたしてもどっと笑った。
「またあのばからしい驢馬の話になっちまいましたね、わたしそんなこと思いもよらなかったのに!」と夫人は叫ぶようにいった。「まったくなんですよ、公爵、わたしはけっしてべつに……」
「当てこするつもりじゃなかった、ですか? ええ、そうでしょうとも、よくわかっています!」
 公爵はとめどなしに笑った。
「ほんとにあなたが笑ってくださるので安心しました。お見受けしたところ、あなたはまったくいいおかたですね」と夫人はいった。
「ときどきよくないことがあります」と公爵は答えた。
「ですが、わたしはいい人間ですよ」と思いもかけず夫人が口をはさんだ。「いいえ、ことによったら、わたしはいつでもいい人間かもしれません。これがわたしのただ一つの欠点ですの。なぜって、年がら年じゅういい人間でいる必要はありませんからね。わたしはしょっちゅうこの人たちや、とりわけ夫などに食ってかかります。ところが、まことに情けないことには、わたし怒るときがいちばん人のいいときなんです。さっきもあなたがお見えになるちょっと前に、何が何やらちっともわからない、わかるはずがないといって、さんざ腹を立てて当たり散らしたんですよ、まるで赤ん坊同様ですねえ。それでアグラーヤが叱って教えてくれましたの。アグラーヤ、ありがとうよ。ですが、それもこれもみんなばかげたことです。わたしはまだ見かけほどには、娘たちの考えるほどばかじゃありません。わたしは意気地もあるし、またたいして含羞《はにかみ》やでもありませんからねえ。でも、わたし皮肉でこんなこというのじゃありませんよ。アグラーヤ、ここへおいで、そしてわたしをキッスしてちょうだい、そうそう……でも、もうこんな甘ったるいことはたくさん」アグラーヤが情をこめてくちびると手に接吻したとき、夫人はこう注意した。「公爵、さ、もっとつづけて話してください。もしかしたら、驢馬よりもすこしおもしろい話を思い出しなさるでしょう」
「だけど、わたしやっぱりわかりませんわ、どうしていきなりそんなふうにお話が出るのでしょう」と、またアデライーダがいいだした、「わたしだったら、まごついちまうわ」
「公爵はまごつきなんかなさいませんよ。公爵は珍しく賢いおかたなんだから。おまえなんかよりは少なくとも十倍も賢いかたなんだよ。ことによったら十二倍もね。どうかあとになって、おまえこのことに気がついてくれるといいがね。公爵、どうかあの子たちにその証拠を見せてやってくださいな。さ、今のつづきを、でも驢馬はもうほんとにやめにしてもようござんすね。それであなた、驢馬のほかに何をあちらでごらんになりました?」
「ですけど、驢馬の話もおもしろうございましたわ」とアレクサンドラがいいだした。「公爵はたいへんおもしろくご自分の病的な場合をお話しなさいましたわ。ちょいとした外部の刺激のために、なにもかもみんな好きにおなんなすったというのも、おもしろうございました。わたし人がきちがいになって、それからまた元のように瘋ってしまう、そういったふうなお話ならいつでも結構ですわ。とりわけ、とつぜんそんなふうになったのですとね」
「まったくでしょう? まったくでしょう?」と夫人はとびあがらんばかりにいった。「おまえでもときどきは賢いことをいうらしいね。さ。もう笑うのはたくさん、あなたたしかスイスの景色のところまでお話しになりましたね、公爵、さあ?」
「ぼくたちはリュツェルンヘ着きました、それからぼくは湖の上をひっぱりまわされたのです。湖はじつにいいと思って感心したのですが、同時に恐ろしく苦しいような心持ちがしました」と公爵は語りはじめた。
「なぜでしょう?」とアレクサンドラがきいた。
「わかりません。ぼくはいつでもああいう自然に対すると。はじめは重苦しい不安な心持ちになるのです。いい気持ちでそして不安なのです。もっとも、その時分まだやはり、病気の最中でしたからね」
「そう、だけど、わたし行ってみたくてたまりませんわ」とアデライーダがいった。「でもね、わたしたちいつ外国へ行けるかわからないんですの。そうそう、わたし絵の題材を、二年このかたさがしてるんですけど、どうしてもみつかりませんの。

  『南も東もとく描かれぬ……』

 ねえ公爵、なにかわたしに題材をみつけてくださいません」
「そんな方面のことはぼくなんかにわかりません。ぼくなんかただ見て描きさえしたら、それでよさそうに思われますがね」
「その見ることができないんですの」
「まあ、あなたがたは謎なぞ問答でもしてるの? 何が何だかちっともわからないじゃありませんか!」と夫人はさえぎった。「見ることができないなんて、いったいなんのことだえ? ちゃんと目が二つあるんだもの、見たらいいじゃありませんか。ここで見ることができないくらいなら、外国へ行ったって急にできるようになれやしません。それよりか、公爵、あなたご自身なにをごらんになったか、それを聞かしてくださいな」
「ああ、それがよござんすわ」とアデライーダも言葉を添えた。「公爵は外国で物の見かたを習っていらしったのですから」
「知りませんね、ぼくはただ健康回復に行ったのですから、物の見かたを習ったかどうか、そんなことは知りませんよ。しかしぼくはほとんどしじゅう幸福でした」
「幸福で! まあ、あなたは幸福になることがおできになって?」とアグラーヤは叫んだ。「そんなら、なぜあなたは物の見かたを習わなかったなどとおっしゃるんですの! それどころか、あたしどもに教えてくださることだってできますわ」
「教えてちょうだい、後生ですから」とアデライーダは笑った。
「ぼくになにがお教えできるものですか」と公爵も笑った。
「ぼくは外国にいるあいだ、ほとんどいつも同じスイスの片田舎に暮らして、ほんのときおり、どこかあまり遠くないところへ出かけるだけでしたもの、何をお教えできるもんですか。はじめのうちは、ただ退屈しないというまででしたが、からだのほうはずんずんよくなりました。そのうちに、ぼくは毎日の日が貴く思われだしました。日がたつにつれていよいよ貴くなってくるのが、ぼく自身にも気がつきました。毎晩、満足しきって床に入るのですが、朝目がさめたときは、もっともっと幸福なのでした。なぜそうなのか、――それはかなり説明が困難です」
「それで、あなたどこへもいらっしゃらなかったんですね、どこへも行きたいとはお思いにならなかったんですね?」とアレクサンドラが問いかけた。
「はじめのうち、ごくはじめのうちは、まったく行きたいと思いました。そしてぼくは激しい不安に陥りました。どんなふうに暮らしたものかと考えたり、自分の運命を試してみたかったりして、ときおり非常に煩悶したものです。あなたがたもおわかりでしょうが、よくそんなときがあるものです、ことにひとりきりでいるとなおさらね。ぼくのいたその村に滝が一つありました。あまり大きくはなかったが、白い泡を立てながら騒々しく、高い山の上から細い糸のようになって、ほとんど垂直に落ちてくるのです。ずいぶん高い滝でありながら、妙に低く見えました。そして、家から半露里もあるのに、五十歩くらいしかないような気がする。ぼくは毎晩その音をきくのが好きでしたが、そういうときによく激しい不安に誘われたものです。それからまた、よく真っ昼間にどこかの山にのぼって、大きな樹脂《やに》の多い老松に取り巻かれながら、ただひとり山中に立っていますと、やはりそうした不安が襲ってきます。頂上の岩の上には中世紀ごろの古い城の廃址があって、はるか下のほうにはぼくのいる村が、見えるか見えないくらいにながめられます。太陽はぎらぎら光って、空は青く、すごいような静けさがあたりを領している。そのときです、そのときぼくはどこかへ行きたいという気持ちになりました。もしこれをまっすぐにいつまでもいつまでも歩いて行って、あの地と空が相接している線の向こうまで行ったら、ありとある謎はすっかり解けてしまって、ここでわれわれが生活しているより百倍も千倍も強健で、にぎやかな。新しい生活を発見することができるのだ、というような気がしました。それから、しじゅうナポリみたいな大きな町が空想に浮かんできました。その中には宮殿、喧騒、轟音、生命……なんでもあるといった具合に……ほんとうに、なにやかやいろんなことを空想しました! それからのちになって、ぼくは牢屋の中でも偉大な生活を発見できると考えるようになりました」
「いちばんしまいにおっしゃったのはなかなかりっぱなお考えですが、あたしまだ十二くらいのときに、教科書で読んだことがありますわ」とアグラーヤがいった。
「それはみんな哲学ですわ」とアデライーダも口をはさんだ。「あなたは哲学者ね、そしてわたしどもを教えにいらしたのでしょう」
「あるいはあなたがたのおっしゃるとおりかもしれません」と公爵はほほえんだ。「おそらくぼくは、まったく哲学者なんでしょう。それにまたじじつ、ぼくが教えようという考えを持っているかどうか、たぶんだれにも分からないことですからね……いや、まったくそうかもしれません、そうかもしれません」
「そうして、あなたの哲学はエグラムピヤさんなどと同じようですわね」とまたアグラーヤが引きとった。「エヴラムピヤさんてのは、ある官吏の後家さんで、居候かなにかみたいに、よく家へやってくる人ですの。この人の人生における唯一の問題は安直ということでしてね、ただもうどうしたらもっと安く暮らしていけるだろうかってね、一コペイカ二コベイカのこまごましたことばかりいってますの。そのくせどうでしょう、おあしはちゃんと持ってるんですよ、つまりずるいんですわ。あなたのおっしゃる牢獄のなかの偉大な生活も、ちょうどそんなふうですわ、それから四年間の田舎住まいの幸福もね。だって、あなたはそのために、ナポリの都も売っておしまいになったじゃありませんか。おまけに、幾コペイカというはした金ではありますが、利潤までとって……」
「牢獄の生活に関してはまだ反対の余地があると思います」と公爵はいいだした。「ぼくは、牢屋の中に十二年はいっていた男の話を聞きました。それはぼくの先生の患者で、いっしょに治療を受けていた男です。癲癇の発作がありましてね、ときどき落ちつかなくなって、泣くんです。一度なんか自殺しようとまでしました。その男の牢獄内の生活はじつに陰惨なものでしたが、もちろん銅貨式のけちけちしたものでないことは、誓ってもよろしゅうございます。その男のなじみといってはただくもと、窓の外に生えている小さな木だけだったのです……でも、それよりか、いっそぼくが去年別の男と会ったときのことを話したほうがよさそうです。それには一つじつに奇妙なできごとがあるんです。奇妙だというのは、つまり、あまり類のないお話だからです。この男はあるときほかの数名の者といっしょに処刑台にのぼらされました、国事犯のかどで銃殺刑の宣告を読み上げられたのです。ところが、それから二十分ばかりたって特赦の勅令が読み上げられ、罪一等を減じられました。けれど、この二つの宣告のあいだの二十分、すくなくとも十五分というもの、その人は自分が幾分かののちにはぽかりと死んでしまうものと信じて疑わなかったのです。この人が当時の印象をおりおり話して聞かせましたが、それがおそろしくぼくの心をひいで、ぼくは幾度となく、はじめから根掘り葉ほりしてききかえしました。その人はおそろしいほどはっきり覚えていて、この数分間のできごとはけっしてけっして忘れはしない、といっていました。群集や兵隊に取りまかれた処刑台から、二十歩ばかり離れたところに、柱が三本立ててあったそうです、犯人がいくたりもいたからです。まず三人の者をひっぱっていって柱へしぼりつけ、死刑服(だぶだぶした長い白い着物)を着せ、それから銃の見えないように、白い頭巾を目の上までかぶせました。次におのおのの柱のまえに数人ずつの兵士が整列しました。ぼくの知人は八番目に立っていましたから、したがって三度目に柱のほうへ呼び出されることになっていたわけです。ひとりの憎が十字架を手にしてひとりひとり回って歩きました。いよいよ残り五分ばかりで、それ以上命はないというときになりました。当人のいうところによりますと、この五分間が果てしもなく長い期限で、莫大な財産のような思いがしたそうです。最後の瞬間のことなど思いわずらう必要のないほど多くの生活を、この五分間に生活できるような気がして、さまざまな処置を取りきめました。すなわち、時間を割りふって、二分間を友達との告別に、いま二分間をこの世の名ごりに自分のことを考えるため、また残りの一分間は最後に周囲の光景をながめるため、というふうにしたのです。その人はこの三つの処置を取りきめて、こんな具合に時間を割りあてたのをよく覚えていました。当人は当時二十七歳、強壮な青年でした。友達に別れを告げながら、中のひとりにかなりのんきな質問を発して、その答えにまで興味を持ったということです。さて、友達との告別がすむと、今度は自分のことを考えるため[#「自分のことを考えるため」に傍点]に割りあてた二分が参りました。当人はどんなことを考えたらいいか、あらかじめ承知していました。いま自分はこうして存在し生活しているのに、もう二分か三分たったら一種のあるもの[#「あるもの」に傍点]になる。すなわちだれかに、でなければ何かになるのだ。これはそもそもなぜだろう、――この問題をできるだけ速く、できるだけ明瞭に解決しようと思ったのです。だれかになるとすればだれになるのか、そしてそれはどこであろう? これだけのことをすっかり、この二分間に知りつくそうと考えたのです! 刑場からほど遠からぬところに教会堂があって、その金色の屋根の頂きが明らかな日光に輝いていたそうです。彼はおそろしいほど執拗にこの屋根と、屋根に反射して輝く日光をながめていて、その光線から目を離すことができなかったと申します。この光線こそ自分の新しい自然である。いま幾分かたったら、なんらかの方法でこの光線と融合してしまうのだ、という気持ちがしたそうです……今にも到来すべき新しい未知の世界と、それにたいする嫌悪の念は、じつに恐ろしいものでした。けれど、当人にいわせると、このときもっと苦しかったのは、絶え間なく浮かんでくる一つの想念だったそうです、――『もし死ななかったらどうだろう? もし命を取りとめたらどうだろう? それは無限だ! しかも、その無限の時がすっかりおれのものになるんだ! そうしたら、おれは一つ一つの瞬間を百年に延ばして、一物たりともいたずらに失わないようにする。そして、おのおのの瞬間を『いちいち算盤《そろばん》で勘定して、どんな物だって空費しやしない!』この想念がしまいには激しい憤懣の情に変わって、もう片時も早く撃ち殺してもらいたい気持ちになったそうです」
 公爵はとつぜん口をつぐんだ。人々は彼がまだそのつづきを話して、結論でもつけくわえることと思って待ち構えていた。
「それでおしまい?」とアグラーヤがたずねた。
「え? そうです、おしまいです」束の間の黙想からわれに返って、公爵はこういった。
「なんのためにそんな話をなすったの?」
「その、ちょっと思い出したもんですから……まあ、座興のために……」
「あなたはまったくまとまりのないお話をなさる方ですわ。公爵」とアレクサンドラが注意した。「あなたはきっとこうおっしゃりたかったのでしょう。ただの一瞬間でも一コペイカや二コペイカに僖をつけるわけにはゆかない。そしてわずか五分間でも、ときとしてはいかなる宝にもまさるものだって、ね? まことにりっぱなお考えですわ。けれども、失礼ですが、そんな恐ろしい話をなすったお友達はどうなさいましたろう……だって、そのかたは減刑になったでしょう。つまり、その『無限の生活』を恵まれたのでしょう。で、それからのち、その莫大な富をどうなすったでしょう。『算盤をはじきながら』一つ一つの瞬間を生活なさいましたか?」
「おお、違います。その人は自分でいっていましたが、――もうその事はぼくがとっくにきいたのです、――まるっきり違った生活をして、多くの瞬間を空費したそうです」
「じゃ、つまり、あなたにとっていい経験でしたのね。つまり『算盤をはじきながら』生活するってことは、じっさいはできないことなんですね。どういうわけだか、とにかくできないことなんですね」
「そうです、どういうわけだか不可能なんです」と公爵は同じことをいった。「ぼく自身にもそう思われました……が、それでもやはり、なにかそうとばかりも信じられないので……」
「それじゃ、あなたはだれよりも賢い生活ができると考えてらっしゃいますの?」アグラーヤがそうきいた。
「ええ、ぼくときどきそんな気もしました」
「今でもしますの?」
「今でも……します」以前どおりの静かな、というより、むしろ臆病な笑みをふくんで公爵は答えた。けれど、すぐにまたからからと笑って、おもしろそうにアグラーヤをながめた。
「おつつしみぶかいこと!」アグラーヤはむかつ腹を立てながらいった。
「ですが、あなたがたはまったく度胸がいいですね。そんなにして平気で笑っていらっしゃる。ところが、ぼくはこの友達の話におそろしいショックを受けて、あとで夢にまで見ましたよ。その五分間の姿を見たのです」
 彼はまじめな探るような目つきで、もう一度聞き乎の顔を見まわした。
「あなたがたはなにかぼくに腹を立てていらっしゃるのじゃありません?」なんとなくどぎまぎした様子ではあったが、それでも一同の目をひたとながめながら、ふいに公爵はこう問いかけた。
「なぜですの?」と三人の令嬢はびっくりして、一時に叫んだ。
「その、じつは、ぼくがしじゅう教訓でもしてるような具合ですから……」
 一同は笑いだした。「もし怒っていらっしゃるのでしたら、どうかお怒りにならないでください」と彼はいった。「ぼくはだれよりも少なく生活してきたから、だれよりも人生のことを知りません。それはぼく自分でもよくわかってるんです。ぼくはときどきじつに変なことをいうでしょう……」
 といって、彼はすっかりまごついてしまった。
「だって、あなたご自分で幸福だったとおっしゃる以上、あなたは人よりも少なく生活なすったどころじゃなく、かえって余計に生活してらっしゃるんですわ。なぜあなたはわざと謙遜ぶって、あやまったりなどなさるんでしょう?」アグラーヤが突っかかるような厳しい調子でいった。「それから、あなたがあたしどもに教訓を垂れてくださることについては、どうぞご心配なさいませんように。あなたの態度にはちっとも高慢そうなとこが見えませんから。まったくあなたみたいな静寂教《クワイエチズム》の信者だったら、たとえ百年生きていらっしても、幸福に満ちた生涯が送れますわ。あなたは死刑を見せられても指を一本見せられても、どちらからも同じようにりっぱな思想を引き出して、しかも大満足でいらっしゃるかたなんですもの。そんなふうなら長生きもできましょうよ」
「なんだっておまえはそう憎まれ口をきくんです、合点が行かない」前から無言で、話している人たちの顔を観察していた夫人はこう引きとった。「そして、おまえさんたちのいうことからして、なんのこったかわからないじゃありませんか。指とはいったいなんのことだえ、ばかばかしい。公爵のおっしゃることはなかなかりっぱですよ、もっとも、少々陰気すぎるけれど。なんだっておまえは話の腰を折るんです? 公爵は話の始まりごろには笑っていらっしったのに、今はすっかりしょげこんでおしまいなすったじゃないか」
「いいのよ。おかあさま。ねえ、公爵、あなた死刑をごらんにならなかったのが残念ですわ。あたしひとつうかがいたいことがあるんですけど」
「ぼく、死刑を見たことがありますよ」と公爵が答えた。
「ごらんになって?」アグラーヤは叫んだ。「あたし、どうして察しがつかなかったのでしょう? それで何もかもそろったことになりますわ。ですけど、もしごらんになったのなら、しじゅう幸福に暮らしてきたなんておっしゃられないはずですがね。え、あたしのいうこと違っていまして?」
「また、いったいあなたのいらしった村で死刑なんかするんですの?」とアデライーダがたずねた。
「ぼくはリヨンで見たのです。シュナイデル先生といっしょにリヨンへ行きましたから、先生がいっしょにつれて行ってくだすったんです。着くとすぐ死刑にぶつかりました」
「いかがでございました、さぞお気に召したでしょうね? いろいろ教訓になる有益なことがありましたでしょう?」アグラーヤは問いかけた。
「ちっとも気に入りませんでした。おまけに、そのあとで病気したくらいです。けれど、じつのところ、まるで釘づけにでもされたように、じっと立ったまま見つめていました。どうしても目を離すことができなかったのです」
「あたしたって、やはり目を離すことができなかったでしょうよ」とアグラーヤがいった。
「あちらでは婦人が見物に行くのをひどく嫌います。そういう女のことはあとで新聞にまで書き立てるのです」
「つまり、女の見るべきものでないとわかると、それはすなわち男の見るべきものだって言いたいんですわ(したがって、それを肯定しようというのでしょう)。結構なロジックね、おめでとう。それで、むろん、あなたもそう考えていらっしゃるんでしょう」
「死刑のお話を聞かしてくださいましな」とアデライーダがおさえた。
「ぼくは今どうも気が進まないのですが……」と公爵はどぎまぎして、顔でもしかめるような様子をした。
「あなた、まるであたしどもに話してくださるのが、惜しくていらっしゃるようですわね」とアグラーヤがちくりと刺した。
「いいえ、ただね、この死刑の話はもうさっきしたばかりですから」
「だれにお話なさいまして?」
「さっき待っていたとき、お宅の取次に話しました」
「取次って、だれのことですの?」と四方から一時に問いかけた。「あの控室にすわっている、顔の赤い、ごま塩頭の人です。ぼく、ご主人をお待ちしながら、控室にすわっていましたから」
「それは奇妙ですこと」と夫人が口を入れた。
「公爵はデモクラットですもの」とアグラーヤがさえぎった。
「ね、公爵、アレクセイにお話しなすったくらいなら、あたしたちに聞かしてくださらないって法はありませんわ」
「わたしぜひうかがいとうございますわ」とアデライーダはくりかえした。
「さっきはまったく」と公爵はまたいくぶん元気づいて(公爵は非常に早くそして正直に元気づく入らしかった)、アデライーダのほうへ向いた。「まったくあなたのおたずねになった画題に関して、ご助言しようという考えがあったんです。どうですか、ギロチンの落ちて来る一分前の死刑囚の顔をお描きになっては。まだ処刑台の上に立っていて、これから板の上へ横になろうとしているときです」
「え、顔ですって? 顔ばかり?」とアデライーダがたずねた。
「ずいぶん妙な画題ですことね。それじゃ、まるで絵にならないじゃありませんか」
「わかりませんね、なぜでしょう?」と公爵は熱心にいいはった。「ぼくは近ごろパーセルで絵をひとつ見ました。その話がしたくてたまらないんです……またいつかお話ししましょう……じつに感動させられました」
バーゼルの絵のお話はのちほどぜひうかがいとうございますが」アデライーダが受けた。「今はどうかその死刑の絵のことを、もっとくわしく説明してくださいましな。あなたが心の中で考えてらっしゃるように伝えていただけるでしょうかしら? どういうふうにその顔を描くんですの。それで、顔ばかり? いったいどんな顔でございますの?」
「それは殺されるちょうど一分まえです」まるで前から用意でもしていたように、彼はさっそく話しだした。それはただこの思い出ひとつに没頭しつくして、ほかのことはいっさい忘れ果てたような具合である。「犯人が梯子段を登りつくして、処刑台に足を踏みこんだその瞬間なのです。そのとき、男はふとぼくのほうへ向いたので、こちらもその顔をちらとながめ、何もかもがわかりました……ですが、まあどんなふうにこれを話したらいいでしょう! ぼくはあなたにしろだれにしろ、そいつを絵に描いてもらいたくてもらいたくてたまらないんです! あなただったら申し分ありません! ぼくはもうそのときから、有益な絵になるだろうと考えていました。しかし、その中には、前にあったことを残らず現わしていなくちゃいけないんです。その男は牢屋に押しこめられて、刑の執行を待っていましたが、すくなくとも一週間くらいは間があると思っていたのです。つまり、ありふれた形式的な順序を当てにしていたんでしょう。書類はまだどこかほかへ回されて、やっと一週間もたったころにやって来るだろう、くらいのつもりでいました。ところが、思いがけなくある事情からして、その手続きが短縮されたのです。ある朝の五時ごろ、男はまだ寝ていました。もう十月の末でしたから、朝の五時はまだ暗くて寒いのです。典獄が看守といっしょにそうっと入って来て、用心ぶかく男の肩に触りました。こちらは片ひじついて起き直ると、-灯が見えるじゃありませんか。『どうしたんです?』『九時に死刑だ』男は半分寝ぼけてほんとうにしないで、書類はもう一週間たたなければやって来ないのだ、といい争おうとしましたが、やがてすっかり目がさめてしまうと、もう争うのをよして口をつぐみました、――これはあとで人から聞いたことです、――しばらくたってから、『だって、それにしても、こんなに急じゃやりきれない……』と言い、また黙ってしまいました。そして、もう何もいおうとしなかったそうです。それから、三、四時間ばかりはお定まりの手順に過ぎてしまう、――神父、ぶどう酒とコーヒーと牛肉の出る朝飯(ねえ、これじゃまるでひやかしじゃありませんか。考えただけでもじつに残酷な話でしょう。ところが一方から見ると、ああした無邪気な連中は、まったく清い心持ちからそういうこともするので、これをりっぱな博愛だと信じて疑わないんですからね)。その次に身じまい(あなた、囚人の身じまいってどんなものかご存じですか?)、それから最後に、処刑台まで町じゅう引きまわすのです……ぼくはここでもやはり同じように、こうして町じゅう引きまわされているあいだ、まだまだ長く生きていられるような気持ちがするだろうと思います。その男は道道こんなことを考えたに相違ありません。『まだ長いぞ、まだ通り三つだけ命が残っているぞ。こいつを通ってしまっても、その次にまだあれが残っている、それから右側にパン屋のある通りが残っている。まだまだパン屋まで行きつくのは、いつのことかわかりゃしない!』まわりには、群集、叫喚、喧騒、幾万の顔、幾万の目……これをすっかり押しこたえねばならないのです。が、なによりも苦しいのは、『ここに幾万という人間がいる、あの中でだれも死刑になる者はないのに、おればかりが死刑になるんだ!』という想念です。まあ、ここまでが前置きです。処刑台へは小さな梯子がかかっています。その梯子の前でふいに泣きだしました。そのくせ、ずいぶん力の強そうな男らしい男で、大変な悪党だといううわさでした。男のそばにはたえず神父がついていました。馬車の中へもいっしょに乗り込んで、のべつなにやらいっていましたが、――男の耳にはろくすっぽ入りゃしません。ちょっと聞きはじめでも、三こと目から、もうわからなくなるのです。そうに違いありません。とうとう梯子を登りはじめましたが、足がしばってあるものだから、小刻みに動くのです。神父はきっと賢い人だったんでしょう。もうそのとき話をよして、絶え間なしに十字架を接吻さしていました。梯子の下にいるとき、男はひどく青い顔をしていましたが、登りつくして台の上に立ったときは、紙のように――まるで白い用箋のように、急にまっ白になってしまいました。きっと両足が弱って棒のようになって、吐き気まで催してきたのでしょう、たんだかのどをしめられて、それがためにくすぐったいような心持ち、――あなたがたもそんな経験がおありになりませんか? なにかでびっくりしたあととか、さもなくば非常に恐ろしいと思った瞬間、理性はそっくりそのまま残っていながら、なんの支配力を持っていないようなときなんかに。ぼくは思いますね、もしたとえば、上から家が倒れかかるとかいったような、避くべからざる滅亡が襲ってきたら、ふいにそのままべったりすわりこんで、――どうなとなるようになれ! と目を閉じながら、じっと待っているような気持ちになりはしないでしょうか……ちょうどこうした気の弱りがおこりかけた瞬間に、神父はせかせかした手つきでふいに無言のまま、男のすぐ口もとへ十字架を当てがいました。こんな小さな銀の十字架でした、――それを幾度も幾度も、一分ごとに当てがうのです。十字架が唇にふれると、男は目を見ひらいて、幾秒かのあいだなんとなく元気づいて、足もずんずん動きました。そして、むさぼるように十字架を接吻する、急いで接吻するのです。まるでなにか万一の用心に忘れずにしまっておこうとして、急いでつかみとるような具合に。しかしこのさい、宗教的な自覚はほとんどなかったようです。こういうふうにして板のそばまでつづけて行きました……が、妙なことには、こういうつきつめた場合に、人はあまり気絶しませんね! それどころか、反対に頭がおそろしくはっきりして、運転中の機械のように、強く、強く、強く働いてるに相違ありません。ぼくは思いますね、そんな場合いろいろな思想が、――どれもこれも尻きれとんぼで、ひょっとするとこっけいで、この場合とはとてつもなく飛び離れた思想が、たがいにぶつかりっこしているのです。たとえば、『おや、だれだかこっちをにらんでるぞ、――あいつの額にはいぼがある。ほい、この首斬人のいちばんしたのボタンがさびてらあ……』といった調子なんです。しかし、それと同時にいっさいのことを覚え、いっさいのことを知っているのです。なにかある一点があって、それがどうしても忘れられない、またそれがあるために気絶することもできません。そして、あらゆるものはこの点の周囲をめぐり、回転しているのです。どうでしょう、考えてもごらんなさい、もう頭を丸太ん棒の上に載っけてじっと待ちながら……次に来るものを明瞭に意識している[#「意識している」に傍点]、最後の四分の一秒となっても、こういう状態がまだつづくのです。と、不意に頭の上を鉄のすべる音が聞こえる! これはどうしたって聞こえるに相違ありません! もしぼくだったら、ぼくがそんなふうに板の上に寢てるのだったら、ぼくはわざと耳を澄ましてその音をとらえたでしょう! それはおそらく一瞬間の十分の一くらいしがないでしょうが、かならず聞こえるに相違ありません! それに考えてもごらんなさい、今でも世間で議論してるではありませんか。頭が切り離されたときでも、一秒くらいのあいだは、切り離されたことを知ってるかもしれないって――なんて物の考えかたでしょう! もしそれが五秒間だったら、どうだというのでしょう!………そこでね、あなた、梯子のいちばんうえの段がたった一つ、近いところにはっきり見えるように、断頭台をお描きなさい。いま罪人がそれに片足かけたところで、紙のように白い顔と頭とが見えます。神父が十字架をさし伸ばすと、こちらは餓えたもののように青いくちびるを突き出しながら、それをながめています。そして、――何もかも知ってるのです[#「何もかも知ってるのです」に傍点]。十字架と首、これが絵の主眼です。神父の顔、首斬人、ふたりの助手、それから下のほうに見えるいくつかの頭や目は、霧の中にでもあるようにぼんやり描いたらいいでしょう、点景としてね……これが絵の全幅です」
 公爵は口をつぐんで一座を見まわした。
「これじゃあんまり静寂教《クワイエチズム》らしくないわ」とアレクサンドラはひとり言のようにいった。
「ね、公爵、今度はあなたの恋物語を聞かしてくださいな」とアデライーダがいいだした。
 公爵はびっくりしたようにその顔をながめた。「と申しますのはね」アデライーダは、なんとなく、せきこんだ調子で、「あなたからはまだバーセルの絵のお話もうかがわなくちゃならないんですが、わたしそれよりさきに、あなたの恋物語を聞かしていただきとうございますの。強情をお張りになってもだめ、あなたは恋をなさいました。それにまた、そのお話をおはじめになるとすぐに、哲学者ぶるのをおやめになりましょうから」
「あなたはなんでも話しておしまいになると、すぐにその話したことを、恥ずかしがりなさいますわね」とふいにアグラーヤが口を入れた。「それはいったいなぜですの?」
「まあ、なんてばかなことを」不満足げにアグラーヤを見すえながら夫人がさえぎった。
「あんまり気がきいてもいないわね」とアレクサンドラも相づちを打った。
「公爵、この子のいうことを正直にお取んなすってはいけませんよ」と夫人は公爵に向かっていった。「なにかしら意地わるでわざとあんなことをしてるんですから。あの子はけっしてあんなばかにしつけたのではございません。どうぞね、あなた、あの三人があなたをいじめようとかかっている、などとお思いにならないでください。それはまったくなにやら企らみはあるに相違ないでしょうが、もう三人ともあなたが好きになっているのですよ。わたしはあの子たちの顔をよく知っております」
「ぼくもあの人たちの顔をよく知っております」と公爵は妙に言葉に力を入れてこういった。
「それはどういうわけですの?」とアデライーダが好奇心に満ちた声でたずねた。
「いったいどうわたしたちの顔をごぞんじなんです?」と他のふたりも興ありげに問いかけた。
 けれども、公爵は黙ってまじめな様子をしていた。一同は彼の答えを待ちもうけていた。
「あとで申しましょう」と彼は低いまじめな調子でいった。
「あなたはどこまでもあたしたちの興味を釣ろうとなさるんですわ」とアグラーヤが叫んだ。「それに、なんてもったいぶった言いかたでしょう!」
「ま、よございます」とアデライーダはまたせきこんで、「もしあなたがそんなに顔の鑑定の大家でしたら、たしかに、恋をなすったに相違ありません。つまり、わたしの言うことが当たったわけですわ。話してくださいましよ」
「ぼく、恋したことなんかありません」公爵はまた前と同じ、低い、まじめな調子で答えた。「ぼくが……幸福だったのは、ほかにわけがあるのです」
「どうして、なぜですの?」
「いいです、ひとつお話ししましょう」と公爵はいいきった
が、なんとなく深いもの思いに沈んでいるかのようであった。

