『カラマーゾフの兄弟』第十篇第四章 ジューチカ

[#3字下げ]第四 ジューチカ[#「第四 ジューチカ」は中見出し]

 コーリャはもったいらしい顔つきをして塀にもたれ、アリョーシャが来るのを待っていた。実際のところ、彼はもうずっと以前から、アリョーシャに会いたかったのである。彼は子供だちから、アリョーシャのことをいろいろ聞いていたが、今まではその都度、いつも冷やかな軽蔑の色を浮べるばかりでなく、話を聞き終ったあとで「批評」を下すことさえあった。が、内心ではアリョーシャと知合いになりたくてたまらなかったのである。アリョーシャの話には、いつ聞いても彼の同感を呼びさまし、その心をひきつけるような、何ものかがあった。といったわけで、今は彼にとってすこぶる重大な瞬間であった。第一、自分の面目を損うことなしに、独立した対等の人間だということを相手に示さねばならない。『でないと、僕を十三の小僧っ子だと思って、あんな連中と同じに見るかもしれない。アリョーシャは一たいあの子供らを何と思ってるだろう? 今度ちかづきになったら、一つ訊いてみてやろう。だが、どうも都合が悪いのは、僕の背が低いことだ。トゥジコフは僕より年が下だが、背は僕より二三寸高い。でも、僕の顔は利口そうだ。もちろん、綺麗じゃない、僕は自分の顔のまずいことを知っている。が、利口そうなことは利口そうだ。それからまた、あまりべらべら喋らないようにしなくちゃならない。でないと、アリョーシャはすぐ抱きついたりなんかして、ひとを子供あつかいにするかもしれない……ちぇ、子供あつかいになんぞされたら、とんでもない恥っさらしだ!………」
 コーリャは胸を躍らしながら、一生懸命に独立不羈の態度を保とうと努めていた。何より彼を苦しめたのは、背の低いことであった。顔の『まずい』よりも、背の低いことであった。彼の家の片隅の壁には、もう去年から鉛筆で線が引かれていたが、それは彼の背の高さをしるしづけたもので、それ以来は二月めごとにどのくらい伸びたかと、胸を躍らしながらその壁へ丈くらべに行くのであった。が、残念ながら、ほんの僅かしか伸びなかった。これがために、彼は時によると、もうほとほと絶望してしまうことがあった。顔は決して『まずい』ほうではなく、少し蒼ざめていて、そばかすはあるが、色の白い、かなり愛らしい顔だちであった。灰色の目はあまり大きくないが、生き生きと大胆な表情をしていて、よく強い感情に燃えたった。頬骨はいくらか広かった。唇は小さくてあまり厚くはなかったが、まっ赤な色をしていた。鼻は小さく、そして思いきり上を向いていた。『まったく獅子っ鼻だ、まったく獅子っ鼻だ!』とコーリャは鏡に向ったとき、口の中でこう呟いて、いつも憤然と鏡のそばを去るのであった。『顔つきだってあまり利口そうでもないようだ。』彼はどうかすると、そんなことまで疑うのであった。しかし、顔や背丈の心配が、彼の全心を奪い去ったと思ってはならない。むしろその反対で、鐘の前に立った瞬間、どれほど毒々しい気持になっても、あとからすぐ忘れてしまって(ながく忘れていることもあった)、彼がみずから自分の活動を定義した言葉によると、『思想問題と実際生活にすっかり没頭して』いたのである。
 間もなく出て来たアリョーシャは、急いでコーリャのそばへ近よった。まだよほど離れているうちから、アリョーシャがひどく嬉しそうな顔つきをしているのに、コーリャも気がついた。『僕に会うのがそんなに嬉しいのかしら?』とコーリャは満足らしく考えた。ここでついでに言っておくが、筆者《わたし》が彼の物語を中絶して以来、アリョーシャはすっかり様子が変ってしまったのである。彼は法衣を脱ぎ捨てて、今では見事に仕立てたフロックを着け、短く刈り込んだ頭にはソフトを被っていた。これが非常に彼の風采を上げて、立派な美男子にして見せた。彼の愛らしい顔は、いつも快活そうな色をおびていたが、この快活は一種の静かな落ちつきをおびていた。コーリャが驚いたのは、アリョーシャが部屋にいる時のままで、外套も羽織らずに出て来たことであった。確かに急いで来たらしかった。彼はすぐさまコーリャに手をさし伸べた。
「とうとう君も来ましたね。私たちはみんなでどんなに君を待ったでしょう。」
「ちょっとわけがあったものですからね。それは今すぐお話ししますが、とにかく、お近づきになって嬉しいです。とうから折を待っていたんですし、またいろいろとあなたのことを聞いてもいました」とコーリャは少し息をはずませながら呟いた。
「私たちはそれでなくても、もうずっと前から、知合いになっていなきゃならないはずだったのですよ。私もいろいろあなたのことを聞いていました。ですが、ここへ来るのがちと遅かったですね。」
「ねえ、ここの様子はどうなんです?」
「イリューシャの容態がひどく悪くなったんですよ。あれはきっと死にます。」
「え、何ですって! いや、カラマーゾフさん、医術なんてまったく陋劣なもんですよ」とコーリャは熱くなって言った。
「イリューシャはしょっちゅう、本当にしょっちゅう君のことを言っていました。眠ってて譫言にまで言うんですよ、確かに君はあの子にとって以前……あのことがあるまで……ナイフ事件の起るまで、非常に、非常に大切な人だったんですね。それに、またもう一つ原因があるんですよ……ねえ、これは君の犬ですか?」
「僕の犬です。ペレズヴォンです。」
「ジューチカじゃないんですか?」アリョーシャは残念そうにコーリャの目を眺めた。「じゃ、あの犬はもういよいよいなくなったんですか?」
「僕はあなた方がみんな揃って、ひどくジューチカをほしがってることを知っていますよ。僕すっかり聞いたんです」とコーリャは謎のように、にたりと笑った。「ねえ、カラマーゾフさん、僕はあなたに事情を残らず説明します。僕がここへ来たのも、おもにそのためなんですからね。僕は中へ入って行く前に、すっかりいきさつを話してしまおうと思って、それであなたを呼び出したんです」と彼は活気づいて話しだした。「こうなんですよ、カラマーゾフさん、イリューシャはこの春、予備科へ入ったでしょう。ところが、あの予備科の生徒はご存じのとおり、みんな子供連なんです、小僧っ子なんです。で、みんなはすぐにイリューシャをいじめだしたんです。僕は二級も上ですから、むろん遠く局外から見ていました。すると、イリューシャはあのとおり小さくって弱い子のくせに、勝気だもんですから、負けていないで、よくみんなと喧嘩をするんです。傲然とした態度でね、目はぎらぎら燃え立っています。僕はそうした人間が好きなんです。ところが、みんなはよけいあの子をいじめるじゃありませんか。ことにあの時分、イリューシャは汚い外套を着て、ズボンといったら上のほうへ吊りあがってるし、靴は進水式をしてるんでしょう。そのために、やつらはあの子を侮辱したんです。ところが、僕はそういうことが嫌いだから、すぐ中へ入ってやつらを撲りつけました。でも、やつらは僕を尊敬してるんです。カラマーゾフさん、本当ですよ」とコーリャは得意になってながながと自慢した。「だけど、だいたい、僕は子供連が好きなんです。今でも家で、ちびさん二人の面倒を見てるんですが、今日もそれにひっかかって遅れたんですよ。こういう工合で、みんなイリューシャを撲るのをやめました。僕あの子を保護してやったわけです。実際あれは権高な子供ですよ、これはあなたにも言っておきますが、確かに権高な子供ですよ。けれど、あの子は僕にだけは奴隷のように心服して、僕の言いつけは何でもきくんです。まるで僕を神様みたいに思って、何でも僕を真似ようとするじゃありませんか。放課時間になるたびに、僕んとこへやって来るので、僕はしじゅうあの子と一緒に歩きました。日曜日もやはりそうなんです。僕の中学校では、上級生が下級生とこんなに仲よくすると、みんなが笑いますが、それは偏見です。これが僕の意見なんです。それっきりです。ね、そうじゃありませんか? 僕はあの子を教えもすれば、開発もしました。そうでしょう、あの子が僕の気に入った以上、どうして開発するのが悪いんでしょう? カラマーゾフさん、あなたもあんな雛っ子さんたちと仲よくしていらっしゃるが、それもやはり、若い世代に影響を与えて、彼らを益し、開発してやろうと思うからでしょう? あなたのそうした性格を噂で聞いて、その点が僕に非常に興味を与えたんです。けれど、本題に入りましょう。実際、子供の中に一種の感傷的な心持が、一種のセンチメンタルな心持が成長していることも、僕は認めます。僕は生来そういう『仔牛の愛情』の敵なんです。それに、もう一つ矛盾があるんですよ。あの子は傲慢だけど、僕には奴隷みたいに心服していました、――まったく奴隷みたいに心服していたんです。それで、よくだしぬけに目をぎらぎら光らしながら、僕に食ってかかって、横車を押すじゃありませんか。僕がときどきいろんな思想を吹き込むと、あの子はその思想に同意しないってわけじゃないけれど、僕に対して個人的の反抗心を起す、――それが僕にはちゃんとわかるんです。なぜって、僕はあの子の仔牛みたいな愛情に対して、きわめて冷静な態度で答えるからです。そこで、あの子を鍛えるために、あの子が優しくすればするだけ、僕はよけい冷静になる、つまりわざとそうするんです、それが僕の信念なんです。僕はむらのないように性格を陶冶して、人間を作ることを目的としていたんですからね……まあ、そういったわけですよ……むろん、あなたはすっかりお話ししないでも、僕の言おうとする心持がおわかりになるでしょう。ある時ふと気がついてみると、あの子は一日も二日も三日も煩悶して、悲しんでいる様子じゃありませんか、しかも、それは仔牛の愛情のためじゃなくって、何かもっと強い、もっと高尚な別のものなんです。何という悲劇だろう、と僕は思いましたね。僕はあの子を詰問して事情を知りました。あの子は何かの拍子で、あなたの亡くなられたお父さん(その時はまだ生きていられましたが)の下男をしてるスメルジャコフと知合いになったんです。すると、スメルジャコフはあの子に、馬鹿げた冗談、いや野卑な冗談、憎むべき冗談を教え込んだのです。それは、柔かいパンの中にピンを突っ込んで、どこかの番犬に投げてやる、すると犬はひもじいまぎれに丸呑みにするから、そのあとがどうなるか見物しろというんです。二人はそういうパンの切れを拵えて、いま問題になってるあの縮れ毛のジューチカ、――誰も食べさせてやり手がなくて、一日から吠えばかりしてる屋敷の番犬に投げてやったんです(カラマーゾフさん、あなたはあの馬鹿げた吠え声がお好きですか? 僕、あれがとても我慢できないんですよ)。すると、先生いきなり飛びかかって、呑み込んだからたまらない。きゃんきゃん悲鳴をあげたり、くるくる廻ったりして、やたらに駈け出したものです。きゃんきゃん啼きながら駈け出して、とうとうどこかへ見えなくなってしまいました。イリューシャが、こう話して聞かせたんです。白状しながら、自分でもしくしく泣いて身慄いするんです。『駈けながら啼いてるんだ、駈けながら啼いてるんだ』と、こればかり繰り返し繰り返し言っていました。この光景があの子を動かしたんですね。こいつは良心の呵責だな、と思ったもんだから、僕は真面目に聞きました。実は前のことについても、あの子を仕込んでやりたかったので、心にもない、不満らしい様子をしながら、『君は下劣なことをしたものだ、君はやくざな人間だ。むろん僕は誰にも吹聴しやしないが、当分、君とは今までのような関係を断つことにする。僕は一つよくこのことを考えてみて、スムーロフ(それは僕と一緒に来たあの子供で、いつも僕に心服してるんです)を中に立てて、また君と交際をつづけるか、それともやくざ者として永久に棄ててしまうか、どっちか君に知らせよう』とこう言ったんです。これがあの子にひどくこたえたんですね。僕はすぐそのとき、あまり厳格すぎやしないかと感じましたが、仕方がありません、それがあの時の僕の信念だったんですからね。一日たって、スムーロフをあの子のとこへやって、自分はもうあの子と『話をしないつもりだ』と言わせました。これは、僕らの仲間で、絶交する時にいう言葉なんです。僕の肚では、あの子を幾日かのあいだ懲らしめてやって、悔悟の色を見た上で、また握手をしよう、というのでした。これは僕が固く決心した計画なんです。ところが、どうでしょう、あの子はスムーロフからそのことを聞くと、やにわに目を光らせて、『クラソートキンにそう言ってくれ。僕はどの犬にも、みんなピンを入れたパンを投げてやるからって』とそう叫んだそうです。で、僕も、『ふん、わがままが始まったな、あんなやつは排斥してやらなきゃならん』と思って、それからすっかりあの子を軽蔑するようになったんです。逢うたびに顔をそっぽへ向けたり、皮肉ににたりと笑ったりしました。そのうちに、あの子のお父さんの事件が起ったんです、ご存じですか、あの『糸瓜』ですよ? でねえ、こんなわけであの子の恐ろしい癇癪は、前から下地ができていたんですよ。子供たちは、僕があの子と絶交したのを見てとると、よってたかって、『糸瓜糸瓜』と言ってからかいだしました。ちょうどそのころ喧嘩がはじまったのですが、僕はそれを非常に残念に思います。なぜって、そのとき一度あの子がこっぴどく撲られたからです。で、ある時、あの子は教場から外へ出るが早いか、みんなに飛びかかってゆきました。僕はちょうど十歩ばかり離れたところで見ていました。誓って言いますが、そのとき僕は確かに笑わなかったはずです。いや、かえって僕はその時、あの子が可哀そうで、可哀そうでたまらなかったくらいです。すんでのことで、駈け出して、あの子を援けようと思いました。が、あの子はふと僕と目を見合せると、何と思ったか、だしぬけにナイフをとって僕に飛びかかり、太股を突き刺したんです、ほら、右足のここんとこですよ。僕は身動きもしませんでした。カラマーゾフさん。僕はどうかするとなかなか勇敢なんです。僕は目つきでもって、『君、僕のつくしたいろんな友誼に酬いるために、もっともっとやらないかね、僕はいつまでも君のご用を待ってるから』とでも言うように、軽蔑の色を浮べて眺めました。すると、あの子も二度と刺そうとしませんでした、持ちきれなかったんですね。びっくりしたようにナイフを投げ出して、声をたてて泣きながら駈け出しました。むろん僕は、言いつけもしなければ、教師の耳に入れないために、みんなに黙っているように命令しました。お母さんにさえすっかり癒ってしまった時、はじめて言っただけなんです。それに、ほんのちょっとした擦り傷だったんですもの。あとで聞いたんですが、その日にあの子は石を投げ合って、あなたの指まで咬んだそうですね、――しかし、まあ、考えてごらんなさい、あの子の心持はどんなだったでしょう! どうもしようがありません、僕はほんとに馬鹿なことをしたんです。あの子が病気になった時、なぜ行って赦してやらなかったんでしょう、つまり仲直りですね。今になって後悔してるんです。だけど、そこには特別の目的があったんです。あなたにお話ししたいと思ったのはこれだけです……ただ、どうも僕は馬鹿なことをしたようです……」
「ああ、実に残念です」とアリョーシャは興奮のていで叫んだ。「君とあの子の関係を前から知らなかったのが、私は実に残念です。それを知っておれば、とっくに君の家へ行って、一緒にあの子のとこへ来てもらうようにお願いするはずだったのに。本当にあの子は熱がひどい時など、君のことを譫言にまで言っていましたよ。私は君があの子にとって、どのくらい大事な人か知らなかったんで! 一たい君は結局、あのジューチカを捜し出せなかったんですか? 親父さんも子供たちも、みんな町じゅう捜し歩いたんですよ。本当にあの子は病気しながら、『お父さん、僕が病気になったのはね、あの時ジューチカを殺したからよ、それで、神様が僕に罰をお当てになったのよ』と言って、涙を流しながら、私の知っているだけでも、三度も繰り返したじゃありませんか。あの子の頭から、とてもこの考えを追い出すことができないんです! もし今あのジューチカを連れて来て、ジューチカが生きてるところを見せたら、あの子は嬉しまぎれに生き返るだろう、と思われるくらいです。私たちはみんな君を当てにしているんですよ。」
「でも、一たいどういうわけで、僕がジューチカを捜し出すだろうなんて、そんなことを当てにしてたんです。つまり、なぜ僕にかぎるんです?」コーリャは非常な好奇心をもって、こう訊いた。「なぜほかの人でなしに、僕を当てにしたんです?」
「君があの犬を捜していられるとか、捜し出したら連れて来て下さるとか、そういう噂があったんですよ。スムーロフ君も何かそんなふうなことを言っていました。とにかく、私たちはどうかして、ジューチカはちゃんと生きていて、どこかで見た人があるというように、あの子を信じさせようと骨を折ってるんです。このあいだ子供たちがどこからか、生きた兎を持って来ましたが、あの子はその兎を見ると、ほんの心持にっこりして、野原へ逃してくれと言って頼みました。で私たちはそうしてやりましたよ。たったいま親父さんが帰って来ました。やはり、どこからかマスチフ種の仔犬をもらって来て、それであの子を慰めようとしましたが、かえって結果がよくないようでした……」
「じゃ、もう一つお訊きしますが、カラマーゾフさん、一たいそのお父さんというのは、どんな人です? 僕はその人を知っていますが、あなたの定義では何者です、道化ですか、ピエロですか?」
「いや、とんでもない。世の中には深く感じながらも、ひどく抑えつけられているような人があるものですが、そういう人の道化じみた行為は、他人に対する憎悪に満ちた一種の皮肉なんです。長いこと虐げられた結果、臆病になってしまって、人の前では面と向って本当のことが言えないのです。ですからね、クラソートキン、そうした種類の道化は、時によると非常に悲観的なものなんです、今あの親父さんは、この世の望みを、すっかりイリューシャ一人にかけているんです。だからもし、イリューシャが死にでもしてごらんなさい、親父さんは悲しみのあまり気ちがいになるか、それとも自殺でもするでしょう。私は今あの人を見てると、ほとんどそう信ぜざるを得ません!」
「僕にはあなたの心持がわかりました。カラマーゾフさん、あなたはなかなか人間をよく知っていらっしゃるようですね。」コーリャはしみじみとこう言った。
「ですが、私は君が犬を連れて来られたので、あのジューチカだとばかり思いましたよ。」
「まあ、待って下さい。カラマーゾフさん、僕たちはことによったら、ジューチカを捜し出すかもしれませんよ。だけど、これは、これはペレズヴォンです。僕は今この犬を部屋の中へ入れましょう。たぶんイリューシャはマスチフ種の仔犬よりも喜ぶでしょう。まあ、待ってごらんなさい、カラマーゾフさん、今にいろんなことがわかりますから。だけど、まあ、どうして僕はあなたをこんなに引き止めてるんでしょう!」とコーリャはだしぬけに勢いよく叫んだ。「あなたはこの寒さに、フロックだけしか着ていらっしゃらないのに、僕こうしてあなたを外に立たせておいて。ほんとうに僕は、なんてエゴイストでしょう! ええ、僕たちはみんなエゴイストですよ、カラマーゾフさん!」
「心配しなくってもいいですよ。寒いことは寒いですが、私は風邪なんかひかないほうですから。が、とにかく行きましょう。ついでにお訊ねしておきますが、君の名前は何というんです? コーリャだけは知っていますが、それから先は?」
「ニコライです、ニコライ・イヴァノフ・クラソートキンです。お役所風に言えば息子のクラソートキン。」コーリャはなぜか笑いだしたが、急につけたした。
「むろん、僕はニコライという自分の名前が嫌いなんです。」
「なぜ?」
「平凡で、お役所じみた名前だから……」
「君の年は十三ですか?」とアリョーシャは訊いた。
「つまり、数え年十四です。二週間たつと満十四になります。もうすぐです。カラマーゾフさん、僕は前もってあなたに一つ自分の弱点を自白しておきます。それはつまり、僕の性質をいきなりあなたに見抜いてもらうために、お近づきのしるしとして打ち明けるんです。僕は自分の年を訊かれるのが厭なんです……厭なんていうよりもっと以上です……それにまた……たとえば、僕のことでこんなふうな、ありもしない評判がたってるんです。それはね、僕が先週、予科の生徒と盗賊ごっこをして遊んだ、って言うんですよ。僕がそういう遊戯をしたのは実際ですが、ただ自分のために、自分の楽しみのためにそんな遊戯をしたっていうのは、ぜんぜん中傷です。僕はこのことがあなたの耳にも入ってると思う相当の根拠を持っていますが、しかし、僕は自分のためにそんなことをしたんじゃありません。子供連のためにしたんです。なぜって、あの連中は僕がいなけりゃ、何にも考えだすことができないからです。この町ではいつもつまらない噂をひろげていますからね。この町は中傷の町ですよ、本当に。」
「だって、自分のためだって、べつにどうということはないじゃありませんか?」
「え、自分のために……あなただって、まさか馬ごっこをしないでしょう?」
「じゃ、こういうふうに考えてごらんなさい」とアリョーシャは微笑した。「たとえば、大人は芝居を見に行きますね。だが、芝居でもやはりいろんな人物の冒険が演ぜられるんです。どうかすると、強盗や戦争さえ出て来ます。これだって、やはり一種の遊戯じゃありませんか! 若い人たちが気ばらしに盗賊ごっこをするのは、やはり芸術欲の発展なんです。若い心に芸術欲が芽生えるからです。そして、こういう遊戯はどうかすると、芝居よりももっと手ぎわよく仕組まれることさえあります。ただ違うところは、芝居へ行くのは役者を見るためですが、遊戯のほうでは子供たち自身が役者だってことでしょう。しかも、それは自然なことです。」
「あなたはそうお考えですか? それがあなたの信念なんですね?」コーリャはじっと彼を見た。「あなたのおっしゃったことは非常に面白い思想です。僕もきょう家へ帰ったら、この問題について、少し頭を働かしてみましょう。実際あなたからは何か教えられるだろうと、僕も予期してたんですよ。カラマーゾフさん、僕はあなたから教えを受けようと思って、やって来たんですよ。」コーリャは感動の充ち溢れるような声で、しみじみと言葉を結んだ。
「私も君からね。」アリョーシャは彼の手を握って、にっこりした。
 コーリャはひどくアリョーシャに満足した。ことにコーリャを感動させたのは、アリョーシャがまったく同等な態度で彼を遇し、まるで『大人』と話しをするようにものを言うことであった。
カラマーゾフさん、僕は今あなたに一つ手品をお目にかけますよ。これもやはり一つの芝居なんですよ。」彼は神経的に笑った。「僕はそのために来たんです。」
「はじめまず左へ曲って、家主のところへ行きましょう。そこでみんな外套を脱いで行くんです。なぜって、部屋の中は狭くってむし暑いんですから。」
「なあに、僕はただちょっと入って、外套のままでいますよ、ペレズヴォンはここの玄関に残って死んでいますよ。『ペレズヴォン、|お寝《クーシュ》、そして死ぬんだ!』どうです、死んだでしょう。ところで、僕がさきに入って中の様子を見て、それからちょうどいい時に口笛を鳴らして、『|来い《イシ》、ペレズヴォン』と呼ぶと、見ててごらんなさい。すぐ、気ちがいのように飛び込んで来ますよ。ただ、スムーロフ君が、その瞬間、戸を開けることを忘れさえしなければいいです。まあ、僕がいいように手くばりして、その手品をお目にかけますよ……」
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十篇第三章 生徒たち