      6

「皆さんは今おそろしい好奇心をもって、ぼくをながめておいでになります」と公爵ははじめた。「もしその好奇心を満足させなかったら、あなたがたはかんかんになってぼくに食ってかかりもしかねないでしょう。いや、これは冗談ですよ」と彼は微笑を浮かべながら、大急ぎでこうつけたした。「あちらには……あちらには子供がどっさりいました。で、ぼくはいつも子供と、――子供ばかりといっしょにいました。一小隊くらいいるのが、みんなぼくの村の子供たちで、学校通いの連中ばかりでした。ぼくがこの連中に教えていたわけではありません。そのためには、ちゃんとジュール・ティボーという学校の先生がいました。こうはいっても、ぼくもちっとはなにかと教えたかもしれませんが、たいていの場合、なんということなくいっしょに遊んでいました。こうしてぼくの四年間はたったのです。ぼく、ほかのものはなんにもいりませんでした。ぼくはこの子供らに何もかもみんなうち明けて、なにひとつ隠しだてしなかったのです。しまいには子供たちがいつもぼくのまわりに集まって来て、ぼくでなければ夜が明けぬようになったので、親たちや親類のものはぼくのことを憤慨しだすし、学校の先生はぼくにとっていちばんの敵になってしまいました。ぼくはあちらでずいぶん敵を作りましたが、みんな子供がもとなんです。ついにはシナイデル氏さえ強《こわ》意見をするようになりました。いったいみんな何が恐ろしいのでしょう? 子供にはどんなことだって話して聞かせてかまいません。――なにもかもね。一般の大人が子供を理解しないのはもちろん、両親でさえ自分の子供をろくろく知らないのだと考えると、ぼくはいつも不思議でたまりません。まだ年がゆかぬからとか、まだ時期が早いからといって、子供に物を隠す必要はちっともありません。そんなことはじつに悲しむべき不幸な考えかたです! 子供ってものはなんでもわかるのに、親は子供をなんにもわからぬ、ほんの赤ん坊あつかいにしているのを、じつによく心得ています。どんな小さな子供でもきわめて困難な事件に対して、驚くほどりっぱな忠告を与えうるものだってことを、大人は夢にも知らずにいるのです。ああ! ほんとにあのかわいい小鳥が、さも嬉しそうに信じきった様子をして自分のほうを眺めていると、小鳥をだますのが恥ずかしくなるでしょう! ぼくが子供たちを小鳥と言ったのは、世の中に小鳥よりかわいいものはないからです。それはそうとして、村の者がぼくに腹を立てるようになったのは、おもにある偶然のできごとからです……ティボーなどはもうぼくをうらやましがっていました。はじめのうちは、子供たちがぼくのいうことをなんでもよく聞きわけるのに、先生のいうことがいっこうにわからないのを不思議がって、しきりに首をひねっていましたが、その後、ぼくがこの人に向かって、われわれはおたがいになにひとつ子供らに教えることなんかできない、かえって子供らに教えられるのだといったら、先生はそれからぼくをばかにしだしました。ほんとうに、自分で子供らといっしょに暮らしていながら、どうしてあんなにぼくを嫉妬|讒謗《ざんぼう》するんでしょう! 子供に接していると魂が癒されるものですがねえ……例のシュナイデル先生の病院にひとりの病人がいましたが、それはじつに不仕合わせな男でした。不仕合わせといって、またと類のないような惨憺たるものです。この男は精神錯乱の治療に病院へ入れられたのですが、ぼくの考えではきちがいというよりは、むしろ非常に苦しんだ男というべきです、それが彼の病気の全部だったんです。ところで、ぼくの子供たちがしまいにはこの男にとってどんなに大切になったかは、とてもあなたがたにおわかりにならないでしょう……しかし、この病人のことはあとにしたほうがいいでしょう。ぼくはとりあえずいっさいの事の起こりからお話ししましょう。はじめのうち子供たちはぼくを好きませんでした。ぼくはこんな大人だし、そのうえいつも袋みたいにもっさりしてるんですからね。おまけに顔まであまり見っともよくないってことを、ぼくは自分でよく知っています……それから今ひとつ、ぼくが外国人だということもありました。子供たちははじめぼくをからかっていましたが、のちにぼくがマリイを接吻してるとこを見たとき、石をほうりつけさえしました。しかし、ぼくは後にも先にも、たった一度この女に接吻したっきりなんです……いえ、笑っちゃいけません」と公爵は急いで、聞き手のくすくす笑いを押しとどめた。「それはけっして色や恋じゃないのです。もしこの女の不仕合わせな身の上をお聞きになったら、あなたがたもぼくと同じように、かわいそうだとお思いになるに違いありません。この女は、ぼくのいた村の生まれで、母親というのはもうよぼよぼのお婆さんでした。この老婆のちっぽけな、すっかり古ぼけてしまった家に、窓が二つついていましたが、村役場の許しをえてその一つの扉や框《かまち》をはずし、この窓口から真田紐《さなだ》だの縫糸だの、たばこ、石鹸などというがらくたを売って、ようやく口すぎをしていました。そのうえに、女は病身で、両足とも、すっかりはれていたもんですから、いつもじっと家にばかりすわっておりました。マリイはこの老婆の娘なんです。年ごろ二十歳ばかりの、ひ弱そうなやせひょろけた女でした。もうずっと前から肺病にかかっていましたが、それでも毎日苦しい日傭仕事に雇われて、家から家へと回り歩いていたものです、――つまり床を洗うとか、洗濯物をするとか、庭を掃除するとか、牛馬を追いこむとかです。ところが、あるとき村へやって来たフランス人の手代《コミ》が、このマリイをかどわかして連れ出しましたが、一週間たつかたたぬかに、たったひとり大道へおいてきぼりにして、こっそり逃げ出してしまいました。女は汚れ腐ったぼろを下げ、破れ靴をはいて、道々人の袖にすがりながら家へ帰りました。なにしろ一週間というもの徒歩で歩き通して、夜は野に寝たものですから、ひどい風邪をひいて、足は傷だらけ、手はむくんで、あかぎれだらけという有様でした。もっとも、マリイは前だって、けっして美しい女ではありませんでした。ただ目がしっとりとして人が好さそうで、罪がないというだけ、おそろしく無口な女でした。いつだったかずっと前に、仕事をしながら不意となにやらうたいだしたんです。ぼくは今でも覚えていますが、そばにいる者はみんなびっくりして、きゃっきゃっ笑いだしたものです。『マリイが歌をうたったぞ! なに、マリイが歌をうたった?』と騒ぎ立てるので、当人はひどくまごついて、それからあとというもの、永久に黙りこんでしまいました。そのころはまだみんなマリイをかわいがっていましたが、その後やみ疲れ責めさいなまれて村へ帰って来たとき、だれひとり同情を寄せてやる者がないのです。この方面のことになると、じっさい、世間の人は残忍なものですね! じつに酷薄な見解をいだいています! 母親がさきに立って、憎悪と侮蔑の目でマリイを迎えました。『おまえはわしの顔に泥を塗った』とこうなんです。そうして、母親は娘を村じゅうの悪口嘲罵に任せました。マリイが帰ったと聞きつけると、ほとんど村じゅうの者がマリイを見ようと老婆の小屋へ馳せ集まりました。年寄も、子供も、女房も、娘も群をなして、貪婪な目を光らせながら急いで行ったものです。マリイは老母の足もとの床の上に、餓えつかれて、ぼろぼろの着物にくるまったからだをなげ出して、しくしく泣いていました。人々がかけ集まったときは、おどろに振り乱れた髪の毛に身を包むようにして、ひたとうつぶせに床に吸いついていました。まわりに立っているものはみんな、なにかけがらわしいもののようにそれをながめているのです。年寄はマリイの罪を数えてののしる。若い連中は笑う、女たちは責めたり悪口をいったりして、まるでくもかなにかでも見るように、軽蔑しきっているのです。母親も母親でそれをとがめようともせず、そばにすわってみながらしきりにうなずいてみせ、調子を合わせていました。母親はその時分たいへん病気が重って、ほとんど死にかけていましたが、ふた月してほんとに死んでしまいました。自分でも死期の近いことを知っていたのですが、それでも死ぬまで娘をゆるそうとはしませんでした。それどころか、ひとこととして口をきかず、寝るときも戸口の廊下へ追いやって、食べる物も満足に食べさせなかったのです。母親は病中にしじゅう腰湯をしなければならなかったので、マリイは毎日湯を立てて足を洗ってやるなど、さまざまに看病してやりました。けれど、母親はその親切な介抱を黙って受けるばかりで、ひと口も優しい言葉をかけてやらない。マリイはそれをじっと辛抱していました。その後、ぼくはこの娘と近づきになったとき気がつきましたが、マリイはそれをあたりまえのように思って、自分という人間を世界じゅうでいちばんいやしいものみたいに考えているのです。老母がすっかり床についてしまったとき、村のお婆さんたちが順番で、かわるがわる介抱にやって来ました。そういう村の規則なんです。そのときマリイは、まったく食べ物を貰えなくなり、村じゅうどこへいっても追い払われ、だれひとり以前のように仕事をさしてやろうという者もありません。まるで唾を引っかけんばかりでした。男たちはマリイを女の数にも入れなくなって、とてもひどい悪口を浴びせとおしていました。あまりたびたびではありませんが、ときとして、それもごくたまに、日曜なぞ酒に酔っぱらった連中が、お慰みにわずかばかりの小銭をいきなり地べたにほうりつけると、マリイは黙ってそれを拾い上げるのでした。彼女はもうそのころからせきのたびに血を吐くようになっていました。しまいには身につけていたぼろ着もすっかりかんではいたようになって、村へ姿を現わすのにも気が引けるくらいでした。彼女は帰って来たそもそもからはだしで歩いていました。そこへもってきて、子供たちが組を作って(みんな小学校の生徒で、四十人以上もありましたろう)、マリイをからかったり、むさい物を投げたりするではありませんか。彼女は牛飼のところへ行って、牛番に雇ってくれるように頼みましたが、さっそく追っ払われてしまいました。すると、マリイはことわりなしに牛の群をつれて、毎日朝から晩まで家を出ていきました。それがたいへん手助けになるのに牛飼も気がついたので、それからは来てもあまり追い立てずに、ときおり食べ残しのチーズやパンをくれてやるようになりました。彼は自分でそれを大きな慈善でもしたように考えていました。母親が死んだとき、村の牧師は恥ずかしげもなく教会で、マリイを大勢の前で侮辱しました。マリイがいつもどおり、ぼろぼろのなりをして、棺のうしろに立つたまま泣いていると、その泣き泣き棺について行く姿を見ようというので、大勢の人が教会へ集まって来たのです。そのとき牧師が、――この男はまだ年が若くて、偉い説教者になろうという野心に燃えていました、マリイを指しながら、――一同に向かっていいますには、『この女こそ、かの尊敬すべき婦人の死なれた原因であります(これはまっかなうそなのです。なぜって、母親はもう二年も前からわずらっていたのですから)、こうして、今みなさんの前に立つたまま、顔も上げることができないでおります。なんとなれば、神さまのみ心によって運命を定められたからであります。ごらんのとおり、身にはぼろをまとい、足ははだしであります。なんと善行を失った人たちのよい見せしめではありませんか! この女はそもそも何者でありましょうか? なくなられたかたの娘なのです!』と、どこまでいってもこういった調子なのです。しかも、どうでしょう、この卑劣きわまる言葉がみんなの気に入ったのです。ところが、……そこへひとつ変わったことがおこりました。そこへ子供たちが割りこんだのです。子供たちはもうその時分みんなぼくの味方で、マリイが好きになっていました。それはこういうわけなのです。じつは、ぼくマリイのために何かしてやりたくってたまらなかったのです。マリイは金がなくてさぞ困るだろうと思ったけれど、あちらにいる時分のぼくは、いつだって一文なしでした。ところが、ちょうど小さなダイヤのピンがあったので、村から村へ渡り歩いて古着など売買する商人にそれを払って、ハフランの金をこさえました。もっとも、ピ冫はたしかに四十フランの値うちがありました……ぼくはたったふたりきりのところでマリイに会おうと思って、長いあいだ苦心しましたが、とうとうある日のこと、村はずれの生垣のそばで、――坂になった裏道のとある木の下で会いました。そこでぼくは例の八フランを渡し、もうこれ以上一文も金はないのだから、大切にしまってお置きといって接吻しました。そして、ぼくがこんなことをするからって、なにか好くない目的でもあるようにとってはいけない、ぼくがおまえに接吻するのはおまえにほれたからじゃない、ただおまえを気の毒に思うからだ、ぽくはそもそもの始まりから、けっしておまえが悪いとは思っていなかった、ただ、不仕合わせな女だと同情しているだけだ、とそういって聞かせました。それからぼくはいろいろ慰めてやって、おまえはそんなふうに自分を人と比べていやしいものだと思ってはいけない、とこうも言ってさとしてやりたかったのですが、マリイはそれがわからなかった様子でした。マリイは始めからしまいまで伏し目になって、無性に気まり悪がりなから、黙ってぼくの前に立っていましたが、それでもぼくはすぐに、よくわからなかったんだなと気がつきました。こちらがすっかりいってしまったとき、マリイはぼくの手を取って接吻しました。ぼくもすぐさまその手を握って接吻しようとしましたが、マリイは急いで引っこめてしまいました。そのときふいに、子供らの一隊がぼくたちふたりを目つけたのです。あとでわかったことですが、子供らはずっと前からぼくの跡をつけまわしていたそうです。で、この連中が口笛を鳴らすやら、手をたたくやら、笑うやら、大変な騒ぎなんで、マリイは逃げ出しました。ぼくがなにかいおうとすると、子供らは石をほうったりなんかするんです。すぐその日に、村じゅうの者がみんな知ってしまいました。そして、そのお尻はまたもやすっかりマリイのほうへまわって、彼女はもっともっと嫌われるようになりました。一時なにか罰を食わすなどといううわさもありましたが、まあ運よくそのまますんでしまいました。そのかわり、子供たちはマリイを見ると通せん坊をしたり、泥をぶっつけたりして、前より余計にからかうのです。よくマリイは子供らに追っかけられて逃げていましたが、元来胸の弱いからだですから、はあはあ息を切らして苦しんでいると、子供たちはうしろからわめいたり悪口をついたりする。一度なぞはぼくが飛び出して、その連中を相手に喧嘩したことさえあります。それからぼくは子供たちに向かって、毎日ひまさえあればお説教をはじめました。すると、子供らもときどき立ちどまって、耳を傾けるようになりました。もっとも、悪口はまだやめませんでしたがね。マリイがどんなに不仕合わせな女かってことを、ぼくは話して聞かせたのです。まもなく彼らは悪口をつくのをやめて、黙ってマリイをよけるようになりました。しだいしだいにぼくらは話などするようになりました。ぼくは子供らになにひとつ隠さず、すっかりうち明けて話しました。彼らはたいへん珍しそうに聞いていましたが、まもなくマリイを気の毒がるようになってきました。ある者はマリイに出くわすと、愛想よく挨拶するんです。あちらでは人が途中で行き会うと、――知り合いであってもなくっても、――お辞儀をして『こんにちは』といい合う習慣でした。そのときマリイはどんなにかびっくりしたことでしょう。あるとき、ふたりの娘が食べ物を手に入れて、マリイに持ってってやったあとで、ぼくのとこへ来て話すのです。マリイがひどく嬉しがって泣いたから、自分たちも今ではあの人が好きでたまらなくなった、というじゃありませんか。まもなく、子供たちがみんなマリイをかわいがるようになりましたが、それと同時にぼくまで急に好いてくれだしました。彼らはしょっちゅうぼくのところへ来て、なにか話して聞かせろとねだるのでした。子供たちがおそろしく聞きたがったところから見ると、ぼくもなかなか話が上于だったらしいのです。のちには、ただもうその連中に話して聞かせてやるために、勉強もすれば本も読むようになりました。こうして、三年のあいだというもの、ぼくはしじゅう話しつづけていました。なぜ大人にするような話を子供にして聞かせるかだの、なぜ子供たちになにひとつ隠そうとしないか、などという人々の非難にたいして、――その中にシュナイデル先生もまじっていました、――ぼくはこう答えました。子供にうそをつくのは恥ずべきことだ、大人がどんなに隠しても子供は心得ている、それにひとりで知ったことは、悪いほうに解釈するかもしれないが、ぼくが教えればそんなおそれはない。とにかくどんな人でも、自分が子供だったときのことを思い出してみたら、それでいいのだといいましたが、だれも同意しませんでしたっけ……ぼくがマリイに接吻したのは、母親の死ぬ二週間まえでした。例の牧師がお説教したときは、子供たちがみんなぼくの味方になっていましたから、ぼくはすぐに牧師の仕打ちを話して、よく合点の行くように説明してやりました。すると、一同大いに憤慨して、中には石をほうって窓ガラスをこわす者さえありました。ぼくはそれはいけないといってよさせましたが、村の者はさっそくそれを聞いて、子供を惡くしてしまうといってぼくを責めたものです。あとで、子供たちが、マリイを好いていると聞いたときは、みんなびっくりしたような始末です。しかし、マリイはもう幸福に暮らしていました。子供たちは道で会うことさえ禁じられていましたが、それでもこっそりと村から半露里も離れている、かなり遠い牧場へ走って行きました。たいていなにかみやげを届けてやるのですが、中にはただマリイを抱いて接吻して"Je vous aime, Marie! "(マリイ、わたしはおまえが好きだ)といいたいばかりにわざわざ走って行って、すぐにまた韋駄天《いだてん》走りに帰って来るものもありました。マリイは思いもかけぬこの幸福に、ほとんど気が狂わんばかりでした。まったくこのようなことは夢にも見なかったんですものね。それで、嬉しくもあれば恥ずかしくもありといった様子でした。しかし、それよりも子供たち、ことに女の子は、マリイのところへ走って行き、ぼくがとても彼女を愛していて、しじゅう子供たちに彼女のうわさばかりするということを、当人のマリイに知らせたくてたまらなかったらしいのです。子供たちはマリイに向かって、これはみんな小父さんのいったことだ、そして今はあなたが好きで気の毒になった、これからさきも好いてあげる、などというのです。それからまたぼくのとこへかけもどって、嬉しそうなせわしない顔つきをしながら、たった今マリイに会って来たことや、マリイがぼくによろしくいったことなどを伝えるのです。毎晩、夕方、ぼくは滝へ散歩に出かけました。そこには村のほうからすこしも見えない場所がひとつあって、まわりにポプラが生えていました。子供たちは毎晩ここへぼくに会いに来るのです。なかには、家をそっと抜け出してまで来るのもありました。彼らにとっては、マリイに対するぼくの愛がたまらなく愉快だったと見えます。そこにいるあいだじゅうぼくが彼らをあざむいたのは、前後を通じてこれがたった一つでした。‘ぼくは決してマリイを愛してはいない、つまり恋してはいない、ただ非常にあわれに思ってるだけだなどといって、彼らを失望させることはしませんでした。彼らは自分たちが想像し、自分たちのあいだで勝手に決めたようであってほしいと、いっしょうけんめいに望んでいるのですから(それはいろいろの点からよくわかるのです)、ぼくも黙っていて、うまく図星を指されたような顔をしていました。しかし、この子供たちの小さな心のデリカで、優しいことはどうでしょう。子供らにとって好きなレオン(レフのフランスよみ)のおじさんが、それほどまでにマリイを愛しているのに、マリイは見すぼらしいなりをして、靴さえ持たないということが、有りうべからざることのように思われたらしいのです。それでまあ、どうでしょう! 彼らはマリイに靴だの、靴下だの、シャツだの、おまけになにやらちょいとした着物まで持って来てやったではありませんか。いったいどんなにして小さな知恵をしぼったのか分かりませんが、とにかく、何十人かのものが一致協力しての仕事です。ぼくがそいつをたずねると、彼らはただ愉快そうに笑うばかり、女の子は手をたたいて喜びながらぼくに接吻するのでした。ぼくもときどきやはりそっとマリイに会いに行きました。彼女はもうよほど病気がひどくなって、ろくろく歩けなくなっていました。しまいには牛飼にとってすこしも手助けにならなかったのですが、それでも彼女は相も変わらず毎朝牛をつれて外へ出ました。牧場でも隅っこのほうにばかりすわっていました。そこには大きな岩がほとんど垂直に立っていて、その角がひとところ飛び出している。マリイはだれにも見えないそのいちばん奥に隠れて、捨石に腰をかけたまま、朝早くから牛の群が帰ってしまうころまで、一日じゅうほとんど身動きもせずにすわりとおしていました。彼女はもう肺病でおそろしく衰弱しているので、頭を岩にもたせて目をふさいだまま、じっとすわっているときのほうが多いくらいでした。よく重苦しく息をつきながら、うとうと、眠っているのも見かけました。顔は骸骨そっくりにやせて、汗が額にもこめかみにもにじみ出していました。来てみると、いつもこんな様子でした。ぼくがここへ会いに来るのはほんのちょっとのあいだでした、やはり人に見られるのはいやですから。ぼくが姿を見せるや否や、マリイはぶるぶるとからだをふるわして目を見開き、ぼくのほうへ飛んで来て両手を接吻するのでした。それがこの女にとって一つの幸福なんですから、ぼくは手を引きのけようとしませんでした。ぼくがそばにすわっているあいだ、彼女はふるえたり泣いたりしていました。また幾度か口を開いて、物をいいかけもしましたが、いうことがよくわからないのです。もうなんのことはない、まるできちがいで、おそろしい興奮と歓喜とで夢中なんです。ときとすると、子供たちがいっしょに来ることもありましたが、そんなとき彼らはぼくたちふたりからすこし離れたところに立って、なにかから、だれかからぼくたちを護るような態度をとってくれました。子供たちにとっては、それがまたひとかたならず愉快なんです。われわれが帰って行くと、マリイはまたひとりぼっちになって、岩に頭を寄せかけたまま目をつぶり、前のように身動きもしないでいる。おそらくなにかの夢でも見ていたのでしょう。ある日の朝、マリイはいよいよ牧場へ出かけることがかなわなくなって、がらんとした自分の家に寝ていました。子供たちはすぐさまそのことを聞きつけて、その日はほとんどみんなが代わりばんこ、見舞に行きました。彼女は床の中にそれこそひとりっきりで寝ていたのです。二日の間というものは、ただ子供たちばかりが代わるがわる走って来ては、介抱していましたが、その後、村でも、ほんとうにマリイが死にかけているということが知れると、お婆さんたちがやって来て、そばに付き添ってみとることになりました。村の人たちもマリイをかわいそうに思うようになったらしいのです。すくなくとも、前のように子供たちをとめたり、叱ったりしなくなったのは確かです。マリイはいつもうとうとしてばかりいました。その寝ている間も苦しげで、おそろしくせき入るのでした。お婆さんたちは子供が来ると、しじゅう追っ払っていましたが、子供のほうは窓の下まで走って来て、様子を見て行くのでした。ときとすると、たったひとこと、"Bonjour, notre bonne Marie"(おはよう、わたしの好きなマリイ)といいたいばかりに、わざわざやってくるものもありました。マリイはその声を聞くか、それとも顔を見るばかりで、もう非常に元気づいて、年寄が止めるのも聞かず、無理に片ひじついて起きあがり、こっくりこっくりをして礼をいっていました。子供たちは相変わらずさまざまなみやげを持って行きましたが、彼女はほとんど何も食べませんでした。しかし、誓って申しますが、彼女は子供らのおかげでほとんど幸福に死にました。子供らのおかげで自分の薄命を忘れました。つまり、マリイは死ぬまで自分をこの上ない罪人《つみびと》と感じていたので、子供たちから赦免の言葉を聞いたような気持ちになったのです。彼らは、まるで小鳥みたいに毎朝マリイの家の窓へ来て、羽をばたばた鳴らしながら"Nous t'aimons, Marie"(マリイ、わたしはおまえが好きだ)とわめいたものです。マリイはじきに死にました。ぼくは、もっと生きてるだろうと思ったのですけれど。彼女が死ぬ前の晩、まだ陽の入らぬさきに、ぼくはちょっと見舞に寄りました。彼女はぼくを見わけたようでした。で、ぼくはお名ごりに手を握りしめてやりましたが、その手のやせようといったらありませんでした! ところが、あくる朝、人が来て、マリイが死んだっていうじゃありませんか。そのとき、子供たちはどんなにとめられてもいうことを聞かずに、棺をすっかり花で飾って、彼女の頭に花輪をかぶせました。教会の牧師も死んだものまで辱しめようとはしませんでしたが、葬式に立ち会う人はごく少なくて、ただわずかな人がもの好きにやって来たばかりでした。いざ棺をかつぐというときになると、子供たちは自分でかつぐといって、一時に棺に飛びかかりました。しかし、しょせんかつぎおおせるものではないので、加勢してもらいましたが、みんな棺のあとについて走りながら泣きました。それ以来マリイの墓守をしたのはいつも子供たちでした。彼らは毎年花をもって来て墓を飾り、まわりにばらなどを植えこみました。しかし、この葬式があって以来、子供のことから村じゅうこぞってぼくを迫害しはじめました。おもだった煽動者は牧師と、小学教師のティボーでした。子供たちはぼくの顔を見ることすら禁じられ、シュナイデル先生はそれを監督するという役目を負わされました。けれど、ぼくたちはやっぱり会っていました。遠いところから信号で話しあったものです。子供のほうからもよくかわいい手紙などよこしました。のちになってすっかりうまく納まりましたが、そのころはじつにおもしろかった。この迫害のおかげで、ぼくと子供たちはかえって仲良くなったくらいです。ぼくの帰るという年には、ティボーとも牧師とも仲直りしました。シュナイデル先生はぼくにいろんなことをいって、子供に対するぼくの有害な『システム』を攻撃なさいました。ばかばかしい、ぼくにどんなシステムがあるものですか! とうとうしまいに、シュナイデル先生がひとつ奇妙なことをいわれました、――それはぼくがいよいよたつというときでした、――先生のいわれるには、おまえはじつに完全な赤ん坊だ、つまりまったくの赤ん坊だ。おまえは顔や背丈ばかり大人に似ていても、発育とか情操とか性格とか、ことによったら知力の点から見ても、けっして大人じゃない。そして、たとえおまえが六十まで生きているとしても、やはりいつまでもそのとおりだ、おれはそう信じて疑わない、とこうなんです。ぼくはそれを聞いて大笑いしました、先生のいうことはもちろん、うそなんですものね。だって、ぼくみたいな子供があったら大変じゃありませんか。しかし、たったひとつうそでないことがあります。ぼくはじっさい、大人と、普通の世界の人と交わるのをあまり好まないんです。それはもう前から気がついていました。嫌いだというのも、つまりできないからなんです。大人といっしょにいると、相手がどんなことを話しても、どんなにいい人であっても、なぜか窮屈でしょうがないので、いいかげんにそこを逃げ出して、友達のところへ行けたときは、もう嬉しくてたまりません。その友達というのはいつでも子供です。でも、それはぼくが赤ん坊だからじゃありません、ただなんとなしに子供のほうへ引きつけられるのです。ぼくがまだその村へ移ったばかりのころ、――そら、たったひとり山に登って、うら寂しいもの思いに沈んでいたときです、その辺をぶらぶら散歩していると、ときどき、といってもおもに学校のひけるお午《ひる》時分、子供たちがひとかたまりになってやって来るのに出会いました。袋をぶらさげて石盤を抱いた連中が、わめいたり、笑ったり、ふざけたりしながら、騒々しく走って来るのです。すると、ぼくの心は一時に彼らのほうへまっしぐらに飛んでいくのです。なぜだか知りませんが、こうして彼らの群に会うたびに、非常に強烈な幸福な感じを覚えました。ぼくはそこへ立ちどまって、幸福のあまり笑いながら、絶え間なく走りつづける子供たちの、小さな足がちらちらする有様や、つれ立って走る少年少女や、彼らの笑ったり泣いたりする光景を(なぜ泣くかというと、子供たちの多くは学校から家へ帰るまでの道も、もう喧嘩をおっぱじめて、泣いたり泣かしたりするからです。けれど、すぐまた仲直りをして、ふざけるのです)ながめているうちに、いつの間にやら胸のもやもやを忘れてしまいます。その後まる三年のあいだ、世間の人はなぜ、どういうわけでくよくよもの[#「もの」に傍点]案じばかりしているのかしらと、不思議でたまりませんでした。ぼくの全生涯は彼らのために捧げつくしたのです。ぼくはその村を棄てようなぞとは夢にも思ったことがなく、いつかこの口シヤヘ来ようなぞとは、考えたことさえありません。一生そこで暮らすものとばかり思っていました。けれども、とうとうシュナイデル先生も世話がしきれなかったらしいところへ、ちょうどある一つの事件がおこったのです。それがなかなか重大なことと見えて、先生もしきりにぼくをせき立てて、ここまでの旅費を負担してくだすったのです。ぼくは事の真偽を正すために思案し、だれかと相談しようとしてるんです。ひょっとしたら、ぼくの運命が一変してしまうかもしれません。が、それはあえて重要な問題ではありません。もっと重要なのは、ぼくの全生涯がすでに一変してしまったことです。ぼくはあちらへ多くのものを、多すぎるくらいいろんなものを残して来ました。何もかも消えてしまったのです。ぼくは汽車に乗って考えましたね、『おれはこれから人間の中へ出て行くのだ。もしかしたら、おれはなにひとつ知っていないかもしれない。それだのに、もう新しい生活がやってきた』ぼくは自分のなすべきことを潔白に、そして堅固に遂行しようと決心しました。世の中へ出たら退屈で苦しいことが多いかもしれない。が第一段として、ぼくはすべての人に対して慇懃に、正直でありたいと思いました。まったくそれ以上のものを、ぼくから要求する人はないでしょう。あるいはここでも、人がぼくのことを子供だと言うかもしれません、――それならそういわしておきます! それから、なぜかぼくのことをみんな、ばかだばかだといいます。じっさい、ぼくも一時は白痴に近いくらいひどく健康を害したこともあります。しかし自分がばかだといわれていることを、ちゃんと知ってるんだから、ぼくはばかじゃありますまいよ。ここへはいって来るときにも、考えました、『ああしてみんながひとをばかあつかいにする、しかしなんといったっておれは賢い人間だ、ただ人はそれを悟らないだけなんだ……』これはぼくしょっちゅう考えることなんです。ベルリンへ着いたとき、子供らがもう手まわしよく書いてよこしたかわいい手紙を受け取ったとき、ぼくはどれだけ彼らを愛していたかわかりました。まず最初の一通を手にしたときは、じつに辛うございました。子供たちはぼくと別れるのをどんなに悲しがったでしょう! もうひと月も前からお別れをしていました。"Leon s'en va, Leon s'en va pour toujours!"(レオンが行ってしまう、レオンが永久に行ってしまう)というのです。われわれは毎晩、例のごとく滝のそばへ集まって、別れる時のことばかり話しあっていました。どうかすると、以前と同じように愉快な晩もありましたが、ただいよいよ家へ寢に帰るという段になると、みんなぼくを熱心に固く抱きしめるのです。そんなことは以前ありませんでした。ある者なぞは、みんなのいないふたりきりのところで、ぼくを抱きしめて接吻したいばかりに、ほかの者に知れないようにそっと走って来るのです。ぼくがいよいよ出発するというときには、子供たち一同うちそろって停車場まで見送ってくれました。停車場は村からちょっと一露里ばかりありました。みんな泣くまいといっしょうけんめいにがまんしていましたが、なかにはたまらなくなって声をたてて泣きだしたのも大勢いました。ことに女の子がそうでした。ぼくたちは時間に遅れまいとして急いでいましたが、にわかに子供の中のひとりが道の真ん中で、群を離れてぼくに飛びつき、小さな手でぼくを抱きしめて、接吻するじゃありませんか。ただそれだけのことにみんなの足をとめさせるのです。われわれは先を急いではいましたが、一同足をとめて、その子が別れを告げてしまうのを待っていました。ぼくが汽車に乗りこんで、汽車がいよいよ動き出すと、彼らはいっせいに『万才』を叫んで、汽車がすっかり見えなくなってしまうまで、じっと一つところに立ちつくしていました。ぼくも同様そのほうをながめていました……ああ、そうそう、さっきぼくがここへはいって、あなたがたの美しいお顔を見たとき、――ぼくこのごろいっしょうけんめいに人の顔を見てるんです、――あなたがたから最初のお言葉を聞いたとき、ぼくの心はあのとき以来、はじめて軽くなったような思いがしました。さっきもちょっと考えたことなんですが、ぼくはじっさい幸福な人間かもしれませんよ。ひと目見てすぐ好きになるような人は、容易に出くわすものじゃないのですが、ぼくは汽車をおりるとすぐ、あなたがたという人に出くわしました。他人に自分の感情を語るのは恥ずかしいくらいのことは、ぼくだってよく知っています。ところで、今こうしてすっかりうち明けたお話をしていますが、あなたがたの前だとぼくちっとも恥ずかしいなんて思いません。ぼくはいったい人づきの悪いたちですから、こちらへも当分あがらないかもしれません。けれども、こういったからって、悪い意味にとってくだすっては困ります。ぼくはけっしてあなたがたをばかにするとか、またはなにかで気を悪くしてるとか、そんなつもりで申したのじゃありません。ところで、ぼくがあなたがたの顔についてどう感じたかっておたずねが先刻ありましたが、いま喜んでこれにお答えしましょう。アデライーダさん、あなたの顔は幸福そうな顔です。お三人の中でいっとう感じのいい顔です。それにあなたはたいへんご器量がよろしゅうございます、あなたの顔を見ていると、『この人の顔は親切な妹の顔のような気がする』とでもいいたくなります。あなたはざっくばらんに、快活に他人に接近なさいますが、同時に相手の胸の奥まですぐ見抜いてしまう力をもっていらっしゃいます。あなたのお顔を見ていると、こういう気がします。さて、アレクサンドラさん、あなたの顔もやはり美しくて優しい顔です。しかし、あなたはなんだか秘めたる悲しみとでもいうようなものをもってらっしゃる。あなたのお心もまたじつに美しいに相違ありません、があまり快活とは申されません。ちょうどドレスデンにあるホルバインのマドンナに似た、ある種の影があなたの顔に現われています。これがあなたの顔の印象です。よく当たったでしょう。あなたはご自分でぼくのことを察しのいい人間だとおっしゃったんですものね。ところで、奥さん、あなたの顔については、と公爵はふいに将軍夫人のほうへふり向いて、ぼく、単にそう思われるというばかりでなく、固く心から信じています。あなたはお年こそ召しておいでですが、ありとあらゆる点において、いいところも悪いところもひっくるめて、まったくの赤ん坊です。こう申したからって、腹なぞ立てはなさいませんね。あなたは子供に対するぼくの見解を先刻ご承知なんですから。それからまた、ぼくが無考えにあなたがたの顔を今のようにいったのだと、お思いにならないように願います。おお、違います。まるっきり違います! もしかしたら、なにか特別な考えがあったのかもしれませんよ」

      7

 公爵が口をつぐんだとき、一同のものは、アグラーヤまでが愉快そうに彼をながめた。リザヴェータ夫人はことに機嫌がよかった。
「あなたはすっかり試験をなさいましたね!」と夫人が叫んだ。「いかがですね、淑女がた、あなたがたは公爵をみじめな子供かなんぞのように、保護でもしてあげるおつもりでしたね、ところが公爵ご自身が、やっとおまえさんがたを仲間に入れてくだすったじゃありませんか。おまけに、ときどきしか来られないという条件つきでさ。わたしたちはとんだばかを見たというもんですが、それでもわたしは結局うれしいんですよ。けれど、だれよりいっとうばかばかしく見えるのはエパンチンです。じつはね公爵、さっきあなたを試験しろといいつけた人があるんですの。それはそれとして、あなたがわたしの顔についておっしゃったのは、まったく当たっています。わたしが赤ん坊だってことは、自分でもよく知っています。わたしはあなたの評を聞かないさきから、そのことがわかっていたのですが、あなたはわたしの考えていることを、たったひとことでいい現わしてくださいました。あなたの性質はわたしとそっくりだと思います。そしてそれがたいそううれしいんですよ、まるで瓜ふたつですね。ただあなたが男で、わたしが女、そしてスイスへ行ったことがない、違ってるのはそれっきりです」
「おかあさま、そうさきを急がないでよ」とアグラーヤが叫んだ。「公爵がああおっしゃったのには、特別なお考えがあったので、無意味なおしゃべりではないって、おことわりになったじゃありませんか」
「そうだわ、そうだわ」とほかのふたりも笑った。
「そんなにからかわないでちょうだい。もしかしたら、公爵はおまえたち三人がかりよりか、もっともっとずるいかたかもしれないからね。けれど、公爵、あなたはなぜアグラーヤのことをなんともおっしゃらなかったんですの? アグラーヤも待ってますし、わたしも待ってるんですよ」
「ぼく、今のところなんとも申しあげられません。またあとで申します」
「なぜでしょう? 目に立つほうでしょう?」
「ええ、目に立ちますとも。アグラーヤさん、あなたは非常な美人です。あなたはながめているのが恐ろしいほど美しいかたです」
「ただそれだけですの? 変わったところはありません?」と大人は追究した。
「美を批評するのはむずかしいことです。ぼくにはまだ準備がありません。美は謎ですからね」
「それはつまり、あなたがアグラーヤに謎をおかけになったことになりますわ」と、アデライーダがいった。「アグラーヤ、解いてごらんなさい。でも、美人でしょう、ね、公爵、美人でしょう?」
「非常な美人です!」吸い寄せられるようにアグラーヤをみつめながら、公爵は熱を帯びた調子で答えた。「ほとんどナスターシヤ・フィリッポヴナと同じです。もっとも顔のたちはまるで別ですが……」
 一同は愕然として顔を見合わした。
「え、だれのようですってえ?」と夫人は言葉じりを長くひっぱった。「まあ、ナスターシヤ・フィリッポヴナですって? あなたはどこでナスターシヤをごらんになりました? いったいどのナスターシヤですの?」
「さっきガヴリーラさんが、写真を将軍にお目にかけていたんです」
「なんですって、主人のところへ写真を持って来たのですって?」
「ええ、将軍のお目にかけるって。きょうナスターシヤ・フィリッポヴナがガヴリーラさんに写真を贈ったんだそうで、それをガヴリーラさんが見せに持ってみえたのです」
「わたしはそれが見たい!」と、夫人は叫んだ。「どこにその写真はあるのです? あの人がもらったのなら、あの人のとこにあるはずだ。もちろん、あの人はまだ書斎で仕事をしているにちがいない。毎週、水曜日には仕事に来て、いつも四時より早く帰ったことがないのだから。今すぐにガヴリーラを呼びましょう! いいえ、よそう。そんなにあの人を見たくてたまらないというわけでもないのだから。ねえ、公爵、あなたお願いですから、ちょっと書斎まで行ってくださいな。そして、ガヴリーラに写真を借りて、ここへ持って来てくださいませんか。ちょっと見たいからって、そうおっしゃればようござんす。どうぞ」
「いい人ね。でも、あんまり人がよすぎるわ」公爵が出て行ったあとで、アデライーダはこういった。
「ええ、ほんとになんだかあんまりのようね」とアレクサンドラも相づちを打った。「ちっとばかりこっけいなくらい」
 ふたりとも、自分の考えをみなまでいわなかったらしい。
「だけど、わたしたちの顔のことでは、なかなか上手にいい抜けたわけねえ」とアグラーヤはいった。「みんなの気に入るようにお世辞をいうんですもの。おかあさまにまで……」
「後生だから、生意気なこといわないでちょうだい!」と夫人は叫ぶようにいった。「あれは、公爵がお世辞を使ったんじゃなくって、わたしがお世辞に乗せられたんですよ」
「あんたはあの人がうまくいい抜けたのだと思って?」とアデライーダがたずねた。
「そう思うわ、あの人そんなにお人好しじゃなくってよ」
「ふん、またはじめた!」夫人は怒りだした。「わたしなんかから見ると、あんたたちのほうがもっとこっけいに見えます。とぼけたように見えても、腹に一物あるんですよ。むろん、これはごく高尚な意味でいうんだけれどね。そうですとも、そっくりわたしにそのままだ」
『むろん、写真のことなど口をすべらしたのは、ぼくが悪かったんだ』公爵は、書斎へ近づくにしたがって、いくぶん気がとがめだし、胸の中でこんなことを考えるのであった。『……が、もしかしたら、口をすべらしたのが結局よかったかもしれない……』
 彼の脳中を一つの不思議な観念がひらめきはじめた、とはいえ、それはまだはっきりしていなかった。
 ガヴリーラはまだ書斎にこもって、書類の整理に余念なかった。じっさい、彼は株式会社のほうでも月給のただ取りをしているのではないらしかった。公爵に写真を貸してほしいと頼まれ、奥の人たちが写真のことをかぎつけたわけを聞いたとき、彼はおそろしく狼狽した。
「ええっ! なんだってあなたはそんなおしゃべりをする必要があったんです!」と彼はいまいましげに叫んだ。「なんにもわからないくせに……白痴《ばか》!」と最後の一句を口の中でつぶやいた。
「ごめんなさい。まったくぼく、なんの気なしにいったんですから。話の拍子についうっかり出てしまったのです。じつはアグラーヤさんが、ナスターシヤさんと同じくらい美しいっていったんです」
 ガーニャはもっと詳しく様子を話すように頼んだ。公爵は話して聞かせた。ガーニャはさらにあざけるごとく彼の顔をながめた。
「ナスターシヤもとんでもない人に覚えられたものだ……」彼はこうつぶやいたが、いいも終わらぬさきに考えこんでしまった。彼は、よそ目にもそれと見えるほどの心配ごとがあるらしかった。公爵が写真のことを促すと、「ねえ、公爵」と、あたかも思いがけない思案がひらめいたかのように、いきなり、ガーニャはこうきりだした。「ひとつあなたに大変なお願いがあるんですが……しかし、わたしはじっさいどういっていいか……」
 彼はまごついて、しまいまでいいきれなかった。なにかある事を決行しようとして、おのれ自身と戦っているかのようであった。公爵は無言のまま控えている。ガーニャは今一度ためすような目つきでじっと相手をながめた。
「じつは、公爵」とふたたびいいだした。「いま奥の人たちはわたしのことを……あるきわめて奇怪な……そしてこっけいな事情のために……それもわたしになんの罪もないのに……いや、もうこんなことは冗談です――奥の人たちはなんだかわたしに対して、少々腹を立てていられるらしいのです。そこでわたしは、当分よばれないかぎりあちらへ行きたくないのです。ところが、わたしはいま非常に、アグラーヤさんとお話しする必要を感じているんですが、万一の時をおもんぱかって、一筆手紙に書いておきました(彼の手の中には小さく畳んだ紙片がはいっていた)。――けれど、その、どうしてお渡ししていいやらわからないのです。ねえ、公爵、ひとつこれをアグラーヤさんに今すぐ渡してくれませんか。ただし、アグラーヤさんひとりだけにですよ、つまり、その、だれの目にもかからないように、ようござんすか? これはもう誓って秘密のなんのってわけじゃありません。そんなことはけっしてないのです……がしかし……ご承知ですか?」
「ぼくこんなことはあまり気持ちよくありませんから」と公爵は答えた。
「いや、公爵、それはわたしにとって、ごくごくさし迫った用向きなんです!」とガーニャは嘆願しはじめた。「アグラーヤさんもおそらく返事をくださるでしょうから……お察しください、わたしだってせっぱつまればこそ、じつにせっぱつまればこそお頼みするんです……ほかにだれひとりことづける者がないんですから……これは非常に重大なことなんです……わたしにとってそれはそれは重大なことなんです……」
 ガーニャは、公爵が承知してくれなかったらとびくびくして、臆病らしく哀願するような目つきで、相手の顔をのぞきこむのであった。「それじゃ、まあ、渡してあげましょうよ」
「ですが、ただだれにも見つからないようにですよ」ガーニャはほくほくしながら念を押した。「ああ、それからね、公爵、まさかだれにもおっしゃりはしないだろうと思いますが、よろしゅうございますね?」
「ぼくはだれにも見せやしません」と公爵はいった。
「この書付は封がしてありませんが、しかし……」あくせくしすぎたガーニャは、こういいかけたが、うろたえて句を切った。
「おお、ぼくはけっして読みませんよ」とこともなく答えて、公爵は写真を取ると、そのまま書斎の外へ出て行った。
 ガーニャはひとりきりになると、両手で頭をかかえた。
「あの人のひと言で、おれはまったく破談にしてしまうかもしれない!………」
 彼はもう興奮と期待の情のあまり、ふたたび書類に向かう気になれなかったので、隅から隅へと書斎を徘徊しはじめた。
 公爵はもの思いに沈みつつ、歩みを運んだ。依頼の件も不愉快なら、ガーニャがアグラーヤに手紙を送るということも、不快なショックを与えた。けれど、客間までまだ二間と通り抜けないうちに、彼はなにやら思い出したように立ちどまり、あたりを見まわしながら、明りに近い窓へ寄って、ナスターシヤの写真を見つめはじめた。
 彼はこの顔の中に隠れているあるもの、さっき自分の心を打ったあるものの跿を解きたい気がした。さきほど受けた印象がほとんど寸時も心を去らぬので、急いで何ものかをふたたび確かめようとする、といったような具合である。美しいがためばかりでなく、まだなにかしらあるもののために世の常ならず見えるこの顔は、今やいっそう強い力をもって彼に迫った。まるで量りしれぬ矜持と侮蔑――ほとんど憎悪に近い――の色が、この顔の中にあるように思われた。が、またそれと同時に、なんとなく人を信じやすいような、驚くばかり醇朴《じゅんぼく》な何ものかがあった。この二つのもののコントラストは、見る人の胸になんとなく憐憫《れんびん》の情をそそるように思われる。このまばゆいばかりの美しさが、見るに堪えないようにさえ感じられる。落ちくぼんだといいたいくらいやせた頬や、燃えたつような双の目や、青白い顔の持っている美しさ、不思議な美しさである! 公爵は一分間ばかりながめていたが、やがてふいに心づいて、あたりを見まわし、急がしげに写真をくちびるへ持っていって接吻した。一分ののち、客間に入って行った彼の顔は、すっかり落ちついていた。
 しかし、彼が食堂へ足を入れたとき(客間へはまだ一部屋あいだがあった)、ちょうど向こうから出て来るアグラーヤに、あやうく戸口で突き当たろうとした。彼女はひとりきりであった。
「ガヴリーラさんが、あなたにこれを渡してくれということでした」公爵は彼女に書付を渡しながらいった。
 アグラーヤは立ちどまって、書付を受け取ると、なにか不思議そうに公爵をながめた。その目つきには微塵も気まり悪そうな様子はなく、ただいくぶんびっくりしたらしい気持ちがうかがわれたが、それも察するところ、公爵ひとりに関連したものらしかった。なぜ公爵がガーニャといっしょになってこの事件にかかり合っているのか、――これに対する説明を、まるでアグラーヤはその目つきで公爵から要求しているようであり、おまけにその要求の仕方が落ちつきはらって、高飛車なのである。ふたりは二、三秒間むき合ったまま突っ立っていた。ついになにかしらあざ笑うような影がアグラーヤの顔に浮かぶと、彼女はにっと笑ってそばを通り過ぎた。
 将軍夫人はしばらくのあいだ無言のまま、いくぶんさげすむような顔つきを見せて、ナスターシヤ・フィリッポヴナの写真を見つめていた。夫人は写真を大ぎょうに気取って目から離し、ぐっとさし伸べた手に支えていた。
「そう、美人だね」夫人はとうとう口をきった。「なかなか美人だ。わたしは二度この人を見たけれど、遠くからだったから……では、あなたこういうふうな美人に感心なさるんですの?」とふいに彼女は公爵に問いかけた。
「ええ……そういうふうの……」と公爵はいくぶん苦しそうに答えた。
「では、つまり、ちょうどこんなふうのをですか?」
「ちょうどこんなふうのをです」
「どういうわけで?」
「この顔の中には……じつに多くの苦悩があります……」公爵はわれともなしにこういった、人に問われて答えるのではなく、ひとり言でもいうかのように。
「ですが、それはあなたの気の迷いかもしれませんよ」と夫人は決断をくだし、大ふうな手つきで写真をほうり出した。アレクサンドラはそれを拾った。すると、そのそばヘアデライーダがやって来て、ふたりならんでながめはじめた。この瞬間、アグラーヤが客間へもどって来た。
「なんて力でしょう!」姉の肩越しに貪るごとく写真をながめこんでいたアデライーダが、いきなりこう叫んだ。
「どこに? どんな力が?」とリザヴェータ夫人は鋭くきき返した。
「こういう美は力ですわ」と熱心にアデライーダがいった。
「こんな美があったら、世界じゅうをひっくり返すことができるわ!」
 彼女はもの思うさまで画架のほうへ退いた。アグラーヤはただちらりと写真をのぞいて、ちょいと目を細め、下唇を突き出してそばを離れ、両手を組んで、脇の方へ腰をおろした。
 夫人はベルを鳴らした。
「ガヴリーラさんを呼んで来ておくれ、書斎にいなさるから」と彼女ははいって来た従僕に命じた。
「おかあさま!」と意味ありげにアレクサンドラが叫んだ。
「わたしはあの人にたったひとこといいたいことがある、それだけでたくさんなんです」と夫人は手早くさえぎって抗議を退けた。彼女はよそ目にもそれとわかるほどいらいらしていた。
「あのね、公爵、今わたしどものほうではね、なんでもかんでも秘密、秘密の一点張りなんですよ! そうしなくてはいけないんだそうです。それがなにかのエチケットなんですって、ばかばかしい。おまけに、それがなによりもいちばん公明正大の必要な事柄なんですからね。いま縁談が始まりかかってるんですが、わたしはその結婚が気に入らないんです……」
「おかあさま、なんだってそんなことを?」とふたたびアレクサンドラはあわてて母をとめた。
「なんだえ、おまえ? いったいおまえまであの縁談が気に入ったとでもいうのかえ? 公爵が聞いていらっしゃるって、公爵はわたしどものお友達じゃありませんか。すくなくともわたしにはそうなんだよ。神さまは善い人間をさがしておいでなさるので、悪い人間や気まぐれな人間にご用はおあんなさらないとさ。とりわけ、きょうこうだといっておきながら、あすはまたああだというような気まぐれ者はおいやだって。わかりましたか、アレクサンドラさん? この人たちはね、公爵、わたしのことを恋人だというんですよ。けれど、わたしだって物の差別はつきます。なぜって、心というものがかんじんなので、あとはみんなくだらないものです、もちろん、分別も必要です……ことによったら、分別がいっとうかんじんかもしれません。お笑いでない、アグラーヤ、わたしちっとも矛盾したことなどいいやしないから。心があって分別のないばか者も、分別があって心のないばか者も、どちらも不仕合わせです。これは古い真理だからね。ところで、わたしは心があって分別のないばか者、おまえは分別があって心のないばか者、わたしたちはどちらも不仕合わせ、どちらも苦労するのです」
「なんだっておかあさま、あなたはそんな不仕合わせなんですの?」一座の中でひとりだけ陽気な心持ちを失わぬアデライーダは、がまんしきれないでこうたずねた。
「第一に学問のある娘のためにさ」と断ち切るように夫人が答えた。「もうそれ一つだけでもたくさんだから、ほかのことはかれこれ無駄口をききますまい。口数の多いのには飽きあきした。見ていましょうよ、知恵があって、口数の多いおまえたちふたりが(わたしアグラーヤは数に入れません)、どうしてうまくこのさきこぎ抜けて行くか、そしてえらいえらいアレクサンドラさん、あなたがあの尊敬すべき紳士といっしょになって仕合わせだかどうか……ああ……!」と夫人は入って来るガーニャを見て叫んだ。「ここにもひとり結婚同盟のかたがお見えになった。ご機嫌よう!」彼女はすわれとも言わずガーニャの会釈に答えた。「あなたはいま結婚しようとしてらっしゃるでしょう?」
「結婚を? なぜ? どんな結婚……」ガーエヤは不意をくらってこうつぶやいた。彼はおそろしく転倒してしまった。
「じゃ、あなた奥さんをおもらいなさるんですか、とおたずねしましょう。もしこんなふうのいいかたがあなたのお好みとあれば」
「いいえ……わたしは……い、いいえ」とガヴリーラはうそをついた。そして、羞恥の念に顔を真っかにした。彼はわきのほうにすわっているアグラーヤをちらっと見やったが、そのまますばやく目をそらした。アグラーヤは冷やかに落ちつきはらってじっと彼を見つめながら、目を放さずにその当惑のさまを見守るのであった。
「いいえですか? あなた『いいえ』といいましたね?」ときかぬ気の夫人は執念《しゅうね》く追いつめた。「結構、わたし覚えていましょうよ。きょう、水曜の朝、わたしの問いに対して、あなたは『いいえ』といいました。きょう何曜だえ、水曜?」
「たしか水曜ですわ、おかあさん」とアデライーダが答えた。
「いつも日にちがわからない。何日?」
「二十七日です」とガーニャが答えた。
「二十七日? それはいいですね、ある点から見て。さようなら、あなたまだどっさり仕事がおありでしょう。わたしも、これから着替えをして出かけなければなりません。あなたの写真を持ってらっしゃい。あのお気の毒なニーナさんによろしく。公爵、またお目にかかりましょう。お坊っちゃん! せいぜいお遊びに寄ってちょうだい、わたしはこれからわざわざあんたのことを話しに、ベロコンスカヤのお婆さんのところへ行って来ます。そしてねえ、公爵、あんたがスイスからペテルブルグヘいらしたのは、つまりあなたをわなしに引き合わせてやろうという、神さまのおぼしめしなんだと信じます。あんたほかにもいろいろ用事はあるでしょうけれど、わたしのためというのがおもなんですよ。神さまがそう考えてなすったことにちがいありません。さようなら、お嬢さんがた。アレクサンドラ、ちょっとわたしのとこへ来てちょうだい」
 将軍夫人は出て行った。ガーニャは気も転倒してぼんやりしていたが、毒々しい顔つきをしてテーブルから写真を取り、へし曲げたような微笑を浮かべながら公爵に向かって。
「公爵、わたしはすぐに帰宅しますが、もしわたしどもへ住まおうという意志をお変えにならなかったら、お供しましょう。でないと、あなたは所もごぞんじないんですから」
「公爵、少々お待ちください」と、アグラーヤはいきなりひじ掛けいすから身をおこしながらいった。「あなたはまだあたしのアルバムに、なにか書いてくださらなくちゃなりませんわ。おとうさまがあなたのことを書家だと申したんですもの。あたしすぐに持ってまいります」
 といって、彼女は部屋を出た。
「さようなら、公爵、わたしも失礼します」とアデライーダがいった。
 彼女はしっかりと公爵の手を握って、優しく愛想よく笑いかけて出て行った。ガーニャのほうは見向きもしなかった。
「あれはあなたが」皆が行ってしまうやいなや、ガーニャは歯ぎしりしながら、公爵に食ってかかった。「あれはあなたがしゃべったんですな、わたしが結婚するなんて?」彼はものすごい顔つきをして、毒々しく目を光らせつつ、なかばささやくように早口につぶやいた、「あなたはじつに恥知らずのおしゃべりだ!」
「けっしてそうじゃありません、あなたは思い違いをしていらっしゃる」と公爵はもの静かに、慇懃に答えた。「ぼくはあなたが結婚なさるということさえ知らなかったのです」
「あなたはさっき将軍が、今晩ナスターシヤの家でいっさいが解決されるといったのを聞いて、それをしゃべりなすったんだ! うそおつきなさい! あの人たちがどこからかぎつけると思います? だれがあなたのほかに告げ口をする者がありますか、いまいましい! いま婆さんが、わたしに当てこすったじゃありませんか?」
「それほど当てこすられたような気がするなら、だれが告げ口したかということを、あなたのほうこそよくご承知でしょう。ぼくはひと口だってそんなこといった覚えはありません」
「手紙を渡してくだすった? 返事は?」逆上したような焦躁の調子でガーニャはさえぎった。
 しかし、ちょうどこの瞬間、アグラーヤが帰って来たので、公爵はなんとも答える暇がなかった。
「さ、公爵」テーブルの上に自分のアルバムを置きながら、アグラーヤがいった。「どこかよさそうなページを選り出して、なにか書いてくださいな。はい、ペン、まだ新しゅうございますよ。鉄のでかまいません? 書家は鉄ペンでは書かないって聞きましたが」
 こうして公爵と会話を交じえているあいだにも、彼女はガーニャがすぐそこにいることに気づかないようなふうであった。けれど、公爵がペンを直したり、ページを繰ったりして、用意をしているひまに、ガーニャは公爵のすぐ右側に当たるアグラーヤの立っている壁炉《カミン》に近寄り、とぎれとぎれのふるえ声で耳打ちせんばかりにいいだした。
「ひとこと、たったひとこと聞かしてくだされば、わたしはそれで救われます」
 公爵は急に振りかえってふたりを見た。ガーニャの顔には真に絶望の色が浮かんでいた。彼はもう夢中になって、何も考えずにこれだけのことを口走ったものらしい。アグラーヤはさっき公爵に見せたとまったく同様な、落ちつきはらった驚きの色を浮かべて、二、三秒のあいだ彼をながめていた。相手の言い分がまるでわからないために生じたようなこの不審顔、この落ちつきはらった驚きの表情は、この瞬間のガーニャにとって、どんな強い侮蔑よりも恐ろしいようであった。
「いったいどう書けばいいのでしょう?」と公爵がたずねた。
「今あたしが申します」とアグラーヤは振りかえりながらいった。「ようございますか? 書いてください……『駈け引きの相談には乗りませぬ』そして月日を書いてくださいな。拝見」
 公爵はアルバムを渡した。
「まあ、おりっぱですこと? まったくきれいに書いてくださいましたねえ。なんという見事なお手でしょう! ありがとうございました。ではさようなら……あ、ちょっと待ってくださいな」彼女はふいになにか思い浮かべたようにいいたした。「あちらへまいりましょう。あたし記念としてなにかあなたにさしあげたいんですから」
 公爵は彼女のあとについて行った。しかし、ふたりが食堂に入ったとき、アグラーヤは立ちどまった。
「これを読んでごらんなさい」と彼女はガーニャの手紙を渡しながらいった。
 公爵はそれを受け取ったが、不審げにアグラーヤを見返した。
「ええ、あたしにはよくわかっていますの、あなたはこの手紙をごらんなさらなかったでしょう。それじゃ、とてもあの男の腹心になる資格がありません。お読みなさいな、あたしはあなたに読んでいただきたいんですの」
 手紙はよほど泡をくって書いたものらしかった。
『きょうはわたしの運命が決せられる日でございます、なぜかはあなたもごぞんじのはずです。きょうわたしは、生涯とり返しのつかぬ決答を与えねばなりません。もちろん、わたしはあなたのご同情をこうべきなんらの権利をも持っていません。またあえてなんらの希望をもいだこうとはいたしません。けれどいつでしたか、あなたがおっしゃってくださいましたひとこと、たったひとこと、あのひとことがわたしの生涯の暗夜を照らす燈台となりました。どうか今一度同じようなお言葉をかけてくださいまし、――そうすれば、あなたはわたしを滅亡の淵から救ってくださることになります! どうぞわたしにいっさいを破れ[#「いっさいを破れ」に傍点]といってください。そうすれば、わたしはきょうにもいっさいを破棄してしまいます。これだけのことをおっしゃるのが、あなたにとってどれほどの労でございましょう! この言葉の中に、わたしに対するあなたの同情と憐憫を、せめてしるしだけでも捜し出しとうございます、――それだけのこと、ただそれだけ[#「ただそれだけ」に傍点]のことです!ほかに何もありません、けっしてありません[#「けっしてありません」に傍点]! わたしはその他になにか希望をいだこうなぞという、大それた考えは持ちません。わたしにはそれだけの値うちがありません。しかし、あなたのひとことさえ聞かしていただければ、わたしはふたたび貧困に甘んじ、絶望すべき現在の境遇をもよろこんで堪え忍びましょう。悪戦苦闘をも欣然として迎えましょう。そしてその中に新しき力をもってよみがえりましょう!
 どうか、この憐憫の言葉をわたしに送ってくださいまし(ただただ憐憫のみ[#「のみ」に傍点]です。誓って申し上げます!)滅亡の淵よりおのれを救わんがために、最後の努力をあえてした無謀なる破船者の大胆をば、お腹立ちのないようくれぐれもお願いします。
G・I』
「この男は」公爵が読み終わったとき、アグラーヤは鋭く口をきった。「この男は『いっさいを破れ』という言葉が、けっしてあたしに迷惑をかけない、断じてあたしを束縛しないと誓っています。そして、自分のほうからこうして、ごらんのとおり、証書としてこの手紙を渡しているのです。ねえ、大人げもない泡を食って、いろんな言葉にばか念を押したものじゃございませんか、そしてなんて無遠慮に底の企みが陰からのぞいていることでしょう。この男が、もし自分のひとり考えで、あたしの言葉など当てにせずに、いえ、そんなことはあたしの耳にも入れず、いっさいあたしというものに希望をおかずに、すべてを破棄してしまったら、そのときはあたしあの人に対する感情を改めて、あの人と親友になってあげたかもしれません。あの人はそれを知っているのです。ええ、たしかに知っていますとも! ところが、あの人の腹がきたないじゃありませんか、知っていながら思いきれないんです。知っていながら、まだ、やっぱり担保がほしいのです。あの人は信用で実行することができないんです。十万ルーブリのかわりに、あたしから希望をとっておきたいんです。それからあの人がこの手紙であの人の生涯を照らしたとかいっているあたしの以前のひとこと、あれはこの男がずうずうしくうそをついてるんですの。もっとも、あたし一度だけあの男に、ただ気の毒だといってやったことがあります。それをあの男が厚かましい恥しらずだもんですから、すぐに一縷の希望のありうることが頭に浮かんだとみえます。あたしはじきそのことに気がつきました。そのときからあたしを釣ろうとしだしたのです。今でも釣ろうとしています。けれど、もうたくさんですわ、この手紙を持ってって、あの人に返してくださいな、あなたがたが家をお出になるとすぐね、それより早くちゃいけませんよ」
「返事はなんともうすしましょう?」
「むろん、なんにもありません。これがいっとういい返事ですわ。では、あなたあの人の家に下宿なさるおつもり?」
「さっき将軍が紹介してくだすったものですから」と公爵は答えた。
「それじゃ、ご用心なさい。あたし前もって申しあげておきますが、こうなってはあの人もあなたをただでは済ましませんよ。だって、あなたこの手紙をお返しなさるんですもの」
 アグラーヤは軽く公爵の手を握って出て行った。眉をひそめたその顔は妙にきまじめで、別れのしるしに公爵にうなずいて見せたときでさえ、にっこりともしなかった。
「ぼくちょっと、包みを取って来ますから」と公爵はガーニャにいった。「それから出かけましょう」
 ガーニャはもどかしさに地団太を踏んだ。その顔は狂憤のために黒ずんでさえ見えた。ついにふたりは往来へ出た。公爵は両手に包みをかかえて。
「返事は? 返事は?」とガーニャはとびかからんばかりの勢いで、公爵に問いかけた。「アグラーヤさんはなんといいました? あなた手紙を渡してくれましたか」
 公爵は黙って手紙を返した。ガーニャは棒立ちになった。
「えっ! こりゃわたしの手紙!」と彼は叫んだ。「こいつ渡しもしなかったんだな! おお、このことに気がつかなかったのはこっちの手ぬかりだった、ちえ、こ、こんちく……そうだ、あの人にさっき何をいっても通じなかったのは当たり前だ! え、どうして、どうして、どうしてあなた渡してくれなかったんです? ちえ、こんちく……」
「失礼ですが、まるであべこべです。ぼくはあなたがお頼みになるとすぐ、お手紙を渡すことができました、しかもご注意のあったと同じ方法で渡したのです。それがまたぼくの手もとにあるのは、アグラーヤさんがたったいまぼくにお戻しなすったからです」
「いつです、いつです?」
「ぼくがアルバムに書き終えるとすぐ、アグラーヤさんがぼくをお呼びになった(あなたも聞いていられたでしょう)、あのときです。ふたりが食堂に入ると、あの人はぼくにこの手紙を渡して、読んでみろといわれました。そしてあなたの手に戻してくれとのいいつけでした」
「よーんでみろ!」ガーニャはほとんどありったけの声を張り上げて叫んだ。「読んでみろって! で、あなた読みましたか?」
 こういって、ふたたび彼は全身麻痺したかのごとく、歩道の真ん中に棒立ちになった。けれど、すっかり度胆を抜かれて、あいた口がふさがらなかった。
「ええ、読みました、たった今」
「で、あの人が自分で、自分であなたに読ましたのですか?自分で?」
「ええ、自分で。ご安心なさい、ぼくはあの人の許しがなかったら、けっして読みゃしなかったはずです」
 ガーニャはいっとき言葉もなく、苦しい努力をしてなにやら思いめぐらしていたが、ふいにどなりだした。
「そんなことがあってたまるものか! あの人があなたに読めといいつけるはずがありません。うそです! あなたが勝手に読んだのです!」
「ぼくは本当のことをいっています」と公爵は以前と同じ、まったく平気な調子で答えた。「ぼくを信じてください、このことがあなたにそれほど不快な印象を与えるかと思うと、ぼくはお気の毒でなりません」
「ちぇっ、情けない人だ、しかしそのときちょっとくらいなにかあなたにいったでしょう? なにか返事があったでしょう?」
「そりゃ、むろんです」
「聞かしてください、さあ、聞かしてくださいったら、こんちくしょう……」
 こういいながら、ガーニャはオーバーシューズをはいた右足で、二度までも人道で地団太を踏んだ。
「ぼくがその手紙を読んでしまうやいなや、アグラーヤさんはこういいました。――あの人はわたしをつろうとしている、あの人はわたしを丸めこんで、そこに希望をつなごうとしている、そしてこの希望にすがってなんの損失もなしに、十万ルーブリに対するもう一つの希望を破り棄てようとしている、もしあの人がわたしにかけ引きなどせずに、自分の一存でそれだけのことをしたら、前もってわたしから担保を取ろうなどとしないで、――自分ひとりでいっさいを破棄したら、そのときはわたしもあの人の親友になったかもしれない、とこんな具合だったと思います。ああ、まだある。ぼくがもう手紙を受け取ってから、なんと返事をしますときくと、あのかたのいわれるに、返事なしがいっとういい返事です、とこういうようなことでした。もしぼくがアグラーヤさんの正確な言い表わしかたを忘れて、自分勝手に解釈したとおりをお伝えしていたら、どうかごめんなさい」
 今やガーニャははかり知れぬ毒念のとりことなって、憤怒の情は堰《せき》を破ってほとばしり出るのであった。
「ああ! なるほどそうですか!」彼はぎりぎりと歯を鳴らした。「それじゃ、わたしの手紙なんぞは、窓の外へほうってしまやいいんだ! ふん、かけ引きの相談には乗りませぬか、――しかし、わたしは乗りますよ! まあ見ていましょう! こっちにはまだたくさん……見ていようよ!………ぎゅうぎゅういう目にあわしてやるんだから!………」
 彼の顔は歪み青ざめ、口からは泡を吹いた。彼は拳を固めて、威嚇するような身ぶりをするのであった。こうして、ふたりは幾足か歩いた。公爵などにはいささかの遠慮もなく、彼はさながらひとりきり自分の部屋にいるようにふるまった。公爵などはまるっきり取るにたらぬ、うじ虫かなんぞのように思っていたからである。と、彼はにわかになにやら思いついて、われに返った。
「でも、いったいどうしたわけで」と出しぬけに彼は公爵に向かっていいだした。「どうしたわけであなたのような(白痴《ばか》が! と口の中でいいたして)人が、はじめて近づきになってから、わずか二時間ばかりのうちに、それほどまで信用されるようになったんです? どうしたというんですか?」
 今までの苦しみにはまだ羨望が不足していた。それがいま急に彼の心臓のただ中を刺したのである。
「それはなんともお答えができませんね」と公爵は答えた。
 ガーニャは毒々しく相手をながめた。
「だって、あの人がなにかやると言ってあなたを食堂へ呼んだのは、信用を授けるつもりだったのじゃありませんか。じっさいアグラーヤさんはなにかあなたに贈るつもりだったんでしょう」
「でなければ、どうもほかに取りようがありません」
「じゃ、なんのためです。くそ、じれったい! あすこでぜんたい何をしたんです。どういうところがあの人たちの気に入ったんです。そうだ、ねえ、きみ」と彼はいっしょうけんめいに気をもみだした。(このとき彼の内部のものがすっかりばらばらになって、もつれからみつ沸き立っているように思われた。彼は思想をまとめることさえできなかった)「ねえ、きみ、きみがあすこで話したことをひとことももらさずに思い出して、順序だって話すことはできませんか、そもそもの始まりから? なにか気のついたことはありませんか、思い出しませんか?」
「おお、それはできますとも」と公爵は答えた。「ぼくは入って行って、挨拶をすますと、いちばんはじめにスイスの話をしました」
「ええ、スイスなんかどうでもいいです」 。「それから死刑の話を……」
「死刑の話?」
「ええ、ちょいとしたことから……それから、ぼくはあちらで三年間どうして暮らしたかということだの、あるあわれな村の娘の身の上話だの……」
「ええ、あわれな村の娘なんかうっちゃってください! それから!」ガーニャはいらだたしさに身をもがいた。
「それから、シュナイデルさんがぼくの性質について意見を述べて、ぼくを攻撃したことを話しました」
「シュナイデルなんか消えてなくなれ、そんな男の意見なんかくそくらえだ! それから!」
「それから、ふとしたことから顔の話をはじめました、というのは、つまり顔の表情についてですね。そして、アグラーヤさんが、ほとんどナスターシヤさんと同じように美しいといいました。そのときです、ぼくが写真のことをいいだしたのは……」
「しかし、あなたはしゃべりはしなかったですか、あの書斎で聞いたことをしゃべりはしなかったですか?え?え?」
「くりかえしていってるんですよ、そんなことはありませんとも」
「ほんとにどこからいったい、ちくしょう……ああ! アグラーヤは手紙をお婆さんに見せはしなかったですか?」
「そのことならぼくがりっぱに保証します、見せはしなかったです。ぼくしじゅういっしょにいたんですから、それにそんな暇もありませでした」
「それに、きみ自身なにか見落としたかもしれやしない……ほんとに、なんて情けないばか者だ」と彼はもうすっかりわれを忘れて叫んだ。「なにひとつ話すこともできないんだ!」
 一度悪口をはじめて、しかもなんの抵抗も受けなかったガーニャは、ある種の人によく見受けられるように、だんだんと自制力を失っていった。彼はもうすっかり逆上してしまって、今すこしそのままにしておいたら、つばきを吐きかけはせぬかとさえ思われた。しかし、つまりこの逆上のために、彼は目がくらんでしまったのである。でなかったら、自分が歯牙にもかけないでいるこの『ばか者』が、どうかすると驚くほど早く、しかもデリケートに万事を了解し、またなみなみならず巧妙にそれを人に伝える能力をもっていることに、早くから気がついていなければならぬはずである。しかし、ふいにそのとき、まことに思いも寄らぬことが生じた。
「ガグリーラ・アルダリオーノヴィチ、ぼくちょっとおことわりしたいことがあります」とにわかに公爵がきりだした。「ぼくも以前はじっさい病身で、ほとんどばかといってもいいくらいでしたが、今ではもうとっくに健康を回復しています。ですから、面と向かって自分のことをばかばかといわれるのは、少々不愉快なんです。それはもうあなたの失敗をお察しすれば、勘弁できなくもありませんが、あなたはくやしまぎれにもう二度ばかりもぼくの悪口《あっこう》をつかれました。こんなことはぼくにとってあまり好ましくありません、ことに、あなたのように初対面早々からではね。そこで、われわれは今ちょうど四つ角まで来ましたから、ここでお別れしたほうがよかありますまいか。あなたは右へいらっしゃい、ぼくは左へまいりましょう。ここに二十五ルーブリ持ってますから、だいじょうぶどこか旅館が見つかりましょう」
 ガーニャはおそろしく面くらった。そして、思いもよらず不意打ちをくらった恥ずかしさに、さっと顔を真っかにした。
「ごめんください、公爵」にわかに罵詈の調子をおかしいほど慇懃な言葉に変えながら、彼は熱くなって叫ぶのであった。「後生ですからごめんなすってください! わたしがどんな不幸に陥ってるか、あなたもごぞんじでしょう。じっさい、あなたはほとんどなんにもご承知ないのですが、もし事情をすっかり知ってくだすったら、かならずいくぶんたりともおゆるしくださるに相違ありません。それはむろん、おわびのかなうわけではありませんけれど……」
「おお、ぼくそんな大ぎょうなわび言など、していただかなくてもいいのです」と公爵は急いで答えた。「それは、ぼくだって知っています。あなたには今たいへん不愉快な事情がおありになるから、それでそんなに悪口をつきなさるんです。じゃ、あなたのお宅へまいりましょう。ぼくは喜んで」
『いや、もうこいつをのがすことはできん』ガーニャは憎々しげに公爵をながめつつ、道すがら心の中で考えた。『こんちくしょう、洗いざらい人の秘密を探り出しておいて、いきなり仮面《めん》をとりやがるのだ……これにはなにか仔細がある。今に見ろ、何もかも決着してしまうから、何もかもいっさい! きょうじゅうにだ!」
 ふたりはもう家のすぐそばまで来ていた。

      8

 ガーネチカの住居はきわめて清潔な、明るく広い階段を昇って行った三階にあった。六つか七つのいたってありふれた大小の部屋からなっていたが、さりとて、その住居はどんなことがあっても、二千ルーブリ取っている家族持ちの官吏でさえ、少々ふところ都合が悪かろうと思われる。しかし、それは賄いと召使付きの下宿人をおくために、ふた月ばかりまえ、ガーニャとその家族が借り受けたものである。というのは、母のニーナ・アレクサンドロヴナと妹のヴァルヴァーラ・アルダリオーノヴナが、いくぶんたりとも家の収入をふやして自分たちも戸主の助けになりたいという希望から、たって主張し懇願したものである。しかし、ガーニャはそれが不快でたまらなかった。彼はいつもむずかしい顔をして、下宿人をおくなんてじつにみっともないことだと言い言いしていた。こうしたことがあってから、ガーニャは自分が未来ある青年として、多少の光彩をも背負って出入りしなれた社会に対し、なんとなく気恥ずかしくなったのである。運命に対するこうしたさまざまの譲歩と、このいまいましいせせこましさ、-これらはすべて彼にとって深い心の傷手であった。いつのころからか、彼はなんでもない些細なことで、やたら無性にかんしゃくをおこすようになった。もし彼が一時なりとも譲歩し忍耐する気になったとすれば、それは単にほんのしばらくの間にこういう状態をいっさい変革し改造しようと、決心したからにすぎない。とはいえ、改造それ自体、彼の選んだ方法それ自身が、すでに小さがらぬ問題で、まぢかに迫ったその解決は、過去のすべての苦痛を合わしたより、もっともっと困難で厄介なことになりそうであった。
 ひと筋の廊下が玄関からはじまって、まっすぐに住居を両断している。一方の側には部屋が三つあって、『特に紹介された下宿人』の用に当てられてある。そのほか同じ側のいちばんはじ、台所と隣り合わせになったところに、ほかのよりやや狭い第四の部屋があった。そこには一家の父たる退職将軍イヴォルギンが住まっており、幅の広い長いすの上で寝起きしていた。家を出入りするにはかならず台所を抜けて、裏階段から上り下りするという決めになっていた。この同じ小部屋にはもうひとりガーニャの弟でコーリャという、十三になる中学生も同室していた。これも父同様、この中で窮屈な患いをしながら勉強して、古びきった狭い短い長いすの上に、穴だらけの敷布をのべて睡り、そのうえ(これがおもな役目なのであるが)、父の世話を焼き監督[#「監督」に傍点]しなければならなかった。じっさい、父将軍はしだいしだいにこうしなくては始末におえなくなるのであった。
 公爵は三つのうち真ん中の部屋を当てがわれた。右手にあたる第一の部屋はフェルディシチェンコが占領し、左手の第三室はまだあいていた。けれど、ガーニャはまず公爵を家庭用の側へ案内した。このほうには、必要に応じて食堂ともなる広間と、朝のうちだけ客間で、夜はガーニャの書斎兼寝室に早変わりする客間と、それから、いつも閉めきってある狭苦しい第三の部屋、ニーナ夫人とヴァルヴァーラの寝室があった。手っとり早くいえば、この家の中は何もかも、みんな窮屈そうに、目白押しをしているのであった。ガーニャはただ心の中で歯噛みをし、くやしがるのみであった。彼も母には礼儀ただしくしようと努めてはいたが、この家に一歩踏みこんだものは、だれでもすぐにこの男が家庭内のたいした暴君であることに気がつくのであった。
 客間にいたのはニーナ夫人ばかりでなく、そのそばにはヴァルヴァーラが腰をかけて、ふたりでなにか編物をしながら、客のイヴァン・ペトローヴィチ・プチーツィンと話をしていた。ニーナ夫人は、年のころ五十前後らしく、やせた顔は頬がこけて、目の下がおそろしく黒い。全体の様子が病的で、多少憂欝であるが、その顔と目つきはかなり感じがいい。ふたことみこと口をきいただけで、まぎれもない品位に満ちたまじめな性格が現われて、憂欝な顔に似合わぬ堅固さ、というよりむしろ強い決断力が感じられるのであった。

『ドストエーフスキイ全集7 白痴 上』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP005-048(1回目の校正完了)

白痴

第一編

      1

 十一月下旬のこと、珍しく暖かい、とある朝の九時ごろ、ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車は、全速力を出してペテルブルグに近づきつつあった。空気は湿って霧深く、夜はかろうじて明けはなれたように思われた。汽車の窓からは、右も左も十歩の外は一物も見わけることができなかった。旅客の中には多少外国帰りの人もあったが、それよりもむしろあまり遠からぬ所から乗って来た小商人《こあきんど》連の多い三等車がいちばんこんでいた。こんな場合の常として、だれも彼も疲れきって、ひと晩のうちに重くなった目をどんよりさせ、からだのしんまで凍えきっていた。どの顔もどの顔も霧の色にまぎれて、青黄いろく見える。
 とある三等車の窓近く、夜明けごろからふたりの旅客がひざとひざを突きあわせて、腰かけていた。どちらも若い人で、どちらも身軽な、おごらぬ扮装《いでたち》、どちらもかなり特徴のある顔形をしていて、どちらもたがいに話でもはじめたいらしい様子であった。もしこのふたりが、なぜ自分たちの身の上がことにこの場合注目に価するかということを、両方からたがいに知りあったなら、彼らはかならずや自分たち両人をペテルブルグ・ワルシャワ線の三等車に向かいあってすわらせた運命の奇怪さに驚いたであろう。ひとりは背丈の高からぬ二十七歳ばかりの男で、渦を巻いた髪の毛はほとんど真っ黒といっていいくらい、灰色の目は小さいけれど火のように燃えている。鼻は低くて平ったく、顔は頬骨がとがって、薄手なくちびるは絶えずなんとなく高慢らしい、人を小ばかにしたような、毒々しくさえ思われるような薄笑いを含んでいた。けれど、その額は高く秀でて恰好よく整い、卑しげに発達した顔の下半分を補っているのであった。この顔の中で特に目立つのは死人のように青ざめた色つやで、それがこの若者に、がっしりした体格に似合わぬ、疲労|困憊《こんぱい》した人のような風貌を与えていたが、同時に、その思いあがったような粗暴な薄笑いや、自足したような鋭いまなざしとはまるで調和しない、悩ましいまでに熱情的なあるものがあった。彼は黒い布を表地にしたゆったりした毛皮外套にぬくぬくとくるまっているので、昨夜の夜寒もさほどに感じなかったが、向かいの席の相客は、思いもかけなかったらしい湿っぽいロシヤの十一月の夜のきびしさを、ふるえる背におしこたえねばならなかったのである。彼は大きな頭巾《ずきん》つきの、だぶだぶした、地の厚いマントを羽織っていたが、それはどこか遠い外国――スイスか北部イタリーあたりで、冬の旅行に使われるものにそっくりであった。ただし、それもオイドクーネン(ドイツの町、ロシヤとの国境)からペテルブルグまでというような、長道中を勘定に入れるわけには行かぬ。それに、いくらイタリーで役に立つ便利なものでも、ロシヤではあまりけっこうではなかった。頭巾つきマントの持ち主も同じく二十六か七かの青年で、中背というよりすこし高く、ふさふさとしてつやのある亜麻色の髪、こけた頬、ほとんど真っ白な楔形《くさびがた》をしたひとつまみほどのあご鬚を生やしている。大きな空色の目はじっとすわって、何かものを見るときは、静かではあるけれど重重しい奇怪な表情に充たされるのであった。ある種の人はこうした表情をひと目見ただけで、癲癇《てんかん》の兆候を発見するものである。青年の顔は、とはいえ、繊細で気持ちがよかった。けれども、なんとなくかわききって色がないうえに、今はちょうど寒さに凍えて紫色にさえ見える。彼は中身の貧しそうな、色のさめた、古い絹の風呂敷包みを手にぶらつかしていた。見たところ、その中には、仇の旅行中の手まわりがことごとく含まれているらしい。足には、踵の厚い靴の上にゲートルを付けていて、――何から何まで非ロシヤ式である。髪の黒い、布ばりの毛皮外套を着た隣りの男は、半分は退屈まぎれに、これらのものをすっかり見て取った。やがて、とうとう、他人の失敗を見て満足するときによく人が浮かべる無作法な嘲笑を浮かべながら、気のない無遠慮な調子で問いかけた。
「寒いかい?」
 と言って、ちょっと肩をすくめた。
「ええ、じつに」と相手は驚くばかり気さくに答えた。「どうでしょう、これでもまだ雪どけの日なんですからね。もしこれが凍《いて》の日だったらどうでしょう。ぼくはロシヤがこんなに寒いとは思わなかった。忘れちまってたんです」
「外国から来たんだね」
「ええ、スイスから」
「ふゅう!」と口を鳴らして、「ほんとにおまえさんはなんて!………」
 こういって、髪の黒いほうは、からからと笑いだした。
 話はこんな具合ではじまった。スイス式マントにくるまった亜麻色の髪をした青年が、頭の黒い相客の問いに答える態度は、奇異な感じのするほど気さくで、相手の質問がひどく無造作で、ぶしつけで、退屈半分なことなどには、いっこう気がつかないらしいふうであった。あれこれの問いに答えているうちに、彼はこんなことを話して聞かした。じっさい、彼は長く、四年あまりもロシヤにいなかった。病気のために外国へやられたのである。それはなんだか一種不思議な神経病で、からだがふるえて引っつる、いわば癲癇か、ウイット氏舞踏病のようなものであった。相手の物語を聞きながら、色の浅黒いほうは幾度かにやりと笑ったが、ことに彼が『どうだね、癒ったかね?』ときいたのに対して、亜麻色髪のほうが『いや、癒らなかったですよ』と答えたときなどは、手放しで笑いだした。
「へっ! おおかたつまらなく財布の底をはたいちまったんだろう。おれたちなんざあ、こっちで使ったほうがご利益《りえき》が多いと思ってらあ」と色の浅黒いほうは毒々しくいった。
「まったくほんとのこってすよ」年のころ四十ばかり、粗末ななりをしたひとりの男が隣りにすわっていたが、このとき不意に口を出した。書記どころで乾し固まったらしい小役人ともいうべき人相、頑丈な体格、赤鼻、にきび面をしている。「まったく、ほんとのこってすよ。ロシヤの力はみんなつまらなく、あいつらに取られてしまっているのでさあ!」
「いいえ、どういたしまして。わたしだけのことについていえば、あんたがたはとんだ感ちがいをしていらっしゃいますよ」とスイスの患者は、静かななだめるような声でさえぎった。「ぼくも事情を何かち何まで知ってるわけじゃありませんから、むろん、しいては争いませんが、ぼくの主治医はなけなしの金をさいて、こちらへ帰る旅費を出してくれました。それに、あちらにいるときも、二年間というもの自費でまかなってくれたのです」
「じゃあ、なにかね、だれも払ってくれ手がなかったとでもいうのかね?」と色の浅黒いほうがたずねた。
「ええ、もと仕送りしてくれたパヴリーシチェフさんが、二年前になくなったのです。それからぼくはここにいる人で遠縁にあたる、エパンチン将軍夫人に手紙を出しましたが、返事が貰えなかったのです。まあ、そういう事情で帰って来たようなわけです」
「いったいどこへ帰ってきなさったんですね?」
「つまり、どこへ泊まるつもりかとおっしゃるんでしょう?……さあ、まだわかりません、まったく……ただなんてことなしに……」
「まだ決まってないんですかい?」
 ふたりの聞き手はまたからからと笑いだした。
「そして、おおかたその風呂敷包みの中には、おまえさんの身上《しんしょう》ありったけ入ってるんだろうなあ」色の浅黒いほうがこうきいた。
「それはそうに違いない、わたしが首でも賭けまさあ」とおそろしく得意な顔つきをして、赤鼻の役人が口をはさんだ。「そうして手荷物車の中にも、そのほかべつに預けものはなさそうですよ。貧乏は罪にならんといいますが、それにしても、やはり目につきますでな」
 じじつ、これまたそれに相違ないことが判明した。亜麻色の毛をした青年はすぐさま、なみなみならず性急な調子でこんなことを白状した。
「いや、それにしても、あんたの風呂敷包みにはだいぶ意味がありますなあ」足りるだけ笑いつくしたとき、役人は言葉をつづけた。(おもしろいことには、風呂敷包みの持ち主も、ふたりの様子を見てとうとう笑いだしたが、それがまた相手の浮き浮きした気持ちをあおったのである)「むろん、その中にナポレオン・ドルとか、フリードリッヒ・ドルとか、くだってはオランダのアラブとかいうような、外国金貨の棒が入ってないのは、まちがいないところです。それはもう、あんたの外国ふうの靴にかぶさっているゲートルを見ただけで、察しがつきますがね。しかし……その風呂敷包みにですな、たとえばエパンチン将軍夫人のごときご親戚を加えると、あんたの風呂敷包みは、だいぶ違った意味を帯びてきますて。が、それは申すまでもなく、エパンチン将軍がほんとにあんたの親戚で、あんたがうっかり思い違いをしておられん場合に限りますがな……そういうことはよく、じっさいよくあることでしてな、その……想像の過剰というような原因でも」
「おお、あなたはまたいい当てましたね」と亜麻色の青年は受けて、「まったく、ほとんど思い違いをしているのです。そのつまり、ほとんど親戚でないといっていいくらいなんです。ですから、あちらにいるとき返事が届かなかったけれど、じっさい、すこしも驚かなかったのです。はじめからそんなことだろうと覚悟していましたから」
「つまり、無駄な金を切手代に使いなすったわけだね。ふーむ……が、とにかく、かけひきのない正直なおかただ。それだけでも感心ですよ! ふむ! エパンチン将軍はわたしどもも知っておりますよ、つまり、将軍が世間に聞こえた人だからです。それから、あんたがスイスにおられたとき仕送りしたという、パヴリーシチェフさんもやはり承知しておりますよ。ただしニコライ・アンドレエヴィチのほうならですよ。パヴリーシチェフさんは従兄弟《いとこ》同士でふたりありましたからな。ひとりのほうは今でもクリミヤにおられるが、故人のニコライ・アンドレエヴィチは交際の広い、人から尊敬されたかたで、一時は四千人の百姓をかかえておられたそうです……」
「そうに違いありません、あの人はニコライ・アンドレエヴィチ・パヴリーシチェフといいました」
 こう答えて青年は、じっと探るようにこの物知り先生の顔をながめた。
 こうした物知り先生はときどき、いな、むしろしばしば、社会のある階級で目撃することができる。彼らはなんでも知っている。彼らの才知の寸時も休むことなき探究心は挙げてことごとく、現代の思索家にいわせたら、比較的重要な人生上の興味や観察に欠けた一つの方面にのみ集中されるのである。とはいえ、『なんでも知っている』という言葉の意味は、かなり制限されたものとみなければならぬ、――だれそれはどこに勤めていて、だれだれと知り合いであるとか、いくら財産があって、どこの県知事をしていたとか、だれと結婚して、いくら持参金を取ったとか、だれと従兄弟に当たって、だれと又従兄弟に当たるとか、すべてこうしたたぐいである。これらの物知り先生の大部分は、ひじのぬけた服を着て歩き、月十七ルーブリの俸給をもらっている。自分の秘密をかぎ出された当の人々は、どんな興味がこの連中を支配しているのか、しょせん考えつくことはできないが、彼らの多くは堂々たる科学にも比肩すべきこの知識によって、慰安を発見し、自尊心を鼓舞し、はなはだしきは高い意味の精神的満足にさえ到達している。それになかなか趣味のある仕事でもある。自分は学者、文士、詩人、政治家のなかにさえ、この仕事のなかに高い意味の妥協と目的を求めえたばかりか、ただそれのみによって名をなした人をすらたびたび見受ける。
 この会話のあいだじゅう、色の浅黒い若者はあくびをしたり、あてもなく窓の外をながめたりしながら、旅行の終わりをもどかしげに待っていた。彼はなんとなくそわそわしていた、なにかしら心配ごとでもあるらしくひどくそわそわしていて、なんとなく様子が変に思われるくらいであった。ときには聞くことも耳に入らず、見ることも目に入らなかった。どうかした拍子に笑っても、すぐに何がおかしくて笑ったのか忘れてしまって、どうしても思い出せなかった。
「ところで、失礼ですが、あんたはどなたでございますかな……」にきび面の男はふいに亜麻色の毛をした風呂敷包みの青年にたずねた。
「レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン公爵」とこちらはいささかも猶予なく、気さくに答えた。
ムイシュキン公爵? レフ・ニコラエヴィチ? 知りませんなあ。聞いたこともないくらいです」と役人は思案顔に答えた。「ただし、お名前のことじゃありません。お名前はなかなか由来つきのもんで、カラムジンの歴史にも載っておるかもしれません、いや、きっと載っておりましょうよ。わたしのいうのは人のことです、ムイシュキン公爵というのは、なんだか今どこにもおられんようですぜ。もう、うわささえ消えてしまいましたよ」
「ええ、そりゃそうですとも!」と公爵はさっそく答えた。「ムイシュキン公爵はぼくのほか今どこにもいません。ぼくが最後のひとりだろうと思われます。先祖は郷士出の地主でした。もっとも、ぼくの父は軍隊に入って少尉になっていました。ユンケル(貴族の子弟で、ただちに見習士官となるもの)出のね。ところで、一つわからないのは、どういうわけでエパンチン将軍夫人がムイシュキン家の血を引いて、しかも同様に、一門中の最後の者となっているかってことです」
「へ、へ、ヘ! 一門中で最後の者(この言葉はある意味において「最も劣ったもの」というふうにもとれる)! へ、へ! あんたはなんといういいかたをなさるんで」役人はひひと笑いだした。
 色の浅黒い若者もやはりにたりと笑った。亜麻色の毛は白分のいったことが地口、それもかなりまずい地口になっているのに、いささか面くらった。
「どうでしょう、ぼくちっとも気がつかないでいったんです」とうとう彼は驚いたようにこういいわけした。
「もうわかっとります、わかっとります」と役人は愉快そうにうち消した。
「どうだね、公爵、おまえさん向こうで学問を習って来だのかね、先生のところで?」ふいに色の浅黒いほうがこう問いかけた。
「ええ……習いましたよ……」
「ところが、おれは今まで何も習ったことがないんだ」
「なに、ぼくだってほんのぽっちりかじったばかりなんですよ」と公爵はほとんどあやまらんばかりに言いたした。「ぼくは病気のせいで、系統的に教育を受ける力のない者とされてしまったんです」
「ラゴージンをごぞんじかね?」と色の浅黒いほうは早口にたずねた。
「いや、知りません、まったく。ぼくはロシヤに知人といってはいくらもないんですからね。で、きみがそのラゴージンですか?」
「うん、おれなんだよ、パルフェン」
パルフェン? それじゃ、あんたはあの例のラゴージン家の人では……」と、急におそろしくもったいらしい調子で役人はこういいかけた。
「ああ、あの例のだ、例のだ」色の浅黒い若者はぶっきらぼうな、いらだたしげな声で早口にさえぎった。彼は今まで一度もにきび面の役人のほうへ向いたことがなく、最初から公爵ひとりにだけ話しかけていたのである。
「へえ……こりゃいったいなんとしたこった?」と役人は棒立ちになって、目をむきださんばかりに驚いた。彼の顔は一瞬、卑屈なくらいうやうやしい、度胆を抜かれたような表情を帯びてきた。
「じゃ、あの、ひと月ばかり前に二百五十万ルーブリの遺産を残してなくなられた、世襲名誉市民セミョーン・パルフェノヴィチ・ラゴージンさんの?」
「おめえはそんなことをどこから聞きかじってきたんだい、おやじが二百五十万の財産を残したなんて」このたびも役人のほうには目もくれずに、色の浅黒い若者はさえぎった。「なあ、どうだい!(と彼は公爵に向かって、役人をあごでしゃくってみせた)ぜんたいこんなやつらはすぐにお世辞たらたらそばにやって来やがるが、それがやつらにどうだというんだろう? しかし、おやじが死んだってえのはほんとだよ、おれはプスコフから、ひと月もたった今時分、着のみ着のままで帰ってるところさ。弟の畜生もおふくろも、金もよこさなけりゃ知らせもしやあがらねえ! まるで、しと[#「しと」に傍点]を犬ころ扱いよ! おれはプスコフでまるひと月というもの熱病で寝とおしたんだ!」
「けれども、今にすぐ一時に百万ルーブリお手に入るじゃござんせんか。いくらすくなくともそれだけは確かです、おお、ま、なんという!」と役人は思わず両手をうった。
「いったいあいつ何がほしいんだろうなあ、おまえさんわかるかね!」ふたたびラゴージンはいらいらした様子で、毒々しく役人をあごでしゃくってみせた。「いくらてめえがおれの前でさかさになって歩いたって、一コペイカだってくれて、やるんじゃねえ」
「歩きます、さかさになって歩きますとも」
「ちょっ! よしんばまる一週間踊ってみせたって、おらあこれっからさきもくれてやるんじゃねえから!」
「いりませんよ、それがわたしに相当していまさあ、いりませんよ! わたしはあんたの前で踊るんだ。女房や子供を棄てても、わたしはあんたの前で踊ったほうがいい。お世辞三昧といかなくちゃ」
「ちょっ、てめえは!」と色の浅黒いほうはぺっと唾を吐いた。
「五週間ばかり前」と彼はあらためて公爵に向かって話しだした。「おれもちょうどおまえさんと同じように風呂敷包み一つかかえて、プスコフの伯母をたよっておやじの家を飛び出したんだ。ところが、熱で床についたもんだから、そのあいだにおやじはとうとう死んじゃった、卒中にどかっとやられたのさ。なき人に後世安楽を授けたまえ――ところで、おやじはおれをあのとき半死半生の目にあわせやがったよ! 公爵、おまえさんはほんとうにゃしなさるまいが、まったくのこったよ! あのときおれが逃げ出さなかったら、きっと殺《や》られていたにちがいない」
「そりゃなにかでおとうさんを怒らしたのでしょう?」一種特別の好奇心をもって毛皮外套の百万長者をながめながら、公爵はこう答えた。
 それは百万ルーブリという金高にも、また遺産相続ということにも、特に興味をそそるようなものがあったかもしれないが、まだそのほかになにか公爵を驚かし、興味を感じさせるようなものがあった。それに当のラゴージンも、なぜか好んで公爵を話相手に選んだ。もっとも、話相手がほしくなったのも、精神的というよりむしろ機械的の要求にすぎないらしい。気さくなためというより、むしろそわそわした心持ちや、不安や興奮にたえきれなくなって、ただもうだれでもいいからながめていたい、なんでもかまわぬ、舌を動かしていたい、――そういう欲求のほうがかっていた。彼は今まで熱病、すくなくとも悪寒かなにかに苦しめられていたらしい。例の役人はどうかというと、彼はラゴージンのほうにかがみこんで、吐く息引く息すらはばかりながら、まるでダイヤモンドでも探すようにひとことひとこと拾い上げては、仔細にそれを点検するのであった。
「おやじのやつ怒るには怒ったよ、それは怒られるのもあたりまえだったかもしれない」とラゴージンは答えた。「ただ弟の野郎がだれよりいちばん、ひとをひでえ目にあわしやがった。おふくろのことあ、なにもいうことはねえ。あれはしようのない旧弊で、聖僧伝でも読みながら、婆さん連とぼんやりすわっているよりほか能のない人間で、弟のセンカ(セミョーンの愛称、やや軽蔑の気持ちを含む)のいいなりしだいになってるんだ。しかし、なんだってあいつ、しかるべき時におれに知らせてよこさねえんだ? わけはちゃんとわかってまさあ! そりゃあ、おれがそのとき熱に浮かされていたのはほんとうだ。電報も打ったって話だ。電報が伯母さんのとこへ着いたんだそうだが、伯母さんてえのはもう三十年も後家を通して、いつも朝から晩まで信心きちがいのようなやつとばかりいっしょにいる。別段に尼さんというわけじゃねえが、それよりもっと上手《うわて》なのよ。伯母さん電報に度胆を抜かれて、封も切らずに警察署へ届けたとかで、今までそこでごろごろしてたやつさ。ようやっとカニョフが――ヴァシーリイ・ヴァシーリチがなにもかも知らせてくれたんで、やっとまあ助かったって始末よ。聞きゃ、弟のやつめ、ある晩、おやじの棺に掛けてある金襴の打敷から、金糸の房を切り取って、『こんなことにどれだけ金がかかるかしれやしない』とぬかしやがったそうだ。これ一つだけでも、もしおれがその気になったら、あの野郎をシベリアにでも追いやることができるんだ。まったく涜神罪だからな。おい、やっこ、えんどう畑のかかし野郎!」と彼は役人のほうを向いた。「法律だとどうなるかい、涜神罪かい?」
「涜神罪ですとも! 涜神罪ですとも!」と役人はすぐ相づちを打った。
「それでシベリア行きかい?」
「シベリア行きですとも! シベリア行きですとも! さっそくシベリア行きです!」
「やつらはまだおれが病気だと思っている」とラゴージンは公爵に向かって言葉をつづけた。「ところが、おれは黙ってこっそり汽車に乗って、まだからだの具合は悪いんだけれど、こうしてやって来たのさ。『やい弟、セミョーン・セミョーヌイチ、戸をあけろ!』と出かけるんだあね。あいつがおやじにおれのことを讒訴《ざんそ》しやあがったなあ、ちゃんとわかってるんだから。もっとも、おれがナスターシヤ・フィリッポヴナのことで、おやじさんのご機嫌を損じたのは、うそも隠しもねえ、ほんとのこった。それはもうおれひとり悪いに相違なしだ」
「ナスターシヤ・フィリッポヴナのことで?」役人は何ごとか思い当たったように、さも卑屈らしい調子でこういった。
「てめえなんかの知ったこってねえ!」とラゴージンはたまりかねて一喝くらわした。
「ところが、どっこい、知っとりますよ!」と役人は勝ち誇ったように答えた。
「こいつはどうだ! しかし、ナスターシヤ・フィリッポヴナという名前は世間にいくらでもあらあな! ほんとにてめえはいけずうずうしい野郎だなあ! いずれこんな野郎がすぐにうるさく付きまとって来やがるに相違ねえと思ってたよ」と彼は公爵のほうに向いて言葉をついだ。
「ところが、ひょっとしたら、知ってるかもしれませんぜ」と役人はせわしげに口をはさんだ。「レーベジェフはなんでも知っとるですよ! 旦那、あんたはわたしを責めつけなさるが、もしわたしがちゃんと証明したらどうなりますね? わたしがいうのは、あんたがおやじさまに杖をもって追っかけられるもとになった、正真正銘のナスターシヤ・フィリッポヴナ、姓はバラシュコヴァ、ずいぶん身分のいい人で、やはり公爵令嬢といってもいいくらいのかたでしてな、トーツキイとかいう人の思いものでしょう、大地主で財産家で、いろいろな会社や商会の関係者で、この方面のことからエパンチン将軍とも非常に心安くしているアファナーシイ・イヴァーノヴィチの……」
「ちょっ、なんてやつだ!」と、とうとうラゴージンはほんとうに驚いた。「こんちくしょう、ほんとに知ってやあがる」
「なにもかも知っとりますよ。レーベジェフはなんでも知っとりますよ! わたしはね、あんた、まるふた月というものリハチョフ・アレクサーシカといっしょに、やはりおやじさんのなくなったあとですがね、所々方々を歩きまわったんで、今じゃ、その、どんな隅々|隈々《くまぐま》でも、のこらずそらで知ってるんで。だからもう、レーベジェフがいないと来た日にゃあ、何ごともひと足だって先へ出っこなしですよ。今でこそアレクサーシカも債務監獄にぶち込まれておりますが、その当時はアルマンスとか、カラーリヤとか、パーツカヤ公爵夫人とか、あるいはナスターシヤ・フィリッポヴナとかいうような人たちを、見知るだけのおりがあったんです。まあ、そのほかいろいろのことを知るおりがありましたね」
「ナスターシヤを! まさかあれがリハチョフと……」ラゴージンは毒々しく相手をながめた。くちびるまでが青くなってふるえはじめた。
「いや、な、なに、なんでもありません! けっしてなんでもないんです!」役人は気がついて急にあわてだした。「ど、どうして、リハチョフがどんなに金を積んだって追っつきゃあしません! どうして、あの人はアルマンスなんかとはわけが違いまさあね。トーツキイひとりだけですよ。よく晩に「大劇場」か、フランス劇場でいつも買切りの桟敷にすわっておられると、若い士官たちがてんでんに自分勝手なご託《たく》を並べたもんでさあ。『おい、あれが例のナスターシヤ・フィリッポヴナだぜ』なんていってるけれど、ただそれっきりのことで、それからさきは、なんともできないんです。なぜといって、つまり、なんにもないからなんで」
「あれはみんなほんとのことなんだ」ラゴージンが眉をひそめながら、陰欝な調子でいいだした。「あのときザリョージェフがやっぱり同じようにいって聞かせたよ。おれはね、公爵、そのとき、おやじの着古した外套を着て、ネーフスキイ通りを突っきっていたのさ。すると彼女が店から出て来て馬車に乗っているじゃねえか。そんときおれはからだじゅう焼かれたような気がしたよ。ちょうどそこヘザリョージェフが来あわせたが、先生はなかなかどうしておれなんかのお仲間じゃねえ。まるで床屋の手代みてえな歩きっぷりで、片眼鏡なんかはめてるじゃねえか。ところが、おれなんか部屋住みで、くさい墨をぬりこくった靴をはいて、食べ物は精進汁というしつけかたなんだからな。先生のいうにゃ、ありゃおまえなんぞの相手じゃない、ありゃおまえ、公爵家の奥方だ、ナスターシヤ・フィリッポヴナってんで、苗字《みょうじ》はバラシュコヴァ、今トーツキイといっしょになっている。ところが、トーツキイはあの女から離れようとしてもがいてるんだ。そのわけは、やっこさんもういい年をしていながら(もう五十五になるそうだ)、ペテルブルグいちばんの美人を貰おうともくろんでやがるって、こういいやがるじゃねえか。先生おれをたきつけて、きょう「大劇場」へ行きゃあナスターシヤが見られる、いつも買切りの一等桟敷でバレエを見てるはずだと、こういうのだ。家なんかじゃ、バレエ見物などしようものなら、折檻されるだけのこと――殺されっちまわあ! だが、おれはそれでもこっそり一時間ばかり抜け出して、もう一度ナスターシヤを見て来たが、その晩はまんじりともしなかったよ。あくる朝、おやじは五分利つき五千ルーブリの債券を二枚わたしていうのには、ひとつ行ってこいつを売って来い、そして七千五百ルーブリをアンドレーエフさんの事務所へ持ってって、支払いをすませ、残りは、どこへも寄らずにわしのところへ持って帰れ、待ってるからって、こうだ。おれは債券を売って金を受け取ったが、アンドレーエフのところへなんか寄りゃしねえ、わき目も振らずイギリス屋へ行って、ありったけほうり出して耳飾りを選り出した。両方にダイヤが一つずつ付いてるんだ。ちょっとまあ、こんな胡桃《くるみ》くらいの大きさはあったよ。まだ四百ルーブリ足りなかったが、名前をいったら信用してくれた。耳飾りをもってザリョージェフんとこへかけつけて、こうこういうわけだ、いっしょにナスターシヤのところへ行ってくれといって、ふたりして出かけたわけなんさ。おれはそのとき、足の下に何があったやら、目の前や両側に何があったやら、ちっとも知らん、覚えがないんだ。向こうへ行くと、まっすぐに広間へ通った、すると、女は自分でふたりのとこへ出て来た。おれはそのとき自分が本人だてえことをうち明けないで、『パルフェン・ラゴージンからの使いだ』ってことにしておいたのさ。そこでザリョージェフがいったね、『きのうお目にかかったおしるしですから、どうぞお納めくださいまし』あけて中をのぞいてみると、にたりと笑って、『ご親切なお心づかい、まことにありがとうございますと、お友達のラゴージンさんにお伝え願います』こういって、お辞儀をしたなり行っちまった。ちぇっ、なぜおれはその時その場で死んじまわなかったんだ! こうして出かけて行ったのも、『ええ、ままよ、生きちゃ帰らねえんだ!』とこう思ったからなんだ。しかし、何よりしゃくにさわってたまらなかったのは、あのザリョージェフの畜生、なにもかも自分のことのようにしちまったことさ。おれは背が低いうえに、身なりときたら下司のようだし、ぼんやり突っ立ったまま、穴のあくほど女の顔を見てるってふうだから、恥ずかしくてたまらねえ。ところが、あん畜生、なにもかも流行ずくめで、頭はポマードをなすりつけるやら、こてをあてて縮らせるやら、それにほんのりいい血色をして、格子《こうし》のネクタイという恰好で、お世辞を振りまいたり、足をすったりしやあがるじゃねえか。あいつきっとあのとき、ザリョージェフをおれかと思ったに相違ない! おれは外へ出たときいってやった、『おい、おめえこれから妙なことを考えたら承知しねえぞ!』すると、やっこさん笑って、『だが、おまえはおやじさんになんといいわけするつもりだい?』とぬかしやがった。おれはまったくそのとき家へ帰らねえで、水ん中に飛びこんじまいたかった。が、また、『ええ、どうだって同じこった』と考えなおして、ふてくされた様子で家へ帰った」
「エーフ! ウーフ!」とうめくようにいって、役人は妙なしかめ面をし、思わずぶるぶるっと身震いしながら、「まったく故人《ほとけ》は一万ルーブリどころか十ルーブリのことでさえ、人間ひとりあの世へ送りかねない人でしたからな」と彼は公爵にうなずいてみせた。
 公爵は好奇の色を浮かべながらラゴージンをながめた。ラゴージンはその瞬間、ひとしお青くなったように思われた。
「あの世へ送る!」とラゴージンはおうむがえしにいった。「てめえが何を知るもんかい」彼はさらに公爵に向かって話しつづけた。「すぐとなにもかも知れちまった。それに、ザリョージェフの野郎が会う人ごとにおしゃべりをはじめたのさ。おやじはおれをつかまえて二階に押し込め、まる一時間のべつお説教だ。『いいか、これはほんの小手調べだぞ。また今夜やって来て引導を渡してやるから』ところが、まあどうだ! このごま塩おやじがナスターシヤのところへ行って、地べたに頭をすりつけながら、泣き泣き頼んだってじゃねえか。とうとう女は箱を持ち出してたたきつけたもんだ。『さあ、ひげじいさん、これがおまえさんの耳飾りですよ。パルフェンさんがそんなこわい目をして手に入れたもんだと聞いたら、この耳飾りが十倍もありがたくなってきた。どうかパルフェンさんによろしくお礼をいってちょうだい』てなことをいったそうだ。さあ、ちょうどその間に、お袋の胆煎りでセリョージュカ・プロトゥーシンから二十ルーブリ借りて、鉄道でプスコフへ向けてたったが、着いたときはいやに寒気がした。お婆さん連がお経を読んでくれたもんだが、おれは酔っぱらってぐでんぐでんになっていたよ。それから、なけなしのお金を握って酒屋から酒屋を飲みまわり、その晩は正体なしに往来にぶっ倒れたまんまで明かしちゃったのよ。おかげで朝になってみると熱さ。おまけに夜中に犬が来て噛み散らしやがって、むりやり目をさまさせられたようなわけさ」
「なあに、なあに! 今度はナスターシヤ・フィリッポヴナも違った歌を唄いだしますぜ!」役人はもみ手をしながら、ひひひと気味の悪い笑いかたをした。「今じゃ、旦那、耳飾りくらいなんでもござんせん! 今じゃそれこそ、どえらい耳飾りをくれてやりまさあね……」
「いいか、もしもきさまがただの一度でも、ナスターシヤのことをなんとかいったら、それこそほんとに、見てるがいい、おれはてめえをぶんなぐるぞ。いくらてめえがリハチョフといっしょに歩きまわったからって、容赦しやあしねえから!」ラゴージンはむずと相手の手を握ってどなりつけた。
「ぶんなぐる、そんならつまり、追っ立てはなさらんのですね! ぶんなぐってください! そうすればそれだけとくになります!………ぶんなぐられれば、それだけ縁が結ばれようというものです……ときに、もう着きましたよ!」
 なるほど、汽車は停車場に入っていた。ラゴージンはこっそりたってきたようにいったが、それにもかかわらず、もういくたりかの人が彼を待ち受けて、わめいたり帽子を振ったりしていた。
「ちょっ、ザリョージェフのやつもいやがる!」とラゴージンは勝ち誇ったような、というよりむしろ毒々しい微笑を浮かべて、そのほうをながめながらつぶやいた。と、ふいに公爵のほうをふり向いて、「公爵、なぜかわからんが、おれはおまえにほれこんじゃった。もしかしたら、場合が場合だったからかもしれねえ。だがしかし、おれはこいつにも(といいながらレーベジェフをさして)出会ったけれど、こいつにはけっしてほれこまなかったからなあ。公爵、おれんところへやってきな、そのゲートルをぬがして、すてきな貂《てん》の外套を着せてやるぜ。燕尾服もとびきりなやつを縫わせようし、チョッキも白いのなりなんなり、気に入ったのをこさえさせ、どのかくしもみんないっぱい金を詰めてやらあ……そして……いっしょにナスターシヤ・フィリッポヴナのところへ行こう! 来る! 来ない?」
「さあ、ムイシュキン公爵」けしかけるような大ぎょうな調子で、レーベジェフが口を入れた。「いいですか、おりをのがしちゃいけませんぜ! いいですか、おりをのがしちゃいけませんぜ!………」
 公爵は腰を上げて、慇懃《いんぎん》に手をラゴージンにさし伸ばし、愛想よく答えた。
「そりゃもう喜んで行きますとも。そしてぼくを好きになってくださったことに対して、心からあなたに感謝します。間にさえ合ったら、きょうにも早速いくかもしれません。じつはうち明けていいますと、ぼくもあなたがたいへん気に入ったのです。とりわけダイヤモンドの耳飾りの話をなすったとき……いや、もう耳飾りの前から、陰気な顔をしておられるなと思いながらも、やはり気に入ったのです。それから、約束してくださった服や、外套も、ありがたく頂戴します、じっさい、服も外套もすぐにいるものなんですから。金はまた今のところ、ほとんど一コペイカの持ち合わせもありません」
「金はすぐできる、晩までにできる。やってきな!」
「できますよ、できますよ」と役人は口をはさんだ。「夕方、日の入る前にできますよ!」
「だが、公爵、おめえ女はよっぽど好きなのかね? さきにちょっと聞かせとくんな!」
「ぼく、い、いいえ! ぼくは、だって……きみはご存知ないかもしりませんが、ぼくはその、生まれつきの病気で、まったく女というものさえ知らないのです」
「へえ、そんならおまえは」とラゴージンは叫んだ。「おまえはまったく信心きちがいみてえなもんじゃねえか。公爵、神さまはおまえのような人をかわいがってくださるんだよ」
「まったくそんなふうの人を、神さまはかわいがってくださいますよ」と役人は引き取った。
「おい、てめえはおれのあとからついて来るんだ」とラゴージンはレーベジェフにいった。
 一同は車を出た。
 とどレーベジェフは自分の目的を達した。間もなく騒々しい一群は、ヴォズネセンスキイ通りのほうへと遠ざかった。公爵はリテイナヤ街へ曲がらなければならなかった。じめじめと湿っぽい朝であった。公爵は通行の人をつかまえてきいてみたが、めざすところまで三露里もあるとのことだった。彼は辻馬車を雇うことに決めた。