[#3字下げ]第三 生徒たち[#「第三 生徒たち」は中見出し]

 けれど、コーリャにはもうこの言葉は聞えなかった。彼はやっと出かけることができた。門の外へ出ると彼はあたりを見まわし、肩をすぼめ、『ひどい寒さだ!』とひとりごちて、通りをまっすぐに歩いて行ったが、とある横町を右へ折れて、市《いち》の広場をさして行った。広場へ出る一軒てまえの家まで来ると、彼は門のそばに立ちどまり、かくしから呼び子を取り出して、約束の合図でもするように、力一ぱい吹き鳴らした。一分間も待つか待たないうちに、木戸口から血色のいい男の子が飛び出して来た。年は十一くらいで、さっぱりとした暖かそうな、ほとんど贅沢といっていいくらいな外套を着ていた。この子供は予科にいる(コーリャより二級下の)スムーロフで、ある富裕な官吏の子であった。彼の両親は自分の息子に、危険性をおびた名うての腕白者であるコーリャと遊ぶことを許さないらしく、スムーロフはそっと抜け出して来た模様である。おそらく読者は記憶しているだろうが、このスムーロフは、二カ月まえ溝の向うからイリューシャに石を投げつけた少年群にまじっていた一人で、その時イリューシャのことを、アリョーシャに話して聞かせた子であった。
「クラソートキン君、僕はもう一時間も、君を待ったんですよ」とスムーロフは断乎たる色を見せながら言った。子供ふたりは広場のほうへ向けて歩きだした。
「遅れたんだ」とコーリャは答えた。「ある事情があってね。君、僕と一緒に歩いて折檻されやしないかい?」
「ああ、もうよして下さい、折檻なんかされるもんですか。ペレズヴォンも連れて来ましたか?」
「つれて来たよ!」
「それで、やはりあそこへ?」
「ああ、やはりあそこへ。」
「ああ、もしジューチカがいたらなあ!」
「ジューチカのことは言いっこなし、ジューチカはもういないんだ。ジューチカは未知の闇の中に葬られちゃったんだ。」
「ああ、こういうふうにしちゃいけないかしら。」スムーロフは急に立ちどまった。「ねえ、イリューシャが言うには、ジューチカもやはり縮れ毛で、青味がかった灰色の犬だったそうだから、これがそのジューチカだって言っちゃいけないかしら。ことによったら、本当にするかもしれませんよ。」
「君、学生が嘘をつくのはよくないよ。これが第一で、たとえいいことのためだって、決して嘘をつくもんじゃない、これが第二だ。が、それよりも君はあそこで、僕が行くってことを喋りゃしなかったろうね。」
「とんでもない、そりゃ僕もわかってますよ。だけど、ペレズヴォンじゃあいつが承知しませんよ。」スムーロフはほっとため息をついた。「こうなんですよ、あの親父ね、『糸瓜』の大尉ね、あれがこう言うんです、――きょう鼻の黒い本当のマスチフ種の仔犬をもらって来てやるって。あいつはその犬でイリューシャの機嫌を直すつもりなんだけど、とてもむずかしいでしょう。」
「だが、一たい先生はどうだい、イリューシャは?」
「ああ、どうもいけないんですよ、いけないんですよ! 僕あれはきっと肺病だと思うなあ。気は確かなんだけど、変な息の仕方でね、その息づかいが悪いんです。この間も少し歩かせてくれって頼むから、靴をはかせてやると、一足ゆきかけて、ぶっ倒れてしまうじゃありませんか。そのくせ、『ああ、お父さん、これはもとの悪い靴で、もう前っから歩きにくくっていけないって、僕しじゅうそう言ってるじゃありませんか』なんて言うんです。あいつは倒れるのを靴のせいにしてるんだけど、なに、ただ体が弱ってるからですよ。もう一週間ももちゃしない。ヘルツェンシュトゥベが診察に来てるんですよ。今あすこの家は金ができてるんですからね。たくさんもってますよ。」
「かたりだよ。」
「誰が?」
「医者だとか医術を種にしている有象無象さ。これは一般的に言っての話だが、個別的に言ったって、もちろんのことだよ。僕は医術というものを認めないんだ。無駄なことだよ。しかし、僕そのうちにすっかり調べ上げるよ、だが、君らはなんてセンチメンタルなことを始めたんだ? 君らは全級こぞってあそこへ行ってるらしいじゃないか?」
「全級こぞって行くわけじゃないんです。十人ばかりの仲間がいつも毎日ゆくんです。そんなこと何でもないじゃありませんか。」
「しかし、この件について不思議なのは、アレクセイ・カラマーゾフの役廻りだよ。あいつの兄は明日か明後日あたり、ああいう犯罪のために裁判されようとしてるのに、どうしてあの男は子供たちと、そんなセンチメンタルな真似をしてる余裕があるんだろう?」
「それは、センチメンタルなことでも何でもないんですよ。だって、そういう君だって、イリューシャと仲直りに行ってるじゃありませんか。」
「仲直り! 滑稽な言葉だね。もっとも、僕は誰にも自分の行為を解剖することを許さないよ。」
「だが、イリューシャは君に会ったら、どんなに喜ぶかしれませんよ! 君が来ようとは、夢にも思ってないんですからね。なぜ君は、なぜ君はあんなに長いこと行こうとしなかったんです?」とスムーロフは熱くなって叫んだ。
「ねえ、君、それは僕の知ったことで、君のことじゃないんだ。僕は自分で勝手に行くんだ。それが僕の意志なんだから。君たちはみんな、アレクセイ・カラマーゾフに引っ張られて行ったんだろう、そこに違いがあるんだよ。それに、僕が行くのは、決して仲直りのためじゃないかもしれないんだよ、仲直りなんてばかばかしいじゃないか。」
「いいえ、アレクセイに引っ張られて行ったんじゃないんです、決して、そうじゃありません。僕らは自分で勝手に行ったんですよ。むろん、初めはアレクセイと一緒に行ったけど、決して何もそんな馬鹿なことをしやしないんですよ。最初に一人、次にもう一人といったふうにね、僕らが行ったら、親父はひどく喜びましたよ。ねえ、君、もしイリューシャが死にでもしたら、親父は本当に気ちがいになりますよ。親父はイリューシャが死ぬことを見抜いているんです。だから、僕らがイリューシャと仲直りしたとき、喜んだの喜ばないのって。イリューシャはちょっと君のことを訊いただけで、ほかに何も言やしませんでした。訊いてしまうと、それっきり黙り込むんですよ。だが、親父さんはきっと気ちがいになるか、それとも頸をくくるかどっちかに違いないんです。あの人は前も気ちがいのようだったんですからね。ねえ、あの人は潔白な人なんですよ、あの時はただ間違いが起ったんですよ。あの親殺しがあの時あの人をあんなにぶったのは、やはりあの親殺しが悪かったんです。」
「だが、どっちにしても、カラマーゾフは僕にとって謎だね。僕はとうからあの男と知合いになれたんだけれど、僕は場合によると傲慢にするのが好きでね。それにあの男については、僕もある意見を纏め上げたんだが、しかしそれはも少し研究して、闡明しなきゃならない。」
 コーリャはもったいらしく口をつぐんだ。スムーロフも口をつぐんだ。むろん、スムーロフはコーリャを崇拝しきっているので、彼と同等になろうなどとは、考えさえしなかった。今も彼はコーリャにひどく興味をもちはじめた。それは、コーリャが『自分の勝手で』行くのだと説明したからである。してみると、コーリャがきょう突然、行こうと思い立ったについては、きっと何かわけがなければならぬと考えたのである。二人は市《いち》の広場を歩いていた。広場には、近在から来た荷車がたくさん置いてあって、追われて来た鵞鳥ががやがや集っていた。町の女連はテントの中で、輪形のパンや糸などを売っていた。日曜日のこうした集りを、この町では無邪気にも定期市と呼んでいた。この定期市は一年間に幾度もあった。ペレズヴォンはどこかで何かの匂いを嗅ごうとして、ひっきりなしに右左へそれながら、極上の機嫌で走っていた。ほかの犬に出くわすと大乗り気のていで、犬のあらゆる法則にしたがって、互いに嗅ぎ廻すのであった。
「スムーロフ君、僕はリアリズムを観察することが好きでね。」コーリャは突然こう言いはじめた。「君は犬が出くわした時、お互いに匂いを嗅ぎ合うのに気がついたろう? それにはある共通な天性の法則があるんだよ。」
「そう、何だかおかしな法則がね。」
「ちっともおかしかないよ。そりゃ君が間違ってるよ。たとえ偏見に充ちた人間の目からどう見えたって、自然の中にはおかしいものなんか少しもないんだよ。もし君、犬が考えたり、批評したりできるものとしてみたまえ、彼らもその命令者たる人間相互の社会関係に、ほとんどこれと同じくらい、いや、かえってもっとよけいに、滑稽な点を見いだすに違いないよ、――ああ、かえってもっとよけいあるよ。僕がこんなに繰り返して言うのは、われわれ人間のほうがずっとよけいに、馬鹿らしい癖を持っているのを、かたく信じているからだよ。これはラキーチンの意見だが、実際ずぬけた思想だ。スムーロフ君、僕は社会主義者なんだよ。」
社会主義者って何?」とスムーロフは訊いた。
「それはね、もしすべての人が平等で、一つの共通な意見を持っているとすれば、結婚なんてものはなくなってしまって、宗教や法律などは誰でも勝手ということになるんだ。まあ、万事そういった調子さ。だが、君はまだこれがわかるほど、十分大きくなっていない、君にはまだ早い……だが、寒いね。」
「そうですね。十二度ですもの。さっきお父さんが寒暖計を見たんです。」
「スムーロフ君、君は十五度、十八度という冬のまっ最中よりも、たとえばこの頃みたいに、とつぜん十二度の寒さがどかっと来る冬の初め、まだ雪も降ってない冬の初めのほうが、かえって寒いってことに気がついたかい。それはつまり、僕らがまだ寒さに慣れないからだよ。人はとかく慣れやすいものだ。国家的、政治的関係でも何でもそうだ。習慣がおもなる原動力なんだ。だが、あいつは滑稽な百姓だねえ。」
 コーリャは、毛裏の外套を着た背の高い一人の百姓を指さした。彼は人のよさそうな顔つきをして、寒さを防ぐために自分の荷車のそばで、手袋をはめた手をぱたぱたと打ち合せていた。長い亜麻色の顎鬚は、すっかり霜におおわれていた。
「この百姓の顎鬚は凍ってらあ!」コーリャはそのそばを通り過ぎながら、大きな声で意味ありげに叫んだ。
「誰のでも凍ってるだよ。」百姓は落ちつきはらって、ものものしく呟くように答えた。
「からかうのはおよしなさい」とスムーロフは注意した。
「なに、怒りゃしない。あいつはいい男だから、さようなら、マトヴェイ。」
「さようなら。」
「おや、お前は一たいマトヴェイなのかい?」
「マトヴェイだよ。お前さん知らなかっただかね?」
「知らなかった。僕はあてずっぽに言ってみたんだ。」
「へえ、なんて子供だ。おめえ学校生徒かね?」
「生徒だよ。」
「じゃ、先生にぶたれるかね?」
「ぶたれるというわけでもないが、ちょっとその。」
「痛いかね?」
「痛くないこともないさ!」
「おお、可哀そうに!」百姓は心の底からため息をついた。
「さようなら、マトヴェイ。」
「さようなら、おめえは可愛らしい若え衆だのう、ほんに。」
 二人の少年はさらに歩みつづけた。
「あいつはいい百姓だよ」とコーリャはスムーロフに話しかけた。
「僕は民衆と話をするのが好きでね、いつでも喜んで彼らの美点を認めてやるんだよ。」
「なぜ君は僕らがぶたれてるなんて、あの男に嘘をついたんです?」とスムーロフは訊いた。
「だって、あいつも少しは慰めてやらなきゃならないじゃないか!」
「なぜ?」
「スムーロフ、僕は一ことですぐわからないで、訊き返されるのが嫌いなんだ、なかにはどんなにしても、合点させることのできないようなやつがいるからね。百姓たちの考えによれば、生徒はぶたれるものなんだ、ぶたれなきゃならないものなんだ。もし、生徒がぶたれなきゃ、そりゃ生徒じゃありゃしない。だから、僕がぶたれないと言ってみたまえ。あいつ悲観しちゃうに違いないよ。だが、君にゃそんなことわからない。民衆と話をするには呼吸がいるよ。」
「だけど、後生だから、突っかかるのをよして下さい。でないと、またあの鵞鳥の時みたいなことがもちあがるから。」
「じゃ、君はこわいんだね?」
「笑っちゃいけませんよ、コーリャ、僕まったくこわいんです。お父さんがひどく怒りつけるに相違ないんだもの。僕は君と一緒に歩いちゃいけないって、厳しく止められてるんですよ。」
「心配することはないよ。こんどは何にも起りゃしない。やあ、こんにちは! ナターシャ。」彼は掛小屋の中の物売り女の一人にこう声をかけた。
「わたしはナターシャじゃない、マリヤだよ」と物売り女は、呶鳴るように言った。彼女はまだ年よりというほどでなかった。
「マリヤというのかい、そりゃいいね、さようなら。」
「ええ、この生意気小僧め、どこにいるか目にも入らないちびのくせに、人並みのことを言やがる。」
「そんな暇あないよ、お前なんかと話をする暇は。この次の日曜日にでも話をしようよ。」まるでこっちからではなく、先方から話しかけでもしたように、コーリャは手を振った。
「日曜日にお前と何の話をするんだい? 自分で突っかかって来やがったくせに、ごろつき!」とマリヤは呶鳴りたてた。「ぶん撲ってやるぞ、本当に、人を馬鹿にしくさって!」
 マリヤと並んで、てんでに屋台で商いをしていた物売りの女の間には、どっと笑い声が鳴り渡った。と、いきなり今までの話に腹をたてた一人の男が、町のアーケードの中から跳び出して来た。彼は番頭風をしていたが、この町の商人ではなく渡り者であった。青い裾長の上衣《カフタン》を着て、廂のついた帽子をかぶり、濃い亜麻色の縮れ毛に、長い蒼ざめたあばた面をした、まだ若そうなその男は、ばかばかしく興奮しながら、拳を振ってコーリャを嚇しはじめた。
「おれは手前を知ってるぞ」と彼はいらだたしげに叫んだ。
「おれは手前を知ってるぞ?」
 コーリャはじっと彼を見つめた。が、その男といつどんな喧嘩をしたのか、どうも思い出すことができなかった。往来で喧嘩をしたことは一度や二度でないので、それを一々思い出すことはできなかった。
「知ってる?」と彼は皮肉に訊いた。
「おれは手前を知ってるんだ! おれは手前を知ってるんだ!」若い男は馬鹿の一つ覚えに、同じことばかり繰り返した。
「そりゃ結構だね。だが、僕は今いそがしいんだ、失敬するよ!」
「何だって生意気なことを言うんだ?」と町人は叫んだ。「またしても生意気なことを言やがって! おれは貴様を知ってるぞっ! しじゅう生意気なことばかり言やがって!」
「おい君、僕が生意気なことを言おうと言うまいと、この場合、君の関係したことじゃないよ。」コーリャは依然として彼を見つめながら、立ちどまってこう言った。
「どうしておれの関係したことでないんだ?」
「なに、ただ君の関係したことでないんだよ!」
「じゃ、誰の関係したことだ? 誰のことだ? え、誰のことだ?」
「そりゃね、今のところ、トリーフォン・ニキーチッチに関係したことで、君のことじゃないよ。」
「トリーフォン・ニキーチッチたあ、誰のことだ?」やはり熱してはいたが、馬鹿のような驚き方をして、若者はコーリャに詰め寄った。コーリャは、もったいらしく、じろじろ彼を見まわした。
「昇天祭に行ったかね?」突然きっとした調子で熱心に訊いた。
「昇天祭たあ何だ? 何のために? いや、行かなかった。」若者はいささか毒気を抜かれた。
「君はサバネーエフを知ってるかね?」とコーリヤは一そう熱心に、一そうきっとした調子でつづけた。
「サバネーエフたあ誰だ? いや、知んない。」
「ふん、それじゃお話になりゃしない!」コーリャはいきなり言葉を切って、くるりと右のほうへ向きを変えた。そしてサバネーエフさえ知らないようなたわけとは、話をするのもばかばかしいといったふうに、すたすた歩きだした。
「おい、こら、待てっ! サバネーエフって誰のことだ?」若者はわれに返って、また興奮しながらこう言った。
「あいつは一たい何を言ったんだ?」彼はにわかに物売り女たちのほうへ振り向いて、愚かしい顔つきをしながら、一同を見た。
 女房たちは笑いだした。
「変った子だよ」と一人が言った。
「誰のことだい、一たい誰のことだい、あいつがサバネーエフと言ったのは!」若者は右の手を振りながら、いきおい猛に繰り返した。
「ああ、そりゃきっと、クジミーチェフのとこで使われていた、あのサバネーエフのことだよ。きっとそうだよ。」だしぬけに一人の女が推察を下した。
 若者はきょとんとした目をじっとその女に据えた。
「クジ……ミー……チェフ?」もう一人の女が鸚鵡返しにこう言った。「じゃ、なんのトリーフォンなものか? あれはクジマーで、トリーフォンじゃありゃしないよ。ところが、あの子はトリーフォン・ニキーチッチと言ってたから、つまりあの男たあ違うんだよ。」
「なあに、そりゃトリーフォンでもサバネーエフでもなくって、チジョフっていうんだよ。」それまで黙って真面目に聞いていたもう一人の女が、とつぜん口を入れた。「あの人は、アレクセイ・イヴァーヌイチていうんだよ。チジョフさ、アレクセイ・イヴァーヌイチさ。」
「そうそう、本当にチジョフって言ったよ。」さらにいま一人の女が熱心にこう言った。
 若者は呆気にとられて、女たちの顔をかわるがわる見まわした。
「じゃ、あいつ何だってあんなことを訊いたんだ、おい、なぜ訊いたんだ?」と彼はほとんどやけに叫んだ。「『サバネーエフを知ってるかい?』だってさ。馬鹿にしてやがらあ、一たいそのサバネーエフていうなあ、誰のことなんだ?」
「お前さんも血のめぐりの悪い人だね。それはサバネーエフじゃない、チジョフだって言ってるじゃないか、アレクセイ・イヴァーヌイチ・チジョフだよ、そうなんだよ!」と一人の物売り女が噛んで含めるように言った。
「チジョフってどんな男だね? どんな男だね? 知ってるなら聞かせてくれ。」
「何でも背のひょろ長い、鼻っ垂らしの、夏分市場にいた男だよ。」
「だが、そのチジョフがおれに何だって言うんだ、え、みなの衆?」
「チジョフがお前さんに何だろうと、そんなことわたしが知るものかね。」
「誰が知るものかね」ともう一人の女が口を入れた。「お前さんこそ、そんなに騒ぎたてるくらいなら、自分で知ってそうなもんじゃないか。あの子はお前さんに言ったんで、わたしたちに言ったんじゃないからね。お前さんもよっぽど阿呆だよ。でも、本当に知らないのかね!」
「誰を?」
「チジョフをさ。」
「チジョフなんかくそ食らえだ、ついでに手前も一緒によ! 見ろ、あいつぶち殺してやるから! おれを馬鹿にしやがったんだ。」
「チジョフをぶち殺すって? あべこべにお前のほうがやられらあ! お前は馬鹿だよ、本当に!」
「チジョフじゃない、チジョフじゃないってば、ろくでなしの悪党婆め、餓鬼をぶち殺してやると言ってるんだよう! あいつをつれて来てくれ、あいつをここへつれて来てくれ。あいつしと[#「しと」に傍点]をなぶりゃがったんだ!」
 女たちは大声を上げて笑った。が、コーリャはそのとき勝ち誇ったような顔つきで、もうずっと向うのほうを歩いていた。スムーロフは、うしろに叫ぶ人々の群を顧みながら、コーリャについて歩いた。彼はコーリャの巻き添えになりはせぬかと危ぶみながらも、やはり大いに愉快なのであった。
「君があの男に訊いたサバネーエフっていうのは、一たいどんな男なの?」彼はもう答えを予感しながら、コーリャに訊いた。
「どんな男か僕が知るものかい! あいつらはああして晩まで呶鳴り合ってるだろう。僕はね、こうして社会の各階級の馬鹿者どもを、揺ぶってやるのが好きなんだよ。そら、またのろま野郎が立ってる。ほら、あの百姓だよ。ねえ君、『馬鹿なフランス人より馬鹿なものはない』とよく言うが、しかしロシヤ人のご面相は、すっかり本性を現わしているよ。ねえ、あいつの顔には、この男は馬鹿なり、と書いてあるだろう、あの百姓の顔にさ、え?」
「よしなさい、コーリャ、かまわずに行きましょうよ。」
「どうしてかまわずにいられるものか。さあ、僕は始めるよ。おい! 百姓、こんにちは!」
 頑丈な百姓がすぐそばをのろのろと歩いていた、一杯ひっかけたものらしい。丸っこい、おめでたそうな顔で、顎鬚は胡麻塩になっていた。彼は頭を持ちあげて少年を見た。
「やあ、もしふざけるんでなけりゃ、こんにちは!」彼はゆるゆるとした調子でこう答えた。
「じゃ、もしふざけてるんだと?」コーリャは笑いだした。
「なあに、ふざけるならふざけるがええ、そりゃおめえの勝手だあ。そんなこたあちっともかまやしねえ。いつでも勝手にふざけるがええだ。」
「君どうも失敬、ちょっとふざけたんだよ。」
「なら、神様が赦して下さるだ。」
「お前も赦してくれるかね?」
「そりゃあ赦すとも。まあ、行きなせえ。」
「ほんとにお前は! だが、お前は利口な百姓かもしれないね。」
「お前よりちっとんべえ利口だよ。」百姓は思いがけなく、依然としてもったいらしい調子で、こう答えた。
「まさか」とコーリャは、ちょっと度胆を抜かれた。
「本当の話だよ。」
「いや、そうかもしれないな。」
「そうだとも、お前。」
「さようなら、百姓。」
「さようなら。」
「百姓もいろいろあるもんだね。」しばらく黙っていたあとで、コーリャはスムーロフに言った。「僕もまさか、こんな利口なやつにぶっ突かろうとは思わなかったよ。僕はどんな場合でも、民衆の知恵を認めるに躊躇しないね。」
 遠い会堂の時計は十一時半を打った。二人の少年に急ぎだした。そして、二等大尉スネギリョフの家までだいぶ遠い路を、ほとんど話もせずにぐんぐん歩いて行った。もう家まで二十歩ばかりというとき、コーリャはぴったり足をとめ、一あし先に行って、カラマーゾフを呼び出すように、とスムーロフに言いつけた。
「まず当ってみる必要があるんだ」と彼はスムーロフに言った。
「だって、なぜ呼び出すの」とスムーロフは言葉を返した。
「このまま入っても、みんな君が来たのをひどく喜ぶよ。それに、なぜこんな寒い外なんかで、近づきになるんだろう?」
「あの男をこの寒いところへ呼び出さなけりゃならないわけは、僕もう自分でちゃんと心得てるんだ。」コーリャは高圧的に遮った(これはこの『小さい子供たち』に対して、彼がとくに好んでやる癖であった)。スムーロフは命令をはたすべく駈けだした。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十篇第二章 幼きもの