      2

 エパンチン将軍は、リテイナヤ街からすこし『変容救世主寺院』のほうへ寄った自分の持ち家に住んでいた。六分の五は人に貸しているこの(りっぱな)家のほかにエパンチン将軍はサドーヴァヤ街にも大きな家を持っていて、これがやはり非常な収入になった。この二軒の家のほか、ペテルブルグのすぐそばに、いたって収入の多いりっぱな領地があるし、また郡部にはなにかの工場もあった。むかしエパンチン将軍は、人も知るように、一手販売事業に関係していたが、今はいくつかの基礎強固な株式会社に関係して、なかなか勢力をもっている。彼はたくさん金のある人、たくさん仕事のある人、たくさん縁故のある人としてとおっていた。所によっては、――勤め向きのほうもむろんのこと、――どうしてもなくてかなわぬ人といわれるだけに仕上げたのであるが、同時に、イヴァン・フョードロヴィチ・エパンチンは無教育で、兵隊のせがれから成りあがったものだということも世間に知れわたっていた。兵隊のせがれの一件は、疑いもなく、将軍にとって名誉ともなるべきことであったが、エパンチン将軍は利口な人であったけれど、やはり、多少の(十分|寛恕《かんじょ》に価するものとはいい条)弱点を持っていて、ちょっとでもそんなことを匂わされるのがいやでたまらなかった。がとにかく、利口で敏腕家であることは、争うべからざる事実であった。たとえば、彼は自分の出る幕でないと思った場合には、けっしてでしゃばらないという原則を守っている。で、多くの人はほかでもない、その淡泊な点、すなわちおのれを知るという点に彼の価値を認めた。しかしこのおのれを知るエパンチン将軍の心中にときおりいかなる現象がおこるか、こんな批評をくだす人たちに見せてやりたいくらいなものである。じっさい、彼は世渡りの道にかけては修練もあれば経験もあり、またなにかにつけいちじるしい才能もあるが、彼は自分の頭の中に命令者を持った人としてよりも、他人の思想の実行者、『お世辞でなく信服しきった』ロシヤ式に正直な人物というふうに見せかけるのが好きであった。――時世の変化というものは恐ろしいものである! これについてはずいぶんこっけいな逸話さえ伝えられている。しかし、どんなにこっけいなしくじりをしても、彼はけっしてしょげなかったし、それにカルタをやっても運がよかった。彼はいつでも大ぎょうな、思わくさえありそうな賭けかたをしたが、この「ちょいとした」道楽――そのじつこれは切っても切れぬもので、しかも多くの場合、彼の役に立つのであった――を、ことさら隠そうとしないばかりか、むしろそれをひけらかすのであった。彼の交わる社会はいろいろな種類の人の混合であったが、むろんどんな場合にも『第一流』の人ばかりであった。しかし、今まではすべてが行手のほうにあった。いつも気長に待っていた、いつもいつも気長に待ってきた。だから、これからはおいおい万事につけて彼の番が回ってこなければならぬはずだ。じじつ、エパンチン将軍は年からいえば、いわゆるいちばんあぶらののった時代である。つまり、ことし五十六といえば、どうして男盛り、これから本式に真の[#「真の」に傍点]人生がはじまろうという年で、けっしてそれ以上ふけてはいない。健康、顔の色合い、黒いがしっかりした歯なみ、頑丈な肉付きのいい体格、朝つとめに出たときの心配そうな顔つき、夜カルタに向かったときか、さもなくば閣下のご前に伺候したときなどの愉快な表情――いっさいのものがなにもかも現在未来の成功を助け、この君の生涯をばらの花で飾っている。
 将軍にはまた花の咲いたような家庭がある。じつをいえば、すべてがばらの花のようではなかったが、そのかわり、将軍の主なる希望や目的をよほど前から集中させているものもずいぶんある。まったくこの世に両親のいだく希望より重大神聖なものがほかにまたとあろうか? 家庭をほかにして、人間の結びつけられるべきところがどこにあろう? 将軍の家庭は夫人と年ごろの娘からなっていた。将軍の結婚したのはずっと以前で、まだ中尉時代であった。花嫁はほとんど同い年の娘で、かくべつ器量がいいというでもなければ、教育があるというでもなし、ただ持参金として、みんなで五十人の農奴が付いているきりであった。――もっとも、それが彼の未来の幸運の基礎となったのだ。けれど、将軍はのちのちまでも、けっして自分の早婚を悔いることもなく、またそれをば若気の過ちだなどとも考えず、夫人を尊敬し、また時としては恐れ、ついにはほれこんでしまったくらいである。夫人はムイシュキン公爵家の生まれであった。家柄はさしてはなばなしいほうではないがいたって旧家なので、その生まれのために夫人はなかなか自尊心が強かった。その時分の勢力家で、保護者ともいうべき大物のひとりが(保護するといっても、かくべつ身銭を切ったわけではない)若い公爵令嬢の結婚に面倒をみることを承知してくれた。この人が手引きして若い士官のために門を開き、うしろから押しこんでくれたような具合である。しかし、若い士官のほうからいえば、わざわざ押してもらうまでもなく、ただちょっと目くばせくらいしてもらえばたくさんなのであった、――けっして無駄になるようなことはないから! ごくわずかな例外を除いたら、夫妻は長い年月を平和に過ごした。まだずっと若かったときには、夫人は公爵家の令嬢としてまた一門ちゅうただひとり生き残った人として、――ことによったら、生まれつきの性情の徳かもしれないが、非常に名門の貴婦人をいくたりか保護者に持っていた。しかし、後年、財産もでき、夫の勤務上の地位も進んでからは、そうした高貴な人たちの中にまじっても、いくぶんなれなれしくふるまうようになった。
 この最近数年間に、三人の将軍令嬢もすっかり発育し、成熟してしまった、――アレクサンドラとアデライーダとアグラーヤである。じじつ、三人とも単に、――エパンチンの娘にすぎないが、母方の側からいえば公爵家の筋をひいており、持参金もたっぷりあるし、父親はやがて顕位高官にも昇ろうという勢いであるうえに、三人とも珍しい美人であった。これはかなり肝要なことであって、ことしもう二十五になる長女のアレクサンドラも、その数にもれなかった。次は二十三で、末娘のアグラーヤは、ようやく二十になったばかりである。このアグラーヤにいたっては、もう人なみすぐれた美人で、社交界でも非常に注目されはじめたほどである。が、これだけですべてを尽くしたとはいわれない。そのうえに三人が三人そろって教育、知識、才能の諸点において卓越していた。また彼らがたがいに愛しあいたすけあっていることも、よく人に知られていた。ふたりの姉が一家の偶像たる妹のために、なにかの事情で一種の犠牲になっている、――こうした話まで世間に伝わっているくらいだ。社交界へは三人ともあまり顔出しするのは好まないばかりか、少々つつしみぶかすぎるほどであった。もちろん、だれひとり傲慢不遜というかどで姉妹《きょうだい》をとがめるものはなかったが、それでも彼らが自分自身の価値をわきまえて、誇りの高いたちであることはあまねく知れわたっていた。長女は音楽家で、次はすぐれた画家であるが、そのことは長いあいだだれも知るものがなく、ごくごく最近に、それも偶然の機会であらわれたような始末である。ひと口にいえば、彼女らについては、賞賛すべきことが数かぎりなく喧伝されていた。しかし、また同時に反感をいだく者もあって、姉妹の読破した書物の量のおびただしさを、さも恐ろしいことのように語りあった。また彼女らは結婚を急ごうともしなかったし、社交界のあるサークルをばかにしていないまでも、たいしてありがたがってはいなかった。そんなこともうわさの種となった。それはだれもが姉妹の父親の趣味、性行、目的、希望などを熟知しているだけに、ひとしお目につくのであった。
 公爵が将軍の住居に着いてベルを鳴らしたのは、もう十一時ごろであった。将軍は建物の二階に、できるだけつつましやかな、とはいえ自分の地位に釣合うような住居を区ぎっていた。公爵のために玄関を開いたのはおしきせを着た下男であったが、うさんくさい様子をして、客の姿やその手に持っている風呂敷包みをながめまわした。公爵はこの男との押し問答にかなり時間をつぶした。なんべんきいてもはっきりと、自分は正真正銘のムイシュキン公爵であって、のっぴきならぬ用のためどうしても将軍にお目にかがらなければならぬと返答するので、男は不承不承に応接室の手前、書斎のすぐそばにある控室へ公爵を案内し、毎朝この控室の当番をつとめ来客の取次を役目にしている男に、手から手へと引き渡した。それは燕尾服を着込んだ四十過ぎの男で、いつも仕事のことが気にかかるような顔つきをしており、閣下の私室専任の召使と取次を兼ねているので、なかなか気位が高い。
「どうか応接室のほうでお待ちを願います。包みはこれにお置きなすって」ゆうゆうともったいらしく自分の安楽いすに腰をおろしにかかった取次は、公爵が包みを手に持ったまま、すぐ自分の隣りに座をしめたのを見て、いかめしい驚きを顔に浮かべながら、こう注意した。
「もしかまわなかったら」と公爵はいった。「ぼく、きみといっしょにここで待ってるほうが勝手なんです。だって、あんなところにひとりいたって始まらないからね」
「でも、控室においでになるべきじゃありません。あなたは訪問の人、つまりお客さまですからね。あなたは将軍閣下にじきじきご用がおありになるんですか」
 召使はどう思っても、こんな客を通す考えにならぬらしく、もう一度思いきってきいてみた。
「ええ、ぼくはすこし用事が……」と公爵はいいだした。
「わたしはご用のことなんかきいてはいません、――わたしはただあなたをご案内するのが役目ですから。しかし、ただいまも申したとおり、秘書のかたがいらっしゃらないと、どうもお取り次ぎするわけにまいりませんが」
 この従僕の疑念はしだいしだいにつのってゆくようであった。この公爵は、彼が日ごとに接する訪問客の種類に、あまりといえば似ているところが少なすぎた。もちろん、将軍とてもしばしば、いな、ほとんど毎日のように一定の時刻になると、ずいぶん思いきって毛色の変わった客を引見している。ことにこの用事[#「用事」に傍点]と称して来る連中にこれが多い。しかしそうした習慣や、かなり寛大な主《あるじ》の訓令にもかかわらず、従僕は大いに疑いをいだいた。彼はどうしてもあらかじめ、秘書に相談しなければならないと思った。
「ですが、あなたはまったく……外国からお帰りになったのですね?」とうとう彼は思わずひとりでにこうきいたが、いったあとでへどもどしてしまった。
 おそらく彼は『ですが、あなたはまったくムイシュキン公爵ですね?』ときこうとしたのであろう。
「ええ、たったいま汽車からおりたばかりです。しかし、なんだかきみは、ほんとにぼくがムイシュキン公爵かどうかきこうとしたのを、遠慮してやめたように思われますね」
「む!………」と従僕はびっくりしてうなった。
「大丈夫ですよ、ぼくはきみにうそなんかいいやしないから、きみがぼくのことで責任を負うようなことはありませんよ。ぼくがこんな服装《なり》をして、こんな包みなどをさげてるのも、べつに驚くことはないんです。目下、ぼくの財政はあまりかんばしくないんですからね」
「むむ! わたしはなにも、そんなことを心配してるんじゃありません。わたしは取り次ぎするのが役目なんだし、それに今に秘書のかたがここへ来られますから、それに、もしあなたが……ええ、まったく、その、なんですよ、それに……失礼ですが、あなたが閣下のところへおいでになったのは、もしやお金の無心じゃございませんか!」
「おお、どういたしまして、そのことなら心配は断じてご無用ですよ。ぼくはまるっきり別な用事でやって来たんだから」
「どうぞごめんなすって、わたしはあなたのご様子を見て、ついそう申したのです。まあ、秘書のかたがお見えになるまでお待ちを願います。閣下は今ちょっと大佐殿とご用談中ですから。やがて秘書のかたもおいでになりましょう……会社のほうの人なんで」
「ははあ、もし長く待たなければならないようなら、ひとつきみにお願いがあるんですがね。どうでしょう、ここにはどこか、たばこを吸うところがないでしょうか、ぼくはパイプもたばこもちゃんと持っているんですが」
「たーばーこ?」まるで自分の耳を信じかねるもののごとく、従僕はさげすむような不審な表情で、ちらと相手に視線を投げた。「たばこ? いいえ、ここでたばこをおあがりになることはできません。それにまあ、かりにもそんなことをお考えになるだけでも、あなたの恥じゃあございませんか。へっ……なんて珍しいこった!」
「おお! ぼくはなにもこの部屋でと頼んだわけじゃない。そりゃぼくだって知ってます。ぼくはただきみの教えてくれるところへ出るつもりだったのです。すっかり癖になっちゃって……もうかれこれ三時間すわないんですからね。しかし、まあ、どうともご都合に。ねえ、こんなたとえがあるじゃありませんか、郷に入れば……」
「まあ、あなたのような人、なんといって取り次ぎましょう!」と従僕は思わずつぶやいた。「だいいち、あなたがこんなところにおいでになるって法がないじゃありませんか。応接間にすわってらっしゃるのがほんとうです。だって、あなたは訪問の人、つまり、お客さまの身分じゃありませんか。それにわたしも責任を問われますからね……いったいあなたは当家へご逗留のつもりでいらしたのですか?」もう一度公爵の包みを尻目にかけて、彼はこうつけたした。この包みがよくよく気にかかるらしい。
「いや、考えもしませんよ。よし勧められても、ご厄介にならないつもりです。ぼくはただ、お近づきを願いにあがったのです、それっきりです」
「なんですって? お近づきを!」ますますうさんくさい様子をして、従僕はびっくりしたようにきいた。「じゃ、なんだってはじめに、用事があって来たとおっしゃったんですね?」
「いや、ほとんど用事といわれないくらいなんです! といって、もしなんなら、用事があるといってもいいです。ちょっとご相談を願いにね。しかし、まあ、おもな目的は挨拶にあがったんです。そのわけは、ぼくがムイシュキン公爵だし、エパンチン将軍夫人もやはりムイシュキン家の公女で、ぼくと夫人とのほかにはだれも一族の者がないからなんですよ」
「そんなら、あなたはおまけに親類のかたですか」すっかりおどしつけられた従僕は、ふるえあがらんばかりであった。
「なに、これとてもほとんどそうでないといっていいくらいです。もちろん、無理にこじつけると親類には相違ないが、ずいぶん遠い縁で、ほんとうのところは、突きとめるわけにも行きません。ぼくは一度外国から奥さんに手紙をさしあげたけれど、返事がなかった。が、それにしても、帰ったらぜひとも交際を願おうと思っていました。こんなことをきみにうち明けるのは、きみがいつまでも心配しているのが、ありありと見えすいているから、疑惑のないようにと思ってのことなんですよ。ね、ムイシュキン公爵が来たと通じてください。それだけでぼくの来訪の原因もおのずとわかるから。会ってもらえれば結構だし、会ってもらえなかったら、なお結構かもしれない。しかし、たぶん会わないなんていうわけには行かないでしょう。将軍夫人も自分の一門中たったひとりの代表者を、見てみたいと思いなさるに相違ない。ぼくがたしかに聞いたところによると、夫人は家柄のことをたいへん自慢していられるそうですからね」
 公爵の話はきわめて平々凡々たるものであったかもしれない。しかし、平凡であればあるだけ、この場合いよいよばかくさく思われた。下男同士のあいだならあたりまえだが、客と下男[#「下男」に傍点]とのあいだではきわめて不似合な何ものかがあるのを、世なれた従僕は感じないわけに行かなかった。召使[#「召使」に傍点]などというものは、概してその主人たちが考えているよりはるかに賢いものであるから、この従僕の頭にも、ふとこんな考えが浮かんできた。公爵なるものは金の無心に来た一種の浮浪人か、さもなくば、そんな野心なぞ蓄えていないただのばか者か、二つに一つである。なぜなら、賢いしかも野心のある公爵ならば、控室などにすわりこんで、下男風情を相手に用向きなど話しはすまい。してみると、どちらにしても自分に責任のかかりっこはない。
「ですが、なににいたせ、あなた、応接間のほうへおいでを願いたいもので」と彼はできるだけしつこい調子で注意した。
「だって、ぼくがあっちですわってたら、きみにこうしてすっかりうち明けるわけに行かなかったでしょう」と公爵はおもしろそうに笑った。「したがって、きみはいつまでもぼくのマントと包みを見て、心配しなくちゃならなかったでしょう。しかし、もう秘書の人を待ってなくてもいいでしょう、きみ自身で知らせに行ったらどうです」
「いいえ、わたしはあなたのようなお客さまを、秘書に相談なしでお通しするわけにはまいりません。それに、ついさきほども、大佐殿のおいでになるうちは、どなたがお見えになってもじゃまをしてはならぬと、閣下がご自分でおいいつけになりましたんですから。まあ、取り次ぎをしませんでも、ガヴリーラさまはもうじきお見えになりましょうし」
「官に勤めているかたですか?」
「ガヴリーラさまですか? いいえ、会社のほうへ出ていらっしゃいます。まあ、その包みをせめてここへお置きなさいませ」
「ぼくも前からそう思っていたんですよ。もしかまわなければね。それからどうでしょう、このマントも脱ぎましょうかね?」
「あたりまえじゃありませんか。マントを着たまんまで閣下のところへ行かれもしますまい」
 公爵は立ちあがり、いそがしげにマントを脱ぎにかかった。そして、相応にきちんとした、気のきいた仕立ての、しかし、もういいかげんにくたびれた背広姿になった。チョッキには鋼鉄の鎖がさがって、ジュネーブ製の銀時計がつけてあった。
 公爵はこんなばかの三太郎ではあるが――従僕はもうそれに決めてしまった――しかし、彼は召使の分際として、これ以上主人の客と話をつづけるわけにゆかぬと考えた。もっとも、彼はなぜか公爵が好きになったのである(むろん、それも一種特別の好きさなのであった)。そのくせ、別の側から観ると、ずいぶん思いきった、無作法な不平をいだかないわけにもゆかなかった。
「だが、夫人はいつ面会なさるんでしょう?」公爵はまた以前の席に腰をおろしながらこうたずねた。
「そんなこと、わたしの知ったこっちゃありませんよ。人によっていろいろでさあ。帽子屋の女はいつも十一時です。またガヴリーラさまもやはりだれよりさきにお通しなさいますよ。朝ご飯のとき、お通しになることもございます」
「ロシヤでは冬、部屋の中が外国よりかずっと暖かいですよ」と公爵がいいだした。「そのかわり、外はあちらのほうがだいぶ暖かい。しかし、冬のうちは、――ロシヤ人なんかなれたいから、とてもやりきれませんね」
「ストーブをたかないのですか?」
「そう、それにゃ家の建てかたが違うんでね、つまり、暖炉や窓の造りが」
「ふむ! ですが、あなたは長いことご旅行をなさいましたか?」
「ええ、四年ばかり。しかし、ぼくはおおかたひとつとこにばかりじっとしていたですよ、田舎に」
「こちらへお帰りになったら、さぞ勝手が違うでしょうね?」
「それもそのとおりです。まったく、ぼくはよくロシヤ語を忘れなかったと思って、われながらびっくりするくらいですよ。こうしてきみと話していても、『おれはなかなかうまく話すな』と心の中で思ってるんです。ぼくがこんなにしゃべるのも、そのせいかもしれませんよ。いや、まったく、きのうあたりからしきりにロシヤ語を使ってみたくってたまらなかった」
「ふむ! ヘえ! ペテルブルグには以前お住まいになったことがございますか!」(従僕はどんなにがまんしてみても、こうしたふうの上品で丁寧な会話をつづけないではいられなかった)
「ペテルブルグに? ほとんどないです。ほんの通りがかりに寄ったばかりですから。以前もまるっきりここの事情は知らなかったけど、聞けばこのごろやたらに新しいことができたので、前に知った人でも、もういっぺん勉強しなおしているというくらいじゃありませんか。このごろこちらでは裁判の問題がやかましいようですね」
「ふむ!………裁判。裁判といえば、さよう、まったく、その、裁判でございますね。いかがですね、あちらのほうが裁判はまっとうでございますかね?」
「知りませんなあ。しかし、こちらのほうのことでも、しょっちゅういい話を聞きますよ。それにだいいち、ロシヤには死刑ってものがないでしょう」
「あちらではございますかね?」
「あります。ぼくはフランスで見ましたよ。リヨンで。シュナイデルさんに連れてってもらったんです」
「首を絞めるのですかね?」
「いや、フランスではなんでもかでも首を斬るんですよ」
「どうです、わめきますかい?」
「どうして! ほんの一秒間のことですもの。罪人をすえると、こんな大きな庖丁が機械仕掛で落ちてくるんです。ギロチンといってますがね、重いどっしりしたものですよ……すると、目をぱちりとさせるすきもなく、首がけし飛んでしまうんですからね。しかし、それまでが辛いでしょうよ。宣告が読みあげられて、いろいろ支度があって、それからふん縛られて死刑台に上げられる、これが恐ろしいんですよ! 人が集まる、女までやって来るんですからね。もっとも、あちらでは、女が見物するのをいやがるけど」
「女なんかの知ったこっちゃありませんからね」
「もちろんです! もちろんです! あんなむごたらしいことを!………罪人は利口そうな、胆のすわった、力のありそうな中年の男でした。レグロというのが苗字です。ところがねえ、ほんとうにするともしないともきみの勝手だが、その男、死刑台にのぼると泣き出したですよ、紙のように白い顔をして。まあ、そんなことがあっていいもんですか、じつに恐ろしいじゃありませんか。ねえ、きみ、だれがこわいからって泣くやつがあるもんですか。子供じゃあるまいし、四十五にもなる大人が、今まで泣いたことのない大人が、恐ろしさに泣き出すなんて、ぼくはそれまで夢にも思いませんでしたよ。しかし、その瞬間、当人の魂はどんなだったでしょう。きっと恐ろしい痙攣をおこしたに相違ありません。魂の侮辱です、それっきりです! 『殺すべからず』とは聖書にもちゃんと書いてあります。それだのに、人が人を殺したからって、その人まで殺すって法はない。いいや、そういうことはなりません。現にぼくはひと月前にそれを見たんだけど、今でもありありと目の前に浮かんでくる。もう五度ばかり夢に見たくらいです」。
 こう話しているうちに、公爵は活気づいてきた。ほんのりと薄くれないが青白い顔にさしてきた。もっとも、言葉つきは前々どおりに静かであった。従僕は同情に満ちた興味をもって彼の言葉に聞きほれながら、いかにも離れたくなさそうな様子であった。どうかしたら、彼は想像力もあり、思想的なことにも要求を感じている男かもしれない。
「まあ、それでも」と彼は口をきいた。「首が飛ぶときに苦しみの少ないだけがまだしもですね」
「これはどうだ!」と公爵は熱のある調子で押えた。「きみもそれに気がつきましたね。まったくだれでもそう思ってるのです。つまり、それがために、ギロチンなんて機械を発明したんですからね。ところが、ぼくはふとそう思いました――もしかしたら、それがかえって悪いのじゃないかしら、とね。きみ、おかしいでしょう。きみには乱暴に思えるでしょう。しかし、よく考えてみると。こういう気もしてくるんですよ。まあ、考えてごらんなさい、たとえば拷問ってやつを。こいつを受けるものは、からだに傷をつけられたりなんかして、苦しいでしょう。けれど、それは肉体の苦しみだから、かえって心の苦しみをまぎらしてくれます。だから、死んでしまうまで、ただ傷で苦しむばかりです。ところが、いちばん強い痛みは、おそらく傷じゃありますまい。もう一時間たったら、十分たったら、三十秒したら、今すぐに魂がからだから飛び出して、もう人間ではなくなるんだということを、確実に知るその気持ちです。この確実に[#「確実に」に傍点]というのが大切な点です。ね、頭を刀のすぐ下にすえて、その刀が頭の上をするすると滑ってくるのを聞く、この四分の一秒間が何より恐ろしいのです。いや、これはぼくの空想じゃありません。じっさい、いろんな人からそういって聞かされたんです。ぼくはこの話をすっかり信じていたのだから、隠さずきみにぼくの意見をぶちまけてしまいますが、殺人の罪で人を殺すのは、当の犯罪に比べて釣合いのとれないほどの刑罰です。宣告を読み上げて人を殺すのは、強盗の人殺しなどとは比較にならぬほど恐ろしいことです。夜、森の中かどこかで強盗に斬り殺される人は、かならず最後の瞬間まで救いの望みをもっています。そういうためしがよくあるんですよ。もうのどを断ち切られていながら、当人はまだ希望をいだいて、逃げ走るか助けを呼ぶかします。この最後の希望があれば十層倍も気安く死ねるものを、そいつを確実に[#「確実に」に傍点]奪ってしまうのじゃありませんか。宣告を読み上げる、すると、金輪際のがれっこはないと思う、そこに恐ろしい苦痛があるんです。これ以上つよい苦痛は世界にありません。戦場に兵士をひっぱって来て、大砲のまん前に立たして、それからそいつらをねらって撃ってごらんなさい。兵士はいつまでも一縷《いちる》の希望をつないでいます。ところが、この兵士に対して死刑の宣告を確実に[#「確実に」に傍点]読み上げたらどうです。半狂乱になって泣き出しますよ。人間の本性は発狂せずにそれを堪え忍ぶことができるなんて、そんなことをいったのはいったいだれでしょう? なんだってそんな見苦しい、不必要な、そして不正な嘲罵を発するのでしょう? ことによったら、宣告を読み上げられて、さんざん苦しまされたあげく『さあ、出て行け、もう許してやる』といわれた人があるかもしれない。こういう人にきいたら、話して聞かしてくれるでしょうよ。この苦しみ、この恐ろしさについては、キリストもいっていられます。いや、人間をそんなふうに扱うという法はない!」
 従僕はこれらのことを、公爵と同じように自分でこそいうことはできなかったが、しかし全部でないまでも、だいたいの要点が腹に入ったらしいのは、その感じ入ったような顔つきにも現われていた。
「あなたそんなにたばこが召しあがりたかったら」と彼は言いだした。「よろしゅうございます、おやんなさいまし。けれど、お早く願いますよ。でないと、もしかお呼びになったとき、あなたがいらっしゃいませんと具合が悪うござんすから。そら、そこの階段の下に戸がありましょう。その戸をお入りになると、ちょいとした部屋がござんすから、そこならかまいません。ただ通風口をあけてくださいまし、そうしませんと、だらしのうございますからね」
 しかし、公爵はたばこを吸いに行くひまがなかった。そのときとつぜん手に書類をかかえた若い男が、控室へ入って来たのである。従僕はその毛皮外套を脱がせにかかった。若い男は公爵のほうを尻目にかけた。
「ガヴリーラ・アルダリオーヌイチ」と従僕は相手を信頼しきったように、ほとんどなれなれしく話しかけた。「このかたはムイシュキン公爵とか申されまして、奥さまのご親戚だそうにございます。今しがた汽車で外国からお帰りになったばかりだそうでして、風呂敷包みをおかかえになって、ただ……」
 それからさきは声を落としてしまったので、公爵には聞こえなかった。ガヴリーラは注意ぶかく耳を傾けつつ、強い好奇の表情で公爵をながめたが、とうとう従僕の話を聞き捨てにして、がまんしきれないように公爵のほうへよって来た。
「あなたがムイシュキン公爵でいらっしゃいますか?」と彼はひどく愛想よくていねいにきいた。
 彼もやはり二十八くらいの好男子であった。中肉中背のすらりとしたブロンドで、ナポレオン式の小さなあご鬚を蓄え、利口そうな、しかもすばらしく美しい顔をしていた。ただ笑顔が、なかなか愛嬌はあるのだけれど、なんだかあまりに繊細にすぎるし、それに笑うときにのぞく歯なみが真珠かなんぞのようにあまり美しく並びすぎている。そして、その目つき――ずいぶん快活ですばらしく見えはするが、なんだかあまりじっとすわりすぎ、あまり探りを入れようとしすぎるかに思われる。
『この人はひとりでいるときには、もっと違った顔つきになるに相違ない。ひょっとしたら、笑うことなんかてんでないかもしれない』なぜか公爵はこんな感じがした。
 公爵はすべてできるだけの説明(前に従僕と、さらにそれ以前ラゴージンにしたのとほとんど同じこと)を手短かにして聞かせた。ガヴリーラはその間なにやら思い出した様子で、「あなたじゃありませんか」とたずねた。「一年ばかり前、あるいはそんなにならないかもしれませんが、たしかスイスから奥さんに手紙をおよこしになったのは?」
「たしかにそうです」
「じゃ、こちらではあなたのことをごぞんじですから、きっと覚えておいでになるでしょう。あなたは閣下のところへ?さっそくお知らせして来ます……閣下はすぐお手すきになりますから。しかし、あなた……そのあいだ応接間のほうへいらっしゃればいいのに……なんだってこんなところにいらっしゃるのだ?」と彼はこわい顔をして従僕のほうをふり向いた。
「そう申したのですが、いやだとおっしゃるものですから……」
 ちょうどこのとき書斎の戸があいて、手提げ鞄をかかえた軍人が声高にしゃべりながら、会釈をして出て来た。
「ガーニャ(ガヴリーラの愛称)、きみ、そこにいたのか」と書斎の中から、だれかがどなった。「ちょっとここへ来てくれんか!」
 ガヴリーラは公爵にひとつ首を振って見せ、忙しげに書斎へ入って行った。
 二分ばかりたってまた戸があいて、ガヴリーラのよく通る愛想のいい声が聞こえた。
「公爵、お通りください!」

      3

 イヴァン・フョードロヴィチ・エパンチン将軍は書斎の真ん中に立って、なみなみならぬ好奇心をいだきながら、入ってくる公爵をながめた。のみならず、こらえきれないように二歩ばかりそのほうへ踏み出した。公爵は進み寄って名前を名乗った。
「ははあ、なるほど」と将軍はうけて、「いったいどんなご用ですかね?」
「かくべつ急用というほどのものでもありません。ぼくの目的はただあなたとご昵懇《じっこん》に願いたいのです。むろん、ご面会日も、またあなたのご都合も知らないものですから、ご迷惑とは存じましたが……なにしろ汽車をおりたばかりなんでして……スイスからやって来たばかりなんですから」
 将軍はあやうくほほえみそうにしたが、気がついてやめた。それから、さらにもう一度気がついて顔をしかめ、さて改めて客を頭から足の爪先までながめた。やがて、手早くいすを客に指さして、自分はややはすかいに腰をおろしながら、もどかしげな期待をもって公爵のほうへふり向いた。ガーニャは書斎の隅の事務テーブルに向かって書類を選り分けていた。
「さよう、わたしは全体としてお近づきなぞということには、あまり時間の余裕のないほうでしてな」と将軍はいいだした。「しかし、あなたはもちろん、なにか特別な目的をもっておいででしょうからして……」
「ぼくも前からそう感じていました」と公爵はさえぎった。「ぼくの訪問になにか特別な目的があるように思われるだろうって。けれど、まったく、ご昵懇にしてさえいただいたら満足なんでして、ほかに私用などないのです」
「満足、いや、もちろん、それはわたしもご同様ですがね。しかし、いつも慰みばかりじゃ済まない、ときには用事もできますからね。それに、わたしはどうしてもまだ今のところ、おたがいのあいだに、共通な点……つまり、その、因縁を発見することができないのでして……」
「因縁、もちろんありません。また共通点の少ないことも争われません。なぜといって、よしやぼくがムイシュキン公爵であり、あなたの奥さまがわたしどもの家からお出になったとしても、これは申すまでもなく因縁じゃございません。しかし、ぼくがこちらへお訪ねした理由は、全部それにかかっているのです。ぼくはもう四年以上もロシヤにいませんでした。それに、出て行ったときのぼくの有様は、まあ、ほとんど白痴同様でしたから、そのときだってなんにもわからなかったのです。だから、今ではなおさらのことです。それで、今はただ、いい人を近づきにほしいと思っています。それに、ひとつ用件さえあるんですが、どこへ相談に行っていいやら、それもわからないんですからね。まだベルリンにいるときから、『あの人たちはほとんど親類みたいなものだから、あの人たちからはじめよう。もしかしたら、あの人たちは自分のために、自分はまたあの人たちのために、おたがい役に立ちあうかもしれない、――ただし、あの人たちがいい人間だったら』とこんなふうに考えたのです。ところが、あなたがたはいい人だとお聞きしましたので……」
「いや、まことになんともありがとう」と将軍は度胆を抜かれた。「失礼ですが、どこへ宿をおとりになりました?」
「ぼくはまだどこにも宿をとりません」
「それじゃ、汽車からまっすぐにわたしのところへ? で……荷物もごいっしょに?」
「ええ、ぼくの荷物は肌着類の入った小さな包みが一つきりで、ほかには何もありません。ぼくはいつでもそいつをさげて歩くんです。宿は晩にでもとれますからね」
「では、やっぱり宿をおとりになるつもりですか?」
「おお! それはむろんそうです」
「あなたのお話ぶりでは、わたしどもをたよって見えたのかと思いましたよ」
「それはそうなるかもしれません。けれど、あなたからそうしろとおっしゃった場合に限ります。が、正直なところを申しますと、よしんばそうおっしゃられても、ご厄介にはならなかったでしょう。べつになぜというわけもありませんが、その……生まれつきなんですね」
「ははあ、してみると、わたしがあなたにそう申さなかったのは、また申してもいないのは非常に好都合でしたな。失礼ですが、公爵、いっぺんに埓を明けてしまうために、遠慮なくいわしていただきましょう。今も申したとおり、親戚関係につきましては、もちろん、それは自分にとって非常に愉快ですが、もう今さら何もいう必要はありますまい。してみると……」
「してみると、立っておいとましますか?」といい、公爵は腰を上げた。そして、自分の立場が厄介なことになっているにもかかわらず、むしろおもしろそうにからからと笑った。「じつは、閣下、ぼくはこの土地のしきたりについても、じっさい、なにひとつ知らないのですが、ぼくは初めっからきっとこんな始末になるだろうと思っていました。いたしかたございません、たぶんこれがほんとうなのでしょう……それに、あの時も、ぼくの手紙に返事をくださらなかったんですから……では、さようなら、とんだおじゃまをして申しわけありません……」
 公爵のまなざしはこの瞬間きわめてもの柔らかで、その微笑には隠れたる不快感など影すらなかった。将軍はふいに立ちどまって、とっさの間になんとなく違った目つきで客の様子をながめた。この見かたの変化はほんの刹那に生じたのである。
「いや、もし公爵」と彼はまるで別人のような声でいった。「わたしはやはりあなたという人を知らないけれど、しかし、ひょっとしたら、エリザヴェータが同じ血筋のあなたに会いたいというかもしれないから……少々お待ちになりませんか、もし時間に余裕がおありでしたら」
「おお、時間に余裕はありますとも。いま時間はすっかりぼくのものですから(公爵はすぐに自分のソフトハットをテーブルに置いた)。白状しますが、じつのところ、奥さんがあの手紙を思い出してくださるかもしれないと、それをぼくもあてにしていたのです。さっきあちらで待っていたときも、お宅の下男がぼくのことを、なにか無心にでも来たように疑っていましたが、ぼくもそれに気がつきました。きっとお宅ではこの点やかましい内規がおあんなさるのでしょう。しかし、ぼくはまったくそんなことで参ったのじゃありません。じっさい、ただ世間の人と近づきになりたいばかりなんです。ただ、その、少々あなたのおじゃまをしたと思うと、それがどうも心にとがめて」
「ねえ、公爵」と将軍は愉快な微笑をふくみながらいった。「もしあなたがじっさいお見かけのとおりの人でしたら、きっとお近づきになって愉快なかたでしょう。しかし、ただわたしはごらんのとおり忙しい人間ですから、すぐまたこれからテーブルの前にすわって、なにかに目を通して、署名して、それから閣下のところへ出かけて、そのあとで今度は役所へ行かんけりゃならんのです。だから、むろん、人と……いい人とお話でもするのは大好きなんだが……その……しかし、たぶんあなたはりっぱな教育をお受けになったことと信じますが……ときに、公爵、あなたはおいくつでしたかな?」
「二十六」
「うーふ! わたしはもっともっとお若いと思っておりましたよ」
「ええ、まったくぼくの顔は若く見えるって人が申します。ですが、今後あなたのじゃまにならぬように気をつけましょう、そのうちほどなく会得します。まったく、ぼくは人のじゃまするのがとても嫌いなんですから……それから、ついでに申しますが、あなたとぼくとは、うわべから見るとまるで種類が違った人間です……その、いろいろな点から見てですね。だから、とても共通点などはたいしてなさそうに思われます。けれど、ぼく一個としては、こういう考えかたは信用していないんです。なぜって、われわれが共通点なんかないと思っている場合にも、案外それがあるもんですからね……これは人間の無精からおこることなんです。人間というものはうわべばかりでいろいろに分類されちゃって、その奥に隠れているものを認めることができないのです……あ、ですが、こんなことご退屈でしょうね? あなたはなんだか……」
「ちょっとひとこといわしてください、あなたはいくらか財産がおありなんですか? あるいはなにか職につこうとでもいうご希望ですか。失礼、わたしはただちょっと……」
「どういたしまして、ぼくはあなたのご質問を尊重しかつ了解しています。財産は今のところなんにもないし、また職業というものもいっさいもっていません、もっとも、必要だとは思っていますが、金は今まで人のものがありました。ぼくを治療して教育してくだすったスイスのシュナイデル教授から、旅費としていただいたものですが、それがちょうどきちきちなんで、今のところ何コペイカだか残ってるきりです。もっとも、ひとつ用事がございまして、ご相談にあずかりたいと思っているのですが……」
「しかし、どうですか、さし向きなにをやって過ごそうと思 っておいでです、なにか計画でもありますか?」と将軍はさえぎった。
「なにかして働くつもりでした」
「おお、まったくあなたは哲学者だ、がそれにしても……なにか技能がおありですか、つまり、その日のパンを与えてくれるような才能ですね? どうも失礼なことばかりうかがって……」
「おお、おことわりにはおよびません。いや、ぼくには才能もなければ、格別こうという技量もないようです、むしろあべこべでしょう、なにぶん、ぼくは病身な男でして、正則な教育を受けていませんから。しかし、パンのことに関しては、ぼくおもうに……」
 将軍はふたたびさえぎって、根掘り葉掘りききはじめた。公爵は前《ぜん》に話したと同じことを、さらにもう一度物語った。その結果、将軍は故人パヴリーシチェフのうわさを聞いたこともあり、面識さえもあることがわかった。なぜパヴリーシチェフが彼の教育に力を入れたかは、公爵自身も説明ができなかった。が、あるいは、単に公爵の亡父との旧誼のためであったかもしれぬ。公爵は両親の死後、頑是ない孤児《みなしご》としてこの世に取り残され、それからずっとほうぼうの村に住んで大きくなってきた。彼の健康状態が田園の空気を要したからである。パヴリーシチェフはこの幼児を自分の親類に当たる年寄った女地主にゆだねた。この子のためにはじめ女教師、つぎに男の教師が雇われた。公爵の言葉によると、彼はすべてのことを記憶してはいるけれど、そのころは深く物事を理解できなかったので、十分に理由を説明することができないとのことである。彼は持病の発作が頻繁なため、ほとんど白痴同然になってしまった(公爵も自分でそう言った、白痴と)。あるときパヴリーシチェフがベルリンでスイスのシュナイデル教授に邂逅したところ、こういう病気を専門に研究している教授は、スイスのヴァレス州に病院を持っていて、自家独特の冷水療法、体操療法によって、白痴、瘋癲、精神錯乱を治療し、なおそれと同時に教育を施して、一般に精神発育の方法をも講じていたので、パヴリーシチェフはおよそ五年間、公爵をこの人のもとへ送ったが、二年前に急病で遺言も何もせずに死んでしまった。シュナイデルはそれからなお二年ばかり、彼を養って治療につとめ、すっかり全治こそしなかったものの大変よくなったので、今度とうとう彼自身の希望もあり、またある事情にも遭遇したので、教授は彼をロシヤに帰すことにした、その顛末を公爵はもれなく語った。
 将軍はすっかり驚いてしまった。
「じゃ、ロシヤにあなたのお知り合いといってはだれもないのですか、ただのひとりも?」と彼はたずねた。
「今のところだれもありません……しかし、おっつけできると思います……それにぼく、手紙を一通受け取ったので……」
「が、それにしても」と将軍は手紙の話はろくすっぽ聞かずにさえぎった。「なにかご修業なすったでしょう。たとえばその、あまりむずかしくない地位をお求めになるのに、なにか役にでもおつきになるのに、病気がじゃまになりませんかな?」
「おお、けっしてじゃまになんかならないでしょう。職のことでしたら、ぼくも大変のぞんでるくらいなんです。自分もどんな方面に才能があるか、知りたいと思っているのですから。四年の間というもの、ぼくは絶えず勉強しました。もっとも、先生一流のシステムによったのですから、正則的とはいえませんけど、ロシヤの書物もだいぶ読むことができました」
「ロシヤの書物を? それじゃ読み書きの心得もおありなんですな、誤謬なしに文章が作れますか?」
「おお、大丈夫できます」
「それはなによりです。そんなら手蹟は?」
「手蹟はりっぱなものです。おそらくぼくの才能はこれにあるのでしょう。この点にかけてはぼくは能書家です。なんなら試験のためになにか書いて見ましょう」と公爵は勢いこんでいった。
「どうぞお願いします、それはむしろ必要なことです……しかし、わたしはあなたの気さくなのが気に入りました、公爵、あなたはまったくかわいいかたですよ」
「お宅の文房具はなんてりっぱなんでしょう、そして、なんというペンや鉛筆の数でしょう、それに、しっかりした、じつにりっぱな紙ですね。それに、まったく、すばらしいお書斎ですねえ! ああ、この風景画はぼく知ってます。これはスイスの景色です。これはきっと画家がほんものを写生したんだと思います。それに、ぼくこの場所を見たことがあるに違いない、これはウリイ州の……」
「大きにそうかもしれません。もっとも、ここで求めたのではありますが。ガーニャ、公爵に紙をさしあげてくれ。さ、ペンと紙、このテーブルへおいでください。なんだそれは?」と将軍はガーニャのほうへふり向いた。ガーニャはこのとき自分の折鞄から大形の写真を取り出して、将軍にさし出したのである。
「や、ナスターシヤ! これは自分で、自分できみに送ってよこしたのかね、自分で?」彼は急に元気づいて、激しい好奇の色を浮かべながらガーニャにたずねた。
「いまわたしがお祝いに行ったら、これを寄越したのです。前から頼んでたもんですから。なんですか、これはことによったら、わたしがきょうのような日に贈り物も持たず空手で行ったという、あてこすりかもしれませんよ」とガーニャは不快げに薄笑いしながらいい足した。
「なんの、そんなこと」と将軍は確信ありげにさえぎった。「ほんとにきみの頭はどうかしてるよ! あの人があてこすりなんかするものかね……それに、けっしてそんな欲っぱりじゃない。だいいち、きみはあれに何を贈ろうというんだ? どうしたって千や二千のものはいるじゃないか、それとも写真でもやるつもりなのかね? ああ、写真といえば、あれのほうからもきみにくれといわなかったかい?」
「いいえ、まだいいません。いや、ひょっとしたら、いつまでたってもいわないかもしれません。ときに、閣下、あなたはむろん、今夜の会のことを覚えてらっしゃるでしょうね。あなたは特別に招待された人なんですから」
「覚えてるよ、覚えてるよ、むろん、そして出席もする。当然だよ、二十五の誕生日だもの! ふむ!………ところで、ガーニャ、おれは――ええ、ままよ、きみにすっかりうち明けてしまうが、きみ、その心構えをしておきたまえ。今夜こそ否か応かの返答をすると、あれがおれとトーツキイさんにいったんだからな。ほんとにしっかりしなくちゃいけないよ」
 ガーニャはやや顔色の青ざめるほどどぎまぎした。
「あの人がたしかにそういったんですか」とたずねた声はなんとなくふるえを帯びていた。
「おととい約束したのだ。おれたちふたりがうるさく付きまとって、とうとう無理やりにいわしてしまったのさ。しかし、きみにだけはしばらくいわずにおいてくれとのことだった」
 将軍はじっとガーニャを見つめた、彼の困ったような様子は、明らかに将軍の気に入らぬらしい。
「ですが、閣下、あなた覚えていらっしゃいますか」とガーニャは不安そうに思いきり悪くいいだした。「あの人は自分で決めるまでに、わたしに決定の絶対的自由を与えるといいました。それに、あの人が決めたって、最後の決心はわたしの意志次第ですから……」
「じゃ、きみは……じゃ、きみはもしや……」ふいに将軍はおびえたようにこういった。
「わたしはなんでもありません」
「ほんとに冗談じゃあない、きみはおれたちをどうしようというのだ」
「わたしはべつにおことわりなどしてはいないじゃありませんか。もしかしたら、わたしのいいかたがわるかったかもしれませんが……」
「もちろん、きみがことわったりなんかしてたまるものか!」と将軍はいまいましそうに、またそのいまいましさを隠そうともせずに、答えた。「よいか、きみ、もう今はきみがことわらんなどというのが問題じゃない。問題はきみがあの人の承諾を聞くときの、用意とか、満足とか、ないしは喜びとかいうものにあるんだ。それで、いったい家のほうはどうなんだね?」
「家のほうはどうもこうもありません。家のほうはただわたしの意見ひとつです。ただおやじが例によって阿呆ばかりしているのです。しかし、おやじはもうまったくの恥知らずになりきったんですから、わたしはあんな人と口もききゃしません。もっとも、手綱はちゃんと控えていますがね。いや、じっさいもし母がなかったら、出て行ってもらうところなんですよ。もちろん、母はいつも泣き通しですし、妹はぷりぷりふくれてばかりいます。で、わたしはとうとうあの人たちにいってやりましたよ。おれは自分の運命の支配者だから、家でもみんなおれの……いうことを聞いてもらいたいって。あの人たちにといって語弊があれば、すくなくとも妹には、母のいる前でしっかり念を押しておきました」
「ところで、きみ、おれがいまだにわからないのは」将軍はこころもち肩をすくめ、ちょいと両手を広げながらもの思わしげにいいだした。「ニーナ(ガーニャの母)さんがこのあいだやって来たね、ほら、覚えておるだろう? あのときしきりに溜息をついたりうなったりしておられるじゃないか。『どうなすったんですか?』ときいてみると、どうやらニーナさんは不名誉なことででもあるように思っておられるらしい。いったいなにが不名誉なんだ、わけがわからんよ。だれがどういう点でナスターシヤ・フィリッポヴナの悪口をいったり、うしろ指をさしたりなんぞするものかね。あるいは、トーツキイさんといっしょにいたのが悪い、というのかもしれんが、そんなことなど、一顧にも価しないたわごとだ。ましてああした特別な事情があるんだもの!『あなた、ほんとにあの女をお嬢さんがたのそばへお寄せつけにならないほうがよろしゅうございますよ』だと。ちぇっ! なんたることだ! いやはや、ニーナさんも困ったものさ! いったいどうしてわからんのかなあ、どうしてわからんのかなあ……」
「自分の身のほどがですか?」とガーニャは後句《あとく》に苦しんでいる将軍に口添えした。「いいえ、わかってるんですよ。どうか母にそうお腹を立てないでくださいまし。しかし、とにかく、わたしはあのときよく釘をさしておきました、人の事にあまり干渉しないでくださいって。ですが、今まではまだ最後のひとことをいわずにいるので、それで家の中がもててるんですが、嵐はかならずやって来ますよ。ですから、きょうにもその最後のひとことをいってしまうと、自然あらいざらいいってしまうことになるでしょうよ」
 公爵は片隅によって筆蹟試験の字を書きながら、ふたりの会話をすっかり聞いていた。やがて書き終えてテーブルに近寄り、書いた紙をさし出した。
「なるほど、これがナスターシヤ・フィリッポヴナですか?」彼は一心に好奇の目を光らせつつ、写真をながめてつぶやいた。「すばらしい美人ですね!」と彼はただちに熱心な調子でつけ足した。
 写真には事実おどろくばかり美しい女の姿が写し出されていた。彼女は思いきって単純な、しかも優美な型の黒い絹服をつけている。見たところ髪は暗色らしく、無造作に内輪らしく束ねてあった。目は暗く奥深く、額はもの思わしげに、顔の表情は熱情的で、そしてなんとなく人を見くだすようであった。いくぶんやせの見える顔立ちで、どうやら色も青そうである……ガーニャと将軍はびっくりして公爵をながめた。
「え、ナスターシヤ・フィリッポヴナ! あなたはもうナスターシヤをごぞんじなんですか?」と将軍は問いかけた。
「ええ、ロシヤヘ来てたった一昼夜にしかならないのに、もうこんな稀世の美人を知っていますよ」と公爵は答えた。
 そこで彼はラゴージンとのめぐり逢いを語り、彼の話したことをくわしく受け売りした。
「そうら、また厄介なことができた!」注意ぶかく公爵の話に不安を傾けていた将軍は、ふたたび不安そうな表情を浮かべて、探るようにガーニャのほうを見やった。
「おおかたただの恥っさらしでしょうよ」同様にいくぶんうろたえ気味のガーニャがつぶやいた。「町人の小せがれが道楽を尽くしてるんでさあ。わたしもその男のことをちょいと聞きこんだことがあります」
「ああ、おれも聞いたよ」将軍が受けた。「あの耳飾り騒ぎのあとで、ナスターシヤが自分でそのいきさつをすっかり話してくれたのだ。しかし、今はもう問題が別のようだぞ。今度はじっさい、百万ルーブリというやつが控えているかもしれんからな……それに、なんだか執着が強そうだよ。よしかりに下等な執着であるとしても、とにかく執着の匂いがしてるよ。まったくこういう先生が酔っぱらったら、どんなことをやり出すかわからんからな!………ふむ!………またなにかひと騒動もちあがらにゃいいが!」と将軍はもの案じ顔にこう結んだ。
「あなたは百万ルーブリがこわいのですか?」とガーニャはにやりと笑った。
「きみはもちろんそうじゃないだろうな!」
「ねえ、公爵、あなたにはどう思われました?」とガーニャはふいに公爵のほうへふり向いた。「その男はなにかまじめな人間ですか、それともただの道楽者ですか? あなたのご意見はいかがです?」
 この問いを発したとき、ガーニャの心中に一種特別なものが生じた。いわば新しい特殊な想念が脳裡に燃えあがって、いらいらと両の目に輝き出たかのようであった。正直に心から心配している将軍も、同じく流し目に公爵を見やったが、その答えに多く期待しているのでもないらしい。
「さあ、なんてったらいいのでしょう」と公爵は答えた。「ただぼくはあの男にはありあまる情欲が、むしろ病的な情欲が潜んでいるように思われました。それにあの男自身からして病的な人間らしいのです。ことによったら、ペテルブルグへ着くと早々、二、三日でまた寝つくかもしれません。無茶酒でも飲んだらなおさらですね」
「そうですか? そう思われましたか?」と将軍はこの評言に取りすがるようにした。
「ええ、そう思われました」
「しかし、そんなふうの騒ぎは二、三日のうちどころか、きょう晩までにおこるかもしれません、きっとなにか変わったことが降ってわくに相違ありませんよ」とガーニャは将軍に薄笑いをして見せた。
「ふむ!………むろん……そんなことがあるかもしれん、そうなったらこの話の成否は、あの人にどんな心持ちがひらめくかということにかかるんだな」と将軍はいった。
「しかし、あなたはあの人がときどきどんなふうになるかごぞんじでしょう?」
「といって、つまりどんなふうなんだ?」将軍はすっかり気を悪くして、ほとんど飛びあがらんばかりにいった。「いいかね、ガーニャ、きみは今夜あんまりあの人に逆らっちゃいかんぞ、そしてなるべく、その、なにさ……つまり、機嫌をよくするんだぞ……ふむ!………なんだってきみは妙に口を歪めるんだ? まあ聞きたまえ、ガヴリーラ君、いいついでだ、じっさい、いいついでだから、いまいっておこう。全体われわれはなんのためにこうして忙しがってるか知ってるかね? いいか、この事件に含まれたおれ一個の利益は、もうとっくに保証されてるんだよ。おれは方法はともあれ、どんなにでもしておれ自身の都合のいいように事が決められるんだからな。トーツキイさんもすでに固く決心していられるんだから、したがっておれはいささかの疑いをもいだいておらん。それだによって、いまおれがなにか望んでいるとしたら、それはほかのことじゃない、ただきみの利益のみだ。まあ、すこしは自分でも考えてみたまえ、それともきみはこのおれに信用ができんというのかね? そればかりじゃない、きみはその……その……利口な人間だから、おれもきみに望みをかけたのだ……で、それが、今の場合……その、なんだ……」
「それが肝要なことなんでしょう」またしても後句につまっている将軍に代わってこういうと、ガーニャは口をすぼめて、毒々しい皮肉な微笑をもらし、もはやそれを隠そうとさえしなかった。
 彼は熱した瞳をまともに将軍のほうに向けたが、まるで『この瞳の中からわたしの思ってることを、すっかり読み取ってもらいましょう』といわんばかりであった。将軍はかっとのぼせて顔を紫色にした。
「ふん、さよう、分別というやつは肝要なものさ!」と将軍は鋭くガーニャを見つめながら相づちを打った。「が、きみはまったくおかしな男だなあ、ガヴリーラ君! きみはまるであの町人の小せがれが出て来たのを、いい逃げ道のように思って喜んでるのじゃないか。いいや、おれにゃわかるよ。いや、じっさい、このことについては、そもそもの始まりから分別を基にして行かんけりゃならなかったのだ。すなわちよくことを理解して……双方から公明正大に行動しあって……そのなんだ、他人に迷惑をかけんように、前もって断わっておくべきだ。ましてそれには、時日も十分あったのだからな。いや、今でもまだ十分余裕がある(と将軍は意味ありげに眉を立てた)。といっても、晩までにたった五、六時間しかないがな……きみ、わかったかね? わかった? いやなのか、いやでないのか、じっさいのところ? もしいやなら、そういいたまえ、ご遠慮には及びませんよ。だれもきみに強制してるんじゃないからな。だれも無理にきみをわなにかけようというものはありゃしない――もしきみがなにかわなでもしかけてあるように思ってるならばだ」
「いえ、わたしは望みなのです」小声ではあったがきっぱりいって、ガーニャは目を伏せ、暗い沈黙に入った。
 将軍は大いに満足した。彼はいささか激昂したが、あまり言いすぎたのを後悔しているらしい様子であった。彼は何気なく公爵のほうへふり向いたが、不安な影がさっとその顔をかすめた。公爵がそこにいる以上、いくらこの人でも聞いたに違いないと思ったからである。しかし、彼は即座に安心してしまった。ただひと目公爵を見ただけで、すっかり安心することができたのである。
「おお!」公爵のさし出した手蹟見本を見ながら、将軍は大きくこう叫んだ。「こりゃまるでお手本だ! おまけにりっぱなお手本だ! ガーニャ、ちょっと見たまえ、りっぱなお腕前じゃないか!」
 公爵は厚い模造犢皮紙に、中世ロシヤの書体で左の一句をしたためていた。
『僧院の長《おさ》パフヌーチイ手ずからこれに名を署したり』
「つまりこれは」異常な喜びと活気を声に響かしつつ、公爵は説明した。「これは僧院長パフヌーチイの自筆の署名を、十四世紀ごろの写しからかりてきたのです。ロシヤの昔の僧院長とか府主教とかいう人たちの署名は、どれでもみんな見事なものでしたねえ。しかも、なんともいえない趣味や苦心が十分あらわれているのです! 将軍、お宅にせめてポゴージン版のものでもありませんか? それから、ほら、ここんとこに、ぼく、べつな書体で書いてみました。これは十八世紀のフランスふうで、ふっくりした大まかな書体なんです。ある字などはまるで変わった書きかたをしたものです。つまり、俗向きの書体で、民間の書家の癖なんですが、ぼくのところに一冊手本があったからまねてみました。ね、そうでしょう、まんざらうまみがなくもないでしょう。このふっくらしたo、aなどを見てください。ぼくはフランス式の書体をロシヤ文字に移したのです。なかなかむずかしい仕事でしたが、どうやらうまくゆきました。ああ、それから、こいつもまた奇抜な書体ですな。こういう句なんです。『努力はすべてを征服す』ってのですが、この書体はロシヤの書記ふう、でなければ陸軍書記ふうとでもいうべきものでしょう。一般にえらい人たちのところへ送る公文書類がこんなふうです。これもやはりふっくらした、美しい、そして墨色の[#「墨色の」に傍点]濃い書体ですが、じつに趣味が横溢していますね。書家などにいわしたら、この変体、というより、むしろ変体がろうとした試みは、法にないというかもしれません。ほら、この尻のはねを半分でよしたところなんかね、――しかし全体から見ると、ね、ごらんなさい、これが一特色をなしてるじゃありませんか。この中に陸軍書記の魂がりっぱに現われてるんです。才気が一気呵成を欲してむずむずしているのですが、軍服の襟が窮屈にしめつけてる形です。軍規というやつが書体にも出て来たんです。つい近ごろある手本を目っけて、すっかり感心させられちまったんです。しかも、それがどこだとお思いです?――スイスなんですよ!――ところで、これは平凡なありふれた純イギリスふうの書体ですが、美もこれより先へは行くところがないでしょう。どれを取ってみてもみなすばらしい。水晶玉です、真珠です。すっかり完成されています。ここにその変種があります。これも、フランスふうに換えたものです。これはぼくが地方まわりのフランスの commi (手代)の手を借用しました。前のと同じイギリス式ですが、黒い線がほんの心もちイギリスのよりも黒くて太いでしょう。だもんだから、光線のプロポーションがこわれてしまいました。それにごらんなさい、この楕円形が変わってますから。ほんのぽっちり丸みが強くって、おまけに変体まで応用してあります。ところが、この変体がいちばん剣呑なやつなんです! ひととおりならぬ趣味がいりますよ。そのかわりうまく行って釣合いがとれると、その字はもうなんとも比べるものがありませんね、じっさいほれぼれするくらいです
「ほう! あなたはおそろしく微細な研究をとげておいでですな」と将軍は笑った。「あなたはもう能書家でなくって芸術家ですなあ。どうだい、ガーニャ?」
「驚き入りますね」とガーニャが言った。「それに、ちゃんと自己の天職を自覚してらっしゃる」とあざけるように笑いながらつけ足した。
「まあ、いくらでも笑うがいい、これはりっぱな出世の方法なんだから」と将軍はいった。「ねえ、公爵、今度はすばらしい人にあてた書類をあなたに書いてもらいますよ。まったくあなたはのっけから月三十五ルーブリくらい取れます。だが、もう十二時半だ」と彼は時計をのぞいて見てつぶやいた。「公爵、それじゃ用件にかかりましょう、ことによったら、きょうはもうお目にかかれないかもしれないから! しかし、ま、ちょっとおすわりなさい。先刻も申したとおり、あまりたびたび会ってお話しする暇はないが、ほんのわずかでもできるだけのご助力をしたいとは、真底から希望しておるのです。じっさいのところほんのわずかで、露骨にいえば、暮らしにお困りにならん程度のものですから、それ以上のことはあなたのお考えに任せます。どこか役所の口を探してみましょう、あまり窮屈じゃないが、時間が厳重だからそのおつもりで。さてと、それからですね。ガヴリーラ・アルダリオーノヴィチ・イヴォルギン君の、――というのは、このわたしのいちばん若い友ですが、あなたもぜひお近づきを願っておきます、この人のまでお母さんと妹さんが道具付きの部屋を二つ三つあけて、確かな紹介者のある人に、まかないと召使をつけて貸しておられるのです。ニーナさんもわたしの紹介を拒絶はなさるまい。まったくこの家はあなたのために願ったりかなったりですよ。なぜというに、第一にこの家へおいでになれば、あなたはもうひとり住まいでなくって、いわゆる家庭の暖かいふところの中に入るというものです。それに、わたしの見たところでは、あなたがペテルブルグのような都会にのっけからひとりで飛びこまれるのは、どうもよくないようですからな。ニーナ・アレクサンドロヴナ、――これはガヴリーラ君のおかあさん。それからヴァルヴァーラ・アルダリオーノヴナ、――これは妹さん、――このふたりのかたはわたしが非常に尊敬している婦人です。ニーナさんは、いま退職されているが、アルダリオン・アレクサンドロヴィチーイヴォルギン将軍の夫人です。将軍はわたしが隊に入った当時からの友人で、今はちとわけがあって交際をやめていますが、しかしわたしは今でもこの人に対して、ある意味において尊敬の念をいだいています。こんなことをくどくお話しするのは、つまり、わたしがじきじきあなたのために紹介の労をとっている、したがってあなたの身の上をいわば保証しているということを、あらかじめご承知ねがっておくためなのです。払いのほうはごく低廉ですから、近いうちにあなたの月給だけで、十分間に合うようになるだろうと思います。もっとも、人はたとえいくらかでも、小遣銭がなくてはすまされんものですが、あなた怒ってはいけませんよ。ぶしつけにいうと、あなたはなるべく小遣銭というものを、いや、一般に金をポケットに入れて歩くのを、避けるようになすったほうがいい。まあ、一見したところそんな気がする。しかし、さしむきあなたの金入れはまったく無一物だとおっしゃるから、失礼ですが、ご用のためにこの二十五ルーブリをお納めください。むろん、ご都合のときに返済してくださればよろしい。じっさいあなたがそうしたような、お言葉どおりのまじめな、誠実なおかたでしたら、われわれのあいだにけっして面倒なことなぞおこる心配はありません。わたしがこんなにあなたのお世話を焼くのは、あなたに関してある目あてとさえいうべきものがあるからなんですが、それは今におわかりになります。ね、公爵、わたしはあなたに対してざっくばらんにお話ししてるんですよ。ガーニヤ、公爵がきみの家へ下宿されるについては、べつに異存ないだろうね」
「ええ、異存どころではありません! 母もたいへんよろこぶことと思います……」丁寧な調子で先まわりするようにガーニャは言った。
「きみのところでふさがってる部屋は一間きりだろう。あの、ええと、なんとかいったなあ、フェルド……フェル……」
「フェルディシチェンコ」
「ああそう、おれはあのフェルディシチェンコが嫌いだ、いやにふざけたしつっこい男だ。なぜナスターシヤさんがあいつをあんなにはげますのか、おれにはわけがわからん。いったいほんとにあの人の親類に当たるのかね?」
「いいえ、ちがいますよ、みんな冗談ですよ! それに、あんまり親類くさくもないじゃありませんか」
「ふん、あんなやつのことなんかどうだっていい! で、公爵あなたはいかがです、ご満足ですか、それとも……」
「ありがとうございます、将軍。まったくあなたのしてくだすったことは、このうえなく親切な人でなければできないことです。それもぼくのほうからお願いしたわけでもないのですから、なおさら恐れいります。いえ、ぼくは自尊心から割り出してこんなことを申すのではありません。ぼくはまったくどこへ身を寄せていいのやら、とほうに暮れていたのですから。もっとも、さっきラゴージンが来いとはいってくれましたが」
「ラゴージンが? いや、いけない。わたしは親身の親として、というのが悪ければきみの親友として、ラゴージン君のことはすっぱり忘れてしまうように忠告します。それに全体として、きみは今度お入りになる家庭をたよりになさるようにおすすめしますよ」
「あなたがそれほどご親切にいってくださるのでしたら」と公爵はきり出した。「ぼくひとつご依頼があるのです。じつはこういう通知を受け取ったのですが……」
「失礼ですが」と将軍は押し止めて、「もう一分間の余裕もなくなりました。今すぐあなたのことをリザヴェータにそういってきます。もしあれが今あなたにお目にかかりたいといったら(今度はもうなるべく、そうするようにあなたを紹介します)、そしたら大いにその機会を利用して、せいぜい気に入るようにおやんなさい。リザヴェータも、うんとあなたのお力になるかもしれません。なにしろ同族のよしみですからな、もしいやだといったら無理にとおっしゃらんで、また今度の時になさい。それからきみ、ガーニャ、ちょっとこの計算を見てくれたまえ。さっきフェドセーエフとふたりでさんざん苦労したよ。これも忘れずに書きこんでおいてくれ」
 将軍は出て行った。こうして、公爵はもうほとんど四度もいいかけた用事を、とうとう話さずにすましてしまった。ガーニャは巻きたばこに火をつけ、いま一本を公爵にすすめた。公爵はそれを受け取ったが、邪魔になってはいけないと、話もせずに書斎を見まわしはじめた。けれど、ガーニャは将軍からいいつかった数字をこまごまとしるした紙きれに、ほとんど目もふり向けなかった。彼はなんだかそわそわしていた。こうしてふたりきりになってみると、ガーニャの薄笑いや、目つきや、もの案じ顔な様子などが、いっそう公爵にとって堪えがたくなってきた。と、ふいに彼は公爵のほうへ近寄った。公爵はそのときまたしてもナスターシヤの写真のそばに立って、しみじみそれに見とれていたのである。
「じゃ、あなたそんな女が好きなんですね、公爵?」突き刺すように鋭く相手をながめながら、ガーニャはこうたずねた。それはあたかも異常な目的をいだいているような調子であった。
「すばらしい顔ですよ!」と公爵は答えた。「この人の運命はなみはずれたものだとぼくは信じますね。顔はなんだか楽しそうに見えますが、じっさいは非常に苦労したんでしょう、え? それは目がちゃんと物をいっています。それからこの二つの小さな骨、――目の下、頬の上に見えるこの二つの点でもわかります。この顔はプライドに満ちた顔ですね、おそろしくプライドに満ちてますね。しかし、いい人でしょうか? ああ、もしいい人だったらなあ! それなら救われるんだけど!」
「ですがあなた[#「あなた」に傍点]だったらこの女と結婚しますか?」ガーニャは相手の顔から燃えるような目を離さず問いをつづけた。
「ぼくはだれとも結婚するわけにはゆかないのです。病身な生まれですから」と公爵は答えた。
「では、ラゴージンは結婚するでしょうか、どうお考えです?」
「そうですね、結婚するだけなら、あすにもやるかもしれませんね、ぼくそう思いますよ。しかし、結婚したら、たぶん一週間たたないうちに殺してしまうでしょう」
 公爵がこう言いきるかきらないかに、ガーニャはいきなり激しく身震いした。公爵はあやうく叫び声を立てんばかりであった。
「まあ、どうしたんです?」と彼は相手の片腕を支えながらいった。
「もし、お客さま! あなた奥さまのところへいらっしゃるようにと、閣下のお言葉でございます」と従僕が戸口に現われてこう案内した。公爵は従僕のあとについて行った。

      4

 エパンチン家の令嬢は三人とも健康で、見事に発育して、いわば盛りの花をみるようであった。肉づきのいい肩、張り切った胸、そして手はまるで男のようにしっかりしている。こうした体力や健康の結果として、時には腹いっぱい食べるのが好きだったが、しかもまるでそれを隠そうとしなかった。母夫人のリザヴェータ・プロコーフィエヴナは、ときおり娘たちの露骨な食欲を責めるように、尻目にかけることもあったが、娘たちは上べばかりいかにもうやうやしげにしていたけれど、じっさいにおいては夫人の意見はともすると、以前のような絶対の権威を娘たちのあいたに失ったのみならず、三人の娘が共同で組織している秘密会議《コンクラーヴェ》の力が、容赦なくぐんぐん勢力を増してゆくので、ついに大人はおのれの威信を保持するために、しいて争わずに譲歩したほうが、かえって得策であると悟ってしまった。とはいえ、本来の性質はいかに理づめの決心でも圧服することのできない場合がしばしばある。リザヴェータ夫人も年を追ってだんだんむら気が激しくなり、こらえ性《しょう》がなくなって、今ではほとんど一種の偏屈ものになりおおせている。しかしそれでも、素直によくならしつけられた将軍が手ぢかにいるので、積もりつもった胸のもだもだは、たいていこの人の頭に浴びせかけられる。すると、また家庭の調和が旧に復して、なにもかもこのうえなしというほどうまく納まって行く。
 夫人も、そうはいうものの食欲を失ってはいなかった。たいてい十二時半ごろ娘たちといっしょに、ほとんど晩食と同じように豊かな昼食のテーブルにつく。もっとも、令嬢たちはその前、正十時に目をさますと、床の中でコーヒーを一杯ずつ飲む。それが令嬢たちのお好みなので、永久にそう決まってしまったのである。さて、十二時半になると、母大人の部屋に近い小食堂にテーブルが設けられる。もし時間が許せば、将軍自身もこの家庭的な内輪の昼食に加わった。茶、コーヒー、チーズ、蜂蜜、バタ、夫人の好物である一種特別なホット・ケーキ、カツレツなどのほか、濃く熱い肉汁まで並ぶのであった。われらの物語がはじまった朝、一家うちそろって食堂に集まり、十二時半までに来ると約束した将軍を待ちかねていた。で、もし将軍が一分でも遅れたら、すぐにも迎えにやりかねまじい意気ぐみでいるところへ、彼はきっちり時刻をたがえず入って来た。挨拶かたがた手に接吻するために夫人のほうへ近寄りながら、彼は早くも妻の顔にいつもと違った、なみなみならぬあるものを見とめた。もっとも、彼は前の晩からあのアネクドート(それはこの人の口癖なので)によってかくあるべしと予感して、床に入ってからもそればかり心配したのではあるが、いざとなるとやはり気おくれがした。令嬢たちは彼のところへやって来て接吻した。これはべつに怒っている様子もないが、どうもなにかしらひと通りならぬものが潜んでいる。もっとも、将軍はいろいろな事情のために、余計なことにまで疑り深くなっていた。しかし、彼は要領のいい経験ある父でもあり夫でもあった。彼はとっさの間におのれのとるべき方法を講じた。
 ここでちょっと筆を休めて、われわれの物語のはじめにエパンチン将軍一家がおかれている状況や関係について、直截正確な説明を試みても、物語の如実な印象をさまで傷つけはしまいと考える。前にも述べたが、将軍はあまり教育のある人ではなく、むしろ反対に一介の『独学者』――将軍も自分でそういっている――にすぎないのである。しかし、そうはいうものの、彼は経験ある夫、要領のいい父に相違なかった。彼は娘たちの嫁入りを急ぐまい、すなわち、その心の中まで干渉すまい、また娘たちの幸福を思う親心で、かえっていやな思いをさせるようなことはすまい、とこういう方針をとった。これは年ごろの娘が目白押しをしている世間の、しかも分別ある家庭でおのずと生ずる弊害なのである。彼はついにリザヴェータ夫人すら自分の方針に同意させた。もっとも、それは困難な仕事であった――もともと不自然なことだからである。しかし、将軍の議論は卑近な例に基づいて、一理も二理もあった。それに令嬢たちも、自分の自由な意志判断に任されたならば、そうそう気まぐれに余計な選り好みをしているわけにいかないから、仕方なしに理知を頼って慎重に事に対するであろう。すればもうこちらのものである。両親はただ油断なく、そしてなるべく目につかぬように監督して、あまり奇怪な選択や不自然な迷いなどの生じないように注意し、さておりを見てありたけの力をそそいで助力を与え、ありたけの感化力を尽くして方向を正してやりさえすればいいわけである。最後にもう一つ好都合なのは、年を追って一家の財産および社会的地位が、幾何級数的に生長してゆくことである。つまり、時がたてばたつほど、令嬢たちも花嫁候補者として、ますます有利な地歩を占める道理である。
 しかし、これらの厳として犯すべからざる事実の間に、いま一つの事実が現われた。いつの間にやらほとんどまったく思いがけなく(よくあることだが)、長女のアレクサンドラが二十五を越してしまった。これと同時に、アファナーシイ・イヴァーノヴィチ・トーツキイという、非常な金持ちで、りっぱな縁故を持っている上流の一紳士が、妻をめとりたいというかねてからの望みを、またまたあらたに表明した。この人は当年五十五歳、すっきりした伊達男で、人なみすぐれて洗練された趣味を持っていた。彼はひと通りならぬ器量好みなので、結婚の条件もやかましかった。いつごろからか彼はエパンチン将軍と、ひとかたならぬ親密な間柄となったが、その後さまざまな事業に共同で携わるようになってから、その親しみはますます深くなっていった。で、あるときトーツキイはエパンチン将軍に向かって、将軍の令嬢のうちだれかと自分との結婚を想像するということは、はたしてなしうべきことかどうかとたずねて、親友としての意見と指導を求めた。エパンチン将軍の家庭生活の穏かな美しい流れは、ここにおいて、明らかに一つの曲折を描いた。
 三人の中で争う余地のない美人は、前に述べたとおり末子のアグラーヤであった。しかし、おそらく利己的なトーツキイですら、アグラーヤは自分の求める範囲外である、アグラーヤは自分の妻となるべき人でないということを心得ていた。ことによったら、姉たちのいくぶん盲目的な愛情や、あまりに熱烈な友愛の念が、事態を誇大していたかもしれないが、アグラーヤの運命はけっして単なる運命ではなく、十分に実現の可能性を帯びたこの世の楽園の理想として、彼らのあいだに真底から予定されていたのである。アグラーヤの未来の夫は、ありとあらゆる完全、円満、成功の領有者でなくてはならぬ。莫大な富、――そんなことはいうまでもない。ふたりの姉は、ことごとしく吹聴こそしないけれど、もし必要に迫られたなら、アグラーヤのためには自分の身を犠牲にしてもいい、と決心していた。アグラーヤの持参金には莫大な額が割り当てられて、遠く世間なみから飛び離れていた。両親もふたりの姉の心持ちを知っているので、トーツキイから相談を受けたときも、ふたりのうちのどちらかが、両親の望みをむなしくしないということについては、ほとんどいささかの疑いもなかった。ましてトーツキイは持参金のことでかれこれいう気づかいはない。トーツキイの申し込みは、将軍自身も彼一流の処世観によって、なみなみならずありがたいことに思った。しかし、トーツキイ自身あれやこれや特別の事情のために、一歩一歩用心に用心を重ねて探りを入れているので、将軍夫妻も思いきってかけ離れた想像のような体裁で、娘たちに相談したのである。これに対する返事として、娘たちのほうからもやはり漠とした、とはいえすくなくとも親たちを安心させるだけの意向をもらした。それは長女のアレクサンドラが、おそらくいやとはいうまいとのことであった。彼女はなかなか気立てのしっかりした娘であったが、人が好くて、分別があって、しかも非常に素直であったから、トーツキイのところへも喜んで行きそうであった。それにいったん約束したことはりっぱに履行するに相違なかった。あまりけばけばしたことは嫌いで、また面倒なことを持ち出したり、急に心持ちを変えたりする心配もなく、むしろ与えられた生活をなめらかにし穏かにする力さえあった。容貌は、ずばぬけた魅力こそないが、きわめて美しかった。トーツキイにとってこれ以上なにを望むことがあろう。
 しかし、この縁談はいぜん、手探りのような有様で進行していた。将軍とトーツキイは双方から心安だてに申し合わせて、一定の時が来るまでは、すべてあとから取り返しのつかぬような形式的なことはいっさいすまいと約束したので、将軍夫妻もまるっきりあけひろげには娘たちにはいわないでいた。なんとなく全体として一種の破調が感じられてきた。家庭の母たる将軍夫人も、なぜかひどく不機嫌になった。これは軽々に見過ごすことのできない点である。その原因はほかでもない、ここにいっさいを妨げるひとつの事情が生じたのだ。これがためには、なにもかもがらがらとくずれるかもしれぬという、やっかいな始末におえぬ偶然のできごとが現われたのである。
 このやっかいな始末におえぬ『偶然のできごと』(というのはトーツキイ自身の言葉である)は、もうずっと以前、かれこれ十八年も前にはじまった。中部地方にあるトーツキイの裕福な領地と隣り合わせに、あるきわめて貧しい小地主が住んでいたが、重なる不幸に疲弊しつくしていた。それは絶え間なしに人の語りぐさになるような失敗をつづけているので有名な男であったが、もとはさる由緒ある貴族出の退職士官で、この点からみれば、トーツキイなどより、よほどれっきとしていた。フィリップ・アレクサンドロヴィチ・バラシュコフというのがその名である。彼はありったけの物を抵当に入れつくして、首も回らぬほど借金に苦しめられていたが、幾年か囚人百姓同様の労働をつづけて、ようやくそのささやかな財政をどうにか息のつけるだけ整理した。このわずかな成功にも彼はひとかたならず元気づいた。元気づいて希望に満ちた彼は、おもだった債権者のひとりと面談して、あわよくばきれいに話をつけてしまうくらいのつもりで、二、三日の予定で郡役所のある町へ出かけた。彼が町へ着いてから三日目、頬は焼けただれ、髯は黒く焦げた村の百姓頭が、馬を飛ばしてかけつけた。そして、きのうの正午『代々伝わったお家が焼けて』しまって、そのさい『奥さまもお焼け死になされ、お子供衆ばかりは息災でおいでなされまする』との報告をもたらした。この異変ばかりは、さすがに残酷な『運命の笞』にならされたバラシュコフも堪えきれなかった。彼は気が変になり、一か月後に熱病で死んでしまった。焼け荒らされた領地は、路頭に迷っている百姓どもをつけて、借財の抵当に取られてしまった。六つと七つになるふたりの女の子は、トーツキイが持ち前の義侠心から、引き取って養育してやることにした。孤児は退職官吏で家族の多いトーツキイ家の支配人、しかもドイツ人の子供らといっしょに育てられるようになった。間もなく幼いほうの子は百日ぜきでなくなって、ナスチャという娘がひとりだけ生き残った。トーツキイは主として外国で暮らしているので、五年もたつうちにふたりの女の子などすっかり忘れてしまった。あるとき、彼は所用でどこかへ行くついでに、ふと自分の領地をのぞいてみようと思い立った。そして村の持ち家で、思いもよらずひとりの美しい子供が、ドイツ人の支配人の家族にまじっているのに気がついた。年のころ十二ばかり、活発で発明で愛くるしい、成人してからのなみなみならぬ美しさが思われるような女の子であった。この道にかけたらトーツキイは、けっして眼鏡違いなどのない大家であった。その時は四、五日しか領地に滞在しなかったけれど、さまざまの指図をもれなくしておいた。かくして、この女の子の養育上に著しい変化が生じたのである。教育があって人からも尊敬されている、かなり年寄ったスイス生まれの婦人が、家庭教師として招聘された。この婦人は、これまで女子の高等教育に経験があるので、フランス語のほかいろいろの学課を授けた。家庭教師が田舎の家に住まうようになってから、幼いナスターシヤの教育は大がかりになった。満四年でこの教育が終わりを告げ、家庭教師は出て行った。そのあとへやはりトーツキイと領地を隣り合わしている(ただしそれは別な遠方の県であった)女地主がやって来て、トーツキイの指図と委任に基づき、ナスチャを自分の手もとへ連れて帰った。この小さな領地にも、小さなものではあるが、同じくあらたに建ったばかりの木造の家があった。その家はかくべつ優美に飾られてあり、村の名もまるでわざと付けたように慰楽村と呼ばれていた。女地主はまっすぐにナスチャをこの閑静な小家に連れて来たが、自分も一露里ばかり離れた所に、夫も子供もなくやもめ暮らしをしていたので、ナスチャと同じ家に住まうこととした。ナスチャの身のまわりの用を足すものには、取締りの老婆と気の利いた小間使が出来た。そうして、家の中にはさまざまな楽器、優美な少女図書室、絵画、木版、鉛筆、画筆、絵具、すばらしい狆《ちん》、などが取りそろえられた。二週間たって、トーツキイが自分でそこへやって来た……それ以来、彼は妙にこの辺ぴな荒野の小村を愛して、毎年夏になるとここを訪れては、ふた月、多きは三《み》月くらいずつ滞在するようになった。こうしてかなり多くの月日がたった。四年間ばかりというものは、穏かで、幸福で、趣味もあり、優美な生活が流れ去った。
 ところが、あるときこんなことがおこった。トーツキイが慰楽村へ来て、わずか二週間そこそこで帰ってから、およそ四《よ》月ばかりたった冬のはじめごろであった。トーツキイがペテルブルグで、ある財産家で家柄のいい美人と結婚しようとしている、つまり、堂々とした華々しい結婚を企てている、とこういううわさが広まった、――というよりは、このうわさがふとナスターシヤの耳に入ったのである。のちになって、このうわさもこまごました点では不正確なところの多いことがわかった。結婚はほんの目算にすぎなかったので、すべてのことがまったく漠然たる状態にあったが、ナスターシヤの運命はこのときから一大変化をきたした。ふいに彼女は非凡な決断力と、まことに思いがけない性格を暴露したのである。長く考えようともせず、彼女は自分の田舎の家を捨てて、突如、ペテルブルグのトーツキイのもとへ、単身おしかけて行った。こちらは驚いてなにやらいいかけたが、たちまち気がついてぎょっとした。今まできわめて有効に使用することのできたいいまわし、声の調子、愉快で優美な会話の題目、以前のような論理、――もう何から何までいっさい変改《へんがえ》しなければならなかった。彼の前にはまるっきり別な女がすわっている。彼が今まで熟知しており、そしてついこの七月に慰楽村《オトラードノエ》で別れたものとは、まるで似ても似つかぬ女がすわっていたのである。
 この新しい女は、いま見れば、驚くばかり多くのことを知り、かつ解していた、――どこからこのような知識を得てきたか、またどうしてこんな正確な理解力を養ったのかと、ただただ驚かれるばかりであった。(まさか、あの少女図書室の中からではあるまい!)そればかりか、彼女は法律上のことをもおびただしく心得ており、世間それ自体とはいわれないかもしれぬが、すくなくとも世の中においてある種の事柄がいかに行なわれているかについて、よりどころのある知識を持っていた。それから、第二に性格の相違である。以前はなんとなくおどおどして、女学生式に取りとめがなく、どうかすると飛び放れたお転婆をしたり、罪のないことをいったりして、なんともいわれず愛くるしい、かと思うともの思わしげにふさぎこんで、疑りぶかくて涙っぽい、落ちつきのない女になってしまう、というようなふうであったが、今はその面影もない。
 そうだ、いま彼の前には、夢にも思いもよらなかった異常な一人物が、からからと傍若無人に笑いながら、毒に満ちた皮肉で、彼の心をさいなんでいるのであった。この新しい女は、彼に向かって、今まで自分の心中に深い深い侮蔑の念、――最初の驚きにつづいてすぐあとからわきおこった侮蔑、吐き気を催すような侮蔑の念のほか、いかなる感情をも彼に対していだいたことがないということを、無遠慮にぶちまけた。そうして、うそも隠しもないところ、男がいまだれと結婚しようと平気だが、彼女はただ男に結婚させない、意地でも結婚させないつもりでやって来た、そのわけはただそうしたいからなんで、そうしたいというのは、つまり、そうしなければならぬということになるからだ、とこうも宣告した。『まあそれでも不足ならばね、ただ腹さんざんあなたのことを笑ってあげにきたんですよ。なぜって、わたしだっていい加減なときには、自分で人のことを笑ってやりたくもなりましょうさ』
 すくなくも彼女はこれだけのことをいった。あるいはこれだけでは胸の中にあることを残らずいってしまったことにはならなかったかもしれぬ。しかし、新しいナスターシヤが大声に笑いながら、こういうふうのことをいっている間に、トーツキイは腹の中でこの事件をさまざまに思いめぐらしつつ、いくぶん調子の狂ってきた自分の思想をできるだけ整頓した。この沈思熟考は、だいぶ長いことつづいたのである。彼は全心この問題に没頭して、二週間ちかく最後の断案を得ようと苦心した。ついに二週間たって、この断案が得られた。それはこうである、トーツキイは当時もう五十前後で、このうえなく手固い、すっかり価値の決定した人物である。一般世間および社交界における地位も、強固な基礎の上に築かれている。それゆえ、すべて上流の紳士として当然のことではあるが、彼は自己ならびに自己の安寧と慰楽をなによりも愛しかつ尊重した。今までの全生涯を費して完成させ、こうした美しい形式にまとめあげたすべてのものが、たとえすこしでもぐらついたり、こわされたりするのは、とうてい堪ええないことであった。また一方、年来の経験と深刻な物の見かたなどが、きわめて迅速に、驚くべく正確に、さまざまなことをトーツキイに助言してくれた。ほかでもない、いま自分が相手にしているのはなみたいていの女ではない、この女はただ口でおどかすばかりでなく、かならず実行するに相違ない、そしてなにより恐ろしいのは、何ものに対してもけっして狐疑逡巡しないという気性である、ましてこの女は世界じゅうの何ものをも尊しとしないから、したがって、利をもって誘うなどということは断じて不可能である。
 どうもそこには明らかに今までとぜんぜんちがったものがある、精神情緒の中に欝結したにごり水のようなものが感じられる。すなわちある種の小説的な憤懣の情と(ただし、だれに対するなんのうらみやらわけがわからぬ)、それから、もうまったく常軌を逸してしまった、何ものをもっても癒すことのできない侮蔑の念、――てっとり早くいえば、秩序ある社会では許すべからざるこっけいなもので、そんなものに取っつかれるのは、身分ある人にとって神罰とよりいいようのないものがある。むろん、トーツキイほどの富と門閥があれば、この不愉快を避けるために、ちょっとした罪のない陰謀をめぐらすのは、造作もないことである。いま一方からいえば、ナスターシヤも、なにか、たとえば、法律的な意味で彼に危害を加えることはできまいし、またたいして外聞の悪いこともしおおせられまい。なぜなら、彼女の行動を掣肘《せいちゅう》することくらい、じじつ、なんでもないからである。しかし、これとても、ナスターシヤが、一般に人がこんな場合ふるまうように、あまり法外な常軌を逸した行動をとらなかったら、という仮定をした場合にすぎない。こう考えたトーツキイは、またしても自分の正確な見かたのおかげで、あまりありがたくない結論に到着した。彼の推定によると、ナスクーシヤ自身も、法律の方面からはなんらの危害をも男に加ええないことを心得ているが、彼女の考えているのは、まるっきり別のことである……あの、ぎらぎら光る両眼を見ても知れる。何ものをも、とりわけ自分自身さえ尊重しないナスターシヤは(彼女がとっくの昔から自分自身を尊重しなくなったということをこの場合に洞察して、その心持ちの真剣さを信じるのは、トーツキイのような懐疑派でかつ社交界のシニ″夕にとっては至難のわざであって、それには少なからぬ知力と透察力を必要とする)、シベリア行きであろうと、懲役であろうと、どんな醜い方法でもいとわず、ひと思いに自分を破滅さしてしまう覚悟である。ただただ限りなく残忍な嫌悪を感じている男を、思うさま辱しめてやればそれでいいのだ。トーツキイは自分が少々臆病、というよりむしろ極端に保守的なことを、けっして包み隠しはしなかった。たとえば、だれかが自分を婚姻の席上で殺すとかなんとか、それに類したきわめて無作法な、滑稽な、社交上とうていゆるすべからざるできごとが生ずるのを、もしあらかじめ知っていたとすれば、彼はむろん驚くにきまっている。しかし、それは自分が血みどろになって傷つけ殺されるとか、あるいは衆人環視の前で面《かお》に唾《される》されるとか、そのようなことが恐ろしいのではない。彼が恐れるのは、それらの事件が世間に類のない不自然な形式をとって現われるということであった。ナスターシヤも口にこそ出さね、つまりこの点を予告したものではないか。この女は彼の人物を完全に了解し研究しているので、したがって虚に乗ずべき弱点をもそらんじている。それはトーツキイも自分でよく知っていた。また、じっさい、結婚というのは単に意向にとどまっていたので、トーツキイはナスターシヤに譲歩し和睦した。
 彼がこう決心したのには別に一つの事情がある。新しいナスターシヤの容貌が古いナスターシヤに比べて、どれくらい違っているか、想像もできないほどであった。以前はただもう無性にかわいいというだけであったが、今はどうだろう……トーツキイは四年間も見ていながら、ついにその真相に激しえなかった自分を、長いことみずから責めていた。もっとも、この変化が双方の側から内面的に、突如として生じたということも、大きな原因にはなっている。とはいえ、思いだせば、以前もときどき、あの二つの目をながめているうちに、なにかしら奇怪な考えの浮かぶ瞬間があった。いわば、この目の中に深い得体のしれぬ闇が予覚されたような具合である。この眸に見られると――まるで謎でもかけられているような気持ちがした。最近二年間というもの、彼はしょっちゅうナスターシヤの顔色の変化に驚かされた。ときどき恐ろしいほど青くなって――不思議にもそれが一段と美しさを増すのであった。若いときに道楽をした紳士連はだれでもそうだが、トーツキイもはじめのうちは、本当の生活をしなかったこの魂が、どんな安い値段で手に入ったかと思うたびに、侮蔑の念を禁じえなかったが、のちになっていくらか自分の見解に疑念をはさむようになった。いずれにしても、彼は去年の春ごろから腹の中で一つ決心を固めていたことがある。それは才知もあり社会上相当の地位もある他県の官吏に、近近ナスターシヤを持参金つきでりっぱに嫁入らせようというのである(今このことをナスターシヤはどんなに恐ろしく、どんなに毒々しく冷笑したことか!)。ところが、今になって新物食いのトーツキイは、も一度この女を利用し享楽することができるかもしれぬ、と考えついた。彼はナスターシヤをペテルブルグに住まわして、栄耀栄華をさせてやろうと決心した。つまり、一方がだめなら、いま一方をというわけなのである。ナスターシヤくらいの女ならけっして人前に出てはずかしくない、それどころか、ある仲間のあいだでは大いに名声をかちうるに相違ない。じっさい、トーツキイはこの方面での名誉をかなり尊重していたのである。
 ペテルブルグ生活もそれからもう五年たった。むろん、そのうちにはいろいろの関係も決まって来た。なかでもトーツキイの位置はあまりかんばしくなかった。なにより困るのは、一度気おくれがして以来、どうしても心が落ちつかぬことである、――彼は自分でもわけがわからずに、ただナスターシヤを恐れた。彼もはじめ二年ばかりのあいだ、ナスターシヤは自分と結婚したいと思っているくせに、極端な自尊心の結果かたく口をつぐんで、男のほうから申し込むのを片意地に待っているのではないか、とも疑っていた。いくぶん奇妙な自惚《うぬぼれ》ではあるが、トーツキイはおそろしく気がまわるようになったのである。彼は顔をしかめて考えこんでしまった。ところが、思いもよらずふとした機会で、よし彼のほうから結婚を申し込んでも、けっしてナスターシヤが受け付けはしないということを確かめて、大いに驚きもし、またいくぶんいやな気持ちもした(人間の心はこうしたものだ!)。彼は長いあいだその解釈に苦しんだが、結局『凌辱されたファンタスチックな女』の誇りが極端な興奮状態に達して、永久に自分の地位を固め常人の及びがたい栄達を手に入れるよりも、むしろただひと言の拒絶によっておのれの侮蔑を吐き出すほうに、むしろ快感を覚えるまでにいたった、というのが唯一の可能なる説明らしく思われた。なにより不都合なのは、ナスターシヤがおそろしく上手に出ることであった。利益などというものには、かなり莫大なものであっても、けっしてつられようとしない。提供されるがままに気楽な生活はしているが、あまりたいしてはでなこともせず、この五年間ほとんどなにひとつ蓄えなかった。トーツキイはまた自分の桎梏を破るためにはなはだ狡猾な手段を弄した。彼はいろいろと理想的な誘惑の助けをかりて、たくみに気づかれぬように女をおびきはじめた。しかし、これらの理想を具体化したような公爵とか、軽騎兵とか、大使付き秘書官とか、詩人、小説家とか、おまけに社会主義者のような者でさえ、ナスターシヤにはなんの感銘をも与えることができなかった。あたかも彼女の胸には心臓のかわりに石が横たわっており、感情はひあがって永久に枯死してしまったかのようであった。
 彼女はどっちかといえば、世問から遠ざかっているほうが多く、勉強という言葉を使わねばならぬくらい書物を読み、音楽を好んだ。知り合いはあまり多くなかったが、いつも奇態な貧乏官吏の細君などと親しくしていた。そのほかなんとかいう女優がふたり、お婆さんが幾人か、すべてこういう連中が友達であった。またあるりっぱな教師の大人数な家庭も、ナスターシヤの気に入っていた。その家でも彼女を愛して喜び迎えるのが常であった。晩になるとよく知り合いの連中が五、六人あつまるが、それより多いことはない。トーツキイは足しげくきちんきちんとやって来た。最近エパンチン将軍もかなり面倒な思いをして、ナスターシヤと近づきになった。それと同時に、フェルディシチェンコというひとりの若い官吏が、なんの苦もなしに楽々と彼女に近づいてしまった。それはきわめて無作法な、いやにふざけたしつこい男で、みずから陽気者をもって任じている酒飲みである。それから、姓をプチーツィンという不思議な青年も、やはり彼女と近づきであった。おとなしくきちょうめんであか抜けのした男だが、乞食同様の境界から出て、今では高利貸をしている。最後にガヴリーラも紹介せられた……が、とどのつまり、ナスターシヤに関して奇妙な評判がすっかり広がってしまった。ほかでもない、彼女の美しいことはみんな知っているが、しかしただそれっきりで、なにも彼女を種に自慢することもできなければ、なにも変わった話の種にするようなこともないのであった。こういう評判にかてて加えて、彼女の教育とか、才知とか、または優雅な物腰などがいっしょになって、トーツキイにかねての計画を実行しようという決心を固めさせた。エパンチン将軍が自分であれほどいっしょうけんめいにこのいきさつにたずさわるようになったのは、まさにこの時からである。
 トーツキイは将軍の令嬢を所望するについて、父将軍に如才なく親友としての意見を求めたとき、その場で高潔なる態度をもっていっさいの事情を露骨にうち明けてしまった。おのれの自由を得るためにはいかなる[#「いかなる」に傍点]方法をも躊躇しないこと、よしやナスターシヤが今後かれの安寧を妨げないと自分から申し立てても、彼はけっして安心せぬ、口先の誓いなどでは十分でない、もっとも完全な保証が必要である、とこういうようなことをうち明けた。さまざまに談合した末、共同一致ことに従うということに決まった。まず最初はなるべく穏便な手段をとって、いわば、『胸の琴線』に触れるくらいのところにとどめようと決議した。ふたりはナスターシヤのもとへ出かけて行った。トーツキイはいきなりぶっつけに、自分の境遇の堪えがたい恐ろしさを女に訴え、万事につけおのれ一身を責めた。ただナスターシヤに対する最初の行為については、どうも後悔するわけには行かぬ、なぜなら彼は病|膏肓《こうこう》に入ったすき者で、自分で自分を制することができないからである。ところで、いま結婚したいと思っているが、世間体のわるくない上流紳士らしいこの結婚の運命は、一にかかって彼女の双手にある。ひと言にしてつくせば、彼はナスターシヤの高潔なる心情に、すべての望みをつないでいる、――というふうなことを、トーツキイは包まず隠さず女にうち明けた。その次に、エパンチン将軍が父親の資格でこんこんと説きはじめた。その説きかたは道理を主として、感情的な言句をさけ、ただ彼女が、トーツキイの運命を決する権利の所有者であることを完全に承認する由をのべ、また娘の運命が(ことによったら、あとふたりの娘の運命も)彼女の決心一つにかかっているうんぬんの言葉で、自分もある点ではおとなしくあきらめているということを上手にほのめかした。『つまり、わたしにどうしろとおっしゃるのですか?』というナスターシヤの問いに対して、トーツキイは以前と同じくあけっぴろげにまっすぐに白状した、――彼は五年前にひどくびっくりさせられたので、ナスターシヤがだれかに嫁入りせぬうちはとても安心できない、こういってトーツキイはすぐつけ足した、――こんな依頼はなにかそれについて確かな根拠がなかったなら、じつにばかばかしいことに相違ない。が、自分はこんなことを知っている、――りっぱな家柄の出で、今も尊敬すべき家族とともに暮らしている青年、というのはじつは彼女も承知しているばかりでなく、自分の家へ出入りを許しているガヴリーラ・アルダリオーノヴィチ・