[#3字下げ]第二 幼きもの[#「第二 幼きもの」は中見出し]

 ちょうど、この寒さの激しい、北風の吹きすさぶ十一月の朝、コーリャはじっと家に坐っていた。日曜日で学校は休みであった。しかし、もう十一時も打ったので、彼はぜひとも『ある非常に重大な用事のために』外へ出かけなければならなかった。しかし、家の中には、彼が一人で留守番に残っていた。というのは、この家に住まっている年上の人たちが、ある特別な一風変った事情のために、みんな外出していたからである。クラソートキナの家には、彼女が自分で使っている住まいから玄関を境に、たった一つだけ区切りをした別な住まいがあった。それは小さな部屋二間きりで、二人の幼い子供をつれた医者の細君が間借りしていた。この細君はクラソートキナと同じくらいの年輩で、彼女とは非常な仲よしであった。主人の医者はもう一年も前にどこかへ旅に出かけた。何でも最初はオレンブルグ、次にタシケントへ行ったとのことであるが、もう半年このかた音も沙汰もない。で、もしクラソートキナ夫人という親友が、幾分でも悲しみをやわらげてくれなかったら、留守をまもる細君は悲しみのあまり、泣き死んでしまったかもしれない。ところが、運命はあらゆる残虐をまっとうするためか、ちょうどその夜、土曜から日曜へかけて、細君にとってかけ替えのない女中のカチェリーナが、突然だしぬけに、朝までに赤ん坊を生むつもりだと言いだした。どういうわけで以前たれ一人[#「たれ一人」はママ]気のつくものがなかったのか、これはみんなにとってほとんど奇蹟であった。びっくりした医者の細君は、まだ間があるうちに、町のある産婆がこういう場合のために建てた産院へ、カチェリーナをつれて行こうと思案した。彼女はこの女中をひどく大事にしていたので、時を移さず自分の計画を実行し、彼女を産院へ連れて行ったのみならず、そこに残って看護することにした。それから、朝になると、どうしたわけか、クラソートキナ夫人までが親しく手を下して、医者の細君に手つだってやらねばならなかった。夫人はこの場合、誰かに物事を頼んだり、何かと面倒を見てやったりすることのできる人であった。こうしたわけで、二人の夫人は外出していた。おまけに、クラソートキナ夫人の女中アガフィヤは市場へ出かけた。
 で、コーリャは一時『ちびさん』、つまり家に残されている細君の男の子と女の子との、保護者兼看視者となったのである。コーリャは家の留守番だけなら少しも怖いと思わなかった。それに、ペレズヴォンもついている。ペレズヴォンは控え室にある床几の下で『じいっ』とうつ伏せに寝ておれと言いつけられていたので、家じゅう歩き廻っているコーリャが控え室へ入って来るたびに、ぶるぶるっと頭を慄わせ、機嫌をとるように、尻尾で強く二度ばかり床を叩くのであった。けれども、悲しいかな、来いという口笛は鳴らなかった。コーリャが嚇すようにじっと睨むと、犬は可哀そうに、またおとなしく痺れたように身を縮めるのであった。もし何かコーリャを当惑させるものがあるとすれば、それはただ『ちびさん』だけであった。もちろん、彼はカチェリーナに関する思いがけない出来事を、深い深い軽蔑の念をもって眺めていたが、孤児になっている『ちびさん』を可愛がることは非常なものだったから、だいぶ前に何か少年用の本を持って来てやったほどである。九つになる姉娘のナスチャはもう本が読めた。そして、弟の『ちびさん』、七つになる少年コスチャは、ナスチャに読んで聞かせてもらうのが大好きだった。もちろん、クラソートキンは二人の子供を、もっと面白く遊ばせることもできたはずである。つまり、二人を立たせて兵隊ごっこをしたり、家じゅう駈け廻って隠れん坊をしたり、そんな遊びをすることもできたはずなのである。こんなことは以前たびたびしたこともあるし、またそれをいやがりもしなかった。だから、一度などは学校で、クラソートキンは自分の家で借家人の子供らとお馬ごっこをして遊んでいる、脇馬の真似をして跳びあがったり、頭を突き曲げたりする、という噂がひろまったことさえある。しかし、クラソートキンは傲然とこの攻撃を弁駁して、もし自分が同年輩のもの、つまり、十三の子供を相手にしてお馬ごっこをして遊ぶのなら、『現代において』実際恥ずべきことであるが、自分がそんなことをするのは『ちびさん』のためであって、自分が彼らを愛しているからである、ところが、自分の情愛については誰の干渉をも許さない、というような論法であった。その代り『ちびさん』のほうでも、二人ながら彼を崇拝していた。しかし、今日は遊んでなどいられなかった。彼は非常に重大な、一見したところ、ほとんど秘密に近いある用件を控えていたからである。しかも、時は遠慮なく過ぎて行く。子供たちを頼んで行こうと思うがアガフィヤは、まだ市場から帰って来ようとしなかった。彼はもう幾度となく玄関を通り抜けて、ドクトル夫人の部屋の戸を開けながら、心配そうに『ちびさん』を見た。『ちびさん』はコーリャの言いつけどおり本を読んでいたが、彼が戸を開けるたびに、無言でそのほうをふり向いて、大きく口をあけながらにこにこと笑った。それは、今にも彼が入って来て、何か愉快な面白いことをしてくれそうなものだ、と思ったからである。けれど、コーリャは心に不安を感じているので、部屋の中へ入ろうともしなかった。十一時を打った。とうとう彼は肚を決めて、もしもう十分たっても、あの『いまいましい』アガフィヤが帰って来なかったら、彼女の帰りを待たないで、だんぜん出かけることにした。もっとも、その前に『ちびさん』からは、自分がいないからといってびくびくしたり、いたずらをしたり、怖がって泣いたりしないという、言質をとっておくのはもちろんである。こう考えながら、彼はラッコか何かの襟をつけた綿入れの冬外套を着て、肩から筋かいに鞄をかけた。そして、『こういう寒い日に』外出する時は、必ずオーヴァシューズを履いて行くようにと、母親が前から幾度となく頼んでいるにもかかわらず、控え室を通り抜ける時、そのオーヴァシューズを軽蔑するように見やっただけで、長靴を履いたまま出て行った。ペレズヴォンは彼が身支度をととのえているのを見ると、神経的に全身を慄わして、尻尾で激しく床を叩きながら、悲しげに呻き声さえもらした。しかし、コーリャは自分の犬が、こんなに熱くなって飛んで来たがるのを見ると、それはたとえ一分間でも規律を乱す行為だと思ったので、やはり床几の下に臥さしておいた。そして、玄関へ通ずる戸口を開けた時、初めてだしぬけに口笛を吹いた。犬は気ちがいのように飛び起きて、嬉しそうに先に立って駈け出した。コーリャは玄関を通るときに、『ちびさん』の部屋の戸を開けた。二人は前のとおりテーブルに向って腰かけていたが、もう本を読まないで、やっきとなって何やら言い争っていた。この子供たちはさまざまな世の中の問題について、お互いに言い争うことがよくあった。そういう時には年上の姉として、いつもナスチャのほうが勝を占めた。けれど、コスチャはもし姉の言葉に同意できない時には、大ていコーリャのところへ行って上訴するのが常だった。そして、コーリャが決定したことは、原被両告にとって絶対不易の宣告となるのであった。今度の『ちびさん』の口論は、いくらかコーリャの興味をそそったので、彼は戸口に立ちどまって聞いていた。子供たちは、彼が聞いているのを見つけると、ますます熱してその争いをつづけた。
「そんなことないわ、あたしそんなことどうしても本当にしないわ」とナスチャはやっきとなって呟いた。「産婆さんがちっちゃな赤ん坊を、キャベツ畑の畦の間から見つけて来るなんて。それに、今はもう冬ですもの、どこにも畦なんかありゃしないわ。だから、産婆さんだって、カチェリーナのとこへ女の子をつれてくわけにはゆかないじゃないの。」
「ひゅう」とコーリャはこっそり口笛を鳴らした。
「でなかったら、こうかもしれなくってよ。産婆さんはどこからか赤ん坊をつれて来るんだけど、お嫁に行った人にしかやらないんだわ。」
 コスチャはじっとナスチャを見つめながら、考えぶかそうに耳を傾けて、何やら思いめぐらしていた。
「ナスチャ姉さんはほんとうに馬鹿だね。」とうとうしっかりした落ちついた調子で、彼はこう言った。「カチェリーナはお嫁に行かないのに、赤ん坊が生れるはずがないじゃないの?」
 ナスチャは恐ろしく熱してきた。
「あんたは何にもわからないんだわ」と彼女はいらだたしげに遮った。「あれには旦那があったんだけど、いま牢に入ってるのかもしれないわ。だから、あれは赤ん坊を生んだのよ。」
「一たいあれの旦那が牢に入ってるの?」実証派のコスチャはものものしくこう訊いた。
「それとも、こうかもしれないわ。」ナスチャは自分の最初の仮定を、すっかり忘れたようにうっちゃってしまって、大急ぎで遮った。「あれには旦那がないのよ。それはあんたの言うとおりよ。だけど、あれはお嫁に行きたくなったものだから、お嫁に行くことばかり考えるようになったのよ。そして、考えて、考えて、考え抜いた挙句、とうとうお婿さんの代りに赤ん坊ができたんだわ。」
「ああ、そうかもしれないね。」コスチャはすっかり言い伏せられて同意した。「姉さんが初めっからそう言わないんだもの、僕わかりっこないじゃないか。」
「おい、ちびさん、」部屋の中に一足踏み込みながら、コーリャはこう言った。「どうも君たちは危険人物らしいなあ!」
「ペレズヴォンもそこにいるの?」コスチャはにこっとして、ぱちぱち指を鳴らしながら、ペレズヴォンを呼びはじめた。
「ちびさん、僕こまったことがあってね」とコーリャは、もったいらしく言いはじめた。「一つ君たちに手つだってもらいたいんだ。アガフィヤはきっと脚を折ったに相違ないよ。なぜって、今まで帰って来ないんだもの、確かにそうにちがいない。ところが、僕はぜひ外へ出かけなけりゃならないんだ。君たちは僕を出してくれるかい、どうだい?」
 子供たちは心配らしく、互いに目と目を見かわした。微笑をおびた顔は不安の色をあらわしはじめた。けれども、二人は何を要求されるのか、まだはっきりわからなかった。
「僕がいなくってもふざけない? 戸棚へあがって、足を折ったりしない? 二人きりでいるのが怖くって、泣きだしゃしない?」
 子供たちの顔には、いかにも情けなさそうな色がうかんだ。
「その代り、僕はいいものを見せてやるよ。銅の大砲なんだ、本当の火薬で撃てるんだよ。」
 子供たちの顔ははればれとした。
「大砲見せてちょうだい。」満面を輝かしながら、コスチャはこう言った。
 コーリャは自分の鞄の中へ片手を突っ込んで、その中から小さな青銅の大砲を取り出し、それをテーブルの上にのせた。
「さあ、これだ! 見てごらん、車がついてるよ。」彼は玩具をテーブルの上で転がした。「撃つこともできるんだ。ばら弾を填めて撃てるんだよ。」
「そして、殺せるの?」
「誰でも殺せるよ。ただ狙いさえすりゃいいんだ。」
 コーリャはそう言って、どこへ火薬を入れ、どこへ散弾を填めたらよいか説明したり、火孔の形をした穴を見せたり、反動があるものだという話をしたりした。子供たちは、非常な好奇心をいだきながら聞いていた。ことに、彼らを驚かしたのは、反動があるという話であった。
「では、あなた火薬をもってるの?」とナスチャは訊いた。
「もってるよ。」
「火薬を見せてちょうだいな。」哀願するような微笑をうかべながら、彼女は言葉じりを引いた。
 コーリャはまた鞄の中へ手を突っ込んで、小さな罎を一つ取り出した。その中には、本当の火薬が少々入っていた。紙包みの中からは幾つかの散弾が出て来た。彼は小罎の栓を開け、少しばかり火薬を掌へ出してまで見せた。
「ほらね、しかしどこにも火はないだろうね。でないと、どんと爆発して、僕らはみんな殺されてしまうからね。」コーリャは効果《エフェクト》を強めるためにこう注意した。
 子供たちは、敬虔の念をまじえた恐怖の色をうかべつつ火薬を見た。しかし、その恐怖の念は、かえって彼らの興味を増すのであった。とはいえ、コスチャはどっちかといえば散弾のほうが気に入った。
「ばら弾は燃えない?」と彼はたずねた。
「ばら弾は燃えやしないよ。」
「少しばら弾をちょうだいな」と彼は哀願するような声で言った。
「少し上げよう。さあ、だけど、僕が帰って来るまで、お母さんに見せちゃいけないよ。でないと、お母さんはこれを火薬だと思って、びっくりして死んじゃうから、そして君らはひどい目にぶん撲られるよ。」
「お母さんはあたしたちを鞭でぶったことなんか、一度もないわよ」とナスチャはすぐにそう言った。
「それは知ってるよ、ただ話の調子をつけるためにそう言ったまでさ。決してお母さんをだましちゃいけないよ。だけど、今度だけ、――僕が帰って来るまでね。じゃ、ちびさん、僕行ってもいいかい、どうだい? 僕がいないからって、怖がって泣きゃしないかい?」
「ううん、泣くよう」とコスチャは、もう今にも泣きだしそうに言葉じりを引いた。
「泣くわ、きっと泣くわ!」ナスチャもおびえたように口早に相槌を打った。
「ああ、厄介な子だなあ、本当に危険なる年齢だよ。どうもしようがない、雛っ子さん、しばらく君たちのそばにいなきゃならないだろう。だが、いつまでいればいいんだ? ああ、時間が、時間が、ああ!」
「ね、ペレズヴォンに死んだ真似をさせてちょうだい」とコスチャが頼んだ。
「そうだ、もう仕方がない、いよいよペレズヴォンでもだしに使わなきゃ。Ici,([#割り注]こっちへ来い[#割り注終わり])ペレズヴォン!」
 やがてコーリャは犬に命令をくだし始めた。犬は知ってるだけの芸当を残らずやって見せた。これは毛のくしゃくしゃに縮れた犬で、大きさは普通の番犬くらい、毛は青味がかった灰色であったが、右の目はつぶれて、左の耳はなぜか裂けていた。ペレズヴォンはきゃんきゃん鳴いたり、跳ねだり、お使いをしたり、後足で歩いたり、四足を上へ向けて仰むけに倒れたり、死んだようにじっと臥ていたりした。この最後の芸当をやっている最中に戸が開いて、クラソートキナ夫人の女中がアガフィヤが[#「女中がアガフィヤが」はママ]、閾の上にあらわれた。それはあばたのある、でぶでぶに肥った四十ばかりの女房で、うんと買い込んだ食糧品を入れた籠を手に、市場から帰って来たのである。彼女はそこにじっと立ちどまって、左手に籠をぶらさげたまま、犬を見物しはじめた。コーリャはあれほどアガフィヤを待っていたのに、途中で芸当をやめさせなかった。やがて定めの時間だけ、ペレズヴォンに死んだ真似をさせた後、やっと犬に向って口笛を鳴らした。犬は跳ね起きて、自分の義務をはたした喜びに、くるくる跳ね廻り始めた。
「これ、畜生っ!」とアガフィヤはさとすように言った。
「おい女性、お前は何をぐずぐずしてたんだ?」と、コーリャは嚇すような調子で訊いた。
「女性だって、へ、ちびのくせにして!」
「ちびだ?」
「ああ、ちびだとも、一たいわたしが遅れたからって、お前さんにどうだというんだね。遅れたのにゃそれだけのわけがあるんだよ」とアガフィヤは、暖炉のそばを歩き廻りながら呟いた。が、その声はすこしも不平らしくも、腹立たしそうにもなかった。それどころか、かえって快活な坊っちゃんと無駄口をたたき合う機会を得たのを喜ぶように、恐ろしく満足らしい声であった。
「時にね、おい、そそっかしやの婆さん。」コーリャは長椅子から立ちあがりながら、口をきった。「お前は僕のいない間、このちびさんたちを油断なく見ていてくれるかい。この世にありとあらゆる神聖なものにかけて[#「この世にありとあらゆる神聖なものにかけて」はママ]、誓ってくれるかい? いや、そればかりじゃない、もっと何かほかのもので誓ってくれるかい? 僕は外へ出かけるんだから。」
「何だってお前さんに誓うんだね?」とアガフィヤは笑いだした。「そんなことをしなくたって、見ているよ。」
「いや、いけない、お前の魂の永遠の救いにかけて誓わなきゃ。でなけりゃ行かないよ。」
「そんなら行きなさんなよ。わたしの知ったことじゃないんだから、外は寒いに、家でじっとしてござれよ。」
「ちびさん」とコーリャは子供たちのほうへ向いた。「僕が帰って来るか、それとも、君たちのお母さんが帰って来るかするまで、この女が君たちのそばにいるからね。お母さんはもうとうに帰ってもいい時分だがなあ。それに、この女は君たちにお昼も食べさせてくれるよ。あのちびさんたちに何か食べさせてくれるだろう、アガフィヤ?」
「そりゃ食べさせてもいいよ。」
「じゃあ、さようなら、雛っ子さん、僕は行くよ。だが、おい、婆さん。」彼はアガフィヤのそばを通るときに、小声でもったいらしくこう言った。「また例の女一流の癖を出して、カチェリーナのことで、この子たちに馬鹿な話をして聞かせないようにしてくれ。子供の年ということも考えて、容赦しなきゃいけないよ。Ici, ペレズヴォン!」
「ええ、勝手に行ってしまうがいい!」とアガフィヤは腹立たしげに言った。「おかしな子だ! そんなことを言う自分こそ引っぱたかれるんだ、本当に。」

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第十篇第一章 コーリャ・クラソートキン

[#1字下げ]第十篇 少年の群[#「第十篇 少年の群」は大見出し]



[#3字下げ]第一 コーリャ・クラソートキン[#「第一 コーリャ・クラソートキン」は中見出し]

 十一月の初旬であった。この町を零下十一度の寒さがおそって、それと同時に薄氷が張り初めた。夜になると、凍てついた地面に、ばさばさした雪が少しばかり降った。すると『身を切るようなから風』がその雪を巻き上げ、町の淋しい通りを吹きまくった。市《いち》の広場はことに烈しかった。朝になっても、まだどんより曇ってはいるが、しかし雪は降りやんだ。プロートニコフ商店の近くで、広場よりほど遠からぬところに、内も外もごくさっぱりとした、一軒の小さい家があった。それは官吏クラソートキンの未亡人の住まいである。県庁づき秘書官クラソートキンはもうよほどまえ、ほとんど十四年も以前に亡くなったが、未亡人は今年三十になったばかり、まだなかなか色っぽい元気な婦人で、小ざっぱりとした持ち家に住まいながら、『自分の財産』で暮しをたてている。優しいながらもかなり快活な気だての夫人は、小心翼々と正直に暮していた。夫とつれ添っていたのは僅か一年ばかりで、十八の年に一人の息子を生むと、すぐ夫と死に別れたのである。それ以来、つまり夫が死んでからというもの、彼女はわが子コーリャの養育に、一身をゆだねていた。彼女はこの十四年間、目に入っても痛くないほど可愛かっていたが、それでも、もしや病気にかかりはしまいか、風邪をひきはしまいか、いたずらをしはしまいか、椅子にあがって倒れはしまいかと、戦々兢々として、ほとんど毎日のように胆を冷やし通しているので、楽しみより苦労のほうがはるかに多かった。
 コーリャが小学校へ入り、やがて当地の中学予備校へ行くようになると、母親はさっそく息子と一緒に、あらゆる学課を勉強して、予習や復習を助けてやり、教師や教師の細君たちの間に知己を作り、コーリャの友達や同窓の学生たちまで手なずけなどした。そして、彼らにお世辞を振り撒いて、コーリャをいじめたり、からかったり、叩いたりしないようにと、いろいろに苦心するのであった。で、その結果しまいには、子供たちも母親を種にして、本当にコーリャをからかうようになった。お母さんの秘蔵っ子、そう言って彼を冷やかし始めたのである。けれど、コーリャは立派に自分を守っていった。彼は剛胆な子供であった。間もなく『とても強いやつだ』という噂がクラスじゅうに拡まって、一般の定評となってしまった。彼はすばしっこくて、負け嫌いで、大胆で、冒険的な気性であった、成績もいいほうで、算術と世界歴史とでは、先生のダルダネーロフさえへこませる、という噂が伝えられたほどであった。彼は鼻を高くしてみんなを見下ろしていたが、友達としてはごく善良な少年で、決して高ぶるようなことがなかった。彼は同窓生たちの尊敬を、あたりまえのように受けていたが、しかし優しい親しみをもって一同に交わった。ことに感心なのは、ほどを知っていることで、場合に応じて自分を抑制するすべを知っていた。教師に対しては決して明瞭な最後の一線を踏み越えなかった。その線を踏み越えたら、もはや過失も赦すべからざるものとなり、無秩序と騒擾と不法に化してしまう、それを承知していたからである。けれど、彼は都合のいい折さえあれば、随分いたずらをするほうであった。しようのない不良少年じみたいたずらをすることもある。しかも、それはいたずらというより、むしろえらそうなことを言ったり、奇行を演じたり、思いきって人を馬鹿にしたような真似をして見せたり、気どったりするような場合のほうが多かった。ことにやたらに自尊心が強かった。母親までも自分に服従させ、ほとんど暴君のように支配していた。また母親のほうでも服従した、もうとっくから服従していたのである。ただ息子が『自分をあまり愛していない』と考えることだけは、どうしても我慢ができなかった。彼女はコーリャに『情がない』ように思えてしようがなかった。で、ヒステリックな涙を流しながら、息子の冷淡を責めるようなこともたびたびあった。コーリャはそれを好まなかったので、母が真情の流露を要求すればするほど、わざとではないか、と思われるほど強情になるのであった。しかし、それはわざとではなく、ひとりでにそうなるのであった、――もともとそうした性質なのであった。実際、母親は勘違いしていた。コーリャは母親を非常に愛していたが、彼の学生流の言葉を借りて言えば、『仔牛のような愛情』を好かなかったのである。
 父親の遺留品のうちに一つの戸棚があって、その中には幾冊かの書物が保存されていた。コーリャは読書が好きだったので、もうその中の幾冊かを、そっと読んでしまった。母親もこれにはべつだん心配しなかったが、どうしてこんな子供がろくろく遊びにも行かないで、戸棚のそばに幾時間も幾時間も突っ立ったまま、何かの本を夢中になって読んでいるのだろうと、ときどきびっくりすることがあった。こうしてコーリャは、彼の年頃ではまだ読ませてもらえないような書物までも読んでしまった。彼はいたずらをするといっても、ある程度を越すのを好まなかったけれど、近頃では心から母親を慴えあがらせるようないたずらが始まった。もっとも、何か背徳なことをするというのではないが、その代り向う見ずな、目の飛び出すようないたずらであった。ちょうどこの夏も七月の休暇の時に、こういうことがあった。母親と息子とは、七十露里も隔てた隣りの郡に住まっている、ある遠縁の親戚のところへ、一週間ばかり逗留に行った。その婦人の夫は鉄道の停車場に勤めていた。(それはこの町から最も近い停車場で、一カ月後、イヴァン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフも、そこからモスクワへ出発したのである)。そこでコーリャはまず鉄道を仔細に観察して、その仕掛けを研究しはじめた。家へ帰ったら、予備校の生徒らに自分の新知識を誇ってやろうというつもりなので。ところが、ちょうどその時、まだほかに幾たりかの子供がその土地にいたので、コーリャはさっそくこの連中と遊び仲間になった。その中のあるものは停車場に、またあるものはその近所に住まっていた。みんな若い人たちで、十二から十五くらいまでの子供が、六七人あつまったのであるが、中に二人、この町から行ったものもあった。子供たちは一緒になって遊んだり、ふざけたりしていたが、四日か五日か停車場で暮しているうちに、愚かな若者たちの間に、まるでお話にならない賭けごと、二ルーブリの賭けごとが成立した。それはこうである。仲間のうちで一ばん年下なために、年上のものからいくぶん馬鹿にされていたコーリャは、負けじ魂のためか、向う見ずな元気のためか、とにかく十時の夜汽車が来る時、レールの間にうつ伏しに臥ていて、汽車が全速力でその上を駈け抜けるまで、じっと動かずにいてみせようと言いだした。もっとも、あらかじめ研究してみたところ、実際レールの間に体を延ばして、ぴったりと地面に腹ばっていれば、むろん汽車は体に触らずに、その上を通り越して行くことがわかった。けれど、じっと臥ている時の気持はどうだろう。しかし、コーリャは臥てみせると言いはった。最初のうちはみんな一笑に付して、嘘つきだとか威張りやだとか言ってからかったが、それはますます彼に意地をはらせるだけであった。何よりおもな理由は、十五になる子供たちが、コーリャに対してひどく傲慢な態度をとり、『ちっぽけな』小僧っ子として、友達あつかいもしてくれなかったのが、たまらなく口惜しかったのである。そこで、停車場から一露里ばかり距てたところへ、晩がた出かけることにきめた。その辺まで来ると、汽車が停車場を離れきって、全速力を出すからであった。その夜は月がなかったので、暗いというよりも、むしろ黒いというほうが適当なくらいであった。コーリャはいい頃を見はからって、レールの間に身を横たえた。賭けに加わったあと五人の子供たちは、土手の下へおりて、路ばたの灌木の中へ入った。彼らも初めはひやひやしていたが、挙句の果てには恐怖と後悔の念をいだきながら待っていた。とうとう停車場を発した汽車は、遠くのほうから轟々と鳴り響いて来た。やがて、二つの赤い火が闇の中に光りはじめ、怪物は轟然と近づいて来た。『逃げろ、レールからおりて来い!』と子供たちは恐ろしさに胸を痺らせながら、灌木の中からコーリャに向って叫んだが、もう遅かった。汽車はまたたく間に疾駆して来て、彼らのそばを駈け抜けてしまった。子供たちはいきなりコーリャのほうへ飛んで行った。彼はじっと横になっていた。一同はおずおず、コーリャを撫で廻してみて、抱き起しにかかった。と、彼はにわかにむくりと起きあがって、黙って土手からおりて行った。下へおりると一同に向って、あれはみんなをびっくりさせるために、わざと気絶したようなふりをしていたのだと言ったが、あとでよほどたってから、母親に打ち明けたところによると、本当に彼はすっかり気が遠くなっていたのである。こうして、『向う見ず』の評判は永久不変なものとなってしまった。彼は布のように蒼白い顔をして、停車場から家へ帰って来た。翌日かるい神経性の発熱をしたが、気分は非常にうきうきと楽しそうで、さも満足らしいふうであった。
 この事件はその時すぐではないけれど、間もなくこの町にも伝わって、中学予備校の評判となり、やがて教師連の耳に入った。その時コーリャの母親は学校へ駈けつけて、わが子のために教師連に泣きついた。そして、結局、名声たかき勢力家たる教師ダルダネーロフが、彼のために弁護したり懇願したりしたおかげで、この事件はまったくなかったこととして、秘密のうちに葬り去られた。このダルダネーロフは、まださして年をとっていない独身者であったが、もう長年、熱烈にクラソートキナ夫人を恋していた。かつて一年ばかり前、彼は恐怖の念と気弱い心づかいのために、心臓の痺れるような思いをしながら、謹厳な態度で結婚を申し込んだが、この申し込みを承知するのはわが子にそむくことだと思って、彼女はきっぱり拒絶した。しかし、ダルダネーロフのほうにしても、ある神秘な徴候に照らして、この美しい、とはいえ、あまりに貞淑な、優しい未亡人が、まんざら自分を嫌ってもいない、と空想する権利をもっていたのかもしれない。コーリャの気ちがいじみたいたずらは、かえって一方の活路を開くことになった。それは、ダルダネーロフの尽力に対して、遠廻しではあるが、とにかく希望の暗示が与えられたからである。しかし、ダルダネーロフ自身も、純潔優美な紳士だったので、さし向きこれだけでも、彼の幸福を満たすに十分であった。彼はコーリャを愛していたが、あまり機嫌をとるのは卑屈な所業と思っていたから、教室では彼に対して厳重でやかましかった。またコーリャ自身も、尊敬を失わぬくらいの距離を保って彼に接した。学課も立派に準備して、クラスでは次席を占めていたが、ダルダネーロフには冷淡に応対していた。クラスのものは、コーリャのことを、世界歴史ならダルダネーロフさえ『へこませる』だけの力がある、と固く信じきっていた。実際コーリャはあるとき彼に向って、トロイの創建者は誰か、という質問を発したことがある。その問いに対して、ダルダネーロフはただ民族のことや、その移動のことや、時代の隔たりの大きいことや、神話の荒唐無稽なことなどを、大ざっぱに答えただけで、誰が、すなわちいかなる人物がトロイを創建したかについては、一言も答えることができなかったばかりでなく、なぜかその質問を面白半分の不真面目なものと認めたのである。けれど、子供たちは依然として、ダルダネーロフはトロイの創建者を知らないのだ、という信念をひるがえさなかった。ところが、コーリャは父親が遺しておいた書物戸棚に保存されてあるスマラーグドフの著書を読んで、トロイの創建者を知っていたのである。しまいには子供たち全体が、トロイを創建したのは何者かという問題に興味をいだくようになったが、コーリャは自分の秘密を打ち明けなかった。で、それ以来、物識りの評判は揺ぎのないものとなってしまった。
 鉄道事件があった後、母に対するコーリャの態度には幾分か変化が生じた。アンナ・フョードロヴナ(クラソートキナ未亡人)は、わが子の功名譚を耳にした時、恐ろしさのあまりほとんど発狂しないばかりであった。彼女は激しいヒステリイの発作におそわれた。しかも、その発作が間歇的に幾日もつづいたので、コーリャも今度は心からびっくりして、もう今後決してあんないたずらはしないと立派な誓いを立てた。聖像の前に跪いて母の要求するとおり、亡父の形見にかけて誓ったのである。その時ばかりは『勇敢な』コーリャも、『感きわまって』六つくらいの子供のようにおいおい泣きだした。母と息子はその日一日、お互いに飛びかかっては抱き合って、体を顫わせながら泣いていた。翌日、目をさましたコーリャは、依然として『冷淡な子供』であったが、しかし前よりは言葉数も少く、つつましやかに、厳粛で、考え深くなってきた。もっとも、一月半もたつと、彼はまたあるいたずらの仲間に加わって、町の治安判事にさえ名前を知られるようになったが、そのいたずらはもうまったく種類の違った、そのうえ滑稽なばかばかしいものであった。それに、彼自身のいたずらではなく、ただ巻きぞえをくったにすぎない、ということがわかった。けれど、このことはいつかあとで話すとしよう。母親は、相変らずびくびくしながら心配していた。が、ダルダネーロフは彼女の心配が増せば増すだけ、いよいよ希望を強めるのであった。断わっておくが、コーリャはこの方面からも、ダルダネーロフを理解し推察していたので、ダルダネーロフのこうした『感情』を、深く軽蔑していたのはもちろんである。以前は彼も自分のこうした軽蔑の念を、不遠慮に母親の前で口に出すこともあった。ダルダネーロフの野心はちゃんとわかりきっていますよ、というようなことを遠廻しにほのめかすのであった。しかし、鉄道事件以来、彼はこの点について自分の態度を変えた。もはやどんなに廻り遠い言い方でも、あてこすりめいたことはあくまで慎しみ、母親の前ではダルダネーロフのことをうやうやしい調子で噂するようになった。敏感なクラソートキナ夫人は、すぐに子供の心持を理解して、心中に無限の感謝の念をいだくのであった。けれど、その代りに、もしコーリャのいるところでお客か誰かが、ちょっとでもダルダネーロフのことを口に出そうものなら、夫人はいきなり恥しさのあまり、ぱっと薔薇のように顔を赧くした。コーリャはこういう時、顔をしかめながら、窓のほうを見るか、または自分の靴が『進水式』しそうになっているかどうかを、仔細に点検してみるか、それともあらあらしく『ペレズヴォン』を呼ぶかするのであった。それは一カ月前に突然どこからか連れて来た、毛のくしゃくしゃした、かさぶただらけの、かなり大きな犬であった。コーリャはその犬を家へ引き入れると、なぜか秘密に部屋の中で飼うことにして、誰であろうと友達には一さい見せなかった。彼は恐ろしい暴君のような態度で、さまざまな芸を教え込んだ。とうとうしまいにはこの憐れな犬は、主人が学校へ行った留守ちゅう唸り通しているが、帰って来ると喜んで吠えだして、狂気のように跳ね廻ったり、主人のご用を勤めたり、地べたに倒れて死んだ真似をして見せたりなどした。一口に言えば、べつだん要求されるわけでもないのに、ただ悦びと感謝の情の溢れるままに、仕込まれた芸をありったけして見せるようになった。
 ついでに忘れていたことを言っておこう。読者のすでに熟知している休職二等大尉スネギリョフの息子イリューシャが、父親を『糸瓜』と言ってからかわれた無念さに、ナイフで友達の腿を刺した、その友達こそほかならぬコーリャなのである。
 