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第十章 『それはあいつが言ったんだ!』

[#3字下げ]第十 『それはあいつが言ったんだ!』[#「第十 『それはあいつが言ったんだ!』」は中見出し]

 アリョーシャは入って来るといきなり、一時間ほど前に、マリヤが自分の住まいへ駈け込んで、スメルジャコフの自殺を告げたと、イヴァンに話した。『わたしがね、サモワールをかたづけにあの人の部屋へ入ると、あの人は壁の釘にぶら下ってるじゃありませんか』とマリヤは言った。『警察へ知らせましたか?』というアリョーシャの問いに対して、彼女は、まだ誰にも知らせない、『いきなりまっさきに、あなたのとこへ駈けつけたんですわ、途中駈け通しでね』と答えた。彼女はまるで気ちがいのようになり、木の葉のようにふるえていたということである。アリョーシャが、マリヤと一緒に彼らの小屋へ駈けつけてみると、スメルジャコフはまだやっぱり、ぶら下ったままであった。テーブルの上には遺書がのっていた。それには、『余は何人にも罪を帰せぬため、自分自身の意志によって、甘んじて自己の生命を断つ』と書いてあった。アリョーシャはこの遺書をテーブルの上にのせておいたまま、すぐさま警察署長のもとへ行って、一切の始末を報告した。『そして、そこからすぐ兄さんのとこへ来たんです。』イヴァンの顔をじっと眺めながら、アリョーシャは言葉を結んだ。彼はイヴァンの顔色にひどく驚かされたように、話の間じゅう一度もイヴァンから目を離さなかった。
「兄さん、」とつぜん彼は叫んだ。「あなたは大へん加減が悪いんでしょう! あなたは私を見てるだけで、私の言うことがわからないようですね。」
「よく来てくれた。」アリョーシャの叫び声が少しも耳に入らないらしく、イヴァンはもの思わしげにこう言った。「だが、僕はあいつが首を縊ったのを知っていたよ。」
「誰から聞いたんです?」
「誰からかしらないが、しかし知っていた。待てよ、僕は知っていたんだろうか? そうだ、あいつが僕に言ったんだ。あいつがつい今しがた僕に言ったんだ……」
 イヴァンは部屋の真ん中に突っ立って、依然もの思わしげにうつ向きながら、こう言った。
「あいつって誰です?」アリョーシャはわれ知らず、あたりを見まわしながら訊ねた。
「あいつはすべり抜けてしまった。」
 イヴァンは頭を持ちあげて、静かに微笑を浮べた。
「あいつはお前を、――鳩のように無垢なお前を恐れたんだ。お前は『清い小天使』だ。ドミートリイはお前を小天使と呼んでいる。小天使……大天使の歓喜の叫び! 一たい大天使とはなんだ? 一つの星座かな。だが、星座ってものは、何かの化学的分子にすぎないんだろう……獅子と太陽の星座ってものがある。お前は知らないかね?」
「兄さん、腰をかけて下さい!」とアリョーシャはびっくりして言った。「どうか後生だから、長椅子に腰をかけて下さい。あなたは譫言を言ってるんです。さ、枕をして横におなんなさい。タオルを濡らして頭にのせてあげましょうか? いくらかよくなるかもしれませんよ。」
「タオルを取ってくれ。そこの長椅子の上にある。さっきそこへ抛っておいたんだ。」
「ありませんよ。まあ、落ちついてらっしゃい。タオルのあるところは知っていますから、そら、そこだ。」部屋の片隅にある化粧台のそばから、まだ畳んだままで一度も使わない、きれいなタオルを捜し出して、アリョーシャはこう言った。
 イヴァンは不思議そうな顔つきをしてタオルを見た。記憶はたちまち彼の心によみがえったように見えた。
「ちょっと待ってくれ。」彼は長椅子の上に起きあがった。「僕はさっき一時間まえに、このタオルをあすこから持って来て、水で濡らして頭にのせて、またあすこへ抛っておいたんだがな……どうして乾いているんだろう? ほかにはもうなかったのに。」
「兄さんこのタオルを頭にのせたんですって?」とアリョーシャは訊いた。
「そうだ。そして、部屋の中を歩いたんだ、一時間まえにさ……それに、どうしてこんなに蝋燭が燃えたんだろう? 何時だね?」
「まもなく十二時になります。」
「いや、いや、いや!」とイヴァンは急に叫びだした。「あれは夢じゃない! あいつは来ていたんだ。そこに腰かけてたんだ、その長椅子の上に。お前が窓をたたいた時、僕はあいつにコップを投げつけたんだ……このコップを……いや、待てよ、僕はその前にも眠っていたのかな。だが、この夢は夢じゃない。前にもこんなことがあった。アリョーシャ、僕は近頃よく夢を見るよ……だが、それは夢じゃない、うつつだ。僕は歩いたり、喋ったり、見たりしている……が、それでいて眠ってるんだ。だが、あいつはそこに腰かけてたんだ、ここにいたんだ、この長椅子の上にさ……あいつは恐ろしい馬鹿だよ。アリョーシャ、あいつは恐ろしい馬鹿だよ。」イヴァンは突然からからと笑って、部屋の中を歩きはじめた。
「誰が馬鹿ですって? 兄さん、あなたは誰のことを言ってるんです?」とアリョーシャはまた心配らしく訊いた。
「悪魔だよ! あいつはよく僕のところへ来るようになってね、もう二度も来た、いや、三度も来た、いや、三度だったかな。あいつはこんなことを言って、僕をからかうんだ。『あなたは、私がただの悪魔で、焔の翼を持って雷のように轟き、太陽のように輝く大魔王でないので、腹を立てていらっしゃるのでしょう』なんてね。だが、あいつは大魔王じゃないよ。あいつは嘘つきだ。あいつは自称大魔王だ。あいつはただの悪魔だ。やくざな小悪魔だ。あいつは湯屋にも行くんだからな。あいつの着物をひんむいたら、きっと長い尻尾が出るに相違ない、ちょうどデンマーク犬みたいに、一アルシンくらいも長さのある、滑っこい茶色の尻尾が……アリョーシャ、お前は寒いだろう、雪の中を歩いて来たんだからね。お茶を飲みたくないかね? なに? 冷たいって? なんなら、サモワールを出させようか? 〔C'est a` ne pas mettre un chien dehors〕 ……([#割り注]犬だって外に出しちゃおけないのに……[#割り注終わり])」
 アリョーシャは急いで洗面台のそばへ駈け寄って、タオルを濡らし、無理にイヴァンを坐らせ、その頭にのせた。こうして、自分もそのそばに腰かけた。
「お前はさっき、リーザのことを何とか僕に言ったね?」イヴァンはまた始めた(彼は非常に饒舌になった)。「僕はリーザが好きだ。僕はあれのことで、何かお前に失敬なことを言ったが、あれは嘘だよ。僕はあれが好きなんだ……僕は明日のカーチャが心配だ。何よりも一ばん心配だ。将来のことが心配だ。あの女はあす僕を投げ飛ばして、足で踏みにじるだろう。あの女はね、僕が嫉妬のためにミーチャをおとしいれると、そう思ってる。そうだ、確かにそう思っているんだ! ところが、そうじゃない! 明日は十字架だ、絞首台じゃない。なに、僕が首なんか縊るものか。アリョーシャ、僕がどうしても自白できないってことを、お前は知ってるかい! 一たいそれは卑屈のためだろうか? 僕は臆病者じゃない、つまり、貪婪な生活愛からだ! スメルジャコフが首を縊ったことを、どうして僕は知ったんだろう? そうだ、あれはあいつ[#「あいつ」に傍点]が言ったんだ……」
「では、誰かそこにいたものと、信じきってるんですね?」とアリョーシャは訊いた。
「その隅の長椅子に腰かけていたよ。お前あいつを追っ払ってくれればいいんだがなあ。そうだ、実際お前が追っ払ったんだ。あいつはお前が来ると、すぐに消えてしまった。アリョーシャ、おれはお前の顔が好きなんだ。ねえ、僕はお前の顔が好きなんだよ。だが、あいつはね、僕なんだよ、アリョーシャ。僕自身なのさ。みんな僕の下等な、下劣な、軽蔑すべきものの現われなんだ! そうだ! 僕は『浪漫派』だ。あいつもそれに気がついたんだよ……もっとも、これは根もない讒誣だがね。あいつは呆れた馬鹿だよ。だが、それがつまり、あいつの強みなのさ。あいつは狡猾だ、動物的に狡猾だ。あいつは僕の癇癪玉を破裂させるすべを知っていた。あいつときたら、僕があいつを信じてるなどとからかって、それで僕に傾聴させた。あいつは僕を小僧っ子同然に翻弄した。しかし、あいつが僕について言った言葉の中には、本当のことがたくさんあった。僕は自分自身に向って、とてもあんなことは言えない。ねえ、アリョーシャ、アリョーシャ。」
 イヴァンはひどく真面目になって、いかにも、腹蔵なく打ち明ける、と言ったような語調でつけ加えた。
「僕はね、あいつ[#「あいつ」に傍点]が実際あいつで、僕自身でなかったら、本当に有難いんだがなあ!」
「あいつはずいぶん兄さんを苦しめたんですね。」アリョーシャは同情にたえぬもののように、兄を見やりながらこう言った。
「僕をからかったんだよ! しかも、それがね、なかなかうまいんだ。『良心! 良心って何だ? そんなものは、僕が自分でつくりだしてるんじゃないか。なぜ僕は苦しむんだろう? 要するに、習慣のためだ、七千年以来の全人類的習慣のためだ。そんなものを棄ててしまって、われわれは神になろうじゃないか』――それはあいつが言ったんだ。それはあいつが言ったんだ!」
「じゃ、あなたじゃないんですね、あなたじゃないんですね?」澄み渡った目で兄を見つめながら、アリョーシャはこらえきれなくなって、思わずこう叫んだ。「なあに、勝手なことを言わせておいたらいいでしょう。あんなやつはうっちゃっておしまいなさい、忘れておしまいなさい! あなたがいま呪っているものを、残らずあいつに持って行かせておやんなさい、もう決して二度と帰って来ないように!」
「そうだ。だが、あいつは意地が悪いよ。あいつは僕を冷笑したんだ。アリョーシャ、あいつは失敬なやつだよ」とイヴァンは口惜しさに声を慄わせながら言った。「僕に言いがかりをした、いろいろと言いがかりをしたんだ。面と向って僕を誹謗したんだ。『ああ、君は善の苦行をしようと思っているんだろう。親父を殺したのは私です、下男が私の差金で殺したのです、とこう言いに行くんだろう……』なんてね……」
「兄さん」とアリョーシャは遮った。「お控えなさい。あなたが殺したんじゃありません。それは嘘です!」
「あいつはこう言うんだ、あいつがさ。あいつはよく知っているからね。『君は善の苦行をしようと思ってるんだろう。ところが、君は善行を信じていない、――だから君は怒ったり、苦しんだりしているんだ、だから君はそんなに復讐的な気持になるんだ』とこう、あいつは僕に面と向って言うんだ。あいつは自分で自分の言うことを、よく承知しているよ……」
「それは、兄さんの言ってることで、あいつじゃありませんよ!」とアリョーシャは悲しそうにそう叫んだ。「あなたは病気のせいで譫言を言って、自分で自分を苦しめてるんですよ!」
「いいや、あいつは自分で自分の言うことをよく知っているんだ。あいつが言うのには、君が自白に行くのは自尊心のためだ、君は立ちあがって、『殺したのは私です。どうしてあなた方は、恐ろしそうに縮みあがるんです? あなた方は嘘を言っています! 私はあなた方の意見を軽蔑します! あなた方の恐怖を軽蔑します!』と言うつもりだろう、なんて、――あいつは僕のことをこんなふうに言うんだよ。それから、まただしぬけに、『だがね、君、君はみなから褒めてもらいたいのさ。あれは犯人だ、下手人だ、けれど何というえらい人だろう。兄を救おうと思って、自白したんだというわけでね。』こんなことも言ったよ。だが、アリョーシャ、これこそもうむろん嘘だよ!」とイヴァンは急に目をぎらぎらと光らせながら叫んだ。「僕はくだらないやつらに褒められたくない! それはあいつが嘘をついたんだ、アリョーシャ、それは誓って嘘だよ。だから、僕あいつにコップを投げつけてやったところ、コップがあいつのしゃっ面で粉微塵に砕けたよ。」
「兄さん、落ちついて下さい、もうよして下さい!」とアリョーシャは祈るように言った。
「いや、あいつは人を苦しめることがうまいよ。あいつは残酷だからな。」イヴァンはアリョーシャの言葉には耳をかさずに言いつづけた。「おれはいつでも、あいつが何用で来るか直覚していたよ。『君が自尊心のために自白に行くのはいいとしても、やはりその実こころの中で、スメルジャコフ一人だけが罪に落されて、懲役にやられ、ミーチャは無罪になる。そして、自分はただ精神的に裁判されるだけで(いいかい、アリョーシャ、あいつはこう言いながら笑ったんだよ)、世間の人から褒められるかもしれないと、こういう望みをいだいていたんだろう、だがもうスメルジャコフは死んだ、首を縊ってしまった、そうしてみると、あす法廷で君ひとりの言うことなんか、誰が本当にするものか! しかし、君は行こうとしている、ね、行こうとしているだろう、君はやはり行くに相違ない、行こうと決心している、もうこうなってしまったのに、一たい君は何しに行くんだね?』と、こうあいつは言うじゃないか。恐ろしいことを言うやつだ。アリョーシャ、僕はこんな問いを辛抱して聞いていられない。こんなことを僕に訊くなんて、何という失敬千万なやつだ!」
「兄さん」とアリョーシャは遮った。彼は恐ろしさに胸を痺らせながらも、やはりまだ、イヴァンを正気に返すことができると思っているらしかった。「誰もまだ、スメルジャコフの死んだことを知らないのに、また誰ひとり知る暇もないのに、よくあいつは私の来る前に、そんなことを言ったものですね!」
「あいつは言ったよ」とイヴァンはきっぱり言い切った。そこには一点の疑いを挿むことすら許さなかった。「実際なんだよ、あいつは、そればかり言ってたくらいだよ。『もし君が善行を信じていて、誰も自分を信じなくなってもかまわない、主義のために行くのだ、というならしごく結構だが、しかし君はフョードル同様の豚の仔じゃないか。善行なんか君にとって何だ? もし君の犠牲が何の役にも立たないとすれば、一たい何のために法廷へ出かけるんだ? ほかでもない、何のために行くのか、君自身でも知らないからさ! それに、君は一たい決心したのかね? まだ決心していないじゃないか? 君は夜どおし腰かけたまま、行こうか行くまいかと思案するだろうよ。だが、結局、行くだろう、君は自分の行くことを知っている。君はどちらへ決めるにしろ、その決定が自分から出たのでないってことを知ってるのだ。君は行くだろう。行かずにいる勇気がないからね。なぜ勇気がないか、――それは君自身で察しなきゃならんね。これは君にとって謎としておこう!』こう言ったかと思うと、あいつはぷいと立ちあがって、出て行った。あいつお前が来たので、出て行ったんだ。アリョーシャ、あいつは僕を臆病者と言ったよ! Le mot de l'enigme ([#割り注]あの謎[#割り注終わり])は、つまり僕が臆病者だっていうことさ!『そんな鷲に大空は飛べないよ!』あいつはこう言いたしたよ、あいつが! スメルジャコフもやはりそう言ったっけ。あいつは殺してやらなけりゃならん! カーチャは僕を軽蔑している、それは一カ月も前からわかってる。それにリーザまで軽蔑しだした!『ほめられたさに行く』なんて、それは残酷な言いがかりだ! アリョーシャ、お前も僕を軽蔑してるだろう。僕はいま、またお前を憎みそうになってきた! 僕はあの極道者も憎んでいる、あの極道者も憎いのだ! あんな極道者なんか助けてやりたくない、勝手に監獄の中で腐ってしまうがいい! あいつめ、頌歌《ヒムン》を歌いだしやがった! ああ、僕はあす行って、やつらの前に立って、みんなの顔に唾を吐きかけてやる!」
 彼は激昂のあまり前後を忘れたように跳りあがり、頭のタオルを投げ棄てて、また部屋の中を歩きはじめた。アリョーシャはさっきの、『僕はうつつで眠っている……歩いたり、喋ったり、見たりしているが、そのくせやっぱり眠っているんだ』というイヴァンの言葉を思い出した。今の様子がまさしくそれであった。アリョーシャはイヴァンのそばを離れなかった。一走り走って行って、医者を連れて来ようかという考えが、ちらと彼の頭にひらめいたが、兄を一人残して行くのは不安心であった。さればとて、兄のそばについていてもらえる人もなかった。やがて、イヴァンは次第に正気を失って行った。彼は依然として喋りつづけていた、――ひっきりなく喋りつづけていたが、その言うことはしどろもどろで、舌さえ思うように廻らなかった。突然、彼はよろよろと激しくよろめいた。アリョーシャはすばやく彼をささえ、べつに手向いもしないのをさいわい寝床へ連れて行き、どうにかこうにか服を脱がし、蒲団の中へ寝かした。アリョーシャはその後二時間も、イヴァンのそばに腰かけていた。病人は静かにじっとして、穏やかに呼吸しながら熟睡した。アリョーシャは枕を持って来、着物を脱がないで、長椅子の上に横になった。彼は眠りに落ちる前、ミーチャのため、イヴァンのため、神に祈った。彼にはイヴァンの病気がわかってきた。『傲慢な決心の苦しみだ、深い良心の呵責だ!」兄が信じなかった神とその真実が、依然として服従をこばむ心に打ち勝ったのだ。『そうだ、』もう枕の上におかれているアリョーシャの頭に、こういう想念がひらめいた。『そうだ、スメルジャコフが死んでしまったとすれば、もう誰もイヴァンの申し立てを信じやしまいけれど、イヴァンは行って申し立てをするだろう!』アリョーシャは静かにほお笑んだ。『神様が勝利を得なさるに相違ない!』と彼は思った。『イヴァンは真理の光の中に立ちあがるか、それとも……自分の信じないものに奉仕したがために、自分を初めすべての人に復讐しながら、憎悪の中に滅びるかだ』とアリョーシャは悲痛な心持でこうつけ加えて、またもやイヴァンのために祈りをあげた。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第九章 悪魔 イヴァンの悪夢

[#3字下げ]第九 悪魔 イヴァンの悪夢[#「第九 悪魔 イヴァンの悪夢」は中見出し]