(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第九篇第九章 ミーチャの護送

[#3字下げ]第九 ミーチャの護送[#「第九 ミーチャの護送」は中見出し]

 予審調書が署名されると、ニコライは巌かに被告のほうを向いて、次の意味の『判決文』を読んで聞かせた。何年何月何日某地方裁判所判事は某を(すなわちミーチャを)しかじかの事件に関する被告として(罪状は残らず詳細に書き上げてあった)審問したところ、被告はおのれに擬せられた犯罪を承認しないにもかかわらず、自己弁護のために何らの証跡をも提示しない。しかるに、すべての証人(某々)もすべての事情(しかじか)も、完全に彼の犯罪を指摘するということを考慮においたうえ、『刑法』第何条何条に照らして次のごとき決定をした。すなわち、被告が審理と裁判を回避するおそれのないように、彼を某監獄に拘禁して、この旨を当人に告示し、かつこの判決文の写しを副検事に通達する云々、というような意味であった。手短かに言えば、ミーチャは自分がこの時から囚われ人として、これからすぐに町へ護送され、きわめて不快なある場所で監禁されることになる旨を、申し渡されたのである。ミーチャは注意してこの判決文を聞き終ると、ひょいと両肩をすくめた。
「仕方がありません、みなさん、私はあなた方を責めやしません。私はもう覚悟をしています……あなた方としてほかに方法がなかったということは、私にもよくわかっています。」
 ニコライはミーチャに向って、ちょうどここへ来合せた警部マヴリーキイが、今すぐ彼を護送して行く旨を宣告した。
「ちょっとお待ち下さい!」とミーチャはふいに遮った。そして、抑えがたい感情に駆られながら、室内にいるすべての人に向って言いだした。「みなさん、私たちはみんな残酷です、私たちはみんな悪党です、私たちはみんなの者を、母親や乳呑み児を泣かせています。けれど、その中でも、――今はもうそう決められたってかまいません、――その中でも私が一番けがらわしい虫けらです! それだってかまいません! 私はこれまで毎日、自分の胸を打ちながら改悛を誓いましたが、やはり毎日、おなじ陋劣な所業を繰り返していたのです。が、今となって悟りました。自分のようなこういう人間には鞭が、運命の鞭が必要なのです、私のようなものには繩をかけて、外部の力で縛っておかなけりゃなりません。自分一人の力では、いつまでたっても起きあがれなかったでしょう! しかし、とうとう鉄槌は打ちおろされました。私はあなた方の譴責を、世間一般の侮蔑の苦痛を引き受けます。私は苦しみたいのです、苦しんで自分を浄めたいのです! ねえ、みなさん、本当に浄められるかもしれないでしょう、ね? しかし、最後にもう一ど言っておきますが、私は親父の血に対して罪はないです! 私が刑罰を受けるのは、親父を殺したためではなく、殺そうと思ったためなんです。実際、危く殺くかねなかったんですからね……しかし、私はやはり、あなた方と争うつもりです、これはあらかじめあなた方に宣言しておきます。私は最後まであなた方と争って、その上はどうなろうと神様の思し召し次第です! みなさん、赦して下さい、私が訊問の時にあなた方に食ってかかったことを、立腹なすっちゃいけませんよ。そうです、私はあの時まだ馬鹿だったのです……一分間後には私は囚人《めしゅうど》ですから、いま最後にドミートリイ・カラマーゾフはなお自由な人間として、あなた方のほうに手をさし伸べます。あなた方と別れるのは、つまり人間と別れることなんです!………」
 彼の声は慄えだした。彼は本当に手をさし伸べたが、一番ちかくにいたニコライは、突然どうしたのか、妙な痙攣するような身振りでその手をうしろへ隠してしまった。ミーチャは目ざとくこれを見つけて、ぶるっと身慄いした。彼はさし出した手をすぐおろした。
「審理はまだ終っていないのですから」とニコライはいくらかどきまぎしながら呟いた。「まだ町でつづけなくちゃなりません。私はむろんあなたの成功を……あなたが無罪の宣告をお受けになることを……望んでいます……ところで、ドミートリイ・フョードロヴィッチ、私はいつもあなたを罪人というより、むしろ……何と言いますか、不幸な人と考えていたのです……私たち一同は――あえて一同に代って言いますが、私たち一同はあなたを、根本において高潔な青年と認めることに躊躇しません。しかし、残念なるかな、あなたはいささか過度にある種の情欲に溺れたのです……」
 言葉が終りに近づくにつれて、ニコライの小さな姿はなみなみならぬ威厳を現わした。ミーチャの頭にはふとこんな考えが浮んだ。この『小僧っ子め』今にもおれと腕を組んで、部屋の片隅へ連れて行きながら、そこでまたつい近ごろ二人で話し合ったと同じような『娘連』の噂でも始めるのではなかろうか、と彼は思った。事実、刑場へ曳いて行かれる罪人の頭にさえ、どうかすると、まるで事件に無関係な、その場の状況にふさわしからぬ考えがひらめくことも、少くないのである。
「みなさん、あなた方は善良な人です、あなた方は人情を心得ていらっしゃる、――どうでしょう、もう一度、あれに会って、最後の別れをさして下さいませんか?」とミーチャは訊いた。
「むろんよろしいのですが、ただみんなのいるところで……つまり今は、もう誰もおらぬところでは……」
「じゃ、ご列席ください!」
 グルーシェンカは連れられて来たが、あまり言葉もない短い別れであった。ニコライは不満であった。グルーシェンカはミーチャに向って丁寧に頭を下げた。
「わたしは一たんあなたのものだと言った以上、どこまでもあなたのものよ。あなたがどこへやられることにきまっても、死ぬまであなたと一緒に行きますわ。では、さようなら、本当にあなたは無実の罪に身を滅ぼしたんだわねえ!」
 彼女の唇は顫え、その目からは涙がはふり落ちた。
「グルーシェンカ、おれの愛を赦してくれ。おれが自分の愛のために、お前まで破滅さしたのを赦してくれ。」
 ミーチャはもっと何か言いたそうにしていたが、自分から急に言葉を切って出て行った。しじゅう目を放さないでいた人たちが、すぐ彼のまわりに集った。昨日アンドレイのトロイカで、あんなに勢いよく乗りつけた階下の玄関わきには、もう支度のできた二台の馬車が立っていた。顔のぶくぶくした、ずんぐり肉づきのいいマヴリーキイは、何か突然はじまった不始末に業を煮やして、ぷりぷりしながら呶鳴っていた。そして、何だか恐ろしく厳めしい調子で、ミーチャに馬車へ乗れと言った。
『あいつ、以前おれが料理屋で酒を飲ませた時分とは、まるで顔つきが違ってやがる』とミーチャは馬車に乗りながら考えた。トリーフォンも玄関からおりて来た。門のそばには人が大勢、――百姓や女房や馭者どもがむらがって、みんなミーチャを見つめていた。
「みんな赦しておくれ!」突然ミーチャは馬車の上から、彼らに向ってこう叫んだ。「わしたちも赦しておくんなさい」と、二三人の声が聞えた。
「トリーフォン、お前も赦してくれろよ!」
 しかし、トリーフォンは振り向こうともしなかった。非常に忙しかったのかもしれない。やはり何やら呶鳴りながら、あたふたしていた。マヴリーキイに随行する組頭が、二人乗り込むはずになっていた二番目の馬車が、まだごたごたしていることがわかった。二番目の馬車に乗せることになっていた百姓は、外套を引っ張りながら、町へ行くのはおれじゃなくてアキームだと言って、頑固に争っていた。けれど、アキームはいなかった。人々は彼を呼びに走って行った。百姓はいつまでも強情をはって、も少し待ってくれと願った。
「マヴリーキイさま、この手合いときたら、本当に恥しらずでございますよ!」とトリーフォンは叫んだ。「てめえは一昨日、アキームから二十五コペイカもらったやつを、すっかり飲んじまやあがったくせに、今となってぶうぶう言ってやがるんだ。ただね、マヴリーキイさま。ろくでもない手合いに対しても、あなたが優しくしておやんなさるには、まったく感心のほかございません。ただこれだけ申し上げておきますよ!」
「一たい馬車を二台もどうするんだね?」とミーチャは口を入れた。「マヴリーキイ・マヴリーキエヴィッチ、一台でたくさんだよ。決してお前たちに手向いしたり、逃げ出したりしやしないから、護送なんかいりゃしないよ。」
「ねえ、あなた、まだ習っていらっしゃらんのなら、われわれに対する話の仕方を稽古して下さい。私はあなたから『お前』呼ばわりされる覚えはありませんからね。そして、そんなに突っつかないで下さい。それに忠告なぞは、この次までとっといたらいいでしょう……」胸のもやもやを吐き出すおりがきたのをひどく悦ぶように、突然マヴリーキイはあらあらしくミーチャの言葉を遮った。
 ミーチャは口をつぐんだ。彼は真っ赤になった。と、一瞬の後、急に激しい寒さを感じた。雨はやんでいたが、どんよりとした空にはやはり一面に雲がひろがって、身を切るような風がまともに顔へ吹きつけた。『一たいおれは風でも引いたのかしらん』とミーチャは肩をすくめながら考えた。やっとマヴリーキイも馬車へ乗った。そして、気のつかないような顔をして、ミーチャをぐいと押しつめながら、ひろびろと場所を取って、どさりと腰をおろした。実のところ、彼はこの任務が厭でたまらなかったので、すっかり機嫌を悪くしていたのである。
「さようなら、トリーフォン!」とミーチャはふたたび叫んだが、今のは善良な心持からではなく、憎悪のあまり思わず知らず呼んだのだ、ということを自分でも感じた。
 けれど、トリーフォンは両手をうしろで組み合わせて、まともにミーチャを見つめながら、傲然として突っ立っていた。彼はきっとした腹立たしげな顔つきで、ミーチャには何とも返事をしなかった。
「さようなら、ドミートリイ・フョードロヴィッチ、さようなら!」突然どこから飛び出して来たのか、カルガーノフの声が響きわたった。
 彼は馬車のそばへ駈け寄って、ミーチャに手をさし伸べた。彼は帽子なしであった。ミーチャはすばやく彼の手を取って、握りしめた。
「さようなら、カルガーノフ君、君の寛大な心は決して忘れやしないよ!」彼は熱してこう叫んだ。
 けれども、馬車はごとりと動きだして、二人の手は引き離された。鈴が鳴り出だした、――ついにミーチャは護送されて行った。
 カルガーノフは玄関へ駈け込んで、片隅に腰をおろすと、頭を垂れ、両手で顔を蔽いながら、声を立てて泣きだした。彼は長い間こうして腰かけたまま泣いていた、――それはもう二十歳からになる青年の泣き方でなく、まるで小さな子供のような泣き方であった。彼はミーチャの犯罪をほとんど信じきっていたのである。『ああ、何という人たちだろう。あの人たちがああいうことをするとしたら、一たい誰が本当の人間なんだろう!』彼は苦しい憂愁というよりも、むしろ絶望の情をいだきながら、何の連絡もなくこう叫んだ。このとき彼は、もうこの世に生きているのがいとわしかった。『生きてる値うちがあるんだろうか! そんな値うちがあるんだろうか!』と青年は悲しげに叫んだ。
[#改段]

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第九篇第八章 証人の陳述『餓鬼』

[#3字下げ]第八 証人の陳述『餓鬼』[#「第八 証人の陳述『餓鬼』」は中見出し]

 証人の審問が始まった。けれど、筆者はもう今までのように、詳しく話しつづけることをやめよう。それゆえ、呼び出された証人が一人一人、ニコライの口から、お前たちはまっすぐに正直に申し立てなければならぬ、あとで宣誓をしたうえ、その陳述を繰り返さなければならないのだから、などと言い聞かされたことも省略しよう。また終りに証人一人一人が、その陳述調書に署名を要求されたことも省こう。ただ一つ言っておかなければならぬことがある。と言うのは、審問者が何より最も注意をはらった要点は、主として三千ルーブリの問題であった。つまり、初めの時、すなわち一カ月前このモークロエで、ドミートトーリイが初町で豪遊をきわめた時に使った金は、三千ルーブリであったか、それからまた、昨日の二回目の豪遊の時は三千ルーブリであったか、千五百ルーブリであったか、という問題である。しかし、悲しいかな、すべての証明はことごとくミーチャの申し立てに反していた。一つとしてミーチャの利益になる証拠はなかった。中には、ほとんど仰天するような新しい証拠を提供して、ミーチャの申し立てを根底から覆すものさえあった。まず第一に審問されたのは、トリーフォンであった。彼は審問者の前に出ても、つゆいささか臆する色がないばかりか、むしろ被告に対して厳格、かつ峻烈な憤懣の色を示しながら現われた。それがために、彼は否応なく自分の申し立てをきわめて正直なものと認めさせたうえ、自分自身にも一種の威厳を添えたのである。彼は少しずつ控え目に口をきき、訊ねられるのを待ってから、考え考え正確に答えた。彼がきっぱりと、歯に衣着せず答えたところによると、一カ月前に使った金は三千ルーブリ以下であろうはずがない、ここの百姓たちでもみんな『ドミートリイ・フョードルイチ』の口から三千ルーブリと聞いた、と申し立てるに相違ない。「ジプシイの女たちだけにでも、どのくらい金を撒いたかしれやしません。あいつらだけにでも千ルーブリ以上ふんだくられましたよ。」
「五百ルーブリもやりゃしなかったくらいだ」とミーチャはこれに対して沈んだ調子で言った。「もっとも、あのとき勘定なんかしなかったが……酔っ払っていたもんだから。残念だなあ……」
 この時ミーチャはカーテンを背にして、テーブルのわきに坐ったまま、沈みがちに黙って聞いていた。『ちぇっ、勝手な申し立てをするがいい。もうこうなりゃ、どうだって同じことだ!』とでもいったような、わびしげな疲れた様子をしていた。
「あいつらにやっただけでも、千ルーブリどころじゃありませんよ、ドミートリイ・フョードルイチ」とトリーフォンは断乎としてしりぞけた。「あなたが見さかいなくやたらにお投げになると、あいつらはわれがちに拾ったじゃありませんか。なにしろ、あいつらは泥棒で詐欺師で、馬盗人だもんだから、今でこそ追っ払われてここにいませんが、もしあいつらがいたら、いくらあなたからせしめたか、ちゃんと申し立てるところなんですよ。わっしもあの時あなたの手に、お金がたくさんあるのを見ましたよ、――もっとも、勘定はしませんでした。勘定なんかさせて下さいませんでしたからね、それはまったくでございますよ、――しかし、ちょっと見ただけでも、千五百ルーブリよりずっと多かったのを憶えてますよ……どうして、千五百ルーブリどころですかい! わっしだって、幾度も大金を見たことがありますから、それしきの見分けはつきますよ……」
 昨日の金額についてもトリーフォンは、ドミートリイが馬車からおりるやいなや、また三千ルーブリをもって来たと触れ出した事実を、きっぱり言いきった。
「いい加減にしないか、トリーフォン、そんなことがあったのかい」とミーチャは抗弁した。「確かに三千ルーブリもって来たと触れ出したかね?」
「言いましたとも、ドミートリイ・フョードルイチ。アンドレイのいるところで言いましたよ。そうだ、あそこにアンドレイがおりますよ。まだ帰っていないから、あれを呼んでごらんなさいまし。だが、あなたはあそこの大広間で、コーラスにご馳走をした時も、ここに六千ルーブリおいて行くのだと、おおっぴらに呶鳴ったじゃありませんか、――六千ルーブリというのは、前の金を合わしたものと、こうとらなけりゃなりませんや。ステパンも、セミョーンも聞きました。それにカルガーノフさんも、その時、あなたと並んで立っていらっしゃいましたから、たぶんあの方も、憶えておいででございましょう……」
 六千ルーブリという申し立ては、審問者たちになみなみならぬ注意をもって受け入れられた。新奇な表現が気に入ったのである。三千ルーブリと三千ルーブリとで六千ルーブリになる。うち三千ルーブリはあの時の分で、三千ルーブリは今度の分、両方あわせて六千ルーブリ、実にこの上もなく明瞭である。
 トリーフォンが名ざした百姓たち、すなわちステパンとセミョーンと馭者のアンドレイ、それにカルガーノフを加えて、みんな残らず審問された。百姓たちも馭者もためらう色なく、トリーフォンの陳述を裏書きした。そればかりか、アンドレイの言葉の中でも、彼がミーチャと途中で交わした会話は、とくに注意して書きとめられた。それは例の、『一たいおれは、ドミートリイ・カラマーゾフはどこへやられるだろう、天国だろうか地獄だろうか? あの世へ行ったら、赦してもらえるだろうか、どうだろう?』という言葉であった。『心理学者』のイッポリートは、微妙な笑みを浮べながら、始終の様子を聞いていたが、最後にこのドミートリイの行方に関する申し立てをも、『一件書類に加える』ようにすすめた。
 カルガーノフは自分が審問される番になると、いやいやらしく顔をしかめながら、駄々っ子のような顔つきをして入って来た。彼は検事やニコライなどと旧い知合いで、毎日のように顔を合せているくせに、まるで生れて初めて会ったような口のきき方をした。彼はまずのっけから、『僕はこの事件について何にも知りません、また知りたくもないのです』と言った。が、六千ルーブリという言葉は、彼も耳にしたとのことであった。そのとき彼はミーチャのそばに立っていたことも承認した。彼もミーチャの手に金があるのを見たが、『いくらあったか知りませんよ』と言いきった。ポーランド人たちがカルタで抜き札をしたことは、彼もきっぱり断言した。また幾度となく繰り返される人々の問いに対して、実際ポーランド人たちが追われて後、ミーチャと、アグラフェーナ・アレクサンドロヴナとの関係が円滑になったこと、彼女もミーチャを愛していると、自分の口から言ったことなどを陳述した。彼はアグラフェーナ・アレクサンドロヴナのことを口にする時、うやうやしい控え目な言葉を使って、まるで上流社会の貴婦人の話でもするようなあんばいであった。そして、一度も『グルーシェンカ』などと呼び捨てにしなかった。若いカルガーノフが申し立てをいやがっているのは、明らかにわかっていたにもかかわらず、イッポリートは長いあいだ彼を審問した。その夜ミーチャの身の上に生じた、いわゆる『ローマンス』の内容がどんなものかということも、彼の口から初めてこまかに知ったのである。ミーチャは一度もカルガーノフの言葉を遮らなかった。青年はやっと退出を許された。彼は蔽いられない憤懣を示しながら立ち去った。
 ポーランド人たちも審問された。彼らは自分の部屋で床についていたが、夜っぴて眠らなかった。そのうちに官憲が来たので、自分らもきっと呼び出されるに相違ないと思い、急いで着替えをし身支度をととのえていた。彼らは幾分おじけづきながら、しかも堂々と現われた。おも立ったほう、つまり小柄な紳士《パン》は、休職の十二等官で、シベリヤで獣医を奉職していたことがわかった。姓はムッシャローヴィッチであった。ヴルブレーフスキイは自由開業のダンチスト、ロシヤ語で言えば歯医者であった。二人とも部屋へ入ると早々、ニコライが審問しているのにおかまいなく、脇のほうに立っているミハイル・マカーロヴィッチに向いて、答弁を始めた。様子を知らないために、彼をここで一番えらい長官と思い込んだからである。彼らは一口ごとに、彼を『pan pulkovnik([#割り注]大佐の訛り[#割り注終わり])』と呼んだ。が、当のミハイル・マカーロヴィッチが幾度か注意をしたので、ようやくニコライよりほかの人に答えてはならないのだと悟った。彼らはただときどき間違った発音をするだけで、ごくごく正確なロシヤ語を使えることがわかった。グルーシェンカに対する以前と今の関係について、ムッシャローヴィッチはむやみに熱心な、しかも傲慢な調子で話しはじめた。すると、ミーチャはたちまち前後を忘れて、貴様のような『悪党』に、おれのいるところでそんなことを言わしておくわけにゆかない、と呶鳴りつけた。ムッシャローヴィッチはすぐ『悪党』という言葉に注意を向けて、調書に記入してもらいたいと言った。ミーチャは憤怒のあまりかっとして言った。
「悪党だとも、悪党だとも! このことを書き込んで下さい。それから、調書に書かれようとどうしようと、私はどこまでも悪党と呶鳴りますからね、このこともやはり書き込んで下さい!」と彼は叫んだ。
 ニコライはこれを調書に記入したが、しかしこの不快な場面においても、なお十分賞讃すべき敏腕と、事務的才能を発揮した。彼は厳然としてミーチャをさとしたうえ、すぐ事件の小説的方面に関する審問を一さい中止し、さっそく根本の問題へ転じた。根本問題の中でも紳士《パン》たちのある申し立てが、審問者一同の異常な好奇心を呼びさました。それは、ミーチャが例の小部屋でムッシャローヴィッチを買収して、三千ルーブリの手切れ金を渡すように約束したことである。彼はその時、七百ルーブリは今すぐ手わたしするが、あとの二千三百ルーブリは『あすの朝』町で渡そう、このモークロエではそんな大金の持ち合せがないけれど、町には金があるのだ、と立派に誓言した。ミーチャは思わずかっとして、あす確かに町で渡そうなどと言った憶えはないと弁明したが、ヴルブレーフスキイが友の陳述を裏書きしたので、ミーチャもちょっと考え直し、どうも紳士《パン》たちの言うとおりであったらしい、あの時はひどく興奮していたから、事実そんなことを言ったかもしれない、と顔をしかめながら承認した。検事は貪るようにこの申し立てを聞き取った。で、ミーチャが手に入れた三千ルーブリの半分もしくは一部分は、実際、町のどこかに、いや、ことによったら、このモークロエのどこかに隠してあるかもしれない、ということが裁判官にとって明瞭になってきた(後に実際そうと決めてしまった)。こういうわけで、ミーチャがたった八百ルーブリしか持っていなかったという、審理上なんとなく尻くすぐったい事実も、これで説明がついたわけである。これは今までのところ、たった一つしかない、しかもつまらない証拠ではあるけれど、何といっても、ミーチャにとって有利な事実だったのである。これで、彼の利益になる唯一の証拠も破却された。自分では千五百ルーブリしかないと言っておきながら、紳士《パン》に向っては明日かならず残金の二千三百ルーブリを渡すと誓ったとしたら、その二千三百ルーブリの金をどこから持って来るつもりだったのだ、この検事から訊かれた時、ミーチャはきっぱりと、あす『ポーランド人の畜生』に渡そうと思ったのは金ではなく、チェルマーシニャの土地所有権に対する正式の証書なのだ、と答えた、それは、サムソノフとホフラコーヴァ夫人に提供したのと同じ権利であった。検事は『無邪気な言いぬけ』を聞いて、せせら笑いさえもらした。
「あなたは相手が現金二千三百ルーブリの代りに、この『権利』の受領を承諾すると思いましたか?」
「きっと承諾するに相違ありませんよ」とミーチャは熱して遮った。「そうじゃありませんか、あの権利から取れる金は、僅か二千ルーブリやそこいらじゃなくて、四千ルーブリにも六千ルーブリにもなるんですからね! あいつはすぐにお仲間のポーランド人や、ユダヤ人や、弁護士などを狩り集めて、三千ルーブリはおろかチェルマーシニャ全部を、爺さんの手からもぎとってしまうに相違ありませんよ。」
 もちろんムッシャローヴィッチの陳述は、きわめて詳細に調書へ記入された。これで紳士《パン》たちは退出を許された。カルタの抜き札をしたことは、ほとんど一ことも訊かれなかった。それでなくとも、ニコライは彼らに感謝しきっていたので、些細なことで煩わすのは望ましくなかったのである。ことにそれは、酔っ払ってカルタをもてあそんでいる間に起った、つまらない喧嘩にすぎない。そのうえ、あの夜は全体として放埒な醜行も決して少くなかった……こういうわけで、二百ルーブリの金はそのまま紳士《パン》たちのかくしに入ったのである。
 次にマクシーモフ老人が呼び出された。彼はおどおどと小刻みな足どりで近づいた。取り乱したなりをして、ひどく沈んだ顔つきであった。彼はそれまで下でグルーシェンカのそばに、黙って腰かけていたのである。『もう今にもグルーシェンカによりかかって、しくしく泣きだしそうな様子で、青い格子縞のハンカチで目を拭いていたよ』とあとでミハイル・マカーロヴィッチは物語った。こういうわけで、今はかえってグルーシェンカのほうが彼を宥めたり、すかしたりするようなありさまであった。老人はさっそく涙ながらに、『身貧なために十ルーブリというお金を』ドミートリイから借りたのは、重々わたくしが悪うございました、けれどいつでも返すつもりでおります、と言った……ドミートリイから金を借りる時に、あの男の持っている金を誰よりも一番近くで見たはずだが、どれくらいの金が手の中にあったか、気がつかなかったか? というニコライの突っ込んだ質問に対して、マクシーモフはいともきっぱりした調子で、『二万ルーブリ』あったと答えた。
「あなたは以前どこかで二万ルーブリの金を見たことがありますか?」とニコライはにこっとして訊いた。
「はいはい、見ましたとも。けれど二万ルーブリでなくって七千ルーブリでございます。それは、家内がわたくしの村を抵当に入れた時のことでございます。わたくしには、遠くから見せながら自慢しておりましたが、なかなか大きな紙幣束で、みんな虹色をしておりましたよ、ドミートリイさんのもやはり、みんな虹色でございました……」
 ほどなく彼は退出を許された。とうとうグルーシェンカの番となった。審問者たちは、彼女の出現がドミートリイに異常な影響を与えはしないかと、危ぶんでいるらしかった。ニコライなどはドミートリイに向って、二こと三こと訓戒めいたことを言ったほどである。が、ミーチャはそれに対する答えとして、無言のまま頭を下げた。これは『騒動を起しません』という心持を知らせたのである。グルーシェンカを連れて来たのは、署長のミハイルであった。彼女はいかつい、気むずかしそうな顔つきをして入って来たが、見たところは、いかにも落ちついているようであった。彼女は指された椅子の上に、ニコライと相対して静かに腰をおろした。彼女は恐ろしく蒼い顔をしていた。寒けでもするとみえて、美しい黒のショールをふかぶかと頸に巻いていた。実際、彼女はそのとき軽い悪寒を感じたのである。それは、この夜以来ながいこと彼女を苦しめた大病の最初の徴候であった。彼女のきりっとした様子や、悪びれたところのない真面目な目つきや、落ちつきのあるものごしなどは、非常に気持のいい印象を一同に与えた。ニコライなどはたちまちいくらか『心を動かされた』ようであった。その後あちこちで当時の話が出ると、この女を心底から『実に美しいなあ』と感じたのは、そのときが初めてだと白状した。それまでにも、たびたび彼女を見たことはあるけれど、いつも『田舎のヘテラ』([#割り注]古代ギリシャの浮かれ女[#割り注終わり])のたぐいだと思っていた。
『ところが、あの女のものごしといったら、まるで上流の貴婦人のようですよ。』あるとき彼は婦人たちの集った席で感激の色をうかべながら、思わずこう口をすべらしたほどである。けれど、婦人たちは大いに不満そうな様子でその言葉を聞いていたが、すぐさまその罰として、彼に『悪戯者』という綽名をつけた。が、彼は結局、それに満足していた。部屋へ入りしなに、グルーシェンカは盗むようにちらりとミーチャを見やった。すると、ミーチャも不安げに彼女を見返した。しかし、彼女の様子はすぐさま彼を安心さした。まず最初必要な質問や訓戒がすると、ニコライはいくらか吃りながらも、なおきわめて慇懃な態度を保って『退職中尉ドミートリイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフとは、どういう関係だったのですか?』と訊いた。この問いに対して、グルーシェンカは静かな、しかもしっかりした語調でこう答えた。
「わたしの知合いだったのでございます。知合いとして先月じゅうおつき合いをいたしましたので。」
 それからつづいて、半分もの好きに発しられた質問に対して、あの人は『時おり』気にいったこともあるけれど、決して愛してはいなかった。当時あの人を引き寄せていたのは、ただ『意地わるい面あて』のためにすぎなかった。つまり、あの爺さんに対する態度と変りはなかったと答えた。ミーチャが自分のことで、フョードルを初め、その他ありとあらゆる人に嫉妬するのも知っていたが、かえってそれを慰みにしていた、とこう彼女は率直に、ありのままを打ち明けた。フョードルのところへ嫁《い》こうなどとは夢にも思わず、ただ彼を玩具にしたばかりであった。『先月じゅうはあの人たち二人のことなぞ、考えている暇がありませんでした。実は、わたしに対してすまないことをしている、まるで別な人を待っていたんですの……けれど、あなた方もこんなことをお訊きになっても、仕方がありますまいし、わたしもあなた方にお答えする必要はないと思います。なぜって、これはわたし一人きりのことなんですから』と言って、彼女は言葉を結んだ。
 で、ニコライもさっそくその言葉にしたがった。彼はまた『小説的な』点について、しつこく訊ねるのをやめて、直接まじめな問題、つまり三千ルーブリに関する主要問題に移った。グルーシェンカは、ミーチャが一カ月まえモークロエで、まったく三千ルーブリ消費した、もっとも、自分で金をかぞえてみたわけではないが、ミーチャの口から三千ルーブリと聞いたのだ、と証言した。
「あなた一人にそう言ったのですか、それともほかに誰かいる時だったのですか? あるいはまたあなたの前で、ほかの人にそう言ってるのをお聞きになったのですか?」検事は例の調子で訊ねた。
 この問いに対してグルーシェンカは、人前でも聞いたし、ほかの人に話しているのも聞いたし、また二人きりの時にも聞いたと断言した。
「二人きりの時に聞いたのは一度ですか、それともたびたびですか?」と検事はまた訊ね、そしてグルーシェンカからたびたび聞いたという答えを得た。
 イッポリートはこの申し立てにひどく満足した。それから、審問が進むにしたがって、グルーシェンカがこの金の出所、つまり、ミーチャが、カチェリーナの金を着服した事実を承知していた、ということも判明した。
「だが、一カ月前にドミートリイ・フョードロヴィッチが使ったのは、三千ルーブリよりずっと少かったということや、ちょうどその半額を用心のために、隠しておいたということを、せめて一度でも聞いたことはありませんか?」
「いいえ、そんなことは一度を聞きません」とグルーシェンカは答えた。それどころか、ミーチャはかえってこの一月のあいだ、自分には金が一コペイカもないと、しじゅう言い通していたことさえ判明した。「いつもお父さんからもらえるのを待っていました」とグルーシェンカは結んだ。
「では、いつかあなたの前で……何かの拍子にちょっと口をすべらすか、それとも腹立ちまぎれに」とニコライは、突然さえぎった。「自分の父親の命を取るつもりだ、などと言ったことはありませんか?」
「ええ、ありました!」グルーシェンカはほっとため息をついた。
「一度ですか、たびたびですか?」
「幾度も言いました、いつも腹を立てていたときでございます。」
「で、あなたはあの人がそれを実行すると信じていましたか?」
「いいえ、一度も信じたことはありません!」と彼女はきっぱり答えた。「わたしはあの人の高潔な心を信じていましたから。」
「みなさん、どうか」と突然ミーチャは叫んだ。「どうかあなた方のまえで、アグラフェーナにたった一こと言わせて下さい。」
「お言いなさい」とニコライは許した。
「アグラフェーナ。」ミーチャは椅子から立ちあがった。「神様とおれを信じてくれ! ゆうべ殺された親父の血に対して、おれには何の罪もないのだ。」
 ミーチャは、こう言ってしまうと、また椅子に腰をおろした。グルーシェンカは立ちあがって、うやうやしく聖像に向って十字を切った。
「神よ、なんじに光栄あらせたまえ!」と彼女は熱烈な、人の心にしみ込むような声で言うと、まだもとの席へ腰をかけないうちに、ニコライのほうへ向って、「あの人がいま言ったことを信じて下さいまし! わたしはあの人を知っています。あの人はくだらないことを言うには言いますが、それはただ冗談半分でなければ、依怙地のためでございます。けれど、良心にそむくような嘘は決して言いません。本当のことをありのままに言うのですから、それを信じてあげて下さいまし!」
「有難う、グルーシェンカ、おかげでおれも力がついてきた!」とミーチャは顫え声で答えた。
 昨日の金に関する質問に対して、彼女はちょうどいくらあったか知らないが、昨日ほかの人に三千ルーブリもって来たと言ったのは、たびたび耳に挾んだと答えた。また金の出所については、次のように説明した。ミーチャはカチェリーナのところから盗んで来たのだと、自分ひとりにだけ、打ち明けたが、自分はそれに対して、いや決して盗んだのではない、あす金を返しさえすればよいと答えた。カチェリーナのところから盗んで来たというのはどの金をさすのか、昨日の金か、それとも一カ月まえにここで使った金か? という検事の執拗な問いに対して、一カ月まえに使った金のことを言ったのだ、少くとも自分はそうとった、と断言しだ。
 やっとグルーシェンカも退出を許された。その時ニコライは熱心な調子で彼女に向って、もうすぐ町へ帰ってもよろしい、もし自分が何かのお役に立てば、――例えば、馬車の便宜を取り計らうとか、あるいはまた付添い人がほしいとかいう場合には、自分が……自分のほうから……
「有難うございます」とグルーシェンカは会釈をした。「わたしは、あの地主のお爺さんと一緒にまいります。あのお爺さんを連れて帰ってやります。けれど、もしなんなら、ドミートリイさんの判決がきまるまで、下で待たせていただきとうございます。」
 彼女は出て行った。ミーチャは落ちついていたばかりでなく、すっかり元気づいたような顔つきをしていた。が、それはほんのしばらくであった。時が進むにしたがって、一種奇妙な生理的衰弱が彼の全身を領しはじめた。目は疲労のために閉されがちになってきた。とうとう証人の審問は終った。人々は、調書の最後の整理にとりかかった。ミーチャは立ちあがって、自分の椅子のところから片隅にあるカーテンの陰へ行き、毛氈をかけたこの家の火箱の上へ横になると、そのまま眠りに落ちてしまった。彼はある不思議な夢を見た。それは少しも場所と時に似合わしくない夢であった。彼は今どこか荒涼たる曠野を旅行しているらしい。そこはずっと前に勤務したことのある土地だった。一人の百姓が、彼を二頭立の馬車に乗せて、霙の中を曳いて行く。十一月の初旬で、ミーチャは妙に寒いような感じがした。綿をちぎったような大きな雪が、ぽたぽたと降っていたが、落ちるとすぐ地べたに消えてしまうのであった。百姓は巧者に鞭を振りながら、元気よく馬を駆った。恐ろしく長い亜麻色の顎鬚を生やした男で、年の頃は五十ばかり、さして老人というほどでもない。鼠色の百姓らしい袖なし外套を着ていた。すぐ近くに小さな村があって、何軒かの真っ黒な百姓家が見えていた。しかし、百姓家の大半は焼き払われて、ただ焼け残った柱だけが突っ立っていた。村へ入ろうとすると、道の両側に、女どもがぞろっと並んでいた。大勢な人数でほとんど隊をなしていたが、揃いも揃って痩せさらばえ、妙に赤っ茶けた顔をしていた。ことに一番はじにいるのは、背の高い骨張った女で、年頃は四十くらいらしかったが、また二十くらいとも思われた。やつれた細長い顔をして、手には泣き叫ぶ赤ん坊を抱いていた。乳房はもう乾あかって、一滴の乳も出ないらしかった。赤ん坊は、寒さのためにまるで紫色になった、小さなむき出しの拳をさし伸べながら、声をかぎりに泣いていた。
「どうしてあんなに泣いているんだ? どうしてあんなに泣いているんだ?」彼らのそばを飛ぶように通り抜けながら、ミーチャはこう訊いた。
「餓鬼でがんす」と馭者は答えた。「餓鬼が泣いてるでがんす。」
 馭者が子供と言わずに、百姓流に『餓鬼』と言ったのが、ミーチャの心を打った。そして、百姓が餓鬼と言ったために、一しお哀れを増すように思われて、すっかり気に入ったのである。
「だが、どうして餓鬼は泣いてるんだ?」とミーチャは馬鹿のように、どこまでも追窮した。「なぜ手をむき出しにしてるんだ、なぜ着物に包んでやらないのだ?」
「餓鬼は凍えたでがんす。着物が凍ったでがんす。だから、ぬくめてやれねえでがんす。」
「でも、なぜそんなことがあるんだね? なぜだね?」と愚かなミーチャはどこまでも問いをやめない。
「貧乏人の焼け出されでがんす。パンがねえでがんす、家さ建ててえで、お助けを願うてるでがんす。」
「いいや、いいや、」ミーチャはやはり合点がゆかないふうで、「聞かせてくれ、なぜその焼け出された母親たちが、ああして立ってるんだ、なぜ人間は貧乏なんだ、なぜ餓鬼は不仕合せなんだ、なぜ真裸な野っ原があるんだ、なぜあの女たちは抱き合わないんだ、なぜ接吻しないんだ、なぜ喜びの歌をうたわないんだ、なぜ黒い不幸のためにこんなに黒くなったんだ、なぜ餓鬼に乳を飲ませないんだ?」
 彼は心の中でこういうことを感じた。自分は愚かな気ちがいじみた問い方をしている、しかし、どうしてもこういう問い方がしたいのだ、どうしてもこう訊かなければならないのだ。彼はまた、今まで一度も経験したことのない感激が心に湧き起るのを覚えて、泣きだしたいような気持さえする。もうこれからは決して餓鬼が泣かないように、萎びて黒くなった餓鬼の母親が泣かないようにしてやりたい。そして、今この瞬間から、もう誰の目にも涙のなくなるようにしてやりたい、どんな障害があろうとも、一分の猶予もなく、カラマーゾフ式の無鉄砲な勢いをもって、今すぐにもどうかしてやりたい。
「わたしがあなたのそばについててよ。もう決してあんたを棄てやしない、一生涯あんたについて行くわ。」情のこもったグルーシェンカの優しい言葉が、彼の耳もとでこう響いた。
 すると彼の心臓は燃え立って、何かしらある光明を目ざして進みはじめた。生きたい、どこまでも生きたい、ある路を目ざして進みたい、何かしら招くような新しい光明のほうへ進みたい、早く、早く、今すぐ!
「どうしたんだ? どこへ行くんだ?」とつぜん目を見開いて、箱の上に坐りながら、彼はこう叫んだ。それはちょうど気絶でもした後に、息を吹き返したような気持であったが、しかしその顔には輝かしい微笑がうかんでいた。
 彼のそばにはニコライが立っていた。調書を聞き取った上で、署名をしてくれと言うのであった。ミーチャは一時間、もしくはそれ以上寝たのだと悟った。が、ニコライの言葉はもう聞いていなかった。さきほど疲れきって、箱の上へ身を横たえた時には、そこにはなかったはずの枕が、いま思いもかけず自分の頭の下へおかれているのに気づいて、彼ははっと思った。
「誰が私にこの枕をさしてくれたんです? 誰でしょう、その親切な人は!」まるで大変な慈善でも施されたかのように、一種の歓喜と感謝の念に満たされながら、彼は泣くような声でこう叫んだ。
 親切な人は、後になってもとうとうわからなかった。いずれ証人の中の誰かが、さもなくばニコライの書記かが、同情のあまり枕をさせてやったものであろうが、彼の心は涙のために顫えるようであった。彼はテーブルに近づいて、何でもお望みしだい署名すると言った。
「みなさん、私はいい夢を見ましたよ。」彼は何か悦びにでも照らされたような、さながら別人のような顔をしながら、奇妙な調子でこう言った。