 筆者《わたし》は医者ではないが、しかしイヴァンの病気がどういう性質のものか、読者にぜひ少し説明しなければならぬ時期が来たような気がする。少し先廻りをして、一ことだけ言っておこう。彼はきょう今晩、譫妄狂にかかる一歩手前まで来ていたのである。この病気は、とくから乱れていながらも、頑固に抵抗していた彼の肉体組織を、ついに征服しつくしたのである。筆者《わたし》は医学を一こう知らないが、大胆に想像してみると、彼はじっさい自分の意志を極度に緊張させて、一時病気を遠ざけていたものらしい。むろん、そのとき彼は、ぜんぜん病気を支配し得るものと、空想していたのである。彼は自分が健康でないことを知っていたが、こんな場合、自分の生涯における運命的な瞬間に、――つまり、ちゃんと出るべきところへ出て、大胆に断乎として言うべきことを言い、『自分で自分の濡衣を干す』べき時に、病気などにかかるのがたまらなく厭であった。もっとも、彼は一度、モスクワから来た新しい医師のところへ相談に出かけてみた。もう前章に述べたとおり、カチェリーナの空想のために招聘されたその医者は、イヴァンの容態を聞きとって、詳しく診察した後、彼が一種の脳病にかかっていると診断した。そして、イヴァンが嫌悪をいだきながら述べたある告白に、いささかも驚かなかったのである。『あなたのような状態にある人が、幻覚におちいるのはありがちのことですよ』と医者は断定した。『もっとも、よく試験してみなけりゃなりませんが……とにかく、時期を逸しないように、すぐ治療しなければいけませんね。でないと、大変なことになりますよ。』けれど、イヴァンは医者の賢明な勧告にしたがって、治療のために床につこうとはしなかった。『だって、まだ歩けるじゃないか。つまり、今のところ気力があるわけだ。倒れたらまたその時のことさ。誰でも好きな人が介抱してくれるだろう。』彼は片手を振って、こう決心した。
 で、すでに述べたとおり、彼は今も自分がうなされているのを、どうやら意識しながら、正面の壁のそばに据えた長椅子の上の何ものかを、頑固にじっと見つめていた。そこには突然、どうして入って来たものやら(イヴァンがスメルジャコフのところから帰って来た時には、部屋の中には誰もいなかったのである)、何者か腰をかけていた。それは一個の紳士であった、いや、一そう的確に言えば、ある特殊なロシヤのゼントルマンで、もうあまり若くない、フランス人の、いわゆる”pui frisait la cinquantaine“([#割り注]五十歳に近い人物[#割り注終わり])である。かなり長くてまだ相当に濃い黒い髪や、楔がたに刈り込んだ顎鬚には、あまり大して白髪も見えなかった。彼は褐色の背広風のものを着込んでいた。それも上手な仕立屋の手でできたものらしいが、もうだいぶくたびれた代物で、流行がすたってから、かれこれ三年くらいになるので、社交界のれっきとした人たちは、もはや二年も前から着なくなってしまっている。シャツも、ショールのような形をした長いネクタイも、みんな一流の紳士がつけるようなものではあったが、シャツは近くでよく見ると、だいぶ薄汚れているし、幅広のネクタイもよほど耗れていた。格子縞のズボンもきちんと落ちついていたが、これも今の流行にしては、やはり色合いが明かるすぎて、型が細すぎるから、今ではもうとっくに人がはかなくなっていた。白い毛のソフトも同様に、季節はずれなものだった。要するに、あまり懐ろのゆたかでない人が、みなりをきちんと整えている、といった恰好である。つまり、紳士は農奴制時代に栄えていた昔の白手《ホワイトハンド》、落魄した地主階級に属する人らしい様子であった。疑いもなく、かつては立派な上流社会にあって、れっきとした友達を持ち、今でも昔のままに、その関係を保っているかもしれないが、若い時の楽しい生活が終って、そのうち農奴制の撤廃にあって落魄するにしたがい、次第次第に善良な旧友の問を転々として歩く、一種のお上品な居候となりはてたのである。旧友がそうした人を自分の家へ入れるのは、当人のどこへでも落ちつきやすい、要領のよい性質を知っているからでもあり、またそういうきちんとした人は、むろん、下座ではあるが、どんな人の前にでも坐らせておけるからであった。そういう居候、すなわち要領のよい紳士は、面白い話をすることと、カルタの相手をすることが上手だけれど、もし人から用事など頼まれても、そんなことをするのは大嫌いなのである。彼らはふつう孤独な人間で、独身者かやもめである。時とすると、子供を持っているようなこともあるが、その子供はいつもどこか遠方の叔母さんか、誰かの家で養育されているにきまっている。紳士は、そういう叔母があることを、立派な社会ではおくびにも出さない。彼らはそういう親戚を持っているのを、いくぶん恥じてでもいるようである。そして、自分の子供から命名日や降誕祭などに、ときどき賀状をもらったり、またどうかすると、その返事を出したりしているうちに、いつとなくその子供を忘れてしまうのである。この思いがけない客の顔つきは、善良とは言えないまでも、やはり要領のいい顔で、あらゆる点から見て、いつでも、どんな愛嬌のある表情でもできそうな様子であった。時計は持っていなかったが、黒いリボンをつけた鼈甲縁の柄つき眼鏡をたずさえていた。右手の中指には、安物のオパールを入れた、大形の金指環がはめられていた。イヴァンは腹立たしげにおし黙って、話しかけようともしなかった。客は話しかけられるのを待っていた。ちょうど食客が上の居間から茶の席へ降りて来て、主人のお話相手をしようと思ったところ、主人が用事ありげなふうで、顔をしかめながら何やら考えているので、おとなしく黙っている、といったようなふうつきであった。が、もし主人のほうから口をききさえすれば、いつでもすぐに愛嬌のある話を始められそうであった。突然、彼の顔に何やら心配らしい色が浮んだ。
「ねえ、君」と彼はイヴァンに話しかけた。「こんなことを言ってははなはだ失礼だが、君はカチェリーナのことを聞くつもりで、スメルジャコフのところへ出かけて行ったくせに、あのひとのことは何も聞かずに帰って来たね。たぶん忘れたんだろう……」
「ああ、そうだった!」イヴァンは突然こう口走った。彼の顔は心配そうにさっと曇った。「そうだ、僕は忘れたんだ……だが、今ではもうどうでもいい、何もかも明日だ」と彼はひとりごとのように呟いた。「だが君」と彼はいらいらした語調で、客のほうに向って、「それは僕がいま思い出すべきはずだったんだ。なぜって、僕は今そのことで頭を悩まされてたんだからね。どうして君はおせっかいをするんだ? それじゃまるで、君が知らせてくれたので、僕が自分で思い出したんじゃない、というように、僕自身信じてしまいそうじゃないか!」
「じゃ、信じないがいいさ。」紳士は愛想よく笑った。「信仰を強要することはできないからね。それに、信仰の問題では証拠、ことに物的証拠なんか役にたちゃしないよ。トマスが信じたのは、よみがえったキリストを見たからじゃなくって、すでにその前から信じたいと思っていたからさ。早い話が、降神術者だがね……おれはあの先生方が大好きさ……考えてみたまえ、あの先生方は、悪魔があの世から自分たちに角を見せてくれるので、降神術は信仰のために有益なものだと思っている。『これは、あの世が実在しているという、いわゆる物的証拠じゃないか』と先生たちは言っている。あの世と物的証拠、何たる取り合せだろう! それはまあ、いいとしてさ、悪魔の実在が証明されたからって、神の実在が証明されるかね? 僕は理想主義者の仲間へ入れてもらいたい。そうすれば、その中で反対論を唱えてやるよ。『僕は現実主義者だが、唯物論者じゃないんだよ、へっ、へっ!』」
「おい、君」とイヴァンはふいにテーブルから立ちあがった。「僕は今まるでうなされてるような気がする……むろん、うなされてるんだ……まあ、かまわず勝手なことを喋るがいい! 君はこの前の時のように、僕を夢中に怒らすことはできまいよ。だが、何だか恥しいような気がする……僕は部屋の中を歩きたい……僕はこの前の時のように、おりおり君の顔が見えず、君の声が聞えなくなるけれど、君の喋ってることはみんなわかる。なぜって、それは僕だもの、喋っているのは僕自身で、君じゃないんだもの[#「それは僕だもの、喋っているのは僕自身で、君じゃないんだもの」に傍点]! ただわからないのは、このまえ君に会った時、僕は眠っていたか、それとも、さめながら君を見たかということなんだ。一つ冷たい水でタオルを濡らして頭へのせよう、そうしたら、おそらく君は消えてしまうだろう。」
 イヴァンは部屋の隅へ行って、タオルを持って来ると、言ったとおりに、濡れタオルをのせて、部屋の中をあちこち歩きだした。
「僕は、君が率直に『君、僕』で話してくれるのを嬉しく思うね」と客は話しだした。
「馬鹿。」イヴァンは笑いだした。「僕が君に『あなた』などと言ってたまるものか。僕はいま愉快だが、ただこめかみが痛い……額も痛い……だから、どうかこの前の時みたいに、哲学じみたことを喋らないでくれたまえ。もし引っ込んでいられなきゃ、何か面白いことを喋りたまえ、居候なら居候らしく、世間話でもしたほうがいいよ。本当に困った先生に取っつかれたものさ! だが、僕は君を恐れちゃいないぜ、いまに君を征服してみせる。瘋癲病院なんかへ連れて行かれる心配はないぞ!」
「居候は c'est charmant([#割り注]おもしろいものだよ[#割り注終わり])だよ。さよう、僕はありのままの姿をしている。この地上で僕が居候でなくて何だろう? それにしても、僕は君の言葉を聞いて少々驚いたね。まったくだよ、君はだんだん僕を実在のものと解釈して、このまえのように、君の空想と思わなくなったからね……」
「僕は一分間だって、お前を実在のものと思やしないよ。」イヴァンはほとんど猛然たる勢いで叫んだ。「お前は虚偽だ、お前は僕の病気だ、お前は幻だ。ただ僕には、どうしたらお前を滅ぼせるかわからない。どうもしばらくのあいだ苦しまなければなるまい。お前は僕の幻覚なんだ。お前は僕自身の化身だ、しかし、ただ僕の一面の化身……一番けがれた愚かしい僕の思想と感情の化身なんだ。だから、この点から言っても、もし僕にお前を相手にする暇さえあれば、お前は確かに僕にとって興味のあるものに相違ない……」
「失敬だがね、失敬だが、一つ君の矛盾を指摘さしてくれたまえ。君はさっき街灯のそばで、『お前はあいつから聞いたんだろう! あいつ[#「あいつ」に傍点]が僕のところへ来ることを、お前はどうして知ったんだ?』と言って、アリョーシャを呶鳴りつけたね。あれは僕のことを言ったんだろう。してみると、君はほんの一瞬間でも信じたんだ。僕の実在を信じたんじゃないか。」紳士は軽く笑った。
「ああ、あれは人間天性の弱点だよ……僕はお前を信ずることができなかった。僕はこのまえ眠っていたか覚めていたか、それさえ憶えていない。ことによったら、あの時お前を夢に見たので、うつつじゃないかもしれん……」
「だが、君はどうしてさっき、あんなにあの人を、アリョーシャをやっつけたんだね? あれは可愛い子だよ。僕は長老ゾシマのことで、アリョーシャに罪をつくったよ。」
「アリョーシャのことを言ってくれるな……下司のくせに何を生意気な!」イヴァンはまた笑いだした。
「君は呶鳴りながら笑ってるね、――これはいい徴候だ。今日はこの前よりだいぶご機嫌がいい。僕にはなぜだかわかっている、偉大なる決心をしたからだよ……」
「決心のことなんか言わないでくれ!」とイヴァンは猛然と呶鳴った。
「わかってる、わかってる、c'est noble, c'est charmant.([#割り注]それは立派なことだよ。それはいいことだよ[#割り注終わり])君はあす兄貴の弁護に出かけて行って自分を犠牲にするんだろう…… c'est chevaleresque ……([#割り注]それは義侠だよ[#割り注終わり])」
「黙れ、蹴飛ばすぞ!」
「それはいくぶん有難い、なぜって、蹴られれば僕の目的が達せられるからさ。蹴飛ばすというのは、つまり、君が僕の実在を信じている証拠だ。幻を蹴るものはないからね。冗談はさておき、僕はどんなに罵倒されても何とも思わないが、それにしても、いくら僕だからって、も少しは鄭重な言葉を使ってもよさそうなものだね。馬鹿だの、下司だのって、ちとひどすぎるね!」
「お前を罵るのは、自分を罵るんだ!」イヴァンはまた笑った。「お前は僕だ、ただ顔つきの違う僕自身だ。お前は僕の考えていることを言ってるんだ……少しも新しいことを僕に聞かすことができないんだ!」
「もし僕の思想が、君の思想と一致しているとすれば、それはただただ僕の名誉になるばかりだ」と紳士は慇懃な、しかも威をおびた調子で言った。
「お前はただ僕の穢らわしい思想、ことに馬鹿な思想ばかりとってるんだ。お前は馬鹿で、野卑だ。恐ろしい馬鹿だ。いや、僕は、たまらなくお前が厭だ! ああ、どうしたらいいんだ、どうしたらいいんだ!」とイヴァンは歯ぎしりした。
「ねえ、君、僕はやはりゼントルマンとして身を処し、ゼントルマンとして待遇されたいんだがね。」客は一種いかにも食客らしい、はじめから譲歩してかかっているような、人のいい野心を見せながら、言いはじめた。「僕は貧乏だが、しかし、非常に高潔だとは言うまい。が……世間では一般に僕のことを堕落した天使だというのを、原則のように見なしている。実際、僕は自分がいつ、どうして天使だったか思い出せない。よしまたそういう時があったとしても、もう忘れたって罪にならぬくらい昔のことなんだろう。で、今じゃ僕はただ身分ある紳士とりつ評判だけを尊重し、何でも成行きにまかせて、できるだけ愉快な人間になろうと努めているんだ。僕は心底から人間が好きだ、――ああ、僕はいろんな点で無実の罪をきせられているよ! 僕がときどきこの地上へ降りて来ると、僕の生活は何かしら一種の現実となって流れて行く。これが僕には何よりも嬉しいんだ。僕自身も君と同じく、やはり幻想的なものに苦しめられているので、それだけこの地上の現実を愛している。この地上では、すべてが輪郭を持っており、すべてに法式があり、すべてが幾何学的だ。ところが、僕らのほうでは、一種漠然とした方程式のほか何もないんだ。で、僕はこの地上を歩きながら、空想している。僕は空想するのが好きなんだ。それに、この地上では迷信ぶかくなる、――どうか笑わないでくれたまえ。僕はつまり、この迷信ぶかくなるのが好きなんだ。僕はここで、君らのあらゆる習慣にしたがっている。僕は町のお湯屋に行くことが好きになってね、君は本当にしないだろうが、商人や坊さんなどと一緒に、湯気に蒸されるんだよ。僕の夢想してるのは、七フードもあるでぶでぶ肥った商家の内儀に化けることだ、――しかも、すっかり二度ともとへ戻らないようになりきって、そういう女が信じるものを残らず信じたいんだ。僕の理想は会堂へ入って、純真な心持でお蝋燭を供えることだ、まったくだよ。その時こそ、僕の苦痛は終りを告げるのだ。それから、やはり君らと一緒に、医者にかかることも好きだね。この春、天然痘が流行った時、養育院へ出かけて行って、種痘をうえてもらった。その日、僕はどんなに満足だったかしれない。お仲間のスラヴ民族たちの運動に、十ルーブリ寄付したくらいだよ……だが、君は聞いていないんだね。え、君、君は今日どうもぼんやりしてるよ。」紳士はしばらく口をつぐんだ。「僕はね、きのう君があの医者のところへ行ったことを知ってるよ……どうだね、君の健康は? 医者は君に何と言ったね?」
「馬鹿!」とイヴァンは一刀両断にこう言った。
「だが、その代り、君はお利口なことだよ。君はまた呶鳴るんだね? 僕はべつに同情を表したわけじゃないんだから、答えなけりゃ答えなくたっていい。この頃はまたレウマチスが起ってね……」
「馬鹿!」とイヴァンはふたたび繰り返した。
「君はしじゅう同じことばかり言ってるが、僕は去年ひどいレウマチスにかかってね、いまだに思い出すよ。」
「悪魔でもレウマチスになるかな?」
「僕はときどき人間の姿になるんだもの。レウマチスぐらいにはかかるさ。人間の肉を着る以上、その結果も頂戴するのは仕方があるまいて。Satan sum et nihil humanum a me alienum puto.([#割り注]わたしは悪魔だから一切人間的なものはわたしにとって縁があるのだ―ラテン語[#割り注終わり])」
「なに、なに? Satan sum et nihil humanum だって……これは悪魔の言葉としちゃ気がきいてるな?」
「やっと御意に召して嬉しいよ。」
「だが、お前その言葉は僕から取ったものじゃないな。」イヴァンはびっくりしたように、急に開き直った。「僕はそんなことを一度も考えたことはないんだが。不思議だなあ……」
「C'est du nouveau, n'est-ce pas?([#割り注]これは新しいものさ。そうじゃないか?[#割り注終わり])」こうなりゃいっそのこと、いさぎよく綺麗に君に打ち明けてしまおう。一たいねえ、君、胃の不消化や何やらで夢を見ている時や、ことにうなされている時など、人間はどうかすると非常に芸術的な夢や、非常に複雑な現実や、事件や、あるいは筋の通った一貫した物語などを、最も高尚な現象からチョッキのボタンの果てにいたるまで、びっくりするほどこまごまと見ることがあるものだ。まったくのところ、レフ・トルストイでも、これほど細かくは書けまいと思うくらいにね。しかも、どうかすると、文士じゃなくって、きわめて平凡な人、――役人や、雑報記者や、坊さんなどが、そういう夢を見ることがあるもんだよ……これについては、大きな問題があるんだ。ある大臣が僕に自白したことだがね、何でも彼の立派な思想は、ことごとく眠っている時に思いつくんだってさ。現に今だって、やはりそうだよ。僕は君の幻覚なんだけれど、ちょうどうなされている時みたいに、僕の言うことはなかなか独創的だろう。こんなのは、今まで考えたこともあるまい。だから、僕は決して、君の思想を反復してるんじゃないよ。しかも、僕はやはり君の悪夢にすぎないんだ。」
「嘘をつけ。お前の目的は、お前が独立の存在で、決して僕の悪夢じゃないってことを、僕に信じさせるにあるんだ。だから、今お前は僕の夢だなどと言ってるんだ。」
「ねえ、君、きょう僕は特別の研究方法を持って来たんだ。あとで君に説明してあげよう。待ちたまえ、僕はどこまで話したかしら? そうだ、僕はそのとき風邪を引いたんだよ。ただし、君らのところじゃない、あそこで……」
「あそこって、どこだ? え、おい、お前は僕のところに長くいるつもりかね? 帰るわけにゆかないのかね?」とイヴァンはほとんど絶望したように叫んだ。
 彼は歩きやめて、長椅子に腰をおろし、ふたたびテーブルに肱をついて、両手でしっかりと頭を抑えた。彼は頭から濡れタオルを取って、いまいましそうに抛り出した。タオルは何の役にも立たなかったものと見える。
「君の神経は破壊されてるんだ」と紳士はうちとけた口調で、無造作に言った。が、その様子はいかにも親しそうであった。「君は、僕でも風邪を引くことがあるといって怒っているが、しかしそれはきわめて自然な出来事なんだからね。何でも、大急ぎである外交官の夜会へ出かけたと思いたまえ。それは、つねづね大臣夫人になりたがっているペテルブルグの上流の貴婦人が催した夜会だがね、そこで、僕は燕尾服に白いネクタイと手袋をつけたが、その時はまだとんでもないところにいたんだからね。君らのこの地上へおりて来るには、まだ広い空間を飛ばなけりゃならなかったのさ……むろん、それもほんの一瞬間に飛べるんだが、なにしろ太陽の光線でさえ八分間かかるのに、考えてみたまえ、僕は燕尾服と胸の開いたチョッキを着てるんだろう。霊体というものは凍えないけれど、人間の肉を着た以上はどうも……つまり、僕は軽はずみに出かけたんだ。ところが、この空間のエーテル、つまり、この天地の間を充たしている水の中は、途方もなく寒かったんだ……その寒さと言ったら、――もう寒いなどという言葉では現わせないねえ。考えてもみたまえ、氷点下百五十度だぜ! ねえ、田舎の娘どもはよくこんないたずらをするだろう、零下三十度の寒さの時、馴れないやつに斧を甜めさせるんだ。すると、たちまち舌が凍りつくので、馬鹿め、舌の皮を剥がして血みどろになってしまう。しかも、これは僅か三十度の話さ。ところが、百五十度となってみたまえ、斧に指がくっつくが早いか、さっそく、ちぎれてしまうだろうと思うよ、ただし……そこに斧があればだがね……」
「でも、そんなところに斧があるだろうか?」イヴァンはぼんやりと、しかも忌わしそうな調子で、突然、こう口をはさんだ。
 彼は全力を挙げて、自分の悪夢を信じないように、気ちがいにならないように抵抗していた。
「斧が?」と客はびっくりして問い返した。
「そうさ、一たいそんなところで斧がどうなるんだろう?」イヴァンはいきなり、狂猛な調子で、執念く、むきになって叫んだ、
「空間では斧がどうなるかって? 〔Quelle ide' e! 〕([#割り注]何という考えだろう![#割り注終わり])もしずっと遠くのほうへ行けば、衛星のように何のためとも知らず、地球のまわりを廻転しはじめるだろうと思うね。天文学者たちは、斧の出没を計算するだろうし、ガッツークはそれを暦の中へ書き込むだろうよ。それだけだよ。」
「お前は馬鹿だ、恐ろしい馬鹿だ!」とイヴァンは反抗的に言った。「嘘をつくなら、もっとうまくやれ。でないと、もう僕は聞かんぞ。お前は僕を実在論で説破して、お前の実在を僕に信じさせるつもりなんだろう。だが、僕はお前の存在を信じたくない! 僕は信じやしない!」
「いや、僕は嘘を言ってやしない。みんな本当なんだ。遺憾ながら、真実はほとんどすべての場合、平凡なものだからね。君ほどうも僕から何か偉大なもの、もしくは美しいものを期待しているらしい。どうもお気の毒さま。だって、僕は、自分の力のおよぶだけのものしか、君にさしあげられないから……」
「馬鹿、哲学じみたことを喋らないでくれ!」
「どうして、哲学どころじゃないんだよ。僕は体の右側がすっかりきかなくなっちまって、うんうん唸りだすという騒ぎだ。医者という医者にすっかりかかってみたがね、立派に診察して、まるで掌《たなごころ》を指すがごとくに、症状を残らず話して聞かせるが、どうも癒すことができないんだ。ちょうどそこに、一人の若い感激家の学生がいて、『たとえあなたはお死にになっても、自分がどんな病気で死んだか、すっかりおわかりになるわけですからね!』と言ったもんだ。それに、例の彼らの癖として、すぐ専門家へ患者を送ってしまうのだ。曰く、われわれは診察だけしてあげるから、しかじかの専門家のところへ行くがいい、その人が病気を癒してくれるから、とこう言うじゃないか。なにしろ、今ではどんな病気でも癒すような、そんな旧式な医者はなくなってしまって、ただ専門家だけがいつも新聞に広告してるんだ。もし鼻の病気にかかるとすると、パリヘ行けと言われる。そこへ行けば、ヨーロッパの鼻科専門の医者が癒してくれるというので、パリヘ出かけて行くと、その専門医は鼻を診察して、私はあなたの右の鼻孔だけしか癒せない、左の鼻孔は私の専門外だから、ウィーンへおいでなさい。そこには左の鼻孔を癒してくれる特別な専門医がありますよ、とこうくる。どうも仕方がないから、一つ家伝療治でもやってみることにしたよ、あるドイツ人の医者が、お湯屋の棚へ上って、塩をまぜた蜂蜜で体を拭けばいいと勧めたので、一ど余分に風呂へ入ったつもりで、お湯屋へ行って体じゅうを塗りたくってみたが、何の役にも立たなかったよ。がっかりして、ミランのマッティ伯爵に手紙を出してみると、伯爵は一冊の書物と水薬を送ってよこしたがね、やはり駄目さ。ところが、どうだろう、ホップの麦芽精でなおっちまったじゃないか! 偶然に買い込んだやつを一瓶半も飲むと、立派に癒ってしまったんだ。ぜひ『有難う』を新聞にのせようと決めた。感謝の念が勵いてやまないんだ。ところが、どうだろう、またぞろ厄介なことが起きてきた。どこの編集局でも受けつけてくれないじゃないか。『どうもあまり保守的じゃありませんか。だれが本当にするものですか、le diable n'existe point.([#割り注]悪魔がいるなんて[#割り注終わり])』と言って、『匿名でお出しになったほうがいいでしょう』と勧めるのさ。だが、匿名じゃ『有難う』も何もあるものかね。僕は事務員たちにそう言って、笑ってやった。『いまどき神様を信ずるのは保守的だろうが、僕は悪魔だから、僕なら信じられるはずじゃないか。』『まったくそうですね』と彼らは言うのだ。『誰だって悪魔を信じないものはありません。だが、それでもやはりいけません。根本主張を害しますからな。冗談という体裁ならいいですが。』だが、考えてみると、冗談としちゃ、あまり気がきいた話じゃない。こういうわけで、とうとう掲載してくれなかったよ。君は本当にしないかもしれんが、今でも僕はそのことが胸につかえているのだ! 僕の最も立派な感情、――例えば、感謝の念さえも、単に僕の社会的境遇によって、表面的に拒絶されるんだからね。」
「また哲学を始めたな?」とイヴァンはにくにくしげに歯ぎしりした。
「とんでもないことを。しかし、時によると、ちっとは不平を言わずにゃいられないよ。僕は無実の罪をきせられた人間だからね。第一、君でさえ、しょっちゅう僕をばかばかと言ってるじゃないか。まったく君がまだお若いってことがすぐわかるよ。君、ものごとは知恵ばかりじゃゆかない! 僕は生れつき親切で、快活な心の持ち主なんだ。『私もやはりいろんな喜劇を作ります([#割り注]ゴーゴリの喜劇『検察官』の主人公フレスタコーフの台詞[#割り注終わり])。』君は僕をまるで老いぼれたフレスタコーフだと思っているらしいね。だが、僕の運命はずっと真剣なんだ。僕はとうてい自分でもわからない一種の宿命によって『否定』するように命ぜられてる。ところが、僕は本来好人物で、否定はしごく不得手なんだ。『いや、否定しろ、否定がなければ批評もなくなるだろう。〈批評欄〉がなければ雑誌も存在できない。批判がなければ〈ホザナ〉ばかりになってしまう。ところが、〈ホザナ〉ばかりじゃ人生は十分でない。この〈ホザナ〉が懐疑の鎔炉を通らなけりゃならない』といったようなわけなんだよ。けれど、僕はそんなことにおせっかいはしない。僕が作ったんじゃなし、僕に責任はないんだ。贖罪山羊《みがわりやぎ》を持って来て、それに批評欄を書かせると、それで人生ができるのだ。われわれはこの喜劇がよくわかっている。例えば、僕は率直に自分の滅亡を要求してるんだが、世間のやつらは、いや、生きておれ、君がいなくなれば、すべてがなくなる。もしこの世のすべてが円満完全だったら、何一つ起りゃしまい、君がいなけりや出来事は少しもあるまい、しかも出来事がなくちゃ困る、とこう言うんだ。で、僕はいやいや歯を食いしばりながら、出来事をつくるため、注文によって不合理なことをやってるんだ。ところで、人間は、そのすぐれた知力にもかかわらず、この喜劇を何か真面目なことのように思い込んでる。これが人間の悲劇なのさ。そりゃむろん、苦しんでいる。けれども……その代り、彼らは生きている、空想的でなしに、現実的に生活している。なぜなら、苦痛こそ生活だからね。苦痛がなければ、人生に何の快楽があるものか、すべてが一種無限の祈祷に化してしまう。すべては神聖だが、少し退屈だ。ところが、僕はどうだ? 僕は苦しんでいるが、しかし生活しちゃいない。僕は不定方程式におけるエッキスだ。僕は一切の初めもなく、終りをも失った人生の幻影の一種だ。自分の名前さえ忘れてしまってるんだよ。君は笑ってるね……いや、笑ってるんじゃなくって、また怒ってるんだろう、君はいつでも怒ってるからな。君はしじゅう賢くなろうと骨折ってるが、僕は繰り返して言う、星の上の生活や、すべての位階や、すべての名誉を捨ててしまって、七プードもある商家のかみさんの体に宿って、神様にお蝋燭を捧げてみたいと思うね。」
「だって、お前は神を信じないのじゃないか?」とイヴァンはにくにくしげに、にやりと笑った。
「何と言ったらいいかなあ、君がもし真面目なら……」
「神はあるのかないのか?」とイヴァンはまた執念く勢い猛に叫んだ。
「じゃ、君は真面目なんだね? だがねえ、君、まったく僕は知らないんだよ、これは真っ正直な話だ!」
「知らなくっても、神を見だろう? いや、お前は実在のものじゃなかった。お前は僕自身なんだ。お前は僕だ、それだけのものだ! お前はやくざ者だ、お前は僕の空想なんだ!」
「もしお望みなら、僕も君と同じ哲学を奉じてもいいさ。それが一ばん公平だろう。Je pense, done je suis.([#割り注]われ考う、ゆえにわれ在り[#割り注終わり])これは僕も確かに知っている。が、僕の周囲にあるその他のすべては、つまり、この世界全体も、神も、サタンさえも、――こういうものが、みんなはたして実在しているか、それとも単に僕自身の発散物で、無限の過去からただひとり存在している『自我』の漸次発展したものかということは、僕に証明されていない……だが、僕は急いで切り上げるよ。なぜって、君はすぐに飛びあがって、掴みかかりそうだからね。」
「お前、何か滑稽な逸話でも話したらいいだろう!」とイヴァンは病的な調子で言った。
「逸話なら、ちょうどわれわれの問題にあてはまるやつがあるよ。いや、逸話というより伝説だね。君は『見ているくせに信じない』と言って、僕の不信を責めるがね、君、それは僕一人じゃないよ。僕らの仲間は今みんな苦しんでいる。それというのも、みんな君らの科学のためなんだ。まだ、アトムや、五感や、四大などの時代には、どうかこうか纒っていた。古代にもアトムはあったのだからね。ところが、君らが『化学的分子』だとか、『原形質《プロトプラズム》』だとか、その他さまざまなものを発見したことがわかると、僕らはすっかり尻尾を巻いてしまった。ただもうめちゃくちゃが始まったんだ。何よりいけないのは、迷信だ、愚にもつかん風説なんだ。そんな噂話は、君らの間でもわれわれの間でも同じだ、いや、少し多いくらいだよ。密告も同じことで、僕らのところには、ある種の『報告』を受けつける役所さえあるくらいだ。そこで、この不合理な物語というのは、わが中世紀のもので、――君らのじゃなくって、われわれの中世紀だよ、――七プードもある商家のかみさんのほか、誰一人として信じる者がないくらいだ。ただし、これもやはり人間界のかみさんじゃなくって、われわれのかみさんだがね。ところで、君らの世界にあるものは、みんなわれわれの世界にもあるんだよ。これは禁じられているんだけれど、君一人にだけ、友達のよしみで秘密を打ち明けるんだ。その物語というのは天国に関することで、何でもこの地上に、一人の深遠な思想を持った哲学者がいたそうだ。彼は『法律も、良心も、信仰も一切否定した』が、とりわけ未来の生活を否定したのさ。ところが、やがて死んだ。彼はすぐ、闇黒と死へ赴くものと思っていたのに、どっこい、目の前に突如として、未来の生活が現われた。彼はびっくりもし憤慨もした。『これは、おれの信念に矛盾している』と言ったものだ。これがために彼は裁判されて……ねえ、君、咎めないでくれ、僕はただ自分で聞いたことを話してるだけなんだから。つまり、伝説にすぎないのさ……ところで、裁判の結果、暗闇の中を千兆キロメートル(僕らの世界でも、今じゃキロメートルを使っているからね)歩いて行くように宣告された。この千兆キロメートルの暗闇を通り抜けてしまうと、天国の門が開かれて、すべての罪が赦されるというわけなんだ……」
「だが、その君らの世界では、千兆キロメートルの闇のほかに、どんな拷問があるんだね?」イヴァンは異様に活気づきながら遮った。
「どんな拷問だって? ああ、それを訊かないでくれたまえ。以前はまあ、何やかやあったが、今じゃだんだん道徳的なやつ、いわゆる『良心の呵責』といったような、馬鹿げたことがはやりだした。これもやはり君らの世界から、『君らの人心の軟化』から来たことなんだ。だから、とくをしたのは、ただ良心のないものだけだ。なぜって、良心が全然ないんだもの、良心の呵責ぐらい何でもないじゃないか。その代り、まだ良心と名誉の観念をもっている、れっきとしたものは苦しんだね……実際、まだ準備されていない地盤に、よその制度からまる写しにした改革なんか加えるのは、ただ害毒を流すほか何の益もあるもんじゃない! 昔の火あぶりのほうが、かえっていいくらいだ。まあ、そこで千兆キロメートルの暗闇を宣告された例の先生は、突っ立ったまま、しばらくあたりを見まわしていたが、やがて路の真ん中にごろりと横になって、『おれは歩きたくない。主義として行かない!』と言ったものだ。かりにロシヤの教養ある無神論者の魂と、鯨の腹の中で三日三晩すねていた予言者ヨナの魂を混ぜ合せると、――ちょうど、この路ばたへ横になった思想家の性格ができあがる。」
「一たい、何の上へ横になったんだろう?」
「たぶん何かのっかるものがあったんだろう。君は冷やかしてるんじゃないかね?」
「えらいやつだ!」イヴァンは依然として、異様に興奮しながら叫んだ。彼は今ある思いがけない好奇心を感じながら聞いていた。「じゃ、何かい、今でも横になってるのかね?」
「ところが、そうでないんだ。ほとんど千年ばかり横になっていたが、その後、起きあがって歩きだした。」
「何という馬鹿だ!」イヴァンは神経的にからからと笑って、こう叫んだが、何か一心に考えているようなふうであった。「永久に横になっているのも、千兆キロメートル歩くのも同じことじゃないか? だって、それは百万年も歩かなくちゃならないだろう?」
「もっとずっと永くかかるよ。あいにく鉛筆もないけれど、勘定してみればわかるよ。だが、その男はもうとっくに着いたんだ。そこで話が始まるのさ。」
「なに、着いたって? どこから百万年なんて年を取って来たんだ?」
「君はやはりこの地球のことを考えてるんだね! だが、この地球は、百万度も繰り返されたものかもしれないじゃないか。地球の年限が切れると、凍って、ひびが入って、粉微塵に砕けて、こまかい構成要素に分解して、それからまた水が黒暗淵《やみわだ》を蔽い、次にまた彗星が生じ、太陽が生じ、太陽から地球が生ずるのだ、――この順序は、もう無限に繰り返されているかもしれない。そして、すべてが以前と一点一画も違わないんだ。とても不都合な我慢のならん退屈な話さ……」
「よしよし、行き着いてから、どうなったんだね?」
天国の門が開かれて、彼がその中へ踏み込むやいなや、まだ二秒とたたないうちに、――これは時計で言うんだよ、時計で(もっとも、彼の時計は、僕の考えるところでは、旅行中にかくしの中で、もとの要素に分解しているはずだが)、――彼はこの僅か二秒の間に、千兆キロメートルどころか、千兆キロメートルを千兆倍にして、さらにもう千兆倍ぐらいも進めたほど歩けると叫んだ。一口に言えば、彼は『ホザナ』を歌ったんだ。しかも、その薬がききすぎたんだ。それで、そこにいる比較的高尚な思想をもった人たちは、最初のうち、彼と握手をすることさえいさぎよしとしなかったくらいだ。あんまり性急に保守主義に飛び込んでしまった、というわけでね。いかにもロシヤ人らしいじゃないか。繰り返して言うが、これは伝説なんだよ。僕はただ元値で卸すだけのこった。僕らのほうじゃ、今でもまだこうした事柄について、こういう考え方を持っているんだよ。」
「やっとお前の正体を掴まえたぞ!」何やらはっきり思い出すことができたらしく、いかにも子供らしい喜びの声で、イヴァンはこう叫んだ。「この千兆年の逸話は、それは僕が自分で作ったんだ! 僕はその時分、十七で中学に通っていた……僕はその時分、この逸話を作って、コローフキンという一人の友達に話した。これはモスクワであったことだ……この逸話は、非常に僕自身の特徴を出しているもので、どこからも種を取って来ることができないくらいだ。僕はすっかり忘れてしまっていたが……いま無意識に頭へ浮んできた、――まったく僕自身が思い出したので、お前が話したんじゃない! 人間はどうかすると、無数の事件を無意識に思い出すことがある。刑場へ引かれて行く時でさえそうだ……夢で思い出すこともある。お前はつまり、この夢だ! お前は夢だ、実在してなんかいやしない!」
「君がむきになって、僕を否定するところから考えると、」紳士は笑った。「君はまだ確かに僕を信じてるに相違ないな。」
「ちっとも信じちゃいない! 百分の一も信じちゃいない!」
「でも、千分の一くらいは信じてるんだ。薬も少量ですむやつが、一ばん強いものだからね。白状したまえ、君は信じてるだろう、たとえ万分の一でも……」
「一分間も信じやしない。」イヴァンは猛然としてこう叫んだ。「だが、信じたいとは思っている!」と彼はとつぜん異様につけたした。
「へっ! でも、とうとう白状したね! だが、僕は好人物だからね、今度もまた君を助けてあげるよ。ねえ、君、これは僕が君の正体を掴まえた証拠で、君が僕を掴まえたんじゃない! 僕はわざと君の作った逸話を、――君がもう忘れていた逸話を君に話したんだ。君がすっかり僕を信じなくなるようにね。」
「嘘をつけ! お前が現われた目的は、お前の実在を僕に信じさせるためなのだ。」
「確かにそうだ! だが、動揺、不安、信と不信の戦い、――これらは良心のある人間にとって、例えば、君のような人間にとって、どうかすると、首を縊ったほうがましだと思われるほど、苦痛を与えることがあるものだ。僕はね、君がいくらか僕を信じていることを知ったので、この逸話を話して、君に不信をつぎ込んだんだよ。君を信と不信の間に彷徨させる、そこに僕の目的があるんだ。新しい方法《メソード》だよ。君は僕をすっかり信じたくなったかと思うと、すぐまた、僕が夢でなくって実在だということを信じはじめるのだ。ちゃんとわかっているよ。そこで僕は目的を達するんだ。だが、僕の目的は高潔なものだ。僕は君の心にきわめて小さい信仰の種を投げ込む。と、その種から一本の樫の木が芽生えるが、その樫といったら大変なもので、君はその上に坐っていると、『曠野に行いすましている神父や清浄な尼たち』の仲間入りをしたくなるほどの大きさなんだ。なにしろ、君は内心大いに、曠野に隠遁して、蝗を食いたがっているからね!」
「悪党め、じゃ、お前は僕の魂を救おうと思って骨折ってるのか?」
「時にはいいこともしなければならんじゃないか。君は怒っているね。どうやら君は怒っているようだね!」
「道化者! だが、お前はいつかその蝗を食ったり、十七年も、苔の生えるまで、曠野で祈ったりした聖者を、誘惑したことがあるだろう?」
「君、そればかり仕事にしていたんだよ。宇宙万物も忘れて、そんな聖者ひとりに拘泥していたくらいだよ。なぜなら、聖者というものは、非常に高価なダイヤモンドだからね。こういう一人の人間は、時によると、一つの星座ほどの値うちがあるよ、――われわれの世界には特殊な数学があってね、――そんな勝利は高価なものだよ! だが、彼らの中のあるものはね、君は信じないかもしれないが、まったく発達の程度が君にも劣らないくらいだ。彼らは信と不信の深淵を同時に見ることができる。時によると、俳優のゴルブノーフのいわゆる、『真っ逆さま』に飛び込むというような心境と、まったく髪の毛一筋で隔てられるようなことがあるからね。」
「で、お前どうだね、鼻をぶら下げて帰ったかね?([#割り注]失敗してしょげることを言う[#割り注終わり])」
「君」と客はものものしい調子で言った。「そりゃ何といっても、まるで鼻を持たずに帰るより、やはり鼻をぶら下げて引きさがったほうがいいこともあるよ。ある病気にかかっている(これもいずれ、きっと専門家が治療するに相違ない)侯爵が、つい近頃、ゼスイット派の神父に懺悔する時に言ったとおりさ。僕もそこに居合せたが、実に面白かったよ。『どうか私の鼻を返して下さい!』と言って、侯爵が自分の胸を打つ。すると、『わが子よ、何事も神様の測るべからざる摂理によって行われるので、時には大なる不幸も、目にこそ見えないけれど、非常に大きな益をもたらすことがあるものじゃ。たとえ苛酷な運命があなたの鼻を奪ったとしても、もう一生涯、ひとりとしてあなたのことを、鼻をぶら下げて引きさがった、などと言うことはできない、その点にあなたの利があるわけですじゃ』と神父はうまく逃げてしまう、『長老、それは慰めになりません!』と侯爵は絶望して叫ぶ。『私は、自分の鼻があるべきところにありさえすれば、一生涯のあいだ、毎日鼻をぶら下げて引きさがっても、喜んでいますよ。』『わが子よ、あらゆる幸福を一時に求めることはできません。それはつまり、こんな場合にすら、あなたのことを忘れたまわぬ神様を怨むことにあたりますでな。なぜかと言えば、もしあなたが、今おっしゃったように、鼻さえあれば、一生涯鼻をぶら下げて引きさがっても、喜んで暮すおつもりならば、あなたの希望は、現在もう間接に満たされておるわけですじゃ。というわけは、あなたは鼻をなくしたために、一生鼻をぶら下げて引きさがるような形になりますでな』と言って、神父はため息をつくじゃないか。」
「ふっ! 何というばかばかしい話だ!」とイヴァンは叫んだ。
「いや、君、これはただ君を笑わせたいばかりに話したことさ。が、これはまったくゼスイットの詭弁だよ。しかも、まったく一句たがわず、いま君に話したとおりなんだ。つい近頃の出来事で、ずいぶん僕に面倒をかけたものだ。この不仕合せな青年は家へ帰ると、その夜のうちに自殺してしまった。僕は最後の瞬間まで、そのそばを離れなかったよ……このゼスイットの懺悔堂は、まったく僕の気のふさいでいる時なんか、何より面白い憂さばらしなんだ。そこでもう一つの事件を君に話そう。これこそ、つい二三日前の話なんだ。二十歳になるブロンドのノルマン女、――器量なら、体つきなら、気だてなら、――実に涎が流れるほどの女だがね、それが年とった神父のところへ行ったんだ。女は体をかがめて、隙間ごしに神父に自分の罪を囁くのだ。『わが子よ、どうしたのだ。一たい、また罪を犯したのか?………』と神父は叫んだ。『ああ、聖母《サンタマリヤ》さま、とんでもない! 今度はあの人ではございません。』『だが、いつまでそんなことがつづくのだろう、そしてお前さんはよくまあ、恥しくないことだのう!』『〔Ah, mon pe're〕([#割り注]ああ神父さま[#割り注終わり])』罪ふかい女は懺悔の涙を流しながら答える。『〔C,a lui fait tant ee plaisir et a` moi si peu de peine!〕([#割り注]あの人は大そう楽しみましたし、わたしも苦しくはなかったのですもの![#割り注終わり])』まあ、一つこういう答えを想像してみたまえ! そこで、僕も唖然として引きさがった。これは天性そのものの叫びだからね。これは、君、清浄無垢よりもまさっているくらいだよ。僕はその場ですぐ彼女の罪を赦し、踵を転じて立ち去ろうとしたが、すぐにまたあと戻りをせずにいられなかった。聞くとね、神父は格子ごしに、女に今晩の密会を約束しているじゃないか、――実際、燧石のように堅い老人なんだが、こうして、見るまに堕落してしまったんだね。天性が、天性の真理が勝利を占めたんだ! どうしたんだ、君はまた鼻を横っちょへ向けて、怒ってるじゃないか? 一たいどうすれば君の気に入るのか、もうまるでわけがわからない……」
「僕にかまわないでくれ。お前は僕の頭の中を、執念ぶかい悪夢のように敲き通すのだ」と、イヴァンは病的に呻いた。彼は自分の幻影に対して、ぜんぜん無力なのであった。「僕は、お前と一緒にいるのが退屈だ。たまらなく苦しい! 僕は、お前を追っ払うことができさえすれば、どんなことでもいとわないんだがなあ!」
「繰り返して言うが、君は自分の要求を加減しなけりゃいけないよ。僕から何か『偉大なるもの、美しきもの』を要求しては困る。なに、見たまえ、僕と君とは、お互いに親密に暮してゆけるからね」と紳士はさとすように言った。「まったく、君は僕が焔の翼をつけ、『雷のごとくはためき、太陽のごとく真紅に光り輝きながら』君の前に現われないで、こんなつつましやかな様子で出て来たのに、腹を立てているんだろう。第一に、君の審美感が侮辱され、第二に、君の誇りが傷つけられたんだ。自分のようなこんな偉大な人間のところへ、どうしてこんな卑しい悪魔がやって来たんだろう、というわけでね。実際、君の中には、すでにベリンスキイに嘲笑された、あのロマンチックな気分が流れているんだ。現に僕は、さっき君のところへ来る時に、冗談半分、コーカサスで勤めている四等官のふうをして、燕尾服をつけ、獅子と太陽の勲章([#割り注]ペルシャの勲章[#割り注終わり])をつけて現われようかとも思ったが、せめて北極星章か、あるいはシリウス章くらいならまだしも、獅子と太陽なんか燕尾服につけて来たというので、君が殴りはしないかと危ぶんだのだ。君はしきりに僕を馬鹿だと言うね。だが、僕は知力の点においては、君と同一視されたいなどと、そんなとんでもない大それた野心は持っていないよ。メフィストフェレスファウストの前に現われて、自分は悪を望んでいながら、その実いいことばかりしていると、自己証明をしたね。ところが、あいつは何と言おうと勝手だが、僕はまったく反対だよ。僕はこの世界において真理を愛し、心から善を望んでいる唯一人かもしれない。僕は、十字架の上で死んだ神の言《ことば》なる人が、右側に磔けられた盗賊の霊を自分の胸に抱いて天へ昇った時、『ホザナ』を歌う小天使の嬉しそうな叫び声と、天地を震わせる雷霆のごとき大天使の歓喜の叫喚を聞いた。そのとき僕は、ありとあらゆる神聖なものにかけて誓うがね、実際、自分もこの讃美者の仲間に入って、みなと一緒に『ホザナ』を歌いたかったよ! すんでのことに、讃美の歌が僕の胸から飛び出そうとした……僕は、君も知ってのとおり、非常に多感で、芸術的に敏感だからね。ところが、常識が、――ああ、僕の性格の中で最も不幸な特質たる常識が、――僕を義務の限界の中に閉じ籠めてしまった。こうして僕は、機会を逸したわけだ! なぜなら、僕はその時、『おれがホザナを歌ったら、どんなことになるだろう? すべてのものはたちまち消滅してしまって、何一つ出来事が起らなくなるだろう』とこう考えたからだ。で、僕はただただおのれの本分と、社会的境遇のために、自分の心に生じたこの好機を圧伏して、不潔な仕事をつづけるべく余儀なくされたのだ。誰かが善の名誉を残らず独占して、僕の分けまえにはただ不潔な仕事だけ残されてるのさ。けれど、僕は詐欺的生活の名誉を嫉むものじゃない。僕は虚栄を好かないからね。宇宙におけるあらゆる存在物の中で、なぜ、僕ばかりが身分のあるすべての紳士から呪われたり、靴で蹴られたりするような運命を背負ってるんだろう? だって、人間の体にはいった以上、時にはこういう結果にも出くわさなければならないからね。僕はむろん、そこにある秘密の存することを知っている。けれど、人はどうしてもその秘密を僕に明かそうとしない。なぜかと言えば、僕が秘密の真相を悟って、いきなり『ホザナ』を歌いだしてみたまえ、それこそたちまち大切なマイナスが消えてしまって、全宇宙に叡知が生ずる、それと同時に、一切は終りを告げて、新聞や雑誌さえ廃刊になるだろう。だって、そうなりゃ、誰が新聞や雑誌を購読するものかね、だが、僕は結局あきらめて、自分の千兆キロメートルを歩いて、その秘密を知るよりほか仕方がないだろうよ。しかし、それまでは僕も白眼で世を睨むつもりだ、歯を食いしばって、自分の使命をはたすつもりだ、一人を救うために数千人を亡ぼすつもりだ。むかし一人の義人ヨブを得るために、どれだけの人を殺し、どれだけ立派な人の評判を台なしにしなけりゃならなかったろう! おかげで、僕はずいぶんさんざんな目にあったよ。そうだ、秘密が明かされないうちは、僕にとって二つの真実があるんだ。一つはまだ少しもわかっていないが、あの世の人々の真実で、それからもう一つは僕自身の真実だ。しかし、どっちがよけい純なものか、そいつはまだわからない……君は眠ったのかね?」
「あたりまえよ」とイヴァンは腹だたしそうに唸った。「僕の天性の中にある一切の馬鹿げたものや、もうとっくに生命を失ったものや、僕の知恵で咀嚼しつくされたものや、腐れ肉のように投げ捨てられたものを、お前はまるで何か珍しいもののように、今さららしくすすめてるんだ!」
「またしくじったね! 僕は文学的な文句で君を惑わそうと思ったんだがね。この天上の『ホザナ』は、実際のところ、まんざらでもなかったろう? それから、今のハイネ風な諷刺的な調子もね、そうじゃないか?」
「いいや、僕は一度も、そんな卑劣な下司になったことはない! どうして僕の魂が貴様のようなそんな下司を生むものか!」
「君、僕はある一人の実に可愛い、実に立派なロシヤの貴族の息子を知っているがね、若い思想家で、文学美術の人の愛好家で、『大審問官』と題する立派な詩の作者だ……僕はただこの男一人のことを頭においてたんだ!」
「『大審問官』のことなんか口にすることはならん。」イヴァンは恥しさに顔を真っ赤にして叫んだ。
「じゃ、『地質学上の変動』にしようかな? 君おぼえているかね? これなんか、もう実に愛すべき詩だよ!」
「黙れ、黙らないと殺すぞ!」
「僕を殺すと言うのかね? まあ、そう言わないで、すっかり言わせてくれたまえ。僕が来たのも、つまりこの満足を味わうためなんだからね。ああ、僕は、生活に対する渇望にふるえているこうした若い、熱烈な友人の空想が大好きなんだ! 君はこの春ここへ来ようと思いついた時、こう断定したじゃないか。『世には新人がある、彼らはすべてを破壊して食人肉主義《カンニパリズム》から出直そうと思っている。馬鹿なやつらだ! おれに訊きもしないで! おれの考えでは、何も破壊する必要はない、ただ人類の中にある神の観念さえ破壊すればいいのだ。まずこれから仕事にかからなけりゃならない! まずこれから、これから始めなけりゃならないのだ、――ああ、何にもわからないめくらめ! 一たん人類がひとり残らず神を否定してしまえば(この時代が、地質学上の時代と並行してやってくることを、おれは信じている)、その時は、以前の世界観、ことに以前の道徳が、食人肉主義をまたなくとも自然に滅びて、新しいものが起ってくる。人間は、生活の提供し得るすべてのものを取るために集まるだろう。しかし、それはただ現在この世における幸福と歓びのためなんだ。人間は神聖な巨人的倨傲の精神によって偉大化され、そこに人神が出現する、人間は意志と科学とによって、際限もなく刻一刻と自然を征服しながら、それによって、以前のような天の快楽に代り得るほどの、高遠なる快楽を不断に感じるようになる。すべての人間は自分が完全に死すべきもので、復活しないことを知っているが、しかも神のように傲然として悠々死につく。彼はその自尊心のために、人生が瞬間にすぎないことを怨むべきでないと悟って、何の酬いをも期せずに自分の同胞を愛する。愛は生の瞬間に満足を与えるのみだが、愛が瞬間的であるという意識は、かえって愛の焔をますますさかんならしめる。それはちょうど、前に死後の永遠なる愛を望んだ時に、愛の火が漫然とひろがったのと同じ程度である云々……』とこんなことだったよ。実にうまいことを言ったものだね!」
 イヴァンは両手で自分の耳をおさえ、じっと下を見ながら腰かけていたが、急に体じゅうがびりびり慄えだした。紳士の声はつづいた。
「で、この場合、問題は次の点にある、――とわが若き思想家は考えた、――ほかでもない、はたしてそんな時代がいつか来るものかどうか? もし来るとすれば、それですべては解決され、人類も永久にその基礎を得るわけだ。しかし、人類の無知が深く根をおろしているから、ことによったら、千年かかってもうまくゆかないかもしれない。だから、今この真理を認めたものは、誰でもその新しい主義の上へ、勝手に自分の基礎を建てることができる。この意味において、人間は『何をしてもかまわない』わけだ。それに、もしこの時代がいつまでも来なくたって、どうせ神も霊魂の不死もないんだから、新しい人はこの世にたった一人きりであろうとも、人神となることができる。そして、人神という新しい位についた以上、必要な場合には、以前の奴隷人の道徳的限界を平気で飛び越えてもさしつかえないはずだ。神のためには法律はない! 神の立つところは、すなわち神の場所だ! おれの立つところは、ただちに第一の場所となる……『何をしてもかまわない、それっきりだ!』これははなはだ結構なことだよ。だが、もし詐欺をしようと思うくらいなら、なぜそのために、真理の裁可を要するのだろう? しかし、これがわがロシヤの現代人なんだ。ロシヤの現代人は、真理の裁可なしに詐欺一つする勇気もない。それほど彼らは真理を愛しているんだ……」
 客は自分の雄弁で調子に乗ったらしく、ますます声を高め、あざむがごとく主人を眺めながら、滔々と弁じたてた。しかし、彼がまだ論じ終らないうちに、イヴァンはいきなりテーブルの上からコップを取って、弁士に投げつけた。
「〔Ah, mais c'est be'te enfin!〕([#割り注]ああ、だがそれは要するに馬鹿げてる![#割り注終わり])」客に長椅子から飛びあがって、茶のとばっちりを指で払いおとしながら、こう叫んだ。「ルーテルのインキ壺を思い出したんだね! 自分で僕を夢だと思いながら、その夢にコップを投げつける! まるで女のような仕打ちだ! 君が耳をふさいでいるのは、ただ聞かないようなふりをしているばかりだろうと思ったが、はたしてそうだった……」
 途端に、外からどんどんと激しく、執拗に窓をたたく音がした。イヴァンは長椅子から跳りあがった。
「ほら、窓をたたいてるよ。開けてやりたまえ」と客は叫んだ。「あれは君の弟のアリョーシャが、きわめて意外な面白い報告を持って来たんだ。僕が受け合っておく!」
「黙れ、詐欺師、アリョーシャが来たってことは、僕のほうがお前よりさきに知っている。前からそんな気がしていたのだ。弟が来たとすりゃ、むろん空手じゃない、むろん『報告』を持って来たにきまってる!」とイヴァンは夢中になって叫んだ。
「開けてやりたまえ、開けてやりたまえ。外は吹雪だ。君の弟が来てるんじゃないか。〔Mr, sait-il le temps qu'il fait? C'est a` ne pas mettre un chien dehors〕 ……([#割り注]君、こんなお天気じゃないか。犬だって外に出しちゃおけないのに……[#割り注終わり])
 窓をたたく音はつづいた。イヴァンは窓のそばへ駈け寄ろうとしたが、急に何かで手足を縛られたように思われた。彼は力一ぱいその桎梏を断ち切ろうと懸命になったが、どうすることもできなかった。窓をたたく音はますます強く、ますます激しくなった。ついに桎梏は断ち切れた。イヴァンは長椅子の上に飛びあがった。彼はけうとい目つきであたりを見まわした。二本の蝋燭はほとんど燃え尽きそうになっているし、たったいま客に投げつけたはずのコップは、前のテーブルの上にちゃんとのっていて、向うの長椅子の上には誰もいなかった。窓をたたく音は依然やまなかったが、いま夢の中で聞えたほど激しくはなく、むしろきわめて控え目であった。
「今のは夢じゃない! そうだ、誓って今のは夢じゃない。あれはいま実際あったのだ!」とイヴァンは叫んで、窓ぎわに駈け寄り、通風口を開けた。
「アリョーシャ、僕は決して来ちゃならんと言ったじゃないか!」と彼は狂暴な調子で弟を呶鳴りつけた。「さ、何用だ、一口で言え、一口で、いいか?」
「一時間まえにスメルジャコフが首を縊ったんです」とアリョーシャは外から答えた。
「玄関のほうへ廻ってくれ、今すぐ開けるから。」イヴァンはこう言って、アリョーシャのために戸を開けに行った。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十一篇第八章 三度目の、最後の面談

[#3字下げ]第八 三度目の、最後の面談[#「第八 三度目の、最後の面談」は中見出し]

 まだ半分道も行かないうちに、その日の早朝と同じような、鋭いからっ風が起って、細かいさらさらした粉雪がさかんに降りだした。雪は地面に落ちたが、落ちつくひまもなく風に巻き上げられた。こうして、間もなく本当の吹雪になってしまった。この町でも、スメルジャコフの住まっているあたりには、ほとんど街灯というものがなかった。イヴァンは暗闇の中を吹雪にも気づかず、ほとんど本能的に路を見分けながら、歩いて行った。頭が割れるように痛んで、こめかみがずきずきいった。手首は痙攣を起していた(彼はそれを感じた)。マリヤの家まぢかになった頃、とつぜん一人の酔いどれに出会った。それはつぎはぎだらけの外套を着た背の低い百姓で、よろよろと千鳥足で歩きながら、ぶつぶつ言ったり、罵ったりしていた。急に罵りやめたかと思うと、今度はしゃがれた酔いどれ声で、歌いだすのであった。

[#ここから2字下げ]
やあれ、ヴァンカは
ピーテルさして旅へ出た
わしゃあんなやつ待ちはせぬ
[#ここで字下げ終わり]