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社

『カラマーゾフの兄弟』第九篇第七章 ミーチャの大秘密――一笑に付さる

[#3字下げ]第七 ミーチャの大秘密――一笑に付さる[#「第七 ミーチャの大秘密――一笑に付さる」は中見出し]

「みなさん。」彼はやはり以前と同じ興奮のていで言い始めた。「あの金は……私はすっかり白状しましょう……あの金は私のものでした。」
 検事と予審判事の顔は長く延びた。彼らもこういうことはまったく予期しなかったのである。
「どういうわけであなたのです」とニコライは呟いた。「まだその日の五時には、あなた自身の申し立てによると……」
「ええっ、その日の五時も、私自身の申し立ても、くそをくらえだ。そんなことは、今の問題じゃありません。あの金は私のものです、私のものです、いや、私の盗んだ金です……私のではありません、つまり、盗んだ金です、私が盗んだ金です、それは千五百ルーブリありました。それを私は体から離さずに持っていたのです、絶えず肌身はなさずに……」
「しかし、あなたはどこからその金を取って来たのです?」
「頸からです、みなさん、頭から取ったんです、これ、この私の頸から……あの金はここにあったのです。私の頸にあったのです。きれの中に縫いこんで、頸にかけていたのです。もうとっくから、もう一カ月も前から、私は恥と汚辱を忍んで、あの金を頸にかけていたのです!」
「しかし、あなたは誰の金を……着服したのです?」
「あなたは『盗んだのか?』と言いたかったでしょう。もう率直に言って下さい。実際、私はあの金を盗んだのも同然だと思っています。が、もしお望みとあれば、実際『着服した』のです。しかし、私の考えでは、盗んだのですと言ったほうがよさそうです。ところが、昨夜はもうすっかり盗んでしまいました。」
「昨夜? しかし、あなたはたった今、あれを手に入れたのは一カ月前だと言われたじゃありませんか!」
「でも、親父のところから盗み出したのじゃありません、親父の金じゃないです。心配しないで下さい、親父のところから盗ったのではなくって、あのひとのものです。どうか口を入れないで、すっかり話させて下さい。まったく私は苦しいんだから。じつは一カ月前、私の許嫁であったカチェリーナ・イヴァーノヴナ・ヴェルホーフツェヴァが私を呼んだのです……あなた方はあの婦人をご存じですか?」
「知っていますとも、むろんです。」
「ご存じだろうと思いました。あのひとは実に潔白な婦人なのです。潔白な人間の中でもかくべつ潔白な婦人ですが、もうとうから私を憎んでいます。そうです、とうからです、とうからです……しかし、憎むのはもっともです、もっともなんです!」
「カチェリーナ・イヴァーノヴナが?」と予審判事はびっくりして問い返した。
 検事も同様おそろしく目を見据えた。
「ああ、あのひとの名をみだりに呼ばないで下さい! 私があのひとを引き合いに出したのは、卑劣な行為です。しかし、私はあのひとが私を憎んでいることを知りました……とっくに、そもそもの初まりから、あっちにいる時、私の下宿へ来た時から……いや、もう言いますまい、あなた方はこんなことを知る値うちがありません、これはまるで必要のないことです……ただお話ししなければならんのは、一カ月前にあのひとが私を呼び寄せて、三千ルーブリの金を渡し、それをモスクワにいる自分の姉と、それからもう一人の親戚の女に送ってくれと言ったことです。(まるで自分では送れないかなんぞのように?)ところが、私は……それがちょうど私の一生に一転期を画する時と、私が初めてほかの「女」を恋した時なのです。それはあの女です、今の女です、いま下にいるグルーシェンカです……その時、私はあれをこのモークロエヘ引っ張って来て、ここで二日間にあのいまいましい三千ルーブリの半分、つまり千五百ルーブリを撒きちらし、残りの半分を残しておいていたのです。この千五百ルーブリを私は守り袋の代りに頸へかけて、始終もち歩いていましたが、昨日とうとう封を切って使ったのです。ニコライ・パルフェノヴィッチ、今あなたの手にある八百ルーブリは、そのつりです、昨日の千五百ルーブリのつりです。」
「失礼ですが、あなたがあの時、一カ月前に、ここで使ったのは三千ルーブリで、千五百ルーブリじゃないでしょう、それは誰でも知っています。一たいどういうわけなんです?」
「誰がそんなことを知ってるんです? 誰が一たい勘定したのです? 私が一たい誰に勘定させました?」
「冗談じゃありませんよ。あの時ちょうど三千ルーブリ使ったとみんなに言ったのは、あなた自身じゃありませんか。」
「そうです、言いました、町じゅうのものに言いました。町じゅうのものもそう言いました。みんなそう思っていました。このモークロエでも、やはりみんな三千ルーブリと思っていました。しかし、それでもやはり、私の使ったのは三千ルーブリじゃなくって、千五百ルーブリです。そして残りの千五百ルーブリは、袋の中に縫い込んだのです。こういうわけなんですよ、みなさん、昨日の金の出所はこういうところにあったんですよ……」
「それはほとんど奇蹟だ……」とニコライは呂律の廻らない調子で言った。
「じゃ、失礼ですが、一つお訊ねしましょう、」とうとう検事がこう言いだした。「あなたは以前このことを……つまり、その千五百ルーブリ残っているということを、その当時、一カ月まえ誰かに言いましたか?」
「誰にも言いません。」
「それは不思議ですね。一たいあなたはまるっきり誰にも言わなかったのですか?」
「まるっきり、誰にも言いません、断じて誰にも言いません。」
「しかし、なぜそんなに黙っていたのです? どういうわけであなたはそんなことを、そんなに秘密あつかいにしていたのです? もっと正確に説明しますと、あなたは結局、われわれに自分の秘密を打ち明けたじゃありませんか。その秘密は、あなたの言葉によると、非常に『恥ずべき』ものだそうですが、そのじつ(むろん、相対的の話ですよ)、この行為は、すなわち人の金を三千ルーブリ着服した、それもただ一時着服したという行為は、私の見解から言うと、少くとも、ただひどく無分別な行為というにすぎません。のみならず、あなたの性格を考慮に入れるときは、決してそれほど恥ずべき行為ではありません……むろん、非難すべき行為である、ということには私も同意しますが、非難すべき行為というだけで、それほど恥ずべき行為じゃありません……つまり、私のとくに言おうとするところは、あなたが使ったあの三千ルーブリの金が、ヴェルホーフツェヴァ嬢から出ていることは、もうこの一月の間に多くのものが察していましたから、あなたの申し立てのないうちに、私もその物語を聞いていた、とこういう点なのです……例えば、ミハイル・マカーロヴィッチなどもやはり聞いておられます。ですから、しまいにはもうほとんど物語ではなくなって、町じゅうの噂話になったくらいです。それに、あなた自身(もし私の思い違いでないとすれば)このことを、つまりこの金がヴェルホーフツェヴァ嬢から出たということを、誰かに打ち明けた形跡がありますよ……ですから、あなたが今まで、つまりこの瞬間まで、あなたのいわゆる『取りのけておかれた』この千五百ルーブリを、非常な秘密として扱っていられたのみならず、その秘密に一種の恐怖さえ結びつけておられるのは、実に驚くのほかありません……そんな秘密の告白が、あなたにこれほどの苦痛を与え得るとは、どうしても本当にできません……なぜと言って、あなたは今、これを白状するよりも、いっそ懲役に行ったほうがいい、とまで絶叫したじゃありませんか……」
 検事は口をつぐんだ。彼はひどく興奮していた。彼はほとんど憎悪に近い自分の不満を隠そうともせず、語句の修飾などには心もとめず、連絡もなしに、ほとんどたどたどしい言葉づかいで、胸にたまっていることを残らず言ってしまったのである。
「しかし、恥辱は千五百ルーブリにあるのじゃなくって、その千五百ルーブリを、三千ルーブリから別にした点にあるのです。」ミーチャはきっぱりとこう言った。
「けれど、それがどうしたのです?」と検事はいらだたしそうに、にたりとした。「すでにあなたが非難すべき方法で(しかし、お望みとあれば、恥ずべき方法と言いましょう)、恥ずべき方法で着服した三千ルーブリから、自分の考えで半分だけ別にしたということに、どうして恥ずべき点があるのです? 重大な問題は、あなたが三千ルーブリを着服されたことであって、その処置のいかんではありません。ついでだから訊きますが、あなたはなぜあんなふうな処置をしたのです。つまり、あの半分を別にしたのです? 何のために、どういう目的であなたはそんなことをしたのです? それを説明していただけませんか。」
「ああ、みなさん、その目的に、すべてがふくまれてるんです!」とミーチャは叫んだ。「卑劣な動機から別にしたのです、つまり、打算です。なぜならこの場合、打算は卑劣と同じですからね……しかも、まる一カ月この卑劣な行為がつづいていたのです!」
「わかりませんね。」
「驚きますなあ。しかし、も一ど説明しましょう。あるいは実際わからないかもしれませんからね。それはこうなんです。私は、自分の潔白を見込んで委託された三千ルーブリを着服して、使ってしまいました、すっかり使いはたしました。そして、翌朝、あのひとのところへ行って、『カーチャ、悪いことをした、わしはお前の三千ルーブリを使ってしまったのだ』と言ったらどうでしょう、いいことでしょうか? いや、よくはありません、――不正なことです、浅はかなことです、獣です、獣同然になるまで自分を押えることのできない人間です、そうじゃありませんか、そうじゃありませんか? しかし、それにしても、盗人じゃありますまい? 本当の盗人じゃない、本当の盗人じゃないでしょう、そうじゃありませんか! 使いはしたけれど、盗みはしませんからね! ところが、ここに第二の方法、もっとうまい方法があります、よく聞いて下さい。でないと、また変なことを言いだすかもしれませんから、――何だか頭がぐらぐらするんです。そこかでもない、ここで三千ルーブリの中から千五百ルーブリ、つまり半分だけ使うんです。そして、翌る日あのひとのところへ行って、あとの半分をさし出しながら、『さあ、カーチャ、このわしから、ならず者から、無分別な横着者から、この半金を受け取っておくれ。わしは半分つかってしまったんだ。いずれこの半分も使ってしまうだろうから、君子は危きに近よらずだ!』とこう言うのです。どうです。こういう場合は? 獣とでも、横着者とでも、何とでも言って下さい。しかし、泥棒じゃありません、腹の底までの泥棒じゃありません。なぜと言って、もし泥棒なら半分のつりを返しに持って行かないで、自分のものにしてしまうでしょう。ところが、私は半分もって行ったから、あとの半分、つまり使いはたした金も持って来るだろう、一生涯その金を求めて働いて、できたら持って来て返すだろうと、そうあのひとは思います。こういうわけで、私は横着者ではありますが、決して泥棒じゃありません、泥棒じゃありません、何と言われてもかまいませんが、ただ、泥棒というわけにはゆきません!」
「まあ、かりにいくらか相違はあるとしても」と検事は冷やかに、にたりと笑った。「それでも、あなたがそこに、それほど根本的な相違を認められるのは、奇妙ですね。」
「いや、それほど根本的な相違を認めますとも。卑劣漢には誰でもなることができます、あるいは誰でもみんな卑劣漢かもしれません。しかし、泥棒には誰でもなるというわけにゆきません、ただ図抜けた卑劣漢だけです。しかし、私はこんな微妙な相違を、うまく説明することができません……が、とにかく、泥棒は卑劣漢よりもっと卑劣です。これが私の信念なんです。いいですか、私はまる一カ月間、その金を持ち歩いていました、明日にもそれを思いきって返すことができます。そうなれば、私はもう卑劣漢じゃありません。ところが、決行できなかったんです。毎日決心しながら、――毎日『決行しろ、早く決行しろ、この卑劣漢』と言って、自分で自分をうしろから突くようにしながら、もうまる一カ月のあいだ、決行ができなかったのです。どうでしょう、いいことでしょうか、あなた方のご意見では、これがいいことでしょうか?」
「まあ、かりにあまりよくないことだとしても、とにかく、その心持は十分理解することができます。それについては私も異存ありません」と検事は控え目に答えた。「ですが、とにかく、そういう微妙な相違に関する議論は、すっかり抜きにして、またもとの用件に戻ってはどうでしょう。その用件というのは、ほかでもありません、なぜあなたは最初あの三千ルーブリを別にしたのです、つまり、なぜ半分使って半分かくしておいたのです? さっきお訊ねしたけれど、まだ説明してもらいませんでしたね。一たいなぜ隠したのです。一たいあの残った千五百ルーブリを何に使うつもりだったのです? ドミートリイ・フョードロヴィッチ、私はあくまでそれを聞きたいのです。」
「ああ、本当にそうだ!」とミーチャは自分の額を叩いてこう叫んだ。「赦して下さい。私はあなた方を苦しめるだけで、要点を説明しなかったっけ。でなかったら、あなた方もすぐに悟ってしまわれたでしょうになあ。なぜと言って、目的の中に、この目的の中に汚辱があるからです! ねえ、考えてごらんなさい、あの老人が、亡くなった親父が、しょっちゅうアグラフェーナをぐらつかせていました。それが私の嫉妬の種なんです。あの女はおれにしようか、あいつにしようか、と迷っているんだろう、こうその当時考えたもんです。しかし、またこんな考えも毎日浮んできました、もし急にあれが肚を決めたらどうしよう? おれを苦しめるのにも飽きがきて、『わたしはあなたを愛しているのよ。あの人じゃないわ、さあ、わたしを世界の果てへ連れてってちょうだい。』などとだしぬけに言いだしたらどうしよう、とこう思ったわけです。私は二十コペイカ玉をたった二枚きりきゃ持ってないんですからね、どうして連れ出すことができましょう。その時はどうにも仕方がない、――もう破滅だ。その時わたしはあの女を知らなかったもんですから、理解していなかったもんですから、あれはきっと金がほしいにちがいないから、おれの貧乏に愛想をつかすだろうと考えました。そこで私は横着にも、三千ルーブリの中から半分だけ別にして、それを平然として針で縫い込んだのです。あてにするところがあって、縫い込んだのです。まだ遊興に出かけない前に縫い込んだのです。それから、縫い込んだあとで、残りの半分を持って遊興に出かけたんです。いや、実に陋劣だ! さあ、これでおわかりになったでしょう?」
 検事は大声に笑った。予審判事もやはり笑いだした。
「私の考えでは、あなたが自己を抑制して残らず使ってしまわなかったということは、かえって賢いやり方でもあり、また道徳的にも結構なことだと思いますね」と言って、ニコライはひひと笑った。「なぜと言って、べつにどうということはないんですものね。」
「ところが、盗んだということがあります。そうですよ! ああ、私はあなた方の無理解がそら恐ろしくなります! 私は、袋に縫い込んだ千五百ルーブリの金を懐中しているあいだ、しじゅう、毎日、毎時、自分に向って、『貴様は泥棒だぞ、貴様は盗んだんだぞ!』と言いつづけていました。それがために、私はこの一カ月というもの、乱暴なことばかりしたんです、それがために料理屋でも喧嘩をしました、それがために親父も殴りました。つまり、自分は泥棒だという気がしたからです! 私は弟のアリョーシャにさえ、この千五百ルーブリのことを打ち明ける勇気もなければ、決心もつかなかったのです。それほど私は自分を卑劣漢で、詐欺師だと感じていました。しかし、お断わりしておきますが、私は金を肌につけて持って歩きながらも、それと同時に、毎日、毎時、自分で自分に向って、『待てよ、ドミートリイ、お前はまだ盗人じゃないかもしれんぞ』とこう言いつづけました。なぜでしょう? ほかでもありません、自分は明日にもカーチャのところへ行って、この千五百ルーブリを返すことができると思ったからです。ところが、きのうフェーニャのところから、ペルホーチンの家へ行く途中、はじめてこの袋を頸から引きちぎろうと決心しました。その時までは、どうしても決心がつかなかったんですが、いよいよ引きちぎったその瞬間、もう一生涯とり返しのつかない、弁解の余地のない立派な泥棒になったのです、泥棒でしかも破廉恥な人間になったのです。なぜでしょう? それは私が袋を引きちぎると同時に、カーチャのところへ行って、『わしは卑劣漢だが、泥棒ではないよ』と言おうと思った自分の空想をも、袋と一緒に引きちぎってしまったからです! もうわかったでしょう、え、おわかりでしょう?」
「なぜあなたは、ゆうべにかぎって、そんな決心をなすったのです?」とニコライは口を入れた。
「なぜですって? おかしなお訊ねですね。なぜと言って、私は朝の五時、夜の引き明けにここで死のうと、自分で自分に宣告したからです。『卑劣漢だろうが、高潔な人間だろうが、死ぬのに変りがあるものか!』と考えたからです。ところが、そうじゃなかった、どうでもよくないことがわかったのです! あなた方は本当になさらんかもしれませんが、ゆうべ何よりも私を苦しめたのは、私が年よりの下男を殺したため、シベリヤへ行かなくちゃならない(しかも、それは自分の恋がかなって、ふたたび天国が眼前にひらけた時ですからねえ!)というような危惧の念ではありません。むろん、これも苦しめるには苦しめました。が、それほどじゃなかったです。『自分はとうとうあのいまいましい金を胸から引きちぎって、すっかりそれを撒き散らしてしまったから、もう今では立派な盗人になりはてたんだ!』という、このいまわしい意識ほど烈しくはありませんでした。おお、みなさん、本当に心底から繰り返して言いますが、私はあの一晩にいろいろなことを知りましたよ! 人間は卑劣漢として生きてゆけないばかりか、卑劣漢として死ぬこともできないものだ、それを私は悟りました……そうです、みなさん、死ぬのも潔白に死ななけりゃなりません!………」
 ミーチャは真っ蒼になっていた。彼は極端に熱していたが、その顔には疲労と苦痛の色が現われていた。
「あなたの心持は次第にわかってきました、ドミートリイ・フョードロヴィッチ」と検事はもの柔かな、ほとんど同情するような調子で、言葉じりを引いた。「しかし、それはみんな、あなたはどうお考えか知らないが、私の考えでは、神経にすぎないと思いますね……病的な神経、確かにそうですよ。例えばですね、ほとんど一カ月にわたるそんな烈しい苦痛をのがれるために、なぜ依頼者たるその婦人のところへ行って、千五百ルーブリの金を返さなかったのです? そして、あなたの境遇は、あなたご自身のお話によると、非常に恐ろしいものだったんですから、どうしてそのご婦人とよく相談の上で、誰の頭にも自然と浮んでくる方法を、講じてはみなかったのです? つまり、そのご婦人の前に、潔く自分の過失を打ち明けたあとで、自分の出費に要する金を借りることが、どうしてできなかったのです? 寛大な心を持ったそのご婦人は、あなたの困窮を知ったなら、むろんあなたの要求をこばみはしなかったでしょう。ことに証文を入れるとか、あるいはやむを得ない場合には、商人サムソノフやホフラコーヴァ夫人に提供されたような抵当を入れるとかしたら、なお大丈夫だったはずですよ。実際あなたは今でもその抵当を、値うちのあるものと思っていられるんでしょう?」
 ミーチャは急に真っ赤になった。
「じゃ、あなたはそれほどまで私を卑劣漢と思っていられるんですか! まさかそんなことを真面目でおっしゃるんじゃありますまい!」彼は検事の目をひたと見つめながら、いかにも相手の言葉が信じられないといったような、不満らしい調子でこう言った。
「めっそうもない、真面目ですと……どうしてあなたは真面目でないなどとお思いですか?」今度は検事のほうがびっくりした。
「ええ、それは何とも言いようのない陋劣な話です! みなさん、自分ではおわかりになりますまいが、あなた方は私を苦しめていられるんですよ! どうかすっかり言わせて下さい。私はいま自分の極道さ加減をきれいに白状してしまいます。しかし、それは、あなた方に恥を知らせるためですよ。人間の感情のコンビネーションが、どれくらいまで陋劣になり得るかを知ったら、あなた方もびっくりされるでしょう。実はね、検事さん、私もあなたがいま言われた方法を、自分で講じたことがあるんですよ。そうです、みなさん、私もこの呪うべき一カ月の間、そういう考えをいだいていました、で、もうほとんどカーチャのところへ出かけよう、とまで決心していたくらいです。私はそれほど陋劣になっていました。しかし、あれのところへ行って、自分の心変りを打ち明けたうえ、この心変りのために、この心変りを実行するために、将来この心変りに要する費用のために、あの女に、カーチャに金を無心して(無心するんです、いいですか、無心するんですよ!)そして、すぐほかの女と一緒に、あれの競争者と一緒に、あれを憎みあれを侮辱した女と一緒に駈落ちするなんて、――そんなことができるものですか。あなたは気がどうかしていますよ、検事さん!」
「どうかしているかいないか、それは別として、しかし私はつい夢中になって、ろくに考えもしないで言ったんですよ……まったくそうした女性の嫉妬については、もしあなたの言われるとおり、そこにじっさい嫉妬があったとすれば……そうです、そこには何かそれに類したものがあるでしょう……」と言って、検事はにたりと笑った。
「しかし、それは実に穢らわしいことです。」ミーチャは勢い猛に拳でテーブルを叩いた。「それはもう何と言っていいかわからないほど、悪臭芬々たる行為です! そうでしょう、あれはその金を私にくれたでしょう。ええ、くれたでしょう、確かにくれたでしょう。わたしに対する復讐のために、復讐を楽しむ心持のために、私に対する軽蔑を示すために、くれたでしょう。なぜと言って、あれもやはり偉大なる怒りに充ちた、兇悪な女ですからなあ! 私はその金をもらったでしょう。ええ、もらったでしょう、もらったに違いありません。しかし、その時は一生涯……ああ、実に! 失礼しました、みなさん、私がこんなに呶鳴るのは、私がもうずっと前から、一昨日あたりから、自分でもそういう考えを持っていたからです。それはちょうど、私が猟犬《レガーヴィ》を相手にして騒いだ夜です。それから昨日、そうです、きのうも一日そうでした。私は憶えていますが、ちょうどこの事件が起るまで……」
「どんな事件です?」ニコライは好奇に充ちた調子で口を挿んだ。が、ミーチャはそれをよく聞き取ろうとしなかった。
「私はあなた方に恐ろしい告白をしました」と彼は沈んだ様子で言葉を結んだ。「みなさん、だから、その自白を評価して下さい。いや、そればかりじゃたりません、評価するばかりじゃたりません、評価するというよりは、むしろ尊重して下さい。もし尊重して下さらなければ、もしこの言葉さえあなた方の心を動かさないとすれば、つまり、それは私をまったく尊敬していない証拠だと、こうあなた方に断言します。私はあなた方のような人に自白したのが恥しい。私はむしろ死にたいくらいです! ええ、自殺します! しかし、私にはわかります、よくわかります、あなた方は私の言うことを、本当にしてはおられないんです! やっ、あなた方はこれまで書きとめようというんですか?」彼はもう本当にぎょっとしてこう叫んだ。
「しかし、今あなたはこんなことを言いましたね。」ニコライはびっくりして彼を見つめた。「ほかでもありませんが、あなたは最後の瞬間まで、ヴェルホーフツェヴァ嬢のところへ行って、その金を借りるつもりであった、と言われましたね……実際のところ、これはわれわれにとって非常に重大な申し立てですよ、ドミートリイ・フョードロヴィッチ、つまり、その、事件ぜんたいに関してですな……ことにあなたにとって、ことにあなたにとって重大な申し立てです。」
「冗談じゃありませんよ、みなさん」とミーチャは思わず手を拍った。「せめてそれだけは書かないで下さい。恥を知るもんですよ! 私はいわば、自分の心をあなた方の前で真っ二つに割って見せたんです。ところが、あなた方はこの機に乗じて、その割れ目を指でほじくり廻すんです……ああ、何ということだ!」
 彼は絶望のあまり、両手で顔を蔽うた。
「そんなに心配なさらなくってもいいですよ、ドミートリイ・フョードロヴィッチ」と検事は言った。「いま書きとめたことは、あとですっかりあなたにお聞かせしますから、もし不服な点があったら、あなたのお言葉どおりに訂正します。が、今わたしは一つ繰り返してお訊きしたいことがあります、これでもう三度目なんです。あなたがこの金を袋の中へ縫い込んだことを、あなたから聞いたものは一人もないのですか? 本当に誰ひとりもないのですか? 私はあえて言いますが、それはほとんど想像できないことですよ。」
「誰も聞きません、誰も聞かない、と言ったじゃありませんか。あなた方は何もわかっていないのです! もううるさく訊かないで下さい。」
「それではどうぞご随意に。が、このことはぜひ闡明しなけりゃならないんです。それに、このさきまだ時日はいくらでもありますからね。しかし、まあ考えてごらんなさい、三千ルーブリの金を使ったということは、あなたが自分で吹聴して廻ったんですよ。のみならず、あなたは到るところでそのことを、大っぴらにわめき散らしたじゃありませんか。証拠は何十といってあります。あなたが言われたのは三千ルーブリで、千五百ルーブリじゃありません。それに今度も、きのう金が出て来たとき、また三千ルーブリもって来たと、やはり大勢の人に言われたじゃありませんか……」
「何十どころじゃありません、何百という証拠があなた方の手に握られています。証拠は二百もあります、聞いた者は二百人もあります、いや、千くらい聞いたでしょう!」とミーチャは叫んだ。
「ね、そうでしょう。誰も彼もみんな証明しています。してみれば、みんな[#「みんな」に傍点]という言葉は、何かの意味を持っているはずですよ。」
「何の意味もありませんよ。私がでたらめを言ったら、みんなが私のあとについて、でたらめを言うようになったんです。」
「しかし、あなたは何のために(あなたの言葉を借りると)、でたらめ[#「でたらめ」に傍点]を言わなければならなかったのです?」
「そんなこと誰が知るもんですか。自慢のためかもしれませんね……ちょっとその……どうだ、こんなにたくさんの金を使ったぞといったような……あるいはまた例の縫い込んだ金のことを、忘れたかったからかもしれません……そうです、まったくそのためなんですよ……ええ、ばかばかしい……幾度あなたはそんなことを訊くんです? ただでたらめを言ったのです、それっきりです。一どでたらめを言ってしまったから、もう訂正したくなかったんです。人間というものはどうかすると、くだらない動機からでたらめを言うものですよ。」
「ドミートリイ・フョードロヴィッチ」と検事は諭すように言った。「どんな動機から人が嘘を言うかってことは、容易に決定できるもんじゃありません。ときにお訊ねしますが、あなたの頸にかかっていたその守り袋なるものは、大きなものでしたか?」
「いいえ、大きくはありません。」
「例えば、どのくらいの大きさです?」
「百ルーブリ紙幣を半分に折った、まあそれくらいの大きさです。」
「では、そのきれというのを、見せていただけないでしょうか? いずれどこかに持っておいででしょうから。」
「ええ、ばかばかしい……何というくだらない……そんなものがどこにあるか知るもんですか。」
「しかし、まあ、聞かせて下さい、いつどこであなたはその袋を頸からはずしたんです? あなたの申し立てによれば、家へは寄らなかったのでしょう?」
「ええ、フェーニャのところを出ると、すぐペルホーチンの家へ向けて行きましたが、その途中で頸から引きちぎって、金を取り出したんです。」
「暗闇の中で?」
「蝋燭なんか何にします? そんなことは指一本ですぐできましたよ。」
「往来で鋏もなしに?」
「広場だったと思います。鋏なんか何にします? 古いぼろきれですもの、すぐに破れてしまいました。」
「それから、そのきれをどこへやりました?」
「その場で棄ててしまいました。」
「それはどこです?」
「広場です、とにかく、広場に棄てたんです。広場のどこだったか、そんなこと誰が知るもんですか。一たいあなたはそれを聞いてどうなさるんです?」
「ドミートリイ・フョードロヴィッチ、それは非常に重大なことです。あなたのためになる証拠物件なんです。どうしてあなたはそれを理解しようとしないのです? 一カ月前それを縫う手つだいをしたのは誰ですか?」
「誰も手つだいません。自分で縫ったんです。」
「あなたに縫えるんですか?」
「兵隊は縫うすべを知ってなけりゃならない。しかし、あんなものにはすべも何もいりゃしません。」
「あなたはその材料を、つまり、袋を縫ったぼろきれを、どこから持って来ましたが?」
「一たいあなたは私をからかってるんじゃありませんか?」
「決してからかやしません。それに、からかうなんて場合じゃないですよ、ドミートリイ・フョードロヴィッチ。」
「どこからぼろきれを持って来たか、どうも憶えがありません。いずれどこからか持って来たんですよ。」
「それくらいのことは憶えていられそうなもんですね。」
「しかし、本当に憶えていないんです。たぶん肌着か何かを引き裂いたんでしょう。」
「それは非常におもしろい。明日あなたの下宿へ行って、その品を捜してみましょう。きれを取ったらしいシャツが出て来るかもしれませんからねえ。そのきれは、どんなものです? 厚地ですか、薄地ですか?」
「どんなものだったか憶えてるもんですか。ちょっと待って下さい……ほかのきれから引き裂いたんじゃないようです。あれはキャラコでした……何でもかみさんのナイト・キャップで縫ったような気がします。」
「かみさんのナイト・キャップで?」
「そうです、かみさんのところから盗み出したんです。」
「盗み出したとは?」
「それはこうです。私は実際いつだったかナイト・キャップを一つ、雑巾にしようと思ったのか、それともペン拭きにしようと思ったのか、とにかく盗み出したことがあります。こっそりと持って来たんです。それで、何の役にも立たないぼろきれが、私のところに転かっていましたが、ちょうどこの千五百ルーブリの置場に困ったので、それを縫い込んだわけなんです……まったくこのぼろきれに縫い込んだらしい。幾度となく洗い哂した、古いキャラコのきれなんですよ。」
「では、あなたは確かにそう記憶しておいでですか?」
「確かにそうだったかどうか知りません。何でもナイト・キャップだったと思うんです。いや、そんなことはどうだってかまいませんよ。」
「そうだとすれば、少くとも、かみさんは自分のナイト・キャップがなくなったのを、思い出すことができるでしょうね?」
「いいえ、かみさんは気もつかないんですよ。幾度も言ったとおり、古いぼろぼろなきれで、一文の値うちもないんですからなあ。」
「じゃ、針はどこから持って来たんです? 糸は?」
「私はよします。もう言いたくありませんよ。たくさんですよ。」とうとうミーチャは怒りだした。
「それにしても、おかしいですね、あなたが広場のどういうところで、その……守り袋を棄てたか、すっかり忘れておしまいになるなんて。」
「では、あす広場を掃除さしてごらんなさい。ひょっとしたら見つかるかもしれませんから。」ミーチャはにたりと笑った。「たくさんですよ、みなさん、たくさんですよ」と彼は疲れきったような声でこう言い切った。「あなた方が私を信じていられないのは、もうよくわかりました! 何一つ、これっからさきも信じてはおられません。しかし、私が悪いんです、あなた方の罪じゃない。何も出しゃばる必要はなかったんですよ。何だって、何だって私は自分の秘密をあかして、自分で自分を穢したんでしょう! あなた方にとってはただ滑稽なだけです、その目色でわかりますよ。検事さん、これはあなたが私を吊り出したんです! もしできるなら凱歌でもお上げなさい……あなた方は永久に呪われた拷問者だ!」
 彼はうなだれ、両手で顔を蔽うた。検事と判事は黙っていた。やがてミーチャは頭を上げて、ぼんやり彼らを見やった。その顔にはもはや取り返しのつかない、極度の絶望が現われていた。彼は妙にむっつりおし黙って、椅子に腰かけたまま、忘我の境におちいったようなふうつきであった。が、それにしても、事件を片づける必要があった。すぐ証人の審理に移らなければならなかった。もう朝の八時で、蝋燭はとうに消された。審問のあいだ絶えず出たり入ったりしていたミハイル・マカーロヴィッチと、カルガーノフとは、この時ふたたび出て行った。検事も判事も、やはり非常に疲れたような顔つきをしていた。それは欝陶しい朝であった。空は一面雲に蔽われ、雨は盆を覆すように降りしきっていた。ミーチャはぼんやり窓を見つめていた。
「ちょっと窓を覗かせてもらえませんか?」ミーチャは突然ニコライに訊いた。
「さあさあ、いくらでも」とニコライは答えた。
 ミーチャは立ちあがって窓に近づいた。雨脚は、青みがかった小さい窓ガラスを、烈しく叩いていた。窓のすぐ下には泥ぶかい街道がつづいて、その先には雨靄の中に、黒ずんだ、貧しげな、醜い百姓家が並んでいたが、雨のために一段と黒ずんで貧しげに見えた。ミーチャは『金髪のアポロ』のことや、その最初の輝きとともに自殺しようと考えていたことなどを思い出した。『しかし、こういう朝のほうがかえってよかったかもしれない』と考えて、彼は薄笑いをうかべた。と、急に片手を上から下へと振って、『拷問者たち』のほうへ振り向いた。
「みなさん!」と彼は叫んだ。「私は自分の身が破滅だってことを知っていますが、しかし、あれは? あれのことを聞かせて下さい、お願いです。あれも私と一緒に破滅しなければならんのでしょうか? あれに罪はないです。あれが昨日『みんなわたしが悪いのです』と叫んだのは、夢中で言ったことなんです。あれには決して、決して罪はありません! 私はあなた方と一緒に話してるうちにも、夜どおし心配でたまらなかったです……あなた方は今あれをどうなさるつもりか、聞かせていただくわけにゆきませんか? 駄目でしょうか?」
「ドミートリイ・フョードロヴィッチ、そのことなら決してご心配なく。」検事はいかにもせき込んだらしい調子で、すぐにこう答えた。
「あなたが切実な興味を感じていられるあのご婦人に対して、何事にもあれ心配をかけるような理由は、まだ今のところ少しもありません。このさき事件が進行しても、やはり同じことだろうと思います、そうあってほしいものです……この意味においては、むしろ私たちのほうから、でき得るだけのことをするつもりですから、決してご心配のないように。」
「みなさん、感謝します。いろんなことはありましたが、何といっても、あなた方はやはり潔白で公平な方です。私はそれを見抜いていました。あなた方は私の心から重荷を取りのけてくれました……さて、これからどうするんです? 私はもう何でも悦んで。」
「そうですね、なにしろ急がなければなりません。さっそく証人の審理に移りましょう。これもやはり、ぜひあなたの面前で執行することを要するのです。それで……」
「しかし、まずお茶を飲んではどうでしょう?」とニコライは遮った。「もう大分かせぎましたからね!」
 もし下にお茶の支度ができておれば(ミハイル・マカーロヴィッチが出て行ったのは、きっと『一杯飲んで』来るために相違ないと想像したので)、一杯ずつ飲んだ上で、あらためて『大いにやろうじゃないか」ということに一決した。正式のお茶とザクースカは、もっと時間に余裕ができるまで延ばすことになった。はたして、下にはお茶の支度ができていたので、さっそく二階へ運ばれた。初めミーチャは、ニコライが愛想よくすすめるお茶を辞退したが、やがて自分のほうから求めて、貪るように飲みほした。しかし、全体に何だかひどく疲れたような顔つきであった。ちょっと考えると、あんな古英雄のような力を持っている男だから、たとえいくら強烈な刺戟に充ちていたからとて、一晩くらいの徹夜の宴は、彼にとって何ほどのこともないはずであったが、しかし、彼は自分でもやっとの思いで腰かけているのを感じた。どうかすると、すべての物が目の前を動きだしたり、ぐるぐると廻ったりするような気がした。
『も少したったら、譫言を言いだすかもしれないぞ』と彼は心の中で考えた。

(底本:『ドストエーフスキイ全集13 カラマーゾフの兄弟下』、1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社