 しかし、彼はいつもこの三の句で歌を切って、また誰やら罵りだすかと思うと、またとつぜん歌を繰り返しはじめた。イヴァンはまるでそんなことを考えもしないのに、もうさきほどからこの百姓に、恐ろしい憎悪を感じていたが、やがてそれをはっきり意識した。すると、いきなり、百姓の頭に拳骨を見舞いたくてたまらなくなった。ちょうどこの瞬間、彼ら二人はすれ違った。そのとたん百姓はひどくよろけて、力一ぱいイヴァンにぶつかった。イヴァンはあらあらしく突きのけた。百姓は突き飛ばされて、凍った雪の上へ丸太のように倒れたが、病的にただ一度、『おお! おお!』と唸ったきりで、そのまま黙ってしまった。イヴァンが一歩ちかよって見ると、彼は仰向きになったまま、身動きもせず、知覚を失って倒れていた。『凍え死ぬだろう!』とイヴァンは考えたなり、またスメルジャコフの家をさして歩きだした。
 彼が玄関へはいると、マリヤが蝋燭を手に駈け出して、戸を開けた。そして、パーヴェル・フョードロヴィッチ(すなわちスメルジャコフ)は大病にかかっている、べつに寝てるというわけではないが、ほとんど正気を失った様子で、お茶の支度をしろと言いつけながら、それを飲もうともしない、というようなことを彼に囁いた。
「じゃ、暴れでもするのかね?」とイヴァンはぞんざいに訊いた。
「いいえ、それどころじゃありません。ごく穏やかなんでございます。ただあまり長くお話をなさらないで下さいまし……」とマリヤは頼んだ。
 イヴァンは戸を開けて、部屋の中ヘー足はいった。
 初めて来た時と同じように、部屋はうんと暖めてあったが、中の様子がいくらか変っていた。壁のそばにあったベンチが、一つ取り除けられて、その代り、マホガニイに似せた大きな古い革張りの長椅子がおいてあった。その上には蒲団が敷かれて、小ざっぱりとした白い枕がのっていた。スメルジャコフはやはり例の部屋着を着て、薄団の上に坐っていた。テーブルは長椅子の前に移されていたので、部屋の中はひどく狭苦しくなっていた。テーブルの上には、黄いろい表紙のついた厚い本がのっていたが、スメルジャコフはそれを読んでいるでもなく、ただ坐ったきり、何にもしていないらしかった。彼はゆっくりした無言の目つきで、イヴァンを迎えた。見たところ、イヴァンが来たのに一こう驚かないふうであった。彼はすっかりおも変りがして、ひどく痩せて黄いろくなっていた。目は落ち込んで、その下瞼には蒼い環さえ見えた。
「お前は本当に病気なのかね?」イヴァンは立ちどまった。「おれは長くお前の邪魔をしないから、外套も脱ぐまいよ。どこへ腰かけたらいいんだ?」
 彼はテーブルの反対の側から廻って、椅子を引き寄せ、腰をおろした。
「なぜ黙っておれを見ているんだ? おれはたった一つ、お前に訊きたいことがあって来たんだ。まったくお前の答えを聞かないうちは、どうあっても帰らんつもりだ。お前のところヘカチェリーナさんが来るだろう?」
 スメルジャコフは依然として、静かにイヴァンを見ながら、長い間じっとおし黙っていたが、急に片手を振って、顔をそむけてしまった。
「どうしたんだ?」とイヴァンは叫んだ。
「どうもしません。」
「どうもしないはずはない!」
「ええ、まいりましたよ。だが、どうだっていいじゃありませんか。帰って下さい。」
「いや、帰らない! いつ来たか言え!」
「なに、私はあのひとのことなんか覚えてもいませんよ。」スメルジャコフは軽蔑するように、にたりと笑ったが、急にまたイヴァンのほうへ顔を向けて、一種もの狂おしい憎悪の目で彼を見つめた。それは、一カ月前に会ったときと同じ目つきであった。
「どうやら、あなたもご病気のようですね。まあ、げっそりとお痩せなすったこと、まるでその顔色ったらありませんよ」と彼はイヴァンに言った。
「おれの体のことなど、心配してくれなくてもいいから、おれの訊いたことに返事をしろ。」
「それに、あなたの目の黄いろくなったことはどうでしょう。白目がまるで黄いろくなってしまって、ひどくご心配ですかね?」
 彼は軽蔑するように、にたりとしたが、急に声をたてて笑いだした。
「おい、いいか、おれはお前の返事を聞かないうちは帰りゃしないぞ!」とイヴァンは恐ろしく激昂して叫んだ。
「何だってあなたは、そうしつこくなさるんです? どうして私をいじめなさるんです?」とスメルジャコフはさも苦しそうに言った。
「ええ、畜生! おれはお前に用事なんかないんだ。訊いたことにさえ返事すりゃ、すぐ帰る。」
「何もあなたに返事することなぞありませんよ!」とまたスメルジャコフは目を伏せた。
「いや、きっとおれはお前に返事をさせる!」
「どうしてそんなに心配ばかりなさるんです!」とスメルジャコフは急にイヴァンを見つめた。彼の顔には軽蔑というよりも、もはやむしろ一種の嫌悪が現われていた。「あす公判が始まるからですか? そんなら、ご心配にゃおよびません、あなたに何があるもんですか! 家へ帰って安心してお休みなさい。ちっとも懸念なさることはありゃしません。」
「おれはお前の言うことがわからん……どうしておれが明日の日を恐れるんだ?」とイヴァンはびっくりしてこう言った。と、ふいに彼の心は事実、ある驚愕に打たれて、ぞっとしたのであった。スメルジャコフはまじまじとそれを眺めていた。
「おわかりにな―り―ませんかね?」と彼はなじるように言葉を切りながら言った。「賢いお方が、こうした茶番をやるなんて、本当にいいもの好きじゃありませんか!」
 イヴァンは黙って彼を眺めた。イヴァンはこういう語調を予期しなかった。それは、実に傲慢きわまるものであった。しかも、以前の下男が、いま彼にこうした口をきくというのは、それこそ容易ならぬことであった。この前の面談の時でさえ、まだまだこんなことはなかった。
「ちっとも、ご心配なさることはありませんて、そう言ってるじゃありませんか。わたしゃああなたのことは、何も申し立てやしませんからね。証拠がありませんや。おや、お手が慄えてますね。どうして指をそんなに、ぶるぶるさせていらっしゃるんです? さあ、家へお帰んなさい。殺したのはあなたじゃありません[#「殺したのはあなたじゃありません」に傍点]。」
 イヴァンはぎくっとした。彼はアリョーシャのことを思いだした。
「おれでないことは自分で知っている……」と彼は呟いた。
「ご存じ―ですかね?」とまたスメルジャコフは言葉じりを引いた。
 イヴァンはつと立ちあがって、スメルジャコフの肩を掴んだ。
「すっかり言え、毒虫め! すっかり言っちまえ!」
 スメルジャコフはびくともしなかった。彼はただ狂的な憎悪をこめた目で、イヴァンにじっと食い入るのであった。
「じゃ、申しますがね、殺したのは実はあなたですよ」と彼はにくにくしくイヴァンに囁いた。イヴァンはどっかと椅子に腰をおろした。ちょうど何か思いあたりでもしたもののように、彼は意地わるそうに、にやりとした。
「お前はやっぱりあの時のことを言っているのか? このまえ会った時と同じことを!」
「そうです、このまえ私のところへおいでの時も、あなたはすっかり呑み込みなすったじゃありませんか。だから、今も呑み込みなさるはずでございますよ。」
「お前が気ちがいだってことだけは、おれにも呑み込めるよ。」
「よくまあ、飽き飽きしないことですね! 面と向ってお互いにだましあったり、茶番をやったりするなんて? それとも、また面と向って、私一人に罪をなすりつけようとなさるんですか? あなたが殺したんですよ、あなたが張本人なんですよ。私はただあなたの手先です。あなたの忠実な僕《しもべ》リチャルドだったんです。私はあなたのお言葉にしたがって、やっつけたんですからね。」
「やっつけた? じゃ、お前が殺したんだね?」イヴァンは総身に水を浴びたようにぞっとした。何やら頭の中で非常なショックを受けたかのように、彼は体じゅうがたがたと慄えだした。その時はじめて、スメルジャコフもびっくりして彼を見つめた。たぶんイヴァンの驚愕があまりに真剣なのに、打たれたものらしい。
「じゃ、あなたは本当に何にもご存じなかったんですか?」とスメルジャコフは信じかねるように囁いた、イヴァンの目を見つめて皮肉な笑いをもらしながら。
 イヴァンはいつまでも彼を眺めていた。彼は舌を抜かれでもしたように、口をきくことができなかったのである。

[#ここから2字下げ]
やあれヴァンカは
ピーテルさして旅に出た
わしゃあんなやつ待ちはせぬ
[#ここで字下げ終わり]

 という歌が、とつぜん彼の頭の中に響きはじめた。
「ねえ、おい、おれはお前が夢じゃないかと思って、恐ろしいんだ、おれの前に坐っているのは幻じゃないか?」と彼は呟いた。
「幻なんてここにいやしませんよ、私たち二人と、もう一人ある者のほかはね。確かにその者は、そのある者は今ここに、私たちの間におりますぜ。」
「それは誰だ? 誰がいるんだ? 誰だ、そのある者は?」あたりを見まわしたり、すみずみに誰かいないかと忙しげに捜したりしながら、イヴァンはびっくりして訊ねた。
「そのある者というのは神様ですよ、天帝ですよ。天帝はいま私たちのそばにいらっしゃいます。しかし、あなたがいくらお捜しになっても、見つかりゃしませんよ。」
「お前は自分が下手人だと言うが、それは嘘だ!」とイヴァンはもの狂おしく叫んだ。「お前は気ちがいか、それとも、この前のように、おれをからかおうとするのだろう!」
 スメルジャコフはさきほどと同じように、いささかも驚かずにじっとイヴァンを見まもっていた。彼はいまだにどうしても、自分の疑念をしりぞけることができなかった。やはりイヴァンが『何もかも知っている』くせに、ただ『こっちばかりに罪をなすりつけようとしている』というような気がした。
「ちょっとお待ちなさい。」とうとう彼は弱々しい声でこう言って、ふいにテーブルの下から自分の左足を引き出し、ズボンを捲し上げはじめた。足は長い白の靴下につつまれて、スリッパをはいていた。彼はそろそろと靴下どめをはずして、靴下の中へ自分の指を深く突っ込んだ。イヴァンはじっとそれを見ていたが、急にぴくりとなって、痙攣的にがたがた慄えだした。
「気ちがい!」と彼は叫んで、つと立ちあがると、うしろへよろよろとよろめいて、背中をどんと壁にぶっつけ、体を糸のように伸ばして、ぴったり壁にくっついてしまった。彼はもの狂おしい恐怖を感じながら、スメルジャコフを見つめた。スメルジャコフは、イヴァンの驚愕を少しも気にとめないで、やはり靴下の中を捜していた。しきりに指先で何か掴もうとしているらしかったが、とど何かを探りあてて、それを引き出しにかかった。イヴァンは、おそらく書類か、それとも何かの紙包みだろうと見てとった。スメルジャコフはそれを引き出すと、テーブルの上においた。
「これです!」と彼は低い声で言った。
「何だ?」イヴァンは身ぶるいをしながら答えた。
「どうか、ごらん下さい」とスメルジャコフは相変らず低い声で言った。
 イヴァンはテーブルのほうヘ一歩ふみ出し、その紙包みを手に取って開こうとしたが、まるで何か不気味な恐ろしい毒虫にでもさわったように、急につと指を引っこめた。
「あなた指がまだ慄えていますね、痙攣していますね」とスメルジャコフは言い、自分でそろそろと紙包みを開いた。中からは虹色をした百ルーブリ札の束が三つ出て来た。
「残らずここにあります、三千ルーブリあります、勘定なさるにもおよびません。お受け取り下さい」と彼は顋で金をしゃくりながら、イヴァンにこう言った。イヴァンは椅子にどうっと腰を落した。彼はハンカチのように真っ蒼になっていた。
「お前、びっくりさしたじゃないか……その靴下でさ……」と彼は異様な薄笑いを浮べながら言った。
「あなたは本当に、本当にあなたは今までご存じなかったのですか?」とスメルジャコフはもう一ど訊いた。
「いや、知らなかった。おれはやはり、ドミートリイだとばかり思っていた。兄さん! 兄さん! ああ!」彼は急に両手で自分の頭を掴んだ。「ねえ、おい、お前は一人で殺したのかい? 兄貴の手を借りずに殺したのか、それとも一緒にやったのか?」
「ただあなたと一緒にしただけです。あなたと一緒に殺しただけです。ドミートリイさんには何の罪もありません。」
「よろしい、よろしい……おれのことはあとにしてくれ。どうしておれはこんなに慄えるんだろう……口をきくこともできない。」
「あなたはあの時分、大胆でしたね。『どんなことをしてもかまわない』などと言っておいででしたが、今のその驚き方はどうでしょう!」とスメルジャコフは呆れたように呟いた。「レモナードでもおあがりになりませんか。今すぐ言いつけましょう。とても気分がはればれとしますよ。ところで、こいつをまず隠しておかなくちゃ。」
 こう言って、彼はまた紙幣束を顋でしゃくった。彼は立ちあがって戸口へ行き、レモナードの支度をして持って来るように、マリヤに言いつけようとしたが、彼女に金を見られないように、何か被せるものを捜すことにして、まずハンカチを引き出したが、これは今日もまたすっかり汚れていたので、イヴァンが入って来た時に目をつけた、例のテーブルの上にただ一冊のっている黄いろい厚い書物を取り上げて、それを金の上に被せた。その書名は『我らが尊き師父イサアク・シーリンの言葉』と記してあった。イヴァンは機械的にその表題を読んだ。
「レモナードはいらない」と彼は言った。「おれのことはあとにして、腰をかけて話してくれ、どういう工合にやったのか、何もかもすっかり話してくれ……」
「あなた、外套でもお脱ぎになったらいいでしょう。すっかり蒸れてしまいますよ。」
 イヴァンは今やっと気づいたように外套を脱ぐと、椅子から立たないで、ベンチの上へ投げ出した。
「話してくれ、どうか話してくれ!」
 彼は落ちついてきたらしかった。そして、今こそスメルジャコフがすっかり[#「すっかり」に傍点]言ってしまうだろうと信じて、じっと待ち受けていた。
「どんな工合にやっつけたかというんですね?」スメルジャコフはほっとため息をついた。「例のあなたのお言葉にしたがって、ごく自然な段どりでやっつけましたよ……」
「おれの言葉なんかあとにしてくれ」とイヴァンはまた遮ったが、すっかり自己制御ができたらしく、もう以前のように呶鳴らないで、しっかりした語調で言った。「どういう工合にやったか、詳しく話して聞かせてくれ、すっかり順序を立てて話してくれ、何一つ忘れちゃいけない。詳しく、何より第一に詳しく。どうか話してくれ。」
「あなたが立っておしまいになったあとで、私は穴蔵へ落ちました……」
「発作でかね、それともわざとかね?」
「そりゃわざとにきまってますよ。何事によらず、すっかり芝居を打っていたんです。悠々と階段を下までおりて、悠々と横になると唸りだして、連れて行かれるまでばたばたもがいていました。」
「ちょっと待ってくれ! ではその後も、病院でもずっと芝居をしていたのかね?」
「いいえ、そうじゃありません、あくる朝、病院へ行く前に、本当に激しい発作がやって来ました。もう永年こんなひどいのに出会ったことがないくらいで、二日間というもの、まるっきり感じがありませんでしたよ。」
「よろしい、よろしい。それから。」
「それから、寝床に寝かされましたが、いつも私が病気になった時のおきまりで、マルファさんが自分の部屋の衝立ての向うへ、夜どおし寝かしてくれることはわかっていました。あの女は、私が生れ落ちるとから、[#「生れ落ちるとから、」はママ]いつも優しくしてくれましたからね。夜分、私はうなりました、もっとも、低い声でしたがね。そして、今か今かと、ドミートリイさんを待っていました。」
「待っていたとは? お前のところへか?」
「私のところへ何用があります? 旦那の家へですよ。なぜって、あの人がその夜のうちにやって来ることを、もうとう疑っちゃおりませんでした。だって、あの人は私がいないから、何の知らせも手に入らないので、ぜひ自分で塀を乗り越えて、家の中へ入らなけりゃならないはずですものね。そんなことは平気でできるんですから、きっとなさるに違いありません。」
「だが、もし兄が行かなかったら?」
「そうすりゃ、何事もなかったでしょうよ。あの人が来なけりゃ、私だって何も思いきってしやしませんからね。」
「よろしい、よろしい……もっとよくわかるように言ってくれ。急がずにな、それに第一、何一つ抜かさないように!」
「私は、あの人が旦那を殺すのを待っていたのです……そりゃ間違いないこってす。なぜって、私がそうするように仕向けておいたんですからね……その二三日前からですよ……第一、あの人は例の合図を知っています。あの人はあの頃、疑いや嫉妬が積り積っていたのですから、ぜひこの合図を使って、家の中へ入り込むにきまりきっていたんですよ。それは決して間違いっこありません。そこで、私はあの人が来るのを待ってたわけなんで。」
「ちょっと待ってくれ」とイヴァンは遮った。「もし、あれが殺したら、金を持って行くはずじゃないか。お前だってそう考えるはずじゃないかね? してみれば、そのあとで何がお前の手に入るんだい? おれはそいつがわからないね。」
「ところが、あの人には決して金のありかがわかりっこありませんよ。あれはただ私が、金は蒲団の下に入っていると言って、教えておいただけなんで、まったく嘘の皮なんです。以前は手箱の中に入っていましたが、旦那は世界じゅうでただ一人、私だけ信用していましたから、そのあとで私が、金のはいった例の封筒を、聖像のうしろの隅へおきかえるように教えたんです。そこなら、ことに急いで入って来た時など、誰にも気づかれる心配がありませんからね。こういうわけで、あれは、あの封筒は、旦那の部屋の片隅の聖像のうしろにあったので。蒲団の下へ入れるなんて、そりゃ滑稽なことですよ。まだせめて手箱の中へ入れて、錠でもかけておきまさあね。でも、今はみんな、蒲団の下にあったものと信じきっていますが、馬鹿な考え方じゃありませんか。で、もしドミートリイさんがお父さんを殺しても、大ていの人殺しにありがちなように、ちょっとした物音にもおじけて、何一つ見つけ出さずに逃げてしまうか、それともふん縛られるかにきまっています。そうなりゃ、私はいつでも、あくる日でも、その晩にでも、聖像のうしろからその金を持ち出して、罪をすっかり、ドミートリイさんになすりつけることができますからね。私はいつだって、それを当てにしていいわけじゃありませんか?」
「でも、もし兄が親父を殴っただけで、殺さなかったとしたら?」
「もしあの人が殺さなかったら、むろん、私は金を取らないで、そのまま無駄にしておいたでしょう。が、またこういう目算もありましたよ。もしあの人が旦那を殴りつけて気絶させたら、私はやはりその金を盗んで、あとで旦那に向って、あなたを殴って金を取ったものは、ドミートリイさんのほかに誰もありません、とこう報告するんですよ。」
「ちょっと待ってくれ……おれは頭がこんぐらかってきた。じゃ、やっぱりドミートリイに殺させて、お前が金を取ったと言うんだな?」
「いいえ、あの人が殺したんじゃありません。なに、今でも私はあなたに向って、あの人が下手人だと言えますが……しかし、今あなたの前で嘘を言いたかありません。だって……だって、お見受け申すとおり、よしんば実際あなたが今まで、何もおわかりにならずにいたにしたところで、よしんば私の前でしらを切って、わかりきった自分の罪を人に塗りつけていらっしゃるのでないとしたところで、やっぱりあなたは全体のことに対して罪があるんですからね。なぜって、あなたは兇行のあることを知りながら、また現にそれを私に依頼しておきながら、自分では何もかも知っていながら、立っておしまいなすったんですものね。ですから、私は今晩、この一件の張本人はあなた一人で、私は自分で殺しはしたけれど、決して張本人じゃないってことを、あなたの目の前で証明したいんですよ。あなたが本当の下手人です!」
「なに、どうしておれが下手人なんだ? ああ!」イヴァンは自分の話はあとまわしにする決心を忘れて、とうとう我慢しきれずにこう叫んだ。「それはやはり、あのチェルマーシニャのことかね? だが、待て。よしんばお前が、おれのチェルマーシニャ行きを、同意の意味にとったとしても、一たい何のためにおれの同意が必要だったんだ? お前は今それをどういうふうに説明する?」
「あなたのご同意を確かめておけば、あなたが帰っていらしっても、紛失したこの三千ルーブリのために、騒ぎをもちあげなさることもあるまいし、またどうかして、私がドミートリイさんの代りに、その筋から嫌疑をかけられたり、ドミートリイさんとぐる[#「ぐる」に傍点]のように思われたりした時に、あなたが弁護して下さるってことが、ちゃんとわかっているからですよ……それに、遺産を手に入れておしまいになれば、その後いついつまでも、一生私の面倒を見て下さるでしょうからね。なぜって、あの遺産を相続なさったのは、何といっても私のおかげですよ。もしお父さんがアグラフェーナさんと結婚なすったなら、あなたはびた一文、おもらいになれなかったでしょうからね。」
「ああ! じゃ、お前はその後一生涯、おれを苦しめようと思ったんだな!」イヴァンは歯ぎしりした。「だが、もしおれがあのとき出発せずに、お前を訴えたらどうするつもりだったのだ?」
「あの時あなたは何を訴えようとおっしゃるんですね? 私があなたにチェルマーシニャ行きを勧めたことですか? そんなのはばかばかしい話じゃありませんか。それに、私たちが話し合ったあとで、あなたが出発なさるにせよ、残っていらっしゃるにせよ、べつに困ることはありゃしませんや。もし残っていらっしゃれば、何事も起らなかったでしょう、私はあなたがこの話をお望みにならないことを知って、何事もしなかったでしょうよ。が、もし出発なされば、それはあなたが私を裁判所へ訴えたりなどせずに、この三千ルーブリの金は私が取ってもいい、とこうおっしゃる証拠なんですからね。それに、あなたはあとで私をいじめたりなさることもできません。なぜって、そうなりゃ、私は法廷で何もかも言ってしまいますからね。しかし、何も私が盗んだり、殺したりした、なんて言うんじゃありませんよ……そんなことは言やしません……あなたから、盗んで殺せとそそのかされたが、承知しなかったと、こう申しまさあね。だから、あの時あなたの同意をとって、決してあなたからいじめつけられないようにしておく必要があったのです。だって、あなたはどこにも証拠を持っていらっしゃらないけれど、私はその反対に、あなたはお父さんが死ぬのを恐ろしく望んでいらしったと、こうすっぱ抜きさえすれば、いつでもあなたを押えつけることができますからね。で、ちょっと一こと言いさえすれば、世間のものはみんなそれを本当にしますよ。そうすりゃ、一生涯、あなたの恥になりますよ。」
「望んでいた、望んでいた、おれがそんなことを望んでいた、と言うのか?」イヴァンはまた歯ぎしりした。
「そりゃ間違いなく望んでおいででしたよ。あなたが承知なすったのは、つまり、私にあのことをしてもいいと、だんまりのうちに、お許しになったんですよ。」スメルジャコフはじっとイヴァンを見つめた。彼はひどく弱って、小さな声でもの憂そうに口をきいていたが、心内に秘められた何ものかが、彼を駆り立てたのである。彼は確かに何か思わくがあるらしかった。イヴァンはそれを感じた。
「さあ、そのさきはどうだ!」とイヴァンは言った。「あの夜の話をしてくれ。」
「そのさきといっても、わかりきってるじゃありませんか! 私が寝て聞いていますとね、旦那があっと言いなすったような気がしました。しかし、グリゴーリイさんが、その前に起きて出て行きました。すると、いきなり唸り声が聞えたと思うと、もうあたりはしんとして、真っ暗やみでした。私はじっと寝て待っていましたが、心臓がどきどきいって、我慢も何もできなくなりましたから、とうとう起きて行きました。左側を見ると、旦那の部屋では、庭に向いた窓が開いているじゃありませんか。私は、旦那が生きているかどうか見さだめようとして、また一あし左のほうへ踏み出しました。すると、旦那がもがいたり、ため息をついたりしている気配がします。じゃ、まだ生きてるんだ。ちぇっ、と私は思いましたね! 窓へ寄って、『私ですよ』と旦那に声をかけますと、旦那は、『来たよ、来たよ。逃げて行った!』と言うんです。つまり、ドミートリイさんが来たことなんです。『グリゴーリイは殺されたよ! どこで?』と私は小声で訊きました。『あそこの隅で』と指さしながら、旦那はやはり小さい声で囁きました。『お待ち下さい』と私は言い捨てて、庭の隅へ行ってみますと、グリゴーリイのやっこさん、体じゅう血まみれになって、気絶して倒れているんです。そこで、確かにドミートリイさんが来たんだな、という考えがすぐ頭に浮んだので、その場ですぐ一思いにやっつけてしまおう、と決心しました。なぜって、よしグリゴーリイが生きてても、気絶しているので、何にも気がつきはしないからです。ただ心配なのは、マルファがふいに目をさましはしないか、ということでした。私は、その瞬間にもこのことを感じましたが、もう心がすっかり血に渇いてしまって、息がつまりそうなのです。そこで、また窓の下へ戻って、『あのひとがここにいます、来ましたよ、アグラフェーナさんが来て、入りたがっていますよ』と旦那に言いました。すると、旦那は赤児のように、ぶるぶる身ぶるいをしました。
『こことはどこだ? どこだ?』こう言ってため息をつきましたが、まだ本当にしないんです。『あそこに立っていらっしゃいます。戸を開けておあげなさい!』と私が言いますと、旦那は半信半疑で、窓から私を見ていましたが、戸を開けるのが恐ろしい様子なんです。『つまり、おれを恐れてるんだな』と私は思いました。が、おかしいじゃありませんか、そのとき私は急に窓を叩いて、グルーシェンカが来てここにいる、という合図をすることを思いついたのです。ところが、旦那は言葉では本当にしないくせに、私がとんとんと合図をしたら、すぐ駈け出して、戸を開けて下すったじゃありませんか。戸が開いたので、私は中へ入ろうとしましたが、旦那は私の前に立ち塞がるようにして、『あれは、どこにいる? あれはどこにいる?』と言って、私を見ながらびくびくしています。こんなにおれを恐れてるんじゃ、とてもうまくゆかないな、と私は思いました。部屋へ入れないんじゃあるまいか、旦那が呶鳴りはしないか、マルファが駈けつけやしないか、またほかに何か起りはしないか、などと考えると、その恐ろしさに足の力が抜けてしまいました。その時は何も覚えていませんが、きっとわたしは旦那の前で真っ蒼になって、突っ立っていたに違いありません。『そこです、そこの窓の下です。どうして旦那はお見えにならないんでしょう?』と私が旦那に囁くと、『じゃ、お前あれを連れて来てくれ、あれを連れて来てくれ!』『でも、あのひとが怖がっていらっしゃいます。大きな声にびっくりして、藪の陰に隠れていらっしゃるんです。旦那ご自分で書斎から出て、呼んでごらんなさいまし』と私が言いました。すると、旦那は窓のそばへ駈け寄って、蝋燭を窓の上に立てて、『グルーシェンカ、グルーシェンカ、お前そこにいるのかい?』と呼びましたが、こう呼びながらも、窓から覗こうとしないんです。私から離れようとしないんです。恐ろしいからなんですよ。私をひどく恐れていたので、私のそばを離れないんですよ。『いいえ、あのひとは(と、私は窓に寄って、窓から体を突き出しながら)、あそこの藪のなかにいらっしゃいますよ。あなたを見て笑っていらっしゃいます、見えますでしょう?』と言いました。すると、旦那は急に本当にして、ぶるぶると身ぶるいしだしました。なにしろ、すっかりグルーシェンカに惚れ込んでいたんですからね。で、旦那は窓から体をのり出した。そのとき私は、旦那のテーブルの上にのっていたあの鉄の卦算、ね、憶えていらっしゃいましょう、三斤もあるやつなんですよ、あいつを取って振り上げると、うしろから頭蓋骨めがけて折ちおろした[#「折ちおろした」はママ]んです。旦那は叫び声さえも出さないで、すぐにぐったりしてしまったので、また二三度なぐりつけました。三度目に頭の皿の割れたらしい手ごたえがありました。旦那はそのまま仰向けに、顔を上にして倒れましたが、体じゅう血みどろなんです。私は自分の体を調べてみると、さいわいとばっちりもかかっていないので、卦算を拭いてテーブルの上にのせ、聖像の陰へ行って、封筒から金を取り出しました。そして、封筒を床の上に投げ捨て、ばら色のリボンもそのそばへおきました。ぶるぶる慄えながら庭へ出て、すぐさま空洞《うつろ》のある林檎の木のそばへ行きました、――あなたもあの空洞《うつろ》をご存じでしょう、私はもうとうから目星をつけておいて、その中へ布と紙を用意していたんです。そこで、金を残らず紙に包み、その上からまた布でくるんで、空洞の中へ深く入れました。こうして、二週間以上もそこにありましたよ、その金がね。その後、病院から出た時に、はじめてそこから取り出して来たわけで。それで、私は寝台へ帰って寝ましたが、『もし、グリゴーリイが死んでしまえば、はなはだ面白からんことになる。が、もし死なずに正気づけば、大変いい都合だがなあ。そうすりゃあの男は、ドミートリイさんが忍び込んで、旦那を殺して、金を盗んで行ったという証人になるに相違ない』とこう私はびくびくしながら考えました。そこで、私は一生懸命に唸りだしたんです。それは、少しも早くマルファを起すためだったので。とうとうマルファは起き出して、私のところへ走って来ようとしましたが、突然グリゴーリイがいないのに気がつくと、いきなり外へ駈け出して、庭で叫び声を立てるのが聞えました。こうして、夜どおしごたごたが始まったわけなんですが、私はもうすっかり安心してしまいましたよ。」
 話し手は言葉を休めた。イヴァンは身動きもしなければ、相手から目を放しもせず、死んだように黙り込んで、しまいまで聞いていた。スメルジャコフは話をしながら、ときおりイヴァンをじろじろと見やったが、大ていはわきのほうを見ていた。話し終ると、彼はさすがに興奮を感じたらしく、深く息をついた。顏には汗がにじみ出した。けれども、後悔しているかどうかは、見てとることができなかった。
「ちょっと待ってくれ」とイヴァンは何やら思い合せながら遮った。「じゃ、戸はどうしたんだ? もし親父がお前だけに戸を開けたのなら、どうしてその前にグリゴーリイが、戸の開いているところを見たんだ? グリゴーリイはお前よりさきに見たんじゃないか。」
 不思議なことには、イヴァンは非常に穏やかな声で、前とはうって変った、いささかも怒りをふくまない語調で訊いた。で、もしこのとき誰かそこの戸を開けて、閾のところから二人を眺めたなら、二人が何かありふれた面白い問題で、仲よく話をしているものと思ったに相違ない。
「その戸ですがね、グリゴーリイが見た時に開いていたというのは、ただあの男にそう思われただけですよ。」スメルジャコフは口を歪めてにたりと笑った。「一たいあいつは人間じゃありません。頑固な睾丸《きん》ぬき馬ですからね。見たんじゃなくって、ただ見たように思ったんですが、――そう言いだしたが最後、もうあとへは引きゃしません。あいつがそんなことを考えだしたというのは、私たちにとってもっけの幸いなんですよ。なぜって、そうなりゃ否でも応でも、ドミートリイさんへ罪がかかるに相違ありませんからね。」
「おい、ちょっと、」イヴァンはこう言ったが、また放心したようにしきりに考えていた。「おい、ちょっと……おれはまだ何かお前に訊きたいことがたくさんあったんだが、忘れてしまった……おれはどうも忘れっぽくて、頭がこんぐらかっているんだ……そうだ! じゃ、これだけでも聞かせてくれ。なぜお前は包みを開封して、床の上にうっちゃっておいたんだ? なぜいきなり包みのまま持って行かなかったんだ……お前がこの包みの話をしている時には、そうしなけりゃならなかったような気持がしたんだが……なぜそうしなけりゃならなかったのか……どうしてもおれにはわからない……」
「そりゃちょっとしたわけがあってしたんですよ。だって、前からその包みに金がはいってることを知っている慣れた人間は、――例えば私のように、自分でその金を包みの中へ入れたり、旦那が封印をして上書きまでなすったのを、ちゃんと自分の目で見たりしたような人間は、かりにその人間が旦那を殺したとしても、殺したあとでその包みを開封したりなんかするでしょうか? しかも、そんな急場の時にですよ。だって、そんなことをしなくても、金は確かにその包みの中に入ってることをちゃんと知ってるんじゃありませんか。まるで反対でさあ。私のようなこうした強盗は、包みを開けないで、すぐそれをかくしに入れるが早いか、一刻も早く逃げ出してしまいまさあね。ところが、ドミートリイさんはまったく別です。あの人は包みのことを話に聞いただけで、現物を見たことがありません。だから、もしあの人がかりに蒲団の下からでも包みを盗み出したとすれば、すぐにそれを開封して、確かに例の金が入ってるかどうか、調べてみるはずですよ。そして、あとで証拠品になろうなどとは考える余裕もなく、そこに封筒を投げ棄ててしまいます。あの人は常習犯の泥棒じゃなくって、今まで一度も人のものを取ったことがないんですもの、なにぶん代々の貴族ですからね。で、よしあの人が泥棒をする気になったからって、ただ自分のものを取り返すだけで、盗むというわけじゃないんですからね。だって、あの人は前もってこのことを町じゅうに言いふらしていたじゃありませんか。おれは出かけて行って、親父から自分のものを取り戻すんだと、誰の前でも自慢していたんですからね。私は審問の時この意味のことを、はっきりと言ったわけじゃありませんが、自分でもわからないようなふうに、そっと匂わせましたよ。ちょうど検事が自分で考え出したので、私が言ったんじゃない、というようなふうに、ちょっとほのめかしてやりました、――すると、検事はこの匂いを嗅ぎつけて、涎を垂らして喜んでいましたよ……」
「一たい、一たいお前はその時その場で、そんなことを考え出したのかい?」とイヴァンは呆れかえって、突拍子もない声で叫んだ。彼はふたたび驚異の色を浮べて、スメルジャコフを眺めた。
「まさか、あなた、あんな火急の場合に、そんなことを考え出していられるものですか? ずっと前から、すっかり考えておいたんです。」
「じゃ……じゃ、悪魔がお前に手つだったんだ!」とイヴァンはまた叫んだ。「いや、お前は馬鹿じゃない、お前は思ったよりよっぽど利口な男だ……」
 彼は立ちあがった、明らかに、部屋の中を歩き廻るためらしかった。彼は恐ろしい憂愁におちいっていたのである。ところが、通り道はテーブルに遮られて、テーブルと壁の間は、やっとすり抜けるほどしか余地がなかったので、彼はその場で一廻転しただけで、また椅子に腰をおろした。こうして歩き場を得なかったことが、急に彼をいらだたせたものとみえ、彼はいきなり以前のとおりほとんど無我夢中に叫んだ。
「おい、穢らわしい虫けらめ、よく聞け! お前にはわかるまいが、おれが今までお前を殺さなかったのは、ただお前を生かしておいて、あす法廷で答弁させようと思ったからだ。神様が見ておいでだ(イヴァンは片手を上げた)。あるいはおれにも罪があるかもしれない。実際、おれは内心、親父が死んでくれればいいと、望んでいたかもしれない。けれども、誓って言うが、おれはな、お前が思っているほど悪人じゃないんだぞ。おれはまるでお前を教唆しやしなかったかもしれない。いや、教唆なんかしなかった! だが、どの道おれはあす法廷で、自白することに肚を決めてる。何もかも言ってしまうつもりだ。だが、お前も一緒に法廷へ出るんだぞ! お前が法廷で、おれのことを何と言おうと、またどんな証拠を持ち出そうと、――おれはそれを承認する。おれはもうお前を恐れちゃいない。何もかも、自分で確かめる! だが、お前も白状しなけりゃならんぞ! 必ず、必ず、白状しなけりゃならんぞ! 一緒に行こう! もうそれにきまった!」
 イヴァンは厳粛な態度できっぱりとこう言った。彼の目の輝きから判断しても、もうそれにきまったことは明らかであった。
「あなたはご病気ですね、どうやら、よほどお悪いようですよ。あなたの目はすっかり黄いろになっていますよ」とスメルジャコフは言ったが、その言葉には嘲笑の語気は少しもなく、まるで同情するようであった。
「一緒に行くんだぞ!」とイヴァンは繰り返した。「もしお前が行かなくたって、同じことだ、おれ一人で白状する。」
 スメルジャコフは何か思案でもしているように、しばらく黙っていた。
「そんなことができるものですか。あなたは出廷なさりゃしませんよ」と彼はとうとう否応いわさぬ調子で、きっぱりとこう断じた。
「お前にはおれがわからないんだ!」とイヴァンはなじるように叫んだ。
「でも、あなた、何もかもすっかり白状なされば、とても恥しくってたまらなくなりますよ。それに、第一、何のたしにもなりませんよ。私はきっぱりとこう申します、――私はそんなことを一口だって言った覚えはありません、あなたは何か病気のせいか、(どうもそうらしいようですね)、それとも、自分を犠牲にしてまでも、兄さんを助けたいという同情のために、私に言いがかりをしてらっしゃるんです。あなたはいつも私のことを、蠅か虻くらいにしか思っていらっしゃらなかったんですから、って。ねえ、こう言ったら、誰があなたの言うことを本当にするものがあります? あなたはどんな証拠をもっておいでです?」
「黙れ、お前が今この金をおれに見せたのは、むろんおれを納得させるためなんだろう。」
 スメルジャコフは紙幣束の上から、イサアク・シーリンを取って、わきへのけた。
「この金を持ってお帰り下さい。」スメルジャコフはため息をついた。
「むろん、持って行くさ! だが、お前はこの金のために殺したのに、なぜ平気でおれにくれるんだい?」イヴァンはひどくびっくりしたように、スメルジャコフを見やった。
「そんな金なんか、私はまるでいりませんよ」とスメルジャコフは片手を振って、慄え声で言った。「はな私はこの金を持ってモスクワか、それともいっそ外国へでも行って、人間らしい生活を始めようと、そんな夢を見ていました。それというのも、あの『どんなことをしてもかまわない』から来てるんですよ。まったくあなたが教えて下すったんですもの。だって、あなたは幾度も私にこうおっしゃったじゃありませんか、――もし永遠の神様がなけりゃ、善行なんてものもない、それに、第一、善行なんかいるわけがないってね、それはまったく、あなたのおっしゃったとおりですよ。で、私もそういうふうに考えたんでございます。」
「自分の頭で考えついたんだろう?」イヴァンはにたりと、ひん曲ったような笑い方をした。
「あなたのご指導によりましてね。」
「だが、金を返すところから見れば、今じゃお前は神様を信じてるんだね?」
「いいえ、信じてやしませんよ」とスメルジャコフは囁いた。
「じゃ、なぜ返すんだ?」
「たくさんです……何でもありゃしません!」スメルジャコフはまた片手を振った。「あなたはあの時しじゅう口癖のように、どんなことをしてもかまわないと言っていらしったのに、今はどうしてそんなにびくびくなさるんですね? 自白に行こうとまで思いつめるなんて……ですが、何にもなりゃしませんよ! あなたは自白なんかなさりゃしませんよ!」スメルジャコフはすっかりそう決めてでもいるように、またもや、きっぱりとこう言った。
「まあ、見ているがいい!」とイヴァンは言った。
「そりゃ駄目ですよ。あなたはあまり利口すぎます。なにしろ、あなたはお金が好きでいらっしゃいますからね。そりゃちゃんとわかっていますよ。それに、あなたは名誉も愛していらっしゃいます。だって、あなたは威張りやですもの。ことに女の綺麗なのときたら、それこそ大好物なんですよ。が、あなたの一番お好きなのは、平和で満足に暮すことと、そして誰にも頭を下げないことですね、――それが何よりお好きなんですよ。あなたは法廷でそんな恥をさらして、永久に自分の一生を打ち壊してしまうようなことは、いやにおなんなさいますよ。あなたはご兄弟三人のうちでも、一ばん大旦那さんに似ていらっしゃいますからね。魂がまるであの方と一つですよ。」
「お前は馬鹿じゃないな。」イヴァンは何かに打たれたようにこう言った。彼の顔はさっと赤くなった。「おれは今まで、お前を馬鹿だとばかり思っていたが、いま見ると、お前は恐ろしくまじめな人間だよ!」今さららしくスメルジャコフを見つめながら、彼はこう言った。
「私を馬鹿だとお考えになったのは、あなたが高慢だからです。さ、金をお受け取り下さい。」
 イヴァンは三千ルーブリの紙幣束を取って、包みもしないでかくしへ入れた。
「あす法廷で見せるんだ」と彼は言った。
「法廷じゃ、誰もあなたを本当にしやしませんよ。いいあんばいに、あなたは今たくさんご自分の金をもっておいでですからね、自分の金庫から出して持って来たんだとしか、誰も思やしますまい。」
 イヴァンは立ちあがった。
「繰り返して言っておくがね、おれがお前を殺さなかったのは、まったく明日お前という人間が必要なからだ。いいか、これを忘れるなよ。」
「殺すならお殺しなさい。今お殺しなさい。」スメルジャコフは異様にイヴァンを見つめながら、異様な調子でだしぬけにこう言った。「あなたはそれもできないんでしょう」と彼は悲痛な薄笑いを浮べてつけたした。「以前は大胆な人でしたが、今じゃ何一つできないんですからね!」
「明日また!」と叫んで、イヴァンは出て行こうとした。
「待って下さい……も一度その金を私に見せて下さい。」
 イヴァンが紙幣を取り出して見せると、スメルジャコフは十秒間ばかり、じっとそれを眺めていた。
「さあ、お帰んなさい」と彼は片手を振って言った。「旦那!」彼はイヴァンのあとから、また突然こう叫んだ。
「何だい?」イヴァンは歩きながら振り向いた。
「おさらばですよ!」
「明日また!」とイヴァンはも一ど叫んで、小屋の外へ出た。吹雪は相変らず荒れ狂うていた。彼は初めちょっとのあいだ元気よく歩いていたが、急に足がふらふらしてきた。『これは体のせいだ。』彼はにたりと薄笑いをもらして、そう考えた。と、一種の歓喜に似たものが心に湧いた。彼は自分の内部に無限の決断力を感じた。最近はげしく彼を苦しめていた心の動揺が、ついに終りを告げたのである。決心はついた。『もうこの決心は変りっこなしだ』と彼は幸福を感じながら考えた。その途端、彼はふと何かにつまずいて、いま少しで倒れるところだった。立ちどまってよく見ると、さっき彼の突き飛ばした例の百姓が、もとの場所に気絶したまま、じっと倒れているのであった。吹雪はもうほとんどその顔ぜんたいを蔽うていた。イヴァンはいきなり百姓を掴んで、自分の背にひっ担いだ。右手に見える小家のあかりを頼りに進んで行き、とんとんと鎧戸を叩いた。やがて、返事をして出て来たあるじの町人に、三ルーブリお礼をする約束で、百姓を警官派出所に担ぎ込む手つだいを頼んだ。町人は支度をして出て来た。それから、イヴァンは目的を達して、百姓を派出所へ連れて行き、すぐに医師の診察を受けさせたばかりでなく、そこでも鷹揚に『さまざまな支払い』に財布の口を開けたことは、ここにくだくだしく書きたてまい。ただ一つ、言っておきたいのは、彼がこの手続きをするのに、ほとんど一時間以上かかったことである。けれども、イヴァンはすこぶる満足していた。彼の考えはそれからそれへと拡がって、働きつづけた。『もしおれが明日の公判のために、こんな固い決心をしていなければ』と彼は突然ある快感を覚えながら考えた。『百姓の始末なんぞに、一時間もつぶしはしなかったろう。さだめしそのそばを通り過ぎながら、やつが凍え死にしそうなのを冷笑したことだろう……だが、おれが自己反省の力をもってることはどうだ?』彼はその瞬間、さらに一倍の快感を覚えながらこう考えた。『それだのに、やつらはおれのことを、気がふれてるなんて決めこんで!』
 わが家の前まで帰りつくと、彼は急に立ちどまった。『今すぐ検事のところへ行って、何もかも陳述してしまったほうがよくないかしらん?』と自問したが、また家のほうへ向きを変えて、その疑問を決定した。『明日まとめて言おう』と彼は自分に囁いた。と、不思議にも、ほとんどすべての歓喜と自足が、一時に彼の胸から消えてしまった。彼が自分の部屋へはいった時、何やら氷のようなものが、とつぜん彼の心臓にさわった。それは一種の追憶のようなもので、より正確に言えば、この部屋の中に以前もあったし、今でもつづけて存在している、何か押しつけるような、忌わしいあるものに関する記憶であった。彼はぐったりと長椅子に腰をおろした。婆さんがサモワールを持って来た。彼はお茶をいれはしたが、まるっきり手にもふれないで、明日まで用事はないと言って、婆さんを返してしまった。長椅子に腰かけているうちに、頭がぐらぐらしてきた。何だか病気にかかって、ひどく衰弱しているような気がした。彼は眠けを催したが、不平らしく立ちあがり、眠けを払うために、部屋の中を歩きだした。ときおり、うなされてでもいるような気がした。けれど、何より気にかかるのは、病気ではなかった。彼はまた椅子に腰をおろして、何か捜してでもいるように、ときどきあたりを見まわしはじめた、それが幾度か繰り返された。最後に、彼の目はじっとある一点を見すえた。イヴァンはにやりとしたが、顔はさっと憤怒の紅に染められた。彼は長いあいだ長椅子に腰かけて、両手でしっかり顔をささえながら、やはり流し目に以前の一点、――正面の壁のそばにある長椅子を見つめていた。見受けたところ、何かが彼をいらだたせたり、不安にしたり、苦しめたりしているようなふうであった。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社